1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 11:47:22.69 ID:3J1aZnFX
乙
3 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 16:06:46.69 ID:I5VuPmCh
( ~~.旦
.~旦 )
(( 旦~ グラグラ
.旦
..旦~
(旦~~
/⌒ヽ みなさん ごくろうさまです
/ ´_ゝ`)
| / お茶がはいりましたよ
| /| |
// | |
U .U
4 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 06:15:13.50 ID:XyZ8bU0F
大阪冬の陣により、幕府は諸大名に出陣を命ず。
時に米沢の上杉景勝家臣・杉原(水原)常陸介親憲は大変悩んでいた。
「私には先祖伝来の鎧一領しか無く、これは数度の合戦に着古した物の具である。
国元の坪軍(小さな合戦)であればこれで構わないのだが、今度、両御所様は二条伏見に
御在城であり、京に着到した軍兵は皆、野路、篠原、石部、坂本より華麗な物の具を着けて
入京する、との風聞である。はげた鎧では見苦しい。どうするべきか…。」
これを同僚たちに相談すると、
「我々は、一手の物頭でさえ替えの鎧を持っておらぬ。田舎であるから、鎧を借りると言うことも
出来ない。常陸介殿は機転のある人だから、何とか上手く考えてほしい。」
そこで親憲は、猿楽の能装束の法被を具足の上に着て、摂津まで罷り立った。
さて、大御所様(家康)は親憲の姿をご覧になり
「上杉はさすが古い家だ、常陸介の武具立見事である。
古風にも紺地に綿の鎧直垂を着ている。皆々、後学のためあれを良く見ておけ。」
と言われ、天下の話題になったのも不思議なことだ。
さて、親憲はこの戦いで感状を拝領したが、それを頂いて帰る時
「しかし思いもよらない物を貰ってしまった。今回の摂州御陣は子供が喧嘩して礫を投げ合うのと
同じようなものであり、互いに恐ろしい事など何もない。
昔、関東北国において、今死ぬか、明日死ぬかと思うほど激しい合戦に、朝も晩も戦っていた時には
御感状頂いたことは無かったのに、今回のような礫の打ち合いのような戦で、公方様(秀忠)からの
御感状を取ってしまったわ!」
そう、大笑いしたそうである。
(北越太平記)
5 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 08:03:49.03 ID:LEAfepJf
豊臣冬の大感謝祭☆感状大量発行中!
6 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 08:47:10.51 ID:W0KcGvTL
上杉ってどこ方面担当だったの?楽しすぎ
7 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 09:48:05.98 ID:BTECQ8AV
>>6 なにが楽しすぎる?
一行目から二行目への飛躍がわからんw
8 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 10:00:18.53 ID:nCkaafnu
なにが楽してたんだって、そりゃ上杉だろ
9 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 10:10:44.55 ID:A2R2u8oJ
たのしすぎうえすぎ
10 :
7:2013/04/09(火) 12:29:08.20 ID:BTECQ8AV
たのしすぎとだけよんだ
なぜらくがあたまのなかからきえていたのかはわからない
11 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 16:54:01.93 ID:9GVZM0Xd
今福・鴫野で佐竹の救援とかやってるけど楽か?
12 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 17:52:55.58 ID:VpFQyUjs
>>11 救援されるほうならともかく、するほうなら比較的楽じゃない?
13 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 19:15:33.38 ID:6IQdFSk7
14 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 20:27:04.43 ID:Nf2lKSWt
ある程度楽ではあるけれど、経験の薄い武将が多くなってくる時代においては重要な役回りじゃないかな
15 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 10:49:44.94 ID:B/tnBpqF
その割には、ぷっwwwなんなのあの格好わwwwって家康に爆笑されてたよな
16 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 11:07:06.24 ID:AUX/BoND
前半は当世具足の普及が高くなってて「伝統あるレトロな鎧もありやね」みたいな感じなんかね?
17 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 15:30:03.40 ID:Cs78qUv/
大阪の陣の時のことである。徳川家康が周りの者達に
「大野主馬(治房)は天下を望んでいる、と言われているが、それは本当だろうか?」
と仰った。しかしその言葉や表情には、主馬を憎いと思っている様子は少しもなかった。
その後、再びこのように言われた
「天下に望みを持ったとしても、不可能だとはいえない。
天下というものは、例え武辺に達したからといって、得ることは出来ぬものであり、生まれながらに定まった
運命のようなものである。
私には、天下が転がり込んできた。
信玄や謙信といった者達は、武勇に達した武将であったが、天下を得ることは出来なかった。
これも運命であったのだろう。
こう言った運命を持つものは、誰に寄るという事はない。
だから、大野主馬が天下を望んだといって、それが不可能だとは誰にも言えないのだ。」
そう、皆に仰った。
(紀伊國物語)
徳川家康の天下観のについての逸話である
18 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 16:50:56.31 ID:15yf3Jkg
タヌキの関ヶ原前で240万石だっけ?有力ではあるけど絶対的な国力じゃないんだよな。無口とまーくんと市松が一致団結すれば叩けんわけじゃない。三成がアホやらなきゃのう
19 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 16:58:37.01 ID:DglHUvqt
もはや三成のポカとか関係ない組み合わせじゃないか
20 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 21:02:29.71 ID:MEfwTKUF
家康自身も自分がラッキーマンだと思っていたのか。
21 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 21:33:30.48 ID:HWjg/IRK
>>18 その三人がどうやって組むんだ?特に伊達と上杉が組むとか有り得ない構図だろ。
22 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 21:38:50.47 ID:P2BlyUI/
実力があるのは前提だけど、最終的にはやっぱ運だな
23 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 23:20:03.47 ID:A4sSkpRd
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った
「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」
列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は
「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の新愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。
私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。
一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。
相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。
尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。
関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。
ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態こそ、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」
この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」
この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)
相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。
24 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 23:39:50.21 ID:LBOqjtB8
長いけど、いい話だね
25 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 23:40:34.28 ID:P2BlyUI/
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…
26 :
人間七七四年:2013/04/10(水) 23:50:03.64 ID:+g8ljOBv
27 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 00:21:05.84 ID:VaBqG/LL
奴だな
28 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 00:39:10.88 ID:kyiGr4DV
で高名な武士って誰よ?
29 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 00:53:35.61 ID:FP5ZV500
那須、相馬は一騎当千
小田は...(´・ω・`)
30 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 01:01:12.02 ID:pWR8nQsB
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような
相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ
31 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 04:09:43.58 ID:xklBYn3s
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶
32 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 12:57:10.59 ID:UYFpWIUM
>>30 細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw
33 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 14:33:47.48 ID:Ms41/CEE
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては
首都が陥落してしまうw
34 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 14:48:49.48 ID:oMB5PsNs
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが
35 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 15:27:53.24 ID:pn0sfKu+
佐竹なら、佐竹の殿なら…
36 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 15:45:09.90 ID:kfOqjU8h
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww
37 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 15:57:48.45 ID:nCXbk00z
>>34 奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw
38 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18 石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理
39 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 21:08:36.42 ID:5hItfGM4
>>18 天下を取れる人は大勢いても
敵と身内に対してタヌキ役になってくれる人がいないと中韓に乗っ取られるような社会になるんやで
運だとしても最終的に天下人が家康だった日本の運も強いな
40 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 22:10:57.97 ID:eEJD0fni
豊臣政権は時代を先取りしすぎた感はある
政権安定のためには中央と各大名の力の差を決定的に大きくしないと不安定になる
41 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 22:33:52.61 ID:/N+KTY3m
関ヶ原までは豊臣本家と徳川家に圧倒的な差はあったけどその権力を振るえる人間がいなかっただけ
豊臣政権が安定するには1570年代に秀頼が産まれてないと無理なわけで機関的に別に時代を先取りどうこうの問題ではない
42 :
人間七七四年:2013/04/11(木) 22:58:21.30 ID:kfOqjU8h
権現さん以外は少数を除いて、豊臣家の中のいわばリーマンだしな・・・
全部自分の判断で家を切り盛りしたってのはなかなかいないわな〜
43 :
人間七七四年:2013/04/12(金) 09:07:25.80 ID:MduJAiYx
関ヶ原あたりだと豊臣本家=家康だから差があるとか意味がない
44 :
人間七七四年:2013/04/12(金) 11:00:44.30 ID:TGx2uC6u
秀吉の子供は夭逝だし尽く養子もアレだし秀長に至っては女しか作れないというダメダメ兄弟
45 :
人間七七四年:2013/04/12(金) 11:04:25.45 ID:Csa6Z3XB
そこで太閤権現ハイブリッドの秀康さんです
46 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 00:47:44.51 ID:wcXnoL+X
>>23 >この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)
47 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 00:57:43.82 ID:qRBbOEcE
>>46 相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw
48 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 01:52:31.95 ID:ahRJfDKC
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ
49 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 04:17:22.26 ID:xQfOKq9z
ほしゅ
50 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 09:46:22.98 ID:itxyye5q
>>46 次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな
51 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 13:26:10.54 ID:lpkrl6Yz
>>40 豊臣家は直轄領だけで220万石くらいで家康の直轄100万石の倍くらいだし
秀吉存命の頃は中国東部から近畿濃尾に大量に居た小大名群も直轄軍扱いだっただろうから
他の大名に比べ隔絶した動員力を持ってはいたんだよね
秀頼が直接指揮できる年齢になっていればこれが活きたんだろうけど・・・
52 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 14:02:33.23 ID:JcDrIcE2
>>51 関ヶ原は徳川vs豊臣じゃないんで
それと大坂の陣を見る限り適齢でも前線に出てこない可能性のほうが高いと思う
53 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 17:11:00.80 ID:eoSiXQZV
拾わせたのに温室育ちのお坊ちゃんじゃ無理やろ
秀秋見倣えと言いたい
54 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 20:28:00.32 ID:IRgUakJp
天正壬午の乱において、徳川家康が甲斐新府で北条氏直と対陣していたころ、
徳川方の平原宮内が密かに北条氏直に内通しているとの情報を
保坂金右門が漏れ聞き、これを言上したため両者が呼び出され糾明が行われた。
そこに元武田家臣の辻盛昌も立ち合っていたところ、
平原はその罪を逃れがたい状況となったため、
奥山新八郎の従者が主の刀を携えていたのを見てとるや、馳せ寄ってこれを奪い、斬り回った。
その場に丸腰でいた辻盛昌は、捕えようと素手で立ち向かったが面を斬られ血が目に入り
進みかねて退き、結局土屋権右衛門(重成)、永見新右衛門(勝定)が立ち向かい、
小幡又兵衛昌忠が平原を討ち取った。
この話を家康が聞き、平原を討ち取った小幡昌忠らを賞したが、
辻盛昌については、その心は剛であるが
打ち物もなしに白刃に立ち向かったため思わぬ手傷を蒙ったとして
深く賞することはなかった。
けれども、辻盛昌に対して絹衣に黄金を添えて与えたという。
これは、このような剛の者をみだりに褒め称えると、
手に武器もなしに白刃に立ち向かうことがよいことであることになり、
別の機会において或いは死んでしまうことがあるかもしれない
という家康の心配りであったという。
以上、武徳編年集成、武徳大成記、家忠日記追加、古人物語を出典とする干城録より。
ちなみに貞享書上には、辻盛昌が平原を組み伏せ討留めたと記録されているそうですが
なんにせよ家康公の細かな配慮がいい話ということで。
55 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 00:17:48.87 ID:rdQfifie
戦国時代の教訓は現実とかけ離れた理想論や道徳がないのがいいな。
逆を言えばそれだけ安心出来ない世の中だったわけでもあるが
56 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 11:10:16.41 ID:BXEeHnZ+
妻の兄からの招きに応じてはいけませぬ
橋守りを仰せつかったら家族との別れを済ませておきましょう
主をいくらこき下ろしても問題ありません(M兵衛を除く)
手柄なしの帰参は死を招きます
4番目は今でも通用する気もするか
57 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 21:01:48.81 ID:bCgwIX8N
太閤秀吉の生国は尾張国中村の人であり、古くは川中島の高坂弾正の所で奉公をし、
それから三河に行って松下嘉兵衛に道で出会った。
秀吉は長い楊枝をくわえており、嘉兵衛はそれを見て尋ねた
「その方は牢人であるか?」
「如何にもその通りである。」
「その方は、どうしてそんなに長い楊枝を使っているのだ?」
「牢人であるので何本も楊枝を才覚する金もなく、長く使えるようにこうしたのだ。」
「なるほど」
嘉兵衛は再び尋ねた
「その方は今までどこに居たのか?」
「川中島で、高坂弾正のところに。」
「なんと!弾正殿に直に仕えていたのか!?」
「弾正殿の家来である外記孫八郎の足軽をしておった、その後工藤源左衛門の所にも少々居た。」
嘉兵衛はこの者の話を聞いて、普通ならず利口な者であると思い、彼を召抱えた。
(紀伊國物語)
松下嘉兵衛の前に高坂弾正の元にあったという、珍しい秀吉に関しての逸話である。
58 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 22:03:30.06 ID:TZ4FxeXu
そういや秀吉と高坂って百姓生まれ繋がりだったか
それにしても高坂→内藤ってすげぇ遍歴だな
59 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 09:48:44.74 ID:05wb1DFU
松下嘉兵衛って柳生十兵衛の祖父なんだよな
60 :
人間七七四年:2013/04/17(水) 20:04:41.22 ID:v1UbgcQW
若き日の秀吉は松下嘉兵衛の元を去ると、どうにか織田信長に仕えたいと考えたが、
当然の事ながら信長にお目通りが叶うこともなく、織田家の人々に知られるべくもなかった。
そこで秀吉は、信長の小姓衆の小便所の下に隠れた。すると当然、上から用を足しにきた小姓の
小便がかかる。ここで秀吉が飛び出した
「わしに小便をかけるのは何者か!?」
小姓たちは大いに驚き、また秀吉の剣幕に押されて「どうか堪忍してほしい」と謝った。
ところが秀吉の方は「知らずにやったのなら仕方のない事です。気にしてません。」と、
あっさりと引き下がった。
が、この事で信長の小姓衆と顔見知りになり、彼らのもとに出入りするようになる。
そのうちに彼らから、彼らの食した蜜柑の皮を貰うようになった。
こういうことが何度か有ったあと、ある日突然、それまでみすぼらしい姿だった秀吉が、
立派な肩衣を着て現れたではないか。
秀吉は言う
「これは蜜柑の皮で仕立てた着物でござる。」
それは一体どういうことかと問われると
「私は頂いた蜜柑の皮を貯め置き、これを薬種屋へ売り、その代金を以って
この肩衣を拵えたのです。」
この事は大いに話題となり、賢きものであると秀吉のことを皆が知るようになり、
終に信長の耳にまで達した。
そして秀吉を呼び出し対面した信長は
「姿形に似合わぬ利口者である。猿の面に似て面白いやつだ。」と、
彼を猿と呼ばれたそうである。
(紀伊國物語)
61 :
人間七七四年:2013/04/17(水) 21:36:11.68 ID:wj7LAbYf
ミカンの皮どれだけ貯めたんだよw
62 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 00:38:09.49 ID:dpjQ+NgC
陳皮って漢方薬だっけ
63 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 01:03:28.76 ID:uB2VTNvH
吉野家の七味だな
64 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 01:09:28.90 ID:XzwdJv65
見しは昔。当君が江戸へ御打ち入りよりこの方、町は繁昌し、住居も多く出来た。
しかし、みな草葺なので焼亡も多かった。慶長六年霜月二日の巳の刻、駿河町かうのじょう家より出火した。
この大焼亡に江戸町は一宇も残らなかった。
御奉行衆から「町中草葺だから火事が絶えない。ちょうどいいので、この機会にみな板葺にせよ」と御触れが
あったので、町はことごとく板葺に作るなか、瀧山弥次兵衛という者が人々よりも秀でた家を作ろうと思い、
海道表棟より半分を瓦葺に、後ろ半分を板葺にした。
人は皆取り沙汰して「本町二丁目の瀧山弥次兵衛は家を半分瓦で葺いている。さても珍しや奇特や」と褒美して、
半瓦弥次兵衛と異名するようになった。これが江戸瓦葺の始めである。
(中略。瓦の始まりは崑吾氏が土で作ったとか、王元之の黄州竹樓記によると竹瓦には徳興が多いなど)
されば愚老が大和国を順礼したところ、宮寺などに竹瓦が多く見受けられた。是又、黄州の竹樓を学んだのだろうか。
然れば、家康公の興ぜられた江城の殿守は五重鉛瓦にて葺かれている。富士山にならび雪の嶺にそびえ、
夏も雪かと見えて趣がある。
今は江戸町も栄えてみな瓦葺となっている。たくさん広大にあって美麗であることは前代未聞だ。
明暮すべての人が見ることだから記すには及ばない。
――『慶長見聞集』
65 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 14:53:58.80 ID:a7EdjZ9x
長可「あそこは燃えてないから屋根に登り瓦剥いでシューティングゲームだ」
松永「この平蜘蛛茶釜爆弾でも大丈夫だろうか?実験だ」
66 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 17:28:04.82 ID:MbAmDubD
城まで一直線の広い道を作るべき、火はその通りを越えることはない
大石をもって道を開こう
67 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 18:52:34.28 ID:MED5YaXE
片手の武人(1/2)
>>54 この話に出てくる小幡昌忠の話(途中までは同じ話の詳しいバージョン)
天正壬午の乱において、元武田家臣で板垣衆覚えの者として名高かった平原宮内が
北条氏直に内通したとの疑いが発覚し、詮議が行われた。
罪を逃れ難くなった平原宮内が、その場で奥山新八郎の従者が刀を携えていたのを見て取り
馳せ寄ってこれを奪い取り斬り回ったため、手負い・死者が合計21人も出た。
辻盛昌(元武田家臣山県衆)はこれを素手で取り押さえようと立ち向かったが
面を斬られ目に血が入り進みがたく退いた。
土屋権右衛門重成は家康の御前の板戸を引き立てて御座に侵入させまいと支えた。
小幡昌忠は短刀を抜いて平原宮内に立ち向かい戦ったが、左手を負傷し少し間を取った。
その合間に永見新右衛門勝貞が鑓の石突で平原宮内を突き、平原が思わず倒れたところを
小幡昌忠が馳せよって平原を刺し殺した。
このときまだ20歳にもなっていなかったにも関わらず
剛の者に短刀で立ち向かい倒した小幡昌忠のこの働きを、家康は限りなく褒め称え、
医師2名を遣わして昌忠の左手の治療にあたらせ、
近臣の者に一日に2度も昌忠の傷の具合を問うほど気にかけたという。
しかし結局、このときの傷のため小幡昌忠の左手は不自由になってしまった。
68 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 18:55:16.19 ID:MED5YaXE
片手の武人(2/2)
けれども、小幡昌忠は元来剛気だったのでその後もなお片手で近接戦闘をし、
信濃前山で味方が崩れかかった際に高名し、更に味方が退却しようとした際に
馬を返して首を挙げた他、信濃国岩尾、長久手など各地の戦いで高名を挙げた。
家康も、他の者が取った首は、大久保治右衛門(忠佐)らに実検させていたものを
昌忠が取った首は自ら実検し、その働きぶりに感じ入るほどだった。
天正13年、徳川氏が信州上田の真田氏を攻めて敗れた際も、
小幡昌忠は兵士6人ほどと染屋村に踏みとどまり、
追撃してきた敵を防戦して支えたので、味方は無事に退くことができた。
徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
片手でこのように危ない戦いをすれば、
討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
こうして小幡昌忠は、(戦場で討死することなく)慶長4年に36歳で死んだ。
以上、干城録より抜粋訳。
小幡昌忠というのは小幡昌盛の長男で、甲陽軍鑑の編者小幡景憲の兄にあたる人です。
ちなみに下の逸話では、昌忠の左手は手首から先を斬り落とされたことになっています…
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6427.html
69 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 23:21:04.68 ID:vsTgSpYd
>>68 >徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
>「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
>片手でこのように危ない戦いをすれば、
>討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
>これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
>本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
某ルーデルさんみたいなパターンになるのかと思ったら、
案外あっさり言うこと聞いたんだなw
でも、36歳で死んでるってあんまり意味ない(ry
70 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 23:38:18.06 ID:BiwbsjNG
>>69 享年36とは言え、エピソードは天正13年から慶長4年だぜ
十分に意味があるだろ
71 :
人間七七四年:2013/04/19(金) 12:57:30.94 ID:6rZbRRr7
武士は主君に忠義を尽くし、仲間に信義を守るものだと世間は軽く言うが、
これを生半可な覚悟で行うならかえって仇となることもある。
それについて武田信玄は、
「忠義は不満(を生み)、不満は謀反(を生み)、謀反は没落(を生む)」
と語っていた。
忠義を尽くすぞと骨折る苦労をしたけれど、
主君からはなんのお褒めもなく、
上下の意志疎通がバラバラとなれば、
やがては不満が限界に達し、
気持ちも荒んで、ついには謀反心が生じる。
逆に、もとから忠義という観念が頭にない者は、
あたりまえに謀反という観念も頭にないのだから、
生半可な忠義の心掛けは、無学なものよりかえって悪いということになる。
友達に親切にすることにもこれは当てはまる。
相手が自分の親切に対し感謝をしないと、
気を悪くし、感謝を知らない奴だと見限り仲違いし、
結果、親切にしないよりも悪いこととなる。
そういうこともあるから、武士は最初の覚悟こそが大切なのだ。
主君からお褒めにあずからずとも、
少しも怨まず、いよいよ忠義を尽くし、
友達に親切にし、かえって取り違えされ、
遺恨を抱かれても、いよいよ親切にする。
この覚悟を決めてこそ誠の武士であろう 【葉隠】
72 :
人間七七四年:2013/04/19(金) 18:28:38.03 ID:xp2BZJGn
見しは昔。上野国岡根という山里に、藤次という身は貧しく、姿は無骨な者がいた。
六、七年以前、江戸へ来たり、志葉の町のはずれに小さき草の庵を結び月日を送っていた。
年を経てその身の上はよろしくなり、今は江戸も栄えた町になって家屋敷を求め、たくさんの什物を貯えて、
人との交わりも睦まじくなった。「普段の振る舞いが他の人よりも勝れている」と人々に誉められ、
目出度く栄えた。
「賤しき身とて思ひ捨めや」という前句に「立ちぞ寄る人を厭はぬ花の陰」と兼載は付けられたものだ。
この者は古郷にいたならば一期は貧しく、心愚かなまま果ててしまっただろうが、生まれた地を見捨て、
繁昌の江戸へ来たり、人の形儀作法を見習い、仁義の道を学んで今人と呼ばれたのも、よき住処にいるからだ。
73 :
人間七七四年:2013/04/19(金) 18:30:43.15 ID:xp2BZJGn
人間は天理といって、この理を持たない人はいないけども、それを分明しないので万事につけて迷う。
その上、心の愚かな人は学ばなければ道を知ることは難しい。先哲も一期の大事は住処と言っている。
まさに人間は、一期を楽しむべき住処が肝要なのだと求めることをせず、生まれた地を慕い、旧縁に繋がれて
いたずらに一生涯を送り暮らすのが常の習いだ。孟母とは孟子の母であるが〜
(中略。孟母三遷の教えを例にあげる。教育には環境が大切であるという教え)
さてまた、頭虱といって虱は住処によって色々である。首に住むものは黒く、身に住むものは白い。
麝香はかやを食して香ばしい。このように人も住処によって悪人とも智者ともなる。
花山院の御製に「木の本を栖とすれば自ら、花見る人と成りぬべきかな」と詠じておられる。
また昌叱の「詫びて住とも都なりけり」という前句に紹巴は「遠近の花の梢をみぎりにて」と付けた。
こんな目出度き江戸の花の都を余所に見て、片田舎に住んで果てるのは愚かな心ではないだろうか。
――『慶長見聞集』
74 :
人間七七四年:2013/04/19(金) 20:06:40.20 ID:pa3XMz0z
丹後宮津藩(宮津城)初代である京極高知が病気となり、京へ養生のため上られたが、
この時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。
高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。
これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという
高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。
後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)
75 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 00:27:34.29 ID:bFgtfghp
>>74 「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?
高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ
77 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 09:33:26.80 ID:a32B7T14
本家の石高下がって格は下がったけど無嗣断絶の多かった時期で分家作りが流行ってた頃でもあるからなあ
78 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 15:39:13.04 ID:/bj2iR3L
ある時、織田信長は不思議な夢を見たので気がかりに思っていた。
誰に判じさせたらよいかと彼是案じ悩んでいたが、きっと思い付いて、翌日に乗慶僧都を招いた。
「ちと御房に判断してもらいたいことがあって、お招きしたのだ」
「承ってみましょう。どのような御事ですかな」
「実は今宵なんとも理解できない夢を見たのだ。御房の了見を聞かせてほしい」
「広々とした山野をただ一人辿り出て、東より西へ行こうと思ったが、道の中程と思わしき所に、
向こうへ半段ばかりと見渡せる大河があった。岸を打つ波は荒く、水面もすさまじく尋常ではない。
これを渡りたいと立ち休んでいたところ、この河の水がにわかに紅血に変じてとても生臭い。
そのような所に、三十ばかりに見える剣が一振り流れていた。夢心にこれを取ろうと思うも、
容易くは取れず、どうしたらよいかと色々と案じておると、そのまま汗をかいて夢は覚めた」
「これは誠にめでたき御夢です。近いうちに河内国は御手に入ることでしょう。
その剣はすなわち敵の魂です。その精魂が抜け出て、水に流れて消えるという御告げですぞ」
僧都がそのように判じると信長は大いに感じ入って手を丁と打ち、
「さてもさても、めでたい判断をしてくださったな。年来の本意を達せられるならば喜悦の眉だ」
と喜び、「それぞれ」と言って当座の引出物として料足五貫文、白布二反を与えると、
律師は「有り難し」と拝領して御前を立った。
――『室町殿物語』
79 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 15:47:27.79 ID:ehV0KQud
西に向かうとか、途中で三途の川っぽいものがあるとか、死亡フラグのようだけどな
80 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:01:24.43 ID:9QzqIF4t
この手の話は吉夢と解説して後で実は凶兆だったというオチがデフォだと思ったがw
81 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:30:48.56 ID:BGIjtejT
花落つる 流れの末を せきとめて
82 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 17:44:59.62 ID:E/gEUAWC
まぁ信長もこれヤバい夢なんじゃ?って思ったから呼んだんでしょ
そこで機転をきかせて吉夢ということに切り替えさせたこの坊さんがうまい
83 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 21:52:07.35 ID:eFlA0Mhp
84 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 22:19:56.14 ID:+TbimQD8
>>83 アンタ吉夢だって言わないと斬るじゃないですかー!
信長様はそんなこと致しませんよ…ね?
85 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 09:54:55.01 ID:0BxUDqg8
朝鮮の役の時のことである
正月元日の未明、挑戦に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。
物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。
物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。
急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。
この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。
その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)
86 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 10:05:05.81 ID:0BxUDqg8
>>85 あー変換ミス。2行目 挑戦→朝鮮です。申し訳ない。
87 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 11:26:52.99 ID:hH6Pfpc7
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった
88 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 17:05:43.99 ID:0fEREdcl
武田の風林火山の旗を見れば、
腰抜け武士はそれだけで逃げ出す。
そんな武田家全盛の時代のこと。
武田信繁は重臣にこの思いを書き残した。
「たとえ自分の立場が時勢に適応して、
地位、力のある者が親類、周囲にあったとしても、
そのことに安心して、軟弱な趣味を持ったり、
あるいはことさら派手な振舞いなどと、
そういったことをしてはいけない。
なぜなら、それは武士として大切な勇を失いがちになるからだ。
三略にも上の者に勇がなければ、
役人、武士もこれを軽く見るとある通りだ」
《信玄家法》
89 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 18:46:07.77 ID:q0Uxl8Mt
90 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 19:03:19.48 ID:KSMvLDiY
信繁堅いなー。背中叩くとカーンて音が鳴るかも
91 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 19:51:59.51 ID:MOMKxQKX
超義理堅い堅物と思われてた方が安全ではあっただろうな
謀略に長けた兄を持ってしまうと
92 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 20:54:40.71 ID:d651/HJ0
信繁には、本当に兄貴に取って代わるつもりは無かったのか聞きたいw
93 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 09:40:43.28 ID:fiL1TWLm
信繁「兄貴に取って代わって家訓を199条まで伸ばしたいなー」
94 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 23:54:29.03 ID:q6xkh75J
相国寺善光院の宣長老は大徳寺の僧・董甫の弟にして藤原惺窩の伯父である。
当時、五岳第一の学者であった。
宣はかつて「舜首座(惺窩)に逢っては物が言えぬ」と言った。
そのまま、やりこめられてしまうからである。
当時の人に宣は勝れた人として知られていた。そんな人がこのように言ったから、
惺窩が傑出した人ということが初めて知られたのである。
――『老人雑話』
95 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 23:59:04.31 ID:q6xkh75J
>>94 申し訳ありません訂正します。
×相国寺善光院
○相国寺普光院
96 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 01:47:02.03 ID:1wp3YhB6
儒者は正義を前面に出してくるから口喧嘩ははげしく強い。
それが政治において実現されるのかは別だがw
97 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 01:54:36.50 ID:hcxVDQ0g
腐れ儒者を信長公とかDQN眼と戦わせてみたい
98 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。
ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。
・・・スレ違いでゴメン。
99 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか
成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる
百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた
江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた
円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した
木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない
100 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな
101 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな
102 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 20:12:48.37 ID:sewJ/kWG
朝鮮の役でのこと
漢南大将(李如松)は本唐・新羅の軍勢を合わせ20万騎を率いて、小西行長の要害を百重にも取り巻き
即座に攻め落とすと、その余勢を駆って小早川隆景の要害に攻め寄せた。
いわゆる文禄2年1月26日(1593年2月27日)の、碧蹄館の戦いである。
この大軍に、城に近づけては敗れると判断し、小早川隆景は2万5千、立花宗茂は5千、
宇喜多秀家1万の軍勢で討って出た。
この時、御検使である石田三成、増田長盛、大谷吉継は都合8千の軍勢を率いており、小早川隆景の
指揮下で先陣をした。立花宗茂はその下の備を担当し、この陣形で合戦は始まる。
異国の軍兵は弓鉄砲を隙間もなく撃ってきて入り乱れ、”ちぎり”という物を1万も2万も撃って回った。
これに当たったものは、たやすく起き上がることが出来なかった。
双方、太鼓や鐘を打ち鳴らし、鬨の声をつくりかけながら攻め合い、小早川の軍勢も立花の軍兵も、
息を限りに戦ったが、敵は大軍であり、新手を次々と入れ替えつつ戦うため、小早川・立花の軍勢は、
もはや人馬ともに疲れはてたように見えた、その時である
備前宰相(宇喜多秀家)の1万余騎が、一塊になってどうと突き懸る。
これに漢南勢は押し破られ、終に敗軍した。
この時討ち取られたもの3万あまり、ちぎり、刀槍を始めとして、鉄砲や石火矢までも捨てて
逃げ帰った。
異国の具足というものは、黒鉄を平たく伸ばし、金属の鎖で繋ぎ合わせたものを、ただ地の着物に
貼り付けただけのものであった。雑兵にいたっては黒鉄の平板を繋ぎ合わせたものを、そのまま着ていた。
大将や騎馬武者のものは、五色の漆で見事に塗り分けられていた。
兜も、ただ黒鉄を伸ばして、鍋の縁を反らせたような形にして、これをかぶっていた。
馬乗りは、獣の皮を股引のように拵えて、これを鞍にしっかりと括りつけ、乗る時はそれに、
太ももまで入れ込んでいた。
この中には、馬に乗らないときには兵糧も入れられ、
また草臥れて馬の上で寝る時、あるいは一斉に駈け出して山坂を自在に昇り降りをするときも、
馬から落ちるような危ないことは些かもなく、実に便利で利点の多いものであった。
これによって彼らは、馬上で弓鉄砲も自在に撃ちはなした。
(義殘後覺)
103 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな
104 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 22:02:51.17 ID:8PRpe9RV
105 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 22:18:35.15 ID:3mSfHB9G
秀家は甘い坊ちゃんと言われてるけど若い時から戦いぶりは見事なんだよな
良い家臣が揃っていたんだろうけど宇喜田騒動後の関が原でもきっちり戦っていたし
106 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 22:25:14.98 ID:7RO21V+k
半分程度の福島と良い勝負っぽいけどなぁ > 関ヶ原の宇喜多
107 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 22:30:59.89 ID:sewJ/kWG
>>104 調べてみたけどよく解らなかったです。すいません。
>>106 宇喜多騒動で家中がボロボロに成って、関ヶ原の時は慌てて雇った浪人衆が中心で、
組織としてかなり弱体化していたのは確かみたいね
108 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 23:16:24.43 ID:KfKIui8O
>>104 乳切棒サイズの振りずんばいみたいな物を想像した
109 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 23:58:27.68 ID:+v3PqY6p
フロイスの「日本史」に明軍の装甲に苦戦する日本軍の話があったが
異国の鎧は興味深いものだったんだろうか
110 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 00:16:10.19 ID:UVm6ppJ6
安積覚兵衛敵の傷兵を慰む
小笠原氏の兵に安積覚兵衛という者がいた。
関が原の戦いにて敵の首級を五つまでも斬り取り帰ろうとしたとき、
道で敵兵が弾丸に当り痛み苦しんでいる所を見た。
覚兵衛は大いに哀れみの心を起こし、懐中より用意の薬を取り出してこの敵に与えた。
敵兵は涙を垂れて深くその徳を深く感謝したという。(武人百話)
111 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 00:18:33.88 ID:WUOOn8ck
手柄を立てた者の余裕だな
112 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 00:53:11.32 ID:UVm6ppJ6
不覚にも二回深くしてしまったorz
まとめのときは後半の深くを消して下さい。申し訳ないです。
113 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 08:37:13.55 ID:VLYuLecK
>>112 >不覚にも二回深くしてしまった
【審議中】
114 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 10:14:30.56 ID:jpOzawHf
敵兵にあげた薬ってやっぱ馬糞なのかな
115 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 14:40:59.52 ID:aP/+VbRj
宇喜多備前中納言八郎秀家、日本軍の危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!
/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::',
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
'、 `'ー‐''" / lzュ、__
---‐ヽ -' / 〃ィ ヾ'‐,--
/ | |iゝr;ァ--‐''" 〃/./ l |
./ | | ',ヾ゙ / / / / l
116 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 17:56:16.43 ID:tsTNVN3D
>>110 安積覚兵衛って徳川光圀の部下じゃあなかったっけ?
117 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 20:04:32.46 ID:HIWjC6t1
渥美格之進だったかな
118 :
人間七七四年:2013/04/24(水) 20:05:47.99 ID:l8zmPzHF
助さん格さんの格さんのモデルか
119 :
人間七七四年:2013/04/25(木) 01:02:54.87 ID:2K+/FzGx
さすがに逸話のほうは別人でしょ?
モデルのほうは江戸中期の人らしいし
祖父か曾祖父あたり?
120 :
人間七七四年:2013/04/25(木) 01:09:51.62 ID:sGsayooU
たぶん祖父だとまとめのコメントにもあった
121 :
人間七七四年:2013/04/25(木) 09:48:52.95 ID:cv448O93
兵庫のじいの爺さんが鮭様だっけ?
122 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 02:32:17.22 ID:tctn1ZL0
>>121 鮭様の息子のうちなんだかんだで長生きできたのは山野辺義忠だけで、
水戸黄門の設定に一番近いっぽい水戸藩家老山野辺家の当主がその息子の義堅
それでも計算は合わないんだけど、その次の代だともっと計算が合わない
123 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 08:38:38.83 ID:tevBDvFt
いつぞやHRって動画の企画があったけど
そのなかで、山野辺さまは当主になる前の黄門さまに、自身の体験を引き合いにして歴史を綴るものの心得を喚起しながらも藩の金を無駄にするんじゃねえと釘をさしてたなあ
124 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 16:21:44.73 ID:6ELO8pjd
日置弾正正次は大和の人。弓術を好み、また非常にすぐれていた。わが国弓術中興の始祖である。
大昔から弓術をもって名を顕す者は多いといえども、その強弱、審固、持満は詳らかではない。
しかし、正次は一人その微妙を得ている。古今に傑出しているというべきだ。
正次は諸国に遊び、後に紀州高野山に赴き、剃髪して瑠璃光坊威徳と号した。五十九歳で没す。
(武家小伝)
内野合戦の時、日置の矢先にとどまる物はなかった。矢種が尽きてしまうと日置は土居陰に隠れた。
そこを敵が襲ってきたので、日置はふと出でて弦打ちして「えい」と言った。
すると、敵はその声を聞いて逃げ散ってしまった。
(関六蔵伝書)
――『日本史伝文選』
125 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 16:46:37.63 ID:lk5iIdeN
後の「不射の射」である
126 :
1/2:2013/04/26(金) 20:05:43.28 ID:8ddZDRGH
その頃秀吉公の御治世となり、高野山には秀吉より、御礼に上がるようにとの遣いが送られた。
これに高野山八谷は会合して詮議をした。何故なら秀吉の主君(信長)は高野山の大敵であったので、
今になって騙し寄せて、流刑や死罪を科すのではないかと強い疑いが有ったためである。
高野山ではそこかしこで集まっては、毎日この件を論じたが、自分が行く、という僧は一人も
いなかった。しかしこのまま遅参をしては、直以って不審を被る事になる。どうすべきかと
悩んでいた所に、とある僧がここんな事を言い出した
「私が思うに、近頃高野に上がってきた木食(木食応其)という者がいるが、これを頼んではどうだろう?
彼はよろずの事に学才があり、考え深い者なので、公儀に送っても間違いはしないでしょう。」
これを聞き、僧たちは皆、それが最も良いと考え早速木食を召し寄せた。
ところでこの木食は、近江北部の武士であったが、戦乱により一所懸命の地を離れることになって
世を恨み、それならば高野山に上り木食(木の実や草だけを食べて修行すること)を成して、
往生の素懐を解くべきと思い定め、峠の川で御山の方を伏し拝み
『我、故郷を去って大師を頼み、高野山に上る以上、今後再びこの川を渡らぬ!』
と大願を立てて高野に上ったのである。
かくして柴の庵を結び、木の実を食して経を読み念仏し、また徒然には歌を読み、趣味に
連歌などして光陰を送るほどに、高野の各寺院の僧たちも彼を寺に呼んで、茶を轢かせたり
掃除をさせるなどさて、ここそこで「木食、木食」と召し使っていた。
さて、衆徒会合の桟敷に罷り出て、沓脱ぎのあたりに畏まった木食は「何の御用でしょうか?」と
申し上げると、高野山の長吏が代表して
「ただいま汝を呼び出したのは他でもない、御辺も聞き及んでいるだろうが、殿下様(秀吉)より
高野の老僧に急ぎ御礼に参るようにとの御諚使を下された。ではあるが我らは山僧なので
公儀の儀礼作法など知らない。
一方汝は年頃も丁度良く、また才覚のある人物なので、高野山の代僧となって殿下のもとに
行って頂きたいのだ。これをやり遂げればその後、その方の望みは何であっても叶えて取らすぞ?」
木食承って「皆様がこのようにお頼みになっている以上、拒みがたい事ではありますが、私は
この山に登ろうと決心した時、峠の川において大師に、この度この川を、今生渡るまじきと申し
誓いを立てたのです。ですので当山を降りる事は出来ません。」
僧たちはこれを聞いて「その義は安心してほしい。高野の一山が大師にお詫び申し上げる。
よって罪は些かも御辺に科されることはない。」
これに木食も「そこまで言われては、この上は仕方有りません。」と了承し。大阪へと
参ることと決まる。諸僧は大いに喜んだ。
127 :
2/2:2013/04/26(金) 20:06:18.05 ID:8ddZDRGH
さて、大阪では秀吉が、高野山からの御礼を待ちかねていた。
「お主は高野山の長吏であるか?」
「左様でございます。木食上人とは愚僧のことでございます。」
木食の事を聞いた秀吉は、彼が木食の修行をしている事を大変殊勝に思い、たいへん機嫌も良く、
そのまま逗留させ高野山の様子を丹念にお尋ねになった。木食は元より文才深厚の人物なので、
秀吉はすっかり彼に魅了され、ついには
「今後は木食上人に高野山の支配を任せ置く!もし異議に及ぶ僧などがあった場合は、
上人の心次第にいかようにも計らいをなされて、無事に治めてほしい。
弘法大師の仕置のごとく、仏法勤行を昔に返し、経学を業とすべし!
甲冑や武具など出家の身に必要ない。早急に点検して没収すべきである!」
この命を受けて木食は大阪を離れることとなった。その際様々な禄を給わったという。
かくして木食上人は大阪より輿に乗り、秀吉より付けられた50人の足軽に守られ高野の麓の
木ノ芽峠まで来るとここで一宿して高野山へと使者を立てた。
『一山、老僧を始めとして一人残らず出迎えに来るように。』
これを見た高野の僧たちは大いに驚き、
「これは一体何事か!?かかる慮外千万の使いを木食はどうして寄越したのだ!?」
と憤慨し評議したが、一方で
「いやいやそのように考えてはならない。殿下様からいかなる事を仰せ付けられたのか測り難いではないか。
まずは言われた通りに行って見るべきであろう。」
この意見に皆もそう思い、老若の僧たち揃って木ノ芽峠に集まった。
そこで木食は座上に座り、彼らに申し渡す
「いかに高野の法師たちよ!今後一山をこの木食が仕置いたす事となった!
仔細は後で山で聴かせるであろう。
僧侶たちよ!この木食の乗っている輿を担いで、私を山に上げよ!」
木食の前後には6,70人の侍があり、僧たちが反抗的な態度をとるのを厳しく制したため、
僧たちは異議に及ばず、各々輿を担いで山へと上ったそうである。
木食はこうして一山の長吏となり、新たに制法を定めた。これにより山も治まり、
つつがなく目出度いことである。
(義殘後覺)
木食上人が高野山の長吏となった経緯である。
128 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 21:36:07.25 ID:EC1KSH/h
清僧が豹変してしまった悪い話に見えなくも無い
でもこの人が居なかったら高野山の復興は相当遅れただろうしなあ
129 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 21:44:12.69 ID:EHn1Pe3t
>>124 >>125 源義家成分(要素?)もけっこうな濃度で入ってる気がする
もっとも、日置さんが退治したやつはモノノケじゃなくて生身の人間なんですねい
130 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 01:33:03.76 ID:E5ujqAhY
日置弾正=吉田重賢説って信憑性あるんかね
131 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 12:01:35.57 ID:JoVQ+hvd
常朝さん、出家の後に武士時代を語る
なんの取り柄もない私だから、
目立った奉公もせず、戦場の働きにも出会えなかったが、
若い頃からひたすら一心に、
「殿の一番の家来は自分である。
武士の道では誰にも負けない」
と、骨の髄まで思い込むようにしていたからか、
どれほど知識ある人も、また武勇ある人も、
私を見下すようなことは出来なかった。
それどころか、人々が親切にしてくれてもったいないばかりであった。
自分はただ殿を大切に思い、何が起ころうと、
そのときには直茂さまより伝わる、
死狂いの働きを我一人がするのみぞと、
その覚悟を決めていただけのことであった。
これまで口にしなかった事を今だから言うが、
一念が神仏に通じたとでも言えばいいのだろうか、
不思議と私の覚悟を世間も認めてくれたものである。
(1/2)
132 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 12:31:21.93 ID:JoVQ+hvd
そして、殿の家族をはじめ、
御一統の方々の親切に心から感謝の意を表すばかりである。
主君に身命を捨ててお仕えすることは、
お家代々に仕えてきた武士の場合は、
奉公に出るのか、出ないのかは別にして、
なにか御用を勤める場合には、
格別の心がまえを持つべきであろう。
録高を増していただいたり、
金銀をたくさんいただいたり、
それらもとてもありがたい事だが、
切腹するほどの志は、主君のありがたい御一言から起こるものだった。
江戸で火事場の部署を決めるときに、
私を御書物の係にするよう申し上げられたところ、
「若者の事であるから、私の直参として召し抱えよう」
と仰せられたときは、すぐにも身命を差し上げる気持ちになった。
また、殿の使われた夜着とお布団をいただいた時にも、
「私が独断で召し抱えた者に録高を増すのも憚るから、
気持ちだけのことをお前にしたまでだ。
家老たちに礼を言う必要はない」
と仰せられた。
このときも、追腹の法度が出る以前なら、
このお布団を敷き、夜着をかぶって、
殿の後を追うほどの御恩だと、
格好をつけず自然とありがたく思ったものである【葉隠】
(2/2)
133 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 14:06:44.92 ID:Zm2+Zaus
>これまで口にしなかった事を今だから言うが
葉隠れでは何度もこんなことを語ってるけど本当に黙っていたのだろうかといつも気になる
134 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 14:15:24.22 ID:JoVQ+hvd
>>133 黙っていたのは本当だと思うよ。
田代陣基が、山本常朝の出家した後の籠り山を訪ねなければ、
葉隠は世に出ていないだろうから
135 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 14:46:40.56 ID:ESSa2gdl
しかも燃やせ燃やせって言ってるのに残ったもんだからなあ
常朝さん的にはあの世でフェイスファイヤーもんだろう
136 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 14:58:35.87 ID:N+FLUHz7
人に見せるなよ。門外不出だよ?と言いつつ、
どう見ても他向けに書いた彦左衛門さんに何か
137 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 15:01:20.23 ID:JoVQ+hvd
>>135 いろいろ藩内のこと言ってるからねw
それでも常朝さんの遺言通り、葉隠の原本は世に残っていない。
現在まで続いたのは写本が何種類かあったお陰様
138 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 00:04:31.89 ID:zc7Bpf76
日記というものは死後に公開されることを狙って、
他人の悪口を書き連ねるもの。
139 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 03:06:49.33 ID:RAYSwZPo
藤堂高虎「男の値打ち」
二代将軍秀忠のころ。
秀忠に従って上洛した藤堂高虎は、
月代を剃ろうにもあいにくその心得のある者を同行していなかった。
(もっとも、藩邸にあってもお抱えの月代剃りなといなかったようだが)
そこで「一銭剃り」なる町の髪結い職を招いたところ、
これがまたはるかに上手で心地良かった。
高虎が
「なかなかの腕前。十三石で召抱えよう。」
と言うほどであった。
ところがこの髪結い職、
「仰せはありがたいのですが・・。
うちには妻子と老いた母がおりまして、十三石ではとてもとても。
十五石五人扶持なら御奉公いたしますが?」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「十五石五人扶持といえば、平侍一人の禄と同じ。
それを剃工一人に与えるなどとんでもない。
この話、なかったことに。」と言った。
同じ日。高虎は家臣から、
福島浪人久留島和彦左衛門が会阪街でわび住まいしていることを聞く。
「これは捨て置けぬ。一万石で召抱えよう。」
と、さっそく使いを出した。
ところが、この久留島、
「仰せはありがたいのですが・・。
旧主、福島左門太夫が和泉殿と不仲であるのは周知の事実。
扶持米欲しさに元の主人の仇に仕えるなど、できませぬ。
よろしくお断り申し上げる。」
と言う。
高虎はこれを聞いて、
「さすがは豪傑!よくぞ申した。さても惜しいことよ。」と言ったという。
ほどなくして、久留島は紀伊国に召抱えられることになった。
俸禄は1万石。
久留島は、
「これはまったく人を見定める力の賜物である」と
書状をもって、高虎に謝意を表したという。
「開国遺事」
140 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 03:15:24.02 ID:RAYSwZPo
>>139 ミス多発。すみません。
和彦左衛門× 彦左衛門○ 左門太夫× 左衛門太夫○
141 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 09:33:11.02 ID:26vnujXI
一銭剃りの髪結いは13石以上儲かってたってことかな
142 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 10:19:11.39 ID:JO9xexL+
月代を剃る時って無防備な状態で相手は刃物持ってるんだから
大名クラスだと信頼できる近習にやらせるものだと思ってた
まあ高虎さんの近習は衆道大流行の集団だったらしいから別の意味で危険だったかもしれないが
143 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 11:46:24.67 ID:RHQDyuxn
>>141 召し抱えになると出費も増えそうな気がする
付き合いも増えそうだし
144 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 14:48:24.79 ID:7HUDBhEw
秋田俊季とタバコ
「秋之夜之夢噺」(個人蔵)という史料には、三春藩秋田氏歴代藩主のエピソードが記されています。
真偽とりまぜたエピソードの中に、初代俊季について、次の話が載せられています。
俊季はタバコが好きだったようです。3月か4月のころ、タバコの火消しを持ってくるよう声をかけたところ、
誰もやってこなかったそうです。俊季は、御殿を歩き回って家来を探しましたが誰もいません。
それもそのはず、家来達は、春の陽気に誘われ、三春城三階櫓の辺りで駆けくらべをやっていたのです。
家来達の遊びが終わった後、俊季は咎めることもせず、何の話もしなかったそうです。
俊季のタバコ好きはすさまじく、狩りに出かけた時は、馬の口取りをする中間のキセルを使ってタバコを吸ったそうです。
(記述者 個人名)
秋田俊季とタバコ|Web資料館|三春町歴史民俗資料館(生涯学習課) より引用
出羽より常陸宍戸、後に三春に移封した秋田俊季。俊季は、三春藩主になってわずか3年半、
ほとんど三春に住むことなく、慶安2(1649)年正月3日、52歳で死去しました。との記述もあります。
移封の顛末は 過去レスで 秋田実季と嫡男・俊季
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1136.html 三春は江戸時代から葉タバコの名産地だそうです。俊季が地元の煙草を吸っていたかどうかは
定かではありませんが、草葉(葉タバコ?)の陰から末永く三春の地を見守っていることでしょうね
145 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 17:38:30.55 ID:9iZ4bBa4
>>144 春めいた、のどかでいい話ですね
今はタバコ受難の時代だけどw
146 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 00:37:22.45 ID:llpKtHqJ
タバコの火消し程度で怒るのもバカバカしいと思ったんだろうか
でもタバコが狂おしいほど好きならそうは思わないよな
147 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 01:29:46.44 ID:jqvMRw0N
そこは殿様の度量じゃないかな
せっかくみんなが楽しく遊んでるのに水を差しても可哀想だと思ったのではなかろうか
148 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 01:59:13.26 ID:ADp+5ffo
誰も殿様に気付かなかったにも関わらず火消し所望してた記述は残ってるって…
それはさておきDQN眼竜も愛煙家だったっけ
149 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 06:30:46.22 ID:BjfKzb7M
愛煙家エピが残ってるのは宗矩
150 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 12:14:18.03 ID:u8LRxcpm
>>144 狩りには自分のキセル持っていかなかったのね
151 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 12:57:07.98 ID:RWWE4Uuz
豊臣秀吉の死後、対立していた徳川家康と前田利家が急遽和睦したのは、以下の様な切っ掛けが有った。
両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥後守利長についてこの様に語った
「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥後守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」
そのように将来を見通し、
「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」
このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。
この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)
細川忠興、前田利家を説得する、というお話
152 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 13:04:43.06 ID:GIZpt2zd
対立はしてても家康なら奉行と違って勝者になった後も追い倒したりしないと信頼してたってことか
153 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 13:11:06.96 ID:RWWE4Uuz
あ、間違えていました。2行目と4行目、 ×肥後守 ○肥前守 です。申し訳ありません
154 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 16:12:40.42 ID:MYQo4QZ8
徳川家康が駿河の城にいた時、江戸より浄土宗の和尚が来て、在府中しばしば夜話に上った。
ある夜、仏道の話題になって和尚が「仏法は元来釈迦如来の法ですが、八宗・十宗と分かれ、
その宗旨ごとに、それぞれの教え方、勤め様があります。
しかし、元来は一の法なので、諸宗を信仰し、あれもこれも学ぶことを雑学・雑門と申します。
どの宗においてもよろしからぬ事でありまして、ましてや念仏宗はたいそう嫌っています」
と申し上げた。
それを聞いて家康は「それは当然だな。万の筋道を学び、諸芸を努めているようでは、
一筋に思い入って修行することが難しいのも道理である。
しかしながら、後世を願う有り様には大と小では心の違いがある。
つまり、我が身を助けたいためばかりに後世を願う者は、何れにしてもその身に
思い入る宗旨を一向に頼み入っていれば、他宗を構わなくとも埒が明く。
だが、天下国家を統治する者にとっては、自分一人が成仏する分別では義理が違う。
願わくは、天下の諸民をことごとく成仏させようと思う願いを立てなくては叶わない事だ。
宗旨には八宗・十宗があって一様ではない。それでも、諸宗とも手抜かりなく立て置き、
諸々の衆生を遍く導かす。これを天下を有つ者の願い様というのだ」と言った。
これを聞いて和尚は「誠に御尤もの事です」と感銘を受けた。
――『責而者草』
155 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 17:14:58.18 ID:d4YkiolL
大と小って、大乗と小乗のことか?
156 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 17:40:08.52 ID:RWWE4Uuz
>>155 個人として後世を願う範囲のことを言ってるんでしょ。>大小
普通の人なら個人の救済を願えばいいけど、天下人の立場だと自分個人より天下の人々全てに対する
救済を願わなければならない、という。
157 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 21:37:18.27 ID:oyb4lvdo
>>146 そういう問題よりも、近習や小姓が一人も主君の声の届くところに居なかったっていうのは
本来はかなりの責任問題のような気がする
158 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 17:21:45.60 ID:WcLDP+Sq
石川善助と言う者は、かつて三十貫の知行で徳川家康に仕えていたが、徳川家を出奔し、
加賀において三百貫の知行を得ていた。おそらく一向宗であったのだろう。
ところが、三方ヶ原の合戦で家康が敗北したことを聞くと、三百貫を捨てて家康の元に帰参してきた。
家康も不思議に思い
「どうして帰ってきたのだ?」
と尋ねると、善助は
「三方ヶ原にて御負けになったと承り、御用に立とうと罷り帰って参りました!
聞いた所によると、上方の誰々とか言うような名の通った者達を、80人ばかり召抱えて出陣した所、
その者達は皆、逃げ出したそうでは有りませんか!
だいたい上方者などというのは、何れもそういう連中なのですぞ!」
つまりまあ、そんな連中を召抱えるくらい困っているのであれば、自分が帰った方が役に立つ。
と言いたいのであろう。
これを聞いた家康は
「お前が居なくても、私が事欠くようなことなど有るものか!」
と強がったが、影では喜んでいたそうである。
(汝が無きとて御事欠らるべきやと御意成候へども、影にては御よろこび被成候由)
(紀伊國物語)
ちょっとツンデレな家康と三河者のお話である。
159 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 23:32:34.23 ID:jVZGkdIB
徳川はツンデレばかりだな
160 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 11:05:29.74 ID:VzXwjVnU
敗将になったタイミングで帰参とか面倒くさいなぁ
161 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 14:16:35.37 ID:ZEPS/1lc
永禄八年(1565)
三河一向宗問題も落ち着き、
東三河の今川氏の吉田城を攻め落としたことで、
徳川氏悲願の三河統一を果たしたときのこと。
家康公は民政にあたらすために、
岡崎に三奉行をおくことにした。
その三人というのが、
高力清長、本多重次、天野康景。
この三人はそれぞれの気質から、
『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野』
とそれぞれに異名がついていたのである
162 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 15:05:54.48 ID:hDelicPc
「何方偏無し」か
163 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 22:14:44.51 ID:bwMuGTIT
前々から疑問だったんだけど、
天野康景の「どちへんなし」っていうのは、公正無私っていう解釈でおkなのかな?
>>158 帰参した善助さんがどれくらいの知行を貰ったのかが気になるw
「どっちつかず」とも取れる。
165 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 22:59:08.37 ID:u3rwnvl2
仏でも鬼でもない
つまり外面如菩薩内面如夜叉
166 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 16:30:16.37 ID:adGYcaG/
葵徳川三代で津川家康が女官縛り上げながら興奮し能を舞うw
167 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 18:18:59.52 ID:m+xnMj9D
佐々成政は八千の兵を率いて前田家の侍大将・奥村助右衛門永福が守る能登末森城を囲み、
成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。
末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。
しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。
そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。
その姿を見て永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。
――『責而者草』
168 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 19:07:01.68 ID:m+xnMj9D
>>167 申し訳ありません、ちょっと訂正します。 ×その姿を見て永福は ○これについて永福は
169 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 21:47:00.01 ID:xLl5yIBO
末森城では、鹿の養殖でもしていたのだろうか。
170 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 08:57:08.53 ID:ZVfYmyJK
以外に数がいるし増えやすいのが鹿なので山に入れば豊富にとれたのかも
171 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 11:37:56.35 ID:8SKGvBND
浪人になったからとうろたえるのはもってのほかだ。
勝茂さまの時代に仕えた人たちは、
「七度浪人しない者は本当の奉公人ではない」
(七度浪人せねば誠の奉公人にてなし)
「七転八起 七転八起」
と、口癖のように申していたとのことだ。
成富兵庫も七度浪人を言い渡されたという。
起き上がり小法師のように心掛けていればよい。
殿も、家臣のためを思い言い渡すこともあろう 【葉隠】
172 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 11:44:23.98 ID:gebgZCnY
起き上がり小法師ってそんな昔からメジャーだったんだ
173 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 17:07:29.49 ID:PjsXC9Kx
ある時、太閤秀吉が馬に乗って烏丸通を参内したところ、新在家の下女、四、五人が
赤前垂れを掛けて出て見物した。
秀吉は馬上より見て「只今、わしは内裏にて能を行うつもりだ。皆々見物においで」
と、声をかけた。
――『老人雑話』
174 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 17:47:43.83 ID:JTaylOhg
これって秀吉が自ら演じた禁裏での能の話かな
TERU様や権現様、三斎様達も一緒に演じたという
175 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 17:50:32.29 ID:FpbL+zkr
秀吉は禁裏でよく能を行なっているよね。作:秀吉 演出:秀吉 主演:秀吉、でw
176 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 17:58:14.34 ID:ZewW5fSu
作中の主役:秀吉
177 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 18:23:47.63 ID:m1oTDi/P
幽斎さんなら主演、脚本、演奏、照明、宣伝、キップのもぎりも出来ます
178 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 18:50:52.21 ID:fZHH2sSl
久しぶりのきれいな秀吉
179 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 19:17:04.04 ID:6do0mkWy
下女を美味しく頂いた悪い話な可能性も
180 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 19:50:28.66 ID:JTaylOhg
下女に興味を抱くのは権現様じゃないかという気もする
181 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 19:59:13.41 ID:bdi90EW+
殿下にはDQN四天王以上の強い補正が必要
今回は、下女の耳や鼻を削がなかったよい話
182 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 20:10:19.82 ID:Y+TY6lNd
>>177 門番「それはキップではなくそれがしの腕にございます!」
183 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 22:07:18.59 ID:055+2qbo
>>182 気にするな、腕の先にはキップもついておろう
184 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 00:41:03.70 ID:wsoNoVcB
この話、続きはないのか
まあ、続きがあったら何人かの首が飛んでいそうなので、ない方がいいんだけど
185 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 09:59:52.54 ID:uqsrtS/X
禁裏での能興行で首は飛ばないだろう
ただ秀吉を題材にした新作能はその後演じられなかったみたいだから評判よくなかったのかもね
186 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 11:26:16.45 ID:fmTYy2Wi
でも結構出来がいいよな
秀吉の能とか和歌って
187 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 12:31:17.38 ID:z1SzEs6S
和歌しか知らないけど、子供の頃からの知識や技巧の積み重ねがないだけで、センスはいいと思う
技巧にこってない分、現代人でも理解しやすい
188 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 12:45:26.47 ID:7wlvYMVy
徳川政権下だし演じられなくて当然
と思ったが明智光秀や秀吉や清正は能でもけっこういい役か
189 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 12:49:38.18 ID:Q8UBk4O3
秀吉の作った「明智討」「柴田」「北條」あたりは、露骨な自分の戦功を宣伝するためのプロパガンダだからなあ。
はっきり言えば秀吉が生きている間しか意味が無い。
190 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 12:54:55.89 ID:BkSiWucm
秀吉の新作能
「吉野詣」 :吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ内容
「高野参詣」 :母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える内容
「明智討」「柴田」「北條」 :それぞれの合戦における秀吉の戦功を称えたもの
これだけ露骨な自己宣伝ができるのが、よくも悪くも秀吉の強みだなw
191 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 13:29:18.87 ID:GBiO5QUA
>>190 自作を公言するんだから悪気はないだろw
本当に悪い統治者なら、石田三成が作ったことにする
192 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 14:06:11.14 ID:4SvqP0Kd
成り上がりのワンマン社長が自著配ったからって皆読むかって言うと・・・ってのと一緒で
出来のよしあしと別にお偉いさんの自慢話好き好んで上演したいかというと
193 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 17:05:28.29 ID:v8cyr6lz
下女が殺されなくてホッとした
194 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 00:34:38.52 ID:pZRMsUYR
良し悪しはともかく、秀吉がどういう人物かわかるよなw
195 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 01:19:22.83 ID:T+8jpSKj
故太閤殿下は自慢話ばっかで周囲もまた始まったかと聞き流してたby忠興
だからなぁ
フロイスも秀吉は必要以上に自分を大きく見せようとしていたと記してるし
天下人の演出なのか、素の性格なのか…後者な気もするがw
196 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 07:31:06.78 ID:UwuGLQuO
丹羽長秀、任官を断る
天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。
長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」
と達て申し上げたので、その望みに任された。
197 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 07:32:19.04 ID:UwuGLQuO
198 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 08:43:05.61 ID:br2kSEcp
199 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 09:43:17.03 ID:UwuGLQuO
>>198 判ってはいるけど、元本にそう書いてあったのでそのままにしといた。
200 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 10:10:09.55 ID:MqipYOaQ
丹羽丹羽丹羽丹羽長秀がいる
201 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 12:11:19.22 ID:rbk7QNbd
古の言葉にこうある。
兵は好ましくないことである、と。
間違いない。天もこれを憎む。
しかし、やむにやまれぬときこれを用いる。
これもまた天の道である。
これはどういうことかと言うならば、
弓矢、太刀、長刀、これを兵と言い、
これらは不吉で好ましくないと言うことだ。
それはなぜかと言えば、
天の道は万物を活かす道であるから、
殺すということは実に好ましくないことである。
だからこれは天の道に違うことであり憎むという。
然れども、やむにやまれず兵を用いて人を殺すことを、
これもまた天の道という。
その心は、と問われ答えるならば、
春には花が咲き、緑が溢れるものだが、
秋には霜が来て、葉は落ち、木はしぼむ。
これ、天の成敗なり。
天には完成(極点に至った)したものを、打つという道理がある。
人も運命のなかで仕方なく悪をなしてしまうこともある。
しかしその悪も極点にまで至れば、これを討つ。
ここをもって、兵法も天の道であるとわかる。
一人の悪によって万人が苦しむことがある。
して、一人の悪を殺して万人を活かす。
是のように、人を殺す刀は、人を活かす刀であるべきだろう
【柳生宗矩 兵法家伝書序文より】
202 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 13:52:55.00 ID:mcee2Ndv
>>196 別に任官しても五郎左衛門は改名しない限り一生五郎左衛門だろうに
ただそう呼ばれなくなるだけで
203 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 13:59:06.82 ID:VRfQYVs9
左衛門も官位だからね。自称だけど。
204 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 14:03:28.71 ID:rfW7RL6N
壱岐と呼ばれても応えなければそのうち呼び名は元に戻るだろうに
205 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 14:05:17.21 ID:VRfQYVs9
そうはいかんでしょ、余程の幼馴染でないと
206 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 16:39:12.55 ID:MdqkBZOe
官位を断る人って結構いるのかね?
ほかには鳥居元忠あたりが思い浮かぶけど
こっちは主君(家康)以外からはものはもらわん!という主張だったけど
207 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 16:47:18.72 ID:dnehOCSr
関白、太政大臣、征夷大将軍、どれにならはりますのん?
208 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 23:52:31.27 ID:XfzQvwLM
加藤嘉明は家臣に酒を与える時に、大小二つの盃を使った。
家臣に大杯の時には少量の酒を受け、小杯の時には満杯の酒を受ける者がいた。
嘉明はこれを見て「汝等は酒の受け方を誤解している。
大盃は一時にたくさん飲むためのものだから、十分に受けるものであり、
小盃は何度も少量を飲むためのものだから、軽く受けるものだ」と言った。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
209 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 10:25:10.37 ID:UThT27B9
余談だけど加藤嘉明って小男だったのかな?
松山城行ったら鎧があったけど、隣の松平定勝のやつより一回り小さかった
210 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 13:43:56.19 ID:+9nPv47o
豊臣秀吉公、天正・文禄の間数年、軍計を事として
あるいは叛臣を征し不逞の国を伐っするに武威をもって
あるいは忠功を賞し慈愛をもって降を許したまう。
これによって諸侯大夫は武命に帰し、初めて天下一統す。
(小松軍記)
小松軍記の出だしなんだけど、読んだ瞬間、目が点になったので紹介
211 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 14:10:22.76 ID:pCP2coqL
嘉明は猛将と言われているのに後世に残る逸話が細かく手堅いネタばかりで結構好き
212 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 18:37:55.09 ID:XmOH3kGB
そこがジミー扱いされる由縁かと
213 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 20:27:09.64 ID:k87/HpNS
小田原の陣や東北仕置が終わり、豊臣秀吉が畿内へと帰陣する時、
秀吉が伴の小姓衆14,5騎ばかりで宿泊する事があった。
井伊兵部少輔(直政)はこれを見て、徳川家康に進言した
「これぞ幸いの時分です!今押し寄せて秀吉を討ち取ってしまえば、天下を奪うこと
掌にあるようなものです!」
流石は隙あらば秀吉を殺したい病気の井伊直政である。しかしこれに家康は
「今回の秀吉の軍事行動自体、この家康を頼りにしての出馬であったのだ。
そうであるのに、飼い鳥の首を絞めるような、酷いことはせぬものだ。
武辺というものは、その身が産まれてからの努力で身に付けることが出来るが、
天下を知るためには自分自身ではどうにもならない、大きな幸運が必要だ。
だいたいお前の進めるような働きは、敵に怯えるあまり、却ってさらなる強敵を
呼び寄せるようなものである。
私のところに嫁いできた秀吉の妹は、3年前に死去した。
その上今度の敵であった北条氏直は、私の婿であった。
それにもかかわらず秀吉は私に心許した。そう言う人にむごい行為を
するべきではない。」
そういって、同心されなかったという。
(紀伊國物語)
214 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 20:43:24.51 ID:asfRCIOu
影武者徳川家康の回想シーンの元ネタはこれかな?
215 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 22:05:08.64 ID:xw7xX6oa
>>201 「兵法家伝書」の柳生宗矩の言葉だとこれと
「目的が正しければ謀(はかりごと)も真となる」みたいなのが好き
他の剣豪の言葉と(良くも悪くも)一線を画してる感じだけど
216 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 22:07:42.56 ID:T9McTrWu
影武者徳川家康じゃないが、
柳生が幕府の隠密あつかいされる理由がわかった気がする
217 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 11:44:46.31 ID:R4tdSUWV
宗りんは権の人じゃろ?
218 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 12:13:00.93 ID:97/v4Lob
家康公我に向かって発砲せる兵卒を許す
帯刀が喉が渇いたと言っているのに!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6770.html 大坂落城の日、上記の逸話の直後のお話
家康公は茶臼山へ登られたが、谷合から家康公めがけて鉄砲が
打ち込まれた。
お供の衆は大いに騒いだが小従人衆の三人がそこへ駆けつけ、
鉄砲を打ち込んだ者を見つけると、それは金笠をかぶった足軽
一人だったので、これを召し捕えて茶臼山へ引っ立てた。
本多上野介がその場に居合わせ、お前は誰の家来で只今鉄砲を
打ち出したのだと尋ねられると「私は本多上野介の足軽です。
上様とは存ぜず、敵と思い打ちかけました」と話すと上野介は
「言語道断不届きなる奴かな」と言い放つ。
家康公は小従人衆の方へ向かわれ「放してやれ放してやれ」と
仰せられたので足軽は追い放された。
上野介が「不届きな奴なので成敗しようと思っていた所、御意を
もって助けられ冥加に叶いたる奴です」と申し上げると、
家康公は「我らは本道ではなく脇道から来て、その上に持旗長柄等
も無かったのだから敵だと思うのも道理であり、足軽どもには罪は
ない」と仰せられた。
(近古武談)
219 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 12:17:39.48 ID:c1R9hiqg
ここで万が一銃弾に当たって家康が死んでたら正純も切腹かね?
220 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 12:33:58.42 ID:d39vHQ9f
>>217 柳生宗矩は創作だと「権」を強調されて「剣」はいまいち扱いされがちだけど
当時の評価は剣豪としてもぶっちぎりに高いよ
221 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 12:46:39.42 ID:Wm0auKVY
独眼竜政宗で白刃取りした時は子供ながらにえっ?ってなったが
222 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 13:10:00.33 ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る
広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。
正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。
広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。
広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。
このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。
知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。
(近古武談)
223 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 13:46:11.03 ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?
224 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 13:51:33.49 ID:GqUWQBhZ
225 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 14:46:59.92 ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで
226 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 15:17:29.21 ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう
227 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 15:38:53.99 ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。
史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。
228 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 20:54:39.02 ID:GQFIaNJS
加藤嘉明の重臣である藪与左衛門は故あって閉門に処された。
嘉明は密かに侍臣を遣わしてその状況を見てこさせた。
帰ってきた侍臣は大体の状況を述べた。
次に、来会していた人名を告げようとすると、嘉明はこれを制して曰く、
「その氏名を聞く必要はない。友人に善き者は、主人にもまた忠なる者だ」と言った。
来会した人々はこれを伝え聞いて嘉明の人徳雅量に感動し、
それ以来、大いに謹慎して、かつ忠勤を尽くしたということである。
――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』
229 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 21:06:41.88 ID:GQFIaNJS
>>228 何度もすいません、変換ミスがあったので訂正します。 ×人徳 ○仁徳
230 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 22:30:47.20 ID:qR8O890g
>>229 なんで投稿する前に確認しないの?
できないの?
する気がないの?
する能力がないの?
231 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 22:38:06.51 ID:gZ3yoD8a
>>230みたいなお客様意識だけは満開の人間にはなりたくないね
232 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 22:45:57.27 ID:UilRIF9g
233 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 23:59:24.49 ID:97/v4Lob
234 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 01:17:28.21 ID:Bw6eNhzJ
それで金とってるわけでもなし、誤字くらい気にすることか
235 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 06:32:57.24 ID:6mHml9+f
上杉謙信が武田信玄との合戦の時、謙信は自陣を超えて突出した。
ところが川向うの信玄の備を見て、戦うこと無く引き返した。
その信玄の備は、一の手が若武者によって、二の手が老巧の者達によって
作られ、川に向かっていた。
謙信が引き下がったのはこの備の構成が
「一の手の若武者を用いる時は、二の手の老巧の者達に恥を見せぬよう
一層尽力する。また二の手の老武者たちも、若者に劣ってはならぬと、
互いに競争して働くためである。」
との理由からであった。
(紀伊國物語)
236 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 08:30:45.58 ID:h9hVhWtf
つまり隙がなかったということか
237 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 10:36:56.26 ID:lwJghpaT
謙信「信玄? 強いよね、序盤中盤終盤隙がないと思うよ、だけど俺ぁ負けないよ、
兵だ…兵たちが躍動するオレの合戦を皆さんに見てもらいたいね」
238 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 12:50:30.50 ID:FivVzY7W
古代ローマ軍団も前から若手、中堅、ベテランの構成
239 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 13:14:04.61 ID:+d9AMszk
240 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 13:22:26.59 ID:+d9AMszk
デイリーポータルで塙団右衛門のご子孫の自宅拝見レポートを見つけた↓
『おじいちゃんちが国指定重要文化財』
団右衛門の子孫が製鉄で成功していたのも意外だったが…
まさか現当主のお孫さんがデイリーポータルのライターさんだったとはw
241 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 15:13:02.99 ID:9ORzefhI
>>230 みたいに誤字をあげつらう奴もいるけど、既出の指摘ももっと柔らかくしてほしい
242 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 20:48:31.21 ID:w60nnMZO
>>241 参照性上げるためのタグだと思って、まぁあんまキニスンナ
243 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 21:15:12.96 ID:lGmqy69l
戦国板ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
244 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 21:20:29.21 ID:R0QiUwUc
吉野家コピペなんて、何年前のネタだ
245 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 21:30:37.41 ID:+w/xDqSI
十年以上前だな
246 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 21:37:31.40 ID:EbLUFYri
戦国時代まで遡れないから、スレチだな
247 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 01:56:42.53 ID:040ewWhl
苗木城の戦い
遠山友忠は言った。
まとめサイト「美濃苗木城主、遠山友忠は悩んでいた。」
で森武蔵がキレているから、近々また来るだろう…
案の定、兵5000与騎にて攻め込んで着ると聞こえて来ました。
時は天正11年5月10日。
鬼武蔵は軍議にて5000与騎を二手に別けた。
「また狙撃されるの嫌だから、俺大手側な、見通しいいし。」
前回の狙撃に懲りた鬼武蔵は大手側(苗木城の正面木曽川対岸)に陣取る。
木曽川は広く、また遠山勢も皆殺しは勘弁とばかりに弓鉄砲、石や木を落とすなど必死に抵抗をするおかげで
ようやく川は渡れたものの苗木城に近づけず、麓に備えをたてて見上げるばかり。
搦め手側2500も遠山勢1200の弓鉄砲隊の防御を突破できず、次第に天候も悪くなり城内は霞がかかり、守備側優位のまま膠着します。
248 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 01:58:47.12 ID:040ewWhl
その頃苗木城
遠山友忠「鬼武蔵が来ても、さすがは我が城、なんともないぜ! そのうち謀りごとでなんとかなんべえ」
家臣「でも殿、遠山民部(明知遠山利景)の内通によりますと、秀吉が後詰めで攻めて来るそうですよ」
遠山友忠「あー、うちらには後詰めが無いなあ。しかも秀吉、これは… 」
遠山友忠「決めた!ここに至っては仕方がない。皆で城を枕に討ち死にして後代に名を残そう!」
家臣「」
家臣「いや、殿、時節を待ちましょう。そのうちいいこともあります。秀吉の後詰めのないうちに一あてして後退しましょう。」
遠山友忠「然もありなん。その意見採用。 どこに逃げるか… 三河の家康か、相模の北条か。 信長御一門と言うことで家康卿は襲ってこないだろうから、こっちにしよう。」
5月19日 女中老人を密かに逃し…
249 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 02:00:49.89 ID:040ewWhl
翌日…
出来るだけ華々しい戦果を、と言うことで
派手で有名な 遠山友政弟の勘兵衛(後の苗木藩家老)を指名します。
その日の装いは
萌葱威しの鎧に猩々緋の陣羽織。
重藤の弓と押張染め羽の矢筈を高く背負って、照る日に輝いて鞍掛にすくっと立ち上がり
十三束三伏の箭をつがい…
「亡き三位中将信忠卿が長島の合戦時、私の弓勢を御覧になり、おまえは強弓の者だなあと感嘆された形見はこれだ!」
と矢継ぎ早に雨あられのように射落とします。
さらに城内からは鬨の声を揚げつつ
「武蔵、汚い!森あげて捕らえ給う!!」と口々に悪口を言って挑発します。
一方鬼武蔵の方は…
内心どうあれ
「天晴れ、弓取って剛の者!」
と評しつつ、
「…とでもいうとおもったか?!」
とやっぱり 総攻撃を命じます。
怒濤の勢いで攻め上る森勢。 苗木城の南側の嶮岨を凌ぎ城の屏下に取り付きます。
250 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 02:02:59.16 ID:040ewWhl
遠山友忠「計画通り (AA略」
南側の石弓を切って放せば、寄せ手の上にドウと落ち、数千丈の谷底に落ち重なって死んだ。
寄せ手はこれで多く討たれた。
友忠「よし、いまのうちに逃げるぞ。 いや待て。まずは酒だ。 みんな飲むぞ!」
このとき討ち取った首級は859首。 遠山方の討ち死にはわずかに256人。
その後遠山友忠・友政親子は 大手の矢倉に火を放って、2000与騎を前後に従え、しずしずと東に退いていった。
このとき敵は一兵も見えなかったという。
で、鬼武蔵はどこに行ったのだろうか?
逸話を知るばかり、報復が恐ろしいのですが…
苗木遠山家に伝わる資料なので一方的な記述ですね。
――『苗木伝記 中』
長文 大変失礼しました。
251 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 08:28:18.41 ID:NtE3yEVo
もう少し読み手を意識して書いてみたらいいんじゃないかな?
書き手と読み手でかなり温度差を感じる文章とみた
金さんは明知の一族なんだっけ?
252 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 11:18:28.25 ID:GOfghqmf
どこぞの馬の骨だろ光秀
253 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:20:18.29 ID:zr8FVg9W
一番殺伐としてるのはどこの家中だろ?
254 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:22:13.64 ID:/+TgyIYB
那須氏とかどういう精神で仕えていいのかわからん
255 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:22:57.78 ID:/Lu1uE87
現当主 vs 前当主 vs 現当主の実父 の三竦みだった頃のあそこじゃね?
256 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:54:49.48 ID:5p63js68
那須は誰が主君で誰が味方かもよく分からないからな
俺だったら出奔するわ
257 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 15:32:21.53 ID:ZY8GgYgq
大田原三兄弟の言うとおりにしてれば大丈夫大丈夫
258 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 16:01:21.54 ID:In/u6lII
ただし伸びるのは大田原三兄弟
あっ、でも次男の福原は出し抜かれたんだったな
259 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 17:26:17.13 ID:KRXffVC8
それも弟の子にな。
260 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 19:29:40.85 ID:zr8FVg9W
きたないな大関、さすがきたないw
261 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 00:38:33.09 ID:kr3CJHLk
薩摩だと何時の時代も生きづらそう
262 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 16:38:22.90 ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。
ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った
「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。
であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。
であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。
私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。
今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。
先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」
この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)
小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である
263 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 18:23:47.73 ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?
264 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 20:01:59.32 ID:TM7RAPf5
籠城すると田畑は荒らされて、町も略奪と放火で荒廃するけど
しゃーないね(´・ω・`)
265 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 20:24:57.90 ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?
266 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 21:02:05.91 ID:uv7wSVWB
267 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 02:13:46.54 ID:2yuZXREe
つかあの足萎え殿を軍師と思ってるのはライトな歴史ファンくらいで
一般人はどこまで知ってるのやら、福岡や姫路除いたら黒田節の殿様とかかね
まあ間違いなく軍師黒田如水は広まるんだろうけど
268 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 03:04:04.04 ID:A5u6ut0s
軍師というか、尻に敷かれても嫁さんを大事にして、
戦と血が流れるのが嫌いだけど、戦国の世を終わらせる為に血を流す戦をし、その頭脳(原案、嫁さん)を持って策を立案、実行する……
そのギャップに苦悩し陰で涙を流す(やっぱり嫁さんに泣きつきケツを叩かれる)イケメンと思われるよ
269 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 09:05:51.72 ID:AfJuxrOu
>>262 氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・
270 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 09:34:12.78 ID:K2Mji3yO
271 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 10:17:54.02 ID:2nMyGQcb
一刻も早く平和を招来するため心を鬼にして同僚を殺害し一揆勢を根切りしに向かう冨田長繁
その心には押し殺した人間的な魂の慟哭が・・・・
無理だな
272 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 12:48:05.53 ID:GEMHQYuK
誰が主役でも「凡庸だけど嫁の手助けで愛と平和な世界を作る善人」になるから大丈夫
勿論有名な武将の逸話は全部嫁が考えた策で、悪いことは全部秀吉の責任になります
273 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 13:11:44.70 ID:Vye7mXnY
直家「つまりワシも・・・!」
274 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 13:38:35.47 ID:10Qu+YgU
1000人の死者を出さぬため奴一人を殺す、外道とみられても甘んじて受けよう、
という人道の武将宇喜多直家君爆誕の瞬間である
275 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 14:14:21.75 ID:tKj90qUw
戦国の世を終わらせるためなら娘すら省みない非情の人だよね
276 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 14:48:19.29 ID:zhidyYg3
最上義光、山賊の首魁を討つ
最上義光通称は二郎太郎、修理大夫義守の子である。
左近権少将に進み、出羽守を兼ねる。
義光の体格は衆に優れ五、六歳の頃には他の十二、三歳くらいに見えた。
年を長ずるに及び、力はあくまでも強く七、八人でも動かせなかった大石を
軽々と転がして見せたので人々は皆、舌を巻いて驚き「成長の暁には、どんな
勇将になられるのだろうか」と語り合い、深く望みを託した。
永禄四年四月、義光十六歳の時に父義守に従い高湯温泉へと出かけた。
当時この地方には一団の山賊が横行しており、諸方の富家に乱入して
財宝を掠奪しており、諸人は皆恐れ慄いていた。
四日の夜、その山賊の首魁は部下七十人余りを率いて高湯を襲い、火を
仮屋に放ってドッと鬨をあげた。
「賊が押し寄せたぞ」義守の従者は皆、太刀を取って出て防ぐ。
義守は事に慣れた勇将であり、じきに小具足に身を固めて指揮をとった。
義光もまた太刀を取って躍り出たところ、大きな男がしきりに部下に
激を飛ばしていた。義光は「さては奴こそ首魁だろう、討ち取ってやろう」
と考え、疾風の如く駆け寄って真っ向から真っ二つに切り割った。
その早業は目にも留まらぬものであった、
それを見た一人の賊が槍をひねって突いてかかったが、義光はサッと刀を
振るい肩から乳の下まで斬り下げた。
こうしている間にも従者たちは各々奮って戦い、あちらこちらに敵を追い詰め
或いは殺し、或いは傷つけた。残った賊はおおいに恐れおののき、先を争って
逃げて行った。
義守は義光を召して、「汝は幼きといえど、よき我が教えを守って武芸に熟達した。
今日の難において賊の首魁を倒したのはこのうえもない手柄である。
この太刀は我が初陣の時に楢下口で高名したときに父より賜った重代の宝だ。
これを今日の褒美に与えよう」と告げ、手ずから篠切貞宗の刀を授けた。
義光はこの太刀を受け取って感涙にむせんだ。
義光のこの日の奮闘は鏡宿における源義経の勇武に劣らず、
青年の鋭気は今なお古のごとし
(青年美談)
めずらしく親子の仲が良い話
277 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 16:06:08.20 ID:w5b7iIIp
まだ志村さんはいないんだな
278 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 21:04:29.35 ID:EVX2OC1n
朝鮮役において、加藤清正は朝鮮の国境を越え兀良哈(オランカイ)に侵入。
そこで攻め懸かって来た兀良哈人の大軍を何とか退けると、朝鮮側の”鬼ぜく”という地域まで
後退した。
清正の軍はこの”鬼ぜく”に五日間逗留して人馬の足を休めていたが、
ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
居るということを清正が聞き、これを捕えるために東へと進軍した。
”せるとうす”は歳の程54,5。身長6尺5寸(約2メートル)ばかりの大男で、
彼は日本人の軍勢が接近していると聞き、要害に大勢の軍兵を集め引きこもっていた。
しかし清正家臣の鵤(いかるが)平治という者が大将となり、能き人数2千に鉄砲百挺を添えて
遣わし、要害の後ろの山より攻め懸けて、難なくこの”せるとうす”の身柄を捕縛した。
この時、ここで後藤という通詞を一人生け捕った。
この後藤という人物は日本の松前(北海道松前町)より漁船で出港した所、風に流され、
”せいしう浦”に流れ着き、それから20年ばかりここに居住しているのだという。
彼は兀良哈語も、朝鮮語も、勿論日本語も自由に使う能き通詞であったため、加藤清正も大変重宝し、
彼に直々に、二郎と名を付け、後藤二郎と名乗らせた。
この”せいしう浦”から、天気の良い日は、富士山が殊の外近々と見ることが出来た。
ここから富士山は、未申の方角(南西)に見ることが出来た。
松前は富士山の真北に当たるそうである。
そして”せいしう浦”は昆布が大変多く、家の屋根すら昆布で葺いていた。
清正の軍は、最初は昆布だとは考えもしなかったが、後に昆布だと知り、そこで日本人は
家々の上葺を取って汁にして食べていたそうである。
(清正高麗陣覚書)
浦というからは、今のウラジオストクあたりだろうか?流石にそこから富士山は見えないだろうと思うが、
ともかく清正の異国における記録である。昆布の屋根…。
279 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 21:16:13.85 ID:8kKHaFUv
ウラジオストクは「東方を征服せよ」
とかいうロシア語だから、このころの現地の名称とは関係ないのでは
280 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 21:20:45.67 ID:EVX2OC1n
>>279 ああそうか、ややこしくてすいません。
浦=港、ということで、今のウラジオストク港あたりかなとw
281 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 21:38:52.10 ID:TqheAgPb
282 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 23:21:32.29 ID:tKj90qUw
海草と言ったら、きょんきょん師匠の海草列車を思い出す
283 :
人間七七四年:2013/05/14(火) 16:25:23.21 ID:zXnARiyL
慶長三年正月、蔚山に布陣する日本勢へ明軍数十万が攻め寄せてきた。
戦国叩き上げの日本勢であったが、
日頃古典で親しんでいる漢民族の大軍に、
皆、一言の発することも出来ず呆気にとられていた。
直茂さまが、
「とんでもない人数だ。あの分では何十万という単位であろう」
と仰せになると、中野神右衛門が、
「我らが日本国では、
数知れぬことを三歳牛の毛の数と申しますが、
これがつまり、その、三歳牛の毛の数ですな
ガハハハハハハw」
と冗談を言ったので、鍋島勢のみならず、
日本勢の人々は思わず笑いだして、
よい具合に落ち着き、力を取り戻したという。
このことは、勝茂さまが白石山で狩をなさったとき、
中野又兵衛政良にお話になって、
「おまえの親父のほかに、あのとき一言いえた者はなかったぞ」
と声をかけられたとのことだ 【葉隠】
284 :
人間七七四年:2013/05/14(火) 16:34:59.78 ID:zXnARiyL
ちなみにこの中野神右衛門清明という人は、
山本常朝の祖父にあたる人。
かなりの剛の者だったらしく、
筑後三池城攻め一番首、
肥後和仁城一番乗り、
筑後戸原城攻め一番乗り、
筑後江ノ浦城攻め一番乗り、
と武勇を記録に残している。
直茂公逝去時に追腹を願い出るも、
勝茂公に止められ断念。
光茂公逝去のときの山本常朝を考えると、
魂も受け継がれるのかと思うようなエピソード
285 :
人間七七四年:2013/05/14(火) 20:31:00.51 ID:HtG3D7C4
初陣の若者の目には、さぞ頼もしく映ったことだろうな
286 :
人間七七四年:2013/05/14(火) 20:37:11.44 ID:vRnyMHSf
その頃出羽国の住人に、白鳥十郎という者があり、谷地という場所に居住している武士であったが、
この十郎は日頃から、どうにかして最上義光を滅ぼし、最後には出羽一国の主となりたいとの
野望を持っていたが、ある時思い立って上方へと上り、織田信長に対し、大鷹一羽、馬一頭を捧げ、
「私こそ最上地域の主人であります」と、誠しやかに申し上げると、信長も遠国の事であるので、
最上の事情を全く知らなかったが故に、十郎の申すに任せ、懇ろに返事を与えたため、
十郎も大いに喜び、この返事を有難く頂戴し、これこそ弓箭の冥加のであると、急ぎ本国へと帰り、
「最早この上は、最上郡中において心にかかる輩を相従え、意義に及ぶ者達は一々に討ち取るべし。
特に山形の領主である最上義光を滅ぼして、思うままに世を治めるのだ!」
そう決意し朝夕に義光の動向を伺ったが、しかし隙を見出すことが出来なかった。
このような中、最上義光は白鳥十郎の今回の動きを知り、
「さても憎い者の振る舞いであろうか!私こそ内々に国中を平らげて速やかに世を治めんと、
心深く決意しているというのに、このような思いもよらぬことを聞くとは!
こうなっては時間をかけてはならない。急ぎ織田信長公に仔細を言上するのだ!」
そう言って志村九郎兵衛(後に伊豆守)を使者として、最上の系図、並びに白鷹一羽を持たせて
上方へと向かわせた。
この頃は諸国乱れていたため通路も自由にならず、越後を回って到着し、山本彦九郎という者の
家を宿舎として、信長のご機嫌を相伺った上で、件の趣を言上に及び、先の系図を提出した。
信長はこれを詳しくご覧になり、取次の山本彦九郎に対し、忝くも直々に質問をされた。
山本は大変名誉なことと思い、最上側の主張を残らず申し上げた所、信長も委細を聞き分けられ、
「ならば、出羽国の守護は最上義光である。」
と仰られ、義光に対し返書を書き、ここに『最上出羽守』と記され、さらに引き出物まで
下された。その上召し連れてきていた下々まで庭上に召し出され、ご褒美を下された。
このような厚遇に、使者の志村九郎兵衛は深く有難く思い、信長からの返書を申し受けると
急いで本国へと帰国した。
義光は志村九郎兵衛の帰国を聞くとすぐさま召し寄せ、信長との会見の終始の様子を一々
聞き届けられ、大いに喜び、その他御前に詰めていた人々も、本望これに過ぎずと大いに
喜悦した。
そしてこれにより、最上義光は白鳥十郎を謀殺する計略を進めるのである。
(最上出羽守義光物語)
最上義光の使者、信長に対面する、という逸話である
287 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 07:51:39.62 ID:PUAhtiC1
これを聞いて○○の□□というもの、我こそが出羽国のまことの主であると……
と続いていくと落語になりそうな
288 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 09:15:29.69 ID:RcCk4CuQ
ヒゲ殿と白鳥十郎どうして差がついたのか…
最上と南部、ノブとラスボスの違い
289 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 14:38:03.48 ID:T+SpSqWZ
中野一門の手明槍や足軽は、
御門番を勤めるときは内匠のもとへ挨拶し、
番明けにもまた挨拶に来た。
そうすると内匠は、
「御番の勤めは、つまらぬ仕事だという者もいるが、
目立たないからこそ大事な仕事なのだ。
御苦労だったな。まあ、飲んでいってくれ」
と言い、暑いときには冷酒を茶碗につぎ、
珍しい肴を出して労った。
そのとき、手足の爪の綺麗な者がいると、
「そのように手足を汚さずにいては、
平時も戦時も武家の仕事は出来ないぞ。
見かけも弱々しいが大丈夫か?
まあ、とりあえず飲め」
と注意をあたえた。
手足の荒れた者を見つけると、
「おお!頼もしい者だ。
男らしく働いてくれるならば、
平時も戦時もお役に立つであろう。
よし!飲んでくれ」
と褒めた。
内匠の家は、居間から通りを見渡せるように作り、
居間の横には蔵を設えてあり、
中野家を城にして戦が出来るようになっていた。
絶えず家内には酒樽が置いてあり、
中野一門の仕事をする者であれば、
身分問わず好き勝手に酒が飲めた。
内匠の息子の兵右衛門は年寄役を勤めていた。
お城から下がってくると、夜中でも挨拶に来た。
なので内匠も寝ずに待っていたという。
息子の話の中に殿中の話題がふと出ると、
「殿のお膝元で御奉公する者は、
たとえ親族にでも殿中のことを話さぬものだ」
と厳しく言い聞かせていたそうだ 【葉隠】
290 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 18:50:21.59 ID:sB46zRyn
本多三弥(正重)は隠れ無き武勇強直の士である。本多美濃守の家臣で、後に蒲生氏郷に属した。
蒲生殿が筑紫の岩石の城を攻めなさった時、氏郷が貝を吹かれたところ、三弥は、
「腰抜けの吹きは鳴らぬものぞ」言い、貝を引き奪って、音高く吹いた。
帰陣の後、氏郷はこれを恨みに思い、ある時、三弥が禁所で鳥を撃ったことを口実にして、
三弥の屋敷を取り囲んで誅しようとした。
ちょうどその時、都筑惣左衛門という東照宮(家康)麾下の武士が通り合わせて理由を尋ねた。
しかじかと答えると、都筑は大知音なので槍一本を持って三弥宅へ駆け入った。
そして、攻める者が氏郷に注進して「この者もともに討ち取りますか」と言ったところ、
氏郷が「何があっても、二人ともに逃がすのだぞ」と命じたので、ついに命をまっとうしたのである。
この都筑は、顔つきが生まれつき猿に似た人だった。今、麾下にその子孫がいる。
――『老人雑話』
291 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 21:47:30.50 ID:N/jQmoYI
長野業正は和歌や連歌が上手だった。
ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると笑いものにされると、この妻を親元に帰した。
妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」(万葉集の歌の言葉さえ無ければ、
このような別れはなかっただろうに的な)と和歌を1首残していった。
男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。
「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を になわばオウコ 中や耐えなん』
と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。それなのに下品な言葉を使ったとして
離縁したとあれば末代までの恥だ。早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」
そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。
『名将言行録』より
292 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 21:50:26.19 ID:HGl43v6v
293 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 22:53:11.86 ID:1GA0Oylg
百姓の出と言っても、いいとこのお嬢さんだったのかな
294 :
人間七七四年:2013/05/15(水) 23:43:22.62 ID:pXdybTPZ
金上盛備「メゴイと言ったら都の連中に嘲笑われましたが
古の歌にも使われている言葉です」
太田道灌「雨が降ってきたので蓑を借りに民家に立ち寄ったら
雨に濡れるよりも恥ずかしさで汗塗れでした」
295 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 08:21:47.42 ID:XGQ9uYst
>>290 この都筑惣左衛門は都築秀綱かな?
子孫は大身旗本と本多(忠勝)家付家老だね
296 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 14:37:54.97 ID:N7I0LoSI
297 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 20:24:12.92 ID:oOjh39ia
徳川家康公がある時、このような事を仰った
「人が優れた発言をした時に、それを発言した人の前では良くない発言であるかのように言って、
その発言を取って人前で、自分の考えた言葉のようにして語るものが有る。
こういう人間は、穢れた者と呼ぶべきである。
意味を突き詰め、実を研鑽する人と、席を同じくして論じてはならない。
例え、かねてから自分の心に思っていた道理であったとしても、それを人が言った以上、
それは発言した人の名誉なのである。
また主君はそれを名誉として認め、用いるようにすれば、その人の賢良は日々に進み、
善のみを行うであろう。」
(武野燭談)
298 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 21:43:37.16 ID:8bBTfSnQ
一豊の事ですね。分かります。
299 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 22:01:19.98 ID:I/km091e
22歳のアイデアを盗用する55歳ェ……
300 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 22:05:04.41 ID:VUgbty10
偉そうな事を言っておきながら、全く人を見る目がない権現さまの悪い話
301 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 22:09:20.04 ID:pYPgzhgo
302 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 22:16:36.05 ID:I/km091e
新井白石のだっけ?
303 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 10:17:35.37 ID:u3XJPXN6
後世作ったとしてもいつの世も人のアイディアとかパクろうとする奴は絶えんので仮託してみたってとこだろ
実際そういうのはどこにもいるしな
304 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 12:27:22.83 ID:YHjMJwaY
パクりと仮託はベクトルがまるっきり逆だが
305 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 13:54:00.33 ID:kROGa/BJ
柳生流と言えば無刀取り。
近頃は町人たちもその様に言う。
しかし無刀と言っても必ずしも、
相手の刀を素手にて奪う技ということではない。
こちらが刀を使えない時にでも、
他人に斬られないということこそが本意である。
相手は刀を持ち、こちらは素手だから、
相手の刀を奪ってやろうとするということではない。
相手が、素手の者に刀を奪われないぞとするところを、
そのままにし、刀をあえて奪わないのも無刀の技である。
刀をけして奪われはしないぞ!と意識する者は、
刀を奪われないことに意識が集中するゆえに、
人を斬ることに意識がいかなくなる、そういうものである。
柳生流は斬られないことをこそ勝ちと定義する。
素手で刀を取るなどは芸人の道理だ。
無刀取りとは、ただ自分が刀を使えないときに、
他人に斬られないようにする工夫のことである
【兵法家伝書】
306 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 14:54:10.96 ID:MD13DrHo
「あら?そうなの?じゃあちょっとあーた本物の無刀取り見せてくださる?」
307 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 16:10:10.97 ID:+AJA/1tj
>>304 パクリが多いので先人に仮託した教訓話を作ってみた、でなんかおかしいところあるか?
308 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 18:20:42.76 ID:rAUJwgWy
堀直寄殿は人を遣う事が巧みで、人を取り立て慈しむことは世に超えていた。
このために好士が多く、この人に奉公した侍は諸大名が好んだので、大半は立身した。
ある老人が昔直寄に奉公していたので、さる者がその仕方を質問した。老人によれば、
「特別に人の遣い方が変わっていた覚えはない。ただし、直寄は万事につけて従者に
言い勝つことをよしとせず、下の言うことを立てる事をもっぱら好まれていた。
これが世上の人と違うところでありましょうか」とのことであった。
そのような心得なので、従う者も智を増して励んだというのは、もっともである。
主人が強いて位を増し恐れさせる時に、下々がどうして奉公を励むことだろうか。
――『責而者草』
309 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 20:57:21.33 ID:Dj61ghSa
なんだか面倒くさい家臣を量産しそうでもあるが、そうはならなかったところが天下の名家老たる所以か
310 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 20:59:28.32 ID:Dj61ghSa
いかん直寄は名家老の直政の息子の方か・・・
311 :
人間七七四年:2013/05/18(土) 02:27:27.59 ID:cLZecNzm
無刀とは、よく間積もりを心得るためのものなり。
敵と我が身との間がどれ程あれば、敵の太刀が当たらぬか、を知ることなり。
当たらぬ間積もりをよく知れば、敵の打つ太刀は畏れるものではない。
我が身に当たる時は当たる分別の働きがあるものなり。
無刀とは、敵の太刀が我が身に当たらぬ距離では取る事が叶わぬものなり。
敵の太刀が我が身に当たる所において取るべきものなり。
斬られて取るべし。
無刀とは、当流における専一の秘事とすることなり。
身構え、太刀構え、場の位、遠近、動き、働き、つけ、かけ、表裏(かけひき)
これ等はことごとく無刀の間積もりからでるものなり。
ゆえにこれ、簡要の眼なり。
柳生宗矩【兵法家伝書】
312 :
人間七七四年:2013/05/18(土) 10:49:13.42 ID:5SL6Wh/g
313 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 13:23:17.00 ID:fs0Twc3e
光茂さまが十四歳でお作りになられた歌がこれだ
さむき夜に 裸になりて 寝たならば
明くる朝は 凍え死ぬべし
(冷える夜に、裸で寝たなら、
次の日の朝には、凍え死んでいるだろう)
これが始めて作られた歌だと言い伝えられている。
一説では、多久美作守から、
「唐の山辺も紅葉しにけり」
という歌をお聞きになられてから、
和歌に熱心になられたとも伝わる 【葉隠】
314 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 13:34:15.53 ID:fs0Twc3e
鍋島光茂は父の勝茂や家老からも、
和歌に没頭する癖を注意され続けたが、
努力を続け、後には細川幽斎に次ぐ、
日本史上、武家としては二人目の古今伝授者となった。
古今伝授の際に三条西家との交渉役となったのが、
誰あろう、山本常朝その人である
315 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 14:07:39.49 ID:FBpMFycF
東常縁「えっ」
316 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 19:24:31.27 ID:dnMQ90as
>さむき夜に 裸になりて 寝たならば 明くる朝は 凍え死ぬべし
才能無さ過ぎるだろ(´・ω・`)
317 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 20:05:56.66 ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
丹波の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。
この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。
こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。
その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。
藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!
しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。
敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。
こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。
そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。
それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)
それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。
318 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 20:15:55.29 ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな
319 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 20:27:15.63 ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ
320 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 20:34:18.06 ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw
321 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 21:37:43.93 ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな
322 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 23:24:02.73 ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。
323 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 09:24:45.58 ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・
324 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 10:18:21.69 ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ
「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。
325 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 18:29:41.87 ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて
326 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 05:05:25.83 ID:YXi0xOw8
近江国東浅井郡脇坂野の国人、脇坂安明の息子であった脇坂安治は、浅井長政、明智光秀と仕え、
永禄12年(1569)、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。この時脇坂安治、16歳であった。
翌元亀元年、秀吉は浅井の小谷城の押さえとして、横山の城に逗留していたが、摂津に一揆が勃発したとの
報告があり、近江から陸路、勢多を回り、京へと急行した。しかしこの時、児小姓や若者は長浜に
残し置くと秀吉は命じた。
17歳の安治も留守居とされたが、彼は秀吉に召し連れられないことを大変無念に思い、お供させて
頂けるよう訴え出ようと考えていた所、秀吉の御膳船を長浜から直に大津に回すと聞いて、密かに
その船に乗り込み、籠を担いでその中に隠れていると、船奉行たちは彼に気が付かず、船はその日のうちに
大津へと着いた。
安治は船から走り出て松本のあたりまで行くと、道の傍に伺候して、秀吉の馬が来るのを待った。
やがて来た秀吉は、馬上から脇坂安治に気がつくと大変に激怒した
「我が命に背いてこの様にここまで来たことは、以ての外の曲事である!」
平伏する安治に、
「…しかし、若輩でありながら志を持っていることに感じ入った。仕方がないので
今夜は側で召使うが、夜が明ければまた船で長浜に帰るのだ。」
そう命じた。
安治はこれに「畏まりました」と答えたが、その夜、大津を忍び出て京都に馳せ上り、
三条の橋の傍で夜を明かし、また道の傍に伺候して秀吉の御馬を待った。
ここまで来た秀吉は安治を見て
「我が命を重ねて聞かず、こんな所まで来るとは、重大なる曲事である!」と、やはり激怒したが、
「しかしそれほどまで、深き志を持っておるのだな」と感じ入り、それから乗り換え用の馬を
安治に貸し与え、お伴することを許したとのことである。
(脇坂家傳記)
327 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 07:26:48.64 ID:ZYdRhicC
ストーカーやん
328 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 10:12:45.59 ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw
329 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 21:15:13.11 ID:xP92OfjL
「あたし、やすはる。いま船の中にいるの…」
「あたし、やすはる。いま松本にいるの…」
「あたし、やすはる。いま京都にいるの…」
「あたし、やすはる。いま三条の橋の傍にいるの…」
「あたし、やすはる。いまあなたの後ろににいるの…」
330 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 22:32:42.03 ID:cmYmasHT
また出たと、秀吉びっくり、貂の皮
331 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 23:59:56.49 ID:SZccgyFS
そうか。マイ先祖はストーカーキャラだったのかorz
332 :
人間七七四年:2013/05/23(木) 00:08:11.44 ID:WeR9a0K7
脇坂家はすぐに堀田に変わったのでは
333 :
人間七七四年:2013/05/23(木) 13:25:12.28 ID:iR7EMgCU
>>326 ここにでる長浜って横山城近くにあったのかな?
まさか今のじゃないよね?
334 :
人間七七四年:2013/05/23(木) 20:50:01.23 ID:Mnno51pM
慶長五年六月、家康公が関東へ出陣したのち輝元並びに奉行衆が
逆心の沙汰に及んだ。
その頃、黒田如水は家康公の無二の味方であり豊前中津に在城し
九州の事をとりしきっていた。
祐兵は西軍に取り込まれていたが東軍に属していた証を残して
おきたかったので、如水の指図を得て届を出しておこうと考え
如水に使札を出した。
如水の返答は「祐兵が味方したいと考えても小身であり上方に
居ては思ったように働けないだろう。急ぎ帰国して敵に向かって
攻めかけてはどうか」と申しこされた。
しかし祐兵は病にかかっており、病状は日を追って悪化し風毒腫
となり病臥していた。(仮病ではなく同年10月11日に病死)
祐兵の帰国は困難であったから、留守居の家老へ申し遣わして
敵に攻めかけるようにしようと考え、検使を一人受け入れたい
との旨を稲津又次郎に申し含めて如水への使者に立てた。
如水翁は「検使を遣わすのは容易いことだが、父子ともに大坂に
いたままでは家康公のお味方と言っても、今後疑義を受けることも
あるだろう。父子三人は帰国しなさいとの旨を、急ぎ大坂に戻って
祐兵へ申し入れなさい」と仰せられた。
又次郎は「もっともなお話ですが、私は国許に戻り軍を調えて
御味方である事を表明しなさいと堅く祐兵から申しつけられて
おりますので、ただちに国許へ罷り戻りたいのです」と申し上げた。
如水は「伊東の家が続くように謀ることこそが大切だ。私の考えに
従って大坂へ帰りなさい」と強く仰せになった、
又次郎は「それならば検使を一人たまわり、それがしの手の者を
添えて日向へ下して関東お味方の由を知らせたい」と申し入れたので
如水は宮川伴左衛門尉と言う侍を検使に出された。
又次郎は喜んで手の者一人を差し添えて日向へと遣わし、自身は
大坂へ立ち戻り如水翁の仰せられた旨を祐兵に報告した。
そして嫡男である左京亮(伊東祐慶)が十二歳になられていたが、
これを日向へ下す事に決めた。
このとき落合九右衛門尉が「祐兵の病は日々悪化しているが、もし
御存命のうちに、この事が漏れれば奉行方より討手を向けられるだろう。
その時は御自害をお勧めし、私は老人なので死出三途のお供こそ相応しい。
あなたは若いので左京亮殿にお供してなにがなんでも日向へ降り、
本懐を遂げられよ」と又次郎に言った。
左京亮を又次郎の小姓であるかのように装わせ、輝元の船手衆が固めていた
番所も軍勢を呼びに国許へ帰るのですと披露して遁れ日向に戻った。
(日向記)
如水さんが伊東祐兵に適切なアドバイスを送る話。
335 :
人間七七四年:2013/05/23(木) 21:49:20.21 ID:Mnno51pM
当主祐兵の大病により、再三にわたる奉行方からの出陣催促を免れて
きた伊東家であったが、京極高次が大津城に立て籠もったことで再び
危機を迎えた。
毛利輝元、増田長盛らは大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、軍勢は少なく
立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。
この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので
祐兵は伊東与兵衛、平賀喜左衛門を呼び
「私は関東の味方をするが敵中にいる状態で拒めば逆心なりと討ち果た
されるのは必定だろう。一段の害を遁れる為にそなたらに弓鉄砲を添えて
大津へ遣わすが、まったく奉行の味方ではないので心せよ」
と言われた。
両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって「功を
立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない」と言い、平賀も「そうですな」と答えた。
伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて寺門に至り後生を菩薩に頼んで
大津へと赴いた。
伊東勢は立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。もとより討死と思い定めた
者どもであったから、立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も
心のうちを知ることも無く「伊東殿はよき侍をもっておられる」と言い、
たびたび褒美があった。
九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、真っ先に進んで
乗り入れようとしたところを城兵の槍七八本を突きたてられ、平賀も
続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。
そして濃州関ヶ原において九月十五日に家康公は勝利を得られ
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。
(日向記)
伊東祐兵、二士を捨て害を免れる事と題された話
336 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 00:12:19.07 ID:Ggzcewb1
慶長二十年閏六月、喜連川頼氏は上京して徳川家康に拝謁した。
頼氏が退出しようとする時、家康は御座から立ち上がり、頼氏は御送礼を受けた。
これは頼氏が室町将軍家の支族で鎌倉幕府の末裔なので、その筋目を重んじての事だった。
徳川秀忠の時代より後は御送礼の儀は停められたという。
――『徳川実紀(駿府政事録)』
337 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 00:14:23.48 ID:BhoaUw4r
338 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 00:28:13.66 ID:OzcH20ZZ
男系では小弓御所の末裔だし価値なし
339 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 00:34:14.85 ID:Bw6khoQu
一万石に満たないのに大名扱いだから
江戸時代通して価値あると見られてたんでは
340 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 01:00:28.64 ID:N9Zz2Cb5
足利将軍家最近親たる平島公方家の冷遇されっぷりを見ると
反徳川勢力の旗印として担ぐには不足だが利用価値はある血筋の微妙さが喜連川厚遇の理由かと
341 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 10:33:59.95 ID:9VBw2bEs
確かに平島家なんか厚遇したら「わしが征夷大将軍だ!」なんて
うっとうしい事を言い出しそうだな。
342 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 11:21:34.86 ID:+qovmhjL
>>341 それは冷遇しても言い出す可能性あるから名門の扱いは難しい。
そういう戦略や秩序維持の目的だけではなく、
名門への遠慮や敬意って部分もあるとは思うけど
343 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 13:34:50.65 ID:azAGZ2bs
蹴鞠の人はもはやそういうことはないけどこう頻繁に遊びに来られると別の意味でうっとうしい
344 :
人間七七四年:2013/05/24(金) 13:45:50.32 ID:Ju0ZH8Vp
うっとうしがられるほど遊びに行ってないと危険視されるかもと思って…たわけないか
345 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 08:10:35.46 ID:++3Iv3+U
伊東祐兵逝去と祐慶家督の事
豊後守祐兵の病はついに治らず、慶長五年十月十一日に
御年四十二歳にして大坂で逝去された。
しかし嫡男祐慶は未だ幼年であり日向に下って合戦を
仕掛けている最中でもあり祐兵逝去が露見すれば、
その威が軽くなり功も成り難いと考え、落合九右衛門、
山縣太郎右衛門、看病の者には山田紀伊介入道玄清など
わずか数名で秘密にし病中の真似をして、日向宮崎の
様子を聞き届けていた。
翌年春の終わり頃にご逝去の旨を披露して御葬礼を営んだ。
法名は報恩寺殿心関宗安大禅定門と申し、当家中興の明君
なれば、上下万民が嘆き悲しむこと事限りなかった。
高橋越中守は殉死しようと思い定めていたが、祐慶が幼年で
あるため、しばらく守り立て七回忌の際に殉死を遂げた。
嫡男左京亮祐慶は十三歳で家督を相続して、慶長六年四月八日
に上洛して家康公に謁見し、翌年四月十日に従五位下修理大夫
に任ぜられた。
(日向記)
激動の時期に若年の当主への相続を成し遂げた伊東家のお話
346 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 20:25:30.11 ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。
その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。
この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。
すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った
「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは
『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』
と言うことであった。」
そして忠興は
「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」
そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
(細川忠興軍功記)
347 :
人間七七四年:2013/05/26(日) 19:39:22.77 ID:5Oi8POlq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2048.html 検索したらすでにあったが俺が知ってる話ではちょっと細部が違っていてこんな感じだった
蒲生氏郷の家臣に西村という者がいた
この西村は戦の時に勇敢でいつも一番槍をつけるので人が褒め称えると
「俺を褒めるな。氏郷さまのように俺を理解してくれる人がいるから俺が安心して働けるんだ」
と言って逆に氏郷をもちあげていた
ある合戦の時に秀吉が「これからは一番槍を禁じる。みなで連携して戦をするように」
と命じていたが西村はそれを無視して一本槍をつけると秀吉が怒って氏郷に処分をさせるように命じた
氏郷は自分の為に勇敢に戦ってくれている西村を処分するのに忍びなかったが西村を解雇処分にした
西村は恨み事ひとつも言わずに黙って立ち去った
年日がすぎて西村を呼び戻し、氏郷が一緒に相撲を取ろうと誘うと再三、西村は氏郷を投げ倒した
近くの人が「再就職したいならわざと負けろ」と忠告したが構わず放り投げる
氏郷は「年月が経っているのにさすがに未だに体の衰えがないな」と言うと
西村は「私はつねに殿のことを考え、いつでもお役に立てるように用意しておりました」と言った
氏郷は西村が浪人生活の間に気力が衰えて媚を売るようなことがあれば再び自分の元には置かなかっただろう
こんな感じ
348 :
人間七七四年:2013/05/26(日) 20:50:30.38 ID:lFG5zsHQ
>>347 空気読めない悪い話にもなりかねないけど、
空気読む人間は所属する家の衰退も、
敏感に察知できるってことだから、
西村さんの一途タイプは戦乱期に頼もしいだろうな
349 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 01:08:55.28 ID:taYDyabt
350 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 01:21:37.78 ID:SSlHN4FS
蒲生氏郷の家臣に蒲生という者がいた。
この蒲生は戦の時に勇敢で功を挙げ、蒲生の姓と郷の字を賜った。
351 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 02:06:26.13 ID:lLItYNuO
どの量産型蒲生だよ
352 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 09:21:18.23 ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。
その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。
天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。
そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。
三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。
掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。
三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。
この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。
三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。
掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。
掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。
案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。
祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。
(日向記)
祐兵、秀吉公に仕える
353 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 09:38:31.50 ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話
伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。
しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。
(日向記)
三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る
354 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 12:50:56.35 ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ
355 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 13:52:37.96 ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか
356 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 14:43:19.82 ID:q4RGpC9u
>>355 たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。
357 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 16:37:58.12 ID:XFfsTUPl
去年の年末頃に蒲生家臣だった先祖の話を書きこんだ者です。
あの後いろいろ調べてみました。
実は松坂に遠い親戚と言うか昔から付き合いのある家があり、苗字も同じなので少々話を聞かせてもらってきました。
その家も元は氏郷公に仕えていてうちの親戚だそうですが会津移封以前に商人に転向したそうです。
江戸時代に交流はあまりなかったそうですが戊辰戦争終結直後、その松坂の親戚がこちらを心配して連絡を取ったことから交流が復活、太平洋戦争時には逆に松坂の親戚を疎開させたそうです。
これといった特別な話はありませんがせっかくなので少し。
蒲生家に仕える前の話ですが、所謂地侍であったそうです。
いつも特定の家に仕えている訳ではなくそのときによってころころ勢力を変えていたとか。
時にはあえて親兄弟が別れるというプチ真田家のようなこともしていたようです。
規模は全く違いますが割とよくある手段だったのかもしれません。
それからあまり戦国関係ありませんが曾祖父の訛りがやや変わっていました。
私の実家近辺は大河ドラマの会津弁をやや乱暴にした訛りなのですが、なんというか西の方のイントネーション寄りだったように思います。
偶然当時のビデオが残っていたので聞いてみたのですが、今聞いてみても会津弁とはどことなく違っているようです。
私自身、喋っているのは標準語寄りの会津弁のつもりなのですが地元の友達からはちょっと違うように聞こえるとのこと。
そういや工場長のお墓に毎年お参りに行ってたなーとか今考えると色々あったりします。
何か分かったらまた来るかもしれませんのでその時はよろしくお願いします。
358 :
人間七七四年:2013/05/28(火) 12:09:24.64 ID:NL44dUxg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原に敗れた石田治部少輔(三成)は伊吹山に退き隠れていた所を、
田中越前守(吉政)の家臣に捕らえられた。
小西摂津守(行長)、安国寺恵瓊も方々にて捕らえられ、3人共に洛中を引き回すということになった。
この時太夫殿(福島正則)はこの3人に小袖を2つ贈った。
正則の厚志に、中でも石田三成は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、着衣を着替え
正則の贈った小袖を着て洛中を引き回され、三条河原にて斬首された、とのことである。
(福島太夫殿御事)
359 :
人間七七四年:2013/05/28(火) 17:52:34.35 ID:TlJeSdSw
侍だな
360 :
人間七七四年:2013/05/28(火) 17:55:19.11 ID:NL44dUxg
>>358 あ、少し書き間違えましたすいません。4行目
×この3人に小袖を2つ贈った
○この3人に小袖を2つづつ贈った
361 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 10:05:45.23 ID:17RD7LED
この話既出じゃね?
362 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 10:15:02.35 ID:1Cbsdpkf
三成「家康、田中吉政、黒田長政、福島正則、みんなが服くれるの、でもこんなにたくさん着れないの」
363 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 10:19:31.52 ID:+uk4+4+v
お色直しタイムが必要だな
364 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 11:12:31.22 ID:GL+Xoqqs
引き回し中にお色直しとな
365 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 11:15:17.25 ID:gcBK2x6w
三成それ白無垢やない白装束や
366 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 12:34:35.54 ID:sFq67Zj3
続きまして、頸部入刀です
367 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 12:42:38.81 ID:OiSrvu48
三歳さまが手本を見せるようです
368 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 13:43:27.56 ID:GL+Xoqqs
三歳様は福知山城へおいでですので、他の方におまかせするしか
369 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 14:44:43.17 ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。
天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。
九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。
九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。
(日向記)
日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。
この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級?1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。
西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。
370 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 15:13:26.75 ID:GL+Xoqqs
>>369 文字化けすまぬ。絶対等級-1.8等でした。
371 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 21:07:45.85 ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。
372 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 01:09:56.82 ID:f0yYgYYI
>>358>>360 太夫殿ではなく越中守殿であれば初めの書き方で間違いないはずだ
「三将二桃」の故事があるからな
373 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 06:18:53.27 ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事
先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。
これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。
しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。
美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。
敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。
しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。
米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。
末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。
これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。
(日向記)
一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話
米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html
374 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 18:34:39.07 ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。
よって、元足軽であることは明らかである。
――『筑後国史 筑後将士軍談』
375 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 20:35:43.78 ID:CulmnOIK
私(山本常朝)が若いころ、
沢辺平左衛門の介錯をしたときの話だ。
中野数馬が私の介錯を褒める手紙を送ってきた。
それは、
「山本殿こそが中野一門の誉れである」
などと言う大げさな書面のものだった。
敵首ならまだしも、介錯くらいのことで、
ここまで褒めるとは、老人とは大げさなものだ。
と、その時は思っていたのだが、
しかし、その後、いろいろ経験して、
深くみるようになると、
それが、いかにも老練な人の行いだとわかるようになった。
若い者に対しては、ほんの少しでも武士らしい行いがあれば、
褒めて喜ばせ、勇往邁進するようしてやるためなのである。
中野将監からも、そのときすぐに褒める手紙が届いた。
二通の手紙は今でも保管してある。
山本五郎左衛門からは鞍と鐙が贈られてきた 【葉隠】
376 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 23:37:41.43 ID:h4aiswuR
これ葉隠全部書き写すまでやる気?
377 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 00:22:27.51 ID:1yvEeHXV
高虎の兜
藤堂高虎の唐冠形兜は、左右に5尺の脇立物を持つ。
プロペラともウサミミともいう。
大坂夏の陣開戦前夜、高虎はこの唐冠形兜を
甥の藤堂玄蕃良重にかぶせて言った。
「わしはこの兜をつけて、度々の合戦にも一度も遅れをとらなかったものだ。
これを譲ることができる若者はそなたしかいない。」
玄蕃は身に余る名誉に打ち震えた。
何とか優れた高名を表し高虎の恩に報いたいと、胸のうちを伝えた。
「某は今年二十三歳、大兵にして剛強。
三幅の大幟を指物にしたいところですが、
これに耐える馬がないのが残念でございます。」
しかし、気鋭の若武者のはやる血気は、裏目に出た。
功を逃さんと、木村重成の右翼隊に猛進した玄蕃は、
瀕死の深手を負ってしまう。
陣地に戻った玄蕃は、家臣に抱きかかえられて馬から降り、
小屋に担ぎ入れられた。
すると玄蕃はどういうわけか、手を挙げ、苦しい声で、
「羽根が、羽根が」
と言う。
高虎から拝領した兜の脇立物を、狭い小屋内で傷付けるのではないかと
思いやってのことだった。
死に際しても、主君への恩を重んじる心遣いに人々は涙した。
玄蕃のもとに駆けつけた高虎も
もはや舌がこわばり言葉も通じず、ただ高虎の顔を眺めるばかりの玄蕃に、
「玄蕃か、玄蕃か、」
と言うのが精一杯、あとは言葉にならなかったという。
高虎は後にこれを「手柄の討死」と称え、おおいに嘆いたという。
「元和先鋒禄」
378 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 00:30:26.46 ID:21x4znql
藤堂玄蕃というと、嶋左近の息子と一騎討して死んだ人を思い浮かべた
その息子の逸話か
379 :
376:2013/05/31(金) 00:35:01.12 ID:8iB07g/Y
質問の意図がよくわからないけど、
別にそんな予定はないですよ
380 :
375:2013/05/31(金) 00:41:55.46 ID:8iB07g/Y
381 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 00:42:44.04 ID:1yvEeHXV
>>378 そうです。
関ヶ原で討死した良政の息子が良重。
382 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 09:53:03.86 ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ
383 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 11:32:56.14 ID:8MdCU9V/
三斎「またキツネ憑きか」
384 :
人間七七四年:2013/06/01(土) 14:11:23.70 ID:99rel95H
小十郎「熱々の茶でござる」
385 :
人間七七四年:2013/06/02(日) 11:36:42.89 ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。
とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。
秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。
四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。
五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。
堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。
五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。
秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。
信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。
惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた
五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。
六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。
伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。
(日向記)
日向記に記された高松城水攻めの記録である。
関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。
386 :
人間七七四年:2013/06/02(日) 13:01:05.84 ID:/nnh54fQ
>>276 義光の逸話は無理に鮭という文字を入れないほうが読み易いし親しめるな
この頃は親子仲良いのか
387 :
人間七七四年:2013/06/02(日) 23:49:28.53 ID:8NTJDnCZ
時に天正二年、加藤嘉明は十二歳であった。同三年五月、秀吉が播州三木城を攻める時に当たり、
大雨がしきりに降ったので秀吉の戦袍が濡れてしまった。
日暮に本営へと帰った秀吉が戦袍を脱ぐと、嘉明は火を焚いてこれを乾かした。
これについて秀吉が「小坊は何をしておる」と問うと、嘉明は「君公が明日出軍される時に
用を為せるようにしようと思いました」と答えた。
秀吉は賛美して「幼年にして既にこの注意とは、後日には名将となることであろう」と言った。
――『鹿深遺芳録』
388 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 10:29:28.61 ID:PbcC++lL
ギギギ我が見せ場を取るとは…
かくて三成は嘉明に隔意を持つようになったのであった
389 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 11:18:08.29 ID:qPcKQ5mh
>388、それじゃ悪い話じゃないかw
390 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 20:25:37.43 ID:aNfUFRr4
数え十二ということは小学5年くらいかな
平和な時代の小姓なら幼くても務まるんだろうけど戦乱の頃だとたいへんだよなあ
391 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 20:49:03.24 ID:8mohmn0C
戦国期の早熟っぷりは宣教師のお墨付きだからな
曰く「うちらで十歳って洟垂れ小僧だけど、こいつらの十歳は使者とか普通にこなせててすげぇな」
392 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 21:18:39.31 ID:OGuKHfpT
微妙公(前田利常)が、御旗本衆に大阪の陣でのお話をなされた事があった、
「我々は当時、霧の深い朝で、なかなか大阪城すら見えない中を、周りを手さぐりするようにして進んだ。
そうしているうちに昼前には霧が晴れたのだが、そこで我々は、自分たちの旗と大阪方の旗が触れ合うほど、敵と間近な
場所に居ることに初めて気がついた。
敵は我々に気がつくと城から猛烈に撃ちかけてきて、我らは立ち上がることも出来ない有様であった。
そのうちにだんだんと負傷者や討ち死にするものが出来、このため私は、前線の者たちに早々に撤退しろと伝えるため
使番を出すことにした。
この時の使番は森権太夫と言う者であった。しかし前線は城からの射撃のため、鳥であっても駆け入ることは難しいと
思えるほどであったが、この権太夫は直ぐ様塀の上に土踏まずを踏み出すと、躊躇いなく前線に懸けて行き、
そこの人々に撤退することを伝え、本人はその殿を務めた。
やがて帰ってきた森権太夫の母衣には、銃弾の跡が47,8ほども付いていたが、冥加が良かったのだろう、
体には全く当たっていなかった。
私はこれまでに、あれほど振る舞いの見事な者を見たことがないよ。」
微妙公はこのお話を度々仰っていた。大阪の陣で働きの有っは人々はたくさん居たのに、他の人の話はせず、
この森権太夫殿の話を何度もなさっていたと、これは藤田内蔵充殿が言われたことである。
同じ話は森半左衛門殿にもお話になられたそうだし、かく言う私(著者)自身も承ったことが有る。
(微妙公夜話)
前田利常が、大阪の陣で最も印象に残ったと思われる、森権太夫という家臣についての話である。
393 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 08:38:17.49 ID:3qsqpFso
394 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 09:20:17.69 ID:6sJaGlq5
母衣って矢は防げそうだけど弾も防ぐのか?
395 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 10:36:58.54 ID:MNFMGLF1
396 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 11:07:24.92 ID:K+KH0Lsd
垂らした布は球形の弾丸相手なら一定の防弾効果があるらしい
397 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 06:04:18.24 ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。
一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。
このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った
「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。
一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。
私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」
そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)
龍造寺隆信、毛利元就の義に感じ通ずる、というお話
398 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 06:43:12.39 ID:Ege3BC29
童貞じゃないもん(^^)
ソープ嬢にちんちん大きいって褒められたし(*^_^*)
399 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 07:38:42.03 ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね
400 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 19:15:28.07 ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、
仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。
私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。
山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。
――『筑後国史 筑後将士軍談』
401 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 21:37:04.23 ID:R1fwL9pR
>>397 >私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」
えっ。
402 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 22:26:54.06 ID:CPdK6HUg
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は兵を発して朝鮮を征伐した。
このとき黒田長政もその軍勢の先手三大将の一員であり、長政の家臣である
菅正利(当時26歳・後に黒田二十四騎の一人)も長政に従って朝鮮へと赴いた。
これ以前に菅正利は知行200石を給わっており、足軽10人を預けられていたため、今度の軍行では先手を
勤めた。
この年の6月14日、黒田長政の軍勢が朝鮮人と、平安川において激戦となった。
菅正利も命を惜しまず真っ先に進んで励み、戦ったが、川岸の上で敵と暫く組み合い、ついに組み伏せ
止めを刺そうとしている所に、別の敵が駆け寄ってきて上の正利に飛びつき、引き退けようとした。
正利は下の敵を押さえながら上の敵と取組んだが、そのうちに3人とも川の中に落ちてしまった。
川に流されている中、正利は下の敵の上に乗り、もう一人の敵と組み合い戦い続ける。
そうしてどんどん川下へと流れていく中、味方の兵が正利の鳥の丸の指物を見つけ
「六ノ介(正利)かー!?」
と、川に向かって声をかけた。
やがて少し岸際に流れ寄った所を、正利の下人が川下から川に入り彼を引き上げたのだが、
敵と3人、組み合いながら陸へと上がってきた。まだやってたのだ。
敵の内一人は前に傷を負っており、水に入ってすっかり弱っていたのだが、
もう一人は大兵で大変力の強かったので、陸に上がって正利を組み伏せようとした。
しかし正利は咄嗟に脇差を抜いて敵の脇をしたたかに突き通した。
これで敵がようやくに弱った所を、正利は彼の首を取り、もう一人の弱った敵の首も取った。
この働きを黒田長政はよく見られており、後に褒美を与えられた。
(菅氏世譜)
403 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 23:00:49.70 ID:zCmh6slc
二対一でも虎殺し相手には役不足だったか
404 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 23:10:27.14 ID:MTdHQHeE
405 :
人間七七四年:2013/06/05(水) 23:21:06.70 ID:kVGk6KDr
川から引き上げても三人取っ組み合い状態って、どんな修羅場だ
406 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 08:19:29.29 ID:F93NLtNY
最後には三人が渾然一体となった、妖気漂う濃厚なバターが
407 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 09:56:38.69 ID:gUMHqu1a
如水さんが美味しいパンケーキを作ってくれるんですね
408 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 10:05:09.31 ID:Dr27dp+R
天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。
四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。
即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。
安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。
輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。
秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、
五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。
両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。
若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。
しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。
輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。
両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。
秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。
輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。
(日向記)
本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話
409 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 10:29:09.76 ID:Dr27dp+R
六月六日未の刻に高松を引き払い、沼の城まで帰陣された。その折、
豪雨と疾風に見舞われたので七日はそのまま滞留して、八日に姫路に
至って御帰城なされた。
その日は諸卒を休息させる為に出陣を延期して、九日未明に姫路を
出発して急がれたので、十一日午の刻前に尼崎へ到着した。
秀吉はすぐに落髪し、三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、
池田紀伊守(恒興)と長子勝九郎(池田元助)等へ使者を送り「中国とは
和睦して今日ここまで参陣しました。軍評定をして明日には惟任を
討ち果たしましょう」と申し入れたので何れも尼崎に集まられ、評議
では一番高山右近、二番中川瀬兵衛尉、三番池田殿と定められた。
十二日には先鋒は山崎天神の馬場芥川の辺りに充満していたが、後陣
はいまだに西宮小清水の辺りを急いでいた。その夜は別々に宿陣して
十三日には山崎表へ一同が揃うようにとの御命令であった。
惟任方へも明日十三日に合戦の上で勝敗を決しようとの旨を言い送り
「望むところである」との返事であった。
伊東佑兵は備中御陣よりお供して姫路に一日逗留、九日には供奉して
御上洛になられた。
(日向記)
日向記による中国大返しの模様
410 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 10:33:54.70 ID:M7gG74OV
一連の流れとはいえ別逸話扱いならツッコミのために少し間を空けた方がいいんじゃないかなぁと
411 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 22:32:35.01 ID:Z7rXj5e/
桃川の中野神右衛門の家に佐賀から人が訪ねきたこと。
神右衛門が、
「佐賀に変わりはないか?江戸は無事か?」
と尋ねると、客は、
「江戸は穏やかです。佐賀も異変なしです」
と答えた。
客が帰ったあとに、神右衛門は子供を集め言った。
「今日は客人がわざわざ訪ねて来てくれたから、
馳走をしようと考えていたのだが、
挨拶の仕方が不愉快であったので、
最低限のもてなしをして帰すことにした。
だいたいこのような国境の地に来て、
その家の子供や家来の前で、あの挨拶はないだろう。
『佐賀に異変はないが、一寸先は何が起こるかわからないので、
侍どもが油断するということはありえません』
と挨拶をするべきであろう。」
と訓示したという。
これは父、山本神右衛門から聞いた話だ。
また、この山本神右衛門は、見廻りの人に、
「世の中、変わりはないか?」
と尋ね、
「無事です」
と答えが返ってくると、
「無事とはさても心配なことだ」
と言ったとのことである 【葉隠】
412 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 09:55:29.67 ID:sVgKc4Yf
>>408 だいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。
413 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 09:57:33.23 ID:7u8b/B3W
清水宗治「え?俺死ぬ必要あった?」
414 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 10:20:01.73 ID:Xe9aBHnf
ここまで手の内を明かされて、よく毛利は秀吉を無事に返したよな。
415 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 11:15:50.44 ID:vwIjszRc
秀吉一人屠るのは簡単だけど、その後の展開が見えなかったんだろ
416 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 14:51:28.19 ID:EuDxLF/i
それは明智と組んで秀吉を倒し、
次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。
417 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 15:12:59.77 ID:9xWeM5LF
>>413 宗治が死んでなかったら和睦への道は遠のいたんじゃなかろうか
418 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 15:34:16.65 ID:AyjBnaSK
ん?岡山の直家さんってまだ生きてたっけ?
419 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 16:42:19.02 ID:9NOimaRp
直家さんは前年の暮れにもう
毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない
420 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 18:50:45.19 ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事
伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。
惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。
佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。
秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。
秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。
その槍は今も相伝して家宝としている。
六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。
それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。
(日向記)
日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…
421 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 18:58:12.56 ID:Rg3gkucJ
加藤嘉明は永禄六年正月朔日、賀気村に生まれ、幼名を孫六と称す。
父教明の落魄して美濃にあるや、嘉明もまた従って美濃に来たり、好んで馬を養い、
すこぶる馬術に長じた。
ある日、嘉明が馬を引いて近江長浜に至り、城主加藤景泰に謁して馬を売ろうとした時、
城中に荒馬がいて将士にはこれをうまく操れる者がいなかった。
景泰が命じてこれに試乗させたところ嘉明はすぐに承知し、乗鞍一鞭馳騁思い通りに
ならない事はなかった。
景泰は大いに感歎し、翌日嘉明を引き連れて秀吉に謁見しこの事を語ると、
秀吉は珍しく思って命じて嘉明を景泰の子とし、姓を加藤、名を左馬之助嘉明と改めさせて
家臣に加えた。
――『鹿深遺芳録』
もともと岸氏を称していたのが、三河を逃れて仮に賀気氏を称し、
嘉明が養子になって加藤姓になったということらしい。
422 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 19:02:03.80 ID:0j7xiByN
空気加藤「父上が余計なことをしなければわたしが地味加藤だったのに」
423 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 20:09:46.49 ID:khp2Jdun
よく、ラスボスの中国方面軍だけで、毛利は平定出来るけど、自分の手柄を
信長に見てもらうため、わざわざ出陣を要請したみたいな話があるけど
毛利は総大将TERU&叔父さん2人のほぼ全軍といっていい軍勢だし
織田vs毛利の最終決戦を見込んでの出陣要請だよな。
つまり本能寺の変後にTERUが全力でラスボスを追撃すればラスボスは
滝川さん状態になって、播磨あたりまで毛利領って事もありえた。
ま、TERUにそんな決断は出来ないけど。。
424 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 20:44:01.57 ID:9xWeM5LF
要所要所で大軍が応援に来るのが織田家のスタイルだしね
425 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 21:36:07.86 ID:8/GFk+8F
>>423 ないない。宇喜多が壁になるんだから追撃するのは愚策極まりないよ。
単純に物事考えずぎ。
426 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 21:57:27.11 ID:+GqKqFlj
福島正則は、水野次郎右衛門と申す者に、知行2300石を取らせ、この者に普請奉行を申し付けた。
この時水野次郎右衛門、畏れながらと申し上げた
「そのようにお申し付けになった上は、御普請をしっかり行わないものがあった場合は、
それが例え、小関石見、福島丹波、その他組頭などの重臣の方々であっても、そういった時は
必ず罰金などを厳しく取り立てます!」
この水野次郎右衛門の言葉を聞いて、側近の人々を始め家中の身に覚えがある者達、大いに驚き慌てたそうである。
ちなみにこの水野次郎右衛門は徳川家康公も御存知の者で、それは同国の三河の出身であるためであった。
それ故に、彼には度々上意もあったそうである。
(福島太夫殿御事)
こんな所にも居た、しかも例によって一筋縄でいかなそうな三河水野一族。というお話。
427 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 08:15:28.91 ID:2jQXQQ2r
山田土佐入道(宗昌)の妻と娘は、日向没落の時に置き去りとなり
薩州の軍勢に捕えられ鹿児島に送られ義久に仕える事となった。
義久は名のある武士の妻子であるからと常に懇意にされていたが、
土佐入道が飫肥へ帰参したとの話を聞いて、妻子に衣類金銀を与えて
土佐入道の許へと送られた。情けある事でした。
(日向記)
島津義久が山田土佐入道の妻子を送り返す良い話
山田宗昌は天文年間から活躍していた伊東家の武将で、伊東義祐が
伊予へ移った時には豊後に残って、その後も佐伯惟定の元で島津と
激しく戦い、伊東祐兵が飫肥に復帰した時に帰参した人です。
敵の妻子にも情けをかける島津義久はよく出来た人ですね。
428 :
匿名大名:2013/06/09(日) 11:19:44.47 ID:7oA6JdOJ
妻子の見目がよければ多大な情けをかけるお!
429 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 11:52:32.88 ID:evYMY+3l
ほんとに情けだけかや?
430 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 14:38:55.90 ID:gVgNBzv/
おい。今生放送に宇野映ってたぞ!
431 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 14:39:26.47 ID:gVgNBzv/
誤爆
432 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 14:40:22.45 ID:7F14SXff
情けにはちゃんとそういう意味も
433 :
人間七七四年:2013/06/09(日) 15:29:37.85 ID:07+AIUNl
悪久だったら・・・
434 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 09:03:01.26 ID:W6c3jPw9
佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事
北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。
その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。
秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。
(日向記)
435 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 09:39:55.78 ID:VILycKP0
梱包に使っていた古新聞の一面コラムが目に留まったので載せてみる。
「灘のけんか祭り」が今年も勇壮に営まれた。
姫路・松原八幡神社の氏子地区のうち、仕切り役の「年番」に当たった東山地区は、3基の神輿を激しくぶつける「神輿合わせ」を披露した。
そのとき歌われた「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節がある。
「何じゃいの 瓢箪や サーエットエー」。
瓢箪とは信長の中国攻略を指揮し播磨に入った羽柴秀吉。「秀吉がどれほどのものか」。心意気を歌い継いできたという。
祭りは播磨国守護、赤松政則が社殿再建を祝って米を寄進し、喜んだ氏子らが米俵を担いでお旅山に駆け上がったのが起源と伝えられている。
だから秀吉に対置されるのは恐らく赤松氏だろう。
戦国時代には三木の別所長治が秀吉に抗戦。領民を救うため自害し今も敬愛される。
鎌倉〜南北朝にさかのぼれば、現在の上郡町を拠点に室町幕府に貢献した赤松円心の存在感が際立つ。
荘園制度に反発し、「悪党」と指弾された反骨精神。
後醍醐天皇に反旗を翻したものの劣勢になった足利尊氏に、九州への一時撤退を進言した知恵。
尊氏に加勢して、上郡に構えた白旗城に籠城し、敵の軍勢を50日間足止めした勇猛果敢。
播磨のアイデンティティーを語るときに欠かせない円心の坐像が、
12月2日まで姫路の県立歴史博物館で開催中の特別展「赤松円心・則祐(そくゆう)」で鑑賞できる。
不敵な面構えは見覚えがある。
そうだ。祭りで会った男衆の顔だ。
(神戸新聞 正平調 2012.10.29)
436 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 09:43:00.62 ID:VILycKP0
437 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 12:23:49.99 ID:W6c3jPw9
慶長二年十二月二十二日、佑兵は安哈良より豊前の黒田如水翁へと
宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。
進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。
如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。
甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。
その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。
(日向記)
黒田如水、乱世を予見する
438 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 12:28:50.22 ID:UnbnNjc+
如水って、関ヶ原の動乱に乗じて天下狙ってた、て言われるけど
本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない
439 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 12:29:37.05 ID:vG5RRJYo
仇敵の島津と仲良くしろって...
440 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 19:07:32.54 ID:/2Mvl9bz
それが戦国の世の習いだろ、相馬といっしょにするなよ
それに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理
441 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 20:06:22.24 ID:SAp53zWJ
>>438 むしろ後者だろ
前者は厨二が思いつきそうなネタだ
442 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 20:11:44.40 ID:GWHqvamu
しかし大河で後者やったら
「左手のエピ省きやがって、捏造するな!」
といちゃもんがくると予想
443 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 20:18:11.17 ID:gOq1FwJe
なお明治になってできた逸話の模様
444 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 21:14:21.39 ID:B+lr4YVI
少し前の西日本新聞夕刊に載っていた「地元に伝わる豊臣秀吉伝説」
日本三大松原のひとつに数えられる佐賀県唐津市の虹の松原に
地元の人たちの間で語り継がれてきた秀吉伝説がある
1.景観を楽しむ秀吉が頭が高いとにらみを利かせて以来高く伸びない「にらみ松」
ひれ伏したようには伸びるが垂直には伸びない(実際は強い潮風が原因)
2.秀吉が騒々しい!と一喝して松原からセミの声が絶えた
話の起源はどちらも不明だという
いい話か悪い話か分からんが、昔から地元の人たちにも畏怖されてたんだなという話
445 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 22:01:44.69 ID:vG5RRJYo
446 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 05:46:05.21 ID:7kCSsO88
関ヶ原の決戦の前、黒田長政はつらつらと図りを巡らせ、筑前中納言小早川秀秋を味方とし、
東西両軍が乱戦の時に、敵の後ろである松尾山より兵を下ろし裏切りをさせれば、
即座に徳川家康の利運となると考えた。
秀秋の家老平岡石見は長政と内縁が有り、また平岡の家臣である井上越前は、長政の家老、
井上九郎右衛門の弟であったので、彼らを頼りに小早川方にこれを伝えよと、家臣である
大久保伊之助、神吉三八を派遣した所、小早川秀秋は「黒田殿の提案に同心する」との
返事をした。
大久保・神吉が帰ってこのことを伝えると、長政は大いに悦び、重ねて小早川の陣所に、
黒田方より人質として、吉田宮内、大久保伊之助を遣わした。
しかし、秀秋の同心が偽りであり、こちらからの人質たちを手籠めにすることも考えられると、
菅正利を指し添えて遣わした。
菅正利は小早川陣へ行き、そちらの諸将と軍の手立てについても談合し、互いの内通は相整い、
小早川方からの人質として平岡石見の弟を人質として連れ帰った。
この後、小早川秀秋の返り忠にて、終に徳川家康の勝利と成ったのである。
(菅氏世譜)
黒田家側の記録に有る、小早川秀秋寝返りについての逸話である
447 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 10:06:27.01 ID:nIBCP0EI
>>438 天下を狙ってたと言うのは大げさだろうが、広家宛の書状とか見てると
天下安寧からはほど遠い気がする
448 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 12:59:47.06 ID:oa9WKeCD
島津攻めの準備万端ですよ行っていいですか?
つって家康に止められたんだっけ
449 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 13:15:47.73 ID:nIBCP0EI
>>448 一応、家康が薩摩出陣を延期するように要請した書状が届く前に
島津が謝罪してきてたので如水の主導で延期してる。
ちなみに清正は八代攻めを島津に邪魔されたので戦いたかったらしい。
450 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 17:43:19.96 ID:26GGUzHn
島津攻めの先鋒を受けて開城した立花宗茂が、
島津宛てに徳川と和睦するように勧める書状を10月28日の日付で送ってるし、
これは、状況的に如水か清正の許可を得て送っただろうから、
全体的に積極的には島津を攻める気はなかったんじゃないかな。
451 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 20:25:35.22 ID:7kCSsO88
備前瀧口城といえば、宇喜多直家が美少年の岡剛介を使い、乞食の老婆を母と偽るなどして
城主である松田氏家臣・サイ所元常を騙して暗殺し、城を奪い取った事で有名だが、この瀧口城は備中の
三村家親による備前侵攻の時に奪われた。
そこで永禄七年(1564)、直家は松田氏などと和解した上で同盟し、瀧口城を攻め、7月9日に、
ついに城の奪還に成功した。
さて、同月11日、宇喜多直家から瀧口城で三村方として戦った、備中幸山城主・石川源左衛門久式に
使いが送られた。
『今回は国人達が不意に合戦に及んでしまい、我々は呉越を隔てることになりましたが、
これは全く私の本意ではありません。
瀧口城の傍にある福輪寺から、討ち死にされた方の死骸を集め置きました。
雑兵の死骸は、福輪寺にて葬礼をいたします。』
直家はこのように申し寄越した。
石川久式はこれを聞いて、直家の懇情に感じ入り、返答を送った。
そして脇田村で討ち死にした石川方の将・小田小太郎の死骸は、彼の郎党である
名越修理と有岡右京が行って福輪寺の山の峰で葬礼をして墓所を築き、印塔を立てた。
また討ち死にした兵429人は、同所の峰に3つの塚を作りそこに取り納め、それは
福輪寺の首塚と呼ばれるようになった。
この後、備中と備前との交通が絶たれたため、備中の諸士でこの合戦で討ち死にした者の
子孫や親族は、2月、7月、8月の彼岸に、代理の僧を福輪寺に立てて墓所に火を灯し
墓に水をかけた。
宇喜多直家が毛利家に従い幕下に入ってからは、直家はこの地の郷民に申し付け、
墓所に石塔を建て、7月13・14日には脇田村、湯廻村、四之御神村の峰々に数万の火を燈し、
討ち死にの子孫、士農工商旧功の恩を思い出し、酒菓を供えて供養した。
宇喜多直家はこのように言った
「敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ。仇であっても善の心で報いる事が、
義士道というものである。」
これを聞いた、ある古い武士は、こう感想を洩らした
「直家は計略の謀の手腕を持ち、毛利家の威を借りて、まさしく家を興す人物であろう。」
【中國兵亂記】
宇喜多直家の、備中の国人懐柔策の一端が見えるような逸話である。
表面的にはいい話なんだけど、そのとおり受け取っていいのかどうかちょっと迷うのは
直家の人徳なのだろうなw
452 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 22:02:19.19 ID:NnZK3DSB
直家が生前に周囲から警戒されたのは本当に晩年になってからの小早川隆景と伊賀氏からくらいだからね。
一度浦上宗景に反旗を翻しても許されて味方増やしてるくらいだし。
真の謀略家とは人徳があって信頼される人物でないとなれないんだろう。
453 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 22:32:09.22 ID:qgKBMWpr
忠家「…お、おう」
454 :
人間七七四年:2013/06/11(火) 22:44:27.52 ID:K+2XHs9B
逆にそこまで身内だと怖さがわかっていても、
もうちょい距離のある人には自分だけは大丈夫と思わせる何かがあるのかな
455 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 00:02:25.27 ID:Vc+Sdv0A
戦で人がたくさん死ぬのが嫌っていういう健気な人だから
守ってあげたい感じになったのかも
456 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 00:03:16.33 ID:OJeB81yf
>>455 直家のことだと理解するのに時間がかかった
457 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 00:06:00.19 ID:/qj52nhH
時間がかかった、て
一分もレスまでに経ってないやん
458 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 08:40:35.68 ID:eNWMgWw/
誠実な人物だと思わせていないと人を騙せないからな
459 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 10:07:39.79 ID:+e/Yj0vr
あんなに敵対してた
島津と立花が関ヶ原では同じ西軍だったり
直家の逸話も素直に感心する俺みたいな奴は
暗殺されるのだろうな
460 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 10:56:00.79 ID:dxfa4KPr
星野了哲は佐賀藩衆道の元祖である。
弟子も多く、それぞれその道の一つずつ伝承していた。
枝吉三郎左衛門はその中でも、理論を体得しておられた人だ。
あるとき三郎左衛門が了哲を訪ねると、
「衆道の心得を悟ったか?」
と問われた。
三郎左衛門はそれに、
「好きであるのに好かぬものです」
と答えた。
それを聞くと了哲は喜んで、
「その言葉を待っていたのだ。
それを言えるまで、長年かけて苦労したものだ」
と申されたとのことだ。
後年、三郎左衛門にその言葉の意味を問う者がいた。
そのとき三郎左衛門は、
「衆道の極意は命を捨てることです。
そうでなければただの恥となりましょう。
しかし衆道のために命を捨てるならば、
武士の道のため捨てる命がなくなります。
そこで私は、好きであるのに好かぬものと理解しました」
と答えた 【葉隠】
461 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 12:01:29.20 ID:5k95V3pO
釜山浦城に御在番のとき、大将毛利壱岐守(勝信)と当家の間で喧嘩騒動
が起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。
まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。
さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。
その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。
毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。
喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。
この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。
この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。
小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。
(日向記)
釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話
462 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 16:14:48.87 ID:SewYdqbu
してその毛利家の何某とはどなたなのですかな?
463 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 16:31:41.93 ID:TyHfw7WZ
464 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 18:35:13.31 ID:osN9UWAL
数字板の守?
465 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 21:50:27.31 ID:IlT3t1fh
それより衆道の弟子ってなんや・・・
衆道の理論ってなんや・・・
466 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 00:09:53.00 ID:fOs1Muei
召仕の男女にもし密会の不埒があれば、双方とも斬罪とするのが古今とも武家の重き定法である。
とはいえ、色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合躰の道、人たる者に変わりはない。
そのような事があれば主人は勘弁して双方を呼び出し、当座の戯れなのか夫婦の契約なのか聞き届けるべし。
死生ともに申し合わせた契りだというのならば宥免して罪の程を許し、所帯を持たせよ。
そうすれば男女とも心魂に徹してありがたく思い込み、事ある時には先途の用に立つこともあるだろう。
今川了俊の条目にも「恩の為に死ぬ者は少なく、情の為に死ぬ者は多し」と書かれている。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
467 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 01:24:13.21 ID:WRfY7l51
>>465 「道」がついてるから単純な肉体の男色行為ではないのかもな
死ぬまで秘める恋が最上と言うんだから
秘め通したなら肉体的行為はあるはずないし
468 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 05:23:48.10 ID:A8WkT8qM
日本の武家社会の衆道の文化をキリシタンの宣教師たちはどう思ったろうな
469 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 08:27:00.05 ID:zRxxuX0C
修道院でもあったでしょ
470 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:02:01.16 ID:BH4MtpB5
>>468 宣教師の記録だと、「バビロンの風習」「悪魔の習俗」などと批判していて、主に仏教僧が衆道文化の中心だったから
「やっぱり仏教僧は悪魔の使いだ」みたいな記録をしていたな。
471 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:43:32.07 ID:b+eaHdGV
最近まで少年への性的虐待をもみ消していたカトリックがよく言いますな
472 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 11:01:19.27 ID:X2+vpcge
今日、陣儀(公卿が政策決定を行う会議)があり内府家康公が将軍ならびに
右大臣に補任された。
上卿(陣儀の最上位者)は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸左中弁光広
朝臣。参仕弁は坊城左中弁俊昌朝臣。淳和奨学別当、源氏長者、牛車兵仗
等も宣下される。
辰刻、山科内蔵頭(言緒)、冷泉中将為満朝臣が紗狩衣を着用して共に伏見
城内府亭へ向かった。(彼らの役割は家康の装束関係と思われる)
午未下刻、上卿他諸役衆が伏見に向かわれた。
内府は皆が佇立している間に御対面所へ御出でになり上段中央へ南向に
着座された。御装束は左折の折烏帽子、香(紅色の)直垂、露(直垂の袖口から
垂れている紐)は萌黄、前後の腰帯は白生絹。
土御門左馬助久脩が御身固(身体の堅固を祈る儀式)に参り、久脩が退いた後、
上卿・奉行職事・参仕弁等が前に進む。上卿が着座する前に勅使右大弁宰相
(勧修寺光豊)が前に進んだ。
続いて官務(壬生)右大史孝亮が将軍宣旨を葛蓋(文箱)に入れて持参。大沢侍従
(基宿)が受け取り、家康公の御前に置いて披覧。それから御座の脇に置かれた。
西の縁の方に砂金袋が置いてあり、永井右近(直勝)が砂金を葛蓋に入れて大沢
侍従に渡し、大沢侍従は葛蓋を壬生孝亮に返した。
次は(中原)大外記師生が右大臣宣旨を葛蓋に入れて持参。その様子は将軍宣旨
と同じであった。
次は壬生孝亮、氏長者宣持参
次は中原師生、源氏長者宣持参
次は壬生孝亮、淳和奨学両院別当の宣旨持参
次は中原師生、牛車宣持参
次は壬生孝亮、牛車宣持参
次は中原師生、兵仗宣旨持参
その都度、砂金をたまわる。
次は上卿に黄金十枚を台に乗せて給わり鞍置馬も給わる。次は勅使に黄金五枚
並びに鞍置馬を下され、次は奉行職事に黄金五枚を下され、次は参仕弁に、金
五枚枚を下された。各々は御礼を申しあげ、すこししてから座を立った。
上卿と勅使は太刀を折紙にて進上して御礼申された。次は奉行職事と参仕弁は
太刀で御礼申され。次は大外記、官務、少史安陪盛勝、小外記三善英芳、出納職、
清同、職忠、外記、使部重昌、官使部、告使はそれぞれ太刀にて御礼申され。
次に陣官人は太刀は進上せず、それぞれ御礼を申しあげた。
御礼の後は(饗応の為に)常の座敷に上卿以下が入られ平伏する間に、家康公が
お入りになられ予(舟橋秀賢)冷泉(為満)山科(言緒)等もお供して移った。
地下録物(葛蓋に入れられた金額)
将軍宣旨砂金二十両、右大臣宣旨金十両、氏長者宣録、外記、官務へ両宣旨
十両ずつ、牛車両宣旨十両ずつ、淳和奨学両院別当宣録、十両、兵仗宣録、十両
以上、金九枚
少史、小外記、出納、使部、告使、陣官人等へは銀子三枚ずつ下され、
各々に差はつけられ無かった。
(慶長日件録 慶長八年二月十二日条)
家康の将軍宣下の様子である
473 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:18:09.30 ID:o5FqMAIw
太刀にて御礼申され
というと首をスポポポーンと言う想像が先に立つ・・・・憑かれてるだな、俺
474 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 16:40:53.30 ID:WRfY7l51
衆道文化は公家にもあるぞ。
というか和歌も衆道も公家から武家が影響受けた
475 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 20:01:19.27 ID:q16XBwe5
>>469 そういった堕落への反動として厳格な一派による内部改革が行われて、
当時わざわざ日本までやって来たのがその連中
極東の異教でもそうなのかよぉぉぉ!?と彼らが思ったかどうかは定かでは無い
476 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 20:20:36.43 ID:BH4MtpB5
加賀藩の御料理人である長谷川徳左衛門は先年、京に向かう前田利常に従い東海道を下っていたが、
関ヶ原宿に泊まるその日の道中、道端ではこべが見事に成っているのを見つけ、これを乗っていた馬に
挟み進んだ。
さて、関ヶ原宿に着くと、そこにはろくな食材がなかったため、長谷川は焼いた干鱈に先に摘み取った
はこべを加え入れて汁を作り利常に差し上げた所、これを大変気に入られ。度々お替りをして
召し上がった。
そして長谷川を御前に召し、
「殊の外よき汁であった。どうしてこのような料理を思いついたのか?」
と聞いた所、長谷川は
「私が先行して進んでいた所、道際に見事なはこべを見つけました。関ヶ原宿には多分良い食材は
無いだろうと思ったので、このはこべを取り乗り掛けの馬に付けて、こちらに到着した所、
案の定良い食材はありません。ですので先の御汁にしたのです。」
そう申し上げると、利常は感心し
「自分の役儀をよく心得ており、大変奇特である。」
と言って御箪笥の中から金子を、包のまま下された。
その包の中には金子が、一歩五十八切(一歩金は小判の4分の1)も入っていた。
後で長谷川徳左衛門は「御汁一つ料理してたいへんな金子を貰ったよ」と大いに自慢していたそうである。
(微妙公夜話)
477 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 22:00:19.44 ID:pY6nOePZ
478 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 22:13:58.08 ID:H5d6Iz5s
>>477 氏長者宣は天皇からの源氏長者の認定で、
源氏長者宣は家康の前に源氏長者だった久我通堅からの、
源氏長者の地位を譲るというものでは?
479 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 22:55:19.56 ID:WVkdhc2h
地位の譲渡→認定の手続きをとらないと
賢き所が勝手に源氏長者を変えたことになるから
余計な火種を産まない為のシステムなのかな?
480 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 23:00:38.37 ID:pY6nOePZ
481 :
あのさあ:2013/06/14(金) 00:00:37.39 ID:GwXDBRrp
長者は子ではない次の長者を養子扱いするんじゃないの?
482 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 00:09:47.72 ID:JmQvBJyQ
秀吉みたいなケースなら養子にする必要もあるけど
そうでなければ養子にする必要性が無いと思うのだが
483 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 01:09:05.78 ID:/LdnPYlZ
>>475 子作りどころか縁故人事に政治闘争に露骨な金集めに、もうルネサンス期はなんでもありだったそうで
イエズス会ができたころはルター派や改革派教会の分離、ついでにイギリス国教会まで分派する事態
484 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 01:23:17.02 ID:Zt6v0d4r
さすがにアレクサンデル6世(1492-1503)のように息子がいるのは例外だと思う・・・
て調べたらインノケンティウス8世(1484-1492)、ユリウス2世(1503-1513)、クレメンス7世(1523-1534)、
パウルス3世(1534-1549)にまで子供がいるんだな
こりゃルター派が台頭したり反宗教改革でイエズス会が日本にまできたりするわけだ
485 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 08:10:13.02 ID:13GGnsHQ
本願寺さんも似た様なもんさね
486 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 08:17:43.14 ID:JmQvBJyQ
本願寺はもともと妻帯OKな宗派ですから
487 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 09:01:05.75 ID:uE3n0wC4
浄土真宗以外の僧侶の女色が問題だ ということでFAだよね? (俺は詳しく知らんので)
488 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 09:04:24.37 ID:uE3n0wC4
↑男色もだったな 流れ的にむしろ本命はそっちだった、失念しとった
語るに落ちて喪男だってバレバレじゃねーかよ俺、Orz
489 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 09:08:29.76 ID:gWY/UrM4
いや、他の宗派の僧侶も普通に子供作って弟子にしてたりしてるし(真弟子という)
490 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 12:04:33.29 ID:QDY9rtk1
まあ、僧侶という職業につくだけで戒律守れるようになるなら修行も警察もいらないわなw
491 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 18:41:52.96 ID:u9TOWBaL
この橋わたるべからずと書いておけば皆渡らないという規則を守ってくれるはず
492 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 19:49:27.85 ID:QDY9rtk1
鈴木大拙が親鸞思想は宗教のある種の完成形と言ってるが、
たしかにそういうことはあるかもしれないね
禅も無善無悪なとこあるし
493 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 02:43:37.53 ID:opU4Q7H/
タイみたいにちゃんと戒律守って欲しいわ
俗世にまみれた仏教に魅力を感じない
494 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 06:04:49.15 ID:Qs0DfyBL
>>493 そもそも日本の仏教は
謎のマジカルブッダパワーで災害・疫病から国を守ろう
というのがコンセプトだからな
僧侶は呪術師系公務員という扱いで
悟りに到達するために戒律守るなんて誰も期待してなかった
495 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 07:43:29.81 ID:NnBQlPlZ
よくまぁそんなデタラメを
496 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 07:50:31.89 ID:kXba0flv
497 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 11:52:04.10 ID:5mBP3odk
>>463 俺もわからん誰か教えてくれ
あの事細かくは教えてくれんでも良いで
498 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 13:45:24.80 ID:geI8ZKOL
加藤嘉明が若松へ移った翌年、盆の夜に守岡主馬の別邸で踏歌があった。
嘉明が眠りに就いた後、侍臣は密かに出て行ってこれを見たので、
ただ一人の老人が次室に残るのみとなった。
そこにたまたま目覚めた嘉明が「侍臣らはいずこにおる」と問うたので、
老人は事実を答えた。
これを知ると嘉明は老人に「お前も見に行け」と言った。
――『加藤嘉明公(細野写本)』
499 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 18:27:10.31 ID:4n+cmVjc
さすが常識加藤
500 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 19:13:56.55 ID:7YNrIGDv
優しいなぁ
501 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 19:23:30.66 ID:p1LPZbCT
役目を放棄するとは何事か!で行った連中全員切腹でもおかしくないのにな
秀忠さんとかそれくらいしかねんぞ
502 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 19:27:08.40 ID:dvguJODF
503 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 19:48:52.94 ID:qbbrMiMl
こんなに優しい殿は家臣に舐められるだろ。
勝手に退出した奴は斬首で、注意しなかった
老人は切腹あたりが妥当。
504 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 20:02:48.19 ID:qSiYlSlG
「夜勤は眠いし〜暇だし〜」
505 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 20:15:08.71 ID:Biuot+vQ
蜂須賀家政もその手の優しい逸話があるな
506 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 20:27:04.76 ID:VI93AqAZ
>>503 加藤嘉明は戦場での猛将っぷりみせつけてるし天下人が移り変わる中で藩存続させた姿を
家臣は間近で見ているわけだからそんな心配は無いだろ
まあ息子はなにかと父と比べられて舐められやすくはなっただろうが
507 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 20:30:02.80 ID:GVF5T2t5
加藤は家臣には基本的に優しいけど、自分の言う事きかない人には優しくは無いという線引きしてたんじゃない?
508 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 21:16:55.04 ID:v0gfl6Zx
優しくすれば舐めてかかる人間もいれば、
抑えつけると反発する人間もいるからなあ
正解はないでしょ
509 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 11:08:40.41 ID:UVJmsyTD
まーくんだったら「俺も行くぜ。んでつまらなかったら首落としたやるぜ!」くらい言いかねない
510 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 14:40:29.74 ID:lspbdD/+
なぜ俺を誘わない、で処罰
511 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 19:44:16.37 ID:jbZl6Min
島津家の武将、山田有信は九州征伐に際し日向高城に籠もって奮戦したが、主君義久の説得によりやむなく降伏に至った。
攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。
薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。
これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという
512 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 22:30:10.57 ID:7AcLyGz5
進んでサービス残業や休日出勤をするワーカーホリックのせいで
誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・
513 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 22:55:26.73 ID:evhdrLdX
ワ○ミみたいな企業みたいな話だと思うと悪い話みたいになるからやめなさい!
514 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 23:04:59.12 ID:E1i6Xco3
一応、終身雇用どころか代々雇用があってだから・・・
515 :
人間七七四年:2013/06/16(日) 23:40:46.20 ID:BENzQbRB
武士の忠義は家意識もあるから、
現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな
516 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 02:06:22.54 ID:IZie7/be
例の社長は社員に24時間労働するのは奉仕だとか言って
労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者
517 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 08:21:01.15 ID:WlUSF5eT
出来ないとか無理なんて言わせないのがあの社長のモットーなんだろ
それで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ
518 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 12:56:28.09 ID:KHYbwo1p
>>516 時代遅れ所か、戦国時代なら押込か追放、下手すりゃ宇喜多メソッドの対象だろう
519 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 13:54:27.32 ID:YbkXtjY1
三河のややこしい人らはまず黙ってないな
520 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 14:40:19.48 ID:fisDmLvD
主君が上手く乗せればそれに近いこと平気でするだろうけどな。
上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう
521 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 17:43:45.10 ID:HYqiGM4t
和民守は滅私奉公要求するけど従業員待遇は現代ルールだろw
今はブラック社長ほど仁だの義だの言うからな
そのくせ自分の権利と人権だけは人一倍大切にしてるw
522 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 17:43:56.70 ID:vKATk0sd
ある日、藤原惺窩は奮発して大明国に入りたいと欲し、直ちに筑陽に至ると、
果てしなき大海原へとのりだした。
ところが風濤に逢って鬼海の島(鬼界島)に漂着し、その盛志を遂げずして
帰ることになった。
――『先哲像伝』
523 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 17:48:44.05 ID:TML1DMIc
惺窩が本懐を遂げられなかったからいい話なのか?w
524 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 17:51:47.01 ID:LImlMQ8w
現実見たらパリ症候群で狂い死にしたかもしれない
525 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 21:56:48.69 ID:aINWrm7x
その頃の明はもう完全に末期状態だから
惺窩は現実を見ずに済んで逆に良かった
おかげで一生夢見てられる
526 :
人間七七四年:2013/06/17(月) 22:24:10.32 ID:HYqiGM4t
ほろ苦い話だな
527 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 11:52:19.66 ID:mY5ZAC7h
鬼界島って奄美の島か。まあ、島に漂着出来て良かったよな
528 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 14:58:34.09 ID:0XQHLgsE
遣唐使だったら沈んでたわ
529 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 16:32:13.75 ID:2uJWdv6r
鑑真さん乗ってたんじゃね?
530 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 18:03:48.28 ID:8H5gQgKK
桃太郎が
531 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 21:53:52.50 ID:GX+AQOoR
加藤清正の家臣飯田覚兵衛は明軍について
「わが国では大軍が陣を敷いた跡を見れば糞が満ち満ちて足の踏み場もない。
しかし明軍の陣の跡では糞をした跡を見たことがない。
どういうわけかはわからぬが、法令が整っているからであろう。」
と感心していたという。
荻生徂徠『政談』
532 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 00:32:55.16 ID:oeL6e3Se
>>526 屋久島の手前にある「薩摩硫黄島」かも。
(火山活動のため海が黄色に染まっているので黄海が島(鬼海が島)となったとか。
ちなみに、この島を含む巨大カルデラが「鬼界カルデラ」といい、
考古学でおなじみのアカホヤの産地だったりする。)
鬼海が島といえば、平家物語の「卒塔婆流し」「足摺」の舞台。
そして、平康頼の「薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風」(千載集)の歌。
冷泉為純の子である藤原惺窩は、この島で
「薩摩潟八重の潮風つげやらんあはれ憂き身は親だにもなし」と詠んでいる。
父も兄も別所長治に討たれてるもんなあ。
533 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 00:35:14.19 ID:oeL6e3Se
×鬼海が島
○鬼界が島
534 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 01:58:13.79 ID:O4ZcSBED
惺窩先生も良いキャラしてんだよなぁ
アレはアレで大好きだ
535 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 08:34:31.87 ID:0euEaqLi
学があるなぁ…皆さん
536 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 09:29:04.57 ID:sN7H3ym7
>>531 みんなその辺でしてるのかよ。汚ねえなあ。
明軍は近代の軍みたいに、トイレ用の穴掘っていっぱいになったら埋めるとかしてそう。
537 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 09:37:50.46 ID:tK1CznwF
>>536 マジレスすると、戦国期の日本も糞便は放置すると疫病の元になると経験的に解っていたので、トイレ作って一ヶ所にまとめて
その後遠くに捨てさせるか百姓に飼料として買い取らせたりしてた。
まあ荻生徂徠はこの時代から100年以上たった徳川綱吉の時代の人だから、信頼出来る話とは思えないなw
538 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 15:56:07.63 ID:xl0DrRrK
天正年間の頃の話である
宇津左衛門五郎忠茂は愛犬の白犬を連れて狩りに出かけていた。
その山中で忠茂は突然邪気に当てられて眠気を催し、近くにあった大樹の陰で横になり眠りについた。
愛犬は忠茂の耳元でうるさく吠えたが、忠茂は眠りを邪魔された怒りから刀を抜いて愛犬の首を刎ねてしまった。
刎ねられた愛犬の首はそのまま宙に飛び、大樹の枝上に潜んでいた大蛇を噛み付き、大蛇が落ちてきたところを驚いた忠茂が退治した。
愛犬は主人を眠らせて食べようとした大蛇に気付き、主人を守ろうとしていたのである。
その事に気付いた忠茂は愛犬の忠義に感銘を受け、またその事に気づかず命を奪ってしまったことをひどく後悔した。
このため忠茂は愛犬の首を上和田村に、愛犬の尾を下和田村に葬り手厚く祀ったという事である。
539 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 16:35:26.97 ID:PlnqQS8h
宇津忠茂って大久保家のご先祖様だと思うけど天正年間とはこれいかに
540 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 16:37:58.08 ID:xl0DrRrK
うーん神様集めてある系の本に書いてあるままやったからよくわかんにゃい
541 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 16:40:30.81 ID:KNSLQXl7
胴体はどこに行った
542 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 16:46:11.74 ID:Cwqp1VvC
供養してから喰ったんだよ
543 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 16:54:14.97 ID:V61RexCj
山の掟だからな
544 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 20:09:14.50 ID:QIISUzCw
朝日新聞より。
文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、
いずれも国宝で、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、
平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。
国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。
政宗の、ちょっとうれしい(い)話♪
545 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 23:52:42.26 ID:kailfFLM
小早川秀秋が東軍に味方した始まりは、黒田如水が近国の親しみがあったので
秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。
如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。
早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。
そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。
しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。
けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。
さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。
それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。
これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。
――『備前軍記』
546 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 01:01:47.62 ID:Cy723GO0
>>537 徂徠の叔母の嫁ぎ先というのが加藤家の家臣の堀江家で、その一族の堀江小右衛門という人がいるんだが
この人は1700年ころに亡くなった時80歳あまりで、加藤家の軍物語にも詳しかったと徂徠は記している。
『政談』 のこの話は「加藤家の故老が語った話」とされていて、おそらく徂徠はこの小右衛門からこの話を聞いたと思われる。
547 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 17:46:09.97 ID:6zvdUWEe
大内義隆は防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに
磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。
けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。
京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、
またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。
そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。
――『室町殿物語』
夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。
548 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 10:23:44.97 ID:RnYjbJRF
夫人を大事にする義隆さんだと・・・・
549 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 10:36:41.69 ID:Lt0Z5tqH
ここまで大事にした嫁さんなのに、子供が生まれなくて嫁さんの侍女に手出して離縁されちゃったりするのが義隆クオリティ。
別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ
550 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 11:41:21.16 ID:I7iHMNEh
551 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 15:18:50.34 ID:/wrYC/HC
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)
552 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 15:40:31.17 ID:OJbOQ8FG
最近同じ資料からダラダラ書き写すのはやってんの?
553 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 15:42:24.87 ID:PeCNcZNv
文句言うなら自分でかき集めてこいよ
554 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 17:12:59.21 ID:5fqohn1H
だな
555 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 22:46:24.28 ID:3sHCymhu
ねーお
556 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 22:53:08.22 ID:UCq9J5lC
水野淡路守重良は紀州徳川家の附家老である。大納言が若年の頃、鎧着初めの節に
井伊掃部頭が参り「物の具がよく御似合いです。天晴れ、よき御大将かな。
若君を御大将に私が御先手を仕って、一戦仕りたい」との挨拶をすると、
一座もめでたいと同音に申し上げた。
すると重良が進み出て「貴殿は公方様の御先手だ。この若君の先手は淡路守である。
いやしくも我等がおりますというのに、どうしてこの君の先手を他へ致させることだろう。
思いも寄らないことだ」と掃部頭を咎めたので、一座は重良に感じ入った。
これは板坂卜斎の咄である。
重良は新宮の城主であり、殊に大坂で功名があった。
――『責而者草(古実話)』
557 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 22:54:18.22 ID:/wrYC/HC
558 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 13:41:08.34 ID:vUlDoYAD
伊東平右衛門尉は伊東相模守祐梁の孫である常陸守の子である。
天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。
朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。
他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。
仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。
虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。
諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う
(日向記)
伊東平右衛門尉の準備のいい話
559 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 14:37:30.84 ID:KtueGrNH
どこのバンパイアハンターですか
560 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 15:14:13.29 ID:yIWcRtRd
手柄を横取りしようとした他家の者の名はなんと
561 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 15:35:00.83 ID:3ZhAMKml
玉ぶっつぶれたりしないのな
562 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 17:52:38.06 ID:rvCObUkJ
いざという時のために作っておいたとっておきの弾だったのかな
563 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 23:50:15.79 ID:WiCgUgLU
見付の退口(一言坂の戦い)の時、本多平八郎忠勝はたびたび奮戦して敵を追い払い、
君(徳川家康)におかれても難なく浜松へ御帰城された。
(家康は)御途中より、成瀬吉右衛門正一をもって忠勝のもとへお言いつけになり、
「今日の働きは日頃の平八にあらず。まさしく八幡大菩薩の出現あって味方を加護して下さった」
と思し召すよし御感賞されたという。
甲州人が「からのかしらに本多平八」という狂句を書いて、見付の台へ立てたのも
この時の事である。(柏崎物語)
按ずるに伊賀路御危難の時にも、忠勝の事を「八幡菩薩が出現した」と賞された事があり、
さる武功の者ゆえ、たびたび同じ御賞詞をお与えになったのであろう。
――『徳川実紀』
564 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 14:03:45.39 ID:JaAm+k2p
南無八幡大菩薩
565 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 15:26:28.37 ID:H/FJh2D6
日頃の某ではこの働きは出来ぬと申されるか、腹を切らせていただく!
とか騒がないだけ平八さんはおとなしいねえ
566 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:06:52.13 ID:v9MORdrm
567 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:07:29.38 ID:v9MORdrm
すいません誤爆です
568 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:36:29.51 ID:416U9Ul5
してどちらのスレへの誤爆でござるかな
569 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 19:10:33.61 ID:wga2Waet
やったね鬼武蔵!金山城跡が史跡認定されるよ!
ほう。可児市になると違うね。
571 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 17:53:27.39 ID:RYTYZfjh
黒田長政の家臣である管正利は、武勇のみならず知慮も優れた人物であったので、
長政は後年、彼を家老に上らせようと思い、将軍家の御前にも家老並みに御目見を致されたのだが、
正利がかつて戦場で受けた頬の傷が次第に腐り、面相も酷く変わったため、そのことは止められた。
ではあったが、国元では家老並みに、国中家中の諸事を預かり、また長政より給わる書状にも
家老と同じく連署したという。
(菅氏世譜)
顔の傷のせいで、おそらく対外折衝をしなければならない家老には出来なかったのだろうが、
それでも実力に見合った仕事を任せ家老並みの待遇を与える、というお話。
572 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 18:37:08.01 ID:vAdoyJMQ
573 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 19:08:56.49 ID:TnTv/Zf9
家康なら、戦の傷で醜くなった顔でも何かの病気で面貌が変わっても堂々としていれば誉めそうだ。
574 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 22:36:22.51 ID:+cLt+UhQ
菅正利はwikiにどう書かれてるかと調べたら、なぜか中国語のwikiしかなかった。
ついでに、
>>572に書かれている通り、傷だらけの顔のおかげで子供が泣き止んだことから
中国ページでは「日本の張遼」と呼ばれていた
575 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 23:57:14.04 ID:v/iNQOjd
我が子の不行跡を他人に頼って異見させる親は甚だ僻言である。
愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。
自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
576 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 05:39:34.12 ID:wf7fLGbS
中村八右衛門の勇武
天正17年6月、摺上原の戦いが起こる。
両軍が激突して死屍累々の中、伊達家臣のある勇士が言った。
「あらららら、だーめだこら。こんで敵も味方もわがんねな。」
戦の趨勢はもはや決しつつあったが、逃げる敗残兵と追い剥ぎを企む兵と死体と血泥とで戦場がごった返し、敵味方入り乱れる地獄絵図となっていたのである。
「おら襲われだら面頬斬って落どすがんな。いちいち問答しでらんねーべし。悪く思うなよは。」
この言葉を聞いて回りの者たちは小馬鹿にして笑った。
「まだの、おだって。いっそ見栄ばり張ってんもんな。」
戦が終わったのち、人々の顔をよく見ると、頬に傷を負った者が散見された。
前の大言の主、中村八右衛門の仕業である。
(仙台志料)
577 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 14:13:43.66 ID:wXEh7esj
天正5(1577)年、龍造寺隆信は神代貴茂の手引きで島原に上陸し侵攻した。
有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。
隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。
さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。
578 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 14:56:08.81 ID:MqAbeISa
誰だよ・・・つか松永久秀の弟が何で今更
579 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 18:31:29.62 ID:QxqiNmx1
板倉勝重が京都所司代の時、麩屋町に寺の材木が積んであったが、いずれも印をつけず
縄も張られていなかった。
勝重はこれを見て、その場所の町役人と材木を置いた屋主をともに厳しく咎めた。
勝重は「暗夜にはどんな怪我人があるかもわからない。盲人が通らないとも限らないのだ。
僅かな事が、どれだけの人の難儀の基になることだろう。
都の地は特に国々の寄り合いなのだから、総じてこのような筋目を正して町役を勤めるように」
と言ったということである。
――『責而者草』
580 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 20:16:14.71 ID:qqzxEcEo
>>579 現代でも考えれないやつがいるのに、この時代に障害者のことまで考えて政治やってたのか
581 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 20:26:36.96 ID:fW3y00Y7
582 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 20:47:26.30 ID:CdywC1KT
シグルイの賎機検校が頭に浮んだが、あれは架空人物だったかな?検校自体は確かに超高位。
583 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 23:30:34.80 ID:XRomesF3
584 :
人間七七四年:2013/06/29(土) 23:50:07.28 ID:a/5/lKhC
先輩というか同盟相手。
歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど
585 :
人間七七四年:2013/06/30(日) 09:12:55.75 ID:svqe9QSc
天下人としての先輩って意味では?
586 :
人間七七四年:2013/06/30(日) 20:59:38.28 ID:crWtZLaO
>>583 信長は知障の人を保護したんだよな
慈悲の心ありすぎるのに仏敵っていう
587 :
人間七七四年:2013/06/30(日) 21:05:50.15 ID:HPu0gylf
>>586 信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。
588 :
人間七七四年:2013/07/01(月) 00:09:29.40 ID:gV91UkMh
>>587 政治家以外に慈悲のあるやついないのかよ
589 :
人間七七四年:2013/07/01(月) 00:20:02.04 ID:4xg1CQW2
>>588 信長は最高権力者なんだからそういうことが出来る立場じゃん
590 :
人間七七四年:2013/07/01(月) 19:40:20.23 ID:8f1b5CkQ
法は定められても行き渡るかは別問題なんだよな
現代でもそうじゃん
591 :
人間七七四年:2013/07/01(月) 22:24:52.03 ID:4xg1CQW2
関ヶ原による長宗我部家改易後、近江に流れ井伊家家臣となった福富親政は
大阪冬の陣にも出陣した。
「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に
「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」
とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、
「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」
とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると
「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」
「17人、討ち死にいたしました。」
「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」
そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。
この時、盛親公は
「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」
と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。
それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。
このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)
大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。
592 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 00:53:19.31 ID:TC+OmiSz
最上義光の時代、大和の高島に守光居士という長寿の者がいた。
百二十歳を超えていて昔のことも知っているので、多くの人々が昔話や長寿の術を学んでいた。
義光も興味をもって招き、乱世の興亡についてでも聞いてみようとした。
そうして数時間も話してみたが、どうにも無駄なことしか覚えていない。
そして長寿のこつといえば、暑さ寒さや湿気を避けて、ただ一人超然としてストレスをためず、嫌だと思うことはしないということだとか。
義光はこれを聞いて、
「あなたはそれでよかろうが、我々のような(領民をおさめる)立場では役に立たないことですな。
家臣もあなたの長寿の術を学んだらば、仕事をやめて私にまじめに仕えなくなるでしょう」
と述べ、居士を送り返した。
義光曰く「人の知恵は金銀のようなもの、はかりしれない財産をたくわえるようなものだ。
そうはいっても、仕事をしたり俗世の銭勘定も必要だ。このことを考えねばならない」とのこと。
(『太平将士美談』)
593 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 03:03:16.67 ID:JMUgaiQq
>>592 前に出た逸話で似たようなのあったな
ある武士が天下取りまでの策略考えたけど、
天下人の気苦労考えたら嫌になって、
出家して悟りひらくのを選んだ話
今回の最上さんとは逆方向に行ってるが
594 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 07:08:50.48 ID:s8KgypPU
120歳超えw年齢サバよんでるだろ守光居士
595 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 17:19:41.67 ID:LWjMtGce
渡辺幸庵「ガタッ」
天海「ガタッ」
真田信之「くっ・・・!私もストレスさえなければ!」
596 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 17:26:34.81 ID:SG0HMbHj
石田重家「真田殿、徳川の敵を父にもったその気持ちよくわかりますぞ」
考えたら信之と重家って母方の従兄弟だった。二人とも短命なわけだ
597 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 20:19:21.44 ID:rTXVgEIo
大阪夏の陣、幕府軍は遂に大阪城内に突入する最終局面となった。
私(水野勝成)は船場の道から城に乗り込もうと考え、その道筋を進んだ所、
船場方面から明石掃部の軍勢が押し上がってきた。そこは去年の大阪冬の陣で、
東堂和泉守(高虎)が仕寄せした場所であった。
敵はその道を押し上げ、鉄砲を一度に撃ち放つとそのまま騎馬の者達が突進した。
この攻撃に味方は追い立てられ崩れ、我々の手前まで逃げて逃げ駆けて来る。
私はその時馬から降りて立ち、
「卑怯者共!一体どこへ逃げる気か!?お前たちの顔は皆見知っているぞ!返せ!!」
と怒鳴ったが、聞くこともなく皆崩れ懸った。
この時私の家来である廣田図書、尾関左次右衛門と申す者達が鑓を手に敵へ向かっていった。
特に廣田図書は私のいた所から14,5町(およそ1.5〜6キロメートル)先まで進み、敵と
鑓を合わせてこれを突き倒し、首を獲ったのを目撃した。
それから私も急ぎ進んで、廣田図書の首を取ろうとした者を突き倒し、図書を討たせる事を
阻止した。そして突き倒した者の首を
「これこそ鑓下の首(相手を倒し喉に垂直に鑓を突き立てたもの)である。この首をとれ!」
と言って、岸文左衛門と言う者に首を取らせた。
そして他のもの2名が私に向かってきたが、私は彼らを突きまくった。
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を
突いてきた。私はその場でこの敵を突き倒し、傍に居た成瀬久太夫と言う者が走り出て
「この首を私が討ちます!」
と申したので、その首は久太夫に取らせた。
その後、敵は引いていったので、桜門に私の幟を一本、一番に立てた。
この時、幟奉行の神谷久右衛門と言う者を召し連れて出陣していたのだ。
二番に越前の一伯様(松平忠直)の幟が一本立った。
この二本より他に、桜門に立った幟はなかった。
(水野日向守覺書)
大阪夏の陣で、大阪城に乗り込む時の模様である。
598 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 21:18:00.17 ID:aeQlAzKj
強い人は本当に強いんだな
599 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 22:09:41.90 ID:wnAbh2d7
>>597 するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を突いてきた。
派手な格好した奴が出てきたなぁ
金色の梨子打烏帽子型の兜に鳥尾の引廻し…
そりゃ格好まで強烈に印象に残るわな
実際、こうして勝成が思い出して語ってるわけだし
やられた奴も本望かと
600 :
人間七七四年:2013/07/02(火) 22:20:38.15 ID:xFdArd2N
安土城といい大坂城といい名城が焼け落ちて残ってないな
601 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 08:48:12.34 ID:tR9aGuPf
鍋島直茂の祖父、鍋島清久が本庄の社に年越しの参籠をしたとき、
その社には既に一人の尼が参籠をしていたので、清久は尼に素性を尋ねたところ、
「一生行脚をしている者で、生まれた土地も父母も存じません」という返事であった。
清久は尼の身を哀れんで屋敷に連れ帰り、元日の祝膳を出してやり、五日間屋敷に置いておいたところ、
よく気が付いてこまめに立ち働くので、約束して夫婦になった。
この妻が産んだ子が、直茂の父である鍋島清房だということである、妻の名は松月妙栄(妙英とも)と言った。
清房が三歳になると、妙英は清久に暇乞いをし屋敷を出ていった。
清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず、ついには筑後川を越え高良山の方へ向かい、やがて行方が分からなくなったという事である。
葉隠から、ちょっと不思議な話。
おとぎ話みたいだな。
602 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 13:38:57.93 ID:dTwRYJ14
九州だから猫岳の猫かもしれんな
603 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 14:02:01.16 ID:fycOV6BR
鍋島のほうが化け猫だったのか
604 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 21:27:31.89 ID:TmhV5QdQ
>清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず
左慈を追いかけた許褚思い出したw
605 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 21:51:27.05 ID:iNC3M3XN
本当は遊女に産ませたのを、跡取りが遊女の息子とは聞こえが悪いので、
行脚の尼ということにしたのかなと思った
606 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 21:58:33.29 ID:HEsRDELb
「三国志演義」には許チョが左慈を追っかけるが追いつけない、て描写があるが
「三国志」「後漢書」「捜神記」「神仙伝」といった書物には左慈と許チョの話はでてこないはず
「神仙伝」には孫策が馬で左慈を追うが、どうしても追いつけなかった、て話があるから
そちらのほうが例としては適当かと
607 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 08:26:16.04 ID:rQA4dZJ8
608 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 18:08:04.17 ID:q3xkEGJ6
或説に、信長公が伊勢国浅香の城を攻められた時、秀吉公は先陣にて
城主の大宮大之丞に左の股を射られながらも追手の門を打ち破って攻め入りなさった。
そのため信長公はとても感心なさって「昔の朝比奈義秀にも劣らない」と
のたまったので藤吉郎はたいへん喜び、『義秀』を顛倒して『秀吉』と改められた。
ただし『義』の字は公方の諱を憚って『吉』の字に変えなさったと云々。
(江源武鑑に、佐々木義秀の諱を授かり、秀吉と名乗り給ふとあり、
かの書は、偽作なれば採るに足らず)
――『新東鑑』
609 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 18:11:25.42 ID:XtivCs9V
背の低い秀吉をみて朝比奈三郎扱いって無理がありすぎる
しかし親父の諱は考慮しなかった、てことか
610 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 18:15:45.49 ID:9G8lPEZd
縮地法か、北の将軍様とやらも得意だったとか
611 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 18:19:21.04 ID:9G8lPEZd
>>609 『新東鑑』と言うだけあって吾妻鏡に無理でもこじつけたんかねぇ
612 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 02:45:02.26 ID:pyXRG0Tz
利長、未来への遺産
「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。
関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。
利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。
613 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 03:30:50.27 ID:STkZBiM/
神通川…いや、なんでもないです。
614 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 03:48:56.63 ID:2oT87jeU
赤座さんが溺れたのは庄川だっけ
615 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 05:47:23.85 ID:pyXRG0Tz
>>613 アレは飛騨からの汚染だから越中は被害者なのよ
616 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 18:24:48.86 ID:6IvEpCWo
或本に、本多飛騨守成重は作左衛門重次の子息なり。童名は仙千代丸(おせん)、
成人して丹下と称す。
父重次が訳あって上総国小原の荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時には御後に陣を構え、慶長18年に越前国の丸岡の城を賜って
忠直朝臣に属せられる。
5月7日に、一番に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵2騎を切って落とし、
大勢の敵を追い崩し、首273を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より
城に乗り込み、あちこちに火をかけて首28を切った。
手勢の者たちは討たれた者5人、傷を被る者7人であった。
元和9年、忠直朝臣が配流の後に再び将軍家に召され、慶安4卯年12月に卒す。
時に62歳なりと云々。
――『新東鑑』
実際の没年は正保4年で76歳。
617 :
人間七七四年:2013/07/05(金) 23:53:10.23 ID:UoH+26jL
武将の履歴書書き出されたらきりがないんだけど
618 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 00:00:33.15 ID:ITK1TnaR
いい話でもなんでもないし。
むしろ、譜代の重臣の没年も知らなかった新東鑑作者の悪い話?
619 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 00:17:34.97 ID:O3JwR3TQ
享年間違われて草葉の陰でおせんが泣いている悪い話か
620 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 07:42:34.85 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その1
祐兵様は都から一里ほどの松山(セウセン)と言う城に文禄二年二月より
在陣していたが、このとき馬の飼料が尽きて難儀に及んだ。
これにより祐兵様は假屋原甚右衛門尉満次を呼んで「昨日、島津又次郎
家中の者が大豆を求めに出たが、唐人多人数が現れて半弓で射たて、是
を追ってきたので、手負い数人を出してむなしく陣屋へと戻ったと聞く。
汝は才覚をもって筏を組みモクソ川を渡って大豆を求めてくるように。
警護の為に鉄砲足軽十五人を差し添えよう」と仰せられた。
假屋原は難儀な事だとは思ったが断わりようもなく、陣屋を出てモクソ
川を渡って大豆二十五石を得て、その上テルマカクセイの郷民等十八人
を捕えて戻ってきた。
(日向記)
朝鮮陣のところでやたらと假屋原甚右衛門の記事があったので、三部作
として書き込みます。
ところで島津又次郎って誰なんでしょう。
621 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 07:43:08.77 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その2
祐兵様が朝鮮国楚天(泗川)に在陣していたとき、兵糧が既に尽きよう
としていた。そこで假屋原甚右衛門を呼んで汝が才覚するようにと
仰せられた。
甚右衛門は警護の足軽十人を召し連れ田里へ出て人跡山林を見回って
みたころ、洞穴を隠したような怪しい所があるのを見つけて掘りかえ
してみたところ、穴蔵が三つ見つかった。
甚右衛門は大いに喜んで、大小豆大小麦を掘り出して馬を探しだし百駄
をつけて帰ってきたと言う。
(日向記)
「前回と同じパターンかよっ」と言いたくなる出だしですが、それだけ
朝鮮陣では兵糧馬糧の手配に困ってたんでしょうね。
隠し倉庫を見つけられた住人にとってはとんだ災難でしょうか。
622 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 07:43:58.22 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その3
祐兵様が清館に在陣していたとき、士卒を船に乗せ蔚山へと鴨狩に
遣わされたが、この時、伊東平右衛門と家僕一人、曽我弥三郎が同道
して三人で奥深く遊猟していた。
假屋原甚右衛門はこの三人と途中で行き会い、甚右衛門は平右衛門に
対して「少人数で奥深く入られると伏兵にあって難儀するでしょう。
早く引き返して下さい」と申しあげた。
平右衛門は血気盛んな若武者であったから「何ほどの事があろうか、
其の方も来られよ」とさらに奥へと向かった。
甚右衛門はこれを見捨てがたくともに遊猟していたところ、案の如く
韓人三十人余りが現れ半弓をもって射たててきた。
多人数に対抗するすべもなく引き上げようとしたが、弥三郎は皆とは
離れていたので早々に討たれてしまった。
平右衛門と家僕、假屋原の三人は離れずに引き退いたが、厳しく追い
迫ってきたので、道の端にあった少し切り立った場所を後ろ盾として
襲い来る韓人を切り払う事、三・四度に及んだ。
これで討ち取り難いと思ったのか怯む色が見えた所で、三人一緒に
切って出て追い払った。
この時、平右衛門は二ヶ所、家僕は三ヶ所、假屋原は六ヶ所を負傷
した。平右衛門主従は深手であり歩行も叶い難く見えたので、韓人が
うち捨てた半弓を手輿としてこれに乗せ、舟へと戻って帰陣した。
祐兵様はこれを聞き「假屋原の働きにより平右衛門の命が助かった」
と肥田木伝右衛門を使者として備前祐定の御刀を褒美に与えられた。
(日向記)
ようやく兵糧探し以外の話です。大名でも中川秀政が狩猟中に討たれ
たりしてるから、敵中の狩猟は危険だったのでしょうね。
なお伊東平右衛門は以前の逸話にも登場した虎ハンターです。
623 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 18:05:14.53 ID:WbhhgLau
ググってみると小田原の北条氏家臣ってのしか出てこんね>島津又次郎
624 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 18:36:58.55 ID:VdEudswC
>>623 そうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。
次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・
625 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 20:12:30.51 ID:ARBe2bS+
前田利常公の時代のこと
山本瀬兵衛は御用によって、小松から金沢に召されたのだが、いつもどんな用であっても、
召された時には軽いものを利常公に献上していたのに、この時はうっかり忘れて来てしまい、
台所奉行の佐藤久右衛門の所に行き
「何でもいいので、手頃なものが有れば貸して頂けないだろうか?後で同じ物をそろえて返すので。」
と聞くと、「今朝方どこかからサザエが一折来ていたが」とのことなので、それを借りた。
ところが、その時期はちょうど夏であったため、サザエのうち1つか2つ、臭うものが有り、
「主に腐ったものを贈るなどあるものか!」
と、受け取った利常な以ての外に機嫌が悪くなり、そのため右筆の中村久越殿が山本の所に
やって来て、彼を散々に叱りつけ、この事を聞かせると、山本はしかし
「これは近頃迷惑なことです。私は急に召し出されたため、献上品を忘れてきてしまい、
台所に行って佐藤久右衛門殿に『何かあったら貸してほしい。後で揃えてお返しする。』と言って、
サザエを借りたのですが、その時私は焦っていて、それをろくに確認しませんでした。
そのため、少し悪いものがあったのでしょう。」
と言い、この事が中村久越から申し上げられると利常は
「それが申し訳になるものか!それは田舎たわけの披露というものだ!
佐藤久右衛門は田舎ぶりの抜けない人間で、それ故に信頼していたのに、久右衛門は
親や子供には知らないが、人に物の用に立つものを貸さないような者であったのか!
そのような人物を重宝して台所奉行に置いていればそれは、前田家全体が田舎一門と
見られてしまう。それはたわけの至極である!早々に調査をせよ!」
との御意であったので、次の日山本瀬兵衛が、再びサザエを佐藤久右衛門から取り寄せさせた所、
今度は初めのものより大きく新鮮で、見事なものをくれ、しかも目録に印まで押して遣わされた。
これを見た前田利常は
「久右衛門は山本瀬兵衛の事をちゃんと心に懸けておるわ」
とお笑いに成り、中村久越は山本に「昨日はお叱りになったのに、今日のサザエは見事だと、
お褒めになっていたよ」と伝えて笑われた。
この事は私(著者)の亡父である、山本瀬兵衛が話したことである。
(微妙公夜話)
626 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 22:26:04.83 ID:vX30mZNK
>>625 献上品を借り物で済ましてるのに、そのこと自体は怒らないんだな
627 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 09:32:25.66 ID:5K76/cB6
あ゛あ゛あ゛あ゛面倒くせぇwwww
昭和時代の盆暮れの挨拶よりも面倒くせえよよよよよ
628 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 17:51:09.48 ID:5PR2IANo
「武士の家計簿」でもやれ挨拶だの祝いだのお礼だのって金かかってたな
あれも加賀藩だったけど
629 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成は徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。
正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。
程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。
その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。
――『東叡山開山慈眼大師縁起』
630 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 19:21:44.33 ID:4dLEp5fA
>>628 映画ては演出かもしれないけど
膨大な借金か抱えて家財道具売り払っても残り十年返済で事を納めたんだよな
631 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 00:04:04.75 ID:GuwzKjER
この暁に三人様がお越しくださってありがたく思います。
あれこれ考えましたが、色々お望みされても、樂茶碗を皆様には準備できません。
私の手元の「大黒(おおぐろ)」は紹安(利休実子の道安)へ譲りたいと思っています。
「早舟」は松賀嶋殿(蒲生氏郷)にお届けしたく思います。
茶碗を早く欲しがっている越中様(細川三斎)もその事はご了解頂けないと困ります。
「大黒」を道安に、「早舟」を松賀嶋殿に与えるという事を古織様(古田織部)とご相談頂き、今日中に済ませてください。
明日には松殿(氏郷)は伊勢松ヶ嶋に戻られます。
「早舟」については仕方ありませんし、お届けする事は難しいです。
越中様もご理解くださいまして、
右の通りに「早舟」は氏郷殿に、「大黒」は紹安に与える事に致します。
申し訳ないですが、そのように致します。
天正十五年頃、利休が作らせた黒茶碗という名物に
利休の弟子の三人(三斎、織部、他一名不明)が強く魅入られ
唐物とは別の新しい茶の湯の形が出来上がっていく当時の事情が伺える書状である
632 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 00:25:08.53 ID:dyP9ywVX
>>631 茶の湯批判した武士の言葉も残ってるがなんかわかるな
いらぬ争いや、いらぬ浪費になる部分が茶の湯にはあるかもね
633 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 08:05:31.03 ID:ArubJxJS
石見、出雲、伯耆と言った国々は吉川元春公の管轄する国筋であったため、公は別して
御油断なく、御心を使っておられた。
しかし、それでもその統治には非常にご苦労が多く、下々までも疲弊し根気を尽くしてしまい、もし合戦があれば、
軍は弱体化し敗北に及ぶであろうと、過半の人々が思っていた。
しかしそう言う時に元春公は、帰路の道における橋などを外され、わざと帯紐を解かせ背中炙り(背中に日を当てること。つまり上半身裸)
の姿となって、川を渡るようなことが度々有った。
(老翁物語)
意図が解るような解らないようなお話ですが、たしかになんだか凄そうです。
634 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 20:51:30.26 ID:IOjK+Hvw
754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:52:29.96 ID:IhonAuQA
実戦期である戦国時代の甲冑がそのままの状態で残ることは極めて希で、
身分の低い雑兵のものに至っては単なる消耗品なのでまず現存しないという。
実戦期の軍装の詳細についてはよくわかっていない点が多い。
その点、当時の日本を訪れた宣教師や、文禄・慶長の役で実際に日本の鎧武者を目撃した明・朝鮮人の証言は
誇張や卑下表現が含まれているとしても、参考になると思う。
何故なら日本人にとっては当たり前でいちいち記録に残さないような事柄でも、異国人である彼らには
驚きの目で捉えられることが少なくないからだ。
というわけで、以下にまとめてみた↓
「我々の武装具は極めて重い。日本の物はとても軽い」
「我々の甲冑は、すべて鋼鉄で出来ている。彼ら(日本人)のは角または革の薄片を、縒り糸で縫い合わせたものである」
「我々の兜は瞼甲(ヴィゼイラ)を着ける。日本人は顔に悪魔の半分の仮面を着ける」
・・・ポルトガル、ルイス・フロイス「日欧文化比較」
「倭国軍は鬼や獅子の面を被っていたので、人馬が驚いて退き、ぬかるみにはまって動けなかった」
・・・明国、宋応昌「両朝平攘録」
「奇怪な身なりをして敵を驚かせ、牛頭に鬼面をした者もある」
・・・明国、李睟光「芝峰類説」
「おおむね倭人たちは紅黒の鉄の甲冑を着て色とりどりの鉄兜を被り、口角には髭を縦横に生やし
鉄広大(鉄の衣を着た道化方)のような姿をしており、金冠の黄金色の羽根・金挿・羽衣・羽箒・螺角などことごとく奇怪な形相である。
奢侈であり、鬼神のようでもあり、獣のようにも見えたので、これを見る者、驚かざるをえなかった」
・・・李氏朝鮮、李舜臣「忠武公全書」
「華麗多く虎皮及び鶏尾をもって戦服を作り、金銀をもって仮面を拵え、馬面及び人面を表す、それは偽り驚かすこと甚だしく、
人の眼に眩いばかりに光り輝いた。壬辰年に敗退した軍の者たちは皆、虎・豹・水石の怪物が一時に出現したようで、不覚にも気を失い、
魂を奪われたと言っている」
・・・李氏朝鮮、姜侃「倭情録」
635 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 21:13:13.43 ID:BwAmEKdz
姜ハン「看羊録」にも確か、
獣の皮を軍服につけるようなコケオドシに驚いて逃げてどうする、と
朝鮮軍を批判している箇所があったような
ついでに、日本ではしょうもない茶碗に何両も出して馬鹿じゃないのか、と書かれた箇所も
636 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 22:47:23.83 ID:L5vtjPnZ
ただ転載してくるんじゃなくて
もうちょっと体裁整えてほしい気がするなあ
637 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 22:50:27.86 ID:pEeQQoRE
結局雑兵の装備の話ではないのか
638 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 23:09:28.67 ID:L5GXRMT6
ドラマとかだと面頬がされないこと多いからな
やっぱり面頬あってこその具足だと思うぜ
639 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 23:55:15.53 ID:dyP9ywVX
日本てやっぱ南方系の戦闘文化も混じってるんだな
マレー系やポリネシア系も獣装ったりするでしょ
640 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 08:41:13.66 ID:gVAVZrex
>>637 おおむねって言ってるから多分雑兵含んでるんじゃないか?
意外に着飾ってたんだな
雑兵は鎧もつけないってのは嘘か
641 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 11:55:36.06 ID:x5lDZsPG
雑兵と言っても朝鮮征伐に出たような人はほぼ正規兵みたいなもんだろ?
人数とか装備とか揃えて出してるだろうし
戦国中期ぐらいまでの地侍が集めてきたようなほんとの雑兵(?)はバラバラだと思う
642 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 11:57:44.64 ID:OOoYPZdE
ルイス・フロイスのは雑兵っぽいな
643 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 12:15:12.26 ID:KgHgRreq
>>641 大名直属の兵でさえ装備が揃ってるのは珍しいよ。
しかも豊臣政権は軍役が過重だったから、どこも人数を揃揃えるのに苦労して
地侍層も動員されてる。
644 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 15:23:57.54 ID:662ovtGo
牟田家は代々龍造寺に仕えた武辺の家で、神崎郡に住んでいた。
天正12(1584)年に島原有馬の陣で隆信が戦死したとき、牟田家の紀伊守家式もともに戦死したが、
その次男である信式は、天正4(1576)年のころ讒言により武雄に逃れ後藤家信の家臣となって外助を称し、犬走に五十国の領地を得て、
以降幕末明治に至るまで後藤家に忠勤をはげんだという。
慶長5(1600)年、鍋島家は関ヶ原で西軍に加担したが、家康より許しを得柳川立花家を攻めた。
後藤家信の子茂綱も2500の兵を率いて参陣し、信式の息子である二代目外助もまた弟助九郎とともにその戦列に加わった。
この戦いでは立花方もよく守り戦ったので、鍋島方はどうしてもこれを破ることができなかった。
そこで外助は単身で敵陣に切り込み、軍扇を以て見方を誘導し、ついに立花方を崩すことに成功した。
しかし外助は敵兵のために斬り死に、弟の助九郎もともに戦死した。
兄外助21歳、弟の助九郎は19歳であった。
茂綱はこの兄弟の死を深く憐れみ、その墓を武雄円満寺に建て、厚く弔った。
山内町史(現武雄市)より、武雄牟田家の逸話でした。
ちなみに外助の遺児六兵衛はこの時1歳で、後に茂綱に従って島原の陣に出陣して功を上げ、
茂綱の死去した際には、生前の寵恩に報いる為に殉死したと書いてあります。
子孫は幕末武雄の近代化軍隊の装備充実に貢献し、戊辰戦争でも大砲隊の隊長として活躍したということです。
645 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 18:13:17.65 ID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。
池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。
奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。
(關原軍記大成)
長束正家の最後の模様である
646 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 19:48:38.95 ID:jxIXN26k
>631訂正です
六行目 誤:道安 正:紹安
647 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 20:43:35.15 ID:Sks87be+
細川越中守国替之事
いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。
藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。
嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、
慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。
家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた
立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立
(丹州三家物語)
細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。
648 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 22:03:30.53 ID:d5OfSJvu
>細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが
日本語でお願いします
649 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 00:30:45.73 ID:p4PW85Qg
日本語はどうでもいいけど武将の履歴書はキリなくなるからな…
なんでも「○○の模様である」って言えば逸話になるってもんじゃないぞ
>>644なんかは単身で敵中に飛び込んで〜ってあたりでオリジナリティがあるからいいけど
650 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 03:02:30.93 ID:lOqBGKNW
651 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 04:39:31.35 ID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について
織田信雄の遺作
大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。
「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。
昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。
652 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 09:23:52.32 ID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。
653 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 12:33:23.71 ID:UTGj2i6t
>>652 でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな
654 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 16:05:11.98 ID:oZdMkUTU
稲富(祐直)と言う者は。奇妙希代の鉄砲の上手であった。
その技術の妙を語っても、未だそれを実際に見たことのない人間で「そんな話は信じられない」
と思わぬ人は居なかった。
稲富が常に使っている鉄砲は一両から八匁弾(約40グラム弱〜30グラム)に限り、
その町間も8町(約870メートル)以上は好まなかった。
8町よりうちの物であれば、火蓋を切って当たらないというものはなかった。
あるいは闇夜に、狐や狼の声を聞きすえて、闇中で仕留めるのは、ただ箱の中の物を拾うがごとくであった。
稲富は25歳の時に橋立大明神に17日間断食して、目くら撃ちという工夫をしたと聞く。
十能十藝、いにしえより手練のものは多いが、離れたものに当てる飛び道具で、稲富ほど
精妙な者は未だ聞いたことがない。
(丹州三家物語)
稲富祐直の鉄砲の技術について伝える逸話である。
655 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 16:38:15.83 ID:0LWdkB0+
870メートルともなると本当にただ当たるだけなんだろうなあ…
>>652 でも智者より仁者のほうが格上っぽいw
656 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 17:21:06.89 ID:xgCwvMxK
ライフリング無しだと絶対に着弾がばらつきそうだけどなあ
657 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 17:45:29.34 ID:sdeKJFjI
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{ {(l { ノ | | ヽ :: }| ソ/
ヽヽ|.{ / | | \ i.|// 確実に仕留めるのは八町までだ
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人 \ .!''''" ̄~ ̄`''! / 人
./ | .\ ,\ '-"" ゛-' / / | .ヽ
ノ .{ \ .ヽ,., .: ,イ / } ヽ
-'″ l `' 、`.───″ .} ヽ
658 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 22:14:04.59 ID:yUQUoM1X
※ただし目の前の虎は除く
659 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 22:16:47.14 ID:vQUXyBbc
※ただし実戦には使えない
660 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 01:35:01.18 ID:m1TV0Nsx
のちの八町ミッソーである
661 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 17:42:24.24 ID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。
文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。
女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。
すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。
先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。
――『東叡山開山慈眼大師縁起』
662 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 20:04:36.76 ID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。
佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。
兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。
天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。
佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。
ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で
「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」
「それは十時と申す者です。」
そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。
「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」
「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」
そのようなことを語ってくれた。
天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)
水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。
663 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 20:05:54.43 ID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど
664 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 21:39:15.45 ID:eYSg+cGL
>>654 スペンサー銃を持った八重以上の腕前だね
※但し、実戦を除く
665 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 22:55:07.23 ID:+RrdzeUR
藤堂高虎 供養の茶園
藤堂高虎は加藤嘉明とは犬と猿だったそうだが、
加藤清正については憎からず思っていたようである。
藤堂和泉守高虎は忠厚にして、また故舊に厚し。
肥後の領主加藤忠広が国替えとなった時、
その父加藤清正の位牌は、京都の本國寺にあった。
だが、もはやそれを祭る者もいなくなってしまった。
これを憂えた高虎は、
「あれほどの茶人であったのに・・・」とでも思ったのであろう、
宇治に茶園を置き、清正の供養にあてた。
そこは歳月を経てもなお、絶えることなく茂れたという。
「茶道美談」
666 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 23:01:34.74 ID:mNzfjgk3
それほどの茶人なのに、なぜ落語の「荒大名の茶会」では作法を知らないことに
さすがに三歳様は作法に詳しいことになってたけど
667 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 23:09:28.69 ID:0q3JhaWw
そういえば、あの話には高虎は出てこないな。
668 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 06:32:18.03 ID:xYgqJVLO
清正「茶もいいけど、酒の方が…」
669 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 08:36:02.13 ID:I3PfL6gs
毎日、髭を扱きながら精進したんだろ
670 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 08:49:41.95 ID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事
祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。
右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。
これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。
右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。
(日向記)
山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。
671 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 10:45:58.64 ID:ljsgihvP
>669、髭を茶筅にするわけですね。わかります
672 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 14:43:24.52 ID:TSNLLwvw
>>670 家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か
673 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 15:43:44.57 ID:Z6dCIJ8o
>>672 その人です。
三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。
674 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 20:10:02.04 ID:XFzDdm9d
南龍公・徳川頼宣は天下の人が仰ぎ見る勇猛な人であったが、ある時、紀州藩の
附徒歩の衆に盗みをしたものが在り、頼宣はこれを庭前に引き出させると、自ら業物を
抜き放ち、袈裟懸けに斬って捨てた。
そして徒歩頭の水野甚三郎を諸士並み居る中に呼び出し
「甚三郎!自分の組下にこのような悪人が居ることも知らぬ愚か者め!
汝もこのように罪人を斬って見せよ!」
と、怒鳴りつけた。
甚三郎は主人と言えども、諸人の面前でこのように辱められたことに強く憤り、頼信が
奥殿に下がった後、感情が爆発した
「親の心すら子知らず、という!ましてや組子の心の中など知る事ができるだろうか!?
なんと無理なことを仰せ付けられるのだろう。
侍に対しこのような辱めを受けた以上、御奉公も今日これまでである!面白からず!」
そう叫びながら脇差で髻を掴んで切り払い、家にも帰らず和歌山城下を立ち去った。
翌朝、頼信はこの甚三郎の小舅である、水野淡路守重良を召し出し
「淡路!其方の親類であるが、徒歩頭の水野甚三郎はよくよくのたわけ者である!
私の耳に入るまで、組下の者が城下にて盗みをいたすを心得ず、私がその者を手討ちにして
恥ずかしむれば、主に暇をとって立ち退く有様である。
淡路、汝の親類であるぞ!いかに心得るのか!?」
そう言って淡路守を叱責したが、淡路守重良も甚三郎の小舅であるので申し開きをすることも
憚られ、ただ頭を伏して当惑するのみであった。
その時、傍にあったのは徳川家康によって頼宣に付けられた安藤帯刀直次であったが、
彼は頼宣が淡路守を責めるのを聞くと、こう、声を上げた
「淡路守殿!甚三郎を呼び戻されよ!」
淡路守は御前であるのでとかくの返事も出来なかったが、帯刀は再三同じ言葉を繰り返したため、
頼宣も気に触り、彼の方を見て言った
「帯刀は何と心得てそのように言うのか!?組下に悪人があるのを知らず、それを咎めれば
主に暇をとって立ち退くような奴を、戻す道理などあるものか!」
帯刀、頼宣に向かって
「親の心も子は知らず、まして組子の心など、頭が知れるわけがありません!
これは無理なご批判でござる!」
しかし頼宣は納得しない
「帯刀は知らないのか!?権現様(家康)の時代、徒歩の者が奥女中に文を遣わすという
罪を犯した。そしてその罪で徒歩頭の松平若狭守は改易になったのだ。そのような先例もあるのだぞ!」
これに帯刀は立ち上がり、頼宣を睨みつけ、大声で怒鳴りつけた
「権現様も、凡夫ではありませんか!決して仏でも神でもない!
親のしたことであっても、阿呆なる事まで子は学ぶべきでしょうか!?」
(権現様も凡夫にて御座候ぞ、佛にても神にてもなし。
親のしたる事にても、あほうなる事は子はまなぶ物にて候歟)
そう言い放つと御前を退出した。
(徳川武士銘々伝)
安藤帯刀直次の、強烈な換言についての逸話である。
675 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 20:57:02.54 ID:x78r2ohj
安藤さんその後どうなったんやろ?
676 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 22:21:19.39 ID:o9g1z5M4
いつもの安藤帯刀さんですね。
677 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 22:33:00.71 ID:XsRHo0Kf
>>675 この程度で安藤帯刀をどうにかしていては
紀州の主は務まらない
678 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 07:11:51.75 ID:SnZQXFKP
頼宣も叫ぶ、勘三郎も叫ぶ、帯刀も叫ぶ、今のドラマみたいだなw
679 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 08:55:55.31 ID:a0sRqpWE
頼宣と帯刀っていつもブチ切れあってるけど仲いいよな
680 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 09:23:56.08 ID:Ws5UmFIv
ただ仲が悪いからブチキレてるワケじゃないしね
681 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 10:47:22.62 ID:jAEdRPYB
なんだ、ただの三河武士の日常じゃないか
682 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 10:51:25.70 ID:CojEoLp9
仲が良いと今言ってるのは諌言だと受け止めて貰うのが大変だから強烈になっていくんだろうな
683 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 12:44:55.40 ID:5Gws/2E1
諫言ってほんとうに難しいよな
主従相互の信頼感が無いと絶対にできない
その点この二人は、なんのかんのでちゃんと信頼しあってるよね
ちょっと強烈すぎるけど
684 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 21:52:07.36 ID:p+FSF0e8
685 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 22:35:12.97 ID:cHx6w69f
徳川家康の家臣、清水久三郎は徳川家の古い侍であったが、家康が江戸に移った後は
榊原康政の組下として上州館林に在った。
ある時、久しぶりに江戸に出府し家康に謁見しようと登城したのであるが、江戸に来てみれば
昔とは何事も異なり、如何にも将軍職の居城に相応しい、広大なものとなっていた。
久三郎はあまりの広さに打ち驚き、玄関のあたりをただウロウロして、どうして良いのか解らぬ
有様であった。
ちょうどその時、昔の朋輩である旗本の某という者がそこを通りかかった。
久三郎が戸惑っているのを見つけ
「やあ、久三ではないか!一体いつ江戸に登られたのだ!?
いやはや、関ヶ原の御勝利の後は、御城も今見えるように、かように広大となったのだよ。
どこに行かれるのかな?私が案内いたそう。」
久三郎、ホッとして嬉しそうに
「これはこれは、某殿ではないか!一別以来だが、ご健勝だろうか!?
この久三郎も久しく大殿様(家康)にお目にかからず、御ゆかしく存じ上げ、
にわかに登城したのだよ。」
「そうであったか。御次の間はこちらである、私の跡をついて来られよ。」
そうして久三郎を案内し、小姓衆に頼んで、清水久三郎がご機嫌伺いに参ったことを伝えてもらうと、
家康も機嫌よく、「久三郎ならここへ呼び出せ」と言い、久三郎は家康のいる居間に通された。
家康はにこやかに
「久三郎、息災か?この頃は館林に居るようだが、田舎であれば色々と不自由もあるだろう?」
と懇ろに声をかけると、久三郎は
「いいえ、不自由なことは特にありません。ですが、濁り酒ばかりで、澄酒(清酒)の無いのには
閉口しております。」
家康笑って
「酒飲みが、田舎に住んで良い酒が飲めないのは一段不自由であるな。
好き酒を取らせよう。」
と、小姓を呼んで
「台所の役人にこう申せ、久三郎は酒好きゆえ、極上々の酒樽を遣わせ。」
やがて二人の小姓により酒樽が運ばれ、久三郎は三河以来の話をして、酒樽を賜いて席を退いた。
帰る時、家康は小姓二人に、玄関まで案内をして送らせた。
小姓二人が帰ってくると、家康は彼らに「何関わったことは在ったか?」と聞いた。
「別段、何も変わったことはありませんでした。ただ、御玄関まで見送った時に、私達両人に、
大儀なりと申され、銀銭2枚取り出し投げ呉れられましたが、いい気持ちはしませんでしたので
そのままに捨て置きました。」
と、少々憤って言う。家康はこれを聞くとまた笑い出し
「あの久三郎が銀銭などを持っているはずがないが…、ああ、思い出したよ。あれは姉川合戦の時のことだ。
久三郎が織田信長から武功の褒美として、銀銭を数多貰ったことが在った。
お前たちに投げた銀銭は、その時のものだろう。
久三郎はああいう武骨者だが、無双の勇士であるぞ。お前たちは彼の武勇にあやかるよう、
その銀銭を守袋に入れて、首に掛けよ。」
と語ったそうである。
ちなみに久三郎、玄関より酒樽を持って帰ろうと思ったが、重かったので、
スルスルと股ぐらから下帯を引き解き、それで樽をくくり肩に引き掛けて帰っていったという。
(徳川武士銘々伝)
686 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 23:14:47.02 ID:eMFvHqET
家康、記憶力すごいよな
どのくらいの家臣の顔覚えてるんだか
しかし最後下帯ってw
687 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 23:40:01.75 ID:a0sRqpWE
権現様の記憶力すげええと思ったのにオチがwww
688 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:12:23.32 ID:b5vxQ4Qx
武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は家臣たちから常に信玄と比較され、やりづらい
思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)
689 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:14:52.69 ID:b5vxQ4Qx
>>688の続き
手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。
690 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:26:11.49 ID:b1n0iIqo
>>689 この逸話の出典は何でしょうか?
どこかで読んだような記憶があるんだけど思い出せなくて
691 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:34:19.15 ID:OpO7ySR5
甲陽軍鑑あたりじゃないの
長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる
692 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:36:59.79 ID:FMG1rW/R
なんでこんなに嫌われてるんだろう
693 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 15:50:01.36 ID:b1n0iIqo
甲陽軍鑑では跡部はいつの間にか逃げたことになってたし、
最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね
最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな
694 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 16:09:47.10 ID:b5vxQ4Qx
>>690 688-689の話は武田三代軍記をもとにしました
695 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 17:54:58.86 ID:E2EHQAbj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7686.html こちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物
水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』
ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)
さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
と『福山開祖・水野勝成』に書かれている
696 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 17:57:38.20 ID:RVtyxwpQ
>>695 現代の雑誌からの引用って、著作権的にマズいだろ
697 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:06:18.98 ID:8ibW5COi
引用自体は著作権的に問題じゃないよ、ソースも明記されてるしね
引用に関してのルールってのは結構複雑だけど、少なくともこういう引用は許諾もいらない
698 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:06:45.51 ID:E2EHQAbj
そうなのか?
著作権などという難しいことはなにも考えずに書きこんだ
反省している
699 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:08:38.98 ID:E2EHQAbj
700 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:10:07.64 ID:RVtyxwpQ
>>697 ここまでの引用は限度を超えてると思うぞ
701 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:15:35.35 ID:E2EHQAbj
>>700 引用云々がそんなに面倒臭いとは思わなかったな
ちなみにあたなが心配している現代の雑誌から引用したのは、この一文だけ
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
702 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:17:26.71 ID:lK0ElBHH
>>700 > 引用は権利者に無断で行われるもので、法(日本では著作権法第32条)で認められた合法な行為であり、
> 権利者は引用を拒否することはできない[3]。権利者が拒否できるのは、著作権法の引用の要件を満たさない違法な無断転載等に限られる。
> 要件
> 文化庁によれば、適切な「引用」と認められるためには、以下の要件が必要とされる。
> 最高裁判所昭和55年3月28日判決[4]によれば、適切な引用とは「紹介、参照、論評その他の目的で著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録すること」とされる。
> ア 既に公表されている著作物であること
> イ 「公正な慣行」に合致すること
> ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
> エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
> オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
> カ 引用を行う「必然性」があること
> キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
>
> ? 文化庁 (2010, §8. 著作物等の「例外的な無断利用」ができる場合 G ア、「引用」(第32条第1項))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%94%A8 引用は「正当な権利」であり、この場合「要件」にも合致しており、何ら問題はない。
引用の範囲を狭く取ろうとする考えのほうが学術的にも記念だよ
703 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 18:25:12.98 ID:lK0ElBHH
704 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 18:51:44.42 ID:wcFOw4zh
天正三年より、加藤嘉明は近江長浜の羽柴秀吉に仕えた。
秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。
天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、
「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。
――『加藤嘉明公(家譜)』
705 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 18:50:44.56 ID:PbZX7DTZ
本多美濃守忠政は「昔から自分が楽しもうとして天下を望まれる主君は、
人が長く楽しませぬものと思われる。我が主君の御側に仕え、朝夕見奉って感じたことだ」
と言った。
また「今とても富める者がいたとして、他人に『十年のうちに家を潰し、朝夕の生業も
ままならなくなるだろう』と言い聞かされて怒らない者がいるはずはない。
しかし、贅沢を教えて淫酒を勧め、家を亡ぼさせて困窮に及ばせても人は怒らない。
これは愚かな例えではあるが、深く覚悟すべき事だ」と言った。
――『責而者草(太平将士美談)』
706 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 20:12:45.83 ID:w1rOqJDb
有名な「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」の三河三奉行の一人、
高力与左衛門清長について、これは三河一向一揆の時のことである。
高力の家の領地、高力郷は、一向一揆の本拠地といっていい土呂郷の隣であり、
一揆の脅威の正面に在り、領内の騒擾甚だしく、家康からは濫妨の禁止を命ぜられたものの、
一揆方よりの狼藉を止めることは難しかった。
そこで高力は思案し、高力郷中の仏像経巻を全て一ヶ所に集め、安全な場所に保管した。
一向一揆が静まると、高力はそれらの仏像経巻を取り出して元の寺々に返した。
これに寺僧はもちろん、郷民たちも大いに喜んだ。
これより後、人々は高力清長の事を「仏高力」と呼ぶようになったという。
(徳川武士銘々伝)
「仏高力」の名の由来について、こういう話もあったんですね、という逸話。
707 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 21:57:42.31 ID:Z2pSvH9S
708 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 22:28:06.25 ID:TtpWh5Rh
小田原が平定され、井伊直政は箕輪に封ぜられた。
移封される前に秀吉が直政を召して言った。
「汝が10万石(実際は12万石)の封を得たのは、
我が汝の多大な戦功や働きに感じ入り、徳川殿に勧めたからである。
我の厚意を知ったからには必ずその事を忘れぬように」
直政は拝謝して答えた。
「殿下の御厚意はこの身が終わるまで忘れません」
続いてまた秀吉が言った。
「ならばもし、豊臣と徳川の両家が信を失い、東西兵を構えることになったら、汝は誰の為に忠謀をなすのか?」
直政はこれに答えた。
「私の身命を賭して、死を以てして必ずや両家の御和睦を成してみせます」
秀吉は甚だ感賞して言った。
「汝は将才のみにあらず、治国の事にも長じておるな」
──直政は天下に両兵部と言われる一人である。
小早川隆景は賞して言った。
「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。
(名将言行録)
709 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 00:21:31.77 ID:4csEEpJg
ちなみに、もう一方の兵部さんは、隆景さんとこの乃美宗勝さんらしい
710 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 00:23:45.81 ID:Zt8IRpVx
小田原前も6万石くらいあったのに、それでも小身扱いなのか
711 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 02:04:27.58 ID:U0thrqxv
>>710 天下を治めるには6万石では小身という意味だと
名将は名将を知る
712 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 07:11:57.08 ID:aMEsZfWB
小田原の時、殺そうって進言したんだよな
713 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 07:24:02.75 ID:U0thrqxv
小田原の時といえば戦後は書状とかがのこっているけど
氏政たち兄弟の為に結構動き回っていたね
氏規の自害を身を呈して止めたりとか
714 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 20:11:52.75 ID:Er1CMP1q
伊勢新九郎長氏は子供の頃から武芸に励み、家を興し父母の名を後代に残さん事を工夫し、
備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに
『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』
と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには
「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」
新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。
そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。
延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。
(中國兵亂記)
伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。
715 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 22:20:25.06 ID:InJKhd0c
オンラインニュースにまとめスレの管理人さんも薦めていた水野勝成「天を裂く」の紹介があったんだが
【水野勝成の逸話まとめ】
●16歳のとき、高天神城攻めで15の首級をあげ、主君だった信長から戦巧者として永楽銭の旗印をもらう。
●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
●21歳のとき、父親の家来を殺してしまい、勘当される。
●その後、「奉公構」(他家仕官禁止→再就職できない)を言い渡されたので、偽名を使って、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、
名だたる武将のもとへ仕官。どこでも大活躍するが、次第に戦い自体に虚しさを感じて失踪する。
※この時代の逸話も多く、虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったりしたほか、大坂で泥棒をやっていたという説まである。
●36歳で父親が味方に暗殺され、16年ぶりに実家に帰って家督を継ぐ。
●関ヶ原の戦いで徳川家康に呼ばれて参戦。敵将の福原長堯から名刀「名物日向正宗」(現在の国宝)を奪い取るなど、数多くの武功をあげる。
●関ヶ原の戦いの活躍が評価され、大坂の陣では軍監(軍の最高責任者)に任命される。
●宮本武蔵と親交があり、息子・勝俊のボディーガードをさせる。
●大坂夏の陣では、軍の責任者なのに自ら先陣に立って戦い、大坂城に一番乗りを果たす。ちなみに、勝成はこのとき51歳だった。
>●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
って、黒駒合戦はともかくそんな逸話あったっけ
716 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 22:57:07.35 ID:Zt8IRpVx
地震キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
717 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 22:57:39.28 ID:Zt8IRpVx
ごめん誤爆(´・ω・`)
718 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:47:04.77 ID:7us94E0h
>次第に戦い自体に虚しさを感じて
これだけは無いと断言できる
719 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 01:48:04.04 ID:yUwHaGZZ
軍監は目付であって最高責任者じゃないけどな
720 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 03:29:44.21 ID:p1hg5PWF
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5150.html 上記リンクの逸話に登場する相浦源左衛門のお話
あるとき、源左衛門に仕える者が家老衆に呼び出された。
その者が家老衆のもとへ行くと、源左衛門への手紙を渡された。
その者が手紙を届けると源左衛門はその場で一読し、
「家老衆がおまえに不届きな行いがあるから、
わたしに討ち果たすようにと言ってきた。
おまえも侍であるから剣術を常日頃心掛けていただろう。
これまで限りの命、東の土手でわたし相手に思う存分働くがよい」
と、その男に言った。男も、
「わかりました」
とだけ、答えた。
そうして源左衛門はその男を引き連れ堀端沿いに歩いていくと、
「源左衛門殿っ!!」
と、堀の向こう側にいた源左衛門の知り合いが叫んだ。
その声に反応して源左衛門が振り返ると、
引き連れた男が刀を抜き後ろから斬りかかろうとしていた。
気づいた源左衛門は後ろに飛ぶと同時の抜き討ちに男を斬り殺した。
源左衛門はこのとき着ていた着物を封印し、一生人に見せなかった。
死後、取り出してみると襟が切り裂かれていたという【葉隠】
721 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 03:37:48.61 ID:p1hg5PWF
この逸話は源左衛門の息子の源左衛門(ややこしい)が話したとのことで、
葉隠には斬り合いの様子にもう一説あるとあり、
その一説では、
源左衛門の家の門のを出る前にその男が後ろから斬りかかり、
気配を察知した源左衛門が振り返るも足を滑らす。
しかし仰向けに倒れながらも刀を抜いて、
そのまま寝た状態で横に刀で払って、
その男の両手を斬り落として、
立ち上がりしとめたとも言われている
とのことです
722 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 05:36:56.52 ID:Ba86fMnZ
>>713 伊達のまーくんも一揆で大変だった時に直政の尽力で助けられているんだよな
723 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 10:44:46.08 ID:soQ/799x
リンク先の二条城の逸話を見ると、
この源左衛門は討ち果たされるようなことを無意識にたくさんやってそうw
724 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 18:38:46.76 ID:ZazpUMmO
>>721 踏ん張りが効かない状態で両手を斬り落とすとは!
ライトセーバーでも持っていたのか
725 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 18:42:08.95 ID:VHn20M5U
村正ブレードじゃないか?
726 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 20:53:39.77 ID:FkOVtbEo
備中国賀陽郡平山村の笠井又八郎は若いころ、清水宗治に仕え、非常に目をかけてもらっていたが、
天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。
又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。
ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。
墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには
「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。
そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。
ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」
そう、夢うつつのように語った。
その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。
そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)
727 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 21:08:23.54 ID:wMkXErXu
岡山の鬼城って最近再建されたところ?
728 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 17:45:34.41 ID:8Jl3h8L0
本多忠勝の忠勇は世の人に知られていた。中でも豊臣秀吉が小田原を手に入れ、奥州白河まで動座して
宇都宮に滞在した時、徳川家康家老の本多に用があって呼んだ事があった。その節、忠勝は一揆退治として
下総の庁南にいたが、早々と宇都宮に参った。
秀吉は諸大名出仕の中で「わしはこの度熊野山より佐藤四郎忠信の兜を求めた。兜の主忠信は忠義も武勇も
数百年の後まで人に語られて知らぬ者はいない。その忠信に変わらぬ剛の者にこの兜を取らせたいと思う。
天下に忠信と同じ兵は誰がいるだろう」と尋ねた。諸人は謹んで申し出す者はいなかった。
すると秀吉は「忠信に勝るとも劣らぬ兵は家康公家中の本多中務である」と言った。
その子細は、先年、長久手合戦の時、池田勝入父子と森武蔵守を家康に討ち取られた秀吉は無念至極なので、
六万人の兵で早々と楽田を出立し、長久手へ駆け付け、家康の疲れ足へ仕かけようと揉みに揉んで行くと、
五百騎を率いた忠勝が四、五町を隔てて並び軍勢を進めていた。忠勝は少しもひるまずに、
「今ここで秀吉公が戦を挑む時は軍勢を進めて前の妨げとなる。秀吉公が長久手へ駆け付けることを滞らせ、
長久手表の家康公は十分に御勝になるだろう。ここで秀吉公を遮り留めて討死し、上方勢の長久手到着を
遅らせるぞ」と士卒に下知して、五百の小勢で本陣数万へひたすら挑戦し、鉄砲を撃ちかけた。
諸大将はこれを討ち取ろうと望んだが秀吉は許さなかった。両軍は並んで二里ばかり移動したところ、
鹿の角の兜を被った武者一騎が川岸へ乗り下し、馬の口を洗った。秀吉はこれを見て、
「大将分の者のようだ。何者なのか見知っておらぬか」と問うと、稲葉伊予守が「本多平八です」と申した。
秀吉は覚えず感涙を流して「平八は先年姉川で先陣して朝倉一万の中へ馬を入れたが、その戦功が
ちょうど目の前に見えている。只今、彼が小勢で秀吉の大軍に仕かけているのは、秀吉を道で手間取らせて
家康に合戦をなし遂げさせるためだ。古今の勇士、忠義の士である。只今平八を討ち取っても秀吉の運が
極まれば戦いに負けるだろう。たとえ家康が数万の勇士を持つとしても、わしの運が強ければ戦いに
勝つであろう。絶対に平八を鉄砲で撃ってはならぬぞ」と皆々に言って矢止めさせたのであった。
秀吉は「この場の働きは忠信にも勝るものだ。故に忠信の兜を中務に取らせる」と言うと、その翌日に
忠勝を呼んで先の件を話し、かの兜を与えた。その晩、秀吉は忠勝を呼んで御前で茶を下し、その上で密かに
「人はお前の武勇を知っているといえども、名を天下に知らしめようと忠信の兜を遣わし、大剛一の兵と
日本に披露したのは秀吉の恩だ。それでは、家康の恩とわしの恩とはどちらが深いと思うか」と尋ねた。
忠勝は頭を地に付けてとかくの答えもなかった。だが、秀吉がしきりに問い詰めた時、忠勝は涙を流して
「君の恩は海よりも深いものですが、家康公は譜代の主でございますので同日には申し上げられません」
と答えた。秀吉は機嫌を悪くして座を立ってしまった。この忠勝の答えを天下の人々は誉めたのだとか。
――『責而者草(武辺咄聞書)』
729 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 18:09:01.94 ID:raG9RO2S
火にも水にも飛び込んでいく三河武士が権現様の宝物だな
730 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 19:59:25.96 ID:81fUZ/QC
731 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 20:31:36.70 ID:1OJpSu24
なんのかんので忠勝は秀吉のこときらいだよなw
732 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 21:24:08.37 ID:ALqSd73d
前田利常の元に小堀遠州が御出でになり、四方山の話をしていた時に、利常がふと
「古田織部の焼かれた茶入の中でも良い物で、なおかつ織部自身の茶の湯に出した
茶入というものは、あるのでしょうか?」
遠州は答えた
「ええ、御座います。その茶入は、餓鬼の腹によく似ているからと、『餓鬼はら』と名付けられた
茶入です。実に、一段見事な茶入です。」
これを聞いてその茶入を手に入れたく思った利常は、遠州の語った内容を書き付け、
京都でこれを尋ねよと高田弥右衛門らに命じた。
高田達が探し尋ねると、その茶入はとある町方のものが所有していることがわかった。
その町人に、譲ってもらうよう頼み、代金のことについて尋ねると、
高田が買取の値段を言い出す前に町人は
「何と言っても御大名様がお尋ねになった事ですから、金五百枚と申し上げてください。」
と、金五百枚を要求した。そこで高田弥右衛門もこれを利常に報告した。
そうした所で利常は小堀遠州に京へ言ってもらい、その茶入を確認してもらった所、
「成程なるほど、間違いなくこの茶入です。」
とお墨付きを得たため、利常は高田に金五百枚を遣わし、町人より茶入を買い取った。
その後、小堀遠州がまた利常の元に参った時、利常はこの『餓鬼はら』の茶入で茶の湯をされた。
茶の湯が終わると小堀遠州が尋ねた
「この茶入を買い入れるのに、代金はいかほど必要だったのでしょうか?」
「持ち主が金五百枚と申しましたので、その通りに遣わしました。」
これを聞くと小堀遠州、手を叩いて痛快そうに
「実にご尤もなことです!御大名がそのようにしていただいてこそ、織部の焼き物に
価値が付くというものです!織部も泉下にて喜んでいることでしょう!」
そう申し上げ、帰っていったそうである。
これは今枝伊兵衛の話に承った事である。
(微妙公夜話)
733 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 00:06:01.37 ID:MNPFUEiv
糞ガキの元ネタか
734 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 11:32:29.75 ID:S2B+QJIP
みんなで価値を釣り上げるのか
735 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 17:50:47.38 ID:HtKZ9df0
東照公が三州をお手に入れられた時、これまで今川領地の村々は
先代の事などで争い治まりかねない所もあった。
これによって本多作左衛門がやってきて制札を見た所、法度の箇条
が多くて内容も難しかったので、
一、人を殺すものは命が無いぞ
一、被をつけると火あぶりになるぞ
一、狼藉をすれば作左しかるぞ
と言う三カ条にして仮名文字へと書き改めた。
その後はよく治まったと言う
(古老物語)
作左が叱るの別バージョン
736 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 17:52:04.69 ID:HtKZ9df0
>>735 二条目は
一、火をつけると火あぶりになるぞ
でした。タイプミスすまぬ
737 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 18:09:53.27 ID:7Rhnmpwc
劉邦「法三章のみ」
違うのは傷害が火付けになってるとこか
738 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 18:13:05.84 ID:5Okx8lxE
でも他の者を褒めるとわしもわしもと言いだすんだだろうな。三河武士は
739 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 21:34:39.98 ID:x8GhauMr
>>735 わかりやすくていいな
法の抜け穴を探すまでもない簡潔さ
740 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 07:50:34.49 ID:NujmEwqj
板倉重宗が今だ御小姓だった頃、明年御上洛の御供支度について京に
いる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。
再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。
十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。
家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。
その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。
三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。
(古老雑話)
「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション
741 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 09:05:02.77 ID:eAqvRqgq
どういうこと? 権力を笠に着て命令するなって意味? それとも質素にやれってこと?
742 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:32:52.09 ID:kQ2J5fDN
上を見れば見栄を張りたくなってキリがないってことでしょ
743 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 09:40:53.08 ID:C6lOJI8L
上の者が美々しい装束を次々買い換えて下げ渡せばいいんだよ
744 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 11:00:56.13 ID:+Df13ACw
本多佐渡守の諫言
家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。
上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ
「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」
と言い重箱を取り捨てられた。
家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。
(翁草)
745 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 15:01:11.95 ID:dj1tS+n0
他の三河武士でも成り立ちそうな話だな
サドの守も根は・・・
746 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 15:35:34.30 ID:vRxasmXX
小姓が天下の政務をとるだと…
747 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 15:46:35.02 ID:De49AHFU
たまには鯛の天ぷらでも食べたい (ボソッ
748 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 15:49:03.40 ID:T1hGTjTW
重箱の中身はスタッフがきちんと食べたことを祈ろう…
749 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 20:19:01.83 ID:2aZxhEOM
播磨・備前・美作の太守、赤松義村の著作に『秘事枕』がある。
「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。
中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。
以下に書き出してみよう。
一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。
一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)
一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。
一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。
あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?
750 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 20:39:04.98 ID:irfFttyt
伊達政宗公がある時、このように仰った
「私は若年の頃から方々で合戦をしてきたが、心掛けた所に押し寄せ、、目的が叶わず
撤退した、などということは殆ど覚えがない。
無理な所でも形勢をよくみて押し寄せ、敵の軍勢を多く討たせ、或いは敵を追い出し、
或いは降参させたこともあった。様々に、心地良いことが多かった。
尤も、私自身が戦闘のまっただ中で乗り回し、采配が切れ落ちるほど戦った事もあったが、
どうして私一人でこのような戦いができただろうか?
歴々、親類衆から、その家中それぞれで備を形成したほどの下々まで、みな我が下知がなくても
一つの心で励まないものは一人もなかった。
だが、そう言う者たちも稀なのだ。惜しき者たちが次第に私の前から失せていくのは、
私の命を一つづつ、取り除くのと同じである。金の鎖で繋ぎ止められるなら、そうしたいのは、
良き武者の命である。しかしそういうことも出来ず、だからせめて今の若き者どもに、
昔の者達の名をつけて使いたいのだ。」
そう言って、ハラハラと涙を流されたそうである。
(政宗公御名語集)
晩年の政宗の、思いの伝わるような逸話である。
751 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 23:43:39.17 ID:CH0zadcS
政宗のトークは話してる自分に酔ってる感じも含めておもろいよな
んで、よく泣いてる
きっと同じこと何度も話すじじいだよ
752 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 08:18:39.22 ID:BTaLqH8H
井伊直孝の直言
秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。
利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。
利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。
利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。
秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。
直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。
暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。
直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。
秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。
(明良洪範)
井伊直孝の諫言についてのお話
753 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 16:41:41.36 ID:Df+LqmJd
>>752 状況よりも予定に合わせてしまうんだよな
754 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 18:04:19.22 ID:rC1gL2TW
>>752 秀吉「民に重税をかけて苦しめるとは、なんと酷い将軍なのだ」
755 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 19:54:28.75 ID:hXET5Q2J
>>753 卑近な例だけど、湿度も高い真夏日に、熱中症の危険が高いけど予定通り運動会を開くような感じか
756 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 20:12:06.54 ID:BTaLqH8H
左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である。
家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。
会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。
もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。
六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。
馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。
その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。
(当代奇覧)
757 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 20:39:07.47 ID:pLWRatP9
この屏風が残っていればものすごい史料的価値があっただろうに
758 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 23:15:46.76 ID:MDDnDXwB
武田信治は伊予国に住み、河野四郎通直に属した。
通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。
秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。
そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。
信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。
――『寛政重修諸家譜』
759 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 01:17:16.66 ID:igpQpala
ググってみれば、この人若狭武田の流れなんだな
系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか
760 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 02:18:18.51 ID:TmkU2EJ9
仙石はやっぱりクソだなって話?
761 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 02:32:07.35 ID:0WfaAUvp
武田信治でググると武田真治と穴山勝千代ばっかり出てくるな
762 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 20:49:20.26 ID:aUKSJxzL
安芸武田家、若狭武田家でググったら
安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり
どこまで本当だろ
763 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 20:57:50.13 ID:igpQpala
いくら奇説とはいえ、1569年生まれの人間が1562年生まれの人間の息子ってことはあんまり無いだろうww
764 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 22:54:57.10 ID:M7mvSSdV
伊達政宗公がある時、このように仰った
「俺はもう生まれて七旬(7回目の10年)に及ぶわけだが、どんな事だって若い連中には負けないと思ってる。
だけどな、年齢を経ることが必要な事ってのは、別にあるんだ。
俺なんて未だ若年の頃の心が失せなくてね、人さえ許すのなら今でも飛び出して行きたいんだが、
そういうことをぐっと抑えているのが、年齢なんだよ。
年齢や経験を持たないただ若いだけの奴らが、分別無くどうにかして人と変わったことをしようと思うのは、
まあ尤もなことさ。
若い時って、悪事をしても許されることが多いよな。
俺は、召し使っている小姓なんかでも、その前髪を取らせれば普段召し使うにも便利はいいのだが、
前髪が未だあるんだと思えば、もっと幼かった頃からの気分が離れず、気遣いしないんだよ。
同じ頭でも前髪が無くなっちゃうとな、大人しやかに見えてしまって、もう接する心地が違うんだ。
だからなかなか前髪をとらせないんだよ。
第一に、前髪を取らないのはその本人にとっていいことがあってな、歳が行っても前髪が有ると、
どんな悪事をしても『前髪の有る若輩故のことだ』と、許されることが多いんだ。
逆に良いことをすると『未だ若輩なのに奇特だ』と、人もやたら褒めてくれる。
前髪がないと、そういう事がないんだよなあ。何につけても、良いふうに取ってくれないんだよ。』
(政宗公御名語集)
伊達政宗の年齢論?みたいな話である。
765 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 23:13:28.92 ID:X8HjAZMo
なるほど、天地人で兼続が成人した後も前髪残してたのは
政宗と和解させる伏線だったのか
766 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 00:09:18.79 ID:uMnhwpxr
なぜ世界はこんなにもハゲに対して残酷なのか
767 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 06:56:07.40 ID:uEWy1HX3
幕末の頃は藩主でもフサフサだよなー。剃ろうか止めようか悩みは大きかったかもな
768 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 08:04:47.96 ID:4xxAUktY
烏丸光広、病人を労わる
烏丸光広卿が有馬へ入湯していた時、播州加東郡より貧しい病人が
来ていて入湯していた。
光広卿はこれを憐れみ御台所にて養わせていたが、有馬を出立する際
に宿の亭主に病人を労わってやってくれと言い残し、その代金を与えて
帰洛された。
病人は本復して故郷へと帰り父にこの事を報告すると、父はこれを喜び
都へと上り、烏丸邸へ参上してこの件の御礼を申し上げた。
光広卿はこれを聞かれ「奇特である。よくここまでやってきた」と言い
いろいろな品を与えられ、さらに自詠の短冊をも与えられた。
あしきとて思ひは捨し親と子のうときをは猶哀れとも見よ
今もその家ではこの短冊を持ち伝えてると言う
(当代奇覧)
769 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 15:38:39.81 ID:++CW38Ni
烏丸自身が奇特なお方だよね。なんにしてもいい話だ。
770 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 17:41:44.63 ID:nUhTQfLI
>>767 幕末に総髪が多くなるのは、志士の間で総髪にすることで、『俺は月代を剃る暇もないほど国事に奔走しているんだ!』って
世間にアピールする面が大きかったらしい。
771 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 17:51:49.99 ID:3IIEf/D5
なるほどね。
関係ないが、ゲルが整えない状態の髪をテレビで公開したときの衝撃を思い出したわ
772 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 18:05:36.79 ID:QyNlIWGn
土屋昌次(昌続)は武田信玄が死去した時に殉死しようとしたが、
高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。
その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。
――『寛政重修諸家譜』
773 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 20:54:02.12 ID:p7JI9yPt
関が原も大坂の陣も終わり天下は徳川のもとに統一された。
関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。
『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』
これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。
やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。
翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして
『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』
そう、伝えた。
その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)
鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。
774 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 23:22:25.91 ID:N8q5VtOC
>>772 厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない
775 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 00:23:07.77 ID:QmOHOR/p
真田信幸、杉菜を食べる
真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。
「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」
家臣たちはこれに答えて、
「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」
信幸はそれを聞いてこう言った。
「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」
悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。
776 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 01:30:39.75 ID:HfEb4Ibv
スギナって土筆が育ったやつか
777 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 01:50:38.12 ID:zYj6vKDj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1055.htmlだと杉の葉、て解釈だ
ついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める
(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)
778 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 07:45:05.90 ID:it/TbstR
意外と雑草もうまかったりするね
ばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ
779 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 08:05:18.88 ID:or5clOXr
780 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 08:18:36.59 ID:MbCsF4HX
>>779 これはさすがにありえないなあ。
明応の大地震・大津波の時、伊勢宗瑞は小田原どころか伊豆討ち入り前だし、
そもそも小田原城奪取も、扇谷上杉配下だった大森氏が山内上杉に寝返ったことから。
扇谷上杉の要請で攻め落としたというのが今はほぼ定説になっているし。
781 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 08:19:15.31 ID:3FcPthVw
ツクシとスギナは根っこがつながってるけど、別の部分。
ツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。
782 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 10:39:34.89 ID:TK4sLSeM
スギナは毒あるから食っちゃいかんよw少量なら漢方薬として使われるけど
食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん
783 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 14:34:01.08 ID:iVk54BOr
ベニテングタケですら美味しく食べる地方があるから、人間はおそろしい
784 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:33:27.08 ID:vGyyOMM6
東北ではまさかのフグの肝を毒抜きして食う地域があるしな
舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい
785 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:51:50.34 ID:or5clOXr
ふぐの子糠漬けは石川県
786 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 18:04:09.65 ID:vGyyOMM6
石川だったか
指摘サンクス
787 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 20:21:26.13 ID:5OIfLFkU
食べた事あるけど、塩抜きしても塩辛い位で正直微妙だったわ・・・
788 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 02:07:28.15 ID:BtDg4Hdx
フグ食習慣ほど、先人の努力に感謝という言葉を思い出す事柄はないよな…
すげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)
789 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 04:51:23.17 ID:vx/GOXbS
食べると、焼き味噌垂れ流し状態で下手すると皮膚から脂が吹き出すようになるアブラソコムツって魚は
日本だと毒魚扱いで販売禁止だが、たちの悪いことに味がいいんで
どうせ売れないし漁師の中にはオムツをしながら食べる人もいるとか
近海で取れる結構な大型の魚だから戦国時代でも食べる人は食べてたんだろうな
アレルギーと同じように人によって許容量が全然違うから毒見役がセーフで要人が垂れ流しになるとかあったりしたのかも
790 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 17:46:59.95 ID:KHHFZ0hw
>>778 ふきのとうもツクシも食べられる山菜として有名なもんだよ
珍味としても知られる、買うと結構高いぞ
791 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 18:10:56.97 ID:AJ+vCHuD
>>790 山菜とは言わねえよ。畑とか野原に勝手に生えてくるし。邪魔だし。
山で取れるから山菜だからね?
春の七草は大根と蕪を除けばみんな雑草だけど、平安の昔から食べてたのと同じ原理。
買うと結構高いけど、自分で揃えるとめんどくさい。
792 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 19:43:26.60 ID:vxJaUW70
小説の壁紙更新火曜かとももったら明日らって^−^・
どこがくるかしら^−^・
793 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 19:54:37.08 ID:bdg6zIGe
794 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:07:27.28 ID:GkuuUDhn
ふきのとうは山菜だよなあ
少なくとも雑草とは言わん
795 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:39:03.02 ID:/PaPUbjJ
川の土手に生えてるから山菜のイメージはないわ
地域によるのかな
796 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:42:15.51 ID:GkuuUDhn
せめて食うときぐらいは野草と言ってやれ
797 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:51:39.80 ID:e3maUbqd
そういわれてもなぁ。住宅地の中に残されたうちの畑の横に勝手に生えてくるのを食べてるだけだから、全然有り難みがない。
798 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:57:39.58 ID:/ibtXo1+
うこぎは旨い
だが店で食べても有り難味が全く無い食材だと思う地元民であった
799 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 22:46:38.75 ID:NT66srHk
大阪の吹田ジャンクションのあたりの法面で草地になってるところがあって、
今年の春に通りがかったときにつくしがびっしり生えてた
人が入れないから大繁殖してたみたい
800 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 00:00:24.45 ID:GcFUEDU/
伊達政宗公の有るときのお話に
「奉公人は上下ともに、手を清める心掛けが大切だぞ。
近いことで言えば、普段使ってる小姓たちが俺の前に出る時に、手を清めて出てくれば、
俺から「髭を抜け」「髪をなでよ」「形無を持て」と言われても、危ぶむこと無く安心して
用を勤めることが出来るだろ?
これが、手水を使わずに俺の前に出てきたらそうはいかない。手を清めずに用を勤めようとしたら、
手の汚れが他につかないかと、気遣いすることが多いんだよ。
何かに限った話じゃなく、万事にわたる事だ。手を清めることを、常に心がけておけ。
それを良くしておけば、何事にも行き詰まる事はないものだ。
諸人にこの心を、絶えず持たせたいものだ。」
と仰られた。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の「手を洗おう」というお話である。
801 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 02:55:37.10 ID:QC9mfxuB
御名語集の人、できたらそのうち片倉小十郎重綱との今生の別れのエピソード訳してください
あれ本当にいい話だと思うんで、広まって欲しい
腐った人たちが盛り上がるかもしれんけど
(でも、腐った人たちのターゲットは父の方だから、息子はどうでもいいのかね?)
感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
802 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 18:19:27.15 ID:gxxVNgUl
岐阜城の戦いで織田秀信は力尽きて降参し、少勢で諸将の備の中を通り、
高野山へ行こうとした。
時に秀信を生け捕りにすべきだと言う者がいた。福島正則はこれを聞いて、
「武士は約束を違えることを恥とする。
和睦が成立して戦いを止めたところを陥れるのは、武の冥利の尽きるところである」
と、固く制止したので、事故もなく秀信を通したのだという。
――『名将言行録』
803 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 20:17:44.78 ID:lau0QR5U
最近悪い話がやや目立った市松さん名誉挽回のいい話やね
804 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 21:05:03.29 ID:naIGmsib
戦場にいて、酒が入ってなくて、機嫌が悪くなければ、市松さんはだいたいこんな感じの逸話が多いよな
805 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 21:45:02.93 ID:5eKdGnD7
酒の入っていない市松は割と名君。
806 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 23:00:47.67 ID:GcFUEDU/
寛永13年(1636)4月20日、江戸への参勤に出立した伊達政宗はその乗物の近くにホトトギスが現れ
初音を聞かせたことを大いに悦び、その晩、片倉小十郎重綱の居城である白石に宿泊した。
小十郎重綱は種々の珍物を整え大いに饗したが、この頃小十郎に対し悪心を抱くものが在り、
小十郎の身の上に悪しきことが有ると書き立て、目安に整え申し上げてきた。
政宗は内密に調べたが、しかし全て事実無根であることがわかり、かえってその讒人の心を蔑んだ。
そして、国に讒人あればその国は治まり難いことを深く悲しんだ。
翌日、小十郎が膳をさし上げると、政宗は一層機嫌よく酒を出させ、かれこれの人々に御盃を下された。
その頃小十郎は、外孫を自分の養子とし、三之助と名付けたが(後に小十郎景長)、この子が
御目見得仕り御寄場に畏まっていたのを、南次郎吉という御小姓衆が政宗のご機嫌を伺いながら
「冥加のため、御盃を三之助に下されませんでしょうか?」
と申し上げたが、聞こえぬ様子で他の者と四方山の話をしていた。ややあってから南は再び
「三之助はいかが?」と申し上げると、政宗は彼の方を向いて
「以前にも言い、又も言う。そういうふうに声をかけるものではない。
お前などに気をつけてもらうような私ではないぞ!あの子に酒を与えるのは何でもない事だが、
敢えてそれを控える仔細があるから、そうせぬのだ。
小十郎は子を持たず、あの孫を取り立て、誠に無事に育つかと心配に思っているため、片倉の家では
下々まで、あの子を手の中の珠のように、労り育てていると見える。
まあ、実際に4つ5つの幼児であるから仕方がないのであるが、前にあの子が私の前に座って対面した時は、
小十郎の心配をよそに、見苦しく、苦しそうであった。
そんな子を座敷に呼び出して盃の取り回しなどさせたら、幼児であれば、どれだけ難儀に思うだろうか?
また余所からは、見苦しき有様であり、あの小十郎の子には似合わぬなどと言い出すものも有るだろう。
それは小十郎に為悪しく、恥を与えるようなものだ。」
と仰った。
さて、御立ちの時、政宗は三之助を乗物の前に召し寄せて、自ら挿していた脇差を脇差を与え、
それを自ら、三之助に挿してやり
「さてもさても、小十郎は果報者かな。これほど良き子は、良き者に預けて育てるように。」
と言った。そして小十郎重綱を乗物の中に引き入れ
「其方のことを悪しく思うものがあり、十度にわたって種々目安を以って私に讒言を行った。
しかしそれは全て偽りであり、疑うにも及ばぬもので、打ち捨てた。
其方が、例え憎しみで如何様に言われようとも、私がある限りは何事も心安く思ってほしい。
ただ、讒言をするような者が、国の中にあることこそ嘆かわしい。
私とて、これから何年命を長らえられるであろうか。
私が死んだ後は、よろず見を慎み怒りを抑え、国の久しきことを心掛け、ひとえに計らってほしい。
奢りは身命を失う根本であるぞ。
もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな。」
これを聞くと小十郎は感涙を流した。政宗もまた涙にむせびながら白石を発った。
(政宗公御名語集)
これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
そして政宗より脇差を頂いた三之助は、後、伊達騒動で混乱する仙台藩を見事に取り仕切り、
彼の活躍によって改易を免れるのである。
807 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 11:17:21.73 ID:lTGZNC3/
>>806 白石涙の別れエピソードキター! リク聞いてくれてありがとう!
>よろず見を慎み
よろず「身」だね
>もし明日何事かあっても、其方と私があれば、老年の思い出に、其方の名を上げさせたいのだがな
ここが、他の本(『木村宇右衛門覚書』)だと、
「明日にも天下に一大事が起こり、先鋒を承って向かうのならば、その方(小十郎)に先を蹴散らさせ(先陣をまかせ)、成実に一方の団扇をとらせ(指揮をとらせ)、
三人心を合わせたならば、時期はずれの花を咲かせようものをと思う」って政宗が言ってるんだよね
死ぬ間際にこんなこと言ってるじじいっぷりがいい
808 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 21:01:02.13 ID:f4BGy2Te
ええ話しや。泰平になってからの梵天は人間として大好き。
809 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 00:45:18.83 ID:X6gkfR9g
一方ではその年でもすれ違いざまにビンタとか、いきなり相撲とか、能役者脅迫とか、
おべっか使いを脇差で血が出るまで殴るとかもちゃんとやってるあたりが期待を裏切らない仙台黄門
政宗萌えはギャップ萌えなんかね?
810 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 10:29:04.76 ID:dSxzOCn+
>>806 >これが伊達政宗と片倉小十郎重綱の、今生の別れであった。
>>801 >感動的なこと言っておきながらすぐまた江戸で会うんだけど
ん?
811 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 11:11:21.02 ID:B37cAW3r
>>810 806が書いたみたいに考えるとまとまったいい話なんだけど、政宗が江戸でいよいよ死ぬってなりかけたときに、
家臣たちが続々と江戸入りして、小十郎重綱も追っかけて江戸に行ってるんだよ(幕府の人たちと会ってるのが記録に残ってる)。
なので806の書いたのは、実は政宗と重綱の今生の別れではない。
で、あまりにも上府する人が多く、いろんなところで潜伏したりする人とかが増えて、幕府と藩からもう行くなって禁止令が出た。
でもそれでもこっそりこようとする藩士が多かったので家光が感動して、大目に見るからからこっそりこいみたいなことを言ってたらしい。
一門の伊達成実もギリギリになって上京しようと出発したり、石川宗敬(昭光の孫)はギリギリすぎて間に合わなくて、
江戸行く途中で政宗の訃報とかち合ってそのまま戻ったりしてる。
政宗というか、家光のいい話。
政宗の見舞いに来たときに家光が忠宗にいうセリフも結構いい話なんだよな…。
812 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 11:12:19.51 ID:B37cAW3r
813 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 13:43:28.74 ID:dSxzOCn+
814 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 21:32:15.96 ID:dTvFgpKp
伊達政宗が晩年人に語られたこと
「関白秀次が高野山にて自害した時のこと(文禄4年(1595)秀次事件)である。
太閤殿下(秀吉)に、私が殿下に背こうとしていると讒言するものがあったため、私は
十騎ばかりで急ぎ大坂へと上った。
枚方まで至った時に、石田(三成)、富田(一白)、施薬院(全宗)が御使として来て、
『其の方は関白ととりわけ睦まじい間柄であったこと、隠れない事実である。
その仔細を正直に申せ』
との事である。私は畏まって
『いかにも秀次公には親しくしていました、されども、太閤殿下の天下無双の御眼鏡であってさえ、
思いの外に違われたからこそ、このような事態になったのではありませんか!
まして私は片目であり、見損なうのは当然のことだと思われませんか!?
秀次公は殿下の御子として世を譲るのだと聞いていたからこそ、私も取り入ったのです。
ただ殿下をお頼みしたいとそうしたのです。
それを過ちであるとお考えに成るのなら、仕方ありません。どうぞ私の首を刎ねて下さい。』
これを聞いた施薬院は慌てて
『そのような反論をどうして殿下に申次できるでしょうか。取り成しすることもできません。』
私は施薬院を睨みつけて怒鳴った
『おぬしは病人を扱う事こそ知っているのだろうが、武士の道をどうやって知れようか!
ただ此の侭に申せ!』
私の言葉に3人はどうにも出来ず帰っていった。
翌日、太閤殿下より富田左近(一白)が遣わされて、
『翌日、(大阪城)山里曲輪にて御茶を賜るので、かならず来るように』
と伝えられた。その日になって私は、ただ二騎を引き連れて大阪に行くと、
富田左近の家来の侍一人が案内として出てきた。それを先に立たせて御庭に行ったが、
樹木が隙間なく立っている所に到って、その案内の侍が、どこに行ったのか影も形もなかった。
そういうことか、私はここで討ち殺されるのだ
そう心を定めていると、茶頭のような姿をしたものがやって来て、『刀脇差を出して頂きたい』と言う
『なに!?侍の刀をよこせとはどういうことだ!?』と叫んだ所で太閤殿下が木陰より歩み出て
『和尚、そちらに出ているのか?』
と、例の大きな声で言われたので、私は刀をその茶頭に渡して殿下のもとに進むと、
『こちらに来い』と茶室に招き入れられ、手ずからの茶を頂き、何事も無く暇を許されたのだ。」
(話園)
秀次事件の後、秀吉に呼び出された政宗についての逸話である。
815 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 09:08:41.64 ID:aP8Lb7CL
赤松義村の著作『秘事枕』には戦国初期、政則〜義村の頃の赤松家の女性たちについて詳しく書かれた箇所がある。
大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。
○まずは女性たちの身分と名前について。
一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香
膝本(妾):八重
奥:滝野
家見:小梁
中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩
まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉
筆取:井筒(中居)、縁(上)
下女:藤、梅、玉、なべ。以上。
○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。
一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。
816 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 09:10:56.40 ID:aP8Lb7CL
○次に、身分別のファッションについて。
一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。
・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。
・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。
・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。
・そばめは、高雄、吉野のるい。
・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。
・奥かミは、小梶るいなど。
・中居は、七、梁、梶のるい。
・以下は、若な、もみぢのるい。
一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。
(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))
817 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 23:39:37.14 ID:FGrSjeTP
赤松家はさすがに豪華だな
818 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 07:05:09.96 ID:JzFxxB+f
伊達政宗公或る時の御話で
「今世上で目付・横目(人々の監視役)といえば、諸人に迷惑をかけ、
しかも良いことは少なく悪いことは多い連中だ。
俺は若い頃から今まで、目付・横目という物を付けたいと思ったことはない。
物事の仕置を、目付・横目を付けて、それに脅させて法度を人々に聞かせようというのは、
穢い心だ。
そもそも目付・横目を付けるというのは、法度を執行した時の反応について、良い事も悪い事も
知るためなのだ。
それなのに、ああいう連中は良い事は百に一つも取り上げず、どうにかして悪いことを聞き立てて
言おう言おうとするのだから、悪い事は多く報告され、こちらは報告された以上対処せざるを得ない。
しかし、本当に悪しき者というのは、そういった目付・横目の前では行いを忍び、陰でいくらでも
悪事をしているものだ。そうなのだから本当の悪人が失うものは何もない。
それに、いくら目付・横目を付けた所で、その法度に対して最初から好意を持たないものは、
そうしたからといって好意を持つように成ることは無いだろう。
『法度を聞け聞け!』といくら言っても、無理に聞くものでは無い。いくら目付・横目を使っても、
法度を聞くのは結局、皆それぞれの心次第なのだ。
それらを差し置いても、我が家を代々変わらず支えてくれる、何より大切にしている者たちを、
そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
(とかく代々に変らず何より秘蔵なる者さやうに心うたぐり無慈悲なる事我等はいやなり)
横目を付けずに、今まで事欠いたこともない。見事善悪も知ることが出来て、かえって良いほどだ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗、目付・横目を嫌う、という話である。
819 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 09:22:17.29 ID:iqFlO0Wf
犯罪なんて知らなきゃ無いも同然だしなw
820 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 09:46:15.69 ID:gEW9WFUH
いつも監視される側だから説得力があるな
821 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 12:25:09.64 ID:Z2S3fWhj
>陰でいくらでも悪事を
色々やってたっけねえ、そういえば。
本人基準では悪事じゃないかもしれんがw
822 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:08:37.15 ID:x/8x+kAC
土豪や地侍の謀反を煽るなんて悪事の内には入らないってことですね。
さすが政宗公!俺たちに(ry
823 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 10:52:28.54 ID:qZB/MT5f
>それらを差し置いても、我が家を代々変わらず支えてくれる、何より大切にしている者たちを、
>そう言うふうに心を疑い無慈悲に扱うなんて、そんな事俺は嫌だ。
こう言ってさりげなく家臣を持ち上げつつ牽制するあたり上級テクですな。
824 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 12:12:16.07 ID:qaiKAs5l
「私はただの通りすがりの隠密です」
825 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 14:35:23.06 ID:ZzcTcTMI
加納五郎左衛門(直恒)は紀州徳川家の長臣である。
彼の平生の志は「主君に仕え奉るのに、一命を上へ差し上げていなければ、
いつも御手討にされると思っていなければ忠臣ではない」というものであったという。
これゆえに、彼はいつも妻子に暇乞いして出仕していた。
彼は御前に出る時には「いつだろうと顔を犯して争い諫め、御手討にされるつもりで」
と、志を定めていたという。ある時、徳川頼宣が何事かを言った時に、
彼は頼宣の腹を指して「今の御意と御腹中とは違いがあります。
よくよく御顧みになってください」と、苦々しく申し上げたということである。
――『責而者草(加納五郎左衛門行状)』
826 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 14:47:17.57 ID:i8cdWFgq
生きる屍ですな(いい意味で)
827 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 12:57:16.76 ID:FBEQmZBK
暴れん坊将軍のは何代目五郎左衛門なんだ?
828 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:35:20.67 ID:C7EKiTsx
直恒から数えると3代目、というか孫
大名にまでなった
829 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 20:06:07.35 ID:vsphjN3+
伊達政宗公は、諸人に大変慈悲深い方であり、仕事を申し付けるのも、物事に思わぬ過失がないように、
御奉公が進むようにと気を使ったお仕置きをなさっておられました。
政宗公といえば、他家では鬼神のように認識されていると存じていますが、家中の者達に対しては、
ついにお顔付が悪しきところを見たことがありません。
私たちは毎日毎夜、寝て起きて御城に詰め、御奉公いたしましたが、諸人、身分の高いものも低いものも、
御前に罷り出れば、例え立腹しているような時でも、その気持ちをたちまち忘れてしまいました。
いささかたりとも、御前に有りにくく、御奉公し難い、というような事は、夢々にもありませんでした。
御前では老若共に、夫々に座興なども言われ、心の中までゆるゆるとくつろぎ、はりきって御奉公
出来るようにと、環境を整えておられたのです。
そして御奉公申し上げた者には、その善悪を評価し、御知行、御扶持方、御切米、金銀諸道具、
その種類によらず、その時を延ばすことなくご褒美を下されました。
それらも全て、万事御奉公に励むようにと仕掛けられたことなのです。
例えば、御前に人より長く詰めて働いている者には
「そんなに根を詰めては、もはや気も詰まっているだろう。裏の方に行って、心なぐさめ休息してから
また戻ってきてこちらに詰めよ。」と仰せ下さりました。
また、御前に詰めようとしない者には、その事柄をその者の親類などに仰せられ、異見もし、
「よく奉公いたせよ。第一それは其の身其の身の為なのだ。私が家には人材に事欠かないのだから」
と仰せ下されました。
また或いは、患った様子で詰めているものには、直ぐに御暇を下され、「養生するように、今日は休息せよ。」
と仰せ下された。その上で「そもそも役人などというのは、普通の者よりなお一層気詰まりするものだ。」
と言って、夫々が患わぬように、気の詰まらないようにと、魚鳥のたぐいにかぎらず、色々と下され、
「以前の体調に戻るまで養生してから、奉公せよ。何としても、奉公人の患いは其の身のためには
大きな敵である。」
と仰られました。このように至ってお情けの強い方だったのです。
そんな方でしたので、もし又患った、などと聞かれましたら、薬師(医師)に仰せ付け、
その者の病状を、身分の高下にかかわらず何者であっても直にお聞き召され、如何様にも如何様にもと
末々の者にまで厚くお情けをかけられました。
このような事でしたから、私達諸奉公人は、何があろうとも御奉公であれば、火の中水の底までもと、
一心に決意し、御奉公をしていました。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、家臣への接し方についての記録である。
830 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 01:13:30.01 ID:2Pikygnt
当スレ(と姉妹スレ)に毒された今となってはどうも信じられん!
831 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 07:00:26.53 ID:zxMNKudQ
なにこの書かされてる感w
後ろに政宗が立ってるでしょこれ
832 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 07:58:20.83 ID:oM12j7Li
相馬義胤にこの文章を見せて、感想を聞いてみたいw
833 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 10:17:28.41 ID:k04fOTGI
政宗の言行録っぽいのはいくつかあって、
小姓の木村宇右衛門が書いた『木村宇右衛門覚書』
従兄弟の伊達成実が書いた『政宗記』『成実記』他
そしてこないだから訳してる人がいる『御名語集』
御名語集は作者不明(成実説もあるが、成実が筆者以外として登場するところもあるので、全部を書いたわけではない)リライト説や侍女の女性説もある
一番辛辣な成実でも、「政宗は素晴らしい主!」が基本なので、他のふたつは言わずもがなの政宗礼賛に終始してる
内部と外部(今ならファンとそれ以外)で政宗のイメージが激しく違うのはそのせいじゃないかな
藩士はこれらの本の逸話教えられて育ってDQN逸話全く知らなかったかもしれん
834 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 15:32:48.35 ID:q2XxiHOA
千布因幡殿と中野神右衛門の家は隣同士であった。
ある年の元旦に因幡殿は息をひきとられた。
因幡殿が亡くなったと聞いた神右衛門は、
「隣は大勢の出入りで、朝の支度も出来ないだろう。
今日は元日であるから、当家の節料理を差し上げてこい」
と中野の者どもに申しつけた。
家来どもが、
「それは神道でも仏教でも縁起がよくないと思いますが…」
と、嫌な顔をすると、神右衛門は、
「侍というものは死の場にても怯まず助け合うものだ。
こちらの節料理は遅れてもかまわない」
と言い、出来たばかりの節料理を残らず差し上げたとのことだ 【葉隠】
835 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 21:33:46.15 ID:9VVyGVOW
寛永9年(1632)、相国様(徳川秀忠)53歳の時のことである。
秀忠公は前年よりの病気が次第に重くなり、正月も半ばには、もはや長くないと思われる様態となった。
この時、秀忠公は伊達政宗様を呼び出され、こう申し出された
「去年のうちから病状が悪化してな、こうしてもう、回復は無理のようだ。
私が、少しでも意識がはっきりしている間に、あなたに言っておきたい事がある。
昔から今に至るまで、あなたの志は一つとして忘れたことがない。
先ず、もう随分昔の話だな、大御所様(家康)が駿河でご病気が重くなった時だ。
あの時、悪しき者達の申し立てで、あなたがこの機に乗じて謀反をするとの風聞があった。
そのために私も、大御所様のご病気にもかかわらず奥州の状況を警戒していたのだ。
ところがそんな状況の中あなたは駿河へと上がられ、江尻に逗留されたが、
ここで大御所様は周りにいた大小名を皆下がらせ、あなた一人を内々に駿河の御殿に呼ばれ、
互いに御存念を語り合い、その上で私の事をあなたにお頼みなされた。
『どうか秀忠を、天下の主として取り立ててほしい。』
大御所様のこのお言葉を、あなたは違えること無く、おかげで私は今日に至るまで、天下に騒動は
一度も起こることなく治めることが出来た。
その天下を私は将軍(家光)に譲る。
これは大御所様があたなに、私のことをお頼みなされたのと、全く同じ事だが、
今また、将軍のことをあなたにお頼み申す。
将軍はまだ若い。なので万事あなたを、親と思えと言っている。
将軍に古きことを聞かせ、また差し出たことなどと遠慮せずに、見苦しいことがあれば
異見をし、天下を安寧に保たせてほしい。どうか、お頼み申す。
そして、あなたも随分年を取られた。あなたのめでたき跡は、ご子息の越前守(忠宗)については、
逆に将軍にその処遇をお預けになられよ。決して粗略にすることはない。
…私が、この53の歳になるまで天下の安寧を保てたのは、偏にあなたのおかげだよ。」
この時、秀忠公、政宗様は互いに涙を落とされたそうである。
(政宗公御名語集)
徳川秀忠による、政宗への遺言である。
836 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 06:59:24.97 ID:85PWUyj0
天下人との逸話が豊富なのも政宗のプレミア感を増さしてるなあ
837 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 10:25:08.19 ID:L+7jINdP
秀吉から大きい柿もらった話が好きだな
箱の中から「お前は柿好きだから〜」ってでっかいの探してくれたってやつ
838 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 10:56:36.06 ID:ffy7+IV/
これだな。
「あるとき、折(箱)に御所柿を入れて、諸大名へくだされた。
政宗の普請場へいらっしゃったとき「政宗は大物がすきだから、大きくなったのを
欲しいだろう」とおっしゃり、折の中をひっくり返され、「これより大きいのはないぞ」と
言って柿を下された。
政宗は遠国生まれなので(秀吉に仕えはじめるのが遅く)たった1、2年の奉公であるのに
このように気に入られていたのは、神々の加護による人徳だと人々は話していました」
『伊達日記』
政宗逸話のすげーのは、同時代の近臣(この場合は伊達成実)がかいてるのが(一応)
はっきりしてるから逸話の信憑性が他の武将の伝聞逸話と段違いなんだよな。
後世に作られて尾ひれがついた話ともまた違うし。
839 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 11:52:24.90 ID:B1SH3gY7
三成「げ、またでかい果物が殿下に贈られてきたと思ったら柿かよ
桃の時輝元に突き返して顰蹙買ったから痰の毒は政宗にでもやることにしよう」
840 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 12:53:47.22 ID:DRtSJFOD
>>838 他を下げるのはやめとけよ
ちょっと嫌味ったらしいぞ
841 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 16:18:28.26 ID:VhQuf07U
織田信忠は叛乱した松永久秀を攻めて焼殺し、十三日に兵をおさめて京に帰った。
朝廷は大納言実枝を信忠邸に遣わし、その功を賞して従三位中将に任命し、昇殿を許した。
しかし、これを信忠は「朝恩の厚いことはたとえようもありません。しかしながら父に告げずに
お受けすることは臣下の道ではありません」と言って固辞した。
信忠は実枝が再三すすめても勅命に応じなかったので、帝はその控え目で、
思いのままに振る舞わないことを叡感した。
しばらくして信忠は使いを父信長のもとへ送りこの事を告げた。信長は「久秀は鍛練の老将であったが、
お前は年若くしてわずかなうちにこれを誅滅した。この功は大きなものである。ぜひとも詔を奉じて
官爵をお受けせよ」と言った。ここにいたって信忠はかたじけなくも謹んで勅命を受けた。
――『寛政重修諸家譜』
842 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 17:36:40.21 ID:B1SH3gY7
義経のことが頭に浮かんだのだろうか
843 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 20:04:03.44 ID:Y3e9JJQK
武田には勝手に手出してたけどな
844 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 21:01:43.33 ID:L+7jINdP
845 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 15:52:34.49 ID:ORT8rVKQ
846 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 17:24:09.88 ID:Gn3m6Oux
伊木清兵衛(忠次)は池田三左衛門尉(輝政)の家老である。
清兵衛は病気で死に際の時に「今生の望みに、今一度公の御目にかかりたい」と言った。
三左衛門尉は急いでやって来て「どうしたのだ清兵衛。近頃そのような望みがあるとは
知らなかった。申しておきたい事があるならば申すがよい」と言った。
清兵衛は頭を上げて手を合わせ「これまでの入御有難く存じ奉ります。
ただ一言申したき事がございますので、これを申し上げます。君はいつも掘り出しを
御好みになられ、ひたすら士の掘り出しを第一とお思いになられています。
これはよからぬ御癖です。士はその身の程よりも一際相応に仰せ付けられてこそ、
永く御家を立ち去らずに忠勤を致すものです。この事を申すために御目にかかりたかった
のです」と言った。
これに三左衛門尉は「今の諫言はもっともだ。その志は山よりも高く、海よりも深い。
わしは決して忘れない」と、清兵衛の手を取り、涙を流して別れた。
それより池田家の家風はよくなったということである。
――『責而者草(古実話)』
847 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 18:04:10.95 ID:QMvYkCoH
>>841 能楽に狂ったりイケイケの家臣に気に入られたりするけど信忠さんってやっぱし優等生なイメージ
848 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 22:40:58.26 ID:/FMh7SlT
ある時、加藤清正が、立花宗茂の重臣である小野和泉(鎮幸)と歓談していたとき、
和泉にこんなことを尋ねた
「和泉殿、あなたは書状の往復に困却することは無いか?
私の如きは、幼少より戦場にのみ臨んで、更に読書習字をする暇が無かったために、
今日に至るまで書状の往復には常に困難を感じることが多いのだ。」
和泉はこれを聞くと
「私は61歳までいろはのいの字も知らなかったのです。ですが、かつて高麗在陣の時に、
毛利甲州殿よりの書状が至りました。
その時、私は賊の首実検をしていたのですが、この書状を読もうと思ったものの、それが出来ず、
立花の家老とも称され、60にもなろうという者が書状を読むことさえ出来ないとは、
この和泉一人の恥辱にとどまらないと、冷や汗を流しました。
この時は幸いに、内田玄恕がたまたまこちらに来たので、書状を見せて彼に返書を書かせました。
しかしこの事は深く私の心に刺さった出来事でした。そのため、帰国してから妻にいろはを書かせ、
習字を練習しました。これによって幸いに、今日においてはにじり書きだけは良く出来るようになったのです。」
そう笑いながら語った。
清正は、和泉が謙遜してそんなことを言っているのだと思ったが、他日立花の諸士に聞くと、
果たして小野和泉の言に違いはなかった。
清正は感嘆して、
「古より偽りがないのが武士であるとは聞いているが、和泉ほど偽りのないものは
稀である。小野和泉こそ、真の武士の典型である。」
と語ったそうである。
(古雄逸談)
849 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 04:01:32.87 ID:QE5deDv1
男子三日会わざれば刮目して見よ、ですね
850 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 07:16:45.39 ID:7Q+T9pPf
信長の時代には農民を含めて識字率かなり高かったようだね
出典忘れたけど「この国の人たちはほとんどが読み書きできる」という書状が残ってる
武士で文字が読めない人は珍しかっただろうな
851 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 09:04:54.28 ID:4seFcnCN
江戸じゃなくて戦国時代も農民の識字率高いの?
852 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 09:59:48.46 ID:RdqJDEZb
毎年年貢交渉しなくちゃあいけないし
他の村と同盟結ぶ時も文書交わさなきゃいけなかったから
ある程度の人数、読み書きできる人はいただろうね
853 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 10:05:07.11 ID:TgO+iliV
ザビエルやフロイスは庶民や売り子や女性ですら字が読めると驚いてる
他の宣教師や朝鮮人も一様に驚いてるから高かったことは確か
江戸時代と違って率までは推測できないが
854 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 10:57:15.93 ID:rf1ru16Q
平仮名なら読めてたかもな。漢字だと、明治の頃でも自分の名前と住所しか書けない人も多かったみたいだし
855 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 11:00:19.62 ID:TgO+iliV
一口に識字といっても日本だと3段階あるからな
856 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 11:15:24.69 ID:oYPyEHVI
西欧人の字が読めるレベル設定と日本のそれは違うからなあ。
一概に識字率高かったとは言えないんじゃない?
もちろんそれでも普通の国よりは高かったってことだろうが。
857 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 11:22:06.71 ID:TgO+iliV
ヨーロッパでも公文書を書けるのはそれを仕事にしてる者くらい
比率はともかく字が読めるレベルとやらに差は無い
858 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 16:16:50.89 ID:+q5dUrzN
どなたか教えてください。
各時代の有名人の母系がらみの系図を作成するべく、あれこれ検索掛けていたら。
大久保忠佐の母親が大臣家の三条西家の人と書いてあるサイトに複数出くわしました。
年代的に見てもあまりにもありえない組み合わせに思えるのですけど、これは本当なんでしょうか?
859 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 18:42:20.58 ID:d4ZfabKU
よそでやれ
860 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 18:46:21.82 ID:OFW0q4Ln
西欧や朝鮮って話し言葉と書き言葉は同じ言語なの?
861 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 18:49:43.96 ID:Bm0jeVDH
862 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 18:57:48.97 ID:HIS5h/KI
863 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 22:31:48.35 ID:FyiIlVC8
有るとき、伊達政宗が若林城(政宗の隠居城)南の川除普請を行った時に、
政宗公が仰ったことである
「昔の話だが、その頃、年月がたって水により橋が傷んでな、このままでは役に立たなく成ると
思ったのだが、普請益を負わされる人民の潰えを思って悩んでいたところ、ある事があって、普請を
家中の全ての侍衆に頼むことになったのだ。
尤も普請場には少数の人数が置いてあり、そこに先ず1日づつ侍衆が出て、是非精を出せと申し付けたのだが、
時期は8月の末でな、世の中、気温がいっそう冷え込んできて、若者たちでも川の中に、
しばらくも入ることができないほど水温が冷たくなった折節であったので、普請も中々進まず、
五日十日の内に出来るとも思えぬ状況であった。
そういった状況であったので、普請は次の日に行うとし、その日は日暮れに皆ををれぞれの宿所に
帰すようにさせ、『明日は思い思いに、少々おどけた、気楽な心持ちで罷り出てくるように。』と伝えた。
さてその日、人を使って普請の様子を尋ねたところ、大川の、しかも水を先に迂回させる
大工事であるので、なかなか工事が捗らないようなことを言うので、直接普請場に行って
そこで貝を吹かせて集合させ、色々と諌めたのだが、寒いのは寒いし、川の水流は遡るにしたがって
強くなるし、なかなか普請の者たちも、いさみかねる状況であった。
その時私は、『行動するのはここだな』と思い切り、南次郎吉という小姓を相手にして、
いかにもむさ苦しいモッコに土を入れて叫んだ
『おのおの、進めや進めや!私も自身この有様であるぞ!見よ!』
そういって6,7度これを川の中に運んだ。
これを見ると、普請場に居た下々は言うに及ばず、侍以外の、普請見物に来ていた町人や在村の者達まで
自分から川まで進んできて、一度にわめき叫ぶと、土砂くれによらず何によらず、手にあたったのを幸いと
持ち寄り持ち寄り、川の中に運んで水をせき止めた。これだけの大川であったが、私一人の下知によって、
片時ばかりの間に普請が進んだのだよ。
こういうことを思い出すにつけても、昔が懐かしくなるなあ。
さてさて、我が家中ながら皆心根もよく、小気味の良い有様であった。」
そうお話されたのである。
(政宗公御名語集)
864 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 01:43:13.72 ID:wg9i2krs
865 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 07:14:54.26 ID:Tt42UUaI
>>863 8月末で寒くなるのか
旧暦だから9月東北地方と考えても今と違ってかなり寒かったんだろうな
いわゆる小氷河期
866 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 13:08:06.08 ID:Ln/OyNsx
室町〜戦国あたりが一番寒かったんだよな?
で、平安時代が暑かったとか
867 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:26:54.78 ID:TdhBvaCe
関ヶ原の戦いに敗北して捕虜になった石田三成に対し、諸将は我先にと屈辱を与えた。
この時、三成が「およそ戦死を好むのは匹夫である。将たらん者は命の危険を避けて、
再び戦を遂げることを本意とする。私は決して臆してなどいない。
なんとかして大坂に至り志を遂げようと望んだが、運が尽きて捕らえられてしまったのだ。
各々方は将帥の法を御存知ないのか!」と、怒ったところ、
これを聞いた福島正則は「至極の理に候。武将たらん者は誰もがそのように心得るべきである。
どうして恥辱とすることだろうか」と言って三成の心を慰めた。人は皆「勇将かな」と褒め称えた。
――『名将言行録』
868 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 18:00:40.34 ID:Cd1F9Z3F
人それぞれ能力も気質も違いますからね
869 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 23:44:58.84 ID:3dCBIko2
「奥羽両国は政宗様のものだ。そう秀吉が言ってた」
ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった
いわき市に残されている文化財の一つ 片倉小十郎景綱の書状 より
ttp://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10090.002/html/00180.html 以下に引用元 画像有り
「〜伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱(一五五七〜一六一五)が、天正十八年(一五九○)六月十四日、
岩城常隆の執権(家老)の志賀甘釣斎武治・右 衛門尉武清親子に宛てたものである。」 ここまでが引用
「〜書状の概略は次の通りである。
主人の政宗が秀吉のもとに行き万事思い通りとなった。岩城家も進退がうまく行くよう政宗が申し入れて置いた。
秀吉喜んで、政宗に出羽・陸奥両国を任せると言っていた。岩城家は政宗の取り成しで別状はないから、
秀吉への用向きは政宗に相談すると良い。それをしなければ秀吉は望みを叶えてくれないから予め貴方に申しておく。
奥羽両国は政宗が支配することになった。そのため相馬が政宗の不在中に伊達を攻めたので相馬を討つことにした。
だから岩城も遅れずに参加するよう常隆様に申してください。そのことが常隆様の御為になります。」 ここまでが引用
だが、現実は政宗は奥羽統一どころか会津没収・減封な訳で、岩城常隆はこの後、鎌倉で病死…家督は佐竹家へ。
もし、常隆がこの書状を鵜呑みにしたまま小田原に参陣したならば、直面した現実はさぞや厳しかったであろうと推察する。
恐るべきは伊達主従の口車、いや、戦国の世ということであろう…
870 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 10:23:11.05 ID:3VREAz16
>>869 >>ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった
そういうことじゃないんじゃないの?それ。
日付から考えたら、必死になってハッタリかましてるとしか解釈できねえんだが。
871 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 11:04:42.52 ID:9eqnP8j/
秀吉と直接面会されると困るから、なんとかして止めさせようとしたんじゃないの?
872 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 11:12:55.56 ID:MuawoCkT
873 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 15:04:17.45 ID:4HWbpmGu
自分もビッグマウスとはまた違うように思う
あとでお取り潰しになった石川とかを一門首座にしてたりするから、あの時はうちのせいでゴメンナサイな意識はあったと思うけどなあ
この岩城常隆の子の政隆を一門にいれたりしてるし
874 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 19:54:08.17 ID:MkPOZj5f
>>873 石川についてはそうだろうね
主家から見た傘下大名の処遇という点で
毛利を倣って二人の叔父(政景・昭光)を伴って参陣
していれば状況は変わっていたのかもしれない
政隆の厚遇については、政宗が慕っていた祖母・栽松院が
岩城家出身というのが大きいのでは?
また後年、亀田藩岩城氏が政隆の家系である、岩谷堂伊達家から
養子を迎えている等、旧大名の血筋を保護する事で勢力拡大の
チャンスを狙っていたのかもしれない
875 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:34:17.70 ID:sRHr9IkJ
細川三斎忠興が、立花宗茂の招きに応じ、一夕、共に会飲し、雑談も興に入る座で、
宗茂の家臣、伊藤某という者が、忠興にこんなことを質問した
「戦場において、往々に勇士と呼ばれた者が下帯を脱いだ醜状で、屍を晒していることがあります。
これはどうして、そのように成るのでしょうか?」
忠興答えて
「それは当然の事であり、特段不思議に考える程の事ではない。
総じて人の体というものは、血気充満している時に上帯も下帯も共に体に密着して
外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る。特に
刀剣の傷を追って斃れた者は、血液が一時に流出するため、たちまち身体が衰痩する。
それ故上帯はもちろん下帯も脱げ、見苦しい醜態を晒すことが多いのだ。
そうであるから、真の勇士はこのような状況を考え、下帯を肩から吊り下げて
落ちないように注意するのだ。
醜態を晒すのは、勇士と呼ばれるほどの者であっても、常に死ぬ覚悟がないから、
そういう注意もなく覚悟もないためなのだ。
これは、武士たるもの良く謹むべき事であるぞ。」
この言葉に、伊藤某はもちろん、宗茂も大いに感じ入ったとのことである。
(古雄逸談)
細川忠興の、フンドシの心得である。
876 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:36:23.91 ID:n2Ib811t
すると越中褌忠興考案説はやはり俗説にすぎないわけか
877 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:43:37.45 ID:9yECAV+6
>総じて人の体というものは、血気充満している時に上帯も下帯も共に体に密着して
>外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る
いくら科学が発達していないからって、経験的にありえないって分かるだろ(´・ω・`)
878 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 08:29:22.14 ID:EWgVWtBb
死んで筋肉が弛緩したら脱げたりし易そうな気はするけど、どうなんだろう?
俺はフンドシの死体をみたことがないから、経験的にはわからないなぁ
879 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 08:53:36.29 ID:JFDt+KEn
痩せるかはわからんが失血死した遺体が妙に軽かったのは知人の葬儀で棺担いで感じた
880 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 11:44:35.79 ID:mECXmptM
敵にやられた死体を味方の方まで引きずってくる時に脱げちゃうんだよ。
その結果ドラクロワの有名な絵「民衆を導く自由の女神」の倒れてる男みたいになる。
881 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 13:38:16.89 ID:gF9vDsen
そっか
胸がはだけるのか
882 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 18:38:17.52 ID:R6kFwoiy
>860、格式ばってる時はラテン語で普段は自分たちの言葉、国によっちゃ地域で言語違うから公文書なにで書くか決めとかなきゃならん。
時代が後になるとラテン語がおフランス語にかわったりする
883 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 19:39:14.86 ID:y6xeEluy
豊後国石垣原の合戦の時、大友修理大夫の味方、筧の城主・吉弘加兵衛尉という侍が、黒田如水入道の備へ物見に向かったが、
如水の郎党・井上九郎左衛門と渡り合うことになり、討死を遂げてしまった。
里人は後に、石垣原の近所の別府という所の浜に石塔を立て、吉弘加兵衛尉と書き付けて安置した。
加兵衛尉は名高い武士であったので、心ある侍はこの石塔を拝しながら通ったという。
一方、近所の人たちは、瘧で震えが止まらなくなると塩垢離をとり(海水で身を清め)、洗米やお神酒などを供えて、石塔を拝した。
すると、瘧はたちまちのうちに治ったそうだ。
後に、加兵衛尉の子どもがこの話を聞いて別府に行った。
そして、父の石塔に向かって語りかけたのである。
「父上!手向けられた洗米や神酒のせいで、墓所がめちゃくちゃ見苦しいことになっているではありませんか!
今後は、手向けなど取らず、塩垢離のみで本復させるようになさってください!
さもなくば、瘧を治すようなことなど、一切お止めになってください!」
それ以降も瘧治しの御利益は続いたが、息子の言葉通り、塩垢離をとるだけで治るようになったという。
(播陽諸所古今物語)
884 :
人間七七四年:2013/08/13(火) 21:47:57.39 ID:sbGLydIn
>>881 マテ。真ん中のオネエチャンじゃなくてその足元に倒れとるヤツのことやないかと。
血液だけで4〜5リットルあってその半分から三分の一が失われると失血死、
その他にも体液流れちゃうだろうからサウナで2〜3kg絞ったとき位はサイズ減るんかね?
+筋弛緩で緩んでもおかしくはないのかなー。褌使ったことないけど。あれどうなってんの?
885 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:18:25.15 ID:7ccVNWd2
家晴公の時代に松下小左衛門と言う足軽侍がいた。かの者は武道を心掛け
いつも槍を取り太刀を取っては勝つ事ばかりを考えている者だった。
ある時、小左衛門が朋友のところへ出かけた際に太刀勝負の事について
口論となった。実際に立ち会って小左衛門が勝ったが、続いて相手の父子
が一度にかかってきたので、今度は小左衛門が敗れた。
このやり方をもっての外だと怒った小左衛門はその場を立ち去り、相手を
討ち果たす覚悟を決めた。
小左衛門は一門に人を廻して「珍しい肴が到来したので料理して振る舞い
たい」と告げ、一門の者を呼び集めようとした。この事を横目が聞きつけ
様子をうかがっていたが、怪しい行動であったので家晴公へと報告した。
家晴公はすぐさま小左衛門を高城へと召し寄せられ、直接話を聞かれた所
この間の兵法勝負について憤懣がある事を知られた。「実際にあった事を
残らず申せ」との御意を受けて、松下は全ての事情を申し上げた。
その時、家晴公は「何事も私の為に堪忍せよ」と言い褒美として掛硯から
白銀3包を取り出して手ずから与え「この銀を急いで持ち帰り、一門の者
どもへ酒肴を調えて馳走せよ」と仰せられた。
この有難い措置によって小左衛門は遺恨を捨てた。
その後、家晴公が御近習の者へこの事をお話になられた事があり「この間
は安い値段で良い買い物をしたよ」と仰せられ、御近習の者が「いったい
何を買われたのですか」と尋ねると「役に立つ武士3人を銀3包で召し置く
事が出来たのだ」と仰せになられた。
小左衛門は高麗御陣にもお供してたびたび手柄を立て、帰陣後に家晴公が
他界された際には最初に殉死したと言う。
(古老咄聞書)
龍造寺家晴の良い買い物の話
886 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 09:26:06.16 ID:6CI0eY2o
(家晴を家康と空見したのは俺だけじゃないはず)
887 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 10:05:54.56 ID:WtnzsioH
いや、オレは(足利)義晴と...。
888 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 10:14:09.59 ID:7ccVNWd2
889 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 11:15:31.92 ID:B20Gs58+
柳川の抑えとして立花高橋と相対して、九州征伐の頃にゃ秀吉から西郷切り取る許可もらった名将ですな
ちなみに龍造寺の家兼さんの親父さんは康家で家康の逆さまだったりする
890 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 12:06:06.97 ID:hNPJCILw
891 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 16:30:06.61 ID:9Eku+TQl
892 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 18:22:03.37 ID:p1kaldgK
>>885 良き「人材」は財産、まさしく「人財」ですなー(^O^)/。
893 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 22:09:00.19 ID:TdjXKN36
立花宗茂は細川忠興と友人であり、共に親しんでいた。
ある日、この二人が共に下城することがあり、宗茂は忠興を自邸に招き
自ら茶を点てて饗した。この折に、忠興が宗茂に尋ねた
「あなたは、自分の臣下を治めるのに苦慮することなど少しもないと仰っている。
それは果たして真のことであろうか?
あなたの家臣が善士に富むと雖も、一家を運営するというのはそれでも難しいものです。
いわんや一国の運営に到っては。
私はあなたに、治国の要を聞くことを請いたい。」
宗茂はこれに答えて
「別に、これといった秘訣はありません。
ただ何事も隠し立てをせず、閨中で家内に語るようなことも、臣下一般が知るように
望んでいます。
このようですので、臣下一般は私を信じ、何事も背くことはありません。
それ故に、国内も自然に治まりますので、何の苦心もありません。
私もまた、臣下一般を信じて、横目(監視官)など用いたことはありません。
外様の者であれ、譜代の者であれ、自分の家内同様に心得て、国を治めています。」
この宗茂の公明さに、忠興はいよいよ彼への尊敬を重くした、とのことである。
(古雄逸談)
894 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 22:12:56.75 ID:Rd9AfSFq
895 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 00:02:21.77 ID:IC86NBdk
896 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 00:11:32.08 ID:SXl1NlBa
相変わらず爆発しろと言いたくなるイケメンキャラだな宗茂は。
897 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 10:02:21.42 ID:pR/+yBr7
蜂屋半之丞は音に聞こえた武辺者である。
ある時眼前の敵にかまわず退いた事があり、神君は「半之丞はどうして
眼前の敵にかまわず退いたのか」と尋ねられた。
半之丞はこれに答えて
「我らに立ち向かってくる敵でならば、この身に矢が当たろうともその
敵を討ち取らずに退く事はありませんが、戦いを好まぬ敵は眼前にあろう
とも捨て置き退きます。
敵であろうとも従えば味方になります。ならば手向かいしない者を殺す事
は好まず生かして従える事こそ本意かと存じます。」と申し上げた。
神君は「知仁勇兼備である」として、ことのほか褒められたと言う。
(明良洪範)
898 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 12:08:47.74 ID:OAxQXVT6
899 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 16:25:46.94 ID:IjM0H9nU
天正十年、織田信忠は兵五万を率いて武田勝頼を攻め滅ぼし、
信濃、甲斐、駿河、上野等を尽く平定した。織田信長はたいへん喜んで、
福富平左衛門貞次を使いとし、信忠に父信秀の遺刀を授けて、
「お前が出陣することわずかに三十日で大敵を滅ぼし、数国を平定したことは、
先祖を辱めない活躍というべきである。今年の冬には必ず天下兵馬の権を譲ろう。
いま家伝の宝刀を授与してしるしとする」と、言った。(寛政重修諸家譜)
信忠は畏まってたいへん喜びながらも、天下を譲ることについては、
「いまだ若輩ですので思いも寄りません」と、返答した。(当代記)
900 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 17:04:06.87 ID:UlTecr3e
政宗は自分が悪いことしてチクられたのがイヤだったから言ってるように見えてなあ
901 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 17:38:17.08 ID:PAWDSkTC
>>900 自分がされて嫌なことは人にもしない、てのはいいことかもしれない
902 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 18:19:23.88 ID:BxbQ080h
自分がされて嫌なことは殿にはさせない!
903 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 21:34:09.91 ID:gQEbRXYh
1595年、豊臣秀吉が非常に可愛がっていた甥の秀俊(豊臣秀保とも呼ばれる。関白豊臣秀次の
弟にあたる)が死去したため、秀吉は非常に盛大で荘厳な葬儀を行うことにした。
この葬儀には前田玄以の長男で、すでにキリシタンであった前田左近将監秀以も、他の人々と
一緒に招待されたので出席しなければならなかった。葬儀が始まってから秀以は、困ったことに
直面していることに気づいた。葬儀では仏教の形式に従って故人の像に敬意を捧げて
焼香しなければならないのだが、キリシタンである秀以がこれをすると背教者となってしまう
恐れがあるのだ。かといって立場上、拒否するわけにもいかずに悩んだ末、秀以は席を外して
自分の名前が呼ばれる時には その場にいないようにした。
葬儀で参加者たちを順番に呼び出す係の者は、秀以が退出した理由をすぐに察したので
わざと前田秀以の名前を小さく呼び、そして、すぐ後に次の者の名前を呼んだ。幸いなことに
参加者たちの人数があまりにも多かったため、前田秀以の不在は気づかれずに済んだ。
(イエズス会日本年報 ルイス・フロイス書簡)
904 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 21:47:49.14 ID:Mvv5JElJ
秀次に連座して殺されたのに葬儀なんてしたのか
905 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:00:32.73 ID:AwzhUaBg
誰が殺されたの?
906 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:05:38.91 ID:Y8aPlt9O
>>903 わかってても一応呼ぶのなw
まあ完全スルーしたらまずいか
907 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:12:36.49 ID:gQEbRXYh
豊臣秀保は病気で亡くなったそうだ
死去の年が関白豊臣秀次の切腹事件と同年なのでまぎらわしいな
908 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:44:41.43 ID:pR/+yBr7
秀保って、なんで秀俊呼ばわりされるんだろう
909 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 22:46:29.43 ID:goy77eNo
金吾が悪い
910 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 23:03:31.68 ID:iQ82oDxb
>>893 これが元ネタか・・・
これは宗茂が藩主だからできることだから見習えるかというとそうでもないな
911 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 23:05:26.29 ID:7FJpiMex
まあ聞いてきた相手も忠興だからね
これをそのへんの市井の民に言ってたらあほだけど
912 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 23:29:18.47 ID:zLCbihqK
意外にも(失礼)松浦久信の話が伸びてる。
興味わいてきたので、なんか他の逸話があったら教えてください。
913 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 16:36:44.62 ID:y/DTOoie
加藤嘉明は府中屋念斎夫妻と仲が良かった。念斎は財産家でいわゆる御用商人である。
念斎は嘉明の頼みに応じて、松山市街創設の際に町家の地割を行い、その経営に尽力した。
また、独力で濠を堀り、これを念斎堀と称した。
この念斎はそそっかしい性質で失言することが多かった。妻はこれをとても憂慮して、
嘉明に夫の性質を正してほしいと求めた。
これに嘉明は「不覚は大事というわけではないから、それほど気にとめなくともよい。
一日に三回までの失言は許しなさい。それ以上の時は注意しなさい」と答書してその末に歌を附した。
「六十にあまりしまでのねんさいを、いまさらしめすつまのやさしさ」
――『加藤嘉明公(伝説、仲田文書)』
914 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 18:27:55.05 ID:hP62bGop
>>913 加藤さんにも、こういう歌をよむような洒落っ気があったんだなぁ
915 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 18:37:11.06 ID:yNmQ+qR7
三才「3回でアウトな」
916 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 21:55:07.07 ID:imKNgb6q
ある時(寛永3年3月14日)、伊達政宗は紀伊大納言徳川頼宣の饗宴に招かれた。
御相伴・御相客は板倉内膳(重昌)殿、柳生但馬守(宗矩)殿、内藤外記殿、その他
多数がおられた。
形式通りに酒宴も過ぎて、政宗が帰宅するという時、頼宣もそれを玄関まで見送りに出た。
政宗は振り返り、紀州屋敷の大広間に、老若がひしと膝を組んで詰めるほど、紀州家の家臣たちが
伺候しているのを見て頼宣に語った
「さてもさても、申すも愚かなことですが、あなたの歴々たる家中の者達の多さに、目を驚かせて
しまいました。これだけの内衆を持たれて、只今の若上様(家光)への御奉公は、少しも
抜かりがない事でしょう。
これだけの人数があれば、たとえ今から大国に攻め入っても、お手柄の御勝利は間違いないでしょう。
そうそう、ついでのことですが、申し上げます。
もし紀州において、御国の境目論(国境紛争)などがありましたら、早々に私にお伝え下さい。
我が手勢を二千も三千も召し連れ紀州まで罷り越し、少しもあなたには手をかけさせず、
この年寄りが参って、いかようにも取り扱いいたしましょう。
と、このように申し上げましたが、
もしあなたが、今の若上様を蔑ろにするようであれば、かく言うこの年寄り、日ごろ国元に秘蔵し
差し置いてある郎党共を召し連れて、真っ先に紀州に攻め入ります。
…左様にお心得候へ」
人々はこれを聞いて「言い難いことを何とはっきりというのか」と感嘆した。
後でこの場に居た板倉重昌からこのことを聞いた徳川家光は、殊の外機嫌が良かった、と、
これは後に板倉殿自身が語られたことである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗、南龍公を脅しつける、という逸話である。
917 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:28:32.13 ID:zDDjBTD6
もし秀忠が家光じゃなく忠長に継がせてたりしたら、政宗はまた秀次事件の二の舞になってたのかね?
まあもちろん家光への接近はその失敗の反省込めてリサーチした上でやってたんだろうけどな。
918 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 22:21:50.03 ID:wo+M4z9Z
>人々はこれを聞いて「言い難いことを何とはっきりというのか」と感嘆した。
ここで「また政宗がかっこつけてしょーもないこと言ってるぞw」とならないのが不思議だわw
こいつはこういう奴だろw
919 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 22:23:26.93 ID:3zPDWVhL
>>918 そこは伊達家の記録だから、まあ多少はねw
920 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:32:36.51 ID:3j0TWzxv
実際に境界紛争を担当したのは大岡越前でした。
921 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 01:08:38.10 ID:R1/uJbW+
ある時、伊達政宗公は御座の間において、朝から諸奉行衆・出頭衆・調査を申し付けられた衆など
数多召しだされ、終日自身で訴訟案件の処理を行った。
政宗は八つ過ぎ(午後3時頃)まで急速も取らず、種々様々なことを仰せ付けられていたが、
この御裁きの最中に、諸奉行たちに仰せられた
「私に少しいとまをくれ。皆々もその間、休息をしてくるように。」
そうして次の御座敷に立ち、四方の障子などを立てて、12〜14歳くらいの、奥小姓、御禿などを
7,8人呼ばれた。
周りが、何事だろうと思っていると、政宗はこの少年たちに色々可笑しい昔物語などをさせ、
一人で腹を抱えて大爆笑していた。
人々これを見て「何してるんだろう?解らん。(つひに覚え申さず候)」と言っていた。
ややしばらくして、政宗は元のように御座敷に出て、それから暮に及ぶまで種々様々な沙汰について
諮問し、処理していった。
後で政宗は
「気がくたびれては、思わぬ判断の間違いを犯すものだ。であれば、沙汰の判断に迷い
罪の無い者を罪としてしまっては不便な事である。
あのように息抜きし心持ちを晴らすのも、国のため、身のためなのだ。」
と話された。諸人は、誠に有り難いことだと感じ入ったとのことである。
(政宗公御名語集)
いい話になっているけど、多分途中で飽きちゃって、気分転換しただけなんでしょうねw
922 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 10:25:54.27 ID:iknAmSdJ
この人の場合は、休息後に再び政務に戻って来た
という事がいい話に思えるんだが。
923 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 10:34:23.58 ID:GzHOT4N5
政宗ってオンオフ切り替えすごそうだよな。
明石家さんまみたいなイメージだ。
よくしゃべるし、人前ではずっと冗談言ってるけど、ふとしたときに怖い表情しそう。
一人になったときに自分の言動チェックしてそう。
さんまは鬱期がないタイプの躁うつだとか言ってる人いるけど、政宗も躁うつっぽい感じがする。
924 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 11:37:38.58 ID:ZnzarL+L
(´・ω・`)「キツネついてね?」
925 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 13:08:15.81 ID:DlVoeBWW
御禿…ハゲ?
926 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 13:18:19.59 ID:WZpK/JYx
平相国「だだだ、誰がハゲやねん!」
927 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 13:52:02.11 ID:8kqD3Adw
かむろのことだってわかるけど、御禿って書かれると特定の人物が思い浮かぶw
928 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 15:40:05.71 ID:ZnzarL+L
特定?ハゲが多すぎてわからんぞ。本願寺とかそーりんとか
929 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 16:13:31.85 ID:dZERyMgW
禿っていうと遊女見習いみたいなイメージだわ…
930 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 19:11:13.58 ID:DlKR9j+W
話題が毛髪に変わっててカチンときた
931 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 22:47:52.49 ID:R1/uJbW+
浅野弾正長政はかつて、柳川に至って立花宗茂の客となった事があった。
この時宗茂は、長政を伴い一日、鷹狩を行った。
ところが田園を探し尽くしても獲物を獲ず、たまたま飛ぶ鴨を見つけても、
鷹は普段は敏捷なこと無双なのに、この時は一羽も捕らえることが出来ず、
宗茂は甚だ不満な有様であった。
帰路、田の畦のはるか向こうに一羽の鴨を見つけると、宗茂は長政に向かって言った
「今日の狩りでは、鷹はその功を奏することができませんでした。
あなたの為に、あの一羽を獲りたいと思います。」
そうして矢を引き絞り、14,5間(約25〜27メートル)隔てた鴨に向かって射ると、
一発、直ちにその鴨を斃した。
浅野長政はその妙技に大いに驚いたが、なお一箭を残していた宗茂は、これを弓に当て
従者を呼んで
「鳥はいないか!?鳥はいないか!?お前たちどうして捜さないのだ!?」
そう次の獲物を捜させるが、長政はこれを止めて
「あなたの射術の妙技については、私は既にこれを理解しました。
しかし、もし今一度これを試みて万一失敗すれば、前功もたちまち虚しくなるというものです。
再び行うのは、止めた方がよろしいでしょう。」
しかし宗茂は笑って答えず、と、この時一羽の鴨を見つけた。
翩々としてススキの穂の上の方におり、頭と尾がわずかに見えた。これは「ほう白」であった。
宗茂はこれを見るや直ちに矢を放つと、左翼を貫き「ほう白」は地に落ちた。
長政は宗茂を喝采し、いよいよその妙技に感心したという。
(古雄逸談)
932 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 22:50:19.54 ID:To1S2tIh
これが主人公補正ってやつか
933 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 17:54:01.27 ID:rIV2E+ot
知り合いが決戦・夏の陣と銘打った殺陣の試合?に仕切りに誘いに来てたんだけど…
内容が「この夏、東西に分かれ天下二分する戦いが繰り広げられる、さてこの戦いで将軍の座につくのは誰だ?」というで
「夏の陣って孤立無援の裸城を根城にした浪人軍と幕府軍の勝ち目の解った戦いじゃないの?そういうのを模した内容なの?」って聞くと激おこプンプン丸だった
もちろん見に行ってない。
934 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 18:23:11.75 ID:2eV90Pc2
935 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 18:26:21.37 ID:WRdv2agF
よくわからんスラング書かれても
ほかにもスレあるだろうに
936 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 23:48:29.11 ID:rIV2E+ot
夏休みなんだから察してよバカ
937 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 00:02:29.73 ID:jTES72Z1
上杉謙信の元に、長篠の戦いでの武田の敗報が伝わると、謙信は養子である景勝、景虎に向かって語った
「私は若年の頃より軍陣に臨み、幸いにして勝利を得てきたが、それは私の武道のお陰ではなく、いわば、時の運なのだ。
というのはな、勝利を確信した上で押し懸り、それで勝利を得るのが正道の弓矢というものである。
一方、負けるのが解っていて、それでも戦おうとするのは、目が見えぬまま何かを行うのと同じで、愚かの至である事
勿論である。
ところが私は、必ず負けると見ても、無二無三に攻めかかって、それで勝利を得てしまったことが度々有る。
何とも時の幸いとしか言えないではないか。
だがな、私が『撤退するのは卑怯だ』などと思って無理な働きをしようものなら、それこそ敗亡は一瞬のうちであろう。
信玄公は名誉の戦上手であった。信長さえ彼を神のように恐れ、一度も甲州に出兵することはなかった。
しかし彼の才能は天禀の致す所で、真似ようとして真似できる智慧ではない。
ところが勝頼は身の程を知らず、父の形ばかりを真似し、今度の長篠の大敗を招いたのだ。」
そして一息ついて
「こうなってはもう、勝頼も信長に対抗するような元気は無く、幕下の侍大将も、次第に彼を見限るだろう。
この隙を狙って我が旗を出せば、信州から西上野は言うに及ばず、甲州までも手に入れるのは容易である。
しかし年若い勝頼を辛い目に合わせるのは、私の本意ではない。
まあ、今に見ておれ。捨てておいてもやがては、私の幕下に従いに来るだろう。」
そのように言われたのである。
(上杉謙信言行録)
938 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 00:23:56.09 ID:ULY3rSq+
>まあ、今に見ておれ。捨てておいてもやがては、私の幕下に従いに来るだろう。
軍神様、予言が外れてます
いい話じゃない気がする
939 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 01:37:13.30 ID:UbioZX+F
御館の乱での中途半端な介入が勝頼の寿命をさらに縮めたような気もする
940 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 01:48:22.57 ID:Cg/D/ibc
この戦いに勝頼ほかない!
941 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 02:52:38.45 ID:5C4XOeBD
いい加減に四郎
942 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 03:53:07.38 ID:Cg/D/ibc
織田まり!
943 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 11:28:17.64 ID:HMw720g0
>>939 氏政が織田と武田、天秤にかけてどちらを選ぶかなんて明白だろアホ
944 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 14:40:01.22 ID:MigaQOcQ
北条は積極的じゃなかったし、武田は金で買収されたって聞いた
北条が織田と武田のどっちかを選ばざるを得なかった?
何を言ってんだこのアホはw
945 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 14:48:40.71 ID:6zA7awEo
余所でやれ
946 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 15:00:28.61 ID:u41k0N5S
947 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 18:34:42.10 ID:zZxhS/2r
徳川秀忠が五十歳になった頃、藤堂高虎は物の序でに、
「尊齢すでに知命に及ばれたのですから、今よりは何事もすこし御ゆるみになられて、
御心のままに御遊びなどなさってはいかがですか」と申し上げた。
これに秀忠は「お前たちのような立場なら年老いた後に何事をしたからといって
妨げもないだろうが、わしは恐れ多くも太政大臣の地位にあって、天下の多くの人々が
仰ぎ見ているのだから、死ぬまで慎んでもなお足りないのだ」と言った。
高虎は恐れ慎んで、秀忠が老いても謹慎を怠らないことに感銘を受けたということである。
――『徳川実紀(武家閑談)』
948 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 23:51:22.50 ID:JyezuA1L
>>946 甲相同盟は破綻してた
それに北条は天正7年辺りに織田に鷹を献上して同盟を結んでるよ
949 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 17:22:05.43 ID:A+4h7HRK
蜂須賀忠英が江戸にいた時、祖父家政が病気になった。知らせを聞いた忠英は許可を得て
国に帰り、家政を見舞った。しかし家政は喜ばず、近臣を介して、
「参勤は公事であって私的なことではない。一度国を出れば、生死はわからないものだ。
武士の出門は常に決別と知れ。故に今になって対面することは不要。早く帰って公事を怠るな」
と告げて、ついに忠英と会わなかった。
――『蜂須賀蓬庵』
950 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 17:29:38.98 ID:NHyKSG+7
忠英ってあまり聞かないから何代目か調べたら二代目阿波藩主だったか
正勝(小六)、家政、至鎮と初代阿波藩主っぽいのが三人いるからややこしい
951 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 21:33:21.23 ID:Dz5fdAGk
三谷千左衛門は勝茂さまの御歩行十人衆随一の人物だった。
それは光茂さまの御代のこと、
光茂さまがにわかに能を習おうと御思いになられたとき、
城内に能に心得のある者がいなかったので、
あちらこちらとお探しになられると、
安住権右衛門の養子の源七という者が、
藤島清左衛門の弟子で、能をよくするということがわかった。
源七は、そのとき台所仕事をしていたのだが、
光茂さまに召しだされ、お側で能の相手を勤められるように、
召しだされたその場で、その日から武士として取り立てられることになった。
予想もしない急な御取り立てで武士となったことで、
源七は城内ではひどくまわりに気を使い緊張するばかりであったという。
千左衛門はそれを見て、
「そなたはさぞかし気を使っていることだろう。
急な御取り立てゆえ無理もないとは思うが、
失礼ながら心の落ち着けかたをそなたに教えようと思う。
いきさつはどうあれ、一度御取り立ていただきそれを受けたなら、
武士としての立身の本望をそなたは達したわけだ。
このあと、浪人を仰せつけられても、
また、切腹を仰せつけられようとも、
もはや立身を成し遂げたあと、心残りはないはずである。
一度立身したからには、心に思う武士の働きをして、
それで浪人になろうとも、一身の面目であろう」
と言った。
この一言で、源七の覚悟がきまり、
無用の緊張がとけ、安らかな心で奉公出来るようになったとのことだ 【葉隠】
952 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 00:10:27.88 ID:nQGgdFhz
これが通じるのって、元々武士になろうという気構えがあってこそだよね
953 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 01:04:24.44 ID:CVNQNxzl
昨日まで台所で働いていたのに突然武士になっちゃって、
その上お殿様の傍で働くなんて誰だってビビるわなw
954 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 06:32:10.56 ID:0AzTc+dD
肴町
徳川家康ゆかりの浜松には家康由来の地名が多いが、浜松駅近くの肴町もその一つ。
先日某番組で放送していたところによると当時は浜町駅の近くまで海が迫っており、付近では魚市場が栄えていたため、家康が肴町と名付けたのだとか。
駅前の繁華街となった今でもその名残を残す卸問屋があり、その歴史を伝えている。
なお、その肴町を整備したのは本多・高力・天野の三奉行である。
約100年後の寛文8年には時の浜松藩主・太田資宗より家康由来のため専売の権利がある旨再確認された。
ちなみに浜松の茄子町・小豆餅についても取り上げられていて、茄子町はもう茄子は作られていないが、小豆餅は今でも美味しいお店があるらしい。
家康公の威光が100年続いたいい話?
955 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 09:57:02.92 ID:kI/piEBj
武士への取立ては名誉なこと
嫌がる人など居るはずも無い
956 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 10:10:58.85 ID:IxPvfyLU
小豆餅、銭取の逸話だと家康の威光と言っていいものやら
957 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 12:05:15.92 ID:jVzGwDvd
>>955 ところが葉隠には農民になりたいと主君に訴えでるも、
なかなか武士辞めさせてもらえない人物の話もあるんだなこれが
958 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 22:51:14.52 ID:CVNQNxzl
家康はなんで餅屋のばあさんに追いつかれたんだろうなw
普通追いつかれないだろw
959 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 04:14:40.22 ID:v48JZHfQ
高速道路で車を追いかけてくる婆ちゃんの先祖だったから
960 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 15:43:47.11 ID:FYzGJQbF
蜂須賀至鎮が幼い時、福島正則が来訪した。この時、諸々の談話があったのだが、
至鎮は始終じっと聞いているだけで、まったく明弁しなかった。
正則は退いて至鎮の老臣に向かい「私はこれまで多くの人を見てきたが、
威徳の備わっている人を見たことがない。将来、天下の名将となるであろう者は、
唯々、長門守である」と語って、痛く感嘆したという。
――『峻徳公略伝』
961 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 22:09:27.70 ID:s3ENaWub
高橋紹運がその子宗茂を、立花道雪の養子とすることと成り、一日宴を張り
杯を挙げ、宗茂にこの様に言った
「今日以後、お主は道雪の子である。夢にもこの紹運の子であると思ってはならない。
もし明日にも、不幸にして武道において私が道雪と相戦うことに成るかもしれない。
一旦戦端が開かれれば、お主は道雪の先陣として、この紹運と戦うのだ。
あの道雪は、いささかの未練であっても嫌悪する豪勇の士である。
お主がいささかでも未練の念を発し躊躇する様子があれば、道雪は直ちにお主を義絶するであろう。
もし道雪に義絶されるようなことがあればそれは、武士の恥辱であり末代までの笑い草と成る。
その時は、この刀を以って潔く腹を切れ。
誓って、ここに帰ってきてはならんぞ。」
そう語ると長光の一刀を与えた。
宗茂は涙を流して、これを受け取ったという。
(古雄逸談)
高橋紹運と立花宗茂の、父子の別れについての逸話である。
962 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 21:39:04.86 ID:pQVN68TX
>958
馬よりも速く走る老婆がいたからだろ。
不可解なことだが、武田の騎馬武者より速く走る老婆に追われたら焼味噌くらい漏らしてもおかしくはない。
963 :
人間七七四年:2013/08/25(日) 23:20:44.23 ID:cbKLJFzI
伊達政宗があるとき、料理についてこの様に言った
「仮初に人に振る舞いをするときは、料理こそ第一の物である。
どんな時でも、その亭主が勝手に入らず、もし料理が悪く虫気(食中毒)でも起こすようなら、
その後どれだけ気遣いをせねばならないか。そうなっては、その人を呼ばぬことよりも
はるかに劣る事態となってしまう。
昔は誰をもてなしに招待するにも、その人のつてを以って、嫌うものを聞き届けてから
もてなしをしたので、非常に心安かったものだが、最近はそういった習慣も無くなってしまい、
気遣いが一層多くなってしまった。
人をもてなす時は身分の上下によらず、馳走のために多くの道具を揃えるのは無用である。
さしたる物ではなくても、1,2種求め、それに何か品をつけ、目の前で料理するか、
あるいは亭主自らが料理して盛ったなら、そのまま座敷に持って出すのがいい。
これこそ一種の、御取り成しと申すものである。
これは何々と言うような珍物を数多く出すよりも、ずっと優っているのだ。
そして食事の場を、涼やかで清潔にしていることが馳走なのだ。
それから、種々様々、百品千品取り揃えて一度に振る舞うよりも、なんてことのない物、一種二種づつでも
折々にもてなすことの方が優っているのだぞ。
友は馴れるほど親しくなるものだ、一度に持て成すなどというのは、仕方なくやる事であり、
その奥意には、その人をおざなりにしている気持ちが有るのである。
これはあらゆる事に当てはまる。
理の無い所に力を入れて、人ごとに、むやみに我が理を立てようと言い立てるのは、
結局はその者の無分別さ、臆病さが致す所なのである。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、もてなしの心についての言葉である。
964 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 13:56:43.97 ID:wvaqXLaT
戦国武将は料理にも一家言ある所も好きだな
965 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 15:28:17.56 ID:hmMyPALh
>963
直家「もてなしかたならまかせろー」
966 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 15:29:48.16 ID:GgamtQCK
967 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 18:02:06.74 ID:vLA1EGRy
ある日、池田恒興は囲炉裏で栗を焼いて食べていた。この時、側には十歳ほどの輝政がいた。
恒興は輝政を試してみようとして「この栗が欲しいか」と尋ねると、輝政は「欲しいです」と言った。
そこで恒興は火箸で火の中にある焼栗を取り出して、そのまま差し出した。輝政は栗を手に受けて
押し戴き、何気ない様子で食べた。
――『名将言行録』
968 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 18:27:25.40 ID:U43fJV3M
リアクション芸人じゃないんだからw
969 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 19:24:24.41 ID:T+mlkPFf
そういや池田家じゃなかったっけ饅頭苦手な小姓に持たせたら、手が腐って死んだとか言う話
970 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 19:52:04.41 ID:2J+/Kijn
饅頭恐い
971 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 20:36:39.54 ID:NdSD+sXp
苦手とかそういうレベルを超えているなw
972 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 21:29:08.02 ID:n5dbDePS
そろそろ熱いお茶が恐ろしゅうございます
973 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 22:05:58.03 ID:LnviN91z
饅頭アレルギー?なんてあるのか
974 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 14:08:22.86 ID:3a8FtYZC
なにそれこわい
975 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 15:53:53.35 ID:tcK433oS
蕎麦アレルギー、米アレルギー、小豆アレルギー
↑饅頭に使いそうじゃね?
976 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 15:56:19.95 ID:U2EEhzjR
小麦スルーしてどうする
977 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 16:01:26.87 ID:76msazCA
持っただけで手が腐って死ぬとか、アレルギー云々の問題じゃねーよwww
978 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 18:20:53.14 ID:y6/AsSPv
元和二年、池田利隆が亡くなった。高木内記は起臥の愛を受けたというわけではないが、
無双の寵臣であった。これ故に高木は「かねてより覚悟したことなので殉死する」と言った。
これを番大膳と芳賀内蔵助は「内記が殉死するならば、私達も莫大な御恩を蒙った以上は
存命しがたい。しかし、一国の政事を執ってゆく二人が殉死することは、
幼君に対してこの上ない不忠だ。だから私達は他の人口などに拘らずに幼君を守り立てる所存だ。
どうか内記も殉死は止めてくれ」と理を尽くして留めた。
高木はひとまず二人に対して殉死を留まったのだが、かねてより思い詰めたことであったので、
利隆の死後、四十九日に当たる日より食を絶ち、その年の八月二十日に餓死した。
当時、高木の死は「世上の殉死よりもひときわ困難な死を遂げた」と評された。
――『埋礼水』
979 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 06:33:01.12 ID:Rf3PPeou
切腹より餓死の方が評価されるとは
980 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 07:48:09.50 ID:Xe/O/6xA
平盛国辺りに倣ったんだろか
981 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 11:09:46.68 ID:raFkBi0C
切腹はしないと約束しちゃったので餓死しました!
982 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 12:52:14.73 ID:PRTuB8UT
まぁ切腹の方が辛くはないだろからな・・・
983 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 13:49:38.83 ID:P2Log87N
番さんと芳賀さんの止め方も微妙だな
死なれるとおれたちの面目が立たなくなる
みたいな言い方はどーなんだろ
984 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 15:10:28.41 ID:mvRMVnsr
正直でいいやん
985 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 15:17:14.22 ID:P2Log87N
まあそれ言ったら高木さんが一番正直だろ
986 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 21:02:36.98 ID:S0YR5kHe
ごくごく個人的な印象に過ぎないんだが、大膳を名乗る武将は多いけど、なぜかあんまり
いい場面で登場する記憶がない。
987 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 21:13:00.78 ID:PkBgnFPb
悪いスレで大膳が二人続けてでたからとか
988 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 21:27:11.51 ID:3DKrPWwb
んじゃ弾正で
989 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 22:22:25.65 ID:RNffr8t/
そういや次スレは
990 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 22:23:15.45 ID:kKwI9dDG
991 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 22:25:47.78 ID:kKwI9dDG
992 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 23:30:29.32 ID:7tklFMSw
993 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 23:43:35.26 ID:kKwI9dDG
994 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 11:01:33.74 ID:0AvAjFMu
>>986 既出の逸話でなら谷川大膳が居るじゃない。
稀にみる女体化戦国もので描かれたら一途なドジっ娘にされそうだが。
995 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 15:43:55.14 ID:INxpR+3C
996 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 16:20:52.74 ID:7/iNMmR+
埋め代わりに
微妙公(前田利常)がある時、仰ったことに
「『舌切雀』という昔話が有り、子供に物語するが、あの話の作者は、本当に物事をよくわかった者である。
あの昔話の中に、人間にとって必要な事は全て揃っている。
あの話の中で、老翁には慈悲があり、老婆は不慈悲である。
老翁が軽い葛籠を貰ったのは少欲であり、老婆が重い葛籠を貰ったのは多欲である。
老翁が宿まで葛籠を開かなかったのは約束を違えなかった為であり、
老婆が道で葛籠を開いたのは約束を破ったのである。
このことを理解すれば、世上の事は済むという物である。」
これは藤田内蔵充殿から承った話である。
(微妙公夜話)
微妙公、舌切雀を高く評価していた、というお話。
997 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 19:36:35.49 ID:SXhn3q/6
いい話だな
998 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 20:20:59.80 ID:INxpR+3C
うむ
999 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 23:00:25.18 ID:tMcJNg6s
うむ
1000 :
人間七七四年:2013/08/29(木) 23:03:42.34 ID:INxpR+3C
1000
1001 :
1001:
/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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