戦国ちょっといい話35

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2012/10/18(木) 19:25:34.88 ID:5BaWZdNd
新スレと>>1に八幡大菩薩のご加護がありますように
3人間七七四年:2012/10/18(木) 20:16:06.06 ID:SgVQVLsq
一乙!!!!!!!!!!!
4人間七七四年:2012/10/20(土) 07:34:35.05 ID:AGJlYvYm
>>1おつ!
セブンイレブンへ行って好きなおにぎりをわしに買ってきて良いぞ
5人間七七四年:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』
6人間七七四年:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに
7人間七七四年:2012/10/20(土) 13:20:21.23 ID:g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな
8人間七七四年:2012/10/20(土) 13:40:39.84 ID:yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…
9人間七七四年:2012/10/20(土) 14:09:22.78 ID:Nh5KBDq5
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と

宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。

(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略) 

秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)

小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。

いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949

豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。

後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。

皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ
10人間七七四年:2012/10/20(土) 16:57:10.55 ID:76qgw/5G
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw

いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい
11人間七七四年:2012/10/20(土) 19:20:40.21 ID:i8J/WV84
慶長5年(1600年)7月、家康を弾劾する『内府ちがいの条々』が
全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。


(続きます)
12人間七七四年:2012/10/20(土) 19:25:30.52 ID:i8J/WV84
書き込み規制と忍法帳のおかげで細切れになってしなうなあ。


――嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
――だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。


(続きます)
13人間七七四年:2012/10/20(土) 19:28:39.34 ID:i8J/WV84
――そうなったら、たとえその後の戦で内府が勝っても、蜂須賀家やばくね?
――よし、ならば……。

決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。


(続きます)
14人間七七四年:2012/10/20(土) 20:02:26.50 ID:AjYzTtHQ
続きマダー?
15人間七七四年:2012/10/20(土) 20:06:50.18 ID:76qgw/5G
連投規制か
16人間七七四年:2012/10/20(土) 20:16:19.91 ID:OjTnBRaU
書き込み制限食らっている人は、少し手間だけどこういう所利用するといいかも

★☆ 書き込めない人のレス代行します 90 ☆★
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1350652112/

シベリア郵便局・416通目【レス代行】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1350393984/
17人間七七四年:2012/10/20(土) 20:58:31.98 ID:BilyWsli
>>13以降の続きです。

本題はこちら。
上記は史実を元に家政視点で創作したものだが、第三者の視点では
家政の様子を次のように記している。

「殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした。
この大変な時にも食欲を失わないとは、なんと豪胆なことか」

どうやら家政さん、考え事は食事中にしていたようで。
これは創作ではなく、蜂須賀家の家譜に記録された本当の話。


竜頭蛇尾なネタで失礼しました。
18人間七七四年:2012/10/20(土) 22:04:37.27 ID:cAR48cti
>>17
創作は勘弁してくれ。
19人間七七四年:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした
20人間七七四年:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ
21人間七七四年:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが
22人間七七四年:2012/10/21(日) 12:11:59.81 ID:PO9V+c4O
織田信長のほっこりするエピソード

ポルトガルからやって来た宣教師ルイス・フロイスが信長さんに初めて会ったのは、
二条城を作っている工事現場の橋の上でした。
その時、信長さんはこの遠来の異人に

「年齢はいくつか、いつ日本に来たか?ポルトガルから日本までどのくらいの距離か?」

などの質問と共に

「お主の両親はポルトガルでお主に会いたいと思ってはいないのか?」

と聞いています。
つまり「両親は心配してないのか?」と聞いたわけです。
好奇心を満たす質問をする一方で、
相手の肉親を気遣う一面を持っていたのです。

――『マイナビニュース』
http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/10/post_2399.html
23人間七七四年:2012/10/21(日) 15:58:25.65 ID:X44o1yK4
石井源左衛門正澄は、原城一番乗りの弥七左衛門正之の次男。
彼はいつも親の名を汚すことのないようにと心がけ勇み立っていた。
綱茂公のお供として歩いていたときのことだが、
綱茂公が源左衛門をみて、

「源左衛門よ、その刀の差しかたはよくないぞ。
柳生流でも嫌っている差しかただ。
わたしの差しかたを見てみよ。
これこそが鍋島加賀守直能から伝授を受けた差しかたぞ。
そもそも落とし差しは抜きにく、えっ?」

そのお言葉が終わらないうちに、源左衛門は刀をさっと抜いてみせ、

「抜けますよ」

と言って鞘におさめた。
綱茂公は苦笑して、

「おまえは粗忽者だな(苦笑)」

と仰りなにごともなく済ませたとのことだ 【葉隠】
24人間七七四年:2012/10/21(日) 16:13:14.42 ID:HNFoQBNy
抜くな抜くなw
25人間七七四年:2012/10/21(日) 17:01:37.76 ID:HbSG4Dh0
ていうかお供だから危険なかんぬき差しでなく落とし差しやってたんじゃ・・
あと周りの人間と鞘当しにくいし
26人間七七四年:2012/10/21(日) 18:40:22.07 ID:zJiiKrmE
えー、お祖父ちゃんと曾お祖父ちゃんは落とし差し派じゃないの?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5276.html
27人間七七四年:2012/10/21(日) 22:45:54.77 ID:BrmEIYHG
南龍公こと徳川頼宣が14歳で初陣した大坂の役で先陣を望むも許されず「14歳の私は、今しかない!」と嘆いたのはここのスレでは有名な話。
この役で同じように先陣を望み許されなかった男がいた。松平忠利である。

松平忠利はかの「家忠日記」で有名な松平家忠の息子で深溝松平5代目当主である。
深溝松平家の当主は2代目好景、3代目伊忠と徳川の重要な合戦で当主が討ち死にして宗家に忠義を示してきた壮烈な家柄である。
忠利は天下分け目の合戦の際の伏見城の合戦で覚悟の討ち死にをした父・家忠の仇討ちを願うも結城秀康に従い、上杉の抑えとして関が原の戦勝を聞いた経緯もあり、大坂の陣では先陣を切望したのは当たり前の事だと思われる。

しかし、大坂の陣でも忠利は先陣を許されるどころか徳川頼宣の補佐を命じられ前線での槍働きを制限されたのである。
これに対し、忠利の実弟、松平忠一が兄の気持ちを代弁するかのように、深溝松平隊にこのように訓辞をした
「大坂方は必ずや打ち破られるであろう。そうすれば天下に戦はなくなる。今もし激を励まさないということであれば、何時することができるであろうか。
 しかし、忠利は先鋒を望むもその命は下されない。しかし、自分、忠一は幸いに前線に属する事になった。必ずや先陣を切り、父祖に地下へと会いに行こうぞ。」と。

その言葉どおり忠一は大坂の陣の5月7日の激戦に最前線へ躍り出て、突撃を繰り返し、大坂方を押し返し、騎上にて「我、松平忠一である!」と高らかに名乗り上げ勇戦し、乱戦の中で己の命を散らしていったのである。
享年は26歳であったという。

ソースは深溝松平家菩提寺、本光寺の碑文です。
28人間七七四年:2012/10/21(日) 23:02:51.09 ID:IjcwR6BQ
悶々と生きるより華々しく生きたいよなー
29人間七七四年:2012/10/22(月) 00:35:48.42 ID:uQjn0ZtC
>父祖に地下へと会いに行こうぞ
とか言っちゃうのがなんとも厨二というかボンボンとうか軽い気がする
30人間七七四年:2012/10/22(月) 00:56:21.51 ID:5y4FUJBo
本当に会いに行ったんだから軽くはないだろ
31人間七七四年:2012/10/22(月) 04:50:19.76 ID:ry7XifB+
そもそも隊の訓示だ
司令官の覚悟と父祖もそうだったと忠義の血を示してる
32人間七七四年:2012/10/22(月) 07:33:02.40 ID:tbKKK4Yy

ある戦いで織田信長の先手が敗北し、既に旗本まで危うくなってきた。
この時、信長が「尾藤甚左衛門はいないのか」と家臣に尋ねた。

「三の備えにおります」
「ならば苦しからず」

そう答えた信長は騒ぐ様子もなかった。案の定二の備えも破られたが、
三の備えが受け留めて突き返し、敵は敗れて引き退いた。

――『名将言行録』

甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと?
33人間七七四年:2012/10/22(月) 20:17:42.93 ID:61gAGEIv
>甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと

かもしれないね
あの人も九州以後の印象が悪すぎてなぁ…
34人間七七四年:2012/10/23(火) 02:44:08.26 ID:+wLzavZW

細川忠興が明智光秀の邸宅に来ていた時、一人の小姓が縁側を通る際に
目通りするわけでもないのに腰障子の外で手を突き、目通りするかのように
慇懃に拝伏して行った。

忠興が光秀に向かい「あなたの小姓どもは律義なのですね。
目通りもしない障子の外を通るのに、手を突いて拝伏しましたよ」と言うと、

光秀は「それは三宅弥平治(明智光春)でしょう。お呼びになってみなさい」
と言った。そこで例の小姓を呼び名前を尋ねると果たして弥平治だったので、
忠興は殊の外褒め称えた。

――『名将言行録』
35人間七七四年:2012/10/23(火) 03:31:21.63 ID:W0IVo/Fs
障子に穴を開けて覗きこんだのかと勘違いした…
36人間七七四年:2012/10/23(火) 08:52:29.72 ID:XaUH0aOr
そんなことやったら細川さんのとこだと37人目になるだろうなw・・・さすがに義父の家で通常運転する三歳さまじゃないよな?
37人間七七四年:2012/10/23(火) 10:09:56.92 ID:B+L0gJ3G
嫁さん連れてたのか。
38人間七七四年:2012/10/23(火) 20:34:42.53 ID:Ve1gM0j0
忠興センサー恐るべし
39人間七七四年:2012/10/23(火) 22:38:27.01 ID:8Wvg11hp
ある日信長が領内を視察していると
農民が真っ昼間からイビキをかいて寝ていた。

これはケシカランと共の者が農民を叩き起こそうとしたが
信長はそれを咎めて一言
「農民がこうやって寝ていられる世が俺の目指す治世だから」

おぼろげだけど戦国名将一日一言って本からの引用
40人間七七四年:2012/10/23(火) 23:00:25.77 ID:fYEmYUhA
さすがにそれは、後世の信長贔屓って感じしちゃうな
41人間七七四年:2012/10/23(火) 23:38:41.93 ID:8Wvg11hp
信長って弱い者を強い者が保護する事は当然って意識だったんだと思う。
自称弱者は遠慮なく処罰するんだろうけど
42人間七七四年:2012/10/23(火) 23:55:54.47 ID:8tq7n7ZW
真っ昼間に野良やると暑いんだよな…。
43人間七七四年:2012/10/24(水) 00:13:14.03 ID:Z9YXCAEE
農民は寝不足だったのだろうか
44人間七七四年:2012/10/24(水) 00:18:58.30 ID:YZ62xl3q
自称霊能者だかの信長話にも確かそういう話があったなあ
45人間七七四年:2012/10/24(水) 00:50:18.50 ID:6LAD1Fms
肉体労働だと昼飯後の30分ほどの昼寝をするとしないとだと午後の疲労感が違うからなー
46人間七七四年:2012/10/24(水) 01:05:22.33 ID:Ei+gdC1V

黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。

その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。

「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。

栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、

もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」

この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。

――『名将言行録』
47人間七七四年:2012/10/24(水) 14:32:04.50 ID:f+3YfCG7
いい話なのかね?
48人間七七四年:2012/10/24(水) 16:19:18.58 ID:bCZlZRIR
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。
49人間七七四年:2012/10/24(水) 20:10:57.23 ID:6d47UOjt
紀州殿を手に余している状態だったんだろ
50人間七七四年:2012/10/24(水) 20:45:34.54 ID:e/aE5nvO
慶長五年九月二十四日出羽国長谷堂城でのこと。この日最上勢と直江兼続率いる上杉勢の戦いは一段と激しかった。
夜遅く、最上側が追撃にあった際、さしてあった総大将義光の指物が抜けないのを鮭延秀綱が気づき回収しようとした。
しかしなかなか固く抜けずに困っていると、義光が女三という法師武者をよこし、回収せよと命令してくる。
秀綱は女三に「この小旗は任せろ。鉄砲の応援を50か100頼む。射撃の合間に引き抜こう」と伝えたが、
応援はまったく来そうになかった。すると今度は義光その人が単騎で駆けつけ、直に回収を指示してきた。
秀綱は「今女三にも申した通り、ともかく鉄砲30騎ばかりでも援軍をください」と返答。
義光が承知して帰るとやっと鉄砲30騎ほどが駆けつけた。
さらに政宗からの援軍らしき二騎が来たので救援を依頼したが、聞こえなかったのかスルー。
ここへ最上衆の安食七兵衛が駆けつけてきたので、両者被弾しつつも鉄砲を撃たせ、なんとか指物回収に成功したのであった。
七兵衛はのちに「長谷堂の手負いは典膳(秀綱のこと)に撃たれたようなものだ」と笑って秀綱に語っていたという。

指物ひとつに命をはる、戦国武士らしいお話。
51人間七七四年:2012/10/24(水) 21:39:39.01 ID:Q0oPhVM0
敵の旗は勝利の象徴だな
西洋でもそう
52人間七七四年:2012/10/24(水) 23:00:14.84 ID:Y+DKVdgM
奪われたら

多聞兵衛「この旗は昨日、貴殿からお預かりしたものであるが、紋が違うゆえ役に立ち申さぬ。
お返しするゆえ、城門まで引き取りに来てくださらぬか?」(城内爆笑)

みたいな事になりかねないしねえ。
53人間七七四年:2012/10/24(水) 23:21:36.69 ID:N595Hho+
指物は長期保存可能なのも良いね
あれ、そういえば最上義光歴史観に直江方の旗が何故か有ったようなw
54人間七七四年:2012/10/24(水) 23:26:38.98 ID:DqXG8z9C
まーくん「なんと間抜けがいるもんだな♪」
55人間七七四年:2012/10/24(水) 23:27:55.67 ID:1tMo3jg4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4513.html
直江「伊達家の旗ならどっさりありますが」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3646.html
政宗「最上弱い、最上弱い」

関が原の三家はじゃんけんみたいだ
56人間七七四年:2012/10/24(水) 23:33:31.44 ID:AFUXoQ1B
乃木将軍が居た堪れない様子で見ておられます
57人間七七四年:2012/10/25(木) 00:23:10.99 ID:PQEWfqae
北条綱成と武田信玄が八幡菩薩の旗を羨ましそうに見ています
58人間七七四年:2012/10/25(木) 00:26:01.46 ID:mWi4GbJz
加藤光泰は初め、斎藤龍興配下の「かつひさ」(姓氏不詳)という人物に仕えて信長と戦ったが、その際に秀吉によって見出され、「かつひさ」の没落後、その臣となる。
彼は男ぶりいかめしく、勇力は人に優れ、度々軍功を顕したので、腰母衣随一の士に選ばれ、武威を異国にまで轟かせていた。

元亀2年、竹中半兵衛らとともに近江の横山砦の守備にあたっていた時、浅井勢が突如襲撃してきた。
敵は多勢であったため、守将たちは城内に敵を引き入れて守る策を採る。
しかしながら光泰は一人槍を取り、城外へと出撃したのだ。
この時、例によって不思議なことを言ったのかどうかまでは記されていないが、兎にも角にも光泰は敵中に突入し、力戦したのである。そして数十人の敵に囲まれ、左の膝口に深手を負う。
最早これまで・・・と思われた時、半兵衛が城門を開いて救援し、彼は九死に一生を得るのだが、歩行不自由となってしまった。

しかし、三木城の戦いの時には、「病人・手負いの者は今回の戦に従軍せず、郷里に留まって農業をし、年貢を納めよ」という秀吉に対し、
「歩行が叶わずとも、田里に残って匹夫とともに居ることなどできません」と言って参戦し、毛利による兵糧搬入を阻止。その後の戦いでも数々の戦功を立てたのである。
59人間七七四年:2012/10/25(木) 00:27:51.38 ID:mWi4GbJz
そんな光泰が、ある時、伏見城において料理を賜わることがあった。
その折、秀吉手ずから引き出物を下されるというので、彼は頂戴するために立ち上がったのだが、いかんせん左足が不自由であったため体勢を崩し、膳をひっくり返して、飯や羹を座上に散乱させてしまった。

秀吉の近臣たちは光泰の無様な様子を見て笑みを浮かべたのだが、秀吉は彼らを見るや怒りをあらわにし、
「光泰の足が不便であるのは、武門にとって崇敬すべきことである。にもかかわらず汝ら、愚かにも笑うとは何事か!」
と、近臣たちを大いに叱り付けたという。

(加藤光泰貞泰軍功記、曹渓院行状記)
60人間七七四年:2012/10/25(木) 11:45:31.58 ID:eA4Cdxs0
>>40
信長はそういう人だ、という認識がないと創作だとして成立しないからねー
実際、障害者を保護した話とか信長には弱者保護のエピは複数ある
61人間七七四年:2012/10/25(木) 12:41:34.88 ID:jCf4mcU/

関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。

また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。

続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。

――『徳川実紀』

息子の前でイチャイチャしやがって…
62人間七七四年:2012/10/25(木) 12:51:55.10 ID:jCf4mcU/
>>61
すいません少し訂正します。

×布で包んで
○布で肘を包んで
×勲功を報告して
○勲功の様子を報告して
63人間七七四年:2012/10/25(木) 17:47:00.93 ID:klvTHidc
>>61
家康の薬使ってもだめなら手術しかなかったんだな
64人間七七四年:2012/10/25(木) 17:56:14.00 ID:BUZQaKpv
>>59
蒲生氏郷にも似たような話があったな。
65人間七七四年:2012/10/25(木) 19:15:41.16 ID:v8fctGZt
で宴会のときに脱がして傷を見せて・・・三河武士だと全員脱ぎだして某の傷は!某の傷は!ってなりそうだ
66人間七七四年:2012/10/25(木) 20:00:45.82 ID:h13LrtpK
傷だらけのムキムキ男がいっぱいか
中川しようこ大喜びだなw
67人間七七四年:2012/10/25(木) 20:23:13.50 ID:HCSnjYVE
平八郎「ムキムキでも傷がないのはだめですかそうですか」
68人間七七四年:2012/10/25(木) 21:17:38.87 ID:osVJJnaW
>>61
息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな
69人間七七四年:2012/10/25(木) 21:36:20.19 ID:OQzYb+gs
>>64
あと福島正則の家来バージョンもあった
なんかテンプレみたいなのがあるのかもしれないな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
70人間七七四年:2012/10/25(木) 21:53:07.07 ID:7AH9iltL
匿名「病気になってしまったので鼻を隠したら…ううっ涙」
71人間七七四年:2012/10/25(木) 22:57:41.28 ID:NtEXG0w+
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。

「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」

別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)
72人間七七四年:2012/10/25(木) 23:01:01.52 ID:h13LrtpK
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw
73人間七七四年:2012/10/25(木) 23:17:51.48 ID:dpM0W+KM
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw
74人間七七四年:2012/10/25(木) 23:28:19.15 ID:PQEWfqae
鮭延(ドヤァ
75人間七七四年:2012/10/26(金) 07:11:39.31 ID:jNLYG0qQ
トルネコとエンドールの王様か
76人間七七四年:2012/10/26(金) 08:17:38.74 ID:wJxlblL8
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。
77人間七七四年:2012/10/26(金) 10:41:53.61 ID:a+9jzAvD
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。
78人間七七四年:2012/10/26(金) 13:02:44.69 ID:X/xvHu/a
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話
79人間七七四年:2012/10/26(金) 18:15:40.74 ID:LhmtQg1g

関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。

福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。

これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。

その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。

――『名将言行録』
80人間七七四年:2012/10/26(金) 20:54:01.46 ID:y2dtVPgs
酒の入ってない市松は本当にできた人だな
…酒さえ入らなければ本当に
81人間七七四年:2012/10/26(金) 21:01:06.60 ID:MCgYhkiG
そういう気配りのストレスを酒でどうにかしてたのかもなw

しかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?
82人間七七四年:2012/10/26(金) 21:26:48.28 ID:NaMLM/Cn
市松はほんと下の人間に対して面倒見がいいよな。
・・・酒さえ入ってなければの話だが
83人間七七四年:2012/10/26(金) 21:54:37.64 ID:NlwOP3Ki
しかし、酒絡みの失敗がない市松はただの福島左衛門大夫正則ではないだろうか
84人間七七四年:2012/10/26(金) 22:00:27.65 ID:gS9QP7Ba
庄内の鮭が13万石分とれたとか
85人間七七四年:2012/10/26(金) 22:12:13.89 ID:wJxlblL8
名将言行録だと長政じゃないのか
86人間七七四年:2012/10/27(土) 01:26:59.76 ID:kx+WAarq
一見いい話のようだが前田家に仕えた方が...(´・ω・`)
87人間七七四年:2012/10/27(土) 02:43:48.08 ID:mTSUofq/
ある人物が細川忠興の所有していた名物の茶入をいたく気に入り、熱心に頼み込み、遂にその茶入を譲って貰った。
そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
 
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。

忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
 「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
  其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。

この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。

        茶道美談より
88人間七七四年:2012/10/27(土) 06:23:36.87 ID:6D8Sx0Er
忠興「もっと持って来てもいいのよ?」
89人間七七四年:2012/10/27(土) 07:19:32.27 ID:aEIVsLLX
銀を受け取ることで茶器の価値を高めてあげるよっていうことなら分かるけど、
単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?
90人間七七四年:2012/10/27(土) 09:03:22.18 ID:YvRJnxfD
忠興さんが変なところで癇癪おこして斬り殺すんじゃないかとよんでてヒヤヒヤした
91人間七七四年:2012/10/27(土) 09:05:31.73 ID:NUAj0tSv
利休七哲の一人でもある三斎様がうっかり
「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ
92人間七七四年:2012/10/27(土) 09:38:59.22 ID:C9fQWpwr
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の鮭延城主となった。

その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。

命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)
93人間七七四年:2012/10/27(土) 09:47:36.30 ID:KoLg5t1x
>>89
別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと
94人間七七四年:2012/10/27(土) 11:23:46.73 ID:B8DVTMsL
>>93
バットで茶器をホームランするシーンが浮かんだ
95人間七七四年:2012/10/27(土) 14:18:51.25 ID:ZXiMqwVP
まーくんが打ってゲヒが金で接ぐと
96人間七七四年:2012/10/27(土) 17:01:08.70 ID:pB/LZll6
朝鮮役にて、直茂公が高所から下を眺めると、
鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、

「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」

とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、

「どう申し上げようか・・・」

と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、

「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」

と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、

「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」

と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】
97人間七七四年:2012/10/27(土) 18:10:14.59 ID:B8DVTMsL
>>96
母袋って・・・母衣の事かな?
98人間七七四年:2012/10/27(土) 18:18:26.15 ID:OtUKmgDC
母衣ってふくらんでないと、防御の役割なくね
じっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか
99人間七七四年:2012/10/27(土) 18:20:05.34 ID:OtUKmgDC
軍服の一種だから、制服にしておこう
100人間七七四年:2012/10/27(土) 18:28:49.00 ID:1lZxZ5cJ
東照宮(徳川家康)がその最期を迎えられようとしていた時、秀忠公にこの様にお尋ねになった

「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」

秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」

その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ

「安心した」

と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され

「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」

そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)

家康の遺言、というお話。
101人間七七四年:2012/10/27(土) 18:42:06.40 ID:pB/LZll6
>>97
今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う

>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目
102人間七七四年:2012/10/27(土) 18:47:26.53 ID:6D8Sx0Er
家康親子のコミニュケーションって、通訳とか解説とか通してたんかの。一回聞いただけだとわけ分からんな
103人間七七四年:2012/10/28(日) 00:31:27.45 ID:o3jiBe39
細川越中守忠興が徳川家康の上杉征伐に従軍するとき、大阪に留守として置いた侍の中に、
稲富喜太夫(祐直)という者があった。

忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。

この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った

「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。

彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」

この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)
104人間七七四年:2012/10/28(日) 00:47:49.19 ID:6Fr+uPii
鉄砲と大筒じゃ全く別物だろ。。。
105人間七七四年:2012/10/28(日) 01:24:07.44 ID:RaGpenIm
大鉄砲みたいなのを撃つ砲術もあるだろうし
火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの
106人間七七四年:2012/10/28(日) 01:48:36.72 ID:TRnvXtCj
稲富さんの臆病は天下に認められちゃっているんだな
そこだけ見ればカッコ悪い話
107人間七七四年:2012/10/28(日) 01:49:40.19 ID:Z8d0eTj6
世の中うまく出来てる部分もあるな
窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる
108人間七七四年:2012/10/28(日) 04:20:56.30 ID:1TRjSzFU
武勇も臆病も大事にする名将のお話なのかな
109人間七七四年:2012/10/28(日) 12:47:45.50 ID:/qWygdPl

平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。

この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、

弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。

――『名将言行録』
110人間七七四年:2012/10/28(日) 15:14:44.99 ID:xPxBhuCu
加藤光泰と石田三成との関係は、文禄の役において極めて険悪なものになっていたが、朝鮮との和談が成立し、諸将の帰国が決まった頃、三成の使者が光泰のもとにやってきた。「和睦のための酒宴を開くので参加してほしい」というのである。

8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。

果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。

その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。

光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。

光泰は29日、この世を去る。

その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)
111人間七七四年:2012/10/28(日) 17:48:59.60 ID:GY+zhnlv
止めようとした部下が謀臣呼ばわりされているのはどういう訳なんだ
112人間七七四年:2012/10/28(日) 17:55:30.10 ID:RKz866HZ
謀臣って言葉自体は悪い意味は含んでないから使い方としては正しい
113人間七七四年:2012/10/28(日) 18:35:47.51 ID:1VEkb9C9
>>98
中に編んだ竹が入って球状になってるのもある
114人間七七四年:2012/10/28(日) 18:35:56.07 ID:QocNS2Vf
某、なにがしのと読んでも意味は通るな
115人間七七四年:2012/10/28(日) 19:15:06.88 ID:xPxBhuCu
>>111
今、原文を見たら「諸臣」になってた。
釜山までは行けないけど、備前へ行ってお茶飲んでくるわ。
116人間七七四年:2012/10/28(日) 19:46:44.46 ID:QocNS2Vf
( ・∀・)つピトフーイ
117人間七七四年:2012/10/28(日) 21:22:53.80 ID:hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。

のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)
118人間七七四年:2012/10/29(月) 07:12:35.02 ID:FBgcykdN
天正18年(1590)、関東では豊臣秀吉による小田原の役が進行しているころ、奥州において津軽三郡を確保した
津軽為信は焦っていた

「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」

そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた

「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」

この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。

「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」

そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、難なく御朱印を下した。

老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)

津軽為信のお母さん頑張る、というお話。
119人間七七四年:2012/10/29(月) 10:47:12.17 ID:zgHQK22q
母ちゃん凄いな
120人間七七四年:2012/10/29(月) 10:53:37.83 ID:MfZcRhng
東北女の行動力には驚かされる
121人間七七四年:2012/10/29(月) 10:57:13.47 ID:J+fb6Xd7
自分は城でのんきに過ごして自分の老母を関東まで往復させるとは…
津軽の人間は本当に酷いな
122人間七七四年:2012/10/29(月) 11:01:17.72 ID:mO4B+NMB
>>121
ものは書きようとはいえ、
これは酷いw
123人間七七四年:2012/10/29(月) 11:15:39.35 ID:mCiLTF6I
義姫も毒を盛らずにみずから出向けば丸く収まったのか
124人間七七四年:2012/10/29(月) 11:35:02.90 ID:YWgZj1p7
んまぁ、自ら小田原による見参したというのが定説だけどね。
125人間七七四年:2012/10/29(月) 11:41:44.16 ID:l56Iow4O
>>121
信直さん乙

為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。
126人間七七四年:2012/10/29(月) 12:35:04.59 ID:urNB5sC+
>>121
恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな
127人間七七四年:2012/10/29(月) 13:19:44.63 ID:tsfL8j/u
あるとき、武田の者たちが敵方を見下す悪口で盛り上がっていた。
そこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。

またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」

と諭したという
128人間七七四年:2012/10/29(月) 13:51:08.25 ID:2PVkJ/7y
武田信繁が長生きしてたら武田家の未来は変わってたな
129人間七七四年:2012/10/29(月) 14:12:07.78 ID:38HGUZFm
弟が優秀だと躍進してる大名多いもんな
130人間七七四年:2012/10/29(月) 14:40:44.53 ID:MfZcRhng
弟を追い落として躍進してる大名も多けどな
政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか
131人間七七四年:2012/10/29(月) 14:43:01.13 ID:mxWEqU8G
弟が優秀かつ仲がいいのが条件だね
弟が優秀で仲が悪いと…
132人間七七四年:2012/10/29(月) 14:55:00.79 ID:V2+EHM7S
信玄じゃなくて信繁が家督を継いでいたら武田家は滅びなかったかもな。
133人間七七四年:2012/10/29(月) 15:17:07.48 ID:vdmzKBjL
>>118
そういや秀吉もマザコンだっけ?
そら老母が必死こいて来たら邪険にはしないだろうな。
134人間七七四年:2012/10/29(月) 15:53:35.99 ID:ts+9MPcb
有楽斎「そんなに褒めるなよ」
135人間七七四年:2012/10/29(月) 15:57:46.86 ID:mCiLTF6I
三成と正澄は逆のパターン?
136人間七七四年:2012/10/29(月) 17:19:53.02 ID:wxR127tI

明智光秀の家臣・野々口丹波は山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。

幸盛は「私には分に過ぎたことです。きっと参りましょう」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、

幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。

――『名将言行録』
137人間七七四年:2012/10/29(月) 18:53:32.86 ID:wxR127tI
>>136
ちょっと訂正。

×きっと参りましょう
○参りますとも
138人間七七四年:2012/10/29(月) 19:30:08.41 ID:XcVku1Kq
秀吉への初めてのお目見えを控えた加藤貞泰は、伏見城内で途方にくれていた。
彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。

貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、三成にへつらっていたのだ。

しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、お目見えの式を整えてくれた。

貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)
139人間七七四年:2012/10/29(月) 19:38:22.62 ID:38HGUZFm
>>138
なんだか久々に純粋に良い話だな
有名な人はなんだか裏がありそうだけど。
140人間七七四年:2012/10/29(月) 19:47:54.90 ID:sJa/mzJc
親切はしとくもんだね!
141人間七七四年:2012/10/29(月) 20:33:22.90 ID:UOfu71bB
家督を継いだのが14歳ということなので、そのあたりの出来事として、純粋にありがたく思ったのかも。
142人間七七四年:2012/10/29(月) 20:41:11.19 ID:lrjK18kf
迷ったのは事実だが、それを三成のせいにした様に見えるのはきっと気のせい
143人間七七四年:2012/10/29(月) 21:44:45.14 ID:B4hZUQSB
14歳でぼっちか・・・

おいやめろ
144人間七七四年:2012/10/29(月) 22:27:38.00 ID:+skKrbQG
親父がアレで息子がぼっちとか目頭が熱くなるな
145人間七七四年:2012/10/30(火) 01:08:55.25 ID:UbAfimao
つーかこの手の無理やり三成を悪者として登場させて
踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか
146人間七七四年:2012/10/30(火) 04:37:37.04 ID:5yKyYGl+
「鳴かぬならそれでいいじゃんホトトギス」








by織田信成
147人間七七四年:2012/10/30(火) 06:58:50.77 ID:5zL6fSPa
天正十二年六月十二日、政宗くんのおじさんへのあたたかい気遣い。

「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」

と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)
148人間七七四年:2012/10/30(火) 07:48:58.79 ID:xM9bR/1I
心温まる交流ってか生温かい交流みたいな…
149人間七七四年:2012/10/30(火) 08:01:14.08 ID:8UAPlg+1
氏家って最上家臣なんじゃ・・・
150人間七七四年:2012/10/30(火) 08:20:48.26 ID:MmsQmBNf
謀殺の計画は前から知ってたという脅しということなら悪い話に・
151人間七七四年:2012/10/30(火) 16:08:37.61 ID:UPwYGmX+
>>127
一方、信繁(真田)は前田隊に罵詈雑言を浴びせて大勝利を
得たのでした。
152人間七七四年:2012/10/30(火) 16:54:35.09 ID:PBrR4TrQ
武田信繁も戦のこととなると荒々しい逸話あるからな
信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない
153人間七七四年:2012/10/30(火) 17:46:10.00 ID:Rgn5Goix
上坂すみれ認証済み ?@Uesakasumire

浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…Lady go!!をお聴きくださった方々ありがとうごさいました!
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…ネスサン…ネスサンネスサン
ネスサン…浜松町は港区…浜松町は港区…
https://twitter.com/Uesakasumire/status/262861022715576320
154人間七七四年:2012/10/30(火) 17:46:42.73 ID:Rgn5Goix
すまない、誤爆した
155人間七七四年:2012/10/30(火) 18:25:24.05 ID:fajNRXBU
>>136
両者にも幸せそうな時期があって良かった
156人間七七四年:2012/10/30(火) 19:01:32.16 ID:427EBqPV
>>22
気遣いというよりはもっとドライな、異人の人情ってどんなもんなんだろ、ぐらいの客観的な興味で
聞いただけじゃないのかな、信長ってそんな人っぽい
157人間七七四年:2012/10/30(火) 19:47:16.72 ID:PBrR4TrQ
イエズス会はカトリックの中でも捨て身の殉教精鋭隊みたいなものだしな
信長は布教のために身ひとつで極東までくる精神性を気にいったんだと思う
信長は基本、秩序制御タイプだけど、
森武蔵みたいな徹底した人間(なんらかの有能さ必須)を好む面もあるから
158人間七七四年:2012/10/30(火) 20:24:38.88 ID:kZZO2kLz
忠興のことも気に入ってたみたいだし
目に狂気が宿ってるくらいの人間が好みだったんだろうな
159人間七七四年:2012/10/31(水) 00:05:35.52 ID:9VCDBAR3
>>138
ひとつ疑問なんだが、普通に父親の代からの家臣に案内させる事は出来なかったんかな?
家老クラスなら一人くらい伏見城内に入れる奴がいてもおかしくないと思うんだが。
160人間七七四年:2012/10/31(水) 05:57:07.31 ID:Gt6CSFOR
遥か異国から宗教的使命感で海越えてきた宣教師と、戦国時代の比叡山の坊主なら、
キリスト教と仏教の優劣でなくて、
人間的魅力や深さで勝てなかったろうな戦国時代の叡山坊主
平安末期〜鎌倉時代の南都北嶺のエリートたちより、
そこから追放された法然、親鸞、道元のほうが結果支持されたのも同じ理由と思う
161人間七七四年:2012/10/31(水) 11:34:07.98 ID:r8LWN2dk
酒池肉林
近所の農家から税と称して略奪
娘さんをさらう

まあ好かれる要素がないな
162人間七七四年:2012/10/31(水) 13:53:40.46 ID:P7qFpMJ/
前に、当時の比叡山は日本で一番学識が高かったってのを聞いたんだけど本当なの?
163人間七七四年:2012/10/31(水) 14:25:15.01 ID:r8LWN2dk
学識、というか仏教や古典のうんちくには詳しかった。
教えるのに金をとった。
免許としょうして単位認定するごとに金をとった。
かねかねかね、の比叡さん
164人間七七四年:2012/10/31(水) 14:37:53.73 ID:P7qFpMJ/
そうなのか。ありがとう
165人間七七四年:2012/10/31(水) 15:12:30.16 ID:d947jVuo
>>161
お侍ってこえー
166人間七七四年:2012/10/31(水) 17:50:17.56 ID:yGJ+uyil
教皇アレクサンデル6世「まったく、偶像崇拝の異教徒どもは聖職者でさえ物欲、色欲に目がなくて困る。
わがカトリックとは大違いだ」
167人間七七四年:2012/10/31(水) 18:05:43.77 ID:UP59fumM
大量虐殺魔信長
168人間七七四年:2012/10/31(水) 18:43:38.35 ID:Gt6CSFOR
イエズス会「そいつ海賊出身者だよ!」
三浦按針「オマエらだって教皇がバックの戦闘集団じゃねーか」

古今東西、立身を争う口喧嘩はこのパターンになるな
169人間七七四年:2012/10/31(水) 19:37:38.43 ID:rupB6Urn
>>165
節子、それお侍ちゃうと思うで。
170人間七七四年:2012/10/31(水) 20:12:03.40 ID:Hy/vmaIW
最上家改易後、古河酒井家預かりの身となった鮭延秀綱。
そこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。

これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。

ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。

なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。
171人間七七四年:2012/10/31(水) 21:09:59.95 ID:9VCDBAR3
最近、鮭延さんフィーバー状態だなこのスレw
172人間七七四年:2012/10/31(水) 22:11:22.22 ID:K68WsBuF
島津義弘と膝跪栗毛


元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。

この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。

馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。

馬を降りるということは歩くことになる。

歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」

なのだと。

(続く)
173人間七七四年:2012/10/31(水) 22:11:55.45 ID:K68WsBuF
そして木崎原の戦い本番。ダジャレ、もといお告げが当たったのか、戦いは島津の勝利となった。
義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。

「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」

と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、

「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」

馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。

義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。

義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。

加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。
174人間七七四年:2012/10/31(水) 23:02:51.53 ID:j2nN844m
小牧長久手の戦い時、井伊直政は高木清秀に取り縋って泣いた。
「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」

開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。

これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」

(『武功雑記』巻十三、巻四)

そして開戦後の直政
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-571.html

戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。
175人間七七四年:2012/10/31(水) 23:12:18.05 ID:kN4VqeVH
>>173
馬だったら、超長命でも40歳くらい?実は象だったんじゃ?w
176人間七七四年:2012/11/01(木) 00:04:53.06 ID:g5WrITFm
実はその馬お兄ちゃんが中に入ってたんじゃね?
177人間七七四年:2012/11/01(木) 00:26:10.06 ID:HK1rZBM2
>>171
鮭延ならぬ鮭述べ状態だな
178人間七七四年:2012/11/01(木) 01:00:19.97 ID:+VLFSbrt
>>175
かの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…
179人間七七四年:2012/11/01(木) 01:39:47.49 ID:504Z1GA8
この手の図抜けた長命の動物の話って、単なるホラ話というよりは、
事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。
180人間七七四年:2012/11/01(木) 02:02:03.47 ID:c293RWN0
あるいは暦で示されててちょうど60年分勘違いしてるかもな
26歳なら普通すぎるかw
181人間七七四年:2012/11/01(木) 02:42:28.49 ID:YrMp6V1+
なんかの脱字か何かじゃないかな?
182人間七七四年:2012/11/01(木) 03:45:36.73 ID:aDa6Tlf6
>>175
鬼武蔵さんの愛馬も相当長生きだったよね
183人間七七四年:2012/11/01(木) 04:29:58.01 ID:eL3tFQLr
膝衝栗毛ハ十六歳マデ生キマシタ。
184人間七七四年:2012/11/01(木) 05:02:34.41 ID:tLEBvDln
>>174
鍋島直茂曰く桜よりも美しいのが井伊直政と加藤嘉明の侍ぶり
185人間七七四年:2012/11/01(木) 07:14:48.49 ID:yw6I4FDg
権現様やパパにゃんの相当な覚悟が覗える会話だな
それにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ
186172-173:2012/11/01(木) 08:26:31.27 ID:DKgNWerh
ひとつ書き忘れ。

記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。

義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。
187人間七七四年:2012/11/01(木) 14:31:09.77 ID:gJQfI2k2
>義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って

乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw
188人間七七四年:2012/11/01(木) 15:16:34.08 ID:504Z1GA8
そうだな
「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな
189人間七七四年:2012/11/01(木) 15:30:00.19 ID:V46KQ4t9
>>188
発音的にはテンキューではないかと武田左馬助様が申しております
190人間七七四年:2012/11/01(木) 18:04:05.68 ID:6oT7Wwu3

今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。

その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。

家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。

また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。

――『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』
191人間七七四年:2012/11/01(木) 18:17:51.99 ID:c293RWN0
人質とはいえ大切にはされたから恩義感じてたのか
192人間七七四年:2012/11/01(木) 18:49:08.24 ID:VoYP7FWq
孕石と氏真、どこで差が(ry
氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか
193人間七七四年:2012/11/01(木) 19:41:41.50 ID:jLOHci8a
人は嫌な思い出があった場所には近寄りたがらず、
いい思い出があった場所に戻って行きたがるらしい

家康にとってもちろん苦労はあっただろうけど、良い日々だったんだろうな
1941/2:2012/11/01(木) 19:55:23.63 ID:wa9MXoK4
徳川家康の新参の家臣に神谷与七郎と言う者がいた。
ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。

スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った

それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。

「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」

そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。

「ああいった者こそ才能を確かめつつ能く召し使われるべきなのに、ゆえなくお暇を賜るような
事をすれば、御家の諸奉公人たちはどう思うでしょう?我が身を省みて、御家に対し疑いを抱くのでは
ありませんか?
それに雅楽頭(忠世)のせいで神谷があの様なことになった、などと言われては、あの正直至極な
雅楽頭に悪名を付けてしまいます!

しかし、だからといってこのまま放置しおいては御家老の威厳が薄くなり、御家風も軽くなってしまいます。
さて、どうしましょう?」

近臣の者達、結局家康に丸投げする。『相変わらずウチの家中はめんどくさいなあ』と家康は思ったかどうか。
しかしこういう面倒くさい人間を扱わせることに関しては家康はベテランである。
ナイスアイデアを思いついた

「そうだ!今度神谷に知行の折紙(認定証)を与える時、かねてからの約束よりも少し少なめにして
渡そう。神谷はこれまでの情報を総合すると堪え性のない人間だ。ならばその様な目に合えば
きっと自分から暇を願い出るだろう。その場合他の奉公人へも影響を与えなくてすむ。
それにこれで雅楽頭が不評を被る事も無いだろう。よし、これだ!」

そういって家康は、かねての約束が千石の所を、八百石の折紙を用意し一両日中に
神谷に渡す準備を整えた。

と、これを聞きつけやってきたのが酒井忠世である。彼は家康の御前に出ると

「神谷に知行の折紙を下されるという話を聞きました。あの者は殊の外良き奉公人です。
一廉御用にも立つ者でありますから、たしかあの者への知行のお約束は千石でしたが、それよりも
多く与える事こそ然るべきと考えます!」

『またややこしい事に…』家康はきっとそう思っただろう
1952/2:2012/11/01(木) 19:56:18.18 ID:wa9MXoK4
「いやまて、あの者は殊の外な慮外者であると聞いておる。だから八百石の折紙を既に用意したのだ。」

忠世、これを聞いて怒った
「それは以ての外のお考えです!!
あの者にそんな事をしたら、今後良き奉公人が、どうして御家に仕えることを望むでしょうか!?
ああ言う者をいかにも厚遇してこそ、勇士・能者も集まるというものです。
大御所様!ああもう、散々のご思案ですぞ!!」

家康公ボロクソである。しかし家康
「お前が言うことを一々判断する必要はない。何故かといえば、我が家において、重臣である
お主に慮外するような者はあってはならぬのだ。であるのにあの者は度々に渡りお主に慮外をいたしたと
聞き及んでおる。だからこそ、約束よりも少ない知行の折紙を与えたならばきっと暇を乞うてくるだろう、
その時暇を出してやろうと考えたのだ。そうであるので、知行増など思いもよらぬ!」

家康は個人のことを言っているのではなく、組織の統帥を考えて言っているのである。
これに忠世

「…私は御存知の通り、御家の御厚恩を以って代々召し使われている者ですが、そんな譜代の私に
新参の者が豪胆にも無礼をしてくることに、却ってその器量の深さを感じ、彼を、一廉御用の役に立つ者だと
見立てました。そして内々に調べてみても、人柄・心持ちの揃った人物でありました。
であるからこそ、この様に申し上げているのです!」

家康ももうグッタリしつつ
「…ではお前は、神谷に知行をどれほど与えようというのか?」

「二千石遣わされて然るべき!!」

「!!!???」

倍である。ついでに言えば実際に与えるのは家康である
「た、忠世くん?それなら最初の約束通り千石渡せばいいんじゃ…ないかな〜?」
「二千石然るべき!!」
「えーっと、いきなり倍は与え過ぎのような…」
「二千石!」
「…」

家康がどんど追い込まれていくのを他の老中たちがいたたまれなくなったのか、話に割って入り
「じゃ、じゃあ真ん中取って1500石でいかがでしょうか!?そうしましょう!」
と、一同申し上げたことにより、家康も遂に観念し1500石の折紙をつくり、神谷を呼び出し
これを与えた。この時、家康という人の面白いところは、酒井忠世との論争を、残らずありのまま
神谷に伝えた所である。

神谷は感涙を流してこの折紙を頂戴し、城より退出するとその足で酒井忠世の邸宅を訪ね対面し、

「それがし愚かにして人を知らず、憤りを顕したこと、誠に面目のないことでした。」

そう忠世に謝罪したという。
その後神谷与七郎は働きも能く、人品も忠世が見立てた通り、実直に勤め、その後足軽を付けられる程に
出世したそうである。
(武野燭談)
196人間七七四年:2012/11/01(木) 19:57:38.89 ID:aYuzkYLw
そりゃ、隠居場にするぐらいだし
197人間七七四年:2012/11/01(木) 20:00:49.01 ID:aYuzkYLw
>>195
国替え後でもめんどくさい三河侍…
198人間七七四年:2012/11/01(木) 20:39:37.71 ID:jLOHci8a
やっぱり三河武士はめんどくさい

でもそこがいい
199人間七七四年:2012/11/01(木) 20:44:59.37 ID:c293RWN0
忠世がひたすらかっこいい話w
200人間七七四年:2012/11/01(木) 22:03:40.61 ID:gJQfI2k2
千石を八百石に、のところでつい反射的に
「まさかケチりたいだけじゃ…」と疑ってしまった自分がいる・・・。
201人間七七四年:2012/11/02(金) 00:54:15.29 ID:FUjAttnp
徳川名物三河者コントは実に下らん
202人間七七四年:2012/11/02(金) 09:20:02.83 ID:UCB2mwtq
家康と忠世による脚本かもな
わざわざ経緯を公にして予定より多く知行することを周囲に納得させ
当人の行為を改めさせるばかりか更なる忠誠をも引き出した
上手く解決したもんだなと感心する
203人間七七四年:2012/11/02(金) 14:18:47.86 ID:VDRVKLg7
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です
日本では皇室を初めとして近親婚が行われてきました
戦国期の大名家でも近親婚は見られるわけですが
近親婚が禁忌とされるようになったのはいつ頃からでしょうか
204人間七七四年:2012/11/02(金) 14:46:46.96 ID:z89Ct905
日本史板でどうぞ
と言ってもどうせ「答えたがり」が構うんだろうけど
205人間七七四年:2012/11/02(金) 14:58:16.72 ID:mWi8bO9K
>>194
昔この話どこかで聞いたときは子どもっぽいなあとしか思わなかったけど
今だとこういう無礼を働くのさえ命がけだったんだろうなと思ってしまうw
206人間七七四年:2012/11/02(金) 15:02:02.69 ID:GJGzi9XX
>>203-204
喧嘩両成敗じゃ
二人は今日一日戦国時代板書き込み禁止の刑に処す

これにて一件落着〜
207人間七七四年:2012/11/02(金) 15:07:42.63 ID:dal1gn59
>>203
お前、たぶん包茎
208人間七七四年:2012/11/02(金) 15:08:11.41 ID:z89Ct905
>>206
お前こそ喧嘩売ってるのか?
209人間七七四年:2012/11/02(金) 15:34:46.23 ID:rbbH17K0
国津罪とか衣通姫と軽皇子でググれ
210人間七七四年:2012/11/02(金) 16:19:38.64 ID:VytElzqs
>>208
油売ってます
211人間七七四年:2012/11/02(金) 16:32:29.73 ID:i6l8AVy4
道三キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
212人間七七四年:2012/11/02(金) 16:36:00.04 ID:aDc7Uy1c
道三油売り説は既に否定されてるだろっw
213人間七七四年:2012/11/02(金) 16:49:41.93 ID:NNgd5DJ2
逸話スレで無粋なのね
214人間七七四年:2012/11/02(金) 17:28:11.90 ID:Nbg/F9/H

関白秀次は罪を蒙り、伏見の邸宅は前田利家に賜れた。
利家はその美麗な様を見て曰く、

「関白は大望のある人ではない。謀反は必ず偽りであろう。
私は子孫まで望みがあるから、このように美麗ではならない」

と言って、不要な所は取り払った。

――『名将言行録』
215人間七七四年:2012/11/02(金) 17:54:07.01 ID:RfYzohGp
これって下手したら、
今は金を貯めておいて、豊臣の天下が危うくなったら
その金で戦力集めて謀叛する気だ、ととられないか?
216人間七七四年:2012/11/02(金) 17:57:34.12 ID:+ZFv7sUZ
>>215
いやコレははっきりと、俺は天下に野心があるって言ってるわけで
217人間七七四年:2012/11/02(金) 18:22:03.79 ID:KAsmxqon
伊達みたいに天下を望む野望が知れ渡ってるというのは
ある意味稚拙なんだろうなぁ
218人間七七四年:2012/11/02(金) 18:33:09.77 ID:sIApixx3
>>217
知れ渡ってると逆に隠さないといけなくなるよね
219人間七七四年:2012/11/02(金) 18:33:46.18 ID:jpUA5NAZ
政宗(本人希望により呼び捨て)の見せる野心はハッタリでもあり戦国大名の生き残りとしての
精一杯の意地でもある
それは家光公とかも憧れる浪漫っぽいもの
220人間七七四年:2012/11/02(金) 19:05:31.57 ID:Gr3+0d0y
逆に堂々と公言してるほうが偏に疑われなくてすむしな
221人間七七四年:2012/11/02(金) 19:49:32.15 ID:KAsmxqon
マキャベリストを自称する人間はマキャベリストではないという格言があって
マキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ
222人間七七四年:2012/11/02(金) 19:57:07.95 ID:RfYzohGp
そのころには異世界人もいそう
223人間七七四年:2012/11/02(金) 20:00:55.91 ID:RfYzohGp
間違った
マキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった
224人間七七四年:2012/11/02(金) 20:06:39.44 ID:WYMSS6al
クロカン「わたしは小寺にも太閤様にも誠実に仕えていたぞ」
225人間七七四年:2012/11/02(金) 20:09:39.77 ID:ZSlyWsU9
徳川家康の家臣、酒井備後守忠利といえば、大変に温和な人であった。

彼は家康の関東移封後、武州川越三千石を与えられたのだが、ここに備後村という郷村があり、
その庄官は備後を名乗っていた。

これを知った忠利の家臣たちはこの備後に
「備後とはこの地の領主である殿の官名である。よってその名を改めよ。」

と伝えた。この時代、領民や家臣が主君と名乗りがかぶるのは不敬であり、この要請は常識的なことであった。
が、この備後は解明の要請を全く受け付けず、そのままの名乗りを押し通した。

そのうちに酒井忠利が領内を巡回した時、この庄官を呼び出し直接に言った

「お前の名はこの地の領主の名乗りと同じなのだ。よって改めよ。」

庄官は猛然と答えた
「これは近頃迷惑なことを承るものかな!私は人に勝って年貢を一番に納めています!
勿論公役に関しても他人よりも第一に勤めておりますれば、領主様からの掟に少しも背いて
おりません。それなのに、どんな過怠があって名を改めよと仰るのか!?
その上私の家は代々備後を名乗っておりますれば、改めること罷り成りません!
同じ名で都合がわるいというのなら、殿が名を改められよ!!」

領主に対して思い切ったことを言ったものである。ほとんど暴言であり、これで殺されても
全くおかしくはない。

が、酒井忠利は笑い出した

「ははは、そうか。年貢・公役を人より先に勤めるというのは一段と良いことである。
しからば己はここの備後よ。私は酒井備後守である!苦しからず、そのままにて居よ。」
そう、申し付けたそうである。
(武野燭談)

酒井忠利の温和、というお話。というかこの庄官ちょっと常識はずれに凄いw
226人間七七四年:2012/11/02(金) 20:29:52.85 ID:KAsmxqon
武蔵の国でその村の名前は備後と名乗ってた武士が領主だったからその村の名前で
村役人はその末裔という可能性あるな
なら改名はしにくそうだ
227人間七七四年:2012/11/02(金) 22:06:39.59 ID:sI1PbU8g
いい殿様だな
228人間七七四年:2012/11/02(金) 22:25:11.94 ID:CqDydaVI
温和な人って他に誰がいる?

今思いついたのは維新様だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2900.html
229人間七七四年:2012/11/02(金) 22:37:14.99 ID:sPEjkkGK
作左を始めとする家臣に好き放題やられる家康あたりは温和の部類に入る・・・のか?
230人間七七四年:2012/11/02(金) 22:40:50.89 ID:WQI/aA30
温厚な人なら中国では司馬光や呂布か
231人間七七四年:2012/11/02(金) 23:00:53.74 ID:CqDydaVI
>>230
そりゃ温侯やがな
232人間七七四年:2012/11/02(金) 23:32:10.99 ID:QTQCXNWi
濃い部下ばっかりのところとか・・・真田のおにーちゃんはどうだろ?
233人間七七四年:2012/11/02(金) 23:35:03.21 ID:rbbH17K0
そのお兄ちゃんに、柔和で怒ることが決してない、と言わせた信繁は
234人間七七四年:2012/11/03(土) 02:24:18.40 ID:fReihmWi
お兄ちゃん、お金ちょうだい(ニッコリ
235人間七七四年:2012/11/03(土) 08:45:37.07 ID:3/lmW+3v
温和なだけなら腐るほどいただろうけどそんな人柄で家臣をまとめきれた人はなかなかいなかっただろうな…
236人間七七四年:2012/11/03(土) 10:08:05.29 ID:JUhweKVc
阿部忠秋とか優しすぎてほとんど仏だよな
237人間七七四年:2012/11/03(土) 10:23:49.41 ID:MuaxDSke
誰かと同じでめんどくさいのに慣れているのでは?
238人間七七四年:2012/11/03(土) 11:22:26.38 ID:HYSK0VSG
>>166
おまえが言うな、ボルジアの汚れた血め!
239人間七七四年:2012/11/03(土) 12:03:18.62 ID:FEujK5a5
>>238
まぁまぁ、教皇猊下が茶を振る舞って下さるそうですよ
宇喜多なんとかいう人も同席するらしいですし
240人間七七四年:2012/11/03(土) 13:01:53.07 ID:OVZAokdY
明石全登「それはなんとでも出席しなければなりませんな」
241人間七七四年:2012/11/03(土) 13:40:32.37 ID:YRtqEtjs
石田が加藤光泰を殺したという伝承あるがあれもどうやら砒素
ボルジアのカンタレラも砒素っぽい

まさに砒素は愚者の毒とはいえ確実なんだろうな
242人間七七四年:2012/11/03(土) 13:45:30.13 ID:2u3d0y0B
愚者の毒って言われたのは死体から検出可能となってからでは
そういう技術がない時代には使い勝手がよさそうだ
243人間七七四年:2012/11/03(土) 13:49:53.61 ID:YRtqEtjs
一応銀で硫化砒素を検知する知恵は相当昔からある
244人間七七四年:2012/11/03(土) 13:54:18.33 ID:wOSt/pQ5
砒素というか亜砒酸化合物やね。
まあ砂加藤さんは普通に病死だろうけど。
245人間七七四年:2012/11/03(土) 13:56:45.82 ID:2u3d0y0B
なるほど
246人間七七四年:2012/11/03(土) 14:49:09.32 ID:wOSt/pQ5
銀の箸使えば硫化銀の関係で箸が黒く変色するからね
247人間七七四年:2012/11/03(土) 15:08:52.27 ID:rNEhluPK
>>239
松永のような茶の嗜みのある武将じゃないとダメだな
248人間七七四年:2012/11/03(土) 15:13:45.21 ID:LfaaJuzV
砂加藤
石劣口藤

しれっと「劣」までいれちゃって
249人間七七四年:2012/11/03(土) 15:23:06.92 ID:xJFxG5ar
砂加藤
石劣口藤
石劣萌泰
つまり、「石」田に「劣」ることで「萌」えをさそう光「泰」
というなぞかけ
250人間七七四年:2012/11/03(土) 16:24:57.52 ID:317oAYR8

鍋島直茂が往来するごとに庶人らは皆出てきて拝伏していた。

ある日、直茂は近臣に向かい「衆人が拝しているのに黙しているのは
謙退の道ではない。だから駕籠から降りて答礼しようと思いはするのだが、
かえって下々も難儀ではないかと思い、いつも駕籠の中で目礼している」
と語った。

この話を聞いた庶民らは「尊い君でさえこのようなのだから我々も」と、
互いに謙退辞譲を守り、親睦を深めたのだとか。

――『名将言行録』
251人間七七四年:2012/11/03(土) 18:05:09.21 ID:y+3vNVB1
当時の人も相手にどこまで礼儀正しくしていいのかは迷ってたのね
252人間七七四年:2012/11/03(土) 19:10:29.32 ID:LkV1dfyq
(`・ω・´)「宇喜多殿に松永の茶か、聞いてるだけで病で伏せるたくなるな」
253人間七七四年:2012/11/03(土) 22:11:11.34 ID:/Xo4EPr5
庶民はどこから聞いたんだ
254人間七七四年:2012/11/04(日) 00:04:44.04 ID:Vm3OJ8oy
>>239
チェーザレ様も是非御同席を。
255人間七七四年:2012/11/04(日) 00:13:18.66 ID:9WFrkSKl
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です

>九頭竜川の戦いは、朝倉の軍勢、数千人が一向一揆の数万人の
>軍勢に勝利したといわれていますが
>これは両陣営、協議をして、合戦の決着を一騎打ちを何セットか
>やって(引き分けが無いように奇数のセット)
>勝った数が多いほうが合戦が勝利で、現場一帯を制圧でき
>負けた側は引き上げる、と決めて
>一騎打ちの団体戦をやって、朝倉側が大多数の一騎打ちに勝ち
>一向一揆は撤退をした、といわれています

これマジ?
256人間七七四年:2012/11/04(日) 00:16:09.83 ID:H6dQnCFz
>>255
【疑問】スレ立てるまでもない質問10【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
257人間七七四年:2012/11/04(日) 05:42:58.19 ID:e2+vd95b
 秀吉は全国を統一した後、隆景に相談して次のように問いかけた。
 「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
 そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。

 隆景は答える。
 「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
 ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
 どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」

 秀吉はその言葉に感じ入って言った。
 「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
 ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。

『名将言行録』
258人間七七四年:2012/11/04(日) 08:24:19.28 ID:UOLerA8L
輝元「ねぇ、それ悪い話だよね?ねぇ?」
259人間七七四年:2012/11/04(日) 08:39:00.29 ID:HTOordGe
代わりに小早川が九州2国(筑前、筑後)を貰っちゃったというオチ?
260人間七七四年:2012/11/04(日) 10:08:24.53 ID:mkRpOs59
肥後の一揆の影響あるし伊予の方が統治しやすそうだけどな
261人間七七四年:2012/11/04(日) 10:30:19.99 ID:cgic6LnU
昨日は佐和山(彦根)藩初代藩主の井伊直政公顕彰式が彦根城まつりと共に催され
大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。


七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。

三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。

「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

これを聞いた直政は側近たちを叱責した。

「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」

傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。
262人間七七四年:2012/11/04(日) 10:40:27.66 ID:C8Kf5hoS
九州9カ国って250万石くらいか?これだけあれば秀吉死後天下取り目指せたかもしれん
263人間七七四年:2012/11/04(日) 10:41:44.22 ID:icm06Elw
実際に秀吉が打診したのは、毛利領国中の備中、伯耆、備後、伊予を取り上げて、
豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)
264人間七七四年:2012/11/04(日) 10:43:07.53 ID:7lWApD6b
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。
265人間七七四年:2012/11/04(日) 10:54:36.75 ID:NGamQBlm
それはもともと倹約令の潜脱がもくてきやで
266人間七七四年:2012/11/04(日) 11:04:47.83 ID:cgic6LnU
そういえば今日は長浜で、映画「のぼうの城」の宣伝も兼ねて上地雄輔を招いて三成の供養祭だとか
歪みのある地域だよなぁ
267人間七七四年:2012/11/04(日) 11:11:06.21 ID:HTOordGe
>>266
ひこにゃんの敵だから
268人間七七四年:2012/11/04(日) 11:52:55.53 ID:NGamQBlm
のぼうは甲斐姫無双しときゃいいのに
269人間七七四年:2012/11/04(日) 12:10:17.88 ID:x9YkcM8m
三成は自分に厳しくて他人にも厳しいからなー、
自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー
270人間七七四年:2012/11/04(日) 13:29:21.34 ID:neduKvOu
鮭延さん、志村さん漫画初出演おめでとうございます
271人間七七四年:2012/11/04(日) 14:45:39.01 ID:tWppzQoQ

ある時、御伽の者が豊臣秀吉に質問した。

「今の世に天下を取る器量の大名はいるのでしょうか」

「天下を取るには大気、勇気、智恵がなくてはならない。
この三つを兼ねた大名は一人もいないが、小者には二つ兼ねた者が三人おる。

一人は上杉の直江山城。これは大気と勇気があるが智恵が足りない。
二人目は毛利の小早川左衛門。これは大気と智恵があるが勇気が足りない。
そして三人目は龍造寺の鍋島飛騨守。これは勇気と智恵があるが大気がない。

大名にはこれほどの者もおらぬな」

――『名将言行録(葉隠)』
272人間七七四年:2012/11/04(日) 14:51:33.35 ID:cgic6LnU
>>271
わざと警戒していない所にいった感じだな
273人間七七四年:2012/11/04(日) 15:13:41.06 ID:cX669te+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2901.html
あれ、鍋島のほかには堀直政説があったのか
274人間七七四年:2012/11/04(日) 15:25:09.70 ID:JDuQXxSB
直江「古典の注釈とかしてるのに…」
小早川「この内じゃ一番軍功あると思うのに…」
鍋島「そうです、出世欲とかないです。
ましてや主家を乗っ取ろうなど思ってもいません。」
275人間七七四年:2012/11/04(日) 15:35:43.39 ID:ltxk5kGI
徳川家康「おっ、そうだな」
276人間七七四年:2012/11/04(日) 15:38:33.77 ID:NGamQBlm
家康は本当に慎重だったなぁ
277人間七七四年:2012/11/04(日) 16:35:51.61 ID:Hv3r7jEj
この世は騙し合いみたいなとこあるからな
278人間七七四年:2012/11/04(日) 17:16:34.71 ID:lMEzOQxM
>>271
如水さんは?
279人間七七四年:2012/11/04(日) 18:56:56.93 ID:jeBPKPCb
そこで家康や如水、政宗あたりの名前を出すと危ない希ガス
280人間七七四年:2012/11/04(日) 19:02:08.22 ID:jWniimTR
中々この3つを揃えるのは難しいよな

源頼朝 知恵と大気はあるが勇気が足りない
北条義時 知恵はあるが勇気と大気が足りない
北条時宗 勇気と大気はあるが知恵が足りない
足利尊氏 大気はあるが知恵と勇気が足りない
281人間七七四年:2012/11/04(日) 19:03:10.59 ID:icRhLJ2S
ん?まーくんの抑えは工場長と無口な殿、シスコンさん
・・・クロカンの抑えってTERU殴る人だけだっけ?
282人間七七四年:2012/11/04(日) 19:07:44.39 ID:Hv3r7jEj
本気でライバルになりそうな相手に、
「オマエのことライバルだと思ってるから!」
なんて言ったら相手の闘志に火つけるようなものだな
テンキューさまの教えにもあっただろ?
ライバル宣言して結果お互い高め合うことになるなんてマンガにしかない
ブラック企業が自由な社風で、
年齢、勤続年数ではなく実力を評価する、
という聞き心地のいい会社方針なのに殺伐としてるのはこれが原因だと思う
社員同士でしのぎ削らせれば業績上がるし、
社員同士が敵対するから、下剋上に向かいにくくなる
283人間七七四年:2012/11/04(日) 23:10:11.41 ID:7lWApD6b
山城が本当に知恵足らずなら、本気で閻魔に使いを遣ったのかもしれんね
284人間七七四年:2012/11/05(月) 01:31:11.82 ID:Gzm50zS/
天下を取るレベルから見て足りないものだから山城が脳筋だとか隆景が臆病だとかって訳ではないと思う
285人間七七四年:2012/11/05(月) 03:16:36.45 ID:dUAoEaQp
藤堂高虎の殉死の諌めと移封願い

藤堂高虎の殉死の諌めについては、既にこちらに詳しいがhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-651.html
埋もれるには惜しい話を若干付け加えたい。


藤堂高虎は自分亡き後の家臣の殉死をおおいに嫌い、
一計を講じて大御所家康から殉死の禁止令を出してもらうことに成功した。

にもかかわらず、一人の家臣が家康に願い出た。
右腕を負傷していた彼は、
「私はこのような負具者にて、もはや生きていても甲斐がありません。
主君亡き後、どうか殉死することをお許しください。」
と求めた。
家康はこれを聞いて言った。
「和泉は我が代々の先鋒である。
もし、殉死厳禁の令に背く者が一人でもおれば、この先鋒の任を解く。」と。

のち元和元年のある日のこと。
高虎は領国の地図を広げて、家康の前にいた。
高虎は言った。
「伊勢伊賀は大坂へ出る要所にて、わが愚息大学には治められるはずもなく、
つきましては我亡き後は、他に移封して頂きたい。」

家康は地図を一瞥するとそれを横に押しやり、
「そこは誠に天から与えられた地である。他人を封じるような国ではない。
簡単なことじゃ。
いつぞやの殉死を願い出た節度を守る侍、
あの者を大学の傍らに置き、守護させればよいではないか。」
と答えたという。

                           「武将感状記」
286人間七七四年:2012/11/05(月) 03:17:00.56 ID:AECE9NJg
武田信玄が佐久郡に村上義清を攻めた時のこと。
戦場は矢や鉄砲が雨のように飛び交い、皆竹で盾を作り、それを環に並べて垣を作っていた。
そのうち信玄は陣を二隊に分けたいと考え、別働隊の飯富、板垣両将へ伝令を送ることにした。
そこで伝令役に米田某、三井某という二人が選ばれた。
米田は「盾の外は危険だから、内側を通って行こう」と提案したが、
三井は「殿に選ばれておきながら、矢や鉄砲を恐れてどうする。俺は外から行くぞ」
と聞かず、一人盾の外へ飛び出していった。
すぐに弾丸が降りそそぎ、三井は何発かくらいながらも、命からがらたどり着いた。
だがすっかり顔面蒼白になり、口も震えてまともにしゃべることもできない。
そんな三井の横で堂々と二将に伝令を伝えた米田は、陣を出ると笑顔で言った。
「それじゃあ、盾の外を通って帰ろうか」
三井が驚いて
「俺は行きのことで後悔してるのに、何でまた外を通らなきゃならん」
と言うと、米田は
「さっきお前と一緒に外を通らなかったのは、主命を果たせなくなるのを恐れたからだ。
しかしもう命も果たせたことだし、今さら何を恐れることもないだろう」
それを聞いて三井も頷き、二人は盾の外に出て、砲弾をかいくぐって本陣へ帰った。
そして米田は全く顔色を変えず、意気従容として信玄に首尾を伝えた。
これを見た三井は己を大いに恥じたという。

                     『武将感状記』
287人間七七四年:2012/11/05(月) 03:24:52.04 ID:AECE9NJg
>>285
投稿かぶったスマン

司馬さんのせいか年とった家康は狡猾な悪役のイメージ強いけど
江戸になってからも結構温情深い話多いんだよ
288人間七七四年:2012/11/05(月) 03:25:42.58 ID:AECE9NJg

が抜けた
ごめんもう寝ます
289人間七七四年:2012/11/05(月) 07:54:47.53 ID:mek9p20d
というか人間は冷酷さと温かさの両面を持っているのが普通だろう
家康との関係性によって、どう扱われるかも違うだろうし
290人間七七四年:2012/11/05(月) 08:00:08.86 ID:nvhuFaMZ
相手が敵か身内かによって変わるのは当たり前
291人間七七四年:2012/11/05(月) 09:10:26.53 ID:dUAoEaQp
>>287 ご丁寧に、痛み入ります

元和元年といえば高虎は60歳、
死ぬまでに15年もあるのに行く末を案じていたんだな、と。
292人間七七四年:2012/11/05(月) 10:57:29.30 ID:TMLjoXGt
>>285
まさしくいい話だな

>>286
戦が続いてるのに、伝令一回終えれば死んでもいいってことはないだろう。
だいたい首尾を伝えるまでが伝令の仕事なんじゃないのか? これは米田さんの勝手な論理って気がするな。
293人間七七四年:2012/11/05(月) 16:08:19.63 ID:I1AfV08s
遠足はおうちに帰るまでが遠足です、みたいなものか。
ところでせんせー、焼き味噌はおやつにはいるんですかぁー?
294人間七七四年:2012/11/05(月) 17:16:19.93 ID:GdowkEZz
焼き味噌はおしりにはいります
295人間七七四年:2012/11/05(月) 17:49:39.74 ID:CRdp7WOK

鈴木正三は三河の人で、若き日には徳川家康に従い関ヶ原や大坂陣に従軍した。

正三は若い頃より人生に死があるということについて常々疑問を抱いていた。
彼はあまねく臨済や曹洞の老大家に参じて教えを受けていた。

そして元和より徳川家の威風によって世も静謐になったという時に、
正三は俄かに思い立って自ら髪を削り、刀もささずに老中の邸宅を訪れて

「九太夫は乱心してこの姿となりました。正三をそのまま法名とし、今より世を
遁れます。この由を上聴に入れられよ」と言い残し、江戸を離れて何処ともなく
出ていった。そして諸国を遍参すること十余年にして三河、のち江戸に帰って来た。

正三は常に門人に曰く「洒落仏法、ぬけがら坐禅は何の役にも立たないぞ。
眼を据えて歯を噛み締め、果眼(果たし合いの眼)になって群がる敵の中に躍りこみ、
敵の槍先に突き立つ覚悟で修行しろ」と教えた。

また正三は豪放な性格で小事に拘らなかった。病気の時には肉を食ってその身を養い、
少しも憚ることはなかったという。

――『近古禅林叢談』
296人間七七四年:2012/11/05(月) 18:44:04.16 ID:/CwFW1/+
なんだかもう仏教じゃないようなw
297人間七七四年:2012/11/05(月) 18:47:47.64 ID:CRdp7WOK
>>295
すいません少し訂正を
×敵の槍先に突き立つ
○敵の槍先に突っ立つ
298人間七七四年:2012/11/05(月) 18:58:12.21 ID:iL59pcZo
坊主もめんどくさいのか
299人間七七四年:2012/11/05(月) 18:59:23.52 ID:QSo1zp0c
武士は敵に南無阿弥陀と飛び込み、
農民は畑を南無阿弥陀仏と鍬で打ての人だからな
三河仏法
300人間七七四年:2012/11/05(月) 19:08:10.12 ID:zRJNpXrp
>>285
隻腕の武士の刃は腹を切ることが出来るのか?
出来ぬ 出来ぬのだ

…いい意味で(´;ω;`)

>>286
面子があるとはいえ米田さんドSだなw
301人間七七四年:2012/11/05(月) 19:42:45.86 ID:iL59pcZo
三歳「扇を腹に当てればよいのだ」
302人間七七四年:2012/11/05(月) 20:40:25.33 ID:PiXUy448
大津宰相こと京極高次は城下の住民にさほど好かれていなかったらしく、大津城攻防戦の際に大津城下の住民達は近くの山に弁当持って出かけて攻防戦の模様をまるで祭見物であるかのように楽しんだと言われてる
303人間七七四年:2012/11/05(月) 22:12:17.92 ID:/CwFW1/+
それ戦場のデフォ
304人間七七四年:2012/11/05(月) 22:24:23.23 ID:Yl2SYoHD
南北戦争の初戦の第一次ブルランの戦いもピクニック気分で観戦しに来た奴らがいたというし
あと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする
305人間七七四年:2012/11/05(月) 23:26:02.81 ID:OUwdw2fR
それ以前に籠城前に城下の建物を焼き払ってるだろ
306人間七七四年:2012/11/05(月) 23:59:30.04 ID:TGZNGda+
天下の豊臣軍相手に奮戦する忍の領民(ステマ)
307人間七七四年:2012/11/06(火) 02:10:52.46 ID:NrhQ01hW
単にラスボスの無茶な水攻め命令に従ってたら地質が悪くて堤が潰れて
修復してるうちに小田原が先に降伏しちゃった、てだけじゃおもしろくないか
308人間七七四年:2012/11/06(火) 02:26:18.89 ID:n3/tKjUe
たかが地方の小城の攻城戦だったはずなのに
豊臣武断派が三成=戦下手のカスって認識するようになった
歴史を変える大事件に発展
309人間七七四年:2012/11/06(火) 05:46:39.79 ID:VmFqHNiw
別にあの小説出る前から堤壊したのは領民たちだったって風に語られてただろ

氏長の妻(三楽の娘)の指示で
310 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) :2012/11/06(火) 06:31:52.97 ID:mFbaVcSB
>>302
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?
311人間七七四年:2012/11/06(火) 09:11:26.15 ID:Azyn9z1G
板倉勝重の子、重宗が父に代わって京都所司代となり、祇園社に参詣に向かったとき、
神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと

「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には『つ』がつかないのかな」

と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。

「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」

このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。

「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」

少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って

「今鳴ったのは、左手?右手?」

と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。

                    「明良洪範続」
312人間七七四年:2012/11/06(火) 10:16:27.34 ID:NbK2TydX
質問に質問で答えるんじゃねーよゴラァ
313人間七七四年:2012/11/06(火) 11:02:33.96 ID:ebE36DLt
>>307
>>309
軍記物の「堤が決壊して大被害」とか実際あったんかな?
そんな被害出れば「やっぱ水攻め無理」って
方針変更を請う口実になるしそういうやり取りでもしそうだが。
成田記や関八州古戦録の通説には疑問が残る。
314人間七七四年:2012/11/06(火) 11:11:33.76 ID:Azyn9z1G
>>312
口で説明するより実際に同じ気分を味あわせてやろうとか
そういう機転なんじゃない?
315人間七七四年:2012/11/06(火) 11:54:11.20 ID:2g0szYjX
鳴ったのは右手?左手?って禅問答があるんだよな。
316人間七七四年:2012/11/06(火) 11:59:45.26 ID:JBlHchof
頭の回転のよさをみたんだろな
317人間七七四年:2012/11/06(火) 12:13:23.15 ID:NrhQ01hW
のちの落語の佐々木政談である
しかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな
318人間七七四年:2012/11/06(火) 17:27:24.90 ID:3lzC74sQ
>>311
旗が動いているのか?それとも風が動いているのか?
的な禅問答なんだろうね
「片腕しかない人の拍手の音を聴いてこい」て公案もあるけど禅て難しく感じる
なにが言いたいのかよくわからない
319人間七七四年:2012/11/06(火) 18:44:36.24 ID:JBlHchof
思考を繰り返すのがいいんだろ
実際たのしいぞ
320人間七七四年:2012/11/06(火) 18:51:54.82 ID:bajq3D94
禅は答えが永遠にでそうになくてうあああってなるわ
321人間七七四年:2012/11/06(火) 19:14:05.93 ID:VS7Xiq+J
重宗「うあああ…よし、採用!」
322人間七七四年:2012/11/06(火) 21:42:57.03 ID:X4XSCtLl

武田勝頼親子の首級が織田信長の目にかけられた。
信長はその首を見て、

「日本に隠れなき弓取りながら、運が尽きてしまわれた故に、
このような姿になられてしまったのだな…」と言った。

――『三河物語』
323人間七七四年:2012/11/06(火) 21:47:11.08 ID:I7PVLNuq
324人間七七四年:2012/11/06(火) 22:39:42.36 ID:qW1WTpFy
まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙 

伊達政宗の真筆書状 発見される

能代市では(個人名の為 伏字)さんが、伊達政宗(一五六五〜一六三六)から初代藩主佐竹義宣に宛てたと見られる書状を発見。
県立図書館文書係の鑑定の結果本物と判明したものの、宛名が失われており文面から佐竹宛と推定された。しかし、伝承経路は不明のようだ。

 本文には「…大砲の火薬の質や量、あるいは矢蔵の定め書きなどを給わばありがたい。」などとある。

1976年(昭和51年)4月1日発行 秋田県広報あきたより抜粋 
秋田県広報ライブラリー 当該記事へのリンク ttp://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/167/167_046.html

※転載ここまで

親戚でありながら敵対していた筈の佐竹義宣宛にDQN政宗からの、見様によってはとんでもない文面の手紙である。しかも直筆!
単純に「分かんないから教えてクレクレ!」なのか「お前、どんだけ武器弾薬貯め込んでんの?ニヤニヤw」と、邪推しそうになる文

恩讐を乗り越え「かつての敵とも、腹を割って何でも話せるようになった」義宣と政宗の「俺達マジ親友!」の、仲のいい話…なのか
「…政宗め。こんな文が幕府に露見したらヤバイだろ!油断のならない奴め!」と、宛名を失わせた義宣の手筈の良い?話でした
325財布激安/偽者:2012/11/07(水) 01:09:52.23 ID:sG8DeV6b
財布激安/偽者
ルイヴィトン偽物
激安かばん
時計偽物
人気ブランド
バッグコピー
財布コピー
サングラス偽物
ベルトコピー
新作_スーパーコピー送料無料專門店
↓↓↓【超人気質屋】

http://www.ali727.com/go/?i=23p
http://www.ali727.com/go/?i=23q
http://www.ali727.com/go/?i=23r
326人間七七四年:2012/11/07(水) 12:39:36.10 ID:O+mufkDX
まとめ見てたんだけど、武田信繁っていい話しか無いんだな
悪い話は討ち取られた位のもんかな?
信繁の悪い話無い?できが良すぎだろ
どっかの信繁と違って
327人間七七四年:2012/11/07(水) 13:50:36.21 ID:bTp14Zmb
武田信繁は江戸初期から武士の鑑って神格化されてっから基本いい話しかない
328人間七七四年:2012/11/07(水) 16:22:24.33 ID:qZT1KT+F
長野県長野市にある典厩寺は真田信之が武田信繁の菩提を弔うため、
それまでの瑠璃光山鶴巣寺の名を改めたもの。
本堂より左には自然石を用いた信繁の墓があると同時に、
武田上杉両家の討ち死にした者たちの弔魂碑がある。
なお境内には川中島合戦記念館があり寺宝を収蔵展示している
329人間七七四年:2012/11/07(水) 18:46:49.33 ID:MXd1EikK
>>324
受け取った佐竹義宣のイヤそうな顔が目に浮かぶ
ろくな事は企んでないだろうと思わせる手紙だw
330人間七七四年:2012/11/07(水) 20:31:58.92 ID:VQLJNFGf
この前小諸から東御市に向かう道を通った時にで信繁の墓があった

なんであそこなんだろう
331人間七七四年:2012/11/07(水) 20:51:17.81 ID:FwEHAAEt
>>330
何の史料も確認していないから、極めていい加減な私見ではあるが、息子の武田信豊が小諸城主だからじゃないか?
332人間七七四年:2012/11/07(水) 21:28:01.04 ID:eN+Vkod4
死んだ川中島にあるんじゃないの?
333人間七七四年:2012/11/07(水) 23:26:14.04 ID:0jZUtu4Y
胴体が川中島の典厩寺で、首だけ息子のいる小諸まで運んだみたいね。
行った事ないけど写真で見る限り首の方がかなーりひっそりと祭られているような。
川中島で死んだしあっちの方が有名だししょうがないか。
334人間七七四年:2012/11/08(木) 16:52:32.06 ID:3IV3NXbr
紀州頼宣に仕えた儒臣に奈波(那波)道円という者がいた。
その甥の奈波加慶という針医師が御供して紀州にいた時に、

和歌山一番の富豪・島孫左衛門という町人が長年病気に悩んでいた。
ある人がこの度加慶が来たのを幸いとして島に彼を推挙した。
その人が療治を頼むと加慶は「心得た」と答えた。

「それは良かった。この孫左衛門という人は和歌山で一番の有得人ですから、
他の病人よりも精を出して治療してくださいね」

加慶はつくづくと聞いていたが、その人が座を立とうとした時に…

「只今御頼みの病家への見廻りは御断り申す」

「なんと!? たった今治療を承知されたではないですか!
何故手を返すようなことをなさるのです!」

「始めは病人とばかり承ったので承知いたしましたが、あなたは富家だから
精を入れて治療しろと仰った。私は今日まで病には針を立ててきましたが、
金銀に針を立てたことはありませんので御断り申す」

――『良将言行録』
335人間七七四年:2012/11/08(木) 20:25:00.56 ID:X1OGkpuB
江戸城本丸において、将軍家より隠密の相談がある時は、その昔はだいたい数寄屋にて行われていたのだが、
土井大炊頭利勝がある時思いつき、千畳敷の真ん中に将軍家に出て来て頂き、四方の金唐紙なども全て取り外し、
少しも隠れる場所の無いようにした所、誰であろうと、その相談の間、近づく者無く、相談の内容が漏れるようなことも
無くなったと、これは古き人たちが申していることである
(武野燭談)
336人間七七四年:2012/11/08(木) 20:50:56.90 ID:I9N32n+s
天井と床下はどうなってたんだろう
337人間七七四年:2012/11/09(金) 09:10:16.64 ID:cmBvDaDs
分厚いビードロで外からはモザイク模様に
338人間七七四年:2012/11/09(金) 11:02:11.50 ID:gMeCskhA
>336忍者が周りにいれば入り込めない
339人間七七四年:2012/11/09(金) 11:33:56.01 ID:uA14xTkd
本多様が天井は心配無いって言ってました
340人間七七四年:2012/11/09(金) 17:08:56.35 ID:R0jiYxA7
伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉は井伊直政、本多忠勝、
榊原康政、平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。

直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。

康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、
家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。

そして親吉は黄金を受け取らず、
「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。
今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」
と、黄金を使者に返し渡した。

このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を
信康や義直の後見として附けたのである。

――『名将言行録』
341人間七七四年:2012/11/09(金) 17:36:56.26 ID:Qm/GW8ed
200石以下(あくまでも目安)の武士の言行について語られてる資料って葉隠以外だとなにがある?
最近そのあたりの武士の逸話に興味があるのでご教授願う
342人間七七四年:2012/11/09(金) 20:42:02.56 ID:YL2d4lQn
>>340
丁度この時分あたりか
「太閤秀吉は伏見の城を縄張りとする時に井伊直政に相談した」と
『武功雑記』にメモの様に書かれているけど
なぜ徳川家臣で陪臣である直政に相談したんだろ
343人間七七四年:2012/11/09(金) 20:45:58.65 ID:Qe9oBR+n
>>342
秀吉政権では井伊直政は陪臣ではなく独立大名扱い。
344人間七七四年:2012/11/09(金) 21:21:35.38 ID:cRRPWd/b
堀田加賀守正盛だだんだんに立身し、大身を仰せ付けられた頃、彼は土井利勝の屋敷に出向き、こう尋ねた

「小身の私が将軍家よりお取り立てして頂き、この様に大身の数に入り、家臣も多く召抱えることになりました。
そこでご相談なのですが、家臣を管理する目付役・横目役などを申し付けるべき人品は、どのような人柄の者が
然るべきだと考えていらっしゃるのでしょうか?
土井殿の賢慮をお伺いしたく、こちらへ参ったのです。」

この様にまめやかに尋ねた事に、土井利勝

「それは最初に、良きことに気が付きましたね。
役についての、人柄の吟味は尤もの事ですが、その中でも目付などに適した人品について、私にまで相談されるとは、
誠に奥ゆかしいことです。

あなたや私などは、将軍家のご威光のおかげを以って、方々へ饗応に招かれます。
その膳部は爽やかにして切り目正しく、季節折々の初物も食い甲斐があるように料理されて、
この料理が完成するまでの亭主の奔走はどれほどだっただろうか、などと考えている所に、
勝手より人が出てそっと『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
言ってきては、それ自体は何の意味もないことではあっても、聞いてしまってはどうしても気分がよくありません。

総じて、欠けた所のない人というのは稀です。ならばその人に適した分野を見立てて仕事に使うべきです。
酢や煎酒に蚊が入ったことまで、取り上げて尽く申し立てるような器量のものは、目付・横目には無用の人品です。

だからといって、砒素石や斑猫(どちらも毒薬)が堂々と入っているのを見逃してしまうような、
律儀過ぎる者も目付役には適しません。
と言うか、そんな者がもし本当にいたら、、それは毒石や斑猫と同じ有毒な存在です。
であれば、その人物の危険性をいち早く察知し、注進するような侍こそ、真の目付になるべき者です。

この大炊頭が家人に目付を申し付ける時は、例えば、人間の目は横に切れているのが天より与えられた姿であるが、
この目で物陰から覗いたり、目を眇めるなどして物を見ようとすれば、まっすぐに見るのとは違って
見損じもある。であれば、ただまっすぐに見たものを実として、途中に脇目をセず、向こうばかり見るのだと思えと、
そう申し付けています。」
と答えたのだという。
(武野燭談)

土井利勝の目付選抜法、というお話。
345人間七七四年:2012/11/09(金) 21:46:50.68 ID:YL2d4lQn
>>343
聚楽第行幸などでも有力大名扱いでしたっけ
それにしても直江兼続以上の面白い立ち位置だったんだな
346人間七七四年:2012/11/09(金) 22:19:10.12 ID:PZRa+Oyr
小牧・長久手の時に思いっ切り悪口書かれた相手に黄金百枚かぁ…。

館林城主にしろとアドバイスしたのもそうだが、秀吉は康政評価してたんだなー。
井伊と同等ってかなりすげー
347人間七七四年:2012/11/09(金) 22:57:21.58 ID:PMNMRWSA
>>344
土井さんはホント官僚の鑑だな
348人間七七四年:2012/11/09(金) 23:15:06.62 ID:iN8RimBy
秀吉の正室ねねには子が出来ず、それを秀吉は文句いい
ながらもとても良い夫婦だった。
349人間七七四年:2012/11/09(金) 23:19:30.89 ID:m9LGRbKG
>『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
>言ってきては

俺のことか…
350人間七七四年:2012/11/09(金) 23:29:29.88 ID:FsTELhoz
毒をみのがすのが律儀ってのがよくわからん
351人間七七四年:2012/11/09(金) 23:51:49.04 ID:khQPPpsy
人を疑う事を知らない人間性って意味じゃないか
352人間七七四年:2012/11/10(土) 00:12:56.97 ID:77PFQ/KV
訳の問題もあるだろうけどこれが律儀と呼ばれる行為なら
律義者と呼ばれた方の評価が大分変わってくるな
353人間七七四年:2012/11/10(土) 00:17:32.57 ID:ghAmbUb8
>>350
加減を知らないってことじゃないかな
弛める部分も大事だと言われると毒にも気付かないほどリラックスして、
引き締めてやれと言われたらチリひとつ落ちてたくらいで打首だと騒ぐような
354人間七七四年:2012/11/10(土) 02:14:17.51 ID:YaJkWQ2/
つまり目付に適しているかは目付きを基準にしろ、と
355人間七七四年:2012/11/10(土) 06:06:25.59 ID:JcXIIyEn
>>343
井伊家は名門で官位も高かったからなー
356人間七七四年:2012/11/10(土) 14:33:05.51 ID:CVfvJ0Ol
九条稙通は勇猛な人であった。

鬼神の如く世に恐れられた織田信長にはいずれの公家も媚びへつらったものだが、
この玖山公は立ちながら向かい会い「上総殿が入洛めでたし」と言って帰ったので、
信長は機嫌を悪くして「九条殿は我に礼を言わせに来られたか」と腹を立てた。

例え一令を失うとしても、公家の行跡を乱して御家の恥を残すまいという心故であろう。

「時勢に従わずに不用なことをなさる」と謗る者もいた。
または「『智者は惑わず、勇者は怖れず』ということだ」と誉める輩もいたのだとか。

――『日本史伝文選(戴恩記)』
357人間七七四年:2012/11/10(土) 19:36:26.09 ID:ghAmbUb8
九条さん剛の者だな
蜂須賀小六、荒木村重との逸話もそうだけど、
織田信長は座敷の場でもタイマン一歩手前な状況になることあるな
すごく威圧感のあるタイプだったんだろう
358人間七七四年:2012/11/11(日) 00:52:36.28 ID:U660Ng4G
津軽信義は幼少時代より母・辰姫とともに弘前藩飛び地大館に幽閉されていた。
その幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝、乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義は土井利勝、松平信綱、阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。

まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」

と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝は
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。

余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。

尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、船橋半左衛門書状』のようです。
359人間七七四年:2012/11/11(日) 01:02:18.51 ID:Km/8uD4Z
みんな涙脆いなw
それにしても土井利勝、松平信綱、阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー
360人間七七四年:2012/11/11(日) 01:07:25.65 ID:4fW2CcqC
>>358
そういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。

武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。
361人間七七四年:2012/11/11(日) 03:43:07.88 ID:BonGPYJ3
で反抗した人達のその後はどうなったんだろう?
362人間七七四年:2012/11/11(日) 07:49:41.61 ID:AKuoj+Ih
と後の宇都宮藩主が尋ねておられます
363人間七七四年:2012/11/11(日) 09:17:46.43 ID:WHBQaoke
船橋半左衛門も兼平信孝・乳井建定も喧嘩両成敗で他藩お預けになり、
裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?
364人間七七四年:2012/11/11(日) 10:46:09.62 ID:EbGq1rt8
遅くなりましたが、前スレ>>911で「東国の戦国争乱と織豊権力 7」を教えてくれた人へ
本屋で軽く立ち読みして面白かったので購入しました
遅くなりましたが勧めてくれたこと感謝しています
365人間七七四年:2012/11/11(日) 17:12:12.93 ID:l3BBkEkC
乳井とか孕石とか現在の観点からすると随分変な苗字だけど
当時はどうだったのかな?
366人間七七四年:2012/11/11(日) 17:35:47.60 ID:4fW2CcqC
>>365
地名から取るケースが多いから違和感はなかったんじゃないかな。
367人間七七四年:2012/11/11(日) 18:20:14.93 ID:qfQB4u93
俺もちょっと珍しい名字で電話の時は漢字毎に説明しなきゃならないんだけど(「大きい」の「おお」です、みたいに)、孕石さんってその場合大変だよなぁ・・・
368人間七七四年:2012/11/11(日) 18:27:57.00 ID:NlOmgjI2
京の人から変な名字扱いされたのは、知ってる限りでは長宗我部さんくらいだな
369人間七七四年:2012/11/11(日) 18:32:01.13 ID:d+NAPoUn
チョウスガメ、と読むらしい、おもしろき名なり
だったっけ?
370人間七七四年:2012/11/11(日) 18:50:02.47 ID:Zn8sZOGz
変な名字じゃないけど「そのままかよ!自己顕示欲強いな!」と
思わずにはいられない名字ってあるよね、問注所さんとか

まあ実際に自己顕示が目的なんだけどさ
371人間七七四年:2012/11/11(日) 20:37:21.93 ID:7MWZQl4Y
慣例でもあるやん
372人間七七四年:2012/11/11(日) 22:06:41.38 ID:ljQD2uKs
永禄9年(1566)の春、北条氏支配下の三浦三崎の浦に唐船が入港した。
この船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。

その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)

小田原に住み着いた唐人たち、というお話
373人間七七四年:2012/11/11(日) 22:11:20.53 ID:4F/SxG4G
>>366
地名にもおかしな地名あるだろうが
血洗島とか。。
374人間七七四年:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?
375人間七七四年:2012/11/12(月) 12:54:38.83 ID:UPBETAUx
伊藤一刀斎にボコられた唐人も三浦に来てた人だったよね
けっこう定期的な入港があったのかも
376人間七七四年:2012/11/12(月) 15:21:35.21 ID:Jl8rqVN2
定住したとこからして定期的な漂流船だろうな
377人間七七四年:2012/11/12(月) 17:48:02.81 ID:prlFx6pi
武田信玄が上杉謙信と和睦しようと長遠寺の僧某を送って説得させた折のこと。
謙信は僧に向かって「甲斐の臣に向井与左衛門という者はいるか」と尋ねた。

「はい。おります」
「その人に刀傷はないか」
「はい。面に刀傷があります」

「おお、そうか! 実はな、むかし川中島の戦いで彼は姓名を名乗って
槍で私の背を突いた。その時、私は後ろを見て彼の面に一撃を加えたのだよ。
すでに死んだものと思っていたが…そうか、いまも無事であったか」

謙信はその時に着ていたと思しき槍の痕がある緑色の陣羽織を出して一つの書簡を
添え僧を介して与左衛門に送らせた。世にこれを倒勲状(さかさ感状)という。

大槻磐渓曰く、
「私が聞いたところによると、謙信は甚だ身の丈が大きいというわけでもなく
足を引きずって歩いていたというが、戦いともなれば黒い陣羽織を着し鉄製の
小陣笠を戴き、三尺の青竹杖をひっさげて士卒を指揮したという。

それを踏まえてこの逸話を見ると謙信の心の広きことを想像できる。かの勲状を
自分と敵対する者に与えてこれを賞したのは謙信の度量が広いからだ。そのような人が
どうして逆禿(悪僧、信玄)と親交を結ぶような下策に出るだろうか」

――『近古史談』
378人間七七四年:2012/11/12(月) 18:06:34.07 ID:twErZys3
すごくいい話だと思ったのに、著者が余計なことを
379人間七七四年:2012/11/12(月) 18:07:11.08 ID:twErZys3
訂正、著者じゃなくて大槻磐渓
380人間七七四年:2012/11/12(月) 18:53:43.32 ID:HrpWlGHh
大槻磐渓曰くの後半部分がどう前半を踏まえてるのかわからねえw
381人間七七四年:2012/11/12(月) 19:46:03.26 ID:/t0cDuhH
敵に背を向けて逃げて背中に傷を受ける悪い話だなw
382人間七七四年:2012/11/12(月) 20:29:42.40 ID:Pw8IDJf4
なんだ、ただの軍神礼讚か
383人間七七四年:2012/11/12(月) 20:40:05.83 ID:Kz1pjgFx
敵大将からの感状、しかも謙信からの感状
うらやましい(´・ω・`)
384人間七七四年:2012/11/12(月) 21:21:54.52 ID:065CW0wl
>>374では同じく「關侍傳記」から外郎のお話

北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。

東は一織より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、

小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。

このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。

ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。

外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。

外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。

氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。

(關侍傳記)
385人間七七四年:2012/11/12(月) 21:50:32.00 ID:GRmcnagB
当時の小田原の繁栄振りを見てみたいわ
今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう
386人間七七四年:2012/11/12(月) 23:10:12.21 ID:1PEFadOE

レスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ
387人間七七四年:2012/11/12(月) 23:52:28.06 ID:AH7QiWE5
小泉という町奉行は、江戸初期に多摩川を開拓した代官の祖先?
388人間七七四年:2012/11/13(火) 00:16:19.06 ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね
389人間七七四年:2012/11/13(火) 02:10:29.99 ID:qkkxzYjz
本多正信は若年の頃より智慮のある人であった。

大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。

しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。

その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。

――『良将言行録』
390人間七七四年:2012/11/13(火) 03:57:44.86 ID:p8VSHbSC
良将言行録ってのがあるんだ
知らなかった
391人間七七四年:2012/11/13(火) 18:05:18.32 ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828
392人間七七四年:2012/11/13(火) 18:40:46.46 ID:zTJiC/oF
北条と唐国との話が出たので北条五代記の該当部分をば
ただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦

・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv

八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね
393人間七七四年:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた
>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな
394人間七七四年:2012/11/13(火) 19:29:47.40 ID:1hq8lkjn
湾内が広くて水深が深くて沖からの風波を防ぐ
山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな
395人間七七四年:2012/11/13(火) 19:48:13.33 ID:B2/FBL9K
徳川家康がある時、このような事を言った

「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。

平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。

大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。

ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。

そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」

(武野燭談)

徳川家康の、諫言についての考えである。
396人間七七四年:2012/11/13(火) 23:00:25.70 ID:6Ks1QsGY
この逸話、会社人だとどのくらいの地位から参考にすべきなんだろ?
397人間七七四年:2012/11/14(水) 00:12:02.48 ID:mnbwLNRd
最低、部長クラスじゃないのか
課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う
398人間七七四年:2012/11/14(水) 00:40:11.49 ID:lc/a7xsd
彦左が頷いてる姿が目に浮かぶ...(´・ω・`)
399人間七七四年:2012/11/14(水) 01:16:30.68 ID:LJ1S3Nzx
>>396
それを知りたい場合は葉隠を読むべきじゃないかな
400人間七七四年:2012/11/14(水) 05:56:16.83 ID:0zIQU8jV
やばい、俺、朝鮮人かも。
家系図の一番最初が霧隠才蔵になってる。
401人間七七四年:2012/11/14(水) 06:41:40.36 ID:DQ0CVsTB
諫言しやすさ

家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)
402人間七七四年:2012/11/14(水) 13:42:17.09 ID:ngiMIftZ
>>396-397
部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな〜
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる
403人間七七四年:2012/11/14(水) 13:54:04.82 ID:ngiMIftZ
>>399
才能と度胸のない者が諫言討死する方法はたしかに書いてあるな
常朝さんの覚悟を決められるのも才能な気がしないでもないが(笑)
404人間七七四年:2012/11/14(水) 14:03:11.16 ID:364uS6zh
暴れん坊の右腕として享保の改革をリードした松平乗邑。

彼は、(^p^)あうあうあーの家重より文武両道の宗武を
次期将軍にした方が良いという誰もが当たり前に思う事を
暴れん坊に諫言したのだが、その結果、老中を解任され左遷させられた...
405人間七七四年:2012/11/14(水) 17:39:52.21 ID:zHTQwAwI
道化(道家)清十郎は織田信長に仕え戦ではしばしば功を立てていた。
信長は清十郎の勇を愛し自ら無双の字を背旗に書いて清十郎に与えた。
人はこれに因んで道化を『無双道化』と呼んだ。

ところで信長が招いた美濃の士に平野某という人がいたのだが道化は
彼と親しく交わった。ある時、道化は気軽に「あなたは進めば先頭に立ち、
退けばしんがりを務めるが、どうしてあのようにできるのだ」と尋ねた。

「死を決するのみ。…ではあるが斎藤家の諸将は皆国の為に死んでしまったから
それがしは独り余命を保ってここにいる。結局は勇気が足りないのだ。今あなたの
問を受けて、恥ずかしさのあまり背中にたくさんの汗をかいてしまったよ」

道化は退くと「勇を誇らない平野殿には、俺は断じて及ばないな」と嘆じた。

――『近古史談』
406人間七七四年:2012/11/14(水) 17:57:22.24 ID:QpEfWziE
家重がピーってのも今じゃ否定されているがな
それに家康以来の長子相続の祖法を否定したんだから処分は無理ないこと
407人間七七四年:2012/11/14(水) 18:19:54.42 ID:oP3uf1gX
>家康以来の長子相続の祖法
秀康「お、おう…」
408人間七七四年:2012/11/14(水) 18:52:45.16 ID:2RSu/zLq
おめーは他所モンになったやないかい
409人間七七四年:2012/11/14(水) 19:45:41.57 ID:bjSV0nkb
>>406
信康「だったら徳川家はおれの代で断絶だな。」
410人間七七四年:2012/11/14(水) 19:57:27.89 ID:Z/Gbeuf9
>>406
綱吉「えっ」
家宣「えっ」
家継「えっ」
吉宗「えっ」
411人間七七四年:2012/11/14(水) 20:05:09.76 ID:2RSu/zLq
そういや松平の庶長子の家系が400石だっけ
412人間七七四年:2012/11/15(木) 00:54:27.53 ID:g6F5c+if
伏見城で太閤殿が名人芸者を集められ、諸大名に見物させた。
小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
と細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
と細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。

「焼残反故」より
413人間七七四年:2012/11/15(木) 15:50:35.83 ID:WYmcdPDJ
家伝である故に出典書はないのでスレ違いならスルーしてください。

天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。

某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
 隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
 まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」

立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう
414人間七七四年:2012/11/15(木) 17:40:57.53 ID:lXvY0Pro
人徳だな
415人間七七四年:2012/11/15(木) 18:20:09.42 ID:/7LaIWeh
>>413
全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし
416人間七七四年:2012/11/15(木) 18:25:45.41 ID:PMJdOYad
じゃあ鶴姫のおっぱいについて語らないか(迫真)
417人間七七四年:2012/11/15(木) 18:33:25.41 ID:CTJ+rpLg
瀬戸内の鶴姫?
悪いスレで出てきた烏丸の妻の鶴姫?
信長の娘の鶴姫?
NGMSに殺された鶴姫?
吉宗の義理の姉の鶴姫?
つる姫じゃー?
418人間七七四年:2012/11/15(木) 19:35:04.42 ID:iHVHX2HN
>>413
ホントに紹運って爽やかでいい話しかないなあw
419人間七七四年:2012/11/15(木) 21:01:56.92 ID:yNsJyBYi
徳川秀忠が死去した折、将軍家光の幕閣の中には、天下の動静を見るため、秀忠他界のことを
暫く隠すべきだ、との異見があった。しかしこれに酒井忠勝が猛反対し、忠勝の意見が通り
死去したその夜のうちに、全ての大小名に秀忠の死去を知らせ、早々に登城し家光への
ご機嫌伺いをするよう触れを渡したため、翌日、在江戸の諸侯・旗本は全て出仕し、それぞれ
着座の席を守り、残らず登城した。

彼らの前で、家光が語りかけた

「大相国(秀忠)はご他界された。この家光は現在、将軍職を賜っているが、
この機会に天下の兵権を望むものが居るのなら、かまわぬ、受け取りに来い。
渡し遣わしてやろう。
但し!弓矢の法に任せた上で、引き渡す!」

秀忠の死に乗じて天下に野望を持つものがいるなら構わない、自分が相手になってやる。
そんな家光の宣言である。
この突然の言葉に、諸侯はどう答えていいか解らず誰も返答しないまま戸惑っていた。

と、ここに一人進み出た隻眼の老人。
そう、伊達政宗である。
政宗、家光に向かって申し上げる

「この御当家の御恩を以って、我らは皆、心やすく過ごしております。そんな所に、
この時期を以って天下の兵権を狙う輩がいるのであれば、そんなもの、上様が出られるまでもない 」

諸侯の方を振り向き、言い放った

「この政宗に仰せ付けられよ。たちまちに踏み潰してご覧に入れよう。」


政宗の言葉に、他の諸侯も皆異口同音に家光の言葉をお請けし、そうして退出したという。
(武野燭談)


さすが政宗は美味しいところ持っていきますね。やっぱり千両役者ですw
420人間七七四年:2012/11/15(木) 21:04:46.10 ID:tmCu0bXZ
というより諸侯たちに
「やるバカが居るとするならあいつしかいないだろ・・・」
と思われてたから効果的だったのでは
421人間七七四年:2012/11/15(木) 21:19:26.57 ID:/RI90IqI
中国の故事にこんなのがあった気がする
似ているもんだねぇ
422人間七七四年:2012/11/15(木) 21:30:29.41 ID:PFd0sJIa
>>413
いやーこういうのはもっと書いて欲しいわ
出来れば地元の郷土誌なんかにも残しておいて欲しい
423人間七七四年:2012/11/15(木) 21:40:00.05 ID:PMJdOYad
>>420
この時期だとさすがに政宗も枯れてるよね
関ヶ原の時なんかはやる気ムンムンだったけど
424人間七七四年:2012/11/15(木) 22:10:28.03 ID:SBfJx6bP
まーくんは行いはアレだけど教養あるから
その故事から引用したんじゃないかな?
425人間七七四年:2012/11/15(木) 22:26:34.63 ID:5et3Xusx
>>419
つうか、ちょっと前は政宗が一番あぶないと思われてたんじゃないの
自分が家光側に立つことによって、そういう疑念をうまく払拭したのかな
426人間七七四年:2012/11/15(木) 23:14:31.71 ID:8nysyoV4
大坂の陣での動き見る限り政宗は十分危ないよ
家康秀忠もある程度警戒してたと思う
427人間七七四年:2012/11/16(金) 00:16:00.99 ID:agL61KHg
>>413
家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした

>>417
常山城の鶴姫きぼー

・・・先日常山城に車で登ろうとしたら、道崩落してたでござるの巻
428人間七七四年:2012/11/16(金) 00:30:39.18 ID:rQ8ZDRBb
皆様、レスありがとうございます。
戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。

先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw
429人間七七四年:2012/11/16(金) 00:31:09.59 ID:rQ8ZDRBb
あと紹運について断片的に。
夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。

先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。
430人間七七四年:2012/11/16(金) 02:00:30.63 ID:t6dSQXQO
>>428
乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ

やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな
431人間七七四年:2012/11/16(金) 02:13:05.59 ID:rlci3xn3
>>428
ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。

時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。
432人間七七四年:2012/11/16(金) 02:54:06.05 ID:qvE7DD8g
>>413
>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw

しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、

>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」

いかにも道雪が言いそうで笑ったw
433人間七七四年:2012/11/16(金) 03:45:38.35 ID:fFArB14/
真夜中にこんな良い話を知り、妙にアガってしまい
眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話
434人間七七四年:2012/11/16(金) 12:29:37.87 ID:sjKFlz0o
家伝ですっていう断りいれればやりたい放題でそのうちにそれがソース不明のまま逸話としてネット上を流れ流されしていくんだろうなあ・・・
435人間七七四年:2012/11/16(金) 12:47:17.05 ID:pZ5KUHo5
ソース不明の話ならコーエーとかまともなところは取り扱わないだろ
436人間七七四年:2012/11/16(金) 15:08:40.76 ID:tI6bsvrv
>>434
今回の人の話は本当に伝わってる事を書き込みしてくれてるが、
便乗して適当書く人が出てくるのは勘弁してほしいよな
437人間七七四年:2012/11/16(金) 15:25:20.18 ID:pZ5KUHo5
武功夜話「・・・」
438人間七七四年:2012/11/16(金) 15:40:37.59 ID:tI6bsvrv
中庸(中道)は究極の境地なのだろうと思う。
しかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】
439人間七七四年:2012/11/16(金) 16:33:39.54 ID:HGbeldF2
>どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば
これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな
440人間七七四年:2012/11/16(金) 16:59:23.10 ID:lfgeQGMY
黒田官…もとい黒は勘弁
441人間七七四年:2012/11/16(金) 17:03:36.78 ID:/V+bX9R6
>>439
だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか
442人間七七四年:2012/11/16(金) 17:10:14.28 ID:tI6bsvrv
最初から宗滴さんクラスが来たら逃げようって考えてると、
誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ

最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)
443人間七七四年:2012/11/16(金) 20:04:42.65 ID:Obf7p31t
末期の末期の暴走状態の話をされてもなあ
444人間七七四年:2012/11/16(金) 20:14:09.21 ID:lfgeQGMY
宇喜多家的には平常運転
445人間七七四年:2012/11/16(金) 22:55:55.23 ID:rCjdr2xS
【マスコミ】 「原作改変しておかゆをサムゲタンにしたのは、アニメでわかりやすい表現にするため」「ステマ説は具体性なし」…アニメ業界が反論★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/


【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr

アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件   2010年 0件   2011年 2件   2012年 122件〜 ←7月から急増
446人間七七四年:2012/11/17(土) 07:35:06.33 ID:TrRLS7Sn
徳川家光公は、老臣以下、江戸の事もしっかりと知られていたが、仰せ出されることは稀であり、
下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に

「その者については、このように聞いている。」

と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。

山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと

「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」

老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。

そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと重い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」

と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。


またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。

「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」

大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」

すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」

このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所

「まだあるはずだ」

と仰った。

そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると

「それで合っている。」

と言われた。

これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)
447人間七七四年:2012/11/17(土) 09:57:37.57 ID:hq0o6bKe
うわあ、恐ろしいってレベルじゃねーよ。
448人間七七四年:2012/11/17(土) 10:14:18.58 ID:sqWsScV1
諜報は、どの程度まで情報を得ているかも隠すほうが有益だと思う
449人間七七四年:2012/11/17(土) 12:07:50.23 ID:M/PDtlNL
この情報は柳生を使って集めたものなのかな?
450人間七七四年:2012/11/17(土) 14:40:57.47 ID:Wze4zVIT
本阿弥光悦の行状記を人から借りて読んだが、光悦の芸は一つとして
妙手に至らぬものはない。その手習いの反古を見ると一つの字を数限りもなく
写している。

このような小さなことにも意を深く用いたから筆道は高く凡境を抜けた。
その他にも刀剣の鑑定も行ったし、茶事は小堀遠州に学ぶなど文武を兼ねた。
人となりは一時の傑物といえる。

むかし北鷹峯は丹波に続く山をめぐり人家は少なく樹木が深く生い茂った。
だから盗賊が常にこの辺りに隠れて旅人を悩まし、京城などへも入っていたので
関東より厳命があって、光悦がこの地を賜り住み始めた。それより盗賊たちは
皆逃れ去ってしまったのだから、その武勇の程が窺える。

光悦がこのような人になったのも母の妙秀という尼の教育によるものだったそうだ。

――『仮名世説』
451人間七七四年:2012/11/17(土) 16:16:22.70 ID:Wze4zVIT
>>450
ちょっと訂正します。
×京城などへも入っていたので
○京城などへも入っていたのだが、
452人間七七四年:2012/11/17(土) 23:38:07.79 ID:r3654Xdx
>>449
逆にさらけ出すのも一手。
上手くいけば相手が邪推して勝手に恐れ入ってくれる。
453人間七七四年:2012/11/17(土) 23:51:51.99 ID:blCU6IGI
幕府隠密 間宮林蔵
454人間七七四年:2012/11/18(日) 10:18:06.68 ID:5mA3daL2
>>446
家光を貶すつもりはないけど
もしかして家光はサヴァン症候群だった可能性があるんじゃないか?
結構変わった人だったみたいだし
455人間七七四年:2012/11/18(日) 15:06:44.40 ID:7x5nS06K
>>488
それは諜報で集めた情報をどう使うかによるな
同じ情報でもどういう事に使うかはその人の性格、思考、立場によって変わる
456人間七七四年:2012/11/18(日) 15:39:34.20 ID:7x5nS06K
>>448の間違いだった
457人間七七四年:2012/11/18(日) 19:40:15.68 ID:FJYTT2Tx
一番上の人間に
「君の事は良い事も悪い事も全て知ってるよ(ニコッ」
とか言われたら恐怖しか感じないわ…
458人間七七四年:2012/11/18(日) 19:56:07.35 ID:LSDQzCQm
本多忠勝の嫡男、美濃守忠政が未だ平八郎と呼ばれていた頃、その弟の内記忠朝と共に槍の稽古をしていた。
それを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた

「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。

だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)

本多忠勝からの、息子への訓戒である。
459人間七七四年:2012/11/18(日) 20:12:58.00 ID:M4aIiWhx
だったらお前も老いてからだろうと手習いくらいしとけよ
460人間七七四年:2012/11/18(日) 20:53:32.97 ID:RAK6Tl5l
宇喜多直家と殉死

宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので

宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」

確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って記録されてるんだよなぁ

花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない
461人間七七四年:2012/11/18(日) 21:10:51.12 ID:knmQNTW/
>>459
忠勝は内政も頑張ってるぞ。
462人間七七四年:2012/11/18(日) 22:32:26.52 ID:Yy+lfbdE
清正や市松もそうだけど、槍一筋の武辺者の癖に統治能力が高いのはどういことなんだろ
463人間七七四年:2012/11/18(日) 22:43:10.30 ID:TEbo4fL0
森武蔵みたいにしがらみを押し通しているのだろうか?
清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど
464人間七七四年:2012/11/18(日) 22:45:07.32 ID:uukB3FHG
軍隊を維持するのって高度な組織力、つまり優れた官僚機構が必要
それを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ

問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし
465人間七七四年:2012/11/18(日) 23:20:57.48 ID:V8QOjqds
ほんとうの意味での馬鹿でなければ
それなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする
466人間七七四年:2012/11/18(日) 23:25:33.47 ID:I0cJ4jNX
兄弟の絆


永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清は大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた実兄の麟道和尚で
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。

そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清は大関宗増を降伏させて長男を大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時のゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。

資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて大田原家永代の菩提寺とした。
467人間七七四年:2012/11/18(日) 23:53:19.47 ID:j9G1vpw4
レファランス協同データベースより 浜松市立中央図書館付


家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。


1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。

「新国史大年表第5巻T 江戸時代前期」国史刊行会 29〜30頁より。出
典は「徳川禁令考」。

回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854

新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。
468人間七七四年:2012/11/19(月) 00:18:26.18 ID:xVwgnoRT
那須家って何でこんな家臣からボコボコにされるの?
469人間七七四年:2012/11/19(月) 00:28:58.98 ID:FXD/ktxV
スケキヨ兄とか住職になるまでに泥沼の権力闘争を征したりしてるんでしょ・・・?(偏見)
470人間七七四年:2012/11/19(月) 01:08:56.24 ID:749WevT5
忠勝 「>>459の忠告に従って彫り物でもするか」
471人間七七四年:2012/11/19(月) 07:38:17.00 ID:Itc9X9lt
>>470
桜吹雪ですね(違
472人間七七四年:2012/11/19(月) 12:30:12.04 ID:h3wlSL+V
>471
本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?
473人間七七四年:2012/11/19(月) 14:23:17.35 ID:wY2zrM6X
長男ってきたない大関だっけ?
474人間七七四年:2012/11/19(月) 16:08:26.70 ID:dwhwgyYa
この頃って大名から一家臣に至るまで官位を勝手名乗りしてるけど、地域や時代によって人気の官名とかあったのかな
殿様からコレ名乗っていいよと許されたけどこの官名じゃ嫌だとか無かったのか
475人間七七四年:2012/11/19(月) 16:40:11.96 ID:lz20Gs++
丹羽長秀が信長から官位を薦められたときただの五郎左で結構です!って断った話とか
476人間七七四年:2012/11/19(月) 18:03:33.22 ID:VEoGKfyL
物語は破のEDの14年後からはじまる。

カヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。

(エンディングへ
477人間七七四年:2012/11/19(月) 19:49:59.12 ID:RbQCKCwP
>>466
これを見習った息子達も兄弟が一致団結、那須資胤と戦ったというわけか
478人間七七四年:2012/11/19(月) 22:46:35.24 ID:9Ngaa4lD
>>460
大体どのバージョンも宇喜多騒動で居なくなった家の人間が言ってなかったっけ
479人間七七四年:2012/11/20(火) 00:36:13.38 ID:V9cxuDJi
志田吉之助は竜造寺政家さまの小姓であった。
勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】
480人間七七四年:2012/11/20(火) 10:03:37.62 ID:fNMicOWF
>>479
これはまた派手に面倒くさい男だなw
481人間七七四年:2012/11/20(火) 12:52:26.80 ID:5+5hIUKs
素直に奉公すりゃいいだろうにw
政家への忠義が篤かったのか
482人間七七四年:2012/11/20(火) 13:18:25.90 ID:1D2JHR74
そういうところだろうなぁ。
まあ、隠しきれてない気もするがw
483人間七七四年:2012/11/20(火) 17:57:05.03 ID:rtTNkJx1
>>467
百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに
484人間七七四年:2012/11/20(火) 17:58:56.66 ID:fEpD3TWQ
>>483
それも極端だよ。百姓にとって武士はやはり恐ろしい集団だったのは間違いない。
485人間七七四年:2012/11/20(火) 18:21:34.28 ID:KPAspN5f
つか戦場の近くの村を焼き討ちしたり37564するのは戦国時代は通常営業じゃあないか
486人間七七四年:2012/11/20(火) 18:27:53.33 ID:V9cxuDJi
武家政権時代の警察機構は武士だけではないよ
あと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん
487人間七七四年:2012/11/20(火) 18:31:34.11 ID:tZdan5NC
でも寺社や大地主でも武士の巨大な軍事力の発露に晒されれば木っ端微塵じゃないか
信長とか秀吉とか
488人間七七四年:2012/11/20(火) 18:35:17.10 ID:BOCFkGLI
>>479
福岡藩「目薬屋disってるの?」
489人間七七四年:2012/11/20(火) 18:36:11.24 ID:BOCFkGLI
>>474
安房守より上総介の方が格上って事でいいですか?よくわかりません><
490人間七七四年:2012/11/20(火) 18:47:22.44 ID:V9cxuDJi
>>487
それは刀狩り以降でしょ
なんだかんだ言って信長を一番苦しめたの本願寺と見てる
刀狩り、檀家制度確立までは武家と寺社勢力に圧倒的な差はないと思うよ
491人間七七四年:2012/11/20(火) 19:58:14.36 ID:EsWFm7r2
>>489
安房国は下国だから最上位の守でも従六位下
上総国は大国だから守に次ぐ介が正六位下
さらに、上総国は代々守(太守)に親王が就く習わし(親王任国制)があるから、
介でも職掌は他の大国の守(従五位上)と同格
492人間七七四年:2012/11/20(火) 20:03:55.30 ID:ZVMNtgdK
>>488
如水グランパも目薬屋から財成して金貸し屋始めたからなぁ
493人間七七四年:2012/11/20(火) 20:54:33.02 ID:89s1chAU
首相「マニフェスト、死に物狂いで訴えを」 公認条件
ttp://www.nikkei.com/article/DGXNASFS20023_Q2A121C1PP8000/

>民主党候補の公認条件について「マニフェスト(政権公約)で打ち出す
>政策を死に物狂いで国民に訴える同志でなければならない」

でも実行はしなくても構いませんってか。
494人間七七四年:2012/11/20(火) 20:54:39.77 ID:egQyUtaH
そこまで嫌がってるなら美作も諦めろよw
495人間七七四年:2012/11/20(火) 21:49:10.11 ID:fNMicOWF
>>487
延暦寺にしたって
入念に周辺勢力を切り崩して、他を攻める戦と号して兵を集め、秘匿行動を進めて一気に夜襲、と
下手な大名勢力より念を入れて仕掛けてるし
中途半端では済ませられない危険な相手(≒相応の政治・軍事力を保有)って感じだが
496人間七七四年:2012/11/20(火) 22:18:46.00 ID:tbyy7oPL
つか、そもそも諏訪大宮司とかふつーに領主として統治してるところもあるし。
寺社と武家を分ける意味ってあんまりないと思う。

逆に、寺社が強かったから農民も強いとか言うのもイミフだけど。

武家=寺社 >惣村 だろ。村のトップは地侍とかで武家だろうけど、そもそも。
497人間七七四年:2012/11/21(水) 00:13:41.93 ID:mkCVhKtB
武雄の荒踊り

佐賀県武雄市の各地には荒踊りと呼ばれる伝統芸能が今もなお残っている。
この踊りの起源については諸説あるらしいが、
一説によると享禄3(1530)年に武雄領主後藤純明の頃、有馬晴純に塚崎城(武雄城)を攻められ山内の住吉城にまで迫られた。
純明は黒髪山に戦勝を祈願し、山内は三間坂に陣取っていた晴純を奇襲し破った。
この戦勝を祝い足軽たちが踊ったのが荒踊りであるということだ。

さて、時は下って永禄6(1563)年、武雄領主は純明から大村家より養子に入った貴明に継がれていた。
晴純はこの貴明を破ろうとしたが、なかなか打ち倒せない。
そこで一計を案じ、宴会を開くとして貴明を島原におびき寄せて討ち取ろうとし、貴明も誘いに乗ってしまった。
しかし島原の老僧がこのたくらみを知り、貴明に警告を送ってきたのである。

「貴明様、今回の宴は有馬の謀略でございます、むざむざ殺されに行くようなものですぞ」
「フム…しかし一度約束した手前行かねば卑怯者のそしりを受けようぞ、それならばいっその事晴純めの方を計略にかけてやろう!」
「計略とは?」
「屈強のもの250人を選び出せ、花衣装を着せ荒踊りで乗り込むのじゃ、まあ見ておれい」

貴明は250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ、十日も早く島原へと乗り込んだ。
これに驚いたのは有馬であったが、晴純は老将の余裕を見せ、貴明がまんまとわなにはまったとほくそ笑んだ。
夕刻、本丸にて有馬家の重臣の居並ぶ前に貴明が出ると、貴明の口上は始まった。

「本日伺ったのは他でもありません、約束の日には急用ができてしまいやむを得ず今日この日に挨拶に参りました」
「そうか後藤殿、ご苦労であったな(フハハー馬鹿め、わざわざ寿命を縮めに来るとは!)」
「急な事で手土産もありません、その代わりと言ってはなんですが今日は我が武雄領に伝わる荒踊りを披露したく、
 踊り子たちを連れてまいりました。さあ皆様広いところでご覧ください」

そういって貴明は晴純達を連れて庭まで出てきた。
庭には荒踊りのために連れてきた250人の勇士が控えており、一斉に立ち上がった。
浮立の笛太鼓が鳴り響き、250人の花衣装は貴明を中心に舞いだした。その動きは勇壮かつ華麗で一部のすきもない。
そのまま踊り子たちは舞い続け、貴明を中心としたまま城の外に出ていった。
後には宴の跡と、苦虫を噛み潰したような有馬勢だけが残されていたという。

伝統芸能にまつわるちょっといい話
この辺参考にしました

歴史散歩たけお
http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/furusato/html/densetu.html
498人間七七四年:2012/11/21(水) 00:25:32.96 ID:0OI8HCGj
鴻門の会っぽい話
499人間七七四年:2012/11/21(水) 00:29:10.01 ID:JGRtyo9K
>>496
武家寺社〉百姓のトップダウンではなくもっと複雑な統治だよ
500人間七七四年:2012/11/21(水) 01:14:33.26 ID:ZjP5FwHX
>>496
まあ武家>百姓 なのは揺るがしがたい事実だけど、村は村で同盟関係を結んでる
北近江の菅浦と大浦なんて、百姓だけで近江半国巻き込んでの合戦しちゃうしね
朝廷とか幕府に対して有利な裁定を得るために外交戦を繰り広げるし、百姓はすげぇよ
501人間七七四年:2012/11/21(水) 02:32:20.09 ID:kcx5WHPj
百姓は日和見菌みたいなもので普段は大した事ないけど
弱ってる相手には牙をむく
502人間七七四年:2012/11/21(水) 04:44:38.69 ID:itVqegZS
そりゃあそうだろ
武士:臆病だと家臣・百姓に見限られる
百姓:領主が臆病で頼りにならないと見限る
 
立場が違うしな
503人間七七四年:2012/11/21(水) 08:24:16.39 ID:IINPhY91
>>500
その時代だと武士と百姓の区別はあいまいじゃねーかな。
504人間七七四年:2012/11/21(水) 08:42:00.33 ID:TIgqm+cI
>>503
戦国期も実際には、武家身分と百姓身分は明確に分かれていたようだ。
ただ、村に住みながら武家被官となる在村給人という存在があったが、これは年貢免除の代わりに
軍役を提供しており、百姓とは区別されていた。

総じて戦国時代であっても、実際には身分移動はそうとう難しかった模様
505人間七七四年:2012/11/21(水) 09:12:27.27 ID:+1HAegbw
>>497
250人の勇士が暴れまくる話かと思ったらそのまま
踊りながら出てったのかwこれは確かにいい話
506人間七七四年:2012/11/21(水) 10:00:58.92 ID:QJPMmA/C
>>493
「死に狂い」ってか?
507人間七七四年:2012/11/21(水) 10:49:00.72 ID:ulnsaAvN
>>497
>250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ

なんでこんなの城内に入れちゃうんだよw
508人間七七四年:2012/11/21(水) 11:12:09.61 ID:8CLiwYSH
百姓って言っても畿内、北陸みたいに講や自治が進んだ先進国とその他じゃ
全く別物。
509人間七七四年:2012/11/21(水) 12:08:16.25 ID:mkCVhKtB
>>507
伴のもの250人ぐらいならいくらでも始末できると油断していたとか?
510人間七七四年:2012/11/21(水) 12:55:41.86 ID:xu0ZvbX7
>>508
地方だと人口そのものが少ないもんね、武士と百姓にハッキリ分ける余裕が無い
511人間七七四年:2012/11/21(水) 15:36:16.82 ID:l8+BB7dk
>>504
惣村は「村の軍事力」を大名に提供することは無かったってのが今の定説じゃないの?
この「村の軍事力」が戦国ヒャッハー百姓の戦闘員達だろ?
つまりそれからもれた在村給人なぞたいしたことない。
512人間七七四年:2012/11/21(水) 16:06:19.95 ID:mUzx7lWs
村に兵役出すよう命令する文書とか無かったっけ
513人間七七四年:2012/11/21(水) 16:13:42.78 ID:l8+BB7dk
そりゃあくまで輸卒で兵隊じゃないでしょ
514人間七七四年:2012/11/21(水) 16:17:34.87 ID:6pAeQzF3
>>511
惣村と北条武田、豊臣政権下等のプレ近世村落がごっちゃになってるな
515人間七七四年:2012/11/21(水) 16:22:20.99 ID:qnahrWYA
戦国と聞いてイメージする時代、地域の村と資料がいっぱいあってよく研究されてる村とずれてるんだろうな
516人間七七四年:2012/11/21(水) 17:21:25.71 ID:E76JNPm/
高麗陣の時、豊臣秀吉は日根野備中を高麗へと遣した。
しかし、日根野は甚だしく貧しいために支度もままならず、
三好新右衛門を介して黒田如水から銀百枚を借りることになった。

日根野は帰国すると三好と一緒に如水を訪ねて御礼を述べた。
この時、借りた銀百枚とは別に利息にと思ってさらに十枚を持参していた。

ところが、対面した如水は人を呼んで「さきに貰った鯛を三枚におろして
その骨を吸物にせよ。それから酒も出せよ」と命じたので、二人は心付けが
足りないと思い、酒を飲み終えた後、三好がさらに銀を取って来て礼を述べた。

だが如水は「いやいや最初から貸す心ではなく合力の心で貸したのだ」
と、再三勧めても受け取らなかったので、二人は大いに感銘を受けて
帰ったのだという。

――『老人雑話』
517人間七七四年:2012/11/21(水) 17:43:54.63 ID:tcbs2ICO
如水「タイは骨が一番美味いんだよ〜」
518人間七七四年:2012/11/21(水) 17:47:08.81 ID:ghlFElqr
如水はけちなイメージがあったけど出すときには出すなぁ
519人間七七四年:2012/11/21(水) 17:59:59.78 ID:QQIR8oW3
犬千代さんの悪口はやめろ
520人間七七四年:2012/11/21(水) 18:48:52.49 ID:E76JNPm/
>>516
申し訳ありません、少し訂正します。
×合力の心で貸したのだ
○合力の心で渡したのだ
521人間七七四年:2012/11/21(水) 18:52:08.55 ID:c7G30z+z
鯛って結構高級だったのかな
522人間七七四年:2012/11/21(水) 18:58:03.43 ID:eJATltdU
ここぞというとき攻めるために貯めるのが普通の武将
「こいつだけは裏切らない」という気持ちで身分を失ったときのために貯めるのが犬千代
523人間七七四年:2012/11/21(水) 19:40:53.92 ID:fLOM1lt/
>>516
本筋からはずれるけど、こういう料理絡みの話は好きだわ
大大名が調理に通じてるってのが何かうれしい
524人間七七四年:2012/11/21(水) 20:04:50.64 ID:dMqQwsD5
>>497
晴純を逆に討たずに踊って帰ったところがいいね
525人間七七四年:2012/11/21(水) 20:26:15.31 ID:6pAeQzF3
>>523
主人自ら調理作って風呂沸かして饗すのが当時の最上級のおもてなしだからね
大抵の武将は料理心を持ってる時代
526人間七七四年:2012/11/21(水) 20:38:02.08 ID:258mDYVm
>>525
室町時代の武家礼式でも、一人前の武士のスキルとして料理の出来る事が挙げられてるね
527人間七七四年:2012/11/21(水) 21:44:54.34 ID:JGRtyo9K
>>479関連の話

光茂公の御代となったばかりのころのこと、
多久美作殿は、作り馬鹿の志田吉之助に相談を持ちかけた。

美作
「御代かわりは最初が大事だ。
そこを考え、勝茂公が拙者に遺言状を残してくださっている。
志田殿にもぜひ読んでもらい、
なにか助言があれば是非とも聞かせてほしい。」

と言い、美作殿は遺言状を読み上げ始めた。
しばらく聞いていた吉之助だったが、
吉之助
「退屈になってきたから帰る」
と言い出した。
美作殿もさすがにお怒りになり、
美作
「普段から武士らしくない放言をふざけ、
金が欲しくなれば金貸しを営み、
腰抜けを演じたかと思えば山賊無頼と喧嘩する、
そんな志田殿には、勝茂様や私が、
真面目に奉公する姿はさぞ愚かに見えるのでしょうな。
この遺言状は主君びいきを差し引いても素晴らしい内容。
なにが退屈なのですか」
とその理由を詰問した。
吉之助
「美作殿は人なみの家老であると見ていたのだが、
どうやら何の役にも立たない家老のようだ。
その理由は、そもそも家老というものは、
主君が家中の者どもに慕われるように計らうもの。
美作殿が読み上げられた勝茂様の遺言状は内容素晴らしく胸打つものがある。
その遺言状を御代替わりの始めに家中の皆に教訓したなら、
家中の者どもは勝茂様をさらに慕い思い、
それを授かった貴方の名も上がるばかりであろう。
勝茂様がお亡くなりになりまだ日も浅く、
ご恩を受けた家中の侍どもが涙もかわかぬうちから、
その遺言状の内容を知ったならいよいよ先代への思いが募ることになる。
それにひきかえ光茂様は江戸生まれで、
肥前の侍どもにも国柄にも馴染み薄く、
新しい主君は、はたして九州者の気持ちをわかってくださるだろうか?
というような世間話が拙者の耳にも聞こえてくる。
そこに遺言状が知れ渡れば光茂様をお慕いする者はいなくなるだろう。
誠の家老であるなら、その遺言状を新しい殿様の考えとして、
美作殿の才覚、手間も隠して公表できるはずだ。
そうして新しい殿様は勝茂様にもまして、
ありがたい主君だと慕われるように計らうべきであろう。」
と答えた。
美作殿は、
「まさにその通りだ。やはり志田殿に相談してよかった」
と言って勝茂様の遺言状を破り捨てた【葉隠】
528人間七七四年:2012/11/21(水) 22:15:51.75 ID:BMvfWn+S
破り捨てちゃ駄目だろ
529人間七七四年:2012/11/21(水) 23:26:36.86 ID:dMqQwsD5
勝茂って可哀想だよなw
530人間七七四年:2012/11/21(水) 23:51:04.74 ID:6pAeQzF3
さすが鍋島藩士。どこか斜めだな。
531人間七七四年:2012/11/21(水) 23:53:25.56 ID:ioxlymfs
黒官はわざと家来に当たり散らして、早くNGMSに代わるように願わせたというが
勝茂もそうすればよかったのか?
532人間七七四年:2012/11/22(木) 10:34:46.63 ID:GcjH3LWU
>>531
そもそも勝茂自身が半ば伝説化した直茂パパンの声望に追いつこうと必死だったので
そんな余裕はありませんのだ
533人間七七四年:2012/11/22(木) 10:47:10.83 ID:V6DmeAAv
>525、まーくんとか幽斎さまとかだとうまいだろうな・・・逆にまずそうなのは誰だろ?
534人間七七四年:2012/11/22(木) 11:56:07.81 ID:KoqGrZhw
>>533
直家様直々の御招きぞ、有難く御受けなされませ。
535人間七七四年:2012/11/22(木) 15:54:58.75 ID:R4HQtNgt
>>533

小野忠明とかめっさ下手くそそうw
536人間七七四年:2012/11/22(木) 16:02:38.99 ID:xNHdELY1
>>534
毛利両川「だが断る」

一方我等が羽柴様は・・・
537人間七七四年:2012/11/22(木) 16:09:04.81 ID:RwTP090j
ラスボス「貧乏人は麦飯がごちそう」
538人間七七四年:2012/11/22(木) 19:19:38.88 ID:V6DmeAAv
????「日々是節約だ」
539人間七七四年:2012/11/22(木) 20:38:43.51 ID:y9yrGL9t
>>536
おいしくいただきました(ペロリ
八郎殿は某にお任せあれー
540人間七七四年:2012/11/22(木) 22:48:35.63 ID:xk5ZPyRV
>>536
兄者はご馳走を断らなかったばかりに、身罷られたからな。
541人間七七四年:2012/11/23(金) 08:32:42.17 ID:X2nhYk3I
これは元和5年(1619)の福島正則改易について、石谷将監(初名十蔵、後に土入と号す)が語った
事である。

伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため

『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』

と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。

これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う

「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。

各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は

『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』

これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。

ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」

これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。


その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。

ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。
542人間七七四年:2012/11/23(金) 09:12:53.57 ID:AwgcWyxp
留守居の顔を立てたいい話
秀忠公は落ち着いているなぁ
543人間七七四年:2012/11/23(金) 10:09:00.99 ID:FAotWQ89
市松の身から出た錆とはいえ、改易話はやるせないなぁ
544人間七七四年:2012/11/23(金) 11:39:39.74 ID:HRCXv3lr
静かに受け入れたのも罪滅ぼしだったのかもね
545人間七七四年:2012/11/23(金) 11:58:25.63 ID:Ol09G7q6
きっと酒が入っていなかったんだろう
546人間七七四年:2012/11/23(金) 16:24:58.24 ID:KLdq6rtb
是非もなしって感じかな
547人間七七四年:2012/11/23(金) 18:19:42.11 ID:wu7IoVQ1
二条城において福島氏改易の処置を論じた一件以来、藤堂高虎は井伊直孝に
含むところがあって直孝とは不通となっていた。
>>541の直前?http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3838.html

この時、改易は京都で伝えると結論が出ていたのだが、高虎は
若年ではあるが末座の直孝へも話すべきではないかと秀忠に言った。
しかし召された直孝は江戸で伝えるべきだと再三言うので、高虎は直孝に
反対してついには若造は黙れとまで言ったのである。

後に高虎は死に臨んで直孝を招き「今までは京都でのことがあったので
互いに不通のまま打ち過ごしてきましたが、此度大病のために既に
露命も窮まりました。ですからどうか倅の大学のことを頼み入り申す。
万事よろしく御引廻しくだされ」と念入りに頼んだ。

直孝も「大学頭殿のことは絶対に手抜かりのないように承知しております。
懇意に通じていきますとも」と返答した。これより両家はかつてのように
心安く出入りするようになった。

――『名将言行録』
548人間七七四年:2012/11/23(金) 23:50:04.87 ID:nHSjt1hS
国許で改易を伝えたら合戦になってたな
549人間七七四年:2012/11/24(土) 16:36:38.14 ID:N6nvx2T2
大坂落城後、重臣の進言通り、備後を返上していたなら
福島家は存続してたのかな?
550人間七七四年:2012/11/24(土) 17:07:12.77 ID:QdRWouJn
ある日、安藤直次が同じ苗字の安藤重長のところへ「今晩そちらへ
参って料理を賜りたい」と申し伝えた。重長は「これは珍しいことだ。
何を思はれて申し越されたのだろう」と殊の外喜んで直次を饗応した。

直次は機嫌良く料理を賜り、緩々と話して帰っていった。
その後、重長は刀が残されているのを見つけ「うっかりお忘れになったのか」
と思い、近習に命じて直次の乗物を追わせた。

乗物に追いついた近習は側に寄って「御腰物でございます」と申し上げた。
すると直次は乗物の戸を開けて中より刀を取り出し「武士が刀を忘れるわけ
ないだろう」と言って刀を見せると、戸をひしと閉じて帰っていった。

仰天した近習が重長にしかじかと報告すると、重長は何かを察して涙を流した。

「さては今度在所へ帰国される時に隠居なさるおつもりであるぞ。
その刀はそれがしに形見として賜わるということに違いない」

重長の思った通り、直次はその月すぐに紀州へ帰りその年のうちに隠居した。

――『名将言行録』
551人間七七四年:2012/11/24(土) 19:50:56.20 ID:01bEDd5W
安藤さんは粋だなぁ
552人間七七四年:2012/11/24(土) 20:11:18.83 ID:veBfM4Uc
三河者は面倒臭いけどカッコいいよな
553人間七七四年:2012/11/24(土) 20:52:57.25 ID:a+JjAOIw
めんどくさくない三河者など石川数正と本多正信しかおらん!
554人間七七四年:2012/11/24(土) 20:56:52.15 ID:LnYNdIpJ
>>553
御大将の家康はどうだったんだろう?w
555人間七七四年:2012/11/24(土) 21:24:06.04 ID:veBfM4Uc
本能寺の時には信長の後を追うとか切腹するとのたまって忠勝に窘められたりとか
腫れ物出来た時にはムカついて無理矢理膿を出したら悪化して生死の境をさまよったりとか、
その時に遺言とか形見分けをし始めて死ぬ気満々で医療を拒否し始めて作左に叱られたりとか、
わりと面倒くさい
556人間七七四年:2012/11/24(土) 22:03:10.72 ID:ZeZjyIdy
方向性は違うが本多正信もかなりめんどくさいと思う。
557人間七七四年:2012/11/24(土) 22:25:07.04 ID:/MJ8+Crr
>>550
ググったら、安藤重長は、安藤直次の弟の安藤重信の跡継ぎなんだね

実際には、重長は重信の娘の子(外孫)なんだけど、養子ということに
して跡を継がせた
重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父

つまり、ふだんあまり付き合いのない親戚のオッチャン(しかも幕府の
老中もつとめたエラい人)が突然訪ねてきて、機嫌よく飲み食いして
帰っていったというお話
558人間七七四年:2012/11/24(土) 22:26:37.34 ID:/MJ8+Crr
>>557
>重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父

失礼、訂正。
○重長からすると、直次は形の上では伯父、実際は大伯父
559人間七七四年:2012/11/25(日) 00:16:56.97 ID:3jF6m7+6
直次さんは三河者のなかでもかなり異色だと思う
田舎臭さがなく結構粋だよね
560人間七七四年:2012/11/25(日) 03:38:56.83 ID:CJcrbyrs
死ぬ死ぬ言う奴に限って死んだためしが無いてのを地で行ってるな、家康て
561人間七七四年:2012/11/25(日) 04:29:08.05 ID:UJeJOoWB
瞬間沸騰型だがすぐ冷静になるんだろうね
562人間七七四年:2012/11/25(日) 04:45:47.47 ID:V3jPIT9D
そういう逸話にしないと盛り上がらないだろ
563人間七七四年:2012/11/25(日) 14:02:43.82 ID:jVWuSVCU
北条氏康の叔父・幻庵と申す人は、久野という所に居住していたため、久野幻庵とも
呼ばれていた。

この人、初めは箱根別当として出家され、真言の学問を残らず学ばれた。
その上、伊勢氏は代々、巧みな鞍を造るのを家伝としており、早雲寺殿も幼少より嗜んでおられた。
そうであったが北條の系図を請けて、嫡男の氏綱は北条であるということでこの技術を相伝せず、
幻庵は出家の身であったが、生来細工の才能があり、伝わる鞍の製造技術を尽く習得した。

これだけではなく、弓の製作も習得し、矢を剥ぎ弦をさす事、世に並びのないほどであった。
また石台を作り、茶臼を作ることにも優れていた。
その上武勇にも優れていたため、出家の身から、再び武士への還俗された。

又、幻庵は尺八を作ることにおいても名高かった。彼の作った尺八は、『幻庵切りの尺八』と呼ばれ、
彼の作った一節切りの尺八は都鄙に流布し、禁中よりもご所望があった、

これによって関東では尺八が大変に流行り、小田原では若侍たちが、皆これを愛好したという。
(關侍傳記)
564人間七七四年:2012/11/25(日) 14:51:37.81 ID:atcxirTv
モノづくりが好きな人だったのか
565人間七七四年:2012/11/25(日) 14:54:07.41 ID:IaK7GtWI
何がすごいって97歳まで生きて後北条滅亡の前年に死んでいるという
566人間七七四年:2012/11/25(日) 16:30:48.46 ID:z/Cm6AV4
>>565
あと10年生きてれば北条もどこか一国貰って復活してたかもな
567人間七七四年:2012/11/25(日) 16:31:39.67 ID:8NnuOFlf
へー若侍たちに尺八が流行ったんだー(ゲス顔)
568人間七七四年:2012/11/25(日) 17:00:49.09 ID:OjyjOhZ+
>>566
幻庵じゃなく氏直があと十年生きていればな・・・
569人間七七四年:2012/11/25(日) 17:58:59.37 ID:GKQf6RL1
織田の家臣に弓の名手某がいた。織田信長はその話を聞いて腕前を試したいと思い
演射場を設け日を選んで赴きこれを見物した。

ところが他の侍たちは皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は一矢も当てることが
できなかったので信長を満足させられなかった。信長は帰ると「見るのと聞くのでは
違うな。人の言葉など当てにならないものだ」と述懐した。

その後、一揆が蜂起しその勢いはすこぶる激しく、信長は自ら将としてこれを討った。
この時、大勢の者たちがしりごみして進まないなか、某は信長の馬前に立ち弓を
いっぱいに引き絞って縦横に放射した。その矢はおおむね外すことなく、賊徒は
このために退却した。

これを見て信長は「なんと深き技よ。あの時、矢が当らなかったのは当てることが
できなかったのではない。余力を養って他日に功を立てようと望んだのだ。
諺に能ある鷹は爪を隠すというが、確かにその通りだ」と感嘆し、厚く褒美を与えて
某を賞した。

――『近古史談』
570人間七七四年:2012/11/25(日) 18:05:04.16 ID:cOAcGLLX
実は忠勝のように実戦には向いているけど
練習は下手なだけだったりして
571人間七七四年:2012/11/25(日) 18:15:08.83 ID:m0zzi1T0
一夢「あの時は爪を見せる時期では無いと思い温存しました」
572人間七七四年:2012/11/25(日) 18:15:37.01 ID:GKQf6RL1
>>569
申し訳ありません訂正します。
×皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は
○皆多くが矢を当てたが、終日射ったのに某は
573人間七七四年:2012/11/25(日) 19:38:54.08 ID:OzOieAs2
普段は緊張して人前で力を発揮できないタイプなんだろう
なりふり構わず必死になれば本来の力を発揮するみたいな。
574人間七七四年:2012/11/25(日) 20:20:32.23 ID:8NnuOFlf
逆稲富さんか
575人間七七四年:2012/11/25(日) 20:54:38.72 ID:V++vXSTn
>余力を養って他日に功を立てようと望んだのだ。

これはさすがに無理矢理だと思いました
本番に強いタイプなんだろう
576人間七七四年:2012/11/25(日) 21:26:28.36 ID:161YWbBU
「動かない、痛がりもしない的だとヤル気がしないんですよね…」
577人間七七四年:2012/11/25(日) 21:30:27.31 ID:IL7boC/N
むしろ緊張しいで戦場だと吹っ切れてアドレナリン出まくりだから当たるとか?
578人間七七四年:2012/11/25(日) 21:48:22.64 ID:CJcrbyrs
生きた的じゃないと当てらんないんスよヒャッハー

的な何かとか…
579人間七七四年:2012/11/25(日) 21:56:32.60 ID:25XWbAOY
アレか、生餌しか食べない一部の野生生物みたいなものか。
580人間七七四年:2012/11/25(日) 22:04:03.79 ID:OjyjOhZ+
それ、戦場でも同じ事言えんの?

なAAを連想した
581人間七七四年:2012/11/25(日) 22:33:30.74 ID:uCDCw6Cz
何某「自分の弓は見世物ではござらん」
582人間七七四年:2012/11/25(日) 23:12:24.98 ID:BY8mcfyc
大槻磐渓(近古史談の著者)は結構興味深い人だな
スレ対象外な時代の人だけど
583人間七七四年:2012/11/26(月) 09:04:25.19 ID:8GRBGtLK
>>576,578
お前らのせいで、悪い話になっちまったじゃねーかww
584人間七七四年:2012/11/26(月) 09:33:53.20 ID:NjPRmEbA
なんか信長の性格だと「以前儂の前でわざと手を抜きおったな!」て逆に怒りそうな気もする
585人間七七四年:2012/11/26(月) 09:38:25.35 ID:uKbG1Sij
>>584
役に立つならどんな人でも重用する人だよ。
586人間七七四年:2012/11/26(月) 10:46:24.87 ID:ZpyraGFx
信長が実戦での活躍を見て、前の演射場でのぱっとしなさをフォローしてくれるいい話
587人間七七四年:2012/11/26(月) 10:51:06.88 ID:7Jirq2xh
本当は使えねえから肉壁にするつもりだったとはとても言えない
588人間七七四年:2012/11/26(月) 11:11:06.41 ID:ogcdr5SB
信長って人を見る目はないと思う
589人間七七四年:2012/11/26(月) 12:27:54.41 ID:5j9NCcQK
戦場で当てられるんだから練習でも当てろよ
と叱るわけにもいくまい
そんなの言われたら確実にやる気なくすよ
590人間七七四年:2012/11/26(月) 16:09:01.90 ID:7ZA97t50
>>584
ノブは性格より機嫌が良い時と悪いときの落差が激しいんで…

多分この時は自ら出馬しての勝ち戦で上機嫌だったんだろう
591人間七七四年:2012/11/26(月) 17:38:34.14 ID:KOnqzRZ7
>>588
ある方だと思うけどなぁ
これを見抜くのは至難の業だよ
しかも最終的には認めてるし
592人間七七四年:2012/11/26(月) 17:40:47.85 ID:fv8Yc8Y/
ノブは人を見抜く目はあるが察する心がない
593人間七七四年:2012/11/26(月) 17:47:08.15 ID:eI89sZWP
能力を見抜く力はあるけど、その人間の気持ちなり感情を察する力がない って感じかね〜
つか、自分以外の者も自分と同じ考えをすると思ってそうだからな〜
594人間七七四年:2012/11/26(月) 17:48:42.10 ID:L1IjBxPi
そうか?信長公記だけでもその手のエピソードはそれなりにあるぞ?
595人間七七四年:2012/11/26(月) 18:42:17.91 ID:/16afk86
察する能力高いのってラスボスとかたぬきさんとか?
596人間七七四年:2012/11/26(月) 18:46:56.06 ID:VSIyx/om
>>595
ラスボスの洞察力は凄いと思う。家康は、ホトトギスじゃないけどモノになるまで待てる感じ。
信長は良くも悪くも育ちの良さからくる人の良さを感じる。
597人間七七四年:2012/11/26(月) 22:59:33.16 ID:hma1LAxA
天然理心流みたいに実戦には強いけど、模擬戦はからきしみたいなもの?
598人間七七四年:2012/11/26(月) 23:33:33.87 ID:ORpphC3O
二人の騎将が大きな背旗を負い、大保衣を佩びて陣営の前を過ぎるのを見た
豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。

使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。

二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助、楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。

――『近古史談』
599人間七七四年:2012/11/27(火) 09:05:29.22 ID:WR+T6pHf
下馬するしないでけっこう揉めるよなあ
でも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も
600人間七七四年:2012/11/27(火) 10:37:14.67 ID:Qx1w0kiF
ぶっちゃけこの礼儀知らずの使者はよく斬られずに済んだもんだ。
601人間七七四年:2012/11/27(火) 10:43:18.94 ID:SwUk9bgw
豊臣直属を斬れるわけがない
602人間七七四年:2012/11/27(火) 12:25:17.12 ID:LWIGGGqm
この下馬する・しないってのはホントに火種になるよな
使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう
603人間七七四年:2012/11/27(火) 12:27:40.80 ID:cXcv4PNS
長尾景虎改め上杉政虎が...
604人間七七四年:2012/11/27(火) 15:32:08.28 ID:eahOQBlN
島津豊久「○★下馬×△○〜○ごわす!」
605人間七七四年:2012/11/27(火) 15:37:34.00 ID:NJOxbHj5
成田さん「ちょっくら水堀数本増やしてくるノシ」
606人間七七四年:2012/11/27(火) 21:24:28.28 ID:XOBI6aC/
現代で言えば車の窓から顔だけだして要件を伝えるようなものかね
607人間七七四年:2012/11/27(火) 21:25:43.66 ID:CgL4870A
608人間七七四年:2012/11/27(火) 21:54:29.04 ID:UbDSylm2
相手も騎馬なんだから別にいいじゃんと思っちゃうけど、そういうもんじゃないのか
609人間七七四年:2012/11/27(火) 22:14:25.36 ID:Lzd8dpMl
もともとは敵意のなさを示す動作だったのが礼儀作法化していったのかもな
挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる
610人間七七四年:2012/11/27(火) 22:45:46.92 ID:UUbXdFOe
右手の手首を左手で握りながらその右手で相手の左手首を、
双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?
611人間七七四年:2012/11/28(水) 01:11:03.69 ID:n0oLrGDd
織田信長が槇島の足利義昭を攻めた折、連日の暴雨によって宇治川は増水して
渡ることも困難であったが、信長が水のほとりに立って「先にこの河を渡るのは誰だ!
古の梶原も佐々木も鬼神ではないぞ!」と、言い終わらないうちに上流より一騎が
流れを乱して宇治川を渡った。

信長は「必ず梶川弥三郎だ、余人ではない! 天晴れな勇士をむざむざ敵に討たせるな!」
と命じ、大勢が競ってこれに続いてついに岸に上り勝利を得た。

初め梶川は博奕を好んで人々に除け者にされたが、信長は独りその勇を愛し、
「急難のある時はこれで功を立てよ」と名馬を与えた。梶川は感涙して「この馬で
先駆けできなければ生きては還らない」と自ら誓い、ここに功を立てたのだ。

大槻磐渓曰く、
「宇治川の先登について世の人は梶原と佐々木だけを知り、梶川を知る者は少ない。
梶原、佐々木は馬を並べて先陣を争ったわけだが、さて梶川の最も勇壮な単騎直進に
及ぶのはどちらであろうか。どちらも及ぶわけがないのだ」

――『近古史談』
612人間七七四年:2012/11/28(水) 05:26:58.54 ID:CiJOS1Ku
日頃はどうあれ、一世一代の博打には勝ったんだな
613人間七七四年:2012/11/28(水) 06:53:12.68 ID:eYxSm6Lj
馬もらって泣いて奮迅するとは純な奴だ
614人間七七四年:2012/11/28(水) 10:46:47.32 ID:yQqXJ/+H
増水した川を渡るなぞ無理過ぎw
615人間七七四年:2012/11/28(水) 13:23:30.34 ID:wAyX7EF7
いや、後ろに鬼武蔵と三歳さまがいればやるおでもやろうとするだろうな
616人間七七四年:2012/11/28(水) 17:20:58.99 ID:SA0DTyXM
>>540
だーからー盛って無いってー、
(-。-; 和智、赤川一堂より。
617人間七七四年:2012/11/28(水) 20:06:58.17 ID:c1HYOeAe
前門の大水 後門の政宗
618人間七七四年:2012/11/28(水) 20:56:36.64 ID:sbemlcRK
信長はハミ出し者の扱いがうまいね
鼻つまみ者のギャンブラーが名を残す勇者になっちまうんだから
619人間七七四年:2012/11/28(水) 21:02:31.70 ID:jkEDPsjh
>>613
権現様「馬上でフンジンとな!」
620人間七七四年:2012/11/28(水) 23:49:05.47 ID:7gcmoWU5
「つんつくおどり」
現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。

説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。

そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。

こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。
621人間七七四年:2012/11/29(木) 20:54:38.49 ID:CYfM9YTg
前に出ているかもしれないが岩屋城に関するお話

高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。

大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。
622人間七七四年:2012/11/29(木) 21:03:11.22 ID:CYfM9YTg
続き

大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。

これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。
623人間七七四年:2012/11/29(木) 21:12:41.15 ID:CYfM9YTg
続き

大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。

その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。

浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。
624人間七七四年:2012/11/29(木) 21:54:11.70 ID:oQXW4n1B
生きるのも死ぬのもどっちもつらいだろ
優劣つける必要ない
625人間七七四年:2012/11/29(木) 21:58:28.03 ID:5Za6BvO6
いい話だと思うよ
626人間七七四年:2012/11/29(木) 22:34:39.91 ID:CG4P9gBD
>>624
そこに拘らなかったら侍じゃないと思う
627人間七七四年:2012/11/29(木) 22:47:30.88 ID:oQXW4n1B
>>626
なるほど
では生きるか死ぬかどちらに理屈をつけるべきだろうか?
628人間七七四年:2012/11/29(木) 23:08:08.85 ID:IJMIozKW
やっぱ島津忠長は情の深い名将だな
某SLGじゃ出てこないかモブ扱いだけどさ
629人間七七四年:2012/11/29(木) 23:33:50.19 ID:CG4P9gBD
>>627
そんな難しいことわかんねえよ
ただ生きることに理屈はいらないけど、死ぬ時にに生きてて良かったって思うためには死ぬ理由はあった方がいいかもしれない
矛盾してるか
630人間七七四年:2012/11/30(金) 17:22:35.00 ID:pUBJW8Va
宮本武蔵
「武士の兵法に関していろいろな論が世にあるけれど、
何を初心者の技とし、何を武士道の奥義と区別しているのだろうか。
あらゆる芸事には、これが極意である、
これこそが秘伝であるなどと言う奥義が伝わっているものだが、
いざ敵と斬り合うときには、
初心者の技で斬るとか、この場合は奥義を使うなどの区別はない。
我が流派では、初心者にはまず合理的に勝つための技術を教え、
論理で伝えられないところは、
その者の心のわだかまりや執着が薄れる頃合いを見計らって、
次第次第に深いところの理を体得してもらえるよう心がけている。
とは言っても、兵法とは突き詰めれば斬り合いの場での術を学ぶこと。
それ以上でも以下でもないのだから、もともと奥義なんてものはない。
例えば、山奥に行こうとして辿りつき、
そこからさらに奥を目指せばまた入口に出てくるようなもの。
それは兵法に限らず、なんの道でも、
深いところの技が効果を発揮する場もあれば、
初心者の技こそが効果を発揮する場面もあるということだ。
他流派にはこれは奥義だからまだオマエには教えられない。
と、言って奥義なる技を隠す流派もあるようだが、
そもそも斬り合いに勝つということにおいて、
何を隠すことがあり、何を顕すことがあると言うのだろうか。
以上の理由から、拙者宮本武蔵は誓紙や罰文などで、
弟子を型にはめ育てる方法を好まない。
兵法を学ぶ人のそれぞれ生まれもった気質才能を大事にし、
その本来の心へ直に至る道こそを教え、
それまでの人生で後天的に身につけた悪いところを捨てさせる。
そして自らの力で誠の武士の道に入るよう教えるのが我兵法の道である。

よくよく鍛練あるべし」【五輪書】
631人間七七四年:2012/12/01(土) 15:07:15.72 ID:YpmGoFtH
ある人が千利休に茶道の極意を問うたところ「茶は適量を、炭は湯が沸くように、
花は野にあるが如く、夏は涼しく、冬は暖かく…これを除きて秘法無し」と答えた。

その人が呆然として「…そのようなことは知っています」と言うと、
利休は「あなたがもしこれを知っているのならば、そのように実行してください。
私は礼物を奉ってあなたの弟子になりましょう」と言った。

側にいた笑嶺和尚はこれを「三歳の童でもこれをよく知っている。
しかし八十歳の翁であってもこれを行うことはできない」と評した。

――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
632人間七七四年:2012/12/01(土) 15:33:52.20 ID:669Qsn1+
3歳の子は知らないだろって突っ込んじゃダメかね?
633人間七七四年:2012/12/01(土) 15:40:15.09 ID:3tkmdVk/
仮にも利休七哲なんだから、知らないことはないだろ
634人間七七四年:2012/12/01(土) 16:01:22.48 ID:TvxLqYCi
要は言うは易く行うは難し、って事だろうから、そこに突っ込むのは野暮ってもんではなかろうか
635人間七七四年:2012/12/01(土) 17:34:59.80 ID:a30u93NX
茶は適量だけでもいろいろ考えられるしな。同じ口一杯でも公家さんと清正さんじゃ大きさ違うだろうし。鬼島津なら普通の温度でも津軽のヒゲさんとかには暑いだろうし冬なら逆だろうし
636人間七七四年:2012/12/01(土) 17:56:47.70 ID:XRs2qPBY
>>635
この場合の適量は濃さの問題なんじゃ・・・
637人間七七四年:2012/12/01(土) 18:37:02.20 ID:WvSaHiAo
おいら時々他人と暑い寒い感覚がズレるしなー。つまり「極意なんてねーよ」と思う
638人間七七四年:2012/12/01(土) 20:14:06.14 ID:nwosr3HU
道具の拵えこそ戦場の心得なり
  後継者の立花忠茂の拵えた陣太刀を見た宗茂が、後に周囲に語った話
「大将は言うに及ばず、武士たるもの諸道具の拵えを派手にするのは悪しきことだ。
 以下に強い者でも、派手な拵えのせいで、遠矢で射抜かれ手負いになっては何の役にも立たぬものだ。
我ら立花の者は、世の常の刀に蟇肌という地味な拵えの立ちで日本はおろか朝鮮に至りて四十四度の
戦場で一度も事を仕損じたことはない」
 これに対して立花壱岐が言上した。
「鎧を着ていると刃渡り二尺三寸の太刀でも抜きにくいので、当節の陣太刀は短めに拵えるそうです」 
「昔、道雪公に仕えていた安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ」
 しかし壱岐の腑に落ちない顔に気づいた宗茂は続けた。
「太刀の抜き方にコツがあるのだ。一度に抜けぬ時は、中間を取って抜けば良いのだ。もし間に合わない
ようなら脇差を抜けば良い。また馬上にて太刀を抜くときは、柄を逆手に取って抜けば馬に当たる気遣いもない。
小脇差とて抜き打ちにするとしくじって馬を傷つけるので心せよ」

 戦国生き残りの武将、立花宗茂のちょっと役に立つ良い話    (浅川聞書より)
639人間七七四年:2012/12/01(土) 22:00:18.12 ID:BgQ/w/CT
将校が派手な格好するとマズイという、宗茂公の発想に
第1次世界大戦でやっと辿り着く欧米
640人間七七四年:2012/12/01(土) 22:06:43.45 ID:HHbnuqeE
リヒトホーフェン「まったくだ、パーソナルカラーを塗って戦場で目立とうなど許せぬな!」
641人間七七四年:2012/12/01(土) 22:35:32.34 ID:6uF1uw1O
騎馬状態で刀を使用する場合ってけっこうあったんだな。
642人間七七四年:2012/12/01(土) 22:37:36.80 ID:Ss79z7lE
>>641
そりゃそうだ。南北朝時代だと馬上剣戟全盛。
643人間七七四年:2012/12/01(土) 23:56:29.25 ID:uPIsewsJ
寧ろ騎馬状態だと槍より太刀なんじゃなかったっけ?
644人間七七四年:2012/12/02(日) 00:29:37.31 ID:WHuJOZkt
ランスがあるからなんともいえないけど、
そういえば騎馬民族ってだいたい湾曲した刀剣を振り回してるよな
645人間七七四年:2012/12/02(日) 01:04:29.70 ID:jMM1blfz
馬上からの斬撃は馬と人の体重×走るスピードが加わるから凄い破壊力なんだそうな
646人間七七四年:2012/12/02(日) 01:14:41.69 ID:wM6SK17W
>>644
スゥーっとなぞるように斬れないと持ち手も痛めるからな
647人間七七四年:2012/12/02(日) 10:36:59.25 ID:hn2P8NqH
武具の飾りに金銀を使うと盗まれるからやめとけって
雑兵物語にもあったな
648人間七七四年:2012/12/02(日) 11:01:45.35 ID:VPBbHfJr
>>644
明軍の騎馬隊は皆短めの剣だったらしい
やっぱり長いと馬を傷つけてしまうからだろうね
649人間七七四年:2012/12/02(日) 11:18:08.30 ID:l7pidEiq
全員赤備えで目立てば問題なし
650人間七七四年:2012/12/02(日) 11:39:20.94 ID:IrSTqUOT
でもそれだと個人の武功が分かりにくくなるんじゃあ
651人間七七四年:2012/12/02(日) 12:14:18.39 ID:nA/QW6Fi
刀を抜くのに失敗して切られた人とかもいたんだろうなー
652人間七七四年:2012/12/02(日) 13:09:59.67 ID:VPBbHfJr
>>651
始皇帝「抜けないときは正直ヤバかった。死ぬかと思った。」
653人間七七四年:2012/12/02(日) 13:14:33.31 ID:aE/h0DSu
>>638
安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ

三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...
654人間七七四年:2012/12/02(日) 13:15:58.05 ID:UVRtm4Nf
>>650
わかってやれないような将は赤備えを率いる資格なし
655人間七七四年:2012/12/02(日) 13:35:59.30 ID:6y/Z1ilt
>>650
雑兵の首など打ち捨てよ。目指すは家康の首一つ
かかれぇ!!かかれぇ!!
656人間七七四年:2012/12/02(日) 14:19:06.13 ID:nxs0sbJa
>>649
全員赤備えで遠間から撃たれまくって壊滅したので鎧を捨てて逃げましたby彦根藩士
657人間七七四年:2012/12/02(日) 14:27:08.34 ID:HjRvNDpE
とにかく目立って敵に狙いを付けられやすい赤備えは
余程の精鋭部隊でないと務まりません
658人間七七四年:2012/12/02(日) 15:41:22.50 ID:SgTb1Jl2
里村紹巴は奈良の住人であったが、

「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」

と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、

称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。

やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。

――『日本史伝文選(戴恩記)』
659人間七七四年:2012/12/02(日) 20:31:54.11 ID:ULkjyKm7
蟇肌っていうほど地味か?
660人間七七四年:2012/12/03(月) 21:09:09.62 ID:jz2XSlVk
武蔵国入間郡の箕和田と云う所は鯉の産地であり、その地の町人たちは四百領の運上金を幕府に収めて
鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。

ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。

幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は

「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。

その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。

幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」

そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)
661人間七七四年:2012/12/03(月) 21:30:54.39 ID:zk6K1qku
さすが知恵伊豆
662人間七七四年:2012/12/03(月) 22:00:39.98 ID:HKzcnOmV
鯉なら高くても別に良いじゃないかとちょっと思ったけど食用か
663人間七七四年:2012/12/03(月) 23:11:01.18 ID:32kcS1Ik
立花宗茂流一領具足
「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
                                
                                            (浅川聞書より)
664人間七七四年:2012/12/03(月) 23:40:27.87 ID:gXfRvWke
タダより高いものは無いという教えである
665人間七七四年:2012/12/04(火) 00:01:30.01 ID:+ri9Wriv
>>664
 ここは九州、修羅の国
 一宿一飯の恩義と言って欲しいのう。
666人間七七四年:2012/12/04(火) 00:47:44.59 ID:BNaq4MbT
二代にわたっての助勢の恩義に、婚姻を結ぼう
ただし娘婿は殺す
667人間七七四年:2012/12/04(火) 02:56:30.83 ID:MF0bttPT
九州には一生いきたくないな
668人間七七四年:2012/12/04(火) 10:00:55.51 ID:C3/54/2s
戦国時代的には南、現代的には北以外は大した事ねーから!
669人間七七四年:2012/12/04(火) 10:15:40.37 ID:BNaq4MbT
だから”北九州”は北部九州のことではないと何度も
670人間七七四年:2012/12/04(火) 21:00:00.45 ID:4NbwRqVW
この流れで小ネタではあるが個人的に好きな話

前にも出ていたが、立花宗茂が興行見物に出かけた際に起こった喧嘩を
落ちついた態度で眺めるなど大器の片鱗を見せていたのが8際の頃。

9歳のある日、立花道雪の所に遊びに行くと食膳が出された。

その膳に鮎がのせてあり、宗茂(当時は千熊丸だが)は骨を取りつつ
鮎をおいしく食べていると何か目線を感じる。

ふっと正面の道雪を見ると

(# ゚Д゚)コラ

Σ(゚д゚lll)

(# ゚Д゚)武士なら骨ごと頭から食わんかぁ!

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

雷様直々のお叱り、そりゃ怖いよな。
宗茂らしからぬ、個人的にはちょっといい話。
671人間七七四年:2012/12/04(火) 21:09:31.33 ID:VFuXTFJ0
宗茂は純心だな。
俺なら、「雷を切ろうとして半身不随になった馬鹿が」としか思わん。
672人間七七四年:2012/12/04(火) 21:18:01.51 ID:yYYl/Xuv
>>669
北九州市ってそのへんに手榴弾が転がってて、
何の変哲もない倉庫から対戦車ロケット弾が見つかるんだよね?

>>670
>涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

道雪も噛むなとまでは言ってないと思うがw
673人間七七四年:2012/12/04(火) 21:19:17.42 ID:mUQkG000
まだ一桁の少年に硬い骨を苦いハラワタごと食えとか雷神様も中々無茶を…
674人間七七四年:2012/12/04(火) 21:41:11.61 ID:+Kjv91hx
>>672
噛んだらもっとひどいことになる気がするが
675人間七七四年:2012/12/04(火) 22:56:35.03 ID:r52V4Mxo
戦争経験者だったうちの爺様も、生前は焼き魚を頭から丸ごと骨までバリバリ食ってたな
やはり栄養になるらしいよ…真似するとひどい目にあうけどねw
676人間七七四年:2012/12/04(火) 23:17:00.72 ID:FykM800i
焼き秋刀魚なら全部バリバリ食べれるだろ
おろし大根に醤油つけて一緒に食べるとウマー
677人間七七四年:2012/12/04(火) 23:47:45.25 ID:0sXiHcq5
姉川の戦いで奥平信昌は二騎を斬ってその首を実検に備えた。徳川家康が感心して
「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。

「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」

急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。

かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。

また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。

――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』
678人間七七四年:2012/12/05(水) 00:26:51.09 ID:1p817mw8
奥平って、姉川のあとすぐに武田に付いちゃうんだよね
まあ仕方のないことなんだけど
679人間七七四年:2012/12/06(木) 00:08:05.84 ID:+8ZHISA4
あれ、関ヶ原で小早川の目付に奥平ってのがいたような
680人間七七四年:2012/12/06(木) 01:35:49.57 ID:s2KfBwvj
いるよ
なぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ
681人間七七四年:2012/12/06(木) 08:45:09.89 ID:JWker3cg
>>680
なんて不幸な
682人間七七四年:2012/12/06(木) 13:37:35.30 ID:9PC/hN//
いや、奥平貞治は軍監なのに(むしろ軍監だからか)自ら率先して
小早川隊の前線に立っちゃったからね

正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ
683人間七七四年:2012/12/06(木) 14:39:10.03 ID:OQszhWaW
確か生母に恩賞与えていたはず1000石だったかな?
老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな
684人間七七四年:2012/12/06(木) 15:30:22.99 ID:jLcJ7819
正純さん失脚の遠因のばっちゃんとはまた別の人なのね〜
685人間七七四年:2012/12/06(木) 16:14:35.98 ID:9OcRHLoP
小早川隊の先鋒の松野主馬が
「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね

徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ〜ないな、と
いう感じだったのではないかと

徳川の軍艦死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も

あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。
686人間七七四年:2012/12/06(木) 16:17:55.80 ID:9OcRHLoP
>>685
おっと、訂正
×軍艦
○軍監

失礼しやした
687人間七七四年:2012/12/06(木) 17:56:22.86 ID:MO3aVlm3
>>685
改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…

ソースはない上つまらないけど実家に伝わる話をひとつ。
名前は明かせないけどうちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい。
とある戦で武功がありそれで風呂に入れてもらっただとか手ずから何かを頂いたとかしたらしい。
先祖はえらく感動したそうでこれまで以上に勤め、一度は出奔しようとした息子を斬ろうとしたらしい。
その後その先祖本人は討死。
会津に移ってからのことだそうで葛西一揆の時だろうか。
その後色々あって農民になり一応は現在に続いている。
正月にでも詳しい話を聞きたいんだけど今は別の人の話題でどうも無理っぽい。
よくあるような話ですみません。
688人間七七四年:2012/12/06(木) 22:54:32.36 ID:P8XbksjW
別にソースとかなくてもいいから、
その話をも少し具体的に聞きたい
689人間七七四年:2012/12/07(金) 00:44:44.31 ID:aiyPmoBS
>>688
とりあえず自分が昔聞いた話

・次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
同僚が若気の至りだろうからと諌めてくれてその次男坊は結局他の養子になったらしい。
これほどに恩をかけて頂いた主を見捨て出奔など言語道断、息子を斬り己も後を追うと言ったそう。
・家自体はたぶんそんな名のある感じじゃなくて下っ端もいいところ。
蒲生家に仕えだしたのは討死した先祖の代かそのひとつ前と思われる。
六角家家臣で滅亡後に仕えたのかもしれないけど自分の推測の域を出ないです。
・してもらったことというのがあまり分からない。
物をもらったのか加増されたのかお得意の風呂(はさすがにないと思うけど)なのか
詳しいことはは不明だけど先祖の身分からすると破格のことをされたらしい。
・帰農したのは蒲生騒動の頃?もしくはお家断絶の時か。
けど何人かは石田家に仕え、関ヶ原で討死した者もいるとかいないとか。
・農民として江戸時代を会津で生き抜いた。
戊辰戦争の時には家が元武士であることを聞いた何人かが会津の軍勢に入ったらしい。
一人は当時十代後半、母成峠か白河で戦死した?らしくその後の話はない。
箱館戦争まで参加したという人がいるけどその人のゆくえも分からない。
身分は百姓だし会津を離れることはなかった。
けど維新前後の事情であまり先祖のことを語らなかったので伝わってるのは結構曖昧。
690人間七七四年:2012/12/07(金) 00:55:40.36 ID:2tCtXm5X
先祖の話が残ってるのは羨ましいな
691人間七七四年:2012/12/07(金) 01:05:52.34 ID:kbzzmrWJ
戦国期から幕末期の話が残ってるってすごいな。
うちは苗字名乗るときに島津の殿様(誰かは聞いてないw)から名前貰ったってくらいかな・・・

>次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。

このくだりは海音寺潮五郎の「かぶき大名」で、
水野勝成が父親の忠重に槍でもって殺されそうになったシーンを思い出したw
692人間七七四年:2012/12/07(金) 08:04:41.84 ID:CNOedMMa
>>689
あーりがとー!

俺んとこは、実家が三好性で
婿入り先が鎌倉時代から続く城を守る、武家の一党なのに、
なにもそーゆー話を聞かないので羨ましいわ
神社の脇に漢文でなんかごにゅごにゅ書いてくる位だ
693人間七七四年:2012/12/07(金) 22:10:10.72 ID:8BBo+HZN
ある日、突然十人余りの武士が狩野元信を訪ねて元信が描いているところを
見て、妄りにこれを評してした。その中には織田信長もいた。彼は元信の画を
見るために密かに衆人と共にやって来たのである。

元信はこれに気付いていたが、黙して顧みず脚を机の間に出して画を作り続けた。
客が帰って後、隣人が来て「太守が来たというのにどうして何の礼も無いのだ」
と尋ねると、元信は「彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。それに私は
彼に何かを求めているわけではない。そういうことだよ」と答えた。

――『日本史伝文選(本朝画史)』
694人間七七四年:2012/12/07(金) 22:46:14.99 ID:EVzTm6u2
この時代の芸能人は気骨があるなぁ
権力に全くおもねらない
695人間七七四年:2012/12/08(土) 10:04:23.82 ID:Y0vRFKtc
>彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。

これはその通りだな
こっそり来た人に挨拶したら信長に恥をかかせることになるだろうに
隣人は何を考えていたんだ
696人間七七四年:2012/12/08(土) 11:49:39.21 ID:ynrA/Zmy
こういう時のノブは安心感がある
秀吉はなんかしでかしそうで怖い
697人間七七四年:2012/12/08(土) 15:15:47.38 ID:3t7cDR4o
藩の仲間と集まる機会があり色々と話したときのことだ。
「角蔵流とはどんな流儀ですか」
と聞いてくる者があったから、
「鍋島喜雲の草履取りに角蔵という者がいて、
その者はたいへん力技に優れていたから、
剣術者の喜雲がそれに工夫を重ねて取手の角蔵流と名付けたものです。
これは組討ちやヤワラなどといった偉そうな流儀ではありません。
私が剣術を行うときに心掛けていることも、
それと同じくゲス流で、角蔵の取手のように、
とっさの役に立つものであることだから、
以前から私も角蔵流だと言っているのです。」
続いて、話題は恋の話となり、私は、
「究極の恋は心の中に秘める恋だと覚悟しています。
その人に逢って形に現す恋いでは恋の程度も知れている。
一生、心に秘めて、死んだ後の火葬の煙をその人が見て、
そこではじめてなにかを感じてもらえたならという心こそ、
恋の恋たるゆえんでしょう。歌に、

恋死なん後の煙にそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひは

というのがありますが、これこそが立派な恋だと思っています」
と言ったところ、そのなかの五人が、
「そのとおりですな」
と感心して同意してくださった。
それ以降、五人集まると、
「われらは煙仲間よ」
と笑い合った 【葉隠】
698人間七七四年:2012/12/08(土) 16:16:10.30 ID:QRCWIm9g
またそうやって煙に巻く…
699人間七七四年:2012/12/08(土) 17:30:21.86 ID:gVYu6ZUl
恋に焦がれて鳴く蝉よりも…ということか
700人間七七四年:2012/12/08(土) 18:31:43.18 ID:P09cG/B+
なぜ漏らさないことが真実の恋なんだろう?
奥深すぎてよくわからんわ
701人間七七四年:2012/12/08(土) 18:40:13.73 ID:qMHWH+Hs
秘めている恋は形而上的なものだけど、
それを伝えてしまっては、いろんな現実的なものが押し寄せる形而下的な物に転化するから、
恋の美しさ、純粋さを保つには秘めておくべきだ、という事なんだろ。

まあ葉隠のいう「恋』なんて、ほぼ衆道の恋のことだと考えていいんだがw
702人間七七四年:2012/12/08(土) 18:42:51.60 ID:/O4Wp2si
ほとんど衆道のことというか、
衆道(特に主君に対する恋)こそが真の恋だとかはっきり言ってなかったっけ
703人間七七四年:2012/12/08(土) 19:22:45.32 ID:3t7cDR4o
葉隠の中にもう一ヶ所>>697に関して記述があるんだけど、
単品だとスレの時代範囲を越えてしまうけど参考までに、

『究極の恋の悟りは忍ぶ恋だろう。
恋死なん〜(略)という歌があるが、そのようなものだ。
生きているうちに、自分の恋を打ち明けるのは深い恋ではない。
恋いに焦がれて思い死にする恋が立派な恋だ。
たとえ思い人から、
「もしや、そうなのでは?」
と問われても、
「まったく思いもよらない話です」
と答え、忍びに忍んで口に出さず死ぬのが最高である。
恋というのは何と廻りくどいのだろう。
この前、ある場所でこれを話したら同意してくれる者が数人いて、
その者たちの間で煙仲間と名乗っている。
このことは、世の中を渡る上で全てのことの心得となるだろう。
主従のあいだなども、この心で奉公すればよい。
他人の目の届かないところの慎みこそが、
そのまま公の場所での慎みとなって現れるのだ。
誰知らず一人でいるときも、卑しい行いはせず、
他人には推測できない胸の奥ですらも、
卑しいことなど思わないように心掛けないならば、
どんなに外聞を飾ろうとも、いずれ公に胸の内の卑しさは知られるもの。
急ごしらえで消せるものではない』【葉隠】

とのことらしい
704人間七七四年:2012/12/08(土) 19:25:46.54 ID:Aw/fLFPQ
のちのツンデレである
705人間七七四年:2012/12/08(土) 20:04:18.65 ID:GbC7Nc8l
名香初音由来

細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。

ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。

興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。

三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。

その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)
706人間七七四年:2012/12/08(土) 20:19:41.08 ID:hhcMNr12
競り勝たないと歌仙入りしちゃうからなあ
707人間七七四年:2012/12/08(土) 21:55:40.75 ID:QRCWIm9g
斬り殺した位で恨んぢゃダメだよね

…と、心優しい三斎様は思うのでした
708人間七七四年:2012/12/08(土) 22:03:59.21 ID:IZysI9lN
また相手は仙台様かw
王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
           ↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
709人間七七四年:2012/12/08(土) 22:04:06.47 ID:ynrA/Zmy
政宗に競り負けて安物購入→…絶対死ぬ!
710人間七七四年:2012/12/08(土) 22:04:05.90 ID:gVYu6ZUl
これの詳細バージョンか 愛役は横田清兵衛というらしいね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html

三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど
711人間七七四年:2012/12/08(土) 22:26:36.80 ID:OLCesmLg
心優しいって今と昔とでは意味が違うのか?w
712人間七七四年:2012/12/08(土) 22:54:27.19 ID:2PUqc9rq
>(ホントにこう書いてある)
わざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える
713人間七七四年:2012/12/08(土) 22:54:41.41 ID:hfiJWi3B
>>707
そうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ
714人間七七四年:2012/12/08(土) 22:56:10.32 ID:qMHWH+Hs
ちーちゃんがこんなふうに言われる日が来るとはw

赤崎千夏とかいう次世代ナンバー1声優
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1354974478/
715人間七七四年:2012/12/08(土) 22:56:44.66 ID:qMHWH+Hs
すまん誤爆
716人間七七四年:2012/12/09(日) 00:01:14.27 ID:nkpcJusa
伊達さんちの役人からすると、香木競り合ってただけなのに
何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。
717人間七七四年:2012/12/09(日) 00:19:42.06 ID:b4U4/JMy
それ聞いた政宗が爆笑してる光景が何故か目に浮かぶ
718人間七七四年:2012/12/09(日) 14:52:27.05 ID:wCSDCmbh
っていうか政宗、わざと忠興さんところに騒ぎの種を振りまくために
忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw
719人間七七四年:2012/12/09(日) 15:24:42.84 ID:cUnb5seq
>>687です。ちょっと詳しい話を聞いてきた。
江戸中期頃にこの辺の逸話を書き留めてくれていた先祖がいたらしく、
それをさらに大正ぐらいの人が日記に残してた。

・前にスレに出てた裸鎧の話で何人かが工場長に習って服を脱いだらしいw
うちの先祖が入っていたかは不明だけどそれなりの身分の人も混じっていたとか。
・工場長は家臣の顔と名をよく覚えていたらしい。
・家臣の手柄を褒めたときに何かあげる物がないときはとりあえず蒲生姓をというくらい蒲生さんがいっぱいだった。
・少し関係ないけど戊辰戦争後の会津藩士野ざらしの話も聞いた。
降伏後、少し埋葬を禁止していたら雪が降って土を掘れなくなってしまったそうだ。

それから先祖の同僚の話。
氏郷公が病に倒れるその少し前から臥せっていた者がいたそうだ。
あまり具合はよくなく、年も取っていたらしい。
しかし氏郷公の具合がよろしくないと聞いた途端、病を押して床を上げてしまったそうだ。
その後快方に向かってはいたが、氏郷公亡くなるの報の数日後、ぱったりと亡くなったらしい。
720人間七七四年:2012/12/09(日) 19:36:22.64 ID:DMf07Ddb
(1611年7月5日。この前日、セバスチャン・ビスカイノ一行は、駿府城において
徳川家康との会見を行った)

『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。

しかし、すぐに次のように言った

「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。

私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」

我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。

その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。

使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

本多正純の廉潔、についての記録である。
721人間七七四年:2012/12/09(日) 19:44:45.55 ID:twLCN4Fg
この辺も正純と三成は似ているなあ
722人間七七四年:2012/12/09(日) 20:53:21.21 ID:S3kKq5Re
>>721
三成は普通に受け取ってるでしょ。
723人間七七四年:2012/12/09(日) 21:23:14.71 ID:FULY31Rh
受け取った上で、大御所に報告するなり献上するなりすれば良かったのに
724人間七七四年:2012/12/09(日) 22:17:03.58 ID:UbfwYRJ/
 出羽の国、会津との県境の岩倉の山裾に伊藤豊後を始めとした伊藤家の祖先の墓碑がある。

 この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
 天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。

 やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、上杉方として参戦。
 だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。

 直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において会津との境の守備役に任じた。

 九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。

 地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は「伊東」が正しいと思うんだ。
 なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
 ……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。
725人間七七四年:2012/12/09(日) 22:17:43.30 ID:mkdcHAvr
他国からの高価な贈り物だからな
報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ
726人間七七四年:2012/12/09(日) 22:33:35.76 ID:0W2BG9LS
>>725
そう考えると受け取らないほうが悪い気がしてきた
727人間七七四年:2012/12/09(日) 23:44:58.04 ID:mkdcHAvr
なぜそうなるんたw
他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ
728人間七七四年:2012/12/09(日) 23:53:41.54 ID:w8xpyTjr
徳川家康の新参の家臣に神谷与七郎と言う者がいた。
ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。

スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った

それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。

「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」

そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
729人間七七四年:2012/12/09(日) 23:58:52.36 ID:PJ/srUfv
(キリッ
730人間七七四年:2012/12/10(月) 00:02:20.83 ID:KBp7TqaX
>>728
既出
731人間七七四年:2012/12/10(月) 00:26:38.76 ID:LtMemSnc
732人間七七四年:2012/12/10(月) 04:14:35.53 ID:F0ft9ji4
既出というかコピペだな
733人間七七四年:2012/12/10(月) 09:20:54.88 ID:yiTP4QW9
しかも尻切れトンボで放置かよ
734人間七七四年:2012/12/10(月) 14:13:16.34 ID:vVqFCsqu
>>724
島津と大友の間で揉まれていつの間にか居なくなってた伊東氏、そんな所で頑張ってたんだなぁ
735人間七七四年:2012/12/10(月) 18:53:51.03 ID:MgMcFtCU
千利休は武野紹鴎に茶を学んだ。紹鴎はその才を試してみようと思い、
僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。

利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。

そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。

――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
736人間七七四年:2012/12/10(月) 21:12:46.09 ID:zcsSTXjR
真田幸村と伊達政宗が直接対決したことあるの知ってた?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
737人間七七四年:2012/12/10(月) 21:36:40.40 ID:C3FsAhZV
>>735
有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)
738人間七七四年:2012/12/10(月) 23:39:43.70 ID:OqQtauyC
>>719
おお、追加の話ありがとうございます!
いろんな伝わりかたあるんだな
739人間七七四年:2012/12/11(火) 02:45:59.87 ID:y5JZlojb
秀吉公は人に逢えばいつも「吉い夢を見たか」と尋ねる。

諸大名が来て謁する度に酒宴を催して丁寧にもてなし、あるいは囲碁を打ち、
茶をたて、歌謡や能楽などそれぞれの好みに従って愉快を尽くしていたのである。

要するに皆人の心を引き付け、握るためである。これは心が広く度量が
大きかったのであって、いわゆる天からの授かり物なのか、そうではないのか。
私が思うに天授であろう。

――『近古史談』
740人間七七四年:2012/12/11(火) 18:28:56.51 ID:MDsAJeiJ
来年開催される
茶道具名品展に行こうと思うんだけど
戦国板民的には何に注目してみれば良いかな?
九十九髪茄子は当然チェックするとして
http://www.seikado.or.jp/fl_01_2013_01a.jpg
http://www.seikado.or.jp/010100.html
741人間七七四年:2012/12/11(火) 20:32:19.96 ID:fJz8buMZ
どーんと出てる曜変天目スルー?
信長が持ってたり(コレは本能寺で焼けたらしい)家康が持ってたり
同じ模様の茶碗は現存3個だったり(全部国宝)
再現しようと後世の陶芸家が人生注ぎ込んでたりとなかなかドラマチック。
見た目の妖しさもたまらん。
742人間七七四年:2012/12/11(火) 21:35:18.90 ID:brHQgQj5
>>740
??「ゲヒヒヒヒヒ、拙者の作った花入とて良いものでござるよ」
743人間七七四年:2012/12/11(火) 22:31:28.62 ID:vP7HWZQu
美術には興味が無いが、これは行ってみよう
744人間七七四年:2012/12/11(火) 22:54:02.66 ID:Lmq2x0dX
井戸茶碗はいいぞ〜、一見貧相でビンボ臭いが
土からにょきにょき生えてきたような力強さと暖かさ、
そして何よりも天衣無縫な無垢の風情がある。
井戸の良さが分かったら君も三斎さまやゲヒ殿の仲間だ!
745人間七七四年:2012/12/11(火) 23:21:45.63 ID:Ye7Kc8JL
こういう名品の中にそつなく入ってるゲヒ殿はやっぱすごいんだな
746人間七七四年:2012/12/11(火) 23:23:42.60 ID:qIZco8yB
鎌田新介「うむ、井戸は良いぞ。井戸サイコー!!」
747人間七七四年:2012/12/11(火) 23:25:47.46 ID:wMrRmq/a
二俣城兵「ああ、井戸最高だよな・・・、井戸さえあればクソっ
748人間七七四年:2012/12/12(水) 05:12:31.68 ID:dEDKJLct
鬼柴田「井戸?無ければ瓶を割ってハッタリかませJK!」
749人間七七四年:2012/12/12(水) 06:30:14.24 ID:2RxkZ+Lr
花入は竹のようだけど昔の日本でどうやったらこんな渋い茶色になるんだろう?
750人間七七四年:2012/12/12(水) 10:19:13.76 ID:p8wEpweF
作った時は青々してたと思うよ
751人間七七四年:2012/12/12(水) 10:47:13.22 ID:bSyhxQ0u
青竹でも煤竹でも、四百年ほど大事にしておけば程良い古色に
752人間七七四年:2012/12/12(水) 11:26:38.12 ID:71tMdzYn
手っ取り早くというなら燻し竹という手も。
753人間七七四年:2012/12/12(水) 14:58:22.95 ID:NFN2iKPF
長い時間をかけて完成されていく芸術品ってなんか歴史のロマンを感じるね
754人間七七四年:2012/12/12(水) 16:54:27.71 ID:IzHhLh63
本能寺の変で国宝級の名物が大量に焼失したと知ってから
光秀には一切同情出来なくなった
755人間七七四年:2012/12/12(水) 17:35:52.35 ID:p8wEpweF
馬場信春「文化財は」
伊達政宗「大切に」
松永弾正「扱いましょう」
756人間七七四年:2012/12/12(水) 17:49:53.63 ID:DWwV7Fb9
大坂冬の陣の際、徳川家康は諸口を巡視せんとただ一騎城の堀際まで馬を乗り回した。
皆が馳せ出て供奉しようとしたのだが、本多正信が制し止めた。

家康は素肌に鷹の羽を散らしたはな色の羽織を身につけ、鹿毛の馬に乗って城溝の辺りに
立った。城中より撃ち出される弾丸が雨のように降り注いだがいささかも怖れず、加賀越前の
丁場まで巡視して住吉の陣へ戻っていった。

この時のことであろうか、弾丸がしきりに降り注ぐので正信は「こんな所に長居されては
危険です。早くこの場を離れてください」と言うも、家康は聴く耳を持たない。

そこへ初鹿野信昌と横田尹松が進み出て「殿はもとより鉄砲の激しい所をお好みですから、
ここより船場の陣には大砲を仕かけてありますので、ちと御覧くだされ。いざ御供いたす」
と進言すると、家康は船場の方へ馬を進めた。

そこは蜂須賀家の持口で城より遠いので弾丸の来ることは稀であった。
「大将が巡視に出て弾丸が恐ろしいと引き返せば三軍の示しにならない。さすがかの両人は
甲州者だけあって軍陣の法に練熟しておる」と家康はいたく賞誉した。

――『徳川実紀(大坂覚書、感状記)』

一方、息子も似たようなことをやっていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3141.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1681.html
757人間七七四年:2012/12/12(水) 18:05:09.29 ID:DWwV7Fb9
>>756
すいません、ちょっと訂正します。
×大砲を仕かけて
○大筒を仕かけて
758人間七七四年:2012/12/12(水) 18:27:00.74 ID:VvM1rm7R
>>754
まぁそのなんだ、延暦寺の焼き討ちも
759人間七七四年:2012/12/12(水) 18:38:37.12 ID:Iwm4yr/n
家康が裸で鷹の羽だけ付けてたのかと一瞬思っちゃったよ
760人間七七四年:2012/12/12(水) 18:49:30.55 ID:CFkShBtG
>>756
このスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。
761人間七七四年:2012/12/12(水) 19:29:52.90 ID:5C2y/gx8
この時代の素肌は裸のことじゃなくて鎧をつけていないことって
前この板で教えてもらったよ
762人間七七四年:2012/12/12(水) 20:04:56.01 ID:R9HsZojG
素肌攻めじゃな
763人間七七四年:2012/12/12(水) 20:18:57.87 ID:v4yYEJ1c
>>760
毛利秀元「戦闘の最中に弁当とかバッカじゃないの?」
764人間七七四年:2012/12/12(水) 20:57:11.38 ID:y5DqHaZ7
>>758
しかもそっちのほうは古代・中世歴史資料の宝庫だったろうしね
765人間七七四年:2012/12/12(水) 21:59:58.43 ID:y3Mapzw0
園城寺「余計なことするからだよ」
金剛峯寺「もう少しで危なかったぜ」
766人間七七四年:2012/12/12(水) 23:40:35.55 ID:v4yYEJ1c
>>754
国宝といえば、あの金閣が、無事終戦を迎えたと思ったのに放火犯のせいで
灰になっちまったよな。

上杉と武田が好きな身としては、光秀の行動は敵討ち&天佑神助に他ならぬ。
767人間七七四年:2012/12/13(木) 11:19:07.67 ID:ybktTOB5
>>765
園城寺の焼き討ち避難スキルは異常
なんであんなに繰り返し丁寧に焼かれたのに文物が残ってるんだよw
768人間七七四年:2012/12/13(木) 13:01:19.67 ID:Nve3RQsU
近所に焼き討ちの後法灯をここから持っていったんだよって伝承のある家があるんだよな
もちろん嘘の伝承なんだけど
769人間七七四年:2012/12/13(木) 18:22:11.73 ID:yjCfw0+O
>>764
よく考えたら東大寺文書クラスの巨大資料があっておかしくないはずなんだよね
東大寺も南都焼討とか焼けてるのに残ってるが

日向で寺社を焼きつくした大友宗麟もそうとう日本史上の損失を出してると思うが
770人間七七四年:2012/12/13(木) 18:29:18.58 ID:M2ffKdI/
そのあたり言い出したら家康だって三河で寺を元通りにしているし
771人間七七四年:2012/12/13(木) 18:40:25.64 ID:/KE61Dyr
>>770
まぁあれは新興宗教なので・・・
戦国時代初期の三川に関する資料は失われたかもしれんが
772人間七七四年:2012/12/13(木) 18:46:12.24 ID:CYXWa7OJ
まぁ宗教同士で焼き合う時代だし
773人間七七四年:2012/12/13(木) 18:51:03.85 ID:39jGsrDY
>>771
俺らはどうしても宗教施設ではなく資料の保管庫としてみてしまうからなw
774人間七七四年:2012/12/13(木) 22:33:29.50 ID:D5rAFJin
な〜に応仁の乱に比べればどうってことない
7751/2:2012/12/14(金) 06:02:36.12 ID:djwypYrW
『…(江戸に)到着二日後、皇太子(徳川秀忠)が海の長官(向井正綱)に、私を2度訪ねさせた。
秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。

あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。

主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。

隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。

第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃、のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。

第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。

厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。

その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。

我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
7762/2:2012/12/14(金) 06:03:22.59 ID:djwypYrW
皇太子(秀忠)は私を大広間で待っていた。その中央に段が3つあり、7歩ないしは8歩ばかり前方に、
床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。

私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。

皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。

私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。

以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
777人間七七四年:2012/12/14(金) 08:08:43.87 ID:wDwyjJQi
>>775
>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

畳の説明が新鮮だw
778人間七七四年:2012/12/14(金) 08:29:58.95 ID:CkYXP0aP
>>771
新興宗教って・・・、浄土真宗は鎌倉仏教ですがな。
三河一向一揆の寺の開基も鎌倉時代だし。
779人間七七四年:2012/12/14(金) 14:55:53.82 ID:4jQEhxxK
うん、新興宗教だな
780人間七七四年:2012/12/14(金) 17:04:12.73 ID:qw3BQS3p
>>776
こういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな  同じだと思ってた
781人間七七四年:2012/12/14(金) 17:25:54.69 ID:2nZvKz8E
二十六日、徳川家康が徳川秀忠を茶室に迎えて茶をすすめる。
日野亜相、京極忠高がこれに相伴した。

やがて本城に移り秀忠が本日の謝詞を述べる。この時家康は秘蔵の楢柴、
投頭巾扇付という名器を取り出し「好きな物を取られよ」と言い、秀忠は
投頭巾を請いうけて西城へ帰った。

その後、近臣らが「今日、御所は殊に御悦びでした」と家康に申し上げると、
家康は「汝等も将軍投頭巾の茶宴に巡り会うだろう」と、顔じゅうに笑みを
浮かべたという。父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。

――『徳川実紀(駿府政事録、創業記)』
782人間七七四年:2012/12/14(金) 18:02:21.54 ID:2nZvKz8E
>>781
すいません、ちょっと訂正します。
×父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
○父子の睦まじい姿に見聞きする群臣は涙を流して感激した。
783人間七七四年:2012/12/14(金) 19:11:16.06 ID:YmFPR2w8
>>775
当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
784人間七七四年:2012/12/14(金) 20:23:20.10 ID:CZ8OZ3WJ
本当の意味で廃れてたら現代まで伝わってないよね
785人間七七四年:2012/12/14(金) 20:44:32.36 ID:lfOcY0i3
大東亜戦争のときは大真面目で婦女子が、自動小銃もった完全装備の鬼畜米兵と戦うつもりだったんだぞ、薙刀で。
786人間七七四年:2012/12/14(金) 20:46:02.01 ID:TRymkyTw
>>785
そういえば二次大戦ではイギリスも、ドイツ軍の上陸に備えて竹槍訓練していたそうな
787人間七七四年:2012/12/14(金) 20:49:28.59 ID:E80ktpGd
本土上空の空中戦で墜落してパラシュート降下したパイロット対策じゃなかったけ
788人間七七四年:2012/12/14(金) 22:39:49.93 ID:rhWyyrFa
>>780
マスケットって小銃の総称だから、本来の意味では火縄銃をマッチロック式マスケットと呼ぶべき。
だから、ここで分けてる意味が全くわからん。
スペイン人の認識として、マッチロックとマスケットを分ける何かの境目があったんだろうか。
789人間七七四年:2012/12/15(土) 01:39:20.07 ID:5v0Wtm+x
単純に原文はアルケブスとマスケットで、訳す時にアルケブスに火縄銃を当てただけだろ
790人間七七四年:2012/12/15(土) 03:09:59.86 ID:mRNRElBD
ホームガードパイクか…
鉄パイプの先に銃剣付けただけでショボい薙刀みたいな代物だな
791人間七七四年:2012/12/15(土) 06:49:14.14 ID:JdZhUVQv
>>789
サイズがちがってたのかもしれんね
792人間七七四年:2012/12/15(土) 11:20:30.87 ID:5v0Wtm+x
それも単純に考えるなら
鉄砲足軽の持つ2匁半筒=アルケブス(小型火縄銃)
徒歩や侍の持つ6匁目から10匁目の侍筒=マスケット
こんな感じだろう
793人間七七四年:2012/12/15(土) 14:06:26.57 ID:vPqhXWbg
当時の(今も)日本人からすれば火縄を使うマッチロック式銃は全部火縄銃なのだろうけど
向こうの人からすれば同じ機構でも用途やサイズが違えば違う種類の銃って事なのかな
794人間七七四年:2012/12/15(土) 14:11:37.97 ID:6jUoysWB
>>793
日本でもサイズや用途によって呼び方がいろいろある訳だが
795人間七七四年:2012/12/15(土) 16:06:56.21 ID:6Fjeq5I5
>>794
でも、日本式の類別だと、火縄銃が全体を表す言葉で、そこから細分化して鳥銃だの大鉄砲だのになるわけだろ?
訳文が悪いだけ、って気もするけどなー
796人間七七四年:2012/12/15(土) 16:45:57.09 ID:v3v4gbAu
だね。
日本で量産できるようになった時点で
日本の気候や戦略にあったものに変化するわけだけど、
その一つ一つをちゃんと理解した南蛮人もそうは多くなかろう。
その一方で、銃の歴史そのものは南蛮人の方が長いので
彼らは彼らで多数の語を銃のタイプに当てはめていたわけで
まあ、ちかい語をあてる方が楽ちんw
それに本国の報告書に長々とした説明はできん、
というわけで多少誤解はあるかもしれないけど
もうこれでいいや、となったのではないだろうか?
797人間七七四年:2012/12/15(土) 16:57:37.97 ID:pi7O1z6D
投頭巾扇付
画像がひとっつも出てこない。どんなんだろか。
798人間七七四年:2012/12/15(土) 18:44:56.64 ID:XHek4QUf
徳川家康曰く「酒は元気を引き立てるものだが、ぶらぶらと出歩いている
折などに飲みすぎると、必ず喧嘩を始めるものだから慎まなくてはならない。

軍陣や鷹野の時には下戸も一盃飲めば勇気が出てきてひとしお精の入る
ものだ。しかし、小盃で長々と飲むのは何か祝言の席のようで弱弱しい。
上戸が茶碗などで、すぱすぱと一息に飲む姿こそ見ていて心地がよい」

――『徳川実紀』
799人間七七四年:2012/12/15(土) 18:50:59.22 ID:MLXmjZsX
今川屋敷での立ち小便、孕石との確執などなど、
ギザギザハートの暴れん坊だった権現様だけに説得力がある
800人間七七四年:2012/12/15(土) 18:52:23.44 ID:O0pXVcS+
福島正則「酒に飲まれて人に迷惑かけるバカは本当に死ねばいいのに」
801人間七七四年:2012/12/15(土) 19:11:11.21 ID:mRNRElBD
母里友信「いえいえ迷惑だなんてとんでもない」
802人間七七四年:2012/12/15(土) 19:17:15.72 ID:6eAZaUB+
諏訪部定勝「敵に攻撃されてる時に二日酔いで寝てるとか、そういう失態をしなければ問題なかろう」
803人間七七四年:2012/12/15(土) 23:09:34.07 ID:9Yazz07t
>>800
塙直之「ですよねー」
804人間七七四年:2012/12/16(日) 00:17:25.44 ID:7GLXPvya
>>798
どことなく随筆っぽい
805人間七七四年:2012/12/16(日) 11:52:44.29 ID:WnokO+Fz
??「注意しなきゃいけないのは酒だね。僕の墓に墓参りする奴は酒嫌いになるなからよろしく」
806人間七七四年:2012/12/16(日) 17:33:52.74 ID:Ayo6ozKd
結城氏法度に「酒飲みすぎて垣根に吐くな」って記述があるけど当時はどのぐらい飲んだのかな
807人間七七四年:2012/12/17(月) 11:06:54.34 ID:bP7jvpZP
徳川家康がある時、農工商について、この様に言った

『百姓の苦しみは、一粒百行といい、その前年の秋より、種を取り、様々な準備をし、春にいたって
その種をおろし、夏に至ってこれを植え付け、耕耘の功果てて後、秋に至ってこれを刈り、扱き、搗いて、
ようやく米となるのである。
その米によって我々上に立つものは養われている。百姓の千労万苦、血の涙を流すほどのものである。

聖徳太子のお言葉に、この様なものがあるそうだ。
民の苦しみ流す汗は、みな血の涙である、と。
これ故に君子は、一飯を食する間にも、民百姓の艱苦を思うのだという。
だからこそ、地頭・代官たる者が、民を虐げ富を貪るというのは、天の憎しみ深い物なのだ。

次に職人は、諸々の大工・小工、家を造り人をして、雨露、霜雪を凌がせ、
船を造り橋をかけ、海川を渡して人の助けをなす。
武器に至っては、職人によって作られる物品は非常に多い。
これらは皆、工人の業功であり、それによって我々が得られる利益は莫大である。

また商人の功とは、ここに何か物品がない時、別の場所より買い取り、
別の場所に無い物品はこの方で買って、金銀・銅鉄・瓦石・諸物・衣服・飲食等、すべてのものが揃わないということが
無いようにし、我々に居ながらにしてそれらの物品を購入し使用する自由を与えてくれる。
これこそ商人の力である。

故に、我々武士は、農・工・商の3つのものを、最も慈しむべきなのである。』
(武野燭談)
808人間七七四年:2012/12/17(月) 14:34:17.73 ID:X8BtFzeD
生かさず殺さず懇ろに慈しむべし
809人間七七四年:2012/12/17(月) 14:50:41.40 ID:mTxjSZHZ
ぷ、ぷりいず きるみい そふとりい
810人間七七四年:2012/12/17(月) 16:56:08.18 ID:+P7aYMBB
だって戦国時代の百姓って怖いからあんまり力をつけさせてもアレだし…
811人間七七四年:2012/12/17(月) 17:51:05.41 ID:GLdB4Yh1
僧ですよねぇ…
812人間七七四年:2012/12/18(火) 21:31:28.72 ID:JaAwW5wF
山本常朝さん、自分語りするの巻

「私は親父が七十歳のときに生まれた赤ん坊だった。
体も弱く病気がちだったから塩を扱う商人に養子として送られるところを、
多久図書殿が色々と口を利かせてくれて、
九歳のとき、光茂公の走り使いの役に使ってもらえるようになった。
光茂公は私に、不携という名前を付けてくださった。
されど、私は城では光茂公や綱茂公の個室にある、
コタツの上でハシャギ、悪戯遊びをするのがなにより楽しかったから、
その時期は光茂公、綱茂公は私をどうしようもない悪戯者だと思っていたとのことだ。
その後、十三歳のとき、元服するよう光茂公から仰せがあったので、
それから一年間自宅に引きこもって準備と覚悟をして、
翌年の五月に城へと出仕して御小姓役を勤めた。
そして時の進むうち、倉永利兵衛になにかと目を掛けてもらうようになり、
利兵衛から上役のほうに、
「あの者は和歌もたしなむので、
光茂様からも直々にお召しがあるほどです。」
と申し上げてくれたのだが、
かえってそれが上役の不評を買い、私は干されることとなった。
利兵衛が私を推薦するつもりであったことは勿論わかっている。
この件以降、江戸へのお供もしないで、
何もすることなく、ぶらぶら遊んでいたのだが、
いろいろと不安な気持ちも出てきたので、
父と親しくしていた、湛念和尚のところへ行きよく話すようになった。
そんななか、いっそのこと若いながら僧侶になろうかとも思っていた。
そんな私の様子を見ていた親戚の山本五郎左衛門が、
父が加増された知行地を私に分けてなんとか武士の道に戻らせようと、
中野一門皆で秘かに相談していたと聞いた。
それを知った私は、それは神仏に誓っても受け取らないと覚悟していたところ、
請役所へ呼び出されて鍋島本家から直々に扶持米を頂くこととなった。
本家から扶持を認められた以上は、
他人から見下されるような武士では無念である。
どうすれば武士としての気持ちよい奉公が出来るだろうかと、
日夜考えていたのがこの時期である。
そんなときに、ある歴戦の老武者から、
「名誉と利益を追うような者はサムライではない。
しかし、名誉と利益を追わない者もサムライではないのだ。
この道理を真剣に考えて行動しろ」
と教えられ、それを考え抜いて納得することが出来た【続く】
813人間七七四年:2012/12/18(火) 21:54:52.45 ID:JaAwW5wF
すなわち、奉公の場での最高の忠義は、
主君にすらも諫言して自分の国になんらかの貢献をすることである。
下の方でグズグズしているだけでは役に立たない。
奉公すると決めたなら、ともかく主君に諫言を受け入れてもらえるように、
己をそのような位置にまで持ってゆくべきである。
まあ、それでもあまり早い出世は昔から波風立って好ましくないから、
五十歳から出世するよう、そのための工夫、修行に全力を注いだ。
血の涙とは言わないが、目から小便が出るくらいの苦労は我ながらしたつもりだ。
この時期の工夫が、私がよく話す、角蔵流の泥臭い努力だったと思う。
そんな時期に、殿が亡くなり、
以前からいた上役たちは臆病風を吹かしてしまい、
世間の評判を落とされたので、
そういう成り行きのなか、私も隠棲者となってしまった。
形の上では本意を遂げることは出来なかったが、
武士の心意気は最後まで失わなかったと自分では思っている。
人間が本気で決心すれば、望みは形は変われど叶うということだろう。
逆に奉公する者が罰を受けるのは、
自慢と奢りからくる天罰だと思えばよかろう。
こんな身の上話をする私を、誠に高慢者のように思うだろうが、
つかみきれないこの世の中で、
不思議な因縁にひかれ、私の山家を若武者たちが訪ねてきてくれるので、
なんの遠慮もなく、あるがままを話したのである【葉隠】
814人間七七四年:2012/12/19(水) 01:36:30.28 ID:8ELvZjMC
目から小便・・・
815人間七七四年:2012/12/19(水) 04:37:26.00 ID:F6PdzPoT
形を変えれば望みが叶うというより叶う形に望みを変えるんだろうな
それが本気の決心なんだろう
816人間七七四年:2012/12/19(水) 05:41:15.93 ID:lmqUdhCU
『…江戸の町には(1611年)12月30日に到着した。
全員無事で、神と陛下によく奉仕でき、かの(北関東から東北の)海岸線に至る全ての領主と
その家臣らを友にし、我々のキリスト教の信仰に惹かれるようにしてきた。
多くの、しかも大変良い港を、それも大変良い場所に、さらには(伊達)政宗のような
大領主の領地に発見した。

政宗は、領内に来たイスパニア船は常に良好な待遇と補給を受けうることになるので、必ず
その領地に向かうことになるだろうと言った。また自分の家臣がキリスト教徒になるように望む、
とも言った。

江戸に到着すると直ぐ、司令官は皇太子(徳川秀忠)の顧問官らに使いを送り、帰還を知らせると共に、
補給を受けたいものがあるので浦賀港に向かい、その後直ちに御手に接吻するため目通りをし、
発見したものの図をご覧に入れるため立ち戻りたいとの許可を求めた。

その許可を得。(江戸藩邸の)件の政宗にも同様の使いを送った。彼は
「自分に会わぬまま先に行かないでほしい。月曜日に昼食を共に出来るよう自分の屋敷で待っている。
司令官に会わない1時間は1年にも思える」といってきた。

午後3時に我々が彼の屋敷に行くと、彼は司令官と、パードレ・フライ・ルイス・ソテロに
親愛の情あふれる接待をし、神父に見せる尊敬と敬意は言葉では言えないほどだった。
食べ物を手ずから運び、酌まで取り、司令官にも同様にした。

「自分たちは友で、永久にそう望み、武器に誓ってかくありたい。故にカタナを授与するので
自分には懐剣を」と述べ、その様にし、大変恭しく懐剣を受け取った。

十字架に接吻して剣を頭上に押し頂き、彼の流儀で他の儀式も行った。それは中々見物で、
イスパニア人にこれほど殿が好意を示すのを見て、家臣らはたいへん驚いていた。

政宗は極端なまでのことをし、普通なら彼の前には罷り出られないような身分の家臣まで饗応に
呼ばせた。そしてこの者に
「汝は我が家臣である。土下座せずには我が前には出られない輩であることは汝自身がよく知っている。
だが汝はキリシタンで、司令官の友である故に、今日我が食卓に共に着くが良い。殿の三つの印をつけよ」
と言った。これには他の者は驚愕してしまった。

キリシタンの家臣らはパードレの修道服に接吻し、我々の信仰のことを知るために修道院に参じたいと
言った。食事と会話の際に、我々のキリスト教について話が行われた。

彼(政宗)はキリストの漁する網の近くに居た!神よ、その智を照らし給え!この者が受洗した暁には、
キリスト者の保護者と成り殆どの者が改宗する源となるだろう。何故なら、この国のキリスト教は
大根から葉が生じていくように、今日まで逆さまな形で始まってきたからである。

キリスト教に入信したものは貧しい役人や漁夫、平民で、貧しい修道者に保護や支援を与えるどころか、
逆に自分たちが援助されることを望み、献金はわずか。
その上彼らの先祖はキリスト教徒ではないため、先祖のためにミサを挙げて貰う必要もなく、
ミサの依頼も全く無く、宣教師らは自活の手段を持たなかった。

祈りの刻に我々は自分の宿舎に戻ったが、この領主の良き素質を見て大変幸せだった。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人使節と伊達政宗との会食、およびキリシタンの事情についての記録である。
817人間七七四年:2012/12/19(水) 19:17:02.57 ID:7I0rTZeL
侵蝕していく宗教団体みたいな感じだな。
818人間七七四年:2012/12/19(水) 19:37:11.91 ID:rIv0vERY
この時代にイスラムが布教しにきてたら飛び付いた武将いただろうな
イスラム教原理主義派を背景にした戦士は強いしさ
一向衆も強いけどよくよく教え読むと逃げても救われる教えだからな
819人間七七四年:2012/12/19(水) 20:24:50.05 ID:2NOO+mdG
ムスリムなんぞよりイエズス会やプロテスタントの方が余程狂信的だと思うぞ
820人間七七四年:2012/12/19(水) 22:21:23.86 ID:lmqUdhCU
毛利元就は天文三年(1534)、同じ安芸国内で対立していた宍戸元源と和睦すると、
翌天文四年正月18日、元就は和睦の御礼として、供廻り50人足らずで、宍戸氏の居城・甲立へと訪問した。
吉田と甲立の間は一里ばかり離れていたので、先ず御遣いのものが遣わされ、それに対応するため
宍戸家からも人数が甲立城下川端まで、御案内のために出された。
彼らは毛利家の使者が口上で、元就の御出参の事を申し上げると、それに相当の返答をし、
元就は直接に城に入った。

城では元源親子が揃って元就を待っており、一礼がすむと、種々様々な御馳走は浅からぬものであった。
食事が済むと、元就は城を立とうと思ったが、だんだんと元源と話をしている内に、

「この様に心安く対話ができるとは、一世ならぬ奇縁だと思います。今夜はこちらに留まらせて頂き、
終夜あなたの物語を聞きたく思います。」

と話すと、元源は大変機嫌を良くし、夜陰になっても様々に馳走して、その後寝所を同じくして
元就・元源は枕を並べて、終夜雑談をしようということになった。
そのはじめに、元就が言うには

「あたなのご嫡子、雅楽頭殿には、未だにご縁組も、結婚の約束をしたものも無いと聞いております。
そうであるなら、私の娘に、年齢も相応なものが居ります。これを宍戸家に差し上げたいと思っているのですが、
これを奥方とご相談為されて、ご了承頂けるのなら、私も本懐に思います。」

宍戸元源はこれを聞いて「さて!御年相応なご息女がいらっしゃるか!これは幸いなことです!」
と、早速奥方のところに行って報告し相談をし、その上で奥に元就を呼び込んで、
親同士相対した上でこの縁談を結んだ。
双方祝詞を仰せられ、喜び限りなかった。

その後、元就は語表にて朝食を召し上がり、心静かにお話などされ、そうして吉田へと帰った。
(吉田物語〉

毛利元就と宍戸元源、姻戚関係を結ぶ、という逸話である。

しかしこの手の逸話で、婚姻の許可を得るため、旦那や相手方の父親まで奥さんと相談する、という
話は始めて見た。中国地方はやっぱり女性の権威も強かったのでしょうかね?
821人間七七四年:2012/12/20(木) 00:08:05.36 ID:yEemqBjP
それでやってきたのが五龍さんだからなー。

…悪い話?
822人間七七四年:2012/12/20(木) 00:46:24.68 ID:v4xPLGH0
>>820
いや元就自体がこういう儀礼を重んじるタイプ
ぶっちゃけ根回しの達人
823人間七七四年:2012/12/20(木) 01:13:25.36 ID:9OF+tPRb
>>818
16〜7cのイスラム系帝国で強兵ってイエニチェリやシク教徒傭兵みたいな
他の宗教の信者を使ったものが多いんだが。
824人間七七四年:2012/12/20(木) 03:45:45.49 ID:P+Mx/twC
元就のコミュ力ぱねえな
825人間七七四年:2012/12/20(木) 08:39:21.11 ID:mpeSImtt
TERUも、もうちょっとコミュ力があれば・・・
826人間七七四年:2012/12/20(木) 08:52:25.32 ID:XPWTn5dp
>>825
TERUもちゃんとやってるんだがなぁ
827人間七七四年:2012/12/20(木) 10:04:42.98 ID:puc7QdPA
TERUさんはちゃんと礼儀ができてて褒められるレベル
元就さんは礼儀ができてるのが当り前のレベル
828人間七七四年:2012/12/20(木) 10:43:21.87 ID:t2vv/StO
これ確か天文3年に和睦したとき、元就は単身で宍戸のところに和睦交渉しに行ってるんだよな。

秀吉が家康を落とした手口とそっくり。
829人間七七四年:2012/12/20(木) 20:38:11.95 ID:RoeqA+hv
1日で婚姻を承諾させるとこまで行けるコミュ力・・・・・・
830人間七七四年:2012/12/20(木) 23:55:28.55 ID:C4w1xGjF
可児吉長の家臣に竹内久右衛門という者がいた。覚の士であり、吉長は
いつでも知行の半分を分かち与えていた。

長久手の役で羽柴秀次が敗軍したところ、秀吉は怒って吉長を咎めた。
このために吉長は日蔭者になっていたのだが、福島正則が七百石で召抱えた。

そこで吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。

――『名将言行録』
831人間七七四年:2012/12/20(木) 23:58:09.95 ID:M59km+lB
元就の兄の代では宍戸とは仲悪くて戦争ばっかしてたのに
しかも宍戸の五龍城が堅城すぎて毛利側は負けまくり
832人間七七四年:2012/12/21(金) 10:50:29.26 ID:191HpPKJ
>>830
なんかズレてる
833人間七七四年:2012/12/21(金) 10:57:55.58 ID:jBjRZkrw
>>830
なんかアンパンマン思い出した
834人間七七四年:2012/12/21(金) 11:08:05.07 ID:5JGushqd
三成に 過ぎたるものの…
835人間七七四年:2012/12/21(金) 11:08:05.28 ID:1dAM2XsE
三成・左近の縮小版だな。
836人間七七四年:2012/12/21(金) 13:23:23.79 ID:3v211z+y
>>833
可児パンマンの誕生だw
837人間七七四年:2012/12/21(金) 14:37:12.70 ID:KpklqrfU
男は侍、武士は食えねど高楊枝なり
牛島新五郎の妻は権藤七兵衛の妹であった。
その七兵衛が、江戸で遊廓通いをしていることが表沙汰となり、
上役たちの相談の結果処分を課されることとなった。
戦の世が終わり、風俗がだらしなくなってきた時期でもあり、
周囲の者たちへの見せしめのためを思い、
七兵衛の所属する一門から縁戚のはしばしまで厳しく咎めることとなった。
そういうわけで新五郎もすぐに国に呼び戻され蟄居となった。
新五郎のまわりの者たちは、
「新五郎殿は上役からの覚えもよいのだから、
すぐに七兵衛殿の妹と離縁するべきだ。
さすれば、新五郎殿までお咎めを受けないですむ。
たった四石の扶持で蟄居ではいずれ暮してゆけなくなりますぞ。」
とたびたび意見を述べにきたのだが、新五郎は、
「男女の情にひかれて離縁を拒んでいるのではない。
自分の身が立つからと理屈をつけて、
罪もない妻を去らせるのは義にはずれたことだろう。
飢え死にする覚悟を決めたので、
もはや私におかまいくださるな。」
と言い、ついに首を縦にふらなかった。
新五郎は三年の後、復帰を認められた 【葉隠】
838837:2012/12/21(金) 17:55:06.25 ID:KpklqrfU
処罰は「課す」ではなく「科す」の字だな
漢字間違い訂正
839人間七七四年:2012/12/21(金) 21:59:25.08 ID:85L79Sj0
河田伯耆守泰親はもとは上杉謙信に属した武功の者であるが後に後北条氏に従い、
上野国利根郡に三千貫の地を領した。

後北条氏の滅亡後、徳川家康が戦死した者の首帳を見ると泰親の名前がなかった。
そこで家康は「きっと当地にいるはずだ」と井伊直政に命じて探させた。

その後、直政の調査によって泰親は先の松井田城の戦いで深手を負って既に
死に際の状態であることがわかった。直政の報告を受けて家康は「かねてより
泰親は忠実の者と聞いている。ぜひとも死ぬ前に目にしておきたい。
籃輿に乗せて連れて来るのだ」と命じた。

さて泰親が板扉に乗せられて御前に現れると家康は側近くに寄り、非常に
沈痛な面持ちで「この傷が治った時には不動山の城主とし、譜代の大名に準じよう。
それまで心のままに養生せよ」と言葉をかけた。また当分の費用として月俸百口を
下したものの、泰親は亡くなった。

そこで家康は泰親の子で当時六歳の助兵衛政親を直政に養わせ、成長した後に
父の跡を継がせたのだという。

――『徳川実紀(諸家譜)』
840人間七七四年:2012/12/21(金) 22:27:39.82 ID:mg3ksSrF
良い話なんだけど、深手負って死にそうな人動かしていいのかなぁ・・・。
841人間七七四年:2012/12/21(金) 22:48:42.84 ID:rc3mURLw
黒くなる前のラスボスさんなら自ら出向いたんだろうな〜
842人間七七四年:2012/12/22(土) 03:13:35.20 ID:4z3z3BNG
>>837
牛島っていうと、死ぬことと見つけたりで猿連れてた杢之助の友人のモデルなのかな
843人間七七四年:2012/12/22(土) 03:16:31.31 ID:/5ZuVw+s
大将が敵将の見舞いに行っちゃダメでしょ
844人間七七四年:2012/12/22(土) 09:31:45.29 ID:hhYByaof
>>841
「五郎左がむかついたので、死んだ後に難癖付けて息子の石高を大幅に減らしました」
845人間七七四年:2012/12/22(土) 09:33:52.31 ID:1bAaG98a
>>841
黒くなる前というか、木下藤吉郎の頃だろうな。竹中半兵衛への三顧の礼の逸話的にw
846人間七七四年:2012/12/22(土) 10:19:08.24 ID:i3tuzY2E
助兵衛さんw
847人間七七四年:2012/12/22(土) 11:51:53.05 ID:kntVdV6w
すけのひょうえさんを笑う理由は無いだろう
848人間七七四年:2012/12/22(土) 12:18:17.88 ID:yefrraZv
硬骨漢の花房さんもスケベにされるのか
849人間七七四年:2012/12/22(土) 23:22:53.40 ID:+5dY7iLn
>>842
すまん、それ読んだことない。
読んだことのある葉隠題材のもので面白かったのは、
滝口康彦の「権平けんかのこと」
読後の爽快感が最高なのでオススメ!
マンガの「シグルイ」はネカフェで10巻くらいまで読んだけど、
あれには爽快感なかったw
850人間七七四年:2012/12/22(土) 23:23:58.75 ID:1bAaG98a
ここに古老の物語あり。左をこれに記す。

ある時吉川元春様より、宍戸隆家へ年松彌六と申す者が御使として差し越された。
彼は甲立(五龍城)に登城し、元春からの口上を申し上げようとすると、その日は丁度
元就公の御忌日であり、宍戸隆家は書院の床に御位牌をかけられ、その御位牌の前に
座っておられた所に使者がやってきたため、そこで隆家はこの彌六を側に召し、直に
その口上を聞かれた上で、この様に言った

「今日は元就公の御忌日であるので、出家などを招いて焼香をするのだよ。
これについては、家来たちには焼香を免していないのだが、そなたは元春殿の名代として
こちらに来ているので、尊霊に御焼香されるように。」

彌六は恐縮し辞退したが、再三に仰せ付けられたため、お次の間に立って別の香炉に火を入れ
持参し、書院に戻ってこれに焼香した。

この時隆家が彌六に語ったことには

「その方などは歳若いので、元就公のご生前の、常の行状なども知らないであろう。

元就公は、先ず常には物静かで、落ち着かないような気色など少しも見えない人であった。
どれだけ諸方から急難が報告され、大敵が攻め寄せてきたという時でも、いつもと変わった
御気色もなく、却って、春は花、秋は紅葉と、その季節の風景によって連歌の会を開いたり、
歌などを詠まれる事も多かった。

私は最初、軽業などは苦手だと思っていたのだが、馬を乗り弓を射、太刀を遣い走り来る、
こういった飛び技まで優れた人であった。

そうであったから、家中に侍たちは言うに及ばず、新たに幕下に加わり初めて対面するものまで、
この人こそ主君であると頼んだのだ。

元就公は一言の約束が、たとえ年月を経ても、違えること有るまじと、好意を表すように
律儀第一にされ、夫々の者たちに対して礼儀深く、慮外な振る舞い、奢った行跡など露程もなかった。
土民に至るまで、無理非分の事が少しもなかったので、人々はことごとく公を慕い、
『どんな役儀であっても申し付けて下さい!元就様のために御奉公をしたいのです!』
と思い立っていた程の仕置を為されていた。

また、非常に細かく心遣いを為されていた方であった。
公は、夜ぐっすりと眠られるということはなかった。硯・料紙・灯を枕元に置かれ、
諸所や国境に置かれた侍たちに、その時その時に適した指示書の案文、その他要件の事など
思いつき次第に書き置かれ、翌朝家老たちが出仕すると、書付を元にいろいろな指示を
申し付けられたのだ。」
(吉田物語)

宍戸隆家の語る、毛利元就の姿である。
851人間七七四年:2012/12/23(日) 00:20:00.20 ID:tsA5WNC2
完璧超人たる隆景の父親も完璧超人だったでござる。

隆元やTERUが自虐気味になるのも仕方がない。
852人間七七四年:2012/12/23(日) 00:30:53.46 ID:E8N7OZZb
隆元ももう少し自身持てよと言いたいくらい大概完璧超人だと思う
信用とか内政手腕は元就を凌いでいるじゃないか
853人間七七四年:2012/12/23(日) 01:18:18.62 ID:yU+K4tyY
元就すげー。よく70まで長生きできたなぁ
854人間七七四年:2012/12/23(日) 03:36:30.71 ID:mWfnJU9O
「萩藩閥閲録」によると
毛利輝元は秀吉死後の混乱に備え、
大阪の毛利屋敷に2万の兵と鉄砲700を備えさせていたという


最終的にはこの毛利勢2万を利用する形で西軍が形成されるんだけど、
この辺りの周到さはTERUも乱世の人だなぁって思うわ
855人間七七四年:2012/12/23(日) 03:51:06.29 ID:Aj3PgZs/
2万人収容できる毛利屋敷広いな
856人間七七四年:2012/12/23(日) 08:53:20.13 ID:qZHo839D
>>854
それのネタって、いつもホラ吹き全開な内藤周竹さんあたりじゃなかったっけ?

三成襲撃事件などでも、広家が自領から兵を率いて急行してたりするから、
上方に極端な大兵力は置いてないんだけどね。
857人間七七四年:2012/12/23(日) 12:06:50.54 ID:mWfnJU9O
>>845
たしかに内藤小源太のやつだねー

三成の件の後に常駐させていた(数にフカシはあっても)可能性もあるし
個人的にはそういった戦力がないと西軍を結集するときに
諸大名を糾合するのに必要な物量がなかったんじゃあ…と考えてるんだけど、どうなんだろ
858人間七七四年:2012/12/23(日) 12:14:02.54 ID:qZHo839D
>>857
一応、三成事件の前も伏見に1500程度はおいてたから
あわせて三千程度ならあるかもしれんが、それ以上の数は
毛利氏の動員力的に無理だと思う。

文禄、慶長の役でさえ、軍役を満たせてなかったし。
859人間七七四年:2012/12/23(日) 12:31:28.97 ID:c4lJcLo9
鉄砲700からすると2000兵でも多そう
860人間七七四年:2012/12/23(日) 19:57:00.10 ID:KQqj50H3
天文9年(1540)、尼子晴久は毛利元就攻めを決断する。世に云う吉田郡山城の戦いである。

毛利元就はこの事を聞きつけると、先ず宍戸親子を始め、高松城主・熊谷伊豆守信直、同豊前守、
天野中務隆重、同民部少輔、香川又左衛門尉光景、同弟元忠、といった信頼の置ける同盟者に連絡し、
粉骨をなされるよう要求し、また、人質を出すことも要請した。

このように防衛体制を創り、また郡山城防御の手配も行う。

城の後をわざと手空きにし、森や林の茂みの中に兵を置いて、合図によって敵との戦闘を行うこと、
物頭の侍たちに徹底的に教えこんだ。

そのうち三猪山の、尾崎多治比方面には、茶垣を柵のように結ばせ、幕を張り旗を立て、この場所を
重点的に守ると、敵が見るように仰せ付けられた。ここにもまた物頭の侍たちに作戦意図をしっかりと
説明して差し置いた。

この時、郡山上に立て籠もったのは、女子供も含めて8千人であった。その中で兵として使えるのは、
わずかに2千4・5百ほどに過ぎなかった。

この籠城の期間、色々と不思議な事が起こった。
8月15日には、宮崎八幡のお供え物に、人の頭のように毛が生えたのを、児玉内蔵充が見つけ、奇妙に思って
轉新九郎を以って元就公に差し上げた。それによって、宮崎八幡を城内の祇園の社に遷宮させられた。

また祇園縄手の深田に、毎夜光るものがあった。これを見たものが不審に思いその場所を掘ってみると、
そこから太刀が一腰出てきた。これは『稲光』と名付けられ、毛利家の御宝蔵に入れられたとか。

また、この時は城下の百姓町人も、城内に妻子を連れて籠っていたのだが、尼子軍によって自分たちの家屋が
放火された時、それを嘆くようなこともなく、誰が教えたわけでもないのに

『尼子殿は雲客 引きずり下ろしてずんぎり』

と、言い合ったそうである。雲客とは、尼子が出雲からきたことと、雲にのってきた者というのをかけており、
雲にのってきた尼子軍を、その雲から引きずり下ろして、寸切にしてやる、という意味である。

この様な言葉が自然に出てきたのも、不思議な事である。
(吉田物語)
861人間七七四年:2012/12/23(日) 21:23:48.57 ID:Lidj1Xrz
それ実は全部元就さんの仕込みじゃねーのか、と思いたくなる
862人間七七四年:2012/12/23(日) 21:54:14.40 ID:GzLpUxzp
元就「よし饅頭に毛を生やして毛利饅頭として売り出そう!」
家臣「皆気持ち悪がって誰も買いませんでした。」
元就「在庫どうしよう・・・」
863人間七七四年:2012/12/23(日) 22:43:54.89 ID:hD00KwHr
ただカビてるだけやないですか!
864人間七七四年:2012/12/23(日) 22:48:10.97 ID:lsFBUtIo
毛饅頭が食いたい…
865人間七七四年:2012/12/23(日) 23:25:17.56 ID:n4aPgzw3
「頭髪にお悩みの方、毛利に味方すれば発毛促進剤をプレゼントしますよ!」
866人間七七四年:2012/12/23(日) 23:57:08.25 ID:x9+yeZTt
吉村宣充は落魄中、追々家士従僕にも暇を取らせ、子供を一族に託し、
今は馬一頭だけが残っていた。

時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。

――『名将言行録』
867人間七七四年:2012/12/24(月) 20:30:13.25 ID:WxB3CFQr
>>864
秋山先生・・・///
868人間七七四年:2012/12/25(火) 20:35:26.78 ID:LgLro0gF
こおり山のキツネ

吉田郡山城の北にあるなんば谷に、年をとったキツネが棲んでいた。
銀色の、それはそれは美しい毛並みのキツネであった。
猟師がそれを獲ろうとしても獲ることが出来ず、やがてその美しさは毛利元就の耳に入った。
殿様は非常に情け深いお方であったので、

「その様に美しい狐なら、なおさら殺してはならない」

と命ぜられ、その旨を記した高札を出した。

キツネはこれを見て感激し、やがて尼子が郡山城を囲んだ時、家来を連れて毛利に加勢した。

彼らは、馬糞でごちそうを作って敵方に送りつけたり、提灯で敵が襲撃してきたように見せるなど、
尼子への妨害作戦を行い、これに疲れた尼子はとうとう去っていった。

元就はキツネの働きに感謝し、郡山の森山を彼らへの褒美として与えた。
それからキツネは、侍に化けて山の見張りを続けたそうである。

(広島の昔話)
869人間七七四年:2012/12/25(火) 20:36:39.84 ID:KwEtYujG
徳島のたぬきは日露戦争に従軍し、ロシア兵を撹乱したという話があったり
870人間七七四年:2012/12/25(火) 23:23:36.39 ID:VYE2lnak
キツネもタヌキも凄いな。
871人間七七四年:2012/12/25(火) 23:42:37.55 ID:Rmw3k7oJ
三河大沼に住む処士木村九郎左衛門定元は徳川家康の関東入部に御供し、
その子三右衛門吉晴は妻子を引き連れて一番に江戸へ馳せ参った。

この事を土井利勝より知らされた家康は、吉晴が住みなれた土地を離れて
速やかに馳せ参ったことを賞して上機嫌になり「旅装のままでいいから
出て来い」と命じたので、吉晴は革の立付を身に着け髪も乱れたまま参上した。

家康は前もって吉晴が酒好きと聞いていたので数杯を下した。酔いが進んで
心地好くなっている吉晴を見た家康は伊奈忠政を呼んで「三右衛門は
酒好きだから、良い場所を選んで酒を飲める領地をつかわせ」と命じた。

やがて吉晴は相州高座郡菖蒲澤村百石の地を賜り、今その辺りではこの領邑の
ことを酒手知行というのだとか。

――『徳川実紀(家譜)』

忠政は忠次の間違いかな。
872人間七七四年:2012/12/26(水) 00:01:57.53 ID:XRQZ7LvB
高橋紹運の末裔(麻生太郎)、財務大臣に就任
873人間七七四年:2012/12/26(水) 00:30:33.54 ID:P1EoTL2m
 淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
 ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
 その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。

ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ

和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
 これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
 
874人間七七四年:2012/12/26(水) 01:26:31.34 ID:yxufI55c
>>868
馬糞は美味しいみたいよ
この前、犬が喜んで食べてた
875人間七七四年:2012/12/26(水) 12:41:27.37 ID:g4CWDpUT
>>874
何を食べさせられているかによるんじゃないかね
それによって臭いもけっこう変わる
876人間七七四年:2012/12/26(水) 16:15:59.27 ID:m2IdOMct
>>874
馬とかは草を全てを消化できるわけじゃなくてある程度消化された状況で排出しちゃう
つまり糞は通常の草よりも消化しやすい
植物を消化できない赤ん坊が離乳食として親の糞を食べる動物が居るくらいだからね
同様に植物を消化できない肉食動物にも食物繊維を取りやすい代物なのかもしれんな
877人間七七四年:2012/12/26(水) 16:21:53.68 ID:bQPO+qfH
犬は自分の糞も食うから。
しつけされてないだけ。食糞でググれ。
878人間七七四年:2012/12/26(水) 23:08:25.12 ID:dldnZeIU
高井助次郎実重は今川家の旧臣で、その父蔵人実広は義元に従って
桶狭間の戦いに討死し、実重もまた氏真に仕えて終始忠節を尽くした。

小牧長久手の戦いで諸人がいずれも高名をあげる中、助次郎一人は
何の高名もあげられなかったので、あまりの面目なさに涙を流していた。

しかし、そんな助次郎に徳川家康が「お前は古主氏真の行方を見届けた
信義厚き者だから、今日の戦で敵の首を取るよりも遥かに勝っているぞ。
嘆くことはない」と言葉をかけたので助次郎は思いもよらず誉れを得た。

――『徳川実紀(感状記)』
879人間七七四年:2012/12/26(水) 23:51:16.38 ID:21coINsu
>>878
家康は結構今川リスペクト強いよね
泉岳寺まで作ったりと
880人間七七四年:2012/12/27(木) 00:11:46.24 ID:UmIFNy52
泉岳寺の名の由来って、今川義元の出家名の栴岳承芳から?
881人間七七四年:2012/12/29(土) 11:36:29.08 ID:8e3YYawD
弘前市の石川地区には、かつて石川城があり津軽の中でも南部寄りの地区という話があったが、
石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。

別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。

その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。

1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。

父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。

>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。
882人間七七四年:2012/12/29(土) 17:41:14.94 ID:2edVXPOQ
永禄十一年三月、徳川家は遠州の城々を攻め取らんと尾藤彦四郎らが
籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。

康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。

その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。

その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。

ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。

――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』
883人間七七四年:2012/12/29(土) 18:39:37.75 ID:vbEgc1jm
遺言のつもりで何か言い残した後に回復するって…あー照れくさいわぁw
884人間七七四年:2012/12/29(土) 18:59:11.40 ID:nGqfpWiH
日根野さんは、切腹した後に身辺整理だからその点きちんとしてるな
885人間七七四年:2012/12/29(土) 22:42:14.80 ID:zgeUB0kr
ある時、堀田正盛が甥である喜多見久太夫を伴って殿中を進んでいた。

(…何やら臭うな)
御茶部屋の辺りに来たところで、久太夫は妙な匂いに気付いた。
(そうだ、これはまさしく煙草の匂い。法度を犯して煙草を吸っておる不届き者め、何奴か)
殿中においては火気の扱いについて細心の注意を払うことが大原則。煙草一つ吸うにしても所定の場においてのみと定められていた。
立ち止まって御茶部屋の様子を窺う。見ると少しばかり開いていた障子がすっと閉まった。どうやら吸っていた茶坊主がこちらを察したらしい。
しかし、少し気付くのが遅かった。仄かな紫煙が久太夫の鼻先をくすぐっていく。
「これは煙草ですな」
久太夫、先を進んでいる正盛に聞こえるように呟いた。正盛の歩みが止まる。
「煙草がいかが致したか」
「かような場所にて煙草の匂いがするとは解せぬことでありましょう」
正盛は少し鼻を動かしたようであったが、振り向きもせずにまた歩み出した。久太夫はそれに不満を持ち、追いつきながら語調を強めた。
「ご法度の煙草を何者か隠れて吸っておりますぞ」
「喜多見殿」
正盛が立ち止まり、久太夫に横顔を見せた。
「貴殿は目付役」
「…? いかにも左様にございますが」
「いつから鼻目付を仰せつかったかな」
それだけ言うと正盛、そのまま立ち去っていった。
886人間七七四年:2012/12/29(土) 23:03:00.33 ID:9Lcwdn0n
堀川城って撫で斬りにされた城だよな
887人間七七四年:2012/12/29(土) 23:05:16.74 ID:6yE1bUAG
なんかよくわからん…
喫煙は喫煙で見つける担当者が決まってるのか?
888人間七七四年:2012/12/29(土) 23:12:48.51 ID:me4PcMjE
目で見て取り締まる→目付
それ以外の五感→○目付
っていう洒落かな
違ったらごめん
889人間七七四年:2012/12/30(日) 00:46:30.17 ID:urpmWWbs
いい話なのか?
890人間七七四年:2012/12/30(日) 01:16:46.62 ID:sUh2TgPE
大名があまり些末なことに目くじら立てるなというお教えじゃないか。
891人間七七四年:2012/12/30(日) 07:39:08.74 ID:jGus6LDt
目付はおまえなんだから俺に頼らずお前がしかるべく処分しろよということじゃないかな
892人間七七四年:2012/12/30(日) 08:23:36.81 ID:Q0BFbw83
>>843
亀だけど、初期の殿いつネタ(謙信玄)を思い出したわw
893人間七七四年:2012/12/30(日) 10:34:55.13 ID:gA08ZAGa
ただ臭い嗅ぐだけじゃなくて自分で注意しに行けよって意味じゃない?

久太夫が煙草に気付いた時に素直に注意しに行かずに
聞こえよがしに煙草の話を振ったから正盛をイラッとさせたんじゃないかと思う
894人間七七四年:2012/12/30(日) 10:37:03.92 ID:klPh3kjU
>>889
ここはちょっといい話スレだから。
いい話か悪い話かで言えばいい話じゃないか
2ミリくらい
895人間七七四年:2012/12/30(日) 14:15:46.17 ID:Uv6WdMfA
人の上に立つ者はその程度で目くじら立てて犯罪者を量産するな、って事だと解釈したんだが、
この場合は大事な江戸城の防火に関する重要な規則だから見逃しちゃ拙いわな
896人間七七四年:2012/12/30(日) 15:12:31.24 ID:1kddN+XF
【東京】地上のタバコポイ捨て、地下鉄三田線止める=ホームに煙、90人避難
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356796039/l50

昨日の事だが、こういうのを見ると悪い話だろうな。
897人間七七四年:2012/12/31(月) 09:03:47.36 ID:GY2eF6zU
法度に関わらず軽輩が柳営で平然と喫煙出来るような雰囲気が有る事自体が、風紀、規律の乱れ。
すなわち目付の失態になるだろ。
898人間七七四年:2012/12/31(月) 10:16:45.58 ID:E8W+Ja5q
キリシタンが出ると出したほうの責任になるので見なかった事にしよう、みたいなものか
899人間七七四年:2012/12/31(月) 10:39:00.57 ID:hcZfLqjy
あってはならないこと→あってはならないのだからそもそもある訳ないという風潮
900人間七七四年:2012/12/31(月) 12:16:48.33 ID:AJe1AVyK
堀田正盛も事なかれ主義の官僚に成り下がっていたのだろうか?
それとも、将軍の寵臣として出世した故の引け目もあったのか?
901人間七七四年:2012/12/31(月) 17:46:22.93 ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』
902人間七七四年:2012/12/31(月) 21:43:55.17 ID:UQv3vjfL
永禄三年(1560)十二月、毛利家に、尼子晴久が重病であり、もはや十死一生の様態であるとの情報が入った。
既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと
考え、ある時元就のもとに皆が参集した時、その話を申し上げた所、案に相違し、元就は突然気色を変え
怒鳴った

「晴久が既に死んだというのなら、もう是非に及ばぬことであるが、晴久も自信が存命のうちに、
我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。

私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをしたと雖も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。
私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに、残念の至である。

総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である。
おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。
これは誠に、是非無き心である!」

この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったという。(一円物音も之なき事)
(吉田物語)

尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応である。
903人間七七四年:2012/12/31(月) 22:40:02.87 ID:aJFP4uiP
本音と建て前
904人間七七四年:2012/12/31(月) 23:29:58.05 ID:PVhpX9Zh
敵を騙すにはまず味方からってことだねw
905人間七七四年:2013/01/01(火) 02:35:19.98 ID:AIBIZRh9
TERU「いやー残念だなあ。信長と決戦してボコボコにする計画が流れちゃったよ。」
隆景「殿、ちょっと奥の間へ。」
906人間七七四年:2013/01/01(火) 04:23:16.10 ID:bS9hlezr
自身、敵、味方を騙す毛利の三本のホラか!
907人間七七四年:2013/01/01(火) 10:41:08.64 ID:3XKaFfA7
こうでも言わないと人はついてこない
器量を試されたんだろう
908人間七七四年:2013/01/01(火) 12:06:48.30 ID:OG8PltuQ
べ、別に喜んでなんかないんだからねっ!
909人間七七四年:2013/01/01(火) 15:28:51.70 ID:was0FRPj
>>907
信長が信玄の死を知ったときはめちゃくちゃ喜んだという話があった気が
910人間七七四年:2013/01/01(火) 15:32:55.75 ID:nX67G6Q1
大坂冬の陣頃の十一月五日、甲山の辺りで数万の蛙が集まり
南北に別れて争うこと半時ばかりと耳にした徳川家康は

「蛙軍は珍しいことではないが、蛙は寒空には土中で蟄居している
ものなのに身体を動かして戦っているとは奇異なことだ」と言った。

また、新家村に生えている芦は片葉と聞いた家康が芦を刈り寄せて
見てみると確かに片葉であった。

松平忠継が「この辺りの芦は芦ではなく荻ですな」と言うと、家康は
「お前は『難波の芦は伊勢の浜荻』というのを知らないのか」と言った。

――『徳川実紀(東武雑録、明良洪範)』
911人間七七四年:2013/01/01(火) 17:03:19.26 ID:3XKaFfA7
>>909
あれはさすがに許してやれよw
912人間七七四年:2013/01/01(火) 17:08:21.36 ID:DqrYUcof
謙信もやっぱり本当は喜んだんだろうか?
913人間七七四年:2013/01/01(火) 18:16:00.18 ID:Cf0xhCw1
謙信は我が好敵手がいなくなったと嘆いたと伝わってるが、何ともなぁ
戰キチの考えることだから
914人間七七四年:2013/01/01(火) 20:04:39.27 ID:z66QIb7/
謙信って信玄の事嫌ってたって話もあるよな

各種逸話の性格の謙信だったら信玄とか100%相容れないだろう
915人間七七四年:2013/01/01(火) 20:06:50.20 ID:2ghQ9Fb4
謙信さんは、山科けいすけの「SENGOKU」でのイメージで再生されてるわwwww
916人間七七四年:2013/01/01(火) 20:50:48.66 ID:PgtJ+iX/
>>910
家康ってこういう教養も今川家の英才教育を受けて一流の域なのよね
でも詠む歌は技巧を凝らしたりしない
917人間七七四年:2013/01/01(火) 20:53:10.38 ID:QGLSoIJs
>>915
俺もSENGOKUの謙信と信玄が強烈過ぎていまだにあのイメージを引きずってるわw
あと豹変した秀吉の怖さはガチ
918人間七七四年:2013/01/01(火) 20:54:49.58 ID:+qm2OKdl
落語では
「ものの名も、ところによりて変わるなり難波の葦が伊勢の浜荻」
は当たり前のように出てくるが、当時は教養の範疇だったのか
919人間七七四年:2013/01/01(火) 20:56:45.24 ID:N569VcYa
家康って、こういうことわざみたいなもの好きなのかな?
実際の記録はよく知らんが、大河ドラマとかではよく言ってる気がする
「知らぬ顔の半兵衛がよいぞ」とか
920人間七七四年:2013/01/01(火) 21:55:06.21 ID:MfQ0Cr8w
>>914
そういや信玄をこき下ろした神文が残ってたっけか
921人間七七四年:2013/01/01(火) 22:01:43.15 ID:OG8PltuQ
大体漢詩や和歌に由来するから教養の内か
幽斎様なんかこの手の逸話が腐るほどあるな
922人間七七四年:2013/01/01(火) 22:22:20.75 ID:PgtJ+iX/
ぐぐったら難波の葦は伊勢の浜荻は?玖波集が出典のようだ
923人間七七四年:2013/01/01(火) 22:25:06.60 ID:PgtJ+iX/
ぐは、菟玖波集の菟の字が化けた
924人間七七四年:2013/01/01(火) 23:15:32.77 ID:SqH0ZaYe
言ってることは駄洒落や親父ギャグの類なんだけど親父ギャグだとわかるかどうかが重要なんだろうな
逸話としては大抵ネタバレまであるから駄洒落要素が強く印象に残ってちょっとげんなりしてしまうがw
925人間七七四年:2013/01/02(水) 00:48:00.34 ID:wjzqYFJx
>>916
それは二流、三流の域という証
京都の貴族たちを唸らせるレベルでないと一流とは言えない
926人間七七四年:2013/01/02(水) 00:59:28.91 ID:i2bXD6+O
>>907
戦になれば数多の命が散るというのに強敵が死んでも喜ばないってのは堅物っていうか自己陶酔じゃね?
敵の知恵者を排除するのに謀事をかけた奴なんか幾らでもいる
喜ぶのが普通の反応だと俺は思うな
鞆にいたよちあきみたいに
927人間七七四年:2013/01/02(水) 01:17:43.27 ID:hfGIEadA
普通の反応だと見くびられちゃうからじゃね
普通じゃない反応だからこそさすが我等がおやかた様、ってなるわけだし
常に超人的な自分を演出してないといけなかったのかも
928人間七七四年:2013/01/02(水) 01:22:12.56 ID:FXzR3J1h
「悲しいときに笑え」ってのもそういう事なんだろうな
929人間七七四年:2013/01/02(水) 02:21:40.27 ID:iFixbaTi
ラスボスだって敵の死を喜ぶような事はしてはおるまい
例えばそう、鬼武蔵が討ち死にした時の様に
930人間七七四年:2013/01/02(水) 03:10:28.85 ID:kJb46Zzw
敵が弱体化して喜ぶような部下は、強い敵相手に使い物にならないだろw
931人間七七四年:2013/01/02(水) 06:57:36.40 ID:tqdkvImn
単にホクホク顔の味方を引き締める為に言っただけだったりして
932人間七七四年:2013/01/02(水) 07:19:07.28 ID:Pn65Fyih
・「アイツ死にやがったwww俺ついてるwww」

・「敵ながら惜しい男を亡くしたものだ」(アイツ死にやがったwww俺ついてるwww)

どっちが自分の名声高めるかなんて考えるまでもないだろ
その勢力を服属させた後のことまで考えれば尚更
933人間七七四年:2013/01/02(水) 09:18:10.63 ID:wC05eX8B
つまり、信長さんはその頃から既に武田を許す気は更々無かったと
934人間七七四年:2013/01/02(水) 10:38:31.52 ID:ZBfcvKKu
1850年、ドイツ連邦のプロイセン講師のビスマルクが、
ハプスブルク帝国皇帝フランツ・ヨーゼフにこのような所見を残している

「オーストラリアの若き君主から私は大変好ましい印象を受けました
二十歳の炎が壮年の威厳、果断と結びついているのです。
いきいきしてくると目が美しく輝き特に微笑したりすると
いかにも感じが良い率直さが現れます。
もし皇帝でなければ歳の割にひたむきすぎると思われかねないでしょう。」

とビスマルクはヨーゼフを高く評価している
それから16年後、ビスマルク率いるプロイセンはヨーゼフ率いる
ハプスブルク帝国を普墺戦争で打ち破ったのであった。
935人間七七四年:2013/01/02(水) 11:39:23.60 ID:FXzR3J1h
誤爆?
936人間七七四年:2013/01/02(水) 11:46:39.33 ID:JWHL9KRK
>>924
江戸時代の浮世絵なんて内輪受けする小ネタ満載だけど、現代から見たら何が面白いのかさっぱりだし。
937人間七七四年:2013/01/02(水) 11:52:06.44 ID:a8fV3HYA
気になって探してみたら世界史にもいい話スレあったんだな
938人間七七四年:2013/01/02(水) 13:00:03.55 ID:Pn65Fyih
オーストラリア?
939人間七七四年:2013/01/02(水) 14:09:42.98 ID:hfGIEadA
なんという大遠征
さすが鉄血宰相や、想像の斜め上をいく
940人間七七四年:2013/01/02(水) 15:00:28.30 ID:wC05eX8B
実は女王ビクトリアへの賛辞なんだよ!
な、なんだってー
941人間七七四年:2013/01/02(水) 16:34:04.56 ID:tg9JKZcc
>>938
クソワロタwwww
942人間七七四年:2013/01/02(水) 16:53:48.88 ID:FXzR3J1h
>>938
本当だ、よく見たらオースト「ラ」リアwww
943人間七七四年:2013/01/02(水) 17:58:47.11 ID:+IA7Ri5i
長篠の籠城後、奥平九八郎定昌が徳川家康に召し出された。
家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。

またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。

定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。

その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。

――『徳川実紀(貞享書上)』
944人間七七四年:2013/01/02(水) 18:33:43.02 ID:FXzR3J1h
奥平さんちって家康の若い頃からの家臣なのに微妙に影うすくない・・・?
信昌なんかかなり活躍してるはずなのに
945人間七七四年:2013/01/02(水) 18:40:09.26 ID:/+rp+lf6
そういえばお笑いコンビの学天即ってのが前々回のTHE MANZAIでやっていた漫才の落ちが

「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
「奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」

それなりに有名のはずなのに
946人間七七四年:2013/01/02(水) 20:04:21.52 ID:GW7PaUnw
>>943
貞昌なんですけどー
947人間七七四年:2013/01/02(水) 20:30:16.85 ID:mctkPQt/
徳川家康の家臣に松本金次郎という者がいた。
容貌はさながら婦女子のようで言語もとても柔和であった。
そのためか人々からは武人としての資質も無いと侮られてた。
当の金次郎はその事をまったく意に介さず、時に微笑むのみだった。

小牧・長久手の戦いの際に金次郎は朱柄の長槍を持って従軍した。
それを見た人々は互いに顔を見合わせて笑った。
朱柄は、数度の激戦に臨んで
敵の鮮血で槍の柄が赤く染まる程の武功を挙げた勇士にのみ許される。
しかし金次郎にはそんな武功などない。
衆は嘲って言った。

「やれ女武士が妄りに朱柄の長槍を提ぐなど笑止笑止www」

しかし金次郎はまったく聞こえぬ顔して徐に先陣に出た。
両軍が戦い交えると、金次郎は単騎で敵陣に躍り入り
縦横奮撃に敵将を斬り、敵兵を数知れず倒した。
敵軍は金次郎の戦い振りを見るにつけ圧倒されその後挑む者も無かった。
金次郎は馬首を返してゆっくりと自陣に戻った。

その夜、金次郎は同僚に言った。

「武士たる者の真の勇とは、戦場においてのみ用いるものでしょう。
酒席や日常の席でささいな武勇を誇ったり、奮然とした相貌を装ってみせたりするのは
付け焼き刃たる勇に過ぎませんよ。
人には各々得意、不得意があります。
座上で勇を誇り席上で威を張るような事は、私には不得意なのです」

金次郎の言葉に一同は粛然とした。

(『武人百話』)
948人間七七四年:2013/01/02(水) 21:36:49.60 ID:iFixbaTi
母里友信「槍は酒の席で獲るものぞ」
949人間七七四年:2013/01/02(水) 21:52:56.63 ID:FXzR3J1h
少女マンガに出てきそうなイケメンだな
950人間七七四年:2013/01/02(水) 23:03:28.15 ID:oblQ8CwN
金次郎さんマジかっけえー
人は見かけで判断してはいけないな…
951人間七七四年:2013/01/02(水) 23:28:01.04 ID:GzmTvva5
        ※    ドドド・・・


       \●/
         ● X ●   ドドドドドド・・・・・
       /●\



      \. .●. ./
       \  /
      ●   X   ●   ┣¨┣¨┣¨┣¨・・・
       /  \
      /. .●. .\
952人間七七四年:2013/01/03(木) 05:41:03.30 ID:pGc6Ni5S
信玄「どれ我が軍に入ってみないか?」
義隆「厚遇するぞ」
953人間七七四年:2013/01/03(木) 07:28:32.36 ID:5sy3ZBGG
むしろ「後遇するぞ」だろう
954人間七七四年:2013/01/03(木) 11:23:07.61 ID:r60mrVNy
>>947
・・・惚れた
955人間七七四年:2013/01/03(木) 11:25:40.80 ID:0vjAze3/
どっかの姫和子さんの初陣を思い出す
956人間七七四年:2013/01/03(木) 13:05:57.01 ID:5jJ7nO0i
こうして見ると、小牧・長久手の戦いって徳川にとって
ものすごく収穫のある戦いだったんだな

井伊、成瀬といった次の世代を担う若者が軒並み活躍している
これでスムーズに世代交代ができるようになったのかな
957人間七七四年:2013/01/03(木) 13:11:04.77 ID:fu8J2+ng
小牧長久手みたいな乾坤一擲の戦いでそういった若手を抜擢しているんだから、家康も勇気あるね。
958人間七七四年:2013/01/03(木) 13:25:08.01 ID:XLLsn5J4
ベテランから若手までフル活用しなければいけないほどの激戦だったという事かも
959人間七七四年:2013/01/03(木) 13:50:59.88 ID:YKkDA4De
伊達と立花の婚姻にまつわる小田部土佐の話・第三段

まとめには伊達家の嫌がらせと小田部統房の話があるが、また一つ違う逸話を。

筑前立花家の家臣・小田部土佐は、娘を輿入れした忠宗の慰みの為、奥州への出向を乞われた。

道中つつがなく仙台へ到着し、いざ謁見とうことになったが、その衣服は粗末で(童子格子の木綿織は綿の厚い夜着のようで、太くてもっさりした丸ぐけの帯に三尺あまりの大刀を帯びていた)まるで夜盗が迷って出たような無作法さであった。

忠宗はかの奇人ぶりを知った上で到来を待ちわびていたので、取次役に命じてそのまま居間へ通させた。
小田部は面前にずいとまかり出ると、一言の挨拶もせず立ちはだかり、狂人のように振る舞った。

忠宗はさすがにムッとして何故そのように無礼なるやを詰問する。
曰く、「私は伊達様に臣従するつもりはありません。伊達様はひとたび私を見たいとの仰せであると聞き及んでおりますので、普段の私を見せようと思ったまでのことです」

忠宗は我が意にかないたりと満足し、後日改めての謁見を許した。

その後日、衣服を整え、厳然なる装いにて現れた小田部に対し忠宗はいくつか問答した。
小田部は当世の趣味に走る者は混雑の士です、真の士は柳川藩において自分ともう一人しかいませんなどと、時代錯誤の割に堂々とした答弁を繰り返す。
その様を見て忠宗は時折吹き出しつつも、彼の才を認め、一旦別室に引かせて休息を許した。

そして家臣を呼ぶとひそかに「聞きしにまさる曲者じゃ。これからあやつに取らす膳には大ダコの丸煮を出してやれ。困惑する様を見てやろう。包丁は一切入れるなよ」と命じた。

饗応の準備が整うと小田部を呼んで膳につかせ、でんと茹で上がった大ダコを披露した。
小田部は「やや、これはそれがしの大好物。気を使っていただき恐悦千万、誠に結構、過分過分」などと連呼しながら蛸の頭をむんずと掴むと懐中を探り、小刀で小切れにして平然と食らった。
忠宗他近侍の衆は「苦しめ難き曲者なり」と感心してしまった。

我が儘な大身の暇つぶしに付き合ってあげるいい話。
960人間七七四年:2013/01/03(木) 15:17:18.79 ID:tF0oBGzS
>>947
直政「敵の鮮血で赤く染まる程の武功って某の朱具足のことだな」

>>952
金次郎「なんか心底、徳川で良かった、私…」
961人間七七四年:2013/01/03(木) 15:19:59.65 ID:fu8J2+ng
徳川家は井伊直政と言い、意外と美形の家臣がいるな。水野勝成もイケメンだったらしいし。
962あけおめことよろ:2013/01/03(木) 15:37:53.45 ID:VJKmQj+O
祖父中野神右衛門が桃川村に住んでいたときのこと。
ある夜、黒髪山神社の神様が権現となり夢枕に立ち顕れ、
「そなたの家は貧しく気の毒である。
よって宝の銭甕を与えよう。
黒髪山に埋めておくから、持ち帰りなさい。」
とお告げになられた。
三日間同じ夢を見たので、これは神のお告げだと確信し、
黒髪山へ登って神前にぬかずきて、
「私の家の貧乏をお憐れみくださり、
お宝をお授けくださるとのこと、
誠にありがたく存じております。
しかしながら私は銭甕を欲しくはございません。
それほど不憫にお思いくださるのなら、
中野一門の武勇と繁昌を御守りください。
銭甕はお返しいたします由、右のことのお叶えを願います。」
と祈ってから帰った。
この願いが聞きとどけられたのか、
中野一門は子供たちみな知行をいただき、
一門の末の者までお取り立てにあずかり繁昌している。
「けれども、銭甕を返上したせいか、
中野一門は、皆貧乏ばかりじゃ(笑)」
と神右衛門は嬉しそうに話していたとのことだ 【葉隠】
963人間七七四年:2013/01/03(木) 16:17:18.60 ID:wgc24vnd
お、地元の逸話だ
ちょっと黒髪山を掘り漁ってくるわ
964人間七七四年:2013/01/03(木) 16:30:22.99 ID:ugFuBTgY
いい話だ

1890年エリザベートは大西洋沿岸と西地中海沿岸を就航している
ドーヴァーから帆走もできる汽船飾カザリー号(
登録名はニコルソン夫人という偽名であった)発ちリスボン、ジブラルタル、タンジール、アルジェ。コルシカ島。
マルセイユ。フィレンチェ、まポリ。ポンペイ、コルシカ島と巡った後コルフ島にたどり着いた。
とにかく、凄まじい距離の船旅をしたものである。

エリザベートはこのようなことを書いていた。
「全世界を巡りたい、私に比べたらアハスヴセールでさえ出不精といえるでしょう。
とにかく船でほうぼうの海を就航したい。女のさまよえるオランダ人みたいなものだから
いつか消えるなり沈むまでこの性癖は収まらないでしょう」
965人間七七四年:2013/01/03(木) 16:40:07.64 ID:3oecothp
>>934
「オーストリア」を「オーストラリア」と書いたやつか?
一年くらい前には司馬懿の詩を誤字だらけで引用したし、
今回はさまよえるユダヤ人の「アハスエルス(アハスヴェール)」を
アハスヴセールとか書いているし、誤字なしで投稿できないのか
966人間七七四年:2013/01/03(木) 16:42:40.97 ID:5WiQ+ghR
阿部忠秋は悪戯好きの面があり、ある時柳営で大久保忠成の弁当をこっそり食べてしまった。
そして素知らぬ顔をして戻し正午を待った。
正午になってめいめい弁当を取り出したがもちろん忠成の弁当は空っぽである。一同は驚いたが忠成は気にする様子も無く、
「朝食べ過ぎたので別にいいや」と言って淡々としていたが、しばらくして用向きができたと帰ってしまった。
これに忠秋、「してやったり」と大喜び、屋敷に帰って近侍にこの事を語ると、「さてこそ、それで初めて納得しました」
「先程大久保様がお立ち寄りになり、腹が空いたから湯漬けでも振舞われよ、と仰せられました。
湯漬けだけというわけにもいかず、沢山の料理をさし上げましたが大久保様は全て平らげた上、
供の衆にも振舞われよと仰せられました。
やむなく食事を出したのですが供の衆の食べること食べること、いささか呆れました。
奇怪な事と思いましたが、殿のお話を伺い、これはまさしく先程の仕返しと納得した次第です」
これを聞いた忠秋は「あべこべにかつがれたのう」と笑ったという。
967人間七七四年:2013/01/03(木) 21:48:41.97 ID:HQEuFh0X
あべがおおくぼにかつえがられたんです
968人間七七四年:2013/01/03(木) 22:56:29.64 ID:pGc6Ni5S
忠秋さんの逸話は良い話でも説教臭くなくて自然体で好きだわ

こんないたずら好きってのはちょっと意外だったけど
969人間七七四年:2013/01/03(木) 23:09:18.89 ID:MIkcHnnm
>>947の話を見て思い出したんですが、昔小学生のころ(30年以上前w)教科書で見た話
赤い甲冑(ショウジョウ緋?)を着た連戦連勝の武士が、初陣を飾る若武者に自分の自慢の甲冑を貸してあげた。
するとその若武者大活躍で、それを「なかなかやりおるわいw」とそこらにある黒い甲冑着て戦に参戦した
武士が、いともあっさり敗れちゃった。  て話を思い出してしもた。
どなたか知ってる人います? と書きながら、もしかすると源平の頃の話かも・・・
970人間七七四年:2013/01/03(木) 23:11:11.53 ID:aUcbbDAX
>>969
菊池寛「形」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html
青空文庫で読める
971人間七七四年:2013/01/03(木) 23:22:25.20 ID:aUcbbDAX
ついでに元ネタは
「明良洪範」に載ってい話だが、誰に貸したかは不明
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html

貸すといえば「鳩巣小説」に出てくる「鯉の兜」の話があるがまだ出てないかな
972人間七七四年:2013/01/04(金) 00:07:46.26 ID:zH/B3KjK
>>971
常山紀談の拾遺四巻にも同じ話(松山新介の勇将中村新兵衛が事)が載ってる
メジャーな逸話だったのかもね
ちなみにこっちでも猩々緋の羽織をあげた相手は「或人」になってて不明
973人間七七四年:2013/01/04(金) 01:12:04.21 ID:OEGQPqs9
>>960
長可「ならわざわざ赤色の具足なんか着けずに黒でいいじゃねぇか」
974人間七七四年:2013/01/04(金) 12:55:47.94 ID:KG8pruRV
>>970
おお、ありがとうございます!
出来の悪いガキだったけどこの話だけ何故か覚えてたんですよね
今度探して読んでみたいです。
975人間七七四年:2013/01/04(金) 13:20:46.46 ID:cH1h8zKs
いいお話

フランツ・ヨーゼフは愛妻、エリザベートの死に望んで
「我が国民に告ぐ」を発表している。

「私及び我が家族は、最も困難かつ最も酷い試練に見舞われました。
わが王座の華であり、まめやかな伴侶であり、困難極まる時には慰め・支えであった我が妻――
いくら言葉を尽くしても言い表せませんが――その妻はもうおりません
恐るべき宿命が彼女を、私及び我が国民から奪い去ってしまったのでrす。
下手人は 現存する社会秩序の破壊を目指す狂気の徒でした。
それが最もこの世で高貴な女性に襲いかかり、やみくもな憎しみにかられて心臓を一突きしたのです。
こちらは憎しみなどつゆほどにもしらず、ひたすら善きことのみ念じていたというのに
 私及び我が家族は、文明世界全般を震撼させる前代未聞の蛮行に接し
限りない苦しみを味わいました。
そのさなか、我が愛する国民の声援が寄せられ、私の心がどれほど安らいだか知れません。
なるほど天命はかくも困難かつ、理不尽なことを定めますが、私としては恭しく従いつつ、
まだ気高く美しきもの残しておいて下さったと神威に感謝しなければなりません。
気高く美しきものとは。苦悩の時に、私及び我が家族を包んでくれる、数百万人の、好意、誠意であります。
 近きと遠きを問わず、高知と低地を問わず、いたるところでとりどりに、
亡き皇妃兼王妃に弔意が表明されました。
計り知れない喪失をねぐる全国民の嘆きは私の魂を揺さぶっているものの
正確な反響として、感動的に共鳴しながら鳴り響いてきます。
 私は熱愛する妻の思い出を死ぬまで大事に保つでしょう
それと同様、わが国民も彼女を末永く記憶に留めてくれるでしょう。
謝意・誠意のこもった不朽の記念碑を打ち立てるかのごとく。
 未だに憂いに沈んでるとはいえ、私は全国民に感謝したい
これほど真率なる弔意を寄せ、改めて誠意を明かしてくれたわけですから。
 今年は(帝位50周年の)祝典が予定されています。しめやかなものとならざる
おえないでしょうが,たとえそうであっても、このたび示された、忠誠・同情の
無数のあかしの思い出は、わたしにとって最も有難い思い出でありつづけましょう。
だれもがひとしく苦しみを共有したことにより、図らずも帝位と祖国をめぐって
新たな親密なる結束が生まれました。
我が国民の変わらぬ親愛感を目の当たりにし、私としてはおのが任務を
全うしなければならぬという義務感を強めたばかりでなく、
なんとかうまくいくだろうという希望も抱いた次第であります
 かくも困難なる試練を下された全能の神にはこう祈りたい――
我が使命を全うするだけの力をわれに与えため、我が国民を祝福し、
愛と和の道を見出させたまえ、その道で彼らを繁栄させ降伏ならしめたまえと、と。

1898年9月16日 シェーンブルン宮にて
976人間七七四年:2013/01/04(金) 13:22:11.15 ID:RmWu27QF
>>975
また誤爆に見せかけた荒しか
977人間七七四年:2013/01/04(金) 13:44:33.42 ID:bjnsaG+I
こっちでやれ。向こうの人も喜んでくれるだろ

世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
978人間七七四年:2013/01/04(金) 20:24:47.64 ID:u8zH4ZKp
宮本武蔵
「兵法とは武家の法である。
将の位にある者はとりわけこの法を行い、
士卒の位にある者もこれを学びゆくべきだ。
今の世に、兵法の道を確かにわきまえた武士を見ることは少ない。
道の顕れをわかりやすい例であげるなら、
仏法として人間を救済する道。
儒道として文を糾す道。
医者として諸病を治す道。
或いは歌道者なら和歌の道を習い伝え、
また或いは、数奇者、武芸者、その他の芸能まで、
それぞれが思い思いに稽古し、
好みにより、縁により、嗜んでいるものだ。
しかし兵法の道を好む人は世に少ない。
武士は文武両道と言って、二つの道を嗜む。
これ武士の道也。
たとえ生まれつき武士道に関することが不得意だとしても、
武士としてある以上は、己の分際程には兵法を努力するべきである。
今、心ある武士の大半の思うところを推測してみるに、
武士とは死ぬ道を覚悟することと考えているくらいであろう。
死する道という事だけならば、なにも武士だからということはない。
出家だろうが、女だろうが、百姓已下すべて、
義を思い、恥を知る者ならば、
死するところを思いきることは職分に差別なくあるのだ。
武士の兵法の道とは、何事においても人に勝る所を本として、
一対一の斬り合いに勝ち、或いは多数の戦に勝ち、
主君のため、我が身のため、名を上げ身を立てようと思う。
これが成るかは兵法の徳をもってなり。
また、世の中には、兵法の道を習っても、
実戦には役立たないと言う武士もいる。
このタイプに私が言えることは、
それならば何時にても役に立つような稽古を考え、
万事に至り、役に立つ教え方を考案すべきであろう。
是兵法の実の道也」 【五輪書】
979人間七七四年:2013/01/04(金) 23:54:38.25 ID:yz7HvmI5
へぇー、ほーう。
980人間七七四年:2013/01/04(金) 23:56:47.88 ID:wu8r5Shi
>>979
忠興「へぇー、ほーう」
981人間七七四年:2013/01/05(土) 02:44:30.75 ID:aImTF1QS
なんだこの不吉な気配
982人間七七四年:2013/01/05(土) 06:28:31.16 ID:/7TQi1ls
>>979は殿がお手討ちにされました
983人間七七四年:2013/01/05(土) 07:42:18.51 ID:NgeCcKyf
朝廷により>>979が朝敵となりました
叡山により>>979が仏敵となりました
984人間七七四年:2013/01/05(土) 08:15:37.21 ID:UXG39IIH
そろそろ新スレ立ててみる
985人間七七四年:2013/01/05(土) 08:20:41.94 ID:UXG39IIH
>ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
>またの機会にどうぞ。。。
立てられなかった。どなたか頼みます

↓スレタイ

戦国ちょっといい話36

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
986人間七七四年:2013/01/05(土) 09:11:17.87 ID:XRFkkKKf
敗走した足軽二人の男。渓流に逃れる。矢を受けた助か
らない隊長が若い旗本に差し出す、おむすび 、 こんな
こともあろうと取っておいたんだ。
987人間七七四年:2013/01/05(土) 14:28:24.89 ID:NgeCcKyf
>>978
孤高の天才
求める前提が高すぎるから武蔵の弟子になっても、
ついていけない人多かったんじゃないかと感じる
葉隠だと人間はすぐ弱気になる前提から、
武士として気を奮いたたせることが書かれていると思うが、
五輪書はその段階は超えてるのが当り前として、
天才向けに書かれてるように見える
988人間七七四年:2013/01/05(土) 15:30:22.64 ID:fe9dD9Xe
ちょっと立ててみる
989人間七七四年:2013/01/05(土) 15:33:38.10 ID:fe9dD9Xe
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
戦国ちょっといい話36
立った
990人間七七四年:2013/01/05(土) 18:01:11.43 ID:UXG39IIH
>>989
ありがとうありがとう
991人間七七四年:2013/01/06(日) 03:19:53.81 ID:Dj8jcsUO
>>989
乙です。
宇喜多直家殿と松永久秀殿に茶会に呼ばれているのですけど、
よろしければ貴殿もご一緒にどうですか?
992人間七七四年:2013/01/06(日) 11:13:34.48 ID:095OMY/X
どうしてこのスレは、宇喜多や松永ばっかりがお茶に誘ってくれるんだろう?
たまには義姫やとんだっちのご馳走も食べたいよね
993人間七七四年:2013/01/06(日) 12:00:22.48 ID:j9tLmwbw
鮭さまの御馳走はお残しは許されませんな
994人間七七四年:2013/01/06(日) 14:02:46.64 ID:Pf6zJm12
ではお弁当の鮭は其れがしが頂こう
995人間七七四年:2013/01/06(日) 23:32:46.27 ID:1cf4OTTC
宇喜多松永に招かれるのと
三河殿の饗応を命令されるのと
どちらがマシであろうかのう?
996人間七七四年:2013/01/06(日) 23:42:28.43 ID:9E8CMKYY
わかったわかった
代わりに宇喜多の娘婿になるって選択肢をやるよ
997人間七七四年:2013/01/06(日) 23:47:33.18 ID:qi0zRP+G
富田信高「宇喜多の娘婿になったおかげで、命を失わずにすみました」
998人間七七四年:2013/01/07(月) 08:53:32.67 ID:DKLsUgw5
クロカン「仕方ないな、それならワシの特製鮭料理で・・・」
999べんけい:2013/01/07(月) 12:53:56.34 ID:YbJjhb+X
あと一本で1000人斬りでござるよ
1000鹿之助:2013/01/07(月) 12:54:39.35 ID:YbJjhb+X
1000ならば尼子家再興にまた一歩
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/