戦国ちょっといい話38

このエントリーをはてなブックマークに追加
581人間七七四年
備中において羽柴秀吉と毛利家との和議が整い、秀吉は明智誅伐のため畿内へ上がらんとする時、
小早川隆景の所に遣いに出向いた黒田官兵衛は、このような事を言い出した

「実は、少々思うところがあり、毛利家の旗を2本、お貸し頂けないでしょうか?」

隆景はこれを不審に思い、少し思案して

「旗だけをお貸しするなど、そちらへの御馳走にはなりません。
しかし今、輝元の人数は此処にはおりませんので、私の手勢だけでもお供いたしましょう。」

「いやいや、あなたがご不審に思われるのはご尤もです。しかし何も仔細のあることではありません。
貴方がお上がりになるには及ばぬことです。どうか旗だけお貸し下さい。」

そう重ねて言ってくるので、隆景も然らば希望に任すべしと、旗20本を貸し与えた。

また、宇喜多秀家の家老たちは、備前の片上まで秀吉を見送りし、そこで暇乞いをして帰ろうとした時、
官兵衛は彼らからも、旗10本ばかりを借り受けた。

そして備前播磨までは旗を巻いていたが、兵庫あたりに来ると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗たちを
尽く張らせ、秀吉の陣の先に立てた。
これは敵の方から物見が出た時、また合戦に望む時、毛利、宇喜多の両家が秀吉に与し、
先手として上がってきたように見せれば、敵の気力が削がれ、味方は勇を増す、という策略であった。

秀吉はこれを見て大喜びし、
「若き者共よ、ああ言う事を見て後学にせよ!合戦というものは、はかりごとで勝つものである!
敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来ることだ。
官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶところではない。
あのような手立てを行うことこそ、誠の大切と言うべきものぞ!」

と激賞した。

(黒田家譜)

黒田官兵衛、旗を借りる。という逸話である。
582人間七七四年:2013/11/11(月) 23:12:51.41 ID:91nLuiTp
確かこのとき毛利は旗20本の他に鉄砲500艇、弓100張を秀吉に提供してたね。
583人間七七四年:2013/11/11(月) 23:16:54.68 ID:Gkt2IC0z
その旗を借りた逸話は有名だけど、すでに明治四十四年に福岡日南が
貝原益軒による「好事家流の創作」だろとツッコミを入れてる話だったりする
・隆景と黒田の会見自体、黒田家譜にしか記載がなくおそらく事実ではない
・講和直後に毛利(小早川)が自軍の表彰である軍旗をやすやすと貸すわけがない
・本当に借りたとしたら人質として羽柴陣中にいた2人(吉川広家と小早川秀包)に
 ついてきた毛利の手勢からかりたんだろ
と、わりと冷静に益軒による捏造認定をしている
584人間七七四年:2013/11/12(火) 03:24:04.33 ID:lVxs6Pcs
そもそも毛利から人質が出たのは勝家に勝った後
隆景への脅迫状を送った後の話だしなぁ
585人間七七四年:2013/11/12(火) 10:38:12.46 ID:++en7h9l
wikipediaによると中国大返しの際の和睦時に
人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、
毛利側から吉川広家、小早川秀包が送られたとなっています。
586人間七七四年:2013/11/12(火) 10:43:45.32 ID:szbYdel2
ウィキペにも天正11年って書いてあるだろ
587人間七七四年:2013/11/12(火) 12:45:37.33 ID:o1HAiL4J
いつも思うんだがこういう旗って偽造しないのか
588人間七七四年:2013/11/12(火) 13:12:20.37 ID:1dJGWvXn
為景さん(謙信父)を思い出すなw

こう書くと悪い話になっちまうが
589追加:2013/11/12(火) 13:13:47.69 ID:1dJGWvXn
>>588>>587 へのレスです
590人間七七四年:2013/11/12(火) 15:11:03.82 ID:lHdbh4/O
うちの旗には針で穴を開けてござれば、それは偽物にござる
591人間七七四年:2013/11/12(火) 16:01:17.39 ID:++en7h9l
>>586
確かに広家、秀包のところは天正11年の分しか載っていないですね。
しかし、賤ヶ岳以降であれば、秀吉側とすれば、人質交換の形にする必要は無い。

10年の中国大返しの時の人質交換と、
11年の賤ヶ岳以降の、完全に従属してからの人質と混同されていないですかね?
592人間七七四年:2013/11/12(火) 16:34:08.31 ID:szbYdel2
なるほど大返しのページはそう書いてあるな。単純に間違ってるだけだけど
593人間七七四年:2013/11/12(火) 18:06:35.26 ID:6Xc33ZES
いまだにこの板にもウィキペをソースにして物事を語る奴とか残ってるんだな
594人間七七四年:2013/11/12(火) 18:15:06.68 ID:Cm+jXDiZ
武田晴信が父信虎を追放した後、諏訪頼茂(頼重)と小笠原長時が多兵で
甲斐に攻め入り、韮崎で一日のうちに四度の合戦に及んだ。

晴信は韮崎に向かう時、諏訪や小笠原とゆかりのある者は、原加賀守(昌俊?)
を始めとして、数多くの者を甲府に残していった。

この時、原が人々に向かい「各々たちは今日の合戦で功名を遂げるべきなのに、
留め置かれたのは二心を疑ってのことだ。今日、敵に向かわなければ、
長く弓箭をとる身の恥となると思うが、どうであろうか」と、言った。

これに皆は「二心もないのに疑いを蒙るよりは、敵にあって討死することが
勇士の志である」として、我先にと韮崎へ馳せて行った。

この頃、晴信は合戦すること三度に及び、戦い疲れたところを頼茂と長時が
一手になり進んできたので危うく思われたが、原が来たので力を得て勇み進んだ。

晴信は原を呼んでその志を感心してほめ、日向、今井たちを後ろにひかえさせ、
競いかかる敵に当たって打ち破った。

これは晴信の武士を励ます策であり、わざと原たちを甲府に残したのであろう。

――『常山紀談』
595人間七七四年:2013/11/12(火) 18:38:54.27 ID:lHdbh4/O
挟撃されなくてよかったね
596人間七七四年:2013/11/12(火) 18:39:47.57 ID:0pSCtFd1
>>591
大返しの時の人質は小早川秀包と桂広繁ですからね。
吉川広家はこのときは人質になってませんし。
要するに大返しの時の人質交換は一度解除されて、11年にあらためて人質交換したということでしょう。

あと黒田家譜のこの話は元の話が様々な史書に記載されているので完全創作ではなく
官兵衛大活躍Verへの改竄と見るべきです。
他では記載されているのに武器を貰ったことに全く触れられてないのは官兵衛に力量をはるかに超えてしまい
流石に胡散臭くなってしまうからでしょう。
597人間七七四年:2013/11/12(火) 18:53:39.90 ID:lVxs6Pcs
>>596
小早川秀包が人質地に出たのも天正11年の話ですよ。
598人間七七四年:2013/11/12(火) 19:03:55.81 ID:0pSCtFd1
>>597
10年 小早川秀包と桂広繁 で人質契約
一度解除
11年 小早川秀包と吉川広家 で再度人質契約
OK?
599人間七七四年:2013/11/12(火) 19:16:54.56 ID:lVxs6Pcs
>>598
論外

小早川秀包が最初に人質になったのは天正11年
桂広繁は人質ではなく秀包の同行者です

これ以上なにかあるのであれば真偽スレでどうぞ
600人間七七四年:2013/11/12(火) 19:39:28.89 ID:0pSCtFd1
>>599
10年(対織田)と11年(対羽柴)では契約対象が違いますので大返しの時も人質交換があったとしてもなんら不思議はありません。
書類が残ってないのも再契約したから破棄したとも考えられますし。

あとは真偽スレで