上杉謙信は戦国最強【信玄,信長,氏康,盛氏を圧倒】

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935人間七七四年:2013/05/24(金) 20:19:59.07 ID:HrQHg5Tf
>>931
そもそも「歴史に何を残したか」だから織田は十分おつりがくる。
信長の出自である織田家は、3代遡ると出所も怪しくなる眉唾の家
そんな武士の中でも下位に位置する血筋を持った織田家が、最終的に
大名6家(織田信良系、織田高長系、織田信包系、織田長孝系、織田長政系、織田尚長系)
旗本3家(織田長政系(信雄子孫)、織田信高系、織田信貞系)を計15万石程度残した時点で貯金がくるな。

対照的に悲惨極まるのは武田。
武田家と言えば、かの源頼朝が平氏討伐に挙兵した際に、同じく覇を競った武田信義を先祖に持つ、
家柄としても甲斐源氏武田家と織田など鼻糞レベルであしらえる名家中の名家出身の家柄。
戦国大名としての家格だけなら足利、佐竹、今川などと並んで戦国トップクラスの名家。

そんな由緒正しい名家出身の人間が、後の天下人徳川家康に怨恨を持ったというだけで
信玄嫡孫の武田信道は領土すら持てず最終的に、日本本土ですらない罪人専用の伊豆大島で寂しい生涯を閉じ
その子信正も生涯の大部分を伊豆大島で暮らした。その後なんとか高家旗本に漕ぎ着けるも
実質直系は1代だけで、その後は柳沢、松平と武田の血筋のない連中に乗っ取られる。

米沢武田に限っては最終的に500石。仇敵上杉に匿われて生き延びるという屈辱まで味わうことになる無様っぷり
一時は天下を競った群雄が最終的にそこらの野武士レベルに落ちぶれるのだから哀れにもほどがある。
徳川に武田信吉、武田信典と子孫を2回も武田に送られる「乗っ取り行為」されるくらい嫌われたとはいえあまりにも無惨な末路
936人間七七四年:2013/05/25(土) 01:02:58.53 ID:wG6KeL3j
上杉最強スレで暴れる織田厨と武田厨の醜さときたら
937人間七七四年:2013/05/25(土) 10:45:29.03 ID:LwCSacYs
>>935
織田みたいなカス家系が残ってもなんのありがたみもねーわw
武田は滅びても後世に残した影響は織田カスとは比べ物にもならない
カス長など誰もリスペクトしていない
938人間七七四年:2013/05/25(土) 16:07:14.50 ID:ClA1MPzy
>>936
上杉最強スレなんだから他の大名との比較が入るのはやむなしだろ
全体を通してみれば上杉は織田に勝っている(一時期織田が勝っていた時期もあるが)
何より、30万石の大領で江戸時代を迎えたのは大きいわな。15万石に減らされても、徳川との縁がついたと考えれば悪い結果じゃないし。

俺が否定的なのは「上杉は武田のライバル」なんていう、都合のいい恣意的解釈に対してだけ。
戦国時代を生き延びられなかった弱小大名がライバルとか、体のいいマンセー工作にも程がある。
織田、豊臣、伊達、島津といった強豪大名こそ上杉のライバルにふさわしいだろ。それでも上杉が有利な感があるがな。

>>937
徳川家が通例1家にしか認めなかった高家旗本職を
なぜか織田家は3家も認められているほどの優遇っぷりだが。
他に高家旗本職を複数認められたのは2家を輩出した清和源氏の土岐家のみ。
しかも織田家の場合大名家が6家もあって、「血筋を保つため」という名目が全く不要の段階だがw

武田が後世に影響を与えたって、それ源頼朝と覇を競った「武田信義の子孫」としての家格だろw
武田で他の武士たちが崇拝尊敬していたのは過去に現れた群雄たちであって、信玄でも勝頼でもない。
その証拠に家康は穴山信治が死んで武田家が滅亡した後、あろうことか自らの子供を養子に入れている。
通常であれば信玄の嫡孫たる信道、信玄の息子たる信清に継がせるのが筋だがそんなこと家康はやろうともしていない。

武田信道はその後大久保長安に、武田信清はその後上杉景勝に仕える羽目になるが、武田の遺臣や大久保上杉誰1人として
大名や旗本に取り立ててやろう、信玄公の血を引く者にしかるべき地位をやろう、なんてことをやりたがらない有様
そうこうするうちに武田信道は伊豆大島行きで罪人同然の扱いだしな。そんな武田家を救済したのは
武田家の旧遺臣達でも、武田を庇護した上杉でもなく、武田と何の関係もない、生粋の徳川家臣の家系である内藤忠興だし。

「織田は高家職に3つも任命されているのに、武田が1つも任命されないまま江戸中期まで迎えた」ことに何も感じないとか異常だろ
武田の旧遺臣達は何をやってたんだ?真田、土屋、保科、徳川幕府で出世した武田遺臣達はいっぱいいるぞ?
939人間七七四年:2013/05/25(土) 18:31:00.22 ID:OKbUPkv7
そもそもいくら謙信公が最強だからって、1人で戦はできないもんな。
確かに謙信公は1人でも類稀な強さを持っていたがそれだけで全戦全勝とはいかない
家臣を労り領民を慈しみそういう成果があってこそ上杉を名実ともに確たるものにした。
必要とあらば功臣さえ切り捨て息子を幽閉させ臣下をムチ打ちしまくることで得た虚構の強さを持った武田では太刀打ちできるわけがない。
最終的にその偽りの強さが武田の首を絞めることになった皮肉。
940人間七七四年:2013/05/25(土) 20:28:52.62 ID:wG6KeL3j
この前本読んでたら謙信初陣の栃尾城の戦いについて書かれてて景虎側400で反乱軍1400を相手に兵を分け奇襲し勝利を得たと書いてあったんだがまだ14、5歳の小僧が初陣で倍以上の敵と戦って勝利したって凄えな
941人間七七四年:2013/05/25(土) 22:38:15.95 ID:2mk/urd/
織田の家系なんて織田厨自身もありがたがってないと思う
織田というカス家系なんて生きててもどうでもよすぎるし
942人間七七四年:2013/05/25(土) 22:52:05.57 ID:ClA1MPzy
必死こいて単発IDで煽ってるあたりがいかにも意地汚い武田厨だな
武士道の中で最も大事な家系存続、血脈尊重の概念がないとかw
まあ柳沢徳川とその時々の都合で偉いさんを招いて家継がせていた武田なんて
直系だの血脈だのどうでもいいくらい家の品格がなかったんだろうな。

名に足るにふさわしい品格を維持し続けた上杉
ただ単純ながら家系を存続させた織田

それに比べて節操なく適当な血を入れ替えて先祖顕彰もしなかった武田w
943人間七七四年:2013/05/25(土) 22:56:15.47 ID:BYbiGZo7
家を残したとかそんなアホ基準で優劣をつける事のアホらしさが理解できんとか相当イカレてるな
八幡和郎史観かw
944人間七七四年:2013/05/25(土) 23:06:05.32 ID:2mk/urd/
家を残すなんてただたんに運だしな 織田のようなゴミ家系が生きてても氏真が長生きしてるようなもんで
しかも大名は明治維新で全部滅びましたっつーオチw
945人間七七四年:2013/05/25(土) 23:09:17.37 ID:ClA1MPzy
基盤がないのに強い強い言われたところで論拠に欠けるのは当たり前
そもそも前述でもあるが謙信公しかりまた信長しかり信玄しかり
戦争するには家臣の協力が必要なのは誰でもわかる話

謙信公は類稀な才覚で家臣達を導いた。死後にお家が割れることになったが決して上杉家が崩壊することはなかった。
信長は家臣に対して時には苛烈な所業を行い最終的にそれが原因とも言える最期を迎えたが、慕う家臣や同盟者が多く家を永らえされた。
信玄は必要とあらば重臣板垣息子、飯富などを切腹させ、親や子であろうとも追放幽閉という苛烈な処分を取った。最後は木曽穴山と身内の寝返りで武田は崩壊した。

つまり家臣や有力大名に横のつながりがあるのはそれ自体が強さ
武田なんて寝返り謀叛切腹だらけで横のつながりなんてないに等しいから
最終的に自らの強さに過信して寝返り連鎖+滅亡+誰1人復興してくれない状況を生んだ。
すなわちそれは弱き故である
946人間七七四年:2013/05/25(土) 23:11:58.26 ID:2mk/urd/
織田って家臣に崩壊させられ家臣に乗っ取られ同盟者に滅ぼされ野垂れ死んだアホ家系だろw
慕う家臣()同盟()
947人間七七四年:2013/05/25(土) 23:12:15.24 ID:ClA1MPzy
>>944
強い大名なら1回家が滅んでも誰かが復興の助力をしてくれるからなあ
横のつながりと言う強さがあるし、復興の核となる一門が強ければその功績も目に留まるし
立花家や丹羽家のような関ヶ原で改易滅亡処分になったのに最終的に大名家になれましたなんてザラだもんなあ

滅ぼされたまま負け犬根性丸出しで何もしなかった雑魚大名が淘汰されていっただけだろw
948人間七七四年:2013/05/25(土) 23:16:12.04 ID:ClA1MPzy
武田厨はこんなスレまで必死になって怖いねぇw
伊豆大島という当時で言うなら外国同然の国で
日本本土ですらない場所で終焉を迎える羽目になったのがよほど悔しいらしい

織田は大名6家、旗本3家で計15万石の大所帯で盤石な強さを残して江戸時代を迎えたし
(それでも上杉に比べれば物足りない節があるが)
武田なんて最終的に一族郎党に見捨てられて文字通り身1つの孤独死だもんなあ
こんな連中と同格にしていいのは朝倉とか有馬くらいのもんだろ
949人間七七四年:2013/05/25(土) 23:18:48.47 ID:2mk/urd/
立花 秀忠の気まぐれ

丹羽 丹羽なんて知名度ゼロwww
950人間七七四年:2013/05/25(土) 23:23:07.09 ID:ClA1MPzy
立花宗茂が大名復帰できたのは家康の尽力だもんなあ
天下人が才覚惜しとして大名家に戻してくれるんだから有難いことこの上ないし
才器を評価されていた証拠だもんなあ。丹羽も全く同じパターンだし

かたや武田は嫁のコネを頼りに乞食生活していた信清と坊主になって出世する気ゼロの信道だけだし
こんな奴らが家康から才気や強さを見込まれて大名になれるわけないもんなあ
信道に至っては逆に家康に嫌われて伊豆大島まで送られるザマだし救いようがない。
弱い連中はとことん末路も哀れすなあ
951人間七七四年:2013/05/25(土) 23:25:08.96 ID:BYbiGZo7
織田は結果でいえば武田に大敗した小笠原や武田の一名将にすぎん依田以下じゃね
小笠原は信濃に送り込まれて以来出世につぐ出世だし依田も松平姓まで与えられて譜代親類集にまで抜擢されてる
菅沼・保科・知久とか信濃・奥三河組や旧北条組でも落ちぶれて滅亡同然の織田より遥かに出世してるだろうし
952人間七七四年:2013/05/25(土) 23:27:27.50 ID:2mk/urd/
織田の家系ってノブオだっけ?

こんなのをありがたがるアホウの信長厨www
953人間七七四年:2013/05/25(土) 23:27:31.35 ID:1rrNEYkQ
織田はほとんど抵抗らしい抵抗もできずに光秀に殺されて滅亡したしなぁ
徳川のきまぐれとお情けで信雄系とかどうでもいい雑魚にちょろっと所領やっただけだし
有楽とか信長系ですらないし
954人間七七四年:2013/05/25(土) 23:29:22.86 ID:ClA1MPzy
依田は最終的に5000石以下だから結果だけで言えば負けてるんだよなあ
松平姓という徳川との縁も織田家の将軍縁戚には叶わないし
保科は最終的に保科正之に家柄大半乗っ取られるからあながち勝ちともいえんなあ
幕府のお情けで保科正貞が生き残ったけどねぇ

まあどれ1つとっても武田よりは強かったんじゃない?
955人間七七四年:2013/05/25(土) 23:31:07.57 ID:BYbiGZo7
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
956人間七七四年:2013/05/25(土) 23:33:26.09 ID:ClA1MPzy
どれも単発IDばかりで笑えるけどよほど必死なんだなぁ

織田で一番安土桃山で長く居座った家は信包系だし
織田信包は天正御馬揃えで信忠、信雄に次ぐ第三位の序列で
信長実子の信孝よりも上と判断される信長一門衆きっての重鎮だもんなあ
家康は小牧で信雄に頑張ってくれた縁もあるし
秀吉に冷遇されていた信雄を必死に懇願していたのも家康だからなあ

なんにせ武田征伐で一門のほとんどが討死するような体たらくの武田じゃなあ
末裔も雑魚ならその上も雑魚っていうのを上手く体現している好例だよなあ
そんな体たらくで織田、上杉、徳川と上位の大名に喧嘩売るんだから
まさに在日らしい大名家と言える
957人間七七四年:2013/05/25(土) 23:34:47.65 ID:2mk/urd/
山県の子孫が織田の雑魚子孫に人刺し入れたんだぁ スカっとするわw
958人間七七四年:2013/05/25(土) 23:37:01.92 ID:BYbiGZo7
だいたい子孫まで持ち出すなら
現代の従三位武田家十六世当主武田邦信を筆頭に
武田 茂  米沢武田家当主
林 正彦  仁科盛信公十七世
など完全に後継がはっきりし、
しかも代表取締だし山梨観光大使に正式任命されてる武田家の方が明らかに勝ち組じゃねぇかよ。
米沢藩上杉家の16代当主上杉邦憲は宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授だし。
現在の織田の後継って誰だよ?あぁ?完全に負け組じゃんよw


日頃、純血男系子孫で繋げるとか強調して
結婚しても男性側の名字に変更しない純血血統主義の中国人みたいな発言ばかりしてんのに
こういうときだけそういう発言するのがアホな織田厨w
それをいうなら男系の浅井氏の血でつながってるっていうべきなのにも気づかない無知ぶり
日本人は純血主義ではなく、養子をもらってでも家を繋ぎ
先祖への礼を忘れない風俗。
だいたい純血で繋ぐなんて生殖能力と運によるところが大きい。
一夫多妻制の民族やハーレム大奥をやってもうまく繋げるとも限らない。
そんな運を持ち出して馬鹿丸出しw
959人間七七四年:2013/05/25(土) 23:37:56.90 ID:ClA1MPzy
山県大弐のコピペ貼ってるキチガイって山県が武田の恩を捨てて織田に身を売ってること理解できてないのかな?w
しかも肝心の山県は明和事件で処刑されているし。
やっぱり腐っても武田の家臣はクソだっていう好例だよなあ
憐れんで召し抱えてやった織田の当主も愚かなことをしたもんだ。
まあそれでも家を残しているんだから皮一枚繋がってる分マシだけど
960人間七七四年:2013/05/25(土) 23:42:07.31 ID:2mk/urd/
織田の家臣はさすが雑魚揃い 歴史にまるで登場しないw
961人間七七四年:2013/05/25(土) 23:42:53.71 ID:ClA1MPzy
>>958
武田旧温会の代表である武田邦信って武田のたの字も入ってない余所もんだからなあ
そんな恥知らずな家と上杉を同列に扱うなど韓国朝鮮と日本を同類視するようなもんだ。

織田の後継者って織田孝一とか織田長功氏でしょ。一昔前なら織田一磨って人もいたよなあ

武田は柳沢→徳川→柳沢と先祖が3回も代わっている恥知らずな家だからなあ
敬うべき先祖なんてあってないようなもんだし家滅ぼした雑魚先祖を顕彰なんてまずしないもんなあ
結局こんな恥知らずだから明治天皇も直系が続く米沢武田ではなく
養子だらけの中身スカスカだった海野武田を当主と認めてるし
天皇公認で節操のない血筋観念が白日の下にさらされちゃったよなあ
962人間七七四年:2013/05/25(土) 23:45:47.07 ID:BYbiGZo7
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。


柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩


遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
963人間七七四年:2013/05/25(土) 23:47:22.96 ID:1rrNEYkQ
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。

ちなみに武田家は高家旗本の地位を守り従四位上左少将にもなっているため
ここの織田家と武田家の地位は完全に逆転してしまったのであった。
964人間七七四年:2013/05/25(土) 23:48:48.31 ID:ClA1MPzy
上杉は最終的に15万石に減らされちゃったのが辛いよなあ
実高半分に減らされちゃってさすがの上杉も苦しかったみたいだし
まあそれでも当時の織田に比べての扱いは上位だったろうが

いずれにしても武田と比べられるほど両家ともショボイ家じゃないし
当時ならこんなこと言った時点で打ち首もんだよなあ
965人間七七四年:2013/05/25(土) 23:52:58.41 ID:ClA1MPzy
武田家が従四位左少将に任命されるようになったのは
徳川家康を先祖にもつ徳川頼房系の松平頼亮を父親に持つ武田信典の時だけだもんなあ
実質2回目の徳川家による武田宗家乗っ取りが成功した時点だし
神君家康公を先祖にもつ人間がショボイ官位じゃ箔がつかないからってだけだしなあ
事実その子供である武田崇信は従五位に逆戻りしているし徳川の威光ありきで家格をあげただけ

他人の家格でゴマすりして自分の家格をあげようなんて大変悲しい
これが天皇を先祖にもつ甲斐源氏武田のやることであろうか
966人間七七四年:2013/05/26(日) 00:01:06.25 ID:4pOkuXiA
織田という雑魚が名族()徳川のお情けで生きながらえたのは皮肉だな
武田というブランドの前には織田なぞはスケート選手くらいの価値しか無い
967人間七七四年:2013/05/26(日) 00:08:57.08 ID:YkkS80Um
肝心の武田のブランドは全く語られてないなあ
徳川に2回も乗っ取り行為受けてるからもう中身スカスカだし
そんな状態じゃ先祖顕彰なんて程遠いし結局何も残っていないんだよなあ
968人間七七四年:2013/05/26(日) 00:22:16.27 ID:heMjYHfd
乗っ取られる?ああ そりゃブランド力のせいだな

織田のキュウリ顔の実績皆無の雑魚家なんて誰も詐称したくないし 
969人間七七四年:2013/05/26(日) 01:07:39.80 ID:YkkS80Um
つまり武田のブランド=先祖武田信義、乗っ取った徳川家康のブランド

で結局中身スッカスカだなあ

天皇に連なる武田の血が欲しいだけで
別に信玄や勝頼が崇拝されていたわけじゃない

500年近く前の御先祖様の偉業で生きながらえただけかあ
970人間七七四年:2013/05/27(月) 11:20:02.13 ID:emW/WG7w
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。
971人間七七四年:2013/05/31(金) 10:59:28.91 ID:XbXv6lwO
戊辰戦争の時代にもなって、米沢の上杉氏が、新潟に色気を出した(領民も歓迎した)
というのは本当ですか?詳しい方、お聞きします。
972人間七七四年:2013/06/06(木) 20:01:49.53 ID:29AG+zAr
どうやって中世を超克するか?
というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。

彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。

上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。

解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
973人間七七四年:2013/06/06(木) 20:49:03.39 ID:dFe94asM
軍事改革や内政改革を成し遂げた北条や武田や上杉。
改革やらずに武辺道を奨励しただけで内政すら一切やらず大量虐殺で国土と民力を疲弊荒廃させただけの織田…
974人間七七四年:2013/06/06(木) 20:50:29.63 ID:29AG+zAr
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。
975人間七七四年:2013/06/07(金) 11:12:49.18 ID:qmkv4esh
>>974
はっ?お前、大友や毛利や長尾や伊東や芦名らがもともと鎌倉時代はじまるころは、
どこが先祖伝来の土地出身だったか調べてから書けよアホ
ほとんど相模や伊豆出身だぞ。
976人間七七四年:2013/06/07(金) 20:20:45.46 ID:sVgKc4Yf
今日のアスペルガーだが=ID:qmkv4esh

【親父】長尾為景【強い】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156602220/359

織田信長は過大評価されすぎ12
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360651236/698

【吉川】毛利一族を語る【小早川】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152171027/910

【疑問】スレ立てるまでもない質問11【戦国時代】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/491

上杉謙信は戦国最強【信玄,信長,氏康,盛氏を圧倒】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1334873788/975

問題ばかり起こしている荒らしなので関わらないようにしましょう!
977人間七七四年:2013/06/08(土) 08:17:17.97 ID:uMSorWbD
信長は中世を克服するどころかさらなる退化しかやってないからなー。
江戸時代には当たり前の老中による合意による政権運営は、
そもそも戦国時代に始まった惣村の合議制や堺などの都市自治や大名が国人代表でもある重臣達に政策を諮る内治の拡充の発展がある。
道三の美濃統治は不安定なもので、 
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、 
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。 
この戦いののち道三は頼芸を追放するが 
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、 
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず 
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、 
重臣達により国主たる資格なしとして、 
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。 
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく 
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。 
家臣から国主の資格なしとされた信長は家臣に暗殺され織田家は家臣団により乗っとられる。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に 
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが 
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし 
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。 

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し 
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し 
最高意志決定機関の宿老制が完成し、 
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる) 
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。 
これは土岐氏の官僚機構を 
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。 
永禄三年には印判状という文書形式を導入。 
知行あてがいも貫高制が導入され 
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。 
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、 
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは 
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。 
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。 
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、 
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで 
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行) 
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。 
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。 
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 
信虎や道三と同じで 
古い統治システムで内政無視の信長は家臣に下克上されたバカ 
明らかに一世代前のやり方で失敗。 
978人間七七四年:2013/06/08(土) 09:03:10.09 ID:fjmVypRP
信長が先進的だったとか今じゃギャグにしか聞こえないわ
ただの行き当たりばったり山賊プレイしてただけ
末路もまた賊にふさわしい
979人間七七四年:2013/06/08(土) 09:54:29.75 ID:uMSorWbD
信長は日本史上、最も老若男女を冷徹かつ効率的に、
かつ支那や朝鮮のような残虐なやり方で大量虐殺を次々に繰り返した暴君。
重臣合議制で民衆→国人→重臣への内治への意見反映のシステムを持たず、惣村コミュニティーと言う最小政治単位勢力を構成する民衆と大名をつなぐものが皆無なので一揆が頻発し、
民衆が自ら本願寺などと提携していくしかないように追い込む。
結果、民衆の突き上げに抵抗出来ずに荒木や松永や別所など謀反だらけ。
織田家が乗っ取られたのも民が織田を見限って、
暴君信長の要求と民負担がどんどん増す民との間で板挟みになっていた秀吉ら家臣の才覚と労苦を知り、
秀吉らの両国形成を支持したからに他ならない。
信長は鷹狩りしたり、神の使いの鹿を虐殺して挑発したり、近江中の力士を呼び集め相撲観戦したり茶器コレクションして見せびらかせたり、
ほとんど遊んでいただけ。
980人間七七四年:2013/06/08(土) 10:19:40.32 ID:5c6AlZXN
この時代、多くの人は土地と深く結び付いていた。農兵に関してはそういう方向性に向かってるみたいだが、家臣もだいたい同じなんだよね。先祖伝来の土地と不可分の関係にあった。

加増されても遠国に追いやられるくらいなら、いっそ謀叛してやろうかというのがこの時代の保守性。それをどうやって流動的なものに変えて行けるかが、信長の思考の中心だったと思う。

信玄もあと十年長生きしたらと言われるけど、あと十年長生きしてたらそういう人の流動性という問題に突き当たざるをえなかった。
譜代の臣を甲斐の周辺国ならともかく、国境を二つも三つも越えた先に封じられたか?
信玄はそこまで行く前に死に、謙信も結局その問題から逃げたと思う。

天下統一って一口に言っても誰でも持ってたビジョンではないんだよね。



どうやって中世を超克するか?
というのは信長だけじゃなく、謙信や信玄も考えていたと思うんだよね。残念ながら二人ともその解答を出す前に死んだ。

彼らを支えていた保守的な力というのは、やっぱり彼らを利用して既得権を保とうと働いていたわけで、彼らが長生きしてたら必ずその層を後ろ盾にしてる限界にぶち合ったってたと思う。

上洛まではいい。その先例えば九州遠征に参陣して一年も二年も本領を留守にする小山田や穴山や木曾を想像するのはとても難しいことだ。

解決策は大きく二つしかないと思う。これを力によって取り潰すか、あるいは一国に封じて、拙案>>10で言うところの国主(従属大名)に格上げすること。在地性の非常に強い国人土豪の立場からの脱皮を促すわけだ。
駿河一国に封じられ、大名格に転身した穴山が九州征伐に参加する姿はなんとか想像できると俺は思うんだよ。
981人間七七四年:2013/06/08(土) 12:29:40.41 ID:gKxvcYgi
>>980
武田信玄の上洛なんて大内義興の二の舞にしかならんだろう
上杉北条は一時凌ぎ程度でいつ牙を向けるかわからんし
織田や徳川を滅ぼしたところでその領地を支配し続けられるかどうかはまた別
何より京からはるか遠い本国甲斐で勢力維持など夢のまた夢と言っていい。

大内義興も味方であったはずの尼子経久に寝返られて領地パクられているし
武田信玄も似たようなことになって終わりだろ。足利分家の今川滅ぼした時点で、
対将軍家の交渉も考えなきゃいかんしな
982人間七七四年:2013/06/09(日) 09:03:18.61 ID:3rjfxF8g
大内の領国統治も動員も室町幕府初期のまま、なにも変わってない旧体制で
尼子や安芸武田に対して支配の深化などの試みなんて全くなく、
甲斐武田のように、分国法によって国主も制限を受ける法治体制による広域領国平均統治。
国主主導で収入を調べ上げ、一旦、領地を没収しそれを国主の名で改めて安堵することで、
領地があくまでも国主のものである表明と生殺与奪権保持。
分国法と検地により信賞必罰の徹底。
有力国人の政権取り込みと連判による立て札による市中通達。
それに応じた兵や武器など軍役負担を課す。
これにより兵の解体、兵種ごとの再編成、国主による兵力配置と布陣図作成による有機的戦略的能力など、
戦国最先端だった甲斐武田の領国統治を大内や織田と同じように語るなど超絶バァカの恥さらしだな。さすが織田チョン。
983人間七七四年:2013/06/09(日) 10:37:07.58 ID:l0mLCkc0
戦国時代最先端の政治制度は国人合議制を強烈なカリスマとリーダーシップで纏め上げて指導する形だからな。
信長のやり方は自らのそのときの気分による私刑を背景にした恐怖で家臣団をも奴隷のようにコキつかって、自分以外を人間を見下して侮っていたのが信長の政治制度と言っても過言じゃない。
984人間七七四年
>>981
そもそもその前に武田信玄が死ぬよ。上洛がなったところで、信玄の病が快癒に向かうわけじゃない。
なんせ甲斐出立を持病のせいで1ヶ月延期しているくらいだ。信玄の死因は結核もしくは癌。どちらも当時は不治の病。
信玄が死んで、阿呆の勝頼にその後の武田が纏められるとも思えんな。長篠でボッコボコにされる原因を作ったのはこいつだし。
上杉・北条・足利・朝倉・三好に連合包囲網組まれて終わりだろ。