【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】

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122人間七七四年
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は
余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃ
ならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ