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人間七七四年:
敵対勢力の捕虜を無闇に殺害せずにすませる関東流の流儀による人身売買について
信玄の人身売買 勝山記(妙法寺記は亜流)の天文15年の項に記述されているのは下記
浅間山周囲に陣を構えた関東管領の大軍を板垣・甘利・横田・多田といった武田軍が大破し敵大将15人と3000を討ち取る。
その後、志賀城が落城し依田一門や高田一族や志賀殿御内6兄弟のうち
300ばかり討ち死にし男女を生け捕り甲州へ引きつれ2貫、3貫、5貫、10貫にても親類ある人は請け申したと書いてある。
読み解くとあくまで抵抗した志賀城に篭城した志賀や高田や依田の一族郎党が生け捕りになり
本来殺されても文句が言えないが死を免れ、親類の経済力に応じて
それぞれ身分に応じた金額で人質を親類へ返還したということが書いてある。
しかし待ってほしい。志賀城落城は天文16年(晴信25歳)であり、
この日記が後世の歪曲された伝聞記録の可能性が高く、一次史料ではないので信憑性が低く、
数ある史料の中でも信玄が人身売買したと記述しているのは
なぜかこの志賀城攻めでのたった1回だけである。本当のことなのか疑問が残る。
謙信もたった1回だけ奴隷売買をしている。それは小田城落城後に奴隷売買(20銭〜30銭で飯代レベル)をやっているが、
そもそも謙信は初めて関東出兵した際に簗田氏に、自分は関東のことに不案内なので、
なんでもあなたの言うことに従うので助言をしてほしいと頼んでいたり、
結城氏などが小田氏のことは自分に任せて欲しいと一任を願い出ていたり、
そもそも佐竹義昭の死去に乗じて懲りずに反旗した小田氏という下衆な行為に対する懲罰的行為なのでは・・・
謙信の意思というよりも関東諸将の意思であろう。しかも土浦へ逃亡した小田氏が詫びを入れたら
せっかく占領した小田城を返還してやる領土欲の無さが謙信。