関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?

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674人間七七四年
>>663
ついに三成首謀者説を取り下げたようだね。
>>665
動機が無ければ叛意は生まれない。
>>666
白川氏は北政所の養女だった三成次女を
直江の会津帰国に伴ってもらったということから
三成と直江による同盟を主張してる人でしょ。
でも三成と家康の親戚関係も同時に主張してて
家康が一番、三成の苦渋を理解していたとも書いてる人。
だから三成の長男重家(104歳まで生きたw)や
重成(津軽家重臣になった)や娘達を死刑にしなかった。
豊臣家への忠義忠節など曖昧なもんを動機にしてて一次史料に欠く。
>>667
>>上杉景勝・前田利長・加藤清正等であった」とか言わんの?
だから三成→直江書状が本物なら三成首謀説支持に転向すると表明してるんじゃないの?
すでに三成と家康によって前田を煽って、家康を滅ぼし関東の領地を武断派で山分けする
清正の野望が潰えてしまったので(利長が母のまつを家康へ人質として送った)
それが成立しなくなったと言うことでしょう。
清正と前田が関が原で曖昧な態度に終始したのもうなずける。
清正にしたら、家康も三成も輝元もムカツクから、
お前ら争いあって壊滅し合えって感じで傍観してたのかも。
(憎き小西に対してでさえ、清正は関が原後の9月21日に宇土城攻めをするほど反応が鈍い)
景勝は野望の無い人物で、家康に攻めかかって、上杉が天下を盗もうとしてると
世間から猜疑されるのを嫌がる潔癖さがあったから、家康の追撃もやらなかったし、
そこが看羊録で、チャンスに動かない鈍・懦と手厳しく書かれたんじゃないかな。
天が与うるものを受けざれば、すなわち罰を受けるの通りに上杉は30万石に減封された。
>>673
光成氏は奉行は対家康目的の元に秀吉の遺令を無視して
秀元分封問題で輝元有利にしようとしていたが
家康が秀元と内通して遺令の言質の実行を迫り
輝元も「これでは外聞も悪いし、毛利は立ち行かない」と嘆いていたとしてる。
あなたの言ってることは完全に歪曲。
家康は宇喜多家中の内乱に介入したりと
他の大老の弱体化を積極的に施行していたし
毛利が分封問題を破棄するには、家康へ挙兵するしか道が残されて無い。