しかし農民出身なのに天下人までのぼりつめるとは

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1
秀吉の才能が凄いものがあるな
世界に例が無いんじゃないの?秀吉みたく平民から
天下人まで上り詰めた例って

古今東西秀吉だけじゃね?
2人間七七四年:2011/11/18(金) 17:51:35.42 ID:obEB9Ax3
平民ってなにさ
3人間七七四年:2011/11/18(金) 18:39:45.76 ID:Zu+FrBjO
>>1
劉邦って奴を知ってるか?
4人間七七四年:2011/11/18(金) 18:46:59.50 ID:klapA1WZ
>>3
幾ら浅知恵クソコテの>>1でもそれくらいは知ってるだろう
古今東西ってのはギャグだったんだよw!
5人間七七四年:2011/11/18(金) 21:45:40.57 ID:F/5vfSQn
羊飼いから一国の王になった人もいるよね
6人間七七四年:2011/11/18(金) 22:43:21.35 ID:rupcdsgM
俺だな!
今に天下取ってやっからよ〜
一人だけどよ〜
頑張るからよ〜
7人間七七四年:2011/11/18(金) 23:03:49.97 ID:dnuLHagf
いまのところNO.1アホコテだと思う。
知識、理解力の部分で他を圧倒してる。
8人間七七四年:2011/11/19(土) 00:43:31.13 ID:VM0diAQN
農民出身とか恵まれすぎ
バイバルスなんて奴隷からスタートだし
9人間七七四年:2011/11/19(土) 01:19:44.38 ID:iAFmNlre
明朝涙目w
10人間七七四年:2011/11/19(土) 01:57:43.60 ID:7EefVkAo
田中角栄は?
11人間七七四年:2011/11/19(土) 16:01:25.70 ID:Aibu3AYO
信長信忠が同時に死ぬって空前絶後の大棚ぼたがあってこそだがな
12人間七七四年:2011/11/19(土) 17:59:57.75 ID:7IDgS0Ig
その棚ぼたをきちんと拾えるのも才能
現代にだって10年くらいまえの空前の新興株バブルやネットの技術革新があったわけだが、それで大成功を収めたやつはごく少数
13人間七七四年:2011/11/19(土) 18:06:22.58 ID:ySr+yqrD
大日本帝国を崩壊させた辻とか瀬島とか
14人間七七四年:2011/11/19(土) 22:03:07.00 ID:1dzQZNnx
世界全体で見て、秀吉級の超成り上がりに成功した人物ってどれくらいいるんだろうか
下っ端雑魚から大名まで行った藤堂高虎とか尾張の小大名から天下統一秒読みまで行った信長も十二分に成り上がったと思うけど、それでも秀吉と比べたら霞みまくるな…
肉屋から大将軍になった何進や、わらじだか草履だか売ってた身分から三国の一角を占めるまでいった劉備もランクアップしまくった方か
でも秀頼しかり、劉禅しかりで急激に出世しまくっても後が続かんってパターン多いな
15人間七七四年:2011/11/20(日) 01:13:33.31 ID:dJVyEoTI
>>11
似たような状況でズタボロにされた滝川一益のことを思えば、
とてもじゃないが棚ボタなんて言えないと思うが。
16人間七七四年:2011/11/20(日) 10:37:25.14 ID:6HyfvM6J
美濃攻略の立役者にして
浅井と朝倉を小勢で長期間押さえつけた軍略の天才秀吉。
手取川の敗戦を予測し
さっさと逃げる見通しの良さ
あきらかに秀吉のおかげで
信長は成長している。
17人間七七四年:2011/11/20(日) 19:36:01.45 ID:mImF5+b8
アホスw
そもそも美濃攻略の時はまだ秀吉が家臣にいたかどうかすら分からないのにwww
18人間七七四年:2011/11/20(日) 19:52:05.90 ID:0GrsyPz7
>>17
坪内文書も知らんのかボケ!!!
19人間七七四年:2011/11/20(日) 19:55:44.39 ID:MjIrz/rh
>>10
近代なら世界でもいくらでもいるだろが。
毛沢東とかもそうだし。
18世紀以前で考えるべし
20人間七七四年:2011/11/21(月) 05:12:47.21 ID:rXhqyGLW
>>14
素姓が弱いと家そのものへの求心力が弱まるというかなんというか…

>>19
伍長閣下とかな。
21人間七七四年:2011/11/23(水) 07:26:35.19 ID:uToUT5rj
スタァーリンとかレーニンもその類ですなぁ。
22人間七七四年:2011/11/24(木) 09:45:50.01 ID:ab67qHo7
>>18
それ、美濃攻略が始まってから大分あとだよね。
23人間七七四年:2011/11/27(日) 11:13:02.47 ID:PCz8tsV7
世界まで広げたら
ダビデ王がいるだろ?
あそこは息子も国王を継承してる。
秀吉みたいに息子に地位を継承することも出来ないような失敗をしてない。

せいぜい、日本ではくらいじゃね
24人間七七四年:2011/11/27(日) 12:46:56.88 ID:oDfMWRb7
ダビデの場合は神様のご指名だからなぁ。
25人間七七四年:2011/11/27(日) 12:50:23.30 ID:PCz8tsV7
>>24
秀吉には日吉神社とやらの御神託がなかったっけ?
26人間七七四年:2011/11/27(日) 13:01:17.64 ID:oDfMWRb7
それは自分で言ってるだけ。ダビデの方は旧約聖書に書いてある。
それを否定したらユダヤ教もキリスト教も成り立たん。
27名無し@一足軽:2011/11/28(月) 05:11:19.55 ID:sEf2tgaS
秀吉が農民出身なんて誰が決めたのさ。生前の秀吉は自身の出身なんて一言も語ってない。
”豊鑑”の記述なんて2級の資料さ。愛知県江南市の郷土史家によると秀吉の出自は16通り位
有るらしいが、現在では全くわからないそうだ。ただ、生まれた場所は、尾張中村ではなく
旧甚目寺町(愛知県あま市)と言うことはわかっているそうだから、そう身分の低い家では
無かったようだ。余談だが信長の生誕地は以前は名古屋市古渡と言われてきたが、現在では
愛知県津島市と断定されている。
28人間七七四年:2011/11/28(月) 06:23:25.60 ID:oaUDqGky
貧農説はほぼ嘘っぱちだろうけど、そこまで誇れる出自ではなかったろ
地侍か平民程度
29人間七七四年:2011/11/28(月) 10:22:17.20 ID:TbxRTQZa
>>1
明の朱元璋って知っているか?

まず、秀吉は、平民出って言う、よくわからない身分の出ではないと思うがどうか。
30人間七七四年:2011/11/28(月) 11:36:39.91 ID:rFt7QLWr
秀吉もだけど秀長もやべーよ
あの兄弟何者だよほんと
31名無し@一足軽:2011/11/28(月) 21:12:34.37 ID:BTCGnyfp
↑27の続き
この16通りに中には先祖が京から流れて来た貴族の末裔と言う説も含まれている。
32人間七七四年:2011/11/28(月) 21:34:01.88 ID:ZYCC3cJP
>>1
ブルガリアのイバイロってやつ知ってるか?
33人間七七四年:2011/11/28(月) 23:18:18.17 ID:ph4Jij9g
明智光秀に感謝こそすれ、憎しみなんか抱かなかったろう
大恩人なわけだから
死体も発見されなかったみたいだし彼が匿ったんじゃね?
34人間七七四年:2011/11/29(火) 01:15:05.18 ID:B2d02Yf7
間違いなく日本史上最も出世した人物だな
次が今太閤こと田中角栄
35名無し@一足軽:2011/11/29(火) 20:30:44.05 ID:tKlWJukm
>>28
秀吉は文字が書けたから、幼少教育は受けていたのだろうな。
あながち平民とは言えないかもな。
それか、寺で習ったたのならそう低い階層でなかったのかもしれない。
36名無し@一足軽:2011/11/29(火) 22:34:23.46 ID:ZUXZgKI6
>>34
田中角栄は最初の選挙で落選している。立花隆氏の”田中角栄研究”に書いてあった。
この落選が後の”金権選挙”につながるってことだそうだ。
37人間七七四年:2011/11/29(火) 22:38:33.80 ID:XCVtA/Cd
連雀商人みたいな行商人だろ
38人間七七四年:2011/11/30(水) 01:37:46.50 ID:vVLTqfV9
実際農民なんて、刀狩までは半農半士みたいなもんだし
農地解放以降はそこらへんのリーマンよりはずっと資産持ってるし
天下人になるのに農民が他の職業や身分に比べて特別ハードルが
高いわけじゃないだろ
一番難しかった時代は江戸時代と近代ということになるが
それは他の職業でも一緒だし
39:2011/11/30(水) 07:07:11.53 ID:Vl8LfO4t
信長時代にも有名だったんだろ、羽柴秀吉の立身出世はさ
遠く東北の武将でもその噂知ってて秀吉と対面した時
あなたが有名な秀吉さんかって感激した話読んだことあるし
天下取らなくても秀吉のサクセスストーリーは華があると思うけどな
40人間七七四年:2011/12/01(木) 21:44:00.05 ID:/N52imxe
>>1は全レスしろよな。
で、古今東西と仰いますが、ユスティニアヌス朝の開祖ユスティヌス1世、
マケドニア朝の開祖ヴァシリオス1世のことは当然ご存知ですよね>>1さん。
41人間七七四年:2011/12/04(日) 16:44:38.17 ID:XUNtWA3e
世界中探せばたくさんいるよね
42人間七七四年:2011/12/05(月) 20:42:59.54 ID:na5iFXcF
>>38


昭和のはじめの20年間が一番ひどい扱いだろ。
米はお国に強制供出。


男は満州、千島からニューギニア、オーストリアにインドあたりまでばら撒かれて
餓死、病死、水死、爆死とありとあらゆる殺され方だもんな。
43人間七七四年:2011/12/06(火) 12:18:47.20 ID:GeOfdNke
いや、江戸時代の方が酷い。
農民出身で兵隊で出世した奴はいるが、江戸時代は皆無。
金出して武家株買えば武家として出家は適うかもしれないが、
それならば学校行って学問修めればある程度なんとかなる明治〜昭和の方が
遙かにマシ。
44人間七七四年:2011/12/07(水) 07:37:05.55 ID:af/2dbYF
>>43
そんな理屈は、ここじゃ通さない(≧∇≦)
45人間七七四年:2011/12/07(水) 07:55:22.91 ID:XFKMCW+7
戦中は軍閥に守られた無能が采配を振るう最悪の時代だな
46人間七七四年:2011/12/07(水) 10:45:39.78 ID:KEu/iiAL
>>44
何この自分勝手
47人間七七四年:2011/12/07(水) 13:03:30.23 ID:hEuFSDFt
秀吉って織田家の史料に出てくる頃には既に一軍の部将格なんだっけ?
どういう経緯で部将にまでなったのか解明されるのだろうか
やっぱり今後も三日普請とか墨俣一夜城なのかな
48人間七七四年:2011/12/10(土) 23:38:01.94 ID:QzFp2gBi
そこが不思議なんだよなぁ・・。


前田とか小出とか木下とか浅野あたりになんか記録のこってないんかと思うくらいに?
49人間七七四年:2011/12/21(水) 03:33:58.48 ID:4Exz5na3
やはり商人じゃね信長、商業を重視してるし
50人間七七四年:2011/12/22(木) 07:40:56.59 ID:nyuHuxYe
野田は?
ガス検針員>総理大臣
51人間七七四年:2011/12/23(金) 20:20:50.34 ID:I0w3cFfU
>>27
信長は勝幡城ですね。

http://sakuraoffice.com/syobata.html
52人間七七四年:2011/12/23(金) 20:32:01.64 ID:gmuiD/5F
>>47
一等資料でなければ武功夜話に記述ある
53人間七七四年:2011/12/23(金) 21:02:32.03 ID:0+plca0e
木下氏は織田一族だからなあ。
やっぱり秀吉は親族じゃないかねぇ。
54人間七七四年:2011/12/24(土) 08:32:26.77 ID:L0ZyRKjD
>>53
織田一族なの?
55人間七七四年:2011/12/24(土) 09:02:07.58 ID:ZbHvOigu
秀吉親族は文化人揃いだし本人もそれなりに造詣が深い
織田以上の名門でもおかしくないのでは
猿とか6本指に騙されてはダメ
56人間七七四年:2011/12/24(土) 14:48:29.31 ID:cXgdQKbu
>>55
織田以上の名門という事はないだろう。
家康と家康の家臣が秀吉を「野人」と評していたのだから。
57人間七七四年:2011/12/24(土) 16:08:51.27 ID:Rsqy+A3r
そもそも妻方の木下姓を名乗っている訳で、
この時点で武士身分や裕福な「名字の百姓」であった可能性は極めて低い。
58人間七七四年:2011/12/24(土) 16:35:36.15 ID:3zoaF2rJ
木下や津田は織田一族だよ。
しかも木下は妻の名字ではなく
秀吉が妻の家族に与えたものだとする説もある。
59人間七七四年:2011/12/24(土) 20:40:26.05 ID:9JdYGZfY
江戸時代のガッチガチの身分制度の中で
農民から一瞬でも大名になった近藤勇もお忘れなく
60人間七七四年:2011/12/25(日) 12:02:40.48 ID:LWomy4Hm
>>57
嫁って木下氏か?
苗字が杉原だってのは何かで見たが
浅野に養子で出たってことなら、浅野の親戚と考えるのが妥当だろ?
嫁が木下氏なら浅野も木下氏の可能性が高くなるんだが?
61人間七七四年:2011/12/25(日) 15:44:10.26 ID:w5U/8MZA
世界で見れば明の太祖朱元璋だろう
いわゆるエッタヒニンから中華皇帝まで上り詰めたわけだから

ただ、血筋が重視された日本社会で支配者まで上り詰めた秀吉もなかなか
62人間七七四年:2011/12/26(月) 18:00:20.98 ID:OZ3pORFr
>>59
ガチガチの身分制度は崩壊寸前、あとはどうとでもなれの大安売りですよw
63人間七七四年:2011/12/26(月) 18:11:04.08 ID:pDOJ/y7H
>1
カエサルやナポレオンも平民だった。
64人間七七四年:2011/12/26(月) 19:36:49.40 ID:Ust2/8TI
>>1
管直人は市民運動家だった
65人間七七四年:2011/12/26(月) 23:20:54.79 ID:XFs51FSX
ヒトラーの父は元靴職人でヒトラーの出自も怪しい(ユダヤ人かもしれない)
………というあたりまで広げると、なんでもでてくるw
66人間七七四年:2011/12/27(火) 00:03:14.57 ID:lA0lqIUa
>>63
wikipediaには「ユリウス氏族カエサル家は、このように古い系譜を有する名門中の名門であり
貴族(パトリキ)であった」と書いてあるが、嘘か?
67人間七七四年:2011/12/27(火) 01:30:50.71 ID:0MYgzRA+
そういえば、徳川家康が賎民の出だと言う話もありましたね。
たしか、『カムイ伝』がその説を採っていたのでは。
こうなると、家康が秀吉をぬきかねないw
68人間七七四年:2011/12/27(火) 02:48:48.03 ID:2ob9LG5K
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
69人間七七四年:2011/12/27(火) 09:05:40.76 ID:xIs+CAev
それ、天正記の出鱈目だよ。内容違うし。
70人間七七四年:2011/12/27(火) 23:38:19.49 ID:KOyKP96B
それなら義久が「どこの出かも知らん関白に〜」の書状が
全くのアホになるじゃんか
名家はねーよ 馬鹿か
71人間七七四年:2011/12/28(水) 18:23:58.14 ID:pE6NQ6Vp
母子家庭で貧困、再婚相手が半農だっただけで
それなりの出自であったと思うよ
72人間七七四年:2011/12/29(木) 11:02:53.37 ID:I1J9YJtw
半農というか帰農したって言われてるのは再婚相手じゃなくて前の父親な。
鉄砲足軽木下弥右衛門。
73人間七七四年:2011/12/29(木) 20:26:32.99 ID:HsZD5Xat
>>71
それなりならバカにはされなくないか?
ていうかある程度残ると思うが
74人間七七四年:2011/12/29(木) 22:01:05.40 ID:Wr1CNzv0
秀吉の出世が華やかに見えたのは、出身もあるけど
信長や家康が大名→天下人なのに
秀吉が、家臣→天下人というところもあるのでは。
また、家康の征夷大将軍は、形の上では「武家の棟梁」にすぎないが、
秀吉の関白は天皇に次ぐ最高位。
75人間七七四年:2011/12/30(金) 17:28:35.96 ID:UyLgY+EK
>>72
木下弥右衛門って、鉄砲が尾張に普及していない時代の鉄砲足軽という超人的な人ですねw
76人間七七四年:2011/12/30(金) 18:01:29.01 ID:pD+P03yU
少なくとも城勤め出来るだけのコネが有った身分だったとは思う。
77人間七七四年:2011/12/31(土) 22:23:58.08 ID:ykV3poYE
でもそれって平民一般よりちょいマシ程度だよね
てかコネは独力じゃね
身元がはっきりしないほどしょぼい出なのはよくわかるな
78人間七七四年:2012/01/01(日) 08:21:11.70 ID:ikVHtGi8
おそらく小六んとことか又衛門さんあたりとお付き合いできる程度の家では・・。


79人間七七四年:2012/01/27(金) 00:02:54.98 ID:hWYRyhFE
読み書きは学べる程度の余裕がある家に産まれて
それを売りに川浪衆の蜂須賀党につかえて出世したんじゃないかな
異常に優れた交渉能力の高さを買われて織田家に小六の代理人として出向し
織田家に出入りする頃には既に相当な権能を振るってたんじゃないだろうか
弟に比べると教養にかけるけど年若い頃に家を出奔して学問を身に付ける期間が短かったんだと思う
80人間七七四年:2012/01/27(金) 07:45:25.42 ID:FoC/dtI5
読み書きは少年時代に寺に入って学んだのではないのか?
81人間七七四年:2012/01/27(金) 17:30:56.66 ID:AZUl9z9L
>>80
ノンケだから違うと思う
82人間七七四年:2012/01/28(土) 13:24:14.93 ID:G83brcF8
中世尾張国の豪族

中島氏・・ 嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣源融)の末裔の嵯峨源氏系

荒尾氏・・現・東海市荒尾郷出

蜂須賀氏
83人間七七四年:2012/01/30(月) 08:44:42.77 ID:isjTRuhT
サルに関し、こと出自に限っちゃ解らん事だらけってか

でも初めからある程度の身分じゃないとノブはあまり上まで登用せん
その事を踏まえると元からそこそこの家格はあったんだよな?
84人間七七四年:2012/01/30(月) 10:42:38.70 ID:erlQD2eF
え?そうか?信長が身分低い奴を取り立てなかった話なんて聞いた事ないぞ
85人間七七四年:2012/01/30(月) 21:16:23.20 ID:wmM3IlKW
信長自身が大した身分じゃないからな
どこまでを「身分低いのに取り立てた奴」とするかは難しい
86人間七七四年:2012/01/31(火) 00:45:48.19 ID:FgU+UkXW
前田とか細川、蜂須賀、前野んとこの何か記録残っていないのかよ。
87人間七七四年:2012/01/31(火) 17:58:55.83 ID:CpH2/98w
>>86
実はそれ程には親しくなかったのかもな
88義経:2012/02/07(火) 15:55:45.53 ID:sVv91E0v
前田利家は源義朝の生まれ変わり、信長は平清盛の生まれ変わり

そういうことだよ

大河観て、勉強しろ!
89人間七七四年:2012/02/07(火) 16:55:58.22 ID:CCFqtkxD
シナでチンピラや乞食からってのがいたろ確か
90人間七七四年:2012/02/08(水) 11:10:09.87 ID:BG30MDrB
足軽・貧農・豪農・商人・木こり・忍・漁師・山賊・僧・六角家臣・松平家臣・織田一族……
「元〇〇だったから〇〇が得意(縁)で出世できた」みたいな
やっぱり出世の裏付け論が多いのなw

91人間七七四年:2012/02/08(水) 12:55:45.46 ID:cqc3gP/1
中世尾張国の豪族

中島氏・・ 嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣源融)の末裔の嵯峨源氏系

荒尾氏・・現・東海市荒尾郷出身

蜂須賀氏 ・・川並衆元締め
92人間七七四年:2012/02/08(水) 17:40:22.79 ID:6TljQzOf
               __
             /;;;;;;;;;;;;;\
            /;;:::::::::::::::::::::::\
       ∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
            L::;;,__     ..:::ゝ
          //;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
          / ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
         /j/三三三三三三三三三三ヾ
         l::||::::              |l  
        / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||  
      r┤    ト::::: \___/     ||      
     /  \_/ ヽ:::.  \/    ,ノ    
      |   _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
      |   _)_ノヽ\  ハ // /    ヽ   
     ヽ____)ノ      ̄ ̄ ̄   /     ヽ
>>1>>89
凌遅三千刀滅九族
93人間七七四年:2012/02/09(木) 20:33:20.31 ID:k+ICRLvc
松平家臣はないだろう、いくなんでも・・・。
94人間七七四年:2012/02/10(金) 01:47:32.11 ID:0o9YhlY3
うろ覚えだけど、松平の家臣説は講談の太閤一代記の一説だったと思う。
たしか松下嘉平の役回りが松平竹千代になっていた。
95人間七七四年:2012/02/10(金) 12:27:49.49 ID:pvQ/K56Q
だったら彦佐あたりがボロクソに書きまくるだろう。
96人間七七四年:2012/02/10(金) 13:36:42.78 ID:N+Q4LoDz
>>89
朱元璋な
明の建国者
97奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/02/10(金) 23:55:44.17 ID:ezyo+Lgf
そこいらの土豪の贅婿だったと考えるんだ。
98人間七七四年:2012/02/11(土) 09:18:16.28 ID:jSv8biQL
>>97
>>86氏が指摘しているように
そこいらレベルとつるんでいるなら記録が残ると思うんだ
99人間七七四年:2012/02/11(土) 09:40:25.10 ID:wiPcVaVG
そうなんだ。
そういえば園部の小出とか生駒あたりも怪しい。
なにか残っとらんかいな・
100人間七七四年:2012/02/11(土) 10:00:55.75 ID:THZT9aE0
>>96
秀吉の出世エピソードは朱元璋の話を元ネタにしてんじゃないかな
偉人の母親が子を生む前に太陽のようなものを飲むって似たようなのを探せば他にも色々ありそう
101奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/02/11(土) 23:17:25.54 ID:CCSqZYv/
>>98
細川は高級すぎるし前野は偽史家だろ?

贅婿って分かるか?皮肉だぞ?
102人間七七四年:2013/10/20(日) 07:41:09.00 ID:ezVC7oQp
天下人いいね!
103人間七七四年:2014/10/23(木) 21:06:22.83 ID:yTOHhJ3G
>>96
漢の劉邦もじゃね?
104人間七七四年:2014/11/03(月) 19:11:27.46 ID:lbs2Nnsz
秀吉公は鮮人説がある。
木下は朴に通じるということで。
半島の奴隷階級が日本に逃げてきたか信長に売られたかで
(このへんは弥助に似てるね)
とにかく信長に気に入られて出世し気づいたら一軍の将になってたと。
朝鮮出兵はかつて自分をひどい目に合わせた祖国への報復と。
105人間七七四年:2014/11/04(火) 19:01:54.05 ID:Wn+7FGiB
木下は嫁の実家から貰った姓やがな
106人間七七四年:2014/11/05(水) 10:35:45.99 ID:r2otkj2l
そもそも農民出身じゃない。
107人間七七四年:2014/11/05(水) 23:57:28.58 ID:lHuWttLa
まあ、秀吉の縁者として、大して戦功もないのに越前北ノ庄で8万石を 
もらっていた青木一矩の存在を見れば、秀吉の出自がそんなに 
賤しいものではなかったことは明らか 


 竹阿弥−(親戚)−青木重矩−(一族?)−武蔵七党の一つ丹党 
   |           |           | 
  秀吉        青木一矩       青木一重 
                | 
            ---------- 
           |      |   
          俊矩    蓮華院(家康側室、のちのち本多正純正室) 
108人間七七四年:2014/11/06(木) 13:45:07.79 ID:Kl0o+jaa
青木って地味というか存在感ゼロなのになにげに大封なんで(最大
20万石ってどこかにあった)、こいつ何者って思ってたけど
縁者だったのね
109人間七七四年:2014/11/09(日) 19:22:01.59 ID:v990VKlB
お前らもマネをするなら秀吉な
間違ってもカッコいいからと信長のマネはするなよ
110人間七七四年:2014/12/18(木) 21:24:39.75 ID:36gSkceR
>1

でもその卑しい出自が彼を苦しめ続け、旧主の妹お市、その娘淀への妄想的執着
を産み、そのことが、豊臣一族滅亡を招いたのだから因果応報だな
111人間七七四年:2014/12/20(土) 18:01:10.90 ID:B209ror+
卑しい身分でなかろうが、雑用係から天下人になるなんてすげえよ
112人間七七四年:2014/12/21(日) 00:42:54.69 ID:v28i7kO3
いまどき戦国スレで秀吉農民ファンタジー戦国活劇が見れるなんて逆に新鮮だなw
秀吉は元々織田家でもソコソコの身分の家に生まれたおぼっちゃんよ実際は。
1583年4月12日秀吉から毛利輝元に送った書状にこうある
「前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる」
織田家中に於いては俺が子供の時ですら、俺ほどの事をできた人間は居ない。と書き記している。
これは既に子供の頃から織田家に仕えていたと言う事。
1565年11月3日に既に坪内利定に宛てて尾張下野村の所領安堵状を出してる。
佐々柴田丹羽佐久間連署で出しているものも多く所領安堵状は高級家臣しかださない物だから
織田が美濃をとったのが丁度この頃だから木下は佐々や柴田丹羽と同等の位だったことは間違いがない。
まぁ木下は津田とならんで織田の親類衆な訳でこう考えるのが自然っちゃ自然だけど。
よく太閤記や豊鑑を引用する人居るけどあれは信用が置けない創作資料だから。
信用の置ける一次資料は上記の事跡こそあれ、秀吉が農民であったり身分が低かったなんて
記述は一切ない。
113人間七七四年:2014/12/21(日) 01:03:18.52 ID:JBUuTPvR
少なくとも後北条や伊達を簡単に上洛させる程の家柄では無かった事は
確かやな…。織田に対しては両者は臣従していたし。
114人間七七四年:2014/12/21(日) 14:20:55.28 ID:v28i7kO3
三国志に正史と演技があるように、今多くの人が知ってる戦国時代って演義と言えるくらい
江戸時代の創作が元になってるからな。
秀吉が農民だったとか松永久秀が悪人だったとか、竹中重治が天才軍師だったとか、
北政所が家康派だったとかもうめちゃくちゃ
115人間七七四年:2014/12/21(日) 22:25:32.49 ID:bzn2qZKq
>112

そんなことイイダシタラ、文章上では秀吉は猫○中納言の子だか孫だかという話も
当時のネタにあっただろうが。
116人間七七四年:2014/12/21(日) 23:17:58.45 ID:Oq/6zYVJ
猿を信仰の対象にしてるとかいう
日吉大社の『日吉』を幼名にしてるとか
やはり後からのこじつけやねつ造臭。

堺屋太一『豊臣秀長』
117人間七七四年:2014/12/22(月) 14:05:56.36 ID:2w9zhu4F
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、【乞食】をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。
(秀吉は1536年生まれなので秀吉の初書状である1565年坪内利定宛秀吉安堵状を出してる時は30歳で取り立てられてる)
秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
118人間七七四年:2014/12/22(月) 14:07:37.68 ID:2w9zhu4F
フロイスの日本史にも身分も低く【血統も賤しい】と秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
【孤児】に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は【元来貧賤で農家に雇われて】どうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
(あくまで小牧長久手の戦いのことであり、天正12年戦役全体を指しているわけではない)
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。
119人間七七四年:2014/12/22(月) 14:10:01.20 ID:2w9zhu4F
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。
120人間七七四年:2014/12/22(月) 19:34:59.99 ID:AMS5sIKd
岐阜城攻略前に秀吉が取り立てられて書状を出し始めているところからして、
墨俣一夜城では無いにしても、なにかしら美濃攻略末期に大武功を立てて身分が飛躍的に引き立てられているのは間違いないんだよね。
121人間七七四年:2014/12/23(火) 00:13:04.11 ID:egVEA+fw
秀吉が最初の書状出すのは1565年。
岐阜城攻略よりずっと前だし最初から身分が高かっただけでしょ
秀吉は毛利に宛てて子供のころから自分ほど身分高い者はいなかったと書いてるし
122人間七七四年:2014/12/23(火) 00:24:02.80 ID:PKhGW0UZ
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかった

秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。

秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ

秀吉は譜代いまくりだよ。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。


秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる
123人間七七四年:2014/12/23(火) 00:25:04.71 ID:65DIUBOw
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

家康が信長の姉妹を娶ったことによって増えた家臣…皆無。
家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる

信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
124人間七七四年:2014/12/23(火) 07:46:18.07 ID:PKhGW0UZ
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし

最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
125人間七七四年:2014/12/23(火) 07:52:11.39 ID:PKhGW0UZ
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた

守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例

厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
126人間七七四年:2014/12/23(火) 07:56:43.06 ID:BfHNodsU
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

秀吉は信長の子供を養子として取ってて高貴な血統に属していて
下記のようにほとんど織田家旧臣連中は羽柴直臣と化していた。

池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
127人間七七四年:2014/12/23(火) 07:57:14.93 ID:BfHNodsU
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので


清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
128人間七七四年:2014/12/23(火) 07:57:56.74 ID:BfHNodsU
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけ。

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
129人間七七四年:2014/12/23(火) 08:01:15.44 ID:PKhGW0UZ
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

299 :人間七七四年:2014/11/21(金) 11:02:08.39 ID:Whd+iGRM
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし

最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
130人間七七四年:2014/12/23(火) 08:01:51.09 ID:PKhGW0UZ
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615

秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
131人間七七四年:2014/12/23(火) 08:04:34.43 ID:BfHNodsU
フロイスの小牧長久手関連の記述なんて秀吉が垂れ流した妄想歪曲誇大喧伝の影響を受けまくっててほとんどが誤ってる情報ばかり垂れ流されてるインチキ記事なのにソースにするとか相当馬鹿だな。


>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
132人間七七四年:2014/12/23(火) 08:05:54.60 ID:PKhGW0UZ
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
133人間七七四年:2014/12/23(火) 08:06:23.87 ID:PKhGW0UZ
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw
134人間七七四年:2014/12/23(火) 08:06:43.46 ID:PKhGW0UZ
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
135人間七七四年:2014/12/23(火) 08:08:28.56 ID:PKhGW0UZ
秀吉厨の馬鹿な妄想「秀吉軍は烏合の衆だったから負けた」「秀吉は家臣が必死に戦ってくれなかった」

秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
136人間七七四年:2014/12/23(火) 08:10:38.98 ID:4GmDE7YQ
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍 を動員してる
137人間七七四年:2014/12/25(木) 16:13:45.04 ID:QpMc9OKd
織田とかいう世間の慣例を全く無視して使ってくれる上司に出会ったってのが
最大の運だわ。他の所じゃどんなに頑張っても足軽頭ぐらいまでだろ
138人間七七四年:2014/12/25(木) 16:29:51.42 ID:g5lhaqxo
>>137
軍記脳おめでてーな

そもそも「農民出身」なんてもう完全に否定されとるのに
139人間七七四年:2014/12/25(木) 16:37:07.16 ID:G54Spxm4
まあ、秀吉の縁者として、大して戦功もないのに越前北ノ庄で8万石を 
もらっていた青木一矩の存在を見れば、秀吉の出自がそんなに 
賤しいものではなかったことは明らか 


 竹阿弥−(親戚)−青木重矩−(一族?)−武蔵七党の一つ丹党 
   |           |           | 
  秀吉        青木一矩       青木一重 
                | 
            ---------- 
           |      |   
          俊矩    蓮華院(家康側室、のちのち本多正純正室) 
140人間七七四年:2014/12/25(木) 19:33:05.82 ID:yoja0Yc0
>>137
例えば?具体的に実例をあげてくれ
>>138
>>117>>118>>119

>>139
そもそも竹阿弥は秀吉と血が繋がってない他人。
秀吉の父は木下弥右衛門

さらに青木重矩が大政所の妹を娶って縁者になった
というのは一次史料には見当たらない。
141人間七七四年:2014/12/26(金) 00:09:40.38 ID:vgoaK9PH
秀吉の身分が高ければ尾張時代でも佐久間や林くらいの地盤はあっただろw
142人間七七四年:2014/12/26(金) 07:58:43.04 ID:4efWSBgP
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけでしょ。
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
143人間七七四年:2014/12/26(金) 07:59:23.14 ID:4efWSBgP
津田や木下は織田の一門でしょ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに織田家でかなりの地位にいたことがわかるし
一次資料初見は重臣や大名しか出せない領土安堵状。
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
144人間七七四年:2014/12/26(金) 09:46:56.08 ID:2IkIh+f2
で、木下が織田の親類衆とか一門衆だとする一次史料は
相変わらずいまだに出せずに逃亡を続けてるのかwww
145人間七七四年:2014/12/26(金) 10:04:20.03 ID:btKc94k6
木下雅衛門ってのは織田の親類衆でいるだろ
146人間七七四年:2014/12/26(金) 18:10:53.71 ID:+GKcDIvT
永禄12年播磨攻めの将の一人として1回だけ記録が残る木下助右衛門
ねねの父親で杉原家に婿入りした杉原定利(木下助左衛門定利)

秀吉の与力で長久手で戦死した木下助左衛門尉祐久と木下雅楽助は同一人物?
( 系図類では木下へ養子に出された木下雅楽助の父は織田刑部大輔(架空人物?)で
織田信長の叔父・織田信次(架空人物?)の孫に当たるとされるが年代的に疑問で
高木とともに赤母衣衆に選抜されたとデタラメを書いており
高木文書による捏造説あり。木下助左衛門尉祐久の劣化コピー的な存在)

はい終了。
147人間七七四年:2014/12/27(土) 02:29:34.45 ID:UvBDQXY6
>>145
で、それを証明する一次史料はまだなの?
148人間七七四年:2014/12/27(土) 17:46:44.65 ID:t+xOy3/U
出世上手だよな
149人間七七四年:2015/01/03(土) 22:41:23.92 ID:2oClzqIn
秀吉は萩中納言のご落胤ではないのか?
150人間七七四年:2015/01/05(月) 18:26:19.26 ID:unHhhzFQ
う○ち詐欺師明智光秀が山崎の戦いで負けたことをねたんで
秀吉を攻撃していますw
151人間七七四年:2015/01/06(火) 15:48:42.97 ID:/G24iaeK
>>147
秀吉の父木下弥右衛門については2000年に愛知県の神社からその名が記された願文が発見されて、
彼が織田信秀の村方相談役であったことが判明してるね。
村方相談役は、当然ながら名主クラスの有力豪農にしか成ることは出来ない。
152人間七七四年:2015/01/06(火) 20:53:08.76 ID:34nuC1nC
名主クラスの農民だな。
153人間七七四年:2015/01/06(火) 23:07:07.73 ID:kUDEy19L
俺が思うに秀吉が若い頃は丹羽長秀の弟分的な存在であったのではないだろうか
154人間七七四年:2015/01/15(木) 14:09:43.58 ID:3kxSACYC



155人間七七四年:2015/01/16(金) 20:42:34.27 ID:P34fNJBp
農民じゃなくて最近はエタヒニンだったと聞いたが?
156人間七七四年:2015/01/16(金) 22:32:20.99 ID:4P1KwN14
>>151
愛知県のどこの神社?
157人間七七四年:2015/01/17(土) 14:15:39.11 ID:70kT64Pr
>>151
どの本にそれ載ってるの?
158人間七七四年:2015/01/20(火) 12:41:57.40 ID:rtQjF0pX
秀吉はサンカだよ。
159人間七七四年:2015/02/01(日) 12:45:53.41 ID:zfDuPTa7
島津も秀吉を「どこの馬の骨とも知らぬ奴」と呼んでたしな
160人間七七四年:2015/02/02(月) 18:54:16.32 ID:Wh3Oiao9
ほとんどの大名も「秀吉?誰?」って感じだった
信長とか家康は遠くの大名からも知られていたのに
161人間七七四年:2015/02/03(火) 14:50:06.41 ID:+DulATPR
足利義昭も秀吉の養子縁組要請を丁重に断ってしまった。
例え個人的に親しくても素性もよくわからん奴を源氏にするのは抵抗あったのは間違いない
162人間七七四年:2015/02/05(木) 13:37:55.79 ID:onz0ok/d
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけでしょ。
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響
163人間七七四年:2015/02/05(木) 13:38:25.48 ID:D9NBUW8h
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
164人間七七四年:2015/02/09(月) 19:28:16.48 ID:CTNXUEIr
漢の劉邦みたいなものか
あれも農民と言うよりは地方の有力者だしな
165人間七七四年:2015/02/11(水) 12:55:12.91 ID:3xFfpNUD
秀吉が最初から高い身分だったのに足利義昭が養子縁組を拒絶した理由が不明だな
そして、今川家へ直接仕官する手もあったのに・・・・なぜそうしなかったのか不明
高い身分だから受け入れられるはず
166人間七七四年:2015/02/11(水) 23:36:59.53 ID:jeLgVr9r
大河竹中の秀吉みたいなのは大袈裟だけど
前田利家と同じ程度の出ってとこかな?
その程度なら、当時の尾張をまだ統一していない織田家でもいっぱいいる中の一人
では祖先はどこぞの有名な人がいるか?と言われると
全然分かりません!先祖の氏素性は謎
こんなとこかね?
167人間七七四年:2015/02/12(木) 00:24:49.87 ID:Yo8HKyBc
利家は荒子城主の子だから秀吉と同じ程度ではない。
168人間七七四年:2015/02/12(木) 00:34:23.86 ID:udJ8KTCO
>>156>>157
回答から逃亡していつもの大嘘コピペを貼り付けて逃亡してるね
まぁアンチ秀吉三成の織田厨くんの常套手段だしねw
169人間七七四年:2015/02/12(木) 19:35:04.54 ID:z1Pe8OLS
今川家の家臣の家臣だったんだから速攻で今川家に仕官求めたらよかったんだよ
義元は名家好きだから受け入れれくれるはず
170人間七七四年:2015/02/12(木) 23:06:12.53 ID:9jbwbuPB
身分には2種類ある。

皇室、源平藤橘なんかの血筋かどうか?
または、当時の実力者(成り上がり)かどうか?

例え、秀吉が若い時(父の代?)から身分が高かったとしても、明らかに後者の方
足利将軍家の養子になろうとしても断られるだろ。
171人間七七四年:2015/02/13(金) 02:22:41.05 ID:BDs8FU6X
若い頃の記述が無いから妄想に任せるしかない
172人間七七四年:2015/02/13(金) 08:23:19.10 ID:xYWCfZef
そもそも足利義昭が養子縁組を拒絶したなんて後世の俗説だろ
173人間七七四年:2015/02/13(金) 10:45:26.38 ID:+giP0JE5
そう。それ徳川史観。
実際は天皇が将軍にって話しをしたけど秀吉が丁重に断ってる。
関白職は藤原氏の抗争の結果の棚ボタで
秀吉も関白になろうというつもりはなかった。
174人間七七四年:2015/02/13(金) 12:35:39.26 ID:CFYCDGxU
ぶっちゃけ関白までのぼりつめた後は出自とかどうでもいいよな。
武家にとっちゃ征夷大将軍よりも遥かにハードル高い官位ゲットしてんだから。
175人間七七四年:2015/02/13(金) 13:26:50.98 ID:5jxLJaAI
秀吉の才能もだけど
彼の才能を見抜き武将に抜擢した
信長の手腕というか力量も、これまたすごいものがあるな。

「どっちもバケモンだ……くそったれぇ……」by家康
176人間七七四年:2015/02/13(金) 14:15:41.60 ID:CFYCDGxU
まあ明智に裏切られ秀吉に乗っ取られの現場を生で見た後じゃ
家康も『やっぱ外様なんて信用できねえ』になるのも無理なかったろうな
もっとも徳川も厳密な意味での譜代オンリーってわけじゃないけどね。(井伊とかは本来の定義では外様)
177人間七七四年:2015/02/13(金) 14:34:58.72 ID:fbix1Ehr
今川に直で採用してもらえるように行けばよかったのにな
178人間七七四年:2015/02/13(金) 23:14:36.70 ID:xYWCfZef
抜擢もクソも最初から高い身分だっただけだろ
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
179人間七七四年:2015/02/13(金) 23:15:53.27 ID:vQ2UmzUF
>>175

織田家は実力主義とは程遠い尾張系譜代&一門優遇の身内社会だよ
尾張系以外で指揮官クラスや重臣クラスに採用されてるのは荒木と明智だけ。
また信長の嫡男の叔父という地位にあった原田があっさり大坂方面軍総司令官に抜擢されてるし
池田や丹羽や木下も信長の乳母や信長の親戚の家系。

その荒木や明智も本願寺攻めや四国政策・中国政策の家中の方針決め&主将決めの争いでは
あっさり尾張系の佐久間や羽柴を優先するなど、尾張系譜代に甘いのが織田だった。
元亀期に近江の宿将に抜擢された中川重政は信長の親戚
信長親戚の津田信澄や織田信包もそれなりに重きを成してる。
180人間七七四年:2015/02/13(金) 23:16:18.41 ID:1fvwbbUm
織田家が実力主義とか完全に妄想だよな。
その証拠として播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に3年も費やした雑魚秀吉でも指揮官として採用されてるし
丹波攻めに2回も失敗して赤井の死後にようやく攻略成功した明智や上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない柴田でも指揮官として登用されてる
181人間七七四年:2015/02/13(金) 23:17:40.50 ID:bc1/qe+Q
>>176
秀吉は譜代いまくりだろ

秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
182人間七七四年:2015/02/13(金) 23:18:36.32 ID:5Gk7tby+
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
183人間七七四年:2015/02/13(金) 23:26:06.14 ID:5Gk7tby+
>>176
徳川家臣団で譜代なんてごくごく一部でしょ。
元を辿ればほとんど旧今川系旧武田系旧北条系とか奥三河奥遠の国人系とかばっかりだし
三河一向一揆でも徳川譜代系は真っ二つに割れるほどだったし
小牧長久手の頃でも寝返りがボロボロ出てたし、石川までも篭絡されかかってたし。
井伊とか本多とか子飼いでいうなら、豊臣武功派よりも、持ってる動因兵力なんて微々たるものでしょ。
鵜殿とか岡部とか諏訪とか保科とかどのくらい譜代扱いできるかわからんし
逆に旧今川系旧武田系旧北条系とか山奥の国人系を譜代扱いするなら
豊臣だってほとんど譜代扱いできるじゃんってなもんで。
184人間七七四年:2015/02/13(金) 23:26:46.89 ID:xYWCfZef
家康の三河衆って西三河一地方の8万石もないような雑魚勢力だからな
それも譜代系は、三河一向一揆や信玄の侵攻の際にあらかた戦死してるし
後はほとんど外様しか残ってないし
三河でも山家三方衆とか外様中の外様だからな
徳川譜代系の兵力って関東移封後ですら最も大身の井伊や酒井でも4万石とかハナクソ程度しか与えられてないし
東海5ヶ国時代は1000程度も行かないんじゃね
あとは全部旧今川武田と山奥の国人系の外様ばっかり。

東三河の武将のうち
鵜殿・牧野・小原あたりは旧今川系だよ
渥美半島の戸田なども元々は徳川家臣ではない

三河の国人のうち戸田鵜殿西郷設楽奥平菅沼牧野らは外様中の外様
185人間七七四年:2015/02/13(金) 23:28:57.82 ID:I7EnlpDO
徳川家臣団は後から味方についた外様の方が譜代より頼りになるイメージだな
譜代中の譜代の石川とか小牧長久手の最中でも秀吉と連絡取り合ってて籠絡されてるし翌年にはあっさり家康の元から離れるし
三河一向一揆では譜代が真っ二つに割れて反乱起こしてるし
186人間七七四年:2015/02/14(土) 15:22:16.20 ID:6Pjb5zsE
つまり秀吉の身分が低いと言うのは全て徳川時代のねつ造でOK?
187人間七七四年:2015/02/16(月) 12:07:19.49 ID:FtHToD+F
>>168
回答せずに>>178からコピペ爆撃で誤魔化すというw
しかも>>178は他人のレスから都合のよい部分のみ抜粋盗用コピペだという最悪なキチガイっぷりw
これが織田ちょんクオリティなんだよな・・・
188人間七七四年:2015/02/16(月) 14:17:11.58 ID:wOgxy25i
秀吉さんの母は結構身分が高かったようだ。

父は、今で言う在日韓国人の一世か二世のようだ。
189人間七七四年:2015/02/16(月) 23:43:39.63 ID:FtHToD+F
そもそも竹阿弥は秀吉と血が繋がってない他人。
秀吉の父は木下弥右衛門
さらに青木重矩が大政所の妹を娶って縁者になった
というのは一次史料には見当たらない。
で、木下が織田の親類衆とか一門衆だとする一次史料は
相変わらずいまだに出せずに逃亡を続けてるのかwww
永禄12年播磨攻めの将の一人として1回だけ記録が残る木下助右衛門
ねねの父親で杉原家に婿入りした杉原定利(木下助左衛門定利)

木下雅衛門ってのは織田の親類衆でいるとする一次史料はまだ出せないのか?

秀吉の与力で長久手で戦死した木下助左衛門尉祐久と木下雅楽助は同一人物?
( 系図類では木下へ養子に出された木下雅楽助の父は織田刑部大輔(架空人物?)で
織田信長の叔父・織田信次(架空人物?)の孫に当たるとされるが年代的に疑問で
高木とともに赤母衣衆に選抜されたとデタラメを書いており
高木文書による捏造説あり。木下助左衛門尉祐久の劣化コピー的な存在)
はいアンチ秀吉のゴミ織田ちょん終了。

岐阜城攻略前に秀吉が取り立てられて書状を出し始めているところからして、
墨俣一夜城では無いにしても、なにかしら美濃攻略末期に大武功を立てて身分が飛躍的に引き立てられているのは間違いないんだよね。
190人間七七四年:2015/02/16(月) 23:45:18.83 ID:FtHToD+F
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、【乞食】をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。
(秀吉は1536年生まれなので秀吉の初書状である1565年坪内利定宛秀吉安堵状を出してる時は30歳で取り立てられてる)
秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
191人間七七四年:2015/02/16(月) 23:47:05.73 ID:FtHToD+F
フロイスの日本史にも身分も低く【血統も賤しい】と秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
【孤児】に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は【元来貧賤で農家に雇われて】どうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
(あくまで小牧長久手の戦いのことであり、天正12年戦役全体を指しているわけではない)
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。

耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
192人間七七四年:2015/02/17(火) 00:05:02.23 ID:G7/1BEYT
秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ

秀吉は譜代いまくりだよ。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。


秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる
193人間七七四年:2015/02/17(火) 00:06:24.77 ID:G7/1BEYT
古くからの言うことを聞かない家臣達に振り回された家康や信雄に比べて秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
194人間七七四年:2015/02/17(火) 00:07:36.05 ID:cRCBGV3/
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

秀吉は信長の子供を養子として取ってて高貴な血統に属していて
下記のようにほとんど織田家旧臣連中は羽柴直臣と化していた。

池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
195人間七七四年:2015/02/17(火) 00:07:59.23 ID:G7/1BEYT
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
196人間七七四年:2015/02/17(火) 00:08:20.45 ID:DPn6rYFZ
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけ。

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
197人間七七四年:2015/02/17(火) 00:08:44.32 ID:G7/1BEYT
>> 一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかった

秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。

秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ

秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる
198人間七七四年:2015/02/17(火) 00:09:04.01 ID:cRCBGV3/
>>家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいた

家康が信長の姉妹を娶ったことによって増えた家臣…皆無。
家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる

信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
199人間七七四年:2015/02/17(火) 00:09:23.21 ID:G7/1BEYT
古くからの言うことを聞かない家臣達に振り回された家康や信雄に比べて秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
200人間七七四年:2015/02/17(火) 00:10:21.45 ID:DPn6rYFZ
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな

一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし

最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
201人間七七四年:2015/02/17(火) 00:11:52.52 ID:DPn6rYFZ
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw

そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
202人間七七四年:2015/02/17(火) 00:12:20.71 ID:G7/1BEYT
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた

守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例

厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
203人間七七四年:2015/02/17(火) 18:52:07.15 ID:dX0Keva0
全ては徳川の秀吉sageの為に秀吉の身分が低いとされたわけ?
204人間七七四年:2015/02/27(金) 00:55:02.43 ID:8CYSQJev
>>202
最初の4行だけがお前が自分で作ったレスで
「守護大名は家臣の専横と傀儡化した」以下はお前が作ったレスじぇねぇだろゴミ屑織田チョン君。
勝手に俺のレスを盗用して、自分のゴミ捏造を挿入してんじぇねーよ。
205人間七七四年:2015/02/27(金) 01:27:44.55 ID:a4GnNJux
菅沼遼太の涙ぐましい工作は大変だなあwww
誰も反応しなかったから自分でAgewww
206人間七七四年:2015/02/28(土) 00:39:14.66 ID:2H6pcjbD
秀吉は農民出じゃねえっつってんだろ
207人間七七四年:2015/02/28(土) 02:40:21.17 ID:wlMwfKbX
農民かどうかはわからんが萩中納言とやらが出鱈目なのは明らか
208人間七七四年:2015/02/28(土) 15:57:57.14 ID:PvrSLiQ1
農民出ではないと言われても織田一門という核たる資料も無いし…
配下=与力もしょぼいし(織田政権時),譜代で無い事は確か。
一族系なら市が猿をバカにする理由も無いしな。後北条も従わん程
出自が低いのは確かだろう。
209人間七七四年:2015/02/28(土) 18:29:57.25 ID:K5Uh1l7r
後北条は降る気は合ったけど真田に嵌められたんや
210人間七七四年:2015/03/01(日) 03:17:28.49 ID:H/jHwj+t
信忠生きてたら素直に従ったかね?
211人間七七四年:2015/03/01(日) 06:21:28.60 ID:3swVk2wO
よく言われることだが「当時は農民なんて区分ねえよ」
これ、どうなんだろうね?
212人間七七四年:2015/03/01(日) 07:57:46.43 ID:c3kpwJIp
区分がないというか、少なくとも現代人の考える「農民」でないことは確か
兵農分離も刀狩りも時代的にはもっと後。
だから「農民」と言っても武器は持ってるし中には顔のきく人間もいる。
半農半兵の奴はもちろんいる。

現代で言えば一般市民(普通のサラリーマン)から一般市民(893)っていう程度だな
213人間七七四年:2015/03/01(日) 08:05:41.08 ID:YGE0tRsB
上級武士とそれ以外はわりとボーダレスだからねえ
士分にいる連中だって親、祖父の代まで遡るとどこの馬の骨ってのがゴロゴロだし
214人間七七四年:2015/03/02(月) 11:11:35.04 ID:taImTUso
針を売って生計立てたたとか
今川義元に仕えてたとか六角義秀に仕えてたとか

謎が多い初期の秀吉の人生
215人間七七四年:2015/03/02(月) 11:12:59.94 ID:taImTUso
>>210
信忠政権だと滝川一益のほうが出世しそう
216人間七七四年:2015/03/02(月) 18:45:15.38 ID:qv6GP8+Z
>>215
あとは池田森あたりが巨大化して秀吉は隅っこに追いやられただろうな。
秀吉は信長取り立ての面が大きすぎるから。
217人間七七四年
川角太閤記によると、とある公家から関係を迫られた信忠に、
秀吉が自分と男色関係であるとでっちあげることを提案して
見事その公家から逃れることができたという話があるね