戦国ちょっといい話36

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2013/01/06(日) 02:35:56.97 ID:P/7KlSws
>>1
3人間七七四年:2013/01/07(月) 00:38:15.41 ID:w61E+q8x
「そくしぼうし」を変換したら即死法師になってしもうた
4人間七七四年:2013/01/07(月) 12:00:22.35 ID:gYriVSc4
その法師様は森殿の前に立ちふさがりでもしたのでしょう

南無阿弥陀仏
5人間七七四年:2013/01/07(月) 13:29:15.47 ID:fDO1+QzE
軍評議の事

永正七年三月上旬の事なるに、治部大輔江北中の諸士を廻文をまはし召集め相談して申けるは、]
佐和山の城を六角かたへ被2乗取1、江北の恥辱此所なり。
何とか思案をめぐらし江北へ切かへし可レ申旨、屋形被2仰出1候にいかにと申ければ、
堀能登守頼貞、磯野伊予守員吉申けるは江南の侍共に江北の侍共まくべきにあらざれと
屋形の御出馬も候はず。又は侍中間も和せざるゆゑに先年六角方へ乗取候。
今度はよく/\人数を組給ふべし。惣じて軍法を相定めらるべしと申せば泰貞申けるは先佐和山の一里此方、
米原太尾山に要害を拵此方出張の足たまりにして、人数二手にわかち、
海手へまはし磯山に楯籠る小河孫七郎を責べし。其内に観音城より六角勢をいださるべし。
此方人数はすりはり米原の難所に陣取対陣して相戦べしと被レ申ければ、列座同音に尤よろしかるべしと申上れば、
さあらは日限を相定べしとて同十六日、打立べしとの手はづをとり其日の評議はやみにけり。

浅井三代記
6人間七七四年:2013/01/07(月) 15:56:35.75 ID:MLgecI3N
だから何なのさ
7人間七七四年:2013/01/07(月) 18:58:59.86 ID:eUhicQen
>>5
ここのコピペじゃねーか
http://www.ikedakai.com/bunken/asai.html
8人間七七四年:2013/01/07(月) 23:50:29.82 ID:MIMsIvkP
>>7
酷でぇ。ホントに丸コピーじゃねーか。
9人間七七四年:2013/01/08(火) 02:30:11.69 ID:s6L2y1oV
前スレ最後あたりで、また「いい話だ」の基地外が湧いたから、
これもたぶんそいつの仕業だな。死ねばいいのに。
10人間七七四年:2013/01/08(火) 09:51:33.68 ID:h4rtOx2l
流れを変えたいので雑談

天正2年(1574)1月、佐竹に土浦城を攻められた際、
もう落城という時に、天庵様を逃がす時間稼ぎのため
佐竹の陣に斬り込んだ十六騎の武者のひとりが俺の先祖なんだが。
どうにか逃げ延びたらしい。
これは自慢できる?微妙だよねw
11人間七七四年:2013/01/08(火) 11:10:25.14 ID:csrRv0MH
佐和山へ押よする事

かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに、
高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる。
同十一日には治部大輔横山へ取のぼり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守、同伊賀守、
同掃部頭をめしぐして其日の辰の刻ばかりに打出給ふに内々江南勢にあなどられし事をいきどをりければ我も/\
と馳あつまる。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、井の口宮内少輔(
後弾正にあらたむ)、大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫定元、西野丹波守家澄、同與八郎氏常、
安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、阿閉三河守貞義、堀能登守頼貞、野村伯耆守直定、
同肥後守定元、今井肥前守頼弘、新庄駿河守信家、横山掃部頭家盛、同肥後守、
千田伯耆守有義、子息帯刀、東野左馬助行成、熊谷弥次郎、同新次郎、伊部清兵衛尉為利、
大橋善次郎秀元、浅井新次郎教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、
木村海北助左衛門、同善右衛門、雨森主計、同弥兵衛、赤尾與四郎、同筑後守、
同孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とぞ申ける。かくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん。
物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜びける。斯て泰貞物頭共に向て申けるは、
某屋形の御名代を申上ると云ども江北の諸侍などが下知にしたがひ給はんと思ひしに、
如レ此残らず出馬せらるゝ事満足なりと悦びて、さあらば打立べしとて永正七年三月十六日に横山を立て、
米原口へ押出す諸勢三手にわくる。堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、
同肥後守浦手へ向ふ。大野木、三田村、阿閉、西野は醒ケ井口へまはる。
治部大輔は残る勢を召具し米原山に陣取る。斯て佐和山の城へ江北の軍勢残らず馳向ふよし、
かねてより風聞すれば観音城へ注進す。観音城には定頼、義実打より物頭共よび集め軍評議をとげ給ふ。
末座の若者共あなどり申けるは何そ評議し給ふ。物頭一人被2仰付1なば、我々罷越即時に敵を追払ふべしとて、
手に取るやうにそひしめ、きける中にも進藤山城守(父山城守なり)、後藤但馬守進み出て申けるは、
今度は御大事の戦ひなるべし。数年鳥井本口にをいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせざるに、
今かくもよほして来たる事は無二の一戦とげんとの儀たるべし。屋形の御出馬尤たるべしと申ける。
かくて寄手の勢は三方より押まはし、鬨を憧とあげ先遠取巻にぞしたりける。城中にはしつまつて防き、
矢も射さりけれは、治部大輔此由を見て、使番を以て味方の軍勢率爾に責よすべからず。
江南より多勢もよほし後巻有べきとおもふなり。様子を見て明日未明より責べきとて、其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらえける。

(浅い三代記)

お前ら歴史好きなら訳してみ?低レベルなのはいないよなwww
12人間七七四年:2013/01/08(火) 11:25:32.59 ID:CxMNak/B
コピペしないと誤字がひどい低レベルなのはいるみたいですが
13人間七七四年:2013/01/08(火) 11:26:17.26 ID:csrRv0MH
訳せなくて悔しいのか
14人間七七四年:2013/01/08(火) 11:28:19.27 ID:csrRv0MH
誤字がひどいって誰と間違えてるんだ
15人間七七四年:2013/01/08(火) 11:34:58.22 ID:joOKFINh
>>10
ええやんか
ご先祖様はここのアイドルを逃がすために体を張った勇士だぞ
16人間七七四年:2013/01/08(火) 11:36:08.38 ID:joOKFINh
そういや上坂って爺さまにハメられたんじゃねえかな
って思うわ
17人間七七四年:2013/01/08(火) 11:36:31.21 ID:csrRv0MH
訳せない簡単な古文も読めずに逸話だけを口パクして求めてるゴミどもですね
18人間七七四年:2013/01/08(火) 12:24:59.23 ID:QsC6YzsV
細川家中た伊達家中が俄に騒がしくなってきた気もしますが
展示品だし略奪もムリですので大人しく入場券を買いましょう


http://mainichi.jp/select/news/20130108k0000m040124000c.html
王羲之:「書聖」唐代の模本発見 東京国立博物館で公開へ

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1569
日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「書聖 王羲之」
平成館 特別展示室 2013年1月22日(火) 〜 2013年3月3日(日)
19人間七七四年:2013/01/08(火) 13:01:35.61 ID:SXsRY6OP
>>17
はいはいここはレベルが低いスレです。これで満足か?
ところで、お前は訳せるのか?コピペするだけなら今時の小坊にもできるぞw
20人間七七四年:2013/01/08(火) 13:25:53.79 ID:Ia4v72Fr
王羲之と言えば、米?さんもおもろい人なんだよね・・・
21人間七七四年:2013/01/08(火) 14:36:42.07 ID:csrRv0MH
軍評議の事

1511年の3月上旬のこと、治部大輔は江北中侍を廻文で集め相談して言うには
佐和山の城が六角方に切り取られてしまった、これは江北の恥である。
なんとか思案をめぐらして切り取られた江北(佐和山のこと)へ反撃したいと言い
屋形にこれの命令はどうしますと申すと
堀能頼貞、磯野員吉は[江南の侍共に負けるべきにあらず
屋形も出馬するはず、そして侍や中元も結束しなかったので先年六角方に乗っ取られてしまった。
今度はよくよく人数を組み与えるべしすべて軍法を定めるべき」と申した。
米原太尾山に作り、兵の拠点とし、人数を二手に分け海手に送り磯山に籠る小河孫七郎を責める。
後ほどに観音城より六角勢をが出てくるであろう。
その時は軍勢をすりはり米原の難所に陣取って相対すべしと申し上げれば、満場一致でこれはよろしいと皆が賛同した
それならば日時を定めるべきとし16日には打ち立てるべきとの手筈を行いその日の評議は終わりを迎えた

(浅井三代記)
22人間七七四年:2013/01/08(火) 14:43:27.73 ID:csrRv0MH
組み与えるべし×
組みたもうべき→組むべき○
23人間七七四年:2013/01/08(火) 17:41:25.42 ID:VoZ0gpU5
毛利元就が出雲に出陣した時のこと。
ある日、元就の具足箱の上に、夜の内に誰が置いたともなく、絹の袋に入った一巻の書があった。

元就は大変不審に思い、これを開いて中を見てみると、なんとそれは、軍法礼書数箇条が書かれた巻物であった。

これを見て元就は「これはきっと、軍神が我等に下された御勅宣である!」と有り難さに大いに喜んだ。
そして常には拝見することを恐れ慎み、最初の三ヶ条は人にも見せていたが、その後は他者に明らかにせず、
件の袋に納めて、これをお守りのようにして信仰されたということである。
(吉田物語)

毛利元就も元に現れた、謎の軍書についての逸話である。
24人間七七四年:2013/01/08(火) 18:39:24.62 ID:cXxe4Yzx
>>23
もしやこれが日本最古の兵法書、闘戦経なのか?
25人間七七四年:2013/01/08(火) 18:44:17.10 ID:dgICfX2D
第四条以降には「衆道のやりかた・実践編」が書かれていたりして
26人間七七四年:2013/01/08(火) 18:48:33.41 ID:c1DZkqlY
>>25
デートの誘い方から相手が死んだときにやるべきことまでみっちりと…
っておいw
27人間七七四年:2013/01/08(火) 19:01:33.33 ID:kXJBW6lR
いきなり導入しようとしても反発あるから神仏の加護という権威付けをしたというところですかね
28人間七七四年:2013/01/09(水) 07:24:33.62 ID:DwcZT/G+
軍神「無くしたと思ったらそこにあったのか!我が越後に返してくれ」
29人間七七四年:2013/01/09(水) 10:39:17.74 ID:vI89+lAO
>>23
これはいい話なのか?
確かに都合の良い話には違いないが。
30人間七七四年:2013/01/09(水) 11:29:50.42 ID:sZfwjdbG
>>24
いや、多分これ元就の書状によく出てくる「張良か一巻之書」だと思われ。
今でも毛利家の家宝になってるはず。
隆元と輝元の書写本は公開されてるけど。

内容ですが兵法書というよりは呪術書です。
31人間七七四年:2013/01/09(水) 14:30:54.47 ID:8vj25gK7
ある時、毛利元就が遠国への調略のため派遣した家臣が、道中や調略先での状況により、
見咎められるような事態に陥り、様々な偽りを言ってどうにか切り抜け、危うい命を助かり
帰国する道すがら、つくづく思った。

『武士の奉公ほど難儀な物はない!帰城したら早速、御役御免を申し上げ、所領を子供に譲って
隠居し、山中あたりに引き籠って余生を過ごそう!』

そう決心し帰国し出仕すると、すぐに目通りを許された。
元就が先方の様子を尋ねた時、この家臣はそこで難儀に遇ったことを申し上げた。

すると元就、これを聞くやボロボロと涙をこぼした。
そして様々な忝い御意を示し、さらに褒美をその手自ら下した。

このような元就の態度にこの家臣は、さっきまでの決心はどこへやら、

『また明日であっても御用が申し付けられたら、どこの国であっても必ず参る!』

という気持ちになったそうである。
(吉田物語)

毛利元就の家臣操縦法?についての逸話である。
32人間七七四年:2013/01/09(水) 15:48:28.35 ID:irjY8qN9
仙人、黄石公から兵法書もらうには早起きしなきゃならないと聞いた
33人間七七四年:2013/01/09(水) 16:22:03.17 ID:TckHqQjn
毎日ハンコを押してもらうのだな?
34人間七七四年:2013/01/09(水) 19:59:23.18 ID:IDPylpnu
>>32,>>30
張良さん、夜中に出かけてやっとこさ入手できたんじゃなかったっけ
まあ、半分以上伝説だろうけど
35人間七七四年:2013/01/09(水) 22:39:59.18 ID:VopFedgS
>>31
元就「では、天竺にありがたいお経を取りに行ってくれないかのう?」
家臣「・・・その前に強い猿を探してきます。」
秀吉「へっくしゅん!」
36人間七七四年:2013/01/10(木) 04:44:25.52 ID:Kent1cn5
昔のことを調べていると、
一つの事柄にもいろいろな説があり、これだと決めかねる場合がある。
そういう時はわからないものはわからないとすればよい。
三条西実教卿の言葉に、
「わからないことの中には、わかるようにしてあるものもあり、
また自然にわかるようなこともあり、
いくら考えてもわからないこともある。
それが書物の面白さだ」
というのがある。
いかにも深遠な言葉だ。
神秘に閉ざされたこと、広大無辺なことはわからなくて当然だ。
簡単にわかることは浅はかな知識のみである 【葉隠】
37人間七七四年:2013/01/10(木) 07:08:51.59 ID:5X8imlVD
>>35
ラスボス「儂は唐天竺を平定する事にしたぞ
ついては言い出しっぺの法則で出陣ヨロシク頼むわ!>TERU」
38人間七七四年:2013/01/10(木) 07:17:44.06 ID:R2+Mr6TH
>>37
TERUは言ってないよ(涙)
39人間七七四年:2013/01/10(木) 08:33:55.73 ID:8s8SCmIv
現状三条放置だなんてそんな殺生関白な…
40人間七七四年:2013/01/10(木) 13:30:08.38 ID:BKKAwu0X
磯山の城責落す事

翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。
城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。
味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。
観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。
相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、
奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、
前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。
上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。
海手の大将には後藤但馬守相したがふ人々には奈良崎源五左衛門、
平井加賀守二千五百騎にてかけ向ふ。定頼旗本平田山に二千五百騎にて落合因幡守并に御馬廻衆守護し申さるゝかゝりける所に、
磯山の合戦急なる由注進したりければ、後藤一里半計の所をもみにもんでぞ急きける。かくて味方は見次勢きたらぬさきに攻落すべしとて喚叫て、
攻入けるにはや惣かまへを打破四方八方より込入れは城中には塀際まで近づくすきまもなく、
あるひは射立又は切て出、命も不レ惜防ぎける。後藤五十町濱をすぐに打て急ぎけるか。去夜雨車軸に降て四川水増り、
白浪せかいを打夥敷中々可レ渡様もなかりけり。此磯山と申は、東は佐和山の尾つゝき二町ばかり聞きれ入江廻て底ふかく、
南は四ツ川常は歩わたりなれども、入江/\の水すそなりければ、水出ぬれは二町ばかりも海の面になり可レ渡たよりなし。
西は湖水渺々としてきはもなし。北も入江に引つゝむ入江と海の間はゝ一町半ばかりの陸路あり。
磯築間朝妻と詠せし村も此間に打つゝき味方は大きに道の便もよし。南はこれに打かへて以の外の難所なればよせて川端にしばらく猶予してゐたりける奈良崎、
後藤に向ひ舟にて渡すべし。いかゞ候らんと申ければ、後藤尤とて舟をそこ/\にもよほそけるに、
やゝ時刻も移ける。味方は是に気を得て四方すきまもなく、取囲み息をもつかせず攻めたりける。野村堀に向て言けるは、敵は四ツ川のあなたにひかえたり、
昨夜の雨にて水さぞ深かるらん、渡る事はなるべからず。是も天のあたへなれば此図をぬかし給ふな。或は敵のをさへにむかふべしと云をてゝ
明神山の麓に百四五十騎ばかりすくつて、一文字に攻よする敵を待たりける。後藤もさすが功有兵なれば兵船七八艘をし出す。奈良崎心やさぞせきぬらん。
平駄といふ小舟三艘に取のり、一文字にをしぬけんとす。肥後は此由見るよりも明神山の高みより敵を見おろし、さしづめ引つめ雨のふる如く射たりけり。
よせても舟よりいく程ともなく射いたしけれども、味方は高み敵は海上なれば、味方事ともせず防きければ、
さしも進む佐々木勢舟をよせかねてぞゐたりける。味方の兵ども卯の刻より午の刻迄の戦なれば少たゆむやうに見ゆれば、
堀、新庄大音あげてきはわづか三百には不レ可レ過。かほどの小城をせめあぐむか、見次勢は川を越かぬると見えたり。不レ来。
さきに攻取と下知すれば、塀逆もきどもいはず、乗越/\攻入けるに、城中の者共弥三右衛門が郎等七八人踏留て戦ひ、枕を並て討死す
。其隙に成久は腹かき切てぞ失にける。江北方の者どもは城を攻取剰弥三右衛門討取悦事は限りなし。今日の軍に敵雑兵百十三騎討とれば、
味方も四十八騎ぞうたれにける。奈良崎は眼前にて味方をうたせしがのみならず城を敵方へ取れぬれば、猶も舟をしよせ、肥後と勝負を決せんとしたれども、
後藤物なれたる兵なれば、奈良崎を怒て申けるは、尤敵は今朝よりの軍につかれたりとは申せども、おもふまゝに打勝いきほひかゝつたる時節なり。
殊に舟の上にてのかけひきかなひがたし。一旦利ありとも後の大事たるべしとて、其陣十町引取五十町濱に備立てぞゐたりける。磯山討手の者共も敵人数を引とれば、磯山に陣取りしばらく息をぞつきにける。

(浅い三代記)
41人間七七四年:2013/01/10(木) 13:46:31.52 ID:2s0Ea2DX
 ある時、本阿弥光悦は小袖屋が所蔵している瀬戸の茶入れを見て気に入り、小袖屋の主人と
交渉して金30枚で茶入れを購入することになった。
 持ち合わせがなかった光悦は金10枚を自宅を売り払って手に入れ、残り20枚を人から
借りてそろえた。それを聞いた小袖屋は、そこまで執心してくれるのであればいくらか値引き
しましょうか、と申し出たが、光悦は「値を引くなら買うまい。この茶入れは金30枚の価値が
ある立派なものだ。それ以下の値で買うのは偽りである」と言って、結局、金30枚で買った。
 京都では この話が評判になり、人々は光悦のことをおかしな奴だと言ったが、家康がその話を
耳にすると、「いやいや、見事である。さすがは光悦である」と、ほめたたえた。
42人間七七四年:2013/01/10(木) 14:34:43.73 ID:2tpIq1t4
借金が多過ぎると、もはや細かい事は考えなくなると…
43人間七七四年:2013/01/10(木) 15:02:50.18 ID:2zygeC/w
金そろえるのに身の回りの物全部売るぐらいならまだしも、
自宅を売り払うって発想はさすがに無いわw

さすが芸術家は一味違うw
44人間七七四年:2013/01/10(木) 18:25:51.46 ID:5O7WHhkT
30両の茶入れを抱えてスタイリッシュ住所不定
4524:2013/01/10(木) 18:30:26.53 ID:6hPOLW6h
>>30
遅ればせながら、ありがとうございます
呪術書をチラ見させたり隠してみたりと大はしゃぎの元就さん
可愛いというか恐ろしいというかw
46人間七七四年:2013/01/10(木) 19:54:37.85 ID:Wpyf2j0J
????「ものを作れれば金はいくらでもつくれますぞ、ゲヒヒヒヒ」
47人間七七四年:2013/01/10(木) 23:42:31.02 ID:AY4Hg4Wo
徳川家康は毎度秀忠にこのように教訓した。

「我が領分は勿論、天下一統後の公領の民百姓までも我が子孫万代を
願っていると聞く。それは三河以来の旧例で年貢の取箇目方を諸家よりは
少分に取れと申し付けているからだ。

この法を子孫まで第一に守るべきなのはもちろんだが、注意すべきなのは、
太平が続いて上は奢り下はへつらうようになり国用も乏しくなってくると、

勘定奉行などは取箇の少ない時に代官に不平の顔色をしてきちんと勤めろ
と言うようになり、代官も今が良ければよしとして後に構わず法外の年貢を
取立てて百姓を困窮させ、上を疎むようにさせてしまうのだ。

左様な不了見の勘定奉行を御為めなどと言って、年寄どもや側近どもが
立身を取り持ち、加増をも遣わすようになったなら、それは国家の衰微と
知るのだ。

我が百年の後でさえも、天下兵革が起こるような事にはならないだろう。
ただ、百姓の心は離れ、上の冥加気運も薄くなることが、歎かわしいこと
なのである。斯様の事は、中主奉行以下は、執政の者の志次第である。

水は能く船を浮かべるがまた船を覆す。ただ、この事をよくよく心得られよ」

――『良将言行録』
48人間七七四年:2013/01/11(金) 00:16:01.17 ID:CQgkZijb
ミンス糖の連中に聞かしてやりたい言葉だ
49人間七七四年:2013/01/11(金) 08:11:10.80 ID:2gUpv56a
大増税してしまう吉宗さんであった。
50人間七七四年:2013/01/11(金) 11:33:26.18 ID:gHh19563
百姓は生かさず殺さずだな
51人間七七四年:2013/01/11(金) 13:50:35.66 ID:e+KGQapZ
佐渡「俺そんなこと言ってないのに(´・ω・`) ショボーン」
52人間七七四年:2013/01/11(金) 14:52:31.31 ID:AaHu3q5f
諫言をするには言葉の使い方が大切であろう。
殿を、何もかも完璧な欠点のない聖人君子に育てて差し上げよう、
などと思いながら諫言を申し上げたなら、
聞き入れてもらえないばかりか、かえって害となる。
「趣味、娯楽のことなどは、好きなことをしてください。
民、百姓が安穏に暮らせるように、
また家中の武士どもが気持ちよく奉公できるように、
これだけをいつ何時にも心の片隅にあるようにしてくださるなら、
下々の方から国のお役に立ちたいと考えるようになるので、
自然と国の政治はうまくゆくものです。
これならさほどお骨の折れる難儀なことでもございません」
と申し上げたなら、殿も納得がゆくであろう。
すべて諫言や意見は和の道である。
じっくり話し合わなければ役に立たない。
あとひとつ、諫言意見するとなるとやたら礼儀に拘り堅苦しくなる者があるが、
諫言、意見の場では堅苦しく改まった言葉使いだと、
角を突き合わせる形となって、簡単なことも難儀となり直せなくなるものだ【葉隠】
53人間七七四年:2013/01/11(金) 18:46:33.37 ID:F83j6Aau
長政「!!」
54人間七七四年:2013/01/11(金) 18:55:40.65 ID:gnTCY98d
黒田家のアットホームな雰囲気が正しかったんだ
55人間七七四年:2013/01/11(金) 20:20:36.58 ID:OjGi8bi4
同じことを言うにしても、言い方ひとつってことだね。
でも、そんな器用な人間ばっかりではないわけで・・・

>>54
アット・・・ホーム・・・?
56人間七七四年:2013/01/11(金) 21:54:03.52 ID:GDFOw445
 ある時、本阿弥光悦は家を売ったり借金したりして集めた黄金30枚で見事な瀬戸の茶入れを購入した。
その後、光悦は伏見にある前田利長の屋敷を訪れて その茶入れを使って茶を点てた。その時、その茶入れを
気にいってしまった前田利長は白銀300枚で買い取ろうと申し出たが、「お見せするために持ってきたので
あって売り買いのために持ってきたのではありません」と言って光悦は断った。
 そして、家に帰った光悦がこの一件を母の妙秀に伝えると、妙秀は「よくぞ断った。もし その白銀を
受け取ったら、せっかくの茶入れがすたるところであった。そのような根性では そなたは生涯 茶の湯を
楽しむことが出来なかったであろう。よくぞお請けしないできた」と、大いに喜んだ。
57人間七七四年:2013/01/11(金) 23:16:54.42 ID:1Dfmrpbf
>>55
就職情報誌「初心者大歓迎!アットホームな職場です」
58人間七七四年:2013/01/12(土) 00:17:01.31 ID:iuOXBhpq
この母にしてこの子か。
つーか前にも逸話に出てたなと思って今まとめ確認したら
本阿弥光悦の逸話の半分にこのオカアチャン絡んでたんですけどw
信長に飛び付いたり何モンなんだ一体。
59人間七七四年:2013/01/12(土) 08:51:10.05 ID:SPeBPkq9
この時代そういうやせ我慢を強いるのが流行ってるよね
現代の人で経済的に余裕のない人ならほぼ売り飛ばすだろうに
60人間七七四年:2013/01/12(土) 09:49:06.00 ID:YidHcLSJ
清貧を美徳化した話をバラ蒔いてビンボー武士たちの不満を抑えてたのかねー。嫌だなー
61人間七七四年:2013/01/12(土) 10:20:09.37 ID:46mg6Uc6
この茶入については評判を守ることに比べれば300両では足りないということじゃないの?
62人間七七四年:2013/01/12(土) 10:50:54.06 ID:iuOXBhpq
>>60
う〜ん、金には執着してないけど物には恐ろしく執着してるから清貧ではないような。
むしろ物欲の権化・・・。ベクトルの向きはアレだけど。
この時代の茶人て変人ばっか?
63人間七七四年:2013/01/12(土) 10:55:21.04 ID:tLUwGzYh
師匠がゲヒ殿だし
64人間七七四年:2013/01/12(土) 11:08:03.90 ID:QJOkA49u
これはつまり、30金で買った茶入を300金で転売するような、そんなマネは本阿弥光悦はしない、って話だろ。
65人間七七四年:2013/01/12(土) 11:13:37.50 ID:zDD4XVOq
単位が違うから等価なのか大儲けなのかもピンと来ない
66人間七七四年:2013/01/12(土) 11:48:07.38 ID:5+3cLWx7
金1枚は10両。銀1枚は銀43匁に相当。
当時の換算レートが金1両=銀50〜60匁くらいだから

金30枚より銀300枚の方が価値が低いかも。
67人間七七四年:2013/01/12(土) 12:04:32.08 ID:ReJl9+xj
それって、利長が安く買いたたこうとしたってこと?
さすがは前田の家系…って悪い話になっちゃったぞw
68人間七七四年:2013/01/12(土) 13:37:40.37 ID:arzCLqGB
そうなるねw

そのころには既に
金銀の品位鑑定は試金石でかなり精度よくできるように
なっていてふつうは純度だけで計算するのだけど、
すごく品位の高い銀塊はそれ自体の貴重さもあって
すこしプレミアが付いたらしいけどね。
白銀というのがそれなのかな?
69人間七七四年:2013/01/12(土) 14:24:30.53 ID:K6+HhxQJ
>>57
後藤又兵衛「ブラック田の家中に仕えてるんだが、もう俺は限界かもしれない」
70人間七七四年:2013/01/12(土) 14:29:50.21 ID:+/d7mami
>>64
そうそう、気に入ったから買ったのであって
金儲けのために買ったわけじゃあないってプライドの話だよね
71人間七七四年:2013/01/12(土) 17:21:38.15 ID:mQFktDnl
徳川家康は武田勢の遠州田中城を攻めること数ヶ月に及んだが、
いまだ落とすことはできなかった。城中には西郷伊予という者がいて
しばしば戦いに及んだが、彼は驍勇比類無き人だったので家康は憂いていた。

ある夜、老兵たちは菅沼大膳(定盈)と西郷を討つ術を考えていた。
この時、十八歳の侍臣朝日千介が進み出て「私なら西郷の首を取れます」
と言った。菅沼はこれを聞いて「お前のような小僧に何が分かるか!

西郷の剛勇は諸老輩といえども易々とはいかないほどだぞ。
それを妄りに討つなどと口にするとは傲慢不遜も甚だしい!」と叱責して
手を払って下がらせた。千介は退くと「明日を待て」と独り言を言った。
千介はその夜更けに、密かに菅沼の愛銃を取って何処かへ出て行った。

まさに夜が明ける時、岡部の陣にいた家康は西郷が単騎で数卒を率いて
来たのを確認した。「敵がまた出てきた! 誰か西郷の首を取れ!」と家康が
言うやいなや、路傍の竹林より一発の弾丸が飛んできて西郷の肩に命中、落馬した。

すると、何者かが躍り出て直ちに西郷の首を切り、家康にこれを献じた。
その者こそ朝日千介であった。家康は嘆賞して「お前は一人の少年だが、
老兵たちには為せぬことを為したな! 剛者であるぞ!」と言った。

――『近古史談』
72人間七七四年:2013/01/12(土) 17:33:32.51 ID:fKuPY2Z6
浅井三代記訳しました

レベルが足りないため投稿は後日になります
73人間七七四年:2013/01/12(土) 17:51:55.06 ID:ReJl9+xj
西郷伊予って奥さんが亡霊になった人?
74人間七七四年:2013/01/12(土) 19:26:13.97 ID:bCcU/3o7
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。

その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。

忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。

時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
 じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
 才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
 研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
 これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
 駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。

忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)

(続く)
75人間七七四年:2013/01/12(土) 19:29:00.82 ID:bCcU/3o7
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。

忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。

そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。

名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。

忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。

忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。

忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。
76人間七七四年:2013/01/12(土) 20:40:27.16 ID:5+3cLWx7
>>72
そろそろコピペはやめとけ
77人間七七四年:2013/01/12(土) 20:44:23.23 ID:N2v/pAzV
上のを訳した別人じゃないのか
78人間七七四年:2013/01/12(土) 21:01:59.98 ID:j16t8+VK
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい
79人間七七四年:2013/01/12(土) 23:40:02.42 ID:E1Pp/HP8
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう
80人間七七四年:2013/01/13(日) 00:43:20.41 ID:dhYTfGVi
>>71
朝日千介さんのいいお話、なんだけど、西郷伊予さんちょっと不用意すぎるでしょ
わざわざやられるために出てきたみたい

あと、細かい点だけど、「大膳」を名乗る菅沼さんは、野田の定盈の方じゃなくて、
田峯の本家の方の菅沼さんちですね。代々当主が「大膳」を名乗ってます

野田の定盈は織部正です
田中城攻撃の頃の大膳は、たぶん菅沼定利
ちなみに、田峯の菅沼家は、結局武田と運命を共にしたので、悲惨なことになって
しまいました

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1013.html
81人間七七四年:2013/01/13(日) 16:02:52.18 ID:32Y53pFv
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ
82人間七七四年:2013/01/13(日) 17:48:04.14 ID:TalaATdP
上総の真里谷武田氏は原氏や千葉氏に負けてばかりであった。
そこでこの状況を打開せんと、古河公方高基の弟・足利義明を大将軍として
軍兵を催した。

この義明は累代武将の家に生まれ、心はどこまでも大胆でおそれを知らず、
力強く骨太で武器に熟達した当代無双の英雄である。

そのため、上総・下総・房州の辺りで管領に背いた輩は一人残らず馳せ来たり、
義明に従った。その勢いは近国を覆い、三年の間に原氏は敗れて小弓城を
奪われた。

その後、高城越前守父子を討ち取り同下野守を追い落とし、原野次郎をも
討つと、近国の兵共は我も我もと群がって付き従った。安房の里見氏は
猛勢の大将であったが、何を思ったかこれもまた義明に従った。

義明は血気無双の人なので、やがては関八州をその手にし古河公方を
配流して鎌倉に御所を立て、関東の公方になるという野心を抱いていた。
彼はこの志を公言することを思いとどめようとしても、すぐに表情に出して
ほのめかすので、付き従う血気の若者たちは皆その願いが叶うようにと励んだ。

そのような情勢だったので古河公方に一味する人々は心穏やかではなかった。
北条氏綱も足利晴氏の舅なので内心苦々しく思っていたが、大敵の上杉と
敵対していたので義明とは無事を保ち、互いに使者を交わして捧げ物を送る
こともあった。これも一時の智謀である。

――『異本小田原記』
83人間七七四年:2013/01/14(月) 08:21:17.84 ID:GvNXoUuS
ええ話や・・・って、どこがやねん!
84人間七七四年:2013/01/14(月) 09:06:25.84 ID:FuS3BPN2
足利義明でググると義昭のウィキペディアが一番上に。
変換間違いだと思われてるんだろうなあ
85人間七七四年:2013/01/14(月) 09:32:02.13 ID:u4eFfa2J
義明公は脳筋で里見に呆れられて死ぬんだよなあ
そしてそんな義明公の奮戦する錦絵が船橋の図書館にある(はず)
自分の嗜好で図書を入れたり捨てたりしてたおかしな司書がいたとこだからなあ
いまはどうなってんだろ
86人間七七四年:2013/01/14(月) 14:49:24.97 ID:HqULihVI
名前で検索すると地球皇帝の件ばかり引っかかる、
二代目堀越公方様と良い、マイナーどころはどうしてもなぁ
87人間七七四年:2013/01/14(月) 15:58:06.00 ID:2ox1t7MA
>>86
元ネタの人物しか知らない人が見たら吃驚するだろうなぁこれ
88人間七七四年:2013/01/14(月) 17:39:18.17 ID:JL2gB6NE
豊臣秀吉がまだ微賎の時、刀を失った人がいた。その時の秀吉は
貧しかったので人は皆秀吉を疑った。

そこで秀吉は城下の民家であまねく聞き込みして質屋に刀があることを
尋ね出し、ついには犯人を捕らえた。

そして秀吉は織田信長が狩りに出る時に訴え出たので、信長は感心して
初めて微禄を与えたのだとか。

――『老人雑話』
89人間七七四年:2013/01/14(月) 20:32:36.81 ID:5N+eJ4DQ
後年疑った連中を根絶やしにしてそうで怖い
90人間七七四年:2013/01/14(月) 22:17:13.66 ID:sfg8/o+o
俺は過去に、秀吉に対してひょうきんで親しみやすそうな武将みたいなイメージを持ってたけど
いい悪いスレを読むようになってからは
いつ何時も心の内が読めない、絶対敵に回したくないイメージになった
91人間七七四年:2013/01/14(月) 23:31:16.63 ID:WgBdNwsT
信長死後の秀吉は、猜疑心強いイメージあるな
92人間七七四年:2013/01/14(月) 23:54:33.73 ID:L7SuPqqT
>>90
むしろ単純すぎて扱いやすいわ
93人間七七四年:2013/01/14(月) 23:59:12.34 ID:zA74Q8MM
>>85
あれって船橋市だったのか
考えたら怖くなってきたw
94人間七七四年:2013/01/15(火) 00:15:48.09 ID:RuOuKaY5
>>92
いや、そりゃ死亡フラグだろ
95人間七七四年:2013/01/15(火) 20:41:34.42 ID:L75Ix7Q/
>>93
市川・船橋って近代でも戦場になってたぞ、地味に
96人間七七四年:2013/01/15(火) 22:02:21.77 ID:db6n7IZb
 書道・絵画・陶芸などで業績を残した本阿弥光悦は収集家としても有名であり、
借金してまで高価な名物を買い求めたりしていた。
 そんな光悦であったが、年をとってくると彼の心境に変化が訪れた。
「名物は それが名物なればなるほど『やれ落とすな、やれ失くすな』と それに心を取られ、
心の平安を失わせる。そんなものに心を乱されるくらいなら いっそ持たぬにしかぬ」
 そう考えた光悦は所有していた高価な茶器など名物の類をみな人にあげてしまい、
自分はごく普通の雑器で茶の湯そのものを楽しむようになった。
97人間七七四年:2013/01/15(火) 22:14:19.70 ID:3dp2Hi6v
茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ
釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな
かず多くある道具をも押しかくし 無きがまねする人も愚かな

利休居士はとっくにお見通しだった様で
98人間七七四年:2013/01/15(火) 22:21:09.51 ID:mJYNb2RV
もし、「お前の人生最後の食事だから好きなもの注文していいよ」って言われたら、
フツーの米とお茶と沢庵のお茶漬けを曜変天目茶碗で食べてみたいw
99人間七七四年:2013/01/15(火) 22:22:45.73 ID:wcTzmwva
>>96
>高価な茶器など名物の類をみな人にあげてしまい
一方、心の平安を乱された奥州の誰かさんは茶器を叩き壊した…
100人間七七四年:2013/01/15(火) 22:23:29.57 ID:gbQM8NcV
>>96
誰かと違って壊さなくて良かったw
101人間七七四年:2013/01/15(火) 22:42:34.34 ID:db6n7IZb
本阿弥光悦が金30枚で買った瀬戸の茶入れは後に尾張徳川家の元へ渡ったようだ。
徳川美術館の所蔵品に本阿弥光悦が かつて所持していたとおぼしき古瀬戸肩衝茶入がある。
年をとって心境が変わった光悦がプレゼントしたものであろうか。
102人間七七四年:2013/01/15(火) 22:43:35.22 ID:RyVaKBPk
普段使いの雑器でも光悦が使ってたとなればあとで名物になるんだろうなあw
103人間七七四年:2013/01/15(火) 22:57:45.18 ID:Ha+c5MYd
本阿弥光悦なら、水漏れする茶碗に対して「はてな?」というだけで名物扱いされそう
104人間七七四年:2013/01/16(水) 01:39:24.47 ID:VSUh/VvX
上田宗箇「さても!」
105人間七七四年:2013/01/16(水) 14:29:44.48 ID:JfHBCA9V
フロイス日本史 第55章 信長がその富、権力、身分のために陥った大いなる慢心と狂気の沙汰について

信長の素性、ならびに諸事に関してはすでに他の箇所において記載した。
彼は尾張国の半ばの領主に過ぎなかったが、才知と騎兵により全国全域を制したのみならず
やがて隣接した美濃国を占領し、さらに数年後には全日本の国主たる内裏(ダイリ)に次ぐ人物である公方様に都の政権を掌握せしめた

彼は戦争においては大胆であり、日本の人心を支配するすべを心得ており
後には公方様まで都から追放し、日本王国を意味する「天下」と称する諸国を征服し始めた。
そしてその際、順調な成果を収め、諸国の国王ら数名を殺害し、日本の40を越える諸国を征服して自らの支配下に置くに至った

信長は日本中の莫大な数量の宝を集め、近江国の安土山に、実に見事で不思議なほど清潔な城と宮殿を造営した。
彼が最も誇っていた事の一つは、その邸の美麗さと財産、ならびに七層を数える城塞であり一里以上の長さに達している。

彼は都から安土まで道路を作らせたが、それは十四里ほどあり、岩山や山地を削って作られており庭地のように平坦であった。
このような道路は征服された諸国に、都合がつく限り建設された。
彼が統治し始めるまでは、道路には強権が発動され、また強制的に課税されていたが
彼は全てを解放し、なんら税金を支払わなくて良いとしたので、庶民の心を一掃把握する事となった
106人間七七四年:2013/01/16(水) 14:30:40.43 ID:QVvBiAdH
古田「いらぬのですかな?さすれば拙者がもらいましょう。ゲヒヒ」
107人間七七四年:2013/01/16(水) 15:56:06.42 ID:n9FPkmha
毛利元就公の在世時、その居城である吉田にはお見舞いとして、歌道の達者、乱舞の藝者、
盤上立花の上手、その他道々の名人たちが罷り下っていた。

元就公はそのいずれにも相当の待遇をし、それぞれを御存知の間柄のように扱われ、
時には召しだされ、道々の藝を行わせ、御見物などされた。

そうであったが元就公は、御子様方・御家老衆・その他心安い者達には内々に、

「このような小藝は、いくら面白いといっても、過度に執着することは無いように。」

と仰っていた。
これも当然のことであろう。元就公が御自筆にて書き置かれた御什書の内にも

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

とあるからである。
(吉田物語)

元就にとって肝要なこと、についてのお話である。
108人間七七四年:2013/01/16(水) 19:22:59.21 ID:eFWE5c3x
>>103
それで名物になったりしてたら、シルエットとか、たとえば某IT企業がロゴにしそうですねw
109人間七七四年:2013/01/16(水) 22:54:16.44 ID:ScsjaZTm
>>107
これ全員元就のスパイじゃないの?
110人間七七四年:2013/01/17(木) 00:03:10.46 ID:F5zcL6vE
佐和山へ押しよせる事

こうして、上坂泰貞は同十日に屋形へ参上して先日の軍評議のことを申し上げると
高清入道は賛え報告の祝儀として御秘蔵の御馬御重代の腰の物を与えられた
十一日には治部大輔は横山へのぼり、見方の軍勢を見ようとして同姓信濃守、同伊賀守、
同掃部頭と共にその日の午前8時頃に打って出ると内々に江南勢にあなどられぬようにと
憤り我も我もと馳せ集まり先一番に磯野員吉、磯野員詮、磯野為員、井
の口に宮内少輔(後弾正に改称)、大野秀国、三田定元、西野家澄、西野氏常、
安養寺勝光、浅見俊孝、阿閉貞義、堀頼貞、野村直定、
野村定元、今井頼弘、新庄信家、横山家盛、横山肥後守、
千田有義、子息帯刀、東野行成、熊谷弥次郎、熊谷新次郎、伊部為利、
大橋秀元、浅井教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、
木村左衛門、木村善右衛門、雨森主計、雨森弥兵衛、赤尾與四郎、赤尾筑後守、
赤尾孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余と申した
こうして治部大輔が御名代を仕るきざしと思っただろう。
物頭の方へ酒肴を出すと上のものも下のものもささやいて喜び。こうして泰貞が物頭共に向けて伝えるには
某屋形様の名代を仕るといえども江北の諸侍などが命令にに従わないと思い
ここに残らず出馬したことは満足なりと悦んでそれなら出陣するべきと
横山を出て米原口へ押し出す諸税を三つに分けた
堀能頼貞、新庄信家、野村直定、野村定元は浦手へ向う。
大野木秀国、三田村定元、阿閉貞義、西野家澄は醒ケ井口へまわる。
治部大輔は残る勢を招集しし米原山に陣取る。
このような風聞があり誰かが観音城へ注進をした。

それを受けて観音城には定頼、義実が物頭共をよび集め軍評議を開いた。
末座の若者共侮って言うには何そ評議し給ふ。一人の物頭が申すには、
「我々は即座に出て行ってに敵を追い払うべき」とて、
手に取るように騒ぎ立てる中にも進藤山城守(父山城守)、後藤但馬守が進み出て申すには
「今度は大事な戦いだろう。数年鳥井本口において戦い佐和山に敵を入れなかった、
今こんなのに寄越してきている事は無二の一戦とげんとの考えであろう。屋形の御出馬が当然であろう。」

このようにして寄手の勢は三方より打って出て、
鬨をエイと上げ先に遠く城を取り巻く。城中に集まって防ぎ、
矢も射されば、治部大輔此由を見て、使番をもって味方の軍勢率いて迂闊に責めるべからず。
江南より多勢のあと詰めがあると思う。様子を見て明日未明より責めるべきとして、その夜は軍は攻めるのを辞め
太尾の要害に陣取った。

(浅井三代記)
111人間七七四年:2013/01/17(木) 00:06:40.19 ID:lAuMP3H4
>>11の訳か?
112人間七七四年:2013/01/17(木) 00:13:06.88 ID:xQWti9FN
戦国時代の分国法というのも、集めてみると現代にも通ずるものがあると思うので、
分国法の一つ・朝倉孝景条々(朝倉英林壁書・朝倉敏景十七箇条とも)をちょっと紹介してみます。

下克上第一人者こと朝倉英林孝景(敏景は斯波義敏麾下時代の名乗り)の定めた分国法……
まあ、国内法というよりは朝倉家の家訓集。ただし、全部が全部孝景が書いたものではなく
後々で氏景・貞景・宗滴といった後継者達が条文を加筆する事で現存する形になったものと思います。

以下、原文(といっても幾通りか残っているものの一つ)、口語訳、ついでに寸評を少し。
口語訳中の( )は、自分が文書を通して裏読みしてみた補足的なモノw


一 朝倉之家に於いて宿老を定むべからず、其身の器用忠節によるべく候。

「朝倉の家においては、重臣は固定させてはならない。家臣の能力や働きぶりで選ぶように。
 (重臣層が固定化すると、当主の足かせになる事がある。重臣であっても任免権を手放すな)」


二 代々持来候などとて、無器用の人に団扇並びに奉行職を預けられましく候。

「代々その役に就いてきたからって、ボンクラに部将や奉行をやらせちゃいけない」


※現代人からすれば何を今さらと言いたくなる、人事面の総則。
 しかし裏を返せば、当時の幕府や守護大名はこういう当たり前の事ができていなかったのかも知れない。
113人間七七四年:2013/01/17(木) 00:19:51.11 ID:xQWti9FN
>>112続き

三 天下静謐たりといふとも、遠近の国に目付けをおきて、其国のていたらくを聞候ハん事専一候。

「平穏な時期であっても、諸国に調査員を派遣して、各地の情報を逐一つかんでおくように」

※たぶん忍者がどうのという話ではない。商工業の取引なんかも、情報収集の一環だと思う。


四 名作の刀、さのみ好まれまじく候。
  其ゆへは、万匹の太刀を持ちたりとも、百匹の槍百丁には勝たれまじく候。
  万匹をもつて百匹の槍を百丁求め、百人にもたせ候はば、一方は防ぐべく候。

「高価な名刀を買い漁ったりするのはやめておけ。
 そもそも、銭100貫の名刀を買うぐらいなら、その100貫文で1貫文の槍100本を買って
 100人の槍隊を編成すれば、合戦場で戦線の一つを受け持たせる事ができるだろ」

※英林殿はどうやらコストパフォーマンス志向だったらしい。
 なお、その100人の兵士への手当がどうのと考えるのは現代人の発想であるw


五 京都より四座の猿楽細々呼下し、見物このまれまじく候。
  其の値を国の猿楽のうちの器用ならんを上らせ、仕舞をも習はせられ候はば、後代まて然るべくか。
  城内において夜能かなふまじく候。

「都から売れっ子の猿楽師を何度も呼びつけて興行させるのは、金がもったいないぜ。
 そんな金があるなら、地元の猿楽師の研修や育成に投資した方が、よほど後世の役に立つ。
 城内で夜遅くまで能楽? 論外。(周りの迷惑だし、日中の仕事に差し支えるだろうが)」

※英林殿は地産地消志向でもあったらしい。おかげで曾孫玄孫の代には文化芸能が大いに振興したわけだがw
114人間七七四年:2013/01/17(木) 00:26:58.76 ID:xQWti9FN
>>112-113続き

六 侍いの役なるとて、伊達・白川へ使者をたてよき馬鷹もとめられまじく候。
  自然他所より到来候はば尤に候、それも三ケ年すきは、他家へつかわせられべく候、長もちすれは後悔出来に候。

「馬や鷹が武士のたしなみだからと言って、陸奥伊達郡・白河郡といった遠隔の名産地にまで買い求めるのはよせ。
 他所からそういう馬や鷹を貰ったのなら使えばいいが、3年ぐらいたったらスッパリ手放してしまうといい。
 (3年も働かせていればくたびれるはずだから)長々と惜しんでいると後で痛い目を見るぞ」

※基本、ブランド品に金かけるのを戒める条文が多い。戦国乱世は実用品第一!という事か。


七 朝倉名字中をはしめ、おのおの年始の出仕の時上着布子なるべく候。
  並びに各の同名定紋をつけさせられべく候。
  分限のあるとて、衣装を結構せられ候はば、国の端々のさふらい色を好み、
  ふきそゝきたる所へ此ていにて出にくきなどとて、
  嘘病をかまへ、一年出す二年出仕いたさすば、後々は朝倉の前へ伺候のものすくなかるへく候。

「朝倉一門衆にしろ家臣にしろ、年始の出仕の時は布子(麻製の普通の布地)の上着で来い。
 あとそれぞれの家の家紋をつけろ。(家紋でどこの家か分かるようにしないと、普段顔を突き合わせない連中が困る)
 裕福な家柄だからって豪華な絹服で出仕すると、家格の低い連中がそいつ等の派手な服の間に並ぶのを嫌がって
 仮病を使ってだんだん出仕しなくなるだろ? そんな事を繰り返してたら家臣が減っちまうだろうが」

※安物のスーツ姿で成人式に出たりしたら、すっごい居心地悪くなった人には身につまされる話かもw


八 其身のなり見にくゝ候とも、健気ならんものには情可有之候。
  又臆病なれともゆふ儀をしたてよきは、供使いの用にたち候。
  両方かけたらんは所領たうなに候か。

「風采が上がらなくても勇敢で真面目に働く奴は、きちっと評価して目をかけてやれ。
 逆にヘタレだが人当たりのいい奴なんかは、供侍みたいな補佐役系の役目に向いている。
 見栄えも勇気もダメな奴? それって俸禄の無駄遣いじゃね?」

※人材活用の心得その1。適材適所、評価すべき点は評価、役立たずには辛く。
115人間七七四年:2013/01/17(木) 00:32:47.42 ID:xQWti9FN
>>112-114さらに続き

九 無奉公のものと奉公のともから、おなしくあひしらはれ候ては、奉公の人いかていさみあるへく候。

「仕事しない奴とキチッと仕事する奴を一緒くたに扱うなよ。真面目な奴のやる気が萎えるからな」

※人材活用の心得その2。人事評価する方も楽じゃない。


十 さのみ事かけ候はすは、他国の牢人なとに祐筆させられましく候。

「よほどの緊急時でも無い限り、他国の牢人に文書係をさせるなよ。
 (機密文書は信頼の置ける奴に扱わせる、これ大切)」

※裏を返すと、祐筆(秘書みたいなもん)が機密を漏洩する事はよく起きたんだろうなあ。


十一 僧俗ともに能芸一手あらんもの他家へこされましく候。
   但身の能をのみ本として、無奉公ならんともからは曲なかるべく候。

「僧侶にせよ俗人にせよ、一芸に秀でた人材を他家に引き抜かれないように気をつけろ。
 ただし自分の才能を鼻にかけて反感買ってる奴とか、ろくすっぽ働かない奴はこの限りじゃない」

※明智光秀って、まさかこの但し書き部分に引っかかってスルーされたんじゃないだろうなw


十二 勝べき合戦とるべき城攻め等の時、吉日をえらひ方角をしらべ時日を逃す事口惜候。
   如何によき日なるとて大風に舟を出し、大勢にひとりむかはば、其曲あるべからす候。
   あく日あく方なりとも見合により、しよ神しよ仏・八幡・まりし天に別してせいせひをいたし、
   信心をもつて戦われ候はば、勝利をゑられべく候。

「勝てそうな戦、攻め落とせそうな城を目の前にして、日が悪いだの方角が悪いだのと言って
 好機を逃すのはアホの所行だ。逆に、吉日や吉方だからって嵐の日に船を出したり
 寡兵で敵の大軍にカチ込むのもパープリンのやる事。たとえゲンの悪い日や方角であっても
 神様仏様のご加護を信じて機会を捉えれば、八幡様や摩利支天様が勝たせてくれるってもんさ」

※現代人には想像しにくい、中世人ならではの験担ぎへの警鐘。
 いや、現代人だって判断に迷った時は縁起のいい方をつい選んじゃうもんだし・・・
116人間七七四年:2013/01/17(木) 00:41:00.79 ID:xQWti9FN
>>112-115と続いているがあと一息です

十三 年中に三ケ度ばかり器用正直ならんものに申付、国をめくらせ、土民百姓の唱えを聞き、
   其さたを改められべく候。少々かたちを引かへ、自身もしかるべく候。

「有能かつ嘘のない家臣を選んで、年に3回ばかり領内を巡察させて、庶民の様子を見させ声を聞かせ、
 その報告を元に政務を見直しするといい。自分がお忍びで実際に見て回るのもアリだ」

※戦国大名の走りらしい、地域密着思想。朝倉始末記とかだと、気さくな人だったらしい。


十四 朝倉か館の外、国のうちに城郭をかまへさせまじく候。
   惣別分限あらんもの一乗の谷へこされ、其郷其村には代官百姓等はかり置かれべく候。

「朝倉家に属するものではない城や砦を、越前国内に築城させないように。
 (国人や土豪が独自に城を構えだすのは、反乱や一揆の温床になる恐れがあるからな)
 特に、重臣クラスは一乗谷に館を構えて常駐させ、所領には代官を派遣して統治させるように」

※前半の城云々は、百年後に秀吉や家康の出した一国一城令とは、意味合いが違うと思う。
 これは多分、築城計画の一元化による集権統治への試みの一環じゃないかと。


十五 伽藍仏閣並びに町屋等通られん時は、少々馬をとどめ、
   見にくきをば見にくさと云、よきをばよきといはれ候はば、
   いたらぬ者なとは御ことばをかかりたるなとゝて、悪しきをば直し、よきをば猶たしなむべく候、
   さうさをいれす、国を見事にもちなすも心ひとつによるへく候。

「神社仏閣や町屋を見て回った時は、(毎回でなくてもいいが)時には馬を止めて
 汚れや破損があったら注意し、綺麗にしてあれば誉めてやるといい。
 殿様が直々に評価してくれたとあれば、庶民もキチッと受け止めてくれるからな。
 ま、こういう無造作な声かけも、国を統治するための心配りって奴だな」

※英林殿の地域密着思想その2。こういう条文は後代の加筆ではなく、初代孝景のオリジナルだと思う。
117人間七七四年:2013/01/17(木) 00:48:53.48 ID:xQWti9FN
>>112-116続き、これで最後

十六 諸沙汰直奏の時、理非すこしもまげられましく候。
   若役人わたくしをいたすのよし聞およはれ候はば、同とかにかたく申付られべく候。
   諸事うつろをきんこうにさたいたし候へば、他国のあくとう等いかやうにあつかいたるも苦しからず候。
   みたりかはしき所としられ候へは、他家よりてをいるゝものにて候。

「裁判や決裁をする時に、物の道理に合わない裁きを下しちゃいけねえ。
 もし汚職や依怙の沙汰をする役人がいたら、敗訴した奴と同じだけの罰を下してやれ。
 政治や司法が公明正大に運営されていれば、他国の敵勢力だって付け入っては来られない。
 他国に越前を侵されるとしたら、お前達の政治に悪評が立っているせいだと思え」

※これ読んでるとガチで心配になる、本当に大丈夫か現代ニッポン?


 (この後第十六条は当主の心構えが長々続くがどうにも抽象的な話なので割愛)

(末文)
十七 この条々大方におもわれては益なく候。
   入道一孤半身にて不思議に国をとるより以来、昼夜目をつなかすくふういたし、
   ある時は諸国の名人をあつめ、其かたるを耳にはさみ、いまにかくのことくに候。
   あいかまへて子孫において此条々書をまもられ、まりし天・八まんの御おしへとおもはれ候はば、
   かつくも朝倉の名字あひつづくべく候、末々において我がままにふるまはれ候はば、たしかにこうくわい可有之者也

「これまでに俺が挙げた家訓をおろそかにしても、あんましいい事無いぜ。
 俺は親を早くに亡くした身ながら運良く越前一国を手中に収めて、今こうして国を治める事ができたが、
 そいつは昼も夜も目を曇らせずに創意工夫し、諸国の名人智者の話を聞いて参考にしてきたからだと思う。
 お前達も子供や孫に俺の残した教訓を守らせ、神様仏様と同じぐらいに大事に守ってくれれば
 朝倉家は今後も続いてくれるだろう。
 将来アホンダラの子孫が我が儘なことをしだしたら、ぜってー後悔すっからな」

※「義景がアホだから」の一点張りに朝倉家滅亡の責を帰す気にはなれないけどね。


以上、福井県民による朝倉家のPRじみたネタでした。現代人の参考になりそうな教訓、あったかなあ……orz
118人間七七四年:2013/01/17(木) 01:19:30.88 ID:cNWNQgHD
朝倉スレでやれとしか・・・
119人間七七四年:2013/01/17(木) 01:25:49.09 ID:baYWWs4p
まぁ戦は数の暴力でだいたい勝てるてのは今の日本人にゃよく分かるだろうて
120人間七七四年:2013/01/17(木) 04:45:22.08 ID:xq3kLk4g
この朝倉孝景条々に書かれてる内容って戦争関連の記述に関しては英林孝景本人(又は2代氏景)が書いていて
家内統制、領国運営みたいな項目に関しては3代貞景、宗淳孝景、宗滴が加筆していったっていう見方がされているね
初代と2代目当主の頃は国内に敵残存勢力もまだまだ多くて越前国内でも毎年戦があって国内統治もままならなかったが
3代、4代の頃に書状の発給量や寺社の建設数が飛躍的に伸びているのが残された日付等から窺い知れるそうだ
121人間七七四年:2013/01/17(木) 12:55:07.24 ID:WvC7pKkI
先日図書館で借りた、東北の語り部から聞いた艶笑話(エッチな笑い話)をまとめた本に載ってた逸話
原文は東北弁バリバリですので翻訳して・・・

伊達政宗がある戦の時、相当激しい戦で盛んに矢弾が飛んでくるので、
立って行けないので畑の中を這って進んでいったそうな
すると、家老の片倉小十郎がその後ろから行って、
政宗の股ぐらに手を入れて金玉をガッ!と握った。そんなもんだから政宗がたまげて

「こら、何をする!」
「殿、この戦は勝ち戦です」
「何故だ?」
「殿の金玉がぶらりとさがっています」

と小十郎は言ったそうな


勝ち戦ってことでいい話に書き込んでみましたが、小十郎何やってんだww
・・・しかし、何故に金玉がぶらさがってると勝ち戦?
緊張で縮こまってないから余裕あるってこと?教えてエロイ人(´・ω・`)
122人間七七四年:2013/01/17(木) 14:12:55.27 ID:xGWKjNeo
鮭様でもわからんかと
まーくんがDQNなのはやっぱ小十郎のせいなんだろうなw
123人間七七四年:2013/01/17(木) 14:51:25.21 ID:baYWWs4p
玉(ぎょく)が動けなくなったら詰んでしまうからな
124人間七七四年:2013/01/17(木) 14:54:45.32 ID:TShLZXlu
タマが飛ぶ中タマを握るとは片倉も大したタマよ…
125人間七七四年:2013/01/17(木) 17:20:15.20 ID:kNCidfLH
>>121
それな、神様仏様稲尾様の稲尾が監督やコーチをライオンズやドラゴンズやオリオンズしてたときもそんなことしてた。

マウンドに行って、囲んで陰つくらせて、股関を掴み、縮みあがっていたら交代、というのをな。
126人間七七四年:2013/01/17(木) 17:44:55.13 ID:WLiED+HF
>>121のようなタマタマの話は結構あるよね〜
誰だかも思い出せないけど

大将の股間に流れ弾が飛んできて、
裏筋をカスって大騒ぎになったけど、一人歓心してる人がいるのでその訳を聞いてみると云々って感じ
127人間七七四年:2013/01/17(木) 23:07:23.49 ID:f2Qf8lCx
人物文庫の佐々成政で書いてあったことなんだけど

利家「佐々が攻めてきたwwwけど兵馬がないやwwwどうしようwww」
まつ「ふざけんなてめー!もう銭に鎧着せろボケが。」

っていう話は有名だと思うんだけど、その本には

利家「佐々が攻めてきたwww今すぐ出陣するから俺の馬を引け!」
まつ「そんな急いで出陣しなくてもよくね?まずはほかの城の味方と合流して……。」
利家「ふざけんなてめー!女が戦に口を出すな。」

って話が載ってた(と思う。昔読んだだけで本も手元にないので……。)


どっちが本当なんでしょうね。
それともなんども佐々と前田は末森で戦ってたのかな?
128人間七七四年:2013/01/17(木) 23:48:06.53 ID:fDMgv7q7
鳥井本合戦の事

同日の事なるに、佐和山城にはからめての敵大軍にて寄ければ、
高宮三河守、久徳左近大夫両人の者どもは近所一里二里の間なれば、
敵東西を囲候之條、早々加勢し給へと申遣、十七日の未明より、わが身は鳥井本村をやかせしと城中より三百ばかりにて討て出、
鳥井本村に人数を二段に備を立て、そゐたりける味方、すり針峠に陣取たる大野木土佐守、
三田村左衛門大夫、阿閉三河守、西野丹波守手勢五百余騎にて峠より打おろす。
孫七郎射手を揃へ、さしづめさん/\〃に射けれども、味方五百余騎の勢、
事ともせず鬨を作て押よせ、鑓おつとり/\喚叫て戦たり。かゝる所に前勢軍初るとひとしく、
磯野伊予守員吉、同右衛門大夫、井の口宮内、二番東野左馬助舎弟平野左兵衛尉、三番浅見対馬守、
米原を立て鳥井本の此方矢倉といふ所へ押よせければ、味方猶も勇んて追立追まくり、
火花を散て戦たり。佐和山勢敵猛勢にて押寄ると見ゆれば、引色にこそ成にける。
孫七郎是を見て此儘勢を引とらば、敵に惣構をも付入にせらるべしと思ひ、自鑓ひつさげたなし、
味方の者共よ敵大軍なりとも、いかほどの事か有べきとて取てかへし、はしたなく働けば寄手五町ばかり引退く。
其間に我人数をまとめ城の内へ引入ける。味方左右なうしたふべき様もなければ、敵門を堅て防ければ、小河が軍ふり物なれたる働とてみな人感じける。
斯て味方の者どもは思ふまゝに敵を追払ひ鳥井本村へみだれ入、町屋一軒も不レ残放火して、先勢はすり針山の麓に陣取、二番勢は矢倉に陣取、
本陣は梅が原にぞすゑたりける。爰に久徳左近大夫と申者は多賀の奥久徳村と云所に小城をかまへ居住す。高宮三河守と申者も高宮村に小城を構住居しけるが、
両人の者本は京極家の侍にて、佐和山の城をまもり居るに、明応の乱に佐々木家の大事とやおもひけん。両人相談して手勢二百四五十騎にて佐和山へつほみ入かゝ
りける所に佐々木勢小野村大堀村に着ければ、進藤山城守は進藤小兵衛と云し者を物見に遣し、敵の様体見するに立帰て申けるは、寄手は一働して鳥井本村の町屋一軒も不レ残放火して山のつまり
/\峯々谷々に陣取しは正しく人数多とも五千には不可過重てたしなむべしとぞ申ける。かくて治部大輔は去る夜の雨夥敷して要害をかくる事ならざれば、
上阪伊賀同信濃守に申付すり針山梅が原山米原の太尾に急に要害出来候様にと被申付ける。かかりける所へ磯山より早馬敷波を打て告きたりけるは、
今朝卯剋に軍を初め午の下剋までに城をも落し城主松原を討、其上首数百三十味方へ打取申候。味方も四十八騎討れ候へどもしかとしたる者一人
も討死不レ仕候と浦手の討手四人方より申越ければ、大将治部大輔を初軍中一度に軍初の吉事なりとて、憧と声して勇みけり。

(浅井三代記)
129人間七七四年:2013/01/17(木) 23:49:14.71 ID:fDMgv7q7
かくて山城守は敵に足たまりを拵させてはかなはじとて、四千余騎の人数を二手にわかち、馬淵、
目賀多を大将として佐和山の尾つゞき佐渡根山へ千五百騎にて押あぐる。進藤、
永原、蒲生は二千余騎海道筋を押よする。治部大輔は是を見て、佐々木勢是へ寄ると見へたり。
先手の衆は、今朝よりの戦にさぞ労れ候らん。磯野、東野、井の口、此人々先を替り可申とて、前手と替て鳥井本に南向に備を立る。
西野、阿閉、浅見は西向に備を立る。是は城中より討出なば可戦とのたくみなり。大野木、三田村、先備の上なる山に西向に備立る。
是は横鑓に可懸との儀なり。治部大輔も引続き矢倉村に本陣を居る。旗本三段なり。横鑓二所に置。去程に永正七年三月十七日の事なるに、
山城守前勢敵味方三町ばかりの合にて時をあくれば、佐和山勢、門を開切て出る。佐渡根山の勢も一時にときを作り、喚叫てかゝる。
敵は三所より切てかゝる。味方も鬨をつくりかけ/\切てかゝる。敵味方の鬨の声、矢さけびの音、百千の雷も一時に落、山川も崩て湖海に入
、天地もひるがへるかと夥し。やゝあつて鬨の声も静まれば、佐和山表と佐渡根山表と軍二つになりて、敵味方入乱れ、命も不惜しのぎをけづり、
一時ばかりは黒煙を立てぞ戦たる。東野左馬助舎弟左兵衛尉、敵猛勢にて入替/\戦は一町ばかり敗北す。跡にひかへし永原安芸守追つめて討取や、
者どもと息をもつかせず追かくる。味方防かねてぞ見えにける。敵、此由を見て伊庭美濃守、三上伊予守、目賀多伊豆守三人は、佐渡根山より人数をおろし、
横鑓に突かくる。味方大きに気を失なひ、こと/\〃く敗北す。敵、勝にのつて追討に討たりける。大野木、三田村、爰はよき図なりとて、三百ばかり真黒に成て
、横鑓に面もふらず突かかる。敵、横鑓に又つき立られ引色に見へけるを、磯野、東野、中(井)の口是に気を得て取てかへし戦は、佐々木勢をのれしらず一町ばかり引にけり。
進藤、軍に功ある人なれば、我勢は八里ばかり道を来るといひ、今日の戦も一時ばかりの戦なれば味方さぞつかるらんとて、諸
卒をまとめて引にけり。味方も数刻の戦人馬共つかれければ、陣をすり針山へぞ引にける。

(浅井三代記)
130人間七七四年:2013/01/18(金) 07:56:20.86 ID:QRCKESru
人としてコピペは辞めた方が良いと思うんだ
131人間七七四年:2013/01/18(金) 08:15:29.79 ID:w5hL6f7H
浅井三代記コピペ野郎は口語に訳にしてから出直せ
132人間七七四年:2013/01/18(金) 11:56:37.13 ID:MeLMlfzN
俺凄いでしょ以上に何を伝えたいのかがわからない
133人間七七四年:2013/01/18(金) 12:31:27.13 ID:YD1QtPnB
コピペの時点ですごくもないわけで
134人間七七四年:2013/01/18(金) 23:30:59.56 ID:FuIUEAbv
天正4年、信長は丹羽長秀に安土城の普請を命じ、
諸国の領主は夜に日を継ぎ、急いで築城に使う石を集めていた。
そんな中、脇坂安治は秀吉の使者として、書状を持たせた供の者と普請現場に差し掛かった。

ところが、そこでは丹羽長秀の郎党が秀吉が運んできた大石を
大勢の人足に運ばせ、持ち去ろうとしていたのである。

それを見た安治、「その石をどこに持っていく気だ!」

と押しとどめ、刀で石を曳く縄を切り、運べないようにしてしまった。
すると、邪魔された丹羽家の奉行の郎党人足がわらわらと打ちかかってきた!
しかし安治は逆に人足どもを追い散らし、奉行を捕まえて人質にしてしまった。

これを聞いた秀吉は、
「このようななめでたい普請のときに、騒動を起こすとはけしからん!安治を折檻してくれるわ!」と怒ったが、

そこに戻ってきた長秀(騒動の時は現場にいなかったらしい)が
秀吉の家を訪ねて安治の忠節を褒め讃え、色々と理もあることなので安治を許し、
忠節によりその年知行百五十石を領したのであった。

(脇坂記)
135人間七七四年:2013/01/19(土) 10:30:57.68 ID:N6QGvYvz
供出された石を現場を監督する丹羽が運んでるだけかと思ったw
かっぱらおうとしてたのか
136人間七七四年:2013/01/19(土) 11:00:28.03 ID:BZ18TKHM
安土からかっぱらうとは大胆な奴らよの
137人間七七四年:2013/01/19(土) 16:45:23.67 ID:ZEMMhz7V
元和二年の春より徳川家康は体調を崩していた。死を予感したのだろうか、
家康は自らの事業がいまだ未完であることを嘆いた。

「わしは天運にかなって天下の将軍と仰がれ、秀忠も相継いで大将軍となった。
まことに天の恵みだ、今は命が惜しいとは思わない。

しかし、このうえ十年寿命があれば天下の法令を隅々まで改正したく思う。
当時は乱世もようやく治まり、諸大名もわしが封じた人ばかりではなかった。
特に人々は乱世に飽き果て、何としても戦のないことを悦ぶ人心であった。
故に、ただ何事もそれなりの仕置きになってしまった。連年の穏やかな世ともなれば
かたがついてない事が表面にあらわれてくるだろう。これだけが残念に思う。

また、諸大名も二代目、三代目ともなると、大名育ちになって我儘ばかり申して
酒色に溺れ、文武の道をも忘れ去り、遊興にふけって暮らし果てることだろう。
せめて謀叛の志ある大名が出てきたならば、国家のためには却って良い。
謀叛を起こそうと思う者は、並大抵の器量では実現できないからだ。
左様な大名は、なかなか出てくることはあるまい。
138人間七七四年:2013/01/19(土) 16:46:34.85 ID:mzzton1l
「高虎の石集め」

藤堂高虎が石を集めるとこうなる。

石材の運搬に関わる「今治よいやな」は、
現在も今治地域に伝わる祝儀唄になっているそうである。

積んでいこうか お城の石をェー
船は千石 今治さしてェー
帰りは満載 米の山
よいやーなー

石垣用の石を積んで普請場に運べば、対価として米が支払われたらしい。
過酷な労役を、国づくり参画への充実感・高揚感に転換させた、とか。
139人間七七四年:2013/01/19(土) 16:48:16.26 ID:ZEMMhz7V
五十年から百年の間は懸念はない。しかし、その後も太平が続けば、
酒に下戸はあっても色欲に下戸はないもので、諸大名は色欲に溺れて若死も多くなり、
分知や家別れの人が本家を相続することも多くなる。これも家々の乱れる本だ。
例えその主人に才智があっても家の古い家老たちには遠慮し、無為に過ごすとしても
唯その位におさまるまでに留めて、それ以上のことに心を用いるべきではない。

世間を見たところ、僧侶が尊ばれているのは学問を行い物事を知っているからだ。
俗人の場合でも学才があれば、浪人風情でさえも人々から尊敬されている。
つまり、国郡の主が学問を行い聖人の道を行えば、家人を始め、他の人までもが
主を尊信して道を守る。これによって、君への忠臣、天下への奉公が成り立つ。

何度考えても、乱後故のそれなりの政道が後世にも用いられ、そのうえに身勝手な
諸々の新法が用いられるであろうことが嘆かわしい」

――『良将言行録』
140人間七七四年:2013/01/19(土) 16:54:53.99 ID:Rn8mmbMh
>>138
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5001.html
行ったら戻らぬ赤木のお城、
身捨てどころは田平子(たびらこ)じゃー
141人間七七四年:2013/01/19(土) 18:04:25.70 ID:h3JffrHL
>>137
(●∀・)
142人間七七四年:2013/01/19(土) 19:51:24.80 ID:awcIxwbk
>>74
蛇足ですが、こちらの後日談を。

新納忠元・愛刀の行方

天保の世になっても新納忠元を慕う者は多く、地元大口の郷士たちは連判で廟社建立の請願書を提出した。
御納戸奉行の海老原壮之丞は直ちに藩主の島津斉興公へ取次いだ。
この時の薩摩藩は莫大な財政赤字を解消するため藩政改革に追われていたが、藩主はこれを認められ
遠く京へ霊神霊社号免許を提出し、許可を受けた。天保14年のことである。

天保15年に工事は落成し、安政六年に明神の宣下があり、同年更に大明神への昇格が行われた。
かくて新納忠元は忠元神社の祭神となり、臨終の床で念を込められた愛刀も宝物として奉納されたのである。

それから時は流れ……薩摩は再び戦火に包まれた。
最後の武士の反乱、西南戦争である。

薩軍による熊本城の攻略は難航し、大将の西郷隆盛は「まるで清正公を相手に戦っているようだ」との言葉を残し転進を決意した。
官軍は薩軍を追って陸路から海路から侵攻し、薩摩の至る所で大小幾多の戦いが行われた。それは大口も例外でなかったのである。
追う官軍、逃げ惑う住民、その流れに逆らって歩みをすすめる男がいた。
年は三十手前、身の丈6尺(180p)余り、雷撃隊隊長の肩書きを持つその男は弾丸の雨の中、忠元神社へ向かった。
(続く)
143人間七七四年:2013/01/19(土) 19:54:13.14 ID:awcIxwbk
(続き)
「薩軍の幹部が忠元神社へ逃げ込んだ」との知らせを受けた官軍により神社は直ちに包囲されたが
「名臣、忠元公を祀る神社を戦火に攻め込むのは…」と躊躇する意見がないではなかった。
(官軍にも薩摩出身のものは多く、参軍の黒田清隆からして薩摩の下級武士だったのである)
結局出入り口を固めて待ち構えていたところ、果たして先に神社に入った男が出てきた。
身には三尺八寸の大太刀を帯びている。

「肥薩の境犯さるることなかれ」古の名将が念を込めたその刀を抜き放つや、男は群がる官軍に身を躍らせて縦横無尽に切りまくった。
男は残り少なくなった味方を糾合し、官軍への反撃を再開した。「第二の田原坂」と呼ばれるほどの激戦だったという。

だが圧倒的な兵力差はどうにもならず、最初こそ馬上で颯爽と指揮をとっていた男も、大口から高原、高崎へ撤退するときには
「わいら、逃ぐっは斬っど(お前たち、逃げる奴は切り捨てるぞ!)」と味方の尻を追いまくらねばならぬほど惨めな敗走をすることになった。
昭和の初期は西南戦争を経験した古老も多く、この狂気混じりの叱咤を「十郎太さまの激は敵よりおじかった(恐かった)」との証言も残っている。

大口を退いた後の雷撃隊隊長、辺見十郎太の最期は諸説あってはっきりしない。
西郷隆盛の自刃を見届けた後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、大勢の官軍を相手に壮絶な戦死を遂げたとも伝えられる。
いずれにせよ確かなのは新納忠元の死から260年以上の時を経て、その愛刀が再び振るわれたことである。

薩摩で迎える武士の世の終焉と、そこで振るわれる我が愛刀をかつての持ち主はどのような思いで眺めていたであろうか。
144人間七七四年:2013/01/19(土) 20:00:46.30 ID:6uk7Eu0W
薩摩は自国の忠臣を祀る神社の宝物まで略奪したのか…
145人間七七四年:2013/01/19(土) 21:15:19.33 ID:ywEeCPqH
>>144
アホか貴様は
146人間七七四年:2013/01/19(土) 22:56:46.19 ID:GzcDsitE
>>141
お前はもういい加減廚二病から卒業しろと権現様から説教受けてこい。
147人間七七四年:2013/01/19(土) 23:09:27.70 ID:k/Asygyv
厨の漢字がよく見るのと違う?
でも実際、家光の頃の政宗って気を引き締めるために
謀叛起こしそうなイメージを作ってたともとれないか
148人間七七四年:2013/01/20(日) 00:03:09.29 ID:lwPvKDxR
ウズウズしてただけだと思う
149人間七七四年:2013/01/20(日) 00:14:53.23 ID:FH9nC42R
そこまでして己を鼓舞するとは、さすがスーパー薩摩人の末裔
150人間七七四年:2013/01/20(日) 02:12:05.52 ID:bH2vIChk
>>141
権厨納言の官位を授けようぞ
151人間七七四年:2013/01/20(日) 10:41:53.14 ID:CVoW2nGh
>>144
ちゃんとお借りしたんじゃないの?
返せてないみたいだけど
152人間七七四年:2013/01/20(日) 10:59:41.67 ID:kX/lXQzB
盗人日本民族も朝鮮王朝の宝を返そうな
153人間七七四年:2013/01/20(日) 11:03:17.07 ID:POpz8FuA
>>150
政元・信長・謙信「ぼくらにもちょううだい」
154人間七七四年:2013/01/20(日) 15:00:23.07 ID:KSGEquT2
>>147-148
家康が言い残したように、政宗がジジイになった頃
周りの諸大名が全員腑抜けになってたら
「あれ?コレもしかしていけんじゃね?」とか思った事があるかも。
155人間七七四年:2013/01/20(日) 17:34:45.71 ID:0pj00NJo
徳川家康が伏見にいた時、張文をした者がいた。

そこで、老臣らは念入りに罪状を取り調べて
明らかにしようと考えたが、家康は、

「こんな事を糾そうとすれば、ますます張文をするものだ。

だいたい立派な男子ならば、こんな隠し事などはしない。
これは女子供のすることであって、それを糾明して咎めるのも
また、同様のことだ。そのまま破り捨てよ」

と、命じた。それからはまったく張文はされなくなった。

――『徳川実紀(三河之物語)』


三河武士「そうか、殿には言いたいことを言えばいいんだな」

というのが、張文がされなくなった理由だったりして…。
156人間七七四年:2013/01/20(日) 18:18:01.59 ID:0pj00NJo
>>155
すいません、訂正します。

×張文はされなくなった。
○張文をしなくなった。
157人間七七四年:2013/01/21(月) 17:59:11.68 ID:eInuXsaE
吉田伊賀介の妻

長宗我部元親は大軍を本山城攻略に向け、日々夜々鬨の声、鉄砲の音止む隙もなく、
ここに攻め寄せあそこに押し寄せ、打ち合い斬り合い、利を得て進む時もあり、怯れて退く時もあり、
互いに雌雄まちまちにて、この合戦がいつ終わるのかも解らぬほどであった。
この長宗我部の軍勢の中には、先に、これも長宗我部元親と敵対する安芸国虎の支城である馬ノ上城を攻略した
吉田伊賀介も加わっていた。

さてこの頃、吉田伊賀介に城を取られた馬ノ上城の番衆たちは、城主伊賀介の留守を、城を取り戻す
絶好の機会と思い、百四・五十騎の軍勢を集め馬ノ上に押し寄せた。

この時城内では、伊賀介の妻が、女房たちを集めよもやまの話をしていた。
その中にあった14.5歳ばかりの童女、何気なく縁側に出て遠見してみると、大勢がこの城に向かって
押し寄せてきているではないか!大いに驚き「敵寄せて来たり候!」と大声で叫んだ。

と、ここで伊賀介の妻は少しも騒がず、立出でて見渡し

「どうやらこれは、先に逃げ落ちた番衆達が、城を取り返そうと殿の留守に隙を伺い寄せて来たのでしょう。
ならば、我が方も用意せよ!」

そう言うと城中に残っていた全ての女房下女端女、さらに全く役にも立たなさそうな下男共そ呼び集め、下知をして
ある者には頭に兜を着せ、手にも兜を持たせて塀の上に差し出し、また他の者には両手に槍と薙刀を、他には
前後に旗印を、と持たせ、また大旗小旗を木の枝や塀柱に結びつけ、とにかく大勢が城に籠っているように見せかけた。

寄せ手の者達、この意外な風景に驚き、しばらく躊躇していたものの、ついに西の方へと通り過ぎ、安芸へと引き返した。
伊賀介の妻は咄嗟の謀によって、虎口の難を逃れ、夫の名をも挙げたのである。

その頃、誰が詠んだのか

『打落ちし 馬の上人今もまた 乗りも得ずしてかちでいにけり』

という歌で国中の上下男女、この番衆たちの臆病を嘲笑った。この事に安芸国虎は激怒し、その臆病の者達全員を
縛り首にしたそうである。
(土佐物語)

とっさの機転により城を守った、吉田伊賀介の妻についての逸話である。
158人間七七四年:2013/01/21(月) 19:52:12.98 ID:zdyBm1jg
>>157
小備後さんの兄嫁かぁ
土佐のお城は「はちきん」で持つ!ということですなw
しかし全員縛り首にしちゃって安芸さんとこは戦力的に大丈夫なのか
159人間七七四年:2013/01/22(火) 02:48:10.79 ID:JhwoqoZl
文禄二年(1593)、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に在陣していた佐竹義宣が国元の重臣・和田昭為へ送った面白い書状が残っている。

(追而書き)

なおなお、重ねて桃源へ申します。(肥前名護屋の)陣中では茶の湯の流行ること、並々ならぬ次第です。

太閤様などは一日はお城を出られて方々へ出向かれ、私なども同じように数寄のため方々の陣へ出向いております。
まつほ(茶器か?)なども二十余見ました。

そうそう、また茶の湯の稽古をしたので、関東で一番の数寄者でもなければ、私の前では茶でも湯でも、貴方などには口を開かせませんよ?
(原文:関東ニおゐてハ一之すきしやたらす候ハゝ、それかしまへなとにてハ、茶とも湯共、其方なとハ口ハあかせ申ましく候)
今はただただ茶の湯一つばかりをしております。
(原文:たゝ/\きさ一ハかりハすかるへく候)
以上。
160人間七七四年:2013/01/22(火) 02:49:25.91 ID:JhwoqoZl
(本文)
重ねて手紙にて申し遣わします。
こちらは別段何事もなく、高麗(朝鮮)のことも順調である、などと聞こえております。
ただ、今のまま相済む、などという事は無いでしょう。
度々申し遣わしている事ですが、当春は太閤様が自ら朝鮮へ御渡海される事になるでしょうから、中の丸の事は少しも油断してはなりません。
年貢についても引き詰めて催促するようにして下さい。
普請は三月から申し付けるようお願いします。

それから、人見主膳の所に置いてある鼓の筒(どう)を返事の際に大小ともに寄越して下さい。
大鼓は瓜の蒔絵、小鼓はたんぽぽの蒔絵のものですよ。

ああ、小鼓は皮も一緒に添えて送って下さい。大鼓は筒だけで結構です。

そうそう、笛が館にありますからよくよく尋ねて送って下さい。
主膳の所にも笛が一つあるはずですから、これもまた送って下さいね。
主膳の所にないなら宗叱の所にあるでしょう。

太閤様は日々御能をされますから、陣中では乱舞が流行っております。
重臣共はこぞって狂言をしているので、私も稽古をしてやろうと思います。
狂言の相手には桃源、玄喜、伊賀などを寄越して下さい。
唐へ渡って無事に帰ったら、国元で能の興行を考えておりますから、何事においても諸法度以下、油断無く申し付けて下さい。謹言。

正月十九日 義宣(花押)
和田安房守殿

(『阿保文書』)


陣中では秀吉の影響で能と茶の湯が流行っており、茶の湯や乱舞を楽しむ大名も多かったようだ。

義宣は国元の仕置きだけでなく鼓、笛に関してもあれこれと細かい指示を出しており、
追伸にあたる追而書きでも茶の湯の腕前についても自信満々に述べていて、あの肖像画からは伺い知れない佐竹義宣像が浮かび上がってくるような書状である。
161人間七七四年:2013/01/22(火) 06:02:00.85 ID:PNOCPoXy
太閤様は日々仮装コント大会をされますから、陣中ではコスプレが流行って云々…
162人間七七四年:2013/01/22(火) 19:19:13.08 ID:e1TzfBPV
江村小備後(親家)といえば、長宗我部家の家臣のうち、その武勇が四国のみならず中国九州まで鳴り響いた、
長宗我部家を代表する豪の者であった。
これはその江村小備後が、13歳の時の事である。

そのころ、江村の近辺では多くの人が失踪する事件があった。
それも、死んで失せるとか、飛んで失せるとか、そういうことではない。座敷の中に皆で集まって居る時に、
立ち上がったわけでも、その場から出て行ったわけでもないのに、かき消すように消えてしまうのだ。

一体どんな化け物の所業なのか。最初は人の目にも見えなかったが、後にはその姿を顕し、あるいは鬼の姿となり、
または女に変じ男に化して、上下を選ばず男女の区別なく、思うままに取り失われたので、
近隣の者たちは貴賎を問わず、申の刻より後(午後5時頃)になると、家の中に人も入れず、外に出ることもなく、
門を閉じてじっと朝を待った。

これに憤ったのが、当時13歳の少年である、江村小備後であった。
「一体何者の仕業であっても、私が住む近辺でこのように不快なことが行われているのを、余所に聞いて暮らすということが
あっていいものか!」

そして或夜、深夜に及んで人が皆寝静まった後、誰も連れず唯一人だけで、西江村の住居を出て、丑寅の方に
向かって歩いていくと、そこに七尺ばかり(約2メートル12センチ)の大法師が、物も言わずに立っていた。

小備前、これこそ話に聞く化け物だ、と思ったが、何事もないような顔をして近づき、すれ違い様!
抜き打ちにはたと斬った!

太刀音高く、手応えあり!倒れる!と見えたが、これも掻き消すように消えてしまった。
その時、小備前は大声を上げた

「化け物を斬ったるぞ!続け者共!!」

近所の者達この声に驚き、手に手に松明を燈してその場に駆けつけてみれば、地面に血が流れているではないか。
この血の跡を追っていくと、遥か北の山に、大きな古い墓の五輪塔が倒れて、空の倫牌が2つに割れ、そこから血が流れていた。

江村の人々は、「このような古石に誑かされ、数多の男女が悩まされたとは、なんと安からぬことであろうか。
さあ、この墳墓を掘り起こし、白骨と五輪を大路にさらすべし!」と評議したが、長宗我部国親がこの話を聞き、

「これは稀代の不思議な出来事である。墓の主はきっと、罪業深く、悪趣に堕した人なのだろう。
誠に憐れなことではないか。」

そう言って石塔を新たに立て、僧を呼んで墓の前で経を読み弔わせた。
この国親の情けが伝わったのだろうか、その後化け物があらわれることはなかったそうである。

そして、江村小備前がこの時化け物を斬った刀は「五輪切り」と名付けられ、後に長宗我部信親に捧げられたという。
(土佐物語)

江村小備前の化け物退治の逸話、そして名刀五輪切りの由来である。
163人間七七四年:2013/01/22(火) 22:07:54.93 ID:9EE5taSl
信長様の御軍法は、御敵になった者は子々孫々までも殺してしまい、
その名跡をも取り上げるほどに厳しいもので、こうして天下を治められた。

内裏の御修理などを仰せ付けられ、衰えた王法を盛り立てなさり、
後に仔細あって京の地子を免除なされて、万事賞罰正しく
仰せ付けられたので、万民にいたるまで仰ぎ奉った。

しかしながら、一度御敵となれば御詫言を申し上げて御旗下となろうとも
御心を許されず、憎しみも浅くはなかったので謀叛人も多くなり、
そのような時には、強引にというばかりにもいかなかった。

太閤様はそれをよく御覧になっていたので、御敵となった者には厳しく
仰せ付けても、御詫言を申し上げて御旗下となれば御譜代同然に
懇意になされ、気兼ねなくなされたから、昨日までの御敵となった者でも
身命を捨てて忠節を尽くそうとし、謀叛人もおらず、
早々に天下を御治めになった。

両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。
この心持ちは小身の者でも心得ておくべきことだ。

――『細川幽斎覚書』

細川幽斎の信長・秀吉評か。
164人間七七四年:2013/01/22(火) 22:35:01.35 ID:3LFIQHqX
だけど裏切り者には手厳しい秀吉であった。
まあどこもそうなんだけど。
165人間七七四年:2013/01/23(水) 02:08:44.36 ID:2Q/c2lIc
>>154
自分の家臣も代替りして同様になっている件

仮に天下奪えたとして息子に天下を維持できるのか、って事も考えんと豊臣の二の舞だ罠
家康みたいに支配体制を固める時間はその政宗に残っとらんだろうし
166人間七七四年:2013/01/23(水) 04:21:23.86 ID:s+dQ4ZIN
だって政宗だし時間があっても
167人間七七四年:2013/01/23(水) 08:15:26.50 ID:1yyi1jIb
鮭さんの話が豊富なので
「南出羽の戦国を読む」(限定900部)が欲しいと思って
amazonのマケプレ見ても俺様価格・・・・orz
と思ったら紀伊国屋webで普通に買えたw
マケプレの出品者たちザマーwww
168人間七七四年:2013/01/23(水) 08:52:18.06 ID:AuTpJFBK
鮭さんとかもういいから
169人間七七四年:2013/01/23(水) 09:24:43.93 ID:Jx9EJUim
んじゃ蠣さん
170人間七七四年:2013/01/23(水) 10:05:47.23 ID:2GwMkXWk
しかし言われるほど「一度敵になった者は味方になって忠誠を尽くしても許さない」なんてあったかね信長?
171人間七七四年:2013/01/23(水) 10:14:06.72 ID:weTpr0ej
>>170
そりゃあ、一度は信之に与したものの、その後ずーっと信長に忠実に仕えていた宿老の林秀貞が、
信之事件から24年後に、その話を蒸し返されて追放されるんだぞ?

この一件だけでも、信長はそういう印象持たれても仕方ない。
172人間七七四年:2013/01/23(水) 11:12:06.46 ID:n4oZ2zd4
それどころか、ずっと真面目に勤めてきたのに追放されちゃった佐久間さんみたいな人もいるし・・・
173人間七七四年:2013/01/23(水) 12:34:49.00 ID:mSY/6VCm
通政が死ななければ隠居ですんだろうにな
174人間七七四年:2013/01/23(水) 14:40:41.46 ID:wTMAzSZe
ちょっと雑談
「うちの先祖は薩摩藩の中の上ぐらいの家格で〜」とかよくじいちゃんが言ってた
その頃は「ふ〜〜ん」と聞き流していたが
日本史に興味を持ってから、先祖の家系をよく調べたら
関ヶ原から薩摩まで帰った猛者だったw
弟は捨て奸で討ち死にしたらしいが
175人間七七四年:2013/01/23(水) 18:42:34.04 ID:s+dQ4ZIN
>>174
スーパー薩摩人の中でも選りすぐりの精鋭じゃないか
176人間七七四年:2013/01/23(水) 22:01:11.07 ID:U74InqaX
>>170
どっちかというと降った後も敵なんだか味方なんだかよくわからない挙動を取る人間に
甘い傾向にあるきがする
177人間七七四年:2013/01/23(水) 22:33:17.63 ID:9F3Oc/un
勝茂さまが将軍様に元旦の挨拶を申し上げた帰りのこと、
城内を歩いていると、突然に林羅山が近づいてきて、
「鍋島家の先祖は何氏でありますかな?」
と問いかけてきた。
今までそのようなことを考えていなかった勝茂さまは、
確信があるわけでなかったがその場の思いつきで、
「鍋島は少弐氏の流れにござる」
と答えを返したところ、羅山は、
「おお、それは名家でござるな。
いま幕府では系図改めが進行中でござるが、
いずれ太田備中守殿からお申し入れがあろう」
と会話が弾んだ。

勝茂さまは鍋島邸にお帰りになると、
いろいろと調査をされて、平原善左衛門が少弐氏の流れで、
その系図も持っているということを突き止めた。
そこで善左衛門から系図を取り上げて鍋島の系図に作りかえられ、
幕府へと提出されたということである。
その後、先祖に興味が湧いたので調べてみると、
鍋島家の祖である鍋島三郎兵衛尉経直さまは、
佐々木氏だとの説があるとわかった【葉隠】
178人間七七四年:2013/01/23(水) 23:06:05.21 ID:XBeC+MAB
>>177
これは現代の感覚でみると悪い話にみえるけど当時の尺度だと良い話なのかな?
179人間七七四年:2013/01/23(水) 23:53:41.13 ID:f70+D/ZQ
悪い話だったら家臣が書き残さないんじゃね?
180人間七七四年:2013/01/24(木) 00:22:24.84 ID:7hS+4jx3
いい加減と言うかおおらかと言うか。

>系図改めが進行中
何でアータは自分ちのチェックしてないんですか。
181人間七七四年:2013/01/24(木) 00:58:41.10 ID:2wZMAWwa
182人間七七四年:2013/01/24(木) 10:42:31.49 ID:QuJJ83a1
めんどくさい軍団だと喧嘩してもいつのまにか配下に戻ってるんだろうな
183人間七七四年:2013/01/24(木) 17:41:43.19 ID:nkRpnFAc
三河一向一揆で徳川家康に反抗した門徒武士たちは降伏し、
そのうち首領百人ばかりが岡崎に呼び出された。この時、家康は直接彼らに向かって、

「お前たちがこの度宗門にくみし、譜代の主君に敵対したことは大逆無道ではある。
しかし、よく考えてみると身分の高い者も卑しい者も、この世は仮の世であって来世は長い。
だから、お前たちが私などを仮の主人、阿弥陀を長き世の主と思っても当然のことであろう。

よって、いずれの者も許すからには、私はいささかも怨みを抱いたりはしない。
お前たちもまた、これまでのように本心に立ち返って、少しも心を隔てずに忠勤を励め。
この旨を末々にまであまねく言い知らせて、いずれの者も安心できるようにせよ」

と、諭したので、首領たちはありがたさのあまり感涙にたえずして退出したということだ。

――『徳川実紀(落穂集)』
184人間七七四年:2013/01/25(金) 02:23:21.63 ID:caRKU/kq
「塚原卜伝」は戦国時代が舞台だから、定めし男色場面が沢山登場するだろうナッ!!!
平幹二郎の息子とは衆道関係にあるという設定なんだろうサッ!!!!!!

女色なんざ汚らしい変態どもだけが耽るもんだゼッ!!!!!!!!!!!
185人間七七四年:2013/01/25(金) 02:26:13.44 ID:Gg64KJqr
184はナッちゃんというマジキチゲイ爺の粘着荒らしにつきスルー推称


ナッちゃんの噂 PART8
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1343743541/
186人間七七四年:2013/01/25(金) 11:05:01.44 ID:zKn+mqcY
>184-185
さくざがしかる
187人間七七四年:2013/01/25(金) 13:44:48.72 ID:YVIrqPYW
天正十二年、豊臣秀吉は大坂城の築城のために生駒の大龍禅寺の裏山から岩石を
運んでくるよう命じた。ところが、運び出そうとした時に全山が震動し、大風が
起こり、雷鳴が走った。このことを聞いた秀吉は観音の霊地ではないかと思って
この山を「観音山」と命名し、その地の年貢を免除した。
188人間七七四年:2013/01/26(土) 12:53:40.93 ID:oWgjBIxc
百姓「うひゃラッキー」
189人間七七四年:2013/01/26(土) 13:13:27.04 ID:f4FXBF8j
巨石が転がり落ちた音じゃね?w
190人間七七四年:2013/01/26(土) 20:50:18.57 ID:SGWhGIN4
地元(愛知県豊橋市)の薄い情報誌に載ってた話と現地の看板に書いてあった情報をまとめて書きます

徳川家康公は天文二十三年、まだ竹千代と呼ばれ吉田城内におられた頃、
正月十四日に安久美神戸(あくみかんべ)神明社に参拝し、太刀を奉納。
社頭の松の根元に腰を掛けて、祭礼(鬼祭・おにまつり)を興味深くご覧になられた。

その後、慶長八年に家康公は京都の伏見城において神明社の神主司守信を召され、
「神主、久しうおじゃる。今も神式にちんばの真似をするか」を昔の祭礼の様子をお尋ねになられ、
以来、例祭鬼祭の司天師田楽は「ちんば踊り」と呼ばれるようになったという。
またこのとき、朱印領三十石と太刀を奉献された。

このエピソードから「家康公御腰掛松」として社頭の松が江戸時代より奉られていたが、
明治十七年、当時の神明社を現在の地に御遷座の際に腰掛松の代わりの松が植えられたそうです。

権現様の記憶力のいい話に、また新たな一ページが・・
そして、おそらくその田楽
ttp://www.youtube.com/watch?v=UBY8m2ypKWU
191人間七七四年:2013/01/26(土) 22:01:01.62 ID:myop0T57
久しうおじゃるとな…
神主も長生きでよかったな
192人間七七四年:2013/01/27(日) 03:31:36.61 ID:qblIWjhU
そういえば家康は普段から駿河ことばをしゃべっていたという話を聞いたことがある
実際はどうだったんだろ
193人間七七四年:2013/01/27(日) 12:36:15.15 ID:QIDNfp5f
静岡市から来た女の子の、そのの〜の〜ぉ、という
実におっとりたおやかな言葉というかイントネーションが忘れられない。
「その」の一言が何故そうなる。特別おっとりしてる子だったからなのかなぁ?
194人間七七四年:2013/01/27(日) 14:57:36.91 ID:Y8uZjrdl
「おじゃる」って今川家の駿府御所では日常的に使ってたのかな
195人間七七四年:2013/01/27(日) 16:15:10.41 ID:6yH5abUi
名門武家だしそんな庶民の言葉使わないんじゃないの
196人間七七四年:2013/01/27(日) 16:50:32.10 ID:J/9EibcW
国替えで遠くへ行くと方言問題で苦労しそうだな。
197人間七七四年:2013/01/27(日) 16:58:17.53 ID:dgcfI0ri
宇和島だと武家だけ東北訛とかなんだっけ?
風習やら行事なんかはまんま宗家と同じにやってたと聞いたけど〜
198人間七七四年:2013/01/27(日) 17:02:34.61 ID:7zAyEVUi
越後長岡藩も武士だけ三河訛りだった、とかいう話だな。
199人間七七四年:2013/01/27(日) 18:33:33.35 ID:dl4u/371
その理屈だと、土佐藩上士は尾張訛りだったとでもいうのか?
200人間七七四年:2013/01/27(日) 19:53:54.87 ID:fsrXLPkh
母方の実家が宇和島藩士の家系だけど聞いた事なかったな…実際はどうなんだか
201人間七七四年:2013/01/27(日) 20:33:51.74 ID:t31kz6b9
そんなこと言いだすとキリがない気がするがw
202人間七七四年:2013/01/27(日) 23:18:36.20 ID:jvPVyfDO
ただ、殿様連中は普通に江戸弁で幼少期を過ごしているからなぁ。
203人間七七四年:2013/01/27(日) 23:21:03.26 ID:dVcawtOG
良い話とかと関係ないけど、まあ記録が間違ってたかなんかだろうけど
十河一存の逸話にある寒川氏を攻めた時の
神内左門という侍に左腕を槍で貫かれ傷口に塩すりこんで
そのまま神内左門を討ち取って悠々と帰り『鬼十河』と呼ばれた逸話ね
これ1532年って事になってるけど鬼十河が生まれたのは1532年なんだな
つまり寒川氏を攻めた時の十河一存は0歳児の赤さん
そりゃ人間離れした行動で鬼十河と呼ばれる訳だ。
204人間七七四年:2013/01/27(日) 23:26:50.12 ID:dVcawtOG
1532年だと三好氏は元長が死んでテンヤワンヤだしまあ単純に年間違えただけだろうけどw
実際は状況的に考えると1550年前後だろうけど
205人間七七四年:2013/01/28(月) 18:24:34.35 ID:1gAh7aNi
>>197
初期の宇和島伊達家では現地採用の下級武士に、
仙台からきた藩首脳部の言葉が通じないので通訳みたいな仕事をする人がいたらしい
ソースが司馬遼の小説なんでホントかどうかわからないがw
206人間七七四年:2013/01/29(火) 12:21:38.11 ID:hpGkLg9I
郷土の方言などを調べてるとたまになんで遠く離れた地方の方言と一緒なんだろと不思議に思うことがある
つまりは国替えによってもたらされる言葉の移入なんだな
207人間七七四年:2013/01/29(火) 12:24:54.72 ID:d1qysb2o
長岡の武家言葉が三河弁の流れとかあったな
208人間七七四年:2013/01/29(火) 12:54:51.67 ID:dTkiweTr
方言ではないが宇和島の「じゃこ天」のルーツが仙台の笹蒲鉾らしいけど
練り物って以外似ても似つかんのだが…
209人間七七四年:2013/01/29(火) 13:51:57.13 ID:WbQQ/XJF
四国って七人みさきとか上の怨霊の話とか相撲大会とか
魑魅魍魎がうじゃうじゃいるイメージ。
210人間七七四年:2013/01/29(火) 14:29:07.27 ID:hpGkLg9I
土佐の山手の村じゃ猫食う文化があるらしいし
東北かどこだかにも葬式の夜に狸汁が振る舞われているって聞いた
211人間七七四年:2013/01/29(火) 16:23:59.21 ID:0NTV5GM1
>>209
死国というくらいだからな。
212人間七七四年:2013/01/29(火) 18:27:02.38 ID:XJzbWj0T
>>209
俺には四国=お遍路さんと野球、みたいなイメージだけどな
むしろ瀬戸内海隔てた県は街並みの美観が有名な一方、ミステリーの創作といい例の人の史実といい物騒な感じが(ry

・・おや、某所からお茶会の通知が来ているぞ
213人間七七四年:2013/01/29(火) 18:30:49.46 ID:XJzbWj0T
連投スマソ
>>206
そういえば、何かで読んだけど・・地域を間違えてたらスマンが・・島根県?と距離にして何百キロも
離れてる東北の庄内地方??の訛りには、濁音かなんか、発音に共通性があるそうだ
言語学によりタネ明かしをすると、日本海の交易が歴史的に両地域を結び付けていた、らしい
214人間七七四年:2013/01/29(火) 19:15:19.42 ID:0l39YuG9
>>209
四国民だが、弘法大師が結界はったお陰で、四国(鬼国土佐は除く)には幽霊だの狐はいないと聞かされた
幽霊話はみんな狸のせい
215人間七七四年:2013/01/29(火) 20:14:18.66 ID:y1OlKGpe
キツネが追い出されたから狸が多いのか
216人間七七四年:2013/01/29(火) 20:20:14.04 ID:HoMdVO2c
>>207
江戸弁はいろんな地方の言葉が合わさって出来たけど三河弁の影響も濃いらしい
最近は東京でも首都圏方言の人ばっかりで江戸弁自体廃れちゃってて寂しいよ
217人間七七四年:2013/01/29(火) 21:04:26.49 ID:kK6dsO2q
【井伊直孝遺状】(抜粋)

一.上意は申すまでもなく、御老中からこの上もない無理難題を申しつけられても
幕命に沿い、只管に将軍家への御奉公を専らに勤められることを本義とする。
我らへの孝行は将軍家への御奉公に勝るべきでなく、御代々の御厚恩を子々孫々に至るまで忘れるべからず。

一.大権現様により泰平の世となって以来、我らが御主君の御役に立ってきたことは、天下に広く知られている。
其方も昼夜武道を忘れなく励まれよ。
世の中が泰平ゆえ、大猷院(家光)様と当公方(家綱)様に対し、戦場での御奉公も致さず相果てることは、誠に残念至極である。
幕府に対する謀反者が現れた際には直ちに出陣出来るように、常日頃から覚悟しておけ。
その際の軍法は以前より定めおいた通りにすべきであるが、場合により少しばかり変えてもよい。
しかし、新たな戦法は取るな。 井伊家直々に伝わってきた軍法と、別書一巻の通りに合戦をしろ。

一.天下に兵乱が生じた際、靫負佐(直滋)が独自に別旗を立てて出陣しようとしても、その意に任せてはならない。
また金銭を所望してきても、以前から定め置いた合戦の員数以外の援助は無用。

一.賞罰については、当たり前のことだが、賞を厚く罰を薄くするように心掛けよ。
大将たるべき者は、表向きの役務をする外様者や、遠所に在勤する者に対しても、よくその善悪を見極めろ。
並みの人と能き人とを同等に扱ったら、能き侍は嫌気が差し、奉公を等閑にするものである。
他人から聞き及ぶことには、事実と相違することがあり、そのため人を見誤ることも多いのでよくよく分別せよ。
何れにせよ大将たるべき者は、欲を浅く慈悲を深くすることが肝心である。

一.家臣を召使う場合、その侍の善悪次第によって召使われるべきで、譜代・新参の分け隔てなく扱うこと。
一心に奉公する者がいても、贔屓がなければ主人の目にも止まらず、埋もれて知れぬ事が多いものだが、これはとかく残念なことである。
また、さほどの取り柄の無い者でも、取り成してよき様に処遇してやり、
人並みの奉公も出来ない者でも、その善悪を選び出して程よく召使うことが、大将の手柄である。
218人間七七四年:2013/01/29(火) 21:24:01.24 ID:e+3He9uu
彦根藩と庄内藩どうして差がついた

近畿ととうほぐの違い
219人間七七四年:2013/01/29(火) 21:53:14.65 ID:psL0QQvZ
>>211
四国=死国は創作だぞ
220人間七七四年:2013/01/29(火) 22:35:58.90 ID:dTkiweTr
四国には鳥が居らずに蝙蝠が居るとか…
221人間七七四年:2013/01/30(水) 07:22:59.47 ID:7//td3HG
先日放送の「八重の桜」で
井伊邸に居たひこny…白猫や、松平容保と井伊直弼の対談を観て感慨に耽った身として
会津藩の藩祖・保科正之が遺した家訓と
井伊直孝が直澄に宛てた遺状って似てるんだよなーとまたまたしみじみ
222人間七七四年:2013/01/30(水) 07:46:43.69 ID:ro4mP+NL
ある時、宇喜多忠家は直家の家老・小野田四郎右衛門を討ち、これに直家は激怒した。
忠家は怖れて居城・富山城(とみやまじょう)に引き籠り、直家の呼び出しにも応じないため
もはや叛意は確実と見られた。
ここで岡家利・長船貞親らは日頃忠家と仲が悪く、これ幸いと直家に討ち果たすべしと讒言した。
戸川秀安は忠家の乳母の子だったのでこれを嘆き、某にお任せくだされと願い出て
富山城へと向かった。

富山城に着いた秀安だが、説得など一言もせず城攻めの用意を始め、
仕寄を設け井楼を用意し、これでもかと城攻めの気勢を見せつけたところ、
忠家はこの勢いに恐れをなし、起請文を出して降参してしまった。
これを秀安がうまく取り繕ったので和睦となったのである。

秀安は忠家の日頃臆病な気質をよく知っていたので、こんな方法を取ったそうだ。

(戸川記)


戸川秀安、無言の脅迫で乳兄弟を救ったいい話。
223222:2013/01/30(水) 08:08:21.90 ID:ro4mP+NL
スマンageてしまった・・・
224人間七七四年:2013/01/30(水) 08:58:32.27 ID:7XZCZzFN
・・・で直家に詫び入れるときは鎖帷子を着込んで登場ってわけですね
225人間七七四年:2013/01/30(水) 09:58:43.53 ID:V5pk1d78
226人間七七四年:2013/01/30(水) 10:00:42.13 ID:V5pk1d78
>>213
松本清張の「砂の器」だね。
227人間七七四年:2013/01/30(水) 21:43:21.71 ID:4c/Ysv3g
戸川△
228人間七七四年:2013/01/30(水) 22:44:24.29 ID:ibDTggh8
本丸に勤める御番衆たちがさしてする仕事もなく碁を打っていた。
剛の者として城下町でも名の知られる牛島久次兵衛は碁を見物していた。
碁を打っていた松浦嘉左衛門がふと久次兵衛に目をやると、
久次兵衛は苦々とした表情でつまらなさそうにしていた。
碁の旗色が悪くイライラしていた嘉左衛門はカッとなり、
いきなり飛びかかり久次兵衛に抜き打ちに斬りつけた。
それを見た有田権之丞はすぐに体を張り嘉左衛門を取り押さえた。
斬りつけられた久次兵衛は真っ直ぐ嘉左衛門に向かい、

「貴様、城中でなければ」

と一言を残し前のめりに倒れ死んだ。
この一言が当時、大いに評判となり、
「さすがは久次兵衛にして、この覚悟の決め方だ」
と武士も町人にも称えない者はなかった。

その後、松浦は切腹。
権之丞は体を張り喧嘩を止めたことを評価され、
上役から刀を贈られることとなった。

久次兵衛は顔の筋を痛めていて、
ときどき目、口が引きつる癖があり、
松浦がそれをしかめっ面と見間違えたのが事の発端ということだ 【葉隠】
229人間七七四年:2013/01/30(水) 23:10:41.16 ID:xFOxtOI8
他人の碁でも微妙な局面とかになるとついつい難しい顔して考え込んじゃうよね
まさかそれがアウトとは…
230人間七七四年:2013/01/31(木) 00:24:31.45 ID:/7YQKJXZ
>>228
顔面麻痺に気づかなかったのか
231人間七七四年:2013/01/31(木) 02:30:58.22 ID:71ZRINtX
囲碁将棋をやる時は、刀は遠くに置きましょう!
232人間七七四年:2013/01/31(木) 02:51:00.13 ID:o6E7G6Qx
「木太刀の一本もあれば…」
233人間七七四年:2013/01/31(木) 09:59:49.05 ID:8fdWBHvX
このくらいでキレて斬りかかるんなら、このまま有田さんが勝っても有田さんに斬りかかってたのではないだろうか
234人間七七四年:2013/01/31(木) 13:45:03.14 ID:ZDR9dS1f
血の気多すぎだろw
235人間七七四年:2013/01/31(木) 15:42:04.79 ID:3S397xde
現代でもこういうチンピラいるじゃん
パチンコ屋で後ろからリーチのハズレ見たら殴り掛かってくる奴とかさ
236人間七七四年:2013/01/31(木) 16:18:11.16 ID:NqBMAViV
ほんの些細な碁会が原因だったんです
237人間七七四年:2013/01/31(木) 16:58:44.15 ID:Nn8liYfA
全く、しょーぎない奴だな
238人間七七四年:2013/01/31(木) 18:37:09.27 ID:nUUAFt1Q
みんな松浦さんのおかしさに目がいくんだな
牛島さんや有田さんの剛勇こそ称えようぜ
239人間七七四年:2013/01/31(木) 21:39:44.70 ID:NqBMAViV
碁盤は火を扇いで消す為の物です
240人間七七四年:2013/01/31(木) 23:13:51.00 ID:E18Imh5p
牛はブン投げる為の物です
241人間七七四年:2013/01/31(木) 23:23:12.85 ID:ftL6n08a
岩も投げるためにあります
242人間七七四年:2013/02/01(金) 12:10:55.31 ID:3nWWxA97
鮭さんの話が豊富なので
「南出羽の戦国を読む」(限定900部)が欲しいと思って
amazonのマケプレ見ても俺様価格・・・・orz
と思ったら紀伊国屋webで普通に買えたw
マケプレの出品者たちザマーwww
243人間七七四年:2013/02/01(金) 12:20:00.81 ID:d/ybZU6L
狐の話はもういいよ
244人間七七四年:2013/02/01(金) 16:10:50.87 ID:jfYjNynK
聞き慣れない言葉だからググッたらせどり業界の用語か >俺様価格
ディープな趣味の世界ではこういうのよくあることだな
245人間七七四年:2013/02/01(金) 18:01:16.81 ID:lkmjzdxS
徳川家康が駿府城で少々病気になったが、すぐに回復した折のこと。

家康が脈を取りに伺った医師衆に向かい「気分がよく、食事もすすむ」と言うと、
医師衆は「それはすばらしい。『命は食に有り』といいますから、
何よりめでたいことにございます」と、申し上げた。

すると家康は「『命は食に有り』ということを其の方どもはどのように心得ておるのか。
例えば今年生まれた赤子に乳を飲ませる時には、乳が足りるように、飲ませすぎないように
と思う親たちの心得が必要だ。およそ人にとって飲み食いする物が大事なのだ、
ということではないだろう」と、言った。

医師衆はいずれも承って「御もっとも至極の上意でこざいます。
『命は食に有り』ということを、只今まで間違えて理解しておりました」と申し上げた。

――『駿河土産』
246人間七七四年:2013/02/01(金) 19:34:23.51 ID:O4tEcZrE
医師「只今まで間違えて理解しておりました。理屈こねてないで黙って食え、ですな」
247人間七七四年:2013/02/01(金) 19:39:59.66 ID:3K8YK6hI
まあ家康の立場で言うなら、専門家なんだからお追従じゃなくて専門的な意見を言えよってことだろ
248人間七七四年:2013/02/01(金) 19:42:43.62 ID:zWLBdFoZ
医者(・・・めんどくさい、めんどくさいよ、こいつ)
医者「御もっともしごくの上意云々」
249人間七七四年:2013/02/01(金) 20:17:58.67 ID:1JQRTlS0
天下人の癖にめんどくせー
250人間七七四年:2013/02/01(金) 20:48:58.22 ID:AaUloSf/
気休めで調子のいいこと言ったらガチツッコミを入れられたでござる。
251人間七七四年:2013/02/01(金) 21:59:48.96 ID:orXojr2R
聞きかじった半端な知識で玄人に意見する素人ってウザいよな。
252人間七七四年:2013/02/01(金) 22:10:36.65 ID:3K8YK6hI
小田原陣が終わって都に戻った豊臣秀吉はある日、聚楽に諸将を召して饗応をした。
そのうちに昔今の物語となり、秀吉が長宗我部元親に向かって

「ところで宮内少輔(元親)は四国を望んだのか?それとも天下を望んだのか?」

そう尋ねられると、元親は畏まって

「どうして四国など望みましょう?天下を心にかけていました。」
と答えた。秀吉は

「宮内少輔の器量では、天下の望みなどどうして叶うだろうか」

これに元親
「悪い時代に産まれたために、天下の主に成りそこなりました。」

秀吉は笑って「それは一体どういうことだ?」と尋ねると、元親

「今は、天晴他人の天下であるので、恐れ多いと思いますが、大度の君と同じ時代に産まれてしまい、
望みを失いましたので、悪い時代に産まれたと申し上げたのです。」

この言葉は秀吉の笑いのツボに入り(殿下笑壺に入りて笑わせ給ひ)、大いに爆笑した。

酒宴の後、秀吉は施薬院を召して、「宮内少輔に茶の湯を所望したい」と話した。
施薬院は畏まり「宮内少輔もかねてから殿下に御成りになって頂きたいと願っていましたが、しかし屋敷が粗末なので、
憚っていたのです。」と申し上げた。これに秀吉は

「いやいや、粗末なのは構わない。茶の湯というものはな、質朴なのを本意とするのだ。
外を飾って華美をなすのは数寄の道ではない。近日中に彼の屋敷に行くぞ!」

と申された。これを聞いて元親は大いに喜び、千宗易に相談してその準備をした。
秀吉は御相伴として、富田将監、稲葉兵庫頭、施薬院を伴った。

元親は路地に茶屋を立て、若い女二人を綺麗ないでたちで控えさせ、女達は秀吉がお通りの時「ちとお腰を掛けていかれませ」
申し上げた。秀吉一行は「いや、急ぐのだ」と言ってそのまま通ろうとするのを、平にと袖に取り付いて招き入れたので、
そこまで言うならと、茶屋に腰を掛け、そこで様々な戯れなどを言った。

ここで女達は餅を出し、まず秀吉に、そして相伴の3人に渡す。その上で「餅の代金を頂きます」と言ってきた。
秀吉は金銀を出して与えたが、他の三人は逃げ出してしまった。食い逃げである。
これを女達は「そうはやるまじ!」と追いかけた。秀吉はこれに

「逃がすな逃がすな!」

と大笑いして声をかけた。

その後数寄屋に入り茶の湯を楽しみ、その後書院に移り、元親からの進上品を受け、さらに施薬院との囲碁を楽しんだ。
この終日の遊行に、秀吉のご機嫌斜めならず、後で千石分の米俵を、元親に与えた。

君臣合体のお楽しみ、目出た借りける次第なり。
(土佐物語)
253人間七七四年:2013/02/01(金) 22:22:03.28 ID:YO9iI/fO
肥前名護屋の瓜畑遊びといい、吉野のコスプレ花見大会といい、ラスボスこういうの好きだなぁ
254人間七七四年:2013/02/01(金) 22:39:24.00 ID:jfYjNynK
千利休プロデュースのイメクラである
255人間七七四年:2013/02/01(金) 23:21:45.72 ID:q1PnOX2A
>>228
>本丸に勤める御番衆たちがさしてする仕事もなく碁を打っていた。
さしてする仕事もないから将棋ではなく碁を打ったの(´・ω・`)?
256人間七七四年:2013/02/01(金) 23:30:15.36 ID:y2S2LRuz
ある夜のこと、唐津で侍どもが囲碁を打っていた。
北畠殿はそれを横で見物しておられた。
そして何気なく囲碁の助言をされたのだが、
相手の侍がカッとなり、抜き打ちに斬りかかった。
まわりの侍たちは驚きみなで止めにかかると、
北畠殿は蝋燭の灯を指でつまみ消し、
「私のいらぬおせっかいで失礼した。
お詫びを申し上げる。幸い私に傷はない。
刀は碁盤に当たりました。」
と申されたので、皆はホッとして蝋燭に火をともした。
相手の侍が、
「北畠殿、仲直りの盃を交わしましょう。」
と言い寄ってきたところに、
抜き打ちの一刀をあびせその首を落とした。
そしてまわりの侍どもに、
「碁盤に当たったというのは武略であって、
わたしは股を大きく斬られている。
この傷では立ち合うことが出来なかったので、
傷を羽織で隠し、碁盤に寄りかかって討ち果たしたのだ」
と申され、まもなく息を引きとったとのことだ【葉隠】
257人間七七四年:2013/02/02(土) 00:07:55.88 ID:FdkEbKGE
さすが剣聖直伝の兵法・・・とか思ったけど、唐津や葉隠じゃ別人だよね〜
258人間七七四年:2013/02/02(土) 00:12:04.38 ID:lYXPAAJP
これがホントの碁盤斬り
259人間七七四年:2013/02/02(土) 05:23:09.39 ID:yZ+uj+ed
囲碁に口出しして切りかかられてる時点で、ただのアホだろw
260人間七七四年:2013/02/02(土) 07:10:52.18 ID:IMLy1iRh
肥前では囲碁禁止令を出すべきだった
261人間七七四年:2013/02/02(土) 08:37:19.92 ID:KWJEgrsD
鍋島なら猫が仇討ちしてくれます
262人間七七四年:2013/02/02(土) 08:51:39.83 ID:yc3dpVV8
じゃ、以後囲碁する時は対等の者以外帯刀禁止
263人間七七四年:2013/02/02(土) 08:57:56.61 ID:Yp8Hd7hg
では鍋島猫騒動のあらすじを。

『肥前は 白石の秀屋形(現・佐賀県杵島郡白石町)において、ある時鍋島勝茂は、家臣の龍造寺又一郎と碁を打っていた。
が、その最些細な事から口論し、怒った勝茂は又一郎を手討にしてしまう。

又一郎の首は、彼の飼っていた猫が自宅へと咥えて帰った。
この首を見た又一郎の母は勝茂を激しく恨み、自害して果てた。
又一郎の猫は又一郎と母の怨念を身に受け、七本の尾を持つ化け猫へと変化した。

それ以降、勝茂の身の回りには怪異が起こるようになり、勝茂の子が急死し、勝茂自身もまた、病に倒れた。

家中の者達は不審に思い、勝茂の身を守ろうと寝ずの番をしようとするが、何故か深夜に至ると皆寝てしまった。
そんな中、千布本右衛門は、強烈な眠気に対し自分の太ももを脇差で刺して眠ることを防いだ。

すると勝茂の側室である豊の方が、化け猫の本性を現した。化け猫は本物の豊の方を食い殺し、入れ代わっていたのである。
千布本右衛門はこれに斬りつけ、化け猫を退治することに成功した。

これ以後、勝茂の病気は快方に向かい、怪異が起こることもなかったという。』


うん。鍋島は碁を全面禁止すべきだったなw
264人間七七四年:2013/02/02(土) 09:23:26.41 ID:IMLy1iRh
まぁ、完全創作ですけどね
265人間七七四年:2013/02/02(土) 10:56:02.18 ID:FdNgoi5U
北畠っていうから信雄のことかと思ったわ
266人間七七四年:2013/02/02(土) 11:25:02.91 ID:q0M2l8N2
三河地方在住か、知り合いに静岡県出身者が多い人に聞きたいけど
今でも「めんどくさい人」は他県に比べて圧倒的に多いのかな?
ちょっと気になってw
267人間七七四年:2013/02/02(土) 13:30:25.67 ID:WgR6AssG
メンドクサイ三河人ってネタだから本気にすると恥じかくよ
268人間七七四年:2013/02/02(土) 13:40:13.97 ID:NAZeXtiQ
関東移封以後、徳川譜代はあちこちに移ってるから地方の依存とかある訳ないしな
269人間七七四年:2013/02/02(土) 13:47:14.49 ID:29IaTXfE
岐阜県民だが少なくとも三河ナンバーの車はめんどくさい
270人間七七四年:2013/02/02(土) 14:04:02.01 ID:Yp8Hd7hg
めんどくさいというか、江戸時代、三河・遠江・駿河の百姓は、元の本拠地だっただけにやたらに「権現様お墨付き」
の文書持ってて、彼らは何かあるとそれを盾に権利主張して、権現様のものだから大名や代官はなにも言えず、
この地域を任された大名や幕臣はほんとうに大変だったらしいw
271人間七七四年:2013/02/02(土) 14:04:03.45 ID:wBnP35N9
三河ナンバーの運転が荒いのは尾張美濃の共通認識
272人間七七四年:2013/02/02(土) 14:06:01.53 ID:0yfSWvZH
>>270
ああ、それは冗談とかネタ抜きで面倒くさいな
273人間七七四年:2013/02/02(土) 14:19:44.27 ID:Ur29ajaj
使えるもんは使うのが道理だが
やられるほうは嫌だろうなぁw
274人間七七四年:2013/02/02(土) 14:28:59.16 ID:yc3dpVV8
>>271
尾張小牧もたいがいにて候
275人間七七四年:2013/02/02(土) 15:17:53.58 ID:WgR6AssG
>>270
大御所時代に為政者の姿勢の見本として
農民宛の年貢の領収書を奉行や祐筆にまかせずわざわざ自筆で書いてたが
まさかこんなことに利用されるとは思ってなかっただろうなw
お墨付きじゃなくてただの領収書なのに、農民のしたたかさには恐れ入る
276人間七七四年:2013/02/02(土) 17:32:53.98 ID:wBnP35N9
「農民の嘘は可愛いものだ」
と落武者狩りで命を落とした天下人の明智さんは生前語った。
「パンがなければお菓子を食べればいいのに」
と言ってもないマリーアントワネットの発言を捏造した平民ロベスピエールさん

結論
この世に可愛い職業も身分もない
南無阿弥陀仏 チーン
277人間七七四年:2013/02/02(土) 19:53:11.42 ID:FdNgoi5U
武士の嘘は武略とか言ってた話か
278人間七七四年:2013/02/02(土) 20:31:49.81 ID:0mGTh34I
戦国期には堂々と綸旨を偽造して権益確保を狙う村もあったわな
279人間七七四年:2013/02/02(土) 22:51:38.12 ID:Gb3/Ubk8
そういえば何か離れ業で家を守った相馬利胤も、
旗本の娘と結婚するとか殊勝なことしたら、その娘が秀忠の養女扱いになって
挙句その旗本屋敷を家康縄張りによる相馬藩邸に改築してもらったとかあったね

後に区画整理で相馬藩邸の移築命令が出たときに、
「権現様ノ縄張」ってことで例外が認められたとか
280人間七七四年:2013/02/03(日) 00:40:20.06 ID:ExTMH4Ey
家康さんとこに限らず世の権力者さんたちは、
gdgd言わず素直に詫びに自分のとこに飛び込んできた者には甘いイメージ
281人間七七四年:2013/02/03(日) 01:22:01.80 ID:lidqeqCk
そりゃ権力に従う姿勢をしめしたら、普通は討てないさ
282人間七七四年:2013/02/03(日) 01:54:17.04 ID:/yW9iIQ5
高虎と江戸城修築kwsk


藤堂高虎は徳川家康に築城の腕を見込まれ、江戸城の大修築にも携わるわけだが、
その基本計画は、高虎が立案し、家康が修正していくというものだった。
家康が「本丸が狭ければ広くしよう。」と言えば、
高虎は「本丸は狭い方が便利です。」と提言し、家康がそれを決定するといった具合である。


また、城の石は前年から諸大名に割り当て、
総数3千の運送船を使って、伊豆国から採集して運搬させた。

高虎をはじめ、細川忠興、前田利家、池田輝政、加藤清正、加藤嘉明、
福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島直茂、山内一豊、
毛利輝元、蜂須賀家政らが、外郭、石垣などの築造を分担した。

諸将らは、自らたっつけ袴を付けて、担当の場所で工事の監督をした。
徳川秀忠も毎日二回の巡視をしたと言う。


1606年5月工事は完成。
高虎は縄張りの功により2万石が加増となった。

                               「慶長軍記」
283人間七七四年:2013/02/03(日) 02:46:44.42 ID:QxpAQhg/
高虎の話に便乗して高虎のいい話。高虎が関ヶ原以後領有した今治では
現在でも「今治よいやな」と「木山音頭」のふたつの民謡が残っている
特徴的なのはどちらも高虎による今治城築城のもので、

積んでいこうか、お城の石を、エー、船は千石、今治さして
帰りは満載米の山、ヨイヤーナー

と、高虎が多額の報酬と引き換えに民衆の積極的協力を引き出していた証拠になっている
高虎が今治一帯を領有したのはわずか8年間であるのだけど、
その後もこの歌が残り続けたあたりに高虎がいかに民心を掌握していたかが推測できるよね
284人間七七四年:2013/02/03(日) 10:29:30.13 ID:r+BpMYiE
江戸城の石垣に使われている真鶴の本小松石
http://www.gregorius.jp/photogallery/page_b14.html

墓石としても高級な部類
285人間七七四年:2013/02/03(日) 23:07:03.64 ID:AVr9gRAY
>>252
餅の代金を払わずに逃げて女に追いかけられた相伴って、やっぱりあの人?
286人間七七四年:2013/02/03(日) 23:08:10.42 ID:AVr9gRAY
あっ、ちゃんと書いてあったか。
てっきり、あの人かと・・・。
287人間七七四年:2013/02/03(日) 23:08:36.08 ID:ME/QqaUN
>>285
家康公かw
288人間七七四年:2013/02/04(月) 00:25:01.35 ID:GBO0glti
家康「さっき嘉定通宝ひろったんでコレで見逃して下さい」(震え声)
289人間七七四年:2013/02/04(月) 07:51:32.45 ID:gOfCi89x
・3風林5火山は当たり前、3風林8火山も
・先頭武者風林火山を頻発
・信玄にとっての川中島は謙信との逢い引きのしそこない
・川中島10000人差、味方武将全員負傷の状況から1人で温泉

・一回の突撃で馬が三頭に見える
・身内の追放が特技
・戦場に立つだけで敵兵が泣いて謝った、心臓発作を起こす家康も
圧倒的勝利でも納得いかなければ上洛しないで帰ってきてた
・一睨みしただけで家康が浜松城に飛んでいく
・馬を使わずに木馬で討ってたことも
・上杉軍のヤジに流暢な新潟弁で反論しながら背面啄木鳥
・風林火山でハリケーンが起きたことは有名
・甲斐の深い位置から駿河の侵攻も指揮してた
・徳川の三河武士を楽々、風林火山
・信玄の指揮による風林火山でお尻が真っ二つになった家康がいた
290人間七七四年:2013/02/04(月) 09:02:32.84 ID:l11NQRS/
つまらないから消えて
291人間七七四年:2013/02/04(月) 15:56:13.16 ID:gOfCi89x
そんなことないよ面白いもん。
292人間七七四年:2013/02/04(月) 16:51:09.27 ID:yx4ABkb8
元亀元年(1570)、織田信長による越前朝倉攻めの際、朝倉方の金ケ崎の城兵達はこれに立ち向かいよく防いだものの、
ついに打ち負け撤退を始めた。
しかしここで、朝倉家臣の三須崎勘右衛門と言って、高名なる精兵が殿をし、敵が近づけば即座に打ち倒し、
味方を助けつつ引き退いた。

そして首坂まで至った所で、羽柴秀吉の軍勢がこれに襲いかかった。真っ先に進んできたのは
山内猪右衛門一豊である。と、三須崎勘右衛門、それを坂中で弓引き固めて待ち構えていた。
しかし一豊はそれに少しも構わず遣りを振り上げ駆け寄った!三須崎勘右衛門は三間ばかりの距離でひょうと撃つと、
その矢過たず、一豊の左の頬から右の奥歯に突き刺さった!

が、一豊、これにもちっとも構わずそのまま突進!谷を飛び越え三須崎勘右衛門と組み打ちを始めた!
上になり下になり、二〇間ほども転げまわった所に、三須崎勘右衛門の弟が駆け寄って一豊を
斬ること六ヶ所。それは危ない、と見えた所に織田方が大勢駆けつけたため、三須崎勘右衛門の弟は
兄を捨てそちらの方と戦い始めた。

そうしている内に一豊と三須崎勘右衛門は坂の下の小溝に重なりあって落ち、ここで一豊は終に三須崎勘右衛門を
刺し殺した。しかし一豊自身も、大矢で射られ、かつ、致命傷ではなかったものの六ヶ所も刀傷を受けており、
すでに息絶え絶えであった。

こんな所に織田方の大塩金右衛門正貞がやってきて、三須崎勘右衛門の頸を斬って息絶え絶えの一豊に渡し、
自身はそのまま撤退する敵を追いかけていった。親切なんだかそうでもないのか良く解らない。

こうしている内に、一豊の家臣である五藤吉兵衛為浄がようやく追いついた。
一豊はこれを見ると「矢を抜け!」と叫んだ。見ると矢柄は組んで転んでいる時に砕け、根本ばかり残って
少し見える程度。抜こうとしてもなかなか抜けず、業を煮やした一豊は「足で踏んで抜け!」と怒鳴った。
吉兵衛は畏まって草履を脱ごうとしたが、一豊「いいからそのままでやれ!」と言ったので、山の岨に寄りかからせ、
草履を履いたままで一豊の顔を踏みつけ矢を抜いた。

それから吉兵衛は一豊を背負って本陣に向かって退いていたが、途中、月毛の馬を引いて行く者と出会った。
吉兵衛が「その馬はどこの殿の馬か?」と聞くと、誰々の馬である、と言う。これを聞いた吉兵衛

「お前のあるじはさっき討ち死にした!そんなわけでその馬よこせ!」(扨は汝が主は只今討死しけるぞ。其馬此方へ)
と奪い取り、これに一豊を乗せて帰った。

三須崎勘右衛門の頸は吉兵衛から秀吉を通して信長の実検を受け、越前に隠れなき強弓精兵の頸と認められ、
信長は、一豊にこれで傷を治療するようにと、手ずから薬を吉兵衛に下された。

この時の矢の根は、今も五藤の家にあり、その時の草履も、主君の面を踏んだものとして、矢の根に添えて、
家の宝として代々伝えているそうである。
(土佐物語)
293人間七七四年:2013/02/04(月) 17:25:23.04 ID:AXVTYMah
馬強奪w
294人間七七四年:2013/02/04(月) 18:28:15.73 ID:GzsmtK3Z
馬主の実際の消息が気になる
295人間七七四年:2013/02/04(月) 18:57:44.13 ID:2h8EQDMS
信長「おい、どうしてお前がそのような立派な馬を持っている」
一豊「こ、これは・・・つ、妻が持参金でわたしのために」
こうして伝説が生まれたのであった

しかし土佐物語って長宗我部のことだけ書いてるのかと思ってた
296人間七七四年:2013/02/04(月) 19:59:44.28 ID:UBS/ItA8
一豊「ふがふが〜」
吉兵衛「顔を踏めですね!」
一豊「ふがふが」
吉兵衛「馬ですね!」
297人間七七四年:2013/02/04(月) 20:59:26.04 ID:SLs9PYqi
この金ヶ崎防衛戦の際に長年治めていたはずの敦賀の領民達から
籠城・防衛協力拒否をされた事にショックを受けた敦賀郡司・景恒は仏門に入ってしまった
朝倉滅亡時の一乗谷城防衛も兵・領民共に逃亡が相次ぎせっかくの堅固な山城も活用されずじまいに終わった
戦国期において国外勢力から60年あまり攻め込まれる事を完全に防いでいた朝倉氏だったが
その為か攻め込まれた場合の防衛戦のノウハウが足りなかったようにも思える
298人間七七四年:2013/02/04(月) 21:46:10.23 ID:DkBXS5MZ
爺がもっと殴っておけば・・・
299人間七七四年:2013/02/04(月) 22:27:27.93 ID:mPqGguXt
動員の不調とか防衛戦のノウハウよりももっと根本的な問題でないか

でも度重なる動員が限界に達して朝倉家が求心力を急速に失っていったと
よく指摘はされるね
300人間七七四年:2013/02/04(月) 22:42:10.14 ID:rE+zQ728
織田家は一体どういう軍制になってたんだ
朝倉同様、というかそれ以上に連戦してただろうに
301人間七七四年:2013/02/04(月) 23:20:53.72 ID:aNiqkule
武田信玄の家来、加藤能登守は信玄の持仏の阿弥陀如来像を賜った。
後に武田家が滅んだ時、能登守は如来像をもって伊勢まで落ち、
高田派の僧となって専信坊(専心坊?)と名乗った。

専信坊の孫、景可はその阿弥陀如来像を本尊として西光坊という寺を建立した。文禄のころらしい
西光坊は発展し、元和のころに今の富田一色町に移転し、龍泉寺と寺号を改めた。

その後火難などもあったらしいが、信玄ゆかりの仏像を、今でも龍泉寺は本尊として伝えている。

お寺さんの物持ちのいいはなしってことで
302人間七七四年:2013/02/04(月) 23:31:25.89 ID:aNiqkule
ソースは法事の時に龍泉寺の坊さんから聞いた話。
ぐぐったら近い話もでてて、ホントなんだなーって感じで。
40センチくらいの小さい仏像らしい。
303人間七七四年:2013/02/04(月) 23:40:52.50 ID:5CAzsbvc
物を大事にする人は印象いいね
304人間七七四年:2013/02/04(月) 23:45:05.69 ID:hVE1oenb
武田も棒道とか整備しなければあんなにあっさり滅びなかっただろうに。甲斐に篭ってゲリラとか出来なかったのかな
305人間七七四年:2013/02/04(月) 23:53:00.48 ID:XtjIasEw
>>300
石高に差がありすぎるから…
306人間七七四年:2013/02/05(火) 03:05:03.15 ID:ICJu8bOA
豊臣秀吉が蒲生氏郷を会津に封じた後に、氏郷が出仕した。秀吉は他事を問わずに
「お前は文字を上手に書くから、謡本を一番書いてくれ。硯と紙を持って来い」
と言ったという。君臣心安き間柄であった。

――『老人雑話』
307人間七七四年:2013/02/05(火) 08:38:19.48 ID:PKi0dHww
なるほど
その後に謡いを巡って秀次とやり合い早死にするわけか
308人間七七四年:2013/02/05(火) 14:48:56.79 ID:vEAxz5Z2
>>300
朝倉の総大将は当番制だったらしいよ
安居、大野、敦賀で回ってた
大野と敦賀は仲悪かったらしい
守護大名ってほぼ幹部クラスがカス
309人間七七四年:2013/02/05(火) 16:02:22.55 ID:0Og1AyFW
>>308
武田、島津、大友、大内、今川、山名、細川、一色....
島津以外は殆ど消えてるけど家臣よりも大名自身に問題があった事のほうが多いな
あと、朝倉は織田と同じ斯波の守護代だし
310人間七七四年:2013/02/05(火) 18:02:54.65 ID:Ntak9gD1
腕力以外の力自慢の逸話のある武将っている?
柴田勝家みたいに瓶を噛み砕いて割ったとか
311人間七七四年:2013/02/05(火) 18:06:54.73 ID:vEAxz5Z2
守護大名ってだいたい合議制で専制クンニ出来なかったろ
カスだから非協力なんだよな
312人間七七四年:2013/02/05(火) 18:14:34.72 ID:niwVIRcY
>>310
> 柴田勝家みたいに瓶を噛み砕いて割ったとか

ちょっと待て。
313人間七七四年:2013/02/05(火) 18:17:36.76 ID:ls7BcFGe
瓶割柴田が噛割柴田になっとる
314人間七七四年:2013/02/05(火) 19:17:18.19 ID:HDI9vH2C
>>308
総大将が当番制だったなんていう決まり事はない
当主自らが総大将を務めて戦場に出向く事はないという家訓があるだけ
末期にはその家訓さえ守られなくはなっていたが
315人間七七四年:2013/02/05(火) 21:14:34.07 ID:brFVIaj6
>>311
合議制と言うよりは、守護代に丸投げだろ
京から遠い地域は在京義務が免除されてたから守護大名がそのまま戦国大名になったケースが多いけど、
在京義務のある中国・四国・近畿・中部あたりの守護大名は領国を守護代に乗っ取られまくってる
316人間七七四年:2013/02/06(水) 07:12:34.00 ID:2PK8dbg0
>>310
爆発的な力で茶釜を壊した松なんとかさんかな。
317人間七七四年:2013/02/06(水) 18:19:04.09 ID:MNTwCVe5
大徳寺の龍嶽(龍岳)宗劉は幼い頃、東福寺にあって龍喜、安国寺恵瓊の二老に
親炙して、その講義を受けた。後に恵瓊は石田三成の乱で斬首される。

衆人が瓜連(咎?)を恐れて顧みないなか、龍嶽はある夜密かに梟木より
恵瓊の首級を奪い、東山に埋葬して篤くこれを弔い、気付かれないように隠した。
世の人は旧恩を忘れない龍嶽を称した。

黒田長政は深く龍嶽の道を敬った。そのため長政の菩提のために江戸の広尾に
興雲寺(祥雲寺)が建立された時、龍嶽が第一祖となった。

また、龍嶽は御水尾天皇の勅命により竺仙大法禅師の号を賜った。

――『近古禅林叢談』
318人間七七四年:2013/02/06(水) 20:59:48.71 ID:WyJCf0cO
三河って守護が一色→細川に変わったと思うけど、
そのときの守護代って松平氏や水野氏?
319人間七七四年:2013/02/06(水) 21:12:21.34 ID:GpFgiqzI
>>318
とんでもない。松平氏は守護代どころか、京都の幕府政所伊勢氏(北条早雲こと伊勢宗瑞の宗家)の被官だった。
守護や守護代権力とは対立していた立場だな。

一色氏の時代の三河守護代は西郷氏(秀忠の生母の実家)、細川氏の時代は阿波の東条氏だったとされる。
320人間七七四年:2013/02/07(木) 00:05:50.55 ID:iZuxG9Tl
三河の西郷氏は、仁木義長が九州で転戦してた頃にその家来となり、義長が三河守護
になったときに守護代として九州からやってきた、という説ですね。
岡崎城を築いたのも西郷氏。ただしこの系統は戦国期に松平氏に圧迫されて消えてゆく。

一方、その支流と思われる西郷氏が東三河の国人として存在し、そちらの系統は家康に
帰属し、酒井忠次麾下の東三河衆として活動してゆく。
秀忠の生母・西郷局はこの西郷氏の後家さん。
夫・西郷義勝は元亀2年の竹広合戦(信州から東三河に南下してきた秋山信友の大軍を
菅沼・設楽・西郷ら地元の国人衆が協力してなんとか撃退)で討死してます。

余談ながら、「仁木」も「細川」も三河発祥の家。もっというと、「吉良」も「今川」も
「一色」も三河ですね。現在でも地名に残っています。
もともと三河は、承久の乱の後に足利義氏が三河守護になって以来、足利氏の地盤だった
ということだそうで。
321人間七七四年:2013/02/07(木) 00:19:27.36 ID:n5wWtfTD
吉良は三河八ツ面山の雲母からついた名前だしな
322人間七七四年:2013/02/07(木) 00:29:35.22 ID:TzbW7Vm4
キラキラネームですねわかります
323人間七七四年:2013/02/07(木) 02:09:33.53 ID:66hdrzrX
第一次上田合戦に徳川方は討ち負けていたので遠州へ軍使を送って加勢を願った。
これを聞いた家康公は「早く軍を引き取らせよ」と命令を下した。
けれど上田の城兵が食いついて戦を仕掛けるので、軍を引き揚げることが出来ないでいた。
そこで家康公は、井伊直政と松平康重の両名を遣わした。
2人は五千人の軍勢を率いて、天正13年9月13日に上田表に着陣した。
先手の恥辱を晴らそうと思ったのか、二十日余り対陣して度々軍を仕掛けたが
城中からは一人も出てこず取り合わなかった。
そこへ真田昌幸の越後へ加勢を依頼したことと、武田勝頼の舎弟である龍峯という住職を取り立てて
一揆を起こそうと謀っていることを忍びの者から聞いた井伊直政は言った。

「越後から加勢を出すほどなら大軍であろう。
そして一揆が所々で起こるとなると、昌幸は思慮深い大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。
味方の軍勢は遠く路を隔てているし、その上負け軍にて気疲れもしているし戦ったところで利もないだろう。
家康公からの命令は我々二人に人数を引き揚げて帰るようにとの仰せだ。
このまま戦を企て人数を討たせるなど詮もないことだ」

諸大将に談じ、これを受けた大久保忠世が言った。

「それならば押さえの兵として、我が弟の忠教をこの国に残しておくのが良いであろう」

兄から命じられた忠教は言った。

「某は所領に望みがあって残るのではない。主君の為とあれば兄の命令に従ってここに残りましょうぞ」

忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げた。
小諸の城に大久保忠教を入れ置き、申し渡した。

「信州の先鋒衆の諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠り大久保平助の催促に従うように」

そして11月、徳川勢はことごとく陣払いし上田表から引き取った。
それに際して段々に備えを立て、井伊直政と松平康重の両人が殿としてはるか後ろから引き退いた。
城中から追ってくる相手と一戦する為であった。
これを見て、真田昌幸の家臣が言った。

「徳川勢力は既に人数を引き揚げているが、井伊と松平は僅か四、五百騎の軍勢で先手に離れて引き退いています。
これを食い止めるならば討ちとどめることが出来ましょう」

昌幸はこれを制して言った。

「以前に寄せ手の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが何度かあったが、
我が軍に食い止められて軍を帰すことが出来なかった。
今回はいまだ若年の井伊と松平周防守が来て軍を仕掛けている。
その軍立てを見ると以前の寄せ手などとは大いに違う。
その上、井伊が近藤登之助をはじめ遠州で名のある者や武田より降った者が多くきており
また、井伊も松平周防守も若年でありながら名高い剛の侍である。
今日の退き口の立て方を見ても尋常の者ではない。
彼らを少勢だからと軽はずみに打ち出たらこちらが不覚の負けを取るに違いないわ。
決してこれを追ってはならぬ」

はたして、井伊と松平の両人はやすやすと軍勢を引き揚げ遠州へと帰って行った。

『信州上田軍記』
324人間七七四年:2013/02/07(木) 04:55:30.77 ID:OiFpSEIs
上田表
325人間七七四年:2013/02/07(木) 09:48:01.53 ID:fyvbU8hm
ものは言い様、というか書き様だな
326人間七七四年:2013/02/07(木) 19:15:31.39 ID:/z6QwEsj
伏見にて、徳川秀忠が本多忠勝のところへやって来た時、
立花宗茂も御相伴としてやって来た。

種々御馳走があって、平家物語が語られた。
一の谷落城、平忠度最期の段「国々の狩武者なれば、一騎も落合はず」
というところにさしかかって、亭主忠勝は秀忠らに向かい、

「武蔵守様を初め若き方々はこの所をしっかりと御聞きください。
よき後学ですぞ」と、言った。

――『良将言行録』
327人間七七四年:2013/02/07(木) 20:49:00.40 ID:eYj158qX
そういや秀忠って武蔵守の署名が好きだよね。
官位が上がっても使い続けてるし
328人間七七四年:2013/02/08(金) 00:46:10.74 ID:vZeH49Hr
>>325
これはそのまま、
『各国から寄せ集めの武者はいざとなると逃げる』
と学べばいいのかな?
329人間七七四年:2013/02/08(金) 01:21:24.79 ID:8JeTl1qc
「キセル乗車に味方してくれる人はいませんよ」
かもしれない
330人間七七四年:2013/02/08(金) 02:13:59.99 ID:vZeH49Hr
逆に忠度(ただのり)さんほどの剛の者には100騎もビビるオーラがある。
とも考えられるな。
東国無双の発言だけに
331人間七七四年:2013/02/08(金) 03:12:20.40 ID:5lebIw40
キセル孔明、駅員仲達を走らすって名言が昔あったな
332人間七七四年:2013/02/08(金) 03:22:02.66 ID:AEGRiP3o
>>328
外様の新参なんかより、三河者を大事にしろってことじゃねーの
333人間七七四年:2013/02/08(金) 07:17:32.63 ID:7F6/yvtr
家康の下知で丸子の河原町を焼き払って一日で兵を収めたのでは。
木曽と小笠原隊が加勢に来たのを井伊隊が討ち取っているし。
334人間七七四年:2013/02/08(金) 07:36:28.76 ID:7F6/yvtr
>>330
真田パパは松平周防守を父親の方と勘違いしてないか?
335人間七七四年:2013/02/08(金) 09:47:34.88 ID:9eHBeX7i
まぁ、キセルは忠度とは厳密には違うんだけどなw
336328:2013/02/08(金) 15:12:31.35 ID:vZeH49Hr
>>325ではなく>>324へのレスだった。

>>332
本多忠勝
「近ごろいたくその九州者を大事にしておられますが、
秀忠さまに最後まで付き従うのは三河者ですぞ」
みたいなとこか
337人間七七四年:2013/02/08(金) 16:24:26.85 ID:TyO5sbrU
>>335
キセル乗車:乗車と降車のみ金を使う
ただのり:そもそも払わない

忠度とちょうどいい語呂だったばっかりに
338人間七七四年:2013/02/08(金) 16:53:03.77 ID:rJeFlzv0
忠度さんも名前ネタで後世までいじられるとは夢にも思わなかっただろうに…
339人間七七四年:2013/02/08(金) 18:34:28.39 ID:5lebIw40
長宗我部さんも長須家部とかだったら現代人に弄ばれたのか
340人間七七四年:2013/02/08(金) 18:50:39.09 ID:QiK8TwzZ
黒田長政の養弟一成は戦場の働きのみならず、性質は実直で常に柔和な人だった。
事に臨んで心は動じず智恵も厚いので、如水父子は第一の相談相手とした。
豊前拝領後は十二万石のうち一万二千石を与えられたが、少しも奢らず礼儀に厚く、
下々に近い人だった。

登城の時には、長政の座と敷居を隔てて着座するので、他の老臣たちはさらに
末座に座らざるを得ず、長政が「三左衛門殿、是へ」と、言ってようやく同座に
着座するほどだった。

ある時、長政と一成が出くわすと、一成は馬より急いで飛び下りて頭を地に付けた。
長政が早々に駕籠から下りて傍へ寄り「そのようにされては困るので御通りあれ」
と、言ってもなお、一成は頭を下げ続けた。

その後、館にて人のいない時、密かに一成が長政に向かって
「この間の路次での御挨拶ですが、御了見違いをなされています。

単に御前を恐れただけではなく、あなたが御年若のために御家中の諸士が、
もしやあなたを軽視することもあるのではと思い、私が尊敬の礼を見せれば
『あの人さえあの如く敬っている』と、諸士も配慮するだろうと考えてのことです。

ですから、これからは途中で御出逢いの時でも大礼に御言葉をかけられて御通り下さい」
と、言ったところ、長政は深く感涙に及んだのだとか。

――『良将言行録』
341人間七七四年:2013/02/08(金) 19:52:30.26 ID:rJeFlzv0
>あなたを軽視すること
後藤さんとか又兵衛さんとか基次さんとかのことですね
342人間七七四年:2013/02/08(金) 20:03:53.25 ID:91/6GZnY
>>341
正に三位一体だな
343人間七七四年:2013/02/08(金) 23:07:01.78 ID:qWN1ekmw
よく出来た人だ
344人間七七四年:2013/02/09(土) 15:33:30.23 ID:oC9SCwvW
夜叉九郎さんのカッコイイ話を教えてください。
「戦が終わればノーサイドだよ」
みたいな感じで捕虜を切らなかった話とか聞いた気がするんですが
うろ覚えで・・・
345人間七七四年:2013/02/09(土) 15:52:07.39 ID:0WT0ef00
森家「戦がなくてもジェノサイドだよ」
346人間七七四年:2013/02/09(土) 16:25:46.82 ID:r0GdZwEu
慶長三戌年までに首数は三十三、このうち手柄の首が十、
さらにそのうち九の御感状を所持しております。

この年、三十三の首供養をいたしました。その時は牢人して佐野に
おりましたので、以前入魂の者、岩崎、神谷などと申す者一両人を
呼びまして、羽林寺で供養いたしました。

羽林寺の長帳に首供養について記されているはずです。
御不審のことがありましたら、御尋ねください。

――『反町大膳訴状』
347人間七七四年:2013/02/09(土) 16:36:31.16 ID:1gTh+Rkp
348人間七七四年:2013/02/09(土) 17:05:59.78 ID:r0GdZwEu
>>347
そこの存在は知ってましたけど
ちゃんと続群書類従から訳しましたよ
349人間七七四年:2013/02/09(土) 18:16:52.92 ID:6HoopfwS
NGMSさんは遊ばれてるのか好かれてるのかよくわからんなw
350人間七七四年:2013/02/09(土) 19:20:37.61 ID:+LwKwR4F
>>347
ネタ元は同じでもコピペではないな。
351人間七七四年:2013/02/09(土) 19:36:23.94 ID:6TKgL5rL
>>349
黒田さんとこの息子さんはある意味まーくんと真逆なんじゃないかと思う。
一早く「戦国の次」の時代に対応したがゆえに、まだ割り切りきれない
家臣たちのモヤモヤまで呼び起こしてしまってるような。
「主君として仕えるのに問題はない、問題はないんだけど…」的に。

で、骨の髄まで戦国仕様な人間とはどうしても相容れなかったと。
352人間七七四年:2013/02/09(土) 20:00:07.77 ID:SDvMJ5MH
島内新左衛門は直茂さまと戦場を駆け巡ってきた古強者だ。
応仁以来の戦乱も治まった勝茂さまの御代、ある日のこと、
新左衛門に御礼日のお目見えがおおせつけられた。
登城して勝茂さまが部屋にお入りになると、
皆々が平伏するなか、新左衛門だけは、
人々の間に背筋を伸ばし微動だにせず座っていた。
勝茂さまが、
「新左衛門、めでたき日だな」
と御言葉をおかけになると、
新左衛門ははじめて礼をした。
新左衛門はいつもこのスタイルを貫いたが、
これが戦国武士の風習だったのである【葉隠】
353人間七七四年:2013/02/10(日) 07:09:12.88 ID:f0YV4342
>>351
お父さんならサプライズを提供してくれる言動があるのに、息子は普通で家臣的に物足りなかったんじゃね?

黒田家では「実はアレ、−って思惑があるからなんだよ」
「なるほど〜。」が慣習化してたとかさ
354人間七七四年:2013/02/10(日) 07:15:55.18 ID:sADvZVI7
Josui「One more thing...」

「Woohooo!」 「Yeah!」
355人間七七四年:2013/02/10(日) 07:46:58.13 ID:cmPlObk8
>>339
めっちゃエロすぎw
356人間七七四年:2013/02/10(日) 08:24:02.54 ID:f0YV4342
秀秋「期待したのに裏切られた気分だ。」
357人間七七四年:2013/02/10(日) 10:54:01.39 ID:iHQ/8OB+
XXXX「まったくだ!お前がいなきゃもっと戦が長引いたんだ!どうしてくれる」
358人間七七四年:2013/02/10(日) 11:12:53.72 ID:7762iH9T
>>301
龍泉寺のご住職が反応してたw
https://www.facebook.com/hiroaki.ryuchi
359人間七七四年:2013/02/10(日) 18:32:12.95 ID:LycjpGh2
服部中保政という者は天性質実の者だった。徳川家康はある時、服部について
「中は健気な者だ。暮らしに疎いかと思えば家産を貯え、上戸らしく見えて下戸だ。
その他にもよき所がある」と語った。

また、家康は才智があらわれてきらきらしき者を好まなかった。
榊原甚五兵衛という者はすこぶる才幹のある人だったが、その心には表裏があった。
彼は初めは家康に好まれたが、終いには疎遠になったのだとか。

――『徳川実紀(聞見集、紀伊頼宣卿物語)』
360人間七七四年:2013/02/11(月) 05:13:31.21 ID:WeaS37Sw
中保政・・・どう区切るんだろ?
361人間七七四年:2013/02/11(月) 05:31:49.79 ID:aoOSCLTZ
ただの推測だけど
服部(はっとり)・中(あたる)・保政(やすまさ)
とかじゃね?
362人間七七四年:2013/02/11(月) 08:39:48.33 ID:z+ioS8Nx
服部・中(なか)・保政
服部小平太(中保次)の縁者?
363人間七七四年:2013/02/11(月) 11:58:24.55 ID:tn1c/y8C
>>356
刑部「三年の内に何かおこるよ」
364人間七七四年:2013/02/11(月) 13:07:00.47 ID:veTr6Hkl
才智があらわれてきらきらしき者を好まなかったのか。言いたい事も言えないこんな世の中じゃ〜〜
365人間七七四年:2013/02/11(月) 13:08:58.32 ID:TxuxdYrq
板部岡江雪斎
最初見た時どこで区切るか迷った
366人間七七四年:2013/02/11(月) 13:16:07.10 ID:+YqTz4/J
>>365
いたべ おかえ せっさい…?(すっとぼけ)
367人間七七四年:2013/02/11(月) 13:34:10.13 ID:a1f/eeAp
わずか三文字にもかかわらず初見を惑わせる
北信愛さんの出番と聞いて
368人間七七四年:2013/02/11(月) 13:54:49.47 ID:ZaTh0z3l
長続連さんもアップできてます
369人間七七四年:2013/02/11(月) 14:42:29.11 ID:2AuNZxn8
宗義智さんもなかなか
370人間七七四年:2013/02/11(月) 17:36:20.36 ID:tn1c/y8C
>>365
今年、友人からの年賀状が蜂須 賀正 勝と区切られた文字だった
371人間七七四年:2013/02/11(月) 18:38:01.96 ID:yJpl3w0k
石田三成はいつも言っていた。
「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。
使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と。

――『老人雑話』
372人間七七四年:2013/02/11(月) 19:11:37.15 ID:clvCvojD
利家「しみったれだなw」
373人間七七四年:2013/02/11(月) 19:30:14.44 ID:1MKziXPE
予算はきちんと調整して過不足なく消化すべきだよな
374人間七七四年:2013/02/11(月) 20:10:42.54 ID:Hb/1GD5J
ホントみみっちい小物の発想だよな
375人間七七四年:2013/02/11(月) 20:13:26.65 ID:+YqTz4/J
このことについては日付は忘れたが、関ヶ原の決戦のあと、逃亡した石田治部少輔(三成)を捕縛するよう
田中兵部少輔(吉政)に仰せ付けられ、田中兵部は近江の国北の郡を草を分けるかのように細かく探索したが
それでも行方は知れなかった。

或夜、吉政の宿舎の前を、夜中だというのに一人通るものがあった。
番の者がこれに気が付き、お前は何者かと尋ねると、台所に水汲みに行くのです、と答える。

「水汲みであっても、何者も通すことは出来ない!」

怪しいと感じた番の者達はこの男を取り囲み捕らえた。
その夜は小雨が降り、暗い夜であった。火を燈してこの男の顔を照らしてみると、
なんと、この者は石田三成であった。
この時のいでたちは、綾の茶の小袖、裏は浅黄。笠をかぶり腰蓑をして端折れの脇差を差していた。
この脇差を取って見てみると、これは吉光作の名物であった。

三成は大津まで連行され、そこで本多上野(正純)に預けられた。
この時三成は下痢を患っており、食事も殆ど取れず昼夜寝ていたそうである。

本多中務(忠勝)が見回りに来た時、三成と対面した。
忠勝は三成の前で畏まり、両の手を前について申し上げた

「治部少輔殿、あなたは分別を間違えたために、そのような体に成られたのですぞ!」

しかし三成は何の返事もせず、ただ寝ていたと言う。
これは本多正純の家臣で、三成の番をしていたものが後に語ったことである。
(慶長年中卜斎記)

慶長年中卜斎記より、捕縛後の三成の様子についての非常に興味深い記録である。
376人間七七四年:2013/02/11(月) 20:50:44.80 ID:+YqTz4/J
申し訳ない。悪い話スレと間違えて投下しました…
377人間七七四年:2013/02/11(月) 22:20:42.95 ID:Ir7CtSXw
>>371
予算をきっちり使い切るため無駄な道路工事する
馬鹿役人と同じ
378人間七七四年:2013/02/11(月) 22:45:34.96 ID:Hb/1GD5J
こんな調子じゃ飢饉とか不測の事態に絶対対応できないな。
379人間七七四年:2013/02/11(月) 23:05:38.42 ID:WeaS37Sw
まぁせっかく経費節減して予算残しても翌年その分減らして組まれるからな
380人間七七四年:2013/02/11(月) 23:13:38.95 ID:2AuNZxn8
>>377
×予算を使い切る為に工事をする
○予算を使い切らなければならないほど工事がたまっている 不測の事態のために年末まで残さざるを得ない

スレチなんでこれ以上は自重するけど
381人間七七四年:2013/02/12(火) 00:14:04.16 ID:7//QQLH9
てか大久保利通やサラディンにも似たような話があるのに
三成だからってひねくれた視線で見すぎだろお前ら。
382人間七七四年:2013/02/12(火) 08:59:10.90 ID:PRh5nkEm
>>381
いつもの事じゃないか
383人間七七四年:2013/02/12(火) 10:09:02.62 ID:SLzEI9g/
公費のことなのか?
単純に下賜された私財の話かと思ったけど
384人間七七四年:2013/02/12(火) 10:13:57.63 ID:7rGOf7Yj
まあ予算の話じゃないわな。この時代の武士の場合、なにか命じられたらその執行は自弁が基本だから。
主君から資金を下賜された場合、それを私するのは罪だし、足りなくなるのはアホだ、って話だわな。
385人間七七四年:2013/02/12(火) 10:14:59.77 ID:Fhk0QbMO
>>383
貰った領地から上がる収入のことかと思った
386人間七七四年:2013/02/12(火) 10:23:22.59 ID:7rGOf7Yj
信長が佐久間信盛折檻状で、領地を持ってるのに家臣を抱えないって怒ってたのと同じで、
家臣に与えられた物は私財ではなく、主君のために働くための資本金なのだから、その資本はフルに有効に
使い切れってことやね。カネを眠らせるな。
だからといって首の回らなくなるような状況になったら身も蓋もないからそういうことにはするな。

「主君より受けた物」を予算だと考えると、根本的に解釈を間違う話だな。
387人間七七四年:2013/02/12(火) 10:34:52.39 ID:6EGghE3n
予算を「主君のために働くための資本金」のつもりで言ってるんじゃないのか
収入と支出の計画ではなく
388人間七七四年:2013/02/12(火) 21:19:46.11 ID:X0ymwCLR
島左近の逸話とかその辺の話だろうねえ
389人間七七四年:2013/02/13(水) 07:11:49.75 ID:bcpf+jII
まずは全裸で上に寝るのが正解でしょ?
話はそれからだ。
390人間七七四年:2013/02/13(水) 10:30:11.57 ID:51vLkVUj
なんの話だよw
391人間七七四年:2013/02/13(水) 12:27:32.84 ID:TZrVAn6Z
>>389
その後主君に献上・・・あれ?史実でも裸で寝転がったのを献上したのか?
392人間七七四年:2013/02/13(水) 13:08:08.01 ID:sjBarzyG
だから愛の人は小判を汚いものだと思ってしまった
393人間七七四年:2013/02/13(水) 13:35:25.92 ID:Wrg45ZIA
愛の人はあの御仁に借金をチャラにしてもらったんだから
銭を大事にしないと
394人間七七四年:2013/02/13(水) 14:02:54.19 ID:SMoy78em
朝鮮役の開始により、家康公は文禄元年(1592)、大本営たる肥前名護屋に向け江戸城をご出立され、
2月2日、安芸国広島に到着。町家の宿舎に入り二階に上がって、下を通る町人たちを眺めていたが、
この時上杉景勝の家臣・横田大学と言うものが、同僚二人と連れ立って歩いているのを見つけた。

この横田大学は、会津の蘆名盛氏の家老の息子であったが、盛氏の死後浪人し、一時期駿河で
家康に仕えていたのである。家康は彼のことを覚えていて、声をかけたのだ。

横田は、自分を呼ぶ者があるので誰かと思って上を見上げると、なんと家康公である。
大いに畏まったが、家康は「用があるならそのまま通れ!さして用がないなら上がってこい!」
と声をかけた。そこで横田は、同僚二人を先に行かせ自分は家康の宿舎に上がり御前に参上した。
そこで家康、横田にこう尋ねた

「お前は景勝殿に、直接ものを申し上げられるか?」

「いいえ、景勝公に直接申し上げるようなことはできません。」

「では、直江山城(兼続)に直接話はできるか?」

「はい、直江には話せます。」

すると家康
「実はな、明日この広島の出口において、景勝殿と前田利家殿の軍勢が衝突するのが必定である、との話を聞いた。
要らぬこととは思うが、行軍中のことであり、前後に争いがあるなら止めたいのだ。
この事、直江に申し伝えよ。」

これはどういう事かといえば、豊臣秀吉の御意により、名護屋への進軍の順は、1番上杉景勝、2番前田利家、
3番徳川家康と決められていた。そうして広島まで到着した所、広島は広い地であったため、この三大将が
皆一時に広島に入ったのである。

ところがここで前田利家が、この先は自分が一番に名護屋に向かうと言い出し、景勝より先に広島を出立しようとする
姿勢を見せた。これに、利家に先陣を取られるのは口惜しいことだと景勝が激怒し、そういう事態になれば
利家を討ち果たす決心をした、との風説が流れていたのである。
これを聞いた家康は、横田大学を通し、争いが起こらぬよう上杉と前田の仲介を行う用意があると表明したのだ。

横田からこのことを聞いた直江兼続は大いに感謝し、横田を連れて家康の宿舎まで礼に参上した。
この時「景勝もこちらに参上させましょう」と直江は家康に申し上げたが、家康は「それは無用である」と断ったため、
景勝は参上しなかったとのことである。
(慶長年中卜斎記)

朝鮮役で、名護屋に行軍中のトラブルについての記録である。
395人間七七四年:2013/02/13(水) 14:34:18.37 ID:51vLkVUj
そういや大学って名前の人も多いな
396人間七七四年:2013/02/13(水) 16:27:15.27 ID:B9TatZ5n
インテリっぽい名前だから人気があったのかもしれないな
397人間七七四年:2013/02/13(水) 16:31:20.47 ID:ViHUMwof
屋号が越後屋だと悪企みしてそう(´・ω・`)
398人間七七四年:2013/02/13(水) 17:49:34.22 ID:tfB6iLok
百官名としってのレスかちょっと気になる
399人間七七四年:2013/02/13(水) 17:56:08.75 ID:BRYMLemN
>>397
ちなみに越後屋というのは室町時代の越後守護上杉氏が、越後の物品を京都で売るために出店した
公営商店の店名。室町時代の一種のアンテナショップだな。
上杉謙信が畿内に越後の物品を売ったのもこの越後屋ルート。
「播磨屋」とか「伊勢屋」というのも、その国の物品を専門に扱う店の屋号だった。
400人間七七四年:2013/02/13(水) 18:00:11.95 ID:Vqph4+hJ
お主も悪よのぅ、上州屋…
401人間七七四年:2013/02/13(水) 18:03:49.51 ID:IIjIdp+N
林羅山は十四歳の時、建仁寺に寓して書を読んだ。

この頃の羅山は、才学のある宿僧が皆字を問うほどの人だったので、
この人は必ずすぐれた名僧になるだろう、と思った人々に出家を
勧められたが、羅山は聞き入れなかった。

そこで前田玄以を頼り、羅山の父信時にこれを強いたが、信時は、
「子の好きにさせるつもりだ」と応じなかった。

羅山はますます聞き入れず、ついには寺を去って家に帰り、
再び寺門に入ることはなかった。

――『先哲叢談』
402人間七七四年:2013/02/13(水) 20:02:00.62 ID:x74H0pOa
伊勢屋って団子屋が多い気がする。
403人間七七四年:2013/02/14(木) 13:23:11.85 ID:SB5HxREc
うちの近所にも個人経営で団子売ってる伊勢屋ある。お弁当も売ってるけど。
404人間七七四年:2013/02/14(木) 17:38:19.30 ID:jyPgi/fS
吉備団子とか聞くと食って大丈夫?と思うようになったらここに染まってきたんだろうなw
405人間七七四年:2013/02/14(木) 18:11:45.04 ID:YicFwpQB
福島家の大崎長行は初め木村重茲に仕えた。数度の軍功が重なり、
世の人は彼を鬼玄蕃と呼んだ。

会津の役の時、長行は福島正則の舅津田繁元に副えられて清洲城の留守を務めた。
正則が会津に向かった後、石田三成は兵を起こして大垣城に入り、木村宗左衛門を
送って「正則は秀頼公の御一家なのだから、御内意は大坂一味である。
早くその城にこちらの人数を入れなさい」と告げた。

これに繁元は「御尤も至極なり。御人数を入れられよ」と、約束した。
長行はこれを聞いて「主君御自筆の証文があるならばともかく、何故敵の人数を
城へ入れて、その手に渡さなければならないのか! 大軍が攻めて来たならば
一戦して潔く討死するべきである! 断じて城を渡してはならない!」と繁元を叱った。
彼らは立て籠もって城の守りはますます厳しくなり、この旨が小山へと伝えられた。

さて、徳川家康は正則を呼んで「留守には誰を置いているのか。清洲を取られては
味方の大事ゆえ、気がかりだ」と尋ねたので、正則は長行よりの委細を告げた。
それを聞いて家康は称賛して「大崎玄蕃はかねてより聞き及んでいる兵だ。
よき者を持っているな」と、言った。その後も「関ヶ原口の勝利は大崎が清洲を
しっかりと保ったからだ」と、度々言っていたのだとか。

――『名将言行録』
406人間七七四年:2013/02/14(木) 18:48:49.59 ID:/D9Y1P7u
遠藤基信の献上品

中央で急速に拡大していた織田家に輝宗が、基信に進物送る相談した。
輝宗「ワシは名馬送るから基信もそちの名義で何か送ったら?」
基信「んじゃ使用人に鋳物作るのに長けた者居るのでその作品を!」
輝宗「茶器に五月蝿い信長殿こと。大丈夫か!!」
基信「(つ´∀`)つ マァマァ見ててよ」
407人間七七四年:2013/02/14(木) 19:09:06.46 ID:/D9Y1P7u
基信が家人の源五郎に鋳物作りを命じ、できた作と伊達家進物もって
上洛した。
名馬を貰って上機嫌の信長に、源五郎の茶器がお披露目された。
信長「ほう。鋳物か・・・ニヤリ。。。千宗易を呼べ」
信長「どうじゃ。この鋳物なかなかの銘物じゃろ?見たことあるか?」
宗易「はい。はじめてお目にかかる品でございます」
信長「そうか。そうか。」ドヤ顔でさらに上機嫌になった。
信長の茶の湯の師匠でどんな名器を、集めても宗易に鑑定される信長が
初めて宗易の知らぬ茶器を手に入れ自分のコレクション入りし 遠山 と名づけられる。
伊達家には過大なお返しと、東北での取り纏めを認められたお話。
408人間七七四年:2013/02/14(木) 19:27:37.21 ID:QbJZP/Oj
>>399
三井の越後屋は全く関係ない
409人間七七四年:2013/02/14(木) 21:09:51.68 ID:Bli5CrYU
信長「ねぇねぇ、宗易、これ見て?これどう?」

宗易「これは鋳物ですね!」

信長「え!良い物だって!ヤターッ!!」

宗易「いや、鋳物…」

信長「ヒャッホーイ!ねぇねぇ、宗易が良い物だってよ!褒めてくれたよ、おい、スゴくね?」

宗易「 …………。」
410人間七七四年:2013/02/15(金) 01:33:33.89 ID:QUrVhFK3
伊達家文書に、輝宗から鴇鷹もらって「希有の至、歓悦不斜」とかなんとか言ってる信長からの手紙あったよなw
411人間七七四年:2013/02/15(金) 03:58:14.10 ID:a+l19OCg
久々に感心した話
412人間七七四年:2013/02/15(金) 04:23:13.41 ID:A4NMnw4P
>>406
源五郎が鋳たる釜って話だと
信長がちゃんと基信の分相応の贈り物を、その場の興としても評価したって印象を受けてたわ
書きようによっては信長さんの天下人の器は違うって話にもなるよね。
413人間七七四年:2013/02/15(金) 07:19:01.07 ID:8ZrmLFfs
信長公記に奥州伊達家より名馬もらったよ。って時期かな。
414人間七七四年:2013/02/15(金) 09:59:00.53 ID:TIKvAwby
天正元年末の書状だね。
「則搆鳥屋可入置候、秘蔵無他候」とかめっちゃ喜んでる。

その後は「義景刎首」とか「来年甲州令発向、関東之儀可成敗候、
其砌深重可申談候、なんて政治的な話題が続いてるけど
415人間七七四年:2013/02/15(金) 11:40:21.54 ID:gjBqy5ts
氏政「信長さんに名馬送ったらそんなもんたくさん持ってるって突き返されたんですけど・・・」
416人間七七四年:2013/02/15(金) 11:42:51.87 ID:TIKvAwby
信長が贈り物の一部しか受け取らないのは割とありがちじゃないか
417人間七七四年:2013/02/15(金) 18:31:48.83 ID:Db8kqkPu
慶長十四年二月に紅葉山下において、四座の申楽に許しがあって、
勧進のための能興行が行われた。徳川家康がこれを見物し、諸大名をはじめ、
徳川の家臣までも観覧席を構えて見物した。

これについて、家康は将軍家よりの席の図を見たところ、
「水谷・皆川両家の姓名がもれているのはどうしてだ。両家はわしが三遠に
いた頃より慇懃を通じ、譜代の旧臣にも準じるべきものだというのに」と、尋ねた。

これに本多正信と大久保忠隣が「このごろ、水谷と皆川は笠間城の番衛を務めて
かの地におりますので、除いたのでしょう」と、申し上げると、

家康は「およそ武士は名を惜しむのが習いだ。かの両家も今度の見物に
もれたとあってはどれほど遺憾であろうか。二人に差し障りがあるのなら、
その家臣だけでも呼んで席を与えて見物させよ。後々の証拠にもなることだ」
と、命じた。

そこで両家の家長を呼んで見物させたので、両家ともに、旧家の筋目を思い出して
その門地を失わないようにとした家康の盛慮を感じたという。

――『徳川実紀(寛永系図)』

家康の配慮通り後にまで伝わったわけですか。
418人間七七四年:2013/02/15(金) 21:06:17.18 ID:Db8kqkPu
>>417
すいません、ちょっと訂正します。
×盛慮を感じたという。
○盛慮に感動したという。
419人間七七四年:2013/02/15(金) 21:28:20.46 ID:aAgvLnc4
そういう心遣いが天下を治めさせたのかもなー
420人間七七四年:2013/02/15(金) 21:30:57.07 ID:oyWgoKCf
天下人になれるかどうかはともかく、人間関係の細かい気遣いってホント大切だと
年々思うようになってきたわ。
421人間七七四年:2013/02/15(金) 22:07:28.12 ID:42PZr6Us
ある武士が養子の鈍いところを気に入らず、
しかも病気を抱えていたので気が短くなり、
事ある毎に当たり散らし悪口を言うようにもなった。
養子のほうも我慢の限界をがきたようで、
いつ実家の方へ帰ってもおかしくない状態だった。
そんなとき、養母が私のところへ訪ねてきた。
「大変困っています。
病気とは言うものの、もう少し養子におおらかに接するべきかと感じます。
主人は山本さまの意見ならば耳を傾けます。
どうか主人へ意見してくださいませんでしょうか」
と頼まれた。
最初はお断りしたが、
「どうしても山本さまにお頼み申し上げたいのでございます」
と涙を流して申されたので、
どうにも断りきれず引き受けることになった。
「父親に意見をするのは順序がおかしい。
しかも病気をしているというではないか。
養子に意見をするから私の家によこしてください」
と言うと、養母は合点のいかぬ顔をして帰っていった。
422人間七七四年:2013/02/15(金) 22:11:03.65 ID:42PZr6Us
やがて、その養子がやってきたので、
「そもそも人間として生まれたことが幸福だと感謝せねばなるまい。
しかも、直茂さま、勝茂さまが血ミドロの苦労をして、
築き上げた鍋島家の侍として生きることが出来ることは、
この世に生まれた者の本望と言うべきことであろう。
百姓、町人を見てもそうであるが、
長子に生まれて実家の遺産を相続するだけでも、
たいへんにありがたいことであるのに、
ましてお前は末子に生まれながら他家を相続し、
れっきとした鍋島の侍となれるのだから、
これは滅多にない幸せであるはずだ。
この良縁を失敗して、禄を持たない武士になるなら、
不忠であり、親に嫌われるなら不孝である。
忠孝の道にはずれたら、この世に身の置きどころを見出だすのは難しい。
よくよく考えてみることだ。
今、お前がするべき武士の道は、ただ一途に親に気に入られることだ。
こう言うと、お前は、気に入られようと努力しているが、
親父のほうが気持ちを受け入れてくれないと言うであろう。
そこでワシが一つ、親の機嫌を直す方法を伝授しよう。
423人間七七四年:2013/02/15(金) 22:31:12.52 ID:42PZr6Us
まず、自分の顔つき、そのほか全て、親の気に入るようにと、
血の涙が出るくらいに神仏に、ただ一念に祈られるがよかろう。
これは決して私欲ではなく、忠孝のための神仏への頼み事だ。
この一念はたちまち親の心に伝わり、反応があらわれる。
そう一念に思い込んで、さあ家に帰ってみなさい。
親の心に変化が現れているであろう。
これが、天地人なる三つの本体が通じあう不思議の道だ。
年長者を立てた意見ばかりだから、お前の立場てついでに言うと、
お前の義父は長患いで、もう先も長くないであろう。
その間の孝行だ、さほど難しいこともあるまい」
と言ったら、養子は涙を流し、ありがとうございました、と帰っていった。
後に聞いたところ、養子が帰ってすぐ義父が、
「山本殿に意見されてきたとみえ、立居振舞いがよくなったな」
と声をかけたとのことであった。
それ以降は仲のよい家庭となったということである。
誠に一念の祈りとは不思議な道理で、人間の知恵を超えたものがある。
後に、養子から、あの時の意見で忠孝を全うできた、と感謝された。
正しい道理を祈るなら神仏にきかれぬはずはない。
一念は天地も貫き通すのである。
血の涙をしぼるほどに徹すれば、
何事も神仏に通じるかと思う 【葉隠】
424人間七七四年:2013/02/16(土) 07:33:03.69 ID:SxQTfIAr
>>412
基信「あの釜を信長公に届けてくれよ! あれは、鋳物だぁーーーー!!」
425人間七七四年:2013/02/16(土) 09:36:42.07 ID:xM1jCi3g
>>417
水谷、皆川は縁戚もあったためかセットで重用されてるよね
皆川広照なんて忠輝の附家老をするだけじゃなくて、
関ヶ原のときは会津方の最前線である鍋掛まで任されてるし
426人間七七四年:2013/02/17(日) 00:12:10.01 ID:6kp2RLFC
里見へ

この手紙をもって余の戦国大名としての最後の仕事とす。
まず、余の領国を保全するために、徳川家康に安定統治をお願いしたい。
以下に戦国大名についての愚見を述べる。
戦国大名を考える際、第一選択はあくまで合戦であるという考えは今も変わらぬ。
しかしながら、現実にはわが北条家自身の場合がそうであるように、中央政権と接触した時点で混乱や破綻をきたした進行症例がしばしば見受けられる。
その場合には、情報分析に基づく外交政策の確立が必要となるが、残念ながら未だ満足のいく成果には至っておらぬ。

これからの大名の生存は、戦場以外の情報戦の発展にかかっておる。
余は、そなたがその一翼を担える数少ない関東大名であると信じておる。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
そなたにはお家の存続に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、天下人による地方政権転覆がこの世からなくなることを信じておる。
ひいては、余の治世を分析の後、そなたの生き残り戦略の一石として役立てて欲しい。
屍は生ける師なり。

なお、自ら戦国大名の第一線にある者が時代に対応できず、収拾不能の小田原評定で自滅することを心より恥じる。

北条氏政
427人間七七四年:2013/02/17(日) 00:18:25.89 ID:kZnaDV63
どこの財前五郎だ
428人間七七四年:2013/02/17(日) 00:35:43.24 ID:HgXNbr3Y
小田原評定って日本人らしいよなー
429人間七七四年:2013/02/17(日) 01:01:34.56 ID:j7vZpnyC
コンスタンティノープル陥落の時にも似たような話があった気がする。
430人間七七四年:2013/02/17(日) 01:04:28.86 ID:t331xVCS
会議は踊る されど進まず
431人間七七四年:2013/02/17(日) 07:44:09.31 ID:m172MTMb
小田原評定は定例会議にすぎん訳だが
432人間七七四年:2013/02/17(日) 08:52:45.12 ID:lzy7EarS
>>426
これソースあるの?
文面が現代的すぎるんですけど
433人間七七四年:2013/02/17(日) 09:08:26.09 ID:CtyWhCwq
くだらんコピペ改変
434人間七七四年:2013/02/17(日) 09:10:29.09 ID:2gyMGA+S
435人間七七四年:2013/02/17(日) 10:02:10.28 ID:Rx+wZgDD
白い巨塔とか知らんのな
436人間七七四年:2013/02/17(日) 10:06:05.23 ID:SmiFPWt3
>>435
唐沢版の方なら見た
437人間七七四年:2013/02/17(日) 12:34:27.08 ID:gc7ACnQo
白い巨根なら、この前の送別会のプレゼントに渡したな
438人間七七四年:2013/02/17(日) 18:08:00.26 ID:JAi8iu33
豊臣秀吉は島津征伐の帰陣後、立花宗茂を殊の外賞美し、
「若年だが、武勇は西国にて一人なり」と度々言っていた。

また、秀吉は徳川家康が上京した時に本多忠勝を召しだして宗茂と引き合わせ
「両人は東西にて無双の勇士、よき天下の固めなり」と賞した。

このようなこともあり、宗茂においても忠勝は老功の人だったので、
懇意にして度々参会するこもあって、武道の話をいつも所望した。

ある時の忠勝の話にこんなものがあった。

「家康公はお若い頃より、何事もはきはきとは申されませんでしたので、
いつも、もどかしく思っておりました。

しかし、それがしなども段々年寄りになり、自分の家来を仕立てるようになって
思いましたのは、総じて上からは下のことがよく見えるということです。

ですが、よく見えるままに善悪を申しては下の者は一切頭が上がらない。
この所を家康公は御勘弁あって、下々をいたわっておられたのでしょう。

それゆえ、この事は武蔵守様へも度々お聞かせしております」

――『良将軍言行録』
439人間七七四年:2013/02/17(日) 18:40:35.43 ID:eP7uYQxR
名将言行録と良将言行録って何が違うの?
440人間七七四年:2013/02/17(日) 18:42:53.90 ID:1EqPGAfJ
パクリ
441人間七七四年:2013/02/17(日) 19:01:02.17 ID:JAi8iu33
>>438
失礼、出典は良将言行録の間違い
442人間七七四年:2013/02/17(日) 19:27:14.49 ID:m172MTMb
>>439
成立時期も編者も違う
443人間七七四年:2013/02/17(日) 21:06:27.58 ID:S9zpd9vu
さらっとググったら名将が明治期で良将が大正期?
444人間七七四年:2013/02/17(日) 21:06:35.96 ID:MlgHdCjU
ねねに信長が手紙送った話はいい話的に有名だけど
信長と秀吉夫妻のプライベートの関係ってなんであんななんだろ?
他の重臣、側近の部下夫妻ともプライベートではかなり仲良かったのか?
ねねはなんであんなに信長と仲良いのか……
445人間七七四年:2013/02/17(日) 23:21:32.80 ID:JAi8iu33
>>443
著者が明良洪範の真田増誉らしいので成立は江戸中期頃じゃないかと
446人間七七四年:2013/02/18(月) 07:22:35.87 ID:3pRJKwYN
>>443
名将言行録は江戸後期だ。
447人間七七四年:2013/02/18(月) 12:17:08.08 ID:c0AXQ9Pk
大阪冬の陣が勃発した時の事

泉州堺は大阪の近隣で、繁華な港であり、幕府からは柴山小兵衛が代官として置かれていた。
この頃大阪城の評議として、幕府軍の駐留を妨害するため、堺を放火すべしと決定され、
そのための軍勢が派遣された、との旨が聞こえてきた。

これに堺は大恐慌をきたし、あるいは私財雑具を船に積んで四国南海へと向かおうとし、
あるいは山林に身を隠し、親を連れて行くのを忘れる、子を逆さまに背負うなど、前代未聞の騒動となった。
こんな時に代官の柴山小兵衛は眼病を患い、起居すら自由に成らぬ有様で、この混乱を防ぐ術もなかった。

ここに、阿賀屋の正斎といって、古今不敵の町人があった。
彼は自身で堺の街中を走り触れて回った!

「女子供、足弱の老人たちは、どこかに避難させるべきである!
そして15歳以上60歳未満の男は一人も逃げ出してはならない!今度のことは私の謀らいに任せて頂きたい!」

この、正斎の謀らいとはこのようなものであった

「年若の者達と老人とは、当分は交わりを絶って、敵味方のように振る舞っていただく。
また大阪へは硝石千斤(約600キロ)を献上して、堺の町人は残らず大阪の御味方なりと言って放火狼藉を免れるべし。
また京都にも、町衆宿老のうち複数名を上らせて所司代板倉殿にこう伝えるのだ

『大阪より堺を放火して略奪を行うという情報が聞こえてきたため、この災いから
免れるためこのような計らいをいたしましたが、これは全く、幕府に対して御敵対すると
意図したことではありません』

これを言っておけば、後の祟も無いだろう。

また、若き者どもは200人ばかりで代官所へ馳せ参じ

『僅かの軍勢にては中々大阪方を御防ぎすることは叶わないでしょう。早々に岸和田にお退きなさいませ。』

と申し上げるのだ。代官此の頃眼病を患っており、必ずこの言葉に従うであろう。
この時代官所の荒男(吏僚)が大阪に硝石を献上したことを咎めるならば、

『その事は老人たちが差配したことであるので、我々ではどうすることもできません。』

と申し上げ、若者たちはその難から逃れよ。

また、大阪から代官を岸和田に避難させたことを咎めてくれば、年寄衆が

『若き者どもが是非を存ぜずにあのような事をしてしまいました。それ故に、私どもは彼らとは義絶したしました。』

と申し上げ、大阪方の実力行使を引き延ばすのだ。
そして現在の事態が収拾すれば、その時宜しき方に従うまでである。

とにかく、必ず騒動し混乱してはならない!」
そう人々を制した。

この後暫くして大阪の陣も鎮まり天下一統に復したのち、大御所(家康)がこの阿賀屋の正斎の事を聞き

「器量の謀りである。その時の事態に応じた智謀である。」
(器量ノ訛方ナリ、時ニ取テノ智謀)

と高く評価し、彼に褒美を下されたとのことである。
(慶元記)

大阪の陣勃発のおり、活躍した町人についての逸話である
448人間七七四年:2013/02/18(月) 12:54:44.88 ID:bpPmMlrL
結局焼き払われてるがな(´・ω・`)
449人間七七四年:2013/02/18(月) 14:44:35.43 ID:puMNq4yu
>>438
秀忠がことあるごとに忠勝から説教受けてるように見えるw
450人間七七四年:2013/02/18(月) 22:18:12.04 ID:avsf9gC3
秀忠さんは、徳川家でいうとTERUと同じポジションだから・・・
451人間七七四年:2013/02/18(月) 22:24:39.80 ID:bpPmMlrL
TERUと一緒にするな
452人間七七四年:2013/02/18(月) 23:53:46.23 ID:51zUyYq3
内部統制(粛清)システムの構築が得意な点は似てる……かも
453人間七七四年:2013/02/19(火) 00:52:07.03 ID:FVy3qKxR
まとめを見た所、出てなかったので。
ある武将が、天寿をまっとうし、亡くなった。
武将には、すでに他家に嫁いだ娘がおり、嫡男と次男に遺言を残した。
『家督、武具、茶道具は、嫡男に譲る、金5万両は次男に譲る。』
これに、嫡男は『嫡男である、自分が、全部相続するのが筋ではないか。』
と、遺言を守らず、金を蔵に仕舞い込んでしまった。嫡男付きの家老が、次男に申し訳なく、説明したら、次男は、『さもありなん、兄上は自分と違い、大身の身、小身の自分には、もったいない、どうぞ役立っててください。』と、恨み言を言わず、笑顔で、家老に申し渡した。
それを聞いた、嫡男は、自分の大人げい振る舞いを、恥じ、『遺言どうり、お前が受け継いでくれ。』
しかし、次男は『いえいえ、兄上がお持ちなってください。』
と、譲りません。
困った両家の家臣達は兄弟の親戚に説得をお願いします。
これに次男が『では、使う機会がある時まで、兄上が預かってください。』
で落着します、が、次男は永遠に使う事ありませんでした。
父の名、本多忠勝、兄の名は、本多忠政、弟の名は、本多忠朝
454人間七七四年:2013/02/19(火) 01:03:07.36 ID:KhJv7QCW
どうでも、いい、が、ちと、読点、が、多いの、が、気に、なる
渡辺、陽一、です
455人間七七四年:2013/02/19(火) 01:36:10.06 ID:r6zJgGQQ
「ある武将」とか、伏せる意味あったのだろうか

まあ、このスレに住んでる人ならみんな知ってる話だけど、
まとめを補充してくれるのは助かる
456人間七七四年:2013/02/19(火) 08:23:22.97 ID:UCrLU+aF
>>448
それ夏の陣
457人間七七四年:2013/02/19(火) 10:08:31.48 ID:3nifdYVc
458人間七七四年:2013/02/19(火) 10:47:56.19 ID:OEF++wXY
実際大阪の陣が始まる直前に、城方が堺を襲撃してるんだよね
で、片桐且元や今井宗薫が奮戦して且元の重鎮・多羅夫左衛門とかが戦死してる
だから堺における動揺と混乱ってのは非常に激しいものがあったんだと思う

(「本光国師日記」「大阪市立博物館所蔵、今井宗薫・宗呑宛片桐且元直筆書状」)
459人間七七四年:2013/02/19(火) 13:57:35.70 ID:N2MeEExr
>>455
誰もが知ってる有名逸話がまとめサイトにない場合あるからな
知られてるからあえて誰も投稿してないのかも
460人間七七四年:2013/02/19(火) 14:57:33.00 ID:5xyDwjl/
赤松広秀の臣・平井備中守貞利は、主家の移封に従って播磨の龍野から但馬の竹田へ移ったが、
鳥取城の一件で広秀が自害に追い込まれ、赤松家が改易となると、故郷の龍野へ戻ってきた。

龍野赤松家の旧臣の中には、円尾孫右衛門、横山五郎兵衛宗信、片岡治兵衛など、龍野に残って醸造業を営んでいるものがあり、
平井貞利もまた、醸造業「石橋屋」を開業したのである。

醸造業者となったとは言え、貞利は家康によって処断された大名家の旧臣。
役人がたびたびやってきては、赤松家のことを詮索していった。
しかし貞利は、他の者たちのことを慮って「赤松のことは存ぜず」としか答えず、死ぬまでそれを貫き通したのである。
そんな彼はいつしか「不存」と名乗るようになり、戒名もまた、不存にちなんだ「普尊」と付けられている。

なお、龍野赤松家の旧臣たちが始めた醸造業は、円尾氏が発明した淡口醤油によってその名を轟かせることとなる。
また、片岡治兵衛の開いた「幾久屋」が合併等の変遷を経たものが、今のヒガシマル醤油である。
461人間七七四年:2013/02/19(火) 19:01:16.37 ID:ozj3vlf9
里村紹巴は足利義昭が都にいた頃には懇志な間柄で、詩連句や和歌の御伽をして
一日中傍を離れなかったほどだが、いまは秀吉のもとで和歌の指南を務めていた。

心に義昭のことをどうしたらよいかと折々思ってはいたが、公儀に忙しく疎遠になっていた。
しかし、秀吉の機嫌をうかがって義昭のことを取り成して度々申し上げるので、
秀吉もどうにかしたいものだと思ってはいたが、天下の大将軍にして数代相続の的流なので、
並々の武士に申し付けては恐れ多いと思慮を巡らして、兎角の計らいもなかった。

ある時、秀吉は紹巴を呼んで「義昭公のもてなしを誰に任せようかと案じ続けたのだが、
尋常の大名には差し障りもあろう。毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、
これに預けることにしよう」と言ったので、紹巴は「義昭公は大慶にお思いになることでしょう」
と大いに喜んだ。

かくして義昭は移され、輝元は畏まって請待し様々に饗応した。また備後深津に御館を造り、
五千石の知行を附けた。秀吉はこれを聞いて大いに感心し「これで身上を安心なさることであろう。
だが田舎では物足りなく、退屈で暮らし難いことだろう」ということで秘蔵の御局を義昭のもとへ
参らせた。義昭は秀吉の懇志を来世までも忘れ難く思った。

――『室町殿物語』
462人間七七四年:2013/02/19(火) 20:15:05.31 ID:j/KRVdar
>>460
旧臣等はなんでみんな醸造業を営んだんだろうな。
ところで、ヒガシマル醤油って関西の方だと有名なの?
463人間七七四年:2013/02/19(火) 20:38:02.16 ID:TN0rvxxE
>>462
ヒガシマルは全国シェアでもトップ5に入るメーカーだよ。
関西は、関東じゃあまり造らない淡口(うすくち)しょうゆの需要が多いしね。
464人間七七四年:2013/02/19(火) 20:42:54.47 ID:2PJn0+PE
鴻池「醸造業といえば、山中鹿之介の子孫であるわれわれだろう」
465人間七七四年:2013/02/19(火) 20:51:46.97 ID:K0B673KS
>>461
現在無双のTERU△
466人間七七四年:2013/02/19(火) 21:32:27.81 ID:otbWvL4y
>名誉累代にして現在無双の大身

TERU個人の能力には全然触れてない褒め言葉でワロタ
467人間七七四年:2013/02/19(火) 22:07:35.09 ID:UCrLU+aF
と、ゆーかTERUの所にいたのを当人の希望で京へ戻したんだよなぁ
468人間七七四年:2013/02/19(火) 22:32:10.87 ID:ETjR6Mv2
>毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、

島津や佐竹なら累代の大身ってのも分かるけど、
毛利なんてTERUが実質2代目じゃないかw
469人間七七四年:2013/02/19(火) 22:43:38.91 ID:Y9dVhO/Q
まぁ義昭は鞆にいたんだし、輝元起用は出来レースだったんじゃね?
470人間七七四年:2013/02/19(火) 22:46:40.06 ID:nPgpkKPp
>>461
秘蔵の御局

絶対に秘蔵されてないだろ(´・ω・`)
471人間七七四年:2013/02/19(火) 23:15:15.85 ID:e6ubEhM2
ラスボスは将軍様と穴兄弟になりたかったんだよ。。。
472人間七七四年:2013/02/19(火) 23:38:25.79 ID:bdBW1f2C
>>468
「名誉累代」は所領のことじゃなくて、先祖代々の名誉、ってことだから、
大江広元嫡流の毛利家の家名をたたえた言葉だと思うよ?
473人間七七四年:2013/02/20(水) 01:48:52.29 ID:od810Ey9
では殿下秘蔵の姉上を…
474人間七七四年:2013/02/20(水) 03:56:06.96 ID:DRwA7j4S
文化の香のなさそうなド田舎に流されてどんな気分だったんだろう
475人間七七四年:2013/02/20(水) 07:38:34.97 ID:M2m4REjN
体よく厄介者をTERUに押し付けただけのような・・・
476人間七七四年:2013/02/20(水) 10:18:17.60 ID:7hBVIyPC
>>472
流石に嫡流ではないよ
477人間七七四年:2013/02/20(水) 10:23:56.04 ID:ZV5H+s/J
>475
でも信長に京都を追い出されてから、ずっと世話になってから適任じゃね?
478人間七七四年:2013/02/20(水) 12:40:11.22 ID:EsH3EX8N
ラスボスの中古払い下げとか公方様涙目
479人間七七四年:2013/02/20(水) 13:19:43.15 ID:79ozRLbH
薄口だと帰って塩分多いんだっけ?
・・・中古品でもタヌキとか伊達のタネ宗あたりなら気にしないかもしれん。
大内の遺産で多少は残ってないかな
480人間七七四年:2013/02/20(水) 13:44:49.25 ID:MT/ovAuy
田舎の落ち目に下げ渡されちゃった御局さん気の毒・・・
と思ったが、こーいうのって渡されちゃう人にもメリットあったんだっけ?
481人間七七四年:2013/02/20(水) 17:10:41.05 ID:8DfXhC16
仮にも前の公方様だから非常に名誉なことではあるんだよね
厄介払いって側面は否定できないけど

そういえば昔戦国大名ってボードゲームで将軍様(義輝or義昭)を引くと
強制雇用&給料馬鹿高いかわりに威信ってステータスが1上がるってあったのを思い出した
482人間七七四年:2013/02/20(水) 20:39:11.29 ID:FU/FH/Wt
>>481
公方なんぞ飾り物と申すかッ
483人間七七四年:2013/02/21(木) 16:55:37.96 ID:ZKD2zQw0
山内対馬守一豊は、慶長5年(1600)の冬、土佐国を拝領して入部のため大阪を船出し紀州由良にて越年され、
翌年正月2日、土佐国甲浦へ着岸し、そこから陸路を経て同8日に浦戸の城に入られたが、どのよう深いお考えが
有ったのだろうか、大高山の古城を改修してこちらに移ると宣言され、同年の秋より普請が始まり、慶長8年の秋に
成就して、浦戸よりお移りなされた。

雪蹊寺の月峰和尚は、この大高坂の名を改め、河中山(こうちやま)と号された。これはこの地が、東西南北皆大河で
あったためであるが、四方に堤防をなし、淵を埋め地をならして、平らかで広々とした城地となった。
民家は軒を連ね、昔この地にあった、かこが淵、太郎が淵、鱸砦といった場所は一体どの辺だったのか、
今は知る人もいないのである。

ここは浦戸から2里の入海であり、船の往来は自由で、元より山林にも海岸にも近く、魚鳥菜果は充満し、竹木・米穀
豊穣にて、上下万歳を唱えけり。

これより以前、長宗我部の家臣、吉田備中入道周孝(孝頼:長宗我部国親・元親の重臣。一領具足の考案者とも)は
井口の城主であったが、この大高坂山の南の麓に居を構え、老後の隠居所として常にここに住居していた。
その頃周孝が嫡子の次郎左衛門に常に
「この山は必ず国主の居城となり、一国の首府として繁栄するだろう。」
と言っており、果たして元親も一度岡豊からこの地に移り、しかし一両年して浦戸に移ったのだが、
今また一豊が居城とされ、国府となったのは不思議なことである。

そのようにしてこの地は民家繁盛していったが、一つの難儀が有った。それは度々洪水が出て四方の堤を崩し、
城下の町が浸水したのである。貴賎これを悲しみ、二代藩主の山内忠義は
「これは”河中”という地名によるものである。」として、五台山竹林寺の住持空鏡上人に仰せられ、
河中山の文字を改め、『高智山』と号した。

『高智』とは大聖文殊の浄土を申す言葉だそうである。この城地を、何故浄土に比したかといえば、
この城から一里ばかり東に山があり、ここに五台山金色院竹林寺と号す。
これはかの天平の昔、聖武天皇が夢に大唐の五台山を参拝し、これにより行基上人に命じて
唐の五台山を模して建立したのが、この寺なのである。
後には弘法大師もしばらくここに滞在され、中興された。
このような由来により、四国巡礼の礼所となり、六十六部の納経所として、道俗歩みを運ぶ場所となった。

であれば、この城地も文殊擁護の地であると称して、『高智』と名付けたのである。

このおかげであろうか、以後国富み民豊かにして、山内の家運長久にして子孫繁栄翳りなく、
松平の御姓を賜り、万歳の録絶えず、千秋の色とこしえにして、尽きせぬ国となったのである。
(土佐物語)

以上、『高知』の地名が生まれるまでの経緯である。
484人間七七四年:2013/02/21(木) 18:50:18.84 ID:rDSnYhpH
>>483
なんというか、自分の祖先(吉田)をこれでもかって感じでプッシュしまくってるね。
485人間七七四年:2013/02/21(木) 22:15:50.07 ID:Dja3HCi9
>>483
日が消えたから没落しちゃったんだな
486人間七七四年:2013/02/21(木) 22:25:08.99 ID:1d/Aekid
徳川家康が駿河より江戸城へ入った時、徳川秀忠、本多佐渡守などが伺候した。

家康は若い衆が一同に勤番しているところを通った時に「ここにいる者たちの
親についてはよく御存知であろうが、子供については見知っておられぬであろう。
一人一人名乗って御目見えいたせ」と言った。

彼らが一人一人名乗るたびに家康は「彼の親はあの戦の時にこのような手柄をあげた
武功者であるので、よく目をかけられて御使いなされ」と一々秀忠に語った。

そのうちの一人向坂六郎五郎が名乗った時に、家康は暫くして思い出すと、
「いずれにも仰せ聞かせたいので近くに寄ってほしい。将軍には言うことではないが、
慰に御聞きなさい」と言った。

「この六郎五郎の父某には兄の敵がいた。某は日頃から心掛けておった。
その某には兄弟の契約をかわした兄分がいた。その兄分は敵の所在を知った。
彼は某に『敵の居場所が分かった。俺も協力してその敵を討つから安心しろ』と言った。

すると某は『お前がそのような心底とも知らずに懇意にしてきたようだ。敵を討ちたいから
お前と兄弟分になったとでも思っているのか。そんな卑怯な心得とは知らずに交友を持ったことが
悔やまれる。もはやこれからは義絶だ』と絶交した。

その後、程なくして某の敵は病死してしまい、某は無念のあまりこれを苦に致し、
気鬱して相果てた。六郎五郎はその年生まれたばかりで、きちんと育つだろうかと思っていたが、
こうして成人したことよ」と家康は涙を流した。

その後、家康は「若き者たち、よく心得よ。主君や父兄などの敵を討つことで肝要なのは、
武辺名聞ではなく、女を頼ってでも討つことだ。六郎五郎の父は自分の手で討とうと思ったために、
時節に後れてついに討ち損じてしまった。これは若気の悪しき心得だ。

大事の敵を一人で討ったから手柄というわけではなく、人を頼って討ったから劣る
というわけでもない。ただ早く討つことが肝要だ。ここをよく合点するのだぞ」と言った。

――『鳩巣小説、責而者草』
487人間七七四年:2013/02/21(木) 22:30:09.46 ID:ZKD2zQw0
>>486
最後の方は家康らしい合理主義全開だな。まさしく戦国武将だなあ。
488人間七七四年:2013/02/21(木) 22:40:45.09 ID:2pikSJ9p
早く討つのが大事ってのは確かに戦国時代の人のらしいよな。
時代が下がると「確実に」とか、「失敗しては」って、言い訳つけるからなー。赤穂浪士みたいに。結果的に成功したけどさ。
489人間七七四年:2013/02/21(木) 22:52:25.42 ID:zeQVSYHC
赤穂浪士の中にも先走って失敗した奴いなかったか
そもそも、お家再興をあらゆる手段で模索したのちの突入だから
遅くなるのは当たり前
490人間七七四年:2013/02/21(木) 22:58:24.29 ID:Dja3HCi9
仇を早く討てというよりも仇が運良く病死してくれたんだから天罰ということでそれでよしとしろよと
めんどくせえな
491人間七七四年:2013/02/21(木) 23:15:19.29 ID:w8/bMaJT
赤穂浪士の仇討ちは葉隠でも取り上げてるな
仕返すにも早いのか遅いのか、
事が起きた瞬間行くべきか、
じっくり煮詰めて行くべきか、
永遠に中立的な答えは出ないだろう
492人間七七四年:2013/02/21(木) 23:24:36.21 ID:e/M111cR
仇討ちは早い方がいいに決まってるが
成功率高めるには計画的になる
493人間七七四年:2013/02/21(木) 23:45:06.63 ID:w8/bMaJT
赤穂浪士の場合でソッコー仇討ちかなり難易度高いし、
メンバーも数必要だからひとりふたりの覚悟ですまないんだよな
当時の武士の神経の張りつめかたがどれくらいかわからないけど
戦国時代は凄いよな
天下分け目の関ヶ原で、福島正則さまが東軍内で仇討ちやりかねなかったんだから(笑)
494人間七七四年:2013/02/22(金) 07:25:09.02 ID:srbcjfOd
政宗「仇は同時に殺すのが理想的だ。」
495人間七七四年:2013/02/22(金) 17:48:26.83 ID:8vHe41KN
報復は早いほうがいいか・・・
確かに時間をかけると怒りや恨みがが萎えてきそう。
まぁ、持続させるためにキモを嘗めたり工夫すればいいのか。。。

無計画に怒りのパワーを爆発させるのは成功率低そうだしな。
496人間七七四年:2013/02/22(金) 18:58:55.14 ID:i24N83en
仇討ちなんて物騒な事考えずにまぁ茶でも喫んで頭冷やせよ
497人間七七四年:2013/02/22(金) 23:25:31.02 ID:kp8E3iw5
徳川家が今川氏真の籠る遠州掛川城を攻めた時、城将・日根野備中の甥の同弥吉は
激しく戦い、水野太郎作正重が相手になって弥吉を討った。しかし正重は弥吉の首を
取って立ち上がろうとしたところで、腰に敵の矢を受けて深手を負った。

徳川家康はこれを聞いて丸山清林という外科医を呼び「正重の疵は大事なことだから、
何とかして平癒するように療養せよ」と命じた。清林は恐れ多く思って殊更に心を用いて
治療したので、その後、疵は無事に平癒した。

後年、甲斐若御子で北条と対陣した折には、久世三四郎広宣は北条の野中六右衛門を
討ち取ったが、面に疵を蒙った。家康は広宣に自ら薬を付けると、この時も清林に
療治を命じ「三四郎の鼻が落ちぬようにな」と言ったという。

――『徳川実紀(続武家閑談、柏崎物語)』
498人間七七四年:2013/02/22(金) 23:39:27.37 ID:kp8E3iw5
>>497
ちょっと訂正します。
×「三四郎の鼻が落ちぬようにな」
○「三四郎の鼻が落ちぬように」
499人間七七四年:2013/02/22(金) 23:43:10.78 ID:s/Y1h2Gr
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1386.html
於義丸「わたしの鼻には膏薬を塗るなとおっしゃったのに・・・」
500人間七七四年:2013/02/22(金) 23:50:05.41 ID:3T3cUQBH
>>499
膏薬じゃなくて、「付け鼻付けるな」って話だったような
501人間七七四年:2013/02/23(土) 10:00:22.80 ID:fR/q8ZM5
薬の実験台が来ると喜ぶ家康であった
502人間七七四年:2013/02/23(土) 10:11:26.31 ID:lMZuhj91
大久保忠世「膏薬いらんかね〜」
クロカン「目薬いらんかね〜」
三浦按針「オクスリアルヨ〜」
503人間七七四年:2013/02/23(土) 10:45:18.11 ID:QpPxuiEW
北条早雲「…外郎なら大歓迎なんじゃがのう」
504人間七七四年:2013/02/23(土) 16:00:47.47 ID:/lPEKKui
「某の尻にも軟膏を塗ってくだされ」
505人間七七四年:2013/02/23(土) 16:24:06.54 ID:i0dPa0CY
          -‐::´::::::::::::`ヽ、
       --ーフ::::::::::::::::::::::::::::::::\
       ´フ彳::::;/iノi:::ノヽ;ハ ::::、:::ヽ
       ´ノ〃:/lr'´ l|/' `ヽリ|::l::|:::::i     軟膏といわず
        レ!小●   ● 从::::|:::ハ   
          ヽ|l⊃ 、_,、__, ⊂⊃:::|::!__   槍はどうだい?
     /⌒ゝ、 lハ. 丶_'')   jW'',く_)  
      y'´:.:.:\ _.>,、 _ _, イ-.._/.:.:.::/  
       ヽ゚・。:.:.:l`オ/!`弁´N`(/.:.:.:.ソ
         \:.:.:ヤ' '、| 川:.Lゝ`、.:.:,イ
506人間七七四年:2013/02/23(土) 16:34:08.98 ID:mH3++sMa
権現様「怪我した子はおいでー」
507人間七七四年:2013/02/23(土) 17:34:20.39 ID:lMZuhj91
ピョートル大帝じゃあるまいしw
508人間七七四年:2013/02/24(日) 01:27:04.75 ID:f9kQVHbU
>>504
穴山梅雪・榊原康勝「ぼくらにもぜひ」
509人間七七四年:2013/02/24(日) 11:11:54.42 ID:Fp9XIVUL
そういや梅雪さんは、痔のせい逃げ遅れて殺されたって説があったな
510人間七七四年:2013/02/24(日) 13:00:38.09 ID:0xl0QDbE
京周辺で単独行なんて痔殺行為だったんですね
511人間七七四年:2013/02/24(日) 14:35:51.23 ID:s533mJHm
なんで京のすぐそばに丹羽さんの大軍がいるのに誰も頼らないし明智さんも警戒しないのかよくわからん
512人間七七四年:2013/02/24(日) 14:51:35.31 ID:xoUi/v4Y
四国征伐軍は寄せ集めだったから本能寺の報を聞いて丹羽らの手勢以外は四散
副将の一人の津田信澄は明智光秀と手を結んだと思われたりもしたし
頼ったり警戒されたりする理由が逆に無い
513人間七七四年:2013/02/24(日) 14:57:04.48 ID:xkzT/7Qj
もうウォシュレット使うのが当たり前の生活になってるけど昔は紙すらなかったんだよな・・・

小姓たちの苦労痛み入るな・・・
514人間七七四年:2013/02/24(日) 15:26:59.74 ID:QpA3ffp8
>>513
昔はそこらに田んぼあるから引いてきた川も多いだろ
天然ウォシュレットで葉っぱだと思う
515人間七七四年:2013/02/24(日) 18:31:26.77 ID:CtTTwjOX
痔とはやはり使いすぎなんですかね
516人間七七四年:2013/02/24(日) 19:08:35.69 ID:B54fN3kW
馬に乗ってても痔になりやすいらしいけどね
まあ本当のところはどうかはしらんけど
517人間七七四年:2013/02/24(日) 19:54:04.54 ID:B7qr5nAb
痔の原因は便秘じゃね?集団で移動してると野糞もなかなか出来ないだろうなー。早飯早糞芸のうち
518人間七七四年:2013/02/24(日) 21:19:59.57 ID:0FkbmlCI
>>513
水鉢でも置いておいて手で洗ったりもしてたんじゃないかな
519人間七七四年:2013/02/24(日) 21:45:09.44 ID:f9kQVHbU
榊原康勝は尻から大量出血しながらもがんばって馬に乗ってたらしいね
やっぱり、死亡フラグ「輿に乗って出陣」を避けたかったのかね
520人間七七四年:2013/02/24(日) 21:51:12.15 ID:QacvpE5d
>>519
いや馬は尻で乗らなくても乗れるし
521人間七七四年:2013/02/25(月) 03:31:50.91 ID:iv+fGGsX
>>520
何十キロもある甲冑着ててもか?
522人間七七四年:2013/02/25(月) 08:25:16.70 ID:Ej/xhwgj
ある時、織田信長の御前で家臣を集めての酒宴の席でのこと、
滝川一益がこのようなことを言った

「私の紋は殿より一つ少ない4つですが、それでも立派に立っておりますぞ!」

これは説明が必要であろう。信長の家紋といえば有名な織田木瓜であり、
これは5弁の木瓜なのだが
http://www.harimaya.com/kamon/column/mon2/mokko2.jpg

滝川氏の紋は同じ木瓜ながら、4弁なのである
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/buke/takigawa.jpg

これを聞いた信長は機嫌を害したように
「何だ、お主はわしに立ち向かう気か!?」
と言ったが、一益は

「いいえ、殿を上に立てるのでございます。」

そう見事に受け答えたという。
(家紋逸話辞典)
523人間七七四年:2013/02/25(月) 11:05:58.86 ID:QScXydi2
馬上でもウンコはできますぞ!
524人間七七四年:2013/02/25(月) 12:42:26.47 ID:uh+jpmGk
(`Д´)いい加減尻の話はやめい!
525人間七七四年:2013/02/25(月) 14:16:56.08 ID:DwgtOsy9
木瓜を尻の○と申すか
526人間七七四年:2013/02/25(月) 15:51:03.73 ID:Lyn37Doj
ちょっと待て家紋が木瓜の人にマジ謝れw
因みに我が家は何の変哲もない丸に木瓜だ
527人間七七四年:2013/02/25(月) 17:28:52.12 ID:Ub5n/s1R
たしかに>>525は浅はかで失礼だよな(笑)
木瓜紋が全国何人いると思ってんだという
528人間七七四年:2013/02/25(月) 17:30:12.69 ID:FGUu6gFf
徳川家康の言葉のひとつ。

「例えば、公家は金銀の如く、武家は鉄の如し。金銀は尊いけれども、鉄のように多くの役には立たない。
五穀・竹木などを刈り納め、乱を鎮める武器、宮室を建てる道具、総じて鍛冶の刀剣は皆鉄の力なり。

金銀は好みすぎると災いを招くことは眼前であるぞ。古語にも『金属貴しと雖も、眼に入りて禍を為す』
というから、時の宜しきに依り、賤しき鉄こそ貴いのだ。

武士が武道を忘れるとは、横にさした刀・脇指を止めて、巾著と扇子ばかりになって往来する類である」

――『責而者草』
529人間七七四年:2013/02/25(月) 17:39:55.16 ID:FGUu6gFf
>>528
すいません、誤字を訂正します。
×『金属貴しと雖も、
○『金屑貴しと雖も、
530人間七七四年:2013/02/25(月) 18:01:22.49 ID:r/3PPUnM
チタンとかプラチナは。。。
531人間七七四年:2013/02/25(月) 18:09:56.29 ID:QScXydi2
金銀があれば安いところで米とか買って足らないところで施せるけどな
532人間七七四年:2013/02/25(月) 18:13:34.98 ID:sRthtU6N
しかし、全国の主要な金山、銀山を直轄にする家康公なのでした(´・ω・`)

ラスボスですら石見銀山はTERUに残してやったのに...
533人間七七四年:2013/02/25(月) 18:17:30.65 ID:Ub5n/s1R
気持ちの問題だよな
権現さまオレはわかるよ
534人間七七四年:2013/02/25(月) 18:22:55.48 ID:/97hQ0OF
兼続「まったく、上方の武将は茶器など人たらしの道具にうつつを抜かして困りますな。
我らのように鉄砲弓箭を備えなければ」
535人間七七四年:2013/02/25(月) 18:26:00.05 ID:lZQGL0Cb
鉄は役に立つけど手入れが面倒臭い
とか言ったら権現様にクドクドクドクド説教されるだろうなw
536人間七七四年:2013/02/25(月) 18:38:45.65 ID:uAs2KXnD
>>532
国際貿易港もキープだぜ!
537人間七七四年:2013/02/25(月) 18:40:08.70 ID:AQQ0P5vw
>>532
運上として根こそぎ取り上げてますが
538人間七七四年:2013/02/25(月) 19:22:37.05 ID:UI4wmqVw
ラスボス「鉄より木綿」
539人間七七四年:2013/02/25(月) 19:25:35.15 ID:bUH1jP/W
丹羽「ニワトリ」
540人間七七四年:2013/02/25(月) 19:39:29.22 ID:LCEa2jEu
>>539
あんたは米五郎左でしょうにw
541人間七七四年:2013/02/25(月) 20:37:50.42 ID:9MRmQ/w7
柴田「か、カレー…」
542人間七七四年:2013/02/25(月) 23:04:15.47 ID:EWuoLoQg
オダノミクスがどんなものか教えて下さい。
543人間七七四年:2013/02/26(火) 00:28:11.94 ID:2US/it7g
・負けても泣かない
・それでも猫が好き
544人間七七四年:2013/02/26(火) 01:22:35.42 ID:ERs9YK7F
・天下布武を設定し、市:座の排除も視野に入れて大胆な金融緩和を行う。
545人間七七四年:2013/02/26(火) 01:27:35.14 ID:fz6AjDiR
陶器などに投機させてバブル経済
546人間七七四年:2013/02/26(火) 06:26:12.86 ID:ypWcdqyz
・利用価値の無い既得利権層は権益奪って追放
・敵の信者は消毒だー
・茶碗に格付けして価値を創出
547人間七七四年:2013/02/26(火) 07:14:48.99 ID:WU67qpNi
鉄こそ価値があるのだから鋼鉄貨幣が流通してることにしたゲーム設定あったけどみごとに鋼鉄貨幣の部分は失敗してたな
548人間七七四年:2013/02/26(火) 07:31:05.72 ID:8YGriW15
市や座を保護します
軍役も各自適当で
ちょっとはっちゃけても1・2度なら許す
 
でも何度も説得しても反抗したら37564
549人間七七四年:2013/02/26(火) 09:30:50.11 ID:B+cxoiM6
・貨幣経済が破綻気味だから、現物納入に移行(石高制)
550人間七七四年:2013/02/26(火) 11:10:08.93 ID:aAmrEDF3
>>547
鉄は錆びて変質しやすい時点で貨幣向きじゃないからなー
江戸期も銅不足から鉄銭を作ったけど散々だったな
551人間七七四年:2013/02/26(火) 19:48:56.14 ID:IX2wetoz
・津島の市場を武力で支配下に置く
552人間七七四年:2013/02/26(火) 21:47:26.32 ID:ERs9YK7F
・聖域無き焼き討ち
553人間七七四年:2013/02/26(火) 22:26:52.21 ID:sgeIU9My
・無能あるいは手を抜く部下は良くて追放普通は打ち首
・使える部下は徹底して酷使、ブラック大名家を目指します
・茶の味そのものを評価の対象から外します、田舎者は俺から不味い茶を買え!
・外国の貧乏新興宗教を優遇するフリをします、既成金持ち宗教の皆さんは献金しないとアウトだよ
・鉄製の船を作ってみるテストの一環でとりあえず周囲を鉄で覆ってみた
・部下が経験不足の息子に世襲する事に対しては大変厳しいです、ただし俺様の一族兄弟次男坊以下は例外ね
554人間七七四年:2013/02/26(火) 23:38:52.72 ID:BPUmaEY7
小田原開陣の後、太閤が諸将を会して言うには「会津は関東八州の要地、
勝れた大将を置いて、鎮めなくてはならない地だ。各々は遠慮なく所存を
書き付けて見せるのだ」とのことだった。

今はそのようなことを入札というが、当時はかくし起請といった。
その結果、細川越中守が相応しいとする者が十に八、九人であった。

太閤は開き見て「お前たちは甚だしく愚昧だな。わしが天下を容易く取ったのも理だ。
この地に置くべき者は蒲生忠三郎をおいて他にいない」と言い、忠三郎を置いた。

――『老人雑話』
555人間七七四年:2013/02/27(水) 00:11:31.66 ID:izkpjhYJ
…なんで聞いたん?
556人間七七四年:2013/02/27(水) 00:33:33.17 ID:lRHYj8jE
確かに自分で決めるなら聞くなよなって話だなw
内容とは別だけど、かくし起請って何か言葉としてイイ響き。
557人間七七四年:2013/02/27(水) 01:24:03.25 ID:C61vDHQK
会津は関東八州の要地・・・
なにかモヤモヤする
558人間七七四年:2013/02/27(水) 01:39:49.73 ID:7zJTOQv7
DQNのそばにDQNは置くな、と。
559人間七七四年:2013/02/27(水) 02:21:46.24 ID:no/RSWoo
DQNの世話と関東の監視と、両方やらなければならないのが会津の辛いところだな
560人間七七四年:2013/02/27(水) 04:16:07.80 ID:zOS/PnjH
関東の徳川、越後の上杉、ついでにDQNの監視
561人間七七四年:2013/02/27(水) 04:54:21.92 ID:EAR/TroZ
ついでに目障りな奴を田舎に追い出せる
一石四鳥なり
562人間七七四年:2013/02/27(水) 10:40:19.42 ID:H23bdDLI
>>554
忠興配置したら伊達と合戦をしかねないw
563人間七七四年:2013/02/27(水) 10:42:18.77 ID:RlKUBiNP
>>562
蒲生でも合戦しかけているしなぁ
564人間七七四年:2013/02/27(水) 13:57:25.91 ID:X6+Xzclk
宗竜寺の江南和尚が、多久美作守殿や石田一鼎ら学識に定評ある人たちと学問談義をした。
江南和尚がいう。
「あなたがたは、なかなかの物知りで大変結構にございますな。
しかし、道を知るということとなると、
普通の人間にも劣るように見えます」
それをうけて一鼎が、
「聖賢の言葉以外に道はないでしょう」
と答えた。
そこでまた江南和尚が言うには、
「物知りと評判される人の道を知らぬというのは、
東へ行くはずの者が西へ行くようなものである。
物を知れば知るほど己自身の道から遠ざかってしまう。
その理由は、昔の聖賢の言行を書で学び、話を聞き覚え、
いかにも見識を高いようにし、自分も聖賢のような気分になり、
一般普通の人を虫けらのように見下すようになるからである。
これこそが道を知らぬということなのです。
道というのは、己自身の悪いところを知ることである。
いつも油断せず悪いところを反省し、一生かかって己を磨き上げるのが道である。
聖の字をヒジリと読むのは、聖人は非を知っているからである。
仏は知非便捨の四字をもって我が道をなすことをお説きなされた。
自分の心を省みると、一日にも悪念の起こることは数えきれないほどだ。
自分は間違っていないなどと誰が思うことが出来ようか」
と申されたので、その場にいた者たちはそれ以降、江南和尚を敬ったとのことだ。

だがしかし、武士の生き方はそれとは違う。
おおいに高慢な心を抱いて、
我こそが日本国中に並ぶものなき剛の者であるぞと考えていなければ、
武勇をあらわすことは出来ない。
武勇をあらわすにも日々の心がけ、気力の段階がある 【葉隠】
565564:2013/02/27(水) 14:05:25.87 ID:X6+Xzclk
すみません
これ既出だった
ググッたら出てきた
まとめサイトのオレの検索の仕方が悪いですね
知非便捨の精神でこれから気をつけます
566人間七七四年:2013/02/27(水) 17:49:15.03 ID:C61vDHQK
>>558
毒を以て毒を制す キリッ!! とか権現さまでもいいそう・・・
567人間七七四年:2013/02/27(水) 18:14:52.80 ID:AdaU9EAq
>>558
肥後移封後の細川と島津が接してるような接してないような
568人間七七四年:2013/02/28(木) 00:14:53.92 ID:0yyufuri
肥後の南端って熊本藩領なんだっけ
天草はなぜか唐津藩→天草藩→天領だし、人吉は相良だし
569人間七七四年:2013/02/28(木) 00:43:21.32 ID:EngjyjMs
Q:軍勢において、使番の指物には『五』の文字が書かれていますが、これには意味があるのでしょうか?

A:もちろんあります。物を知らない子供のために、これを説明しましょう。

  かつて武田信玄の使番は、百足の指物を差していました。百足は足が多く、どんな場所でも
  能く進むため、その意味合いを含んでこれを使ったのです。

  さて、『五』の文字ですが、これは数字の中間に位置する数です。
  数字は一から始まり九で終わります。五はその真ん中にあり、一にも遡り、九にも至ります。
  それ故に、どこにも良く通づるという意味を持ちます。

  また一から九までは皆数えるときに、「ひとつ」「ふたつ」と「つ」を付けますが、十に至って「つ」は
  無くなります。
  そのかわり「五つ」には「つ」が2つあります。このため十には「つ」の字が無いのだといいます。

  こう言った意味合いを以って、五の字を用いているのです。

  ちなみに『続・松平記』には使番の旗印に「互」の字を用いていると書かれていますが、
  「互」は元々「五」であり、文字は変わってもその意味は先に言ったものを含んで使っているのです。

(慶元記)

以上、使番の指物に付いての説明である
570人間七七四年:2013/02/28(木) 06:09:12.93 ID:hBwqINd2
戦国時代にゼロはなかったのか
571人間七七四年:2013/02/28(木) 06:24:19.19 ID:MbUG01Jr
ムカデは草鞋を履くのに時間が掛かるって聞いたけど・・・
572人間七七四年:2013/02/28(木) 08:12:45.23 ID:ReS80TT3
大河の風林火山で時々出てたな百足衆
573人間七七四年:2013/02/28(木) 11:34:46.39 ID:olNSwNyy
結局登録に行ったきりでレッスンには出なかった(´・ω・`)

http://www.groupon.jp/cid/44521

さて天気も良いし映画観て来るか
テッドとレ・ミゼラブル、多摩とむさし村山で迷う(´・ω・`)
574人間七七四年:2013/02/28(木) 11:38:14.39 ID:olNSwNyy
酷い誤爆をした(´・ω・`)

映画の代わりに三歳の嫁の顔見てくる(´・ω・`)
575人間七七四年:2013/02/28(木) 15:59:21.48 ID:0wU1P3q/
その前に其れがしの許し無くこの橋を渡る事罷りならん!
576人間七七四年:2013/02/28(木) 17:15:08.15 ID:cG0uM/1t
真ん中通って来ましたよ
577人間七七四年:2013/02/28(木) 19:09:09.98 ID:2VrNl8Bp
向こう岸から泳いで参った!
578人間七七四年:2013/02/28(木) 19:24:55.68 ID:89Prow9T
つまり・・・被害者は壊れた橋を渡ろうとして川に落ち、向こう岸へ泳いで渡ったと言う訳ですね
579人間七七四年:2013/03/01(金) 08:29:25.94 ID:KYbUiVlc
トヨトミクスでODAはどうなりますか?
580人間七七四年:2013/03/01(金) 10:40:24.04 ID:AgSfvIFC
13万石の一介の大名になります
581人間七七四年:2013/03/01(金) 15:01:11.35 ID:sziel3RG
HIDENOBU「たとえ東軍先遣隊が3万をこえてても、ワンパンしないと気がすまなかった
岐阜城が一日で落城した今は反省している」
582人間七七四年:2013/03/01(金) 17:22:18.22 ID:HUE89Ney
夏目舎人から今に伝わる話。
出陣には米を袋に入れておくとよい。
肌着はむじなの皮だと、シラミが沸かない。
戦が長引くと、シラミが沸いて困ることがある。
いざ敵と向かい合ったときに、
その敵が強いか弱いか見分ける方法がある。
顎を引きうつむいてかかってくる敵は黒い印象に見え強い。
上向き加減でかかってくるような敵は白く見え弱い 【葉隠】
583人間七七四年:2013/03/01(金) 18:17:27.14 ID:2vES0/2T
上向きと下向きの話は日差しの加減ってわけじゃないよな
584人間七七四年:2013/03/01(金) 20:07:35.62 ID:63BfBdB3
黒白は家康さんも同じようなこと言ってたな
585人間七七四年:2013/03/01(金) 21:13:58.27 ID:duQ2PWEx
福島家が亡んだ後、徳川秀忠の命によって、大崎長行及び、村上彦右衛門通清、
真鍋五郎右衛門貞成が徳川頼宣へ召し出された。

安藤直次は三人の若年よりの働きを問うた。

貞成は十四歳よりの働きを残らず述べて一代を語った。次に通清も同じく若年よりの
働きを語る。いずれも比類少なき働きだったので、一座の人々は耳を驚かせた。

そして長行は「我は与一郎といって槍一本の者でしたが、段々と仕上げまして、
木村家では鬼玄蕃と呼ばれ、福島家では一手の大将を致し、備後鞆の城主となりました。
ですので、若い頃より鈍くはなかったとお思いください」と言った。

直次を始め、一座の人々は皆なるほどと感心した。

――『名将言行録』
586人間七七四年:2013/03/01(金) 22:18:14.00 ID:13Bk368R
松浦鎮信 (法印)の嫡男、肥前守久信は、文禄元年4月の松浦家の朝鮮への渡海の時には病に伏せっており、
病から回復して同年6月8日朝鮮に渡り、父・鎮信の陣営に向かう途中、にわかに多勢の敵軍が現れ、久信の行く手を妨げた。

久信は少勢であったが敢えて屈せず、父への土産として持ってきていた酒肴を出させ、刀の石突で樽を破り
馬柄杓でこれを汲み、自ら呑んだ後、日高甲斐守、鮎川民部入道、南大和守兄弟を始めとした家臣たちに

「見よ、あの大軍を切り抜けるのは非常に困難なことである!
しかれば、この世の名残の酒である!各々、これを呑んで一戦致されよ!」

そう言って酒を与えると、皆も酒を汲み、そうして共に進んだ。

すると、敵が一面に備を展開している中、大将と見える者が、一騎でまっ先に進んで下知しているのが見えた。
ここに久信も備の前に出て身を伏せ、膝を台にして鉄砲を放つと、かの敵の将は馬から真っ逆さまに落ちた。

松浦勢はこれに乗じて一気に攻め立てる。これに敵は混乱し、引き退いた。
そこで松浦久信も人馬の息を継がせようと一旦休止しようとした所、南入道が深入りして、敵に捕らえられてしまっていた。
そこで弟の南蔵人も兄を取り返そうと的に突っ込む。これを見た松浦勢も、兄弟を救うべしと、久信を始めとして
一斉に切り込み、これによって敵陣は終に破れ、松浦勢は敵兵を追い散らかした。

しかし南兄弟は討死。その他負傷者61名が出た。討ち取った敵は130人余り。
翌日、この久信の勢は父鎮信の人に到着した。
(松浦法印征韓日記抄)

松浦久信、朝鮮に渡って早々少勢で大敵を破る、というお話である。
587人間七七四年:2013/03/02(土) 07:07:20.20 ID:0wTnrFRM
>>579
トヨトミクスではODAは縮小され、奥州仕置きの実施、国替え、刀狩り、検地、兵農分離の徹底

大陸・半島には支援として鉛玉をくれてやる予定
588人間七七四年:2013/03/02(土) 12:10:49.76 ID:etb1I0RW
初代龍野城主・赤松村秀は赤松政則の庶子だが(諸説あり)、正室(魔法半将軍の妹)を憚る政則の意向で、
西播磨8郡郡代・赤松下野守政秀(性喜。黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀(村秀の子)とは別人)に預けられることになった。

政秀は片吹村から「ちよ」を召し出して乳母とし、村秀の養育に当たらせたのである。

村秀を育て上げたちよは、大永〜享禄の頃、自身の老齢を理由として暇乞いを申し出た。
村秀は彼女に労いの言葉をかけ、「何か望みはないか?」と尋ねた。

ちよは、彼の心遣いに感謝し、かねてから抱いていた願望を口にした。
「私の里、片吹村は常に水不足で、村人は大変困窮しております。
願わくは、岩見井から鍬一枚分の水を取ることをお許しくださいませ。」

村秀は、その願いを聞き届けた。
早速、片吹村付近を流れる灌漑用水「岩見井」に、鍬一枚分の幅の取水口を設けさせたのである。
こうして、村には豊富な用水が流れ込むようになり、10町歩の農地が美田に姿を変えた。

村人は、取水口を「姥ヶ堰」、それによって潤った水田を「御殿地」と呼ぶようになり、
天文3年に世を去った「ちよ」の名とともに、代々語り継いでいった。
村人たちが浄財を出し合い、彼女の遺徳を讃える「姥ヶ堰之碑」を建立したのは明治時代のことである。
589人間七七四年:2013/03/02(土) 12:39:39.21 ID:KSWeWEe5
これはいい話だな。
「ちよ」さんも偉いが、明治以降まで語り継いでる村人も偉いな。
590人間七七四年:2013/03/02(土) 13:27:18.84 ID:oIfy3dpE
むじなってアナグマ?タヌキ?
591人間七七四年:2013/03/02(土) 14:10:10.45 ID:BNmd/+i/
地域によって穴熊だったり狸だったり両方だったりする。
592人間七七四年:2013/03/02(土) 14:13:15.53 ID:efzKHixz
昔はそんなに区別されなかったんじゃない
別の種類だけど雌雄だと思われてたりする生物とかもいたし
593人間七七四年:2013/03/02(土) 16:07:57.86 ID:0wTnrFRM
蛍が鳴くとか言い出す人もいたし
594人間七七四年:2013/03/02(土) 16:22:34.83 ID:ioaPo4KI
京極はホタルのお陰で大名存続
595人間七七四年:2013/03/02(土) 19:39:16.32 ID:DJcgEJa9
藤堂高虎のご褒美

ある時、藤堂高虎は子息を戒めてこう言った。

よいか、よく聞け。
臣下に賞を与えるにあたっては、
今日与えようと思えば早速に与えることだ。
今しばらく様子を見て、などとその時期を延ばすものではない。

賞というものは、
思いついて即与えたとしても、本人の心では三年も遅いように思うものである。
ましてやその時期を引き延ばせば、その者は「勤め甲斐がない」と落胆して
いい加減な奉公をするであろう。
そして、それを察した主人は「速やかに賞を与えられないのを怒る不届き者よ」と
憎む心が生じる。
主従の感情は遂に互いに相容れぬようになるであろう。

聞いた者はみな名言だとした。
                               (洞津遺聞)


さて、これを誤り伝えたものが、ある書に記されているという。

ある時、藤堂高虎はこう言った。

よいか、よく聞け。
惜しげなく賞を人に与えた時の爽快さは、
ちょうど多量に便通があったあとの腹心地の爽快さに似ている。

これもまたよい例えで、
高虎の言葉であるとするに足る名言である。
                   ・・・・編者もなかなか言う(実伝藤堂高虎)
                          
596人間七七四年:2013/03/02(土) 20:51:52.12 ID:bS191Zmg
確かに良い例えではあるが、誤りってレベルじゃないなw
597人間七七四年:2013/03/02(土) 21:07:53.47 ID:+5q3jbOT
多量の焼き味噌と聞いて
598人間七七四年:2013/03/02(土) 21:12:11.28 ID:klye0Dfw
槍一本からのし上がった人だから、藤堂高虎は下の者の気持ちがわかってるな
賞罰の賞のほうは、下の立場はされても評価おせーよ、と思っちゃうからな
599人間七七四年:2013/03/02(土) 22:35:21.57 ID:CGtQwob/
昇給忘れられても我慢できるのはめんどくさい系だろうか…
600人間七七四年:2013/03/03(日) 00:15:57.53 ID:mA7c43F1
賞を与える立場ではないが、その爽快さだけは理解できるぞ、うん。
601人間七七四年:2013/03/03(日) 00:22:02.66 ID:HKpJB2AS
忘れられるどころか加増を断るのがいるからな藤堂さんとこは。
602人間七七四年:2013/03/03(日) 00:24:44.72 ID:SOYj+wSV
大阪冬の陣、今福の戦いでのことである。

今福・鴫野での幕府方・佐竹義宣勢の攻勢を、大阪方・木村重成勢はなんとか食い止めたものの、
戦況は膠着し、木村勢は再び押され始めた。

これを大阪城から見ていた豊臣秀頼は驚き、側にあった後藤基次に、早急に木村の救援に行くよう命ずる。
後藤は畏まり、その場から直に陣屋の組衆に、直ぐに蒲生堤へ来るよう使いを出し、自身は具足を
持ってこさせ馳せて天満橋近辺に至ると、そこには既に大野修理勢が武装して乗り付けていた。
後藤もその陣屋において武装を固め、今福堤に駆けつけた。

到着すると後藤は木村重成に対面し、
「今朝からの御働きですが、そろそろその気力も尽きる頃と思います。ここは私が
入れ替わりましょう。」
と申し述べる。しかし木村は

「この重成にとって今日が初陣です。その上、特に只今こそ勝負肝要の時と見えます!
こんな時にそれと替わろうとするなど、後藤殿には大人気ないではありませんか!
かつ、今人数を入れ替えれば備が崩れる危険性もあります。

そもそも貴殿は老巧の武将であり、私は初陣です。であるので、今しばらくこのまま御覧になっていて
頂きたい!」

この木村の気迫に後藤も感服し、「申されるものかな。ならば私は後陣に詰めよう」と言って
下がろうとしたが、その時四方を見ると、堤の下では木村重成の足軽たちが、敵の射撃を受けて
堤の陰に伏し隠れたまま、頭も出せないような有様であった。

すると後藤は馬から降り、従者に持たせた鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
立ったまま2発射撃し叫んだ

「土の上に這いつくばって黒くなっている者共!鉄砲はこうやって撃つんだよ!!」

この恥ずかしめにカッとした足軽たちは、競って堤の上に登って一斉に撃ち立てれば、
敵のほうが逆に堤の陰に伏せ隠れた。

この時、後藤は左の小指に少し負傷しているのを木村重成が見つけ、「手傷を負われましたね」
と問うと、後藤は鼻紙を出して負傷箇所を巻いて

「合戦で小傷を負うのは、私の吉例ですよ。」

そう、笑って答えた。

「それはともかく、後藤殿は陣所に帰ってください!」木村はそうしきりに進めた。

これは木村重成が若武者であり、後で陣を後藤基次に取り替わられたと人に言われてはならないと
偏に考えたためだ。という。
(慶元記)
603人間七七四年:2013/03/03(日) 04:43:51.73 ID:M6d0l7GH
>鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
>立ったまま2発射撃し叫んだ

両手でガンマン風に射撃を行う又兵衛さんが頭に浮かんだ。
604人間七七四年:2013/03/03(日) 19:28:00.00 ID:tyjHG65t
どっちに書いたらいいか判らんからこっちに投下

米沢市図書館のデジタルライブラリーが近日中に大幅増強される模様
上杉氏関連で新しい話が発見できればめっけもの
(現時点は試験公開Ver)
ttp://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/index.html
ソースはNHKラジオのローカルニュース
605人間七七四年:2013/03/03(日) 23:17:06.96 ID:feui2987
本多正純の「それは誰ですか」について。

「『きっと、その人が申したことは何の役にも立たない可笑しいことだったので
上野介は誰なのか尋ねたとみえる。それゆえ佐渡守はとどめた。

佐渡守はその人が御前においても馬鹿げたことを申し上げたから、
その姓名を誰にも語らない心得でいて、子の上野介にも言わなかった。古人の篤実だ。

その時の父子の心得は違っている。佐渡守は権現様の言の御用のところを申したくて話したが、
それを聞く上野介(の心得?)は全く異なっていた』

そのように新井氏は古人の批判をされた。そこで私が、

『佐渡守殿がとどめたのは、きっとその様子を見ていたゆえの儀でしょうが、
只今推し量りますに、上野介殿も父に代わって権柄を取る人ですから、その人の名を聞いておき、
後には選挙しようと思っていたのかもしれない。

その人の志を奇特と感じて姓名を尋ねたのかもしれませんから、一概には言えないと思います』
と言ったところ、新井氏も『なるほど。それもそうだ』と言われた」

――『鳩巣小説、責而者草』
606人間七七四年:2013/03/03(日) 23:31:07.60 ID:QKVR9Pno
>>605
新井氏って新井白石かな?
607人間七七四年:2013/03/04(月) 00:53:48.72 ID:Tjz062dG
室鳩巣と白石は同門だっけな〜
同世代だけど一緒にいたかは知らんけど
608人間七七四年:2013/03/04(月) 05:57:06.89 ID:n+2WfLfA
室鳩巣は武田信繁を再評価した人だという知識はあるが、
なんて読むのか知らないんだよねw
609人間七七四年:2013/03/04(月) 07:12:55.85 ID:qAbHI9m1
室鳩が名字だとおもったら室さんなのね
610人間七七四年:2013/03/04(月) 08:48:03.35 ID:RQeKewIR
鳩山以来、鳩のイメージが悪くなって悲惨だな
611人間七七四年:2013/03/04(月) 11:41:50.86 ID:Tg3kAO9H
トラストミーとのたまう保険のCMがあるが、あれは自虐だろうかw
612人間七七四年:2013/03/04(月) 14:17:34.97 ID:YqyWQql3
>>605
それはそれで、諌言もどきをして栄達しようとする
不心得者が続出しそうな気がする。
613人間七七四年:2013/03/04(月) 16:05:32.54 ID:8iXOkB8b
>>610
こういう話をする輩も臭くてかなわん
614人間七七四年:2013/03/04(月) 17:31:13.82 ID:4zA/UW2P
木村重成って堀久のイメージしかない
生まれてくるの遅すぎたね
615人間七七四年:2013/03/04(月) 17:34:37.01 ID:U8qpeY/a
名人Qちゃんと橙を一緒にするなよ
616人間七七四年:2013/03/04(月) 17:35:40.04 ID:JtyqrRGR
>>615
橙は薄田兼相や
617人間七七四年:2013/03/04(月) 18:20:42.91 ID:jbCCpV3U
Qちゃんの肖像画は修正液で上から適当に書き直したみたいな顔しかないの?
618人間七七四年:2013/03/04(月) 18:39:22.34 ID:4zA/UW2P
きっとおばあちゃんが書き直したんだよ
619人間七七四年:2013/03/04(月) 18:41:09.12 ID:48+26OS0
どこのスペイン人のババアだよw
620人間七七四年:2013/03/05(火) 00:10:05.28 ID:dNJG/BNd
いい湯だなぁ〜

武田信玄
下部温泉、増冨温泉などなど

武田勝頼
伊香保温泉

豊臣秀吉
有馬温泉

徳川家康
熱海温泉
621人間七七四年:2013/03/05(火) 01:39:16.73 ID:QYrYxSpk
この前、太閤の湯に入ったけどすごい良かったよ
622人間七七四年:2013/03/05(火) 02:51:23.78 ID:btVCBA2t
医学が発達していない戦国時代は戦場で即死よりも戦後に戦傷が原因で死ぬ場合が多い

温泉の整備は戦国大名にとって当然
623人間七七四年:2013/03/05(火) 10:57:14.64 ID:FlIt+4OE
一口に温泉と言っても泉質によって効能も全然違うんじゃ...

効能が美肌や婦人病だと...
624人間七七四年:2013/03/05(火) 11:19:00.59 ID:o+bA4p+T
はて・・・戦国大名って温泉なんか積極的に整備してたっけ?
湯治などは結構行ってるけど。
625人間七七四年:2013/03/05(火) 11:40:57.01 ID:g8S3FBo3
武田とラスボスは整備してるね
626人間七七四年:2013/03/05(火) 12:36:52.24 ID:48+trCI8
北條早雲も入ってそうだ
627人間七七四年:2013/03/05(火) 13:22:11.44 ID:DxhmMoME
一乗谷に温泉があれば宗滴様も長生きできただろうに…
628人間七七四年:2013/03/05(火) 14:17:49.80 ID:Bs1KLNsT
お兄ちゃんも温泉に入ってストレスを軽減してれば……
629人間七七四年:2013/03/05(火) 14:32:43.19 ID:QOEGHJuR
天然温泉はちょうど良い湯加減にするのが難しい…
630人間七七四年:2013/03/05(火) 14:44:57.45 ID:o+bA4p+T
>>627
そうか…芦原温泉はまだ無かったんだなぁ
631人間七七四年:2013/03/05(火) 14:58:36.34 ID:6ke07xp0
>>626
確かに小田原奪取の際に、
箱根の湯治場で情報収集したとか言う伝承があるな
632人間七七四年:2013/03/05(火) 15:34:18.82 ID:rYcjJfQJ
真田って、草津温泉に行ってなかったっけ
持ち主の湯本三郎右衛門は昌幸の家臣だし
633人間七七四年:2013/03/05(火) 15:49:13.66 ID:g8S3FBo3
>>631
伊豆乱入の前に温泉で情報収集じゃ無かったっけ
634人間七七四年:2013/03/05(火) 17:24:06.20 ID:Bs1KLNsT
秀吉と家康も温泉でツレションしたんだっけか?
635人間七七四年:2013/03/05(火) 17:47:23.47 ID:vkryKHfZ
逸話が融合してるような
636人間七七四年:2013/03/05(火) 18:29:23.80 ID:ZLdiNGRd
木綿足袋は今の製法のようなものは、長岡山斎の母が初めて作った。
山斎の茶の会に出られる時、足が冷えるということではかれたのだとか。

――『老人雑話』
637人間七七四年:2013/03/05(火) 18:32:27.98 ID:pKLULJFP
長岡山斎って、三歳さんのことなんかね?
638人間七七四年:2013/03/05(火) 18:50:55.22 ID:9mq18G3e
>>637
細川忠興の事だね

>木綿の足袋は、着物を着る時の必需品。昔、長岡三斎(細川忠興 )の母が茶室で足が冷えないようにと作ったのが始まりといわれる
639人間七七四年:2013/03/05(火) 18:59:56.63 ID:DxhmMoME
三斎様デザインの越中褌にジャコウさんデザインの足袋がHosokawa Style
640人間七七四年:2013/03/05(火) 20:08:44.66 ID:R912+cQE
>>637
山菜さんかも
641人間七七四年:2013/03/05(火) 20:10:43.24 ID:VsUemcKT
大阪冬の陣の慶長19年(1614)12月6日、徳川家康は茶臼山の本陣に到着した。
この時家康を出迎えた者達が初めに報告したことには

「諸大名の仕寄場は何れも能く敵陣に対して付けています。思った以上に敵の近くに攻め寄せています」
(諸大名の仕寄場何れも能く付き候。存の外近く攻寄せ候)

とした。
ところが、御前においてこれを聞いていた本多三弥(正重)は

「各々は偽りを言っている!私が見廻った限りでは、そなたたちが言うほど仕寄も寄ってはおらぬ!」
(各偽申上げられ候。我等参り見候所に、存候程には仕寄も寄らず)

続いて小栗又市が声を上げた

「大名たちは皆々臆病で、竹束の内から敵を見るばかりです。かなりの距離を隔てて
相まみえている状況ですな!」
(皆々臆病にて。竹把の内より見申候。中々間隔相見え候)

このように、家康に報告した者たちの面目を丸潰しにし、また参陣した諸大名もまとめて侮辱したと
見られても仕方がない両人であったが、彼らに対して家康からいかなるお咎めも無かった。
(両人共に如何様とも御咎これなく)

(村越道伴物語留書)

おそらく諸大名の体面に気を使った報告だったのでしょうが、そんなモノは断じて許さない
古い三河者共の頑固さはこの時も健在であったのだ。
642人間七七四年:2013/03/05(火) 21:23:10.47 ID:mpEY66VU
本多正重も生涯無官だったっけ
三河は変わりもん多いよなぁ
643人間七七四年:2013/03/05(火) 21:34:03.33 ID:g8S3FBo3
>皆々臆病にて。竹把の内より見申候

真田丸の大勝利フラグキタ━━━━━━ヽ(゚∀゚)ノ ━━━━━━!!!!
644人間七七四年:2013/03/05(火) 22:03:05.02 ID:KHw0VDMU
そんな中せっせと竹取りに勤しむ数寄者が約二名
645人間七七四年:2013/03/06(水) 07:11:02.76 ID:wXM7+sn3
>>634
黄金水伝説
646人間七七四年:2013/03/06(水) 16:52:12.34 ID:l62NOYGk
????「風呂入ってるときは木刀を手元に置くのだ」
647人間七七四年:2013/03/06(水) 17:01:03.48 ID:hhUPBDqh
太田某「まったく同感です」
648人間七七四年:2013/03/06(水) 17:20:04.16 ID:Ffq0Ba7k
佐竹某「用心しすぎだろ」
649人間七七四年:2013/03/06(水) 17:22:46.01 ID:ydGIfX9g
源某「いやいや、用心しすぎて悪いということはない」
650人間七七四年:2013/03/06(水) 17:29:50.74 ID:hTIzAPH7
魔法半将軍某「風呂ほど危険な場所はありませんな」
651人間七七四年:2013/03/06(水) 17:36:48.86 ID:Fj3Rs6QN
宮本某「風呂って何だよ」
652人間七七四年:2013/03/06(水) 17:41:04.36 ID:ydGIfX9g
有馬某「いやー風呂はいいっすよ、知らないなんてもったいない
     例えばほら有馬の湯とか素晴らしいですよ、一生に一度は行かないとあそこの効能(以下略」
653人間七七四年:2013/03/06(水) 17:49:47.97 ID:cEcaCZCt
十河某「有馬の湯…、松永…、ウッ、悪寒が!?」
654人間七七四年:2013/03/06(水) 18:14:51.08 ID:l62NOYGk
鮭様「温泉が出るような山奥では山賊が出るからな。用心にこしたことはない」
655人間七七四年:2013/03/06(水) 18:45:50.16 ID:czIbHRKJ
なにしろ、武勇でならした上杉の将でさえ竹束に隠れる始末
景勝がいなければ
656人間七七四年:2013/03/06(水) 19:18:11.85 ID:lmVmGrPq
大坂の陣は完全に銃撃戦
弓とか槍主体で戦ってたジジイの現役時代に比べたら
格段に危険度増してる。
657人間七七四年:2013/03/06(水) 19:57:02.00 ID:dGvlQ3f4
当たらなければどうということはない

って神保さんがゆってた
658人間七七四年:2013/03/06(水) 20:41:39.25 ID:0+QW8g4Q
( ゜Д●)<我が伊達軍の鉄砲隊は日本一ィィィ!当てられぬものはないイイィーーーーーーーッ!!
659人間七七四年:2013/03/06(水) 21:53:29.22 ID:ydGIfX9g
???「おい、俺味方味kギャーー
660人間七七四年:2013/03/07(木) 06:49:25.83 ID:nYw0Pjl1
>>657
神保さんは知らんけど
赤い池田さんが言ってるのは直で聞いた事がある
661人間七七四年:2013/03/07(木) 07:35:20.15 ID:3UWd2YfW
天下に名高き伊達鉄砲隊
その餌食となった味方は数知れず…
662人間七七四年:2013/03/07(木) 14:59:32.81 ID:GlKwyK07
性格は明るいが気の弱い主君に仕えた場合は、
いつも誉めて、失敗のないようしてさしあげよ。
これが気質を強くしていく秘訣である。
しかし、気が強く、頭の鋭い主君に対しては、
自分の存在を大いに主張し、主君の気になるように仕向け、
『この事をアイツが聞いたなら何と言ってくるだろうか』
と思われる存在になることが忠義というものである。
こういう家臣がひとりもいなくなると、
気の強い主君は御家中の者を軽く見るようになり、
どいつもこいつも腰抜けばかりだと高慢になる。
そこまでいったなら、上下身分にかかわらず、
誰がどれほど善い行いをしてもその高慢心により正当な評価をなさることもなくなる。
ここに考えが及ぶ者は少ない。
相良求馬、原田吉右衛門という武士は、
ここまで考えが及び、主君に十分気づかせておいた者たちであった。
吉右衛門に対しては、彼が病中でも、また隠居の後にも、
何か起きたときは相談されていたとのことだ。ありがたいことである。
一国に一人いるかという大切な宝なのだから、
それを目指そうとしないのなら情けないことである。
まず最初は、武田信玄の重臣板垣信方や将軍家の老中秋元但馬守喬朝のような武士をお手本にするとよい。
気をつけねばならぬのは主君から嫌がられたのでは忠義は尽くせない。
ここが大切だ。気がつきにくいところである。
少しずつ悟ってもらうようにしてゆくことだ 【葉隠】
663人間七七四年:2013/03/08(金) 02:40:52.71 ID:uUdFZGBb
大阪夏の陣、慶長20年(1615)5月5日、二条城を出発した徳川家康の軍勢は、6日、大阪まで
2里半ばかりの地点で休憩を取っていた。しかし大阪の状況がわからず、使番の衆にこれを訪ねていた所、
大阪方面より、紺地に金の輪貫の指物、これは切り破れ、栗毛の馬に乗った武者が一騎走り来た。

人々は何者かと怪しんだ所、それは家康の勘気を受けて逼塞していた旗本・川野権右衛門が、兜首一つを取って
見参したというのだ。

これを本多正純より知らされた家康は、早々に連れてくるよう命じた。正純が「先に大御所様の御勘気を
受けた者ですが…」と申し上げたが、そんなことは構わないと連れてこさせた。
これは大阪の状況を一刻も早く知りたかったためである。

御前に召された川野権右衛門は、家康に申し上げた

「私は御勘気を受けた者です。そのため井伊掃部頭(直高)の備に加わり、御先手の軍勢に入りました。
矢尾堤久宝寺面で合戦が始まり、同じく先手であった藤堂和泉守(高虎)の備は3度敵と激突し、これにより
藤堂は危ういかと見えましたが、そこから盛り返し再び敵に挑みかかりました。

ここで井伊掃部頭の備は敵への横入れを敢行し、敵を堤まで押し上げました。
このため敵は進退が困難となり、動かなくなりました。
私もその戦場において、この首を討取ったのです。」

家康はその首を上覧すると「今日の、初の合戦の高名である!」と声をかけ褒美を与え、このまま旗本にあって
供をするよう申し付けた。

ところで家康の陣には、この川野権右衛門の父である庄右衛門、この時75歳が、使番を仰せ付けられ
同行していた。庄右衛門は家康に呼び出されたため急いで向かうと、そこには家康から勘気を受けていた息子の姿が。
家康は庄右衛門に言った

「汝が子、権右衛門が高名を成した所を見よ!」

庄右衛門はその光景に声を上げ、喜びのあまり号泣した。

その後、川野権右衛門は家康に
「御旗本に在れとのお言葉、有難く存じております。しかしながら御勘気をお赦しいただいた事を、
先手へ参加をさせていただいた井伊掃部頭殿に、私から報告をしておきたいのです。」

と申し上げ、家康もそれを尤もだと許し、権右衛門は御前を退出した。
が、権右衛門、ここで父・庄右衛門を側に呼び、こんな事を言った

「実は、私は戦っている最中に太刀を無くしてしまいました。どうするべきでしょうか?」

権右衛門、暗に父の太刀を貸してくれるように言っているのである。流石に75歳の老父が太刀を振り回すこともないだろう。
しかし権右衛門、辺りを憚らず怒鳴りあげた!

「お前の脇差は何のためにあるのか!!

お前はワシの刀が望ましいと思っているのであろう。しかし、ワシも御旗本の御使番を相勤めておる!
特に今のような合戦前に、たとえ息子であっても我が太刀を付け与えるなど出来ようか!
その脇差で、勝負を決せよ!!!」

このように荒々しく申し聞かせたとのことである。
(村越道伴物語留書)
664人間七七四年:2013/03/08(金) 03:14:52.25 ID:pRsO3oFZ
豊臣滅亡を確信して上機嫌な権現様。
この後、真田に追いかけ回されて死にそうになるとは夢にも思ってなかったろう。
665人間七七四年:2013/03/08(金) 07:01:38.25 ID:SREfdrLo
脇差で戦えとか爺さん無茶を言うw
666人間七七四年:2013/03/08(金) 07:52:48.05 ID:eCtdNkCO
合戦場には敗走していった部隊の刀槍がたくさん落ちてるんじゃなかな?
適当なの拾ってくればいいね
667人間七七四年:2013/03/08(金) 08:20:09.62 ID:F7wASX2q
おっと、そこには落ち穂拾いならぬ落ち刃拾いに顔をほころばせる百姓達の姿が!
668人間七七四年:2013/03/08(金) 10:08:34.77 ID:jUhHLczv
百姓の中にゲヒさんが紛れ込んでそうだw
669人間七七四年:2013/03/08(金) 10:57:25.41 ID:BefKBpLO
真田の活躍って・・・講談の世界だけだな
670人間七七四年:2013/03/08(金) 11:03:35.76 ID:rGDYkjxg
勝永の手柄を奪うような糞野郎ですから
671人間七七四年:2013/03/08(金) 11:06:49.59 ID:ZIYFeyQc
真田が家康本陣を衝いて家康が逃げ回るのは事実だけど
論点はその時うんこを漏らしていたかどうか
672人間七七四年:2013/03/08(金) 11:07:13.19 ID:vrx4I7iO
このころのゲヒ様の話題なら悪い話に出てますが
しかし、講談で持ち上げられたのまで信繁に責任負わせる気か
673人間七七四年:2013/03/08(金) 11:20:08.28 ID:BefKBpLO
>>671
それこそ講談だ
674人間七七四年:2013/03/08(金) 11:42:13.79 ID:QQo8bp7P
そもそも大阪夏の陣で、家康、秀忠共に旗本の損害はゼロなんだよなあ。
この事実だけでも講談がどれだけ話を盛ったか解るわけで
675人間七七四年:2013/03/08(金) 12:10:06.70 ID:7OPzQXC4
その件に関しては彦左も悪い
676人間七七四年:2013/03/08(金) 12:27:26.62 ID:UePBkJV9
>>674
権現様の周りの旗本は全員逃げて無事だったんだよ
677人間七七四年:2013/03/08(金) 12:33:28.73 ID:QQo8bp7P
>>676
残念ながら旗本が逃げたという史料もないんだこれが。三河物語も含めてな。
678人間七七四年:2013/03/08(金) 12:53:51.15 ID:8lbEZ7tZ
そりゃそうだ、そういう都合の悪い事は誰だって書かんよ
679人間七七四年:2013/03/08(金) 13:06:20.73 ID:QQo8bp7P
>>678
徳川以外の記録にも無いんだよなあ。
そもそも大きな戦闘があったら勝っても負けても武士ってものはしっかり記録するもの。その戦績が
自分の価値になるから。

史料に無いものを「あったに違いない」って言うのは妄想という。
そして徳川幕府が敗戦の証拠を完全隠滅できる、現在の独裁政権でも不可能な能力を持った超政権だった、
って信じているならそれはSFだ
680人間七七四年:2013/03/08(金) 13:07:36.54 ID:kMLSR6Ts
>>671
逆に真田が脱糞しながら突撃だろ?
681人間七七四年:2013/03/08(金) 13:10:36.45 ID:BefKBpLO
>>679
ま、逸話が史実かどうかを検証するのはスレ違いだから
その辺にしときなよ。

逸話に関係のない妄想を垂れ流す奴を相手にしても始まらんし。
682人間七七四年:2013/03/08(金) 16:11:38.31 ID:1BJas9de
P番と携帯駆使する基地
683人間七七四年:2013/03/08(金) 16:27:30.20 ID:7OPzQXC4
ここの板は端末をIDの末尾で表示する板だっけ?
684人間七七四年:2013/03/08(金) 16:50:49.15 ID:N2lRibq1
この板はID末尾関係ない。馬鹿すぎw
685人間七七四年:2013/03/08(金) 17:38:35.84 ID:vtxiKYS6
見しは今。三浦の山里に年よりの親しい人がいて、当年の春、江戸見物に来た。

愚老に逢って語ったのは「さてさて目出度き御時代かな。私のような土民までも
安楽に栄え、はなやかなことなどを見聞きすることの有り難さよ。今が弥勒の世であろう」
ということだった。

なるほど土民の言い出した言葉だが、全くの私事ではない。今の世の人間は、
三界無安火宅(現世は苦痛に満ちていて、少しも安心ができないということ)を去って、
楽しみを極める国に生をなした。

仏の世界でなければ、どうして私も人もこのような有り難き楽しみに出会えようか。
盲亀の浮木、優曇華であろう。

――『慶長見聞集』
686人間七七四年:2013/03/08(金) 18:19:57.36 ID:lPmqA6u6
遠里江戸欣求浄土いいたいんかっ!?
687人間七七四年:2013/03/09(土) 00:10:32.05 ID:GqfDBh0p
タイムマシーンで観光出来たら
小田原の陣
関が原の戦い
大坂夏の陣
を見に行きたい(`・ω・´)
688人間七七四年:2013/03/09(土) 01:22:26.71 ID:slsb1I88
慶長5年関ヶ原の役、東軍による岐阜城攻めの折のことである。

東軍の将の一人、田中吉次(田中吉政嫡男)は合渡川を渡ろうとしたが、大雨の降り続いた後であったため、
水量大いに増しており、どの場所が浅く渡るのに都合がいいかが解らず、全軍すこぶる困っていた。

この時、田中吉次軍の中に、中間の三郎右衛門という水練達者の者があり、遙か末座より恐る恐る

「私が瀬踏みをつかまつります!」

というとザンブと川の中に飛び込み、彼方此方と泳ぎまわった。
しかしその姿を見るとどこも同じような深さで、徒歩で渡れそうな場所は無いように見えた。

暫くして三郎右衛門は帰ってきて、大将である吉次に申し上げた

「この辺り一帯は浅瀬でございます!さあ、早くお渡りください!」

吉次はこれを聞くとたちまち不審に思った。彼も三郎右衛門の瀬踏みを見ており、浅い場所があるようには
とても思えなかったためである、彼は眉を寄せて

「先にお前が瀬踏みをしていた様子を見たが、すこぶる深いように思われた。それなのに今、却って浅いと言うのは
一体どういう理由からか!?」

三郎右衛門答えて曰く
「さればです。実を申せば私の瀬踏みした一体は浅瀬でした。
しかしそのような姿を見せてしまっては、他の軍勢もこれに気が付き、我先にと渡ってしまい、今日の戦功が
他の者の手に渡ってしまいかねません。

そう考えたため、わざと深いかのように見せ、諸軍に油断をさせたのです。しかし実際にはあの一帯は浅瀬です!
さあ、早くお渡りください!」

田中吉次は三郎右衛門の言葉に感嘆し、その勧めに従いすぐさま全軍を渡らせ、この方面の軍勢の渡河第一の名誉を
手に入れたのである。

後に田中吉次はこの三郎右衛門を武士に取り立て、その姓を「合渡」とした。
よって彼は合渡三郎右衛門と称したとの事である。

(軍人頓智叢談)
689人間七七四年:2013/03/09(土) 08:51:06.27 ID:19OH1Eir
渡河第一の名誉って、やっぱり渡河中は危険だから?
690人間七七四年:2013/03/09(土) 09:08:58.31 ID:8+NklLJ6
>>689
他の軍勢を出し抜いて先鋒が取れるから
691人間七七四年:2013/03/09(土) 10:15:57.93 ID:5GTWu+47
雨降ったあとは増水してて流される危険があるし
敵と対峙してる時なら、渡河中は身動きとりづらく敵に狙われる危険がある
そういうリスクを乗り越えて先陣を切るからだろうね
692人間七七四年:2013/03/09(土) 10:40:49.70 ID:Irl9py6G
源平合戦の宇治川の先陣争いからの伝統
693人間七七四年:2013/03/09(土) 12:57:59.44 ID:SaFeZz1q
>>687
鬼武蔵の戦ぶりをみてみたい
694人間七七四年:2013/03/09(土) 14:28:37.78 ID:SACV+UOR
>>693
高遠城三の丸内で?
695人間七七四年:2013/03/09(土) 15:18:14.08 ID:67BDpLzD
いえいえ、関所でしょう。
696人間七七四年:2013/03/09(土) 15:23:26.62 ID:qwxpDY3F
いや、人質として間近で見たいんだろう
697人間七七四年:2013/03/09(土) 21:12:29.35 ID:4OYzBoeR
細川忠興には父幽斎にも勝れた行状が多かった。後年、豊前小倉の城主だった時、
領分に旱魃があって一向に作毛なく、百姓たちは餓死に及ばんとした。

その旨が役人たちより訴えられ、その時の飢渇のみならず、来年の手当も心許なし
と聞いた忠興は大いに心痛して「普通のやり方ではいけない」と思い、
父幽斎より相伝の名物の茶器を残らず近臣に持たせて、

「この品を質物に入れて金子を借用し、急変を凌ぎたいところだが、そのくらいでは
不十分だろうから、よき相手に残らず売り払え」と命じ、京都へ遣わした。

これらの品を多くの人が欲しがったが、名高い品々で天下の名器ゆえに後難を恐れた。
そこで表向に買い求めようと所司代の板倉へ伺ったところ、周防守は、

「その茶器の由緒がいずれにせよ、只今格式のある細川家が持ち主として売り払われるのであれば
別条のないことだ。所望の者は勝手次第に買い取るべし。代金の事が済んだ上は一覧するつもりだ。
名前を聞き及ぶばかりで、今まで見ることもなかったものだから、幸の事だ」との見解を示した。

金持ちたちは、それならば何も気遣うこともない、と争って品々を求めた。そうして得た金子を
早々に大坂に持参し、米や麦を始めとして食料になる品々を金子の限り買い揃えて船で小倉に運び、
残らず領中に分け与えたので、大勢の者たちが飢えから救われたという。

この事が諸国で取り沙汰され、誠に国郡の主たる人の手本なり、と忠興は賞美された。
それゆえ、その仁政の余慶によって、加藤肥後守の断絶した跡をこの人が給わった。

――『良将言行録』
698人間七七四年:2013/03/09(土) 21:52:22.26 ID:8+NklLJ6
>>697
この話しのバージョン違いか

細川忠興の領民救済と板倉勝重・いい話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-659.html
699人間七七四年:2013/03/10(日) 01:31:48.65 ID:T/3iRVbA
三斎様は教養高いし、武将としても一流
為政者としても文句のつけようもない完璧超人だよなー

 嫁 が 絡 ま な け れ ば
700人間七七四年:2013/03/10(日) 02:06:44.67 ID:u9uTm1cb
あと親父と弟と長男次男もな
701人間七七四年:2013/03/10(日) 02:23:07.40 ID:Ytv8+Bf0
>>174
身内ばっかじゃねーか
702人間七七四年:2013/03/10(日) 02:24:41.38 ID:Ytv8+Bf0
>>701
ごめんアンカミスった
>>700だった
703人間七七四年:2013/03/10(日) 02:38:15.68 ID:NMDWlHhb
三斎さまは妹もパンチ効いてるから困る
憎い兄さんざっくり事件
704人間七七四年:2013/03/10(日) 15:43:40.15 ID:c8KReEoQ
天正十八年七月十一日の晩、秀吉より北条氏政と氏照兄弟へ切腹の申し渡しがあった。
助命・本領安堵の和睦の話があった中、二人は騙されたとの無念の内に自害して果てた。

その介錯は弟の氏規が行った。
氏規も兄たちの後を追おうとしたところ、徳川家重臣・井伊直政が走り寄り抱き留めて諭してこれを助けた。

この混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、
なだめすかして取り返し供饗に置いた。

家康は「牛太郎は若輩であるが、主人を思う志はあっ晴れである」と誉め、
後に牛太郎に千石以上の知行を与え旗本として召し抱えた。

≪小田原北条記≫
705人間七七四年:2013/03/10(日) 21:36:00.72 ID:ozCl1eoC
天正13年(1585)の秋、北条氏直の軍と佐竹義宣の軍とが、下野国の大和田と藤岡という所にて
対陣をしたが、大合戦にはならず、200騎ばかりでの小競り合いが起こった。

この中に北条方の岡部権太夫と言う者、黒糸縅の鎧に、同じ毛の兜を付け、猪の指物をして一陣に
進み出、あまたの敵と戦ったが、ある敵と引き組んで馬から落ち、上になり下になって
転がったが。終に岡部が上になって敵の首を取り、これを拾って味方の陣に帰ろうとした。

と、その時、彼は自分の指物を落としたことに気がついた。敵にこれを拾われるのも無念の事と
思い、自分の討った首を引っさげて、再び敵陣の方へと向かったのだ。

この岡部権太夫の動きに敵も見方も怪しみ訝しんだ。このよ行動は、心変わりをして
敵に降参するようにしか見えなかったためである。

岡部は敵陣近くまで来ると馬を停め、大音を上げて言った

「ここに在るは下総国の住人、岡部の権太夫と云うものである!
先陣の駆け引きにおいて敵と組み、首をひとつ取ったのであるが、我が指物を落としてしまった!
紋は猪である!

されば、この首は未だ大将の実検に供していない!
我が指物を拾われた御方、どうかこれと取り替えて頂きたい!」

敵はこれを見て、なんとけなげな侍の心ばせだろうとならば彼に返してやるべきだ、
などと話していた所に、河中喜平次と云うもの、岡部の指物を持って出てきて

「あなたの御心ばせに、やさしくも感じ入りました。これは、お返しいたします。」

と言って差し出した。

これに岡部は
「武士としてその情を深く感じ入っています。出来ればもうひとつご芳志に、指物を指し筒(背中で
指物を固定する筒)に指していただけないでしょうか?」

と言って馬の口を引き返し、後ろ向きになって敵に指物を指してもらい、それから
首を河中喜平次に渡して、味方の陣に静かに帰っていった。

これには敵も味方も、稀代の剛の者かと、岡部を褒めぬ者は居なかったという。
(軍人頓智叢談)
706人間七七四年:2013/03/10(日) 22:58:28.39 ID:1vD1W6ZD
猪の紋ってどんなのだろうw
707人間七七四年:2013/03/10(日) 23:13:51.74 ID:j0aLHUcX
〜にしか見えなかった、って・・・
味方の首持って来た奴の降参を受け入れるの?
708人間七七四年:2013/03/11(月) 07:40:00.46 ID:MN3iRA3L
>>706
真壁氏の旗指物がちょうど猪。
ttp://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/topics/news/photo/h22/07/7-12.html

珍しい旗指物だとは思うけど佐竹、北条の境界で珍しいかと言われたら
真壁さんが泣いてしまうと思う。
709人間七七四年:2013/03/11(月) 13:03:44.36 ID:65W20Li6
>>708
おお、乙事主様的かっこよさ
710人間七七四年:2013/03/12(火) 17:38:26.52 ID:WA4RS1nF
利休の子道安の茶会に老人は五、六年程続けて会した。
鶴の一声という花入に花をいけて、ついに一度も掛物のかかることはなかった。

今時は道具をいろいろとつらねて華美を争うが、心入れが各別の事である。
その鶴の一声は、いま公方家にあるということだ。

――『老人雑話』
711人間七七四年:2013/03/12(火) 18:16:58.44 ID:hvI2Jysh
               ,, -―-、       
             /     ヽ   
       / ̄ ̄/  /i⌒ヽ、|    
      /  (゜)/   / /          
     /     ト、.,../ ,ー-、      
    =彳      \\   ヽ、 
    /          \\、 ヽ
   /         /⌒ ヽ ヽ  ヽ
   /         │   `ヽl_ヽ
  │         │ 

   花入『鶴の一声』
712人間七七四年:2013/03/12(火) 20:18:03.83 ID:Xx6Ke432
>>705
既出だな
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
当時のランキングで2位になるほどの話(一位は出世の白餅)
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-821.html
もう4年も前のレスだが
713人間七七四年:2013/03/13(水) 07:56:50.81 ID:K8khZqNi
俺はもう四年もスレに張り付いてたのか…(絶句
714人間七七四年:2013/03/13(水) 12:31:07.32 ID:e6sbVAIy
>>713
いい話だ
715人間七七四年:2013/03/13(水) 18:41:43.68 ID:wBgjFXlb
藤原惺窩は肥前名護屋におもむいた。この時に当たり、豊臣秀吉は朝鮮征伐のために
多くの諸侯を率いて名護屋にのぞみ、惺窩は徳川家康と初めてまみえた。

また、惺窩は小早川秀秋にまみえた。秀秋は横柄な性格であったが、惺窩の至る時は
すぐに粛然として容貌を改め、その性行もまた改まる所が多かったという。

――『先哲叢談』
716人間七七四年:2013/03/13(水) 19:01:51.29 ID:JHc3bnDF
姜ハン「小早川秀秋は軽薄で感情の起伏が激しく
彼の兄たちち及ばない、て藤原惺窩が言ってた」
717人間七七四年:2013/03/13(水) 19:05:00.73 ID:M0Dg1XFw
儒者ってなんか胡散臭いんだよな
718人間七七四年:2013/03/13(水) 19:30:26.02 ID:kTs3CAEF
儒者と武将では、評価されるポイントが違うしなー
719人間七七四年:2013/03/13(水) 19:30:39.61 ID:j2KEsLF6
>>717
惺窩「明と朝鮮が結んで日本を征服してください」
姜「ごめん無理」
720人間七七四年:2013/03/13(水) 19:31:29.07 ID:x3T/dn3S
やめてやってくれ!金吾のHPはもう0よ!
721人間七七四年:2013/03/13(水) 21:29:57.00 ID:diDDQ7Wi
藤原惺窩には腐れ儒者という呼び名がしっくりくるね。
口先だけで何を成したというわけでもないくせに・・・
722人間七七四年:2013/03/13(水) 23:47:17.32 ID:P10mqItv
儒学者が何かを成すって難しくない?
坊主みたいに、どこかの大名の軍師になったり自らが大名になったりすれば別だけど
723人間七七四年:2013/03/13(水) 23:56:42.87 ID:EwcsPmRH
>>722
日本史全体で見ても新井白石くらいか
724人間七七四年:2013/03/14(木) 00:01:10.23 ID:3A123S6K
惺窩はフロイスの儒家バージョンだと思ってる
725人間七七四年:2013/03/14(木) 03:17:21.89 ID:j+l7ulXc
事を成す儒者と言えば、陽明学徒がいるかな。
ちなみに林羅山はご存知の通り陽明学は排除したけど、
藤原惺窩は陽明学評価してたんだよね。
そういえば日本陽明学の祖、中江藤樹はこのスレの時代範囲だな。
まだ逸話出てないみたいだが
726人間七七四年:2013/03/14(木) 06:38:16.33 ID:6XoWWJOb
口だけの腐れ儒者と違って知行合一の陽明学者

大塩平八郎こそ真の儒者
727人間七七四年:2013/03/14(木) 15:37:31.90 ID:6qoRUYQw
幕末は陽明学派が何気に多いからね
728人間七七四年:2013/03/14(木) 16:24:38.24 ID:j+l7ulXc
陽明学は儒学の旗を立ててはいるけど本質は禅だから、
もともと武士の道に近いんだよな
心即理というテーゼ自体が即心是仏、煩悩即菩提みたいで仏教ぽい
729人間七七四年:2013/03/14(木) 18:13:28.89 ID:6XoWWJOb
平成って年号は陽明学者の安岡正篤が付けたんだよな


細木数子と結婚してた...(´・ω・`)
730人間七七四年:2013/03/14(木) 18:26:35.61 ID:j+l7ulXc
安岡さんは陽明学を中小企業社長の帝王学に変えてしまったと批判されてもいるな。
戦前は志高いインテリ青年で名高いけど、
戦後は細木に騙されたり、右翼の野村秋介にバカにされたりパッとしなかったね
731人間七七四年:2013/03/14(木) 20:52:39.68 ID:VgXNR5Pk
干戈が入っているから戦乱を招きかねないという説があるな>平成
732人間七七四年:2013/03/15(金) 05:07:27.63 ID:2FTK6JYx
でも姜の記録を読む限り、惺窩は秀秋と付き合いがあったっぽいんだよね
「家康が秀吉の後を継いで朝鮮に出兵するらしいという噂があってさぁ…」
みたいな話を惺窩にしたって書いてあるし
733人間七七四年:2013/03/15(金) 05:14:23.26 ID:eEfvDAZT
>>731
そういえば足利義成から義政に改名した理由が、成に戈が入ってるから、って理由だったなあ。
まあ改名しても応仁の乱起こしたんだがw
734人間七七四年:2013/03/15(金) 06:59:56.79 ID:z77BAKJH
明治
大正
昭和
平成

全部、字のとおりにならなかったね
735人間七七四年:2013/03/15(金) 09:41:07.52 ID:t8viKYIJ
鎌倉幕府も一度もいい国になったためしが無いからおかしいと思ってたんだ
736人間七七四年:2013/03/15(金) 10:09:34.21 ID:uHNAINxk
>>735
そりゃ1185年だし
737人間七七四年:2013/03/15(金) 10:16:27.48 ID:xWCA0rLm
>>729
法律上は無効になってるじゃろ
てか怪しさ満点な届け出だったんだろ
738人間七七四年:2013/03/15(金) 12:54:20.11 ID:wXqKsb9m
あれは名実ともにできたのは1192年で変わりはないが、実質的に機構ができたのは1185年、といえるってことでは
そして今の学校では、流れで理解するように指導してて、あまり年号に重点はおいてないとか
739人間七七四年:2013/03/15(金) 13:20:48.12 ID:uHNAINxk
>>738
それは古い史家と同様、考え方が間違ってるだけじゃないかな。

これ以後、延々と続いた征夷大将軍を頂点とする武家政権に慣れすぎてて
将軍位Getで政権成立と見做してしまったと言う誤謬。

機構が出来て全国的な統治が始まってる時点を起点にするのが正しい理解かと。
740人間七七四年:2013/03/15(金) 13:36:15.78 ID:sDUo/7kO
全国的な当地となると、承久の乱以後になるぜ
741人間七七四年:2013/03/15(金) 14:29:16.46 ID:936F9b/E
鎌倉幕府は草創の政権らしくかなりややこしいからなあ。
そもそも1192年説の根拠だった、征夷大将軍が当時から武家の棟梁の官位であった、という認識が先ず崩れているし。
公的な存在としての幕府の確立なら、公に政所を作り幕下を形成できるようになった、1190年の権大納言兼右近衛大将任官で
いい気はする
742人間七七四年:2013/03/15(金) 14:45:00.24 ID:sDUo/7kO
個人的には、後世の人間が判断しやすい将軍就任でいいと思うけどね
江戸幕府だって実権は関ヶ原で勝った時に確立してるし、
政権としての正統性を世に知らしめたのは秀忠の将軍就任の時だしな

まあこういうことで揉められるのは平和でいいことだけど
743人間七七四年:2013/03/15(金) 14:47:51.48 ID:uHNAINxk
室町幕府の成立も将軍任官時かと言われると違うしな。

江戸幕府の成立時期もある意味難問かも知れん
二重公儀論が出て来てから境界のあいまいさが際立ってる。
744人間七七四年:2013/03/15(金) 14:55:18.91 ID:eEfvDAZT
江戸幕府は最初から公儀として認識されているから、家康の将軍任官で間違いないと思うぞ。『他の権威が併存する』というのは
また別の問題だし。仮に「実質的な徳川政権」で考えれば、それこそ関ヶ原後、豊臣家が65万石の大名に落とされた時点で
いいだろうね。
745人間七七四年:2013/03/15(金) 15:18:08.01 ID:Ow35/U21
関ヶ原後の没収した西軍領地の配分を差配する権利を得た時点か
746人間七七四年:2013/03/15(金) 17:22:23.60 ID:4ref8hUW
>>743
二重公儀論は片桐且元が実質的な徳川家の家臣だったで、論破されてしまう気がするのだが
大坂の物資輸送の問題について、且元が板倉勝重お伺いを立て、諸大名も勝重に相談しているし
747人間七七四年:2013/03/15(金) 17:48:26.08 ID:aH+OCC7a
徳川家康が腫れ物に悩んでいるという話が世上に聞こえ、上杉景勝の家人たちにも伝わった。

彼らが、謙信と信玄が亡くなったいま天下の将器がおありなのは徳川殿だけだというのに、
この人が亡くなられてしまえば天下弓矢の道は長く絶えてしまうだろう、と歎いたという話が
家康の耳に入った。

これを聞いて家康は「謙信にとって信玄は数年弓矢を争った強敵だったが、
信玄の死を聞いて、謙信はいたく惜しんだと聞く。かの家には今も謙信の遺風があるのだ」
と称嘆した。

――『徳川実紀(砕玉話、他)』
748人間七七四年:2013/03/15(金) 18:05:31.24 ID:id0iGfEB
>>746
片桐且元を徳川家臣扱いするのは無理筋にも程があるだろ。
恵瓊を豊臣大名扱いする以上の無理がある
749人間七七四年:2013/03/15(金) 18:09:52.77 ID:eEfvDAZT
>>748
片桐且元は豊臣家家老だけど、徳川幕府によって所領を安堵されている徳川大名でもあるのよ。
だから秀頼が且元を攻撃したことが、イコール徳川体制への攻撃と見なされて大阪の陣が起こったわけで。
750人間七七四年:2013/03/15(金) 18:09:59.82 ID:4ref8hUW
>>748
http://kotobank.jp/word/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
こんな感じで且元は徳川家の指示を受ける存在でもあったんです
751人間七七四年:2013/03/15(金) 19:57:20.88 ID:MOeuhIUs
>>747
清正も市松も浅野もみんなクソ漏らしの
家臣だよ
752人間七七四年:2013/03/16(土) 03:57:58.77 ID:bDbGV2/E
同時に複数の主君へ仕えるというのが普通にある時代だったからな中世は
753人間七七四年:2013/03/16(土) 09:37:32.06 ID:K7BgRwpn
王旗翩翻たり

加賀美長門(正行)の最期があがってなかったんで僭越ながらあげます。

加賀美氏は初代・四郎遠光以来、勅許によって「王」の一字を家紋としていました。
これが「三階菱に王」だそうです。
(厳密には、加賀美の家紋から「王」を抜いたのが三階菱?)

しかし加賀美氏は小笠原等の分家は栄えたものの本家は衰微し、
いつからか「王」の字を使わなくなっていたようです。
多くの武田分家が、四つ菱や武田という苗字を使わなくなったのと同じような理由ではないでしょうか。

天正十年三月。
「鏡(加賀美)の城を団平八らが囲んだが、城方は王旗を掲げた。
団らは逸って取り付いたが、激しい抵抗にあって落とせなかった。
長門殿は夜襲して、これを散々に破った。
団は逃亡し、毛利長次郎は討ち死にした。

ここへ鳥居彦右衛門尉と平岩吉助(おそらく七之助=親吉)が到着した。
この時、「人々が立ち戻る前に攻めましょう」と言う者が多かった。
しかし二人は城を見ると「王旗翩翻たり」と語らって、固く陣組みをした。
754人間七七四年:2013/03/16(土) 10:03:19.82 ID:K7BgRwpn
翌日、激戦の末、ようやく小口(虎口)が落ちた。
すると王旗が下ろされたので、大いに喜んだ。

ところが夜半、火の手が上がり、城は焼け落ちた。
人々は焼け跡を捜索したが、徒労に終わった。」

正行はこの時自決したと考えられます。
まとめにあるとおり、彼の遺児正光は、正行の死を惜しむ家康によって後年召し抱えられました。
しかし、この王旗は、正光と一緒に脱出したのか不明です。
城攻めより先に正光は脱出していて、旗は城と一緒に炎上してしまったのかもしれません。
755人間七七四年:2013/03/17(日) 10:44:25.87 ID:d0ekXqQk
豊臣秀吉があるとき、巨大な黄金の鉢に水を沢山に入れて床に置き、側に
紅梅を一枝於いて、そこに利休を召して言った

「これで花を活けてみよ」

利休は畏まり、さっと立ち上がると紅梅の枝を取り、これを水の中に入れ枝を持ってかき混ぜ、
そして取り出した。

すると開いた花、蕾の花が水面に浮かび、それが黄金に照らされ、実に美しい風情となった。

秀吉は利休を困らせてやろうとこれを企んだのであるが、どんな状況でも利休は困ることはないのだと、
感じ入ったということである。
(軍人頓智叢談)
756人間七七四年:2013/03/17(日) 11:18:56.29 ID:pWI0Ctis
>>755
これって三國連太郎の映画でやってたな。(秀吉は山崎努)
757人間七七四年:2013/03/17(日) 16:34:42.20 ID:osQmJ4Ge
花がとれるほどかき混ぜるのは大変そうだな
758人間七七四年:2013/03/17(日) 18:17:45.73 ID:Szic/Tyj
花粉とかも浮いてそうだな
759人間七七四年:2013/03/17(日) 18:49:22.43 ID:6y7ZGbjH
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5548.html
こっちだと枝をしごいて浮かばせたとあるな
760人間七七四年:2013/03/17(日) 19:36:07.55 ID:9L1JuILg
殿下の小枝も・・・
761人間七七四年:2013/03/17(日) 21:44:14.70 ID:0a9G17jQ
>>752
徳川の江戸の体制を「保守的」、信長のを「革新的」という比較する人は
珍しくないけど、これって意外と戦国時代の理解を深めるのを妨げる一因に
なってるような気がする。

戦国時代の家々は江戸の徳川家みたいな形での運営がデフォだった、みたいに。
762人間七七四年:2013/03/18(月) 02:35:13.63 ID:h8TpYSko
特に且元の場合は立場上非常に複雑で、
関ヶ原直後には豊臣公儀の代理人として相良長毎と高橋元種の領土問題を調停したり
家康が恩賞として諸大名に与えた領地の知行目録に多数署名していたりもしている

さらに幕府が成立してからは摂河泉の国奉行を任命されているし…
権力の移管作業の中で最も重要な位置にいただけに、役割が多面的過ぎる
763人間七七四年:2013/03/18(月) 06:44:23.31 ID:+D3ndQL1
知行目録は出てないだろ
764人間七七四年:2013/03/18(月) 20:42:27.90 ID:qO20hZ6d
>>763
出てる
この中で且元は分部光嘉や毛利高政、来島長親たちに対して署名している
ただし、「御朱印重ねて申し請け、これを進すべく候」と、
あくまでもこの書状が関ヶ原戦後の暫定的なものであるという形式であったのは事実だけどね
765人間七七四年:2013/03/19(火) 11:09:00.91 ID:jvxxa3hS
>>763
たしか出てないのは家康署名の安堵状やね
豊臣家臣と家康家臣の連署などによる知行目録は出てる
766人間七七四年:2013/03/19(火) 11:25:33.51 ID:Lpu59eFS
知行目録も小大名限定で時期が慶長6年以降というのが意味不明だな
767人間七七四年:2013/03/19(火) 19:37:36.27 ID:cCNBhWhP
御朱印って、誰のを想定してたんだろう?
秀頼? 家康?
768人間七七四年:2013/03/19(火) 20:51:41.99 ID:w9leeK5a
おそらくそこら辺をはっきりさせないために、知行宛行書を家康は出さなかった
769人間七七四年:2013/03/20(水) 00:09:58.33 ID:s7X0Snrh
【東京】「ふざけんじゃねえ!」 刃物男はサオで何度も体を突かれ、倒れたところを数人の勇敢な男性に押さえつけられた★5
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1363704371/

やっぱり実践では槍>>>>>>刀
770人間七七四年:2013/03/20(水) 00:13:06.70 ID:nzS+1SPZ
包丁だから刀と仮定するのは若干問題がある
771人間七七四年:2013/03/20(水) 00:47:28.50 ID:AcaJrJMm
マジレスするのもなんだが、
街中一人で錯乱してる暴漢と、
戦場の鎧武者では違うんじゃね?

平地で距離あるなら槍有利な気もするが、
夜襲で気づいたら目の前に敵なら刀のほうが使いやすそう
772人間七七四年:2013/03/20(水) 01:09:40.76 ID:7SDafXEl
こういう奴を取り押さえるなら、さすまたが便利だろうけど戦場では役立たないだろうし
773人間七七四年:2013/03/20(水) 01:11:14.49 ID:oSVGrsF3
現代の槍弾正か
774人間七七四年:2013/03/20(水) 01:14:42.58 ID:T0hI3H3f
警視庁より感謝状と朱槍の贈呈がある模様
775人間七七四年:2013/03/20(水) 01:15:16.26 ID:AcaJrJMm
>>769
まあでもこの取り抑えた人勇敢だね
江戸時代より社会が複雑な平成で立派だと思う
776人間七七四年:2013/03/20(水) 07:46:03.24 ID:nGMjhj37
刃物で人を殺すのは難しい
背後からさくっりするので無い限り
777人間七七四年:2013/03/20(水) 08:11:27.16 ID:0tArVfwN
刃物は玄人向けの武器だしな。
778人間七七四年:2013/03/20(水) 09:59:43.81 ID:tcK0RsKj
>>774
警視庁が武器配るなよw
779人間七七四年:2013/03/20(水) 14:21:56.41 ID:3L5w1gey
豊臣秀吉が死去すると、その遺命によって、朝鮮に渡海した諸将の軍勢を引き上げる事となった。
この時徳川家康は藤堂佐渡守高虎を呼び出し

「先に浅野弾正(長政)、石田治部(三成)をさし下したが、そなたにも朝鮮に罷り越し、彼の国に在陣している面々に、
早々に帰国できるよう、才覚をめぐらしていただきたいのだ。」

高虎はそれを了解して退出した。

その日の暮れ方、家康より高虎の屋敷に使者が使わされた
『そなたはきっと近日中に出船するだろうが、今朝言い残したことも有り、今晩か明朝、少しの間こちらに来て
頂けないだろうか?』

すると、留守居の家臣がこう答えた
「我等が主人の高虎は、そちらのお屋敷から帰られると、そのまま支度を整え、先ほど出船いたしました。」

使者が帰ってこのことを伝えると、家康は手を打って近習たちに向かい

「あの佐渡守は、私が最初に知った頃は与右衛門と申す小身の者であったが、故太閤に見立てられ立身したほどだけあって、
万事手早く、只者ではない。
若き者共は彼のあり方をよく聞いておいて、後学にすべきであるぞ!」

そう、返す返すも感心していたという。
(軍人頓智叢談)
780人間七七四年:2013/03/20(水) 14:55:50.24 ID:ZshnJ9Pj
懐かしの主君替えシリーズで紹介されてた逸話だね
781人間七七四年:2013/03/20(水) 17:30:31.75 ID:Fq0khKzb
およそ越後の雪をよみたる歌あまたあれども、越の雪を目前にしてよみたるは稀なり。
西行の山家集、頓阿の草庵集にも越後の雪の歌なし。この越地の雪は知らざるべし。

俊頼朝臣に「降る雪に 谷のおもかげうづもれて 梢ぞ冬の山路なりける」
これらは実に越後の雪の真景なれども、この朝臣越後に来たり給いしにはあらず。
俗に言う、歌人は居ながら名所を知るなり。

伊達政宗卿の御歌に
「ささずとも 誰かは越えん関の戸も 降りうづめたる雪の夕暮れ」
又は「なかなかに つづらをりなる道絶えて 雪に隣の近き山里」
この君は御名高き歌仙にておわしまししゆえ、かかるめでたき御歌もありて人の口碑にも伝う。

(『北越雪譜 二編巻之二』より)


江戸時代に西行や源俊頼と並ぶ扱いを受ける政宗卿(●∀・)
782人間七七四年:2013/03/20(水) 17:47:36.24 ID:4fMJz2RH
マジレスするとそれって大膳大夫の方の歌じゃないのか
783人間七七四年:2013/03/20(水) 18:33:45.64 ID:R8PTPxwb
だな。>>781は伊達九代儀山政宗の作だな。先代政宗。
784人間七七四年:2013/03/20(水) 18:47:08.53 ID:hKDMd4N1
この反応がスレ住民の知識の幅広さを感じる
785781:2013/03/20(水) 19:56:03.73 ID:Fq0khKzb
文庫読んでてハッとして書き込んだ
悪気は無かった
今は反省している
786人間七七四年:2013/03/20(水) 20:23:42.20 ID:51+uC7JW
反省してるなら山形県の高畠まで墓参りに行って来るんだ
787人間七七四年:2013/03/20(水) 21:12:43.55 ID:AuFUMXeM
武田勝頼が設楽原の戦場を逃れて寒狭川の橋詰にさしかかった時
疲労のためか勝頼の馬が動かなくなってしまった。
敵軍が迫り来る中でこの様子を目にした家臣の笠井肥後守満秀は
急いでやって来くると馬から飛び降り、これに乗るように勝頼に勧めた。

「それでは其の方の身が危なくなるではないか」と勝頼が述べると

「命は義によって軽く、一死を以って君恩に答えて奉らんのみ。
私には倅がおります。事が済んで平らかになったらどうぞ御取り立てください。」

笠井はこう言うと、自分の馬に勝頼を乗せ川を渡らせ、自らは勝頼の疲れた馬に乗り叫んだ。

「我こそは武田四郎勝頼なり!」

それを信じた徳川方の滝川源左衛門助義と戦って討死した。
笠井肥後守満秀の名は、後世に語り継がれることとなった。

その肥後守の子、孫右衛門慶秀は、大谷刑部少輔吉継に仕えた。
大谷吉継を訪ねて井伊兵部直政が度々邸にやって来た。
その際に慶秀が座敷に出てもてなすため、笠井肥後守の子が大谷家へ仕えていることを知った。
あるとき直政は慶秀に肥後守の最期について語り、慶秀は涙を流してそれを聞いていた。

その後、関ヶ原にて大谷吉継は討死すると、慶秀は直政の話を思いだし井伊家を訪ねた。
直政は肥後守満秀の忠節を思って、慶秀に禄を与えて家臣にした。
今、井伊家に仕えし笠井利左衛門がその子孫である。

(『長篠軍記』、『日本戦史 長篠役』−「長篠合戦余話」収録)
788人間七七四年:2013/03/20(水) 22:46:25.52 ID:ZfnG2jfG
関ヶ原で大谷隊は壊滅状態だったらしいけど大将以外は戦場から離脱しやすいのかな?
789人間七七四年:2013/03/20(水) 23:51:18.81 ID:zQiD1ZBf
すぐにどこの兵か分かるように旗指し物があるんだからな。
とりあえず旗指し物を捨てて明後日の方向に逃げれば追ってくる酔狂はまずいない。
旗持って無くて味方かどうかも判別不能な奴は相手にしない
(もちろん襲ってくるようなら返り討ちにするだろうけど)

大将はそれに見合う格好してるから、兵が見れば「こいつが大将だ」と思うだろう。
派手な格好に見せて実は大将を逃がす為の囮でした、とかは、良く使われる手だし。

問題は離脱してから、落ち武者狩りにどう対処するか。
790人間七七四年:2013/03/21(木) 01:30:12.75 ID:Vqoo2WvQ
石井茂右衛門が乱心して、
女房を引き連れ百姓の家に大小を抜身にして立て籠った。
その女房というのは、中野将監の娘であった。
この一件は素早く勝茂さままで届き、
「この一件、すべて中野一門に任せる。
茂右衛門は討ち捨て、女房は生きて取り戻すように」
と仰せ付けられた。
仰せを受けた中野一門は、策を考えながら現場へ向かった。
そのころ山本神右衛門は入道隠居の身であったが、
「島原でうけた傷がまだ治らぬが、私も行こう」
と言い出した。皆が、
「乱心者一人に歴戦の御老体がお出ましになることはありません」
と言って止めると、激しく怒りながら、
「貴様らに何がわかるか。体は動かぬが指図はこの私がする。
しくじって中野一門の恥になってはならぬ」
と、乗り物にのりこみ、袖がらみ一本を持たせ、
家来どもに入念にこと細かく指示をして出掛けた。
そして打ち合わせ通り、百姓家の両側の壁を打ち破り、
茂右衛門が左右どちらに対処するか迷う隙に、
棒で打ち伏せて捕らえた。
神右衛門の家来は指示通りに、
壁を打ち破ると同時に袖がらみを差し入れて、
女房の着物にひっかけ無事に外へと引き出した。
神右衛門はその女房を駕籠に乗せると、
「私はこの仕事のためだけに来た。
あとの始末はよく心づかいしてやれ。
勝茂さまが女房を無事に取り返せとおっしゃったから、
少しのケガもさせてはらないないと思い来ただけだ。
わざわざ年寄が出向いた理由はそれだけのことよ」
と言い残しそのまま帰った。
茂右衛門はその場で斬り捨てた。
介錯は成富次左衛門である 【葉隠】
791人間七七四年:2013/03/21(木) 06:11:38.45 ID:7/NKWet3
>>788
壊滅と言っても兵が逃げ散って部隊として機能しなくなるだけで
戦で討たれたり負傷するのは半数にも満たないからね。
792人間七七四年:2013/03/21(木) 06:56:27.68 ID:ZIBZBoec
>>787
これ読んでも大谷は親徳川だった事が伺えるんだよな
793人間七七四年:2013/03/21(木) 07:28:18.82 ID:5SQx+tAz
大谷はかなり親徳川だけど関ヶ原のせいで無視される
創作だとそこらへんを書きづらいんだろうな
794人間七七四年:2013/03/21(木) 08:33:20.52 ID:mbqVQr6r
切り捨てたのに介錯があるのか
よくわからんな
795人間七七四年:2013/03/21(木) 10:48:30.45 ID:NWfeoRh9
>>790
袖がらみを人質救出に使うという手もあるのか。
トゲが凄いから使い手が未熟だと怪我させそうな気がするけど。
796人間七七四年:2013/03/21(木) 19:06:02.99 ID:Vqoo2WvQ
>>794
捕らえてから座らせて切腹なしの斬首だろうね
797人間七七四年:2013/03/21(木) 21:19:27.35 ID:4T4cgY/x
案外、関ケ原で井伊隊に紛れ込んでいたりとかじゃないの
笠井さん。
798人間七七四年:2013/03/21(木) 21:50:53.40 ID:qAKcSG+A
片方の壁だけだと、確かに人質を引き寄せて準備されちゃいそうだもんなー
799人間七七四年:2013/03/22(金) 01:45:16.84 ID:xEkXs6hH
大谷さんは家康と利家が対立して諸将が二分されたときも、家康側についてるんだよね
この辺三成とはまったく政治的立場が違う
じゃあ何で西軍について奮戦したのさ?ってのが個人的には凄い不思議
800人間七七四年:2013/03/22(金) 06:06:14.36 ID:7g/vM0CI
>>799
その話自体がかなり誇張と創作が入ってて、公家の日記などでは
対立はあったものの、あっさり解決してる様子がうかがえる。
801人間七七四年:2013/03/22(金) 07:27:23.05 ID:VPUEcKcT
>>799
最近発表された論文では三成襲撃事件の時も輝元に三成へ援軍を出すなといい
武断派側の立場に立っていたよなんだよな
土壇場で西軍についた大谷も家康からみると裏切者になるのかね
母親から頼まれたというのが最も考えられるようだけど
案外、大坂の陣での幸村的考えで
病が進んで先のないことを悟って最後に華々しく散って武士としての本懐を遂げようとしたのかも
802人間七七四年:2013/03/22(金) 08:02:36.67 ID:7g/vM0CI
>>801
論文って「関ヶ原前夜における権力闘争(2007年)」かな?
あれなら「関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い」で一般書籍として出版されてるよ
803人間七七四年:2013/03/22(金) 11:43:15.15 ID:8e22FhqE
>>801
三成襲撃事件の時の吉継は調停に入ってるけど、スタンスはやや奉行寄りだと思うよ。
輝元もそういう認識だし。
804人間七七四年:2013/03/22(金) 11:44:56.18 ID:oWkwhgop
宇喜多騒動を大谷と榊原で解決しようとしたら榊原は家康に叱責されて召還
はしご外された形の大谷が家康に反発する契機になったのではと書いてたな
805人間七七四年:2013/03/22(金) 12:01:28.53 ID:8e22FhqE
宇喜多騒動は、各史料で相違が大きすぎて正体不明すぎる事件だな

原因や事件の経緯も不明点が多いが、調停の結果等も不明点が多すぎて
何が何やら。

確実なのって事件が起こった日と最終的に家康が調停に入ったこと、
戸川達安が比較的早い時期に宇喜多家から退散したくらいじゃなかろうか
806人間七七四年:2013/03/22(金) 12:40:53.06 ID:oQuRrj8S
日蓮とヤソとの宗教争いか
807人間七七四年:2013/03/22(金) 13:02:31.69 ID:8e22FhqE
宗教争いという説は、浮田左京亮がキリシタンと言うことで
既に否定されてたかと。
808人間七七四年:2013/03/22(金) 14:02:15.59 ID:SQQ2/5LA
>>802
『関ヶ原前夜』の間違て指摘した昨年の日本歴史9月号の論文だと

>>803
上の論文だと三成銃撃事件の時に毛利家文書では
三成に援軍を出すな、徳川に味方しろという書状を輝元に送ってる
809人間七七四年:2013/03/22(金) 14:42:55.46 ID:ATGhb18D
>>808
それって書状自体は関ヶ原前夜で紹介されてた
「厚狭毛利家文書」じゃないかな?

あれは毛利らしい主語や表現があいまいな書状だったから
違う解釈を出した研究者が出てきたんだろう。
810人間七七四年:2013/03/22(金) 14:56:44.34 ID:ibaYaBZg
まあ毛利さえ動かなきゃ蹶起は防げると考えれば
徳川寄りだった場合でも三成に勝算無しとみて止めようとしてた場合でもそこに工作するよなぁ
811人間七七四年:2013/03/22(金) 14:58:13.13 ID:ss+x3tS+
>>809
そのあたりを考証した石畑匡基氏の論文「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」でも、やっぱり吉継は
ギリギリまで家康への味方を毛利に進めるなど親家康として行動していた、としているな
812人間七七四年:2013/03/22(金) 15:28:02.41 ID:XhjjwlmE
となるとなんで西軍についたのかが気になるな
813人間七七四年:2013/03/22(金) 15:34:27.68 ID:ATGhb18D
先に三成-恵瓊-輝元のラインが完成してたとか? 謎だな。
814人間七七四年:2013/03/22(金) 23:33:23.66 ID:xEkXs6hH
三成が挙兵する7月前後の三成の動きってのがイマイチはっきりしてないのもネックだよね
三成と恵瓊が連絡取り合っていたのは間違いないんだろうけど…
6月20日付けの兼続宛て三成書状についても真贋論争あるし、謀略の類はなんとも
815人間七七四年:2013/03/23(土) 00:03:19.49 ID:bv2YE936
利家死後、家康が前田征伐しようとした段階では意外にも家康支持の立場取ったりしたんだっけ?
816人間七七四年:2013/03/23(土) 02:53:56.67 ID:rmdX7Uqh
豊臣秀吉の時代のことである。

伊予に徳猪之丞といって天下無双の大力があった。14,5の頃から四国中に肩を並べるものも
居なかったが、これを秀吉が聞き、呼び出して二千石で召抱えた。

また毛利中納言輝元の家中には、入江大蔵之丞といって、おおよそ日本一の大力があった。

ある時秀吉は聚楽へ御成をし、伺候した諸大名居並ぶ中、このように言った

「毛利中納言の家中には入江大蔵之丞という大力の者が有ると聞く。予が召抱えておる
徳猪之丞と相撲を取らせて、見物しようではないか!」
これに輝元は「安き御事に候」と早速呼び出し、両人は相撲の出で立ちにて、行事を連れて
御白洲に出た。

両名、互いに一礼して力足(四股のことか)を踏んでいる様子は、作りものであるはずの
仁王像と全く違いがなかった。

徳猪之丞はその身長6尺7寸(約2メートル3センチ)、肩の巾の広いこと、
背中だけで普通の者の夜着3着分が必要であった。
また大蔵之丞は身長6尺8寸(約2メートル6センチ)、彼の着物も又徳猪之丞と同じほどの
布が必要であった。

諸大名は彼らを見て、さてもさても、このような厳しい人間がこの世にあるのか。
今日は比類なき見物をするものだと手に汗握り相撲を待った。

暫くして大幅の緞子一巻づつ両人に与えられた。
そして秀吉は「何か力を見せよ」と、周囲1尺5,6寸(約50センチ)の大竹を、
2間半(約4.5メートル)に切って1本づつ両人の前においた。

大蔵之丞はこれを取ると切り口の節の近い所から、ミシミシと押しつぶし下帯の上から
巻きつけた。それはまるで箍で筒桶を止めたようであった。
徳猪之丞も次に取ってミシミシと押し潰し腰に巻いた。

秀吉はこれを見て、「力業はなにかあるか?」と聞いた。

徳猪之丞はつっと立つと、3間(約5.5メートル)ほど下がるとそこから走りかかり、
弓手(左手)の拳で大地を突いた!
すると腕の肘のところまで地中に突き抜いた。

大蔵之丞はこれを見て、4間(約7.3メートル)ほど下がってそこから走りかかり、
弓手の拳を握りしめ「えいやぁ!」と殴りつけると、なんと肩先まで地中にめり込んだ。

二人は暫く苦労して自分の腕を抜いた。これを見た諸侯たちはどっと彼らを褒め称えた。

秀吉はこれを見て

「彼ら両名、敢えて相撲を取らせるには及ばない。皆々、これを了解せよ。」

と言うと、皆畏まってこれを了承した。敢えて相撲の勝負をさせなかった秀吉の心遣いに、
感じ入らぬものは居なかったという。
(義殘後覺)

秀吉と二人の大力についての逸話である
817人間七七四年:2013/03/23(土) 07:31:48.76 ID:028GQTpY
>>814
兼続は、内府ちがひの条々が出まわってから、急に公儀がうんたらとか
書状に書いて元気になってるから事前通謀はなかったろうね。

吉継もそうだけど恵瓊、三奉行、輝元、秀家が加担したタイミングも謎なんだよなぁ
818人間七七四年:2013/03/23(土) 08:04:05.54 ID:VY1C1It/
>>816
まるで格闘マンガだなw
819人間七七四年:2013/03/23(土) 12:26:18.13 ID:oZpfXNTr
>>815
そりゃ前田はクソだから評判悪かったよ
820人間七七四年:2013/03/23(土) 12:29:11.80 ID:gx8XGhfI
>>816
これは是非見てみたいわw
821人間七七四年:2013/03/23(土) 13:33:07.67 ID:EXwlDng8
>>816
板垣マンガなら白州に出てきたあたりでグニャってるわ
822人間七七四年:2013/03/23(土) 16:25:08.01 ID:11NS3Arn
秀吉「あれを見よッ!腕が地面にィィィめり込んでおるわッ!」
徳猪之丞「ゴゴゴゴ…」
入江大蔵之丞「┣¨┣¨┣¨┣¨……」
823人間七七四年:2013/03/23(土) 16:29:58.22 ID:SMwRnjDV
空印(酒井忠勝)に初陣の時のことを尋ねると、

「初陣は闇夜の如く、一歩の先も見えないようなものだ。
二度目には少し明るく、朧夜の様になった。恥ずかしいことだ。
大勇の者ならば、そうではあるまい。私などは今言った通りであった」

と言った。謙退深き者である。

――『良将言行録』
824人間七七四年:2013/03/23(土) 16:39:29.38 ID:11NS3Arn
酒井忠勝の初陣って、13歳くらいで参加した第二次上田合戦だよね?
13歳じゃ無理もないわ
825人間七七四年:2013/03/23(土) 19:04:42.57 ID:bDRwxCwO
元親「うわ・・・私の初陣遅すぎ」
826人間七七四年:2013/03/23(土) 19:17:03.65 ID:FxtKj+YH
今昔物語に、東西の相撲の名人対決させたら両方大怪我しちゃって、それ以来頂上決戦は行わなくなった
というのがあった気がする
直接怪我をしない方法で闘わせるのは偉いな
827人間七七四年:2013/03/23(土) 20:00:33.26 ID:90sbCDzh
甲陽軍鑑に書かれている話だ。
ある者が、
「敵と向き合うと、わたしは暗闇に入ったような心地になる。
そのせいなのか、合戦ではよく手傷をおう。
あなたは幾度も手柄をあげておられるが、
手傷をおうということがない。
なにか心がけしていることがおありか」
と尋ねた。尋ねられた者は、
「わたしも敵と向かったときは暗闇に入った心地になる。
その時、ふっと少し心を沈めると、朧月夜くらいになってくる。
それを待ってから斬り込んでいくから、
手傷をおわないのではないかと思う」
と答えた。

いざというときにその者の会得した極意があらわれる。
この返答をした者は、馬場美濃守だとのこと。
詳しい話は『古老物語』に書いてある 【葉隠】
828人間七七四年:2013/03/23(土) 20:04:44.00 ID:90sbCDzh
余談だが、
『武士道』という言葉が歴史上最初に表記されたのは甲陽軍鑑だとのこと
829人間七七四年:2013/03/23(土) 21:34:24.29 ID:597KSPn/
>>826
そもそも日本最初の相撲の試合の記録である、当麻蹴速と野見宿禰の勝負でも負けた蹴速は腰骨を踏み折られて死んでるし
830人間七七四年:2013/03/23(土) 22:40:50.27 ID:SMwRnjDV
>>823
すいません、忠勝の初陣と題されていたので鵜呑みにしてしまいましたが、
どうも忠勝が家臣の草野文左衛門に尋ねて草野が答えた逸話のようです。いまさら訂正して申し訳ありません。
お詫びにもうひとつ投下します。


ある時、朋輩たちが申し合わせて、草野文左衛門に戦場の様子や馬上で槍を入れる姿を見たいと所望した。
草野は「無用のことだ」と言ったが、しきりに頼むので「ならば見せよう」と了承し、

甲冑を着て馬に乗り、槍を左右へ打ち振りながら進んだ。その勢いは目覚しく、槍を打ち振るたびに
馬の足はたじたじとした。事が終わって、見物人が大いに誉める中、一人が「勇気は言うに及ばず、
馬術にも達しておられるようだ。槍を振るたびに馬がたじたじとする姿は天晴れ見事なり!」と誉めた。

これを聞いて草野は「だから始めから無用だと言ったんだ。わしの若い時には馬の足がたじろいたりはしなかった。
年老いて身も力も衰え、槍一本も自由にならないから馬が疲れてしまったのだ。これでは人も馬も疲れて
なかなか働きもままならない。それを誉めるなんて情けないことだ。すべて今時の人の武勇話は皆こういうことで、
一つも用に立つ事はない。ここまで心得違いをしているようでは、何を言ってもとても耳に入らないな」

と大いに嘆いた。草野はいつも人々の武勇話を聞いては笑って「今の人に戦場を一度見せたいものだ。
今の心得では何もできず、戦があれば用に立つ者はいないだろうよ」と嘆いたという。

――『良将言行録』
831人間七七四年:2013/03/24(日) 02:35:25.70 ID:35gtWx8k
>>829
>そもそも日本最初の相撲の試合の記録である、
>当麻蹴速と野見宿禰の勝負

相撲のルーツと言われているだけで相撲ではないよ
832人間七七四年:2013/03/24(日) 02:38:55.74 ID:35gtWx8k
当麻蹴速と野見宿禰の勝負は柔道のルーツとされていたりもする
833人間七七四年:2013/03/24(日) 03:32:35.15 ID:GkAuA5JG
どっちかというと一昔前のMMAに近い感じだったんじゃね?
フィニッシュもマウリシオショーグンばりの踏みつけだったというし。
まあ、MMAでも今では四点膝や踏みつけ禁止されてるのを思うと
相当えげつない内容の試合だったんだろうな>蹴速と宿禰の試合
834人間七七四年:2013/03/24(日) 15:22:44.85 ID:35gtWx8k
>>833
ルールはないようなものだったろうね
MMAと言えば、柔術という名はたしか戦国時代が発祥だと記憶してる
竹内流
835人間七七四年:2013/03/24(日) 22:27:25.44 ID:yjZPwARw
ニコニコにあったよ
夏目さんが男前すぎて涙が止まらない(´;ω;`)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14935620
836人間七七四年:2013/03/24(日) 22:28:36.71 ID:yjZPwARw
ぐは
すまぬ
まとめのコメント欄に貼ろうとして本スレに貼っちゃった
837人間七七四年:2013/03/25(月) 01:19:17.29 ID:5lCQ6SGm
そんな間違いしないだろ
わざとらしい
838人間七七四年:2013/03/25(月) 11:41:40.87 ID:81lzxYV2
839人間七七四年:2013/03/25(月) 22:40:35.14 ID:WSOpR7a2
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

越前のくわうりん(朝倉家家臣・佐々布光林坊)と申す者、2万人の軍勢で都まで進出した。
(これは大永7年(1527)、三好長慶と対立し、京から逃亡していた将軍足利義晴が、
朝倉教景の軍勢を引き連れ上洛しようとし、京都泉乗寺口で三好勢との戦いとなった時のことである)

越前衆は手に持つ武器として、柄を堅木にて如何にも強靭にし、長さ1間(約1.8メートル)程に
拵えた鑓に、黒鉄製の菱を一つ持っていた。
彼らはこの菱を地面に撒きそれを敵に踏ませ、混乱した所を攻撃して勝つことに
巧みであった。

一方の阿波衆は、鑓の柄を四方竹にして如何にも軽くして、長さ3間(約5,5メートル)ほどもあった。

しかしこの時、阿波衆は3千に過ぎず、敵の越前衆は2万人であり、とても合戦において
勝てるとは思えなかった。

越前衆は阿波勢の人数の少ないのを見て取り、「細工など要らない!ただ懸かれ!」と言って、
菱も捨てて力攻めに攻め懸った。

この時阿波衆は
「我等は人数少なく、このまま攻め懸ってこられれば、まともに戦う事すら出来ず、
皆殺されるだろう。
であれば、思い切ってこちらから撃ち懸り、討ち死にしようではないか!」

そう決心し越前衆の先陣を手元に寄せ、長鑓にて散々に突いた。
するとそのうちに越前衆の後方が崩れ下がり始めた。ところがこの時越前衆は、自分たちが先に捨てた
菱に足を貫かれ大混乱となった。

ここぞと阿波衆は「首は取るな、切り捨てにせよ!」と一気に攻め、1万人を殺したという。

京衆や堺衆は天正の年号の頃までこの合戦のことを話題にし、阿波衆の事を「鑓突き」と
呼んでいたそうである。
この合戦より後、阿波衆の鑓は皆、四方竹の柄になったそうだ。
(三好記)
840人間七七四年:2013/03/25(月) 22:57:21.76 ID:AwM0kfZf
>自分たちが先に捨てた菱に足を貫かれ大混乱となった
ってコントかよw
841人間七七四年:2013/03/25(月) 23:05:15.67 ID:52LjMvOs
宗滴は何してたんだよ
842人間七七四年:2013/03/25(月) 23:38:14.19 ID:v5XHUDW2
忍たまでも撒き菱を間違って自分の手前に投げるシーンがあったなあ
843人間七七四年:2013/03/26(火) 03:58:50.55 ID:V/xdGEAT
初代佐々布光林坊である光林坊掟運ってこの戦で戦死してしまったんだよね
こんな間抜けなエピソードで討取られていたとは…

某歴史ゲームの影響で佐々布一族って越前府中の神官って認識されがちだけど
本当は近江の元国人領主で越前に落ち延びて入仏後に還俗したれっきとした武士なんだよな
844人間七七四年:2013/03/26(火) 06:46:05.78 ID:YXKG7lNG
都道府県を英語でカッコ良くするってのがあるみたいですが

例)和歌山=ジャパニーズポエム マウンテン

戦国時代でカッコ良くなる国名ってどこでしょうか?
845人間七七四年:2013/03/26(火) 10:06:00.29 ID:JFl2teUH
はいあぼ〜ん、っと
846人間七七四年:2013/03/26(火) 10:49:22.25 ID:yj+zb7F9
我が国におけるファランクスであった。
847人間七七四年:2013/03/26(火) 10:59:13.57 ID:A5Kj6Pcu
寡兵を侮るエピソードは人間くさいなぁw
848人間七七四年:2013/03/26(火) 21:14:18.30 ID:1CJ4D3rR
>>839
長慶?当時何歳だよ?
849人間七七四年:2013/03/27(水) 02:23:14.85 ID:8yQGX7cC
泉乗寺合戦(東山の合戦?)なら三好は三好でも親父さんの元長の方だろうなぁ、長慶さん1522年生まれだし
850人間七七四年:2013/03/27(水) 15:58:52.97 ID:oqbLfgEf
三好側の資料だと2万の軍勢を破ってその半分を討取った事になってるんだな
朝倉側の資料だと宗滴率いる朝倉軍先陣は約1万(細川や六角の軍を入れると3万5千)
それでこの泉乗寺での合戦の事は小競り合いがあったぐらいの記述しか無くて
その後、宗滴や景紀が大活躍した川勝寺や東寺での合戦の記述しかないんだよな
851人間七七四年:2013/03/27(水) 17:02:20.61 ID:rOeWNUVr
そういや史料に載ってる軍勢の数ほどアテにならないものは無いな
852人間七七四年:2013/03/27(水) 17:13:41.73 ID:fmiy7CXM
>>851
そもそも当事者の戦国大名からしてどんぶり勘定だからね。
軍役を緻密に人数管理するようになったのは、氏康の時代に北条が貫高制を完成させて
ようやくだから。
853人間七七四年:2013/03/27(水) 19:36:14.59 ID:gkOGJfgT
どんぶり勘定というか、戦があるって話があると、
この時代は主君と家臣団の縦ラインのほかに、
名前を上げたい家臣の友達やら、
足軽のバイトしてる農民が集まったり、
横のラインでも人が集まるんだよな。
太閤様の初期の人の集めかたがとにかく横のラインだね
854人間七七四年:2013/03/28(木) 06:49:14.34 ID:rKgWNwMV
軍役の人数通りに揃わない事も多いね
855人間七七四年:2013/03/28(木) 08:55:43.45 ID:XTm10ED1
逆に軍役以上の場合もある
856人間七七四年:2013/03/28(木) 09:26:21.38 ID:hGrJCJGG
軍役はノルマで、ノルマ以上つれてくるのは忠義や功績だからいっぱい連れて来てね。
その分の兵糧とかこっちで持つよ!とか大名も言ってるからな
857人間七七四年:2013/03/28(木) 10:17:08.27 ID:89EP/rSM
豊臣政権辺りはは検地で打ち出しをやりすぎたのと
元の軍役が過重すぎて、想定通りの数を出せてない例が多いね。
858人間七七四年:2013/03/28(木) 21:32:26.29 ID:1IK4Z1Os
すみません質問ですが戦国時代に悪右衛門以外に悪なんとかっていますか?
859人間七七四年:2013/03/28(木) 22:13:26.50 ID:jjuA+9Wm
>>858
美濃国久々利城、久々利悪五郎
860人間七七四年:2013/03/29(金) 00:58:13.89 ID:G1CUyo99
ありがとうございます
鬼武蔵先輩の安定感…
861人間七七四年:2013/03/29(金) 05:02:01.72 ID:Q1L0QSNX
秋月種実の家臣でも芥田悪六兵衛ってのがいたねー
862人間七七四年:2013/03/29(金) 14:14:52.59 ID:4Ot2OoDm
長宗我部元親家臣、立石正賀の著した長元物語より、臆病についてのことなど

『田中新右衛門と言う人が語ったことには、臆病という字を”むねの病”と書くのは
尤もだ、と言う。合戦で不利な状況になると、私も人も鑓を取るとき胃が逆流して
吐き出す事がある。これは持病であるからそう言う時に吐きそうになるのである。

桶山善兵衛という武勇の道の巧者の老人の話によると、臆病者というものは、船に酔うような
ものである、例えば、船酔いをする人は、船に乗る時に酔わないよう、胸に灸をすえたり、
あるいは蜜柑の皮を鼻に差し込んだりして予防をし、小浪の時は大丈夫なのだが、
いざ大浪になると胸の内がどうしようもなくなり吐瀉してしまう。

武の道もそういうものである。誰であっても普段は嗜みがあって人並みよりも良く見えるが、
いざ敵との強烈な競り合いになった時には、呼吸が苦しくなり思考は混乱し、
義も理も外聞も忘れてしまうのだ。こういう時は無理をセず、能く能く養生を専らにするのが
第一である。

右の桶山氏がまた言うことには、逃げる時、殊の外急に追われると、腰の抜けるものがある。
しかしそれが臆病だと一概に言うことは出来ない。何故かといえば、いろいろな戦場で
様々な勇者と呼ばれている人の中にも、こういう時腰が立たなくなる者が多かったからである。

また桶山氏の言うことに、敗軍の時、遠くまで逃げるという状況で急に追われると、
先ず兜を捨て、次には具足を捨て、その次には刀脇差を捨て、最後には丸裸になって逃げる
ものである。

このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

ある老人が云うには、具足震い(武者震い)の事について、敵を見てそれに攻め進む心で
震える事もあり、また恐れて震える事もある。その震えがどういうものかは、自身の身の内に
見知るものなのである。』
(長元物語)
863人間七七四年:2013/03/29(金) 15:09:59.20 ID:ovQA0ppI
雷神男塾『臆病者は当家に来い!剛の者に生まれ変わらせてやる』
864人間七七四年:2013/03/29(金) 21:27:54.51 ID:Q4f9yYZJ
逃げるときはフルチンで逃げよ
865人間七七四年:2013/03/29(金) 22:24:13.76 ID:H15/4sm3
>このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
>身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
>合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
>他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

色々と考えさせられるねぇ。

人間なんて、知識や科学技術の面で進歩はしても、
根本的な部分はそんなに簡単には変わらないってことだろうな。

>>864
「ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」ってのは普遍かつ不変の教訓だと思うw
866人間七七四年:2013/03/29(金) 23:38:20.49 ID:1gbpsi9F
逃げる時は茶店のババアに気を付けろ
867人間七七四年:2013/03/30(土) 00:12:36.65 ID:pie1/wct
ヤバいと思ったらすぐ逃げろは個人単位だと間違いない原則だけど、
集団戦で個人判断で逃げるとそこから崩れる場合もあるんだろうな
大将って凄い大変だろうな
兵の士気たもつのとか
868人間七七四年:2013/03/30(土) 08:35:46.81 ID:586Bs28J
気分はけっこう伝染するから、リーダーは大変だよね
869人間七七四年:2013/03/30(土) 08:38:43.34 ID:u9opqUn7
臆病者には臆病者の、暴虎馮河の無謀者には無謀者の、平凡な者には平凡な者なりの働き場を与えよう
が出来る堀、蒲生、黒田も世代変わると仕え勝手激変だしなぁ。

>>867
この大将なら、と思わせる信頼感保つのは大変だろうなぁ。
何度討ち死にの報が飛んでもどうせまた量産型信龍だろ、と思わせて士気が落ちない、なんてのはちょっと異形だけどw
870人間七七四年:2013/03/30(土) 10:18:33.71 ID:Ggjwg6L2
「あの一条さんが死ぬわけないじゃん、どーせ下賜されたモン身に着けたヤツを敵が見間違えたんだろ」
と共通した見解が出されるってことだからなw
なかなかねーわ
871人間七七四年:2013/03/30(土) 13:45:26.91 ID:iE0N7KTB
長宗我部元親が逝去した時、御世継ぎであった盛親は、土佐国中の長宗我部直臣の武士の
リストを作り、その中でも元親の覚え優れた者は、特に書き付けて報告するように、と
仰せ付けられた。

これにより久武内蔵介は国中の在地を廻り、村々に在住する小身の侍で、年齢10歳以上を
帳面に書き付けた。
この結果、長宗我部の直臣の武士は老若合わせて9,736人。そのうち元親の覚え優れたものは
61人であった。

この61人の中には、槍働きもなく首も取った事もないのに入ったものも有り、逆に
細々とした合戦で5つ3つの首を取っていても61人の中に入らないものもあった。
それは何故かといえば、こんな仔細が有った。

勝ち戦の時は、ただ首を取れば手柄になるわけではない。功者衆集まり証拠を正し、
しかも証拠が紛れもなくても、証人によって正義の立つことも立たないこともある。

61人の選定は厳重な吟味が行われた。
数年の合戦で首一つを取っただけでも、その首が名の有る侍であるか、又取り難い所で首を取り
朋輩衆に誉れを立てれば、この書き立て中に入った。

首も取らず槍も使わずに書き立てに入るものも有ったが、このような人々は、
懸るべき所で懸り、引くべき所で引く、この判断に優れ的確に部隊を指揮出来る者達である。
このような人は一騎当千と云うべきである。

この調査で槍の武勇は特に入念に調査され、相掛りの槍は書き付けに入れられた。

長宗我部元親が四国において、20年にわたって打ち続いた弓矢の事を、支えた家中を
今回改めて調査し、特に書き付けた老若61人について、このような経緯で選定されたのである。
(長元物語)
872人間七七四年:2013/03/30(土) 15:16:31.15 ID:WF4EIqSf
直臣だけでほぼ1万とは随分多いな
隠居や部屋住みまで含んでるんだろうけど
873人間七七四年:2013/03/30(土) 15:56:59.07 ID:awDEIkUt
徳川の旗本八幡機ってどんな機体だったんだろうな
874人間七七四年:2013/03/30(土) 16:00:07.15 ID:xblWz0i5
そういや徳川の旗本でも5千人くらいだっけか
まあ御家人が倍以上いるだろうけど…
875人間七七四年:2013/03/30(土) 16:09:09.26 ID:pie1/wct
勝った兵法が正しい兵法
残念ながら間違いない
876人間七七四年:2013/03/30(土) 21:36:18.45 ID:yLpFV021
家臣の粛清を考えてる息子へ、父からの手紙

又四へ もと就
(又四郎(隆景)へ 元就より)

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、
(児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が申していることはよく分かった。)

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、
(今更言うようなことでもなく、前々から言ってることだけど、
堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。)

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、
(私なんか、井上の者共に、興元(兄)が亡くなってから40年間も、
家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきた。)

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、
(その悔しさなどは言うに堪えないと思ってくれ。)

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、
(40年の間、ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。)
877人間七七四年:2013/03/30(土) 21:40:54.18 ID:yLpFV021
(続き)

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで
いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、
(ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、
この度の処罰を下したのだ。)

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、
(どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけない。)

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、
わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、
(第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、
してはいけない事の中で一番悪い事だ。
やってはいけない事としてこれよりひどいことはない。)

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、
(井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、
どうしても避けては通れない道だったからこそしたんだ。)
878人間七七四年:2013/03/30(土) 21:49:39.26 ID:yLpFV021
(続き)

およその事共にては候はず候、
(お前の言い分は、大体はわかっている。)

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては
(お前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれている。)

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、
(それに皆、比類のないぐらいよく働くと聞き及んでいる。
大切なのはそういうことだ。)

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、
(そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはならない。)
879人間七七四年:2013/03/30(土) 21:52:46.21 ID:yLpFV021
(最後)

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、
(皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、
一番避けるべき事である。)

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、
(今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いている。)

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、
(悪いようには少しも言っていないようなのだから、
お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは)

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々
(もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、
よくよく気をつけなさい。)

元就の手紙より。長いので前半部の重要な所だけ…
内容からして天文19年のものだと思われる。
この時点で、まだ17〜18の隆景は沼田小早川家を継いだばかりで、
邪魔な家臣を粛清したいと愚痴をこぼしたのを元就が聞きつけて…
といった感じでしょうか。
880人間七七四年:2013/03/30(土) 22:12:53.91 ID:B/YZtShr
やっぱ元就の手紙はくどすぎるな
881人間七七四年:2013/03/30(土) 22:43:37.34 ID:pie1/wct
苦労人なんだろうな。
小さな間違いが、いずれ大きくなることを知ってるというか
882人間七七四年:2013/03/30(土) 22:59:07.53 ID:QGt6IGle
>又四へ もと就

フレンドリーすぎてフイタ

またしぃ可愛いよ、またしぃ
883人間七七四年:2013/03/30(土) 23:01:35.76 ID:tkZa6qWq
テルのおかげで全て台無し
884人間七七四年:2013/03/30(土) 23:40:59.13 ID:u9opqUn7
>>881
小さな間違いは早めに解消するべき
話し合ってわだかまりが解ければよし、解けぬようなら大きな間違いになる前に・・・ということか
885人間七七四年:2013/03/31(日) 01:21:22.85 ID:qT5ytpFI
>前半部の重要な所だけ…
半分を更に端折ってこれですかw
886人間七七四年:2013/03/31(日) 01:46:48.98 ID:2RpVB/kL
本当にくどいなw
887人間七七四年:2013/03/31(日) 10:04:51.27 ID:V3KUKiS0
>>876  >>880>>886

謀略のかずかずを補強(?)裏打ち( ?)するものは、かような心配性(??)なんだなあ
しかも今般、粛清しようか、なんて物騒な考えを練ってんのが自分のアタマじゃなくて又四だし。クドクド書き綴る元就さんの
親心は、すごーくよくわかるw
888人間七七四年:2013/03/31(日) 10:06:56.52 ID:fe+l2Hbf
赤川 元保さんが何か言いたそうに
こっちを見てます。
889人間七七四年:2013/03/31(日) 12:04:45.16 ID:wPAvGRRj
なげーよwww
890人間七七四年:2013/03/31(日) 12:29:42.16 ID:V3KUKiS0
>>赤川さん

おぅ、そうでしたね
そしてそんな元保を元通と元之が宥める、と、なる訳ですな
891人間七七四年:2013/03/31(日) 21:07:01.29 ID:eS0maYHo
鬼武蔵「いつ殺るか?」
892人間七七四年:2013/03/31(日) 21:26:56.13 ID:eS0maYHo
                                 /\
                                 \ |
  ∩∩     今     で     し     ょ !  V∩
  (7ヌ)                              (/ /
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/ /  ∧_∧     ∧_∧  _(´∀●)   ∧_∧   ||
\ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄      ⌒ヽ(´∀` ) //
  \       /⌒   ⌒ ̄ヽ、政宗 /~⌒    ⌒ /
   |      |ー、      / ̄|    //`i 悪久  /
    | 三歳 | |鬼武蔵 / (ミ   ミ)  |    |
   |    | |     | /      \ |    |
   |    |  )    /   /\   \|       ヽ
   /   ノ | /  ヽ ヽ、_/)  (\    ) ゝ  |
   |  |  | /   /|   / レ   \`ー ' |  |  /
893人間七七四年:2013/03/31(日) 21:28:28.15 ID:Aii5Jcf2
政宗の目が逆では
894人間七七四年:2013/03/31(日) 21:54:42.84 ID:LAnzFyTM
しかも、自分でネタ振ってオチを書くとか寂しすぎるだろ
895人間七七四年:2013/03/31(日) 22:46:45.26 ID:eS0maYHo
お前らが冷たすぎてもう凍蚓しか愛せない
896人間七七四年:2013/04/01(月) 13:56:38.88 ID:n46Puusc
>>895
腹を切らせてやる故、一条戻橋に仲良く梟首されぃ
897人間七七四年:2013/04/02(火) 08:19:03.06 ID:K0+CwtI2
伊勢朝熊で静かに暮らされればよかろう
898人間七七四年:2013/04/02(火) 13:06:03.88 ID:BkAuIAbb
細川忠興お気に入り!  「大蒜味噌」

(福岡県)糸島市井田の教法寺の前住職(個人名の為、伏字)が、同寺に伝わる
戦国武将、細川忠興の古文書にある「大蒜味噌(にんにくみそ)」を手作りし、評判となっている。
(個人名)さんは「寺の歴史を生かし、糸島の豊かな食材をもり立てる手助けになれば」と話している。

2010/10/06 10:56 【西日本新聞】  ( )内は、転載者加工分

記事が古くて全文検索出来ないので、詳しいサイト様の記述をお借りして簡約すると、

糸島市高祖城(たかすじょう)は、旧・筑前国(現在の福岡県糸島市高祖)の城。
天正15年(1588年)豊臣秀吉の九州征伐により、城主原田氏は所領没収され
その城主が出家して入寺したのが、ここ教法寺だそう。

古文書は「頂いた手作りにんにく味噌一樽いただき喜んでいます」忠興の署名捺印(宛先不明)
この印章には「忠興の名前がアルファベットで記述」されている珍しいもの(某サイト様の画像より)

檀家さんが手作りしたり、サイト上でレシピも公開されており、食すと大変美味とのこと

詳しいサイト様は『 細川忠興 大蒜味噌 』で検索すると出てきます。

過去スレでも鮎の焼き加減や食餌養生にこだわりを持つ、三斎様も激賞の大蒜味噌
是非、スレの皆様も「手作り」してご賞味下さい。……味に嵌って「一樽分」作ってみる?
899人間七七四年:2013/04/02(火) 13:18:14.35 ID:Pj4a4frD
Googleさんで 細川忠興 と入れると、次の検索候補がヤンデレなのは如何なものだろう。
900人間七七四年:2013/04/02(火) 14:09:33.92 ID:vwvdjhzB
長宗我部元親が阿波から帰陣し、家老や城持ちの重臣を召して座敷に集め置かれた。
この時一領具足の武功者たちも10人ばかり召しだされ、これは別の座敷に置かれた。
この両方に元親より仰せ下された内容は

『阿波の攻略がはかどっていない。そこで、なにか良い計略があれば申し出てほしい』

という物であった。家老城持ち衆が申し上げたことは

「阿波の府中の付近は山もなく、長駆して攻撃に向かっても、陣取りが大変難しいと思われます。
その上三好も、未だ阿波半国の大将であり、多くの軍勢を保持しております。
ここはすでに確保した山間部の近辺から、毎年出撃し秋ごとに稲をなぎ倒し、敵の下々を
疲弊させるべきです。そうすれば謀反人も、降参する人間も出てくるでしょう。」

一方、一領具足の者達はこう申し上げた

「我々は早急に阿波を攻略せねばなりません。そうしないと阿波どころか、この土佐本国すら
三好家に取られてしまうからです。何故なら、三好笑巌(康長)は河内の国の半国を知行して
いますが、彼の養子は羽柴筑前守殿(秀吉)の甥(後の秀次)であります。
であれば、筑前守殿に加勢されて笑巌が阿波に渡れば、さほどもかからず三好正安(十河存保)を
討ち果たし、阿波国を残りなく取ってしまわれるでしょう。

決断するのはこの時です!(御分別此時ト言上ス)」

元親は「一領具足の申し様、誠にもって神妙である。では具体的な作戦内容を申してみよ」
と再び尋ねた。

一領具足どもは畏れながら申し上げる

「三好正安の居城の勝端8里隔てた、土佐からの大道筋の抑えの城、一之宮、夷山がありますが、
この間に大道があります。ここを押えて人数をおき、出撃して勝端から3里こちら側の、
中富川までご出馬されたなら、「少人数にて長距離を出撃してきた、これ幸い」と、三好正安自身が
これを討つため出撃してくるでしょう。この時に正安を討ち果たす事が可能だと考えます。」

この一領具足というのは、他家において馬廻分ほどの侍である。
(長元物語)

一領具足による阿波攻略作戦の提言、という逸話である。
901人間七七四年:2013/04/02(火) 19:37:19.41 ID:ASLUBERs
これ結構有名な話だよな?
902人間七七四年:2013/04/02(火) 22:20:17.16 ID:jkmiJKE5
>>898
何で細川忠興なんだろ?
その辺は黒田長政の領地じゃないのか?
903人間七七四年:2013/04/03(水) 01:36:19.41 ID:AxTu9FQk
朝鮮出兵の頃の話じゃないの?
904人間七七四年:2013/04/03(水) 08:28:49.86 ID:KZsY2iGY
朝鮮だと丹後じゃなかったっけ?
905人間七七四年:2013/04/03(水) 08:39:04.12 ID:gz7nEPN0
当時を知る人「有名な大名なら誰でも良かった」
906人間七七四年:2013/04/03(水) 11:42:11.04 ID:s8R7JhKx
名護屋城へ行く途中に寄ったとか
907人間七七四年:2013/04/03(水) 14:15:02.80 ID:6n2AhutK
高祖城主、原田信種って所領(ほぼ)没収の後肥後に飛ばされてんだから出家はともかく入寺はアレなんじゃ…
908人間七七四年:2013/04/03(水) 14:22:59.86 ID:eV8owq4Y
元のサイト見ると島津征伐or朝鮮征伐で縁があったんじゃないかって書いてるね
909898:2013/04/03(水) 20:01:10.38 ID:OwUOaYo5
スレの皆様、記事の閲覧ありがとうございます。

基本的に話のネタを探す時には、新聞等の公共DBをソースにしていますが、
参考にした、とても詳しいサイトさんの記事によるものも多大なものですので
記事を読み込んだ上で、得た知識をベースに剽窃にならない程度に留意し
自分なりの言葉で記述したので>>907さんの言葉もご尤もだと思われます。
誤解を生むような稚拙な表現で、ご迷惑をお掛けしまして申し訳ありません。

>>908さんのように是非、詳しいサイトさんに皆様がお越しになられていい話を
共有できるよう、心から願っております。長文でスレ汚ししてすみませんでした
910人間七七四年:2013/04/03(水) 20:17:32.96 ID:vRM4TLqL
逸話だから真偽はどっちでも良いんだが、サイト誘導とかキモいから止めてくれ
911人間七七四年:2013/04/04(木) 21:50:40.78 ID:GjJGj3F+
玉石混交でツッコミも入れば更に間違った方向に行くのもこのスレだ
ウソや作り話はイカンが細かい事は別にいい
ただ余所に迷惑かけちゃダメよ、それだけだ
912人間七七四年:2013/04/05(金) 03:31:14.19 ID:1HksMhzQ
>>670
勝永に手柄なんてないんだけど
信者が勝手に徳川も豊臣も手柄と思ってないことを手柄にしてるだけなんだよ
913人間七七四年:2013/04/05(金) 05:18:01.42 ID:1HksMhzQ
>>669>>673>>674>>677>>679>>681
そもそも都合が悪いからって講談を史料と認めないのがおかしい
史実とは何かを俺が納得するように説明しろ、出来ないなら死んで詫びろ
914人間七七四年:2013/04/05(金) 05:21:07.93 ID:1HksMhzQ
ああもう一つ真田アンチはだがと同じ思考回路だってんなら許してやる
915人間七七四年:2013/04/05(金) 06:17:22.63 ID:vdVYEJ9d
今日のNG ID:1HksMhzQ
916人間七七四年:2013/04/05(金) 08:42:15.36 ID:PgVurYge
真田マンセーのクズだし許してやるわ
違うなら死んで俺に詫びろ
917人間七七四年:2013/04/05(金) 10:13:49.23 ID:Y34eVvqp
敵は強くなくちゃいけない、でないとそれをめためたにした俺強え!ができないw
918人間七七四年:2013/04/05(金) 13:13:23.29 ID:Bn/oqp9M
勝茂さまの御嫡子忠直さまが十五歳のころ、
お台所の下男が無礼な振る舞いをして、
それを足軽が殴りつけたのだが、
顔を殴られた下男が怒り、足軽を返り討ちに斬り殺した。
下男は長幼の序もとい上下の礼儀に逆らい、
そのうえ相手を斬り殺したのであるから、
斬首にすべきだとの意見が家老たちより上がってきた。
それをお聞きなされた忠直さまは、
「上下の礼儀を乱すことと、武士の道に反すること、
どちらが深い罪だろうか?」
と家老たちに問い掛けると、返答できる者はいなかった。
すると忠直さまは、
「罪の判断がつきかねるときは、
それを軽い方にすると古典で読んだことがある。
しばらく小屋で謹慎させておくように」
とお命じになられたとのことだ 【葉隠】
919人間七七四年:2013/04/05(金) 17:49:07.65 ID:1HksMhzQ
どうせマスコミの言うことには根拠も無く突っかかるくせに史料(笑)に書いてあれば正しくて史料(笑)に書いてなければ間違いなど傲慢も甚だしい
920人間七七四年:2013/04/05(金) 18:44:28.28 ID:Y34eVvqp
歴史書にあるといって事実とは限らんわな。特に不利なこととかアレなこととか。タヌキみたいに俺負けたな表情を書かせるなんて例外中の例外だろうし・・・好き嫌いは別として政治家や武士としてはかくあるべきかもしれん
921人間七七四年:2013/04/05(金) 23:30:27.81 ID:fZ2iIHZr
一ヶ月前のレスに噛みついちゃうって…
922人間七七四年:2013/04/06(土) 01:01:05.87 ID:63eEMAob
>>918
態度の悪い奴の顔を殴るのは武士の道に反する事になんのか?
何か足軽は殺され損だな
923人間七七四年:2013/04/06(土) 01:09:33.13 ID:mDly+u/L
この足軽は自分から喧嘩を仕掛けておいたにも関わらず、逆襲されて殺されてるわけだから
武士としては心得不行き届きになる
924人間七七四年:2013/04/06(土) 01:13:29.31 ID:DOwNY/e1
殴らないで一気に斬れば良いのか
925人間七七四年:2013/04/06(土) 01:37:40.77 ID:YiAoh9Gu
「顔まで殴られたなら自分の善悪関係なく仕返しするべき」
な考え方は葉隠に他にも出てくる。
顔まで殴るってのは常朝さん的に悪なんだろ
926人間七七四年:2013/04/06(土) 02:16:17.74 ID:Bj7pDrD4
最初に無礼な振る舞いをしてた下男を足軽が殴って叱ったら
逆ギレされて殺されたように感じるな
927人間七七四年:2013/04/06(土) 02:27:57.99 ID:YiAoh9Gu
無礼な振る舞いとられる側に問題がないともいえない。
尊敬している上役に無礼な態度とる下の者はいないわけで。
尊敬できない上役に力のみでやられたら、
この時代はこうなってもおかしくはないような。
上下の礼儀と武士の誇りの問題。
嘘でも礼儀に徹するか、気持ちを表現するか
928人間七七四年:2013/04/06(土) 03:19:03.53 ID:Bj7pDrD4
でも下男って普通平民身分の奉公人じゃね?
それが足軽とはいえ武士階級を殺して謹慎ですむのか
929人間七七四年:2013/04/06(土) 03:25:53.01 ID:YvzN2uUk
そこは返り討ちってのもあるんじゃないか
930人間七七四年:2013/04/06(土) 04:18:28.85 ID:wHjkAEEW
>>928
逆上して襲いかかってくる事も考えられるのに、それであっさり斬られてるのはどうよ、という事ではないだろうか
武士のくせに殺られるとは、なんと情けない、取り潰しだ!
なんてのもあるし
931人間七七四年:2013/04/06(土) 10:12:49.89 ID:63eEMAob
武士の世界も色々大変だなあ
932人間七七四年:2013/04/06(土) 11:34:03.23 ID:Bi1QDmwI
無礼討ちも迂闊に出来ないこんな世の中じゃ…
933人間七七四年:2013/04/06(土) 12:04:42.39 ID:YiAoh9Gu
>>928
平民とは言うが別に固定された身分じゃないからな
召し抱える者さえいれば台所の下男もすぐ武士になれるのが中世日本
イギリス、インドより全然ゆるいと思う
934人間七七四年:2013/04/06(土) 12:13:23.94 ID:YiAoh9Gu
あ!イギリスもドレイクみたいに武勲あげれば貴族になれるしな〜
ドレイクの部下も日本で武士になってるしw
935人間七七四年:2013/04/06(土) 16:11:35.67 ID:mLTSXhPR
縁なき太刀
肥後から上京した高橋道伯(後の立花直次)が兄の立花宗茂を訪ねた時、刀の拵えがあまりにみすぼらしかったので
宗茂は自分の太刀を与えたところ、道伯も拵えのみすぼらしい自分の刀を宗茂に贈った。
「刀身を改めると、この刀も作は悪くない。もしや紹運様の仁王ではないか」
 仁王三郎と呼ばれた高橋紹運の愛刀ではないかと尋ねられた道伯はお察しのとおりと頷いた。父の遺品と聞いて
涙を目に浮かべた宗茂は目釘を抜くと銘を改めたが銘が潰れていて読めなかった。
「確かに仁王三郎清・・・・・・」 
 そこに戸次治部がご機嫌伺いに参上してきた。
「治部そちは、刀、脇差の運の吉凶を見るのが得意だったな。この刀をどう見る?」
刀を見るうちに何かに気づいたのか宗茂は、その鑑定眼に定評のある戸次治部に刀を渡した。治部は刀を一瞥する
となんの役にも立たぬ刀ですなと言いながら刀を投げ出した。
「治部、何を言うか」
あまりの無礼に、むっとした道伯とは対照的に宗茂は、治部もそう見たかと大きく頷くとこの太刀は差料にすることは
ないと道伯に言った。
「刀の銘で運の善し悪しは測れぬ。しかし道具の運の善し悪しは確かに印があることだ」
納得いかない道伯の顔を見た宗茂は、小姓に命じて所蔵している武具を道伯の前に運ばせると、その由来と運の善し悪し
を語り聞かせた。
「つまり刀の吉凶で指し主に悪しきことが起こるということか?」
宗茂の話を聞き終えた道伯は治部に問うと
「申すに及ばざるまでもないこと。悪しき刀は持ち主を守らず、故に持ち主と添い遂げることができないのです。
そして持ち主を転々とするのです。どんな傷物の刀でも三代伝われば重宝ともいうべきもの。そのような刀こそ持ち主を守り、
男冥利に尽きるものとなり、崇め奉れられる家宝となるのです」
 治部の言葉に大きく頷いた宗茂は、仁王三郎を紹運の遺品として扱い、差料にするなとの後代に言い残した。

武具の運の善し悪しを論じた立花宗茂のちょっといい話 (浅川聞書より)
936人間七七四年:2013/04/06(土) 18:49:08.38 ID:SGabT4+b
宗三左文字とか見てると一理あるのかも
937人間七七四年:2013/04/06(土) 18:51:40.80 ID:JpyRAitn
使ったら減ってちっちゃくなっていくだろ
せっかくの名刀がもったいない
938人間七七四年:2013/04/06(土) 19:19:23.92 ID:0XjgTfLv
>>935
だったら錆びてても重宝になるのかな?
939人間七七四年:2013/04/06(土) 19:51:24.22 ID:mLTSXhPR
>>937
 その昔、佐竹の若様が軍神の長刀を脇差に研ぎあげたという話がありました。
>>938
 錆びてる時点で重宝扱いしてないでしょう。
940人間七七四年:2013/04/06(土) 20:20:00.92 ID:mKPxWQjm
>>939
見事な大太刀を摺り上げて打刀に直す、というのもよくあったらしい
勿体ないけど実用品でもあるから仕方ないか
941人間七七四年:2013/04/06(土) 20:23:19.27 ID:uiONzrgf
柴田修理亮勝家が越前を領した年の事である。

その城下に、美々しいなりをした60ばかりの老婆が、人を数多召し連れ宿を取った。
この老婆は城下の者達に

「人の妻女を押し取って都に登らせる、その邪魔をする者あれば処罰いたす!」

と言い、実際に5,6人のものがこの老婆のもとに拉致された。これは下々の者では解決できないこであると、
領主である勝家に訴えが上がり、勝家は

「なんという奇妙な事件だ。急ぎこの者たちを連れて寄越せ!」

直ぐに家臣たちが老婆の元に行き「殿よりの仰せである!すぐに来るのだ!」と言ったが、老婆は

「修理殿は慮外なことを言うものかな。我に来いなどと言うのはおこがましいが、行ってこそ
知ることもあるだろう。」

そう言って乗り物で城へと向かった。
勝家は老婆と対面すると

「お前は私の町中に入って、人の妻女を理不尽に取って行くと言うのは、一体どういう理由からか?」

老婆が申すことに
「御身は事の様をご存じない。私は信長公に召し置かれたものである!
信長公の御意に入りそうな女房があれば、この国に限らず、どこの国であっても見立て次第に
連れてまいれ、との仰せによって私はここに来ているのだ。
これを偽りであるとお考えになるなら、人をやって信長公に訴えなされ!」

勝家はこれを聞くと暫く考えた
『この老婆の言うことはきっと真実なのだ。であるが、信長公はなんと前代未聞の無道を
なされることか。尋常のことではないが、ここで何とかせねば。』

そして

「老婆よ!お前は何と恣に振舞っているのか!?そもそも信長公は世の政法を正しくされ、
無道の輩を罰されるのが常である。
人の妻女を拐かすのは、その咎至極であること、前代よりの定法である!

信長公ほどの賢君を無道の犯罪者の如く語ったこと、その罪軽からず!」

そうして老婆とその配下十余人を召し捕ると縛り付けて船に載せ、大海に漕ぎ出し、
そこで穴を開けて沈めた。
その後、勝家はこの事を包み隠さず信長に報告した。

信長は勝家からの報告を見てたちまち興を覚まし、何も語らず、

『柴田の忠節の仕置、神妙である。今後そういった者があれば、私の方に知らせるように。』

と返事を返した。
これ以後、信長はこのような行為を思いとどまり、人々は、柴田殿の分別類いなしと喜ぶこと限りなかった。
日頃”鬼柴田”と武勇と呼ばれているが、それだけの事はあると、褒めぬ人は居なかったという。
(殘後覺巻)
942人間七七四年:2013/04/06(土) 22:06:48.08 ID:s8JE6rh5
織田が無道…すまん
943人間七七四年:2013/04/06(土) 22:28:36.59 ID:3fiOjRyy
何で人妻…
944人間七七四年:2013/04/06(土) 22:44:08.38 ID:DOwNY/e1
何で婆さんに頼む…
945人間七七四年:2013/04/06(土) 23:34:30.74 ID:I4IGnLHk
穴を開けて沈めたって船に穴開けたってこと?
946人間七七四年:2013/04/06(土) 23:39:19.05 ID:Ccjgq9sW
太平洋でやれば補陀落渡海できたのに
947人間七七四年:2013/04/07(日) 00:07:06.68 ID:aXA4HYNI
>この老婆の言うことはきっと真実なのだ。

勝家の中でのノブ酷いな
948人間七七四年:2013/04/07(日) 00:27:09.55 ID:RglCw+fd
ソマリア沖で海賊をボート1艘に押し込めて漂流の刑にした某ロシアを思い出した。

>>947
信長に取り立てられて恩義を感じる奴は多いだろうけど、
信長の人柄に心服している人間なんていなかったんじゃない?w
949人間七七四年:2013/04/07(日) 01:01:47.91 ID:vtfZ77yE
>>947
まあ信長の蛮行に呆れて敵対してた時期ありますしwww
950人間七七四年:2013/04/07(日) 02:10:18.91 ID:27qIEd/T
わざわざ船に押し込めて沈めるて、フランス革命のヴァンデ反乱みたいだな
951人間七七四年:2013/04/07(日) 04:57:16.95 ID:5cbBzom4
この話は既出だね。
952人間七七四年:2013/04/07(日) 09:55:54.39 ID:3z5WgOEd
信長の有力家臣でずっと忠誠していたのは丹羽と池田ぐらいじゃないの。
953人間七七四年:2013/04/07(日) 10:10:30.94 ID:lWQzATh/
佐久間信盛「…」
954人間七七四年:2013/04/07(日) 12:42:37.53 ID:oUb71fmX
既出の話にしては記憶になかったから調べたら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-42.html
なるほど、随分前の話だったか
955人間七七四年:2013/04/07(日) 13:36:37.25 ID:MAND/M52
>>952
池田が有力なら川尻も有力でいいんじゃね
956人間七七四年:2013/04/07(日) 15:17:15.47 ID:27qIEd/T
安心と信頼の森家
957人間七七四年:2013/04/07(日) 15:40:09.72 ID:56uDSA8a
池田が有力家臣とか(笑)
958人間七七四年:2013/04/07(日) 18:34:07.20 ID:aeCUbO6X
有力じゃないの?
959人間七七四年:2013/04/07(日) 19:18:41.81 ID:nlHdZ48x
有力ってのがどの程度のレベル指すか次第じゃない?
池田家は姉川の恩賞で2万石の城持ちになってるから有力幹部であることは間違いない
でもこのレベルの幹部は織田家中に数十人居るわけで幹部中の幹部の丹羽と並べて語るほどではない
960人間七七四年:2013/04/07(日) 19:37:45.09 ID:rIJaRpr7
柴田→北陸
羽柴→中国
明智→丹波
丹羽→四国

池田恒興は信長の乳兄弟だから別枠だろ
森家みたいなもん
961人間七七四年:2013/04/07(日) 20:15:42.40 ID:5cbBzom4
因みにこのまま信長の征服事業が続いていたとして、九州攻めは誰がやるんだろうか。秀吉がそのまま突き進むのか。
962人間七七四年:2013/04/07(日) 20:25:33.91 ID:nlHdZ48x
総大将は信忠になるんじゃないかな
もう北条も屈服したようなもんだったし
どちらにせよ妄想しか出来ないけど
963人間七七四年:2013/04/07(日) 20:27:36.67 ID:W8vAzkMp
朝廷から光秀や塙直政たちに惟任とか、原田とか、九州の名門の姓与えられてるから
そのあたりが中心なんじゃない
964人間七七四年:2013/04/07(日) 20:37:17.73 ID:nlHdZ48x
塙直政のことは忘れてあげて
965人間七七四年:2013/04/07(日) 21:05:41.76 ID:56uDSA8a
>>960
また馬鹿が湧いたよ、森家なわけねーだろ
池田の実績と森親子の実績を比べてから語れや
966人間七七四年:2013/04/07(日) 21:14:24.55 ID:ajR3oqsN
清洲会議とか知らない中学生かな
967人間七七四年:2013/04/07(日) 21:37:49.37 ID:wOhvZcL+
だろうね
あのとき人数あわせに秀吉が引っ張り出したからそういう扱いになってるのに知らないんだろうね
968人間七七四年:2013/04/07(日) 21:44:57.70 ID:ajR3oqsN
>>967
往生際が悪いなオマエ
969人間七七四年:2013/04/07(日) 21:47:28.26 ID:lWQzATh/
有力がどの程度のレベルを指すのかを定義もせずに
マイルールで批判しても的外れなだけ。
970人間七七四年:2013/04/07(日) 21:49:17.24 ID:hQiDMd3T
>>960
四国って信孝じゃないの?
971人間七七四年:2013/04/07(日) 21:51:11.37 ID:nlHdZ48x
池田は荒木没落後に西摂津の旗頭になって頭角現し始めていたところに
山崎の合戦参加と滝川川尻没落で宿老抜擢って感じでしょ
急速な出世だから人によって池田の位置付けの捉え方は変わるんじゃないかな
そんなに攻撃的な応酬するほど明確な位置付けの人じゃないんだから
972人間七七四年:2013/04/07(日) 21:54:34.50 ID:OsTUvNUg
山崎の戦いの戦功で出世したから会議の段階では確かに宿老だけど信長の有力家臣かといわれると
973人間七七四年:2013/04/07(日) 22:33:49.55 ID:X+MoBUWE
ID:56uDSA8a
人のこと馬鹿という割には自分ではなにも具体的に話せない馬鹿

wikipediaで誰でも専門家気取りできる現代の申し子みたいなやつだな^^
974人間七七四年:2013/04/07(日) 22:48:03.78 ID:56uDSA8a
>>966
清洲会議で宿老の仲間入りしたのも知らない中学生かな?w
摂津を領してるから有力には違いないが所詮与力の立ち位置
975人間七七四年:2013/04/07(日) 22:50:24.58 ID:56uDSA8a
>>973
IDかえてまでご苦労な馬鹿だな
ググってから喋ろうな中学生さん
春だねえ(笑)
976人間七七四年:2013/04/07(日) 22:58:07.52 ID:P4914ht6
わざわざ説明しないと理解できないって・・・
頭使おうや なんのためのインターネッツなんだい?
977人間七七四年:2013/04/07(日) 22:59:30.33 ID:lWQzATh/
>>972
宿老 = 有力家臣では無いだろう。
978人間七七四年:2013/04/07(日) 23:01:44.38 ID:MAND/M52
池田が有力なら塙も武藤も川尻辺りも有力家臣よ
あ、武藤は尾張時代からじゃないからアレか
979人間七七四年:2013/04/07(日) 23:10:26.88 ID:lWQzATh/
少なくとも塙直政は有力家臣だろ
980人間七七四年:2013/04/07(日) 23:10:32.99 ID:nlHdZ48x
塙は比較的大規模な戦いでも総大将任されてるんだから思い切り有力だろう
戦死後の一族の運命が悲惨だったから軽く見られがちだが・・・
池田も信長最晩年は寄親になっていたし川尻佐々前田森蒲生金森あたりと並んで次の宿老を争う立場ではあったかと

宿老候補くらいまでを有力家臣と見るなら池田は該当する
長期間軍勢率いるくらいの立場じゃないとそもそも謀反できないだろ、という観点なら該当外
981人間七七四年:2013/04/07(日) 23:11:23.90 ID:X+MoBUWE
>>975
IDって変えられるんですか…無知な僕ちんは知りませんでちた><
ν速+あたりでその方法教えてあげたら大人気ですよ^^
982人間七七四年:2013/04/07(日) 23:13:43.25 ID:aeCUbO6X
論争するなら日本史板でも行ってくれよ・・・まぁ論破されて泣くだけだろうけど
983人間七七四年:2013/04/07(日) 23:35:51.89 ID:56uDSA8a
柴田の与力が宿老候補かよw
池田君はラスボスに懐柔されて昇格しただけ
で何故に蒲生を挙げた?w
川尻は信忠の治世になったら宿老に昇格しただろうな、林・佐久間的な立ち位置になりそうだが
984人間七七四年:2013/04/08(月) 01:07:31.23 ID:NNFyOyhe
幹部候補みたいな扱いであっても、幹部である方面軍大将+丹羽よりは確実に下だろう
ただ本来六番手としてふさわしいのは誰だったのかはよくわからないが
985人間七七四年:2013/04/08(月) 02:55:56.06 ID:hcHKpIWW
京都御馬揃えにおいて丹羽に次ぐ二番手が誰か考えろよ
これだから中学生は困るw
986人間七七四年:2013/04/08(月) 03:28:58.37 ID:hcHKpIWW
信長公記によると、甲州陣触れ「一、摂津国、父勝三郎留守居候て、両人子供、人数にて出陣すべき事。」とある
馬揃えも摂津衆は丹羽の与力として参加している、子供らがw
池田父がナンバー6だって?寝言は寝て言えよなwww
987人間七七四年:2013/04/08(月) 05:08:50.78 ID:NNFyOyhe
>>985
蜂屋か、そういえばそんなのもいたな。申し訳ないが完全に頭からすっぽ抜けていた
988人間七七四年:2013/04/08(月) 06:03:00.00 ID:3qR6cDS1
中学生連呼は馬鹿丸出しだから止めた方が良いな
989人間七七四年:2013/04/08(月) 06:19:28.41 ID:O+NzyWi0
内容に関係ないところに文句つけるのも、負け惜しみみたいだから止めた方が良いよ
990人間七七四年:2013/04/08(月) 06:40:24.03 ID:kIdZmlHW
新スレ立ててみる
991人間七七四年:2013/04/08(月) 06:41:32.01 ID:3qR6cDS1
992人間七七四年:2013/04/08(月) 06:42:10.83 ID:kIdZmlHW
>>991
あったのか、スマン
993人間七七四年:2013/04/08(月) 07:05:39.13 ID:3qR6cDS1
>>989
>>989 自己撞着
994人間七七四年:2013/04/08(月) 07:10:56.74 ID:O+NzyWi0
残念、>>989>>988のレス内容に対する反応だから撞着じゃないんだ
995人間七七四年:2013/04/08(月) 08:20:04.26 ID:hcHKpIWW
春休みかい?
996人間七七四年:2013/04/08(月) 10:29:40.18 ID:mEBKm7cb
埋め
997人間七七四年:2013/04/08(月) 11:46:50.60 ID:3J1aZnFX
さあ内堀も埋めてしまえ
998人間七七四年:2013/04/08(月) 11:56:21.69 ID:I5VuPmCh
雲帰城も埋め埋め
999人間七七四年:2013/04/08(月) 11:58:03.98 ID:mEBKm7cb
999
1000鹿之助:2013/04/08(月) 12:02:46.99 ID:I5VuPmCh
1000ならば尼子家再興にまた一歩
   _,,_
   (゚∀゚;)
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  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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