早川由紀夫氏
1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない
早川由紀夫氏の引用文献一覧を覗くと、
完全に天正10年の浅間山噴火記録が書かれる晴豊公記や多聞院日記や宣教師の記述があるのを明らかに知らないで書いてる。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じる。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、
勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、
全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解。
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
>>956のような甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。