戦国ちょっといい話29

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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戦国ちょっといい話28
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/10/05(水) 23:29:59.26 ID:25nqgkSy
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
 
             / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞
             | ノノ)ノ)))    <_Li(("))_>   |ノ从从|    ( ノノ( ノ)))    ( *((")) _)
             / │^ヮ゚ノ|     |│‘ヮ゚ノ|    ││゚σ゚ノ|   丿|│゚ヮ゚ノ|    丿|| ‘ヮ゚ノ| 
               おね      茶々       五徳       まつ      お市

             /⌒⌒丶    / ̄ ̄ヽ     /⌒⌒丶,    / ヾ丶     /⌒⌒丶
            |ノノ †)ノ)|    |ノ从从 |    | イ从|从)    |ノ从从|    ヽ从 从 _ノ
            丿ノ‘ヮ゚ノ(,    || ´ω`ノ|.   丿!#゚Д゚ノ|    ││;-;ノ|     ( ゚ヮ゚ )アーッ
             ガラシャ     新庄局      小松       亀寿       蘭丸

             /⌒⌒丶   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ヾ丶オ     / ̄ ̄ヽ
             ( ノノ(-))))    <_Liミν )    |ノ从从|    ( ノノ)ノ)))タ    <_Li(("))_>
             ノ│゚Д゚ノ(    丿|│‘ヮ゚ノ|    ││ - ノ|    丿│^ヮ゚ノ|ベ   丿|│゚ヮ゚ノ|
              ァ千代      お江       瀬名       義姫       帰蝶
3人間七七四年:2011/10/05(水) 23:31:13.64 ID:vCQvQ9L4
>>1乙です

>>2
今期の大河じゃないお江をもらおう
4人間七七四年:2011/10/06(木) 00:32:16.02 ID:945QUsMM
黒田家を出奔した後藤又兵衛
一家を連れての放浪の後、大阪の地へとたどり着く。
この時又兵衛を捕らえようという黒田家の者たちが又兵衛の子を捕らえるという出来事があった。

この話を聞いて激怒した人物がいた。
大坂城の豊臣秀頼である。
「大阪に住む者はたとえ浪人であっても我が民である。」
この秀頼の怒りを知った黒田家の者たちはやくなく又兵衛の子を放した。

この事に深く感じ入った又兵衛は後に大坂城へ入城することとなる。
5人間七七四年:2011/10/06(木) 12:31:20.92 ID:c5QU8yA0
今井用水相論に絡めた畿内の政争と事情 三好氏躍進の秘訣  

1553年 三好長慶が畿内に覇を唱えてから4年後
足利義輝は近江朽木から京都霊山に城を構え京奪還作戦を画策、その頃〜

〜京都・西岡〜
西岡は小規模国人の乱立密集地帯で互いに持ちつ持たれつの関係で色々な揉め事が多かった。
今里村と上植野村の水論争いは、隣村の国人と茨木長吉(細川氏綱家臣)が仲裁していた、のが再発。
省略して書けばこうである

今里村方『洪水で川の瀬が変わったら、ちゃんと井上村中島の井出三段目下『まで』
    堀り取る事が慣習だったよね?なんでそれ無視した川筋掘ってんの?うちん所の水少なくなっちゃうじゃん』
上植野村方『ち、うっせーな』
今里方『秋田氏と長井氏が上植野村を支配していた時は問題なかったよね〜』(両氏は没落したらしい)

〜京都東山、三好長慶陣陣営〜
三好長逸『なんか西岡で用水栽論で揉めてるらしいけど』
三好長慶『えっと、何処で?』 
長逸『今里村と上植野村』 
長慶『え?あれって氏綱家臣の茨木が仲介して終わったんじゃないの?』
長逸『それがカクカクシカジカ』
長慶『ちょっと公方との合戦で手が離せないから(忙しいし無理!)
   細川氏綱さんの家臣の多羅尾綱知にお願いできる?って≪細川氏綱さんから≫言って貰えないかな』
長逸『あいよ、じゃ、ちょっくら使いを走らせるわ』

多羅尾(何で終わった事を俺が、めんどくせーな、まあ適当にやっとくか)『おい、何で今更終わった事を蒸し返すんだよ』
今里・上植野『うるせー!外野は引っ込んでろ!細川家臣はお呼びでねーよ!タラオの癖に!』
〜中略〜
多羅尾『とまあこんな感じで、どうも今里・上植野両氏に問題があるようで(俺は悪くねーし)』
長逸『了解、長慶に報告しとくわ(お前本当に仲介してきたのかよ)』 長逸『とまあ、こんな経緯だったようだ』
長慶『そうか、じゃあ次は≪三好長慶から≫直々の頼みって事で、もう一度だけ多羅尾綱知にお願いできる?』
長逸『まあ、これでも駄目なら…って事だな』
長慶『そういう事』

多羅尾(また俺かよ!別の奴に行かせろよ!)
多羅尾『今度は三好長慶の命で来たけど、本当、お前ら争い止めろ!な!』
今里・上植野『うるせー!外野は(省略)』
多羅尾『やっぱり彼等は聞く耳を持たないようで(俺は悪くねーよ、解ってるよな)
長逸『わかった!よっしゃ多羅尾、お疲れ!(細川の面子を潰してくれて御苦労!)ゆっくり休んでいいよ(多分次は無いよ!)』

長慶『さて、霊山城の方も少し落ち着いた、長逸、今里の能勢氏に三好長慶が直接赴くと言伝をお願いできるか
   それと、双方の村の申次と検使に実況見分させろ、両氏の絵図を確認して
   第三者である井の内村の百姓の証言をよーく聞いてくれ』

そして西岡に検使和久与助が実況見分をし、結果は当然ながら今里郷惣中の勝訴となった。
こうして、三好氏は下の者達から公平性・積極性を買われていき畿内の信頼を得ていく
武家の家督相続(例 和泉松浦氏)なども
『細川だと色々メンドクサイからもう三好長慶だけに相談して決めるわ』
長慶『次、君が相続ね』→松浦家『合点承知』 などなど

出典は『能勢家文書』『松前彰家文書』今里村の『手日記』
高槻の水栽論とはまた少し前 
長逸と長慶のやりとりは長逸の取次ポジを利用したフィクションです
まあ長逸から岩成とか更に下っぱに言ってるのが普通でしょう
6人間七七四年:2011/10/08(土) 00:57:40.64 ID:hcb4JUbL
>>4
後藤又兵衛の子といえばこんな話もある


後藤又兵衛基次の嫡男は、後藤隠岐守と言った。
関ヶ原後、この後藤隠岐がある時子細あって、長政によって改易された。
これにより隠岐は摂津の木津に隠棲した。

ある時のこと、この隠岐が小者一人を連れて大阪に用を足しに行くと、町家に人が群集していた。
後藤隠岐が何事かと尋ねると、大阪の町奉行である水原石見守の組の与力が言うには、

「只今狼藉者二人が町人を斬って、酒蔵に籠っているのだ」

と言う。これを聞くと、隠岐

「そいつらを斬っても構わないか?」

「それは、構わないが…」

「良し」

隠岐は股立をつまみ上げて帯に挟み込むと、蔵の前にのさのさと進み、前まで行くと同時に、
蔵の中に飛び込み先ず一人を切り倒し、もう一人が慌てて斬りかかって来る所を飛びかかって切り伏せ
たちまち二人の首を取ると蔵より出、それを奉行所の雑色に渡すと、そのまますぐに木津へと帰ろうとした

と、そこにやってきたのが片桐且元である。

且元は事件現場の様子を見て「さてさて手柄をしたものだ、お主がこれをしたのか、名を名乗られよ!」
と再三尋ねたが、隠岐は「いや、名も無きものでござる。」と、名乗ること無く帰っていった。

しかし且元は、家来に密かにその後を付けさせた。

その夜、この後藤隠岐の自宅に、且元より米五俵と酒樽、さらに酒の肴が届けられた。

『御牢人とお見受けいたした。これは些少ではありますが、今日のお骨折りのせめてもの礼に、
どうぞこれをご賞味ください。』

しかし後藤隠岐
「酒樽と肴は御志として頂戴いたします。しかし米俵の方はお返しいたす。
かようなわび住まいをしておりますが、このようなものに事欠いているわけではありません。」
と、米は返したのだという。

翌々日、今度は片桐且元自身が木津の後藤隠岐宅を訪れた。
そして隠岐と対面し、名を名乗られよと問い詰める。これには隠岐も名を隠しがたく、
ついに「黒田甲斐守長政老臣、後藤又兵衛が嫡子、後藤隠岐守と申すものです。」
と名乗った。

これに且元
「そんな事だと思いました。あなたには、ここは余りにも見苦しい。それがしが宜しく取り計りましょう。」
そういって堺に家を借り、金子二百両を合力して彼を隠し置いたという。

(武隠叢話)
7人間七七四年:2011/10/08(土) 18:18:04.77 ID:V4BUjsDV
時代の変化

名護屋在陣中の南部信直が、娘婿の八戸直栄宛てに手紙を出し、こう語った。

『ここ最近は上方の者達と付き合って、すっかり心境が変わってしまった。帰国したらわかってもらえると思うが
そのことを整理して帰りたいと思う。

昔の苦労に心を痛めて、昔はこうであったなどと言う者があったならば、すぐに追い棄てられてしまっても仕方ないであろう。
上方では、身分の低い者であっても主人に一生懸命に奉公すれば、すぐ取り立てられて侍になれる。
それを見た者は自分も負けていられないと一生懸命奉公する、こういう”からくり”なのだ。
貴方の所ではまず昔からの身分や家柄を調べて一族の中に組み込んでいく。私らも以前はそうだったが、後悔している。

(だから)上方衆は我々遠国者をとかくなぶる気持ちをもっている。
なので筑前(前田利家)のもとへ、月に一度ご機嫌伺いをする以外はどこにも出ないようにしている。
『日本の付き合い』に恥をかくようなことがあったら、家名を汚すことになる。
もしなにか問題を起こすようなことがあったら、その解決に大変な苦労が必要となる。
朝夕、寝ても覚めても気遣いすることばかりで、その苦労を察してほしい。

津軽右京亮などは筑前殿を訪ねて、くりかえししつこく自分の考えを申し述べたので、
奥村主計からやり込められ、恥をかいたという。その後は筑前殿を訪ねていけなくなってしまった。
大事な人付き合いなので、気遣いすることばかりである。

いまは新しい時代である。さらに重要なことだ。
もし不相応なことを申しつけられても、不満に思うことはあってはならない。
上手く対応できなければたちまち財産や身分はなくなってしまう。以前のような大名の心ではいけないのだ。
全てに念を入れ、何事が起きても、息子の九郎の身上が絶えないように、併せて、しっかり働く事が大切だ。

何度も申し上げるが、八戸はただ古い習慣があるからとばかり言っていて、心許ない。
古い分だけ新しい家風を積むように奉公なさるべきである。
返す返すも、昔を引きずった九戸の一族が、主人の政実をひき倒してしまった事情を考え、
物事の判断をしてもらいたい。
秋には帰るつもりである。よくよく上方のことを語り聞かせたいと思う。

京や田舎、古本(古いしきたり)はもう廃りものなのだから、それにこだわらず、才覚を巡らせて家督を続けてほしい

(文禄二年)五月二七日』

以上書状より抜粋。
既出の部分もあるけどあえて載せてみた。
8人間七七四年:2011/10/08(土) 20:36:20.04 ID:yWSHIyRl
胸に迫るものがあるなあ
9人間七七四年:2011/10/08(土) 20:40:40.64 ID:Bzdw2q3c
胃に穴あきそうだ・・・
10人間七七四年:2011/10/08(土) 20:49:54.45 ID:bKo91DdR
戦国武将の手紙は、どれもこれも切実なものを感じる
その時その時の時代に対応しなければ、生きていけないのは昔から変わらないんだな
11人間七七四年:2011/10/08(土) 21:16:06.25 ID:wkLG33LJ
島津忠良あるとき、家臣の子弟、特に幼年のものを集めた。
いずれ年端も行かぬ子供たち。だが数十年後には家中の柱石として、自分の子や孫を支えてもらわねばならない立場である。

子供達の利発さを確かめようという意図でもあったのであろうか。全員に数珠を手渡すと
「その手にある数珠の玉は幾つあるか数えてみなさい。早く数え終わったものから順に褒美を上げよう」
餅の袋を見せてそう言ったのである。

数珠の玉の数は108個と相場が決まっている。だがそのことを知らない子供たちは必死に数え始めた。
そんな中、終始身じろぎもせずじっと数珠を見つめる子供がいた。何をしたらいいのかわからない、という風でもなさそうである
「はて、変わった子だの」忠良はその子が気になったが、他の子供たちから「大殿様!数え終わりもした!」と報告を受けてる間に彼のことを忘れてしまった

さて、散会となったあと忠良は先ほどの子供だけ呼び戻して尋ねた。
「お前は最後まで数珠の玉を数えようとしてなかったな。あれは何故じゃ?」
「数珠の数は108と決まっております。それ故わたしは数えなかったのでございます」
「ふうむ、それならそれで数えるフリだけでもして折ればよいではないか。先駆けて褒美を得ること、思いのままであろうに」
「仰る通りではございますが、それではズルになってしまいます。わたしはずるをしてまで褒美を得たいとは思わなかったのでございます」
ここまで聞いて忠良はその子を返したが、何か思うことがあったらしい

後年元服を終えた少年は忠良に目通りし、その日から忠良、貴久、義久、義弘、忠恒の五代にわたって
島津家にその生涯をささげることになる。

後の親指武蔵こと新納忠元である
12人間七七四年:2011/10/08(土) 21:22:21.44 ID:XqMtQqt3
>>7
>津軽右京亮などは筑前殿を訪ねて、くりかえししつこく自分の考えを申し述べたので、
>奥村主計からやり込められ、恥をかいたという。その後は筑前殿を訪ねていけなくなってしまった。
>大事な人付き合いなので、気遣いすることばかりである。

本来ならスカッとしたぜと言いたいはずだろうに
憎い髭野郎にすらも同類として哀れむ信直の姿がいっそう涙を誘いますな
13人間七七四年:2011/10/08(土) 21:22:51.15 ID:q5CH5Q/S
栴檀は双葉より芳し
14人間七七四年:2011/10/08(土) 22:54:44.62 ID:onLeTo27
田中太郎五郎の討死

津軽統一戦に乗り出した大浦為信(津軽為信)は支配者の南部氏だけでなく、
浪岡の北畠氏ら有力領主や彼らが頼った出羽安東氏を敵に回すことになった。
1579年に六羽川で連合軍と激突し、大浦勢は本陣まで追い込まれた。

だが為信の乗馬は泥にはまり、逃げられない。これを見た家臣の田中太郎五郎
吉祥は為信の兜などを貰い受けると、馬の尻を槍で刺して泥から抜け出させ、
主君を逃がした。自らは為信の身代わりとなり、銃弾を浴びて討死した。

連合軍は為信を討ったと思い込んで油断したところを逆襲され、出羽に退いた。
太郎五郎の亡骸と槍は、翌朝に戦場を訪れた妻が見つけ、江戸時代に弘前藩が
創建した岩木山の高照神社の宝物館で今も見ることができる。

田中家は弘前藩で功臣の家系として遇され、昭和になってから戦跡には子孫の
佐藤尚武氏(ソ連が対日宣戦した時のモスクワ大使)らが「津軽之忠臣」碑を
建てた。
15人間七七四年:2011/10/08(土) 23:13:14.85 ID:onLeTo27
>>14は高照神社の展示を見た記憶をネットで補いながら書いたが、合戦では
よくある状況であるとはいえ、三方ケ原で家康を逃がした夏目吉信の逸話と
似ているので、忠臣の最期としてテンプレ補正がかかっているかも知れない。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-337.html

ちなみに今年は弘前城が築城400年ということで色々行事をやっていていて、
この3連休は津軽家菩提寺の長勝寺でヒゲ殿の木像を公開しています(今日
見てきました)。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/hirosaki400th/topics/pdf/201109bikkuri.pdf
16人間七七四年:2011/10/08(土) 23:27:14.54 ID:iBjxXhYf
太郎なのか五郎なのかはっきりしろ
17人間七七四年:2011/10/08(土) 23:54:28.22 ID:onLeTo27
>>7津軽と南部と前田利家というと、こんな話もある。

津軽藩と南部藩の「藩境塚」は陸奥湾沿岸の南東端に近い狩場沢にあり、
戊辰の野辺地戦争もここが戦場になった。

1592年、利家が東奥巡検使として豊臣政権に服属した奥羽を回った折、
為信は自ら利家一行を狩場沢まで見送った。津軽家は南部家と合意が
あるかのように装ってここに境界の塚を設けており、狩場沢の藩境を
既成事実化することに成功した。

津軽為信とすればしてやったりのいい話、南部信直にはタッチの差で
津軽独立阻止を失敗したのに続いて煮え湯を飲まされた悪い話。

http://www.mutsu-ogawara.or.jp/areaguide2.html

江戸時代になっても津軽と南部は国境の檜伐採問題、官位競争などで
揉め続け、ブチ切れた南部藩士が相馬大作事件を起こすに至る。

Wikipediaで南部信直を見たら、死去直前に娘(八戸直栄室)に送った
手紙で「ワカメや昆布が食べたい」と書いていたそうで。上方や九州も
海藻類は流通していたと思うが、故郷を遠く離れて心身とも疲れていた
様子が伝わってきて泣ける。北西だけじゃなく、南の隣人(DQN眼竜)も
油断ならないし。

18人間七七四年:2011/10/09(日) 00:04:24.84 ID:qcrFCojR
唐入りの為とはいえ、老体で西国まで行くのは辛かったろうに
死去前の言葉がまた泣けてきた
そういう武将の末期の言葉一覧作られたら、最後まで読めずに泣いちゃいそう
19人間七七四年:2011/10/09(日) 14:00:35.33 ID:JQd/Mrtb
南部さんはなあ…
同じお隣でも津軽と佐竹は何やかや言いながらも上手く付き合っていたのに
南部さんだけは相手を怒らせてぎくしゃくしてたからなあ…
20人間七七四年:2011/10/09(日) 22:37:41.70 ID:ldHd3tCL
佐竹『ここは前にいた土地より寒くてかなわないねぇ』
津軽『ウチも寒いけど雪はそっちの方が多いもんねぇ』

南部『おい、そこはウチの土地だ』
21人間七七四年:2011/10/09(日) 23:32:13.35 ID:FDubvkxO
>>11
昔、鹿児島に住んでたときに仕事先のおいちゃんから
「1番偉い薩摩隼人は困難に挑戦して成功したもの、2番目に偉いのは困難に挑戦して失敗したもの」
ってよく聞かされた。デ新納さん挑戦すらしてないやんか。
22人間七七四年:2011/10/09(日) 23:34:27.96 ID:TMuSvb5G
周りがそんな薩摩隼人ばっかだから
デニーロみたいな人材が必要なんだろ……
23人間七七四年:2011/10/10(月) 00:06:28.93 ID:aXdsmujC
物事を決め付けて掛かるのが良い話なのかなぁ?
徴兵された軍隊を見くびって、熊本城を落とせなかった薩軍とだぶるなぁ。
24人間七七四年:2011/10/10(月) 00:40:45.63 ID:R3ehUPdd
>>23
本連数珠108珠は1+1=2と同じく、そうでなければいけない性質のものであって
決めつけとかそういう次元の話でないから。
25人間七七四年:2011/10/10(月) 00:45:28.01 ID:NDSFP337
これ数が間違ってますよと冷静に指摘してくる子供ってのも嫌だよなぁ
その点でも分別があったって事なのだろうか
26人間七七四年:2011/10/10(月) 01:04:09.69 ID:FEtpyh3C
【岡山】戦国の貴公子・宇喜多秀家フェス-秋のおかやま桃太郎まつり
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1318170215/

>開会式には、関ケ原の戦いに敗れ、秀家が身を寄せた現在の鹿児島県垂水市から尾脇雅弥市長が招かれ、
>「秀家は2年3カ月を垂水で過ごした。“イケメン”で毎日100人ほどの女性が会いに来たと伝わる」と紹介した。

イケメン過ぎて吹いたw
27人間七七四年:2011/10/10(月) 12:41:00.81 ID:e88ZHWgL
ハーレムというか種馬あつかいだったんじゃねw
28人間七七四年:2011/10/10(月) 12:45:08.58 ID:pAe/LEC5
名家の血が欲しいてきなノリだろうね
29人間七七四年:2011/10/10(月) 17:01:19.51 ID:SuUpNvQq
宇喜多はさほどの名門じゃないんだがなぁ
30人間七七四年:2011/10/10(月) 17:09:52.12 ID:rGjYpr2Y
どこから貴公子なんてイメージがついたんだろう
肖像画はすっきりしたイケメンて感じだけどさ
もしかして性格イケメンてことか
31人間七七四年:2011/10/10(月) 17:28:44.85 ID:TtMC7Kev
血筋というより
・備前岡山57万石の太守で
・秀吉の猶子にして養女婿で
・五大老の一人
っていう地位のブランドかねえ
32人間七七四年:2011/10/10(月) 17:31:02.82 ID:rGjYpr2Y
あと五大老で一番若い ってのもあるのかな
33人間七七四年:2011/10/10(月) 17:31:30.34 ID:pAe/LEC5
確かに名家っていうよりは有名人的な感じか
34人間七七四年:2011/10/10(月) 17:35:54.14 ID:ZPuOiCQZ
>>31
それに加え西軍の主力として戦ったという点。
ちょっと前以来、女(歴)オタというと西軍びいきと相場は決まっているしね
35人間七七四年:2011/10/10(月) 17:39:18.90 ID:1pidI2ut
悪久「秀家Jr大量生産の暁には徳川軍などあっという間だ」
36人間七七四年:2011/10/10(月) 18:31:42.78 ID:CyP1LWUJ
海から江戸を直撃できるな
37人間七七四年:2011/10/10(月) 18:44:17.81 ID:6hEMia+Q
>>29
自称だが百済王家の末裔
38人間七七四年:2011/10/10(月) 19:14:04.88 ID:KU1sFB3K
『秀吉の大器』

有名な話しだから既出だったらスマソ。
まぁ歴史ヲタの諸兄は当然知ってるだろうが好きな逸話なので鼻で笑って許してくれ。

関八州を平らげた秀吉が鎌倉に詣でた時のお話し。
源頼朝の木像の前で一礼した秀吉は、そのまま頼朝像に無造作に歩みより木像の肩をぽんぽんと叩きいた。

諸大名が固唾を飲んで見守る中、秀吉は満面の笑みで木像に語り掛けた。
「俺とお前さんは共に天下仲間だ!」
「だが、水呑百姓から知恵と度胸だけで天下様となった俺と源家の棟梁であり旧臣から担ぎ上げられたお前さんとの功績では雲泥の差があることを忘れるな」
「それに俺は関白、お前さんは右大将。官位も俺の方がずっと偉い!」

「だが…」

「この秀吉にはお前さんに敵わん物がひとつある…」
「見ての通り俺はこの面じゃ。お前さんの男前には敵わん!」

そして諸大名に振り返った秀吉は大音声で笑い出した。
この秀吉のユーモアに諸大名は緊張を解き大笑いしたという。
39人間七七四年:2011/10/10(月) 19:55:13.07 ID:dfuZFxQF
そして釣られて笑った大名は一人また一人と姿を見かけなくなっていったという・・・
40人間七七四年:2011/10/10(月) 20:09:02.91 ID:TtMC7Kev
むしろ秀吉は笑わなかった奴に怒りそう
41人間七七四年:2011/10/10(月) 20:24:32.59 ID:stUIbEFX
>>24
あえて数えさせているのに、必ずきちっとしたものが出てくると思い込んでいるのは愚かしいな。
42人間七七四年:2011/10/10(月) 20:49:55.53 ID:WBAjwezB
まあ子供の話ですから。
大人の思い通りにはいかない。
43人間七七四年:2011/10/10(月) 21:00:01.97 ID:k77TARoR
 石田三成の墓は彼が浅野幸長、森忠政とともに建てた(お互いに居心地が
悪そうな面子だ)京都大徳寺の三玄院にある※まとめブログの森忠政に関連
エピあり。だが明治になるまで墓所は分からなかったという。

 三井財閥の大番頭だった朝吹英二は、徳川幕府が倒れても奸臣との評価が
根強かった三成の顕彰を志し、関ヶ原の戦いから300年目の明治33年、まず
墓所の発見に乗り出した。三成と親しく、三玄院開祖でもある大宝円鑑国師
(春屋宗園)が遺骸を引き取ったであろうと推測した。
 住職に尋ねると、三成の墓と伝えられるものはないが「触ると祟られると
言われて人が近づかず、文字が一切ない墓がある」と教えられた。朝吹は、
それこそ徳川の目を憚った三成の墓と当たりを付け、人を雇って掘り始めた。
それらしきものは出ず、住職に見込み違いを詫びて、寺を後にした。

 ところが、使いの者が当時まだ珍しかった自転車で朝吹を追いかけてきて
「もう一度お越し願いたい」と言う。
 引き返してみると、人足の親方が仕事での経験から「墓地の通路を変える
ために石塔を動かすこともある」と語り、周囲を掘り進めることを提案した。
44人間七七四年:2011/10/10(月) 21:01:12.92 ID:D8XysI2Z
どうなんだろ。
むかしの人ってあえて本連数珠バラスような事するかな。
45人間七七四年:2011/10/10(月) 21:01:15.49 ID:6hEMia+Q
大数学者ガウスがいたら
どんな答えを言ったか気になる
46人間七七四年:2011/10/10(月) 21:13:02.49 ID:MRo96Gp5
とある毛利の尼子攻め風景でも。

出雲遠征中の毛利元就のもとに孫二人が馳せ参じた。
故隆元の嫡子輝元と、吉川元春の嫡子元長である。
元就は拠点としていた洗合城で孫たちを迎え、
「輝元は13歳とは思えないほどの成長ぶりじゃのう。美男子になったし言葉遣いもしっかりしておる。
ああ、隆元ともこうして顔を会わせたかった……(´;ω;)グスン
うんうん、元長も18歳になったか。眼光鋭く、鬼吉川にふさわしい器量じゃ。将来が楽しみじゃな」
と、とても嬉しそうに対面した。

「こちらに参りましたからには、是非この手で一戦したく思います!」
年若い孫たちの申し出に、元就は
「輝元はさすが仁徳・武備を兼ね備えた隆元の子じゃのー。元長も頼もしい限りじゃ」と非常に喜んで、
「よーし、ぢいさま、月山冨田城落としちゃうぞ!」と奮起、進軍を決めた。

しかし、これに困惑したのが元春・隆景である。
「あの城は力攻めしても落ちないから謀略巡らせろって言ってたの、父上だったよな。
なんで進軍してんの?」
「孫可愛さにイイとこ見せたいんだろ。しょうがないから俺たちで城兵と小競り合いして、
敵の力量をだいたい把握してから輝元を出陣させよう。初陣で勝利すれば縁起もいい」
というわけで、吉川勢と小早川勢が冨田城下で挑発→出てきた敵兵と衝突という流れになった。
あ、あと宍戸隆家も参戦した。

戦闘が盛り上がってくると、「先陣はこの元長が務めます!」と突然駆け出す元長。
「ちょっ、待て、おい!」と制止が間に合わず追いかける元春。
これに触発されたのか雪崩を打って攻めてくる毛利勢に押され、尼子勢は城に退却していった。

ちなみに輝元もこの合戦に加わりたがったが、さすがに元就が首を縦に振らず、
叔父たちにも「今回は偵察なので輝元様が出るには及びません」と諫められて留守番をしていた。
後日、仕切り直しの合戦では輝元も出陣を許され、先陣はそうそうたる顔ぶれの譜代家臣で固める。
血気にはやって駆け出そうとする輝元の上帯を元就ががっちりキャッチ!
「このジジイが出るべきときを見計らってやるからな」と、終盤まで手放さなかった。
さすがに吉川親子の轍は踏まない。

抜け駆けして先陣についた武将の「おしりペンペン」という挑発に逆上した尼子勢が
雪崩を打って毛利方に打ち寄せ、毛利勢が若干不利な形勢になると、元就はやっと輝元の帯を放し、
一直線に駆け出した輝元の様子に力を得た毛利勢は無事に巻き返しましたとさ。

このとき、別方向から攻めていた元長も、もう一人の祖父、熊谷信直にサポートされて奮戦した。
熊谷はその勇猛さに「さすが元春の子!いやさ俺の孫!」と感心しきりだったそうな。

とりとめもオチもないんだが、なんか一家して楽しそうだったのでw
47人間七七四年:2011/10/10(月) 21:47:23.51 ID:k77TARoR
>>43続き。しばらく待つと、直径60cmほどの茶褐色の大瓶が出土した。親方が
蓋を開けて溜まっていた黒い水を汲み出すと、何かが現れた。親方は小瓶だと
思って持ち上げようとして驚いた。頭蓋骨だったのである・・・・。

 こうして三成の遺骨は見つかり、円鑑国師の傍らに改葬された。

 前スレで紹介した青森県弘前市「陸奥新報」が三成の娘・辰姫と津軽信枚の
婚姻について連載している「津軽の江」冒頭に出てきた話。弘前市立図書館に
ある「石田三成の墳墓、朝吹英二談」が元になっているそうです。
 発掘に立ち会った「墳墓調査の専門家・渡辺某」は、恐らく渡辺世祐博士。
『稿本石田三成』を著し、三成の再評価や頭蓋骨からの肖像復顔につながる。

 朝吹はこの件を知人に話し、その一人である金子堅太郎は「旧弘前藩の家老
筋である杉山家が三成子孫と言われる」と教えてくれた。杉山家には大一大万
大吉紋がついた三成肖像、甲冑が残り、先代に焼失したが『開けると目がつぶ
れると言い伝えられてきた奇妙な箱』があること、さらに弘前城に秘蔵されて
いた豊太閤坐像の存在も調べてくれた。
 この話をさらに床次竹二郎にすると「徳島知事時代に職権で公開無用といわ
れていた秘物を見せてもらったが、その像に似ているようだ」と告げられた。
この豊太閤坐像は名護屋で3体作られ、蜂須賀家と前田家に各1体授けられ、
大阪城に残されて夏の陣で焼けたと思われた残り1体が石田重成の津軽亡命で
弘前に伝わったという。

 いずれ誰かが三玄院の徹底した発掘をやったかも知れないが、朝吹の執念と
親方の職業的勘がなければ三成は多くの歴史上の人物のように空っぽの墓だけ
だったかも知れないという話。

 ほとんどの大名家は西軍や豊家とのつながりを示すものは初期に抹殺したん
だろうが、やばいものを密かに残していたのは真田家だけでもなかったようで。
48人間七七四年:2011/10/10(月) 21:58:49.86 ID:BYxC/vE2
おしりペンペンで逆上とは尼子勢の煽り耐性の無さはネラー以下だな・・
49人間七七四年:2011/10/10(月) 22:16:28.91 ID:R3ehUPdd
>>41
その為だけに数珠ばらしたりなんぞしたら疑われるのは忠良の良識。
それを抜きにしても
>あえて数えさせる
ではなく、利発さの確認でやってるのにそんな安易なフェイク仕掛けてどうするんだ。
「思い込みに違いない!」って思い込みはすごく愚かしいと思うぞ?
50人間七七四年:2011/10/10(月) 22:33:01.64 ID:vcDGRQTE
>>49
事象に対する反応を確認して、
性格・性質を見ようというのが狙いだからね。
毛利の雪合戦の話や、氏政の二度掛けと、
性質は同じような話だな。
51人間七七四年:2011/10/10(月) 22:52:43.92 ID:A9AjwfSB
108の煩悩を打ち消すために数が必ず揃ってるんだからな
52人間七七四年:2011/10/10(月) 23:26:59.12 ID:wdLzr90P
>>48
そこで華麗にスルーしたら尼子勢は臆病者ww
と笑われて城兵の士気が低下する罠
53人間七七四年:2011/10/11(火) 00:25:36.73 ID:HX+vtWHN
>>43
結局、三成祟ってたん?
54人間七七四年:2011/10/11(火) 01:11:29.25 ID:xQzzJdFL
>>52
寄せ手なら兎も角
籠城側が挑発に乗っては駄目なのは基本なんだしそんな事で士気落ちないだろ
55人間七七四年:2011/10/11(火) 08:30:15.45 ID:eQXo+6K9
いやいや人間そんなに割り切れるもんじゃないぞ
56人間七七四年:2011/10/11(火) 08:35:07.77 ID:zdFuOlVz
「ただの挑発じゃ。 ものども、気にするな」なんて言ってスルーできるのは、むしろゲームの世界の中だけ
57人間七七四年:2011/10/11(火) 09:13:28.57 ID:3ArpCtju
真面目に仕事してるときに相手が不真面目なことやったらそらイラッってくるわな
58人間七七四年:2011/10/11(火) 09:23:23.12 ID:pThp8ls6
新当主の初陣なんて絶対勝てるようお膳立てするのが当たり前だもんな、普通。
もうすでに尼子勢はその程度って見られてたっと。
二人の初陣が月山戸田城包囲戦だったのは歴史的事実だし。
59人間七七四年:2011/10/11(火) 17:46:08.67 ID:dRwvz2MZ
まあそうだね
おしりぺんぺん位でいちいち籠城崩したり士気下がってたならそこらじゅうの城落ちまくりだしな
挑発士気云々以前に尼子勢は打って出るしか無かった状況に追い込まれてたんだろう。
60人間七七四年:2011/10/11(火) 18:54:25.16 ID:Vugv724F
城主が痔でマジで尻を気にしてたらと思えば納得できる
61人間七七四年:2011/10/11(火) 19:37:46.62 ID:L41Orn/J
ある時、太閤秀吉が真っ赤な小袖を着て、諸大名に披露した。「どうじゃ、この小袖は!」
さっそく細川幽斎が一首を詠み上げた。

“ほのぼのと 赤き小袖を 召す時は 皺隠れ行く 御年若さよ”
(柿本人麻呂の“ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ”が本歌。
「舟をも見せぬ朝霧ならぬ、皺をも見せぬ小袖を見たぞ。殿下の若々しいことよ」)

「おう、良く詠んだ。」すかさず秀吉は小袖を脱ぎ、褒美として幽斎に与えた。

“下さるる 小袖の丈の 長ければ かたじけなさは 身にぞ余れる”
(「下されたこの小袖の丈のように身に余る光栄です」小男の秀吉の着物が余るはずも無く、これもお世辞)

ますます気を良くする秀吉。これを見た有馬玄蕃頭豊氏が「さすが、良く詠まれるのう!」
と言って幽斎の肩を小突くと、幽斎はコロリと受け身を取るように一回転して、

“とんと突く ころりと転ぶ その内に いつの間にかは 歌をいふさい(幽斎)”

「ヌゥ、これならどうですかな!」
まだ若い豊氏はいささかムキになり、怖れ知らずにも幽斎の股間をギュッとつかんだ。

“南無阿弥陀仏 六字は二字に なりにけり 有馬玄蕃に 四字を取られて”
(南無阿弥陀仏!豊氏殿に四字(=シジ=指似=股間にある指に似たモノ)を取られて私は『お陀仏』だ)

豊氏も列席の大名も、幽斎の即興に感嘆するしかなかった。(幽斎君抜抄より)
62人間七七四年:2011/10/11(火) 19:43:36.89 ID:ImjvV786
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-578.html
この握撃でお返しに豊氏の股間を握ればよかったのに
63人間七七四年:2011/10/11(火) 20:11:58.81 ID:O9W/jlv2
>さっそく細川幽斎が一首を詠み上げた。

なんかイラっってする俺は武断派
64人間七七四年:2011/10/11(火) 20:15:37.50 ID:ModJywL3
若い頃は牛の角を掴んで引きずってた男によくこんなちょっかい出せるな、豊氏…
65人間七七四年:2011/10/11(火) 20:23:27.09 ID:5GyvxpF0
>>37

半島の法則発動か・・気の毒に。
大谷さんと石田さん。
66人間七七四年:2011/10/11(火) 20:31:27.67 ID:ImjvV786
大内氏も百済の子孫だそうで
島津とか長宗我部の秦氏は、秦の始皇帝の子孫の説の他に朝鮮半島からの渡来人という説あり
って島津も長宗我部も西軍か(島津に半島の法則、てのも変だけど)
67人間七七四年:2011/10/11(火) 20:40:06.67 ID:Sc0zoJgI
毛利は神別
68人間七七四年:2011/10/11(火) 22:39:40.32 ID:NL+BczVK
>>66
始皇帝の一族が朝鮮半島に逃れて、さらに後年になって日本に渡ってきたというのが現実的かね
69人間七七四年:2011/10/11(火) 23:20:41.75 ID:AXlwA4XH
渡来系ってのは朝鮮経由で来たってだけだから、今の朝鮮民族との血縁はなかったりする
ついでに歴代の朝鮮王朝も今の朝鮮民族とは血縁ない場合が多い
天皇一族も渡来系で、始祖はユダヤ人だったんじゃ無いかって説は有名だよな
70人間七七四年:2011/10/12(水) 02:05:58.67 ID:xqrle9Gv
半島を経由しなくても、中国南部から船だせばそのまま和歌山あたりに
流れ着くみたいだけど

あのへんに釣りに行ったら「怪しい船や人をみかけたら声をかけたりせず、
すぐに逃げて通報を」って看板が乱立しててドン引いた
71人間七七四年:2011/10/12(水) 02:15:13.27 ID:iXpZQQaf
百済は日本の属国だし
そもそも今のニダーと百済は全然別民族だろ
72人間七七四年:2011/10/12(水) 07:30:05.41 ID:FzEVbYxz
これだけ研究がされてきたんだから、
百済は日本の属国だったぐらいは教えてもいいような。
朝鮮半島南部に勢力拡大していったが、高麗に追い出されたとか。
73人間七七四年:2011/10/12(水) 08:16:40.96 ID:sNnuDAT/
どうせ朝鮮じゃ、自分たちは中国の属国だった歴史も教えてないんだろうなあ
74人間七七四年:2011/10/12(水) 08:29:49.32 ID:BD8ldskZ
漢代は属国じゃなくて植民地だったでしょ
75人間七七四年:2011/10/12(水) 08:43:54.28 ID:uK+a3jxj
まあ、あの国の考証は
天皇は渡来系だから天皇は朝鮮発祥ニダ

天皇はユダヤ系説あるからユダヤ系も朝鮮発祥ニダ

キリストはユダヤ系らしいからキリストも朝鮮発祥ニダ

研究の結果キリストは朝鮮人である事がわかりましたキリッ
ってな感じで学者が発表する国だしなぁ
人類朝鮮発祥バージョンもあるが割愛する
76人間七七四年:2011/10/12(水) 10:20:27.13 ID:wS/rWS7E
今大河で話題の江の手紙が読売新聞に掲載されてたので。

江の姉、初の元へ養女としていった四女、初姫に宛てた手紙が10月15日から香川県の丸亀市立資料館で公開になるそうです。

内容は娘の節句のお祝いとして書いたものと、初姫からきた手紙に対する返信が2通だそうで、

1通目は
「菊重ねの祝い(重陽の節句)に祝儀として、上等ではありませんが、小袖を目録の通りお贈りします。末永い幸せをお祈りし、お祝いいたします。若狭殿(忠高)へもよろしくお伝えください。」

2通目は
「手紙をもらい嬉しく読みました。私も元気なのでご安心ください」

また娘から昆布などを貰ったことも書かれているようで、養子にいった娘を気遣う母の気持ちがよく伝わる手紙でした。
77人間七七四年:2011/10/12(水) 10:23:18.05 ID:L/uAzmhX
>>70
ジョン万次郎みたいに漂流したら大変だ
北アメリカはまだ東部にフランス人がいただけの状況だ
78人間七七四年:2011/10/12(水) 12:00:44.71 ID:W1fJxaI+
小牧長久手の合戦の時のこと。

本多平八郎忠勝は小幡から龍泉寺方面への物見を命ぜられ、三浦久兵衛、梶次郎兵衛、小野田輿四郎、
向坂輿五右衛門、松田官右衛門などとともに出動した。

この時、小野田輿四郎の馬が暴れだし輿四郎が落馬、馬はそのまま龍泉寺のほうへ駆けていき
輿四郎はこれを慌てて追いかけた。と、このとき本多忠勝、輿四郎に

「怪我はしていないか!?」

と声をかけつつ輿四郎の馬に駆け近づくと、その手綱を槍の石突にからませ、力任せに引き寄せる!
これには暴れ馬もたまらず動きを止めた、とのことである。
そして、さても平八郎は大力であると、大いに評判になったそうだ。
(柏崎物語)
79人間七七四年:2011/10/12(水) 14:27:56.83 ID:vc5RApDD
小幡から龍泉寺って三河のどの辺だ?
80人間七七四年:2011/10/12(水) 14:39:23.29 ID:PUK5Qmo8
>>79
三河じゃなくて、尾張です

現在の名古屋市守山区
81人間七七四年:2011/10/12(水) 15:58:01.10 ID:TDIWWzAc
忠勝ですら馬を引き寄せるほどなら、
彼よりも力があるから重装備でも平気だという井伊直政は
どんだけ怪力だったんだろう……

三河は人外魔境だったのだろうか
82人間七七四年:2011/10/12(水) 16:32:13.97 ID:gg64TMtY
>>66
大内氏の「百済の王族の子孫」は自称です。
山口の研究者が、大陸との交易に大内氏が積極的に乗り出したころに
突然主張し始めたことを確認してます。
どうも、大陸出身の名族だと主張することで交易を有利にしたかったようです。
83人間七七四年:2011/10/12(水) 17:11:07.61 ID:k8UVka1Z
>>76
その手紙、秀忠からも手紙行くからってあるね
初姉さんに宛てた江の手紙にも、初姫に会える日を楽しみにしているってのもあるから
会えなくても、子供可愛かったんだろうな
84人間七七四年:2011/10/12(水) 20:37:47.20 ID:xqrle9Gv
>>77
だいじょぶだよ
どことなく風貌の似たひとたちが数千年前から住んでるよ、あの大陸
85人間七七四年:2011/10/12(水) 21:24:41.53 ID:D+1GbiVT
スーパー三河人
86人間七七四年:2011/10/13(木) 15:03:42.50 ID:7nIOHItt
小勢で大軍を撃破するのが当たり前で、鬼武蔵も真柄十郎左衛門も余裕で討ち取る連中だからな。
87人間七七四年:2011/10/13(木) 16:40:41.06 ID:DvP8DpDO
>>78
これ忠勝も馬に乗ってたんだよな?
馬辛そう(´・ω・`)
88人間七七四年:2011/10/13(木) 17:56:02.67 ID:GlyRmEf8
>>66
島津は相模出身で頼朝の家来で渡来系ではないだろ
89人間七七四年:2011/10/14(金) 00:41:05.72 ID:A5uNnWrr
ふと、RPGのように戦国武将に専用武器持たせるとしたら
各個人、どんな刀が選ばれるだろう
忠興はありすぎて選ぶのに苦労しそう
90人間七七四年:2011/10/14(金) 01:30:21.83 ID:T4RqoQPy
ここは逸話スレです
91人間七七四年:2011/10/14(金) 11:31:11.22 ID:qGFfveAG
刀しか思い浮かばない時点で
92人間七七四年:2011/10/14(金) 11:48:53.22 ID:hVSPfiHX
93人間七七四年:2011/10/14(金) 18:35:04.53 ID:O3NNJcrC
>>89
武器名を考えてみた
ガーデナーキラー
ゲートオブスキャッフォルト
ヴィッセルリキデーション
フレンドファイア
なんか魔法名っぽくなった
94人間七七四年:2011/10/14(金) 21:05:35.83 ID:XjhOuoc8
>>88
 間違えて島津は相撲出身でと読んでしまった……
95人間七七四年:2011/10/14(金) 22:59:19.64 ID:yolLO7AR
そういえば力士が無双したみたいな逸話ってありそうだけど聞いたことない気がする
96人間七七四年:2011/10/14(金) 23:14:06.31 ID:AjdshHlS
職業としての力士ってのは、江戸に入ってからじゃないのかな?
97人間七七四年:2011/10/14(金) 23:16:28.29 ID:7Peq+/pv
武田と上杉が川中島で相撲合戦をやった話をどこかで聞いた。
98人間七七四年:2011/10/14(金) 23:33:18.26 ID:LaAyNvq6
初めて相撲をとった建御名方命の子孫の諏訪四郎勝頼なら・・・と思ったが初陣はまだか
とりあえず相撲大会といえば山内一豊さん
99人間七七四年:2011/10/14(金) 23:44:45.04 ID:9ZX6Pi9d
力士が戦場で活躍って、
維新の頃の力士隊位しか思いつかないな。
100人間七七四年:2011/10/15(土) 00:00:39.93 ID:awV9BTHk
信長は相撲好きだけど、力士から出世した人いないの?
101人間七七四年:2011/10/15(土) 00:13:35.01 ID:q79RTkaT
信長は相撲大会開いて優勝者を取り立てたんだっけ
力自慢がやるスポーツって所で職業にはなってないだろうって感じかな
で、江戸時代になるともう戦自体が起こらないから……
102人間七七四年:2011/10/15(土) 00:15:34.61 ID:D0HcKboe
唐の時代に力士を重用した皇帝がいたとか
高力士と玄宗皇帝・・・すまん
103人間七七四年:2011/10/15(土) 00:21:53.14 ID:ZdL1aVSV
競技的になってからは戦に出たとかは知らないけど
元々相撲は今でいう総合軍隊格闘術みたいな物だしね
104人間七七四年:2011/10/15(土) 00:56:50.99 ID:WFv32hos
力士やるくらいならそもそも武士になって一国一城の主を目指しちゃうような時代かもしれんね
105人間七七四年:2011/10/15(土) 01:17:50.96 ID:YRrMMXUz
主君替え、九人目および十人目

その風体を見れば、あらぬ噂をたてられるのも無理はない。
二代将軍秀忠に仕えていた藤堂和泉守高虎は、いまだ滞っている和子入内に関し、
将軍の使者として朝廷を訪れた。
いかに装束を改め、礼を尽くして参内しようと、その気迫は武将のそれであった。
しかも声も背も図抜けて大きい。

やがて首尾よく事が運ぶと、後の世の人々はこう語った。

高虎公は、天子様の御簾の内に入り御笑談された後、
居並ぶ五摂家その他公家衆を前にして、言った。
「かつて武家にお背きになった天子様を左遷した例もある。
我らは東より参上し、事をまとめず帰るようなことはしない。
このままご同意いただけぬなら、天子様に左遷をお勧めしたうえ、
我らは切腹いたすまでのこと!」
震え上がった朝廷は和子入内の話を進めた、と。


三代将軍家光は、久々の高虎の登城を喜んだ。
「和子様入内の折りの、あの脅しはまことの話か?」
家光が尋ねると、高虎は平伏して言った。
「この高虎、浅学にして短慮なれど、礼節は心得ておりまする。
 だれぞが尾ひれを付けた噂にすぎません。」
「そうであろうな。して、そなた具合はいかがか?」
七十を前に眼病を患った高虎は、この頃にはほとんど視力を失っていた。
秀忠は高虎が出仕の際、難儀せぬようにと
江戸城の三の間までの廊下を真っ直ぐにし、駕籠の乗り入れを許可した。
それを聞き及んだ家光は、三の間から次の間までの廊下を真っ直ぐにした。
「もったいなく幸せな心持ちにございます。」
高虎ははらはらと涙をこぼした。


藤堂藩三十二万石の後々のことを頼み、身辺を整理すると
高虎はもう天命に抗おうとはしなかった。
床に伏すと静かにその時を待った。

一六三〇年十月五日
臨終の際には、夏の陣で散った家臣たちの名を呼んでいたとも伝わる。

「御遺骸には、隙間なく傷があった。槍傷、弾傷もあちこちにある。
右手の薬指と小指は切れて爪がない。
左手の中指も一寸ほど短く、右足の親指の爪もない。
左右の手、指の腹には節が立つように豆がいくつもあって、
これはたびたび戦場で馬の鞍坪をお叩きになったため、とのことである。」
遺骸をあらためた森石見なる者は、高虎の生きざまをそう語った。
                                 「実伝藤堂高虎」より


106人間七七四年:2011/10/15(土) 04:40:09.42 ID:7eJLrtXj
壮絶だな
高虎でさえそうなのだから……
といろいろ考えちゃう
107人間七七四年:2011/10/15(土) 04:52:31.82 ID:btpKYu/M
乱世を己のやり方で生ききった武士
108人間七七四年:2011/10/15(土) 06:02:32.16 ID:yuPhfz6Q
謙信の馬廻りは力士隊だったらしい
109人間七七四年:2011/10/15(土) 08:47:34.76 ID:5pMZfPR+
偏見だけど力士隊って弱そうだな
110人間七七四年:2011/10/15(土) 10:04:15.12 ID:depDgVoq
力士隊ってデカくてゴツいのを後ろに揃えて威圧感与えるためのものだったという話が
111人間七七四年:2011/10/15(土) 10:11:12.30 ID:xTMb03tA
プロイセンにも巨人部隊が
112人間七七四年:2011/10/15(土) 11:24:44.03 ID:AWj5L/j7
いつの間にか巨人部隊に変わってるし
113人間七七四年:2011/10/15(土) 12:02:10.02 ID:MFv7M0Z8
>>104
青地与右衛門や鯰江又一郎といった近江の国人が信長の相撲会に参加して採り立てられてる
青地は後に信澄や堀、蒲生に交じって相撲奉行を務めてもいる
まあ、城持ちなんかに届きはせんがね
114人間七七四年:2011/10/15(土) 12:08:08.49 ID:WZgQlDvI
相撲が仕事になってるってことは今でいうプロスポーツのさきがけってことになるかな?
115人間七七四年:2011/10/15(土) 12:45:53.31 ID:E+bpfXon
少なくとも戦国時代の力士ってのは「近所の相撲が得意な人」だと思うぜ。
相撲興行として成立する状況がないわけで。
信長が取り立てたのも、相撲をさせるためではなく、近隣の土豪で一番の武勇の持ち主
を召抱えたんだろ。それが戦場で通用するかどうかはまた別の話で。

武将の護衛には無名でも武勇に優れた人がついてるわけで、そういう腕っ節だけで
採用される枠は常に必要だったはず。
116人間七七四年:2011/10/15(土) 13:36:55.59 ID:M4QVabD0
>>115
いや、どうも畿内では興行としてなりたっていたらしい>相撲
信長はそれを見て気に入って自分でも興行するようになったんだとか
(相撲自体は普通に全国にあったが、それを興行として行うのは東国には見られなかったそうだ)

だから、参加者の中には武士や農民の腕自慢などの本職があるアマチュアから
相撲で食っているような本格的なプロもいた気配があるそうで
いってみれば、武芸者と同じで「相撲という芸」で生活している芸人という扱いだった
なので、この手の人たちは信長に召抱えられた後も戦場に出て槍働きなどをした形跡は見られない
117人間七七四年:2011/10/15(土) 13:42:11.59 ID:jUIHxPki
戦国時代の力士はさすがに今の力士のようにブクブク太ってはいなかったのかな
人によりけりだとは思うけど
118人間七七四年:2011/10/15(土) 14:39:24.66 ID:YAb5zEuV
ちょっと前にも書いてる人がいるけれども、
当時の相撲は今の相撲と違ってマーシャルアーツだから注意な

組討を制する戦技で、首級を挙げる必須スキル
119人間七七四年:2011/10/15(土) 14:41:44.69 ID:KpeoHZ++
無手で負けたること一度として無し の世界かw
120人間七七四年:2011/10/15(土) 15:36:50.10 ID:MFv7M0Z8
西国では祭りでの相撲を観戦していた聴衆が興奮して喧嘩をはじめることが多いらしく相撲を禁止されることもあったそうな

信長の相撲会は近江の土豪地侍から山門の用心棒など、ときには1500人を数える参加者を集めたこともある
京での馬揃えで長刀を持っていた、たいとう・ひし屋はともに天正6年8月の相撲会での評価を経て採り立てられた力士だとさ
121人間七七四年:2011/10/15(土) 16:40:26.14 ID:V4MVrMyJ
力士衆といえば、朝倉自慢の精鋭
122人間七七四年:2011/10/15(土) 16:51:51.93 ID:nDMR7Yvs
>>88
島津の祖先の惟宗氏は秦氏系。
問題は、同じ惟宗氏の子孫の対馬の宗氏は桓武平氏を名乗ってることw
仮冒変えるにしてもせめて口裏合わせろよw
123人間七七四年:2011/10/15(土) 17:51:38.79 ID:qcrU9YAk
 そういや
「信長は相撲の優勝者に褒美として焼き栗しか与えてない。信長はケチだ」って批判をどっかで読んだことあるけど
これって妥当な批判なのかな?
124人間七七四年:2011/10/15(土) 17:54:04.73 ID:X1BCkiC1
>>123
信長がケチなのは間違いない。しかしそのケチには意味がある。
125人間七七四年:2011/10/15(土) 18:16:48.93 ID:v69bNLSC
そこんとこkwsk
126人間七七四年:2011/10/15(土) 18:47:11.35 ID:M4QVabD0
>>123
それ、出展は『老人雑話』
実際には刀や着物、工芸品や米などを褒章として出しているし
召抱えた力士には知行も家屋敷も与えている
127人間七七四年:2011/10/15(土) 20:10:56.22 ID:vqAKCQVI
相撲はもちろん組み打ちの必須技術だったけど
相撲といえばそれをエサに旧長宗我部家臣たちを呼び出してぶっ殺した山内一豊が思い浮かぶ
128人間七七四年:2011/10/15(土) 20:17:15.53 ID:p76dp/tZ
相撲といえばまーくんだろ
129人間七七四年:2011/10/15(土) 20:22:00.17 ID:awV9BTHk
まーくんが出てきたら、酒井さんが無双しちゃうじゃない
130人間七七四年:2011/10/15(土) 20:44:26.46 ID:52/v0XIa
今思い出したんだけど
昔、漫画で川中島の戦いの時に武田、上杉の代表が相撲とって上杉側が勝ったって話があった。

確か学研の付録だったと思うんだけど。
覚えてる人いないかな?
131人間七七四年:2011/10/15(土) 21:17:30.58 ID:+9xRXmXj
一豊「相撲やろうぜ!」
132人間七七四年:2011/10/15(土) 22:02:43.90 ID:dptU6jHj
>120
>相撲を観戦していた聴衆が興奮して喧嘩をはじめることが多いらしく
勝負に金品掛けててそれがこじれて試合開始、の悪寒。


タイではムエタイの試合会場のスタンド上部には近づくな、とはよく言われる事。
闇賭博やっててこじれると場外乱闘開始となるので、それに巻き込まれないためだw
133人間七七四年:2011/10/15(土) 22:20:33.91 ID:8NHSvFyf
>>132
イギリス人程じゃないが、昔の日本人も結構バクチ好きだからな
134人間七七四年:2011/10/15(土) 23:39:52.82 ID:M4QVabD0
だってお茶で賭けてすらいたんだぜ
135人間七七四年:2011/10/15(土) 23:58:35.64 ID:pfbUJdAG
>>117
明治時代の相撲の銅が見たことあるけど
寺尾みたいな体形の力士がすごいアグレッシブに戦ってたよ
今の相撲より面白かった
136人間七七四年:2011/10/16(日) 00:04:21.41 ID:2d33ZbcW
>>135
四股踏んでる横綱が浮世絵みたいなふくらはぎしててちょっと感動した
137人間七七四年:2011/10/16(日) 04:27:57.32 ID:LL5DTb6/
知ってる人多いだろうし戦国じゃないけど相撲の元祖の逸話を・・・

時は垂仁天皇の時代
大和国の当麻邑に当麻蹴速と言う相撲の名人がいました
剛力で蹴り技が得意な蹴速は周囲に敵無し自分を倒せると思う奴は何時でも来いと
自信満々だったそうな

それを聞いた垂仁天皇よっぽど癪に障ったのか元から気に入らなかったのか
わざわざ遠く出雲の国から勇士と評判の野見宿禰を呼び寄せ対戦させる事にしました

さて注目の一番両者はっけよいのこった!がっぷりよっつ!
とはいかず、互いに蹴り合いの応酬の末
倒れた蹴速が宿禰に腰を踏み折られ絶命すると言う何とも殺伐とした大一番

負けた蹴速は名誉と命ばかりか持っていた領地も取り上げられ
まさに踏んだり蹴ったり・・・・・

因みに蹴速の領地を与えられた宿禰は垂仁天皇に仕え殉死を禁じ
主人が死んだら自分の代わりに埴輪を一緒に埋めるように進言したとかしないとか
138人間七七四年:2011/10/16(日) 08:49:07.97 ID:J3c9hiIr
めちゃくちゃ歴史的に重要な役割果たしてるじゃんw >埴輪
139人間七七四年:2011/10/16(日) 10:24:43.26 ID:cv30W8CC
戦国じゃないけど埴輪の逸話を聞くと
武埴安って人物との関係が気になる
140人間七七四年:2011/10/16(日) 11:00:35.46 ID:C+4q6HwQ
>>137
蹴り合いの応酬ってのはムエタイみたいな状況だったのだろうか
141人間七七四年:2011/10/16(日) 13:58:52.13 ID:f98ODILg
>>137
夢枕貘が絶賛したエピソードだな。
「ひたぶるに力くらべせむ」というのを自信満々というより「全力を尽くして
戦える相手を求める男の悲願」として、その死に様を「完全燃焼の歓喜のなかで
息絶えた」とまで言い切ってたのは流石餓狼伝の作家だと思った。
142人間七七四年:2011/10/16(日) 14:12:34.87 ID:b5p36J96
安彦良和が漫画にしてたな
143人間七七四年:2011/10/16(日) 16:26:38.16 ID:BkcPNvyQ
清正公に学ぶ治水の心得


築城、治水工事に定評のある清正公
本人としても治水工事に一家言あったらしく、
堤防工事の際の心得を“治水五則”として取りまとめている

一、水の流れを調べる時、水面だけでなく底を流れる水がどうなっているか、
特に水の激しく当たる場所を入念に調べよ。

一、堤を築く時、川に近いところに築いてはいけない。どんなに大きな堤を
築いても堤が切れて川下の人々が迷惑する。

一、川の塘や、新地の岸などに、外だけ大石を積み、中は小石ばかりという工事
をすれば風波の際には必ず破れる。角石に深く心を注ぎ、どんな底部でも手
を抜くな。

一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水は溢れて大災害を
被る。また川幅を定める時には、潮の干満、風向きなどもよく調べよ。

一、普請の際には、川守りや年寄りの意見をよく聞け。若い者の意見は優れた着想
のようにみえても、よく検討してからでなければ採用してはならぬ。


他にも、白川に堤を築く際には清正公自ら小舟に乗って、川を何度も上下しては
水の流れ・勢いを検分したとか。家中の川潜りの名人を検分に立ち会わせたとか、
堤防工事に関しての逸話に事欠かない。

(参考「大木文書」)
144人間七七四年:2011/10/16(日) 21:32:16.82 ID:4/hog1CU
今度から将星録をやる時には清正に全国治水行脚に出てもらうとしよう
145人間七七四年:2011/10/16(日) 23:19:52.27 ID:GDkChYlJ
清正、治水というのが清水宗治に見えた。
146人間七七四年:2011/10/16(日) 23:22:07.74 ID:3JBxrKXU
農学博士は土居さんだっけか?
147人間七七四年:2011/10/17(月) 00:40:25.86 ID:XvrCTDnJ
有名だけど見たこと無いから投下しておく。
まとめスレの権現様のところは確認したが如何せん量が多くて既出かもしれん。

武田滅亡後、徳川家康が武田氏を尊重しその兵法と名臣を吸収したのは有名である。

家康は、武田家の旧臣横田甚右衛門(※)に、武田兵法について色々教わっていた。
(横田はこの逸話にも登場:http://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%C0%D0%C3%AB%BD%BD%C2%A2%A1%A2%B2%A3%C5%C4%BF%D3%B1%A6%B1%D2%CC%E7%D5%FA%BE%BE
その時、弓矢の先っぽにつける鏃(やじり)について横田が述べた。

「武田軍では、鏃は緩く詰めるべきだとされてございました。」
「なぜなら、例え矢が敵を殺さずとも、鏃が肉に食い込み、その敵は障害苦しみぬくことになるからでございます。」

しかし、家康は
「たわけ。敵兵を生涯苦しますことが家康の勝利ではないぞ。だいたいそれでは占領にも支障が出よう。」
と家臣に語り、
「よいか!決して鏃は緩く詰めるでないぞ!」
と述べたという。
148人間七七四年:2011/10/17(月) 00:47:18.11 ID:4hfbGjEb
勝茂公若年のころのこと、
直茂公から、人を斬る練習に、斬罪を受けた者で試し斬りするようにお言い付けがあった。
さればと勝茂公は西の御門に十人の罪人を並べて九人まで斬り捨てられた。
そして最後かと十人目の者を見ると、いかにも健康そうな若者であった。
勝茂公は、
「斬るのも飽きた。この者は斬らぬ。」
と言われて、その者を助けたとのことである

葉隠より
149人間七七四年:2011/10/17(月) 01:00:43.46 ID:oAj1EvKQ
>>147
西三河筆頭の石川数正が秀吉の下に出奔して兵法がだだ漏れに
なったから甲州兵法にシフトしたんだよな
150人間七七四年:2011/10/17(月) 01:28:50.24 ID:VM+R1yAd
151人間七七四年:2011/10/17(月) 22:47:03.52 ID:4hfbGjEb
>>150
すみませぬ。
では、まとめにないものを。
山本常朝
「山本神右衛門が日頃言っていたことを書き留めていたが、
その中からいくつかあげてみよう。

一、一つのことを会得すれば、色々なことが分かるようになる。

一、可笑しくもないのに作り笑いする者は、
男なら心の汚い奴で、女の場合は淫乱だと思ったらよい。

一、正式な場あるいは普通に会話するときは相手の目を見ながら話すがよい。
頭を下げて礼をするのは初めだけでよい。
うつむいて話すのは無用心である。

一、袴の下に手を入れるのは無用心だ。

一、父は手紙、書物を読んだらすぐに焼き捨てられた。
書物をみるのは公家の仕事で、
中野の一門は木刀を握って武道に励むのが仕事だと申された。

一、組にも入らず、馬も持たない武士は、武士とは言えない。

一、剛の者は信頼できる。

一、朝は四時に起き、毎日行水し、髪を整え、
日の出頃には食事をし、日が暮れたら休まれた。

一、武士は食わねど高楊枝。
内側は粗末でも外見は飾らねばならぬ」
152人間七七四年:2011/10/17(月) 22:51:06.32 ID:nJMt1Kwp
>>151
たしかこれが『武士は食わねど高楊枝』の出典なんだよね
153人間七七四年:2011/10/17(月) 23:26:32.56 ID:4hfbGjEb
>>152
多分そうかな?
山本重澄(神右衛門、常朝の父)が日頃から言っていたと葉隠にはあるよ。
ちなみに重澄さんは大阪の陣、島原の乱に参陣している。
隠居の後は有田焼や牧畜関係に尽力した御方だそうです
154人間七七四年:2011/10/17(月) 23:35:24.79 ID:nE9WllO3
有田焼ってんなら場所的に伊万里牛か
…いや和牛の歴史がそんなにあるのかどうか知らんが
155人間七七四年:2011/10/18(火) 13:40:41.17 ID:7IhtHxTy
>>154
当時に伊万里牛ブランドはなかったはず。
そもそも佐賀牛として販売されだしたのが昭和56年。
重澄さんが尽力したのは軍馬を育てる牧畜だと思う
156人間七七四年:2011/10/18(火) 16:43:07.07 ID:/w1gAwQD
>>151
上3つなんかは今読んでもハッとさせられるな
生活習慣なんかは変わっても人の本質は変わらんね
157人間七七四年:2011/10/18(火) 22:47:51.20 ID:pfcAesF5
島津義弘の妻宰相殿は若い頃、あかしと呼ばれていた。
あかしが家の前で大根を洗っていると、鷹狩中の義弘が通りかかった。
義弘はあかしに「その大根をくれ」と話しかけた。
あかしは義弘の顔を知らないため義弘だと気付かなかったがただ者ではないと思い
脇に置いてあった菅笠を取り、被る方ではなく上の部分を凹ませ
そこに大根を乗せ義弘に差し出した(被る方にしなかったのは失礼だと思ったため)。
このさりげない優しさに感動した義弘は、
島津家より遥かに家格の低い家出身のあかしを正室として迎え入れた。

『盛香集』より
158人間七七四年:2011/10/19(水) 00:01:15.72 ID:VxGL+uyc
鰯で恋に落ちたナベシマンといい、
男のハートは胃袋に隣接しすぎww
159人間七七四年:2011/10/19(水) 00:06:59.75 ID:c/frY2zZ
島津歳久も年上で身分違いの女性と結婚してなかったっけ?
あと義久の最初の妻は伯母
160人間七七四年:2011/10/19(水) 01:55:22.75 ID:LSkHHtMc
>>159
しかも義久の二番目の妻は従姉妹じゃなかったっけ
島津はなんか血縁近い結婚多いのだろうか

悪家久もいとこ婚だよなあ
161人間七七四年:2011/10/19(水) 02:13:31.23 ID:/Wl1gmcv
いとこ婚くらいは、中世日本なら上から下まで普通のこと
さすがに伯父伯母は珍しいけどな
162人間七七四年:2011/10/19(水) 06:38:36.56 ID:ZFV9D1dm
現代でもたまにあるな
前の総理とか
163人間七七四年:2011/10/19(水) 06:50:02.42 ID:FAVBohdD
>>161
伊達成実の父は伊達家14代伊達稙宗の3男伊達実元、母は父の兄である15代伊達晴宗の娘で、
妻は晴宗の娘と二階堂盛義に生まれた娘で、二階堂盛義の母も伊達稙宗の娘ですが。

ああややこしいw


164人間七七四年:2011/10/19(水) 09:39:33.51 ID:wx3iGtPV
>>163
そんなにややこしいのはレアケースだw
165人間七七四年:2011/10/19(水) 09:40:20.96 ID:5rHefL28
よくわかんないけど、すごいインブリードだってことは理解した
166人間七七四年:2011/10/19(水) 11:24:58.44 ID:vQLvaafl
東北は みーんな親戚みたいなもんだからなぁ
167人間七七四年:2011/10/19(水) 12:02:47.65 ID:kRoMtUgJ
つか大名は腹違いとか多いのを考慮しないと血縁(兄弟)関係を濃く見積もり過ぎてしまうかも
168人間七七四年:2011/10/19(水) 13:02:27.81 ID:ULxrpqxS
今年築城400年を迎えた弘前城。
ここには「館神」という護り神の社があり、稲荷社という事になっている。
お稲荷様の後ろに厨子があり、館神はその中に安置されているのだ。
ところで、この厨子の扉は江戸時代を通じて一度たりとも開かれることは無く、
「開けずの宮」と呼ばれていた。
扉が開かれたのは、長い徳川の世も終わり明治に入ってからの事。


そこで漸く館神の正体が明らかになる。
そこに安置されていたのは、なんと秀吉の木像であった。
為信を南部の家臣ではなく、独立大名として認めてくれたのは他ならぬ秀吉。
徳川の世になろうとも、為信は秀吉の恩を忘れなかったのである。


何かと悪い話の多い為信さんの、ちょっといい話。
169人間七七四年:2011/10/19(水) 13:20:28.23 ID:4EPaDQyY
既出だ。罰として南部に臣従してこい。
170人間七七四年:2011/10/19(水) 19:21:33.49 ID:jacs2yho
悪い話になってしまった。
171人間七七四年:2011/10/19(水) 19:54:28.60 ID:LLsvRF9w
こんなに上から目線じゃ、逸話書く人が可哀想。
172人間七七四年:2011/10/19(水) 20:02:43.50 ID:zrwxfdR6
信之兄さんの例の話思い出した
こういう話もっとないのかな
173人間七七四年:2011/10/19(水) 20:33:13.16 ID:u0Hgmgbh
>>157
良い話なんだけど、鷹狩り中になぜ大根なんて欲しがったのかわからないw
大根は口実で、一目惚れして話しかけてみたかっただけだろ絶対w
174人間七七四年:2011/10/19(水) 20:43:07.98 ID:dtNycMRs
>>173
 なんと声をかけていいか判らずとりあえず近づいてから咄嗟に出た言葉が
「その大根をくれ」だった?
175人間七七四年:2011/10/19(水) 20:43:35.68 ID:XgThtTCL
>>173
『今夜もまたお前を夢をみたよ…まさに今、この場で出会ったようだった』
って唐入り中の手紙の追伸に書くくらいだもんな
176人間七七四年:2011/10/19(水) 21:17:30.48 ID:u0Hgmgbh
>>174
「その大根をくれ」で菅笠から受け取ったものの、扱いに困って
鬼島津「の、喉が乾いておったのだ有難い」ボリボリボリボリ
あかし「・・・お待ちくださいませ、すぐに水をお持ちいたします」←家の真ん前

なにその萌え島津
177人間七七四年:2011/10/20(木) 06:25:09.64 ID:46taP9Is
鬼島津「わ、私の大根を食べてくれ」
178人間七七四年:2011/10/20(木) 11:05:38.81 ID:59//tCDO
いい話か微妙だが

天正7年(1579)9月、雲林院式部大輔を主将とする三千が篭る丹波鬼ヶ嶽城を攻めていた明智光秀のもとに、
細川忠興が重臣・松井康之等の手勢を率いて駆けつけた。光秀は、婿の加勢を喜んだ。

「では忠興殿、大手門(表口)を攻め候え!」
「手柄の機会を回していただけるか、かたじけない。」

だが、光秀の命に従わない者もいた。

「ふっ、馬鹿正直に大手から攻めていては、いつ落とせるか分からぬわ。」
細川家臣の古田左助は、城の裏山から搦手門(裏口)を打ち破って攻める事を企て、山の間道へ押し入った。

左助は途中、城方の物見と遭遇し、一騎討ちの末これを下したり、木の根、岩の角に取り付いたりしながら
やっとの思いで城の裏山によじ登る事に成功すると、一息に坂を駆け下り、搦手をこじ開けて大音声を発した。

「古田左助、一番乗りして敵を討ち取ったるぞ!!」

「ちッ!左助に出し抜かれたか!」
これを見た忠興が発奮し、相手をしていた騎馬武者を突き伏せ首を取ってみせると、それが合図としたように
全軍一同に城へ攻めかかった結果、城主の雲林院こそ逃がしたものの、城を落として二百余を討ち取り、
城方の救援に駆けつけた、名だたる赤井悪右衛門直正を撃退する大戦果を上げた。


褒美として五百石を与えられた左助は、その後も戦功を重ねて信長の直参に取り立てられて織部正を名乗り、
千利休に弟子入りして茶道の達人となった。すなわち、古田織部である。

“(当家の記録はこうなので)信長公記等で織部を最初から信長直参とするのは疑問が残る”(綿考輯録)


工エエェェ(´д`)ェェエエ工
179人間七七四年:2011/10/20(木) 12:28:15.04 ID:SntYkKwA
その記録の方がよほど疑問に残るw
180人間七七四年:2011/10/20(木) 12:53:16.92 ID:RT4ksHeo
織部が細川家家臣だったなんて面白いw
181人間七七四年:2011/10/20(木) 13:12:24.61 ID:wLqoC7B4
なんと言う猪武者…織部


だめだ、イメージがわかない
182人間七七四年:2011/10/20(木) 14:26:34.54 ID:vAdDsRZl
ありえない
183人間七七四年:2011/10/20(木) 14:31:55.87 ID:72Gec9Ki
これはあり得んだろうとは思うが
実際、古織さんはどれくらいの強さだったんだろう
184人間七七四年:2011/10/20(木) 16:20:05.64 ID:cyAcRuAk
まあ一応信長直参の侍だしそれ相応の強さだったんじゃないか?
185人間七七四年:2011/10/20(木) 17:05:50.41 ID:tLFlhn2W
確か、細川元首相がへうげ作者との対談で言ってたなあ、これ
ソースは綿考輯録だったのか
186人間七七四年:2011/10/20(木) 17:29:00.88 ID:xy+6/ktN
細川元首相って今は茶人、陶芸家をしてるらしいが
作品が結構な値で取引されてるみたいだな
ネームバリューでの評価が高いんだとは思うが現代にも数奇者が多いのかね
187人間七七四年:2011/10/20(木) 18:49:17.72 ID:AOq2ILgY
永青文庫ってお宝あったっけ
188人間七七四年:2011/10/20(木) 19:42:47.05 ID:uWBq4EYU
永青文庫はお宝の山です。
仕事で関わる度にゲヒヒしたくてたまりませんよ!
189人間七七四年:2011/10/20(木) 19:47:43.84 ID:3GhbbP3C
へうげもので細川ガラシャの死がむちゃくちゃに書かれていた、ときいて
細川元首相の心象を害さなかったんだろうか、と思ったが、細川ガラシャ系の子孫ではなかったんだな
190人間七七四年:2011/10/20(木) 19:53:38.84 ID:Rj5aTVKA
>>187
金象嵌銘 光忠光徳っていう刀とか時雨螺鈿鞍、金銀錯狩猟文鏡は国宝だよ。
宮本武蔵が描いた掛け軸とかは重文だったかな。
191人間七七四年:2011/10/20(木) 21:49:00.31 ID:Q1KysmMC
特別展覧会 「細川家の至宝―珠玉の永青文庫コレクション―」
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/111008/index.html
 三斎様の偏屈そうな肖像画と忠利の人のよさそうな肖像画の対比が印象的でした。
192人間七七四年:2011/10/21(金) 02:14:15.42 ID:nNPXazme
>>189
つか幽斎様だし>細川護煕(職業:陶芸家)
193人間七七四年:2011/10/21(金) 03:06:35.09 ID:r7txd6tf
>>189
無茶苦茶といえば無茶苦茶だけど、
大変格好いい死に様でしたよ

12連斉射銃を持ちだして石田勢をなぎ倒すとか、
さすが鬼の嫁は蛇と自称するだけのことはある
194人間七七四年:2011/10/21(金) 09:55:06.34 ID:Hb/COBz3
>>191
「美の世界では天下人」とかいうやつだなw
195人間七七四年:2011/10/21(金) 10:03:50.20 ID:gOh7RepR
>>158
亀レスだが…。
「手づくりの肉じゃがでイチコロ」と似たようなものか。
九州の男は純情なのか、はたまた単純なだけなのか…。
196人間七七四年:2011/10/21(金) 10:32:59.71 ID:IpsKCk5f
良い方に受け取ってやろうぜ
197人間七七四年:2011/10/22(土) 12:37:17.04 ID:CUTbNDTb
九州男児は女性が強いとダメなんだよ。
立花さんとか悪久さんとかさ。
198人間七七四年:2011/10/22(土) 14:50:03.43 ID:5woHxS/C
悪久はともかく、立花さんみたいな出来た人とどうやって仲悪くなるのかね
199人間七七四年:2011/10/22(土) 14:57:34.27 ID:MInnI0Qd
家臣とは仲良しだけど、妻相手だとまた別なんじゃない?
200人間七七四年:2011/10/22(土) 15:12:18.65 ID:HOqLOMfy
顔も性格もいいのに女受けしない奴っているよな
宗茂さんは側室とはうまくやってたみたいだから相性の問題だろうけど
201人間七七四年:2011/10/22(土) 15:14:20.64 ID:MInnI0Qd
性格はともかく、顔も良かったっけ?
でもァ千代さんからすりゃ、宗茂はかなりダメな夫だと思う
結局お家一度改易になってるし
202人間七七四年:2011/10/22(土) 15:39:25.94 ID:87cEYEP4
>>198
立花家の場合家臣たちの対立に引っ張られたんじゃないかな。
203人間七七四年:2011/10/22(土) 16:20:16.24 ID:5woHxS/C
>>201
あれだけ義理堅くて男らしい立花さんは世間一般で言うダメ男とは対極の人間だと思うがなぁ
204人間七七四年:2011/10/22(土) 16:20:25.43 ID:K4sEi1YX
立花宗茂は名将だけど、世間知らずそうだからなあ

「ほらあなた、今晩はカレーよ」
「勝手に飯に汁をかけるでない!」

みたいな会話を毎日延々とやってて、奥さんがイヤになったのかも
205人間七七四年:2011/10/22(土) 16:39:22.79 ID:7yrXNsV7
宗茂さんにもっと要領よく生きてほしかったのと違う>千代さん
共同経営者として融通きかない宗茂さんに「あーっもーっこのひとはーっ」って思ってたとか
206人間七七四年:2011/10/22(土) 16:59:43.54 ID:MInnI0Qd
豊臣家の恩は関ヶ原で西軍についたからもう果たした!
って言っちゃうのが義理堅いのか…?
207人間七七四年:2011/10/22(土) 17:16:17.47 ID:eC42CVwT
関ヶ原以降の引き立ては徳川の恩だし
そんなもんじゃね
208人間七七四年:2011/10/22(土) 17:59:51.97 ID:7yrXNsV7
>>206
だって歴代の家臣じゃないし
209人間七七四年:2011/10/22(土) 18:23:20.99 ID:J09zKVdB
秀吉に取り立てられて興った家を、豊臣家を守ろうとして潰してるから恩を返したとはいえる。
その後も豊臣家に尽くしていれば文句なしの義理堅さだけど、
関ヶ原後は徳川からも並々ならぬ恩を受けているから,難しい立場ではあっただろうね。
210人間七七四年:2011/10/22(土) 20:36:04.72 ID:DHiDbV1g
ァ千代はリアリストっぽいから、理屈で動かない宗茂に思うところはあったんじゃないかと思う
211人間七七四年:2011/10/22(土) 22:50:45.61 ID:knQg297a
そもそも宗茂の人格形成の責任の半分は道雪だからなー。
自分の父ちゃんがこうあって欲しいと思ったとおりに育ってくれた婿の正確にケチつけるわけにも
いかなかっただろ。
立花の家臣も道雪の想いを継ぐ宗茂だからこそ、本筋のァ千代を捨ててついていったんだろうし。
212人間七七四年:2011/10/22(土) 22:55:44.47 ID:vkgAoNBi
そもそも大友家を潰した豊臣家に尽くすのは義理堅いのかどうか・・・。
213人間七七四年:2011/10/22(土) 23:12:30.06 ID:t/Ffwk3K
>>212
あるいは、豊臣に貰ったもん使い切るまでは尽くしましたのでサヨウナラっていう
額面通りでの割り切り方になったのには、その辺のことも影響してるかもしんないねえ。
あくまで義理を通したのであってそれ以上のことをするほどの情は通っていなかった
とでも言えばいいのか。
214人間七七四年:2011/10/22(土) 23:19:32.81 ID:dFzYl3WM
大友家への義理→島津と戦ったことで果たした
豊臣家への義理→西軍についたことで果たした

こういうクールな考え方なのかねえ
215人間七七四年:2011/10/23(日) 00:10:32.81 ID:zMCZ8DXH
旧主である大友家を改易に追いやった小西行長が順天に取り残された時に、
実父の敵である島津と義務もないのに救援に行ってるし、良い意味でも
悪い意味でも、私情に囚われずに現状に対して筋を通す人なんだろうと思う。
216人間七七四年:2011/10/23(日) 06:11:50.66 ID:laCCQQ96
大友への義理は実父(高橋鎮種)と叔父(吉弘鑑理)でも果たした感があったんかなあ

つか大友家養子多すぎ
217人間七七四年:2011/10/23(日) 06:29:00.60 ID:FkGCW72k
ラスボス同様に夫婦間に子供がいれば…
218人間七七四年:2011/10/23(日) 07:55:46.96 ID:PItqDwVz
大久保忠隣「引き立てていただいたから忠義を尽くすのはおかしい。」
青山忠俊「むしろ君主より難を引き受けてからの忠誠こそまことのものだ。」

まあこいつらは先祖代々一族全員松平家臣だからちょっとちがうけど
219人間七七四年:2011/10/23(日) 11:08:35.93 ID:p2kOJVnA
そいつらの忠誠はそれはそれで見事な忠誠だと思う
徳川家がどんな苦境に陥っても決して見捨てない連中だからね
220人間七七四年:2011/10/23(日) 12:33:09.72 ID:doj0VBm+
武士の道に真面目な宗茂には、
豊臣家、大友家に『忠』を果たしたい気持ち、
家臣、領民に『仁』『慈』を果たしたい気持ちもあったと思う。
だから『忠』だけ取り上げて、宗茂に『羲』がないとするのは片手落ちかと
221人間七七四年:2011/10/23(日) 12:40:30.34 ID:zMCZ8DXH
>>216
義理というか吉弘一族の大友家への忠義は異常の域だけどな。
曾曾祖父:吉弘親信・・・大内家との戦いで戦死
曽祖父:吉弘氏直・・・大内家との勢場ケ原の戦いで全身を針鼠のように矢に射られて戦死
祖父:吉弘鑑理・・・病を押して毛利や龍造寺と戦い続け終戦後に病死
伯父:吉弘鎮信・・・耳川の戦いで戦死
実父:高橋紹運(吉弘鎮理)・・・岩屋城の戦いで玉砕
従兄弟:吉弘統幸・・・石垣原の戦いで奮戦するも、旧知の井上之房との戦いで戦死
222人間七七四年:2011/10/23(日) 16:09:20.16 ID:19ah3DI7
そう考えると、菅谷政貞、範政親子ってのは凄いと感じさせられる。
あの小田家に最期まで忠義を通したわけだから。
範政は後に徳川の旗本まで取り立てられるけれど、さもありなむ、と。
223人間七七四年:2011/10/23(日) 17:26:38.43 ID:EKNu2MeI
ぎん千代は、道雪から跡取りのように育てられ、形だけとはいえ城督だった訳たから、城主としての誇りが捨て切れなかっただろうな。
「自分が持っていたものをすべて取られた」みたいな。
時勢が時勢なだけに、父が心配して、熟慮の結果選んだ婿の出来がよすぎたのが娘本人にとって良かったのか悪かったのが…。
224人間七七四年:2011/10/24(月) 00:59:52.91 ID:bG/GUiRY
宗茂が自身の武勇で家臣の心を掻っ攫っていったからねぇ・・・
225人間七七四年:2011/10/24(月) 01:12:28.83 ID:8zBZ3eaJ
千代さんって松さんや義姫みたいな実績って何かあったっけ。政治的な
226人間七七四年:2011/10/24(月) 02:01:03.70 ID:1SvIp+OL
カリスマだけは持ってたイメージ。
227人間七七四年:2011/10/24(月) 21:33:56.57 ID:TIh3dvUB
>>224
「奴はとんでもない物を盗んでいきました」
228人間七七四年:2011/10/24(月) 21:56:49.95 ID:bG/GUiRY
>>214
ご恩と奉公みたいな感じかなぁ?
229人間七七四年:2011/10/25(火) 01:33:21.65 ID:p7fcPwJC
前スレとかで既出だったらごめん
「会津藩の祖 保科正之 展」で保科さんから信之兄貴に送った手紙が展示されてるみたい

自分が前にみたのは
「お家騒動落ち着いたみたいで良かったね。この間殿中で見かけたから声かけようと思ったけどかけれなかったよ」
って感じのやつなんだが、今回展示されてるのもこれかな?
230人間七七四年:2011/10/25(火) 14:10:46.89 ID:E5H2A+ea
なにやら宗茂&闇千代の話が盛り上がってるようなので
夫婦の中むつまじい画像でも、ホレ。

ttp://livedoor.2.blogimg.jp/otanews/imgs/a/8/a82e8b8e.jpg
231人間七七四年:2011/10/25(火) 16:03:26.07 ID:vT3PDs7o
宗茂とギン千代の仲が拗れたのっていつ頃?
232人間七七四年:2011/10/25(火) 16:17:18.32 ID:6YrWHMqm
婿養子に入ったことそのものが理由で不仲だったとも、道雪討死辺りとも色々想像はされて来ているが、
全く関連の史料がないので実の所なんとも言えんな
233人間七七四年:2011/10/25(火) 17:07:50.88 ID:BouorWkK
>道雪討死
討死してねぇw

まぁいくら言ってる事自体が無茶とは言えいきなり遺言無視したりとか
ギンさんとしては腹に据えかねる事もしでかしてるが
234人間七七四年:2011/10/25(火) 17:14:06.88 ID:T+CiL5Nh
勝手な想像だが、本人としてはやっぱ紹運の後を継ぎたかったのではと思う
嫡男なのに婿養子なんてのが嫌で不満が積もりに積もってたのかなと
235人間七七四年:2011/10/25(火) 21:30:41.98 ID:CNy18SZy
嫡男の座を突然はずされたのは宗茂もァ千代もそうなのだから
お互い歩み寄りが足らなかったんだな
236人間七七四年:2011/10/25(火) 22:21:42.39 ID:qg4wqDLQ
このスレではミスターパーフェクトなサラブレッドな宗茂だけど、
実際のところ苦労人だよな。
237人間七七四年:2011/10/25(火) 22:51:58.60 ID:v5+07hsY
宗茂が今で言うところの『草食系男子』だったらぎん千代との夫婦仲も上手くいったのかね。

戦国時代、宗茂以外にも《マスオさん》(婿養子)っていたのかな?
この時代も現代と同じように婿養子は肩身が狭かったのか?
238人間七七四年:2011/10/25(火) 23:28:54.43 ID:uIv37/Hc
家康の話は多すぎて、既出だったらごめん

ある時家康公は、かつて武田信玄に仕えていた横田某という人物を呼び
信玄の戦法について訊ねた
その時、弓矢の突端につけるヤジリの話が出た

横田「武田軍のやり方は、つねにヤジリを緩く詰めるように注意していました」
家康「それはどうしてか」
横田「ヤジリを緩くすると、敵兵の肉の中に食い込み、なかなか取れず
    その為に死なずとも生涯において苦しみハメになります」

得意顔で答える横田某に、たちまち家康は不快な表情で、同席していた家臣にこう言明した

「戦場での勝利は、相手の軍勢を射伏せることにあるので、兵士たちを生涯にわたって苦しめる必要はない
それはかえって、敵地を占領したあとに大きな障害となろう

皆の者に申すが、わが兵は断じてヤジリを緩めてはならぬ」

家康のポリシーが垣間見えたお話
239人間七七四年:2011/10/25(火) 23:29:52.90 ID:IhhQzdeq
>>238
既出
240人間七七四年:2011/10/25(火) 23:31:57.50 ID:uIv37/Hc
>>239
やっぱりか ごめんなさい
241人間七七四年:2011/10/25(火) 23:36:54.82 ID:6wMVFXyA
242人間七七四年:2011/10/25(火) 23:58:38.66 ID:RaowzALe
さすがにこのスレにあるのは釣りとしか思えない
243人間七七四年:2011/10/26(水) 00:04:14.59 ID:u0UnkLbf
本読んで、この話まとめにあったっけー?
でも今から読み返すのめんどい…と思うこともしばしば
なので投下が怖い
244人間七七四年:2011/10/26(水) 00:06:46.29 ID:Xhf2R8KC
めんどいと思ってる時点で怖いとかw

調べてわからなければここで聞いてみるのもいいんじゃないか?
誰かは覚えているかもしれない
245人間七七四年:2011/10/26(水) 00:08:11.09 ID:pTPRH4GI
複数のキーワードでまとめサイトは検索できるようになっているから、その機能を使えばいいと思う
内容がかぶっていても、話の細部が違ったり、ほかの話が加えられていれば問題ないし
246人間七七四年:2011/10/26(水) 00:15:01.37 ID:u0UnkLbf
ああそうか キーワードで探せばいいのか
しかしまとめサイトみても、逸話が200以上もある人ってまーくんと家康くらい?
50以上あっても多いと感じるのに、200とか途方も無いな かぶってる話も多いんだろうけど
247人間七七四年:2011/10/26(水) 00:41:10.46 ID:cVj4xIel
マイナーな人だと検索するとまとめの記事が初っ端近くに出るよなー
248人間七七四年:2011/10/26(水) 01:25:45.77 ID:0c1y8D17
>>236
まぁ単なるお坊ちゃまで道雪に心酔してる家臣団をひきつけられるわけがない
249人間七七四年:2011/10/26(水) 01:44:16.74 ID:rphwC6gK
雨の中、干し飯がぐちゃぐちゃになって、殿は些事より大局を見ているとか万歳している家臣だからな
250人間七七四年:2011/10/26(水) 05:07:25.43 ID:pUiPh19L
大友はやはりイカれてる連中が多いんじゃねえか
道雪に跡を譲られた甥っ子は殺されるし、その嫁は嫡男以外の子を殺して自害するし
その残った子は戸次川で壮絶な玉砕をするし・・・
251人間七七四年:2011/10/26(水) 07:14:57.57 ID:cYD9iPKQ
だって、宗麟さまの配下ですもの〜
252人間七七四年:2011/10/26(水) 12:38:52.90 ID:AZtUluXL
雑談

民からの慕われっぷり半端無いのは

1立花宗茂
2小田氏治
3最上義光
4真田昌幸
5黒田如水

の順でおk?
253人間七七四年:2011/10/26(水) 12:54:45.30 ID:SkHj/Vhp
宗茂って民から慕われてたっけ?
家臣から慕われてるんだと思ってたわ
254人間七七四年:2011/10/26(水) 13:00:34.82 ID:r7bXwY0c
社報で武田信玄の話が載ってたんで・・・。

朝、昼、夜、と三つの勤務体制を作り、現代でいうところのフレックスタイム制度を導入したことで有名な武田信玄。

彼がこのような制度を作ったのには、こんな理由があったそうで・・・。

信玄「人間誰しも悩みがあるもの。個人的な悩みを職場に持ち込んでは、人は上の空で仕事ができなくなる。これらを解決するまでは朝、昼だろうが、夜までかかっても構わないから出仕はしないこと」

それともう一つ、このようなことも。

信玄「わしはお前たちを信用している。だから出仕簿などを付けたりせずにお前たちが心置きなく出仕できるように待っている」とも・・・。

若干信玄公のありがたいお話じみてますが興味深い話だったので・・・。
255人間七七四年:2011/10/26(水) 13:42:18.96 ID:AZtUluXL
>>253
改易されたとき、家臣どころか領民までもが宗茂を追ってついていこうとした
256人間七七四年:2011/10/26(水) 15:22:21.70 ID:hS8EFCHc
>>237
大浦為信、南部信直、中野康実、蘆名盛隆、蘆名義広、大崎義宣、直江信綱、
直江兼続、本多政重、新津勝資、上泉秀富、北条綱成、北条氏照、北条氏邦、
北条三郎(上杉景虎)、太田源五郎、千葉直重、大関晴増、結城秀康、小笠原信之、
滝川雄利、富田重政、浅井明政、浅井政高、赤松義村、赤穴直清、小早川隆景、
天野元政、川村元吉、川村資吉、川村重成、内藤元盛、香川親和、一条房通、
千葉胤頼、後藤家信、田北統員、秋月種貞、島津久保、島津悪久、入来院重高、
樺山久高
257人間七七四年:2011/10/26(水) 15:26:46.17 ID:xgOO1dht
>>256
DQNな方の家久に遠慮とか肩身が狭いとか、
そんな概念はないよなww
258人間七七四年:2011/10/26(水) 15:44:35.54 ID:UBfonxbb
>>256
結構いるんですね、婿養子。
婿候補の選定基準は何かね。
家柄・血筋?
家臣とのつながり?
周りからの評判(婿候補自身の持つ才能)?
259人間七七四年:2011/10/26(水) 15:50:26.24 ID:UBfonxbb
>>257
DQN家久さんの場合はコンプレックスでしょう、父・伯父・兄への。
宗家ではなく、こじんまりとした分家として家庭をもっていたら、案外いい夫になってたかも。
260人間七七四年:2011/10/26(水) 16:22:46.70 ID:C4NdFYtA
>>252
加藤清正もかなりのものじゃないかな
本来侵略した側でありながら、いまだにせいしょこさんと呼ばれるのは凄い
まぁインフラ整備技術の賜物だけど
261人間七七四年:2011/10/26(水) 16:56:56.22 ID:pUiPh19L
>>258
強者から弱者への押し付け(乗っ取り)というものもある
262人間七七四年:2011/10/26(水) 16:58:19.44 ID:L177f6+A
>>252
良い悪いスレの住民じゃなかったら違和感が凄いランキングなんだろうな
特に二位の方中心に
263人間七七四年:2011/10/26(水) 17:17:12.19 ID:0rIQB5pP
徳川家康が武田信玄との抗争を繰り広げていた頃のこと。

ある時徳川家康が少数の家臣を従え遠江の巡見をし、浜松へと帰城する途中、この頃武田信玄も遠江へと
進出し、物見によって家康の動向を知ると、これを討たんと緊急に兵を出した。
この事を知った家康は帰城を急ぐ!そして見付宿(現静岡県磐田市)まで来る。

この頃見付宿に、上村清兵衛という心剛なるものがあった。
彼は家康の危難を防ごうと、自分の家、および見付宿の中三ヶ所に火をつけ大いに煙を立て
武田勢の進路を防いだ。
武田勢としては、ここを迂回しようにも南には今之浦という大池があり、また深田であり、北は山が多く
まともな道も無いので、致し方なく火災が止まるまで見付宿の前で指をくわえているしか無かった。

この間清兵衛は、家康に天竜川を越えさせようと、見付宿から天竜川へと出る道を案内し、
川端に出ると船頭を捕まえ早々と川を渡り、「川向うに戻った後その船を水中に沈めよ!」と命じた上で、
そこから半里ほど西にある橋羽村の妙音寺まで案内をした。

家康一行はそこに一宿し、翌日浜松へと帰城した。家康は清兵衛の功を称し、自ら刀を与えた。

このことがあってから家康は、
見付宿の近辺に出馬する度に清兵衛の家に立ち寄った。
その頃は酒を売るものも稀であったが、清兵衛はもとより酒を好んでいたので、酒を作り置き、
家康のお立ち寄りさいはその酒を献じ、お供の面々にも茶碗に酒を注いでこれを薦めた。

そのうちに家康は、この上村清兵衛が常に冷酒を好んでいたので、彼のことを「冷酒、冷酒」と呼んだ。
これによって遠江の国中の者たちも、彼を『冷酒清兵衛』と呼ぶようになった、とのことである。

遠江に伝わる『冷酒清兵衛』のお話
(近古武談)

ちなみにこの冷酒清兵衛、家康の御朱印酒屋となり、当主は代々冷酒清兵衛を名乗りました。
その屋敷は今も磐田市に残っています。お近くにお寄りの際は是非、家康の気分でお立ち寄り下さい。
264人間七七四年:2011/10/26(水) 17:31:27.15 ID:K2OJohb4
やはり、なんだかんだで名前は付くんだな!
265人間七七四年:2011/10/26(水) 17:36:53.05 ID:iN359GTY
フグ田マスオは婿養子ではなかろうに・・・・・・・・・
266人間七七四年:2011/10/26(水) 17:46:05.96 ID:0dZK1fvD
ひやざけ?れいしゅ?
267人間七七四年:2011/10/26(水) 17:54:08.34 ID:0rIQB5pP
>>266
「ひやざけ」ですね
268人間七七四年:2011/10/26(水) 18:06:52.43 ID:AZtUluXL
>>262
土浦の農民「天庵様の悪口はそこまでだ」
269人間七七四年:2011/10/26(水) 18:37:35.99 ID:0dZK1fvD
>>267
ありがとう
270人間七七四年:2011/10/26(水) 19:35:53.22 ID:AZtUluXL
小田天庵は不死身なり

【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】スレにあったものを一部編集
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156093325/

「常陸小田氏の盛衰」
・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還

・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還

・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、勇気と交渉の上、小田城「開城」
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還

・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)
271人間七七四年:2011/10/26(水) 19:43:41.65 ID:AZtUluXL
勇気と交渉の上、小田城「開城」
勇気→結城でorz
272人間七七四年:2011/10/26(水) 19:51:46.08 ID:AZtUluXL
小田城より先に土浦が落とされてたら
天庵様どうしてたんだろう?
273人間七七四年:2011/10/26(水) 19:57:02.65 ID:pLMLjsD3
>>271
退くのもまた勇気、みたいな意味かなと普通に読んでたw
274人間七七四年:2011/10/26(水) 20:25:20.20 ID:UBfonxbb
>>265
確かに…。
サザエさんの名字は「フグ田」だし、マスオさんは婿養子じゃないですね(^_^;)
嫁さんの実家に同居して、嫁さんの親とも上手くやってるしから、つい婿養子って思い込んじゃった。
275人間七七四年:2011/10/26(水) 20:32:29.57 ID:UBfonxbb
>>255
でも、朝鮮に渡ってたりしてて不在だった時期が結構あったんでしょ、宗茂。
領民までも慕うとか、内政担当の家臣の手腕がよいのか、はたまた嫁さんが仕切っていたのか…。
276人間七七四年:2011/10/26(水) 20:34:58.66 ID:aYYvmuZ5
>>272
「殿様ごど餓いさしちゃなんねど!」な領民が面倒見るから平気
277人間七七四年:2011/10/26(水) 21:01:56.36 ID:0c1y8D17
しかし嫡子を養子におくる紹運さんもちと異常
278人間七七四年:2011/10/26(水) 21:45:57.31 ID:lwcGuOFM
天庵様、二十年近く取ったり取られたりしてたんだな
負けても負けても取り返す、小田の(リカバリー)力は天下一イイイイイ!
279人間七七四年:2011/10/26(水) 22:51:01.09 ID:zAsR6sbP
>>277
難色を示したけど、雷神さんに押し切られたって話でしょ
280人間七七四年:2011/10/27(木) 00:31:34.03 ID:/buPu4n5
そういや伊達輝宗の同母兄も養子にいってるね。

まあこの場合は約束があったらしいけど。

こうゆうのって家格はどうなのかな?
281人間七七四年:2011/10/27(木) 01:01:30.52 ID:6DwLNnmd
>>279
道雪「やらないか」
紹雲「アッー!」

・・・誰か早く「それは男色だろ」ってつっこめよ
282人間七七四年:2011/10/27(木) 01:30:11.24 ID:y4ROS5eh
うるせぇ、雷ぶつけんぞゴルァ!

   @―@
  /ミミヽ\
  @ミrA=Aツ@
  V彡゚Д゚)/
  @/つ つ@
  /⌒⌒⌒⌒ヽ
 / ⌒( ゚Д)|
< ⌒⌒ (ノ )ノ
 \____ノ
    ∪∪
283人間七七四年:2011/10/27(木) 17:43:15.47 ID:lbyHNyB+
最近最上家の崩壊後の話ばっかりだったので
鮭様存命中のお話

鮭様と最上川開発

最上義光の最大の功績は山形市の街割よりも最上川開発と言われている。

関ヶ原の戦いが終わるまでは周囲との大名との心理戦で大規模な河川工事も行う事は容易ではなく、
長谷堂合戦後の褒章で庄内の地が戻り、平和な時間と最上川の双方がやっと義光の手に入った。

最上川は今でこそ水を隆々と湛えた大河と思われているが
当時は岩床が多々露出し、非常に流れの急な船の行き来に難儀する暴れ川だった。

人足A「(北楯)大学様のそばにいる、あの陽気なおっさん誰?」
人足B「なんかめちゃくちゃやる気がありそうな人だよね」

北楯大学や新関久正を河川や堰の工事に当たらせる一方
60過ぎたジーサンにもかかわらず義光は先頭に立って削岩の指揮をとってたそうな。
284人間七七四年:2011/10/27(木) 18:00:26.63 ID:lbyHNyB+
その後も治水工事が進捗する中、
北楯大学からの手紙に「見に行きたいけど最近病気がちで体がいう事きかなくて、行けない・・・ごめんね」といった手紙を返した。
鮭様が死ぬ2年くらい前の話。
285人間七七四年:2011/10/27(木) 18:41:50.38 ID:v+H+77pQ
チェ・ゲバラも先頭に立って現場で労働したらしい。
武士と共産主義者の違いはあれども、
いずれにせよ自ら先頭に立って働く大将は慕われるだろうね
286人間七七四年:2011/10/27(木) 19:01:19.05 ID:JGHl7PyI
ピヨトルも入れてください
287人間七七四年:2011/10/27(木) 19:08:00.27 ID:OILTKwKA
ピヨトル「虫歯はおらんかー?虫歯の貴族はおらんかー!?」
貴族「たすけて!大帝に残酷に虫歯を(それ以外の歯も)抜かれる!」
288人間七七四年:2011/10/27(木) 19:11:12.50 ID:cioB7Dh4
>>285
せいしょこさんもそうだな
289人間七七四年:2011/10/27(木) 19:28:03.43 ID:8LRLvqfU
前田利家とか真田昌幸とか
パフォーマンスとしては一般的だったんだろうな。
290人間七七四年:2011/10/27(木) 23:09:31.79 ID:MrDgoM/G
義光67歳の手紙
「其元普請心許なく候間、重ねて一書に及び候〜(中略)一日二日之間、二千間、三千間も出来ていると聞いている。
野陣に出て、夜昼の別もなく働いているとのことこちらへも聞こえている。
それにつけても、健康が許せば自分も現場へ行きたいのだが、
そうすれば皆も喜び、自分も楽しみになるのだが、それができないのが残念だ。
地元、清川・狩川の者たちは、特に苦労をしているだろうと推察している。
このことを、皆々に申し聞かせてほしい」
現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々のにも温かな思いやりを寄せている。

別な手紙
「そちらの堰普請、だいぶ出来たようだが、企画設計にあたったその方の日夜の苦労いかばかりかと察している。
立谷川から堰に水が流れ入り、たっぷりと流れているということだが、庄内にとって末長く宝の堰となるだろう。
その水でどれほどの新田が開発できるか、村々がふえるか、それを思うと何より喜ばしい
……今月十八日には江戸へ出発するが、江戸に行ったら幕府の主立った方々にも、その方の功績を伝えておこうと思う」
「鮭おいしかった、ありがとう」
291人間七七四年:2011/10/27(木) 23:41:33.74 ID:Ga60UUzo
>>254
その社報の元ネタは?
誰かの脳内じゃないのか?
292人間七七四年:2011/10/28(金) 00:22:55.70 ID:RkSUNBQ4
>289、利家は「俺が働けば人足1人分の給料浮くぜ!」かもしれんw
293人間七七四年:2011/10/28(金) 03:15:37.28 ID:Gnhhdp0b
最上義光がお寺さんをいかに大切にしたか
わかりやすい数字があった。

最上義光時代の寺領

寒河江慈恩寺(真言宗)2889石
山形光明寺(時宗)1760石
山寺立石寺(天台宗)1420石
山形宝憧寺(真言宗)1370石
羽黒山 1336石
山形両所宮 1115石

参考

一栗高春知行 1000石

寺院の田畑・山林は「義光認可」として減免や不入の特権が赦され、いくさや災害の後には「厄払い」料が納められた。

ちなみに上の数字がどのくらい凄いかと言うと

比較

奈良法隆寺寺領1000石
奈良東大寺寺領3000石
294人間七七四年:2011/10/28(金) 03:17:43.23 ID:r40EExvU
大切にした、なのか、大切にせざるを得なかったのかどうなのか、と思ってみたり
295人間七七四年:2011/10/28(金) 03:25:53.83 ID:OaC3uMuf
どちらかというと寺社が強くて削減できなかった、
という感じが近いんだろうな。
それで将来的に破産しなかったのなら良い話で…、
と終わる所なんだろうがw
296人間七七四年:2011/10/28(金) 04:12:47.02 ID:gttvW0sM
おい、おまいら。NHKの大河ドラマに島津義弘を出せって県知事が要請したそうだぞ。

義久お兄ちゃん・・・。

ソース:http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=35928
297人間七七四年:2011/10/28(金) 04:29:58.01 ID:YWXP85Zc
知事の名前が伊藤祐一郎…これが伊東祐一郎なら、島津とさんざんやりあった
伊東義祐や祐兵の末裔かよ、と思うところだが
調べてみたら先祖は日新斎に仕えてたのか
298人間七七四年:2011/10/28(金) 08:17:35.43 ID:gT1yJC0K
もともと出羽は寺領が多かったのかそれとも義光さんの代で増やしたのか…
299人間七七四年:2011/10/28(金) 10:18:32.81 ID:hEoEjvAl
出羽三山とかの山岳信仰の強いとこでしょ?
当然、寺領は多いでしょうな
300人間七七四年:2011/10/28(金) 12:44:28.44 ID:dSeuC0v1
山岳信仰か。
東北の地の宗教観てどうだったんかな?
というか、この時代の日本人の宗教観が今とは全然違っていたとは思うけど。
修験道とかの神仏習合思想に興味ある
301人間七七四年:2011/10/28(金) 15:53:50.01 ID:WjqtvuJT
義光は「寺社を大切にした」方が意味合いは強い。
大宝寺攻めにも寒河江攻めにも周囲の豪族が敵だらけの中で寺社勢力は味方をしてくれた。
民に高札で伝達するにも、寺社が緩衝してわかりやすく連絡してくれる。

最上義光と寺社の関係がわかりやすい一例で
「東方よりきたる」

義光が元服してからも山形盆地は天童頼貞を盟主とする「八楯」の勢力が大半を占めていた。
最上義守は伊達家からの独立をする為に八楯を頼みとし、羽州探題は名ばかりでしかなかった。

最上義守は先の伊達輝宗・義姫の婚姻に続き、天童氏との仲を温和に保つために
23歳になった息子義光と天童頼貞の娘・綾姫の婚礼を天童家老草刈将監に依頼する。

天童八楯をも呑み込み、最上の羽州探題の権力復活を願う最上義光は穏健な父に反発する。

義守「綾姫と結婚せぬとは何事じゃ」
義光「父上は最上総領としての自尊心はないのですか」
義守「自尊心だけで家が守れるか!伊達の傀儡から独立できたのは八楯のお陰でもあるのだぞ」
義光「だからといってこれでは天童の風下ではありませんか!第一私を慕っていたお義の伊達家輿入れとて」
義守「まて、ワシの方がお義に『父上大好き』だって言われてたもんね」
義光「ぐぬぬぬ」

氏家定直が重病を推して家督は義光に譲られたが、天童との婚姻は流れた。
義守は「栄林(えいりん)」と号して中野城から義光の家督簒奪を周囲の豪族に手紙で伝えた。

ここに
父子騒乱「最上の乱」が起こった

続く
302人間七七四年:2011/10/28(金) 16:06:48.11 ID:6meMiGAl
香ばしくなってきた
303人間七七四年:2011/10/28(金) 16:06:58.18 ID:WjqtvuJT
続き

「東方よりきたる」2

最上義光に味方する者
氏家守棟・志村光安・谷柏直家・成沢道忠・長谷堂衆

最上義守に組する者
伊達輝宗・大江高基・天童頼貞・延沢満延他八楯の面々
義守派は義光の山形城撤退を求めた。

圧倒的に義光にとって不利である。

山形城に僧が一人訪れた
円光「山寺立石寺は白寿義光様にお味方致す!」

義光の教育方であった円光だった。

山寺が義光の味方となった事で天童に牽制が効き
対伊達には上山氏が義光に力を組した。
大江高基を快く思わない寒河江諸家も義光に付いた。
「敵の敵は味方」
時流と天に救われた最上義光の若い頃のお話。
304人間七七四年:2011/10/28(金) 16:12:28.57 ID:WjqtvuJT
越後や北陸では宗教勢力が大名を脅かしたのに、鮭様はうまくやり取りできていたと思う。

対大江高基
義光寄り慈恩寺と寒河江衆

対天童
義光寄り山寺立石寺

対大宝寺
義光寄り出羽三山土佐林・阿部高坊
305人間七七四年:2011/10/28(金) 16:39:57.08 ID:uZHFfu5+
そろそろ潮時だと思うよ
306人間七七四年:2011/10/28(金) 17:15:33.54 ID:pUEDE0yd
喪上厨のウザさは異常
307人間七七四年:2011/10/28(金) 17:57:52.90 ID:WjqtvuJT
>>305>>306
他の武将の話の投下頼む
308人間七七四年:2011/10/28(金) 18:08:27.96 ID:CW0KSjaH
何で言われてるか自覚も無いのか
309人間七七四年:2011/10/28(金) 18:11:57.28 ID:UPW5k/3f
んじゃ家康公のお話でも

ある時側近達が、歴史上の人物の話をしていたのを、家康が聞いていた
時代はだんだん過去に過去に、そして鎌倉幕府開祖の源頼朝の話になった

「頼朝は確かに偉い だが彼は血を分けた弟達を無残に殺している
 これは少なくとも、第一級の人物に値しない行為だ」

という意見がちらほら出てきた時、家康がおもむろに異議を唱えた

「その見方は間違っている 天下を治めるものは常に一人だ
 その他の兄弟は血縁とはいえ、家人同様絶対に服従しなければならない
 その事を忘れて、血縁に甘え、規律を乱すような事があれば
 天下の為に制裁を加えるのが筋道というものだ

 ただ弟を殺したから酷い人間だ、というような表面上な見方をしては
 頼朝の真価を充分に捉えたとは言えまい
 頼朝の行為は非情ではあるが、決して間違ったことではない」
310人間七七四年:2011/10/28(金) 18:14:17.92 ID:WjqtvuJT
上杉なり伊達なり秋田なり
なんかないの?
311人間七七四年:2011/10/28(金) 18:17:28.90 ID:WjqtvuJT
>>309
投下トンクス

信康や築山殿の件があるからね
312人間七七四年:2011/10/28(金) 18:21:31.35 ID:WjqtvuJT
>>308
だったら最上関連以外の話を上げてくれや
313人間七七四年:2011/10/28(金) 18:35:28.08 ID:w/yWc9kJ
>>309
ラスボスも頼朝さんに一言いってたよね?
アレはオレ凄いでしょ^^って話だけど
314人間七七四年:2011/10/28(金) 18:51:52.63 ID:/dRz3npq
側近たちは当然信康とかのこと知ってるだろうに、そういうことポロッと言っちゃうもんなんだね
信康と義経じゃ立場が違うけどさ
315人間七七四年:2011/10/28(金) 20:11:14.24 ID:RkSUNBQ4
>296、で誰が4兄弟と首おいてけと悪久をやるんだ?
316人間七七四年:2011/10/28(金) 20:14:10.85 ID:dSeuC0v1
>>313
天下人が両人ともに頼朝公推しなんだよな。
となると信長はどう思ってたのかと思う
317人間七七四年:2011/10/28(金) 20:22:39.04 ID:tkeeF3j2
>>316
信長は平氏を自称し、そして平氏であることをかなり強く意識していた。
嫡男の名前も信重→信忠と、明らかに平重盛(織田家の祖)、平忠盛から文字をとっていたり、
例の本能寺直前の家康の接待でも、そこでの能の内容が平氏をdisっていたので激怒した、
なんて話もあるので、頼朝に対しての意識は微妙だったかも。
318人間七七四年:2011/10/28(金) 20:39:44.75 ID:KpO86cUw
ノブって案外ウェットな男だったのかね
319人間七七四年:2011/10/28(金) 20:52:01.98 ID:WjqtvuJT
>>306>>308
逸話マダー?
320人間七七四年:2011/10/28(金) 22:31:29.42 ID:XSB7xT07
これは酷いなぁ・・・
321人間七七四年:2011/10/28(金) 22:32:57.89 ID:XSB7xT07
>>317
信長さん、自身の出自とかあんまり拘りないのかと思ってたけど、結構気にしてるのね〜
322人間七七四年:2011/10/28(金) 22:52:53.02 ID:Z63RV4pf
>>317
>>321
当時の奈良のお坊さんの日記に書いてある。
能の演目は、「張良」「鞍馬天狗」だったが、
「張良は祝言なるが、鞍馬天狗にこの事をうたい、をごれる平家を西国に追い落とす
と云ふ事、信長は平家の故お気に障るかと推量しおわんぬ」

ちなみに、「鞍馬天狗」は牛若丸(後の源義経)を題材にした演目
323人間七七四年:2011/10/28(金) 23:13:00.93 ID:y4KgBbJA
>>317>>322
「お気に障るかと推量しおわんぬ」
ひょっとしたら気に障るかもなあ、という程度の意味だと思うのだが
これがどうして「信長が激怒した」になるんだ?

というか信長が平氏を称するようになるのは天正になってからで
それまでは親父も祖父も信長も藤原氏を称していた
これはおそらく、義昭を追放して新たな天下人となった信長が
自分の箔付けと政権の正統性をつくるための政策だったんだろう

だからこの場合、平氏を謗る言動はそのまま織田政権への誹謗
つまり政治問題になりかねない微妙な問題なんだよ
だから奈良の坊さんも「不機嫌にならないかなあ?」と心配したわけだ

家康が源氏を名乗って将軍になってからは源氏を謗るのが憚られるようになったのと同じこと
324人間七七四年:2011/10/28(金) 23:56:34.88 ID:Z63RV4pf
>>323
「当代記」の「19日安土に於いて…丹波梅若大夫能仕、是家康為御懇詞也、梅若大夫
目暗沙汰と云能仕、信長甚不快、重而か様に無心得にをいては、可有誅戮との儀也」
との記述を合わせて読めば、
「信長が激怒したのは能の演目が鞍馬天狗だったのが原因かな」って解釈も可能って
ことだろ
325人間七七四年:2011/10/29(土) 00:07:33.10 ID:MQj2Pzkc
当代記ww
しかも当代記の方には不快になったとしか書いてないじゃんw
どこに平家がdisられたから不快になったとかいてあるの?

そりゃどんな「解釈も可能」だし自由だけどねw
326人間七七四年:2011/10/29(土) 00:10:53.84 ID:9Qm7ZXcp
>>325
2ちゃんとは言えもうちょっと他者に敬意を払おうや。
327人間七七四年:2011/10/29(土) 00:33:18.17 ID:b9rL1d7r
ありゃ?梅若に信長が切れたのは能がへたくそだったからじゃなかったっけ
梅若のあと別な役者呼んできて褒美うんぬん、な逸話だったような
328人間七七四年:2011/10/29(土) 06:13:01.79 ID:CkTUFiVV
誰かの小説(忘れた)で「あ?誰が驕れる平氏だぎゃ。誰のこと言っとるんきゃ(意訳」と激怒した場面があったことを思い出した
329人間七七四年:2011/10/29(土) 08:11:54.88 ID:4tTmz8Cd
人間五十年〜の敦盛は、平敦盛が熊谷直実に討たれる話
330人間七七四年:2011/10/29(土) 08:52:06.47 ID:GLGqrkXj
>>309に違和感を覚えたから
「頼朝」を「秀吉」に「弟」を「甥」に置き換えて読んで見たらものすごく悪い話になった
331人間七七四年:2011/10/29(土) 12:49:22.91 ID:Lhy8LVSB
>>325
戮なんてこれ殺戮のりくだろ?
こんな字が出てくるくらいなら、不快を口語訳したら激怒で良いだろ。
その、とうだいきの資料価値云々は知らんがな。

まあ、普通の感覚なら自分が平〜なんて名乗ってるのに平氏の悪口言う奴ってのは
自分を挑発してるって感覚を持つのが当たり前だし
武者やってりゃ相手をやるのが常識だろ
332人間七七四年:2011/10/29(土) 15:25:21.40 ID:max6tfAO
自分は訳も解釈も自信がないけど投下するぜ!

1555年、厳島に渡り、宮尾城を攻めていた陶軍数万は、
10月1日未明の奇襲によって混乱し、あっという間に総崩れとなった。
大将の陶入道は踏みとどまって戦い、討ち死にすべしと心に決めたが、側近たちに引き立てられて退却する。
上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗、
捲土重来を胸に浜づたいに逃れ船を探すも、船影一つ見当たらない。

もはや、これまで。
陶入道の手を引き、腰を押して進んできた側近たちも、
情けなくも雑兵の手で討たれるよりは、と覚悟を決めた。
小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、
松の葉で綴じた木の葉を杯として、酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わし、
脇差を扇に見立てて謡い舞う。別れの宴だった。

入道は石の上に座し、腹を十字に掻っ切った。
腸を掴み出そうとしたところに太刀が振り下ろされ、首が落ちた。

介錯をしたのは伊香賀民部少輔隆正、陶入道の乳人(養育係)を務めた男だった。
伊香賀は刀を取り落とし、入道の遺骸を掻き抱いて、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。
日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。
私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」
と、泣き崩れた。享年35、早すぎる死であった。

残った者たちは陶入道の首を小袖に包み、岩陰に厳重に隠し終えると、
さて自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取った。
伊香賀も入道のそばで死にたかったが、
自分の遺骸が近くで見つかると主君の首も探し出されてしまうだろうと考え、
数百メートルも離れた浜辺で、立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたという。
333人間七七四年:2011/10/29(土) 15:43:51.44 ID:K73uKaNZ
こういう話、いかにも武士らしくて好きだよ
ただ誰が見ていてどうやって記録したんだろうと思ってしまう
334人間七七四年:2011/10/29(土) 16:07:24.96 ID:b9rL1d7r
生き残った人とか近隣の村人とかじゃね
335人間七七四年:2011/10/29(土) 16:09:44.90 ID:ayWuz64l
なんと冷静なツッコミ
336人間七七四年:2011/10/29(土) 16:21:14.47 ID:oErLQ1t4
近隣の村人がそんな至近距離に居るわけないだろ
337人間七七四年:2011/10/29(土) 16:38:20.35 ID:9Qm7ZXcp
まあ端的に言うと身分ある武士が一人で居るということはありえず、必ず下人などが付いるものなので、
この手の話は伝わるのは生き残った下人などからだろうね。
338人間七七四年:2011/10/29(土) 17:13:22.64 ID:uD6DEZs5
久しぶりに逸話らしい逸話を読んだ気がする
ありがとう、>>332
339人間七七四年:2011/10/29(土) 17:15:47.97 ID:eGAHmx0f
伊香賀さんの無念っぷりが泣ける
340人間七七四年:2011/10/29(土) 17:31:46.64 ID:mh++4qZM
天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦の折のこと。

4月19日、柳ヶ瀬の佐久間盛政軍の攻勢により、中川清秀が討ち死にしたことが知れると、秀吉方の軍勢は、
主将の秀吉が居ないこともあり恐慌に陥り、秀吉軍は所々の付城すら崩壊しかねない状況となった。

ここで動いたのが、秀吉古参の神子田正治である。

神子田は大音声で

「明日、秀吉は大軍を率いて戻りこの緊急事態を救う!よって人々よ、ここを固く守るのだ!
少しも気弱になってはならない!」

そう、諸陣に触れ回った。

落ち支度をしていた者たちも、神子田のこの言葉に励まされ、そのまま留まった。

この事自体は神子田の当意による計略であったが翌日、果たして秀吉は軍を率いて救援に現れた。
美濃大返しが行われたのである。
(小川栄一氏所蔵文書)

中々記録が残っていない、神子田正治の活躍についての逸話である。
341人間七七四年:2011/10/29(土) 17:33:02.22 ID:FIDthOb8
備後国尾道に住屋という造り酒屋家があった。

大坂の陣の時、酒を積んで上方へ商いに上ったが、とある道で塙団右衛門と行き合った。
彼は尾道で浪人していた時に、ちょくちょく住屋と出会う仲だった。(酒飲みだし通ってたのだろう)

団右衛門は住屋に気付くと馬上より声をかけ、
「尾道では大いにお世話になり申した。達者なようでめでとうござる」
と言うと、馬に鞭を当てて去っていった。

戦時下でなければ、またゆっくり話せたろうにね。 (『武辺咄聞書』)
342人間七七四年:2011/10/29(土) 17:55:18.50 ID:vI0iBPaO
>>340
えらくタイミングのいい話だ
343人間七七四年:2011/10/29(土) 17:59:21.06 ID:5fomMfXq
神子田は結構優秀な武将なんだよな
秀吉の初期からの家来だけど最後が悲惨だったな
344人間七七四年:2011/10/29(土) 18:25:44.92 ID:ayWuz64l
羽柴四天王なんていうのがあったのか
しかし七本槍なんかと比べてどれも良い印象ないね

サッカークラブがJFLからJリーグに昇格しても
選手がJリーガーを続けるのは難しいって事かな
345人間七七四年:2011/10/29(土) 19:50:16.66 ID:max6tfAO
>>332だけども遅レスすまん。

>>333
これは胡餅を持たされてた陶入道の小姓が生き残って敵方(毛利)に話したってことになってる。
ただ、ここからは悪い話で、こいつは伊香賀民部に
「おまえはまだ幼いから敵も殺しはしないだろう。いいか、絶対に入道の死をバラすなよ。
山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すんだぞ。わかったな」
と念を押されたにもかかわらず、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って、
「大将首の在り処を教えるから命を助けてください」と、さっそくゲロったんだ。
民部が浮かばれないよう……
まあ出典が「陰徳記」(軍記物)なので、信憑性はアレだけどね。

>>338
べ、べつにアンタを喜ばせるために拾ってきたんじゃな(ry
こちらこそありがとう。
346人間七七四年:2011/10/29(土) 21:21:55.76 ID:qxlDkG4y
船を完全に抑えられて、島全体が「殺し間」と化した厳島から生きて帰れ、
というのも無理ゲーだと思うぜ。
厳島まではフェリーで10分だから、泳ぎが得意なら泳いで帰るのも
不可能じゃないかも知れないが
347人間七七四年:2011/10/29(土) 21:58:56.43 ID:CkTUFiVV
>>346
対岸は毛利の勢力圏だから周防まで泳がなきゃならないしねえ
しかも台風?で荒れてる10月の瀬戸内海を…




対岸で船探せよとか言わない
348人間七七四年:2011/10/29(土) 22:24:29.48 ID:XIlXBcBZ
でも秀家さんならw
349人間七七四年:2011/10/29(土) 23:14:40.87 ID:Ve/6I5UE
宮島の鹿って、泳いで本州まで行くんだろ?
鹿も四つ足、馬も四つ足。 鹿にできて馬にできないはずはない。
350人間七七四年:2011/10/29(土) 23:19:03.69 ID:9Qm7ZXcp
>>349
義経公お疲れ様です。
351人間七七四年:2011/10/29(土) 23:32:53.90 ID:CkTUFiVV
梶原景時「鹿は偶蹄目で山を移動するのが得意で馬は奇蹄目で平原を移動するのが得意」
352人間七七四年:2011/10/30(日) 01:12:53.85 ID:7hXNx9WP
>>346
というか、毎年何人も宮島から本土まで泳いで渡ってる。
…トライアスロンやってるからな、宮島w
ttp://www.cci201.or.jp/ta/2011top.html

多分ウヨウヨいる毛利勢に見つからずに泳ぎきって逃げ切れるかは知らない。
353人間七七四年:2011/10/30(日) 01:29:59.14 ID:S7hOMOuG
>>349
これがホントの馬鹿ってか
354人間七七四年:2011/10/30(日) 01:34:16.16 ID:HGbriStF
さて、再び天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦、4月19日の佐久間盛政による攻勢の折のこと。
この時黒田官兵衛は高塁を守っていたが、佐久間勢の攻撃は強く、官兵衛も

「こりゃあ、援軍こなきゃ討ち死にだなあ」

と思い極め、家臣の栗山四郎右衛門利安を呼び、命じた

「お前はオレの嫡男の吉兵衛を連れて、ここから逃げろ。」

戸惑う栗山に官兵衛、言葉を続ける

「黒田家の後嗣を絶やす訳にはいかない。それに吉兵衛はまだ10歳ほどだ。
戦場から逃げたからって黒田家の傷になるような歳じゃあない。却ってオレの深慮を
褒めてもらえるだろうよ」

しかし栗山はこれを断った。官兵衛はじめ黒田陣の皆が討ち死にを覚悟している中、どうして自分だけが
逃げられようか!しかし官兵衛は達て命ずる

「いいか四郎右衛門、今吉兵衛を無事に逃すことは、ここに留まって討ち死にすることの百倍の
忠節なんだ。もうあまり時間はない。早くいけ!」

これに栗山も止むを得ず、吉兵衛を連れ黒田陣より離れた。


一里ほど進んだところで、吉兵衛は栗山に尋ねた。「お前は私を、何処に連れていこうとしているのだ?」
栗山は、官兵衛が彼を逃がすためこうしているのだということを、正直に話した。
これに吉兵衛、話が終わるより早く

「なんだと!父上と離れて私は何処に住むというのか!?父上は私に常にこう教えられた、
武士というものは逃げるということの無いものだ、と!」

そう叫ぶと馬を蹴りたて道を引き返す!栗山はこれを見て「ああ、まさしくあの父君の子である」と感涙を流し
吉兵衛に従い、ともに高塁へと戻った。この事は後で、稀代の誉れと評判になったそうだ。

吉兵衛、のちの黒田長政である。

(大日本史料・小川栄一氏所蔵文書)
355人間七七四年:2011/10/30(日) 02:11:24.04 ID:8cHs/1Wh
既出
356人間七七四年:2011/10/30(日) 02:14:55.10 ID:JTb4SETX
>武士というものは逃げるということの無いものだ、と!

信長公disり杉
357人間七七四年:2011/10/30(日) 02:20:17.70 ID:2aqRBeZV
>>352
流石に夏だねトライアスロン
358人間七七四年:2011/10/30(日) 02:27:31.82 ID:17zPE6cd
>>352
「泳いで参ったー!」って言っちゃう人でてきそう
359人間七七四年:2011/10/30(日) 08:12:36.45 ID:2aqRBeZV
逃げなきゃいけない時逃げないと命を失う
逃げちゃいけない時逃げると命以外のすべてを失う

逃げるって難しいね…
360人間七七四年:2011/10/30(日) 09:33:53.29 ID:92TOTDsO
>>287


平成になっても薩摩は島津家中が政事を司しとるのか・・・?
361人間七七四年:2011/10/30(日) 10:10:47.81 ID:JRbKNXSe
熊本は細川だか相良だかにつながる(家老の家らしいから血縁もあるだろ)
国会議員(松野、園田)がいた記憶が
362人間七七四年:2011/10/30(日) 11:06:07.18 ID:LJVji26U
>>359
そこまで逃げる必要あるのか?ってくらいの大逃走して命以外の全てを失ったけど
後になって綺麗に取り返してのけた仙石さんはすごいとしか言えないな
363人間七七四年:2011/10/30(日) 11:09:19.19 ID:wL1u8HPm
何だかんだで使える奴だったんだろう、使う側じゃあなかったのが致命的だが・・・
364人間七七四年:2011/10/30(日) 12:27:31.61 ID:KSeN5B2V
>>359
戦略的に逃げるのは可
精神的に逃げるのが不可

だと思う
365人間七七四年:2011/10/30(日) 13:27:13.19 ID:h8YVAxPX
>>354-355
これだな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3536.html

賤ヶ岳の布陣図を見ても黒田親子が何処にいたのか判らんが、
中川清秀の砦の近くにいたんだろうか
3661/2:2011/11/01(火) 22:50:22.91 ID:3bj1a5Er
七度、あるいは十度主君を変え、満身創痍となって32万石を稼いだ藤堂高虎が世を去り、その子・高次の時代。
藤堂家中は二つに割れ、揺れていた。

そもそもの切っ掛けは、一門家老二人の口論だった。

一人は、藤堂新七良精。高虎の従兄弟で、13歳での初陣以来、藤堂家の大戦全てにおいて功を立て、
高虎の信頼も厚かった新七郎良勝の子である。
もう一人は、藤堂仁右衛門高経。高虎の甥で、湯浅五助との『男の約束』で有名な仁右衛門高刑の子である。

二人は父親の軍功について雑談した事があったが、やがてその優劣を争うようになり、絶交するに至った。

同じく家老の藤堂采女は、昨日は親しく語っていた者が、家老二人の影響で今日は目も合わせぬ現状を憂い、
両派の主だった人を説得して回ったが、日ごろ物静かで、騒動の原因たる両家老の父親たちが命を落とした
大坂夏の陣を生き残った采女の言葉に、耳を傾ける者は少なかった。

そんなある日、新七・仁右衛門を始めとする両派の領袖たちが、采女の屋敷に招かれた。居並ぶ重臣たちを前に、
采女は一礼して召集の辞を述べた。

「やあ、今日は良くお越し下された!お呼び立てした儀は他でもない。貴殿らの父御の、戦功吟味についてよ。」
「采女殿、それは・・・」

「まぁまぁ。そのせいで今や家士たちは、遺恨無き者どもも不通となっておる。これが高じて幕府の耳に届けば、
お家は如何なるや。主君・高次様の御身は、如何なるや?」
「・・・・・・」
3672/2:2011/11/01(火) 22:52:14.30 ID:3bj1a5Er
「主君の御身を危うくするは、人臣たる者の所業にあらず。また万が一、お家お取り潰しの事態に至れば、
死んでお家を守った父御に、何と言い訳する?主君に対し不忠、亡父に対して不孝、かかる者どもは・・・」

采女の合図で、重臣たちの前に三方が運び込まれた。その上には料理ではなく、短刀が乗っていた。

「死ね。
不忠・不孝の者、ただ今切腹あるべし。下らぬ騒動の末に死ぬよりはマシじゃろう。『こんな犬死には嫌だ』
と思うなら、忠孝の道に立ち返りて、双方相和するべし。

どうあっても忠孝をも顧みず、我意を立て続けるとあらば、止むを得まい。それがしが切腹の手本を仕る。
貴殿らの父御に死に遅れたる我が身、何の惜しい事があろうか。」

そう言って諸肌脱いだ采女の気迫に押された一同だったが、やがて仁右衛門が新七に向けて口を開いた。

「采女殿の言、もっともなり。ここで我らが切腹して男の一分を立て、幕府への言い訳が出来たとて、
また父の戦功を言い立てる者が出れば、同じ騒動が起きよう。ここは和議すべし、と思うが如何かな?」
「うむ。異議なし!!」

こうして、和解の証として仁右衛門の娘が新七のもとに嫁ぐ事が決まり、騒動は収まった。
人々は、ひとり大見得を切ってお家の危機を救った采女について『戦場での討死ににも倍する功』と噂した。
(明良洪範より)

藤堂采女元則。大坂夏の陣の際は、井伊家の陣へ使い番に出ていたところ、木村重成隊の襲撃を受けた。
ところが采女は、あわてず騒がず井伊家に混じってこれに反撃したばかりか、首級を挙げて
井伊直孝の賞賛を受け、褒美まで授かったという。
368人間七七四年:2011/11/01(火) 23:13:24.03 ID:3gLbEqCv
采女って地名が地元にあるんだが何か関係あるのかな?
369人間七七四年:2011/11/01(火) 23:17:26.62 ID:R8ebT6iE
>>368
「采女」は東百官(架空官位)の一つだから、結構いろんな所で使われてる、
370人間七七四年:2011/11/02(水) 00:36:42.93 ID:kluphEUF
男子の名乗りが「采女」ってどうなんやろ
って感覚は当時なかったんだろうな
371人間七七四年:2011/11/02(水) 00:38:40.45 ID:pWv6enYO
最近見た「一命」って映画は、男なのに求女(もとめ)って名前だったな
でも采女の方は官位名だし、特に気にしなさそうだけど
372人間七七四年:2011/11/02(水) 00:39:40.72 ID:kluphEUF
采女司はちゃんと存在するから東百官ではないか
373人間七七四年:2011/11/02(水) 23:57:55.16 ID:JWUotNEP
宗教がらみの国人豪族も多いから陰陽博士とか天文博士とか名乗るのがいてもよさそうだけど
374人間七七四年:2011/11/03(木) 00:26:39.13 ID:sWhPyIx+
武士の仕事じゃねえやいってことでしょう
375人間七七四年:2011/11/03(木) 19:17:40.25 ID:kxUPdttl
軍記物で○○陰陽博士とか、○○天文博士が活躍してたら笑っちゃうなw
376人間七七四年:2011/11/03(木) 19:24:12.80 ID:x0NTWBj7
>>375
やべえ、読みたいw
377人間七七四年:2011/11/03(木) 19:54:04.11 ID:Lm9WPIpG
中務省の役所で陰陽寮だけ武士がなのることないんだよなあ
内蔵(くら)とか図書(ずしょ)とか内匠(たくみ)はあるのに
378人間七七四年:2011/11/03(木) 20:02:27.92 ID:8lix6E8S
陰陽寮っていうと、安倍晴明を思い出すな
吉日決めたり、天体観測したり、時報だしたり
当時では最先端の科学だし、武士とはまた違った独特なものだったんだろうか
379人間七七四年:2011/11/03(木) 20:36:37.85 ID:Lm9WPIpG
>>378
朝廷はこの役職だけは手放さなかったということはないだろうか。どんなに衰退してても暦を作るんはウチの仕事的な




衰退したせいで地方暦が氾濫したけど
380人間七七四年:2011/11/03(木) 20:40:29.49 ID:zp3ENAO/
>>379
朝廷云々と言うより、かなり特殊な技能であることもあって、早々に晴明流安倍氏などの「家職化」したと
考えたほうがいいかと。
381人間七七四年:2011/11/03(木) 21:12:11.93 ID:CRkH0oIA
実際、太陰暦から太陽暦に変更しようという信長の申し出に朝廷は凄い拒否反応示してるよね。
実際、太陽暦だと祭事に差し障るから当然だとは思うけど。

出雲の神在月なんて今年は11月5日からで、10月と全然関係なくなってるんだぜ。
382人間七七四年:2011/11/03(木) 21:16:41.04 ID:zp3ENAO/
>>381
> 実際、太陰暦から太陽暦に変更

三嶋暦は太陽暦ではないぞ。
383人間七七四年:2011/11/04(金) 00:51:43.26 ID:KZz15sJD
山県三郎兵衛、さりげなくリクルート

あるとき総州から甲州に使者が訪れ、宴席が開かれた。
使者たちは並み居る猛者へ、武功の話などを順繰りに聞いていた。

順番は、そろそろ場に似合わぬ貧相な武者にかかろうとしていた。
この武者、髭で隠しているがよく見れば、上唇が鼻まで裂けている「三ツ口」である。
どなたかと聞いた使者は、仰天した。
その武者こそ、武田一の大将か二の大将か、と言われる山県三郎兵衛だったのである。

順番なので、使者は恐る恐る山県に武功の話題を振った。すると山県、
「ご覧の通り私は四尺四寸(135cm前後)、この通り体格も貧相です。
馬場美濃のように単騎で戦場を駆けたなどという武勇もなく、皆様にも劣ります。
しかし私はもとは他国者ですので、他国からの流れ者、退転してきた者などの世話を
自然と承ることが多くなり、その者たちが良く奮戦するので武功も付いてきました。
戦場で思い上がることがなく、部下達を可愛がれば私のような男でも武勲を立てられ
ますし、他国者が活躍をしていると聞けばさらに人が集まります。それだけです」

と、実に淡々と語った。
使者達は一様に感心し、「甲斐一番の大将は山県だ」と語り合ったという。



山県は唇に先天的な障害があったことを思えば、発音も明瞭では無かっただろうが、
彼が立ち上がって下知する声は、耳元に雷が落ちたような凄まじさだったという。

もしかして有名な赤備えも、身一つのよそ者が部下に多かったからできたのかも。

しかし微妙に「他国者さんいらっしゃい」的な宣伝が混じっているのは気のせい?
384人間七七四年:2011/11/04(金) 11:18:13.79 ID:658M+vxX
山県さんて他国者?
385人間七七四年:2011/11/04(金) 11:19:57.63 ID:44YwsUk3
安芸の出という説がある
386人間七七四年:2011/11/04(金) 19:02:02.81 ID:ZXhq/3cl
少なくとも父は長門または安芸出身
387人間七七四年:2011/11/04(金) 19:49:25.57 ID:HfO80c1F
島左近も山県配下にいたことがあるっていう伝説あるらしい
ゲームとかで武田軍に島左近がいるって知ってなんか不思議な感じがした
388人間七七四年:2011/11/04(金) 21:01:01.05 ID:639ivSNz
>>385
>>386
あれって
江戸時代に自称・子孫&親戚が当時流行ってた(?)信玄関連にあやかって
自分の先祖は山県って事にしたんじゃなかったっけ?
389人間七七四年:2011/11/04(金) 22:12:35.17 ID:Pv1wyuGW
何百年も前に分かれた本家・分家で意外に連絡取り合ってたのかな

オレ長野県出身で信濃島津氏の末裔(自称だが)知ってるけど
その人の知人で山田さん・平田さん・川上さん・鎌田さん・町田さんがいたわ
390人間七七四年:2011/11/05(土) 00:01:45.15 ID:wpXEQx9w
んん、歴史ロマンを感じるねぇ。身近にあの大名の子孫が!?みたいな
391人間七七四年:2011/11/05(土) 00:04:32.25 ID:YGvWIM8j
誰々の子孫とか言う奴は大抵胡散臭い

【中国】曹操の70代目子孫と称する男性…DNA鑑定の結果は「肯定的」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1320410648/
392人間七七四年:2011/11/05(土) 00:26:14.73 ID:j/P6Jcn1
人間みんな「誰か」の子孫なのは間違いないからねぇ、血筋だけでは何とも
やっぱり、どっかの元首相の家みたいに受け継いできたものが無いと意味が薄い

・・・だからこそのロマンだったりもするが
393人間七七四年:2011/11/05(土) 02:38:54.18 ID:Wtmm/DS+
>>388
その指摘もあるんだが、飯富虎昌と山県昌景を兄弟と書いてあるのはもとは甲陽軍艦の記述のみらしい。
で、萩藩閥閲録、萩藩諸家系譜には、二人は直接の血のつながっていない伯父と甥(虎昌の姉が昌景の母)で、
さらに昌景の姉か妹が甲斐に嫁いでいた縁があって甲斐に流れ着いたというんだよな。

年齢や家紋の違い、山県が山陽方面の取り次ぎをしていたあたりから、そっちの方が信憑性がありそう、ということらしい。
394人間七七四年:2011/11/05(土) 02:40:41.61 ID:PSJfb0CK
70代目とはすごいな。
これはY染色体だっけ?それを受け継いできてるってこと?
それとも配列が似てるってだけとか。
395人間七七四年:2011/11/05(土) 05:15:58.78 ID:qgXNcgwh
>>393
甲斐に流れ着いた時期が昌景11歳のときということになるのがなあ…
396人間七七四年:2011/11/05(土) 06:39:27.71 ID:JpUqI86K
楯岡満茂、娘の嫁入りに

楯岡満茂が娘の婚姻に大きな櫃を用意した。

娘「おとぅ、なんだこり(お父さん、なにこれ?)」
満茂「んまもりだぁ、めでげ(お守りだ、持ってけ)」

満茂の愛用の甲冑だった。

他家に嫁ぐ事が女の幸せでありながら、また人生の戦いでもある
寂しかったらこれを見て常に父がそばにいると思えといった親の愛情だったのだろう。

総重量40kg超、180cmの大人が楽に着られる楯岡満茂の甲冑は、子孫の個人蔵として現代に伝わっています。

http://murayama-kanbutu.com/images/stories/tokunaikinenkan/tateokajyoten1.jpg
(上記「楯岡城展」はすでに終了しております)
397人間七七四年:2011/11/05(土) 08:33:08.64 ID:9cXHUNgv
実際問題こういうのどこに置くんだろうね
40kg超の箱入り甲冑なんて蔵に放り込んでおしまいにしそうなもんだけど
寂しくても気楽に見られなさそう
398人間七七四年:2011/11/05(土) 09:03:00.26 ID:aW3dAspf
>>397
お義父さん大好き、憧れてましたな娘婿だったらちゃんと飾ってたんじゃね?
相当な勇士だったらしいから
399人間七七四年:2011/11/05(土) 12:21:15.06 ID:rZ2TAljI
>>395
親父と一緒とか?郎党と一緒?
参考にならないけど、まとめみたら山県さんの逸話に、
他国者の扱いにミスるとかあるからそうなのかも。

ところで武田四名臣ってみんな他国者じゃなかったでしたっけ?
400人間七七四年:2011/11/05(土) 12:45:19.22 ID:aXzh3ZKV
継母と仲が悪くて出奔したんじゃなかったっけ
401人間七七四年:2011/11/05(土) 13:37:34.49 ID:TNucbSjZ
>>399
んなことは無いが?
402人間七七四年:2011/11/05(土) 13:48:41.53 ID:aXzh3ZKV
四名臣じゃなくて甲陽の五名臣は他国者じゃなかったっけ(小幡以外)
403人間七七四年:2011/11/05(土) 15:02:01.23 ID:F5tAmyjA
>>2
まっちょ丸とかいらねーよ!
僕はァ千代瀬名義姫ちゃん!
404人間七七四年:2011/11/06(日) 02:20:11.04 ID:HhREQzJx
珍しくケチじゃない家康の話をば。

関東に転封された家康は、江戸発展の第一歩として家臣団の屋敷を築造し始めた。
関東平野のあまりの大きさに、家康は気が大きくなっていたのか、
はたまた恵まれない湿地帯に匙を投げたやけくそな行為か、
その日の鷹狩の成果が良かったのかはわからないが、ふと家臣の一人に
「おまえ・・馬で走った分の土地を屋敷にしてやる。」
なんてことを言い出した。飛んでいったちり紙を拾って使う人間とは思えない。

「まじっすか!了解っす!」
この家臣も家臣で、遠慮無く馬を走らせた。
後日、家康に「約束っすよね?」とか言って走った分広大な土地を屋敷としてもらった。
その家臣は青山忠成。
そして、かれが馬を走らせ屋敷を拝領した地こそ、現在の東京都青山である。

・・・ちなみにこのあと彼は家康の勘気を蒙る(のち復帰)のだが、
今回の一件と関係あるかは不明。
405人間七七四年:2011/11/06(日) 02:30:07.41 ID:vYjpPoI9
家康は倹約家の太っ腹であって、ケチではないだろ
しかし青山って青山忠成さんから来てたのか
406人間七七四年:2011/11/06(日) 02:44:33.16 ID:ADb3drto
人間到る処青山あり
で使われるように、青山=墓地だから、広大な霊園があるところ一帯を青山と呼んだ
なんてこじつけがあったが、普通に人名だったのか
407人間七七四年:2011/11/06(日) 03:02:40.21 ID:NxApsvrR
青山の同僚の内藤清成にも、同じ話があるね。
勘気を蒙るのも一緒。
408人間七七四年:2011/11/06(日) 10:36:41.26 ID:BZX6HWHi
内藤新宿か
409人間七七四年:2011/11/06(日) 10:50:47.45 ID:ah75AXsA
有楽町、八重洲、半蔵門…
都内には人名由来の地名が結構残ってるね
410人間七七四年:2011/11/06(日) 11:11:17.42 ID:4QPUDk/9
有楽町の由来は既出だった覚えがあるけど、青山はまだだったのか〜

将軍に象がお目見えする際に、門の上部をはずさないと通れなかったから、
半象門→半蔵門となったとかいう与太すぎる話しも聞いたことあるけどね〜
411人間七七四年:2011/11/06(日) 12:58:17.55 ID:OV2UlghS
新宿の内藤町より青山の方がでかい
青山さん、そうとう頑張ったんだね…
412人間七七四年:2011/11/06(日) 13:58:54.20 ID:lsjlFHGP
>>409
有楽町と有楽斎さんは関係無いみたいだけどな
413人間七七四年:2011/11/06(日) 14:08:09.62 ID:vYjpPoI9
>>412
マジで じゃあどっから来たんだろう有楽町って
414人間七七四年:2011/11/06(日) 14:10:27.79 ID:4QPUDk/9
そうなのか〜知らなかったぜぇ!
415人間七七四年:2011/11/06(日) 14:24:49.70 ID:lsjlFHGP
今の有楽町あたりが入江だったから
浦原(うらはら)→有楽原(うらくはら)→有楽町(ゆうらくちょう)説が有力だとさ
ちなみに大阪の有楽斎さんの屋敷があったあたりは有楽町だったから混ざった可能性があるとのこと
416人間七七四年:2011/11/06(日) 15:09:26.74 ID:L0h5W61n
八重洲がヤン=ヨーステンとは驚いた!
417人間七七四年:2011/11/06(日) 15:16:22.39 ID:oByUmIPK
今の○○町とかの由来もそんなもんだ。
愛知県なんかカオスだぞ?特に名古屋
町名見れば「ああ、ここってそういう武将由来ね」が平気である。
418人間七七四年:2011/11/06(日) 15:19:00.96 ID:ydUUOLjQ
大久保は大きなくぼ地という意味らしいね。
徳川家臣団の大久保家とは関係なくてがっかりだ
419人間七七四年:2011/11/06(日) 15:32:28.60 ID:ZbnuNQB2
恵比寿も酒井忠次とは関係ないらしい
てっきり海老すくい関連だと思ったのに
420人間七七四年:2011/11/06(日) 15:40:38.30 ID:hkdje45i
>>419
それはお前さんがおかしいw
421人間七七四年:2011/11/06(日) 16:29:54.53 ID:oByUmIPK
大久保も元々は「大窪」という名前から転じたらしく、
あながち間違ってないから何とも。
422人間七七四年:2011/11/06(日) 17:22:23.98 ID:HhREQzJx
>>419
ではそんなまとめで後輩の榊原康政と並んでしまった忠次さんのお話。
忠次の逸話の中に1つ酒井忠世の逸話が紛れてるからこれで並ぶのかな。


酒井忠次は晩年京で自由気ままな隠遁生活を送っていた。
ちなみに年甲斐もなく子供も作っていたそうな。
そんな折、秀吉は唐入り(朝鮮出兵)のため名護屋城を築城した。
そこで秀吉は、城の橋の渡り初めという名誉ある勤めをすでに隠居していた忠次に命じた。

家康「忠次の最後の晴れ舞台となろう(´;ω;`)」
と家康は手づから忠次の装束を繕ったそうな。
しかしこのとき忠次はすでに失明しており、小姓とともに超スローペースで橋を渡っていく。
諸大名の軍勢も彼に合わせてスローペースで進んだ。
そして忠次は失明しているはずなのに堀や橋について褒めたという。

さらに、彼は小姓に門の彫り物について尋ね、小姓が「鳳凰です。」というと、
「なるほど、’唐の鳥’ゆえ、殿下は’唐取り’をされるわけですな。」
とダジャレを言った。
これに大笑した秀吉は、忠次を褒め讃えた。

老いてもなお彼の頭の速さとダジャレセンスは衰えることはありませんでしたとさ。
※ダジャレセンス
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4963.html
423人間七七四年:2011/11/06(日) 18:53:22.41 ID:lsjlFHGP
地名が由来の後から付くって謎ケースあるからなあ
「あんたがたどこさ」が流行ったから船場(洗馬)って地名ができたとか
424人間七七四年:2011/11/06(日) 19:37:01.77 ID:vYjpPoI9
>>423
え、そうだったの? あの歌そんな影響がでたのか
425人間七七四年:2011/11/06(日) 19:53:02.06 ID:lsjlFHGP
>>424
船場山はどこ?って聞かれて似た地名が発祥の地ということになったそうで
426人間七七四年:2011/11/06(日) 19:59:33.83 ID:vYjpPoI9
>>425
ほー 童謡って影響力あるんだねぇ
歌って、その時勢を読んだものも多いし
427人間七七四年:2011/11/06(日) 20:24:45.51 ID:8gThIEly
まあ肥後に洗馬山ないしねー
428人間七七四年:2011/11/06(日) 20:41:21.92 ID:ZbnuNQB2
>>422
家康も、晩年の忠次に対しては冷たかったのに、ここでは優しいんだね
しかし、忠次もウィットが効いてるなあ
こういうときも、彼特有のポーカーフェースで言うんだろうか
429人間七七四年:2011/11/06(日) 20:43:54.41 ID:ZbnuNQB2
>>426
時勢を反映したものが多いこそ、まじめに歴史学の研究対象になるんだよね
「かごめかごめ」なんて解釈方法を研究してる人の多いこと多いこと
430人間七七四年:2011/11/06(日) 21:19:42.78 ID:9F6jTtsx
>>428
イヤミかましちゃったとはいえ、基本「公」の立場での冷遇だからなぁ。
(息子さんは後々は加増もらってるし)

公に情無し、を実践できるってのが最終勝者の資格であったんだろうな。
431人間七七四年:2011/11/06(日) 22:32:15.15 ID:1wsIPCrC
大御所家康が相模と武蔵の国境の狩場で鷹狩りを行なった時のこと。家康は、鳥もちを塗った縄が
張ってあるのを発見した。家康自身には、そんな事を命じた覚えは、とんと無い。
「?・・・誰がこんな事を命じた?」
「はっ、青山忠成さま、内藤清成さまの命にございます。」

聞いた家康は、烈火のごとく怒った。
「わが御留場で、何を勝手な事を許している?将軍(秀忠)は、この事知っておるのかっ!?」

家康の言葉を伝え聞いた秀忠は、悩んだ。父の怒りを思えば、忠成・清成の切腹も止む無しか。
かと言って、幼少より仕えてくれた二人を、こんな事で死なせるのも忍びない。

「・・・と言うわけで爺、頼む。」
「やれやれ。ワシゃ、いつになったら楽隠居できるんですかのぅ。」などと言いつつも本多佐渡守正信は、
いそいそと駿府の家康のもとに向かった。


「なんだ佐渡!将軍に何ぞ言われて来よったか?」
「いいえ、大御所様。実は、こちらで使っていただけぬかと思い、参りました。」
「なんじゃと?お前、将軍に重用されておろうが?」

「いいえ!こたびの内藤・青山の件、上様には両人に腹切らしめんとの思し召し。日ごろ上様の側近くにて
職務に励みし両人でさえ切腹とあらば、年老いた身の私など、いささかの過失でも上様の誅罰に会いましょう。
この上は、江戸を去り駿府で大御所様に仕え、この白髪首つなぎとうござる。」

「そうか。秀忠はそこまで、わしの言葉を大事にするか。そこまで厳しく物事を命じておるか。
さぞや将軍として、威厳も増して来ておろう。」

機嫌の良くなった家康は態度を軟化させ、忠成・清成はしばらく閉門を命じられた後に許されたという、
>>406でチラッと出た二人が勘気を蒙った顛末。(武家閑談より)
432人間七七四年:2011/11/06(日) 22:39:00.24 ID:lpRXsxHF
>>431
これ読んで家康の若いころのこの逸話思い出した。

徳川家康の鯉・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-373.html

家康の性格自体はこの頃からあまり変わってないね。家臣の諫言の仕方はずっとスマートになってるけどw
433人間七七四年:2011/11/06(日) 22:50:24.57 ID:vYjpPoI9
>>431
やはり困った時は佐渡守なんだな秀忠w
434人間七七四年:2011/11/07(月) 01:36:58.45 ID:wD8u3mN4
本多正信と土井利勝は江戸幕府になくてはならない存在だな、
処理係として
435人間七七四年:2011/11/07(月) 07:45:19.89 ID:uqGHrP3K
>>431
葵徳川三代という大河ドラマにその逸話出てきたけど史実だったんだな
大河だから娯楽用のでっち上げ話だと思ってた
大河の方ではあのように大御所に気を遣って簡単に切腹させられるのでは命がいくつあっても足りない
私もまだまだ「長生き」したいので大御所の家来にして欲しいという話だったなw
436人間七七四年:2011/11/07(月) 20:50:57.69 ID:QqG0pU3m
「由来」とか「いわれ」みたいな単語を見た瞬間に,権現様の顔が浮かぶようになってきたな.
437人間七七四年:2011/11/08(火) 01:25:14.81 ID:ZsQ/1Vsg
ごんげん様からおはこんばんちは
438人間七七四年:2011/11/08(火) 21:44:30.91 ID:eqfgyOin
坂井右近政尚の子、久蔵は姉川の戦いで討ち死にしたが、三井角右衛門という者と生瀬平右衛門という者が
「自分が久蔵の首を取った」と主張していた。

のちに二人は、ともに豊臣秀次に仕えて顔を合わせる事になったが、互いの主張を譲らず訴訟となり、
結果「三井がウソを言っている」と判定され、三井は牢に押し込められ、罰を待つ身となった。

なおも三井は獄中から主張した。
「今一度、詮議を!命を惜しむのではない、『他人の功名を盗んだ』と恥辱を受けるのが我慢ならんのだ!
同じ戦に出た、浅見藤右衛門なら実否を語れよう。浅見を呼んで下され!!」

「三井め、いよいよ惑乱したか。」
人々が三井を罵るのも無理は無く、浅見は生瀬の旧友であり、三井とはロクな付き合いも無かった。

ともかく三井の主張は通り、秀次臨席のもと、聚楽第の広間に呼ばれた浅見は証言を求められた。
「拙者は、生瀬とは年来の知人、三井とは交際も無し。その二人の詮議に関われば、世人に何と言われるか。
証人は、他の者に仰せつけ下され。」

「仲良からぬ三井の虚妄について語るに躊躇あるは分かるが、証人として呼ばれたからは、早く申せ。」
関白秀次直々の命に、浅見は重い口を開いた。

「されば・・・坂井久蔵が首は、三井が取りたるに相違無く、かの戦において、その働き比類する者少なし。
生瀬の主張は、何かの間違いでしょう。」

一同は思わぬ証言に驚き、すぐに三井を解放した。生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。
(常山紀談)
439人間七七四年:2011/11/08(火) 22:31:32.30 ID:p7kLBXjY
その後、生瀬さんと浅見さんの仲はどうなったのか気になる
440人間七七四年:2011/11/08(火) 22:49:38.79 ID:Wqk3b/4+
生瀬は秀次の寵臣だったので、罪に問われなかった。

何この後味の悪さ
441人間七七四年:2011/11/08(火) 23:12:18.39 ID:I3CdmeiH
>>440
でも寵臣ってことは連座必至じゃね?
442人間七七四年:2011/11/09(水) 01:16:33.43 ID:pKCZLA+Z
寵臣に限らず三人とも連座で死んでそうで怖いわw
443人間七七四年:2011/11/09(水) 07:44:14.61 ID:239SAsSc
寵臣と言うことは後の秀次切腹の時はお供したんかな
444人間七七四年:2011/11/09(水) 10:06:09.04 ID:TdKyJ+ru
いい話?
445人間七七四年:2011/11/09(水) 10:31:51.51 ID:aLupD/gf
浅見さんのいい話って言えるんじゃないの?
後味の悪さはあるが
446人間七七四年:2011/11/09(水) 16:03:28.84 ID:L+jmBk4x
生瀬は他人の手柄横取りしようとして、しかも本当に手柄立てた奴を
殺そうとしてるのにお咎めなしとかwww
俺が秀次ならその場で手打ちにするわ
447人間七七四年:2011/11/09(水) 18:42:32.88 ID:7oDi95vT
まあ本当に坂井によく似た人を討ち取って勘違いしたのかも知れない。
でも当時重臣の子とはいえ、まだ坂井は年恰好の似た小姓がいる身分ではなかったかな?
448人間七七四年:2011/11/09(水) 18:51:10.33 ID:UhbLlTKg
こういう奸臣を重用したから秀次は滅ぼされた・・・的な後世の作り話の気もしないではない。
449人間七七四年:2011/11/09(水) 19:01:46.58 ID:232FKQjI
あー、この坂井ってセンゴクでスーパーサイヤ人覚醒のきっかけのクリリンみたいな役もらってた奴か

しかしこれだけ後になって名指しされるくらいに価値のある首だったら記録とか残ってそうなもんだがな
450人間七七四年:2011/11/09(水) 23:59:57.58 ID:fNLjKQzd
福島正則の自筆の手紙が吉川家文書に収録されていたので、拙訳を投下。
どうやら正則が吉川広家を朝食に招待し、来てくれた広家に対しての礼状らしい。

「ひろいえ様へ     福左太(福島左衛門太夫の略)より

 特に何もないのに来てくださり、ありがとうございました。
 今朝おいでいただいて、ゆっくりお話ができ、嬉しく思います。
 これからお礼にうかがおうと思っていましたが、
 先立って、お礼のために重ねておいでいただき、この身に余るお取扱い、
 書中ではとても感謝しきれません。
 もっとも、今からそちらに参って御礼を申し述べたいところですが、
 少々来客があるので、先んじてこの書状で申し入れておきます。
 また参上してお礼を申します。

 十一月八日     正則」

という内容が、ほぼ ひ ら が な で綴られていた。

正則は幼少から武士としての教育を受けていたわけではないので、
一般的な漢文調の手紙は書けなかったようだ。
しかしこうして、ひらがなで堂々と書状を出している。
もちろん公的な挨拶状などは祐筆に任せていたようで、そっちは漢文調だった。

そこでもう一つ注目したいのが、宛名だ。
祐筆の手による書状は「吉蔵(吉川蔵人の略)様」とスタンダードな表現なのに対し、
正則自筆の宛名は「ひろいえ様」。
二人の親しさと、正則の人懐こさがうかがわれる。

それにつけても市松かわいい。
451人間七七四年:2011/11/10(木) 00:09:37.32 ID:e5K0BRyY
私的な手紙って武将の素顔を想像できてちょっと嬉しいよね
何年頃の手紙なんだろう?
452人間七七四年:2011/11/10(木) 00:32:31.58 ID:x3E77WCf
官位名じゃなくてひろいえと書く所が、親密さを表しているな
453人間七七四年:2011/11/10(木) 00:33:12.27 ID:qijdJ/5F
残念ながら年は不詳。
広家が家督して経言から改名した天正15年(1587年)以降、というくらいしかワカランです。
454人間七七四年:2011/11/10(木) 01:08:05.99 ID:UjE+ztyZ
しかし、かなり気を使って書いてるようにも見えるんだよな
来てくれた事にお礼し、お礼に行けない理由を説明し、最後に必ずお礼にいくと改めて約束してる
それに、あえて平仮名の直筆ってとこにも誠意を感じるね
平仮名しか書けないと先方に分かったら恥ずかしいし、漢文が正式な書式なんだから代筆でもおかしくない
そこを曲げて直筆ってのは真剣な気持ちが伝わってくる
うーむ、この細かい気の配りよう、市松とは呼べないな
455人間七七四年:2011/11/10(木) 01:20:16.47 ID:HFUaTEBK
2人同い年なんやね
456人間七七四年:2011/11/10(木) 08:39:14.51 ID:bkZm0h5n
昔はなにもなくてもお手紙書くのがあたり前だったらしいからね〜
457人間七七四年:2011/11/10(木) 11:05:09.98 ID:edIE5KZ5
私的な書状は後世の人間が読んでも楽しいね。
「〇〇殿へ ××の件、詳しくは△△(使者の名前)から申し上げます」
は史料として重要でも味気なくて。
458人間七七四年:2011/11/10(木) 11:16:35.37 ID:0Tats9ld
公式な文面じゃないからということで他人の悪口や失敗談を平気で書いてあったりとか
大名間の交友関係が想像できたりするよな
459人間七七四年:2011/11/10(木) 11:47:32.91 ID:EDl44vrl
三成さんはこういう付き合いをあんまりしなかったから嫌われたんかねえ
460人間七七四年:2011/11/10(木) 12:18:50.36 ID:93isZFKi
いまだってとりとめもないことで友達や恋人と電話やメールするじゃろうが
461人間七七四年:2011/11/10(木) 13:00:44.94 ID:EDl44vrl
広家さんと市松は恋人同士、ちぃ覚えた
462人間七七四年:2011/11/10(木) 14:13:50.13 ID:4KBaWTkO
関ヶ原後に安芸に入った正則が対毛利の最前線として築いた巨城・亀居城は
広家の岩国とは峠を隔てた位置
そういう時代とは言え過酷だな
463人間七七四年:2011/11/10(木) 14:23:21.55 ID:UJyW/bsg
そのへん割とさばけてるよな、この時代の人
個人的な仲良しと政治的な対立は別というか

それにつけても可愛いな、市松。
464人間七七四年:2011/11/10(木) 17:22:04.68 ID:w3gtJ+56
律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話


二階堂氏の本拠地である須賀川城は、天正十七年、伊達政宗に攻められて落城。
蘆名盛隆の娘で、二階堂家の養女となっていた姫は
祖母であり且つ養母でもある阿南の方とともに常陸国の佐竹に身を寄せた。
このとき佐竹義宣は正室を亡くして独り身だった。

ほどなくして姫は義宣の側室となる。
南奥羽の名門、蘆名・二階堂両家の血を引く姫である。本来なら正室に据えられるべきところだが、
多賀谷重経の娘を継室に迎える話がほぼ決まっていたため、義宣は家柄より約束を優先した。
律義者はこの頃から律義者である。
二階堂の姫はその生まれの良さから、側室ながら「岩瀬『御台』」と呼ばれた。
二人に子は出来なかったが、仲は良好だったようだ。

ちなみに義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹で、阿南の方は伊達御前の実の姉。
岩瀬御台の母も阿南の方の妹で、父の盛隆は阿南の方の実の息子。
義宣は従兄妹同士の結婚で生まれ、自分は従妹を側室に迎えたことになる。


時は流れ、関ヶ原の戦いで向背を明確にしなかった佐竹はその咎で出羽久保田へ転封。
義宣の母と正室は江戸に人質住まいとなり、岩瀬御台と阿南の方は入部に従った。
しかし阿南の方は久保田へ向かう途中で体調を崩し、懐かしい須賀川で没した。

これでようやく落ち着くかと思ったのも束の間、公儀から突然「岩瀬御台と離縁せよ」との命が下る。
理由ははっきりしない。
伊達政宗が最後まで自分に抗った二階堂を憎み、その血筋を残したくなかったためとも言われている。
ともかく、逆らえば今度こそ佐竹は御家取り潰しである。
義宣は岩瀬御台を離縁。二度と会うことはなかった。

岩瀬御台は、かつての二階堂の忠臣・須田盛秀が城代を務める横手城に預けられた。
ここで須賀川衆と呼ばれる二階堂以来の懐かしい家臣たちに囲まれて余生を送る。

久保田城との糸は完全に切れたわけではなく、梅津政景らが頻繁に往来してご機嫌伺いに訪れた。
義宣からの書状は一通もなかったが、何かにつけ贈り物があったという。
体調を崩したと聞いて、医師を寄越して来たりもした。
不本意な離別を強いた女への、義宣のせめてもの心遣いだろうか。

佐竹義宣は寛永十年一月に64歳で死去。
その6年後の寛永十六年、岩瀬御台は波乱に満ちた生涯を終えた。法名・昌寿院殿光円正瑞大姉。
465人間七七四年:2011/11/10(木) 18:39:14.96 ID:QvBNPVth
>>464
佐竹義宣はなんで子供が生まれなかったんだろうな・・・立花宗茂は戦いづくめの日々だったという理由があるが
466人間七七四年:2011/11/10(木) 18:50:01.55 ID:bThRjFnh
>>465
戦国武将だって人間だし、現代と同じ理由じゃないかな
当時は養子を貰うことに対して今ほど偏見はなかっただろうけど、
それでも我が子ができないってのは切なかったと思うよ
正室との間には一人生まれたが夭折したとも言うね
467人間七七四年:2011/11/10(木) 19:31:14.46 ID:7oWHMmq6
種無しじゃなかったのか、はたまた正室が浮気(ry
468人間七七四年:2011/11/10(木) 19:33:45.78 ID:bThRjFnh
秀頼俗説じゃあるまいしw
469人間七七四年:2011/11/10(木) 19:41:08.25 ID:UJyW/bsg
秀頼は、むしろ本当に秀吉の子だったら驚くレベル……
470人間七七四年:2011/11/10(木) 19:42:09.99 ID:iVapbY9H
そういえば福島正則って跡継ぎに親族から養子取ったらそのあと実子が生まれて邪魔になった養子を殺す、という
秀吉と全く同じ事をしているな。
471人間七七四年:2011/11/10(木) 19:45:52.34 ID:hy+M0ysC
ええ話や・・・・と感動したのに>>467で台無しw
472人間七七四年:2011/11/10(木) 19:46:06.32 ID:mhXZ9dUg
足利義政を考えると、実際さっさと殺したほうが混乱が拡大しないような
473人間七七四年:2011/11/10(木) 19:51:26.51 ID:hy+M0ysC
そういや松明あかしは今度の土曜日か
474人間七七四年:2011/11/10(木) 20:02:13.72 ID:YIMqTpm4
>>472
最近の研究だと、足利義政の嫡子問題と応仁の乱の勃興は殆ど関係ないらしいぞ。
むしろ足利義視は、応仁の乱の対応で義政と対立して廃嫡された模様。
475人間七七四年:2011/11/10(木) 20:07:21.74 ID:mhXZ9dUg
あれ、応仁の乱の原因は様々だから跡継ぎ問題にしぼることはできない、とは聞いていたが
混乱に拍車をかけてた、まで否定されているのか
476人間七七四年:2011/11/10(木) 20:13:01.38 ID:0ug3rxk6
>>472
さっさと殺して、それが主原因ではないにしろ、
豊臣家も福島家もわやになってるから甲斐もなし

正則の場合は殺した養子の嫁が、徳川縁故者だっただけに
さっさと殺したことが、後々けっこう響いたのかもよ?
477人間七七四年:2011/11/10(木) 20:16:35.75 ID:Mpi9uJ2N
そんな市松の、読み書きの先生の話。

尾張国に生まれた市松は、武士になる前、
同国の甚目寺釈迦院の智慶という尼の世話を受け、読み書きを習ったという。

が、市松が12歳になったある時、甚目寺普請手伝い中に、殺人を犯してしまい
追われるように故郷を去ることに。

だが運命は不思議なもの、やがて時が経ち、
市松は、福島正則と名を改め、出世して尾張国清須を拝領し、故郷へ再び戻ってきた。
立派な大名に成長したかつての市松を、智慶尼は見ることが出来たのだ。

甚目寺は秀吉の意向もあり、手厚い保護を受けている。
正則もまた甚目寺に仁王像二体を奉納している。

そしてまた時は流れ、関ヶ原後、正則は安芸備後二国を得て、尾張を去るが、
地元の生駒氏らに、釈迦院への供養を重々頼んで行ったという。

その後も二人の交流は続いたらしく、正則が智慶尼に宛てた書状がのこされている。
進物の礼と、上洛して自分に会いに来るよう誘う内容で、親密ぶりが伺える。

参照:「甚目寺観音展図録」
478人間七七四年:2011/11/10(木) 20:31:22.24 ID:YIMqTpm4
>>475
「勃興」ね。
そもそも応仁の乱は畠山、斯波の両管領家の家督争いがベースにあって、義政実子義尚の誕生以前、
斯波義廉が畠山義就と、細川勝元の盟友でありながら赤松問題で勝元と対立した山名宗全を結びつけることで
「西軍」が形成された。

これと細川勝元・斯波義敏・畠山政長勢力との抗争が、文正の政変で義政が将軍専制政治の確立に
失敗したことによりストップがかからず、ついに合戦に発展した、という見方が最近では主流だと思う。
そもそも文正の政変では義政は義尚の乳父の伊勢貞親を失脚させ義視の肩を持っているほどだし。

応仁の乱はものすごくややこしいけど、いずれにせよ応仁元年の時点でまだ31歳の若さで、
非常に健康だった足利義政の後継が大きな争点だったというのは、ちょっと無理があると思う。

結果的に義尚が文明5年にわずか8歳で将軍位につくけど、あれは後継抗争の結果と言うより
人心一新のためという要素が強いと思うよ。
479人間七七四年:2011/11/10(木) 20:51:02.27 ID:MTuD2flb
後継者問題ってその時の当主が健康だろうと若かろうと
明確に決まってる存在がいない限り常に起こってる印象があるけど
480人間七七四年:2011/11/10(木) 22:00:47.50 ID:4KBaWTkO
>>464
伊達御前は彦姫かな?とすると「義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹」は、
「義宣の母と伊達御前、阿南の方は姉妹」(いずれも伊達晴宗と久保姫との娘)で整合性が合うね

それと他のスレで教えてもらったけど、阿南の方は二階堂盛義の後室で蘆名盛隆の生母ではなく、
盛隆の生母は葦名盛氏の娘で、その縁で盛隆が葦名を継いだらしい
よって阿南の方は岩瀬御台の祖母ではなく、伯母になる
母が阿南の方だと盛隆は叔母と結婚した事になるからなぁ…
(伊達実元は姪と結婚して成実が生まれたけど…)
それでも盛隆の正室・彦姫は、元は葦名盛興(盛隆の伯父か叔父)の正室だった訳で
義理とは言え盛隆は叔母と結婚した事には違いない

あー複雑だ
481人間七七四年:2011/11/10(木) 22:47:52.32 ID:hy+M0ysC
>>480
蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子じゃなかったっけ??
盛隆は二階堂家から蘆名へ人質に出されてたが
出来が良かったのか顔が良かったのか何なのか、
蘆名盛興が死んだ後に彦姫を正室に迎える形で婿養子になった筈。

彦姫と盛興との間には岩姫(のちの小杉山御台。岩瀬御台の異父姉)がいて
彼女は蘆名に養子に入った佐竹義重の次男・義広を婿に迎えた。
それが伊達と佐竹・蘆名の間の軋轢を更に広げて
最終的に摺上原の戦いに繋がった。
482人間七七四年:2011/11/10(木) 22:51:10.31 ID:hy+M0ysC
そういや阿南の方が産んだ娘(岩瀬御台の母親とは別)は岩城常隆に嫁いだけど
こっちは身重の体で佐竹に追われて伊達に逃れて、成実の継室に入ったんだっけね
483480:2011/11/10(木) 23:45:54.86 ID:4KBaWTkO
>>481
うん、俺も蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子だと思ってた
Webでは何を見てもそう書いてるし
よって、ソースを提示出来ず申し訳ない

血縁的には葦名は佐竹よりも伊達に近いのになぁ
・蘆名盛高の娘は伊達稙宗の正室
・蘆名盛氏の正室は伊達稙宗の娘
・蘆名盛興と盛隆の正室は伊達晴宗の娘(彦姫)

>>482
そうそう、岩城御膳
常隆との間に出来た子、長次郎隆道が政宗の偏諱と伊達姓を賜って
伊達政隆として一門第六席・岩谷堂伊達家の祖になってる
祖母の久保姫に並々ならぬ敬慕の念を持っていた政宗だけに
久保姫の実家である岩城の血統を厚遇したと言えるね(政隆の祖父・親隆は輝宗の実兄だし)
「政」の字の拝領なんて、そうそうない
(留守政景と国分政重(盛重)、小次郎政道(?)は将来の藤次郎政宗の血族として輝宗が
与えたものか??)

ちなみに岩城御膳、資料によっては妾とか佐竹側の資料には政隆共々、存在が抹消されてる
仕方ないか

484人間七七四年:2011/11/11(金) 00:00:33.08 ID:NFQgJ0Da
岩城御膳っておいしそうだなw
485人間七七四年:2011/11/11(金) 00:12:22.22 ID:r/ygYmPP
おいしそうと云えば、信玄餅旨すぎて大好きなんだが
ああいう戦国武将由来のお菓子ってどれくらいあるんだろうね
486480:2011/11/11(金) 00:23:00.86 ID:rOejoffy
>>484
あっ、しまったw

>>485
謙信の笹団子、政宗のずんだ(信憑性薄い)とか
まとめスレに「戦国、お菓子関係話!」があるよ
487人間七七四年:2011/11/11(金) 00:25:23.98 ID:r/ygYmPP
>>486
あ、まとめにあったのか ありがとう
如水の「筑紫もち」がどうみても信玄餅だった
488人間七七四年:2011/11/11(金) 00:29:29.04 ID:c8LmnpeK
>>485
【松乃露ものがたり】
今から400年以上も昔、江戸時代のはじめごろ、どこからともなくやってきて津山に住みついた菓子職人が「唐の珍菓」をつくりました。
その菓子はとても美味しく、噂はたちまち城下に広まり、津山城内、そして藩主・森忠政公の耳にも入ることとなりました。早速にその菓子職人を呼び寄せて、噂の珍菓を作らせました。
森忠政公はその珍菓をおおいに気に入り、愛用の銘菓としました。この銘菓はお城の松の常緑に映える朝露のよう・・ということから「松乃露」と名付けられ、
「茶の湯にはきっとこの菓子を用意するように」と家臣に言いつけ、城内の茶会に必ず出されるまでになりました。
しかしその後、菓子職人は津山の町を去ってしまい、銘菓「松乃露」だけが残されたのです。


・・・という言い伝えの元に再現されたお菓子がある
ttp://item.rakuten.co.jp/kasyoukuraya/c/0000000121/
489人間七七四年:2011/11/11(金) 00:39:10.69 ID:20WuvwWR
戦国ではないが大名由来の有名菓子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%B7%BB
490人間七七四年:2011/11/11(金) 01:07:19.08 ID:rOejoffy
おいしそうな話題がちらほら

>>489
吉良さんも素直に賄賂要求しとけばなぁw
吉良邸のあった両国には吉良さんに因んだ吉良まんじゅうの店があったり
忠臣蔵のシーズンには吉良祭・義士祭があって、静かな街が和やかに賑わうのですよ
491人間七七四年:2011/11/11(金) 01:12:32.81 ID:uPDXiV4u
信玄餅って、昭和のお菓子で甲斐の国だから信玄って名前を付けたとかそんなんだっけ?
安倍川餅の方がそれっぽい名前の付き方だったような・・・
492人間七七四年:2011/11/11(金) 01:13:45.00 ID:ccvf/tog
安倍川餅は江戸時代から家康由来とされていたりするね。実際はともかくw
493人間七七四年:2011/11/11(金) 04:08:20.36 ID:e+6C8pU+
三斎様の作らせた(らしい)加勢以多は
いまでも茶道会のキング・オブ・和菓子だよ!
ものすごい美味いよ!
494人間七七四年:2011/11/11(金) 10:28:48.93 ID:UPONdAtl
495人間七七四年:2011/11/11(金) 11:02:46.19 ID:tG1bKfRK
>493加勢以多って熊本以外でも売ってんの?武者返しより美味い?
496人間七七四年:2011/11/11(金) 11:09:26.98 ID:3VJ0MsI5
海老すくういやめろwwww
497人間七七四年:2011/11/11(金) 11:09:33.87 ID:ccvf/tog
加勢以多
“Caixa da Marmelada”
「Caixa da Marmelada(カイシャ・ダ・マルメラーダ)」。これは、“マルメロジャム入りの小箱”という意味のポルトガル語。
古今伝授之間でお出ししているお菓子「加勢以多(かせいた)」の名前のもとになっている言葉です。

幕府への献上品ともなった細川家秘伝の伝統銘菓。
このハイカラな名前のお菓子は、もともとは江戸時代には幕府への献上品ともなった細川家秘伝の伝統銘菓。
作り方は口伝で伝えられていたという貴重なものでした。作り手が途絶えた時期もあり、一度はその灯が消えかけたこともありましたが、
熊本の大切な文化を絶えさせまいと香梅が復元いたしました。
http://www.kobai.jp/products/02.htm

 現在は熊本名菓として知られ、その由緒は細川三斎(忠興)好みの茶菓子だったとされているが、典拠となる史料は現在のところ確認されていない。
管見の限り初見は、初代熊本藩主細川忠利の肥後入国後の書状等を編集した「部分御奮記」(永青文庫蔵)で、長岡佐渡守(松井興長)宛書状に、
重陽の祝儀に「かせいた曲物一ツ」等を受け取った礼状がある。差出人、年は記されていないが、これに該当する松井文庫文書により、差出人は光尚であることが判明した。
差出年は、子の綱利に関する記述により、綱利誕生の正保2年(1645)11月から父光尚が死去する慶安2年(1649)12月までと推定すると、
正保3?慶安2年(1646?49)と考えられる。以後かせいたは熊本藩の献上品として散見されるようになり、明和(1764?72)の初期からみられる全国諸藩より
幕府へ毎年定まった季節に贈られる時献上の品目で、4月にかせいたが、同じく現在熊本名菓の朝鮮飴(6月)とともに、幕末まで継続して記されている。
http://www.kyuhaku.jp/roji/roji_ha-05.html
498人間七七四年:2011/11/11(金) 11:16:34.76 ID:zurnoCW+
小さい時に読んだ本の記憶などがかなり詰まっていて信憑性うすいけど投下。

歌劇団で有名な兵庫県宝塚市。戦国時代、宝塚の一部の荘司(荘園の管理者)を代々努めてきた男がいた。
有史以来初めての征夷大将軍、坂上田村麻呂の子孫とされるその人物は、坂上頼泰といった。

豊臣秀吉に仕え、かなり武功も立てたらしい。
だがこの人は歳を重ねるごとに花鳥風月を愛でる生活に入ってゆく。
武士の身分で日々土いじりを楽しみ、故郷で悠々自適の生活を送っていたが、ある時、

「赤い花と青い花を一つの花にしたい。木でもなんでも同じ事をやりたい。」

なんてことを考え始めた。
研究により、頼泰はシャクヤクとボタンを「接ぐ」ことに成功。
これは「接木」として園芸界に革新をもたらすことになった。
彼は喜んでこれを秀吉に献上し、秀吉は喜んで彼を「接木太夫」の称号を与え、
当時贅沢品が禁じられていたにも関わらず植木だけは販売をさし許した。
彼の領地山本は園芸が盛んになり、Wikiさんによると現在でも国内有数の植木の産地らしい。
千利休らも生花や庭の花木を依頼することがあったという。
ワシントンの桜など、接木が施されていることは結構あるそう。

隠遁した武士が新しい潤いを現在までも残したいい話。
499人間七七四年:2011/11/11(金) 13:09:41.28 ID:r/ygYmPP
>>493
加勢以多って知らんかったが、香梅のお菓子か
今度買ってみるよ
香梅なら陣太鼓も旨いよね
500人間七七四年:2011/11/11(金) 13:15:01.12 ID:7uUHG/Cc
>>498
いい話というより綺麗な逸話だね
写真入りで読みたくなる
501人間七七四年:2011/11/11(金) 18:02:05.57 ID:OK7Ny7y1
熊本の菓子と言えば肥後六華ってなもんで6つ有名
と熊本に出張した時に聞いた
502人間七七四年:2011/11/11(金) 23:49:51.73 ID:WLXy3Y+o
権兵衛餅買ってこよっと
503人間七七四年:2011/11/11(金) 23:51:27.95 ID:cpfTCOu6
五兵衛餅でええやん
504人間七七四年:2011/11/12(土) 00:12:41.40 ID:kUMMqFjV
権兵衛餅は旨いよ、蕎麦食べて帰りに権兵衛餅と
沢庵饅頭買って帰るの。
近頃、仙石秀久公が話題だけど、出石は混んでるかなあ・・・
505人間七七四年:2011/11/12(土) 00:35:15.96 ID:muL4vZQV
鹿児島あたりの菓子、あくまき(笹の葉でくるむかわりに茶色の竹の皮でくるんだ灰汁につけた、ちまき)は
朝鮮出兵か関が原で保存食としてつくられたのがはじまりという説があるらしい
あと、時代がおもいっきり下るが、鹿児島のかるかん饅頭は島津斉彬がつくらせた、ときいた
(wiki情報だとその前からあったみたいだが)
ついでに同じく薩摩菓子の春駒(ういろうを円柱状にしたっぽい)は、
馬の陰茎に似ているから「うまんまら(馬の魔羅)」と呼ばれていたが、藩主に献上するときに
あんまりだというのでこの名前になったらしい
506人間七七四年:2011/11/12(土) 01:07:25.10 ID:EQvh+81c
そもそも食い物にそんな名前付けんなよw
507人間七七四年:2011/11/12(土) 03:06:42.21 ID:YbVn2eg+
身近な寄り合いとかで出すのに出来たとかじゃないのかな
508人間七七四年:2011/11/12(土) 10:49:17.51 ID:5ZD9O2DF
>>506
女の子に食べさせたら・・・うれし恥ずかしいじゃないですか!
つまり男のロマンですよ
509人間七七四年:2011/11/12(土) 12:45:45.86 ID:TdjzDL3W
競馬場に連れて行った女がパドックで馬っ気出したイチモツを見て
生唾飲み込んだ時の音を忘れる事が出来ない
510人間七七四年:2011/11/12(土) 14:22:34.27 ID:ji6kuS/x
恥を知っているのが侍
511人間七七四年:2011/11/12(土) 14:53:28.64 ID:cuko/KYA
>>509
牝馬見てハァハァしてる貴殿と同類ですな
512人間七七四年:2011/11/12(土) 16:56:25.94 ID:F4yYtVTu
『プロージット!』ガシャン!!

大永元年(1521年)九月一日、福島正成は二万の大軍を率い、富士川沿いに河内路を北上し始めた。
穴山氏がこれを先導する。一方小山田氏は北条家を抑えるとして協力しなかった。

十六日、信虎に破れ降っていた大井氏が降伏。再び大井氏は今川につくことになる。
月末、西郡(富士川西岸)の河内路から東郡(笛吹川東岸)の甲駿往還までの盆地南部で、多くの国人が帰順。

河内路と甲駿往還に挟まれた山岳地域を九一色と呼ぶ。ここには九一色衆呼ばれる辺境武士団が存在した。
九一色衆は古くから九一色十家と呼ばれる土豪らがとりまとめていたが、このとき十家は去就が割れた。

さて、ここからが逸話。
この十家のうち、上九一色の河埜、渡邉、土橋の三家は武田に付くことにした。

彼らは未だ盆地南部で頑張る諸城への補給や、敵の補給路の遮断などに活躍した。
しかし他家に手引きされた今川勢が甲駿往還からもやってくると、敗色濃厚となった。

三家の当主は上九一色の砦で宴を張った。別れの杯である。
土橋左衛門がふと言った。
「館が落とされ自分も討ち死にした後、この杯で祝杯を挙げられるのは腹立つじゃんな」
渡邉、河埜らもなるほど腹が立つと思い、三家中であるだけの酒器をみな打ち壊した。

ところが彼らが必死の抵抗を重ねるうち、主君・信虎は、上条河原合戦で今川軍本隊に
壊滅的打撃を与えることに成功。

今川方に付いた家は領地を召し上げられ、多額の褒賞と共に三家に与えられた。

これ以来、九一色衆は戦の前に杯を酌み交わした後、酒器を割る風習が発生した。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
やがて甲州でぶどう酒の生産が盛んとなると、「プロージット!!」と叫んで
一気に赤ぶどう酒を飲み干し、グラスを割るという形に若干の変化を見せた。

やがて銀河を統一した武田帝国の風習となり、近年では金髪皇帝と将たちが行ったので有名である。

以上途中から与太話
513人間七七四年:2011/11/12(土) 17:01:06.88 ID:YbVn2eg+
戦の前に飲んだかわらけを割るのは甲斐に限らずいろんなところで見る描写だけど、
各地にこんな由来話があるのかねえ。

余談だが(上)九一色村と聞くとオウム思い出す。
514人間七七四年:2011/11/12(土) 19:55:41.12 ID:U+RoCp/1
>>512
銀英伝?
515人間七七四年:2011/11/12(土) 20:28:28.80 ID:YbVn2eg+
最後は銀英だな
516人間七七四年:2011/11/13(日) 00:00:11.73 ID:HjUSMkFc
天正10年(1582)3月、信州高遠城の戦いにおいて一番に城門に駆け入ったのは、戸田半右衛門という侍だった。

ところが母衣も指物も背負ったままの半右衛門、門構えに引っ掛かって尻餅をついてしまい、その間に
織田信忠の小姓・山口小弁と佐々清蔵が半右衛門を乗り越えて門に入り、一番乗りの功を奪ってしまった。

戦後、小弁と清蔵は信長みずからの手により賞を与えられたが、まず信長は小弁に国久の太刀を取らせ、
「汝は若い身で、壮士に先立って門を奪い、功を表した。天晴れなり!」
と褒め称え、続いて清蔵に長光の脇差を与え、「汝の武功、まさに成政の甥ならではよ。」と褒めた。

人々は、表では二人の若者の武勇を称え、裏では
「伏見の庶民上がりの小弁には太刀を取らせ、個人の功を褒める。織田家中の名門出身の清蔵には、
脇差を与えつつ、一族でも名高き叔父を引き合いにして褒める。信長様の人使いの巧みさよ。」と噂した。

将来を期待された二人だったが、本能寺の変において信忠に従い二条城にいる所を、明智光秀の兵に囲まれた。
城外にひしめく明智勢を見据えて、清蔵は小弁に呼びかけた。

「武士が何の備えも無く死ぬのは、屍をさらすに重ねての恥となろう。何とかして具足を調達できぬか。」
「よし!ならば、あやつらの具足を奪ってやろう。」

並んで討って出た二人は即座に押し寄せる敵兵を斬り伏せ、その具足を剥いで着込むと再び敵中に駆け入り、
主君と運命を共にした。二人はともに16歳、華と散った若者たちを、多くの人が惜しんだ。(常山紀談より)


さて、大功を逃した半右衛門だが、彼自身は意外にも涼しい顔をしており、その不運を慰める人々に
「わし程度の武功では、母衣だの指物だのが引っ掛かるなど考えもせん。敵に攻めかかる時は、余計な事は
考えぬものだよ。格別優れた武辺者は別だがね。」と言っていた。

その後も無我夢中で戦場の真っ先を駆け続けた半右衛門は、のちに戸田武蔵守勝成と名乗った。
大武辺者として知られるようになった勝成は、『謀才俊雄の英士』とまで呼ばれ、関が原の戦いでは家康をして
「戸田武蔵を討った者には、特に感状を出す」と賞金をかけられ、その死は東軍諸将をも悲しませた。
517人間七七四年:2011/11/13(日) 00:45:38.68 ID:FQTJOFlE
高遠城って聞いただけで悪い話では?って思ったのは内緒
518人間七七四年:2011/11/13(日) 01:09:09.65 ID:gp55a6R6
信之と小松の眠る場所

小松姫の御霊屋のある大英寺(余談ですが真田家の中で一番大きく最も古い)
内部は極色彩の彫刻で彩られ、格式高く天上画はなんと天女。
元々は上田の芳泉寺にあったものを、信之が松代移封の際にこの大英寺を建てて移したとの事。
後に火災が起きると言う大事態になりますが、その時も当時の藩の方が必死に護り抜いたそうです。

ちなみに松代移封が告げられた帰り道、信之は小松の墓前に寄った形跡が残っていて
何を話したかは分かりませんが、当時の心境を亡き嫁の前で零したのかもしれない。

長国寺には生前の二人の仲睦まじさを表すかの様に、夫婦の位牌が寄り添って祀ってあります。
信之の御霊屋にはこっそりと目立たない所に派手で豪勢な彫刻があり、現地の方の憶測だと

「真田め…またこんなとこに金使いやがって!」
と思われるのが鬱陶しくて隠したんじゃないですかねーらしいw

それにしても長国寺、大英寺、勝願寺、芳泉寺、正覚寺(他にもあったらすみません)嫁関連の多すぎだぜ兄貴
どんだけ好きだったんだよと小一時間

あと最近は松代へ「信之公のファンです」と言って見学に来る人も増えたみたい。
やったねお兄ちゃん!

以上、旅行した時に聞いた真田夫婦の話でした。
519人間七七四年:2011/11/13(日) 08:35:21.01 ID:LQs0b9MR
好きなら好きって自分で言えよ、

晩年の藤堂高虎に仕えていた儒学者三宅亡羊にとって、
高虎はいわば教え子である。
仮にあなたが亡羊だったとしよう。
そのかわいい教え子が、こう言った。


家康公も秀忠様も、お互いが直接おっしゃればよいことまで
このわしを間にたててお伝え申される。

ある時も家康公がおっしゃられた。
「武士は武勇を第一とするとは言え、それも過ぎると臆病より劣ることがある。
武田勝頼が、いま少し自重し慎重に事を構えていたら、
長篠にて容易に滅びなかったであろう。

さてまた、天下を治める道は情け深いことに及ぶものはない。
しかし、それも過ぎると酷いというより悪となる。
武家のたしなみもなく、人馬を蓄えず、
女色におぼれ、勝手気ままな振る舞いをする者を、
上に立つ身だからと大目にみていると下の者までそれに習うだろう。
これは大いなる罪である。
こういった者を厳罰に処することで、
旗本の士気も上がり武家繁栄の元となると思うが、和泉よ、いかがか?」
とな。
「仰せは誠にごもっとも。」
とお答えすると、
「では、秀忠にも伝えてまいれ。」
とおっしゃる。

で、わしは秀忠様のところに参るわな。秀忠様は
「さすがは父上!さても金言なり。」
と申されて、自ら筆を取りそれを書き写された。

で、またわしは家康公のところに参るわな。
秀忠様のご様子をお伝えすると、家康公は
「さすがは秀忠!
秀忠ともあろう者がこのようなこと、知らぬはずもあるまいに。(え?)
孝行心が深いのでわざわざ書き写したのであろう。
その心遣い、感に耐えぬわ!」
と、こうだ。

ま、このようなことは一度や二度ではないがの。


亡羊本人は、高虎のこの語りを、さしあたって書きとめておくことにしたらしい。
                                       「開国遺事」
520人間七七四年:2011/11/13(日) 09:34:48.83 ID:gxSVTt95
>>519
逸話通りとするなら
勝頼〜は、武勇の誉高き秀康批判。
後は、秀忠対応に対する家康の賛辞は、秀忠を後継者とする家康の執拗な意思表示。
高虎公を巻き込んだのは、そういう情報操作にも才がある所を見込んだんじゃね。
521人間七七四年:2011/11/13(日) 10:01:52.17 ID:deeAxxAm
直接言えば本人と周りに偶然いた小姓、重臣ぐらいにしか伝わらないが
部下を通せば家中全体に広まる
522人間七七四年:2011/11/13(日) 10:04:54.40 ID:G86DF6is
高虎もそこらへんの事情を良く心得て回りに広めたんだろうな
523人間七七四年:2011/11/13(日) 10:05:09.16 ID:1S2s1492
まあ、この逸話の時期にもよると思うが、基本的には世間に向けて、
「武備もやりすぎてはいかんよ。だからといって油断しすぎてもいかんよ。」
という意志を、命令という形を取らずに親子の通信という形で世間に流す行動なのだろう。

あと秀康は、実際に戦闘した経験は皆無だし(その意味では秀忠のほうが場数踏んでる)、
やたら戦争したがるという性格でもなかったわけで、別に秀康を批判するような意図は考えられないと思うよ。
524人間七七四年:2011/11/13(日) 10:44:38.29 ID:9mbPg/bM
秀康さん九州征伐とか小田原攻めに参加してなかった?
秀忠さんは関ヶ原が初陣で…
525人間七七四年:2011/11/13(日) 10:50:10.77 ID:1S2s1492
>>524
参加してたけど実戦は経験してないしなあ>秀康
関ヶ原の時の宇都宮陣も、上杉を挑発してたけど結局かかって来なかったし。
対して秀忠は敗戦とはいえ上田で、それも主将としてきちんと実戦経験してる。
526人間七七四年:2011/11/13(日) 11:42:21.84 ID:TkFOVd8z
水野親子の仲裁もした権現さまだから、
孟子の「父子の間は善を責めず」が頭にあったかも。
父と子が面と向かって善悪を注意し合うと感情的になってしまうからな
527人間七七四年:2011/11/13(日) 11:55:10.54 ID:QYDARDmB
>>518
お兄ちゃんは本当に小松のこと大事にしてたんだなぁ
そりゃ我が家から陽が消えたと嘆くよね だからこの夫婦大好きだ
信之に関しては、殿いつの影響もあるのかな
殿いつで信之好きになったという意見もちらほら見る
やはりああいうモノの影響は凄いな 西の目立たないお兄ちゃんもぜひ出てほしいもんだ


>>519
高虎さんの苦労が忍ばれる 正信さんも似たような経験ないか
でも直接面と向かって話すような間柄ではもう無くなってたのかな この親子
秀忠はちょくちょく駿府の大御所にご機嫌伺いに言っていたというけど
でも、他の人に聴かせることも目的だったんだろうな
528人間七七四年:2011/11/13(日) 12:15:49.00 ID:8DhDB6oa
秀康もなんだかんだで、関ヶ原では西軍じゃなくて東軍にいたのが不思議だった
529人間七七四年:2011/11/13(日) 12:26:06.49 ID:G/dfKQJs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4461.html
正信が使者で似た話もあるな
こんなかんじで使者が往復するたびに掛け軸が増えていくのかと思ったら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
そうでもないか
530人間七七四年:2011/11/13(日) 12:31:35.75 ID:QYDARDmB
秀康は結城家継いでるし、もうそんな好き勝手出来ないような気がする
531人間七七四年:2011/11/13(日) 12:37:11.84 ID:aBXwDmip
そもそも秀康は、家康や秀忠との関係は終始かなり良好。
変に対立があったかのようにするのは後世の創作ですな。
532人間七七四年:2011/11/13(日) 13:26:35.28 ID:gHcS0XSZ
家康と秀忠はちゃんと秀康を立てていたからね
秀康としても父や弟に下手に出られたら不満を持つ理由はない
533人間七七四年:2011/11/13(日) 14:13:33.10 ID:DXdhPAQt
徳川家はめちゃくちゃ気を使ってたもんな
自然に良好だったではなく良好になるよう努力した結果、波風が立たなかった
534人間七七四年:2011/11/13(日) 14:14:40.87 ID:QYDARDmB
制外の家なんてしちゃうしね
あと江戸に来る時、江戸城外に家作るんじゃなくて
秀康の場合はそのまま江戸城に住んでたようだし
535人間七七四年:2011/11/13(日) 14:19:29.93 ID:+tv/P8Mt
秀康が江戸に来た時、秀忠自ら品川までわざわざ出向いたりする辺り、
秀康に対してかなり気使ってる
たいして秀康も終始家臣として将軍家を尊重してる
お互いに距離感はきちんとわかってる

不満がなかったわけではないだろうけど、
決してぞんざいに扱われていたわけではないし、何よりふたりとも人格者なのが良かった
536人間七七四年:2011/11/13(日) 14:30:02.89 ID:sEFzUP4n
>>518
確か兄ちゃんのお霊屋の内装?が家康と同じなんじゃなかったっけ?
父と弟の事があったにせよ、幕府からの信之に対する信頼は凄く厚かったんだろうな

小松のお墓見に行った時、そこだけ空気が全然違う感じでびっくりしたよ
何か女性のお墓なのにキリッとしてて背筋が自然と伸びるみたいなw
兄ちゃん小松の事よく分かってんなーと思ったw
537人間七七四年:2011/11/13(日) 14:32:23.56 ID:9mbPg/bM
>>526
子供は親のダメな部分をちゃんと見て育ってるからどんなに立派なこと言っても「お前が言うな」で喧嘩になるって話か!>孟子
538人間七七四年:2011/11/13(日) 15:38:17.73 ID:TkFOVd8z
>>537
今年の大河で、向井さん演じる斜に構えた秀忠公を思い出したわw
539人間七七四年:2011/11/13(日) 15:59:28.26 ID:k9V+hDfD
そう考えると松平忠輝はどうしてああなった・・・
540人間七七四年:2011/11/13(日) 16:25:47.34 ID:QYDARDmB
>>538
でもあのドラマ見てると、家康の良いところ全く参考にせず
30代でも厨二病で、最後の最後で父親に怒鳴られて
ようやくまともになったって気がするんだが
541人間七七四年:2011/11/13(日) 17:42:17.74 ID:9l3y1WRC
>>536
日光の眠り猫の人だっけ
542人間七七四年:2011/11/13(日) 17:49:33.05 ID:OntMx4V5
>>512
> 穴山氏がこれを先導する

穴山も所領没収かよ
543人間七七四年:2011/11/13(日) 22:16:10.25 ID:1lPY/JLY
>>542

多分、上九一色の十家のうち今川についた七家の所領が
信虎に組した三家に分け与えられたと言うことなのでは?
544人間七七四年:2011/11/14(月) 14:16:02.33 ID:3gE5A8yB
天下三槍 1/4スケールペーパークラフト

http://www.yonezawa-naoe.com/information/111113.html
545人間七七四年:2011/11/14(月) 17:41:57.53 ID:zrzjCj5w
まとめサイトに見当たらなかったんだけど、有名な話だからかな。

関ヶ原の合戦のその後、先の征伐の元凶となった上杉主従が家康へ謝罪のために上洛した。
軍神謙信の武名も名高くそして今や権勢を極める徳川様に堂々と逆らったあの上杉が久々の上洛である。
市井の人々の噂は高く、かの名物主従を一目見ようと町は見物人で溢れ
上杉の大名行列の周囲は黒山の人だかりに。
そして執政直江は屋敷に残し、景勝一人登城し家康からの沙汰を待つこととなった。
しかしここでも、普段ならお目にかかれない会津の太守を一目見ようと
小大名や旗本達が用もないのにわらわらガヤガヤと入れ代わり立ち代わり
景勝の座す間を覗きにやってくる。

「………………」

ついに徳川方のほうがあまりの見物客の多さに気を遣い
「景勝公人見知りのため」として部屋に衝立てを置き見物人達から景勝を覗き見られないようにした。

ちなみに家康から大減封の沙汰を受けた景勝、
相変わらず動じた素振りも見せず至って堂々した態度で受け入れたそうである。

「武命の衰運驚くにあたわず」すらやらなかった糞大河ェ…
546人間七七四年:2011/11/14(月) 17:46:22.08 ID:prr/6Al0
>>545
> 「景勝公人見知りのため」

大の大人にしてはえらく可愛らしい理由だなw
547人間七七四年:2011/11/14(月) 18:46:24.11 ID:Fa5xKq66
まるでパンダかアイドル扱いw
勝ち負け関係なく、人気あったんだね
548人間七七四年:2011/11/14(月) 19:12:00.41 ID:CCziQp/D
>>545
いい年こいて人見知りとか言われるよりは、じろじろ見られてた方がまだマシって気がw
罰ゲームみたいだw
549人間七七四年:2011/11/14(月) 19:25:51.34 ID:wDm6OtSY
一応罰を与えようとするところなんだから
あんま堂々としてるのを大勢の人に見られても困るんじゃね?
550人間七七四年:2011/11/14(月) 21:00:56.29 ID:5aJqhWAZ
>普段ならお目にかかれない

逆に普段お目にかかれるのはどんな面子だろう?
北のDQN王は目立つから嫌でも見知ってるだろうけどw
551人間七七四年:2011/11/14(月) 21:37:54.57 ID:w+zsAa+v
>>544
槍だけでは寂しすぎるw
552人間七七四年:2011/11/14(月) 22:03:20.01 ID:Sq98GV2r
天下三槍というと
・蜻蛉切り
・日本号
・人間無骨
だっけ、と思ってしまった。
どれだけこのスレに毒されてるんだ
553人間七七四年:2011/11/14(月) 22:09:52.45 ID:t9NnAblx
スペックだけなら小松明がランクインしているはず
554人間七七四年:2011/11/14(月) 22:11:14.00 ID:ifI3vtCO
それらを現代のものに置き換えたとする
蜻蛉切とか日本号が竹刀や木刀だとすると、
人間無骨は釘バットってイメージ
555人間七七四年:2011/11/14(月) 22:43:28.36 ID:f5JgQewv
泣き言もごねたりもせずその後さらに半減もただひたすら耐える
騙されたと恨みを引き摺り、やりかえそうぜが正月恒例行事
ごねて現状維持を勝ち取り、戦犯匿いあげくにチェスト関ヶ原

下の2人は上杉さんを見習ったほうがいいと思うの
556人間七七四年:2011/11/14(月) 22:46:12.20 ID:GC6m62uM
>>552
えっ、違うの?と思ったら秀康公の槍がないのか
557人間七七四年:2011/11/14(月) 22:48:03.11 ID:U01YdATQ
天下三槍って誰が決めたんだ?
御手杵のナニがそんなにいいんだろう?秀忠のお気に入りだから?
558人間七七四年:2011/11/14(月) 23:44:34.51 ID:fHLXhYoC
そりゃもちろん、でかいから
559人間七七四年:2011/11/15(火) 01:30:44.01 ID:4WHfHklg
>>543
違うかも知れんが、残り7家が全部今川に付いたとは限らないのでは?
>>この十家のうち、上九一色の河埜、渡邉、土橋の三家は武田に付くことにした。
ってあるから、下九一色(あるのか?)では他にも武田についた家があるのでは。

>>512
土橋左衛門の微妙な口語体が気になるww
560人間七七四年:2011/11/15(火) 08:42:46.47 ID:3vch3oXb
>>545
家康が減封を言い渡した時は一切顔色もかえず即座に一礼して沙汰を受け
そして上杉屋敷に帰って出迎えた直江に
「何、運が無かっただけだ。驚くことではない」と一言言い置いたそうな。

って話までちゃんとやったら格好良かったのになあ…
561人間七七四年:2011/11/15(火) 10:07:01.54 ID:ZDbjOvJT
「運がなかった」ですませて原因の追求と改善をしなかったから
この後も衰運が続くことになるのかねえ
562人間七七四年:2011/11/15(火) 10:22:05.48 ID:DDiXgzpa
今更過去を悔やんでも仕方ないと思ったのかな
563人間七七四年:2011/11/15(火) 10:48:59.21 ID:3vch3oXb
>>561
いや、徳川との戦いは上杉家としての決断で賭けでもあったんだから
原因追求も糞もないんだろ。
直江状だってほぼ同時期に景勝自身が家康への回答として同じような答を返してる。
奉行たちが直江一人のせいにしようとしたのは大老同士の戦争を避けようとしただけで
上杉にとっては誤算は関ヶ原がまさかのたった一日で終わった事でしかないし
後世では追撃したらよかったと言われてるが当事者には追撃なんて発想外の話。
家として決断したことの責任を家臣に押しつけなかった美談であって
戦さで家を守ってきた景勝の戦国人らしい発想だと思うがね。
564人間七七四年:2011/11/15(火) 13:28:01.11 ID:j6yKR3TF
>>554
ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ〜万能トゲトゲバット人間無骨〜♪

鬼武蔵「でもそれってボクの愛なの〜」
ノブノブ「愛なら仕方ない」
ラスボス「愛なら仕方ない」
565人間七七四年:2011/11/15(火) 14:16:49.11 ID:4s2yEod3
>>563
戊辰戦争では、新潟戦線で戦死した家老色部に全責任を取らせる形で官軍に降伏してるよね。
でもそういった身の振り方は、勝海舟から決断が早いと褒められてたりする。

だが会津市民はいまだにそれを根に持っているのであった・・・w
566人間七七四年:2011/11/15(火) 14:20:53.38 ID:pvLnRDgX
>>564
チョットワロタ
567人間七七四年:2011/11/15(火) 15:57:08.80 ID:AnT4KYLQ
会津もあれはなあ・・・
オトナお城で会議中
コドモをとりあえぜ行かせる
コドモけなげに抜刀突撃
官軍水平斉射撃
遺体検査でやっとコドモと分かる。
あまりにかわいそうなので弔いを農民に依頼
品剥ぎ取り遺体放置

会津の皆さん、その後、悲劇の一部隠して
美談化して観光資源に。
568人間七七四年:2011/11/15(火) 16:48:26.66 ID:Y/c8kIhp
農民が落ち武者狩りをするのは伝統行事
569人間七七四年:2011/11/15(火) 16:50:13.75 ID:3vch3oXb
>>565
あれも米沢にしてみたら新政府軍に入ると打診したのに流れで入れず
渋々幕府軍に入ったら名家故に盟主の一人にされ
同盟内でもずっと新政府寄りの意見出してたハト派だったんだぞ。
そして新政府に投降したら「幕府軍についた責任者出せ」と言われて
元々新政府寄りで誰も幕府側に付く事に積極的じゃなかったために
責任者と言える人間が誰もいない→無実の誰かが罪を被って死ななきゃいかんとなって
(千坂が自分が首を差し出すとまで言ってた)
誰も死なせないために既に戦死していた人物を責任者ということにしただけで
残された家族は山浦上杉家に入れて保護してほとぼり覚めた頃に家名回復させてる。
570人間七七四年:2011/11/15(火) 18:35:59.95 ID:9tOwVieX
でも会津は内幕はどうあれ、佐幕藩最右翼の立場だったのは疑い無いじゃん
しかも新撰組に山ほど浪士斬らせといて私らハト派でしたーなんて通じるわけがない
被害者ぶるのよくないお
571人間七七四年:2011/11/15(火) 18:51:03.12 ID:Og0/21OG
会津は松平じゃね?
タカ派筆頭だろ。
572人間七七四年:2011/11/15(火) 18:57:14.17 ID:TvjnTC2s
>>569は米沢=上杉の話だろ…
573人間七七四年:2011/11/15(火) 18:59:39.14 ID:76tzn6Kk
うむ。
会津はもろタカ派だが、
関ヶ原で会津を失ってる上杉家とは特に関係が無いな。
574人間七七四年:2011/11/15(火) 19:01:11.80 ID:Y/c8kIhp
途中から話がずれて幕末にタイムスリップしとる
575人間七七四年:2011/11/15(火) 19:03:17.51 ID:8ToNu5jp
あれ、上杉は戊辰戦争で旧領奪還(越後)を目論んだ唯一の藩ときいたが
ハト派だったのか
576人間七七四年:2011/11/15(火) 19:25:50.66 ID:9tOwVieX
そうだ、幕末は会津と上杉関係ないんだった
やべえ恥ずかしいちょっと切腹してくる
577人間七七四年:2011/11/15(火) 20:37:46.91 ID:YFK+78LO
嫌がる松平容保さんに手の汚れる仕事をやらせた松平春嶽さんがちゃっかり新政府の要人になってるのはなんかもやもやした感情がわいてくる
578人間七七四年:2011/11/15(火) 20:44:42.28 ID:in5dL7qu
会津が出てくると荒れる
579人間七七四年:2011/11/15(火) 21:31:43.68 ID:J3zMDkgw
>>575
奪還、つーほどでもないよ。
聖地・越後を防衛しなければ、という信仰に近い意思で新潟に駐屯しただけ。
国際貿易港、新潟の確保は列藩同盟の生命線ともいえる重要任務。
上杉家以外も進出してる。

この際に、越後の民草に迷惑をかけないように、と食料その他一切合切持ってきて
新潟の民衆に負担をかけなかったので、流石は上杉様!と民衆から感動された。
上杉が新潟から撤退する時に、地元で組織した民兵隊が米沢まで付いて行ったりしてる
のは、この上杉家への思慕の念からであろうよ。

一方、会津松平は新潟に駐屯するやいなや徴発・乱暴を始めて、上杉側に「会津に
味方するんなら、これ以上上杉様にもお味方できない」と民衆から脅しが入ったりしてる。
580人間七七四年:2011/11/15(火) 21:32:32.02 ID:H71vQ+kw
会津ってだけで荒れるとかもう末期だなぁ
581人間七七四年:2011/11/15(火) 21:36:47.79 ID:T4MqNT1p
だって会津だし・・・
582人間七七四年:2011/11/15(火) 21:38:52.31 ID:9BE2l8dR
幕末ってだけでスレ違ですし…
583人間七七四年:2011/11/15(火) 23:15:03.03 ID:aWlYDM/Y
室町幕府の末期
584人間七七四年:2011/11/15(火) 23:39:31.06 ID:H71vQ+kw
そもそも戦国時代の始まりっていつの時代だろう
585人間七七四年:2011/11/15(火) 23:45:18.41 ID:YAGnxBSk
>>584
戦国時代の始まりは、一般的には
応仁の乱(応仁元年(1467))から

中世史の世界では
明応の政変(明応2年(1493))から

関東では
享徳の乱(享徳3年(1455))から、

という感じだね
586人間七七四年:2011/11/15(火) 23:49:33.95 ID:giiLAEN/
・享徳の乱説(1455〜)
・応仁の乱説(1467〜)
・明応の政変説(1493〜)

ついでに伊勢宗瑞とかの戦国大名が出現してから
と書こうとしたら上3つはもうかかれてた
587人間七七四年:2011/11/15(火) 23:50:58.28 ID:BlDqW5+d
応仁の乱って語感いいよな・・・
588人間七七四年:2011/11/15(火) 23:58:08.28 ID:X75mNQ4F
オニンニンの乱
589人間七七四年:2011/11/16(水) 00:09:47.75 ID:oeO7Azfw
>>587
語感良くて名前は大変覚えやすいんだけど
内容が非常に覚えづらくて、未だにわけわかめだわ
590人間七七四年:2011/11/16(水) 00:11:17.34 ID:AnzaHO0P
オレンロン横丁
591人間七七四年:2011/11/16(水) 00:20:38.04 ID:zxYPsnOZ
ひとよむなしい、応仁の乱(1467)
京都追放、足利義昭以後涙(1573)
592人間七七四年:2011/11/16(水) 00:28:39.25 ID:CyHR6HSD
まとめスレでまとめられている人物の中で
一番早く生まれたのが一休(1394〜1481)
一番遅く死んだのが松平信綱(1596〜1662)
だっけ
593人間七七四年:2011/11/16(水) 00:44:22.35 ID:u3Bp2C8g
室町幕府って南北朝終わったらすぐに混乱期にはいるんだよなあ
594人間七七四年:2011/11/16(水) 00:45:53.76 ID:oeO7Azfw
北条氏長が1670年死去じゃなかったっけ?
595人間七七四年:2011/11/16(水) 09:03:19.87 ID:TFj8pGSp
南北朝もある意味じゃ混乱期だと思うんだが…
596人間七七四年:2011/11/16(水) 09:42:52.83 ID:/1sbtB2b
「新衛門を呼べ!」とか将軍様が言ってるアニメのせいで室町は平和なイメージ。
597人間七七四年:2011/11/16(水) 09:54:59.25 ID:l911Lyl/
1711年死去の渡辺幸庵が一番最後だとおもう
598人間七七四年:2011/11/16(水) 09:56:18.21 ID:9+scNtHn
室町幕府は2代義詮後半から5代義教までは安定期といっていい。
実は鎌倉幕府よりはずっと安定してる政府だった。
599人間七七四年:2011/11/16(水) 12:35:06.89 ID://AFYU4s
>>598
そりゃ鎌倉幕府と比べてたらな。
鎌倉幕府を開いた将軍家は三代で滅んでるし
600人間七七四年:2011/11/16(水) 14:07:24.69 ID:u3Bp2C8g
>>598
4代の義持からわけわかんなくなってね?南朝最後の天皇が出奔してから上杉禅秀の乱だし
601人間七七四年:2011/11/16(水) 18:31:07.22 ID:NtNOpTV9
>>599
日本史学校でやらなかったの?
602人間七七四年:2011/11/16(水) 18:42:02.31 ID:Mr229poN
日本史で一番カオスな時代は南北朝か応仁の乱だからな
戦国時代といっても信玄やら信長やらの時代はむしろ秩序が回復しつつあった時代だしね
603人間七七四年:2011/11/16(水) 18:46:33.86 ID:9+scNtHn
>>600
室町幕府の構造で言うと、幕府が直接統治に当たる範囲(天下)は、畿内近国と東海、瀬戸内くらいで
関東、九州は間接統治。
で、後南朝は大した騒ぎにはなっていないし、上杉禅秀の乱も幕府のイニシアチブで解決しているので
室町幕府の構造から言えば盤石の内にはいるw

江戸期的な見方をするとわからなくなるが、室町時代は、少々の戦乱くらいはごく普通の出来事で、
将軍のお膝元である京都市街が被害に合うほどでないと、大事とは見られていないんだよねw
604人間七七四年:2011/11/16(水) 19:21:10.69 ID:TFj8pGSp
鎌倉幕府なんて司法機関っていうより裁判所がちょっと大きくなったもんだからwww
って、大雑把に教えられたことあったな〜
605人間七七四年:2011/11/16(水) 19:23:58.15 ID:TcUoT0cQ
>>603
鎌倉幕府はそれより酷かったのかい?
承久の乱・元寇を除いたら全国的には平穏なイメージあるけど
(鎌倉付近は北条氏絡みで初期から色々騒動あったが)
606人間七七四年:2011/11/16(水) 19:36:15.46 ID:oeO7Azfw
鎌倉幕府は最初から終わりまでカオスなイメージが…
九条道家絡みとかね
607人間七七四年:2011/11/16(水) 19:51:56.87 ID:lEz+CtUU
鎌倉幕府は10年に一回は大騒動が起きてた感じ
608人間七七四年:2011/11/16(水) 20:07:11.44 ID:bUtvtR2z
>>605
鎌倉時代の御家人は本拠とも含めて全国に所領を分散して持っているので、
鎌倉での騒動は直接全国各地に波及していると考えたほうがいい。
例えば霜月騒動なんかでは、安達氏が守護をしていた武蔵、上野では「自害だけでも数えきれない」なんて
記録されてたりするし。

頼朝死後、その承久の乱まででも、幕府中枢を揺るがす大きな事件だけで

正治元年(1199)正月:源頼朝死亡

正治元年八月:安達景盛討伐未遂事件
正治元年十〜十一月:梶原景時弾劾事件
正治二年正月:梶原景時滅亡事件
建仁元年(1201)四〜五月:越後城氏の乱
建仁三年五〜六月:阿野全成誅殺事件
建仁三年九月:比企の乱
元久元年(1204)七月:源頼家暗殺
元久二年六月:畠山合戦
元久二年閏七月:牧氏の変
元久二年八月:宇都宮頼綱討伐未遂事件
建保元年(1213)五月:和田合戦
承久元年(1219)正月:源実朝暗殺

承久三年五月:承久の乱

これだけ起こってるw このあとも安定したわけではなく、隙あらば武力抗争をして大量の血が流れており、
(宝治合戦、将軍宗尊解任事件、二月騒動、霜月騒動、平禅門の乱など)政府中枢がずーっと
殺し合いをしていたのが鎌倉幕府だねw
609人間七七四年:2011/11/16(水) 20:15:17.88 ID:TcUoT0cQ
>>608
なるほど、霜月騒動の自害の記録は寡聞初めて知ったよ

政変は多いけど記録されてる舞台は専ら京・鎌倉近辺で短期間のうちに収まってるから
室町の地方巻き込んだ長期の内乱と比べるとどうしても小粒に感じてたんだけど、

対象御家人の所領では北条氏側の軍勢との間で頻繁に闘争が起こっていたと考えるべきなのかねぇ

やっぱりその辺の全国的治乱の実像を具体的に掴むには吾妻鏡読まないとダメかな?
610人間七七四年:2011/11/16(水) 20:22:37.90 ID:bUtvtR2z
>>609
ぶっちゃけ吾妻鑑読んでも良くわからないw
鎌倉時代はやはり、室町時代以上に史料が少ないので実態が見えにくいのね。
ただ鎌倉幕府後期には、例の「悪党」が数百規模の騎馬の軍勢を組織していた、なんて記録もあるので、
記録に残らない私戦や合戦のたぐいはかなりあったと考えられる。
611人間七七四年:2011/11/16(水) 21:15:08.21 ID:6SMiLWvn
源氏は同じ血族でも壮絶に仲が悪くて当たり前だからなぁ
あいつら、いくなんでも団結力がなさすぎる。内紛おこりすぎ
源平合戦、義経いなくて戦い長引いてたら平家盛り返してたんじゃねーかと思うくらいだ
612人間七七四年:2011/11/16(水) 21:45:50.61 ID:Mr229poN
鎌倉幕府は朝敵にされて大義名分も持たなかったのにあっさり朝廷を返り討ちにしたからてっきりそれなりに強力だとばかり
613人間七七四年:2011/11/16(水) 21:54:35.48 ID:oeO7Azfw
>>611
やる夫鎌倉幕府でも、内紛ばっかな印象だったな
落ち着いたかなーと思ったらまた内紛 内紛内紛
614人間七七四年:2011/11/17(木) 02:43:33.55 ID:Fz4PaiSw
みんなそれぞれに権勢欲が強いけど、それを脅かす対抗組織には団結しないと自分たちが潰されてしまうって認識なんだろうね
615人間七七四年:2011/11/17(木) 03:43:03.98 ID:Dy+w3YQr
治承・寿永の乱のことを源平合戦とか言うけどさ
実際は源氏の代表とされる頼朝の軍隊には平家の流れを組む人達が結構重要な役としているんだよね
頼朝が身を興したのが関東だったし、その前の戦で源氏がボコボコにされたからしょうが無いんだろうけど
北条、上総(平)は勿論、和田、梶原、三浦なんてのは坂東八平氏でしかも和田と梶原は侍所所司にもなってる

だから治承・寿永の乱は部族同士の戦いというより地方公務員vs中央官僚ってイメージの方があってる気がする
そこそこ力を持ってる人達だけどもっと良い生活をしたい人達の一発逆転物語!みたいな
だから源氏の本流とか源家の流れを組む人達でもそんなに力持てなかった

それで頼朝死んだ後になって頼朝の子供は大したことないし、かといって代わりに全権握れるほど力もった人いないしで始まったのが内紛
その過程で親追放しちゃう子供とかいて、ここらへんはなんか戦国時代に通じるものがある気がするw
616人間七七四年:2011/11/17(木) 06:19:20.05 ID:yT1hPKIq
>>612
有力御家人が繁雑に朝敵認定される=本気でやれば勝てんじゃね(BY朝廷)
くらいには弱体政権。
617人間七七四年:2011/11/17(木) 09:41:56.64 ID:A6JTsaKX
昔は朝廷もかなりの勢力だったみたいだな
鎌倉や南北朝の一時期は公家の荘園もそれなりにあったみたいだし
鎌倉の頃は後白河が源氏に分裂工作しかけて見事に成功させて混乱
南北朝でも後醍醐の差し金で北条家滅亡して日本を真っ二つに割る騒乱に発展した
やっぱ影響力は強いもんが
618人間七七四年:2011/11/17(木) 09:43:09.66 ID:A6JTsaKX
昔は朝廷もかなりの勢力だったみたいだな
鎌倉や南北朝の一時期は公家の荘園もそれなりにあったみたいだし
鎌倉の頃は後白河が源氏に分裂工作しかけて見事に成功させて混乱
南北朝でも後醍醐の差し金で北条家滅亡して日本を真っ二つに割る騒乱に発展した
やっぱ朝廷の影響力は大きかった。戦国だとリアルに明日食う米もないからなぁ
619人間七七四年:2011/11/17(木) 09:55:33.57 ID:+HAiG0aj
室町幕府は実態として公武合体政権だったとされているね。
あの時代になんのかんので朝廷が幕府のもとに治まったのも、室町幕府によって再編された
後期荘園制がそれなりに機能したためだといえる。
この後期荘園制を基に室町時代には、ものすごい高度な全国規模の金融システムが構築されているんだよね。
620人間七七四年:2011/11/17(木) 15:59:10.86 ID:YTfCOmwW
>>615
平家≠平氏
621人間七七四年:2011/11/17(木) 18:13:20.61 ID:g52tawlR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-545.html
戦国の押し掛け女房、龍造寺隆信の肝っ玉母ちゃん慶ァ尼、
徳川家康は、慶長八年にこの話を側室の阿茶の局にして感心していたという。

そんな慶ァ尼が花も恥じらう80代の文禄元年(1592)、大陸出兵にあたり秀吉は肥前名護屋城に赴いた。
「佐賀上道」と呼ばれる街道を通る秀吉は、道路端の戸板の上の土器に盛られた握り飯に目を止めた。
秀吉は馬を止めて「これは龍造寺の後家殿が命じたことだろう、さすがに気が利く事よ」と言い、
その一つを手に取って「この固い握り様を見よ、これこそ武辺の女の心がけぞ」と称賛したらしい。

吉永正春著の九州戦国の女たちという本より、葉隠に記された話らしい
622人間七七四年:2011/11/17(木) 18:39:35.16 ID:6cmciO7h
>>615
承久の乱の時は北条政子が凄かったって事か
623人間七七四年:2011/11/17(木) 18:48:39.69 ID:0bvBJF0j
毛利大江朝臣元就「わたしの祖先がいなければ朝廷が勝っていたかも」
624人間七七四年:2011/11/17(木) 19:16:45.82 ID:G6y8FUWw
>>622
実際に承久の乱で評価されていたのは政子ではなく北条泰時であった模様。
鎌倉時代においては「源頼朝が武家政権を創設し、北條泰時によって天下を併呑した」と認識されていたようだ。
625人間七七四年:2011/11/17(木) 19:31:16.07 ID:cVd9nxSI
得宗の専横前の話だしな
626人間七七四年:2011/11/17(木) 20:34:05.21 ID:Cy+tI1aS
違う板に紛れ込んだかと思った。
627人間七七四年:2011/11/17(木) 20:39:04.66 ID:os3ZlZ+V
ちょっと鎌倉なスレ
628人間七七四年:2011/11/17(木) 21:06:41.80 ID:PHVnGVjO
ちょっといい国作ろう
629人間七七四年:2011/11/17(木) 21:10:15.74 ID:cWCuU5Ql
今の教科書鎌倉幕府1192年じゃないらしいな
1185年らしいよこういう知識で年齢がばれるなw
630人間七七四年:2011/11/17(木) 21:12:29.07 ID:PHVnGVjO
それくらいは知ってるけど、やっぱ語呂がいいんだよね
631人間七七四年:2011/11/17(木) 21:13:43.17 ID:0bvBJF0j
いや、名実ともに鎌倉幕府ができたのは1192年だが、
その前の1185年に実質的にできていた、ということだったかと
組織が固まったのは承久の乱の後ともいわれるから、
近頃の学校教育では、それほど年号には重点を置かないと
1185年をひろめてしまった河合敦が書いていた
632人間七七四年:2011/11/17(木) 21:20:45.88 ID:K7ioQYBm
633人間七七四年:2011/11/17(木) 22:03:39.08 ID:9xRv15SI
それくらいも知らんかった。
じゃあ室町の始まりも今は、「いざみやこ」じゃないのか。
戦国の始まりが「ひとのよむなし」ではおかしいってのは昔から言われていたけどね。
名より実を問うなら、戦国の終わりも江戸の始まりもみんな変わってそうだな。

もう安土桃山って言わないのだけは知っていたが。
634人間七七四年:2011/11/17(木) 23:39:41.16 ID:JUpi6X7Q
納豆泣くよは平城京?
635人間七七四年:2011/11/18(金) 00:23:47.38 ID:nvS3vywf
なんと立派な平城京
636人間七七四年:2011/11/18(金) 08:03:24.39 ID:Lx4/uABD
>>633
もともと戦国時代は、開始年も終了年も諸説あってどれが正しいってのがない状況ですよ
637人間七七四年:2011/11/18(金) 09:50:10.04 ID:bvaH4nPJ
そもそも年号覚えること自体に意味がないんだから
大まかな流れだけわかってればいいような

>>636
俺は鎌倉時代も戦国時代に含まれると思ってる
638人間七七四年:2011/11/18(金) 10:04:51.93 ID:Lx4/uABD
>>637
戦乱の時代って意味だと江戸時代に入るまでのほぼ全てが該当するってのには同意する

ただ戦国時代ってのは戦乱の時代ってだけじゃなくて、
戦国大名と規定される新興地域勢力が活躍した時代だから、室町中期以前は入らないと思う

私見では、明徳の変〜秀吉の天下統一までかな
639人間七七四年:2011/11/18(金) 10:50:11.00 ID:VMEQtuAk
関東は鎌倉幕府滅亡〜小田原の役までが戦国時代
640人間七七四年:2011/11/18(金) 10:54:38.95 ID:51z+vCoR
○×時代とかで区切ることがナンセンスって話しなんじゃね?ってことで落ちる話題だと思うんだがな〜
641人間七七四年:2011/11/18(金) 12:29:36.08 ID:kUZ7nhJm
もう平将門の乱から島原の乱まで戦国時代ってことでいいよ
642人間七七四年:2011/11/18(金) 12:31:42.16 ID:/Vwi4BTR
神武東征から太平洋戦争まででいいんじゃね?
643人間七七四年:2011/11/18(金) 13:15:38.29 ID:FddbgaJP
誰かが「いっそ縄文時代以後はまるっと弥生時代でおk」と言ってたなあw

昔の外国人は鎌倉幕府から徳川幕府まで征夷大将軍を連番でカウントして一時代と
考えてたそうだが、むこうの封建制だとそんなドンブリ勘定でもおkなのかねえ
644人間七七四年:2011/11/18(金) 14:41:34.97 ID:qeTmJ8dW
>>643
あっちでは王朝の交代があっても同じ国とされるから。
神聖ローマ帝国とかすごい。
645人間七七四年:2011/11/18(金) 15:08:41.99 ID:e37kFQcT
>>643
北条さんとかの扱いはどうなるんだろ。
646人間七七四年:2011/11/18(金) 16:17:36.90 ID:Lx4/uABD
>>645
選帝侯みたいな感じかね
647人間七七四年:2011/11/18(金) 18:39:02.82 ID:wexNWlhS
>>643
軍人政権時代ってくくりなんじゃね?
奈良平安の外戚貴族政権時代に対しての意味で
648人間七七四年:2011/11/18(金) 20:02:34.35 ID:cOjRbigU
>>647
その区分だとヨーロッパは
キリスト以前→キリスト教の時代→それ以降
で分けていいレベルだよな

まあ、うるさく言うことでもないが
649人間七七四年:2011/11/18(金) 20:03:26.75 ID:2ACeGNRF
>>643
ヨーロッパの中世は「こういう時代」ってまとめようがない時代だから。
日本みたいな分け方はしてない。
そして日本は王朝が交代してないのだから本当はそれが当たり前のくくり方なんだよ。
650人間七七四年:2011/11/18(金) 20:13:59.12 ID:s6eWNzv9
考えてみりゃ不思議な国だな、日本
世界中で簒奪や乗っ取りや虐殺が行われて王朝が変わりまくってるのに一度も変わらない
651人間七七四年:2011/11/18(金) 20:19:07.33 ID:IN7/IDzv
>>650
アチラの結婚制度にそった考え方すれば代わってんだけどね
652人間七七四年:2011/11/18(金) 21:19:15.11 ID:FddbgaJP
>>650
世界史の年表で、他の国は国号で色分けされてるけど
日本だと時代区分で塗り分けされてるんだよな
留学生がきょとんとしてた
653人間七七四年:2011/11/18(金) 22:25:27.39 ID:TGcc3cvX
まとめに載って無かったようなので有名な話ですが投下

さいつ殿へ。石田三成から真田信之への手紙

“さいつ”とは真田伊豆守信之の略称。
松代転封ではキレた信之だったが、必ず守り続けるようにと遺言を残した場所がある。
それは「真田の宝物館」
何でも寝ずの見張りを立てさせた程に厳重なものだったらしく、何が入っているのかと後になって家の方が開けてみると…

そこには信之の主である徳川家康と敵対した石田三成からの手紙が13通も残っており、
いづれも、宛名はさいつ殿へと書かれかなり親しげだった様子。

他にも京都伏見の大名屋敷の地図を見てみると、
真田屋敷と石田屋敷は近隣にあり(三成屋敷の右斜め上に信之屋敷)
ここではご近所同士だったみたいです。

別冊宝島の本には、真田家の中で三成と一番仲が良かったのは信之では…?と記されていました。

しかし二人がどんな会話するのか想像出来ないw
654人間七七四年:2011/11/18(金) 22:26:20.66 ID:wH0HTrzg
自分たちの国のトップは、神の血筋を持つ高貴なお方だって
リアル世界でファンタジーなセリフを言ってる気持ちになれるな
655人間七七四年:2011/11/18(金) 22:27:24.19 ID:N2N00dER
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1486.html
完全に既出というわけではなかったけど、一応貼っとく
656人間七七四年:2011/11/18(金) 22:29:58.37 ID:IN7/IDzv
>>654
欧州は貴族が自分の祖先は神(多神教)とか言っていたりするじゃない
それでキリスト教徒だったりするから訳判らんが
657人間七七四年:2011/11/18(金) 22:36:50.12 ID:wH0HTrzg
>>656
そういえば、土佐一条氏の一条兼定さんはキリシタンになってたね
大名化したとはいえ、五摂家の分家がキリシタンになっていいのかと不思議な気持ちになった
658人間七七四年:2011/11/18(金) 23:05:32.10 ID:D9ulqidM
一神教の理解があいまいなんでしょう
新しくて「とってもえらい」くらいの認識では
659人間七七四年:2011/11/18(金) 23:11:15.83 ID:EnIZq+iN
でうす = 大日如来 って理解だったらしいからな。
660人間七七四年:2011/11/18(金) 23:12:43.91 ID:yp4LAcLV
そもそも当時の日本を含めた東アジアには「天道思想」という、宗派宗教を超えた、天道という超越的な存在を認める
思想があって、キリスト教も意図的にそれを取り入れていたらしい。

なので一神教というものにあまり違和感はなかったようだ。「天道」の解釈がちょっとユニークな宗教、
程度の認識だったらしい。
661人間七七四年:2011/11/19(土) 00:18:23.64 ID:Kz3WV5EW
とりあえずさ、逸話そっちのけで雑談続けるのはどうかと思うの
662人間七七四年:2011/11/19(土) 00:52:34.01 ID:uCg3twL1
ええじゃないか
663人間七七四年:2011/11/19(土) 01:00:06.66 ID:oZs//48J
天正13年(1485)9月24日、小早川隆景宛、羽柴秀長書状

『貴殿とは四国征伐以来互いに連絡を取りませんでした。これはお互い、いささか離れた場所にあった為ですが、
今回ご連絡をいただき、伊予のこと残らず仰せ付けられ御拝領とのご報告、誠に喜ばしく思います。
それにつけて鷹二羽を私に贈っていただいたこと、その御懇情浅からず思っています。

私の方も又、大和を拝領仕り、そちらに在住しております。こちら(畿内)に何か御用があれば、
どうぞ私の方までお聞かせください。きっと粗略にすることはありません。

なお、安国寺(恵瓊)に多くのことを申し入れましたが、その内容はここには書きません。恐々謹厳。

九月二十四日

小早川左衛門佐殿
                       秀長(花押)
             御返報』


片や親族の代表として、片や外様の重要人物として、初期の豊臣政権を支えた秀長と小早川隆景の、
関係の深さが垣間見られる書状であろう。
それにしても秀長は安国寺を通じてどんな事を伝えたのか、大変気になるところである。

(小早川家文書)
664653:2011/11/19(土) 01:05:43.53 ID:TFopCPJD
>>655
あったのか!やっちまった…

調べたつもりだったのに手間かけさせちゃってすみません
665人間七七四年:2011/11/19(土) 01:18:30.39 ID:WYCAd8ej
>>663
秀長はほんとに色々気配り大変だったんだな
権力者の弟だっつーてそっくり返る奴もいるだろうに
頭が下がるわー
666人間七七四年:2011/11/19(土) 01:34:10.90 ID:+CRBkEWL
日光助真など国宝の十刀をはじめ数々の名刀が見られるよ
米沢市上杉博物館から姫鶴一文字(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3517.html)も
連休に予定のない方は如何

佐野美術館45周年・三島市制70周年記念 名物刀剣―宝物(たからもの)の日本刀―
平成23年10月22日(土)〜12月18日(日)
http://www.sanobi.or.jp/tenrankai/2011/meibutsu.html
667人間七七四年:2011/11/19(土) 05:38:41.36 ID:NXWCJ0Ex
秀長あっての秀吉だったんだな
668人間七七四年:2011/11/19(土) 06:14:33.02 ID:RQV+BFM/
>>653
松平定信の子が真田家に養子にいってるけど、
本人は実際にその書状を見たのかが気になる。
まあ、その時代にもなると大昔の事だから別に問題ない事なんだろうけど。
669人間七七四年:2011/11/19(土) 08:53:26.71 ID:lUfk4iDB
>>663
天正13年は、1485年じゃなくて1585年でござるー
670人間七七四年:2011/11/19(土) 11:06:43.21 ID:h0ia4688
このようなローカルニュースがありました。

http:  //www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111180031.html
(中国新聞)
水野公の漫画、25年ぶり復刊

タイトルこそ「福山の歴史」ですが、内容は、ほとんど水野勝成伝とでも
いうべきものです。
さすがに、同僚や茶坊主を斬って出奔というのは書かれていませんが、
黒田長政のところを出奔するくだりは書かれてたりします。
671葉隠より:2011/11/19(土) 15:40:33.57 ID:Z4wqyEaA
山本常朝
『武田信玄の家中には当時無類の剛勇の者が揃っていたが、
勝頼が天目山で討ち死にしたときには皆逃げてしまった。
そんな中、数年来主君から怒りを買って遠ざけられていた土屋惣蔵は踏みとどまり、

「日頃大口をきいておられた方々はどこへ参られた?
この土屋惣蔵、今こそ主君に御恩返しを致す」

と言い、ひとり討ち死にしたとのことだ。』
672人間七七四年:2011/11/19(土) 16:04:56.18 ID:MW6OyRz1
土屋昌恒って遠ざけられてたっけ?
どっちかと言うと小宮山友晴辺りのような気もするけど
673人間七七四年:2011/11/19(土) 16:13:13.78 ID:vX1TCzU8
まぁ山本が後世の人だし
だが、こういう武人はかっこいいな
674人間七七四年:2011/11/19(土) 18:50:05.81 ID:TN3Whwp1
天目山では跡部も一緒に殉死だよね
実は長坂も一緒だったというのが最近の見解だね
675人間七七四年:2011/11/19(土) 18:57:37.85 ID:KCklEodZ
そういう意味だと跡部勝資や長坂光堅も実際には勝頼と命運を共にした忠臣だったと
最近は再評価されてつつあるな
676人間七七四年:2011/11/19(土) 19:06:55.12 ID:KCklEodZ
もろ被りした

土屋昌恒ら金丸一族は武田家への忠誠ぶりがハンパないよな
677人間七七四年:2011/11/19(土) 19:33:49.10 ID:e+DbJHcW
甲州金入りの箱を常に抱えてて手柄を立てると
惜しげなく与えるようなアホ丸出しのスタイルで
忠臣なんて生まれるのかね
678人間七七四年:2011/11/19(土) 19:45:41.58 ID:8LpprzW3
天目山で、妻子一族全員殉死したため、
武田滅亡後ただの一人も徳川など他家に仕えたものがいなかった、
小原丹後守、小原下野守兄弟の小原一族もお忘れなく
679人間七七四年:2011/11/19(土) 20:37:03.38 ID:EPJENNTy
井伊家に仕官した武田の遺臣連中には滅ぼされた恨みとかは無かったんだろうか
680人間七七四年:2011/11/19(土) 20:50:52.37 ID:vqYTpSEf
滅ぼされて恨みがある連中は仕官しなかったんじゃね?
つか、むしろ徳川さんより織田さんの方に恨みはあるんじゃないのかな?
で、織田家に隠れて武田の遺臣を召抱えてたんじゃなかったような〜
あ、一応許可は貰ってたかもしれん
681人間七七四年:2011/11/19(土) 20:51:56.67 ID:H9LumBT5
上杉家や毛利家と同じように信長さえ滅びれば秀吉だろうと家康だろうと仲良くなれるさ
682人間七七四年:2011/11/19(土) 23:09:21.18 ID:d/wRHuG7
仕官しないと完全に農民として扱われて年貢を納めなきゃだからね。
仕えねえけど、俺は武士だぜ、が通用しない以上、
1.諦めて徳川に仕えて井伊にこき使われる
2.兵役のない農民として年貢を必死におさめる。軍役に行く奴が今日からは村のリーダーだ。
3.故郷を捨てて浪々の身になる。下級家臣なんて他家で通用する名声もとりあえずの旅費の蓄えもないから…
683人間七七四年:2011/11/19(土) 23:23:17.78 ID:+2ueINdl
武田だと、一族の一部が徳川へ仕官し、一部が故地で帰農して機をうかがい、
一部が上杉や北条といった近隣大国へ、一部が武田ないし当人の縁者へ、
というふうに一族を分けて存続を図っている例が多い。

例えば加賀美氏は、徳川家(のち大身)・織田の森家(分家の各務家が家老)・帰農と三パターン。
684人間七七四年:2011/11/19(土) 23:59:29.42 ID:RQV+BFM/
家康が勝頼の墓たてた事や甲斐の寺社仏閣の修復の件は別にして、

家康が信玄の事を尊敬していた事って
武田家の遺臣を囲いこむ為の宣伝材料だったのかね?

でもこの手の話は江戸時代以降に知れ渡った話かも。
685人間七七四年:2011/11/20(日) 00:21:04.44 ID:3627Uurs
>>684
今みたいにテレビだの雑誌だのコマーシャル謀体があるわけじゃないからどうだろう?
そういった発言がどこまで伝わっていたのかもわからないし
686人間七七四年:2011/11/20(日) 00:29:26.26 ID:be22In1g
信長が死んだあとは甲斐は徳川家が取ったから
ただの自然な流れで無いの
あとは森家に付いちゃった奴とか上杉家に逃れた奴とか
687人間七七四年:2011/11/20(日) 01:09:07.98 ID:uKQhAwIe
>>683
各務兵庫は斉藤家臣から森家臣だろ
武田滅亡とは無関係だろうに
688人間七七四年:2011/11/20(日) 07:03:32.14 ID:tQ4LVq4O
ってか、なんで天王山なんだ?たいした戦か?
そこは関ヶ原じゃないのか?語呂が悪いのか。
中日なら織田にまつわる戦を出してほしいが。
689人間七七四年:2011/11/20(日) 07:33:48.57 ID:10YZ+hye
>>687
加賀美さんと各務んは読みは同じだが別人だよ
690人間七七四年:2011/11/20(日) 08:07:55.02 ID:wvR/rfN0
一般的イメージの関が原だとエラーや自殺点で決着がつきそうな。もしくは八百長。
691人間七七四年:2011/11/20(日) 08:19:51.35 ID:Y8Rf8Jaw
だけど領内の百姓の分家が大身旗本とか譜代大名とかなら大変だろうなぁ。
下手したら幕閣の有力者とかが墓参り。

なるほど甲斐は難治の治、並みの家じゃつとまらんわ・・。
692人間七七四年:2011/11/20(日) 12:21:55.22 ID:uX8fZrCk
>>688
関ヶ原は天下分け目の戦って言われてるけど
あくまで豊臣政権下の部下同士の戦い。
天王山は織田後の跡目争い。
まぁなんで天王山なんだってのあるけど、結局はゴロじゃないかと。
693人間七七四年:2011/11/20(日) 15:50:52.69 ID:MdxLYxna
天王山は決戦の中でその山をとるかとらないかで勝敗が決まるって意味だろ、
戦いの名前じゃなくて場所の名前だし。
694人間七七四年:2011/11/20(日) 16:44:40.51 ID:p6oeDw0/
天王山を取った方が負けたのだが?
695人間七七四年:2011/11/20(日) 16:47:01.09 ID:3TQITk+j
洞ヶ峠にいたのも光秀だし、問題ない
696人間七七四年:2011/11/20(日) 16:54:34.66 ID:5L6WAdbG
次は小田原評定いってみようか
697人間七七四年:2011/11/20(日) 17:08:26.44 ID:qLJfQ+Zq
>>683
武田遺臣の一部は伊達さんとこで未開拓地もらって帰農したようだ
ご町内もれなく○○さんってエリアがあって、表札見てるとだいぶカオスw
だいぶ立派な門構えが点在してるとこ見ると全くのデマではなさげ
698人間七七四年:2011/11/20(日) 18:36:29.49 ID:j6617LE5
>>694
天王山を制すっていう具合に使うから負けた光秀が天王山に陣取っていて問題ないと思う
699人間七七四年:2011/11/20(日) 20:36:03.61 ID:Ku4BDa+M
天王山は決戦前に秀長、黒田官兵衛、神子田が制圧したよ
700人間七七四年:2011/11/20(日) 23:52:05.77 ID:CCfHk6sj
>>689
一部が徳川家(敵)へ・一部が森家(血縁)へ・一部が帰農へ

と三つに家を分けたってことだろ。
701人間七七四年:2011/11/20(日) 23:56:52.73 ID:cSHalizh
【NHK】「明智光秀を大河ドラマに」 署名2万7000人、4府県の団体集まり報告「『逆臣』の武将から『天下の名将』へ」
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1321797811/

天王山で勝ってれば・・・
702人間七七四年:2011/11/20(日) 23:59:38.79 ID:vKV14gtA
ちょっと悪いスレより↓

>28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/17(木) 20:28:57.21 ID:M9vXwRgW
>【TV】「細川ガラシャを大河ドラマに」 京都府知事と長岡京市長、NHKに要望・・・NHK「真剣に受けとめる」
>http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1321526044/
>
>毎回貴重な庭師が三歳の餌食に・・・

細川親子も入れれば話を捏造しなくても尺取れそうだ
703人間七七四年:2011/11/21(月) 00:09:31.09 ID:QQCOdnzM
>>683
>>687
>>689

なにかかみ合ってないみたいだけど>>700の言うとおり
森家家臣の各務家は、武田家庶流の加賀美氏の後裔を称しているから、
武田氏配下の加賀美氏と血縁があって、
武田滅亡時にそれを頼っていった武田家家臣の加賀美氏がいたって話だね。

この時代、同じ甲斐源氏同士で全国規模の交流があったようだから、
不思議な話ではないと思う。
704人間七七四年:2011/11/21(月) 08:14:24.02 ID:O5OCu3zQ
厳島合戦が寡兵の毛利勢の大勝利に決し、論功行賞を行っていたときのこと
毛利元就が以前から「家臣にしたい」と言っていた大和伊豆守を殺すことなく生け捕った香川光景は、
期待に胸躍らせて元就の前に進んだ

元就「ようやったのう。ワシがかねてから言っていたことを乱戦のさなかに思い出し、
   あの大和を見事捕虜にしたとは大したものじゃ

   だが、ワシャぁな

   オマエのことを頼もしく思って、譜代でもないのに国境の要衝を任しとんのじゃ!
   陸から攻められようもんならイの一番にオマエんとこの城が狙われるじゃろうが!
   それを開けっ放しにして厳島に出てくる、ちゅうのはどういう了見じゃい!」

褒めてもらえると思っていたら烈火のごとく怒られたでござるの巻き
しかし香川も、平伏しながらも黙ってはいなかった

香川「大殿のお子さんらも全員この決死の戦に出てきとるでしょーが!
   今回負けたら御家滅亡になりますじゃろがい!
   皆死ぬんなら、ワシだって及ばずとも戦って、一緒に死のうと思っとりました
   また、勝つのでありゃァ城の一個や二個奪われようとも、取り返しゃァ済むことじゃ
   城にいるウチの女房子供が殺されようが捕まろうが、知ったことじゃありませんわ
   大殿や御一族と生死存亡を共にできなくて何が忠義じゃ!」

勢いに押されたのかもっともだと思ったのか、元就は香川の格別の忠節を褒め称え、
重ねて手柄を褒めたので、香川は満足して、喜色満面で退出したのだった
705人間七七四年:2011/11/21(月) 09:55:27.95 ID:okU3lH9I
>>703
大名として滅亡しても、富士家みたいに神職に戻ったり、今川みたいに公家っぽくなってみたり、
特殊な能力や立場のある家は良いけどね。個人だと武勇とか剣豪とか?

土豪の発展系じゃ他国に親類も多くもないだろうし、その点全国ネットワークの
甲斐源氏は有利だったのかもね。甲斐武田家が滅んだときも各地の武田はまだ生き残っているし。

徳川の旗本になった武田遺臣なんて、大体が他国に親類がまたがっているし。
武田は時代によっても異なるけど、決して甲斐だけの家ではないから当然といえば当然か。

最近の研究じゃ、上総や相模で武田庶流の活動が活発なのは、遅くとも鎌倉初期から地縁があったからだというし。
706人間七七四年:2011/11/21(月) 20:15:33.22 ID:Ugx3kPy5
>>705
それほんと?研究で使いたいんだけどソースある?
707人間七七四年:2011/11/21(月) 20:25:40.47 ID:i3dD4PdL
>>683
北条に仕官した武田遺臣も結局は徳川に召し抱えられたのが多いんだよな
708人間七七四年:2011/11/21(月) 21:37:58.24 ID:jzFsoIqN
>>702
全36回にして、大河ドラマ「三十六歌仙」とかはどうだろう?
709人間七七四年:2011/11/21(月) 21:44:42.84 ID:AbjJlmPK
毎回40分あたりで切られるわけだw
ただいつも切るだけじゃ面白く無いので、
この間の黒田領の方へ飛んで行こうとした鳥をぶっ殺して許されたみたいに、
許される話もたまに入れるといいんじゃないかな

いける、大河ドラマ「細川三斎」
これは、あたりやでぇ
710人間七七四年:2011/11/21(月) 21:44:59.33 ID:eovu83wJ
>>708
毎回、番組の最後の方で斬り殺して歌詠んで終わるのかw
711人間七七四年:2011/11/21(月) 21:53:07.71 ID:6MdIC1LA
>>710
OPから真っ赤に彩られてそうだな
712人間七七四年:2011/11/21(月) 21:54:23.06 ID:DVyVu73L
現存してる細川家から猛烈な反発くるわバーローW
713人間七七四年:2011/11/21(月) 21:56:26.97 ID:T2Mg/Dk+
三十六歌仙は大河ドラマ枠じゃなくて時代劇枠でいこう

大河ドラマ枠は信長の家臣、秀吉の同僚、家康と戦った男で、
武田家との戦にも参加、親族に美少年という素晴らしい逸材がいるから、
そっちで
714人間七七四年:2011/11/21(月) 22:03:06.01 ID:zm/vJSEo
初陣で17人も惨殺した悪鬼じゃないですかー!やだー!
715人間七七四年:2011/11/21(月) 22:06:38.30 ID:FfQSPOTk
大河ドラマ
      「ONIMUSASHI」
716人間七七四年:2011/11/21(月) 22:08:54.53 ID:RWQU6jjh
>>715
薩摩の方ですねわかります
717人間七七四年:2011/11/21(月) 22:12:35.99 ID:6g+aOk1J
全国津々浦々の鬼武蔵を取り上げたオムニバス作品ですね
718人間七七四年:2011/11/21(月) 22:14:07.79 ID:BVDiQMTz
719人間七七四年:2011/11/21(月) 22:14:43.15 ID:okU3lH9I
>>706

えーと。
>>最近の研究じゃ、上総や相模で武田庶流の活動が活発なのは、遅くとも鎌倉初期から地縁があったからだというし。

これのことなら、 武田信長 (シリーズ・中世関東武士の研究)だったよ。面白かった。
http://p.tl/QCGU
短縮URLだけどブラクラじゃないんでご安心を。
720人間七七四年:2011/11/21(月) 22:26:16.76 ID:f5bnEjVQ
>>709
すばらしい。 ついでに、山菜さんが主役なら四天王も全員出演するし。
721人間七七四年:2011/11/21(月) 22:34:05.90 ID:/GjkHH3n
722人間七七四年:2011/11/21(月) 22:35:10.27 ID:/GjkHH3n
よし、俺らもNHKに陳情するぞ!
723人間七七四年:2011/11/21(月) 22:52:10.29 ID:6g+aOk1J
N(なんと)H(本当に)K(首切った)
724人間七七四年:2011/11/22(火) 00:20:25.35 ID:e0iHicEF
>>704
ええと、すまん。地元の広島弁ではないし、やくざ映画っぽい広島弁ともなんか違うので
非常に読みにくい。

関西の人にとっては関東人が適当に喋ってる大阪弁っぽくて気に障るといえばわかるだろう。
725人間七七四年:2011/11/22(火) 00:23:17.18 ID:AwubtUtV
でって言う
726人間七七四年:2011/11/22(火) 00:55:47.72 ID:AaKjE5hd
信長が上総攻略を任されたのは偶然ではないということになるのか

あとで読んでみよ
727人間七七四年:2011/11/23(水) 07:33:23.08 ID:+3Mm4uFI
>>724
「達川君」で変換すれば万事OKじゃ

「達川君」でググってみんさい。
728人間七七四年:2011/11/23(水) 07:52:12.18 ID:MzGN3ywd
>>727
ベイスターズの武山をdisってるまとめサイトがひっかかった件
729人間七七四年:2011/11/23(水) 11:05:42.17 ID:SdSzuObh
残念ながら今は西武の武山だ(キリッ
730人間七七四年:2011/11/23(水) 15:17:10.14 ID:xH549lC5
越中に置いて佐々成政と前田利家が争っていた頃のことである。
成政は越中と加賀の国境の要所要所に多くの砦を築き、そのうちでも最も見晴らしが効き要害でもある、
舘村の城山の砦に入った。

ところがこれを知った前田軍は、城の南側にある南谷川を堰き止め、このため城山の砦は水に大いに
困ることとなった。
これに佐々成政は水源を求め、城山の峰の西に、湿気を多く含んだ場所を見つけた。
そこで成政、槍を持つと岩間に向けてそれを一気に突き立てた!すると

ドォォォォ

槍を突き立てた場所より、滔々と水が湧き出てきたではないか!
このとき奥方もその近くを突き、そこからも水が湧き出した。

成政の家臣たちは大いに悦び、競って喉を潤した。

しかし前田軍に圧迫により、成政は結局この城山から撤退する。
この時成政は城山の東にある舘村の民家に立ち寄り、あの水源に突き立てた槍を取り出すと

「我々はこの槍のお陰で命の水にありつくことが出来、家臣一同の命を守ることができた。
だから、この槍は戦に使うことは出来ない。
これは大切な槍なので、おまえの家に預けていく」

と、それを置いていった。

やがて佐々成政は没落し、前田家の時代となる。
舘村のあたりは成政の見つけた水源のお陰で多くの田畑を開くことが出来た。
成政の突いた所は男水、奥方の突いた所は女水、
その地は『槍之先の水湧き』と呼ばれた。

前田藩は何度も佐々成政の槍について捜索を行ったが、槍を預かった家では
これを隠し通し、槍を水の神として、大切に伝え守った。

しかしはるか後世、昭和18年頃、政府による金属提供の求めに槍先を提出し、今は槍の柄のみが
伝わるとのことである。
そして成政の発見したこの水は、今も銘水として知られ、日本酒の醸造などにも使われている。

佐々成政『槍之先の水湧き』、の伝説である
(富山・福光の昔ばなし)
731人間七七四年:2011/11/23(水) 17:36:01.23 ID:/FGAwNcC
文緑二年、大坂で豊臣秀頼が誕生した時、父の秀吉は秀頼の為にも天下に優れた武士を守役としてつけてやりたいと思っていた。
その時に加藤清正の家臣である木村又蔵という武士が大変な勇士であったことを思いだし、秀頼の守役とすべく清正に申し付けた。清正は早速この名誉な命令を又蔵に伝えた。
すると又蔵は「秀頼公のお側には女どもばかりで、私のような武骨者が仕えるべき所ではありませんし、私も勇気がなくなって役立たずになるだけです。御勘弁を。」と言った。
清正も尤もではあるが、しかし秀吉公の命令なのだから断るにしても一旦は参上すべきだと説得したが、又蔵は
「忠臣は二君に仕えず、私は死んだ母とそう約束しました、ここで秀頼公に仕えれば、あの世で母に会わせる顔がありません。」
と言ってその日の夜に切腹して果ててしまった。清正は深く悲しみ、この事を秀吉に言上すると秀吉もまた、我が一生の誤りであったと涙を流して後悔したそうだ。
732人間七七四年:2011/11/23(水) 18:04:20.17 ID:GmOU0buX
>>730
富山に「成政」って酒あるもんな

俺は立山と銀盤と風の盆しか飲んだことないけど今度行ったら飲んでみるわ
733人間七七四年:2011/11/24(木) 04:12:59.69 ID:Vy5IPMKR
成政のちょっとかっこいい話だな
別に領民や酒造りのためにやった訳じゃなかったけど
734人間七七四年:2011/11/24(木) 10:00:21.56 ID:uLO2IbRd
ダウジングで水脈を探す成政
735人間七七四年:2011/11/25(金) 01:23:45.31 ID:KpKL3nxS
( ;∀;)イイハナシダナー
736人間七七四年:2011/11/25(金) 08:01:13.43 ID:vL8kGYKT
元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです
(毛利元就父子雄高山行向滞留日記)

永禄四年(1561年)
 3/26 元就・隆元吉田発、椋梨に宿泊
    隆景から挨拶の使者が送られる
 3/27 一行、隆景の居城雄高山(新高山城)到着、隆景が麓まで出迎える
    元就は井上春忠私邸に滞在、井上の饗応に隆景がご相伴
    隆元は巨眞寺に滞在、夜になって隆景が小魚持って訪ねてきたので数時間一緒に酒を飲む
    熊谷信直(元春の名代と思われる)・保利中務が到着、元就・隆元に炭薪などを贈る
 3/28 会所にて大宴会、能・七五三膳
 3/29 元就・隆元、御女中様(隆景妻・その母など)に御礼、饗応
 3/30 桂右衛門大夫の私邸にて宴会、五三々膳
閏3/01 会所にて大宴会、能・五三々膳 生鶴(鶴の刺身?)
閏3/02 連歌会、蹴鞠の会
    茶湯の間にて太平記読み、この夜隆元は奥の座敷に泊まる
閏3/03 会所にて宴会
閏3/04 隆元、宿所にて隆景をもてなす
閏3/05 お別れの大宴会、能・五三々膳
閏3/06 元就・隆元出立
    帰路のついでに栖眞寺で滝を見物
    見送りに来た隆景が栖眞寺で一行(近習衆まで含め百人余り)に一献を振舞う

約十日間ほぼ連日宴会とか、「生鶴」って何そのメニューとかいろいろツッコミたいが
とりあえずこれだけは言いたい

隆元と隆景だって仲いいんじゃん
でなきゃ何時間も一緒に酒飲まないよ
疎外されてないよ、自信持ってよお兄ちゃん!
737人間七七四年:2011/11/25(金) 10:01:42.41 ID:H4stbxKS
生鶴w
なんかハードなスケジュールだな(胃腸的な意味で)
738人間七七四年:2011/11/25(金) 10:29:16.63 ID:9HSimLpx
鶏の刺身はあるらしい。
鶴はわからん。
739人間七七四年:2011/11/25(金) 11:09:14.58 ID:UHoEpYcf
あるらしいってw
今でもあるじゃん
740人間七七四年:2011/11/25(金) 11:41:19.60 ID:fG26fPDD
つーかこの場合の「生鶴」は、鶴の刺身とかではなく、「生きた鶴をその場で〆て料理したよ」
ということだろう。
741人間七七四年:2011/11/25(金) 15:50:54.42 ID:8zPYxI2l
鳥は血抜き処理と羽根むしるのに時間かかるで
その場で殺して食うとか無理だと思うで
742人間七七四年:2011/11/25(金) 16:07:18.76 ID:IfoxjoTk
鬼武蔵さん大蛇を生で食ってたような…
743人間七七四年:2011/11/25(金) 16:14:43.19 ID:6NgHtMm6
隆元が弟と仲良く酒飲んでる姿を想像してほっこりした
そして連日宴ってすごいなぁ 島津(善)家久の話でもあったけど
昔は持て成しっぷりが半端ねぇ

生鶴といえば、織田信長から近衛前久によく鷹狩で取った獲物を贈られたというけど
天正八年十二月に贈られた鶴が「生鶴」で、前久はそれを座敷に掛け置いて
吉田兼見に見せたらしい そして二人は生の鶴を見たのがこの時初めてだったそうな
(兼見卿記より)
二人ですっげーとか言ってる姿想像したら、なんか和んだ
744人間七七四年:2011/11/25(金) 17:06:39.31 ID:pMvdd0Hm
平安時代の話だけど…
三河では風祭という生贄の習慣(生きながらに料理とか)があった。
三河守大江定基は、彼の郎党たちがキジをとらえてきたのを見て、
「この鳥を生きながらに食べるより、もっといい味になる方法を試してみよ」
とさとしたが、郎党たちは勘違いして、キジの毛をむしり、生きたまま火あぶりにしたために、声を上げて泣いた。
そしてその日のうちに国府を出て京へ上り、出家して寂昭と名乗った。後に唐に渡ったらしい。
745人間七七四年:2011/11/25(金) 18:49:21.95 ID:h3bopwSe
幽斎さんなら生きたのでも一瞬でやってくれるかもしれんw
746人間七七四年:2011/11/25(金) 19:59:45.97 ID:hUDrpAZQ
原始人みたいだな
747人間七七四年:2011/11/25(金) 20:06:15.20 ID:KfWxEQIV
生きたまま火あぶりにしたら血が回りすぎてまずくなると思う
748人間七七四年:2011/11/26(土) 02:25:33.43 ID:DPw1/h2X
一部既出ながら詳しい系行ってみます。

江戸城ランチタイム

昔、徳川家光公のお伽衆といって、毎晩登城して物語を申し上げ、夜話をされる10人ほどの人々があった。
毛利秀元候、丹羽長重候、蜂須賀至鎮侯、林道春といった人々であった。

この人々が登城の時は、皆、屋敷から弁当を持参してきて、蔀の間に集まって、みんなで弁当を食べた。
珍しいおかずなどがあるときは、互いに交換し合って賞味したそうである。

毛利秀元候の弁当のおかずに干し鮭があったときは、皆が「これは結構なおかずですね!珍しい!」と
殊の外に秀元から分けてもらい賞味したそうだ。
阿部重次は握り飯を包ませ、これを懐に入れて持参していた。そして昼食時にはこれを召し上がられ、
その包みの紙にくっついた飯粒も丁寧に拾って食べ、さらにその紙の端を伸ばして洟をかんだ事もあったのを、
それを見たものがいたと言うことである。

原文
(昔、大猷公御噺の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。
阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、御中食の時は是を召し上げられ、その包みたる
紙に付きたる飯粒を拾いて食い、紙のはしを伸ばして涕をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。)

『雨窓閑話』

749人間七七四年:2011/11/26(土) 02:46:59.03 ID:u1xqeTqB
権現様の教え
750人間七七四年:2011/11/26(土) 04:22:57.65 ID:Fijq0F/H
どこの学食の風景だw
751人間七七四年:2011/11/26(土) 08:00:59.91 ID:vS0mFjkw
昼休みの女子高生みたいだなw
752人間七七四年:2011/11/26(土) 08:03:17.03 ID:+Z4sEyBz
>>751
恋バナで盛り上がるんだな
753人間七七四年:2011/11/26(土) 08:30:34.13 ID:qiM0mC9+
754人間七七四年:2011/11/26(土) 08:31:52.70 ID:qiM0mC9+
↑のはまとめスレの関連リンク用に
755人間七七四年:2011/11/26(土) 08:33:33.13 ID:kfbI/W7F
>>731
木村又蔵もいろんな逸話があるのね。
756人間七七四年:2011/11/26(土) 09:38:34.16 ID:tisvb3hY
>>751
えどじょう!
757人間七七四年:2011/11/26(土) 12:31:14.00 ID:BBCfUJaS
*全室禁煙です
758人間七七四年:2011/11/26(土) 12:32:58.20 ID:Wu6NonT7
鶏の唐揚げとかないのかな てんぷらとか
759人間七七四年:2011/11/26(土) 14:15:22.74 ID:sjFzGqQ6
>>748
登場人物が三頭身くらいのデフォルメさられたキャラで再生されるww
760人間七七四年:2011/11/26(土) 14:35:49.11 ID:Ek/fQSvQ
外国の歴史系小説とか読んでても、こんなふうに自分の食べ物を
みんなで交換しあって食べる描写って見たことがないんだよな
獲物をわけて食べてた狩猟民族のほうがやりそうに思えるのに
761人間七七四年:2011/11/26(土) 19:23:24.80 ID:RbJaqasY
殺伐とした時代だからこそ、こういう話は和むなー
秀元は分け与えてばかりだが、代わりにおかず分けてもらえんだろうか
762人間七七四年:2011/11/26(土) 20:31:45.00 ID:OWZV6+Rz
関ヶ原の時も鮭弁食ってたんすか?w
って聞いたら斬られるかな?絶縁かな
763人間七七四年:2011/11/26(土) 20:42:39.61 ID:UEkovXwU
毛利のボンが違う意味で切れそうだなw
764人間七七四年:2011/11/26(土) 21:08:40.58 ID:pxPB91XN
>>763
輝じゃなくて広家だろ?
765人間七七四年:2011/11/26(土) 22:00:19.55 ID:RbJaqasY
戦国時代の婚姻事情見てると、凄い年齢差夫婦いるね
京極高吉と京極マリアの年齢差38歳がすげーと思ったら
山口直友の正室との年齢差42歳 継室との年齢差55歳が更に凄かった
というか、60歳までずっと独身とか…その後に結婚して子供もちゃんと作れるところがまた
766人間七七四年:2011/11/26(土) 22:00:33.83 ID:GEqmI+s8
>>761
育ちがいいからみんなに分けてあげたら自分の分がなくなって泣き出しちゃうタイプだな
767人間七七四年:2011/11/27(日) 09:42:18.33 ID:UoFoRsew
この時代の最高級料理は鮭だったのか・・・
ハンバーグとかカレーライスとかウインナーとか食べれないなんて嫌だな
768人間七七四年:2011/11/27(日) 10:16:07.70 ID:1opcnV6K
>>760
西洋で弁当っていわれてもサンドイッチくらいしか思いつかん俺
769人間七七四年:2011/11/27(日) 10:34:56.89 ID:rcvoOtpH
日本の歴史小説でも弁当の分け合いっこは見たことが無いがw
770人間七七四年:2011/11/27(日) 11:03:11.07 ID:PCz8tsV7
>>767
カレーは確かに不可能っぽいし
ウィンナーも環境を選びそうだが
ハンバーグは、技術的にも素材的にも不可能じゃないだろ。

食に一手間かける豊かさが無いのに問題はあるが
771人間七七四年:2011/11/27(日) 11:17:42.91 ID:Vttalziv
牛さんは食料という前に貴重な労働力かつトラクター兼乗用車だったんだろうか
772人間七七四年:2011/11/27(日) 12:28:28.27 ID:70A4zj5d
>>770
ターメリックとクミンはあるからコリアンダーの代用品に白根草を使えば一応形にはなるお

漢方薬のスープだからかなり高くつくけど…
773人間七七四年:2011/11/27(日) 12:42:01.59 ID:PCz8tsV7
>>771
牛さんが死んでから頂戴しても良いんじゃね?
いわゆる逸話だが、
牛肉食わせて貰うのに宗教をバカにした非礼を一心に詫びるってのがあったから、牛を食うのはそれ程異常じゃないと思われる。
だって、馬を食う奴だっていたんだろ?
そっちが余程基地外沙汰。
軍用としても民生用としても、非常に高性能な馬なのに。


カレーの香辛料って全部、金と等重量で交換するような希少品じゃなかったか?
774人間七七四年:2011/11/27(日) 13:33:15.40 ID:uVe1tSVS
馬は消耗品だよ、骨折した馬殺すにしてもただ埋めるだけじゃもったいないじゃない。
775人間七七四年:2011/11/27(日) 14:20:24.80 ID:KUrIr5TG
>>772
大友宗麟がキリスト教じゃなくてイスラム教を保護してたら可能だったかもね
黄飯つくるくらいだからカレーの再現に挑戦するかもしれん

九州にイスラム教が浸透したら、インド→インドネシア→日本のムスリムネットワークが…できねーか
776人間七七四年:2011/11/27(日) 15:00:07.41 ID:PCz8tsV7
>>774
サラブレッドじゃあるまいし、そうそう骨折しないよw
777人間七七四年:2011/11/27(日) 17:03:47.28 ID:RaWjvp9X
陸奥国江刺四十四郷の主、岩谷堂城主の江刺兵庫頭重恒は、葛西七人衆のひとりにして
遠近に威を振るう、実質半独立の大身だった。
だが彼は酒好きで、常日頃から酒にふけり、昼夜の境もない有り様だった。

ある時葛西氏から相野矢金吾という者が使者として派遣されてきた。
だが重恒は長酒しては伏せてしまい、使者に八日間も対面せず、城下に待たせたままだった。
家臣達が意見しても重恒は承引せず、弥々酒に乱遊して日々は過ぎていった。

これに江刺氏菩提寺である光明寺の現住没岩和尚は、これを聞いて嘆いた。
「およそ大身であろうと小身であろうと、身を滅ぼすのは自身の無道によるものだが、
その多くは酒によって事起きて、国を滅ぼす者も多い。
故に仏陀は長老沙伽陀を戒めて飲酒戒を立て、夏王朝の禹王は酒の美味さに、かえって酒を造った儀\を疎んだ。
酒池槽山の楽しみ、長夜痛飲のもてあそびは、その果てに国を滅ぼし身を失うこと、古人その例は少なくない。

しかるに兵庫頭殿の振る舞いを見ると、昼夜酒を好んで国事を怠り、年月に貨を費やして、民の愁いを省みない。これは敗亡の端だ。
その上、到来の使者を城下に数日まで留め置き、対面もしないとは、いかなる理由だろうか。
これは諸人の批判を招き、一家不破の仲立ちになろう。
家中の家臣達は、かかる時どうして諌言を申さないのか。我出家の身ながら、この時、相止めるべきではないと思い
一首の歌を詠んで、兵庫頭殿へ進上する」

  わざわひの その源を 尋ねるに 兎して角(こう)して 酒にこそあれ

これを見た重恒は、没岩が自分を制止する歌だと理解し、されば返歌をしなければ、と歌を詠んだ。

  酒ゆへと 思えば責めて 慰る 直しがたきは 下戸のわざわひ

この後より重恒は酒は止めなかったが、日々の行いは謹むようになったという。
778人間七七四年:2011/11/27(日) 17:48:33.90 ID:4mvA5Lxz
>>760
東洋文化では割と普遍的な価値観かも

食べ物がどこからか送られて来た時には、
家臣たちに対して分配するようにしなければならぬ。
『三略』に、「古に良い将がいて兵士と苦楽をともにし、
陣中に酒や食べ物が送られて来た際には、
これらの品々を川に流し入れて、
将も兵士ともにその流れを飲んで楽しみをわかち合った」
という話が伝えられている。

武田信繁
779人間七七四年:2011/11/27(日) 18:28:14.36 ID:Pfb6bthU
わんこそばの始まり

南部利直が江戸に向かう際、花巻市鍛治町の宿に立ち寄り、食事を所望した。
「殿様がお食事ご所望だじゃ」
「なら蕎麦出すべ」
「んだども、お口に合わねがったら失礼になんねべか?」
「あー…んだば少しずづ出して様子見んべ」

家人は漆塗りの椀に一口大に蕎麦を盛りつけ、利直に出した。
「美味い!」
利直は蕎麦を大変気に入り、何度もお代わりをした。
以来、蕎麦を小分けして振舞うことをわんこそばと呼ぶようになったという。

ちなみに当時は今のような大食いの形ではなく、ゆっくり味わって食べるのが普通だったそうな。
780人間七七四年:2011/11/27(日) 18:30:43.22 ID:FEKM4Qwa
昔のほうが風情があるね ちょっとずつ味わって食べるんだ
いつから大食い・早食いなんて下品な食べ方にしてしまったのか…
781人間七七四年:2011/11/27(日) 18:35:01.46 ID:TvijQjtC
>>779
この時代に江戸でさえまだまだな蕎麦切りが奥州奥深くに波及しているわきゃ無い
782人間七七四年:2011/11/27(日) 18:42:31.09 ID:q9otc+Aw
蕎麦がきだったかも。
783人間七七四年:2011/11/27(日) 18:43:09.56 ID:70A4zj5d
>>781
蕎麦掻きのわんこそば説


南部さんが蕎麦アレルギーじゃなくてよかったよ
784人間七七四年:2011/11/27(日) 18:50:59.34 ID:V4M2Ixzs
たしかに蕎麦がきならゆっくりたべるってのもわかるな。
785人間七七四年:2011/11/27(日) 21:08:48.14 ID:bkxepGwb
>>778
川に流すってどういう状態なんだろうな
つかみどり大会みたいなのを開いたってことかな?ポロリもあるよ!
786人間七七四年:2011/11/27(日) 22:33:19.65 ID:zFN6ZvLi
ボケたつもりか?>>785
旨い酒を皆で回し飲んだ「つもり」、旨い食い物を分け合って食べた「つもり」
上下心を一にしてって奴よと釣られたクマー
787人間七七四年:2011/11/28(月) 01:53:51.43 ID:3GmFzwgC
酒の話題に便乗しようとして遅参
安国寺恵瓊さんが佐世元嘉さんにお手紙書いた(天正11年9月16日)

「昨夜は酔っちゃって正直スマンカッタ
 私、たしか御若衆なんかを呼びつけたりしてたよね /(^0^)\

 そりゃそうと、秀吉の言い分は全部伝えてあるんだけど、結論出す気あるの?
 戦になれば八割方こっちが負けるよ?
 境目の件は可能な限り調整済みなんだから隆景元春にこれ以上グダグダ言わすな
 条件出揃ってるし、とにかくここらで手を打つって、もう輝元様の口から言ってもらって
 それで異議が出るんなら、そいつは毛利の家臣じゃない!
 グズグズしてたら御家のためにならないよ

 仏祖・天道も照覧あれ! 上方びいきで言うわけじゃないんだからね!
 和平と戦争の得失は和睦次第、早く態度決めなって
 ちなみに上方衆は、人数・手柄・手早さ・米と銭・武略の仕掛けが揃ってる
 こっちは、人数も少ないわトロくさいわ米も銭もないわダメダメじゃん! 以上

 まだ酔いが残ってるよマイッタね 恐惶謹言
 ※この書状は読んだら燃やして」

かなり大事な話し合い中にやらかしたようです
その前にアンタ坊さんだろと思わないでもないが、恵瓊さんが飲んでいたのは断じて酒ではない!
きっと般若湯だよだぶんそのはず

アツい坊さんの威勢のいい話でした
788人間七七四年:2011/11/28(月) 11:24:56.50 ID:EWmHiAqZ
燃えてないじゃない
789人間七七四年:2011/11/28(月) 11:34:13.81 ID:8eS7uQ70
読んだら燃やしてって手紙結構残ってるよね
燃やさなかった結果がこのザマだよ!
790人間七七四年:2011/11/28(月) 18:18:57.20 ID:ciI+xNbT
豪快な坊さんですな
791人間七七四年:2011/11/28(月) 18:32:13.56 ID:VnzvfWOM
戦国時代というか、昔の坊さんは豪快な人多いよね
顕如さんとか
792人間七七四年:2011/11/28(月) 19:12:28.67 ID:65zlB4ww
これは確かものすごい追い詰められてたんじゃなかったっけ?

秀吉から領土割譲を迫られて、返答期限まで決められてるのに両川が納得しなくて期限ギリギリ。
実際に交渉担当してる恵瓊は秀吉軍の状況を目の当たりにしてるから、まともにぶつかっても勝てないと踏んでる。

もう、飲むしかねーって状況だったはず。
793人間七七四年:2011/11/28(月) 20:10:38.37 ID:S3SavluT
顕如みたいに嫁さんがたくさんいる坊主だとそれだけで憎たらしく感じる
794人間七七四年:2011/11/28(月) 20:18:37.62 ID:AvVTirdD
一向宗は妻帯OKだからなw
795人間七七四年:2011/11/28(月) 22:55:51.97 ID:atGJQ3Ct
>>794
宣教師「No More Ikkou!!」
796人間七七四年:2011/11/29(火) 11:59:50.05 ID:7+SNWqNs
むしろ浄土真宗以外の妻帯してる僧侶が憎たらしく感じる
797人間七七四年:2011/11/29(火) 19:37:57.49 ID:zoPBs4jp
「永井正宗」

関ヶ原の戦も終わった頃、永井善佐衛門という浪人が京への旅路についていた。
彼は当初徳川家に仕えていたが出奔し、蒲生や上杉家に仕えていたが上杉の米沢天封の際に浪人となってしまった。
そのためかつての旧主である徳川家に戻ろうと旧知の板倉勝重を頼って京に上ろうとしていたのである。
その途中である浪人と連れになったのだが、その浪人は善佐衛門の刀と自分のひどく錆び付いた刀を取替え逃げてしまったのである。
仕方なくその刀をなんとか砥いで使おうと思い、京で砥ぎにやらせた。
すると予想以上にすばらしい刀となって返ってきたため、コレはただものではないと考えた善佐衛門は高名な刀剣鑑定家の本阿弥光悦にそれを見せた所、
光悦が言うには「この刀は正に正宗であり、その中でも最上のものである」ということだった。
この刀は後に善佐衛門が板倉勝重の引き立てで徳川家に帰参した際、将軍に献上され「永井正宗」と号されたという

なお、この永井善佐衛門にはもう一つ似たような逸話がある。こういう星の人間もいるのだ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2690.html
798人間七七四年:2011/11/29(火) 19:57:32.11 ID:HiojDSvx
武辺咄聞書をググったら、114話に刀と壺、両方の逸話が書かれているようだ
114話の前半には、永井さんは政宗の兵六人に取り囲まれたが、四人を討ち取ったという逸話も(残りの二人は逃亡)
その時の刀が、交換される前の太刀だったとしたら盗みたくなるのもわかるな
しかし、
>正宗であり、その中でも最上
に某伯父甥を連想したのは自分だけでいい
799人間七七四年:2011/11/29(火) 23:50:23.17 ID:728iAUFI
広辞苑に「笹の才蔵」が載ってて感動してたら全然別物だったでござる
800人間七七四年:2011/11/29(火) 23:56:09.43 ID:mlI8h7Vp
笹の才蔵
福岡県博多・宮崎県佐土原で作る土偶、猿が上下に袴をはいた姿。
壱岐には同じ姿を描いた札があり、いずれも疱瘡除(ほうそうよけ)という。

カニさんが猿になっちゃった
801人間七七四年:2011/11/30(水) 15:01:59.74 ID:OUvhvBpg
>>797
寛永の三筆の一人で、琳派の創始者の一人で、素晴らしい楽茶碗をつくり、
刀剣鑑定でも高名な本阿弥光悦って、どこの星の人間?
802人間七七四年:2011/11/30(水) 15:11:35.21 ID:RwQJrugB
戦国期の神社の予算はどのように使われたのか、これを
天正12年(1584)、蒲生氏郷の領国、近江日野の綿向神社の記録より見てみましょう。

『綿向大宮殿への20石の寄進から、支払い請求の記録

・1石 正月元日の御祝い。殿様(蒲生氏郷)にお供し、神社に残った社家の者たちのものも含めて頂いたもの。
・2斗 御浄め料 社家の物祝として
・1石 御油米 毎日の灯明代金として
・1石5斗 御神宮 毎日の御供社祝として
・1斗5升 4月朔日たけの御神事 社家祝として
・3斗 同太宮殿御神事 社家衆祝として
・1斗5升 五月御神事 同所祝として
・5升 4月晦日御榊参 社官祝として
・1石 1年間の御幣 社家祝として
・1石6斗6升2合 忠三さま(蒲生氏郷)のお誕生日の神事
・1斗 霜月の御神事 社家祝として
・1斗 正月の松飾り 社官祝として
・3斗 7升5合 五節句の御供 社家祝として
・5升 10月神のお向かい 社官祝として
・2斗 霜月の御祈祷 社家祝として

右合計して7石8斗3升7合が伝えられ支払いがあった。

残りの12石1斗6升3合は、神社の改修費用として引かれたと小日記(メモのようなものか)にあり。
(天正十二年綿向御神事之日記)

これを見ると大名から寺社への寄進というのは、先に与えるのではなく後で請求されるものだということが
わかりますね。請求費用それぞれの内容、理由も細かく記載されています。
戦国大名の予算執行の一端が見えてくる記録です。
803人間七七四年:2011/11/30(水) 20:17:05.53 ID:qDIGA94V
今『今夜はヒストリー』見てるんだけど、
政宗の肖像画の所に、『戦国無双』の政宗のイラスト貼ってるなw
幸村の時も『戦国無双』のイラスト貼ってたけど、
ヒストリーの制作スタッフ的には『戦国無双』の方がイメージに近いと思ってるんだろうか?
(BARASAをアニメ化したTBSだけに以外だ)
804人間七七四年:2011/11/30(水) 20:46:13.25 ID:iz7fEAHL
>>803
最後の一行が正解
805人間七七四年:2011/11/30(水) 22:55:39.05 ID:zWP3HEla
まとめサイトで検索かけたけど、探しきれなかったので一応あげます 既出だったらごめん

『明良洪範』より

信長公には若年の頃、王という事御存じなく、その頃、村井七郎右衛門(貞勝)
後に長門長春と申せし人、今日の所司を勤めし者なり
この人に申され候は、王というものはいかよう成るものにて候哉、厨子などに入れて置きたるものか
または人にて候やと尋ねられ候時、長門申し上ぐるは
今も人間にて、位高きものにて御座候と申す

その頃近衛龍山公(前久)、村井に御目を掛けられ候故に、まず龍山公を信長公へ知る人になし
それより度々の御出会もこれ有り、ようやく王という事御存知候由

ある時、尾張大根の見事なるを龍山公へ進上せられ、後にいかが料理成し候やと尋ねられける
龍山公御返事に、おろし大根の汁に料理候由仰せられ候えば、
信長公、さてさてうつけたる人かな、おろし大根には小さくても成る事なり、とて笑い給いし
されどもこの龍山公をば、もし敵軍と和談などの時、扱いにはしかるべき人なりと申されける


最後の文の通り、前久は信長と争う石山本願寺との講和や
耳川合戦以後の大友・島津間の講和斡旋などに奔走している
806人間七七四年:2011/11/30(水) 22:57:22.66 ID:8WDUvjXY
>>773
農耕用に使い潰してからだと、肉が硬くて
とても食えた物じゃないそうだ。
俺たちが普段食ってる牛は、生後3年程度だから
食べやすいんだよ。
807人間七七四年:2011/11/30(水) 23:11:13.94 ID:Ccs4N89w
>>803
だってバラエティとはいえ歴史番組で
レッツパーリィーさせるわけにはいかんだろう
808人間七七四年:2011/11/30(水) 23:14:01.49 ID:oxwGUxvS
つ歴史秘話ヒストリア「真田幸村vs伊達政宗」

一応史実には沿っていたが、このネタはあきらかにあれではないか
809人間七七四年:2011/11/30(水) 23:26:12.93 ID:VphxiZRZ
視聴率がとれればいいんだアッー!
葉隠でもやってもらいたい
810人間七七四年:2011/11/30(水) 23:26:56.85 ID:t0N3NaEm
NHKだったらノブノブさん特集のときナレーションを強力わかもとにしてくれる
811人間七七四年:2011/12/01(木) 00:26:31.24 ID:/yRC3SGP
>>807
県知事選のCMでレッツパーリィーした選挙管理委員会があってね・・・
あのネタ選挙であの名知事が選ばれたってのがいまいち信じがたいw
812人間七七四年:2011/12/01(木) 07:16:44.91 ID:nroiYLvQ
>>811
え?この国に名知事なんて存在するんだ…どこの誰?
813人間七七四年:2011/12/01(木) 15:23:38.69 ID:n8OKGpEZ
>806、つタマネギ、シャリアピンステーキにすればマシになるかもしれん
814人間七七四年:2011/12/01(木) 17:39:47.41 ID:FTtf7Bi+
>>812
知事なんてのは戦国の国主と同じで
領内の諸勢力や農民にとってありがたくみえる政をやってれば
他国の衆には暴君暗君であろうと名君様。
江戸の殿様がいい例じゃて
815人間七七四年:2011/12/01(木) 18:05:44.47 ID:EZHq9aTb
忠臣蔵とか、絶対偏向報道だよな
816人間七七四年:2011/12/01(木) 18:15:41.98 ID:EZHq9aTb
>>813
ちなみに中国史における肉ランキングによると、
第1位は羊。
トラだの熊の手だのめんどいのはパス。
第2位は犬。
羊頭狗肉はここから来ている。
第3位は豚。
豚はトイレで飼育するので、ややランクが低い
第4位が牛。
牛は比較的最近まで、食用として飼育される事は無かった。
第5位が馬。
って言うのを読んだ事が有る。
犬のランクは、時代によって違って来ると思う。
西洋でも、牛が食用として飼育されるのは、産業革命以降。
817人間七七四年:2011/12/01(木) 19:02:15.21 ID:xmVHs9PK
トラの肉って、漢方薬みたいなものだよな?
818人間七七四年:2011/12/01(木) 19:03:12.62 ID:cT4bqJGN
>>805
おろし大根なら小さくてもいいじゃねぇか! と突っ込まれたということは
この時の尾張大根てでかかったのかなぁ
と検索してみたらでけぇ! カブみたいのまである
819人間七七四年:2011/12/01(木) 19:43:33.23 ID:/yRC3SGP
>>812
知ろうともせずにイメージだけでみんなダメみたいなこと言うのやめなよ・・・
自分は宮城県知事のつもりで書いたけど、秋田の知事なんて文字通りぶっ倒れるまで
太平洋側を支援してたんだよ?
政治家はママでも神様でもないんだから100点を要求するほうが異常だよ・・・

てか何で他の都道府県から暴君暗君扱いされるのかマジで理解できないんですが
宮城県民の命を救ったらよそには迷惑なの?
820人間七七四年:2011/12/01(木) 19:58:50.33 ID:P7cZ98oe
政治ネタを絡ませた自分はまったく悪くない!(キリッ って感じ?
821人間七七四年:2011/12/01(木) 20:05:15.78 ID:P0Urg94y
>>819
調べたけど何これカッコイイ・・・
822人間七七四年:2011/12/01(木) 20:14:04.16 ID:zvm+vfCw
平時なら>>812>>814がなりたつかもしれないけど、二人とも
被災地域に思いがいたらなかった、てだけじゃないか
823人間七七四年:2011/12/01(木) 20:30:58.76 ID:zgAGKlrE
>>819
確かに政治家はママでも神様でもないが、仲良しサークルの代表でもない
国民から選挙で選ばれ血税で給与を払われている以上、知事は国民の要求に答える義務がある
一生懸命やりましたが結果は出せませんでした、ではすまない重い責がある
それを忘れて成果を求めるのはことをやめればあとは腐敗と堕落に一直線だ
824人間七七四年:2011/12/01(木) 20:33:10.53 ID:Q4WElCK+
「政治家なんてみんなクズ!例外なんて無い(キリッ」というのは
厨二病の中でももっとも厄介な一種
825人間七七四年:2011/12/01(木) 20:40:04.07 ID:fczS9EjH
埋蔵金(大嘘)
無駄削減(大嘘)
増税しない(大嘘)
政権政策集(大嘘)
傀儡ではない(大嘘)
党首討論を行う(大嘘)
庶民感覚がある(大嘘)
国債を発行しない(大嘘)
国民の生活が第一(大嘘)
国策捜査ではないか(大嘘)
高速道路完全無料化(大嘘)
数の暴力は一切しない(大嘘)
事業仕分けで無駄を省く(大嘘)
最低賃金を1000円にする(大嘘)
愛の在介で高福祉低負担(大嘘)
核武装議論があってもいい(大嘘)
マニフェストは国民との契約(大嘘)
サラリーマンの平均は1000万(大嘘)
脱官僚しようではありませんか(大嘘)
すでに説明責任は果たしている(大嘘)
経理担当者が独断で行ってきた(大嘘)
秘書の責任は政治家個人の責任(大嘘)
マニフェストじゃない政権政策集だ(大嘘)
「夢物語」を現実にするのが民主党(大嘘)
納税するくらいならボランティア支援(大嘘)
マニフェストは4年間を約束するもの(大嘘)
財源は全て無駄遣いの削減で出来る(大嘘)
私たちは正義の十字架を背負っている(大嘘)
官邸で寝る間もなく対策に取り組むべき(大嘘)
秘書が犯罪を犯したら議員バッジを外す(大嘘)
826人間七七四年:2011/12/01(木) 20:41:55.08 ID:md63m5oy
スレ違いどころか板違いにもほどがあるということをそろそろ理解してくれ
827人間七七四年:2011/12/01(木) 21:14:29.44 ID:nroiYLvQ
>>819
関係ない地方の知事の事なんか普通知ろうとも思わないだろ?
だから聞いたんだが、そんな上から目線でお答えいただくなんて
思ってもいなかったよ。ありがたい事です。
あなたは知事に詳しいようなので、全都道府県歴代知事の通信簿を作って発表して下さい。
自分でスレ立ててね。
828人間七七四年:2011/12/01(木) 21:17:26.08 ID:4pY2XHrH
ここでボケて
829人間七七四年:2011/12/01(木) 21:17:52.16 ID:oKn325nw
>>827
板違いなことも分からんのか。いつまでやってるんだ
痴れ者
830人間七七四年:2011/12/01(木) 21:22:57.06 ID:P0Urg94y
>>827
開き直るなんてみっともねえな・・・

まあスレチなんでここまで。
ちょっといい話をお願い↓
831人間七七四年:2011/12/01(木) 21:48:47.93 ID:yRiIIFcW
まとめに戚継光の話があったので

戚継光は倭寇を退治すべく兵を福清に駐屯させ、常に火器の扱いを教えていた。
ある時戚継光は猿が火器を扱う兵を真似ているのを見た。
これを見た戚継光は部下たちに猿の捕獲を命じる。
この地には石竺山という何千という棲む山があり、戚継光は何百という猿を得た。

その後倭寇がやって来るにおよび、戚継光は兵を伏せ猿たちに敵陣を窺わせた。
猿の群れに対してはまったく無警戒であった倭寇たちであったが
その群れから一斉に火器が発されるに及んで大混乱となった。
戚継光は猿に火器の扱いを仕込んだのだ。

そこに伏せていた戚継光の軍勢が突撃し、倭寇を殲滅した。

燧象、火牛、火鶏と並ぶ火猿?の話

『五雑組』
832人間七七四年:2011/12/02(金) 00:44:43.79 ID:egBXZEXy
家康公、ある時側近に語って聞かせる

「譜代というものは、その肩書にもたれかかって、あまり働かぬ傾向がある。
それに比べて、外から来た者は、譜代に負けまいと思い、一生懸命頑張るものだ。
そこでその良く働く外様の者を抜擢起用致すと、譜代の者は内心面白く思わず、
いよいよ精進を怠り、挙げ句の果てには出奔したりするものだ。

ところが、外へは出たものの、以前のようには待遇されず、住み心地も決して良くないので、
またすごすこと頭を下げて帰参を願う。
首尾よく帰参が叶っても、一旦他所に出た者は、それだけ信頼に欠けるところがあるから、
主人のおぼえも良くなく、結局、しっくりいかぬまま不満の内に生涯を終えてしまうものである。

譜代のものが心を入れて励むならば、どうして外様の者に取って代えようか。
その辺のところを、よく心に入れて、精進致す事だ」

家康公 譜代の心得
833人間七七四年:2011/12/02(金) 01:04:30.94 ID:6gM/Sdfu
彦左が物凄い目でこちらを睨んでいます
834人間七七四年:2011/12/02(金) 01:09:35.69 ID:chcuPzRx
石川数正とか正信とか四天王のこと言ってるのかな
いつ頃の話なんだろう
835人間七七四年:2011/12/02(金) 01:12:46.03 ID:Oya9wXBj
いつの頃かとなると、この手のものの成立は江戸中期頃だろうねw
神君の名前を出しての幕臣教育用のお話。
836人間七七四年:2011/12/02(金) 01:42:25.18 ID:ewxTnqdz
直政の事への言い訳かと思ったところだった
837人間七七四年:2011/12/02(金) 02:27:42.85 ID:fdNTSDUv
彦左の怨念ってのはさ、自分自身が厚遇されなかったことじゃなく、大久保一族(および三河以来の譜代
の家)に対する幕府の扱いについてのものだよね。
彼自身は八男坊だから、自分が出世して大身になることを夢見てたわけじゃなくて、兄の忠世やその嫡男
忠隣を支える役目で終える覚悟はあったと思うんだけど、それが結局はあんなことになっちゃった。

で、大久保一族って、子沢山の家系でやたら男が多いんだけど、彦左の兄弟とか伯父とか従兄弟とか、
数代にわたって、何人も何人も戦で討死にしまくってるわけで。
彦左的には、「俺のことはともかくとしても、徳川は大久保に足向けて寝られネェだろゴラァ!!」
ってのは、内心あったと思う。

でも、徳川の世になって、江戸幕府が地盤がためにとりかかった頃には、そういう、三河以来の譜代とか、
草創期の功臣の家、徳川家にとってある意味大きな「借り」のあるような家は、もはや煙たいだけだ
ったんだろうね。
838人間七七四年:2011/12/02(金) 07:08:37.35 ID:sCxjp0wW
>>837
なんにせよ彦左は面倒くささはガチ
839人間七七四年:2011/12/02(金) 08:56:19.19 ID:QkXd1MyT
幕府:兄貴の跡を継げよ
彦左:オレはそれだけ功がないからNO!
幕府:んじゃ、残念だけど改易するか・・・
彦左:うちの一族、徳川のためにどんだけ死んだと思ってるんだよ!!!!
840人間七七四年:2011/12/02(金) 09:20:43.00 ID:XT6gJzQm
>>839
まぁそう言うことだよね、考えるだけでもうんざり
841人間七七四年:2011/12/02(金) 09:58:18.69 ID:C6E4Go89
三河武士は乙女心なみに解析が難しい心をもってますから
842人間七七四年:2011/12/02(金) 10:16:15.26 ID:FYQ1MMpN
兄貴の跡をつげないって言ったホントの理由があるような気がする
例えば今の禄を返上することになっちゃうからとかさあ
843人間七七四年:2011/12/02(金) 12:17:02.31 ID:H4x3PSGm
めんどくさくない三河武士なんているんかいw
844人間七七四年:2011/12/02(金) 13:38:56.54 ID:IatCf/He
>>842
今の録は自分の功で得たもの
それを一度「返上」して自分の功とは関わりのない領地を得たところで とかはありそうだな

なんとなく言いたいことも理屈も分かるっちゃ分かるんだがめんどくさいことこの上ないな
845人間七七四年:2011/12/02(金) 13:56:18.48 ID:35EWdVZr
彦左が沼津の忠佐の家をつぐのを断わったのって、その時点ではまだ小田原の忠隣の家が大久保の
大黒柱としてしっかり存在していたってのが前提としてあったと思う。
彦左としては、沼津の家は、次兄の忠佐が長兄の忠世の家とは別に己の武功で一代で立てた家、と
いう考えがあったから、弟である自分がそれをただ貰っちゃうことにためらいがあったのではないかと。
自分はささやかな自分の知行を守りつつ、甥(といっても7歳年上)で大久保一党の棟梁である忠隣
を補佐していけばいい、と。
そしたら、翌年に忠隣改易。一気に大久保一族消滅の危機。

彦左「はぁ!?なんじゃそれ、聞いてネェよ!」
846人間七七四年:2011/12/02(金) 21:00:48.90 ID:7FSBwmBh
>>845
解説ありがとう。彦左普通にいいやつじゃねえか!
彦左をただの老害扱いしてたやつは切腹すべきそうすべき
847人間七七四年:2011/12/02(金) 21:52:37.59 ID:zJrWxZRl
家を守る、のも一族の重要な責務だけどね
特に弟などは
その意味では彦左は失格だ
848人間七七四年:2011/12/02(金) 22:11:24.82 ID:3G02/1XO
>>847
結果的にはおっしゃる通り、あのとき沼津を継いでおけば…ってことなんだけど、
当時忠隣には男子が何人もいたわけで(長男の忠常はすでに死んでたけど)、
仮に忠隣が死ぬようなことになっても息子の誰かが継ぐだろうから、小田原の大久
保家は安泰だ、と思ってたんじゃないかな。しかも忠隣は老中だったわけで。

もちろん、当時すでに本多vs大久保の政争が沸点に達しつつあったわけだけど、そ
れでも忠隣およびその係累まで連座してまとめてあぼ〜んされることなるとは、予
測しろというのも酷な話ではないかと。
849人間七七四年:2011/12/02(金) 22:32:34.14 ID:2E6C/WvC
各種の彦左の発言を聞く限りそこまで殊勝な人間とは思えんのだが
850人間七七四年:2011/12/02(金) 23:13:16.13 ID:3G02/1XO
まぁ、殊勝な人間かっていうと、そうではないんでしょうw 
知り合いにもそういう頑固ジジイがいるわ。
なんかあるとすぐに「いやいや、それは違うぞ!」って言い出す。
よくよく話を聞くと一応筋は通ってはいるんだけど、いちいち相手にしてたら物事が前に進んでいかない。

別に長いものに巻かれろとは言ってない、ただ、もうちょっと現実見て融通利かせてくれと。
でも、難しい現実に直面して理想論との間で板挟みになって苦労している人まで裏切り者みたいに罵倒
するから、無駄に敵を作って嫌われちゃうんだな。

まぁ、その爺さんも根は悪い人じゃないし、苦労しながら実直に生きてきた人なので、労ってやらにゃ
ならんなという気持ちも多少はあるんだが、正直煙たいw

彦左がどうだったかは知らん。無駄に長い刀の鞘だけ切って差してきた逸話とか見ると、単純にひねくれ
者のDQNだったのかも(いくらなんでも実話ではないとは思うが)。
教養があって自分で本書けるひねくれたDQNジジイ。サイアクだw
851人間七七四年:2011/12/02(金) 23:16:02.30 ID:P7Duovsa
森忠政「俺は兄貴の遺言で家を継がなくていいと書かれちゃいました」
852人間七七四年:2011/12/02(金) 23:48:12.42 ID:voac7HSN
>>839
兄の勲功にタダ乗りしない忠教
853人間七七四年:2011/12/02(金) 23:53:00.75 ID:Oya9wXBj
無賃乗車を薩摩守と言わず彦左衛門と呼ぼう。
854人間七七四年:2011/12/03(土) 00:02:05.32 ID:zJrWxZRl
>>848
この場合、家ってのは小田原の本家だけでなく沼津の分家のことでもある
弟ってのはいざというときのスペアの役割もあるのだから
855人間七七四年:2011/12/03(土) 00:03:11.94 ID:FB4jer4Z
>>848
正純さんが有馬とのゴタゴタで失脚しかかってたから安心してたのかねえ

長安さんの件で巻き返しがくるとは…
856人間七七四年:2011/12/03(土) 00:12:11.03 ID:Jea1bxc2
>>850
筋を通すなら初めに断った以上自分の禄に対してグダグダ言うなって思う

そういう爺さんは知ってる、っていうかうちの爺さんがそうだったんだけど、
本人にとって筋は通ってても、一方的な筋なことが多くてどうもね

言ってるように悪い人じゃないし本人としては一応筋を通してるだけにたちが悪い
857人間七七四年:2011/12/03(土) 00:16:15.17 ID:yJ/FIBkE
ただ、そういう人間が許容されている状況っていうのは、組織として余裕があって、悪くない状態だと思うよ。
858人間七七四年:2011/12/03(土) 00:17:29.33 ID:1PpWNSF0
市松さんとは酒を飲んでもいいが、彦左さんとは遠慮したい・・・
まぁ、市松さんとの酒の席は首が繋がってるかの方が問題なんだけどな〜
859人間七七四年:2011/12/03(土) 00:29:52.17 ID:9A+C1Xsz
市松との酒…自分の首が繋がってるか
彦左さんとの酒…自分の堪忍袋の緒が繋がってるか

さあ、あなたならどちらを選びますか!?
860人間七七四年:2011/12/03(土) 01:13:02.80 ID:RznFj3eQ
彦左さん自身は、所詮は数千石の旗本クラスの身代なんで、うるさいけど、はいはいお説ごもっとも、
って聞き流しておけば実害はないわね。怒ったところで何ができるというわけでなし。
まぁ、他の不満抱えてる連中への影響力は多少あったかもしれないが。

江戸時代初期だと、ン十万石クラスのマジヤバそうな連中が他にまだまだ残ってたからね。
おとなしくしてるようでも、そのうち隙を見て何かやらかしそうな連中。
そういう意味では、彦左クラスだと江戸時代でも困ったネタキャラ扱いでいじりやすいわ。
なまじ大物だと洒落にならん。
861人間七七四年:2011/12/03(土) 01:29:04.72 ID:4eCMLAV3
市松はむしろ、酒を強要してくるからな
下戸には危険。上戸には呑み取りのチャンス
862人間七七四年:2011/12/03(土) 07:21:18.96 ID:sxP/Yxyu
「頂戴した酒は備前中納言様へ」
863人間七七四年:2011/12/03(土) 09:11:15.63 ID:atvTcX61
酒を強要と言えば北条氏政を思い出す。
花の慶次の酒瓶片手に〜って描写は実は正しい、性格はともかく。
出典は部屋のどっかにある本なのでソース開示は今は勘弁ね。
864人間七七四年:2011/12/03(土) 10:27:16.97 ID:H1F30qpv
>>99


そうえば相模協会の理事長やった先代栃錦は厚木の防空隊で弾運びに重宝されたらしいけど。
復員のときは二等兵曹に出世しとったとか。
865人間七七四年:2011/12/03(土) 22:44:13.17 ID:R2CBAOhA
徳川氏の家臣で三河の武将・柴田政之の子に、柴田七九郎康忠という者がいた。

永禄4年に徳川家康に仕え、吉良義昭との戦に従った。
永禄6年の三河一向一揆においては、一向宗徒であったが反乱には賛同せず、
自らの宗旨を浄土宗に改宗し、家康側に味方して一揆衆と戦った。

得意の弓技を活かし一揆を鎮圧する働きを行い、
家康から康の字を拝領するほどであった。


康忠はよほど弓の腕があったらしく、自らが放つ矢には名前を刻んでいた。
あるとき康忠と戦った相手がその名前に気が付き、彼の武勇を讃えて、
合戦で収集した康忠のサイン入りの矢=63本を
その矢で負傷した者の名前の列記と一緒に送り返した。


それを伝え聞いた家康は、奮戦の証として賞賛し、

「先の戦で63本も敵に矢を当てるは凄まじい武勇だ。
 今日からお前は七九郎と名乗るが良い」

この頃、家康は算盤に熱中しており、
63は算法の7×9で七九だから、七九郎を柴田康忠に名乗らせ、
旗の紋も63の文字で描かせたという・・・。
866人間七七四年:2011/12/03(土) 22:46:53.00 ID:BWyd7Y2o
後一本射ってたら
八八郎だったのか
七九郎はまだまともでよかった
867人間七七四年:2011/12/03(土) 22:50:48.98 ID:YKZTfaPB
>>865
彼、結構武功立ててたんだけど、大名までは行かなかったんだよな・・・
徳川家臣の中でかなり地味な存在
868人間七七四年:2011/12/03(土) 22:52:04.14 ID:Mx75hyvI
だんだん鉄砲にお株を奪われていったのだろうか
869人間七七四年:2011/12/03(土) 22:54:27.45 ID:Jea1bxc2
家康にしてはひねったな
六十三郎にならなくてよかった
870人間七七四年:2011/12/03(土) 23:28:42.17 ID:bY0Tu3/v
>>869
道場「…」
871人間七七四年:2011/12/03(土) 23:29:49.20 ID:gdJA22iw
超人的やな
872人間七七四年:2011/12/03(土) 23:40:05.75 ID:x8lG77Nz
そのころ九九があったのかね。
873人間七七四年:2011/12/03(土) 23:43:39.42 ID:Ve3IEC7Y
wikiより
日本には大和時代に百済から伝えられ、平安時代には貴族の教養の一つとされていたという説があったが、
奈良市の平城宮跡で出土した「九九」を記した8世紀の木簡に、中国の数学書「孫子算経」と同じ
「如」の文字が書かれていることから、九九は中国から伝来したと考えられると、奈良文化財研究所が
2010年12月3日に発表した

思いのほか古くて驚いた
874人間七七四年:2011/12/03(土) 23:48:07.83 ID:1PpWNSF0
複式簿記っぽいものあったらしいからな〜
寺子屋では、読み書き算盤 って言うくらいだからその頃には九九はある筈だよね?
875人間七七四年:2011/12/03(土) 23:49:12.60 ID:1PpWNSF0
ガッ!w
876人間七七四年:2011/12/03(土) 23:52:07.42 ID:JynULWh7
先物とか為替があったのは知ってたけど、
複式簿記(っぽいもの)まであったのか

すげー、中世すげー
877人間七七四年:2011/12/03(土) 23:55:51.00 ID:BWyd7Y2o
塩野七生の本で、複式簿記はヴェニスの商人が発明したとか書いていたが
日本にも似たようなものがあったとは
878人間七七四年:2011/12/04(日) 00:09:28.59 ID:W2CxB3oN
宗教関係以外で一番早い時期に活版印刷された本(聖書の次に印刷されたとか)の中に、
複式簿記の説明が含まれてると教わったな〜


三成さんが領地が減ってアップアップしてた島津さんに、
複式簿記っぽいものを教えて財政管理の基本に役立てたと聞いた覚えがあったので
まぁ、ソースは忘れたしなんの根拠もない
879人間七七四年:2011/12/04(日) 03:05:22.68 ID:l2eG2DQL
>>873
先週の世界不思議発見でやってたな
平安時代前期の九九を練習したと思われる木簡っが出てきたけど計算が間違ってたってw
880人間七七四年:2011/12/04(日) 07:53:59.49 ID:qXp58kMb
お前ら、複式簿記がどんなものかちゃんと分かってるの?
簿記の試験を受けた人なら分かるだろうけど
881人間七七四年:2011/12/04(日) 08:16:58.12 ID:b3SM0iLN
2chソースは信用するに値しないって見本みたいな話
882人間七七四年:2011/12/04(日) 13:57:34.86 ID:olXbQ3YB
紙だけだと面倒だけどなw
883人間七七四年:2011/12/04(日) 16:55:58.38 ID:8QfvIXvr
藤堂高虎の食育


万事、質素で飾り気がなかった高虎が、周りの者に語っていたことがある。

「人、食をもって天となし、朝夕膳に臨む。

よいか、朝夕の膳が気に入らぬとして、怒り咎める者が世に多い。
口腹のことで人を責め、たやすく怒るものではない。

鉢の中の飯は、その一粒一粒が農民の並々ならぬ辛苦によってできたもので、
我が命をつなぐ糧となっている。
これを粗末にして、親や目上の者を厚く養うことだけを望むとは、
心のおごりに他ならない。

お前達はこれを慎み、おおいに敬意を払うように。」
                                (聿修録)

そういえば、今年ほど米の一粒をありがたいと感じた年はなかった。


884人間七七四年:2011/12/04(日) 17:56:38.25 ID:QpVqr2cV
このような教訓があんな昔から
さすが高虎さんです
885人間七七四年:2011/12/04(日) 18:00:27.63 ID:R154UFFB
一粒一粒を大切にしたから身長が伸びたんだな
886人間七七四年:2011/12/04(日) 18:34:27.64 ID:Jmrg2g1x
まあ餅をドカ食いしたけどね
887人間七七四年:2011/12/04(日) 19:35:32.44 ID:vOGNvUl/
(´・ω・`)「鮭はないのかい?」
888人間七七四年:2011/12/04(日) 19:39:16.94 ID:Pt/EVUKK
植木や服を褒めるとすぐあげちゃう人いたよね
889人間七七四年:2011/12/04(日) 21:20:52.19 ID:EhKFMXpS
尼子さんですね
890人間七七四年:2011/12/04(日) 21:39:42.05 ID:XHNomoJf
足利尊氏さんも、ばらまき体質だったらしいが
891人間七七四年:2011/12/04(日) 22:20:39.46 ID:Igggoz3X
足利義輝さんは、おねだり体質だったとか
こう書くとなんか卑猥だなw
892人間七七四年:2011/12/05(月) 00:47:30.15 ID:9LE/C9C7
天正元年(1573年)浅井家が滅亡し、羽柴秀吉が江北一円を与えられ、長浜城を築き
文禄四年(1595年)長浜城に内にある寺を移した

それは浅井家の菩提寺であり、元々は小谷城の背後にある上山田村にあった医王寺という寺を
浅井家初代、亮政が小谷城と共に同山麓に移して菩提寺にしたものだ
それを秀吉は、亮政の法号、徳勝寺殿にちなんで、徳勝寺と改名した

時は流れて徳川の世となった慶長十一年(1606年) 時代は二代将軍秀忠の頃
徳川譜代の内藤信成が長浜を与えられた際、城下の田町に同寺を移転させた
秀忠は、江の父祖の寺なのだからと配慮し、寺領三十三石余を安堵した

更に時は流れて寛文十二年(1672年)
長政の百回忌に、彦根藩主の井伊直惟が現在の地に移転し境内を整備した

江戸中期の頃、中御門天皇が長政に従二位大納言を追贈して以来、皇室が年忌ごとに香料を下賜する慣例になった

そして現在、境内には、亮政・久政・長政の三代の供養墓が並び
寺内には、浅井氏三代の夫婦像や一族の位牌、過去帳などが所蔵されている

逸話じゃないけど、一つの菩提寺でも色々な配慮がされているんだなぁと思ったので
893人間七七四年:2011/12/05(月) 09:53:28.26 ID:LT1PHWv7
凄い寺だが、霊感強い人が行ったらなんかこう…
894人間七七四年:2011/12/05(月) 22:50:18.59 ID:wS4YKcKD
>>883
でもそんな農民の並々ならぬ辛苦によってできたものを
お粗末な調理法で不味いものに仕上げられたら怒るのも無理ないよね
って思った俺は間違いなくひねくれてる
895人間七七四年:2011/12/06(火) 00:06:32.90 ID:/onAkQLi
気に入らずに怒って八つ当たりするより、食った後に農家に行って
「せっかく米作ってくれたのに料理を部下がまずく作っちゃったみたいで申し訳ない」とか、
めんどくさい人たちはしそう。

んでそれが噂で料理作った人の耳に入ったら腹切り騒ぎが起きそうだ。
896人間七七四年:2011/12/06(火) 00:44:13.50 ID:04clZxWI
まずい料理といえばこの話だなあ

井伊直政、芋鍋・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-23.html

これは素直に感動したわ。
897人間七七四年:2011/12/06(火) 09:43:22.78 ID:Ge0wEOYj
>>896
単に舌の肥えた遠州人をからかってやろうと思ったら、感服されてしまったでござる(>Σ<)
のような気が
898人間七七四年:2011/12/06(火) 17:11:06.16 ID:naQf2BJ5
>>897
流石にその見方は捻くれ過ぎだわ
899人間七七四年:2011/12/07(水) 01:20:44.58 ID:ZsnOBZ3V

たぶんいい話。

加藤清正が名古屋城を普請中のこと。
本丸の一帯ある場所に井戸を掘ってみたのだが、水が大層濁っていた。
このままでは井戸を使うことも出来ず、困った人々は綺麗な水が沸くようにと
祈祷師を呼んで祈らせてみたが、一向に効果はなかった(そらそうだ)。

熊本城内に沢山の井戸を掘りまくったように、
城の井戸に関しては並々ならぬこだわりのある清正である。

困り果てて見つめる人足や部下たちの前で、彼は命じた。

「あの箱を持ってこい」

箱が運ばれてくると、清正は皆の前でそれを開けた。
中にはぎっしりと詰まった山吹色に輝く金、金、金。
さては金を人足達に与えて励みにさせるのだろうか。
皆がじっと見守る中、清正は箱を持って井戸の前に立つと、

清正「そおいッ!」
( ゚д゚)( ゚д゚)「えええええええ――!?」

なんと井戸の中に金を全部投げ入れてしまった。

そして井戸の底に向かって、なにやら怪しげな呪文を唱えると、


泥水が清水変わっていった。


人々は驚き、この井戸を黄金井戸と呼ぶようになったということである。


ちなみにこの黄金井戸の木枠は、現在、名古屋城の地下一階に展示されています。
残念ながら投げ入れた小判が出てきたという話はなく、
江戸期に尾張藩の財政が逼迫した時にでも使われてしまったのではないか、
と言われています。

それにしても金を投げ込むと水が澄むなんて、
金が水を生むという陰陽五行からなんでしょうか。
それとも井戸のお金を清正が出してくれたよ!という話なんでしょうか。

名古屋城に残る清正伝説の一つでした。
900人間七七四年:2011/12/07(水) 10:22:56.86 ID:hDKs/zSR
泥水が清正に変わったに見えたでござる
901人間七七四年:2011/12/07(水) 12:23:17.71 ID:ROvJ+Jop
とくがわ「んなもん、引き渡された直後にとったがや」
902人間七七四年:2011/12/07(水) 13:31:33.69 ID:Qxi1tOSt
×がや
○だらぁ
903人間七七四年:2011/12/07(水) 14:36:57.26 ID:jfuvvMIg
大阪城にもたしかそんな井戸があったね
904人間七七四年:2011/12/07(水) 16:13:03.18 ID:gz6hc0/Z
小判が一枚、二枚(ry
905人間七七四年:2011/12/07(水) 16:47:23.30 ID:dce9BTSn
本業の祈祷師形無しだな
906人間七七四年:2011/12/07(水) 17:05:37.39 ID:NxiUTylD
>>902
「がや」が三河弁で「だらぁ」が遠州&駿府弁?
907人間七七四年:2011/12/07(水) 17:10:17.86 ID:qFbMYHA5
歴史好きになってぶつかる最初の壁だよな、男色と方言は。
信長がだぎゃぁとか言いながら蘭丸掘ってるのはツライ。
908人間七七四年:2011/12/07(水) 17:19:06.08 ID:OtW1EBe/
がやは名古屋人じゃん
909人間七七四年:2011/12/07(水) 17:27:45.87 ID:dCa6er0l
>>880
おなかに力を入れながら帳簿をつけるのですよね
910人間七七四年:2011/12/07(水) 17:32:11.79 ID:BuUtBYv5
>>907
蘭丸こと成利は掘られてないようだ
911人間七七四年:2011/12/07(水) 18:45:02.92 ID:NJIep6fL
掘られてるのは犬の方やね
912人間七七四年:2011/12/07(水) 18:54:17.59 ID:02TxoMBA
男色が壁なんじゃなくて
歴史を腐女子仲間やおホモだち募集の場所だと勘違いして男色ネタで煩いのが沸くのが壁

騒がれなければ撫で斬りや首刈みたいに
そういう暗い部分もあったという話で終わるんだけどな
913人間七七四年:2011/12/07(水) 19:03:17.75 ID:kHxUoCSk
戦国好きになって一番最初の壁は官位名とかセカンドネーム(?)だったなあ
本田平八郎忠勝の平八郎とか、織田上総介の上総介とか
氏と諱しか知らないから、姓だの官位名だのセカンドネームだの入り乱れて大混乱した
今でもする
914人間七七四年:2011/12/07(水) 19:35:35.17 ID:q8SJRkkj
官名で呼び会うの超かっこいいじゃないか
織田右大将とか徳川内府とか
915人間七七四年:2011/12/07(水) 19:50:14.31 ID:slnVyzUj
このスレにきて最初の壁は鮭様とか工場長のあだ名でした
916人間七七四年:2011/12/07(水) 21:07:42.53 ID:CLdnkpfq
官位名は、最初の頃はややこしくて誰が誰やらだけど
大体把握してか馴染むと、凄く格好いいよね官位名
できればドラマでも呼び合ってほしいけど、やはり知ってる前提の人限定になるから無理か
917人間七七四年:2011/12/07(水) 21:18:52.77 ID:RlvXJxVV
>>914
そこは織田右府にしてほしいw
918人間七七四年:2011/12/07(水) 21:29:18.53 ID:CLdnkpfq
>>915
ラスボスが誰か分からんかった
919人間七七四年:2011/12/07(水) 21:29:31.15 ID:j9lvlV/s
>>916
昔やった
結果わかりにくくて低視聴率
920人間七七四年:2011/12/07(水) 21:36:05.82 ID:QyHsknwt
ドラマで台詞を方言にするのは如何なものか?
そりゃ薩摩や土佐ならいいけどさ〜
921人間七七四年:2011/12/07(水) 22:21:21.29 ID:af/2dbYF
>>920
薩摩や土佐って?
幕末の下士や町民農民限定?
別に、関西弁が溢れかえってる時代だから、他の地域の方言も聞きたい人を否定はせんが
現代の教育水準?の低い人限定の方言を使って、世界観をぶち壊さなくても良いと思うが?
(まさか、佐竹が、ダッペ〜とは言ってないだろ)
922人間七七四年:2011/12/07(水) 22:39:35.57 ID:CLdnkpfq
東北弁ばりばりの、独眼竜政宗か
923人間七七四年:2011/12/07(水) 23:05:46.16 ID:sYF6l2kz
蘭丸も本能寺がなかったら悪い話の常連だったのかな
924人間七七四年:2011/12/07(水) 23:53:49.58 ID:HdCQEJtl
旧日本軍が早口の鹿児島弁を暗号に用いたら、アメリカは解読できなかったって話があったような。
それぐらい難解なんだから公共の電波では薩摩訛りの標準語が精一杯なんでしょ
925人間七七四年:2011/12/07(水) 23:55:00.59 ID:ibzTLdgj
どの大河ドラマか忘れたけど、薩摩人が将軍に謁見するときに通訳連れてるのがあったような
926人間七七四年:2011/12/08(木) 00:02:51.71 ID:WGZGHLHN
家康が島津豊久に耳川戦を語らせたところ、訛りが酷過ぎて聞き取るのに苦労したらしいな
927人間七七四年:2011/12/08(木) 00:06:26.26 ID:va/VNOLU
ろくに言葉が通じない島津に乗り込んでいった前久まじ行動派
伊達とか上杉みたいな有名どころは「言葉つうじねえよpgr」みたいな話はないのか
928人間七七四年:2011/12/08(木) 00:08:15.37 ID:6evRfFc1
前久はもともと島津と仲よかったし
義昭が上洛して追い出されてから、島津の所で随分エンジョイしてるよ
929人間七七四年:2011/12/08(木) 00:38:33.63 ID:25GQwuwq
>>927
そういうところは京に通じた家臣や僧が家中にいて
主君をサポートしていたんじゃないかな。
930人間七七四年:2011/12/08(木) 00:54:22.19 ID:Pzj+31cI
伊達は知らんけど上杉は謙信の代から
近江出身者が側近に何人も取り立てられてるし
前久から教わったりもしてたしそもそも京と物流しまくってたから
商人たちなり上方言葉習う機会は腐るほどあったと思われ

別に口を開いたら死ぬほど訛ってるから黙ってたとかではないと思う
931人間七七四年:2011/12/08(木) 02:15:12.65 ID:QNTDHXVF
>>913
氏だと、
忠勝は藤原氏、信長は平氏(or藤原氏)だぞ

氏(本姓)と姓と名字はわかりにくけども
932人間七七四年:2011/12/08(木) 02:46:47.03 ID:Z8Euojh0
平織田上総介信長
フルネームだとこう?
933人間七七四年:2011/12/08(木) 03:36:29.95 ID:vSbr+aQO
朝臣(あそみ)が平の後にくるんじゃ?
934人間七七四年:2011/12/08(木) 03:51:46.37 ID:FG/6/xDt
フルネームとは違うだろう
935人間七七四年:2011/12/08(木) 10:46:44.91 ID:lcbVqReh
>>924
いや、薩摩系の日系人がいてあっさり解読されたと聞いたが
936人間七七四年:2011/12/08(木) 11:59:18.83 ID:VYmjK8ES
四位以下だと朝臣は諱の後につけるらしいから
織田上総介平信長朝臣?
三位以上だと
織田上総介平朝臣信長

wikipediaより
937人間七七四年:2011/12/08(木) 12:37:14.68 ID:ClsVNs56
つーか上総介は正六位下相当なので、どうやっても

・織田上総介平信長朝臣

の方だな

右大臣時代だと

・織田右大臣平朝臣信長

ということか
938人間七七四年:2011/12/08(木) 16:51:29.41 ID:ClsVNs56
慶長8年(1603)、毛利輝元が江戸からの帰路、伏見より出した吉川広家への書状

『ご子息がいよいよご成人なされると聞きました。前よりも一段と利発に見えると、竹庵が聞かせてくれました。
心からお喜び申し上げます。藤七郎(秀就)にも私から伝えておきました。本当に吉事ですね。

先日頂いた書状に付けて、思いもよらず御酒2樽、それに加えてこちらでは珍しい野大根の漬物まで頂き、
ご厚志の至だと感じ入っております。

今私はとりわけて、これらを賞味しています。お酒は特にいいですね!
両方とも私の直ぐ側に置いて、日夜頂いています。
まるで先祖伝来の重宝のように、秘蔵しているのですよw』

(吉川家譜)

吉川広家に贈ってもらったお酒と漬物に、大いに喜ぶ毛利輝元という、
ちょっとほっこりするお話。
939人間七七四年:2011/12/08(木) 17:03:03.25 ID:QNTDHXVF
関が原後でも仲良さそうで良かった、実に良かった
940人間七七四年:2011/12/08(木) 18:19:23.25 ID:8rP/6yQc
社会人としてのマナー
941人間七七四年:2011/12/08(木) 18:38:46.57 ID:Yl/Jmt+7
吉川が冷遇されだしたのは関ヶ原後じゃなくて江戸期に入ってからだぞ
そのあとのお家騒動でぐだぐだになったんであって
関ヶ原でこじれたのではない
942人間七七四年:2011/12/08(木) 18:59:52.40 ID:tD6YN2m6
吉川が冷遇されたのって広家の代か?広家以後か?
943人間七七四年:2011/12/08(木) 19:10:33.86 ID:ps204bLX
吉川冷遇は江戸後期、毛利宗家が毛利秀元系になってから。
944人間七七四年:2011/12/08(木) 19:17:13.51 ID:92Ca0BMr
支藩が独立したいって言い出してからだよね、揉めだしたの
945人間七七四年:2011/12/08(木) 23:19:13.29 ID:UZMJMXDq
広家の嫡男、広正の嫁は輝元の娘だし
萩藩の財政を握った益田元祥の嫁は元春の娘であり広家の姉妹だし
輝元の姉婿の吉見氏に養子に入ったのも広家の次男だし

なんだ、江戸初期はけっこう大事にされてんじゃん、吉川
ほっこりしたw
946人間七七四年:2011/12/09(金) 00:31:52.37 ID:jNZKzdb4
こういうのはあくまで政略結婚だろ。感情が入り込む余地がない
てか秀元系になってから軋轢が生じたってことは
裏を返せばその時代まで関ヶ原の因縁が根絶しなかったってことじゃないの
947人間七七四年:2011/12/09(金) 00:39:55.65 ID:iZwvPy1k
>>946
毛利宗家と吉川家との軋轢は江戸後期からであり、それも江戸期においてのいきさつが積もり積もった
面のほうが大きい。
さらに言えば関ヶ原後吉川広家と毛利秀元は完全に連携して輝元を支えており、そこに確執は
全く見られない。

さらに言えば、関ヶ原云々を言い出したのは幕末、親幕府的だった吉川家岩国藩に対し
本藩の反幕府過激派が罵倒として言い出したことであり、決して歴史的にそう言われたことではない。

過程をすっ飛ばして、結末から過去を類推してはいかんよ。
948人間七七四年:2011/12/09(金) 01:57:45.55 ID:smQJjfNe
相変わらずためになるスレだ
949人間七七四年:2011/12/09(金) 08:03:30.77 ID:VeOVHRRz
毛利家文書に、広家と秀元の仲を輝元が取り持ったときの書状とかがあるから、
確執がまったくなかったってわけでもないんだろうね
険悪な状態だったからこそ輝元がテコ入れしたんだろう
本人同士はどうあれ、少なくとも家来たちの衝突はあったみたいだ
950人間七七四年:2011/12/09(金) 10:42:53.67 ID:izhjoEs0
>>947
なんで毛利本家は岩国藩だけ藩として幕府に届け出なかったの?

徳山藩、長府藩の藩祖よりも若干家格が下だからかな?
951人間七七四年:2011/12/09(金) 10:54:54.18 ID:IP4dQZ5g
>>950
まあ、いたって正当な理由ではあるな。
吉川広家は『吉川』元春の子供であって毛利家の子供じゃないしな。
952人間七七四年:2011/12/09(金) 11:00:48.84 ID:5HCtQl0O
逆に言うと、なぜ元氏は毛利姓になったんだろ?
953人間七七四年:2011/12/09(金) 11:21:02.24 ID:iZwvPy1k
>>950
岩国だけじゃないぞ?長府や下松もあくまで本藩支配下の支藩としているわけで。
954人間七七四年:2011/12/09(金) 17:19:06.25 ID:p1xf7/AS
いい話

戦国時代といえば、かの有名な孫子の兵法が有名である。
孫子の兵法は紀元前に誕生しあらゆる時代に影響を与え、
現代の軍隊ですら参考にされている書物である。

その孫子の兵法の著者である孫武についての人生はほとんどわからないのである。
かっては実在すら疑われていた人物であり、現在孫武についてわかっていることは伝承の域を出ない。
孫武の盟友である伍子胥の人生ははっきりと伝承されているが、孫武の人生は曖昧であるのは対照的であるといえる。
歴史上の有名人物ながらこれだけ事跡がわかっていない人物はキリストと孫武くらいであろう。

その孫武が著したと言われる兵法書を見てみると「孫子曰く」と書いてあり孫武がはっきり著作した文章と
読むことは出来ないのである。
もし孫武本人が著したのならば「孫子曰く」となんて書くわけ無いのである。
子孫の孫ビンの兵法書では自らの一人称などつけていないのだ。

これは戦国時代2大兵法書の呉子の書き方と全く同じである。
恐らくは孫子の兵法は呉子と同じく名将であった孫武の言行録をまとめたものであろう。

つまり孫武は兵法書を献上して将軍として仕官したのではなく、全く別の過程で呉に仕官したのである。
孫武は呉で将軍とな素晴らしい戦果を得るが、諫言され呉を去ることになったと伝えられている。

孫武が去った後の呉は国力を消費するので長期戦は避けろ、諜報は大事と主張している孫子の兵法と真逆を進み滅びていった。
皮肉であると言える
955人間七七四年:2011/12/09(金) 17:31:57.24 ID:ZW+0esNj
またお前か
956人間七七四年:2011/12/09(金) 17:46:26.71 ID:yC6dNwwb
わかりました
では次の方
957人間七七四年:2011/12/09(金) 18:00:21.74 ID:73M5SAMd
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。

そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。

秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する

「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」

秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。

これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した

「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」

秀吉はこれに一言、答えた

「善し」

そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。

はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。

以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)
958人間七七四年:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ
959人間七七四年:2011/12/09(金) 19:17:26.85 ID:+urX3RXs
>>953
いや、長府や徳山は「支藩」にはなってるわけでしょ?
岩国はなってないので、本藩の家老の領地とかと同じ扱い。
960人間七七四年:2011/12/09(金) 19:27:21.21 ID:iZwvPy1k
>>959
この通りだと思う

> 元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての
> 資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と
> 輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と
> 庶家の1つでしかない岩国の間に処遇が違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより
> 長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある
>
> (参照:脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9
961人間七七四年:2011/12/09(金) 20:58:00.05 ID:LTHVku96
すごくどうでもいいけどまとめの一番上にいる十字架立物の騎馬武者ってだれ?
962人間七七四年:2011/12/10(土) 00:37:34.84 ID:Hcy5EI3a
激戦で、前立ての円いわっかの部分が取れちゃった島津義弘の図
963人間七七四年:2011/12/10(土) 17:22:16.87 ID:4J3nWHbS
いい話

秦が中国を統一していた時の話である。
劉邦は当時は亭長をしており県の命令で囚人を労役場である驪山まで送り届ける仕事をしていた。
驪山では始皇帝の陵墓を建設していた。かの有名な兵馬桶である。
しかし劉邦は送っている時には脱走者が後をたたず、考えてみると
驪山につく頃にはみな脱走しているという結論に達したので
豊県西部の沢中に着いた時、移動を中断して酒を飲んだ。

そしてそこで夜になった時に、驪山へ送っている囚人たちを解放して、こう言った、
「君ら全員逃げろ。私もまたここから逃げる。」

全員脱走したら自らに責任が覆いかぶさるので、逃げることにしたのであろう。

この言葉を聞いて劉邦に感激したのか囚人の中の壮士で、
逃げる劉邦に付き従いたいと願う者が十何人かいたのである。
劉邦はその後、逃亡しつつの流浪生活から天下を取り皇帝に登りつめることとなるのである。
彼らのなかにも出世した人間はいただろうが粛清されたのかもしれない。
964人間七七四年:2011/12/10(土) 17:40:26.42 ID:rRGR3HAa
スルー
965人間七七四年:2011/12/10(土) 18:17:54.50 ID:zanXQKqT
谷出羽(衛友)、稲葉内匠(正成)、池田輝政の重臣・丹羽山城(助兵衛)、増田長盛の家臣・渡辺勘兵衛、
福島正則の家臣・可児才蔵と辻小作、そして石田三成の客将・中黒道随は、身分や年齢を超えて交際しており、
互いに武勇に励むことを誓い、『天下七兄弟』と称した。

慶長5年(1600)9月、関が原の戦いにおいて、道随は石田隊として槍を振るったが、深田に馬を踏み入れてしまった。
「もはやこれまで」と覚悟を決めた道随は、味方が次々と落ち行く中、ただ一人踏み止まり、押し寄せる雑兵を
さんざんに蹴散らしまくった。

福島隊にあってこれを見ていた辻小作は、可児才蔵に呼びかけた。

「おい、才蔵よ。道随ならば良い手柄となろう。やるぞ!」
「薄情な事を言うな!我らの仲ではないか。助けてやれい。」
「むう。生け捕りにせんと思うたが、お主がそう言うなら・・・おーい、道随よ!日頃のよしみじゃ、助けるぞ。
これにつかまれ!」

道随のもとに馬を寄せた小作は、槍の柄を道随に突き出した。

「小作よ、何のマネじゃ。この期に及んで助かろうとは思わん。自害するゆえ、見届けよ。」
「なんじゃ。だまし討ちにするとでも思っとるのか?我らの間で、何をたばかる事があろうか。天地神明にかけて
お主を助けるぞ!」

ここまで言われて道随も槍の柄をつかみ、それを小作主従が引っ張り上げ、二人は連れ立って福島陣に戻った。
先に戻っていた才蔵は、道随の顔を見て喜んだ。
「やあ、良く生きとったな!」
「何とか引っ張り上げて来たぞ。やれやれ、骨が折れたわい。」小作は、具足を全て脱ぎ捨て大の字になった。


「・・・『武装も解いておらぬ先刻までの敵を前に、何という侮ったる振る舞いか!』
腹が煮えくり返ったワシは、槍を構えかけたが、命を救ってもろうた恩を思い、見逃してやったわ。」

のちに井伊家に仕えた道随は、若者たちを前に関が原のことを振り返り、そう言って笑ったという。
(常山紀談より)
966人間七七四年:2011/12/10(土) 19:03:15.77 ID:bCgBfl6W
井伊家って旧石田家臣結構いるのかな
967人間七七四年:2011/12/10(土) 19:36:35.23 ID:U5XJc8Mf
>「おい、才蔵よ。道随ならば良い手柄となろう。やるぞ!」



>「なんじゃ。だまし討ちにするとでも思っとるのか?我らの間で、何をたばかる事があろうか。天地神明にかけてお主を助けるぞ!」



小作気持ちの切り替え早すぎだろww
968人間七七四年:2011/12/10(土) 19:48:58.91 ID:HTAVFE+H
>>960
下関出身の会社の上司が事あるごとに「下関出身」じゃなく「長府出身」って言うくらい長府の人間はプライドが高い
969人間七七四年:2011/12/10(土) 20:35:02.42 ID:z+boR3LP
それは長府を誇ってるというよりは下関が・・・w
兵庫県でいうところの「うちは尼崎市でも阪神尼崎駅じゃないですから阪急塚口駅ですから」的な
970人間七七四年:2011/12/10(土) 23:04:04.12 ID:f2wAaJvV
>>966
領地がかぶってるからね。
長曾我部と山内みたいなものじゃない?
971人間七七四年:2011/12/10(土) 23:18:11.89 ID:RIn1V9pf
長曽我部遺臣で上士になった奴いるのか
972人間七七四年:2011/12/10(土) 23:28:38.41 ID:pXgS7pJS
つ吉田東洋
973人間七七四年:2011/12/10(土) 23:33:59.46 ID:t9rbu9IE
武市半平太もギリギリかね、
というかそうでなくて石田遺臣が井伊の下でやれるはずないって意味だろう。
一部は藤堂家に召抱えられたりしたようだが。
974人間七七四年:2011/12/11(日) 10:59:23.22 ID:atLNHFw/
>>969
武庫之荘って言い方もあんだぜw
975人間七七四年:2011/12/11(日) 21:45:25.83 ID:NURhlo81
そろそろ新スレ立ててみる
976人間七七四年:2011/12/11(日) 21:46:52.86 ID:NURhlo81
できた。ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっといい話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323607575/
977人間七七四年:2011/12/12(月) 00:31:38.35 ID:6MrcsQuz
(´・ω・`)「昔の敵だって使うのに躊躇しないよ」
978人間七七四年:2011/12/12(月) 01:05:20.87 ID:HZh4fW9F
>>976
乙です
979人間七七四年:2011/12/12(月) 15:43:51.46 ID:nkZ/zC5M
あ薔荼悲畳紗織か


あ薔荼悲畳紗織か




あ薔荼悲畳紗織か




本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。

?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。

巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。

樓魔寧文へ真帆斃瑜も聾薆を禰伊れ偉ぷ武万葉其方を砂魑ね地魏とぞ廻れ倭嶺、あ蘭魔廼擢と他部釜无劣不ぞ哈密き貯寸那致䄅く釜奴辺戸は善魔慈魔梨た魃厦亜に嘉羅汰鬼戦弥踏み縷魔荼父母夛め都莉鎖圖師苑て魘巍衛恵る木歩雨他琉偉な。


愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜

ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。

原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?


また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨ッ=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。
980人間七七四年:2011/12/14(水) 10:16:29.90 ID:e1wkP88w
上杉景勝が上洛する最中、罪を犯したとしてある家臣を誅殺する事があった。
(この誅殺の際と思われる逸話もあるみたいだがそれはちょっと悪い話なので置いといて)
ところが越後に戻るとこの家臣に立派な葬儀を執り行い、更には景勝自身も焼香しにきて言った。
曰く「この者は罪を犯し、天命は一人のためには変えられぬものである。
大将として今回の死罪は仕方のない事だった。
しかし罪による誅罰と長年の忠義軍功は別であり、彼の功に報いて篤く弔いたい」
景勝はまるで生きている者に話すように死者に語り掛け、別れを惜しんだ。
死を賜った家臣の家中の者たちはこの姿に大層感激し、なんとありがたい事かと感謝したという。

景勝、馬禝を斬った話。
981人間七七四年:2011/12/14(水) 10:19:52.06 ID:BiZdl56w
景勝さんがながながとしゃべってるのはなんか新鮮だ
982人間七七四年:2011/12/14(水) 10:20:17.54 ID:yqAXL+q6
泣いて斬る話とは裏というか対の関係かな〜
いかにも景勝さんっぽい話ではあるけど
983人間七七四年:2011/12/14(水) 12:39:40.03 ID:GlX1LORF
いい話か知らんけど駿河の朝比奈さんとこの祖先は狼に咥えて来られた赤ん坊らしいな
そのため子孫には歯型が残ってるらしい
984人間七七四年:2011/12/14(水) 14:15:34.52 ID:bQ3kXlWw
ローマ帝国の起源は朝比奈
985人間七七四年:2011/12/14(水) 18:31:55.39 ID:1TZKQePx
アレキサンダー大王は朝比奈氏(朝比奈泰荒)
986人間七七四年:2011/12/14(水) 18:51:12.86 ID:UMn7dG7c
朝比奈っていうと忠臣のイメージだけど
冷遇されてた分家の朝比奈は普通に見捨てたよね
987人間七七四年:2011/12/15(木) 01:21:04.63 ID:uqislbP1
>>980
なんとなく景勝はこういうキャラだから
厳しいと評判にも関わらず景勝の処断に対して
景勝本人に怒りを向けるパターンが少ないのかな、と思わなくもない
功罪に対して個人的な感情を差し挟まないというか
988人間七七四年:2011/12/15(木) 09:43:34.25 ID:C9kR2DQw
汚れ役は全部直江がひきうける・・・
989人間七七四年:2011/12/15(木) 10:10:13.65 ID:uHeZWM0v
まあ直江さんは21世紀になって再評価されたわけだし
愛の戦士(笑)として
990人間七七四年:2011/12/15(木) 11:00:15.37 ID:sKskQ9Gg
再評価そのものは上杉鷹山が始まりなわけで
991人間七七四年:2011/12/15(木) 12:27:43.18 ID:yu3LDL5I
直江家は断絶してたんだっけ
当時の上杉家中でもほとんどの人が忘れてただろうね
992人間七七四年:2011/12/15(木) 14:09:12.10 ID:pKFjFjW5
当時がいつかはしらんが、それはない
993人間七七四年:2011/12/15(木) 14:25:41.66 ID:C9kR2DQw
>>990-991
真相を閻魔様に聞いて参れ
994人間七七四年:2011/12/15(木) 15:01:57.52 ID:D9rCxGt1
直江家存続に尽力したけど、それでも絶えちゃったんだよな…
995人間七七四年:2011/12/15(木) 15:26:07.88 ID:A3llSVl8
直江家の家臣団である与板衆は藩主の馬廻り衆に組み入れられてるし
(謙信の馬廻組、景勝の上田衆と同格の扱い)
鷹山より前の時代に成立した上杉年譜でも上杉家に尽くした名宰相として絶賛されてるんだが…
996人間七七四年:2011/12/15(木) 15:40:33.84 ID:yu3LDL5I
にわか発言反省しております
997人間七七四年:2011/12/15(木) 17:28:18.38 ID:1/76mz4j
全国的な再評価の始まりのきっかけとなったのが上杉鷹山だったの意だろうね
998人間七七四年:2011/12/15(木) 17:51:16.52 ID:Jv/+x+BX
ここの人間の評価は喧嘩売るのが仕事の小ざかしい奴?
999人間七七四年:2011/12/15(木) 19:07:40.49 ID:JTbFe37h
弟の大国氏の子孫は王子製紙の会長かなんかやってるんだっけ
1000人間七七四年:2011/12/15(木) 19:19:47.22 ID:MJEAs7DU
埋め
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