信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久

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1人間七七四年
よくよく検証すると彼らこそ戦国最強武将だよな。
2人間七七四年:2012/03/06(火) 15:49:28.96 ID:tIuQZ8yO
いい加減な統治というか統制を国人に強いなかったと言う
傘下に入るならなんでもいいよ的な
放任に近いデタラメ内政と言えば
室町幕府へ寄生しただけの織田信長や
単なる一揆盟主でしかなかった元就。
佐竹による指導に反発した国人らが集まった伊達政宗や
財政改革を進めて寺社領などを廃止したりと大友の守護大名からの転身改革のための統制に反発したものが寄り添った島津義久や
謙信の南下に屈して、それまでの政策を北関東では放棄した氏康など。
信長は一職支配権を与えて在地豪族と重臣の私的関係を促進させたために組織化された謀反を蜂起し易くなり下克上された。
これは国主へのクーデターである信虎や大友義鑑と同じ構図であり
信長の後進的な統治である証拠。
政宗の施策に至っては晴宗時代の改革を無駄にして後退し、
関が原において家康の百万石書状で重臣買収をされたほど主家を上回る家臣団の力が温存されていた。
国人への強制力がない毛利の後進性は安国寺も「上方(秀吉軍)はすぐに戦地にやってくるのが、毛利はモタモタしてて戦いにならない」と領土問題で譲歩して和睦するように言ってるほど。
3人間七七四年:2012/03/06(火) 15:55:14.61 ID:tIuQZ8yO
まあ単に国人や豪族の一揆連合のままに肥大化しただけで
統治支配力がゼロの島津や毛利や伊達や北条みたいなのもあるしな。
辺境の島津や伊達は中央の関心が無いから生き残れたが江戸期を通じて国人割拠した封権社会のまんまの後進性。
北条や毛利は小田原征伐や関ヶ原で家中の国人たちの利害対立でグドクド

織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
4人間七七四年:2012/03/06(火) 15:57:18.05 ID:tIuQZ8yO
信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。
5人間七七四年:2012/03/06(火) 16:00:50.89 ID:ZNmJZFaO
最強厨さんちーっす
6人間七七四年:2012/03/06(火) 17:03:01.60 ID:tIuQZ8yO
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
7人間七七四年:2012/03/06(火) 17:05:29.77 ID:tIuQZ8yO

斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
8人間七七四年:2012/03/06(火) 17:11:58.11 ID:xUhSn/70
すごい勉強になるな
めちゃくちゃ論理的で
9人間七七四年:2012/03/06(火) 17:49:18.60 ID:QJ/hI36+
>>1-7
板違いだ
http://engawa.2ch.net/mitemite/

>>8
>すごい勉強になるな
>めちゃくちゃ論理的で

腹いたいwww
10人間七七四年:2012/03/06(火) 17:53:16.81 ID:tIuQZ8yO
大友・大内・尼子・上杉・佐竹・南部らは戦国大名への脱皮のため国人への統制を強めた為に反発離反され
俺の旗の元にくるならお前ら自由だよってな島津・龍造寺・毛利・宇喜多・北条・伊達・最上に国人が逃げ出したんだよな。
結局、そのツケで後者は豊臣期以降においてロクに家中を統制できずグドグドの内部派閥抗争をやらかしてる。
だから大領家臣のような立ち位置が怪しい配下がいるのが後者で江戸時代になってもワガママやり放題で騒動を起こす。


それは言えてるね。
大名家の直参家臣による行政を一国に及ぼすべく
国人を行政の中に取り込む第一段階
それらも自立性を失わせ大名家臣化させる第二段階へ行く前に挫折するからね。
むしろ直参より領地を持ってる国人により政治を専断されやすい。
そして大名は領地拡大に失敗して恩賞も与えられず譲歩するしかなくなる。
いわば自軍に呼ぶ時に甘やかせたので後から条件きつく絞めるなんて反発を喰うだけで当主の挫折でもあるんだよね。
結果、伊達の要害制度や島津の外城制や毛利の支藩や独立を本家から認められてない
岩国藩など藩政に強く影響を与える藩内大名というものが出てくる。
最上に至っては改易されてしまう争いに発展するし。

島津家中の近代化のために三成や幽斎がいろいろ指南したけど
失敗して呆れられてるくらいに国人の抵抗に政治的敗北を繰り返し妥協した義久。
そして国元の停滞ぶりのせいで上方で面目が潰れまくり恥をかく義弘と言う構図だしな。
島津は伊達と変わらん蒙昧な旧弊ぶり。

国人や親類が大領を維持して主家の政治に影響を与える藩は財政崩壊し
藩制改革の機運が生まれるがだいたい失敗して余計に酷くなる。
将軍家から正室をもらうなど家老との対決姿勢を取るも
老中や譜代幕閣ら実力者と結ぶ家老に敗北することも珍しくない。
11人間七七四年:2012/03/06(火) 17:54:05.01 ID:tIuQZ8yO
大友・大内・尼子・上杉・佐竹・南部らは戦国大名への脱皮のため国人への統制を強めた為に反発離反され
俺の旗の元にくるならお前ら自由だよってな島津・龍造寺・毛利・宇喜多・北条・伊達・最上に国人が逃げ出したんだよな。
結局、そのツケで後者は豊臣期以降においてロクに家中を統制できずグドグドの内部派閥抗争をやらかしてる。
だから大領家臣のような立ち位置が怪しい配下がいるのが後者で江戸時代になってもワガママやり放題で騒動を起こす。


それは言えてるね。
大名家の直参家臣による行政を一国に及ぼすべく
国人を行政の中に取り込む第一段階
それらも自立性を失わせ大名家臣化させる第二段階へ行く前に挫折するからね。
むしろ直参より領地を持ってる国人により政治を専断されやすい。
そして大名は領地拡大に失敗して恩賞も与えられず譲歩するしかなくなる。
いわば自軍に呼ぶ時に甘やかせたので後から条件きつく絞めるなんて反発を喰うだけで当主の挫折でもあるんだよね。
結果、伊達の要害制度や島津の外城制や毛利の支藩や独立を本家から認められてない
岩国藩など藩政に強く影響を与える藩内大名というものが出てくる。
最上に至っては改易されてしまう争いに発展するし。

島津家中の近代化のために三成や幽斎がいろいろ指南したけど
失敗して呆れられてるくらいに国人の抵抗に政治的敗北を繰り返し妥協した義久。
そして国元の停滞ぶりのせいで上方で面目が潰れまくり恥をかく義弘と言う構図だしな。
島津は伊達と変わらん蒙昧な旧弊ぶり。

国人や親類が大領を維持して主家の政治に影響を与える藩は財政崩壊し
藩制改革の機運が生まれるがだいたい失敗して余計に酷くなる。
将軍家から正室をもらうなど家老との対決姿勢を取るも
老中や譜代幕閣ら実力者と結ぶ家老に敗北することも珍しくない。
12人間七七四年:2012/03/06(火) 18:14:21.65 ID:ZNmJZFaO
いったい何と戦ってるんだ
シャドーボクシングならチラ裏でやれよ
13人間七七四年:2012/03/06(火) 18:21:15.39 ID:xUhSn/70
すげー勉強になる
文句言う奴はすこしはまともな論文を書けよ
14人間七七四年:2012/03/06(火) 18:27:09.95 ID:TKn5WMb9
良スレだな
15人間七七四年:2012/03/06(火) 18:58:58.51 ID:ZNmJZFaO
>>13
でかい釣り針ですね
16人間七七四年:2012/03/06(火) 19:07:05.93 ID:QJ/hI36+
>>13
どこ「まともな論文」があると?
ここにあるのは根拠無しの創作長文だけっすよ
「すげー勉強になる」って、あんた架空戦記作家になる勉強でもしてんの?w
17人間七七四年:2012/03/06(火) 19:10:27.54 ID:TKn5WMb9
他の連中はともかく輝宗が最強はない。
相馬に何回も大敗して土下座状態だったしむしろ伊達停滞の張本人じゃね
18人間七七四年:2012/03/06(火) 19:21:51.04 ID:8tPoKKCu
根拠なしならその根拠とやらを長文でしめせない時点でお前らはカス
19人間七七四年:2012/03/06(火) 20:13:12.64 ID:ZNmJZFaO
長文=要約できないアホの証
根拠のない根拠=ないものはない 根拠あるならお願いしますよ
20人間七七四年:2012/03/06(火) 23:08:44.97 ID:2K8IRXNy
織田は貫高に応じた動員を課してないザル統治だから、
ドケチな前田は戦いの時に兵が少なく
まつに切れられたり、
佐久間信盛みたいに私腹を肥やして茶会ばっかに金かけるなど
バカ丸出し過ぎ。
結局、信長は織田軍全体の収支や動員力すら把握してないんだよな。
石高から国力や動員力を他大名と比較すること自体が織田に関しては無知の極みでしか無い。
なんせ収穫見込みから動員数負担を割り出すような軍役負担をしてないのが織田。
軍律すらないんだからデタラメ軍。
21人間七七四年:2012/03/06(火) 23:53:45.22 ID:1qHPBwh2










(´・ω・`)?
22バカ:2012/03/07(水) 01:01:55.11 ID:tHblOdA9
晴久が奥さんに石見銀山飲まされて暗殺されたとは真実か
23人間七七四年:2012/03/07(水) 07:55:41.00 ID:Glrh8X7Z
信虎や道三と同じで
古い統治システムで内政無視の信長は家臣に下克上されたバカ
明らかに一世代前のやり方で失敗。
24人間七七四年:2012/03/07(水) 09:48:56.06 ID:QTi5NvNr
成功したのは?滅亡した家は除いて
25人間七七四年:2012/03/08(木) 14:25:28.70 ID:W4/yfasU
>>17
輝宗負けてないんだが…
唯一負けたのが政宗が初陣の時に政宗が失敗した時だけ。
26人間七七四年:2012/03/09(金) 03:06:18.11 ID:hW+5KPyC
>>19
否定する根拠だせばいいだけだろ
お前の相手は根拠出してるんだから、お前もそれをひていする根拠だせばいいだけ
あ、そうかww
信長様の適当領国じゃ資料ろくにないから、根拠出せないんだよねww
27人間七七四年:2012/03/10(土) 11:46:03.52 ID:ZHp1AGGD
織田のテキトーいい加減統治を歓迎する強欲在地国人たちも
絶え間ない軍役に次第に
懲り懲りするようになって謀反続発。
国人たちの意向に逆らえない松永や荒木や明智がやむなく謀反したって感じだな。
松永も自分が軍役で出征したあとに大和で蜂起が起きるから
遠方出征をあまりやりたくなかったので
近江集結の信長の命をやむなくすっぽかしただけで、
謀反の疑いをかけられたし、
荒木にしたって、信長に一度謀反の疑いをかけられたら終わりという信長の性格を持ち出され説得されて謀反した
28人間七七四年:2012/03/10(土) 12:30:12.69 ID:5yK0UlNM
信長はザル統治なのによくそんなに勢力伸ばせたもんだ
結果よければ全てよし、他の大名も見習えよ
29人間七七四年:2012/03/10(土) 12:32:51.38 ID:Ntode1xZ
結果的に秀吉が受け継ぎ無事日ノ本統一
他の大名と同じようにあまっちょろいやり方じゃ日本は崩壊してたな
30人間七七四年:2012/03/10(土) 14:08:27.64 ID:szhHb+2l
結局豊臣は崩壊し徳川が太平の世を築きましたとさ
31人間七七四年:2012/03/11(日) 18:12:28.12 ID:ADO3/QG/
>>28
ザルだから結果は下克上されて畜生みたいな無駄死に。
挙句に別の家臣により屈辱に満ちた傀儡政権にされ
百姓あがりに主家織田一族は生殺与奪の権を握られて土下座。
32人間七七四年:2012/03/11(日) 20:53:28.15 ID:il6/SbLq
もともと織田弾正忠家は家老の家老で中間管理職
そんな家が紆余曲折を経て最終的に江戸期にまで繋げ信雄5万石+一門数万石で結果的に総計10万石近くの大名になった織田家(弾正忠家)。


一方の甲斐武田氏は甲斐源氏の嫡流という名門すぎるくらい名門のお家でありながら
無能当主が2代続いたがために滅亡、徳川家の地位向上に利用されるわ、仇敵上杉家に嫁をつてとして救済してもらうわ、
どこの誰ともつかぬ地方豪族と同格扱いにされて江戸中期に養子縁組で家を乗っ取られた武田家
33人間七七四年:2012/03/11(日) 21:14:58.82 ID:BZmyqJn5
武田は滅びそして伝説へ
織田は生き延びて信成へ

現代でも脈々と日本の歴史の中に息づく武田と
ゲームとテレビの中でしか生息しない織田
34人間七七四年:2012/03/12(月) 19:16:26.47 ID:OwzZbOQR
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
35人間七七四年:2012/03/12(月) 19:16:51.35 ID:OwzZbOQR
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
36人間七七四年:2012/03/12(月) 19:17:18.57 ID:OwzZbOQR

天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)


37人間七七四年:2012/03/12(月) 20:33:06.46 ID:uAIHj5gD
武田が伝説?
ああ一瞬で滅ぼされたってとこかw
38人間七七四年:2012/03/12(月) 20:38:29.65 ID:jJI2Lx2O
それ織田の事だろ
赤井や波多野にボロクソに負ける雑魚光秀に瞬殺されて滅ぼされたカス
39人間七七四年:2012/03/12(月) 20:42:14.25 ID:ic1acPCM
岩倉伊勢守家と清洲大和守家は完全に崩壊してて実権なんて持って無かった。

つか義龍名将過ぎだから、早逝が実に惜しい。
40人間七七四年:2012/03/14(水) 07:09:22.44 ID:F4VcILk2
>>36
さすが義龍!
>>39
信秀時代後期の大和守や伊勢守には軍事動員権を行使した形跡が一切無い。
誰も従わなかったと思われる。
41人間七七四年:2012/03/14(水) 20:35:31.67 ID:XQur0jE3
出家した信秀にきっちり後見しても
42人間七七四年:2012/03/14(水) 20:40:02.87 ID:XQur0jE3
出家した信秀にきっちり後見してもらいながら、
しかも尾張+大垣城+水野ら三河大身も織田方。
さらに信秀死後は道三がしっかり信長サポート。
しかし信秀が付けてくれた信長側近守役が愛想を尽くほどキチガイ信長。
おかげさまで道三死んで義龍になると、
たった五年で尾張半国を奪われるアホっぷり愚主信長…
43人間七七四年:2012/03/15(木) 20:55:16.21 ID:astslNZC
龍興の無能さが果てしないレベル
44人間七七四年:2012/03/15(木) 21:29:42.58 ID:G0mHbt3Y
まあその信長は尾張支配し美濃も支配したんだが
生き残ったモン勝ち
45人間七七四年:2012/03/16(金) 07:06:51.46 ID:LWQamIkT
戦に負けまくる大名は
とにかく仲間が欲しいから
軍役に従うなら内政関与しないし、
強圧的な対応もしないからって感じで
一円一律で内政や編成や序列化すらしないから
国人も今までと変わらないならって参加して、
かえって戦に弱い常敗側が元就や信長や政宗や義久みたいに勢力拡大できるんだよね。
逆に守護大名から戦国大名へ進化しようとしたりで、
傘下から統制下に置き配下にして、引き締めていこうとした大名権力強化を目指した戦に強い宗麟や義重や謙信らは勢力の伸び悩みと離反が多い。
46人間七七四年:2012/03/17(土) 09:38:05.65 ID:m9dkG3Ap
>>36
義龍にあと3年の寿命があれば、
信長は虐殺され斎藤が尾張を制圧し上洛してたな
47人間七七四年:2012/03/18(日) 07:25:01.83 ID:l6hP5WdY
義龍の尾張における調略能力が凄いのか、
信長が超絶無能なのか判断に悩むな。
48人間七七四年:2012/03/18(日) 08:24:48.86 ID:zZ5CfwKp
あと3年寿命があれば(笑)
敗者の負け惜しみwwwwwwwww
寿命なんてのは死ぬべくして死ぬもんだwww
49人間七七四年:2012/03/18(日) 08:56:29.65 ID:9VqhBgY1
寿命で死ぬのは自然の理だが
謀反で死ぬのは本人の資質だなw
50人間七七四年:2012/03/18(日) 09:02:19.59 ID:i+ml8TrP
本人の資質は改善の余地がある。
自然の理は改善不可能だから天と地ほどの差があるなw
51人間七七四年:2012/03/18(日) 11:31:47.60 ID:6kSj/zEB
>>48
おっと織田信長の悪口はそこまでだ。
52人間七七四年:2012/03/18(日) 19:39:24.43 ID:ApI8EWqt
>>45
戦に弱い大名が版図を広げた場合は
国人らの発言力が強く、
下克上され易くなる。
豊臣政権下で三成らに家中改革を指南されながら、
内乱を恐れ改革出来ずに呆れられた島津とかダメダメ過ぎ。
53人間七七四年:2012/03/18(日) 23:44:26.21 ID:71r8N0y1
>>51
無知は黙ってな。

>>52
島津が検地を強行して大成功したの知らないんですか?wだがさん
54人間七七四年:2012/03/19(月) 08:07:53.09 ID:Q0aOKIWH
連呼リアンキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!
55人間七七四年:2012/03/19(月) 09:36:14.67 ID:C7DZ/66j
内政改革出来ずに細川にまで呆れられた島津
56人間七七四年:2012/03/19(月) 10:42:51.91 ID:5n2Da5XJ
>>53
ソースは?
57人間七七四年:2012/03/19(月) 15:04:58.38 ID:Nv/IRtXB
醤油ならありますが(;´д`)…
58人間七七四年:2012/03/20(火) 16:20:10.24 ID:emQYe3r/
>>54
まだ懲りてないのかw
逃げてばっかいないでかかってこいよw無知な荒らしクンwww

>>56
つ『島津義弘の賭け』
59人間七七四年:2012/03/20(火) 18:18:57.77 ID:qBDdx386
たかだか820円程度のその本レベルじゃ、
論文じゃないからソースにはならんでしょ。
60人間七七四年:2012/03/20(火) 19:02:02.15 ID:F+fuIrIz
論文を土台にした会話以外お断りなら、
君は2ちゃんねる向きではないな。
61人間七七四年:2012/03/20(火) 19:27:41.13 ID:emQYe3r/
>>59
で、さ。
島津が検地やってないっていう一次史料はまだなの?w
62人間七七四年:2012/03/21(水) 20:37:26.67 ID:/ktOkX1a
政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる
63人間七七四年:2012/03/21(水) 23:09:03.87 ID:tdXctHNg
何年に島津が検地したの?
64キツネのレックス:2012/03/21(水) 23:12:45.10 ID:zXpQuWYF
さつまいもが主食の島津に検地の意味があるのかと
65人間七七四年:2012/03/22(木) 23:01:20.52 ID:+7T9d6Cc
封権の昔のままの外城制の島津が島津領内をあまねく検地?
ないないw
66人間七七四年:2012/03/23(金) 00:09:59.36 ID:PM26fWgh
島津なんて宗教問題で混乱してた大友領火事場泥棒しただけだよな
耳川なんて大友3軍部隊の上に田原が勝手に退却するなど滅茶苦茶な状態だったから負けただけだし
普通に戦った戦闘じゃむしろ撃退されまくり。
宗麟がちゃんと主導権握って戦ってたら100%島津に勝ち目なかっただろ
67人間七七四年:2012/03/23(金) 06:52:04.59 ID:3B1OK8PB
耳川の戦いの軍議が
田原主導で、
どうやってキリスト教を排除するかの議論ばかりだったからなあ。
だから田原は島津と和睦するつもりで戦うつもり一切無かったし。
68人間七七四年:2012/03/24(土) 09:13:32.62 ID:cZ9ym3Vj
神社壊しながら進軍したんだろ?
遊戯もうやめて!兵士の士気はゼロよw
69人間七七四年:2012/03/24(土) 21:27:51.23 ID:JjBZX7Z1
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
70人間七七四年:2012/03/25(日) 00:28:03.09 ID:azxi54O/
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
71人間七七四年:2012/03/25(日) 12:59:57.26 ID:azxi54O/
S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
72人間七七四年:2012/03/25(日) 16:07:07.91 ID:boSddDYB
>>58
あぁひょっとして文禄3年9月からやった
豊臣政権の嫌がらせのこと?
22万石しかなかった島津領を
一気に57万石まで跳ね上げて役儀負荷させまくり
薩摩農民が地獄の苦しみを味わったってやつw
サツマイモしか採れない痩せた土地で
鬼収奪しまくりで関が原の前年からまた国人一揆が発生して
善人顔した家康が内心喜んでたヤツだろw
73人間七七四年:2012/03/25(日) 16:16:13.78 ID:xG/AK963
薩摩芋は江戸時代以降だバカだが
74人間七七四年:2012/03/25(日) 16:42:44.80 ID:20sOImjx
痩せた土地で芋以外のなにができるのか気になる
75人間七七四年:2012/04/01(日) 14:42:29.66 ID:oSEv2uDc
海賊行為で中国沿岸を略奪しまくって生計を立てていた
薩摩人に対して秀吉は海賊行為禁止令を出したから
さらに貧困になった島津に鬼検地とか悪魔すぎw
76人間七七四年:2012/04/22(日) 01:01:14.06 ID:gDm0Q3AN
秀吉は島津家を内部分裂するように仕向けてるからねぇ。
義久・義弘の2人を当主にしての両殿体制という歪な体制へ移行させている。
その移行過程でどっち側に味方するかの内部抗争において家久・歳久を殺させている。
77人間七七四年:2012/05/13(日) 16:12:13.48 ID:mPEJkY0E
信長なんてザコだからなあ
78人間七七四年:2012/05/20(日) 19:34:58.01 ID:xlHExFKW
信長は生まれた場所が良かっただけ。
しかも次々に有力大名が死んでくれたし
運だけ人間。
天才秀吉がいなかったら
信長は近江で浅井に殺されてただろう。
79人間七七四年:2012/05/20(日) 20:44:40.87 ID:OJkFrlRP
定期的に沸く信長雑魚説
しかしその信長に倒された大名は数知れず
80人間七七四年:2012/05/20(日) 21:06:54.43 ID:sh25fJ87
このメンバーって自分が死んだ後、国が乱れてないか?
81人間七七四年:2012/06/14(木) 12:10:22.08 ID:sqRAU7+v
元就も連戦連敗して結局、晴久に勝てなかったもんな。
82人間七七四年:2012/06/25(月) 10:24:48.88 ID:J2cM59Xk
大友義統と尼子義久の無能さは神
83人間七七四年:2012/06/30(土) 11:12:54.47 ID:zpMkgvVy
信玄はいらない
こいつ死んだ後僅か9年後に名門甲斐武田氏滅亡してるし
こいつが死んだ時武田がどんだけ詰んだ状態だったかよく分かる
信玄の重税と軍役賦課で国内は疲弊し切っていたし、同盟破りまくりで
武田に対する信用は皆無、四方八方から攻め込まれて裏切り続出で
内部崩壊するのも当たり前
84人間七七四年:2012/07/05(木) 17:50:21.16 ID:vpSM+lVa
>>80
二代目は親父の同僚を超えないといけないからな。
親父世代が優秀であればあるほど厳しい。
85人間七七四年:2012/07/05(木) 18:00:18.18 ID:/JUABoty
>>83
織田厨乙
86人間七七四年:2012/07/05(木) 19:51:17.81 ID:vpSM+lVa
>>83
疲弊や信用とか言い出したら、武田は信虎の時点で詰みだな
のぶやぼ脳には、ほんとかなわんわw
87人間七七四年:2012/07/07(土) 12:01:19.16 ID:pPMzIIJI
>>83

今後のキチガイ捏造織田チョンへの反論テンプレ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/648-654

織田厨がキチガイなのは天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが
昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも
信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。
金山が枯れはじめたというのも一次史料には存在してない妄想でしかない。
88人間七七四年:2012/07/12(木) 21:43:16.07 ID:lZnRyYbs
謙信公以外は雑魚
謙信公は信長が最も恐れた戦国武将
その威光は死んでなお健在で
秀吉さえも上杉と戦うのは
恐れ多いと影勝を五大老に抜擢
武田征伐時も上杉攻めを信長は躊躇ったという
死せる謙信生ける信長を走らすという諺はあまりにも有名
89人間七七四年:2012/07/13(金) 08:59:47.05 ID:Bm5IDJWK
信玄公に攻めこまれて謙信に無様に泣きついてる姿は最高だな>>信長
90人間七七四年:2012/07/14(土) 11:25:23.75 ID:61wPxEL0
謙信の上洛戦にビビって勝頼に同盟依頼の土下座をして拒否られた信長・・・
91人間七七四年:2012/07/17(火) 05:18:41.57 ID:7djtdF1c
おらのぶながといいます。さまあじゃんぼで3億円当たりました。
おともらちの信玄たんはこつこつ5年もかけて1億円がやっとです。
なのでおらが最強です。光秀たそw
92人間七七四年:2012/07/17(火) 08:28:28.51 ID:7qmq1oKM
織田厨の書いてることって90年代に
コーエーが出版したノブヤボの武将ファイルに書いてある
信長紹介の内容とそっくり過ぎて笑えるw
アスペが原因で就職できずに自宅警備員やってる
おっさんが昔の知識で自演やってんのモロバレ。
93人間七七四年:2012/07/17(火) 11:38:19.86 ID:NALEdnjK
信長にやられた武田が如何にゴミクズだったかよくわかるな
94人間七七四年:2012/07/17(火) 21:15:05.94 ID:lDqrwG5X
アンチ秀吉・三成のバカ織田チョン乙
95人間七七四年:2012/08/08(水) 12:28:19.69 ID:3YNZAJIg
織田なんて厨の自慰レスばっかで低脳
96人間七七四年:2012/08/08(水) 15:17:35.68 ID:3UERgDvB
97人間七七四年:2012/08/31(金) 11:48:57.95 ID:FewJxgdL
勅命頼りで滅亡逃れを繰り返していただけの信長
98人間七七四年:2012/09/14(金) 20:50:03.60 ID:kRYENnV/
晴久はあと10年寿命あったら、
毛利を潰し上洛していたのは間違いない
99人間七七四年:2013/06/22(土) 11:06:14.05 ID:5xspctLN
>>42
しかも死ぬ間際の信秀は今川に和睦して欲しかったら
城を差し出せと言って城までもらってる
超上から和睦を結んでるほど威勢があった。
100人間七七四年:2013/06/27(木) 08:52:02.17 ID:ZHVepmf8
朝倉義景も信長に連戦連勝した名君。
将軍が信長に降伏して、将軍分国の若狭が不安定化した為に、
退路確保で急ぎ敵前退却するハメに陥り追撃されてなければ信長をぶっ殺してた。
101人間七七四年:2013/06/30(日) 09:57:35.54 ID:TukDea0U
↑もう少し勉強しようね、ガチ無知君w
102人間七七四年:2013/06/30(日) 12:51:21.12 ID:W4MkKgMc
朝倉軍って実際、織田に負けたことないよね。
撤退中に尻を噛まれた時以外は。
朝倉が本気だした志賀の陣のあとでは
天下は朝倉殿が・・・って天下が朝倉のものになったし。
それで六角が入京する時に織田軍のように乱暴しないように
朝倉は六角へ、入京する時に注意してるし(顕如上人御書札案留)
信長が再入京を果たすのは、志賀の陣での降伏条件である
比叡山への荘園全返却をやると織田家が破綻するために比叡山を襲って略奪し
入京後に京民へ税をかけて、それを資金に高利貸しを強制した時だね。
103人間七七四年:2013/11/07(木) 22:24:47.47 ID:XEaoStyJ
信長は最弱だろ。
天皇の力に依存してたじゃん。
104人間七七四年:2013/11/09(土) 14:20:52.28 ID:xaIEsehE
なるほど名君認定していいんじゃないかな。
ただ晴久は早死にしたので、はっきりわからんところもあるのが残念だね。
105人間七七四年
義景は加賀一向宗を威圧する為に、
坂井郡で1万人規模の犬追物っていう騎射を競う大規模軍事演習を永禄4年4月にやってるからなー。
頼朝が由比ヶ浜でやった犬追物を余裕で上回る規模だった。
家光も薩摩藩の犬追物を観戦してる。