織田信長は過大評価されすぎ12

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1人間七七四年
ほんまに天才なんか? 何をやっても天才なんか?

前スレ
織田信長は過大評価されすぎ11
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/l50#tag997
2人間七七四年:2013/02/13(水) 00:42:20.32 ID:c15fs0aH
アスペルガーだがご用達スレ

992 :人間七七四年:2013/02/12(火) 12:27:00.87 ID:4rnhD0G9
>>991
その浅井朝倉らに織田は押されまくり史実では下記のように滅亡確定だったわけだが。信玄の死と朝廷権力に救われただけなのが信長。
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/
アスペルガーだがと呼ばれる、武田信玄を崇め織田信長を嫌っている人物についてまとめたサイト


アスペルガーだがってどんな人?
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。
一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。ちょっとでも武田を叩いたり
信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。

だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、
武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるものと信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、
だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
3人間七七四年:2013/02/13(水) 18:33:10.79 ID:6skGB1h+
信長は、「天下布武」で武家を騙して味方に付ける一方、実際には頼朝以来の武家政治を廃して、
平清盛が孫を安徳天皇にしたのと同様、天皇家と織田家の公武合体による中央集権政治の復活を目指した。

三官(関白、太政大臣、征夷大将軍)推認への返答保留は、それで解ける。

関白か太政大臣になると「天下布武」が詐欺だったことがバレるし、かと言って将軍に納まって幕府を開く気は毛頭ない。
それを察知した光秀が全国の武家の意向を汲んで、本能寺で信長を殺害した。
秀吉は清盛や信長を反面教師として、武家政治の継続を約束したため、全国の武家が喜んで付いて来た。
別に秀吉が人たらしだった訳ではない。

家康はさらに征夷大将軍として「関東に幕府を開く」ことで、
頼朝(反朝廷・武家政治)の後継者をアピールすることで、秀吉以上に全国の武家の支持を集め、
江戸幕府の基盤を確かなものにした。
関西に幕府を開かなかったのは、京都に幕府を開いて結局朝廷に取り込まれた足利氏の二の舞を防ぐため。
4人間七七四年:2013/02/16(土) 23:23:53.25 ID:gEaX7Ycp
どうせ嘘だろうけど、逃げ切れないように一応貼っとく。

968 :人間七七四年:2013/02/14(木) 01:20:15.89 ID:7GNGOM6V
信玄自身が手紙で”織田が徳川に援軍三千ぐらいおくるっぽ”って書いてるのにな
一次資料は絶対なんだろだがよwwwwww
5人間七七四年:2013/02/17(日) 09:00:27.15 ID:SvbEAYbW
要求に応えて貼っておいてやるよ
997 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2013/02/17(日) 08:59:35.25 ID:SvbEAYbW
>>993
ほう、軍記やらなんやらの二次史料な、それを整備?それで事実?正確?ふうん
その程度ってことだが、まあ要求には応えたな
手紙は戦国遺文な
こっちが恥ずかしいから”見当たらない””書き出せ”とかいうなよ?w
見つけられないならお前の能力を恨めw
6人間七七四年:2013/02/17(日) 16:42:56.60 ID:8CK5s6SH
>>5
東京堂出版の本で、全部で30巻近くあるじゃねーか
武田氏編だけでも1〜6巻あるぞ
なんでページを言わないどころか、巻数までごまかすんだ?
実は嘘言って逃げようとしてるだろ?
>>997
はいはい基地外織田チョンがまた懲りずに捏造www
まず三方が原で織田が3000の援軍を送ったなんて一次史料は存在しない完全なでっち上げ。
嘘長厨があるある詐欺をしてるのは
11/19付け信玄→朝倉宛書状の曲解だから日付も内容も転記できず逃げているだけ。
内容は聞いた話によると信長が岐阜へ帰り引間へ3000余の加勢不審
この内容の話で、三方が原の戦いから一ヶ月も前の情勢であり、
信玄がまだ二俣城を囲んでいた時点での話。
こんなもんが三方が原への加勢全兵力なんて基地外妄想にまで
膨らませてるからちゃんと一次史料を織田チョンがここで明かせるわけがない。
んな糞捏造意見が通るなら、
10月朔月の信玄→朝倉宛で書いてる三河衆出陣だけを持ち出して
武田兵力は三河衆が主力で大した兵力はなかったといいはってるようなもん。
派遣先に比較的近い少数の先方衆や即応体制にある先遣隊が
先に現地入りして、後に来る援軍本隊の受け入れ態勢を整えるべく
兵糧や陣屋を構築し、応急処置として情勢の現状維持を主任務とした小規模集団を
織田最大軍団佐久間軍と同列視して馬鹿すぎてキモイわ。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1360750656/906
8人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
9人間七七四年:2013/02/18(月) 09:57:34.76 ID:EOY3ATIq
この史料は捏造
記述は俺が知らないから捏造
やっぱり織田厨は捏造だらけ

アスペルガーだがお得意の言い訳
10人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すから
しばらく待ってろ
11人間七七四年:2013/02/20(水) 13:41:42.32 ID:akuXjvY1
事実じゃん
12人間七七四年:2013/02/20(水) 15:37:11.51 ID:7iWAhq/K
だがピンチ
13人間七七四年:2013/02/20(水) 15:40:37.30 ID:3yKiHZr7
965 :人間七七四年 :2013/02/07(木) 20:20:30.62 ID:4TDVtYRN
>>964
慶長五年九月廿日付近衛前久書状

すごい有名な書状だと思うのだが…




この情報は結局毛利に伝わった根拠はあるの?
近衛が知ってたって毛利が知ってた根拠はないと思うが
14人間七七四年:2013/02/20(水) 16:45:24.29 ID:B30Dl3JM
>>13
とりあえずその書状の原文をここに転記してくれ。
内容吟味して語り合おう。
>>10
>>7に内容書いてあるだろ。
15人間七七四年:2013/02/20(水) 17:56:50.36 ID:wE1Ty/nJ
>>14
てめえで調べろ
16人間七七四年:2013/02/21(木) 15:00:54.70 ID:9Ngn1Or9
11月19日って三方ヶ原の日程から逆算するとかなり現実的な日程だと思うがな
そもそも武田信玄がそう捉えている以上、数の多寡はともかく信玄は援軍3千だと認識していたことへの根拠にはなるのだが
皮肉にも結局>>9の通りになってしまったな
17人間七七四年:2013/02/21(木) 19:15:42.16 ID:6wNDmCdB
>>14
自分でソースに当たる気がないなら最初からソース求めんなよ屑が
18人間七七四年:2013/02/21(木) 22:21:03.75 ID:SwYFvwXT
>>16
前提から考えるとかなり微妙な書状だな。
更に信玄の認識と書状の記載が同じというのもイマイチ。
19人間七七四年:2013/02/21(木) 23:26:31.67 ID:6wNDmCdB
なにをいうとるんだ君は
20人間七七四年:2013/02/22(金) 00:11:04.97 ID:igcopKmO
そもそも>>13の情報は毛利がその情報得てた根拠がないことが問題であって内容どうこう以前の話だろ
21人間七七四年:2013/02/22(金) 07:43:51.70 ID:PYli8qM8
>>20
書状の内容知らずに言ってるなお前w
22人間七七四年:2013/02/22(金) 11:30:16.41 ID:igcopKmO
内容も糞も毛利家の厳封の話なんだろ
お前がいったんじゃん


957 :人間七七四年 :2013/01/19(土) 15:56:00.89 ID:yQ0kJIpu
そもそも毛利の減封の話は退去の段階で近衛前久が既に情報を得ている。
最初から減封ありきで、それは毛利もわかっていたが、対面や混乱を抑えるため取り敢えず安堵といっておいただけ、
というのが実際だろう。

毛利が騙されたとか、話にならん説だな
23人間七七四年:2013/02/22(金) 18:57:45.04 ID:3T3cUQBH
>>22
いやお前その書き込みしか知らんのだろ。じゃあ話しにもならんわw
24人間七七四年:2013/02/22(金) 21:43:37.86 ID:igcopKmO
まずその話を毛利が得ていたとする根拠が出ないんだから問題外
25人間七七四年:2013/02/22(金) 21:45:36.99 ID:tKpgqe56
>>9
26人間七七四年:2013/02/22(金) 22:21:19.88 ID:y59j/GqS
>>16
あれ?11月19日の時点で岐阜で3000人だと、
途中の尾張の佐久間、林、水野の軍勢を追加すると
普通に1万くらい行くんじゃね?
27人間七七四年:2013/02/22(金) 22:40:14.59 ID:tKpgqe56
よく見ろよ、信長が岐阜に帰ったとあるだけで岐阜で3000など書いてない
つか援軍を小出しにする理由が不明
28人間七七四年:2013/02/23(土) 02:42:29.78 ID:uolmFasb
>>24
それただのお前の思い込みだからw
29人間七七四年:2013/02/23(土) 04:15:32.41 ID:qSqoL5rh
根拠は?
30人間七七四年:2013/02/23(土) 11:31:40.05 ID:zR6OICsU
>>29
いーから当該史料をちゃんと読め。読んでから書き込め
31人間七七四年:2013/02/23(土) 12:46:36.25 ID:qSqoL5rh
>>24
同意。近衛の書状は身内の信伊にあてただけだし
こんなもんが毛利が和睦内容知ってた根拠になるわけがない
輝元は本能寺の時といい相手の嘘っぱちにまんまと騙された実績があるし
関が原の時も同じだったんだろう
32人間七七四年:2013/02/23(土) 13:43:44.55 ID:nZQTjHO7
>>9
33人間七七四年:2013/02/24(日) 02:36:22.96 ID:69iLyged
>>27
それただのお前の思い込みだからw
34人間七七四年:2013/02/24(日) 03:41:21.60 ID:gf0RNXjW
また>>9か、懲りないな
そもそも>>26は意味不明、引間へ3000余の加勢不審なのに岐阜で援軍3000って根拠は何?
まあどうせ>>9だから答えられないとは思うけど
35人間七七四年:2013/02/24(日) 06:19:34.44 ID:69iLyged
>>34
おいおい都合が悪いからって、文章の前半部分を隠すなよ

>信長が岐阜へ帰り、引間(浜松)へ3000余の加勢不審

つまりこれは、一ヶ月前の岐阜における援軍情報だな
つーかこんな情報を入手できていると言う事は、
美濃勢に信玄への内通者が居るって事だろうか?
36人間七七四年:2013/02/24(日) 08:09:39.28 ID:FSMjOYaL
11/19って信玄が二俣城攻撃開始を朝倉に伝える書状を出した日でもあるね。
それ以前は高天神城が懇望してきて和議交渉でもしてたんだろうし、
11/5に始めて朝倉が外部に信玄出陣を知らせる書状を出してる。
12/19に中根正照が二俣城を武田に明け渡した日。
織田の最初期小規模援軍は高天神城への応急処置的な手当てでしか無いでしょ。
三方ヶ原合戦を想定した野戦軍構成には全く思えない。
むしろ織田の佐久間や平手ら本格的増援を得て、
家康は乾坤一擲のバクチ合戦をやる気になったと考えられる。
37人間七七四年:2013/02/24(日) 14:19:19.85 ID:gf0RNXjW
>>35
え、おまえマジで馬鹿なのか?w
信長が岐阜へ帰ったことと、引間へ3000余の加勢不審は前後の繋がりが全く関係ないぞ
もしかして3000の兵が岐阜から出たから尾張から出た連中は別ー、とでも言う気か?w
それなら史料を出してくれ、信長でも信玄でもいい、3000余の加勢不審以外に
織田軍の援軍が存在したという情報を記してある書状を。

>>美濃勢に信玄への内通者が居るって事だろうか?

いや普通に下々の諜報だろ。どんなに規模が少なくても武田と戦う以上語り草にはなる
38人間七七四年:2013/02/25(月) 21:25:21.24 ID:5UbnOu8I
>>37
お前都合が悪くなるとバカとか言い出すなw
そもそも「下々の諜報」って何?
信用できない情報って事か?
39人間七七四年:2013/02/25(月) 23:51:12.67 ID:lSxq6Ko8
>>38
もっといろんな本読んだほうがいいよ君
それはそうと、志向性エネルギー兵器で私を攻撃するのを辞めてください
40人間七七四年:2013/02/26(火) 00:07:51.34 ID:L9sX/plQ
>>35
内通者は安藤守就じゃないかな?
美濃三人衆で3000人だからピタリ
41人間七七四年:2013/02/26(火) 20:44:04.73 ID:tUz2y0AM
信長が天下をとっていたら、京都をあっさり滅ぼして
日本の歴史は凄いことになっていただろう。
42人間七七四年:2013/02/26(火) 20:50:45.13 ID:r5P643P5
もう意味がわからんのだがここはSF板か?
43人間七七四年:2013/02/26(火) 22:56:49.07 ID:tUz2y0AM
魔王信長を討った光秀は超英雄
44人間七七四年:2013/02/27(水) 18:41:04.73 ID:2ZHnZZxL
光秀は日本を滅亡から救った日本の救世主
光秀が信長を討たなかったら今の日本は無い
45人間七七四年:2013/02/27(水) 19:15:19.33 ID:ES4wp6I0
魔王だ救世主だと香ばしいのが湧いてるじゃないかw
46人間七七四年:2013/02/27(水) 21:09:45.18 ID:ilt6m28w
下々の諜報あたりからこの流れがw
47人間七七四年:2013/02/28(木) 20:50:58.91 ID:iPOLBJKu
では、信長以上のカリスマ大名って誰よ? 逃げるなよ w
48人間七七四年:2013/02/28(木) 21:17:49.43 ID:dh2WKYlt
そもそもカリスマなんて計測不能の基準を持ってきていることからして…
49人間七七四年:2013/02/28(木) 22:46:54.66 ID:EEoWAzlP
織田厨は全員中二病なのか???w
50人間七七四年:2013/03/02(土) 16:35:32.46 ID:+dihqyXQ
>>44
>光秀が信長を討たなかったら今の日本は無い

無条件に正しい! 光秀が信長を討たなかったら、今の日本と違っている。
同じ意味で、どこかの戦で死んでいた足軽が一人生き延びていたら、今に至る歴史は
多かれ少なかれ違ってくる。つまり、今の日本はない。
51人間七七四年:2013/03/03(日) 11:20:38.60 ID:eGMCVgBh
たしかに過大評価ですね
信長の業績(合戦や政策)もさることながら
必要以上に信長が残忍な人間だと誇大されていること
とか
52人間七七四年:2013/03/03(日) 12:48:19.65 ID:Q8v84YSF
実際残忍どころか京で略奪放火しまくり大虐殺もあちこちでやってるだろ。
53人間七七四年:2013/03/03(日) 14:33:06.34 ID:N+iHuoQ+
52はいきなりミッチーの話?
54人間七七四年:2013/03/03(日) 14:49:51.07 ID:pOLdE5/C
信長は年の近い弟をほとんど戦死か離反で失っているんだよな
指揮官としての能力は低いかもしれない

●織田信広 天正2年(1574年) 長島一向一揆戦で戦死
●織田信勝 弘治3年(1557年) 信長により暗殺
○織田信包 慶長19年(1614年) 病死
●織田信治 元亀元年(1570年) 浅井・朝倉に攻められ戦死
●織田信時 弘治2年(1556年) 信勝に攻められ自害
●織田信興 元亀元年(1570年) 長島一向一揆戦で戦死
●織田秀孝 弘治元年(1555年) 叔父の信次により射殺

○織田信照  慶長15年(1610年) 病死
○織田長益 元和7年(1622年) 病死
●織田長利 天正10年(1582年) 本能寺で戦死
55人間七七四年:2013/03/03(日) 15:45:02.70 ID:ztwixzHa
>>10
おいおいいつになったら調べられるんだよw
調べた結果自分が嘘だって理解できて何もいえないのか?w
5644です:2013/03/03(日) 19:59:43.46 ID:Hms3MTTu
>>50
お、おそれいりましたぁぁぁぁ!!
これまでの自分の、歴史というものに対する浅はかなな考え、
身にしみて分かりました。これからも精進いたしまする。
57人間七七四年:2013/03/03(日) 20:00:32.57 ID:k2ycYb5M
最近だがっているの?
58人間七七四年:2013/03/04(月) 04:34:50.38 ID:yIQYsKtI
歴ゲーに移住したらしい

>>54
信長の弟は順番などがまず諸説あるが、
特に織田信治や織田秀成では、信長の弟とするのすら
疑問視されているけどね。
信長公記ですら信長の弟とすら扱われていないし、
(死亡記述しかない織田信興あたりでも『信長公御舎弟』とある)
そいつらが「信長の弟」だとする根拠が甫庵信長記なのがな・・・
59人間七七四年:2013/03/04(月) 11:02:24.36 ID:MYTFVvOn
家臣だけでなく、大量の織田一族も磨り潰しての信長だな。
織田氏が本能寺の後あっという間に没落したのも仕方ないな
60人間七七四年:2013/03/04(月) 11:52:31.41 ID:CO+xoouh
>>54
離反で失っているといえるのは信勝位だろ?
信広も一時反旗を翻したけど。
「ほとんど」という言葉で戦死と同列に扱うのは無理があるんじゃねえか?
61人間七七四年:2013/03/05(火) 13:01:53.99 ID:ltkdByxr
>>54
戦国大名はそれくらい普通だろ
武田信玄、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、皆身内を殺している(弟や息子、甥など)

三傑の中でも最初に天下取りを目指した信長が一番過酷な戦をやったから
それぞれの大将となった弟たちに戦死も増える
逆に秀吉や家康は兄弟が少なく、秀吉の男兄弟は弟の秀長だけ、
家康に至っては兄も弟もなく、母親が再婚相手との間に産んだ異父弟が3人いただけ
62人間七七四年:2013/03/05(火) 17:58:12.16 ID:WrmjzT8V
>>54
信勝殺したのは信時の仇?
63人間七七四年:2013/03/06(水) 07:42:31.89 ID:16ccos5O
秀孝は信勝派だったみたいだな
信時も信長の暗殺説があるし凄まじい
64人間七七四年:2013/03/06(水) 12:17:37.90 ID:moUcg/DL
それやたら想像の世界な気がするけど。
信長の尾張時代なんてほとんど史料残ってないでしょ。

個人的には秀孝も信時も無邪気なイメージ。
信時とかも、あの信長抹殺にやる気満々だった林さん家を信長と一緒に訪ねた弟でしょ?
65人間七七四年:2013/03/08(金) 21:50:44.17 ID:7pwzs5+s
文章から
>>51
がバカなのはわかった
66人間七七四年:2013/03/08(金) 23:24:13.77 ID:EiNFopuU
>>36
なるほど。納得できる濃い内容だな。
67人間七七四年:2013/03/09(土) 07:41:05.86 ID:LzmUgSHB
>>13
有名もクソもねぇじゃんアホが。
平日しかやってないから有休でも取得して図書館に閲覧しに行くか、
たまたまそれが載ってる書籍でも所持してなきゃ
一般人には見ることなんてできねぇだろ。
言い逃れすんなよカス。さっさと原文を転記しろや。
68人間七七四年:2013/03/09(土) 08:25:32.54 ID:SjmOaqel
>>54
弘治と元亀に死者が続出だな
信長そうとうやばかったな
69人間七七四年:2013/03/09(土) 16:33:29.98 ID:DBzmKMww
アンチ信長諸君に告ぐ!

何故、諸君は何の罪も無い織田信長の悪口を言い、
また、信長を純粋に好きな信長支持者を 挑発し続けるのか?
諸君らは、そんな事をし続けるほど、よっぽど暇なのか?
他にやる事がいくらでもあるだろう。
大切な青春の日々を、こんなつまらない事で費やしていいのか?
そして、この様な愚考を繰り返し、むなしくはないのか?
さあ、今一度考えてみるんだ。
諸君にも、お気に入りの武将がいるのだろう?
だったら、それぞれのお気に入りを一生懸命に研究すればよいではないか。
好みはそれぞれ違うけれど、それが何だというのだ?
好みが違うなんて当たり前の事だ。それを認め合うのが、より良い社会への
第一歩なのではないかな?
それとも、インターネットの匿名性を利用して、この様な事をしているのか?
そんな事を続けていたら、諸君らの人格は、どんどん卑しいものになるのだ。
さあ、私の話が理解できたら、もうこんな事はやめにしよう。
諸君らの良識に私は期待し、そして信じている。

以上だ。
70人間七七四年:2013/03/09(土) 18:31:30.14 ID:TxCUbJ4+
まずは在日シナチョンを全員国外追放してみたい。
余計な干渉がなくなった上で、信支持者とアンチ信が論争するぶんにはいいと思う。
自分の予想では熱烈神社ファンvs◯◯系仏ファン論争。
日本人同士なら論争し尽くして丸く治まりそう。
71人間七七四年:2013/03/09(土) 20:02:55.51 ID:SjmOaqel
>>69
そうだな
事実を冷静に分析し意見交換するべきだと思う
たまに熱く語る奴がいてもいいし

しかし一方的な人格批判をしたり、
自説の根拠となる史料を出さなかったり、
無関係なコピペを貼ってスレを荒らす奴はいらない
72人間七七四年:2013/03/09(土) 20:47:58.24 ID:Pfi1eWLo
>>67
やっぱ>>9かよw
あと休館日ぐらいしらべような?w
73人間七七四年:2013/03/09(土) 21:41:41.64 ID:2fJo4ic4
前スレで佐久間は本願寺攻めを命じられながら何もせず信長に追放されたとか書いてる基地外がいたけど、
下間の書状で石山本願寺が上下困窮してると書いてるからさすがにそれはないでしょ
74人間七七四年:2013/03/10(日) 02:15:52.91 ID:ptGXJI0f
>>71
天才すぎるから妬んでるだけだろ
75人間七七四年:2013/03/10(日) 09:01:25.41 ID:OUzahjGw
まとめ
信長は年の近い弟をほとんど戦死か離反で失っている

●織田信広 天正2年(1574年) 長島一向一揆戦で戦死
●織田信勝 弘治3年(1557年) 信長により暗殺
○織田信包 慶長19年(1614年) 病死
●織田信治 元亀元年(1570年) 浅井・朝倉に攻められ戦死 (弟疑問説あり)
●織田信時 弘治2年(1556年) 信勝派に攻められ自害 (信長暗殺説あり)
●織田信興 元亀元年(1570年) 長島一向一揆戦で戦死
●織田秀孝 弘治元年(1555年) 叔父の信次により射殺 (信勝派説あり)
●織田秀成 天正2年(1574年) 長島一向一揆戦で戦死 (弟疑問説あり)
○織田信照  慶長15年(1610年) 病死
○織田長益 元和7年(1622年) 病死
●織田長利 天正10年(1582年) 本能寺で戦死
76人間七七四年:2013/03/10(日) 12:24:46.97 ID:WgKNJ2C6
>>72
結局、お前は逃げ口上しかできないんだなw
77人間七七四年:2013/03/10(日) 13:56:58.68 ID:fGH2q895
だがさん流石に>>67は世間知らない引きこもりって言ってるようなもんやで

http://www.ndl.go.jp/jp/service/tokyo/time.html (国立国会図書館・主な休館日は日曜日)
http://www.library.pref.osaka.jp/central/date.html (大阪府立図書館・主な休館日は月曜日)
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/common/hours.htm (神奈川県立図書館・主な休館日は月曜日)
http://www.aichi-pref-library.jp/ (愛知県立図書館・主な休館日は月曜日)
その他、福岡県立図書館( http://www.lib.pref.fukuoka.jp/event/2013/05/10/month/all/all/1 )
宮城県立図書館( http://www.library.pref.miyagi.jp/wo/lib/ca )
北海道立図書館( http://www.library.pref.hokkaido.jp/ )も休館日はほとんど月曜日

平日しかやってないとか役所と勘違いしてるんか?
78人間七七四年:2013/03/10(日) 14:23:46.79 ID:OUzahjGw
>>77
横から口出すのもなんだけど、
お前がさっさと>>4の原文だせば解決することだよな
その本もその本がある図書館も知ってるんだろ
なんで出さないんだ?
79人間七七四年:2013/03/10(日) 15:14:15.95 ID:Hpe3rTcL
>>78
横から口を出すのもなんだけど、
そんなの知らない奴でも調べれば誰でもわかるような代物じゃん。
そんなに言うならお前がさっさと出しても良かったわけだけど、
知識が無いから調べ方がわからなかったんだろ?
80人間七七四年:2013/03/10(日) 18:06:31.55 ID:WgKNJ2C6
休みを取って図書館行くから該当書状が収録されてる文献名を教えてくれよ。
81人間七七四年:2013/03/10(日) 19:00:03.74 ID:yVn8YmIk
信長が天才とは思わないが、どう考えても評価されるべき人物だよなぁ
82人間七七四年:2013/03/10(日) 19:07:59.37 ID:Vot/n4fJ
まあ尾張一国からあれだけ領土拡大して天下統一目前までいったんだからたいしたもんだよ
83人間七七四年:2013/03/11(月) 01:59:50.25 ID:8BBU57nE
まあ、休館日程度も調べられない程度じゃ史料にあたれるわけもないわな
なあ>>76よw
84人間七七四年:2013/03/11(月) 12:03:59.61 ID:zdvIinZN
お前らもっと外に出ろよ。
外にでると名古屋のおっさんとも会う機会があるだろ。
そん時に気がつくんだよ。名古屋のおっさんはおかしいってね。

まず基本的にうそつき。え、なんでそこで嘘つくの?というレベル。
そして余計なアイディア。完成品に一工夫加えて台無しにするとか余裕。
で見栄っ張り。

わかっただろ。信長は単に頭のいい名古屋のおっさんだったんだよ。
光秀みたいな田舎紳士とそりが合わないのは当たり前。
85人間七七四年:2013/03/11(月) 14:46:42.21 ID:is/5+N+l
つまり名古屋叩きをしたい山梨県民最低って事だね
86人間七七四年:2013/03/13(水) 14:52:06.98 ID:W6OzsDDX
ていうか織田一族を全部ゲームでは登場させようか
87人間七七四年:2013/03/13(水) 15:26:53.22 ID:wJceOSAa
信長は騙まし討ちと火事場泥棒でしか領土拡張できない雑魚

クーデタ騒ぎでよわりきり抗戦する者もなく自落や降伏ばかりの斉藤・観音寺騒動と対浅井の敗戦で弱りきった六角・内訌で滅んだ北畠・統率がとれずバラバラの三好
勝頼のが発狂自殺外交と浅間山噴火と騙まし討ちで滅亡した武田・御館の乱や新発田の乱で崩壊した上杉・規格外の大軍でもまともに倒せず天皇を使った和睦で屈した本願寺
88人間七七四年:2013/03/13(水) 15:50:17.90 ID:rA04X6l1
山がちょっと噴火するだけで滅亡とかw弱小にもほどがあるw
89人間七七四年:2013/03/13(水) 17:18:21.36 ID:RtfELM3v
他にもいろいろ要因があがってるのに一つしか読めないとかニワトリレベルの脳味噌だな
90人間七七四年:2013/03/13(水) 17:55:26.92 ID:rA04X6l1
他の要因ってなんだ?全て「武田が雑魚だった」で解決するような要因を細かく見るのが「他の要因」か?w
勝頼の外交がどうのと言うが勝頼を当主に据えたのは武田前当主の信玄であり武田家臣の総意。
武田の体たらくで家を滅ぼした、そして人望拙く再興すらして貰えなかった、それが甲斐源氏の末路w
91人間七七四年:2013/03/13(水) 17:59:31.21 ID:GBlinn2o
本能寺の変で信長の死体が見つからなかったという伝説はウソ。
焼け焦げた死体がいっぱいあったので、どれが信長の死体か
見分けがつかなかったというだけの話。
92人間七七四年:2013/03/13(水) 18:00:45.04 ID:RtfELM3v
騙まし討ちとタイミングよくおきた浅間山噴火と勝頼の失政自爆と対北条戦の疲弊など
複合的要因でおきた国人離反連鎖による崩壊が武田の強さと関係ねえわw
喧嘩でいえば元々弱ってた強靭ファイターを騙まし討ちと10人がかりで殺したみたいなもんだろ
93人間七七四年:2013/03/13(水) 18:22:36.20 ID:LOwzPIwO
そういうどうしようもなく弱ってた状態を放置している時点で雑魚だって言ってるんだよw
命の駆け引きをする強靭なファイターというのは弱った部分を放置するなんて絶対にしないし
ましてやその弱った状態で家を滅ぼすなんていう愚行はまずしないわけw

家康や信長といった一流の大名は窮地に瀕しても絶対に一族家臣を守ったし
結局どちらもお家を発展させて戦国を終えた。武田は雑魚だからちょっと怪我したくらいで
上へ下への大混乱になって何もできずに滅んだ雑魚というだけ。天正大地震にも秀吉の侵攻にも耐えた信雄以下。
94人間七七四年:2013/03/13(水) 19:21:51.02 ID:JJIoHagq
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
95人間七七四年:2013/03/13(水) 19:28:40.05 ID:JJIoHagq
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
上杉氏は実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
一方、浅井三姉妹との親戚関係だけと言う理由で大名家の家格すら失いながら
お情けで再興を許され命脈を繋げていた乞食の醜態を晒す恥さらし織田陣屋家は?

柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩
96人間七七四年:2013/03/13(水) 20:10:07.42 ID:Jr2AagKC
142 :Classical名無しさん:2013/03/13(水) 18:14:53.21 ID:fXc2HvIv
お願いします

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そういうどうしようもなく弱ってた状態を放置している時点で雑魚だって言ってるんだよw
命の駆け引きをする強靭なファイターというのは弱った部分を放置するなんて絶対にしないし
ましてやその弱った状態で家を滅ぼすなんていう愚行はまずしないわけw

家康や信長といった一流の大名は窮地に瀕しても絶対に一族家臣を守ったし
結局どちらもお家を発展させて戦国を終えた。武田は雑魚だからちょっと怪我したくらいで
上へ下への大混乱になって何もできずに滅んだ雑魚というだけ。天正大地震にも秀吉の侵攻にも耐えた信雄以下。
97人間七七四年:2013/03/13(水) 20:10:49.75 ID:Jr2AagKC
567 :動け動けウゴウゴ2ちゃんねる:2013/03/13(水) 19:59:24.45 ID:v+u99eIt
いつもありがとうございます

お願いします

【スレのURL】http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360651236/
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上杉(吉良家)や武田(柳沢家→松平家→柳沢家)って男系断絶しとるけどええんか?
特に武田は父祖甲斐源氏となんの血の繋がりもないし、上杉藩の名君とされる上杉鷹山は秋月家の出や
女系で繋がってる言っても、先代藩主や先祖と関わりの薄い当主を擁して箔塗なんて、悲しくならんのか?
吉川元春や小早川隆景の例やないけど、そういうの「お家乗っ取り」言うんやで
98人間七七四年:2013/03/13(水) 20:47:20.38 ID:+GwKSnac
織田一族はそれなりの禄高を持ち先祖の血脈を後世につたえた
大名にもなれず血脈すら絶った武田、より大きい血脈に縋った上杉では、
哀愁がより漂うというもの
99人間七七四年:2013/03/13(水) 21:12:22.23 ID:QYX/bd7P
お前ら馬鹿だからすぐ目くそ鼻くその子孫話するよな
だいたい子孫の話をしたら天皇家の完勝だろ
100人間七七四年:2013/03/14(木) 01:32:41.09 ID:EMUWz+Yk
反論に
困ると逃げる
こぴぺかな
だがの特技
ここにきわまれり
101人間七七四年:2013/03/14(木) 02:40:50.13 ID:db7Riy6z
過大評価まではいかないかもしれないけど信長を筆頭に三英傑は持ち上げすぎな気がする
102人間七七四年:2013/03/14(木) 02:44:18.38 ID:1w3LaC+z
貨幣制度とか流通のことで革新的な施策は多くやってるやね

実際に効果めちゃくちゃあったし
103人間七七四年:2013/03/14(木) 13:19:26.76 ID:33Xk3Rsh
>>102
> 貨幣制度とか流通のことで革新的な施策は多くやってるやね

やってねえよ。典型的な俗説だ
104人間七七四年:2013/03/14(木) 23:24:42.52 ID:aP3ttkT3
小規模の興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否され有り余る腐れ悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による大規模一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
とくに天正大判を発行するなど信玄の政策を継承した金融政策である
秀吉の金本位体制は西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
105人間七七四年:2013/03/15(金) 00:01:04.95 ID:TVpGtn5X
>>80
織田厨ごときが収録されてる文献名なんて挙げられるわけねーじゃん。
あんまりいじめるなよ。織田厨もうPCの前で涙目なんだからw
106人間七七四年:2013/03/15(金) 08:35:17.80 ID:HAbbY1Qa
>>67こんなレスしてるようじゃなw
遠吠えだ、遠吠えw
107人間七七四年:2013/03/15(金) 19:43:29.18 ID:n5Ekrlc+
織田家は天文学的な超借金で、 
百姓は地獄だったからなー。 
織田家自身も改易して旗本にしてくれって幕府に哀願土下座したけど、 
織田の超借金を肩代りするのが嫌で、 
信長以来の名族だからと改易拒否権する借金押し付け合い。 
つか信長以来の名族ってたかだか1500年代からの浅い名族だよなw
108人間七七四年:2013/03/16(土) 00:24:40.08 ID:t1w6I7Tz
 よくそんなありもしないことかけるよな
109人間七七四年:2013/03/16(土) 04:32:57.51 ID:e/jpj4Le
>>107
>織田家自身も改易して旗本にしてくれって幕府に哀願土下座したけど、
織田の超借金を肩代りするのが嫌で、
信長以来の名族だからと改易拒否権する借金押し付け合い。

戦国史を見てきて、これほど斬新、独創的、超常的、人知を超えた衝撃的見解にであったことはない。
直ちに学会に発表すべきだ。
ノーベル賞も間違いない。
(「信長以来………」となっているところの主語が分からないが)
110人間七七四年:2013/03/16(土) 22:32:55.16 ID:rZ8kUmFY
>>106
どこまで逃げる気だ?
さっさと原文だせよw
111人間七七四年:2013/03/16(土) 23:19:01.28 ID:IzRxvWNB
相かわらず織田厨は読解力0の馬鹿だな
対北条戦の疲弊と甲江和与反故の騙まし討ち奇襲を食らったときたまたま運わるく浅間山が噴火したため
撤退するハメになって滅んだといってるんだが
大体国力の疲弊状況が織田とは関係なしの外発的要因と偶発的条件によって作られ裏切りだらけになり火事場泥棒的に奪っただけなんだから
こんなんをもって実力で倒したとか言わん。自落しただけ。
112人間七七四年:2013/03/17(日) 07:57:59.32 ID:7K57XnHh
>>110
吠えろ吠えろw
113人間七七四年:2013/03/17(日) 09:25:51.14 ID:Duhg1oW3
休み取って図書館行くから収録されてる書籍名早く教えろよ。
114人間七七四年:2013/03/17(日) 09:29:49.81 ID:3Alo2JG2
勝頼時代の不運の連発で滅んだのをもって信玄と無理矢理つなげられてもなあ
信長死後めちゃめちゃになった織田家の惨状をもって信長が雑魚というほうがまだずっと説得力あるわ
115人間七七四年:2013/03/17(日) 10:32:56.81 ID:IRxw/+5W
織田は大名としてちゃんと残ってますが?
んで武田は?
まあ要するにお家再興に成功した小笠原よりはるかに下ってことだよ武田は
116人間七七四年:2013/03/17(日) 11:12:04.57 ID:pWJidfNl
>>103
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/119/

馬鹿は氏ねよ w   謙信や元就が楽市楽座を創設したとでも? ニヤニヤ w
117人間七七四年:2013/03/17(日) 12:10:04.73 ID:A90eMxlY
はあ?織田は滅んだじゃん
信雄秀信は改易。信孝は殺される。
有楽とか信包とか雑魚はどうでもいいし
118人間七七四年:2013/03/17(日) 12:10:31.19 ID:3tctb3XB
経済アナリストw
119人間七七四年:2013/03/17(日) 12:25:04.42 ID:A90eMxlY
浅間山が大噴火して武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw

蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。
だが、その古今無双の名将〜の勧修寺晴豊の書状はあくまで
綸旨案であって実際には再考された結果、送られてない。
しかも実際に出された同日付けの万里小路書状では
露骨に馳走しろとか書かれてるしwww
万里小路宛ての女房奉書では誠仁親王の元服費用を織田から取れ!
信秀も御所の御事を他と違う御事だと認識していたとか書かれてるように
信長にリップサービスして金を取ろうと考えた結果の下心からのマンセー言辞でしかない。
だから他者と比較して信長がスゴイと言った表現ですらない軽薄さ。
しかも実際には再考され出されてない。そして女房奉書の如く元服費用だせと同日付けの万里小路も直球で信長宛て添え状出してる始末。
フロイスによると恐ろしいほどに東方の空が真っ赤に染まったと書かれておりしかも浅間山噴火と同日に赤い光りが
豊後国(大分県)でも観測されたと言う。 実に凄まじい爆発力だったのがわかる。
120人間七七四年:2013/03/17(日) 13:28:33.57 ID:pWJidfNl
プ  織田の血筋が徳川三代将軍・家光に流れてるのも知らん馬鹿か何かホザいてるなぁ w
121人間七七四年:2013/03/17(日) 13:36:04.67 ID:Duhg1oW3
信雄は秀吉のオモチャにされて
栃木や秋田や愛媛に流罪に次ぐ流罪で
しかも小姓1人しか御付人いなかったし
こんなブザマな状態だったのを救ったのは
市が懐妊したからだし、
家康にオモチャにされた時は、
コジキになって細川や前田らに押しかけ居候して捨て扶持を催促して
親子が食い繋いでただけだし
それでも栄養失調で上の息子3人は早死に
追い出され最後はプライド捨てて大坂城で生活保護。
こんなブザマな状況を救ったのはお江が次男駿河大納言徳川忠長との縁組を計画したからだし。
おかげで残った食い扶持減らしで仏門行だった下の息子3人を呼び戻して陣屋主とその家臣にしただけ。
それでも家光に忠長が遠ざけられると
織田家への待遇も地に堕ちたしな。
122人間七七四年:2013/03/17(日) 13:46:05.49 ID:pWJidfNl
小学校の黒板の上には歴史年表が張ってあった。
その戦国時代の項目に信長秀吉家康の絵が描いてあった。
その他の武将は絵がなかった。 をわり。 w
123人間七七四年:2013/03/17(日) 15:29:32.89 ID:6zyNHBE3
だいたい子孫まで持ち出すなら
現代の従三位武田家十六世当主武田邦信を筆頭に
武田 茂  米沢武田家当主
林 正彦  仁科盛信公十七世
など完全に後継がはっきりし、
しかも代表取締だし山梨観光大使に正式任命されてる武田家の方が明らかに勝ち組じゃねぇかよ。
米沢藩上杉家の16代当主上杉邦憲は宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授だし。
現在の織田の後継って誰だよ?あぁ?完全に負け組じゃんよw
124人間七七四年:2013/03/17(日) 16:23:47.13 ID:6zyNHBE3
>>120
日頃、純血男系子孫で繋げるとか強調して
結婚しても男性側の名字に変更しない純血血統主義の中国人みたいな発言ばかりしてんのに
こういうときだけそういう発言するのがアホな織田厨w
それをいうなら男系の浅井氏の血でつながってるっていうべきなのにも気づかない無知ぶり
日本人は純血主義ではなく、養子をもらってでも家を繋ぎ
先祖への礼を忘れない風俗。
だいたい純血で繋ぐなんて生殖能力と運によるところが大きい。
一夫多妻制の民族やハーレム大奥をやってもうまく繋げるとも限らない。
そんな運を持ち出して馬鹿丸出しw
125人間七七四年:2013/03/17(日) 16:59:20.10 ID:6zyNHBE3
文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏

現在の武田当主は経営者兼国連UNHCR協会の役員
織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が本家を継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流
藩主だって血統なんてどうでもよくて、
幕府としては下克上されるような戦乱が起きず現状維持を守るために
家臣としては改易されて一族が路頭に迷うことがないように藩の存続が願っていただけで藩主のことなんて誰でもよかった。
126人間七七四年:2013/03/17(日) 18:07:38.86 ID:7K57XnHh
>>113
そんなことの調べ方も知らないで、原文あたって読めんの?w
127人間七七四年:2013/03/17(日) 18:20:50.06 ID:6zyNHBE3
お前さ、収録されてる書籍名を本当は知らないんだろw
128人間七七四年:2013/03/17(日) 20:25:15.69 ID:5uxj1tvP
>>127
>>5-8を読めば一応わかる
>>126
お前、無意味に逃げ回りすぎ
みんなに対して迷惑
129人間七七四年:2013/03/17(日) 22:11:06.98 ID:4A0dI2f9
>>128
おいおい近衛の該当書状が収録されている文献名はどこにも書いてないじゃないか…
130人間七七四年:2013/03/17(日) 22:56:10.73 ID:7PTmUDOE
>>123
せめて武田の子孫のことくらいはキッチリ把握しろよw
米沢武田系の武田茂は山梨観光大使でも代表取締役でもねえw
代表取締役兼、山梨観光大使になっているのは、武田信玄となんの血のつながりもない
柳沢家に乗っ取られた甲斐源氏と縁もない武田本家当主である武田邦信だ。
信玄の子孫は江戸時代通じて柳沢家のパシリとして名を残し、今の武田旧温会もその図式がそのまま当てはまるんだよw

つか山梨観光大使って北村一輝やレミオロメン含む42人のうちの1人だろw
茶道正傳有樂という由緒正しいグループの総裁である織田長功氏の方がよほど上だろ
武田や上杉のような余所様の高潔な血で勝負する卑しい家と違って、本物の子孫だしなw
131人間七七四年:2013/03/18(月) 00:10:46.57 ID:EokCbWg2
ただの茶道の先生の長功って柳本陣屋1万石の末裔だろ。
有楽の家系を信雄の家系が乗っ取った下克上事件だし誇れるもんじゃないだろ…
132人間七七四年:2013/03/18(月) 01:07:51.13 ID:+fPO1H2m
どこの厨にもいえることだが他の武将sageて自分の好きな武将をageてるの見ると何だか残念な気持ちになるわ
133人間七七四年:2013/03/18(月) 07:25:52.76 ID:YsgUxuAI
信玄の最盛期と信長の最盛期は時期が違うからなぁ
比べるのもどうなんだろね
家康の最盛期と信長最盛期でもし戦ったら家康勝ってたろうし

文化・科学・戦術・異国とのコミュ深度 ぜんぜん違うしな

信長は信長でなんか偉かったし凄かった  でいいじゃんもう
134人間七七四年:2013/03/18(月) 10:43:20.81 ID:mnDw+wIu
>>132
ああ、全くだな。
好きな武将ほど第三者的な目で見るべきだと思う。

>>133
比べる事自体がナンセンスだよね。
過大評価されすぎの「か」の字も関係ないところで争ってる。
135人間七七四年:2013/03/18(月) 11:32:18.81 ID:GAbPcRhJ
織田なんて所詮滅んだ家だしなぁ
136人間七七四年:2013/03/18(月) 14:34:15.76 ID:z5O5m2H2
>>132
まぁ2chって、ほとんどそうだと思う
自分の好きなものを上げて嫌いなものを下げる
137人間七七四年:2013/03/18(月) 15:02:27.16 ID:dol1oqiu
>>127
そりゃしらねえよ、それこそごまんとあるだろうからなw

>>128
一番の迷惑は原文も読めないのにソースを要求し続ける馬鹿だろw
目的丸見えw
138人間七七四年:2013/03/18(月) 20:40:27.09 ID:0jn/87EO
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130318/R0FiUGNSaEo.html
織田は所詮滅んだ家(キリッ

武田の子孫も正確に把握できなかっただがw
139人間七七四年:2013/03/19(火) 00:28:31.91 ID:iVB3/nLy
子孫て正確に把握できるものなのか?
クダラネ
140人間七七四年:2013/03/19(火) 08:01:42.51 ID:T1a15I1m
傍流まで加えたらもう訳解らないだろうなぁ、織田も武田も。
そもそも、甲斐の守護だった武田は守護取り上げられて、安芸武田が再度守護に
なって、その子孫が信玄だって事のを、何人の人が知っているんだろ。
141人間七七四年:2013/03/19(火) 21:31:23.84 ID:Dxzgp5Mx
上杉や武田は中世大名。 足利将軍に媚びて室町幕府なる封建主義を守ろうとした。
反対に織田は近世大名の魁(さきがけ)。
足利将軍を道具として使い、最後に室町幕府の息の根を止める功績を挙げた。
これで一気に日本の近代化が進んだ。
142人間七七四年:2013/03/19(火) 23:35:50.13 ID:JquOvacW
>>141
一昔前はそんな説がまことしやかに流布されていたよな
懐かしい
143人間七七四年:2013/03/19(火) 23:48:21.80 ID:JquOvacW
>>55
おーおー、すまない。
最近はスレの流れが早いな(中身の無いレスが多いが)
県内の図書館には無いみたいなので、
かなり時間がかかりそうだ。
144人間七七四年:2013/03/20(水) 01:24:07.27 ID:H8lrUjNV
あれ?
だがちょんの個人スレって何処に消えたん?
145人間七七四年:2013/03/20(水) 01:50:56.25 ID:sE8LftsP
>>144
自治スレ嫁
146人間七七四年:2013/03/20(水) 10:08:41.27 ID:KiZumpzZ
>>142
上杉が、もはや紙切れ同然の関東管領職に執着したのも忘れたか。
三好長慶も近畿管領を操ってた時点で足利の犬、こいつも中世大名。
信長は管領職など糞食らえだった。
147人間七七四年:2013/03/20(水) 11:16:01.64 ID:pdMSE+3L
状況も立地も将軍家の力も違うのに管領より上の将軍を使ってたから信長のが上とかガキみたいな発想だな
148人間七七四年:2013/03/20(水) 13:13:07.30 ID:VDhOb0r0
信長は義昭戻ってきてと土下座して拒否られたり、
義尋を新大樹にして擁立してんじゃんよw
毛利にも義尋に挨拶にこいとか言ってるしw
149Wikipediaより魔王↓:2013/03/20(水) 15:33:20.47 ID:W63NmqeN
俗な用法
古くは「悪魔」などと同様、人をののしる言葉として用いられていた[2]。
比喩としては、圧倒的な権力や暴力をふるう人間や、常人離れした才能・能力の持ち主に対しても用いることがある。
ルイス・フロイスは織田信長が自ら「第六天魔王」と称したと書き残している。
150人間七七四年:2013/03/21(木) 19:04:59.17 ID:5JI6beGj
信長の畿内統治の仕組みは三好の丸パクりなんですがそれは
151人間七七四年:2013/03/21(木) 23:25:26.21 ID:HqT1j9vd
謀死信忠嫡男 羽柴秀信13万石
秀頼御伽衆北畠信雄嫡男 羽柴秀雄5万石

関が原の役にて羽柴両家改易追放
152人間七七四年:2013/03/22(金) 06:09:20.90 ID:86SV1hpn
江戸時代にも生き抜いた戦国大名は全て徳川の犬に成り下がった奴らですが何か w
153人間七七四年:2013/03/23(土) 06:45:34.21 ID:XYAX662p
織田信長のキャラクター性の高さは異常。
主人公だろうがラスボスだろうが脇役だろうが何でも華になる。
食材で言うと御飯。 そのままでも美味しいし、カレーやチャーハン、雑炊なんでもござれ。
武田はサラダ、上杉は刺身。 鍋物に入れられない。w
154人間七七四年:2013/03/23(土) 06:58:27.43 ID:lLoSGfg2
それならば徳川家康は八丁味噌だな
155人間七七四年:2013/03/23(土) 11:56:17.58 ID:cD3MYnkN
武田上杉徳川も十分華あるからいつも通りお得意の織田age他sageしなくてもいいぞ
156人間七七四年:2013/03/23(土) 15:19:57.82 ID:GoV0Krtm
いや流石に武田に華はないだろう
信玄にメインスポットが当たる作品なんて滅多にない
大体ヒール
157人間七七四年:2013/03/23(土) 16:55:00.53 ID:cD3MYnkN
信玄メインの本なんてそれこそ腐る程あるし大河ドラマもかなり作られてるぞ
158人間七七四年:2013/03/23(土) 21:10:05.79 ID:CvxEUgh1
ワシは
わしがいなくなった後の天下人を立候補しておいたのじゃ。
光秀は論外
猿はわしの意志を引き継ぐじゃろう。
家康殿と同盟組んだのは狙っていたんじゃ。
こやつなら太平の世を築けると思うてな。
159人間七七四年:2013/03/23(土) 21:22:14.05 ID:CvxEUgh1
ワシが想像していた世の中を実現するためには桃山時代から500年ほどかかったようじゃな。
家康殿が何とか繋ぎとめてくれたようじゃが。

寿命は80年のび、多くの人々が豊かに暮らしている姿がわしには見えたのじゃ。
地球が丸いのもな

このわしが想像していた時代に倅がスケーターとして活躍していたとは、夢にも思わなんだわ!
160人間七七四年:2013/03/23(土) 21:35:27.45 ID:ha2uYD4z
>>156
むしろ信長のほうがたいていヒールなんだが
161人間七七四年:2013/03/23(土) 21:47:39.93 ID:CvxEUgh1
わしがこの時代に生きていたらな
目指すは宇宙じゃ!!
162人間七七四年:2013/03/24(日) 19:00:07.66 ID:x7R5tWcD
アニメやゲームでも信長ラスボスってのかなり多いからなあ
鬼武者とか
163人間七七四年:2013/03/24(日) 19:48:48.53 ID:t9Jw33eU
そりゃ病気で死んだ秀吉や家康をラスボスにしてもつまらんだろう
164人間七七四年:2013/03/27(水) 14:01:42.32 ID:E3iFB5lF
留守中に侍女たちが買い物に出かけただけで癇癪起こして皆殺しって、一体何をしたらこんなに癇癪起こさせることができるんだろうな。疑問。
そもそもこんなに怖い人なのに、留守中に買い物出掛ける侍女たちの神経が分からない。
普段は優しいから、気を抜いて少しくらいサボっても良いかってゆう気の緩みから?
165人間七七四年:2013/03/27(水) 15:36:24.19 ID:Q4e7uKKl
>>164
実はそれ殺されたとは記されてないぜ最近じゃ侍女は殺されてない説が強いらしい
166人間七七四年:2013/03/28(木) 18:36:13.84 ID:+pcR8Dmz
桑実寺の待女と長老が殺されたと信じている無知がまだ生きていたのか
桑実寺ではこの話を完全否定しているし長老も生きている記録が残っている
いつまでも間違った知識を自慢しているとリアルで笑い者にされるぞ
167人間七七四年:2013/03/29(金) 01:38:20.60 ID:FCjXSkVu
まーた桑実寺大虐殺の信長擁護か。
なんども同じネタよく繰り返すな・・・
あんだけあちこちで大虐殺しまくりなのに
桑実寺大虐殺を無かったことにしようとするなんて
キチガイすぎるわ。
168人間七七四年:2013/03/29(金) 02:25:46.50 ID:v8LqcAkj
>>167
あちこちで虐殺した事と桑実寺の件は関係無いだろうにそれに今のところ寺の坊さんの証言や研究で虐殺はなかった説が強いんだから認めろよw
それが気に入らないならお前が学者にでもなって真実をあきらかにしてくれ信長憎しのキチガイ君w
169人間七七四年:2013/03/29(金) 15:53:35.06 ID:+ObXtKJU
もうソース教えられて一ヵ月か
自分で調べもせず捏造だなんだと言いがかり
まあ武田厨はこの程度ですw
>>5>>6>>8-9>>10
170人間七七四年:2013/03/29(金) 18:29:53.90 ID:pbsh+O6B
本能寺から逃れた女たちは信長さんに命を無駄にするでないと言われたらしい。それいった本人が一向一揆や比叡山で虐殺?
よく理解できないんですけど。
ガセ話入ってんのかな
171人間七七四年:2013/03/29(金) 22:06:57.14 ID:JoMkTQyg
虐殺がネタ
比叡山は平安末期から暴れてた僧兵連中ぶっ殺しただけ
長島は女子供まで戦闘員だったから敵を倒しただけ

敵を殲滅するのを虐殺って言えば虐殺なんだろうけど、そのような定義は聞いたことがないから虐殺じゃないんだろ
172人間七七四年:2013/03/29(金) 22:14:32.56 ID:YO8hL+Ug
比叡山ってタリバン以上の非道の限りを尽くした国賊なわけだが。
あれを聖人扱いする世間知らずがいるのか? w
173人間七七四年:2013/03/30(土) 01:36:35.36 ID:6hhmeErQ
だがしかいねーのか
174人間七七四年:2013/03/31(日) 06:25:15.49 ID:cHFxkF5r
ここは名君・信長に嫉妬するスレですね
175人間七七四年:2013/03/31(日) 12:46:25.38 ID:LjCWkBcg
当時の比叡山トップは天皇の弟
それを国賊呼ばわりとはキチガイにも程がある。
そもそもタリバン以上の非道って実例を挙げろよ。

だいたい桑実寺の虐殺がないって言ってんのは
信長公記は信用性が低いって指摘した作家の遠藤周作だけだろ。
織田厨は公記は信用性高いって連呼してるくせに
信長に都合が悪い話に限り公記の記述は間違いとか主張するのかw
そもそも遠藤は誰から聞いたかすら明言しておらずまったく不明で桑実寺の公式見解じゃない、ただの小説記述だろ。
司馬史観ならぬ、遠藤史観www
いろいろとネットで調べてもソース一切なしで桑実寺にはそういった不名誉な記録は残されてないと言われてるから公記の記述をした太田のでっち上げだ
みたいなクソ論理展開だろうが。
176人間七七四年:2013/03/31(日) 15:01:20.09 ID:VDLJkEnS
信長公記だけを見れば成敗と書かれているから、縛り上げられただけという解釈
も成り立つかもしれない、それと桑実寺資料でも高層は殺されていないようだ。
しかしルイスフロイスの日本史では侍女たちは惨殺されたと書いてある。
誰が研究したが知らないが別に惨殺がなかったという説が強くなったというわけではない。
177人間七七四年:2013/03/31(日) 19:28:57.40 ID:uQiyE3u5
>>173
このスレ立てたのはだがだからな
>>1のIDで検索すれば一目瞭然
178人間七七四年:2013/03/31(日) 19:44:26.49 ID:iLSwwzzR
桑実寺資料とやらの主張の裏付け一次史料と坊主名もしくは
そう主張する学者名とその著書名を書いてくれ。
179人間七七四年:2013/03/31(日) 20:23:29.16 ID:0PAROjKn
信長が過大ってのなら戦国時代が日本史上で過大なんだろ。
180人間七七四年:2013/03/31(日) 22:03:08.04 ID:cHFxkF5r
>>175
やっぱキチガイだったか。 w 
181人間七七四年:2013/03/31(日) 23:52:12.17 ID:GaaQoSEl
日本の戦国時代なんて、韓半島の戦国時代に比べたらスケールが小さい
まさに井の中の蛙と言葉が似合う
182人間七七四年:2013/04/01(月) 14:34:24.54 ID:nAZnvnlZ
>>175
天皇の弟がどうのじゃなく、それまでの行動がそうなんだよ。
ちゃんと知られば解る。
信長憎しで勢いで書いたのだろうけど、もう少し頑張らないとなw
183人間七七四年:2013/04/01(月) 17:13:20.34 ID:M7PslBgY
>>177
ヤフー知恵袋でだがっぽいのいる
「織田信長」で検索してみそwwww
184人間七七四年:2013/04/01(月) 22:46:28.00 ID:b2WI024E
>>182
はいはい。比叡山の悪行をソース付で説明してみろよw
そもそもタリバン以上の非道って実例を挙げろよ。
185人間七七四年:2013/04/01(月) 23:10:48.99 ID:vmEo9dLm
挙げてやるからお前が把握してるタリバンの悪行を列挙しろよ
もちろんソース付けてw
186人間七七四年:2013/04/02(火) 00:12:15.32 ID:7tFTkgqj
比叡山の悪行ってw
結局、信長贔屓視点で不当に比叡山を貶めてるだけの歪曲捏造じゃん。
しかも天皇激怒で信玄を官軍認定するわ、
謙信に命じられて信長は比叡山の復興の約束までさせられてるしwww
187人間七七四年:2013/04/02(火) 01:31:46.92 ID:1xNv0rd9
言葉は正確に使いなさい
官軍認定だとお前が断じている、だろ?w
188人間七七四年:2013/04/02(火) 03:24:29.75 ID:tAuqZZ8W
明智光秀が本能寺の変を起こした後
朝廷は京都の守備をとりあえず光秀に任せた
信玄の信用度はそのレベル、あるいはそれ以下
189人間七七四年:2013/04/02(火) 09:23:14.45 ID:9Q+7ESt+
比叡山とか、やってる事は武家と変わらん。天文法華の時は放火しまくって京を丸焼けにしてる
190人間七七四年:2013/04/02(火) 10:52:37.85 ID:TrQ9HmZW
>>184
ソースどうの問題ではなく、歴史好きなら知っていなきゃいけない事のひとつ
だわな。
煽り口調で頑張っている様だけど、勉強不足は否めない。
まず、比叡山の歴史について調べてみては?
ちなみに、天皇にも将軍家に楯突いて、自分の意見を通す為に暴徒化もしている。
調べてみ。
191人間七七四年:2013/04/02(火) 14:12:52.70 ID:6xOmlndu
信長厨きもいな
自分たちにとって都合のいいように歴史を歪曲すんなよw
192人間七七四年:2013/04/02(火) 14:38:08.89 ID:TrQ9HmZW
はいはい、いつもの中身のない反論ね。
自分の意見を聞かないと織田厨とかw
人格批判じゃなくて、ちゃんとした反論をしてきてねw
193人間七七四年:2013/04/02(火) 14:42:02.93 ID:pn5Rdak2
ここもそうだが、ほぼ全部だがの自演なんだな。キモイな
ヤフ知恵まで現れるとは
http://chiebukuro.search.yahoo.co.jp/search?sort=16&p=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&ei=UTF-8
194人間七七四年:2013/04/02(火) 14:52:39.86 ID:Vu/eu6AC
日本史板でも連投してたw
195人間七七四年:2013/04/02(火) 21:10:28.54 ID:Mw2JmhbA
比叡山についてはアマゾンとかで「僧兵」検索するのオススメ。
太政大臣?の藤原さんに刀振るったり、天皇のお使いに乱暴狼藉したり。
焼き討ちがあって京人は驚いたけど、同情はしないむしろ喜んだって話あるのも何か納得。
196人間七七四年:2013/04/02(火) 21:21:21.42 ID:dy1Du2bS
去年の大河ドラマにもあったように昔から比叡山は滅茶苦茶していたよ
197人間七七四年:2013/04/02(火) 21:52:30.31 ID:GWozoOuJ
比叡山の荒法師が京の街を強盗の恐怖に堕とし込めたことあったなぁ〜
確か武蔵坊弁慶とか言う名だったなぁ〜
198人間七七四年:2013/04/02(火) 22:28:01.15 ID:dy1Du2bS
まあ意図とかは別にして比叡山を再起不能なまでに殲滅したのは信長の功績と言えるわな
199人間七七四年:2013/04/03(水) 00:30:00.06 ID:4dGxxIk3
衰退しまくっていたところにダメ押しになっただけ、って説のほうが強いんじゃないかね?
足利義教さんの功績だろ、どっちかというと
200人間七七四年:2013/04/03(水) 04:09:52.50 ID:5QRAzgGW
>>193
戦国板だがスレ:http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/
歴ゲー板だがスレ:http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1340075105/

によると、だがの行動範囲は戦国板、歴ゲー板、日本史板、
ほかニコニコ、ヤフー知恵袋、個人のまとめブログにも発見記録がある
あまりに多すぎて住民達も当初は半信半疑(騙り、工作)だったが、
投稿内容を見て大半の住民は納得したというだがクオリティ
201人間七七四年:2013/04/03(水) 19:25:17.77 ID:ZaRT1ASm
>>199
衰退しまくっていたら天文法華の乱なんて起こしてないだろ
202人間七七四年:2013/04/04(木) 07:21:21.35 ID:brgXcpnq
>>201
乱として扱える程、没落してた。
設置場所(近江)を考えても、自称宇多源氏に対する抑えの意味があったんじゃね?
それが室町末期に共倒れしたとか
203人間七七四年:2013/04/04(木) 20:05:30.84 ID:Gfyo97Gc
信長擁護のため比叡山が悪い悪いと根拠なく捏造してるが
王城の守護をしてきた大功ある延暦寺。
延暦寺と敵対したこともある平家は滅亡し
その延暦寺を恫喝した恐怖政治足利義教は家臣に暗殺され
教訓にしなかったアホ信長も家臣に下克上された。
そもそも寺領を回復してもらう約束で延暦寺は信長の上洛を支援。
しかし信長は延暦寺の荘園を次々と不法横領を繰り返したので
延暦寺は我慢の限界を越えて信長と敵対しただけで
完全に信長が悪。
204人間七七四年:2013/04/04(木) 21:11:14.64 ID:8MdFc6CZ
白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として
「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、
僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。

白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として
「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、
僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。

白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として
「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、
僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。


大事なことなので3度言いました。
205人間七七四年:2013/04/05(金) 01:45:14.55 ID:ImF6WZ28
>>204
「権門体制論」勉強しろ
206人間七七四年:2013/04/05(金) 07:15:54.90 ID:Wb43JVkJ
なんだ? >>1をたてたのは、他の戦国大名厨でなく、
日本のタリバン・延暦寺厨だったのか w
207人間七七四年:2013/04/05(金) 19:32:15.35 ID:4vGVC7+y
だが本人が危険思想をもっていると言うのならその通りだけどな
好悪に関わらず教科書にも出ている日本トップクラスの偉人を
まともに扱わない時点で真っ当な日本人じゃない。
日本の教科書内容を捏造したくらいだし向こうの人なんだろ
208人間七七四年:2013/04/06(土) 01:17:22.05 ID:x5gEmg/Z
チャン・チョン・だがは事ある度に日本の教科書を否定してくるよ
日本の一般常識である教科書をデタラメとか意味不明に喚き散らし偏った視野のゴリ押しをかけてくる

【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】 のレス128が証拠
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/128
209人間七七四年:2013/04/06(土) 01:24:11.08 ID:x5gEmg/Z
さらにアスペルガーだがの国の教科書では教科書には織田家が滅亡したことが書いてあるらしい
そんなことを書いている教科書は日本には存在しないのも一般常識

【だが】上洛スレ64を検証するスレ【敗北】 のレス119が証拠
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119
>教科書には織田家が滅んだ事くらいのってる。
210人間七七四年:2013/04/06(土) 10:37:40.50 ID:3ByOWiQr
>>208-209
君らはわざわざクソスレから出て来なくていいよ
そんなスレ誰も見ないから
211人間七七四年:2013/04/06(土) 11:28:37.88 ID:IJBsqeaG
このスレも誰もいなくなったのを無理やりだがが立てて継続したクソスレだけどなw
212人間七七四年:2013/04/07(日) 17:58:58.15 ID:3tyaPAn6
>>211
このスレの命題は戦国板発足当初からある命題だ
お前のスレと一緒にするな
213人間七七四年:2013/04/07(日) 18:38:00.13 ID:KUi6mf71
とっくにクソスレ化してだがの遊び場になってるじゃんw

http://hissi.org/read.php/sengoku/20130212/NHJuaEQwRzk.html

織田信長は過大評価されすぎ11
994 :人間七七四年[sage]:2013/02/12(火) 13:53:10.92 ID:4rnhD0G9
信玄が死んで包囲網勢が離反だらけになって瓦解
朝倉なんて重臣連中こぞって織田に寝返り出す始末
結局信玄の死と朝廷の威光に救われただけにすぎない

織田信長は過大評価されすぎ11
996 :人間七七四年[sage]:2013/02/12(火) 14:53:03.06 ID:4rnhD0G9
信玄が死んで朝倉離反だらけになったじゃん
214人間七七四年:2013/04/07(日) 20:31:59.41 ID:Z32qzm5t
織田武田両方とも充分に凄えのにお前らときたら過大評価などとほざきおって
215人間七七四年:2013/04/08(月) 12:37:35.98 ID:3ihbMPd2
延暦寺の抗議の意見表明がテロと歪曲されててワロタw
別に朝廷に要求することが違法なわけでもねーのに。
延暦寺が朝敵になったことなどないし。
しかも延暦寺への誹謗中傷も中立性がない軍記講談内容を持ち出してきてるだけの織田厨www
216人間七七四年:2013/04/08(月) 15:15:28.17 ID:O2t2+Xi/
217人間七七四年:2013/04/08(月) 20:03:14.22 ID:fYmx3zFm
なんだかんだ言ってるが、結局取られたのを取り返した
織田。
218人間七七四年:2013/04/08(月) 20:35:02.65 ID:u72Kw7EC
京都の警護をした六波羅。
しかし延暦寺は六波羅を愚弄して比叡山を治外法権の魔境にした。
219人間七七四年:2013/04/10(水) 00:37:57.59 ID:/zbFiPYP
だがに執着されている信長様が哀れwww
だがって信長さんのこと同じアスペルガーだとか思ってそう
信長さんが発達障害とかいう書き込みたまに見るけど失礼でしょ
220人間七七四年:2013/04/10(水) 07:41:20.07 ID:XvpgMKec
221人間七七四年:2013/04/11(木) 00:13:18.62 ID:fvExLz1m
信長様があまりにも好きで脳裏から離れないので、たまには息抜きで無心になろうと
パチンコ屋に入ったら、CR信長が並んでた。 パチンコ屋でも信長様は人気者だなあ。
222人間七七四年:2013/04/11(木) 21:06:41.01 ID:SWsL0LWd
恐怖のみの信長、総合力において上回った家康、この差は歴然。
223人間七七四年:2013/04/12(金) 12:26:10.39 ID:cYZ4BEAF
で、比叡山延暦寺の悪事の証拠となる一次史料はまだなの?
224人間七七四年:2013/04/12(金) 19:26:03.27 ID:JtSih6e9
CR延暦寺はいつ出るんですか?
225人間七七四年:2013/04/12(金) 20:06:17.37 ID:9ujv7qec
千と千尋の延暦寺
となりの延暦寺
延暦寺の動く城
風の谷の延暦寺
226人間七七四年:2013/04/12(金) 21:55:45.22 ID:cWQC9rcQ
これはだが?Twitterにまで出没してんのかよwwwwwww

http://c.2ch.net/test/-/streaming/1346518477/i
227人間七七四年:2013/04/13(土) 00:33:31.74 ID:sjROIsXq
悪事の根拠は別にして、ひとつ言えることは、信長の比叡山、石山狩り以降、
日本では宗教団体が武力を笠に着て、政治に口出しすることがほぼなくなった。
もちろんそれは信長ひとりの功績ではなく、秀吉の刀狩、家康の檀家制度確立をもって完成するのだろうけど、

世界のどこの国でも宗教が国を左右したり、宗教戦争が起こったりするのが当たり前だった時代なのに、
今から500年も前に政教分離を実現させた日本はすごいよ。これは稀有なことだよ。
確かに信長は凶悪だったかもしれないけれど、結果的には政教分離に大きく役立ったと思う。
228人間七七四年:2013/04/13(土) 00:35:45.18 ID:sjROIsXq
227だが・・・500年前→400年前です。
恥ずかしい。
229人間七七四年:2013/04/13(土) 01:56:20.14 ID:BkfTyw++
はぁ?宗教が政治活動してない?公明党を知らないの?本願寺は天皇まで利用して政治に口出ししてるじゃんよ。
だいたい本願寺教如は後陽成天皇の勅許をネタに家康を脅迫し東の烏丸六条の四町四方の寺領の寄進を要求し本願寺を分立させ、
准如の本願寺と教如の本願寺に東西分離して内部抗争してたから本願寺が弱体化しただけだから信長関係ないし。
つか信長は結局、本願寺を武力制圧出来ず天皇の勅命連発を使って徹底抵抗方針の教如を石山から出ざるを得ないように折れさせただけじゃん。
しかも高野山にも徹底抵抗され織田軍は最後まで山内に入れず。
そもそも本能寺の変直後から織田家臣達は本願寺への土下座外交やってたし。
信長が政教分離とかアホですか?信長は自分に味方する宗教には甘かった。
230人間七七四年:2013/04/13(土) 02:57:15.32 ID:mCdnEPNp
>>10
と、吹いたは良いが早二ヶ月
うやむやにしようとしてるみたいだが、そうはいかんよ?w
231人間七七四年:2013/04/13(土) 07:12:13.02 ID:GI4wvWn0
>>229
公明党が槍刀で武装武装闘争やってるのか。
斬新な発想だな。
232人間七七四年:2013/04/13(土) 12:45:14.05 ID:GEvACkrM
>>223
だがは天文法華の乱も知らんのか・・・・
233人間七七四年:2013/04/13(土) 14:12:43.52 ID:Djc9afsN
>>232
いや、待って欲しい。創価の野望を食い止めたということは、悪行ではなく、善行というべきでは
234人間七七四年:2013/04/13(土) 15:14:32.30 ID:GEvACkrM
延暦寺→論破され逆ギレして京を火の海に
だが→論破され逆ギレしてコピペ爆撃

少し似ているかな?
235人間七七四年:2013/04/13(土) 15:42:40.98 ID:qXpohm9z
法華が京の治安を乱していたから、
困っていた細川と六角らの政権支援のために延暦寺が援軍を出して懲らしめたんだろ。
京民は喜び延暦寺の貢献を忘れないように、
法華宗から分捕った戦利品を
祇園祭の際に浄めのために先頭を行く長刀の鉾頭にくっ付けて誇示して延暦寺を讃えていて、
現在はそのレプリカをつけてんだよな。
236人間七七四年:2013/04/13(土) 17:36:55.90 ID:GI4wvWn0
「不滅の法灯」 (笑   実際は消えてます。
八坂観光バスのバスガイドが言ってました。
嘘を貫き通す延暦寺に正義はあるのですか? w
237人間七七四年:2013/04/13(土) 18:07:07.17 ID:SmXka0Is
織田厨は言い負かす事ができないとすぐわけのわからない事言い出すと聞いたがこれは酷いね
238人間七七四年:2013/04/13(土) 20:03:45.85 ID:GI4wvWn0
信長 >>>>>>>>>>>>> 最澄
239人間七七四年:2013/04/14(日) 06:35:49.32 ID:l3hgUjnC
母親と一緒にバスツアーに行く40歳独身無職織田厨…
もちろん費用は親の金。
240人間七七四年:2013/04/14(日) 09:15:51.35 ID:IpIuOKvv
イエズス会は信長に南蛮の珍品を売って友好関係を築いた
延暦寺は信長に喧嘩を売って破滅の道を歩んだ
241人間七七四年:2013/04/14(日) 13:47:59.11 ID:ph0Dv9LL
東大寺大仏を焼くなど混乱した幕府に危機感を覚えた天皇や延暦寺は信長の上洛支援をしたのに、
期待は裏切られて荘園を信長から次々と不法に略奪されまくり、
天皇が返せと命じてもガン無視。
そりゃ延暦寺だって激怒するわな。
奈良への暴虐をちらつかせ上納金を恐喝するわ、
ついには京洛まで放火し大虐殺するまで増長するんだからな。
こんな暴虐な悪党は信長くらいしかいないわな。
242人間七七四年:2013/04/14(日) 13:53:23.41 ID:ph0Dv9LL
結局、休まず軍役を課す織田軍の経済的都合で延暦寺は経済的自立する術を奪い取られただけに過ぎん。
それは畿内全域でやられたことで、
自立する経済力を略奪され、終わらぬ相次ぐ軍役に疲弊した民衆が難民化した。
だからこそ一揆や謀反が頻発してんだからな。
243人間七七四年:2013/04/14(日) 14:33:37.49 ID:IpIuOKvv
延暦寺など家康の代になれば既に何の権力もない形骸化。
都の鬼門の守護として延暦寺は建立されたが、
江戸開府、政治が万全化した最、その鬼門は日光東照宮が守った。
日本五街道のうち、東海道に次いで2番目の速さで完成した日光街道。
それを契機に日光詣では大繁栄し、延暦寺はますます寂れていった。
現在の修学旅行拝観者数でも日光東照宮 > 延暦寺。
244人間七七四年:2013/04/14(日) 15:29:27.88 ID:ph0Dv9LL
へ?家康の時だって比叡山は形骸化なんてしてねーよアホ。天台座主は相変わらず天皇の息子の尭然法親王だしよ。
比叡山の天皇家の断絶化は信長すら諦めて厚遇政策に切り替えてんのも知らんらしいなwww
尊純法親王は日光山法務を兼帯してるし日光東照宮の営繕やってんだぞw
現代ですら末寺数は寺数4200寺
信者数300万人以上なんだが。
245人間七七四年:2013/04/14(日) 16:04:35.27 ID:IpIuOKvv
で? 日光東照宮に勝ってるとでも? ニヤニヤ w
246人間七七四年:2013/04/14(日) 17:09:45.32 ID:qoywegD8
信長の過大評価を語るスレなのに気持ち悪い自論で語る馬鹿共がいると聞いて
247人間七七四年:2013/04/14(日) 17:42:53.84 ID:rKSsF7nJ
アスペルガーだが自作自演大爆発!
ID:l3hgUjnC(レス数5)
ID:ph0Dv9LL(レス数8)
レス数の合計は現時点で 13

おまえ馬鹿すぎて笑えるwww
248人間七七四年:2013/04/17(水) 14:02:37.20 ID:T/mBn1Jj
天皇が義昭の将軍職を解任しないどころか、
天皇は国僧に快川紹喜を任命し、
国寺に恵林寺を任命するなど天皇は武田擁護しまくり。
織田はそれに対して快川を焼き殺し、恵林寺を焼き捨てて、天皇を脅迫。
天皇を辱めた織田に見切りをつけた光秀は、
義昭を奉じて信長を天誅した。
6月13日付け雑賀衆土橋重治宛光秀書状には、
将軍への奔走と入洛に言及してるし、
義昭も信長を討ち果たしたと書いてるしな。
柴田が光秀を討ちに行くことに消極的だったのめた義昭とつるんでいたから。
勝家は天正11年3月4日付け義昭近臣真木宛でも義昭上洛へ言及してるなど光秀の意向を勝家は引き継いでる。
結局、天皇をコケにした信長は家臣団に裏切られて義昭に敗北し、信玄を尊敬していた快川の死に方と同じやり方で信長は報復された。
249人間七七四年:2013/04/17(水) 18:09:36.10 ID:lAsNfm8D
足利家こそ国賊だろが。 アレが天皇崇拝の家? プ w
一天両帝の南北朝時代なる異常なことを作った足利の血筋を敬うとはちゃんちゃら可笑しいわい。 w
250人間七七四年:2013/04/17(水) 18:09:50.93 ID:JshFfV6B
そもそも将軍を解任って事自体ないからな
251人間七七四年:2013/04/17(水) 23:33:42.76 ID:vuHMYgF3
ID:T/mBn1Jj(アスペルガーだが)は戦国時代の知識が全く無いのか?
書けば書くほど馬鹿大炸裂の痛々しい主張

足利家のことくらい中学生並の知識を身につけとけカス野郎
252人間七七四年:2013/04/17(水) 23:55:35.46 ID:xuCX4EST
朱印状貿易も信長が簒奪者の成り上がりだとして、到底正統とは認められず許可されなかったし、
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」と勝利宣言をしているが、
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と書くなど
義昭は実は天皇の天意を奉じて信長に天誅を加えたことに触れている。
253人間七七四年:2013/04/18(木) 06:31:05.81 ID:XErcwcS9
信長の人生は面従腹背する人々に囲まれた一生だった。
254人間七七四年:2013/04/18(木) 12:46:43.26 ID:J4TqneES
足利幕府が公武合体政権だったのすら知らない織田厨w
京に幕府を構える足利幕府は公家や寺社との協調を図らないと
幕府運営ができないために
守護大名などが寺社や公家の荘園の横領に対して
警察権を駆使して大名に返却を求めるなど天皇・公家・寺社との協力体制にあった。
それゆえ義尚が六角親征に出撃したり、細川と将軍の対立が発生してるんだが。
255人間七七四年:2013/04/18(木) 14:51:16.55 ID:QmNEcyP0
>公武合体
覚えたての言葉が使いたいだけの低脳歴女?
256人間七七四年:2013/04/18(木) 20:18:51.29 ID:lfs+xFil
>>254
そりゃよかった
で、織田信長の過大評価と何か関係あるのかね
257人間七七四年:2013/04/19(金) 07:52:11.77 ID:fO3A73HW
大覚寺派と持明院派の内部抗争を足利の不忠なんて曲解してんの左翼チョンの天皇否定論だけなのにアホくさ。
258人間七七四年:2013/04/19(金) 08:07:34.14 ID:SOY+4opb
>>254
へーそうなんだー、すごいなー。
って事でいいのか?
259人間七七四年:2013/04/19(金) 08:24:01.03 ID:lLgMM/T6
左翼脳の日教組が悪い。そもそも足利も天皇を推戴しなければならなかった事情を無視しとるからな。
戦国期も天皇が無力だったとかデタラメはいてるし。
260人間七七四年:2013/04/19(金) 19:11:52.06 ID:zmKTe7wy
足利尊氏は勝手に北朝の天皇を祭り上げて、後醍醐天皇を吉野で憤死させたよね。

足利義満は日明貿易する際に、「将軍」ではなく「日本国王」の肩書き使ったよね。


足利義政は怠惰で政治を放棄した結果、応仁の乱で都を火の海にした原因作ったよね。
261人間七七四年:2013/04/19(金) 20:44:38.25 ID:2FtgIm21
この時代の朝廷は異常なほど空気を読むのが上手い
単純に足利に力なく朝廷が力ある織田に組しただけのこと
そもそも将軍の義輝がぶっ殺されたのに、その義輝をぶっ殺した当事者の
言うことを聞いて将軍任官しようとしていたくらいだからな
義昭の将軍就任の時点で足利などとっくに見捨てられてたも同然の扱い
262人間七七四年:2013/04/19(金) 20:55:48.28 ID:wcEmyEGv
>>261
お前も少しその時代の朝廷とやらを見習ったらどうだ
263人間七七四年:2013/04/19(金) 21:02:24.04 ID:A9tVmCuH
天皇が信長に決勝綸旨を与えたから、
畿内の諸勢力が織田に協力した。
だからこそ信長は
上洛出来ただけだしな。
264人間七七四年:2013/04/20(土) 07:51:04.88 ID:RFfQBFW6
天皇は東大寺大仏燃やしたことに激怒して信長に決勝綸旨を渡して義昭上洛を支援したからね。
足利幕府が保護してくれていた失われた荘園の奪還を公家や寺社は義昭を報じた信長に期待して全力支援していた。
しかし信長は裏切って私利私欲に走った悪人だった。
265人間七七四年:2013/04/20(土) 11:20:37.79 ID:s+v8R79a
後陽成天皇の弟で正親町天皇養子になった良恕法親王が延暦寺の座主になってるのも、
後陽成天皇の妹が西本願寺の良如の妻になってるのも知らんのが織田チョンだからね。
信長の悪事を正当化する為に天皇や本願寺や延暦寺の一次史料ソース皆無で悪口中傷しまくり洗脳工作を撒き散らすのが汚物織田チョン。
そんなに嫌いなら祖国の半島に帰れよ。
266人間七七四年:2013/04/20(土) 11:50:51.23 ID:s+v8R79a
信長は義昭の代わりにやむなく京を統治していると書いてて 
織田家が京を支配してるとは書かずに、帰ってくるまでの一時的な代わりとしている。 
天正元年末には殺戮者信長は天皇に見限りられ京洛内外で人気が全くなかった為に安国寺も信長は公家にはなるだろうが長く持たずに高転びするが秀吉は覇のものだろうと輝元に報告している。
その人気の無さゆえの危機的状況と公家になりたい一心から信長は、
公家などに自分に直接仕えることを条件に領地を与えまくって朝廷の人心の関心を得ようと必死こいて天皇孤立政策を実施している。
しかし京洛は焼き討ち略奪虐待した信長に面従腹背なのは逃れられない。
そして信長は公家にしてもらってるが、これまさに安国寺の想定通り。 
そもそも将軍家のように五山の任命権や将軍庶子の権門寺社への出家を通じて畿内における隠然たる影響力の後援を持たない織田に好意を寄せるアホはいない。
だから将軍を殺すことも離官させることも出来ず、分国法も奉行もいない幕府の寄生虫、宿り木織田に幕府行政を廃止することも出来ない。
267人間七七四年:2013/04/20(土) 12:07:53.82 ID:s+v8R79a
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが 
本能寺の変の20日後にはさっそく天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。 
日本において天皇は神のように崇められているって宣教師も書いてる。その宣教師を厚遇する背教者信長。
丹波の御領回復に対して、天皇は馬・鎧などを下賜。 
(朝廷との取次ぎ役以外の陪臣に対して下賜を行うのは稀有) 
信長に欺かれていた光秀は、
信長の勤皇を称えたあとに、天下はすべて天皇の土地であるという旨の文書残してる。 
「あまねく天之下王土」の考えは、仲の良かった吉田兼見や行祐からの影響だろう。
268人間七七四年:2013/04/20(土) 12:13:37.74 ID:s+v8R79a
湯殿上日記・・・天正十年分欠損 
兼見卿記・・・天正十年分改竄 
言経卿記・・・天正十年六月五日〜十三日欠損 
晴豊記・・・天正十年六月三日条「物のけ種々さうせつ共日記書つき隙なく、後かき申間大かたなり。」 
多聞院日記・・・六月二日条「信長於京都生害云々、盛者必衰之金言、不可驚事也」 
晴豊記・・・六月二日条「誠のかれ候事あるましき事也、天道にて御左候由各申入候也」 
なぜ彼らが信長の死を驚かず、天道と言ったのか。 
老人雑話・・・「明智殿の謀反ならんとすいりやうして云者あり紹巴内意しられけれども何に左様の事 
あらんとい云事をも制す昌叱思合たる事ありといふ」 
兼見卿記・・・六月二日条「新在家之邊より紹巴荷輿を参らせ、御乗輿云々」この記述を正本にて削除 
兼見卿記・・・天正九年四月一日条「御譲位の事、当年金神により御延引の由その沙汰云々」(正親町天皇譲位) 
辛巳年の金神は子丑寅卯午未・・・二条御所から内裏の方角は丑。よって金神に該当 
御湯殿上日記・・・天正七年十一月二十一日条「宮の御かた思ひよらすにはかに二条へ御なりとて」(誠仁親王の御動座) 
巳卯年の金神は午未申酉・・・内裏から二条御所の方角は未。よって金神に該当
朝廷は決して金神に拘束されてはいない。 
天正九年三月朝廷が信長に左大臣推任、この時の返答が「譲位時に受ける」などとなおも譲位を要求。 
光秀は勤皇だったことの根拠として、丹波を平定した光秀が丹波の庶民に出した御触れ(威光寺文書) 
に「天下みな天皇の土地でないところはない」と書いてあることが挙げられることがある。 
ところが、この一文の前には信長がどれだけ勤皇かを力説した文章がある。 
東大寺正倉院の蘭奢待を切り取り 
安土城の総見寺で自分を神だとのたまい安土城内に天皇の御所を作りそれを見下げるように天主を作る 
信長のやり方を見て朝廷と信長の間を取り持つ光秀は裏切られたと痛感し 
公家達にも今までの話はウソやったんか?と詰問され追い詰められていただろう。 
信長の本性に光秀は失望したのか・・・
269人間七七四年:2013/04/20(土) 12:21:51.36 ID:s+v8R79a
必死に毎年確実に官位をあげてきたのに天正6年1月に正二位になった後の4月に 
突然、前触れもなく右大臣・右近衛大将を辞任して自分はいらないから 
信忠の官位をあげて欲しいと一切の昇進も官職も拒否。 
この後、二度にわたり信長の任官問題が浮上し最後には征夷大将軍・太政大臣・関白のうち 
どれでも良いから任官して欲しいとまで言わせる。 
そしてまさに信長から何らかの返答がくる寸前で信長は殺される。 
一方で天正9年京都で大規模な馬揃えを行い朝廷を威圧。 
この馬揃えの直後にも正親町天皇が譲位したいと言い出す 
一方で方位神の金神に方角が悪いからと譲位の時期の先延ばしを謀る。 
天正10年に入るや天皇が支配する時の支配にも信長は手を伸ばす。 
金神などを論破すべく西洋の知識を使っての暦についての論争である。 
安土天主において信長は濃尾の暦者とキリシタンの知識を学ばせた幸徳井友長を使って 
朝廷の陰陽頭を論破しようとしたが近衛前久が連れてきたキリシタンの知識も持つ加茂在政に論破される。 
信長は濃尾の暦者を使って天皇のみの特権たる刻の支配に介入し 
京暦・尾張暦・三島暦がずれてるからどちらが正しいか決着をつけるように言いつけていた。 
本能寺の変の直前に近衛前久の太政大臣辞任が突然勃発 
変前日の本能寺の祝宴が翌日に控えた誠仁践阼の儀の前祝いだとする説もあるし、親王は自らを囮に信忠をおびき寄せた可能性も指摘されている。
なぜなら親王の息子はのちに天皇養子になり延暦寺座主になりいよいよ延暦寺は活況してるからである。
本能寺の時に信忠を討った際の明智軍は近衛前久邸の屋根から二条御所を攻撃している。 
のち近衛は逃亡し、家康に織田家臣団の内乱と信長暗殺を評している。織田家臣団は信長を見限っていたのがわかる。
ちなみに信忠の官位も天正5年10月従三位左近衛中将になってから 
一切昇進していないのも信長や信忠が拒否していたからだろう。 
これは中国の王朝交代における有徳で天下を助けた忠義者の父 
新王朝樹立させた息子の父にして祖であることを目的にしたもので 
岐阜の語源である岐山より生じた周であったが暴君の紂王の時代にはすでに周は文王が徳をもって 
仁政を行いつつもあくまで殷の臣下の地位に甘んじ子の武王によって紂王が討たれ周王朝が建国され 
文王はその祖として崇められた故事の通りである。これは曹操や司馬懿もやった典型的な王朝簒奪手法である。 
信長は不遜にも自分を文公のような立場にしようとしたのか。 
しかしやり方は天皇さえもすげ変え、しまいには天皇を廃止するつもりなのは明らか。 
朝廷にとっても天皇にとってもギリギリのラインまで追い詰められてたよな本能寺の変のタイミング
270人間七七四年:2013/04/20(土) 12:29:16.10 ID:s+v8R79a
信玄死後の12月頃より信長はたびたび正親町天皇に譲位要求をするようになってる 
また織田家では誠仁親王の第五王子興意法親王(智仁親王)が信長猶子となり 
誠仁親王を主上・今上皇帝と敬称(天皇非公認の僭称)で呼んでいたほど入魂な一方で 
天皇は信長と連携するこの親王を嫌い、この親王の死を待って譲位。 
やはり権力者に帝位を思うがままに決められ従わされるのは嫌なんだろう。 
誠仁親王なんて帝位を半ば奪う気が満々に見えるが光秀と打ち合わせし信忠を誘き出した可能性もある、
信長親子暗殺謀略の危ない橋を渡った親王が天皇になれる資格がなかったかも知れない。
僧侶嫌いの宣教師が光秀を腹黒い謀略家と悪口言ってるから 
光秀は王城鎮護の南都北嶺の公家僧侶と親しくしていたのがわかる。 
安国寺が信長は高転びに転落するって言ってたのも公家や僧侶とも親しい安国寺ゆえの洞察だろうね。 
また義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」 義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる。 
天命とは天皇を指しているので光秀一人の企てではないだろう。信長は本能寺で茶会を催すため要人達を集めようとしていたし 
家康も本能寺の変の当日朝に火急の上洛をしようとしていたのが本願寺の史料でわかる。 
彼らが集まってから抹殺してしまえば効率がよいのに急ぎ光秀が信長を襲ったのは家康ら要人達もグルだったからだろう。
その証拠に家康は秀吉と話すらしてないのに、なぜか秀吉同様に三法師を後継者と宣言しており、明らかに事前打ち合わせがないとあり得ない。 
秀吉もいつでも毛利と和睦できる状態で信長を呼んでるなど本能寺の変における大規模な謀略を成立させるには 
やはり天命が背後にあったとしか思えない。 
信長は悪行の限りを尽くし松永久秀討伐ついでに奈良でも脅迫し 
奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納させてるほど。 
この年の奈良は年初から頻発する大地震で天下人民多く死に五穀不熟の風聞は京に届いたほどに大和は荒廃。 
南都北嶺を滅ぼすってのもまず1571年9月比叡山焼き討ち 
(仏法破滅不可説不可説・王法可有如何事哉と嘆く) 
に続くこの南都での脅迫に続く話で 
(比叡山焼き討ちを知ってる大和衆は織田軍を無法第一之衆と持っての他の大騒ぎになるくらい不安がった) 
その後、さらに上京焼き討ちにつながる暴虐なわけだ。 
ちなみに奈良に対しては12月にも再度の要求があったようで成身院が銀子100枚上納 
1568年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに大盗賊集団に成り下がる織田www 
上京焼き討ちで類火が禁裏の近くまで広がり、無礼にも信長は天皇に対して万が一の時は吉田山へ逃げろとか言ってる。
「南都滅亡&北嶺滅亡すると王城に災いが発生するって話だけど?」の解釈は以下が正当。 
信長「すでに奈良も比叡山もボロボロにしてるから王城にも災い発生するよね?(つーか焼き討ちするしw)」 
吉田「そんな話にソースありません」 
信長「えっ奇特な解答w(ガチに災い来るんだけどwww)」 
近衛を筆頭に公家や茶人たちとの謀略で本能寺での茶会話で 
信長を誘き出し光秀に襲撃させたわけだ。
271人間七七四年:2013/04/20(土) 12:38:25.41 ID:s+v8R79a
3/13に誠仁親王が上之御所へ御成したと言うがここはどこの誰の邸を指してんの? 
二条御所は下御所と呼ばれているんだが。つうか誠仁親王がいくら今上皇帝と呼ばれているからって 
御所に住むとか問題ないわけ?そもそも4/25に誠仁親王の意として 
「関白でも将軍でも太政大臣でも御推任可然よし」って村井に伝えてるだろ。これ明らかに天皇軽視してるよね。 
光秀はたびたび細川藤孝の従兄弟の吉田神社神主吉田兼見と密会してるな 
本能寺の変の時に兼見は光秀に会い銀50枚をもらい秀吉にバレて銀50枚を秀吉に差し出したし。 
さらに正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使として兼見を派遣しているし 
これで従三位・中将と征夷大将軍の宣下を光秀に与えている。 
ただ兼見は朝臣ではないから、正式なものでなかったのが朝廷を巻き込まずに澄む謀略の証拠。 
そもそも兼見は信長の上京焼き討ちに内心では怒りを覚えていて延焼から天皇を守ろうと必死だった。 
1573年4月には兼見は自ら御所延類の時は吉田山へ天皇がお移りしてもよいか信長へ許可を願いに 
信長もそれを聞いて「天皇には移れって言っとけ」と命じてる。 
7月には兼見の所有する吉田山に天皇をお守りする居館を建てるように 
光秀は信長に提案したが信長は柴田に「居館を建てられる場所じゃない」と言わせるなど不遜極まっていた。 
信長「すでに奈良も比叡山もボロボロにしてるから王城にも災い発生するよね?(つーか焼き討ちするしw)」 
兼見「そんな話にソースありません」 
信長「えっ奇特な解答w(ガチに災い来るんだけどwww)」 
上記の話でも兼見は信長の悪意ある発言を察して王城の不滅を信長に強く主張している。 

明智から金を貰った吉田兼見は言うに及ばず本能寺の後に信孝から追手を派遣され嵯峨に逃亡し 
隠れていた近衛や勧修寺入道(孫娘が誠仁妃)も怪しいんだよな。その二人の安否を心配した誠仁と言う構図からすると
信忠を二条御所にわざわざ呼んだのは誠仁で、近衛が屋敷に明智勢を招いて信忠側近を狙撃しまくったと考える。 
誠仁も信長から圧迫されていて追い詰められていたからこそ 
信長に迎合して関白でも将軍でも太政大臣でも何でもよいからと提案したんだろ。 
天皇はその誠仁の行動を皇位を危うくする危険な駆け引きとして怒り 
信長と天皇から圧迫され板挟みのサンドバックから逃れる為に本能寺の変を引き起こしたと。 
近衛と勧修寺の背後には誠仁がいて吉田神社の動きの背後には天皇がいた。誠仁は延暦寺に目をかけていたことからもわかる。 
安土城下に天皇を移し見下す第七天魔の偽神信長など悪夢以外のなにものでもないだろう。
五穀豊穣を祈願し神々へ奉納する儀式一つ出来ない破壊屋織田に天皇を上回る資格など全くない。それが民意であった。
272人間七七四年:2013/04/20(土) 12:41:51.44 ID:s+v8R79a
お前なんで無理矢理すべての横領を同一視して歪曲しようとしてんの?
女房奉書も天皇から出されず即決で1571年9月押領を排除・1572年3月信長朱印命令という
経緯をたどってるんだから御牧が信長の命令をまったく聞いてないのは明白だろ。
そもそも横領事件は双方に言い分があるから、それだけでは実行者が悪いとは言えない。
女房奉書が出され始めて幕府で調査して判定をくだすのも知らんのかよ。
でさ、秀吉が泉涌寺領を横領した時に女房奉書が出されて幕府で秀吉に糾明があった時に
秀吉はまったく存じ上げないと開き直ってるわけ。それで義昭が固く仰せ付けると返答してるわけ。
こんなむちゃくちゃな独断専行開き直りなんて信長が背後で糸を引いてないと出来ない強引さなわけ。
上洛して少しばかりの時の信長の態度は「義昭の御下知に任せ領知を安堵す」な態度だったはずなのに。
さらに信長は外聞が悪いからと義昭が違背した曲者だから没収したって主張を諌めたりしてたはずなのにw
特に信長は比叡山焼き討ちした後くらいからむちゃくちゃずうずうしく横領を繰り返すようになった。
明智光秀の横領も義昭の是には実行力がないから信長に綸旨・丹羽長秀ら4人の横領も信長に綸旨
そんで岐阜へ着けば「尾張に鷹狩に行った」じゃあ尾張に行くから馬を貸して→OK
→「やっぱ無理。信長公はすべての公事訴訟停止中。黄昏の時刻の今から出発しても無理」
「明後日未明には三河へ行くからどういう手段を取ろうが絶対無理」とか言って逃げ回ってるし。
結局、年末終わりまで岐阜で粘られて 仕方がなく信長が年末年始で岐阜に帰ってきたら
挨拶はしたものの返答はせず、翌日光秀や細川が信長の茶会に出席して何らかの意見をしたようで
夜に山科を光秀が尋ねてきて「うまくいかない」と言うのでそれを聞いた山科が光秀に賄賂として200疋贈ってるんだが。
金を払って取り直してもらおうとしたが返ってきたとの記述はないし。光秀や秀吉の横領が信長の意志なのは明らかだから。
>>女房奉書とか関係無いし
いや関係ある。幕府で調査して双方の言い分を聞くわけで義昭を無視して段階を飛ばすことはありえない。
どちらが悪いかの判断がついてないのは公家側の理由が「懸命の地」など曖昧な反論理由である可能性が高い。
ちょうど9月中旬の比叡山焼き討ち→松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀ら連名で
さかんに公武御用途賦課しまくって違反者は在所の没収というのを織田政権はやってる時期。
それで光秀や秀吉らは幕府の審議である女房奉書を出されてる。秀吉はそれを「まったく知らない」とシラをきって開き直ってるわけ。
天皇もこの段階だとまだ信長を名指しにして文句はつけず解決しようとしてるわけ。
しかし幕府と協調して信長の部下に圧力かけてもまったく解決ができないから
12月に入ると光秀が横領した件に対してついに信長名指し綸旨を出すことになるし
同日に丹羽長秀・中川重政・永田景弘・九里三郎の横領についても
「信長の朱印状を使って横領してるけど、もちろん信長は知らないと思うけど」
と証拠を出して遠まわしに嫌味まで書いてる。特に光秀横領分については義昭も以前から知ってて
だらだら対応が遅れたこと・内々に申し下していたことだったと言っており
義昭では解決できない点で秀吉の件と同じ状況であり明らかに信長の指示が背後にあるのは明白なわけ。
273人間七七四年:2013/04/20(土) 13:41:34.85 ID:5kTF2fAV
ここまでご都合解釈
馬揃えで朝廷を威圧しながら天皇の譲位を渋る矛盾
274人間七七四年:2013/04/20(土) 14:24:49.36 ID:1fbdxDB1
天皇が横領した比叡山の領地を返すように命じたのに無視した挙げ句に比叡山焼き討ちしたからな。
しかも上京焼き討ちし御所が燃えるのも辞さない態度で桂川は京民溺死甚大にして救助すらしないで織田は略奪に熱中。
その暴威を背景に義昭との和睦斡旋をするように天皇を脅迫。 天守ではなく天主と称した安土城を築き天皇を迎える御所を
見下げるように位置させ、天皇のお膝元で焼き討ちとか伴天連追放令を天皇が出したのに京で布教させるとかってありえないな。
そして官職すら拒否する不遜かつ朝廷秩序からの離脱を図る。 しかも信長は天皇が譲位したら官職に付くのも考えてやるかもなぁwなどと脅迫。
おそらく家康接待中の明智に安土城へ来いなどと天皇へ要求するように命じたのだろう。
1573年2月 義昭が織田に挙兵を決意し二条城の堀普請を始めるや明智光秀の与力の山本、渡辺、磯谷らが離反。
義昭は朝廷の改元提案を却下したり、武家伝奏を武家に近い者を使って朝廷認可権を蔑ろにしてきた。
その義昭の元へ光秀与力のうちで反朝廷思想の者は付き従った。残った明智衆は勤皇だったのだろう そして信長を勤皇だと誤解していた。
そして裏切られた明智衆は長宗我部政策での対立もありもはや我慢ならず光秀に信長討伐を願った。
磯野員昌が津田信澄を養子にした後に追放され高島郡を磯野から没収したことを考えたら
光秀もいづれは追放され信澄にすべてを奪われる危惧は抱くわな。北畠一族が謀殺されまくったことを考えれば恐ろしいよな。
秀吉の中国指揮官に対して自分は長宗我部を傘下に加え四国征伐やろうとしたら秀吉が三好を調略し一転長宗我部は討伐対象になり光秀用済みじゃん。
しかも丹波丹後制圧完了後に但馬攻めをやろうとしたら秀吉が秀長を派遣して但馬まで制圧して因幡攻めし始めるし。
それら秀吉の越権行為を信長は是認し光秀を軽んじてる。そこに朝廷が吉田神社を使って助け船を出したら乗るだろう。
柴田に越前を任せた時も「預け置く」だけできっちり前田や佐々や不破ら目付けをつけて監視させてる。
しかも織田重鎮の佐久間追放の時に「一国を治めながら何の功績もない柴田もこのままではヤバイと思って
去年やっと加賀を攻略した」などと言ってて、加賀を攻略してなかったら柴田も佐久間と同じ末路になっていた可能性が高い。
柴田にとっては謙信が死んで越後大乱になって助かった以外の何物でもない。柴田も上杉滅亡後にリストラされる危険性が
あったから本能寺の変は内心では歓迎できる事件だったろう。 なんせ柴田には林と同じ罪状で追放できるという恐ろしい口実がある。
せめて信長の子を養子にでもして柴田家を継がせるしか生きる道はない。
天皇が信長に言ったように比叡山から横領した地をちゃんと返却してれば朝倉浅井に比叡山が
協力しなかったのにバカだね信長。比叡山も横領された領地が回復される期待から信長の入京には
期待して歓迎してたくらいなのに。わざわざ敵対するような行動をしておいていざ朝倉浅井に比叡山が
味方したら烈火の如く怒りつつも土下座して領地を全部返還するから中立な立場になって欲しいと
哀願した挙げ句に拒絶され八方塞がりになり結局は天皇に泣きついて比叡山に勅を出して和睦斡旋
してもらうハメになるんだから。信長って終始こんな行動を繰り返してまったく学ばないうちに自滅したよな。
若き純粋な青年の時の信長は天皇に憧れをもって無知ながら上総守を(のちに間違いに気づき上総介とする)
自称して田舎者のガキたちに自慢していただろうに頭が悪く成長した信長は天皇を利用することだけを考えてたから
天下が治まるどころか次々と敵を作り出し戦乱と混乱と不幸を生み出す中心として疫病神になった。
その証拠に信長が死ぬやあっという間に秀吉が関白太政大臣になり天下が安定した。
なんせ信長の死のわずか4年後には家康が上洛し秀吉に臣従し、信長が最後まで苦戦しまくった紀伊・河内・大和・和泉を秀長が
驚異的な治安を発揮してるほど。信長の負の遺産。その無駄な敗戦処理を速攻で処理したのが秀吉。
275人間七七四年:2013/04/20(土) 14:28:50.19 ID:1fbdxDB1
朝廷を過小評価したマヌケな信長の盛大な自爆 
そして家臣団にも裏切られて織田領解体の刑罰w 
奈良の多門院日記でも信長家臣団が信長死んだ途端に手のひら返しで織田領土の分配にむちゃくちゃ熱中してる姿を皮肉ってるほど。 
どんだけ信長が家臣団から見切られていて一寸たりとも恩も感じてなかったかわかる。


君は鳥居や社殿の鏡や路傍の地蔵や先祖の墓に向かって小便できるキチガイなんだろうね。
さすが墓や地蔵を石垣に流用させてまで城作りを急がせ労役をかけまくった信長大好き北朝鮮マンセー織田チョンだね。
民衆は地獄だったからこそ一揆蜂起しまくったんだね。

本能寺の変の後に光秀が征夷大将軍に任じられたが吉田神社経由で非公式って言うが 
実際、足利義昭も永禄9年4月武家伝奏を経由しない吉田神社の兼右により 
従五位左馬頭に任じられているんだよね。 
従五位下左馬頭の足利義栄が征夷大将軍を望んでいる中で義昭をひそかに叙任任官してるのが朝廷。 
だけど信長が裏切り味方の斎藤を攻めて大敗し、
信長に激怒した義昭が三好に攻められ越前に夜逃げしたから義栄を朝廷は認める他無くなった。

正親町天皇は変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。 
勅使として派遣されたのは吉田兼見である。 
『明智光秀公家譜覚書』 
変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下 。
山内容堂も小御所会議で不義不忠の明智に将軍位を与えた(らしい)公家の妄動を罵ってるし 
それに激昂した若手公家が拳銃を抜く有様だからな。
成功すれば正式になり 
失敗すれば非公式になるのが 
吉田神社技
276人間七七四年:2013/04/20(土) 15:01:59.54 ID:dvPA44sV
正親町天皇の儲君誠仁親王の元服の際に
信長はなんとワザと鐚銭ばかりを集めてきて 
これ見よがしに献上したので朝廷の者たちが憤り非難した。
信長はそれを根に持っていた。

そもそも時の支配って春秋戦国期に各地の王が 
勝手に年号を作ってたが 
始皇帝が統一した際に各王の年号も奪い取って 
その権利を秦皇帝の専権にした経緯のある 
中国で生まれた思想が源流だから。

加賀での無断撤収 信長に播磨一国のみの国主許されたにも関わらず但馬、因幡の自領化 
しかも秀吉が三好を手懐けて長曾我部を追い詰めたから光秀面目丸潰れ。 
四国征伐要員から除け者にされる始末。 信忠付きの滝川や川尻 
信孝付きの丹羽らとちがい将来無し。 
安土城が露骨に天皇の行幸を見下ろす目的で作られた城 
京から安土に無理やり天皇が連れ出されて見下されたら天皇も絶望するだろう。
信長は宇喜多を許してなくて安土において秀吉の報告を聞くや 
勝手に許すとかふざけんな。いますぐ播磨へ帰れやと秀吉を追い出してるからな・・・ 
これ9/4で、9/10には秀吉は命がけの三木表合戦とやって勝ったものの、 
数多討死の注進が9/11に上洛した信長の元に届く。 
それを聞いた信長も命がけの秀吉の砕身に心が動いたようで 
きっちり番を決めて詰めて守るようにって自筆書状を秀吉に出して事実上許してる。 
まぁ秀吉が安土より追い返すほどの激怒ぶりだから宇喜多を虐殺する気まんまんだっただろうね。 
秀吉が信長に激怒され、無念に思って合戦に励んで勝利をすぐ信長に報告したから、 
信長の怒りを解けただけの話 
水野信元死刑。 林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝も改易。 
柴田が謙信の死と御館の乱のおかげで加賀を攻略できて首がつながり滝川も武田攻略開始のあたって 
信長から「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。若い信忠をキチンと制御しろ、 
失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われているのだった。 
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。 
結果的に武田征伐は成功したから良かったが失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。 
浅間山が噴火して甲斐や北信濃が混乱して高遠城の後詰めにきた 
勝頼が本国に帰らなければ猪武者信忠は死んでた。 
信忠はタダのアホ 森や団の血気に影響され 高遠城攻めで自ら鎧を着込んで最前線に出てきて 
先へ先へと味方と武功を争って堀際へ取り付いて柵を倒して塀の上に登ってんだから 
大将にあるまじき振る舞いだわ。これで流れ弾に当たった日には川尻と滝川の首まで切り落とされてるわ。 
本能寺の変でじつは信長生存してたら、信濃から逃げ帰った団とか森とか毛利は追放だったな。 
河尻みたいに討死した方がマシだったかもなでも討死した塙(原田)の件みたいに一族追放されちまうか。 
ガチケチ利家は利長に信長娘を貰って安泰を計る計算高さを発揮。あっでも信康の件があったな… 
天正10年に信澄が信長に大和国拝領を願い出て拒否された。 
つまりは光秀の領地を信澄に譲らせることを意味した。 
光秀は武田の旧領の一部が貰えなかったことから佐久間の次々は自分だと絶望した。 
しかし信長の頭の中では佐久間と同じように信澄も父の罪をもとに追放しようとしていた。 
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも利家は拒否し、 
どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、 
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、 
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」 
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。 
277人間七七四年:2013/04/20(土) 15:05:16.57 ID:dvPA44sV
6/21多聞院が前久御生害と聞いて取乱したが誤報と知る。近衛も噛んでいるのは間違いない。 
吉田兼見は本能寺の変を偏神慮と言っている。まさに天皇の叡慮である。 
11月本能寺への関与を疑われ逃亡していた前久が榊原康政に 
京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言 
興福寺だかも信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とかこれじゃダメ過ぎだろ… 
などと呆れ果ててるから織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。 
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍 
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、 
信長娘婿の息子を持つ立場なのに無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけど。 
などと信長への冷酷態度。明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。 
光秀に呼応し斎藤が岐阜城奪っちゃったのも許してるし。


秀吉加賀での無断撤収で信長が激怒 
信長は宇喜多を許してなくて安土において秀吉の報告を聞くや 
勝手に許すとかふざけんな。いますぐ播磨へ帰れやと秀吉を追い出してるからな・・・ 
これ9/4で、9/10には秀吉は命がけの三木表合戦とやって勝ったものの、 
数多討死の注進が9/11に上洛した信長の元に届く。 
それを聞いた信長も命がけの秀吉の砕身に心が動いたようで 
きっちり番を決めて詰めて守るようにって自筆書状を秀吉に出して事実上許してる。 
まぁ秀吉が安土より追い返すほどの激怒ぶりだから宇喜多を虐殺する気まんまんだっただろうね。 
秀吉が信長に激怒され、無念に思って合戦に励んで勝利をすぐ信長に報告したから、 
信長の怒りを解けただけの話 

津田信勝(盛月) 
柴田の部下を斬って信長と柴田の怒りを買った張本人。 
秀吉に密かに庇われていたが毛利攻め末期に備中陣にいるのが 
信長にバレて責任を取って切腹させられそうになった時に本能寺の変勃発。 

秀吉も津田信勝隠匿が露見し終了寸前。
津田といえば 光秀の養子の津田信澄の父も信勝・・・
278人間七七四年:2013/04/20(土) 15:06:10.89 ID:dvPA44sV
近衛前久は三好三人衆側にいて 
足利義栄の将軍就任を認めたりして 
反織田・義昭側であり、石山本願寺に逃げて 
教如を自分の猶子にまでして信長に反抗している。 
義昭の鞆幕府には付き合わず、 
ついに都落ちに嫌気がさし妥協して天正3年に 
京に戻り信長に面従腹背して追従していただけ。 
7年我慢して信長に屈していたが 
政治的な対立から吉田神社や 
光秀と協調することはあるだろう。 
近衛を迎えるにあたり邪魔になった二条晴良に対して 
天正4年に二条邸の押小路烏丸殿を 
信長がムリヤリどかせたりと信長と対立していて 
ムリヤリどかせた後に築いた二条御所に
信忠は光秀に追い詰められ、その横の近衛邸からも狙撃され 
信忠は死ぬことになる。 
新旧関白のタッグにより信忠まで息の根を止められ 
織田家は事実上の滅亡を迎えたのである。

天正初期に信長が近江殿の地位になり 
茶せんが将軍になると噂された。 
つまり世継ぎは信雄の予定だった。 
伊賀攻め失敗は再び信雄が後継者に復帰すべくおこなかった行為。 
本能寺の変は 
伊勢北畠人脈と朝廷が光秀を結びつけた
北畠復興運動に信雄を利用しただけ。 
だから光秀の後詰めで信雄は出撃したが、 
信長と信忠討ち死にを聞いて撤退してる。 
さらに信忠の居城岐阜城を奪った斎藤利堯を信孝が配下にしてることから信孝も共謀していたことも証明できる。 
信雄と信孝は信忠の後継を阻止すべく父親殺しをしても正当化できる朝廷の権威を光秀の交渉で頂く予定だった。


天正九年二月二十八日信長が皇居東門外で馬揃えをした。 
ヴァリニァーノが天皇に謁見したいと申し出たら 
信長は「予が国王であり内裏であるから天皇に会う必要はない」と言い放った。
279人間七七四年:2013/04/20(土) 15:10:19.15 ID:dvPA44sV
細川が貰った書状4/24の信長書状には 
信長が来る秋に中国へ出陣する予定だったことがわかる。 
しかし秀吉が備前児島で小早川軍を破って 
備中高山に立て篭もったのを包囲しているとの注進があり 
情勢次第で信長も出陣するから幽斎も出陣準備するように。 
詳しい話は光秀がすると書いている。 
しかし秀吉が小早川を破って幸山城?に包囲していると言うのはウソくさい。 
(4/19穂田元清が村上氏に秀吉が備中宮路山や冠山を攻撃してきたが撃退したと報せてる) 
ここで関が原の戦いの直前の話を思い出して欲しい。 
武断派は家康を西上させるために「三成を大垣城に包囲した」とウソ情報を吐いてる。 
自分がいない間に勝負がつくことを焦った家康は急いで西上して赤坂に着陣している。 
つまり武断派は家康を騙して呼びこんだのである。 
ここでは秀吉がウソを吐いて、信長を呼び込もうとしている。 
そして信長は光秀を遠征指揮官として細川らを傘下において西国への先陣を命じている。 
秀吉と光秀には、この状況を想定して打ち合わせしていたのではないだろうか。
2/24に勝頼の首が京都に到着し 
3/23に多聞院は天皇が信長の敵国の神々を 
祈祷により吹き飛ばした神力であり、人力の及ばないものだと書いている。 
4/3快川紹喜焼死 
4/7に武田征伐から大和衆が大和へ帰国完了。 
4/21信長も武田征伐から安土へ到着。 
4/23勅使が安土へ着く。多聞院が彗星を見て気味悪がる。そしてのちの加筆で 
信長が死ぬ先瑞であったと追記している。 
4/25誠仁親王による三職推認提案。秀吉がやっと冠山城を攻略成功。 

秀吉の書状が届くタイミングで多聞院も彗星を信長の死の瑞だったと回想している。 
これは何らかの謀が秀吉・光秀・多聞院・朝廷の間でこの時期から発動したと考えられる。 

河隅忠清→直江兼続文書を読むと6月1日時点で光秀が上杉との協力を求め御当方無二の御馳走申し上ぐべき由来などと、光秀の背後にある上位権力へ上杉も最大の御馳走するように書かれている。
光秀は上杉と共謀していた。
やはり天皇や将軍家や家康や秀吉にハメられたのが織田
280人間七七四年:2013/04/20(土) 15:34:06.93 ID:dvPA44sV
勧修寺晴豊の書いた晴豊公記には、
嵯峨野に逃げた近衛前久と勧修寺尹豊を非據の罪状で信孝が討ち取りに来たがうまく逃げることができたと書いてある。
非據とはやってはならないあり得ないことという意味。
しかしのち近衛の非據は隠蔽され逃げ隠れたのは信長を弔う為の行為に捏造された。

天皇は天正九年九月六日に信玄が甲斐に招聘していた快川紹喜に 
国師号下賜を決定した。 
「朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動したので特別に大通智勝国師の号を与える」 
信長が翌年に和尚を火あぶりの刑で処刑。 
二ヶ月後に本能寺の変で信長は天誅されたのであった
快川紹喜と同族の土岐氏である光秀が吉田神社の支持を得て謀反した。
壬生家四巻之日記 
改元の時に譲位要求。 
天正元年12/3譲位要求 
馬揃で威圧したことに焦った朝廷が 
翌日3/7左大臣推認を申し出たら「天皇が譲位したら受ける」と拒否。 
天正十年夏記によると 
勧修寺晴豊が武田滅ぼした信長に、 
「関東討ち果たしたからには将軍に」と申し出たのちに、 
信長から天皇と誠仁親王に返書があり、 
晴豊も村井貞勝邸宅に伺い返書を貰っているが返書内容は記録から削除。 
本能寺前日6/1に宣命暦が日食を当てられず 
信長が三島暦の話を蒸し返す。
281人間七七四年:2013/04/20(土) 15:36:40.40 ID:dvPA44sV
比叡山も荘園の奪回を期待して信長を後援してるし
(しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視)
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
282人間七七四年:2013/04/20(土) 16:59:27.00 ID:vrxhKVYo
そういう主張を研究成果としてあげている人の名前を挙げてください
283人間七七四年:2013/04/20(土) 17:03:50.78 ID:dvPA44sV
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで 
朝敵信長追討を受けた信玄は 
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、 
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。 
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々 
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、 
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを 
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って 
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。 
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、 
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。 
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。 
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。 
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。 
その後、信長は比叡山座主を厚遇し、まったく人気がなく洛中で孤立した信長は公家に領地やるから直接俺に仕えるよう命じ、
孤立させた天皇には譲位を求めるようになる。

勧修寺と近衛と吉田神社は信玄の遺志を継いだのだろう。
信玄が掲げた正義の戦いの威力と影響力を恐れた信長は、
信玄死後に比叡山復興と公家などの荘園返却などを強制させ、
信玄はその最後の戦いでの目的を達成している。
言わば死んだ信玄が生きる信長を走らせたのだ。
天皇家を守護した源氏武田が天皇を守護してきたのを勧修寺らは知っていた。
そして武田滅亡は信長討滅のスイッチとなり、信忠もなぜか予定を変更して京に来ると言う謀略に引っかかったのだ
284人間七七四年:2013/04/20(土) 18:51:15.35 ID:w9vJqx5r
>>266
信長を落とし込めたいオマエの努力は少しは認めてやりたいが、
安国寺恵瓊や毛利輝元なるカスを使ったところで爆笑させてもろたわ w
285人間七七四年:2013/04/21(日) 01:35:19.29 ID:FUTI+ony
少し伸びていると思ったらやっぱりだがの妄想コピペ爆撃だったか
286人間七七四年:2013/04/21(日) 19:02:27.63 ID:SgZTQxyv
快川紹喜は美濃の人心を得ていて、
それを背景に斎藤義龍と対立して京都にも飛び火してる。
それが原因で義龍は暗殺されたとする説もあるくらい。
その後の斎藤龍興は政策は180度変更し快川紹喜との宥和を図っており、
斎藤家末期の外交の手助けをして、信長から申し出て成立していた織田武田同盟の解消を目指したりした。
また義龍7回忌を指揮している。
快川紹喜を殺すことは美濃の人心を失うと言うことに等しい。
快川紹喜暗殺の実行犯の信忠まで巻き込まれたのは偶然ではあるまい。
そもそも信長が卑劣漢なのは、義龍7回忌や信玄7回忌(死去を3年秘していた為)で、国中の国人が参列し武装解除し喪に服して悼んでいる時期を狙って、
攻め込んだために斎藤も武田もほとんど抵抗らしい抵抗もせずに滅亡しており、
信長が国を盗んでいることからもわかる。
287人間七七四年:2013/04/21(日) 20:30:44.39 ID:KSMvLDiY
3年秘して、良い事は一つも無かったな。面倒くさい遺言残す面倒な人だった
288人間七七四年:2013/04/21(日) 21:22:39.36 ID:Lq7jyLOx
織田信長は虐殺した悪いやつ
289人間七七四年:2013/04/21(日) 22:42:34.80 ID:22nlUxx7
>>286
卑劣漢の話なら織田信長だけが特別というわけでもあるまい。
武田信玄も信長以上の卑劣行為を平然とやってのけているからなぁ。
290人間七七四年:2013/04/22(月) 00:18:04.56 ID:cfQv1sCK
武田信玄が信長以上の卑劣行為をやったという話は100回くらい論破されて
コピペ化されたからコピペに反論した方がよい
291人間七七四年:2013/04/22(月) 08:05:25.92 ID:xHvkFkV3
まあ、卑劣行為をしていない武将もいないだろうから、どうでも良いな。
292人間七七四年:2013/04/22(月) 08:30:53.20 ID:9qt97EeH
論破した気になって論破されてないってオチだけどな
293人間七七四年:2013/04/22(月) 08:33:10.65 ID:cfQv1sCK
そんならまず何回も繰り返し張られてるコピペに反論しろよタコ
294人間七七四年:2013/04/22(月) 08:48:13.91 ID:jgUo8/8O
ソースなしの妄想コピペなんか論ずるまでもないだろ
論じて欲しいのならリンク先を貼るか自分で画像アップしろっての
まあだがは一度たりともやったことないけどな
295人間七七四年:2013/04/22(月) 09:19:19.97 ID:cfQv1sCK
まずコピペの内容のソースどうこう以前に織田厨のするレス一つ一つには論拠も史料も何も挙げられてないわけなんだが。
296人間七七四年:2013/04/22(月) 09:20:58.46 ID:UQf9gE4p
まず何か主張しようとする側が先に画像UPするなりリンク先貼るのが道理だわな
そんな当たり前の理屈もわかんねーのか
297人間七七四年:2013/04/22(月) 09:33:05.82 ID:X5shEJAa
本当に正しいことならコピペにせずとも、誰もが納得してくれるけどな
数でゴリ押しするのは得てして何か過失のある情報
298人間七七四年:2013/04/22(月) 09:47:06.24 ID:cfQv1sCK
織田厨が繰り返し反論を無視してソースも出さずに妄想垂れ流してるだけじゃん
ソースなしの妄想どうこうをいうなら織田厨が先にソース明示しろよアホ
299人間七七四年:2013/04/22(月) 10:40:45.93 ID:rEW+aj0A
そもそもどっちが「より卑劣か」なんてのは主観的なもの。
ソースをあげて「誰がこうした」「誰がそう思った」という事は言えても、それ以上のことは言える類のものではない。
それなのに「論破」したとかアホか?
300人間七七四年:2013/04/22(月) 10:53:06.89 ID:cfQv1sCK
んで信玄が卑劣な事をしたソースは?
301人間七七四年:2013/04/22(月) 11:10:33.34 ID:jgUo8/8O
義兄の諏訪の助命を約束したのに騙して殺害
さらにその娘を無理矢理自分の女にした
302人間七七四年:2013/04/22(月) 11:56:59.89 ID:zBVvfkeB
信玄ひでーな…
303人間七七四年:2013/04/22(月) 11:59:54.70 ID:8NRzovWH
そもそも天文法華の乱や白河法皇の発言を挙げて「比叡山の悪行」を掲げているのを
いきなりだがが>>203で「信長こそ完全な悪」と議題を信長に変えたことから始まってるんだが
それ以前のレスは信長関係なく比叡山の話が進んでいたのにいきなり「信長」の名前を出しただがが明示するのが先。

ちなみに覚恕法親王を始め比叡山の歴代天台座主は皇族、将軍の有力者から選ばれるが
彼らは直接叡山に赴くことが少なく、実際の焼き討ちの際にも京にいて生存している。
「堂も坊舎も、一円、果て切れたる体なり。浅ましや浅ましや。
僧衆は、おおむね、坂本に下りて乱行不法限りなく、修学廃怠のゆえ、此くの如し。一山、相果つる式なり。」
と、興福寺多聞院日記に書かれるだけのことはある。ちなみに焼討の1年前の記録である。
304人間七七四年:2013/04/22(月) 12:04:34.68 ID:8NRzovWH
妙法寺記で「男女ヲ生ケ捕リニナサレテ候テ悉ク甲州ヘ引越シ申シ候。去ル程に二貫三貫五貫十貫ニテモ親類アル人ハ承ケ申シ候」
とまで書かれた志賀城の悪逆非道っぷりがあるじゃん
305人間七七四年:2013/04/22(月) 12:41:57.08 ID:wkr2I5rM
敵対勢力の捕虜を無闇に殺害せずにすませる関東流の流儀による人身売買について
信玄の人身売買 勝山記(妙法寺記は亜流)の天文15年の項に記述されているのは下記
浅間山周囲に陣を構えた関東管領の大軍を板垣・甘利・横田・多田といった武田軍が大破し敵大将15人と3000を討ち取る。
その後、志賀城が落城し依田一門や高田一族や志賀殿御内6兄弟のうち
300ばかり討ち死にし男女を生け捕り甲州へ引きつれ2貫、3貫、5貫、10貫にても親類ある人は請け申したと書いてある。
読み解くとあくまで抵抗した志賀城に篭城した志賀や高田や依田の一族郎党が生け捕りになり
本来殺されても文句が言えないが死を免れ、親類の経済力に応じて
それぞれ身分に応じた金額で人質を親類へ返還したということが書いてある。
しかし待ってほしい。志賀城落城は天文16年(晴信25歳)であり、
この日記が後世の歪曲された伝聞記録の可能性が高く、一次史料ではないので信憑性が低く、
数ある史料の中でも信玄が人身売買したと記述しているのは
なぜかこの志賀城攻めでのたった1回だけである。本当のことなのか疑問が残る。
謙信もたった1回だけ奴隷売買をしている。それは小田城落城後に奴隷売買(20銭〜30銭で飯代レベル)をやっているが、
そもそも謙信は初めて関東出兵した際に簗田氏に、自分は関東のことに不案内なので、
なんでもあなたの言うことに従うので助言をしてほしいと頼んでいたり、
結城氏などが小田氏のことは自分に任せて欲しいと一任を願い出ていたり、
そもそも佐竹義昭の死去に乗じて懲りずに反旗した小田氏という下衆な行為に対する懲罰的行為なのでは・・・
謙信の意思というよりも関東諸将の意思であろう。しかも土浦へ逃亡した小田氏が詫びを入れたら
せっかく占領した小田城を返還してやる領土欲の無さが謙信。
306人間七七四年:2013/04/22(月) 12:45:00.12 ID:wkr2I5rM
さて基礎史料を掲示しておこう。鎌倉時代後期以降の人身売買は最低価格が2貫文だったと磯貝氏が指摘してる。
実際、借金苦から子供を売る習慣を宣教師があり得ないと驚いているが、2貫文で売れるなら止むを得ず売り、
残された家族を養うのも止むを得ないかも(2貫文はあくまで鎌倉時代後期最低価格であり2貫以上ということである)
またキリスト教徒同士では敗者であっても同じ教徒を奴隷に出来ない代わりに
イスラム教信者は異教ゆえ奴隷にできるため、奴隷狩りが戦の目的となる場合もある。
日本人は宗教による差別が存在しない代わりに日本人同胞を奴隷にできる一方、そのまま養子にしたり、
奴隷が得た物は奴隷の所有物に見做されるなど恩情的奴隷制度であった。
しかし九州南部を中心に奴隷収容施設を造るなど倭寇文化圏は残虐な扱いを奴隷にしていたり、
しばしば奴隷獲得のために戦を惹き起こしている。 まったく蛮族と言う他はない。
人身ん売買を批判されたポルトガル商人は「酷い扱いを受ける日本人や朝鮮人奴隷を買うことで、
待遇をよくしてやった」とうそぶく始末で開き直ることができたのは、
恩情的奴隷制度の無い島津を代表とする九州倭寇文化圏の習慣を悪用したからである。
また信長のように命乞いをいくらしても捕虜にするのを徹頭徹尾拒絶し敵対者は撫で斬り虐殺で一切生かしておかず、
時に偽り欺いて降伏を受け入れるフリまでして冷徹かつ組織的効率的大量虐殺を行い
大量虐殺の感想を書状で鬱憤が散じてスッキリした!と愉快犯のように
殺戮を楽しみ好む人格で数十万の日本人を殺し社会を荒廃させまくったような者もいる。

>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。
307人間七七四年:2013/04/22(月) 13:14:49.86 ID:1O7onsHF
信玄に都合が悪ければ妙法寺記すら否定する
ゴリ押しここに極まれりだな
308人間七七四年:2013/04/22(月) 17:53:45.33 ID:04dUacF1
どうやらコピペにマジレスという言葉を知らんらしい
なんでこういわれるのかにも、考えをめぐらす事ができない
コピペ馬鹿のだがらしい
309人間七七四年:2013/04/22(月) 19:44:08.62 ID:KZEUwPl4
だがは武田が諏訪を騙し討ちしたことすら知らんのか?
武田と諏訪の関係くらい勉強しておけよ
310人間七七四年:2013/04/22(月) 20:07:54.19 ID:9qt97EeH
信玄は基本的に正攻法で勝てないから騙し討ちが多い事を知らないんだよね、だがって
数少ない例外が三方ヶ原ってオチ
311人間七七四年:2013/04/22(月) 20:59:23.34 ID:xCwdPm3J
戦国時代は騙し討ち等なんて当たり前だし隙を見せた方が悪いそしてその隙を見逃さない者は名将と呼ばれるんだろう信長しかり信玄しかり
312人間七七四年:2013/04/22(月) 21:24:27.34 ID:cfQv1sCK
>>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてる。ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてる
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?

>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して上洛してきて協力しろよ交渉の時も9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、
武田側に非は見られない。(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)

>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。

>>同盟を破って家康を攻撃した同盟破り常習犯信玄
絶対許さんと書いてるのはたしかだけどあれは完全に屈辱感から来る逆恨みだろwそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと
313人間七七四年:2013/04/22(月) 21:25:08.14 ID:cfQv1sCK
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆をつつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶
完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

>>天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立
していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応
として天皇権威が必要だったんで天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。

>>朝廷から信濃守の官位貰っているが、 和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。
いやいやそんな証拠はいっさい無い。第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。

織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw
314人間七七四年:2013/04/22(月) 21:25:30.31 ID:cfQv1sCK
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。

>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。

>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。

【むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です】

まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。

一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう

・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ
315人間七七四年:2013/04/22(月) 21:30:39.34 ID:cfQv1sCK
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
316人間七七四年:2013/04/22(月) 21:33:48.18 ID:cfQv1sCK
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。

70年代周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る

1573年

信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。

第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。

岩村合戦でも秋山を騙まし討ち

武田攻めでも武田一族家臣を騙まし討ち

糞みてえな人格だな
317人間七七四年:2013/04/22(月) 21:41:14.39 ID:jgUo8/8O
妄想コピペ連投はもういいからいい加減ソースだせや?だがよ
318人間七七四年:2013/04/22(月) 21:56:49.59 ID:Ses53cCF
http://www.youtube.com/watch?v=WResN3ioiiI
日本文化研究所 所長 井尻千男
 「織田信長の真実を語る」 46分50秒あたりから
319人間七七四年:2013/04/22(月) 23:25:51.85 ID:ojRUt0Xb
うむ、信長を評価している者はまともに物事を考えていないな。
明智光秀は良い働きをしたな。そのとおりだな。
320人間七七四年:2013/04/23(火) 08:22:28.45 ID:63LO2zWy
信玄を妄信している者よりはまともじゃね?
321人間七七四年:2013/04/23(火) 09:41:08.50 ID:/U3Hg/Mc
妄想コピペ、Webのみのソース、ムック本のみの記載、一研究者の私見(not公式見解)はソースにならんぞ
322人間七七四年:2013/04/23(火) 12:53:21.20 ID:U7ygwVJU
>>307
妙法寺記を否定はしてないだろ。
むしろ日記なのに奴隷売買した記述のみ年が違う時点で
あきらかに後世の捏造追加記述が挿入されてんの確定だろ。
>>311
騙し討ちが当たり前とするなら、その実例を箇条書きして書いてもらわないと。
323人間七七四年:2013/04/23(火) 13:46:11.22 ID:za6f3DHu
捏造するなら前後辻褄を合わせるけどね。自分なら
324人間七七四年:2013/04/23(火) 19:47:18.23 ID:bKenX0ih
たくさんの史料を自由にみれる現代だから、矛盾に気付くだけなんだがw
まさか戦国時代が現代と同じレベルで史料にアクセス出来ていたと思い込んでるのかよ。
こりゃスッゲーゆとりだな織田厨ってwww
325人間七七四年:2013/04/23(火) 19:51:51.53 ID:/U3Hg/Mc
たとえ話を本気にするとか頭どうにかしてるんじゃないか?
捏造を続けると頭悪くなるって本当なんだな
326人間七七四年:2013/04/23(火) 20:24:45.20 ID:ohEoKKP5
「たけ田はるのふあくきやうの事」の願文とかなー叩けば埃が出るのが戦国大名
327人間七七四年:2013/04/23(火) 22:23:09.68 ID:qbfNHGlx
人身売買は置いておいても残虐行為ならいくらでもやってるけどな
天文17年には「佐久郡大将を悉打殺す去程に打取其数五千計男女生捕数を不知。それを手柄に被成候而」とまで
書かれてるしな。ちなみに志賀城での蛮行は長野県史にも採用されているぞ。
そもそも「年次が違うから捏造」なんて決めつけたら、甲陽軍鑑なんてまともに読めないだろ?

まあ俺は信玄が残虐だった、だからってどうこう言う気はないけどな
328人間七七四年:2013/04/23(火) 23:56:46.90 ID:bKenX0ih
戦で生け捕りすることがなんで虐殺行為なんだよ?www
残虐行為ってのは信長みたいに女子供まで虐殺し尽くすことを言うんだ。
だいたい甲陽軍鑑が日記だと思って同一視してるのが痛いわーwww
329人間七七四年:2013/04/24(水) 00:01:35.10 ID:HZiMTJq7
>>326
それ言った人物の名前は都合が悪いから書くのを避けてんのバレバレだな。
それ信玄と利害関係が思いっきりある謙信が自己正当化のために言ってるだけだろが…
330人間七七四年:2013/04/24(水) 00:34:29.68 ID:3KUJyZVo
みんな知ってるだろうから書かなかっただけだよw
331人間七七四年:2013/04/24(水) 00:36:29.44 ID:lyogcWZn
>>312
信州大学のえらいさんが生害させたと見解をしめしているわけだが、まあお前にとっては都合の悪い事実だなw
332人間七七四年:2013/04/24(水) 00:38:56.09 ID:lyogcWZn
>>329
え?信玄評も信長評も良いものは良好関係にあったものから、悪い評価は敵対者のものばっかりじゃんw
333人間七七四年:2013/04/24(水) 08:26:48.86 ID:Ll+qTprI
つか、誰が何やったから悪行だなんてどーでもよくないか?
現在のものさしでどうこう言っても始まらない。
334人間七七四年:2013/04/24(水) 10:35:48.44 ID:HFTEhgcq
いやいや京洛を燃やし、女子供まであちこちで大虐殺した信長はヒトラー並みの大逆人だろ。
そのせいで江戸時代は全く人気無かったし。
とくに矢銭を拒否して壊滅させられた尼崎などは巨大商業都市の地位を永遠に失われた。
335人間七七四年:2013/04/24(水) 11:34:39.34 ID:94gU3HtN
な〜に言っちゃってんの?
「佐久郡大将を悉打殺す去程に打取其数五千計男女生捕数を不知。それを手柄に被成候而」だから
「男女生捕数を不知。」の前に「打取其数五千計(ばかり)」「佐久郡大将を悉打殺す」って書かれていて
もろぶっ殺ししまくってんじゃんw織田信長の比叡山焼討でも言継卿記の「4000人」が最高なのに
信濃佐久郡だけでそれを上回るって相当キてるぞ
336↓(さくらじ) 第81回 井尻千男が新日本学の扉を開く!:2013/04/24(水) 11:53:08.78 ID:DFdd8HFW
567 :(さくらじ) 第81回 井尻千男が新日本学の扉を開く!:2013/04/20(土) 00:04:36.97 ID:JM2g0ElqP
http://www.youtube.com/watch?v=WResN3ioiiI
公開日: 2013/04/19

皇紀2673年4月12日収録。

ほぼ一年ぶりのさくらじ御出演となる井尻さん!
"テツ"や電車論、寿司の世界展開などの話から、国体とはなんぞやという話まで。
「日本」への認識を改めて問い、そして新しい認識へと導かれるような井尻先生のお話、
是非ご堪能あれ。

出演:古谷 経衡、saya、井尻 千男

    (重要)



V
337人間七七四年:2013/04/24(水) 12:17:17.61 ID:HFTEhgcq
戦で負けた結果死んだ戦参加者と、
一般市民村民を大虐殺して回った織田の蛮行を一緒にすんなよ…
338人間七七四年:2013/04/24(水) 13:13:46.16 ID:4QNXTamb
織田信長が戦に弱かったという風評に影響され過ぎな奴が多いと感じる
斎藤義竜が有能だっただけでしょ
尾張しか所領のない時代にそこそこの武将を相手にしたらなかなか勝てないのは当たり前だわ
あきらかに小身の村上義清や長野業正に負けまくった武田氏よりマシだろな
339人間七七四年:2013/04/24(水) 13:29:46.95 ID:IW1d/4k6
織田軍に抵抗しようと武器を持ち、依り代を得て抵抗する人間は
だが曰く一般市民なのか。それを言うなら件の信玄の攻めた拠点も
「領主が強引に借り出しただけの一般市民」とも言えるがw

しまいに「信玄の侵攻は正義の侵攻」「信長の侵攻は悪の侵攻」とでも言いそうだな
もう言ってるかw
340人間七七四年:2013/04/24(水) 14:12:52.35 ID:q0JRz7Kr
>>338
義龍以外にも負けまくったり苦戦してるから弱兵と呼ばれてるんだろ
341人間七七四年:2013/04/24(水) 18:52:00.62 ID:kaOJdgA2
長野に負けたとかまだそんなこと言ってんだ糞織田虫

村上との戦いも織田のような圧倒的優位な状態での惨めな負け戦じゃないから
342人間七七四年:2013/04/24(水) 19:17:03.83 ID:8LPkFbdC
浅間山の噴火で戦争できなくなる強兵揃いの武田w
343人間七七四年:2013/04/24(水) 20:02:53.88 ID:d4lpASpj
>>337
あんたの言う一般市民の定義を200字以内で説明してくれ w
344人間七七四年:2013/04/24(水) 20:29:09.70 ID:4QNXTamb
>>340
武力による天下統一事業という途方もない事をやってんだから苦戦して当たり前だろ
圧倒的兵力にもかからず小西行長や島左近におされまくって、真田や毛利勝永相手にも危なかった徳川軍が強兵ですって?w
345人間七七四年:2013/04/24(水) 22:19:32.77 ID:g/wLxL8Z
小西や島に押されまくったとか真田や毛利相手に危なかったとかなんだそりゃ。
講談や軍記にすら書かれてなくないか
346人間七七四年:2013/04/24(水) 22:23:57.61 ID:QlQPv23S
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力

斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主

こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
ある意味戦国最強クラス
347人間七七四年:2013/04/25(木) 00:03:45.00 ID:yBDqg5W5
>>338
別に信長は弱くはない
長篠で武田軍をフルボッコしたのを見てもね

それよりも信長は戦略家として群を抜いていたのが最大の成功要因だと思うが
とにかく畿内平定を最優先したのは戦略的に間違いなく正しい
また最大の敵であった一向宗を各個撃破したのもこれまた戦略的に正しかった

川中島の寸土を巡って上杉と不毛な戦いをしていた信玄
北九州で大友相手に不毛な戦いをしていた元就
なんかは戦略家として信長の足元にも及ばないと思う
348人間七七四年:2013/04/25(木) 00:18:24.22 ID:FFyGm9BI
>>339
越前府中を見渡す限り死体だらけで無人の焦土にしたり、
京洛で民衆を殺戮して桂川に夥しい死体が浮かんでいたりしてる以上、
織田軍が武装しない一般民衆を殺して回ったのは間違いないだろ。
つか、一般民まで殺戮するから追い詰められた民衆が
やむなく武器をとって一揆に参加せざるを得ない状況に追いやったのが織田軍だろ。

織田が残虐な鋸引きなどの殺戮でも飽きたらず磔&釜茹などまで使っていたのを
この蛮行が後世に伝わるようにと瓦の裏に隠すようにして告発までされてるしな。
(昭和7年に小丸城北西隅乾櫓の掘削中に発掘された瓦)
瓦を作り設置する労役を課された人物の勇気ある告発だな。
それまでまったく知られていなかったことを考えると織田軍は
残虐行為を目撃した者は全員殺して口封じしていたんだろうな。
おそらくこの瓦を作成した人物も殺されているんだろう。
349人間七七四年:2013/04/25(木) 00:27:25.22 ID:yBDqg5W5
>つか、一般民まで殺戮するから追い詰められた民衆が
>やむなく武器をとって一揆に参加せざるを得ない状況に追いやったのが織田軍だろ。

越前一向一揆は先に一揆勢から手を出したんだが?
お前はどこまで嘘をつけば気が済むの?
350人間七七四年:2013/04/25(木) 00:44:59.73 ID:FFyGm9BI
はっ?京都御所再建費用を出せやと信長が本願寺を脅迫したのが
一向宗との対立の原点だし、
顕如はちゃんと矢銭5000貫を信長に払い、戦を回避したのに結局、
信長が本願寺を破却するから退去しろと要求をエスカレートしたから
一向宗は追い詰められて蜂起しただけだろ。
そもそも近江の惣村一揆なんて、織田の労役と賦課のせいで一向宗と協調して対抗するようになっただけだし。
そもそも相次ぐ軍役、少しでも暇ができると道路を作るために美濃へ来いとか信長の要求はキチガイレベル。
だからこそ松永は離反したしな。原田や光秀なんて眼病なのに働いてるし。
いま与えてる仕事を早く終らせ、すぐ俺のところへ戻れ、次の仕事を与えてやるとか無茶苦茶な命令まで出してるし。
351人間七七四年:2013/04/25(木) 01:04:53.36 ID:yBDqg5W5
>信長が本願寺を破却するから退去しろと要求をエスカレートしたから

信長の書状にそんな要求しているものはないな
あるというならソース出せよ?だが
352人間七七四年:2013/04/25(木) 01:06:59.67 ID:mAYtocJf
>>346
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw

これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる

はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
353人間七七四年:2013/04/25(木) 01:09:18.77 ID:N/4vkR4n
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
354人間七七四年:2013/04/25(木) 01:10:42.40 ID:N/4vkR4n
むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。勝頼も織田は手段を失い困っているから一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。籠城する織田の相手をするのもアホらしいから撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるがそもそもそこ落とされても背後は取れないし、さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからでまったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。織田は野戦の大敗が
たたって25000のうち6000討死だもんな。徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな

圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方に6000もの損害あたんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から冷静さを欠いた基地外勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想 わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
355人間七七四年:2013/04/25(木) 01:23:57.94 ID:jJHyE4ZB
つまり、今川にしても朝倉にしても武田にしても、
織田信長は追撃戦の天才ってことじゃないか
356人間七七四年:2013/04/25(木) 01:30:12.88 ID:FC/W16Pg
一般市民を虐殺しまくるとか織田の財源と兵力はどこから出てんだよw
いくら略奪三昧のその場凌ぎでも限度があるぞw信長の野望のやりすぎだw

大体越前府中の一揆衆がトチ狂って暴れた時に織田家臣となった旧朝倉家臣が
否応なしに殺害されまくって、木下祐久などの織田の代官があわやぶっ殺されるという危機的状況じゃねーか
最後はコピペとかいかにも「だが」らしい発想だなw
357人間七七四年:2013/04/25(木) 01:40:16.27 ID:56dO5KAK
ただの伝聞を書いたに過ぎない多聞院日記より一方の当事者が書いた信長公記の方がはるかに信用出来るわ
その後すぐに織田徳川が大規模な軍事行動を起こしたのを見てもほぼ一方的な戦いだったのは確実
358人間七七四年:2013/04/25(木) 01:40:21.90 ID:AyXY/ZB5
民衆から略奪して兵を養ってたから、
織田の最大兵力は3万が限界だったんだろ。
359人間七七四年:2013/04/25(木) 02:29:27.91 ID:mAYtocJf
お前はあたかも長篠後に岩村城攻めを開始したように書いてるが、
実際は岩村城がいつから攻められてるのか不明。
勝頼も支戦を前に美濃での本戦に備えて遠藤らに下見をさせてるくらい。
また謙信は東美濃なんてヘボいところではなく、山崎を使者に信濃攻めを要求してる。
岩村なんてザコ城はすぐ攻略出来ると謙信は認識しとるんだろ。
勝頼は岩村は秋山が籠城してるから当分は大丈夫と判断し、徳川攻撃に出撃中。
つうかそもそもそっち方面は木曾氏担当戦線だし。
結局、秋山を講話話で騙して落としただけ。
さらに約束破りに激怒した謙信は以後、信長無視して書状往来拒絶。
だから信長は村上なんざに旧領を回復するチャンスですよって意味不明の書状を出さざるを負えなかった。
謙信はかなり激怒したらしく天正4年に入るや山崎を加賀一向宗に派遣し本願寺と和睦し織田と絶縁してるわけだから勝頼の岩村遅滞作戦は成功し上杉と織田の中を破綻させ、
逆に信長は謙信を恐れて勝頼に和睦を提案したが勝頼に拒絶され、
何時の間にか足利将軍の大包囲が完成してしまう始末
360人間七七四年:2013/04/25(木) 02:30:03.56 ID:mAYtocJf
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
361人間七七四年:2013/04/25(木) 04:30:18.05 ID:PASf1ohW
略奪するにしても限度がある
日本って国は特に人が畑で取れる土壌にないんだけどな
それ解ってて言ってるなら馬鹿だし、解らないなら論外
362人間七七四年:2013/04/25(木) 07:57:17.08 ID:FFyGm9BI
>>361
だから織田軍が侵攻したことを嘆いた多聞院は
摂津や河内は織田のせいで亡国になったと茫然自失してんじゃんよ。
大和も地震と武力侵攻をチラ付かせた信長の恐喝に屈しての貢物で亡国になったと書かれてるし。
こういったことばかりするから反織田の民衆の意見を抑えきれなくなり荒木や別所や松永の謀反だって起きている。
363人間七七四年:2013/04/25(木) 08:34:20.54 ID:rij8SW45
織田ってとことんカダフィーだよな
364人間七七四年:2013/04/25(木) 08:37:23.57 ID:PASf1ohW
感情にまかせて書かずに推敲しろ
正鵠を射る内容だとしても読んでもらえん

元々的外れなんで読んでももらえんだろうけど

軽く例を挙げるなら
1.まず結論(一言)
2.次に出典細かいところまで(一行ほどで十分)で
3.個人の感情・感想は不要
これができなきゃ即あぼーんされて終わり

幼稚園児相手にしてる気にしかならんような文章は今後控えてくれよ
365人間七七四年:2013/04/25(木) 08:47:55.11 ID:rij8SW45
なにこの勘違いした織田厨?w お前は学校の先生じゃないんだよ
366人間七七四年:2013/04/25(木) 10:26:07.58 ID:i9FRYwcB
>>362
凄いな、いつの間に復興したんだ摂津河内は?w
亡国になったんだろ?w
復興させるための政策を示す文書は?
あ、ないっすよねそうっすよね
367人間七七四年:2013/04/25(木) 10:37:15.90 ID:0qp4iTr9
秀吉が京から大坂までの大河治水工事で、
河川流通の整備して兵站力をつけたり、
大坂城築城したり、
金本位体制を確立したから経済復興したんだろが。
368人間七七四年:2013/04/25(木) 11:57:31.53 ID:qfAfXe40
つうか多聞院だって単に信長と利害がぶつかっただけで、民意を代表していたわけでもないしw
まあ、この時代に民衆の総意を求めるなんてアホなことしても無駄だけどな。
369人間七七四年:2013/04/25(木) 12:25:57.96 ID:jkayXVPu
秀吉や佐久間や柴田や明智などが預け置かれた領地の近江は最も軍役が重かったから、
近江民衆の要望から光秀は信長を討ち、
近江民衆の支持を得た重臣たちの容認を礎に信長の葬儀もやらずに織田一族を排除しての重臣会議をして織田の領地を分配したんだろうな。
370人間七七四年:2013/04/25(木) 14:41:01.80 ID:MZn/oMkG
民衆の要望なんて聞かないよw
371人間七七四年:2013/04/25(木) 17:09:10.57 ID:jJHyE4ZB
織田信長が軍事的才能なければ天下統一出来てねーよw
秀吉とか家康は根回しで天下とったが信長は後顧の憂いを軍事で叩き潰してるじゃん
この違いがわかってない奴が大杉
372人間七七四年:2013/04/25(木) 17:16:16.91 ID:N/4vkR4n
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力

斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主

こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
ある意味戦国最強クラス
弱体化した国力もハナクソ勢力に負けまくり火事場泥棒と騙まし討ちばかりで勢力拡張したが
結局光秀に騙まし討ちにされ秀吉に織田領火事場泥棒された。因果応報とはまさに信長の一生
373人間七七四年:2013/04/25(木) 17:17:12.96 ID:mAYtocJf
>>372
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が原や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw

これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる

はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
374人間七七四年:2013/04/25(木) 17:18:32.15 ID:mAYtocJf
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
375人間七七四年:2013/04/25(木) 18:18:40.05 ID:nMZyNizn
てs
376人間七七四年:2013/04/25(木) 18:29:28.91 ID:jJHyE4ZB
信玄餅でも食ってろカス
377人間七七四年:2013/04/25(木) 18:37:41.63 ID:Zu+XYl6Z
鉄砲が普及しだして戦は野戦より攻城戦が圧倒的に増え、攻城戦の時間も伸びていった。
もう信玄の考えは通用しなくなってたから勝頼は城を造ろうとしたんだろうな
378人間七七四年:2013/04/25(木) 20:34:08.52 ID:sNH6tz+a
いやいや、北条がゲリラ的に甲斐侵入しては撃退されていたから防衛力強化のためでしょ。
379人間七七四年:2013/04/26(金) 00:03:00.78 ID:CUof7x76
どうでもいいけど信玄もちうまいよなぁ
380人間七七四年:2013/04/26(金) 00:52:06.56 ID:ynk4KErf
>>367
何金本位制ってw
それと摂津河内の下々の復興とどう関係があるんだw
381人間七七四年:2013/04/26(金) 06:12:25.99 ID:iaq1Ayrd
>>374
『戦上手』か否かだけで戦国武将を評価する馬鹿。
徳川軍を撃退した真田昌幸が、生涯小大名止まりだった背景くらい知っとけ。
382人間七七四年:2013/04/26(金) 08:44:04.43 ID:8ddZDRGH
武田軍を完膚なきまでに叩き潰した信長は十分に戦上手だよ
383人間七七四年:2013/04/26(金) 09:20:11.16 ID:YURt/sb6
まあ戦国武将の評価は人それぞれで家康はかなり野戦上手と有名だが三方ヶ原で兵力で劣っていたとはいえ信玄に大敗してるし、信長も東美濃で武田軍に押されてた
その信玄も川中島で土地争いでは勝ったが合戦内容では常に上杉軍を兵力で優っていたが副将信繁・山勘・諸角を討ち取られ信玄と嫡男義信が負傷し死傷者は上杉より出して完全に上杉に叩きのめされたしな
384人間七七四年:2013/04/26(金) 13:45:37.05 ID:IXm03vwQ
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
385人間七七四年:2013/04/26(金) 13:47:18.53 ID:IXm03vwQ
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
386人間七七四年:2013/04/26(金) 13:48:17.80 ID:IXm03vwQ
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
387人間七七四年:2013/04/26(金) 13:48:52.79 ID:IXm03vwQ
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
388人間七七四年:2013/04/26(金) 18:41:48.58 ID:x0iaim0G
信長は謙信や信玄、宗麟みたいに出家とか洗礼とかしなかった。
己の心は強いので”信長”というブランドを貫いた。
弱いものは仏やキリストに傾倒する。
389人間七七四年:2013/04/26(金) 18:51:03.87 ID:8OVPfV8p
今まで三方原は兵力多い武田軍を相手に織田が善戦したみたいに言われてたけど
普通に大軍で圧倒的優位な自領&居城前で戦ってボコボコにされて壊滅してたんだな
本当に糞弱いわ 織田
390人間七七四年:2013/04/26(金) 18:59:45.42 ID:8ddZDRGH
だが自演乙
信長直々だと完膚なきまでに叩き潰されたけどな
391人間七七四年:2013/04/26(金) 19:05:20.49 ID:8OVPfV8p
三方原に信長がいたら信長直々に敗走&討ち死にしてただろうな 
392人間七七四年:2013/04/26(金) 19:11:21.10 ID:IXm03vwQ
信長が直に率いた戦なんて雑魚にしか見えんのだが。斉藤戦とか大河内城攻め
長島侵攻戦、対浅井の攻防、姉川。
まだ佐久間とか部下の戦の方がマシじゃね
393人間七七四年:2013/04/26(金) 19:35:01.83 ID:x0iaim0G
甲斐の国主、武田信玄は武将して武将ににあらず。   アレは坊主にこざりまする。
394人間七七四年:2013/04/26(金) 23:02:57.55 ID:01XLAk6E
三方が原に信長がいたら信玄は織田軍相手に討死してるよ
なんてったって雑魚の村上に2回も負ける無能だからな
同じ相手に2回も大敗する雑魚なんて戦国大名合わせても稀有な存在。

武田信玄影武者説なんていうのも、あまりに無能だった信玄が
大軍とはいえ天下とった家康に勝てるとかありえない、実は入れ替わっているんじゃないかという
信玄の無能さ臆病さから派生した話だしな。信長とは比べるべくもないw
395人間七七四年:2013/04/26(金) 23:14:53.33 ID:ABGkFWAM
乞食兵1万で10万以上の包囲網を叩き潰した信長の楽勝だろ。
396人間七七四年:2013/04/27(土) 00:22:23.91 ID:q5oN83xa
幼君で分裂状態、クーデター騒ぎまで起きるほど雑魚の斉藤に10回くらい負けまくり
北畠戦でも負け続けあげくのはてに餓死寸前の非戦闘員の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちにして
一門10人以上殺されたアホ長が戦場に来たら即効で信玄に瞬殺されて戦死してただろうな
真に運がよかった。
397人間七七四年:2013/04/27(土) 00:23:20.33 ID:vjvcbMcr
三方原に信長がいたら信長直々に討ち死にしてただろうな 
398人間七七四年:2013/04/27(土) 00:57:22.62 ID:zWiR9Vhx
>>397
ありえるな。
399人間七七四年:2013/04/27(土) 01:33:05.37 ID:kBdMfE3I
斎藤に10回以上負けた(キリッ

まともな連中が誰も死んでない斎藤方の喧伝を利用するアホ武田厨
横田高松、板垣信方、甘利虎泰など錚々たる重臣を見殺しにしてまで村上から逃げた雑魚信玄w
これ信長で言えば柴田と丹羽と秀吉を見捨て殺したようなもんだろw

ついでに上杉には室住と実弟をぶっ殺される信玄w
織田家臣で丹羽柴田羽柴明智滝川に相当する存在を全員信濃のド田舎で散らした信玄www
400人間七七四年:2013/04/27(土) 01:42:17.00 ID:kBdMfE3I
>>395
信長は強運と実力が備わった当時でも随一の人間だからな
年取ってからも先頭切って戦うという荒業を行って一向衆散らしてる
とてもじゃないが木曽方面から美濃に進んで信長と直接対決することを避けて
遠回りしてまで弱小の徳川を苛め抜いてた雑魚武田じゃ勝てなかった
結局勝頼が調子に乗ったせいで長篠天目山でボコボコにされ名門甲斐源氏が滅んだしなw

信玄はある意味運が良かっただろうな、負けて滅ぼされるという惨めな役回りを勝頼に押しつけられてw
401人間七七四年:2013/04/27(土) 08:31:29.64 ID:O2AxWwTp
信玄は信長に比べカリスマ性がない
全て配下武将と相談して決めた
信長は軍師も置かず、重要な決断を斬新な閃きで1人で決めた。
どちらが現代に通用する経営者か一目瞭然。
信長はスティーブ・ジョブズ、信玄は浅田克己(日本生協連 CO-OP)会長。
402人間七七四年:2013/04/27(土) 08:40:32.74 ID:ngAqOSV7
>>396
斎藤が雑魚だったのなら先に武田が攻め取れば良かったじゃん
強敵の謙信相手と寸土巡って不毛な戦いするよりはよっぽど良かったろ
しかし信玄はそれをしなかったってことは斎藤相手に勝ち目ないと思ってたんだろうな
403人間七七四年:2013/04/27(土) 09:08:39.77 ID:gMvvDwf4
なら織田は義元殺した後今川攻め滅ぼせばよかっただろ
それができないのは勝ち目がないと思っていたから まあ実際ないけどw
404人間七七四年:2013/04/27(土) 10:04:25.46 ID:yCmML53Z
ということは、織田に同盟をもちかけた武田は勝ち目がないと認識していたわけか
正しい認識だ
405人間七七四年:2013/04/27(土) 10:34:23.91 ID:gMvvDwf4
同盟破られて泣いてた織田がどうしたって?
406人間七七四年:2013/04/27(土) 10:38:19.00 ID:O2AxWwTp
>>403
なんで天下獲り目標掲げてるのに東夷方面に侵攻せにゃならんのだ? 馬〜鹿 w
407人間七七四年:2013/04/27(土) 11:42:49.79 ID:gMvvDwf4
なんで謙信がいるのに斎藤攻めなきゃならんのだうつけw
408人間七七四年:2013/04/27(土) 12:01:07.29 ID:XupCsm8p
武田家は織田家に完膚なきまでに攻め滅ぼされた歴史的事実がある以上、武田家は織田家より弱小であることに変わりは無い。
409人間七七四年:2013/04/27(土) 12:02:41.75 ID:gMvvDwf4
じゃあなんだ 織田信成をボコれば織田家は弱小であると証明できるわけだ
410人間七七四年:2013/04/27(土) 12:14:03.80 ID:XupCsm8p
>>409
それでは君の説も取り入れてあげる
・織田信成は弱小
・織田信長は武田信玄より強い

強さ比較
 織田信長>武田信玄>織田信成

結論が出てめでたしめでたし
411人間七七四年:2013/04/27(土) 12:16:42.42 ID:gMvvDwf4
三方原で脱糞した信長がどうして信玄公より強いんだよ 現実を見ろよ
412人間七七四年:2013/04/27(土) 12:20:18.56 ID:XupCsm8p
>>411
>三方原で脱糞した信長
これを証明してみろ

毎回こういう嘘を吐くからアスペルガーだがは嘘吐き扱いされるんだよな
413人間七七四年:2013/04/27(土) 12:21:50.42 ID:gMvvDwf4
脱糞くらいするだろ 三方原の敗報を聞いて岐阜城でなw
414人間七七四年:2013/04/27(土) 12:24:52.10 ID:XupCsm8p
>>413
証明できない敗北宣言ですね
アスペルガーだがは敗北者!
415人間七七四年:2013/04/27(土) 12:25:56.57 ID:gMvvDwf4
泣くなよ 連呼リアン
416人間七七四年:2013/04/27(土) 12:29:43.02 ID:VOqzEZPy
信玄餅でも食ってろ大柄!
417人間七七四年:2013/04/27(土) 12:39:56.51 ID:gMvvDwf4
ビビって動けない信長が直々に岐阜で脱糞してたよ うん
418人間七七四年:2013/04/27(土) 13:04:03.32 ID:vjvcbMcr
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>ついでに上杉には室住と実弟をぶっ殺される信玄w
>>織田家臣で丹羽柴田羽柴明智滝川に相当する存在を全員信濃のド田舎で散らした信玄www
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>横田高松、板垣信方、甘利虎泰など錚々たる重臣を見殺しにしてまで村上から逃げた雑魚信玄w
>>これ信長で言えば柴田と丹羽と秀吉を見捨て殺したようなもんだろw

羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より身分的に格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
419人間七七四年:2013/04/27(土) 13:06:37.17 ID:q5oN83xa
戦死した武将の多さで比べるなら織田に勝てるのはいないだろ
近江に派遣されたトップ4将のうち二人が殺され
他近江に派遣されてた武将の右腕左腕の連中もこぞって戦死してるし
大河内城攻めでも長島一向一揆でもめちゃくちゃ死にまくってるし
武田の場合は板垣甘利が唯一の被害じゃん
420人間七七四年:2013/04/27(土) 13:07:59.48 ID:vjvcbMcr
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力

斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主

こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
ある意味戦国最強クラス
421人間七七四年:2013/04/27(土) 13:10:17.45 ID:q5oN83xa
家康がいなきゃ信長なんぞ武田に瞬殺されてただろうな
長島一揆やよわりきった斉藤に負けまくる 雑魚じゃ到底武田相手に敢闘するなんて無理
現に三方が原や上村合戦や東美濃攻防でボコラレまくってるしな
三方が原なんて織田トップ格で織田分国中に巨大な与力持つ佐久間に平手滝川水野林などそうそうたる顔ぶれで真正面から大敗したわけだし
422人間七七四年:2013/04/27(土) 13:11:52.80 ID:vjvcbMcr
武田崩れって喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん。
423人間七七四年:2013/04/27(土) 13:13:33.67 ID:q5oN83xa
まあ何にせ上村合戦東美濃攻防戦三方が原と直接対決でボコボコにしまくった史実があるんだし
織田が信玄はおろか勝頼より遥かに下という事実は揺るがない
まともに戦ったら負けるから武田攻めも岩村攻囲戦でも騙まし討ちにしたんだし
424人間七七四年:2013/04/27(土) 13:17:57.24 ID:vjvcbMcr
>>419
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw

これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる

はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
425人間七七四年:2013/04/27(土) 13:21:09.85 ID:q5oN83xa
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも三方が原や上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
上杉謙信にもガチンコ一級メンバーでボロ負けし丹波一国人の赤井直正にも大敗し雑魚の毛利輝元にも敗れ
最後は光秀に殺されて織田家を滅亡させた信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
426人間七七四年:2013/04/27(土) 13:21:41.28 ID:vjvcbMcr
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け。結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。

幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
427人間七七四年:2013/04/27(土) 14:21:29.09 ID:ngAqOSV7
>>403
結果的にいえば今川を攻めなくて正解だったろ?
そして謙信と不毛な戦いは明らかに失敗だった
要するに戦略家として信玄は信長の足元にもせよおよばないってことだ
428人間七七四年:2013/04/27(土) 15:07:21.47 ID:vjvcbMcr
結果的にいえば義元を攻めずに西に向かったために信長は光秀に殺されて死んだだなから戦略的には大失敗といえる
429人間七七四年:2013/04/27(土) 15:21:44.57 ID:VOqzEZPy
じゃあ野田城で脱糞しながら死んだ信玄餅はそれ以下だなww
430人間七七四年:2013/04/27(土) 15:22:03.02 ID:kBdMfE3I
結果的に言えば義元を攻めなかったために膨大な領土を領して
自分が目にかけた家康が最終的に天下を取って、そのよしみで子孫は大名家に存続したんだから大成功だな
その家康をボッコボコにしたせいで家を滅ぼされた挙句、子孫が伊豆大島に流されたどこぞの大名は大失敗だろうがw
431人間七七四年:2013/04/27(土) 15:29:59.51 ID:gMvvDwf4
どっかにスケート滑ってる子孫がいる時点で大失敗だろ 織田
432人間七七四年:2013/04/27(土) 15:36:14.48 ID:VOqzEZPy
わけわからんグラビアアイドルの偽子孫がいる時点で武田の大敗
433人間七七四年:2013/04/27(土) 15:40:12.73 ID:gMvvDwf4
顔がそっくりだもんな 信成は
434人間七七四年:2013/04/27(土) 15:46:51.04 ID:kBdMfE3I
顔が全く似つかない連中にニセ子孫を自称される武田
そういえば武田旧温会の本家も武田となんの血のつながりもない柳沢家の人間が当主面してたなw
よっぽど先祖に誇りがないらしい
435人間七七四年:2013/04/27(土) 15:49:27.43 ID:gMvvDwf4
涙拭けよ 馬の骨
436人間七七四年:2013/04/27(土) 16:01:50.89 ID:vjvcbMcr
>>430
>>結果的に言えば義元を攻めなかったために膨大な領土を領して
膨大な領土とか結果じゃなくて途中経過だろ
信長の結果は光秀に負けて殺されて死んだ。が正解
>>自分が目にかけた家康が最終的に天下を取って、そのよしみで子孫は大名家に存続したんだから大成功だな
家康を信長が目にかけたとか妄想乙だな
援軍要請されても武田にビビリまくって無視しまくったあげく徳川は武田への寝返りを考え出し
信雄・秀信は改易され信忠と信孝は殺され他の連中もこぞって改易かお情けでハナクソみたいな領土もらっただけなのが織田
軍学で最強とされたのが武田だから
戦略的にみれば信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
437人間七七四年:2013/04/27(土) 16:03:43.68 ID:q5oN83xa
結果的にいえば義元を攻めずに西に向かったために信長は光秀に殺されて死んだだなから戦略的には大失敗といえる
素直に西に向かってりゃよかったのにな。それでも今川や北条や武田にボコボコにされる結果は変わらんかもしれんがw
438人間七七四年:2013/04/27(土) 16:04:28.09 ID:q5oN83xa
×素直に西に向かってりゃよかったのにな
○素直に東に向かってりゃよかったのにな
439人間七七四年:2013/04/27(土) 16:06:06.75 ID:vjvcbMcr
三方原に信長がいたら信長直々に討ち死にしてただろうな 
幼君で分裂状態、クーデター騒ぎまで起きるほど雑魚の斉藤に10回くらい負けまくり
北畠戦でも負け続けあげくのはてに餓死寸前の非戦闘員の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちにして
一門10人以上殺されたアホ長が戦場に来たら即効で信玄に瞬殺されて戦死してただろうな
真に運がよかった。
440人間七七四年:2013/04/27(土) 16:12:41.47 ID:VOqzEZPy
長島に武田軍がいたら一門衆どころか信玄餅も討ち死に一兵のこらず全滅してたろうな
441人間七七四年:2013/04/27(土) 16:16:24.39 ID:+3m6KtoS
織田全軍挙げて信玄に対峙していたなら、信長は負けやしねーよ。
当時の信長は四方の複数の敵に同時対応するため、自軍を分散させてたから、そこに武田軍まで加勢するのを恐れてただけ。
そもそも武田はある程度織田軍を打ち破ったとしても、春が近づけば、農業やる為、甲斐に戻らなくっちゃいけないので、話にならんだろ。
442人間七七四年:2013/04/27(土) 16:21:48.07 ID:+3m6KtoS
>>403
義元亡き後の今川攻めと美濃攻めのどちらが楽か、この馬鹿は理解できないらしい。
小早川秀秋レベルの無能では、一生社会の下層だな。
443人間七七四年:2013/04/27(土) 16:38:50.95 ID:ngAqOSV7
つーか

一向宗を殲滅した信長>一向宗に苦戦した謙信>謙信に圧倒された信玄

もしくは

長篠で勝頼を完膚なきまでに叩き潰した信長>北条を圧倒し領土を広げた勝頼>北条に苦戦し寸土すら得られなかった信玄

から信長>信玄は明らか
444人間七七四年:2013/04/27(土) 16:41:07.98 ID:kBdMfE3I
だがらしい哀れな自論だな

>>信長の結果は光秀に負けて殺されて死んだ。が正解

信長は織田家当主として織田家を牽引してきた存在
一武将ならいざ知らず自分で蓄えた領土もある。
それを考慮すれば「本能寺で自害した」というのも途中経過にすぎないんだがw

まあ「家」「当主」としての役目を出されると、自分の死後に無惨にも織田に虐殺された家が存在するからなw
だが理論では6倍の兵力をもっていながら最後は滅ぼされた哀れな哀れな大名家のために個人を持ち出す基地外だがw

>>軍学で最強とされたのが武田だから

武田流軍学は武田と縁もゆかりもない小幡が勝手に自称しただけなんだがw
しかもその小幡も弟子の北条氏長に完全否定された挙句「北条流軍学」を大成されている。
江戸時代通じて最強と言われた軍学は「北条流」であって、武田流軍学なぞ幕府創設初期に完全否定された欠陥軍学だろw

挙句武田本家の武田信道は罪人同然の伊豆大島配流w
信道の主君である大久保は元武田家臣かつ高位重臣なのに捨扶持すら満足にあげられない有様w
内乱を経ても5家も大名家を輩出した織田に比べあまりにも哀れすぎる末路www
結局武田信道は徳川家光の時代になっても許されず生涯伊豆大島の罪人隔離所で過ごす羽目になりましたとさw
445人間七七四年:2013/04/27(土) 16:49:00.11 ID:Y6Jl2XB0
>>443
謙信が来襲すると一向宗を毎回ボコってるし尻垂坂では1万で3万の一向宗を粉砕して織田軍4万を手取川で2万で叩きのめしてる
織田は一向宗を裏切り一族を数人討ち取られ自身も負傷してボロボロにされてる
どう見たら信長が謙信より強いとなるのかがわからん
446人間七七四年:2013/04/27(土) 16:53:27.37 ID:kBdMfE3I
>>440
もともと武田軍なんてほとんどが弱卒の群れだからな
江戸時代初期に創設された武田流軍学なんて「何言ってんだこいつ」って幕府中枢から完全に無視されていたし
あくまで一部の連中の支持を受けるだけにすぎないしょぼちいもんだった。

ところが弟子の北条氏長が全部網羅して都合悪いところを改訂しまくり「北条流軍学」として大成させると
あまりの出来に感心した幕府が軍役令を任せたくらいだし幕府公認は「北条流」と言ってもいいくらいの出来だった
弟子に完全否定されるようなザルまみれの軍学を使ったとされる武田はさぞ弱かったに違いない
長篠天目山でボコボコにされて、信長がまともに出てこなかった「上村合戦」とか持ち出してる時点で武田の程度が知れる
447人間七七四年:2013/04/27(土) 17:07:17.63 ID:kBdMfE3I
上杉謙信って信長とチキって決戦回避したような奴じゃん
手取川の後追撃掛けずに関東行った時点で信長>謙信だし
448人間七七四年:2013/04/27(土) 17:12:59.95 ID:ngAqOSV7
>>455
信長は一向宗を殲滅しているが謙信はそれが出来なかった
詰めが甘かったといえばそれまでだがね
ただ信長謙信とも四方に敵を抱えながら領土を広げたという共通点があるな
ほぼ一つしか敵がいなかったのに寸土しか得られなかった信玄はこの二人の足元にもおよばない
449人間七七四年:2013/04/27(土) 17:43:35.85 ID:vjvcbMcr
謙信は野戦が無敵すぎる

信玄は布施の戦い八幡の戦いで謙信と初めて戦い野戦で敵わぬことを悟り以後は調略に切り替えてる
氏康は寡兵の上杉先遣隊に苦戦し謙信に敵わぬと見て以降一度も野戦せず逃げ回った
氏治は地の利を生かして謙信を沼地に誘い込めば勝てると野戦挑み壊滅的打撃受けて居城捨てて逃げた
越中一揆は坂の上から数万の大軍で迎撃すれば有利だろうと謙信に野戦を挑み付近流れるびや川が一揆兵の血で真っ赤に染まる大敗を喫した

謙信には誰も敵わん

http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4_2.html
大軍なのに篭城でやり過ごそうとした孫子の具現者、武田信玄。
しかし、謙信は寡兵で敵地に奥深く入り込み絶対的不利な状況に身を置く。
信玄それを見て「もしかしたら勝てるんじゃん?」と台風に手を出してしまいコテンパンにノサレる。
上の動画は、もはや神領域の采配。さすが軍神、孫子の研究者たる海上智明が日本史で最も芸術的な戦いをする武将と推すのも理解できる。

海上曰く、信長では絶対に信玄には勝てない。
ましてや謙信とガチでやりあったらあっさり粉砕される。
450人間七七四年:2013/04/27(土) 17:43:55.60 ID:vjvcbMcr
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
451人間七七四年:2013/04/27(土) 17:44:19.79 ID:vjvcbMcr
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
452人間七七四年:2013/04/27(土) 17:44:45.07 ID:vjvcbMcr
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。

公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では
太田に金を払って書いてもらえなかっただろうから
そういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかで
ぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。
これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって
池田家に献上してるしw
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw
453人間七七四年:2013/04/27(土) 17:45:38.07 ID:vjvcbMcr
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿

>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。

>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。

捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響し%8
454人間七七四年:2013/04/27(土) 17:46:01.68 ID:vjvcbMcr
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww

>>1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
>>佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。
なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には
本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。

織田軍で一番の大部隊で必死に謙信の攻勢を凌ごうとして焦ってる姿が目に浮かぶ。

畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。

織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
なぜなら手取川合戦の存在を消すには、畠山の息子が死んだから
柴田には助ける名目が無くなったことにしないと辻褄が合わなくなるから。
もし生存してるなら当然に、戦わず撤退することが正当化できなくなる。
455人間七七四年:2013/04/27(土) 17:48:44.78 ID:vjvcbMcr
>>441
三方が原では武田軍は戦力分散させまくって一部しかいないのに対して織田家は
下記のように一級部隊で挑んで正面から大敗しているからな
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
456人間七七四年:2013/04/27(土) 17:51:26.16 ID:vjvcbMcr
>>443
直接対決の結果は下記
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
457人間七七四年:2013/04/27(土) 17:51:47.98 ID:vjvcbMcr
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
458人間七七四年:2013/04/27(土) 17:52:42.86 ID:vjvcbMcr
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
459人間七七四年:2013/04/27(土) 18:25:06.22 ID:Y6Jl2XB0
>>447
織田オールスターが手取川で負けた後軍事行動が停止してるんだから関東攻めて自分の領土にすれば後顧の憂いが無くなって上洛しやすくなることも織田厨はわからないのかよ

たしかに一向宗を殲滅する事はできなかったが自軍に加えたことで能登加賀をわずかの期間で手にいれてるんだからたいしたもんだろ
460人間七七四年:2013/04/27(土) 18:28:29.07 ID:kBdMfE3I
>>459
軍事行動が停止してるどころか息子の信忠が平気で敵を攻めてんじゃんよw
後顧の憂いとかきにしてたら上洛なんてできねーだろ
単純に時間がなかった、という点では名将たる存在ではあるがな

時間が山ほどあったのに徳川を苛めてまともな連中では義元亡き後の今川しか倒せなかった信玄の比ではない
461人間七七四年:2013/04/27(土) 18:43:05.55 ID:Y6Jl2XB0
>>460
信忠が武田攻めたの手取川の約4年後だろこの4年間北陸越前にいた柴田らはなんで軍事行動おこしてないんだよw
北条潰して関東手にすれば戦いやすくなるんだから攻めるのは利があるわけだし
462人間七七四年:2013/04/27(土) 19:14:55.68 ID:dpjJqN1E
>>461
え?
463人間七七四年:2013/04/27(土) 19:25:44.59 ID:m1cmIIKw
信長に靖国神社を
焼き討ちして欲しいな。
464人間七七四年:2013/04/27(土) 19:42:33.41 ID:kBdMfE3I
>>461
松永が攻め滅ぼされてるやんw
465人間七七四年:2013/04/27(土) 19:42:56.92 ID:q5oN83xa
謙信が一向宗に苦戦とかアホじゃね
信玄に操られた越中一向一揆は謙信が出てくたびに瞬殺されてんじゃん
信長は長島一向一揆数百を餓死寸前のところを数万の大軍で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺され
本願寺一向宗を長期持久戦で包囲し続けても全く歯がたたず朝廷を介した和議でなんとか退城させただけ。
信長が一揆勢を壊滅とかろくな拠点もない越前一向宗の事か?
466人間七七四年:2013/04/27(土) 19:46:32.48 ID:vjvcbMcr
>>長篠で勝頼を完膚なきまでに叩き潰した信長

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
467人間七七四年:2013/04/27(土) 19:48:13.49 ID:q5oN83xa
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw

これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる

はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで


チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも三方が原や上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
上杉謙信にもガチンコ一級メンバーでボロ負けし丹波一国人の赤井直正にも大敗し雑魚の毛利輝元にも敗れ
最後は光秀に殺されて織田家を滅亡させた信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄

信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
468人間七七四年:2013/04/27(土) 19:58:16.04 ID:vjvcbMcr
>>信長は織田家当主として織田家を牽引してきた存在 一武将ならいざ知らず自分で蓄えた領土もある。
は?蓄えたのは信長生前。殺されて死んだのが結果だからその前どうこうは関係ない
>>それを考慮すれば「本能寺で自害した」というのも途中経過にすぎないんだがw
なんで殺されて死んだのが信長の最後なのにそれが途中経過なんだよボォケwwww
>>武田流軍学は武田と縁もゆかりもない小幡が勝手に自称しただけなんだがw
>>しかもその小幡も弟子の北条氏長に完全否定された挙句「北条流軍学」を大成されている。
ソースは?
>>江戸時代通じて最強と言われた軍学は「北条流」であって、武田流軍学なぞ幕府創設初期に完全否定された欠陥軍学だろw
ソースよろ
>>挙句武田本家の武田信道は罪人同然の伊豆大島配流w
それが何の関係あるんだ?
469人間七七四年:2013/04/27(土) 20:02:06.41 ID:vjvcbMcr
>>ただ信長謙信とも四方に敵を抱えながら領土を広げた
信長の敵→斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主

しかも一回に一つの敵としか戦っておらず二つ以上の敵と戦うと押されまくってる(自国の5分の1くらいの浅井朝倉連合に押されまくった)
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力

こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
ある意味戦国最強クラス
470人間七七四年:2013/04/27(土) 20:09:39.24 ID:vjvcbMcr
>>ほぼ一つしか敵がいなかったのに寸土しか得られなかった信玄

チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも三方が原や上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
上杉謙信にもガチンコ一級メンバーでボロ負けし丹波一国人の赤井直正にも大敗し雑魚の毛利輝元にも敗れ
最後は光秀に殺されて織田家を滅亡させた信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
471人間七七四年:2013/04/27(土) 20:14:57.36 ID:vjvcbMcr
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
472人間七七四年:2013/04/27(土) 20:15:46.64 ID:vjvcbMcr
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
473人間七七四年:2013/04/27(土) 20:16:48.94 ID:vjvcbMcr
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけ

史実では滅亡確定

家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
474人間七七四年:2013/04/27(土) 20:21:06.09 ID:ngAqOSV7
>>465
長島殲滅という戦争目的を達成した以上はどんな形であれ信長の勝ちなんだよ
残念ながら謙信は一向宗殲滅という戦争目的を最後まで達成出来なかった
戦争における勝利条件とは戦争目的の達成である
だがは戦争論を読んだことあるか?
まあないだろうな
475人間七七四年:2013/04/27(土) 20:28:42.76 ID:vjvcbMcr
>>474
戦争の勝利の基準は相手を一人でも多く殺し味方を一人でも救う事。
また兵力の2乗は戦力比に比例し
信長の場合数万の大軍で数百の餓死寸前一揆勢を騙まし討ちにしたら一門10人以上殺されたので
戦の巧さでいえば一揆勢数百の2乗÷信長軍数万の2乗で1万分の1

攻城側なので攻守三倍原則を適用するにしても圧倒的に信長は一揆勢より戦下手といわざるをえないね
対して謙信は半分程度の寡兵で一揆勢を壊滅させたので一揆勢より4倍くらい戦上手だから
信長と謙信の戦の巧さの差は1万×4で四万倍くらい差があるとわかる
476人間七七四年:2013/04/27(土) 20:30:47.28 ID:q5oN83xa
戦略目的どうこういうなら光秀によって織田家崩壊と信長信忠殺害という戦略目的を達成された信長は
戦略目的で大失態やらかしたためただの雑魚になるわな
477人間七七四年:2013/04/27(土) 21:40:51.43 ID:ngAqOSV7
>>475
つまりだが理論によるとノモンハンは日本軍が勝ったってこと?
ソ連軍の方が損害多かったしな
478人間七七四年:2013/04/27(土) 21:42:33.94 ID:/6JPjWyR
>>442
じゃあ攻めてこいよ 武田が黙ってねぇけどなw
479人間七七四年:2013/04/27(土) 21:56:41.62 ID:c1J/7OML
信長は第三次長島で実体が無い織田水軍で最強武田水軍を
徹底的に叩いて壊滅させたからね。

最強武田水軍は

第二次長島では
69 :人間七七四年:2012/02/18(土) 23:46:30.33 ID:R8gIN0N6
>>65
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

こんなに大活躍なのに
第三次長島では影も形もないからね。
480人間七七四年:2013/04/27(土) 22:05:29.17 ID:O2AxWwTp
どんなに信長を煽ろうが、全国の小学校6年生教室の黒板の上の歴史年表に、
信玄と謙信の画像が載ることはありません。 w
信長、秀吉、家康は載ってるがな。 w
481人間七七四年:2013/04/27(土) 22:10:35.67 ID:q5oN83xa
小学校の歴史年表がおかしいってだけだろ
ノブヤボで謙信玄氏康が三傑より上の能力値なのをソースにするのと同レベルのアホだな
482人間七七四年:2013/04/27(土) 22:12:19.31 ID:vjvcbMcr
三次長島戦で武田水軍が織田水軍に負けたとかどうせ嘘長公記か講談ソースだろ
九鬼なんて一次資料じゃ雑魚だし
483人間七七四年:2013/04/27(土) 23:05:31.89 ID:c1J/7OML
>>482
じゃあ三次長島戦での武田水軍の活躍を教えてくれ。
484人間七七四年:2013/04/27(土) 23:23:52.45 ID:kBdMfE3I
だがによると
三次長島戦での武田水軍は
仇敵であるはずの織田水軍を助けて
伊勢長島の一向衆をボコボコにしたらしいぞ
485人間七七四年:2013/04/28(日) 01:12:22.96 ID:pg6IuWSH
信玄餅は黙れ
486人間七七四年:2013/04/28(日) 02:15:25.49 ID:aLH/Xz1x
言い訳できなくて困り果てた結果のコピペ連投
過去に指摘したのもそのままw
本当だがは能無しだなw
ろくに当時の文書も読めないのに解説までしてらw
487人間七七四年:2013/04/28(日) 07:01:18.35 ID:Nac9JiBZ
泣くなよ織田厨
488人間七七四年:2013/04/28(日) 07:33:58.91 ID:T2ysZs7J
>>487
いや、お前さ、コピペ貼るだけで論戦に勝てると思ってるの?
個別に論破されてるんだから、ちゃんと対応しろよ。
489人間七七四年:2013/04/28(日) 07:44:34.77 ID:3ecp6gMG
織田厨のいう論破とは論理破綻の事だろ
490人間七七四年:2013/04/28(日) 07:45:30.15 ID:CHhpXSJj
織田厨はソース一つ出さず妄想だけで議論するアホだからね
491人間七七四年:2013/04/28(日) 09:56:12.36 ID:sKFOQT8x
>>476
暗殺されたら『雑魚』扱いならば、歴史上暗殺された偉人達は全て雑魚ってか。
高橋是清、伊藤博文、大久保利通、坂本龍馬、JFK、リンカーン、ガンディーetc・・・
彼等は全員『雑魚』なのかね。

暗殺されたら『雑魚』扱いなら、暗殺されなかったら『雑魚』じゃ無いっつー論法になるな。
(信長死後の)織田信雄、(義元討死後の)今川氏真、その他無名の有象無象。
彼等は暗殺された信長より大物なのかね。

頭おかしいんじゃね。
492人間七七四年:2013/04/28(日) 10:04:23.21 ID:X74ugbO3
>>491
頭おかしいんだよ。
493人間七七四年:2013/04/28(日) 10:06:37.25 ID:6vBvX1St
暗殺?
普通に戦して大敗討ち死にだな 軍人としてオワットルのが信長
494人間七七四年:2013/04/28(日) 10:15:12.53 ID:rxGdF1ob
アスペルガーだがは昔から頭がおかしいよ
今に始まったことじゃないのでそこのところよろしく
495人間七七四年:2013/04/28(日) 10:24:07.75 ID:KsSoK/y+
>>490
お前がソース出したことは一度もないがな
496人間七七四年:2013/04/28(日) 11:29:19.33 ID:rxGdF1ob
アスペルガーだがのソースって偏見や妄想を駆使した嘘ばかりだからな

昨日の流だとID:gMvvDwf4(アスペルガーだが)がまさにその典型
>>411-413
現実を見ろと書いておきながら○○するだろうと話を勝手に作るアスペルガーだが
497人間七七四年:2013/04/28(日) 12:34:54.38 ID:gGFdKMeD
武田・伊勢水軍(信長に対して北畠氏が面従腹背してた)が攻勢であったが
蘭奢待の切り取りを通じて信長が大和国衆の帰順を進めたために
北畠氏も長島攻めへ協力せざるを得なくなったために
長島が落ちたんだろ。
498人間七七四年:2013/04/28(日) 12:39:31.82 ID:gGFdKMeD
蘭奢待の切り取りで天皇権威を背景に大和の帰順をしたから北畠支配も可能になっただけだし
そもそも明智城が落ちたり毛利が東進する危機に
信長はビビりまくり公家らに略奪してた荘園を
返却したり、自分で燃やした京の復興をしたりの
朝廷への土下座外交をしたから長篠の勝利を得ただけだし。
他力本願ばっかじゃん信長。
虎狼のように手に平返しして天皇をあからさまに軽視した瞬間に家臣に討ち殺されて終了w
499人間七七四年:2013/04/28(日) 12:56:45.43 ID:6vBvX1St
軍人が暗殺だろうが戦だろうが 殺されちゃーおしまいだw

信長は敗死したの これが現実

暗殺された世界の偉人をいくら羅列してみたところでその本職である
命のやりとりで敗死した信長に味噌がつくのは当然のことだ
500人間七七四年:2013/04/28(日) 13:03:27.49 ID:mfLhBYbI
存命中の偉業を語るのはOK
しかしやってもいない偉業を語るのはNG

信長厨はほとんどが後者
501人間七七四年:2013/04/28(日) 13:55:22.47 ID:WFpgOrO2
>>497
じゃあ武田水軍が伊勢水軍にボコボコにされたという一次資料を出してくれ。

それと北畠は織田から人質を取っていたんじゃなかったの。
502人間七七四年:2013/04/28(日) 14:51:14.20 ID:KsSoK/y+
>>499
つまり軍人でもあったのに暗殺されたフィリポスやカエサルも雑魚だと?
503人間七七四年:2013/04/28(日) 15:05:40.25 ID:6vBvX1St
状況によるだろ 勝ち戦に調子に乗って戦の只中宴会開いてて討ち取られたうつけと同じ事してたならもれなく雑魚だろう
504人間七七四年:2013/04/28(日) 16:46:28.98 ID:KsSoK/y+
>>503
んでだがはフィリポスやカエサルがどういう状況で殺されたか知らんの?
505人間七七四年:2013/04/28(日) 17:19:25.53 ID:3ecp6gMG
>>491
そもそもお前の話の流れ「結果の是非からその行動が戦略的に成功であったかどうか測るアホ論法」
にあわせて「光秀に殺された」という結果からその前の行動が戦略的に正解かどうかって話なんだが
自分でアホな論法持ち出しといてそれになぞらえて信長の事例を出したら全く関係ない反論するとかお前馬鹿だろ
506人間七七四年:2013/04/28(日) 18:03:25.70 ID:P3C7YbD/
>>505
お前はそもそも戦略というものをわかってないから論外
アホはお前だよだが
507人間七七四年:2013/04/28(日) 18:08:15.06 ID:mfLhBYbI
信長は軍人としては優秀でも主君としては失格ってことだろ
秀吉の配下になって先陣を切る武将やってればよかったのにな
508人間七七四年:2013/04/28(日) 18:59:49.27 ID:rxGdF1ob
アスペルガーだがは戦略がわかってないだけじゃなく戦国そのものすらわかってない
だから自分が考え出した都合のいいことだけを真実にしたくてすぐ嘘を吐いてしまうわけだ
みんなそれを知っているからアスペルガーだがをよってたかって馬鹿にすることになる
509人間七七四年:2013/04/28(日) 19:30:54.05 ID:sQLdeXb0
アスペルガーだがみたいな基地外に信奉される信玄も可哀想だなw
510人間七七四年:2013/04/28(日) 20:13:35.84 ID:Tk75ozhu
また連呼してるのか 基地外織田厨は
511人間七七四年:2013/04/28(日) 22:14:59.69 ID:3ecp6gMG
>>506
は?お前のアホレス

430 :人間七七四年 :2013/04/27(土) 15:22:03.02 ID:kBdMfE3I
結果的に言えば義元を攻めなかったために膨大な領土を領して
自分が目にかけた家康が最終的に天下を取って、そのよしみで子孫は大名家に存続したんだから大成功だな
その家康をボッコボコにしたせいで家を滅ぼされた挙句、子孫が伊豆大島に流されたどこぞの大名は大失敗だろうがw

これになぞらえると結果がよければ戦略的に成功なんだろ?
なら今川討たずに西に向かったから光秀に殺される結果になったんだから戦略的に大失敗だろ
お前頭大丈夫か
512人間七七四年:2013/04/28(日) 22:51:43.69 ID:P3C7YbD/
>>511
お前は戦略というものをまるで理解していない
簡単に言えば暗殺は戦争行為ではなくそんなものは戦略の範囲外ってこと
だがのバカな頭でもそれくらいは理解できるよな?
513人間七七四年:2013/04/28(日) 23:16:16.68 ID:Tk75ozhu
別に信長はどこぞに呼び出されてだれぞの謀略で丸腰にされて無理やり殺されたわけじゃないぞ
自分で勝手に慢心し戦略と戦術両方で負けた死んだ雑魚だw 
514人間七七四年:2013/04/28(日) 23:27:53.56 ID:3ecp6gMG
>>512
信長は暗殺ではなく戦争で敗死しただけ
あと暗殺であったとしても結果からいえば殺された事に変わりないのでお前の論法「結果がよければ戦略的に成功」
になぞらえれば信長の取った戦略は大失敗で最低ランクだと理解できる
もちろん俺はこんなアホ論法ははじめから反対だが。
515人間七七四年:2013/04/28(日) 23:31:59.43 ID:Tk75ozhu
本当信長厨って戦略って言葉が好きだよねぇ
小説家の受け売りだろうか
516人間七七四年:2013/04/28(日) 23:59:42.26 ID:rxGdF1ob
今日もアスペルガーだがお得意の自作自演大炸裂!
単発IDを大量生産しても破綻した妄想主張では何の価値も無いですね

ところでアスペルガーだがと同じ様な主張をするHPってあるの?
あるならURLを貼っておくれ
まあ無理だろうけどね
517人間七七四年:2013/04/29(月) 00:06:34.40 ID:Tk75ozhu
自分で探せよ基地外としかアドバイスできませんわ
518人間七七四年:2013/04/29(月) 01:10:32.43 ID:jmLfyNTM
>>517
それはアドバイスではなく敗北宣言だよ

まぁ武田信玄系のHPはいくつもあるがだが妄想系のHPなんかあるわけがない
注、だがはHP製作技術が無いのでだが自身のHPは存在しない
519人間七七四年:2013/04/29(月) 02:12:51.47 ID:o3E6y/xS
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/37.html

自分の妄想のためなら教科書すら改竄するだが
520人間七七四年:2013/04/29(月) 03:14:33.75 ID:mzBXntcn
信玄も京に御旗を立てるという戦略に失敗してるね
521人間七七四年:2013/04/29(月) 06:11:22.32 ID:Zhfhzm2M
>>505 >>514
光秀に暗殺された一件で、それまでの異常な版図膨張や様々な大改革の成功を否定する馬鹿。
無防備で就寝中に、光秀が知る筈の無い宿舎を突然大軍で急襲されてるのに、「戦略的に失敗」も「戦争で敗死」も糞もねーだろって話だ。
そもそも信長の入洛は戦略とは無縁なのだからな。

もう一度>>491読め。馬鹿が。
それでも君の「アホ論法」を自覚できないのなら、頭が腐ってる証拠だ。
522人間七七四年:2013/04/29(月) 06:13:14.51 ID:RWWE4Uuz
>>513-514
だが自演乙
では聞くが本能寺における信長の戦争目的はなんだ?
お前の言うとおりあれが戦争であったなら必ず戦争目的があったはず
しかしそんなものはないよなあ?
だからあれは戦争じゃなくて暗殺であり戦略とか関係ないんだよ
その無関係なものを引き合いに出しているからお前は戦略というものがわからないバカだと言っているんだ
523人間七七四年:2013/04/29(月) 09:07:59.69 ID:qUEzxNpW
自分の周りに光秀しかいないという状況を作りだしたのがそもそも戦略的バカだろ
自衛隊の海外派兵でも戦場の定義がどこからどこまでなんてできないのと同じこと

>>520
それは寿命というものだ
524人間七七四年:2013/04/29(月) 09:26:10.20 ID:7RUH0RG2
信長は光秀を見誤った
信玄は自分の体調から寿命を読みきれ無かった
戦略云々以前の話じゃね?
525人間七七四年:2013/04/29(月) 09:27:37.59 ID:Zhfhzm2M
光秀を遊軍として残しておき、ここぞという局面で、最重要戦線に投入する戦略は、戦略的無知の小物には理解できんよ。
織田版図内を「戦場」として定義しているようじゃ、話にならんしな。
526人間七七四年:2013/04/29(月) 09:54:09.04 ID:j2GAKOzW
その光秀が敵になるという時点で信長は人生詰んだ。それだけのこと。
527人間七七四年:2013/04/29(月) 10:07:09.30 ID:qUEzxNpW
織田の版図とか関係ないから 裏切りなんてのはどこでも起こりうることで
それを監視して抑止できてない時点で雑魚
528人間七七四年:2013/04/29(月) 11:10:41.98 ID:Zhfhzm2M
部下の私邸にまで踏み込んで監視してるキチガイでは、人心離反だ。
流石は足軽クラスの器君。
529人間七七四年:2013/04/29(月) 17:30:55.42 ID:j2GAKOzW
信長のことですか? いくらなんでも足軽は過小評価だろ。
530人間七七四年:2013/04/29(月) 19:00:13.23 ID:lBr1/xNw
織田信長
内政放棄・金融政策欠如・軍事軍政改革皆無・織田侵攻地は亡国化・数十万人大量虐殺・欲しいものはどんな理由があろうが即没収。
休まず働かし部下を酷使・金策・兵糧・戦闘すべての援助を一切せず、部下の才覚や武辺道に丸投げ。失敗したらリストラ
才覚や武辺道のある部下は信長を下克上し、
才覚や武辺道のある部下は織田家を乗っ取る。
無能ブラック企業社長信長はやり手部下たちの実力で大きな会社にしたが、
その部下たちは自分らの力で会社を大きくしたのに増長しやがってと織田を倒壊させ、
部下たちは新たな会社を立ち上げた。
531人間七七四年:2013/04/29(月) 20:32:04.83 ID:RWWE4Uuz
>>523
意味不明なこと言って誤魔化すなよだが
やっぱりお前は戦略を理解出来ないアホだな
信長が身辺警護にうかつだったのは確かだがそれを戦略がダメだとは言わない
頭の悪いお前にはここまで言っても理解出来ないだろうが
532人間七七四年:2013/04/29(月) 20:45:18.75 ID:RWWE4Uuz
仕方ないから簡単な喩えを出そう
だが理論に則るならダラスでパレードしたのはケネディの戦略的失敗ということになる
それでいいんだな?だがよ
533人間七七四年:2013/04/29(月) 21:03:12.32 ID:iDGX7ZXc
連呼リアンまた登場

戦国時代と現代を同列に語るなよ 阿呆w
534人間七七四年:2013/04/29(月) 21:06:59.23 ID:lBr1/xNw
>>283
>>勧修寺と近衛と吉田神社は信玄の遺志を継いだのだろう。

誠仁親王の妻は勧修寺晴子。つまり信長暗殺は晴子を離婚させて
信長の娘との再婚もしくは、将来の天皇の外戚になる勧修寺に対する信長の圧力だろう。
信長の本心を知り危機感を抱いた誠仁親王自らが囮となって信長親子を虐殺したんだろうな。
535人間七七四年:2013/04/29(月) 21:12:19.53 ID:j2GAKOzW
>信長が身辺警護にうかつだったのは確かだがそれを戦略がダメだとは言わない

そう。政治家として失格だっただけだ。
536人間七七四年:2013/04/29(月) 21:20:22.96 ID:lBr1/xNw
>>446
お前は相変わらず平気でデタラメを吐くな。
北条氏長はあくまでも甲州流軍学者であって
その甲州流の支流としての位置づけで小幡門四哲同学の門下としての北条流っていうだけだ。
>>幕府中枢から完全に無視
はいはいデタラメ乙。一次史料を出してみろやカスw
加賀藩に仕えた甲州流軍学者の有沢永貞だって有澤流と言ってるのは、あくまで甲州流軍学者の枝流としてだ。
福井藩へ行った片山良庵だってそうだ。
言わば、免許皆伝してのれんわけして自分の名字をつけて独立したに過ぎん。
537人間七七四年:2013/04/29(月) 21:50:26.87 ID:iDGX7ZXc
信長が民主主義国家の大統領だったとはw

信長と例えるなら金正恩かカダフィーだろw
538人間七七四年:2013/04/29(月) 22:09:41.83 ID:2KsTx5MN
だがは戦国時代に関する知識がないから嘘の上塗りを繰り返すんだな
539人間七七四年:2013/04/29(月) 22:18:48.07 ID:j2GAKOzW
中国の三国志にたとえるなら、家臣にブッ殺された董卓だよな。
540人間七七四年:2013/04/29(月) 22:26:55.30 ID:RWWE4Uuz
>>533
なんで?
自演してないで喩えてはいけない根拠をだせよ
541人間七七四年:2013/04/29(月) 22:57:13.19 ID:zd9VYz/6
都合が悪くなるといつも自演だからなあだがは
しかもバレていないと思っているところがアホ過ぎ
542人間七七四年:2013/04/29(月) 22:59:31.62 ID:o3E6y/xS
>>536
捏造誇張の基地外君らしい末路だな、Wikiで必死に知識を漁ってきたと見える。

まず小幡門四哲同学のうち北条流を創始した北条氏長以外はまともに幕府中枢で取りたててもらえてない。
近藤は浅野家家臣で禄高も微小、富永と梶に至ってはヒラ役人レベル。

甲州流軍学が真に素晴らしくて完成度の高い軍学なら、北条氏長と肩を並べた3者ももっと重用してもよさそうなのに
江戸幕府はこの3名に対してはまるで知らぬ存ぜぬを貫いている有様。あくまで江戸幕府が必要としていたのは
氏長が甲州流を改訂しまくって完成させた「北条流」であり、欠陥だらけの「甲州流」を欲していなかったのは北条氏長以外の3者が
まともに取り立てて貰えず細々と生涯を終えたことからもわかる話。
543人間七七四年:2013/04/29(月) 23:02:45.08 ID:lBr1/xNw
>>130
>>茶道正傳有樂という由緒正しいグループの総裁である織田長功氏の方がよほど上だろ

はっ?ただの茶道のおっさんだろw
有楽流の後継である長益の茶説もまとめた貞置流すら名乗れないのかね。
544人間七七四年:2013/04/29(月) 23:07:28.27 ID:iDGX7ZXc
信長って 軍隊に攻められて城のような本能寺で戦して敗死したんだよな

どっかの木陰から鉄砲で狙撃されましたとかそんなちゃちなもんじゃねぇ
戦で負けた戦術的討ち死に そして明智という家臣に権限を持たせすぎ勢力の均衡を保てず野心を抱かせた統治能力の無さ
全国に敵を作りまくり他の家臣を分散させすぎた戦略的ミスだし

けねでぃーとかバカ言ってないで現実を見ろよw
545人間七七四年:2013/04/29(月) 23:12:35.80 ID:lBr1/xNw
>>542
>>幕府中枢から完全に無視
お前の脳内妄想のデタラメ能書きはいらないから
早く上記の一次史料の証拠だせよ。
546人間七七四年:2013/04/29(月) 23:21:14.46 ID:o3E6y/xS
>>543
貞置流は別の織田家子孫が復興させてるよ、女系だが直系だな。
ちなみに「茶道正傳有樂」も現代では有楽流の流れをくむ茶道。
まあどこぞの家みたいに先祖の血を一片も退いていない連中が
当主面するのはどうかとも思うけどなw
547人間七七四年:2013/04/29(月) 23:28:10.89 ID:iDGX7ZXc
やっぱ顔がそっくりな信成が当主面だよなw
548人間七七四年:2013/04/29(月) 23:32:38.65 ID:o3E6y/xS
>>545
完全に出てるじゃん。
慶安の軍役令含む、幕府中枢の軍事体制に口を出したのは北条氏長だけ。
富永と梶は幕府奉行職の1人、近藤に至っては幕臣ですらない。
つうか肝心の始祖である小幡景憲とその子孫がロクな扱い受けてねーだろw

ダメ出しして改訂した門弟が偉い人になって、その師匠だから注目されてるだけ
小幡自身はただの嘘つき野郎だろ、武田家臣の高坂昌信が〜なんて適当なことまで言ってるしw
549人間七七四年:2013/04/29(月) 23:37:01.19 ID:o3E6y/xS
>>547
当主面するどころか思いっきりハブられてんじゃんよw
織田家の直系子孫でデカイ顔できるのは大名家になった織田信雄と織田有楽斎の子孫だけ
ただえさえ高家旗本の織田信高の流れと言う時点でアレなのに家系図提示を求めて捏造しかできない始末w

ついには認定織田家子孫(明治期に養子縁組あり)である「織田孝一」すら「あいつは誰なんだよ」とおおっぴらに言われる始末
そういえば某家では雑誌に載るようなギャルが子孫自称していたなw
550人間七七四年:2013/04/29(月) 23:42:16.11 ID:iDGX7ZXc
自称っていうなら織田無道 織田の子孫が坊主になってどーまんせーまんw
551人間七七四年:2013/04/29(月) 23:54:11.62 ID:2KsTx5MN
だががでしゃばるとスレの流が意味不明になる
さすが戦国板認定の荒らし
552人間七七四年:2013/04/30(火) 00:00:40.93 ID:Iw+cykW1
そうだな 織田厨がケネディーとか言い出すから意味不明になるw
553人間七七四年:2013/04/30(火) 00:03:00.62 ID:LyQBWKNm
>>548
>>幕府中枢から完全に無視
>>完全に出てるじゃん。
どこに一次史料あんだよ。でてねぇじゃんよ。
お前の脳内妄想願望のデタラメ能書きはいらないから
早く上記の一次史料の証拠だせよ。
554人間七七四年:2013/04/30(火) 00:07:31.18 ID:pbvkhoMy
・慶安の軍役令の参画者が北条のみ

だけで証明終了だから。
重用されていたら近藤、富永、梶も参加している
ところがこいつらの名前はない。

逆に甲州流軍学が幕府中枢に受け入れられたというソースは?
受け入れられたのは北条流だけ。それも甲州流を改訂しまくって全く別物と化したな
555人間七七四年:2013/04/30(火) 00:11:35.62 ID:pbvkhoMy
つうか甲州流軍学が最強と言い出したのは>>436、つまりアスペルガーだがなわけだが

436 :人間七七四年:2013/04/27(土) 16:01:50.89 ID:vjvcbMcr
(中略)
軍学で最強とされたのが武田だから

で、これの根拠は?
まさか北条流という改訂しまくった軍学で起源主張してたのか?
やってること韓国人と同じだぞw
556人間七七四年:2013/04/30(火) 00:15:54.32 ID:LyQBWKNm
公称で3万石となってた熊本藩の分枝の宇土陣屋の細川行芬の三男を迎えて
1836年に丹波柏原藩第8代の織田信敬www
貧乏陣屋には大名ランクの養子は来ないんだよwww
柏原藩の重臣は織田家の血を引く鶴姫に再度婿養子を迎えることを考えた。
しかし鶴姫はそれを拒むwww
やむなくまた養子に迎えた黒田長元の四男の織田信民は福岡藩の分枝の公称5万石の秋月陣屋からの養子www
織田信雄系直系子孫からしてこんなぼろぼろの家系じゃん。
557人間七七四年:2013/04/30(火) 00:21:12.57 ID:WcLDP+Sq
>>552
また逃げ回るのか?
信玄が戦略的に失敗したのを認めたら?

つーか信玄が意地になって謙信と不毛な戦いやって一番得したのはどう考えても北条だよなあ
信玄が寸土を得るため謙信と戦っている間に北条は着実に領土を拡大していったんだから
結局信玄(つーか武田)は北条にいいように利用されていただけなんじゃね?
558人間七七四年:2013/04/30(火) 00:21:37.40 ID:pbvkhoMy
またWikiからパクっちゃったのかw
当の直系子孫が断ったからやむなく迎え入れただけじゃんw
あまりほめられたものではないが、どこぞの家では本家でそれやって直系子孫絶えちゃってるし
それに比べればまあ多少は仕方ないw
559人間七七四年:2013/04/30(火) 00:31:30.76 ID:Iw+cykW1
逃げまわるw ケネディー言ってた奴が勝利宣言w ハライテー
560人間七七四年:2013/04/30(火) 00:33:51.95 ID:dHgzI+Qz
>>521
いや、結果的にみれば信長は光秀に殺されて死んだだけなので
結果がよければ戦略的に成功というお前のアホ理論なら今川討たずに西に向かったから光秀に殺される結果になったんだから戦略的に大失敗だろ
あと領土拡張は織田領国周辺が弱りきってたり弱体化しきってただけだからただの棚ボタ。
お前のアホな所は領土拡張の部分だけ経過や中身(周辺国が弱小or弱体化・分裂)なのを全く考慮せず結果で評価しようとする癖に
信長が殺されて死んだ最後の結果は内容状況考慮して信長を考慮する所。
結果でいえば信長は光秀に殺されて死んだだけ。状況経過中身考慮するなら織田分国の周辺が弱小・分裂・弱体化してたから領土拡張できただけ。
>>522
論点ずらし乙。西に向かわず東に向かってたら本能寺はおきなかったはずなので、素直に東に向かうのが戦略的正解だな、お前のアホ論法だと。
西に向かったから光秀に殺されて死んだんだから西上は信長にとって戦略的大失敗だw
>>525
>>光秀を遊軍として残しておき、ここぞという局面で、最重要戦線に投入する戦略は、戦略的無知の小物には理解できんよ
意味不明。最初から素直に中国戦線に投入してれば殺される心配もないだろ
>>531
西に向かった戦略は戦略的に大失敗だな
西に向かったから光秀に殺されて死んだんだから。
>>524
今川を打つため東に向かってれば光秀に殺される事もないだろうから戦略的に東に向かうのが正解だな
561人間七七四年:2013/04/30(火) 00:36:10.55 ID:LwGVJ5MW
結局信長って何が優れてるのかよくわからんね
政策も糞、戦略もウンこ、戦術はゴミ、人望も0
あったのはチート国力と弱体化しきった尾張周辺国というチート幸運だけじゃん
562人間七七四年:2013/04/30(火) 00:46:06.33 ID:1LsbUfm5
>>561
そのチート幸運の織田に虫けらの如く抹殺されちゃったのが武田
武田氏が織田氏に滅ぼされたことは日本の教科書にも書いてあるので覚えておこうね
563人間七七四年:2013/04/30(火) 00:51:07.14 ID:Iw+cykW1
本当に運だけはよかったな 虫けら信長は
564人間七七四年:2013/04/30(火) 00:52:54.41 ID:pbvkhoMy
嫌な流れになったのでコピペ連投&信長ディスでレスを流そうとする
アスペルガーだがお得意のいつものアレ
565人間七七四年:2013/04/30(火) 00:55:27.59 ID:1LsbUfm5
>>563
そんな織田に滅ぼされた武田は戦国時代に何の活躍もできずつまらない生き物だったね
ところでID:LwGVJ5MWはどうした?もう使い捨てたのか?
566人間七七四年:2013/04/30(火) 00:57:33.22 ID:dHgzI+Qz
>>562
滅ぼしたって勝頼の失政自爆と対北条徳川戦で疲弊しきった所を甲江同盟詐欺の騙まし討ちで戦闘体勢解除してた所を
北条徳川とあわせて規格外の大軍で襲ったら仁科以外まともに抗戦せずに棚ボタ的に火事場ドロできただけじゃん
こんなまともな戦闘も起きてないのに滅ぼしたも糞もない
567人間七七四年:2013/04/30(火) 00:58:13.30 ID:LwGVJ5MW
武田征伐でまともに抗戦したの仁科1000程度だけだもんなぁ
対北条徳川戦の疲弊や勝頼の失政自爆や信長の甲江和与反故の騙まし討ちのせいで
他の連中はドミノ倒し的に寝返っただけだし実力で倒したわけでもなんでもないし
568人間七七四年:2013/04/30(火) 00:59:12.71 ID:LwGVJ5MW
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落

あんなもん完全にラッキーだっただけ。元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わんいわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
569人間七七四年:2013/04/30(火) 00:59:39.00 ID:dHgzI+Qz
武田崩れって喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん
570人間七七四年:2013/04/30(火) 01:01:51.53 ID:Iw+cykW1
織田厨って信長が惨めに敗死した事実から必死に目をそらす虫けらだよね
571人間七七四年:2013/04/30(火) 01:02:08.96 ID:LwGVJ5MW
騙まし討ちと他大名混乱・分裂・弱体化につけこんだ火事場ドロばかりで領土広げてきた信長だが
光秀に騙まし討ちにされ、秀吉に織田領火事場ドロされるんだよな
因果応報とはまさにこの事
572人間七七四年:2013/04/30(火) 01:02:35.68 ID:1LsbUfm5
>>567-568
お前は無知だな
武田が織田に虫けらの如く滅ぼされたことは教科書に載っているので勉強しなおせ
単純に武田が弱すぎたから織田に瞬殺された
ただそれだけのこと
573人間七七四年:2013/04/30(火) 01:05:20.81 ID:dHgzI+Qz
>>572
お前は本当に無知だな
織田が甲江同盟持ちかけてきて武田勝頼は信じきって戦闘体勢解除してた事や、
武田が北条徳川戦で疲弊しきっていてまともに抗戦したのは仁科1000以下だけだったことは戦国遺文やら
格史料でわかる
武田は弱りきってた所を北条徳川織田と規格外の大軍で騙まし討ちにしたから離反だらけになって
棚ボタ的に火事場泥棒した。
ただそれだけのこと。
574人間七七四年:2013/04/30(火) 01:07:15.68 ID:Iw+cykW1
その弱すぎる武田に虐殺されまくった織田ってどれだけ弱いのかってことw
明智に瞬殺され秀吉に瞬殺され家康に瞬殺されたのも織田が最弱だったから

そして幕府を開いた家康をボコボコにした武田が最強に決定しました 教科書で学びましょうねw
575人間七七四年:2013/04/30(火) 01:07:56.81 ID:1LsbUfm5
>>573
人の真似キター!
まあ賢い人を真似ることは恥ずかしくないのでこれからも俺を見習えよ
少しは進歩したな褒めてやる
576人間七七四年:2013/04/30(火) 01:08:11.84 ID:dHgzI+Qz
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
577人間七七四年:2013/04/30(火) 01:09:10.91 ID:LwGVJ5MW
武田が滅んだのは織田の甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
578人間七七四年:2013/04/30(火) 01:18:08.27 ID:1LsbUfm5
だがの論理
・武田は徳川北条に攻められて弱体したからしかたがない

だがの論理を応用すると
・織田は朝倉浅井三好松永武田本願寺との戦いを続けても弱対せず全て倒した

武田と織田を比較すると武田の弱さが際立つ



追伸
>>576
ID:dHgzI+Qz は馬鹿なんだからさっきみたいに俺の真似をしておけ
長文は文章を短くまとめる力がないことを示すだけだ
俺みたいに簡潔にまとめた文章で書くことを心掛けよ
579人間七七四年:2013/04/30(火) 01:20:25.66 ID:Iw+cykW1
またバカが教師気取りだよw ケネディーはどうしたケネディーは
580人間七七四年:2013/04/30(火) 01:22:42.55 ID:1LsbUfm5
>>579
お前は本当に頭悪いな
俺はそんな話をしてない

俺のレスを読め馬鹿タレ
581人間七七四年:2013/04/30(火) 01:22:58.10 ID:Iw+cykW1
織田は運が良かったから武田が弱体化するまで生きながらえただけ
謙信が生きてりゃ織田は死亡 いわんや信玄公の寿命が数年伸びるだけで脱糞謀反死に
582人間七七四年:2013/04/30(火) 01:23:57.21 ID:pbvkhoMy
武田が最強なんて話日本の教科書で聞いたことないな。
そもそも三方が原の戦いって教科書に載ってないし。

「朝鮮出兵で日本軍をボコボコに破ったから、李舜臣は最強ニダ」

「三方が原で徳川軍をボコボコに破ったから、武田軍は最強だ」

同じにおいがする
583人間七七四年:2013/04/30(火) 01:24:03.35 ID:dHgzI+Qz
武田の場合自国に比べて敵対勢力の国力がでかすぎるもんなぁ
武田130〜150?万石で北条160〜180万石、徳川40〜50万石、織田500〜700万石
それに比べて織田は浅井朝倉と敵対した時期は徳川が武田を抑えてたし(援軍送ったのは三方が原の一時期だけ)
で本願寺は基本専守防衛で外征能力微妙
浅井朝倉は両方あわせて50〜60万石くらいのはずだが300万石くらいある織田は押されまくり滅亡寸前になった所で信玄の死と朝廷和睦で助かっただけだし
朝倉も一門連中含めて寝返りが置きまくって瓦解しただけだし
武田みたいに様々な要因が合わさっておきた弱体化、離反の嵐と一緒くたにするのはアホとしか。
584人間七七四年:2013/04/30(火) 01:26:02.73 ID:1LsbUfm5
>>583
>織田700万石
それっていつの話?
朝倉浅井とか生きているのか?
585人間七七四年:2013/04/30(火) 01:26:39.36 ID:LwGVJ5MW
武田が最強なのは徳川時代の武田軍学で言われてることだし
信長領国の大和での僧の日記だか年代記だかで書かれてるだろ
まあ一級メンバーで望んだ三方が原や、武田方が圧倒的に寡兵の上村合戦やら東美濃攻防戦みりゃ圧倒的に武田>>>織田なのは判ると思うが
586人間七七四年:2013/04/30(火) 01:27:57.75 ID:pbvkhoMy
だがに時系列の話は厳禁
徳川家康が三方が原合戦当時40万石程度の中大名だったことがバレちゃうから
兵力に任せてゴリ押しして勝った1戦を持ち上げないとね。
まあそっから武田は徳川に痛い目に遭わされまくるわけだけど
587人間七七四年:2013/04/30(火) 01:29:38.30 ID:pbvkhoMy
武田軍最強って風の噂レベルじゃん。
町人の名もない人間がでっち上げた適当な話
588人間七七四年:2013/04/30(火) 01:30:41.90 ID:dHgzI+Qz
>>584
長篠後、越前一向一揆を平定して大体500〜600万石くらいにならないか
播磨但馬とか三好残党とか備前とか中国・四国の勢力も織田方に加わりだすし
589人間七七四年:2013/04/30(火) 01:31:36.26 ID:Iw+cykW1
兵力にまかせてもなにも鎧袖一触ですやんw
しかも居城前で籠城もせず戦い挑む戦略の無さ
織田に従った家康くんも後々涙した
590人間七七四年:2013/04/30(火) 01:32:34.79 ID:LwGVJ5MW
三方が原は織田方は6カ国に与力がいる織田家で最も大身の佐久間に平手滝川前田兄水野とか
かなりの大軍だからなあ
武田は対上杉とか他方面にも兵分散してるから織田徳川のが大軍じゃね
591人間七七四年:2013/04/30(火) 01:34:31.74 ID:1LsbUfm5
>>588
>長篠後、越前一向一揆を平定して大体500〜600万石くらいにならないか
朝倉浅井の時代の話をしているのに何で都合よく話が飛んでいるんだ?
御都合主義が酷すぎるぞ
レスをしっかり読め
592人間七七四年:2013/04/30(火) 01:37:08.04 ID:dHgzI+Qz
>>591
もっとよく読め
武田の弱体化の話は長篠の後くらい〜滅亡期
織田と浅井朝倉の話はちゃんと浅井朝倉が生きてた時代の事で300万石くらいと書いてるんだが
593人間七七四年:2013/04/30(火) 01:38:08.33 ID:1LsbUfm5
>>588
>>583のレスに書いてあるが
>武田130〜150?万石で北条160〜180万石、徳川40〜50万石、織田500〜700万石
>それに比べて織田は浅井朝倉と敵対した時期は徳川が武田を抑えてたし(援軍送ったのは三方が原の一時期だけ)
お前もその辺理解しているんだろ?
594人間七七四年:2013/04/30(火) 01:40:24.74 ID:1LsbUfm5
>>592
それなら武田130〜150?万石で北条160〜180万石、徳川40〜50万石、織田500〜700万石とか意味不明なこと書くんじゃねーよ
お前が書いたことなんだから人のせいにするなカス野郎が
595人間七七四年:2013/04/30(火) 01:44:06.85 ID:pbvkhoMy
ついに史料すら持ち出さなくなったアスペルガーだが
ゴシップ誌以下のトンデモ説
596人間七七四年:2013/04/30(火) 01:45:17.29 ID:dHgzI+Qz
>>594
お前は頭大丈夫か。
だがの論理
・武田は徳川北条に攻められて弱体したからしかたがない

だがの論理を応用すると
・織田は朝倉浅井三好松永武田本願寺との戦いを続けても弱対せず全て倒した

武田と織田を比較すると武田の弱さが際立つ

武田が徳川北条織田と敵対して弱体化した時期と
織田が浅井朝倉などと敵対した時期

これがそれぞれ違うから違った時代で比べてるんだろうが

そしたらお前が>>584でなぜか織田が浅井朝倉を倒す前の時代には700万石もなかったと意味不明な主張をしたんだろうが
597人間七七四年:2013/04/30(火) 01:49:13.03 ID:1LsbUfm5
>>596
だから人のせいにした所でお前の間抜けさはどうにもならんのだがな
まあ馬鹿チンはさっきみたいに俺の文章を手本にして少しでも賢くなってくれ頼むぞ

最後に長文は馬鹿丸出しだから気をつけろよ
598人間七七四年:2013/04/30(火) 01:55:31.11 ID:Iw+cykW1
織田が三方原で家康と戦った場合

軍は壊滅して信長も死んでただろうな
599人間七七四年:2013/04/30(火) 02:36:51.71 ID:pbvkhoMy
家康に信長と戦う度胸なんてないよ
あったらとっくに離反してる
600人間七七四年:2013/04/30(火) 03:19:21.24 ID:LwGVJ5MW
度胸も糞も今川から独立したくて織田と組んでやったんだろ
松平が独立しなきゃ今川衰退の遠州騒乱も起きないだろうし
今川から独立する事捨ててまで織田を敵に回す理由がない
601人間七七四年:2013/04/30(火) 05:04:12.42 ID:pbvkhoMy
いや信玄に負けた後信長見限ればいいじゃん
信長は雑魚なんだろ?勝てないんだろ?w
602人間七七四年:2013/04/30(火) 06:01:02.72 ID:dHgzI+Qz
基本的に武士は信義を重んじるものだからな
普通に今までの同盟相手だから裏切らなかっただけだろ
武田に寝返った所で織田は苦しくなりはするだろうが徳川にとって得かどうかわからんし
603人間七七四年:2013/04/30(火) 06:07:12.19 ID:LwGVJ5MW
信長は滋賀の陣でも姉川でも信玄の西上作戦でも家康に助けられまくったからね。
家康いなけりゃ武田に瞬殺されてただろうし
604人間七七四年:2013/04/30(火) 10:28:59.82 ID:WcLDP+Sq
>>602
北条なんかは簡単に武田との同盟破棄しているが?
それも二度も
605人間七七四年:2013/04/30(火) 13:47:54.29 ID:dHgzI+Qz
一回目は今川を攻めたのでそれが北条からみて道理に反する行為に映っただけだろうし
二回目は景虎救助要請無視して景勝に篭絡されて退却して金と北信濃と上野支配権もらったから
それは北条からみれば自分との関係悪化させようとしてる行為だったってだけだろ
606人間七七四年:2013/04/30(火) 21:20:14.52 ID:41CHrx03
まあこういうことだ
織田信長=ウンコ
武田=下痢便
607人間七七四年:2013/04/30(火) 21:50:07.56 ID:CRim5XVA
過小評価じゃね?
608人間七七四年:2013/04/30(火) 23:55:17.01 ID:pbvkhoMy
>>602
信義を重んじるなら主君の今川家に仕えればいいだろw
今川氏真を盛り立て普段通り織田と戦えばいいじゃねーか
主家を見捨てて主君の城を攻囲した人間が信義ってか?w
609人間七七四年:2013/05/01(水) 00:16:28.80 ID:txbdpcxw
だいたい家康は同盟相手であり縁戚関係もあった北条をあっさり見捨てているからな
610人間七七四年:2013/05/01(水) 00:38:58.93 ID:2KmF8xa1
>>608
そら単に独立したかったってだけだろ
今川家には先代からの恨みもあるだろうし
>>609
援軍散々よこせって言ってたのに無視してたしそもそもそれは秀吉に家康が頭下げたずっと後の時期だし
北条取れば主君の秀吉見捨てる事になるし同じ事じゃね
北条の外交うまくいくよう尽力してるし
611人間七七四年:2013/05/01(水) 00:42:14.64 ID:n4lONE+T
家康が義理堅いか不義理かはどもかくとして家康が信長にビビッたとか
勇気がないとか全く根拠なしの妄想
信長が信玄にビビリまくったとか氏真や勝頼にビビリまくって攻撃かけなかったとかと同レベル
612人間七七四年:2013/05/01(水) 00:59:31.29 ID:9yzZtZec
家康は信長より強い、信長が家康と戦ったら討死していた>>598

家康にそんな度胸はない、という反論>>599

家康は今川と独立するために雑魚い織田と「組んでやった」>>600

じゃあ信玄に負けた時に信玄の味方になって織田と戦えばいい、という反論>>601

家康は信義に篤いから織田を見捨てるなんてことはしない>>602

主君を裏切った奴が信義に篤い?>>608

ビビったとか根拠ねーだろ妄想乙←NEW

なお最初の>>598が妄想であることは無視
613人間七七四年:2013/05/01(水) 20:56:58.49 ID:cfrOeSrv
信長が下痢便以下まで読んだ
614人間七七四年:2013/05/01(水) 23:00:14.66 ID:9yzZtZec
信玄らしい汚らしい例えだな
甲斐の山賊
615人間七七四年:2013/05/02(木) 03:42:11.49 ID:0H/B4PYM
織田信長の本スレはここでいいのでしょうか?

織田信長の伝記でおもしろい小説教えてください
616人間七七四年:2013/05/02(木) 07:16:15.29 ID:ousDbWyH
先ず伝記と小説は別物だという説明からしないといけないのか
617人間七七四年:2013/05/02(木) 21:34:19.24 ID:dmJBBCMW
信長厨の知能レベルはそんなもの
618人間七七四年:2013/05/02(木) 22:23:53.22 ID:EPwftrP3
>>616
おまえ友達いないだろ
619人間七七四年:2013/05/04(土) 08:41:39.63 ID:2a7DXKQ3
>>501に返答が無いので
水軍の強さのランク

毛利水軍>伊勢水軍>武田・北条水軍

ソースは第二次第三次長島及び木津川口による。
620人間七七四年:2013/05/04(土) 13:00:41.06 ID:hhH728Ol
小牧長久手で徳川水軍にフルボッコにされた伊勢の水軍がねえ…
621人間七七四年:2013/05/04(土) 21:12:14.39 ID:j+QQ/j5P
海外のサイトが選ぶ「最も魅力的な日本の侍トップ10」:海外の反応
http://asnyaro.blog129.fc2.com/blog-entry-839.html#more

もはや「NOBUNAGA ODA」はグローバルスタンダード。
外人ですらその価値を知っている。 w
622人間七七四年:2013/05/05(日) 00:15:59.01 ID:E6I/xMEX
>>618
戦国板でそのレベルは無しだな
623人間七七四年:2013/05/07(火) 22:59:02.55 ID:FjaVFht8
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
624人間七七四年:2013/05/07(火) 23:05:43.61 ID:ZDALyGLr
どうした急に
625人間七七四年:2013/05/08(水) 02:42:35.60 ID:/D7nG48G
また信玄餅が暴れてるのか
626人間七七四年:2013/05/08(水) 08:08:29.90 ID:eJN2Ubvo
マルチコピペはほめられたことじゃないぞ―。
お前も、だがと同レベルだな。
627人間七七四年:2013/05/08(水) 13:09:39.12 ID:TCbMjrZB
927 名前:人間七七四年 :2013/05/07(火) 23:07:18.40 ID:ZDALyGLr
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130507/RmphVkZodDg.html

だがさんせめてIDは変えよう
煽られて悔しいのはわかるけど

だそうだ
628人間七七四年:2013/05/08(水) 21:48:42.68 ID:eIQ6tMnS
比叡山って登山キャンプ板でも馬鹿にされててワロタ w

比叡山の千日回峰行は絶対にヤラセだよなpart1日
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/out/1366641367/
629人間七七四年:2013/05/08(水) 22:03:07.96 ID:rzaXg7b+
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだし
630人間七七四年:2013/05/13(月) 20:34:29.18 ID:wNlNdhn1
信玄餅なんか金にあかせて弱いものいじめしてただけだからな
631人間七七四年:2013/05/19(日) 09:46:45.08 ID:TsEqvZW6
新入社員 理想の上司は「武田信玄」
理想の上司を戦国武将にたとえると誰か、ことしの新入社員にたずねたところ、多く
の部隊を率いて厳しい戦いにも勝利した武田信玄を挙げる社員が最も多くなりました。

この調査は東京に本社があるシンクタンクが、ことし3月から4月にかけて東京、大阪、名古屋で新入社員およそ1200人を対象に行いました。
アンケートは武田信玄には「チーム力を高めていく」、織田信長には「絶対的なリーダー」など戦国時代の7人の武将をコメントをつけて紹介し、その中から選ぶか、別の武将の名前を挙げてもらう形で行いました。
その結果、武田信玄を挙げる社員が37.2%と最も多く、次いで「アイデアとフットワークがある」豊臣秀吉が25.6%、織田信長が10.2%、「努力して成功を実現する」徳川家康が9.6%などとなりました。
武田信玄が理想の上司という新入社員は「絶対的なリーダーではなく、1人1人の力を引き出していい組織を作ってくれると思う」とか、「個人の力を重視して働く環境を作ってくれる」などと話していました。
また、織田信長が理想の上司という新入社員は「“カリスマ性があって変化を恐れない”その姿勢が偉業を成し遂げたと思う。そうしたカリスマ性がある人についていきたい」と話していました。
調査を行った「三菱UFJリサーチ&コンサルティング」の尾畠未輝研究員は「武田信玄は部下をよく見て力を引き出す上司と見られのだと思う。上司に対してやや受け身で、かまってほしいという新入社員の姿勢も反映されたのではないか」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130515/k10014589711000.html
632人間七七四年:2013/05/19(日) 12:01:52.13 ID:ApGBaV8o
織田はカルト組織だよな。
配下になったら監視し合って
讒言で殺される恐怖支配。
633人間七七四年:2013/05/19(日) 12:53:49.26 ID:ApGBaV8o
老若男女数十万人を撫で斬り・釜茹・首摺り・磔で殺しまわりツアーするわ
京都に放火して恐喝略奪して桂川を死体で埋め尽くす・・・
西洋人の野望に気がつかず物珍しいものを貰いはしゃぐ。
戦を部下に投げ、自分は茶会・相撲・鷹狩り・神の化身とか使いといわれた鹿を一度に数百殺す趣味を大和国人に言語道断と嘆かれるなど
キチガイすぎるからな信長って。
634人間七七四年:2013/05/19(日) 14:11:37.71 ID:5H+VyJlP
635人間七七四年:2013/05/19(日) 15:00:45.05 ID:hprFj5iP
西洋では貴族の間でちょんまげが流行った

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/37/252.html

織田信長にそっくりだったイングランドの貴族がいた。
636人間七七四年:2013/05/22(水) 12:32:11.43 ID:Kca/FiF0
オウム織田教
637人間七七四年:2013/05/22(水) 17:41:14.73 ID:/d1bsKBO
俺は織田信長を神様といって勝ち気でいたのか?つーか、自分には未知の世界が好きと思える神経が自分で分からない
638人間七七四年:2013/05/22(水) 17:46:39.90 ID:/d1bsKBO
あ、信様は野心家だった(笑)
639人間七七四年:2013/05/22(水) 17:47:51.30 ID:/d1bsKBO
俺は信様は好きだけど、保護したのは明智
640人間七七四年:2013/05/22(水) 17:51:34.93 ID:/d1bsKBO
もし、未知の世界を知ってしまったら好きでなくなるのかもしれない。
641人間七七四年:2013/05/22(水) 17:55:35.65 ID:/d1bsKBO
世の動きはバランス。
経済貿易と一緒
642人間七七四年:2013/05/22(水) 18:01:38.95 ID:/d1bsKBO
弱者には優しいけど、攻撃してこないからかもしれない。
攻撃してこないのは、経済が続く上で最も重要
643人間七七四年:2013/05/22(水) 18:14:07.11 ID:/d1bsKBO
俺は一体何者なのか?
信様は人間が知らない未知の世界を知っている
644人間七七四年:2013/05/22(水) 18:39:55.61 ID:/d1bsKBO
オカルト
645人間七七四年:2013/05/22(水) 23:12:28.19 ID:cVHAqRMd
だがさん! 生きてたんだね! てっきりナマポうち切られて餓死したかと。
646人間七七四年:2013/05/23(木) 16:53:33.70 ID:AhbTbAJe
俺がネガティブなだけなん
647人間七七四年:2013/05/23(木) 17:26:59.75 ID:AhbTbAJe
信長と光秀ってそっくりやったんや。
俺と光秀はそっくりだよたぶん
648人間七七四年:2013/05/23(木) 17:46:57.58 ID:AhbTbAJe
信長はみっつーにあされた理由が分からなかったんだね。
649人間七七四年:2013/05/23(木) 17:53:06.90 ID:AhbTbAJe
なんだこれ
650人間七七四年:2013/05/23(木) 18:06:01.34 ID:AhbTbAJe
向こうは好きだけど
扱いがな
651人間七七四年:2013/05/23(木) 23:26:42.86 ID:AhbTbAJe
ノッブはあの世でキリスト帝国を築いている
652人間七七四年:2013/05/23(木) 23:30:08.08 ID:AhbTbAJe
俺が神様と言ってしまった今、あの世というキリスト帝国は存在している
653人間七七四年:2013/05/23(木) 23:31:28.69 ID:AhbTbAJe
織田信長は神様である
654人間七七四年:2013/05/24(金) 02:25:42.44 ID:BFYfXGQD
神様と言った変わりに猿にそそのかされてノブちゃんあぼん
655人間七七四年:2013/05/24(金) 02:28:42.80 ID:BFYfXGQD
だから現代まで続いたのでは?お猿さんが政権統一し、家康さんが300年近く続く幕府体制を築いた。いなくなったから、日本崩壊?
656人間七七四年:2013/05/24(金) 02:30:32.75 ID:BFYfXGQD
それでも日本が壊滅しなかったのは、俺がアメリカ作ったから(笑)?
657人間七七四年:2013/05/24(金) 02:34:41.50 ID:BFYfXGQD
アメリカがキリスト教を信じたからだろう、ワシは神様なのだからな
658人間七七四年:2013/05/24(金) 02:47:24.41 ID:BFYfXGQD
人類の中で最強なのは、人類の希望に答えたものだけ。その本質を見抜いているのは、ワシだけじゃ
659人間七七四年:2013/05/24(金) 02:52:46.04 ID:BFYfXGQD
神様はトップの人だから、常にトップ思考でトップに立つ人じゃないとダメなのかもね。
660人間七七四年:2013/05/24(金) 07:29:34.52 ID:BFYfXGQD
オダちゃんのために動かなきゃいけないの?
661人間七七四年:2013/05/24(金) 08:31:17.45 ID:W44iJUNB
ここはカウンセリングでは有りませんよ。精神科の方にどうぞ
662人間七七四年:2013/05/24(金) 20:08:46.49 ID:BFYfXGQD
あなたがいなかったら日本はダメになっていたかもしれないね
663人間七七四年:2013/05/24(金) 20:32:13.56 ID:BFYfXGQD
私は織田政権の続きが見てみたい
664人間七七四年:2013/05/25(土) 08:14:22.97 ID:hHMAr14j
捕まえておいてはなさないでほしい
665人間七七四年:2013/05/25(土) 14:55:34.99 ID:esX8KVYI
なんかパクリだらけの信長より
将軍殺したり初めて天守閣作った松永久秀の方が革新的に思えてきた
666人間七七四年:2013/05/25(土) 16:09:16.95 ID:ClA1MPzy
将軍殺しも赤松のパクリやろ
667人間七七四年:2013/05/25(土) 16:46:04.31 ID:WefcJGVz
そもそも義輝は、対三好強硬派だった自分の近習たちと、松永・三好三人衆の紛争に巻き込まれたフシが在る。
668人間七七四年:2013/05/25(土) 20:47:11.83 ID:hHMAr14j
だから私はノッブとこうやって会話をしたくなる
669人間七七四年:2013/05/25(土) 22:35:52.54 ID:hHMAr14j
パパありがとうすきです
670人間七七四年:2013/05/26(日) 16:25:17.58 ID:DzPA7y6R
「アスペと共同感覚と岐阜テッドは関係ありません」
「すべては儒教思想の影響から?」
>>641
>>642
上と下でピタッあっ/// 人間?生きる事は残酷なことだな
671人間七七四年:2013/05/26(日) 16:28:03.13 ID:DzPA7y6R
個々が持っている霊性や魂の領域を守りながら生きることが大切だな?
672人間七七四年:2013/05/26(日) 20:55:53.67 ID:DzPA7y6R
頭は前のように混乱しなくなった。今は気持ちがいい精神的
673人間七七四年:2013/05/27(月) 02:29:27.99 ID:emW/WG7w
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。
674人間七七四年:2013/05/27(月) 06:09:06.16 ID:PqjcO/n8
>>673
> この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた

> 加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性

大嘘だな。鎌倉期の西遷御家人などを見ても解るように、武士はむしろ流動性が高いし、武士自身、遠くに移ることは
むしろ当然だと考えていた。例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい、
といった信玄宛の書状なども残っている。

また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど
普通に行われていた。

戦国期は武士も百姓もむしろ流動性が高く、近世の統一性権の課題はむしろ、この社会の安定性を損なう
流動性の高さを止めることが課題だった。
675人間七七四年:2013/05/27(月) 08:36:54.76 ID:hJCbrg7g
センゴクが佳境ですぞ
676人間七七四年:2013/05/27(月) 11:09:15.99 ID:qw3IEzQO
猿・光秀・あたし・信
677人間七七四年:2013/05/27(月) 11:10:17.38 ID:qw3IEzQO
俺は経済重視、信さんと気があう光秀も好き
678人間七七四年:2013/05/27(月) 13:24:00.15 ID:qw3IEzQO
オダの神様オダの神様
679人間七七四年:2013/05/28(火) 14:11:24.24 ID:LmMOz6KD
>>674
先方衆の「転封」とは、自力で「国家」損率を保持できない先方衆に対する領国構造の政治的機能としての、
家臣化(「家中」包摂)による「家」存立の保護手段と考えるべきであろう。柴裕之

そこにとどまったのでは、お家が重税に苦しんで滅んでしまう
なので替地を要求、武田もその機に乗じて支配を強めようとした
土地に対する執着の問題ではなく、家存立の問題
百姓しかり、逃亡しか領主の税から逃れる方法が無かった

なので大嘘はお前
680人間七七四年:2013/05/28(火) 16:23:50.93 ID:p/uk9EbS
信長公は、私のボロボロに傷ついた傷を癒してくれますね
681人間七七四年:2013/05/28(火) 17:24:30.26 ID:NL44dUxg
>>679
柴裕之なんて同調している人がほとんど居ない研究者の極論を、さも定説のように言われても困るんだが。
あの人ほとんど憶測で議論組み立てるし。
682人間七七四年:2013/05/28(火) 18:01:03.51 ID:LmMOz6KD
>>681
では具体的に反論をどうぞ?
レッテルを貼るのが得意なのは分かったからさ
683人間七七四年:2013/05/28(火) 19:19:34.87 ID:NL44dUxg
>>682
> 先方衆の「転封」とは、自力で「国家」損率を保持できない先方衆に対する領国構造の政治的機能としての、
> 家臣化(「家中」包摂)による「家」存立の保護手段と考えるべきであろう。柴裕之
想像でしか無く具体的な史料も情況証拠も一切存在しない

> そこにとどまったのでは、お家が重税に苦しんで滅んでしまう
> なので替地を要求、武田もその機に乗じて支配を強めようとした
> 土地に対する執着の問題ではなく、家存立の問題
> 百姓しかり、逃亡しか領主の税から逃れる方法が無かった
重税や支配権強化なども想像でしか無い。それを一般化出来る史料も形跡も一切存在しない。
典型的な、自説に都合のいい所だけを選んだ、偏向極まる研究

これはどこまで行っても仮説の域を出ない。はっきり言えば議論のための主張にすぎない。
684人間七七四年:2013/05/28(火) 19:25:07.38 ID:8vHxMveL
>>674
勉強になります。

>例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい、
>といった信玄宛の書状なども残っている

もしよろしければ書状の日付や内容なども教えていただきたいのですが。
武田でなくても、他大名でもかまいません。
685人間七七四年:2013/05/28(火) 21:16:18.52 ID:LmMOz6KD
>>683
しっかりと推論の元はかかれてます
ちゃんと読んでから反論しましょう

貧困な農民の闘争手段としての逃亡を指摘してるのは池って奴だったかな
おまえのろくに史料も出さずに、想像だ!仮説だ!って主張、それこそ想像だな

以下具体的に批判しないなら、スルーしとくから
負け犬らしく吠えるなり、お好きなように
686人間七七四年:2013/05/28(火) 21:25:56.88 ID:NL44dUxg
>>685
だから推論の元がおかしいというのに…
本当に重税だったのか、本当に支配権の強化を目指していたのか、強化されたのか、そしてそれは一般化されるのか、
一般化されるとしたらどの範囲か。
個々の事例を自分で調べて考えたかい君は?柴氏の説に当てはまるのはごく狭い一部の事例だけだ。
それは歴史の流れとして定義できるものではない。


まあいいや。何言っても聞かないタイプみたいだからどうぞそこで勝利宣言(笑)しててください
687人間七七四年:2013/05/29(水) 00:23:08.07 ID:vXKVSOYo
なんであたしが…キレる人は怖いし苦手なの体がボロボロ…
688人間七七四年:2013/05/29(水) 00:31:46.08 ID:vXKVSOYo
>>680
きっと感謝しちゃいけないんだねそういえばそうだった.私の人生
689人間七七四年:2013/05/29(水) 00:36:26.43 ID:vXKVSOYo
なんで生きるのにこんな苦しい思いをしなくちゃいけないの?←だからといって死ねなんて言われたら、今まで苦しい思いをしてきて生きた人生は何だったの?全部パーなの?
690人間七七四年:2013/05/29(水) 04:27:09.17 ID:vXKVSOYo
信長のこと忘れないで.
691人間七七四年:2013/06/01(土) 00:11:17.44 ID:NQJ9t3Uc
6月2日は本能寺
692人間七七四年:2013/06/02(日) 18:05:13.16 ID:8nwJ/nXi
>>691
新暦だと7月1日
693人間七七四年:2013/06/06(木) 20:01:29.27 ID:29AG+zAr
どうやって中世を超克するか?
というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。

彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。

上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。

解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
694人間七七四年:2013/06/06(木) 20:41:16.37 ID:UTwY3x90
信長は一番成功した戦国大名ってことでいいんじゃない
695人間七七四年:2013/06/06(木) 20:51:28.96 ID:29AG+zAr
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。
696人間七七四年:2013/06/06(木) 23:41:00.61 ID:vjoSeDg+
三好長慶も考えていなかったことだから北条、上杉、武田、毛利みたいな大大名も考えていなかったろうよ
天下統一みたいな非現実的なことより領国経営の方がより現実的な問題だし
697人間七七四年:2013/06/07(金) 08:19:44.28 ID:GUlVQgmy
基本的に、自国経営でいっぱいいっぱいだろうし、天下統一を真面目に考え
始めたのは秀吉の様な気もする。
698人間七七四年:2013/06/07(金) 10:11:15.27 ID:qmkv4esh
そりゃそうだろ。
まともに兵站のための統治をやってるのは武田や上杉や北条だけだし、
信長は兵站に必要な人的資源である民を虐殺してまわり民力を浪費してただけ。
外交にしても対外関係を考えて宣教師を追放してりしてるの秀吉だが、
信長なんて宣教師を珍しがって厚遇してた餓鬼レベルだし、
内治のための政治すら信長はまったくしてない。ただ寄生して富や民力を吸い上げていただけ。
加増されて喜んで下向する一族郎党ってのは鎌倉幕府も後醍醐天皇側も足利幕府側もいただろアホか。
そもそも武田家から兵を借りているという形にまで進化してるのが武田家だぞ。
織田は軍制すらまったくなんにも決めてない。
織田家臣団はそれぞれ己の才覚で民を一揆参加させないよう慰撫しつつ金・兵糧・兵力を集めて敵を打倒してるだけ。
だから織田家臣団は出張先において奔走し、国衆を取りまとめ戦う。
その才覚で組織した軍事力で自勢力を作り上げたからこそ、光秀は信長を討つことを躊躇しない軍を持てたし、
織田家を蔑ろにして領国形成を秀吉や池田や丹羽らはつくることができた。
699人間七七四年:2013/06/07(金) 10:25:37.25 ID:BH5HAglz
「既得権」ってなんや

そいつらの既得権を奪った連中が新規既得権(?)をGETしただけやんけ
700人間七七四年:2013/06/08(土) 07:14:27.70 ID:g2T8U1n0
信長は自分に従った中小国人の既得権益を丸呑みしてるんだよ。
信長のやり方は革新とか革命なんてイメージとは真反対の、中世的構造を保存する形での勢力拡大
701人間七七四年:2013/06/08(土) 08:27:05.93 ID:uMSorWbD
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて 
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ 
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると 
尾張国のチートぶりを超絶賛! 
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので 
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので 
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)

また天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束したのは 
勝頼の菩提寺の建立&恵林寺の再興 
強豪である武田旧臣を味方につけたい願望とともに 
完全に織田の悪政を完全否定してますね。 
信長を否定し、武田を肯定することで 
家康は翼が生えた獅子のように強くなった。
武田家の神格化しその擁護を表明したこと。これが天下統一の足掛かりとなった。
702人間七七四年:2013/06/08(土) 08:57:42.40 ID:5c6AlZXN
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。



どうやって中世を超克するか?
というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。

彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。

上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。

解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
703人間七七四年:2013/06/08(土) 20:16:56.75 ID:6x/i+Opt
先祖伝来の土地?
武田でいうと芦田信守は軽井沢あたりから浜松に封じられてるけど?
織田でいうと秀吉や丹羽長秀なんかは随分長く長浜や佐和山を領有して、
手放してないけど、それについてはどう分析しる?
704人間七七四年:2013/06/08(土) 20:27:06.03 ID:h0FFRtEz
上杉なんかでも河田・須田・北条あたりは他国へ封ぜられてるし
武田の蘆田・内藤あたりも領土替えされてるし徳川の菅沼・平岩・大久保・鳥居も本能寺後に甲斐や信濃へ領土替えされてるしねぇ
705人間七七四年:2013/06/08(土) 20:33:29.62 ID:GMszJtbn
桶狭間の時期の信長は今川と斎藤に囲まれて滅亡間近と言われる時期だからな
いくら国力があるからといって負けがわかってる戦に参加する奴はいないからこそ3000そこそこしか集まらなかったんだろうな
1582年に滅ぼされた武田家もまともに味方が集まってくれず悲惨なことになってるし
当時の信長はそれと同等レベルの危険状態
706人間七七四年:2013/06/08(土) 20:59:24.84 ID:OmK4bDyh
そもそも第一次小豆坂の戦いや桶狭間の戦いなんて信長公記の架空話だし。
707人間七七四年:2013/06/08(土) 21:16:14.31 ID:nTn4nuUV
伊勢長島も半分架空。
708人間七七四年:2013/06/08(土) 21:22:18.67 ID:gKxvcYgi
伊勢長島はどうでもいい一門ばかり死んでるのがな
唯一重用されていた実兄の信広もかつての謀叛人だし
真相はいかばかりや
709人間七七四年:2013/06/08(土) 21:29:39.58 ID:UaPmSE0P
不思議発見で本能寺wwしかも織田信成とボビーがゲストwww
710人間七七四年:2013/06/08(土) 22:07:14.60 ID:l4AiGzEo
3000対30000では織田が機関銃今川が火縄銃なら別だが、
奇跡が起きても勝てるわけない。
711人間七七四年:2013/06/08(土) 22:25:00.53 ID:tKw5MuAF
そんな奇跡を起こしたんだから、織田信長は並の戦術家じゃないな
712人間七七四年:2013/06/08(土) 22:26:10.71 ID:gKxvcYgi
別に30000全員と戦うわけじゃないんだから。極論言えば3000人全員で大将狙って
3000 VS 3000くらいに持ち込んで勝てば残りの27000は勝手に撤退する
近代戦ならいざ知らず中世の戦いなら余裕だろ
713人間七七四年:2013/06/08(土) 22:27:08.74 ID:gKxvcYgi
>>711
まあ只者ではないのは確かやな
普通まずやろうとも思わん。失敗したら死ぬし
714人間七七四年:2013/06/08(土) 22:38:14.06 ID:l4AiGzEo
持ち込もうと思っても、今川だってぼんくらではないから思いどうりにいくわけがない。
715人間七七四年:2013/06/08(土) 22:46:15.16 ID:Bf96RgkG
>>712
>近代戦ならいざ知らず中世の戦いなら余裕だろ
戦国時代の戦を理解してからレスしてくれ
あまりにも無知すぎてレスの無駄
716人間七七四年:2013/06/08(土) 22:57:58.88 ID:5c6AlZXN
単純な話だろ
3000対30000という軍記講談ソースの妄想数字が間違ってるだけ。
今川の国力と織田の国力はほぼ互角だからそんな兵力差あるわけないし
今川は大高・鳴海方面に兵力が分散してるから下手すりゃ信長の方が兵数多いくらいだろ
717人間七七四年:2013/06/08(土) 23:00:21.10 ID:GMszJtbn
つか桶狭間の戦い自体が軍記ソースの捏造合戦だしなぜ捏造合戦の軍記ソース数字を
正しい前提でわざわざ議論する必要があるのかわかんねw
718人間七七四年:2013/06/08(土) 23:03:38.37 ID:h0FFRtEz
桶狭間の戦いは厳島の合戦や木崎原の合戦と並んで日本三大捏造合戦だからな

軍記にしかない合戦だし信長公記の記述信じるなら1551年に桶狭間の合戦があった事になりその年に今川義元が死んでることになるが実際はその後ずっと生きてる

今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからでそれ以前の今川はまったく衰退していない。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っている。また信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
719人間七七四年:2013/06/08(土) 23:21:50.76 ID:Bf96RgkG
捏造捏造と連呼されても日本の常識は桶狭間の戦いを肯定しているわけで
今川義元一人が討死したわけではなく重臣も軒並み討たれているわけで
戦の存在を否定できるようなネタは皆無というのが現状
720人間七七四年:2013/06/08(土) 23:44:06.81 ID:gKxvcYgi
>>715
中世の戦いなんて総大将が討たれたら終わりだからな。
どんな兵数揃えたところで総大将を失ったら負ける。
これは桶狭間に限らずどの戦いもそう。だから3000と30000で3000が勝てると言っている。
だから別に30000全員と戦う必要がないわけ。総大将の近辺狙い撃ちにできればそれこそ10人でも可能。

逆に近代戦では指揮系統が複雑化してるから3000で30000に勝つなら
30000全員を駆逐する必要がある。総大将だとわかる場所にいないことが多いし
総大将が死んだところで代役作って指揮することが可能だしな。
721陰謀エージェント情報等:2013/06/08(土) 23:58:58.47 ID:ab9aSSLA
世界操作 エージェント松本・村上 シークレットガバメント ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年) 工作員 集団ストーカー で検索。
722人間七七四年:2013/06/09(日) 00:20:33.27 ID:NvkRIx5V
桶狭間の捏造説なんて数年前から学会で言われてる常識だろ
一人のアホ織田厨が妄信的に信じてるだけ
さらに捏造合戦の捏造軍記兵数を元にした議論なんて何の価値もない
723人間七七四年:2013/06/09(日) 00:21:10.01 ID:80Nw9Zga
>>714

>思いどうり


小学生かwwww
724人間七七四年:2013/06/09(日) 00:22:18.95 ID:kH1qpHAn
近代にはいっても、第2次長州征伐とか、第2次白河城奪還戦とか、イタリア関連のアレとかコレとかソレとか10倍程度の戦力比をひっくり返した例はいくらでもある。
725人間七七四年:2013/06/09(日) 00:22:26.14 ID:HEBQby2Q
今川重臣戦死とかそれこそ講談のハッタリネタじゃん
一次資料で参加してるかどうかすらわからんし
726人間七七四年:2013/06/09(日) 00:27:00.18 ID:HEBQby2Q
まぁ近代戦にしろ中世戦争にしろ同じ条件の装備士気統制度の軍隊が正面衝突すりゃ100%大軍側が勝利するのは当たり前だがね
兵力差をひっくりかえしたのは相手の油断ついた奇襲か装備に差があるか指揮官の能力に差があったか
偶発的事故や不運に見舞われたか特定の条件じゃないと無理
普通の頭で考えりゃ10人と20人が戦えば20人側は20人分の攻撃を10人の方に集められるが
10人側は10人分の攻撃しか20人に食らわせられないし実践での戦力比(相手部隊へのダメージ比)4対1になる
ナポレオンの戦術とかも兵力の集中化と敵戦力の弱点をつくという兵力の数の圧倒的な戦闘にもたらず影響度を元にしたものだし
727人間七七四年:2013/06/09(日) 00:29:15.97 ID:NvkRIx5V
10倍以上の兵力をひっくり返されるのは指揮官が無能すぎるかよっぽど装備が旧式か不運があったときだけ。
そんなもんが当たり前にあったら遠征軍は毎回遠征でボロクズのように被害を出して侵攻に失敗しなきゃいけなくなるし
合戦そのものが存在しない(たとえば3000人で1000の相手の領土を占領したら自軍兵力は0に減ってる事になる)
728人間七七四年:2013/06/09(日) 00:30:04.42 ID:NvkRIx5V
合戦そのものが存在しない→合戦そのものが成立しない
729人間七七四年:2013/06/09(日) 00:36:52.28 ID:FgaCLPbe
>>722
はいはいそーすそーす
730人間七七四年:2013/06/09(日) 00:37:48.92 ID:rfD58GK5
厳島の合戦とか木崎原とかもそうだけど寡兵で大軍を破る合戦というのは捏造されて軍記や講談で
脚色されてるものばかりだからね
大体において合戦は大軍側が勝つという大原則が成立しており、中には不運な要素や指揮官の能力や油断、地形補正、装備など諸条件で
例外が存在するって程度
んで桶狭間は間違いなく厳島とか木崎原とかと同類の捏造
731人間七七四年:2013/06/09(日) 00:41:07.88 ID:NvkRIx5V
>>729
まずあなたが一次資料をもって証明すべきですね
732人間七七四年:2013/06/09(日) 00:53:59.04 ID:FgaCLPbe
>>731
まず?俺が何を主張したの?言ってごらん?w
そして学会の常識とやらのそーすを示してごらん?w
できないよねw
733人間七七四年:2013/06/09(日) 00:59:57.90 ID:hnXdbO89
ということは、桶狭間の合戦の真相は?
734人間七七四年:2013/06/09(日) 01:02:49.44 ID:NvkRIx5V
一次資料にない捏造合戦

桶狭間を信長公記基準で語るなら1552年にあった事になりその頃に義元が死んでることになるし
重臣に総大将の大名こぞって戦死したにしては崩壊が遅過ぎるし小豆坂の合戦の内容も同じように公記は捏造してる
735人間七七四年:2013/06/09(日) 01:27:47.21 ID:FgaCLPbe
誰が君の珍説を開陳しろと言った?
出せないなら黙ってろよ
ね?w
736人間七七四年:2013/06/09(日) 01:53:32.53 ID:NvkRIx5V
珍説って年代の誤った軍記基準でソースとして全く価値のならない物元にグダグダ語る糞史観のがよっぽど
珍説だろ
小豆坂の合戦の捏造は有名な話だしな
737人間七七四年:2013/06/09(日) 01:57:16.46 ID:jM8DjuU/
信長ねぇ 頭いいなと思ったのは
「その地域地域の領主はそのまんまその地位に就けて権益担保しておいた上で、今後はおまえ立場上俺の臣下な」形式の侵略を多様してたことかな
てか当時にそういう概念もってったのが頭いいね
もともとどこの地域領主だって守護やら幕府やら寺社やら天皇やらの下についてて、そこからは徴税義務課せられてた訳だ
それでも領主は領主として権益があったからやってきた
信長はわざわざそれを奪おうとしなかった
その代わりに、自分をその領主の直属上司に置くように徹底させてた

ん〜 こういう統治の仕方って俺が知らないだけで当時から一般的だったのかな?w
738人間七七四年:2013/06/09(日) 02:58:09.23 ID:FgaCLPbe
>>736
御託はいいから
ソース出せソース
739人間七七四年:2013/06/09(日) 08:02:58.92 ID:Yau6SVEm
昨日の彌助の話がおもしろかった。
740人間七七四年:2013/06/09(日) 09:15:23.31 ID:c5CdDY3/
だが=subに絡むのやめれ
放置して荒らし報告が一番だわ
コピペばっかだろこいつ
741人間七七四年:2013/06/09(日) 10:07:20.79 ID:l0mLCkc0
厳島合戦はほんとにあったが、あれは元就はほとんどなにもやってない完全な他力本願
むしろ架空妄想話なのは管領上杉と北条による河越野戦。
河越城で篭城していたとされる北条綱成なんて捏造まみれで、
そもそも今川家臣だったとされる父の福島正成からして
今川家臣団をどんだけ詳細に調べても存在しないことが確定してるし。
実際は深沢城で武田に土下座降伏してる粘りのない凡将。
伊達家の成美と同様に作られた猛将。
742人間七七四年:2013/06/09(日) 10:12:25.15 ID:l0mLCkc0
>>739
彌助のその後って下記の黒奴と結び付けてるのが面白かった。

残念ながら家久は戦場のだいぶ後ろでビビって隠れてただけ 赤星や相良の援軍が必死に戦い、
それを有馬の陸から2門、海からの2門の大砲で援護射撃して崩しにかかり
隆信が前線が崩壊して混乱してるのを見てこいと指示しただけなのを
「隆信さまがどんどん前進しろや!」と喚いて回ったために
竜造寺軍が自殺進軍を開始し完全に敗北して隆信の周りが孤立無援になってから
急いで家久が少数の兵を派遣しておいしいトコだけ盗んだ卑怯者なだけ。
しかも有馬を助けたいだけで野心はないと大ウソまでついて善人顔してた屑な人柄。
イエズス会によると 「前線にあった島津軍は膨大で、しかも優れた装備の隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流した」と島津が完全に怯えていたと記す。
そして後方へ逃げた島津3000。一方の有馬5000や赤星や相良らが島津に代わり、
前線で竜造寺と果敢に激突し、大村純忠が戦うフリをして空砲をはなって有馬に内通を開始。
陸海からの大砲の集中攻撃で竜造寺が敗走した時に 島津の川上が竜造寺兵の如く変装して
独断行動で隆信に近づき暗殺しただけ。隆信は川上を味方の兵だと誤解していた。
イエズス会は隆信を暴君と呼んで嫌っていたが島津に対してはデタラメを言うようなことはない。
島津の国主と書いたりしている。また陸上2門と有馬の老臣安富徳円の船から二門の大砲を操ったのが
隆信が不当に殺すことを命じたために大村領から逃げてきたマルチニヨというキリシタンが砲の狙いをつけ
黒奴が砲に装薬し、マラバル人が火をつけたなど細々と解説している。
もっとも跪いて手を挙げ祈祷したりする手順があったのでそれを知る人間しか大砲を操れなかった。
フロイスによると有馬氏へ天正8年に鉛や硝石を提供したりしているので大砲もこの時にもらったのではと言われている。
これにより海岸線のに展開して進軍していた竜造寺隊は崩壊逃走し一部は中央の畦道を進軍する軍へ乱入混乱が増した。
有馬隊は柵の後ろで鉄砲により応戦していた中央の赤星隊300を守るために右前方に突出した森岳に布陣し
大砲を打ち込みつつ有馬兄弟や叔父たちとともに竜造寺の槍隊に討ってでて恐れを知らなかった。
事実、隆信戦死の地とされる場所は海岸線に近い森岳前方なのである。
つまり有馬の陸海からの大砲と有馬本隊の突撃(有馬隊自体は鉄砲は使わず)で竜造寺の左翼の海岸線の部隊は
壊滅し、その敗走は中央軍の混乱を誘い、隆信は海岸線の部隊の督戦のため移動し
そこで隆信は孤立無援状態に陥り討ち死にしたとしか思えない。
ちなみに竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲も持っていたらしい。これを島津が見て恐怖したようだ。
ちなみに相良軍は13歳の忠房が疱瘡で病んでいたために有馬救援軍を的場自休が代役として率いており
竜造寺相手の先陣争いでは騎下の豊永金兵衛が奮戦したと言う。
島津が攻撃に参加したと思われるのは竜造寺が敗走した後の追撃戦のみ。
これを家久の武功だなんて主張するのは基地外のやること。
つか丸尾山方面へ向かったはずの右翼の鍋島ってこの時も兵を動かしてないように思える。
743人間七七四年:2013/06/09(日) 10:15:45.24 ID:l0mLCkc0
出兵に反対していた鍋島はこの時、隆信を暗殺すべく敵側へ内通した説も存在している。
この時の鍋島の行動は腑に落ちない。
島津方軍記には沖田畷の戦いで川上左京に隆信の居場所を教えたのは直茂だと書いてある。
沖田畷の戦い(抜粋)
此レハ偖置此処ニ又川上左京久堅ハ、軍ハ今カ花ト心得テ、我手三百余騎ヲ引テ桑原ノ陣ヲ忍ヒ出テ、
寺山カ死シタル籏ヲ奪ヒ取リ、肥前ノ軍衆ニ様ヲ替へ、陣屋々々ヲコナタコナタニ廻リ玉ヒシカ、
鍋島ニハタト行合、「如何ニ申サン、鍋島殿。某ハ士ノ身ニテ未練ナカラモ今中務殿ノ横入ニ目暮ンテ、
我身隆信公ノ御陣所ヲハタト忘レ候ヒシカ、教エ玉へ、鍋島殿」ト泪ヲ流シテ申シケル。
鍋島モ、勢ヲ見レバ薩摩勢印シヲ見レバ、肥前方、暫シガ間ハアキレ果テテゾ御座シマス。
鍋島殿運ノ尽キニヤ、大敵ノ薩摩勢ヲ味方ト心得テ我君隆信公ハアナタニ見へシ。
小松原ノ本陣ニ三十六騎ヲ御側ニ召サレ、母衣カケ武者ニテ御坐シマス。急キ参レ」ト
教エケレバ川上殿ハ鍋島カ教ニ行キ頓テ小松原ニモナリヌレバ左京モ□□□ノ中ト心得テ装束改メ
「我レヲ誰トカ思フラン。薩摩ニ於テモ、島津義久カ郎等川上左京久堅トハ我事ナリ。
此度、赤星兄弟子供カ恨ミニ太刀ヲ請玉へ」ト大音揚ケテ申シケル。隆信聞シ召サレ、
偖テハ薩摩ニ於テ家アル士カ、又ハ家ナキ士ナラバ、目下廻り首ヲ討テ」ト申シケル。
左京聞シ召サレ「偖ハ中々思ヒモ依ラン仰カナ。士カ士ヲ討ツニ、目下目上ノ差別アルマシト、
去フヨリ早ク三尺六寸ヲ抜キ持テ隆信カ弓手ニ廻リ隆信カ首ヲ水モタマラス打チ落ス。
年ヲ申セバ五十七。御側ノ三十六騎ハ此ノ由ヲ見ルヨリ、主ヲ討レテハ叶フマジト切テ掛レバ、
左京ハ隆信ヲ討チタル勢ニテ爰ヲ戦度ト戦エバ三十六騎モ同シ枕ニ討チ伏スル頓テ隆信カ首ヲ
太刀ノ切リ先キニ貫キテ本丸陣ヲ心静カニ立出テ小松原行ケバ鍋島四洲添島彼ノ両大将ハ此ノ由ヲ
一目見ルヨリ、扨テハ中々、我敵何国マデ落チ行ク。逃スナト云フヨリ早ク切テ掛レバ、
川上ハ心得クリト云フ儘ニ士卒ニ下知シテ群カル敵ヲ迫ツマクリツ爰ヲ戦土卜戦へバ、
又向敵一千余騎ハヤスヤスト打取リ仕スマシタリト云フ儘ニ陣所ヲ差シテ引テ行ク。
頓テ隆信ノ首ヲ中務殿御覚ナサレ心得タリト云フ儘ニ、小高キ所ニ走セ登リ、大音揚ケテ名乗ル様、
「肥前ノ大将龍造寺隆信ヲ川上左京久堅カ討チ取リタリ」ト呼ハレケル。

家久は豊後で勝手に豊後国王を名乗って義弘を義久に讒言しまくった挙げ句に義弘に無断で豊後から敗走し孤立した義弘は死にそうになり
恨まれて暗殺されたし息子は関ヶ原で義弘に殺されたからもう家久の家を継ぐと殺されるから継ぐ人がいなくなって
家が断絶したくらいだし。豊臣政権と結託した義弘が島津を継いでたし島津当主を継いだ義弘の息子は義久の娘を餓死させたりといろいろと酷い
744人間七七四年:2013/06/09(日) 13:11:17.60 ID:0nnwv8f1
ストーリーとしては小説でもドラマでも3千人対3万人にするだろう。
そのほうが面白いから。
直木賞作家の安部龍太郎ほどの人でも信長は財力はあったが兵の数は2500人
しかいなかったと(真相はわかっていると思うが)雑誌の座談会で語っていた。
745人間七七四年:2013/06/09(日) 13:20:49.25 ID:+D80g2z1
彌助のドラマか映画があったら見るのに。
746人間七七四年:2013/06/09(日) 13:33:40.76 ID:KNNCOdXA
>>732
「学会」で誤魔化してるだけなんだから許してやれよw
桶狭間を考察した書籍なんて腐るほどある。学会でデマ説が主流なら
デマ合戦を考察するほど皆暇じゃないし、そんなデマ合戦を大真面目に書いても
学者としての名が廃れるし売り上げも伸びんわなw
747人間七七四年:2013/06/09(日) 21:38:56.14 ID:hbcgf6fp
デスマスクってアレ本物?
748人間七七四年:2013/06/09(日) 22:56:06.24 ID:NvkRIx5V
信秀の評価が過大評価だな
信長が家督継いだときの領土狭すぎ
それを信長がどんだけ広くしたか
信秀は地方のカス大名レベルくらいでいい
749人間七七四年:2013/06/10(月) 12:43:18.46 ID:pgaj/XXY
金は持っていたからなぁ。
そしてその金を貯めたのは信秀だし、過大評価と言うほどではないかも。
まあ、戦が強かったとは思えないが。
領土の広さだけで言ったら、武田が一番じゃね?w
750人間七七四年:2013/06/10(月) 16:42:16.27 ID:Eqz+oPs0
武田信虎は本当に名君だよな
甲斐を統一して武田の優位性を名実ともに構築したし(信秀は実があっても名がなかった)
今川家と和睦同盟を結んで対外政策も充実。
北条との同盟はなかったが一進一退で北条を撃破したこともあるし諏訪氏など信濃方面の関係も良好
最後の隠居劇も不自然すぎて信虎の自作自演にすら見えるし、信虎無関係で信玄は義信と争ってるし
明らかに激しい気性の信玄に信虎が一歩身を引いて対立を緩和しきっている。
751人間七七四年:2013/06/10(月) 16:59:55.58 ID:4e0WD5Pz
桶狭間の戦いにおける騎兵運用、長篠の戦いで当時たれもが思いつかなかった3段撃ち、第2次木津川口の戦いでは途方もない大きさの鉄甲船の投入など、これら構想力の大きさは、この当時において信長以外考えついた男がたれかいたであろうか。
752人間七七四年:2013/06/10(月) 20:33:10.25 ID:+EaU7lvt
>>751
信長礼賛を装って叩かせるためのやらせのようですねw
ちょっと露骨すぎる。
753人間七七四年:2013/06/10(月) 20:34:44.46 ID:MyRSGZyY
長篠の戦いの3段撃ちはドラマや小説での話、騎兵運用も、これもお話でしょう。
754人間七七四年:2013/06/11(火) 15:14:37.07 ID:JwIw5IgG
少なくとも、映画ドラマで描かれてるような
ワンサイドゲームでは無かったらしいね。

被害者数は同数だったらしいし。

武田方か多くの武将失ったのに対して
織田・徳川方は雑兵足軽ばかりだったけど。
755人間七七四年:2013/06/11(火) 15:36:32.82 ID:1ekAd7o9
戦国時代は基本的に貫高制だしな。そもそも枡の大きさすらされてない。太閤検地の数字から適当に類推してるだけでしょ。
しかも例えば22万石として、毎年その決まった収穫があるわけない。不作豊作があるから。
更に戦国時代の戦はほとんどが略奪目的ですから、相対的に係争地は収穫が激減するんだよ。

太閤検地の数字で戦国を見ると誤解を生じやすいのはそこなんだよね。

信玄の代になって比較的情勢が安定してた甲斐と、係争地として略奪の的になった信濃や関東諸国を後年の太閤検地の数字で見て、国力が上だ下だ論じるのは全くナンセンスなんだよ。

この時代、国の豊かさというのは多分に軍事力によって保護保全されて、やっと可能だったものだったし、もちろんその軍事力を支えるのは国の豊かさであってね。それは不可分なものなんですよ。

だから貧しいけれど兵が強かった…というのは、指導層の能力とか地政学的優位というプラスの条件はあるにせよ、基本的にはありえないことなんだよね。

それから、潅漑整備がなされない平野なんてただの荒野です。
戦国が終って豊臣政権に入って、余剰になった労働力がやっとそこに従事できたわけ。で、関ヶ原の二年前まで掛かってやっと出た数字が太閤検地だから。

戦国時代の稲作というのは基本的に河川の沿岸流域や、山間の麓で急流を利用してやってたんです。平野に水田が広がる今の風景とは違う。

以上の理由で地形、河川の分布、国内での戦の頻度からを判断して、この時代の甲斐は相対的に強国だったと俺は思ってる。
756人間七七四年:2013/06/11(火) 17:58:43.21 ID:RJdYj2f8
>>755
俺も色んな本を(数冊だけだが)読んできたけど、俺もあんたの見解と同じ

・戦国期以前は湿田の占める割合が高かったかもしれない 湿田とは湿地に直接稲を
植える田で収量が低い 乏しい収穫で極貧のイメージ 冷害・長雨・日照りに見舞われ
たら即ゼロになる可能性大

・大河川は常に氾濫して流路も常に変わるので平野部は人が住めないし農業もできない。
漁業、廻船業はできるかもしれんけど 狭い微高地、高地しか利用できない
757人間七七四年:2013/06/11(火) 18:03:56.07 ID:RJdYj2f8
最近、軍事板でこのスレを立てたんだが、第一次世界大戦・第二次世界大戦でも兵士の鉄砲の
発砲率は一割程度で、しかもこれ、敵を狙って撃ってるとは限らない・・・らしい

これだったら弓矢だったらもっと数字が下がりそうだし、刀槍で敵を殺せる者も限られてくる 人は人を
殺せない・・・らしい

これでどうやって兵の強弱を計るのか? 世襲の武士や志願兵の傭兵だったら強いとか?


戦争における「人殺し」の心理学 発砲率15%について
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1370732269/

1 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 07:57:49.85 ID:???
デーヴ・A・グロスマン著 「戦争における”人殺し”の心理学」によると
第二次大戦以前での米兵の最前線での発砲率は10%〜15%であるらしい。
残りの8〜9割の人間は敵兵を撃とうとしない

その後、訓練方法を変えて朝鮮戦争での発砲率は50% ベトナム戦争では
90%以上に達したが、戦場で敵兵を殺した米兵の多くが帰還後PTSDに罹患
した

この問題について語れ
758人間七七四年:2013/06/11(火) 23:14:41.56 ID:ARg0yxYj
山間部の方が人が多くて住みやすくて平野部がすみにくかったなんて馬鹿な論文書いてる学者とか史料あるの?

尾張や畿内の石高は総じて高いし甲斐が貧しかったというのが常識なんだが
逆の事書いてる論者や史料なんて見たことないんだが?
759人間七七四年:2013/06/11(火) 23:19:59.18 ID:1ekAd7o9
いるわけねーだろタコ
760人間七七四年:2013/06/11(火) 23:27:23.87 ID:cwWzV4u7
>>757
いいアイデアがある。敵の首を持ってきた奴に褒美をあたえるんだ。耳でもいい。
761人間七七四年:2013/06/12(水) 08:48:33.63 ID:/rnb16KK
勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。
それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で
見違えるような国にしたんだよな。

織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ
武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。

武田は悪政とか織田厨が喚きまくってるが
実際に一次史料のソースを明確に出したためしが一度もなく
なにを根拠に連呼してるのか不明。

つうか武田領国って、織田領国にくれべて
一揆も謀反もほとんど起きてない。
むしろ当主権すら制限している分国法すら存在しない織田領の方が悪政だろw


信玄や勝頼の悪政で領国は疲弊したんだろ?
悪政どころが飢饉対策と洪水対策の成果が出たので
永禄6年に都留郡で洪水がおきて田畑が流される被害を最後に
毎年必ずおきていた災害記録はまったく記録されなくなります。
それどころか武田領は敵に侵攻され燃やされる心配もなく
安心して暮らせる領内となってます。

織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」

1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
762人間七七四年:2013/06/12(水) 08:54:15.35 ID:xIUWvF04
やっぱり>>755>>756は織田厨の捏造なのかw

毎回毎回史料も論文もなく懲りない奴だな
763人間七七四年:2013/06/12(水) 08:56:42.03 ID:/rnb16KK
権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。
764人間七七四年:2013/06/12(水) 10:16:44.19 ID:/rnb16KK
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
765人間七七四年:2013/06/12(水) 10:19:26.64 ID:/rnb16KK
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
766人間七七四年:2013/06/12(水) 10:23:43.96 ID:/rnb16KK
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
767人間七七四年:2013/06/12(水) 10:44:54.00 ID:/rnb16KK
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
768人間七七四年:2013/06/12(水) 10:46:45.24 ID:/rnb16KK
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
769人間七七四年:2013/06/12(水) 10:50:12.84 ID:/rnb16KK
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。
770人間七七四年:2013/06/12(水) 11:06:08.26 ID:6pvdZI4T
詳しい方、お尋ねします。

六角があっさり蹴散らされたのは、浅井との戦いや観音寺騒動の影響と聞いたことがありますが、
もう少し詳細に知りたいのですが。

あと、信長が伊勢を攻めた際の北畠や木造家・神戸家、長野家の内訌に関してはどのようなものだったのでしょうか?
771人間七七四年:2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw
どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が
天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。
仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には
義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。
信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。
志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし
信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
772人間七七四年:2013/06/12(水) 11:23:50.63 ID:/rnb16KK
三好長慶が前年7月に死去していて、六角は畠山と合流して反抗を企てており
永禄8年正月には六角義承禎が丹波で蘆田越前と萩野(赤井直正)を調略したから
至急丹後へ出兵するように若狭武田氏に書状を出してるし
2/20には実際に丹後で行動を開始してる。
8/2には萩野が久秀の弟の内藤備前(松永長頼)を討死させて六角側が丹波を三好から奪回。
これで御前立てが確立し覚慶を甲賀和田城から野州郡矢島御所に移して義秋と名乗らせてる。
ちなみに和田氏は将軍御供衆で六角高頼の子である高盛の子であった景盛が養子に入っていて
義昭の脱出は彼と朝倉氏が協力していた(甲賀和田氏の一族は尾張内にも佐治・池田・前田系がそうだと言われてる)
永禄9年8月に信長がビビって上洛戦を取りやめたあとに、三好軍がやってきて六角内の義昭上洛派が破れ
義治と三好による六角政権の専断という事態に発展し
これに対して六角重臣義昭派が反撃し、永禄10年4/18に義治を屈服させて
六角氏式目の発布で分国法を強制させ義治の領主権の大幅後退を強要させた。
六角氏が内紛し弱体化したのは信長が上洛を取りやめたことで、
まとまっていた六角氏が再度、政治闘争時代に逆戻りし
三好の後援で重臣を従えたい義治と六角重臣が再対立したから。
信長の永禄11年の上洛戦開始前も六角氏配下の和田氏など甲賀衆が信長と連絡を取り合っていて
言続卿記によれば9/11に信長と義治を支援するためにやってきた三好軍の石成友通が激突し
石成ひとりの為に織田軍は互角の戦いを強いられ、双方が美濃、京へ退却。
12日に観音寺城からの内応を得て再度織田軍が再出撃し
精鋭が篭る和田山を迂回し観音寺からの攻撃の危険性を無視して
義治の箕作城を電撃奇襲し義治が甲賀へ脱出し上洛に成功。
(愛智川で織田と対峙する最前線の和田山城に義治の精鋭が入り、
反義治の重臣達は和田山守備から外され観音寺城に篭り、義治がいた箕作城とは峰続き)
信長公記はこの辺りのことを丸々隠蔽してるわけだ。
関が原の時に西軍に味方しない義郷を殺すと近江がまとまらなくなると言って拒否した際に
義郷は近江の舊主(旧主)という言い方をしている。
義治との対立軸に義秀→義堯→義郷が近江の舊主として六角重臣のまとめ役にいるのは明らか。
773人間七七四年:2013/06/12(水) 12:08:12.83 ID:6DRwQuG5
長篠の戦いと技術革新って関係ある?
774人間七七四年:2013/06/12(水) 12:09:25.93 ID:pggBP+b4
そーだねーw
775人間七七四年:2013/06/12(水) 13:46:48.28 ID:U+USiE8G
>>773
いわゆる長篠の戦いである設楽ヶ原の戦いに関しては技術的なものは一切関係ない。
それ以前の武田軍による長篠城攻めなら、徳川方が飛距離の長い最新式の鉄砲を揃えて防衛していたフシがあるので
少し関係有る。
776人間七七四年:2013/06/12(水) 14:56:00.36 ID:/rnb16KK
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
777人間七七四年:2013/06/12(水) 14:56:57.54 ID:/rnb16KK
合議制は六角が重臣に強要されたり、
斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚と
義龍や晴信や輝虎が合議制の導入。
また今川義元が雪斎の意見に従い合議制を導入。
北条も合議制導入。
秀吉の五大老制移行も合議制。
伊賀や大和や摂津や和泉も国人のコミュ二ティー間の合議。
信長は盲目的に封権制を推進し、
時計の針を逆にしようとしたから時代の空気に殺された。

一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
778人間七七四年:2013/06/12(水) 14:59:24.38 ID:/rnb16KK
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
779人間七七四年:2013/06/12(水) 15:02:28.36 ID:/rnb16KK
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
780人間七七四年:2013/06/12(水) 15:05:29.81 ID:/rnb16KK
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に天下の儀の主権者となった朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に荘園返却すると破産する信長が勅命を破って比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…
781人間七七四年:2013/06/12(水) 15:07:03.42 ID:/rnb16KK
略奪する場所がなくなり資金難大犯罪集団織田軍

永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
782人間七七四年:2013/06/12(水) 15:45:54.98 ID:pggBP+b4
そんななのに天下を手に入れたのか
やっぱすげえな信長
783人間七七四年:2013/06/12(水) 18:06:21.47 ID:2cy/uTPl
>>755
>>756
>>761

飢饉は甲斐だけの話じゃなく日本全国たくさん起きてるからね。特別甲斐が貧しかったなんて根拠はない。

武田が毎年国境を越えて戦ができたのはそれを支える原資がないと絶対に無理なんだよ。
だから甲斐は相対的に豊かだったと思ってる
784人間七七四年:2013/06/12(水) 18:58:26.46 ID:Os+MGh8p
武田は敗北者でだがは社会の落伍者、これ普遍の事実
785人間七七四年:2013/06/12(水) 22:20:36.95 ID:I4uN+b8L
>>754
ワンサイドゲームだったんじゃないの?
その後の武田軍はそれまで押しまくっていた徳川相手に防戦一方になっているし
織田軍も越前と東美濃にすぐ大軍を動員しているからほとんど損害なかったと思われ
しかも秋山を見殺しにしている
損害が大きすぎて援軍送れなかったんだろうね
786人間七七四年:2013/06/13(木) 00:10:31.55 ID:Cc+pUMBM
>>783
いやだからソースはって聞いてるんだけど
お前の妄想に興味はない
787人間七七四年:2013/06/13(木) 12:16:00.74 ID:rHkTlPby
>>785
はいはいお前の妄想願望はいらんからアホ乙
788人間七七四年:2013/06/13(木) 19:04:27.25 ID:qOXDjh6M
実際織田徳川は半年も経たないうちに攻勢に出ているしなあ
大損害受けていたらあり得ないことだよ
また信長公記でも前代未聞の大勝利みたいに書いてある
他の戦いではここまで激賞していない
織田徳川の損害はほとんどなしで一方的に武田軍が虐殺されたのは間違いないでしょ
789人間七七四年:2013/06/13(木) 21:17:00.89 ID:f+CfCaBx
実際は武田軍6000に野戦で大敗し、
陣城を築いていた家康のところに逃げ込んだのが織田軍。
その後、撤退する武田軍の尻に噛みついただけ。
790人間七七四年:2013/06/13(木) 21:34:19.20 ID:0p9U7KPR
尻に噛み付かれただけで山県・馬場・内藤とかいう固まってた愚将が死んだのか、ためになったわ
791人間七七四年:2013/06/13(木) 23:30:34.24 ID:aBg2pSJr
村上ごときに武将を何人も討たれたスペランカーだらけの武田軍だぜ?
尻に噛みつかれたショックで逝っちゃった武将が出るくらいわけないよw
792人間七七四年:2013/06/14(金) 01:10:16.06 ID:MePe9DMv
山縣や馬場が長篠で討死したとする一次史料は? 
すでに学術論文では、馬場美濃守討捕の感状である武家雲箋収録の7/20付の信長→岡三郎宛書状写も 
研究の余地ありと偽文書指摘されてるくらいなんだけど。墓とかも史料的根拠ゼロだから。 
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、 
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。 
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、 
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で 
名の有る者の戦死者はまったくいない。 
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも 
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて 
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。 
「穴山信君、武田信豊、小山田、甘利、諸頭がつつがない」と 
一条信竜、小原宮内丞、三浦員久らの質問に勝頼が返信してる。 
勝頼の側近団を中心とした改編がなされてたと見るべきだろう。 
真田の家督に昌幸を送り込んだりと勝頼派閥の形成があったのだろ。 
謙信から景勝への移行でも側近団の大異変が起きてるように、 
前当主家臣団と新当主家臣団への移行は一次的に家の弱体化が起こる。 
外征を控えて内政に集中し、掌握に務めていたから奥平離反とかあったわけだし 
んでも、山県の最後は采配を口に咥えたままだったって言う逸話は好きだけどね。
793人間七七四年:2013/06/14(金) 01:13:03.64 ID:MePe9DMv
有名武将が畳の上で死ぬより、壮絶な死に方したほうが大衆受けするし 
実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、 
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、 
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、 
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。 
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。 
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。 
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、 
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、 
山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。 
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れたとしか思えない。 
だからこそ信長は深く追撃することを恐れてさっさと帰っていった。 
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。 
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。 
信玄政権から勝頼政権への移行で、構造改革があって引退してるんじゃないか? 
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。 
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、秋山のことは引き寄せてから今日、 
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと 
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。 
実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、 
信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど 
天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、 
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、 
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
天正3年4/16の内容は>644に書いてあったんだな。その文書に昌幸が登場する。 
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
794人間七七四年:2013/06/14(金) 01:23:52.56 ID:HCNszZnu
オカルト?
795人間七七四年:2013/06/14(金) 01:30:40.13 ID:cK/63bn/
yes
796人間七七四年:2013/06/14(金) 04:51:12.34 ID:OaMEP+Jp
どっちにせよ武田軍が弱兵ばかりなのは変わりないからね
重臣の秋山を見殺しちゃうし高天神の岡部も織田信忠が
大軍連れて清洲に出向いたのがよほど嫌だったのかこれも見殺し
信長で言えば敵にビビって奮戦中の明智や柴田を見殺しにするようなもんだしなw
797人間七七四年:2013/06/14(金) 06:23:44.38 ID:TnLmljJ4
ひでーな武田って…
798人間七七四年:2013/06/14(金) 08:29:20.71 ID:FPiBJTms
岩村城が落城するとは思ってなかったから勝頼は家康への対応を優先してたら
岩村を落とせず苦戦した織田が秋山へ和睦交渉詐欺で会談に臨んだ秋山を捕縛して磔にしたんじゃねーか>>359
高天神は>>315
長篠の戦いは
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
799人間七七四年:2013/06/14(金) 10:16:22.03 ID:MIw8QqGe
信玄餅の妄想もここまでこじらせていたのか
どうしてこうなるまでほっておいたんだ……
800人間七七四年:2013/06/14(金) 10:21:47.92 ID:cTRtnyPR
織田は朝廷に自軍有利と捏造宣伝活動してた北朝鮮並み民度。
801人間七七四年:2013/06/14(金) 13:02:00.06 ID:OaMEP+Jp
秋山がボロクソに勝っていたら織田軍との和睦交渉なんてやる必要ないもんなあ
「雑魚の織田軍が必死に嘆願してきてらw」って捨て置けばいいものを
大体武田家臣の癖に織田の当主の言うこと聞くとか立派な背信行為じゃねーかw
あわよくばそのまま織田に鞍替えしようと考えていたんだろうな
出なきゃ和議なんて無視して速攻織田軍潰して信忠の首取ればいいだけだしw
802人間七七四年:2013/06/14(金) 14:36:57.91 ID:oCzHQNXk
>>798
半年以上も包囲されて落ちないと思っていた勝頼はバカだと言いたいのか?たがは
803人間七七四年:2013/06/14(金) 19:51:22.99 ID:s8w/dXsV
和議って撤退する時に追い討ちをかけられることを怖れて申し込むもんだからな。
北畠に破れた織田が信雄を人質に出して和睦して撤退した時もそう。
こう言った和議の席に裏切り騙す卑怯者は織田か、島津ぐらいだろ…
804人間七七四年:2013/06/14(金) 19:54:25.24 ID:i5nPPHB6
だがの常識は一味違う
805人間七七四年:2013/06/15(土) 10:20:21.84 ID:w3FDH/ou
まー秋山は信長が息子でも人質に出すと思って城から出てきたんだろうな。
関東では和睦交渉で騙すなんて武士として恥ずかしい行為なんてなかったからな。
上方は信用できないってよく書かれたりするのも、こういう道義を弁えない輩ばっかりだからだったからだろう。
806人間七七四年:2013/06/15(土) 12:32:51.81 ID:VPvG4HaT
息子を人質に出すと思いのこのこ行ったら殺されました

ただの山猿ですわw
807人間七七四年:2013/06/15(土) 14:45:04.58 ID:jvB/2LnR
そもそも信長の息子は秋山が岩村城を落とした時に攫って行っただろw
それでも戦争を辞めなかった信長からさらに息子を人質に取る気でいたのか?w
なに秋山は信長の息子達を武田で集める作業でもしてたの?w
808人間七七四年:2013/06/15(土) 15:05:40.17 ID:Sb+CK7/W
寵童集めか…
男に飢えた信玄かw
809人間七七四年:2013/06/16(日) 01:04:29.20 ID:X3rIN0S1
信忠はまあ早く終わらせたかっただけで
あのままだったらどの道秋山たちは餓死して終わりだったろうし
810人間七七四年:2013/06/17(月) 02:13:29.47 ID:BVu/XxHF
信玄餅の家臣らしい浅ましい武将だわ
秋山虎繁ってやつは
811人間七七四年:2013/06/20(木) 03:08:03.04 ID:uFulUU05
>>674
>>例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい、
それって「任地近くに新規の給地を宛がってほしい」って書状じゃないのか?
ちょっとした事で人夫の徴発も叶わないからその手のおねだりをするって事は、戦国〜桃山時代にはよくある話だけど。
江戸時代にもその名残は残って、大大名が江戸近くに小規模の所領を貰う例は沢山ある。
それまでの所領と差し替えでそう要請する武士は、中々例がないと思うが?
812人間七七四年:2013/06/20(木) 23:42:43.69 ID:oHb86/l9
遠江高天神城を武田家直轄領にするため
小笠原信興衆に甲府で屋敷地を与えた上で、
現在の富士市にある駿河下方に1万貫で移封。
高天神城将に岡部元信が選ばれ、
その寄子や同心衆へ高天神の周囲を中心に駿河や遠江に知行を武田家より与える。
813人間七七四年:2013/06/20(木) 23:55:59.82 ID:6IE7KsRk
>>812
ソース元の史料は?
後、これ以外に
>武士自身、遠くに移ることは
>むしろ当然だと考えていた。例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい
>また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど
>普通に行われていた。

>戦国期は武士も百姓もむしろ流動性が高く、近世の統一性権の課題はむしろ、この社会の安定性を損なう
>流動性の高さを止めることが課題だった。

の具体例は?
814人間七七四年:2013/06/21(金) 09:35:36.83 ID:54PCCJ2J
やはり当時名高い、謙信、信玄と信長指揮の下、合戦して討ち破らないと島津には
及ばないよなー直接対決避けた信長の戦略勝ちだけど。。。
815人間七七四年:2013/06/21(金) 13:49:01.79 ID:wxwwJgrQ
直接対決()
816人間七七四年:2013/06/21(金) 13:54:30.45 ID:wIyTmbya
信長って直接対決で信玄と謙信にボロ負けして滅亡寸前に追い込まれたじゃん
三方が原や手取川のメンバーからみて明らかに織田方は大軍だし
817人間七七四年:2013/06/21(金) 14:31:55.59 ID:wxwwJgrQ
滅亡寸前()
818人間七七四年:2013/06/21(金) 16:11:14.27 ID:MTYpVEr9
>>812

さっさと>>813に答えろよ
819人間七七四年:2013/06/21(金) 16:24:13.54 ID:bYFmBY3m
>>818
必死にごまかそうとしてるんだからあんまおいつめてやるなw
またコピペ嵐を始めるぞそいつ
820人間七七四年:2013/06/22(土) 03:10:37.44 ID:ol0GPR2h
織田が死なせた武将達一覧

赤瀬清六、佐々隼人正、千秋四郎、山口取手介、
土方彦三郎、織田信益、岩室長門守、梶川平左衛門、山県源内、
宇野弥七、朝日孫八郎、波多野弥三、近松豊前、神戸伯耆、
神戸市介、野村越中、森可成、織田九郎信治、青地茂綱、
尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎、織田信興、
坂井政尚、浦野源八親子、氏家ト全、平手汎秀、長谷川橋介、
佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、林新次郎、賀藤次郎左衛門、
前波吉継、織田信広、織田秀成、織田信成、織田仙丸、
織田又六郎、織田信次、織田信方、織田信直、織田久三郎、
織田清長、原田直政、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、
丹羽小四郎、万見重元、織田信家、真鍋七五三兵衛、沼野伊賀、
沼野伝内、野口、小畑、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、
矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、
村田吉五、森乱丸、森力丸、森坊丸、小河愛平、
高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、
大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、
伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、
祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、
湯浅甚介、小倉松寿、湯浅甚助、小倉松寿、津田又十郎、
津田源三郎、津田勘七、津田九郎二郎、津田小藤次、菅屋九右衛門、
菅屋勝次郎、猪子兵介、村井春長軒、村井清次、村井作右衛門、
服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、
下方弥三郎、春日源八郎、団平八、桜木伝七、寺田善右衛門、
塙伝三郎、種村彦次郎、毛利新介、毛利岩、斎藤新五、
坂井越中、赤座七郎右衛門、桑原助六、桑原九蔵、逆川甚五郎、
山口小弁、河野善四郎、村瀬虎、佐々清蔵、福富平左衛門、
小沢六郎三郎、土方次郎兵衛、石田孫左衛門、宮田彦次郎、浅井清蔵、
高橋藤、小河源四郎、神戸二郎作、大脇喜八、犬飼孫三、
石黒彦二郎、越智小十郎、平野新左衛門、平野勘右衛門、水野宗介、
井上又蔵、松野平介、飯尾毛介、賀藤辰、山口半四郎、
竹中彦八郎、河崎与介、村井新右衛門、服部六兵衛、水野九蔵
821人間七七四年:2013/06/22(土) 05:03:30.66 ID:jVCqmaCc
公記は嘘ばっかとか言いつつ引用しちゃうだがおじさんって…
822人間七七四年:2013/06/22(土) 09:33:31.69 ID:5xspctLN
信長や秀吉の血液型がわかる方法がある。
信長は血判状2枚 
秀吉は血判状を1枚書いている。
信長の場合は優勢な本願寺に泣き土下座していた時に
顕如様へ土下座血判状を出してる。
結局、朝廷には逆らえないということで石山から顕如は出たが
息子の光如が篭城を続けたために、信長は光如への土下座を開始。
その際に土下座血判状をまた出している。
相次いで朝廷から矢継ぎ早に説得が入ったために光如もさすがに・・・と立ち退き同意。

秀吉の場合は光秀を倒した後に
細川家との同盟を結んだ時に血判状をだし、織田家乗っ取りを開始する。

この血判状を調べれば彼らの血液型をしることが可能である。
823人間七七四年:2013/06/22(土) 19:08:13.55 ID:GA8eAT9B
信長の家督相続時の石高は、織田好きの人に言わせると15万石そこそこ。
織田嫌いの人に言わせるとチート尾張一国+斉藤との同盟+交易収入だそうですが、どちらが正しいのですか?
824人間七七四年:2013/06/22(土) 19:52:22.06 ID:9+sytj6s
前者じゃないと家督相続時のgdgdが説明できんので前者が正しいっぽい
825人間七七四年:2013/06/22(土) 20:10:20.66 ID:5xspctLN
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
826人間七七四年:2013/06/22(土) 20:11:13.76 ID:5xspctLN
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
827人間七七四年:2013/06/22(土) 20:12:36.59 ID:5xspctLN
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
828人間七七四年:2013/06/22(土) 20:13:15.67 ID:5xspctLN
織田厨はバカ無知だから相手すんなwどうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。
仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
772 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:23:50.63 ID:/rnb16KK
三好長慶が前年7月に死去していて、六角は畠山と合流して反抗を企てており 永禄8年正月には六角義承禎が丹波で蘆田越前と萩野(赤井直正)を調略したから
至急丹後へ出兵するように若狭武田氏に書状を出してるし 2/20には実際に丹後で行動を開始してる。
8/2には萩野が久秀の弟の内藤備前(松永長頼)を討死させて六角側が丹波を三好から奪回。
これで御前立てが確立し覚慶を甲賀和田城から野州郡矢島御所に移して義秋と名乗らせてる。
ちなみに和田氏は将軍御供衆で六角高頼の子である高盛の子であった景盛が養子に入っていて
義昭の脱出は彼と朝倉氏が協力していた(甲賀和田氏の一族は尾張内にも佐治・池田・前田系がそうだと言われてる)
永禄9年8月に信長がビビって上洛戦を取りやめたあとに、三好軍がやってきて六角内の義昭上洛派が破れ
義治と三好による六角政権の専断という事態に発展し これに対して六角重臣義昭派が反撃し、永禄10年4/18に義治を屈服させて
六角氏式目の発布で分国法を強制させ義治の領主権の大幅後退を強要させた。六角氏が内紛し弱体化したのは信長が上洛を取りやめたことで、
まとまっていた六角氏が再度、政治闘争時代に逆戻りし 三好の後援で重臣を従えたい義治と六角重臣が再対立したから。
信長の永禄11年の上洛戦開始前も六角氏配下の和田氏など甲賀衆が信長と連絡を取り合っていて
言続卿記によれば9/11に信長と義治を支援するためにやってきた三好軍の石成友通が激突し
石成ひとりの為に織田軍は互角の戦いを強いられ、双方が美濃、京へ退却。12日に観音寺城からの内応を得て再度織田軍が再出撃し
精鋭が篭る和田山を迂回し観音寺からの攻撃の危険性を無視して義治の箕作城を電撃奇襲し義治が甲賀へ脱出し上洛に成功。
(愛智川で織田と対峙する最前線の和田山城に義治の精鋭が入り、
反義治の重臣達は和田山守備から外され観音寺城に篭り、義治がいた箕作城とは峰続き)
信長公記はこの辺りのことを丸々隠蔽してるわけだ。関が原の時に西軍に味方しない義郷を殺すと近江がまとまらなくなると言って拒否した際に
義郷は近江の舊主(旧主)という言い方をしている。義治との対立軸に義秀→義堯→義郷が近江の舊主として六角重臣のまとめ役にいるのは明らか
829人間七七四年:2013/06/22(土) 20:17:30.86 ID:5xspctLN
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江?関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
830人間七七四年:2013/06/22(土) 20:26:48.87 ID:nLv544Xu
公記批判に佐々木哲先生ですら取り入れるその悪食ぶりには感心するよ、本末転倒すぎてな
831人間七七四年:2013/06/22(土) 20:39:03.23 ID:GA8eAT9B
>>824-830さん。

出展元がよくわからないので参考文献と史料をお願いします。
832人間七七四年:2013/06/22(土) 21:31:19.04 ID:9zTc7EGJ
1自分で探せ
2こんなのもわからないのか
3コピペ
4だんまり

はてさてだがはどれを選ぶだろう
833人間七七四年:2013/06/22(土) 22:30:30.82 ID:cFhRYSda
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
834人間七七四年:2013/06/22(土) 22:33:13.57 ID:cFhRYSda
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
835人間七七四年:2013/06/22(土) 22:37:52.14 ID:cFhRYSda
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
836人間七七四年:2013/06/22(土) 22:49:25.91 ID:nLv544Xu
腐すことありきで様々な資料軍記から都合のいいとこ取り節操なしの意見ばかりだから誰にも同意してもらえないんだ

というかまず人に読ませる文章じゃないしな。小学校出てるのか?読点ぐらい打ったらどうだ
837人間七七四年:2013/06/22(土) 22:57:20.39 ID:cFhRYSda
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に天下の儀の主権者となった朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に荘園返却すると破産する信長が勅命を破って比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…
838人間七七四年:2013/06/22(土) 22:57:28.55 ID:N3ZsTMGD
>>832
>3コピペ
いつもどおりゴミ投下で見事な負け犬の遠吠えを披露するアスペルガーだが
839人間七七四年:2013/06/22(土) 22:58:02.15 ID:GA8eAT9B
すみません。織田好きの人と織田嫌いの人両方にいってるつもりなのですが、

>信長の家督相続時の石高は15万石そこそこ。
>織田嫌いの人に言わせるとチート尾張一国+斉藤との同盟+交易収入

これがそれぞれわかる文献や史料は何ですか?
他スレでも全くそれぞれ自分の主張を押し通すだけで全く会話が成立していないのでどちらが正しいのかきいてるのですが
840人間七七四年:2013/06/22(土) 23:03:24.33 ID:cFhRYSda
合議制は六角が重臣に強要されたり、
権臣との抗争が原因で大友義鑑や斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚と
宗麟や義龍や晴信や輝虎が合議制の導入とカリスマ性発揮による指導。
また今川義元が雪斎の意見に従い合議制を導入。
北条も合議制導入。
秀吉の五大老制移行も合議制。
伊賀や大和や摂津や和泉も国人のコミュ二ティー間の合議。
信長は盲目的に封権制を推進し、
時計の針を逆にしようとしたから時代の空気に殺された。
841人間七七四年:2013/06/23(日) 00:28:53.48 ID:TbzAw19B
>>839
公記の相続後の動員兵数からの逆算
842人間七七四年:2013/06/23(日) 00:34:00.13 ID:naizlDPZ
えー、そこで散々馬鹿にした公記準拠ですかw
843人間七七四年:2013/06/23(日) 00:42:44.25 ID:TbzAw19B
信憑性がないと馬鹿にしてるのは上でコピペしてるバカぐらいだ
844人間七七四年:2013/06/23(日) 01:13:20.14 ID:tNBgnkpe
たしかに信長は後見役の平手や林にまでも愛想をつかされた無能暴君だったから
義龍により尾張半分取られたから動員数が減るのは理解出来る。
845人間七七四年:2013/06/23(日) 07:35:36.90 ID:naizlDPZ
その説は興味がありますね。義龍の尾張攻めの感状や支配を裏付ける書状などあったらぜひ教えて下さい。
846人間七七四年:2013/06/23(日) 09:02:24.03 ID:ix0X6JlF
ID変えただがだから相手にせん方がいいよ
847人間七七四年:2013/06/23(日) 09:48:21.57 ID:naizlDPZ
わざとだよ、わざと
848人間七七四年:2013/06/23(日) 11:28:12.73 ID:6319HPOM
信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
849人間七七四年:2013/06/23(日) 16:13:18.84 ID:3ypH3cyw
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1385107418
              
          ↑
これは明らかにデタラメが書かれていますか?それとも何か裏付け史料がありますか?
850人間七七四年:2013/06/23(日) 16:24:29.60 ID:C2MQo52C
推測だな
851人間七七四年:2013/06/23(日) 17:42:43.95 ID:TB/nq3Zz
852人間七七四年:2013/06/23(日) 21:29:44.23 ID:PC2ww4+G
その「だが」に文句付ける前に、ご自分の知識も披露なさってはいかがかな。
853人間七七四年:2013/06/23(日) 23:51:46.96 ID:TbzAw19B
だがらしい発言だw
お前は知識をひけらかしたいからコピペしてんのかw
854人間七七四年:2013/06/24(月) 16:58:58.63 ID:vw3WTzMi
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
855人間七七四年:2013/06/24(月) 17:00:22.76 ID:vw3WTzMi
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
856人間七七四年:2013/06/24(月) 18:17:44.68 ID:vw3WTzMi
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。
むしろ歓迎してたのは明らか。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。

濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
857人間七七四年:2013/06/24(月) 22:00:44.48 ID:IbmGJYwB
>>853
コメントもできない無能なのはよくわかった
858人間七七四年:2013/06/24(月) 23:53:28.06 ID:jfHobSCi
自分の主義主張の説明もできないのがだがというのもわかっただろう?w
859人間七七四年:2013/06/25(火) 12:41:02.84 ID:L61Daxya
>>812

いいからさっさと>>813に答えろよ

いつまでも待たせてんじゃねぇよクズ
860人間七七四年:2013/06/25(火) 13:03:22.05 ID:jWf4+/oE
>>859
それ書いたの俺じゃねぇけど
信玄の葬儀が行われた天正4年の時のだろ。
上から3行目までが11/11付け書状だろ。
下2行が天正5年2/7〜2/9にかけての一連の書状じゃん。
こんな初歩中の初歩で簡単にわかるもんにソース求めるとか(笑)
ド素人にあいうえおの書き方から手取り足取り教えてやらんといけないのかよw
こんな無知っぷりじゃ議論に参加しちゃいけないレベルだろ。
もうちょっと基礎知識レベルを上げてから参加しようねボウヤw
861人間七七四年:2013/06/25(火) 13:32:39.32 ID:L61Daxya
>>860
じゃそれ以外に

>武士自身、遠くに移ることは
>むしろ当然だと考えていた。例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい
>また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど
>普通に行われていた。

>戦国期は武士も百姓もむしろ流動性が高く、近世の統一性権の課題はむしろ、この社会の安定性を損なう
>流動性の高さを止めることが課題だった。

の具体例は?
862人間七七四年:2013/06/25(火) 13:33:32.83 ID:jWf4+/oE
>>837
天皇は東大寺大仏燃やしたことに激怒して信長に決勝綸旨を渡して義昭上洛を支援したからね。
もちろん各地の奉公衆が決起して三好軍と戦うなど側面支援をしてたし。
足利幕府が保護してくれていた失われた荘園の奪還を公家や寺社は義昭を報じた信長に期待して全力支援していた。
しかし信長は裏切って私利私欲に走った悪人だった。
863人間七七四年:2013/06/25(火) 13:37:35.54 ID:jWf4+/oE
>>861
だから俺が書いたんじゃねぇよカス
だいたい地下人の逃亡なんて戦国期の常識じゃねぇかよ。
定められた石高に応じた安定収入に基づく軍役賦課のために
住人の逃亡を禁じて身分の固定をしたのは秀吉だろうが。
864人間七七四年:2013/06/25(火) 14:32:10.90 ID:0DBVga1L
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。
加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。
信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。 天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。
どうやって中世を超克するか?というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。
彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。
上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。
解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
信長の広範長駆に渡る大規模軍事行動と、上杉や武田を比較されてもね。
先月摂津に居た兵が今月には伊勢長島に居る。次は東海道か北陸か中国か、そんなことがやれた奴は他に居ないんだよ。
ある程度大国化したとき 再編統合するシステムが無ければ、運用も指揮系統も相当煩雑な手間がかかる
信長がやった最大の仕事はこういう問題の整理統合だよね。兵農分離なんて嘘だけど、そこを目指してたのは明らか。
その点、他の戦国大名は所詮国人連合の盟主の域を出てない。行動範囲も拘束期間もどうやっても越えられない限界がある。
865人間七七四年:2013/06/25(火) 14:40:28.25 ID:jWf4+/oE
>>864
気持ち悪い。そもそも九州の大友や中国の毛利のもともとの出身地が相模国なのも知らんのか。
宇都宮家なんて九州や四国に分家がある7ほど繁栄してた。
つか武田や上杉や北条みたいな軍事整備の革新がなされていない
866人間七七四年:2013/06/25(火) 14:41:32.78 ID:jWf4+/oE
もっとも後進的な織田軍ではもっと無理
867人間七七四年:2013/06/25(火) 21:13:30.95 ID:JJR8/l57
>兵農分離なんて嘘だけど、そこを目指してたのは明らか。

目指していたというソースを出してくれ
868人間七七四年:2013/06/25(火) 22:07:57.60 ID:PjTj6ghX
戦国時代とは何かと一口に言ったら、武装した農民国人が不足気味の食料や新たな利権確保のために大名を担ぎ立てて続いた内乱状態。
大名の中にはそれを束ねうる有能な人物も何人か居たが、信玄謙信ほどの者でさえそのために肉親を切った。
本当に戦国を体験するというのはそういうことなんだよね。大名の好き勝手に戦をしてたわけじゃない。
近年では研究が進んでてさ。本当に信濃は貧しかったか?というね。
戦国時代にはまだまだ潅漑が進んでなくて、耕作面積がずっと小さかった。稲作は川の周辺地域や山岳の麓の高低差の水利を利用した場合で行われていた。
そう考えると広大な武蔵野が穀倉地帯になったのは後北条氏の治世が安定したもう少し後のことなんだよね。

なぜ謙信と信玄はあれほど川中島で鎬を削り合う必要があったか?その視点で地形を見ると答えは明らかなんだよ。
戦国の戦とは平野をめぐる争いというより河川をめぐる争いだったということが。

太閤検地や徳川時代の数値をちょっと一律割引で戦国時代の石高を考えると結構間違うよ。
潅漑の整わない時代には平野部の多くは荒野だった。人々は稲作のしやすい河川の沿岸や、高低差の水流を利用しやすい谷合に水田を作り集落を築いた。
戦国大名の経済力を計る最も有効な方法は平野面積より領有河川の多さだと最近思ってる。
警戒されまくった島津は太閤検地でも江戸時代の検地でも
石高ではなく籾高で実態の倍で計上されて参勤交代などの費用負担が通常の倍だったとか。
逆に毛利は実高が意外の多いことが発覚しても広島藩を超えるのは問題があるということで
石高は実態よりも低く決定されて参勤交代の負担が軽く金を貯める余裕ができた。
これにより蓄えた金が倒幕運動で利用されたとか。
土佐なんて
太閤検地では10万石弱だったのに江戸初期には20万石に。

2,30年で全国で300万石ぐらい増えとるのう。
869人間七七四年:2013/06/25(火) 22:11:32.52 ID:PjTj6ghX
太閤検地が唯一の基準であることは間違いない。
ただ多くの抜け穴目こぼしがあったし、単純に盲信することはおかしいと思うわけ。
土佐のような例は潅漑整備の遅れた奥羽では地域丸ごとで発生してるし、甲州枡なんて特殊な話もある。
そもそも戦国終盤のクライマックスである1560〜70年代と、80年代からちまちま始まって関ヶ原の二年前、1598年にやっとこ終了した太閤検地の結果をまんま同等に見ること自体が無茶苦茶。

桃山時代から江戸時代初期というのは太平の恩恵で急成長した時代ということを念頭に入れるべきだ。

武田と信濃諸氏との抗争での動員記録、信濃支配をほぼ確立した後の武田の動員力を見るに、言われるほどの貧国とは俺は思わないね。
何を基準に貧国というかは主観だから議論するつもりはないが。
むしろ平野部の耕作面積が広がった江戸期に入ると、伸びしろの少ない信濃は相対的に貧国化したと見るのがごく自然です。
870人間七七四年:2013/06/25(火) 23:50:56.61 ID:lu6cigdD
口臭法度之次第
各恩地之事自然雖有水早両損不可望替地随其分量可致奉公雖然於于抽忠勤輩者似合地可充行之
871人間七七四年:2013/06/26(水) 09:32:54.13 ID:0CjpnzDI
山岳地域ゆえ日照時間が少ないどころか雹が降るほどの冷夏が頻繁だったり、
治水技術が無いと、上流ゆえに河川が狭く流れが早いために河川大洪水の勢いが激しく育てたもんや家財がぜんぶ流されたり、
しかも流路が変わってしまい、
その都度、土地所有権で争い戦乱。
そもそも水路水源は争奪対象で争いの主因で地域戦乱と密接で、
要害堅固の地も多く国人の活況と国内不安定の元。
良い面ばかりでない。
しかも平地と違い斜面での農業は日照方角が限定的で水を持ち込むことに難儀するし、
この時代は崖崩れ対策の補強等の技術なく台風や地震などの被害に無力。
基本的に自然災害が頻繁してるのは甲斐や信濃や越後。
872人間七七四年:2013/06/26(水) 09:49:31.41 ID:0CjpnzDI
むしろ平地部は現在と違い沢や沼や池や丘陵地が多く、
関東ですら大湿原地帯も多くあり下総など場所によっては小舟で移動する地域すらあった為に、
水不足自体が存在しない地域もあり、
水源争いの一揆的結合国人や惣村による割拠が発生しなかったために地域混乱要因は少なかった。
平野部ゆえの安定日照時間と山岳地域とは違う比較的安定的環境が維持された。
洪水対策にしても、実は北条氏は全くやっておらず、
この時期の関東などは水害がそれほど深刻でなかったことが証明されている。
また固い土壌の山岳地域と違い、
平野部では比較的保水力のある土壌のため極度の干ばつが起きない限り農作物の収穫が保障されていたために二毛作や季節ごとに麦を植えたりのローテーションをやる必要性もなかった。
実際、甲斐のように干ばつ被害が多発する地域では麦なども植える餓死対策は必須だった。
873人間七七四年:2013/06/26(水) 10:42:30.52 ID:0uEWuECY
>また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど
>普通に行われていた。

これの具体例はどんなのがあるの?
874人間七七四年:2013/06/26(水) 15:58:20.78 ID:0uEWuECY
北条が洪水対策やってないとか凄い妄想だな
あの時代の大名としてしかも低税率の大名でありながらかなり大規模な治水工事やってるんだが
875人間七七四年:2013/06/26(水) 18:13:01.81 ID:ryND/NSu
北条jは民間で治水やりたいと申し出てすら許可制にしとるくらい
基本的に自力救済の放置政策だからなぁ。
876人間七七四年:2013/06/26(水) 18:31:06.78 ID:uiONzrgf
許可制が自力救済とか頭わいてるのか?
877人間七七四年:2013/06/26(水) 21:43:07.44 ID:n85QlNob
上杉や武田の侵攻で民を守らず
すぐ籠城する北条だかんな。
そりゃ民は自力で守る以外に道ないよな
878人間七七四年:2013/07/02(火) 12:58:21.68 ID:NgwXgPdF
北条が対上杉武田で篭城したのは関東諸侯が皆謙信の下にはせ参じ迎撃にでる戦力の整わなかった第一次越山と
駿河方面に戦力を集中させてたため、国内に十分な兵力のなかった信玄の小田原の時だけ。
戦力が十分にない状況で野戦をせず篭城戦するのは戦略の基本なので>>377=馬鹿
879人間七七四年:2013/07/02(火) 13:15:13.71 ID:HCbxY6uD
それは小田原城に籠城した時限定で話してるだけじゃないかw
謙信の越山で一度でもガチで決戦して薙ぎ払い、
籠城してた友軍を救援したことなんて無いだろ。
880人間七七四年:2013/07/02(火) 13:28:38.91 ID:NgwXgPdF
戦闘狂と自分から進んで決戦しようとするアホはいないし
北条と上杉の間には常に木戸・深谷上杉・梁田・由良・長尾・富岡・佐野・小山などがいて
謙信と北条はそれぞれこれらを攻撃してたから決戦にならなかっただけです
881人間七七四年:2013/07/02(火) 13:55:58.74 ID:JQrPbQuU
プッw
モノは言いようだなw
いつも篭城してる友軍を見捨てて
氏政が敵前逃亡してただけじゃねぇかw
882人間七七四年:2013/07/02(火) 14:11:39.52 ID:z+EtltV4
氏政の時期とでいうと完全に関東の騒乱は氏政の勝ちだな
天正2年に北武蔵の羽生・深谷領を上杉が放棄し北条が奪取
同時期に下総の最重要拠点の関宿領を北条が陥落
翌年から北条方は上総の里見・下野の榎本・小山領を攻撃するようになり
6/26榎本城陥落、8月からは上総に進出し上総土岐や正木を救援し
謙信もこの動きに対して越山するが、結局小山城は北条方が陥落し、翌年には
里見領に侵攻し両酒井氏を服属させ天正5年に長南武田氏を服属させて11月に里見との和睦を成立
房総半島も北条によって平定されてる
謙信も天正4年まで例年のように越山してきてる(天正2年は2回)が結局北条との攻防に敗れ関東を全てといっていいほど失ってる
883人間七七四年:2013/07/02(火) 14:38:56.75 ID:JQrPbQuU
>>882
それ謙信が負けたんではなく、厩橋北条の裏切り行為が元凶だから。
甲相同盟が崩壊したのも厩橋北条のせいだし。
基本的に勢力図が大きく変わる原因は上野国最重要拠点の厩橋北条の行動如何に関わる。
こいつは後北条や佐竹からも加増を受けているなど油断ならぬやつ。
謙信が佐竹との間がおかしくなったのも佞人表裏と怒ってるほどだし。
884人間七七四年:2013/07/02(火) 14:55:49.66 ID:NgwXgPdF
厩橋北条が北条の関宿・深谷・羽生攻撃や下総・下野・上総進出の時期に裏切ったなんて事実はない
885人間七七四年:2013/07/03(水) 12:46:14.74 ID:KS2htism
天正2年 4/15 由良攻撃により利根川対陣 北条氏政が本田(埼玉県川本町)へ逃亡。
      11月佐竹義重が北条と内通しており、謙信激怒し帰国ついでに由良攻撃。
天正3年 10月沼田衆が由良氏と戦闘になり、謙信出馬し由良攻撃するも北条軍が来ず撤退。
天正4年 越中平定 放生津や伏木浜ら重要港湾都市を手に入れる(府内・柏崎の直轄化並みに重要)

なんつーか北条は割と何にもやってないよな。
ただ単に由良氏の金山城が異常なまでに堅固すぎてウザイだけで。
まぁ毎年、城下を焼き払われてる由良氏が気の毒としか。
これで北条の勝ちとかw
つか謙信は義昭の命も聞かないといけないし。
886人間七七四年:2013/07/03(水) 14:42:30.67 ID:Wp/aPnu8
このたび越山し利根川を越えて、氏邦の鉢形城を始め松山、成田、忍城、深谷城ことごとく城下を焼き払い、
再び利根川を渡り由良の金山に陣取りました。
関宿で善重が同陣するのでと言うので相談してから、
金山より足利や佐野など数カ所の敵地を無理やり押し通り放火し、
小山まで打ち破りやってきました。
義重が兼ねての約定のように同陣の際の相談で、
敵陣へ押しかけ勝敗を決するべきところ、
敵陣が城を構えて塀門以下まで作り上げていたのと、
それにも増して利根川の大河を隔てていたので、
義重が同心して河を越えることを断る。
佐竹家中は表裏の者共で依怙を計って構え謙信の意見に任せてくれない。
そこで謙信は佐竹に関宿は任せました。
まだ義重は年若いので謙信の意見を認めない。
謙信は各々、弓矢を成さねばならない地で戦おうと申し断り、
関宿は佐竹に任せて、謙信は単独で義氏様の御座所の古河並びに北条衆のいる栗橋や館林など5カ所の敵城を無理やり押し通ることを重ねて、
利根川を渡り、騎西城を始め少輔城、岩槻城らことごとく武蔵の敵地を暴れまわりました。
887人間七七四年:2013/07/03(水) 14:59:22.71 ID:hYu57xVz
>>886の続き

これによって武蔵、上野、下野を40日余りに渡り堂々と押し歩いて回っていたと言えども、驚くことに昨日までにただの一度でも敵の旗を見ることはありませんでした。
呆れることに北条衆は陣城の外へは一騎どころか1人たりとも出てくる武者はおらず隠れているばかり。
〜省略〜
義重の言葉は朝言ってたことが夕には変わっていて誠実さが無い。
義重は若くいろいろ調整もあるので表裏があると言うより、
これはもう佐竹家中が原因で、家中の表裏が筆舌に尽くし難いもんで、
謙信の誠意も届かないのでしょう。
なお重ねて相談して決めたことがあればまた伝えます。
芦名盛氏殿へ
888人間七七四年:2013/07/03(水) 15:10:54.35 ID:hYu57xVz
その口で敵の表裏に乗られてしまうのは、
綿を使ってゆっくり首を締められるようなものです。
女性と言えども御分別するところ。
〜省略〜
このたび義重が考え違いをしたことを、
ただいまも後悔しています。
さりながらいよいよ打ち変わるのは難しいとのこと〜省略〜
宇都宮広綱の局へ(義重妹)

関宿が落ちた理由は佐竹義重と宇都宮広綱が懇望したからなのは義氏から由良への書状に書いてある。
889人間七七四年:2013/07/03(水) 15:46:16.48 ID:KS2htism
>>888
佐竹&宇都宮コンビって馬鹿だよな〜。
天正4年に義昭の求めに応じて武田や毛利と同盟し石山本願寺と和睦して
上洛戦を開始した謙信に対して
佐竹&宇都宮は天正5年3月に援軍要請してんだもんw
越中から帰国した謙信が仕方ないので5月に超瞬間的に由良攻撃して顔は立ててやったが、
すぐ帰り七尾城攻めに出撃し能登平定。
謙信の怒りを悟った佐竹や宇都宮は今度は直接頼まずに結城氏に天正6年正月そうそうに
援軍要請をしてもらう間抜けぶり。でも謙信死んじゃうし。
関宿さえ北条に差し出せば常陸や下野は安泰になると思ってたんだろうねwwwんなわきゃねぇよw
890人間七七四年:2013/07/04(木) 16:34:46.13 ID:PnikgRVW
まぁそんなザコレベルの義重にすら負けるのが氏政クオリティだからね。
元亀3年12/26に皆川広照の救援で氏政が佐竹・宇都宮と諸家中(なす・小山・結城・田村)と対陣したものの
29日の夜中に多功h原で大敗し数千人を失い、氏政はたった1騎で岩村まで休まず逃亡し九死に一生を得てる。
謙信の場合は絶対負けると悟りひたすら戦を回避しまくり逃げ回る氏政も
佐竹なら勝てるかも?と思って挑戦を受けている辺り、当時の実力差がわかるね。
まぁ織田よりは佐竹の方が強いね。織田は北条より弱いんじゃないかね。滝川がボロ負けしてるくらいだから。
なんせ川尻は国人に殺される弱さだし、森は落ち武者狩りにビビって現地の人質まで利用して逃げてるヘタレだからな。
織田の弱さは筆舌に尽くしがたいわ。
891人間七七四年:2013/07/05(金) 07:20:46.90 ID:7mzbpgAB
江戸時代に徳川が辛酸を舐めた、武田、織田をヨイショする風潮だったみたいだしねぇ
吸収してった家臣が有能だけだったんじゃないのか。
892人間七七四年:2013/07/05(金) 08:43:47.79 ID:tReuQgyc
所詮政治的な事情ありきだよ
893人間七七四年:2013/07/05(金) 13:50:23.97 ID:4D8D6k39
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。
894人間七七四年:2013/07/05(金) 16:23:00.64 ID:tReuQgyc
武田と関係のない小幡のほら吹きで誕生した軍学に名前だけ使われた甲州流っすか
いくら織田でもそんな恥さらしはできないっすよ
895人間七七四年:2013/07/06(土) 17:03:21.74 ID:BQvbE2F+
将軍からも天皇からも天下一と称せられた織田
外人のフロイスをして英雄と言わしめた織田

奈良のど田舎のクソ坊主が恐れた?
武田軍の略奪を恐れたんだろ?w
実際年貢とれねえええええええって言われるぐらい、武田領国は貧困に喘いでたからなw
896人間七七四年:2013/07/06(土) 17:10:05.28 ID:ZVoRCR2+
その古今無双の名将〜の勧修寺晴豊の書状はあくまで
綸旨案であって実際には再考された結果、送られてない。
しかも実際に出された同日付けの万里小路書状では
露骨に馳走しろとか書かれてるしwww
万里小路宛ての女房奉書では誠仁親王の元服費用を織田から取れ!
信秀も御所の御事を他と違う御事だと認識していたとか書かれてるように
信長にリップサービスして金を取ろうと考えた結果の下心からのマンセー言辞でしかない。
だから他者と比較して信長がスゴイと言った表現ですらない軽薄さ。
しかも実際には再考され出されてない。そして女房奉書の如く元服費用だせと同日付けの万里小路も直球で信長宛て添え状出してる始末。
897人間七七四年:2013/07/06(土) 17:29:46.21 ID:BQvbE2F+
それはだががよく言ってた妄想だけど、おまえだがか?w
898人間七七四年:2013/07/06(土) 17:51:35.85 ID:ZVoRCR2+
妄想じゃなくて事実だがw
妄想書いてるのはお前だろアホ
899人間七七四年:2013/07/06(土) 23:21:59.34 ID:BQvbE2F+
やっぱだがかよw
だろうなー、こんな妄想マジでいうんだからw
きゃんきゃん吠えとけ
誰か相手してくれるまでw
900人間七七四年:2013/07/07(日) 10:27:34.52 ID:fpYsqFXl
>>895
お前、ウソつくなよ
901人間七七四年:2013/07/07(日) 21:33:25.74 ID:HWdz1nLi
まー実際、家康が味方してくれなかったら信長なんて速攻滅亡してたしな。
軍鑑でも家康を先鋒にしていたら武田は信長潰して上洛していたって
書かれていたくらい家康の強さは武田上杉の次に強かったと考えられていたしな。
902人間七七四年:2013/07/07(日) 22:10:31.28 ID:eehFXxPU
甲陽軍鑑が徳川上げ、ついでに武田上げのでっち上げだとやっと理解したか。
903人間七七四年:2013/07/08(月) 12:38:02.61 ID:hM3zlbdH
まあ、何を言っても滅ぼされたのは武田だしね。
904人間七七四年:2013/07/08(月) 15:42:18.44 ID:yjXzQ76t
死人に口なしってやつだな
家康や小幡に体よく利用されるだけ利用された
武田信道は虐待レベルの扱いを受けるし
905人間七七四年:2013/07/08(月) 23:47:27.51 ID:9yfIddAX
尾張半国から750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将

甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や謙信とはレベルが違い過ぎる
906人間七七四年:2013/07/08(月) 23:54:29.01 ID:BMSylsXc
>>905
勝ちきれなかったり、負け戦は多かったけど。
それは他の大名も同じだし、30年?であれだけ版図を広げたのは、他の大名と比べて凄いよな。
907人間七七四年:2013/07/09(火) 01:01:57.60 ID:ov98JdDi
>>905
デタラメ過ぎてワロタw
相変わらず在日織田チョン気持ち悪い
908人間七七四年:2013/07/09(火) 01:05:33.22 ID:Jk/HrIxp
>>907
具体的にどの辺が?
尾張でチート継承したとするお前のレスは見事に論破されてる
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1312513363/l50
909人間七七四年:2013/07/09(火) 08:11:53.98 ID:CYfw36Jc
チョン
910人間七七四年:2013/07/09(火) 08:12:16.48 ID:R7lqjHoj
>>907
そのデタラメと言う根拠を出さなかったら、ただの負け惜しみ。
拡張だけなら誰にも負けないだろ。
911人間七七四年:2013/07/10(水) 00:27:14.36 ID:tGxd94/p
信長ってなんであんなに斉藤攻略で苦戦しまくったの?
義龍はおろか10歳そこそこの龍興(内紛騒ぎで統制ガッタガタ状態)に何回も負けてたと思うんだけど
美濃って地勢的にそんな攻め込みにくい所じゃないでしょ
木曽川さえ超えてしまえばあとは盆地だし稲葉山城なんて6回くらいは落ちてるし
912人間七七四年:2013/07/10(水) 00:47:40.01 ID:ouNsePy5
負けていたというのも信憑性の低い信長記にしか書いていないことだから本当かわからん
織田方の主だった武将もあまり死んでいないし
他の苦戦した戦い(志賀の陣、長島など)では結構死んでいるのにね
わかっているのは徐々に斉藤を追い詰めていったことだけだな
913人間七七四年:2013/07/10(水) 00:53:14.37 ID:tGxd94/p
具体的にどこをどう追い詰めてるの?東美濃の一部が丹羽のおかげで寝返ったくらいでろくに戦果もなかったはずだが。


1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数(義昭による六角義秀・斉藤・織田・徳川・北畠共同上洛作戦が
信長の裏切り斉藤攻め奇襲で失敗し、激怒した三好に近江矢島御所を攻められた義昭は若狭を経て越前へ逃亡・六角義秀失脚)
914人間七七四年:2013/07/10(水) 00:56:49.82 ID:tGxd94/p
加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城・犬山城とか内通と自落でおちてるだけだし
信長は何もやってないような
ただ幼君で統制がぐらついてただけじゃないの?
クーデターまで起こってたし
915人間七七四年:2013/07/10(水) 01:05:18.60 ID:ouNsePy5
まただがのソースなしの妄想か

>美濃は尾張半国を取っている

そこからあっという間に挽回した信長は天才だね
つーかこれ見て快川和尚が嘘をついていると考えないのか?
916人間七七四年:2013/07/10(水) 01:13:35.94 ID:tGxd94/p
妄想と言われても、中島文書とか、信長公記とか、いろいろみりゃ書いてるじゃんよ
917人間七七四年:2013/07/10(水) 01:33:04.45 ID:5W8dmZtE
そんな負けてたら次々自落や寝返りがおきたりしないっつーの。
森田氏は不景気だったとか妄想をデッチあげてるが、どこにもそんな史料ないし
斉藤が織田に勝ったとかほとんど信憑性の怪しいハッタリ喧伝書状がソース元で
それをそのまま事実かのように語るのはどうかと思うわw
918人間七七四年:2013/07/10(水) 01:33:43.18 ID:ouNsePy5
>>916
うんつまり尾張の半分取られてもそこからあっという間に挽回した信長は天才だと言いたいんだね?だがは
919人間七七四年:2013/07/10(水) 01:36:48.87 ID:ZQ0GNPAI
森田君はなんて論文でそういう主張してるのかな?
920人間七七四年:2013/07/10(水) 01:52:26.25 ID:Q4i9cCHV
既出の話題だろうが、なんで織田氏って庶流まで織田姓を名乗れていたのだろうか?

どの家が主家でどの家が庶流なのかさっぱりわからない 当時も同じだっただろう
921人間七七四年:2013/07/10(水) 08:29:30.21 ID:w76iDFaF
当時は解っていたでしょ。
今と同じに考えるとややかしいと思うだけで、家臣にも名前を与えたりしてい
るし、それで解らなくなったらその時代では成り立たないのでは?
基本的に当時は家名を名乗るわけでもないし。
それはそうと、信長の織田家って、本当に織田の庶流だったのだろうか。
922人間七七四年:2013/07/10(水) 10:20:58.98 ID:lvEiqlDW
織田厨は否定するに足る根拠をまったく提示せずに
事実を受け入れたくない感情だけで否定する池沼
923人間七七四年:2013/07/10(水) 10:25:58.48 ID:QNIlTfge
言い負かされてまた勝利宣言か?だがよ
924人間七七四年:2013/07/10(水) 10:35:37.04 ID:lvEiqlDW
>>923
で、否定するに足る一次史料はまだなの?
925人間七七四年:2013/07/10(水) 11:00:04.51 ID:QNIlTfge
他の史料には尾張半分取られたなんて書いていない
はい論破
926人間七七四年:2013/07/10(水) 11:03:48.35 ID:lvEiqlDW
>>925
はいはい根拠なしの動物的脊髄反射乙w
927人間七七四年:2013/07/10(水) 11:05:37.49 ID:QNIlTfge
だかのいう根拠は自分にとって都合のいいものだからわからないのも仕方ないか
928人間七七四年:2013/07/10(水) 14:12:44.98 ID:dOWgBkG8
>>917
斎藤は強かったけど不景気だから自落したってのも、よくわからないよね。
戦乱の世の中にあって刈田狼藉とか日常茶飯事なんだから
金がなければ弱い織田が支配する尾張から分捕ればいいのにね。
斎藤は織田をけちょんけちょんに破っていたとしたら、織田のドル箱を奪うくらい楽なもんだろうに。
929人間七七四年:2013/07/10(水) 14:49:57.31 ID:N4V1/NAk
結局信長が斉藤にたくさん負けた理由は、本人の指揮能力の問題?
それとも負けたっての自体が斉藤の捏造?
930人間七七四年:2013/07/10(水) 17:30:44.15 ID:0bCPcN39
織田方が負けた云々はたしか信長公記に書いてあったと思うし敗戦したのは間違いないと思うが
931人間七七四年:2013/07/10(水) 20:48:33.94 ID:dOWgBkG8
敗戦って言ってもピンキリだからね
武将をズバズバ討ち取られて総大将が供回りすら不足する状態で逃げ回ったのも
兵卒足軽がちょっと討たれて、こりゃマズイかなって慎重策を取って撤退したのも
そもそも本気で戦う気力がなくて、向こうがやる気だったから攻めるの辞めましたって言うのも
全部「敗戦」扱いだからね。
932人間七七四年:2013/07/10(水) 21:09:34.28 ID:tGxd94/p
それで信長の斉藤攻略はどれなの?
幼君で内紛ガタガタ統制になり、降伏や自落するものばかりだった割には
結構時間かかったように見えるけど
933人間七七四年:2013/07/10(水) 21:56:26.01 ID:FDe3JxKr
織田家も内紛ガタガタという事情を抱えてたから
934人間七七四年:2013/07/10(水) 22:27:57.13 ID:QNIlTfge
>>932
信清を粉砕してから三年ほどなのでそんなに時間はかかってないと思うがな
935人間七七四年:2013/07/11(木) 00:58:19.73 ID:L5bgEPaO
美濃ってガタガタと言っても60万石近くあるからね
短期間で60万石奪取した大名なんて数えるほどいるかどうか
936人間七七四年:2013/07/11(木) 01:07:01.59 ID:4+7tuRGY
美濃は尾張より小さい54万石だし
加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城・犬山城とか内通と自落でおちてるだけだし
信長は何もやってないしただ幼君で統制がぐらついてただけ。斉藤はクーデターまで起こってたし

しかも後半になると浅井や甲賀衆まで援軍で送られてくるし

あと織田の内紛ガタガタという事情って一体なんだ?
公記にも諸資料にも全くない妄想言われても困る
937人間七七四年:2013/07/11(木) 01:20:56.69 ID:3HUjJ8Be
54万石あるうち、信長が実質相手にしてたのは10万石くらいじゃないかね
ほとんど抗戦意欲なしで自落・内通ばかりだったし国内でクーデターまで起きてたし
まともに戦える状態じゃなかったんだし
938人間七七四年:2013/07/11(木) 01:40:10.51 ID:vEKzHi3t
森田君の論文はいつでてくるの
939人間七七四年:2013/07/11(木) 11:25:43.03 ID:gFF5Iy62
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
940人間七七四年:2013/07/11(木) 11:26:13.35 ID:gFF5Iy62
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
941人間七七四年:2013/07/11(木) 11:27:01.37 ID:gFF5Iy62
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
942人間七七四年:2013/07/11(木) 11:29:37.55 ID:gFF5Iy62
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
943人間七七四年:2013/07/11(木) 11:31:04.55 ID:gFF5Iy62
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
944人間七七四年:2013/07/11(木) 11:33:20.42 ID:gFF5Iy62
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。
945人間七七四年:2013/07/11(木) 14:14:31.32 ID:gFF5Iy62
合議制は六角が重臣に強要されたり、
斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚と
義龍や晴信や輝虎が合議制の導入。
また今川義元が雪斎の意見に従い合議制を導入。
北条も合議制導入。
秀吉の五大老制移行も合議制。
伊賀や大和や摂津や和泉も国人のコミュ二ティー間の合議。
信長は盲目的に封権制を推進し、
時計の針を逆にしようとしたから時代の空気に殺された。

一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
946人間七七四年:2013/07/11(木) 14:15:06.24 ID:gFF5Iy62
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
947人間七七四年:2013/07/11(木) 14:16:11.24 ID:gFF5Iy62
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
948人間七七四年:2013/07/11(木) 18:28:18.57 ID:LMyGfZ1A
しかし愚主信長、キチガイ信長では今川を破り、尾張・美濃の大大名になることは
ありえないのだが。
949人間七七四年:2013/07/11(木) 18:30:09.68 ID:L5bgEPaO
その前に織田信勝に負けて死んでるだろう
950人間七七四年:2013/07/12(金) 12:31:14.58 ID:JGCPhoI6
おまえらホント信長好きだなw
951人間七七四年:2013/07/13(土) 00:05:24.68 ID:F4RVPBJC
信長公記には織田信清は1564年頃まで反信長で行動して反旗を翻してたみたいに書かれてるけど、
これって本当なのかな?
確かにこれが本当なら信長の斉藤攻略がもたついた理由になる気はするけど
952人間七七四年:2013/07/13(土) 03:35:07.56 ID:5kcMdXfU
もともと織田信清自身がよくわからない人物だからなあ
「織田信長に従ってた」けど、「いざこざを起こして信長と敵対した」と言うこともあるけど
そもそもこの「織田信長に従っていた」というのは勢州軍記で岩倉織田氏と敵対した時に信長を援助したと言う
今一つ信用に欠ける史料だから「反旗を翻した」という表現がそもそも異なる気もする。

織田信清の実親である織田信康が、織田信秀に従軍して加納口で戦死していることもあるが、
信長公記や言継卿記を見ても、織田信康の死後に残った織田信清らとのつながりが今一つ見えてこないんだよな
逆に織田信秀存命期から織田信清は反抗的だし、なんか成り行き上信長にしぶしぶ従ったけど、やっぱ嫌だって感がする
953人間七七四年:2013/07/13(土) 09:39:49.52 ID:LZ8SLiMx
信清に信長を裏切るようにと斎藤家から催促されていたと思えば
不思議でもなんでもない
954人間七七四年:2013/07/17(水) 18:56:58.43 ID:bzJhljni
信長はずっと勝ってきた
955人間七七四年:2013/07/19(金) 18:21:07.86 ID:XvJfRcGw
>>954
捏造歪曲の信長公記の知識しかない厨にはそう思えるねW
かわいそうに。公記と共に溺死しろ。
956人間七七四年:2013/07/19(金) 19:53:03.58 ID:yHsBxHlt
信長公記は一部を除いてほぼ完璧に正確な記述。

信長研究論者からそう扱われてる
957人間七七四年:2013/07/19(金) 19:58:10.73 ID:Q4V/nQPz
信長公記は全頁に渡って捏造なのが今や定説
そもそも「是非に及ばす」ってセリフを一体誰が聞いてたというの(笑)
958人間七七四年:2013/07/19(金) 20:04:54.63 ID:yHsBxHlt
残念ながらそんな珍説誰も主張してない
959人間七七四年:2013/07/19(金) 21:42:38.00 ID:a6SiWS5m
信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328637941/
960人間七七四年:2013/07/19(金) 22:49:01.50 ID:yHsBxHlt
>>959
お前の立てた糞スレなんか何のソースにもねらねぇよw
961人間七七四年:2013/07/19(金) 22:51:44.39 ID:3G8iBWPg
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1312513363/l50

アホだがが大論破されて大逃亡してるw
962人間七七四年:2013/07/20(土) 05:54:01.94 ID:xnHMoabx
信長の子孫は覚醒せず
一代で飛躍しただけ
963人間七七四年:2013/07/20(土) 07:26:03.67 ID:1n0+nuCc
信長公記基準で見ても斉藤やら長島攻めやらで負けまくってるじゃん
964人間七七四年:2013/07/21(日) 05:38:00.98 ID:2yjKk427
局地的に負けまくっても、ほとんど天下統一寸前までいったんだから
全体では圧倒的に優れていたんだろうな信長は
965人間七七四年:2013/07/21(日) 07:48:16.14 ID:7/5Cthcr
超絶ブラック企業で働いた超優秀な秀吉や光秀や池田や丹羽らの人々によって経営能力ゼロを言い渡されて謀殺された信長とその一族織田…
966人間七七四年:2013/07/21(日) 08:46:29.55 ID:FiApP0AG
しょせん御輿にすぎなかった。
967人間七七四年:2013/07/21(日) 23:34:37.81 ID:u6cn4nEj
尾張半国からわずか20年で750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将

甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や謙信とはレベルが違い過ぎる
968人間七七四年:2013/07/22(月) 11:30:56.63 ID:EoqzpDR/
>>967
デタラメ乙
969人間七七四年:2013/07/23(火) 20:49:37.62 ID:IBQDdgiy
信長の周りには強敵斎藤氏ぐらいしかいなかったからな
それに比べ関東地方は強豪揃い
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
970人間七七四年:2013/07/23(火) 22:40:31.99 ID:H87wXoa2
武田さんも長尾さんも貧乏からのスタートであそこまで成ったのは凄いね

信長は…まあ家康との同盟までは奇才。美濃はガチ運。ただゴリ押ししたようにしか感じない。
その後、濃尾あれば普通の人ならあのくらいやれても驚かないよ、
971人間七七四年:2013/07/23(火) 23:26:49.59 ID:WVllds+o
強い弱いって
ゲームじゃあるまいし
972人間七七四年:2013/07/23(火) 23:30:56.98 ID:KEgaMgGl
ゲーム脳じゃけん仕方無か…
973人間七七四年:2013/07/24(水) 02:08:31.18 ID:8K/qiQ/0
『信長への道』って本読んだ人感想教えてください
974人間七七四年:2013/07/24(水) 11:59:22.75 ID:eDom39Ox
>>969
そんなに関東が強国揃いなら、三河侍が関東を掌握出来る訳がないだろうにw
応仁の乱で何も出来なかった田舎者の国。
都落ちした上方武者に生活の仕方を教えて貰った落ちこぼれの国
関東が強国揃いなんて平将門の時代までじゃね
975人間七七四年:2013/07/24(水) 12:14:46.74 ID:bKZMUs0F
しかし北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってるし。
家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。
そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
976人間七七四年:2013/07/24(水) 12:27:43.65 ID:p+RxWqJt
どんぐりのせいくらべ
977人間七七四年:2013/07/24(水) 12:35:12.63 ID:bKZMUs0F
いやいや畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ
衰退に向かっていく大名ばっかりだったじゃん。
978人間七七四年:2013/07/24(水) 12:59:59.64 ID:p+RxWqJt
すると、お前は強いだの弱いだのゲームみたいなことを風聞だけを元に言ってるのか?w
ならフロイスが武田信玄をゴミみたいに評してるから
互角の北条武田上杉もゴミなんだろw
ほらやっぱりどんぐりの背比べw
979人間七七四年:2013/07/24(水) 13:51:31.67 ID:wEe3yzj1
戦国関東三国志と呼ばれるほど
三雄は強かったからねぇ。
興福寺の史料でも織田軍大和衆が越後と甲斐の兵の強さにビビってたからなー。
980人間七七四年:2013/07/24(水) 14:09:08.44 ID:rI7EtCix
叡山は自業自得だからな
信長が正しい

・欲を捨て山籠もりして修行してる身なのに
女を大量に連れ込んで、その結果子供もいっぱい居た
光秀が女・子供も皆殺しだと言ったが
そもそもそこに女や子供がいること自体が
宗教の言ってることと偽僧侶のしてることに矛盾がある
当時の僧侶は信仰心などない偽物である
僧侶という職とは正反対の武装をしてかなり強かったり
信仰という嘘が隠れ蓑になっていた
毛利家の安国寺など大名の特使として外交をして
政治的に動いてたのも多い
大名クラスでも劣勢になると家臣への言い訳として出家してるのが多い
そこに信仰心など一切無い

・叡山はあざいあざくらの落ち武者を匿っていた
これは相手が信長に限らず特定の勢力を匿ったら
そこの敵対勢力に狙われるのは当然のこと
島津みたいに豊臣派の宇喜多を匿ってることが徳川にバレたら
宇喜多を徳川に差し出せば身を保てる
981人間七七四年:2013/07/24(水) 14:19:15.39 ID:wEe3yzj1
日本の僧は昔から妻帯するの無問題なのも知らんのかよ。
僧が家族持つのを禁止してたのは中国や宣教師側の常識。
比叡山は荘園返還してもらいたくて織田を支援してたのに裏切られ怒っていたし。
実際、中国僧はそんなん守らないどころか、現代では金儲けに走って庶民から非難されとる。
宣教師に至っては未成年にいたずらだしな。
982人間七七四年:2013/07/24(水) 14:47:25.79 ID:bKZMUs0F
バッカw
京に害なす勢力が鬼門から入京するのを排除するために
比叡山に延暦寺を配置したんだから武力を持つのは当たり前だ。
誰からデタラメな理想僧像を聞いて妄想抱いてんだよw
983人間七七四年:2013/07/25(木) 12:41:56.82 ID:hWCD0OL0
尾張半国からわずか20年で750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将

甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や謙信とはレベルが違い過ぎる
984人間七七四年:2013/07/25(木) 12:59:59.89 ID:ZzVeqHkD
>>983
デタラメ乙ミジメ過ぎるなw
985人間七七四年:2013/07/25(木) 13:03:06.02 ID:iBigzWZo
戦国期なんて動乱でめまぐるしくドミノゲームのように勢力図が塗り変わるわけだし
領土の範囲がどれだけ広がったとか狭まったとかそんな基準で評価点つけるのどうかと思うな
986人間七七四年:2013/07/25(木) 13:17:52.19 ID:ZzVeqHkD
>>977

各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達 

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った 
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。 

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年) 
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。 

南近江 英主 六角定頼(〜1552年) 
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し 
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年) 

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年) 
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。 

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。 

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り 
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り 
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。 
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で 
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。 

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し 
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた) 
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。 
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。 
987人間七七四年:2013/07/25(木) 13:54:20.36 ID:8OSGuhG8
988人間七七四年:2013/07/25(木) 13:55:00.97 ID:8OSGuhG8
988
989人間七七四年:2013/07/25(木) 13:55:36.21 ID:8OSGuhG8
989
990人間七七四年:2013/07/25(木) 13:56:14.15 ID:8OSGuhG8
990
991人間七七四年:2013/07/25(木) 14:04:58.56 ID:8OSGuhG8
991
992人間七七四年:2013/07/25(木) 14:05:35.31 ID:8OSGuhG8
992
993人間七七四年:2013/07/25(木) 14:06:05.77 ID:8OSGuhG8
993
994人間七七四年:2013/07/25(木) 14:06:37.85 ID:8OSGuhG8
994
995人間七七四年:2013/07/25(木) 14:55:42.21 ID:Ub6rXxfD
>>822
信長ダブル土下座とか情けねえw
だが血液型わかる可能性があるのか。
996人間七七四年:2013/07/25(木) 18:51:51.18 ID:5D3pb/kR
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶

と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
997人間七七四年:2013/07/25(木) 19:12:02.83 ID:8OSGuhG8
997
998人間七七四年:2013/07/25(木) 19:13:09.01 ID:8OSGuhG8
998
999人間七七四年:2013/07/25(木) 19:35:58.32 ID:AhvJca3r
武田信玄が尾張に生まれてたら分かりやすかった
1000人間七七四年:2013/07/25(木) 20:11:04.53 ID:jiMoInVv
弟に殺されて即死だっただろうな 1000
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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