戦国ちょっと悪い話34

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2012/10/24(水) 14:04:14.43 ID:5/lQHHOm
>>1
骨折り!
3人間七七四年:2012/10/24(水) 16:27:40.46 ID:DqXG8z9C
人間無骨!
4人間七七四年:2012/10/24(水) 19:20:46.25 ID:jXxGHb6v
石田三成が斬首される直前、茶関係の弟子に耳と鼻を削ぎ落とされた
というのは本当ですか?
5人間七七四年:2012/10/24(水) 19:30:13.93 ID:SqIYoogS
三成斬首の時の状況を表した詳しい記録は一切残っていません。
というか三成の茶の弟子ってなんのことやら。
6人間七七四年:2012/10/24(水) 20:40:01.67 ID:m0/Z18Yk
>>4
創作に決まってるだろうが
7人間七七四年:2012/10/24(水) 20:45:41.49 ID:N595Hho+
>4
全裸で茶を被ったのも本当です。
8人間七七四年:2012/10/24(水) 21:48:15.57 ID:NC9PyKAq
おそらくへうげものネタ
しかし、松永の遺児と利休の関係やら
荒木村重の遺児が高名な絵師になったやら
ググるまではフィクションだとおもってた
9人間七七四年:2012/10/24(水) 22:00:54.17 ID:oltT++sD
鬼武蔵はじめDQNネタ、ラスボスネタが印象に残ってる割には悪いスレって
いいスレより一スレ分少ないんだな
10人間七七四年:2012/10/24(水) 22:07:53.70 ID:SqIYoogS
そもそも悪い話スレが出来たのっていい話スレができて1年後くらいだったろ
11人間七七四年:2012/10/24(水) 22:09:36.83 ID:oltT++sD
それは知らんかった
三歳様の奥方覗いてくる
12人間七七四年:2012/10/24(水) 23:25:36.19 ID:DqXG8z9C
斬るのは三歳様だけじゃないぜ!!
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13人間七七四年:2012/10/25(木) 00:09:11.36 ID:BUZQaKpv
>>4
そもそも利休を切腹に追い込んだのが三成って時点で間違ってるからあの漫画
14人間七七四年:2012/10/25(木) 00:35:40.41 ID:98zLAwTl
秀吉が信長斬った時点で(ry
15人間七七四年:2012/10/25(木) 00:40:49.81 ID:PQEWfqae
海老で鯛を釣った時点で…

まああの漫画は史実や講談をベースにそれをちょっと外して来るのが基本なので、
割りと突拍子のないことでも根拠がある場合が多い
16人間七七四年:2012/10/25(木) 01:51:28.01 ID:jh1lM60o
ゆがみ要塞うぎゃぁとか
17人間七七四年:2012/10/25(木) 02:42:10.13 ID:57zFIOAP
織部が松永弾正のところに使いに行った時点で・・・
18人間七七四年:2012/10/25(木) 07:12:56.00 ID:NtEXG0w+
下次右衛門の降伏はなかなかの美談として伝わるが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6050.html)、鮭延秀綱の記憶によればもっとごたごたしていた。
最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」

攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」

こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)
19人間七七四年:2012/10/25(木) 07:18:51.20 ID:/0z1ycQM
昨日のヒストリアで放送した細川忠利の熊本城本丸御殿の逸話は、
ちょっと悪い話だな。
20人間七七四年:2012/10/25(木) 16:09:40.12 ID:klvTHidc
>>19
結果、無駄金使っただけでしたと。
民主みたいだ
21人間七七四年:2012/10/25(木) 17:37:35.94 ID:lWLwL3kQ
細川護煕は最終的に民主党だし
22人間七七四年:2012/10/25(木) 17:46:06.49 ID:lfQyMjrI
無駄金に関しちゃ民主どころか自民以前から続く官僚のお家芸だから…。
23人間七七四年:2012/10/25(木) 18:33:49.74 ID:o5qn/mo5
いるのかいらないのか、やっぱりいらない公共事業なんて全部無駄金。
24人間七七四年:2012/10/25(木) 18:43:17.83 ID:o5qn/mo5
地元のDQNがストリートダンスやスケボーの練習場にしてるようなところは大体失敗した跡地。
25人間七七四年:2012/10/25(木) 19:19:06.60 ID:v8fctGZt
>23、公共事業は金を使うのが目的だけどなw・・・まあ尾張さまなら兎も角利家とかおにいちゃんだと必要なところにしか使いそうもないが
26人間七七四年:2012/10/25(木) 22:14:12.55 ID:LHMizG6b
ずばり聞きます

1.織田信長を本当に討ったのは明智光秀本人の意思ですか?

2.天海は明智光秀と思われますか?
27人間七七四年:2012/10/25(木) 22:19:40.91 ID:zFNn+Zn8
28人間七七四年:2012/10/25(木) 22:54:00.08 ID:NtEXG0w+
慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)
29人間七七四年:2012/10/26(金) 01:00:13.74 ID:Xc640gXl
待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような
30人間七七四年:2012/10/26(金) 03:54:37.96 ID:8dhAPQZi
後ろで采配してたんだろうな
いい話だ
31人間七七四年:2012/10/26(金) 05:10:22.88 ID:z3mDjgZL
雑魚武将の話を発掘してみる。

蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。

…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。

ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。
32人間七七四年:2012/10/26(金) 05:42:18.69 ID:MtAUdzdA
天庵様が興味を示されたようです
33人間七七四年:2012/10/26(金) 08:13:51.18 ID:wJxlblL8
こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか
34人間七七四年:2012/10/26(金) 18:22:44.89 ID:5bAlAIIx
>32、天庵さまはちゃんと俸禄貰ってる身分で終わってるだろ
35人間七七四年:2012/10/26(金) 18:27:21.87 ID:Mf2CTX0f
伊達政宗、フィ−バー・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1353.html

↑にある寛永十二年正月二十八日の政宗亭への将軍家光の御成。
政宗渾身の接待に家光も喜んだことこの上なく、後日同朋衆の佐野福阿弥を通して、
なんと直筆のこれを感謝する書状を送ったほどであった。

さて、この書状が届いた日は取り分けて天気快晴であった。
ところがどうしたことであろうか、政宗の座敷の前の庭に、一尺(約30センチ)あまりの鯉が空から降ってきた。
しかも空から落ちてきたくせに極めて生きが良く、庭でピチピチ跳ね踊っていた。

政宗の周りに居た侍たち、「こんな目出度い日に鯉とは!なんと折の良いことだ!」
とこれを捕まえ喜んでいると、政宗はすぐさま包丁を申し付け、これを料理し祝いの酒とともに列座の諸侍に
振舞ったそうである。
…空から降ってきたことは、特に疑問に考えていなかったようである。

が、その後政宗が仙台に帰国していた7月の初め、島津家の上屋敷より出荷があり、伊達屋敷も尽く消失してしまった。
人々は

「伊達屋敷が燃えたのは鯉が空から降ってきて、あまつさえ食べたせいだよ。」

と囁いたのだという。
(玉露叢)
36人間七七四年:2012/10/26(金) 18:34:01.97 ID:N6X1y0F7
竜巻にでも巻き上げられたのかねー
37人間七七四年:2012/10/26(金) 18:36:54.30 ID:o7hxpn4H
出荷じゃなくて出火だよね
一瞬島津さんとこが鯉を出荷したのかと

しかしどう対応したら正解だったんだ
38人間七七四年:2012/10/26(金) 19:43:41.42 ID:28nmfMky
ファフロツキーズ(空から落ちてくるもの)の事例がまだあったとは、
FORTIANに連絡しなければ
39人間七七四年:2012/10/26(金) 19:53:22.52 ID:8d5Ap/Yi
こちらが時空警察の捜査員が捉えた事件の真相である
ttp://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira123732.jpg
40人間七七四年:2012/10/26(金) 20:46:22.43 ID:hPEqwThh
古代中国の怪異書 『捜神記』にも、 宮殿に魚が降った記録がある。その解釈は、

「魚には鱗があり、鱗は甲冑に、甲冑は戦に通ずる。それが宮殿に降ったということは、
即ち天下に戦乱が起きるということだったんだよ!!( AA 省略」

ナ、ナンダッテー


事実そうなった


どっとはらい
41人間七七四年:2012/10/26(金) 21:38:15.19 ID:NaMLM/Cn
釣り人が釣り上げた拍子にバラしてしまったとか?
しかし魚が空から降ってきても不思議がりもせずヒャッホーしてるあたり政宗というかなんというか

案外、誰かが迷信の事を言い出す前に
とっさに縁起の良さに結び付けて場の空気が悪くなるのを防いだのかも
42人間七七四年:2012/10/26(金) 22:33:33.81 ID:+oB3hxg8
徳川家康がある時、この様なことを仰った。

「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!

少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!

しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。

物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。

こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。

主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)

徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話
43人間七七四年:2012/10/26(金) 22:33:36.71 ID:k4qeeCS7
うちから火がでちゃったのはアイツのせいなんだよー!っていう責任転換の企み…じゃないよね。
44人間七七四年:2012/10/26(金) 22:38:25.75 ID:gS9QP7Ba
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6455.html
使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな
45人間七七四年:2012/10/26(金) 23:06:27.36 ID:ulPhwur8
慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。

子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」

こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。

父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」

父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。

それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)
46人間七七四年:2012/10/26(金) 23:20:06.92 ID:wJxlblL8
>>42
>しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
・・・正純さん
47人間七七四年:2012/10/27(土) 00:20:22.17 ID:aEIVsLLX
>>42
200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。

>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子
48人間七七四年:2012/10/27(土) 00:55:29.38 ID:rESl656N
悪い話を一丁。まとめにもないと思う。


関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。

だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。

そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。

この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。


あなたならどの説を採る?
49人間七七四年:2012/10/27(土) 01:05:20.00 ID:rlRYPEzW
あれ、異世界に漂流したんじゃなかったか

てのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが
50人間七七四年:2012/10/27(土) 06:33:28.50 ID:MTzhoiLC
下国師季は謎が多い。

彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きているなかなかの長寿。

問題は師季の妻だ。

師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。

戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。
51人間七七四年:2012/10/27(土) 12:25:15.37 ID:OEYb97HQ
>>50
山口直友パート2くらい言ってあげなよ。w
52人間七七四年:2012/10/27(土) 12:34:48.76 ID:sWrG/cwG
小少将と長宗我部元親は小少将がうんと年上だそうだが、これはどう呼ぶんだ
もっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが
53人間七七四年:2012/10/27(土) 12:38:17.36 ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな
54人間七七四年:2012/10/27(土) 12:41:57.97 ID:qWN6W0Zi
加藤茶は現代だから注目されるけど
昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね
55人間七七四年:2012/10/27(土) 13:17:11.00 ID:aEIVsLLX
13歳くらいで嫁いだものの、高齢の夫に興味持たれないまま先立たれて、手付かずのまま生涯を終える姫とかいそうだよな
56人間七七四年:2012/10/27(土) 14:01:43.46 ID:bDmnSvcG
>>54
そこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ
57人間七七四年:2012/10/27(土) 15:18:04.49 ID:XLJRcSZd

松平信綱は大下戸であった。対して土井利勝は大上戸であった。
信綱は「天下の老中でありながら酒を飲むなど…」と心の中で誹った。

ある日、老中たちが神田橋を通った時、一人の酔っ払いが
ヨロヨロとみっともなく歩いていた。

これを見て「良い機会だ。利勝を困らせよう」と思った信綱は
「大炊殿大炊殿、向こうを御覧なされませい、見事な伊達歩みですぞ」
と言った。

すると利勝は「伊豆殿、御嗜みなさい。下戸が酒に酔うことほど
見苦しいことはありません」と返したので流石の信綱も返答できずに
困ってしまった。

――『名将言行録』
58人間七七四年:2012/10/27(土) 15:37:17.57 ID:aIJKGdv5
土井さんは大上戸だったのか
めんどくさい人たちが揉め事起こしたら
ベロンベロンに酔わせて権現様と錯覚させて解決させてたかも
59人間七七四年:2012/10/27(土) 16:00:05.01 ID:t2TVrZnV
飲まなきゃやってられないんだろう。
60人間七七四年:2012/10/27(土) 16:24:55.93 ID:oclVz5Rv

      _,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_      _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
     / ●ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽ    > そ、その動きは伊達歩み!<
     l       l .l l .l l        ̄∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ ̄
     `'ー---‐´‐´‐´‐´‐´
61人間七七四年:2012/10/27(土) 16:32:57.31 ID:i/mGEpuT
いもむし!?
62人間七七四年:2012/10/27(土) 17:18:18.46 ID:9ySdeeFX
伊達巻かと
63人間七七四年:2012/10/27(土) 17:24:50.36 ID:i/mGEpuT
ナルホド。がってん合点
64人間七七四年:2012/10/27(土) 17:27:20.02 ID:sWrG/cwG
色的にずんだ餅の材料かとおもった>イモムシ
65人間七七四年:2012/10/27(土) 18:10:48.82 ID:ZXiMqwVP
後ろはまーくん色に染まった家臣団です
66人間七七四年:2012/10/27(土) 18:27:25.72 ID:MTzhoiLC
発掘研究などから下国師季が茂別館を追われたのは永禄5年(1562)は誤りで、
永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?
67人間七七四年:2012/10/28(日) 01:05:14.60 ID:enuPRoD0
ところで蠣崎氏といえば、二代当主の蠣崎信広って
若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる

なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような
68人間七七四年:2012/10/28(日) 01:46:20.58 ID:GbnvUDqp
>>64
原材料イモムシってそれ何処のゲテモノすぃ〜つ…。

>>60
見ようによっちゃずんだ豆?眼帯した豆キャラクターにしたら売れるかなw
69人間七七四年:2012/10/28(日) 07:21:13.20 ID:lRKgg1Vm
>>67
全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民を殺すこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。
70人間七七四年:2012/10/28(日) 14:27:16.24 ID:MFodyCec
全部は秀吉あたりに出仕する時にでもでっちあっぷした後付だなきっと
71人間七七四年:2012/10/28(日) 17:21:36.54 ID:41hI+zuF
何となく意味は分かるが日本語になってねぇ
72人間七七四年:2012/10/28(日) 17:42:57.59 ID:r0VZYzL9
【テレビ】NHK「14年大河」ホントは「島津義弘」だった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1351326083/

ソース:Infoseek ニュース/ゲンダイネット
http://news.infoseek.co.jp/article/27gendainet000177457
73人間七七四年:2012/10/28(日) 17:44:13.64 ID:r0VZYzL9
<朝鮮出兵がネック>
3週連続で1ケタ台の視聴率にあえいでいるNHK大河「平清盛」。
21日の放送は関西地区で7.5%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、
またまた過去最低を更新。最終回(12月23日)まできっちり放送するというが、
クライマックスの源平合戦を待たずして“討ち死に”状態である。

早くも話題の中心は次の大河に移っていて、13年は綾瀬はるか(27)主演の「八重の桜」、
14年は岡田准一(31)主演の「軍師官兵衛」と先日発表になったが「本当は『島津義弘』が当確だったが、
二転三転し、黒田官兵衛になった」というのはNHK関係者だ。

14年大河を巡っては、発表の1カ月前にも一部スポーツ紙が「明智光秀が有力」と報じている。
しかし、フタを開けたら「官兵衛」になっていた。舞台裏で何があったのか――。

島津義弘は、織田信長や豊臣秀吉と同世代に活躍した薩摩の戦国大名。
島津家中興の祖といわれた第15代当主・貴久の次男で、兄の義久を助けた島津家最強部隊の将だ。

関ケ原の合戦では300足らずの兵で敵中突破したことで有名。
他にも、文禄の役と慶長の役で朝鮮へ出兵し、明の大軍相手に
勇敢な戦闘力を発揮したことで知られる。
74人間七七四年:2012/10/28(日) 17:45:07.66 ID:r0VZYzL9
「その豪快なエピソードがネックになった。朝鮮出兵は義弘公の見せ場のひとつ。
“鬼島津”と恐れられたという資料も残っている。絶対に外せないシーンだし、
申し分ない“山場”です。が、8月に勃発した竹島の領土問題で日韓が揉めている中で、
局内から難色を示す声が出た。物議を醸すような事態を避けたわけです」(NHK関係者=前出)

義弘公の地元・鹿児島は県を挙げて大河の誘致活動に積極的だった。
数年前には鹿児島にゆかりのある人物でプッシュしようと署名活動までし、
09年には「観光かごしま大キャンペーン推進協議会」を発足させ、
昨年10月にNHKへ要望書を提出していた。

大河の舞台となった地元への経済効果は絶大で、
08年の「篤姫」は鹿児島県内に262億円をもたらした。
コトなかれ主義で弱腰なNHKと野田外交に振り回されては、
義弘公もいい迷惑である。(了)
75人間七七四年:2012/10/28(日) 17:56:51.64 ID:KLaFifEY
ソースはゲンダイネット、はい解散。
76人間七七四年:2012/10/28(日) 18:00:54.00 ID:KxF19LFE
NG余裕でした
77人間七七四年:2012/10/28(日) 18:47:15.13 ID:5Qsk18pC
ゲンダイはおいておくとして朝鮮征伐はタブー化されてるよね漫画でもドラマでも。
78人間七七四年:2012/10/28(日) 20:33:43.69 ID:n6iugp6u
どうせ嫌々出兵してあっちの義兵とやらにコテンバンにやられたけどなんとか撤退できたみたいな流れにされるんだろうな

大河にするなら義久の方がいいと思う
自分は目立たなくても弟たちを上手く指揮した名将ってことでどっかの総理たちに見習ってほしい
79人間七七四年:2012/10/28(日) 20:40:27.13 ID:k+NV0yan
清盛で儲けられなかった兵庫へのお詫びだと思ってた
80人間七七四年:2012/10/28(日) 21:21:46.85 ID:hbstFqpK
鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。

22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。

秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。

「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。

秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)

「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。

秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。

こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)
81人間七七四年:2012/10/29(月) 22:19:31.79 ID:N9b6t+TY
秋山虎繁の矛盾

伊那郡代の武田家臣、秋山虎繁。
彼は信玄の西上作戦の折、別働隊を率いて東美濃に侵攻、遠山夫人おつやの方を誑し込んで岩村城を落とす活躍をしたと言われる。
しかしその一方で、信玄とともに三方原の戦いに参加したという記録もある。

あるぇー、どっちだあ??

しかも前者の場合、当初から同盟者信長に対して断交を宣言するものであり、上洛して天下を取ることを視野に入れた行動であったことを示すが、
後者の場合、あくまで狙いは徳川領の奪取だったということになり、その違いは大きい。


…どうやら答えはどうも後者のようだ。
秋山はずっと山県昌景と行動をともにしており、一緒に信玄と合流したという。
では岩村城はどうなったのだろうか?
実は信玄動くの報を聞き、自ら武田側に寝返ってしまったのが真相のようである。
また城主遠山景任は信玄が動くより以前に病没していたという。
そして岩村城に武田方から援兵として送られたのが秋山…ではなく、下条伊豆守という武将であった。
この後行われた上村合戦というのも裏切った遠山夫人に対する他の遠山一族との戦いだったようだ。
秋山虎繁が美濃に向かい岩村城に入るのは三方原の合戦も終わり、信玄が死ぬ直前になってからのようである。

各書物もこれを裏付けるような記述が見られる。
『甲陽軍鑑』においては「馬場信春が岩村城を落とした」など間違いはあるものの、
三方原の合戦の後「徳川の陣に織田家の平手らがいたのはうちへの敵意の表明だよな?」と言ってここで断交を宣言。
その後馬場が岩村城を落とした後、秋山が入城したとしており、流れ自体は概ね合っている。
『三河物語』にも武田軍は手引きをする者がいたので東美濃へ向かうことにしたとあり、
遠山夫人の裏切りを示唆している。
82人間七七四年:2012/10/29(月) 22:34:46.34 ID:Zq4K3Vw0
岩村城みたいな前線の重要拠点がろくに調略もされていないのに裏切るって、
そりゃ信長は怒り心頭にもなるだろうなぁ。まともに調略された武田崩れの時の木曽よりもアレかも。

しかも、場合によったら織田が武田崩れのような連鎖的造反になっていたんだものなぁ。
83人間七七四年:2012/10/29(月) 23:14:10.36 ID:dokWj/k2
だから逸話をだな
84人間七七四年:2012/10/30(火) 00:28:44.16 ID:xScnRV2g

徳川家の家臣である小栗又一は己の武功を誇り甚だ人を軽蔑し、
多少の誉れのある者なら「米数米数」と言って嘲っていた。

ある時、又一は勝れた武功があってもそれほどの増地がないのに、
久世広宣と坂部広勝が知行を多く賜ったことに腹を立てていた。

そんな時に又一と広宣がばったり出くわした。又一は腹を立てた顔で、
「お前たちは何事をして、多分の御加増を取ったのだ」と言い咎めた。

これに広宣は「この耳たぶが厚いので御加増を取りました」と、自分の耳を
引っ張って見せた。これには流石の又一も白けて笑いながら通り過ぎた。

人々は「広宣の挨拶は奇妙だ」と感じあったという。

――『名将言行録』
85人間七七四年:2012/10/30(火) 00:34:17.82 ID:xScnRV2g
>>84
あっとちょっと訂正を
×これに広宣は
○これに広宣は笑って
86人間七七四年:2012/10/30(火) 04:08:43.60 ID:uQi0NCj2
おつやの裏切りは武田にとってもプラスになってないんだよな。
これのせいでなし崩し的に織田と敵対する羽目になり、後の滅亡に繋がるわけで。
もっともあちこちに「俺近いうちに上洛するから」って宣伝しまくってた信玄にも問題があるわけだけども。
87人間七七四年:2012/10/30(火) 07:00:14.84 ID:5zL6fSPa
天正十二年、最上義光は天童攻略にかかり、十月にはついに城が落ちた。
ちりぢりになった天童家臣のうち、藤の山大膳ら十六人は、慈恩寺をめざし落ち延びていくこととなる。
一行は溝延の渡しまで来て、船頭に話しかけた。
「おーい、向こうへ渡してくれんかあ」
「山形から落人は渡すなと命令されていますが、見ればあまりにお気の毒なことで。
小さな舟ですが乗せましょう」
この言葉に安堵した一行は我先にと舟へ乗り込む。ほどなく岸につこうとしたところ…
事件は起こった。
なんとあの船頭が舟のふちにあがり揺さぶり、次から次へと落人たちを水へと落としたのである!
落ちたほうはたちまち溺死してしまった。

船頭が義光配下であったのか、ただ単に恩賞にでも目がくらんだのかはわからないが、
地味ではあるが後味の悪い話である。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
881/2:2012/10/30(火) 07:58:19.47 ID:Rgn5Goix
天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置への大きな反発の一つとして勃発した九戸政実の乱。
要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた

『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。

ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。

よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』

これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」

これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。

今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」

そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに

「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人を殺すというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」

この言葉に九戸政実の遂に、降伏を決めた。


当然、長政の嘘である


九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。

「騙された!」

もう遅かった。
892/2:2012/10/30(火) 08:00:23.27 ID:Rgn5Goix
蒲生氏郷は「九戸の者で城から落ちようとするものがあれば、すべて殺せ!」と命じた。
政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。

哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」

母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は

「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」

そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき

「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えすと、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」

そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。

北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」

この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。

九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)

九戸政実の乱、処分の?末である。
90人間七七四年:2012/10/30(火) 10:09:18.07 ID:11RoK+SS
九戸政実の乱と肥後国人一揆については、ちょっと悪い話どころじゃないよな。
91人間七七四年:2012/10/30(火) 10:31:23.51 ID:WmDBGrPA
時勢を読めなかったってことなんだろうなー
92人間七七四年:2012/10/30(火) 10:42:16.15 ID:UPwYGmX+
名門でも無い雑魚大名は皆殺しがデフォだな
秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ
93人間七七四年:2012/10/30(火) 11:22:11.60 ID:kiwqNgSz
秋月は平家方に味方して大宰府現地長官の地位を追われた人の末裔
94人間七七四年:2012/10/30(火) 13:54:35.38 ID:1CCIsB62
ああ、すごく悪い話だな
95人間七七四年:2012/10/30(火) 13:58:45.76 ID:rA8w7bE1
汚いなさすが南部きたない
96人間七七四年:2012/10/30(火) 21:10:12.13 ID:1Mij6FVA
>>50>>54
歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな
97人間七七四年:2012/10/31(水) 06:45:21.74 ID:PdAsCncF
北海道駒ヶ岳の名の由来

道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。

その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。

しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」

こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。

これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。

以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。
98人間七七四年:2012/10/31(水) 07:18:04.40 ID:89foey0g
自分を人身御供としたいい話
99人間七七四年:2012/10/31(水) 09:02:24.10 ID:Hy/vmaIW
天正十二年、最上義光は夏から天童攻略のため調略にかかり、延沢満延はじめとする天童八楯らが次々と寝返った。
そして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、いよいよ天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、天童衆たちもまたあるいは討たれ、
またほうぼうの寺に逃げ込み、そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。

さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。いかがなものか。
城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
(のだが、のちに許されたのか安房守は最上家臣になっている)

これは寝返った家老でも切腹させないいい話ととるべきか、はたまた約束を裏切った悪い話とみるか…。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
100人間七七四年:2012/10/31(水) 09:34:28.47 ID:sn72QCxX
小山田信茂「土壇場で裏切る奴なんて信用できないよね!」
101人間七七四年:2012/10/31(水) 09:51:49.35 ID:+TErNPel
朝倉景鏡「全く、仰る通り」
102人間七七四年:2012/10/31(水) 09:59:23.90 ID:wEJk1wDV
持ち出した系図というのは本物なのかな
103人間七七四年:2012/10/31(水) 11:31:09.25 ID:ejv01xH/
>>102
偽者であっても「落城間近の城より家老によって持ち出された品」という
由来があるから問題ないんだろう
104人間七七四年:2012/10/31(水) 17:26:27.20 ID:xZ03Tsiv

江戸の米蔵に納められる米の量があまりに多いので欠米が出来るようになった。
また諸国からの運搬も費用が莫大なので、勘定頭は徳川家康に「米蔵の数を減らせば
有益になることでしょう」と申し出た。

しかし家康は甚だ怒って「蔵の数が多ければ、欠米が多くて益にならないことくらい
存じておる。だがよく考えろ。もし事変があった時、国々の米は当地へ運搬できるのか。
もしくは洪水や旱魃の時ならば、米価は高騰して当地に寄り集まっている人民は
皆飢えに苦しむことになるぞ。

そのような時の為を思えばこそ、無用と知りながらも常々多く貯蔵しているのだ。
並々の勘定役ならばともかく、頭ともなって天下の会計をも掌る者が、そのように
浅はかな心得では務まらぬぞ!」といたく戒めたという。

――『徳川実紀(駿河土産)』
105人間七七四年:2012/10/31(水) 20:00:42.25 ID:rupB6Urn
>>97
饅頭でも投げ込んどけば良かったのに。
つか20人て。何でそんな大盤振る舞いしてんのー!?
106人間七七四年:2012/10/31(水) 20:22:37.76 ID:nnQL2ncF
>>104
家康は貧しい時代を生きてきたから余計蓄えが欲しくなるんだろうなー
107人間七七四年:2012/10/31(水) 20:27:32.70 ID:s/DXDplQ
南龍公徳川頼宣が船で沖に出た時のこと。
この日、大雨洪水となり船は海上三里まで漕ぎ戻され、さらに頼宣の乗る船に雷が落ちた!

と、頼宣の御座の近くに火の玉が転がってきた。コレを見た頼宣はすぐさま毛氈を取ってこれに打ちかけ

「それ!手取りにせよ!」

と下知する。近習の者たちも常の男ではない者ばかりであったので「心得た!」と、この火の玉を抱え取ろうとするが、
しかし火の玉はここかしこと動きまわり、ついに取り逃がした。

ちなみに、船の下の間に詰め居た水夫たち5,6人はその時、雷の直撃により全員炭となり、骨も砕けて死んでいたそうである。
(武野燭談)

徳川頼宣の、豪胆なんだか呑気なんだかよくわからないお話。
108人間七七四年:2012/10/31(水) 20:50:58.34 ID:qvsXqcah
炭となって骨まで砕けるような雷が落ちたら
船もただじゃ済まないだろ
109人間七七四年:2012/10/31(水) 22:01:07.59 ID:XPWxlZzv
珍しい話だな
ひこにゃんよりも具体的だ
110人間七七四年:2012/10/31(水) 22:58:07.71 ID:nnQL2ncF
火の玉を追って左右に動く様は想像するとコミカルだけど、
実際は嵐の中で立ってるのも難しい状態だったんだろうなー
111人間七七四年:2012/11/01(木) 00:23:15.30 ID:7nBBXTNU
大槻教授「それはプラズマです」
112人間七七四年:2012/11/01(木) 10:27:19.84 ID:Ayjtu7cO
球電(ball lightning)ですな。
113人間七七四年:2012/11/01(木) 13:49:40.28 ID:ie5XhP57
道雪先生が斬りかかりたそうに見つめている!
114人間七七四年:2012/11/01(木) 15:07:29.79 ID:G6GR3wVv
道雪VS菅公の雷神対決と聞いて
115人間七七四年:2012/11/01(木) 15:25:15.31 ID:V46KQ4t9
そこへ乱入する独逸軍試作対空戦車
116人間七七四年:2012/11/01(木) 16:41:33.45 ID:97C/7Ksl
に乗って指揮するシュトゥンメ中将
117人間七七四年:2012/11/01(木) 18:48:41.51 ID:tLEBvDln
あの老武士は、老いぼれているのでなかろうか?
各方面から招かれれば気安く受けて出向いては、
なんやかんやと熱心に話をしているそうだ。
ここ数年のあの方を見ていても、
世のため人のためになることを考えて暮らしているのがよくわかる。
このうえもない奉公好きとしか言い様がない。
だから、ひときわ目立っていたしお役にも立っていた。
しかし人間というものは耄碌するときには、
自分の得意であったことが剥き出しに出てくるもの。
これは奉公耄碌だろう。
たとえ人のためだとしてもこの耄碌は危険である。
老人はあまり世間に出歩かない方が重みもあり、
そのほうが言行も整っているように見えると思う 【葉隠】
118人間七七四年:2012/11/01(木) 19:44:59.17 ID:pFOZ5H7e
某元都知事のことですね、分かります。
119人間七七四年:2012/11/01(木) 21:36:48.36 ID:rtf0HjmB
話してるのを見るとボケてはいないと思うけど、もう80歳だからなぁ
120人間七七四年:2012/11/01(木) 23:38:03.08 ID:x6KukIvM
目をシバシバし過ぎ
121人間七七四年:2012/11/02(金) 01:06:41.38 ID:gqjC5NTI
部落差別の次はチック差別か。
本当にサヨ野郎は最低の差別ファシストばかりだな。
122人間七七四年:2012/11/02(金) 03:32:33.10 ID:94eY9sen
千利休は茶の湯においては決して妥協は認めない、その様な強情な所があった。
利休のそうした頑なな性癖が秀吉との衝突を招き、切腹の一因になったともいわれている。

その利休の弟子にも又頑固で強情な人が居た。

彼の父は優れた武人であると同時に、優れた教養人でもあった。
その薫陶を受けた彼は、武の道だけではない、歌、画、舞、そして茶、
全てをこなす父にも負けない人物に成長したのだが、
「武士たるもの、常に出陣の覚悟をしてしかるべきである。
 茶の湯はその余暇に楽しむ物だ。」と、あくまで武を第一と考えていた様である。

利休は茶の湯においては、身分を差を越えた交わりを求め、
刀掛を創り、武士には茶室での武装を固く禁じた。
しかし彼はこれを決して受け入れず、常に脇差を差したまま出入りした。
これには利休もほとほと閉口し、遂には特例として黙認したという。

利休門三人衆や利休七哲に数えられる細川三斎の逸話である。
123人間七七四年:2012/11/02(金) 03:35:55.24 ID:94eY9sen
武人として芯の通った良い話とするか、茶人としての悪い話にするか非常に微妙で迷ったけど悪い話へ。
事実なのか、特例をいつまで続けていたか、等気になる話です。
124人間七七四年:2012/11/02(金) 04:35:16.52 ID:pwxqD/m1
曾呂利新左衛門の無欲?な褒美

有名すぎるせいか知らないけどまとめになかったので。

ある時曾呂利新左衛門は秀吉から褒美をもらうことになった。
何が良いかと問われると「米を1粒欲しい。」と言う。
秀吉は「たったそれだけ?」と思ったが、「ただし」と続ける。
「1日目は1粒、2日目は2粒、3日目は4粒、4日目は8粒…と倍々にしていってください。」と言う。
「それでいつまで続ければいいんだ?」と聞くと「1か月で結構です。」と答える。
これに秀吉は「なんだ大したことないな。構わん、くれてやろう。」と認めた。

しかし実際に褒美をあげてみると、20日目くらいで秀吉は音を上げた。
これは数学で等比数列の和のことで、
新左衛門に与えられる米の数は2^x - 1 (xは日数)の計算式で表される。
20日目は2^20 - 1 = 1,048,575と100万粒を超える。
1俵が250万粒ほどなので、あとは米俵を倍々で与えることになり、こりゃたまらんということになったという。

昔数学の先生から聞いた話。
他に81日とか100畳に順番に置いていくパターンとかあり、そっちはもっととんでもない数になる。計算してみれ。
125人間七七四年:2012/11/02(金) 05:32:15.23 ID:vuuYzn3g
小学校ん時に算数のドリルのコラムで見た記憶あるわこの話。
126人間七七四年:2012/11/02(金) 05:43:24.79 ID:nXPt3N/K
>>122

宇喜多直家「茶の席ってリラックスするためのものだろ」
127人間七七四年:2012/11/02(金) 07:14:59.45 ID:5+mcFQY3
筋弛緩剤はおやめくだされ
128人間七七四年:2012/11/02(金) 08:32:19.26 ID:2zpl/52J
肩凝りの酷い俺には妙薬なんじゃがのう
129人間七七四年:2012/11/02(金) 12:30:24.12 ID:sIApixx3
>>124
わかってたとしたら、嫌がらせとしか思えない

>>122
なんだかんだ言って許されていたんだろうな
130人間七七四年:2012/11/02(金) 12:34:12.72 ID:sIApixx3
>>117
元都知事のことを言ってるんだとしたら、かわいそう

>>107
こんなことありえるのか

>>104
災害に備えることは政治家として必要な資質ですね
131人間七七四年:2012/11/02(金) 13:04:25.05 ID:rbbH17K0
>>129
落語ではこの米を貧しい人に分け与える、ってオチになってた
132人間七七四年:2012/11/02(金) 21:28:40.68 ID:CR3T1SYv
>>129
最初は一粒、次はその倍っていうのは、インドの説話で将棋を王に教えた人が
その御礼に将棋のマスに麦を…っていうのがあるぐらいに昔からある話。

なので、わかっていたらもなにも…
133人間七七四年:2012/11/02(金) 22:05:28.74 ID:pwxqD/m1
誰も計算する奴がいねえ…。1俵あたりの粒数のヒントまで与えたのに。
数字苦手な奴多すぎの悪い話だ。
134人間七七四年:2012/11/02(金) 22:16:11.32 ID:Ez04kKUk
だってlog使えばlog2=0.3とすると(0.301のほうが正確だろうけど)
log(2^81)=81log2≒24
log(2500000)=7-0.6=6.4
よって10^(24-6.4)=17log4で4×10^17俵
100だったら
log(2^100)=30
10^(30-6.4)=4×10^23俵
すぐに出るしいちいち書くのも馬鹿らしい
135人間七七四年:2012/11/02(金) 22:17:48.89 ID:Ez04kKUk
訂正
上の方は81だから(80で計算してしまった)
8×10^17俵

一応正確な計算では9.67×10^17俵と
5.07×10^23俵だからlog2=0.3で充分だな
136人間七七四年:2012/11/02(金) 22:49:47.64 ID:f/GrUYnw
google先生に聞いたらすぐやがな。
137人間七七四年:2012/11/03(土) 00:11:53.47 ID:nm35Z0tf
>>132
すまん
138人間七七四年:2012/11/03(土) 00:20:38.37 ID:+m4pujE2
30日ならともかく、81とか100なら直感的に膨大な数になりそうなのが分かりそうなもんだが。
139人間七七四年:2012/11/03(土) 00:25:12.98 ID:Xy+T4uLQ
だいたい計算してみれって
計算してもここにわざわざ書き込むとは限らんだろ
140人間七七四年:2012/11/03(土) 00:44:04.95 ID:0bGScpr4
本多正信が石田三成の

石田三成の勤勉・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-419.html
コレについて評論してたので投稿してみる


本多正信がある時、家司の忠義ということについて、息子正純にこんな事を言った

「忠に似た不忠、というものがある。

例えば石田三成という人について、彼は大風雨のあった夜に、御城廻りの破損のことを一々見て、
明けた卯の刻(午前5時頃)には秀吉公に報告を提出した。
普請奉行から正規の被災報告が上がってきたのは、大きく遅れて巳の刻(午前9時頃)であった。
これは普請奉行の面目を完全に潰し、また反発を生む。

三成のやったことは一見良いことに見える、しかしこういった類の行為は、実際にはその家のため、また
家中の組織のためにも決して良い行いではないのだ。」
(武野燭談)

家司として忠義を成そうと思えば、家全体に与える影響を考えろ、という本多正信のお話
141人間七七四年:2012/11/03(土) 01:00:42.89 ID:UuVLxj1n
して、その面目をつぶされた奉行の名はなんと申すのですか?
142人間七七四年:2012/11/03(土) 01:08:01.63 ID:Xy+T4uLQ
三成と正純って比較されることが多いような
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html

それはそうと、>>141の元ネタのこの話だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html
ちょっと前に出てきた話でも権現様は同じ事を言ってるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6944.html
143人間七七四年:2012/11/03(土) 08:05:44.19 ID:UzjnuD4y
>>140
「あいつが馬鹿みたいに働くから、まるで俺たちが働いてないように見えるじゃないか!」
と不良社員が糞真面目社員をイジメだすのがよくあるし、今も昔も変わらんなぁ
144人間七七四年:2012/11/03(土) 08:43:53.25 ID:3/lmW+3v
>>140
戦場で言えばただの軍法破りの抜け駆けだしな
145人間七七四年:2012/11/03(土) 08:49:11.24 ID:l6rLnvt2
この三成には辻正信的な越権行為を感じる
奉行の報告も遅すぎるわけでもないし、
調査内容に手落ちがあった場合、そこだけを報告すればよかった
146人間七七四年:2012/11/03(土) 09:05:55.53 ID:XarWoEfn
三成はよかれと思ってやってるんだろうけどな
気をつけねばならん
147人間七七四年:2012/11/03(土) 11:02:06.15 ID:nrl01yBv
本多正信、辻正信、本多正純、石田正澄
下の名前だけだとなんだかややこしい
148人間七七四年:2012/11/03(土) 13:40:12.66 ID:wOSt/pQ5
>>145
さすがにつじーんと一緒にすんのはあんまりだ
149人間七七四年:2012/11/03(土) 13:40:18.44 ID:rNEhluPK
このスレ見ていていつも思うのは、愛知県民と佐賀県民とだけは絶対に友達に
なりたく無い、ということ。
逸話を読んでいるだけなら面白いで済むが、近くに居たらブン殴っているレベル
150人間七七四年:2012/11/03(土) 13:50:16.30 ID:NFcVNCET
151人間七七四年:2012/11/03(土) 14:28:45.11 ID:wOSt/pQ5
というか>>140の話はみっちゃんがやっちゃった系の話で割と有名だが
武野燭談で佐渡殿が悪い例として引き合いに出したのが元ネタだったのか。勉強になったわ。
152人間七七四年:2012/11/03(土) 16:26:01.96 ID:XzFbIiT5
>>143
140で出て来る普請奉行は別に不良社員じゃないだろ。
役に対して過不足ない働きというか。

逆にお前は無能なくせに、やたら自己評価だけは高そうだなw
「俺の働きがなぜ評価されないんだ!不当評価だ!!」とか騒ぎそう
153人間七七四年:2012/11/03(土) 16:46:35.98 ID:bWgQyRhL
スルー推奨
154人間七七四年:2012/11/03(土) 17:09:20.00 ID:y5lH+/ED
逸話や史実での所業を見るにジブ殿には「無能な働き者」
という言葉がぴったり当てはまる。
そういう意味では辻正信や牟田口に近いという評価もあながち間違いではない。
組織においてこういう者は廃棄すべきなんだが
専横を許したことが秀吉の限界であり、豊臣政権の崩壊は運命づけられていたのだ。
155人間七七四年:2012/11/03(土) 17:57:03.29 ID:l9wklTSQ
鍋島助右衛門茂治殿の近所の寺で説法会があり、
助右衛門の娘はそれを聴きに出掛け、
そこから若党と駆け落ちした。
いくら探しても、行方がまるでわからなかった。
しばらくしてから肥後藩の家老に妾奉公してるらしいとわかり、
当家より何度か交渉に行ったがなかなか引き渡さない。
そこで、成富兵庫茂安を交渉人として、
加藤清正殿にお目にかかり、

兵庫「助右衛門の娘を渡してください」

清正「鍋島でその娘がなにをしたのか知らぬが、
当家を頼って逃げ込んで来た者だ。
武士として渡すわけにゆかぬ」

といっこうに承知なさらなかった。
兵庫はそこでかたちを改め、

兵庫「朝鮮では当家から御助勢をいたしたことがありました。
そのとき主計頭殿は、礼としてなにかあるときはなんでも協力しようと仰せになられました。
今がそのとき、助右衛門の娘をお渡しください。
それとも朝鮮での一言は無になさいますか」

と詰めよった。

清正「そこまで言われてはやむをえぬ。
身柄は渡すが、命だけは助けてやってくれ」

と折れられたので、仰せを伝えることを約束し、娘を受け取り帰った。
娘は帰国のあと自殺を命じられ、
助右衛門とその子息織部殿は家内不行き届きとして切腹ときまった。(1/2)
156人間七七四年:2012/11/03(土) 18:22:51.89 ID:l9wklTSQ
その決定を伝える使者が助右衛門の邸宅に行くと、
助右衛門と織部は碁を打ちながら、

助右衛門「ごもっともな処断。承知いたします。
とりあえず碁の勝負がつくまで、
しばらくご観戦していてください」

と言って顔色ひとつ変えず碁を楽しみ打ち終わった。
そこへ騒ぎを聞きつけた助右衛門の家来十八人が、

「われらも死出の旅へお供いたします」

と駆けつけた。
使者は、その申し出を、

「それはいかがなものか」

とためらったが、助右衛門殿の子息織部殿は、
使者にかまわずさっと庭におり立ち、

織部「覚悟を決めた者どもでございます。
わたしが介錯いたします。」

と言うや、たちまち十八人の首を斬り落とし(超スゴ腕!)、
最後は父子ともども見事な切腹をとげてみせた。
邸内を流れていた川は20人の血で紅に染まったので、
それ以降、人々は血川と呼んだとのことだ。
助右衛門殿の末子二人は乳母たちが抱いて逃げた。
蒲原善右衛門と、蓮池の鍋島又兵衛がそのときの二人である。
織部殿の息子は後に鍋島源右衛門と名乗った。

この事件について直茂公は、

「気のきいた者が一人もいないから惨劇となる」

と、悲しまれたとのことだ。
それは、助右衛門の家をいったん預かりたいと申し出る者がなかったからだという【葉隠】
157人間七七四年:2012/11/03(土) 19:20:57.81 ID:bFvUsayr
>>155,156
んーどこかで見た気がすると思ったら既出だね

鍋島助右衛門の娘の駆け落ち
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3175.html
158人間七七四年:2012/11/03(土) 19:39:12.16 ID:l9wklTSQ
>>157
あらら、やってしまいましたね、すみません
お詫びとなるかわかりませんが少し付け足すと、
この茂治助右衛門という人は、
逸話中に出てくる朝鮮での加藤清正隊への助太刀の際に、
兄茂正と獅子奮迅の活躍をして、
清正公に大変感謝された武士。
で、この話には異説もあって、
駆け落ちではなく、助太刀に感謝した清正公が、
茂治の娘を肥後藩の家老の嫁として迎える約束を朝鮮の地で茂治と交わし、
そして帰国後、鍋島が代替りして勝茂公が他国との縁組をご法度としたから大変。
清正公と茂治は武士の約束として婚姻を進めて、
そのイザコザからあとは同じような展開に・・・
まあどちらにせよ、いい話ではないけど
159人間七七四年:2012/11/03(土) 19:47:16.66 ID:drdtR/QP
清正の面子丸つぶれどころじゃないなあ
160人間七七四年:2012/11/03(土) 19:57:06.70 ID:6utdV7RL
>>140
直接秀吉に報告するんじゃなくて
普請奉行に報告してあげれば丸く収まるのにね
能力があっても気遣いとか人間力が足りないとイカンよってことなんだろうね
161人間七七四年:2012/11/03(土) 20:06:58.23 ID:l9wklTSQ
自分で書いてて思ったけど、
登場人物全員、国の法も武士の掟も大事にする好人物ばかりなのに、
結果は散々な本当に悪い話だな・・・・
直茂公の言うとおり「気がきかないから」につきるかも
ルールと人情が対立したときの問題はいつも難しい
162人間七七四年:2012/11/03(土) 20:21:39.94 ID:0bGScpr4
元和元年(1615)の事だという

幕府重臣である酒井忠世と土井利勝が江戸城より退出するときに、御台所の入り口で、
そこで働く下男たちが、料理で切り残した魚鳥の肉を紙に包み、蔦で結ってこれを手に
出てくる所と出くわした。

切れ端とはいえ、幕府の予算で購入した食材の一部を自分たちのために盗んでいるのである。
下男たちは老中たちの姿に驚き慌て、包を袖や懐に隠しながら逃げ惑った。

これに、酒井忠世と土井利勝の後に居た老臣が見咎めて言った

「公の私(公務の中に多少の私情の入ること)とは言いながら、憎き奴原の仕業かな!」

ところが忠世と利勝はこれを聞くと、口をそろえて

「そうではありません。江戸が未だ経済的には豊かではなく、それ故に彼らも少ない扶持で
召し使われています。そんな彼らに、ああいった恩恵でも無ければ、どうして妻子を養えるでしょうか?
それに、彼らがあれを自分達の当然の得分だと思っていたら、あんなふうに隠しませんよ。

これはね、今は未だ私たちの目指す仁政が行き届いていないという事なのです。
だからそんなに咎めちゃいけません。」

そう言った。
そして忠世と利勝は

「本当なら、魚鳥の切れ端くらい、隠さずに持たせてやりたいものです。」

とも言った。
その程度の事は問題にならないような豊かな世にしたい、ということであろう
(武野燭談)


酒井忠世と土井利勝、切れ端の包に政治の至らなさを知る。というお話
163人間七七四年:2012/11/03(土) 21:09:56.53 ID:sA2vHhfG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6213.html
佐渡守「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを
盗む者も出たのです。」

いい方にも悪い方にも解釈できるんだな
164人間七七四年:2012/11/03(土) 22:09:01.01 ID:+0d2IRI4
そういう役得はあって当然というかそれを前提とした扶持を貰ってるイメージだったわ
別にそういうわけでもないんだな
165人間七七四年:2012/11/03(土) 22:09:22.86 ID:/Xo4EPr5
土井利勝は優秀で公平な官僚のイメージがあるなー
166人間七七四年:2012/11/03(土) 22:13:55.07 ID:9vM6Q9bY
これも土井利勝が下人をかばういい話とも受け取れるし。
167人間七七四年:2012/11/03(土) 22:17:16.31 ID:+0d2IRI4
あ、何も疑わずにいい話だと思っちゃった
ここ悪い話スレだったw
168人間七七四年:2012/11/04(日) 02:25:07.95 ID:fYEdNMoY
>>140
実際あったことだけど、無能な馬鹿社長に対しタダ働きする馬鹿がいた。
馬鹿社長はタダ働きしてくれるのが当然と思って他の社員にも平然と給与不払いをするようになった。
結局裁判起こして未払い分払わせてやったけどね。
タダ働きが美徳だとか思ってるんならとんでもない迷惑だよ。
169人間七七四年:2012/11/04(日) 04:43:48.58 ID:q608iAiU
何でも現代の話に置き換えないと気が済まない人がいるね。
別にアンタの身の上話なんか誰も求めてないよ
170人間七七四年:2012/11/04(日) 05:30:09.71 ID:Fqbh/aF1
実際、三成は現代の職場でも普通に見かけそうな小物臭がするんだよ。
なんつーかなんでこんな奴が英傑達に絡んでるの?的な。
なんか三成の話は感心させられる事も無ければ、破天荒ぶりでネタに出来るわけでもない。
ただただ、職場によくいるダメなタイプ思い出していらつかされるだけだ。
171人間七七四年:2012/11/04(日) 08:19:03.23 ID:T43Zh86V
徳川家が形成した三成奸物説は未だに払拭されないんだなあとオモタ
172人間七七四年:2012/11/04(日) 08:24:01.45 ID:Hv3r7jEj
そういう場合は払拭するための資料を提示すればよい
173人間七七四年:2012/11/04(日) 08:35:43.51 ID:HTOordGe
三成が嫌われ者というのは、親友の大谷が言ってしまっているから否定できないな
174人間七七四年:2012/11/04(日) 09:11:11.98 ID:jovbKjM/
別に三成は無能だとは思わんがのう
175人間七七四年:2012/11/04(日) 10:25:26.10 ID:icRhLJ2S
無能じゃないな。ただ絶望的に空気が読めないだけで。空気読んでなおDQNに走るまーくんもいかがなものかと思うが
176人間七七四年:2012/11/04(日) 10:29:57.79 ID:icm06Elw
>>171
徳川家じゃなくて、徳川におもねる諸大名が形成したんだけどな。
177人間七七四年:2012/11/04(日) 10:38:48.38 ID:F2Lf4tL/
極論すれば、>140の話が本当にあったことなのかどうかも不明だしなあ
成立が18世紀はじめなら、それまでに創作された話である可能性も否定できないし
178人間七七四年:2012/11/04(日) 11:58:38.82 ID:T43Zh86V
そうそう、創作話であーだこーだ言ってもねぇ
小説や大河に「史実と違うじゃん、作者は嘘が上手いなw」と突っ込む幼稚と一緒
179人間七七四年:2012/11/04(日) 13:59:39.15 ID:/Y7BiMA7
つうか>>140の逸話にしてから、
無能な働き者じゃなくて有能な働き者の例だからな。
つか、無能が三成位の出自であれだけの状況を作れる訳無いだろw
180人間七七四年:2012/11/04(日) 14:00:29.84 ID:q+SR5cnt
>>173
その話も常山記談が出典元(そもそも二人は親友ってほどでも無かったし)だからねえ。
つーかそこまで人格がアレな人に大名との取次役任せるとか秀吉何考えてんねんって話だしなあ。
181人間七七四年:2012/11/04(日) 14:21:27.98 ID:YQilf/0r
でも武闘派七将に殺されかけた位嫌われてた訳だし、その逸話が創作だとしても、それに近い事が実際にあったんじゃないかな。
182人間七七四年:2012/11/04(日) 14:29:23.71 ID:H6dQnCFz
三成に関しては人格云々はともかく、毛利輝元が「三成には言いたいことがはっきり言いづらい」みたいなことを
確か書状で書いていたな。
183人間七七四年:2012/11/04(日) 14:37:58.95 ID:7S8hb/cQ
良くも悪くも真面目で一本気な官僚タイプだよな三成
堅物すぎたのが不運を招いたのか
184人間七七四年:2012/11/04(日) 14:47:37.44 ID:cgic6LnU
最後には味方だったはずの諸侯に裏切られちゃうからね
185人間七七四年:2012/11/04(日) 14:58:27.17 ID:q+SR5cnt
>>182
「かの人大いに気をつかふ」は元のTERUの書状読むと文脈的に
「大事な取引先の人間だから気を遣わなくてはいけない」って感じの意味だと思う。
186人間七七四年:2012/11/04(日) 15:56:12.65 ID:Tpt5+bpq
現代社会の企業でも事務と営業、本社と現場、互いの環境や仕事のちがい
で不和が生じるようなもんじゃね?実際三成は槍働きより兵站や検地の方
が優れてると思うし
187人間七七四年:2012/11/04(日) 16:20:48.17 ID:F2Lf4tL/
>>181
政治的な対立感情と人格に対する嫌悪感は別物で一緒にしないほうがいいよ
188人間七七四年:2012/11/04(日) 16:45:10.84 ID:PIeEsjwD
>>140
まあ本当にこんな佞臣じゃ誰も味方しないし関ヶ原の西軍実質総大将的な見方をされることすらないだろうしな
189人間七七四年:2012/11/04(日) 16:46:57.13 ID:icm06Elw
>>186
検地はスペシャリストだけど、兵站はそれほどでも無いような。
むしろ槍働きの方が優れてる気も
190人間七七四年:2012/11/04(日) 16:49:36.93 ID:icm06Elw
>>179
逸話でどうこういうのも野暮だが、正しい意味で有能ならば、
担当奉行と軋轢を残すような処置はせんだろ。

ただの被害報告で緊急性はカケラも無いんだから。
191人間七七四年:2012/11/04(日) 17:16:00.39 ID:MHKIro6F
三成の検地は、言い方は悪いけど秀吉の威光を笠に無理矢理進めた感はあるけどな
だから地方の不満は爆発寸前というか、そこここで爆発しちゃったし
192人間七七四年:2012/11/04(日) 19:23:31.29 ID:q+SR5cnt
太閤検地による地方の不満は中世→近世への農村のシステムの変化によって
生じた軋轢みたいなもんで、三成のやり方云々は関係ないでしょ。
そもそも全ての国を三成が担当したわけでもないし。

>>189
賤ヶ岳以外何かあったっけ?>軍功
幸州山城攻めで負傷したりしてるし前線に立つことはあったんだろうけど。
193人間七七四年:2012/11/04(日) 19:45:35.35 ID:Fqbh/aF1
結局何が優秀で取り立てられたのかわかんない
194人間七七四年:2012/11/04(日) 19:58:03.69 ID:H6dQnCFz
三成は九州で島津を始めとした大名たちがとても無理と泣きついた太閤検地を、怒涛の勢いで
とにかく完遂したのだから、物凄い実行力があったのは解る。
今で言えば一度始めたプロジェクトはどんな手を使ってもある程度の形にするような、
「仕事の出来る男」ってタイプだったのだろう。
195人間七七四年:2012/11/04(日) 20:31:33.87 ID:q608iAiU
賤ヶ岳で偵察成功(一番槍も?)、上杉との臣従交渉で成功、
堺奉行として九州征伐での兵站を担当して成功、博多奉行で博多を復興、
小田原征伐で北部方面を担当、検地奉行として各地を検地
朝鮮での兵站や講和交渉など、佐竹島津などの取次、秀次事件の対処、
京都奉行、豊臣家蔵入地の管理

人間性は置いといて、この人の仕事面で優秀ではないと言い切るのは少し苦しいのでは
196人間七七四年:2012/11/04(日) 22:11:19.25 ID:T43Zh86V
三成一人で百人分の仕事をこなせるなw
197人間七七四年:2012/11/04(日) 22:29:04.20 ID:vPe2MraC
無能な人間百人よりは、秀吉と信長がそうであったように
確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし
198人間七七四年:2012/11/04(日) 23:30:14.57 ID:C8Kf5hoS
今の日本の会社組織も1人の優秀な人が三人の無能を食わせてるとか
199人間七七四年:2012/11/05(月) 00:36:11.48 ID:8/D3M1Pg
成果主義の弊害は自分の成果ばかり気にして同僚や後輩に仕事を回さず技術を秘密にするから
人が育たなくてそいつがいなくなるとその部署は荒地と化すそうだが、
三成もそんな成果主義の権化のような感じがする。
200人間七七四年:2012/11/05(月) 07:18:15.86 ID:dh2eVboB
三成と比べると徳川の井伊直政の方がスマートな外交をする交渉上手だし
政権を取ったら土井利勝らの方が颯爽とした政務を執るという感じだな
201人間七七四年:2012/11/05(月) 07:21:18.54 ID:OUwdw2fR
取次は外交方針までは決められんから、三成や直政に帰するのは間違ってるような
202人間七七四年:2012/11/05(月) 07:27:40.30 ID:dh2eVboB
徳川が政権を取った時は直政は死んでるからそれと比べているわけではない
豊臣政権での三成の政務と徳川政権での土井利勝とかの政務を比べているわけで
203人間七七四年:2012/11/05(月) 07:58:12.00 ID:mek9p20d
「ぜんぶ三成のせいにすればいいや」「あいつならやりかねんしw」

考えてみれば可哀想な人だ
204人間七七四年:2012/11/05(月) 08:08:39.91 ID:cKtsR/+q
ラスボスの期待に添う成果を出し続ける、というのは凄いと思う
205人間七七四年:2012/11/05(月) 09:32:33.81 ID:gHCOz3Je
>>204
のぼうの城のステマかよwww
206人間七七四年:2012/11/05(月) 09:35:38.79 ID:Vc8tZybR
>>203
そういうのが信用されるくらいには、有能だったって証でもある。
まあそれと同じくらい、人格的には評価されてなかったって証でもあるか
207人間七七四年:2012/11/05(月) 11:43:30.46 ID:QSo1zp0c
最近、ここもまとめブログもやたら三成で盛り上がるな
208人間七七四年:2012/11/05(月) 13:17:10.14 ID:IlbtytCF
本当にのぼうの城のステマだったりして
209人間七七四年:2012/11/05(月) 13:21:56.92 ID:nfNVaC1Q
なんで今頃そんなことするんだよと思ったけど今頃に延期してたんだったな
すっかり忘れてた
210人間七七四年:2012/11/05(月) 13:28:40.82 ID:iL59pcZo
部下の教育で手取り足とり・・・と考えていたら衆道とか思い浮かんできた
211人間七七四年:2012/11/05(月) 13:32:25.75 ID:TMLjoXGt
花の慶次に出て来る三成が、一番好きだなー
212人間七七四年:2012/11/05(月) 13:46:51.81 ID:UyUMibJ4
官僚の扱いが酷い事で定評のある隆慶作品において珍しくまともな扱いされてたよなw
213人間七七四年:2012/11/05(月) 17:01:19.41 ID:mek9p20d
のぼうの城の原作つまらんし、映画を見に行く人はここには居ないでしょ
214人間七七四年:2012/11/05(月) 17:27:50.07 ID:QSo1zp0c
最近の日本で作る武士映画つまらんの多いと思う。
説教臭いというかなんというか。
それに比べてアメリカ人の作ったラストサムライは楽しめたな
215人間七七四年:2012/11/05(月) 17:43:01.23 ID:2xV199gf
>>214
クレヨンしんちゃんは?
216人間七七四年:2012/11/05(月) 17:46:35.60 ID:nfNVaC1Q
クレしんの戦国のってかなり昔じゃね
217人間七七四年:2012/11/05(月) 17:51:37.09 ID:aGZWU93I
ラストサムライは
まあ良くできたアメリカ映画だよね。
218人間七七四年:2012/11/05(月) 18:07:19.19 ID:Rr+3rV0e
なんだよ、武士映画って?造語か?
219人間七七四年:2012/11/05(月) 18:16:39.03 ID:QSo1zp0c
>>215
すまん、クレしんの戦国もの観てない
こないだレンタルした四十七士の生き残りの映画は期待しただけにガッカリしてた
知らないだけで面白いのもあるんだろう
220人間七七四年:2012/11/05(月) 19:33:52.32 ID:gMarZj1v
三河柏崎の百姓たちが、とある紛争における判決の非公事(敗訴)を不当だと言い立てて裁判で争ったが、
しかし負けてしまった。
この時の町奉行は、あの本多作左衛門重次であった。

百姓たちは敗訴に納得せず、勝訴した側への作左衛門の依怙贔屓であるとして方々で悪口を吐き、
あまつさえ落書までしてこの裁判を誹謗した。

本多作左衛門はこれを聞いて、再びその裁判における公事人(裁判関係者)を呼び出し、
再吟味を行ったが、やはり同じ判決となった。

そこで作左衛門、今度は非公事を言い立てた百姓たちを、全員斬って捨てた。


それから暫くして酒井河内守重忠が、これとほぼ同じような訴訟の奉行となった。
非公事を言い立て敗訴した百姓たちが散々悪口を言っている、とのことを重忠は聞いて、
再び裁判関係者を全員呼び出した。

そこで忠重は全員に対して、その判決に至った理由を順を追って説明し、非公事を言い立てた
者達にも、その理を言い聞かせ、得心するように理由を説明した上で、悪口をした百姓も
そのままにさし赦した。


この両裁判のことを聞いた徳川家康は、本多、酒井を呼び出し両人がどうしてそのような
処分をしたのか理由を聞いた。

本多作左衛門は
「上を犯すものをそのまま差し置いていては、秩序の締りが無くなり悪事が募るものです。
ですので毅然としてそう申し付けました。」
と答えた。

酒井河内守重忠は
「この様な裁判で人を殺してしまえば、以後奉行人は必ず事あるごとに威を振るい、
驕りが出てしまうものです。」
と答えた。

まさしく両人取り取りの政道である。

(武野燭談)
221人間七七四年:2012/11/05(月) 20:07:50.02 ID:4R9zL7AU
似た状況って言っても、具体的にはそれぞれ別のことだし、
本多作左と酒井重忠のどちらが正しということはないんだろうな。
それにしても百姓が好きな事を言って、一度はその言い分を聞いてもらえるって社会は、なかなか良い社会だな。
222人間七七四年:2012/11/05(月) 20:29:46.18 ID:PiXUy448
>>197

そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?
223人間七七四年:2012/11/05(月) 20:44:54.30 ID:dh2eVboB
頭でっかち石頭と能筋でバランスの取れた人材に乏しかったから
224人間七七四年:2012/11/05(月) 21:51:56.71 ID:mek9p20d
秀長みたいに出来た調整役なんて他には隆景ぐらいしか思いつかんな
225人間七七四年:2012/11/05(月) 22:03:40.58 ID:sIbB3lqJ
>>224
イメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ

ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし

>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな
226人間七七四年:2012/11/06(火) 02:54:25.87 ID:PM8FwmD6
秀吉は若年期に殿様としての教育(自己抑制)を受けてないために
老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?
227人間七七四年:2012/11/06(火) 04:40:04.06 ID:TerQt6Ow
隣にいる人がテンション高いと逆に冷静になるってパターンでは
228人間七七四年:2012/11/06(火) 05:43:02.82 ID:VmFqHNiw
秀長は史料が少なくて過大評価されてる部分が多いだろうなぁ
229人間七七四年:2012/11/06(火) 05:46:33.77 ID:OxuERoyM
武功夜話で蔓延したのイメージもあるだろうな
230人間七七四年:2012/11/06(火) 09:21:30.98 ID:ZT4NF8NB
秀長は残ってる史料が接待ばかりだから
優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える
231人間七七四年:2012/11/06(火) 12:31:05.30 ID:Yi4Igwyp
>>228

そうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?

232人間七七四年:2012/11/06(火) 12:43:00.24 ID:TerQt6Ow
>>231
それと秀長との因果関係を示す資料ってあったっけ?
233人間七七四年:2012/11/06(火) 15:10:14.44 ID:NbK2TydX
>>228
歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ

俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど
234人間七七四年:2012/11/06(火) 15:50:03.96 ID:ZT4NF8NB
史料上の如水はあごで使われる前線の将
秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ
235人間七七四年:2012/11/06(火) 15:58:08.52 ID:I+BY/ICP
でもNHK の魔手にかかれば・・・
戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。
236人間七七四年:2012/11/06(火) 15:59:07.53 ID:3lzC74sQ
小森栄順、大坪甚右衛門、武藤六右衛門、鹿江茂左衛門、吉井与一右衛門、江副甚兵衛、牟田六之充、丹羽喜左衛門。
この者たちが浅草へ連れ立って遊びに出かけた。
そこで小森栄順と大坪甚右衛門の二人が浅草観音ちかくの遊山茶屋で、
茶屋の男たちとまず口論になり、最後はさんざんに打ちのめされた。
このことがすぐに浅草界隈で噂となったので六右衛門は、
「仕返しをしよう」
と言い、与一右衛門と甚兵衛もそれに同調した。
しかし他の者たちが、
「主家にまで迷惑が及ぶだろう」
となだめ、なんとか屋敷へと引き帰った。
帰ってからも六右衛門は、
「いや、これは仕返しをせねばならぬ」
と主張を続けたのだが、皆になだめとめられた。
喧嘩の話は主家まで達し、栄順と甚右衛門は切腹を認められず、そのまま斬り捨てられた。
他の者たちはお叱りを受けた。
詳細は、追って聞くことにしたい。
この喧嘩について考えさせられるところがあったので、
ある老武者に聞いてみた。
老武者
「仕返しなんてものは、皆と相談して上手くいくものじゃない。
ひとりで出かけていき、自分ひとりが斬り殺されるまでだと覚悟を決めねばならぬ。
口先で仕返し仕返しと言う者の中には、覚悟なく発言する者もいるのだ。
つまり、口先で武士としての外聞を飾っているわけだ。
誠の剛の者は、なにも言わずにそっと抜け出し死に向かっていく者だ。
勘違いしている者が多いが、そもそも仕返しを成功させる必要などないのだ。
仕返しの場で斬り殺されるのが剛の者なのだ。
だが、相手をしとめることが出来るのはこういう者である」【葉隠】
237人間七七四年:2012/11/06(火) 17:35:00.71 ID:T54cWOMY
秀長が病気になったからラスボス化が始まったわけではなくて
北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ

秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ
238人間七七四年:2012/11/06(火) 17:38:50.82 ID:m61e9G7E
犬死にでもいいから成功するか算段せずに行動しろっていう
山本常朝の美学は好きだな。
ただ、戦国時代の武士ならもっと打算的な行動をする気もするな。
239人間七七四年:2012/11/06(火) 19:32:06.47 ID:29mKxpyf
平和ボケした江戸時代の人間が言う事に価値はない
自らが実践で証明したなら別だが
240人間七七四年:2012/11/06(火) 20:25:46.49 ID:Fby3rjvQ
家光「立花宗茂の言説には説得力あるな」
2411/2:2012/11/06(火) 21:08:24.01 ID:y9u1DvmK
さてさて天正10年(1585)、皆さんご存知、本能寺の変である

この時徳川家康は酒井左衛門尉忠次、植村右衛門佐ばかりがお伴して、堺を見物し、
これを茶屋四郎次郎が案内として付いていた。

そんな堺の家康のもとに、本多平八郎忠勝は本能寺の変を聞きつけるや否や直ぐ様
駆けつけた。

そこでは家康は「この少人数で三河まで引き上げるのは不可能だ。ここで切腹する!」
と決意していた。

ここに忠勝進み出て
「仰るように、どの道も本道は皆、敵中であると考えるべきでしょうしかしながら
ここで殿が御自害なさる事ではござらぬ。間道を抜けてそこから山越しに伊賀路へと出れば、
別議なく帰国できます!」

しかし家康
「そうは言うが、我らは上方に不慣れな者ばかりである、どうやって敵の知らぬ間道を
通るというのか?」

「その段はそれがしにおまかせあれ!!!」
忠勝、朗らかにそう言うとどこかに走っていった。少しして帰ってきた。誰かを引きずって

「この辺りの村の庄官を捕らえてきました!!!」

突然の拉致にガタガタ震えている庄官に
「おい貴様!ここにおられる殿のご案内をいたせ!しかしもし騙すようなら…お前を即座にぶっ殺す!」
(悪しく導き奉らば、忽に打殺す)

信長や秀吉からも最高の武士として讃えられた男からのこの脅しである。庄官は半ば魂が抜けつつ清瀧まで
案内し、「子、この先は解りません〜」と泣きながら訴えた。
2422/2:2012/11/06(火) 21:09:17.49 ID:y9u1DvmK
これを聞いて忠勝、「ふん、仕方がない」と庄官をあっさり開放。そして「ちょっと行ってきます」
「どこに?」と思ったらまた直ぐ戻ってきた。また誰かを引きずって

「この辺りの村の長を捕らえてきました!!!」

また誘拐である

「さあ我々を案内せよ!、もし(ry」
遂に木津川まで至った。と、川を渡る薪船を二艘発見!忠勝叫ぶ「おいそこの船!こっちに来い!!」

天下無双の勇士の呼びかけにこの二艘の船、当然ながら逃げ出した。

「ほほう、こちらに船を寄せない気か。そういう事なら考えがある。鉄砲ー!!!」

船に向かって射撃開始!「船を寄せねば鉄砲で撃ち沈める!」

船の者達当然ながら驚愕し、家康一行の前に船をつけると、家康は金銀を払い積荷の薪をすべて捨てさせ、
これに家康及び共の者達全員を乗せ対岸まで渡った。この時本多忠勝一人残り、対岸まで行った船が
帰ってくるのを待ってこれに乗り、向こう岸につくと同時に、かの名槍蜻蛉切の石突で、二艘の船艇を
突き破り、「これでよし!」と先に進んだ。

こうして井出の里にまで行き玉水において

「この辺りを案内できるものを捕らえてきました!!!」

何人目かの不幸な犠牲者のおかげで宇治田原まで着く。その先を尋ねると「み、水口越は難所であり、
敵がもし人数を置けばどうにも出来ません」と言うので、多羅尾谷まで進んだ。
ここで多羅尾の何某と言う者が家康の到来を大いに喜び、我が館に是非入ってくださいと言ってきた。
しかるに酒井ら、当然ながらこれを疑い、「我々は今敵中にいるのだ。人の心も計りがたい。
いかにするべきか…」と悩んでいた所、忠勝は

「堺を出てから今日までの間に、我らはもはや、腰兵糧の他何もありません。至極難儀の時であります。
ここで多羅尾にもし殿に対する逆心があるのなら、彼の家に入らなくても我々を逃すことはありません。
何故ならこの様に疲れきった我々では、思うように働くことが難しいからです。

ならば多羅尾の折角の馳走を受けて、かの家で腰を懸けて、人馬の息を休めるべきでしょう。
なあに、万一多羅尾の態度が思わしくないものであれば、私が奴を捕らえてどうとでもしてやりますよ!」

これに一同「尤もだ」と、特に最期の一節に納得しこの家に入ると、彼は無二の持て成しをし、
これにより家康一行、疲れから回復することが出来た。家康は多羅尾に礼として自らの刀を与えた。

ここより伊賀越をし、ここで服部半蔵支配の甲賀者たちが家康のもとに参上し身辺を守り、そのため
難なく伊勢浦に到着し、ここより船に乗って三河へと御帰陣された。
(武野燭談)

神君伊賀越え、本多忠勝大暴れの一席である
243人間七七四年:2012/11/06(火) 22:20:24.39 ID:bajq3D94
(アカン)
244人間七七四年:2012/11/06(火) 22:45:49.82 ID:lHGmkg1G
船のくだりは見るの初めてかな。忠勝残る必要ないような。
色々と何かがアレだが一応誰も切ってないあたりが別件の四天王とは違う・・・よね?
245人間七七四年:2012/11/06(火) 23:07:20.97 ID:R1nwenVc
あずみを思い出して嫌な気分になった...
あれ実話なんじゃないかな
246人間七七四年:2012/11/06(火) 23:29:11.51 ID:dAtxtflh
平八さんの出てくる逸話は万事に抜かりなさすぎて主演:スティーヴン・セガールの映画見てるような気分にさせられるな
247人間七七四年:2012/11/07(水) 00:55:34.50 ID:2cin/Vnm
これぞまさしく今張飛の大活躍だな
248人間七七四年:2012/11/07(水) 01:55:18.62 ID:4i4nduHn
>>247
頭の中身も張飛っぽいんだよなぁ。本多平八郎って。
249人間七七四年:2012/11/07(水) 03:05:36.69 ID:qZT1KT+F
>>236
これ、浅草の遊山茶屋って要は遊廓遊びに行ったんだよな

>>240
宗茂さんは遊廓遊びしにいかないだろうな
遊廓がこの世にあることも知らなそう
あくまでイメージだが
250人間七七四年:2012/11/07(水) 06:53:22.06 ID:XDwDyiyJ
こういう時に慌てず冷静な手段(=誘拐)を取れるってのがいいね。
251人間七七四年:2012/11/07(水) 10:41:01.27 ID:UEmzXKb/
同じ逸話で「万事に抜かりない印象」「頭の中身も張飛っぽい」
どうしてこうなるんだろ
252人間七七四年:2012/11/07(水) 12:15:07.80 ID:DW3pQ4EZ
開放するか斬り捨てるかの違いがあるがやってる事自体は鬼武蔵と大差無い気も…
253人間七七四年:2012/11/07(水) 13:18:03.94 ID:CVlBjGwt
なんでもかんでも森長可を絡めるなよ
254人間七七四年:2012/11/07(水) 13:19:49.46 ID:2NZgsIy/
大きな違いじゃないですか大きな
255人間七七四年:2012/11/07(水) 13:30:07.82 ID:DW3pQ4EZ
とはいえ時系列的にほぼ同時進行ですしおすし。
256人間七七四年:2012/11/07(水) 13:41:49.35 ID:/cqAsKIk
そういや最近鬼武蔵の話見かけないな。粗方ネタは出尽くしたのかな?
257人間七七四年:2012/11/07(水) 18:21:14.07 ID:MXd1EikK
人攫ってもさわやかだな平八さんはw
258人間七七四年:2012/11/07(水) 18:39:11.03 ID:1MKNYYaI

烏丸光広が江戸より帰るという時に留守の雑掌某は衆と謀って急に庭中の倉庫を
壊して光広が長年貯えてきた物を悉く家臣に分け与え、自分は一品も取らなかった。

ところが光広は帰ってきてもそのことを問わなかった。ある日、某は光広に
「公は長く江戸におられましたので突然狭い邸宅に帰られると憂鬱になられるのでは
と思いまして、倉を取り払って広くしておきました」と告げた。

光広はこれに「善し。中の物はどうした」と尋ね某は「悉く諸臣に分け与えました」
と言った。光広が続けて「もっとも善し。で、お前は何物を得たのか」と問うと、
某は「臣は一物をも受けませんでした」と言うので、光広はからからと笑って
「お前もまた迂な奴だな」と言った。

――『近古禅林叢談』
259人間七七四年:2012/11/07(水) 18:44:16.53 ID:Bu2CFIdU
某はなにがしたかったんだ
260人間七七四年:2012/11/07(水) 19:49:51.43 ID:O3O4Z4Xm
烏丸光広って知らん人なんでwiki見てみたら、大納言にまでなった貴族なのか。
他の逸話も含めて、なかなか興味深い人だな。
261人間七七四年:2012/11/07(水) 20:03:14.61 ID:n2lApPRX
水戸黄門や麻呂より位が高い
262人間七七四年:2012/11/07(水) 20:38:26.56 ID:ZKNX5nP7
京都人のコミュニケーションはレベルが高すぎてよく分からん
263人間七七四年:2012/11/07(水) 22:49:46.15 ID:9b2203oE
気前良すぎて悪いというか恐ろしい話
264人間七七四年:2012/11/08(木) 00:26:52.09 ID:e4MGPMuU
>>259
某はなにがし、たかったんだ
とくぎってしまって?となった
265人間七七四年:2012/11/08(木) 00:58:56.07 ID:89jc9wmL
>>251
ちょっと強引に力で解決してるあたりがまさしく今張飛って感じでかっこいいと思った
266人間七七四年:2012/11/08(木) 10:57:21.91 ID:2j3I6O+V
>>265
同じく。実際躊躇していられる状況じゃなかっただろうしな。
力ずくででも安全を確保しないと。
267人間七七四年:2012/11/08(木) 20:07:02.36 ID:j+XcMJcK
張飛:二人の娘が劉禅の皇后になったことを考えると、娘は美人だったと思われる
忠勝:娘が美人と伝わる
おそらく、父親には似なかったんだろう
268人間七七四年:2012/11/08(木) 20:15:09.33 ID:yqc5oyur
千姫の再婚相手で忠勝の孫である本多忠刻だって美男との噂だし
忠勝もそれなりにイケてたんだと思う
269人間七七四年:2012/11/08(木) 20:41:15.51 ID:6IH+EQ0J
絵師を脅して描かせたという肖像画みると、そうとは思えないが
270人間七七四年:2012/11/08(木) 21:41:51.76 ID:++hr5nXk
当時の男女の美形の基準てどんなかんじなのかね
271人間七七四年:2012/11/08(木) 22:09:28.05 ID:yqc5oyur
今とそんなに変わりは無いらしいよ
272人間七七四年:2012/11/08(木) 22:22:32.73 ID:Saa11suA
第二次国府台の合戦の折、

北条方の土気城主酒井胤治は合戦の準備に手間取っていた。
というのも年の初めに急に合戦が始まったため、年始の行事と重なって大わらわになっていたのだ。
これに北条氏康は疑いを持ち始める。
「やる気がないのか?ひょっとして裏切る気なんじゃ…?」
この噂を耳にした胤治は頭にきた。
「今まで北条家に尽くしてきたのに疑われるとは!もういい、だったら里見につく!」
こうして胤治は里見方になってしまった。

一方上総にはもう一つ酒井家があった。
東金城主酒井敏房である。
彼は里見方として活動していたが、第二次国府台の合戦では北条有利とみて北条方に寝返っていた。


両酒井氏の交換トレード?な話
273人間七七四年:2012/11/08(木) 23:31:56.09 ID:nmbePeny
酒井をやっつけろ酒井
274人間七七四年:2012/11/08(木) 23:39:08.55 ID:vjEutOzM
土気酒井と東金酒井が分岐してまだそんなに年月経っていないので
敏房と胤治ははとこ同士なんだよね
275人間七七四年:2012/11/08(木) 23:43:44.39 ID:jRh1W7Cs
>>269
>絵師を脅して

!?
276人間七七四年:2012/11/08(木) 23:47:11.88 ID:BIRB/1cl
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Honda_Tadakatu.jpg
>本多忠勝。Honda Tadakatu. 「紙本著色本多忠勝像」関が原合戦後、描かせた肖像画。
>関が原合戦後、忠勝は争いの無い時代になり自分の活躍の場が無くなったことを嘆き、
>絵師にこの甲冑姿の自分の肖像を描く事を命じた、なお忠勝はこの肖像画を完成させるまでに
>7回〜8回やり直しさせたとも言われている。
>また、この肖像画を描くときに着用していた甲冑は現在も残っている。
277人間七七四年:2012/11/08(木) 23:49:49.48 ID:jRh1W7Cs
>>272
合戦始まっちゃったなら年始の行事はキャンセルしようよ…。
まさかの年始の行事≧合戦?
278人間七七四年:2012/11/08(木) 23:57:20.66 ID:BIRB/1cl
>>277
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6137.html
>正月も何も関係ありません!かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ
>弓矢を取ってご出陣成されました。
>逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
>こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。
279人間七七四年:2012/11/09(金) 00:00:47.22 ID:Mh5PjjTA
>>276
wikiに書いてなかったような…と思ったらば画像の解説のところね。気付かなかった。
書き直しさせたのか、てっきりまた伊勢越えみたいな「え?鬼武蔵?」的なエピでもあるのかとー
あー驚いた。
280人間七七四年:2012/11/09(金) 00:06:42.81 ID:gGK1oXY9
>>278
尼子経久が正月に計略で月山冨田城奪い返したの知らなかったんだな

生臭坊主の浅知恵よ
281人間七七四年:2012/11/09(金) 00:14:18.67 ID:NrUrR7Hv
甲冑図には大抵、袖があるけど実際には無かったりする(本多忠勝・榊原康政)
282人間七七四年:2012/11/09(金) 00:24:34.61 ID:qdavcUGo
普段買わないんだが薄い雑誌の「歴史街道」がコンビニにおいてあったから見たら
「総力特集 真田信之と幸村」
お兄ちゃんが先に来るのは珍しいから買ってしまった

ところで、それに載っていたんだが「加沢記」の
武田滅亡時、信幸が新府城から上州に家臣団と家族ひきつれて逃げた話って既出だっけ
(近代デジタルライブラリーの「加沢記」で確認済みだから雑誌の創作ではない)
283人間七七四年:2012/11/09(金) 03:41:43.45 ID:Mh5PjjTA
>>279伊勢じゃねーよ伊賀だよorz

>>278>>280
尼子さん…

>>282
逃げるときひもじくて杉の葉食べたらまずかった、というのだけだったかと。
284人間七七四年:2012/11/10(土) 07:44:41.60 ID:ghAmbUb8
>>270-271
150年前の土方歳三の写真を見ると現代基準でも男前
そこから150〜200年前の美醜の基準だからあまり変わらないんじゃね?
285人間七七四年:2012/11/10(土) 07:58:56.26 ID:fnXDTGfa
信州松代藩って一揆の発生件数全国トップレベルだったけど真田の政治って過酷だったんかなぁ・・・
286人間七七四年:2012/11/10(土) 08:25:59.60 ID:ijuECs1c
あんまし厳罰にしたつて話もないから、様式美みたいなもので、役人と百姓の馴れ合いでしょう。
287人間七七四年:2012/11/10(土) 08:28:26.34 ID:ijuECs1c
中野騒動は明治の話だし。
288人間七七四年:2012/11/10(土) 08:37:27.48 ID:dnrULhcI
とびだせどうぶつの森長可
289人間七七四年:2012/11/10(土) 08:38:14.87 ID:yCraL90T
>>288
獣人化した鬼武蔵か…。想像すらしたくないな。
290人間七七四年:2012/11/10(土) 08:39:23.35 ID:YaJkWQ2/
アレか、タイの国民的イベント国軍クーデターみたいなもんか?
291288:2012/11/10(土) 08:40:57.01 ID:dnrULhcI
すいません。 誤爆でした
292人間七七四年:2012/11/10(土) 09:15:46.27 ID:cHiPmm91
>>289
どうぶつの森長可か、
どうぶつとなった戦国武将たちがふれあいを求めて
力ずくでコミュニケーションを図るゲームであるな。
殺伐プレイ推奨のGTAあるいはPK御免のMMORPGみたいな物と見た。
293人間七七四年:2012/11/10(土) 10:03:15.73 ID:rxRYLBIT
>>285
江戸時代でも戦国時代の軍制を維持してたから年貢もかなり高かった。
減税等で不満の出ないように配慮してたけど対応しきれない面もあったんだろう・
294人間七七四年:2012/11/10(土) 11:24:29.49 ID:3u9j7Vtv
>>289
森長可なんて獣人どころか、狂犬みたいなもんだしw
あれ、家の外に鶴の丸の旗が見える・・・
295人間七七四年:2012/11/10(土) 11:40:07.93 ID:JcXIIyEn
たぬきちは岡左内かなぁ
296人間七七四年:2012/11/10(土) 12:10:14.25 ID:Qt4BvyQ4
クマ吉は畠山義続だな
297人間七七四年:2012/11/10(土) 13:51:50.97 ID:FMmP8hn9
誤爆って言ってるにも関わらずおまえらときたら
ところでどこの誤爆?
298人間七七四年:2012/11/10(土) 18:23:16.16 ID:/RxZhJlm
>>285
オマエ南部の領民に土下座してこいよ
299人間七七四年:2012/11/10(土) 19:43:10.97 ID:FB0+FVlN
今は昔、武州豊島郡田畑村(現在の東京都北区田端のあたり)の興楽寺に盗賊が多く押し入り、
僧侶らを多数惨殺して、霊宝・金銀などを盗んでいくという事件があった。
これは江戸御城下から遠くない、王子村(現東京都北区王子町)の御鷹場往還の前でもあり、
特に厳重な捜査が行われたが、犯人に関する証言もなく、犯人逮捕に繋がる情報に対し
懸賞金を懸けて尋ねさせたが、やはり情報は上がって来なかった。

そのころ京都より、所司代の板倉周防守重宗が江戸へと上がってきていたので、幕閣たちから、
この悪党どもを探し出す手立てはないかと相談を受けた。
そこで重宗は以前からの捜査状況を一つ一つ聞いて、「なるほど、では私がひとつ、手立てを
致してみようと思います。」と、板を一枚取り寄せそこに

『懸賞金の額が少なく、申し出ることが難しいのです。この倍を掛けられるのなら、
仲間共の在家を指し申します。』
と、いかにも読みやすいように、平仮名で筆太に書き記し、あの懸賞金の制札の側に立て掛けた。

これをあの盗賊の一人が見て驚いた
「さては仲間の中の誰かがこの札を立てたのか!そうであるなら人に先を越されてはならない!」
その日の内に奉行所に出て仲間をすべて告発したため、一人残らず召し取られ、忽ち法によって
処罰された。


それから暫く後、酒井讃岐守忠勝の屋敷で物の紛失したことがあった。
色々調べた上でも判明せず、これも懸賞金を以って告発を待ったが、それも効果がなかった。

この時酒井家家臣のある者が気がついて
「先年、興楽寺の盗人御詮索の時、板倉周防守殿の考えられた手段によって盗賊を尽く
召し捕らえました。であれば今回もあの手段を使ってみてはいかがでしょうか?」

酒井忠勝はこれを聞くと
「よく心付いたものである。」

と、そのものを褒めた。ところが
「ただし周防守などは、どんな手段を使っても盗賊などを捜索することを職分としているが、
私は今、天下の大老職に居る。
そんな私が人を陥れて利を得るということは、職の盗と言うものである。
尋ねて知ることが出来ないからといって、とうして偽りによってそれを成せるだろうか?
よってその考えは、取り上げることは出来ない。」

そう言ったのだという。

(武野燭談)


板倉重宗の奇計についての逸話である
300人間七七四年:2012/11/10(土) 21:44:41.44 ID:MLRgDVZt
>>297
多分このスレに書き込みたかったんだろう↓

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293102886/
最上義光「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
301人間七七四年:2012/11/11(日) 13:33:40.62 ID:bj8WhPIj
桶狭間の戦いの折、遠州二股の城主・松井五郎八郎は
義元の討死によって呆然として落ちて行ったところで井伊信濃守と出くわした。

「信濃殿、大将は討死された。本陣は崩れてしまったから見届けずともよい」

松井が声をかけると井伊はにっこりと笑って…

「兄の肥後守の申し付けで本陣へ見廻りに参るところでした。
味方が崩れたからとこのまま立ち帰るのはそれがしの本意ではありません。
兄に敗軍を見物して帰りましたとは申し難いのです」

「そうか…そうだな、いざ共に参ろうか」

松井は井伊の言葉に励まされて取って返し、両人とも討死した。

井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
これは五郎八郎の不孝である。

初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

――『良将言行録』
302人間七七四年:2012/11/11(日) 13:48:46.76 ID:/GWsp2jW
政宗「いろは郎とは変わった名だな」
井伊直盛「娘に男子名をつけるな」

ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ
303人間七七四年:2012/11/11(日) 15:49:09.12 ID:Z+QhB4y6
井伊肥後守は井伊信濃守直盛の兄ではなく
娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?
304人間七七四年:2012/11/11(日) 16:23:37.77 ID:kV/M+FxC
>>301
葉隠マンが聞いたらよくやったと褒めてくれるよ
305人間七七四年:2012/11/11(日) 17:21:26.34 ID:hdbPQjTf
ところで鍋島のとこって死にたがりばかりなのか?真田さんかギリワン転職家みたいにきのこって再起を図るほうがガッツがあると思うのだが
306人間七七四年:2012/11/11(日) 17:30:42.93 ID:kV/M+FxC
鍋島は関係ないだろ 死ななかったんだからw
307人間七七四年:2012/11/11(日) 17:41:36.01 ID:ut9h+xZE
鍋島さんとこは理屈ばっかりでいざとなると腰抜けだって、フェートン号事件
308人間七七四年:2012/11/11(日) 18:02:19.30 ID:AeeH5fip
葉隠の成立時期が戦国時代終わって江戸中期ですし。
309人間七七四年:2012/11/11(日) 18:30:39.10 ID:kV/M+FxC
葉隠マン龍造寺四天王「鍋島が生き残ったようだな・・・鍋島なぞ我ら四天王の中では一番の小物・・・」
310人間七七四年:2012/11/11(日) 22:21:31.21 ID:YcRj7Yl3
良将言行録は大正6年出版らしいけど
311人間七七四年:2012/11/11(日) 22:49:23.25 ID:6Mb3Sbrl
>>307
それはただの不用心かと、むしろそれを教訓に日本一の強国に成長したところを褒めるべき
そこんところ踏まえても武雄藩主茂義とか知名度低いよなあ
312人間七七四年:2012/11/11(日) 22:55:40.74 ID:4F/SxG4G
武で劣る部分を知...と言うか科学の力で克服する佐賀藩
313人間七七四年:2012/11/12(月) 06:54:19.48 ID:ksWIqIaj
>>310
創作ではなく史料を取り入れているのは確かなんでしょ
314人間七七四年:2012/11/12(月) 11:16:38.83 ID:+ZcaTw30
>>299
これはどっちかと言うと両人とも株が上がる良い話だな
315人間七七四年:2012/11/12(月) 21:54:15.92 ID:VYcOdj0h
下村生運が登城したときのことだ。

直茂公
「息子(勝茂公)は年齢のわりに逞しいし、力もある。
武士として見所があり、わたしも喜んでいる。
家来たちと相撲をとらせてみたが、
歳上の者にも勝ってみせたぞ」

と上機嫌で仰せになられた。
生運はこれを聞いて、

生運「私は老いぼれですが、それなら一番お相手いたそう」

と言い、勝茂様をお身体がお痛みになるほど投げ飛ばした。
そして、

「まだ骨格も考え定まってないうちから、自慢事などなさると、
いつか恥をかきますよ。
まだまだ見かけよりも全然弱いです」

と言い残して退出したとのことだ 【葉隠】
316人間七七四年:2012/11/12(月) 22:22:00.19 ID:85/3QSwu
本人自慢してねぇんじゃ…
317人間七七四年:2012/11/12(月) 22:24:19.19 ID:HgDbQET7
勝茂かわいそうすぎるだろ
318人間七七四年:2012/11/12(月) 22:27:52.41 ID:fWtNB/H0
御曹司だから加減して負けてやってるのに、それを見抜けないとは愚かな大将だな。
319人間七七四年:2012/11/12(月) 22:39:30.06 ID:VRtijOy3
ちょっと親バカしてみたらなんか息子が投げ飛ばされたでござる
320人間七七四年:2012/11/12(月) 22:41:02.43 ID:SdiwlhJ4
忠直卿行状記の一節を思い出す
こういう家臣は大事だ
321人間七七四年:2012/11/12(月) 22:56:50.97 ID:VYcOdj0h
やはり人それぞれいろんな感想あるな
オレはこの話が、下村生運が、
「直茂さま、それは貴方がよくありません」
とやらなくて正解だったと思う。
親子の間に善悪つけるよりはって意味で
322人間七七四年:2012/11/12(月) 23:05:14.19 ID:H8/TFiru
まあようやく授かった男子だっただろうし、親バカしたくなる気持ちもわからんでもない
323人間七七四年:2012/11/12(月) 23:06:07.07 ID:Kz1pjgFx
一豊「相撲は自らとるのでなく、とらせるもの」
324人間七七四年:2012/11/12(月) 23:17:33.71 ID:ksWIqIaj
勝茂はガチホモだと聞いた
325人間七七四年:2012/11/13(火) 00:38:25.02 ID:jpcXJsCK
いやいや勝茂何も悪くないじゃんw
326人間七七四年:2012/11/13(火) 00:58:26.71 ID:WwEpuaWj
鍋島直茂教訓二十一箇条のひとつ
・理非(善悪)を糾す者は人罰に落ちるなり

これはアイツが悪い!その場合はソイツが悪い!
とやる奴はニュー速にいっぱいいるが、
アイツらそんな立派か?
口では上手く説明できない感情を憶える(笑)
327人間七七四年:2012/11/13(火) 01:38:25.52 ID:yUrCqml0
竜造寺の乗っ取りを正当化しているだけだな
328人間七七四年:2012/11/13(火) 01:54:19.89 ID:HFDR/2WC
黒田家臣だと泣きながら「あんた音痴だから!!」って本人に向かって言うんだよな
それに比べると鍋島家臣は慈悲の心があるわ
329人間七七四年:2012/11/13(火) 03:18:59.54 ID:N2q6IJwS
勝茂の恥か…
島原の乱抜け駆けの後日談を思い出した。
330人間七七四年:2012/11/13(火) 09:14:37.13 ID:zBZp6/Ju
骨格定まってない子供を力いっぱい投げなさんなと。
ところで勝茂って逸話で怒られてばっかりいないか?
331人間七七四年:2012/11/13(火) 09:32:23.95 ID:GNTDovvs
やたらと鍋島を悪の権化化したい人がいるよな
別に龍造寺が好きなわけでもないんだろうけど
332人間七七四年:2012/11/13(火) 09:44:22.65 ID:LnUTaeXc
この骨格って人格じゃないのか
333人間七七四年:2012/11/13(火) 10:57:11.91 ID:zBZp6/Ju
>>332>骨格
体と心の両方を引っ掛けて言ってるんだと解釈したんだけどどうだろう。
334人間七七四年:2012/11/13(火) 12:01:16.78 ID:dwcQzrdC
人 間 無 骨
335人間七七四年:2012/11/13(火) 12:56:05.78 ID:BIFa2zp4
切れない槍なら骨が多いから
なんという為骨豊!
とののしられたんだろうか
336人間七七四年:2012/11/13(火) 20:16:40.47 ID:cRqPCY+g
明治大帝を侍従山岡鉄舟が投げ飛ばした話をおもいだしたが・・
337人間七七四年:2012/11/14(水) 03:27:02.07 ID:KlA4uQ+g
ありゃ御上が酔って絡んだからで…
338人間七七四年:2012/11/14(水) 20:52:44.03 ID:KZrrNcPJ
ある時太閤秀吉が、近習達に対しこんな事を語った

「人という物にはな、その職分に対し、必要なことと、不必要なことがあるものだ。
織田常真(信雄)は、茶の湯・歌学・乱舞・管弦の上手、その他華奢風流のことは、およそ天下に肩を並べることがない、
というほどの才能の持ち主であるが、肝心の国を治め家を整え、武道を磨くことに関しては、その父である
信長公が切り捨てられた、爪の先ほども持っていなかった。

対して徳川殿は、華奢風流なことは全くしないが、国を治め家を整える道をわきまえ、武道を専らにし、
軍士を取り扱わせることに関しては、まあ我が国は別にして、諸外国でも稀な人物である。
(武野燭談)

そんな秀吉の、織田信雄と徳川家康に関する評論。
我が国は別にしてって、軍士の取り扱いに関しては俺のほうが上だ、って底意なんでしょうねw
339人間七七四年:2012/11/14(水) 21:07:50.92 ID:bjSV0nkb
>>338
>まあ我が国は別にして

途中で我が国にはそういう人物が多かったことに気づいたんだな
340人間七七四年:2012/11/14(水) 22:12:41.58 ID:/we7SijK
有楽斎と常真じゃどっちが芸事が達者なんだろうか?
341人間七七四年:2012/11/14(水) 23:04:38.51 ID:gIQ61QyW
家康も結構、芸達者だよなぁ
342人間七七四年:2012/11/14(水) 23:14:01.10 ID:D8KGBkE0
武骨な方面の資格マニアだしな
343人間七七四年:2012/11/14(水) 23:28:32.05 ID:ngiMIftZ
権現さま和漢の薬に詳しいんだよな
暇潰しのためだけの趣味はしなさそう
見習いたいけど暇だとネットでどうでもいい情報見てしまう・・・
344人間七七四年:2012/11/15(木) 00:08:55.23 ID:g6F5c+if
某直江状「上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄です」
家康「この年まで、これほどわしの考えにあった文を読んだことはない」
345人間七七四年:2012/11/15(木) 09:56:12.77 ID:+cL6Oq9N
家康が茶に全く無関心だった訳ではなく松平親宅に茶を栽培させたりしている
なお親宅は家康に初花肩衝を献上し、関東移封後も三河に留まったという興味深い人
どうやら徳川家や家臣が三河に残した菩提寺等の権益確保の意味もあったようで
346人間七七四年:2012/11/15(木) 10:02:30.60 ID:eKUiGN/E
祖母昔でもどうどす?
347人間七七四年:2012/11/15(木) 10:10:27.87 ID:dfWJvC5S
たぶん、江戸時代にはそういう評価が一般的になってんたんでしょうね
だから権現様は天下をとった、と結論づけるために
348人間七七四年:2012/11/15(木) 12:44:25.50 ID:CTJ+rpLg
某漫画のせいで光秀が家康に贈って、それを秀吉に贈った、とおもってた>初花
349人間七七四年:2012/11/15(木) 14:22:41.12 ID:+cL6Oq9N
信忠からどのような経緯で親宅に渡ったかは不明だからな
350人間七七四年:2012/11/15(木) 17:16:39.75 ID:sJhHeHwo
烏丸光広は常に一室で過ごし、家人がその中に入るのを許さなかった。
机によりかかって書を読み、塵や埃が満ちて歳月を経ても掃除しないので
坐席には汚痕が生じた。常に筆硯を扇匣に納め、宮中の公宴があるごとに
これを携えて輿に乗っていたという。

また光広は甚だ洗浴を嫌った。無理やりこれを勧めるとあたかも嬰児のように
嫌がり、あるいは泣き出しさえしたという。

――『近古禅林叢談』

当代一流の文化人なのに…(´・ω・`)
351人間七七四年:2012/11/15(木) 17:34:45.83 ID:lXvY0Pro
文化人とかってそこらへん無頓着な人は多いよね、印象としては
352人間七七四年:2012/11/15(木) 17:35:13.12 ID:CTJ+rpLg
あれ、エロい事件に関わってたと聞いてたから、身だしなみを整えてると思ってた
353人間七七四年:2012/11/15(木) 21:14:24.42 ID:oFcVa2HA
そういや、風呂入るとあなたのにおいがしないと泣かれるなあ
354人間七七四年:2012/11/15(木) 22:14:43.09 ID:vyaPZ90y
泣き出すって何だよw
355人間七七四年:2012/11/15(木) 22:47:41.19 ID:oFcVa2HA
フェチなんだろう
俺のにおいが大好きなんだそうだ
356人間七七四年:2012/11/15(木) 23:09:03.47 ID:3ygoGafw
犬シャンプーした後犬臭さが薄くて物足りなく感じることはあるが…そーゆー感じ?
357人間七七四年:2012/11/16(金) 02:09:46.53 ID:ur8xobUU
「風呂嫌い・掃除嫌い」

鬱・アスペ等、発達障害やメンタルを病んでる人によく見られる症状の一つ
358人間七七四年:2012/11/16(金) 05:50:38.38 ID:P5y5DJjI
どうした?自己紹介か
359人間七七四年:2012/11/16(金) 07:21:29.43 ID:lfgeQGMY
どこのインテリニートの話かと思ったら…
360人間七七四年:2012/11/16(金) 17:05:17.68 ID:zInIO4Sh
江戸にて初鰹をめづる事

天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱は
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。

氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。

同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。

――『仮名世説(北条五代記)』

つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。
361人間七七四年:2012/11/16(金) 17:26:13.86 ID:pZ5KUHo5
接待笑いの様子が目に浮かぶな
362人間七七四年:2012/11/16(金) 17:29:04.16 ID:QKtyiHv1
ほかのとこだって、いくさ前には勝栗で縁起をかついでいたから
駄洒落の程度は変わらない気がする
363人間七七四年:2012/11/16(金) 17:30:58.34 ID:QKtyiHv1
しかし魚が舟に飛び込むって、周の武王や清盛のような話だな
364人間七七四年:2012/11/16(金) 18:42:15.22 ID:5jyCoJ8y
北条やる夫か…
365人間七七四年:2012/11/16(金) 18:58:54.43 ID:OBboKc7M
駄洒落で験担ぎとかwww
てのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか
366人間七七四年:2012/11/16(金) 19:34:10.64 ID:4iolDIe7
勝栗とかだってそんなやし、
現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。
367人間七七四年:2012/11/16(金) 20:06:19.03 ID:lfgeQGMY
ダツが飛び込み阿鼻叫喚…
368人間七七四年:2012/11/16(金) 20:43:30.29 ID:G4g5YLGa
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う」と言っていた明智光秀。
そんな光秀が本能寺の変で天下を取った。

摂津衆の一人中川清秀は去就を決めかねていた。
光秀と戦うべきか味方すべきか。
というのも情報が錯綜し、本当に信長が討たれたのかよく分からなかったのだ。

そんなところへ秀吉が大返しで戻ってくる。
そして秀吉から受け取った書状には驚くべきことが書いてあった。


「信長公は生きておられる。」


「マジで!?」と思った清秀にさらに秀吉の書状は畳み掛ける。
「信長公配下の福富秀勝が比類なき活躍を見せて明智軍を撃退し、再興の機を窺っておられる。
某はただちに信長公にお味方し、光秀を討つつもりだ。そなたも我に協力致せ。」
もちろんこの情報は嘘で福富秀勝は討死しているのだが、
これに乗った清秀や池田恒興ら摂津衆は秀吉に付き、光秀は敗れ去ることになる。

自ら武略だと公言した武士の嘘によって滅びたというのは皮肉ではなかろうか。
369人間七七四年:2012/11/16(金) 21:03:43.07 ID:Mw4z+MRM
>>360

縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。

きっと東国では駄洒落がマイブ〜ムだったんだよw
370人間七七四年:2012/11/16(金) 21:06:03.17 ID:ZgBj9tqX
鰹は今でも魚河岸なんかじゃ「かつを」って書いてるのよく見るよね。
>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。
371人間七七四年:2012/11/16(金) 21:33:05.55 ID:GCwhZs9g
       ____
     /⌒  ⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   勝負にかつお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /
372人間七七四年:2012/11/16(金) 21:48:04.37 ID:b1s+1kor
お前ら、なんだかんだ言いながらかつおで大喜びじゃないかw
373人間七七四年:2012/11/16(金) 22:56:28.99 ID:rCjdr2xS
【マスコミ】 「原作改変しておかゆをサムゲタンにしたのは、アニメでわかりやすい表現にするため」「ステマ説は具体性なし」…アニメ業界が反論★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/


【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr

アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件   2010年 0件   2011年 2件   2012年 122件〜 ←7月から急増
374人間七七四年:2012/11/16(金) 23:11:16.59 ID:Mw4z+MRM
争い事や謀り事は鮭るが一番…
375人間七七四年:2012/11/17(土) 04:11:50.67 ID:lBgMlPiN
それができ鱈苦労はせんが、天下取れれば目出鯛ものよ
376人間七七四年:2012/11/17(土) 05:59:45.67 ID:vWRk3hLS
>>368
NHKで仕入れた知識を翌日に書き込むとは…
377人間七七四年:2012/11/17(土) 06:02:33.04 ID:VHL946FJ
出陣前の打鮑、勝栗、昆布なんかも駄洒落だよね。
「打ち、勝ち、喜ぶ(ドヤァ」とか、いかついおっさんがやってたとか胸アツだなw
信長もやってたんだっけ?
378人間七七四年:2012/11/17(土) 07:14:00.85 ID:cRdfo5U3
戦の前に魚が飛び込んでくる吉兆は周の武王の故事だろう

そういえば道灌が小机城落とす時に駄洒落で士気上げたって逸話もあったな
379人間七七四年:2012/11/17(土) 07:28:06.53 ID:lAqgGaMs
駄洒落が出来ないと名将にはなれぬのか…っ!
380人間七七四年:2012/11/17(土) 07:39:06.84 ID:TrRLS7Sn
駄洒落といえば信長のこの逸話だろw

織田信長「今日の戦、勝とう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3814.html
381人間七七四年:2012/11/17(土) 08:32:54.58 ID:9HFL+wwt
↑これ桶狭間の信長だから笑い話ですむけど、姉川あたり以降の信長が言ったら周りはリアクションに困ると思った
382人間七七四年:2012/11/17(土) 11:42:09.51 ID:FN+U41b2
派手加藤、地味加藤、砂加藤
三人揃っていた秀吉が強いわけだ
383人間七七四年:2012/11/17(土) 11:42:56.86 ID:VEzNwv2W
現代と同じでないわーと思いつつ駄洒落の験担ぎや迷信に乗る感じだろうな
んで、ないわーと無視しちゃう空気読めないやつは戦場の空気も読めなくて…
384人間七七四年:2012/11/17(土) 12:11:28.85 ID:rmrlWqhQ
つか、和歌だって駄洒落で別の言葉と引っ掛けるのは、
普通に使われてるテクニックだしね
駄洒落も一種の教養というか、
その場の状況に合わせた駄洒落や、縁起のいい駄洒落は大歓迎、みたいな感じじゃないかな
昔は験担ぎや迷信は現代より真剣に重視してただろうし
385人間七七四年:2012/11/17(土) 14:11:19.04 ID:9HFL+wwt
イメージだが三成はこうした駄洒落を小馬鹿にしそう。そしてそういう態度が福島や黒田の反発を生んだんでないのかな?
386人間七七四年:2012/11/17(土) 16:25:31.64 ID:VEzNwv2W
>>384
確かにそうだな
風流エピソード見てるだけだと幽斎様でさえ駄洒落好きのおっさんにしかw
387人間七七四年:2012/11/17(土) 18:45:19.43 ID:EBnG3Pg5
言霊の力にあやかった縁起物や、教養ある表現としての洒落とするか
くだらねー言葉遊びだろ駄洒落なんてと切って捨てるかは受け取る側によるんだろうな
388人間七七四年:2012/11/17(土) 19:34:29.85 ID:58Pjgq4O
受け取り手も自然に納得させられるのが幽斎さんの歌
受け取り手が不自然な愛想笑い作るのがオッサンの駄洒落
389人間七七四年:2012/11/17(土) 20:41:54.80 ID:TrRLS7Sn
松平下野守忠吉朝臣は、後に薩摩守殿と申して、美男であり楽しい性格であったので、
天下の諸侯も、この君のためには一命をどうして惜しもうかと、争ってかしずいていた。
関ヶ原の合戦の際には一方の大将であり、福島正則以下の諸将、この君の下知に命をかけること
本望であると勇まれたとか。

この時、徳川家康は井伊直政、本多忠勝に仰せ付けられ、「忠吉を良く引き回すように」と命じた。
これによって、島津義弘が丸備えを立てて撤退する所を、井伊直政は先駆けして食い止め、手痛い働きがあったが、
忠吉も手負い、井伊直政も鉄砲によって腕を撃たれたので、布で腕を縛り首にかけて、忠吉を誘導して
本陣へと帰った。

まず忠吉が家康の御前に出ると
「忠吉は手負いをしたか。初陣の働き、見事なり!」

と、ご褒美に所に井伊直政がまかり出た。家康これを見て

「兵部(直政)は手負いをしたか!薬箱!薬箱!」

と、自分の薬箱を取り寄せ、自身の手で膏薬を傷口に付けられた。

おおよそ人の親として、子供ほど可愛いものは無いこと、上下ともに同じである。
であるのに愛する子の初陣に、薄手ではあったが傷を被った事を驚く様子もなく、兵部が手負いをしたことには
慰め問わせられた所に、『名将の御こころざしは凡人の及ばざる所である』と、当時の人々は感じ入ったとの
事である。
(武野燭談)

関ヶ原の傷
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html

これの、当時の人たちの感想なども入ったバージョン。
しかし忠吉、イケメンで性格も良くて諸侯からモテモテだったとか。
長生きしたら秀忠の脅威になったかも知れませんねw
390人間七七四年:2012/11/17(土) 21:53:07.42 ID:VHL946FJ
>>389
井伊話じゃん。
391人間七七四年:2012/11/17(土) 21:56:04.07 ID:gBKKcuS2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html
同じ話でも感想が違うな
392人間七七四年:2012/11/17(土) 22:07:05.78 ID:fmNyxEsJ
同じ話でもこっちは忠吉のイケメンっぷりと神君の行動に対しての人々の感想に目がいくな
393人間七七四年:2012/11/17(土) 22:14:54.01 ID:ji8WLaz8
義親子でイケメンか
394人間七七四年:2012/11/17(土) 22:28:41.94 ID:ji8WLaz8
のぼうも後に忠吉に仕えたんだっけ?
395人間七七四年:2012/11/18(日) 00:19:40.31 ID:Zt+952DC
大宮大之丞と秀吉 その1


永禄12年(1569)、伊勢北畠氏討伐の軍を発した織田信長は、
北畠具教が籠る大河内城に向かって進軍中、北畠氏の支城・阿坂城に降伏を勧告した。

ところが城主・大宮入道はこれを激しい調子ではねつけたので、
これに腹を立てた信長はならば攻めよと、先手の軍勢を呼び返して阿坂城攻めを命じた。

この時の織田勢の先陣は木下藤吉郎秀吉であり、真っ先に進んで阿坂城に攻めかかったが、
城主大宮入道の子息・大宮大之丞は高名な強弓の上手であったため、
寄せ手は容赦なく矢を浴びる羽目になり、秀吉自身も左の太ももを射られてしまった。

ところが、秀吉は少しも怯まずに味方を励まし、ひたすらに攻め立てたので、
たちまち城方は疲れ果てる。

ここで大宮の家老・遠藤源五右衛門、同條助は敵が大勢なので臆病風に吹かれたか、
にわかに心変りして寄せ手に内通し、城内の鉄砲の火薬に水を入れ、使い物にならなくしてしまった。
こうなっては大宮もどうしようもなく、士卒の助命を条件に開城し落ち延びていった。

(伊勢国司記略)


この戦いで受けた傷が秀吉の生涯唯一の戦傷だったらしく、
これがなければ本多忠勝のような無傷に関する伝説ができてたかも知れない
ちなみに負傷した箇所は左肱説もある
3961/2:2012/11/18(日) 01:15:20.20 ID:Zt+952DC
大宮大之丞と秀吉 その2

信憑性の薄そうな話ですが続き

天正4年(1576)、伊勢北畠氏の養子となっていた織田信雄により、北畠一族が謀殺されると、
北畠氏の旧本拠地であった多気の霧山城には先に阿坂城で木下秀吉を射た大宮大之丞など北畠氏の残党が集まり、
城代北畠政成を中心に抵抗の姿勢を示した。

これに対して具教暗殺に参加した長野左京ら信雄配下の軍勢と、
さらに羽柴秀吉の三千余騎を加えた一万五千余騎が霧山城下に乱入してきた。

その時、真っ先に「羽柴秀吉!」と名乗って出てくる者があった。
城方の大宮大之丞は、前に阿坂城で秀吉を射落としたときは仕損じたので、
今度こそは秀吉と組んで勝負せんと進んで門を開き、弓矢を取って散々に射かけたので寄せ手は逃げ崩れた。
そして遂に大之丞は秀吉の胸板を射ぬき、秀吉は只一矢にて死んでしまった。

ところがそこに、「真の秀吉ここにあり!」
と叫ぶ者が現れ、大之丞はそれでも心得たりと矢を射かけたが、矢種が尽きたため
太刀を抜いて大勢を切り抜き、秀吉(二人目)をも討ち取ってしまった。
3972/2:2012/11/18(日) 01:19:49.24 ID:Zt+952DC
しかし、この秀吉(二人目)もまた偽者であった。
又も「秀吉!」と名乗る者(三人目)が現れたのである。
流石の大之丞も疲れ果て、当家の運はこれまでと城下の新長門守屋敷前で自害したのであった。

秀吉と名乗った者(三人目)はその後城方の村賀徳太郎に討ち取られたが、
織田方は次々と攻め寄せたので、北畠政成らは奮戦したが自害に追い込まれ霧山城は落城した。

(伊勢国司記略)

この霧山城合戦の話は藤堂藩の学者・斎藤拙堂の伊勢国司記略にある話だが、この話の出所は
「多気記」という霧山城跡の近くに住む郷士が持っていた旧記で、
史料集めをしていた拙堂の門人が借りてきたものだという。
流石に信憑性に問題があるのは認識していたのか、拙堂はこの話の最後に注記して、
「誠しからぬ事も色々混じっているが、旧伝の事もあるだろうし、
ここにしか載っていないこともあるので記録しておく」と述べている。
398人間七七四年:2012/11/18(日) 02:02:32.39 ID:WCHFMqI1
なんというか3人も出てくると漫画的な展開だなw
399人間七七四年:2012/11/18(日) 09:33:39.69 ID:QawyyZ2g
ニセモノが三人も出てきてさすがの強弓の勇者もうんざりして自害する話
これは悪い話w
400人間七七四年:2012/11/18(日) 12:42:51.61 ID:Ox43ucax
量産型羽柴秀吉
401人間七七四年:2012/11/18(日) 13:40:10.81 ID:3Tq+sXAx
秀吉「ワシが死んでも代わりはいるもの…」
402人間七七四年:2012/11/18(日) 14:03:21.14 ID:gNBk86oC
秀吉1「キキーーッ!」
秀吉2「キーキー!」
秀吉3「ウキーッ!」

三成「わかりました殿下。では朝を四つに夕を三つに致しますね。」
403人間七七四年:2012/11/18(日) 14:47:26.05 ID:S1gjYMiv
山内一豊の6体分身は殿下直伝だったのか
404人間七七四年:2012/11/18(日) 16:13:21.53 ID:NrU6NZCb
本能寺の変の時、織田信長の腹を槍で突いた安田作兵衛こと天野源右衛門は
その後、首に怪しい腫物ができた。

これがなかなか癒えず、ついには瘤が生じた。天野は怒って琴の糸を
使って瘤をきつく縛り、糸を竹縁につないで脚を張って瘤を引きぬいた。
ところが、幾ばくもなくまたもや瘤が生じた。いよいよ憤った天野は
刀を抜いて自ら首を刎ねてしまった。

また本能寺の変で半弓を使い信長に矢を当てた光秀の小臣川上某という者がいた。
その六日目に川上は喪心して死んだ。川上は「鶴が来て額を刺す…。
痛み甚し、痛み甚し…」と、うわごとを言っていたという。

ああ、これもすべて天網は漏らさずというように、天罰を蒙った者ということなのか。

――『近古史談』
405人間七七四年:2012/11/18(日) 20:44:37.72 ID:/k8ajLJe
>>404
かたやわずか6日後、かたや15年後に割と出世もしていい目も見た後って
その天網ザルなんじゃないか?
406人間七七四年:2012/11/18(日) 20:54:38.24 ID:koAVmKDJ
肝心の信長を討ち取った人がのうのうと生き延びている件
407人間七七四年:2012/11/18(日) 21:47:42.82 ID:I0cJ4jNX
追沢二股の竹


天正10年(1582年)、本能寺の変の後のこと。
信濃から美濃へと舞い戻った森長可は周辺の東濃の諸氏と日夜戦いを繰り広げていたが、
森家に喧嘩を売った家の中に明智光秀の嫁の実家である妻木家があった。

ある時、合戦で敗れた妻木家臣の茂塚六兵衛の一団は森家の追手から逃れるべく追沢の地に辿り着き、
ここでとある民家の老婆に金を与えて屋根裏に匿って貰う事になった。
それを追ってきたのが森家臣の豊前市之丞という男で、追沢の辺りで消息を絶った武将たちの事を
この老婆に聞いたが「知らぬ」の一点張りで取り付く島がない。

ならばと有力な情報提供の恩賞として市之丞は懸賞金を懸けて再び老婆に行方を聞いた所、
老婆は六兵衛の金より市之丞の金のほうが額が多かったので天井を指差して六兵衛らを匿っている事をあっさりと白状し、
即座に天井裏に攻め込んだ市之丞の軍勢に六兵衛一行は悉く討ち取られた。

この事件の後にやがて老婆が死ぬとこの家には住む人間が居なくなったが、他の人間が新たにこの家に住むと
重病に倒れたり何かしら血を見るような死に方をしたりと不吉な出来事が必ず起こった為、やがて誰も住まなくなった。
そんな家に事件後に生えた二股の竹にも「きっと六兵衛の怨念がこもっている」と恐れられたという。


現在はこの竹はもう無くなってしまったが六兵衛の無念を弔う小さな祠だけは伝承と共に現地に残っている。
408人間七七四年:2012/11/18(日) 21:52:59.36 ID:Cy5BlbLP
まーた森家が岐阜県に不穏な逸話を残したのか・・・
409人間七七四年:2012/11/18(日) 22:01:45.28 ID:Uq8Io5lX
>>405
天網恢恢疎にして漏らさず の意味知ってるかい?

信長さんを直に討った連中が悪になるかって話は微妙だけどね〜
410人間七七四年:2012/11/18(日) 22:28:24.49 ID:LFmXm1nh
>>407
老婆が討たれる話かと深読みし過ぎた
411人間七七四年:2012/11/18(日) 22:32:24.79 ID:uukB3FHG
>>408
いやだかしかし、今回ばかりは森家が悪いわけではないだろう
412人間七七四年:2012/11/18(日) 22:40:37.96 ID:tI7MvZGo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4700.html
鬼武蔵の部下ってだけで
いい話だと思ったら実はおもいっきり悪い話だったこともあるし
>>404の安田作兵衛も鬼武蔵に召抱えられたからそんな最期になっったと考えれば辻褄が合う
413人間七七四年:2012/11/19(月) 00:01:50.21 ID:AswdiBZ1
すっかり鬼武蔵絡み=悪い話で刷り込まれてしまった。
もうどこで老婆が切られるのかと…。
でも森家ってケチってイメージないな。あげる時は気前いいよね?(出所はともかく…。
414人間七七四年:2012/11/19(月) 00:23:18.95 ID:xVwgnoRT
>>408
むしろ、お金に釣られてあっさりゲロった美濃県民のちょっと悪い話・・・
415人間七七四年:2012/11/19(月) 01:08:23.16 ID:d7MKuFgN
金で匿うならゲロするのも金だわなぁ
416人間七七四年:2012/11/19(月) 12:45:14.65 ID:mYCjmfy1
稲葉一鉄が伊予守だった頃、軍糧奉行の助左衛門は亭を建てて閑暇の折には
そこで友人と一緒に楽しんでいた。

ある時、長く雨が降り続き洪水が田畑に溢れ亭の辺りに水が流れた。
これを聞きつけた助左衛門は「良い見物になる」と友人を連れて遊興にふけった。

雨はますます降り続き日々水が増していたので「洪水見物」と人は皆
助左衛門の亭にやって来て酒宴を催した。これを耳にした一鉄は驚愕した。

「兵糧は軍国の第一であるのに、それを掌る身分として作毛の豊凶に心を用いず、
田畑の冠水を楽しんで酒宴に及ぶとは言語道断。その罪は決して軽くない。
しかし、かの者はいつも正直だからこの一件のために見棄てるべきではないな。
それに不所存者に大切な役目を任せたのは私の過ちだった」

一鉄は自分を戒めて三日の間、酒肴を絶ち粗食ばかりを食して自らの過ちを
家臣に示した。また助左衛門には「助左衛門の一件は、その職分をわきまえなかったこと
不届きである」と五十日の閉門を申し付けた。これにはいずれの者も大いに畏服した。

――『良将言行録』
417人間七七四年:2012/11/19(月) 13:14:55.03 ID:u86furky
   /     /     /      /  /  / /
/     /     /     /     /   /
             ビュー   ,.、 ,.、    /   /
    /    /       ∠二二、ヽ    / /
  /    /   /   (( ´・ω・`)) ちょっと田んぼの様子見てくるお
               / ~~ :~~~〈   /
       /    / ノ   : _,,..ゝ   /
    /    /     (,,..,)二i_,∠  /    /
418人間七七四年:2012/11/19(月) 13:16:27.36 ID:u86furky
______________________
  ロ   ◇     ロ   ◇     ロ   ◇     ロ
 (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))
  ロ  ◇      ロ  ◇      ロ  ◇      ロ
     ◇        ◇        ◇

   Λ∞Λ  Λ_Λ       Λ_Λ
   ( ´∀`)  ( ´∀`) (祭)  (・∀・ )
  / ヽ у 〉 /`___У__」つY   /) 〕〕 〕〕つ  洪水見物とは風流ですな
  l゚ |ニニニ|゚ ゚ |_|__|      ゚|_|| | |||
 △(__)_)  (__)_)      (__)_)
419人間七七四年:2012/11/19(月) 13:17:52.19 ID:u86furky
  ∧_∧
⊂(#・ω・)  兵糧は軍国の第一だろうになめとんのか!
 /   ノ∪
 し―-J |l| |
         人ペシッ!!
       __
       \  \
420人間七七四年:2012/11/19(月) 14:25:04.34 ID:wY2zrM6X
讃岐の住民「美濃にあふれるぐらい降るならこっちに降ってくれよ」
421人間七七四年:2012/11/19(月) 18:04:38.02 ID:VEoGKfyL
物語は破のEDの14年後からはじまる。

カヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。

(エンディングへ
422人間七七四年:2012/11/19(月) 19:34:04.72 ID:RbQCKCwP
>>416
不良学生に苦心する教師みたいだ
423人間七七四年:2012/11/19(月) 20:02:58.01 ID:5duFWdRW
もうどうにでもなーれって感じじゃないのかw
424人間七七四年:2012/11/20(火) 00:38:01.29 ID:33GYdkfr
ひとりひとりが何かの(多くは常人には理解不能な)こだわりを持っていて、
それに固執し断固として譲らない。

敗戦の原因となった者は、罰として真っ先に逃げる屈辱を受けなければならない。

犬のように忠実と言われるが、わりと文句を言ったり諌言したりすることもある。

個人の戦闘能力は非常に高いが、主君が敵にまわると無力化する。
425人間七七四年:2012/11/20(火) 16:49:05.40 ID:5PrsRqBQ
徳川家康は自ら節約を実行して奢りと贅沢を戒めとした。

「平氏を滅ぼしたものは平氏自身であり、源氏を滅ぼしたのも源氏自身だ。
いずれも度を過ぎた贅沢に流されてしまったから哀れむべき結果となってしまった。
これは奢侈が及ぼす害の例である。よくよく気をつけなくてはならない」
とは、ある時の家康の言葉である。

ある人が黄金の装飾を施した団扇を家康に献じたことがあった。団扇を見た家康は
ぎょっとして顔色を変え、侍臣に命じて大切に収めさせたきりその団扇を使わなかった。

――『学生の漢文(明徴録)』
426人間七七四年:2012/11/20(火) 17:21:16.51 ID:ZVMNtgdK
日光東照宮とか生前に見せたら激怒するレベルだな
427人間七七四年:2012/11/20(火) 17:22:48.83 ID:fEpD3TWQ
>>426
まあ実際生前に「日光は粗末なお宮でいい」って言ってたしな、権現様
428人間七七四年:2012/11/20(火) 17:32:33.51 ID:IEvQZ50K
>>426
家光以降の大奥とかも見たら激怒しそう
429人間七七四年:2012/11/20(火) 17:39:09.57 ID:XMEbGXz6
その黄金の扇って小幡勘兵衛がつくった信玄公の軍配とはまた別か
430人間七七四年:2012/11/20(火) 18:38:01.44 ID:BOCFkGLI
>>428
男女逆転大奥を見たら卒倒しそう
431人間七七四年:2012/11/20(火) 18:46:29.17 ID:ttr/WKG7
蒔絵おまると違って叩き割って捨てたりはしなかったのね>団扇
432人間七七四年:2012/11/20(火) 20:17:32.31 ID:fEpD3TWQ
関ヶ原戦後のこと
徳川家康より軍功のあった諸将への加増が発表されたが、井伊直政、本多忠勝にも
加増により所替えを仰せ付けられ、御書付を与えられた。

しかし井伊・本多はその加増の少ないのを不足に思い、新領地を拝領しない旨を申して
折紙を返上し、そのまま退出してしまった。そしてその事に不満を言っているのを
永井右近太夫直勝が聞きかね、直政に直接に異見した
「貴殿は徳川家の功臣であり、家臣団の中でも1,2に数えられる身であるというのに、
そのように禄を貪られるのは心得かねることである。御加増の折紙を御拝領すべきである。」

直政はこれを聞くやいなや
「永井!其の方などが存ずるようなことではない!
さほど功もない、一度与力したにすぎない大名共には大国・大領を与えられているのに、
これでは我らが、三河以来粉骨をしてきた甲斐もないではないか!無念の奉公を、恨まずにいられようか!」
そう、未だ蟠りを持っているように申し立てた。

これに永井直勝重ねて異見する
「これは直政の言うこととも思えぬ。貴殿や私のような譜代の輩は、今度の合戦の報奨について、
どのように扱われても、どうして御恨み申し上げることが出来るだろうか?
そもそも今度お味方された諸大名は、徳川家意外の恩録によって一家を立てた人々である。
そんな彼らの加勢がなかったら、どうしてこの度の一戦、御旗本の人数だけで、例え鬼神の働きを
したとしても、勝利することが出来ただろうか?

言わば、国々の大名は世間の存在である。我々は御身内である。貴殿は特に御人数も多く預かられている。
そうであれば、昔を思い返せば御恩が浅いなどと申すことは出来ない。
貴殿は上様から付けられている御人数がなければ、例え樊カイを欺くほどの武勇があったとしても、
どれほどの働きが出来ただろうか?」
直政はこの言葉に大いに腹を立て
「右近などと比較されるような、この兵部だと思うのか!?」と言い放った。これを永井はあざ笑う

「愚かなり直政!この右近にも、お主ほどの人数を預けさせて頂ければ、どうして貴殿に劣るだろうか!
小身であるから、働きも思ったようには行かないのだ。貴殿がそれほど道理に暗かったとは知らなかった。
そんな貴殿と年来交友を重ねたことが口惜しい!今後は絶交いたす!」
そう言い捨て立ち去った。

その後、直政はつくづくと考え、永井の言ったことこそ道理だと思った。
そして自分の非を悔やみ、「功に誇るのは義士の成すべきことではない。私は愚かにして、
上より下された所領を受けないというのは、畏れ多いことである。」
そう、誤りを正すことに決心し、本多忠勝にもこの道理を言い聞かせ、両人で家康の御前に出て

「以前、不足を申し上げた所領を、拝領仕るべし!」と申し上げた。
これに家康も
「尤もなり。良き了見なり」と、お咎めもなく折紙を与えた。

ここより直政は直に永井の所に向かい、彼と対面して
「以前の過言、面目のないことだった。貴殿は真実の友である。たった今私は、あなたに降参する。
どうか以前と変わらぬ、交友を続けていただきたい。」そういって文殊の茶入を差し出し

「この茶入は、あなたもご存知のように我が家第一の秘蔵の品であり、命にも代えがたいもである。
だが、今度の貴殿の厚情への感謝を、言葉で表すことはできない。せめて私の心ばせとして、これを。」

これに永井は直政の心の丁重さに感じ入り
「さてさて、以前に変わらぬ交友は、こちらからもお願いする。
しかしこの文殊は天下の重器ではないか。このようなものを受け取る事は出来ない。」
そう再三辞退したが、直政の
「この兵部の、拠ん所無い心底を見せる印である!」
との言葉に遂に受け取り、それは今も、永井の家に伝わっているそうである。
(武野燭談)

永井直勝、井伊直政に異見す、というお話
433人間七七四年:2012/11/20(火) 20:56:46.19 ID:egQyUtaH
本多には言わなかったのかな
434人間七七四年:2012/11/20(火) 21:09:04.71 ID:UpdhM8cs
この話は『茶道美談』にも紹介されているいい話ではないか
徳川家第一の重臣である直政に、臆せずにその非を直言する永井直勝もカッコよければ、
「功に誇りて、賞を貪るは、忠臣にあらず、義士にあらず、我れ過てり」
そうすぐに反省し「貴殿は眞實の友だ」と
命にも代え難い秘蔵の茶入を惜し気もなく渡す爽やかさを持つ直政もカッコいい

ちなみに茶道美談では最後はこう締めくくられている
「益友の一言(いちごん)は、萬鎰の黄金より貴し、井伊文林の宝器も物かは。」
435人間七七四年:2012/11/20(火) 21:50:29.44 ID:45EqPW6/
永井と井伊で仲いい話
436人間七七四年:2012/11/20(火) 22:31:20.21 ID:IEvQZ50K
お後がよろしいようで
437人間七七四年:2012/11/21(水) 05:59:52.34 ID:WGnTcA71
まとめには別説がもうあるけど。
奥羽永慶軍記より「田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事」

天正14年(1586年)、田村清顕はとうとう跡継ぎを得られないまま亡くなる。
「せめて後世の為に祈らん」と大般若経600巻を手づから書き写し、大元帥明王へ奉納したのちの逝去であったという。

ところが不思議なことに三七日(みなのか=21日法要)も終わらないうちから明王の社に妖怪変化が住み着いた、との噂が立ちはじめる。
「清顕公が無念に思うあまり化けて出たのだ」と領民はすっかりおびえ、日暮れ時には全く人通りもなくなってしまった。

また社近くの村に住むある女などは、世にも稀なる嫉妬深さで隣村の女が夫と不義密通をしていると邪推し、
夜な夜な社の神木へ釘を打って丑の刻参りをし始めた。
その奇行はやがて人目に触れ、「かの妖怪はもしやあの女かもしれん、正体は角の生えた蛇じゃぞ」と領民はさらに恐怖心を募らせていく。

さらにさらに恐ろしいことには、翌天正15年の正月早々にはその女が化け物に引き裂かれたかのような惨殺体で発見されたのである。
「公の御霊は悪鬼と成り果てたか」
領民はすっかり恐怖のどん底に陥ってしまった。

清顕の寡婦・於北御前はこの噂を恥じれども打つ手がなく、家老一門にいたるまで閉口してうつむく有様であった。

そのころ伊達家の勇将・原田宗時は政宗の秘命を帯びてひそかに三春へとやってきていた。
※訳者注、先代隆顕未亡人・小宰相と連絡して田村家中を伊達派へ促す目的かと推測。

連れてきた家来が不肖者で早くもへたばったので大元帥明王からほど近いところに宿を取ると、人々が清顕公の祟りを噂しているのが聞こえてきた。
438人間七七四年:2012/11/21(水) 06:05:29.08 ID:WGnTcA71
宗時は一考し、「このような噂が政宗公の耳へ入ればさぞ物憂きことだろう。しかし、女の身体を引き裂くというのは亡霊にあるまじきこと、その昔渡辺綱に腕を斬られた茨木童子のような鬼の類ではないだろうか」
「わしはさすがに渡辺綱ほどの武勇はないが、斬れるものなら斬ってやれないことはない。よし、今宵の丑の刻、社へ行って退治してくれよう」
と密かに決意して身体を横たえた。

その夜、へっぽこ家来を起こさぬようこっそり支度を終えた宗時は、意気軒昂社へ乗り込んだ。
辺りを見回しながら屋根に上ると、なるほどたしかに真っ白い何かが5、6人ほど高いびきをかいている。

「ん?」
ここで宗時は気付いた。夜中で見え辛いには見え辛いが、どうみても身の丈5、6尺を超えず人外とは思えない。
「こやつら流れ者の強盗ではないか!妖怪の真似をしくさって人々を脅かすとは許せん!…斬る!!」

怒り心頭、ズドンと屋根を踏み鳴らし「おのれら化け物を誅すべく原田左馬助が参ったぞ!早々起き上がれ!」と怒声を浴びせかけた。

強盗団の頭と部下たちは、よく寝入っていたところを急襲されたので太刀を抜く暇もなく立て続けに斬り捨てられてしまう。

宗時の方はなおも油断せず、手足の動く者がいれば入念に刺し殺した。
全てが済むと太刀を納め「このようなこと、誰に自慢できるわけでもなし」とこぼして帰って行った。

夜が明けて6つの死体を見た人々は、誰の仕業かと恐れおののいた。
しかしながら、異変がなくなったのが原田宗時の一宿したのちのことと気付くと「さてはかの御仁がなせり」と安堵したという。

領主がいないとこんなに風紀が乱れますよ、という悪い話。
439人間七七四年:2012/11/21(水) 09:47:08.67 ID:wxl4YkBJ
へっぽこ家来が何かしでかすのかそれとも活躍するのかとwktkしてたら何もしなかったw
440人間七七四年:2012/11/21(水) 11:45:25.97 ID:yuZ2AsFA
>>433
忠勝「わしの手勢は500だが?」
441人間七七四年:2012/11/21(水) 13:08:54.92 ID:6pAeQzF3
兵500で100の首挙げられちゃ何も言えませんがな
兵5,000で前線でバリバリやってた主力の細川隊ですら首200なのに。
おかしいですよ本多さん・・・
442人間七七四年:2012/11/21(水) 20:08:08.28 ID:IINPhY91
>>441
兵数は参謀本部の推定だからなー。
東軍、西軍ともに実際の兵数は通説より少ない気がする。
443人間七七四年:2012/11/21(水) 20:10:28.02 ID:hvSbJfUS
実は小早川参戦前から西軍はフルボッコ状態だったって説もあるんだっけ?
444人間七七四年:2012/11/21(水) 20:19:09.78 ID:VwY/B77K
参謀本部言うたらアメリカの戦力やソ連の戦力、ドイツの戦力も理解できなかったどころか
支那の戦力ですら読めなかった無能集団だろ。
信用するほうがおかしいぞ。
445人間七七四年:2012/11/21(水) 20:25:52.73 ID:258mDYVm
>>443
昨今の、薩摩の覚書などを元にした研究だとそういう話も出てるね。
少なくとも三成陣に関しては、島左近が負傷した後即座に崩れたとか。

あと西軍は東軍より相当数が少なく、東軍の半分程度だったんじゃないか、なんて話も。
446人間七七四年:2012/11/21(水) 20:33:09.35 ID:XT8aC3CY
なんだかんだ言っても豊臣軍主力は上杉征伐行ってた東軍の側だしな…
447人間七七四年:2012/11/21(水) 20:47:20.26 ID:i3NIztTK
井伊直政は関ヶ原前に伏見城で在番期間の三倍も滞在して働き詰めで
とても疲弊しているという手紙を黒田官兵衛に送っているんだよな。
その後に足の付け根に腫れものが出来て痙攣を起こしたり
原因不明の高熱が出て生死の境を彷徨う病に倒れたために
急遽、本多忠勝が外様を率いる東海道組に加わったので小姓など500という少数部隊だったという。
448人間七七四年:2012/11/21(水) 21:22:47.96 ID:hvSbJfUS
>>445
そうそう。桐野作人氏の説ね。
個人的には「天下分け目の決戦」で割と五分の勝負が続いてた
って方がロマンがあって好きなだけに実像を知って割とショックだったわw
449人間七七四年:2012/11/21(水) 21:42:06.34 ID:IINPhY91
>>443
そういう説はあるね。東軍が一気に前進して押しつぶしたってやつ。

激戦だったにしては東軍は翌日からすんなり行動を再開してるし、
夕方に戦いが終わったとすれば首実検が終わらんのじゃないかとか
あれこれ考えると、東軍があっさり勝ったと考える方が合理的ではある。
450人間七七四年:2012/11/21(水) 21:46:12.23 ID:FYTIsNnw
>>447
ちょっと働かせすぎだよなぁ
そりゃ過労死もしますって
451人間七七四年:2012/11/21(水) 22:51:07.72 ID:79AnIxRV
良い話で踊りの話が出てたから、悪い話でも踊りの話。

1503年、大内義輿が上洛する前の頃、安芸の厳島神社の祭礼にやってきた時の話。
お祭りと言えば酒である。
祭礼に来ていた参加者たちもどうも呑んだらしい、しかもベロベロになるまで…。
酔ったら気が大きくなるのは今も昔も変わらない。
彼らは酔った勢いで神社で行われている神事に対して悪口放逸をし始めた。
これに怒った厳島神主支配下の神領衆は暴れてた人々を十人ほど殺してその船を沈めた。
神社の勢力なのに過激な事である。

ところでこの殺された人たちの中に、
伊予の豪族であった多賀江(多賀谷とも)氏の郎党も含まれていた。
多賀江氏も宮島と同じく大内の傘下に居たため、神社の祭礼に参加していたのだろう。
それで祭礼に参加して殺されたのでは、カチコミに至るのは当然だろう。
…そして蒲刈島を出発した160〜170隻の船が厳島を襲った。
島に上陸して火を点けて回るなど暴れ放題。
まさしくヤクザの抗争である。
と、奇跡的なタイミングで風雨が強くなってきた。
さすがにこれは帰らねば、と、暴れた者の中の一人、
多賀江氏の勇士として知られた多賀江兵部小輔は神社に軽く拝礼して船に乗り、神社の鳥居の前まで漕ぎ出して…。

船が沈没し24人の郎党と一緒に海中に消えた。
※ ついでにその後来た多賀江氏の親戚である重見氏の船も沈んだ。

で、この時死んだ多賀江兵部達が悪霊となって厳島の住民を苦しめたので、
その霊を慰めるために念仏踊りを始めたという。

これが、現代にも伝わる宮島踊りである。
ttp://www.miyajima.or.jp/event/event_odori.html
と奇麗に纏めてみたけど、味方同士での抗争で死者まで出た上、
悪霊にまでなってしまったという悪い話。
452人間七七四年:2012/11/21(水) 22:59:35.01 ID:oz+uKh8u
453人間七七四年:2012/11/22(木) 00:23:18.91 ID:KaHK7Kje
そして誰もいなくなった…
454人間七七四年:2012/11/22(木) 08:29:09.23 ID:+Jo1HRuw
由来を知るとなんか馬鹿馬鹿しくなる踊りだなw
455人間七七四年:2012/11/22(木) 17:31:39.07 ID:KwSY+G46
元三河武士にして四十代で身分を捨てて出家の身となった鈴木正三。
ある時、一人の侍が正三を訪ねて来た。

「私は辻斬りが大好きなのです。世の中に辻斬りより面白いことなどありません」

「わしも辻斬りが大好きだ。それならば今夜ともに参ろうか。しかし、お前ごときに
辻斬りをするほどの勇があるとは思えないがなぁ。わしの若い時などは木竹を
切るように人を斬ったものだ。いまは年老いて長いこと人を斬っていないが今夜は
わしの腕前を見せてやる」

正三は侍と一緒に品川辺りにやって来た。辺りをうろうろしていると多くの町人や百姓、
女子供が通り過ぎていく。侍はこれを斬ろうとしたが、正三はその度に侍を引き止めた。
やがて多くの従者を引き連れた者が現れた。

「よし、あれを斬れ。さあ早く!」

しかし、侍はたいそう物怖じして躊躇してしまった。

「お前にできないなら、わしがやるぞ」

侍は慌てて、正三を切実に諌め袖を引いた。正三は大笑いして曰く、
「なんとまあ口ほどにもない臆病者だ。あれを斬ってこそ武士だ。女子供を幾人も
斬ったところで功名になるとでも思ったか!」と侍をいたく戒めた。それからは
侍も辻斬りを止めたのだとか。

――『近古禅林叢談』
456人間七七四年:2012/11/22(木) 19:00:36.85 ID:KoqGrZhw
出家した奴の所にやって来て辻斬りタノシスwとか言うのも、
言われた方もノリノリで辻斬りに付き合うてのがそもそも現代人には理解出来ん
457人間七七四年:2012/11/22(木) 19:14:12.23 ID:y6OWRbHJ
正三の方はハナから諭す気で付き合ったんだろ
458人間七七四年:2012/11/22(木) 19:32:39.13 ID:fxSSvdtH
相手が相手だしこの侍もやめたかったんじゃないかと思ってしまう
459人間七七四年:2012/11/22(木) 19:34:15.06 ID:p6W5sKtG
辻斬り中毒の侍の方も、誰かに止めてもらいたくて話に行ったんだと思うよ
460人間七七四年:2012/11/22(木) 21:29:00.35 ID:Z9akXTdc
「無差別に人を襲いたかった」と言い訳する通り魔に
「でも暴力団事務所には行かないんだね」と返すみたいだ
461人間七七四年:2012/11/22(木) 21:38:35.21 ID:M/0austq
斬りたいのであって斬りあいをしたいわけじゃないからな
462人間七七四年:2012/11/22(木) 21:58:22.94 ID:uX19Ty5o
辻斬りなんて自分の安全が確保された上じゃないと刀抜かないもんだ
463人間七七四年:2012/11/22(木) 22:02:22.21 ID:V6DmeAAv
剣聖を辻斬りする椰子はいないが村雨の人は毎回斬られるようなもんか?
464人間七七四年:2012/11/22(木) 22:14:33.87 ID:y6OWRbHJ
は?
465人間七七四年:2012/11/22(木) 22:25:50.55 ID:60RMfyyQ
その辻斬り中毒の侍って、戦に出たことあるのかな?

>>463
某K○EIのゲームに出てくる足利義氏のことだろ。
武力低いくせに最高ランクの武器(村雨)を持ってるがゆえに、
それを狙った連中に斬られまくるんだよ。
466465:2012/11/22(木) 22:29:08.76 ID:60RMfyyQ
アンカーミスったorz
>>463>>464です。

ちょっと福島正則主催の宴会に参加してくる・・・
467人間七七四年:2012/11/22(木) 22:36:02.02 ID:R4HQtNgt
まあ人殺しが楽しい奴はおらんわなぁ
468人間七七四年:2012/11/22(木) 22:45:44.31 ID:jkNr+Exv
鬼武蔵「人殺しが好きな奴なんていないだろw」
469人間七七四年:2012/11/22(木) 23:06:54.70 ID:V6DmeAAv
街中での辻斬りはともかく勝てる椰子を斬るというのは戦場では有効な戦術だな。
好き好んで呂布とか関羽とかにケンカ売るより絶対勝てそうな文官っぽいの狩って手柄にするほうが生き残れそうだもの
狩れそうもないなら畳で畳み掛けてから種子島で穴だらけにするなり工夫せにゃならんけど
470人間七七四年:2012/11/23(金) 00:19:35.35 ID:Ol09G7q6
>>466
に、日本号はあげないんだからねっ!
471人間七七四年:2012/11/23(金) 02:14:30.90 ID:dFOR1EtY
>>469
戦目付がしっかり見てる
472人間七七四年:2012/11/23(金) 06:53:10.56 ID:dl9dHUF/
薩摩隼人「酒と血しぶきが大好きです、釣りに引っ掛かったバカの首狩るのが特に楽しくて楽しくて」
473人間七七四年:2012/11/23(金) 09:47:50.09 ID:Ol09G7q6
ニート・引きこもりが社会問題となっている昨今、
薩摩国ではちぇすと・すてがまりが深刻化しており…
474人間七七四年:2012/11/23(金) 10:37:57.13 ID:ZTR2EY3J
ひえもんとりも深刻化
475人間七七四年:2012/11/23(金) 16:01:33.05 ID:PKSClC2s
>>471
いや、そりゃ強敵倒すよりは評価低いだろうけど
一定の地位のやつ倒せばそれはそれで評価上がるでしょ
476人間七七四年:2012/11/23(金) 16:54:03.24 ID:4zixlAjn
>>473
一瞬チェストステマに見えた
477人間七七四年:2012/11/23(金) 17:22:39.10 ID:nNaCNMWS
自分はステマ狩りに見えた
478人間七七四年:2012/11/23(金) 17:41:57.69 ID:jFuokJTt
>>475
まぁ問題は「考える事は皆同じ」って所だったりするかも
479人間七七四年:2012/11/23(金) 18:22:09.21 ID:nvVEh4UF
「あ、あの武将弱そう」ってしっかり見抜いて討ち取ってかえってくる…
凄すぎるだろw
480人間七七四年:2012/11/23(金) 19:58:25.93 ID:Q0PWAsmz
まてまて、「弱そう」と「弱い」は全く違うからな

「お、あいつ、いい甲冑着てるがヒョロっとしてて腕っ節はなさそうだな。
さしずめ筆より重い物は持ったことがないってクチか?もらった!」

なんつってうっかり挑みかかったらこれが釣りで、実は百戦錬磨の返り討ち
職人でした〜、なんてこともないとは限らんからな
481人間七七四年:2012/11/23(金) 20:08:30.95 ID:38qBCV/1
ルソンの日本人町開設の経緯


戦国時代後期、ルソン(ルソン島、現フィリピン)に日本人町があったという事は割と有名であるが
その開設の経緯というのは決して穏やかなものではなかった。

天正18年(1591年)9月、豊臣秀吉は原田孫七郎を使者にしてルソンのスペイン総督府に対して入貢を要求した。
スペインからすれば何とも屈辱的な出来事であったが当時のスペインはアマルダの海戦で無敵艦隊が敗れるなど
既に衰退期に入り始めていたため、報復などの行動は取らずこれをスルーした。

しかし、翌年に秀吉が朝鮮出兵を実行に移したことで秀吉のルソン侵攻も無いとは言い切れない情勢になると、
スペイン総督府は現地にいる日本人たちが有事の際に日本側に付くことを警戒して、
当時ルソンに住んでいた日本人をマニラのディオラ地区にまとめて強制移住させた。

これがマニラの日本人町の始まりであったと言われている。
482人間七七四年:2012/11/23(金) 20:13:30.58 ID:a2c6DmNE
なにかあるとすぐに刀振り回して暴れるからなあ
483人間七七四年:2012/11/23(金) 20:19:19.58 ID:LnXJOezq
ルソン行く場合は、やっぱ中国沿岸に沿って向かうのかな。
直線で行くのは遠そうだよなー
484人間七七四年:2012/11/23(金) 20:21:51.57 ID:YGa+HmrI
隔離地区だったのか・・・
485人間七七四年:2012/11/23(金) 21:42:18.40 ID:3CnQY/Ac
>>479
家康が若い武士と経験豊富なつわものの違いを語ってたような
486人間七七四年:2012/11/23(金) 21:45:06.68 ID:fY8xBBsI
雇い主のスペイン人に殴られてムシャクシャしたので
八つ当たりで全然関係ない他のスペイン人の家を刀振り回して襲撃する
とか普通にやる蛮族どもなので隔離は妥当
487人間七七四年:2012/11/23(金) 22:18:50.69 ID:X2nhYk3I
永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を包囲した、最初の越山のあった年だが、
小田原攻略に失敗し退いた景虎に対し、成田長泰が反旗を翻した。

ところがこの時厩橋城には、成田長泰の次男の小児と、成田家家老・豊島美作守の二名が、
景虎への人質として置かれたままであった。

景虎が厩橋に帰城する前日、城の夜番を勤めているかせ者(名字を持つ下級の侍)が一人やってきて、
豊島を物陰に呼び出して囁いた

「豊島殿、あなたは成田長泰の御別心のために、明日には切腹させられるともっぱらの噂です。
そういうことですが、私はあなたの御命をお助けしてもいい。
あなたは忍に帰れば、五千貫程の大名だと聞いています。
…私に三十貫の所領を与える気はありますか?」

この言葉に豊島は大いに驚き

「それは何よりも易き事なり!」

と、この夜番の者と深く語らい、三十貫の所領を与える書状を書き与え、「ひとえに頼む」と
協力を依頼した。
夜番の者大いに喜び、馳せめぐって川船などを置き様々な準備をし、帰ってくると
豊島を夫男に変装させ、熊手などを背負わせて、城から出そうとした。
この時豊島は

「成田の御子息もどうにかして一緒に落ち延びさせたい。」

と言ったが、夜番の男は

「美作守殿一人を落とすのさえ大変なことです!その上御子息のことは、父である屋形(成田長泰)
ですら捨てて反旗を翻したのです。そうである以上是非に及ばず。御子息はここに残して、我々は
退きましょう。」

そう言われたため、成田の次男が寝入った隙に、豊島は夜番の者に付いて番所を忍び出て、
船に乗り早々に忍へ帰った。

成田の次男は豊島がいなくなったことに気が付き、後を追って外に出て探したものの見つからず、
そうしている内に追手が迫ったため川に飛び入り、そのまま空しく亡くなられたという。


さて、豊島美作守は忍へ帰ると自分の家にも入らず、先ず息子の左馬助を呼び出し、城に使いを
立てさせた。その言上はこうである

『私は数度の忠孝を立て、更に一度の不忠もありませんでした!それなのに何故、私を捨て殺しに
為されようとしたのか!?甚だ以て口惜しい!
この上は小田原へ参り、氏康殿に奉公仕ります!御暇を申し上げる!』

そうしてまさに打立とうとしている所を、成田長泰の息子の五郎が城から駆けてきて豊島を呼び止め

「誠に代々の家老である事と言い忠節といい、お主の言うことは全て、道理至極である」

と謝罪したので、仕方なく豊島も忍に帰り、元にように家老に復帰した。
そしてあの夜番も取り立て、約束通り三十貫の所領を与えた。

しかし、この時の恨みにより、後に豊島美作守は成田長泰の子息・氏長と一味して、長泰を
追放したのだという。
(關侍傳記)

成田長泰に見捨てられた家老、についての逸話である。
488人間七七四年:2012/11/23(金) 23:17:17.02 ID:LnXJOezq
戦国の習いとは言え、頼みの家老がいなくなって、
慌てて逃げ戸惑っているうちに堀に落ちて死んだ次男が憐れだなー
489人間七七四年:2012/11/24(土) 07:46:09.28 ID:Nv1NUoo1
夜番も見る目があるなw
戦国の立身出世は無法地帯だ
490人間七七四年:2012/11/24(土) 08:15:52.70 ID:fOzuw8R1
まあ、夜の番なら夜の闇も、戦国の世の一寸先も見る眼がないとね
491人間七七四年:2012/11/24(土) 09:03:26.74 ID:n6A74ZEw
よし、ちょっと眼力を養うために橋の番やってくる
492人間七七四年:2012/11/24(土) 09:21:23.34 ID:2Sp792xX
眼力養ったら、北斗七星の柄の先から二番目の星が二重になってるのがわかるらしい
493人間七七四年:2012/11/24(土) 09:37:47.42 ID:u6/4nlA+
むう あの星は死兆星!
しっておるのか半兵衛!
494人間七七四年:2012/11/24(土) 10:01:50.61 ID:iTkx5WcK
ウルトラ七つの誓いを何故だか思い出した・・・
495人間七七四年:2012/11/24(土) 10:02:21.20 ID:iTkx5WcK
五つだったわwwww
496人間七七四年:2012/11/25(日) 03:07:57.31 ID:JRdbPDlr
497人間七七四年:2012/11/25(日) 06:24:09.31 ID:39PHEawU
>>490
夜の閨に見えたので細川邸に忍び込んでくる
498人間七七四年:2012/11/26(月) 18:41:29.94 ID:VSIyx/om
聞いたこと見たこと、何であってもよく覚えて忘れないというのは、その身の徳であり、第一の宝である。
見ても覚えず、学問・講習の筋を習っても、忘れ果てては何の役に立つだろうか?
人と近付きになっても、一度ばかりではその名前も顔も覚えられない、という例は多い。
記憶力が強いというのは、人の羨むことである。

青山伯耆守忠俊は記憶力に非常に優れ、旗本・小身の輩まで、一度その名を聞きその顔を見れば
能く覚えて、再び会った時には、必ずその名を呼んで挨拶をした。
その様であったので青山も自分の物覚えの良さを自慢していたが、ある会合において、
一座のものから青山に
「真似ようとしても出来ないことだ。有り体に言って中々及ばないことです。」
と声をかけられると、青山これに対し

「だいたい物覚えなどというものは、努力次第でどうにか成る事ですよ。」
と言い出した。これを聞いて同席・末座の人々、口をそろえて
「稽古によって出来る事なら、是非習いたい!」と、その答えを所望すると、青山は笑いながら

「意地がキレイか、意地が汚いかという事です。」
という。一座の人々困惑し、「そう言われても、全く理解できない。」と言えば青山

「されば、である。あなた達も、御三家・国持大名などの顔名前はきっと覚えているでしょう?
しかし小身の者たちに対しては侮っているから、その名も知りません。
私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので、能く覚えるのです。」

この言葉に一座のもの、皆感じ入った様子であった。

と、この場の遙か末座に、未だ無官の、若き日の知恵伊豆、松平伊豆守信綱があった。
彼は一人、青山の答えに感心した様子も見せずに嘯いていた。

青山はこの信綱の様子をいち早く見て取り、彼の方を見て声をかけた
「どうした!そこに居る小癪仁はどう思うのか!?」

これに信綱、冷然と
「…私の考えとは違う了見です。感じ入る所までは行きませんね。」と言う。
青山「では、お主の考えを聞きたい!」と、信綱の話を聞く姿勢を見せる。
すると信綱、少し進み出て

「太陽・月の事はきっと知っておられるでしょう。では、その他の星の名、星座の名など、
それをすべて覚えていらっしゃいますか?」

青山はこれを聞くと「どうやってすべての星の名を究め知ることが出来るだろうか?
天文の家であっても、細かな星は粟三斗分の数ほどもあると言っているが、それでも尚
具体的な数はわからないのだ。そうであるものを、どうしてその名を知ることが出来るだろうか?

この答えに信綱

「さて、あなたもそうお考えになりますね。
例えば、私のような愚かなものであっても、御三家は勿論、国取り大名も数が少ないので、
日月・五星・二十八宿と同じように、覚えるのが楽です。

しかし小身の衆は天の星の数よりも多いほどですので、どうして覚えられるでしょうか?
伯耆守殿のように、生まれつき記憶力の良い人には、そういったものも覚えられるのでしょう。
あなたがどう申されても、自分の意地の清濁とは関係ないことです。」

これには流石の青山伯耆守忠俊も閉口してしまったそうである。

ちなみに、物覚えには少しはコツがあるらしいよ!(物を覚ゆるは少しは傅も有る事とか)
(武野燭談)

青山忠俊と知恵伊豆の、記憶力についてのお話。
499人間七七四年:2012/11/26(月) 20:55:34.56 ID:luN+5ubm
伊豆守に聞いた青山が悪かったなw
500人間七七四年:2012/11/26(月) 21:16:46.67 ID:A9QZagF9
>私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので

江戸時代にこんな奴いる訳ないだろうが
501人間七七四年:2012/11/26(月) 21:21:01.19 ID:VSIyx/om
>>500
ちなみに原文

『我等は末々までも人に替りなき處を考へて、平等に存ずる故に能く覚え候』

武野燭談は宝永6年(1709)成立
502人間七七四年:2012/11/26(月) 21:25:32.97 ID:T7w6fXkL
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772575/21
の53p見たらそのまんま書いてある
503人間七七四年:2012/11/26(月) 21:33:57.24 ID:Z47zLL3B
人類皆平等的なのは実際にはともかく宗教ではよくある表現だし
表現としてはそうおかしくないんでないの
504人間七七四年:2012/11/26(月) 21:54:09.00 ID:luN+5ubm
平等とか公平観は江戸時代にあった。最近読んだ東遊雑記にも出てきてた
505人間七七四年:2012/11/26(月) 21:59:08.26 ID:MtgoaPV4
差別は許さん 大名、小名、旗本を、俺は見下さん!すべて…平等に価値がない!
口で焼き味噌垂れる前と後に権現様と言え!

こうですか?
506人間七七四年:2012/11/26(月) 22:34:59.64 ID:fv8Yc8Y/
家光乙
507人間七七四年:2012/11/26(月) 23:33:23.45 ID:/sxQ+pTx
※但しイケメンはのぞく
508人間七七四年:2012/11/27(火) 00:54:18.38 ID:/cGhAlBG
本音と建前を忘れちゃいかんよ
人類平等という思想と社会秩序のための階級格差は別なのだ
5091/2:2012/11/27(火) 20:02:32.43 ID:/gAGb3HT
永禄9年(1566)の事

成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中

成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには

「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。

そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。

が、この成田長泰は只者ではなかった。

彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。

「大殿が桶をくぐられた!」
5102/2:2012/11/27(火) 20:03:08.44 ID:/gAGb3HT
物見の通報によりこれを知った城内の者達は桶の口を固め、三友十兵衛というものが、桶の口で
槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!

が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると

『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』

槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?

成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。

と、ここで長泰、何故か述懐を始めた

「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」

などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!

「まてまてまてー!!!!!」

現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。

そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)

成田家の親子不和、についての逸話である。
511人間七七四年:2012/11/27(火) 20:18:29.37 ID:eahOQBlN
なるほど、これは落城しない
512人間七七四年:2012/11/27(火) 21:19:03.07 ID:LWIGGGqm
成田記の姫武者の話もそうだが、成田関連はどうしてこうネジの飛んだ話が多いんだ
513人間七七四年:2012/11/27(火) 21:20:17.46 ID:7A9ljxOf
なんと言うハッスル爺ちゃん…
514人間七七四年:2012/11/27(火) 21:45:36.79 ID:cXcv4PNS
浅野長政の家臣が、夜道を歩いていると若い女が佇んでいてこちらに
ニッカリと笑いかけてきた。
この男はこんな夜中に若い女がいる訳が無い、これは物の怪の類に違いないと思い
一刀で女の首を刎ねた。

翌日、同じ場所を通ったが女の死体はみあたらず、そこには首の無い地蔵があったという。

この男の刀は備中青江貞次作のもので以後は「ニッカリ青江」と呼ばれたという。(常山紀談)
515人間七七四年:2012/11/27(火) 21:47:09.43 ID:CgL4870A
516人間七七四年:2012/11/27(火) 21:55:55.27 ID:cXcv4PNS
>>515
ニッカリ青江の話はいくつかパターンがあるが
今、丸亀市立資料館にあるニッカリ青江は脇差なんだぜ

http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/01.html
517人間七七四年:2012/11/28(水) 00:36:57.71 ID:FIiRvD43
>>509
素敵な坂東武者ですねえw
518人間七七四年:2012/11/28(水) 08:32:18.16 ID:XcCkf9pN
>>509
結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー
519人間七七四年:2012/11/28(水) 11:30:28.26 ID:A7PgpirE
関東は力が全てよ
520人間七七四年:2012/11/28(水) 18:55:08.62 ID:sbemlcRK
無刀取りどころか槍を口で受け止める新当流の奥深さに驚嘆したw
521人間七七四年:2012/11/28(水) 19:30:19.40 ID:vZJ3EBrF
中野内匠の家来、相田吉左衛門が、
夜、神埼の長者林を通りかかると、
突然に大男が立ちふさがり、
「裸になり、持っている物すべて置いていけ」
と言うと同時に、大力で相田が刀を抜けぬよう両手首を抑えた。
相田は、
「裸になるから、どうか命だけは助けてほしい」
と力なく言うと、大男は両手を放した。
すると相田はまず大小を大男に渡し、
つぎに衣服をいそいで脱ぎ渡し、
おそるおそる立ち去る様子を見せながら、
すれ違いざまに、大男が取り上げた刀の柄を握り、
立ち去る方向に抜き、そこから反転し袈裟がけに斬り殺した。
相田はそれから神埼へ行き、事の次第を届け出た。
何のお咎めもなく済むかと思われたが、
しばらくしたある日、鍋島紀伊守様が佐賀城へお越しになり、
「わたしは足を一本折ってしまいました」
と、いきなり勝茂様に申し上げた。
普通に歩行しているが、なぜそんなことを言うのかと勝茂様が尋ねると、
「普段から可愛いがっていた、
数人分の大力を持ちよく働く駕籠かきがいたのですが、
それを中野内匠のところの者に斬り殺されたのです。
ですからすぐにその者に切腹をお命じください。」
と訴えた。
勝茂様は事情を紀伊守様に説明したのだが、
最後はやむなく、相田に切腹を命じることになり、
これは何とも残念なことであった。

切腹の当日、中野一門が総出で相田の見舞いに訪れた。
相田はそれを殊更喜んで、
「わざわざのお見舞い、誠にかたじけなく思います。
お礼に、日頃練習していた仕舞をお目にかけましょう」
と、子供たちを呼び拍子をとらせ、
ゆうゆうと仕舞を舞い終わると、
甥の相田権兵衛が介錯をつとめ最後を遂げた【葉隠】
522人間七七四年:2012/11/28(水) 19:34:29.08 ID:zt5JlkmR
なにがどうしてやむなくになるのかわかんねえ…
523人間七七四年:2012/11/28(水) 19:37:58.99 ID:aCLMo1m9
喧嘩両成敗とか屁理屈ゴネられたんじゃない?
524人間七七四年:2012/11/28(水) 19:41:46.70 ID:wAyX7EF7
全裸でも鮭さまとか幽斎さまとかだと返り討ちにできそう
525人間七七四年:2012/11/28(水) 20:33:19.68 ID:hxqGvG8V
仙石秀久と長宗我部元親といえば、耳川の戦いでの大敗という大きな因縁がある。
その因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。

長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。

一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である

秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。

こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。

そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。


関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
526人間七七四年:2012/11/28(水) 20:37:49.50 ID:mC8QOvN4
もし十河存英も浪人中、寺子屋で教えていたら面白いのに
527人間七七四年:2012/11/28(水) 21:00:15.73 ID:7gcmoWU5
シンクロニシティwとか好きな人は昔からいたんだなー
528人間七七四年:2012/11/28(水) 21:07:25.80 ID:i0SBGpEe
>>525
まてまて、耳川じゃねーだろ
529人間七七四年:2012/11/28(水) 21:12:46.68 ID:hxqGvG8V
>>528
うわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;

>>525
1行目

? 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い

申し訳ない
530人間七七四年:2012/11/28(水) 21:13:25.17 ID:eYxSm6Lj
耳川は龍造寺が島津にフルボッコされた戦いだったような
531人間七七四年:2012/11/28(水) 21:44:32.63 ID:sbemlcRK
いやいや、一条兼定が長宗我部元親に敗れた戦であろう
それとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?
532人間七七四年:2012/11/28(水) 23:23:40.95 ID:xvXPbHwF
>>530
それ田手畷の戦い
耳川は日向に進出してきた大友勢を島津がフルボッコにした戦い
533人間七七四年:2012/11/28(水) 23:34:11.21 ID:EAL7b8Oc
>>520

真剣白歯取り
なんちゃって
534人間七七四年:2012/11/28(水) 23:41:47.33 ID:xvXPbHwF
あれ、田手畷じゃなくて沖田畷だった
詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる
535人間七七四年:2012/11/28(水) 23:46:25.07 ID:HGwaImoa
でも井伊直政撃った本人は薩摩に帰れたような
536人間七七四年:2012/11/29(木) 00:12:54.99 ID:GxJjnsEb
537人間七七四年:2012/11/29(木) 08:24:34.16 ID:ad3LN7d1
宗麟の子分のカニ怪人を釣ったのが耳川
クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川
538人間七七四年:2012/11/29(木) 09:28:05.83 ID:4awvqKpm
>>537
沖田畷だろw
539人間七七四年:2012/11/29(木) 09:44:27.85 ID:CG4P9gBD
もう何が何やら
540人間七七四年:2012/11/29(木) 09:59:31.59 ID:/mCku+bg
家兼じいさまが鍋島祖父と大内を蹴散らしたのが田手畷
島原の戦いは沖田畷
541人間七七四年:2012/11/29(木) 11:08:37.38 ID:zK9ZsB66
結局、全部島津の釣り自慢でおk?
542人間七七四年:2012/11/29(木) 11:34:54.86 ID:5nEj0bsG
慶長7年(1602)、津軽氏は堀越城に本拠を置いていたが、津軽為信は黒石の館で政務を執っており、長子・津軽信建が堀越城の城主となっていた。
津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、月代まで焼けただれてしまったといわれる。

熊千代ののやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟(津軽家譜草案)であった。

天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。

しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。

ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。
543人間七七四年:2012/11/29(木) 11:36:14.04 ID:5nEj0bsG
「まことに宮仕えほどくやしきものはない。連れ帰れというのも主君なら、おさえて帰さぬのも主君。臣たる者、どちらの道をとれば良いのか。
 我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、我々も極刑に処されるだろう。
 しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」

四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。

しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、最後の思い出とするべく城内を発った。

一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)


さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。

この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。

家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。

以上、「続・つがるの夜明け」から

ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。
544人間七七四年:2012/11/29(木) 14:19:17.31 ID:ebhULvH2
豊臣時代に信建は京でそつなく為信の代行をこなしてるんだよな

信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
545人間七七四年:2012/11/29(木) 18:05:53.89 ID:iGTjITmr
大内義隆が無念の死を遂げた大寧寺の変の際、冷泉隆豊は最期の戦を
奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。

隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。

隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。

黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。

かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。

――『室町殿物語』
546人間七七四年:2012/11/29(木) 18:31:49.44 ID:MIYs+5wb
囲いを突破してきたなく生きて再起を図ればいいのにな
547人間七七四年:2012/11/29(木) 18:59:30.64 ID:CG4P9gBD
定家の子孫ってことは公家なのかこの人?
548人間七七四年:2012/11/29(木) 19:22:44.14 ID:oQXW4n1B
公家→武家のパターン
一条さんとこと同じ
549人間七七四年:2012/11/29(木) 19:34:57.38 ID:oQXW4n1B
>>546
中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな
550人間七七四年:2012/11/29(木) 19:42:51.96 ID:ynFq+kSp
母方に冷泉家の出身者が居た程度じゃなかったっけ
551人間七七四年:2012/11/29(木) 19:52:20.56 ID:dqla+REu
>>546
しかし再起を図ろうにも
周囲は大友・毛利・尼子だぞ?
552人間七七四年:2012/11/29(木) 21:42:50.99 ID:bwSx+5J3
神奈川県は厚木の市島に伝わる伝説だそうだ。

永禄十二年(1569)、武田信玄と北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。

当然、甲斐に海はない。

「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。

「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。

……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。

わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。

『乱世に生きる 日本の民話8』より

本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、これは逸話のテンプレなのかしら
553人間七七四年:2012/11/29(木) 22:08:21.68 ID:1uUTXw8I
>なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」

いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)
554人間七七四年:2012/11/29(木) 22:28:36.25 ID:Why8UaWw
まあそれまでの道のり考えれば後少しと鼓舞できる位なんじゃないの
555人間七七四年:2012/11/30(金) 01:14:07.14 ID:Ba2DCcCh
地図を見ると甲斐まで三増から遠くなってるwww
556人間七七四年:2012/11/30(金) 06:30:43.10 ID:szDOamf6
北条側でも、収穫されたとうもろこしの茎を武田方の槍と見間違えて自刃した伝承があるんだろ
史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど
557人間七七四年:2012/11/30(金) 09:09:24.71 ID:pJDwcquZ
米が水に見えたり蕎麦が海に見えたり
どんだけ遠くから見てるんだ
558人間七七四年:2012/11/30(金) 11:05:56.64 ID:2tcsPcxh
峠で合戦→殿で奮戦→山道を行軍で心身共に極限状態だっただろうから
こういう錯覚を起こしても不思議ではないな
559人間七七四年:2012/11/30(金) 12:18:44.93 ID:y8PtCFIH
持ち上げられた後に落とされるのは結構きつい
極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし
560人間七七四年:2012/11/30(金) 13:51:07.33 ID:k53uNVz4
城が見える飯盛山まで敗走したら周辺に上がった戦闘時の煙のせいで
城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね
561人間七七四年:2012/11/30(金) 13:57:42.07 ID:cAUg0cNa
>>560
それは単に捕まりたくなかっただけっていう生存者の証言がなかったっけ
562人間七七四年:2012/11/30(金) 15:44:41.78 ID:8UXR3/YH
鬼武蔵の部下だと道連れ求めて敵に突っ込むんだろうな
563人間七七四年:2012/11/30(金) 15:50:43.87 ID:gG4Vpwu3
もっと打算的だと思うが
564人間七七四年:2012/11/30(金) 17:17:15.99 ID:IYlXkk4M
1592年5月31日付・スペイン王フィリペ2世宛、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャ書簡

『日本の皇帝で、「コンバコンドノ(関白殿)」と称する者は、薪売りの卑しい身分から今の身分へと
暴力を以ってのし上がってきたもので、現在はその身分に尊大に安んじています。

彼は反乱の恐れのあるところには、身分は低いが彼の信頼するものを統治責任者として送り込み、それまでの
血統と相続故に支配していた者達を殺害、あるいは幽閉します。
また彼が領地、あるいは何らかの地位に誰かを据える際には、その者の子、あるいは兄弟、又は他の人質を
自分の元に取ります。

このようにしてすべての基礎を固め服従させたので、今は国内で何もすることが無くなり、それぞれ兵力五万を擁する
軍隊を3隊作り上げました。各軍は兵糧、武器、弾薬を多量に備えた艦船多数で武装しています。

彼は朝鮮遠征を公にしましたが、朝鮮というのは中国に隣接した屈強で過酷な地であり、遠征しても必ずや
敗北に終わるほど獲得の難しい土地であります。ですから、彼は彼はマニラを攻撃するためわざと朝鮮の名を出し
噂を広めたのだと明らかに推測できます。

何故なら、彼は当地の情報を収集するために放ったスパイ(私がこの手紙を書く3年前に、3〜40人の日本人が
キリスト教の巡礼衣でやって来ました。信心行のため当地の教会を訪問するという名目で、首からロザリオをかけ
たくさんの苦行をしていましたが、マニラ市に隣接する、周囲1.5レグアに及ぶ地帯全体を、海や河口を通って
くまなく歩きまわり、全て偵察して帰っていったのです)の他に、ガスパール(原田孫七郎)とか言う日本人キリシタンが
極めて特異で、またしばしば目立ちました。この男は当地の事情について非常に多くの情報を得、偵察していったのです。

帰国したこの男を、主人であるコンバコンドノは大いに褒め、多くの褒美を取らせ、自分の甥に領国を放棄させた上、
手元の300万金のうち200万金を与えました。

あの男は自らこの遠征にやってくるはずです。戦に勝とうが死のうが、ここに留まるためです。その狙いは
毎年当地から陛下に送られる、多額の金です。
コンバコンドノはそれを聞き及び、当地の征服を企て、その実行を望んでいる、ということなのです。』

フィリピン総督からの、豊臣秀吉の脅威についての報告である。
565人間七七四年:2012/11/30(金) 17:22:30.98 ID:eTJKxE2a
朝鮮よりフィリピンのほうが楽に征服できたのかねえ?
そりゃスペインの守備隊なんてカスみたいな人数しかいないだろうけど…
566人間七七四年:2012/11/30(金) 17:50:00.55 ID:PJUFqn7+
>>565
明から大軍がやってくるわけでもないし、スペイン人追い払うだけならなんとでもなるでそ。
もちろん、その後きちんと統治できるとは、とても思えないけど。
567人間七七四年:2012/11/30(金) 18:13:57.18 ID:wGHN8sOI
摂津の住人駒形甚九郎光親はある時、若侍十人ばかりと多くの勢子を連れて
鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。

一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。

その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、

「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。

例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。

「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。

そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。

――『室町殿物語』

駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)
568人間七七四年:2012/11/30(金) 18:27:38.41 ID:Z1IEIH2n
ただ、城塞に立て篭もったヨーロッパ人はつえーからなあ…
569人間七七四年:2012/11/30(金) 19:32:14.01 ID:Ba2DCcCh
国性爺「んなぁ事ない」
570人間七七四年:2012/11/30(金) 19:44:08.71 ID:QGq5E4hF
ヴォーバン「俺が手がけた城でないのならたいしたことないって」
571人間七七四年:2012/11/30(金) 20:53:09.48 ID:8UXR3/YH
真田パパン「城より守る人間の質が大切だ?見せてやろうか?」
572人間七七四年:2012/11/30(金) 21:17:20.15 ID:gG4Vpwu3
>>565
海上戦で負けて補給不足になると思うけどな
573人間七七四年:2012/11/30(金) 21:26:48.41 ID:jAQ+L2/w
元和元年、大阪夏の陣が終わって間もなくの頃、京都所司代・板倉伊賀守勝重の元に訴訟があった

「大阪の大野修理より伊勢神宮の御師(祈祷師)たちに、内々に関東方を調伏するための祈祷が依頼され、
禰宜たちが大勢申し合わせ、大野から多くの金子を受け取り、人形を作り将軍家御父様(家康)などを
呪詛し奉りました!」

「そうか、それはけしからぬことであるな。」
と、勝重は答えたものの、訴えを聞き流し取り調べようともしなかった。

訴人はそれを不満に思い
「これは以ての外の罪であり、早々にお仕置きなさるべき事でありましょう!
もしこれを放置していることが大御所様のお耳に入れば、伊賀守様の罪にも相成りますぞ!」
と言い募った。

これに京都所司代の中にも、訴人に言うことに同調するものが出てきた。
そのため重勝は家康に、この措置についてお伺いを立てた。

家康はこれを聞くと呆れ
「そもそも禰宜・山伏のたぐいが、金子をもらって人に頼まれその様なことをするのは、珍しくもない話だ。
それゆえ、仮に我々が豊臣家より更に多くの金品を渡していれば、その者たちは喜んで、逆に秀頼を呪詛したであろう。
そんな連中の手際で動くような運で、天下の権が握れるものか!

そんな者達の命など奪うまでもない。示しがつかぬというのなら、厳しく叱りつけ追い払えば良い。」

勝重は我が意を得たりと頷き、呪詛をした禰宜たちに伊勢からの追放を命じた。
命が助かったことに彼らは大いに喜び

「誠に寛大なるお仕置きです!徳川家は万代にわたって栄えるでしょう!」

と、口々に言ったという。
(明良洪範)

なるほど、家康の言った通りの者たちであった。
574人間七七四年:2012/11/30(金) 22:02:24.36 ID:1gX5B79t
>>573
今の時代にも形は違えど、こんな連中がうんざりする位居るな…
575人間七七四年:2012/11/30(金) 22:11:54.68 ID:L6AICDBI
>>567

武田信虎「ワシもペットを傷付けられた駒形君の気持ちが良く判る」
576人間七七四年:2012/11/30(金) 22:27:18.93 ID:IfA6klnT
>>573
同じ逸話の別バージョン

伊勢大神宮の御師と家康 出典は老談一言記
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4115.html
あとこれも。ソース不記載だけど、ググったら駿河土産が出典らしい
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3740.html

駿河土産の逸話では、追放されずに御咎めなしになってる
管轄から考えると、伊勢の案件だから山田奉行が処理している
駿河土産が出典のバージョンが一番史実に近いのかな
577人間七七四年:2012/12/01(土) 14:37:03.30 ID:Ss79z7lE
天正19年(1591)ティアン・キット侍従より、フィリピン総督への書簡

『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。

我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。

貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。

私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。

恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。

天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)

この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。

大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。
578人間七七四年:2012/12/01(土) 14:50:54.49 ID:63HARdOs
なんちゅう傲岸な
579人間七七四年:2012/12/01(土) 15:29:29.94 ID:3tkmdVk/
フィリピン総督「こいつアホだ」
580人間七七四年:2012/12/01(土) 15:36:42.20 ID:3tkmdVk/
>>573
これ家康じゃなくて秀吉なら、どうなっていたかな?
581人間七七四年:2012/12/01(土) 15:42:54.90 ID:Kt8dh6Ml
>>580
金で買収して呪詛返しをするに決まっている
582人間七七四年:2012/12/01(土) 15:52:14.30 ID:967gJXn3
呪詛じゃないけど、秀吉と家康の比較対象になりそうな話として、

天正十七年(1589)二月二十五日の、聚楽第落書事では秀吉は、警備責任者17人、容疑者・関係者60数人を処刑している
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5904.html

一方、家康は京都で『御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼』という落書が出た時、板倉勝重に
「落書きは禁止するな。はしたないことだが私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」
と命じている。
583人間七七四年:2012/12/01(土) 18:01:06.58 ID:669Qsn1+
秀吉はなんだかんだと信長と似てるな
584人間七七四年:2012/12/01(土) 18:21:19.91 ID:XRs2qPBY
信長はそんな酷い事したっけ?
585人間七七四年:2012/12/01(土) 19:30:47.01 ID:ODu+rC7g
佐久間信盛や安藤守就追放時の折檻状なんてひどいだろう
佐久間は怠け者だと罵倒されたし安藤は大昔の謀反容疑が理由だったからな
要するにおまえは気に入らないから追放すると言うことだからな
天才だから人の気持ちがわからなかったんだね現代でもそういう上司がいるが
586人間七七四年:2012/12/01(土) 19:33:55.00 ID:dlP8Q0d4
安藤は大昔と言って良いのかどうか微妙だな
587人間七七四年:2012/12/01(土) 19:34:50.19 ID:Ss79z7lE
個人的には

信長の実際の性格→俗説の家康の性格
秀吉の実際の性格→俗説の信長の性格
家康の実際の性格→俗説の秀吉の性格

こんなイメージ
588人間七七四年:2012/12/01(土) 19:37:14.75 ID:xmo7rtAl
>>577
19年9月って九戸なんとかの乱のころ?
忙しいな
589人間七七四年:2012/12/01(土) 19:39:54.21 ID:5YiYLZ5M
九戸政実「なんとか扱いされてしまった…」
590人間七七四年:2012/12/01(土) 20:53:22.27 ID:ekfVfwoM
>>585
昔の謀反で追放といえば林佐渡守の方が有名だろ(´・ω・`)

信長の性格の過酷さをあらわすエピというと
塙直政討ち死に後の遺族への扱いだな
明智の謀反にも絶対に影響してるわ
591人間七七四年:2012/12/02(日) 13:06:03.36 ID:3doiYio0
>>585
佐久間折檻状はまず石山本願寺攻略の遅滞と炎上への怒りが最初にあって
なまじ自分で書いたもんだから途中から筆と勢いが乗っかって書き過ぎちゃった、
て気配が半端ない

一晩寝かせて祐筆に清書させたら内容変わってたんじゃないか、あれ
592人間七七四年:2012/12/02(日) 13:13:23.12 ID:VPBbHfJr
>>591
最後の方なんかはもう酔っ払いの言いがかりだもんな
ブレーカーが外れまくってる
593人間七七四年:2012/12/02(日) 14:30:32.51 ID:DhGJv2v5
青山伯耆守忠俊は、三代将軍家光の老中であった。
ある時、将軍自ら美麗な印籠を求め、忠俊に「どうだ?中々見事なものだろう?」と、自慢げに見せた。

これを手にとった青山忠俊、

「上様にはなんとなさる!!!」

激怒

「御祖父様(家康)は一生のうち、かような印籠を持たれたことはありませぬ!全て長門の黒塗りでありましたぞ!
そもそも印籠などというものは、薬が入れば用が足りるもの。上様のご治世未だ間もない折柄、かような華美なものを
ご自身が好まれれば、皆がこれに習いまする!!」

と、この印籠を庭石に向かって投げつけた!
それでも未だ怒りが収まらなかったか、そのまま庭に出てこれを足蹴にし踏み砕いた!
全て家光の目の前、他の家臣たちもいる前での出来事である。

当然ながら家光はこれに激怒し、即座に所領召し上げを命じたが、忠俊は「こんな事もあろうとは、かねてより覚悟!」
と、嫡男の宗俊を伴い、相模藤沢に蟄居した。

これに対し家光は
「罪をなしたのは忠俊であって、子息には何ら罪はない。従前通り出仕するよう」と、
宗俊に戻ってくるよう伝えたのだが、

「父が勘気を受けたのに、子供だけがどうして栄えられましょうか!」

そう言って出仕しようとはしなかった。

後に家光は大いに後悔し、忠俊に対して再三出仕するように命じたのだが、ついに出仕することはなく、
蟄居のまま一生を終えた。

青山忠俊、将軍の面目を丸つぶしにしてまでの諫言であった。
(駿江雑説弁)
594人間七七四年:2012/12/02(日) 14:45:40.20 ID:u6VZGYqj
諫言はいいとして息子と家全体を巻き込むなよ・・・
595人間七七四年:2012/12/02(日) 15:25:24.33 ID:AwAwBicv
>>591
途中で処分内容が変わっちゃってるもんなぁアレ
596人間七七四年:2012/12/02(日) 15:51:44.29 ID:W5qoZGjU
前半ではもっとガンバレって言ってるのに最後は頭丸めて山でも行っとけだもんなw
597人間七七四年:2012/12/02(日) 19:01:05.12 ID:VPBbHfJr
>>593
足蹴にして踏み砕くあたり単に蟄居する理由が欲しかっただけなんじゃ・・・
めんどくさいなあ
598人間七七四年:2012/12/02(日) 19:03:32.14 ID:wM6SK17W
津山城普請奉行襲撃事件


慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。

津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。

しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じてついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)
599人間七七四年:2012/12/02(日) 19:09:38.62 ID:NAmIn8cp
さすが森家の裁定は気持ちがいいね!
600人間七七四年:2012/12/02(日) 19:12:34.52 ID:dkwSjn/Q
津山城の建築関係で人死んだ逸話何個目だよ・・・
601人間七七四年:2012/12/02(日) 19:16:03.93 ID:p39R6qdU
久しぶりに森家来たと思ったらこれだよ・・・
602人間七七四年:2012/12/02(日) 19:20:32.42 ID:YUwcE7Qz
津山呪われてるんじゃねえの?
603人間七七四年:2012/12/02(日) 19:23:40.81 ID:6xDbdqAk
32名そろわんと駄目だ 津山は
604人間七七四年:2012/12/02(日) 19:47:04.12 ID:VPBbHfJr
毛利・尼子「俺たち関係ないからね」
605人間七七四年:2012/12/02(日) 19:55:14.52 ID:ejwx7XgR
森家の悪い話の安定感
606人間七七四年:2012/12/02(日) 20:54:28.56 ID:/LHDYjR+
森忠政の、こういう遺恨を残さないやり方はある意味正しいのかも知れないな

今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる
607人間七七四年:2012/12/02(日) 21:03:12.35 ID:71bXYi1H
ヒャッハー!森家の悪い話だー!
608人間七七四年:2012/12/02(日) 21:16:18.37 ID:nxs0sbJa
つーか、奉行を足軽が襲う時点で悪い話だろ。まともな武士を最下級の兵士が道端で襲ってるんだぞ?
よっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?
609人間七七四年:2012/12/02(日) 21:32:16.43 ID:p6ggS3XC
数人がかりでたった一人が仕留められない役立たずなんぞいらぬわぁっ!
・・・ていう幻聴が聞こえたorz
610人間七七四年:2012/12/02(日) 21:36:55.60 ID:WHuJOZkt
ことの良し悪しなんかどうでもいい、強いほうを助けろ

って声が聞こえたような…
611人間七七四年:2012/12/02(日) 23:32:58.93 ID:TTmp3Ail
森家はいつも楽しそうだなぁ。

>>608
この家中のことだから、逆恨みという可能性もあると思うw
612人間七七四年:2012/12/03(月) 02:06:10.41 ID:6mzFXQpn
名古屋山三郎といいコレといい、森家中は内ゲバも多いのか?
613人間七七四年:2012/12/03(月) 06:42:39.38 ID:B4nuTJbp
面白いのはこういう不祥事が森可政呼んだら殆どなくなること
614人間七七四年:2012/12/03(月) 10:39:53.93 ID:WuGekULZ
先代だったら一緒になって暴れたんだろな。
615人間七七四年:2012/12/03(月) 10:44:40.22 ID:S1WTMBWD
>>613
森苛政 草抜きすれば 治安良し
616人間七七四年:2012/12/03(月) 12:37:58.85 ID:iWZv2K9t
安定な森家だなw
617人間七七四年:2012/12/03(月) 12:41:42.75 ID:+CZVJZi6
ある意味薫陶が行き届いてるってことですかなw
618人間七七四年:2012/12/03(月) 18:02:06.58 ID:tVKt69Nz
お万の方は紀州頼宣と水戸頼房の生母である。
駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、

「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」

と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。

「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。

大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」

――『近古史談(常山紀談)』

でも結局団右衛門は…。
619人間七七四年:2012/12/03(月) 19:06:57.08 ID:iMgPW1C6
この化粧料で買った木札に名前を書いてばら撒いたわけか
620人間七七四年:2012/12/03(月) 21:10:34.29 ID:3KzWe+JK
塙団右衛門は欲のない人だったのかな?
そういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに
621人間七七四年:2012/12/04(火) 00:07:45.67 ID:P2+cHhb7
>>620
名誉欲だけが人一倍あったんじゃね?
大阪方で暴れまくって死んだおかげで名前が400年後まで残って大正解だな。
622人間七七四年:2012/12/04(火) 00:24:08.06 ID:aonzPXzX
【調査】 赤ちゃんの名前ランキング、最多は男の子「悠真」・女の子「結愛」…上位に「大翔(ひろと)」「心春(こはる)」など
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1354532641/

お前らの子供の名前は当然、忠興、政宗、家久、鬼武蔵のどれかだよな?
623人間七七四年:2012/12/04(火) 00:54:32.67 ID:+g/9nTeH
家久はまだ父親という逃げ道があるから大丈夫
あと多分政宗ってつけている人は割といると思う…
624人間七七四年:2012/12/04(火) 00:57:19.84 ID:mA8kUC/M
>>621
江戸時代には人気あったようだけど、今はバカ扱いで名前が残っているというのが
大きな違いかな…
625人間七七四年:2012/12/04(火) 01:36:02.90 ID:3tth9/5F
>>623
政宗なんて付けたら、子供に撃ち殺されそう...
626人間七七四年:2012/12/04(火) 01:44:05.08 ID:BTuNTrTu
音だけ一致とかでいこう、嘉成とかで
627人間七七四年:2012/12/04(火) 02:07:31.01 ID:96pqE8c8
>>622
義理の妹夫婦は、息子に「政宗」と名付けた
理由は「かっこいいから」・・・・・・
628人間七七四年:2012/12/04(火) 02:31:29.12 ID:zdXS89/+
藤孝なんてどうざんしょ
おそらく名前負けと人は言うさい
629人間七七四年:2012/12/04(火) 02:34:53.48 ID:CqSua+tS
名前なんかよりその血を受け継いでる人がいるのを忘れるなよ
630人間七七四年:2012/12/04(火) 10:13:38.56 ID:PkRKXyoH
氏治でいかがか?
631人間七七四年:2012/12/04(火) 11:07:15.03 ID:zgYFe6cV
>>622
長可くらい覚えてやれよw
632人間七七四年:2012/12/04(火) 16:35:15.94 ID:zdXS89/+
全登とか
633人間七七四年:2012/12/04(火) 17:10:37.33 ID:pZhWRVCf
親も読み方が和からなんですね。

つか、子供らしく「奇妙」でいいだろ
茶筅、次、人、お拾、とかもご用意しておきました。
634人間七七四年:2012/12/04(火) 17:13:31.31 ID:+wjTY34W
乱丸って名前の小学生見た記憶があるんですけど大丈夫ですかね・・・・
635人間七七四年:2012/12/04(火) 17:16:19.26 ID:pZhWRVCf
ビデオ屋でよく見かけた名前だから大丈夫じゃね
636人間七七四年:2012/12/04(火) 17:27:08.34 ID:Cta7xk9u
>>634
水泳で原田蘭丸選手ってのがいるから大丈夫
637人間七七四年:2012/12/04(火) 17:29:28.97 ID:XMiSo4Mt
ここの連中は自分の子供に家康とか秀吉とか付けてそうだな
638人間七七四年:2012/12/04(火) 17:31:17.25 ID:3cNd9Dyv
マニアはそういうメジャーどころは避けるよ
639人間七七四年:2012/12/04(火) 18:52:02.90 ID:mUQkG000
姓に合わせるというのもありかもしれん
本多佐渡守と同姓同名の奴を見たことがあるし
640人間七七四年:2012/12/04(火) 19:33:28.81 ID:HXT4Ac1t
>>637
TVに藤原家康って弁護士が出ててには笑った
641人間七七四年:2012/12/04(火) 19:36:25.54 ID:Y5gPfHjs
最後一文字だけ違うって人はいたなあ
まさに肥前の熊って感じの恰幅の良い女の子だった
642人間七七四年:2012/12/04(火) 20:32:44.12 ID:lj5ANi5x
セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書(1611年)より

(この前々日、スペイン領メキシコより来航したビスカイノ一行は、江戸にて将軍秀忠との会見を
成功裏に終わらせていた)

『翌日、栄光ある聖ヨハネの金曜日、我々の使節は随行の兵に隊列を組ませ、聖フランシスコ修道院まで
ミサを拝聴に行き、この町(江戸)で成功を収めたことを神に感謝するように命じた。

つまり、陛下(フェリペ2世)に奉仕でき、日本の皇太子(秀忠)や他の人々には喜んでもらえた以外に、
死者もなく、この町にこの時期よく起きたような流血や不愉快なことは何ら起きなかったからだ。
日本人自身がこれに気が付き、使節に対し、非常に幸運な事だといった。

修道院に向かって歩んでいると、途中に政宗という武士が待ち受けていた。

政宗は奥州国の領主であり、二千人以上の兵と騎馬の人を沢山引き連れていた。
強大な領主であり、望めばいつでも八万人以上の兵員を戦闘に動員することが出来た。

彼は使節を認めると直ちに馬から降り、「私のために、使節に随行している兵に礼砲を撃たせてほしい」と、
部下に言伝で伝えさせた。彼はそれを見たかったのだ。

かくして、直ちに我等の兵が二発撃ったので、その爆音は驚き耳を覆うほどであった。
たまたま近くにあった馬は火薬の音で大混乱に陥り、主人を地面に振り落として逃げようとし、
また食料や野菜を積んでいた馬は地面に転がった。

この事態はこの紳士(政宗)を大喜びさせ、彼は死ぬほど笑った。

一段落つくと彼は使節に近づき、地面今で届きそうなお辞儀をして礼を述べた。
『自分の家来と国をその様に具す』と言い、丁重に挨拶をして前進を始め、通り過ぎた。

このような礼節の丁重さでは彼ら(日本人)は世界中のどこの国にも勝り、特に高貴な人々にあってはそうである。』

政宗、外国使節と出くわして江戸でひと騒ぎ起こしたらしい、という記録であるw
643人間七七四年:2012/12/04(火) 21:05:33.89 ID:mUQkG000
ああよかった、俺の知ってる政宗だ
644人間七七四年:2012/12/04(火) 21:18:11.09 ID:O2Ntq34+
この人はいつどこであってもブレないなw
645人間七七四年:2012/12/04(火) 21:20:33.62 ID:yYYl/Xuv
いつもの政宗さんですね
646人間七七四年:2012/12/04(火) 21:53:25.17 ID:/KICZSw/
こいつはすげえぜ
647人間七七四年:2012/12/04(火) 21:57:15.97 ID:3cNd9Dyv
別にたいした事してないじゃん、と思ったが
江戸の街中で空砲とはいえ鉄砲撃たせたのか。
648人間七七四年:2012/12/04(火) 22:13:38.33 ID:3pzAUFFQ
いやーさすがっす大笑いしましたw
649人間七七四年:2012/12/04(火) 23:15:08.60 ID:3tth9/5F
>>631
長可とか直に付けたらガチでやばいから
鬼武蔵として新納忠元の成分で薄める必要がある
650人間七七四年:2012/12/04(火) 23:21:34.38 ID:FykM800i
アフガンの結婚式でお祝いに銃を撃つような感じ?
651人間七七四年:2012/12/04(火) 23:31:34.37 ID:Q/bj9MAf
政宗「火薬ましまし、たまぬきで(`●ω・´)」
652人間七七四年:2012/12/04(火) 23:53:29.23 ID:FiynpENi
>いつでも八万人

・・・あれ?そんなに動かせたっけ?
653人間七七四年:2012/12/05(水) 01:17:42.66 ID:EIqB+a1o
政宗はやっぱり政宗だな
654人間七七四年:2012/12/05(水) 01:26:42.43 ID:TTtEEGZr
>>653
いわゆる盛るってヤツだろ
655人間七七四年:2012/12/05(水) 01:28:34.56 ID:TTtEEGZr
>>652だった('A`)
656人間七七四年:2012/12/05(水) 01:57:29.39 ID:9mr03swj
>>642
他人に迷惑をかけるのが本当に大好きだなこいつはw
657人間七七四年:2012/12/05(水) 02:26:51.44 ID:MnFKf6ZI
>>654
特盛りですな。盛ったのはやはりあの人か…。
658人間七七四年:2012/12/05(水) 03:31:59.13 ID:7oZ/i2bJ
>この事態はこの紳士(政宗)を大喜びさせ、彼 は死ぬほど笑った。
俺らも笑ったwww
659人間七七四年:2012/12/05(水) 18:35:32.10 ID:IGvxYZE0
相変わらず好奇心旺盛だな
660人間七七四年:2012/12/05(水) 19:51:46.31 ID:m2gTiIkH
四百年後の人間さえも笑わすキャラはそうそう無いぞ
661人間七七四年:2012/12/05(水) 20:18:47.06 ID:9P1FqeYG
どう見ても政宗のDQNエピソードに読めるんだが
「日本人の礼儀正しさパネェ」で締めくくる書き手の感性もスゴイな
662人間七七四年:2012/12/05(水) 21:18:38.00 ID:Qr7e9wQ/
政宗がいつも通りで安心した
663人間七七四年:2012/12/05(水) 21:39:39.49 ID:/0Npa9i8
紳士…か
664人間七七四年:2012/12/05(水) 23:45:34.05 ID:+E8g/w+O
五月三日、五月雨が晴れ間もなく朝から暮れまで降り続け、加茂川・貴布禰川が
一つになって万里小路へ一文字に押しかけ洪水が入り込んだ。洛中はさながら
河原のようになり、訴えがあったので検断人・伊澤新右衛門の同心・岡部忠兵衛が
奉行として普請を務めた。

人々は土俵を築き立てて井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がって働いていたところ、
ある四十歳ほどの男が精根尽きて、堤の下の柳の陰で東を見渡して伏していた。
これを見つけた岡部は杖で男の背中をひどく突いて「こんなにも皆が隙なく相働き、
休む間もない普請だというのに伏せておるとは物臭き曲者め。とっとと立ち上がれ!」
と、男を睨んだ。

すると男は「今朝より人一倍働きましたので精根尽きて休んでおります。
それを泥杖で突っかかる方こそ曲者じゃ」と言い返した。それを聞いて岡部が
「何という狼藉を言うのだ!」と重ねて杖で打ったが、二打目に男は
腰の一尺と五、六寸の打刀を引き抜き、弓手の脇腹を彼方へ通れと突き刺したので
岡部は二言と言わずに死んでしまった。そして男もまた大肌を脱いで土俵の上に腰掛け、
腹を十文字に切った。

この一件が松永の耳に入り、松永は「日本一の不覚者め。物頭だからと下を侮る者が
必ずこのような怪我をするのは度々の習いだ。同心は自身のせいで、使用人は運が
尽きたためにまったくの犬死をしてしまった」と散々に立腹して伊澤を呼び
「重ねて起こりうることなれば、同心たちによくよく言い付けよ。彼らの恥は松永の恥だ」
と、怒った。

――『室町殿物語』

松永は平蜘蛛の人かな?
665人間七七四年:2012/12/06(木) 01:05:39.07 ID:RTH1T+TZ
>>663

ひょっとしたら本来の意味のジェントリー(郷紳)だったりして。 戦国日本だと国人相当かしら?
666人間七七四年:2012/12/06(木) 08:11:25.37 ID:7NchS0F0
>>665
国人というより土豪なんじゃ?
667人間七七四年:2012/12/06(木) 10:02:17.05 ID:tphg29US
>>664
ふんどし一丁かと思ったら服着て腰に刀挿してたのか
668人間七七四年:2012/12/06(木) 20:43:26.97 ID:2PduHpom
木村常陸介は豊臣秀吉より関白秀次に附けられた。元来奸智の深い者
であったので秀次の気に応じ段々と大身になっていった。ところが後には
秀次謀叛の一味となって諸々の悪逆をなし、ついには秀吉を殺害しようと
伏見城へ潜入した。

しかし叶い難く空しく帰ろうという時に残念だからと、証拠に秀吉の
秘蔵していた水指の蓋を盗み取り持ち帰った。そのような人だったので、
毎夜秀次の寝所で密談しているのを人に怪しまれることを恐れ、女乗物で
城中に出入りした。

これらのことが露見したために秀次は生害、常陸介とその子志摩はともに
京都寺町正行寺で切腹した。

――『良将言行録』
669人間七七四年:2012/12/06(木) 21:35:51.97 ID:zpDC8OmD
>>667
俺も思った。身なりの悪そうな奴をなめてかかったのかと思ったら
服着て帯刀してる人間を杖でぶん殴って罵倒したんだな
ブラック企業の上司みたいな奴だな
670人間七七四年:2012/12/06(木) 21:48:28.74 ID:FWiPdoP8
当時は百姓町人でもみんな普通に帯刀してて外見の差異はあんまり無いんだよ。
時代劇では身分が分かりやすいように刀差してるのは武士だけになってるけど。
671人間七七四年:2012/12/06(木) 22:01:51.73 ID:HkcDNvVH
俺もほぼ裸のような格好想像したよ
身分より梅雨時に土木作業で疲れてぶっ倒れてる状況から
672人間七七四年:2012/12/07(金) 15:22:15.25 ID:QHW+2xZx
野村源左衛門は器量すぐれた者で、
芸事などなにをやってもうまかった。
なかでも博打にかけては西目第一と評判であった。
一度他国へ行き博打をやったので問題になったが、
その器量を惜しまれ側役として使われ続けていた。
しかしその後、往来札を手に入れ長崎へ行き、
博打で大量の金銀を手にし屋敷を買い、
しょっちゅう丸山の遊廓へ遊びに行くということをやった。
これが城中まで聞こえるようになったので、
城から捕手が派遣され源左衛門は裁きにかけられ切腹ときまった。
そして切腹当日、源左衛門は介錯人に向かい、
「この源左衛門自身で十分に腹を切るから、
私が、首を打ってくれと合図するまでなにもしなくてよい。
もし合図せぬうちから斬ったりしたら、
そなたの七代先までも呪い殺してくれようぞ」
と言って睨みつけた。介錯人は、
「安心してくれ。その方の満足行くまで待つ」
と答えた。
さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻きつけると、
そのまま腹を十文字にかいた。
腸が切り口から出てきたとき顔色が少し青ざめたが、
しばらく目を閉じ、手鏡を取出し自分の顔色をながめた後、
検使に、紙と硯を持ってきてくれと頼んだ。
このとき介錯人が、
「・・・もう、よかろう?」
と声をかけたが、源左衛門は目を見開き、
「いや、まだ終われぬ」
と言って、受けとった紙に、

腰抜けと 言うた伯父め くそくらへ
死んだる跡で 思ひしるべし

と書き付け、自分の家来に、
「辞世だ。これを伯父に見せてやれ」
と言い渡し、介錯人に合図し、首を打たせたとのことだ 【葉隠】
673人間七七四年:2012/12/07(金) 18:01:56.53 ID:B/BGYKq5
キリングマシーン日根野並の豪胆ぶりを示したかったんだろうが
微妙な手際の悪さまで真似せず辞世は腹切るより先に書けw
674人間七七四年:2012/12/07(金) 18:09:19.89 ID:yLM/ghgw
血で書いたんだろー
と思いつつ読み直したら硯も要求してた

しかしこれ外聞が悪いって理由で切腹なのかしら
675人間七七四年:2012/12/07(金) 18:42:46.56 ID:NXtL8whk
>>673
手際の悪さ含めてのラスト・パフォーマンスなんだから、許してやれよw
676人間七七四年:2012/12/07(金) 20:27:35.74 ID:eKuJ8wS2
多分気絶せずに辞世書き付けるか誰かと掛けてたんだろう
677人間七七四年:2012/12/07(金) 20:28:24.15 ID:eKuJ8wS2
掛けじゃなく賭けだ…
678人間七七四年:2012/12/07(金) 20:38:12.26 ID:JUiaU8f2
カングイカス(景勝)殿領地、ヨナンズア(米沢)到着

ヨナンズア(米沢)の町に到着するには、この日と金曜日の両日かかった。
カングイカス(景勝)殿が同地の領主である。しかし皇帝(徳川家康)が帝国の支配権を求めて戦争をしていた
その時に、その友好陣営にいなかったので、皇帝は彼を幽閉し、二百万石以上を取り上げ、子供らを江戸で人質に取った。

この町に到着する前に、領内入国の許可を求めて皇太子(秀忠)に書簡と到着の知らせを通訳とともに送った。
直ちに彼は必要な物と宿の用意を命じ、あたかも自分の家に入るように入国して良い、と言ってきた。

そして我々は、到着後の訪問とその御手への接吻を許されるよう求めた。
それに対し景勝殿の返答は

『都合の良い時にそうしよう。しかしし現在、少々不調である。もっと有り体に言えば
皇帝が自分から領地を取り上げたので気鬱の病にかかっている』

と言ってきた。これを知って司令官は彼に面会しないことにした。
何故なら先程も私が述べたように、諸侯への面会は物入りで、しかも何か贈り物をするからには
相当のものでなければならないのだ。

そういう訳で(景勝をスルーし)旅を続ける許可を求め、彼はそれを許可し、自分の領地内では何処にても
必要な物はなんなりと無償で用意せよ、と家来に命じた。

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

関ヶ原後、景勝が鬱だったらしい事と、それをこれ幸いと対面スルーに利用したスペイン使節の記録である。
679人間七七四年:2012/12/07(金) 21:43:50.14 ID:kbzzmrWJ
景勝って幽閉なんかされたっけかw
680人間七七四年:2012/12/08(土) 01:35:54.53 ID:qMHWH+Hs
ついにある午後、都の望める所に着いた。都に関しては際立つ素晴らしさが数え上げられているので、
世界にその名が知られるのは当然だ。

都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。

端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。

この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。

法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。

彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。

皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。

都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。
681人間七七四年:2012/12/08(土) 01:50:53.29 ID:+Vk4vNwx
カングイカス、ヨナンズア
うん、ぱっと見どころかしげしげと見てもさっぱりだw
682人間七七四年:2012/12/08(土) 02:44:00.46 ID:n1yEdEyf
そこだけならイーハトーブと同じにおいがする
683人間七七四年:2012/12/08(土) 03:42:25.47 ID:uEUz6gsd
東北弁だとそんな感じに聞こえるかもね >カングイカス、ヨナンズア
684人間七七四年:2012/12/08(土) 06:37:16.58 ID:2xUxGqyy
カングイカス
後のググレカスである
685人間七七四年:2012/12/08(土) 07:33:02.32 ID:5OyvkLr+
>>680
>彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
これが気になる
686人間七七四年:2012/12/08(土) 09:19:15.71 ID:gj2beKTx
スペイン人が日本の統治制度について結構理解してるのがすごいな。
687人間七七四年:2012/12/08(土) 10:01:36.24 ID:ExodO2E6
スペイン人をなんだと思ってるんだw
688人間七七四年:2012/12/08(土) 11:26:00.38 ID:tZoqLLYX
寧ろ皇帝・諸侯・教皇の闘争とかアナーニ事件とかみてるヨーロッパ人は
こういった権力の二重構造に関しては元々造詣深いんじゃなかろうか
689人間七七四年:2012/12/08(土) 22:27:53.77 ID:OLCesmLg
>>687
サッカーとSE○にしか興味のないイタリア人みたいな連中だろw
690人間七七四年:2012/12/09(日) 01:29:53.67 ID:AVZPFXC+
サッカーとS○Xと脱税と料理に関心と寄せるのがイタリア人
サッカーとS○Xと闘牛に宗教に関心を寄せるのがスペイン人

似てるようでちと違う
691人間七七四年:2012/12/09(日) 02:33:17.66 ID:b4U4/JMy
    ∧ ∧  _丿⌒|_   o=oヽ
    (゚ー゚*)   (゚∀゚*)   (゚ー゚∪
    ノヽ~ノヽ  ノヽ~ノヽ   ノヽ~ノ゛ヽ,
   ん †  ) ん †  ) ん †  )  
    丿 八 ゝ 丿 八 ゝ  丿 八 ゝ  
    U〜U    U〜U    U〜U 
692人間七七四年:2012/12/09(日) 10:51:41.07 ID:FULY31Rh
三河武士は何に心を寄せるんだろう?
693人間七七四年:2012/12/09(日) 20:52:47.03 ID:lonx9/Um
殿と三河の二つじゃね?
694人間七七四年:2012/12/09(日) 23:27:30.44 ID:++36dTkK
あとは海老すくいだな
695人間七七四年:2012/12/09(日) 23:29:24.96 ID:JNn1KvZV
西軍の武将 小西行長が関ヶ原で敗れた時、彼の息子は毛利輝元の手によりかくまわれていた
身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
 差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
 輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)
696人間七七四年:2012/12/09(日) 23:42:25.03 ID:j+MiCoAF
毛利も勝ち組なら匿えただろうけど、
負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。
697人間七七四年:2012/12/09(日) 23:43:39.50 ID:Sjj0jjjW
宇喜多秀家「薩摩に逃げてよかった」
698人間七七四年:2012/12/10(月) 00:31:34.84 ID:jMQkfFyF
家康が行長を処刑したからからTERUが変に空気読んじゃったんだな
699人間七七四年:2012/12/10(月) 01:24:29.74 ID:BZUKfJ7Z
西軍の末路はやりきれないわ
700人間七七四年:2012/12/10(月) 07:56:42.94 ID:OII7mYAN
TERUは全くあてにならん男だなぁ
701人間七七四年:2012/12/10(月) 11:22:10.71 ID:oFcJsWTt
小西行長の息子は関ヶ原当時まだ12歳の少年だったようだ
名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか
702人間七七四年:2012/12/10(月) 11:52:15.79 ID:TctNXsqN
多分行長の息子生きたまま家康に差し出しても首はねてたと思うよ
秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし
703人間七七四年:2012/12/10(月) 12:52:07.85 ID:oFcJsWTt
石田三成の14歳になる息子の石田重家は関ヶ原の敗戦後に出家し、
京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった
704人間七七四年:2012/12/10(月) 12:59:38.64 ID:x6hnXt3j
そもそも小西行長って主犯格だっけ?
主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。
705人間七七四年:2012/12/10(月) 13:05:21.54 ID:RVidLukH
国松と小西行長の子供じゃ全然違うだろう。
小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。
706人間七七四年:2012/12/10(月) 13:28:25.74 ID:zzZWxi3A
関が原と大阪では戦後処理が全然違うし
小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い
707人間七七四年:2012/12/10(月) 13:55:56.57 ID:WR8vgCU3
一方石田三成の子孫は津軽藩の厚遇を受けて、重臣として存続した

本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか
708人間七七四年:2012/12/10(月) 14:57:27.39 ID:/JzyJ5vk
為信や信枚がヤリ手だったのが大きいと思うがw
TERUだし
709人間七七四年:2012/12/10(月) 16:07:56.04 ID:FrV9HigX
義理人情に厚い為信さんならではだな
710人間七七四年:2012/12/10(月) 17:13:24.85 ID:DH1GjqF/
お隣さんとも仲良くの
711人間七七四年:2012/12/10(月) 17:52:18.61 ID:VNKcRzxX
義理を果たすでもなく、実利を追及するわけでもない輝元の中途半端な判断…身につまされる話ですな
712人間七七四年:2012/12/10(月) 19:15:24.22 ID:thJISNUt
義理人情言っても、
西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。

…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。
713人間七七四年:2012/12/10(月) 20:20:54.21 ID:VNKcRzxX
その首尾一貫しない感じが警戒された原因だと思うよ。
筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。
714人間七七四年:2012/12/10(月) 20:30:38.25 ID:GYalCcg6
先ず最初に身体の欠損が悪い話ではありません

近衛信尹の日記には修正部分が多いが、その中の透けて解読できる部分、天正19年3月の部分に
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は殿上人で彼も小者である」
と記されている
この殿下は秀吉に相違なく、ここでは輝元と秀吉が片目だったとしている

信尹の日記は他にも欠損部分が多く、例えば関ヶ原合戦前後は丸々無くなっている
日記も正直に書きすぎると抹消されてしまうのである
715人間七七四年:2012/12/10(月) 20:31:27.78 ID:GYalCcg6
>>714
訂正
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は勿論殿上人で彼も片目である」
716人間七七四年:2012/12/10(月) 20:39:17.71 ID:cHrP/gax
永禄12年(1569)、武田信玄による小田原攻めの時のことである

武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。

一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。

ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。

このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。

この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。

しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。

今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。

(關侍傳記)
717人間七七四年:2012/12/10(月) 20:49:09.14 ID:thJISNUt
>>713
その仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。
718人間七七四年:2012/12/10(月) 21:12:23.26 ID:HOQQS3ky
真田幸村と伊達政宗が直接対決したことあるの知ってた?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
719人間七七四年:2012/12/10(月) 21:26:29.85 ID:O/P+/iCl
>>716
現在の品川寺か。
720人間七七四年:2012/12/10(月) 22:12:43.72 ID:lNZYo2C4
大木権左衛門が鍋島山城守殿のところへ年始の挨拶に訪れた。
「権左衛門よくまいった。まだ組討ち始めをしておらぬ。
その方、ワシの打たれ方をつとめてくれ。」
と山城守殿が申されると、権左衛門は、
「打たれ方のみならばお断りします。
私にも打ち方をやらせてくださるならお相手いたしましょう」
と言った。
「それでよい」
と山城守殿も約束を交わして組討ちを始めた。
さて、大剛で有名な山城守殿は権左衛門を力いっぱい組み伏せ、
それを終えるとさっさと席に戻ろうとされた。
権左衛門が、
「侍同士の約束をお破りになられますか」
と言ってひきとめると、山城守殿は仕方なく、
「立場というものがある。簡単にすませてくれ」
と言って受け方となられたところを、
権左衛門は力まかせに組み伏せて痛めつけた。
力で勝る山城守殿は、それを跳ね返そうとなさったが、
権左衛門は脇差を引き抜いてそれを首筋に当て、
「戦場で鎧武者を相手にする時はこのようにいたします」
と言って、びくとも動かせなかったとのことだ 【葉隠】
721人間七七四年:2012/12/10(月) 23:32:19.25 ID:g2Ubxt+2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6101.html
この主従は年始のたびに何をしとるんじゃ
722人間七七四年:2012/12/11(火) 01:35:00.24 ID:PpWtN/9B
>>714
独眼竜TERU
やだカッコイイ
723人間七七四年:2012/12/11(火) 01:45:30.97 ID:GjqladoG
独眼竜の父親もTERUなわけで
将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
724人間七七四年:2012/12/11(火) 10:27:40.03 ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw
725人間七七四年:2012/12/11(火) 11:22:26.03 ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな
726人間七七四年:2012/12/11(火) 12:46:03.42 ID:fJz8buMZ
>>721
この話の人が山城守か。仲良かったのかな?w
727人間七七四年:2012/12/11(火) 12:49:38.82 ID:hyrqZ8PA
>>714
TERUが隻眼なんて初めて知ったわ
728人間七七四年:2012/12/11(火) 14:54:48.42 ID:Lmq2x0dX
>>720-721
筋肉で語り合うって素敵やん?
729人間七七四年:2012/12/11(火) 16:14:10.35 ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな
730人間七七四年:2012/12/11(火) 17:27:36.29 ID:r5+UWTJF
輝元は主義主張も無く、間に居たから大将にされて
それを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
731人間七七四年:2012/12/11(火) 18:03:57.46 ID:hyrqZ8PA
TERUは東西の争いに合わせて本国の勢力拡大を狙ってたけど
西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
732人間七七四年:2012/12/11(火) 18:20:19.99 ID:MDsAJeiJ
西軍というか、殆どTERUの身内が原因w
733人間七七四年:2012/12/11(火) 19:11:02.06 ID:wxaMRhDt
神輿は軽くて云々…
734人間七七四年:2012/12/11(火) 19:33:57.74 ID:gVkTCXmJ
>>731
西軍の弱さの7割は毛利一門の吉川と小早川のせいだけどな
735人間七七四年:2012/12/11(火) 19:38:48.99 ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
736人間七七四年:2012/12/11(火) 19:39:16.54 ID:PpQD1IgI
つうか、西軍がまともにぶつかっていたら毛利は潰されているんじゃない?
そういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
737人間七七四年:2012/12/11(火) 21:06:57.64 ID:OI4os2Ea
>>730
誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし

>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
738人間七七四年:2012/12/11(火) 21:42:28.69 ID:wMrRmq/a
両川と言ったって、隆景もおらず、昔の家臣は毛利家に引き取られて織豊系の家老が主導権を握ってて、
もはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ

毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
739人間七七四年:2012/12/12(水) 01:07:04.16 ID:hWZbYsjO
>>737
伏見城攻めをはじめ諸将の動きが鈍重極まってたのにその言い種はないわ
740人間七七四年:2012/12/12(水) 05:29:13.12 ID:/eJrE2dz
永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻。

信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。

蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。

しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。

ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。

この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。

ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。

天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。

今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
741人間七七四年:2012/12/12(水) 08:52:21.29 ID:gQv2B+4w
>>737
関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。

軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
742人間七七四年:2012/12/12(水) 09:19:47.57 ID:T6krAu3h
>>740
僧が何とかしてくれるのかと思ったがそんなことは無かった
743人間七七四年:2012/12/12(水) 09:28:04.31 ID:DJa15wa9
>>730
秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
744人間七七四年:2012/12/12(水) 11:56:16.27 ID:cpj77mD9
>>740
幻庵さんの息子さんだっけ
745人間七七四年:2012/12/12(水) 15:21:51.00 ID:j+rWurv3
そうだよ
長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる

せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
746人間七七四年:2012/12/12(水) 18:18:09.79 ID:qa/7RCob
>>745
同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
747人間七七四年:2012/12/12(水) 18:22:55.85 ID:zdNSsK1S
弟が指揮官である兄の副官を務めるのは普通の配置
748人間七七四年:2012/12/12(水) 18:26:29.60 ID:p8wEpweF
だよね
749人間七七四年:2012/12/12(水) 20:14:11.62 ID:R9HsZojG
弟が若年だと女装して兄の篭る城に単騎駆けするんだろ
750人間七七四年:2012/12/12(水) 22:13:28.08 ID:3HxTAQSD
石井甚左衛門が江戸で留守詰めを務めたときのこと。
鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
751人間七七四年:2012/12/13(木) 05:16:00.91 ID:SpqHlJrP
自分がしたことでなくても管理不行届きで死罪か
まあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
752人間七七四年:2012/12/13(木) 05:37:36.86 ID:N0woZZw4
博打した二人は切腹なのに、
居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
753人間七七四年:2012/12/13(木) 06:02:06.13 ID:00k5tS9n
まだ戦国時代終わった直後の話だろ?
江戸中期辺りに武士を美化し始めた頃に作られた創作の気がしないでもない
754人間七七四年:2012/12/13(木) 18:55:31.44 ID:STVFrRk4
ある時、鈴木正三が深川に宗文を訪ねて話していたところ、一人の侍がやって来た。
宗文が「こちらは鈴木正三老人なり」と紹介すると、侍は「おのれは薩摩の老職、
諏訪杢右衛門なり」と名乗った。

すると正三は一言も返さずに突然「伊勢神楽を舞って見せよう」と肌を脱ぎ、
「ひらりひらり」と謡いながら両手両足で踏みたたき、その様子はさながら物狂い
のようであった。すべては杢右衛門が自ら老職と名乗った驕傲をくだくためである。

杢右衛門は初めは茫然としていたが、やがてその心を悟って深く崇信の心を抱き、
これより正三の門人となって教えを受けたのだという。

――『近古禅林叢談』
755人間七七四年:2012/12/13(木) 19:16:50.67 ID:8ZDiG6dc
摂津の勝久寺の住職頓恵(とんけい)は数千の門徒とともに本願寺に味方して織田信長と戦った。
1580年3月17日、長年あらそっていた本願寺と信長との間で和睦が成立すると、大勢の門徒たちは帰村した。

5月28日、その門徒たちが勝久寺に集まって法義談合を行っていると不意に信長軍が襲撃してきた。
信長軍は堂舎を焼き払い、多数の門徒たちを捕えて殺害した。そのため、辺り一面が血の海となり、
それ以後、寺の前のその場所を流れの馬場と呼ぶようになった。
756人間七七四年:2012/12/13(木) 21:49:13.74 ID:dZV3MS5W
>>754
むつかしくて意味わからん
757人間七七四年:2012/12/14(金) 09:22:54.79 ID:Kn39yz35
>>754
こんなので言いたい事が伝わるものなんだな
杢右衛門が凄いのか?
758人間七七四年:2012/12/14(金) 09:31:39.14 ID:w+rX1iE9
伊勢神楽は市井で受け継がれてきた神楽ってのが関係するかの?
759人間七七四年:2012/12/14(金) 10:01:07.07 ID:N5/vMG73
>>754
むかしの人間は時々コミュスキルが高すぎてわけがわからないよ
760人間七七四年:2012/12/14(金) 10:26:08.28 ID:gIr+Q4Wo
>>755
場所的にこの「信長軍」ってやっぱり高山さんなのかしら…
761人間七七四年:2012/12/14(金) 13:23:36.26 ID:Mld+2kR9
>>754
レベルが高すぎて、もはや何がなんだかわからん
762人間七七四年:2012/12/14(金) 18:52:12.07 ID:exEa+8G4
>>760
高山さんなら躊躇しないね
763:2012/12/14(金) 21:20:33.32 ID:+r/iV0Ox
鍋島十太夫の家来、黒川小右衛門の妻は、
山城殿の家来、蒲原喜兵衛の娘であった。
小右衛門は三石という小身、芦原で細々と暮らしていた。
小右衛門の隣には、徳永三左衛門が住んでいた。
三左衛門も同じく十太夫の家来だったが家老をつとめ裕福であった。
八月十五日に小右衛門の妻の実家の町で祭りがあるので、
小右衛門夫婦はそろって実家の神社へと参拝に行こうと話しあった。
そういえば妻の実家から借りた蚊帳を三左衛門へ質として預けている。
祭りのお客が来ることもあるかと思い、
三左衛門のところへ行き、ニ、三日だけ蚊帳を借してほしいと頼んだが、
これを承知しない。それどころか悪口を言い、
「借金があるのに返済せずに、
質に預けた物を返せとは無理無体だ。
今後そたならは当家出入禁止とさせてもらう。
もし姿を見かけたら打ち捨てても構わぬと証文を書け」
と言った。
小右衛門は、ここまで言われてはもはや是非善悪もない。
討ち入って武士の面目を立てるまでだと覚悟を決め、
その場は三左衛門の言うとおりに証文を書いて帰った。
祭りの参拝も中止にして、八月ニ十七日までに身の回りを片付けた。
ニ十八日には新米で餅をついて、夜になると子供二人の枕へそれを並べておいた。
そして妻に知らせず、独り三左衛門の家へと向かった【続く】
764:2012/12/14(金) 21:23:21.89 ID:+r/iV0Ox
さて、窓から遺恨を述べて果たし合いを求めたが、
三左衛門は、内から戸締りして、なんの返答もしない。
このとき、三左衛門は弟の与左衛門のもとへ、娘のお七を走らせ急を知らせていた。
与左衛門は駆け付け、小右衛門の後ろから斬りかかり、
頭に傷を負わせたが、小右衛門はひるまず向き直り斬り合った。
与左衛門はしだいに小右衛門の気迫に追い詰められたが、
なんとか小右衛門を斬り殺し、近所の新助という者の肩をかり帰っていった。
小右衛門の妻は、夫が討ち入ったことを知ると、
鎌をつかんで三左衛門の家へと駆け向かったが、
途中で小右衛門の死骸を見付け、
「無念」
と歯噛みをした。
そして小右衛門の脇差を手に取り、三左衛門の家に声をかけたが、
三左衛門は出合おうとせず、家の中から長刀で斬り払ってきた。
小右衛門の妻はその長刀の柄にしがみつき引くと窓が崩れた。
そこから妻は内へと斬り込んで、三左衛門にかなりの手傷を負わせたが、
加勢してきた三左衛門の下男どもに斬り殺された。
与左衛門は九月一日に斬り合い傷がもとで死亡。
三左衛門は同四日切腹となった 【葉隠】
765人間七七四年:2012/12/15(土) 06:53:43.43 ID:NaDdx/zv
やっぱよーわからんな
766人間七七四年:2012/12/15(土) 07:15:44.09 ID:FQXJtEvs
梟雄の晩年

慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。


配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。


…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。

卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)

(『先公実録』)

これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。

さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。

更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。
767人間七七四年:2012/12/15(土) 16:14:39.84 ID:O0pXVcS+
関ヶ原で西軍なんかについたばかりに・・・。
でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。
768人間七七四年:2012/12/15(土) 17:25:09.03 ID:6eAZaUB+
真田人気もなかったかもしれないからね

だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな
769人間七七四年:2012/12/15(土) 17:29:10.38 ID:PTjSIrKc
信之は東軍についたんだし、家の生き残りを図るんなら東西両軍について保険をかけておくのが普通だろ
東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ
770人間七七四年:2012/12/15(土) 19:08:31.26 ID:mRNRElBD
真田紐ビジネスで一山当てるつもりだったんだよ!
771人間七七四年:2012/12/15(土) 19:25:13.57 ID:JdZhUVQv
本当に応仁の乱のように長引くと思ってたのかね?
772人間七七四年:2012/12/15(土) 19:30:01.28 ID:tCJu2Vox
長引くと思って当てが外れた武将も多いんだろうな
773人間七七四年:2012/12/15(土) 19:55:50.73 ID:MLXmjZsX
当てが外れた場合、やはり死を選んだ(ことになった)幸村さんが英雄になるんだよな
葉隠理論は正しい
774人間七七四年:2012/12/15(土) 23:02:28.16 ID:Rqf1vsgO
大阪夏の陣で大阪方について、戦後命乞いしてなんとか助命された俺の先祖は負け組かよ…
775人間七七四年:2012/12/15(土) 23:13:33.51 ID:KMS9TfBI
助命されてなかったら今の自分がいないと思いねぇ・・・

うちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい

でもなんか眉唾っぽいわなwww
776人間七七四年:2012/12/15(土) 23:46:43.55 ID:w3hZYWjJ
法事の時にお坊さんが教えてくれた我が家の先祖の話です。
我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・

『領地も名前も失った武士』

池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。

流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。

やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。

さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。

しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。
777人間七七四年:2012/12/15(土) 23:53:12.10 ID:Z7yXSjk/
>>776
摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。
778人間七七四年:2012/12/16(日) 00:31:11.40 ID:l5GMZZkq
元池田って感じではまずかっただろうか。
779人間七七四年:2012/12/16(日) 01:05:37.85 ID:EQyYH/KO
北条「これからお前は喜多条な」
780人間七七四年:2012/12/16(日) 09:58:48.94 ID:oARWiNWo
『(1612年5月)伏見を通って16日に大阪の町についた。伏見は都とほぼ同じくらいの大きな町である。
都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平貞勝)がその城の総督である。

大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。

あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。

(中略)

この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。

皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。
781人間七七四年:2012/12/16(日) 10:50:56.75 ID:f7zTcakh
>>780
伏見城代は松平定勝なんじゃ?
782人間七七四年:2012/12/16(日) 10:57:19.28 ID:oARWiNWo
>>781
変換ミスです。すいませんw;
783人間七七四年:2012/12/16(日) 12:05:57.93 ID:WnokO+Fz
へー歴史小説なんかだと二条城で対面したころはまだ肥満してないことになってるけどほんとうはもうそのときからぶくぶくだったんだろうな
784人間七七四年:2012/12/16(日) 13:12:32.22 ID:dEcJ7a5n
そういえばそうだな
大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw
785人間七七四年:2012/12/16(日) 13:16:22.53 ID:aco87qBs
>>783
豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし
786人間七七四年:2012/12/16(日) 15:19:52.64 ID:MWWL6TV5
>>784
実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな

「世に無き御太り」『長沢聞書』

「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』
787人間七七四年:2012/12/16(日) 15:22:06.39 ID:JWRqHtvi
花のようなる秀頼様…
788人間七七四年:2012/12/16(日) 15:28:02.21 ID:MWWL6TV5
>>787
それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい
789人間七七四年:2012/12/16(日) 15:35:28.66 ID:f7zTcakh
>>787
ラフレシアだったとか
790人間七七四年:2012/12/16(日) 15:48:38.78 ID:MWWL6TV5
ちなみに秀頼について「世に無き御太り」と書いた『長沢聞書』の作者・長沢九郎兵衛は
大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している
791人間七七四年:2012/12/16(日) 15:53:08.63 ID:qUwy2ZqE
薩摩に逃げ延びた秀頼が呑んだくれて乱暴な振る舞いをしていた、
て伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし
792人間七七四年:2012/12/16(日) 15:57:43.66 ID:rysdjfOs
たしかに美化されたものより、
生々しい話のほうが真実味があるかもね
793人間七七四年:2012/12/16(日) 16:05:51.31 ID:9/T3kXL7
秀頼を騙った落人が無銭飲食ツアーしてたんじゃねw
794人間七七四年:2012/12/16(日) 18:46:29.47 ID:xZJpsoOW
そんなでかい図体の人がどうやって大坂城の包囲を抜け出したのか
795人間七七四年:2012/12/16(日) 19:44:34.29 ID:/EVut8fi
1591年に起きた九戸政実の乱は九戸側の敗北に終わった。
蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。
796人間七七四年:2012/12/16(日) 20:46:33.26 ID:1lv3g2gu
>奪った。

え?
797人間七七四年:2012/12/17(月) 00:14:37.93 ID:mTxjSZHZ
>>795  男物だったりしてw
798人間七七四年:2012/12/17(月) 00:15:38.50 ID:nlXYvHQN
続くのかと思ったらこれでおしまい?
799人間七七四年:2012/12/17(月) 00:20:00.55 ID:FKRQZc1P
光明勝栗由来

大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html

この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。

家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。

これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。

――『徳川実紀(光明山書上など)』

光明だけに功名ってか。
800人間七七四年:2012/12/17(月) 00:35:37.28 ID:mTxjSZHZ
なにが悪い話なのかわかりにくいが
シャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?
801人間七七四年:2012/12/17(月) 00:37:19.47 ID:mTxjSZHZ
毎度お馴染みネーミングセンスの悪い話
802人間七七四年:2012/12/17(月) 00:38:07.39 ID:mTxjSZHZ
あ、ID被った
803人間七七四年:2012/12/17(月) 01:38:16.58 ID:WviuVYra
>>798

>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。
804人間七七四年:2012/12/17(月) 10:05:37.76 ID:bP7jvpZP
大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖より代々御当家に仕え、大功ある人々の子である。
然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。

この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと

「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。

それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。

今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。

そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」

その様に申されたという。
(武野燭談)

大久保忠隣・本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である
805人間七七四年:2012/12/18(火) 01:04:07.34 ID:HmoTXQtY
福島家が改易となった時、吉村宣充は家人下僕に至るまで金銀家財を与えて
暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。

ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。

すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。

その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。

これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。

――『名将言行録』
806人間七七四年:2012/12/18(火) 06:45:34.06 ID:7grfk2Zi
徳川家康がある時語ったことである

「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。

しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。

それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。

諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」

(武野燭談)

家康の語る、今川家のこと、である
807人間七七四年:2012/12/18(火) 08:15:20.17 ID:YZoRbVHX
>>806
攻め込んだ当人が語ってるから悪い話なのかな?
808人間七七四年:2012/12/18(火) 20:39:50.61 ID:NRw1bfoA
三好長慶の息子の三好義興は智勇に優れた男で三好家の跡継ぎとして将来を期待されていた。
ところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。

亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。
809人間七七四年:2012/12/18(火) 20:45:32.00 ID:lyCvzWs3
叩くなよ・・・w
810人間七七四年:2012/12/18(火) 20:50:13.30 ID:EMnqOhHK
墓石を叩けばそりゃカンカンに怒るわなw
811人間七七四年:2012/12/18(火) 22:13:41.89 ID:MFrnsNcW
庵治石かなぁ、写真見ただけではよくわからなかったけど
固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする
812人間七七四年:2012/12/18(火) 22:19:40.29 ID:RpdeJRVA
ちょっと横になるわ
813人間七七四年:2012/12/19(水) 00:13:31.71 ID:x7B2mBNB
サヌカイトだろ
実際楽器にしたりするし
814人間七七四年:2012/12/19(水) 02:21:18.55 ID:HIPuai2Z
墓石叩くなんて思いついたこともないわw
815人間七七四年:2012/12/19(水) 03:01:48.67 ID:4DTDAUTF
811だけど、元墓石屋なのでね、
石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた

>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い
816人間七七四年:2012/12/19(水) 04:39:07.07 ID:F6PdzPoT
ムカつくやつの墓石だったら叩いたり蹴ったりしたい
これ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?
817人間七七四年:2012/12/19(水) 11:35:48.04 ID:HErw0SDC
>>815
アカギの墓が削られてるって話に元ネタあったのか!
818人間七七四年:2012/12/19(水) 14:45:06.68 ID:0YsdnxQ6
この武将に参拝すると、この病気が治る、の延長で
墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは
819人間七七四年:2012/12/19(水) 14:57:01.73 ID:Ane5dlL0
「今でも長慶さんが怒ってはるせいで、叩くとカンカンって音がするんやで」ていう浪花ギャグでしょ。
実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。
820人間七七四年:2012/12/19(水) 16:01:13.71 ID:52/mes1M
杉原常陸の墓は「おこり」に効く、ってアレか
821人間七七四年:2012/12/19(水) 16:10:35.02 ID:iU+P6x/1
削れば手癖の悪さが治るお墓はないのかね?
822人間七七四年:2012/12/19(水) 17:23:32.62 ID:2NOO+mdG
森の石松の墓なんかも酷かったらしいな

>>821
なんでも阿弥陀ヶ峰の天辺にある墓がそうだとか…
823人間七七四年:2012/12/20(木) 21:49:24.44 ID:t10VLyXq
『…その土地はイスパニアより、それ自体ではずっと大きく、極めて活動的で、北緯34度に位置する。
夏冬の区別があり、多くの、そして良質の銀や他の金属も産する。
15の王国にわかれ、うち一人を他の王が認めれば皇帝なのだが、現在彼らを統率する者が居ないので、
誰も皇帝ではない。また4人の王が既にキリスト教徒になった。

全てに豊かであり、雌牛、鹿、家畜化した、あるいは野生の豚、野兎、雉が、野や山を埋め尽くしている。
畑は一枚6マラベディーの値である。他の家畜の雌鶏がたくさんいるし、小麦、大麦、米、他にも種子類がふんだんに採れる。
また果物類、多様で良質な梨類、桃、すもも、栗、胡桃、どんぐり、瓜、それに黒い小粒のブドウも山野に満ちている。
だから必要とあればこのブドウからミサ用のワインが出来、それを以ってミサを捧げられるだろう。

このワインはよく飲まれている。当地原産の良質なワインもたくさんあって、いずれも安い。
半リブラ(1リブラは約460グラム〉くらいの大きさのパン15個で1レアル、しかも白くて良質である。
骨なしの雌牛の牛肉2.7リブラが1レアルで買えるし、雌牛1頭では5から6レアル、それでも高いくらいだ。
魚も豊富でとても安い。

土地の人々とは極めて友好的な関係にあり、特に王とその父親とはうまくいっている。
住民は非常に清潔で衣服もこざっぱりしている。それに大変好戦的かつ勇敢で、あらゆる武器で武装し、
良い鉄砲、槍、刀(一撃で人を切り倒せる武器である)、弓、矢、胸当て、背当てを持っている。

キリスト教徒の武士は大変清潔で美しい家を持ち、イスパニア人のように武器を携行する。
馬も小さいながら、何頭も所有している。
宣教できる人間さえおれば、瞬く間に全員がキリスト教徒になるであろう。
既に洗礼を受けたものは、典礼もないのに、見たところ立派なキリスト教徒である。』

以上、平戸に上陸したアウグスチノ会員フランシスコ・マンリケが現した『日本』の姿である。
ちなみに友好的な関係にある王とは、平戸の松浦隆信のことらしい。
(フランシスコ・マンリケ1588年3月1日付書簡)

だいぶ「どこの国の話?」と言いたくなる、日本についての報告であるw
824人間七七四年:2012/12/21(金) 01:01:27.50 ID:pXRohuVd
キリストに関する記述がだいぶ盛られてる気が
825人間七七四年:2012/12/21(金) 01:07:21.99 ID:zkMr7BhP
>>823
このころはまだ、欧州より東アジアの方が富んでいたということだね

このあと、植民地からの収奪で飛躍した欧州と差がついてしまうが。
826人間七七四年:2012/12/21(金) 01:24:22.05 ID:VWOvGnvE
食文化が…
827人間七七四年:2012/12/21(金) 10:49:39.15 ID:Q8qrY0HH
まぁ現地で活動する宣教師としては、本国のやる気をくすぐって、できるだけ支援
を引き出したいわけで
だから「ここは有望ですよ!」ってことをMAXアピール。人についても土地につい
ても、報告書では盛りまくったんじゃないかと

どうせ本国で報告書読む人には現地の実情なんて見えないわけだしw
828人間七七四年:2012/12/21(金) 13:30:38.60 ID:OlFrgKA/
なんか九州とか、ともすれば肥前の中だけの話のような気もするぞこれ
829人間七七四年:2012/12/21(金) 13:39:23.52 ID:llrH0Ssp
ヨーロッパに比べれば高温多湿なので物がよく取れるのは確かだが
明らかに盛ってるわなw
830人間七七四年:2012/12/21(金) 16:21:46.61 ID:EscrAhuT
盛ってるのもあるだろうけど、ただ、当時のヨーロッパも相当にヒドイのも事実なのよね
いわゆる小氷期まっただなかだし
831人間七七四年:2012/12/21(金) 16:32:46.87 ID:pWcyw876
小麦なんかも蒔いた量の10倍にもならないんだっけ、確か
832人間七七四年:2012/12/21(金) 17:02:32.28 ID:9CyN3gnX
中世欧州だと、地域にもよるけれど、小麦の収穫量が1haあたり300〜700kgらしいね
ちなみに一反=一石を適用するならば、日本の場合は1ha(10反)だと1.5tの米が収穫できる
重さだけで考えると二倍以上〜五倍は違うからな・・・
833人間七七四年:2012/12/21(金) 17:11:43.58 ID:71al5+CE
そんだけ作れても、収穫の8割がたを王家と領主と教会に持っていかれるんじゃ日本より悲惨だなあ
834人間七七四年:2012/12/21(金) 19:48:59.19 ID:ITDBxvqF
だからパンは主食になれなかった
835人間七七四年:2012/12/21(金) 20:00:19.71 ID:XjnCzKtJ
パンがないならケーキを食べればいいじゃない
836人間七七四年:2012/12/21(金) 20:03:35.67 ID:RGQDRi8U
そこで讃岐が誇るうどんですよ!
837人間七七四年:2012/12/21(金) 20:26:01.53 ID:9CyN3gnX
ジャガイモ様がアップを始めてます
貧者のパンは伊達じゃない!
838人間七七四年:2012/12/21(金) 20:51:44.99 ID:rc3mURLw
おジャガ様は歴史が証明してるんだっけか・・・
まぁ、同時に梅毒まで撒き散らしちゃったのはご愛嬌ってかwww
839人間七七四年:2012/12/21(金) 21:40:59.84 ID:cVnLvN3Q
天文3年、宍戸元源と和睦を果たした毛利元就は、当時服属していた尼子より離脱し、以前のごとく
大内に付くことを決心。大内義隆のもとに嫡男隆元を人質として送り、甘ことの手切れの準備は整った。

そこで元就は、出雲の月山富田城に人質として毛利家より出していた、光永中務少、赤川十郎左衛門と
密かに連絡を取り、尼子と手切れになること、よって隠密に尼子領より脱出するようにと伝えた。

これによって両人は相談し、夜中に忍んで脱出をはかったが、どこからか情報が漏れたのであろうか、
富田城の者たちが聞きつけ、脱出する両名を大勢で追いかけ、大楽というばしょにおいて、光永中務少は
共の者たち15人と、一所にて討ち死にしてしまった。

しかしその間に赤川十郎左衛門は切り抜け、無事吉田に帰還した。
(吉田物語)

この時代の、人質というものの過酷さが現れた逸話であろう。
840人間七七四年:2012/12/21(金) 21:43:45.61 ID:eWbjDVbY
>>838
挙句の果てがジャガイモ飢饉だよ
841人間七七四年:2012/12/21(金) 21:46:18.17 ID:KhGRsx69
蕎麦最強伝説
842人間七七四年:2012/12/21(金) 22:18:08.99 ID:rc3mURLw
ジャガイモ飢饉、知らなんだわwww
一極集中はいかんってことよね〜
843人間七七四年:2012/12/21(金) 23:49:44.62 ID:M2rs5iG5
>>839
脱出を指示してくれる点は優しいね
無茶ぶりだけど
844人間七七四年:2012/12/21(金) 23:58:13.30 ID:GMWQ4/Fj
>>840
そうなったら赤ん坊を食べればよい
845人間七七四年:2012/12/22(土) 00:47:24.68 ID:Mv/KCpki
ジャガイモ飢饉はモノカルチャーの弱点がモロに出た形だからなぁ
でもこれが無かったらJFKが大統領になる事もなかったか
846人間七七四年:2012/12/22(土) 01:08:16.55 ID:nLql3VZC
>>839
尼子なのに甘くなかったでござる
847人間七七四年:2012/12/22(土) 03:18:53.73 ID:20g7S1XL
>>839
赤川って聞き覚えあると思ったら、
隆元暗殺(疑惑)の赤川元保の兄か。
ここで生き残った事で、息子が赤川元保の家を継ぐのか。
なんというか浮き沈みの激しい人生やな。
848人間七七四年:2012/12/22(土) 09:00:15.03 ID:xpq9YhU6
>>847のような繋がりを見つけたりするのがこのスレってか、歴史の楽しさだと思うの・・・

まぁ、言い過ぎだけどさwww
849人間七七四年:2012/12/22(土) 10:03:15.12 ID:lVRS0UXW
>>841
蕎麦は収穫量が少なくて…
実がなりにくいんだよねー自家受粉しない上に受粉しにくい変な植物で
850人間七七四年:2012/12/22(土) 10:11:20.32 ID:0+mhat6C
さらに、小麦以上に食べるまで手間が掛かるし
851人間七七四年:2012/12/22(土) 10:17:30.42 ID:yLbUWFHf
練って雑炊にぶっこむだけだから大差ない
852人間七七四年:2012/12/22(土) 12:29:47.57 ID:8PLO+WhI
日本ならさつまいもの功績を忘れちゃいかん。
老人の中には戦時中これしか食べてなくて大嫌いになった人も多いな。
853人間七七四年:2012/12/22(土) 17:14:22.76 ID:tI+m0WOd
>>850
引いて粥にすれば消化できないかな?
不味いだろうけど
854人間七七四年:2012/12/22(土) 17:18:33.80 ID:Mv/KCpki
つ ガレット
855人間七七四年:2012/12/22(土) 20:48:57.32 ID:EwOjHy7l
             {{
             {{   ,. -------  .,γニニニヽ
             у´: : --: : : : : : : :`ヾ {:_:_:_:ミト
         ,. ´ ̄` : : : : : : : : : : : : : : : : \: : : :ノ
         /: : / : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ヾ¨´ ̄`ヾ
      γ7: : : : : : : : : : : : : : : : : : : :|: : :|: : : : :゚。: : 、: : ミ
      {z:′: : : : : : :|: : : : : : : : ∧ /\:j|: : : : : :゚.: : :У´
        ∨: : : : : : : :..|: : : : : :|:`/ー}ヲ   ヽ:.|: : : : ゚ :」
        /: : : : : : |: ,,!-/: : :{:|: ′ ≫==ミ.|!:| :/: :..i: :|
.       ∧: : |: : :..:|/{ リv: ハ:./     __)心 }/:/: : : |: :|      〃  ├─    ー        ./   ┃
     / }:{ : : |: : |W   |/ l'    弋zツ从{: : : : |: :|   ┃ 十   |      ̄フ  __  /    ┃
      \トi: :.|: :/   _____       :i:i:  }イ..:.: :|: :|   レ よ ⊂フ ̄    /~し      /_/し  。
        |: ∨リヽ ィ'¨¨¨`  、       / }|: :..:|: ハ
        |: : }: : : (\:i:i:       /)    / |: : /: : }ゝ   
        |八}: : : : : :ヽ     ー‐′    /:.:.} :/:}ヾ/    
          ⊂ニ''' 、 个:...ハ         ィ:.:∧∧/
         /   ヽ \ .=| |ニ¨¨¨¨¨´ {∨
            ′    冫‐‐、! |ニヽ       〉≧r 、
         i      { ⌒ .} }ニニム     /二=| |/ヽ
        _|≦三ミ :, ⌒ {_ /ニニニ}ー―/二二| |  }
        }ニニニニ二∧'⌒´ }\ニニ}ニニ/ニニニニ| |   ′
        }ア⌒ヾニr=ミ     }  \ }ニ/ニニ=- ´| | /
        |: : : : : /:{/   /    `ヽ、     | |イ
        |: :\ ィ: : \  /\   (X)}     | |彡
856人間七七四年:2012/12/22(土) 20:49:26.85 ID:EwOjHy7l
ごめん、酷い誤爆をした……
857人間七七四年:2012/12/22(土) 20:52:38.26 ID:fizCT++q
よくわからんが、
関が原で便乗裏切りしたあげく所領没収された
影の薄い悲惨な赤座さんについて話せということか
858人間七七四年:2012/12/22(土) 20:59:44.82 ID:FDVrbrAB
氾濫した川を見に行って溺死という流れるようなフラグ回収をした直保さんがなんだって?
859人間七七四年:2012/12/22(土) 21:07:18.93 ID:kZ8VV+lG
上杉から追放され自裁した舟見さん(字は違うが)
毛利家中から裏切り者呼ばわりされた吉川さん(読みは違うが)
…、一人足りない
860人間七七四年:2012/12/22(土) 21:11:43.76 ID:8YzjGYxR
赤座さんがいつの間にやら加賀前田家に仕えたものの、息子の代に微妙公に永原と苗字を変えられた件。
ちなみに幕末に子孫が、水戸天狗党鎮圧行ってる。
861人間七七四年:2012/12/22(土) 21:18:02.54 ID:fizCT++q
永原甚七郎か
山田風太郎の天狗党をモデルとした小説で
自分が降伏をすすめたために無残に殺されてしまった、と精神を病んで死んだ
って書かれてて本気にしてた
862人間七七四年:2012/12/22(土) 21:28:17.01 ID:P/u3oaBx
武田耕雲斎は跡部勝資の子孫だけど、甲陽軍鑑のせいでイメージが悪い、てので武田にしたそうだが
直保の息子も裏切りのイメージを嫌ったとか?
863人間七七四年:2012/12/22(土) 21:43:53.01 ID:MJXUrFOC
>>858
赤座さんが死んだ越中大門は高岡の隣か
864人間七七四年:2012/12/22(土) 21:47:26.67 ID:1bAaG98a
なにげに朝倉家臣からスタートした赤座さん。

つまりあの越前の狂犬とも同僚だったということだ。
865人間七七四年:2012/12/22(土) 23:43:55.59 ID:egkfmNX5
天正六年三月、武田勝頼が遠州へ出張した折、大須賀康高の甥、
弥吉は軍令に背いて勝頼の本陣へ打ち入り高名をあげた。

しかし、それは徳川家康を激怒させることとなり、弥吉は恐れて
本多忠勝の家に逃げ入って許しを祈ったが、許されず終いには
切腹を仰せ付けられた。

家康は何事にも心が広く情け深い人だったが、軍令に背く者に
対して厳しいことはこの類であった。

――『徳川実紀(柏崎物語)』
866人間七七四年:2012/12/23(日) 05:37:33.69 ID:c6PTG4mL
>>865
市松「お宅の赤備えとか言うのが抜け駆けしやがったんでが…(震え声)」
867人間七七四年:2012/12/23(日) 07:34:23.99 ID:5pjQbNKT
>>865
勝頼の首が取れてたら帳消しだったのにな。
868話の流れ上あえてこちらに:2012/12/23(日) 12:04:52.07 ID:f+nHlxNe
関ヶ原は深い霧に覆われていた。
敵陣である西軍の彼方より散発的に銃弾が飛来するようになった。
この時にはまだ開戦には至っていない。
前衛三番隊に陣取っていた黒田隊に居た大道寺孫九郎が進み出て敵間を伺っていたが
如何にせんとも視界が完全に閉ざされている。
黒具足の武者が横合いから進み出、手綱をゆらりと打ち掛け心静かに敵方を見据えていた。
すると徐に振り返り独り言を呟いた。

「只今に戦は始まるべし」

これを聞いた孫九郎はその武者にそれは如何に、と問いかけた。

「敵間が近くなる程足軽はうろたえ、弾丸を筒の中へよく入れ得ぬ故に弾に力が無く
味方の足下へころころ落ちるものである。機は熟した」

と言って馳せ帰った。
後に聞けば、この黒具足の武者は井伊直政であった。

『名将言行録』

味方の展開状況と敵の状況視察のため
あえて目立たない黒具足を着て自ら物見に出ていた直政は急ぎ自陣へ戻り
家老の木俣守勝に戦機の切迫を告げ指示を出した。
機敏にいつもの朱具足に身を包み、今度は開戦の備えに駆け出したという。
869人間七七四年:2012/12/24(月) 06:15:52.29 ID:Tw8CTV1P
最初読んだとき黒具足と赤具足を書き間違えたのかと思ったw
視覚ではなく聴覚で足軽が時折放つ銃弾の落ちる音で戦機を計っていたということか

この後の抜駆けは…
口火を切る潮時の判断一つで勝敗が大きく左右する事実
徳川が天下を取る上での面目を大いに立てることになったし
市松と才蔵が更に奮発する足掛かりまで固めた
目付の対象であった市松の性格を考慮した上での全てが計算づくであったと考えると
家康も褒める事はあっても咎める事はないだろう
870人間七七四年:2012/12/24(月) 07:04:00.27 ID:dhTYqbHr
>>868
直政の召替具足が黒?
メインがダメになったら赤備えで一人だけ黒に・・・と思ってググって見たら召替具足も赤だったでござる
871人間七七四年:2012/12/24(月) 08:26:22.03 ID:hhZVrk98
>>823
二毛作、三毛作とやってたしヨーロッパ人から見れば
食料豊富に見えたのかも。あと向こうはギルド(日本でいう座)の力が強かったから。
安土城の楽市楽座を見た宣教師が安土の城下町は
楽園のようだと書いてたとか書いてなかったとか。
872人間七七四年:2012/12/24(月) 12:06:43.44 ID:P/+P0KzR
先祖は鉄砲の標的にならないよう、わざわざ黒具足に着替えてるのに、子孫ときたら…
873人間七七四年:2012/12/24(月) 12:11:31.33 ID:U9TsOr9h
赤座さん小川さん朽木さんは裏切っても相手にされないし
大谷好きからは忌み嫌われて悪名高くなる一方だしで散々だよね
874人間七七四年:2012/12/24(月) 12:57:50.34 ID:3ga+/rTp
申し訳ございませんお客様、裏切りは完全予約制となっております
875人間七七四年:2012/12/24(月) 13:50:20.56 ID:Tw8CTV1P
脇坂「予約しといて良かった…」
876人間七七四年:2012/12/24(月) 17:59:47.06 ID:FOSIncts
弾正「ゴールドカード会員なら予約も不要ですぞ」
877人間七七四年:2012/12/24(月) 19:08:05.95 ID:L6D772zb
ノブ「ゴールド会員は入会費として九十九茄子が、年間料として土蜘蛛が必要となっております」
878人間七七四年:2012/12/24(月) 19:18:26.44 ID:/NFacn01
>>877
それは「平」蜘蛛だっ
土蜘蛛だと妖怪になっちまうよ
879人間七七四年:2012/12/24(月) 20:06:44.17 ID:F79U+TuQ
天文9年(1540)、安芸国は吉田郡山城の戦いの時のこと。

9月4日、尼子晴久が着陣した夜、毛利元就は家臣たちとの物語の中に、
「敵兵の首を一時も早く実検したいものだ」
と言われた。これを児玉與八郎が聞いて、
『容易いことである。明日討ち取り、お目にかけよう』
と考え、破れた笠を付けて網を持ち夜中に城を出て、敵陣の前に多治比川と言う小川があったのだが、
ここに一人でいって魚を獲っていた。

そうしているうちに、敵よりこの川に小便をしに出てきて、各々用を済ませて陣屋に帰っていったが、
2名ほど残って未だ小便をしていた。

それを見た與八郎、今だ!と蓑の下から脇差を抜き、一刀で首を討ち落とし、これを掴んで逃げ出した。

敵陣はこれを見て、大勢が追いかけてきたが、與八郎はその頃若さの盛でもあり、難なく城に駆け込み
「御感に預かるべし!」
と申し上げた。

元就はこれを聞くと、しかし

「大敵を引き受けての籠城というこんな時に、若気とは言いながら、なんと要らぬことをするのだ!」

と、大いに怒り、與八郎は勘気を蒙ったとのことである。
(吉田物語)


児玉興八郎、良かれと思ったのに怒られたというお話である。
880人間七七四年:2012/12/24(月) 20:09:50.04 ID:3i1w+TmF
この手の軍令違反系の逸話は結果的に主人の構想に寄与するか否かで評価が決まるんだろうな
881人間七七四年:2012/12/24(月) 20:21:50.19 ID:nyrf6heK
はやく首実検したいって文字通りのそういう意味ではないよなあw
882人間七七四年:2012/12/24(月) 21:13:25.43 ID:a/gBLp+f
その場にいた人達の「そういう意味じゃねえよ」という心のツッコミが聞こえてきそうだw
883人間七七四年:2012/12/24(月) 21:18:14.66 ID:zyxXrSJi
S野宗綱「若気の至りとは言うけど、お前ら空気読めって言いたい時も有るよNe」
884人間七七四年:2012/12/24(月) 21:44:20.04 ID:PGi18RRf
アスペみてーだなw
885人間七七四年:2012/12/24(月) 21:52:34.08 ID:njZY1X1U
>>880
下手に構想通りになっても「鶏肋」になりかねないしなぁ
886人間七七四年:2012/12/24(月) 22:29:52.66 ID:6Fzkypgi
秀吉「敵前逃亡でも処罰無し余裕でした^^」
887人間七七四年:2012/12/24(月) 23:36:31.94 ID:sFWww/rn
>>886
神子田「・・・・。」
尾藤「・・・・。」
仙石「・・・・。」
888人間七七四年:2012/12/24(月) 23:49:29.11 ID:UoAYNgIu
美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた。主君は斎藤道三で多年膝元にて宮仕した。
ところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。

その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。

大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。

一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。

――『室町殿物語』
889人間七七四年:2012/12/25(火) 11:37:26.26 ID:ZPZHRHYb
>>887
>仙石「・・・・。」
あんたは復活できたから上2人よりはまだマシだろ。
890人間七七四年:2012/12/25(火) 13:57:31.25 ID:/io3l886
仙石さんは徳川さんの後押しで復活出来たみたいだけど、なんで徳川さんは助けてくれたの?
891人間七七四年:2012/12/25(火) 14:10:21.46 ID:Sx2pncVL
直政「ねえ殿…敵が伏せてると分かっていて突撃するなんて、天晴れじゃありませんか…?」
家康「しかしだな、結果的に味方は大損害を…」
直政「じゃあ、自ら敵に突っ込んでいくような男はお嫌い?」
家康「そ、そのようなことはないぞ///」
892人間七七四年:2012/12/25(火) 14:17:00.22 ID:a5ZDCWX4
家康は陣借り許しただけ、後は自分で兵集めて勝手に手柄立てて復帰
何でって聞かれるほどの手間は掛けてないし
893人間七七四年:2012/12/25(火) 15:58:03.21 ID:YlWUj1pp
仮にも大名を務めたほどの人物だし、復帰してくれれば自分のシンパにできるしね
総指揮官としてはアレだけど、現場指揮官としてはすこぶる優秀な人だし
894人間七七四年:2012/12/25(火) 20:57:29.83 ID:vJy29klx
>>888
斉藤家は京都に刺客送ると失敗するフラグでも立ってるのか?
895人間七七四年:2012/12/25(火) 22:01:55.73 ID:0wz/8eSZ
富永恭次「そうそう、大将のシンパなら大丈夫大丈夫」
896人間七七四年:2012/12/26(水) 00:27:24.19 ID:f6/0IznD
>>891
クリスマスだったからっていちゃついてるんじゃねーぞw

あ、もう26日か
権現様お誕生日おめでとうございます
897人間七七四年:2012/12/26(水) 02:42:04.09 ID:hvn5iwYX
仙谷は徳川の世になってからも優遇されるんだよな
大失態があったとはいえ、助けたくなる何かがあったんだろうな
898人間七七四年:2012/12/26(水) 07:18:06.93 ID:vEVuEvQh
>>891
忠吉サンとか「だから(義)息子の前でイチャつくなよな…(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」
帯刀サンとか「|ω・`)……………。゚・(ノД`)人(´Д`)人(Д` )・゚。」
健全三河武士「∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・* もうどうにでもな〜れ」
8991/2:2012/12/26(水) 21:06:18.43 ID:1lrPS9Ok
織田信雄、三老臣を成敗する


天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の仲が険悪となると、秀吉と通じたとして
信雄が三老臣(岡田重善・津川義冬・浅井多宮丸)を誅殺するのではないかという
風聞が流れていた。

3月3日、上巳の祝いのために鷹狩で獲った雁を与えると
三老臣へ使いがあったので、皆出仕した。
各々が饗膳の席に着いたころ、信雄は南蛮張の大筒を出して、
これは父祖より譲られたものであると言ったので、岡田・津川は謹んでそれを拝見した。

信雄はさらに岡田に対し、その大筒を持ってみよと言い、
岡田が畏まって大筒を取り手に持った所、土方雄久が飛び掛って抱きつき、
片手に短刀を持ち岡田を突いた。岡田は突かれながらも土方を引っ立て脇差を抜いた。
信雄は大左文字の刀を抜き、岡田を斬ってくれようと、
「雄久放せ!」と命じたが、
土方は、
「大事の役目なので放すわけにはいきませぬ、早く某もろとも斬りなされ!」と答えた。
900人間七七四年:2012/12/26(水) 21:12:51.10 ID:LSyBy1dk
大阪夏の陣の時、

豊臣方の大野治房の軍勢が紀伊国に向かう途中、和泉国貝塚で、願泉寺卜半斎という物の出迎えを受けた。
卜半斎は軍勢に馳走を振舞い、貝塚の町や近在から集めた麦飯を集め、半切(樽状の桶)に入れて運び、
また酒も大いに振舞った。

大野治房軍の兵士たちはそれまで夜通しの行軍をしてきたこともあり、疲れ空腹であったので、彼らは
この振舞いを喜び受けると、たちまち酔っ払ってその場で寝てしまった。
さらに岸和田方面の抑えに出ていた、宮田七平の兵たちまで集まってきての酒盛りになった。

このため、この軍の行軍は甚だしく遅れ、戦場に間に合わず、これによって和泉樫井の戦いで
豊臣方は大敗を喫した。

実はこれらは全て、願泉寺卜半斎が豊臣軍の足を止めるための策略であり、彼らはそれに
まんまと引っかかったのである。
(大阪合戦口伝書書入)
901人間七七四年:2012/12/26(水) 21:13:41.26 ID:LSyBy1dk
>>899
スマン、割り込んでしまった。
9022/2:2012/12/26(水) 21:14:31.99 ID:1lrPS9Ok
しかし、信雄がしつこく放せと命じるので、短刀でもう二突きした上で放した。
すると信雄はすぐさま岡田を斬り、止めを刺した。

この有様を見た津川、
「そ、某をも誅されるおつもりか?」

信雄答えて、
「汝もどうして赦せようか?」

津川はこれに対して、
「なんと薄情な! 某の心底がお分かりにならないのか!?」

と言ったが、その時かねて討手と決められていた飯田半兵衛らが襲い掛って一太刀斬りつけ、
そこに信雄また続いて津川を仕留めた。

残りの一人、浅井多宮丸は未だ17歳にもならぬ若者だったので、
森勘解由が承って難なく斬り伏せた。
こうして三老臣を誅殺したので、残党を掃討するため岡田の星崎、津川の松ヶ島、浅井の刈安賀と、
三人の居城へそれぞれ討手を差し向けたのであった。

(伊勢国司記略)
903人間七七四年:2012/12/26(水) 22:26:21.74 ID:3tvf34An
この話を読む限り、津川は岡田が斬られるのを抵抗もせず見ていたんだよな
仮に翻意があればさっさと刀抜いてそうなものだが
904人間七七四年:2012/12/26(水) 23:13:09.40 ID:Jb6y8Dqs
うむ。
905人間七七四年:2012/12/27(木) 01:34:46.48 ID:uwGaSoc4
17才にもならぬ老臣…
906人間七七四年:2012/12/27(木) 01:38:58.51 ID:+pVjqYKa
若年寄?
907人間七七四年:2012/12/27(木) 05:52:58.78 ID:7TE8nu7A
信長の野望とかでよくあったね、三歳髭面とか
908人間七七四年:2012/12/27(木) 10:35:43.04 ID:MdLaw1F3
老臣やら大人とかは、老中とか若年寄とかと同じ役職みたいな感じで使われることが多いよね
909人間七七四年:2012/12/27(木) 11:02:50.04 ID:bu3fi/5y
元老院も老人の集まりだと思われがちだが、20代の若者もいる
910人間七七四年:2012/12/27(木) 12:47:09.31 ID:7VcFyRgh
世襲議員だな、小泉進次郎みたいな奴
911人間七七四年:2012/12/27(木) 13:32:55.98 ID:LruDLFiG
身の程をわきまえてる奴なら別にいいんじゃね?
問題は口先だけで実行しない鳩山小沢の類で
912人間七七四年:2012/12/27(木) 15:13:02.10 ID:6jii2X/e
オクタウィアヌスが20歳だったか
叔父のカエサルも30代だよな
913人間七七四年:2012/12/27(木) 21:35:37.30 ID:hlwGoHLy
>>900
俺の中で大野治房は脳筋っぽいイメージだな
一度戦いになるとめちゃ強いけど頭が弱いせいで知略に長けた相手によくやられる印象
914人間七七四年:2012/12/27(木) 23:44:48.15 ID:BFGZEA3B
松永貞徳が言った。

「相国寺の仁如和尚の御門弟に俗男の儒学を志して詩作を自慢する者がいた。
彼は入道して和尚に道号を求めたのだが、和尚は彼の心中をご存知だったのだろう、

『ただその方の思うように付けよ』と言ったところ宋の詩人、蘇東坡と黄山谷から
一字ずつ取って坡谷庵(はこくあん)と付けた。

しかし『はこ』は糞のことだから、人々に『汚い庵号だなあ』と笑われたのだ。
笑われていると知った彼はそれならばと庵を取って斎の字を付けてしまったもの
だから、ますます酷い呼び名になって人に笑われたそうだ。

とまあ、そんな話を由己法橋が語られていたのだ。大笑い、大笑い」

――『仮名世説』
915人間七七四年:2012/12/28(金) 00:00:24.15 ID:n9mqw1bW
リアルで雲黒斎がいたとは
916人間七七四年:2012/12/28(金) 05:50:36.57 ID:yhLVZSVl
このスレの年齢は数えでいいのかな?
そうすると17歳は満年齢だと15歳ぐらいだよね
歴史小説家は当時は成長早くていまの15歳と比べられないといってるけどどんなもんだろ
917人間七七四年:2012/12/28(金) 12:20:07.91 ID:/VWf/rLz
毛利元就の大勝に終わった、天文24年(1555)の厳島合戦。
この時陶軍からの捕虜のうち、重見因幡守(通種)と言う者があった。
彼は伊予河野氏の一門・十八家の内にある者で、河野対馬守(法名・天徳寺)の近親であった。

しかし天徳寺殿が、嫡子弾正忠と父子不和となり、ついに合戦となった。
因幡守は父子の礼儀を重んじ、天徳寺殿の見方となり、遂には伊予を浪人し、大内義隆を頼って
周防へ亡命をした。

大内義隆はこれを許容し、陶尾張守(晴賢)に預けられ、安芸西条の桑原という場所に小知を与え、
浪人分として大内家に属した。そして今回陶晴賢と共に厳島に渡海した。
その様であったので、捕虜になった重見因幡守は毛利方に対し、「御検使を下されればそこで
切腹をしたい」との申し出をした。

これを聞いた毛利元就は、内々に彼を召抱えたいと考えていたので、
『一命を助けるので、御奉公申し上げるように』
と、児玉内蔵丞、兼重左衛門から申し渡された。

因幡守は承り、しかし、
「ありがたき御意、身に余り、忝く思っています。
ですが、切腹のことはもう決心しているのです。どうかそこを解っていただきたい。」
そう申し上げた。

これを聞いた元就は再び彼に伝えた

『もし自分の家臣になることを受け入れないというのなら、西条に居るそなたの倅達を召し捕らえ、
その方の面前で殺してやるぞ!それを憐れだと思うのなら、私の意に従い、切腹のことは
思い留まるように。』

因幡守はこれを承り
「重ね重ねの有難きお言葉、生々世々忘れがたき幸せです。
ですが私は、生国は伊予、河野一族の者であります。
さる仔細があって伊予を立ち退き、大内義隆を頼み山口に罷り越したいとしていた所を、
これを御許容下され、当国西条において小知を頂き、陶氏に預け置かれました。

そして入道(陶晴賢)は私に対して別して懇切でありました。ですからその報謝として、
この度厳島へお伴し、同じ場所で如何にも罷り成るべしと考えていたのですが、多勢に隔てられ、
あまつさえ生け捕りになってしまい、この様な有様で、もうどうしようもありません。

もし今、御厚恩をいただけるのなら早々に切腹を仰せつけて下さい。
子供については、どのように仰せ付けられても構いません。
その様なことは、常日頃から覚悟させております。」

これを再び児玉・兼重から報告された元就は、
『さてさて、惜しく思うが、この上は望みに任せて切腹を申し付けよう。
子供については取り立て、召し使いたい。』
との旨を伝えた。

これを聞いた重見因幡守は
「有難く存じ候」
と御礼申し上げ、厳島のありの浦にて切腹した。
彼の二人の子供は召しだされ、別して良く召し使われた。
兄は木原兵部、弟は木原二郎兵衛と申して、戦場での御奉公数度に及び、
そのためより一層重用されたという。
(吉田物語)

毛利元就、重見因幡守の決意を覆せず、という逸話である
918人間七七四年:2012/12/28(金) 14:04:36.05 ID:GEFZpWAE
>>917
(´;ω;`)ブワッ
919人間七七四年:2012/12/28(金) 15:20:08.29 ID:RK4YLfHe
死に場所を探してた老兵
920人間七七四年:2012/12/28(金) 21:54:08.75 ID:D2nU7MF5
これで命乞いするようなら武士として使えないよなあ。
921人間七七四年:2012/12/28(金) 23:19:42.96 ID:sPgezdbT
明智光秀は亀山の北、愛宕山から続く山に城郭を構えた。この山を周山と号す。
自らを周武王になぞらえ、織田信長を殷紂に比した。これは謀叛の宿志である。

羽柴筑前守は信長の手の者の様にて、その上度量が広く小事にこだわらない
気質なので人に対する言葉はいつもずけずけとしていた。それに比べて光秀は
外様の様に、その上つつしみ深く、まじめで温厚な人だったので言葉はいつも
うやうやしかった。

ある時、筑前守が「わぬしは周山に夜普請をして謀叛を企てていると人は皆言う。
実際のところはどうなんですか?」と尋ねた。これに光秀は「でたらめを言うものだ」
と笑ったのでその話題は打ち切られたのだという。

――『老人雑話』
922人間七七四年:2012/12/29(土) 01:59:03.27 ID:9ljgyvp1
>>917
こういう人こそ召抱えたいものだが、何か方策はないものかね?
923人間七七四年:2012/12/29(土) 03:43:14.70 ID:tZsoP29G
無理矢理貸しを造り奉公させ、時間を掛けて篭絡?
924人間七七四年:2012/12/29(土) 04:14:34.36 ID:9Lcwdn0n
>>922
この時点では、出来たとしても生かしておくのが精一杯じゃないかな。
925人間七七四年:2012/12/29(土) 04:19:06.54 ID:n0F+FKxn
>>921
岐阜を知らない明智じゃあるまいし、自らを周の武王になぞらえるなんてしないだろ
926人間七七四年:2012/12/29(土) 19:43:45.36 ID:fYL989m6
光秀ってちょくちょく野望むき出すよな
927人間七七四年:2012/12/29(土) 20:24:21.01 ID:vSVJvJim
そうしないとお話しにならないから
928人間七七四年:2012/12/29(土) 21:05:26.53 ID:K1iLnD6M
ていうか秀吉はこんなウカツなこと言わないだろ
929人間七七四年:2012/12/29(土) 21:15:59.48 ID:2NW3m/4U
>>926
あー、「野ぼうの城」てやつだな
930人間七七四年:2012/12/29(土) 23:00:41.27 ID:9Lcwdn0n
>>929
ザブトンの代わりに首を置いていけ
931人間七七四年:2012/12/30(日) 00:37:49.57 ID:eTQ1sVGQ
織田家はもっとこう、、、殺伐としないと
932人間七七四年:2012/12/30(日) 01:15:16.68 ID:E04ZgmIH
秀吉が仲間になりたそうにこちらを見ている。
どうしますか?
933人間七七四年:2012/12/30(日) 08:54:06.12 ID:f1go1rkc
>>931
問いたい、問い詰めたい。手紙で小一時間折檻したい
934人間七七四年:2012/12/30(日) 09:32:19.00 ID:Q0BFbw83
>>916
亀だけど釣られる。
成長という言葉の意味が、いっぱしに大人の仲間入りできるか否かという事なら、その通りだと思うが。
現代人の15歳、そりゃ平均身長は高くなってるだろうよ。100メートル走の日本記録だって伸びてるさ。
しかし中流階級の平均値となると、当時の満15歳と戦って勝てる現代っ子は、野生児か格闘技選手じゃねーの。
知力にしても、元服前の小童でも人体の急所とか自害の手順ぐらいは常識だからな。日常で謀殺の
危険にさらされるケースもあるだろうし。
現代のヌルさが戦国と比べ物になるわけない。
935人間七七四年:2012/12/30(日) 09:58:44.75 ID:5PXD0suK
現代は一般家庭基準で考えているのに
当時は武士(1割に満たない特別な環境の人物)で考えるふしぎ
936人間七七四年:2012/12/30(日) 10:20:26.40 ID:gA08ZAGa
そもそも中近世と現代じゃ成人の年齢が違うんだし
子供が15歳で一人前の大人になるように教育されてる戦国時代と
20歳で一人前の大人になるように教育されてる現代を比べる事がナンセンスじゃないの
937人間七七四年:2012/12/30(日) 10:28:52.64 ID:71xstaYY
社会システムもそうだけど、幼児死亡率が異様に高い中世と、そうでない現代を
いっしょにしてる時点でなんだかなぁ
938人間七七四年:2012/12/30(日) 10:34:40.09 ID:Q9CrYugm
当時は15歳で社会人だったから、
現在の大学新卒と高卒四年目の社会人を比べても
考え方目つき顔つきまったく違うように過去現在の15歳もちがうだろう。
ましてや農民でも気を抜けば死んじゃう当時の状況を考えれば、的な話だろ
939:2012/12/30(日) 11:07:35.22 ID:SxEis8ev
940人間七七四年:2012/12/30(日) 16:48:41.04 ID:jGus6LDt
生物的な意味での成熟速度も早かったというような話もあったな
941人間七七四年:2012/12/30(日) 16:52:13.74 ID:7xxOFoqG
むしろ今の女児のほうが夜間光を浴びているせいかメラトニン分泌が抑制されて、
初潮年齢が下がってきているとか
942人間七七四年:2012/12/30(日) 17:43:40.48 ID:5cduvKbb
15年くらい前のデータにサンプル平均12歳前後というのがあったような記憶がある
どういった経緯でそういったレポートを出したかは忘れたが、まあ身近な例からもそんなとこだろうな
943人間七七四年:2012/12/30(日) 17:56:10.58 ID:XZQzdEQK
小学、上がる年の正月に元陸軍大尉の爺様から切腹の作法教わったわW
944人間七七四年:2012/12/30(日) 17:58:24.40 ID:6swtotlv
佐々陸奥守は柴田などと同じく織田信長譜代の家である。信長の死後、
太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。

さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。

太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。

――『老人雑話』
945人間七七四年:2012/12/30(日) 18:30:24.49 ID:jGus6LDt
日本人が他人の間違えを訂正するときついでに人格否定になってしまうのはいつからの伝統なんだろう?
946人間七七四年:2012/12/30(日) 19:58:17.71 ID:gA08ZAGa
古今東西、いらぬ人格否定を挟む奴はいくらでもいたんじゃないか
947人間七七四年:2012/12/30(日) 20:16:11.34 ID:d2XjDVlS
「日本人は〜」って言う人は一体日本人以外のことをどれ程知っているというのだろうか
948人間七七四年:2012/12/30(日) 20:51:26.49 ID:OgB2jqau
日本人のことを話題にしてるのに、日本人以外のことをどうのこうのいう必要性を感じないんだが・・・
949人間七七四年:2012/12/30(日) 22:30:46.02 ID:z5Xbx46G
日本人を特別扱いしてるときには他との比較は必要だろw
950人間七七四年:2012/12/30(日) 22:39:28.80 ID:LlHyKvV7
何この流れ
951人間七七四年:2012/12/31(月) 00:57:32.14 ID:nQWz7N9p
揚げ足取り合戦だな。
つまんない事書いた挙句、屁理屈こねるとこうなる。
952人間七七四年:2012/12/31(月) 08:53:24.82 ID:XmcM5dOL
流れの始まり読むとああ冬休みって感じた。
まあ皆お茶でも飲んで落ち着かれよ( ´・ω・`)っ【毒】
953人間七七四年:2012/12/31(月) 08:53:40.44 ID:i/jmB30T
浅野さん宇都宮でも何かやらかしてるし
権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?

昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん
954人間七七四年:2012/12/31(月) 09:10:08.90 ID:FQuRrf3p
伊達が逆恨みしてただけじゃねーのw
955人間七七四年:2012/12/31(月) 09:14:22.76 ID:yEczM5Nn
内匠頭の事を考えると、家風ってのも納得できちゃう
956人間七七四年:2012/12/31(月) 15:15:03.10 ID:GPkwHloS
浅野って北条攻めで小勢ばっかり攻めて恩賞貰えなかったり、九戸に圧倒的兵力で歯が立たなかったりで戦ではろくなイメージが無いな

挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・
957人間七七四年:2012/12/31(月) 16:33:27.76 ID:di0KPi6D
長政ってどういうわけか地味に嫌われてるよな
958人間七七四年:2012/12/31(月) 16:43:39.54 ID:xzIqKjG7
長政自身の問題もあるかもだけど
立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする
959人間七七四年:2012/12/31(月) 16:51:10.22 ID:hcZfLqjy
伜どもの活躍で浅野家に悪いイメージはない
960人間七七四年:2012/12/31(月) 17:03:09.32 ID:di0KPi6D
思えば奥州仕置あたりも汚れ役もいいとこだよなぁ
「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・
961人間七七四年:2012/12/31(月) 17:25:51.52 ID:c0om2kDi
>>953
それだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。
962人間七七四年:2012/12/31(月) 17:29:20.71 ID:rsk1zaCt
豊臣風なんてものはない、全て誰かの猿真似なんだから。
963人間七七四年:2012/12/31(月) 17:57:39.65 ID:pay35FP+
戦国時代の浅野家に悪いイメージは無い
だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる
964人間七七四年:2012/12/31(月) 19:11:14.54 ID:SeZsMtLu
電柱に子猿、電柱に子猿!
965人間七七四年:2012/12/31(月) 19:19:01.75 ID:bsCCajT9
お前ら、何度も既出だが「長政」って略すなw
966人間七七四年:2012/12/31(月) 19:22:16.19 ID:ForaGXAd
ちくしょうw
うちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw
967人間七七四年:2012/12/31(月) 19:23:13.97 ID:Df2MEhDu
黒田のほうはNGMSと略すと決まっているし、
木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk
968人間七七四年:2012/12/31(月) 19:32:48.82 ID:SeZsMtLu
高坂「…」
真田「…」
保科「…」

決めつけイクナイ
969人間七七四年:2012/12/31(月) 19:41:30.56 ID:Df2MEhDu
その三人は弾正だと三弾正の誰かわからないから、
受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
970人間七七四年:2012/12/31(月) 20:02:24.06 ID:4iQqPB/V
>>969
逃げの弾正さん…
971人間七七四年:2012/12/31(月) 20:18:56.25 ID:aJFP4uiP
受けだったのか・・・
972人間七七四年:2012/12/31(月) 20:29:50.26 ID:nQWz7N9p
量産型長政から脱出する為に、長吉と呼ぼう。
人生の大半が長吉だったんだし
973人間七七四年:2012/12/31(月) 20:46:29.18 ID:bsCCajT9
浅野弾正少弼長吉、略して弾吉で
974人間七七四年:2012/12/31(月) 20:53:47.00 ID:nQWz7N9p
>>973
まともな略だと「浅弾」はあるな。
975人間七七四年:2012/12/31(月) 22:04:41.78 ID:aJFP4uiP
浅弾だと別の方と勘違いしてしまう可能性も・・・
976人間七七四年:2012/12/31(月) 22:05:52.29 ID:bsCCajT9
>>956
恩賞を出す立場のラスボスは長い付き合いおまけに親戚だから
浅野さんがどんな人間かよーく知ってたんだろう
977人間七七四年:2012/12/31(月) 23:26:55.90 ID:PVhpX9Zh
>>969
受け弾正なんていたっけかw
978人間七七四年:2012/12/31(月) 23:51:42.33 ID:6xUnJYwa
>>977
分かってないな〜
979人間七七四年:2012/12/31(月) 23:54:14.75 ID:Rl+4GUZd
信玄のほうが受けだったかも
980人間七七四年:2013/01/01(火) 00:23:59.61 ID:N569VcYa
受け弾正
攻め弾正
槍弾正

新年早々卑猥すぎますぞ、お館様
981人間七七四年:2013/01/01(火) 00:25:50.78 ID:o9FxWBXx
受け弾正
責め弾正
ヤリ弾正
982人間七七四年:2013/01/01(火) 00:26:06.06 ID:/1QRb4qP
とりあえず新年初スレ立てしてみる
983人間七七四年:2013/01/01(火) 00:29:05.12 ID:/1QRb4qP
>ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
>またの機会にどうぞ。。。
出来んかった。どなたか頼みます…

↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話35

↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350987604/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
984人間七七四年:2013/01/01(火) 00:38:44.48 ID:eGqTxKD/
985人間七七四年:2013/01/01(火) 00:44:31.11 ID:ZhR91yuf
>>984
乙!そして明けましておめでとうございます

ささこの餅と茶でゆるりと一服されよ
986人間七七四年:2013/01/01(火) 01:34:35.98 ID:02MPR2uP
>>984
スレ立て乙
さあ、我が軍勢とともに厳島詣に参ろうではないか
987人間七七四年:2013/01/01(火) 11:59:03.64 ID:2/ycnmwH
那須惣領家の那須資親には男子がなく、甥である白川結城政朝の次男、資永を養子とし、後継ぎとして迎えた。
が、その後に資親には実子・資久が産まれた。

永正11年(1514)、資親はその臨終の刻に、宿老である大田原胤清・資清親子に対し、実子・資久を家督とするよう
遺言して死去した。
これにより大田原親子は、金丸・大関・芦野・伊王野氏といった有力家臣と共に、資久の邪魔となる資永を滅ぼすため
挙兵し、総勢300騎で蛭田ヶ原(現・栃木県湯津上村)に陣を敷いた。
しかし資永は屈せず、わすか50騎ながら箒川を挟んで決戦を挑むが、勝敗は決することがなかった。

夜になり、資永は福原城で討ち死にを覚悟した。しかし最後の手段と、大雨を幸いに家臣を、那須資久の居城
山田城に密かに派遣し、資久の身柄を捕らえ、福原城へと拉致した。

8月3日、資永は捕らえた資久の首を刎ね、自ら城に火を放ち自害して果てた。
ここに那須惣領家(上那須家)は滅亡したのである。
(那須記)

以上、那須記より、那須惣領家滅亡の顛末である。
988人間七七四年:2013/01/01(火) 13:57:04.96 ID:z66QIb7/
資清の逸話の詳細版だね

汚いな大田原さすが汚い
989人間七七四年:2013/01/01(火) 14:22:15.88 ID:P1aVy5M6
資親の遺言が本当かどうかからもう怪しい
990人間七七四年:2013/01/01(火) 17:20:07.37 ID:02MPR2uP
潜入作戦だってわざと見逃したのでは
991人間七七四年:2013/01/01(火) 21:52:03.07 ID:MfQ0Cr8w
蛇年にちなんで戦国時代のスネークだというのに
992人間七七四年:2013/01/02(水) 14:27:35.11 ID:dBz426PX
永禄4年(1561)の頃、毛利元就は日本中を彼方此方に行脚すス僧を御陣所に召し寄せ、
御斎(食事)など与え、その後諸方の様子などを尋ねた。その話の中で、元就はこの様なことを語った

「先年、尼子方の、石見・山吹城を攻めた時、その守将である本城越中守(常光)の働きを見たが所、
聞き及んでいたよりもはるかに、武辺の達人であると知った。彼は中国西国の間においては類なき
武士である。

あの時私は、彼を攻め潰そうと思っていたが、あのような者を攻め潰すのは武士の本意では無いと考え、
山吹から引き下がったのだ。」

これを聞かされた僧は、それから間もなく本城越中守の所に行き、この話をした。
本城は「名将からのお褒めの言葉であり、眼前に対峙している敵ではあるが、誠に本懐に思う。」
と大いに喜んだ。

勿論元就の策略である

この話の伝わったことを確認した元就は、吉川元春に本城越中守への寝返り工作を行うことを命ずる。
元春は山口の宝泉寺を通じて、本城家家老・服部若狭守、椿井戸三郎兵衛に対し、毛利方に
味方するなら石見銀山及び出雲原手郡を加増するとの、毛利元就・隆元親子の言葉を伝えた。
そして

『元就公は越中守様を、敵とは申しながら武勇他に優れた人物であり、語り合いたいものだと
すっと申されていました。』

との、元就の思いも語った。

本城はこれを聞き、「御意の趣うけたまわり、忝く存じ奉ります。」と、毛利方に
与することを誓い、嫡男本城太郎左衛門を月山富田城から落とさせ、元就のもとに人質に出した。
これらが整ったのが永禄5年の夏ごろだとされる。

この本城寝返りにより、毛利元就は遂に全面的な尼子攻めにとりかかる。
尼子氏を滅亡させた、第二次月山富田城の戦いが始まるのである。


ちなみに寝返った本城常光はそれから間もなく、毛利元就から

『武威に誇り高慢つかまつり、人を人とも存ぜず、忠賞に行われ候衆中の領地押し込み、
入部の者共を追い立て、狼藉大方ならず候に付き、往々御弓矢の妨げに罷り無るべし』

として、一族郎党共に、吉川元春の軍により誅殺された。

本城越中守寝返りの顛末である。
(吉田物語)
993人間七七四年:2013/01/02(水) 15:14:29.51 ID:5obb+yb2
要は元就に褒められたせいで内通を味方に疑われ、
仕方なく本当に内通したら、結局裏切り扱いで死亡、てこと?
褒められた時点でゲームオーバーな気が
994人間七七四年:2013/01/02(水) 15:31:28.14 ID:tg9JKZcc
本城さんは前に尼子へ寝返って毛利に損害を出してるからねえ
またいつ裏切るか不安だったのだろう
995人間七七四年:2013/01/02(水) 20:08:21.00 ID:GW7PaUnw
つーか、元就自身が大内と尼子の間をフラフラしてた事もある訳で
国人連中が強い方に靡くのを道義的に批判する資格はなかったり。
996人間七七四年:2013/01/02(水) 20:29:55.91 ID:t/S79N88
それはあれだ、農民を徹底的に抑えた秀吉と同じ発想じゃないか
997人間七七四年:2013/01/02(水) 20:33:08.40 ID:CvfZfpp/
戦の前の裏切りか戦の中の裏切りかって意味では、
小早川+αのαの方に通じるものがある気がしないこともない
まぁしかし単純に強い奴が裏切ると怖いよね
本格的に尼子攻め開始って時にわざわざ本城の処断をしてる辺りとかそういう意図を感じる
998人間七七四年:2013/01/02(水) 21:38:48.78 ID:OIobnQFf
>>997
αってそれ関ヶ原のAKWOのことだよな?
999人間七七四年:2013/01/02(水) 22:22:04.13 ID:LSuGyVaP
簡単に引っかかるからとりあえずシめとこうと
1000人間七七四年:2013/01/02(水) 22:26:45.88 ID:9QxKLYc4
うう・・・
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
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