【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】

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136人間七七四年
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし。蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 。独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
137人間七七四年:2013/06/14(金) 03:17:47.81 ID:xj6Tnt3N
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状 これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ 際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる
蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
138人間七七四年:2013/06/14(金) 03:26:22.43 ID:xj6Tnt3N
>>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
139人間七七四年:2013/06/14(金) 03:48:29.73 ID:xj6Tnt3N
>>史料を読む限り秀吉が余裕かましていて
史料を読む限り圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝して騙しまくって誤魔化していたか「わかる」

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
140人間七七四年:2013/06/14(金) 03:50:45.69 ID:xj6Tnt3N
>>史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、
佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っているのに
どこが余裕なんだよアホ
>>家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ないヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。
わずか8000程度の兵力で10万〜135000の秀吉にまともに対抗できるわけねーだろアホ
>>完全に追い詰められた家康ってのが事実。
むしろこんな圧倒的有利な兵力差&状況&信雄領国からも寝返りばかりで
今川氏真が指揮取っても勝てそうな状況で長久手で大敗、その後の攻防も終始苦戦して1年かかって
基盤ガタガタな尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
兵力差がめちゃめちゃ違う上に外交でも優位に立ったんだから当たり前だろアホ
>>また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、家康が騙していただけだったりと
9月時点で信雄・家康の人質出しての懇望を聞かずになぜ11月になって 秀吉が素直に言う事聞くのか不明
もし秀吉の言うとおりならよほど織田徳川に苦戦しまくってた証拠
>>切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
史料を出して詳しく解説してくれ
>>ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
楽田に留守居部隊2万も置かれてるのに簡単に動けるわけねーだろアホ
>>ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
信雄は浜田も松ノ木も戸木も長島も落ちてないというか砦築かれただけで攻められてもない状況で
苦戦しまくってた秀吉が諦めて納馬しようとしてたところにヘタレ降伏してきただけで家康の動きとは関係ねーわアホ
>>屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。
家康の和議を屈服などと歪曲支店じゃねーよアホ
なぜ和議結んだのに単体で8000そこそこしか出せない状況で13万の秀吉に歯向かわなきゃ無能になるんだアホ
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる