戦国ちょっと悪い話33

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2012/08/15(水) 01:14:29.39 ID:meBddRE4
>>1
骨折り!
3人間七七四年:2012/08/15(水) 13:40:32.41 ID:KpQmkjq1
>>1

スレ立て大儀であった!
お歴々が一風呂馳走したいと申しておるぞ
蒲生レオン「俸禄が払えず申し訳ない、心ばかりだが湯の加減にはいささか自信がある」
前田慶次郎「加賀大納言様も身を震わせて喜んだ自慢の風呂がござるぞ」
武田信玄「駿河から霊峰富士山を見ながらの風呂釜もよいぞ」
超時空太閤「いやいや三条河原で風呂釜に浸かれば極楽浄土も見えるぞよ」
鬼作左「当家は御主君が吝嗇なので釜はないがお家の周りに薪を積んで蒸し風呂の用意をしておいたぞ」
4人間七七四年:2012/08/15(水) 16:23:59.64 ID:V3H+Nqid
>>3
作左は釜を壊す係りなのに
5人間七七四年:2012/08/15(水) 21:12:23.03 ID:NQXs0Hg/
>>3
>当家は御主君が吝嗇なので
じゃあ生簀程度の贅沢を大目に見てあげてもいいじゃないですかー
6人間七七四年:2012/08/15(水) 23:22:04.60 ID:qxrimqnS
>>1
上杉定正「何やら風呂場が騒がしい?其方のために余興を用意しておる。ゆるりと湯に浸かって待つがよい」
7人間七七四年:2012/08/16(木) 02:21:37.85 ID:YABYJJ+Y
マラー「おねーちゃんも呼ぼうぜ!」
8人間七七四年:2012/08/16(木) 04:52:42.83 ID:0AEbxoW1
信孝「木太刀など不要と義朝公も申しておる。効能は昔より或る痔、打ち身の野間なれば…」
9人間七七四年:2012/08/16(木) 06:14:13.59 ID:IZkuBg/j
美濃尾張
10人間七七四年:2012/08/16(木) 17:28:57.57 ID:tme3h6f2

ある時、徳川家康がオコリになったことがあり、様々な治療を試みたが効果がなかった。
そんな時に病を治すことができるという者がいて、家康の病を治すために呼び出された。

ところがその者の治療法というのが珍妙であった。まず、その者は屏風の陰に立って
「さあ参るぞ参るぞ」と言うので、家康は「何をするつもりだ」と笑った。

すると今度は丸く括った帯を蛇のようにして投げ出したので、家康はただ可笑しく思って
いるだけで、病気はまったく治らなかったということだ。

身分の低い農民などの療法を家康のような高貴な人に使って、病気を治し大手柄を立て
ようと考えるとは、滑稽な話である。

慶長五年の七月頃に家康はオコリになったというから、これはその頃の話であろう。

――『徳川実紀(古老夜話、武徳編年集成)』
11人間七七四年:2012/08/16(木) 17:33:34.74 ID:V8qOPIpn
>>10
家康「今日からお前は帯太郎と名乗るがよい」
12人間七七四年:2012/08/16(木) 17:59:07.21 ID:Vp2XNNtA
こういうインチキ治療師が来た時、家康だからケタケタ笑ってるけど、
信長だったら世を欺く輩と言って成敗するんだろうな、と思うと
そのあたりがいい悪い別にして、君主としての違いにもつながるんだろうな、とか感じた
13人間七七四年:2012/08/16(木) 18:57:24.19 ID:Xpp3CHsJ
オコリってなんだよって思ったらマラリアのことかよ
危ないもんにかかってたんだな
14人間七七四年:2012/08/16(木) 19:38:04.14 ID:eY6iCOv1
マラリアや天然痘、破傷風にかかっても治療法がないんだもんな。恐ろしい時代やでぇ・・
梅毒もこの頃からか
15人間七七四年:2012/08/16(木) 19:50:01.63 ID:IOF/2KPf
穴山梅毒さんは上京して相当羽目を外して遊びまくったのかな
16人間七七四年:2012/08/16(木) 19:55:22.47 ID:FaHuI2bT
てっきり朝鮮出兵で流行したのかと思ったのだが
それより前から流行してたのか>穴山梅毒
しかしコロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか
と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)
17人間七七四年:2012/08/16(木) 20:27:56.49 ID:QB5cLZmC
穴兄弟ばっかだったのか・・・
18人間七七四年:2012/08/16(木) 20:37:07.70 ID:0AEbxoW1
あなおそろしや
19人間七七四年:2012/08/16(木) 20:54:19.43 ID:1hYEWxTb
>>16
穴山さんを性病扱いするのはやめて差し上げろ!
20人間七七四年:2012/08/16(木) 21:16:32.42 ID:JN9TD1HE
>>17
避妊具なんてない時代だからな…
感染の温床になりそうな遊び場所はあっただろうし。
21人間七七四年:2012/08/16(木) 21:21:50.23 ID:D1WVlOYP
>>17
大名を相手に出来るクラスの高級娼婦がとても少なかったらしい
22人間七七四年:2012/08/16(木) 21:31:38.10 ID:VeD+5Xaa
>>10
 まあ「病でこのまま俺は死ぬんだ……」と心が折れかけてる人には微妙に効きそうな気がせんでもない
23人間七七四年:2012/08/16(木) 21:40:52.87 ID:Vp2XNNtA
>>21
応仁の乱の原因の一人でもあった畠山義就の母親は京の高級娼婦で、小笠原氏や飛騨江馬氏の所でも
子供作ってるな。全部お家騒動の元になってたりw
24人間七七四年:2012/08/16(木) 23:27:30.00 ID:FaHuI2bT
なんか小少将を思い出した(こっちは高級娼婦じゃないけど)
畠山と小笠原のネタもあるが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4375.html
明智光秀の姪であり、細川持氏の妻として細川真之を産み、
持氏の仇である三好義賢の妻となり三好長治と十河存保を産み、
三好長治の後見である篠原自遁と通じ、
三好長治を攻め滅ぼした長宗我部元親の妻となり長宗我部右近大夫を産む
25人間七七四年:2012/08/17(金) 00:05:08.29 ID:1W5Q48/b
キニーネは苦々しく候
26人間七七四年:2012/08/17(金) 00:07:05.46 ID:1W5Q48/b
そいやおこりに罹ると梅毒は治るって話だけどな
27人間七七四年:2012/08/17(金) 00:11:00.96 ID:5Q/YZoeZ
マラリアにかかる→高熱を出す→梅毒のトレポネーマが死ぬ
→キニーネ発見されてないからマラリアで死ぬ
28人間七七四年:2012/08/17(金) 00:39:43.40 ID:fW9/cU2G
>>16
1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ梅毒の伝搬は、
アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、
日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったといわれている。

20年じゃん。
29人間七七四年:2012/08/17(金) 00:47:41.51 ID:5Q/YZoeZ
>>28
20年って書いてるが
30人間七七四年:2012/08/17(金) 00:51:42.76 ID:fW9/cU2G
>>29

「コロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか」
とあるが?
31人間七七四年:2012/08/17(金) 00:52:46.87 ID:5Q/YZoeZ
>と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)
100年云々は朝鮮出兵が1592年だったから
32人間七七四年:2012/08/17(金) 00:57:51.09 ID:t6iEEja8
>>30
その下の行を読もうよ。
33人間七七四年:2012/08/17(金) 07:16:46.81 ID:VAJbYdBT
>>30
これがアスペか
34人間七七四年:2012/08/17(金) 07:42:47.73 ID:AKZIoAb7
>>33
粗忽なだけじゃないかと
35人間七七四年:2012/08/17(金) 08:24:45.84 ID:70AveL26
これは恥ずかしい
36人間七七四年:2012/08/17(金) 08:44:23.50 ID:YzapWMBg
>>20
西洋みたいに生き物の腸でコンドーム作ったりはしなかったのかな?
37人間七七四年:2012/08/17(金) 09:12:21.31 ID:s1NXtKt3
避妊って概念は、やっぱりキリスト教の影響が大きいんじゃないか〜な〜と思うの
やることやってもお腹が目立たなければ当人同士の秘密でなんとかなるけど・・・
まぁ、オレの勝手なイメージなんだけどなw
38人間七七四年:2012/08/17(金) 09:31:27.52 ID:b/bErpYT
て言うか、武士階級なら子供は幾らいても良いし。
農家だって飢饉の時以外は貴重な労働力、只で手に入る奴隷。
39人間七七四年:2012/08/17(金) 09:42:53.12 ID:YzapWMBg
できちゃった…/// でギョッとするのは現代人ならではの感覚なのか
40人間七七四年:2012/08/17(金) 10:23:28.76 ID:70AveL26
まあ幼児死亡率が現代とは比べものにならんくらい高いからな

多いに越したことはない、自分の家のためだけじゃなくて、
親類縁者の家の跡継ぎが居なくなったらそこに放り込まなければならない事もあるんだから
41人間七七四年:2012/08/17(金) 11:56:19.03 ID:3PfqAZyY
つい最近のニュースではオトコにテストステロンを注射すれば避妊にコンドームはいらなくなるかもしれんらしいがの
てか、コンドームの語源って人名説があるんだw
42人間七七四年:2012/08/17(金) 12:42:37.18 ID:+RMGFM/e
>>10
分かった、昨今流行(?)の笑って免疫力をあげようっていうアレだよ!(えー
43人間七七四年:2012/08/17(金) 12:44:21.04 ID:+RMGFM/e
わーサゲ忘れた
44人間七七四年:2012/08/18(土) 11:02:23.63 ID:vWaaEVUX
梅毒で鼻がもげたっていいじゃない
人間だもの
45人間七七四年:2012/08/18(土) 11:39:05.87 ID:WXlhiGsE
鷹の名にお花お千代はきつい事
46人間七七四年:2012/08/18(土) 14:04:03.68 ID:q5nYetVq
権現様(徳川家康)は(将軍職を秀忠に譲って)駿府に移られる際も、万事質素に隠居成されたため、
御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。

大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は

「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」

と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。

当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは

「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」

そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は

「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」

と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て

「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」

と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)

言を左右にして何とか借金から逃げようとする大名たちのお話である。
47人間七七四年:2012/08/18(土) 14:15:07.86 ID:XzgT6NJu
これが武断政治の実体か・・・
48人間七七四年:2012/08/18(土) 14:17:17.73 ID:uY5jsbIY
ジュニア世代も立派に育ってるなぁ、感動した;;
49人間七七四年:2012/08/18(土) 14:30:28.20 ID:HjX195iS
福島正則の改易とか結構厳しいイメージがあったから意外だった
借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな
50人間七七四年:2012/08/18(土) 14:33:13.22 ID:lBc6ZGAR
あの時代だからこそ穏便にすまそうと思ったんじゃないの

戦を経験した人も少ない時代だろうし
51人間七七四年:2012/08/18(土) 14:38:59.19 ID:54p/53yT
>>49
取り潰されるのは五人目の四天王。
四天王は潰されない。
完璧超人だからw
52人間七七四年:2012/08/18(土) 15:28:20.03 ID:UpumMJAU
津山は取り潰されたじゃん
53人間七七四年:2012/08/18(土) 15:52:49.91 ID:Wbfacg1H
江戸の人口を仙台からの米が支える構図がこの時期どのレベルだったかよく知らんけど
幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?
54人間七七四年:2012/08/18(土) 16:42:22.73 ID:nlJ9mhVm
でも下手すると直轄地にされる諸刃の刃
55人間七七四年:2012/08/18(土) 23:04:37.98 ID:aSk0UUbR
借金踏み倒すってなんかムカつくな
全部取潰してやればよかったのに
56人間七七四年:2012/08/19(日) 02:10:15.36 ID:v7aAzoIl
金は卑しいものという意識が当時はあったみたいだし
幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。

現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。
57人間七七四年:2012/08/19(日) 03:45:56.60 ID:wK/xOXfA
犬千代さんなら追込み掛けるんだろうな…
58人間七七四年:2012/08/19(日) 04:00:28.72 ID:VzY311M/
犬千代さんなら政宗が死んだ段階で借金の証文を燃やすだろ
59人間七七四年:2012/08/19(日) 10:06:15.52 ID:+GSIWw/p
まつ「うちの旦那なら…」
60人間七七四年:2012/08/19(日) 10:53:47.82 ID:7Kz0Em/i
あれ?細川さんどちらへ?
611/2:2012/08/19(日) 13:17:21.55 ID:YECCYDjF
聚楽繁栄の時分というので、天正の16〜20年頃であろうか。黒田家においては如水より、家中の者に
賭博の禁止を、厳重に申し付けた。
ところが桂菊右衛門と言う無足の者、法度にも関わらず毎晩他家に忍び出て博打を打っていた。

ある夜の事、菊右衛門は博打に勝って金・銀・刀・脇差など数多を取り、これらを雨羽織に包んで
打ち担いで帰る道、夜も明けようとしていた。

この道は如水が出仕のため通る道であり、行き合ってしまっては都合が悪い。如水が出仕の前に
帰ろうと道を急いだ。仮に行き合い、問い詰められたら、博打打ちに行ったわけではないと
言い訳しよう。その様に考えながら前の方を見ること無く急いでいたら、町の境目で
バッタリと行き合ってしまった。如水と。

菊右衛門大慌てである。心の準備もないまま出くわしてしまったのだ。パニックになった彼は
かの刀を担いだまま這いつくばり、聞かれもしないのに大声でこう叫んだ

「私は博打を打になんか行っていません!!!」

如水は、何も聞かなかった体で菊右衛門の横を通り過ぎた。


さて煩悶この上ないのが菊右衛門である。
「なんてことだ!あんなに取り乱してしまって、どうしようもないではないか!
この間法度を厳しく申し付けられたばかりだというのに…。きっと私は切腹を申し付けられるだろう!
こうなったらもう是非に及ばない。菊右衛門の奴は狼狽えてたわけたことをしたと、死後にきっと
馬鹿にされる!返す返すも無念だ。…どうしよう?」

そう思い悩んで長屋に帰り、すっかり草臥れていたのに寝入ることも出来ず、布団を打かぶって
まじまじとしていた。きっとガタガタ震えていたのだろう

さて、菊右衛門の大胆な告白を目の当たりにした、如水の出仕の時に供に付いていた者たちは
「おいおい何てことだ?コレはどうなっちゃうんだろう?」と、如水の出仕中座り込んで
囁きあった。
「絶対只じゃ済まないぞ。この間の博打禁止の法度は、普段よりも厳しく申し付けられた。
切腹は疑いようもないなあ…。」

そう考えると不憫に思い、供より帰ると直ぐに菊右衛門の部屋に我も我もと見舞い、さて、これからどうしよう
と話し合ったが、皆意見はまちまち

「とにかく逃げ出す以外はない!仰せ出される前に逃げろ!」という意見に菊右衛門

「いやいや、逃げ出すなんて出来ないよ。今朝すぐに逃亡しておけばどうって事も無く逃げ切れたの
だろうけど、あなた方が帰られ、こんなふうに相談してから逃げ出したら、あなた方が後から必ず
詮索を受けるよ。そうなったら私の逃亡先はバレて、またここに戻らされるだろう。
もう、とても逃れられない道だ。切腹を申し付けられたら外聞が良いように斬らせてくれ。」

そう行って逃げないことに決めた。傍輩達への信頼感はゼロである。しかし傍輩達

「そう思うのも理屈だけど、お前が逃げちゃえば、上から詮索受けても俺たち随分凌いでみせるぜ?
それでもどうしてもダメだったら、ま、その時は出てきて腹を斬れ。
そうした方が武士の手柄としても上だろう。さあ、急いで逃げる準備をしろ!急げ急げ!」

そんな風にしている所に突然、如水より御側衆の緊急の呼び出しがかかった。
すわ何事か!?何が起こったのか、もしや早くも菊右衛門の切腹の事かと口々に悔やみつつ、
取るものもとりあえず駆け出し集合してみれば、何のことはない、中間たちに居間の庭に竹垣を結ばせたが、
その結び様の手際が悪く、あれをほどいて手際よく結び直せ、との仰せ付けであった。
さては菊右衛門の事ではないと何れも安堵した。
62人間七七四年:2012/08/19(日) 13:18:12.04 ID:YECCYDjF
その頃菊右衛門は、切腹の仰せが今か今かと固唾を飲んで、部屋で(多分布団をかぶったまま)
ガタガタ震えていたが、一人走り戻ってきて
「博打のことじゃないぞ!垣を結べという事だ!」

と報告したので、菊右衛門、そして一緒に残っていた者たちはホッとして大息をついた。そして菊右衛門
「こういう仕事にはいつも出ている私が、ここで引き込んでいるというのも良くないだろう。
もう手討ちにあってもしょうがないさ。あなた方と一緒に行くよ。」

と言い出したので、傍輩たちも「それも尤もだ」として共に竹垣の直しに向かった。

さて、如水は居間の縁側からそれを見つけると「菊右衛門!菊右衛門!」と高々と呼んだ。
傍輩達はこれに

『すわ、博打の事だ!不安だなあ。だけども如水様は家来を手討ちにはしない人だ。その上
他家での手討ちをいつも批判しているほどなので、まさかここで私が手討ちにされることは
無いだろう。いつもみたいにしたたかに叱りつけると言う事なのだろう。
上手く行けばここで、この件に関しては埒が明くぞ!』
そう思いながら尻目に見ていると、菊右衛門はいかにも近くまで呼びつけられ何事か囁かれた。

傍輩達『これは博打のことではない。何か隠密の用でも仰せ付けられるのか?
それとも如水様は彼の常日頃の心立てをよくご存知なので、菊右衛門に直に申して、埒を明けて
下さるのだろうか?おや?菊右衛門も何か申し上げているぞ?多分博打のことだな。
如水様が申し開きを聞いてくださっているのだ。あら嬉しや』

そう囁き合っているうちに、如水から

「竹垣を直し終わり、掃除をしたら皆々帰って休め!よく骨を折ってくれた。上々の竹垣である。
これには気に入ったぞ!」と、悦びを伝えた。

彼らは庭を出るやいなや菊右衛門に「何事を囁かれたのか!?」と尋ねた。すると菊右衛門

「あの事ですよ。お前、昨夜は博打を打にどこに行ったのかと聞かれたんだ。
どこどこの殿の家中に参りましたと申し上げると、

『どうやら勝ったようだな。刀、脇差の他、金をどのくらい取ったのだ?』

私は五百目程取ったのだが、如水様の常日頃の気質を知っているので
『一貫目あまりだと思います。今朝からは殊の外悩み苦しんでいたので、金ももはや要らぬものと思い
打ち捨てていたので詳しくはわかりません』

と申し上げた。すると如水様は手を打って喜ばれ
『先ずは勝ったか!でかしたぞ!しかし小金を要らぬものと思うのも当然だ。法度を厳しく言いつけたのだから、
お前のやったのは近頃は危ないことだ。
まあ、お前が今朝のようなたわけた事をしたのも、法度を常々恐ろしく思っているゆえだろう。
それ程に思っているのなら、今後はいかなることも法度に背いてはならぬ。

良いか、何でも物事というのは、良い事の次には悪い事があるものだ。勝った時はしっかりとそこに留まれ。
お前の身体にとって昨晩の勝ちは重々しいことだ。今後お前の身代が擦り切れたと聞いたら、罰を
与えるぞ!構えて構えて、博打を打ってはならぬ。むざむざと物を人に与えて、身代が擦り切れないようにせよ。』

そう、念を入れて仰っられたのだ。」
菊右衛門ははその仰せを肝に銘じ、誓紙にするまでもなく、博打をやめた。

その後彼は如水より知行を与えられ、身体に過ぎる富貴を得、年老いて子に知行を譲り、一生楽をして
80歳に及んで死んだという。

桂菊右衛門が博打のバレた顛末、についての逸話である
(古郷物語)
63人間七七四年:2012/08/19(日) 13:32:07.55 ID:w2Dv+0c1
>>61-62
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-873.html

の詳細・別出典版というのかな。詳しくありがとう。
個人的には時間的に遠い被りは気にしないけど・・・

やっぱいい話なんじゃね?w
64人間七七四年:2012/08/19(日) 16:13:47.86 ID:0+MweGva
65人間七七四年:2012/08/19(日) 16:18:04.38 ID:6WBIk5gE
>>64
シアトルマリナーズの川崎選手の改変はネタは
やめてもらってもいいですかねえ・・・
66人間七七四年:2012/08/19(日) 16:37:06.28 ID:C2GDjp0K
誰かを追いかけて仕官したのに当の相手は逃げ出した
なんて逸話ありませんかねえ・・・
67人間七七四年:2012/08/19(日) 17:41:26.08 ID:hZGrCxI9
>>66
誰かに唆されて謀反したのに当の相手は逃げ出したとかなら
68人間七七四年:2012/08/19(日) 18:35:59.81 ID:BwQaCWrc
謀反を焚きつけて謀殺するってのもありだな。
ところでロミオとジュリエットを日本で置き換えるとどことどこが相応しいかな?ガチで中が悪いというと三才さんのとことngmsとか津軽と南部とか、他あったっけ?
69人間七七四年:2012/08/19(日) 20:37:21.36 ID:FqR7YSwH
お盆に実家近くの神岡に行ってきたので飛騨の話を


飛騨の豪族たちは、時に争いながらも表面的には友好関係を保っていた
しかし越中から上杉謙信、信濃から武田信玄の脅威が迫ってくると、彼らもどちらかに付かざるを得なかった
南飛騨の三木氏が上杉氏と強く結びついたのに対し、北飛騨の江馬氏は主に武田氏寄りの立場を採った

江馬氏は執権北条氏の末裔を自称し、飛騨国高原郷(飛騨市神岡町)を中心に飛騨北部に勢力を持った。
戦国時代後期の当主・時盛は信濃から進出してくる武田氏と結び、三木氏と対抗していたが、息子の輝盛は越中国中地山城にあり、
上杉氏へ近づこうと考えていた
こういった考えの相違から、時盛は輝盛の弟・信盛を当主に据える動きを見せており、親子の対立は避けられないものとなっていた

天正元年、遂に輝盛は時盛を殺害して高原郷の本城を支配した
次いで弟の信盛を甲斐へ追放、他にも後継候補であった従弟の慶盛を攻め殺し、完全に実権を握った。
その後は三木氏と共に上杉氏に属した。
(武田信玄死去の情報を上杉氏へ伝えたのは江馬氏家中の者から河田長親へ宛てた書状である)

しかし、信玄と謙信の死、そして両氏の勢力減退、さらには織田信長の横死という激しく動く情勢は輝盛の野心に火を付けた
当時三木氏は織田氏と通じており、その織田氏という後ろ盾を失った三木氏に輝盛は決戦を挑んだのである
兵力の劣る三木氏は小島氏らと結んで迎撃、「飛騨の関ヶ原」とも言われる八日町の戦いとなった

父を殺し、従弟を討ち、弟を追った男の最期は、三木勢の放った銃弾であった
高原郷へは勢いに乗った小島時光が攻め寄せ、江馬氏は滅亡した

この抗争に打ち勝った三木氏は、これまで協力していた諸氏や自身の一族までも滅ぼし、飛騨国内の大半を手に入れるのであった
70人間七七四年:2012/08/19(日) 21:21:06.58 ID:nopW7FZ1
すまんが何処が逸話なの?
71人間七七四年:2012/08/19(日) 21:35:19.84 ID:7qY+8Hxy
まぁこのスレにはよくあることだし

でもあんまり概説とかは主旨に反するよね
創作とかは言うまでもなく
72人間七七四年:2012/08/19(日) 23:03:49.44 ID:sareDJhY
飛騨の三木氏って聞いたことないと思ったら姉小路氏のことかよ
73人間七七四年:2012/08/20(月) 00:50:45.88 ID:k6Fhdk0n
三木を隆盛に導いた直頼は美濃にちょっかい出してたりするほどなんだけど、あんまり有名ではないよなあ

ところで、小島って国司家の姉小路傍流なのかな?
それとも無関係の一族?
74人間七七四年:2012/08/20(月) 01:43:44.42 ID:4RWe1OET
飛騨っていうとなぜか飛騨鷹比等を思い出してしまう
75人間七七四年:2012/08/20(月) 20:01:12.92 ID:TvH0cv81
あまり有名でない人物は概略を述べるだけでも逸話ぽくなることもある。
76人間七七四年:2012/08/20(月) 22:34:44.64 ID:k6Fhdk0n
飛騨といったら甚五郎
77人間七七四年:2012/08/20(月) 22:45:48.38 ID:MumgZtZW
赤影かもしれん
78人間七七四年:2012/08/21(火) 07:29:28.62 ID:A3Ki2MCk
牛だろ牛、飛騨牛
あーでもこの時代は食わんよな
79人間七七四年:2012/08/21(火) 07:58:52.32 ID:sD34GSnx
>>78
日本の食用のなんとか牛は
近代になって海外の肉牛と掛け合わせた物だから
80人間七七四年:2012/08/21(火) 08:04:12.99 ID:7GiGOlWx
飛騨といえばブリだろ
81人間七七四年:2012/08/21(火) 08:32:24.20 ID:VlFlRE4n
乳牛の飼育に失敗したのは8代将軍だったか
82 忍法帖【Lv=14,xxxPT】 :2012/08/21(火) 15:28:59.27 ID:3RAewFho
飛騨ってよくあれで1国になったね。
国力めちゃくちゃ低いんじゃない?
83人間七七四年:2012/08/21(火) 15:46:35.16 ID:MQ1+/the
あまりの低さに税金免除されたレベル
84人間七七四年:2012/08/21(火) 16:33:17.47 ID:F9rxcNHt
飛騨国は農業生産はゼロに近いけど、良質の木材と銅や亜鉛などの鉱物資源で
人口の割に収入はあるイメージだな。まあ、隣国などとの交易も大変そうだけど。
85人間七七四年:2012/08/21(火) 16:39:45.00 ID:QMn0xiiF
二年くらい前に白川郷に泊まりに行ってみたら、道中のトンネル手掘りが結構な数あったなー。
当然の事、幅は狭いし、短い間隔で道路工事やってたもんだからトラックも結構通るなから、なかなかスリリングで楽しかったw
86人間七七四年:2012/08/21(火) 17:07:16.77 ID:hUkpucKK
飛騨かぁ。高山とか下呂温泉には旅行で行ったことある
観光で行くにはなかなか素敵なところだけど、住むとなるといろいろ不便ではなかろう
か、と思ったり

俺が戦国武将だとして、もし、
「こたびの働き見事であった!加増してつかわす。○○国××郡に代わり、飛騨一国を与える!」
とか言われたら「ははぁ〜有り難き幸せ」とか言いつつ、内心ビミョーなんだろうなw

でも、外敵には強そうだな。勝手知ったる地元の兵を動員してゲリラ戦に持ち込んだら
多少の大軍は撃退できそうなイメージ
87人間七七四年:2012/08/21(火) 17:13:16.00 ID:YGXQo3yb
飛騨は石高は大国の一郡程度だけど木材収入が結構な物だったから、
小大名クラスならかなり美味しい話かも。
結局木材の安定供給のために木曽共々天領になっちゃたけど
88人間七七四年:2012/08/21(火) 17:48:21.55 ID:fo8flQkM
長政が前任だったらハゲ山になって引き渡されたりしてな
89!ninja:2012/08/21(火) 17:58:33.84 ID:3RAewFho
>>88
忠興「このDQNが!」

どっちかいうと、兼続さんの方がそんなん得意そう。
TERUさんでもいいけど。
5人目に返せと言われ、家臣が決死で酒飲んで死んで、許してもらう。
90人間七七四年:2012/08/21(火) 22:23:34.59 ID:Kci/xxnv
おにいちゃんなら開発した鉱山のリストとかないないしそうだ
91人間七七四年:2012/08/22(水) 00:09:48.07 ID:5xjuHDDU
兼続さんはそのうち越後取り返す気だったから
そんな禿山にしたり統治に必要な資料ないないしたりはしないよ
むしろ景勝にべったりで会津移封から米沢減封まで自領である米沢放置状態だったのが
米沢にとっては悪い話(一応父ちゃんが城代してたけど)
92人間七七四年:2012/08/22(水) 01:11:38.52 ID:vzhmPES2
お前ら、天嶮に篭り強敵を幾度も撃退してきた内ヶ島さまをなぜ思い出さんのじゃ
連戦連敗のどこぞの猫抱き爺よりも凄いおかたぞ
93人間七七四年:2012/08/22(水) 01:52:47.69 ID:PcqlKZI+
そういや手掘りトンネルくぐる前に、向牧戸城址を観たなあ、城址公園すらない寂しい所だったけど。
まあ確かに「天嶮」だわw
保木脇に帰雲城を築き、とは向牧戸の看板に書いてあったけど、攻める気が起きなくてもおかしくないレベルだったんだろうなあw
でも越中西部の砺波まで勢力下にあったと書いてあったから天嶮に籠もってばっかりだった訳じゃないんだろうね
94人間七七四年:2012/08/22(水) 03:40:07.15 ID:oCwprfAj
>>92
おぉ、まさにジシンに溢れておりまするな。
95人間七七四年:2012/08/22(水) 09:58:04.87 ID:gIVvrAPU
夏らしくこんなお話

ある時、三の丸にて不義密通をしたものが出たので、鍋島直茂は詮議の上、男女とも死罪とした。
ところがその後、この男女の幽霊が毎晩現れるようになり、城の女中衆は怖ろしさのあまり、夜になると
部屋の外には出ないほどであった。
この様なことがしばらく続いたので、御前様(直茂正妻・陽泰院)に申し上げたところ、慰霊のため祈祷や施餓鬼などを
するよう仰せ付けられたが、これらをしても幽霊の出現は止まなかった。

そこでついにこの事を直茂公に申し上げると、直茂公はこれを聞かれて

「さてさて、なんと嬉しいことだろうか。
あの者たちは首を斬っても足らないほど憎き者たちであった。そうであった所に、あの者たちが死んでも
行くべき所にも行かず、迷い廻って幽霊となり、苦しみ続けているというのは実に嬉しいことである。

なるほど、かまわないからずっと幽霊としてこの城に居ればよい。」

すると直茂がこう言ったその夜より、幽霊は出なくなったそうである。
(葉隠聞書)

幽霊よりもずっと恐ろしいのが戦国大名なのだ
96人間七七四年:2012/08/22(水) 10:16:10.99 ID:IMOYF7SG
直江も真っ青やなw
97人間七七四年:2012/08/22(水) 10:19:53.88 ID:g0PnSKOF
化け猫も出たようですが、
と言われたらどんな返しをしたんだろ
98人間七七四年:2012/08/22(水) 11:51:51.30 ID:P9b1b+0F
この話既出だね。
99名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/22(水) 11:55:48.94 ID:P4yn8byU
あまりの剛胆さに幽霊すら逃げ出すなんてさすが直茂
>>97
鬼武蔵「そこへ直れ。この人間無骨の餌食にしてくれるわ」
三歳様「そこへ直れ。この歌仙兼定の餌食にしてくれるわ」
100人間七七四年:2012/08/22(水) 12:01:35.89 ID:PpggZvH7
>97
猫缶を準備する義弘様
101人間七七四年:2012/08/22(水) 14:24:21.71 ID:Hb83kX6S
TERU「不義密通など許せませんな、叔父上」
家久(悪)「正室とのみ愛し合わないといかんぞ!」
102人間七七四年:2012/08/22(水) 17:45:58.08 ID:8sNJcG3T
なんか飼い主に忠義なねこって違和感あるよな
103人間七七四年:2012/08/22(水) 19:01:33.53 ID:eIKmHs79
犬でも裏切る時は裏切る
104人間七七四年:2012/08/22(水) 21:05:50.29 ID:GhOqlR3z
犬ってそんなに忠義心ないよ
105人間七七四年:2012/08/22(水) 21:26:33.15 ID:vchVMVkx
家庭内序列犬以下はつらいな
106人間七七四年:2012/08/22(水) 22:05:48.45 ID:BEL8Vlty
犬にも性格があるからな
あと犬が自分以下だと判断した人間に対しては割と厳しい
107人間七七四年:2012/08/22(水) 23:27:38.24 ID:/d54mMID
>>106 >割と厳しい

あるあるw
108人間七七四年:2012/08/22(水) 23:38:21.41 ID:5d4D5QsU
結局「兵農分離」を言い出す奴はバカの一つ覚えみたいに謙信の越山ばっかりなんだよな。
あれは農閑期だから兵を出したんじゃねーよ。謙信の書状にもあるが、古利根川の増水期を
避けだだけだ。増水期に大軍勢で無理に利根川渡るのは難しかったから、それを避けた。それだけの話。
帰国も農繁期に合わせたのではなく、再び増水期に入らないうちに帰っただけだ。
109人間七七四年:2012/08/22(水) 23:38:56.38 ID:jqfPcNhz
多くの犬は自分がNo.2と自負しているらしいから
家庭内で一番強くないと自動的に犬以下が確定しちゃう
110人間七七四年:2012/08/22(水) 23:39:59.26 ID:5d4D5QsU
すまん誤爆した
111人間七七四年:2012/08/22(水) 23:52:22.97 ID:Ev7WGA+5
>>110
信貴山城主がお呼びですぞ
112人間七七四年:2012/08/22(水) 23:54:32.57 ID:+4lPlYti
木沢長政か松永弾正か
どっちにしても命が危ないな
113人間七七四年:2012/08/23(木) 07:07:05.85 ID:S2SfW5cB
>>109
皮肉だな
老犬を愛す義眼の軍務尚書に粛清されるとは
114人間七七四年:2012/08/23(木) 17:42:28.64 ID:0hZ60kwz
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。

信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。

彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。

その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました

「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」

この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました

「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」

これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。

そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。
115人間七七四年:2012/08/23(木) 19:24:16.36 ID:ijGl90yK
そりゃ村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよw
116人間七七四年:2012/08/23(木) 20:17:50.77 ID:pm0V7Yjv
>>114 妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?
117人間七七四年:2012/08/24(金) 07:48:53.20 ID:tZ3UYXU1
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・
118人間七七四年:2012/08/24(金) 10:35:02.23 ID:g66CsgaY
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに
119人間七七四年:2012/08/24(金) 10:51:45.73 ID:38zWfZKr
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…
120人間七七四年:2012/08/24(金) 14:09:12.72 ID:5n2aqATQ
ある男が閻魔の前に来た。
その男は極楽に入れるほどの善行を行っていなかったが地獄に墜ちるほどの悪行も行っていなかった。
閻魔帳を何度見直しても結論は出ない、そこで困り果てた閻魔は男に訪ねた。
閻魔「お前はこのままでは極楽にも地獄にも行けない。生前行った善行を言いなさい。」
男「はい、私は生前落ち度もない親族が無礼討ちの憂き目にあったので上役に訴えました。」

閻魔「なるほど、それで?」

男「一度は引き下がりましたが、勇気を振り絞って再び訴えました」

閻魔「それは勇気ある行動だ。で、それはいつの事だ?」

男「つい、四半刻前の事です」
121人間七七四年:2012/08/24(金) 14:10:55.05 ID:V3cF1bqR
山城守「さっさと書状を閻魔に渡せ」
122人間七七四年:2012/08/24(金) 14:13:07.09 ID:zstQDjYa
ソ連ジョークみたいだな
123人間七七四年:2012/08/24(金) 14:20:37.14 ID:38zWfZKr
嘆願書「お玉還せ 直江越中守兼続判」
124人間七七四年:2012/08/24(金) 15:40:43.57 ID:5n2aqATQ
ある信心厚い男がいた。
その男は、昔から本願寺法主の本願寺顕如に是非会いたいと念願していた。

あるとき、御尊顔を仰げる機会があると聞いた男はついに思い立ったか
長年の夢を果たそうと新しく誂えた着物を着て本山へ向かう
そして、待ちわびている群集の中に紛れ込んだ

拵えの良い着物を着て目立てば、法主が自分に気付いて話しかけてくれるのではないかと思ったのだ。

法主は、ゆっくりと(そして男に気づく気配もなく)人々の前を歩いて来た。
そして、ひとりの乞食にその慈顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべて乞食に何か語りかけ、通り過ぎていったのである。

男はとても反省した。
いい服を着て法主に目を留めてもらおうなんて、自分はなんて汚い考えを持っていたのだろう。
貧しき者にこそ、仏は慈悲深き目を向けるのである。

「それでも一言でもお言葉を頂きたい」

一計を案じた男は、先程の乞食に頼んで、銀一枚で自分の服と乞食の服とを交換してもらうことにした。
次の日、また法主が人々の前に顔を見せた
すると法主は乞食の服を着た男に近づいてきたのである。

「念願が叶った!」

そして、男の耳に口を寄せると、優しい声でこう言われた。

法主「昨日、目障りだから失せろと言ったハズだぞ」

男「………………」
125人間七七四年:2012/08/24(金) 16:11:52.35 ID:jDRX58de
それのローマ法王バージョンをどっかで見たな・・・
126人間七七四年:2012/08/24(金) 16:25:23.97 ID:lNCwzuHs
>>124
出典は?
127人間七七四年:2012/08/24(金) 16:35:49.62 ID:FFaXT/Jo
もしかして:作り話
128人間七七四年:2012/08/24(金) 16:53:43.14 ID:fiz2RSd4
一回でやめとけばネタで済んだのにな
129人間七七四年:2012/08/24(金) 17:03:50.72 ID:qI7xjC4z
これはひどい

つか、何で庶民で信仰を広げた本願寺なのか謎
やるなら南都や比叡山じゃね?
130人間七七四年:2012/08/24(金) 17:10:12.11 ID:5n2aqATQ
戦国時代ジョークみたいなのはないのかなと。
131人間七七四年:2012/08/24(金) 17:29:50.20 ID:fiz2RSd4
醒睡笑でも読んどけ
132人間七七四年:2012/08/24(金) 17:54:16.15 ID:zstQDjYa
『羽柴(秀吉)の宮殿の婦人の中に、3,4人のキリシタンがあります。
その中の一人は老年の身分高い武士に嫁ぎ、名をマグダレナと言います。
彼女は王妃の秘書であり、大いに妃に重んぜられ、他の2,3人よりも親愛を受けています。
彼女はデウスが城中に置かれた一の明星であり、その行動と模範によって他の全ての異教徒を照らしています。

彼女は常に霊魂のことに意を注ぎ、甚だ多忙であるにもかかわらず、毎日3回数珠を操り、筑前殿及び夫人の前においても
少しも恥ずること無く祈祷を捧げ、他の婦人達の嘲笑を受けても、少しも心を乱さず、賢明に、親しく彼女らと
交わっておられます。その様であるので宮殿の婦人たちは全て彼女を頭に立つものとして遇し、羽柴殿すらも
彼女の正しい行動を認め、また王妃は日々一人で彼女と相対し、常々我等キリシタンのことを語り、また聞くことを
喜び、キリシタンの教えについて賞賛されています。彼女は常々我々の聖堂に来て懺悔を行います。

マグダレナには最愛の娘が一人あり、筑前殿は大変にこの娘を信用し、金銀は尽く彼女の手を通り、収納も分配も
全て彼女の手に委ねられています。
娘はその徳においても母マグダレナに劣ることはありません。

ところでその母が我々に語った一つの事例があります。
これは実に驚嘆すべき事であり、またキリシタンに対するデウスの大いなる摂理の認められることであります。

それは羽柴殿がマグダレナ、そしてその娘に対して、今まで手を触れた事もなく、また邪悪と認められる言葉を
用いたことがない、という事実です!
彼は城中にある他の婦人に対しては戯れるのが常のことなのに!

日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
羽柴は戦争に出る前に、マグダレナの勧めに従って、全てにキリシタンの聖人の名をつけました。
それは宮廷において今もなお使われています。
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスの報告における、天正12年(1584)頃の秀吉の奥のキリシタン女性の模様である。
しかしフロイス、驚嘆すべきことがそれかよw
133人間七七四年:2012/08/24(金) 18:19:59.83 ID:jDRX58de
ああ、フロイスだ・・・としか言いようが無い。
134人間七七四年:2012/08/24(金) 18:48:42.90 ID:7BgePD+H
そんなに不細工なのか…
135人間七七四年:2012/08/24(金) 18:49:50.56 ID:83IJIaEj
>信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが
これって日本の史料にも残っているんだろうか。
信長ならありそうなきもするが。
136人間七七四年:2012/08/24(金) 18:59:29.57 ID:vHdPuoj/
>デウスが城中に置かれた一の明星
つまりルシファーか
137人間七七四年:2012/08/24(金) 21:35:49.38 ID:5n2aqATQ
>>131
面白い話しでもあるの?
138人間七七四年:2012/08/24(金) 21:45:44.56 ID:sl/HsgVa
>>137
戦国〜安土桃山のお笑い話集。あの時代の人間がどういうものを面白いと思ったかよく解るぞ。
139人間七七四年:2012/08/24(金) 21:51:09.00 ID:BBQXCVOo
戦国ジョークスレでも立てるか
140人間七七四年:2012/08/24(金) 21:59:21.50 ID:Pf9MfB4z
>日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、

つまり洗礼名を受けて、それで呼び合う女子に対し
「バテレンに名付けられたがうれしいか。なら奴らよりさらに偉いわしが名を付けてやろう」
と男の名を付けたと。女性性の剥奪であり、凌辱に等しい、とある種の女性史家がいうかもしれん(憶測)
141人間七七四年:2012/08/24(金) 22:06:51.61 ID:38zWfZKr
我が子への命名に比べりゃまだまだ

それに権現様よりはマ…シ…いやいやいやいや…
142人間七七四年:2012/08/24(金) 22:11:25.71 ID:vHdPuoj/
五郎八姫も男っぽい漢字の名前が嫌だからキリシタンになったのかもな
143人間七七四年:2012/08/24(金) 22:34:04.47 ID:jDRX58de
>日本における異教の婦人

フロイスから見て異教徒だからキリシタン以外の人の事じゃないか?
144人間七七四年:2012/08/24(金) 22:56:28.71 ID:R0ZUuuZI
まあ向こうは聖人・偉人の名前とかから引用するからな
日本みたいに亀だの花だのはおかしいんだろう
145人間七七四年:2012/08/24(金) 23:53:52.11 ID:yvZUVzP+
じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところにすむところ
やぶらこうじのぶらこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん ばきゅーん☆
しゅーりんがんの ぐーりんだい
ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの
ちょうきゅうめいのちょーおーすけ!
146人間七七四年:2012/08/25(土) 00:03:50.95 ID:EivZeXhS
>>145
漢字でも大概だが、平仮名にされると余計にめんどくさいな
147人間七七四年:2012/08/25(土) 00:06:57.86 ID:BP1oUpaS
よく見ると「ばきゅーん」ってところがじょしらくってアニメのEDソングの歌詞だな
148人間七七四年:2012/08/25(土) 01:13:03.96 ID:YHrjyWmz
じょしらくはなあ
落語を期待してたら、ただの尻だしアニメだったというのが
149人間七七四年:2012/08/25(土) 01:20:37.74 ID:gUyDuL4R
落語ネタ出すなら>>131のように醒睡笑とか
「荒大名の茶の湯」「真田小僧」「太閤と曽呂利」「狂歌比べ」あたりをだな
150人間七七四年:2012/08/25(土) 01:34:02.61 ID:Bzyfqp/l
井戸の茶碗には肥後細川の殿様が出る
151人間七七四年:2012/08/25(土) 01:36:34.55 ID:EivZeXhS
>>148
利常「まったくけしからんな」
152人間七七四年:2012/08/25(土) 01:45:15.04 ID:Zv/dTIwS
>>151
あんた前出しの前田氏やんけ
153人間七七四年:2012/08/25(土) 01:46:38.10 ID:M8PWV1s6
>>152
お後がよろしいようで
154人間七七四年:2012/08/25(土) 03:04:17.39 ID:kUlszAoq
小噺かよ!
155人間七七四年:2012/08/25(土) 13:38:06.23 ID:yv4kpZeV
なんだこの流れw
156人間七七四年:2012/08/25(土) 13:45:58.04 ID:oh1wmKO7
司馬遼太郎の尻啖え孫市では
敵に対してケツを見せるのは勇者の証とか書いてた気がする
戦国時代の逸話にありそうだ
157人間七七四年:2012/08/25(土) 13:51:08.91 ID:nagH/188
有りそうだっつーか、秀吉が小牧長久手の時に徳川を挑発しようとしておしりペンペンした、
ってのがあるわな。
158人間七七四年:2012/08/25(土) 13:55:21.93 ID:oh1wmKO7
そうなんだ
榊原に野人扱いされた後にその行動ってことか
159人間七七四年:2012/08/25(土) 14:10:53.11 ID:M8PWV1s6
尻といえば小牧の近く、今の春日井市に「尻冷やし地蔵」というお地蔵様がある。

この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。

尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。

春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。
160人間七七四年:2012/08/25(土) 14:38:34.44 ID:HkrtFv0B
裾濡らしとか裾冷やしとかでいいじゃない…なぜ尻に
161人間七七四年:2012/08/25(土) 15:01:41.83 ID:7azbN4jG
実は後ろから刺された箇所が尻だったんじゃないの?
162人間七七四年:2012/08/25(土) 15:09:06.00 ID:WaJ+vnKt
アッー!
163人間七七四年:2012/08/25(土) 16:47:15.99 ID:+wXBRpPW
>>156
ちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな
164人間七七四年:2012/08/25(土) 18:16:48.32 ID:YjKO5EB0
誰だっけ?全裸で戦場を駆け抜けたのって?
165人間七七四年:2012/08/25(土) 18:23:40.32 ID:NjyD/zAp
兜有りなら勝成。誰というかみんなで裸なら武田
166人間七七四年:2012/08/25(土) 18:29:29.82 ID:GoBdw8dI
>>165
それは素肌攻めだろw
167人間七七四年:2012/08/25(土) 18:46:08.11 ID:Zv/dTIwS
エジプト軍にはヌコを盾に括り付けてだな…
ひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。
168人間七七四年:2012/08/25(土) 18:55:08.63 ID:nagH/188
>>164
これかw

伊藤清蔵さん大活躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5012.html
169人間七七四年:2012/08/25(土) 18:56:39.95 ID:Oanugzmt
>>165
素肌攻めは全裸って意味じゃないお
170人間七七四年:2012/08/25(土) 19:01:36.16 ID:NjyD/zAp
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!
171人間七七四年:2012/08/25(土) 20:09:08.15 ID:yv4kpZeV
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから
172人間七七四年:2012/08/25(土) 20:50:04.00 ID:YHrjyWmz
>>163
ご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw
173人間七七四年:2012/08/25(土) 23:52:10.29 ID:GXCoKmI+
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら
174人間七七四年:2012/08/26(日) 01:59:26.93 ID:AHjtlf5x
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)
175人間七七四年:2012/08/26(日) 10:57:02.27 ID:sTO3hyt0
>>171
城攻めは?
176人間七七四年:2012/08/26(日) 11:56:10.83 ID:/P3YIZD2
>>174
工場長の場合「直の膚」(ソース:氏郷記)と書かれてるんだがどーだろ
177人間七七四年:2012/08/26(日) 12:43:53.49 ID:wpMGNzvP
>>176
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?
178人間七七四年:2012/08/26(日) 12:56:45.99 ID:1IIAssB7
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな
179人間七七四年:2012/08/26(日) 13:00:17.46 ID:qayyvTJ3
銃をバンバン撃ち合ってたのに西洋みたく鎧が簡略化されていかなかったのは不思議
180人間七七四年:2012/08/26(日) 13:05:23.24 ID:Ua1KRJI8
鉄砲隊は陣羽織のみになりましたが?
181名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/26(日) 14:27:50.60 ID:ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。

・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦

山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。

支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。

・朽網鎮則たちの後日談

秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し島津義弘や豊久と一緒に戦っている。
182人間七七四年:2012/08/26(日) 15:04:51.12 ID:R5+7sVC8
逸話スレなんだけどなぁ
183人間七七四年:2012/08/26(日) 17:36:25.59 ID:tJGrlDwn
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。

『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ
184人間七七四年:2012/08/26(日) 17:39:37.80 ID:k9t/wssG
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)
185人間七七四年:2012/08/26(日) 17:39:55.79 ID:Ua1KRJI8
検証スレにでもどうぞ
186183:2012/08/26(日) 18:02:48.85 ID:tJGrlDwn
>>184
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに

>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ
187人間七七四年:2012/08/26(日) 18:13:23.61 ID:IwdDHBaU
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw
188人間七七四年:2012/08/26(日) 19:46:15.14 ID:3SsLoMCQ
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか
189人間七七四年:2012/08/26(日) 20:07:15.05 ID:SmnKkMJ8
>>184
それは光秀の最初の妻
190人間七七四年:2012/08/26(日) 20:12:57.87 ID:lP5MBpQK
あれ、痘痕は煕子で
最初の妻は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2441.html
↑で美人にされてる千草じゃないのか
191183:2012/08/26(日) 20:27:34.42 ID:tJGrlDwn
すみません
ネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます
192名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/26(日) 20:41:56.76 ID:ZuSXXKgS
高橋紹運にもそんな話があったな。
斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。
193人間七七四年:2012/08/26(日) 20:57:13.05 ID:vdq3zO0V
醜女話はテンプレなんだろうねえ
194人間七七四年:2012/08/27(月) 00:12:05.82 ID:r0VeB0kP
吉川さんの奥さんもそうだな。
195人間七七四年:2012/08/27(月) 00:42:16.87 ID:ZXLNnHKH
熊谷さんの娘は評判通りな気がするな
勝手にお父さん似だったと想像してる
196人間七七四年:2012/08/27(月) 09:51:36.68 ID:tRJmQwTr
内府さんあたりならあばただろうが気にしないだろうな
197人間七七四年:2012/08/27(月) 14:24:22.67 ID:I6J6kc6y
嫁さんの実家が、そういうのを気に出来ない力持ってた、ってー事でもあるような
198人間七七四年:2012/08/28(火) 03:52:15.96 ID:Yp0/ISAG
悪久「伯父さんが死んで、やっと嫁から自由になれたぜ……」
199人間七七四年:2012/08/28(火) 06:47:12.43 ID:aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。

筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。

彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。

ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。

他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。

例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。

また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。

さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。

ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。

シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。

また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。
200人間七七四年:2012/08/28(火) 08:07:35.30 ID:RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか
201人間七七四年:2012/08/28(火) 17:36:51.53 ID:nmVw6k3Q

ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、

道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って

動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、

道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。

すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。

そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。

その後は何の怪異も起こらなくなった。

――『名将言行録』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1185.html
↑の別バージョンか?
202人間七七四年:2012/08/28(火) 21:20:25.39 ID:CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが
203こうか:2012/08/28(火) 21:23:56.15 ID:CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」
204人間七七四年:2012/08/28(火) 21:52:28.56 ID:jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな
205人間七七四年:2012/08/28(火) 22:34:28.10 ID:qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。
2061/2:2012/08/28(火) 22:36:13.04 ID:P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう

『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。

上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。

翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。

ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。

世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。

我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。
2072/2:2012/08/28(火) 22:37:19.82 ID:P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)

江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。

若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。

謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。

師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。

師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)
208人間七七四年:2012/08/28(火) 23:06:56.77 ID:I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ
209人間七七四年:2012/08/28(火) 23:12:55.70 ID:P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。
210人間七七四年:2012/08/28(火) 23:32:40.11 ID:tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう
211人間七七四年:2012/08/28(火) 23:43:57.43 ID:I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な
212人間七七四年:2012/08/29(水) 13:23:10.05 ID:3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな
213名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/29(水) 21:11:01.52 ID:jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル

天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。

親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。
214名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/29(水) 21:36:50.52 ID:jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…
215人間七七四年:2012/08/30(木) 09:20:50.77 ID:vw3Zxu6Z
どこら辺が逸話なの?
216人間七七四年:2012/08/30(木) 10:43:33.35 ID:rozVLcIm
>>215 のようなレスを最近よく見るし、実際逸話になってない教科書的記述も増えているが、
>>213-214 はまあ逸話と判定してもいいんじゃないか。>>213の下段や>>214の下から2段目あたりが。

なんでもかんでもチラ裏禁止では、書き込み自体がなくなってしまう
217人間七七四年:2012/08/30(木) 22:27:22.32 ID:4XX6FsO9
雑談ならまだしも、創作とか解説みたいな逸話モドキは勘弁して欲しい。
218名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/30(木) 22:37:06.50 ID:RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……
219名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/30(木) 23:05:55.43 ID:qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟
220人間七七四年:2012/08/30(木) 23:08:53.81 ID:WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど
221人間七七四年:2012/08/31(金) 09:58:56.39 ID:vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・
222人間七七四年:2012/08/31(金) 12:07:19.20 ID:2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・
223人間七七四年:2012/08/31(金) 12:21:36.78 ID:Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ
224人間七七四年:2012/08/31(金) 15:17:01.72 ID:zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか
225人間七七四年:2012/08/31(金) 15:58:24.88 ID:mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」
226人間七七四年:2012/08/31(金) 16:55:22.98 ID:zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・
227人間七七四年:2012/08/31(金) 17:29:06.91 ID:VY1J2o8S
浅野長政は佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。

天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。

ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。

そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は

「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」

そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると

「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」

そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)

佐々成政と浅野長政に遺恨が出来た由来である
228人間七七四年:2012/08/31(金) 19:21:44.62 ID:QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?
229人間七七四年:2012/08/31(金) 20:00:28.72 ID:wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw
230人間七七四年:2012/08/31(金) 20:29:18.27 ID:sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな
231名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/31(金) 21:00:25.07 ID:FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる

この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える
232人間七七四年:2012/08/31(金) 22:16:26.24 ID:J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。
233人間七七四年:2012/08/31(金) 22:18:12.01 ID:Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」
234人間七七四年:2012/08/31(金) 22:40:11.23 ID:EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!
235人間七七四年:2012/08/31(金) 23:17:46.76 ID:X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。

ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか
236人間七七四年:2012/08/31(金) 23:50:33.63 ID:aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。

『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。
237名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/01(土) 00:09:17.54 ID:Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。
238人間七七四年:2012/09/01(土) 01:13:13.71 ID:V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。
239人間七七四年:2012/09/01(土) 01:37:12.60 ID:eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6740.html参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには

『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!

私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』

切腹を命じた。


成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て

「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」

そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)

秀吉の言うことによれば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6744.htmlで小早川隆景が一揆を起こさなかった事も
成政切腹の理由になったのですね。

佐々成政の最期についての逸話である
240人間七七四年:2012/09/01(土) 04:00:10.54 ID:HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第

天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。


毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。

「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」

「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
241人間七七四年:2012/09/01(土) 04:05:43.93 ID:HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである

一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。

庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。

氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。

「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」

「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」

……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。

『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。

この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。


同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
242人間七七四年:2012/09/01(土) 06:18:32.83 ID:Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?
243人間七七四年:2012/09/01(土) 07:25:02.88 ID:Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?
244人間七七四年:2012/09/01(土) 13:41:33.02 ID:ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に
245人間七七四年:2012/09/01(土) 15:06:14.15 ID:QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?
246名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/01(土) 16:35:42.04 ID:Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
247人間七七四年:2012/09/01(土) 16:39:43.40 ID:z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?
248人間七七四年:2012/09/01(土) 16:42:52.24 ID:ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は
249人間七七四年:2012/09/01(土) 17:34:22.03 ID:HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない

蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
250人間七七四年:2012/09/01(土) 17:57:10.36 ID:i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
251人間七七四年:2012/09/01(土) 18:07:50.40 ID:+XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。

彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
252名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/01(土) 18:20:15.90 ID:Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。

>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
253人間七七四年:2012/09/01(土) 19:35:31.61 ID:cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
254人間七七四年:2012/09/01(土) 20:02:49.04 ID:HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい
255人間七七四年:2012/09/01(土) 20:36:41.25 ID:ICdBVRYx
質問、織田家臣団で明智柴田丹羽滝川羽柴蜂谷ってあるけど前田利家は織田家臣じゃなかったんでしたっけ?
256人間七七四年:2012/09/01(土) 20:39:11.13 ID:k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…
257人間七七四年:2012/09/01(土) 20:43:58.66 ID:ZvfOcQp0
>>255
席順がもっと下って事だろ
258人間七七四年:2012/09/01(土) 20:50:55.73 ID:F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか
259人間七七四年:2012/09/01(土) 20:58:30.94 ID:ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく
260人間七七四年:2012/09/01(土) 21:18:29.13 ID:dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし
261人間七七四年:2012/09/01(土) 21:30:24.74 ID:cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
262人間七七四年:2012/09/01(土) 23:53:22.33 ID:KntcF8d0
関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸は
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。

そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。

さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。

この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。

『翁物語』
―――――

なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。
263人間七七四年:2012/09/01(土) 23:59:52.06 ID:KntcF8d0
すみません、ちょっと修正です。
×丸子右衛門
○丸子三右衛門
264人間七七四年:2012/09/02(日) 00:02:10.93 ID:cw/PlS1L
律儀もののお兄ちゃんがわざわざ残すから
265人間七七四年:2012/09/02(日) 00:34:56.49 ID:H7zQZ2qF
>>262
八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う
266人間七七四年:2012/09/02(日) 06:02:31.41 ID:0+fxU+xX
真田昌幸にそんな大領渡したら関ヶ原に勝っても政権乗っ取られるだろ?
なんか危ないなw
267人間七七四年:2012/09/02(日) 08:20:50.55 ID:UmpYMEEy
真田昌幸は甲信の国人出自のため天下取りとか考えてなさそう
旧武田領を手に入れたところで拡張欲はおしまい
黒田如水のような関が原時に領地子供全てを抵当に入れての博打もやらない



268人間七七四年:2012/09/02(日) 08:23:50.82 ID:UmpYMEEy
但しこれは如水の所領が中央に近かったことと
本因果天下機構(織田家)に組み込まれたため
学ぶ機会があったための差で昌幸が悪いわけでhない
269人間七七四年:2012/09/02(日) 08:59:20.32 ID:L6HdHRE/
>>266
真田にそんな能力はねーよ
ゲーム脳はこれだから
270人間七七四年:2012/09/02(日) 09:50:28.45 ID:XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
ttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3072/1/HirodaiKokushi_90_1.pdf

細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う
271人間七七四年:2012/09/02(日) 09:52:47.72 ID:eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw
272人間七七四年:2012/09/02(日) 10:44:42.73 ID:Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない
273人間七七四年:2012/09/02(日) 10:58:45.87 ID:H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ
274人間七七四年:2012/09/02(日) 11:05:00.82 ID:+VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。
275人間七七四年:2012/09/02(日) 11:16:24.46 ID:Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ
276人間七七四年:2012/09/02(日) 11:22:37.64 ID:+VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ
277人間七七四年:2012/09/02(日) 11:28:50.72 ID:XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね
278人間七七四年:2012/09/02(日) 11:42:09.42 ID:XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
279人間七七四年:2012/09/02(日) 19:58:06.63 ID:5Fmpx7jv
>>272->>273
かつての徳川家臣二巨頭の一人・石川数正を糾弾した後輩の徳川家臣が諸大名行列に参列し
名門の京極や大大名の長宗我部より上位に列席している件
280人間七七四年:2012/09/02(日) 23:10:06.66 ID:QOZALTt5
直政は独特だよな
家康でさえ一時期名乗らされてた豊臣姓を平気で断るし断ってもお咎めもないし
281人間七七四年:2012/09/02(日) 23:19:49.02 ID:eJXCas/2
武士は鎌倉以だと由緒正しいなんて言われるけど、井伊家に関しては平安時代まで普通に遡れる家だしなw
282人間七七四年:2012/09/03(月) 00:13:27.62 ID:J8naobvn
関ヶ原において徳川秀忠は東山道を進み、途中真田勢が籠る上田城を囲んだ。

緒戦の攻め合いの後、両軍はにらみ合いのような状況になる。
そんな中上田城内に籠っていた百姓たちのうちで用事があって外へ出たがった者たちがいたため
足軽を添えて城下へと出したことがあった。。

この時秀忠の旗本7人がこの一団に目を付けた。

この7人は抜け駆けして百姓足軽達に迫る。
しかしながらに襲われたのは百姓といえども勝戦に馴れたものたちであったため
7人を追い払い、難なく城内へと引き取った。

この7人を「真田ノ七本槍」と号するが
世に真田家の何某と槍を合わせたという話は合っても
この7人と槍を合わせたという者の話を聞かないのは
7人が戦ったのが百姓足軽達だったからである。

『上田軍記』
283人間七七四年:2012/09/03(月) 11:53:45.22 ID:ndkbgnTe
伊予河野氏は飛鳥時代から続いてるの見て驚いたっけなあ。
本流は滅んじゃってもったいない。
284人間七七四年:2012/09/03(月) 12:58:13.29 ID:JPwbZUBY
>>281
うち日蓮宗だけどさ、日蓮大僧正って井伊氏の傍流なのか?
285人間七七四年:2012/09/03(月) 18:09:38.23 ID:oM2Cpq/3
>>270
織田系の二代目としては、丹羽長重、池田照政、稲葉貞通、筒井定次、森忠政の順番なのか
286人間七七四年:2012/09/03(月) 19:11:49.27 ID:0OhJQCps
源平なら普通は平安時代まで遡れるわな。
鮭さまのバールのようなものの文言じゃないが
287人間七七四年:2012/09/03(月) 19:43:34.74 ID:nj5WlpxK
>>284
日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」で井伊家の家紋を取り入れているのは
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から来たものらしい
日蓮の父が三国氏で井伊が継体天皇系の三国真人の出と言われる所以でもある
あとは徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことが始まりであるとも
288人間七七四年:2012/09/03(月) 20:29:16.37 ID:hMLsxde/
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就死去。これにより弱冠18歳の毛利輝元が当主として残されたが、
この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である

『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。

輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』

息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)
289人間七七四年:2012/09/03(月) 22:05:41.73 ID:cCkpcD2y
>>287
「700年ぶりだねぇ」並に胡散臭い伝説だ。
小湊の漁師の倅。
290人間七七四年:2012/09/03(月) 22:26:04.68 ID:2wrUDnfM
>>282
ちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。
291人間七七四年:2012/09/03(月) 23:33:33.42 ID:CV7HMXqv
飯時に焼き味噌の話はちょっと。。。

【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346673208/
292人間七七四年:2012/09/04(火) 00:52:55.95 ID:H3pwb3P7
「最近の○○は〜」って言い方は嫌いだけど家康は最近の大河の製作陣ではやってほしくない・・・

というか好きな人物はみんなやってほしくない
293人間七七四年:2012/09/04(火) 01:05:34.24 ID:hYJ1yZhx
女性視点での家康を描きました
なんてな
294人間七七四年:2012/09/04(火) 03:13:28.71 ID:t4lfEBRf
おんな葵 徳川三代 があってもいいじゃないですかwwww
295人間七七四年:2012/09/04(火) 03:59:04.74 ID:/HwqI+Sy
ちょっと前に二代将軍の正室を主役にしたばっかりやん
296人間七七四年:2012/09/04(火) 06:25:57.91 ID:jMYJjAos
三代目の正室を主役にすれば良いな
297人間七七四年:2012/09/04(火) 07:44:20.90 ID:Q7Mcf/O0
よしながふみの大奥を
NHK流にしてみれば・・・
298人間七七四年:2012/09/04(火) 08:03:20.41 ID:9ZhFKMXL
>>296
柳生宗冬?
299人間七七四年:2012/09/04(火) 11:56:07.37 ID:r640aWM8
戦国から江戸時代にかけて土地以上に重要だったのが、
「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。

細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・

元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)
300人間七七四年:2012/09/04(火) 11:58:44.10 ID:oZWWxE70
携帯会社か
301人間七七四年:2012/09/04(火) 12:49:55.87 ID:A3ER51lW
>>299 の元ネタの本は、逃亡百姓をめぐる黒田と細川の確執がおもしろかったよ。
図書館で借りたので今は手元にないが。
302人間七七四年:2012/09/04(火) 13:54:06.36 ID:8m5v88rh
黒田と細川は中悪かったっけ?
303人間七七四年:2012/09/04(火) 14:20:02.05 ID:bpJGoU6p
細川と黒田って言うか三斎様と長政が
304人間七七四年:2012/09/04(火) 14:38:20.26 ID:hYJ1yZhx
長政の年貢持ち去り事件で細川と険悪になっただろ

305人間七七四年:2012/09/04(火) 17:48:31.17 ID:7HBV1JOD
>>299
北朝鮮の脱北と一緒で逃げて捕まると打ち首だしリスクでかいな
306人間七七四年:2012/09/04(火) 18:18:22.22 ID:hrR9vWZW
>>305
むしろ帰ってもらうために徳政令出すレベルだけど
307人間七七四年:2012/09/04(火) 18:35:58.86 ID:jMYJjAos
長政は>304の年貢持ち去り事件の時、優秀な農民とかも一緒に連れてったらしい
そりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー
308人間七七四年:2012/09/04(火) 18:44:52.22 ID:66aEW1aU
>>305
仕舞いにゃ「怒らないから帰っといで」て高札掲げたり…
309人間七七四年:2012/09/04(火) 18:47:12.02 ID:WZc8jDCA
で、磔にしちゃうのがtdms
310人間七七四年:2012/09/04(火) 18:53:52.95 ID:nnPv7FPR
戦国時代の東国とか露骨だよな。
領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw
311人間七七四年:2012/09/04(火) 20:57:35.59 ID:Farc1UBF
松倉重政の足軽頭に松田権六と言う者が居た。
この権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。

ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し

「権六、これを読め」

と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て

「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」

権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」

これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」

権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」

すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。

権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。

老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ

「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」

そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)

松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。
312人間七七四年:2012/09/04(火) 21:13:18.69 ID:pnouzQKh
>>311
悪いという程の話でも無いような、と思ったら…

「松倉重政」

島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?
313人間七七四年:2012/09/04(火) 23:40:01.82 ID:/HwqI+Sy
重政の美談なんて初めて見た
314人間七七四年:2012/09/05(水) 00:33:43.66 ID:TjZCv7He
意外な一面
315人間七七四年:2012/09/05(水) 01:03:21.65 ID:c7W3Hz70
一揆するよりり離散のほうが多いって話だな。
城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw
316人間七七四年:2012/09/05(水) 07:05:10.71 ID:FzqNIhT8
ほら加賀はアレだ、他領から移って来たら犬のお父さんグッズとか貰えるんだろう
317人間七七四年:2012/09/05(水) 13:08:12.68 ID:pd5+Bpcm
>>315
というか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ
318人間七七四年:2012/09/05(水) 22:16:31.38 ID:+M9VKx6M
関ヶ原の決戦の後、近江水口城に籠る長束正家に対し、池田輝政は家臣。舟戸久左衛門を遣わして
降伏の説得をするようにと命じた。

これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」

しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した

「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」

長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」

その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。

ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った

「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」

そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し

「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」

そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ

「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」

と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家

「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家が舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。

舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)

まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。
319人間七七四年:2012/09/05(水) 22:24:53.41 ID:+EboGKCu
正家さんの正室は本多忠勝の妹だそうだが
このだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね
320人間七七四年:2012/09/05(水) 22:37:42.16 ID:djK8oeQ1
忠勝妹は本多家に返されたけど腫れ物扱いだった、とかそういう話を何処かで読んだな
321人間七七四年:2012/09/06(木) 00:10:44.16 ID:QWniifPv
本領安堵とか言ってる時点で嘘だと見破れよ…
322人間七七四年:2012/09/06(木) 00:26:18.87 ID:y4TWJCG7
嘘つかなきゃならなかった舟戸も苦しかったろうな
明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?
323人間七七四年:2012/09/06(木) 00:52:18.73 ID:Nrb5jCBI
いや正家も判っていたでしょ
判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと
324人間七七四年:2012/09/06(木) 08:53:38.23 ID:rDTCjwjr
やめとけ…(´・ω・`)

【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346829411/
325人間七七四年:2012/09/06(木) 10:23:52.29 ID:TpRga5x+
ヤブヘビって言葉を思い出した・・・
326人間七七四年:2012/09/06(木) 10:52:42.98 ID:W59RMvbQ
太閤秀吉は百姓から天下人になった英雄
なんて思ってた頃に戻りたい
327人間七七四年:2012/09/06(木) 11:37:13.75 ID:fAY4MyLn
戦国時代の一番のDQNは織田信長

そう思ってた時期が懐かしいねみんな
328人間七七四年:2012/09/06(木) 11:59:09.10 ID:hkfZeY7T
>>326
俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・

あれ、間違ってないな・・・あれ?
329人間七七四年:2012/09/06(木) 14:44:57.60 ID:GkDvIw8o
誰もが言うのは「天下人になるまでの秀吉は好き」
330人間七七四年:2012/09/06(木) 14:53:18.40 ID:PpEWX2Gg
ずいぶん前にヒストリアでキリスト教によって愛に目覚め理想の国家をつくろうとした
西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに
331人間七七四年:2012/09/06(木) 15:09:28.47 ID:ub9Z13rJ
>>326-328
一度知ってしまった以上、
知らなかった頃にはもう戻れない・・・
332人間七七四年:2012/09/06(木) 15:14:00.48 ID:qlwzXjvw
いい意味でも悪い意味でもデカイ男だからな
333人間七七四年:2012/09/06(木) 17:11:02.59 ID:Wjow5dIE
ソーリンのキリスト教は市松の酒みたいなもんだな。
334人間七七四年:2012/09/06(木) 17:14:49.07 ID:MfMuhx+J
宗麟公とその周辺は、キリスト教宣教師の側の記録と日本人の側の記録の格差があまりに酷くて
比べてると乾いた笑いしか出ない。
335人間七七四年:2012/09/06(木) 19:22:33.76 ID:AZgXMjwe

大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。

この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。

そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。

しかし坊主は「只今、上様の御茶器の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。

そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。

(徳川実紀)
336人間七七四年:2012/09/06(木) 19:30:04.13 ID:AZgXMjwe
>>335
すいません、9行目を少し訂正します

×上様の御茶器
○上様の御茶碗
337人間七七四年:2012/09/06(木) 22:38:45.03 ID:MfMuhx+J
明智光秀の家来に、箕浦大蔵丞、古川九兵衛、天野源右衛門(作兵衛)という者たちがあった。
彼らは本能寺の変でも大いに活躍した勇者であり、その後の戦乱も生き延び、
後に天野源右衛門は立花宗茂に仕え、箕浦大蔵は浅野幸長に仕えた。

ある年京都において、天野の宿舎に箕浦が訪問して、昔の話などしていた時に丁度、古川九兵衛も尋ね来て、
久方ぶりの珍しい会合となった。
3人の話は尽きず、果ては本能寺の話となり、お互いの武功を論じ合ううちについに罵り合いとなった。
中でも箕浦と古川は互いに立腹してその功の優劣を争い、座もどんどん白けていく所を、天野が様々に
とりなしてどうにか収めようとしたが、双方共に一向に引こうとしなかった。
いい歳していても、武士はこれだから困りものである。

と、ここで門外にわかに騒ぎ立ち多くの人の足音聞こえてきた。
何事かと3人、2階の窓から外を覗くと、何としたことであろう、上京の方より大男が、たった今人を殺したのだろう、
血刀を振り回しながら走り来る。その後ろ二町ほど隔てて2,30人の者たちが抜き身にて、この男を追いかけていた。

「これは容易なことではない。」

先ず天野がとっさに2階より降り、古川もそれに続いた。
箕浦は昔鑓傷を負ったため手足不自由であり、急に降りることができず遅れたのを古川、「ここだ!」
と思い急いで梯子を引いた。箕浦大蔵、文字通り梯子を外されたのだ。

これでは下に降りることができない!箕浦はどうしようもなく窓から出て庇の上に立って見ていると、
なんとあの科人がその真下に通りかかったではないか!
箕浦、思い切って庇から科人の頭の上に飛びかかる!
そして踏み倒しざまに直に押し乗って、物も言わせずその頸取って立ち上がった。

この時天野古川もその場に到着したが、箕浦は大得意でその科人の頸を示し

「いつも手柄は我先なり!本能寺てもこの通りなり!!」

そう鼻をふくらませて悠然と言い放ったという。
人々その剛勇を感じ、古川は一言もなかった、とのことである。
(武士道美譚)
338人間七七四年:2012/09/06(木) 22:48:39.81 ID:ub9Z13rJ
>>337
頼みもしない上に事情も知らずに頸をあげた箕浦さんはその後どうなったんだろう・・・
339人間七七四年:2012/09/06(木) 22:56:31.21 ID:qBqh71GN
明智三羽烏の面々ですな
しかし蘭丸討っておきながら鬼武蔵に仕えた天野源右衛門(安田作兵衛)と
立花宗茂はあんまり合わない気がするが
340人間七七四年:2012/09/06(木) 23:04:27.87 ID:H63MqARw
>>337
しかし残念ながらほぼそのままで既出
341 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(1+0:8) :2012/09/06(木) 23:35:36.87 ID:ysIDaJOd
>>339
安田作兵衛が立花宗茂に仕えたのは肥後一揆から文禄の役までの短い間だからねぇ
342人間七七四年:2012/09/07(金) 01:01:03.11 ID:kWlvANan
大分が生んだ戦国時代のキリシタン大名、大友宗麟(1530〜87)を大分市のまちづくりに生かしていこう、と同市は有識者や町おこしグループをメンバーに
「大友宗麟プロモーション検討委員会」(委員長=吉津弘一・日本文理大学経営経済学部教授、9人)を発足させた。

 宗麟は南蛮貿易に取り組み、西洋音楽や西洋医術などを積極的に導入。宣教師フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した。
ヨーロッパでは、九州の地図は「BUNGO(豊後)」と記され、宗麟が描かれた絵画も残っており「王として知れ渡っていた」(鹿毛敏夫・東京大学史料編纂所国内研究員)。

 3日に同市役所であった検討委初会合では藤沢卓弘・大分商工会議所青年部副会長は「パエリアなど南蛮料理を飲食店と提携して出してみたらどうか」と提案。
牧達夫・NPO法人大友氏顕彰会理事長は「業績や資料を目にすることができる場所の確保を」と求め、
県立芸術文化短期大学1年の竹中容子さんは「歴女(歴史好きな女性)の学生には甲冑を着けたいという人もいる。難しい話よりインパクト重視で」とアイデアを出した。

 委員会は、来年1月まで毎月1回開き、具体的なPR方法をまとめ、来年2月に釘宮磐市長に報告書を提出する。

 同市は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟にあらためてスポットライトを当てよう、
と昨年の市制施行100年を契機に宗麟を柱の一つにしたまちづくりに着手。本年度は児童向けの副読本作成や
国史跡「大友氏遺跡」を観光拠点とするための保存事業など14事業を予算化。観光客を意識し宗麟像があるJR大分駅前に、
ザビエル像を3年以内に新設することも予定している。

=2012/09/05付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/322259
343人間七七四年:2012/09/07(金) 01:26:54.08 ID:AryGjO1K
>>342
人妻は宿泊割引とか、仏教徒は2割増しとかで
344人間七七四年:2012/09/07(金) 01:31:38.20 ID:4sIVIzBZ
それはちょっと・・・
つか宗麟押しは悪い話かよw
345人間七七四年:2012/09/07(金) 01:33:50.86 ID:O62kEgbm
>織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟

この3人と比べる事自体間違ってるだろw
346人間七七四年:2012/09/07(金) 07:26:14.49 ID:VP9ypd+i
あんまり宗麟は掘り起こさない方がいいと思うな
情けなくなるから
347人間七七四年:2012/09/07(金) 11:03:00.85 ID:xlZ8SbNS
宗麟の知名度よりも隣の島津さんや家来の道雪・宗茂の方が高そうだし。
348人間七七四年:2012/09/07(金) 11:57:11.88 ID:JIkweN8t
知名度は低いが優秀なキリシタン大名って所で
終わらせておいたほうがいいよね。
349人間七七四年:2012/09/07(金) 12:04:08.31 ID:9qqHBY3H
>>児童向けの副読本作成や
宗麟ってR15指定だよな
350人間七七四年:2012/09/07(金) 12:17:34.17 ID:iZdvwBUr
知らない方がいい事もある…
351人間七七四年:2012/09/07(金) 12:44:48.03 ID:/nOj86H9
輝元よりはマシだと思うがねえ…
352人間七七四年:2012/09/07(金) 12:51:37.45 ID:taYFq6P2
最後の方で見せた意地は良いと思うんだけどな
353人間七七四年:2012/09/07(金) 13:42:35.00 ID:yIisNEzp
ゆるキャラ:大友宗リン
354人間七七四年:2012/09/07(金) 14:42:21.41 ID:tmTZfyp3
TERUには愛嬌があるけど、宗リンはなんていうか、のりがガチなんだよ
355人間七七四年:2012/09/07(金) 15:38:15.40 ID:qOrIL3ku
靖国の遊就館にある国崩しって実戦使用した物なんだろか?
356人間七七四年:2012/09/07(金) 18:51:28.13 ID:LYC4+IFH
近デジの武功雑記読んでたら

大谷吉継・石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html

これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる

・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
 石田大谷に恋慕して、知音になり候。
 それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)

なんだかホントに異様な関係性だなw
357人間七七四年:2012/09/07(金) 18:56:10.05 ID:qAOThYD4
頭をはる、て
漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか
358人間七七四年:2012/09/07(金) 20:26:22.72 ID:jCfq0HyF
>>353
はるか昔、某誌で女子大生がムネリンと呼んでゲームで使用してだな
359357:2012/09/07(金) 20:33:53.85 ID:g4K+jpQy
てリンクのまとめサイトのこの話のコメントみたら
風雲児たちネタがいくつかあった
360人間七七四年:2012/09/07(金) 21:57:18.15 ID:LvUM7Tln
織田信忠の小姓に、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年があった。
清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかしこの二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。

天正10年(1582)び武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長はこれを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨に

「この度高遠にての働き、稀代の至りである!城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」

そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し

「高遠にての骨折り、天晴であった!ただし汝は手柄するのも当然である。何故ならあの大剛の
内蔵助(成政)の甥だからだ。」

と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、

「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、流石名将の一言一行、
感ずるに余りある。」と言いそやしたそうである

さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時信忠は二条城にあったが、光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて

「今は我々も討死すべき時である!されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、屍の上に
恥を晒すことである。厳しく物具して死のう。そうであれば緊急の事態で何致し方ない。共にひとたび
敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」

そう確認すると二人、遺産で突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、その物具を二人共
厳しく装うと、互いに微笑み合い、再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共討ち取られた。

ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、敵も見方もこれを見て嘆くとこ、
ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、その健気さを惜しみあった、とのことである。


織田信忠寵愛の小姓、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年についての逸話である。
(武士道美譚)
361人間七七四年:2012/09/07(金) 22:07:30.29 ID:qOrIL3ku
え?悪い話!?
362 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(1+0:8) :2012/09/07(金) 22:36:40.12 ID:Wr0rj8gN
イイハナシダナー
363人間七七四年:2012/09/07(金) 23:52:23.66 ID:LTHm1aGn
>>360
それもガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5983.html

武士道美譚なんて明治に書かれた逸話の寄せ集めなんだから
既出かどうかまとめブログで登場人物名を検索するぐらいしようよ
364人間七七四年:2012/09/08(土) 00:01:29.37 ID:PcoC7J24
>>363
最近目立つ創作もどきや概説ならともかく、神経質すぎだろ。
そっちの出典は常山紀談だと書いてあるし、同じ話でも少しずつ違うんだから良いじゃないか。
365人間七七四年:2012/09/08(土) 00:30:43.38 ID:pq329bjA
というか眼鏡という単語が引っかかった。この頃にに入ってきたんだな
366人間七七四年:2012/09/08(土) 00:49:11.25 ID:TYKdc9uU
小和田哲男の本で
「秀吉」「天地人」の時代考証の時に
「眼鏡にかなう」という言葉が入れられそうになった時、小和田哲男は
フロイス「日本史」では

フランシスコ・カブラルがメガネをかけていたら庶民からバテレンは4つ目だと評判になって
岐阜に四、五千人もの観衆が集まってきた。

と書かれているように、戦国時代に眼鏡はほとんど普及していなかった、だから「眼鏡にかなう」
という言葉もなかったはず、と入れさせなかったそうだが
367人間七七四年:2012/09/08(土) 00:49:39.09 ID:wdKNoxDl
少なくとも関連リンクはありがたいんだけどな
368人間七七四年:2012/09/08(土) 00:54:35.47 ID:K/FXAyga
久能山だかに家康の眼鏡が残ってたな
369人間七七四年:2012/09/08(土) 02:18:52.15 ID:NIxT/FZp
その眼鏡をモチーフにしためがね之碑があるのが、上野の東照宮下の不忍池
370人間七七四年:2012/09/08(土) 04:56:56.65 ID:aRY9MqBK
大御所様は4つ目だ
371人間七七四年:2012/09/08(土) 05:18:47.30 ID:XGjCSYo5
神々の争い

 武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
 その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
 という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
 また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は六郷満山という仏教の拠点にもなった。
 さて、今度は国津神である。
 豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
 大神氏。
 この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
 そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
 大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
 だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
 時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
 ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは国東半島にある奈多八幡宮である。
 この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
 大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
 その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。

 大友宗麟『主の為に』

 大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
 
 1561年 宇佐八幡宮焼き討ち

 こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
 その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。

 天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
 最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。
372人間七七四年:2012/09/08(土) 06:07:11.81 ID:aRY9MqBK
確かに信長っぽい
最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが
373人間七七四年:2012/09/08(土) 12:09:22.24 ID:hvtbgZHu
「お目にかなう」って表現はいつからあったんだろうか?
眼鏡にかなうより昔からあったのかなあ
374人間七七四年:2012/09/08(土) 12:25:04.96 ID:5edXjqzV
考証って言葉まで担当してたんだね
物だけかと思ってた
当時ないといえば四六時中とかも使えないんだろうなあw
375人間七七四年:2012/09/08(土) 13:56:54.09 ID:hvtbgZHu
>>374
「二六時中」という言葉はあったらしい
376人間七七四年:2012/09/08(土) 14:01:08.41 ID:pT9WL0m5
大河ドラマ毛利元就の脚本を担当した内館牧子は
「殿、チャンスですぞ」という台詞を考証に却下された、とぼやいていた
377人間七七四年:2012/09/08(土) 14:30:36.34 ID:K/FXAyga
今年のも「王家」がどうこう言うて釈明に追われてたっけ
378人間七七四年:2012/09/08(土) 14:53:47.69 ID:4S++orRw
チャンスwと思ったが日本語にするとなんだろか。好機?
379人間七七四年:2012/09/08(土) 14:55:34.21 ID:xRjFVdfj
殿チャンスですぞってどこぞのパチンコだよwww
380人間七七四年:2012/09/08(土) 15:00:30.39 ID:hvtbgZHu
白河法皇「なうげったちゃんす(ニン」
381人間七七四年:2012/09/08(土) 15:08:44.51 ID:6IIMnwwc
そこまで厳格にやらんでもいいけど、
チャンスとか雰囲気壊すのはやめて欲しい
382人間七七四年:2012/09/08(土) 17:27:04.08 ID:NIxT/FZp
サボる ってのも日本語になってるよね・・・
383人間七七四年:2012/09/08(土) 18:38:23.77 ID:dcWlVES0
>>378
クロカン「ご武運が開けましたな」
384人間七七四年:2012/09/08(土) 23:16:42.97 ID:pVJsbKH6

玉虫忠兵衛とは甲斐の城意庵の弟で、武田信玄、上杉謙信に歴事し、
後には徳川家に仕えた。

小牧長久手の役に従軍した時、徳川家康は忠兵衛に向かって
「今少し見合わせて槍を入れて見せよう。よく見ておけ」と言い、
程なくして勝利を収めた。

後に忠兵衛が人に語ったところには、

「我が君の御軍略は甲斐や越後には劣っておられるが、
御勇気の凛然たるところは遥かに優っておられる。末頼もしきことだ」
ということだった。

また、ある時に家康が言うには、
「忠兵衛はたわけた男だが、軍陣においては眼が八つづつあるような者だ」
とのことだった。

忠兵衛は後には松平忠輝に仕え、大坂夏の陣では軍監を務めた。
しかし、指揮の悪さが家康を怒らせ、追放されることになった。

この時、家康は「玉虫ではない、逃虫じゃ!」と言ったとされる。

――『徳川実紀(武功雑記、古士談話、大坂覚書)』
385人間七七四年:2012/09/08(土) 23:45:03.68 ID:pVJsbKH6
>>384
ちょっと訂正します。

×指揮の悪さが
○指揮の様が悪いという理由で
386人間七七四年:2012/09/09(日) 01:39:48.35 ID:taHnxBHK
>>377
大英帝国だって女王陛下じゃんじゃ納得しないんだろうなあ
387人間七七四年:2012/09/09(日) 02:00:13.67 ID:ZhPAw3tm
王家ってのは江戸時代なのに天領って言っちゃったり幕府だの藩だの呼んじゃったりする感じなんだろうね
388人間七七四年:2012/09/09(日) 05:40:26.89 ID:k/VqTOz6
>>386
あれはインド皇帝を兼ねてたからなぁ
389人間七七四年:2012/09/09(日) 06:24:05.46 ID:bC+Jnv3+
正直、英国王兼インド皇帝ってみっともないよねw
390人間七七四年:2012/09/09(日) 07:10:14.29 ID:lyl50MhV
当時概念はなかったし一般的な呼称じゃないけど
学会で使われてるから王家にしました、とか

391人間七七四年:2012/09/09(日) 08:19:32.81 ID:mR3DOnv5
そうそう。学会用語としての「王家」をNHKが当時の一般名詞と勘違いしたらしいな、アレ
392人間七七四年:2012/09/09(日) 08:45:54.00 ID:oCElo4vA
家は使われていなかった

皇室は使われていた
王室の方が使われていた

結局そんな感じ?
393人間七七四年:2012/09/09(日) 09:35:40.49 ID:TjM0KGOa
>>225
いや、当時使ってた。きちんと考証したら、
バカから突っ込みがきた感じ
394人間七七四年:2012/09/09(日) 10:11:42.69 ID:u4jXpfaB
アレは史実かどうかよりもイデオロギーの問題だからなw
395人間七七四年:2012/09/09(日) 10:30:17.18 ID:mNfSbztk
「皇家」という言葉も当時あったから、そちらにしたらという意見があったが
皇国主義と批判されて中世の歴史学会では「王家」になったようだから
たしかにイデオロギーの問題だな
396人間七七四年:2012/09/09(日) 13:06:57.62 ID:MjrB2RIo
キリシタンの楽園の闇


戦国時代、畿内で勢力を誇った三好長慶の家臣に河内三箇城を治める三箇頼照という武将がいた。
永禄六年(1563)に頼照はロレンソの説教を聞いてキリシタンとなり、ガスパル・ヴィレラより「サンチョ」という洗礼名を与えられると、
以後の頼照のキリスト教への傾倒ぶりたるや相当なものですぐに領内に教会を多数建てて多くのキリシタンを呼び込んだ。

三好長慶から代が変わって主君が義継になり、バレテン追放令が出ようとその信仰は揺るがす、
一度は三箇城を破壊され、所領や財産を没収されるという憂き目にも遭った(後に返還されたが)がそれでも頼照は棄教しなかった。

そんな頼照の敬虔な信仰ぶりは当時のキリスト教宣教師たちから絶賛されている。
ルイス・デ・アルメイダ「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに属す」
ルイス・フロイス「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」
また、フランシスコ・カブラルも頼照の語った「キリスト教と日本人の宗教観」についての演説に深く感銘を受けて、
日本人の聡明さを表したものとして頼照の演説文をそのままインドのゴアに送っている。

しかし、そんな頼照にも問題点はあった。
領内に美しい教会などを次々と建ててキリシタンを手厚く保護していたがその影で寺院などは取り壊されて肩身の狭い扱いを受けていたのである。
天正5年(1577)、ついに頼照は領内の寺院全てを破壊し尽くすという暴挙に出たが、これが元でキリシタン嫌いの多羅尾常陸介に
毛利家への内通を讒訴され失脚。この疑惑は後に解かれたものの頼照自身は家督を息子に譲り隠居する羽目となった。


有りがちといえば有りがちな行き過ぎた信仰の話。
397人間七七四年:2012/09/09(日) 14:46:46.58 ID:Q5B0QBFz
キリシタン領主はすぐこういう事しちゃうよな
398人間七七四年:2012/09/09(日) 16:14:12.03 ID:/U+lUKh8
ついさっきまで、外で神父さんが説教してたよ
片言の日本語だから、〜しなさいとか、高圧的でかなり印象の悪い説教だったけど
399人間七七四年:2012/09/09(日) 16:39:58.54 ID:Dvi4jxiX
唯一神教なので教理上、他の宗教の神は必ず悪魔という事になるから仕方ない
流石に現代のカトリックは自重してるけど
400人間七七四年:2012/09/09(日) 20:55:49.68 ID:PSIY045r
頼照って名前だけ見ると本願寺っぽいな
401人間七七四年:2012/09/09(日) 21:04:18.64 ID:L9R6RFTr
下間さん家か
402人間七七四年:2012/09/10(月) 00:03:01.42 ID:MjrB2RIo
じゃあ下間のほうの頼照(『よりてる』じゃなくて『らいしょう』だけど)さんの逸話も一つ


越前一向一揆の大将の最期

天正2年(1574年)の2月より加賀から押し寄せて越前を織田軍から奪い取った一向一揆であったが、
その一向一揆も翌天正3年(1575年)の夏には早くも織田軍の猛反撃に遭い壊滅した。

この越前一向一揆の主導者を務めた坊官の下間頼照は何とか織田軍の追手から逃れ、
越前から脱出しようとしていたが、執拗な捜索に阻まれ身動きが取れなくなっていた。

府中の近くにある茅屋に忍んでいた頼照は一揆軍が織田の軍勢に悉く探しだされて誅殺されているという報告を受けると
恐怖で焦りが出たのか乞食の扮装をして破れた笠を被って褐衣を羽織って茅屋を飛び出し、
織田軍の目を欺きながら何とかして湊まで落ち延び、加賀へと戻ろうとしたのである。

しかし、頼照の命を狙っていたのは何も織田軍だけではなかった。
道中で本願寺と対立していた真宗高田派の僧たちに見つかってしまった頼照は乞食の恰好のまま湊に辿り着く事もなく首を刎ねられ死んだ。
403人間七七四年:2012/09/10(月) 11:49:08.69 ID:gDOTx3uD
狂犬にホイホイついていってしまうから・・・
404人間七七四年:2012/09/10(月) 19:12:43.72 ID:XcyOepf0
狂犬が起こしたのは土一揆で一向一揆はまた後に起こったんじゃないか。
405人間七七四年:2012/09/10(月) 19:56:25.92 ID:jo8XTKVg
長繁が起こした土一揆が、結局長繁と手を切って一向一揆化という感じ
406人間七七四年:2012/09/10(月) 21:32:34.36 ID:zpokYFvn
長島の後だから越前でも徹底的にやったらしいねぇ、掃討。


まぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
407人間七七四年:2012/09/10(月) 21:47:06.83 ID:Q6yXxDYQ
>>402
筑後が筑前ならぬ逐電しようとして失敗か
408人間七七四年:2012/09/10(月) 21:50:30.01 ID:Oww+RKUu
越前は一揆後に本願寺から派遣された指導者層が強圧的な支配を試みて心が離れちゃったんじゃなかった?
派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
409人間七七四年:2012/09/10(月) 22:42:57.33 ID:TYYgxFYw
アニメ見て思ったんだけど、
お市が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送った逸話ってまだ出てない?
410人間七七四年:2012/09/10(月) 23:52:53.76 ID:11fgjDZw
>409
ここ数週間で3回見たぐらい有名な逸話をなんで今さら出す必要があろうかw

そのうち2つはアニメ、あと一つは水曜どうでしょうだw
411人間七七四年:2012/09/11(火) 21:12:46.19 ID:z6dKr0bm
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。

『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。

その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。

このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!

だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。

そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!

文明五年十月(欠)日            多屋衆』

しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した

『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』

このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。

北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412人間七七四年:2012/09/11(火) 22:50:00.15 ID:P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413人間七七四年:2012/09/12(水) 11:02:15.10 ID:cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414人間七七四年:2012/09/12(水) 18:52:12.28 ID:f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
415人間七七四年:2012/09/13(木) 19:07:45.95 ID:YiRa+l82
因幡国の住人、草刈加賀守衡継の息子である、嫡男の三郎左衛門景継、次男の太郎左衛門重継の兄弟は、
因幡智頭郡、美作苫北郡を切り従え武威を両国の間に震い、毛利家に対して無二の忠功を胃打ち立てていたのだが、
一体どうしたことであろうか、兄の景継はその志を変じ、織田信長に通じようとした。

草刈景継からのこの申し出に織田信長は、景継が味方となれば因幡美作両国の攻略が速やかになると
判断し、過分とも言える報償を約束した朱印状を発した。

ところが、である。天は不義を憎まれるとはこの事であろうか、この景継の遣いが帰国の途中、
小早川隆景の設置した関所のものが不審に思い、これを搦め捕り草刈景継の織田信長への内奥を知ると、
これをすぐさま隆景の本拠である安芸国は沼田に連行した!

さて、これを知った隆景は大いに驚き、草刈家の家老、黒岩土佐守を召し出しその一部始終を説明し、
「急ぎ景継を討つのだ!」と下知をした。
黒岩土佐守も否やに及ばず、急ぎはせ帰り次男の重継と協議した。

そしてある時競馬(責め馬)を見物しようと、景継を呼び出した。
景継がこれに応じて見物をしている所を、有無をいわさず討ち取り、その頸を沼田の隆景に捧げた。

草刈重継は武勇優れただけではなく、節義においても固い、節操があり、篤実なる者であったので、
この兄の不義を骨髄に染みるほど口惜しく思い、この後毛利家に対していよいよ忠義をなし、
数度に及ぶ武功を献じた、とのことである。
(陰徳太平記)

草刈景継の、織田への内応事件の顛末である。
416人間七七四年:2012/09/13(木) 21:51:38.55 ID:PXchUSlK
まさに中国地方は草刈場
417人間七七四年:2012/09/13(木) 22:03:58.09 ID:1TAtvP79
コーエー…ついに鬼武蔵の所業を知らしめてしまったか…ttp://beebee2see.appspot.com/i/azuYl7SIBww.jpg
418人間七七四年:2012/09/13(木) 22:15:16.05 ID:YnpD7mjF
コーエーは鬼武蔵ネタなら無双3エンパでこんなネタやってた

信長「長可よ、門番はいかがした」
鬼武蔵「身の程知らずにも止めようとしたので、ぶちのめしました」
信長「本当にうぬは武蔵坊弁慶の再来よな」

森蘭丸「あ、兄上、その血は!お怪我は大丈夫ですか?」
鬼武蔵「ん、これは怪我ではないよ」

森蘭丸「兄上、なにをなさっているのです」
鬼武蔵「遺書を書いているのだ、わしがいうのもなんだが因果な商売だ、
お前はけっして俺の跡を継ぐなよ」

最後、忠政はいずこに
419人間七七四年:2012/09/13(木) 23:44:03.25 ID:DsxZFvcu
>ぶちのめしました
…えっ
420人間七七四年:2012/09/14(金) 01:01:54.30 ID:gur4czvT
詳細な描写をするとZ指定になってしまうからな
高遠城の描写はいいのかというツッコミはやめてください
421人間七七四年:2012/09/14(金) 01:09:13.55 ID:YLNTrmuD
>>417
これだけ読むと鉄砲で武装した忍者軍団みたいな不思議な活躍だなw
422人間七七四年:2012/09/14(金) 01:27:22.51 ID:bWnMOtFb
そもそも「お怪我は」って信忠じゃなかったかエピソード的には
423人間七七四年:2012/09/14(金) 15:57:02.06 ID:9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
424人間七七四年:2012/09/14(金) 18:41:20.85 ID:3AG+fYXO

ある時、徳川家康は露地(茶庭)の手水鉢をしゃがんで使った。

露地の手水鉢には『つくばい』というようにしゃがんで使うもの
があったのだが、知ってか知らずか本多正純が、

「今時の数奇人(風雅な人)は手水を立ちながら使いますよ」

と言ったものだから、家康は気を悪くして、

「わしの露地では例え将軍であっても、立ちながら手水を
使いはしない。当然、その他の者もな」

と言ったのだとか。

――『徳川実紀(紀伊国物語)』
425人間七七四年:2012/09/14(金) 19:35:42.77 ID:aAWan72P
その他の者とはいったいどこの誰のことなんだろうか
426人間七七四年:2012/09/14(金) 20:18:15.79 ID:fDVJvPNN
上田宗箇なんかが立って使える背の高い手水鉢作ってたな
427人間七七四年:2012/09/14(金) 22:43:45.88 ID:q07tqjbL
天正14年(1586)、羽柴秀吉の九州役に従軍した吉川元春は、黒田官兵衛の饗応を受けその場へ行くと、
出てきたのは鮭を調理した御馳走であった。
この鮭料理を前に、元春

『…鮭はその性甚だ熱く、血を破壊すると言う。
今これを食せば、持病である瘡忽が再発してしまうかも知れぬ。』

元春、冷や汗である。しかし

『だが黒田はこの魚を主味(メインディッシュ)として饗してくれている。病気に害があるといってこれを断り
食わないというのも、無骨なやつだと思われるだけでなく、我が主人輝元のためにも良くないことだと思う。
どうしよう?』

元春は思い悩んだ。そして

『今これを毒であるといって食わないというのは、黒田官兵衛に対して遠慮がないと思われるか、もしくは
私が迷惑に思ったのだと、黒田は思ってしまうだろう。まあ実際迷惑なんだが。
ええい、こうなったら!』

少しだけ食べた。
そして酒も数献廻ったあと、官兵衛が言うには「九州が静謐となるのも遠いことではありません。そうなると
筑前一国は元春殿、あなたにあてがわれると、これは殿下のご内意です。」
これに元春も「かたじけなし」と謝辞を述べ、やがて饗宴も終わり退出し、その夜、

元春の瘡忽が大いに痛みを発し、日を追うごとに病は重くなった。これを知った毛利輝元は医師の徳琳を遣わした。

小倉城詰の丸で徳琳と対面した元春は、近習に助け起こされると彼を近づけ、輝元への伝言を頼んだ。

「私もこのごろは少し回復したようで、近日中には輝元様と直接対談もできるだろうが、先にあらかじめ、御辺に
言っておこうと思う。私の言うことをよくよく聞いて、輝元様に申し伝えるように。

今度九州退治のため、殿下がご出馬を仰せになられ、これによって我等三家(毛利・吉川・小早川)は、
先鋒として当国に出張しました。であれば、今回は輝元様は、今まで戦場に赴いたことと同じように考えられて
いては、甚だ宜しくありません。
何故かといえば、我々が各地で秀吉公と対陣していた当時は、輝元様を本陣として、隆景や私が先陣として進み、
士卒を下知し手を砕き攻戦の功を励まし、輝元様はただ帷幕の中に在って作戦を運用していればよいだけでした。

ところが今回はそれに引き換え、殿下が総大将であるので、輝元様は先陣の戦将となって、今まで隆景や私が
輝元様の先陣として戦を決したように、輝元様自身がそう心得、しなければなりません。
これは言わずにはおられない事でした。

それから次に、肥前の竜造寺政家(龍造寺隆信嫡男)の事です。彼は未だに殿下に属していません。
しかし現在の六十余州では、皆が殿下のために働いているというのに、政家一人がどうして独立を保てるものでしょうか。
彼もきっと、殿下に和を請い安堵したいと考えているはずなのですが、そのための良い縁故を持っていないために、
空しく歳月を過ごしているのです。

そこで、幸いに当家は、龍造寺と隆信以来の良好な関係がありますので、輝元様から使者を出し、和平の儀を進め
殿下にも推挙すると言い送れば、政家はきっと喜びに耐えず了承することでしょう。
龍造寺を味方に引き入れれば、この九州征伐における一方の功の助けとなるでしょう。」

このようなことを聞き終わると、徳琳は退出した。

しかしこの後も元春の病状は日々悪化し、同年11月15日、ついに逝去した。享年57歳であった。
(陰徳太平記)

吉川元春、その最後についてである。
428人間七七四年:2012/09/14(金) 23:00:21.32 ID:uoM+Liuk
鮭を食べようかどうしようか迷ってるところに小物臭がただよってるな
429人間七七四年:2012/09/14(金) 23:20:09.15 ID:fDVJvPNN
秀元「もうやめて!とっくにお弁当の鮭はゼロよ!」
430人間七七四年:2012/09/14(金) 23:29:00.38 ID:XAXcfTyp
いずれにせよ脳筋では無いと
気配り上手なだけに気苦労も絶えないって感じか
431人間七七四年:2012/09/14(金) 23:36:24.05 ID:eGneM5Ah
>>430
義光「鮭!!!!!!!!!!!」
正則「酒!!!!!!!!!!!」
432人間七七四年:2012/09/15(土) 00:29:30.40 ID:kF2lCOXY
大抵、鮭を食べたあとに胸焼けしてしまうのにやめられない
とくにトロ握り
433人間七七四年:2012/09/15(土) 01:40:24.46 ID:rb2a6yGM
元春にここまで言われたのについに輝様は自ら戦場に臨むことは無かったような・・・
434人間七七四年:2012/09/15(土) 08:46:24.68 ID:SnsE7OfF
>>429
元春の逸話を聞くと
鮭の食べ過ぎに注意しろという
長重や至鎮たちの思いやりだったのかもしれないな
とか思ったり思わなかったり
435人間七七四年:2012/09/15(土) 09:49:34.45 ID:2hUw/52R
毛利家は酒と魚に命奪われてる例があったから元春も気を付けてはいたんだろう。
結局予感的中なわけだが。
436人間七七四年:2012/09/15(土) 11:17:45.78 ID:V6NusZYo
鮭って食べ過ぎたら体によくないの?
437人間七七四年:2012/09/15(土) 11:47:47.58 ID:cHnSDcNE
なわけない。迷信。
ただ当時信じられてたなら、それを馬鹿だ無知だと現代人の目から非難するのは卑怯
438人間七七四年:2012/09/15(土) 11:49:41.90 ID:b+lUaeV4
塩鮭だったら塩分きついんじゃないの
439人間七七四年:2012/09/15(土) 11:59:57.90 ID:cHnSDcNE
迷信というか漢方の考え方では食物を大きく分けて体を温めるものと冷やすものに分けるんだが、
サケは温めるものに分類されるらしい。

体を冷やす物の代表は夏野菜、温めるものに唐辛子なんかは理解できるけど、
サケが体を温めるものっていうのは分類ありきの無理矢理こじつけ感があるね。
文献によっては逆に体を冷やすものに分類されてるみたいだし。

元春はなまじっか知識人だからこんな情報も知っていて、病気に良くないと思ったんだろう。
440人間七七四年:2012/09/15(土) 12:09:10.28 ID:F3xx7yXu
高麗人参とかも体を温めるものとされてるけど、熱病の時に高麗人参を食べたら熱がもっと酷くなって盲目になったという話をよく聞く。
441人間七七四年:2012/09/15(土) 12:18:08.11 ID:YPN+IE/i
粗悪品じゃないのか?
442人間七七四年:2012/09/15(土) 12:20:08.13 ID:r8vek6IB
朝鮮人参と朝鮮朝顔を間違ってたりして
443人間七七四年:2012/09/15(土) 14:40:21.87 ID:6JeLg8Af
漢方薬は薬なんだから、間違った症状に使えば毒になるのは当たり前。
444人間七七四年:2012/09/15(土) 18:32:22.04 ID:JKvx2fFL
薬は用法を間違えれば毒だしね
445人間七七四年:2012/09/15(土) 20:05:45.48 ID:B5pwwuHK
天正15年(1587)の、肥後国人一揆の時の事

この一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた

「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…

改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」

これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って

「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」

「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」

「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)

広家これを聞いてさすがに呆れ

「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」

そう言って大笑いした。

黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)

そんな親バカ官兵衛さんのお話である。
446人間七七四年:2012/09/15(土) 20:53:49.73 ID:6JeLg8Af
広家さん、若いころと家督ついでからのギャップありすぎだよね
447人間七七四年:2012/09/15(土) 22:10:10.31 ID:Nm1+L9EV
如水さんほんと息子大好きだなw
448人間七七四年:2012/09/16(日) 02:09:23.33 ID:IF8ZFGH4
>>445
この話は以前に出てたぞ!
449人間七七四年:2012/09/16(日) 09:04:36.51 ID:nzGeo2Wk
>>439
最近の研究ではマジで漢方どおりの体温変化がある食べ物も見つかってるし
経験則として馬鹿にできないものがあるんだろうな
450人間七七四年:2012/09/16(日) 10:35:54.59 ID:OVd5hny2
>>449
漢方は人体実験の集積でもあるから侮れん
451人間七七四年:2012/09/16(日) 11:01:56.20 ID:E8p4a0fx
まあ嘘っぱちもかなり混じってる
452人間七七四年:2012/09/16(日) 12:35:39.30 ID:xoIfxujC
まあ経験則の積み重ねがあるからフグも食えるw
453人間七七四年:2012/09/16(日) 12:53:13.78 ID:uDd3vLfC
河豚は肝くわなきゃいいだけだからなぁ・・・
454人間七七四年:2012/09/16(日) 12:54:18.22 ID:T8KhrIps
皮もな
455人間七七四年:2012/09/16(日) 13:17:54.82 ID:gM79Kzef
家久さんも若い頃と家督ついでからのギャップが・・・
若い頃は蹴鞠の話ばかり
456人間七七四年:2012/09/16(日) 14:45:52.15 ID:4accDfiH
玉遊びに興じる点では…
457人間七七四年:2012/09/16(日) 19:26:47.31 ID:yhYYyDQV
玉で遊びだと?
お前ら恐れ知らずだな・・・、お前ら2/36決定だわ
458人間七七四年:2012/09/16(日) 19:28:46.31 ID:81YxZFft
42年ぶりの帰参


時は大坂冬の陣から年が開けた翌慶長20年(1615年)春の事。
大坂方の和睦の使者として駿府へと遣わされていた『大坂城七手組』の一人に数えられる青木一重は
駿府から大坂への帰途に京で板倉勝重の接待を受けていた。

しかし、これは罠であった。板倉は突如として兵を呼んで一重の身柄を拘束したのである。
囚われの身となった一重に板倉はこう告げた。「大坂へと戻れば弟である青木可直を処断する」と・・・

一重の弟である可直は大坂方ではなく、徳川家の旗本として3000石を与えられていた身分であったが、
これを処断されるとあらば家名存続が危うい。結局の所、一重は夏の陣が終わるまで板倉に軟禁されたまま過ごした。

その後、開放された一重は剃髪して高野山に隠棲していたのだが、家康から二条城へと呼び出しを受け、
何故か豊臣時代(1万石)から微増の摂津豊嶋1万2000石を与えられ初代麻田藩主として諸侯に名を連ねた。

かつて一重は徳川家に所属しており、姉川の戦いで真柄直隆を討つという功を挙げて家康から武勇を賞賛されたが、
三方ヶ原の戦いのしばらく後に徳川家を去っており、何の因果かそれから実に42年の時を経てまた再び家康から禄を賜る身分となった。



少なくともいい話ではないのでこっちに
459人間七七四年:2012/09/16(日) 19:46:40.38 ID:G+9Cjne/
多分、善意で助けようとしたように思えるけど
460人間七七四年:2012/09/16(日) 20:50:41.37 ID:0tEYl2V4
一万石が敵方になるなんて、そんな大したことじゃないし、
家康としては一重を無駄に殺したくなかったのかな
461人間七七四年:2012/09/16(日) 20:50:42.28 ID:lre/8rHz
10万石格のご朱印のおまけ付きで復帰したというから寛大どころではないんだよね。

スパイでもしてたの?
462人間七七四年:2012/09/16(日) 21:43:40.86 ID:gM79Kzef
七手組は基本穏健派だったから家康にとってはあまり有難い存在では無かっただろうなあ
長老格の青木一重がこんなことになると七手組としてはもう何も意見言えなくなって結果的に主戦派の暴走を許すっていうのが狙いかなと妄想してる
463人間七七四年:2012/09/17(月) 00:39:39.10 ID:W8rDjt/n
案外いい話だと思うのは俺だけ?
464人間七七四年:2012/09/17(月) 00:48:37.46 ID:gCUeR2Yw
いいか悪いかで言えば、いい話だと思う

家康が呼びつけたってことは戦後すぐの話だし
一重を許すのは、少なくとも家康にとっては既定路線だよな
単純に死なせたくなかっただけなんじゃないのかと
465人間七七四年:2012/09/17(月) 02:42:06.46 ID:9t6TBFJk
まぁ人質とって脅迫めいたこと言ってるんだからこちらでいいんじゃない
466人間七七四年:2012/09/17(月) 08:23:44.35 ID:ggqP0q70
和睦の使者なのに捕えたって事は
いよいよ手切れ布告の段階って事になるのか?
467人間七七四年:2012/09/17(月) 10:17:48.94 ID:hk/vXnJV
でも大名復帰後は周りから避難轟々だったんだろな。
468人間七七四年:2012/09/17(月) 10:36:45.54 ID:IUG41wpy
大名の誘いを固辞して・・・って感じなら○く納まったんだろうね〜
469人間七七四年:2012/09/17(月) 11:01:28.00 ID:+5ZV8qHw
じゃあ七手組からもう一人


慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後のこと。高野山に逃れた一人の武将が豊臣秀頼の死を知って自害しようとしていた。
男の名前は伊東長実といってかつて織田家で「編笠清蔵」の異名をとった伊東長久の長男であり、
信長の死後は秀吉に仕えて黄母衣衆に抜擢され活躍。やがて『大坂城七手組』の一人に選ばれたという経歴の持ち主である。

いよいよ自害しようかという所で徳川家の使者が高野山へと現れ、長実の自害を止めさせると「かつて関ヶ原の戦いで
石田三成の挙兵を報じた功績で豊臣時代からの備中川辺1万石を安堵する」との事を伝えられた。
初め長実は「二君に仕えず」と断ったものの家臣からの説得もあって出仕を決意し、大名として諸侯に列したのであった。
こうして夏の陣まで大坂方として参加しながら所領を安堵された伊東家は備中岡田藩主として明治維新まで命脈を保った。

・・・しかしながら、この長実にはスパイ疑惑があった。
「老士談録」に寄れば長実は大坂の陣の少し前の頃より朝比奈義次なる武将を雇い、寵愛を注いで評定などにも同席させていたのだが、
この朝比奈という男は実は京都所司代板倉勝重の家臣であり、評定や大坂城内の様子を逐一板倉に報告していたというのである。
また、結婚時期などの詳細は不明であるが長実の息子である長昌は板倉勝重の養女を娶っていた。


どこまで本当かはわからないけど色々噂を立てられていた人のお話
470人間七七四年:2012/09/17(月) 11:16:24.08 ID:motsuw+B
徳川のスパイ説出てる人をリストにして欲しいくらい大量に居るなw
471人間七七四年:2012/09/17(月) 11:34:32.07 ID:ggqP0q70
板倉さんに近い人間から疑われるのは
仕方のないことなんだろうな
472人間七七四年:2012/09/17(月) 11:56:57.61 ID:avmaeOf3
今の倉敷市長はこの伊東さんの末裔らしい
473人間七七四年:2012/09/17(月) 15:30:29.56 ID:Y7sWbmiA
たぬきさん記憶力いいからな、なんか思い出したんじゃね?
474人間七七四年:2012/09/17(月) 17:50:22.94 ID:+cQVIHtH
岡田藩って・・・俺の住んでるところじゃねーかw
全然知らんかった
475人間七七四年:2012/09/17(月) 19:57:44.06 ID:bjO5ydSC
明智光秀の家臣であった天野源右衛門と言えば当時、名の知れた豪傑であった。
彼は本能寺の時、織田信長に槍を付けたとされたが、これにより豊臣秀吉から、
主君の敵であると大いに憎まれ、さしもの武名燦然たる勇者も逼塞の生活を余儀なくされていた。

そんな中関白豊臣秀次が、未だ三好治兵衛と称していた頃であったが、秀吉に許可をもらって
召抱えることとなった。

ある時の事、秀次が殿舎の建設をするとして、天野にも家人を召しだしてこの普請に当たらせよと
命じた。普請役というものである。天野は「承り候」と答えたものの、内心にこう思った

『私は国に大事のあった時、一方の先陣を駆けて敵を挫く事こそを仕事として、この人に仕えたのである。
普請などということをさせられるとは聞いていない!そのような作業は足軽などがするものではないか。」

そして屋敷に帰ると、すぐさま自分の士卒2,300人に弓鉄砲を持たせ、自分は槍を掴み、
その姿で普請場へと押しかけた!

この完全武装の集団を見た秀次は大いに驚き、
「天野は狂乱したのか!?どうしてこんな事をするのか、理由を聞いてこい!」
と、叫ぶと、側衆が出てそのとおりに天野に聞いた。これに天野曰く

「それはですな、私はここに家人を召し連れて来るようにとの御下知を受けました。
これはきっと、謀反人などがあって、それを討てという事があるのだと判断しました。
そのためこのように武装して馳せ参じたのです。」

秀次家臣の田中兵部はそれを聞くと大いに驚き
「そ、その様なことではない!急ぎの普請があるから家人を召し遣わし、この作業の功を励ませとの
仰せであったのだ!」

天野、この言葉にカラカラと大笑した

「私は、普請をするような家人は持ってはおらぬ!私は家人たちにいつも、槍を付き太刀を打つ業こそ
心掛けよと言っておるのだ!」

秀次はこの天野の言葉に激怒した

「このような傍若無人の行為を成すような者、頸を刎ね獄門に懸け。諸人に対する見せしめとせよ!」

そういって天野に対し討手を差し向けようとしているのを見て取った天野は、
「もはやこの様な暗君に仕えていかにするというのか」
と、直ぐ様その場より出奔した。

ちなみにこの天野の出奔がこのあと、
↓この話のように福島正則と立花宗茂を大いに対立させる事になる

福島正則と立花統虎(宗茂)、胃が痛くなりそうな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2654.html

そんな天野源右衛門、秀次家出奔の経緯である。
(陰徳太平記)
476人間七七四年:2012/09/17(月) 21:35:29.70 ID:+5ZV8qHw
誰かと思ったが改名後の安田国継ね
477人間七七四年:2012/09/18(火) 18:34:46.79 ID:VDmDAEvd

関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。

対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。

だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。

田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。

――『名将言行録』
478人間七七四年:2012/09/18(火) 21:11:42.22 ID:xz19Y2AV
>>475
当時の価値観的には専門外の事をさせようとした秀次にも非はあるのかもしれんが
それに対して反論より先にこんな態度取っちゃうのはどうなのこれ
命じられたその場でハッキリ無理って言う方が男らしいと思うんだが

てか他の逸話も見たけどこいつ部下として滅茶苦茶使いづらそうな奴だなw
479人間七七四年:2012/09/18(火) 21:18:41.11 ID:toLLw6L8
鬼武蔵のとこが一番あってた気が
480人間七七四年:2012/09/18(火) 21:22:13.78 ID:wEtAUHrf
足軽がするものだと思うなら足軽を提供すればよかったのでは…
この時代は平時だと雇ってないのかな?
481人間七七四年:2012/09/18(火) 23:32:31.21 ID:juvbnCgD
ていうか、重臣なら知行に応じて普請役を行うのは当たり前だろう。
本当なら所詮は葉武者だったってことだね。
482人間七七四年:2012/09/18(火) 23:37:34.49 ID:Y7wJegr+
普請役って軍役だからなあ・・・
士卒2-300も支配していても気分は一騎駆けの猪武者か
483人間七七四年:2012/09/19(水) 04:02:35.25 ID:0GaEnQMr
最後の寺沢さん以外、仕えた主があんまりいい死に方してないってなんだかなぁ…
484人間七七四年:2012/09/19(水) 18:06:07.20 ID:XGxRcsUX
まあこういう連中も使いこなしてこそ、なんだろうけどね。
それにしても一応主君相手にどうなのそれ、という感じだなあ
485人間七七四年:2012/09/19(水) 18:55:00.88 ID:jswBSx1i
>>481
市松さんちでの可児才蔵みたいに「少禄で構わないから普請免除ヨロ」なら角も立たなかったんだろうけどなあ
486人間七七四年:2012/09/19(水) 21:06:41.65 ID:/8EH4R/P
>>485
しかしそれだと寄騎つけられないから実際少禄になっちゃいそうだなあ
最も戦以外のあらゆる役目を免除されたら意外とそれでも裕福に暮らせるのかもしれん
487人間七七四年:2012/09/19(水) 23:14:55.41 ID:XGxRcsUX
「俺を妬む小人だらけの家中にいられるか!俺は下野させてもらう!」
ってなるだけな気も
488人間七七四年:2012/09/20(木) 10:35:38.54 ID:t8Y1Nqsz
>>487
フラグっぽく感じるのはなぜだろう。
489人間七七四年:2012/09/20(木) 11:02:12.15 ID:SHb5RPY5
三河武士だと家出しても結局戻ってくるイメージが
490人間七七四年:2012/09/20(木) 11:36:01.00 ID:jFNwSsNH
>>487
下野した後、上野へ向かう…と見せかけて平野に改名
491人間七七四年:2012/09/20(木) 11:36:35.24 ID:wUnYQsSP
家康が大大名になって最終的に天下を取ったからだろ。
滅んだり小大名で終わったりしてたら殆ど戻って来なかったと思うぞ。
492人間七七四年:2012/09/20(木) 13:59:32.40 ID:/XjT+PGh
>>491
まぁそういう、勝ち馬に乗ろうとした奴もいただろうけど、一向一揆の時に一揆に参加して
終息後に降伏せずに一旦は出奔した連中とか、結局ほんの数年で帰参した奴も結構いた
当然、当時の家康は、天下どころかなんとか三河一国を平定っていう段階

たぶん、「どうせ降伏しても冷や飯喰わされるんだろ!」と思って出奔したものの、あとで
降伏組が意外に冷遇されてなかったりする様子を聞いて、「なんだ、じゃ帰ろ」ってことに
なったのではないかと
493人間七七四年:2012/09/20(木) 14:37:30.40 ID:uiUVCiFl
>>492
おいおい、三河者の前でそんな事いったら
面倒くさい話になるぜ?
494人間七七四年:2012/09/20(木) 15:16:58.50 ID:ufXKlLDX
>>492
つうか一揆側って次男坊以下や分家とかが多かったって昔の群像かなんかで書かれてるのを読んだ記憶があるんじゃが
495人間七七四年:2012/09/20(木) 18:50:17.79 ID:mT5W41pB
慶長の役の時のこと。蔚山築城に伴い、城外に駐屯していた浅野幸長は、明軍の奇襲を受けた。何とかこれを防ぎ
退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。

浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。

「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」

やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」

六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。

「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」

戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)


橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い
496人間七七四年:2012/09/20(木) 18:58:25.28 ID:6+IZfnb9
橋本六郎の場合は幸長に食わせたほうが
中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない
497人間七七四年:2012/09/20(木) 19:46:43.89 ID:htmcZuen
>>496
半ばネタなのに思いっきりマジレスせんでも…
498人間七七四年:2012/09/20(木) 22:35:28.68 ID:wUnYQsSP
さり気なく河内守が屑過ぎw
499人間七七四年:2012/09/20(木) 23:39:52.44 ID:7951B03d
なんの糧食も持たずに戦場に行くとも考えられないし
河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか

もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな
500人間七七四年:2012/09/20(木) 23:45:18.01 ID:pQEoZRdk
自分の家人に持たせてたけど、死んだかはぐれたんでしょう
501人間七七四年:2012/09/20(木) 23:49:47.93 ID:3fQNXpI2
たまには健全にだな
ttp://photo.uzra.jp/event/2012101314sp.php
502人間七七四年:2012/09/21(金) 09:45:26.64 ID:AFJc4VZR
誤爆してんじゃねーよ
503人間七七四年:2012/09/21(金) 18:03:47.66 ID:MHus+mKZ
賤ヶ岳の合戦で柴田軍が討ち負け崩壊すると、佐久間玄蕃允盛政はともかくも合流しようと加賀まで
向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ

「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」

こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った

「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」

盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」

これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。

(佐久間軍記)
504人間七七四年:2012/09/21(金) 18:18:55.37 ID:61LT6kna
それなら素直に捕まえろと言わず、うまく買収でもすべきなんじゃ…
505人間七七四年:2012/09/21(金) 18:47:52.40 ID:GxrYoGoT
>>503
三成の柿の話と一緒でいい話じゃないのか
506人間七七四年:2012/09/21(金) 19:02:33.25 ID:2M0Px8yd
問答無用で竹槍や妖怪首置いてけの餌食にならんかっただけマシか
507人間七七四年:2012/09/21(金) 19:29:48.96 ID:ggKjd+3g
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4596.html
郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね
508人間七七四年:2012/09/21(金) 20:10:46.61 ID:eEqRxYjX
>>505
(諦めが)悪いように見せかけていい話かな
509人間七七四年:2012/09/21(金) 21:15:12.12 ID:Dhfzjym2
連れてきた連中の玄蕃さんの扱いがあまりに酷いので秀吉が処罰したとかなかったっけ?
510人間七七四年:2012/09/21(金) 21:20:11.71 ID:N7QhuWx+
>>509
>>507に書いてある
511人間七七四年:2012/09/22(土) 01:02:26.01 ID:F7XLBAkn
長政は余計な一言での出番が多いが、事実はともかくそういう人だと思われてたんだろうか
それとも豊臣家の中枢に居た人なのにあまりにも早く家康の軍門に下ったから
江戸初期には侮られて小物役にふさわしいと思われてたんだろうか
512人間七七四年:2012/09/22(土) 01:07:25.95 ID:QuUwL04t
信長の命で斬られるところを秀吉の独断で助けられた
という話が本当ならどの豊臣恩顧の武将よりも豊臣への
恩は深いはずなのに...
513人間七七四年:2012/09/22(土) 05:33:44.59 ID:v4hiVesG
秀吉に大恩が有っても淀殿や石田三成とは確執があったのかも試練
514人間七七四年:2012/09/22(土) 06:06:52.39 ID:qRdHmeZi
いつの間にか話が浅野長政から黒田長政にすりかわってるような…
515人間七七四年:2012/09/22(土) 06:14:44.22 ID:JJ8Bdbbi
中枢に居たからこそ早々と見限ったのではなかろうか。
516人間七七四年:2012/09/22(土) 07:34:28.08 ID:/3atuCBe
柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与え戦後処理を終えると帰洛。
捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。

秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」

盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。

命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」

長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた

「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」

盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」

秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。

佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。

天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。

盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)

以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。
517人間七七四年:2012/09/22(土) 08:51:18.05 ID:lu9U/Xis
肥後はアカン
518人間七七四年:2012/09/22(土) 09:24:56.87 ID:LIK4VB4Q
ここで素直に部下になっても、佐々のようになるのがオチか
519人間七七四年:2012/09/22(土) 09:49:16.48 ID:muq0fmif
長政さんは、秀吉さんというよりは重治さんの機転と覚悟のおかげで、救われたような・・・
寧ろ、信長さんの処刑命令をあっさり受け入れた秀吉さんを受け入れられないんじゃないのかな〜
520人間七七四年:2012/09/22(土) 10:45:05.55 ID:F7XLBAkn
おまえら長政といったら黒田のことしか浮かばないのか
521人間七七四年:2012/09/22(土) 11:40:44.23 ID:ZpdO2oWP
K☆I☆Z☆A☆W☆A
522人間七七四年:2012/09/22(土) 11:52:36.88 ID:jGro9prD
あの肥後を治められるとは大した自身だ
523人間七七四年:2012/09/22(土) 12:00:39.49 ID:rIHbkXdq
浅井とか山田もいるな。今頃だとシエがらみで浅井って答えるかもしれん
524人間七七四年:2012/09/22(土) 12:07:25.53 ID:LoeRgdT8
長政軍団の中じゃ浅野さんが地味なのは間違いない
525人間七七四年:2012/09/22(土) 12:14:52.32 ID:hBrVEyEn
織田長政なんてのもいるぜ
活動時期は江戸初期だけど生まれは戦国ってことで一つ
526人間七七四年:2012/09/22(土) 12:24:46.56 ID:96f3VvAj
木沢長政 (1493年? - 1542年) - 戦国時代の武将。(山城国南部守護代)
浅井長政 (1545年 - 1573年) - 戦国時代の武将・大名。(浅井氏)
浅野長政 (1547年 - 1611年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅野氏)
黒田長政 (1568年 - 1623年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅井氏)
池田長政 (1575年 - 1607年) - 戦国時代から江戸時代の武将。(池田氏)
上杉長政 (生年不詳 - 1628年) - 江戸時代の旗本。(上条上杉家)
織田長政 (大名) (1587年 - 1670年) - 江戸時代の大名。(織田氏、芝村藩)
山田長政 (1590年 - 1630年) - 江戸時代、シャム(現タイ)の日本人町の頭領として活躍した人物。
関長政 (1612年 - 1698年) - 江戸時代の大名。(関氏、宮川藩)
織田長政 (旗本) (1628年 - 1690年) - 江戸時代の旗本。(織田氏)
527人間七七四年:2012/09/22(土) 12:26:14.75 ID:4Cw0SdeS
浅野長政は豊臣政権においては調整型の政治家って役割だね
528人間七七四年:2012/09/22(土) 12:28:22.84 ID:96f3VvAj
黒田長政は常々こうぼやいていたという。
「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。
529人間七七四年:2012/09/22(土) 12:32:40.70 ID:EB2SNDHC
木造さん・・・
530人間七七四年:2012/09/22(土) 12:56:45.43 ID:F7XLBAkn
>>528
10歳くらい年下の幸長に嫉妬するとは
531人間七七四年:2012/09/22(土) 13:07:52.18 ID:QuUwL04t
>>528
え?クロカンの方が無辺者のイメージ無いけど...
532人間七七四年:2012/09/22(土) 13:23:50.56 ID:F7XLBAkn
武辺者ってのは個人の武勇だけじゃなくて戦場での采配巧者も含むから如水は武辺者で良いんじゃない?
それも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど
533人間七七四年:2012/09/22(土) 13:43:27.23 ID:uCrdzVEh
クロカンが武辺者だからというよりは
あのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと
534人間七七四年:2012/09/22(土) 13:47:22.01 ID:fd1muouz
慶長年間のこと、
大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。

これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。


『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』


やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?
535人間七七四年:2012/09/22(土) 13:55:54.73 ID:qRdHmeZi
>>534
可能性があるのは義久、義弘、忠恒だけど
まあ、あの人でしょ
536人間七七四年:2012/09/22(土) 14:00:10.18 ID:96f3VvAj
(●Д゜)「正宗は大事にしてね。」
537人間七七四年:2012/09/22(土) 14:10:08.20 ID:Bhz95nJk
>>534
何の根拠もなく断言するけど、きっとあの人だ。

538人間七七四年:2012/09/22(土) 14:13:58.05 ID:F7XLBAkn
手討ちなんて一生しなかった人の方が遥かに多いんだろうなあ
そう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな
539人間七七四年:2012/09/22(土) 14:38:17.17 ID:OvyJ76u2
>>536
偽物のマサムネとはいえマサムネを削ったマサムネが言うな
540人間七七四年:2012/09/22(土) 14:56:48.87 ID:rIHbkXdq
(´・ω・`)「銘を変えただけだからOK」
541人間七七四年:2012/09/22(土) 15:18:38.01 ID:pPMT5WgO
やっぱり之定だ 36人斬っても だいじょーぶ
542人間七七四年:2012/09/22(土) 15:31:14.22 ID:uCrdzVEh
>>534
政宗「誰だろう」
忠興「誰だろうね」
長可「誰だろうな」
543人間七七四年:2012/09/22(土) 15:52:52.43 ID:nlPpsqja
島津で手打ちする当主とか誰か分からないわー、コナンの正体ぐらい謎だわー
544人間七七四年:2012/09/22(土) 16:07:36.49 ID:hBrVEyEn
切るなら切るでスパっとやっちゃえばいいのに
鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする
545人間七七四年:2012/09/22(土) 16:10:34.29 ID:pPMT5WgO
どうせなら蹴り殺した方がマシちゃうんかと
546人間七七四年:2012/09/22(土) 16:21:21.93 ID:URmyPShf
へー、鴨居を斬って刀を折っちゃうような格好悪い殿様が、島津にいるのかー
547人間七七四年:2012/09/22(土) 16:59:16.30 ID:ttUqhglz
おまえら憶測でものを語りすぎだろwww
548人間七七四年:2012/09/22(土) 17:21:58.61 ID:96f3VvAj
伊集院忠真「義兄さんがそんな事する訳ないよ」
549人間七七四年:2012/09/22(土) 17:43:19.77 ID:v4hiVesG
>>545
????「毬は友達だよ、乱暴に扱っちゃダメだよ」
550人間七七四年:2012/09/22(土) 20:47:10.39 ID:pPMT5WgO
腹のわた 掻き出でてみれば ○久の 鴨居に禍う 抜きつ白刃
551人間七七四年:2012/09/23(日) 11:12:38.64 ID:yvQg5f+q
ちぇすとー!な剣術だと当たるわな・・・部屋の中だと突き主体の剣術のほうがいいんだが。バールのようなもので撲殺もいいと思うが
552人間七七四年:2012/09/23(日) 13:42:41.15 ID:Bs7TKjKo
??「鴨居ごと 圧し斬ってしまえ 不如帰」

ここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ
553人間七七四年:2012/09/23(日) 14:59:53.21 ID:yvQg5f+q
さっき実験してみた。もちろん打刀でやると怒られるので木刀で代用
鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな
554人間七七四年:2012/09/23(日) 15:38:24.29 ID:RI8/iPDP
室内で刀を振るなら居合いの型を参考にすれば良いな
555人間七七四年:2012/09/23(日) 18:09:57.65 ID:yEt8ZH62
ふむ居合やってる妹に聞いてみようかの
556人間七七四年:2012/09/23(日) 18:12:44.76 ID:UJFrPpIc
東郷重位くらいになると分厚い碁盤を両断して床板も貫き
その下の横木に刀が食い込むくらいになるらしい
重位からしてみればYOU、鴨居ごと斬っちゃいなYO!ってことか?
557人間七七四年:2012/09/23(日) 18:22:16.85 ID:RI8/iPDP
鴨居はまだ剣先に速度がついてない段階で当たってしまうからなあ
558人間七七四年:2012/09/23(日) 19:07:35.90 ID:dMgqV0aj
????「えぇい慮外者め、其処へ直れ、儂自ら茶を振舞ってくれるわ!!」
559人間七七四年:2012/09/23(日) 19:47:54.29 ID:EMkUoTnH
小早川隆景が亡くなった時、その事を吉川広家に知らせに来た林吉兵衛入道梅林と内藤河内守が広家に語った話である。

『これは未だ、吉川元春様が生きておられ、我々と織田信長との和平が敗れ、織田との戦いが続いていた頃のことです。
ある時、元春様より隆景様に、次の合戦におけるご自身の方針の所存を遣いを以ってお伝えなされました。
これを聞いた隆景様は驚かれ

「元春は若武者か、五百三百の侍大将のつもりか!彼の言うような事が出来るわけがない、
こんなものは討ち死にするだけだ!彼はここから一歩も引き下がらず、敵に向かって攻めかけるとのみ言っている!

敵の大将である羽柴秀吉は大敵である。その秀吉との争いで、このように短慮で勇一途を専らにしては、
大敗するのが目に見えておる。このような作戦は、尼子勝久程度の敵に対してするものだ!」

私たちは隆景様の仰ったことを、誠に道理だと思いました。この事は元春様が誤っていると考えたため、
元春様の元に行き、この事を申し上げました。すると元春様は

「隆景ともあろう者が、なんと武道を心得ぬ事を言うものだろうか!
どうして私が秀吉を尼子勝久のような小敵と同じに見て、あの方針案を作るものか!

よいか、勝久のような小敵には、先ず負けぬ工夫をして、よく身を縮こまらせ堅く守る戦をするのだ。
そうすれば所詮相手は小敵であるので、次第に威勢衰えて結局は敗北するのだ。小敵こそ恐れるべきものである。

さて、現在我々は織田信長を敵とし、羽柴秀吉と合戦に及んでおる。
織田は大敵強敵であろ、中でも羽柴秀吉は大勇にして智を兼備した良将である。
彼は天性の大将であり、敵が弱気であると見て取れば、即座に打ち破り、そのまま足を止めず
三ヶ国も五ヶ国も、直ちに押し入るような弓取りである。

例えば、我等が父元就が厳島で陶晴賢を討ち滅ぼした時、家中からは「一両年ほど置き
戦備を整えて山口に攻め入りましょう」との声が上がった。これを聞いた父上は

『元就の弓矢は古風でな、私ならば陶を討ったその勢いに直に乗り山口に攻め入る。
そうすれば大内義長はその年のうちに滅びるだろう。期間を空けるのは、遠慮過ぎたる弓矢の取り様である!』
そう言って批判なされた。

秀吉は元就様のような大不敵の将であり、味方が少しでも弱気を見せれば、その威勢に任せ大軍を以って即時に攻め潰してくる。
この様な大将が、しかも大軍を以って敵対している以上、我々は勇を専らとして何度も攻めかかり、
彼の戦機を奪い動揺させ、十死に一生の戦いを決せんとする体を示すべきだと、私は言ったのだ。

それを小敵などとの戦と同様に考え、危うい戦を謹んで身を大事とのみ心得るのは、敵に威を奪われ
味方は気後れをし、ついには刀を血塗る事すら無く大敗するものである!
大敵を見ても恐れず、勇みたるこそ良きことなのだ。

思い出して欲しい。元就様が尼子を攻めようと出雲に侵入する時は、戦を後にし謀略を先にして、
陣城を築き、当方の安全を第一に考えられた。
ところが陶のような大敵と戦うときには、彼は2万余、我々はわずか三千で対峙し、風雨の中
厳島に渡り千死一生の合戦を挑まれた。
これは我々が規範とすべきことではないのか!?

秀吉のような敵を勝久などに対するように心得、危ない危ないと謹んでいれば、終には
戦わずして大いに敗亡してしまうだろう。
敵によって対応も変化させるべきなのだ。」

この様に承り、我等も愚かながら、これもまた畢竟の道理であると思いました。

いつも元春様のもとに参って仰せを承れば、これは当然の理であると思い、隆景様のもとに参って
仰せを承れば、これもまた至当であると思いました。
どちらのご所存も、一つとして愚かなものはありませんでした。
この様な名将が、今や二人ながらにして亡くなられたことの、なんと嘆かわしいことでしょう。』

秀吉との戦いについて、吉川広家と小早川隆景の方針の違い。という逸話である
(陰徳太平記)
560人間七七四年:2012/09/24(月) 10:44:56.30 ID:p3i0xl6D
元春と広家が混ざってないか?
561人間七七四年:2012/09/24(月) 13:40:04.74 ID:zK088e/x
秀吉をして勇気が足りないと言われる理由がわかるな。
562人間七七四年:2012/09/24(月) 17:07:42.40 ID:d6MMRShR
(´・ω・`)
563人間七七四年:2012/09/24(月) 18:24:46.93 ID:tt2gFvNR

松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。

その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、

本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。

「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!

他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」

家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。

――『徳川実紀(武功実録)』
564人間七七四年:2012/09/24(月) 21:30:29.62 ID:maC7aOIv
権現様も最終的には秀康のことかなり評価してるっぽいんだよなあ
秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか
565人間七七四年:2012/09/24(月) 21:46:59.11 ID:c7kC9PRQ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2690.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?
566人間七七四年:2012/09/24(月) 21:56:24.12 ID:PFkfcjlj
ところで福島正則という人は豊臣秀吉の御従兄弟であったが、始めは大工の弟子であられた。
彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。

正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。

そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)

陰徳太平記より、福島正則についての解説である
567人間七七四年:2012/09/24(月) 22:00:17.68 ID:PFkfcjlj
ああ、すいません、7行目

×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが

です。
568人間七七四年:2012/09/25(火) 22:42:54.86 ID:/0D5qFmv
>>566
正則が侍従に叙任されたのは1997年で
従四位下に叙位されたのは関ヶ原後でしょ
569人間七七四年:2012/09/25(火) 23:11:06.14 ID:gBW1WsGn
>>568
侍従叙任最近すぎるなw
570人間七七四年:2012/09/25(火) 23:15:38.36 ID:inG40JbE
>>568
橋本内閣が追叙したのかwww
571人間七七四年:2012/09/25(火) 23:22:08.95 ID:/0D5qFmv
失礼
1597だったしwww
572人間七七四年:2012/09/26(水) 00:02:11.99 ID:NzqqgQxX
腹痛ぇw
1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな
573人間七七四年:2012/09/26(水) 00:15:53.23 ID:zOxjmtoR
陰徳太平記書いたのは吉川の家臣みたいだし
筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね
574人間七七四年:2012/09/26(水) 00:57:27.13 ID:IU4GiR0Q
天正十一年(1582)八月、
上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。

この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。

海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。

島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。

十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。

『管窮武鑑』
575人間七七四年:2012/09/26(水) 10:27:59.59 ID:Ii86Mq/S
寡兵を多勢に見せるって話はよく聞くけど
ちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。
576人間七七四年:2012/09/26(水) 13:16:27.86 ID:5xg+0/vi
民主党政権もどうせ末期なんだから、今のうちにおらが町の武将を追叙任してしまえばいい。
もしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。
577人間七七四年:2012/09/26(水) 18:51:23.42 ID:IkBZVB/p
>>573
吉川と福島はそこそこ親しい
陰徳太平記もこのすぐ後に、正則の友人広家って表現出てくる
578人間七七四年:2012/09/26(水) 19:54:12.14 ID:/rFvEKkh
>>568
三成も正則と一緒に諸大夫から侍従に叙任されたのかな?
それとも三成は諸大夫のまま?
579人間七七四年:2012/09/26(水) 20:55:33.74 ID:NhBHIA02
>>578
三成死んでますがな
580人間七七四年:2012/09/26(水) 21:00:19.82 ID:SlP38sd5
まあ1997年なら確かに死んでるが・・・
581人間七七四年:2012/09/26(水) 21:05:14.86 ID:/rFvEKkh
>>579
1597年なら辛うじて生きてますがな
582人間七七四年:2012/09/26(水) 23:11:58.10 ID:V+z4qb0d
加藤清正も侍従に叙せられたのは関ヶ原後だしなぁ
583人間七七四年:2012/09/26(水) 23:25:22.35 ID:aENemeea
>>575
敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-630.html
584人間七七四年:2012/09/27(木) 04:30:59.03 ID:Q5dWYvzf
かの武田四名臣に数えられる春日虎綱の息子、春日信達のお話

彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、

ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!

「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」

…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。

その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!

「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」

と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!

「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」

と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、

「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」

と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。

次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。

「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」

とまたしても裏切ろうとするが…、

景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」

とここで信達、ついに誅殺されてしまった。

しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、

「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」

と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?
585人間七七四年:2012/09/27(木) 08:55:38.89 ID:ylUuRTa0
なんだこんな奴なら殺されても仕方なかったじゃないか
586人間七七四年:2012/09/27(木) 09:35:01.19 ID:il61QrAl
久々にスッキリする話を読んだw
587人間七七四年:2012/09/27(木) 10:25:33.36 ID:g5jwDPI2
>584、真田パパン「きたないマネをするから。もっとうまくやらなきゃのう」
588人間七七四年:2012/09/27(木) 12:41:41.93 ID:K93fT0nf
鬼武蔵「俺達は人をみて斬っている!平和主義者だからむやみに人は斬らん!」
589人間七七四年:2012/09/27(木) 12:57:03.26 ID:DZcRIs4J
>>587
真田パパンも春日信達も、「長篠合戦で兄ちゃん死んじゃった組」ですな
武田の武将、長篠後に運命かわっちゃった人がたくさんいるね
590人間七七四年:2012/09/27(木) 13:09:46.29 ID:ZIUk9L71
俺達は人をみな斬っている!のかと思ったよ、武蔵さんは・・・
591人間七七四年:2012/09/27(木) 14:05:28.68 ID:5KBqIbgC
昨日(2012.09.26)の読売新聞、磯田道史センセのコラムより、ちょんまげ話を引用抜粋
「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える

彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている

戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、管理統制へ移行したようだ

…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…
592人間七七四年:2012/09/27(木) 14:14:28.38 ID:f2ihicX8
>>588
でも撃つのは見境無しなんですね?
593人間七七四年:2012/09/27(木) 14:18:19.06 ID:g5jwDPI2
あたま・・・全部剃っちゃダメなのか?
594人間七七四年:2012/09/27(木) 14:24:26.63 ID:4Q5aK0LG
>>591
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw
595人間七七四年:2012/09/27(木) 15:04:30.88 ID:OFBUKKBq
髷が結えなくなったら隠居だから
596人間七七四年:2012/09/27(木) 16:17:38.68 ID:6bzTicsI
シグルイの夕雲思い出した。
597人間七七四年:2012/09/27(木) 17:36:03.46 ID:4pQ4ekKl
信達は兄の昌澄が長篠で戦死したために急遽後継者に繰り上がった経緯があり、
恐らく家を残すことに気持ちが向かい過ぎていたんだな
海津城に戻ってからの行動も、そもそも地政学的にも勢力の大きさ的にも風に靡き
機会主義的な行動も選ばざるを得ず、地侍や農民たちからの突き上げに抗せなかった
面もあるんだろう

愚将凡将と評される人にも全く持って弁護の余地が無い訳ではないさ
598人間七七四年:2012/09/27(木) 18:48:46.21 ID:UBtiprp8
>>591
ひこにゃんは武士の規律を乱す人とかに厳しそうだもんな
599人間七七四年:2012/09/27(木) 20:19:59.05 ID:pml4fx5k
>>593
頭を留める者は髪を留めず
髪を留める者は頭を留めず
600人間七七四年:2012/09/27(木) 20:32:45.93 ID:ZIUk9L71
>>598
武者から藩士への過渡期なんやろね〜
601人間七七四年:2012/09/27(木) 22:58:10.27 ID:f2ihicX8
>>599
フサフサは皆死んでしまへ!
602人間七七四年:2012/09/27(木) 23:35:26.78 ID:YE1hKJAw
>>584
人質37564の話も、こういう事情があったとしたら致し方なく思えるな
てゆーかこいつ、正真正銘のクズすぎて言葉が出ねえ・・・
603人間七七四年:2012/09/27(木) 23:42:06.24 ID:jLsdpooI
>>591

権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか
604人間七七四年:2012/09/28(金) 00:16:00.10 ID:Wj5+BYCP
逃げ帰ったのはその通りだが、そもそも三枚橋は速やかな後詰めと
水軍のサポートあってこその拠点だしな
防御力に乏しいし既に兵も足りないので籠城して持久戦も難しく、
撤退するのも止むを得ない選択だろう
>>584はやや悪意あり過ぎないか
605人間七七四年:2012/09/28(金) 00:18:06.33 ID:cG/fzyhG
>>584
さらにたちが悪いのは、こいつがこういうことするから
虎綱の甥は甲陽軍鑑の執筆を佐渡島に逃れて行わなければならず、
その結果甲陽軍鑑は間違いだらけになり、後世史料的価値なしと断じられることに…。
606人間七七四年:2012/09/28(金) 17:37:46.53 ID:JqkI9rwb
柳生さんって剣聖の弟子だっけ?世間は狭いな
607人間七七四年:2012/09/28(金) 17:52:01.16 ID:IO6GurYO
世間は狭いっていうより、剣聖がいろんなとこ行脚してるからね〜
608人間七七四年:2012/09/29(土) 10:10:52.43 ID:wO9vk1yW
信玄や空海も行脚してるな
本職なんか、してる暇ないってくらい
609人間七七四年:2012/09/29(土) 10:17:21.15 ID:v/n0K/kk
真田幸村諸国漫遊記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890234

真田幸村が関ヶ原の後、十勇士とともに豊臣の味方を募りながら悪党倒しつつ諸国を漫遊するという
水戸黄門真田幸村バージョン
610人間七七四年:2012/09/29(土) 14:36:21.07 ID:v/n0K/kk
少弐政資といえば至って悪の人であり、どんな事にも非義の行いが多かった。

ある時の事、宗像の大宮司より政資に、印子金(良質の金)で作った獅子の像一匹を増進された。
その姿は後ろを向く形であったため、政資は、対となるもう一匹があるはずだと思い、それも合わせて
自分に渡すようにと、所望の使いを、数度にわたって大宮司へと遣わした。

しかしその獅子像は元来1匹しか無かったため、大宮司はその旨を伝えその要求を断ったのであるが、
政資はこれを信じず、

「私に渡さないため深く秘蔵するとは!なんと憎いことか!」

と大いに怒り、ついに大宮寺を自害させた。大宮司は自害に及んで、このような辞世の句を詠んだ

『根をたてば 末は枯葉の藤原や 何せうにとて打捨にけり』(藤の原と、藤原氏である少弐氏を懸けている)

後に大内義興によって追討された、少弐政資についての逸話である
(陰徳太平記)
611人間七七四年:2012/09/29(土) 18:49:47.03 ID:XbXJhMnF
狛犬じゃないんだから・・・
612人間七七四年:2012/09/29(土) 20:23:06.65 ID:cKk1FnPP
ウッ獅ッ子、倍率ドン、更に倍!
613人間七七四年:2012/09/29(土) 20:33:54.95 ID:LkCWWSBB
長安・・・。
614人間七七四年:2012/09/30(日) 00:49:44.53 ID:hTyMeY/d
>>610
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3815.html
こっちだと獅子の像が猫の像になってたりするけど同じ話っぽいよね
615人間七七四年:2012/09/30(日) 08:01:26.61 ID:XwnLgV5F
道灌「猫と聞いてはだまっておれぬ」
616人間七七四年:2012/09/30(日) 10:57:38.72 ID:fCyEyFS1
三楽斎「犬のほうがいいのう」
・・・少弐さんというといつ討ち死にするんだろうって聞いてしまう
617人間七七四年:2012/09/30(日) 14:18:30.19 ID:lDqfzO4N
永正元年(1504年)9月初旬、右京兆細川政元の家臣である薬師寺与一元一は、赤沢宗益(朝経)と共に、
政元の養子細川澄元を擁立するとして政元に反旗を翻した。

しかしこの反乱に追随するものはおらず、逆に元一の弟・薬師寺長忠によって攻撃を受けるなどし失敗、
9月18日には元一の籠る淀城は追討軍により落城、自害者数名、討たれたもも数知れずという状況になったが、
それでも薬師寺元一は脱出した。しかし水中村という所の葦の中に潜んでいた所を発見され、
生け捕られて薬師寺氏の菩提寺である一元院に監禁された。
10月2日には赤沢宗益討伐の軍勢も出発した。

この様な中薬師寺元一は切腹の処分と決まった。
元一は住持に引導を請うた時、この様に言った

「ご存知のように私は常に一の文字を好んでいる。
故に名は与一、実名は元一、寺は一元院と号しておる!
しかれば腹も一文字に斬り申す!」

そうして見事真一文字に腹を斬って死んだ。

文字通り最後まで一の文字に拘った、薬師寺元一についての逸話である
(陰徳太平記)

ちなみにこの薬師寺元一の辞世の句は
『地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな』
と伝わる。
彼が主君政元と衆道関係にあったとも言われる所以である。
618人間七七四年:2012/09/30(日) 14:50:10.47 ID:UYXoHlot
細川政元はホモで天狗とかイズナの術が得意で、天下を権を握って、その上、最期は暗殺される・・・
ぜひ大河ドラマの主人公になって欲しいキャラだな
619人間七七四年:2012/09/30(日) 15:55:03.14 ID:T6lieRIp
甲陽軍鑑といえば間違いが多く、その記述内容は極めて信憑性が低いと言われる。
とりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。

その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春。

武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。

実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。
620人間七七四年:2012/09/30(日) 16:00:35.30 ID:5uAaIze5
まあ講談でお馴染みの武将ってそういうの多いからなあ
621人間七七四年:2012/09/30(日) 16:05:12.89 ID:XjEq5PrD
深志城代じゃなかったの?
622人間七七四年:2012/09/30(日) 18:26:43.69 ID:q0viYpZX
無名の人ほど尾鰭ついたエピソード作りやすかったのかなぁ
623人間七七四年:2012/09/30(日) 20:45:05.61 ID:/SVpEYRs
んーどこから突っ込んだものやら…
以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください

まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている

で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか

あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし

馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか

ややスレ違いな長文失礼しました
624人間七七四年:2012/09/30(日) 21:31:39.98 ID:aiKXKzxe
しかしまともな史料がないと証明の仕様がないというのもまた事実
甲陽軍鑑は江戸期に逸話の編集してた人が虚妄多しって言ってるくらい滅茶苦茶だからなあ
625人間七七四年:2012/09/30(日) 21:54:34.45 ID:LAvg8iav
だれそれ まさか佐賀藩かどっかの田舎もんか
626人間七七四年:2012/09/30(日) 21:55:30.82 ID:Vo4QF4Tz
小幡勘兵衛といえば、海音寺潮五郎「史談と史論」にこんなのが

徳川家康が、小幡勘兵衛に軍配団扇のことを聞いた所、信玄公の故実によって調進して献上します、
と言って、十数日の後、こしらえ立てて献上した。 
表に日月を金銀で出し、裏に北斗七星を銀で象眼して、大へん美しいものであるが、
全部が鉄でこしらえてある上に形が大きく、おそろしく重かった。
家康は、ちょっと持って見るや、グワンと投げ出して、
「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」 
と、どなりつけたという。
627人間七七四年:2012/09/30(日) 21:58:57.06 ID:6vAGaoJa
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて

逸話の編集者とかではないと思うが、こんな逸話があったな(1636年の事の話になってる)
628人間七七四年:2012/09/30(日) 22:20:08.60 ID:LAvg8iav
芹沢鴨は鉄扇持ってたっていうぞ 鉄軍配くらいブン回せない家康が貧弱なんだろう
629人間七七四年:2012/09/30(日) 22:21:52.09 ID:YNYTcld8
>>628
武器として使っているのと軍配を一緒にするなや
630人間七七四年:2012/09/30(日) 22:36:26.23 ID:/SVpEYRs
>>625
>>624の「虚妄多し」って言ってるのは多分1770年成立の常山紀談(湯浅常山著)
常山紀談にまんま「甲陽軍鑑虚妄多き事」っていう項目がある
まぁ、そもそも甲陽軍鑑の冒頭に昔のことなので細かい年代は記憶違いが多いと断り書きがあるくらいなんで
甲陽軍鑑は、歴史書ではなくて、戦国時代のバリバリ武闘派爺さんが
記憶頼りに当時の首脳部批判も交えて昔語りした書物として読むべきなのではなかろうか

で、余談なんだけど
そこで甲陽軍鑑はここが間違っている、って歴史的な事実関係の誤謬を散々指摘してるんだけど
締めの言葉は「戦国の勢いをよく知り、かつ侍の情に達っせし者の書いた書だから、
弓箭取る者が心の慰みとして愛すべき書であって、虚妄を以て棄てるべきではない」
って言ってるから、18世紀の人間である湯浅常山から見ても、
甲陽軍鑑は戦国時代の気風をよく伝えている文書だったんだろうね
631人間七七四年:2012/09/30(日) 22:44:35.54 ID:LAvg8iav
まあ江戸時代の大ベストセラーだから妬みや僻みを受けただろうな
他の売文屋からw
632人間七七四年:2012/09/30(日) 23:03:58.68 ID:T6lieRIp
補足

甲陽軍鑑では深志城代には日向大和守を任じたとあります。

馬場信春は1559年に120騎の将になったとありますが、他の将は、
山県昌景:1552年150騎、1563年300騎
春日虎綱:1552年100騎
秋山虎繁:1556年250騎
原昌胤:1550年120騎
633人間七七四年:2012/09/30(日) 23:04:44.28 ID:ISUWi90F
家康は大阪の陣で衰えた自軍の井伊を見て嘆いてたけど
その家康は鉄軍配ももてないほど衰えてたんだな
634人間七七四年:2012/09/30(日) 23:07:40.98 ID:aiKXKzxe
ファンタジーの方が受けがいいのは真田太平記をみれば明らか
635人間七七四年:2012/09/30(日) 23:12:03.26 ID:KqbV6UIN
そういや馬場美濃守って、諱は確定したんだっけ?
636人間七七四年:2012/09/30(日) 23:35:46.45 ID:eh+JOYTU
>>632
日向なのか大和なのか・・・
637人間七七四年:2012/10/01(月) 01:03:58.13 ID:keNEq6Ue
日向(ひなた)氏、だろ
638人間七七四年:2012/10/01(月) 01:28:16.89 ID:XwcHZDvV
鉄扇は折りたためばただの棒、軽い。
639人間七七四年:2012/10/01(月) 03:35:15.06 ID:hIkxFoXo
>>627
たしかその後義春の息子は圧力かけられて
「うちの父親の方が間違ってますごめんなさい」って
言わされてるんだよな…
640人間七七四年:2012/10/01(月) 07:14:07.26 ID:PA4vPWOX
内藤さんは感状スルーされるわ、馬場さんはそんな偉くなかった可能性あるわ、

武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!
641人間七七四年:2012/10/01(月) 08:48:09.23 ID:t61Mpwrf
軍配が重いってグチ言ってるからうんこ漏らすハメになるんだよ
生涯かかっても信玄公の境地には立てなかったようだな家康
642人間七七四年:2012/10/01(月) 08:55:40.46 ID:QWWKI9y1
信玄の境地なんて立ちたかないわな
643人間七七四年:2012/10/01(月) 09:01:11.03 ID:+xXByRWs
>>641
権現「お前は50-60になって戦場で鉄の軍配振り回す腕力が有ると言えるのか?」
644人間七七四年:2012/10/01(月) 09:07:53.24 ID:t61Mpwrf
やれやれ そんなことだから大阪の陣でもうんこもらして逃げ惑うハメになるんだよ
645人間七七四年:2012/10/01(月) 10:02:47.65 ID:ETyexKjT
別に漏らしてないし
646人間七七四年:2012/10/01(月) 10:06:34.46 ID:I6jY8+jS
人生の最期になっても本陣崩され逃げ惑うあたりの小物臭がすごい
647人間七七四年:2012/10/01(月) 10:32:16.20 ID:35zBFJFB
そんな小物臭が漂う人でも小物そのものしかいないと天下がとれるんですね^^
648人間七七四年:2012/10/01(月) 12:08:07.29 ID:UrnBCJG7
というより、みんなに見えればいいだけだから重くする必要ないってことでは
謙信が本陣まできて軍配で受け止める的な講談めいたことがない限り頑丈である必然性が
649人間七七四年:2012/10/01(月) 12:21:09.94 ID:+FJ8prk4
まあ爺でもバールのようなものを振り回したりしてる衰えないのもいるけどな
650人間七七四年:2012/10/01(月) 12:21:56.10 ID:mh0Ik8pe
三方が原ではウンコ漏らしたけど
大阪夏の陣では漏らしてない。
人間は成長するんだよ。


実際は夏の陣でも漏らしていて、天下人なのにウンコ漏らしは
まずいと緘口令が敷かれただけかもしれんがw
651人間七七四年:2012/10/01(月) 12:22:35.88 ID:gQLxbHHJ
AFRP製防弾・防刃軍配ですね!
652人間七七四年:2012/10/01(月) 12:43:14.31 ID:jU/Yr0o8
真田に夏の陣で本隊を衝かれたのって
浅野裏切りのデマを流された汚いやり方に動揺した所を捨て身で突撃されただけ
653人間七七四年:2012/10/01(月) 12:52:47.70 ID:ETyexKjT
混乱したのは旗本衆くらいで、家康本人は冷静に安全地帯に移動してたというオチ
654人間七七四年:2012/10/01(月) 14:33:11.32 ID:ASK7EGlJ
家康アンチって若い頃のアレみたいなもんだな
655人間七七四年:2012/10/01(月) 14:52:37.50 ID:kscez4Ld
この流れのせいで葵徳川三代が見たくなったでござる
656人間七七四年:2012/10/01(月) 15:05:09.93 ID:ljRYPRma
>>655
あれは家康に叱り飛ばされる秀忠がかわいいよなw
「あほーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」ってw
657人間七七四年:2012/10/01(月) 15:09:06.04 ID:XwcHZDvV
佐渡島で書いたんだからそりゃ軍鑑は間違い多くて当然。
事実関係確認しようにも周りに武田関係者なんていないわけだし。

そんな中、山本勘助や馬場の助言がやたら多いのは、とりあえず誰かの記憶がはっきりしない助言を
全部彼らの助言という扱いにしたのかも。
あるいは家臣の意見をよく聞く名君信玄を演出しようとしたか。
658人間七七四年:2012/10/01(月) 16:50:39.32 ID:mkRU7gY/
信玄は筋トレマニアだったんだよ。権現様もバーベル代わりの鉄軍配を使っておけばもっと長生きできたかもよ。
659人間七七四年:2012/10/01(月) 17:01:56.57 ID:kjSDLvxy
武士の嗜みとして当然とはいえ、体弱かったんならホントに筋トレマニアだった、かもしれないという可能性も無きにしも非ず
660人間七七四年:2012/10/01(月) 18:53:40.26 ID:gR1Zw0A2

今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、

「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」

しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。

――『名将言行録』
661人間七七四年:2012/10/01(月) 19:00:23.42 ID:kzckAfJY
氏真も一応やる事はやってるんだけどね。敵が強すぎただけで。
662人間七七四年:2012/10/01(月) 19:23:02.65 ID:+FJ8prk4
たぬきにお屋形様に北条か・・・ノブヤボなら引っ越し考えるな
663人間七七四年:2012/10/01(月) 19:44:37.94 ID:PJ3s3G8W
出雲守護代を追われ一時期勢力を減退させた尼子経久だが、長享元年(1486)頃にはその勢力を回復していたと
考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った

「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」

そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。

さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。

そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った

「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。

願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」

このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。

山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。

残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!

寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。

が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。

そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。

かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。

経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)
664人間七七四年:2012/10/01(月) 19:52:49.78 ID:SHcdWNxn
さすが山勘・・・だが既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html
665人間七七四年:2012/10/01(月) 20:31:17.01 ID:0oYt8lS/
陰徳太平記ネタは概出多いので気を付けよう。
666人間七七四年:2012/10/01(月) 22:01:46.46 ID:V8qDhI04
>>652
>浅野裏切りのデマを流された汚いやり方
日本全国vs牢人&裸城の戦いなのにそんなの信じる馬鹿いるのかよ
普通なら「ねーよw」で済む話。
667人間七七四年:2012/10/02(火) 08:08:35.87 ID:npjl9vln
>>666
最後の大戦から14年だから戦場で前線に出た幕府方の将兵も若く経験の無いものが多く…

とも考えられんかね
668人間七七四年:2012/10/02(火) 08:24:16.57 ID:1m4zqM3Q
細川忠興の家臣に、井戸亀右衛門という高名な勇者があった。

さて、この亀右衛門の友人に、増田蔵人という者があった。
この友好は蔵人の父が臨終の時、彼にくれぐれもと深く頼み置いたことによる。

蔵人は細川家で六千石を領していたが、家は常に貧乏で一金の貯蓄もなく、この事を亀右衛門は常々
諌めていたが、蔵人はその度に「実にそのとおりだ」と言いながら、しかし反省した様子は見えなかった。

有る年、蔵人は1年間江戸にあって後、細川家の領国である小倉への帰国の途についた。
亀右衛門は彼の帰路を推し量って逆に江戸方面へ上り、桑名で行き会った。

亀右衛門が十人ほどの徒歩の者共を引き連れ馬にて通るのを見た蔵人は、これを不思議に思い
「どうして今、江戸へと上るのか?」
と尋ねた。すると亀右衛門は

「やがて華々しいものを見るぞ!今は一言の暇も惜しむゆえ申せぬ。その理由は早々に小倉に帰って聞かれよ!」

そう言い捨て打ち過ぎた。蔵人はこれを聞くと馬を返して亀右衛門に追いつき
「日頃の友情はこういう時にこそ表されるものではないか!密かに私だけに教えてくれ!」と、従僕達はみな後ろに下げ
唯自分一騎のみで亀右衛門の側に付いた。すると亀右衛門は馬から降り、蔵人を前に呼び寄せ

「私は片時の時間も惜しんでいるのだが、この上は話してしまおう。よいか?今度、大坂に事が起こる。
そのため我が君にも近日中に御船出あるべしとの、幕府よりの陣触れがあった。これによって私は俄に
命を蒙り、急ぎ江戸に参る最中なのである。」

これを聞いた蔵人は驚愕した。「私は貧困であり、少しの貯蓄もないことはあなたも兼ねてよりよくご存知であろう。
どうして今私が、人並みの出陣が出来るだろうか!それに帰国後江戸に戻るということになれば、もはやその旅費も
無いのだ!この上は唯この場で腹を斬るしか無い!

これを見た亀右衛門殿「貴殿は常々私の諫言を聞きながら、これを用いようとしなかった。
普段から軍役を疎かにし、殿より頂いた大禄を空しくして、今またここで犬死するなど、一体何の意味があるのか!?
従者を扶持する資金がないのなら、只一騎敵と戦い討ち死にすれば良いだけではないか。
されどもこんな所で切腹など、人に笑われるだけの話である。
加々山隼人は貴殿と同じ知行であるが、彼は兵船数艘、騎兵歩兵の3〜400をいつでも揃えられるよう用意をしている。
貴殿は彼に劣っていることを、口惜しいと思わないのか!」

蔵人はこれに途方に暮れて「死ぬにも死なれず、帰るにも帰られず…」と、悄然として溜息を付くばかりであった。

と、暫くして蔵人が全く追い詰められた様子なのを確認すると、亀右衛門はにわかに言った

「実はさっき言ったこと、アレは全部ウソだ。」

「…!なな!?」

「ウソだ!…が、今の天下は既に乱の兆しがある。そもそも時安けれど危を忘れざるを武備と呼ぶ。
夏に衣を作って冬の寒さに備え、晴れた日に傘を貼って雨を待つのと同じ事だ。全ての事はあらかじめ
準備をしておかなければ、突然のことに対応することは出来ない。明日にも兵乱という事態も
考えられるのだ。もし本当に合戦騒ぎが起これば、貴殿は間違いなく今のように狼狽しただけであっただろう。

貴殿は、普通の諫言ではもはや容易く聞いてはくれぬと思ったので、今度貴殿が帰国するのを利用して
かく注意したのだ。」

増田蔵人はさすがにこの諫言に感じ入り、帰国すると驕りを捨て倹約を守った。そしてそれから3年、果たして
大阪の陣起こる。この時蔵人は見事、六千石の軍役を果たしたそうである。

現代でも耳の痛い人がいるであろう、井戸亀右衛門の諫言、という逸話である。
(武士道美譚)
669人間七七四年:2012/10/02(火) 14:00:57.12 ID:revx2Qwa
あれ、いい話じゃないか!
670人間七七四年:2012/10/02(火) 14:30:16.40 ID:gREDtAD2
忠興「人の言う事聞かなきゃ。それに無駄遣いは駄目だよね。」
政宗「俺は素直だから人の言う事聞くよ。借金までして金を使うやつなど信じられぬ」
忠教「忠告聞いて短い刀にしたし、老中におべっかを言ったよ」
671人間七七四年:2012/10/02(火) 14:35:33.12 ID:g89Stshg
>>668
なんだ、ただのいい話か
672人間七七四年:2012/10/02(火) 15:12:33.13 ID:Q4Igc7Eu
備えあれば憂いなしとは言うが、
黄金伝説の無人島生活で台風が来るってんで必死で台風対策するも
結局ほとんどろくな風雨が来ず空回りに終わったのを見るに、
日本人の何でも備えすぎの風潮にはいささかうんざり。
673人間七七四年:2012/10/02(火) 15:49:25.04 ID:Vdedxfgm
完全に平和な江戸中期以降ならともかく、この時代はまだ戦争させるために武士を雇ってるんだから軍備やらない奴は給料泥棒だろ
674人間七七四年:2012/10/02(火) 15:51:44.32 ID:vWdIZzrV
権現様「ケチと言われようが」
如水「金をためておかねば」
利家「いきなり戦が始まった時に役に立たんぞ」
675人間七七四年:2012/10/02(火) 16:18:57.03 ID:9K05Yjh7
常に貧乏で貯蓄もないとは一体何に使ってたんでしょうな
676人間七七四年:2012/10/02(火) 17:03:31.16 ID:Y5U38PiW
この頃だとやはり博奕と女じゃないでしょうか
677人間七七四年:2012/10/02(火) 19:57:26.36 ID:l3oT3NZz
主君に毒されて数寄三昧とか
678人間七七四年:2012/10/02(火) 20:02:06.94 ID:J9gE9iit
尾張大納言「使うときに使わぬのはしみったれというのだ」
679人間七七四年:2012/10/02(火) 20:07:04.92 ID:Z7bsmnpv
使わなきゃいけないときに金がないんじゃね^^;
680人間七七四年:2012/10/02(火) 23:14:36.58 ID:rr0ZzEuQ

小牧長久手の戦いの時、水野太郎作正重の隊下の同心が、森長一(長可)を銃で
撃ち落した。敵陣が色めくのを見て正重はただ一騎山の尾崎を下り突入していった。
徳川家康はこの様子を見て馬廻に命じて仕掛けさせ、敵陣を攻め破った。

戦後、家康は「今日の戦は大久保忠佐が先駆けになって大功を立てたな」と
感心した。正重は「これはそれがしと忠佐を見間違ったのだ」と思ったが、

無闇に言い争ったりはしなかった。ところが、重ねて軍功について論じた時、
またも家康が同じことを言うので正重は耐えかねた。

「山を下ったのはそれがしだ。あなたはその時、渡辺弥之助(光)と同じように
控えていたではないか。余人ならばこんな言い争いはしないが、あなたのような

何度も武功を立てた人が、上の見間違いをいいことに人の働きを自分の物に
しようというのか! あなたらしくもないことだ!」

光も「正重の申すことに些かの間違いもありません。それがしも見届けました」
と証言した。家康はつぶさに事情を聞き、「そうか、儂の見間違いだったか。

正重よ、そういうことは心に隠さずともよい」と懇意に諭したので
正重も畏まってその場を離れたという。

――『徳川実紀』
681人間七七四年:2012/10/02(火) 23:51:47.72 ID:/kQXZxDD
何か考えがあるのかと思ったら普通に見間違いだったのか
682人間七七四年:2012/10/03(水) 00:27:39.09 ID:8y/DQByZ
見間違った家康のちょっと悪い話しかと思ったけど
正重も言うように忠佐さんほどの歴戦に武功ある者が
家康の言うことは絶対だからといって黙って手柄にしようとした?のは悪い話だな〜w
当の忠佐さんはどう思っていたのか知りたいな
683人間七七四年:2012/10/03(水) 04:23:11.74 ID:703xjnuS
馬場信春の信長公記での活躍について

馬場信春は実際の活躍が極めて不明な中、信長公記にだけは「中にも馬場美濃守手前の働き比類なし」と活躍が記録されている。
では信長公記における「比類なし」と称えられた働きとはどのようなものだろうか。
織田家以外の武将で同様に称えられた武将を見てみよう。


林弥七郎

林弥七郎と申す者隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き侯ところへ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合ひ(中略、過去スレ弓vs鉄砲参照)
林弥七郎弓と太刀との働き比類なき仕立なり。

美濃屋小四郎

(三好勢により将軍義輝殺害、さらにその弟の足利周ロも殺害、美濃屋は周ロに特に目をかけられていた家臣)
美濃屋小四郎未だ若年十五、六にして討手の大将平田和泉を切り殺し御相伴仕り、高名比類なし。

三好左京大夫義継

御女房衆御息達みなさし殺し、切つて出で余多の者に手を負はせ、
其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき御働き哀れなる有様なり。

高橋甚三郎景業

(朝倉)義景に腹をきらせ、鳥井与七高橋甚三郎介錯を致し両人の者も追腹仕り侯。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に侯。

諏訪勝右衛門女房

諏訪勝右衛門女房刀を披き切つて廻し、比類なき働き前代未聞の次第なり。

土屋右衛門尉昌恒

武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りてさしつめ引きつめ散貼に矢数射尽し能き武者余多射倒し追腹仕り、高名比類なき働きなり。

武田麟岳

りんがく長老、中にも比類なき働きなり。(麟岳は如意山宝珠寺の住職で勝頼の従弟であり、敵を9人斬って死んだという。)


このように概ね個人的武勇を示して討死した者を「比類なし」と称える場合がほとんどである。
また三好義継を除いては一軍を率いるほどの大将はおらず、
出家した僧や女性までも含まれている。

馬場信春も同様だとしたら、彼の姿も見えてくるのではなかろうか。
684人間七七四年:2012/10/03(水) 07:34:38.20 ID:SFQprfYR
多分、前と同じ方だと思うけど一応
他の方々、度々の長文のややスレ違い、ご容赦下さい

まず、信長公記の長篠の合戦の項目に
武田勝頼の部下が攻め寄せる様が記載されているけど
それによれば一番手が「山県三郎兵衛」(昌景)、2番手が「正用軒」(武田信廉)
3番手が「西上野小幡一党」、4番手が「典厩」(武田信豊)と挙げられていって、
5番手に「馬場美濃守」が「推太鼓にてかかり来り、人数を備へ、右同前に勢衆討たれ引き退く」とあるから
この記載からも「馬場美濃守」が大勢の部下を持ち、
武田方において山県昌景、武田信廉、武田信豊ら
有力武将と並べられる格をもった部将であったことが分かります
信長公記の記述から、馬場信春が一武者に過ぎなかったって解釈するのは無理があるでしょう

まとめると一次資料と信頼性の高いといわれる信長公記の記載だけからも、
>>623にもあるけど)馬場美濃守が牧之島城代を務めていたのはほぼ間違いなく
(ちなみに>>619では甲陽軍鑑の記載上で馬場美濃守は城代経験がないとおっしゃられているけど
甲陽軍艦にも品33に「信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島城代に被仰付候」(原文ママ)とあって
城代であったことが明記されてます)
武田御一門衆の重鎮武田信廉、武田信豊、宿老中の宿老山県昌景、上野の有力先方衆小幡一党と
並べられる武将であったことが分かりますので、
馬場信春に関する一次資料が少ないとしても、こうした武将がただの平武将だと理解するのは困難です

あと一次資料が少ないことに関して、多くの方に誤解があるようなので付言しますと
武田の直臣関係の史料は、武田家が滅亡したこともあり残りが悪く、
かつ従来学会において、(武田家に限らず)大名自身に比べ、その家臣団に対する関心が薄かったため、
家臣クラスが出した文書の集積分析が現状発展途上であり、むしろ一次資料が少ないことの方が普通です

だから家臣クラスの実態に関して、
一次資料が少ない→ほかの逸話は全て創作だ、とするよりは
一次資料からここまでは分かる→他の詳しいことは不明ながら、今後の研究の発展を待ちましょう、
とするのが今のところは穏当なのではないでしょうか

このスレはまとめサイトを通じて比較的影響力が強いため、偏向した認識が広まるのを恐れて
ややスレ違いながら長文書き込みいたしました
お目汚し失礼いたしました
685人間七七四年:2012/10/03(水) 08:02:50.09 ID:pNp2QEwi
逸話を楽しむことと、知識の偏向は違うから >>684 さんの姿勢は
良いことだと思いますよ。
686人間七七四年:2012/10/03(水) 09:15:26.49 ID:yBCynJqv
将軍家からもらった感状の姓が違ってたけど、そっちに改姓しちゃった人もあるからな〜
上の間違いへの対応は、今も昔も難しいよね〜
687人間七七四年:2012/10/03(水) 09:40:03.89 ID:qrUiVBrA
>>684
乙です。勉強になります。
688人間七七四年:2012/10/03(水) 10:46:44.91 ID:DFAL9Sec
評価が極端に振れるのはよくある事だな、「戦国最強武田軍団!!」と、「戦国最強(笑)武田軍団(笑)」なんて。
まあ、だいたいそんな両極端なのは淘汰されて>>684みたいに落ち着くよね。
689人間七七四年:2012/10/03(水) 17:26:37.55 ID:KBr/Hjcd
恣意的に話をそらすなよ 
690人間七七四年:2012/10/03(水) 18:48:37.22 ID:2nybaQpz
良スレっぽい
691人間七七四年:2012/10/03(水) 19:31:59.23 ID:8soiD6DU
武田の高坂弾正は微妙だよな
25歳まで役立たずで人から謗られていた(名将言行録)らしいし
近頃じゃ尻働きさえ高坂じゃないガセの可能性を指摘されているしな
692人間七七四年:2012/10/03(水) 19:59:47.97 ID:pNp2QEwi
>>689
恣意的は正しく使うべき
693人間七七四年:2012/10/03(水) 20:18:40.10 ID:LY2dLGiU
>>691
頼むから名将言行録の逸話が事実であるかのように語るのはやめてくれ。
694人間七七四年:2012/10/03(水) 20:24:23.51 ID:8soiD6DU
そもそもここは逸話スレ
695人間七七四年:2012/10/03(水) 20:29:13.36 ID:GSppoI6U
他に甲陽軍艦ぐらいしか逸話がねーじゃんw
696人間七七四年:2012/10/03(水) 20:51:50.34 ID:v4s7PdNG
そもそも初めのも信長公記のも逸話じゃないのが問題
697人間七七四年:2012/10/03(水) 21:44:58.50 ID:pNp2QEwi
>>696
確かに。

最近ちょっとおかしいな。逸話そのものや書状などじゃなくて
怪しげな概説や創作が蔓延ってる。
698人間七七四年:2012/10/03(水) 22:25:37.36 ID:yBCynJqv
ここは真贋はともかく、あの人ならありそうありそうwwwwって軽い感じのノリじゃいけないのか・・・
699人間七七四年:2012/10/03(水) 23:29:36.38 ID:SFQprfYR
変な流れにしちゃったんで、責任とって逸話を一つ

武田家家臣に多田新蔵という剛勇で知られた若者がいた。
彼はあるとき喧嘩沙汰を起こしたが、新蔵の父は武勇忠節名高い多田淡路であったためその際は許された。

にもかかわらず、その後、新蔵は甘利同心の福田という者との間で再び喧嘩沙汰を起こしてしまった。
その仔細はこうである。

福田は、酒に酔っ払った様子で自身の下女を町中に立たせ、往来の者に触らせ、
人の女に手を付けたといって打ち伏せて、刀脇差を奪い取ろうとした。
日暮れ時で、よく見えなかったたため、福田はその相手が新蔵だと気付かないまま、
逃がしてたまるかと、刀を抜いて新蔵を追いかけた。
新蔵はいろいろと言って釈明しようとしたが、福田はこれを許さず新蔵に切り付けた。
そこで新蔵は、刀を抜き、一刀にて福田の頸を打ち落とした。

この件は当然問題となり、山県三郎兵衛(昌景)を奉行として詮議が行われた。
新蔵は、「喧嘩の始終を、目撃していた町人を召し寄せて、拷問して聞いてみてください。」と言う。
呼ばれた町人は、拷問を受けるまでもなく見たままを話したので、
新蔵は赦免され、福田は切られ損となった。
それどころか福田の行いは強盗であるとされ、福田の女房まで磔に処せられた。

山県は、普段は新蔵のことを嫌っていたが、少しも私心を交えることなく判断なさったため、
このような結論となったのだった。

以上、修羅の国たる甲斐らしい突っ込みどころが多すぎる話を「甲陽軍鑑」からニュアンス訳で。


ちなみに書によって、本来別の人物である
新蔵、久蔵、三八が混同されて記録されているため混乱が生じていますが
既出の「多田満頼、久蔵、天下に名をはせた勇者の物語・いい話」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-382.html
に出てくる久蔵と上記の新蔵は、おそらく同じ人物です。
700人間七七四年:2012/10/04(木) 00:01:54.30 ID:M8iMGWRP
>>698
逸話自体の真贋はともかく、創作は駄目だと思う。
701人間七七四年:2012/10/04(木) 01:56:44.56 ID:DyCMgkKm
証人を拷問w
702人間七七四年:2012/10/04(木) 06:29:50.11 ID:FJiAJpCG
甲陽軍鑑とかのおかげで高坂さんとか真田さんとかは急に知名度大上昇だよなぁ。
逆に原さんとか小幡さんとか四名臣だけど内藤さんは評価低いね。徳川で言う大久保ポジションというか。
703人間七七四年:2012/10/04(木) 10:10:52.12 ID:Z89BwmrG
甲陽軍鑑って裁判の話多くていいよな 
武士道を知ることができる 
704人間七七四年:2012/10/04(木) 10:27:07.04 ID:FTj2+X6D
尋問とかいうのならともかく、
目撃者を拷問するなとw
705人間七七四年:2012/10/04(木) 10:30:31.08 ID:+upK+BFu
ていうか女房気の毒だな
下女は無事だったようだが
706人間七七四年:2012/10/04(木) 10:31:49.86 ID:K+7a1/nL
>福田の女房まで磔に処せられた。


なんで女房まで磔になるんですかー!やだー!
707人間七七四年:2012/10/04(木) 11:17:51.17 ID:Fcg6TPfa
下女にやらせたってことは女房も認識していたはずだから共犯扱いってことなのかな?
708人間七七四年:2012/10/04(木) 12:08:32.97 ID:EabxPmNO
まぁ下女の管理は女房の仕事だから共犯もしくは当然責任があるという考えだったんだろう
709人間七七四年:2012/10/04(木) 12:17:16.53 ID:DyCMgkKm
女房がキリシタンになったら下女の所為なんです
710699:2012/10/04(木) 12:34:39.98 ID:GqDbShNe
>>707,708
共犯ってよりも、主人の罪に妻子が連座したってことだと思う(この場合は子がいなかったみたいだけど)
甲州法度にも、罪人の妻子に刑罰が当然に連座することを前提にした規定があるし

>>701,704
甲陽軍鑑には他の逸話にも、証人として呼ばれた町人に対して、
拷問してでも話を聞けとする信玄の意向が示されるシーンがあるんで、
本当に拷問するかどうかは別として、
証人に拷問すると脅してでも証言させる、っていう発想は当時としてはそれほど突飛なものではないみたい

怖い世界ですなw
711人間七七四年:2012/10/04(木) 12:52:46.60 ID:466WC98E
まあ、被害者が拷問されたみたいな話もあるから、目撃者が拷問されることもある
712人間七七四年:2012/10/04(木) 13:38:37.38 ID:Fcg6TPfa
うわ、この例で単純な連座だとすると、甲州法度って本当にアレなんだなぁ…
713人間七七四年:2012/10/04(木) 14:44:05.02 ID:EabxPmNO
喧嘩両成敗の項だろ。そりゃ甲州法度では喧嘩は重罪だからな。
何でもかんでも連座という法は無い
714人間七七四年:2012/10/04(木) 15:50:00.46 ID:J3MY6+oy
「ねんがんの じけんげんばを もくげきしたぞ!」

ニア ごうもんしてでも といただす

「なにをする きさまらー!!」
715人間七七四年:2012/10/04(木) 16:34:41.73 ID:AeP+oVK6
曲渕とかいう狂犬もいるから本当訴訟は奉行もハラハラだぜw
716人間七七四年:2012/10/04(木) 17:56:06.88 ID:H5EgBvVS
>712、修羅の国、甲斐の法だしw
717人間七七四年:2012/10/04(木) 19:33:02.84 ID:kO5vp65O
今川の真似だったと思うけど
718人間七七四年:2012/10/04(木) 20:46:54.73 ID:+r+WOQwx
真似であって、自国流にアレンジはあるよ当然
719人間七七四年:2012/10/04(木) 21:59:42.51 ID:FTj2+X6D
>>715
「甲斐の狂犬」と書くと、
ヤンキーか何かに見えてくるなw
720人間七七四年:2012/10/04(木) 23:57:54.42 ID:EY7LAARa
富田さんが血走った目で見ている
721人間七七四年:2012/10/05(金) 06:29:34.92 ID:7dNJWe3w
太田但馬守長知の謀殺
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3125.html

これの謀殺の内容が出ていたので書いてみる

上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、
横山大膳長知、山崎長門長徳の二人に、太田但馬の誅殺を命じた。
しかし太田但馬といえば、前田家を代表する武勇の者として有名であった。

横山大膳は命を受けて、勝尾半左衛門と共に登城した。
この時太田但馬は既に登城しており、何事も無く座していた。横山大膳、席にすこうとするその時、
突然側に居た侍童を激しく叱りつけた!

この騒ぎに驚いた太田但馬は急いでその場にやってきて、「何事か?」と尋ねる。横山大膳

「私が先に、この者に命じて書類の文案を作らせたのですが、このように間違いだらけなのです!
これを見てください!」

そう言って懐中よりその書類を出して太田但馬に渡す。但馬は体を屈め手を伸ばしてこれを受け取ろうとする。
その時

横山大膳、すかさず刀を抜いて大膳の頭を斬りつける。しかし浅手。「何事ぞ!?」太田但馬叫び
刀を抜いて横山大膳を刺す!違わず腹の真ん中を貫いた。が、『ガキッ』刀弾かれる。
横山大膳は太田但馬が剣術の達人であることを知っていたため、懐中に金属の鏡を忍ばせていたのだ。

そして横山大膳は身を躍らせ再び斬りかかり、ついに但馬を殺した。

勝尾半左衛門も走りよって後ろから但馬の背中を斬りつけたのだが、却って但馬によって傷を負わされた。
この時前田利長も但馬の剛勇を気遣い、薙刀を取って彼に挑んだという。
山崎長門は期を失って、ついに斬りかかることが出来なかった。
時に慶長七年のことであったという。

太田但馬守長知謀殺、についての話である
(武士道美譚)
722人間七七四年:2012/10/05(金) 13:05:42.28 ID:/mBoLR5g
>>21
>>上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、

利家になってる
723人間七七四年:2012/10/05(金) 17:17:34.99 ID:7dNJWe3w
うわ、完全に間違えてる、×利家 ◯利長 です。本当に申し訳ない。
724人間七七四年:2012/10/06(土) 18:06:43.48 ID:S/s/koTS

醍醐の花見の折、関白は近臣らが君(徳川家康)を笑い種にしているのを聞かれ、
「家康には芸が三つある。常人の及ぶ所ではない。第一に武略は人より優れ、

第二に思慮深い。そして第三に金銀を多く持っている。この三つは人が笑うことの
できない大芸だ。お前たちは何を笑うのか!」と言われたところ、

近臣どもは「殿下は徳川殿の何が良くていつも贔屓なさるのだ」と言ったとか。
これも本文(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3333.html)と同じ様なことを
様々に伝えているのである。

――『徳川実紀』
725人間七七四年:2012/10/06(土) 19:13:21.15 ID:s58dGmDO
畏れながら殿下、「ねえみんぐせんす」で御座いまする
726人間七七四年:2012/10/06(土) 19:49:10.08 ID:5G/xRxxM
>>725
それは殿下もフォローできん
727人間七七四年:2012/10/06(土) 20:02:51.19 ID:8YI+CqXD
高名な勇者であり、関ヶ原の後寺沢広高に仕えた池田市郎兵衛に、こんな話がある。

有るときの戦で大いに負け、市郎兵衛は殿として引き退いていた事があった。
その時池田がふと見ると、田の畦にかねてから知っているものが座っていて、市郎兵衛に気がつくと
声をかけてきた

「そこを通るのは池田殿か!わしは深手を負ってもう退くことも出来ない。どうか助けてくれ!」

これに市郎兵衛は「心得た」と、彼を自分の馬に乗せ、自らは徒歩となり馬の口を取って退いた。
が、そこに敵三人が追いすがってくる。市郎兵衛は踏みとどまり、槍にて一人を突き殺し、
残り二人を追い払った。するとその後追ってくるものはなく、無事、本陣まで帰り着いた。

この市郎兵衛に助けられた男は後に黒田長政に仕え、この事を長政に話した。
長政はいたく感動し、ある時寺沢広高の元に訪問した時、この話をして池田市郎兵衛を呼び出してもらい
寺沢広高に向かって

「この様に強い働きをしたものがあるとは!寺澤殿、あなたはこの事を知っていましたか?」

そう問うと広高

「いやいや、この池田は抜群の戦功であってすら、常に自ら語るということをしない者でして、
その話は全く承知していませんでした。黒田殿、よく語っていただいた!」
と、大いに喜んだ。
ところが市郎兵衛は喜ぶどころか、困惑した顔をして申し上げる

「その話に関して私は、恥じ入るより他ありません。
実はあの時、『助けてくれ』と言ってくる声を聞いて、これは難儀なことだと、先ず驚き、困り果てました。
何故なら敵はしきりに後から追いすがってきていました。それに対して私に続こうという味方は
一人もおりません。

『ここに捨て殺しにしても、どうせ知る人はいないのだ。』

私はそう考え、助けを求める声も聞こえぬ体でその場を通りすぎようとしました。
ですが、そこでふと気がついたのです

『もしも私より後に残っている士があって、この男を助けるようなことがあったら、
見捨てたことが暴露され、武士として二度と男を立てることが出来なくなる。』

そう思い返し、どうしようもなく彼を助けたのです。」

長政はこれを聞くとますます感心し、「この腹蔵なき心中こそ、百人の首を斬るよりも難しいことである。」
と賞賛した。

そうして御前を退き次の間に下がった池田市郎兵衛に、寺沢家中の者達は集まり聞いた

「どうしてあのように、ありのままを答えたのか。その時の貴殿の心中など、知る者が居るはずもないのに。」

これに市郎兵衛
「私には若い頃から一つの嗜みがある。それは仮初にも表裏の言行あるまじき、という念願である。
そうであるので私は、未だかつて口に嘘を言わず身に偽りを行わずに生きてきた。
今日、両将の御前において些かでも欺くようなことを申しては、かねてからの念願の心に恥じる事に
なってしまう。だから、ああ言ったのだ。」

池田市郎兵衛の腹蔵なき心中、という逸話である

悪い(気持ちを告白した)話、ってことで
(武士道美譚)
728人間七七四年:2012/10/06(土) 20:05:30.75 ID:wUcWyK27
>>726
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6806.html
ラスボス「かっこいいから日本とつけよう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6067.html
ラスボス「堀尾吉晴こそ日本無双の剛の者である!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6405.html
ラスボス「宮部善祥坊こそ日本無双である!」
ラスボス「地味加藤こそ日本無双・・・あ、前に宮部で使っちゃったか」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2481.html
ラスボス「忠勝は東国無双、宗茂は西国無双である!」

ラスボス様はボキャブラリーが低いからどっこいどっこい
ところで、無双を連発しすぎてたら、誰かからちょうどいい褒め言葉があるのを聞いて
これなら誰にも使えるな、ってラスボスが喜んだ逸話があった気がするが思い出せない
729人間七七四年:2012/10/06(土) 23:28:43.96 ID:qeLuIZFE
>>724
A「あそこに家康いるじゃん、あいつ三方が原で敵に追いかけられて
 糞漏らしながら逃げ回ったらしいよ、しかもその姿を家臣に目撃されたらしい」

B「まじで?そんな姿人に見られたら生きていけないわ。普通腹斬るしょ?」

C「道理でなんかここ味噌臭いと思ったわwwwww」

(一同爆笑)
730人間七七四年:2012/10/07(日) 00:14:06.57 ID:12nGk6Rn
>>729
そら秀吉怒るわw
731人間七七四年:2012/10/07(日) 00:17:03.24 ID:IpaxRQmO
焼き味噌話はセンゴクが上手かったな
武田はどうだった?→おっかなくてちびっちゃいました→そうか!俺も漏らしたぞ!ガハハ
って感じで、親しめる先輩キャラの逸話にしてた
732人間七七四年:2012/10/07(日) 00:40:23.31 ID:JSBOe6u1
毎回そのネタあるけど、戦場で漏らすのって普通のことじゃないのか
敵兵にウンコするからちょっと待ってとか言うのか?
733人間七七四年:2012/10/07(日) 01:23:40.60 ID:6Rzuog1r
>>732
家康が好きなのはわかるが苦情は糞漏らしの記録残した奴に言って下さいませです
734人間七七四年:2012/10/07(日) 01:32:01.87 ID:qXWg96nB
>>733
家康が嫌いなのはわかるが必死すぎるわお前
735人間七七四年:2012/10/07(日) 02:05:30.34 ID:392M8JX6
糞漏らしたりしたの残させたの家康じゃなかったっけ?
それはしかみ像だけ?
736人間七七四年:2012/10/07(日) 02:56:39.34 ID:oqRi1/wQ
>>728
あと信長もセンスが独特過ぎてついていけない
三英傑は三人ともネーミングセンスが違うベクトルで残念だよな
737人間七七四年:2012/10/07(日) 05:47:44.94 ID:o/ss4l/M
同時代史料で批判されてるならまだしも
現代の視点から残念呼ばわりはどうなんだろう。
738人間七七四年:2012/10/07(日) 08:35:13.95 ID:Mr3L9O4/
三方原の脱糞の逸話って
家康「い、命からがら帰ってきたぞ!」
忠世「それはよかった(棒)、あっ殿、その茶色いのはもしや糞・・(ニヤリ」
家康「や、焼き味噌だ!」

って話じゃなかったか?つまり焼き味噌である可能性は残されている(って権現様が言ってた。
739人間七七四年:2012/10/07(日) 08:38:24.91 ID:y2yf237G
実際に確認するまでは分からない
シュレディンガーもとい
家康の焼き味噌って事か
740人間七七四年:2012/10/07(日) 10:01:36.36 ID:mPW4Ix+1
どんなに隠しても臭いで一発でバレると思う
741人間七七四年:2012/10/07(日) 10:04:25.80 ID:yv13Q4PV
そして本当に焼き味噌なのかを確かめる役目を
誰がするかでもめる三河武士であった。
742人間七七四年:2012/10/07(日) 11:04:27.91 ID:jYy4TFp5
小笠原秀政の家臣に、鹿島宗全と二木勘右衛門という剛の者があった。

ある時、秀政の屋敷に曲者が入った事があり、秀政はこの鹿島宗全と二木勘右衛門に追わせた。
勘右衛門は秀政秘蔵の布引という馬に乗って追ったが、宗全は徒歩であった。

二木は自分がいち早く曲者を打ちとってくれようと、青麦の畑を真一文字に乗り切ろうとしたが
畑のあぜ道を駆け抜けた宗全のほうが先に曲者に追いつき、たちまちに討ち取った。

そして両名、事の次第を秀政に申し上げる。
まず勘右衛門が出て、

「今度の曲者は、必ず私が討ち取ろうと思っていましたが、宗全に駆け抜けられてしまいました。
彼は馬よりも足が速い。」

これに宗全は

「いやいや、そうではありません。二木殿は青麦の畑を急いで越えられようとして、却って馬の足が
麦にからんで遅くなったのです。どうして私の足が馬に及びましょうか。」

と申し上げた。これに小笠原秀政は「いずれも隠し事のない申し立て、感心である。」と大いに褒めた。
この時二木勘右衛門は鹿島宗全に向かって

「この度のこと、いかにも口惜しい。この返報は戦場で争おう!」

と云った。

さて、この事から程なくして大阪夏の陣となった。
5月17日、鹿島騒然はまっさきに攻めかかり足軽に鉄砲など撃たせていた。ここに二木勘右衛門が現れ

「かねての約束、この場にて争い申すべし!」

そう叫ぶと敵の中に一騎駆け入り、討ち死にした。
これは大阪夏の陣における幕府方最初の討ち死にであったという。

二木勘右衛門の返報、という逸話である。
(武士道美譚)
743人間七七四年:2012/10/07(日) 15:15:08.83 ID:DYe0YDIK
>>727もNGMSが好みそうな話しだな
744人間七七四年:2012/10/07(日) 15:38:57.35 ID:XY9TJ6ms
三河武士って伝染するのかいな?
745人間七七四年:2012/10/07(日) 21:29:56.82 ID:RHAQpMf4
畑って結構足取られるよね。
ていうかいつも思うんだけど、何で手柄立ててどやぁ!じゃなくて
討ち死にしてどやぁ!なんだろか。一騎駆けとか普通に死にに行ってないかい?
746人間七七四年:2012/10/07(日) 22:04:13.91 ID:dIDunZJl
一番槍も生きて帰ってナンボだが、大坂の役では両軍死にたがり大量発生だな
747人間七七四年:2012/10/07(日) 22:05:32.03 ID:XFHCdlP+
小規模な小競り合いが頻発してた時代じゃないから、気合入りすぎてたんだよ
748人間七七四年:2012/10/07(日) 22:05:40.83 ID:o/ss4l/M
>>727
考え方はは↓の逸話と同じなんだな。当時の武士って、そういうもんだったのかねぇ

渡辺半蔵、三方原の撤退にて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4991.html
749人間七七四年:2012/10/07(日) 23:02:06.03 ID:IpaxRQmO
武士道とは死ぬことと見つけたり、だもんなぁ
死ぬことが身近な戦国武士から見れば「何を普通な事言ってんの?普通じゃない働きが手柄ってもんだろ?」って感じ?
750人間七七四年:2012/10/08(月) 00:02:39.36 ID:ucQTLqwW
永禄八年(1565)のこと、上野国矢場郷(群馬県太田市)に住む、由良成繁の家臣・石橋与三衛門尉が、
平塚郷(群馬県太田市)の百姓から大豆を買い上げた。
ところがこの時石橋と百姓との間で、支払いを精銭(良銭)でするのか鐚銭(悪銭)でするのかで
対立した。そう、これぞ『撰銭問題』である。

この当時、同じ額面の銭であってもその種類や状態によって価値は大きく異なった。
精銭と鐚銭の価値の差は、5〜10倍ほどもあったとされる。
少し解りやすく説明すると、日本で日本円の他に、価値としては日本円のほぼ10分の1である
韓国のウォン(漢字表記は円)が額面としては同等の貨幣として流通している、というようなものだろうか。

この時石橋は、代金を強引に鐚銭で支払った。すなわち5〜9割引きで無理やり買い取ったということである。
百姓たちは石橋の地所まで出向き当然猛抗議をしたがなかなか会おうとせず、百姓たちは近隣にあった
長楽寺の住持・賢甫義哲に助けを求め、義哲は石橋に書状を送った。

ようやく帰ってきた石橋からの返事にはなんと、『精銭で支払って欲しいのなら計る升を大きいものに変えろ』
というものであった。こんな話に百姓たちも納得するはずもなく、義哲は再び石橋に、
『この地域では鐚銭での支払いは認められていないこと。升も過去から使い続けられてきたものである』
とのことを説明し、精銭での支払いを求めたが、かんばしい反応はなかった。

業を煮やした百姓たちはついに領主である由良氏の居城・新田金山城に押しかけた。これには由良氏の側も
驚き、役人を派遣し裁定を行うとした。しかし3ヶ月たってもこの問題の解決は一向に進まなかった。
そして、それ以後の記録は無く、これが一体どうなったのか、わかっていない。

関東における撰銭問題の実態を端的に表した、貴重な記録である。
(長楽寺永禄日記)
751人間七七四年:2012/10/08(月) 12:29:14.17 ID:zZF9wQuo
あれだな、相撲大会
752人間七七四年:2012/10/08(月) 12:58:23.60 ID:dvSpoWsP
そうだな揉め事の解決には相撲大会だな
753人間七七四年:2012/10/08(月) 13:57:54.80 ID:PhOw4zrL
相撲大会なら円満解決
754人間七七四年:2012/10/08(月) 14:46:52.35 ID:jB/Q2g6o
茶席を整えるようにと宇喜多さまが申しておりました
・・・というか西から信玄が攻めてきたからそれどころじゃなくなったのかもしれん
755人間七七四年:2012/10/08(月) 17:03:37.41 ID:wpclnYUb

内藤某というとても狭量な者がいた。いつも人の言葉を咎めて、場合によっては
喧嘩に及ぶこともたびたびであった。ある時、徳川家康は彼を呼び出して戒めた。

「人は様々なことを口にするものだから、多い中には癇に障ることもあるだろう。
だが、そんなことを一々心にとめて咎めるのはよからぬことだ。

戦に臨んで明日は豪傑の某を討ってやるぞ、という心構えになれ。お前のいつも
人の言葉を咎める心と取り替えれば、無意味な言葉咎めなどする暇はないはずだ」

――『徳川実紀(君臣言行録)』
756人間七七四年:2012/10/08(月) 17:49:19.36 ID:KIOp1hmP
この頃ってまだ貨幣を中国から輸入してたんだっけ?
暦も中国のパクリ。
現代でもいまだ中華暦パクリの悪影響が、まだ寒いのに立春、まだ暑いのに立秋で残ってる。
(大陸性気候の中国は日照時間の変化がすぐに気温に影響する。)
757人間七七四年:2012/10/08(月) 17:57:16.41 ID:eiQoRDUO
>>756
日本の独自貨幣は江戸幕府が慶長11年(1606)に公鋳した慶長通宝で待たねばならない。
というかまともな通貨制度が出来たのは全部江戸時代に入ってからだな。

ちなみに慶長通宝は、日本で皇朝十二銭いらいおよそ600年ぶりに政府によって公鋳された通貨
758人間七七四年:2012/10/08(月) 18:01:50.34 ID:Jaj5m+dt
この頃の良銭は永楽通宝だな。
暦は宣明暦ベースだが北条は三島暦だろうな。

気候に関しては戦国時分と現代は違うから、
今の感覚でどうこう言うのもおかしい話だ
759人間七七四年:2012/10/08(月) 21:03:20.50 ID:xJLKEKT2
760人間七七四年:2012/10/08(月) 23:23:26.60 ID:78zjey80
>>758
永楽通宝は西では悪銭、東では良銭
761人間七七四年:2012/10/08(月) 23:51:44.53 ID:wzVNTHRI
>750
永禄年間に「鐚銭」なんて用語はまだ無いだろ。
原文でなんて書いてあるか興味が有るんだけど。
762人間七七四年:2012/10/09(火) 12:43:53.22 ID:cHbghv6Y
>>永禄8年(1565)伊勢大湊の「船々聚銭帳」には、港の税金を納めるお金で、
>>永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。

ちょっとググったら出てきたが・・・
俺は研究者じゃないので本当かどうか知らんが。
763人間七七四年:2012/10/09(火) 20:09:16.02 ID:hY1BN/XF
慶長14年(1609)1月15日、近日中に大御所様(家康)が清須に到着されるというので、
清洲城は大掃除をしていたのだが、殿守の上の段の戸が明かない。

不思議に思い無理に押し開けた所、なんと中に人が入っていた。
そのものは輪違いの模様の柿渋の着物を着て、槍の柄を2つ立てかけていた。

城の者達は彼を審問した所、尾張国内の者ではないと言った。
盗人というわけでもなかったので、即座に成敗はされなかったのだが、
監禁され14,5日ほどで死んだという。
(当代記)

当代記にある、清州城に隠れていた不思議な男の話である。
764人間七七四年:2012/10/09(火) 20:20:41.77 ID:ijMjNP4r
家康を暗殺しようとして潜んでたとか?
765人間七七四年:2012/10/09(火) 21:56:34.95 ID:sRAIjwt0
今川義元が三河表に発向するという時の事、不思議な夢を見たことがあった。
夢のなかに花倉(花倉の乱で義元と家督を争った玄広恵探)が現れ、義元に対し

『今度の出陣は止めるべきだ』

と云った。
義元はこれに

『貴様は私への敵愾心からそんな事を言うのだろう!そんな話を聞くことは出来ない!』

そう答えたが、花倉は更に云う

『今川の家が滅びるということを、どうして憂わざるか!』

そこで目が覚めた。

その後、駿河の藤枝を通った時、義元は突然刀に手をかけた

「町中に花倉が立っている!」

しかし周りの者達には何も見えなかった。
不思議な事である。

(当代記)
766人間七七四年:2012/10/09(火) 23:26:12.71 ID:nHbFVm2X
>762
片仮名や平仮名で「ヒタ」「ひた」などと記述される銭種の呼称が
東海地方で1560年代に登場するのは間違いないけど、
しばらくは東海ローカルな用語なのよ。

その後畿内でもヒタ、比タ、比多といった用語の使用例が出てくるけど、
例えば奈良興福寺の多聞院日記だと初見が天正7年(1579)、
東大寺文書で初見が天正9年(1581)かな。
関東だと、例えば後北条氏領国だと永楽銭と対比される銭種は「並銭」などと
呼ばれていて、ヒタという用語の使用は家康の関東入部以降ではないかと思う。

さらに、ヒタに「鐚」の漢字が当てられるようになるのはおそらく17世紀に入ってからで、
今のところ文書での初見は慶長13年(1608)の江戸幕府の法令らしい。

だから永楽年間の上野に「鐚銭」は無いだろうと。
767人間七七四年:2012/10/09(火) 23:32:56.44 ID:nHbFVm2X
あー、わかると思うけど最終行
×永楽年間 ○永禄年間
768人間七七四年:2012/10/10(水) 09:21:11.01 ID:Rb3K20Cz
出典出してくれてるんだから調べてみればいい
769人間七七四年:2012/10/10(水) 18:36:06.44 ID:RTVrpBdN
慶長12年(1607)2月29日、江戸を出立した大御所(家康)は相模国中原にて鷹狩をし、
そこに逗留したのだが、この時持ってきてあった黄金の茶具、釜、天目、水差し、柄杓、柄杓置き、茶杓以下が
尽く紛失した。

これは近衆の者達の仕業かと、共の衆は上下関わらず、その夜の宿泊の宿を捜査されたが、
事件を解明することは全く出来なかった。

その夜の警備責任者のあいば勝七、落合長作、岡部藤十郎の3人は責任を取らされ、方々の城預けの処分を受けた。
勝七は掛川城、長作は田中城、藤十郎は沼津城に預けられた。

翌朝、紛失した黄金の茶釜の蓋だけが藪の中に落ちているのが発見された。
これが報告されると、発見者に家康から褒美として、金三枚が下された。

その後もどうも謎のまま終わったらしい、家康の黄金の茶具一式紛失事件についての記録である
(当代記)
770人間七七四年:2012/10/10(水) 18:38:21.78 ID:GWfFz1Tr
黄金の・・・ってのが、家康らしからぬwww
771人間七七四年:2012/10/10(水) 23:30:58.94 ID:qbWa7p4Z
これこそ天狗の仕業じゃ...
772人間七七四年:2012/10/10(水) 23:36:24.37 ID:f1R80uRQ
美味しんぼに家康がつくらせた黄金の茶器の展覧会が出てきたが
もしあれが本当なら、見つかった、てことかな
773人間七七四年:2012/10/10(水) 23:42:10.01 ID:qbWa7p4Z
>>772
この黄金の鍋とその土鍋を交換してくれないか?
774人間七七四年:2012/10/11(木) 01:23:23.95 ID:T1uxgLqf
「そなたのなくしたのはこの金の茶釜かな?それとも銀の茶釜かな?」

正直に金の茶釜って言ったらどうなるんだろう。
775人間七七四年:2012/10/11(木) 01:49:57.24 ID:Vuga7j1z
綺麗なジャイアンが。。。
776人間七七四年:2012/10/11(木) 02:48:11.95 ID:u5vuhp5b
素直な三河武士が…
777人間七七四年:2012/10/11(木) 02:51:27.66 ID:ml726taz
素直な彦左が....
778人間七七四年:2012/10/11(木) 07:54:25.32 ID:1lyNlHCI
綺麗な平蜘蛛の持ち主が…
779人間七七四年:2012/10/11(木) 14:57:07.67 ID:gpdTQrSM
綺麗なラスボスが…
780人間七七四年:2012/10/11(木) 15:00:00.86 ID:J10jAjET
秀吉はホント好きになれんよなぁ、端々に人間の嫌な部分が全部でてるというか。
逆にそこが人間臭くていいという人もいるんだろうが。
781人間七七四年:2012/10/11(木) 15:59:13.78 ID:3GgRYgAY
江戸時代通じてネガキャンされた人のエピソードを真に受けるのもどうかと思うが…
782人間七七四年:2012/10/11(木) 16:05:17.69 ID:5im0Zst0
普通に人気あるだろ。
なれんよなぁとか言って
個人の意見を一般化しないように。
783人間七七四年:2012/10/11(木) 16:54:12.82 ID:up+DWCw2
江戸期に秀吉はむしろ理想化されてたよ。朝鮮役も、儒者とか知識階級は無益な外征と言っていたけど、
庶民レベルでは国威を発揚した痛快な外国退治として認識されていた。
秀吉のネガティブな面が表にでてきたのって、ホントにここ2,30年じゃないかな?
784人間七七四年:2012/10/11(木) 16:55:18.12 ID:j9TGl7th
>>774
泉の神様に正直に申告したのに何故か毒殺されました

よく見たら泉の神じゃなくて宇喜多の和泉守でした。
785人間七七四年:2012/10/11(木) 18:05:01.86 ID:up+DWCw2
>>727の池田市郎兵衛さんのお話

池田市郎兵衛と言えば度々の戦功を重ね、首供養(33人の首を獲った者のみが許される、自分が命を奪った者への
鎮魂の法要)をした程の武士であったが、牢人して困窮に陥った時、寺沢広高がこれを招き、茶料として四百石を
無役として与え、さらに鉄砲足軽20人を、「これは並の足軽ではないが、人数少なく色々と不便であろうから使われよ」
と言って預けられた。

ところでこの池田市郎兵衛は、かねてから黒田長政と細川忠興も召抱えたいと探していたのだが、
彼が既に寺沢広高の召し抱えられたことを知ると非常に残念がり、彼らはそれぞれ、市郎兵衛に対し
三千石で召抱えたいといってきた。

しかし市郎兵衛
「私が牢人し餓寒に及ぼうとしていた時に、主君広高の恩恵を蒙り、今にいたって妻子を豊かに育めております。
三千石はかたじけない事ですが、その高禄に心惹かれて他家に参るというのは、武士の本懐ではありません。」
と伝えて、両家の誘いを断った。

寺沢広高はこの話を漏れ聞き、「他人が高禄を以って池田市郎兵衛を招いたのに、彼は利を貪らず私に
義理を立てた。それを私が知らぬ顔で捨て置くというのは、道に背く行為である。」
そう考えて市郎兵衛に三千石を与えようとした。

が、これに市郎兵衛
「私はもとより、禄の多少を論じてはいません。ただ殿からの処遇の浅からざるを悦んでいるのです。
今頂いている所領にて、衣食の用は充分に足りています。ですからその他は毛頭望むところではありません。

もし殿に誘っていただいた時、その身上が不足だと考えていたら、たとえ餓死しても始めからそれに応じる筈も
ありません。
その上当家に参ってから、私には何の功労もなく、懸命な御奉公を勤めたいという気持ちばかり募りますが、
些かも御恩に報いることは出来ていません。そんな私が今更どうして、過分の御加増を受けられるでしょうか?」

池田市郎兵衛、なんと殊勝な物言いであろうか。ところが

「ただし」

市郎兵衛は続けた

「私のこれまでの武功に応じた所領を与えたい、とお考えなのなら、例えば御家では、御家老の平野源右衛門殿には
八千石を下されておりますね。しかし彼は、武功において私と同列に語れるような者ではありません。
もし源右衛門殿と同じ基準で武功を評価していただくのなら、私には一万石下されても、未だ充分だとは思いません。

殿?なまなかな気持ちで手をお付けなされては、私が成してきた功績に傷をつけてしまいます。
ですから却って今のままのほうがいいのですよ。」

そう言って断った。

家臣が主君に「仕えてやっている」とはこういう事か、と思わせる、池田市郎兵衛の自負である。
(武士道美譚)
786人間七七四年:2012/10/11(木) 19:00:04.64 ID:UbHGOshQ
よりによって、主君が寺沢だしなぁ…
787人間七七四年:2012/10/11(木) 19:02:15.14 ID:BnOD9kal
黒田と細川でも三千石なのにw
788人間七七四年:2012/10/11(木) 19:06:27.44 ID:kqIHIRh5
前半だけならいい話なのになぁw
789人間七七四年:2012/10/11(木) 19:23:40.99 ID:nYwPNFgq
まあ悪い話・・・と言う程でも無いんじゃないかw
790人間七七四年:2012/10/11(木) 19:26:50.12 ID:ereW9tlm
いや茶道具なら古織じゃないのか?泥棒候補はw
791人間七七四年:2012/10/11(木) 21:36:09.80 ID:8cksYRGk
この強烈な自負こそ天下に隠れ無きもののふの心意気
792人間七七四年:2012/10/11(木) 21:39:42.74 ID:sPl7bEvn
>>790
実はそれが切腹の理由だったり
793人間七七四年:2012/10/11(木) 21:43:37.72 ID:d6O9Qyuc
黄金の茶器では一物が萎えちゃう
794人間七七四年:2012/10/12(金) 00:28:56.15 ID:/aoxo595
「どうです、良くないでしょう?」
795人間七七四年:2012/10/12(金) 01:25:54.22 ID:+FBYIoEV

鍋島直茂は家臣が中央のことを知らないために万事不都合なので、
稲垣権左衛門という者を召抱えて二百石を与えた。

ある日、直茂が高伝寺に詣でると、門に張札があり、
『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが来て二百石取る』
と書かれていた。直茂は帰宅すると、

「譜代の者には何の沙汰もないのに、他方の者に知行を与えたのでは、
合点がいかないのも無理はない。私たちは誤りによって恐縮する
こともあるだろうが、公儀に対して不調法だったとしても国家の
害にはならないはずだ」と言い、

権左衛門に経緯を話して諭し、暇を賜ったという。

――『名将言行録』
796人間七七四年:2012/10/12(金) 09:19:43.48 ID:v/isuBix
情報というものがいかに価値があるものか分からない悪い話ですね
797人間七七四年:2012/10/12(金) 09:28:49.35 ID:q8NF8Dri
なんとも難しい国だな
798人間七七四年:2012/10/12(金) 10:22:39.99 ID:R1hYhrwS
三河武士「嫉妬とは見苦しいな」
799人間七七四年:2012/10/12(金) 10:47:09.82 ID:S09DAfZH
現代だって移民に職を奪われるって、国民はすぐ文句言うじゃん。
昔も今も、洋の東西も問わず同じ問題抱えてるだろ。
800人間七七四年:2012/10/12(金) 11:41:11.31 ID:/aoxo595
移民ちうかヘッドハンティングしてきた役所にコネ持つ天下り組の高給取りに古株社員が嫉妬しとるだけちゃうんかと
801人間七七四年:2012/10/12(金) 13:24:12.12 ID:FN00yU0A
二百石なんて鍋島の規模なら軽輩だろうに・・・
802人間七七四年:2012/10/12(金) 13:26:36.31 ID:pCeATkzI
移民と一口に言っても誰でも出来る肉体労働をダンピングする連中と頭脳労働でリードする人たちじゃ別物だよね
803人間七七四年:2012/10/12(金) 15:51:22.41 ID:NHOoK4PP
氏規「作法や格式なんて気にする必要ないさ」
804人間七七四年:2012/10/12(金) 17:01:16.56 ID:l5NTSM9N
宗匠「左様」
805人間七七四年:2012/10/12(金) 17:07:04.98 ID:ETcNIRlA
>>795
ハンティングされてFF12を任されるけど、
周りに引きずり降ろされる話ですね。
806人間七七四年:2012/10/12(金) 18:34:27.54 ID:Oc+D15Pz
戦国時代ですら後半は
ソロバン得意>>>>>脳筋なのに
なんでそんな落書きで考えを翻すかな


807人間七七四年:2012/10/12(金) 18:37:31.58 ID:yUbuChbJ
二百石という現実的な石高が、むしろ貧乏藩士の嫉妬心を刺激したのだと予想
808人間七七四年:2012/10/12(金) 19:13:32.27 ID:Kl5I33N5
幕末の佐賀藩が現代の灘や開成も驚くエリート養成スパルタ藩になるなんて
この時はまだ誰も知らない...(´・ω・`)
809人間七七四年:2012/10/12(金) 20:07:27.39 ID:vTG4OOsZ
小笠原秀政の居城に、彼が時々出向く矢倉があったのだが、そこの掃除を担当している侍に罪過があるとして、
秀政は家臣の鹿島宗全に、この者の召し捕りを命じた。

と、ここで宗全は思った。「あの侍は器量優れた者である。これは容易ならぬ捕物である。」
そして深く考えた。

宗全は矢倉に走ってゆくと、その侍を呼び出し急いでいる様子で言った

「間もなく兵部大輔殿(秀政)がこちらに御出である!掃除はできているか!?私はそれを確かめるため
こちらに参ったのだ!」

そして矢倉の中を見回しつつ、ふと上を見上げると

「あっ!あそこに蜘蛛の巣が!」

小笠原秀政は何故だか知らないが蜘蛛の巣が大嫌いであったのだ。その事はこの侍もよく知っていたので、
「なんだと!?」り言って上の方をじっと見る。

と、すかさず宗全、彼を後ろからむずと抱き上げ目の高さより上まで持ち上げると、板敷の上に、どうと
思いっきり投げつけた!そしてそのまま押さえつけ縄をかけた。

この侍
「さてさて無念のことかな!蜘蛛の巣と言われたのに打ち驚き、空を見上げたところを細腰を抱かれては
もうどうしようもない!」と口惜しがったという。

鹿島宗全矢倉の捕物、というお話
(武士道美譚)
810人間七七四年:2012/10/12(金) 20:42:52.12 ID:NHOoK4PP
なんで器量優れた容易でない奴が清掃員やってるんだ。
811人間七七四年:2012/10/12(金) 21:30:25.72 ID:/aoxo595
スープレックスかましてる光景が脳内再生された
812人間七七四年:2012/10/12(金) 21:34:03.25 ID:6KZn9KQW
>>810
この場合清掃員ではなく、その矢倉の清掃員を統括する清掃責任者というようなポジションなのだろう
813人間七七四年:2012/10/12(金) 22:44:08.00 ID:8tjL621S
クモの巣が嫌いとかちょっとかわいいな
814人間七七四年:2012/10/12(金) 23:37:02.30 ID:6Yz0wme5
あっ、UFO!!みたいなネタは昔からあるんだな。
815人間七七四年:2012/10/13(土) 00:05:49.03 ID:WROXocue
この後どうなったか気になる。
816人間七七四年:2012/10/13(土) 02:32:12.23 ID:O/mAbsd+
細腰…
帯を締めるあたりの事を細腰というが一瞬何事かと吃驚しちまったぜ
817人間七七四年:2012/10/13(土) 08:21:36.65 ID:aSy1wE8R
>>809
>すかさず宗全、彼を後ろからむずと抱き上げ目の高さより
>上まで持ち上げると、板敷の上に、どうと 思いっきり投げつけた!

当然この時の宗全の姿勢はきれいなブリッジですよねわかります。
818人間七七四年:2012/10/13(土) 10:48:51.90 ID:L7i5fm+Z
強奪されることに定評のある自慢の弓に蜘蛛がいて掴んじゃったとか?
819人間七七四年:2012/10/13(土) 12:25:02.60 ID:rWaEozQZ
>>817
ジャーマンスープレックスじゃねーかw
820人間七七四年:2012/10/13(土) 12:48:07.25 ID:y8cm8NdD
カウント2.99で返そうとするも敢え無く捕縛
821人間七七四年:2012/10/13(土) 12:52:52.17 ID:9Vn2I3qQ
>>809
何かやらかした自覚もなさそうな捕まり方だなw
822人間七七四年:2012/10/13(土) 13:15:40.31 ID:SbcHpIHH
後の裏投げである
823人間七七四年:2012/10/13(土) 14:11:31.41 ID:WD37+byV
>>809
>そしてそのまま押さえつけ縄をかけた。

きれいなフォール勝ちですねわかります
824人間七七四年:2012/10/13(土) 15:41:31.66 ID:o0IUkIam
日本最古のジャーマンスープレックスホールドの記録か。感慨深いな。
825人間七七四年:2012/10/13(土) 15:55:44.47 ID:WROXocue
鹿島宗全が青いタイツに虎の覆面姿でしか思い浮かばん。
826人間七七四年:2012/10/13(土) 22:49:27.35 ID:8Ay9UkVa
「おん折紙、拝見せしめ候。よって榎並給人方の事、違乱を止めらるるの由、しかるべく存じ候。

長慶内証の様体、笑止に存じ候。心中をも存ぜず候いつれども、おのおの心得のため、申し候いき。

それについて給人方田地の事、そのかくれあるべからず候。さりながら、ご不審のこと候はば、
給人衆の帳をごらんあるべく候。なお寿清へ申し渡し候間、一二能わず候。恐々謹言。

九月十四日  松弾  菅若 」


(お手紙、拝見しました。榎並の侍衆の騒動を鎮圧されたこと、当然の処置であると思います。

長慶の内々の様子は、笑止千万と言えましょう。本人も、もう何を考えているのか分かりませんし、
皆さんにも(こんな状態だと)心得ておいて欲しいので、申し送っておきます。

それはさておき、榎並衆の土地争いについては経緯が明らかですが、ご不明の点があれば
連中の知行簿をご覧ください。その他については使僧の寿清に伝えてあるので、一々書きません。

九月十四日 松永弾正より 菅若狭守へ )



三好長慶の晩年、永禄六年前後に出されたと思われる、松永弾正久秀から野口(菅)若狭守冬長あて書状。

主君の末弟への手紙で、肝心の主君を呼び捨てにしたり「アイツ何考えてるやらww」とか
書いちゃう松永先生、マジ爆弾正。誰のせいで『笑止』な事になったんですかねぇ・・・
827人間七七四年:2012/10/13(土) 23:09:42.63 ID:pMAA7Nd0
>>826
ここでの「笑止」は笑止千万じゃなくて、「困っている」と訳すべきだと思うよ?
つまり

「長慶の病状が思わしくなく困っている。」と解釈すべきかと。
「長慶」って言っているのも、野口冬長が長慶の末弟で、一門だからかと。

つまりこれは、身内で長慶の様子を心配している書状だと考えたほうが良いかと。
828人間七七四年:2012/10/14(日) 00:56:44.62 ID:FGqlsFMT
なるほど
829人間七七四年:2012/10/14(日) 04:12:44.36 ID:QlETwww8
山田有信の祖父、有親は島津宗家より独立を図った出水の島津実久に味方し、降伏後に切腹させられた。
有信の父、有徳は島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も「逆臣の係累」とよばれ家中では白眼視されていたのだった。

しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。その結果、宗家の信頼を勝ち得て各地の地頭職を任され勤め上げていく。
1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。

翌年4月大友の大軍4万が南下し日向に殺到、有信の居城高城も包囲され3千VS4万の壮絶な籠城戦を戦うことになった。
籠城中に嫡男有栄誕生の知らせを聞いた有信は
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い討ち死にすることができる」
と喜んだという。家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着、
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。また有信自身も高名をあげている。

それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
高城は主君義久が降伏するまで落ちず、義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
この戦いは豊臣勢に激賞され秀吉本人から「天草4万石を与えるから直参にならないか」との誘いを受けている。
義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。

1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は有信の棺を内城に召し寄せ焼香し
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。

「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。
830人間七七四年:2012/10/14(日) 04:13:54.72 ID:QlETwww8
山田有信の子、山田有栄もまた無二の忠臣である。

有栄は朝鮮出兵などで島津義弘の下で戦い戦功を立ててきた武将である。
そんな彼の主君義弘が関ヶ原の戦いのさい「我ら無人」と嘆くほど手勢が足りずに困っていた。
本国で前領主の島津義久が中立を唱え上方での参戦を禁じたからだ。
義弘の窮状を知り上京を決意した有栄は配下32人と共に義弘の下にはせ参じる。
昼夜を問わず駆け続け義弘の下にたどり着いたのは関ヶ原の戦いの2日前である。
義久はいわゆる「島津奔る」の結果駆けつけた有栄の手を取って喜んだという。
関ヶ原ではいわゆる「島津の引き口」において常に主君義弘の傍らにおり、「軍功並ぶものなし」と言われたのだった。

そして有栄は1630年には出水の地頭に任じられている。
山田家因縁の地、出水へ出向く有栄。
曽祖父の有親が出水の島津実久に味方し「逆臣の係累」と言われるきっかけを作ってより実に100年近い年月がたっていたのだった・・・

逆臣の係累から忠臣の係累になった親子の話でした。
831人間七七四年:2012/10/14(日) 04:29:53.11 ID:QlETwww8
なんで悪い話かと言えばIDがwwwだから
832人間七七四年:2012/10/14(日) 07:44:49.87 ID:OKRohXtu
>>826
諱の呼び捨てに関して最近面白いものをみた。

丸島和洋氏のつぶやきをtogetterで纏めたものの中で、
諱呼び捨てには敬意を表してるものもあるそうだ。

http://togetter.com/li/272725
833人間七七四年:2012/10/14(日) 09:42:21.59 ID:rJj6x35+
政宗「やっぱりな!」
834人間七七四年:2012/10/14(日) 09:50:20.67 ID:fI6j+dl6
>>827
当時の書状の、笑止は「困ったこと」、笑止千万は「非常に困ったこと」だからな
自分も知らなかった頃は意味が通じなくて困ったことがある
835人間七七四年:2012/10/14(日) 11:06:16.03 ID:uIMmpfMc
日本語って難しいね
836人間七七四年:2012/10/14(日) 12:08:13.84 ID:84GTKurf
今なら「笑えない」って言葉が近いのかな
837人間七七四年:2012/10/14(日) 12:33:11.37 ID:65cOsElr
>>834
昔TERUが送った書状に「笑止千万」って出てるのを見て
「この状況で他人バカにするとかクズだなこいつ」って思ったけど
「非常に困った」の意で捉えればちゃんと意味の通る文章になったわ。
838人間七七四年:2012/10/14(日) 12:43:17.47 ID:7B/3+ACs
昔と現代で意味の変わっちゃった言葉があるんだな
839人間七七四年:2012/10/14(日) 13:04:55.17 ID:fI6j+dl6
今の辞書にも、笑止千万=2:たいそう気の毒な様。って書いてあるけどね

自分も忠興が小笠原親子戦死を国許に報じる書状に笑止千万って書いてあって
嫁さん憤死しちゃう><ってびっくりして調べて、非常に残念な事だと訳すんだと知った口だけど
840人間七七四年:2012/10/14(日) 13:11:54.14 ID:L8DhVion
>>838
結構あるね。例えば微妙公の「微妙」は「極めて優れていること」という意味。
「遠慮」は「遠い先まで見通し深く考える」という意味。
「貴様」は「あなたさま」という丁寧な呼び方。
「留守」は真逆で「家を守るため外に出ない」こと。

このあたり現代の感覚で読むと混乱しやすい文字かも
841人間七七四年:2012/10/14(日) 13:18:56.58 ID:7uyBR+Z9
留守政景が自宅警備員に
842人間七七四年:2012/10/14(日) 13:30:24.35 ID:Lc9bBxPg
てめえ!(手前)も元は丁寧だしね
843人間七七四年:2012/10/14(日) 13:46:28.93 ID:D0a7bFrJ
「奇妙」にもきっと別の意味が…
844人間七七四年:2012/10/14(日) 13:49:22.24 ID:7uyBR+Z9
【奇妙】

3 非常に趣・おもしろみ・うまみなどがあること。また、そのさま。

奇妙丸もこれならいい意味
845人間七七四年:2012/10/14(日) 14:18:11.84 ID:OKRohXtu
>>839
そういや崇伝が大仏供養延期について書いてたのもそっちの意味だったね。
846人間七七四年:2012/10/14(日) 15:48:46.09 ID:7uyBR+Z9
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-811.html
ところでここに出てくる松永弾正の性ハウツー本だが、
曲直瀬道三が弾正に送った「黄素妙論」に
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/mg5/image/mg5shf/mg5sh0002.html
夫女人の淫念いたらざる間は男子しゐてまじはるべからず女人に淫慾の情念のいたるしるし五つあり。
一には男女ひそかに対面し物語などするに俄に女のおもて赤くなるは心中淫事の念きざすしるし也。其時男子の玉茎を女人の玉門にあてがふべし
ニには女人はなをすすらば慾念肺の臓にうごくと知るべし、即玉茎を少し入るべし
三には女人目をふさぎ口をあき舌をさましいき使ひあらく成は淫情脾の臓にいたるとしるべし。其時ゆるゆると玉茎を出入すべしあまりにふかく入べからず
四には女の玉門の中あたたかにうるほひゆたかにして津液外にながれは腎気のいたると心得て玉門の口へ玉茎をぬき出し左右をよこにつくべし
五には女の足にて男の腰をはさみ女の手にて男の背をいだきしめ口をすはんことをもとめば肝の臓の気いたると心得て玉茎をふかく玉門の奥さしつめてしづかに左右につくべし

殆ど同じことが書かれてるんだが
847人間七七四年:2012/10/14(日) 16:04:23.22 ID:fI6j+dl6
松永弾正の性ハウツー本が黄素妙論だろ?
848人間七七四年:2012/10/14(日) 16:14:53.19 ID:3qTu7GkG
弾正が性指南書書いたんだと思ってた
849人間七七四年:2012/10/14(日) 16:16:48.24 ID:nJktpLb6
エロの伝道師w
850人間七七四年:2012/10/14(日) 16:34:25.03 ID:HyL/b5Qb
>>840
「深謀遠慮」はこっちの意味だね。
851人間七七四年:2012/10/14(日) 17:18:28.48 ID:kHMbetqx
ググったら弾正が書いたのは「五傷の法」ってやつらしい
内容的に道三のを参考にしたっぽいな
852人間七七四年:2012/10/14(日) 17:39:01.63 ID:FGqlsFMT
>>826,837,839,845
松永、TERU、忠興、崇伝か
癖のある連中に使われて
裏のない神妙な意味だとは思われなくなったとか
853人間七七四年:2012/10/14(日) 17:40:16.38 ID:A+cGN+Y6

関ヶ原本戦の直前、杭瀬川の戦いで有馬豊氏の家人・稲次右近は
敵方の横山監物に組伏せられたが、右近の若党が監物を引き倒して

右近にその首を取らせた。ところが、そんな時に何者かが現れて
若党の首を切って逃げ去った。後に糾明したところ、その者は
堀尾忠氏の家人ということが分かった。

まったくの味方殺しだったので右近は訴え出たが、徳川家康は
「何を言うか、軍が入り乱れている時にはそういうこともあるものだ。
そのまま捨て置け」と言ったということだ。

――『徳川実紀(天元実記)』
854人間七七四年:2012/10/14(日) 18:12:05.65 ID:fI6j+dl6
正宗「うむ。」
855人間七七四年:2012/10/14(日) 18:42:12.26 ID:GKguxXju
神保相茂「………」
856人間七七四年:2012/10/14(日) 19:54:47.54 ID:+u0sR4k9
家人「あれ、右近って敵方の大将じゃ?」
右近「それは島左近だ!」
857人間七七四年:2012/10/14(日) 20:43:47.80 ID:Lc9bBxPg
高橋紹運が宝満・岩屋城督、立花道雪が立花城督になって以降、
筑紫広門は常にこれらの城を攻略しようと策を練っていた。例えば…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-856.html
立花城には計略を仕掛け、岩屋城には秋月種実とともに幾度と無く攻めるが、
その度に撃退されてしまっていた。そこで広門は一計を案じた。

↑のリンク先にも名前が出てくるが、筑紫方に武蔵城という城があった。
ここは宝満・岩屋城と、旧・大宰府の条坊があった広い平野(二日市など)を挟んだ
天拝山の麓にあり、その中腹の飯盛城とともに帆足弾正という武将が守っていた。
この山を越えるとすぐ肥前の筑紫居城・勝尾城に繋がり、
いわば筑前における筑紫方の前線基地である。
広門は帆足備後(弾正とも)に命じ、家臣を茶売りに変装させて岩屋城へと侵入させた。
戦時中の城とはいえ、城内には住居もあり、普段は商人なども行き交っていた。
まんまと侵入に成功した筑紫方の茶売りは、城内のいたるところに
「たまご火」を仕掛け、武蔵城へと逃げ帰ってきた。

この「たまご火」というのは、その名の通り見た目は卵なのだが、
卵の殻の中に一種の自動発火装置のようなものが仕込まれており、
それ自体に大した威力はないが、燃えやすいものの近くに置いておけば…
燃え移って延焼していくという仕組みだ。

岩屋城内は突然いたるところで起こった火事に大混乱。
この混乱に乗じて筑紫衆は観世音寺近辺まで詰め寄り、
このままでは岩屋城陥落も間近かと思われたが、
高橋方後詰の宝満山城の兵士たちが救援にかけつけたため、
筑紫方は自軍の損害も考えて、早々と引き返した。
しかし城内の家屋は残らず火災で焼け落ちてしまい、かなりの被害を受けたという。
858人間七七四年:2012/10/14(日) 20:46:35.86 ID:Lc9bBxPg
攻め切れなかった筑紫勢、被害を蒙った高橋勢どちらにも悪かった話。


ちなみにその後も秋月・筑紫連合軍と大友軍の小競り合いは続く。
1584(天正12)年に立花道雪・高橋紹運が筑後へ出陣した隙を突いて
秋月種長(種実が前年に家督を譲る)が留守中の立花城を攻めるも、
立花統虎(宗茂)がこれを見事に撃退している。

しかしついに城攻めが成功する時がやってくる。
立花道雪が筑後の陣中で病没し大友軍が陣引きしようとしていた頃、
筑紫広門は今度は兵300人全員を山伏修験者の姿に変装させて宝満山に侵入、
不意を襲って山上の僧坊や城に放火して、これを占拠してしまった。
宝満山は元々修験道の霊場で山中いたるところに僧坊があり、
山伏の姿になって入れば怪しまれなかったのだろう。
広門さんは放火とか変装とか鉄砲盗人とか、そういう計略が得意みたいですね。

そしてこの5ヵ月後に、「筑紫の押しかけ姫」の逸話と繋がるのである。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6441.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-828.html
上の逸話では本当にいきなり姫が押しかけたように書かれているが、
筑紫広門は大友家との和睦の交換条件として宝満山城を手に入れておきたかったようだ。
島津軍が北上するという時に、すぐ後方に敵の城があっては
岩屋城を守ることもできないため、高橋紹運としても婚姻は渡りに船の話だった。
宝満山城はその後、筑紫家と高橋家の相城となる。そしてかの有名な岩屋城の戦いへ…。
859人間七七四年:2012/10/14(日) 22:05:02.78 ID:TDtkLp3S
長繁「あれ?あいつら敵だっけ味方だっけ?・・・とりあえず攻めとくか」
860人間七七四年:2012/10/14(日) 22:27:12.93 ID:xnTH6Cms
たまご火かぁ
そんなのが当時あったんだね
さすがノブヤボで知謀の数値高いだけのことはあるな
861人間七七四年:2012/10/14(日) 23:55:42.01 ID:nJktpLb6
ええっと筑紫さんが秋月さんんを裏切った悪い話?
862人間七七四年:2012/10/15(月) 00:09:12.18 ID:60ZXLO6g
自動発火ってどうやったんだろうか
火薬や硝石は輸入物使ってたから黄燐とかも手に入ったのかな?それなら可能かもしれないけど
夕方くらいに仕掛けておいて翌日、日が上って気温上昇とともに発火とか
863人間七七四年:2012/10/15(月) 00:21:44.97 ID:z9QFnsn3
天かすとかでも応用すれば
864人間七七四年:2012/10/15(月) 00:24:45.31 ID:RhmDVWTD
失礼します。

既出の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話などをいろいろ雑談したいと思いスレ立ててみました。
良かったら書き込みしたりして下さい。

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/

失礼しました。
865人間七七四年:2012/10/15(月) 00:47:44.52 ID:IfDTvJXs
>>862
大友家の朝倉一玄も「留守の火縄」って
自動発火の計略をやってた話もあるし
そういう研究してる人は結構いたんじゃないかな
866人間七七四年:2012/10/15(月) 09:21:10.57 ID:2uUmQsPB
幕末に鳥羽伏見で負けて幕軍が立ち退き、もぬけの空になった大坂城でも
器物目当てに町民が入り込むのを官軍はあえて制止せず
案の定幕軍が仕掛けていった地雷火が爆発して町民が吹っ飛んだのを確認してから入城したという。

地雷火ってどんなんだろう?砲術の伝書とかに書いてあるのかな。
867人間七七四年:2012/10/15(月) 15:59:22.12 ID:DCFAPyWL
接触地雷はその当時もうあったよ。
確実性にかけるので、電線張っての
遠隔操作の地雷火の方が多かったけど。
868人間七七四年:2012/10/15(月) 18:16:55.99 ID:pi3BwCFp

立花道雪は瀬高口の陣を引き払い、嘆いて曰く、

「天晴れ、鍋島は智仁勇の大将だ。わしは多年、肺肝を砕いて
謀ってきたが、彼は謀られなかった。運を天に任せて時を待とうとしても、
鍋島は若く健全であるのに比べ、この道雪は年老いたうえに病身だ。
口惜しき仕合だよ」と首を垂れて悔やんだ。

その苦労は日々積もり、道雪は高良山の陣中で死去した。
鍋島直茂はそれを聞いて落涙して惜しんだということだ。

――『名将言行録』
869人間七七四年:2012/10/15(月) 18:39:42.16 ID:x0Hbw+K8
>接触地雷
火種が火薬に落ちて爆発みたいな装置かな?
870人間七七四年:2012/10/15(月) 22:08:01.15 ID:2zrkV/YM
直茂さんはみんなから褒められるな
871人間七七四年:2012/10/16(火) 09:30:26.73 ID:uMDhT37n
性格は悪いけどな…
872人間七七四年:2012/10/16(火) 10:53:28.71 ID:PPMG4kC8
悪いっけ?
873人間七七四年:2012/10/16(火) 13:45:05.15 ID:5/7HctCV
クマさんと間違えてないか
874人間七七四年:2012/10/16(火) 14:56:35.08 ID:wzzjPIjZ
遺族マ「そーだそーだ直茂性格わるいぞー」
鍋島(…おまえらもっと動けよ…)
875人間七七四年:2012/10/16(火) 15:10:31.48 ID:3X4XDR/b
直茂の竜造寺引継ぎは貧乏くじ引いたようなものだからなぁ
876人間七七四年:2012/10/16(火) 17:10:12.77 ID:klwxAAdn

小田原の役の折、前田利家と上杉景勝は関東の諸城を降伏せしめ、
小田原に至り秀吉に謁見した。この時、秀吉はその功を賞さなかったので、
二将はとても不可解に思いながらも、自営に帰っていった。

その後、秀吉は近臣に「利家と景勝が敵の城営を降したことは
確かに功ではあるが、その内の堅城十二ヶ所は屠るべきだった。
これは一威一宥というべし。ただ降伏だけを待つのはよくない」と語った。

そして近臣は密かにこれを二将に告げた。
二将はこれを聞いて、直ちに八王子城を攻め屠った。

加藤嘉明はこれを聞いて「殿下の後裔は続かないだろう。
殺をもって威を立つとは、将校の武をもって喜ぶ者のやることであって
天下の長たる者のなすことではない。天下の長たる者は殺を止めることを
務めとするものだ」と、密かに人に語った。

後には果たしてその言葉の通りになった。

――『名将言行録』
877人間七七四年:2012/10/16(火) 17:14:11.93 ID:6OW0nrEW
>>876
しむらー小田原城
878人間七七四年:2012/10/16(火) 18:43:49.65 ID:l3mevywU
>>877
氏政・氏照はやむなしとしても、
松田と大道寺、ついでに宗二ぶっころしてだろ、ここらへんは許してやれたはず

特に大道寺政繁は一ヶ月近くの攻防戦の末の降伏で北条への義理はちゃんと立ててるし、
北陸勢に従って転戦して功も上げてる
殺す理由がさっぱりわからん
879人間七七四年:2012/10/16(火) 19:30:34.77 ID:W0cyz0fV
慶長14年(1609)、
奈良の有名な猿沢の池において、10月15日から水換えを行い、11月4日5日と池の魚を一方の
水たまりに寄せ、主池を掃除して22日に再び水を入れそこに魚を離すと、魚が10匹ばかり
たちまちのうちに死んでしまった。

これを一乗院は夢のお告げによって、この事は不吉な兆しだと言っているそうである。
かつて、80年以上前にもこれと同じことがあり、天下は凶相の有様となった。
また、去る永禄10年(1567)にもこの池において同じことが起こった。
すると翌年より天下大乱となり(三好三人衆と松永久秀の争い)、これにより当時天下の主人であった
三好家が滅亡したのである。
(当代記)

大仏焼き討ちで有名な東大寺大仏殿の戦いのころ、こんな怪奇現象があったらしい、というお話
880人間七七四年:2012/10/16(火) 19:34:45.65 ID:aZMW5iMW
水槽の水換えではカルキ抜きは大事(´・ω・`)
881人間七七四年:2012/10/16(火) 19:35:15.81 ID:LUpvVy8y
入れた水が汚染されていたりキレイ過ぎたりしてたんだろうなあ
882人間七七四年:2012/10/16(火) 20:48:43.84 ID:bRgAzFFN
元アクアショップ店員の俺が推測するに
pHショック、硬度ショック、水温ショックのいずれかが起きたと思われ.



お魚を別の水に移動させる時は「水合わせ」を忘れずに!!!
883人間七七四年:2012/10/16(火) 20:49:55.47 ID:UqMlIr4a
澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分

なんて謡われる不思議池ですし
884人間七七四年:2012/10/16(火) 20:50:21.33 ID:qQUoZR4D
掃除に失敗してる人が多いってことだなw
885人間七七四年:2012/10/16(火) 21:43:33.42 ID:FEfsZ3ef
>>876
小屋みたいな城落としてるんじゃねえよと言われたり、堅城は落としとけと言われたり…下請けの悲哀だな…
886人間七七四年:2012/10/16(火) 22:09:25.56 ID:3NKwM4O8
>>878
ラスボスは報いをうけてるからいいじゃねーか
887人間七七四年:2012/10/17(水) 00:08:32.27 ID:phStM6dH
田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
888人間七七四年:2012/10/17(水) 00:18:52.96 ID:dSnOhPMA
そういう問題じゃねーから
魚飼ってる奴なら分かると思うが
池の水を全部交換とか論外にも程があるわボケ
自分のミスを不吉な兆しで誤魔化すなw
889人間七七四年:2012/10/17(水) 00:24:48.08 ID:FWcWnClT
>>851
「五傷之法」は「黄素妙論」の六章目のようだ
「一に、玉門ふくれず、うるほはざる間は、必ず玉茎を入べからず、しゐて入る時は肺をやぶる
ニに、女人の淫情既に動ずといへども、男子それをもしらず、漸女の心中に興つき、
時過て交合する時は、必帯下の病となる
三に、少壮之女に白髪之老男相対して、玉茎かたからず、なましゐに少しおゆるといつて、
しゐて交合し精汁をもらすことかさなれば必目をやみ、終には盲目となる也、
四に、女の月水いまだやまざるに、しゐて交合すれば互に腎をやぶる、
五に、男子沈酔して交合し、女人の美快なる事過おはありたるに、しゐて久しく出入をおこなふ時は、
必面黄之病を生ず。」

内容も前にこのスレに出たやつと同じっぽい
あと、「黄素妙論」全文および現代語訳は、新潮新書の山崎光夫「戦国武将の養生訓」に載っているな
上記以外は体位(9つ)とか精力剤の処方とか
890876:2012/10/17(水) 00:38:05.19 ID:gRKLHb8e
>>876
いまさらすいません訂正します。

×堅城十二ヶ所
○堅城一、二ヶ所

一つ二つと十二じゃ全然違うよ…申し訳ない。
891人間七七四年:2012/10/17(水) 04:58:31.02 ID:iVnlSqZp
書状に関する話

北条家、今川家の書状は具体的な年月日が記載され、
城の普請などでも具体的な城名も記載されているので、
いつどこの出来事に関する書状かすぐに分かるという。

一方武田家の書状は年月日の記載がなく、
城に関しても「其城」としか書いておらず、
いつどこの出来事の書状かそのままじゃさっぱり分からない。
そのため他の史料などから前後関係を調べて年代の特定をするところから始めねばならず、
研究は大変なのだという。
892人間七七四年:2012/10/17(水) 06:39:57.50 ID:45JOAjai
>>891
いやいや、起請文や安堵状ならともかく
普通の書状に年号まで書くのは武功夜話くらいだろ。
893人間七七四年:2012/10/17(水) 14:31:49.48 ID:pPEb8PzQ
秘密保持のため・・・かな?
894人間七七四年:2012/10/17(水) 18:58:14.96 ID:UGTttLN5
書状に年号いれてるがな(´・ω・`)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4552.html
895人間七七四年:2012/10/17(水) 19:13:39.00 ID:H9I1HYsN
サラサラ書いて「後は使者に聞いてちょ」って人が多かったんだろー
896人間七七四年:2012/10/17(水) 19:20:01.82 ID:jBejSjWm
詳細は使者の口伝ってのこそ秘密保持のためだろ。
897人間七七四年:2012/10/17(水) 19:55:05.24 ID:o4bTbvXi
信玄「詳しくは使者に聞いてちょ」

猶可有山本菅助口上候恐々
謹言
  六月廿三日  晴信(花押)
 市河藤若殿

↑市河文書の最後のほう
898人間七七四年:2012/10/18(木) 00:30:38.40 ID:TT2CuZ93

関ヶ原の戦いの折、朝ほどに深い霧のなかで鉄砲の音が激しく聞こえる中、
東軍本陣の人々はいずれも勇み進んで馬を乗り廻し、未だ陣も定まらない時に、
野々村四郎右衛門某は誤って自分の馬を徳川家康の馬に乗りかけてしまった。

すると家康は怒って刀を引き抜いて切り払ったので、野々村は驚いて走っていった。
なおも怒りの収まらない家康は側にいた門奈宗勝の指物を筒より切るも、宗勝の身
には触れなかった。

これは単に一時の英気を発したまでで、後日に野々村を咎めることはなかったという。

――『徳川実紀』
899人間七七四年:2012/10/18(木) 00:38:23.82 ID:Wz0N4xHy
のちの影武者徳川家康における甲斐の六郎である
900人間七七四年:2012/10/18(木) 10:17:18.41 ID:TdG0ZL1c
>>891
逆に武田の凄みを感じてしまう
901人間七七四年:2012/10/18(木) 10:28:24.45 ID:JGQdYCz/
>>900
むしろ田舎者らしい「なぁなぁ」感というか、過剰な認識の共有というか
902人間七七四年:2012/10/18(木) 10:37:21.94 ID:/td3rcG3
狼煙台とか作ってる武田が情報に疎いわけないからね
今川北条が文書なんかシコシコ書いてる前に武田は攻め込んでるよw
903人間七七四年:2012/10/18(木) 11:07:49.64 ID:KqO7EW3N
>902の発言だけ見ると蛮族だなw
904人間七七四年:2012/10/18(木) 11:29:15.55 ID:ovYf0ydA
文書なんかシコシコ書くのは武田も負けて無いだろ
おかげで3家とも滅んだ家なのに書状残りまくりで
論文なんか今だに北条武田今川ばっかだわ
905人間七七四年:2012/10/18(木) 12:04:36.76 ID:2WEkCgbe
>>902
で、長篠で痛い目にあってこりゃあかんってことで改革を断行、
文書をシコシコ作るようになってるのは皮肉
906人間七七四年:2012/10/18(木) 12:13:19.26 ID:dRypKPld
文書をシコシコ書き出したら尾張か
907人間七七四年:2012/10/18(木) 12:39:42.23 ID:DUqeztv1
そんなにシコシコしてたら紙もなくなるって・・・
つか、髪の方の話題はあんまりないんかね?
CS見てて和田さんのhage方は欧州人っぽくてあこがれたわ〜
908人間七七四年:2012/10/18(木) 13:28:27.35 ID:6AOTWDfA
>>906
そのとおり、ドンブリ勘定こそが天下布武の秘訣よ!
909人間七七四年:2012/10/19(金) 00:18:31.99 ID:kZa+IzlA

上杉憲政の老臣・長尾意玄は北条氏康の勢力が日に日に強大になるのを
憂いて、本間近江と井俣左近を氏康に仕えさせてその内情を視察させた。

やがて平井に戻って来た二人によると、
「氏康の人となりを熟視したところ、沈着剛毅にして測られず、剛にして
柔であり、書を読んだり刀槍の訓練をし、礼節は正しく、威厳があります。

また下賤であっても功を賞し、士を用いる時には老少問わずその器量に
適した用い方をしています。その子弟は嫡子でなくとも皆俸禄を与えて
仕事をさせ、功があればすぐに昇進しています。

そうした理由から配下は畏怖しつつも氏康を愛し、人々は奮い立って
死を致す覚悟です。しかも上杉の将士は皆密かによしみを通じています。
通じていない者はわずかに九人しかおりません」とのことであった。

意玄は二人の報告を引き合いにして憲政の非を諫言した。
これを聞いて憲政はようやくその非を改めた。ところが程なくすると、
菅野信方と上原兵庫の言葉を用いて、また大いに政事を怠るようになった。

――『名将言行録』
910人間七七四年:2012/10/19(金) 17:20:46.97 ID:+LAh1N5L
伊達政宗、家臣を成敗のこと
大阪夏の陣、後藤又兵衛との合戦の折に政宗公は鉄砲を釣瓶撃ちにせんと鉄砲足軽隊へ御下知なされた

ところが加藤太某という者、鉄砲300丁の隊を預かる身なれど一向に撃たず、公は不振に思ってこれを詰問した

加藤太曰く「道中火縄を点け続ければ燃え尽きて無益だと思い、また玉薬も兵に預ければかさばってかなわないので道すがら捨ててしまうことと思います。」
「故に火縄と玉薬は出発前に荷造りして荷駄隊にそっくり預けてありますので、もう間もなく到着致します。」
公、大いに怒りて手討ちにし、見せしめとす

国史叢書より意訳

騎馬鉄砲隊ならぬ荷馬鉄砲隊を組織して戦場に空筒をぶら下げてた(頭の)悪い話
911人間七七四年:2012/10/19(金) 18:40:59.54 ID:N34nQY1m
大坂夏の陣あたりになると、実戦経験あんまりない人も多いからそうなっちゃったんだろうなー
912人間七七四年:2012/10/19(金) 18:43:17.83 ID:RfxbNVdf
自慢の騎馬鉄砲隊(笑)も信繁さんの活躍に花を添える
かませ犬的存在なのに
913人間七七四年:2012/10/19(金) 19:17:19.94 ID:MrlCTSX8
奇襲でもされたらどうする気だったんだろう
重さ数キロの鉄パイプでも振り回す気だったのか
914人間七七四年:2012/10/19(金) 19:40:02.81 ID:gCP82WQH
鉄砲撃つ時はちゃんと文書で指示だしてよね!
915人間七七四年:2012/10/19(金) 19:53:40.05 ID:4p7XbHJi
ミュージシャンでも「楽器は宅配便で送りました」なんて奴は即クビだと思う。
916人間七七四年:2012/10/19(金) 22:48:28.07 ID:9+l2T6yk
>913、バールのようなものなら剣聖あたりだと刀より危ないかも
917人間七七四年:2012/10/20(土) 01:26:27.36 ID:/Y7A9m/W
鉄砲足軽が玉薬捨てるって…じゃぁ何で戦うつもりなんだか…
918人間七七四年:2012/10/20(土) 02:19:26.62 ID:4gryY6ax
政宗さんが苦虫を噛み潰したような表情をつくるような、
一休さん的なパンチの効いた解答を期待したんだが・・・

つか、この加藤さんもシラっと言っちゃうとこが凄いよな
919人間七七四年:2012/10/20(土) 07:02:31.71 ID:OjTnBRaU
朝鮮役の時のこと
小早川隆景は朝鮮開城府に在陣していたが、太閤秀吉へのご機嫌伺いのため、曽根兵庫を使いとして
名護屋の本営に参らせた。
曽根は太閤の御前に出て平伏し、隆景の言を伝える

『今十万の人数の渡海を仰せ付けられましたならば、それを朝鮮の占領した城々に入れおき、
現在朝鮮に在陣している十三万にてこの隆景が先手を仕り、朝鮮を押し払い大明に討ち入り、北京をも
攻め取りたいと思っています。この段、願い奉ります。』

秀吉はこれを聞いて大変機嫌を良くし
「隆景の気性、そうでなくてはならぬ!」と、傍らに居た徳川家康、前田利家を見て

「皆の者達、よく聞いてほしい!この秀吉が寿命を迎え、この戦争の最中に病死などしたとしても、
秀次を大将に立てて必ず大明攻めにとりかかるのだ!その時私の亡魂は悪神となって天に登り、
黒雲に乗って、日本軍の鉄の盾となるだろう!
四百余州の奴原(明国)を一々に蹴り殺すこと、思いのままである!」

と、快く語り、ふと

「そういえば、悪霊になって柘榴を食って火を吹いた小男があったが、名前を忘れてしまったぞ。」

これを聞いた施薬院森成
「畏れながら、それは菅丞相(菅原道真)と申し奉る、北野の天神の御事でございます。」

そう申し上げると秀吉
「それそれ!その菅丞相ですら我が念を通じて雷となったのだ。全くその男は、我が睾丸(キンタマ)の垢ほども
無き者である!」

と仰せられた。
この言葉に一座の大小名、皆興を醒ましたとのことである。

(武士道美譚)
920人間七七四年:2012/10/20(土) 07:31:25.18 ID:AGJlYvYm
この品のなさが秀吉らしくていいなあ
921人間七七四年:2012/10/20(土) 07:48:26.78 ID:jjrnK5P/
ひょっとしてここは興を醒ますんじゃなくて笑うところだったのかも
太閤殿下の軽い冗談かな
922人間七七四年:2012/10/20(土) 08:02:32.34 ID:kGGGam6n
こういうことを臆面もなく言ったり
頼朝より自分のほうが上だとか言っちゃったりするあたり、
成り上がりだなーとしみじみ感じる
923919:2012/10/20(土) 09:50:35.69 ID:OjTnBRaU
>>919
ああ、少しミスがありました。下から5行目

×我が念
◯我念

すいません
924人間七七四年:2012/10/20(土) 09:58:14.15 ID:MKIMWOZy
つまり、シ〜ンとしたところに寒い北風が吹き荒れてたんだな
925人間七七四年:2012/10/20(土) 10:12:38.96 ID:yebQoZPm
「利休めは とかく冥加の ものぞかし…」
926人間七七四年:2012/10/20(土) 10:22:50.07 ID:8exgBFE5
序盤の軽い敗北フラグみたいなもんかな?
927人間七七四年:2012/10/20(土) 10:34:48.72 ID:GfL0BhLU
>>910
荷駄隊「荷物が重いから捨ててきました!(・∀・)」
928人間七七四年:2012/10/20(土) 11:10:12.62 ID:8exgBFE5
(w
929人間七七四年:2012/10/20(土) 12:00:41.38 ID:Mo8jlSjE
この時はまだ、秀次は生きてんのか。
930人間七七四年:2012/10/20(土) 12:11:03.21 ID:Hveczzzk
一回目の時は関白として働いてた
931人間七七四年:2012/10/20(土) 13:23:19.31 ID:g2VVUmd0
まあ、成り上がり者同士として比較したら道真なんて秀吉のキンタマ垢くらいの程度なのは事実
932人間七七四年:2012/10/20(土) 13:38:03.22 ID:Hveczzzk
コネ無しで学問だけで藤原氏に割り込んで大臣職を得たのは相当なもんだぞ
933人間七七四年:2012/10/20(土) 13:52:53.44 ID:0/MYP745
道真は死んでからの方が活躍
934人間七七四年:2012/10/20(土) 14:03:10.47 ID:n4VY6cUG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-860.html
家康「まったく殿下は教養がなくて困る。忠勝は菅丞相を知っておろうな」
忠勝「偉い学者ですよね。羅山先生とどっちが上ですか?」
935人間七七四年:2012/10/20(土) 14:39:04.22 ID:4gryY6ax
東西無双はこう皆がほっこりしてまうエピソードが多いな〜
936人間七七四年:2012/10/20(土) 16:50:00.61 ID:7BYW31Aa
唐入りは隆景に全権委任すれば北京まで攻め込めたかもね。
秀吉以外は指揮権の統制が全く取れない軍制だったのが運の尽き。
937人間七七四年:2012/10/20(土) 18:07:15.31 ID:3uRQr14X
主君がいないと統制取れないってのはよくあるよね
それなりの軍勢送るとどうしても微妙な序列の差しかない同格の人間が
938人間七七四年:2012/10/20(土) 18:10:37.40 ID:kGGGam6n
近代ならともかく、
中世で指揮権を持ってる奴が前線に居ないとか致命的すぎるからなー
939人間七七四年:2012/10/21(日) 14:12:00.29 ID:RRdnsyyH

長久手の戦いの折、羽柴秀次は味方が敗れたと聞いて急いで旗本を進めた。
この時、可児吉長は秀次の近習であったが、秀次よりも遥かに先にいた。

ところが吉長が馬を乗り返して来るので、その様子を見た秀次は、
「才蔵、いつもの口振りと違うぞ、戻れ!」と命じた。

これに吉長は「この敵は槍のできる連中です。御馬を返してください」
と言ったが、秀次は構わずに三度まで戻れと言うので吉長は続けて、

「勝てば勝つほど備えは固まり、段々と後ろの勢が続いて来ます。
これでは槍を合わせるような状況ではない」と忠告した。

しかし、それでも秀次は言うことを聞かないので吉長は腹を立てて、
「糞でも喰いなされ!」と罵って引き退いた。

果たしてその言葉の通りに秀次の勢は一溜りもなく敗軍し、
池田恒興を始めとした戦死者を出した。

――『名将言行録』

こっから「馬貸して!」に続くのかな?
940人間七七四年:2012/10/21(日) 14:47:23.13 ID:ceSPNQsX
殺生関白の芽生えである
941人間七七四年:2012/10/21(日) 15:06:27.40 ID:HCXGIXET
うっきー「一人で切れる人などたかが知れているぞ。サルじゃなくて太閤殿下のほうかのほうが殺しておるでしょうに」
942人間七七四年:2012/10/21(日) 19:52:28.95 ID:/m7kD9I/
太閤豊臣秀吉は何事も、人の為す事は必ず自分でも為された人であった。

式法の歌会などがあるときには、装束に身を固めその上座に座られた。その時には由己(大村由己)
という者が、いつも御前近くに控えていた。

そして太閤は物に感じた体で座中において歌を吟ずるのであるが、その実、それらは皆
由己が詠んだものだったそうである。

(武士道美譚)
943人間七七四年:2012/10/21(日) 21:19:58.24 ID:r7Sn4MDZ
鬼武蔵が眉間に銃弾撃ち込まれてる頃、秀は何してたんだよ
結構な軍勢が移動してるのに全く気づかないとかありえんだろ
目障りな親子を始末する策略のような気がしてきた最近。。。
944人間七七四年:2012/10/21(日) 21:51:05.14 ID:0jg5p7RW
そんなありきたりの陰謀論を深刻そうに書かれても
それは、単にお前が秀吉が嫌いなだけだろwとしか
945人間七七四年:2012/10/21(日) 22:08:55.21 ID:7MhLU9Y8
敵軍より大勢で侵攻してるんだから、陰謀とかあり得んだろ
946人間七七四年:2012/10/21(日) 22:11:19.35 ID:os+A7UnD
まあ鬼武蔵や池田さんを殺す事に、万単位の兵を犠牲にして、鬼武蔵よりはるかに勢力の巨大な、しかも明確な敵である
家康に利をならしめ、未だ固まっていない自分の覇権を動揺させる程の価値があるのか、って話ですなw

あと豊臣軍って家康の隠密行軍を非常に苦手としていたフシがある。
関ヶ原の時もご存知のようにあの大軍が東海道をおっちら来たのに、赤坂に旗立てるまで
まるで気づかなかったほどでw
947人間七七四年:2012/10/21(日) 22:15:06.42 ID:0jg5p7RW
西軍は豊臣軍か、という根本的な疑問がある
西軍は外様主体で、その超スピードで東上した東軍主力こそが
まさに豊臣恩顧なわけなんだが
948人間七七四年:2012/10/21(日) 22:24:07.13 ID:7MhLU9Y8
>>946
流石にそれは俗説。

遅くとも9月12日頃には家康の着陣をキャッチしてた模様。
吉川広家や益田元祥が書状で内府着陣を報じている。
949人間七七四年:2012/10/22(月) 12:19:06.73 ID:FeHUR2GK
>>947
豊臣家の旗本(七手組)が関ヶ原に西軍で参戦してるから豊臣軍と称してもいいような
950人間七七四年:2012/10/22(月) 13:22:39.57 ID:B7eKEguP
地方で反乱を起こし正規軍主力を討伐に向かわせ政権本拠を軍事的空白地帯にする
そのタイミングでクーデターを起こし政権首脳を捕らえ引き返してきた正規軍を迎え撃つ
951人間七七四年:2012/10/22(月) 15:33:35.39 ID:mlFILlRY
パパン「一言相談してくれればのう」
952人間七七四年:2012/10/22(月) 15:45:43.12 ID:AyPrD6hl
まあその辺は三成が無能だったの一言に尽きる
953人間七七四年:2012/10/22(月) 18:57:20.51 ID:pGchYo/n
三成が昌幸に詳しく話をする前に秀家が先走っちゃったって説も無かったっけ?
954人間七七四年:2012/10/22(月) 19:14:26.73 ID:mlFILlRY
おにいちゃんに相談したら・・・止められるだろうな。とりあえずタヌキ死ぬまで待てぐらいは言いそう
家康の寿命が史実通りならおにいちゃんと泳ぐ人はもちろん生きてるだろうしパパンもなんとか生きてそうだし
955人間七七四年:2012/10/22(月) 22:08:17.92 ID:hMW9rDvm
銀英伝ネタがスルーされててワロタw
956人間七七四年:2012/10/22(月) 22:44:59.52 ID:5iz7ajhg
そんな昔のラノベ、読んでないから仕方ない
957人間七七四年:2012/10/22(月) 22:51:21.62 ID:YJZlDPd2
ここだと銀英伝ネタなのか元ネタになった故事ネタなのか判断出来ん時があるのが困る
958人間七七四年:2012/10/22(月) 23:06:10.25 ID:zcYttfLe
あれの作者も相当かぶれてるしなw
959人間七七四年:2012/10/23(火) 01:08:11.21 ID:I0+UqwwI
作者も相当かぶいてる、と読んでしまった
960人間七七四年:2012/10/23(火) 02:15:34.58 ID:8Wvg11hp
とっくに既出だろうけど鬼武者Soulで鮭様が酷すぎ
本当に鮭様はこの手で不遇だな
961人間七七四年:2012/10/23(火) 05:37:34.88 ID:JVItRn5V
>>960
どう酷いのん?
962人間七七四年:2012/10/23(火) 06:31:21.53 ID:FaZWZMUh
これか。酷いというかなんというか
http://members.oni-soul.jp/contents/gotochi/area/yamagata/
963人間七七四年:2012/10/23(火) 06:37:32.82 ID:7C5axKPF
後ろに烏天狗従えてそうだな
964人間七七四年:2012/10/23(火) 08:06:37.43 ID:Ek/u5Kbv
>>960
まあ、また存在しない宗茂よりはなんぼかマシな気もするw
嫁さんはメインキャラの一人っぽいし
965人間七七四年:2012/10/23(火) 09:03:00.86 ID:7lovl1DN
>>962
毛利の長男がまたハブられてる…
966人間七七四年:2012/10/23(火) 11:06:50.00 ID:w7ilBfyz
幻魔属性のキャラなんてだいたいそんなもんだから
別に最上だけあげつらっても
967人間七七四年:2012/10/23(火) 11:08:53.28 ID:poKOR+sV
>>962
おれの厨二魂がかっこいいと叫んでる
968人間七七四年:2012/10/23(火) 11:37:05.22 ID:w8utLtT8
幻魔でも大田道灌と最上義光だけ酷い

969人間七七四年:2012/10/23(火) 12:44:08.79 ID:ZI2f8/QI
>>964
福岡と言われても微妙な御方がメイン扱いで萎える。
970人間七七四年:2012/10/23(火) 18:46:42.83 ID:8Lnxyjab
>>965
ちゃんと追加されたから安心して
971人間七七四年:2012/10/23(火) 18:51:17.76 ID:hT3DrHmS
千葉は無難だな
脳筋公方のほうがおもしろいんだけど無名に等しいからなあ
972人間七七四年:2012/10/23(火) 19:03:55.97 ID:7lovl1DN
>>970
あ、そうなのか よく調べもせずにレスしてすまんかった
973人間七七四年:2012/10/23(火) 19:18:02.25 ID:FaZWZMUh
そろそろ新スレ立ててみる
974人間七七四年:2012/10/23(火) 19:20:47.89 ID:FaZWZMUh
出来た。ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっと悪い話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350987604/
975人間七七四年:2012/10/23(火) 19:29:23.42 ID:lwvxOILN
>>969
でも福岡ってメインとするにはどこか微妙な点のある人たちしか思いつかないわ
早く滅んだ少弐とか他所から来た立花や秋月のような豪族だったり
976人間七七四年:2012/10/23(火) 20:01:50.82 ID:rtrEvqkq
美濃の国の住人に加々江彌八郎という者があり、大剛の早業の侍で、石田三成とは刎頚の友であった。

さて関ヶ原の役の勃発直前、三成は加々江彌八郎を招き寄せ、今回の挙兵の次第を説明した。
彌八郎はこれを聞いて

「私が以前、太閤のご命令を背いた時、あなたの取り扱いによってお許しを頂くことが出来た。
この厚恩は忘れられぬものである。であればこの一命をあなたに奉ることは、第一には秀頼公への忠節であり、
第二にはあなたへのご恩返しでもあるので、まったく簡単な事である。」

そう言い切った。これに三成は大いに喜び

「ならば秀頼公からの慰問のお使いとして江戸に赴き、家康に対面して、その時彼を刺し殺してほしい!」
家康の暗殺を依頼した。これに彌八郎は少し戸惑い

「仮に世情静謐の刻ならば、幼君のお使いとあれば内府が対面しないということはないだろう。
しかし今は会津征伐もあり世の中は立ち騒いでおる。この様な折に内府ほどの老巧の者が、そう簡単に
対面などするだろうか?」

しかし三成は諦めない
「家康が対面しなければ是非無いことである。しかし、もし近寄るべき機会があれば!
偏に頼み入る。これを果たした時、あなたの子息に、相違なく一国を与えるだろう!」
そう言って起請文を書き、彌八郎の目の前で血判をしてこれを渡した。
彌八郎もこれを見て決意し、起請文を懐中に仕舞い、莞爾と笑って退出し、早速江戸へと下った。



家康に秀頼公よりの御使者の故を申し上げても、案の定家康は対面しなかった。
それどころか奏者(取次)の者達すら彌八郎をまともに相手にせず追い返し、これにはさしもの大剛の
彌八郎も呆れ果て、頼る人もいないまま、力及ばぬ有様にてすごすごと帰っていったそうである。

三成の家康暗殺の刺客、誰からも相手にされず。というお話
(玉露叢)

977人間七七四年:2012/10/23(火) 20:02:54.74 ID:Pn8DLQrX
天正13年、越中の佐々攻めで軍功のあった加藤光泰は、近江国より美濃大垣に所替えとなり、知行4万石を拝領するとともに、美濃における秀吉の蔵入地2万石と国侍を預けられることになった。
そのお礼として京都へ参勤した光泰は、秀吉の御前でついつい、余計なことを言ってしまった。

「今度ご加増いただき、多くの侍を召抱えました。ですから、蔵入地からの収入についてはお望みになりませんように。」

これを聞いた秀吉は激怒した。
「なにぃ!預け置かれた蔵米まで自分の家来に宛がうだと!そんなやり方が許されるとでも思っているのか!出仕を停止するゆえ、今後、二度とわしの前に姿を現すな!」
978人間七七四年:2012/10/23(火) 20:04:49.59 ID:Pn8DLQrX
光泰は謹んで言上する。
「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

この男、「蔵入地の収入を家来にあげちゃったらまずいけど、預かっている僕自身が使うんだから、もちろんOKに決まってるよね!」とでも思っているのか?
さすがは戦国の不思議ちゃんである。さすがは「兵糧が無いなら砂を食えばいいじゃない!」という迷言を残した人である。

彼は他にも色々と申し上げたが、聞き届けられるはずもなく、大和大納言秀長へ御預けとなってしまう。

大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが、彼が秀吉から正式に赦免され、佐和山城主・遠江守に任ぜられるまで、数年という時間を要したのである。
(加藤光泰貞泰軍功記)
979人間七七四年:2012/10/23(火) 20:06:21.25 ID:Pn8DLQrX
なお、加藤光泰貞泰軍功記には、『一書に』として、この光泰失脚事件についての別バージョンが併記されている。

光泰が大垣在城の頃、飛騨国に武田勝頼の残党があり、討伐のための軍勢が派遣された。
この時、石田三成が先陣を望んだのだが、光泰が進み出て、
「今度の軍勢は大軍ゆえ、若輩者の先陣というのは大変に危のうござる。先陣はそれがしに仰せ付けられますように」と献策し、軍勢を発向させてしまった。

これを恨んだ三成は、光泰を讒言。飛騨から帰陣した彼は、秀吉の勘気を蒙って流浪の身となり、大和大納言の懇意によって宇多郡に蟄居する。

彼が秀吉の赦免を受けて、秋山城を拝領するのは3年後のことである。
980人間七七四年:2012/10/23(火) 20:55:48.01 ID:ppGrbvHA
>>976
加賀井重望と微妙に名字とやったことがかぶっている気がする
981人間七七四年:2012/10/23(火) 21:14:04.57 ID:eEA/Ukp+
光泰は不思議ちゃんだったのか
982人間七七四年:2012/10/23(火) 23:47:58.24 ID:7WzrrOpI
>「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
>自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

お前は何を言っているんだ。
983人間七七四年:2012/10/24(水) 00:14:51.91 ID:muuCJ20h
地味加藤よりひどい空気加藤と呼ばれていたが
不思議ちゃんというキャラ付けできてよかったな
984人間七七四年:2012/10/24(水) 00:28:26.25 ID:omz+zevW
自分の禄を皆家人に遣わして、自分の分がないから蔵入地で賄うからゴメンネ(・ω<)

うーん、これは許されないな
985人間七七四年:2012/10/24(水) 00:42:47.75 ID:1RNc34g3
>大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが

秀長さん優しすぎ

蔵入地という仕組みがよくわかっていなかったのだろうか
986人間七七四年:2012/10/24(水) 00:45:24.02 ID:LyMdmEsP
管理任されてるだけで自分のもんじゃねーのに
勝手に手を付けたら斬られてもしょうがないだろ
守護の土地を守護代とか国人が勝手に横領したのと一緒だぞ
987人間七七四年:2012/10/24(水) 01:29:23.81 ID:LkotQpqW
>>985
代官の意味すらわかってないことになるぞ
988人間七七四年:2012/10/24(水) 07:37:40.50 ID:lrZY34+v
こっちの加藤はバ加藤って呼んじゃえばいい
989人間七七四年:2012/10/24(水) 09:49:22.67 ID:x8iJzT2J
バカトゥーー!!

芸人か!
990人間七七四年:2012/10/24(水) 11:09:44.47 ID:4cIIG4mP
よく改易程度で済んだなこれ
991人間七七四年:2012/10/24(水) 11:19:32.94 ID:8TiDJuTm
完全な横領だな勝手に会社の土地を経理担当者が売り払ったようなもんだろ
992人間七七四年:2012/10/24(水) 11:28:31.29 ID:oJ3MEW99
やっぱり砂なんか食べるから頭が・・・
993人間七七四年:2012/10/24(水) 15:41:57.76 ID:6WQFK4aF
>>977-979
結局どっちが正しいんだろうか?
前者だといくらなんでも光泰がアホすぎると思うし(代官という役職を理解してないようなもん)
後者は後者で如何にも後世の創作っぽいテンプレ的な佞臣三成像だし(そもそも佐々攻めの時点で三成にそこまでの権力は無い)
994人間七七四年:2012/10/24(水) 15:46:19.55 ID:SqGp2EqN
自分の知行だけでは新規の国侍の知行を出せないので、蔵入地からの上がりで、預けられた国侍の知行を出したんじゃないの
無理矢理預けられた奴らの知行なんだから、おまえの土地からの上がりでそいつらを養うぞと、俺個人の知行では足りないからな

というわけなんだろ
995人間七七四年:2012/10/24(水) 16:24:49.71 ID:SqIYoogS
慶長16年(1611)8月10日
大御所(家康)より禁中御造営の奉行として、板倉内膳正重昌に上洛すべしとの旨があった。
彼は京都所司代伊賀守勝重の次男である。

今日、御雑談の折に武蔵の由良新六の従僕に、手足を使ってとにかく疾く走るものがあり、
山坂の嶮難であっても、1里、2里ほどなら馬に劣らぬほどに駆け抜ける、との話が出た。
大御所は露骨に怪しまれ、今度その者を見てやろうと仰った。

またこの頃、京都において奇異なことがあった。
一条裏辻幸阿彌長安というものがあったのだが、彼が死去して数日も過ぎない内に、
彼の居宅において、夕暮れ時になると山伏のような姿をした者達が数人、出現するようになった。
しかしこれらをはっきりと見ようとすれば、忽然と姿を消してしまう。毎夕、この様であった。

長安の弟がこれを怪しんで、数人の仲間とともに深夜までこの山伏のような姿をした者達の様子を
覗っていた所、彼らはいつの間にか増えていき、気が付けば幾千万とも知れぬほどとなり辺りに
充満した。

かの弟はあまりの恐ろしさに逃げ帰り、その翌朝死んだ。
この事があり長安の残された妻子や下人たちはもはや住むに耐えずと、他所に移り住んだのだという。

大御所はこれを聞かれて、狐か何かだろうと仰ったと云々。

一昨年の4月4日にこの様なことがあった。伏見城の賓殿の庭に見知らぬ者が立っていた。
手足に指がなく、弊衣、乱髪、そして口には青蛙を咥えていた。
どこから来たのかと問えば、手を以って天を指した。
人々は皆彼を叩き殺そうとしたが、大御所が「殺すな」と仰せになったので、城外に出した。
それから彼がどこに行ったのか、誰も知らないとのことだ。
(玉露叢)

この頃の家康が見聞きした、ちょっと怪しいお話。
996人間七七四年:2012/10/24(水) 19:11:14.89 ID:Lcy8qRkH
落ちはないのかよ(´・ω・`)
997人間七七四年:2012/10/24(水) 19:35:07.59 ID:2A79Zxth
>>995 下段
「ムー」あたりで(宇宙人じゃないか等)時々話題にされる「肉人」ですな。
ただ、「弊衣、乱髪、そして口には青蛙を咥えていた」の件は初めて読みました。
998人間七七四年:2012/10/24(水) 19:54:07.20 ID:6WQFK4aF
家康と肉人の話はオカルト界隈では割と有名だよね
999人間七七四年:2012/10/24(水) 21:41:09.33 ID:NC9PyKAq
肉人は駿府城じゃなかったっけ?
1000しかのすけ:2012/10/24(水) 21:42:44.74 ID:DqXG8z9C
1000ならば尼子家再興までまた一歩前進
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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