織田信長は過大評価されすぎ9

このエントリーをはてなブックマークに追加
886人間七七四年
>>875
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。

信長はガチガチの独裁者。
そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
その一方で織田家老の柴田は北陸に領地を与えられず(信長から預け置くと言われてる)
佐々や利家ら信長直参家臣らに監視されている状態で働かされており
(本能寺の寸前には利家の長男が信長の娘婿になってる)
すべてが没収される寸前に謙信が死に
御館の乱に発展したおかげで柴田は加賀を攻略できて
佐久間や林や水野らと違って首がつながり
滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。若い信忠をキチンと制御しろ、
失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われていた。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。
秀吉も宇喜多が内応して味方になった報告を安土で信長にしたら
勝手なことやってんじゃねぇ。いますぐ帰れと激怒され、
急いで播磨に帰って即、死ぬ気で合戦して武功を挙げて信長の怒りを鎮めてる。
光秀も長宗我部の取り次ぎをしてきた経緯を無視され
光秀の側近家臣の利三の妹婿である長宗我部元親攻撃をぶち上げる始末。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも織田家の傀儡化が早くも始まり別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった25日後には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww