708 :
人間七七四年:
豊臣秀吉の遺体は死後どうなったの?
大河では大坂城から密かに運びだされて・・・から描かれる事が少ないと思うのだが
豊国神社に祭られてたのかな?
もしそうならその後徳川に壊されて遺骸は何処へ?
709 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:56:55.06 ID:oWNN1djU
>>698 その偏見はアスペルガーに失礼
あれはもっと別の何かだよ
身内にアスペルガー居るけどあんな感じじゃない
710 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 10:10:18.25 ID:5LViEUVG
711 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 16:57:51.99 ID:G2YGP+6k
長尾為景が100戦以上の合戦経験有ると書いてたのですが、これはどのくらい凄い事なのでしょうか?
一般的な武将の合戦参加の平均数が分からないので教えて下さい。
712 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 09:45:43.61 ID:tZJ9xjI8
長尾為景の時代で正確な参戦数が分かる武将が居ません、なので平均も求められません
多いか少ないかというより、戦に次ぐ戦の生涯だったくらいのニュアンスなんじゃないでしょうか
713 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 18:39:08.26 ID:OmUqd+iS
>>712 では質問を変えます。
応仁の乱から関ヶ原の戦いまでの範囲で大体の平均数を教えて下さい。
出来れば生涯の合戦参加数が多めの武将も教えて下さい。
714 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 19:39:20.63 ID:dYBrYV3B
平均ってのは無理じゃね?国勢調査やったわけでもないし
馬場信房70回、本田忠勝50回 有名どころでもこんなもん
715 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 20:28:05.81 ID:OmUqd+iS
>>714 有名どころでもそんなものなんですか…
なら100度以上って凄いんですね。
716 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 22:14:08.30 ID:kX5qv3er
加藤光秦は秀吉配下で高い石高をもらっています。
高い評価の理由はなんでしょうか?
また、功績をあげた代表的なもの合戦、調略など何かありますか?
717 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 05:07:32.45 ID:BOmsx3Xi
>>716 高い石高なのは初期の頃からの家臣で苦楽をともにした期間が長いからだよ
それが一番の評価と言っていい
石高に比べて特別何か凄い功績を挙げた武将でも無い
718 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 11:09:04.98 ID:HFwAl0tz
名古屋の文化は戦国時代だろう
尾張国だけでも、
織田信長、豊臣秀吉、前田利家、柴田勝家、丹羽長秀、佐々成政、加藤清正、福島正則
蜂須賀小六、山内一豊、浅野長政、池田輝政、堀尾吉晴など
三河国は、
源頼朝、足利氏、徳川家康、本多正信、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政など
すべて愛知県出身
お寺の数、城・城跡・武家屋敷の数も全国1位で戦国観光が流行ってるよ
719 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 15:08:53.28 ID:QRLHtZV3
名古屋って意外と観光地がないし
戦国観光なんて流行ってるか?
桶狭間と熱田神宮ぐらいかな。
遠出で関が原にはみんな行くみたいだけど。
720 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 15:32:52.76 ID:Zm8oCix3
>>716 領地というのは功績に対して与えられるものだけではなくて
その領地を防衛するために必要な兵力=石高を同時に与えられる場合もあって
会津が代表的なんだけど甲斐も関東の徳川に対する備えだから
功績と比べると過大に見える石高を与えられているのです
721 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 21:18:45.68 ID:Z0P/2LcD
>>717 >>720 なるほど。付き合いの長さに報いた功績と、軍事的な能力に期待しての
石高なのですね。ありがとうございます。
722 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 22:21:42.06 ID:IU7anJco
723 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 08:38:04.47 ID:tpPr1gBQ
こ、小牧山城に残る土塀はスゴイんですよ!
724 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 09:39:52.70 ID:4jL+8dAL
犬山市に小牧市、名古屋(市)じゃねぇ・・・・
725 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 10:31:38.14 ID:JMVzx3by
名古屋圏でいいんじゃねの
726 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 16:00:40.42 ID:Bvuxx1UO
>>722 そこがどんなにチャッチイか・・まだ小牧城なんだけど
高速使って小1時間かかる・・
自分なら末盛城跡、古渡城跡、伝秀吉生母誕生地
とかだけど、これもちょ〜マイナーで地元民でもあまり知らない。
名古屋城、徳川美術館とかかなぁ。
727 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 19:16:03.64 ID:krvbELAR
名古屋は中途半端だった
信長公にちなんだ物も見受けられるが家康公を担いでたりするし
そらどっちつかずで廃れる
728 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 01:38:32.79 ID:NuNQDqml
写しはどうやって作られるんですか?
729 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 06:55:59.30 ID:Hp7m3zO8
>>726 規模は小さくても現存天守ならではの雰囲気というものが有ろう。
>>728 物にも作る事情によっても様々。
730 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:18:29.00 ID:EblQwzDf
信長なら岐阜、家康なら岡崎であって名古屋は尾張徳川
長浜が秀吉か。
つかコンクリート清洲城を無視して可哀想だろ!
新幹線の車窓からも見れるんだぞ!
731 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 13:35:07.86 ID:PRqDeY7Q
侍大将と足軽大将の違いが分からないのです。
武田家なんですが。
武田軍2万人を、旧陸軍の師団に喩えると、
大隊長(800人を率います)クラスが、侍大将で
中隊長(200人を率います)クラスが、足軽大将なのかなあ
732 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 13:49:56.66 ID:TpZfDHtZ
武田家の場合
侍大将
大きい領地を持ち大勢の家臣を抱え
自分の家臣を中心として与力を付けられ構成された軍を指揮する武将
主に武田一族、大身国人
足軽大将
領地をたいして持たず武田家が集めた足軽を部下に付けられ
それを中心として与力を付けられ構成された軍を指揮する武将
主に抜擢された小身や新参者
733 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 14:28:58.96 ID:P5ANq1TJ
あと基本的に足軽大将は侍大将の補佐的な役割をしていた感じだな
734 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 15:03:51.04 ID:A7kbhKXe
現代の軍は構成員の半分は後方支援だけど、戦国時代ってどうなの?
車両の管理、銃火器や機械といった整備に特殊な技能が必要なものはない
紙の書類、手続き、記録も今よりずっと少ないだろうし
水や食料は一人一人が自分で自分の分を用意して運ぶなら後方支援て
みんなの荷物や物資を見張る人と本陣を守る人の二種類、でも本陣を守る人も武装して
後ろに配備されて守備に回っている戦闘員と考えれば戦闘要員
戦国時代は現代と違って兵全員が戦闘員であり同時に後方支援ってイメージがある
735 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 15:11:17.43 ID:TpZfDHtZ
朝鮮征伐の大名部隊の構成をみると半数が陣夫などの非戦闘員
736 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 15:18:40.24 ID:X7uUmTeO
侍大将と足軽大将で言うと、合戦の作戦方針はこの侍対象と足軽大将の協議によって作成され、それを総大将が承認して
執行される。
あの山本勘助(官助)は足軽大将の資格で作戦立案に参加したものと考えられる。
737 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 15:25:59.25 ID:hpdMjI8z
熱海に城があったけど、あの辺りに城なんてありましたっけ?
738 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 15:30:05.09 ID:X7uUmTeO
739 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 16:00:52.05 ID:TpZfDHtZ
>>731 原虎胤とかが足軽大将なのに普通の武将以上に活躍してるとか
足軽大将のトップが40騎持ってるのに侍大将のドベは30騎で逆転してるとか
場合によっては同格みたいに扱われてるとかで混乱してると勝手に想像すると
基本的には、大隊長(備)-中隊長(組)という理解でいいけど
侍大将を支社社長や子会社社長。足軽大将を本社(武田宗家)の部長課長クラスと
会社にたとえると分かりやすいかなと思う
本来は本社(本陣備)の一部署(各種足軽隊)の長だけど抜擢具合によっては
一会社並の人員のプロジェクト統括したり、支社長に指示したり
社長側近として重要な決断に関与したり、支社長と同格に扱われたりみたいな
余計混乱したらすまんw
740 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 10:12:34.23 ID:XW9NAmrz
毛利元就の小説や本でこれは読んどけ、という本はありますか?
ドキュメント厳島の戦い
覇道の鷲 毛利元就
和田恭太郎の毛利元就
歴史群像シリーズの毛利戦記
コマンドマガジンの厳島の戦い
は読みました
741 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 18:09:20.25 ID:BME5zyCf
『四本目の矢』は名作
穂井田元清を意識してしまうようになった
742 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 19:16:41.77 ID:Tyg7wPoO
穂井田元清・・・確か父親に虫けらと言われた男だっけか
743 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 20:02:08.45 ID:U75Ryr8o
四本目の矢ですか?
検索してもそれらしき本が出てきません
著者名など教えていただけると助かります
744 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 21:28:57.05 ID:448iYeI0
明智光秀が本能寺後は筒井を頼ってたという話ありますが、明智光秀はいつ頃から筒井氏と仲が良かったのでしょうか?
745 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 10:00:09.21 ID:Kib7Azii
仲が良いというのはどのような状態か分かりかねますが
筒井氏が織田氏に降った当初から付き合いはありました
光秀が降伏を仲介したとも言われています
746 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 14:11:29.10 ID:KJ9OAPRD
戦場で脱糞した大名っていますか?
747 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 16:09:19.32 ID:F47xHcj7
筒井と明智って婚姻関係あるし、
一応、一般的には光秀の与力扱いでしょ。
まぁ異論もあるけど。
748 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 19:42:42.47 ID:BpGaBXIU
史料の写しって模写ですよね?
749 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 20:01:26.37 ID:/OopdRZT
お家騒動って何で起こるの?
頓死でも無い限り、跡継ぎ勢力を圧倒的優勢にするとか
芽を摘んどけば良いんじゃね?
特に江戸期とかw
750 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 22:04:23.15 ID:Kib7Azii
江戸期はスレ違いやね
751 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 22:35:56.66 ID:ADDKke5r
圧倒的に芽を摘むのが大変だからおこる
752 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 23:57:35.31 ID:h5hDYxMI
どうして戦国時代に日本では酪農が起こらなかったのでしょうか。
酪農について調べてるんですけど、水害の多い関東や
寒冷な東北地方や北海道でさえ酪農が発達しなかった理由が分かりません。
単に仏教の教えだとしても、それでアイヌ人や東北地方でさえ
手を出さなかった理由って何かあるんでしょうか?
753 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 00:03:35.80 ID:CZs4EGNA
多分だけど日本人には牛乳が合わなかったんだろう。
754 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 00:22:36.14 ID:nY1rKTP6
秀吉の統治が重税を連呼してる勢力は必ず、秀吉が中間搾取層を排除していたことを故意的に書かない。
秀吉は浅野長政に1587年に出した命令で、おとな百姓として下作に申し付け
作あいを取り侯儀無用ニ侯 今まで作つかまつり候百姓直納ニつかまつるべき事。
と書いていて中間搾取の禁止と、百姓への土地分配をして水飲み百姓に土地を無料で与えて、
しかもその土地の所有権はどんな理由があっても取り上げられたり変更さたりは出来ないと決めてる。
これは強力な貧困層百姓の救済策であり、
しかも百姓の田畑を荒らす行為も禁止した為に貧困層がいなくなった。
貧困層出身の秀吉ならではのやり方と言える。
家康が関が原に勝つ為に蔵入地をあげまくった為に、
各地を監視支配する蔵入地が失われ、
秀吉が進めた中央の統治体制の地方への御指南による輸出を通じて内政支配が廃止され、
各藩は独自の旧制に戻っていった。
そして秀吉が決めた中間搾取層廃止も有名無実になり、
中間搾取層が復活し、さらに士農工商えた非人の階級カースト社会になっただけ。
そして各藩は自由に税をかけ始め重税に苦しんだのが江戸時代。
特に関が原後に領地の大減封を受けた毛利の重税ぶりは一揆続きだった。
大規模家畜牧畜経営者が明治になるまで生まれなかった理由を
秀吉の太閤検地によって土地を与えられて小農として自立意識を促され
小家族経営が徹底したので家畜を使った耕起をしなくなったと言われる。
一族郎党思考から個人主義の魁ともいうべき
家単位で土地という資産概念が生まれた現われの意義は大きく
西洋との競争において資産を持ち自立自営意識から
教育水準も高かった百姓は維新の原動力となり、富国強兵を背負う人材を作り上げた。
755 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 00:45:05.48 ID:bhWqk7ec
>>752 酪農や牧畜は面積あたりのエネルギー生産率が低い非効率なものです
日本の気候だと東北でも米に限らずもっと効率の良い作物が作れてしまいますので
酪農に手を出す必要が無かったのです。
また代表的な醍醐をはじめとする嗜好品としての乳製品は古来より少数生産されていました。
酪農に手を出してもよさそうな北海道アイヌに関しては不勉強で分かりませんが
冬が寒すぎたのではないでしょうか
756 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 05:59:41.03 ID:qrUEFp0C
秀吉が指6本だったという説は確定なのでしょうか?
757 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 06:03:33.66 ID:XPYGYYA1
758 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 06:05:46.31 ID:qrUEFp0C
>>757 ありがとうございます
その程度だったんですね
759 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 08:11:55.07 ID:/lS+Ee+y
長篠の戦いでふと思ったのだけど、あの鉄砲の一斉射撃の轟音の中、基本、臆病な動物である馬が怯む事なく
敵陣目掛けて突撃って、本当にできたのか?
鉄砲の轟音に驚いて暴れたり、後方に逃げ出したりしてマトモに攻撃できないと思うのだけど?
それとも、大きな音に馴れさせる訓練があるとか?
760 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 08:25:01.32 ID:HgVcWfzW
>>756 フロイスと前田利家という、殆ど関係がない二人から秀吉6本指説が出てるから実は本当なのではないかと考える人もいる
761 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 09:21:11.45 ID:wplD8J1R
>>758 事実だよ。
戦前は英雄像に似つかわしくないから隠蔽され、
戦後は差別とされて隠蔽されてきた事実。
フロイス日本史の翻訳が登場した際も、
キリスト教を排除した恨みで宣教師が、
秀吉を悪魔みたいな身体として悪く書いたと徹底抵抗する史学家ばっかりだった。
しかし利家の口伝記録にも登場するという事実と、
現代医学において多指症は珍しいものでは無く、比較的多いものである事実と、
生まれた時にいろいろな障害を背おった人達にとって、
秀吉が多指症でもひるむこと無く、
利家が指を切れば?って助言しても切らずに人生を通した事実に、
生きる勇気を与えてくれるという前向きの発想から、
6本指はすでに確定してる。
>>759 武田大騎馬軍団が柵に突撃したのは信長公記の捏造。
そもそも一次史料では柵を作ったのは家康だけだし、
その書状自体が後世の偽書状の疑いが強いとされてる。
それに一次史料には細川と筒井が、
おそらく堺あたりから鉄砲隊傭兵部隊を雇って連れてきたようにしか思えず、
信長公記も3000とか1000とか種類によって訂正されてる為、
大騎馬軍団と柵を用いた大鉄砲隊の戦いはデタラメで、
単なる読者サービスの演出。
実際は、そんなにたくさん馬を所持してないし、
あくまで移動や荷物運び要員であり、
戦する前に下馬する。
762 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 09:25:42.25 ID:cOEObOKA
>>759 鉄砲に慣れさせる訓練はあったようです
騎馬による突撃は第二次世界大戦の初期まで存在するので
空想妄想の類ではありません
763 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 21:54:44.70 ID:2scIyGQw
>>761 おや、秀吉は切断したんじゃなくて最後までしなかったの?
コンビニ本程度の知識しかないんだが切断したと思ってたわ
764 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 23:10:31.72 ID:Nrmz1y9X
切断してないよ。
まあ痛いからやらなかっただけかも知れんけど。
ただ世間的には、それは何とも思われなかったんだろうね。
765 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 02:08:23.96 ID:cVsfpTzd
>>764 thx
コンビニの胡散臭い本だと○○頃に切り落としたと思われる〜みたいな記述あったんだよね
だから切断してなかった事に驚いたよ
まあ、普通に考えて痛いよね
766 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 03:14:31.44 ID:CL5kOkvK
本能寺の面白いアナザーストーリ思いついたから
スレ建てて推敲してから
原案提供して映画化して貰いたいんだけど
笑える系の歴史映画作れる大家って何て人が居るの?
のぼうの人とかなら良いのかな?
767 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 04:52:11.94 ID:GaWsFll/
>>766 まず清洲会議を見てから脳内会議をしてみるのが良いんじゃなかろうか
768 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 12:59:23.36 ID:m6JJyk/6
769 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 17:36:34.17 ID:eRTsmSJ5
何故武田信廉は信玄のように法名で信鋼とはあまり呼ばれず号の逍遙軒と呼ばれることが多いの?
770 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 17:48:58.84 ID:mt/w8vpn
具体的な数字は分からんけど、
戦国大名の本拠地は不連続型の連結都市だから
城下町だけを抜き出せば何処も人口は少ないよ
771 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 18:02:51.07 ID:mt/w8vpn
772 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 18:56:19.65 ID:m6JJyk/6
773 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 19:55:02.09 ID:CdcVIDZa
戦国時代について勉強を始めたばかりの者です。
質問をさせて下さい。
戦国大名と家臣の関係を勉強しています。
まず、家臣に与えた領地内の年貢は全て家臣の元に入るのでしょうか?それとも一部大名にも渡るものなのでしょうか?
次に、家臣が自分の領地に隣接する他国の領地や小規模の城などに対して、戦国大名の許可なしに勝手に戦争を始めることは出来たのでしょうか?
初歩的な質問で申し訳ありません。
なかなか家臣と大名の関係が詳しく解説されてるサイトを見つけることができなくて。。
よろしくお願い致します。
774 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 20:30:36.51 ID:+XQmXS1E
テレビで信長が今川と戦った時、織田軍が次々負けて全滅寸前で
信長自身も鉄砲で戦ってなんとか勝って
死んだ家臣たちのことを悲しんだって、やってたんだけど
今川軍との戦いで信長はずっと無視して、今川が桶狭間に入ってようやく
動いて総大将の義元本人を討ち取って勝ったんじゃないの?
それとも桶狭間の戦いってそんなに超ギリギリだったの?
奇襲説が最近否定されぎみだけど、だからって負けそうなレベルだったの?
775 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 22:28:13.97 ID:JH9FMz2i
テレビに撮られてた以上動かぬ証拠になるだろ
776 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 22:50:16.50 ID:zbjLSM9u
>>774 砦が次々と落とされてギリギリだったから大逆転なのだ。
>>773 家臣の領地からの年貢は家臣のものだ。
戦争とかはその武将と大名の力関係による。完全に臣下なら無いが、
例えば真田のように徳川に付いたり上杉に付いたりする武将は勝手に戦争する事もある。
上杉家中の本庄繁長なんかもかなり好き勝手にやっている。
777 :
773:2013/12/06(金) 22:59:08.47 ID:CdcVIDZa
>>776 なるほど、ありがとうございます。
家臣との信頼関係、かなり大丈夫なんですね。
778 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 00:10:53.12 ID:dLujSrB9
>>755 ありがとうございます。酪農は効率が悪かったんですね。
確かにそう考えれば明治期に西欧から改良された
家畜が大量導入された理由が分かります。
779 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 00:16:33.51 ID:afCGR0MS
>>777 本庄はむしろ半独立勢力として好き勝手やっていて、反乱を起こして鎮圧されてもいる。
信頼されているからではない。反乱の後は信頼厚い家臣になったけど。
780 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 09:40:40.79 ID:5YLGEePJ
酪農はそもそも放牧民文化で牧畜技術の副産物。
4足動物を喰うことに抵抗感あった日本人とは分化的土壌がない。
それに田畑収入で国力を測るので放牧に地を割くのではなく、
新田開発の治水に力を割いていた。
また秀吉が中間搾取層を廃止し、
貧民に土地を与えて収入確保させて自立を促したので、
中間搾取層の富豪寡占化による大土地を利用して事業をやるような、
牧畜や農業における奴隷プランテーションの発展が阻害された。
まぁこれは家康が鎖国してしまい輸出による資本蓄積がなされず、
国内市場だけなら個人による手工業で充分な生産力であったためでもあるが。
家康は士農工商えた非人のカースト制度を導入し、
日本同士に差別蔑視という階級闘争を導入して、
庄屋など中間搾取層を復活させ連座制で農村支配を開始したので、
歪になってしまったので、
秀吉により与えられた田畑はずっと与えられた者が耕すと言う原則が失われ、
経営能力がない民が田畑を奪われ貧困化したのは確かだが。
781 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 10:05:35.58 ID:9jpxSNuP
> 家康は士農工商えた非人のカースト制度を導入し、
士農工商という身分制度はなかったことは証明されている。以上。
782 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 11:03:23.32 ID:jyrFYYoa
イノシシとか鹿とか普通に食ってるべ
783 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 11:04:49.08 ID:9jpxSNuP
司馬遼太郎の小説とかそのまま信じてるタイプだな
>>780は
784 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 13:11:33.34 ID:kg51bfIo
実際はは部落差別に絡めて左翼が日教組と組んで無かったことにしただけだけどな。
785 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 15:25:59.33 ID:kg51bfIo
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
786 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 15:29:42.35 ID:BDncvnB3
こいつ小卒菅沼遼太だからもう触るな
787 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 10:54:28.03 ID:Y/rJ2MNy
>>784 Wikipediaの偏った政治的編集を丸呑みしてシッタカしてるだけの厨房なんだろ。
あれ部落起源まで持ち出してるくらい気持ち悪い。
788 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 18:32:35.86 ID:kwLQFPmA
自分は菅沼氏では無いんですけどウィキペディアの情報って駄目なんですかね?
出展元とかも書いてあるし8割くらいは信じたしていたのですが・・・
789 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:22:19.93 ID:UF3Yc8P+
wikiなんて信じるなよw
あれは編集者が自分に都合よく
洗脳しようとしてるだけだぞ。
どうでもいい過疎記事は放置されるが、
編集合戦に発展するワードも多いんだから。
790 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 19:24:40.53 ID:3DgZsaG9
良記事とそうでない記事がある事は確かなんだけど
詳しく知ってないとそれを判断しようがないから初学者なんかは結局見ない方が余分な手間かからない
791 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 20:03:13.36 ID:kwLQFPmA
>>789 なるほど・・・好きな武将などを脚色過多に書いてたり過剰まで貶めてるなどそういう感じなのですか?
前述したように引用元や出展がしっかり記載されてた物は割りと信じていました…
>>790 そうなんですね。
でもゲームなんかで知ったマイナーな武将とか調べるの大変でついついwikiばかり見てしまいます…
792 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 22:25:30.96 ID:26rZJ4n1
そういや昔、wikiでウソ武将を数人編集してたやつがいてワロタなあw
793 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 22:49:27.21 ID:whXpIdEx
>>791 別に個人で楽しむ分にはWikipedia丸呑みでも問題ないでしょ。
論文書いたりするわけじゃないんだから。
794 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 00:44:49.87 ID:V+ZD9TKl
編纂合戦をして応酬してる編纂履歴を見たりすると、
どこを改変し合ってるかわかるよ。
かなり前に西南戦争を引き合いに出して、
征伐は夷狄を対象にしたもんだとか主張して、
秀吉の九州征伐を平定とか役の表記に変更しろって火病発症してたやつもいたよなー。
小田原は関東だから征伐でいいって言ってたやつ。
結局、どちらでもいい勝手にしろってキチガイ放置になったな。
795 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 00:56:35.83 ID:GsMDpRAV
そこら辺りは完全に差別用語意識丸出しで、
織田厨が紀州征伐や甲州征伐の名前に固執してケンカ越しで24時間監視粘着してたからな。
796 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 04:17:30.19 ID:1XaaGQnj
質問なのですが、一つの備が展開した際の広さってどれぐらいですか?
仮に幅が2町なら槍衾を組むのに一列二百人ぐらいは必要ですよね。
槍衾が二列400人、騎馬と下人で200人、弓と鉄砲が200人、
本陣、旗、荷駄が合わせて200人とすると1000人で備一つ分ぐらいになりそう。
これだと200m×50mで一町歩ぐらいになりそうですが、そんなものでしょうか?
797 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 04:22:20.58 ID:Hb93Yuyg
>>796 備も規格の決まった単位じゃないからそれだけではなんとも…。
人数と収容面積と作戦意図で広くも狭くもなった、というのが実体だと思うぞ
798 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 04:29:49.61 ID:1XaaGQnj
>>797 成る程。確かに決まったルールで展開したわけじゃないんでしょうね。
守りを固めたるなら密集、包囲するなら展開するなど柔軟に対応したのかな。
799 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 09:37:41.61 ID:g9MshBRK
wikiの奴隷貿易でも島津がやった奴隷貿易は絶対に削除されてんだよな。
監視してるやつスゲーよ。
あと要出典が必要な謎記述とか連発編集してたり、
我田引水や曲解してるやつとか、
明らかに中立性が無い。
信長英雄マンセーして全力擁護してる本を出典にしてる時点でもうね…
800 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 10:39:22.39 ID:LZ0w4ukD
朝鮮や秀吉や豊臣政権の関わるwikiも出典皆無の捏造ある
801 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 10:42:26.78 ID:04n3JFZs
>>789 その件をよく知らないので詳しく教えて頂けますか?
明日発売の創造で島津プレイしようとしてたけど、なんかそういうダーティーな大名家を使うのは嫌だなと思いますので…
802 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 11:28:44.01 ID:SXAdK15V
朝日新聞出版の雑兵たちの戦場という書籍が詳しい。
出版社的にリベラル寄りかと言うと、そうでもない。
戦国時代の末端の悲惨さ(懸命に生きていることも含めて)が生々しく書かれていて面白い。
別に島津に限らず、武田も奴隷市場的なものはあったそうだし、ダーティとか拘る必要はないと思うけど。
803 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 11:37:57.09 ID:LZ0w4ukD
>>801 薩摩島津家総合スレッド その3
島津家久公之スレ
を覗くと書いてあるからわかるよ。
>>802 それ左翼本じゃねぇかw洗脳そのものwww
804 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 11:59:29.23 ID:cUU5AMdr
>>802 共産主義思想を反映されたキチガイ歴史観で書いてる本を紹介してバカじゃねぇのお前。
>>801 残虐な戦国大名とは誰なの?スレの
646レス以降を読んでみると良いよ。
豆知識として鎌倉時代からの奴隷売買の常識が書かれてるから。
805 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 12:03:00.93 ID:jdV7v4U2
菅沼遼太がハッスルして自説の宣伝してるなアホくさ
806 :
802:2013/12/11(水) 12:20:26.90 ID:grJwSVMl
えらく罵倒されてるが、資料とそこから類推される部分だけ読めばいいだけだと思う。
イデオロギーに同調する必要はないし、そんなこと言い出すと本が読めなくなって
一次資料をあたるしかなくなるじゃない。
俺自身はどちらかというと、新自由主義と夜警国家に傾倒してる人間だから共産主義とは相入れないけど、
主義主張によらず面白い本を読めばいいと思うよ。
807 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 23:59:22.10 ID:vtp9gFuA
>>803 >>804 Wikiより信頼性がない2ちゃんねるのスレを参考として紹介するとか、正気かお前らwww
808 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 00:39:33.92 ID:r1oWmDbc
菅沼遼太が正気なわけ無いだろ。お前こそ正気かよ
809 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 09:05:28.95 ID:eew7HvfI
こういう
>>807>>808みたいな偏執的なキチガイが、
議論や反論ではなく罵倒自演を開始することにより、
都合が悪い事実はこうやってwikiで編集され消されます。
>>807>>808は決して該当スレで根拠を出しての反論をすることは絶対にないでしょう。
810 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 18:35:57.75 ID:XgSIz7XA
前に脇坂保治の子孫だったかの人がもの凄く詳しく編集してたってのがあった様な
811 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 08:44:51.46 ID:4zWOuiHL
堀秀政の子孫っぽい人?のHPとそっくりな内容がwikiに書かれていた時もあったな。
812 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 18:01:30.12 ID:98KFAb6+
813 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 03:26:39.59 ID:MKEiqLSw
お市の方の輿入れ時期(永禄7年?10年?)と稲葉山城落城時期(永禄10年?)は、どっちが先なのですか?
814 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 17:41:03.76 ID:4YIwbhDL
浅井との縁談が後
815 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 18:49:58.14 ID:5RrfwRcF
>>813 縁談が後としてる研究者が多いけど(小和田哲男等)先としてる研究者もいる(宮島敬一)
816 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 21:14:12.51 ID:pg1U9x77
織田チョンにとって都合が悪い事実は捏造される典型だなぁw
817 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 00:05:48.60 ID:b5RZZ79O
何がどう都合悪いんだよ
馬鹿にするにしても分かりにくいんだよ
818 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 00:07:11.13 ID:25xTLp8m
菅沼遼太に触るな。病気なだけだ
819 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 09:44:37.31 ID:2OBn9H//
820 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 19:05:27.31 ID:bdzu2ipx
縁談関係に一次資料あんの?
ぜひ知りたいが
821 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 19:11:17.84 ID:IYY4NoRj
822 :
人間七七四年:2013/12/17(火) 19:51:00.55 ID:FocLRfan
そいやお市の直筆発見ってあったけど
あれどうなったのかな。
823 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 00:08:43.28 ID:mWTdUeOZ
つまり浅井との縁談が後であると話には、
根拠が全くないってことか。
織田チョンってデタラメばっかでやはりバカだな〜w
824 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 12:34:37.20 ID:T2DLk7Ge
>>821 (浅井との)縁談関係に一次資料あんの?
文脈くらい把握してから煽れよ
825 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 15:47:24.68 ID:LUIpniD2
永禄10年以降に婚姻した説
市が生んだ万福丸は永禄7年に生まれているので、
信長との間にできた子であり、
浅井長政は信長と市の子が跡継ぎになるのを黙認出来ずに信長に謀反した。
はいトンデモ話のネタになったウソ説です。
織田チョンがキチガイなのがよく分かります。
826 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 16:16:55.82 ID:EAuCqBOZ
万福丸の実母しだいやね
827 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 16:35:33.15 ID:FKjCTGVk
オワーダ
永禄10年以降に婚姻ニダ!
えっ!?たぶん万福丸は妾の子に違いないニダ!
そうだ辻褄合うニダ淀の生まれは永禄12年ニダ!
万寿丸ってのもいたに違いないニダ!
お市は再婚、いや三婚ニダ!
まともな研究者
『馬鹿馬鹿しい検討に値しない。だいたい淀は49で死んでるから永禄10年生まれだ」
はいトンデモ話のネタになったウソ説です。
織田チョンがキチガイなのがよく分かります。
828 :
人間七七四年:2013/12/18(水) 16:55:12.29 ID:FKjCTGVk
宮島敬一氏は永禄6年までに婚姻。
高柳光寿氏は永禄6年
田中義成氏と桑田忠親は永禄7年
オワーダは永禄11年に決まってんだろ。
尾張一国をやっと統一した程度の信長が浅井なんかと婚姻出来るわけねーだろ!はっ?根拠?自分で調べろや。
829 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 13:11:42.75 ID:S3L2DYkj
まーた懲りずに織田チョンがデタラメ書いて論破されるの巻w
830 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 14:31:10.04 ID:JDtXGw3o
最近よく文献を読むようになったんですが、たまに「成人」という単語が出て戸惑っています。
「成人した頃には〜」という言葉が出てる際は元服した頃(15歳前後)を指しているのでしょうか?
それともあえて現代にも通じる成人という言葉を使っているので20歳頃を指しているのでしょうか?
831 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 15:03:16.41 ID:EBm+8sYr
普通は成人=元服。ただし稀に7,8歳とかで元服することもあるので、
普通の人が元服する頃=成人と言う意味で使ってるんでないかい
832 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 15:53:16.81 ID:JDtXGw3o
>>831 迅速なレス有難う御座います。
やはり成人と元服はイコールなんですね。
7、8歳で元服するパターンがあるのは知りませんでした。
若年の可能性も考慮して以後は考察するようにします。
833 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 17:01:09.40 ID:NicF2NvB
戦国武将の間では、なぜ男色が盛んになったのですか?
834 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 17:39:21.92 ID:h8GFoN+B
貴族や僧侶たちの文化が広まったからじゃねかね
835 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 18:56:40.85 ID:EBm+8sYr
元は僧侶から始まって公家に広まって、
公家に憧れてた武士は平安の頃から諱やら連歌やらいろいろ貴族文化を取り入れてて
その中に男色もあって、団結や戦場の性処理にも有効で広まったと
西洋の騎士やイスラムのホモ軍団や古代ギリシャの神聖隊とか
世界的にも戦士階級の男色は類型は多い
836 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 19:05:25.58 ID:oyYWer/I
古代ゲルマンの戦士は友情の契りに掘りあったとか……(震え声)
837 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 19:11:37.22 ID:sHW+sZVE
男は女と違って関係こじれたりしなさそう
楽だから広まったのかな?
セフレみたいな感じ
838 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 19:50:15.38 ID:WnAMsN1u
婚姻永禄11年説を唱えてる第一人者はオワダじゃなく奥野高広だろう…
宮島氏が異論を唱えるまでかなりの学者が信じてたぞ
839 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 21:08:30.09 ID:zSCsE3mE
ただ、市橋伝左衛門≠市橋長利らしいからなぁ
だとすると、宮島氏の解釈の仕方だと、かなり早い時期から信長の側近だったという伝左衛門への手紙としては不自然になる気がする
840 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 00:20:57.92 ID:zW428gWk
>>837 新撰組は男色からの嫉妬で内部抗争まで起きかけたじゃないか
841 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 00:54:35.50 ID:o3xsw6+T
こじれたら死人が出るから男色禁止にした藩も多い
842 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 02:21:22.12 ID:pvZEahP9
戦国時代に前例ないの?
大崎義隆がこじれたくらいなら知ってるけど
843 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 08:52:32.39 ID:B2y4Z0lb
葦名盛隆
844 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 10:11:52.96 ID:28XxpxCs
奥野は大した理由を述べてないからほとんど意味ない。
信長文書のとりあえずの編年整理に大雑把に力を使い過ぎて、
大した理由も述べずに比定しまくり細かいミスを連発してるからな。
まぁ年代比定の先鞭をつけた偉業は評価されるし、
そこから初めて学者らの検証が始まりミス指摘大会になっちまい、
新たな史料発掘されて修正に次ぐ修正になったから、
奥野のは大雑把でスタートラインだったから正確性は二の次だった。
小和田の場合もかなり杜撰。
と言うか当時の常識には新しい資料漁りで新事実をって話で、
小和田みたいに家譜や講談軍記や地方史など江戸時代成立の二次資料を根拠にいれてくるのも時代の雰囲気としてアリだった。
しかし明らかにトンデモになってしまうリスク付きだが、
小和田の場合は定説ではなく、裏説として持ち上げられたからNHKとかメディアでも人気だった。
一般大衆への歴史広報家としてお茶の間の人達に愛されてる。
武功夜記問題以降はリスクを感じたのか、
まだ多少の未練があるみたいだが最近は一次史料重視で本を書くことが多くなってきた。
でも小和田さんのトンデモはネタと知っていて楽しむことが出来る人達からは好感を持たれているし好きだ。
845 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 16:46:59.12 ID:DTKB5fn3
しばらく大人しくしてたが
大河考証2連発で
トンデモがそのまま定説になりそうなのが危険だな。
ちなみに、夜話、ね。
846 :
人間七七四年:2013/12/21(土) 22:04:50.95 ID:y+3FjfmD
奥信大まそ
新奥小と小し,小一武まで
847 :
人間七七四年:2013/12/22(日) 19:46:44.15 ID:kq34VLkr
主君や自分より上の大名や公家などから姫を貰った武将って、やっぱ姫のが偉くて肩身が狭かった人が多いんでしょうか?
848 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 08:53:48.29 ID:QKJmmKuD
黒田如水の男色相手は、吉川以外に誰が知られているのでしょうか?
849 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 14:15:21.83 ID:dZIlgLo+
大内義隆と陶晴賢と隆元と隆景と元春が男色主従だろ。
如水と広家が衆濃厚な道関係なのは陰徳太平記に出てくるくらいじゃね?
衆道主従は裏切り防止として精を入れて昵懇する行為だから、
恩賞よりも絆が高まる。
850 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 18:12:49.79 ID:G8RGazlG
流れ便乗
正室や側室がレズってたとか記録ありますか?
絆深めるという意味で必要なのかなと思った
851 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 21:07:55.88 ID:7Tsv4ooQ
無い
852 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 21:38:37.89 ID:ekBBzYH5
大内義隆と陶晴賢と隆元と隆景とは有名ですが、
元春とも男色関係にあったのですか?
ちなみに出典は何という書物でしょうか?
853 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 23:01:00.56 ID:ROFtiJ4U
この前ズリダチとタイマン勝負したことを書くぜ
(略)
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!
854 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 23:13:47.10 ID:qiJJ84Dj
>>850 くの一が武将の妻を篭絡したという怪しい軍記物なら見た事ある
たぶん那須記だった気がするがうろ覚え
855 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 09:04:47.48 ID:f+9wisLQ
元春と陶がそうだったんじゃなかった?
856 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 17:38:19.18 ID:ZeonbHr+
元春と陶とが男色関係にあった
と何かの本で読んだ記憶これあり。
されど、その典拠は何でござったろう?
857 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 19:03:17.39 ID:Cwd9lFEu
史料とかけはなれた軍記で御座います
858 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 20:27:40.36 ID:ebSfNn0X
859 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 19:46:38.73 ID:6tcFWlP3
同盟を結んでる勢力が自分の同盟勢力に攻め込んだ際、浅井長政みたいにやはり先約の大名を優先して支援する物なのでしょうか?
それとも仲裁をしたり見ぬふりするのが普通なんでしょうか?
860 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 19:58:19.68 ID:LzVSiI6f
>>859 そもそも浅井と朝倉は同盟どころか、むしろ敵対していた模様。
浅井が信長を敵とすることに決心して、その対抗勢力である朝倉と結んだに過ぎない
861 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 20:03:12.56 ID:bL+COZmb
>>859 同盟国を攻めないも同盟条約に当然入ってるものと思われるので
同盟違反→破棄で朝倉浅井みたいになるのが一般的じゃないですかね
もっとも同盟の強度しだい事前の交渉しだい諜略しだいの面もあるでしょうが
北条今川と同盟していた武田は北条今川の抗争が勃発すると
一旦今川について北条を占領地から撤退させたあと仲裁役に回って
三国同盟締結したなんて例もあります
862 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 20:25:28.94 ID:6tcFWlP3
>>860 なんと!大河ドラマやゲーム程度の知識しか知らなかったのでびっくりです
信長が違反したからじゃなくて義昭の包囲網に呼応してたとも言うべきなんですね
>>861 そういう協定があるんですね
後から結んだ人は条件を色々加えれそうですけど、先に結んでた人がちょっとややこしい感じがしますね
三国同盟の件を今把握しましたがしっかりした基盤や協定があったというのが見えました
教えて下さったお二方有難う御座いました!
863 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 20:38:36.87 ID:TewN3i1N
あんまり鵜呑みにしない方がいいと思うぞ
864 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 21:12:05.23 ID:lrqh6dTG
>>862 >同盟国を攻めないも同盟条約に当然入ってるものと思われるので
いや、これは「当然」じゃあない
するのなら同盟を結ぶときにそういう条件をはっきりと入れておかないとダメ
例えば武田信玄の外交において、一時期は北条と山内上杉と三家で和議を結んだことがある
のちに北条と山内上杉は敵対することになるが、武田はそのまま北条・山内上杉双方と
同盟関係を維持し続けた
後に信玄の信濃侵攻が進むと武田と山内上杉との関係が悪化し、有名な三国同盟に繋がるが
それはまた別の話で、武田は武田の都合の山内上杉と敵対したのであって、同盟の北条とは関係ない
865 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 11:48:11.87 ID:E7yCMc6D
戦国期の同盟なんてあってなきようなものだし
条件は破られるためにあるようなものだからなぁ。
現代っぽい、規則は守って当然破ったのは悪
みたいなのは日本だけってぐらいだし。
866 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 12:16:07.65 ID:pryM4MKF
同盟にも強弱があるから一概に言えるものではない
現代風に言えば攻守同盟なのか不戦同盟なのか従属同盟なのかその他で対応はぜんぜん違う
867 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 13:26:26.05 ID:Gqsmz8jG
>>864 同盟にも色々あるんですね!
例によく用いられた武田について色々と調べてみましたが、武田信玄が同盟破りまくったせいで勝頼が外交面で苦労したみたいな記述なども見ました
守らないは守らないで今まで戦国時代だしな〜と流し読みしてたんですが、信用を無くしたら後々が辛そうですね
864さんの出してくれた例の記述も薄いものですがネット上で読みました
同盟国同士が争っていても維持し続ける場合もあったんだなと前例が見つかって良かったです
>>865-866 同盟ってそんなに種類があるんですね
そして戦国時代らしくあってないものなんですね
攻守同盟というのは対○○の時は協力するなど一時的な感じなイメージが沸きました
興味深い要素なんでもっと色々掘り下げて知りたいなと思いました
868 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 17:21:51.78 ID:sDB/5OAh
結局はケースバイケースで、必ずこうする、こうしなければいけない、ってものはない
869 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 17:56:33.42 ID:Q62BNLpX
ケースバイケースなのは当然さすがに誰でも分かる質問内容だろw
テンプレあったらビビるわ
870 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 14:52:46.46 ID:lFpMSYLT
信長つええ
尾張が豊かなのは分かるけど
他にも豊かな所はあったのに
何故信長つええんだろう?
871 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 09:12:17.28 ID:nMPsgL0m
結構危ない時もあったんだけど
そういうのを生き延びるしぶとさがたいしたもんだわ。
でもあそこでやられては過大評価は
いかんけどなぁ。
872 :
!ninja:2014/01/01(水) 03:02:24.93 ID:ZoKAEEBB
百姓、町人などから大名になった人物は秀吉、道三以外にいる?
ついでながらその中で幕末まで家を守った大名なんかいるかな?
873 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 03:46:54.85 ID:1EwnQTVw
福島正則は桶屋の息子。
小西行長は商人の息子。
本多正信は鷹匠上がりらしい。
874 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 04:55:20.16 ID:OI9kn5iN
だがさんは誰の子ですか?
出自を知りたいです
875 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 04:58:13.96 ID:wIGmDx5+
だがスレでやれ
876 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 05:56:45.03 ID:ZoKAEEBB
877 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 20:03:32.48 ID:t3BIEN4G
家康のように他国に送る予定だった人質を違う国に奪われたケースって他にあるのでしょうか?
これは珍しい部類なのでしょうか?
878 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 20:43:20.44 ID:gkd6wtcS
人質ではないが嫁入り行列を襲撃して花嫁を奪取した例はある
879 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 22:10:29.15 ID:ImjJunia
将門?
880 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 22:30:40.82 ID:wIGmDx5+
珍しい例だね。
石川数正が人質ごと豊臣に寝返って人質出していた小笠原氏らが
しょうがないから一緒に秀吉に寝返ったみたいな例もあるけど
881 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 22:55:37.65 ID:ImjJunia
家康がちょ〜出世しちゃったからあれだけど
桶狭間あたりで流れ矢にあたって死んでたら
たぶん歴史にうもれたぐらいの話。
だから有名になったのは珍しいけど
いろいろ細かい不手際みたいなのはあったろうなぁ。
882 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 00:08:19.56 ID:zTvk5vsq
秀吉の墨俣建設は史実?
大河の信長ではスルーされてた
883 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 00:09:42.54 ID:50GdH7Yn
884 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 09:08:03.51 ID:JMkUl2ZO
>>878 伊達晴宗と岩城の久保姫か
もっとも元々は晴宗に嫁ぐはずだったのを破談にされたという話もあるんだよね
885 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 11:46:19.09 ID:K6UN9TNF
天正13年の秀吉の動き
上記のように充実した手際よい戦略行動を展開した辣腕家秀吉公。
天正13年の家康の動き
真田へ沼田城を北条へ返せ!と命令
諏訪の領地加増の約束を忘れたフリかよ!と逆に不義をなじられ
甲斐へ恫喝に出陣してもまったく効かず馬鹿にされ、怒って上田城を攻めるも惨敗し、
小笠原や石川にまで見限られ、信濃の大半を失い、
無駄な一年を送ったアホ康。
てか、このアンチ秀吉三成のチョンって、ウソデタラメばっか書いてるよね。
石川が小笠原の人質をもって離反したから、やむなく小笠原も家康を離反したとか、
細かいところまでキッチリとでっち上げのウソを挿入しまくってるw
真田昌幸が北条へ沼田を引き渡さないから、
怒りくるった家康が天正13年4月に甲斐に出陣して真田を威圧。
7/15に上杉が真田に起請文を出す。
これにより徳川軍7000が上田城へ侵攻し、
真田と徳川は戦闘開始するも惨敗し9月には上田城を徳川軍は攻めることすら諦めて傍観状態。
10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には、
真田に対して、小笠原貞慶と協力するように言っていて、
11月に岡崎城代石川数正が逃亡しているので、
明らかに石川よりも小笠原の方が先に離反してるのにwww
信濃を代表する真田、小笠原、前年に離反した木曾の三大族が家康を見限ったことで、
実質的に家康は信濃の大半を失ったことになる。
家康異父妹でバツ3の多却姫が嫁いだ高遠の保科がいなかったら、
家臣総離反で家康はドミノ倒しのように離反だらけになってたよなw
家康は秀吉の調略戦に大敗して、
秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなったんだよ。
北条と家康の会談で同盟強化?いやいや家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談だろwww
なんだよ、結局11/15家康→氏直のやつだけしかねーのかよ。
それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてる、
どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
他の関連一次史料書状には、人質なんて話は出てこず
石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけだろ。
百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと
北条相手に虚勢を張る言い訳をして誤魔化しているようにしか見えない。
886 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 11:47:38.47 ID:K6UN9TNF
10/17 秀吉が昌幸へ小笠原と協力するように命じる。
11/13 石川が「女房衆」と共に逃亡(家忠日記)
11/15 北条殿宛家康書状(武江創業録)13日に石川が「小笠原人質召連候」と書いて北条へ弁解してる。
11/17 石川が「足弱」を同道して織田信雄の元へ逃げてきたことを秀吉は述べている。
11/19 昌幸への秀吉の書状でも石川の逃亡と「足弱」についてを述べ、
今年はもう残り少ないので、家康討伐は正月15日以前動座を伝える。
11/19 11/21の下条宛の家康書状でも石川伯耆尾州退散と書いて人質の話すら出てこない。
11/20 秀吉が三河侵攻するため大垣城へ正月15日以前に着陣するので一柳へ兵備の準備を命じる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促す。
11/29 天正大地震発生。
12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み
1/9 景勝へ上杉軍の雪解け2月中頃の信濃出陣を命じ、四国・中国の軍船が2月下旬には海上を封鎖すること。
関白軍の先陣は当月出陣、追って2/10の関白秀吉尾張着陣予定を伝える。
1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
1/25 家忠日記に大雨降、水出候とあり、家忠のいた近辺で水があふれたようだ。
2/8 家康と秀吉の和睦がなる。
もう家康は屈服して臣従する以外の道は残されてなかった。
えっw どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状を
どうやって本物だと証明できるの?そんな神技術あるなら教えてくれよwww
超無知だなお前。 愛知県史の編纂に参加していた播磨良紀氏が、
県史では特に指摘せずに収録しておいた史料と言えども偽書状の疑いが高いものがあると言ってるんだがw
例えば天正3年の家康が長篠で柵を作るように命じている書状での解説で、
花押が天正7年以降の家康花押で署名されているので、
長篠合戦譚から作成された可能性が高いと言っている。
家康の花押は時期によって14回の変遷があるので、
本物の家康書状の花押を見ながら似せて書いても、
内容による時期特定と花押の種類に、
時間的ズレが生まれたら偽書状と判別出来る。
家康の文書は非常に名誉や価値が高い為に偽書状がたくさんある。
しかし花押がわからない書状写なんてお話にもならんよ。
石川が足弱(石川やその家臣の老人や子供)や
女房衆(石川やその家臣の妻や侍女や身の回りの世話をする人々)と言った
家族衆を連れて熱田の織田信雄領へ逃げたと言うのは複数の一次史料にあるので事実だろう。
しかし石川が人質の小笠原嫡男を連れて逃げたと言うのは後代の編纂記事に頻繁に出てくる。
これは神君家康を裏切っている事実が不都合なので、
藩の永代存続の不安要因を取り除く為にも小笠原氏が捏造し言いわけをして、
そのストーリーに基づいて書状を捏造したからに他ならない。
そもそも石川は自分が人質として出していた者達すら見捨てて岡崎から逃げているし、
もし石川が人質を管理し預かっていたなら、
なぜ小笠原の嫡男しか管理してないのか、
もしくは小笠原嫡男だけを選んで連れて逃げたのか全く説明出来ない。
だいたい石川が逃げた理由は、
秀康や石川嫡男や本多らがすでに提出している人質の他に、
さらなる追加人質を秀吉に提出する約束の履行期限が来たので、
提出に向けた相談に関わる会議の後であり、
その後に秀吉が家康の表裏を非難している。
つまり家康はまた約束を誤魔化して曖昧な態度になったので、
その言を左右にして不誠実に誤魔化す態度に秀吉がその表裏を理由に出陣命令を出しており、
2月中には尾張から三河岡崎を目指して出陣することになる。
石川は提出約束を反故しようとする不誠実な家康を見限って逃げたため、
直接、石川と小笠原には関連性すら無いのである。
887 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 11:49:37.10 ID:K6UN9TNF
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
いにさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。
888 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 11:52:36.47 ID:K6UN9TNF
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
在日基地外理論
家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。
へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?
婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、 ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。
朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
実際、天正7年45歳で秀吉の姉の日秀が秀保を生んでるから、
朝日姫が家康の子を生む可能性が充分にあった。
秀吉は外戚として徳川家を操るつもりだったのは明らか
889 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 14:42:41.95 ID:8GktFeOw
ニート菅沼遼太うぜえ
890 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 17:04:53.78 ID:vD7SA/pO
軍隊って前衛後衛半々て良く言うけど前衛の中での役割分担の割合って決まってるの?
槍兵何割 弓兵何割 銃兵何割 投擲兵 騎馬兵何割っていう感じで
もしも大まかでも決まってる、または理想とされる割合があるなら教えてください
戦場や地形によって連れて行く兵の種類が違い過ぎるなら保有数でもいいから教えてほしい
891 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 17:18:07.81 ID:8GktFeOw
前衛後衛は置いといて割合ならたとえば
馬上11 長柄65 鉄砲13 弓7 旗持4 (各% 徳川慶長10年軍役規定)
馬上10 長柄65 鉄砲6 弓0 旗持7 手明12 (各% 天正三年上杉家軍役帳)
892 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 23:25:21.72 ID:vD7SA/pO
手明 って仕事がなく暇なことってネット辞書にでてるんだけど
これってその状況に合わせてやることが変わる人ってこと?
何もやることなくて緊急時にその場その場で指揮官が指示だすみたいな
もしそうだったらどういう装備でいるの?
それとも手明って武器を持たない伝令兵?
893 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:33:46.57 ID:pcEEKW6j
手明は道具(武器)を持っていないと言う意味ですが
本当に武器を持っていないのではなく、規定が無い、何を使っても自由と言うことでしょう
簡単に言えば北条の軍役規定の歩者に相当する主に持ち槍をつかう徒歩武者だと思います
上杉軍役には弓兵が無いので兼用だとすると比率的にもちょうど良くなりますね
894 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 02:03:57.23 ID:Y+OFtK8o
学校で社会の教師に質問したら、『う〜ん・・・・難しい質問だな・・・・わからないや、ごめん。テストには出ないから大丈夫。』 って
言われたので、ここで質問させてもらいます。
本能寺の変で、信長は自害したのは本当なんでしょうか。信長が自害したのを誰かが見ていたのですか?
なんで自害したと言い切れるのでしょうか。もしかしたら、焼死の可能性もあると思うんですが。
誰かが自害を見ていたとして、その目撃者はどうやって逃げたのでしょうか。不思議でなりません。
このスレ見てると、学校の社会の先生なんか足元にも及ばない専門家の人ばかりに思えます。
だから聞いてみました。
【多分○○なんじゃないかな】という推測でも構いません。お願いします。
895 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 02:15:01.43 ID:XuMhhzlf
本能寺から逃げ延びた女中の証言らしいです。それでも信長がふすまの向こうに消えるのを
見送った所まででその先は不明でしょう。武士の心得として敵に首を渡さない事を考える筈だし、
焼死は最もつらい死に方の一つなので、普通はその前に自決すると思います。
どうやって逃げたかですが、あのような襲撃事件では女子供とかは殺さないのが普通です。
抵抗すれば別ですが。
896 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 08:37:22.55 ID:GpVnjJmW
不測の炎上ならいざ知らず自分で本能寺焼いたんだぜ?
自殺の中でも焼死と溺死の苦痛は凄絶とされてて普通なら選ばない
切腹も厳密には苦痛を味わってから首を切断して貰うという物なのだけど、
罪人とかじゃない限り介錯を早くしてくれるわけで苦痛の時間は少ない
あの状況の武士なら逃げないなら普通に自害でしょ
897 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 08:45:45.36 ID:prF8O4WY
信長公記の作者の太田牛一が当時の関係者を探して取材して回ったんだよ
自害したってのは状況証拠からくる推測だろうけど
898 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 09:03:35.91 ID:D7pjMA1U
本能寺の近くに教会があった宣教師は、
自害説と生きながら焼かれた説の二つを書いていて、
生き残れた人は誰もいないからどちらかわからないと結論している。
自害説を吹聴しているのは、
自害が名誉と尊厳を守る死に方だから、
信長亡き後の織田家のとって、
信長が選んだ死に方が名誉と尊厳を守る死に方の方が都合が良い為に、
織田方が吹聴して回っていただけだろう。
実際は、吹聴しなければならない必要性に迫られたのだから、
明智軍が死体が見つからないから焼け死ぬまで逃げまわっていたのだろうと話していたのだろう。
さっさと自害していれば死体はすぐ見つかるからね。
宣教師の話だと門衛を殺して二条城に入った後は、
抵抗なく信長の元に行き着いて、
信長の背中に矢を当てたら、
長槍で攻撃してきたって話だから、
比較的すぐに信長の場所は確定してる。
899 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 09:15:27.55 ID:/ZBQbIXP
白虎隊自刃した証拠もなんもない。
それと同じ
900 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 09:30:38.23 ID:WUeEpJyl
三日前の事を裁判で証明するのも難しいもんな
確実な情報なんて得られるわけがない
901 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 10:36:10.20 ID:F1/6T5ZJ
信長が自ら死を選んでいたら、
名誉ある死に方なので、はっきりわかるように死ぬし、部下は助命される。
捕虜にされて報復されるのを恐れ逃げまわってから死んでたら、
部下が首を持って逃げるから、首だけは存在するはず。
つまり火で焼かれながら死んだのが信長。
尤も名誉ある死に方
部下の命の助命する代わりに、
敵前で切腹し、苦しまないように介錯してもらう。
これは最強の勇者と敵味方から賞賛され、
その恩恵は息子たちに及び、勇者の子には縁談話が次々にくる。
部下は道連れで当たり前じゃボケ!俺に殉死しろやといいつつ、
逃げ回るも追い詰められ、
生きて陵辱の辱めを受けるのだけは嫌で、
ついに介錯がいない場合に最低限の小さい名誉を守る死に方が首を掻き切り死ぬ。
死にたくなく逃げまわった挙句に、
火で焼かれながら死ぬ死に方は、身分が低くく虫並みの扱い。
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために 
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へその犯罪行為を告発しているほど 
「後世の方はどうか語り伝えて下さい。 
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。 
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」 
またフロイスも日本史において 
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を 
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた) 
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした) 
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、 
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、 
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、 
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。 
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。 
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。 
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。 
これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。
信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした 
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。 
だから猜疑心が異常に強く、 
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。 
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、 
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
902 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 10:39:35.90 ID:QN5Tjane
菅沼遼太しつこいぞ
903 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 11:03:00.23 ID:u49Pzgrv
本能寺て首実験された織田方は居たのか?
家内の部下や小姓側近系ばかりだろうけど。
秀吉も光秀の首探してないからそれどころの状況じゃなかったのだろうか
904 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:11:30.31 ID:txe8wK74
まぁ光秀が信長を閉じ込めて火刑による私刑をしたんだろうけどね。
昔は仏教の影響で土葬が流行った時期もあったけど
戦国当時の武士にとっては土葬がメインで、
火葬なんてやられてないからね。
足利将軍家も4代以降は土葬で、江戸幕府の将軍もすべて土葬。
朝日新聞デジタル
ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205090243.html 124代(2人は2回即位)の天皇のうち、火葬になったのは約3分の1。
狭川真一さん(仏教考古学)は、火葬が盛んになった理由について、
「中世以降については、高野山など各地の有名な寺に自らの遺骨を分けて納骨し、
極楽往生を願った貴族たちの納骨信仰と関連がある」と推測する。「火葬はすぐに骨になるので、分骨には向いていたのでしょう」
「武士の間に儒教思想が浸透したことが大きい」と
立正大名誉教授の坂詰秀一さん(仏教考古学)。儒教では、火葬によって肉親の遺体を傷つけることを大きな罪と考えるからだ。
庶民は古代から近世の終わりに至るまで、一貫して土葬だった。
理由は「火葬は燃料代が余分にかかるから」(坂詰さん)。火葬が増えたのは埋葬地の確保が難しくなった明治以降
905 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:25:32.78 ID:txe8wK74
訂正
×昔は仏教の影響で土葬が流行った
◯昔は仏教の影響で火葬が流行った
906 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:27:07.79 ID:b/e6NPj8
で、どれが一次資料?
なんかどれも眉唾っぽいけど
907 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 15:00:36.60 ID:XuMhhzlf
>>904 >まぁ光秀が信長を閉じ込めて火刑による私刑をしたんだろうけどね。
首を取る必要があったのにそれは無い。
908 :
894:2014/01/04(土) 18:33:41.72 ID:Y+OFtK8o
894ですけど、色々なレスありがとうです。
とても面白かったです。
信長は無念だったろうなあ・・・・。
909 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 23:28:26.65 ID:qsFniUsz
軍役で動員した兵隊は種類別に再編成するんでしょうか?
910 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 01:47:06.60 ID:K1bHMM3h
戦国後半はしてた。前半は不明
911 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 05:07:40.68 ID:GygGskUB
信長は内政や軍政に興味無く全くやってなかった。
ゆえに最初期的な寄親寄子制度のまま。
全て家臣への丸投げで、秀吉ら個人個人の才覚で工夫していた。
そもそも、それがやれるのは検地して、
国人から一旦領地召し上げて、
改めて大名から家臣へ領地を与える形にし、
その収入に応じた軍役を課せるまでに、
大名による領国支配が深化しないと無理。
上杉や武田や北条はやれていた。
一番早かった伊達家はそれを実行する為に晴宗が米沢遷都をした程。
でも政宗時代にはそれが崩壊後退していた。
毛利は最後まで単なる一揆的結合集団としての寄親寄子から脱皮出来なかった。
912 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 06:47:05.94 ID:cYySOx1y
>>896 一応言っておくと焼死自体は大してつらいものじゃない
よく焼死を「体中を炎で焼かれながら死ぬ」と勘違いする人間がいるが
実際の焼死の死因は「炎が他の有機物を燃やして出た際のガスを吸いすぎた」ことが原因で
これ自体は窒息する前に意識を失うので死に方としてはそこまで苦しいとはされていない。
「炎に焼かれて死ぬ」というのは「焼身自殺」の類であって、これは体中にガソリンをぶっかけたり
核爆弾クラスのエネルギーがないとほぼ不可能。実際に腕か何かにライターで火をつけようとしても全身火だるまにはならんだろ?
「焼身自殺」のインパクトが強いので勘違いする人が後を絶たないが、もともと人体はかなり燃えにくい。
つまり
>>901の言うような「炎に巻かれて死ぬ」というのはこの時代だとまずありえない
913 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 07:19:27.75 ID:cYySOx1y
火葬と土葬の話が出ているので、若干スレチだがこれも付け加えておく
>>904では「仏教の影響で火葬が流行った」としているが、厳密には正しくはなく、
仏教は特に埋葬方法を定めていない。ヒンドゥー教やバラモン教で火葬を定められていたからその風潮が仏教にも影響を与えたというだけ。
基本的に仏教では人間の死後「成仏」という形で仏になると定められているので、仏になった後の抜け殻(つまり死体)の扱いなぞどうでもいいというのが教義。
これは日本の神道もほぼ同じで、違いは神になるか仏になるかというくらい。日本神道では全人間に霊魂が存在し、死後霊魂が神となると
定められているので、これまた抜け殻である死体の扱いについては全く書かれていない。ちなみに徳川将軍がほぼ全員土葬で埋葬されているのは初代の家康が吉田神道式の土葬で埋葬されているから。
この家康の例を見ても分かる通り日本の偉いさんは死後のことなどいい加減で、天皇家でも持統天皇が火葬を選択してから火葬式で埋葬される天皇貴族が急増し、
孝明天皇が土葬で埋葬されてからは土葬で埋葬される天皇が増える(今上天皇は火葬の予定らしいが)という匙加減。
ちなみに儒教一尊の朝鮮では現代でも土葬率が半分近くを越えており、一時期は土葬がほぼ100%という土葬大国で、今でも埋葬地の問題が後を絶たない。日本はそんなことないけど
914 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 08:44:29.45 ID:1Aw2+ed9
もともと「埋葬」の概念が薄いんだよね仏教も神道も。
若干異なるけどキリスト教とかもそうだし、「死んでから何になるか」が
重きを置かれている気がするなぁ。スレ違いでごめんなさい
915 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 09:19:56.04 ID:GygGskUB
なるほど、逃げ回っていた信長は気絶してそのまま身体を焼かれて死んだと言うことか。
持統天皇以降、貴族は高野山らへの分骨の為に火葬していたが、
儒教が入ってきて火葬をやらなくなり、
足利幕府も3代までしか火葬しないで、
その後の幕府は全て土葬か。
まー確かに宣教師から魔女狩りでジャンヌダルクが火あぶりの極刑にされた話など聞いていただろうから、
遺体を全く残さない火あぶりなんて地獄行き確定だからね。
そりゃいろいろな宗教思想が入ってきたら、
儒教だけでなくキリスト教でも遺体を傷つけてはならないのが正解みたいだな!って日本人も悟るよなあ。
なんせ高野山の弘法大師からして生き仏として死んでいないことになっているから、
遺体は火葬されてねーんだからな。
916 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 11:52:41.21 ID:jmU9j0ud
空海入定説なんて戦国で言えば豊臣秀頼生存説と同レベルの眉唾モンだろw
しかも今現在まで生きているから修行僧達が毎日飯を上げるとまで言われ、
年齢換算すると1000を超えているというトンデモカルト話じゃねーかw
実際には同時代の続日本後記で淳和天皇が空海の死没を聞いて急いで使者を送ったが既に火葬されていたことが
刻銘に記されているという有様w
挙句の果てには死後戦争が終わってから名誉が回復され
信長が生存していた時代にはとっくにカトリックの象徴的存在とされていたジャンヌを
「火あぶりの極刑にされた」とボロカスに酷評する宣教師がいるという菅沼遼太理論w
どこの宣教師かな?w朝鮮人?wwしかもジャンヌは魔女狩りではなくただの異端審問にかこつけた捕虜の処刑なのにここでもまた知ったかw
そもそもジャンヌが悪魔崇拝していたならキリスト教の極刑である火あぶりなど全く効果がないのに、こんなことをするのはジャンヌがキリスト教徒だとわかっていた証拠w
尤も信長はキリスト教徒じゃねーから「遺体は火葬してはダメ」なんて言われても「あっそう」としか思わんだろうがw
917 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 12:53:07.84 ID:pJKblRSN
菅沼がお怒りなのは信玄の遺体が死後きわめて冷酷に扱われたからでしょwww
1573年に信濃のド田舎駒場で死亡(現代で言えばホームレスが厳冬に耐えられずに野垂れ死に)
↓
1575年まで土屋邸で死体を放置(当然防腐処理には限度があるので蛆がプンプンわいたり遺体の損傷も激しい)
↓
1575年にようやく土屋邸近くで火葬(菅沼曰く「身分の低い人間のやる方法」)
↓
翌年の1576年に恵林寺で本葬(ここでようやく正式に「信玄が死んだ」という事実ができる)
↓
200年近く土屋邸跡地は魔縁塚と呼ばれる(信玄の放置された遺体を誰かが見た可能性あり)
↓
江戸時代になって代官が調べてようやく信玄の墓だということが判明する
戦死者が手頃な寺で適当に葬られる戦国時代じゃ信長の死後の扱いなんてかなりいい方だな
918 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:02:30.72 ID:BU2zMuIV
>>916 書いている内容があからさまにwikiの内容じゃん。
なんで在日織田チョンって、
丸パクなのにそんなに偉そうに書くの?
お前、アホだから教えてやるけど、
ジャンヌの名誉回復を開始した理由は、
当時、コンスタンティノープルがオスマン帝国に落とされ東ローマが滅亡し、
イスラム世界の脅威にキリスト教世界が危機的状況に追い込まれていたときに、
縁故主義を推進したバカ教皇が、十字軍を組織するに当たって、
ジャンヌを宣伝に利用するしょーもない動機だから、人心が集まらず十字軍なんて大失敗したわけだ。
空海が死んだ時は仏教の日本的解釈も含めて荼毘にふすのはおかしなことじゃなかったが、
のちに火葬になっている事実が日本社会の常識にとって不都合な事実になった為に、
空海がいまだ生きていると言う形に修正された。
つまり中世になり、明らかに火葬は良くないとする常識が広まり、
天皇が死んだ時も、儀式の形式にあった火葬をせずに火葬したフリをして土葬するように変質してる。
だから信長を火で殺し、遺体が残らなかったと言うのは、
当時の人にとって最大の仏罰であり、
光秀はそれを演出してみせたと言うこと。
だから宣教師も神の怒りの報いだと書いているし、
義昭もそれを天意と書いている。
919 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:05:53.59 ID:K1bHMM3h
菅沼遼太を構うな。きちがいの耳にしょんべんだぞ
920 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:41:09.30 ID:Y7+qUW/u
>>917 まーたアンチ信玄の基地外が湧いてるのかよ。
それ全部、大ウソじゃん。
信玄は快川紹喜によって、
ちゃんと葬儀も行われているから。
つか、奥野高広も躑躅ケ崎の館に安置された信玄が座禅して安置されていた壺を、
天正4年に恵林寺での法要で開けたら、
ちゃんと五体満足の姿だったと書かれているし、
一門以外にも数百人が剃髪して葬儀に並んでた。
7周忌もやってるどころか、
南化玄興主導により慶長2年の25回忌までやってるわけだがw
921 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 13:54:07.78 ID:pJKblRSN
___
/ \
/ \ , , /\
/ (●) (●) \ 日本の中世では火葬なんて底辺しかやらない!
| (__人__) | 信長は底辺だから火葬という仏罰を与えられた
\ ` ⌒ ´ ,/ 天皇家は誤魔化しまくってるし実質土葬が日本本来の形式!
. /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
| ,___゙___、rヾイソ⊃
| `l ̄
. | |
_____ 武田信玄や上杉景勝や正親町天皇が火葬!?
/:υ::─ニjjニ─ヾ 土葬大国は韓国だけ!?
/:::li|.:( ○)三 (○)\ 日本は埋葬などどうでもいい!?
(:::||!.::υ::::: (__人__)):::: i| _________
)::::::::::::: |r┬-| li::::/ | | |
/::::::::::::::: `ー ' ::::::ヽ | | |
922 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 14:00:28.94 ID:pJKblRSN
>>920 ID変えまくってる暇があったら他人の日本語くらいちゃんと読めよwww
葬儀をやっていないとは
>>917のどこにも書いてないだろww
恵林寺の葬儀は天正4年で信玄が死んでから3年も経っているんだよ、
馬鹿なおまえでも中世に死体を3年も放置しておけばどうなるかくらい想像つくだろうがww
五体満足だったって、そら当たり前だwww人間肉は腐っても骨までは溶けんからなw
ちなみに火葬自体は天正3年にとっくにやってるからなw天正4年の本葬では、とてもじゃないが信玄の亡骸を
衆目に晒せるような状態じゃなかったってことだろw
923 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 14:08:55.93 ID:k10ccbt1
書状の写しが現存するって表記をみかけたのですが、当時は貰った書状をコピーするような習慣があったんですか?
924 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 14:51:25.43 ID:Q5IdbbRw
秀吉は光秀の首をさがしてない、にはどうして
誰もつっこまない?
925 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 14:55:56.37 ID:Q5IdbbRw
>>923 逆にコピーがないから、重要な書状などは
写して回覧したりした。
所領安堵みたいなのは公的文書でもあるし
一種の私信でもあるので、写して見せたりしないと
証拠にならない。
それと単純に原本が失われてもいけないから
そのために写しておいた、というのもあるでしょね。
家臣の家から写が見つかったりするのは
江戸期になってもよくある。
926 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 15:12:15.11 ID:K1bHMM3h
後は江戸時代に大名が家譜を編纂する時に書状を集めるのだが
家の由緒を伝える重要な書類だからもらう訳には行かないので写しを作ったり
現在の領収書などと同様に発給した書状の写し(下書きを流用)を手元に残したりとか
>>924 突っ込む価値もないからスルーしてた
927 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 15:21:46.24 ID:k10ccbt1
>>925 確かに書類を見せて回るなら原本に粗相があっては大変ですね
用途としては頻繁に誰かに見せたりするのでしたら写しは確かに大事だと思いました
教えて頂き有難う御座いました
928 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 15:50:52.20 ID:W7K7EJOa
大返しん時、何で毛利は秀吉軍に旗やったの?
目立つほどの量なんだよね?
929 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 15:56:18.37 ID:K1bHMM3h
それは甫庵太閤記がソース元なので信憑性はかなり低い
930 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 19:45:41.94 ID:r6SElImy
>>922 信玄火葬を示す一次史料なんて無いぞ。
謙信も火葬されてないし。
931 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 20:09:54.26 ID:1Z4RO5WI
荼毘に付されてるんなら火葬じゃねーの
信長も謙信も信玄もキリスト教やイスラム教の信者じゃないしどっちでもいいんだろうけどな
932 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 23:52:02.22 ID:I//EQ2AA
宗教以外で火葬するってのは、単純に土地と衛生の問題なのかな
933 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 00:33:48.95 ID:fssYcpj8
信玄は諏訪湖に水葬して欲しいって言ってたけどあれは作り話?
934 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 09:51:36.13 ID:7ue0SGFp
>>931 でさ、荼毘にされたと言う一次史料はまだなの?
>>933 たしかそれ軍鑑ネタじゃなかったっけ?
躑躅ヶ崎での重臣会議で行われなかったとか。
でも異説だと実際に沈められたとする話もあるようだけど。
935 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 11:01:24.94 ID:nWrkOCl5
>>926 写の写もあるだろうし、誤字とか
正確性の問題は案外語られないよね。
誤読ってのもあるだろうし。
936 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 11:08:53.36 ID:nWrkOCl5
少し話がズレるけど、火葬というのは貴重な
材木類ーエネルギーを使うから身分が低かったり
一般では普通はもったいなくて用いられない。
これは世界的にも普通で。
だからわざわざ火葬にするというのは
その時代背景や地域の問題も含めて
異例、わけありの場合が逆に普通。
自然葬の方が生物循環にも優しいしね。
信玄の水葬は映画の影武者で映像化したから
あれで膾炙したような気がする。
犬神家、というのもあったが・・
937 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 16:13:02.91 ID:Zs6AQaeC
小説を書くときの参考にしたいんだけど
本願寺の顕如って肩書きみたいなのはあるの? 「僧正」みたいなやつ
周囲の人が顕如に呼びかけるときって何と呼ぶのが自然なんだろう
あと、顕如ほどの地位の人が一人称を「拙僧」はへりくだりすぎかな?
938 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 17:13:48.77 ID:ocTpuWmy
菅沼君は儒教大好きの朝鮮人だから土葬じゃないとヤダヤダってさw
939 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 20:45:05.21 ID:sCXVOhRD
>>937 こんなトコで聞かずに本願寺サイトでも本願寺関係の本でもいくらでも載ってるし、
関係の博物館とか行けば立場によって呼びかけ方が違うくらい分かるよ。
取材に手を抜くなよ
940 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 01:11:30.31 ID:At/+094O
領地より茶器を欲しがる武将が居たり、茶器を差し出すのが嫌で自爆した武将が居ますよね。
そんなに戦国時代って茶器に価値がある時代だったんですか?
上記の滝川氏や松永氏みたいに茶器に関する話で何か面白い逸話を持ってる武将が居れば一緒に教えて下さると嬉しいです。
941 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 09:00:19.25 ID:QID75+ih
>>938 儒学者が日本の歴史上にはいないとか思ってんのかよwww
さすが無字文盲の倭とかバカにしている朝鮮人ならではの視点だなw
実際は本家中国すら失った書物がたんまり日本人が保存していて、
中国人研究者はみんな日本に来てるほどだぞ。
むしろ朝鮮人は漢字も読めない文盲だから儒教なんて実際は理解出来てない。
あれは事大正当化下克上防止機能付きで統治者が都合よく独自解釈し朝鮮化した挙句に、
今ではただの蒙昧風習風俗レベルにすぎないわ。
儒教に盲目固執した結果、先祖代々の家系図とか必死に捏造してんだ。
日本は儒教にだけ固執してたわけじゃないがな。
942 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 09:17:53.17 ID:GIS9Lng6
菅沼フィルターを通すと「儒教大好きの朝鮮人」が「儒学者が日本の歴史上にはいないとか思ってんのかよwww」になるらしいなw
ところで菅沼君、鷲と鷺の区別はついたかね?w
943 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 10:44:30.54 ID:ENKDsgla
>>940 倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る、だな
944 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 11:03:13.75 ID:xXpd+rXr
>>940 価値はあった
ただ滝川のケースは茶器には様々な地位身分と諸権利がついてくるものだし
松永は敵(信長)が欲しがっているものをくれてやるものかという武士の意地があるから
945 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 20:39:18.52 ID:Dr/WT4Cs
>>940 武将の逸話じゃなくて茶器の逸話だけど。
九十九茄子(つくもなす)という大名物の茶入がある。足利義満ゆかりの品で足利将軍家に伝わり、
後に信長の手に渡って本能寺の変で焼けたとも言われるが、何故か豊臣家に渡り大坂夏の陣で
大阪城とともに灰燼に帰した。家康はその破片を探させて、漆塗りの名工に修復させた。
946 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 21:12:27.11 ID:SgxDXZ4I
「柴田」とか「稲葉天目」ってのもあるね。
由来はぐぐってくれ。
947 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 09:06:22.39 ID:ZNhRxvDU
茶器を脅迫して、召し上げしたのは内政行政に興味がなかった暴君信長と秋月種実の2人だけ。
宗麟は商人に借金して正当に購入してる。
948 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 09:50:42.08 ID:CDKnd/zZ
うそつき菅沼遼太
949 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 21:32:25.97 ID:FFBfKdga
為政者自らが犯罪を犯すとか、
絵に描いたような愚主の見本が鬱気者信長。
950 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 21:56:19.48 ID:G0UdQvae
>>944 なるほど手放したり欲したりする理由にも付随価値があったんですね
ただのコレクター的な意地かと思ったのですが全然違った事に仰天です
茶器が地位に繋がるのであれば納得出来ます
ポケモンとかモンハンみたいな流行物と同じ感じでとらえていたのですが違ったんですね
>>945 何故に豊臣秀吉が持っていたのか不思議になる逸話ですね!
破片を集めて修復させるというのも凄いお話ですね
それほど価値あったという事なんですね
>>946 曜変天目茶碗ってのが出てきたんですけど、これじゃないですよね?
調べ方が悪いのかな・・・
>>947 没収した人の実例を教えて頂けて嬉しいです
秋月という方を知らないので調べてみる事にします
951 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 23:21:27.58 ID:4P4rkmJa
>>950 >それほど価値あったという事なんですね
それほど価値がありました。修復したおかげで今でも茶入の中では一番とされています。
一見普通の焼き物のようだけどX線で調べると破片を寄せ集めてあるのが判る。
釉薬が流れたように見えるのも全部漆だそうです。
>曜変天目茶碗ってのが出てきたんですけど、これじゃないですよね?
いや、それの筈だ。曜変天目は世界に3つしか無いが、全部日本にある。(製造元の中国には無い)
その一つが稲葉天目と呼ばれている。家光から春日局に下されて、その子孫である稲葉家に伝わった。
春日局に下される際の逸話が有名なので調べてみて下さい。
952 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 23:51:38.20 ID:y3TIXLx2
なんで信玄と謙信はいがみ合いだけで
人生を無駄にしたんですか?
あと二人の死は信長の暗殺ではと思うんですが
953 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 23:59:34.49 ID:rVaQ2XUE
窯変は再現不可能と言われてたのが20年ぐらい前に
成功した人が出たんですよね。
日本にあるうちの三つが国宝指定受けてて
どれもが素晴らしい名品。
今は佐賀の方でいい土が取れるとこないだ聞いた。
それと、茶器自体に価値があるのもさることながら
戦国大名は要は田舎の無教養なおっちゃんたちだから
花の都のお茶や香を嗜むというのは
ちょ〜上流階級の仲間入り、ってそういうニュアンスの
価値観なんですよね。
大名自身は茶器自体の価値なんかまったく
わからなかったでしょう。
そんなもんです。
954 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 01:09:53.08 ID:0rzRT0l4
織田家臣は信長の恫喝により、
茶を自由に出来ない制限を受けていて、
茶をやりたくて仕方がなかった。
他大名家は自由に茶を楽しみ、
茶会を通じて商人や坊主らから情報収集をしていた。
茶会好きの数奇者だった荒木や松永が信長から離反したのも当たり前だろう。
当時、茶会と連歌会は外交諜報に重視されていたが、
歌会外交は連歌師を通じて公家との関係作りが出来る為に、
事実上、朝廷外交になる事もあり、
その連歌能力が問われた為に、
茶会と違い、誰でも出来るものじゃなく、
ハードルが高かった。
三好や上杉や武田は連歌を良くしていたが、
信長は文盲なので連歌が出来なかった為、
光秀のような連歌朝廷外交が出来る者が必要だった。
また実は秀吉も連歌ができた。
955 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 01:14:58.16 ID:e9LiScyc
菅沼遼太ゴミみたいなこといってんな。はよ職探せ
956 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 09:01:17.53 ID:e2RqyuHC
戦国時代の人口、武士人口、全兵数、動員兵力
可能なら各身分の人口比率が知りたいです
あと、それぞれ違う本の情報だけど下の合ってる?
・当時の日本は人口二千万人
・兵力は石高の20分の1と考えていい、100万石なら兵力は5万人
・日本の兵力は100万人
二千万の20分の1は100万人だから、違う本の内容なのに
計算が合う、なら本当の事だと思っていたんだけど合ってる?
合ってたとしたらこの20分の1って全兵の数?
それとも国防の為に国に残す兵を引いた侵攻に使える動員兵力?
957 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 09:30:30.34 ID:O0tf2fLC
戦国時代の人口比率は分からないので江戸時代初期の人口比率から推定くらいしかない
人口は色んな説があるが1600万人前後だと思う
20分の1ってのは大坂の陣以降の江戸幕府の軍役
100万人ってのは豊臣時代の軍役が元
戦国時代に近いのは当然100万のほうね
国防分も含んでいると考えていい(総動員体制除く)
958 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 23:36:31.10 ID:tff+9hnl
織田信長が朝倉責めした時
三好勢はただ何もしなかったのは何故?
京乗っとれるじゃん
959 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 00:02:04.98 ID:sYY4uzPb
四国で兵を集めるのに手間取ってたから
960 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 12:00:38.61 ID:sqs3E+UP
のっとっても戻ってきたら
また蹴散らされる。
961 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 14:36:40.19 ID:WfwOgdS5
時代は違いますけど財力や権力など比較して
戦国時代前期が全盛期の細川政元や大内義興と
戦国時代後期が全盛期の今川義元や武田信玄と
どちらの方が隆盛を極めていたのでしょうか?
962 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 15:33:52.92 ID:sYY4uzPb
後者
上に乗っかってる存在で部下の動向に右往左往してたものと
農民の直接支配にまで手を出してた政体とでは政権の強度が違う
963 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 16:49:21.84 ID:o7K6pgvY
財力、でいうのなら大内や細川には及ばなかっただろうなあ
しかし領国内における大名権力の強さという意味では文句なしに後者
964 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 18:18:39.08 ID:TSZbEqeF
965 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 21:59:20.53 ID:WgaMejql
城を占領しただけでは権力は確立できないのよ
特に畿内は権利関係がややこしやー
966 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 22:03:49.99 ID:SNrB9GAc
三好って織田台頭前なら天下獲れそうなレベルだったのになw
あの辺はほんとややこしい
967 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:25:09.35 ID:NZ8S2grC
信長が生きてたらどうなってたと思いますか?
中国に戦争?
968 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:27:05.77 ID:zoAgAnIM
歴史にifは無い
969 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:30:19.21 ID:UHywL1UF
無いな
970 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:46:44.61 ID:NZ8S2grC
だから もしも
だよ
曹操みたいになりそう
971 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:47:56.76 ID:I4eK7dN/
もしもは存在しないと言っているのも解らんのか
972 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 19:55:39.35 ID:NZ8S2grC
存在はしないけど
想像は出来る
973 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 22:23:51.15 ID:IOQYU9HK
大人しく隠居してた説と、そんわけね〜だろ説と
ある。
やってきた事見れば大体想像つきそうだが
このスレは想像なしってか。
974 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 22:45:21.33 ID:bHhuA6HF
信長スレでやれ
975 :
人間七七四年:2014/01/11(土) 23:22:57.89 ID:zoAgAnIM
976 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 01:48:48.22 ID:4CJ/jwuV
動員した兵を種別ごとに再編成した場合、旗印?みたいのはどうなるんですか?
977 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 06:59:50.83 ID:eIo2jsXT
屏風絵見る限り本陣は大将旗、足軽隊は隊の旗、騎馬隊の武士は各々の旗て感じかな
978 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 15:36:57.89 ID:2v0Zvogn
黒田官兵衛と秀吉は「義兄弟の契り」を交わしたというけど、
男色関係を結んだのですか?
それとも、アナル・セックス無しのセックス・フレンドになっただけなの?
どちらでせうか?
979 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 15:50:21.84 ID:eIo2jsXT
また来たか。はよ帰れ
980 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 17:13:57.92 ID:DbTt2PQD
981 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 19:27:02.97 ID:NHuTMmdj
>>961-962 俺は前者だな。
太閤検地以前はどこの大名も連合の盟主にすぎないから権力構造には大差ない。
しかし、一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり鼎の軽重を問うようなものだ。
撰銭令の布告の用途を見ても遣明船主の細川や大内は流入による物価高騰の抑止策、つまり原因療法に用いていたが、
武田の場合は銭飢渇への対応という対症療法に留まっている。
982 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 22:23:40.85 ID:qIx0qQnD
>>981 「鼎の軽重を問う」は天下を伺う意味だから使い方を間違っている。
983 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 22:46:50.52 ID:dnnczA5/
すいません
素朴な疑問ですが、僕が足軽で合戦に出ると死ぬ確率って何%ですか?
三国志の曹操が1万の兵を倒すには8千の兵の犠牲が必要といってましたが
にたようなものでしょうか?
また何人殺したら凄いことになるのでしょうか?
一般論で結構です
本多忠勝って関ヶ原で90人殺したといってますが
これってすごいのでしょうか?張飛は一回の戦闘で200人殺しますから
忠勝ならできそうな感じがしますが
984 :
人間七七四年:2014/01/12(日) 23:54:15.92 ID:eIo2jsXT
関ヶ原の逸話等から判断するに戦死率は1%以下もちろん状況で違う
首一つで手柄
本多隊で100首獲ったという話で忠勝一人で殺したわけじゃ無い
張飛も史実の話ではない
985 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 00:43:40.18 ID:R2EJnb6L
>>984 そうなんですか?
例えば100人VS100人で戦争するじゃないですか?
1回の戦闘で生き残りが50人になって2回の戦闘で生き残りが
25人という風に戦いってつき進んでいくんじゃないですかね?
1%だと、いくさって1回も戦わない兵士が圧倒的に多いことになるんですかね?
986 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 08:20:49.68 ID:VpMFmRcH
>>985 ゲームの話か?
征服した相手の陣地の百姓とかも
動員できるし、確率とかいうのが根本的にわからんぞぃ。
987 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 09:41:44.58 ID:WofSTTbO
こりゃあかん、と思った時点で逃げ出すから
988 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 19:59:13.46 ID:Y+VpVAJB
>>982 ここは日本の歴史板とはいえ春秋の有名なエピを知らずにその指摘はちと恥ずかしいぞ。
中国の「問鼎」は権威を見下す不遜なニュアンスで用いられる。
日本国内では江戸時代に誤った使い方が流布しているのが実態だ。
989 :
人間七七四年:2014/01/13(月) 20:49:44.09 ID:+gCP2voZ
>>988 荘王が九鼎の軽重を問う事で王位を狙う野心を示した故事は知っている。
だから天下を伺う意味だと書いた。間違ってるか?
990 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 01:48:46.25 ID:40QhT5U7
>>983 関ヶ原は両軍合わせて15万人くらいの戦だったが死傷者は5000人くらいといわれている。
これは全参加人数の30%にあたるがこれでも少ない方らしい(川中島の戦いが異常だといわれている)
もちろん知っての通り吉川など観戦していただけの部隊もいるので一概には言えないが参考までに。
991 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 09:33:04.53 ID:PQqBLByu
15万で被害5000が30%?
>>983 実際には信長の野望みたいな戦いはありえないよ
被害10%前後で戦いにならなくなるから逃げ出したりしてね
ゲームでは天下統一がうまく再現してるね
992 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 11:42:00.16 ID:tfXkF8ow
天下統一って凄く不評だけれど、ここにいる知識のある人には逆に楽しめるようなゲームなのかな?
993 :
990:2014/01/14(火) 12:22:03.62 ID:40QhT5U7
悪い、計算間違って送信してしまった。推敲後は以下
関ヶ原は両軍合わせて15万人くらいの戦だったが戦死者は5000人くらいといわれている。
これは全参加人数の1/30、1%以下でしかない(川中島の戦いの死傷者が異常だといわれている)。
もちろん知っての通り吉川など観戦していただけの部隊もいるので一概には言えないが参考までに。
994 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 19:55:35.94 ID:Qy1SbORR
第四次川中島の戦いが異常な死者数になったのはなんでだろうなぁ
凄まじい激戦だったらしいが武田側は弟やら重臣やら死に信玄本人や義信も怪我してるあたり
めちゃくちゃ被害が出てるにも関わらず引かなかったからだろうか
995 :
人間七七四年:2014/01/14(火) 21:16:12.34 ID:KZvaZbIm
士気の高かいもの同士が霧の中での遭遇戦を行ったため両軍の損害がアホみないになったとも言われる
996 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 00:23:30.42 ID:WwdZfYpv
>>992 知識のある人っていうか、初代は純粋にゲームとしておもしろかったよ。
信長の野望と違う切り口のゲームになってたから楽しめた。
続編が出るたびに迷走を続けたから今は評判悪いけど。
997 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 02:07:19.47 ID:xhp0yRme
>>989 知っていたのに使い方を間違っているという的外れな指摘をしたのか?
語るに落ちたな。
998 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 05:49:54.25 ID:mXiDDCHD
>>993 もう一回推敲してみな
>>997 横からだが俺も何でそこで鼎の軽重を問うという表現が出てくるのか意味不明だった
>一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり(、両者を比較するのはor両者の違いを認識しないのは)鼎の軽重を問うようなものだ。
意味不明ではあるが文章の繋がりからこうを言いたいのかと思ったけど
>一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり(、前者は例えるなら)鼎の軽重を問うような(勢力であったと言う)ものだ。
意味をわかって使っていたという事は、かなり補足して考えないといけないけどもしかしてこういう事なのかな?
999 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 12:57:09.16 ID:Bm7j1x0e
s
1000 :
人間七七四年:2014/01/15(水) 12:57:44.74 ID:/9IFA294
jh
1001 :
1001:
/ `ヽ、
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゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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