関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法2

このエントリーをはてなブックマークに追加
830人間七七四年:2013/12/14(土) 21:51:28.67 ID:MtGnW/PO
単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
831人間七七四年:2013/12/14(土) 22:42:53.52 ID:TLbU2dpd
秀吉が家康を関東に移封したのはチート国力やったどころか
室町後期の鎌倉府や戦国の後北条のように
徳川も関東座敷牢でそのままくたばってろっていう意味だと思うが
圧倒的に経済・文化の重心と人口密度が畿内とその隣国〜瀬戸内海に
偏重している西国優位の時代なんだから
832人間七七四年:2013/12/14(土) 22:52:47.92 ID:woYcZ08M
>>816
だから両川体制として吉川と小早川の両方が徳川と交渉して戦わないことを決めたんだから問題ないだろ
輝元だって出陣して家康とガチで戦う気なんか皆無なのだから君の言う養父の想いを十分に尊重している
関ヶ原なんて三成が勝手に大垣城を放棄して戦っているだけで毛利にも両川にも関係ない
三成の勝手な戦いに協力しないことで裏切りなどと言われる理由などまったくないんだよ
833人間七七四年:2013/12/15(日) 02:49:21.05 ID:lxx5PtYv
>>831
もっとエグいと思うけど?
異動前の勢力圏は三河遠江駿河甲斐だろ
そこから坂東ってw
翼と手足をもがれたようなもんじゃね?

まあ、>>830はアニメの徳川家康でも見て当時の三河を想像してるんだろうけどさw
834人間七七四年:2013/12/15(日) 07:45:28.59 ID:LjLG1duj
どこに移ろうが、250万石は250万石。大封には変わりない。
石高に変動のない移封なら、確かに不利益だけどね。

本当に翼と手足をもがれたような異動なら、そこから天下を獲り世界有数の都市を
築き上げる徳川家の行政手腕を褒め称えるしかなくなっちゃうよ。
835人間七七四年:2013/12/15(日) 07:49:21.89 ID:+L4c/D7s
そもそも転封になったおかげで巨大な国力手に入れた以外にも
強固な支配と中央集権化を手に入れたのだから家康としては相当な利益だったとしかいいようがない。
それまでの徳川の分国統治なんて頼子寄親での、国人の自立性に委ねた間接統治に頼ってる地域ばかりなんだし。
836人間七七四年:2013/12/15(日) 08:49:58.42 ID:lxx5PtYv
>>834
>250万石
豊臣が決めた石高だろうに
>国人
関東に行ったら徳川家康独裁とでも?
三河の国人(本多他)が、乗り込んでるじゃないか

普通に考えて、徳川家康が凄かったに尽きる話だろ
837人間七七四年:2013/12/15(日) 08:57:46.69 ID:9KqSZ4Xn
関東に行ったら徳川家康独裁とでも?
三河の国人(本多他)が、乗り込んでるじゃないか

  ↑
これは上杉もそうだが、これまでの国人自立性云々が、徳川家・上杉家から録を与えられるリーマンという形になる。

また、秀吉は身内ほど恩賞は少なく離れるほど恩賞を増やした。
これは人は利でついてくるという秀吉の哲学だろう。
秀吉自身よりも家康の石高を上げるというのは失敗だったと思う。
838人間七七四年:2013/12/15(日) 09:36:54.85 ID:YERUGWhN
>>831
清盛の時代からそうだが武士にとっては土地>金だから
金で浪人は雇えても大名は雇えない
あくまで恩賞の基本は土地による石高にある
だから畿内とその隣国〜瀬戸内海を牛耳って経済的利益を手中にしても
それだけでは武家政権として安泰とは限らないのは平家時代からのお約束だよ
839人間七七四年:2013/12/15(日) 12:48:50.48 ID:Dh2u1bBD
840人間七七四年:2013/12/15(日) 13:18:18.32 ID:lxx5PtYv
>>838
完全にサラリーマンの発想じゃん
>清盛
なるほど確かに頼朝は恩賞に土地を使ったらしいが、
しかし足利に足利荘を棄てさせて三河を与えたりはしていない。


三河遠江駿河甲斐に入れた豊臣子飼いがもう少し働いてたら、徳川も動けなかったろうに
そういや尾張の子飼いは東軍の主力だったな
841人間七七四年:2013/12/15(日) 13:55:20.34 ID:LjLG1duj
謀反軍のために働く必要は全くないな。
842人間七七四年:2013/12/15(日) 14:45:02.84 ID:aQJXs8bR
豊臣の正規軍は東軍だってことを忘れてる奴が多すぎる
843人間七七四年:2013/12/15(日) 14:50:19.17 ID:WlGhKTf2
家康の家臣団への領地分けをした上での250万石だからな。
豊臣家が家臣に分けた領地まで含んだ石高と比較しない曲解アンチ秀吉の織田チョン。
そもそも豊臣の蔵入地も明細不明でどんだけあったのかも全くわからない。
844人間七七四年:2013/12/15(日) 16:48:18.19 ID:9KqSZ4Xn
保護者の利家が死んだ翌日だか当日に三成殺しに走る豊臣恩顧じゃ家康から豊臣家は守れないだろう。
秀吉自身の失策で強い派閥抗争みたいなのが勃発+一族を殺し、味方も連座して殺す⇒秀頼の味方になるべき者達が消滅
→最後は外様の家康に頼るしかなくなり手を握って懇願・・

結局は、秀吉自身の失策で豊臣家は滅亡した。
845人間七七四年:2013/12/15(日) 17:44:06.33 ID:+L4c/D7s
豊臣の正規軍が東軍とか誰の妄想だよ。
家康は豊臣政権下禁止された私婚を連発したりそれに対する大老衆や奉行衆連署での弾劾状を
武力で踏み潰して強制的に政権から排除したり
前田や浅野にケチをつけて攻めるぞ!と圧迫したり細川を失脚させたり
やりたい放題やってんじゃん。
現に東軍についたのは徳川以外だと家康が私婚で取り込んだ伊達などと
三成憎しで豊臣政権への恩を忘れて凝り固まっていた馬鹿な武功派が主で
畿内の他の連中はほとんど西軍だよ。
846人間七七四年:2013/12/15(日) 18:40:24.16 ID:LjLG1duj
三成の挙兵は、惣無事令違反の謀反だし。豊臣家の支持もなし。
謀反軍の弾劾状に正当性などあるはずもなく。
家康の大老たる立場を中断する事象もなし。
まさしく正規軍だわ(笑

裏切りや日和見が発生したのも西軍だけどね(笑
847人間七七四年:2013/12/15(日) 21:16:56.47 ID:+L4c/D7s
惣無事例違反どうこういうなら家康の方が先にやってるじゃん。
理由もなく前田や浅野に喧嘩吹っかけて、攻め込むぞ!と脅したり
禁止された私婚を連発したり、豊臣蔵入地を削って外様大名に分け与えて恩を売ったり
それらの行為を、違反だと弾劾したたがい条に対して、謝罪を入れるどころか軍事力で無理矢理排除したり。
三成や西軍諸侯は、豊臣政権下で、政権簒奪行為を連発してた家康を弾劾するためにあれこれやってただけだから
全く謀反には当たらないどころか、政権存続に躍起になってただけ。
848人間七七四年:2013/12/15(日) 21:24:51.05 ID:aQJXs8bR
言っとくけど、クーデターって失敗したら謀反と同レベルだからな?
849人間七七四年:2013/12/15(日) 22:30:40.43 ID:+L4c/D7s
クーデターといっても豊臣政権の定められた決まりや秀吉の遺言を侵す奸臣に対して
しっかりとした豊臣政権の元での筋目に沿って、反逆罪を侵した家康を排除するために行われただけの物なので
これはクーデターとは言わないだろう。
むしろ家康の方が豊臣の公儀と遺言に背きまくって西軍諸侯にとっての格好の大儀名分を自ら献上している。
現に西軍は畿内方面だけで18万も集結してるが
東軍は家康が禁止された私婚で取り込んだ連中以外は、三成にくしでこり固まっていた馬鹿な武功派くらいしか味方についていないし
850人間七七四年:2013/12/15(日) 22:39:43.94 ID:aQJXs8bR
菅沼君、主君の許可も得られていないクーデターのどこが筋目に沿っているんだい?
851人間七七四年:2013/12/15(日) 23:04:19.63 ID:CG/E5goS
それどころか各大名の人質を勝手に監視下に置いたり
大坂城を勝手に占拠してるからな
「俺達を殺そうとすれば秀頼公の命はないぞ」と言わんばかり
こんなんでどうやって豊臣への忠義や筋目を貫こうとしていたのか理解不能レベル
852人間七七四年:2013/12/16(月) 00:05:46.84 ID:jZUhGwgl
そもそも豊臣政権内での決まり事や遺言を次々に破棄して
諸大名取り込みや各大名への威圧や、それに対する弾劾行動を軍事力で排除する奸臣を排除するための決起を
クーデターなどとは最初から呼ばん。ただ単に西軍の諸侯は豊臣政権下での決まりや遺言に沿って
政権がこれまでどおり維持されるように、それをぶち壊そうとする奸臣を、最終的手段として軍事力行使によって排除する方向に動いただけだ。
853人間七七四年:2013/12/16(月) 00:09:35.46 ID:TeqXE8SS
じゃあなんで秀頼のお墨付きが得られなかったんですかねえ……
854人間七七四年:2013/12/16(月) 00:13:18.64 ID:jZUhGwgl
そんな何も分別もつくかわからん幼君のお隅付きとか無理矢理根拠に持ってこられてもな。
道理的に言って、家康が豊臣政権崩壊や簒奪行為や、豊臣政権下で禁止された行為を次々に行って暴走しまくってるのは普通に馬鹿でもわかるんだが。
855人間七七四年:2013/12/16(月) 00:24:20.38 ID:TeqXE8SS
駄目だこいつ
856人間七七四年:2013/12/16(月) 00:35:23.13 ID:cz0r/CHr
>>852
キミの個人的な気持ちが許せないだけで、家康の行動は豊臣政権として正式に決着をみてる。
私婚については、前田と起請文の交換で着地している。
その他、キミが悪し様に上げ連ねている事も、豊臣政権として運営した事。
それが政治ね。
もちろん家康の圧倒的な実力を背景にしている事は当然だが、それが何かおかしい?
現代の道徳観で子供じみた講談まがいの評価を語る方がどうかしてる。
857人間七七四年:2013/12/16(月) 02:04:59.35 ID:7sHz4PPi
クーデターかどうかに目的は関係ないだろうに
858人間七七四年:2013/12/16(月) 09:17:45.38 ID:Rz2AdJqr
家康の前田征伐も私戦で、秀頼のお墨付きねーだろアホ
超小身の三中老には逆切れしたキチガイ家康だったが、
たった80万石の槍の又左利家に秀吉の遺令を破ったことを面と向かって追求されて、
正論に屈した家康は政庁である伏見城内から退城させられ城下町の向島に謹慎している時点で、
家康には全く大義名分も正義もない。
利家も家康は伏見にっていう秀吉の遺令があったから伏見からは追放しなかったが、
利家は槍で家康をぶっ殺しておけば良かった。
なんせ自分より弱いやつには威張り散らし、
強い者には卑屈になる醜いチョン家康の行動は醜悪過ぎる。
859人間七七四年:2013/12/16(月) 09:26:12.00 ID:jZUhGwgl
そもそもどちらが豊臣公儀の軍であり正規軍なのかを語るのに
何も分別もつくかわからん幼君のお隅付きとか無理矢理根拠に持ってくるとかアホかと。
豊臣政権内での決まり事や遺言を次々に破棄して
諸大名取り込みや各大名への威圧や、それに対する弾劾行動を軍事力で排除する奸臣を排除するための決起を
クーデターなどとは最初から呼ばん。ただ単に西軍の諸侯は豊臣政権下での決まりや遺言に沿って
政権がこれまでどおり維持されるように、それをぶち壊そうとする奸臣を、最終的手段として軍事力行使によって排除する方向に動いた家康率いる東軍が正規軍なわけがない。

現に東軍には三成にくしの馬鹿な武功派の他、家康が禁止された政略で取り込んだ連中くらいが主で、
大老も奉行衆も大体は西軍。
家康は豊臣政権下禁止された私婚を連発したりそれに対する大老衆や奉行衆連署での弾劾状を
武力で踏み潰して強制的に政権から排除したり
前田や浅野にケチをつけて攻めるぞ!と圧迫したり細川を失脚させたり
やりたい放題やってんじゃん。
現に東軍についたのは徳川以外だと家康が私婚で取り込んだ伊達などと
三成憎しで豊臣政権への恩を忘れて凝り固まっていた馬鹿な武功派が主で
畿内の他の連中はほとんど西軍だよ。
860人間七七四年:2013/12/16(月) 09:29:49.30 ID:YgMbMS3e
謀反軍は間違いなく家康であって
三成や輝元らは家康の豊臣家からの謀反に、弾劾状を掲げて、正規軍として討伐してただけ。
でもその中で最も中核の部隊を有する毛利アホ元が使い物にならず、西軍は大敗しただけ。
861人間七七四年:2013/12/16(月) 10:22:19.23 ID:eC5OtAW3
矢部健太郎もそうだけど、こういう名分論に拘る人は
現実の力関係にそんなものは塵芥に過ぎないことを
理解できないのだろうか
862人間七七四年:2013/12/16(月) 10:24:13.98 ID:jZUhGwgl
>>842>>846でアホが、三成が反乱軍で家康が正規軍だとか馬鹿な妄想垂れ流したから反論しただけじゃん
863人間七七四年:2013/12/16(月) 10:35:00.43 ID:eC5OtAW3
否定するだけなら兎も角、三成が正規軍だと言ってしまえば、同じ穴のムジナ
864人間七七四年:2013/12/16(月) 11:07:00.91 ID:Rz2AdJqr
>>861
論破されたから力関係にすり替え始めてやんのwww
力関係で言うなら五大老五奉行制で孤立した家康が一番最弱だろ。
7/26付け中川秀成宛の長束、増田、前田書状にも、
違背した家康に対して秀頼様のために、
輝元、秀家、義弘と年寄(長束、増田、前田)が挙兵したことを挙げている。
輝元軍は近江の瀬田、守山に2万を駐屯させ、
秀家と秀秋は山城の醍醐、山科、近江の大津に着陣などと書いていて、
織田秀信など美濃から人質を取ったことが述べられている。
三成はやはり人質管理に全く関わっていない。
豊臣政権首脳陣はすべて反家康派になり政治的孤立した家康。
この状況から7/30の真田宛書状で三成が西軍に参加を決断表明し、
ついに家康派だった三成と大谷まで家康を離反するに至る。
曰く、各御内儀かた(北政所や淀君)大刑少(大谷)馳走被申候条可御心安候
などと大坂内向きの権力も大谷の尽力で家康討伐に賛同しているし、
長岡越中儀については、
太閤様御逝去已後彼仁第一徒党之致大将、
国乱令雑意本人に候間、
即丹後国へ人数差遣などと書いており、
細川忠興こそが雑意をもって国を乱したと名指し批判している。
忠興は前田征伐が中止になった際にも、次は上杉征伐の準備だ!などとやたらと戦乱を望んでいる態度からも、
細川忠興が関が原の戦いへの火種を蒔いているのがわかる。
三成が家康ではなく、忠興を特に敵視しているのも、
雑説をばら撒いている忠興への怒りからだろう。
865人間七七四年:2013/12/16(月) 11:18:10.45 ID:eC5OtAW3
>>864
全然、別問題だし別人なんだが
とりあえず自信満々に御高説を開陳する暇があるなら、論文にして学会誌にでも投稿すれば
2chでいくら喚こうとも、所詮は井の中の蛙、お山の大将、裸の王様に過ぎないし
866人間七七四年:2013/12/16(月) 11:51:09.28 ID:wTLJJf33
正規軍になれば100%必勝なのですか
867人間七七四年:2013/12/16(月) 11:53:26.32 ID:dMheUYcg
>>859
家康の行動は讒言を繰り返し豊臣を混乱させてきた奸臣とその支援勢力を叩くためのものであり問題ない
現に西軍には三成以外にはお友達の小西・大谷・宇喜多くらいしか実質的には存在しておらず
他は人質を取っての脅迫や弾劾状と銘打った怪文書のばら撒きなどのトリックを駆使して
関ヶ原で戦う気もない見物人を集めて数を粉飾しただけのハリボテ軍隊だった
畿内の連中のほとんどが家康と戦うことを拒否して内通と日和見を選択した事実上の東軍だった事実を見れば
東軍が関ヶ原の結果前から大半の諸大名に認められた正規軍であることは明白な事実だろう
三成こそ豊臣を踏みにじりやりたい放題をやった奸臣であることは疑いようがない
868人間七七四年:2013/12/16(月) 14:42:40.63 ID:I+jklrG7
徳川家康:関東250万石の大名。五大老の1人。息子が秀吉の元猶子。息子の正室が秀吉の側室と姉妹関係

石田三成:近江佐和山18万石。元五奉行の1人。七将襲撃事件で失脚。

>>863
まさにその通りなんだよな。
この時点で正規軍と言えるのは豊臣秀頼の率いる軍隊だけ。
「正当性」では家康に分があるものの、両方とも「正規軍」ではない。
つまり正当性もなく力に劣る三成が家康に勝つ確率は万に一つもなかった。
そもそも組織から追い出された元中枢が、家康と同じく兵を掲げるとか自爆行為にも程がある。
本当に三成が豊臣に対して忠義心に溢れていたのなら、身命を賭して上杉征伐の中止や家康の裁可への不満を政道で示すべきだった。
この時点で家康を抑えることができるのは豊臣秀頼のみだったからな。
それをせずに、家康と同じく兵馬に頼って力押しした時点で三成は不忠不義の奸臣か、毛利の企みに乗せられた無能者という評価は免れない
869人間七七四年:2013/12/16(月) 17:23:06.12 ID:iI8RAqyq
>>866
その当時であれば詔勅でも奉じて討伐軍でも仕立て上げれば、勝利の可能性は一気にあがるかもしれん。
関ヶ原の時点でなら家康は征夷大将軍でも関白でも無い。

まあ、秀頼公の担ぎ出しが出来なかった時点で勝ち目は殆ど無い。
870人間七七四年:2013/12/16(月) 18:05:27.39 ID:pg1U9x77
>>46>>69
なるほど家康は蜂須賀や生駒などの嫡子を人質として強引に会津征伐に連れて行くほど、
支持が得られていない強硬な行動だったんだね。
そりゃ家の嫡子を拉致られたら従う他ないわな。
まあ官位官職で言えば出家した前内大臣織田信雄は家康より先に内大臣になっていたしこの時は西軍だった。
そして豊臣家は幼君ゆえ意思表示はしていないが大坂うち向きの権威たる北政所や淀らは実際、>>28>>29>>56>>819>>864で指摘されているように西軍を後援していた。
いまの大老はみんな高齢で、
次期豊臣政権は、織田秀雄、前田利長、結城秀康らによる政権が予定されていた。
事実、序列が家康、隆景、景勝、利家、輝元、秀雄、利長、秀康の順番だった(この時、秀家は欠席だった)
つまり家康の大老という地位そのものが秀吉の10人衆の合議という遺令を守ることで保証されていたが、
家康は10人衆の合議で地位を否定されて浪人となったのが内府たがい条の威力だった。
家康は会津征伐で拉致った家々の嫡子を人質に無理やり従わせていたが、
実際には家康自体が細川忠興の雑意に操られ、利用されていただけだったので、
会津征伐をやろうとしていた家康の意思は無視され、
武断派は三成を討ちにさっさと西上し、家康は置き去りにされ、
疑心暗鬼で江戸で逼塞してビビっていた家康は、
武断派の三成を包囲したという大ウソでまたしても利用された大バカだった。
871人間七七四年:2013/12/16(月) 20:03:39.10 ID:eC5OtAW3
>>870
秀忠が存在しない世界から来られたのですか?
872人間七七四年:2013/12/17(火) 09:24:46.62 ID:2OBn9H//
>>843
秀吉死後すぐに、
秀吉が生きていることにして朱印で、
福島正則に尾張の蔵入地から負担させようとする書状があったり、
安東が関ヶ原時期に蔵入地から戦費流用していたりしてるから、
ほぼ全国に豊臣家の蔵入地があったと言われているからな。
豊臣直轄蔵入地はかなり膨大だったはず。
俗に言われる250万石しかないわけがない。
旧大和大納言家だけでも相当あるんだし。
問題は小早川秀秋の越前転封が途中で家康らにより中止になっていて、
それがどこまで管理が移行していたのか線引きが不明瞭なんだよな。
反家康派と言われている小早川秀秋の指南をしていた山口宗永だけは先に越前大聖寺城への移転が完了していたが。
だから関ヶ原の戦いでの小早川秀秋の動員数が実はまったく不明なんだよな。
873人間七七四年:2013/12/17(火) 11:15:53.42 ID:l44S60In
蔵入地の正確な数はさておき、豊臣が支配している
畿内とその周辺の上方の経済力が圧倒的ってことは
農業以外に従事できる=動員可能な余剰の労働力が
その地域に常に存在してるってことで
兵農分離がまだまだ未完成な関ヶ原の頃なら、地域的な経済力は
持続的な動員兵力に直接関係する重要な要因だと思う

かつて畿内と伊勢湾・大阪湾一帯をおさえた信長が
東国に比べて古臭い軍制でも勝てたのは、つまるところ畿内とその隣国が
他の地域に比べて人口密度が高く、その余剰労働力を足軽として経済力で
合戦に継続して動員しつづけることが可能だったからじゃないの?
中長期的には畿内と隣国を支配すればパワーゲームで勝てる時代なので
自分なんかは秀吉が家康に関東で大領を与えたのはさほどおかしいとは
思わないんだよな
経済的に低開発で人口が稠密じゃない当時の関東では、多少石高が多くても
上方と同じ方法で持続的に動員兵力を確保できないわけで

逆に関ヶ原で短期決戦で決着がついたほうが、むしろ想定外だったっていうか
874人間七七四年:2013/12/17(火) 12:06:05.70 ID:f3sSj548
逆に関ヶ原が長期戦になった方がむしろ想定外だろ
だって三成たち文治派が勝手に息巻いているだけで大半の大名は家康に強い不満などない
むしろ一般大名にとって家康は朝鮮での処罰を取り消したり恩賞を斡旋してくれるありがたい人なのだから
そんなありがたい人とガチで戦って処罰を扇動した文治派に権力をプレゼントしようとする奇特な大名が大勢いたらおかしいよ
875人間七七四年:2013/12/17(火) 14:25:54.38 ID:mD8myy+9
ありがたい人だったら、
10人合議で孤立する程な不徳ぶりの証明が出来ないな。
看羊録によれば、
秀吉は敵だったものでも後腐れなく許して厚遇するが、
家康は一度、恨みに思えば、どんなに小さなことでも報復を必ずしたって書いていて、
諸将は家康を慕っていたのではなく、
恐れて追従していただけと書いているし、
宇喜多の家臣の謀反でも、家臣を処罰しようとしない家康を世間は小人と呼んでいたと書いているし、
家康は劣悪かつ醜悪な性格をしていたから、
皆々が報復を恐れて顔色を窺っていただけでしょ。
876人間七七四年:2013/12/17(火) 15:05:52.61 ID:IgbEkSWb
>>秀吉は敵だったものでも後腐れなく許して厚遇する

許して厚遇するのではなく彼らの力に頼りまくって、漁夫の利で得ただけの他力本願棚ボタ政権だから、許すしかなかっただけ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
877人間七七四年:2013/12/17(火) 15:07:27.27 ID:EhfGzx/9
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
878人間七七四年:2013/12/17(火) 15:08:21.52 ID:kFdGW8Kh
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
879人間七七四年
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐