信忠の援軍も上月城に籠城する尼子を見捨てろ命令とセットで信長が毛利との決戦を避けただけで
秀吉はメンツ丸つぶれ。せっかく尼子軍と秀吉が共同して毛利の先陣でやってきた
宇喜多軍を撃破して上月城を落城させ播磨但馬両国を平定成功し士気があがってたにも関わらず。
そもそも三木別所が離反したのは赤松家臣として同列だった別所と浦上の関係を無視して
浦上の配下に別所を繰り入れた信長の失策が原因
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/535 さらに秀吉同様にほとんど準備もなく信長の気分で丹波へ派遣された光秀が案の定大敗して
秀吉は畿内との連絡も断たれる中で独立勢力同然に孤軍奮闘していた。
絶望的なのは信忠の軍も東播磨の神吉・志方郡でチョコっと軍事行動したらさっさと帰り
(6/16に秀吉が上洛して報告→三木城の支城で神吉城は7/20落城し、それをみた志方城は人質を出して8/10開城)
三木城攻めは実質、秀吉軍独力でやっていた。毛利水軍の兵糧運び込みも阻止するために秀吉は各地に砦を造り毛利軍の排除を行っている。
しかも同時に光秀の苦境を救うために秀長の但馬衆4000を三木城包囲から抽出して西丹波へ侵攻させ
無茶な夜久野高原迂回奇襲で波多野氏が何ら手立てを及ぶ前に天田・何鹿郡をわずか7日で平定し、
波多野氏の本拠地の氷上郡へ乱入。これに光秀軍も合流してきて落城に追い込む。
天正7年に入り、吉川元春が但馬攻略を目指し「八木・竹田をまず抱えて」と竹田城に付随する銀山再奪取を目指し
毛利方に呼応した但馬衆と合流すべく8月に但馬へ大軍で侵攻してくるが
元春の背後の南条元続と宇喜多直家を秀吉が調略して元春の背後を封鎖し、
元春に味方した因幡の山名豊国の動向すら怪しくなってくるし、丹波派遣中の秀長軍も来援との風聞を流す。元春が逃げ帰る中で、
毛利に呼応した西播磨の国人達を制圧するや毛利方に呼応した但馬衆は秀長6000でフルボッコ、秀吉は因幡へ侵攻開始。