なんで小国尾張がさくっと勝っちゃったの?

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1人間七七四年
関東での群雄割拠とかなんだったの?
2人間七七四年:2011/09/19(月) 18:04:26.80 ID:RTbMVwdm
北条>>>>>>>織田なのは明らか
北条が尾張にいたら10年で天下取ってた
3人間七七四年:2011/09/19(月) 18:06:41.76 ID:eeWft0+E
けど北条って気がついたらもうムリゲーになってて織田に媚にいったよね
4人間七七四年:2011/09/19(月) 18:40:07.97 ID:PWrISszu
地政学的に尾張は小国ではない

以上
5人間七七四年:2011/09/19(月) 19:07:28.76 ID:99jXDuh2
尾張は港と通行で上がる税が桁外れだった
関東みたいな田舎とは訳が違うのよ
6人間七七四年:2011/09/19(月) 20:01:44.79 ID:xdSYq6pW
中国地方の大内や四国地方の細川・三好も結構簡単に、
上洛してるよな。
7人間七七四年:2011/09/19(月) 20:45:26.11 ID:xdSYq6pW
中国地方より遠いのに、
関東は北条、千葉、佐竹、武田と4分割状態。
かなり不利だと思う。
8人間七七四年:2011/09/19(月) 20:57:54.35 ID:yWHfVHpp
龍興がアホだったから助かった
9人間七七四年:2011/09/19(月) 22:23:08.50 ID:P1EHmUI2
実際信長の生涯の半分以上は尾張統一と美濃侵略に使われた訳で…
10人間七七四年:2011/09/19(月) 22:31:58.28 ID:5FPY9nOH
信長は運だけだからな
北条なら二年で美濃攻略してたろう
11人間七七四年:2011/09/19(月) 23:12:03.13 ID:KgV8549W
>>10
ではなんで武田や今川如き滅ぼせなかったわけ?
12 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 :2011/09/20(火) 00:23:08.80 ID:YxLWQX//
北条厨(笑)
13人間七七四年:2011/09/20(火) 09:32:42.38 ID:3ydYw9qN
>>11
ごときというが武田や上杉は信長より余程強いのは皆知っての通り
それら二つの勢力と戦い抜いた北条のが強いのは当たり前
仮に信長が相模にいたら武田や上杉どころか扇谷上杉に負けて滅亡していただろう
14人間七七四年:2011/09/20(火) 09:42:48.73 ID:n1ctOpjS
>>11の文章のどこに上杉なんか出てくるのか?
信長は義元の首を挙げたが、ヘタレ北条はそれすらできなかったが何か?
15人間七七四年:2011/09/20(火) 10:14:20.06 ID:BYCqUE1/
>>13
なんという意味の無い仮にだろう。

信長が市場と矢銭を重視するようになったのは熱田や萱津という経済都市をそれまでの慣習を無視して直接支配して力をつけた信定、信秀が影響しているのは間違いなく、仮に信長が相模にいたらなどという馬鹿げた空想話は何の意味も無い。
16人間七七四年:2011/09/20(火) 11:58:31.53 ID:tPTgjVyT
北条じゃ尾張統一しようとして負けて滅亡すんのがオチだろ
北条なんか信長に媚売りまくってたじゃん
17人間七七四年:2011/09/21(水) 15:18:12.07 ID:bjFPxHvk
戦が弓と馬の時代なら板東武者を麾下においた後北条も強かったのではないかと(^_^;)

時代が変わっちゃったからねぇ
18人間七七四年:2011/09/24(土) 03:56:51.50 ID:mVv6nFfS
尾張は小国じゃないし、何に対してさくっと勝ったのかも書いてないのでこの上なく無意味なスレタイだな
19人間七七四年:2011/09/24(土) 08:42:33.34 ID:GpjwEJ+5
尾張は当時の日本の地方都市の中では人口多いから小国とはいえないな。
20人間七七四年:2011/09/24(土) 13:05:30.09 ID:JkCFgZmx
尾張は小国ではないが、尾張の守護代の奉行の家で尾張の下四郡しか支配していないのが弾正忠家。更に信秀没後に家中が分裂してその下四郡全てを支配していないところからスタートしたのが信長。
信長自体は弱小勢力。
21人間七七四年:2011/09/24(土) 13:13:49.79 ID:gBRIV2en
弱小勢力だけど金は持ってて、それを使った謀で尾張を統一した印象
22人間七七四年:2011/09/24(土) 13:30:25.42 ID:JkCFgZmx
>>21
そう?信長公記なんか読んでると小勢で遮二無二城攻めして信長自身が最前線で鉄砲撃ったりしてるけど。
23人間七七四年:2011/09/24(土) 14:32:13.93 ID:d+5QzPin
信長は十・百桁の少数部隊率いての高機動戦と
万桁の大兵力を動員しての総力戦が得意で
千桁の中規模戦力率いての戦術がど下手
24人間七七四年:2011/09/24(土) 16:50:16.26 ID:JkCFgZmx
信長が画期的だったのは戦略的な居城移転と合戦時の城砦群建築。
特に城砦群の建設による戦術ラインの形成は城攻め(小谷城攻め等)、防衛(長篠の戦い等)、対陣(賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い等)と活用範囲は広かった。
25人間七七四年:2011/09/24(土) 16:53:35.26 ID:OU2lDxDx
あの大きさで50万石はチートすぎる
26人間七七四年:2011/09/26(月) 14:08:54.55 ID:HHrRu2P+
尾張は商業が発達してたから信長は天下取れたんだという説多いけど
あれっぽっちの面積で50万石超えるような農業生産力があってこその商業だよな
27人間七七四年:2011/09/26(月) 20:28:52.38 ID:X0Dah4Tk
>>20
尾張国には守護・斯波氏の下に守護代が二人いて、
上四郡守護代が織田伊勢守家(惣領)、下四郡守護代が織田大和守家、
織田弾正忠家は織田大和守家の三奉行の一つ。
信秀時代も一郡程度しか領してない。

>>23
天王寺の戦いは数千規模。
28人間七七四年:2011/09/26(月) 21:18:16.28 ID:mv90EDVo
信秀に従ってた尾張衆のほとんどは家臣じゃなくあくまで寄騎だったからな
林や柴田、丹羽といった連中も家臣なのか寄騎だったのか疑問視されてる
家臣だったってはっきりしてるのが平手
寄騎だったのがはっきりしてるのが前田や佐々か
29人間七七四年:2011/09/26(月) 21:38:43.87 ID:QZO1bXTz
>>23
>千桁の中規模戦力率いての戦術がど下手
信長が唯一野戦で敵の総大将を討った桶狭間で
率いていたのは人数は千桁だったような
30人間七七四年:2011/09/27(火) 21:32:05.16 ID:ysv04uTo
名門六角家が簡単に堕ちた為。
一瞬で南近江守護が消えるなんて運良すぎじゃね?
31人間七七四年:2011/09/27(火) 23:28:41.79 ID:SEOQwsfw
六角落とせたのは織田の神速の行軍が生きた一例だわ
あの行軍速度が無ければあそこまで拡大できんかったぞ
なんつーか信長過小評価しすぎだわ
32人間七七四年:2011/09/28(水) 08:10:52.00 ID:Ub0hnN8v
調略があったんじゃないの?
信長軍が来たら裏切るとか・・・
33人間七七四年:2011/09/28(水) 20:28:04.43 ID:wpiw8HHB
誰も内応していないと思うが
34人間七七四年:2011/09/28(水) 21:16:47.34 ID:BtH5nw+D
浅井に敗れ家臣を粛清してボロボロのくせに気位は高いから将軍を補佐して上洛した織田に反発して織田に決定的な敗北。

六角が南近江を追いやられたのは必然。
35人間七七四年:2011/09/29(木) 22:57:20.07 ID:gv9Y6XYt
信長の努力とは無関係だね。運すげー
36人間七七四年:2011/09/30(金) 02:51:46.63 ID:PaGVyrgg
運とか関係ないし
37人間七七四年:2011/10/01(土) 21:32:20.76 ID:Ktu4LQdj
将軍の討伐を何度も叩き返した六角氏が、勝手に崩壊とかありえねー!!!
38人間七七四年:2011/10/01(土) 21:47:14.99 ID:RJnXih4B
いや尾張だけじゃ、さすがに天下には程遠かったろうね。
信長がなんとか10年かけて美濃を攻略したのが大きかった。
これで天下を狙える勢力になった。

「信長の野望」の最初のバージョンで
最初の一国取るのが大変だが逆に取れてしまえばトントン拍子という点が
皮肉にもよく再現されている。
39人間七七四年:2011/10/01(土) 21:49:03.95 ID:Ktu4LQdj
美濃なんて大した土地じゃないだろ。超土田舎じゃん。
40人間七七四年:2011/10/01(土) 23:43:13.82 ID:x3u2FKyA
確かに京周辺と鎌倉・博多以外は田舎でしょう
41人間七七四年:2011/10/04(火) 19:20:50.12 ID:Ls9xdcaj
尾張って勝ったのか?
42人間七七四年:2011/10/04(火) 22:08:12.63 ID:DdkCKeOR
でもよー三好は首都京都を中心に500万石はもってたんじゃね?
なんで信長公のパンチ一発でKOされちゃったんだろ
そして信長公は群雄のすさまじい猛攻に耐えて首都を防衛したし
やっぱ信長公というリーダーの力が凄まじく重要なんじゃね?
43人間七七四年:2011/10/04(火) 22:49:49.13 ID:CBm4UFMp
もってはないでしょ。
44人間七七四年:2011/10/04(火) 22:56:29.47 ID:TI3JMfB0
>>42
三好は京の経済を掌握したわけじゃないからな。
信長は尾張の流通に美濃と伊勢の流通を支配して根拠として近江を同盟下において京の流通を支配した。
支配を広げる度に金の流れを掌握した信長との差がそこにはある。
45人間七七四年:2011/10/05(水) 20:21:02.13 ID:9sFEx03a
>>44
三好は六角と戦ってたから、京の経済を掌握どころか、
京そのものも完全には掌握してないから。

信長が幸運なのは、六角と三好の両方が調度衰退してた時に上洛した事だな。
しかしその後の粘りは、頑固汚れ並に凄いと思う。
46人間七七四年:2011/10/20(木) 14:56:09.49 ID:n9Wgy11F
まあ、お前ら一度愛知県に行ってみろ。なんであそこから三人の天下人がでた
のかなにげにわかるぞ。愛知県まじ最悪だった。特に夏のあの蒸し風呂がサウナ
にいるような熱気は生き地獄だった。それに女もよくいわれるけど本当10人
いれば10人みんな並以下の水準でしかない。他国を攻めとって、目の覚める
ような美女を見て、欲望に火がついたんじゃないかwww『他国にはでぇりゃあ
美人がおるがや』wwwまじで愛知県がもうちょうと住みやすい土地柄だったら
信長も新たに美濃に拠点を移すのをちょっとは躊躇したような気がする。家康も
関東に移れなんていう無茶な命令は拒否して、さっさと先祖代々の地で滅亡する道を
選んでたんじゃないかww
47人間七七四年:2011/10/22(土) 05:02:46.33 ID:fXAAEeZb
何ていうか例えば名古屋城の天守閣から一望して見るとか犬山城の天主から
一望してみると,尾張はあの大きさで50万石って頷けるんだね。一方さ,
例えば久能山から一望してみるともう三保湾からすぐそこに山が迫っているし
掛川の辺りの論外だろ。唯一今の静岡空港辺り開けてるかなと思ってもすぐ上は
山だし救いなのは浜松周辺かもしれんが領土と言えないからなぁ・・・
沼津なんてもう海と山の間なんて僅かだよ。駿遠三総合すれば2万位は
頑張れたかもしれないけどあの尾張の広さは凄いと思うBy静岡県民
48人間七七四年:2011/10/22(土) 13:31:20.43 ID:HmaW4LWP
結局農耕地の面積だから
信濃があんなだだっ広くても50万石しかないし
49人間七七四年:2011/10/23(日) 11:16:09.50 ID:EdqBg3KP
里見や佐竹や宇都宮すら滅ぼせなかった北条とはわけが違うね
50人間七七四年:2011/10/23(日) 12:33:53.51 ID:3t3d8ccg
なんで里見すら滅ぼせなかったわけ?
51人間七七四年:2011/10/23(日) 13:13:18.78 ID:/Hpu7vLj
織田厨が超デタラメを書きまくる狂スレ
52人間七七四年:2011/10/23(日) 13:29:10.33 ID:ZAssG72A
>>49
三河の土豪一つ消せなかった織田と比べたら大して変わらん。
53人間七七四年:2011/10/23(日) 13:43:48.82 ID:Sjchz9hN
国庁、国衙領だった中島郡下津。尾張国織田一族の原点地。すべてはここから
始まる。http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B4%A5
54人間七七四年:2011/10/23(日) 20:16:39.53 ID:yIc3qlrm
尾張国守護斯波氏領だった下津に守護所を設け
又守護代織田常竹により下津城へとなる。
55人間七七四年:2011/10/24(月) 07:35:54.45 ID:xDVVq25L

尾張国中世の豪族。中島氏、蜂須賀氏。
56人間七七四年:2011/10/28(金) 08:19:32.97 ID:wiEPoWz/
山口氏は?
57人間七七四年:2011/10/28(金) 20:58:12.49 ID:4U6TGxkv
知らん。ソースあるならどうぞ。
58人間七七四年:2011/10/29(土) 11:25:06.92 ID:dyeKmwdM
山口もえの下痢
59人間七七四年:2011/12/09(金) 22:43:40.83 ID:+iz8Cvnn
>>45
京都の復興に三好家が一枚噛んでなかったっけ。
織田が上洛した頃には、応仁の乱以前のの賑わいを取り戻していたらしいけれど。
60人間七七四年:2011/12/10(土) 11:44:43.40 ID:oohIA8EX
ソースをどうぞ。
61人間七七四年:2011/12/20(火) 11:34:14.37 ID:t//AMxSp
尾張は小国ではないよ。>1
62人間七七四年:2011/12/29(木) 09:39:04.48 ID:BWlJMdgZ
混乱した畿内を制するとしたら普通に考えて、

山陽の赤松、浦上、
四国の細川、三好、
北陸の朝倉、浅井、武田、
東海の斎藤、織田、北畠

のどれかだから、ある意味順当だと思う。
63人間七七四年:2011/12/29(木) 15:27:43.17 ID:KCMjRYT0
尾張は大国
尾張美濃併合すれば超大国
64人間七七四年:2011/12/30(金) 09:30:49.35 ID:E15Q5Anl
>>63
亜熱帯化した現代でさえ平野部が雪に埋まる尾張のどこが大国だ?
延喜式では尾張・美濃ともに上国。
近隣の大国は、伊勢くらい?
(大和と近江は忘れた)

余談だが甲斐も立派に上国。
仮に信長が成人時に尾張一国を掌握してたとしたら、武田信玄とスタート環境は互角。
但し、いたって常識の範囲での推測だが
シバ(字捜すの面倒い)の領地の尾張は、応仁の乱に人間を入れてるから国土の荒廃は甲斐とは比べるまでもなく悲惨ではなかろうか?
(まあ、アンチ信長は資料の取捨選択がお得意だから自分が偽資料としたものを引用してるような、一次資料wから尾張は豊かだ!って反論するだろうけど)
65人間七七四年:2011/12/30(金) 09:38:09.80 ID:E15Q5Anl
>>62が書いてる内
赤松、細川、三好、武田(若狭のだろ?)は畿内を混乱させてる連中じゃないか?
まあ、朝倉と織田が有力候補には違いないだろうが。
斎藤道三や浅井家なんて下克上組じゃ畿内制圧は厳しいと思う。
美濃・近江を掌握仕切れないだろ。
66人間七七四年:2011/12/30(金) 09:42:24.73 ID:TE0PdU2F
雪に平野が埋まる地域が大国じゃないなら畿内はすべて大国じゃないな。
南九州が大国か。
67人間七七四年:2011/12/30(金) 10:16:08.13 ID:DRR+WBnE
超大国島津
68人間七七四年:2011/12/30(金) 10:36:55.16 ID:ke+CWghb
>>65
他はノーチャンスで、
尾張の織田家本命ということか。
69人間七七四年:2011/12/30(金) 12:32:20.78 ID:E33jn4C3
濃尾で百万石を余裕で越えるんだから充分に超大国だろ。
70人間七七四年:2011/12/30(金) 16:52:51.85 ID:GqM5Ax58
>>64

愛知県民だが尾張が雪で埋まるなんて年に一回くらいしかねーよwww

北尾張は別だが濃尾平野は水穿けも良いし農作物作るなら最高の環境

犬山城か小牧山辺りから周辺見渡して見ろ
71人間七七四年:2011/12/30(金) 21:37:06.04 ID:DD9/EFwP
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
72人間七七四年:2011/12/30(金) 22:25:37.30 ID:ke+CWghb
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
73人間七七四年:2011/12/31(土) 08:29:56.31 ID:WGenGiM4
尾張三河は
頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
74人間七七四年:2011/12/31(土) 14:01:17.58 ID:7Dmr82ek
>>64
石高で尾張は59万石
甲斐は22万石
しかも太閤検地によるもの
災害オンパレードの戦国時代甲斐はこれより下がる可能性大
これでどうやったら対等になるんだよ
さらにいうと、尾張は信長の親父時代で既に朝廷献金額がトップレベルの凄い商業地
明らかに尾張は上国
お前が資料の読みあわせすらできないで、無理やり脳内変換で尾張を悲惨にしてるだけ
75人間七七四年:2011/12/31(土) 17:36:55.04 ID:aEVH4OsC
甲斐や越後の永禄期の天候不順による飢餓と災害ぶりは致命的レベルだったからね。
それで信玄も治水土木を必死にやりまくって
元亀に入ると飢餓も災害もほとんど見られなくなる。
76人間七七四年:2012/01/05(木) 18:02:55.15 ID:I4dYYDLN
戦国時代の農業生産高+商業規模で大国を決めなおすというのなら、
近江、伊勢、摂津、武蔵、陸奥、出羽は確定で、
尾張、越前、大和、和泉、播磨、常陸、肥前、肥後、越後あたりがそれに次ぐ感じでしょうか。

上記のうち、1560年代に統一勢力下に置かれたのは武蔵、尾張、越前、越後ぐらい?
77人間七七四年:2012/01/07(土) 01:08:39.62 ID:QeKvIIIQ
>>73
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね
頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
78人間七七四年:2012/06/02(土) 17:24:15.48 ID:/ETKomvw
今川義元、斎藤龍興がアホすぎたから
79人間七七四年:2012/06/02(土) 17:49:10.30 ID:6ZEqH5Ka
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)

80人間七七四年:2012/06/02(土) 18:53:44.67 ID:fgtbmXqf
たまたま英雄的な人間が多く生まれたから。
尾張、という地勢の問題なら、他時代も一貫してここから支配が出なきゃおかしいだろw
81人間七七四年:2012/06/03(日) 09:14:13.87 ID:kVlZXyqr
岡崎城に隣接してる資料館では
三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
82人間七七四年:2012/06/03(日) 09:40:47.55 ID:aH8wa5wK
家康は、源平合戦で頼朝についた有力武士の生まれ変わりかな?
83人間七七四年:2012/06/04(月) 19:32:37.95 ID:j6xO0UUs

尾張人に関して言えば司馬遼太郎先生が的確に表してくれている。
84人間七七四年:2012/06/05(火) 10:16:32.26 ID:HkHcu1V1
尾張は関東や大坂と同様に広大な濃尾平野があったし
大河による海上交通網があったので
発展の余地が元々あったといえる。
85人間七七四年:2012/06/06(水) 01:58:51.48 ID:th4ouwFa
尾張は豊かな土地
86人間七七四年:2012/06/07(木) 22:30:42.93 ID:OO1uiFtl
尾張は農業も商業も盛んだった
大国と言えるのでは。
87人間七七四年:2012/06/10(日) 23:24:53.46 ID:+wQHPgqX
尾張の石高は相当なものだったし、商業・漁業でも利益を得てるから
相当な大国だったのでは
88人間七七四年:2012/06/14(木) 23:14:31.83 ID:BQ1uAtf3
尾張藩は62万石の石高
89人間七七四年:2012/06/18(月) 22:57:15.51 ID:UKm0HV7a
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)

■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎(菅生郷)に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁

■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
90人間七七四年:2012/06/18(月) 22:57:47.39 ID:UKm0HV7a
【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
91人間七七四年:2012/06/18(月) 22:58:52.59 ID:UKm0HV7a
【鎌倉幕府滅亡】

足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職

太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
92人間七七四年:2012/06/18(月) 22:59:47.24 ID:UKm0HV7a
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)

【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)

【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷

【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)

【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
93人間七七四年:2012/06/18(月) 23:05:09.81 ID:UKm0HV7a
管領家 斯波氏


空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
94人間七七四年:2012/06/19(火) 21:28:47.99 ID:ZRuMc3hE
尾張単独で戦ったのは美濃攻略まで。
ただ、尾張半国しか勢力下になかった信秀の代で朝廷献金額一位
という事からすれば大国だったのは間違いない。

太閤検地で日本全国1300万石だったか。
濃尾で100万石、伊勢・志摩と近江の8割を併呑して200万石、
山城・大和・摂津・河内・和泉の大半を制して250万石近く?と
草津・堺など全国有数の経済都市を直轄領にする。
包囲網で暫く苦しむが、滅ぼして越前・若狭・北近江を併呑(350万石?)。
その後は、加賀・能登・越中・伊賀・丹波・丹後・播磨・但馬・備前・美作・因幡・淡路を順次平定(600万石ぐらい?)。
生野銀山もゲット。
武田征伐で爆勝して甲斐・信濃・上野で700万石突破?

美濃攻略以降は圧倒的すぎて倍倍ゲームのようだな。
もちろん信長が凄かったのが一番の要因だろうけど。
95人間七七四年:2012/06/19(火) 23:31:24.77 ID:V1HWvyto
自分を神と錯覚しても無理ないよね
これだけ凄いことやってのけたんだから
時代を先読みし過ぎて、時代が追いつけなかった天才
96人間七七四年:2012/06/19(火) 23:37:44.67 ID:N1yUO9Qq
凄いことって言っても、せいぜい頼朝や清盛の4分の1程度。
97人間七七四年:2012/06/20(水) 05:23:08.90 ID:qR0D25sW
頼朝や清盛はせいぜい信長程度の勢力圏内しかないぞ。
武士勢力が全国に広がったのは北条義時から。

肩書とかで騙されやすいが、実は全国を統一して武士政権を築いた人間は中世でも稀
足利なんてgdgdすぎて話にならんからな
98人間七七四年:2012/06/20(水) 07:27:45.51 ID:lr5lcXVk
信長は美濃に出るのすら苦労してたんだよな。
しかし美濃を取ってからは破竹の快進撃で
三人衆、竹中、仙石など美濃衆の活躍も大きかった。

美濃を取れたのは三河の徳川との同盟が大きかったのかもしれないが。
それを仲介した水野を評価する声なんかもあったかな。
99人間七七四年:2012/06/20(水) 08:02:18.12 ID:qB5SvUSq
仙石w
100人間七七四年:2012/06/20(水) 08:14:37.03 ID:6YAaIokb
水野家は元々豪商なんだっけ。
美濃進出、徳川同盟で莫大な儲けになったのかもなぁ。

仙石は・・・俺もwを付けたいところだけど、当時の美濃衆としては頼りに
出来たんだと・・・思う。
森氏は違うんだっけ?
101人間七七四年:2012/06/20(水) 09:29:35.43 ID:lr5lcXVk
仙石は悩んだけどまあ島津戦での醜態を除けばよくやってた方ということで。
加藤光泰や徳山なんかの方が良かったかな。

森氏は今の岐阜県だけど尾張国の笠松あたりだっけ。
最初は土岐氏に使えていたけど信秀の時代には既に織田方だったような。
他に元土岐氏ってなら河尻や池田や金森なんかもそうだな。

遅れて仕えたのには堀や明智や日根野なんかもいる。
美濃衆は織田家の中では中々の物だったのではないかと思う。

まあバラバラだから土岐、織田、豊臣、徳川のように
上手く使える奴らが必要だったのかもしれないが。
102人間七七四年:2012/06/20(水) 13:04:26.97 ID:fyCedogX
西尾張と言う風土は突出した人物が生まれる風土なんだわ
信長をはじめ、前人未到の400勝投手、金田正一とか前人未到の高校野球
甲子園大会最多勝ち星の吉田正男とか、前人未到の日米通算最多安打のイチロー
とか。
103人間七七四年:2012/06/20(水) 14:05:50.39 ID:jiTASyAO
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」 

■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国加茂郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
104人間七七四年:2012/06/20(水) 17:33:32.27 ID:6YAaIokb
名古屋人=尾張って・・・歴史知らない人?
105人間七七四年:2012/06/21(木) 12:14:04.88 ID:JSMIrgbZ
昔からあるコピペだよ
106人間七七四年:2012/06/23(土) 16:58:04.87 ID:pWgYgTFU
美濃攻略後は西だけ見てれば良かったからじゃね
武田裏切り後は徳川がよく武田を押さえ込んでたし
同盟を簡単に反故にする武田が簡単に滅んだのとは
真逆に家康との同盟を堅持した信長だからこその快挙
107人間七七四年:2012/06/25(月) 20:36:50.57 ID:vMnIZEmy
その理屈なら南部、里見、長宗我部、島津の勢力伸長はもっと早くないとおかしい
108人間七七四年:2012/06/26(火) 02:34:45.13 ID:Wwi6pTHV
尾張美濃は陸奥、安房、土佐、薩摩よりずっと豊か
109人間七七四年:2012/06/26(火) 06:07:26.76 ID:IuldI+iG
土佐は17万石、元親が統一時に1割少なかったとしても15万石。
それでも伊予の一郡しか領してない西園寺を攻略するのに10年かかった。

信長の攻略の早さは他大名とは比較にならない。
110人間七七四年:2012/06/26(火) 08:17:44.75 ID:yljUQN61
そう言う書き方をすると、また運が良かったとか家臣が良かったとか言う人
が沸きそうw
石高が多いと言う事は、それだけ人が多いと言う事で、ライバルも多い。
ゲームみたいに最初から一国を支配していたわけじゃないのだから、そこの
実力は認めないといけないよね。
しかし不思議なのは、今の大阪辺りも栄えていたと思うのだよなぁ。
もうちょっと歴史的に名を残す人が出てきても良さそうな気がする。
111人間七七四年:2012/06/26(火) 11:37:16.44 ID:/snUicgc
>>109
・阿波、讃岐を優先した
・毛利の介入を恐れた
・地形が急峻
112人間七七四年:2012/06/26(火) 13:25:40.90 ID:wuJcJMC6
>>110
畿内は様々な政治的勢力が跳梁跋扈していた不安定な土地だったのが
三好の勢力伸長が止まってしまった最大の要因
武士同士の戦いになかなか集中できなかった
113人間七七四年:2012/06/27(水) 00:17:31.21 ID:8oDudBoe
>>111
・阿波、讃岐を優先した
これはあるだろうが、西園寺は一条とも戦い続けて
その流れで長曾我部と戦ったから手抜きではないだろ。

・毛利の介入を恐れた
毛利の勢力は中予まで

・地形が急峻
これは豪雪地の冬季なら分かるが、普通に往来があるんだが
114人間七七四年:2012/06/27(水) 01:00:53.43 ID:dPm3LDpP
鉄砲を装備した伊予勢は土佐勢には荷が重い相手だった
115人間七七四年:2012/06/27(水) 08:19:37.15 ID:AgDvVmNh
そう言えば、土佐勢は装備もボロボロでバラバラ、悪党程度にしか見えな
かったとか、どっかで読んだな。
伊予に比べ、貧乏だったんだろうなぁ。
116人間七七四年:2012/06/27(水) 22:46:31.59 ID:47cD1CHH
>>28
すぐに取れそうな三河を取らずに、美濃を数年攻め続けたあたりが信長のすごさじゃね
117人間七七四年:2012/06/28(木) 02:47:55.07 ID:ergcNWbG
確かにね
北がダメなら攻めやすい南なんて
旧日本軍の南進策と一緒だもんなw
そう言えば北で凹られて同盟反故にして
南に攻め込んだ大名がいたけど
非道な事をすると必ず報いがあるからなぁw
118人間七七四年:2012/06/28(木) 18:06:43.19 ID:CsxIRvwh
>>113
往来はあっても、ある程度の軍隊動かすほど整備された道はなかっただろ
水曜どうでしょうの四国八十八か所見てもここで軍隊動かすのは難しそうだなと思うし
119人間七七四年:2012/07/01(日) 01:41:31.89 ID:/xaDT4P0
>>115
その記述は確か四国征伐の時の上方勢と土佐勢を比べての表現だったはず。
伊予東部は瞬殺されてたし、土佐と伊予だったらそんな変わらんだろ。
120人間七七四年:2012/07/02(月) 18:15:21.73 ID:F1uK6jKl
太閤検地による石高と国の面積との比率で言えば
尾張はおそらくぶっちぎりでトップ
耕作可能地域が広く、地味も肥えてる
その分大量の兵を養うことができる

あと、愛知県って今でも何気に農業県なんだよね
121人間七七四年:2012/07/02(月) 21:18:54.46 ID:r1t4Rg/s
トップは近江の83万石だったと思うが。
尾張は60万石
122人間七七四年:2012/07/02(月) 22:29:35.35 ID:F1uK6jKl
>>121
各国の面積に対する比率の問題
面積では滋賀県全部と愛知県の半分(実質3分の2くらい?)ではかなりの差があるわけで
123人間七七四年:2012/07/03(火) 06:40:51.60 ID:fgJ2zOmB
面積と可住地面積は違うけどな。
可住地面積なら尾張は相当広いだろ。
124人間七七四年:2012/07/11(水) 13:26:53.30 ID:pu7Vw6y8
偉大・天才・強運の神に選ばれし戦国の覇者
信長様だからこそさくっと勝っちゃったように見えるだけ
信長様以外の戦国大名なら義元に蹴鞠のように一蹴されて終わり
当時有無を言わさぬ世界最強だったこらこそ死んでから430年経った
今でも世界中の多くの軍オタから愛されて続けているのさ
125人間七七四年:2012/09/05(水) 02:28:32.98 ID:zEIkwKje
ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…欧味
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…三和
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…鬼作堂
126人間七七四年:2012/09/05(水) 12:32:47.43 ID:XDF51cHU
まあ実際、斎藤六角三好の内部崩壊は天運だよな
特に三好長慶が長生きしてたら一蹴されてただろうし、逆に史実以上に早死にしてたら朝倉が義昭連れて上洛してた可能性もある

ただ、仮に弟の信行が織田家継いでたら天下とれたかというと微妙なとこを考えると信長の力とか執念みたいなのとかもやはり評価すべきだろうね
127人間七七四年:2012/09/06(木) 21:50:29.76 ID:b7leZPH2

狗奴国一宮

邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置を、愛知県一宮市萩原遺跡群を
はじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、
尾張平野一帯に大勢力が広がっていた。

128人間七七四年:2012/09/07(金) 05:15:02.23 ID:yBCK9BV2

終わりは小国じゃないだろw
129人間七七四年:2012/09/09(日) 03:01:27.90 ID:PJGEa9Db
美濃国人は戦わずに信長に下る奴が多すぎ
130人間七七四年:2012/09/09(日) 09:06:05.47 ID:dTcnBZrx
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
131人間七七四年:2012/09/09(日) 10:35:52.72 ID:P8FZPksN
>幼君斎藤義興
132人間七七四年:2012/09/09(日) 10:39:46.10 ID:dTcnBZrx
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

133人間七七四年:2012/09/09(日) 15:20:12.66 ID:uK8srbXp
古代史最大の乱、壬申の乱

東国のリーダー、天火明命の末裔・村国氏。
134人間七七四年:2012/09/09(日) 20:06:11.00 ID:Bl3G6Bm3
>>126
>まあ実際、斎藤六角三好の内部崩壊は天運だよな

それ言い始めたら長慶が政権取れたのも、何代も前から続く細川の内部動揺だからなぁ。
本国寺、金ヶ崎、長光寺、姉川、志賀、野田福島、長島と何かのきっかけで
織田政権が崩壊する可能性も十分に有った。
その度に切り抜けてきた信長の粘り強さは、やっぱり凄いよ
135人間七七四年:2012/09/10(月) 20:35:25.75 ID:xN6Vkhst
信長がすごいんではなく
家康や秀吉がすごかった。
信長は相撲観戦したり、鷹狩りやったり、
強制的に召し上げたコレクション茶器を見せびらかせての御茶会やったり、名馬比べの競争や爆竹祭りやパレードとイベントをやりまくって豪遊してただけ。
136人間七七四年:2012/09/10(月) 20:41:42.70 ID:uWiR3UOw
尾張って、国の大半が平地、水運が活発で商業隆盛していた大国だぜ。
137人間七七四年:2012/09/12(水) 08:19:49.34 ID:ETHhLg+u
>>135
それで大国になったんだったら、逆に凄くないか?
ミイラ取りがミイラみたいな説だなw
138人間七七四年:2012/09/13(木) 21:34:05.36 ID:FO73lA51
893超絶ブラック企業のアスペパワハラ社長信長。
犯罪やってでも成果をあげろやクズども!
139人間七七四年:2012/09/13(木) 22:48:35.30 ID:9kFi3XuO
っつうか、尾張は大国
140人間七七四年:2012/12/29(土) 13:00:23.22 ID:UDUOguOY
尾張国内、織田一族が築城した城(初期段階は平城が多い)

尾張国府領(斯波領)中島郡下津守護所を中心として尾張国織田家の平城は
作られ散らばって行く。
尾張国守護斯波氏が造った城は下津城と離れ屋敷だった清州城のみ。
織田一族が築城した城、大赤見城、岩倉城、勝幡城、楽田城、犬山城、小田井城
野府城、古渡城、

信長が築城した尾張国内は小牧城のみ。
141人間七七四年:2012/12/29(土) 15:37:40.07 ID:GGsffWws
さくっとは勝ってないだろ、美濃攻略にえらい手間ひまかけてるし
142人間七七四年:2012/12/30(日) 01:55:10.43 ID:NFtPzF6X
義竜が生きてる間は全く歯が立たなかったからなぁ
143人間七七四年:2013/06/26(水) 11:08:32.88 ID:ryND/NSu
農業先進国と言われ灌漑農業をすでにやっていた伊勢のお隣だかから
戦乱と関の障害を克服してまで伊勢へ学びに行かずとも
普通に尾張なんて伝播してただろうね。
144人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Xcpwllfj
尾張は石高が高かった
145人間七七四年:2014/01/10(金) 20:11:24.53 ID:9kXGrZ30
尾張って慶長3年の検地でたまたま豊作の時期にあたって高かっただけじゃね
慶長郷長高や正保郷長高の検地では大した事なかったし。
146人間七七四年:2014/01/10(金) 20:12:40.38 ID:rnrgtrYj
年ごとの誤差って事?
147人間七七四年:2014/01/10(金) 22:40:59.18 ID:5XADz76q
足利が恫喝してまで土岐から尾張を取り上げるくらいには、尾張は豊かな国だとは思うが
148人間七七四年:2014/01/11(土) 09:48:52.73 ID:j1O9coOV
は?織田ちょんってバカかよ豊作とか関係ないし。
豊作になると田畑の大きさが変わるわけじゃない。
日当たりや土壌や水はけなどを勘案して田畑のランク決めてるだけだし。
149人間七七四年:2014/01/11(土) 12:54:04.49 ID:peGruXhS
前々サクッとは勝ってないな
そもそも天下統一を目指すとハッキリ宣言したのは美濃を獲ってからだし
150人間七七四年:2014/01/11(土) 13:01:39.87 ID:lmS1sWi8
あれは畿内=天下の認識だけどね。
結局、信長は紀伊雑賀衆と高野山らの影響圏にあった、
大和南部、和泉南部、伊勢南部の制圧に失敗して、
畿内統一に大失敗した。
しかし秀吉は速攻で雑賀衆や高野山や紀伊惣国一揆を鮮やかに制圧し、
彼らを四国征伐に動員してる。
151人間七七四年:2014/01/11(土) 13:35:08.44 ID:/iaJHLV2
検地は実際の取れ高とは限らないからね、基準とはなりうるけど。
そもそも検地も尾張みたいにかなりの程度土地を把握していて
ある程度厳密に検地出来るとこもあれば、
逆に指出で済ませたりと、ろくに把握できずに済ませたとこもあるしで、
いろいろ政治的要素も絡んでくる。
152人間七七四年:2014/01/11(土) 14:15:08.83 ID:peGruXhS
信長が他の戦国武将と違って奇異なのは
今となっては戦国大名は上洛するものと
それが目標みたいにされてるけど
実際は当時、そんな事は全然無かったから。
朝倉だって浅井だって上洛できたけどしなかったのは
そこにそれほど大きなメリットを感じてなかったから。
ところが信長は岐阜を獲った後は一直線に明確に上洛を目指してるんだよね
しかも価値の無いもの(幕府の威信)から価値を生み出したところに天才性がある。
153人間七七四年:2014/01/11(土) 16:25:02.44 ID:W6kVvjZJ
>>152
>上洛出来たけどしなかった
ゲーム脳か
浅井と朝倉が同列ってことはそうなんだろうな

信長だけが、上洛出来る程の実力も無いのに強行して成功しただけ
浅井みたいな京極の出涸らしには無理
154人間七七四年:2014/01/11(土) 16:37:20.92 ID:Lsewow5i
検地のデータってあんまり正確じゃないでしょ。
例えばチート国力とか言われてる尾張なんて慶長郷長高や正保郷長高の検地では大した事なかったし。
他の国でも、短期間にやたら増えたり減ったりしてて、各藩の自己申告による所が大きいから
島津領なんてやたらと実高より高く書かれたりしてるし
155人間七七四年:2014/01/11(土) 16:42:39.16 ID:5PWAue+a
慶長検地と慶長郷長高や正保郷長高検地の結果の誤差は何から来ているんだろうか?
増えてるならまぁともかく減ってる所もあるし
156人間七七四年:2014/01/11(土) 18:52:55.23 ID:TPPNZ1Zj
平安時代の格式で「小国」だっけ?尾張は、
157人間七七四年:2014/01/11(土) 20:13:03.30 ID:rDXfwYWK
ひたすら信長擁護のために曲解と歪曲を繰り返して自演してるwww
158人間七七四年:2014/01/11(土) 23:07:55.83 ID:W6kVvjZJ
>>156
延喜式では上国
山城、摂津、甲斐と同じ
甲斐は没落が激し過ぎたからアレだけど
159人間七七四年:2014/01/12(日) 04:47:01.77 ID:E7h8o2YP
尾張って慶長3年の検地ではたまたま石高が高かっただけで慶長郷長高や正保郷長高の検地では
大した事なかったし特にチート国力でもないでしょ。
逆に信濃なんかは、慶長郷長高や正保郷長高など他の時期の検地では結構高かったし。
160人間七七四年:2014/01/12(日) 09:34:03.73 ID:hrTxrxlt
>>158
延喜式の時代はまだ寒冷化前だから、
戦国時代の甲斐みたいな冷夏や降雪水害氾濫がひどくなかった。
まだ石高制の前だから、
米での納税に限っておらず、
田を拡げて冷害で死ぬ悪循環に入る江戸時代と違い、
朝廷に貢ずる品目は多岐に渡っていたので甲斐でも納入するものはあった。
山谷国ほど寒冷化と米本位機軸制国体で弱国化した。
161人間七七四年:2014/01/12(日) 10:42:47.68 ID:DbTt2PQD
>>160
慶長越えて、徳川期の石高の話になってね?
甲斐が残念なことになったのは、相模に幕府が出来て流通が変わったからじゃね
162人間七七四年:2014/01/12(日) 11:53:43.75 ID:kVWgJ/tg
戦国時代には甲斐のみに冷夏や降雪水害が起こってたと信じてる奴マジでいるよな
163人間七七四年:2014/01/12(日) 12:41:21.96 ID:HJLIfR6H
実際、寒冷化により、
積雪量が増加し、
雪解け水による河川氾濫が頻発したから、
甲斐盆地は治水技術が発達し、
幕府もその技術を独占したじゃん。
東山道に位置する山谷ある国々が一番、寒冷化の影響を受けてるだろ。
164人間七七四年:2014/01/12(日) 18:22:07.68 ID:vV7FCH8K
世界規模の寒冷化の影響を甲斐だけ特別大きく受けたってのより
流通の変動とか金山や特産物の枯渇のほうがまだ説得力ある
165人間七七四年:2014/01/12(日) 18:26:14.39 ID:DbTt2PQD
>>163
>東山道
上国って扱いの時は東海道だろ
甲斐は物流拠点
武蔵、上野は補給拠点、会津は最前線基地
そんな昔であれば甲斐は間違いなく尾張に匹敵する価値はあった
166人間七七四年:2014/01/12(日) 18:48:40.11 ID:sZYEfqqI
山梨県民は妄想力豊かだから・・・
167人間七七四年:2014/01/12(日) 21:29:57.23 ID:M1Th6W9P
>>159
尾張とか武蔵などは一応国境変更とかの影響もある。

>>160
石高は米だけじゃ無い、各生産物を米価換算してどれだけになるかみたいな感じ。
まあ屋敷もあるが。

>>163
その辺はほとんどネタの領域。

>>164
戦国時代は材木需要が高まったため各地が禿山状態になり、
そのせいで河川氾濫が頻発したって説もある。
家康は禿山だらけだったんで必死に植林したおかげで山が木々に覆われるようになったという逸話もある、
あくまで逸話だが。
168人間七七四年:2014/01/13(月) 12:19:58.79 ID:coVnNXhG
山谷国は高地にあるのだから、
寒冷化により、積雪量や一年を通じた平均気温の低下が激しくなるのは当たり前だろ。
晴信政権初期なんて、さんざん水鉄砲で田畠が流されたとか、8月に入っても寒かったなんて記述が出てくる。
だから甲斐では対応して麦栽培などが開始されてる。
上野碓氷峠→信濃善光寺→木曾から美濃へと続く流通に変更なんて無いし、
金山枯渇もただのネタで根拠ない。
特産物の枯渇なんて、お前の妄想だろ。
甲斐が物流拠点とか
上野が補給拠点とか
会津は最前線拠点とか意味不明の妄想だし。
169人間七七四年:2014/01/14(火) 06:52:18.85 ID:/hoRw1O+
>>168
はいはい
賢い賢いw
170人間七七四年:2014/01/14(火) 10:44:17.05 ID:qBrSEuxm
デタラメばかり書く必死な織田在日
171人間七七四年:2014/01/14(火) 14:24:19.47 ID:XjQsmIZN
「大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法スレ」から抜粋

アンチ信長キチガイたちの主張

・信長以外の武将が尾張にいたら、尾張で今川を迎撃するどころか自力で自分から攻撃して三河を攻略してるだろ。
・織田信長の支配基盤は、今川義元より遥かに強固
・織田信長の動員兵力は17000、今川義元は21000程度
・信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
・信長は義龍によって尾張の半分を奪われてしまった
・超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記
・桶狭間合戦前の織田家は博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル
172人間七七四年:2014/01/14(火) 14:41:21.04 ID:yC7jTEng
全部事実じゃん
173人間七七四年:2014/02/07(金) 04:36:04.38 ID:ADY2FvwY
>>145
慶長3年高の57万1737石4斗(古高)は、慶長3年(1598年)の時点で豊臣政権が把握していた石高で、
実際の検地は文禄2年(1593年)に実施されている

徳川時代に入った慶長12年(1607年)に再検地が実施され、石高は48万0840石7斗(元高)に減った

ところが正保元年(1644年)に尾張藩は年貢を据え置きのまま
税率が六公四民から四公六民になるように石高の方を変更するという
机上での石高操作を行い、尾張国内の石高が一気に70万石(概高)に増えた

しかしながら幕府の方には従来通りの計算で正保高として52万6493石5斗1升を報告した

まとめると徳川時代に入り、住民の不満を和らげるために石盛を甘くした
その後、尾張藩内では昔の石高に戻したが、公式には減らした石高のまま継続した
174人間七七四年:2014/02/19(水) 20:44:07.88 ID:79uO9Hc7
領土面積狭いのに
石高高いって策源地にするにはもってこいだよな。
同じ面積あたりの石高なら尾張は全国でもトップじゃないだろうか
175人間七七四年:2014/02/19(水) 21:20:17.41 ID:HUw+9aQw
>>174
単位面積(方里)当たりの慶長3年石高 (1 方里 (1 里×1 里) ≒ 15.423 km2 )

5,504 河内 (242,105.8石/43.99方里)
5,488 尾張 (571,737.4石/104.18方里)
4,228 和泉 (141,512.7石/33.47方里)
3,803 摂津 (356,069.1石/93.63方里)
3,289 筑後 (265,998石/80.87方里)
3,082 山城 (225,262石/73.08方里)
3,015 近江 (775,379石/257.15方里)

ぎりぎりで河内の方が上
176人間七七四年:2014/02/19(水) 21:26:15.94 ID:HUw+9aQw
もっとも最終的な明治5年石高で計算すると尾張はトップ

7341 尾張 (764,774.1662石/104.18方里)
6663 河内 (293,118.5872石/43.99方里)
6637 筑後 (536,742.90265石/80.87方里)
5264 和泉 (176,190.7761石/33.47方里)
4449 摂津 (416,521.9358石/93.63方里)
4445 備前 (418,964.538石/94.25方里)
3992 筑前 (633,404.6354石/158.63方里)

正保以降の郡別石高
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%9B%BD%E9%83%A1%E5%88%A5%E7%9F%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7

郡別面積(数値化された中では多分一番古いやつ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976094/14

この辺を組み合わせると、具体的に尾張のどの郡が豊かだったか
もっと具体的に出せそうだけど
177人間七七四年:2014/02/19(水) 22:58:18.55 ID:FfTcJ6MU
領土こそ少し狭いが終わりは貿易などで栄えていたわけで
178人間七七四年:2014/02/25(火) 01:27:57.22 ID:J2FOUYi8
昔あった上洛スレには郡別の石高とかがテンプレとしてあったね。
179人間七七四年:2014/03/16(日) 15:08:30.17 ID:zMyrorkW
中国勢、四国勢が丁度衰退してたから。
180人間七七四年:2014/03/21(金) 14:21:09.24 ID:FWYjAqG2
北陸勢は?
181人間七七四年:2014/03/26(水) 07:18:44.95 ID:8WdseDAA
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。

長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
182人間七七四年:2014/03/27(木) 03:39:44.71 ID:FU7bQWHT
今でいえば信長は名古屋市長の息子
名古屋市ってのは中堅の県なみの人口を有する
183人間七七四年:2014/03/27(木) 08:03:26.90 ID:fVCnDNXx
どっちかといえば津島市長の息子だろ。
184人間七七四年:2014/03/27(木) 15:13:22.42 ID:s7P3bX5y
愛知は米がとれるし港がでかいから金もまわる
185人間七七四年:2014/03/28(金) 21:17:24.85 ID:OqsXHhXO
とゆうか信秀の時代には尾張4郡のうち3郡をほぼ手中に収めてて
中でも中心地の名古屋市一帯が主な領地で朝廷に突出した献金してたり
相当な財力を誇ってたのは間違いない
所領地は農地が豊かで町には人が溢れ、海路で繋がった商業は盛んで
そこから上がる税収は莫大なものでそれを引き継いだ信長はその財力で
尾張を統一し、その後、美濃攻略へと繋がったと思われる
また桶狭間の戦いでは寡兵と大軍とされているが、織田の軍勢は寡兵ではなく
今川もまた兵をかなり分散させていたのもあるが圧倒的な大軍であった
わけではなくってのが通説になりつつある
桶狭間は兵を一つにまとめ今川本隊を強襲した織田勢と兵分散尚且つ、織田勢
の動きを把握出来てなく今川本隊にまで迫ってきていたのを察知出来なかった
今川勢 その結果が義元討ち死にとなったと思われ

3奉行の1人と言われれば大した事ないように思うが既に主家を上回る
勢力を持ち信長が継いだ時には総動員出来る兵数はその財力や石高から
5千〜6千人ぐらいで桶狭間の頃は1万5千人前後だった
186人間七七四年:2014/03/28(金) 21:19:47.15 ID:OqsXHhXO
尾張の下4郡のうち3郡ね
187人間七七四年:2014/03/28(金) 22:22:12.49 ID:U4fu/2X6
さくっといくようになったのは美濃とってからじゃね?
188人間七七四年:2014/03/28(金) 22:26:05.96 ID:vagS4zPy
>>187
尾張も美濃も農業収入が半端ない大国だから、一回とっちゃうと強いんやな
189人間七七四年:2014/03/28(金) 22:34:48.20 ID:0q3J5DCH
信長が相続したのは、尾張国一国+美濃岩村+美濃大垣+三河水野領
信秀が残した外交的遺産は、六角との同盟+道三の後見+今川との同盟+朝廷の絶対的信頼
ここまで御膳立てしてもらいながら、
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり、
信長が今川を奇襲して同盟をぶち壊していたり、
織田外交を一手に引き受けていた信長後見役の平手が絶望して自殺。
数々の悪行で尾張国内の結束を自ら破壊して自壊に導き、
今川を恫喝していた後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
190人間七七四年:2014/03/28(金) 22:36:01.64 ID:OqsXHhXO
農業もそうだけど商業も海路からかなり栄えてたみたいだよ
尾張って地域は貿易都市としての機能は古い時代から築かれていて
尾張=小国じゃなく今川が統治していた3ヶ国と=になるぐらいの
肥沃な土地と貿易が盛んな経済都市だった
191人間七七四年:2014/03/29(土) 02:58:32.46 ID:yjFPiswE
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192人間七七四年:2014/03/30(日) 10:27:43.68 ID:vRB+RQhm
尾張国=飛鳥時代〜江戸時代初頭、約1300年間

尾張藩=1607年〜1871年の264年間

名古屋県=1871年(明治4年7月)〜1872年(明治5年4月)の11ヶ月

愛知県=1872(明治5年4月)〜現在
193人間七七四年:2014/03/31(月) 00:04:43.26 ID:+g2tSK5S
>>192
行政組織としての尾張国なら守護と一緒に室町時代中ごろに消滅している

一方住所としての尾張国なら、江戸時代はずっと使われているし、
明治以降も旧国を正式に廃止する法令は出されていない
194人間七七四年:2014/03/31(月) 00:17:16.79 ID:+vv4kYuS
斯波は在京守護だから、尾張に守護所は存在しない。
195人間七七四年:2014/03/31(月) 00:49:13.02 ID:+g2tSK5S
ん?

在京だろうが守護代が守護所にいることになっているはずだが?

てか室町時代は下津城が尾張の守護所だろ
196人間七七四年:2014/03/31(月) 06:07:16.22 ID:pk7NWKcd
>>192
そう、尾張国は江戸時代まで使われている。市町村区分で言うなら郡単位が
区分でしょうね。

>>194
斯波氏は在京が主だっただろうが斯波義重は尾張中島郡の頓聴寺に訪れている。

斯波氏の又守護代として命じられたのが織田家の織田常竹。守護所は中島郡にある
下津守護所。
197人間七七四年:2014/03/31(月) 18:40:00.23 ID:i+fp83G9
>>192
名古屋県/愛知県の違いに拘るのなら、
尾張藩は歴史的用語であって、尾張藩と公称していた時期はない

江戸時代ならさしずめ「尾張大納言殿領分」とか「尾張侯国」

慶応4年旧暦閏4月に旧大名領を「藩」と呼ぶことが決まった際も、
藩庁の所在地をもって藩名とすることが決まったから、「名古屋藩」が正式名称

あと廃藩置県は西暦1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)
愛知県への改名は西暦1872年5月8日(明治5年旧暦4月2日)だから、
名古屋県が存在したのは9ヶ月も満たない
198人間七七四年:2014/04/01(火) 20:10:47.71 ID:5a4CxpKK
>>下津城が尾張の守護所
これの一次史料くれ。
199人間七七四年:2014/04/01(火) 20:22:50.13 ID:TqKryPcq
下津守護所も斯波義重が置いたとされている。


http://okhome.fc2web.com/siba/memory/me201.html
200人間七七四年:2014/04/01(火) 22:44:41.68 ID:TqKryPcq
尾張織田家もある意味、下津を巡り二家に分裂して
抗争を始めたんだよなぁ。
201人間七七四年:2014/04/02(水) 08:12:10.80 ID:8mCXCijl
足利義昭を味方に付けて上洛できたから
202人間七七四年:2014/04/02(水) 08:28:05.89 ID:Py/T+Tnr
>>199
史料的裏付けが皆無なんだがw
203人間七七四年:2014/04/02(水) 14:48:03.37 ID:Dq72pRWj
>>198
>>202
国史大辞典によると尾張の守護所は、
南北朝時代から室町時代中頃まで府中下津、戦国時代は清洲

尾張国守護所の所在地だった所として明記されるのは、
江戸時代前期に尾張藩士天野信景によってまとめられた『塩尻』以降だけど、
同時代の史料としては、斯波義重が尾張の守護代である織田常竹に
応永15年(1408年)9月付で送った手紙の中で、宛先を「下津京兆」と記している
また醍醐寺文書では応永年間の尾張国国衛として下津が記載
15世紀前半の清厳正徹『なぐさめ草』によると下津は「国郡の政を行ふ」所

守護所についてはそもそも同時代に全国の分布をまとめた史料がないので、
鎌倉時代は4割以上の守護所が不明だが、室町時代以降は色々な手紙等や、
江戸時代以降の地誌に頼って研究者によって比定されている

詳しくは松山宏『守護城下町の研究』
204人間七七四年:2014/04/02(水) 20:22:11.70 ID:+Q3tDBO3
斯波が出した書状の宛名でなく宛先が下津京兆?
すると尾張守護は織田常竹になっちゃうよね?
あたま大丈夫か?
それと国衙=守護所なわけねーだろアホか。
205人間七七四年:2014/04/02(水) 21:09:56.63 ID:Dq72pRWj
>>204
>斯波が出した書状の宛名でなく宛先が下津京兆?
>すると尾張守護は織田常竹になっちゃうよね?
>あたま大丈夫か?
この場合の京兆は守護代である織田常竹で、
手紙の中で斯波は、「尾張国国衙正税」を納めようとしない三宝院に、
納税を催促し、さらにその誓約書を書かせろと織田に指示している。

>それと国衙=守護所なわけねーだろアホか。
尾張国府は国府宮にあったが既に尾張国の国府として機能しなくなって、
その代わりに下津を国衙と表現している


あと、なんか守護所が尾張にあるわけないと主張したいようだが、
それなら『守護城下町の研究』の著者の奈良大学名誉教授の松山宏や、
吉川弘文館の『国史大辞典』、平凡社の『日本歴史地名大系』の編集者にでも手紙を送って主張してくれ

『国史大辞典』は松山宏の『守護城下町の研究』等を元に、
『日本歴史地名大系』は『塩尻』の記述を元に、
下津を尾張の守護所として記載している。
206人間七七四年:2014/04/03(木) 08:39:56.77 ID:1bTRx1pE
織田が京兆と呼ばれる右京や左京の職に付いたこと自体がそもそも無いからそれはあり得ない。
207人間七七四年:2014/04/03(木) 11:42:33.15 ID:gZphh5dA
京兆は京職の唐名異称であって、そもそも右京大夫・左京大夫のような特定の官位に対応していない
この場合は「下津の長官」程度の地位を大袈裟に「京兆」と表現していて、
すでに武家官位の走りが始まっている

てか文句あるのなら国重要文化財の妙興寺文書は捏造だと、
松山宏や妙興寺、『新編一宮市史 資料編 5』の編集者に訴えろよ
208人間七七四年:2014/04/03(木) 16:45:54.74 ID:QxJFPsRy
当時の尾張は大国

スレ糸冬
209人間七七四年:2014/04/03(木) 18:56:57.81 ID:atFUHV7N
桶狭間の頃の信長って尾張半国しか持ってなかったし
それで各砦と出撃した部隊合わせると5000以上の兵力でしょ?
尾張一国で1万、美濃を合わせば2万近いよね?
210人間七七四年:2014/04/04(金) 08:11:12.04 ID:tXLygLG1
>>208
大国でも纏まりがなければ烏合の衆さ
211人間七七四年:2014/04/04(金) 08:13:59.86 ID:Tuu646wi
国府と国衙は微妙に違うんだよなぁ?国衙領は中島郡内と言う事なら守護所が
下津で納得。守護所は国衙の近隣に営まれると書かれている。妙興寺、頓聴寺なども
中島郡内。

国司や守護者が尾張に来る場合は中島郡に足を運んでいたと言う事。
212人間七七四年:2014/04/04(金) 08:28:14.91 ID:i5SN4FHa
京兆と左京や右京は対応している。
対応してないと主張するなら、具体的に誰が対応せずにそう呼ばれていたのか一次史料根拠で書いてくれ。
「下津の長官」程度の地位を大袈裟に「京兆」と表現したと妄想願望を書いたところでそこに証拠が一切無いのに書いてて気づかないのかね?
213人間七七四年:2014/04/04(金) 11:04:08.47 ID:9AVItHZO
>>212
知らんがな

事実として妙興寺文書には斯波からの尾張での雑務を指示する手紙が何通か残っていて、
宛先には下津京兆と書かれている

で、これを松山宏は、織田常竹のことだと『守護城下町の研究』の中で述べている

文句があるのなら、松山宏かその弟子に読解力がないと訴えるか、
妙興寺文書に収録されている手紙が偽物だとか、勝手に主張しろよ
あと松山宏の研究を引用して、全国の守護所の場所を掲載している『国史大辞典』にでも文句を言ったら?
214人間七七四年:2014/04/04(金) 11:55:11.86 ID:Je+YDBNq
斯波武衛家ディスってんの?
215人間七七四年:2014/04/04(金) 16:34:59.81 ID:3at810gU
いろいろ有るだろうけど、チャンスを逃さない行動力、あの強大な今川に立ち向かう勇気、ダメなときは一目散に逃げる速さ、強いものには腰を折る柔軟さ、弱い者には強く出る傲慢さ、でないと武将としては問題で下の者が恐れなくなる、信長は理想的。
216人間七七四年:2014/04/04(金) 20:04:16.68 ID:gKSEKlrO
細川京兆家と織田が同格になるわけねーだろ・・・・馬鹿すぎワロスw
217人間七七四年:2014/04/04(金) 20:35:21.68 ID:3L4uTT4u
>>215
信長より一条兼定の方が戦国大名には向いている。次点で小田氏治
218人間七七四年:2014/04/04(金) 21:02:38.04 ID:Tuu646wi
織田弾正忠家(織田信定)や織田信秀が居城し抑えていたのは中島郡と西海部郡だろう
勝幡城の正式住所地は中島郡平和町六輪字城之内で日光川と三宅川の合流する三角州の北側。
219人間七七四年:2014/04/04(金) 22:24:46.11 ID:gKSEKlrO
幕府四管領家
細川京兆家
織田京兆家wwwwwwwwwwwwwwww

斯波武衛家
畠山金吾家
220人間七七四年:2014/04/04(金) 22:58:33.08 ID:Tuu646wi
織田家が愛知郡に進出したのは敏定末期、信定初頭期。
221人間七七四年:2014/04/05(土) 00:16:27.69 ID:ASLneBkv
>>213
織田家が京兆と斯波家から呼ばれていたなら
そもそも織田家の方が斯波家よりも上位権力者になってるじゃん・・・
そうだとすれば守護が織田で斯波が守護代でないと位階上おかしい。
222人間七七四年:2014/04/05(土) 00:46:41.86 ID:Ue8degdI
>221
斯波義重の官位は従三位右兵衛督
織田常竹の官位は左京亮(従五位下相当)なんだから、問題ないだろ

てか左京大夫・右京大夫の唐名が京兆尹で、
左京亮・右京亮の唐名が京兆少尹なんだから、
斯波義重が敬意を払って左京亮の地位の所司代に対して京兆と記したことに、
そもそも何ら矛盾がなかったんだな
223人間七七四年:2014/04/05(土) 00:49:37.24 ID:Ue8degdI
所司代じゃねえや
守護代
224人間七七四年:2014/04/05(土) 08:31:28.49 ID:wsGqbFqI
はい嘘乙

織田常竹の官位は左京亮になったとする記録自体が存在しません。
225人間七七四年:2014/04/05(土) 09:14:11.91 ID:zgdZYQoe
尾張守護所や越前守護所も兼任していたのは京の勘解由小路にあった武衞陣であり、
足利義輝に接収されたことで事実上、斯波氏は滅亡。
尾張の下津に守護所があったとするのはでっち上げの捏造で、それを史料から証明できない。
完全に妄想願望レベル。
そもそも常任っていうのはいたが、
常竹なんて存在しない。
それを勝手に武功夜話が常竹は常松の兄弟って書いてあるから同一人物だとか比肩し始めるバカが現れ、
武功夜話で常竹に子孫がいないと書かれているから記録が存在しないのも隠蔽抹消されたという理論が成り立ってるだけの話。
武功夜話に依存してはじめて常竹が証明されるレベル。
だいたい常竹は尾張又守護代とか言い出してたりするが、そんな職制は足利幕府には存在しないし史料からも確認できない。
226人間七七四年:2014/04/05(土) 09:50:33.65 ID:zgdZYQoe
斯波義重の官位は従三位右兵衛督

これ自体がなぜか尊卑分脈増補改訂ものにしか書いてない謎w
尊卑分脈は信憑性が低くく、改竄や存在しない人物が書いてあり、
先祖のでっち上げ掲揚が行われてるシロモノ。
実際に朝廷の記録に書かれる斯波義重の官位は正五位下だから。
227人間七七四年:2014/04/05(土) 10:11:32.27 ID:5hbTrb3M
結局
>斯波は在京守護だから、尾張に守護所は存在しない。
これは間違いってことでOKだよな。
228人間七七四年:2014/04/05(土) 14:11:34.53 ID:siHmGUgs
>>224-226
織田左京亮は、妙興寺文書の応永9年5月28日「尾張国々衙正税内自守護御方違乱所々事」の書状で初出
同じく常竹の名前は、応永9年12月26日の書状で初出
妙興寺文書には織田常竹による妙興寺への判物も含まれ、
これらは妙興寺文書というれっきとした一次史料によるもの

左京亮が勝手に名乗っていた官位だろうが
少なくとも仲間内の間では左京亮という官位が認められていた

てか何で武功夜話?
常竹と常松の血縁関係なんて、
それこそまともな史料がないしどうでもいいこと

あと、守護が在任せず代わりに守護代などが派遣されている在所は守護所と呼ぶべきじゃない、
あるいは妙興寺文書は捏造だって主張したいんなら、
しかるべき本を出版するか論文投稿でもするかして言えよ
229人間七七四年:2014/04/09(水) 16:12:34.61 ID:GCahyJnA
>>217
信長の野望しかやってないんだなw
230人間七七四年:2014/04/10(木) 05:34:30.66 ID:wLOYic1G
>>229
ナイスなチョイスである
231人間七七四年:2014/04/11(金) 21:33:05.23 ID:koFjgXXe
織田左京亮と織田常竹は同一人物じゃないし。
232人間七七四年:2014/04/11(金) 22:03:02.94 ID:koFjgXXe
そもそも守護代織田常松は在京守護代であり尾張守護所どころか
尾張守護代所すら史料皆無。

沙彌常竹=織田常竹なんてトンデモ解釈そのもの
それどころか織田左京亮ですら何者かよくわからんのに
さらなる飛躍で織田左京亮=沙彌常竹なんて論理飛躍もいいところ。
ガチでキモい捏造。何でもかんでも都合よく比肩させる昔の郷土史研究家かっつーのw
233人間七七四年:2014/04/12(土) 07:15:20.31 ID:8/7OOpz/
京や越前国では郷土史と同じ見識。
234人間七七四年:2014/04/12(土) 15:52:46.93 ID:vojIGtwq
>>231-232
沙彌というのは、応永10年前後に手紙を書く時の流行りの名乗りで、
妙興寺文書に収録されている応永10年前後のほとんどすべてが、
沙彌+花押(斯波重重)
沙彌+花押(織田常竹)、沙彌常竹+花押(織田常竹)
沙彌+花押(織田常松)
というスタイルで記述されている

花押の主に関しては、妙興寺文書に収録されていない分を含め、
複数の手紙を比較することで全て同定できている

ついでに織田左京亮への手紙(>>205)を妙興寺文書で確認したら、
正しくは応永18年2月19日に織田常松から織田常竹へ出された手紙で、
差出人は「常松+花押(織田常松)」
宛先は「京兆参下松へ」

妙興寺文書には斯波重重、織田常竹、織田常松の手紙が
合計50通ほど収録されているが、
「京兆参下松へ」以外に常竹宛てで使われている宛先は
「織田左京亮入道殿」、途中から「織田出雲入道殿」に変わっている
235人間七七四年:2014/04/12(土) 15:54:53.60 ID:vojIGtwq
>>234
書き間違えた
×下松
○下津

なお「織田常竹」と自称している書状は一つもないが、
妙興寺文書収録の書状は、「織田左京亮」宛の手紙、
「常竹+花押」による書状や注文書・判物等の内容が、
すべて妙興寺に関する土地問題で繋がっている
官位を名乗らない人の場合は「平野左衛門太郎信徳+(花押)」
のように氏名をセットで差出人として記述しているから、
常竹はそれないに地位の高い人で、
さらに斯波重重や織田常松からの指示の内容と、
常竹が妙興寺に発してる書状の内容が一致していることから、
織田左京亮=常竹と同定されている

それでも常竹が織田じゃない別人と主張したいのなら、
だったらそう新説でも主張して論文を書けよ
236人間七七四年:2014/04/12(土) 16:24:22.59 ID:vojIGtwq
てかさ「一次史料がない」とか書きながら、
本当に、研究書やそこからの引用に目を通しているのか?

妙興寺文書の内容は自分でも先週まで元文献はチェックしてなかったけど、
『新編一宮市史 資料編 第5』に活字化されているから確認すれば分かる

自分も活字化された妙興寺文書に目を通したのは先週だが、
それ以前に書いた内容は、奈良大の松山宏が書いた『守護城下町の研究』からの受け売りで、
元々は『国史大辞典』にまとめられている守護所の表から引用した

守護所が尾張にはなかったと主張したいんなら、
それこそそう主張している史家・本・論文でも挙げてくれるか、
あるいはそういう論文をどっかに投稿したとか言ってくれない限り、
こっちも何の根拠で主張しているのかさっぱり分からない

それに武功夜話に織田常竹なんて載っていたか(>>225)?

武功夜話に関しては、一応下のスレッドの
931-933、944-947、950、952、958-960、966-968を書いたのは自分だし、
調べようと思えば図書館で平日に調べられるけど、
自分の主張を通したいから勝手に武功夜話に載っているという話を書いてないか?

武功夜話は偽書?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169263287/
237人間七七四年:2014/04/12(土) 16:39:57.79 ID:aMkSvscG
はいはい完全に都合よく我田引水してるだけで
無茶苦茶。郷土研究家レベルなら、あぁそうですかw飛ばし記事乙でスルーするレベル。
そもそも沙彌というのは、応永10年前後に手紙を書く時の流行りの名乗りってのがもうデタラメw
沙彌は仏門の修行に入って間もない初心者って意味であり、
永享でも六角満綱がただ単に沙彌とだけ署名してるし、
信長時代に入っても六角承偵が天正に入ってから沙彌承偵と名乗ってるなど、
特に六角家において使われ続けている。
そういうことすら知らないのだなw
238人間七七四年:2014/04/12(土) 16:50:45.88 ID:vojIGtwq
>>237
実際に妙興寺文書に目を通せよ

応永10年前後の手紙は、実際には仏門にも入っていないにも関わらず、
ことごとく皆沙彌を名乗っているのに、
応永20年前後からは同じ人間が名乗るを止めている
239人間七七四年:2014/04/12(土) 23:33:00.96 ID:9abCBiCA
何でも捏造とか言っちゃう奴の相手なんてしたって無駄w
240人間七七四年:2014/04/13(日) 14:45:27.91 ID:FQJoI0T7
実際は六角氏が沙彌と署名しているのを勝手に織田だと主張してるだけじゃねーのw
妙興寺の尾張での領土だからと言って六角氏じゃない証拠にはならんし。
241人間七七四年:2014/04/14(月) 07:01:39.06 ID:OCPvf6fV
どこから六角氏が出て来るんだw
242人間七七四年:2014/04/15(火) 23:57:10.06 ID:q0BauLrS
尾張の荘園・国衙領と熱田社


http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-732-8.htm
243人間七七四年:2014/04/26(土) 20:10:16.97 ID:7v+7/Hor
下津出身なのは俺だ
244人間七七四年:2014/04/30(水) 01:21:17.15 ID:mTeUVmqg
尾張八郡覚書帳による、1671年(寛文11年)の尾張国内の概高(尾張藩内でのみ使っていた実高)と
領民人口・馬・牛の数
なお本史料での領民人口は寺社領の人口を含むかどうかは不明

尾張八郡合計概高:71万7511石9斗1升、領民人口37万5918人、馬15760疋、牛1986疋
(本田63万1528石余、新田7万8800石余、高外寺社領・伝馬給・船頭給・車田7182石余)

愛知郡:10万8806石7斗9升1合、領民人口5万9649人、馬2128疋、牛58疋
(本田9万5308石余、新田1万1679石余、高外寺社領・伝馬給1819石余)
春日井郡:14万4930石1斗7升4合、領民人口6万6131人、馬3038疋、牛24疋
(本田13万2899石余、新田1万1159石余、高外寺社領871石余)
丹羽郡:6万9809石1斗9升8合、領民人口3万9693人、馬1838疋、牛4疋
(本田6万6128石余、新田2622石余、高外寺社領1057石余)
葉栗郡:1万8703石8斗2升5合、領民人口1万3179人、馬149疋
(本田1万7608石余、新田863石余、高外寺社領231石)
中嶋郡:12万2433石4斗7升0合、領民人口5万7275人、馬2871疋、牛2疋
(本田11万1387石余、新田1万0424石余、高外寺社領621石余)
海東郡:12万1957石2斗9升4合、領民人口4万4522人、馬2393疋、牛5疋
(本田10万7045石余、新田1万2842石余、高外寺社領・船頭給2069石余)
海西郡:3万9568石6斗0升8合、領民人口1万8095人、馬1251疋、牛20疋
(本田1万4190石余、新田2万5269石余、高外寺社領・船頭給・車田108石余)
知多郡:9万1302石5斗4升9合、領民人口7万7374人、馬2092疋、牛1873疋
(本田8万6959石余、新田3939石余、高外寺社領403石余)
245人間七七四年:2014/04/30(水) 01:26:54.25 ID:mTeUVmqg
なおここでいう領民人口には武家人口・寺社方人口はもとより含まないが、
史料内では村数・戸数・人口と集計していることから、
名古屋城下をはじめとする町方の人口も含んでいないと思われる
246人間七七四年:2014/04/30(水) 22:14:15.27 ID:zz3THpVy
【下津】

尾張国中島郡の地名で,現在の愛知県稲沢市の五条川・青木川沿いにある。折津・折戸とも記される。
古来からの交通の要地で,《源平盛衰記》には下津宿がみえている。鎌倉時代以降は黒田(くろだ)(愛知県一宮市木曾川町)と
萱津(かやづ)(現,愛知県あま市)の間の鎌倉街道の宿駅で,渡・町屋・市があり,特に市は五日市や国衙(こくが)職を持つ
醍醐寺三宝院支配下の国衙下津市が立てられていた。
247人間七七四年:2014/05/05(月) 12:33:15.08 ID:n165yUOG
下津城は今の下津小学校のあたりにあったという。
248人間七七四年:2014/05/06(火) 11:40:49.68 ID:taoJZq6K
下津付近には寺院が集中していた。
249人間七七四年:2014/05/06(火) 12:55:32.18 ID:IvrudrFm
下津,下津ってうるせぇなコイツ。
地元愛もいい加減にしろ
250人間七七四年:2014/05/07(水) 08:27:16.72 ID:40q/7xlT
【清州城】

応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。
または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である【下津城】の別郭として建てられる。
251人間七七四年:2014/05/08(木) 21:58:15.20 ID:wt8wLrB5
清州城が建ったのは平成元年だろ?
252人間七七四年:2014/05/09(金) 21:34:00.08 ID:ZPMnI6BE
今月5月は織田信長公の生誕の月。天文3年5月12日(西暦6月23日)

誕生から480年の節目の年。http://www.ooutsuke.org/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E6%83%85%E5%A0%B1/
253人間七七四年:2014/05/14(水) 19:05:20.77 ID:I3Ym/8hp
5月14日中日新聞社会面

信長は勝幡城生まれ。「信長の城」の著者 千田嘉博・奈良大学学長

信長の生まれは勝幡城以外は考えにくい。

http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=179161&comment_sub_id=0&category_id=113&from=news&category_list=113
254人間七七四年
さくっと勝ってない苦労してる