1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2013/07/01(月) 17:33:23.33 ID:6nRCLOFd
3 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 08:42:53.72 ID:fTeME6Oc
あるとき成富兵庫茂安が江戸に勤めていた時の事である。
将軍家の代がわりがあり、成富兵庫茂安は鍋島家を代表してお祝いの挨拶を行った。
ところが…
鍋島淡路守茂宗は、はるばる佐賀から江戸へと上ってきて愕然とした。
それもそのはず、彼は将軍家代がわりに対する祝いの使者としてやってきたのに、既に兵庫がお祝いを済ませてしまったのである。
茂宗は鍋島主水茂里の息子である。
茂里は亡くなるころに一万石の加増を申しつけられたが、それを断っていた。
そのため、息子である茂宗に改めて加増を行おうということになり、
将軍家代がわりの祝いの使者として役目を果たした時、約束の加増がつかわされることになっていたのであった。
折角の江戸上がりが無駄になった茂宗は、ショックによって身体を悪くし、
茂宗の母である天林はひどく嘆いてかきくどいたので、
茂宗の叔父である安芸守茂賢は、ある時法事の席で兵庫を掴まえてその事を責めたてたという。
兵庫は閉口して、この件についての詫びの証文を書き、この証文は茂賢から天林へと渡されたという。
成富兵庫の、ちょっと間の悪かった話
4 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 18:17:39.50 ID:kEvUAAGo
或本に、同十四日、秀吉公が江州三井寺に至りなさったところ、
里人が光秀の首を奉ったので大変お悦びになり、杖で明智の首をお打ちなさって、
後に梟首になされたと云々。
(光秀の墓は洛東三条黒谷道より三町ばかり東の人家の後ろにあり。
これすなわち光秀の首をかけた土地なりと云々)
――『新東鑑』
5 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 19:19:15.10 ID:hWFLhO9b
明智を見事、討ち取った里人の名も伝わらず・・・・か。
6 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 20:03:06.25 ID:JMUgaiQq
村で討ち取った首級だから一人だけが賞されると後々ギクシャクするんじゃないか?
農村の知恵かもしれない
7 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 08:02:05.51 ID:J3X9ujSo
石垣原合戦後の翌日、如水本陣で行われた首実検での出来事。
大友軍の捕虜が、数々の首を見て、
「この中に吉良伝右衛門の首が見当たらないのは、不審なことです。
彼は大剛の武士、昨日のような戦いに臨んでは、生きて落ちのびることなど
ないはずです。どうか、詳しく点検なさって下さい」
と訴えるので、その顔の特徴を大村六太夫(井上之房家臣(黒田家陪臣))が
よくよく尋ねてみると
「癩病者のような見苦しい顔で、武士の首とはなかなか見えませぬ」
との答えであった。
その特徴に大村は覚えがあった。
「それは、昨日私が討ち取った首であろう。
兜付の首を二つ取ったのだが、そのうちの一つの首はあまりにも汚く、
癩病のように見えたので、首実検にも出せまいと思い藪に捨てたのだが、
それを跡から家人が拾って帰ってきて、手元にある。
では、その首を持ってこよう」
大村は急ぎ自分の陣屋に戻り、首を持って戻った。
捕虜はその首を見て
「これこそ吉良伝右衛門の首です。彼を討ち取られるとは、
さぞ骨が折れたことでしょう」
と言った。
吉良伝右衛門は、大友軍先陣の中にいて、黒田軍を追って浜辺へ行き、
そこから戻るところを討ち取られたということである。
(黒田家譜)
首の扱いが悪い話
8 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 09:26:44.90 ID:w6kgklBg
9 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 18:01:19.29 ID:f5Btn4Yw
慶長十四年正月十三日、徳川家康は遠江中泉を出立し、その日浜松、
十四日に吉田、十五日には吉郎を通る。
この吉郎において家康に訴える者がいた。これは故下野主(松平忠吉)の被官である。
家康はこれを見て「一人近寄って子細を申し述べよ」と言った。
すると、かの士十人ばかりが刀を指しながら走り寄ってきたので、家康が驚いて
「彼等を成敗せよ」と言うと、すなわち退散したので歩行の士たちがこれを追った。
その中の一人は抜刀して戦って死に、残りの者の行方は分からなかった。
――『当代記』
この直後に起きた既出の「清洲城の不思議な男」とは関係あるのやらないのやら。
10 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 20:55:54.74 ID:axVL+PD8
方広寺鐘銘事件などから豊臣家と幕府の関係は急速に悪化し、駿府での協議から
帰ってきた片桐且元は『私案』として、「豊臣秀頼自信が江戸に行く」「淀殿を江戸へ人質に出す」
「大阪城を放棄し他国への国替えを願い出る」の3つの考えを伝え、これに大阪城内では
大きな反発が起こった。
慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、
木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。
しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、
23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。これに返書はいらないとのことなので、、
且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。
常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った
「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に
他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」
金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。
武士は刀の刃、または鍔を打合せた。
「それは一体どういうことでしょうか?」
小島が尋ねると、常真は
「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、
一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、
そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、
市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。
昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが
あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、
主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、
屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。
私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。」
小島庄兵衛も大いに驚き
「忝い御意であります。そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを
頂きたいと思います。」
「それは尤もなことである。しかし徒に時間をかけてはいけない。さあ、金打ちをするのだ。」
と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。
そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。
これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。
(片桐家秘記)
大阪冬の陣直前、織田信雄が片桐且元に内通をしたその時を描いた記録である
11 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 20:33:17.39 ID:7nDsCqMe
前田利常公の時代のこと
上村孫市という者が「百姓を打擲したら死んだ(百姓を打擲仕候得は、死申候)」との
届出をしてきたため、加賀藩は彼を公事場(裁判の場)に呼び出しその仔細を尋ねたところ、
上村孫市は以ての外に怒りだし、殺すに至った状況を話そうとはせず、逆に奉行達に向かって
「私は自分相応の男道を勤めている!あなた方は自分よりも弱い奴を組み伏せ首をとっても、
自慢顔をするような人達だ!
私は自分よりも強い奴を相手にして、首も半分取られかけた!しかしそこを跳ね返して
討ち取ったのである!私は頭を十文字に割られたのだぞ!」
(手前似合に男道相勤申候、各ハ我よりよわきやつを仕伏首取候でさへ、自慢顔にて候。
手前ハ我より強きやつを相手にして首も半分取られかけ候をはね返し討取り申候。
あたまを十文字にわられ申候。)
そのようにわめき騒ぎ立て、状況を説明することはなかった。
奉行達は困り果て、この事を奥村源左衛門殿に申し上げた所、
「ここは我慢して、そのままにしておけ。
あの上村孫市が物の道理の解る人間であったら、今の私と同じ程には
取り立てられていただろうに…。」
と言い、このため上村孫市には処分が下らなかったという。
これは別所三平から聞いた話である。
(微妙公夜話)
面倒というか頭がおかしいと言うか、前田家にも困った人が居たんですね、
というお話。
12 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 21:35:59.80 ID:FcwFOXg+
強弁や強烈な屁理屈で動いてる人間って昔から迷惑な存在やったんやね
13 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 00:52:35.06 ID:4MtCi/h6
これは関わり合いたくない
「基地外はスルー」は昔からだったんですね
14 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 17:13:49.49 ID:k8PThJX8
上村さんの理屈も、奥村さんの理屈もともにおかしいな
どちらも自分の都合ばかりで損はしなくないの丸出し
15 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 17:18:23.97 ID:k8PThJX8
訂正
「損はしたくないの」
武士と奉行所が公事となった件で基地害スルーしたらダメだよな
気持ちはわかるが
16 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 21:34:25.50 ID:XNzMXJqJ
慶長5年9月14日、筑前中納言小早川秀秋は大軍を率いて松尾山に到着した。
脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。
秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。
そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を
密かに申し出ていた。
石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、
滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。その内容は
『
一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。
一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。
一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣)
秀頼公より下される事。
一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。
』
この書状の最後に誓詞があり
『九月十四日 安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』
と署名されていた。
(關原始末記)
小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。
17 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 01:36:15.54 ID:mMxnkDXE
上村さんは上層部の弱みでも握ってたのかな
どんなに強かろうと、こんなキチガイ処断しないと示しがつかないだろ
18 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 14:45:19.01 ID:/5NvVk22
織田信長の勘気に触れた佐久間信盛は天王寺を出ていった。侍や小姓は皆退散し、
たった三人が高野山まで従った。しかし、そのうち二人もまもなく退散したという。
信盛は高野の南東の相江というわずかな所に居ついた。
金子もかろうじて十枚ほどを持参するだけだったという。
ある時、山岡景友は思い立って信盛を訪問し、平井安斎もこれに同道した。
信盛は対面して涙を流し、とても感悦した。
二人が信盛を訪問したことを、その頃の各々が感じ入ったという。
天正十年正月十六日、信盛は紀州熊野の奥で病死した。信長は気の毒だと言って、
信盛の子甚九郎を召し直し、織田信忠に奉公させた。
――『当代記』
19 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 17:52:45.69 ID:IcfEdhdn
20 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 20:03:44.16 ID:xk/RjgvK
天正14年(1586)正月二十一日、この頃『千人斬り』と号して、大坂の町人の内、人夫風情の者を
数多討ち殺すという事について様々な風聞があった。
その内容は、大谷紀之介(吉継)という関白殿(秀吉)の小姓衆の一人が、悪瘡を気に病み、
千人殺してその血を舐ればその病は平癒する、と信じているため、そのような事をやっているのだと
云々されていた。これは全く、世上の風説である。
今日二十一日、この事が関白殿のお耳に入り、
「このような風説が広まっているのに、それを報告しなかったのは曲事である!
町奉行の者たちは殺すべきであるが、今回は、命だけは助けてやる。」
と、大坂の町奉行の3人を、追籠(自宅に閉じ籠めて謹慎させること)とした。
関白殿はこのことを仰せ付けになって、今日御上洛された。そして、
盗人事 人ヲ切事 博奕事 酔狂事 徒者事
の五ヶ条を禁制とし、それを高札2枚にして掲げた。
この時高札には一つにつき金10枚が打ち付けられた。2枚の高札に、金20枚である。
そのような中、先の千人斬りの容疑者と思われる者が、大量に捕らえられたと
噂された。二月の二十七、八日にはこの真犯人とされるものが顕れ、
三月四日ごろに処刑された。
この者は、宇喜多次郎九郎という人物であったという。
この宇喜多次郎九郎が処刑されるまで、あれは大谷紀之介の所業であるという風聞は
一円に語られていた。
(宇野主水記)
本願寺顕如の右筆、宇野主水の記録した、大谷吉継の千人斬りの風聞についての顛末である。
21 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 20:21:14.07 ID:eehFXxPU
既出だけど、犯人が捕まった部分は新しいな
22 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 20:31:24.27 ID:ujqMYHcb
犯人逮捕への圧力が冤罪を産むのです
23 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 21:41:20.78 ID:m9lyyG8z
「大量に捕らえられた」と言う容疑者はどうなったのだろうか
ちょっと心配になる展開
24 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 21:43:40.00 ID:m9lyyG8z
25 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 22:47:47.58 ID:74KvpU7N
肥後国誌にこんな記述があるそうだ
城中ヨリ小場太郎左エ門ト名乗リテ出シヲ寄手モ水野六左エ門勝成ト名乗テ蒐合セ小場ヲ討テ首級ヲ上ク、之ヲ見テ城中ヨリ三人一同ニ切テ出水野ヲ中ニ韜ミケレ共勝成屑トセス三人共ニ切臥ル
肥後一揆の城村城攻めのとき
城内から小場太郎左エ門がでてきて、寄せての水野勝成と互いの名乗りをあげて、一騎討ちをした
勝成が勝利。
それをみて、仇を討とうと城内から三人がでてきて、一斉に囲んで勝成をやっつけようとしたけど
三人とも返り討ちにされてしまいました
という訳でいいのかな?
キリングマシーンに挑んではいけない
26 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 09:05:58.97 ID:LS+n4B6L
ある本によると、この日、石田・長束・大谷等が談合して、瀧川豊前・
矢田半右衛門に連判の誓書を持たせて、秀秋の陣所松尾山へと遣わし、
今日池尻口に於いて内府の先手を切り崩した経過を述べさせて、秀秋の
家老平岡石見守・稲葉佐渡守に忠義を勧めたと記されている。
その誓書に曰く
一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。
一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。もちろん筑前は前々の
如くなるべき事。
一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から
これを下されるべき事。
一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される
べき事。
右の条々、違変申すものに於いては(神文はこれを略す)
九月十四日
安国寺 判
刑部少輔 判
治部少輔 判
大蔵大輔 判
摂津守 判
秀秋卿
今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある
べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。
ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て
このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書
であろう。
その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。
これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。
それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記(關原始末記)にも、
この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。
あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。この書の実否を知る人が
居れば聞いてみたいものだ。
(關原軍記大成)
宮川尚古による
>>16 に対する史料批判である
27 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 13:43:52.46 ID:eOyv/pYU
江戸時代の人の話まではちょっと
28 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 00:17:41.10 ID:ZhJMH0dM
29 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 00:22:17.54 ID:0a7utTsg
DQN厨ニ的な意味では人間無骨の右に出るものは無い
30 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 09:26:50.13 ID:yUQUoM1X
31 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 19:08:18.93 ID:urZeNiLB
>13、????「できればな。しかしこの世には頭のよく回るキチガイもおるで」
32 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 20:36:32.30 ID:oZdMkUTU
天正12年(1584)5月、小牧長久手の戦線が膠着する中、京都において佐久間甚五郎という人物による
羽柴秀吉への謀反が発覚した。
それについて、一条車之町は内裏の近所、六丁の内にあるのだが、この謀反人はそこに家を借りていた。
また実相院の辻は同じ町同然の地域であったので、この両町の者どもが、佐久間甚五郎について
届け出なかったことは仔細があるに違いないと、45,6人が搦め捕られた。
そのうち内裏の公人、出納台人、並びに公家方の殿原も27,8人が捕らえられた。
彼らは小野木清次が城代を勤める淀城の天守に留め置かれたという。
また前田玄以よりの申し付けで、さきの両町から更に20余人が搦め捕られ、二条蛸薬師に籠を作り
そこに入れ置いたという。
この時、当門跡(本願寺顕如)より。捕えられた公家の殿原の内に門徒の者があるので、
淀城の小野木清次に彼らを解放するように頼んだが、小野木は
「私一人の心得ではどうにも出来ません。」
と答えた。
門跡からの御使として河野越中が交渉したものの、相調わず、6月15日頃に寺に帰られた。
(宇野主水記)
京都で起こった、秀吉への謀反未遂事件についての記録である。
33 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 22:23:13.01 ID:AVC8iHTn
34 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 22:29:09.48 ID:2WVDUyd9
落ちなど蛇足
35 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 23:02:37.24 ID:+5lIfH6R
具体的にどういう謀反の計画で、佐久間甚五郎はどうなったんだw
36 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 10:57:16.94 ID:wvtNuZ/B
末期のラスボスならポポポポーン♪だろうな
37 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 13:46:33.82 ID:udJZzolC
>>32 何が何だかわからないが、謀反なら仕方ない
38 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 22:38:00.73 ID:6hNkEwdA
長篠合戦の時、武田勝頼は「よく考えて、ぜひとも一戦を遂げて討死しようと決心した」
と言った。これを馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は、
「敵軍は四万、我が軍は一万です。今回はお引き下がりになって信長が帰陣の上で来秋出張なさり、
所々を残さず放火し、その上で苅田以下を申し付けられれば、三河は亡国となるはずです。
ですから一、二年の間にご意向を行われるとよいでしょう」とたっての諫言をした。
しかし、勝頼は承諾しなかった。その上、長坂釣閑が「合戦を遂げられるのがもっともです」
と申し上げたので、いよいよ合戦に相定まったという。
この釣閑は工夫人なので武田信玄が大細を相談した者であった。とりわけ弁舌に通じており、
時に六十三歳だった。
――『当代記』
39 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 07:06:44.72 ID:SnZQXFKP
「工夫人」がなんなのか分からんw褒めてるのか皮肉ってるのか
40 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 08:09:25.48 ID:AOcHBjX1
あなたには功夫が足りないわ
41 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 10:14:36.01 ID:X+NUjtgk
結果だけで見ると最悪だからな
42 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 19:48:25.21 ID:nPuh317M
備前国主である宇喜多和泉守直家は近年持病が重くなり、天正9年(1581)の冬より
以ての外に下血した。
備中で宇喜多と対峙していた毛利勢には、直家の病状が悪化したとの風聞は聞こえてきたが、
その実態を正確に知ることは難しかった。
そういった所に同年極月(12月)、備前御野郡浜野村の窮人が毎朝絹に大量の血が付いたものを
拾ったと言って売り物に出していることを、毛利の目付け(スパイ)が察知し報告してきた。
これを聞いた備中の侍大将は不審に思い、それは宇喜多直家の下血が付いたものだと気がついた。
そこでその状況をさらに注視させたところ、同10年正月9日朝より、大量の血が付いた絹が
市場に出ることはなくなった。
そして備前に潜ませた目付けの者からは、宇喜多直家が正月9日に死去し、法名は涼雲星友居士、
密かに平福院において法事が行われた、との報告が届いた。
この情報は中島大炊助より、吉田へと届けられた。
(中國兵亂記)
毛利が探知していた、宇喜多直家の死去についての情報である。
43 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 07:12:06.28 ID:s/CCduls
せめてあと10年生きてたらな。秀吉もあそこまで伸びなかったかもしれん
絶対後ろでかき回すから
44 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 07:19:55.39 ID:Gb5M3G+d
血まみれの絹がそのまま売られてたのか
ワイルドすぐる
45 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 09:08:13.83 ID:whRkNexa
神州纐纈城、備前版である
46 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 16:30:08.22 ID:jH894G01
だって岡山言ったらぼっけーきょうてえな国だぞ
47 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 18:10:32.25 ID:Gi+Z4YNW
なんで絹布とはいえ下血まみれのものを売ろうと思ったのか
48 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 18:55:16.23 ID:5eXCWaAy
連日下血量と輸血量が報道され領国内は自粛ムードが広がり、領民はこぞって記帳所を訪れ…
っていう昭和の末
49 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:31:53.28 ID:oWhbnNWM
ある時のこと、南龍公・徳川頼宣が岩手川にて川狩りを行い、鮎を炙らせ
酒樽を開くなど大いに興じていたが、若者たちに泳がせれば一段の興があると、
「水泳せよ」と命じた。
そうでなくても泳ぎたいと思っていた若侍達は一斉に川に入り、様々に手練を尽くして
泳いでいた中に、佐渡与助というものがあった。
しかしこの佐渡与助、水泳不調法にて沈むこと度々であった。
ちょうど水野十兵衛という侍が、小舟に乗って近くに在ったが、これを見て声をかけた
「与助よ!叶わずば船に取り付け!」
この時、頼宣は河原に床机を立てていたのであるが、この十兵衛の言葉を聞いて、
大音声で怒鳴った!
「やあ、十兵衛のタワケめが!士(サムライ)に対して『叶わずば船に取り付け』などと
言う者があるか!?そんな言われ方をすれば、士たる者、死んでも船に取り付くものか!
たわけた事を言って、惜しき侍一人を殺すな!
同じ意味であってもそう言う時には、『与助、船に取り付いて休め』と言えば、
与助も船に取り付くことが出来るものだ。この十兵衛の大たわけめ!!」
そう、叱りつけたという。
(徳川武士銘々伝)
武士って本当にめんどくさいですね
50 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:38:43.89 ID:WBNfB4LV
51 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 22:24:13.19 ID:RmD7XNEm
結局与助さんは船に取りついたのだろうか。
52 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 22:59:23.40 ID:+Kdi+tp7
>>49 いや現代にも通じるものがあるよ
部下にもそういう気遣いができればいい仕事ができる
現代も人への気遣いが必要なんだよ
53 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 23:01:11.81 ID:1C2ekzU+
>>49 悪い話しって言うより良い話しに見える逸話だね
54 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 09:51:11.15 ID:HWogeOzq
十兵衛さんが叱られてる間に沈んでいったというなら
このスレにピッタリの話なるな。
55 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 12:47:03.09 ID:Klx7VTID
古式泳法って、甲冑着たまま水濠渡れるくらいだし、
着込んでない状態で溺れるってかなりクリティカルな
失敗な気がするけど...
56 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 14:48:11.52 ID:+Kiq6xSd
マスターしてない人にとって水は凶器だろ
57 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 16:04:21.16 ID:Klx7VTID
頼宣の頃の紀州でなら良いけど、既に高級官僚化した幕府旗本に
水練を強要する暴れん坊将軍
58 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 17:06:19.98 ID:8vY73oDJ
狐がなぜかむちむち金髪巨乳化される世の中の風潮について
いや、どっかの大名のことじゃないですよ?
59 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 18:16:46.49 ID:Sgk+JEEb
ききき、狐憑きちゃうわっ!
60 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 18:30:50.76 ID:YxWfJY1O
美人に化ける「金毛九尾の狐」なら金髪になるのは黒髪より自然といえる
金髪ついでに巨乳になったところでおかしくはない
61 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 19:37:37.50 ID:FrEmoD+u
しかしラスボスの前では手籠に
62 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 19:56:56.29 ID:Sgk+JEEb
金毛閣に巨乳美女の木像を…
63 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 21:06:09.26 ID:ZMrX6uPg
人間無骨だからって触手にされるよりマシじゃね?
64 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 23:08:34.24 ID:PsTuurr7
「卍解 人間無骨」 で触手うねうね系になるわけか。 本が薄くなるな。
65 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 05:18:36.85 ID:aciuMAln
夜の人間無骨
66 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 20:43:28.21 ID:hXpNMyit
>>61 妖だってワシにかかっちゃただの女子じゃー、とか言ってルパンダイブしそうだなぁ
67 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 21:05:36.71 ID:nlw2eaiU
本多三弥正重といえば、あの本多正信の弟であり、徳川家康の配下として三方ヶ原、長篠などでも
武功が在ったが、何を思ったか三河を出奔し滝川一益の足軽大将となり、前田利家の足軽大将となり、
蒲生氏郷の軍奉行となり、慶長元年(1596年)に到って徳川家に帰参するという経歴の持ち主で、
その経歴にふさわしい武勇の人であったが、性格がきつく、ちょっとした事で拗ねるという厄介な人で、
家康の前でも散々その拗ね者っぷりを見せ、家康から「あいつもあれでは大名に成れないなあ」と
苦笑交じりの発言を引き出した人物である。
そんな本多正重であったが、二代将軍となった徳川秀忠の下に仕えるようになってからは、
少しく着実、謹厳の人となった、という評判が聞こえてきた。
これを知った徳川家康は正重を呼び出し、こう声をかけた
「三弥よ、この頃はすこし嗜みの心が生ぜたか?随分拗ねることが無くなったように聞いたが。」
こう言われて正重は、目を丸くして答えた
「将軍様(秀忠)は誠に御奉公しやすい方です!あのようなご主君に拗ねごとを申すものは、
気違いに違いありません!」
(将軍様は御奉公いたしよく候。あのごとき主君にすね申す者は、気違にこそ候へ)
これを聞くと家康、笑い出し
「又、三弥の持病が起こったぞ。」
と言われたそうである。
(徳川武士銘々伝)
68 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 14:36:58.18 ID:dWcQImn1
>>64 狐が金髪巨乳だとか人間無骨が触手だとかいうのは多分、あるラノベの話だと思うんだが
アニメ化されたんで薄い本もいっぱいでてるけど、むしろものすごく分厚いので有名なんだな
69 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 16:52:20.55 ID:Eob+racv
1596年のある夜のことである。徳川家康の家臣である青年は、諸大名の家臣同士の寄り合いで
次のような話を聞いた。前田利家に仕える侍が自分の待遇に不満を持ち、主家を去ろうと
考えていることを口にすると、その場に居合わせた幾人かの人々は、そのようなことはやめた
方がいい、と忠告した。なぜなら前田利家は息子ととも茶の湯の席で太閤秀吉の命を奪うことを
計画しており、これがうまくいったのならば前田利家父子が天下の主になるだろう。そうなれば
前田家に仕える彼も大きな領国を与えられるはずだからだ、と語った。
これらの話はすべて冗談の作り話であったが、徳川家康の家臣である青年は本当のことと
信じ込んでしまい、思慮を失って政庁にかけこんで訴え出てしまった。
取り次ぎの者から話を聞いた秀吉は薄笑いをして、ただちにこの青年の身柄を前田利家に
引き渡すよう命じた。前田利家は、なぜそのような嘘で太閤殿下の耳をわずらわせたのか、と
尋ねると、徳川家康に仕える青年は正直に寄り合いの席で聞いたと答えた。事情を調べた結果、
単なる作り話とわかると、青年は足枷をつけられ、ついには彼の父親とともに連行され、一緒に
磔になって処刑された。(イエズス会年報集)
70 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 17:52:28.21 ID:AshYbNeF
まず上司に相談してれば…
71 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 18:32:59.89 ID:xe2nw55u
先年より小競り合いを続けている松尾(城主は小笠原信嶺)は大敵で
あったが下条家は強かったので一度も遅れを取らなかった。
九兵衛(下条氏長)などが深入りして危うい目に会われた事もあったが、
大将(下条頼安)はつつがなく、一村たりとも取られず落ち着いていた。
このような所へ松尾の菩提寺である上川路の開善寺と吉岡(下条家)の
祈願寺である南原山文永寺が相談し吉岡と松尾を和睦させようとした。
幸い松尾に御息女がおられたので、御縁組あればと両寺がとりもち
首尾よく天正11年12月に御祝言が済み、入魂の場と相成った。
明くる年の正月20日、舅に対して頼安公が心を許して年頭の礼に訪ねた
ところ、松尾はこれを油断させて討ち取った。
昔から聟を討ち取る例は多いとは言うが、そうであっても残念の次第
である。
(下条由来物語)
下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる
72 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 19:56:21.51 ID:81fUZ/QC
73 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 16:49:44.20 ID:f8XvPY5n
74 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 20:14:49.43 ID:HtKZ9df0
いかもの喰い
怒物食(いかりものくい)、俗にいかもの喰いと言われ普通の人が
食べない物を食って人に誇るものである。武勇にもならぬ無益の
戯れであるのみならず、終には毒にあたって命を失うこともある。
仙台の伊達政宗は猛将であったが勇気が余っていたのか、
いかもの喰いをしておられた。
何某というものがいかもの喰いで政宗に挑んだので、一日その人
の宅へと訪ねたところ、鼠の赤子を濃い味噌汁にして勧められた。
政宗はこれを賞美して食したが帰宅してから大食傷となり、まさ
に死に至らんとしていたが、家中の医師高屋喜庵という者が撥毒円
という家法の毒消しを飲ませたので命を全うされた。
その賞として喜庵に禄千石を賜ったと言う。
(安斎随筆)
既出だけど語りが面白かったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html
75 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 21:05:54.23 ID:/LLsbfsa
うわ〜、なんちゅうもん食べるんだよ・・・
76 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 22:25:02.58 ID:o72DqRQT
政宗公のお話
在る時、王翼という唐人が話に
「わたしが国元に在った時、ここかしこで物心のついた年齢の子供たちは、誰が教えるでもなく、”政宗公”と聞いては
物に恐れていました。しかしそれは、物心ついた子供が恐れるのも当然なのです。
何故かといえば、未だ幼き子供の時分、母の懐に抱かれて泣いているのが、どう慰めても止まない時は、
母は怒って
「日の本の政宗公が今この国に来るぞ!泣いていると取って行かれるぞ!』
と脅かすのです。するとその子供はたちまち泣くのを止め、母に取りすがって顔を隠し恐れるのです。
こういう事は、古今にないことです。」
そう語ったそうである
(政宗公御名語集)
伊達政宗が中国人から異様に恐れられていたらしい、というお話。何やらかしたんだ政宗w
77 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 22:37:46.00 ID:1XzIWI04
TADOQ「忠利くんへ、イカレモノグルイとかいうのやって死に掛けた奴がいるんだってさ」
78 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 22:57:40.39 ID:KJHQQChK
名前だけで怯えて泣き止むってのは定番だけど、政宗と大陸人の組み合わせは新鮮w
79 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 00:19:04.29 ID:mt10u20N
王翼さんは政宗のツボを心得てんのかな
追従で失敗すると面倒そうなDQN相手にようやる
80 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 00:19:19.01 ID:eAqvRqgq
81 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 10:17:45.75 ID:bXwLqE7m
鬼島津じゃなくって正宗?
82 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 21:24:23.77 ID:YjdkE5lI
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。
その後御対談の時に、秀吉公は御意に
「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」
と仰った。
(老翁物語)
83 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 22:02:53.88 ID:L/BPhP9p
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!
84 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 13:09:58.58 ID:5ma0hqxb
>82
悪い話・・・かな?
85 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 20:12:40.70 ID:BTaLqH8H
加藤家で寛永8年に不思議なことがおこった。
隈本城内の桐の木に冬瓜のような果物がたくさん生じたのだ。
諸人はこれは珍しい事だ。この先はどうなるのだろうかと、そのまま
熟するまで置いておくことにした。やや熟する頃になってこの果実を
内から鼠が食い破って出てきた。
人々はいよいよ怪しんで、この果実をことごとく切り割ってみると、
中には全て鼠がいた。
その鼠をことごとく打ち殺して捨てると果実の中に鉈が一つあった。
これを見て不思議奇怪な事だと言いあうばかりであった。
しかるに翌寛永9年6月に肥後守忠広・同嫡子豊後守光正父子ともに
配流に処され領国を除かれた。
あれはこの前兆であったのかと皆がささやきあった。
(翁草)
86 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 20:18:33.86 ID:yoixS8L8
どうみても前兆の方が大事件
87 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 21:09:02.49 ID:2/fKpHuz
実の中から生きてるネズミが飛び出してくるのと
真っ二つに割れたネズミの死骸が出てくるのと
どっちが嫌だろう
どっちも嫌だ
ドラえもんなら地球破壊してしまう
88 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 21:11:59.23 ID:kxAEA4x0
これが事実とすると桃太郎のこともおとぎ話とは言い切れない所があるな
89 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 20:02:48.56 ID:nUhTQfLI
或る時、伊達政宗公はこう仰った
「俺が在国している時に、鷹狩や川狩にしょっちゅう出かけることを、どうぜ下々の連中は
良く言ってないだろ。そんなことは解っているんだ。
だけどな、よく分別してみろ。そういう事を言っている連中をだ、城に引き詰めにして
召し使って、その上休息のために暇を取らせて、心のままにしろ、なんて言えば、
そいつら朝や夕方のうちから寝てばかり居るだろうよ。
俺も公儀から大国を拝領して、『家の殿』って仰ぎ見られる事も多いけどさ、それでも
所詮世上の習いからは離れられず、江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら
1年間を漸く暮らして、急いで帰国したらもう、『一日も屋敷の中に引き込んでいたくない!』
ってくらい思っているんだぞ?そういうわけにも行かないんだけどな。
それからな、折々に出かける事には、ちゃんと理由もたくさん有るんだ。
国を下知するほどの者が屋敷の中に閉じこもったままでいたら、諸奉公人の高下何れにも
その奉公の善悪を知ることが出来ないだろ?そうなると結局、迷惑するものが多いわけだ。
だいたい主君が自分の領国の人々の様子を見ないのなら、何を以って人をよく知り、国を沙汰すれば
いいんだよ?
この他にも様々な理由はあるが、語り尽くせないな。まあとにかく、俺が「出かけたい!」って言えば
1年間江戸で気詰まりしていたことを思い出して、苦労なことだと思っても供をしろ!
それに、俺はもう七旬(60代)だぞ。先がないんだよ!
そういうことも全部思い合わせて俺によく奉公して、時々は慰めてくれよ。
俺も年積もってしまって、明日をも知れないんだぜ?
俺が死んだ後にいろんな事を思い出して『あの時ああすればよかった』『ああいうことはしなければよかった』
なんて言い出しても、俺の役に立たないんだよ!
いいかお前たち、心を俺の年齢に引きあわせて考えるんだ。」
(我れ年積れば明日をも知らず、なきあとにて万づ心におもひ出し、かくはあるじきものを、
かくはすまじきものをと語りだしても、用に立つまじきなり。心を我が年に引合せておもへ。)
(政宗公御名語集)
なんというか、厄介だけど可愛いおじいちゃんだなあと思わせる、晩年の伊達政宗の愚痴であるw
90 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 23:45:27.63 ID:TG2/Tnbr
>江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら1年間を漸く暮らして
江戸詰奉行「え?」
91 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 00:48:15.67 ID:mkzf9rY4
控えめにしててアレだったのか…。
92 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:32:06.58 ID:ESa0+xsB
まあ基準は人それぞれだしなw
93 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 03:44:45.38 ID:cNUHQNDe
ストレスがたまってるんだ、(江戸滞在中も)憂さ晴らしもするさ
94 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:56:40.59 ID:93qgSNue
服部正成の子正重は徳川家康の側に勤仕した。
慶長五年九月十四日に、家康は正重を呼んで「お前の父祖は数度の戦功があり、
お前もまた若年にして今度の戦場に従うことはとりわけて健気である。
かならずしも危うい働きをせずともよい」と懇ろに言葉をかけられ、御盃を賜った。
正重はこの上意をありがたく感じ「明日戦場にのぞんではきっと一番槍の高名を遂げる」
と心がけ、十五日のいまだ合戦の始まっていない時に敵陣近くへすすんで行き、
朱具足に猖々緋の胴肩衣を着た武者と槍を合わせ、ついに突き倒して首級を獲た。
ところが、その働きは抜け駆けに当たるとして家康の勘気を蒙ってしまい、
結城秀康の執り成しによって許された。
――『寛政重修諸家譜』
95 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 20:46:19.88 ID:MbCsF4HX
伊達政宗公が、ある時のお話に
「昔、太閤殿下(秀吉)が伏見におられた時に、御城の内に御学問所と名付けたお座敷を建てられてな、
その御殿は4つの隅に御数寄屋を付けられていて、そこで東西の諸大名衆に御茶を下されたことがあった。
亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。
その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、
台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。
客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、
私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、
私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。(中絶の衆ばかり客に仰付けられ候)
そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、
その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、
先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と
素早く取り替えて出した。
この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、
間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。
さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の
客の有り様などを段々と語り、私の番になって
『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、
何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして
熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを
していましたよ。』
と物語した所、太閤様は
「さてもさても!したりしたり!」
と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。
その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を
様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し
されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。」
(政宗公御名語集)
既に↓で出ている話ですが、おそらくこれが出典で、内容もまとまっていたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html しかしこれはいつ読んでも、客全員の唇を火傷させた時の政宗の会心のガッツポーズが
見えてくるような逸話ですねw
96 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 23:25:16.38 ID:CgDRu7b5
>>95 >その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
>と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。
修学旅行中の中学生・・・
97 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 10:29:00.78 ID:XVHoPB3S
花の慶次のオールスター温泉みたいなことやってたんか
98 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 18:55:20.06 ID:pL2Osjlq
ある時、徳川家康の近臣の中に発狂した者がいて、その者が御前で同僚に切りかかった。
同僚は素手で立ち向かい、額に傷を受けながらもその者を取り押さえた。
これに家康は「健気な振る舞いではあるが、白刃を持つ者に徒手で向かうのは危険だ。
このような者を誉めて遣わせば後にあやまって死ぬ者も多いことであろう」と言って、
賞典には及ばなかった。
徳川家光が鷹狩の折に、従士が水に飛び込んで雁をとらえたことを賞さなかったのも、
このような家康の意志を踏襲してのことであろう。
――『徳川実紀(武備睫)』
99 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 21:49:19.71 ID:b+pew8Eq
吉良「…」
100 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 23:29:10.71 ID:hPmloifh
家光のくだりはともかく、前半部分は名前もでてるのがあがってなかったかな?
101 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:28:59.45 ID:BAWQs/8e
伊達政宗公が或る時お話されたことに
「あれは家康公の天下の時のことだ。私は鷹狩に出たのだが、私の鷹場と公儀の鷹場の境まで
進んでも、獲物が思いのほか少なかったので、公儀の鷹場にこっそり忍び入ってな、そこで
鳥を3つか4つ獲り、その上鶴まで合わせて獲った。
が、その時だ。私の鷹場の方から、大勢が鷹を使っている様子が見えた。不審に思っていると、
それはなんと家康公の鷹狩の一団ではないか!これはいかん、見つかったら怒られる!
我々は慌てて大騒ぎし、鷹と鳥を隠して逃げ出した。
ところが家康公は御馬を早め、空堀の中に入られ、人馬を下知して皆堀の中に呼び込み、
堀に紛れて急ぎ御退きになられた。
私はその時、御退きになった先に鳥があってお急ぎになったのだと思ったが、とにかく我々は
このラッキーに竹林に紛れて隠れ逃げた。
その後、家康公が江戸にお帰りになったので出仕すると、私に仰ったのは
『伊達殿、あの時私は其方の鷹場に盗み入ったのだ!しかしそこで其方の居るのを見つけ、
これはまずいと、つい堀に紛れて逃げてしまった。こんな事は私の一代にないことだ!
しかしこの様に降参した上は、どうか許してほしい。』
なんと謝罪されたのだ。私はこれを聞いて
『さては、そういうことでござったか!早く見つければ是非捕らえて曲事に出来たのに!
…ではありますが、実は私も、その日は公儀の御鷹場に盗み入って、家康公の御成を見つけ、
慌てて逃げ退いたのです。』
と正直に申し上げた。すると家康公は
『さては、そう言う事だったのか!そういえば今考えれば、其方も竹林の影に隠れていたなあ。
私に気を使って隠れたのかと思い、猶急いで息を切って逃げてしまったよ。
あの時互いにこの事を知っていたなら、逃げながらも息を休めて、ゆったりと退けたのに。
とにかくこの事は、双方に咎ありだな!』
そう、どっとお笑いなされた。御前に伺候の衆も、腹を抱えて爆笑していたよ。」
と物語されたのである。
(政宗公御名語集)
家康と政宗、鷹狩でお互いにヤバイと思って逃げ出すというお話である。
しかし政宗、せっかく隠れたのにバレバレだったのですねw
102 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:37:23.25 ID:nFqOGPKZ
途中まで読んで政宗に殺られると考えて逃げ出したと思ってしまったw
103 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:53:35.68 ID:kbZ2ZW8y
104 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:58:05.52 ID:k4E4yuT1
隣の芝生は青い、というか、隣の鷹場は鳥多い
105 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:07:35.38 ID:6xpt6VX9
このラッキーにってなんだよ
106 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 03:13:39.52 ID:tlOpMlY0
狩場の番をしていたものが大物(政宗)相手に覚悟を決めて頑張った話があったけど、将軍の狩場に入ったの一度や二度じゃないんだろうな…
107 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 09:23:46.71 ID:Qm0YDjkT
狩場って諸侯はみんな持ってたのかな
108 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 18:48:05.99 ID:ADEscRl3
109 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 21:48:12.70 ID:Twfont5g
山本五郎左衛門常治(常朝の叔父)は、
「侍の心がけは、いつの時代も根本は変わらない。
しかし時代が変われば趣きは変わっていくものである。
直茂さま勝茂さまの時代には、
大事であろうと小事であろうとも、
両殿様は細かいところまで気配りして御指図なさるから、
我々仕える者どもは御指図通り勤めあげるだけでよかったものだ。
分からないことがある時にも、
両殿様にお尋ねすれば、こちらの疑問点をよくお見通しされ、
わかりやすく御教えをいただけたものだ。
このように両殿様の時代の奉公は容易で楽なものだった。
しかし、何も御存知ない主君の時代は、
下の者が大事から小事まで気配りし思案を尽くし、
主君の助けとならねばならず、これは大変な奉公である」
と言っていたとのことだ 【葉隠】
110 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 22:53:09.91 ID:oDLgKgll
これは光茂を批判してるのかな
111 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 00:08:35.35 ID:Jp9r2aPe
大企業病の批判にも見えなくはない
112 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 00:59:56.75 ID:dTvFgpKp
関ヶ原の戦に敗れて、石田治部少輔三成は、家人をも召し連れず、落ちゆく勢びうちに紛れて歩いていたのを、
田中兵部少輔(吉政)の家人・田中傳左衛門がこれを発見し、
「治部殿でありますな!今はあなたの御運も尽きんとする時ですぞ、とどまり給え!」
そう叫んで走りかかり、押し留めた。これに三成は
「いやいや、名も無き下人である。治部ではない。人違いをされては困る。」
と言い逃れようとしたが
「見忘れられましたか?田中傳左衛門です。関白殿(秀次)の元で幾度か見参いたしました。」
そう言ってこれを押し捕えた。
その場所は近江の古橋というところで、先ずこの辺りの寺に伴い、そして陣所に連行して
兵部少輔(吉政)に注進した。
このとき三成は、1尺3寸の放し目貫の脇差を佩び、柿色の帷子ひとつを着て、米5合ほどを
袋に入れて腰につけていた。
その脇差の目貫は黄金の駒であったが、裏側には目貫はなかった。
これを見て田中傳左衛門が聞いた
「これはどうして、裏の目貫がないのでしょうか?」
「家人が一人つきまとったので、この目貫を抜いて与え、これを印として大阪城に赴くようにと
言って、落としてやったのだ。」
そして三成は傅左右衛門に向かい
「父である石田木工、その他の人々はどうなったのか?もし知っているのなら教えてほしい。」
と尋ねた。傅左右衛門は
「木工殿は妻子を刺し殺し、その身は潔く御自害をされました。その他の方々も同じ道を取られました。」
そう申し上げると、三成は心良さげに笑われ
「ざっとすんだ。」
と言った。
これを見て傅左右衛門は思わずこう尋ねた
「大事の合戦に敗れたというのに、どうして御自害されず、このように囚われの身となったのでしょうか?」
この言葉に、しかし三成は
「これはお前の解るような事ではない。こう言う時に潔く自害などするのは、お前たちのような者共が
することだ。私はそんな事は出来ないのだ。」
そう嘲笑ったという。
(話園)
石田三成が捕らえられた時の逸話である
113 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 01:47:02.58 ID:IgaFiLWd
>>110 批判というよりは、現実を語っている印象
114 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 18:21:02.52 ID:tkS35PAS
>>112 木工は兄じゃないの?原文で父となってるのかな
115 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 21:29:45.60 ID:pQIUAOae
116 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 21:33:20.68 ID:lucOSRHD
117 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 06:16:03.75 ID:sQqwgHtB
>>114 投稿したものですが、これは原文から父になっていました
118 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 09:35:58.76 ID:V9sJiln7
てことは、原文の作者が勘違いしたんかね?
119 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:25:30.73 ID:Re+10w4C
それなら仕方ない
120 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 20:25:23.05 ID:JzFxxB+f
永禄11年(1568)、伊東義祐が島津忠親の守る飫肥城を攻め、これに島津方の援軍として薩摩より来た
北郷時久の軍勢を大破した、小越の戦いでのことである。
この時、伊東家家臣山田次郎三郎は、島津方の和田民部少輔を討ち取ったが、
この和田民部少輔の子である助六、この時18歳が父の討たれたのを見て、駆け入って
山田と刺し違えようとした。
しかし助六の郎党が一人、鎧の袖にすがりついて言った
「どうか命を全うして、亡くなられた父君の遺蹟を立てて下さい!」
そう叫んで制したが、助六は
「今このような事態に直面して、誰が一人逃げるようなことがあるか!」
そして郎党を振り払い山田に切り懸った。
しかしこれを、山田はすかさず取り押さえる。だが、この者が年少であることを察すると、
若年にしてその志が勇なることに感じ入り、これを立たせ、そのまま帰らせた。
ところが、同じ伊東方の長倉次郎右衛門尉がこの様子を見ていて、帰ろうとする助六の後を追い駆け、
情けなくもその首を打落した。
後でこのことを聞いた人々は、山田次郎三郎の情けは、古の熊谷が敦盛を助けたことにも劣らぬ、
と言い、長倉次郎右衛門尉のやったことは、非常に浅ましいことだと批判した。
長倉次郎右衛門尉は、今の長倉喜多郎佑栄の先祖である。
長倉佑栄の家に今も言い伝わる、和田民部の祟りというのは、この話が理由なのである。
(日向纂記)
121 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:11:30.14 ID:Ky1FvhDZ
直実が敦盛助けた・・・?
助けようとした、が味方が来てしまったから首を泣く泣くはねた、時の直実の情けの意味か
それとも直実自身が息子の首を代わりにはねて敦盛を逃した説のことを言っているのか
単なる勘違いか
122 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:21:57.68 ID:x/8x+kAC
我が子をそんな討ち取り方されたら、
そりゃ祟りたくなっても無理はないという悪い話だなw
ただ、和田民部の祟りってのがどんなのかが気になるな。
123 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 09:06:46.00 ID:bY2LBvL/
代々の当主の子が斬り死にするとか
和田民部って山田の父を殺してるんだな
自分は首尾よく敵討ちを果たしたけど、お前さんにはまだ早いよってことか
124 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 20:41:13.64 ID:vnMPtFQG
慶長6年(1601)、徳川家康は伏見にあって、幸若舞の幸若八九郎を召し高館の舞(源義経の最期を歌った曲)
を舞わせたことが合った。
舞が終わった時、家康は機嫌よく近臣たちと物語をしながら
「武蔵坊弁慶は世に優れた人物だな。今の世に弁慶の如き人物は無いだろう。」
と言い、近臣たちも、そうですなあ、などと答えていたところ、そこに控えていた本多正重が
この家康の言葉に気が触ったらしく、大声を出して
「例え弁慶に似た臣下が居たとしても、今の世に判官(義経)に似た主君はございません!」
そう言い放つと、退出していったのだという。
(徳川武士銘々伝)
125 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 07:03:26.07 ID:V5u4yfNk
なぜ三河武士はああも嫉妬深いのか
126 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 10:30:19.45 ID:tG/GdoVg
よりによって、かなりdeepにめんどくさい政重の前で...
127 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 10:36:21.62 ID:UhHZ5Ynx
家康的には、そういう反応も既に予定調和だった可能性が
128 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 13:16:45.16 ID:xPoEgNsV
129 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 18:31:16.43 ID:o+ON1Rcr
徳川頼宣が加納五郎左衛門に何事かを尋ねた時、その返答が頼宣の思いに叶わなかった。
頼宣は「どうして其の方のことを、きっと他の年寄どもよりもすぐれた分別だ、
と思ったのだろう」と言うと、三浦長門守を呼んで、
「加納はこう申すが、わしはこう思う。どちらがもっともだと思うか」と尋ねた。
これに三浦は「思召しの事が御もっともです」と申し上げた。
その時、五郎左衛門が三浦に向かって「殿の思召しが御もっともにお思いとのことですが、
それに偽りがないのならば、今御前で『仰せ御もっともに存じ奉る』と誓言を立てて、
きりっと申し上げられよ」と言うと、返答できず赤面したという。
――『責而者草(加納五郎左衛門行状)』
130 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 18:34:27.77 ID:IRvoSj8I
嘘でも良いから本当の事を言ってやれよ
131 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:32:24.79 ID:lT1U2Z29
天正3年、日向の伊東家では正月元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、
国中平和で上下ともに喜悦の眉を開いていたところ、都於郡(とのこおり:現・宮崎県西都市)において
大きな理由もないのに騒動が起こった。
その始まりはこうである。伊東右衛門佐(伊東加賀守の弟)には男子が二人あり、嫡男を駿河守、
次男を金法師と呼んだ。
嫡男駿河守の師は、那珂の平等寺であった。
次男の金法師は、父の兄である加賀守の嫡男・源四郎と養子の縁組をして、加賀守家の
名跡を次ぐこととなった。
ところで、養父である源四郎の師は、都於郡の一乗院であったため、金法師にもここで
教育を受けさせようという事となったが、これに、金法師は三河守の弟なので、兄と同じく
平等院で教育を受けるべきだとの反論が出た、論争となった。
これを聞いて都於郡では怒りが渦巻き、年少の者達36人が互いに連判し、この議論が決裂し
対決となったら、自分達は命をかけて戦う!との姿勢を見せた。
しかし伊東家の主君である伊東義祐はこれを聞いて不快感を示し、連判をした者達は
身の置きどころが無くなり、財部城の落合氏を頼んで落ちていった。
彼らの中心人物は、財部城主・落合藤九郎の子・落合丹後守、湯地又四郎、稲津又次郎、
野辺孫二郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、
八代新十郎、福永新七郎、と言った者達であった。
このような中、野辺孫二郎が財部城で、密かに小山田掃部助に向かってこのような愚痴を言った
「私達が地元から逃げこのような事になったのは、全て落合丹後のせいである!」
そんな事を終夜に渡って言っていたのだが、その落合丹後がたまたま物陰からこれを聞き、
大いに立腹し
「互いに恨みの無いよう、一味同心の連判までしたのに、今更私一人を恨むとは、
これこそ遺恨である!」
そう言い放つとその事を話していた二人をたちまち討ち果たした。
この騒ぎに何事かとやってきた杉尾甚兵衛の、落合丹後によって手傷を負った。
そうして落合丹後が考えたのは
『私は流浪の身となっても、いつか伊東家に帰参したいと考えていたのに、こんな事に成ってしまって、
もはやとても命の助かるものではない。
こうなれば(伊東義祐のいる)佐土原城に騙し入って、義祐様に一刀恨みを晴らしてくれよう!』
そう言って佐土原へと取って返した。
ところがこの落合丹後の錯乱は、いち早く佐土原にも報告され、落合の姿が見えると
たちまち騒動となり、すぐさま取り囲まれ斬り合いとなった。
落合丹後は大勢を負傷させ、自信も数箇所傷を被ったが、島原右近と組み打ちとなり、
右近が組み伏せられ今にも殺されんとした所で、杉田宗伴が馳せ懸り、ついに落合を刺殺した。
これで漸く、この徒党の乱は鎮静したのである。
(日向纂記)
領主の養子をどこで教育するかというだけのことで、大勢の死傷者まで出す騒ぎとなった事件の顛末である。
132 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:55:30.77 ID:EibEX9UK
落合丹後がいなきゃ、もっと静かに事は収まったんだろうなー
133 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 00:36:30.75 ID:yxcl6b6g
娘に五郎八姫って今で言うDQNネームだよね
134 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 23:50:55.99 ID:N4TuVXhO
奇妙「え?」茶筅「」
135 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 11:24:17.04 ID:c14jKUha
姫って付いてると「いろは」と読んじゃうけど、ふつう「ごろはち」だよな
136 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 11:18:06.53 ID:7GlxOcNG
有る年(寛永11年(1634))の、徳川家光の上洛の時、それに付き従った伊達政宗は、
前関白の近衛信尋、八条の宮様(智忠親王)から、共に能を楽しみたいとの誘いがあった。
しかし装束のことなどもあったので、最初は辞退をしたのだが、どうしてもと言う事で
断りきれず、誘いを受けることとなった。
そこでは終日能を興行していて、京童たちが貴賎かまわず群衆をなし、御庭前に畏まっていた。
ところが、政宗は次第に酒が回ってくると、自分の座を立ち近衛公の隣に座り込み、
なんと近衛公の烏帽子を掴むと
「公家ほどぬるきものはない!」
と言いながらあちらこちらと烏帽子をねじ回した。
完全なからみ酒である。
この様子は庭前にいた群衆たちも目撃して肝をつぶし、「ありえないことだ」と
思ったという。
(政宗公御名語集)
近衛信尋→後陽成天皇第四皇子。 八条宮智忠親王→八条宮智仁親王第一王子、後水尾天皇猶子
何で処分されなかったんだろうこの人w
137 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 16:22:45.13 ID:xFyRu+gJ
烏帽子を叩き落とすことはしないぎりぎりのライン
138 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 21:38:25.65 ID:ZE2EnfXG
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: : : : : : : : : : : : : : :',: :',ハ、 誘 .な
: : : : : : : : : : : : : :!|ハ っ ぜ
: : : : : : : : : : : !| ハ .て
: : : : : : : : : :!| ハ .し こ
: : : : : : : , -―――-- 、 :!| .ト、 ま ん
:\: : : : (xx: . `ヽ、 :!| / ヽ .っ .な
___ヽ: : : \XXXxxxx. . . . . ..ヽ |./. . . .} た や
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139 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 06:01:01.30 ID:bnUnt1oH
天正5年(1577)日向の伊東義祐は島津の攻勢を耐えることが出来ず、ついにその主城である佐土原を
放棄し、豊後の大友宗麟を頼り落ち延びた。(伊東崩れ)
さてその頃。伊東家重臣である米良四郎右衛門尉の子、弥八郎と、米良四郎右衛門尉の息子、次郎三郎の
両人は、島津の人質として薩摩の鹿児島に在ったが、伊東家が米良四郎右衛門尉らが中心と成って
豊後と通じ、大友勢が日向に進攻するという企てがあることが鹿児島に聞こえ、島津家においては、
その人質を取り逃がしてはならないと、彼らを幽閉し6人の番兵をつけて油断なく監視させた。
二人は自分たちの監視が厳しくなった理由を伝え聞くと、密々に話しあった
「我々の父は、私たちのことを思わぬということはないだろうが、しかし親子の情も、
累代の君恩には代えがたいものだ。
国外に出た主君を本国に入れようとの志を持つのは、武士ならばそう有るべきことだ。
ということであれば、父たちは我々に構わず行動するので、我々の命が奪われるのは、
どうしても逃れられぬことである。
であれば、ここから逃亡をしては見ないか?」
そう決めると、彼らは番人が油断した隙を伺い、その6人の者たちを惨殺し、夜に紛れて逃げた。
元来彼らは三城で生まれ育ったので、舟に乗ることが巧みであったため、密かに船を盗んで
これを自ら櫓を漕いで対岸に渡り、陸路に上がると昼は隠れ、夜は進んでようやく鰐の口を逃れ、
7日目の夜に佐土原に到着した。
ここには彼らが親しい者が居たので、一飯を乞うて数日の疲労を休めた。
ところが、頼みがいのないのは世の習いである。この親しき者はその頃、どうにかして新しい日向の支配者である
薩摩に忠節を立て奉公の下地にしたいと考えていた折であったため、二人を天の与えたものと喜び、
底意の見えないように彼らをもてなし、やがて疲れから熟睡したところを伺い、これを縛り付けて
薩摩へと差し出した。本当に、情けのないことである。
二人はそれから再び鹿児島に引き出され。福昌寺において殺された。
しかしこれを聞いた彼らの父である米良四郎右衛門尉、米良四郎右衛門尉は、
この上はもはや少しも心に掛かることは無いと、益々伊東家への忠節を励んだという。
(日向纂記)
140 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 12:10:45.13 ID:0l675Wjy
せっかく捕まえ直した人質を殺してどうすんだよw
141 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 12:24:18.04 ID:qOjtWs+4
処罰無しだととりあえず逃げてみる奴が増えるだろ
142 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 14:40:33.04 ID:bnUnt1oH
>>139 すいません間違えました。
3行目
×米良四郎右衛門尉の息子、次郎三郎
○右松四郎左衛門尉の息子、次郎三郎
下から2行目
×彼らの父である米良四郎右衛門尉、米良四郎右衛門尉
○彼らの父である米良四郎右衛門尉、右松四郎左衛門尉
申し訳ありません
143 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 21:01:41.81 ID:TVGgv6P6
気にすんな
144 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 23:39:25.86 ID:MijMLdMi
6人も殺してるんだから、さすがに腹立つだろ
145 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 16:53:54.39 ID:19FRjk6Q
薩摩のスナイパー1
関ヶ原の戦いで島津軍はいわゆる「島津に退き口」で撤退した。
その際、追撃する井伊直政を狙撃したのが柏木源藤である。
この源藤、直政を狙撃落馬させたときに名乗りを上げるも思わず主人の名を出し
「川上四朗兵衛、討ち取ったり」
と名乗った。郎党の悲しさか自分の名を名乗らなかったのである。
ときに源藤22歳の頃であった。
その後、主君義弘には功を認められ、源藤は義弘の隠居所である加治木で暮す。
しかし『本藩人物史』によれば源藤は困窮し町人になり、子孫は断絶したとある。
どうやら出家し諸国放浪の旅に出たようであり、
一世一代の場面に自分の名を出せなかった鬱屈した感情があったのかもしれない。
146 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 17:11:42.16 ID:19FRjk6Q
薩摩のスナイパー2
関ヶ原の戦いで島津軍はいわゆる「島津に退き口」で撤退した。
この時、押川郷兵衛は義弘本隊とははぐれ伊吹山中で東軍に生け捕られてしまう。
しかし処刑される直前、島津家の取次をしていた旧知の山口直友が郷兵衛を見つけ引き取った。
直友は郷兵衛に服や刀を渡すが、郷兵衛はそんな直友の元から抜け出し京の近衛家に駆け込む。
その後、逃げ帰った薩摩では主君義弘より50石の加増と「郷」を「強」に変え強兵衛への改名を命じられる。
そんなこんなで主君義弘の信頼を勝ち得た強兵衛。
その後の強兵衛は義弘の命により巡礼姿で諸国を行脚し、関ヶ原で戦死した島津豊久の捜索などをおこなう。
つまりは義弘の忍びとして働いたようだ。
強兵衛の忍びの仕事の1つとして義久派家老平田増宗暗殺がある。
慶長15年6月、川内と鹿児島を結ぶ土瀬戸峠で平田を狙撃し暗殺したのだ。
『本藩人物史』によれば強兵衛は寛永6年に59歳で亡くなるまで「人を殺害すること百六十余り」と書かれている。
147 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 02:42:17.05 ID:sRHr9IkJ
稲津二郎兵衛尉重房は日向伊東家の譜代の家臣であったが、伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は
未だ年齢は14で、三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。
そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。
稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し
「我が心底は以上の通りである。お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に
連れてくるのだ。私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」
そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる
時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。
稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、
稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く
薩摩についてしまったのである。
この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に
非常な悪影響を与える。』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。
稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。享年37歳であった。
(日向纂記)
稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。
148 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 16:50:45.25 ID:YatkRy4b
キリシタン大名である有馬晴信の領内では、彼によって追放された僧侶たちが、加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟内の祠に、
自分たちの仏像を密かに隠し置いていた。
それを知ったキリスト教の宣教師は、若者たちを従えてその洞窟に向かい。、取り出せる仏像は取り出し、後は放火して焼き尽くした。
そしてキリスト教徒の少年たちに仏像を運ばせ、有馬の住民達の面前で、仏像につばを吐きかけるなど冒涜し、最期にそれらを皆
打ち壊し薪にした。
(ルイス・フロイス「日本史」)
有馬晴信の領内における仏教弾圧の模様である。
149 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 23:52:41.10 ID:2DKCJqo5
一神教の排他性や危険さは歴史が証明している。
日本では本地垂迹のように神も仏も仲良くというのが基本。
150 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 00:37:34.80 ID:W+khYVz+
平氏≠平家ってどっかの逸話のときにあったけど、
それってこの↓説明って合ってるの?
129 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2013/08/13(火) 22:31:12.17 ID:SVKurCdt0
平氏…すごく範囲が広い。平将門や平清盛や、平姓を名乗っていない北条氏とかも含まれる。桓武平氏以外もいる
平家…範囲が狭い。平氏の中でも、伊勢平氏と言われる嫡流の家系の人物たちをいう。平清盛やその兄弟、子孫たちを指す
つまり平将門は平家じゃない
151 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 00:55:34.32 ID:vYasxD4/
アルカイダみたいだな
152 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:12:28.13 ID:pwo2pOdD
木村常陸介重茲は越前の城主であったが、ある時、伏見へと参勤する途上、先駆の部将が過って
自分の槍を松の枝に触れさせ、このため穂鞘が抜けて槍身が現れた。
人々これを見ると、なんとそれは錆が点々とし、久しく研いでいない物のようであった。
木村重茲はこれを見ると大いに怒り、その部将を呼びつけ怒鳴りつけた
「今は戦国の世上であるのだから、常に刀槍に心を用いなければならない!
一旦事起これば直ちにこれを持って敵陣へと迫らなければならないのだぞ!
それなのに汝の槍身はこの様に錆び腐っておる!これはもののふの大恥辱ではないか!!」
そうして、従者に自分の槍を持ってこさせ、この部将に指し示して高らかに言った
「汝、大名の槍を見よ!このようにして初めて戦場に役に立つことを得るのだ!!!」
と、穂鞘を外す!が!…何という事であろう、その刀身、盡く腐食し、一面赤鉄のような有様であった。
重茲はこれに大いに恥じ、暫くしてから言葉の様子を改め
「だ、大名の槍であっても、尚このように錆びやすいのだ!いわんやお前たちの槍などは、
一層注意して常に鋭利にしておかねばならないのだぞ!」
そう言い捨てると騎馬を早め、急いで伏見に入った。
しかしこれにより、部下の兵士たちは互いに、この時の重茲の様子を真似て「大名の槍を見よ!」
と言い合い、一時の物笑いとなったという。
(古雄逸談)
153 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:27:12.74 ID:nsGe281h
コントすか
154 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:29:27.46 ID:uARZlxcL
なんという波平
155 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:32:28.18 ID:fC7SP62V
ところで、其れがしの槍をどう思う?
156 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 06:48:36.78 ID:9HkHpjir
ほほえましい
157 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 07:26:13.23 ID:o1/fyvwZ
158 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:22:17.86 ID:7ccVNWd2
本多上野介正純滅亡の事であるが諸記録には「遠慮の事ありて記しがたい」
とありその理由を知ることはできない。
古老の伝説では秀忠公が日光御社参の時に正純の居城宇都宮にお泊りになる
予定であったが、上野介が逆意をもって御湯殿に落とし穴を設けて秀忠公を
弑し奉るたくらみが露見した。
秀忠公は密かに酒井雅楽頭(忠世)のみをお供にして引き返され江戸城へと
お帰りになり、松平下総守(忠明)が秀忠公の御装束を着て代わりに御社参し
上野介を謀ってこれを捕えて流刑にされたと言う。
(翁草)
宇都宮の事件は落とし穴だったと言う異説である。
なお翁草の筆者は他の説も併記しつつ、どの説も裏付けが取れなくて怪しい
んだよねぇとか身も蓋もない事を書いてたりする。
159 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 23:36:23.69 ID:dNG2yaiT
>>150 桓武平氏高望王流のうち、将門の伯父・平国香の末裔が興した「伊勢平氏」の、
さらにその末裔である平正盛(清盛の祖父)の子孫たちだけを指して俗に「平家」という……らしい
ちなみに平家物語で平家の最後の末裔とされる「六代」は正盛から起算して六代目だかららしい
160 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 01:44:03.16 ID:GRyCQelP
後北条「伊勢平氏ですが、平家に入りますか?」
織田「重盛の息子の資盛の子孫ってことになってますが、平家に入りますか?」
161 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 11:21:34.06 ID:NQBJUOTh
もともとは名字成立前の平氏のお公家さんならどの家でも平家って呼ばれるべ
大師=弘法や太閤=秀吉のように今では事実上六波羅流とその家人を指すけどさ
162 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 13:49:58.55 ID:t/giXINN
163 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 20:01:38.57 ID:bY1S3YdO
私です
164 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 20:35:12.60 ID:8Zm//kjJ
オマエノシワザダタノカ
165 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 21:38:28.18 ID:xI+1plVr
慶長元年(1596)12月下旬のことである。朝鮮の役で渡海していた伊東祐兵は、朝鮮の安骨浦より
黒田如水に相談の事があって、家臣の借屋原甚右衛門尉満鎮を豊後へと遣いさせた。
豊後に到着した借家原を如水は近くに召し、
「さてさて、良いところに参った。実は私の方から遣いをやって、申したい事があったのだ。
それはな、太閤殿下が、近頃殊の他に衰えられ、かつ、今の日本国内には様々な怪異が起こっており、
遠からぬ内に世の中は、又々騒がしくなるであろう。
そうなった時には、だ。民部殿(伊東祐兵)は小身であるから、国元のこと、甚だ心もとなく
感じられるだろう。だから天下の事が、未だ起こらない内に片時も早く、島津家と協議をし、
縁辺を取り結ぶか、又は島津の麾下に入ることを約束するかして、互いに神文を取り交わすべきであろう。
この旨を、早々に帰って民部殿に伝えてほしい。」
こうして借家原は急ぎ豊前を立って、明くる慶長2年正月中旬、安骨浦に帰還し、
伊東祐兵に如水の口上の内容を伝えた。
これを聞いた伊東祐兵は非常に悦び、早速加徳島の島津陣中に赴き、兵庫頭(島津義弘)と会談し、
『以後堅く唇歯の好みを結び、互いに違背あるべからず』
との神文を取り交わした。
(日向纂記)
こんな時期から黒田如水が、秀吉死後の情勢の変化を見据えて大名の間で色々暗躍していたらしい、
という逸話である
166 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:08:27.23 ID:AwzhUaBg
がいしゅつ
167 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:08:44.13 ID:pR/+yBr7
168 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 21:02:21.06 ID:7G04sdhR
まとめの管理人さんがツイッターで呟いてた話を見つけたので書いてみる
武蔵国忍城の成田家は上杉憲政の没落の後、北条氏康に属し、以後、長尾景虎が武蔵相模に兵を出すたびに道を塞いで邪魔をした。
しかし、ついに景虎が忍城に攻めてくるというので、成田長泰は長男の左馬之介義長、次男左衛門次郎泰高を先陣として、
別府、酒巻、奈良、玉井、山田、松岡などの一族郎党に下知をし、忍城大手の長野口、行田口、搦め手の皿尾口と人数を分け、
籠城の準備をした。
この忍城は南北が大沼で水を滔々とたたえ、東西がわずかに陸続きであるものの、その道幅は狭く、さらに空堀を穿ち石壁を高く築いているので
攻めるに難く守るに易い要害の城であった。
忍城に到着した長尾景虎は城の周りの様子を一通り見て回った後、騎馬の者を少し連れただけで大手の狭間口までやってきた。
これを見つけた忍城の櫓の雑兵が、鉄砲十丁ばかりで撃ちかけたが、景虎はこれを物ともせず、さらに大手の周りを見て回った。
これに狭間の雑兵が
「そこの馬上の男、大将分と見た!汚くも後ろを見せるのか、返せ返せ!!」
と叫んだ。
景虎はこれには答えなかったものの、再び馬の鼻面を櫓の方に向けて暫く立っていた。
城兵たちは再び鉄砲で撃ちかけてきたが、弾丸は一発も景虎に当たらなかった。
この時城兵に小知恵のあるものがいて、
「あのような猛勇の大将には、鉛の弾丸は当たらぬものである。城内に金で造った弾丸が有る。このような時こそそれを使ってみよう!」
と言ったので、それを急ぎ探し出し、3発まで景虎を狙って撃ちかけたが、これも盡く外れた。
城兵は呆れて鉄砲を投げ出し
「まるで何かの化身のような名将だ!このような立派な大将を、我々のような卑しい雑兵が殺してはもったいない」と思い
「どうか早々にお帰りあれ!」と呼びかけた。
これを聞くと景虎は、ゆっくりと引き上げていった。
この様子は関東の先方衆や越後譜代の諸将も、手に汗を握り、固唾を呑んで見ていた。
その夜、景虎の軍師である宇佐美定行(定満)は景虎に諫言した
「殿!昔源九郎義経が讃岐の屋島の磯で弓を流したことがあります。義経はその弓を拾おうとして馬を乗り入れたために、敵の弓矢の的と
なりました。この時、増尾十郎兼房という老臣が、『こんな些細な事で、大将たるものが命を失ったらどうするのですか』と意見したと言います。
今日の殿が、まさにそうです!敵の弾の的と成って死ぬなどは犬死にというもの!以後気をつけられませ!」
しかし景虎、これに笑って
「お前の言葉は尤もな事であり、有難く聞きたいと思う。だが、人間は生きようと思えば死に、死のう死のうと思うと却って生きるものだ。
この三昧境が身に生きた時こそ、火に入っても焼けず、水に入っても溺れぬ、ということを昔、人に聞いたことが有る。」
と答えたので、流石に宇佐美も返す言葉がなく、引き下がったという。
(関八州古戦録)
169 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 21:05:34.65 ID:HgiJyaUJ
宇佐美が出てくると怪しさますけど
小田原城で敵前弁当食いみたいなのを忍城でもやってたんだ
170 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 21:54:49.55 ID:9xkX4W2Q
※金の弾丸はスタッフが(ry
171 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 22:44:59.80 ID:1Qi0Xe0w
ちなみに鬼武蔵の眉間に打ち込まれたのはただの鉛玉であったとさ
172 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 22:54:19.01 ID:ELyQ4WWj
城兵に狼男マニアでも居たのか
173 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 23:51:15.49 ID:l26lpel7
魔よけは銀じゃね?
174 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 23:52:40.95 ID:9sEw6M5N
水に入っても溺れないとか魔女裁判で有罪になりそうなんですが。
しかし家臣も「してその者の名は」ぐらい聞き返せばいいのにー。
いやその前に見てないで止めれ。
175 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 23:58:51.03 ID:20f8gFwe
しかしこれ見ると忍城を水攻めしようと思った気持ちもわかるな
176 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 00:07:10.47 ID:GViFHJhZ
>>173 金も普通に魔除けアイテムだぞ。
つか銀が魔除けなのは西洋の風習でしょ。
177 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 02:30:05.06 ID:O2qPUtI3
毘沙門天の原型になったインドのクベーラ神は、金銀の鉱脈を司っていたから……
178 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 02:44:51.60 ID:sYRm9NZk
じゃあ謙信公には金銀どちらも効かないな
179 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:54:09.89 ID:LSaFlBRj
ならばニンニクでどうだ!
180 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:44:17.37 ID:sYRm9NZk
春日山林泉寺「葷酒山門を入るを許さず」
181 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 11:18:24.41 ID:Q3wJdV9I
許さざれども葷酒、山門より入る
182 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 11:30:36.22 ID:RKMPiRnh
不許葷、酒入山門(ニンニクはだめだが酒なら山門に入る)
183 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 12:50:31.92 ID:57ax/kZF
とりあえず、塩辛い梅干しおくっとこうぜ。
俺も血圧高いから気を付けないとな。
184 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 17:49:24.39 ID:9AzprXDe
ストレスもよくないぜ。証拠にお兄ちゃん早死にしちゃったじゃないか
185 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 22:00:53.46 ID:/YXYhv70
体によくないって分かってても、
美味しい塩と日本酒の組み合わせっていいよね。
ところで、お兄ちゃんってどのお兄ちゃんなんだ?
186 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 23:16:15.14 ID:CuSfubAS
ストレスで早死にと言えば真田のお兄ちゃんじゃね?
187 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 13:32:21.92 ID:YwPh1ZUV
天下の騎馬軍団だろ?2倍以上の軍勢に特攻してこい!だなんてストレスたまるわー
188 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 18:30:01.36 ID:t/koTy7R
丹羽長秀は数年来の積聚に侵されて危篤の状態になった時、
「たとえどんな病気であっても、我が命を失わせるのならばまさしく敵である。
どうしてその敵を討たずして死ねようか」と腹をかき切り、腸を引き出した。
腸を見てみると奇妙な怪物が出来ていた。形は石亀の如く、くちばしは鷹の如く
尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡があった。
長秀は自ら筆を執って事の次第を記し「我が家督の事を良いように処理してください」
と書きしたためて、腹を切った刀に積蟲を添えて御殿に献上した。秀吉はとても驚いて嘆き、
自ら筆を染めて「間違いなく子息に本領を与える」と固く誓った。
長秀はこの返事を披き見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなった。
――『藩翰譜』
189 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 18:49:14.63 ID:8HWuks11
190 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 18:57:22.66 ID:t/koTy7R
>>188 申し訳ありません、間違いがあります。
×腸を見てみると奇妙な怪物が出来ていた。
○腸を見てみると奇妙な怪物が出て来た。
191 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 19:00:37.73 ID:CUYyB3q+
有名な割に丹羽長秀の逸話って死ぬじきくらいのばかりなような
192 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 19:07:24.98 ID:I74R3XdJ
>>188 そして子息にガッツリと減封につぐ減封を食らわせたと
193 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 05:40:54.99 ID:+9AwLDop
織田の有力家臣はどうして嫡子がいなかったり若年だったりするんだろ
ふつう30歳辺りで子供が何人かいるよね
194 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 10:48:24.24 ID:ragO6W5T
上杉謙信があるとき、家門の長尾右衛門佐にいささかの過失があり、
彼の寄騎同心を召し放し、所領を没収した上、一生両刀を帯刀することを禁じた。
実は上杉家の仕置において最も重いものは、刀脇差しを没収し、一生帯刀を許さぬことであり、
その次に死罪、追放、所領没収、寄騎同心召し放ち、籠居、という順であった。
しかし、右衛門佐の罪はそれ程ではなかったにもかかわらずこのような重罪に処せられ、
親の庵原之助は内心深く謙信の無慈悲を恨んだが、とにかく御前に出て自分のこれまでの軍功を並べ、
それに免じてほしいと詫び言を申し上げた。
そこで謙信は右衛門佐の罪一等を減じて両刀を許した。
そしてその代わりとして、切腹を命じた。
(上杉謙信言行録)
195 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 11:33:04.12 ID:sFUGCDfe
196 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 13:15:07.24 ID:S8iFuCUq
>>193 なんかそれ、働きすぎのサラリーマンみたいじゃないか
197 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 17:09:23.25 ID:L6kJ8zBX
>>193 年長の子が娘だらけだったりするケースもあるからね
198 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。
この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、
「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。
このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。
――『寛政重修諸家譜』
199 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 20:18:28.04 ID:eijQ7iOv
>>194 命よりも大事なものがある時代なんだなぁ
200 :
1/2:2013/08/21(水) 20:36:39.94 ID:6zA7awEo
ある時のこと。金剛太夫は江戸は浅草において幕府のお許しを以って勧進能を興行した。
この西国東国の諸大名、大身衆まで江戸に在ったため、各々へ公儀より桟敷を与えられ、見物をされた。
中でも伊達政宗の桟敷は舞台の正面にあり、ひときわ物事キラキラしく飾り付けていた。
その右隣には島津殿、左隣には毛利殿、これ以下大身小身残らずこれに集まったため、桟敷の結構さ、
華麗な御簾、綾羅錦繍の幔幕、八珍の食事も飽き満ちて、見物の諸人も目を驚かせた。
さて、このような中勧進能は行われたが、毎日の能が打ち続く内、太夫も草臥れたのであろう、第5日目の
能は朝から七番行われたが、不出来であったので、見物の者達の心にも響かぬ有り様。大夫の方も
何となく心進まぬ様子であったので、その日の演目が終わり締めの祝言の前に、
伊達政宗が「もう一番するように」所望した。
その時は諸大名は勿論、桟敷、芝居の者達も立ち返ろうという所だったのが、政宗は自ら御簾を上げ言った
「今日の能は何とも心残りの多い出来栄えであったと思う!であるので、もう一番所望をした。
各々、立ち騒がぬよう見物するべし!」
こう宣言したため、皆帰るのをやめそこに留まった。ところが金剛太夫からの返事は
「大変名誉なご所望ではありますが、出来ません(冥加にかないたる仕合にては候へども、罷成るまじき)」
これに政宗、もってのほかに激怒した
「何だと!?私の所望が出来ないだと!!?なんという推参!口惜しきことか!
…成らぬ事というのなら、無理にでも成らせよう。どうしても成らぬと言い張れば、足軽共に
楽屋を取り巻かせ、太夫を始め役者共、全員を撫で斬り(皆殺し)にせよ!
ただし!この返事の憎さ、ただ殺してはならんぞ!たるべく痛めつけて殺せ。
この政宗程の者が望んだことを、かなわずして退くような事があろうか!?一人ひとり首を刎ね、
その後上様にこの事を言上しよう。上様もどうしてこれを非義と思われようか!
政宗は納得しておらぬぞ!」
伊達家中の上下この言葉を聞くや袴のくくりを高くし、すわと言われれば我先に取って掛かろうとの
姿勢を見せ、勇今にも動き出そうという有り様。「さあ、事が起こったぞ!」と皆色めき立った。
しかし、ここに大慌てで駆けつけたのが江戸の町奉行衆である。彼らは政宗に
「陸奥守殿(政宗)の御意、御尤も至極であります。今日においてあなたの御心に背くような者は
一人もありません。であるのに太夫の返事は言語道断曲事であります!
…で、ご所望に違背申したことの処分に関しては、御前にはお手をかけさせません。私達が
この件については計らいます。町の同心の者達もそのように心得よ!」
そういって騒がしく下知をした。
どうも町奉行、大変なことになる前に、事態を政宗から切り離そうとしたようである。
そうして金剛太夫に事情を聞くと
「出来ないと申し上げたのは、勧進能では、役を勤め終わった役者はそれぞれに帰ってしまいます。
そのため今は皆帰り、残っているのは最期の祝言を噺するものばかりという状況です。
ですので、出来ないと申し上げたのです。」
これを聞いた政宗は
「そういう事なら、その理由を最初に言わなかった事が曲事である。また役者共も憎きことなり!
上様より相応な知行が下されているのは、こういう時のためではないか。
私も未だ帰っていない前に、自分の役が終わったからといって帰るなど、奇怪である!
その役者たちを呼び戻せ!道で追いつかないのなら、宿まで行って引き出してこい!」
即座に馬乗りや徒歩衆が、我勝ちに大勢かけ出した。
201 :
2/2:2013/08/21(水) 20:37:58.30 ID:6zA7awEo
しかし役者が戻るのを待つ間、能の間が伸び、芝居の者達も退屈しているように見えた。
政宗はこれを察すると皆々に
「所望の能、少し支度に時間がかかる。待ち草臥れているだろうが、もう少し待ってほしい!」
と自身で声をかけ、小姓頭を呼び出し
「芝居の者達に酒を振る舞いたいのだが、にわかの事であり直ぐには出来ないだろう。用意出来次第
出すように。」
そう仰せ付けた。しかし流石は政宗の小姓頭である。主人の事をよく把握している彼はこの仰せを聞くや
「御諚であるぞ!振る舞え!」
と小姓衆に申し渡すと、たちまち南都諸白(中世の高級日本酒)の大樽が数をも知れず芝居へと持ち込まれた。
こんな事もあろうかとちゃんと用意していたのである。主人が主人なら小姓頭も小姓頭である。
すると大桶半切りを用意し、樽の蓋をここかしこで打ち砕き、樽のまま持っていくものもあり、
酒を引きかぶって濡れ、着物を絞るものもあり、様々な肴を持ってきて器に盛り付けて出し、
さしもの広い場所であったが、東西の大名小名が寄り合い江戸中の貴賎がこぞり、芝居も人の居所すら
無いように見えた。
政宗は芝居の者達に土器の盃2,3千ほど出したが、それでも足りず、家臣に
「酒さえ汲めるものならなんでも良い、皆出してしまえ!」
と命じたため、梨地に蒔絵した角、金銀を散りばめた重、喰籠、皿鉢の類、てに当たるを幸いに
芝居に向かって投げつけた。そんな事なので芝居の内は大いに興奮し、色のあるものを手に手に持って
酒や肴に飽き満つる様子はもみじ流れる龍田川、吉野初瀬の花盛に嵐を誘うのと異ならない光景で、
桟敷の諸大名は自らの酒宴を差し置いて幔幕を上げさせ
「なんと大層なことだろう。天竺の月蓋長者が八万余人の非人どもに施行を引いたという楽しみも、
これにはどうして勝るだろうか。なんと面白い景色だろう。」
と、暫く感嘆の声は鳴り止まなかった。
しばらくして政宗は御簾を上げ、「お前たち、酒のんで面白いか!?上戸も下戸もこんな慰みは
酒にしくはない。互いに友を呼んで、飲めや飲めや!」と煽り、すでに酔っ払った状況で
「いいか芝居の者共!いま芝居の中に出ているもの、全部お前らにくれてやる!思い思いに取っていけ!」
と言い放った。これに人々は金銀砂子を敷いた数々の道具をそれぞれ取って、喜び興奮すること限りなかった。
この時数が少なければ人と奪いあうような事も起こったのだろうが、そういったことは起こらず、
逆に人々は驚いたという。
酒に目のないものたちは大樽を抱えて、これに過ぎたることはないと喜び持ち帰り、
上下万民、皆興奮の状況で宿へと帰った。
次の日、さしもの広き江戸に道具一つ持たないものはない、とまで言われた。
この事は将軍家の耳に達し、大いに感嘆し
「この頃類いない事である。しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。」
と言われたという。
(政宗公御名語集)
伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-169.html このお話の伊達家の側のでも記録していたとはw
ともかくも、よくこんなことやったものである。
202 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 20:43:51.97 ID:6zA7awEo
203 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 20:59:53.70 ID:XMJHvHeF
政宗はホント生涯政宗だなぁ
204 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 21:32:30.94 ID:ZvLBiGZU
>>201 >しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。
いや、学ばない方がいいと思います
205 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 22:26:56.27 ID:RzpKoNGh
酒池肉林の類だよなあ
最近で言うならバブルの狂騒とか
206 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 22:28:13.81 ID:PShcSDRB
大分話が違うな
207 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 20:20:26.38 ID:c/pxcuqn
夏らしい怖い話
上杉謙信公が亡くなる前、数々の怪異があった。
天正5年の11月頃から6年の正月にかけて、謙信公の姉君・善道院の居所では
様々な怪異が起こったが、その内の一つは、或夜、大きさ4,5尺にも足らない人形が、
小馬に乗って何処かから飛び出し、そのあたりを徘徊した。
人がそこに近寄れば影も形もなく、しかし遠くから望むと姿が見えた。このことは数日間続いた。
また春日山城内の毘沙門堂のあたりでは、頭の毛の逆さまに生えた者が、
その髪の毛で顔を覆い、毎夜その辺りに出現して、行人を悩ませた。
これは先に、謙信公によって非業の死を遂げた柿崎景家の怨霊だと噂された。
天正6年3月朔日には、深夜、皆寝静まっている時に、城下の侍屋敷のあちこちで突然、
老若男女の悲鳴の声、遠くからも近くからも響き渡り、人々に戦慄の念を抱かせた。
恐怖に囚われた番卒は、それでも震える足元を踏みしめつつ、役目のため嫌々ながら、声のした方に
向かっていったが、すると悲鳴はパタリと止んで、その他人の声もなく、またどこから
その声が上がったのかも解らなかった。
3月3日の戌のころ(夜8時頃)には、春日山城大手の下乗場側に立ててあった大石が、
俄に二つに裂けて互いにぶつかり合い、暫くの間奮闘突撃しているように見えたが、
破片が霰のように飛ぶためそちらを見ることも出来なかった。
ややあって片方の石が微塵に砕けたかと思うとその石の戦いは終わり辺りは静まり返って
そのまま夜は開けた。
石の戦いの場に通りかかった3,4人の者達は、有り有りとこの様を見て恐怖の念に駆られ、
声も立てずに逃げ帰った。
やがて夜明けに成ってその場に行ってみると、石には少しの変わりもなかった。
ただ、その付近一帯は、血を流したかのように一面赤く染まっていた。
(上杉謙信言行録)
上杉謙信の死の前に起こったとされる怪異についての逸話である。
208 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 19:53:31.85 ID:xanQ9QzD
>>193 衆道が盛んだったんじゃないかな
女が感じないと男は産まれないから、
家のために好きでもない穴に出しても
そりゃ嫡男も産まれにくいだろう
209 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 16:10:02.98 ID:34rycCVL
池田輝政が大封を得た後に、諸大名の宴会があった。この時、ある人が
こっそりと輝政の身長の低さを嘲った。
すると輝政は扇を挙げ、起き上がって舞い「このように勇功があって、
このように領地がある。どうして身の丈を求めるだろうか」と言った。
――『名将言行録』
210 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 16:38:11.85 ID:1RhR0KVf
>>194 微罪で重罰が不服なら出奔して他所の大名に仕えればいいじゃん・・・と思ってしまうんだが駄目なのか?
上杉の傘下あるいは友好勢力は回状回って無理かもしれないけど敵ならかまわんだろ?
211 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 22:25:41.69 ID:rqFQLPPA
>>209 馬に乗って前立の長い兜をかぶればいいんだよ
212 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 23:16:26.75 ID:SZgVdbxB
213 :
1/2:2013/08/26(月) 20:28:53.20 ID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。
城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、
「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」
と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。
次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。
幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、
「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」
と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。
一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。
214 :
2/2:2013/08/26(月) 20:30:55.46 ID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから
「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」
と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、
「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。
そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。
そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」
と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。
(浅野長政公伝)より
長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。
215 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 06:38:26.00 ID:U2EEhzjR
秀次の重臣熊谷大膳は嵯峨二尊院にいたが、徳善院は賜死の使者として
大膳と親しい家老松田勝右衛門を遣わした。
大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う
のを色々と押しとどめています。もし私が死んだあとにこの旨に背いたら
来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま
すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。
最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を
すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を
切って死んでしまった。
残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを
松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い
取った。
大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて
熊谷の菩提を弔って欲しい。これでは却って黄泉路のさわりとなろう。
主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。
この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて
どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。
郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は
ねんごろに弔います。御心易く最後のご用意を」と申した。
熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿
の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた
脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。
松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み
百箇日までの弔いのように勤めてもらった。
(聚楽物語)
秀次事件に連座した熊谷大膳の最後について
216 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 10:12:01.09 ID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。
217 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 10:55:59.06 ID:9Cd7M8E5
小姓の自殺競争も秀次だったっけ
人徳あったのかなあ
218 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 14:14:22.89 ID:sQ4s80q3
>>213 見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな
219 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 18:15:46.93 ID:9PJ9+7on
220 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 18:37:57.79 ID:tL85zpxm
酒の席での市松の不安…
221 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 20:13:09.81 ID:SfT6Bwj7
和田喜兵衛は上野国群馬郡高崎城主・和田兵衛大夫の弟であったが、
若い頃から上杉輝虎(謙信)に仕えていた。
ところがこの喜兵衛が、兄が武田信玄に内通し、深谷、倉加野、高山等と語らって箕輪を乗っ取ろうという
企てが有る、との情報を得、密使を走らせ
「このような事ですので、少々軍勢をこちらに向けていただきたい。あとは自分が手引して、
謀反人を追放させます。」
と、輝虎の近習で、僚友である小野伝助へと伝えた。
輝虎はこの時少勢で箕輪まで出ていたのだが、これを聞くと早速高崎城へと向かった。
ところが、である。
その途中の鳥川という土地で、密使を出した和田喜兵衛が現れ、こう言ったのだ
「謀反のことは、私の聞き違いでした!謀反はありません。
しかし聞き違いで遣いを出したことが発覚し、私は城にもいられなく成り、こうして逃げてまいりました。」
これを聞いた輝虎は当然ながら激怒した
「このような未熟な内通の容疑で出馬を促すとは、何たることか!」
そうして喜兵衛を、輝虎に従って付いて来ていた小野伝助と一緒にまとめて斬り捨てた。
しかし、ここで輝虎は思った
「この上は聞き違いであったと言って厩橋に戻るのも、後日の笑い草になってしまう。
そもそも、火のないところに煙は立たぬというではないか。謀反の気がないわけでもないのであろう。
よし!少勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を攻めよう!
後のことはそれから考えよう!」
そう決心しまっしぐらに高崎城に向かった。
輝虎は自ら槍を取って大手門に突撃、続く直江実継、大関親益、永井尚光といった家臣たちも
負けじと駆け込む。
この突然の輝虎の攻撃に、高崎城は訳のわからぬまま防戦したが、1つ2つと城門が破られていく。
しかし城主の和田兵衛大夫も豪の者であったので、自ら槍を取って必死に戦った。
そうしている内に輝虎も、軍勢が少数で疲れきっているのを見て取り、引き上げを命じた。
そして郭外に放火し、早々と厩橋に帰っていったという。
(関八州古戦録)
軍神様、無理を通して道理を粉砕、という逸話である
222 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 21:03:18.69 ID:mEZ0xZqn
高崎城落としたのならともかく、落とせなかったのだから
粉砕しとらんやん
223 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 22:53:17.59 ID:vqX5PoaN
小野伝助すげえとばっちりじゃね
224 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 22:57:07.54 ID:NT45Hasp
後詰に出陣したら、到着前に落城したから腹いせに無関係の城攻め落としたり...
225 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 22:57:53.55 ID:wT3rH8vG
「後のことはそれから考えよう!」ってのはダメな人の考えだw
226 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 00:32:37.57 ID:/SSlbey9
分別も久しくすればねまる(in沖田畷)
227 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 01:51:11.10 ID:+jpn1Lw4
そら実際に来るまでは北条につきますわ
228 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 06:31:23.93 ID:Rf3PPeou
小さな道徳観にとらわれていてはいけないと思わされました
229 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 10:44:35.69 ID:EqTJz5ew
軍神様は天才と基地外は紙一重である事を体現した人
230 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 11:02:08.97 ID:gHI+7cZo
この件のせいで高崎城が武田に寝返ってもしょうがないよなw
231 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 12:56:17.61 ID:PRTuB8UT
>>230 間隙見逃す武田でもないしな。
まあそれ以前に激怒した和田兵衛大夫が積極的に誼通じに行くと思うけど。
これが宇喜多とかが理不尽に攻めた、だったらもぐりこますための策略か!って疑うとこだが軍神様はマジ基地だから・・・
232 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 14:10:38.54 ID:4TgGD+R2
DQN四天王に上杉謙信がログインしました
233 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 16:50:10.46 ID:9JK/COS/
政?「俺は席空けねーぞ」
234 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 17:09:32.06 ID:Dd6YvFtk
謙信はDQNとは少し違うにおいがする
切れる老人的な
235 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 17:34:36.54 ID:raFkBi0C
信長ラスボス的な紙一重枠だろ
236 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 18:43:14.87 ID:vQh5f4kg
上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよと命じられた
堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。
時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。
日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の
家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。
吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。
忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、
日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と
ありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。
よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、
その傷を見舞った。
――『寛政重修諸家譜』
237 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 22:22:36.13 ID:kKwI9dDG
下総の千葉氏といえば武家の名門である
千葉宗家は代々星の宮と称して妙見大菩薩を祖神とし、数多の星の中でも一番優っているというところから
北斗七星を崇め、そこから北斗を家紋とし、月に星、或いは十曜を用いた。そして
『月星を手に取るからに この家の 栄えんことは銀河のごとし』
と、自らを謳った。
そんな千葉宗家の後を継ぐ惣領には必ず、体の中に月星のイボがあった。これは不思議な事であったが事実である。
千葉邦胤の祖父・利胤が弘治三年(1557)八月七日に30歳で亡くなる。彼には二人の男子が在ったが、
長男の胤富にはそのイボがなかったが、次男の親胤には7つのイボがあったので、無理に兄の胤富を押しのけて
次男の親胤が後を継いだ。
ところがこの親胤は生来暴虐で、領民の保護も出来ぬ有り様であり、千葉家中では危機感を持ち、天正七年(1579)五月四日、
密かにこれを殺し、改めて長男胤富が家督を継いだ。
しかしこの胤富に、殺された親胤が怨霊となって祟り、胤富も早死してしまった。
胤富の後を継いだ子の邦胤も、元々邪狂の性質はあったものの、たかが屁のことで殺されてしまったのである
(屁と恨み
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html)
このこともまた、殺された千葉親胤の祟りであると、噂されたのである。
(関八州古戦録)
千葉氏当主の特徴と、千葉氏を襲った千葉親胤の祟りについての逸話である。
238 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 10:57:20.44 ID:vII51v6o
イボは7つだけじゃなくて、8つ目の死兆星もあったんだろうなきっと
239 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 11:59:25.33 ID:jqbIHLb0
北斗七星は死を司るから不吉って、初期のケンシロウが言われてた
240 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 12:35:20.20 ID:J9/XG8id
孔明は北斗に祈って寿命を伸ばそうとしてた
241 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 16:10:06.79 ID:RC7CS/1y
ジョースターの血統かよ
242 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 17:39:23.25 ID:rt3oW6BU
別記によると、今年、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家、大谷吉継が五奉行と定められた。
しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、
大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、
豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、
奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。
――『新東鑑』
243 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 18:14:07.55 ID:uERcNAWU
朝日姫の甥で北政所の従弟ってことなのだろうか
だとしたら世代があわないような
大政所の甥で朝日姫の従弟ならありえるけど
244 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 18:48:02.57 ID:rt3oW6BU
>>243 たぶん北政所の母親の方ですね。
(大谷は政所殿の御母、朝日御方の甥にて、政所殿とは従弟といひ、)
245 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 22:57:08.43 ID:U6F1NnDr
伊勢国鈴鹿郡に、関氏という国人がいた。
伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、
関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。
そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・
天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、
意見を求めた。(盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。)
家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。
一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。
これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。
なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。
勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。
勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。
盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、
一政には蒲生賢秀の娘(氏郷の姉妹)を娶らせることにした。
(盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。)
この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。
その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。
盛信は、
「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。
蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。
翌年(天正11年)の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、
葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。
ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、
亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。
関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。
これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる
戦いを繰り広げることになったのである。
秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、
そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。
(特に咎めがあったとは書かれていない。)
(勢州軍記)より
>>237の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。
あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、
こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。
246 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 06:06:09.94 ID:AcGrhOjk
何が蒲生に従うだよ、本能寺の変を聞いて大坂から逃げ出した爺のくせに
信孝軍を瓦解させた張本人
247 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 06:50:06.88 ID:1v1N2ah2
乳首4つとか…今なら萌えキャラで人気者になるけど
当時はどういう見られ方をしたんだろうか
248 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 08:30:06.15 ID:RE6nHA/V
はしゃいでて取れちゃった乳首をまたくっつけたんだな
いつだったか、ラジオでパーソナリティー(♀)が自分の婆ちゃんがそんなことしてたって驚いてたわ
249 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 08:37:39.41 ID:A6Rtcu9B
「五雑俎」人部一より
堯八眉,舜四瞳子,禹目跳,湯偏,文王四乳,仲尼面如蒙?,周公身如斷,?陶色如削爪,?夭面無見膚,
傳?身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。
周の文王も4つ乳があったとか
副乳のwikiみたら、女性の5%、男性の2%が副乳を持つとあったから
大きいものでなければそこまで珍しくはないな
250 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 08:45:37.39 ID:A6Rtcu9B
ついでにググったらグラビアアイドルの熊田曜子も副乳とあった
出身が岐阜市で高校が岐阜県関市とあるが
平姓関氏でなく、美濃関氏ならぴったりだったのに
251 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 12:29:39.21 ID:1AYzvXOQ
熊田は全身整形と小阪由佳が言っていたが
乳首はいじくってないのかな
252 :
人間七七四年:2013/08/30(金) 20:40:42.56 ID:/foeKdQR
きっと黄金銃の使い手だったのかも
253 :
人間七七四年:2013/08/31(土) 22:17:33.86 ID:U/pLdYGV
ある時、神保長八や、我が祖父である脇谷九兵衛といった、微妙公(前田利常)と心安き者達が、
微妙公の御前に寄り合い、歓談していたことが在った。
この時微妙公がお尋ねになった
「下々はきっと私のことを、吝い殿様だと言っているだろう。」
座の人々は
「いいえ、そのような事は聞いたことがありません。ただ、『御物綺羅し』とは
呼ばれています。」
御物綺羅しとは、綺羅びやかな御物を取り揃えているといういみであろうか。
しかし微妙公は強く否定した
「いや、そのように言うはずがない!」
これには御前の人々も意地になって、誓言まで立てて同じことを申し上げる。
しかし微妙公は
「いいや、そんな事が有るはずがないのだ。私は歳を取って、殊の外吝くなったことを
自覚しているのだ。
昔と違って、加増や、その他褒美を取らせるときも、2度も3度も思案してしまうのだ。
昔は思い立ったらすぐさま、そのまま遣わしたというのに…。」
これは神保八左衛門の話に伺ったことである。
(微妙公夜話)
微妙公、歳をとってから褒美に慎重になってしまったことを嘆く、という話である。
254 :
人間七七四年:2013/09/01(日) 10:13:51.64 ID:oRnPhk4P
>御物綺羅しとは、綺羅びやかな御物を取り揃えているといういみであろうか
御物綺羅しとは、立派なアレをお持ちという意味では?
255 :
人間七七四年:2013/09/01(日) 13:18:41.79 ID:OMByHB3N
キラキラ鼻毛
256 :
人間七七四年:2013/09/01(日) 19:50:23.15 ID:qbO2Ka5m
伊達政宗公は、眠る前の宵に、明朝起こす時間を寝ずの番をする坊主衆に申し付けられていました。
そして、明六つ(午前5時頃)と仰せられた時は、例え八つ(午前1時頃)や七つ(午前3時頃)に
目を覚まされても、明六つと申し上げなければ、起きられず御床でお待ちになり、
六つになって時刻を申し上げると
「明六つになるのを待っていたのだ」
お仰り起きられました。
またある時、七つ時に起こすように仰せ付けられた時、時刻になりこれを申し上げると、
政宗公は百夜に一夜ほどは、よくよく眠く思われたので
「あまりに眠いから、あと半時(1時間)ほど過ぎてからまた起こしに来い。」
と言われて返され、その時刻になってまた申し上げると、その時も眠く
「とにかく明六つまで寝かせよ!」
とか
「明六つ半に参れ!」
などと時間を指定されました。
(政宗公御名語集)
伊達政宗も眠い時は布団に潜り込んで、「あと一時間〜」とかやっていたのだ、というお話w
257 :
人間七七四年:2013/09/01(日) 21:55:53.43 ID:pGOlE1sF
こういう時のために、強いカーチャンは必要
258 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 01:38:47.48 ID:y3+9/53d
岩下母ちゃんなら、どんな起こし方をするか
259 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 11:57:16.63 ID:hvZBfXFL
伊達政宗が伊達政宗を起こすとどうなるんだろう?
260 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 12:04:29.37 ID:+VWD5GcO
起きない相手に酒を垂らすくらいはやりそうだな。
261 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 14:34:35.23 ID:G5+2hvDA
独眠竜 政宗
262 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 15:44:00.92 ID:Ffu7UxG1
臥竜っぽいな
263 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 22:57:03.01 ID:LfGqrUcP
まとめの「上原能登守輝幸・中務父子顛末」に出てくる上原能登守輝幸には海野長門守幸光という兄がおり、
矢沢頼綱に「海野兄弟猛勇の兵なり」と言わせるほどの武勇を誇っていた。
幸光は真田昌幸に仕え、岩櫃城を任されていた。
しかし天正9年に鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、西久保、横谷の七人から昌幸へ
「海野兄弟に逆心あり」と注進されてしまった。
昌幸は弟の隠岐守昌君を中心に海野兄弟討伐の軍を派遣し、それぞれの館を襲った
弟輝幸のこの時の武勇伝はまとめにも出ているが、幸光の抵抗もすさまじかった。
幸光は御年75歳、体はまだ動くが目はほとんど見えなかった。
そこで幸光は甲冑で身を包んだ上で部屋に麻ガラをばらまき、敵兵がそれを踏み折る音を頼りに
三尺五寸の太刀でもってこれを叩っ斬った
たちまち敵兵14,15人を斬り伏せた。
そして敵兵が四方へ逃げたところで、「もはやこれまで」と
腹を十文字にかっさばいて切腹した。
哀れ幸光、その35歳(?!)の妻と14歳の娘も、国元である越後へ落ち延びようとしたが
敵に囲まれて、家来である渡利常陸守がこれを殺した。
『羽尾記』より
264 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 01:21:55.88 ID:YeE+lilo
真田軍記の海野能登守自刃か
265 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 08:37:51.77 ID:6542c/7s
266 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 12:15:36.03 ID:mh+e5N4I
75歳でそれほどの武勇を表せたのなら、ある意味いい話かもしれないな
267 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 17:23:56.84 ID:JbuHno4d
日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は、それぞれ二つある。
その一つは、山田、荒武、津留、大脇の四家であり、これは興禅公(伊東祐重(氏佑))が
京より下向されるとき、先に国元にあってこの下向を周旋した人々である。
もう一つは、稲津、落合、湯地、川崎の四家であって、こちらは興禅公に供奉して
京都より来た人々である。
この人々は下向の衆であるからとして客座に着座し、国元に在った四家は
居付きの衆であるからと主座に着座する慣例となっていた。
これはいずれの四家も序列の甲乙がつけがたいため、このように命じられたのだという。
(日向纂記)
「四天王だけど五人六人いる」というのはいくつかありますが、こちらは
『四天王Aと四天王Bの二つ有る』という、斬新な形態である。
268 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 19:35:18.14 ID:bh4mIP9F
満州八旗みたいなものか
269 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 04:27:47.17 ID:P8HCoiTH
恒例の細川忠興から忠利宛の書状ネタ。
あの茶釜を(忠興弟の)興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。
興元にあの良さがわかるはずがない。
あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。
他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。
興元には別の釜をやればいい。
忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、
利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。
270 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 09:27:57.80 ID:yDSF2cya
本当に良い釜だったのか?ただの興元さんへの嫌がらせなのか?それが問題だ
271 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 14:02:05.05 ID:NBMDFz4+
>266、討ち取られなきゃおにいちゃん以上に生きるんじゃないか?
・・・パパンって高野山とかいかなきゃもっと長生きしたんだろうな
272 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 18:44:23.54 ID:KnFbnJks
度々仕物(暗殺)で手柄を立てた士がいた。若い士がその心得を問うたのに
答えていわく
だいたい仕物というのは相手に刀も抜かせずに切ろうと言うのは早計だ。
それでは多くは仕損じてしまう。
まず第一に後ろからは斬りつけないものだ。
これは有利不利ではなく近寄って人を斬る前に声を掛けなくては騙し討ち
になるので必ず声を掛ける。
その時に心得た者なら前へ一、二間ほど飛びのいてから振り返りざまに
抜き合わせるので、先に太刀を打つこともできずに慌ててしまい仕損じる
ものだ。
前から斬りつけるのは有利ばかりという訳でもないが得もある。
その者は後ろには飛べず、互いに向かい合って「御意である」と言って、
刀に手を掛ける。これが先太刀なのだ。
相手が心得たりと刀に手を掛けた時には、我は半ば抜いている。
相手が半ば抜いた時には、我は全て抜き放っている。
相手が全て抜き放った時には、我は斬りかかっている。
これが先に太刀を抜かせぬ理なのだ。こうして心を静めれば仕損じる事は
無いものだと語った。
(翁草)
姓名不詳の仕物名人のお話
273 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 20:39:20.30 ID:MAm0IXz/
天正18年(1590)2月16日の夜、諸国一斉の大地震が在った。
中でも安房、上総の両国は殊更ひどく、山が崩れ海を埋め、見る見るうちに土が盛り上がって
丘になった所もあった。
社頭、仏閣、寺院、坊、寮、また士農工商の家々尽くが倒壊した。
まさに稀有の出来事であった。
明け方になると海では潮がにわかに引いて、30余町(およそ3.3km)も干上がった。
古く伝えられたところには、康安元年(1361)7月24日の地震で、摂津国難波浦で数百町が干上がったことが
在ったというし、またその時には、阿波国鳴門の沖数十町が干潟となり、周防国では海中に
20丈ばかりの島が浮き上がったという。
このように先例がないわけではないが、この辺りでは初めてのことであった。
これに津々浦々の漁夫、海人は言うまでもなく、村里の老若男女尽く、肝を冷やさぬものは居なかった。
海が干上がった場所では、波打ち際や切り岸の間に、螺、栄螺、蛸、鮑、海藻磯菜が充満して、
足の踏み場もないほどであった。
人々は、最初はただただ仰天していただけだったが、里の子供たちが争ってこれらの獲物を
拾い集めた。魚や貝などがいくらでも取れた。
しかし、翌々日の10日夜半になって、遥か沖合に鳴動が聞こえ、黒雲の渦巻くのが見えた。
人々はこれを見て
「すわ!津波だ!」
と叫び、妻子の手を引いて争って山へと逃げた。
しばらくすると案の定、高波が打ち寄せ、うねるように波がみなぎり湧いて、数十丈(1丈約3メートル)の
山々の中腹まで水が押し寄せた。
民家は尽く波に飲み込まれ、人馬の溺れ死んだものはその数をしれず、堤は切れ、橋は落ち、
陸地を船が往来した。
安房、上総、下総の浦々45ヶ所全てが一様にこの高波の被害を受けた。
その名残であろうか、波の引いた後、そこにあふれた魚の名前が、今の地名に残っている。
例えば「鱸の谷」「鯛の谷」などという地名である。
常陸国の浦々も、これとだいたい同じ惨状であった。
数日の後、地震も止み、波も引いたが、およそ20日の間、死体となった人間や牛馬、
また家財道具などが磯辺に流れ寄せた。
小舟に乗ってこれらの死体を引き上げ葬った者もあり、また家財を拾い集めて一儲けした者もあった。
(関八州古戦録)
天正18年の、東国での大地震と津波についての記録である。
274 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 20:56:24.31 ID:SytOrjOi
275 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 20:57:52.44 ID:06Ly+HhY
276 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 21:30:26.98 ID:WAyvec6c
>>273 翌々日の「10日」は「18日」の間違いということでよろしいか?
277 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 21:32:07.66 ID:0kSJD+lc
278 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 00:33:42.92 ID:Z7myl96m
豊後でも大船をつける港として利用されていた湾内の島が海中に没したことがあったけど、もっと前の地震だったかな?
今世紀は日本周辺の火山活動が活発化するとされているから、もう数回震災クラスを体験することになるのかな
279 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 00:52:10.26 ID:OfF2ABMu
瓜生島だな。
確実な資料が無くて諸説あるけど、
あれもほぼ同時期のはず。
280 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 16:42:56.15 ID:n8IVE67a
聚楽城の生身魂祝
天正十九年七月、秀次公から生身魂の御膳が聚楽へと差し上げられ、
秀吉公、北政所、松の丸殿、淀殿が座を共にして祝われ、その日の
御馳走として観世今春方松に能を仰せ付けられていた。
秀吉公は「今日は秀次の馳走であるから客人の望み次第であるな。
能の番組は何であろうか」と仰せられ、方松は「白髭・忠度・野の宮
でございます」と申し上げた。
秀吉公はこれを聞いて「脇能は誓願寺をいたせ」と告げたが、方松は
「古より脇能は目出度い神祇の能を用います。誓願寺などは如何かと
存じますが」と答えた。
秀吉公が再び仰せられたのは「阿弥陀如来は九品の浄土の主である。
その主たる身が喜び踊り上がるのは、ますます目出度い事だろう。
さすれば今日の能は誓願寺を脇能に致すべし」との事で、その通りに
相勤められたと言う。
(翁草)
なお生身魂(いきみたま)は御盆の前に生きている目上の人に対して
馳走すると言う習慣だそうな。
秀次の孝行ぶりと秀吉のちょっとだけ我儘な話
281 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 20:23:36.48 ID:U/JkuELF
文明18年(1486)、日向伊東氏の一族である伊東二郎佑邑は日知屋の城主であったが、
豊後の大友家に遣いを出して隣国のよしみを通じた。これは、現在伊東家が戦っている
島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの
趣旨からであった。
ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との
流言が言われた。
これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の
城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。
其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは
指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。
そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には
光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である
佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。
同年、4月9日の事である。
その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。そして
『露はおき 萩はまだぬる朝哉』
と、発句を吟じた、その時、
その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。
同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、
尽く腹を切らせた。
伊東宗家による野村一門への粛清であった。
この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。
ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。
そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、
しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。
そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、
さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。
(日向纂記)
戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。
282 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 22:12:05.30 ID:RdyeBw4w
鶴岡監督や浅香光代が激怒しそうな乱だな
283 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 22:27:51.45 ID:3+5POUxL
上州は吾妻の地に羽尾治部入道道雲(幸全)という人物がいた。
海野長門守幸光、海野能登守輝幸兄弟の兄である。
羽尾道雲は同じく海野氏族である鎌原宮内少輔と西吾妻の覇権を争っていた。
武田信玄による仲裁も入ったが、結局鎌原宮内少輔は自領を追われて信濃へ逃れた。
永禄五年六月、羽尾道雲が万座温泉に湯治に出かけた隙をついて、鎌原宮内少輔はこれを奪還する。
逆に今度は羽尾道雲が信濃へ逃れた。
羽尾道雲はまた領土を取り戻すべく、自身の親類で鎌原氏の重臣である樋口某に「勝てば鎌原領はおまえのものだ」と内通を呼びかけた。
樋口某はこれに応じ、「攻めるのであれば雪が深くならないうちが良い。大前方面から攻めれば宮内少輔は自ら出てくるはずだ。
それで出陣の際は宮内少輔は黒い馬に、私は葦毛の馬に乗って出る。黒い馬を目印にこれに乗っている宮内少輔を鉄砲で撃て」と助言した。
そして羽尾道雲は大前方面から兵を進めた。
それを討つべく宮内少輔も樋口某を連れて兵を進めようとした。
すると鳥居川を渡ったところで、宮内少輔の馬が足を前膝を折って伏せてしまった。
「この馬は足立ちが悪い。樋口某、馬を代えてくれないか?」
さすがにこの場で断るわけにもいかないので樋口は力なくそれを受け入れた。
しかしだんだん戦場が近づいてきて鉄砲の音が聞こえると樋口は自分が撃たれると怖くなり、
そこかしこで止まったりしたため、宮内少輔からは1町ほど離れてしまった。
それ(樋口某の旗印が後方にある様子か)を見た羽尾入道は「樋口は内応するつもりだから後方にいるのだろう」
と特に異変には気付かなかった。
そしてついにその時が来た。
羽尾道雲に「黒い馬に乗った将が来たら、それを撃て」と命じられて潜んでいた鉄砲名人の猟師が、
黒い馬に乗った樋口某を見つけ、これを撃ったのだ。
猟師が撃った弾は樋口某の銅丸を打ち抜き、さらにその遠くにいた郎党の頭を打ち抜いた。
その報告を聞いた羽尾入道は「大将は討たれ、残った樋口は味方だからもう大丈夫だ!」と弓鉄砲を袋に収めさせ、
弁当を出させて宴会を始めた。
そこへ無傷な状態の鎌原軍が襲い掛かり、さらに裏切り者も出たため、戦いに敗れ羽尾入道は1騎で落ち延びたのだそうな。
284 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 02:57:41.47 ID:e7W2zYB8
策士策に溺れる・・・いや狩人罠にかかるのほうが近いか。
285 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 18:06:04.11 ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。
この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。
長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。
その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。
――『寛政重修諸家譜』
286 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 08:15:26.33 ID:uYQMvhav
天正19年…
九戸政実の乱の際、九戸城包囲の陣中でのこと。
蒲生氏郷の陣では、馬を放つ事・喧嘩・大声・抜け駆け等は法度で堅く禁じられていた。
しかし、このとき蒲生家に仕えていた関東侍どもは、そんなことも知らない新参者どもであり、
己の勇気の命ずるがまま、抜け駆けして名を上げ、褒賞に与ってやろうと思ったか、
二騎の関東侍が連れ立って、勝手に城の堀際まで進んで行ってしまった。
これを軍奉行や横目の面々が氏郷に報告し、
氏郷は「志は勇ましいが、法度で禁じてあること故、その者らを切腹させよ」と申しつけた。
二人の関東侍はこれを聞いて津軽勢の小屋に逃げ込んだが、そこまで押し掛けて二人に腹を切らせた。
ところが今度は陣中の車丹波守が同じ関東侍と喧嘩を始め、
頭にきた氏郷は、「関東の奴らほど、法度を守らん連中はおらぬな!」
と蒲生家中の関東侍たちに一人残らず暇を出してしまった。
かの車丹波守は、元は佐竹義宣に仕えた高名な勇士であったが、
その後は蒲生郷可から扶持を受けたということだ(陪臣として仕えるならよかったらしい)。
(氏郷記)より
坂東武者の好き勝手に流石の氏郷も手を焼く、というお話。
ところでこの車丹波、後に上杉家に行くことになるのだが、
そこでも直江兼続に「こんな自分勝手な奴はクビにしてしまえ!」と言われていたりする…
(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2935.html)
287 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 09:23:28.87 ID:1WybXo7F
車丹波は一夢庵風流記で名前が上がってたね
288 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 19:00:55.98 ID:HcnRaQ8K
車善七の父親なのか
しかし武士の息子が、いくら役得があるとはいえ非人ってのも不思議な話
289 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 20:12:31.73 ID:z8mEpRp4
関ヶ原で敗れて領国を二ヶ国に減らされたのは宣教師を放置した天罰であると
仏僧からそそのかされた毛利輝元は1602年に宣教師追放令を出した。宣教師の
いなくなった山口では代わりに熊谷元直というキリシタン武士がキリシタンの
庇護者として活動していた。元直は源平の合戦で活躍した熊谷直実の末裔で
毛利輝元に仕える有力な家臣であった。
熊谷元直の娘もまたキリシタンであるが、仏教徒の領主と結婚していた。元直は
この婿をキリシタンに改宗させようとしたがうまくいかなかった。そして、その娘が
元直の自宅で亡くなった時、婿の菩提寺の仏僧たちがやってきて葬式をするために
娘の遺体を引き渡すよう元直に要求した。
元直は娘はキリシタンとして埋葬するから絶対に遺体は渡さないと拒否した。このため、
仏僧との間で大論争となり、仏僧側が毛利輝元にこの問題を持ち込むと脅すと、元直は
数人のキリシタンを呼んで密かに娘を埋葬した。そして、その後で適当な重さの
石を入れた棺に外側を布でおおいつくして、それを仏僧たちに引き渡した。彼らは
娘の遺体を運んでいると思い、おおいに満足した。熊谷元直はもっと満足であった。
仏僧たちが娘の遺体を手中にしていないかぎり、仏教の葬式をおこなっても問題ない
と考えていたからである。(1605年イエズス会年報)
290 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 21:50:57.53 ID:Ad/JEcID
宗教とか一族で揉める家系だな
鎌倉時代から現代まで、よくもまあ続いてるな
291 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 22:34:59.37 ID:XsdrgKMh
熊谷さんとこは結局TERUによくわからない罪を問われてお取り潰しに。
吉川家にとっては母方なんだけどな。
292 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 08:26:09.93 ID:8YOO3LBA
吉川は宗家とはともかく、家臣たちには評判が悪かったんだっけ?
293 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 14:09:44.03 ID:5qkKBWo3
宣教師を放置した天罰なら宣教師を大切にするんじゃないかな?
それとも俺の感性がおかしいのか
294 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 14:33:30.27 ID:YvfkpleT
野放しにした、と読み変えるがよろし
295 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 18:02:30.82 ID:UcA1eE+g
イエズス会年報によると関ヶ原の合戦が起きる前、毛利輝元は広島の市に宣教師が
常駐することを認めていた。そのように布教活動を許して野放しにしていたことが
敗戦という天罰を招いたと仏僧たちは輝元に主張していたわけだ。
296 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 21:51:59.08 ID:gmqUApuH
後の上杉謙信、長尾虎千代がちょうど6歳の時のことである。
虎千代はあまりに乱暴や我儘が甚だしく、父親である長尾為景もほとほと困り果て、
手習いや学問を学ばせれば、少しは性格も治ると考え、春日山城下の禅院・仙林寺の
天室和尚の元に預けられた。
ところが、虎千代はなかなか、師の坊主のグズグズした意見など受け入れる様子はなく、
暇さえあれば相撲を取るとか庭木を伐るとか、小僧を泣かし寺男を困らせることを
毎日の日課のようにして過ごした。
寛仁大度の天室和尚ではあったが、もはや手のつけようがなく、為景に事情を知らせ
春日山城へと送り返した。これは翌7歳の時のことである。
これには為景も仕方なく、家臣の加治安芸守春綱を頼んで、彼の養子とし家の安泰を図ろうと
思ったが、これは虎千代が承知をしなかった。
そこで為景は再び天室和尚と相談し、今度は下越後・古志郡なる栃尾の浄安寺に預けることにした。
そしてこれが、虎千代と長尾為景の父子の、永遠の別れともなった。
(上杉謙信言行録)
どうしようもなく凶暴だったらしい、上杉謙信の幼少期についての逸話である。
297 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 22:22:52.67 ID:4KOPYZhu
壮年期も関東にとってはどうしようもなく凶暴ですから
298 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 22:24:19.66 ID:o00DY311
諦めんなよ父ちゃん
299 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 22:32:35.90 ID:ScdTIMwV
三つ子の魂百まで、だな…
300 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 23:01:06.49 ID:xCbFLYSa
これが軍神教育なわけだ
301 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 23:04:53.10 ID:3pSLM9xq
なんか怖いな
302 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 23:24:15.21 ID:5DFvgp7w
乳幼児にして女の乳首を噛みちぎるのが、大好きだった吉法師ほど凶暴ではない
303 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 18:01:38.78 ID:4Inlku3Z
永禄5年正月六日、晴天で東風が少し吹いていた。
同二日浪岡御所様(北畠具運)は昨夜至極の悪夢を御覧になり、
奥方も悪夢を見られた為、御祈祷を色々と被りなされた所、
三日には雪が降り大風が吹いて全く不思議なことであると人々は言っていたが、
四月五日に川原の御所(北畠具信)御親子は大御所へ切り入り、
大騒動となり城中防いでいたが終に大御所を殺害し川原の御所御親子も切られて、
家中の者は散々に逃げ去った。
御所様の御息子三郎殿(北畠顕村)は当時五歳であり、
北畠左近の計らいで養育して三郎兵衛殿と改名なさったが、その後浪岡譜代の武士も多く浪人となった。
『本藩通観日記』より、名門浪岡北畠氏の衰退が決定的となった川原御所の事件でした。
304 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 21:04:40.21 ID:iG+KXh3w
佐野天徳寺の弟に、祐願寺という武者法師が居た。
この祐願寺、背が高く筋骨たくましい、大変な暴れ者で、弓、馬、長刀、槍と、
どれを取っても名人であり、ふだん、真紅の綱袋を腰に下げ、その中にいつも砥石を入れていた。
これは戦場で敵を2,3人斬ると、直ぐに武器を研いで次の戦いに備えるためであった。
彼は武者修行のため佐野を出て諸国を廻っているうちに、甲府に来て武田信玄の庇護を受けた事が
あったが、ところがこの時、祐願寺は自分の素性を明かさず、あまつさえ千貫の知行を望んだ。
信玄は面白い奴が来たと思い、近くに召して生まれた地を尋ねたが、祐願寺は
「ともかく一働きしてから」
と、姓名すら明かさなかった。
そのうちに戦があり、祐願寺は得物をとって走り回り、世人を驚かすほどの手柄を建てた。
信玄は再び彼を呼び
「もうそろそろ名乗っても良いのではないか?」
と聞くと、祐願寺もこれ異常黙っていることは出来ないと思い
「拙僧は、佐野の天徳寺了伯の弟で、祐願寺と申します。」
と、初めて名乗った。
信玄はこれを聞くと
「そうか、只者ではないと思ってはいたが、それにしても千貫を要求するのはいかがであろうか?」
「それに値する者だと思っていますが…」
「いや、千貫匁をどうこう言っているわけではない。わしにとって千貫は大した数字ではないのだ。
しかし、わが家譜代の者達に二貫、三貫、あるいは四、五貫程度で賄っているのに、例え名字正しき
ものとはいえ、他所者の、それも新参のそなたにいきなり千貫をつかわしては、旧来の家臣たちの
憤りをも招き、家の害ともなってしまう。
時に今、東国においてそなたのような覚えある者を大禄で抱え、ひと角の武将に取り立てうるものは、
この甲斐の信玄、そして越後の上杉謙信の他にはあるまい。急ぎ越後へ行って訪ねてみよ?」
そう言って信玄は彼に、太刀一振り、鞍馬一匹、更に旅費として黄金十枚を与えた。
祐願寺はその足で甲府を発って春日山に行くと、この事を吹聴した。
上杉謙信はこれを聞くと即座に彼に千貫匁の知行と与力の役を与え、自分も時々、彼から長刀の
指南を受けた。
ところが、この頃春日山に、やはり武者修行して上方より来たという何某という槍の名人が居た。
彼は越後にとどまり、直江大和守実綱、その嫡子神五郎を始め、上杉家歴々の者達に
槍の指南をしていた。しかし祐願寺は彼の腕前を見て、正面から堂々と、その未熟さをあざけった。
このことが謙信の耳に入り、二人は公開の場で真剣勝負を行うこととなった。
祐願寺はこれに勝ち、何某は御前にて屍を晒した。
しかし、これ以後何某に指南を受けていた直江を始めとした歴々の者達が折にふれて
祐願寺を悪しざまに言ったため、謙信も家中の和を保つために、結局祐願寺を殺した。
このことが関東の佐野天徳寺に聞こえ、かれは謙信に恨みをいだき、彼は佐野の幼主である
小太郎宗綱を説いて北条方へと寝返った。
(関八州古戦録)
佐野天徳寺の弟、祐願寺の顛末である。
305 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 23:35:59.56 ID:IpM7DaN0
島津家当主忠昌の治世中は争乱がほとんど絶えず、忠昌は自ら度々出征したが、
永正三年八月六日、大隅高山城の攻撃に大敗した。
このために、その後の忠昌は人生を悲観して怏々とし、楽しむことはなかった。
永正五年二月十五日、忠昌は夜半の月を仰ぎながら、
「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と、西行法師の和歌を
口ずさみつつ、短刀を逆手に握り、
「よし、新納、肝付は今から必ず百年のうちに見事わしが取り潰してくれるぞ」
と言うと、えいっと一声を発し、自害してしまった。
この時、侍臣の奈良原助八も殉死して追い腹を切った。これが薩摩における
殉死の始まりであった。
――『市来町郷土史』
306 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 23:43:29.62 ID:krxyY9aw
俺も殉死したい
307 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 08:09:53.46 ID:UDoFx5XB
松井佐渡守の遺言
細川忠興の家臣松井佐渡守と有吉頼母助は両雄とも言える重臣である。
佐渡守は遺言に「士は武辺一辺倒が良い。私は歌道・茶の湯・弁舌・
公儀などが秀でていたので武辺の事は誰も言わない。
場数で言えば有吉より二度多い。しかし世間は公儀分別は松井、武辺は
有吉と言うばかりだ。
士たるものはただ有吉のように武辺ばかりでその他は不調法なのが良い」
と申した。
(翁草)
自分の武辺が軽く扱われるのが悔しい戦国武将らしい話でしょうか
ちなみに名前をそのまま解釈すると松井興長と有吉英貴になりますが、
内容的には松井康之と有吉立行のような気がします。
308 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 00:50:39.95 ID:lvVqJBvO
隣の芝は青いって話だね。
武辺一辺倒で読み書きもロクに出来ないっていうような武将に聞かせたら、
いったいなんて言うだろうかw
>場数で言えば有吉より二度多い。
お互い何十回も戦に出ていながら、こんな細かい数字を気にするんだなw
309 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 01:16:11.58 ID:yR5MQMvy
場数も大事だが、戦場での態度や戦果はどうだったんだろ
310 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 01:25:53.03 ID:tx4YDjxG
細川さんちは文化人的なイメージあるけど、
やっぱり基本は武将なんだな。
三斎も死ぬ直前に戦場が恋しいと言ってたりしてたな。
311 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 09:17:32.35 ID:FJ+vx4u1
まとめに載ってる話の別バージョンを見つけたので
水野家の家風
岡崎城主水野忠善は、朝は4時から5時のあいだに起き、冬は自分で氷を割って頭を洗い髷を結う
明け六つの太鼓を待ち構え乗馬訓練。毎日2、3頭は乗りこなし
質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した
ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた
鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める
それを見た徳川義直は怒鳴る
「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」
忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ
追っ手を振り切って一目散に逃走
岡崎城の大手門を通り抜けようとした時
「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ
忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない
二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に
「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」
と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。
−−『岡崎の歴史物語』より−−
大手門から二の丸まで1km弱あるんだが…
312 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 10:04:09.96 ID:sbwWR3sQ
名古屋城を探るって何を考えてたんだろ?
それも城主の目の前で。
313 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 11:59:23.41 ID:WzibEuwq
水野忠善が堀を測る話は、池波正太郎の『戦陣眼鏡』って短編が好きだな。
戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。
314 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 12:27:33.25 ID:72lGd9ja
この頃にはもう御三家なんて将軍家から見ると逆に安心出来ない存在になってたんじゃないだろうか
315 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 12:32:27.55 ID:dJ/wW2me
尾張と紀伊は覇気に満ちた性格してるしなw
316 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 16:28:08.60 ID:QxYbf4H+
久世三左衛門の評言
江戸で紀伊頼宜卿が新参の士である村上彦右衛門通清に武者奉行を仰せ付けた。
これを譜代の面々が「かかる重役を新参者に仰せ付けられるとは、御家には
人が居ないと言っているようなものではないか」と憤っていた。
久世三左衛門(広宣)はこれに頭を振って「それがしはそうは思いません。御家
にはあなた方のような御譜代の士が居るのだから、人が居ないなどとは誰も
思いません。
このように仰せ付けられた事で紀州は古新に差別なく、ただ勇士を御賞玩に
なると噂になり天下の諸士を集める良き謀だと存じます」と申したので、
これを聞いた人は感心したと言う。
(翁草)
なんか譜代の連中がうまい事まるめこまれてる気がするお話
317 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 18:07:48.95 ID:ZxMkvWLX
田中吉政の嫡子主膳正(吉信)は極めて豪気な性格で、常に武勇を好み、放鷹殺伐を楽しみとし、
家人以下斬罪にされた者は少なくなかった。彼はいつも三尺八寸の剣を佩びてこれを『笹の雪』と名付けた。
主膳正はその流水に瓜を切るが如きすぐれた切れ味を讃えて「笹の雪払へば落る、此刀、持主田中主膳なりけり」
と、狂歌を詠じ、表銘を彫った。その後、主膳正は剣術の師某を手討ちにする。しかし、その者は手向かいして
主膳正の膝に傷をつけた。だが、主膳正は少しも痛がらずに、その者を仕留めた。
さらにその後、児小姓らに相撲をとらせて見物している時、主膳正は「わらべの相撲はまだるい」と言って、
傷が癒えていないにもかかわらず、立ち上がって力足を踏んだので傷口が破裂して血がほとばしった。
それでも主膳正は顔色を変えずにあら塩を摺り付けておいたところ、ついに傷は破傷風となってしまった。
これを聞いて大いに驚いた吉政は使節を馳せて多くの良医を遣し、内外の治療を施したが効果は見えなかった。
主膳正は何を思ったのか、大切の時に至って幽室に籠り、一切の面会を禁じた。柳城より追々馳せ来る
老臣以下の者たちも次の間に控えるまでで、寝所を窺うことを許されなかった。末期に至って、
主膳正は手を叩いて児小姓を呼び、硯と料紙を取り寄せて筆を染め、「十有九年一夢中、瓢箪瓢箪元夕顔」
と、書き終わるとたちまちこの世を去った。吉政は訃報を聞いてたいへん嘆いたのであるが、未だ嗣子が
定まらないので国中の士民は安堵せず、老臣らの諌めもあり、まずは嗣子を定めようということで、
三男の隼人が嫡子に立てられた。
――『筑後国史 原名・筑後将士軍談』
318 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 21:19:41.41 ID:iBstvs9R
>>296 これを受けてのお話
上杉謙信公はこのように仰った
「武士の子を産み育てるには、14,5歳の頃に及ぶまで、いかにも我儘にさせて、
勇あることを勧め、臆する道を制した形で成長させるべきである。
父に勇のある子供は、必ず臆することはない。
これは父親が常々、その道を説諭するためである。
この様に、人というものは生育が第一なのである。」
(上杉謙信言行録)
上杉謙信の教育論である。
319 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 17:58:44.38 ID:G/PqraFV
まとめにダイジェスト版があるが。
天正8年、上野へと出兵した武田勝頼は厩橋城に入り、東毛・西毛衆に大胡、伊勢崎などの諸城を攻め落とさせ、
自らは国境の物見に向かった。
一行は人々を動揺させぬようにと鎧は着けていなかった。
その一行が敵の膳城(今の前橋市)近くを通りかかった時、城の中では伊勢崎などから逃れてきていた武者たちが酒盛り中に喧嘩しており、
城代の大胡民部左衛門が「強敵武田勝頼が近くまで軍を進めているのに、酒の上の喧嘩とは何事だ」とフラグを立てたが、喧嘩は収まらなかった。
一方で城外では、武田の一行が城の周囲を移動しているのを見かけた膳城の雑兵がこれを討とうと追いかけた。
一行は全軍取って返すとこれをけちらし、雑兵が城内に逃げようとするのを追った。
勝頼は「父信玄以来、定法としてかような不慮の城攻めは固く禁じてあるではないか、引け引け」と下知したが、味方は城に攻めかかってしまった。
武田の一行はもとより鎧も着けていなかったが、城兵も喧嘩の真っ最中だったため混戦となり、結局膳城は落ちた。
合戦後、勝頼は「素肌で一城を攻略したことは父信玄の時にも全くなく、他にもあまり例がない!これほどの武勇をもってすれば、
長篠ぐらいの戦にはもう敗れまい!我が子信勝が早く一人前になればそれを大将とし、自分は頭を剃って家老のようになり先頭に立って
敵を踏み崩そうものを!」と意気盛んとなった。
心ある人々はこれを聞き、武田軍の統率力の減退と勝頼の無謀を嘆いたという。
『勝頼記』より
320 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 20:26:55.48 ID:clX+j+S3
お前も若い頃は素肌攻めしてたろ
321 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 09:15:34.20 ID:mhszX0vT
322 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 17:59:00.28 ID:+b9ysjdU
伊達政宗晩年の頃の話である
卯月(4月)も10日余り過ぎた頃お暇乞いということで、
奥の方で御西館様(五郎八姫)よりお振る舞いがあった。
政宗公はひねもすご酒宴をされ、七つ頃(午後4時頃)に帰られ、ご寝所に入ってうたた寝されていたのだが、
そこに年の頃12,3ばかりの、いかにも健康な童子が枕元にかしこまり
「調度よい時刻です。急ぎ御出でになって下さい」
と申し上げた。
政宗公は
『これは五郎八姫が召し使っている童子であるから、五郎八姫が「お座敷に御出下さい」と呼んでいるのだろう』
とお考えになり
「心得た。直ぐにそちらに出る。お前はまず先に帰れ」
と仰ったが、童子はまくらもとにかしこまったままであった。さては帰りの道を忘れたかと
お考えになり、手を御打ちになると、おとなしき女房衆2,3人が御前へと参った。
彼女らに政宗公は
「そこにいる童子を、そなたたちが道しるべして連れてまいれ。」
と仰ったのだが、女房たちにはその童子の姿が見えない。政宗公は「それに、それに、」と
仰るのだが、、一体どういうことなのか解らず、みな不思議の思いをした。
どうも先の童子が、女房たちの入ってくる直前、一瞬のすきを突いて枕の脇から明かり障子の方に抜け消え失せたのである。
それに気がついた政宗は
「見つけられぬのも理だ。今の童子は、音に聞こえた悪戯者であった。ああ憎たらしいことだ。
それと気が付かないで接してしまったのが無念である。もう一度来たなら捕らえて二度と逃さないのに!」
と言われたが、その後は何でもないような体でお休みに成られ、後にこの事をお話されたそうである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗、いたずら小僧にしてやられた、というお話。
323 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 18:30:52.38 ID:wlo+TbRu
この「童子」とは政宗の想像上の存在にすぎないのではないでしょうか
324 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 19:22:03.78 ID:t0XYycJ9
幽霊話になると思ってたら…
やっぱり政宗は他の人の逸話となんか一線を画しているというか
325 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 19:44:50.74 ID:TyxPQH1Y
いたずらで有名な童子がなぜ野放しになってるんだw
326 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 19:55:10.22 ID:GN5/7o+n
DQN眼竜が野放しだからです
327 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 21:18:46.80 ID:GgyR72S3
いたずらで有名な奴を捕らえて来い!と命令して即家臣によってたかって縄打たれる政宗を想像した
328 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 21:27:34.37 ID:e6vHaJGT
その後、政宗公と悪戯者の童との間で、
いたずらの仕掛け合いがエスカレートすることになる・・・
329 :
人間七七四年:2013/09/16(月) 21:41:58.47 ID:cYQhd7sd
どこの一休さんだよ!
政宗だとファッキューさんにしかならない気もするが
330 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 05:40:12.00 ID:pwMBEeys
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3198.html これの、天庵様が天羽鉄斎の諫言を聞かなかった話の詳しい内容
常州の小田天庵親子(氏治、守治)は、先年居城小田城を太田三楽斎に乗っ取られた後、
家臣・赤松疑渕斎(則実)の守っていた手子丸に移り、何とか小田城を取り返そうと策をめぐらしたが、
兵数に劣りなかなか思いを果たせないまま、虚しく時を過ごしていた。
そうであったが小田家には、四天王と呼ばれた土浦の菅谷左衛門大夫、海老ヶ島の平塚石見守、
木田余の赤松疑渕斎、藤沢の飯塚美濃守を始めとして、他にも天羽源鉄斎、江戸山城守、大藤小太郎、
尾上、只越、月岡といった、世に知られた勇将、知将が有り、かつては周囲を囲む反北条派の
佐竹義重、多賀谷、真壁、梶原なども、これを攻め落とすことができなかったのである。
ところがこの年、小田家の知将と名高い天羽源鉄斎が明日をも知れぬ様態となり、天庵親子が駆けつけた。
天羽源鉄斎は老衰していても頭ははっきりとしており、天庵親子に寝たまま手を合わせて
見舞いの礼を述べ、そして苦しい息の下から氏治に言った
「我が小田家は、多年多賀谷、佐竹と矛を交え争い、片時として安堵の思いをしたことはありませんでした。
それは全て、こちらが小国であり、相手が大国であったためです。
ただ策を以って、これまで支えてまいりました。
御屋形様、私が死んでも策は同じです。決して城を出て、平地で戦ってはなりません。
必ず、城にこもって闘いぬくのです。籠っている内に、後詰めとして土浦、藤沢、海老ヶ島などの諸城より
援軍が来て、これを追い払うことが出来るのです。」
氏治はこれに
「よくわかっておる。源鉄斎老人の采配の通り、これからもその戦術を以って望むつもりだ。」
「およそ険に寄りて守れば、一人で20人の敵を防ぐことが出来ます。一人が一人と戦っては、
佐竹の多勢にどうして抵抗することが出来るでしょうか?
返す返すも、敵の誘いに乗って野戦をなさってはなりません。どんな事があっても、籠城して防戦一途の
戦いこそが御寛容ですぞ!」
天羽源鉄斎は繰り返しそう言って死んだ。
源鉄斎は誠に軍配知略の老武者で、小田家にとっては高き山、深き海とも頼む支えであり、それが朝の露と
消えた今、小田家中では誰一人として肩を落とさぬ者はいなかった。
ところが、この源鉄斎の死は瞬く間に近隣に聞こえ、中でも佐竹義重は「時ぞ来たれり」と、源鉄斎の
死の直後、9月下旬には早速三千余騎にて手子丸へと押し向かった・
小田氏治はこれを聞くや、なんと、直ちに兵を出して途中で迎え撃とうと人数を集めたのである。
重臣の江戸山城守は直ちにこれを諌めた。しかし氏治は怒り
「何故止めるのか?佐竹の手の内はかねて知るところだ。恐るるに足らず!」
「しかし敵は多勢、味方は無勢です。それを要害もない平地で迎え撃つのは、源鉄斎殿が遺言したように
危険です。」
「お前もまた源鉄斎か!その言葉、耳にたこができるほど聞いた。
源鉄斎が死んだ後だからこそあえて出て戦うのだ!
籠城をしていては負けることはなくても、いつまでも勝つことは出来ない!
まして、小田城を奪った太田三楽斎の一族も、佐竹軍の中にあるときく。今こそ運を天に任せて一戦せん!」
「しかし、みすみす敗れる戦いを」
「弓馬の家に生まれたものが何をいう!?負けるも勝も時の運である。敗れてもそれは恥辱ではない!
不満ならお前一人籠って城を守れ。私は城を出て敵を迎え撃つ!」
そう言って氏治は一千騎で城を出て、手子丸山を後ろに三ツ州浜形の紋所の旗印を立て、堅陣を敷いて待ち構えた。
(関八州古戦録)
結果↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3828.html
331 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 08:09:34.98 ID:qzNqXkT7
すごいなもうほとんど落語だなw
332 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 09:05:20.85 ID:CVlsAicP
天庵様は勝ち負けなんて既存の価値観には囚われていないのだろうw
333 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 10:27:01.67 ID:Ms3Rn8aK
だから智将の遺言無視は死亡フラグだとあれほど…
334 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 10:33:36.39 ID:Hju/o4aU
残機数=菅谷さんの残息子数
この分だけ天庵さんはコンティニュー可能です
335 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 16:40:15.75 ID:UV3pihuF
天庵様の馬耳東風スキルは上限値です
これ以上は上げられません
336 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 17:23:36.36 ID:ZsSfSWx2
私が出陣したと聞けば城を出てまいりましょう
とか三楽に見透かされてる可能性すらあるからなぁ・・・
337 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 19:23:58.87 ID:rvEnV6IU
別の織田さんが寡兵で大勝したウワサを聞いていたのだろう
338 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 19:26:55.98 ID:lvu9nkbE
ゆるふわおつむの愛され系大名 小田天庵
339 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 22:23:06.22 ID:sIuN1FPa
天庵様には台風一過なみの清々しさがあるな
340 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 22:34:09.07 ID:Ml3ywiVR
後始末する人間の身にもなってみろ的な意味でだな
341 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 01:05:57.59 ID:zmdLB0WI
人が死んでんねんで!
342 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 17:30:50.19 ID:ncvSfgl5
死んだ者たちの想いを背負い次こそは勝てるはずとの力強いコメント頂きましたー
343 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 18:05:57.33 ID:HaeJ4URT
もうやめて!
菅谷さんの息子の残りは0よ!
344 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 18:16:33.22 ID:khhtk1VM
従兄弟とか居るだろ、大丈夫、大丈夫
345 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 19:25:37.66 ID:Ot7COYJP
安心、納得の天庵様クオリティ
346 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 21:31:29.74 ID:/NLL7+d/
ある年の暮れのこと。
微妙公・前田利常は大量の一歩金を御文庫の蓋に入れ、それを御前に置き、家中の者達が罷り出でた時に
それを手でつかめるだけ掴ませて与え、家臣はそれを頂戴して退出した。
この時家中の者達は、何れも片手を付いて、もう一方の片手で掴んでいたのだが、
細源太左衛門は罷り出でると、いきなり両手で一歩金を救い上げた。
これを見た利常は
「おいおい、皆片手で掴んでいるのにそれはどうなのだ?」
と声をかけると、細源太左衛門は「はっ!」と一声返事し、両手ですくった一歩金を
懐中に入れ、また片手で掴んで頂戴し、退出した。
利常は「さてさて憎きやつ」と言われ大笑いし、非常にごきげんであったそうだ。
(微妙公夜話)
微妙公、一歩金をガッツリ取られるの巻
347 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 21:56:56.13 ID:n21rfHVi
気前いいけどその金は民、百姓の血と涙の結晶なんだぜ
348 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 07:40:32.24 ID:9gHAW0cB
趣味やらで放蕩するよりは、
人材に使ったほうが国のためではなかろうか
349 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 12:50:12.57 ID:OnhK//UT
細源太さんの能力次第だな
350 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 21:24:09.34 ID:ARiPO2FH
ある時の2月初旬、伊達政宗は具足を飾らせそれを見ながら言った
「私は若年の頃より、誠に具足によって育てられたようなものだが、この頃は弓を袋に、剣を箱に収める御代であるので、
この様にたまたまこの具足を見ると、一層珍しく、その面影、昔恋しいものだ。
願わくば、馬にも未だどうにか乗れる間にこれを肩にかけ、老年の思い出のなぐさみとして、一合戦するのが望みである。
未だ君(将軍家光)もお若い。なので、甲斐甲斐しくとは行かないだろうが、合戦にて君を指導し、また私の若き子供たちを
指導すること、これのみが今の願いである。
しかし徒に年月を送ってしまったよ、口惜しいことだ。もはやこの具足も、このまま、これにてこそ。」
そう語ると、ハラハラと涙を流された。
(政宗公御名語集)
平和な時代にかつての自分の具足を見た、政宗の感慨である。
351 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 18:15:26.20 ID:GXlqmBUh
加藤嘉明は二十万石の大名となり、正木は狭くゆとりがないと共に要害として
好ましくないので、勝山に築城しようとした。そこで幕府の許可を得ようとした際、
方略上の候補地を第一に御幸寺山、第二に天山(一説星の岡山)、第三を勝山として
申請したところ、幕府は勝山を指定して嘉明の術中に陥ったという。
――『加藤嘉明公(這は後人の付会説ならん)』
352 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと
太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。
手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた
「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」
これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)
353 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと
354 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353 天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」
355 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352 なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?
356 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352 殺してから首を取り外すわけじゃないんだな
357 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」
358 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク
359 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」 って事だよねw
360 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね
361 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで
362 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが
363 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352 喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする
364 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに
365 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 11:49:12.03 ID:AnC5gjXE
366 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 11:50:07.63 ID:AnC5gjXE
367 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 20:22:49.21 ID:uDd/LFc4
微妙公(前田利常)はこのように仰った
「総じて、百姓への対応は鷹へ餌の肉を与えるのと同じ事である。
鷹に肉を与えすぎれば、鳥を取らなくなってしまう。
百姓も豊かになりすぎれば、農業を疎かにしてしまう。
逆に、鷹に与える肉が少なすぎては、鷹は鳥を逃してしまう。
百姓も疲弊させてしまえば、田畑を耕すことすらできなくなってしまう。
また、百姓が豊かになろうとするのを、我らが卑しいことだと考えてしまえば、もはや農業そのものが
廃ってしまう。」
そう仰られていたのを、津田玄蕃殿が聞いたと、私の亡父瀬兵衛が申していました。
(微妙公夜話)
一概に悪い話でもないですが、良い話でもないのでこっちに。
当時の為政者の農政観のよく出ている話だと思います。
368 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 21:01:24.48 ID:cOr3YAn1
100姓は生かさぬよう、殺さぬよう
369 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 21:33:03.70 ID:nvB8KMmq
よくわからないけど強烈な違和感がある
理屈のどこかがおかしい
370 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 21:41:19.76 ID:0LhSmS+0
371 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 22:23:09.83 ID:RJLdPyED
現代のブラックなサラリーマンにもこんな対応してもらいたい
疲労させて鳥が取れなくなったら、次に交代ですからね
372 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 10:25:57.54 ID:cOnK69Oi
そこへ越後のちりめん問屋と称する老人が(以下ry
373 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 12:50:55.69 ID:bkZ3yb0b
次回「伊達黄門」ご期待ください
374 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 16:55:50.95 ID:cIOYa3qU
(`●ω・')、一揆でもするには武器が必要だろ。やるよこれ。礼はいらねえぜ!
375 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 21:26:46.25 ID:0NWEFxX1
長久手の合戦の時は、卯月九日に小幡を打ち出ました。
その時私(水野勝成)は眼病を散々に患い、そのため兜を付けていませんでした。
それを父の惣兵衛(水野忠重)が見て
「お前の兜はなんのためにあるのか!?こういう時に着けるための兜であるのに、どうして着けないのか?
それで一体何の役に立つというのか!!
そういうことなら使わぬ兜はクソ桶にしてしまえ!!」
(其方か甲ハ何の為に候哉、此時着可申ための甲にて候に、何とて着不申候て何の役にたて申候哉、
左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得)
そういって散々に叱りつけました。私は惣兵衛に
「親だと言ってもそんな言い方は無いでしょう!今日オレの頭を割られても、それはそう言う
運命だったってことだ!是非に及ばぬ事である以上、たった今お暇乞いをいたします!
今日の一番首でも取って…、いいや取ってくる!!」
(親にて候得共左様之御意は無御座事にて候、此上は今日拙者のあたまをわられ申候は則時にて御座候間、
不及是非然上は、只今御暇乞にて御座候、今日の壱番首を取申候歟被取申か)
と言い捨てて馬を引き寄せ打ち乗り、その場から直に敵陣に乗り込みました。
(水野日向守覺書)
有名な話ですが、水野勝成の記憶では、兜をウンコ桶にしろとまで言われていたのですねw
376 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 22:43:39.66 ID:BsOf9FDc
山岡荘八の徳川家康でとりあげてた気がする。クソ桶
377 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 23:46:14.55 ID:u/H0gC+0
似たもの親子www
378 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 01:28:34.93 ID:/ygDX1AN
クビ切り落としてクソ流し込むぞ
とか言わないだけどっかの軍曹よりはお優しい
379 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 01:40:55.45 ID:uVVo617r
荒木道糞「俺はもうひでぇクソだぜ」
380 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 18:21:33.92 ID:l1i8co3u
水野勝成が備中吉井村にいた時、三郎兵衛という人がいて勝成はこの人に従って軍術を学んだ。
ある時、三郎兵衛は鮎を取りに行って勝成もこれに伴った。この時、物が網にかかって
引いても離れなかった。勝成が淵に潜って探ってみると、何か毛のあるものが手に当たったので
勝成は出て来て三郎兵衛にしかじかと告げた。今度は三郎兵衛が潜って引き出してみると、
水底にいたそれは死んだ子牛で、その足に網がかかっていた。
――『福山志料』
381 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 18:56:16.29 ID:SPCcdel0
これだけ?
その死んだ子牛が生き返って海老すくい踊りだした、とかないの?
382 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 19:41:51.01 ID:l1i8co3u
>>381 この話はこれだけ
今思ったけど子牛を引き出した三郎兵衛マジ怪力という話…なのか?
383 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 22:53:30.76 ID:M//NfNzX
三郎兵衛マジ水練が上手という話…なのか?
384 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 04:56:00.93 ID:6FNXoKkA
いい話のほうとセットにしたほうがいいような気も
385 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 05:51:27.42 ID:8YG71P0p
浅井畷の戦いのとき
「小松勢が城を守るために、戦場から引き揚げてから、みんなで敵の首級を、
誰が、どこで、どれだけ取ったか語り合っている。」
「首一つ取るということは、途方もなく疲れるものじゃ。団七兵衛という若者が、
長連竜の家来の小林なるものの首を取ったが、あまり疲れたので、本折町の八幡さま
の前で、その首を傍らにおいて休んでいたところ、松村孫三郎という者が馬に乗り、
若党七、八人を連れて通りかかった。ところが若党の一人が、『あの首は松村殿が、
先ほど突き倒されたものの首でござるぞ』と叫んだ。『それならその首をこちらへ貰え』
と言って奪い取ってしまい、小松勢身方同士で大喧嘩となってしまった。しかし大勢集まって来てとりなし、
ようやく首を七兵衛に戻したと、坂井土佐というさむらいが語っている。」
「また同じ長連竜の家来に、とても力自慢の八田三助というのがいて、今弁慶と言われていた。
それが小松方の西脇左門と組み打ちして下敷きにし、首を掻き切ろうとしたとき、左門が、
『武士の作法だ、名を名乗らせてから打ち取れ』と叫んだ。
そこで三助が『さらば名乗れ』と言って一瞬気を緩めたとき、左門が三助を刎ね飛ばして、
逆にその首を打ち取ったという。」
――『桑華字苑』
百万石物語という本に書いてあった話
386 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 17:45:42.84 ID:HKsrG8Z4
まあ必要に応じて相手を謀るのもまた武士の作法だからね、命のやり取りの場でうっかり騙されちゃったなら首が飛んでも仕方ないね
387 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 20:14:40.79 ID:c3aDqtW6
うむ。俺が教えた通りの首の取り方してるな。
388 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 20:30:25.89 ID:J5O99/KG
伊達政宗公のある時の御話に、
「人間という物はな、仮初めにも身分の高下で分け隔てしちゃいかんぞ。
一座の内に二人居たとしたら、身分よき人をその身分通りに、身分が下の者も同じようにもてなせ。
これは万事に渡る心得であるぞ。
次に、また人々が口癖で、変に面白い言葉使いたがるよな?
最近『以前にこれこれの事があった』という事を、『右にかやうの事御座候』なんて言うが、
こんなものに言われは無い!
いいか?『右』というのは、例えば札や、その他書物などに何々と書きたて、その止まりに
『右条々』と書くものだ。話し言葉で『右』なんて使ういわれは無い!
他所の連中がそんな事を話していても、我が家中においては『右』という言葉と
『冥加なき』と、『御念の御使』という言葉は通用しないと思え!
だいたい冥加がないのなら良いことではないか!
念を入れるのは良い事だが、ただ『御念の御使』なんて言われても意味がわからん!
こんな言葉を使うようなら、誰であっても罰則を申し付けるぞ!」
そう御立腹された。
(政宗公御名語集)
伊達政宗公、世間の言葉の乱れに怒る、というお話
389 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 21:03:03.24 ID:6M0RcRQN
気短いから御念の御使なんていってる暇に本題言えやコルァ!!!!ってことかね
390 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 23:23:47.67 ID:zaxcUgtW
>>386 中学の社会科教師が元寇時に鎌倉武士がモンゴル、高句麗の兵相手に、
「やあやあ我こそは!○○である」
と名乗りあげるから、その瞬間に倒されていたと嘘を教えられた記憶がある。
オレだけかと思ったら他地区で育った人もそう習ったと言っていた
普通に考えて外国人相手に名乗るわけがないw
名乗るとしたら「○○一番槍」と味方に向けてだろう
391 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 00:14:04.14 ID:ALM4qkZf
頼朝に戦の作法を教えていた古武士が最後に、
「まあ、示し合わせて互いに戦場に赴いて、名乗って口上して一騎打ちなんてのは
今どきん若いもんはやってねーですけどね、あーなげかわしい」
って愚痴ってるくらいだから、元寇の頃に名乗ったり一騎打ちを望んでフルボッコにされるとかは
やはり違和感しかないよな
まあ開戦の合図の鏑矢は笑われたようだけど
392 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 00:30:25.50 ID:9eZl+3mI
正直、鏑矢を笑うってのもよく分からん
わけの分からん異文化の蛮族の風習ってすげえ不気味で怖そうなんだが
壱岐対馬の経験で舐め腐ってたのか、朝鮮での事前情報なのか
393 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 11:14:43.13 ID:tMRLxqgE
よく出てくる絵って武士が蒙古を袋にしてる絵だっけ?絵巻で負けてるのをわざわざ描くわけねえしw
394 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 13:33:48.82 ID:SSsodgn3
その蒙古襲来絵詞を残した竹崎季長は恩賞に与るために
先駆けの戦功を認定して貰おうと自ら鎌倉に行って直訴するほど
必死だったわけで
敵の脅威、自らの武勇をこれでもかと熱弁したと思うよ
それこそ恩賞もらった後、余韻に任せて絵を残させるほどに
「俺は名乗り上げたぜ敵は無視したけどなガハハ」と語りまくった
くらいはしてたと思うね
395 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 15:11:08.74 ID:2teiJJ8l
396 :
人間七七四年:2013/09/26(木) 20:28:56.78 ID:5hmhAAq6
伊達政宗公は御座の間には、御身近き衆の他、参ることは無かった。
諸人が言っていたことには、奥に召し使われている12,3、4歳ほどの子供の
善悪を目利きされて、召し使われていたとのこと。
彼らはどんなに難しい、長い金銭の出入であっても、色々に詮索し、首尾を合わせて
報告した。
ある時、政宗公が仰ったことには
「昔から今に至るまで少年を絶やさず召し使っているが、これは、はじめは難しいが、
心付くようになってからは、快いものである。第一彼らは、正直を秘蔵している。
尤も、わやく者(聞き分けのない、わがままな者)は論外だ。だいたい、少年で軽はずみな者は利もない所で
拗ねてしまう。この奥意は皆、わやくである。
次第に年齢が上がるほど、少年も悪く擦れてきて、小使に使うには宜しくない心になってしまう。
後まあ、奥方で使う分には表立って名前が出ないのが、重宝なところだな。」
と、お話されお笑いなされた。
(政宗公御名語集)
伊達政宗が、奥で少年たちを使った理由である
397 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 01:59:35.19 ID:idxaOIML
>>388 > 伊達政宗公、世間の言葉の乱れに怒る、というお話
言葉の乱れで「いだて」さんが「だて」さんになっちゃうしね。
398 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 02:21:25.67 ID:RjCrhnGA
>>390 名乗りを挙げるってのは敵に自分を知らしめるんじゃなく味方にアピールして
手柄を立てた場合の保証人になってもらうって面の方が大きかったり
399 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 17:44:47.28 ID:yDHM3m1S
樫井合戦の時、先鋒塙団右衛門直之、淡輪六郎兵衛重政、岡部大学則綱以下は三千程の勢を
引き連れ、安松を目指してやって来た。ところで、岡部は去る冬に直之が蜂須賀陣へ夜討ちした時、口論して
共に出なかった事に腹を立てていた。
「今日は団右衛門に先陣を越させまい」と、岡部はなにくわぬ体で先へ乗り出した。これに直之が声をかけて、
「約束の通り胴勢を揃えて攻め寄せようぞ」と言った。岡部は振り返ったけれども、うんともすんとも答えずに
進んでいった。
直之は激怒して「侍の義理を違えて先を駆けるなら今日は必ず討死しろ!さもなくば男は立たないぞ!」
と言って、同じく駆け出した。重政も「某は泉州路の案内をお受けしているというのに、後に残ることはできない」
と、同じく乗り出し、彼らは思い思いに馳せて行った。
(この後、浅野勢と戦って直之と重政は討死)
ある本によると、この合戦が終わった後、米田監物、御宿越前守、上条又八らは安松にて岡部に向かい、
「団右衛門を捨て殺しにするようでは、男は立たんぞ」と悪口したところ、岡部は返答も無かった。
このため、彼らは大野主馬介治房に「臆病者を組に置かれることは無用です」と言った。これに治房が、
「もっともな事ではあるが、今に至って物頭を追放するというのはどうしてだ。御利運の上で」と言ったので、
皆々治房とは不和になったという。
ある本によると、岡部大学は塙団右衛門とは古い傍輩で、加藤嘉明の甥川村権七の母方の叔父だった。
大坂陣の時に城を出て剃髪し『愧世庵』と称した。当時の人が大坂陣の事を尋ねれば「某は隠れもなき者であるが、
男のならぬ首尾のためにこのような身となった。よって合戦のなりゆきは一切知らない」と答えたのだという。
――『新東鑑』
400 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 18:08:02.65 ID:Hb+hQVRC
>>394 蒙古襲来絵詞に季長の武勇を宣伝する意図なんてないよ。
季長が馬を射られてしがみついたり、
兜なくして脛当てかぶって戦ったりの、結構情けない描かれ方だから。
恩賞をもらえるように尽力してくれた、
安達泰盛らへの鎮魂のために描かせたものという説が一番妥当だと思うね。
401 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 07:47:28.66 ID:rWse5nVI
小田原征伐の時のこと
蒲生氏郷は南伊勢5郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度関白秀吉の命で
一隊の将として3月2日、居城を出て関東へと向かう事になった。
出発にあたって氏郷は、領内で家中の勢ぞろいをさせ、前駆け、後駆けの手分けもし、
隊伍の編成も済ませると、自分の家重代の銀の鯰尾兜を近習に持たせ、ここにいろと命じて
軍勢の見分をしてまたこの場に戻ると、兜を持たせた近習はそこに居なかった。
この時氏郷は何も言わず、2度めの見分に行き、再びこの場に戻っても、またこの近習は居なかった。
彼には事情がありやむなくその場を外していたのであるが、氏郷は、主君の命を2度までも
蔑ろにしたという理由で、即座に太刀を抜くとその近習を切り捨てた。
これを見た家中の者達は唇を震わせて恐れ、以後、小田原やそれに続く奥羽の陣中で
誰もが厳しく軍律を守り、命に背くものは居なかった。
(関八州古戦録)
402 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 11:51:09.55 ID:QoA5yQew
鞋の紐を結び直してただけで殺されたのもいたな。
403 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 13:37:50.11 ID:K2cXQEQN
サボって母衣脱いでた連中とは事情が違うのに
この近習が複数で有力者の縁故だったらこんな真似できないな
404 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 15:30:25.29 ID:/brKoxzI
あれ、関東衆が軍律違反してなかったっけ
405 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 22:04:58.81 ID:N7gdcvs0
知らん
406 :
人間七七四年:2013/09/29(日) 08:28:01.41 ID:FyfYGyCO
功名をあげるためなら軍規なぞ糞喰らえってのが小田原の時にいて、ルールも理解できねえ関東の人間は要らねえって頭にきたんだっけ?
でもさ、それって関東の武士に限ったことじゃないよね
島原で誰かさんもやってるし
407 :
人間七七四年:2013/09/29(日) 13:07:06.33 ID:qklmdCJM
小田原の陣の時の関東武将は、秀吉の心証を良くする為に手柄を挙げたいと焦ってたってのもあるだろうしな。
408 :
人間七七四年:2013/09/30(月) 20:12:18.09 ID:gcrJMB/f
駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河国、牛窪(愛知県豊川市)より、今川殿への
奉公を望んで参上したのであるが、この山本勘介は散々な醜男で、その上に隻眼であり、
指も足も不自由であった。しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、
勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを
「この山本勘介という者は、大剛であり、特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。
剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています」
と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。
駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したと
いうが、自分の城を持ったこともなく、兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を
知れるものだろうか。彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。
それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。
この9年のうちに剣術のことで2,3度手柄があったが、この当時は新当流(塚原卜伝の流派)
の兵法こそ本物であり、勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。
加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、彼について
非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。
しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、
武士の道の見極めが浅く無案内であったために、山本勘介の身の上のことにまで、
悪い評判が及んだのであろう。
(甲陽軍鑑)
409 :
人間七七四年:2013/09/30(月) 21:04:30.32 ID:bdUHqgFH
歴史小説そのままのノリだな
410 :
人間七七四年:2013/10/01(火) 20:08:09.91 ID:XCRglku3
寛永5年(1628)3月12日、大御所徳川秀忠は伊達政宗の屋敷に御成があった。
秀忠はその日の朝早くに政宗邸に到着。御数寄屋へと迎えられた。
御相伴衆は曲直瀬道三法師、立花飛騨守(宗茂)、丹羽五郎左衛門(長重)であった。
この時、政宗は自身で御膳を秀忠に差し上げようとしたが、そこに秀忠の近習である
内藤外記が、土器に箸を一膳持って、政宗を追いかけてきて言った
「御膳の鬼(毒見)をしてから差し上げてください。」
この言葉に、政宗は御膳を数寄屋の入り口に置くと、内藤に向かって激怒して叫んだ
「外記はいらぬことを申される!この政宗程の者が御成をして頂き、自身で御膳を
差し上げる上は、鬼をする所ではないぞ!
御膳に毒を入れるなどと考えていたのは、もはや10年も前のことだ!
いや!10年前であっても、日本中の神にかけて!毒などで殺し奉ろうとは夢々思っておらぬ!
一度は攻め寄せてやろうとは考えていた。」
(御膳に毒を入るるは早十年前の事なり。十年前にも、日本の神をかけて、毒などにて
殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄せてこそとは思い候。)
そう怒鳴っている所に立花宗茂が出てきて
「いやいや一段とお似合いのご挨拶です。上様(秀忠)も感じ入っておられましたよ。
それにしても御膳が来るのが遅くなっています。さあ、早く」
そう言ったため、政宗は毒見をさせること無く秀忠に御膳を差し上げた。
このとき秀忠は
「さてさて、頼もしきご挨拶かな」
と、直々に政宗に礼を言い、これには政宗も感動し、その場に居た諸人も、
さてもさてもと感じ入った。
数寄屋での饗しが終わると御書院に出て能などを見物され、暮に及んで秀忠は還御された。
(政宗公御名語集)
どうやら1618年(家康の死後2年後)くらいまでは、幕府と戦う気満々だった、
ということを政宗自身がうっかり告白してしまったお話w
411 :
人間七七四年:2013/10/01(火) 20:10:40.49 ID:SET+wKxi
法印じゃくて法師?
412 :
人間七七四年:2013/10/01(火) 20:17:19.13 ID:XCRglku3
>>411 間違えました、
>>410 3行目、×曲直瀬道三法師 ◯曲直瀬道三法印 です。申し訳ありません。
413 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 08:26:26.95 ID:nrVaYYab
コントだこれw
しかしどうやって戦おうと思ってたのかなあ
自分の手勢だけじゃ無理だけど大坂も上杉もないわけだし
やっぱ割とマジで毒殺考えてたのかなw
414 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 09:58:56.34 ID:I+grfi7V
>>413 スペインじゃね?支倉常長の交渉がうまくいって
スペイン軍連れて帰って来たらその辺の時期だし。
415 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 10:50:08.28 ID:25oXKn4G
家康、秀忠、家光の徳川三代に受け継がれし政宗の甘やかしっぷりはなんなんだろう
どうせ口だけと思っていたのか、身内や三河者の危険度・めんどくささに比べたら可愛いものだったのか
まあ、たぶんきっと後者
416 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 12:35:05.66 ID:U00eAB5A
政宗に毒殺の話ってしにくそう
渡辺謙と岩下志麻のすげえ怖い顔が浮かぶ
417 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 15:07:02.42 ID:cdYOoyj6
>>415 秀吉も政宗に甘かったから、天下人に好かれる何かがあったんじゃねーの
418 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 17:11:40.13 ID:8vueely+
そう考えると政宗ってコミュ力高そうだよな
419 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 18:06:48.05 ID:ng7tSOoW
>>413 婿殿が改易された頃だしうちも潰す気なら勝てなくても戦っちゃうよくらいの覚悟だったんじゃないかなあ
420 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 20:52:26.67 ID:iJB5DZsk
家光の懐きぶりとか見てると丸くはなってたんだろうけど
秀忠と政宗は仲良しのはずなのに、時々お互いにものすごい殺る気を感じるのは謎
421 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 21:42:48.45 ID:iuUSeMba
この話、間に挟まるのが立花宗茂ってのがまた味噌だよな。
関が原で西軍だった宗茂がまあまあ、ってやるとこまで含めて台本っぽい感じもする。
政宗、文句つけても宗茂がでてきてうまくまとめてくれるとこまで推察してたりするんじゃなかろか……。
422 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 21:54:14.93 ID:d4Ijro18
うっかり戦国漫画かいこのブログからおもしろかったので引用
>藤龍家譜に引ける旧記に、
>「隆信公仰被候は、織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也、
> 信長九州へ發向候半は、小倉に於いて面談いたし、盃事の時、我等大ワザト(蓋大盃の名)にて三盃飲差て猶豫致は、
> 四尺八寸の大刀にて、一刀に討ち果たすべしと仰被候由」トアリ
http://awabaya.jugem.jp/?eid=2239 隆信「信長は俺が殺そうって思ってたのによー、明智に討たれるとか残念でならんわ」
隆信公マジ肥前の熊、な話
423 :
人間七七四年:2013/10/03(木) 23:30:32.00 ID:ufxjFG31
関ヶ原直前の八月八日、かねてより体調を崩していた井伊直政は病に倒れた。
外様諸侯の相手をせねばならないのに、普段の不摂生がたたったのか体はいうことを聞かず
甚だしく熱を発し、生死の境をさまよう危篤状態が数日続いた。
これを不寝で看病していた医師の某はあらゆる薬を試したがどれもまったく効果が無い。
未だ服用していない薬が一つあったが、それは直政が以前家康より拝領した飲めば生死は二つに一つと言われる劇薬であった。
「これを用いるべきだろうか」
そう尋ねる直政に、匙を投げかけている医師の答えることには
「病ここに至った以上、用いるよりほかありますまい」
その言葉を聞いて劇薬を服用した直政、汐が引くように熱も下がり、みるみるうちに全快し八月十二日には監軍に復帰した。
しかし薬の服用を定めた医師某にはなんの褒美もなく、まもなく改易されてしまったという。
『井家美談』より、直政さんのお医者さんへの扱いが悪い話
424 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 00:00:28.86 ID:dldwxEct
家康さん、なんつーもんを・・・
425 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 00:33:11.90 ID:1KXzwh+9
歴史番組で長篠の鉄砲三段撃ちや、墨俣一夜城
が何故未だに定説として紹介されてるんだろ?
426 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 01:09:00.53 ID:RWMrXuP6
>>423 なんて半丁博打な薬w
てか、なんでその医者が改易されなきゃいけないんだ・・・
427 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 02:40:51.91 ID:4Wc8Gile
「家康様よか劣るとかお前専門の医者やってる意味あんの?」
てな感じに、投げやりで医者としての責任放棄した受け答えだと思われたんじゃねーの?
428 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 03:21:41.09 ID:HaeZBYT1
その辺の医者よりよっぽど知識がある家康様が比較対象だなんて酷な話です、直政殿w
429 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 05:05:45.55 ID:d/gC2trl
でもこのような関ヶ原前で大病を患った話を踏まえると長年の激務に
直政の体は悲鳴を上げ始めていたとも思えるわけで
戦傷が無くても過労で鬼籍に入るのは時間の問題だったのかな…
430 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 17:43:55.13 ID:+iO3ZY7M
逆にこの劇薬のせいで生命力を使い切ったから早死にしたのかもしれん
ゆっくり養生して快復してたら大阪や島原でハッスルしてたかも
431 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 17:51:34.82 ID:fpB3YH0E
寛永四年三月十四日、加藤嘉明は新恩二十万石を賜り、松山から会津への移封を命じられた。
この時、嘉明は「かたじけなき恩命を拝受いたしましたが、会津は枢要の地でございます。
しかしながら、今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。
この地を守る役目におこたえすることができません。できることなら、松山にいたく存じます」
と、これを辞退した。これに対して(将軍の?)「しかしながら、嫡子の明成がいる。
彼がどうしてお前に劣るだろうか。無理に辞してはならない」との仰せがあったので、
嘉明はふたたび断るまでもなかった。そして会津に移り、四十万石を領して若松城に住んだ。
――『寛政重修諸家譜』
432 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 01:08:04.45 ID:63EPQkxw
嫡子がアレだから、どっちにしろ駄目だったような
433 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 17:14:24.46 ID:mWYlaOPV
会津って行く大名ロクな目にあってないように思えるのは気のせい?
434 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 18:26:23.26 ID:4BQaJR0y
要地だからな。
代替わりとかで任せられないと判断されたら速攻で減封移封
435 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 18:27:24.42 ID:TpseN78i
譜代の鳥居ですら速攻改易だもんなあ
436 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 19:40:25.20 ID:lr38n4dg
>>423 生死の淵をさまよっていたとか関ヶ原本戦時とかでも本調子じゃなかったろうに
あの激しい追撃とかやっちゃうのか
437 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 00:28:18.41 ID:zlcutf7n
前田利家の、前田利長宛遺言より、家臣のことについての部分
「長九郎左衛門と高山南坊は、他を見ないで、私に一筋に使えてくれた律義者であるので、
私の死後も少しずつ茶代を遣わすなどして、情けをかけてほしい。
片山伊賀は、大きなことをしたいと考えている人間であるので、もしもの時は謀反を起こすかもしれない。
彼の言葉にも良く気を使って、油断しないように。
徳山五兵衛は色々と他家と繋がって、大名たちとも知り合いになっているようだ。
私が生きている間はおとなしくしていたが、ずっと機会を伺っていたようなので、
私が死ねばきっと謀反を起こすだろう。
きちんと仕置をするように。
山崎長門は良い人物だ。越中での合戦の時も良く働いた。
ただ少々意地が悪く、偏屈な武辺者なので、30人か40人の頭あたりが適当な処遇だ。
それ以上の軍勢の大将にしてはならない。」
前田利家が、自分の家臣をどう見ていたか、という記録である。
前田家も内部で色々在った感じですね
438 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 23:29:40.68 ID:zlcutf7n
伊達政宗公は、毎年元旦には、白い綾の小袖で、桐菊の御紋所があるものを召し、
長袴の上に、鎬藤四郎の脇差し、名物の腰の物を挿されていた。
ある年の元旦、御座の間において越前守(嫡子忠宗)に御祝いの義を仰せ上げられ着座した時、
何のついでという訳でもないが、語られたのは
「この吉光の脇差しは元日だけ、毎年挿している。綾の小袖は伊達家において代々相渡されて
いるので、着ている。
しかし人というものは、死後にばかり譲ると申すものだ。私は、今日の幸いの日に、忠宗に
譲りたいと思う。
先ずこの、藤四郎の脇差しを渡そう。これは天下に隠れない名物であり、太閤様(秀吉)より
脇手での働きの功を以って拝領したこと、諸人に隠れない事実である。
天下様より内々お望みが在ったが(秀忠の御成の時に、御進物としするよう幕閣に勧められた)、
これだけは進上するものではない。
伊達の家のある限り、代々相続し、秘蔵されるべきものだ。
返す返す言うが、他のものに渡すこと、あってはならんぞ。
その他、道具多い中でも、この歳まで影が身を離さないように秘蔵してきたのは、
日理来(わたりらい)の刀、景秀、ハバキ國行、以上の三腰である。
これらは我が命であるので、死後にも能く秘蔵されるべし。
日理来は日理代々の刀であり、この由来はだいたい疑いない。
ハバキ國行は昔はともハバキであったのを、本阿弥(光悦)の所で直させた。
これとても勝る刀はない。
景秀は高麗陣の時、日本の諸大名共出て試し切りをした時に、牛ほどもあるような大男を、
皆々切りあまし、捨て置いていたのだが、私が「この刀で斬るように。」と伝えると、
そこに居た加藤肥後(清正)、浅野但馬はかねてから私と仲が悪かったので、
「皆の衆が持て余している以上、無用である!」
と言ってきた。拒否されたからには、いよいよやってもらわねばならぬと思い、
刀を抜いて清正に渡して
「これは私の小姓の刀である。これにて斬り給え!」
と言ってやると、清正は暫く考えていたので、私は先に無用だと言い切った態度からは
似合わぬことだと思い
「無理にでも斬れ!」
と言って斬らせた所、刀を振りぬくとたちまち胴が両断され、刀はそのまま、土壇の下に
5,6寸打ち込まれた。これには流石の清正も肝をつぶしていたよ。
刀の方はなかなか引きぬくことが出来ず、結局鍬を使って掘り出した。
この刀にはそれだけではなく、他にも数度の手柄があった。であるので、いよいよ秘蔵すべき
品なのだ。
只今これをお前に渡すが、ただし死後までは、私が預かっておく。」
と仰せられた。
(政宗公御名語集)
政宗、秘蔵の刀についての話である。最後のオチが政宗らしいというかなんというかw
439 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 03:22:43.09 ID:sJJk4f6h
細川の奥方を家久・長可・政宗がみたらどうなるの?
440 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 05:47:36.05 ID:zojSSe8U
4人で三成を襲撃
441 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 05:54:41.44 ID:ruMTzq6s
鬼武蔵は七将とは関係ないだろ
でも弟たちの敵の娘としてガラシャに悪意は
安田作兵衛かかえてるしないか
442 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 08:27:48.76 ID:2QoafY8a
>>438 >この刀にはそれだけではなく、他にも数度の手柄があった。であるので、いよいよ秘蔵すべき
>品なのだ。
せいしょこさまをDISって、他エピソードは省略かよ!
443 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 08:33:01.10 ID:dsUa9cWv
なんという「渡す、渡すといったが今とは言っていない。その気にれば10年後20年後私が死ぬまで…ククク」
444 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 15:28:55.51 ID:a5yONJXY
つ 爆薬
445 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 19:05:03.12 ID:KinS+2es
(`●ω・')「あ、それとお年玉は預かってあげるから全部出しなさい」
446 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 21:58:14.24 ID:W0qi+rBZ
天正18年(1590)小田原の陣でのこと。
5月3日、小田原城の東側に陣を張っていた蒲生氏郷は、北条方の太田十郎氏房の夜討を受け、
激戦となりなんとか城まで押し戻したものの、主将の氏郷自身も、胸当てに3,4ヶ所の槍傷を受け、
十文字槍の柄も5ヶ所まで切り込まれており、有名な銀の鯰尾兜には、矢が二筋も立っていた。
それほど激しい競り合いであったのだ。
その夜の戦いで、氏郷の家臣である佃又右衛門は、夜襲と聞くや素肌(鎧を付けないこと)で
駈け出して敵と槍を合わせたのだが、この合戦の後、氏郷は佃に声をかけて
「あの時は汝もいささか狼狽していたようだな。槍の鞘をはずさず戦っているところを見たぞ。」
と言った。佃はこれを聞くと
「!、あの闇夜の中、見ぬかれた殿のご眼力には恐れ入ります。私は前夜、雨模様であったため
槍に鞘をかけていたのですが、火急の事ゆえついそのまま合戦に及びました。」
「えっ?」
「え?」
「何だ又右衛門、それはまことか?」
「…え?」
「オレは冗談のつもりで言ったのだが…。本当に鞘をつけたまま戦ったのか。」
「…え!?」
又右衛門は『しまった!』という顔をしたが、氏郷は又右衛門が正直なの事を笑って褒めた。
しかし佃又右衛門は、後に同僚たちに
「空がいかに曇って雨模様とはいえ、鞘をかけたまま敵前に出ては武士の面目に関わる。
あの時私は、ちゃんと鞘は取っていたのだ!
しかし大将が鞘を取っていなかったというのに、取っていたと言ってはかえって自分の功を
言い立てているようでみっともないので、大将に花を持たせてああ言ったのだ。」
と笑って言ったそうだ。
(関八州古戦録)
そんな小田原の陣での、蒲生軍の一コマ。
447 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 22:15:17.68 ID:odzGeivf
蒲生軍楽しそうでいいなw
448 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 22:26:29.98 ID:3uUMpy7M
頑張ると蒲生姓がもらえちゃうアットホームな職場です
449 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 22:29:31.34 ID:+pot8Xa+
もしこの時兜もった近習がいなくなってたら
450 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 22:44:46.71 ID:gEnjOoDZ
ブラック企業蒲生家「お前さ、二回目は無いって最初に言ったよね?(言ってない)」
451 :
人間七七四年:2013/10/08(火) 17:33:45.72 ID:v/+2R+XN
慶長五年、石田三成は好意を手厚くして、九鬼嘉隆の一命を請うて味方に招いたが、嘉隆は
「すでに致仕して頼むべき家臣もいない。それに老年の身で一味しても無益だ」と応じなかった。
その後も三成は再三使いを立てて「無勢ならば紀伊国新宮の城主、堀内氏善が属するであろうから、
かの手の人数を従えて、指図をなさっていただきたい」と、しきりに申し送ってくるので、
嘉隆は「このうえ断れば命を惜しむようなものだ」と、止むを得ず三成に味方し、息子守隆の
鳥羽の城を奪い、氏善とともにこの城に立て籠もった。
――『寛政重修諸家譜』
452 :
人間七七四年:2013/10/08(火) 22:45:46.13 ID:1YyzmCjY
まあ、伊勢湾の通行税問題で家康を恨んでたとは書けんわな
453 :
人間七七四年:2013/10/08(火) 22:55:41.05 ID:kMmu4Moz
昔、京の南西にある芥川宿の西にかかっている芥川橋の下に物騒な追い剥ぎが住んでいた。その追い剥ぎは
一人で京から下ってくる金を持っていそうな旅人を見つけると、あとを尾けて芥川橋の西にある人通りの少ない
ところで襲いかかって金品を強奪していた。
ある日、日暮れのあわただしい時間に追い剥ぎが宿場をうろついていると、京の方から金をどっさり持って
いそうなお女中風の若い女がやってきた。追い剥ぎは彼女がどこの宿に泊まるのか見届けると、橋の下に姿を
くらました。次の日、夜明け前からその宿のまわりをうろちょろしてその若い女が出てくるのを待っていると、
まだ暗いうちにその女中風の若い女が出てきた。
追い剥ぎは尾行して女が芥川橋を渡って人気のない場所まで来たところで、後ろから切りつけて一太刀で
命を奪ってしまった。この女中は京で名の通った屋敷に奉公していた女で、主人のお手つきとなって妊娠した
ため、たくさんのお金を渡されて実家に帰る途中だった。追い剥ぎが女中からお金を取り上げると、女中の
おなかから赤ん坊が生まれてしまった。赤ん坊の男の子を取り上げる羽目になった追い剥ぎはその子を育てる
ことにした。その子が無事に育って大きくなると天下の大泥棒 石川五右衛門になった。
石川五右衛門は血筋は良かったのに追い剥ぎに育てられたせいで大泥棒になってしまったのだ。
454 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 08:25:37.11 ID:uk5GuWBm
追い剥ぎイクメンかよw
455 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 10:19:00.93 ID:VDKPa5DF
赤ん坊を背負って追い剥ぎしてる光景を想像すると
なんかシュールだな
456 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 10:53:13.72 ID:ljiwRtmA
今日は夜泣きが酷いから仕事(追剥)に出るのは止めとくか・・・
457 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 11:49:49.92 ID:LuUxl7qY
昔の強盗のほうが人情があったみたいだな
いまなら放置していくだろう
458 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 17:34:17.78 ID:AO9RhX2D
強盗を基準に人情うんぬん言われても、と思ったが小泉八雲も「停車場にて」で
http://www.geocities.jp/kaijyonouta/hearn/at_a_railway_station.html >日本では最もよく知られた盗賊の石川五右衛門に、つぎの話がある。
>ある夜、殺して、盗みを働こうと人家に忍び込んだときに、自分に両手を差し伸べている赤ん坊の微笑みに、
>五右衛門はすっかり気を奪われた。
>そして、この無邪気な幼子と遊んでいるうちに、自分の所期の目的を達成する機会を失ったというのである。
> これは信じられない話ではない。
>警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもらに示した同情の報告がある。
>地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものであった。
>警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見したが、まったくの無傷であった。警察によれば、
>犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。
こんなこと書いてたから日本の強盗の気質なのか・・・?
459 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 18:56:24.98 ID:k3V+xHOj
DQNがたまに常識的な行動とると何故か良い人扱いされる、みたいな?
460 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 23:41:08.60 ID:hYVW3Gf8
都に一団の盗賊が集まり、これが目に余る害を与えた。
それというのも、誰かの財布を切るために人を殺害したからである。
そんな風で、伏見、大坂、それに堺の街路には、毎日毎日夜が明けると死体がごろごろしている有様であった。
苦心惨憺したあげく、日中は真面目な商人の服装で歩き回り、夜になると昼間偵察しておいたところを襲う日本人だということがわかった。
その中の幾人かは捕らえられ、拷問にかけられて、これらが15人の頭目だということを白状したが、
頭目1人ごとに30人から40人の一団を率いているので、彼らはいわば1つの陣営だった。
15人の頭目は生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔に処され、
盗賊にも、子供も大人も一族全部もろとも同じ刑に処された。
以前ちょろっと出てた「日本王国記」の石川五右衛門についての記述の本文の方
461 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 00:28:51.89 ID:vYM3XWPL
これだけの集団になったら巾着切りなんて割りに合わんだろうに
てか殺してるから巾着切りとはいわんか
まあ、よほどの獲物でないと非効率なのは変わらんだろうが
462 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 07:44:36.78 ID:VIzbjQ+q
永禄6年(1563)春、武田信玄は1万3千騎あまりにて西上野へと出兵した。
ここで西牧城を守っていた小幡憲重より、彼の娘婿ながら武田と敵対する小幡図書助の守る
国峰城を攻めることを提案された。
「では、先ずその国峰の小幡図書の性格などを話してみよ」
信玄は敵将の性格などを把握した上で、作戦を立てるのが癖であった
「はい。小幡図書は力量もあり、物事の判断も人一倍優れておりますが、一面非常に短期で、
不意のことに逢うと、気が動転する癖があります。」
これを聞いて信玄が立てた計略はこのようなものであった。
先ず小荷駄奉行の内藤修理介昌豊を呼び、一頭の馬に提灯2つづつを結び付けさせた。
馬を引くものにも松明1本づつを用意させた。
信玄の旗本にも全て、竿の先に提灯を結びつけたものをもたせ、それから国峯城に近づき、
付近の高台から、合図とともに一斉にこれらの明かりを振り上げ、鬨の声を上げて攻めこむ、
そのように決定した。
こうして西牧を出立した軍勢は、甘楽郡を通り国峰へ差し掛かったが、わざと夕方まで待って
丘に上がり、先ず、旗本の一隊が提灯を掲げ、鬨の声を上げた。
それを合図に内藤修理の小荷駄隊が、すかさず城の下から城門に向かって歓声を上げながら駆け上がった。
大手門に向かう甲州兵もどっと鬨の声を上げたので、これに城内の兵は慌てふためき、直ぐには
防戦の体勢も取れない有り様であった。
まして大将である小幡図書に至っては、兵以上に周章狼狽し、闇夜に大群に襲われたのだと思い込み、
暫くは敵の攻撃を防いでいたものの、手勢が少なく防戦に疲れ、遂に自害し国峰城は陥落した。
(関八州古戦録)
武田信玄の敵将の心理面も計算した作戦に、小幡図書助、まんまと引っかかった、というお話
463 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 09:43:13.13 ID:+kNr1Lv0
と、図書助...
464 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 16:30:36.62 ID:kuJqxrpR
∧∧
ヽ(・ω・)/ ズショー
\(.\ ノ
、ハ,,、  ̄
 ̄
465 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 19:13:52.24 ID:/yWrti/2
江戸にいる蜂須賀家政のもとに淡路岩屋の百姓達十人ばかりが訴えてきた。
その子細は、岩屋に置かれた伏屋源兵衛は普段から万事辛く沙汰を行い、
その上、失態もあった。この数々を紙面で願い上げたが取り次ぐ者がいないので、
夜に岩屋より抜け出し、紙面を江戸に持参して直訴したのだという。
家政はこれを聞いて百姓達に向かい「皆々がはるばる参上して、この坊主を
取りはからうに足りる者と頼りに思ったことを満足に思う。私が帰国の上で
速やかに糾明しよう。
長旅にさぞ苦労したことであろう。ここで緩々と逗留して労を休めて、私より先に
帰るがよい」と言って、懇意の意向を示し、料理を与えた。百姓達は大喜びして
淡路へ帰った。
さて、家政は帰国すると「速やかに岩屋の百姓達は残らず参るように」と命じ、
百姓達は喜んで早々に参上した。この時、家政は国奉行をもって「お前達は先頃、
江戸へ参上した時に、どのようにして関所を通ったのだ」と尋ねた。
これに百姓達が申し上げるには「伏屋殿から隠れて仮屋より船で大坂へ参り、
それから江戸へ参上いたしました」とのことだった。
これを聞いた家政は「不届きな奴らめ。国法に背いて関所を破った罪は免れない。
ことごとく磔にせよ」と命じた。この仕置きによって岩屋は治まったという。
――『尊語集』
466 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 23:08:42.18 ID:6nNqVx6r
竜巻ってゅうのゎ。。
竜ぉ巻いたもの。。。
そして伊達巻も、竜ぉ巻ぃたもの。。。
そぅ。。これゎもぅ。。。
竜巻=伊達巻ってゅうコト。。。
次々と建物の屋根ぉ吹き飛ばす伊達巻。。。
もぅマヂ無理。。。
相撲とろ。。。。
467 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 10:25:16.87 ID:KfanJUNz
↑?
468 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 21:14:02.01 ID:vjD442jk
伏屋源兵衛で検索したら水軍関係者っぽいPDFあったし、まあこっち取るわな
469 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 08:07:25.09 ID:z1NuZfd6
慶長17年(1612)9月2日(異本に22日)、伊賀では暴風雨により、上野城の天守が吹き壊された。
この天守は前年から建設が始まり、ようやくほぼ完成に居たり、この日は五層目の屋根の瓦を
葺き終わったところであった。
ところが、まさにその時黒雲が四方に湧き上がり、大樹を抜くほどの大風が吹き荒れた。
藤堂家の家臣である石田久七は、工匠数十人に命じて、風雨からの被害を防ごうと天守にあって
彼らを指揮した。
そんな中、申の刻(午後3時頃)に至って風はますます強くなり、遂に、天守の三重目を
吹き崩して、巽((東南))の方向に崩落させた。この時、風の勢いがあまりに強く、
三重目を吹き切ったため、上の二重はそのまま下の台に落ち留まった。
ダルマ落としのようになったのである。
この崩落の音は数理離れた場所にまで轟き、城下の士民は騒然となった。
この時の士卒の死傷者は大変多く、平松喜蔵、今来某を始めとして墜死した。
(死者は180名とされる)
天守で指揮をしていた石田久七は、天守の中にまで横雨が吹き付けたため崩落の時傘を持っていた。
そして吹き飛ばされ、7,8間(約14〜5メートル)の高さを落ちたが、傘のおかげが、
負傷はしたが死には至らなかった。しかし一生不具となった。
石田の従僕も傘を持って吹き飛ばされたため、命だけは全うした。
その他、何か材木など何かにしがみついていた者は、多く死を免れたそうだ。
(高山公実録)
天正17年、暴風雨による伊賀上野城天守崩落についての記録である。
470 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 09:00:38.57 ID:JQoWH9ru
メリーポピンズより先に傘で飛ぶ人がいたのか。
471 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 09:13:29.39 ID:o8PMwWUW
472 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 11:03:33.20 ID:vk7TC2+n
俺の爺ちゃんは阪神大震災の時に2階で寝てて、1階だけが崩れて2階がそのまま下に落ちて無事だった。
473 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 12:07:50.13 ID:EAGJDFGW
傘で飛ばされたってことか、すげーなw
474 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 18:36:53.28 ID:GL7O1lDq
ある本によると、真田左衛門佐は茶臼山の出先に屯したが、子息大助を呼び、
「其の方は昨日の一戦で負傷したから望ましい働きは叶うまい。それに思う仔細が
あるから、其の方は今のうちに御城に帰り、御前の御先途を見奉れ」と言った。
しかし、大助は「戦の始まる直前にそのようなことをするのは本意ではありません。
父君と死をともにしたく思います」と承知しないので、左衛門佐は大助を近くに
呼び寄せ、何やら申し含めた。
すると大助は伏してすぐに馬に乗ろうとしたが、父の方を見遣り続けて、離別の情は
切なるものであったので、左衛門佐が近臣をもって心強く言い遣ると、大助はこれに
励まされて馬を乗り出した。
それでも大助は幾度となく父を見返って城へ帰った。衆人は父子の別れを見て、
涙を流さない者はいなかったという。
ある記によると、真田左衛門佐は「秀頼公の御出馬を急がせるべし」と、大野治長と
示し合わせて城中に帰し、なおも「御出馬を急いで勧め奉れ」と大助を帰した。
それを知らない士卒らは「大野も城中に逃げ入り、真田は味方の負けを知って
我が子を城へ帰した」と言ったという。
――『新東鑑』
475 :
人間七七四年:2013/10/13(日) 10:15:15.14 ID:3sbmom2J
天文12年(1543)正月3日、武田家の家老衆が集まり、その年の武田晴信(信玄)公の軍備について
会議が行われた。
そこで話し合われたことに、諏訪、佐久、小縣という敵味方の境に城を構える場合、
その構え方さえ良ければ千人の敵兵に対して味方300で持ちこたえることが出来る。
これには城の縄張りが重要である。
このような城の縄張りについて良く知っている剛の者が、駿河の今川義元の家来である庵原安房守の
身内に居る。彼は義元に奉公したいと望んでいるが、義元の方では召抱えようとしない。
この者は三河牛久保の侍であるが、四国、九州、中国、関東までも巡り歩いた。
この大剛の武士の名は、山本勘助という。
板垣信方はこの勘助を呼び寄せ、お召し抱えに成るよう晴信公に提言した。それにより
その年の3月、知行100貫という約束で駿河から勘助を呼び出した。
勘助からお礼の挨拶を受けられた晴信公は、即座にこう仰られた
「勘助は片目であり、数カ所の負傷で手足も少々不自由のように見え、しかも色は黒い。
これほどの醜男でありながら、高い名声を持っているのじは、よくよく能力に優れた誉れ高い武士であると
思われる。そのような武士に100貫では少ない!」
そうして勘助に、倍の200貫をくだされた。
その年の暮れ、11月中旬に晴信公は信濃に出陣された。
11月の下旬から12月15日までに、9つの城を陥とし晴信公が手に入れられたが、これは全て
山本勘助の武略によるものであった。
時に晴信公、22歳の頃である。
(甲陽軍鑑)
良い話なんですけど、晴信公、初対面の勘助さんに醜男言い過ぎですw
476 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 08:23:06.12 ID:t2jqhrbE
男でも色の黒いのはダメなのか・・・「しかも」ってw
477 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 14:45:50.53 ID:46He+r5z
蜂須賀家の家老に不和な関係の者がいた時、蜂須賀家政はそれぞれを
西の丸へ呼び出した。そして家政は、
「おのれの威を振るわんがために家老たちの仲が悪くなることは
大きな不忠である。大名が身の上を潰すような国を危うくする出来事が、
家老の不和に基づいて起きた例は少なくない。この中にも不和な間柄の者が
いると聞いた。今後は、そのような者(一本志)のないようにせよ」と言って、
刀を左の膝に敷いて、機嫌を悪くして怒った。そして酒を持って来させて
「おのおの盃を致せ」と命じ、それぞれ盃をして退出したという。
――『尊語集』
478 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 19:26:58.70 ID:Ve7k81C6
家老「チッ、うっせーな」
479 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 20:51:04.34 ID:X/J4rbZ0
「刀を左の膝に敷いて」とは、どういう状態?
怒ってるぞ!ってこと?
480 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 20:57:17.45 ID:GRINmup/
いつでも抜けるようにしてってことか?
481 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 21:20:17.09 ID:8fHQ++1g
手打ちにするか、手討ちにされるか
482 :
人間七七四年:2013/10/14(月) 21:37:33.47 ID:X/J4rbZ0
臨戦態勢ってことか
ありがとう
483 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 05:13:56.96 ID:Ctov/Cob
天文15年(1546)、武田信玄の配下である真田弾正幸隆の元から、二人の武士が村上義清の元に逃げ込んできた。
彼らは須野原若狭・惣左衛門兄弟。元々海野家の家老筋の一族であり、武勇に優れ、智慧と才覚があり、
戦の技術をよく身につけていた。
義清もたちまちこの兄弟を信用したが、そこで兄弟は
「我々は真田の城の事を良く知っており、これを奪って差し上げたいと思います。そのために、優秀な武士を選んでお貸しください」
と提案した。
義清はこれに乗り、旗本の騎馬武者まで出して、有能な武士500人を選んだ。
そして充分に用心し、慌てぬようにと言い含めた上で、須野原兄弟に引きあわせた。
そして兄弟には、乗馬、鞍、太刀、脇差、朱印の付いた知行の目録を添えて出した。
兄弟は太刀と脇差だけを受け取り、他の物は返して
「近いうちに作戦を成功させた上で参上し、重ねて頂戴いたします。」
と申し上げ、義清の言うとおりに熊野の牛王の起請を書き、そして村上家選り抜きの武士たち500人を率いて
真田の城へと向かった。
侵入は成功し、彼らは二の郭まで入った。
その時、前後の門が突如閉ざされ、本城と三の郭より挟み撃ちにして、村上勢500人は、一人残らず討ち取られた。
味方の死傷者は皆無であった。
これは真田幸隆の謀略であり、これによって、翌年の上田原の戦いで、武田晴信は勝利を治めたのである。
(甲陽軍鑑)
村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末である
484 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 06:12:59.15 ID:BvHguEef
485 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 10:06:03.47 ID:/XH27CqB
ジャーンジャーン、げえっ
486 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 15:12:32.37 ID:oHFTAcwH
津軽為信!
487 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 15:38:25.47 ID:uP2U4DJm
上田原って武田の負けじゃないっけ?
488 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 15:45:16.65 ID:hoyotCI2
戦国時代の話を読んでるとなんとなく麻痺してくるけど、ふと現代人としての感覚に立ち返って考えると凄い画だよな
500人を囲い込んで皆殺しって
489 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 18:19:39.28 ID:4q8jqKeB
板垣や諸角が討ち取られて晴信も手傷を負ったのは、
騙まし討ちされた将兵の怨みを晴らさんが為、
村上軍が獅子奮迅の働きをみせたから。
すごいいい話になる
490 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 18:24:51.94 ID:4q8jqKeB
諸角じゃなくて甘利だった
491 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 21:10:06.36 ID:P1u3Of2P
俺も挟み撃ちにされて皆殺しにされたい
492 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 06:44:32.97 ID:SXhTaggh
尿道と肛門に俺のマドラーぶっ刺してかき回してやんよ
493 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 12:37:05.81 ID:VLp4v6e/
ん?
こりゃ楊枝か?
494 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 21:08:09.33 ID:KfPVblTs
これは中々強烈だな
> 134 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/16(水) 21:04:52.34 ID:yIg5aA8n
> 豊後の大友吉統が天正18年3月に柞原八幡宮(豊後)に願文を捧げてるんだけど
> その内容がかなり衝撃的だったので書いとく
>
> 「近年、豊前国に居住した官兵衛は 悪 逆 非 道 の人 である。
> 神明に背き、人心を妨げ、ほしいままに振舞っている。吉統はかねて諌める
> 気持ちがまったくなかったわけではないが、官兵衛の豊前での非道は歴然としている」
> とあって、続いてあいつが豊後に攻めてくる疑いがある。
> もし祈願成就(官兵衛を討つこと)したなら宇佐郡一円を神領として
> 寄進すると記している(柞原八幡宮文書)らしい
>
> 豊前で大友家を怒らせるような何か悪行を官兵衛がしたらしいんだけど
> 真正面から「悪逆非道」と書かれて本気で死ねばいいと祈願されているのは
> ちょっとすごい
495 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:18:51.76 ID:/eOjdWPc
多分、自分を敬わなかったとかそういう所じゃないすかねぇ
真面目に考えると、キリスト教関連か、時期的に小田原征伐関連?
496 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:22:11.34 ID:uDTiWdCC
天正18年頃だと国人の弾圧じゃね?
497 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:24:15.98 ID:6DazsPrl
>>494 キリスト教嫌いなのに、官兵衛の勧めでキリスト教の洗礼受けたら
秀吉が禁教令だして面倒なことになったのと、
官兵衛に謀殺された城井鎮房と縁戚関係だったからかな
498 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:30:30.25 ID:PIiyUuFj
来年の大河で吉統が官兵衛のライバルとしていろいろ暗躍
するわけないか、情けないネタばかりだし
(耳川、内紛、戸次川、朝鮮で友軍助けず改易、石垣原、流罪)
499 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:41:27.18 ID:6DazsPrl
黒田家譜にも載ってる吉統を見捨てられない
吉弘統幸の苦労はやって欲しいな
500 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 23:48:23.99 ID:8bdtkuG3
\_______________________/
・・・と、思う吉統であった
,--、、,,,,,,,,,,,,,,,,
{::::::::}三三三ミミミ`、、
>ー-"'" ⌒,,ィシヽミミiミミ 、
/ 三彡彡彡ィ`、ミミミ`、
/ シ彡彡彡彡ノ'ヽミミミ`、
,' ,三彡彡彡彡彡ソ,ー--'
l _ _ """'彡彡彡彡彡ノi
{;、 ';;;='''"""` 彡彡彡 - 、ノノi
kr) .ィェー 彡彡' r、ヽ}彡i
レ' .. シ彡' )ァ' /彡'
{_,,,、 ;、 シ彡 ニンミミ{
l '''"::. 彡ミi
! ̄"` ...:::::::: ノ""{
l .......::::::::: / \_
`''ー- 、:::: / /
501 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 01:52:05.81 ID:nqn8GGwM
おそらく既得権益解体時のいざこざだろうな
502 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 14:51:40.56 ID:vo/UBaTz
ふつうに黒田による城井一族謀殺の件での遺恨ではないかと
吉統の叔母(大友義鎮の妹)が城井鎮房の正室だから
大友家にとって城井は家臣で一門。叔母ともども騙し討ちにあってるわけで
大友家からすれば官兵衛の所業が「悪逆非道」に映っても別に不思議ではない
503 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 18:36:59.07 ID:uBxFXaK2
磔にされた城井家の鶴姫とは従兄妹同士か
504 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 22:15:14.44 ID:AVdTTAxR
豊前取られたのが悔しかっただけでは
505 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 22:47:38.72 ID:Nih+ZW4X
経緯を普通に考えれば、義統がかんべー恨むのは当然なのに
「なんの逆恨みか知らんが願掛けで呪うとか相変わらず器の小さい奴だなあ」
ってフィルターがかかってしまうのは間違いなくこのスレのせいだな。
506 :
人間七七四年:2013/10/17(木) 23:28:57.38 ID:dfCilp8k
まぁ黒田関係の逸話はこのスレっていうか黒田家譜のフィルターが
大いにかかって美化されてるのは事実
江戸期に近世大名として残れなかった大友とかはその点不利ではある
同じ豊前を分けあった小倉6万石の毛利吉成(勝永の親父)と黒田孝高も
豊前入国後、城井氏の処遇をめぐってお互い嫌いあって険悪な仲になってる
毛利吉成はむしろ当初の所領安堵の約束を反故にされた城井に同情して
自分の領地の一部を鎮房に与えて、秀吉との間を仲介しようとしてたりする
逆に黒田家からしたらようやく手にした豊前の自分の所領が下手すると
どうなるかわからないわけで
案外、黒田孝高を嫌いな大名って多い気がする
507 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 02:43:25.94 ID:0hdfZqT/
戦国時代なんて、「自分以外は全員敵」くらいに思っていてやっと生き残れるような時代だろ。
そんな時代に隣あった大名同士の仲がいいなんてあんまりないんじゃないの?
508 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 06:49:34.81 ID:ZfsiqCJa
自分以外全員敵なんて事になったらあっという間に滅亡しちゃうよ
509 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 07:19:15.71 ID:2TpUc4PQ
政宗「」
510 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 09:41:57.47 ID:0I1EC4aM
>>509 そいつはいざとなったらママンが助けてくれるだろ
511 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 10:33:37.53 ID:kGAFFxhF
512 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 11:42:11.78 ID:ygfcrso0
>>506 関ヶ原時の国替えの時に年貢を持って行って細川とも一触即発な感じだったけど、
あれはNGMSの仕業だったっけ?
どちらにせよ黒田家にはあまりスマートなイメージは無いな。
513 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 11:47:17.67 ID:Y9el8FYG
鍋島とも揉めてるし、なんか黒田の施政ってねえ
514 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 14:09:46.03 ID:si0X43mw
隣の岡山の義理3があまりにデンジャラス過ぎて大して悪くないと思われてるんだろうなw
515 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 18:01:01.38 ID:b+pXQo94
徳川家康が大坂城を攻めた時、本多忠朝は家康の仰せを受けて向かったところ、
川が前方に流れていて水は深く、城を攻めるには機会が好ましくなかった。
忠朝がこの事を家康に告げると、家康は機嫌を損ねて「お前の父は合戦の時に
山だろうと川だろうと厭わなかった」と言った。
忠朝は口惜しく思って「討死しよう」と思い定めたが、程なく東西が和睦したので
心中穏やかでなかった。しかし、明くる年の夏に再び戦いとなったので、
忠朝は「今度こそ本意を遂げるぞ」と思い、戦って死んだという。
忠朝の朗等は主の遺体をもたれかけて家康の御馬の前を過ぎ、家康はこれを見て
涙を流したということである。(此時忠朝の家臣五人に感状を賜りしと云)
――『藩翰譜』
516 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 21:00:10.07 ID:zCVj+pE9
あるとき武田晴信(信玄)が、山本勘助を呼んで聞いた
「そなたの生まれた三河国では、近年優れた大将は出なかったのか?」
これに勘助は答えた
「最近では、松平清康という大将が、弓矢を取っては敗れること無く、生国の三河を征服し、
同国の侍大将たちを与力として従え、いまにも尾張国を手に入れようと、意欲的に活動していました。
彼は尾張と数度の合戦を重ね、尾州勢五千に対し、三河は千の軍勢でも、一度も負けること無く
尽く勝利を得ていました。
5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。
そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで
亡くなられてしまいました(森山崩れ)。
今は清康の息子である広忠の代ですが、他国に広げた勢力圏は勿論のこと、本国三河すら
他人の物になろうとしています。
もし清康が健在であったら、三河侍は今自分、皆清康譜代として他国に威力を振るっていたでしょうに、
果報少なく不運だったため、思いがけぬ死によって、哀れにも今では本国の人々でさえ、
子息広忠の統制下にはいらない状況なのです。」
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より、山本勘助の目から見た、松平清康、広忠の時代の三河についてである。
517 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 21:08:51.70 ID:mf74572e
伊勢に取り残された三河衆「やべっ帰れねえよ」
518 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 22:40:56.35 ID:MyTHkvap
絵に描いたような後付
519 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 23:43:25.45 ID:0hdfZqT/
松平清康って美濃や伊勢に出兵したことあったっけ・・・
520 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 23:50:28.15 ID:8Y5WAdai
知らん
521 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 13:25:06.36 ID:Iazoyc2R
グラップラー刃鬼
522 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 21:49:30.57 ID:kwAootqa
清康のとき今川方面は攻めたりしなかったの?
523 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 22:24:04.84 ID:JTo68RAX
524 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 22:45:01.61 ID:89+jMl0r
忍城って工事中に戦争終わっちゃったとこだっけ
525 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 22:50:49.63 ID:Be3/gGQ4
526 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 23:08:30.95 ID:s4ABQkQe
>>516 俺もこの部分投稿しようと思ってたけど、
>5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
>尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として
>名を馳せ、遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。
>そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、不慮のことで ……
この部分、正しくは
5年も存命でしたら、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、彼を主君と仰いで、
尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、近隣諸国に威力を振るい、清康は武辺の家として
名を馳せ、遠国の牢人衆まで馳せ参じて清康を主君と仰ぐので、 本国三河の事は言うに及ばず、
尾張の者まで清康の譜代となっていたことでしょうに、不慮の儀にて……
だと思うぞ?新編岡崎市史はこの解釈だったし
527 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 23:15:51.21 ID:2mLYCHGx
松平清康なんかよりも、織田信秀の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料
528 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 23:18:41.13 ID:89+jMl0r
松平清康なんかよりも、フェリペ2世の方が全然勢力拡大してるのにスルーするし
所詮、甲陽軍鑑は江戸時代のインチキ資料
529 :
人間七七四年:2013/10/19(土) 23:24:44.11 ID:s4ABQkQe
というか信秀の勢力拡大って清康の夭折も一因なんじゃないの?
まあ清康の勢力拡大も今川氏親が死んで後継ぎの氏輝が幼少だったのに乗じてだけど
530 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 10:52:19.68 ID:cEfgxVoU
天正10年(1582)、甲斐武田家を滅ぼした織田信長は滝川一益に関東を任せる。
そして関東での一益の行動を便利にするため、下総の千葉良胤(原文では胤富)に、一益に従い
協力するようにとの勧告状に、名馬一等を添えて使者を出した。
千葉良胤はその勧告状を見て、激怒した。
「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田に従ったからといって、これは上見ぬ鷲の思いあがりというものである!
こんな文書をよこすとは、奇怪至極。
たとえ総州の千葉家が小国だとはいえ、右大将頼朝公以来の、武家の名門である。
関八州において何れの列侯に、我が千葉氏の上座に座るものがあるだろうか!
一時の武威に奢って、誰も彼も自分に靡いてくるなどと考えるのは、もっての他の事である。
このような書状、返事に及ばぬ!」
そう言うと信長の送ってきた馬の尻尾を切って通に放り出し、使者の髪を剃り落として坊主にし、厩橋に返したという。
(関八州古戦録)
531 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 10:53:36.96 ID:B1EW+Wv+
>>525 そら軍記に書かれてるような
「勝手に水攻め→味方に大被害」なんて失態をマジでやらかしてたら
あの場にいた誰かが何らかのお咎め受けないとおかしいしな。
532 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 11:03:07.98 ID:o9prHf2z
これは毛利安右衛門という浪人が
大阪の陣で長宗我部盛親の手勢に属して戦ったときのことを
嘘偽りなく、ありのままに語ったことである。
「今どき畳の上では想像も出来ないことだろう。
戦というものは昼夜油断なく心を苦しめ、夜は露霜に犯され安々と眠ることも出来ず、
いざ攻撃というときに、竹束の陰にいて夜を明かすまでの心持といったらない。
城内の者は昼夜油断なく守って、食事はただ飢えを助けるまでのこと、
うまい、まずい、などとは寝言にも出せず、なかなかに浅ましいことである。
喧嘩なら互いの怒りの上の事で、死んでもそれまでだが、合戦には怒りはない。
ただ主君への忠を思って働くまでのことである。
城の中でも寄せ手の中でも流言飛語を放ち合い、
誰々は逆心を企て敵に内通したとか、やれ何だとか、
毎日毎夜さまざまな風説が立って人の心を驚かす。
さて敵と取り結び、互いに鑓を合わせる時は、土煙が立ってすさまじいものである。
一命を捨てての合戦なれば、人々の心は朧月夜に夢路を行くが如くで、
場なれて武功のある人などは、場数少なき者とは違い、
少々は目もあいて、はっきりしているであろうが、
『それでも朧月夜のようになることは同じだ』と、場数を踏んだ士もよく物語った。」
533 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 11:04:01.82 ID:o9prHf2z
「我らは鴫野堤の合戦(八尾の戦い)に、堤の下に皆々折り敷いて鑓を伏せていたところが、
藤堂和泉守高虎の軍勢が寄せてきた。
だんだんと寄せ太鼓の音が近くなってくる。
大将、長宗我部盛親は『采配を出すまで、必ずともに静まって控えておれ!』と
馬を乗り回して下知をする。
この時、思わずわなわなと震えがこみ上げて来た。
これは口惜しい事かな、と思って周りを見るに、やはりみな震えているではないか。
やがて間近くなって、鑓を合わせるとなると、たちまちに震えが止まった。
この時、藤堂勢の先手では、歴々の人が討死にをされた。
戦場で討死にと言えば、ただ戦って死んだとばかり思うだろうが、
なかなかそうではない。
目を廻したところを首を掻かれたり、手傷を負っているところを押し伏せられて首を取られたり、
あるいは長柄の鑓で叩き殺され、または踏み殺されなどして、いろいろの死にようがある、
それを討死にとさえ言えば、世間では互いに勝負して死んだものと思っているのだ。」
『二川随筆』より
534 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 14:20:07.11 ID:fcksWb1h
流石に真に迫る物が有るな・・・
535 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 14:32:01.94 ID:Y2EKd+Ow
逆に乱戦の中で背中に傷を負ったりしたら臆病者にされたりするんだろうか
536 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 21:36:20.14 ID:EJUFdxRT
>>530 馬は献上品ということにしてもらっとけば良いのに
537 :
人間七七四年:2013/10/20(日) 21:53:06.97 ID:0a8ryyVQ
西国で川中島合戦にまつわる論評合戦があったらしい。
毛利元就の在世中、甲斐の武田・越後の上杉から書札を受けていたものの、
当時元就の容態が思わしくなかったこともあり、
山中鹿介擁する尼子勢に手を焼いていた毛利家は、
なかなかその返礼をすることができなかった。
元就が亡くなってしばらくすると、次男の吉川元春は、
家臣の佐々木源兵衛尉を甲斐・越後へと挨拶に遣わした。
そのついでに、両国の情勢なども見て回らせた。
さて、佐々木が安芸に帰国して、見聞きしてきた川中島合戦の様子などを
元春に報告したところ、その話を聞いた杉原播磨守盛重は、
「謙信のこのようなところが油断である、
信玄のこのようなところが落ち度である。
いかに良将の聞こえが高くとも、間違いをおかすこともあるのだな」
などと、話に上った川中島合戦の批評をしはじめた。
同席していた天野紀伊守隆重はそれを聞くと、口を開いた。
「なるほど、御辺の意見も一理ある。
しかし、我らごときの愚昧な考えで批判ばかりしていれば、
まったく過失のない真の名将などというものは、
この世に存在しないことになってしまう。
信玄・謙信がもし、御辺の言うように凡庸な将だったなら、今の名声もないはずだ。
時も場所も異なるところで何を言ったところで、まったく的外れなのだ。
地に伏せて耳を澄まさなければ、地の底を穿つ足音を聞きつけることもできない。
そのとき、その場にいなかった御辺が、あれこれと批判しても意味はあるまい」
盛重は「もっともだ」とうなずいた。
個人的に耳が痛い話だったのでこちらに。
538 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 03:48:20.34 ID:tQ2ARwAR
>>530 実在の疑われる良胤はないと思うわ
仮に実在したとしても、この時期は奥州に追放されてた頃だろうし
あと良胤は大の信長贔屓で、それが原や北条に嫌われて追放されたことになってる
539 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 10:51:37.39 ID:qix5bUKE
というか
「関八州において〜」
って、この時期の千葉氏って小田原北条氏の支配下、とまではいかずとも、庇護下みたいなもんなんじゃないの胤富亡くなってるし
540 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 18:11:41.05 ID:qghfbuzv
しかし、なぜ北条は直重をあのまま入れて千葉を乗っ取ろうとしなかったんだろ?
直重を追い出せるだけの力が原にあったとは思えないけどなあ
541 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 21:10:22.92 ID:EL6wb5qu
>>537 しかし現場以外無意味とか言ってると戦略や戦術なんてほとんど研究できないわけで
542 :
537:2013/10/21(月) 23:53:49.16 ID:cjfZqQ2P
>>537に関して補足をまとめようとしているうちに、昨夜は寝てしまいました。
少し続きがあります。
天野隆重に反論された杉原盛重は、相手の言い分を一応は認めたものの、
「しかしながら、信玄・謙信のような良将を論評すること
それ自体がよくないと言うのであれば、納得できない。
信玄・謙信は生まれながらにして一国の将で、その名はこの日本国中に知れ渡っている。
この私は勇智が信玄・謙信に劣っていなくても、ようやく一郷一村の主でしかなく、
人に名を知られていない。
それなら批評するにも何の憚りもないはずだ。
合戦の評論をする行為自体がよろしくないというのは、納得がいかない」
と食い下がった。
そこで同席していた熊谷伊豆守が、
「二人の論争は、未来永劫決着がつくことはないだろう。
梅はすべからく雪に三分の白を遜るべし、雪もまた梅に一段の香りを輸すべし、
という古い言葉もある。
お互いに優れた言い分を認め合って、腹をおさめるといい」
と諭すと、二人とも大いに笑って退出していった。
以上です。
543 :
人間七七四年:2013/10/21(月) 23:56:02.55 ID:PZYN8Rgz
元春はこの時何を考えていたんだろう
544 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 01:08:07.03 ID:v/L45Kbq
熊谷伊豆守って孫が豊前守ってことだし、信直かな
年長者だし上手いこと纏めたな、といいたいが天野隆重の方が年上か
545 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 02:32:01.65 ID:0DXDVwU+
笑ってすまずに殺し合いになる家が結構あるような
546 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 11:52:35.54 ID:f028Go8Z
囲碁将棋観戦は命がけ
547 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 13:38:46.16 ID:31RUWkyD
庭師「賭ける程度では生ぬるいわ」
548 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 18:48:06.83 ID:p8wzde/m
兜持ち「便所いきてー」
549 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 19:09:46.76 ID:NDrZswl7
550 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 22:45:57.29 ID:kHe1CpjK
お面のような顔は変わらず口から笑い声だけが・・・
見た人チビるな
551 :
人間七七四年:2013/10/22(火) 23:40:22.59 ID:lS7XFr30
加藤清正らと違い、朝鮮出兵ではどうにも影の薄い福島正則。
その福島勢の戦いの様子を描いた逸話を2つ。
文禄の役の際、朝鮮に渡海した福島正則は、配下の部将に慶州城を守らせていた。
そこへ韓将朴晋なる者が来攻したが、守将はこれを撃退することに成功した。
ところが敵方は震天雷と称する大砲を製造しており、朴晋は夜陰に乗じ、
その大砲を使って城内に巨丸を撃ち込んできた。
発射された砲弾は城の中庭に落下し、(落下しても何も起きないので、)
城兵たちが怪しみながらも集まって見物していると、
突然砲弾が爆発、雷の如き衝撃と共に鉄弾が四方に飛び散った。
この爆発の結果百人ほどの死傷者が出たため、怖れた守将は城を放棄してしまった。
(逸史)
日本の諸軍が漢城で明・朝鮮軍と戦っている頃、正則は稷山城を守っていた。
その頃敵はどうやって知ったのか、「正則は関白の叔父である」という情報を得た。
これを知った敵方は「正則さえ討ち取ってしまえば、この戦いに勝てる!」と考え、
三度まで攻勢を仕掛けてきた。
しかし正則によってその都度撃破され、それ以後敵は近付いて来なくなったという。
(藩翰譜)
552 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 00:16:53.64 ID:3i8i/pzG
三成も秀吉に正則が何度も敵を押し返し奮闘していると書状で報告しているな
でももう援軍送らないとやばいと付け加えて
553 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 03:36:59.01 ID:DSfDkvWx
ちゃんと仕事しても嫌われる三成であった
554 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 09:37:09.09 ID:C6Nl5D6m
正則がちゃんとイメージ通り猛将してるのって珍しい
555 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 10:33:52.43 ID:sKb5KpFq
>>552 真面目な話七将の中で正則が三成を恨む理由がちょっと思い当たらない件。
他の面子は朝鮮で揉めたとか秀次事件の処理で揉めたとか事の真偽はさておきそれっぽい話があるのに。
>>554 市松は確かに名将だったよ。ただ信野暮で戦闘が毎回90超えなのはちょっと盛りすぎだとは思うけど。
556 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 11:02:49.95 ID:C6Nl5D6m
>>555 へー、そうなんだ
統治者としても官僚としても軍人としても優秀で、人格者とか完璧超人だな
そう、酒さえ入らなければ…
557 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 11:15:28.20 ID:bO0IuSJY
>>555 >真面目な話七将の中で正則が三成を恨む理由がちょっと思い当たらない件。
学級委員長気質の三成に酒をたしなめられたとか、そういうことがあったのかも知れん
558 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 15:49:23.95 ID:3i8i/pzG
対立の原因は諸将が窮地なのを秀吉に訴えても
返ってくる答えがなぜか「サボってるだけだろ真面目にやれ!」で
連絡係の三成が報告を改ざんしてるって疑われて、こじれてだから、
三成と正則の個々のつながりはあんまり関係ない
559 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 17:41:40.50 ID:sZuTzTT8
豊臣秀吉の死後、慶長四年の秋、九鬼嘉隆と稲葉道通の間に相論が起こった。
これは徳川家康の裁断により、九鬼の訴えが非理と定まった。このために、
道通は喜びに堪えず、嘉隆は無念に思い、やがて子息に家を譲って籠居した。
明くる五年の秋、家康は上杉家を退治するとして下向した。道通もこれに従うが、
家康の仰せを受けて道筋の途中より引き返し、岩出城に留まった。
家康は上方の戦いが起こるであろう事を知っていて道通を返したとのことである。
この時、道通は乗物から下りて供の侍のようにして国に帰った。
すると道中にて、いずことも知れず鉄砲の音がして、かの乗物に銃弾が当たり、
道通はかろうじて免れて帰ったということである。
――『藩翰譜』
560 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 18:27:46.95 ID:w7p2gJOY
通行料の件か >相論
561 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 18:50:46.40 ID:y8LRRHEU
武吉「九鬼家ざまぁ」
562 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 19:09:16.35 ID:bO0IuSJY
息子の部下(娘婿でもある)に自害させられるのと、
息子に討ち死にして先立たれるのと、どっちが幸せなんだろうな
563 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 19:31:46.75 ID:Mh36CliO
稲葉道通って「みちとお」か「みちみち」じゃないなさすがに
伊勢
よしたかの息子「東軍につこう」
稲葉「東軍につこう」
よしたか「稲葉は嫌いだ。西軍につこう」
八幡城
よしたかの義理の息子「西軍につこう」
稲葉「西軍につこう」
よしたか「稲葉は嫌いだ。東軍につこう」
関ヶ原
よしたかの息子「西軍につこう」
稲葉「西軍につこう」
よしたか「西軍につこう・・・息子のせいで早く終わりやがった」
564 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 19:49:48.74 ID:wimPbiCv
嘉隆は三成が口説き落としたって聞いたぞ
565 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 20:00:28.58 ID:w7p2gJOY
566 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 20:03:28.88 ID:Mh36CliO
数年前のネタなのにもうバレた
567 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 20:20:00.43 ID:w7p2gJOY
というか関ヶ原のよしたかくんの息子もいなばさんもよしたかくん本人も東軍じゃね?w
568 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 20:27:47.06 ID:Mh36CliO
スマン稲葉とよしたかで自分も混乱してた
つまらんネタひっぱるのもなんだからこのへんでやめとく
569 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 06:55:42.69 ID:6KlCSDX4
天文22年(1553)8月、長尾景虎(上杉謙信)は上野の平井城に滞在し、上野・下野の国境などを見て回った。
兵二千あまりを連れて、桐生から佐野に越えようと、新田龍広沢の境、足利八幡に差し掛かったが、
道幅が狭く、また地理不案内でもあったので、軍勢が左右の山の根や田畑を踏み荒らした。
この様子を、金山の横瀬雅楽介成繁の足軽大将である金井左衛門佐がそこから離れた茶臼山の要害より
これを見つけ、雨沼のあたりまで馬で駆け下りて、景虎の軍勢に向かってこれを咎めた。
景虎の先鋒である柿崎和泉守(景家)はこれに手のものを走らせ
「誰であろうと、馬上よりの誰何は無礼である!」
と言い返し、重ねて
「お前はこの近くの、地頭か誰かの使者なのか!?」
と問うた。
金井は答える
「私はこの地の領主、新田の家人で金井左衛門佐という者である。
この山の番所を預かり、警護をしている。
ここから足利までは、新田、長尾両家の土地が入り組み、なにか起これば複雑な事態となる。
大将たるものは部下が乱暴狼藉をしないように下知せよ!」
この報告を受けた景虎は笑い出し
「この景虎の先鋒に向かって恐れげもなく、しかも馬上からあしらうとは、無礼である!
このまま言うとおりに成っては、今後、この周辺の諸将にも侮られるであろう。」
そして
「その金井という足軽大将を殺し、彼の番所も焼いてしまえ!」
と命じた。
これを聞くや、逸り立っていた柿崎の手の者は刀を抜いて金井に迫った。
金井は、かなわじと見て馬を引き返し、神明の森まで逃げたが、越後の兵はなおも追撃を続けたため、
彼は寄騎の侍二人と踏みとどまって抜き合わせたものの、やはり多勢に無勢であり、
金井はついに立ち腹斬って果てた。
二人の寄騎はかろうじて番所まで逃げ帰り事の次第を告げ、番所に居た老人や女子供を
直ぐに山奥の谷に避難させた。
そして他の者達が防御のため弓、鑓、長刀と武器を探している所に、はや柿崎の家来たちが
踏み込んできて、目に入った者は老人であろうと子供であろうと片端から斬り捨てた。
その上で、番所に火を放って一片の煙とした。
(関八州古戦録)
570 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 07:38:02.07 ID:Veg5aus4
ヒャッハー
571 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 08:40:47.17 ID:OwYsjTG9
千葉や成田といい坂東武者ってのは時代錯誤も甚だしいねw
まあ関八州古戦録は謙信公の名を貶める資料だからしょうがない
572 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 08:46:06.80 ID:K3geGEnj
関東からしたら影虎なんて手のつけられない暴風雨でしかないからなあ
構おうものなら身が破滅する
573 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 12:36:36.05 ID:5tNL3Dlq
馬上でなんたらっていちゃもんの付け方が、まんまヤクザの手法だな
お前の言うことは正しいかもしらんが、その態度が気に食わん、誠意見せろや!って感じ
574 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 15:15:09.78 ID:eKAptpLg
>>572 基本的に関東の武将が北条についたり上杉についたり北条についたりしたのは
謙信が怖かったからだよ!日和見してたわけじゃないよ!ってアピールは凄く感じる
575 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:12:12.73 ID:JWtR0ukI
滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと。伊藤内蔵という者がいて、
多くの人がこの者を討ちあぐねていたところ、
一益は思案して、ある宮の拝殿に伊藤が参詣する時に座るところの柱に
穴をあけておき、伊藤が社参した時にその穴から鉄砲で撃ち殺した。
これに立ち騒ぐ諸人の中を一益は障りなく退いたのだが、
刀の鞘を落としたことを無念に思って引き返し、鞘を取って退いた
ということである。
――『名将言行録』
576 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:15:30.31 ID:EkpOBQfM
どこからつっこめと
577 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:35:40.34 ID:I65kX809
ケツからだろう
578 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:43:53.36 ID:2dc+yolJ
なぜ鞘だけ落としたw
579 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:57:23.67 ID:F3ZUhnVt
ノブ野望で滝川一益の鉄砲ステータスが高いのはこの逸話のせい?
580 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 19:59:45.10 ID:p0HZ9wCZ
××人皆殺し!とか書いてあるから貶してるのかと思ったら
実は、カッケー!スゲー!!ってアゲてるんだった、なんて話を聞いてから
こういう話をどう受け取ったらいいのか分からなくなった…。
581 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 20:53:18.98 ID:+3FCDnJC
書かれてないけどこれは上意討ちか何かで、
首をとる必要があったから、その時に鞘を忘れたってことなのか?
582 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 21:00:15.42 ID:vQURCEwh
穴のあいた柱って残ってないのかな
つか穴あけてる最中に来たら間抜けだな
583 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 23:34:19.32 ID:UDBh0w+w
いまだ匹夫というか、やり口がまさに匹夫としか
584 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 00:48:56.43 ID:/qbf96ER
鞘だけ落としたってことは、抜き身で腰に差していたのか?
それとも抜き身をぶら下げて帰ろうとしたのか?
585 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 04:55:42.87 ID:95vLKmEi
586 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 09:54:32.77 ID:oZCdc+f1
上の方でちょっと険悪な天野・杉原の普段の仲をうかがわせるお話。
上月城の戦いでは勝利を得た毛利勢だったが、
備前の宇喜多・伯耆の南条など、相次ぐ離反に悩まされていた。
元春率いる吉川勢は南条攻めに赴き、抗戦に出た南条の一族、九郎左衛門を討ち滅ぼした。
その勝利は、先陣の杉原盛重の活躍によるところが大きかった。
やがて拠点としていた八橋に引き上げてきた吉川勢や国人衆が、
皆で集まって今回の合戦の話をしていたとき。
盛重の嫡子の元盛が天野隆重に向かって、「南条勢の敗因を分析してください」とねだった。
隆重は、今回の地形ならば南条勢がどのように備えどう戦っていればよかったのかを語り、
「しかし南条勢が万全の備えで出てきても、盛重が臨機応変に応戦しただろうから、
どのみち南条勢に勝ち目はなかった」とまとめた。
元盛はすっかり感心して、話に聞き入っていた。
すると今度は隆重の嫡子の元明が、盛重に対して
「愚父がご子息の勧めで考えを述べたのですから、次は盛重が勝因を教えてください」とねだった。
盛重も元明の求めに応じて、自分の戦術を細かに語って聞かせたが、
「本命の南条元続を誘い出すことができなくて残念だった」と結んだ。
盛重は続けて、
「敵がやりそうなことを予想して、前もって対策を講じておくのが軍法の基本ではあるものの、
実際に相対した敵を制する方法は、事前にどうこうと言えないものだ。
敵の機を察する以心伝心の妙が必要だ。
けれどこれは、敵の様子を見るまでは何の備えもしなくていいという意味ではない。
しっかりと備えを固めておくことも大事だ」
とアドバイスした。
さらに談義に花が咲くかと思われたが、盛重が元春に呼び出されてしまったので、
寄合はお開きとなった。
587 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 10:41:50.32 ID:DzMsDEuO
帝国陸軍兵学校の講師に招きたいのですが
588 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 11:09:34.17 ID:oZCdc+f1
今別の本読んでたら、元就の「御弓矢向、常々御談合之衆」リストに隆重・盛重の名前もあって、
わりとこの手の話が好きというか得意な人たちだったんだろうな。
589 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 18:25:01.14 ID:cxvo9xQO
杉原盛重は忍者の棟梁でゲリラ戦のプロフェッショナル
天野隆重は兵300で兵6千の尼子再興軍をボッコボコにしちゃった対ゲリラ戦のプロフェッショナル
590 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 18:55:59.57 ID:d7SjMLDf
ヴェトコンの起源である
591 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:10:31.57 ID:UJJpVPKX
古老の話、ある者の屋敷を上役が事情により必要となったので、
差し出すよう申しつけられ転居先を探していたところ、
話が進むなかで、やはり必要でないということになった。
それで、転居先を探す手間を無駄に過ごしたとその者がすっかり腹を立て、
今回のやり方は不届き至極だと、堂々と誰にでも不満を明かしていが、
上役がその者に謝罪をしたので納得し、そのうえ謝礼として金銭を受け取ったことを誇った。
いやはや、この者は笑止千万な武士である。
損をさせられ負けているのは意気地がないと世の人は思うものだ。
しかし、それは違う話なのである。
たとえ上役相手でも損をさせられたなら取り返す、
などということは武士の覚悟とはまったく別のことである。
要するにこの男の話は損得の話なのだ。
根本が汚い。
それを上役相手でも金を取り返したなど誇るのは誠に無礼千万と言ってよい。
はっきり言えば、金銭を受けとれば逆に負けとなる。
将来の支障になることだ。
裁判での言い分などというのもこれと同じで、みな損得の話である。
損さえ覚悟していれば争い事は起こらない。
こればかりは我慢しても負けにはならぬ。
知恵が浅いとここがわからない 【葉隠】
592 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:53.82 ID:UJJpVPKX
訂正します
それを上役相手でも金を取り返したなど誇るのは→それを上役相手でも金を取り返したなど『と』誇るのは
593 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:38:28.07 ID:UJJpVPKX
何度もすみません訂正
堂々と誰にでも不満を明かしていが、→堂々と誰にでも不満を明かしてい『た』が、
594 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 23:02:40.16 ID:DzMsDEuO
訂正はどうでもいいが。そもそもこの話は戦国時代の話なのか?そもそも逸話なのか?
単なる道徳訓話じゃないのか?
595 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 23:28:59.13 ID:V75xAb3A
山本常朝は、心は戦国時代に生きている人だから
596 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 23:39:17.67 ID:UJJpVPKX
山本常朝から見て中野神右衛門はお爺ちゃんだからだよ
597 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 01:44:53.33 ID:ZnF6tdnf
常朝は脳内で直茂公や勝茂公に会えるしな
598 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 11:44:48.15 ID:T7i8gd7L
>>589 兵6000側が兵300側にゲリラ戦仕掛けるとか意味が良く分からないんですよ。
しかも300側が勝つとか。
599 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:26:17.23 ID:kv2pxtZY
そりゃ相手の20倍もいるのに正攻法で戦わなかったのが敗因だな(確信
600 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 14:11:05.83 ID:zLEzgT+j
>>598 月山富田城は正攻法で落とせない城だから
経久のようにゲリラで攻略するか元就のように兵糧攻めで攻略するしか手がないのですよ
で兵糧攻めは時間がかかって不利になるからゲリラ戦でいこうってなったんだけど
出す手全部読まれて逆にボコられたという
601 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 18:10:28.25 ID:7PW1nfMd
降伏したいんだけど色々手続きあるからちょち待ってよ、と言われて鹿ちゃんたち待ってたら
時間稼ぎされて後詰めきてあぼーんしたんじゃなかったの?
602 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 20:04:17.11 ID:EaC0wMRM
天野「降伏するよ―。城を渡すから取りに来てよ〜」
秋月伊織之助(尼子十勇士)「ほいほい」
天野「ほいほい来てしまって良かったのか(ニヤリ)」
城門の中に引き込んだ後で殲滅
激昂した山中鹿之介、あの手この手で攻め立てるが全て見切られて撃退。
そうこうするうちに後詰めの吉川軍が到着。
初手の失態で居心地の悪くなった秋月は毛利に寝返り。
603 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。
出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。
さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。
鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
さあ、別れの盃を重ねよう。
私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
あなたもまた、私を殺す算段をするといい」
二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。
伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。
604 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。
605 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 22:47:08.97 ID:zU/z4xUz
300人で大軍と戦ったと言えばペルシア戦争でのスパルタ
606 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
607 :
602:2013/10/27(日) 23:23:52.08 ID:EaC0wMRM
すまぬ、 ?秋月 ◎秋上 だった。 罰としてアイマス2を買ってくる。
608 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 23:49:44.14 ID:R8oG1Hnq
ヒロインあしつきいおり、が出てくる「I′s」でも買ってくれば
609 :
1/2:2013/10/28(月) 01:42:47.42 ID:WcSP28Jl
大村家親は、大村家九代当主家徳の弟であった。
文明8(1476)年2月、小城の千葉介胤朝は家臣内田某をもって藤津郡に攻め入り、在尾城(現蟻尾山)を包囲した。
内田は在尾城に援軍のないことを知ると、城の水の手を立ち持久戦に持ち込んだ。
そのため家親は、千葉方に見える場所でにをつなぎ、精米で馬の背中を流し始めた。
馬を水で洗っているように見せかけたのである。
城の麓からその様を眺めていた内田は、場内にまだまだ水が豊富にあるのかと思い驚いた。
そこで内田は、在尾城が容易に落とせないと考え一計を案じる。
在尾山の北に位置する味島神社の方向にかがり火を焚き、今にも大勢が攻めてくるかのように見せかけたのである。
城方はこれに応じて表の城門に人を集めて警護を厳重にしたため、逆に南の警護は手薄になった。
こうして内田は兵を南に潜ませて手薄な裏門を一挙に突破したので、城内は大混乱に陥り在尾城は陥落したのであった。
610 :
人間七七四年:2013/10/28(月) 01:46:32.08 ID:VdlvUD7V
なんか聞いたことある話だな…なんだっけ
611 :
2/2:2013/10/28(月) 01:46:38.75 ID:WcSP28Jl
この在尾城の落城に際して、鹿島にはいくつかの悲話が残されている。
家親の女である緑姫は、在尾城の北斜面の茨をかき分けて西牟田の黒川に落ち、敵の目を逃れるために池に潜み身を隠した。
しかし、池には蛭が棲みついていおり、緑姫はこの蛭に襲われ命を落としたという。
また、家親の幼子は乳母に抱かれて南方に逃れて、千葉兵から身を隠すため藪の中に潜んだが、
幼児が急に泣き出したため、千葉兵に見つかり殺されてしまった。
今この場所には石仏が祀られており、「啼きびす仏」と呼ばれ土地の人々が焼香を欠かさないという。
お参りすると、幼児の夜泣きに霊験があるとされている。
なお守将の家親については、在尾城が落城すると能古見の本城を目指して落ち延びたと伝えられるが、
家親のその後については誰も知る者がおらず、史料に再び家親の名が載ることは無かったという。
佐賀の戦国人名史、大村日向守家親の項を参考に千葉氏と大村氏の抗争にまつわる話を一つ。
城名については現在の地名では蟻尾山と呼ぶらしいけれども、書籍に書かれていた在尾山で統一させていただきました。
612 :
人間七七四年:2013/10/28(月) 07:46:32.70 ID:GIcyzz/G
なんというか、よくある話を全部ぶち込んでみました的な
613 :
人間七七四年:2013/10/28(月) 08:46:11.33 ID:hwLe+/Br
ごくありふれた風景なんだろうね
てか、まだ下総に対抗意識を燃やして千葉介を名乗っていたのか
614 :
人間七七四年:2013/10/28(月) 12:37:05.85 ID:0PvVS5nz
直系なんだから当然だろ、下総のほうは宗家横領
615 :
人間七七四年:2013/10/29(火) 20:28:31.15 ID:Vi6KflCG
兵道鏡相伝状
http://www.geocities.jp/themusasi2de/houkin/d104.html 《右條々、案圓明一代之秘術、積的傳之法、名兵道鏡、盡傳妙術、第子印可免許之者授之。
古今無雙之兵法、後々末々迄、為不可失絶、先跡無類之秘事等、書付令置者也。
縦予雖有直筆免状之手形、無此秘巻者、更不可用必状。此條々不学者、争決勝負。
予雖為親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心神妙之旨、此一巻相渡者也。可秘々々
宮本武藏守
藤原義輕 [花押朱印]
水野日向守殿 参
慶長十三年十二月吉日節辰 》
これは例の「宮本武蔵守藤原義輕」名の「兵道鏡」相伝状である。
他の「兵道鏡」は二十八箇条だが、こちらは裏も記載するから、条々増減あって三十八箇条である。
この「兵道鏡」を相伝されたのが、なんと「水野日向守」、つまり水野勝成宛なのである。
この写本は、後人が、書体を下手くそに模して、花押・印章まで模写したものである。
だが、これにより、水野勝成宛の「兵道鏡」なるものが存在したことがわかる。
相伝年月は、慶長十三年十二月である。それゆえ、この「宮本武蔵守藤原義輕」が武蔵なら、二十五歳のとき、水野勝成へこの「兵道鏡」を相伝したことになる。
もちろん武蔵が水野勝成に「兵道鏡」を相伝したのが事実だとみなす者はあるまい。
申すまでもなく、「宮本武蔵守藤原義輕」名の「兵道鏡」は偽書なのだが、それが出回るうちに、さらに水野勝成宛の「兵道鏡」を捏造した者があったらしい。
しかし興味深いのは、偽書であっても、こうした文書が出回っていたことである。おそらく、武蔵と水野勝成との関係が周知のものであったから、これを捏造する者が出たのである。
上述のごとく、尾張には、武蔵が大坂陳で水野日向守麾下で出陣したという伝説があった。とすれば、この水野日向守宛「兵道鏡」の原本も、尾張周辺で作成された可能性がある。
いづれにしても、明治以後の近代とは違って、江戸時代までは、武蔵が大坂城方に属して戦い、敗残の兵となって諸国を流浪した、などというバカげた話はなかったのである。
すくなくとも、このような水野日向守宛「兵道鏡」まで捏造されたのだから、水野勝成と武蔵の関係は深いとみなされていたのである。
616 :
人間七七四年:2013/10/29(火) 20:37:20.94 ID:4frVGuGp
武蔵守とは不遜な
でも大坂の陣より前ならいいか(偽書だけど)
617 :
人間七七四年:2013/10/29(火) 21:00:17.74 ID:tiBiOe3n
>>615 丸ごとコピペってのはちょっと酷いんじゃね?
618 :
人間七七四年:2013/10/29(火) 23:09:23.55 ID:OuNCHzC2
一、毎夜夜中に屋敷内を見廻るべし。下人の寝所、ともしびなどをうかがえ。
もし他所の者が入り交じっていたならば追い払え。
こちらの下人は翌日異見せよ。深く憎んで道理に反する事を起こす時には、かえって
夜盗の手引きなどをするものだ。主命に背いて異見を用いないならば、手討にすべし。
一、是非もなき次第が起きて自分の家来を手討にしようとする時には、
先に誠意ある家人を一人呼んで次の間に控えさせて一方をあけてあき、手討にする者を
呼び出して、しかじかの理由を申し聞かせて得とくさせ、声をかけて討ち果たすべし。
怒りに乗じて急き込むと討ち損じ、取り逃した時には主人は汚名を得て、人前の交わりで
後ろ指をさされることだろう。
また、強勇の家人はかえって主人を討って立ち退くことがある。そのような時は、
子孫永々の恥となることであろう。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
619 :
人間七七四年:2013/10/30(水) 08:27:05.22 ID:+CaBbXaN
620 :
人間七七四年:2013/10/30(水) 11:33:57.67 ID:XcdFqZgl
甲陽軍鑑で今川家ディスるためのダシにされてる片目で色黒で醜い人では
621 :
人間七七四年:2013/10/30(水) 20:09:13.61 ID:vPGML2T9
慶長20年(1615)5月6日、大阪夏の陣で藤堂高虎の軍と長宗我部盛親の軍が激突した、
八尾・若江の戦いでのこと。
桑名弥次兵衛は元々長宗我部譜代の重臣で、幡多郡中村の城主であり、合戦のたびに武功を上げた、
天下に名の知れた勇者であったが、慶長5年、関が原の戦いの結果長宗我部家が没落すると、
桑名には井伊家や蜂須賀家などから仕官の誘いがあったが、かつて秀吉の四国征伐の時、
彼の降伏を周旋された縁を以って、藤堂高虎に7千石で使えた。
そしていかなる不思議であろうか、この日、八尾において旧主たる長宗我部盛親の軍と
戦うことに成ったのである。
桑名弥次兵衛を始めとして、その嫡子将監一久、そして杉立九郎左衛門、市田十右兵衛、鶴原善左衛門、
入交助左衛門といった、旧長宗我部配下の土佐組は、群がる敵を次々と突きたて、
先手を置い崩し、長宗我部旗本にまで切り入った。
長宗我部譜代の者達は皆、互いに見知った相手であった。
長宗我部の旗本たちは桑名を見るや、口々に叫んだ
「お主は桑名ではないか!」
「それ逃がすな!桑名弥次兵衛を討ち取れ!」
そういって我も我もと桑名に切ってかかった。中でも近藤長兵衛が先に進み、
無二無三に突いて掛かり、桑名弥次兵衛の槍を突き折った。
そこで桑名は刀を抜き近藤と打ち合ったが、刀も打ち落され、最期は短刀を握ったところを
近藤の槍に貫かれた。
多くの土佐組の面々も、組頭である桑名弥次兵衛と、同じ場所で討ち死にした。
『彼らは新主への奉公もはたし、また旧君への志も立てたのだ。』
合戦後、人々は彼らの戦いに感じ入り、そう言い合った。
長宗我部盛親も哀れに思ったのか、夜に入り、桑名弥次兵衛の首を嫡子将監の陣所に
送り返してきたと伝わる。
(元和先鋒録)
622 :
人間七七四年:2013/10/30(水) 22:15:59.34 ID:eSNBBkKf
盛親の隊って、夜になる前に壊滅してるよね?
623 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 07:14:19.20 ID:uRpDfnGO
してないだろ
624 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 09:44:19.74 ID:DhARhHe+
部隊としては壊滅してたが首一つ届けられないような文字通りの全滅してた訳ではないだろ
625 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 20:02:56.32 ID:NiG3gLLp
永禄11年(1568)5月初め、武田信玄は駿河の今川氏真に使者を出し伝えた
『今川殿が所領されている、東三河を私に下されよ。
東三河は信州伊那より続いている地である。そこを私が持てば、氏真殿が以前から念願している
義元殿の弔い合戦をなされる場合でも、この信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからである。
ところで、昨今松平元康という興味深い人物が勢力を広げ、今川殿への恩を忘れ、
元康の元という字も投げ打って、そのかわり全く別な、徳川三河守家康となり、
三河国の大半を支配していると聞く。
その家康に取られるよりも、この信玄に進呈してはどうか?』
この書状の内容に、氏真は返答した
「信玄殿のお言葉、かたじけない。
しかしながら父義元の弔い合戦については、信玄殿をお頼み申すには及ばない。
良い時期を見てこの氏真自身で目的を達するつもりである。ことさら、氏真の敵である
織田信長と、信玄殿が縁者に成られた(永禄8年の武田勝頼と信長養女との婚姻)と聞いては、
信玄殿ももはや、半ば敵であると考えるものである。
そのため、東三河が例え家康に取られたとしても、信玄殿に進呈する気はない!
それに、家康など小身の者故、今年でも来年でも思うままに退治することが出来る。
しかし信玄殿に東三河を渡しては、その後遠州までも取られることに成るだろう。
その証拠に、あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。
我が父義元も、『信玄は謀略の才覚において恐るべき者だ』と仰っていた。
信玄殿は、この氏真との叔父甥の関係などもはや無視されよ。今後は書状の取り交わしも不要である!
あなたはこの頃も、家康の伯父である水野弥平大夫と親密であったそうではないか。
また、我が配下であった梶水彦介を甲府まで呼び、鉄砲10丁に甲府名物を添え、さらに木綿の布200反まで
与えて、『信玄が三河に進出すれば手を引くように』と言ったそうではないか!私はそれを
詳しく聞いている!」
実は去年の冬、氏真は水野弥平大夫を成敗した。その時、信玄が水野弥平大夫に出した多くの書状を
押収したのであった。
氏真はこの返書に、水野弥平大夫から押収した書状を添えて信玄に返した。
このため、今川と武田の関係は更に悪化した。
(甲陽軍鑑)
今川氏真、信玄への不信を爆発させる、というお話である。
626 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 22:32:37.58 ID:DhARhHe+
甲府名物がちょっと気になる
627 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 00:17:39.23 ID:JFcFpmTh
まあ領土割譲しろなんて要求に対しちゃ、本人の置かれてた状況はともかく当然の反応だわな
甲府名物は多分あれだよ、黒川とか湯之奥からの産地直送の材料を使った山吹色のお菓子なんじゃないかな
628 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 13:25:19.27 ID:cSGgquSp
>あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。
信玄が自らパクったって読めるんですが…え?
629 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 18:40:16.19 ID:5XK1ent5
いや、普通に信用しちゃあかんだろう。あの真田パパンの師匠だぞ。信用するほうがどうかしてるw
630 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:05:06.86 ID:XrwX/CnJ
ところで武田家って今川・北条・織田・徳川と同盟相手を裏切ってるけど
同盟相手から裏切られた事ってあるのかな?
631 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:17:47.28 ID:O1BToJTb
>>630 武田側から見ると今川も北条も織田も徳川も、先に相手が武田に対して裏切り行為をしていることに成ってる
632 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:25:24.32 ID:Av2fqQ3E
アホの氏真にも五分の魂があったかw お屋形さまに攻められて一瞬で今川が瓦解した時どんな顔してたんだろうな
633 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 20:14:04.80 ID:1B/uX1D2
>>630 対織田の時は、両属状態の遠山を取り込んだ信長が原因じゃないかなぁ
対北条は原因作ったのは信玄だけど、手切れにしたのは北条だし
634 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 20:54:22.97 ID:JzdkwTEZ
>>632 氏真の記録はそこそこ残ってるけど一般の人のイメージはバカ殿で気の毒だと思う
軍事はともかく内政関連は優秀なほうなのにね
635 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 21:01:23.78 ID:7g70p10d
信長の対信玄イメージもちょっと気の毒だな
同盟破棄して攻め込んできたので迎え撃つ準備して待ち構えてたら信玄病死で撤退
後の流れが「信玄が生きてるときは手も足も出なかったくせに…」になってしまった
636 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 22:19:45.60 ID:h0b2577Z
待ち構えるも何も、あの頃の信長って周りじゅう敵だらけの上、内応者も相当いただろう。
そんな状況の中、三方原直後に信長と信玄が野戦してたら、
まず間違いなく信玄が勝ったと思うがw
637 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 22:58:59.92 ID:1B/uX1D2
信長の所へたどり着くまで1年以上かかりそうだがなぁ
638 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 01:40:00.94 ID:YVkFNXzE
徳川から人質とって東美濃で信長と信玄が戦に及ぶ
織田軍が敗北すれば反信長軍が勢いを増しさらに各地で蜂起するから早々に瓦解するね
639 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 01:58:29.59 ID:J/fD+e5Z
信長が本気だしたら最低でも6万は兵力集められるし
万に一つも信玄に勝ち目ないだろ
640 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 02:07:11.05 ID:qmOoGxEd
史実の信玄上洛でももちろん本気でしたが
641 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 03:07:19.38 ID:L5Es/swR
その話はよそでやろう
642 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 03:18:21.38 ID:YVkFNXzE
643 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 07:20:37.67 ID:WcF/FEFN
板倉周防守が京都所司代の時、歴々の公家衆へ路次において町人が慮外を働いたので
急ぎ処罰していただきたいと使者をもって周防守方へと申し入れがあった。
板倉周防守は畏まり奉りますとお受けして使者を帰し、それから慮外を働いた町人を
呼び出して「御歴々の公家衆へ慮外を働いたのは不届き至極である。今後、御歴々に
対し慮外あれば死罪を申し付けるぞ」と叱った。
次に公家衆の家人を一人呼んで対面し「町人が慮外した時、御主君はいかなる御装束
であられたのか」と問う。
家人は答えて「白衣にて羽織を着け、頭巾を深く被り草履取り一人を連れられており
ました」と言う。
周防守は「けしからぬことです。御歴々の身でありながら、そのような軽々しい下人
同様の出で立ちはあってはならぬ事です。以後は御身分に相応しい御装束と御供にて
外出なさるように仰せられるべし
今後もしこのような怪しい出で立ちならば、途中で町人どもがいかなる慮外を致そう
とも、こちらから沙汰は仕りませぬ。この事を急ぎ仰せあげられるべし」と申された。
家人は閉口して帰り、その事を申し述べたので主も大いに赤面し、周防守へと内々に
詫びを申し入れたと言う。
(明良洪範)
TPOは大事だねというお話
644 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 20:15:13.20 ID:mwjttES5
1569年の武田による小田原包囲から4日後
信玄は宿城を焼き払うよう命じ、内藤昌豊は商家、民家まで片っ端から火をかけていた。
その時、信玄の陣にいた馬場信春が信玄に「松田尾張守の家は城下より、離れたところにありますが、やはり焼いた方がいいですか?」と聞いた
(城の近くを焼くのは兵法であるため)
信玄「ん〜どうしようか?焼いたら後で詰るかな?」と悩んだ。
それもそのはず、この松田尾張守は赤具足で暴れまくる事で有名だったのである
さすがの信玄もそれで悩んでいたのだ
それに対し馬場信春「それではこうしましょう、私は元々牧島の留守を命ぜられた者、ここには自分勝手に来たので、勝手に振る舞いましょう」と松田さん家を全焼させてしまった
と一旦ここで終わり皆引き上げて行ったのだが、小田原の外れで家を全焼された松田尾張守の一族の1人、境川蔵人が追撃し馬上から「勝負!勝負!」と叫ぶも、武田軍は総ガン無視、帰還したとさ
松田尾張守(とその一族)の悪い話
関八州古戦録から
645 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 21:23:27.35 ID:NhPVn3Ot
馬場さんは燃やすのが好きやのうw
646 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 23:21:30.64 ID:sChgrsKX
赤鬼さんは追わなかったのか
647 :
人間七七四年:2013/11/04(月) 10:58:04.03 ID:n8N2BR16
赤鬼さんは甥っ子だからなあ
一族とはいえ憲秀の家とは別にちゃんと活躍してる家だしな
648 :
人間七七四年:2013/11/04(月) 14:54:11.31 ID:mndIJySd
後藤純明は元々は日鼓城主渋江公勢と後藤職明の娘の間に生まれた長男で、幼くして職明の養子となり後藤家を継いでいた。
公勢は日鼓城に母違いの兄妹の次男公政、三男公親とともに暮らしており、三男公親を嗣子と考えていた。
ところが公政の乳母は、かねてから公親を暗殺して公親を後継者にしたいと企んでいたのである。
大永7(1527)年3月、公勢は公政、公親らとともに蹴鞠で遊んでいたところ、公親は水を求めた。
これを好機と見た乳母は、毒入りの葛水を公親に渡したのだが、なんとこの葛水を公勢が取って先に飲み、その飲み残しに公政が飲んでしまったのである。
乳母の思惑は見事に外れ、公勢公政の親子は急死、渋江の当主はまだ幼い13歳の公親が継ぐことになってしまった。
この事件を知った後藤純明は軍勢を率いて日鼓城を攻め、公親は母親の出身である波多氏の元へと逃亡し、ついに渋江氏の栄華も潰えてしまったのである。
その後純明は実父剃髪して月湖浄圓と名乗り、冥福を祈った。
また公親は十三年後に波多氏の支援で日鼓城を回復するものの、純明に再び追われ、肥後国山鹿へ逃れた。
後年純明の養子後藤貴明の招きにより旧領へ復活するが、有馬家に攻められ再び逃亡。
ついに慶長5(1600)年、波佐見の地で波乱の生涯を終えた。
649 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 04:40:33.01 ID:u+BloXPj
大阪夏の陣の、5月6日、7日の戦闘が終わり大阪は落城、参戦した武士たちは何れも小屋掛けの中に
居た、8日の昼八ツ時分(午後2時ごろ)の事である。
長宗我部盛親の残党が、埋めたものを取りに出て来て、それを掘り出していたが、それを
細川越中守(忠興)の家来が見つけ、2,3人がこれを追いかけ、藤堂高虎の家臣である
梅原勝右衛門の小屋の近くで斬り殺し、長宗我部の残党は細川の者を一人斬り殺した。
そこに、他の細川の者達が駆けつけ、そこに敵が潜んでいると見たのか、鉄砲で梅原勝右衛門の
小屋に撃ちかけた。
この事に梅原勝右衛門は激怒し、息子の頼母、萬助と父子三人で小屋から出ると、配下に60挺の鉄砲を
並べさせ待ち構えた。
すると細川衆の歴々大勢が、真っ黒になって攻めかかってくる。ここで10間(約18m)ほど
引き寄せたところで、60挺の鉄砲を一度に撃ち、そして父子3人で突き掛かった。
このため細川方は7,8反(およそ50m弱)ほども逃げ崩れた。しかしこの時、息子の萬助が
討ち死にし、家来5,6人が負傷した。
梅原勝右衛門は
「自分の喧嘩でもないのに萬助は討ち死にしてしまった。大変無念なことであるが、越中守殿を
我等が相手にして、大勢を突き崩したこと、これは本望である。
しかしこの働きをしているうちに、萬助が討ち死にしたことすら気が付かなかった。
この上は何もいらぬ!萬助の弔い合戦を今一度いたすぞ!」
そう言って60挺の鉄砲の弾薬を入れ替えさせ、自分の弓鉄砲も揃え置き、甥の深尾兵太から
鉄砲の小頭など家来の者に下知して待ち受けていると、案の定、細川勢は大勢で、槍衾を作り攻めかかってきた。
ここで60挺の鉄砲を伏せつくばった状態から一度に撃ち放ったため、いかに勇猛な軍勢といえども
大崩れし、一町(およそ110m)あまりも敗軍した。
さて、そこで味方も引き取り、再び弾薬を入れ替えていると、細川方より
頭?の兜(頂部が水平で頭巾形のもの)つけ、白い手ぬぐいで鉢巻きした武者が、『扱い!扱い!』
と大声で言いってきた。戦闘中止の申し出である。しかし梅原勝右衛門は、これは萬助の弔い合戦であり
良き敵を打ち取りたいと考えていたので、ここで息子の頼母が出てこの武者を討取った。
このため敵勢はまた引き下がった。
ところで細川方が大人数で梅原勝右衛門に掛かった理由であるが、あとから聞いた所によると、
まず越中守殿(忠興)が常々、合戦中の喧嘩は必ず勝てと言っていたこと、
そして越中守殿の軍勢は、その本国より2度交代して船で大阪に到着したのだが、既に合戦の終わった
8日の昼に到着したため、合戦に参加できなかった。彼らはこれを強く無念に思って居た所に、
この喧嘩のことが船中で聞こえてきたので、逸った者達が具足も着けず、槍だけを持って船から上がり
梅原勝右衛門を攻める人数に加わって、攻めかかったのだ。
このため大人数ではあるが、弓鉄砲は少なく、猛りかかってくる所を、梅原勢は一切攻撃せずに
待ち受け、上記のごとく一斉に射撃したため大勢を討取ったのである。
細川勢が打ち負けて引き退いた様子を見た細川忠興は、「喧嘩の相手は誰なのか?」と尋ねると、
彼らは「藤堂和泉守(高虎)の衆です」と答えた。忠興はこれを聞くと
「和泉殿と私は友好関係にあるのだ、喧嘩は無用である!早々に引き取れ!」
と命じ、これによりこの喧嘩は終わった。
その後、忠興の家老衆より藤堂家の渡辺勘兵衛方まで『和泉守様の衆とこちら越中守の者達とが喧嘩したこと、
沙汰の限りです。そのためこちらの鉄砲頭両名に、切腹を申し付けました。』と申しよこしてきた。
藤堂高虎は、大島右衛門作に喧嘩の様子を、初め、中、後に至るまで詳しく聞き届けたが、
陣中においては梅原勝右衛門に何も言わなかった。
そして帰国の後、伊賀の屋敷において夜話に、梅原勝右衛門に喧嘩の様子を詳しく聴き、
「萬助に、未だ彼に領地も与えないうちに討ち死にしてしまった事を、とても不憫に思っている。」
と語ったそうである。
(梅原勝右衛門延実書上)
650 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 07:18:00.76 ID:TSVHfIbz
>>649 >長宗我部盛親の残党が、埋めたものを取りに出て来て、それを掘り出していたが、
い・・・一体何を埋めたんですかっ
651 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 09:47:16.80 ID:1XMq6bTj
お味方の首だろうな
652 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 10:40:13.65 ID:6ObrZjqm
もしこれが黒田家相手だったら....
653 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 11:51:42.35 ID:W4ZEVOAZ
とことんまでやれ。ですなぁ
654 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 12:16:05.18 ID:W4ZEVOAZ
次男も八尾の戦いで戦死してるのか。三男まで死んだら意地になるのも分かる
655 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 21:09:49.75 ID:Tilgb2fO
真鍋祐重は讃岐香西の人で、生駒侯に仕えた。
朝鮮の役の時、祐重は河岸にいた。すると福島正則が岸のほとりを過ぎ、
下に人がいるとも知らず、祐重に唾を吐いた。
祐重は激怒してすぐさま岸を上り、正則の袖を引っぱり刀を抜いて、
「公は何の理由があって、武士を辱めなさるのか!」と言った。
これに驚愕した正則の側近が祐重を叱ると、祐重は側近に向かい、
「動くな! あなた方が動けば、公を刺すぞ!」と警告した。
そこでやっと正則が過失を謝罪すると、祐重は怒りを解いて刀を納め、
礼をして退いた。人はその勇ましさを褒めたたえた。
――『皇朝金鑑(備忘録、閑際筆記より引用)』
656 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 23:11:49.40 ID:0mf+DB80
市松さんのエピはいつも小物感がw
657 :
人間七七四年:2013/11/06(水) 22:51:40.58 ID:hFqWEsgz
ワロタww
西田敏行は一人で何役やってるんだよw
658 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 05:02:59.79 ID:cPxiqBe1
大阪冬の陣の和議の後、慶長20年(1615)春、大阪より手立てが入って、山城国笠置の国人たちと語らい、
もし再合戦に及べば、近国諸大名の留守を狙い、それらの城を焼き討ちに致すべき旨を、16人が連判した。
そして伊賀国で島ヶ原の土民・甚七と申す者その他23人がこれに一味した。
4月5日、豊臣家は大阪からの移封を拒絶し、翌6日、徳川家康は諸大名に、鳥羽伏見への集結を命ずる。
大阪夏の陣の始まりである。
甚七は伊賀国上野郡奉行・岸田荘右衛門の所に参って
「この度の御殿様(藤堂高虎)の、合戦での御勝利を祈念するため、一之宮の神前において
御湯を揚げたいと、近郷の百姓どもが申し談じております。その時は何卒、ご見聞として
近くまでお出で下さりますように。」
と願い上げた。荘右衛門は奇特な事であると、日時を約束した。
甚七は『してやったり』と喜び、拝殿の側に伏兵を置いて、岸田荘右衛門を虜として、事を起こすべしと
密々に準備を行った。
この頃、笠置の無足人(所領を持っていない武士)に、森島新右衛門と言う者があった。
先達て、藤堂高虎が伊賀と京都を往来するようになった頃から、その用を申し付けられていた。
この時、笠置は高虎の支配地ではなかったが、そこの住人である森島新右衛門は信頼の置ける
人物であったため、前年の大阪冬の陣の時、国許の伊賀から淀まで、兵糧武具等の運送を依頼したところ、
たいへん手際よくその仕事を果たしたと言う。
森島新右衛門は夏の陣においても、木津まで往来して藤堂軍の兵糧等の運送の世話をしたのだが、
その仕事をしている内に、この甚七らによる一揆の企てを聞きつけ、早速岸田荘右衛門に
知らせた。
岸田荘右衛門は大いに驚き、留守居の奉行、物頭に知らせ、手立てを以って甚七以下尽く召し捕った。
これによって伊賀領内は静謐となった。
夏の陣が終わり帰陣した後、この悪党23人は磔に付された。
後で考えれば、大野主馬は郡山の城を焼き、大和国西部を乱暴した。
この時奥田三郎右衛門殿と松倉豊後守(重政)殿はは南都(奈良)を固め、その内に
水野日向守(勝成)殿が法隆寺に着陣して、大和は静謐になったのだが、これが4月下旬のことであった。
伊賀上野においてかの悪党どもが搦め捕られたのもだいたい同じ頃であり、おそらく大和と示し合わせての
蜂起を考えていたのであろう。
(元和先鋒録)
大阪夏の陣で、伊賀国でも蜂起計画があったらしい、という話である。
659 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 14:29:45.15 ID:rFnThLu/
肥前国佐留志の前田家定は、龍造寺家の傘下に収まった武将である。
朝鮮の陣の頃、前田家定は既に老齢であったため、彼の息子たちが鍋島直茂に率いられて朝鮮へと渡っており、家定は国元に残っていた。
このころ名護屋城には、豊臣秀吉をはじめ徳川家康前田利家など、全国の大大名が名護屋城に在陣していたことは知っての通りだが、
前田家定は同じ苗字のよしみを使い、前田利家に兵糧や進物をおくり、名護屋の陣屋で利家と対面した。
当然直茂には無断で、である。
利家から濃茶や名刀を戴き、意気揚々と佐留志に帰った家定であったが、これを聞いた直茂は家定の勝手な行為を厳しくとがめた。
するとこの家定、何を思ったのか肥前から加賀へ移り住もうと思い立ち、海路で加賀へ出発したのである。
しかしながら航海は失敗し、家定は肥前国の海岸へ漂着し、加賀へはたどり着けなかった。
在陣中にこれを知った直茂は烈火のごとく怒り、ついに家定は処断されてしまったという事である。
660 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 18:45:53.63 ID:YrbGa9us
そりゃ斬られるよ。たぶん家臣やめることを言ってないだろうし。義理ワン転職家でも袋叩きにするってw
661 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 19:27:09.73 ID:5vzy7qw+
漂着先肥前ってw
出航直後に沈んだのか?
662 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 22:45:05.83 ID:z/U3DWKS
利家には文句言えたのか?鍋島さん
……言えないか
663 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 23:22:04.22 ID:9eCD4F4O
佐賀県杵島郡江北町佐留志の位置だと、まさか有明海を回って長崎を南回りに出ようとしたとかじゃないよな
ゾンビ魔法使いを撃破したり、前田家定さんの行動はなかなか素敵
664 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 18:50:51.72 ID:FpxL1naL
渡辺尚(糺)とその母である正永(正栄尼)は豊臣秀頼に仕えた。
大坂の陣の時、戦いに敗れて諸将は皆死んだが、
尚は重傷を負って戻り、正永と会った。
この時、正永が「お前はどうして死に遅れたのだ」と問うと、
尚は「もう一度、阿母にお会いしたかったのです」と答えた。
これを聞いて正永は「女子が死ぬことができないとしても害は無いが、
海よりも深い国恩を蒙ったお前が死ぬことができなければ、
これ以上の大きな恥は無い」と、言った。
そこで尚はようやくその三人の子を殺し、自ら腹を切って死んだ。
正永はこれを喝采すると首をのばし、手助けする人の刃を受けて死んだ。
――『皇朝金鑑(大坂物語、難波戦記)』
665 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 23:20:23.57 ID:u+d21jYc
備中高松城を取り囲む織田勢に、毛利三家が相対したときのこと。
小早川隆景は熟考のうえ、
「信長と和議を結ぶのが最良の選択だと思う。幸いなことに相手もそのつもりだ。
なんといっても、大将(輝元)が頼りにならず、一門でさえ心替えをするようになってしまったこの時、
元就様のご遺言の通り、降参した国を除いて十ヶ国を保持することで手を打てば、悪い条件ではない。
元就様が天下を望むなかれと言い置かれたのも、輝元様をお見限りになって、
後々のことをご遺言されたのだから、ここで和睦するべきだ」
と言って、和睦を決めた。
信長の訃報が届くと、隆景は安国寺恵瓊を連れて秀吉の陣所まで見舞いに訪れた。
秀吉は仰天し、門まで出迎えにやってきて、隆景の手を取って陣屋に入っていった。
「さすがは元就公のご子息ですな。武勇のことは申すまでもないが、
実に今朝和談がととのったばかりだというのに、君子に二言はなしとはいうものの、
こうしてすぐに私の陣所にお入りになるとは、天下無双の武勇です」
と、秀吉は褒めそやした。
隆景は、
「名が聞こえた人に実際に会ってみるとがっかりするものですが、
貴殿に会ってみたら、天下をお取りになる相をなさっているので、この隆景、驚き入りました。
このたびは必ず明智日向守を御退治なされ、貴殿が天下の主となられましょう。
輝元という佞なる人が毛利家を継いでおりますので、
貴家を守り立て、天下取りのお手伝いをいたします」
と笑った。
隆景はさらに、「とにかく大変なときですから加勢をします」と言って、
元就の時代に尼子との戦で先陣をつとめた渡辺石見守という武功の者を選び、
五百騎と毛利の軍旗を秀吉への加勢に差し出した。
(武家万代記)
666 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 23:32:59.90 ID:bliTYw43
『武家万代記』って『三島海賊家戦日記』のことやね
恨みがあったのかしらないけれどこれなにかと輝元をディスってるんだよなw
667 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 23:35:12.81 ID:7nN1Vqk1
輝…
668 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 23:51:29.88 ID:KFFOoh1f
DQN眼竜は戦国全盛期の武将に比べると小物感が漂うが、
テルなんかと比べるととてつもない名将に見える
669 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 23:53:48.98 ID:u+d21jYc
気にかかった部分が一緒の方がいて安心したw
670 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 00:10:14.97 ID:/syMIewk
同じ史料で輝の治世は不行規で退屈なので中国四国衆は皆大あくびした、とか書かれてんだよな
村上海賊どんだけ輝ナメてたんだよとw
671 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 01:16:19.51 ID:B7DtpbVu
村上は全然毛利の忠臣じゃないよな、もっとビジネスライクな何か
大友のほうが儲かりそうなら味方するし秀吉が勝ちそうなら離反
672 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 01:41:25.23 ID:eDECr+vy
毛利が中国に勢力を伸ばすと海賊稼業の権益が後退したのか知らんが大内輝弘の周防上陸を阻止しようとした形跡が全くないしな
673 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 01:47:50.19 ID:/syMIewk
能島村上は大友にも筑前の権益認められてて親密だったからな
離反に怒った隆景に能島囲まれた時は大友が支援しようとした書状がある
674 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 02:07:56.31 ID:MlYzOzNE
来島村上が毛利を裏切って秀吉に裏切りそうだった時に「能島の村上も裏切るんじゃね?」という噂が
真しやかに流れてたから小早川隆景が全力で説得しに行ったらしいな。
675 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 02:17:25.50 ID:B7DtpbVu
そもそも全然言うこと聞かねえから隆景に実力行使で能島から竹原に強制退去させられたよな
676 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 07:30:02.91 ID:kdPcn2jt
>>668 戦国期では断然輝元の方が大物なのにね
信長と全面戦争して大半の領地を保全できたというのは何気にすごいと思う
677 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 08:17:10.08 ID:RFiNRl1+
あれは、両川のおかげだろう。
678 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 09:42:00.88 ID:e+b9Cyht
光秀のおかげとしか
679 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 10:02:50.74 ID:nZcct/kw
輝「みなさんのおかげです」
680 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 16:22:22.52 ID:Yks+cYuL
両川「もうちょっとフクロにしときゃ関ヶ原もなかたのか?」
681 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 17:18:31.25 ID:Fb7FD56i
ラスボスが吉川恐怖症にかかって、反動で小早川スキーになるぐらいだからな
682 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 17:20:07.87 ID:uQo2Yytt
それは陰徳太平記脳すぎるんじゃ…
683 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 18:48:26.20 ID:4dwMUXKz
>>681 だって吉川さん「心の一方」使えるんだからそりゃ秀吉でもビビるよ
隙を突いても「背車刀」でカウンター喰らうし
684 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 21:12:12.75 ID:0SycKMQg
ある日の日暮れ時、細川忠興が金属製の花入れを千利休に見せたところ、日本物である、と
利休は鑑定した。忠興が火をともしてよく調べてみると、立派な唐物のように見えたので
もう一度、鑑定をお願いすると、利休は「それには及ばぬ。そのような格好悪いものは
唐物であっても日本物と心得て、格好いいものは日本物であっても唐物と心得よ」と言った。
(三斎公御物語)
685 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 23:14:28.75 ID:8ZaBR1SF
三才「今度のは良いものですか?」
利休「北宋だな」
686 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 23:44:01.64 ID:sl1tvZz9
海外厨の鏡
687 :
人間七七四年:2013/11/10(日) 01:11:24.09 ID:saIZQQJh
やっぱり根は商売人だな
688 :
人間七七四年:2013/11/10(日) 08:00:19.98 ID:mw4AMHgm
志村光安の黒歴史
志村光安と言えば氏家守棟と並び最上義光を支えた名臣で
最上家を代表して織田信長に面会を許されたり、慶長出羽合戦では寡兵で長谷堂城を守り、「口才達者」「文武両道の将」とも称された人物である。
現在の山形県天童市の若松観音堂に、重要文化財、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」がある。
永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部にとんでもない落書きが残されていた…
「志村九郎!」
志村光安「俺参上!参拝記念!」
…現在でも観光名所への落書きはなにかとマナーを問われるものとされている。
志村光安のなにげなく書いちゃった落書きのバツの悪い話。
(`・ω・´)「犯人はヤス!」
志村光安「!」
689 :
人間七七四年:2013/11/10(日) 18:49:39.30 ID:KQwH1Oxz
修学旅行生かw
690 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 00:07:48.16 ID:t49SQDtm
カンボジアの仏教寺院の柱に自分の名前と来訪した理由刻んだ森本右近太夫思い出した
691 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 00:13:10.18 ID:TmIJCJik
そんな人物が居たんだw
692 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 00:13:13.85 ID:6zTV38AG
ピラミッドに大量に刻まれてる各文化圏の落書きのお陰で色々分かることもある
まあ、志村さんの場合はそういう意味では糞の役にも立たないアレな代物だけど
693 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 00:13:42.89 ID:xj+efbRH
あれ、墨書だけじゃなかったっけ
694 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 03:58:20.59 ID:Ah3RwMgJ
氏家守棟が八沼城攻めで最上義光にキレたわけの詳細
昔このスレで出てきた話なんだけど
氏家守棟が最上義光に「なんなの?馬鹿なの?死ねばいいのに!」と言ったのは
最上義光が大将なのに一人で突進して単に雑兵のクビを取ってきたからだけではありません
詳細について触れていきたいと思います
八沼城は山形の西方にあり、貴志美作守といった者が守っておりましたが、貴志氏と最上義光は領地境のいさかいをたびたび起こしておりました
義光は千余りの兵を集め八沼城を攻めましたが、山岳戦や地の利は貴志軍にあり、いくさの序盤で最上方に負傷者や戦死者が続出しはじめました
(つづく)
695 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:06:14.06 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)
氏家守棟「やみくもに攻め込んでいては味方に被害が増すばかりです。一旦城外に兵を引き、態勢を整えましょう」
最上義光「うん、良い様に任せる」
貴志軍は最上軍が逃げ出したと思い、城の外へと打ち出して来ました
義光「敵が城を出て来るなら、戦わない道理はないよね?付け入ってさっさと城を落とそう」
守棟「ちょ、待っ!!」
味方の軍の再編を守棟に押し付け、義光はわずかな従者を引き連れ貴志軍に立ち向かいました
(つづく)
696 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:18:35.83 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)
貴志軍の先頭には龍頭の兜に緋威の鎧、大薙刀に鹿毛の馬に乗った、見映えの良い若武者がおりました
義光「名のある将と見た!」と従者を置き去りにし、一人敵に突っ込もうとする鮭様
従者「殿!らめぇ!!」
従者が引き留めようとする袖も振りちぎり、義光は敵の若武者に近付くと
「えい!」スパコーン☆
【例の鉄棒にて只一打落し
馬より飛下り頸ねぢ切て(原文ママ)】
愛用の鉄棒で若武者を馬から叩き落とし、倒れる武者に飛び乗って、その首級を挙げました
(つづく)
697 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:29:50.45 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)
義光が意気揚々と敵の首級を持って味方の方へと戻って来ると、氏家守棟が涙ながらに義光に問いつめてきました
「大将が軽率な行いをしないでください。その首級を誰に見せるおつもりですか?
つい先頃羽柴勘十郎を討ち取った時に『大将自ら出てくる方が悪い』って言ってたのはどこのどいつなの?馬鹿なの?死ぬの?犬死にしたらお笑い者だよ?羽柴勘十郎の事を言えないじゃない?
あぁ情けない!情けない!!」
義光はちょっと天を仰ぎ面目なさそうにその首級を手持ち無沙汰にしていたが、近くの者に
(´・ω・`)「…これ、あげるんよ…」と与えられた
(つづく)
698 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:39:53.90 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)
貴志勢もやがては疲れが見えはじめ
城内へと引きはじめた
義光「味方優位だ!我に続け!!」
また敵に向かって駆け出そうとする鮭様
守棟「【今申しつる事早くも失念哉(原文ママ)】(ダメだこの馬鹿、なんとかしないと…)」
守棟がキレた!!
義光より先の方へと走り出し、槍を振り回しながら敵勢の中へと飛び込んだ!
最上義光(´・ω・`)「!【氏家うたすな尾張うたすな(原文ママ)(守棟を敵に討たせるな!みんな突っ込め!)】
(つづく)
699 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:46:01.69 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)
その夜になってようやく八沼城は落ち、貴志美作守は降伏し助命され、山形城二ノ丸外西門付近に屋敷が与えられた
城主貴志氏は殺される事はなかったのになぜか伝承が残る「血塗られた八沼城の婚礼」と「城主の若夫婦の身投げした春日沼伝説」の話と合わせて
単身突撃好きな鮭様と、思わずぶちキレてしまった氏家守棟のバツの悪い話
700 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 04:58:16.83 ID:Ah3RwMgJ
この頃の鮭様は40才くらい
氏家守棟も50代前半から半ばくらいだったと考えられています
701 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 08:21:45.19 ID:t49SQDtm
ほんとに脳筋
702 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 12:04:22.52 ID:Ah3RwMgJ
高野山の最上義光の墓
「おい、墓碑らしいものがあったぞ!」
崩落し、その大半が土と苔に埋もれた墓石が昭和の山形県調査団の高野山の発掘で再び陽の目を見る事になった
発見者は当時の山形県知事で郷土史学者でもあった長井政太郎氏
氏は江戸期の史料を漁り、「最上義光公の墓もきっと高野山にあるに違いない」と考えていた
掘り起こされた石の苔を剥がして銘文を読み、鮭様の墓碑であることを知って、長井政太郎はしきりに慨嘆していたと伝わる
高野山奥の院の鮭様と殉死者のお墓の五輪塔は、現在は信州真田家墓所の奥の高台でやや場所がわかり辛いものの、標識も建てられ、慰霊と整備も行われました
「羽陽文化」
703 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 18:58:38.45 ID:6yCUI/n+
三河の人間と混ざっても違和感ねえな
704 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 20:53:47.01 ID:vLykhab8
なんか最近既出の最上話多いなあ。
顔文字の付け方とか、同じ人が投稿しているんだろうけど、そういうのは既出のスレでいいんじゃね?
最上そのものは嫌いじゃないけど、このスレには無理矢理固定イメージつけようとしている同一人物がいるみたいで正直引くわ。
705 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 21:58:48.90 ID:Ah3RwMgJ
>>704 八沼城以外に既出のかぶり話って最近ありましたっけ?
顔文字に関しては否定できませんけれど
706 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:09:27.37 ID:Ah3RwMgJ
固定イメージならラスボスや工場長、三才さまといったスレ発祥の言葉やAAすら使えなくなりますよ
707 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:11:41.66 ID:X7p/xtK1
えっ、なにこいつ逆ギレ?
708 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:21:44.83 ID:Ah3RwMgJ
>>707 ヒャッハーや三才さまがよくて顔文字がなぜいけないのかといった話
709 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:24:29.15 ID:9ox0rRHK
気持ち悪いから
710 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:49:40.97 ID:gYGy20co
ぅわ…最上ちゅぅ発狂。。。
もぅマヂ無理。。。
浅漬けにしょ。。。。
711 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:53:44.25 ID:jD374KAR
>>709 気持ち悪いのはおまいの面だけで十分だよ
712 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 22:58:09.64 ID:izQXMv6J
喧嘩すんなよ
713 :
人間七七四年:2013/11/11(月) 23:41:12.94 ID:4HQqvLRQ
何この流れ?
最上家には鉄棒は伝わっていたのに、墓は伝わっていなかったのかな。
714 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 01:03:55.85 ID:ClsJsM9F
>>713 山形にある墓所は伝わっていても山形は他人の所領になっていたのと、高野山の墓はすっかり忘れ去られていたのでしょうね
墓の存在が忘れられていたからなかなか訪れる人もいない→高野山に心づてをする人もいない→荒れるに任せられていたと
715 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 03:29:20.41 ID:ysoIFoYN
このスレ発祥とかよう知らんが件の顔文字は媚びた豚鼻顔に見えるので最上のイメージ無い
716 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 08:54:57.70 ID:ClsJsM9F
「軍記物」にまつわるちょっと悪い話
特定の合戦においても立場が異なれば、味方と敵とでものの見方や書き残す内容がまったく違ってくる事は少なからず出てきます
上杉家に残る「越境記」「最上合戦記」から長谷堂合戦の流れを軽く拾ってみました
…直江兼続の所領は米沢にありましたが、北の山形の最上義光の国人や百姓らが無法にも直江方の所領に侵入する事が頻繁にありました
この報告を受けた兼続は「下々の事は最上の名主に問い合わせよ」と指示を出しましたが、一向に改善なされる様子はありません
兼続は「これは山形の義光が領民らをそそのかし、こちらの出方をうかがって米沢攻めを目論んでいるに違いない」と考えました
白石城を伊達政宗に取られたのも、計略に長けた最上義光が裏で糸を廻し、隙を見て米沢攻めを画策しているのだ、と
ならばいっそお仕置きをかね、山形周囲の城を叩き、義光に痛いお灸を据えてやろう
(つづく)
717 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 09:14:40.08 ID:ClsJsM9F
(つづき)
この事を景勝公にお願いしても、上方の事で大変な時期に出陣の許可は易々と得られないだろうから、後のお叱りは殿のお情けにすがり、お咎めは甘んじて受けようともまずは最上を叩こう
水原親憲が「大兵をもって山形城を囲んではどうか」と提案してきましたが
兼続は「山形周りの城を叩き、義光に反省を促すのが目的である。それでも行いを省みない様ならそれから山形城を囲もう」と評定を締めました
直江軍の動きは予想されていたのか、畑谷には江口五兵衛といった剛の者が配され、山形の最上義光も大軍を率いて後詰めをする手筈を整えていました
しかし直江軍は大兵をもって畑谷城を急襲したために、最上義光は後詰めの兵を出すタイミングを完全に失い、畑谷城は孤立無援のまま数日で落ちました
(つづく)
718 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 09:23:29.92 ID:ClsJsM9F
(つづき)
勝手に兵を動かしたものの最上方の城を落としてしまったので兼続は景勝公の元に伝令を出す事にしました
すると景勝公は意外にも「最近政宗や義光が領内を荒らしわがままに振る舞うのをいぶかしく思っていた。兼続は民を思いこらえかねて兵を動かしたのであろう
これで政宗も勝手な事はするまい。山形方面は時期を見て軍を返せ。畑谷を落とした事は褒めてつかわす」とおっしゃいました
兼続が畑谷を抜け富神山から山形を望むと、長谷堂と山形の方面には雲霞のごとく最上軍の旗がたなびいています
最上義光はまったく話し合いに応じるそぶりもなく、あくまで戦うつもりの様子です
菅沢に布陣して数日後、最上軍からの夜襲がありましたが直江軍は簡単に撃退しました
(つづく)
719 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 09:38:44.13 ID:ClsJsM9F
(つづき)
また、別動隊の上山口の方面では最上方の領民らが中山に侵入し、直江領の民らに喧嘩を仕掛け、張番の足軽が鉄砲で最上方の不法者を撃退するといった話もあった様です
にじりにじりと長谷堂城を取り囲み、最上方からの和議の使者を兼続は待ちました
奥羽の山を越えて伊達の援軍が山形入りをし、数を頼みに散発的に長谷堂城や山形城から菅沢の本陣に奇襲がありましたが、なんなくこれも撃退しました
山形城主の最上義光は無双の大力の強者で、鉄棒を常に携え「義光これを持つ」と象眼させていた様ですが、味方の兵が上杉軍に敗れる報を聞くたびにその鉄棒で地面を突いて怒りを顕にしていたと伝わります
しばらくして会津から「上方で急変があった」との事で米沢に兵を引く事になりました」
(つづく)
720 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 09:52:53.52 ID:ClsJsM9F
(つづき)
兼続「山形進攻はまずはこれまで。上意であるから山形の領民には迷惑を掛けぬ様速やかに兵を引け」
菅沢から兼続が兵を引き始めるそぶりを見せると、「上杉軍に戦意なし」「臆病風に吹かれたか」と最上軍と伊達軍が米沢勢を残らず討ち取ってやろうと長谷堂城と山形城から一斉に打ち寄せてきた
最上軍は琵琶の小旗を着け総勢一万二千騎余
これに伊達軍も加わり、山形勢の士気は天をま突くばかりだった
見る見る内に長谷堂城から菅沢への平地が最上軍の人馬で埋まった
勝ち誇り追い縋る最上軍
戦う様に見せて幾段にも分けて伏勢を置き、鉄砲を打ち掛けては退く直江軍
なにぶん最上軍は大軍なので鉄砲で打ち払っても打ち払っても簡単に退く事はできなかった
(つづく)
721 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 09:59:19.65 ID:ClsJsM9F
(つづき)
殿軍の兵らはよく戦ったが勢いにのる最上軍は大兵。(直江軍の)味方に戦死傷者が続出しはじめた
こうして直江軍は多勢の最上軍に追い縋られながらも全部これを退け、畑谷を通り米沢方面へと引き揚げた
この撤退時に味方が討ち取り持ち帰った最上軍の首は約三百余である
722 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 10:02:18.17 ID:ClsJsM9F
「最上記」と比べると、大分いくさ観に違いがある様です
最上軍の兵が12000人+伊達の援軍って…
買い被られてたのか
それとも補正で水増しされていたのか…
723 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 10:15:29.85 ID:ClsJsM9F
>>720 誤)山形勢の士気は天をま
↓
正)山形勢の士気は天をも
他にも細かなミスや「ます」「ました」「です」「でした」で統一されておらず読み辛い部分のあるとは思いますが
平にご容赦ください
724 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 11:37:50.05 ID:ClsJsM9F
この「最上合戦記」は長谷堂城主を坂紀伊守(坂光秀)と扱い、志村光安を山形城軍としています。
他にも湯沢に篭城中の由利豊前(楯岡満茂)や既に死んでいる延沢能登(満延)が長谷堂合戦に参戦していたり、鮭延越前(秀綱)が城野越前として重複してカウントされていたりと
気になる部分も見受けられます
725 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 18:03:13.03 ID:6Xc33ZES
これは検証スレでやるべき話題やね
726 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 14:20:00.37 ID:7Zod2C6F
さすがにたった八人で敵を退却させたという話はないのね
727 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 16:13:02.41 ID:RU7Jpa/t
小笠原秀政の家臣小笠原主水(政信)は相撲が大好きであった。
しかし主君小笠原秀政は、度々
「相撲など卑しい業であるから、そのようなものを好むでない」
と小笠原主水に訓戒した。
そうしたところ、大坂夏の陣の時、秀政の御前で
主水は相撲技を駆使して、敵兵2〜3人を取っては投げて倒し、
秀政に向かい
「日頃お叱りを受けていた相撲もこのように役に立ちますぞ!」
と二三度言上すると、敵が鑓衾を作り待ち受けているところに駆け込み、
自身の鑓を横たえ敵の鑓をすくい上げたところを、四方から鑓九本に突き上げられ
首を獲られて討死したという。
犬甘代々古老夜話集より
大坂夏の陣で小笠原勢が毛利勝永(吉政)隊に撃破された際に起きていた一コマ
元々秀政に対して主水は含むところがあったらしいのですが
なんとも後味の悪い話と云うことで
728 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 16:21:25.89 ID:gDVuHnz7
ん?景勝さんがしゃべってる!?
729 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 17:49:24.15 ID:jhPTV3QY
景勝「…」
兼続「わしが喋ってもおかしくないだろう、と殿はおっしゃられておる」
730 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 18:36:52.64 ID:cpBuua7P
731 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 00:20:37.64 ID:9i6s9KCI
徳川と武田と真田と長宗我部の末裔が雑誌で対談しているのを読んだけど、
長宗我部の末裔は仙石を好いていなかったな。
732 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 00:52:26.66 ID:mbd20c6a
そいつが彫塑のどの末裔か知らんが秀久がいたから今のそいつがいるのにアホやわ〜
733 :
716:2013/11/14(木) 03:48:01.56 ID:TMFzcbhY
>>726 一方組外衆が撤退戦で最上の兵おおよそ二百を足止めした
↓
「二百」
↓
字が「二万」にも読めなくはない
↓
※「花の慶次」のエピソード誕生
−とも思えます
>>728 会津の景勝から山形に出ている兼続への「手紙」での文言でしょうね
734 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 07:53:33.58 ID:5nH90yzn
735 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 08:23:52.90 ID:X41N6agk
仙石は非を悔いて滅ぼした各家の子孫に報いたのかや
736 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 08:31:31.28 ID:M5qAD4qr
と、ゆーか仙石より後詰に来なかった義統を恨むべきだろ
737 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 09:04:25.39 ID:z97uHdYI
大友から派遣された戸次隊は信親や十河とともに壊滅しとるがの
まあ、彼らはどのみち死ぬしかなかったんだけど
てかさ、後詰も何も秀久が独断で先行、戦端を開いたのがそもそもいけないんじゃないのかね
やっぱまず恨まれるのは秀久でしょ
738 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 13:21:17.70 ID:mbd20c6a
積極派の仙石、慎重派の尾藤
島津相手は対応に苦しむね
739 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 14:17:43.51 ID:NCl8Nr7P
島津相手には
センゴク「進むも地獄」
尾藤「退くも地獄」
その後のラスボスの処分を考えると
740 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 15:02:40.36 ID:uwWuYrkx
真田も内心よく思ってないかもw
741 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 17:19:41.41 ID:bEaahQ11
上杉謙信は忍において北条氏康と戦った。この頃、太田資房は
ひそかに氏康へよしみを送り伝えた。
謙信はこれを察知すると、単独で氏房の軍営に至り、
その十二歳の第三子をつかまえて、
「立派な子だ。この子は私の子になるべきである」と、
その手を引っ張り、立ち去った。
衆人には積極的にこれを阻止する者はおらず、資房は恐れてひれ伏した。
――『日本智嚢』
742 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 17:47:17.70 ID:5FWxIKgP
自分の子にするってのは乗り込んで拉致る時の決まり文句なのか
743 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 17:52:36.32 ID:+0a4ZHEC
その子はどうなったんでしたっけ?
744 :
人間七七四年:2013/11/14(木) 19:43:16.67 ID:uKsgFCR+
首を刎ねたんじゃない?
745 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 00:44:17.23 ID:sZlT8Np4
イケメンだと敵の人質でも跡取り候補になれるのが上杉家ですよ
746 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 01:02:03.80 ID:etyLuDkG
秀吉が九州攻めをしている最中のこと 「フロイス日本史」より
1人の坊主が、署名のない関白の書状なるものを携えて大坂城に赴いた。
その書状には
『関白の軍勢は危機に瀕しているので、高野の僧たちがこの者を遣わす。
関白夫人は相当な喜捨を行い、関白の軍勢に良き戦果がもたらされるよう、僧侶たちに、
仏に祈り犠牲を捧げることを頼まれよ』
と書いてあった。
関白夫人はこれを訝しみ―なぜなら彼女はほとんど毎日、シモ(九州)からの報告に接していた―
書状に署名がないことに注目し、その坊主を拷問にかけようとして捕縛させた。
捕らえられて身の危険を感じた坊主は、書状が欺瞞であること、貧しかったためにこのようにして
いくらかの銀子を得られないかと試みたことを白状した。
かくして彼は公の牢に入れられ、関白が帰還した時に処刑される日を待っている。
毎日2人の平がその監視に当たっていた。
彼の前には、生きながら炙る、もしくは揚げるために、溶解した鉄が入った大鍋が置かれていた。
747 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 03:37:29.37 ID:Jo9BCJ6t
義統は家臣団をまとめきれずに、ほとんどの大友家臣が独自に対応してたからなあ
志賀親次とか佐伯惟定は戸次川後も島津相手に独自に勝ち続けてて
豊臣本隊が来る前に豊後南部を結構奪還してたんだけど
748 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 06:50:54.03 ID:7OJdFQHH
大友はリーダーシップを発揮すれば発揮するほど弱体化してしまう家
749 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 07:15:35.69 ID:aaZ50duI
>>726 遅レスだけど
「上杉諸士書付?」だったかには「八人が最上本陣を襲い、最上方をしっちゃかめっちゃかにやっつけた」とかいった内容があったと思う
750 :
749:2013/11/15(金) 07:19:37.78 ID:aaZ50duI
間違えた…
>>726 「上杉将士書上」にあるらしい
751 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 07:22:08.01 ID:iDc7XhX1
賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴、柴田両軍は南北の峰を本陣として対峙した。
両軍の先手は谷に降り合って槍を合わせる。
この時、秀吉方より先に、勇士を出して挑戦をさせた。
秀吉方の福島市松(正則)先駆して首を取り、秀吉の御目にかけた。
その他秀吉方の勇士、加藤虎之介(清正)、加藤孫六(嘉明)、平野権平(長泰)、脇坂甚内(安治)、粕谷助左衛門(武則)、
石川兵助(一光)、片桐助作(且元)、この7人が進み戦って柴田方の先手を北の嶺へと追い上げ、分捕り数多して
比類なき高名をなした。
これを以って世俗に『賤ヶ岳の七本槍』と号するのである。石川兵介はここでやがて討ち死にした。
福島市松は戦功優れたと言えども、別の戦場に居たため七本槍の数には入らない。
(黒田家譜)
黒田家譜より、「福島正則は七本槍じゃないよ」という指摘である。
752 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 07:45:11.00 ID:nUvtZ25J
桜井さんは?
753 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 15:58:27.12 ID:XmguWrso
>>741 太田資房は氏資ね、氏房は北条氏政の子
元の資料では源五郎になってたのかな?意味が通じるよう訳してくれ
754 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 16:10:39.94 ID:3zaQi9xN
>>753 投稿者じゃないけど原文は資房、氏房となってる箇所は全て資房だったよ
ちなみに第三子は安房守とか書いてあった。
755 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 16:40:18.49 ID:MzY12iwa
真田表裏比興さん「呼ばれた?」
756 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 16:40:44.38 ID:XmguWrso
ったくどうやったら間違うんだよ。
あと子供に名前か官名があるのなら省略しないで欲しい。資房には娘しかいないと思ってたし。
757 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 16:59:25.97 ID:ED5WT+Hh
氏資のWikipedia見たら「初名は資房」ってあったから俺はそう受け取ったよ。
「子がいなかった」が引っ掛かったけど、Wikiだしスレの趣旨的にも気にしないことにしたw
758 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 17:01:22.90 ID:3zaQi9xN
759 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 17:33:40.79 ID:R9Cg/jN7
太田さん一家は『雪の峠』で名を知った人が多そうな
760 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 17:44:23.81 ID:YA14mP7p
>>753 すいません、Wikipediaを参考にして当初は資房(氏資)としておこうかと思ったんですが、
氏資には子どもがいないし、安房守なら父の資正のことかもしれない。
しかし資正の三男の資武が十二歳の時には謙信も氏康も死んでるし、
よくわからないから原文ママで資房にしよう、などと何度も書きなおしてるうちに
誤って氏房にして投稿してしまいました。申し訳ありません、以後気をつけます。
761 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 18:19:46.61 ID:XmguWrso
>>758 >第三子が安房守だと資正っぽい気もするね。
ごめん、意味が分からない。安房守なら資武じゃないの?
筋の通らない話をのせるときは最後に「原文ママ」と入れといて欲しい。
762 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 18:26:40.95 ID:XmguWrso
ああ、資房じゃなくて資正ってことかOrz
どっちにしろダメな資料だね。
763 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 18:50:22.96 ID:3zaQi9xN
>>762 ここ逸話スレなんだし、別に「史実と一致してない=ダメ資料」ってことは無いだろう。
俺はこの本は訳のわからん話がモリモリ入ってて楽しいと思うけどな。
764 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 18:58:34.46 ID:MzY12iwa
資料間違って読むと一代ズレたりするのもないわけじゃない。このスレで見たぞ
765 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:04:19.14 ID:iDc7XhX1
原文からして勝頼の話が信玄の話になってたり、景勝の話が謙信の話になってたりする軍記物は正直いくらでもあるな
766 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:12:12.42 ID:XmguWrso
>>763 謙信が太田から人質を取ったのは事実らしいが、内容が、ね。
読み手に誤解を与えるようじゃダメだよ、わかる人に突っ込まれるだけ。
それおかしくね?って。
767 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:12:55.46 ID:N7YJ8VhK
間違ってるから駄目!じゃなくて
そうなった背景を色々と想像してみるのも
歴史の楽しみだと思うけどね。
768 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:21:00.03 ID:XmguWrso
>>767 じゃあこの場合どう想像できるわけ?
だいたい逸話をのせる前に読んでみないの?
おかしいか、おかしくないかわかるでしょ。
韓国の歴史教科書よんで楽しいって言ってるようなもん。
769 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:25:14.57 ID:XgKWDnl9
>>767 一人で無理に解釈せずに変でもそのままで良いよってことでは
770 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:37:46.62 ID:XmguWrso
読んでおかしければ、「原文ママ」って入れてくれればいいよ。
編纂者が間違ってるだけだし。
あと太田資正の子で潮田資忠がいるが、どこ見ても四男なんだよねw
間違いを踏襲してるからこうなるんだよな。
一昔前では竜造寺政家の生年が1566年になってたしw
771 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:40:47.00 ID:3zaQi9xN
ここは逸話スレであって史料検証スレじゃないんだけど
これ以上、揚げ足取りを続ける前に
>>1 をよく読んで出直してきた方が良いよ。
772 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:49:35.91 ID:XmguWrso
>>771 揚げ足は取ってない。感じたことを述べてるだけだ。
取ってると捉えてしまうのは間違いが指摘できない知識の低さ故か。
773 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 19:50:50.30 ID:wVvhFuft
>>772 自分が場違いということに早く気がついたほうがいいよ。
774 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 20:01:36.14 ID:XmguWrso
>>773 あなたのような人のことを狭量といふ。じゃあの。
775 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 20:05:32.27 ID:N7YJ8VhK
>>772 まず、間違いを指摘するにも言い方があるよね。
投稿主は自分の過ちを素直に認めて謝罪したんだから
そこで話は済んでるわけで
「いや、こっちも言い過ぎたわ」って言えば話は上手く収まったんじゃないか?
投稿主の対応が大人なだけに、色々と残念だわ。
776 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 20:43:43.62 ID:XmguWrso
>>775 まだ言ってるのか、やれやれだな。それいったらお前の対応は大人のそれか?
読んでみておかしいと思ったら原文で書いて「原文ママ」と記載して欲しいって言うのが悪いのかね。
読んでも分からない人が噛みついてくるから詰ってるだけだよ。
777 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 20:58:28.81 ID:3zaQi9xN
そろそろ誰が何度言っても判らない狂人はスルーで
778 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:11:36.23 ID:XmguWrso
>>777 レスしないつもりだったけどアホが湧いてきたんで返しとく。
負け惜しみ乙。知識のないアホに限って狭量なのなw
779 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:14:29.66 ID:0FMS2HT5
返さなくていいから消えて、どうぞ
780 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:22:03.29 ID:XmguWrso
781 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:26:25.65 ID:wbbSndiK
関八州古戦録がいけないということでここは一つ
つか諱なんか結構適当なのに何をいまさら
782 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:56:01.00 ID:nUvtZ25J
ケンカすんな。政宗がくるぞ。
783 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:04:46.65 ID:3zaQi9xN
それじゃ政宗を投下しよう
伊達政宗兼松又四郎と喧嘩の事
陸奥守政宗が殿中御能の際に兼松又四郎と言う旗本に対して無礼を働いた。
又四郎が握り拳で政宗の顔面を殴りつけると、政宗は手をうって笑い「さても
男なり男なり」と興ぜられた。
帰館後に家老片倉小十郎に「別に危ないことでもなかったが、小身者を相手に
本気になる事ではないので面白くいなしてきたよ」とお話になられた。
小十郎は「左様もっともでございますな。しかし小身衆に無礼を働いたり
しないよう、もっとお慎みください」と答えた。
(翁草)
既出逸話のバージョン違いだが小十郎に突っ込まれるバツの悪い話
784 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:16:56.26 ID:sPvyXrI7
諱って同時代人も知ってることは知ってたん?
785 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:22:29.30 ID:np5pVfdE
政宗は何やったんだろう?w
786 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:25:27.19 ID:5sGX4E/5
知らないと諱を避けたり出来ないだろうな。
787 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:26:17.73 ID:dtT0Jbo2
秀吉とか輝元とか大身の殿様の諱なら庶民でも知ってたみたいね
今の総理のフルネームを皆知ってるような感覚だろうか
あと政宗w
788 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 23:57:10.10 ID:nUvtZ25J
>>783 ありがとう政宗。なにをやらかして、顔面殴られたか気になるな。報復しなかったんだろうか。
789 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 01:02:23.01 ID:gu7a5FSK
小十郎をして、殴られて仕方ないって言いたげな無礼って
790 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 04:45:10.73 ID:u8aZHzyB
>>783 > 兼松又四郎と言う旗本
> 織田信長に仕え、桶狭間の戦いで初陣を飾る。最初は下級武士であったが、戦功を挙げて信長の馬廻衆として活躍。
> 本能寺の変後は、尾張に戻り織田信雄に仕えて、小牧・長久手の戦いでも信雄に属して戦っている。
> 信雄の没落後は、羽柴秀吉の黄母衣衆として活躍、豊臣秀次に一時属するが、秀次の死後は再び秀吉に仕え、
> 秀吉の没後は徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐に家康に従い、西に転じて岐阜城攻め、関ヶ原の戦いに従軍した。
> 戦後、家康の子の松平忠吉の与力となり2600石を知行。忠吉が早世したのち、徳川義直に仕え、尾張藩士となった。
> 墓所は政秀寺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%BC%E6%9D%BE%E6%AD%A3%E5%90%89 あの時代の代表的勇者の一人なんですかそれは
791 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 07:02:03.01 ID:f2LLvC2b
びびって逃げたのを誤魔化してるようにも思える
792 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 08:58:44.17 ID:X1030b2m
政宗の場合はビビって逃げたわけでもない
生ける伝説のような古武士に殴られても「じゃれあって来たぜハハハ」で
めげないからある意味頑固だし大物
793 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 09:44:09.13 ID:oINKhTys
いつも一緒にやらかしてる小十郎に窘められるレベルの無礼、というのが気になる
794 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 11:06:46.22 ID:69NhvA7o
この政宗人気もやっぱ大河のおかげだよなあ
直江と浅井さん姉妹はどこで間違ったか
795 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 11:10:05.69 ID:TemEYKW7
脚本家の違いだな
来年もクロカンもクドカンが脚本やれば、視聴率だけは上がるかも
戦国板の評価は分からんけど
796 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 11:12:20.86 ID:rJ21uoQ/
直江は内容はともかく、大河で人気にはなったんじゃないか
797 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 11:13:05.98 ID:nFLMar6P
直江は原作の時点でつまらんから…GOは知らないが
798 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 11:48:58.97 ID:iv59GlGc
政宗はどこ切り取ってもネタ出てくるからなぁ。
799 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 13:16:37.11 ID:+2ms3m1w
中間管理職出世物語より社長立志伝の方が
800 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 14:47:34.02 ID:aFkFuLF6
猪熊事件関連の面白い話ってないかな?
801 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 14:56:32.45 ID:/qsd9jKl
>>790 元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍し陣中で正月を迎えて、河原に自生していた蘆で臨時に飾りを作り、武運を祈ったのが門松の始まりという。
こっちのほうがびっくりしたわ
これ本当なのけ
802 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 15:15:24.61 ID:69NhvA7o
803 :
人間七七四年:2013/11/16(土) 18:27:44.48 ID:NGypLPZ3
さすがに今の時代ゲヒさんはいないだろうな・・・?
804 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 16:49:15.19 ID:S/k83Ahu
天正14年(1586)12月、豊臣秀吉の九州役の中でのこと。
原田五郎右衛門尉信種、筑前国怡土郡、高祖城の城主であったが、豊臣秀吉に従わなかった。
ために小早川隆景はこれを討つためその兵を出撃させ、高祖城へと向かった。
この時黒田官兵衛よりも、その家臣、久野四郎兵衛などが目付けとして派遣された。
原田は田舎侍であり、近隣の城持ちとの小競り合いで度々勝利したことを自慢し、
人数千、二千を大軍だと思い、豊臣秀吉の武威の盛んなるを知らなかった。
また上方の軍勢など、例え大軍であっても公家や長袖(僧侶)のような物であり、何ほどのこともないと
侮って、敵の来る前に、高祖城の前方にある大門河原にでて勢揃いをさせた。
その有り様といえば、ちぎれた鎧を着て、縄の手綱を付けた馬に乗る侍が数十騎も居ないような
ものであった。
そんな彼らが、上方勢の来るのを待ち構えていたが、寄せ手の兵は早良郡より日向山を越えて
高祖城を目指して押しかけてくる。
原田はこの軍勢を見て、思った以上の大軍であったため、これと対決するのは難しいと思い、
先ずは籠城して、薩摩からの後詰めが来るのを待とうと、軍勢を城内に入らせた。
このようにして、小早川隆景の軍勢は抵抗もなく高祖城の城下まで押し寄せたが、
鴾毛の馬に乗った武者が、城下に一番乗りをした。小早川隆景がはるかにこれを見て、
「あれは誰か」と問うと、黒田官兵衛の家臣が、「あれは久野四郎兵衛です」と答えた。
この様に城下に小早川の兵が押し寄せる中、原田五郎右衛門尉は本丸の上から
東の方を見渡すと、敵はなおも押し寄せると見え、博多の西、早良郡より城の麓まで
3,4里の間を大勢が続き、旗、指物、馬物の具をきらめかせて、隙間なく行軍していた。
原田はこれに肝をつぶし、評議にも及ばず降参を乞うた。
このため高祖城は城攻めをすることなく落ちた。
(黒田家譜)
筑前高祖城、軍勢を見ただけで落城す。というお話。
805 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 17:00:09.94 ID:CoBgjqb3
塙直政「九州の名族だから、て原田氏名乗らせられたのに、ただの田舎侍とは」
806 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 17:09:26.67 ID:a0G8zjJr
原田はなぜいつも負け組に付くのか…
807 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 17:25:56.65 ID:Mx5XOPoH
長袖って坊主なの?吏僚のことじゃなかったっけ
808 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 19:43:34.22 ID:TSqbRm15
上方の軍勢かと思ったら中国方の軍勢だった
何を(ry
というか上方の軍勢が公家や僧侶の大軍だったらそれはそれで怖いw
809 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 23:41:04.10 ID:YjZYDJqw
810 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 02:33:06.55 ID:1pf0sxJS
>>806 最後は朝鮮出兵でフェードアウトするように消えたんだよな
サヤカ説もあるけど
811 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 10:57:27.54 ID:iFLXRQEr
>>794-797 かんべえ、ってハンドルネームで有名な経済評論家の日記から・・
来年も大変なことになりそうだw
溜池通信11月17日
○『軍師の門』(火坂雅志・角川文庫・上下巻)を読了。黒田官兵衛ものであって、来年のNHK大河ドラマのネタ本である。
○が、これがつまらない。まーったく下手な小説だと思う。義理だ、仕事だと自分に言い聞かせながら最後まで読み通した。
人物描写は浅いし、ストーリーには山谷がないし、とにかく史実をなぞってみました、という体裁である。荒木村重に投獄される部分も、
本能寺の変から中国大返しに至る部分も、ほとんどドラマになっていない。唯一、フィクションでくわえた女性が登場するが、
これが全く魅力に欠けると来ている。何が書きたかったのだろう。笑ってしまうのは、最後についている「解説」もひどい。お暇な方は、
書店でこの解説だけを立ち読みされたらよい。ワシは「やっぱり買うの止めようか」と思いましたぞ。
812 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:32:13.67 ID:DOi+AH8K
太田道灌って立派な人格者ってイメージがあるけど、史家の八巻何とかさんとか、
西股総生さん、葛城明彦さんなんかはあんまりよくいわないですよね。
ゴーマンって印象は確かにあったけど・・・
813 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:43:04.54 ID:AjVpgEUP
太田道灌のイメージ
・江戸城の元の持ち主
・山吹の歌で歌道に発奮
・足軽戦法とかいうえげつないのを考えだした
814 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 13:02:13.50 ID:zk0BH1lV
815 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 13:17:56.05 ID:e4gFY0vp
げ…司馬史観曲解作家の火坂なのか
天地人と似たような感じになりそう
816 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 13:56:24.07 ID:pjgfg+SN
真田だと幸村だけじゃ尺が余り過ぎるよな。原作が誰であれそうなると表裏比興さんを誰にするかが問題になると。丹波哲郎のアレに匹敵するキャラっているか?
817 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 14:16:37.86 ID:ojZfodoE
まあそろそろ丹波哲郎が大霊界から帰ってくるだろ
818 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 14:37:35.71 ID:PCOtBD3l
自分は群像劇タイプの大河ドラマが観たいわ。
特定の主人公を決めてその人生をなぞるんじゃなくて
描く時代を決め、複数の大名家や文化人の視点から物語を回していく。
要は三国志タイプのドラマを作ってくれってことなんだけどさ。
819 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 15:15:31.90 ID:jCn5CVqQ
>>818 群像劇は無駄に登場人物が多いから費用に制限のあるドラマ向きとは言えんわなぁ
820 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 15:34:19.08 ID:oAzka0iX
決まった主役がいないとプロモーションも面倒だし
821 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 16:22:53.35 ID:ojZfodoE
三国志で呉の影が薄いように、関東三国志で北条の影が薄いように、実際どうだったかはともかく、物語としては割を食っちゃう勢力でてくるしなぁ
822 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 16:26:45.26 ID:pjgfg+SN
>817,鬼平つながりで吉右衛門とか
823 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 19:11:31.35 ID:/7El1cUO
>>818 いいねえ。
ロバート・アルトマン監督といきたいところだが、生きてる人間だとタランティーノかポール・トーマス・アンダーソンか…
824 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 19:26:45.25 ID:dwRN3rLP
大河の国盗り物語って
主人公が道三(一人)、信長、光秀に加えて
「新史太閤記」「功名が辻」「尻啖え孫市」「梟の城」
合わせてドラマ化したようだから群像劇じゃないの
825 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 21:48:17.66 ID:m/U1Pms/
>>823 特定の主人公決めないで、でオレもタランティーノが頭に浮かんだ(笑)
タランティーノタッチだと森武蔵、前田慶次、水野勝成で場面変わっていくといいかもな
826 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 21:51:47.95 ID:BhGvpelm
深作欣二監督以外に思い浮かばん
827 :
818:2013/11/18(月) 21:55:23.82 ID:PCOtBD3l
まぁ三国志ってのは壮大すぎたかも。
例えば、来年の軍師官兵衛だったら
官兵衛以外の主要人物にも主役回を持たせて
物語を回せば、より深みと奥行きが出るよね。
良い役者をたくさん揃えれるのが大河ドラマの強みなんだから
それを活かした作品を見てみたいなってこと。
828 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 21:59:23.90 ID:PTDr9EBK
最後は関ヶ原長政の活躍と官兵衛の九州切り取りを二元中継でやってほしいなあ
829 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 22:01:06.48 ID:RxBSQvPd
>>827 官兵衛を幽閉することになる荒木村重のことは掘り下げてやってほしいな。
今のNHKには無理かもしれんが・・・
830 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 22:19:32.10 ID:HrON6UQU
聞いたこともない女達の配役が潤ってるのでお察しです
831 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 22:47:54.08 ID:e4gFY0vp
太閤が死んでフリーダムになった如水さんが、九州でヒャッハーするところを見たい
832 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 23:53:44.63 ID:ojZfodoE
正直、
・いかにもな役者がキャスティングされて、旧領復帰の野望を掲げ旧態依然とした体制に拘る実際小物臭いがそれ以上に小物臭い描写の大友義統
対
・領民と天下の平安を祈り、それを成すのは徳川家康しかいないと、東軍に組することを嫁さんと、かつて如水が出会った女達の幻影にケツをひっぱたかれ決意する黒田如水
とかじゃないすかねえ
どうせなら、母里太兵衛が日本号を賭けて福島正則と料理対決!くらいでもいいんじゃね、とすら感じる
まあ、岡田准一が悪い笑みを浮かべながら近隣の小大名を口説き落としていくのも、それはそれで需要があると判断してくれれば望みはあるかもしれない
833 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 02:30:26.05 ID:echT6EPB
主役が役者じゃない時点でお察し
火坂な時点でお察し
834 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 06:59:15.22 ID:zGxpA0kZ
藤堂高虎の家臣である藤堂玄蕃は、元は関白・豊臣秀次の家臣であった。
しかし秀次事件によりその家が滅びると、高虎の親類(いとこ)であったため藤堂家に招かれた。
さて、関ヶ原が勃発する。
高虎は玄蕃に、伊予国板島城を預け置き、西軍と呼応した一揆への押さえとしようとした。
しかし彼は、共に戦いたいと達って訴え、後より戦場に合流し、関ヶ原の決戦に参戦した。
藤堂家の部隊は大谷吉継隊と交戦する。玄蕃はひとしお勇を励み一番に働き、
平塚為広を目掛けて突進した。
これを、島左近の嫡子である新吉(信勝)が見て、横合いより駆けつけ玄蕃を攻撃した。
玄蕃はこれが初めての合戦でもあり、足を乱し散々と成ったが、それでも踏みとどまり
島新吉と競り合った。
玄蕃と一緒に馳来た侍の七里勘右衛門、渡邊市左衛門を初めとした屈強の者達も尽く討たれた。
しかし新吉も人数を多く討たれ、玄蕃と新吉は互いに自身で戦う事となった。
玄蕃は走り寄って新吉と組んだ。
しかし新吉は若武者であり体力に余裕があった。
一方の玄蕃は、それまでに数度の戦いを行っていたため既に大きく疲労しており、
心は進んでも体がついて行かなかった。
こうして、終に信吉が組み勝って、玄蕃の首を取った。
(慶長軍記)
関ヶ原、藤堂玄蕃と島新吉信勝の一騎打ち、についての逸話である。
835 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 13:54:00.80 ID:8sKJRftV
牧村兵部は千利休の門人で深く茶をたしなんでいた。ある時、千利休に茶をふるまう
約束をしたが、約束の日に朝寝坊をしてしまった。起きた牧村兵部は驚いて「もう終わりだ」
と言った。それを聞いた妻子を初めとする家中の者たちが太閤秀吉が亡くなったのかと
勘違いして大騒ぎとなった。そのようなわけで、その日の茶会は一段と出来が悪かった。
それ以降、牧村兵部は茶の湯をしなくなってしまった。(喫茶指掌編)
836 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 13:55:04.55 ID:h0ycdGn0
1559年生まれで信長秀吉に仕えてた事もある若江八人衆でもあった男が初めての合戦なのか
前線に出るのが初めてだったのか、藤堂家では初めてだったのか、それともやっぱり文字通り戦場に出るのが初めてだったのか
837 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 14:30:07.30 ID:01YUppte
左近の息子が初陣だったという話はよく聞くけど玄蕃は…
838 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 14:49:43.88 ID:WHt8RGdg
玄蕃「心は常に初陣よ(キリッ」
839 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 22:31:35.39 ID:iLAzymA9
「藤堂玄蕃だ!」
「とうとう現場だ?その歳で初陣か」
840 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 08:57:05.65 ID:v6/kNvEA
現場ってw 土木工事じゃないんだから
841 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 17:15:46.51 ID:SN1m5sgT
>826,宇喜多さんのとこをキボンヌw
842 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 20:21:10.31 ID:mfQf4uvw
843 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 21:33:44.26 ID:LYrf9Ll7
正則そんな酷いことしてたっけ? 内政が下手なイメージはないのだが
844 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 21:56:50.53 ID:MbAjfK+6
毛利家が広島の商人からしていた借金をチャラにしちゃったんじゃなかったっけ?
845 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 22:57:11.93 ID:nDcwLl5y
>>842 酔っぱらってる状態なら…ってそうでもないか
846 :
人間七七四年:2013/11/20(水) 23:35:52.55 ID:jL5Z+Wm0
>>844 商人だったっけ?
酔っぱらって毛利にしてやられた話が前にあがってたよね
847 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 00:01:04.02 ID:QE+LbfKU
単細胞な粗忽者の猪武者イメージで語られる事が多い市松君だからなぁ
程度はどうあれ、
「どうせなら…」
という事で色々とそういうことにしておくのにちょうどいいんじゃないの、大名としちゃ断絶してるしね
848 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 00:16:12.21 ID:WnpghTLz
>>834 この後、新吉君の方も討たれちゃうんだっけか?
849 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 13:50:08.69 ID:5SYle3Mt
この年、ある女が頭が二つある子供を産んだ。
先年もこのような子が生まれたが洛中を通らせた。その年はどうした事か凶事が
続いたので、今回は通らせずにすぐに殺害した。
この頃に怪異あり。内裏の庭中にどこからともなく長持ちが2つ置いてあった。
これを開けてみると一つには生首が多数入っており、もう一つは開けようと
しても蓋が明かず、その上には菜をサクサクと切られたものが置かれており、
不思議な事であった。
また近江国横関にも怪異があり、巳刻までは水さえ無かった所に午刻になると
毎日血の池が出来ていたと言う
(当代記)
慶長9年に起こった怪異の話
850 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 14:12:32.65 ID:qRUiLpIh
>842,どっちもDQNじゃないのか?w
851 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 18:27:05.78 ID:3Y5MZAi5
昔の人にとってはシャム双生児は怪異に映っただろうな
852 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 04:34:06.38 ID:20PsjIhU
天正15年(1587)4月10日、豊臣秀吉による九州征伐が進む中、当時20歳の黒田長政を主将とする
部隊が島津の支城のある日向の財部という場所へ威力偵察に出、そこで伏兵と交戦する、という
事があった。
さて、この時黒田軍の後藤又兵衛は川中で敵と戦い、馬上で組んでそのまま落ち、
上に下にと組み戦ったが、敵が大力であったため終に又兵衛は組み伏せられ、
もはや危うし、という所に、又兵衛の馬取が一人、彼を助け敵を引き剥がした。
これで息を吹き返した又兵衛は、逆に敵に乗りかかり、終に討取ったのである。
又兵衛は、馬取に命を助けられたのみならず、敵を討って高名までしたので、
帰陣の後は、あの馬取を思い切って取り立てよう、そう考えていた。
ところが、下臈というものは心拙いものである。馬取はその陣中において、又兵衛の刀脇差しを
盗みとって蓄電してしまった。
(黒田家譜)
途中までいい話だったのに最後が台無しな、後藤又兵衛さんとその馬取という逸話である。
853 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 04:49:40.36 ID:ZLFQ2qF4
取り立てられてもせいぜい十石程度だろうし数百貫しそうな刀の方がいいわな
854 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 11:07:36.20 ID:eZ0Ts2P3
本当に台無しだなw
855 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 11:11:36.29 ID:c4vXImvu
馬取=バッテリー説
856 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 11:29:39.82 ID:r3ElO6WV
そんな脇差売ってって足がついたりしなかったのかな。無名武士の脇差なんてたかがしれてるのか。
857 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 11:40:20.34 ID:nT5ZDr8X
>>853 命の代金と考えれば刀で済んで安かったかもしれんな
858 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 12:39:51.14 ID:oHl62Yrp
自分は川で手助けされたのに、その後、似た状況で主は放っておくのか…
859 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 13:15:25.58 ID:5eJrhHWV
しかも、敵地オブ敵地で、敵もわけわからない外人相手
860 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 17:05:51.09 ID:2+NBOUPX
又兵衛って人を見る目がないんじゃないの?
861 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 17:44:37.71 ID:LJohxIe6
>>858 又兵衛「逐電されたくないだろ?(ニヤニヤ」
862 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 17:45:45.89 ID:eZ0Ts2P3
池田家からも問題起こして追放される人物ですのでご勘弁ください。
863 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 19:23:38.89 ID:vOZOTJx3
馬取は余計なことしやがってって言われて下手したら殺されると思って逃げ出したんじゃねーの
864 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 20:20:56.43 ID:2ljH09UW
あの野郎、馬取りから刀脇差取りにクラスチェンジしやがった
865 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 20:25:47.37 ID:iqeEimrD
褒美はすぐにくれてやれって誰ぞ言ってたな。
命助けてやったのに褒美くれないなんて!!って思ったとか。
でもケチな逸話は上がってなかった筈・・・。あの性格が嫌になった?(ヒドイ
866 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 20:35:51.96 ID:XNP/O2IU
この逸話を契機に周りに対して優しくなった又兵衛。
※ただし、長政は除く
867 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 15:02:18.71 ID:DtPV0SS+
譜代の家臣の前でも大切な物を出し入れするところを見せてはならぬだね
868 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 15:58:17.14 ID:UcE1Us7k
摺上原の戦いで伊達政宗が勝利すると、その威勢は益々振るい、敵対していたその叔父である
石川昭光も、政宗に従う様子を見せた。このような情勢により、政宗に対してあえて弓を引こう
という者はいなくなった。
このような中、伊達政宗が白河を打ち取り、常陸の佐竹義重と合戦を行う、という風聞が流れた。
ここに須賀川(二階堂氏)の旗下である大里安房守は、とにかく政宗に従うのは無念だと考え、
同盟者である白河(小峰義親)家臣・中畑上野助晴辰の元に申し遣わした
『私はこの城において政宗の軍勢を引き受け、討ち死に仕る覚悟です。
あなたも白河の旗下ではありますが、私と同じく戦いの準備をいたしてください』
中畑は『ご最もお知らせです。私の居城においても随分心がけましょう。』とだけ答えて
使者を帰らせた。
この中畑上野助は、どういう考えからであろうか、政宗と対峙して兵を受けるのは如何かと思い、
本城も中畑から、三城目という場所まで後退して居城としていた。
ところが天正18年(1590)、伊達政宗が大里を攻めるという話を聞き、中畑は、この辺りも
戦争に巻き込まれると考え、取るものもとりあえず、相馬の方に居る交流のある者の所に
落ちるべきだと、早々に支度して落ちた。
中畑の弟に大畑大学という者が居たのだが、この弟はかつて白河から会津への加勢に使わされ、
武勇有るものであったので敵に深入りして討ち死にしたのであるが、その後引き取っていた
その弟の妻と5歳になる息子まで捨てて中畑は落ちていった。
この母子は、後で大國五座右衛門という者の手によって、大久保村という所に送られた。
中畑は荷馬34,5頭を並べて中村を目指して落ちていった。所が、 三春の行合村という所を
通ろうとすると、彼らが落ち行く事を聞きつけた野武士たちが、その財貨を取ろうと大勢道に出てきて、
「その財貨を残らず引き渡せ!」
と要求してきた。中畑はこれに
「そういう事なら、2,3駄は残すので残りは通して欲しい」
と言った。野武士たちはこれを聞き入れず、中畑一行に打ち掛かった。
中畑の家臣である石塚掃部や雑兵たちは必死で戦ったが、多勢に無勢であり、
終に中畑上野助はその子とともに、行合村にて討ち死にした。
実に哀れなる次第である。
家臣の石塚掃部はその首を取って三城目に持ち来て、塚を築いて弔った。
(白河関物譚)
中畑上野助の討ち死に、というお話
869 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 16:56:01.33 ID:4P+yE56J
少し方向性が違うけど
『関ヶ原合戦史料集』を書いた藤井治左衛門は昭和15年秋の最後の陸軍参謀演習の際に、
家康が一歩一歩堅実に戦略的地歩を固めたことを強調した上で、日中戦争が1年以上も
膠着状態にあることを指摘した上で、どうにもならないのなら根本的に戦略を変更すべき
と説いている
しかし藤井はあくまでそれは手段で、日本を侮らせ米英を日中戦争に誘導する謀略なら
危険極まりない、現代は科学戦でありただ精神力のみを自負して、敵の実力を軽視する
ことは家康も戒めていると結んだ
この翌年に太平洋戦争は開戦に至る
また太平洋戦争初頭の戦勝に沸き立ってた頃に、藤井は陸軍の自重論者として軍部から
嫌われていた宇垣一成と車中で雑談をしていた
この時に藤井は石田三成は豊臣家のためにと言って兵を挙げ、豊臣家を亡ぼしてしまったが、
今の軍部は国のためにと言って国を亡ぼさなければよいがと言った
それに対して宇垣は意味深長な笑いをもってこれに答えたという
歴史から学ぶのは各も難しいのであろう
870 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 17:24:16.11 ID:FnK7PD8H
>>868 ???「残念だが当然。臆病者らしい最期といえる」
871 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 18:46:30.42 ID:WV5OXEXM
>>869 輝元「な、降りて正解だったろ。」
秀元「そもそも開戦するなよ。」
872 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 23:41:01.08 ID:8SOxTCzE
千利休は終に臨み、侍者に茶を点てさせた。利休はこれを飲み終えると、
「この碗はもはや世に用無しだ」と言って碗を握り、庭上に投げた。
門人の甫竹はこれを拾って修理した。碗は代々伝えられて、
後に大坂の豪商某の手に落ち、今なお珍蔵して千金に換えずという。
――『芸苑叢話』
873 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 00:31:16.87 ID:uEB7qsnc
どうせ、利休もそこまで見抜いてやってんだろうな
874 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 00:37:42.33 ID:8vfA90IR
これを聞いた如水は拾った粉々の土器を前にニッコリと笑った。
――『長政覚書』
875 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:27:36.65 ID:qDlRq9cw
ゲヒ「割れた茶碗とて接げば使えるでござるよゲヒヒヒヒ」
876 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 20:25:16.10 ID:/g6Ugc0G
天正18年(1590)、小田原征伐を完了した豊臣秀吉は、宇都宮から白河関を越え、東北へと入った。
いわゆる奥州仕置の始まりである。
8月9日、秀吉は小峰城に到着した。
秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
これを聞いて秀吉は以ての外に期限が悪くなり、ここに結城義親が御挨拶を申し出たが、
それを許すこと無く、領地は没収され伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられた。
(時八月九日の事なるに、秀吉公仰せけるは、此城主は何者と御尋ね有りければ、細川忠興、
是は結城上野介と申す者にて候と申しける。
秀吉公以ての外に御気色替て御座有る所へ、結城義親と被露有りけれ共、御許容なくして、
領地を没収して勢州の住人関右衛門尉に賜りける。)
同日、秀吉は長沼城に入った。城主である新国上総介(盛次)は様々に饗応をしたため、秀吉も
悦び浅からず、御前へと召して「本領を安堵する」と言った
これを聞いて新国盛次は嬉しさのあまり、秀吉の側の者たちに、彼らの理解できない田舎言葉(方言)で
繰り返し繰り返し感謝を申し上げた。
秀吉はこれに機嫌が変わり、その後新国に、何の沙汰も下さなかった。
(秀吉公八月九日、長沼城に入らせ給ひて、城主新国上総介色々と饗応し奉候故、御悦不浅して御前に
召して本領を賜ると被仰出ける。新国盛次嬉しさの余り、側の人に向って跡先知れぬ田舎言葉を
繰返し繰返し申ける。秀吉公の御気色替って其後ち何の御沙汰もなし。)
(白河関物譚)
秀吉の気分次第でどんどん所領が取り上げられる、奥州仕置の模様である。
877 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 22:46:00.50 ID:nHuOhqbS
跡先知れぬ田舎言葉って、ひでぇ表現だなw
878 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 23:08:37.08 ID:PxWXDeve
なんとなく、昔の自分を見ているようで癪に障ったんだろうなぁ
879 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 23:19:27.49 ID:7+FSzKRf
>秀吉が「この城主は何者か?」と尋ねると、細川忠興が「結城上野介と申す者です」と申し上げた。
>これを聞いて秀吉は以ての外に期限が悪くなり
理不尽すぎるだろ
880 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 23:31:24.93 ID:9A2NmT8P
>>876 結城の所は最初から潰す気だったのかな
機嫌が悪くなったのは気付かず寄ってしまった自分にいらっときてw
881 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 23:33:23.21 ID:7qpf3Faf
前になんか因縁があったんだろうな
882 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 08:33:48.26 ID:0P8zLebJ
濃州武儀郡洞戸村に不立と言う禅僧がいた。自ら明智光秀の曾孫であると言う。
彼の説明によれば、光秀が小栗栖で野武士に殺されたと言うのは間違いであり
山崎で敗れた後は密かにこの洞戸村に隠れていたが、関ヶ原役で家康公に味方
するべく村人を率いて出撃したが、途中の河で溺死したと古い証文を取り出して話した。
真偽の程は不確かであるが、もし事実だとしても乱臣弑逆の光秀を家康公が
用いるであろうか、途中の河で溺死したのは幸いであったろう。
また、かの僧も出家の身であるのに先祖にこだわるのは無用の事であろう。
(翁草)
明智光秀生存説と作者の酷いコメントの話
883 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 08:55:14.88 ID:P36zcDvn
溺死って…コントじゃないんだから
884 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 08:59:03.63 ID:dqyL4rwW
885 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 09:07:22.47 ID:BSUHKriN
宇佐美某「え!」
886 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 10:19:57.47 ID:dVkRlGrp
長尾某 (´・ω・`)
887 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 12:00:15.49 ID:CYCXQnst
宇喜多「水練を怠るからである」
888 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 12:02:58.20 ID:0P8zLebJ
ここまで赤座某なし
889 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 13:26:30.52 ID:Z7jLoy1S
難波田某「井戸に落ちたのは溺死に含まれますか?」
890 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 13:38:20.23 ID:0P8zLebJ
古井戸や 難波田落つる 水の音
891 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 20:33:19.16 ID:U9QSNkKn
秀吉「正直ヤバかった。後世の笑い者になるとこだった。」
892 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 21:06:39.10 ID:dpCZZf2j
豊臣秀吉公は、その出会いの初めより黒田官兵衛の才知を知って、兄弟の約をなし、
傍らに置いてその謀を用い、あるいは代官として敵を討たしめ、終に天下をお取りになったのは、
ひとえに官兵衛の功であるのだから、その恩賞も莫大なるべきだった。
ところが秀吉公は、官兵衛が大志を持っている事に警戒し、その上石田治部少輔を始めとした
権臣たちも、官兵衛に高い才能があり、自分たちにへつらわないことを嫉み、
時々に讒言を行ったため、その功は大であるというのに、終に大国を賜る事はなかった。
あまつさえ、九州役で日向に在った時、官兵衛には何の過失もなかったのに、過失があったかのように
報告し、無実の罪の責任をとらせ、恩賞を厚く与えることをしなかった。
これによって、賞禄は忠功に及ばないものとなったのである。
蜚鳥尽きて良弓蔵せられる(飛んでいる鳥を射尽くしてしまうと良い弓も蔵にしまわれる)とは、
正にこのことであろう。
黒田官兵衛には豊前国京都郡の馬ヶ岳の城を居城とさせた。
ただし、居城はその好む所に任せる、と言われたため、始めは馬ヶ岳を居城としたものの、
その地は心にかなわなかったため、後に下毛郡中津川に城を築いた。
(黒田家譜)
黒田官兵衛、その才知故に恩賞を得ず、といお話。
893 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 21:21:07.13 ID:U9QSNkKn
豊前国ですら抑えるのやっとなのに大国なんて任せられないでしょ
894 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:03:01.81 ID:M4g1WwPn
九州はヒャッハーたちのすくつだから
895 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:25:16.23 ID:0P8zLebJ
黒田は筑前拝領の時も似たような事を言ってたなー
896 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 23:19:05.49 ID:2iD2rpTH
加藤光泰…甲府24万石
浅野長政…甲府21.5万石
生駒親正…讃岐17万石
中村一氏…駿府14万石
堀尾吉晴…浜松12万石
前野長康…出石11万石
仙石秀久…高松10万石(復帰後小諸5万石)
宮部継潤…鳥取8.1万石
戸田勝隆…大州7万石
一柳直末…軽海西6万石
蜂須賀正勝…龍野5.3万石(家政が阿波18万石)
山内一豊…掛川5.1万石
杉原家次…坂本3.2万石
毛利高政…日隈2万石
神子田正治…広瀬1.2万石(改易、後に自害)
尾藤知宣…丸亀5万石(改易、後に処刑)
時期も人選も適当だけど古株連中がこんくらいだし、あんなもんじゃないかという気はする
「ウチの藩祖はそんな連中よかよっぽど才も功も有ったんじゃい!」
と言われそうだがww
897 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 02:04:29.60 ID:lxgI8rrj
加藤光泰貰いすぎィ
898 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 09:14:40.31 ID:s7gsr9cW
加藤と浅野は全国統一時で2万と8万だし、初期値としては黒田の12万は大きいんじゃね
多分自分より格下だと思ってたやつがどんどん出世して逆恨みしたんだろう
899 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 15:35:12.97 ID:5po2lHJs
なんで砂加藤はこんな評価されとるんや
900 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 15:45:40.15 ID:tZJ9xjI8
黒田家はもともと播磨にちゃんと領地持ってた大身だったからな
それなりに働いてても子飼いどもに追い抜かれて悔しいのもわかる
ただ書状も残ってるが「何故仙石を助けなかった?ドアホめ」ってのは流石に可哀想だ
901 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 16:48:31.66 ID:TkvNKrxV
博多が語源すらよう分からんレベルで歴史ある名前だったのに、福岡なんてありきたりな名前にしやがって
902 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 17:01:20.11 ID:bIOFom4M
「何故仙石を助けなかった?ドアホめ」の逸話を教えてください。
903 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 20:30:49.93 ID:WwPQEH4B
>>898 例のチョンボで切腹させられなかっただけでもよしとしなければ
904 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 23:05:07.83 ID:Jmsgrs3+
客観的には播磨の一土豪から豊前中津12万石なんだから
秀吉の処遇に対して何の不足もないはずなんだがな
黒田家は孝高も長政も自家の功績に対して過大評価すぎィ
というかここん家は所領に対して強欲すぎる
905 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 23:04:24.45 ID:eLcck4QY
少なくとも織田時代の秀吉くらいにはなれると思ってたんじゃねえかなあ…
906 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 09:57:36.67 ID:SCTvesfQ
黒官にそんな実権与える度胸のある主君はいそうもないw
907 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 12:16:19.54 ID:2MAnrlx0
まあいいかげんスレ違いだが、
>>811の日記から
<11月26日>(火)
○先日読んだ『軍師の門』があまりにも「外れ」だったので、今度はアンソロジー、作品社の『黒田官兵衛』を買ってきた。これは何と、菊池寛、
鷲尾雨工、坂口安吾、海音寺潮五郎、武者小路実篤、池波正太郎の6人が書いた「黒田官兵衛」のストーリーを集めているスグレモノである。
いずれも短編ばかりだが、さすがに戦争を知ってる世代が書くと、戦国時代にはリアリティが出てくる。というか、そもそもこのクラスになると、
小説家としての力量がまるで違う。
○池波正太郎なんてアナタ、書き出しがこうですぜ。(智謀の人 黒田如水)
慶長五年晩夏の或日のことである。
○いきなり池波節炸裂じゃありませんか。でもって、登場する中津で隠居中の黒田如水の最初のセリフがこうである。
「あのな、大坂から珍しい菓子が届いたゆえ、お前らにも持って来てやったぞよ」
○もう、目の前に官兵衛さんが立っている感じである。いやあ、すばらしい。小説というものは、こんな風でなければならない。これはもう読み出したら止まらない。
○長編の官兵衛ものとしては、吉川英治の『黒田如水』、松本清張の『軍師の境遇』、そして司馬遼太郎の『播磨灘物語』がある。3冊を比較すると、
松本清張はハッキリ一段落ちる。当たり前か。吉川英治は『新書太閤記』を、司馬遼太郎は『新史太閤記』を書き、いずれも寄り道して官兵衛を書きたくなってしまった
ようである。ワシは中学生くらいの頃に、両作品を読んで「官兵衛ファン」になった。その頃は、官兵衛さんはあんまり知られてはおらんかったのである。
908 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 13:04:50.31 ID:pNmjkHWG
なんかわかる。時代小説って書き出しで読めるか読めないかって決まるんじゃなかろうか。池波さんとかすっと入りやすいもの。スレチすまぬ。
909 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 18:56:35.59 ID:cJYfctzC
>907、池波さん=食い物描写のイメージが。たぶん三河武士の食卓でもうまそうになるんだろうな。
910 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 19:30:59.96 ID:ELoxY3h4
深夜に家人に料理作らせすぎ
911 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 19:42:16.73 ID:KgkoP3EX
天正15年(1587)、肥後国人一揆が勃発する
肥後の国主であった佐々成政は元来勇将なのだが、国中で蜂起した敵があまりに大勢であるので防ぎかね、
隣国の加勢を受けてようやく敵を鎮めることが出来た。
小早川隆景、黒田官兵衛などは豊臣秀吉の命を受け、肥後で反逆した国人たちを、
柳川・小倉の両所に預け置いて、『反逆した理由はなにか?』と糾明させた。
国人たちは皆、このように答えた
「我々は、天下に対して叛こうなど考えもしていません。ただ、国主である佐々成政の仕置が
あまりに非道なものであったため、それに対して叛逆をしたのです。」
この内容を隆景・官兵衛は報告した。
秀吉はこれを聞いて、どう考えたのであろうか、肥後の乱を起こした国人たちを尽く殺させた。
肥後国はこれ以降、平穏となった。
(黒田家譜)
912 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 20:13:33.92 ID:7m2D2NNc
黒田さんとこも城井と呼応する勢力出てきたらヤバかったよね。
913 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 20:20:39.80 ID:F23O/WeV
まあ成政がどうこうじゃなくて、豊臣政権が征伐した国って大軍が去った後は
土豪の一揆が発生しやすいからなぁ
914 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 20:21:08.35 ID:FrPYCRZ1
その国主を任命したのは誰かって話だしそんな論法が通るなら何度でも反逆できるものな
他国で詮議を受けたことでちょっと期待しちゃったのかもしれないが
915 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 23:27:37.50 ID:NZy+VFPB
916 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 03:05:42.08 ID:2NIep9jM
榊原康政の家の当主に降嫁されたのか
917 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 10:01:40.76 ID:lLnBQdYs
徳川四天王の臣下だから、妥当な嫁ぎ先
なお、徳川宗家の19代目は…
918 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 19:44:37.42 ID:k5Y5iwVL
最上義光の歯
山形大守最上義光が齢七十を前に没すると、市井の社寺で盛大な葬儀が行われた後に、その遺骸は荼毘に付された。
家中の主だった者が葬礼に参加し、そして形見分けも行われた。
他の地方での荼毘の詳細は知らないが、山形市周辺の禅宗の一派には「歯骨(はこつ)葬」といった慣例がある。
人が死ぬと、その遺骨の一部である歯骨を取っておいて、一周忌前に山寺の奥の院へ納骨して故人を供養してもらう風習である。
納骨しない人でも参詣の折、代わりに塔婆を納める事もあると言う。
(つづく)
919 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 19:58:14.21 ID:k5Y5iwVL
(つづき)
やがて時を経て最上家は義光の孫の家信(義俊)の代に改易となり、最上家中の大身の者の多くが知行没収の上で山形藩領から追放となった。
由利本城満茂家中の重臣・小泉讃岐もその一人だが、讃岐はやがて秋田の佐竹家と仕える。
秋田士分の話の中に、讃岐は家の宝として最上義光の糸切り歯を一対所有していたといった物がある。
荼毘の後に本来山寺立石寺に納める役を讃岐が担っていたのが、その歯の入手についての話の詳細はわからない。
また江戸期には小泉家が所有していた最上義光の歯が現在どうなっているのかも謎である。
920 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 20:00:36.15 ID:k5Y5iwVL
余談:この糸切り歯は常人の歯の倍ほどの大きさがあり、子供の手の親指の先ほどのサイズだったそうな
921 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 20:05:37.92 ID:k5Y5iwVL
>>919 誤)立石寺に納める役を讃岐が担っていたのが
正)立石寺に納める役を讃岐が担っていたのかどうか
でした
922 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 20:09:34.77 ID:k5Y5iwVL
>>919 誤)秋田の佐竹家と仕える。
正)秋田の佐竹家へと仕える。
細かな間違いすいませんorz
923 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 23:49:18.10 ID:kEcVnMEl
924 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 15:50:11.05 ID:YSnA27A7
溝口外記は禄五千石で秀吉の使番である。ある時、彼は榊原康政と同座した。
溝口は直参であるために、座上について甚だ驕る様子があった。
康政は十万石を領するといえども、末席より礼敬した。溝口は綿帽子を身に着け、
「我は病気なり(だから防寒のために綿帽子を身に着けている)」と言った。
康政は常に彼の無礼を憎んだので、こう言った。
康政「各々方は秀吉公の恩を深く蒙っている。中でも深いのは溝口殿である」
座の人々「誰もが恩を蒙っているのに、溝口殿一人をお指しになるのは理由があるのですか?」
康政「私は家康の家臣だが、溝口殿の如き人を扶持して当然である(自分はそれだけの大禄だ)。
それに戦功を論じれば、溝口殿は我が片手にも及ばれまい。にもかかわらず、いま上座して傍若無人の体
であるのは、ひとえに秀吉の威を借りてのことだ。ならば、その恩はとりわけて深いのではないかな?」
これには返答する者もなかった。
――『武将感状記』
925 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 17:51:17.11 ID:zqke0Ka8
玉山廟
過去に「山寺立石寺の最上義光の霊屋」と「高野山の最上義光の墓」の話とありましたので、鮭様の本墓についてのお話を。
1602年、慶長出羽合戦後の加増により山形城下は大規模な拡張と整備が行われた。
山形城三ノ丸東には最上義光が大石田より高僧を招き、慶長出羽合戦の勝利祝いと山形の末永い発展の祈りを込め、塔と伽藍を含む大寺院「慶長寺」が建立された。
それから十余年、義光の葬儀はこの寺で行われ、慶長寺域内に義光の墓は木造銅板張り屋根(茅葺きや瓦等の異説あり)の「廟(霊屋)」として建てられた。
元和年間家親の代に慶長寺は「光禅寺」と改名。
山形の民も月の市や旅のついでに参拝に訪れ、人の足が尽きなかったと伝わる。
(つづき)
926 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:05:34.86 ID:zqke0Ka8
(つづき)
義光の孫の義俊の代に最上家が改易されると、山形には鳥居忠政が入ったが、忠政は旧領磐城から父・鳥居元忠の菩提寺と位牌を義光の菩提寺である光禅寺域へと移そうとした。
山形に残っていた中級・下級の最上旧臣や民、神官や坊主らは恩顧の最上義光の墓域を守ろうとしたが、新領主の忠政は頑なに光禅寺域に元忠の菩提寺を置こうとする。
旧最上家中が忠政に懇願し、折衷案として
・山形城南西に最上義光の新寺域と墓域を賜る
・最上義光の遺骸は最上旧臣ら山形の民らの手で移す
との事で光禅寺域を鳥居家の墓所として譲り渡す事が決まった。
鮭様の遺骸を移す日には最上旧臣や民らが正装をし、移動の道中には白旗や提灯が飾られたとも伝わる。
(つづく)
927 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:20:11.06 ID:zqke0Ka8
(つづき)
光禅寺が鳥居忠政の山形入りにより現在の地に移され、そして時は流れ…江戸時代の終わり頃の書き物に「(光禅寺)は堂宇は朽ち、墓石は倒れ、雑草が生い茂り荒れるに任せられている」といった記述もある模様。
しかし明治の書物にはまだ「最上義光の廟(霊屋)は光禅寺にあった」とされるものもある。
御維新からしばらくの明治27年、山形市街の民家からの出火により、光禅寺は本堂、伽藍などがほぼ全焼(山形の南大火)
観音堂を除き最上義光の廟(霊屋)、最上家の仏壇、光禅寺に寄進されていた最上義光の遺品、最上屏風などの多くの宝物が灰となった。
最上義光の位牌は時の光禅寺の住職が持ち出せたが、表明の文字は炎の熱で流失してしまったと伝わる。
光禅寺の義光の廟の跡には四角い石枠だけが残された。
(つづく)
928 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:23:46.61 ID:zqke0Ka8
(つづき)
瓦礫や灰が取り除かれ、義光の廟の跡には傘石が仮の墓石として置かれた。
現在の山形市の光禅寺にある最上義光の墓とされる五輪塔は、その廟の石枠の跡に大正時代になってから改めて建立された「慰霊塔」である。
929 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:34:07.15 ID:zqke0Ka8
鳥居忠政が元・慶長寺域に磐城から勧進した寺が現在の「長源寺」。
また、現・光禅寺には義光の廟の他に家親の廟もあったという話もあります。
930 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:32:12.46 ID:TQUJ+M7d
>>924 榊原康政の挑発皮肉、ある意味すがすがしいものがあるな
でも康政が10万石を領したのも秀吉のおかげなんだけどね
931 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 23:03:56.92 ID:mad9NJaP
大野治房と感状
大阪冬の陣において大野治房の部下である塙直之は蜂須賀至鎮の陣を夜襲して功名があった。
治房は感状を欲し木村重成に口添えしてもらおうと重成を訪ねた。
治房「(後藤又兵衛に教えてもらった策で)夜襲が大成功したんだけど感状が出るよう周旋してくれない?」
重成「秀頼様にもよく聞こえた功名ならば、感状は間違いなくいただけるでしょう。ですが貴殿は感状をいただいて誰に披露するおつもりですか?」
「一本槍の武士ならば他国の主君に奉公するときの眉目にすべきでしょうが、大野兄弟は大阪の老臣ですので君主と存亡を共にすべき人です。何の為の感状ですか?」
これを聞いて治房は恥じて言葉を無くしたという。
(武人百話)
932 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 03:03:57.75 ID:RT88/Kjt
鮭の大助
鮭は川魚の王とされ、晩秋から年末に海から川へと遡上する。
その中に紛れ、特定の日には「鮭の大助、今上る」と大声を張り上げ、巨大な鮭が川を上るといった伝説が川の民らの間にあった。
この鮭神の声を聞いた者は遅くても三日の後には死んでしまうと言われていた。
そのため特定の時期には川の生業に従事している者は仕事を休み、けして川に出てはならぬといった約束事が守られていた。
あるとき山の殿さまで剛の者がおり、領土を増やしていた者がおった。
新鮮な川魚を食べたいと漁民に所望をなされたが、川の民らは「日が悪ろうございます。」と漁に出るのを断った。
魚を食べたがった殿さまは「それならば網や竿だけでも貸してもらいたい。」と家来たちに漁をさせたが、小さな魚すらもほとんど揚がらなかった。
(つづく)
933 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 03:05:05.17 ID:RT88/Kjt
(つづき)
その夜川のそばに陣を張った殿さまの枕元に白い着物の童(わらべ)が立ってこう語り出した。
「私はこの川の魚の神でございます。漁民らは詳しくは話しませんでしたが、本日は前忌みの日、そして明日が本忌みの日となります。
本忌みの日に川に出た者の魂は黄泉へと連れて行かねばなりません。
ですが、なにも知らない者を無下に屠る事もできませんので明日はけして川で漁はなさらないでください。
ましてやあなたがお亡くなりになれば困る方も大勢出る事でしょう。毎年この日この日はあの世への扉が開きやすくなりますから、次からは気をつけてくださいね。」
(つづく)
934 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 03:20:35.42 ID:RT88/Kjt
(つづき)
殿さまは童に「では明日我らはいかにしたら良いのか?」と尋ねられましたが、童は殿さまに「陣を朝の内に畳み、川から離れてください。昼から夕刻に川を上りますから、けして川には近付きませんように。」と念を押された。
殿さまははっと眼を醒ますと、朝の暗い内から家来らを引き連れ、川から離れた。
昼を過ぎて川の方から巨大なうねりが川を上る様が感じられたが、殿さまの命令もあり、川に近付く者はなかった。
日を跨ぎ付近の漁民から「鮭の大助」の話を聞いた殿さまは、漁民らに釣った魚らを供養する「鮭の供養塔」を作る様に指示を出したと云う。
庄内と最上川流域に伝わる「鮭の大助」と「鮭の供養塔」の伝承より
※「鮭の大助」には妻の小助がいたり、その化身を男の童ではなく幼女だったり老女とするなど
様々なバリエーションが北日本一帯にある様です
935 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 03:27:30.64 ID:yz93w+dv
>>930 溝口はそのときの仕返しをしてたのかもしれない
936 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 03:28:05.90 ID:RT88/Kjt
登場人物の名前や時代は詳しく伝わっていない様ですが、魚(鮭)好きの殿さまと言ったら「あの方」関連の話かと思い、書かせて頂きました。
937 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 07:57:52.46 ID:21AFGnTx
コマ切れの投稿、そして無駄な改行と、必要以上に長い行の混在はなんとかならないでしょうかね
938 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 08:11:09.80 ID:RT88/Kjt
>>937 パソコンが巻き込まれ規制
携帯が忍法帖レベル不足だから細切れにせざるを得ないのです
939 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:35:07.69 ID:rRfuAAXr
川魚身の神様いい奴だなw
だいたいこういうのって殿様食われて死ぬだろ
940 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:17:10.43 ID:iD56E16v
>>939 そういう食われる殿様って他人の話聞かないだろ
「あの方」(?)は他人の話聞く人だから(戦の時を除く)
941 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:50:15.73 ID:RT88/Kjt
>>939 「鮭の大助(おおすけ)」の話は東北、新潟、長野以外にも関東や遠くは北九州にもあるらしく、新潟と長野では鮭の大助の忠告に耳を貸さなかった長者や地主らが死や悲惨な没落を迎えるといったオチが多い様です。
「大助」の他に「大介」の表記だったり、片目の鮭や僧に化けた巨大岩魚(いわな)、長い髭の僧正や金の鎧の武者の集団等、派生も様々にある様です。
942 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 04:33:31.32 ID:BlUqJocB
織田信長・信忠親子の家臣の内、本能寺並びに二条の新御所で討ち死にした衆112人の死骸は、
尽く阿彌陀寺の墓所に葬られたが、これにはこのような事があった。
惟任明智日向守光秀は、本能寺も二条も戦闘が終了すると、現在の寺町浄花院盧山寺のあたりが、
その頃は川原であったため、ここに軍勢を集合させ何れも人馬の息を休めた。
そこに阿彌陀寺の清玉上人が、「かねて親密にさせて頂いていますので、御見舞です」と言って
参り、「今朝より御労であったと思いましたので、これを支度させました」と、大量に持参した
餅や焼飯を進上した。
光秀はこれを見て「かねてからの御懇意と言いながら、なんと心付くことでしょう」と
ことの他に悦び、早速軍兵に分配し、自身も賞翫した。
これは清玉上人が、討ち死にした大勢の人々の死骸を勝手に集めるのは難しいと思い、
その許可を貰うために、方便でこの様にしたのだと伝えられている。
これらは天正10年(1582)6月2日の八つ時頃(午後2時頃)の事だったそうだ。
(阿彌陀寺由飼V記)
943 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 19:56:17.02 ID:dE8pnKYn
天正10年6月2日の清玉上人
払暁、本能寺の変
まもなく察知し、本能寺(厳戒中)を20人の坊主とともに潜入
寺内(厳戒中)で信長の火葬を執り行う
その足で炎上する二条城へ単身突入し信忠の遺骨をことごとく拾い集める
14時までに大量の飯を炊きあげ、さらに一部を焼きお握りにして光秀に渡す
944 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 20:26:04.32 ID:Bgfzvsb9
まさか遺骨をおにぎりにして食べさせてしまったのか!
945 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 20:27:23.22 ID:gsrnmq4p
946 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 20:32:25.52 ID:vX9ryKSf
947 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 20:44:17.47 ID:mZp7YCif
実は襲撃計画を知っていてもおかしくないくらいの手際の良さ
948 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:15:21.32 ID:NieEJxuc
清玉上人「ステンバーイ ステンバーイ…」
949 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:24:28.17 ID:MxckZown
セガール主演、タイトルは「沈黙の本能寺」で映画化決定。
950 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 22:46:14.02 ID:e+PQsz5b
「こちら清玉。本能寺への潜入に成功した」
951 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 22:51:10.03 ID:WZk/UhXC
「こちらスネーク、The Temple of Instinctsの潜入に成功した」
952 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 23:01:00.95 ID:p8yzePM2
(メイン) 信長の火葬
(サブ) 信忠の遺骨の収集
953 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 23:27:30.33 ID:Bb5zUdFM
スネーク!?どうした!?応答しろ!スネーーーク!!
954 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 23:44:13.94 ID:NieEJxuc
「清玉をもてあます」
955 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 02:12:25.14 ID:QPNPT//g
汚いなさすが忍者きたない
956 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 03:42:54.07 ID:cGqg1pxH
最上家の凋落
綻びはすでに秀次事件の駒姫の死から始まっていたのだろうか
嫡男義康の暗殺、藩租義光の死、一栗の乱、義親誅殺
さらには家親の急死と元和の最上家は武断派の重臣を幼少の藩主では統制出来ずに御家騒動によって出羽の最上家は事実上瓦解した
前後の最上家中の人々を見て頂きたい
最上義光…1614年、山形で没
最上義康…1603年、廃嫡後暗殺
最上家親…1617年、江戸表で急死
清水義親…1614年、家親に攻められ自刃
山野辺義忠…騒動後岡山池田家お預け、後に水戸徳川家へお預け。赦免され水戸藩家老に
上野山義直…1622年、騒動後筑前黒田家お預け、自害
大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世預け、広島で自害
松尾姫…1606年頃、山形で没(延沢光昌室)
駒姫…1595年、秀次に連座し処刑される
竹姫…没年不明。騒動後長門で没(氏家光氏室)
禧久姫…1664年、騒動後阿波で没(東根親宜室)
957 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 04:14:02.92 ID:cGqg1pxH
楯岡光直…騒動後豊前細川家お預け
松根光広…騒動後筑後柳川立花家お預け
楯岡満茂…騒動後上州酒井家お預け
志村光安…義光の生前に没す
志村光惟…一栗の乱で暗殺
寒河江肥前…義光に殉死
寒河江十兵衛…義光に殉死
寒河江親清…会津蒲生家お預け、後に加藤家へ仕官
長岡但馬…義光に殉死
山家河内…義光に殉死
延沢光昌…騒動後肥後加藤家へお預け、数年後に没す
氏家光氏…騒動後萩毛利家へお預け
下吉忠…義光の生前に没す?(一栗の乱で暗殺とも)
下秀実…一栗の乱で暗殺
里見義近…義光死後成敗
里見民部…義光死後成敗
里見主水…義光死後成敗
里見正光…義光死後成敗
坂光秀…騒動前に没す
坂光重…騒動後国外追放。米沢上杉家へ足軽頭扱いで仕官
東根景佐…騒動直前に没す
東根親宜…騒動後阿波蜂須賀家へお預け
鮭延秀綱…騒動後佐倉土井家へお預け
滝沢政道…義光の生前に没す
滝沢兵庫…秋田へ落ち行き自害
小国光基…騒動後佐賀鍋島家にお預け
中山朝正…騒動前に没す
中山光直…騒動後山形より追放
新関久正…騒動後佐倉土井家へお預け
成沢道忠…騒動により伊達領松島へ出奔
飯田播磨…騒動後徳川頼宣へお預け
北館利長…騒動後庄内酒井家からの150石の仕官を断り、世を捨て托鉢僧へ
他に幕命等により長崎式部、那古屋越前、奥川常陸、近藤壱岐らが騒動により山形から追放か
短期間でここまで崩壊した大名家の記録がある程度史料から掴める、もの哀しい話
「寛政重修諸家譜」「奥羽永慶軍記」ほか
958 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 04:26:30.87 ID:cGqg1pxH
>>956 「○○家お預け」→「○○家へお預け」他
誤)大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世預け、広島で自害
正)大山光隆…1625年、騒動後上州酒井忠世へお預け、広島で自害
>>957も
「○○家お預け」と「○○家へお預け」が統一されておらず、読み辛くて申し訳ございません
お手数ではありますが訂正して頂けますと幸いです
959 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 04:52:41.44 ID:cGqg1pxH
比較のために簡単な年表を
1600年、関ヶ原の戦い、長谷堂の戦い
1614年、最上義光没す、一栗の乱、清水城攻め
1622年、最上家改易
他
清水義継…1614年、山形で成敗(清水義親嫡男)
一栗高春…1614年、一栗の乱を起こし一族は誅殺される
松根広親(弘親)…騒動後宇和島伊達家へお預け
960 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 06:55:26.83 ID:+/xG7jDw
ここ逸話スレで最上研究じゃないんだぜ
961 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 07:55:05.50 ID:fncee4oq
ついでの話なんで別に良いけど。知識になるし。少し見づらいのはあるが。
962 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 09:00:36.06 ID:zrGdK2oj
最上を投下する人は悪い意味でわかりやすいな
もっと器用にやって欲しいもんだが
963 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 09:58:53.59 ID:DAgbg1IC
わかりやすいから見かけたら速攻NG入れとけばイライラしなくて済むよ
964 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 12:10:48.07 ID:i6bat0SE
それぞれのIDで投稿するレスの最初が逸話投下で結局目にしてしまうことになるんだから
見かけたらNGって意味ないんじゃないだろうか
965 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 20:42:24.65 ID:Q9xaGRyA
阿彌陀寺が織田信長公の御墓所であることは紛れも無く、これほど由緒正しいというのに
公儀からの御構もなく、また織田一門よりも御構なく、少々の寺領、御茶湯領すら無く、
大切な御墓所も無縁となり年数を送っていることは、悲嘆の至極のことである。
しかしこれには仔細があって、このようになったのだ。
明智日向守光秀の逆心によって信長公が御生害された時、羽柴筑前守秀吉公は西国で合戦の
最中であったが、注進によってこれを聞くと早速西国より兵を返され上京し、光秀を難なく
滅ぼし、亡君の無念を晴らし、天下の逆乱も大方鎮まり、秀吉公は天下の武将となられた。
そして信長公の遺骨は阿彌陀寺に葬られていることをご存知であったので、当寺にて御法事御修行
あるべき旨を仰せ出された。
しかし当寺の清玉上人は「この儀は御無用であります。手前にて御法事も相応に相勤め、真志を
営みますので、それには及びません。」と、秀吉公の仰せを受けなかった。
これに秀吉公は
「そういう事なら」と、法事料として、並びに御位牌の弔い料として三百石の御朱印を下された。
ところが清玉上人はこれも受け取らず、返答に
「法師の身に、これほどの知行を頂いても使い道がありません。ご命日の法事はこちらで相応に
行います。」
と、御朱印を返納した。
秀吉公はそれでも「お前の言う事は尤もではあるが、永代御廟所相続の為である。末々のための
寺領と考えて、これを受け取るように。」と上使を以って3度まで御朱印を下し置かれたが、清玉上人は
一切受け取ろうとせず押し返した。
秀吉公は大いに立腹し、「そういう事なら今後阿彌陀寺には、自分は勿論、織田家門の者達も
関わらせず、他に寺を建立し寺領を付け、そこに参詣する!それでも受け取らないと申すか!?」
そう申し遣わされたが、清玉上人は返事に「勝手次第になさって下さい」と申し上げられた。
このため秀吉公はいよいよ激怒し、「そういう事であれば、今後阿彌陀寺には一切関わり合わない!」
と仰せ渡された。これにより織田家一門も秀吉公を憚り御仏参も無くなり、全く関わり無いように
成って、大切な御墓所も無縁になってしまった。
その後秀吉公は、紫野大徳寺の境内に一寺を建立され、信長公の御法名を用いてハ見寺と名付けられ、
先の御朱印mp寺領はその寺に与えられ、ここで御法事が行われ大名衆は皆紫野へ参詣された。
これより阿彌陀寺は廃れて、いよいよ無縁寺に成ってしまった。
しかし清玉上人が秀吉公からの御朱印を断ったのには訳があった。
もし秀吉公が天下の逆乱を鎮めた後、天下を信長公のご子孫、又は御連枝方にお渡しになり、
秀吉公は天下の御執権として国土を治められるのであれば、清玉上人も有難くそれを認めたのであろうが、
しかし秀吉公は、若年より莫大な信長公の御恩を受けて身を立てた人だというのに、信長公が不慮に
亡くなったのを幸いに、天下を我が物にしてたちまち御重恩を忘れ織田の家門を家来としてしまった。
この事を清玉上人は無念に思われ、秀吉公のことを常に、人でなしの人非人とのみ申されていた。
もし信長公の御遺跡が変わらす、織田家門の天下にて御朱印寺領が下されれば、清玉上人は大いに悦び
拝領したことであろう。しかし秀吉公は不義不道であると考えられたため、如何様に成ろうとも
受け取らないと決心し、このようにあったのである。
(阿彌陀寺由飼V記)
966 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 09:13:28.40 ID:PK20oFe9
宇都宮下野守国綱は代々下野宇都宮十八万石を領し、関東にて豪家の一つであった。
しかるに慶長十二年十二月二十三日に無嗣のまま卒去。これまで宇都宮に無嗣の場合
庶流多賀家よりこれを継ぎ、多賀に子が無い場合は宇都宮の庶子を遣わして継いだ。
今度はこれに反し家老神野川与左衛門は密かに正安らと相談して浅野弾正三男を養子
として家名を立てようとした。
多賀はこれを聞いて大いに怒り正安がこの事を談合する為に上方へ登ったのに追っ手
を遣わし正安を殺害し、神野川与左衛門の元へも討手を送って屋敷を取り囲んだので
与左衛門は思うさまに戦ってから切腹した。
この事を家康公が聞かれ大いに咎められ多賀には切腹を仰せ付けられ、宇都宮の所領
は没収となり、永く続いた家名が断絶したのは惜しまれる。
かの家の祖、栗田関白道兼公の玄孫宇都宮宗円以来、代々弥三郎下野守を称し数百年
宇都宮の領主であったが、この時一朝にして滅びたのは無情のことであった。
後裔は今わずかに残って水戸家に仕えている。
(翁草)
大意は残ってるけど時期やら登場人物やらがえらい事になってる逸話
伝言ゲームって怖いよね
967 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 04:30:45.25 ID:XPYGYYA1
森美作守(忠政)殿の御家(津山藩)が御繁昌の間は、毎年6月2日に御使者が阿彌陀寺に遣わされ、
御向月の御法事を毎年執り行っていた。年中の御茶湯料も少々づつ送り遣わされていた。
しかし美作守殿の御家がお取り潰し(元禄10年(1697年))になった後は、これも相止み、
無縁と罷りなってしまった。
それでも毎年6月2日の御向月の御法事は、搭頭にうち寄り、現在においても懈怠無く執り行われている。
信長公百年忌の節は、森美作守殿の御家が御繁昌であったので、美作守殿より御法事として
千部読経の御執行が有った。またご由緒の方よりの御使者、御香典等もあった。
(阿彌陀寺由飼V記)
阿彌陀寺が、忠政の森家と繋がりがあったらしい、というお話
968 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 05:12:57.33 ID:Dz+7Iu3o
「お義、勘弁…」
柏木山の戦いの直後に上山城の惣堀に引いた伊達勢と上山勢は軍を再編
柏木山方面から南下して来る最上義光の軍を備えを固めつつ待ち構えた。
そこに徒士に担がれたひとつの輿が現れる。
最上義光「…なんぞ、あれ…」
伊達輝宗「何者ぞ?」
輿の供の者から旗が振られ、最上と伊達の陣に使いの者がそれぞれ口上を伝えた
従者「義光さま、義姫さまがお話があるそうです」
従者「輝宗さま、お東さまがお話があるそうです」
伊達と最上の双方の陣から旗の合図がなされ、戦場に不意に現れた輿の存在により半ばなしくずしに様子見からの一時休戦となった
義光と輝宗がわずかばかりの供の者を従え、輿へと馬を近付けた
輿の従者が簾を上げると涙ながらに義姫が輿の外へと歩み出た
(つづく)
969 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 05:30:10.18 ID:Dz+7Iu3o
(つづき)
義姫「輝宗様がどこぞに御出陣かと思いきや、まさか義兄弟間での御合戦とはなんとも珍しいですこと
父義守が倒れた砌(みぎり)、お二人を枕元に呼ばれて『義兄弟仲良くな。かわいい孫の藤次郎(伊達政宗)もやがては成人する事だろうし、輝宗殿と義光が魚と水の様に相睦まじければ、上杉と佐竹が攻めてこようとなにも怖いものはないだろう。
伊達家中は義光を嫌っている事は知っておるし
最上家中も輝宗殿のあつかましさを嫌っている事は二人とも重々承知の事と思う。
まぁ、わし(義守)がこんな姿を晒しているとは言え、少しは慎んでくれると助かるのじゃがな』
とおっしゃいました
この父(義守)の御意見を、昨日今日に早くも忘れ、この様にいくさをなされるとは人語もわからぬどこぞの犬畜生なのでしょうか?情けのうございます
さっさといくさを止めて双方兵を引きなされ。
それが叶わぬのなら、さっさとこの場で私めを切り殺しお好きになさいませ」と戒めた。
(つづく)
970 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 05:42:00.33 ID:Dz+7Iu3o
(つづき)
輝宗は内心これ以上のいくさをする事には特に乗り気ではなく、誰かが仲介をしてくれれば無駄な戦いを止め米沢に引き揚げたいと思っていたのと
一方の義光も上山攻めが無駄に長引く事を嫌がっていたので
いくさ場への義姫の輿の乱入により、微妙な後味を残しつつ、そのまま和議と相成った。
「最上義光物語」
1588年の大崎合戦の10年程以前にも、義姫が輿で戦場に乗りつけ、伊達と最上の戦いを止めさせた
良いとも悪いとも受け取められるお話。
971 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 09:48:01.16 ID:CZhjciOV
「え? 両方とも戦をやめたがってるけどきっかけがない?
もーホント男って面倒でいやね〜
じゃあそろそろ私の出番ね輿GO!」
972 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 11:29:38.32 ID:4uFJ2B87
973 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 16:16:57.05 ID:rC44V7Ou
下手に普通に戦場に出るよかある意味安全なんじゃないの
974 :
968:2013/12/05(木) 18:14:45.94 ID:Dz+7Iu3o
>>969 誤)最上家中も輝宗殿のあつかましさを嫌っている事は
正)最上家中も輝宗殿のあつかましさをよかれと思っていない事は
誤)さっさとこの場で私めを切り殺しお好きになさいませ
正)この場で私めを切り殺し、後はお好きになさいませ
>>970 誤)一方の義光も上山攻めが無駄に長引く事を嫌がっていたので
正)一方の義光も上山攻めが長引く事を嫌がっていたので
前後で似た語句が被りましたので、お手数ではございますが訂正の方を宜しくお願い致します
975 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 20:42:19.83 ID:mUJAoqmb
輿使い四天王
今川義元
龍造寺隆信
大谷吉継
立花道雪
976 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 20:45:37.17 ID:jPs/rP8/
恐れながら申し上げます
私は長宗我部のおとなであった、中内惣左衛門と申す者の孫であります。
私の親は、中内彌五左衛門と申します。
この彌五左衛門は、先年大阪御陣(大阪夏の陣)の時、八尾表の合戦において、
故仁右衛門様(藤堂高刑)と鑓合わせをし、仁右衛門様も相果てられ、私の親も
打ち果てました。
この様に申し上げたことに、偽りは少しもありません。長宗我部家中の生き残った者達は、
何れもこの事を存じ上げています。藤堂家のご領地である伊賀や伊勢におられる土佐衆も、定めて
これを聞き及んでいるはずですので、何れの方でも、お尋ねになってみてください。
仁右衛門様を討ったと申す者が、今も世間に有るように承り、不審な事だと思っています。
後日において、故仁右衛門様と鑓合わせをして討取った、と言う御仁が現れるようでしたら、
何時でも、それを聞き及び次第まかり出て、吟味させて頂きたいと思っています。
右の事を申し上げるため、阿波より罷り越しました。
寛永11年(1634)極月(12月)10日 中内藤九郎
(中内家蔵・中内藤九郎書面)
さてさて、律儀なる若者である
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8048.html この逸話でも有名な藤堂高刑が大阪夏の陣で、長宗我部隊との激戦によって討ち死にした事に、
後になっても「自分が討取った」と言い出すものが有り、藤堂家においても調査されたらしい。
その時の、長宗我部家旧臣の家系の者からの証言である。
977 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 22:33:26.88 ID:HgVcWfzW
天文四年(1535年)、松平清康は東奔西走の末に三河一国を勢力下に置いた。
これに対して甲斐の武田信虎が和睦を申しこみ、美濃三人衆や尾張国守山城主の
織田信光(織田信秀の弟)が尾張への手引を申し出たので、清康は一万余の軍勢を率いて守山に出陣した。
この出陣の際、一門衆の松平信定は病と称して上野城に引き籠っていた。
信定は宇利城攻めで清康に遺恨を抱き、清康が信秀と戦っている間に
岡崎を奪い三河を自分の物にしてしまおうと考えていたという。このために信定が裏切るという風評が立ったが、
清康は「信定が裏切ったとして、どれ程の事ができようか」と言って、歯牙にもかけなかった。
また、重臣たちが
「織田信光は信定殿の婿であるので、信秀を迎え入れることでしょう。
退陣なさった方がよろしいのではないでしょうか」
と申し上げると、清康は
「信光が城を出るならば、迎え討ってそのまま城内に攻め入り、城を焼き払ってやる。
信秀が立ち向かってくるなら願ったりだ。一合戦してくれよう。
信秀と合戦するならば、信定は踏み潰す必要もない。勝手に自滅するだろう。
そもそも、信秀は私と戦おうとは考えてもいないだろう。奴は出陣できまい。
私が安祥にいた頃、手勢がわずか五百三百だった時、一度天下を治めたいと思ったが、
百々度(ももたび)の戦をしなければ、天下は治められない。野に向き山に向き、敵を見つけたら、
是非共に押し寄せ、百万騎いたとしても、百々度の戦をしようと思っている。
どんな時でも、私は戦でならば負けることはない。安心してくれ。」
と言った。
重臣たちが続けて、
「大給の松平親乗殿は、信定殿の婿であります。これは如何なさいますか」
と申し上げると、清康は
「尤もな事だ。だが、私は信秀でさえ何とも思わないのに、親乗ごときが出陣して私を防げるのか。
もし出陣するなら、それは首に石を付けて、自分から川の深みに飛び込むようなものだ。いや、それ以下だ。
池鯉鮒へ出陣し、そのまま上野へ押し寄せて、二の丸、三の丸を焼き払ってくれる。」
と言うので、重臣たちが
「小河の水野信元は信定殿の婿であるので、きっと小河からも加勢が来るでしょう」
と申し上げると、清康はからからと笑って、
「尤もな事だが、お前たちは何を心配しているのか。私が通るというのに、
信元などが百万の兵を持っていたとしても、私と戦おうとするだろうか。
出陣してくるならば、それもまたよし」
と答えた。
三河物語より、松平清康が自信満々……というか慢心の域に達してそうな話。
この直後に清康は横死するため、彼がこの発言通りの実力を持っていたかどうかは
永遠に確かめられなくなってしまった。
ちなみに今日で清康が横死する守山崩れから478年目になる。
978 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 23:41:44.67 ID:rC44V7Ou
作品によっちゃ
「この慢心が清康の身を滅ぼしたのである、よってうんぬんかんぬん」
とか書かれるレベル
979 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 00:02:20.55 ID:kyltXBmG
清康の言う天下って何を指してんだろうな
980 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 00:08:59.24 ID:KMPzJFag
三河物語だしホントに日本全土の事言ってるんじゃねえかな
981 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 22:05:55.22 ID:HIJhyBSL
大阪冬の陣の時、藤堂高虎は石火矢を撃ち込もうと、大阪において井楼を組み立て、
石火矢を城内に撃ちこむと、城中に立っていた吹貫を撃ち折り、堀の下へと落とした。
これに高虎は御機嫌と成り、
「あれは日中には回収できないだろう。夜に入ってどうにかして取り戻すだろう」
と言ったが、城中の者達は決死の回収活動をし、日中の内に堀から取り上げたという。
(高山公実録)
吹貫一つに起こった攻防戦である。
982 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 22:56:56.66 ID:OVSkYP8f
吹貫って何だろうって思ってググったけどよく分かんない
旗みたいに大切な物なの?
983 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 23:09:03.73 ID:+2myElMR
旗の一種で鯉のぼりの上についてる吹流しに似たものだよ
984 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 23:21:47.22 ID:J/SPIBDq
風の強いところの高速道路脇によくあるだろ
985 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 23:31:14.49 ID:+0JsNAQf
高速道路の鯉のぼり亜種と違って、ヒダヒダになってるあれか
986 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 14:40:12.89 ID:+16USYK4
987 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 15:19:03.51 ID:9jpxSNuP
そろそろ新スレ立ててみる
988 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 15:34:41.75 ID:9jpxSNuP
ダメだった。どなたかお願いします…
989 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 16:40:11.59 ID:Q9J8BolJ
990 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 16:43:15.62 ID:r+h54Spk
991 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 17:38:17.13 ID:D5RFYXX3
992 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 00:03:43.38 ID:ucKho9tW
中間六郎左衛門統種は豊前国下毛郡山国を領し、中間の郷一戸の領主であった。
黒田官兵衛の豊前入国の時、山田大膳、城井中務と共に、三人はその居所が山中で嶮岨の地であることを
頼って官兵衛に従わなかった。
しかし中間六郎左衛門には官兵衛より内意があって、早くに降参した。
中間が官兵衛に降参しようとした時考えたのは、黒田官兵衛に降参ずれば、本領を失うだけでなく
自身の身も失うのではないかという懸念であった。
しかし黒田官兵衛は聞こえた武将であるので、降参しなければ滅亡すること必定である。
如何すべきかと思案し、一つ思いつき、中間家に仕える者達を一人も残らず呼び出して、
このように言った
「黒田官兵衛に降参すべきが、そうしないべきか、各々の心中の所存を書き付け
入れ札すべし!」
家中の者達の意見を知りたいということである。
家臣たちはその下知に従い、それぞれが思う所を書き付け、入札をした。
乱世の時節であったので、文字の書けない武士もまた多かったが、文字の書けない者は
文字の書ける者に頼んでその意趣を書いてもらった。
皆書き終わり入り札が終わると、中間六郎左衛門はそれを取り出してこれを見てみると、
多く家人がいる中、一人も「黒田官兵衛に降参するのはよくない」と書いた者は居なかった。
皆、黒田に属するべきだと書いていたのである。
中間六郎左衛門は
「では、家人残らず同心の上は、衆議に従うのが宜しかるべきである。」
と、官兵衛への臣従を決めた。
その後城井中務が中間の元に使いを送り、黒田に背き自分たちに味方するように進めてきたが、
中間は同心せず、
「一度黒田殿に従った以上は、重ねて心変わりはしないものだ。」
と返書を送った。
この返書を持たせた使いを、黒田家の家臣が道にて捕らえて官兵衛のもとに連行したが、
官兵衛はその返書を見て、中間六郎左衛門の忠義に感じ入ったという。
(黒田家譜)
使いを途中で捕らえるあたり、それまでは信頼せず監視していたのでしょうね。
993 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 20:05:00.18 ID:7illiONF
裏切りはよくあることです。
994 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 20:11:10.97 ID:C81qnjp9
うむ。
995 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 03:45:32.77 ID:32iCPat1
島津忠恒公の悪い話が知りたい・・・
996 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 04:03:53.27 ID:3n9htrgX
まとめサイトへGo!
997 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 09:54:40.04 ID:3r16wyod
むしろ忠恒のいい話があるのかと。
998 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 16:43:33.95 ID:sJyjoRMd
たま〜にいい話があがるね
たいていオチがつくけど
999 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 16:46:53.97 ID:jKSfonJQ
忠恒はどこから見ても中世的集団でしか無かった島津家を近世薩摩藩に再編成した君主としては、高く評価されているな。
いい人かどうかはともかく。
1000 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 16:47:47.90 ID:PB8/Xkvg
1000
1001 :
1001:
/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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