【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る5

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847北畠竜馬
しかし幕府と協調して信長の部下に圧力かけてもまったく解決ができないから
12月に入ると光秀が横領した件に対してついに信長名指し綸旨を出すことになるし
同日に丹羽長秀・中川重政・永田景弘・九里三郎の横領についても
「信長の朱印状を使って横領してるけど、もちろん信長は知らないと思うけど」
と証拠を出して遠まわしに嫌味まで書いてる。特に光秀横領分については義昭も以前から知ってて
だらだら対応が遅れたこと・内々に申し下していたことだったと言っており
義昭では解決できない点で秀吉の件と同じ状況であり明らかに信長の指示が背後にあるのは明白なわけ。
明智から金を貰った吉田兼見は言うに及ばず本能寺の後に信孝から追手を派遣され嵯峨に逃亡し
隠れていた近衛や勧修寺入道(孫娘が誠仁妃)も怪しいんだよな。その二人の安否を心配した誠仁と言う構図からすると
信忠を二条御所にわざわざ呼んだのは誠仁で、近衛が屋敷に明智勢を招いて信忠側近を狙撃しまくったと考える。
誠仁も信長から圧迫されていて追い詰められていたからこそ
信長に迎合して関白でも将軍でも太政大臣でも何でもよいからと提案したんだろ。
天皇はその誠仁の行動を皇位を危うくする危険な駆け引きとして怒り
信長と天皇から圧迫され板挟みのサンドバックから逃れる為に本能寺の変を引き起こしたと。
近衛と勧修寺の背後には誠仁がいて吉田神社の動きの背後には天皇がいた。
正親町天皇は変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。
勅使として派遣されたのは吉田兼見である。 『明智光秀公家譜覚書』
変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下