天正10年の武田攻めを語るスレ 4

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275人間七七四年
>>195>>197>>199>>201>>206
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末。
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。