【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】

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142人間七七四年
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
143人間七七四年:2013/06/14(金) 10:21:50.34 ID:xj6Tnt3N
>>ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる