戦国ちょっと悪い話28

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/09/18(日) 11:47:10.08 ID:mfobzDzL
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
 
             / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞
             | ノノ)ノ)))    <_Li(("))_>   |ノ从从|    ( ノノ( ノ)))    ( *((")) _)
             / │^ヮ゚ノ|     |│‘ヮ゚ノ|    ││゚σ゚ノ|   丿|│゚ヮ゚ノ|    丿|| ‘ヮ゚ノ| 
               おね      茶々       五徳       まつ      お市

             /⌒⌒丶    / ̄ ̄ヽ     /⌒⌒丶,    / ヾ丶     /⌒⌒丶
            |ノノ †)ノ)|    |ノ从从 |    | イ从|从)    |ノ从从|    ヽ从 从 _ノ
            丿ノ‘ヮ゚ノ(,    || ´ω`ノ|.   丿!#゚Д゚ノ|    ││;-;ノ|     ( ゚ヮ゚ )アーッ
             ガラシャ     新庄局      小松       亀寿       蘭丸

             /⌒⌒丶   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ヾ丶オ     / ̄ ̄ヽ
             ( ノノ(-))))    <_Liミν )    |ノ从从|    ( ノノ)ノ)))タ    <_Li(("))_>
             ノ│゚Д゚ノ(    丿|│‘ヮ゚ノ|    ││ - ノ|    丿│^ヮ゚ノ|ベ   丿|│゚ヮ゚ノ|
              ァ千代      お江       瀬名       義姫       帰蝶

3人間七七四年:2011/09/18(日) 15:15:17.88 ID:YXQkCAdg
衆道ネタや議論はこちらで

★★★戦国時代の衆道★★★
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153415844/
4人間七七四年:2011/09/18(日) 15:34:19.87 ID:HIjefIxw
>>1乙です
51/2:2011/09/18(日) 20:31:46.33 ID:e89RMUG8
ある日、真田信之のもとに来客があり、信之が客間で客を応接している間に、控えの間に料理が用意された。
料理の配膳が終り、あとは信之の合図を待つばかりとなった時、ひとりの小姓が小壷に入ったものに目をつけた。

「オレの大好きな、苦うるか(鮎のワタの塩辛)があるじゃないか。・・・オホン、ちょ、ちょっとだけなら・・・」

好物を前にガマンできなくなった小姓は、壷のフタを開けてうるかを一つつまみ、少しだけかじった
・・・つもりだったが、まだ良く漬かっていなかったのか、食いちぎることが出来なかった。

ガ ラ ッ
「おーい、そろそろ良いぞ、料理を運んで・・・・・・(怒)」
「む〜〜〜っ!!」←まだ食いちぎれない

壷を抱えて固まる小姓を前に、信之は脇差を抜き放った。
「ほ、ほの〜っ!ほゆるひほ―――!!(と、殿ーっ!お許しを―――!!)」


信之の脇差が、一閃した。


と、同時に、うるかが壷の口から真っ二つに斬り放された。半分になったうるかを呑み込んだ小姓は、平伏した。

「あわて者め。これはな、こうやって切り整え、食べるものだ。」
そう言って信之は、何事も無かったかのように客間に戻って行った。
62/2:2011/09/18(日) 20:32:52.26 ID:e89RMUG8
江戸在府中に遠乗りに出て遅くなった真田伊豆守信之は、世田谷は等々力村の名主・庄右衛門宅に一泊した。
翌日、名主の心づくしにすっかり満足した信之は、庄右衛門に言った。

「一夜、機嫌良く過ごさせてもらった。礼をさせてもらおう、何か望みはあるか?」
「はい、では・・・今後、伊豆守様のお屋敷中全ての下のものの、掃除をお任せくださいませ。」

要は『オタクの下水処理利権をください』と言うのだ。
引き取り料がもらえて肥やしも手に入る、庄右衛門にとっては一石二鳥の、うまい手である。

「よかろう。では、証文をとらせん。」一夜の接待に対しては、少々虫の良い願いを気軽に応じた信之は、
白無地の扇子に何やら書き付け、庄右衛門に渡した。
確認のために庄右衛門が開いて見ると、そこには一句のみが書かれていた。


“我が宿の くそはおぬしに 呉れる也 心おきなく とれや庄右衛門”


「こ、これは・・・その・・・あ、有難く頂戴・・・」
「うむ。」

残念ながら、のちに扇は火災で焼失してしまったが、真田藩邸の下水処理は、一貫して庄右衛門の子孫が
怠らず請け負ったという。(以上、仰応貴録より)


真田のお兄ちゃんだって、たまには誰かを驚かせたり、胃を痛くさせてやりたいのだ。
7人間七七四年:2011/09/18(日) 20:38:14.14 ID:HIjefIxw
信之兄さんは、家族関連が目立つけど
こういう家臣や他の人との交流の逸話も多いよなあ
それにしても兄さん、誠実なのに強引かつストレートすぎるw
いい話でも良さそうとは思ったけど、兄さんの人が悪い話か
8人間七七四年:2011/09/18(日) 20:49:33.62 ID:ub8PiP+v
実際海千山千だからねお兄ちゃんは
9人間七七四年:2011/09/18(日) 21:20:29.80 ID:UWKsy/if
あの身内連中と並べちゃうから常識人に見えるけど、単品で見るとそれなりにw
10人間七七四年:2011/09/18(日) 21:28:05.05 ID:HIjefIxw
あの昌幸に比べれば、まだ常識人な息子
くらいの見方なんだろうか
11人間七七四年:2011/09/19(月) 00:36:29.93 ID:Whc1RkJe
>>5
斬られるのは小姓なのかとドキドキした
12人間七七四年:2011/09/19(月) 00:47:11.74 ID:tdbeXNJx
信長さまなら斬ってるなw
13人間七七四年:2011/09/19(月) 07:31:05.67 ID:EIj5SUfA
奥方様に見つからなくて良かったよねw
14人間七七四年:2011/09/19(月) 08:13:51.91 ID:a/rh9W9b
安定の東のミスターパーフェクト
15人間七七四年:2011/09/19(月) 10:04:33.84 ID:1h24HmoE
>>6

一句ではなく一首ではなかろうか?
16人間七七四年:2011/09/19(月) 10:29:58.36 ID:Pn/tgOVt
>>5
>と、同時に、うるかが壷の口から真っ二つに斬り放された

何気なくスゲエことやってんな
小姓の口の先ブッタ切ったってことだろ?w
17人間七七四年:2011/09/19(月) 10:54:55.22 ID:HLSZEFxf
脇差に苦うるかの臭いが移らなければいいけど、と余計な心配を
18人間七七四年:2011/09/19(月) 12:52:52.23 ID:gu90hm1/
例によって、あの人からあの人にお手紙ついた

「この間もらったお茶、セキが出て体調悪かったもんで手を付けられなかったけど、昨夜飲んでみました。
他のお茶より色あいが一段と良く、味もこれほど違うものかと驚きました。茶入はお返しします。

先日、淀川を舟で上った時、ウチの馬丁二人が人前でケンカおっ始めたんで、二人とも監禁して置いたけど
試し斬りしたい新刀も無いので、もし試したい刀があったら言って下さい。コイツら、そっちに送ります。

(我々馬取共、喧嘩を仕候。両人ながらとらへ置候へ共、此方ニためし可申刀一ツも無之候。
若ためされ度刀候ハバ、両人ともニそれへひかせ進之候)

六月二十六日 越中殿(忠利)へ 三斎 」


敬老の日に、七十歳にして殺る気マンマンな三斎様を。お父さんの手紙には大抵返信してる忠利さんが
この件だけスルーしてるのが気になる。まあ、一応同じ時期に

三歳「あれ〜?そっちに書き損じの手紙、送ってない?もし届いてたら、この手紙と差換えといて。」
忠利「いえ、来てませんよ父上…」

てな、年齢相応のやり取りもしてますが。
19人間七七四年:2011/09/19(月) 12:56:55.10 ID:zCkSkD3A
こんな小姓斬り捨てないと駄目だろwww
20人間七七四年:2011/09/19(月) 15:38:26.04 ID:Q6ptwF1n
信之の小姓の話に「あれ?いい話じゃね?」と思ってしまった
21人間七七四年:2011/09/19(月) 18:05:20.90 ID:sS7P7p0a
バカバカしすぎて斬る気にもならんかったんだろうw
22人間七七四年:2011/09/19(月) 18:41:08.68 ID:PWrISszu
>>2

蘭丸一択とか、お前なにしてんだよ
23人間七七四年:2011/09/19(月) 19:51:31.95 ID:Qlu3/Ul5
>>18
そんな巻き藁感覚で馬丁送りますっつーてもなあ…
かの庭師の例もあるし、下っ端にとっちゃかなりのブラック職場なんじゃね細川家?
24人間七七四年:2011/09/19(月) 19:55:31.98 ID:d3E8wXoX
関ヶ原を30〜40代に経験した世代は、多かれ少なかれそういうもんじゃないかな
子供世代や後世の人間がドン引きするようなことが日常の一風景になっている
25人間七七四年:2011/09/19(月) 20:03:08.26 ID:ds6CTBIr
関ヶ原どころか元禄あたりまでそんな感じ。
で、綱吉がものすごい勢いで「命は大切」って啓蒙して、当時の一般庶民から非常にうざがられたw
26人間七七四年:2011/09/19(月) 20:05:14.98 ID:sS7P7p0a
命を粗末にする奴は死刑だっ!
27人間七七四年:2011/09/19(月) 20:12:19.47 ID:u2b41KZT
>>25
この前BSで綱吉特集しててさ
ちょっと神経質すぎるけど、真面目な人だったんだなあとしみじみしたよ
そろそろ教科書にも、生類憐れみの令の本当の理由を書くべきだ
28人間七七四年:2011/09/19(月) 20:34:56.70 ID:rkXyz5RE
戦国の遺風が完全に息の根を止められるのが綱吉の時代だからなあ。
29人間七七四年:2011/09/19(月) 21:08:09.90 ID:+2EZZdMB
そういや生類憐れみの令以前は江戸には犬一匹いなかったんだってな、住人が食い尽くしたんで

三楽斎様が草葉の影で泣いてますよ……
30人間七七四年:2011/09/20(火) 00:37:15.72 ID:FOKRKaW/
あくまで伝承


天正10年(1582)2月の頃、一人の山伏が殿島(現長野県伊那市)で神坂峠への道を村人熊谷弁治に訪ねた
詳細は不明だが会話の流れで口論となり…

『たった一つの単純な答えだ。テメーは俺を怒らせた』

熊谷弁治、山伏を打殺
山伏の遺体は街道脇に打ち捨てられた

その後間もなく、近隣の村で疾患で苦しむ人が続出した
原因は不明、医者もお手上げ状態

ある晩、疾患に苦しむ一人の村人の枕元に霊が立ち
「我は武田信豊。キチンと供養してくれ。(超意訳)」
と言って消えた

弁治は思い出した
ぶっ殺した山伏は武田の落武者を名乗っていた事を
自分が熊谷直実の子孫であり、武田は源氏の直系である事を

住人達が山伏の遺骨を探し出し社を造って安置すると疾患は止んだ

現在、同地にある大平神社がその社であり、御神体は‘頭蓋骨’である
史実資料では信豊は小諸で自害しており、その首は勝頼や仁科盛信の首と共に京都で晒されたとある

伝承の真偽はともかく武田一族の肖像画の裏付けやDNA採取が可能な遺物の可能性があるのだが…
医学的な調査はされていない

同神社は‘参れば頭が良くなる’とされている
31人間七七四年:2011/09/20(火) 17:12:16.88 ID:/o4M+j+a
>>27
正直、綱吉は今リバウンドの最中だと思うから、評価が定まるのはもうちょっと後だと思うな

>>30
真偽はともかくとして、やたらと血の気が多いな、戦国時代の村人はw
32人間七七四年:2011/09/20(火) 23:06:18.00 ID:cZ6UPRIg
江戸初期に成立したとされる軍記物『大阪物語』より、小早川秀秋の寝返りの模様を見てみよう。

『さて、左衛門太夫(福島正則)は関ヶ原東の入り口、南の山の腰に人数を置いて、物見の家臣二人に
「敵の人数の立てようを見て参れ」
と命じ、る。帰還した彼らは

「先ず南の端、西の川端に小川左馬(祐忠の事か?)、それより北に続いて脇坂中書(安治)、その北に
大谷刑部(吉継)、北東に小西摂津守(行長)、少し山を隔てて戸田武蔵(勝成)、また北東に続いて
治部少輔(石田三成)、島津兄弟」

そのように諸将が並み居る状況を報告した。

それから、先ず左衛門太夫(福島正則)、井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)などは自分たちの軍勢を後に置いて、
若党だけを2,3人ずつ召し連れ、金吾中納言(小早川秀秋)の陣所近くまで向かい、そこから使いを立てた。
使いは秀秋に問う

「別心の約束はどうなったのでしょうか?いささか遅くなっています。
ただし、もし別心の気持ちが翻ったのであるなら、どうぞ我々に向かって討ちかかってきて下さい。」

これに秀秋
「御使がそう思うのも尤もである。しかし今朝から降った雨で霧が深く、旗印の見分けすらつかない状況だったため
このように遅くなってしまったのだ。」

と、別心を翻さない証拠として、福島らの使いに自分の使いを添えて遣わした。
脇坂や小川もこのことを聞きつけると、東軍への降参を申し出た。

その使いが帰り着くより前に、小早川隊は早々と大谷吉継の陣に討ち掛かった。』


『問鉄砲』などの逸話が出来る以前の、小早川寝返りの模様である。
33人間七七四年:2011/09/21(水) 11:25:28.37 ID:BaI79mr5
この話を見る限り、優柔不断というよりはむしろ冷静に状況を計算してるって感じだな秀秋
いつ頃からダメ武将としてディスられるようになったんだろう
34人間七七四年:2011/09/21(水) 12:29:16.93 ID:KGFvLPD2
朝鮮出兵で馬をぶん捕って来たってどっかで聞いたんだけど
中国やモンゴル辺りの馬も当時は小さかったのかな?
35人間七七四年:2011/09/21(水) 12:29:56.22 ID:KGFvLPD2
誤爆失礼しました
36人間七七四年:2011/09/21(水) 12:55:09.76 ID:a8I3xrnc
朝鮮出兵で分捕って来られた姜が「看羊録」で
秀秋のことを性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、兄たちに及ばない
とか書いているそうだ
(東洋文庫で読んだけど、手元にないからコピペ)
藤原惺窩経由の批評だろうから、豊臣の血縁にはバイアス入っているかもしれないが
37人間七七四年:2011/09/21(水) 13:12:17.51 ID:FbT+FuP3
朝鮮役の頃の秀秋って15,6だしなあ。関ヶ原ですら18歳だし。
38人間七七四年:2011/09/21(水) 13:41:10.75 ID:I3LYrDQT
>>36
勝俊兄さんが意外と高評価なんだっけ?
39人間七七四年:2011/09/21(水) 13:55:50.70 ID:5uUWxJkp
木下長嘯子と惺窩さんの絡みは、司馬遼太郎の「関ヶ原」にもでてくるくらいだからな〜
40人間七七四年:2011/09/21(水) 21:00:55.23 ID:cO/iIDeX
「徳川家の大功労者」

関ヶ原の合戦後、天下が治まってから徳川家康は本多正信を呼び出して
「石田三成の子が妙心寺で寺童をしているようだがどのように処置したのか」
と正信に問うと正信は
「はい、特別に許すべきだと考えて処置しました
何故なら三成が理由もなく戦いを起こし、西国の大名を誘って打ち負けたからこそ日本全てが徳川家に帰服しました
そう考えれば、三成こそ徳川家にとって一番の功労者と言えるからです」
家康もその理屈を一理あるとし三成の遺児を許す事にしたそうな


三成への皮肉にしか聞こえないのでこっちへ
41人間七七四年:2011/09/21(水) 21:08:32.03 ID:XYztUoVD
皮肉っちゅーか 皮肉そのものだ
42人間七七四年:2011/09/21(水) 21:18:23.66 ID:+nPfdF92
43人間七七四年:2011/09/21(水) 21:36:56.96 ID:yVi7S/h/
知らん
44人間七七四年:2011/09/21(水) 21:49:34.41 ID:+nPfdF92
指摘するのは無粋だったか
結構似たような話でも、まとめに入っていることもあるし
45人間七七四年:2011/09/21(水) 21:52:55.97 ID:XYztUoVD
関ヶ原の戦いって各地で色んなことが起こってて面白いのに
あまり細々とした所は取り上げられないので勿体無いな
関ヶ原合戦トリビアとか面白そう
46人間七七四年:2011/09/21(水) 21:56:47.14 ID:cO/iIDeX
じゃあこれはどうだろう
安国寺恵瓊の項目が見つからなかったからないとは思うが…

小早川隆景が毛利輝元に
「私は安国寺恵瓊と太閤殿下の面前に同席した事がある。
その時に話がたまたま大政所様のご逝去の事に及んだので太閤は涙を流された、すると恵瓊も同じように涙を流した、
別に悲しみがあった訳ではなく太閤へのへつらいの涙である、太閤はそれを見抜けずに恵瓊への親愛を深められた。
もし太閤が亡くなられたらおそらくあの僧が国を誤らせるであろう。」と語った


隆景が遺言に恵瓊を用いるなと残したのにはこういう背景があったという話
47人間七七四年:2011/09/21(水) 22:51:51.23 ID:BAAMQKeQ
流石の人誑し人材鑑定士もカーチャン死んだ悲しさで目が曇ったのかね
48人間七七四年:2011/09/21(水) 23:06:02.43 ID:YAn3gnLd
間違いなくこの件で秀吉は狂っちゃったね
ここから妄想性人格障害が酷くなっていくんだ。
49人間七七四年:2011/09/22(木) 00:31:42.86 ID:U/Fr1EFI
作左がファイヤーしてたらどうなっていたことか…
50人間七七四年:2011/09/22(木) 08:14:21.76 ID:qWPr6evw
姉朝日姫、弟秀長、息子鶴松、母大政所、と3年連続で立て続けに家族が逝っちゃったからな
そりゃ天下人でさえ辛さで頭もおかしくなるわ
51人間七七四年:2011/09/22(木) 08:25:40.34 ID:PhWsnRKn
>>32
元養子の分際で冷静に徳川に寝返るとは人間のクズにもほどがある!
52人間七七四年:2011/09/22(木) 09:18:58.66 ID:Eveqjyjp
>>51
養子に来るような奴を無闇に信じる奴こそ頭がおかしい。
母方の里では米糠を二升買う金が有れば養子になんか行くな
って教えがある。

まして、元ってなら、どんだけ怨んでるやらw
53人間七七四年:2011/09/22(木) 09:42:32.98 ID:XjjlX9T0
寝返るも何も元々徳川寄りだろ秀秋は
54人間七七四年:2011/09/22(木) 09:55:43.23 ID:pGhSMI5I
西軍に一旦寝返ったわけですね^^
55人間七七四年:2011/09/22(木) 10:18:45.61 ID:Eveqjyjp
豊臣方の方も中納言の官位で釣ったって噂もあったんじゃね?

まあ、詰んじゃった人生でも最後まで頑張った秀秋君を悪く言う気にはならん
56人間七七四年:2011/09/22(木) 11:16:01.55 ID:o3mG3O20
関白だろ
57人間七七四年:2011/09/22(木) 11:53:18.25 ID:0YrM0OA5
金吾中納言殿も関ヶ原後数年で病死してるからな
小早川家も跡継ぎ無くて断絶だしせつないね
58人間七七四年:2011/09/22(木) 12:17:24.41 ID:PhWsnRKn
養父を裏切った当然の報いである
59人間七七四年:2011/09/22(木) 12:30:07.42 ID:amyDCCB+
長生きしていれば関ヶ原での寝返りの悪名も風化したろうけど、
早死にしたせいで悪評がそのまま確定してしまった印象を受ける
60人間七七四年:2011/09/22(木) 12:35:49.53 ID:4UTk1Rmq
西軍は豊臣方じゃなくて石田方(名目上は毛利方)だし
どっちに付こうが勝手
61人間七七四年:2011/09/22(木) 13:28:21.14 ID:A/PC3w+r
金吾はあの肖像画がまたイメージダウンの原因のような気が
でもあれ、北政所がずっと大事に手元に置いていた肖像画だったときいて、また印象変わったけど
62人間七七四年:2011/09/22(木) 14:01:05.83 ID:Iv38V+0w
織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如は
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。

これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。

織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した

「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」

そして自害を覚悟した。その時である!

何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?

天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。


…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。

この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。

そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。
63人間七七四年:2011/09/22(木) 14:13:24.91 ID:PhWsnRKn
宗教って本当にくだらない…
64人間七七四年:2011/09/22(木) 14:13:48.16 ID:4E8OMKHb
滅亡したお家は、その最後の当主や、その時一番権力あった人が批難されるのはどこでも一緒だなあ
65人間七七四年:2011/09/22(木) 18:08:43.65 ID:/BvP5s1Y
>>40
普通なら20万人規模の戦を起こして負ければ、一族皆殺しなんだけどね。
66人間七七四年:2011/09/22(木) 18:24:48.87 ID:+rym/qHz
>>65
三成が豊臣の人間であれば当然そうなるけれど、三成は所詮家来筋だからな。
神輿にはなりえないので脅威にはならないので、
殺すかどうかは勝利者次第。
67人間七七四年:2011/09/22(木) 18:52:17.76 ID:SeXg4Wz7
>>61
肖像画のイメージダウンといえば島津家久(悪)の肖像画もヒドいな
全く歴史知らない人でも性格をいいあてられる完成度の高さ
逆に宇喜多秀家の肖像画はかなりイメージアップに貢献してる
68人間七七四年:2011/09/22(木) 18:57:29.35 ID:l+K94J4D
肖像画といえば、一昨日のなんでも鑑定団で某戦国武将の肖像画が出てた
おもいっきりムスッとした顔だなと思ってたら案の定ngmsだった
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/onair/03.html
69人間七七四年:2011/09/22(木) 19:02:29.33 ID:4E8OMKHb
やめろよー 今、見てるんだからー
70人間七七四年:2011/09/22(木) 19:03:44.95 ID:l+K94J4D
すまん、放送遅れること考慮してなかった
71人間七七四年:2011/09/22(木) 19:51:46.29 ID:4E8OMKHb
いいんだ 月岡芳年はいいよね
http://www.muian.com/muian04/04yositosi0401.htm
これとか
72人間七七四年:2011/09/22(木) 21:36:38.27 ID:yPQSH/T0
>>71
家康カッコイイな
73人間七七四年:2011/09/22(木) 21:45:07.80 ID:4E8OMKHb
今きづいたけど、月岡芳年関係なかった どんだけズレてるんだうちは
>>72
別にきらびやかな衣装も、ポーズ取ってるわけでもないけどカッコイイよね家康
八幡太郎義家の後ろ姿なのにカッコイイとか
74人間七七四年:2011/09/22(木) 21:49:26.39 ID:Fbtukd8+
>>71
なんで謙信はこうなんだろう?w
http://www.muian.com/muian04/04yoshitoshi04025.jpg
75人間七七四年:2011/09/22(木) 22:06:34.06 ID:Ebh8BzY9
一向宗の話で関連して

永正の頃、加賀から越前に勢力の拡大を目指して一向一揆が侵入した。
扇動した坊主は「敵の方へ懸る足は極楽浄土へ参ると思え、引き退く足は無間地獄の底に沈むと思いて、一足も退くべからず」と一揆勢を叱咤した。

対する朝倉氏は朝倉宗滴を大将として派遣、この軍勢を迎え撃つ。数で劣る朝倉勢は奇襲を決行し、この一揆勢を打ち破った。
多くの一揆勢が討ち死にする中、扇動した坊主は加賀へ逃げ帰った。

寺へ戻ると、討ち死にした一揆勢の首領の女房が嘆き悲しんでいるので、
坊主は「ご主人の事なら悲しまれる事はない。きっと往生の素懐を遂げられたであろう」と声をかけた。
これに対して女房は「夫はあなたの教えを守って死にましたから往生は疑いなく、心配はしておりません。ただ坊様が逃げていらっしゃったので無間地獄に堕ちられるのではと心配で、
それで泣いております」と答えた。

坊主は言葉を返すことができなかった。

一揆を扇動した坊さんのばつの悪い話。
76人間七七四年:2011/09/22(木) 22:57:43.51 ID:Kknx7YGF
うむ。
77人間七七四年:2011/09/23(金) 22:49:13.52 ID:aza2SMPG
一条信龍その3
「信龍の影武者たち」

信龍はとにかく傾き者で、二度同じ鎧を具して戦場に出ると言うことがなかった。
鎧だけでなく、兜も刀の拵えも、末は旗指物までコロコロと替えた。

一度使った武具はどうしてしまったかというと、与力や家臣や近隣領主に気前よく下げ渡した。
やっていることがほとんど貴族であるが、甲斐は決して豊かな国ではないだけに、新品同様の武具はいつも喜ばれた。

しかし、問題が一つあった。
「……お前、手甲だけやたら派手じゃね?」
「そういうお前も、前立だけキンキラキンで浮いてね?」
「……。」
「……。」
「袖も新しくしつらえるか……。」
「信龍様の兜っぽくないとこれ、似合わないよね……。」

こうして、信龍の周囲の侍は少しずつ信龍化していった。
そして戦場。

「や、あれに見える武者は噂に聞く一条信龍!」
「ぬかったな、供回りも少ないぞ、かかれかかれ!」

一条殿討ち死にの報が戦場を駆け巡ることは良くあったが、いずれも別人だったという。
特に設楽が原では四人もの信龍が討ち取られた(信龍は殿を務めたとも言われている)。

たぶん、当人には自覚がなかったと思われる。

信龍、ちょっと迷惑な話。
78人間七七四年:2011/09/23(金) 23:22:00.89 ID:IfO9sk/9
影武者が量産されてたのかw
79人間七七四年:2011/09/24(土) 00:05:50.98 ID:bO7bDoRC
>一条殿討ち死にの報が戦場を駆け巡ることは良くあったが
クソワラタ
80人間七七四年:2011/09/24(土) 00:11:50.91 ID:EeDrFUm2
また一条殿が討ち死になされたのか…とか言われてたのか
81人間七七四年:2011/09/24(土) 00:12:18.40 ID:KVHuYvTm
量産型一条信龍wwwww
82人間七七四年:2011/09/24(土) 00:18:30.78 ID:DOh4TV3S
通常の三倍の強さの一条信龍もいるんかね?
83人間七七四年:2011/09/24(土) 01:15:44.03 ID:i/QpKUqX
金の鬼瓦の話もあるけど、この人の無邪気な迷惑さは異常だよねwwwww

前線突撃型だったらしいから、敵にも派手な風体が知られていたんだろうね。
しかし旗指物までころころ変えるってどうなんだろう。ほんとに悪意ないのかな。
84人間七七四年:2011/09/24(土) 02:33:40.22 ID:1d7Dcbaa
20万の一揆勢蹴散らす宗滴さんは戦国最強
85人間七七四年:2011/09/24(土) 07:04:37.87 ID:/0X9UYQC
でも武具ってすげえ高いから、ホイホイ下げ渡す一条さんカコイイ
86人間七七四年:2011/09/24(土) 08:21:48.50 ID:tbkh8sET
高級な武具に弱い僕はホイホイ受け取ってしまったのだ
87人間七七四年:2011/09/24(土) 08:37:54.71 ID:nEB1ACg+
そういう高級な武具を身にまとってるとリスクもでかいな
名のある武将と勘違いされて首狙われて標的にされるし
腕に自信なければ下げ渡されても即売りに行かないと命がいくらあっても足りないな
88人間七七四年:2011/09/24(土) 09:07:02.82 ID:74PStUyh
貴方が落としたのは、この金の鬼武蔵ですか?それとも、この銀の鬼武蔵ですか?
89人間七七四年:2011/09/24(土) 09:47:12.73 ID:nc9+6PyN
久々に笑ったが
功績のあった者に武具を下げ渡すのは悪いことじゃないよね

ある意味下げ渡された連中が死ぬほど槍働きをしてたって風にも取れるし
90人間七七四年:2011/09/24(土) 11:20:02.37 ID:vm48iuuF
>>88
三人もいたら信濃が滅んじゃうから。まとめて諏訪湖?にお引き取り願おう

>>89
「下賜するものがなかったら、頑張って風呂を沸かせばいいんだよ」って蒲生さんが言ってた
91人間七七四年:2011/09/24(土) 14:14:57.78 ID:mavwtJ1L
足軽大将「戦場で信龍を1人見たら10人いると思え」
侍大将「死んだ信龍だけが良い信龍」
首実験場「信龍の粗悪品が出回ってます気をつけて下さい」
92人間七七四年:2011/09/24(土) 17:16:54.06 ID:yEMw10MG
山岡「やれやれ、そんな信龍で満足しているようじゃな」
侍大将「なんだあんたは」
山岡「一週間後にここにきてください。本物の信龍を見せてあげますよ」
93人間七七四年:2011/09/24(土) 17:57:07.08 ID:76Kusr+D
>>92
周大人な信玄公を想像したw
94人間七七四年:2011/09/24(土) 19:59:37.72 ID:H+5eINlJ
>>92
究極の信龍ww
95人間七七四年:2011/09/24(土) 20:06:36.51 ID:bwRl4b6n
となると至高の信龍も居るのかw
96人間七七四年:2011/09/24(土) 20:12:28.55 ID:hmdxjQrY
量産型は蒲生の専売特許かと思ってたが、こっちの方が面白いなw
97人間七七四年:2011/09/24(土) 20:17:52.24 ID:eGnqtGOE
苗字は戦場で会っただけじゃわからんからなぁ〜
98人間七七四年:2011/09/24(土) 20:39:22.39 ID:SniT0OrV
家康「ばっかも〜ん、やつが本物の信龍だ!」
99人間七七四年:2011/09/25(日) 09:16:36.56 ID:SRP8QpdN
>>52
ウチん所は一升です。蒲原です。


100人間七七四年:2011/09/25(日) 11:54:09.08 ID:j1Z+Rl3Y
島津家の中間者・孫七が父の四郎右衛門と口論の末、カッとなって父を棒で打ったとの評判が流れた。
評判はたちまち薩摩一円に広がり、島津日新斎の耳にも達した。

「けしからん。速やかに、かの者に罰を与えよ。」
直ちに家臣が派遣されて孫七を斬り殺し、これを埋めて捨てた。報告を受けた日新斎は、激怒した。

「なんという事をしたのだ!

孝行とは、幾万ある行動に先立ち、千の経巻、万の典籍に必ず書かれる人間第一の徳目である。
それを破りし不孝者など、三千の刑法をも用いても、なお余りある。

然るに、なにゆえ刑を軽くしたのだ?今すぐ彼奴の死骸を掘り起こし、額に『不孝』の焼印を押して
道端にさらせ!そうでもせねば、目を驚かし耳に針すれども、忘れて不孝を犯す者が出るわ!!」
(日新菩薩記)


みんなも親孝行しろよ?
101人間七七四年:2011/09/25(日) 11:58:53.89 ID:UteJy8hp
噂でぶち殺して死体まで辱めるとか
流石殺魔
102人間七七四年:2011/09/25(日) 12:15:06.40 ID:f//P728K
島津日新斎みたいな無能なジジイ上司っているよな。
ちゃんと仕事の指示もしないで、あとから文句ばっかり言ってくる奴。

103人間七七四年:2011/09/25(日) 14:00:02.95 ID:dw5O6hrQ
ぶっちゃけ何考えてるのか分かんない
104人間七七四年:2011/09/25(日) 14:48:04.46 ID:nQs2kuxc
本人も言ってるが見せしめにしたかったんだろ?
やられた側はいい皮の面だが
105人間七七四年:2011/09/25(日) 18:34:09.29 ID:OMGZ4mBr
そもそも棒で打ったというのは本当か調べないのか?
106人間七七四年:2011/09/25(日) 18:37:30.56 ID:0/2ng3h+
でも、信龍がこんな天然さんだから勝頼が苦労したんじゃね?
107人間七七四年:2011/09/25(日) 20:13:41.73 ID:22DKcZIr
>>105
元々、殺すリストに入ってて目を付けてたんだろ
日新斎の時代は身内以外は家中国衆共に粛正対象だし
内々で殺して埋めるだけだと名分の無いいつもの暗殺行為になるから
こんな時こそ儒教的な正当性を理由に晒し首にして綱紀粛正を計りたかったんだろうな
ここらへんは曾孫の方が要領が良くなってる、倫理的概念は皆無になったけど
108人間七七四年:2011/09/25(日) 20:28:43.77 ID:T+TDs7ZG
親父は殴られた挙句に息子が獄門じゃたまらんな
為政者の自己満足
109人間七七四年:2011/09/25(日) 22:04:22.92 ID:AQD8nKru
市松さんみたいな人発見w

陶隆房(後に晴賢)は、いりこ酒(ヒレ酒のにぼしバージョン)が山口で大流行したときに、
夜な夜な諸将の主催する酒宴に顔を出してたんだが、ある日、オールで遊んで朝帰りした。
酔いも覚めやらず、寝所の外で鳥の声を聞いていると、家の中から近習が話す声が聞こえてきた。
近習たちは隆房の帰宅に気づいていない様子だった。

「殿はこんな時間まで、どこで何をされているのやら。心配だなあ」
「なに、殿はいりこ酒だ。いりこ酒の隆房様よ!」

馬鹿にされたと思ってカチンときた隆房は、荒々しく障子を開け放つと、脇差を抜いて
「いりこ酒」と言った近習に斬りかかり、反対側の庭まで追い詰めて首を差し出せと迫った。
近習は縁側に上がり「殿の悪口を言ったのではなく、ちょっとふざけただけですが、
そこまでお怒りならどうぞお好きになさってください」と諸肩脱いで首を延べ、
隆房は一も二もなくその首を落としてしまった。

この近習は隆房の乳兄弟で、父親も隆房が赤子のころから養育係として仕えている。
父親を呼んで成り行きを話し、死骸を弔ってやるようにと言うと、父親は息子の遺体を庭に突き落とした。
曰く、「こんな不届き者、私の息子じゃありません。天魔か狐の類でしょう」
この父親、他の人にも悲しみを見せなかったが、夜になるとこらえきれずに涙で枕を濡らした。
それでも、その後も隆房を恨む気配もなく、一途に仕えていたため、
隆房も自分の行いを恥じて、近習を殺したことを悔やんだそうな。

酒癖の悪い主君を持っちゃった家は大変だね。
110人間七七四年:2011/09/25(日) 23:09:16.77 ID:hR4yMktv
>109
乳兄弟を切るなんて嫌な話だ
首を出されたら切らないで引くわけにはいかなかったんだろうな
そもそもその程度でカッとなって斬りかかったのが間違いだろうけど
111人間七七四年:2011/09/25(日) 23:49:28.32 ID:YzF229A4
近習は最期の言動を見る感じ
「ああ、この人はダメだ」と思いつつ斬られてそうなのがまた悲しい
112人間七七四年:2011/09/26(月) 00:53:45.98 ID:sVDG7Hm8
しかしこの陶さんが西国無双の侍大将って呼ばれてたんだもんなあ
人品は関係ないんだろうな
113人間七七四年:2011/09/26(月) 01:39:59.84 ID:qskgS5Z1
信長が舅殿を斬るようなもんか
114人間七七四年:2011/09/26(月) 16:21:00.32 ID:jSz+peDf
陶の評判大暴落w
115人間七七四年:2011/09/26(月) 19:16:00.10 ID:bXtP2px0
乳兄弟と穴兄弟(アーッ的なほう)

どっちの絆が強いのかね・・・
116人間七七四年:2011/09/26(月) 21:05:30.47 ID:TTSMbva7
スルー
117人間七七四年:2011/09/27(火) 06:52:46.05 ID:L5OC4h8y
映画版宇宙穴兄弟
118人間七七四年:2011/09/27(火) 14:12:37.90 ID:fRWMZiXx
慶長11年(1,606)6月27日のこと、安芸の厳島での祭礼の際、この地の代官であった山本小兵衛と言う者が、
この祭の場より狂気して、7日間物狂いをした末に、死んだ。

ときに、厳島神社の社領は毛利輝元の時三千石を寄付されていたのだが、福島正則がこの地を拝領してより
これを尽く取り上げられ、寄進地は全く無くなってしまった。
今度の代官の狂死はその祟りであろうと、下民たちはそう言い合った。
この翌年、正則が養子正之を殺したのもまた、神の祟りであると囁かれた。

そのためであろうか、正之が殺されたこの慶長12年より、厳島神社に五十人扶持の所領が寄付され、
その上に末社の堂宇、鳥居なども建立されたとのことである。
(当代記)
119人間七七四年:2011/09/27(火) 22:22:25.70 ID:X+xEZQO/
姉妹スレで酒関連の話題が出てるので


連歌師として有名な宗祇がある年京に上ろうとして東海道を歩いていたが急に喉の渇きを覚え、酒場に入ったものの一銭も持っていなかった。
呆然として店の入り口に立っていると、酒場の主人が出てきてどうしたのかと尋ねたので、酒が飲みたいのですが銭がないのですと答え、
つぼの中に匂ふと見れば梅の花さけがな一つ春のきどくに
と一首詠んだ。これを聞いて酒場の主人は
つぼの中に匂ひし梅も散り果ててかすみぞ残る春のきどくに
と詠み返して、酒を出してあげた。
ここで終われば風流なよい話なのだが、この様子を初めから見ていた店内の酔漢がこのやりとりに感心し、自分も宗祇に酒を振る舞おうとしたが宗祇がそれを断ると、
自分の酒が飲めないのかと怒り出し、宗祇の手を取って捻りあげ、歌を詠むように要求した。宗祇は仕方なく
なら酒や此手をとりてうちはらに兎にも角にも捻る人かな
と詠み、酔漢を振りほどいて去っていった。



せっかくの風流な話を台無しにした酔っ払いの悪い話
120人間七七四年:2011/09/28(水) 15:28:34.73 ID:wPD8Jbor
江戸時代の怪談話調べてたら面白い話があったので


まだ大坂の豊臣氏が政権の座にあった頃の話
秀吉から久留米を任されていた殿様がいたそうな
ある時修行中の旅の僧がささいな事で他領の者と口論し、訴訟となった。殿様は事実を調べず、一方的に僧に非があるとして処刑してしまった、僧侶は殿様を呪いつつ首を落とされた。
それから暫くしたある日、殿様は小姓を呼び刀を持ってこさせた。小姓が言われた通り持ってくると、殿様はその刀を抜いて「覚えたるか」と小姓に斬りつけた。
小姓はとっさにかわして逃げたが、殿様が更に刀を振り回して暴れるので他の家臣達は殿様を座敷に閉じ込め、戸を締め切った
家臣達はかの僧侶の祟りではないかと思い付き、どうしたものかと思案していたが、家中一の剛強者が床下から座敷に忍びいって殿様を足を捕まえ、そのうちに取り押さえる
という案を思い付いて、実行し無事殿様を取り押さえ、座敷牢に放り込む事が出来た。
その後、かの僧侶を神として祭り上げた所、50日後に殿様は正気に戻った。しかしすでにこの事件は秀吉の耳に入っており、結局御家断絶と言う事となってしまった


この殿様は小早川秀包って事になってるけど、史実の秀包は断絶されてない以上、この逸話の信憑性はゼロなんだけどね
この逸話が書いてある本の作者に秀包が馬鹿殿だのなんだのメタクソに叩かれていたし、こういう変な逸話作られた秀包の可哀想な話と言う事で
121人間七七四年:2011/09/28(水) 16:13:19.44 ID:7X5EmFF7
小早川秀包さんって、だれだかに異様に評価されてたような覚えがあるな〜
122人間七七四年:2011/09/28(水) 17:33:27.21 ID:gWgZg9+i
西のパーフェクト超人と義兄弟だったとか聞いたことがあるが。>小早川秀包さん
123人間七七四年:2011/09/28(水) 18:50:56.25 ID:wPD8Jbor
ちょっと調べてみたら秀包は高良山の座主を殺してるのか
キリシタンだったみたいだし、そういう事を意識して作られた逸話なのかな
124人間七七四年:2011/09/28(水) 22:29:29.02 ID:qwi8IaQd
『恐れながら謹んで言上仕ります。

今の大阪表の状況を、どのようにご覧になっていらっしゃるのでしょうか?
恐れながら私は、驚きいっております。

この以前から秀頼様の御事を、下々が何かにと言っているのも、秀頼様が両御所様(家康・秀忠)の
御座所から遠く離れた場所にあるためだと、恐れながらそう考えています。

年内は余る日数ももう少ないのですが、御袋様(淀殿)が江戸に見物に行くのだと、年内中に
御下向なされてはいかがかと考えています。

きっと秀頼様は、御袋様がそのように下向されるのはどうかとお考えになるでしょうが、とにかく
今の危機的状況を解消させるため、御袋様が取り敢えず下向遊ばされ、来年になれば
秀頼様がご決断を以て、駿府江戸へと軽々とお見廻りなされて、その上で御袋様の方は
御上洛いただけるよう(家康・秀忠の)御沙汰をいただく、と言う方針ではいかがでしょうか?

このように申し上げたのは、私が最近御所様(秀忠か?)と対面した際、御所様は「(大阪方に)何かと
申し出ているのだが、今日に至るまで我々の要請を受諾する様子は無いのだ」とおっしゃっていたからです。

とにかく、四方から色々と言ってきているでしょうが、それらは全てお捨てになって、どうかどうか、
御親子様のうちどちらかが、年内に下向成されるようご決心して下さい。それこそが最善であると私は
考えています。

私めがこのような、本来なら憚るべき事を申し上げたのは、この事で、おそらく御機嫌も悪しくされたとも
思いますが、これも全て太閤様の御恩をひとたび申し受けた身であれば、秀頼様の御ために良きようにと
考え、恐れながら申し上げたのです。

恐惶謹言

(慶長十九年(1614))十月八日 進上

秀頼様』


結果、この申し出は無視された。
大阪冬の陣直前、福島正則が淀殿・豊臣秀頼母子に江戸下向を勧めた書状である。

(大坪文書)
125人間七七四年:2011/09/28(水) 23:13:25.35 ID:e5L0iW5U
ほんと清正と違って正則は良い子だねぇ
126人間七七四年:2011/09/28(水) 23:19:22.72 ID:N3DAKcPR

徳川家康公が三方ヶ原で敗れて撤兵した際に、家臣たちは家康公の左右を護って敵を防いだ。
その後で誰が家康公の側にいた、誰はいなかったということで討論が起きた。
家康公は諸将の刀を差し出させそれを確かめると誰々は右に、誰々は左に居たということを明瞭に指し示した。
家康公は後でこういった争いが起きることを予知して馬上から懐の中の味噌をあらん限り左右に投げかけていた。
そのため刀身にのこった汚点の有無を見ることで誰が従ったかの虚実を確かめ右か左に居たかも判断できたのである。
軍が戦意を喪失し旗色が既に乱れていたときに後のことを気遣う余裕があった。その非凡さを想い見るべし。

民明書房 「戦国武将の心得」より
127人間七七四年:2011/09/29(木) 00:12:08.15 ID:G26zElAW
氏ね
128人間七七四年:2011/09/29(木) 00:40:48.74 ID:8hgQR677
>>123
高良山の座主を殺したのも理由があるし、非道な人じゃなかったんだけどね。
やはり、関ヶ原の後改易されてそのあと1年で急死したのと
キリスタンだったりしたのが後の世にマイナスイメージだった?
129人間七七四年:2011/09/29(木) 09:47:17.09 ID:+m92HzHL
>>124
酒の入っていない市松さんは本当にええ人やで

でも現実が見えてない人たちや
秀頼を神輿に担いで一発を狙ってるような輩には妄言でしか無いだろうな
130人間七七四年:2011/09/29(木) 19:21:42.96 ID:2wAPai3P
>>126
お前全然面白くないよ
131人間七七四年:2011/09/29(木) 19:49:04.25 ID:c7lcEVtJ
>>130
別のスレではうけたんだよ。
132人間七七四年:2011/09/29(木) 20:07:05.18 ID:0avV13zP
ここはそういうスレじゃない
133人間七七四年:2011/09/29(木) 21:19:52.83 ID:37f5g6AC
>124
これ悪い話か?正則のいい話だと思ったが
134人間七七四年:2011/09/29(木) 21:37:00.77 ID:H2eDU9Mk
>133
無視した大坂方の悪い話、だろう
135人間七七四年:2011/09/29(木) 23:20:25.06 ID:sYRBxMz/
文治派憎しを家康に利用されて豊臣没落のお先棒担がされたことを悔やんで酒びたりになったのさ
136人間七七四年:2011/09/29(木) 23:35:50.06 ID:+m92HzHL
だが待って欲しい
もし豊臣が存続できたとしたら、その時は連日祝い酒を呑むのではないか

どうころんでも市松さんはそれを口実にして酒を呑むだけではあるまいか
137人間七七四年:2011/09/30(金) 00:53:27.11 ID:jUa+jXr/
長享2年(1487)7月7日の事

細川政元の私邸の庭の池の上に、何者かが浮かんでいた。
よく見るとそれは、何と人の頚であった。

その色は白く、不思議なことに近くからは見えないが、離れると見えたのだという。
全くもって妖怪であった。

この事について、細川家の安否に関わる予兆であろうか、と囁かれた。
また他にも、最近世の中に風狂の相が現れていることもあり、何か不吉なことが起こる
兆候ではないか、とも言われた
(蔭涼軒日録)

ちなみに7月14日にも政元の邸宅に再び様々の怪異があり(親長卿記)、
8月15日にも禍々しいものが現れたと記録されている(大乗院寺社雑事記)


奇怪にもほどがある魔法半将軍様の私邸についてのお話
138人間七七四年:2011/09/30(金) 05:58:37.07 ID:we/YdPxc
後のけ…凶兆家である
139人間七七四年:2011/09/30(金) 09:15:27.89 ID:Adb7yLi8
後に騒がれる人面魚…である?
140人間七七四年:2011/09/30(金) 13:25:05.32 ID:N38zTaFQ
見えたり見えなかったりするシュレディンガーの首である
141人間七七四年:2011/09/30(金) 13:36:37.27 ID:lSDcbpOm
怪異があっても細川家は21世紀まで続いているんだから
実はたいした意味はなかったんじゃね?
142人間七七四年:2011/09/30(金) 13:51:10.67 ID:KFTD2Wxc
残ったと言っても半将軍から東北の一陪臣だからご利益十分じゃね
143人間七七四年:2011/09/30(金) 18:42:53.15 ID:IaKOSBR4
羽柴軍と織田・徳川連合軍による小牧・長久手の戦いが始まろうとした頃、佐々成政は
織田信雄に

「羽柴秀吉の元に人質に出している子供を見捨てて味方するので、秀吉亡き後は加賀と能登を頂きたい。」

という書状を送り、寝返りを表明した。そして、秀吉方として前田利家に接近し、

「利家殿の次男である利政殿を佐々家の養子に迎え、自分の娘と結婚させて越中を譲ろう。」

と申し出た。前田家にとっても悪い話ではなかった為縁談も順調に進み結納も終えたが、当時富山城に
茶坊主として仕えていた養頓(じょうとん)という男が、成政が織田・徳川方に加担している事を前田家家臣に密告した為、
前田家の味方を装ってその領土を攻めようという成政の謀略は水泡に帰してしまったという。
144人間七七四年:2011/09/30(金) 22:04:24.74 ID:i66FYDwW
多分その茶坊主は前田の間者だろうな
145人間七七四年:2011/10/01(土) 02:20:18.05 ID:ifv7643A
上の方で株が下がった陶さんの話でも。旧暦だけど10月1日は命日らしいしね。

というわけで厳島合戦のときの陶さん。このときには剃髪して、名を晴賢から全薑(ぜんきょう)に改めていた。
毛利軍の朝駆け(夜討ち?)に虚を衝かれ、混乱し総崩れとなる陶の大軍。
一部は踏みとどまって奮戦防衛するが、
狭すぎて大軍の利が発揮できないどころか、大人数があだになって槍が振るえない。

(#゚д゚)「あんな小人数相手に、何押し負けてんの! 返せ! 戻せ!」
部下A「無理ですよ。狭いんで動けませんて。俺らは逃げます」
(;゚д゚)「大将を、捨てていく・・・だと・・・?」

(#゚д゚)「フ、フン、臆病風に吹かれた者など足手まといよ。三千の精鋭ども、集え!」
部下「えーと、だいたい五百人ぐらいしか残ってませんが」
(;゚д゚)「えっ」
部下「ここでは地の利が悪うございます、一旦引き、陣を立て直してください!
   我らはそれまでの時間稼ぎに引き返して防戦いたしますので」
(#゚д゚)「ヤダもん! わしもここで討ち死にするもん!」
部下「お早く! 敵軍の鬨の声がすぐそこまで迫っております!」
(#゚д゚)「でも」
部下「御免!」
( ゚д゚)「・・・・・・!」

部下は隆房に有無を言わせず、肘をつかんで引き立てた。
反対側の肘も捕らえられ、ズルズルと引き摺られてゆく大将でした。

この先は切なすぎて、笑い話にできないんだよな。
1461/2:2011/10/01(土) 17:31:25.80 ID:hMTHCs4a
では、ゼンキョーさんの末路はスッ飛ばして

陶晴賢(隆房)の死後、大内氏は急速に崩壊、2年後の弘治3年(1557)3月には毛利軍が山口まで侵攻した。
大内義長は、重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたが、毛利軍はあっさり約定を破り
長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなった。

陶氏の家臣・野上隠岐守房忠は、ひとり山口に残された晴賢の末っ子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる
この幼子をかき抱いて言った。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われ、長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、
近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。
もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。

さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶入道の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょうぞ。
亡き父上や兄上方も、さぞかし喜びまする。そうお思いになりませぬか。」

涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸が「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」
と問うと房忠は、
「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、
天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白きこと限り無き所にございまする。
その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです。」と答えた。
1472/2:2011/10/01(土) 17:33:29.45 ID:hMTHCs4a
「そうか。そこには、ふねでゆくのか?それとも、うまでゆくのか?」と、なおも問う鶴寿丸。
「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられて、お迎えに来てくれます。

ただ、その時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば
父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば、地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの
責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上、世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるなら、なんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろう。」
「天晴れ!さすがは・・・入道様の・・・・・・」

「?ふさただは、なぜなくのじゃ?主君のおともをして、人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?」
「・・・・・・」
「そ、そうか。わしは、しぬのじゃな。い、いやじゃ!ははうえや、うばとはなれて、しぬのはいやじゃ!」

真相に気づいた鶴寿丸は大声で泣き出したが、すぐに涙をぬぐうと、
「や、やぁふさただ!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみも、なきもせぬわ!こころやすくおもえ!」
と言って、顔を赤くしながらも、房忠の隣に立った。

長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったという、
「陰徳太平記」に記された陶氏最期の風景。
148人間七七四年:2011/10/01(土) 22:19:49.30 ID:2aFH7PPE
慶長20年(1615)5月8日、大阪夏の陣は『豊臣秀頼御切腹』の報が響きわたり、幕府方は
いずれの陣においても万歳と喜んだ。

が、この時、伊達政宗の陣より突然、鉄砲がつるべ打ちに撃ち放たれた。
その音は天地に響き、諸陣に動揺を与えた「何事が起こったのか!?謀反か!?」

しかし加賀前田家の陣では、当主前田利常自身が馬を乗り回し下知した

「謀反であるなら、両御所様(家康・秀忠)の御旗本に駆けつけ、その警備に我々はかかる!
そうでないのなら者共静まり、下知を待つべし!」

このように言って諸陣を駆けまわったため、皆暗い夜の明けたような思いをし落ち着いた。

後で前田家の重臣である山崎閑斎(長徳)はこの時のことを

「実に古今の大将というべき活躍でした。23歳の御大将の采配、お見事でした」

と、褒めたという。
(桑華字苑)
149人間七七四年:2011/10/01(土) 22:40:56.42 ID:YkmngnrG
>>146
大内義隆没後は、なんかもう見ていられないよ大内氏
義弘公あたりから延々と積み上げてきた輝かしい歴史が…
史跡こそあれ、山口が西の京と呼ばれてたなんて嘘みたいだ
150人間七七四年:2011/10/01(土) 22:43:37.07 ID:rSVzJMFZ
>>148
政宗マジ空気読めよ・・・・・・
151人間七七四年:2011/10/01(土) 23:11:25.50 ID:m6nJGJiZ
なんだろ?祝砲的なつもりだったんかいな?

まあ、常識で考えてそのタイミングでの謀反はありえないとしてw
152人間七七四年:2011/10/01(土) 23:12:34.66 ID:9e6bD10n
愉快犯だろう
153人間七七四年:2011/10/02(日) 00:20:02.47 ID:y1lvGZB2
>>152
それが一番想像しやすくて困る
154人間七七四年:2011/10/02(日) 00:20:23.79 ID:mFNLsfLQ
外連味が持ち味だからな
155人間七七四年:2011/10/02(日) 00:38:22.01 ID:AjkBM0HK
敗残者でも逃げ込んできて追い払ってたんじゃないのか?
156人間七七四年:2011/10/02(日) 01:00:09.06 ID:ELaEmu9+
神保某「・・・・・・」
157人間七七四年:2011/10/02(日) 03:41:55.86 ID:KLnfSjZa
>>149
義興が上洛なんてしなければ大内はもっと続いただろうなあ
158人間七七四年:2011/10/02(日) 09:14:49.38 ID:3ApwGB/C
戦闘が完全に終結したならば、筒の中に残ってる火薬の処理には
空砲撃つのが一番楽だからな。
リサイクルできるものでもないし
159人間七七四年:2011/10/02(日) 10:53:23.25 ID:gLi/nBVi
祝砲なのか、弔砲なのか
160人間七七四年:2011/10/02(日) 11:21:33.23 ID:uHes0Hqa
>>158
なるほど、そういうことだと合戦後にはちょくちょくあったことなのかな?
ベテランが平然と若手に説明する光景が他でもあちこちであったりとか
161人間七七四年:2011/10/02(日) 15:17:56.46 ID:dKp7WdtW
慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害した。国許でこの報を受けた
忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。

忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ、6月23日、城攻めが開始された。

豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が
衰えたところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。

「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、何ほどの事やあらん!」
城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。

これを見た城攻め諸将は、驚愕した。
「あれは…まさか?」「ば、バカな!」「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」



「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」

激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで駆け上がった。

豊久(………まぁ良か。)

その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで
討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。(本藩人物誌)
162人間七七四年:2011/10/02(日) 15:21:59.25 ID:uHes0Hqa
こ、これは・・・日頃の行いのおかげってやつなのか?w
163人間七七四年:2011/10/02(日) 16:39:49.50 ID:eGAkfVrt
164人間七七四年:2011/10/02(日) 17:09:03.30 ID:qtrqLuxi
なんというポジティブシンキング
165人間七七四年:2011/10/02(日) 17:27:05.05 ID:pA0SKBKG
これはむしろ良い話なんじゃねwww
166人間七七四年:2011/10/02(日) 18:58:53.82 ID:Mp2Ndoir
薩摩隼人たちのちょっと頭の悪い話








ちょっとではないがw
167人間七七四年:2011/10/02(日) 19:24:06.80 ID:pUNnaBkx
豊久の、皆からの評価が良い話でもある…かな
168人間七七四年:2011/10/02(日) 23:00:17.13 ID:UgOmrvZ8
これが殺魔か
169人間七七四年:2011/10/02(日) 23:21:49.83 ID:BAOI441A
大津城攻防戦の時もこんな展開なかったっけ
170人間七七四年:2011/10/02(日) 23:22:32.99 ID:BAOI441A
ってもう>>163で出てたね ごめん
九州勢はこんな展開ばかりなのか
171人間七七四年:2011/10/02(日) 23:44:41.13 ID:mFNLsfLQ
関ヶ原必勝法思いついた
172人間七七四年:2011/10/03(月) 02:44:26.47 ID:DH+e49Xo
ドリフターズの豊久みたいのがいっぱいいるなww
173人間七七四年:2011/10/03(月) 14:18:02.24 ID:zADSqG1O
乃木と豊久なぜ差がついたのか…
174人間七七四年:2011/10/03(月) 17:07:39.99 ID:Sg259wIJ
これだから島津は…
まともなのは義弘だけだな
175人間七七四年:2011/10/03(月) 18:40:21.93 ID:kkOtqHJj
薩摩の者はみんな脳筋じゃのう
176人間七七四年:2011/10/03(月) 18:43:30.14 ID:nkkWuIIH
>>173
旗を取られたのが薩摩隼人か、旗を取ったのが薩摩隼人かの違い
177人間七七四年:2011/10/03(月) 19:02:20.72 ID:80WCHAnD
逃げるのに敵の真ん中通っていく鬼島津がまともと思えるのはなんかに毒されないかいw
・・・ところで宴会で一番デンジャラスなのはどこだろ?まーくんのとこなら面白ければマミらないとは思うけど三才さんのとこはなんかおっかない気が
178人間七七四年:2011/10/03(月) 19:33:02.49 ID:Pbs35c0O
12歳の諏訪の姫に中だしした信玄
179人間七七四年:2011/10/03(月) 19:42:27.30 ID:6tqG0/UM
ちょっと羨ましい話ですね
180人間七七四年:2011/10/03(月) 20:34:34.53 ID:a8rhVzKB
晴信さんはストライクゾーンが広いな
181人間七七四年:2011/10/03(月) 23:25:05.42 ID:d6B4Q/KL
大友家初代が源頼朝より拝領したという太刀、吉光作・骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)と言えば、
世に隠れなき名刀、大友家の重宝としてとして有名であった。

ところでこの「骨喰」という名であるが、これはこの刀を持って、戯れに人に斬る真似をしただけで、
即座に実際に相手の骨が砕けた。この事により名付けられたのだそうだ。


建武の頃、足利尊氏の九州下向の際、大友氏より尊氏に、深く忠誠を尽くすことの証として進上された。
尊氏はこの刀を得てから運を盛り返し、ついに天下を得た。
そのためこれを将軍家代々の重宝としたのだが、将軍義輝の時、その近習多賀豊後守に与えられた。
ところが永禄8年、三好三人衆・松永久秀による将軍弑逆、いわゆる永禄の変が起こる。
この時多賀豊後守も将軍方としてこの刀を持って戦い、討ち死にした。

その後この刀は松永久秀が得、それから天下の権柄を執るほどになった。
彼はこれを秘蔵していたのだが、ある時大友宗麟がその事を知り、それはもともと大友家の重宝である故
自分に譲って欲しいと、家臣の毛利(森)兵部少輔を遣わし、金銀およそ三千両、その他多くの財宝を
松永に献じた上で要求した。

松永久秀はこれを非常に惜しいと思ったが、その頃大友宗麟は九州6ヶ国を支配する大身であったため
これを断り難く、ついに骨喰の太刀を渡した。

さて、この毛利兵部少輔が豊後に帰る途中、播磨灘でのこと。
夜に入って船が1,2里ほども進んだ時、にわかに海上に、幾千万とも知れぬほどの明かりのようなものが
出現し、船に向かって近づいてきた。

毛利兵部少輔はこれを見て「さては松永、この太刀を渡したのが惜しくなって、軍勢を率いて取り返しに来たか!」
と考え船の者たちにその旨を話し、「命のあるかぎり、この刀を放すことはしないぞ!」と言葉荒く怒鳴った。

と、その瞬間、船を取り囲んでいた光は忽ちに消えてしまった。
毛利、これを見て「さては竜宮よりこの太刀を望んできたか。優れた銘作の太刀は、竜王がそれを望むことも
かつてはあった伝え聞く。しかし現実にこんなことがあるとは、この刀を運びながら、思いもよらなかった。」
そして更に輸送に気をつけ、ついに豊後まで無事に運びきった。
建武から永禄8年まで229年ぶりの、大友家への帰還であった。

ところがこの骨喰藤四郎、天正17年に大友家より豊臣秀吉に献上された。
この時多くの者が、『これで大友家は衰微するのではないか』と囁いたのだという。


ちなみにこの骨喰藤四郎、大阪夏の陣の後、大阪城堀の中より発見された。
その刀身には傷ひとつ付いていなかったという。


大友家の重宝、骨喰藤四郎についての逸話である。
(大友興廃記)

いい話しとも悪い話ともどっちとも捉えがたいのでこっちに
182人間七七四年:2011/10/03(月) 23:35:42.53 ID:kL9Zny9S
ロトの剣って竜王の城にあったような
183人間七七四年:2011/10/04(火) 03:29:28.81 ID:VnwdJzfK
不知火なのかなー
184人間七七四年:2011/10/04(火) 05:48:36.62 ID:4bnSUoJJ
平蜘蛛を信長に渡すぐらいなら、爆死を選んだ久秀が、大身とはいえ、はるか九州の大名に過ぎない宗麟に渡すか?
185人間七七四年:2011/10/04(火) 06:10:17.78 ID:EdxHRQRw
刀にはそれほど執着が無かったんじゃね?
それとも交易関係の堺とか京とかの商人との関係使って外堀埋めてきたか。
186人間七七四年:2011/10/04(火) 06:43:18.78 ID:070b8u5k
>>181
鬼武蔵「素直に欲しいと思った」
187人間七七四年:2011/10/04(火) 13:19:45.25 ID:igl6I+jS
>>177
市松さんのところに決まってるだろwww
間違いなく市松さんに酒が入るんだから
188人間七七四年:2011/10/04(火) 17:46:59.47 ID:31nrBJx/
市松さんが目上の人との酒席で酒乱になったはなしって聞かないけどあんのかな
189人間七七四年:2011/10/04(火) 17:54:08.45 ID:xq11bl7t
流石に目上と同席では自重しないと
死ぬ
190人間七七四年:2011/10/04(火) 18:14:18.92 ID:iz8G2cpW
他家の使者相手に時々やらかすくらいかな、市松
191人間七七四年:2011/10/04(火) 21:18:31.31 ID:/EprxDFw
結果、槍を取られて大損こいたし
192人間七七四年:2011/10/04(火) 21:45:02.30 ID:5JEZciSA
なんかもう死にたい。
193人間七七四年:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春、小早川隆景、
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)
194人間七七四年:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています
195人間七七四年:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな
196人間七七四年:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?
197人間七七四年:2011/10/06(木) 03:06:05.90 ID:W0Huwsqj
細川忠興が宮津城において一色義定を惨殺した刀は、「浮股」あるいは「波股」と呼ばれた。

これは、この刀はもともと伊勢の産であったのだが、ある時伊勢の浜辺において死刑囚の斬首をする時、
この死刑囚が海へと走り泳いで逃げようとした。この時処刑人が刀を持って海に飛び込みこれを斬ると、
二本の足が見事に切り離された。ここからその名がついたという。

また他に「九ツ胴」とも呼ばれたが、これは胴体を九つ重ねてもよくこれを切り落とすことができる、という事で
そう呼ばれたのだそうだ。どちらにせよ、なんとも忠興にふさわしい、殺伐とした名の刀である。

ところで忠興はこの刀を14,5歳の頃青龍寺にて手に入れたそうだ。早速試し切りをすると、
見事に胴を両断した。忠興はこれに感動し秘蔵の品とした。後に息子の興元がこの刀を所望したため
一旦与えたものの、惜しくなったのかしばらくして取り返した、などということもあったそうだ。

そんな「浮股」はいつしか稀代の切り物として世上で評判となり、なんと関白豊臣秀次もこれを
所望したが、忠興は頑として断った。
しかし秀次は諦めがつかず、この「浮股」の長さや形を詳しく聞き出し、なんとそれとそっくりな刀を
手に入れた。
そして忠興を含めた諸大名が聚楽に登城した折

「私は與一郎(忠興)の所持しているものと殆どそっくりの刀を手に入れた!今からそれを試してみようと思う。
おのおの見給え!」

と、庭にて試し切りをさせた。
忠興はじめ列座の諸大名が見守る中、その刀は振り下ろされた!…が、大骨を絶つことも出来ず
斬れ具合は甚だ悪いものであった。

これを見た忠興、秀次にこのような恥をかかせた以上『もはや私の刀を差し出すしか無い!』と決心した!
ところがである、ふと気がつくと列座の諸大名が皆、忠興の顔を見ているではないか。
忠興は思った

『この状況で刀を差し上げればこれは、私がこの場の人々に強制されたようなものではないか!
そのような事が出来ようものか…』

と苦悶しているうちに秀次の方でいたたまれなくなったのか、座を立って下がっていってしまった。

この時大名の友人が忠興の袖を引き
「今からでも是非さし上げるべきだ!」と忠告したが、忠興は

「いや、なんとなく差し上げ難い感じになってしまったんだ。
こうなればこの身にどんな災が振りかかる事態になろうと、絶対にさし上げることはない!」

と決意したそうである。何故そうなるんだ忠興。

細川忠興が秘蔵の名刀を豊臣秀次に差し上げなかった顛末である。
(細川家記)
198人間七七四年:2011/10/06(木) 03:23:34.54 ID:AAWERlDI
試し斬りって、どうやるの
人の死体をわざわざ用意してやるもんなの?
それとも犬とか?
199人間七七四年:2011/10/06(木) 04:32:27.10 ID:/qUTLlU9
罪人の死体とかだよ
200人間七七四年:2011/10/06(木) 06:42:48.07 ID:Vv95RAdr
伊勢の名刀なら村正かなあ
銘が書いてないあたりが何ともw
201人間七七四年:2011/10/06(木) 07:46:08.56 ID:g/rEoORQ
使う人間が功名を上げれば無銘の刀が名刀扱いになるんだよなあ
202人間七七四年:2011/10/06(木) 11:33:06.08 ID:e45F1214
やっぱり秀次ってちょっと子供っぽいところあるよな
203人間七七四年:2011/10/06(木) 14:12:52.35 ID:swktk+0W
刀渋々献上したら「忠興」って名前を付けられて
「こんな物も斬れないのかナマクラが」
と罵られて謀反フラグだから拒否したんだよ
204人間七七四年:2011/10/06(木) 18:44:57.45 ID:ZSCLL9Cf
宗盛かよw
205人間七七四年:2011/10/06(木) 19:02:30.15 ID:59ywrier
(●∀・)「今からでも是非差し上げるべきだ!」
206人間七七四年:2011/10/06(木) 20:12:24.26 ID:JvHu0lPc
>>197
真面目な話
所詮は庶民な秀次公の太刀捌きを見て
あれじゃ何使ってもダメだ(-o-;)だったからじゃね

無駄に恥の上塗りさせるよりも
って3歳さんの良い話だと思う。
根っからの侍の3歳さんだもの、お父さん程じゃないにしても
刀の扱いはプロだろうし
207人間七七四年:2011/10/07(金) 00:41:19.40 ID:bL0BBVxL
>199、三才さまなら生きてるのをばっさりやった!といっても驚かないぜ。鬼武蔵ならむしろ「逃げろや!じゃねえと合戦の稽古にならねえ!」といいそうだが
208人間七七四年:2011/10/07(金) 03:26:45.97 ID:6PTHtxJg
>>207
>鬼武蔵ならむしろ「逃げろや!じゃねえと合戦の稽古にならねえ!」といいそうだが

浪人している水野勝成あたりにバッサリとやられる姿が目に浮かぶな。
209人間七七四年:2011/10/07(金) 10:54:34.80 ID:aB4ieyjJ
>>197
確かその刀の拵えに忠興はめっちゃ凝ってて、隅々まで数寄の限りを尽くしていたが
ある時それを利休に見せたところ
「実にいい仕事してますね。私もちょうどこんな感じの刀を作らせたんですよ」と言うので
持ってきて比べてみたら鞘から何からクリソツで、二人はお互いの目利きを讃えあった・・・という話があったと思う
そっくりさんの多い刀だな・・・
210人間七七四年:2011/10/07(金) 13:37:43.76 ID:7xbDpYH1
豊臣秀吉はある時人々の前で、こんな事を言ったそうだ

『織田信長は勇将ではあったが、良将ではなかった。
剛が柔に克つ事を知っていても、柔の剛を制するということを知らなかった。

一度敵となった者に対してはその怒りを最後まで解くことがなく、ことごとくその根を絶ち、その葉を
枯らそうと望んだ。故に降してもそれを誅殺し、服してもまた殺したので、その仇を取らんとする人々の
反抗が絶えることがなかった。
これは度量が狭く器が小さかった故である。

人々は彼を憚ることはあっても、彼を愛するということはなかった。いわば虎狼のようなものだ。
これに噛まれることを恐れるが、見るものは皆、これを殺してその害から免れようと思う。
明智が弑逆した主な理由も、そういう事だ。

この秀吉はその事を悟っていた。
一剛一柔を心がけ、歯向かうものがあれば之を討ち、以てその威信を示した。故に不意に挙兵して
わしの鋭鋒に当たるというものはいなくなった。

そして従う者にはこれを慰撫し、寛大を以って本領を復し、その旧悪を忘れてこれを容れたので、
東西を討ち従え南北を征伐する時、それらの平定が高山大河を越すように難しいことに見えても、
実際にはまるで平地の舗装された道を行くようだった。
十万の軍隊の進退、行動も、自分の四肢を動かすが如きで、天下を撫育し、四海を掌に納めたのだ。』

秀吉という人は強欲なものがあればそれを抑えて倹素を守らせ、驕慢の者があればそれを制して謙遜の性格にし、
放縦の者を訓戒して礼敬であるようにさせた。まさしく稀代の良将であった。
(蒲生軍記)
211人間七七四年:2011/10/07(金) 14:20:00.68 ID:wvH2XEu5
イイハナシダナー( ;∀;)・・・アレ?
212人間七七四年:2011/10/07(金) 15:05:48.72 ID:UVoyDIct
森家屋敷の怪女

ある時森美作守忠政殿が近習の者を集めて夜話をなされた時の事、
髪を垂らした女の二人連れが屋敷のあちらこちらを歩き回る影が壁に写って確かに見えたそうな。
美作守殿は不思議に思い、侍共に屋敷をくまなく探させたがそれらしい者はいなかった。ただ影のみがあちらこちらに歩き回るのが人々の目に見えたそうな
それから一年ほどして、美作守殿は死去なさったとの事だ。
213人間七七四年:2011/10/07(金) 16:04:32.26 ID:/3eNJ2ca
おい幽霊、祟る相手間違ってるぞ
214人間七七四年:2011/10/07(金) 18:55:06.95 ID:CkDs/NNE
先代に祟って斬殺されたら大変だろ
215人間七七四年:2011/10/07(金) 19:48:51.64 ID:VgxB3Yc1
忠政って美作守じゃなくねw
216人間七七四年:2011/10/07(金) 19:49:08.80 ID:1sChpJMM
まー忠政も磔で沢山粛清してるから怨まれててもしょうがない
217人間七七四年:2011/10/08(土) 09:34:56.93 ID:24Iqr3Oz
幽霊「祟れるなら誰でもよかった。いまでは反省してない」
218人間七七四年:2011/10/08(土) 12:36:18.07 ID:P7nTddbC
本当は鬼武蔵んとこに行きたかったけど、あれは怖いから…
219人間七七四年:2011/10/08(土) 17:54:59.64 ID:bKo91DdR
>>217
幽霊が幽斎に見えて
あれ、幽斎さんて死後誰か祟ったっけ? て思っちゃった
220人間七七四年:2011/10/08(土) 19:48:20.72 ID:Hh9fEz7l
鬼武蔵はとっくに成仏して気持ち良くなってそう
221人間七七四年:2011/10/08(土) 19:57:36.83 ID:bKo91DdR
ヘブン状態か
222人間七七四年:2011/10/08(土) 20:03:35.62 ID:BiphwJWz
地獄で鬼と一緒に他の亡者を折檻する鬼武蔵の図、と。
223人間七七四年:2011/10/08(土) 20:46:43.91 ID:W1BoGxlS
あまりにもドSすぎるでしょう…
224人間七七四年:2011/10/08(土) 21:44:09.15 ID:A7Ttqns1
むしろ閻魔大王を成敗して後釜に座ってそうだ
225人間七七四年:2011/10/08(土) 22:42:49.18 ID:W1BoGxlS
それ前田さんの仕事
226人間七七四年:2011/10/09(日) 00:19:19.45 ID:PcOX9E56
>>225
無駄に人を斬ったことはないって死ぬ前に言ったからなあ
227人間七七四年:2011/10/09(日) 02:42:46.75 ID:6AWhGhxd
焼き殺したり、釜で茹でたりはしてるんだぜ
228人間七七四年:2011/10/09(日) 08:01:57.20 ID:AUIDzGrA
閻魔大王後継者決定トーナメント
229人間七七四年:2011/10/09(日) 08:58:43.58 ID:qftO/ZMC
>>218-228旧ソ連圏のアネクドート(政治小話)を改変

森長可が討死して冥府に向かう途中、阿弥陀如来に行き逢った。
「俺も極楽とやらに行けるのか?」
「そなたは無闇に人を殺し過ぎた。残念乍ら地獄へ堕ちるしかない」

暫くすると、地獄の鬼たちが西方浄土へ押し寄せてきた。
「どうしたのです?」阿弥陀如来が聞くと、鬼たちはこう答えた。

「武蔵守に殺されそうになったので、逃散して参りました。お助け下さい」
230人間七七四年:2011/10/09(日) 09:37:54.83 ID:qftO/ZMC
 ついでに新ネタ。

 佐竹家で外交を任されたていた東家の佐竹義久(中務大輔)は関ヶ原の折、
家康から「家康一代、中務一代、国替ノ儀是アルヘカラス」という安堵の
誓紙を取り付けた。秀忠の所へ援軍に向かう途中だったとも、戦後だった
とも言われる。

 後者の説によると、家康は義久に「宇都宮十五万石を与えるので義宣の
国替を承知せよ」と持ち掛け、義久が断わる代わりだった。
 
 帰路、同道していた和田昭為から「足下一代国替の儀御免あれとは何事
か!」と詰られると、義久は「自分は家康より若い。家康が世を去れば、
恐れることはない」と答えた。

 まともな医学もない時代に、自分も壮年なのに自営製薬業者の健康ヲタク
天下人に長寿レースを挑むのは楽勝とは言えない賭けだが、発言自体も死亡
フラグっぽい。
 義久は関ヶ原翌年に四十八歳で病死。暗殺説もある。半年後、佐竹家には
出羽転封が言い渡される。西軍寄り中立だったことへの懲罰で、公儀による
佐竹領接収が終わるまで石高も告げられなかった。義宣が「清和后胤源義宣
朝臣」の名で大藩として存続が叶うよう神仏に祈ったほど厳しい処分だった。

 秋田の無明舎が出した『佐竹氏物語』より。
231人間七七四年:2011/10/09(日) 15:07:11.93 ID:JQd/Mrtb
有名な話なのに今まで出てなかったのか。
仮に義久が生き永らえて転封に従ったとしても
川井伊勢守らと同じ運命だった気がする。
232人間七七四年:2011/10/09(日) 16:01:47.24 ID:qcrFCojR
有名すぎて今更という話って結構あるよね
まとめサイトに見かけないと思ったら、どんどん出してほしいな
それで初めて知る人もいるだろうし
233人間七七四年:2011/10/09(日) 16:28:24.77 ID:JQd/Mrtb
三行半で終ってしまう小ネタ程度ならあるんだが
逸話として出すほどじゃないんだよなー
234人間七七四年:2011/10/09(日) 17:30:37.00 ID:X4B5vfnw
景虎、従弟を斬った晴信をdisる

加藤どのへ。
驚かれるでしょうが、今、鎌倉にいます。
北条勢はことごとく逃げ散り、一人として踏みとどまることを知りません。

(略)

昨日、八王子に出馬されなかったのを憾みに思います。
上野原も雪深いとはいえ、越後ほどではないでしょう。

(略)

晴信は頼むべき大将ではありません。
例えば昨年、晴信の従弟である勝沼殿は、盤上(囲碁将棋)の相手を断って参上しなかったのを
理由に斬られました。
聞けば、父親が討死したときに武田の先代どのがつけた傅役が、常々盤木(将棋?)の
遊びは無用と言っていたのを、その者が亡くなってからも守っていたのだとか。

このように晴信は残忍であり、猜疑心深く、人の情けや義理というものを知りません。
父を追放し、戦死した叔父の子を些細な理由で空しくする男を頼んでどうしますか。
(略)
何も小山田殿や武田方に弓を向けろとはいいません。
もう雪解けの季節ですから丹沢も越えられると聞きます。
万一そのことで甲州や駿州から攻撃を受けるようなことがあれば、
必ず見捨てるようなことはしません。
足柄坂までは出てくださるものと信じます。

陣中 景虎


守役と自分の言うことのどちらを優先するか試した?悪い話。
将棋を理由に呼び出して、出てきたら難癖付けて斬る、
出てこなかったら抗命で斬る、という逃げ道無しだったのかもしれないけど。
235人間七七四年:2011/10/09(日) 18:49:44.98 ID:s0x7mmbg
軍神のネガティブキャンペーンの巻
236人間七七四年:2011/10/09(日) 22:11:39.20 ID:wRoX5NTm
細かいが、原文は
武相諸勢悉く逃散 とあるから、
北条に味方する者たちはことごとく逃げ散り…
ではないかな。
237人間七七四年:2011/10/09(日) 22:13:26.32 ID:xC4tRz4k
>>234
なんか俺、最近馬鹿になってきたらしくてスゲー読みにくかった
238人間七七四年:2011/10/10(月) 00:38:26.55 ID:2esbhuI3
>>237
『かとうさんへ

ほうじょうはみんなにげた
はるのぶはしんようできない
あしがらやままできてくれるよね?

けんしんより』
239人間七七四年:2011/10/10(月) 02:26:09.54 ID:hx4MxxpH
これきっと、謙信(まだ景虎?)が小田原城を囲った時だよね。

上野原から足柄って遠すぎワロタwwwwって思ったけど、地図見てみると山道が許容できるなら直通なのな。
車道だとものすごく遠回りだが。この時代なら山超えたほうがずっと速そう。夏じゃないと厳しいだろうが。

謙信は、小田原の北を封鎖して、背後に回られる心配を無くしたかったのだね。
普通に援軍を送るとしても、箱根を越えるしか無くなるし。

すごくどうでも良いが、上野原というと上野原バス停付近で20キロの渋滞ってイメージしかない。
240人間七七四年:2011/10/10(月) 08:49:32.73 ID:dfuZFxQF
上野原から県境沿いに縦断するコース?
雪解けの季節だから越えられるよね★って、普通は雪解けの増水が一番怖いんじゃ・・・?
241人間七七四年:2011/10/10(月) 14:27:42.82 ID:A9AjwfSB
>昨日、八王子に出馬されなかったのを憾みに思います。
>上野原も雪深いとはいえ、越後ほどではないでしょう

>足柄坂までは出てくださるものと信じます。

って言ってるから謙信さん的には
それっぽっちの雪で来れないとか俺様をDisってんの?
つか晴信と俺どっちが怖いと思ってんの?
今度足柄坂まで出てこなかったらどうなるか判ってんな?
ってことか
242人間七七四年:2011/10/10(月) 17:21:45.23 ID:k6uCWnth
天正17年(1589)、天草五人衆が小西行長の支配に反抗した、いわゆる天草国人一揆での事。

天草種元の籠る本渡城に対し、加藤清正の軍は城の堀際まで押し詰め、竹束を寄せ攻め立てたが、
11月24日の夜半、にわかに大きな物音が響き渡った。

攻め手は、すわ城中より夜討ちが来るかと慌てふためき、具足を取って着るものあり、あるいは槍を取って
出てくるものあり、逃げ出した者も少々いたそうだ。

が、しばらくして落ち着いて音の方をみると、城山に住む狐、狸、犬、雉っといった禽獣どもが
幾百とも知れず城山より逃げ出してくるではないか、
皆不思議の思いをしこれを注進すると、清正は大いに悦び

「一段と良きことである!まもなく落城すること疑いなし!夜が明ければ早朝より攻め寄せ、
即座に城を乗っ取るべし!」

この事は諸隊に伝達され、士卒勇み立ち、卯の刻(午前6時頃)より攻め懸かると、難なく落城した、とのことである。
(続撰清正記)
243人間七七四年:2011/10/11(火) 00:30:28.09 ID:ee8Pus8s
>>239
>>240
wikiによると2月に鎌倉が陥落、3月城攻め開始だから、その間くらいの文書かな。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-84673.htmlにもあるが、一番悪い時期やん。
早春に奥丹沢(と俺は呼んでいるが、裏丹沢とか西丹沢とか書いてある)縦断とか、行者の苦行だろ。
244人間七七四年:2011/10/11(火) 13:30:23.30 ID:ayrjPOcJ
俺も東丹沢なら学生時代登ったことがあるが、ハイキングみたいだったぞww
たぶん根雪さえなければ軍神でなくても根性で大丈夫だ。
西の方が倍きつい?アーアーキコエナイ
245人間七七四年:2011/10/11(火) 13:38:44.35 ID:zdFuOlVz
>>236
当時はまだ武相を北条が完全に支配してるわけじゃないからな。
「北条に味方してる武相の中小国人たちは逃げ散り・・・」ってのが正しい訳だよね
246人間七七四年:2011/10/11(火) 20:18:38.03 ID:OgKOL3B1
あの時代は今より気温低かったようなw
そのうえフル装備・・・八甲田山フラグじゃないかなあw
247人間七七四年:2011/10/11(火) 21:17:46.76 ID:gaCM5gK7
佐々成政「まさに気違い沙汰だな」
248人間七七四年:2011/10/11(火) 21:57:33.80 ID:8y6gnk2s
>>247
戦国のアルピニストさんチーッス
249人間七七四年:2011/10/11(火) 23:04:07.82 ID:ayrjPOcJ
まあ、真面目な話をするとだ。

「武田・小山田に弓を向けろとは言わない」ってのは、もともとは上野原から甲斐を突っついてくれと要請していたんじゃ?
んでこの手紙は「無理って言うんなら、犬越峠越えて足柄坂で背後を脅かしてくれ。どっちかやれよ」という意味なのでは。

この後、三月には武田・小山田の援軍が吉田に集結しているし、桶狭間直後の今川も御殿場に援軍を送っている。

この時の加藤氏の動きはググった限り分からないけど、結局何もしなかったんじゃないかね。甲駿の援軍のその後も分からん。
いずれにしても軍神の焦りと怒りが見え隠れしますな。
250人間七七四年:2011/10/11(火) 23:57:21.27 ID:pfpRhTA8
加藤さんの勢力がどの程度なのだろうか判らないけど
単独で武田・小山田を敵に回せるほどの勢力なのだろうか?
両軍を足止めさせる捨て駒にしたかったんだろうけど
謙信さんが援軍差し向けてくれるわけでもないのに
傍からみると無茶言うなよだなw
自分ところは雪降ると家臣たちが勝手にさっさと帰っちゃうのに
雪山越えて来いってのもジャイアニズムがプンプンするw
251人間七七四年:2011/10/12(水) 00:05:38.44 ID:vc5RApDD
こういう逸話見ると軍神って人使い下手糞だなーって思うわ
252人間七七四年:2011/10/12(水) 00:25:26.87 ID:SR7FB3Af
最大勢力は信虎のころで、大体大月〜高尾あたり。
南は津久井口(犬越峠?エロい人教えて)の防備を信玄から命じられている。
北は南北朝末期くらいに小菅氏を従属させているから、そのあたりかな。

武田氏の復権に尽力したために厚遇された。
それを除いても、加藤氏は古くからの名門だよ。
初鹿野伝右衛門も加藤氏の出で、絶えていた初鹿野の苗字を継いだ。

甲斐・相模・武蔵の要衝にあるから、怪しい動きを見せるだけで効果あるんでは?
それだけで北信濃に押し出しにくくなる。
逆に南に出て足柄を睨めば、吉田や御殿場からの援軍が動きづらくなるとか。

まあ謙信が武蔵を席巻しない限り、加藤氏にとってはリスクばかり大きい話だわな。
253人間七七四年:2011/10/12(水) 00:39:52.38 ID:SR7FB3Af
あと追記、この時代より前だが、加藤氏と小山田氏はたぶん親戚か同盟者。

加藤は武田信長に共に付き従って各地を転戦し、京まで供をしている。
wikiによると小山田氏も娘が信長の正室。
後に武田信昌が逸見・跡部氏を討つ時や、早雲との戦いの時も連携している。

基本加藤氏はずっと武田に従い、小山田氏は結構反抗しているが、ネットで今見た限りじゃ
小山田と加藤の間に戦いは見受けられないな。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ue_kato.html
254人間七七四年:2011/10/12(水) 02:13:48.31 ID:MZI1zLph
>>252-253となると
余計に加藤氏に離反(もしくは協力)を呼びかけるとか、軍神様は何考えてるんだろうなw
255人間七七四年:2011/10/12(水) 02:23:25.98 ID:HjMxor4F
何考えてるも何も
戦争の前に味方を増やしたり、敵の後詰に来そうな国人を牽制したり
工作するのは当たり前。
結果的に加藤氏が、武田に従い続けただけの話。
256人間七七四年:2011/10/12(水) 06:22:58.70 ID:ASbk+yaU
さらに声をかけたことをワザと信玄にリークしているかもしれん
257人間七七四年:2011/10/12(水) 07:50:01.09 ID:SR7FB3Af
本スレでもこの話題が続いているが、上野原加藤氏みたいだね。

>謙信「晴信ってのは、気に入らないと従兄弟すら斬っちまう奴なんだぜ。残酷だろ?
>しかも死んだ守役の言いつけを守ってたことに難癖つけて斬ったんだぜ。義も情もないだろ?
>え、僕からの手紙がみつかった?HAHAHAそれは晴信の捏造だよ」

>こんな感じでFA?

まとめから転載。あり得そうw
258人間七七四年:2011/10/12(水) 19:28:51.92 ID:J7ZuXQyO
>>250
越山の時期も知らないなんて・・・
冬になると帰るんじゃなくてやって来る
259人間七七四年:2011/10/12(水) 20:17:42.82 ID:2pvP4w49
冬は関東に飯食いに来ているみたいなもんだしな。
勘違いしがちだが逆……
もしかして加藤さんも同じ原理で動くと思ってる!?
260人間七七四年:2011/10/12(水) 20:42:34.92 ID:hkgMrSRZ
定食屋三つ鱗って感じなのか?w
261人間七七四年:2011/10/12(水) 20:47:22.26 ID:BUo2Kb1N
飯に汁を二度掛けすると怒られる定食屋か
262人間七七四年:2011/10/12(水) 20:55:22.00 ID:3ouCWjyP
刈り取ったばかりの麦ご飯も出てきます
263人間七七四年:2011/10/12(水) 21:34:56.12 ID:D+1GbiVT
>>259
そんな冬に食べるものに困った越後が、
明治時代には人口1位になるっていう驚き
264人間七七四年:2011/10/12(水) 21:35:38.71 ID:2jhDYEBf
>>259
というかそういう原理で動いた例ってけっこうあるんじゃないかな。
余裕がある豊かな土地ってほとんどないわけだし。

あと冬は農作業もなくて兵を動かしやすいんじゃね?
265人間七七四年:2011/10/12(水) 23:25:30.36 ID:xqrle9Gv
まさかの南国バカンス侵攻w
266人間七七四年:2011/10/13(木) 12:24:50.98 ID:MBNSHxGc
さてさて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5868.html
ここに嫡男隠岐を追放された後藤又兵衛。やがて年月も経ち息子の帰参を求め様々に詫び言するも
黒田長政はこれを承知せず、又兵衛は長政に対し不満が募り、「わしは後を継ぐもののない一代男なり。
もはや未来に何の希望もない!」と常々言っていたそうだ。

ところで後藤又兵衛の次男に、又市という美少年があった。
黒田長政はこの又市を寵愛し、特に彼は小鼓の上手であったため、長政は他に別して又市を出頭させた。

ある時、博多祇園社において能の興行があり、日吉太夫がこれを勤めた。
この頃黒田又市は17歳、容貌美麗なこと花のごとくであり、長政は寵愛のあまりこの能興行の小鼓を打つことを
又市に命じた。

この命を又市は疑問に思った
「武士である私が主人、あるいは朋輩が能を勤めるときに小鼓の役を申し付けられるというのは、これは尤もな事だ。
だが猿楽師の勤める能の小鼓を打つというのはいかがなものであろうか?」

又市は13里離れた、父又兵衛の在る小熊城へと密かに忍び行きこの事を相談した。
又兵衛はこれを聞くと、激怒した

「よく相談に来た!さてさて筑前守殿(長政)には聞こえぬ仕方をなされるものか!
我が惣領である隠岐守を追放し、今また其方にも斯様なことを申し付ける!
こうなればこれは遺恨である!この上は当家を立ち退くしか無い!」

と、当時黒田長政と激しく対立している、豊前小倉の細川忠興の元に使いを立てた

『それがし儀、不慮の儀にて長政家を立ち退き候。御城下に参りたく候』

「得たり賢し!」
この使いに細川忠興は歓喜した。早速人数千人、鉄砲二百挺、騎馬少々を差し添えて又兵衛の迎えに遣わし、
又兵衛、並びに妻子家来を残らず小倉に引き取った。

これを知って治まりがつかないのが黒田長政である。怒り心頭の彼は小倉に、又兵衛の返還を求める使いを立てた。
当然のことながら忠興はこれを拒絶。もはや合戦か!と言うところに徳川家康より扱いが入り、
『又兵衛の身柄は細川家を離れ上方に送る。そのかわり黒田家は、又兵衛の身に手出しをしてはならない』
と決められた。

後藤又兵衛出奔の顛末である。
(武隠叢話)
267人間七七四年:2011/10/13(木) 12:31:30.58 ID:pKFvM5RT
親子ともども面倒な性格。
こりゃああいう末路が待っているわけだわ。
268人間七七四年:2011/10/13(木) 12:35:34.04 ID:xH7/IUpy
前にも出てたなあこの話。前半部分だけだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3462.html
269人間七七四年:2011/10/13(木) 17:21:57.44 ID:EAUzqrjU
そのままだったとして、忠興と又兵衛って
上手くやって行けたんだろうか?
270人間七七四年:2011/10/13(木) 17:59:23.50 ID:Nv3n99Qa
二人とも仲たがいして長政に笑われたくないという一点で一致しているから
きっと意地でも上手くやるよ
271人間七七四年:2011/10/13(木) 18:57:50.60 ID:Kq4Vh56z
つか親子共々揉めたってことは後藤家って勢力がうっとうしかったんじゃないかなあ
独立性高い家臣はいらないみたいな
272人間七七四年:2011/10/13(木) 20:02:47.60 ID:bS5GZRTI
長政はかなり出来た人なんだがなぉ
又兵衛と険悪な時期になんでこんなトラブルの種にしかなりそうにないことしたんだろ
又兵衛を放逐したいだけならもっとうまい手があったろうに
273人間七七四年:2011/10/13(木) 20:14:19.86 ID:Z1uDsKnH
武隠叢話って江戸中期成立だろ
274人間七七四年:2011/10/14(金) 00:21:38.30 ID:qiWzl/TZ
さて
>>266
の逸話で細川家から上方に上る事となった後藤又兵衛。彼は忠興への暇乞いのため数寄屋にて茶を立て
忠興に振舞った。この時細川家重臣たる有吉頼母、松井佐渡もご相伴をした。

茶を飲み終わると、忠興は又兵衛の方を向いて

「我々が黒田長政と仲を悪くして数年になるが、今回そなたの事でさらに遺恨深い関係になってしまった以上、
仮に世が乱れれば長政とは必ず一戦をすることとなるだろう。
その方はつい先日まで黒田の家人であったのだから、長政家中の利害得失、皆知っているであろう。
我々が長政と戦って勝つべき方法があれば、是非教えていただきたい。」

又兵衛、これを聞くと
「その事であれば、例えお尋ねがなくても私の方で申し上げようと考えていました。
まず、細川のお家と黒田家が合戦した場合を考えるに、互いに加勢が無く正面からぶつかる形の御一戦ならば、
これはどうしても細川家が負けるでしょう。その理由は、細川家のほうが黒田家に比べて御小身であるからです。
長政は大国を領しており、身上が違う以上、どうしても大勢と少勢では、大勢のほうが勝つからです。

そうではありますが、長政を討ち取る手立てはあります。実に簡単なことです。
ここに松井殿、有吉殿もいらっしゃる。これを良く聞いておいていただきたい。

明日にも長政と一戦する、という状況になれば、何の謀り事も要りません。
鉄砲隊50挺に申し付け、構わずに敵の先頭をやってくる槍前槍脇をとにかく御撃ちなさい。
五人も撃ち倒せば、真っ先では無いかも知れませんが、二人目か三人目には、長政を討ち留める事でしょう。

黒田長政という人は天性剛強な生まれつきで、どんな合戦でも先手に出、物脇の二人目か三人目にあって
諸士と先を争う将であるので、この先陣争いの連中を御討ちなされば、そのまま安々と黒田長政を
御討ちになれる、と言うことなのです。」

そう申し上げると退出した。


後で、細川忠興を初め細川家の諸人、
『後藤又兵衛は黒田長政に多くの不満があって黒田家を立ち退いたというのに、古主を悪く言うように見えて、
実は古主の武威を語っていた。忠義の厚い、見事な侍である』
と、彼を大いに褒め讃えたとのことである。
(武隠叢話)


はたして本当に古主の武威を語るつもりで言ったのだろうか?
275人間七七四年:2011/10/14(金) 00:46:38.54 ID:54mrlsiU
実際は細川家との内通を疑われた又兵衛が
家中で孤立してトラブル起こして出ていったっぽいけどねえ
それっぽい書状が残っているけど、今手元にないわ
276人間七七四年:2011/10/14(金) 00:59:12.62 ID:0VJbP9eh
というか>>274みたいな内部機密漏洩防止のために
全大名承知の上の奉公構って側面はあるだろうにね
277人間七七四年:2011/10/14(金) 02:12:05.24 ID:eJwVDxtz
忠興は褒めてくれたけど、内心どう思っているのやら
空気あえて読まない又兵衛らしい逸話
278人間七七四年:2011/10/14(金) 03:29:11.02 ID:ZwZHh5ih
いつものように長政をディスったら、勝手にいい話にされたのかw
279人間七七四年:2011/10/14(金) 07:50:57.94 ID:GEh1QZnj
馬鹿みたいに先陣切って突っ込んでくるから鉄砲でイチコロ。と言ってるようにしか見えん
280人間七七四年:2011/10/14(金) 10:35:16.41 ID:eLvfGU0e
秀吉も先頭の奴討ち取ればそれが蒲生工場長だって言ってたよな。でもって討ち取った最後の一人が信長公だとも。
281人間七七四年:2011/10/14(金) 14:28:43.35 ID:npfWrfyo
信長をディスってる秀吉さんかっけぇ
282人間七七四年:2011/10/14(金) 16:07:57.32 ID:bLtJPFvW
鮭「でもなあ・・・先頭切っていきたいんだお」
283人間七七四年:2011/10/14(金) 16:16:19.67 ID:zhlbjYkh
中々目立たない徳川四天王の子のお話。

榊原康政の三男榊原康勝は、父康政の死後後を襲い榊原家を継いだ。
(長男榊原忠政は大須賀康高の養子、次男榊原忠長は父に先立って病死)
さすがに父親が家中屈指の名将なだけあって、この人物も優秀で、
その後大阪冬の陣では苦戦中の佐竹義宣の軍勢を背後から佐竹勢もろとも撃ちつけ・・嘘です、
佐竹勢をしっかりと支えその窮地を救った。
だが経験不足だった(26歳)のだろうか、翌年の夏の陣では木村重成に大打撃を与えられ、
陣中で兼ねてからの腫れ物が悪化し、亡くなってしまった。
だが一説によると鞍壷に腫れ物の血が溜まって尚戦い続けたという・・・なかなか壮烈である。
三河武士の子はやっぱり三河武士でした、というお話。
大坂の陣では家康は四天王の子2人(榊原康勝と本多忠朝)をそれぞれ失ったことになる。

ここで終わったら忠烈な話で終わるのだが、この後が寂しい。
康勝には子がいたが、幼少のためこれを嫌った村上弥衛門らの家老は康勝には子がいない、と申告。
末期養子が認められていなかった当時、譜代親藩といえども取り潰しが多かったが、
さすがに関ヶ原のあとで「悪いようにはしない」と
三河からの重鎮康政に誓った手前、潰せなかったらしく、康政の長男忠政の子大須賀忠次に
榊原家をつぐよう命じた。

このあと家老衆の嘘がバレ、家老たちは流罪に処され、康勝の子勝政は旗本に取り立てられた。
(そして勝政の孫正邦がのちに榊原本家に復帰する。)
ちょっと後味が悪い康政の後の榊原家のお話。
284人間七七四年:2011/10/14(金) 16:57:57.06 ID:8MzbYUs3
この際に断絶になった大須賀家こそいい迷惑だったな。
285人間七七四年:2011/10/14(金) 17:13:24.95 ID:AHo3Aqja
そもそも、なんで家老は嘘ついたん?
286人間七七四年:2011/10/14(金) 17:16:08.22 ID:PQiMVWez
幼児に後を継がせると内部での権力争いとかでゴタゴタするとでも思ったのかねぇ
287人間七七四年:2011/10/14(金) 17:18:36.38 ID:IQJ/dYpQ
Wikipediaより

>なお康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、
>幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E5%8B%9D
288人間七七四年:2011/10/14(金) 20:25:37.88 ID:cdB2qfcr
この時代になってまだ武功とか
家老共どんだけ戦国脳だよw
289人間七七四年:2011/10/14(金) 22:30:14.41 ID:jVTU1ude
赤ん坊が元服を迎えるくらいの時間が経ち、
もう戦国は終わったかと思われた頃に大坂の陣。
関ヶ原以前を知っている年寄りたちには
「豊臣がいなくなったからもう泰平♪」と
素直に信じられなかったんじゃないかなあ。
290人間七七四年:2011/10/14(金) 22:33:13.57 ID:9ZX6Pi9d
>>288
まぁ大阪の陣まではそういう気風が残っていたのは、
豊臣というそれなりに強力な仮想敵が居たから分かるけど、
大阪以後の話だからねぇ…。
291人間七七四年:2011/10/14(金) 22:36:23.86 ID:IQJ/dYpQ
日本人が一般的に、社会がもう安定して平和になったと信じたのは家光の時代で、国内で戦争なんてものはもう
起こるはずがない、とまで感じたのは綱吉の時代くらいだね。
292人間七七四年:2011/10/14(金) 22:37:15.58 ID:T4RqoQPy
結果的には大坂の陣以後は戦乱が起こらなかったが
島津・毛利・伊達等の仮想敵を攻め潰すための戦争で手柄を立てたかったのかな
293人間七七四年:2011/10/14(金) 22:38:06.99 ID:wOrox7f6
>>274
あ、ちょっと質問です。
そもそも、黒田長政と細川忠興の不仲の原因はなんなんでしょ?
あと、のちに熊本細川家のほうが禄高が高くなるけど、家格は逆転したと考えていいの?
294人間七七四年:2011/10/14(金) 22:41:18.65 ID:IQJ/dYpQ
>>290
家光の時代くらいまで、大名の反乱やポルトガルスペインといったカトリック国の侵攻などが、かなり
現実味のある脅威として捉えられていて、幕府もそういったものに対処するための軍備を緩めていない。
大坂の陣以後でも社会的にはまだまだ、軍事的な緊張下にあったのは確か。
295人間七七四年:2011/10/14(金) 22:44:43.03 ID:wGypJaBI
もともと細川のが格は上?
細川は室町の幕臣
黒田は赤松の家老のイメージがあるけど
296人間七七四年:2011/10/14(金) 22:45:16.59 ID:qOiFbqIS
297人間七七四年:2011/10/14(金) 23:00:02.65 ID:IQJ/dYpQ
>>293
横レスだけど、1600年の関ヶ原の後の国替えで、豊前にいた黒田家が筑前に移る際、移ってくる細川家に対し
当時通例とされた半分残すこと無く年貢米を全部持っていった事が発端。
そして細川家はこれに抗議したのだが、交渉の途中で関門海峡にあった黒田家の廻米船を拿捕しようとする
動きに出て、これで双方こじれにこじれ合戦直前まで行ったが、片桐且元と山内一豊の仲介でなんとか
合戦だけは免れたが、これ以後お互いを仇敵視するようになる。

ぶっちゃけ後藤又兵衛の件も、どうも裏で細川家が後藤の出奔を煽ったフシがある。

あと、細川黒田の家格だが、細川の熊本移封後も、官位は双方従四位下、大広間詰めの国持十八家として
扱われているので、どちらも同格であったと考えていいかと。
298人間七七四年:2011/10/14(金) 23:13:02.37 ID:9ZX6Pi9d
>>294
まぁ黒田の城破却話も大阪から5年後の話だからねぇ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3721.html
この時期だとこういう噂が流れてもおかしくない程度には戦乱の気配が無くなったって事だろうが、
逆に言えば、それがある程度驚きをもって迎えられるほどにはまだきな臭さが残ってはいたんだろうな。
299人間七七四年:2011/10/14(金) 23:46:04.99 ID:eKNxzUNy
>>280
ちょっと違う。

工場長は最初の100人も打ち倒せばその中に必ず混ざってる。
信長公は1万の軍勢を全て打ちとっても必ず逃げ落ちている。

つーことで、信長のいざという時の危機対応能力を褒めてるんだぜ、>>281
300人間七七四年:2011/10/15(土) 00:19:29.44 ID:LJaNutIO
豊臣の後でもTOKUGAWAにたてつくってまーくん以外考えられないんだがw
301人間七七四年:2011/10/15(土) 00:27:58.14 ID:gUNrfaTc
奴だってポーズだけだろ
家光時代はもうべったりだったし
302人間七七四年:2011/10/15(土) 00:35:55.15 ID:HgBDEKk5
>>300
後世の眼から見ればそうなのだろうけど、当時としては、乱世の記憶もまだまだ残っているわけで、
とてもそう簡単に安定するとは思わなかった、ってことだよ。
303人間七七四年:2011/10/15(土) 00:42:02.18 ID:4bdTlawF
幼君ってのは武功以外にも色々不安だろうからな。
304人間七七四年:2011/10/15(土) 01:10:04.52 ID:uwwizQl0
>>295
赤松の家老???
黒田は赤松の分家の小寺の家老だが、
官兵衛の祖父は目薬売りながら近江から出てきた浪人だからはるかに格下
305人間七七四年:2011/10/15(土) 02:10:04.29 ID:byUZYr8K
>>283
榊原康勝の腫れ物って、要するに痔なんだよね
冬の陣では、尻から大出血しながら奮闘したらしい

父親の康政は、疾風迅雷の機動力で敵の横に回りこむのが得意だったけど、
息子はなあ…大将が痔じゃ、動き回れなかったんだろうなあ

余談だけど、痔で死んだ(かも知れない)人四天王
穴山梅雪、榊原康勝、…
2人しか思いつかない…
306人間七七四年:2011/10/15(土) 09:19:14.37 ID:lOHo2zja
>>299
逃げるだけ逃げて最後は家臣に殺されるんだから真似しちゃだめだね
307人間七七四年:2011/10/15(土) 09:20:43.31 ID:WFv32hos
そこは、最後も逃げなきゃだめだよね^^ って纏めるべきじゃね?
308人間七七四年:2011/10/15(土) 10:10:11.11 ID:depDgVoq
前線じゃないと細かい指示がしづらいから前にでるしかなかったのかねえ
309人間七七四年:2011/10/15(土) 12:05:10.91 ID:MFv7M0Z8
その辺は本人の性格と部隊の統制力によってくるんでないのかな
310人間七七四年:2011/10/15(土) 12:28:42.80 ID:KpeoHZ++
相手が光秀ってことであきらめたみたいな話はよく聞くけど、実際のとこはどうなんだろね〜
311人間七七四年:2011/10/15(土) 13:22:33.61 ID:JV2vMcU4
侍大将になっても足軽大将のころの癖が抜けない人も多そう
312人間七七四年:2011/10/15(土) 13:49:47.66 ID:qaTa/95F
>>306
信長の場合取り逃がすと次は数倍の兵力で押し寄せて来る
313人間七七四年:2011/10/15(土) 14:02:20.86 ID:xxZC7+RP
ゴキブリみたいな奴だな
314人間七七四年:2011/10/15(土) 14:02:49.11 ID:KpeoHZ++
3倍返しが基本の信長さんかっ!
315人間七七四年:2011/10/15(土) 14:36:35.15 ID:uB4Q2PYD
>>297
こんなとこでも片桐且元さんは苦労してるのだな
316人間七七四年:2011/10/15(土) 16:02:42.43 ID:pYsmBBX6
>>311
後方で夜討ちの指揮に専念したら
昔の僚友に「らしくねえな、刀折れるほど戦ってこそ武人だろ」って面会拒否られて
次の戦では一番に突撃して戦死した人もいたな
317人間七七四年:2011/10/15(土) 17:36:17.81 ID:X1BCkiC1
天正13年、豊臣秀吉による四国征伐でのこと
j黒田官兵衛は讃岐攻略を任された軍にあった。この軍が、長宗我部元親が対秀吉のために
新たに築いた植田城にて、小規模な衝突があった翌日のこと。黒田官兵衛は諸将にこんな事を言った

「この讃岐にどんな敵がいるか色々聞いたが、大した奴はいないねえ。
この国中の痩せ城を全部攻め落としたとしても、自慢できるような武功にはならないんだなあ。

それでさ、長宗我部は今阿波にいるわけだ。それなら俺達も先ず阿波に行って、大和殿(豊臣秀長)と相談してさ、
阿波の土佐兵を攻め討つのがいいと思うんだ。だって阿波が落ちれば讃岐の敵なんて、何もしなくても
逃げ出すぜ?要らないところに力入れて戦っても、意味が無いと思うんだが?」

所掌はこれを尤もだと思い、みな、阿波へと移動した。


実は、この讃岐植田城には長宗我部元親の謀略があった。
元親自身は阿波の大西にあって讃岐植田に城を築き、池田・由良山につなぎの城をj築いて、植田には
餌兵を置いて、その狭隘な地形の地に敵の大群を誘いこむ
そこで元親は阿波から出兵し、敵の前後から攻撃し、さらに夜討ちまで仕掛けて完勝を得る!との作戦を
立てていたのだ。

ところが黒田官兵衛は智将であったためこれを察し、植田の城に構わず阿波の軍勢と合流してしまったのである。

長宗我部元親は、後で黒田官兵衛の提案により植田城が放置された事を知ると

「備前の宇喜多が大兵で讃岐に上陸し、仙石久秀は去年の引田の戦いで我々に破れて、それを怒っている。
この両将を植田に誘い入れたところで私が阿波より出撃し、日頃修し得た軍功を顕し、上方の者共に
目にもの見せてやろうと計ったのに、思いもよらず、黒田官兵衛という古兵(ふるつわもの)に見破られてしまった!
我が計略は完全に水に流れてしまった。」

と、大いに嘆いたとの事である。

(備前播磨軍将出陳讃州記)

長宗我部元親、黒田官兵衛にその作戦を見事に見破られる、というお話。
318人間七七四年:2011/10/15(土) 17:41:31.49 ID:QUMHJk/3
>仙石久秀
まとめスレの管理人さんも、少し前に仙石久秀表記にしちゃったが
やはりこれも松永弾正の陰謀か
319人間七七四年:2011/10/15(土) 17:44:36.88 ID:X1BCkiC1
>>318
しまった無意識のうちに…!

な、直しておいて下さい…
320人間七七四年:2011/10/15(土) 17:55:50.81 ID:v69bNLSC
元親はかなりやれる男なのにな・・・
いっつも相手が悪すぎる。天下人クラスが二連戦ってどういうことよ
321人間七七四年:2011/10/15(土) 18:22:47.22 ID:depDgVoq
だから鳥無き里の蝙蝠扱いなんだよ…

つか毛利さんとことも戦はやってないよね
322人間七七四年:2011/10/15(土) 19:58:10.23 ID:vqAKCQVI
三好がやれたんだから四国から天下取りも出来なくは無かったんだろうけど
やっぱり相手が悪かったのか、能力が足りなかったのか。
本能寺の変〜賤ヶ岳の戦い〜小牧長久手の戦い辺りはチャンスだったんじゃないのかな?
323人間七七四年:2011/10/15(土) 20:18:07.30 ID:IGgcPa39
時期と相手が悪かった
324人間七七四年:2011/10/15(土) 20:26:41.44 ID:4u8Gb14k
>>322
ちょうどその小牧長久手のときにその秀吉軍とやりあったのが、>>317
出てる引田の戦い。十河城落として讃岐方面掌握したのはその後。
伊予方面に領土広げたのはさらにその後

四国からでるチャンスだったかというより、そのチャンスを生かして
四国の領土広げた感じ。

325人間七七四年:2011/10/15(土) 20:38:43.93 ID:4bdTlawF
家督相続から土佐統一まで15年かかったからな…
326人間七七四年:2011/10/15(土) 20:47:12.69 ID:HgBDEKk5
>>325
まあ信長も家督から尾張統一までで11年かかってる。分裂状態から一国を掌握するには、
普通はそのくらいかかるものなのだろう。
327人間七七四年:2011/10/15(土) 21:18:49.58 ID:CvNbEp3B
>>322
三好がやれたんだから、とそう簡単に言わないでくれ〜。
328人間七七四年:2011/10/15(土) 23:14:51.78 ID:lFSeMQHB
細川を乗っ取った三好とは状況が全然違うだろ。
329人間七七四年:2011/10/16(日) 00:00:15.22 ID:wEXLHEj7
三好は何十年も続いた中央の権力争いにガッチリ咬んでた結果だしね
秀吉はそれをたった2〜3年でケリつけた訳でこれなんて無理ゲー
330人間七七四年:2011/10/16(日) 01:21:32.83 ID:L7G0Qe6q
天正13年、秀吉の四国攻めでの話

豊臣秀長は阿波の木津城を攻めていた。
この時秀長の軍にあった藤堂高虎は秀長に奨め、軍を分け同国一宮城を攻めた。

この一宮城攻めにあたり高虎は深夜、家臣の服部竹助一人を連れて、堀の水の深さを測るため
堀のすぐ近くまで忍び寄った。

と、城中でこれに気が付き、高虎の方に銃撃が成された。そしてその内の一発は、高虎の胸先に
命中したのだ!
これに高虎は、その場で動かなくなった。

驚いたのは服部竹助である。後ろから高虎に向かって囁いた

「い、いかが致しましたか!?」

その瞬間、顔面に強烈な衝撃。竹助は吹っ飛んだ

「〜黙ってろ!!」(だまり居候へ)

竹助の頬を、高虎の猛烈なエルボーがクリーンヒットしたのだ!
(御肱にて竹助が頬を御つき被成候)

夜の暗さのため城兵には未だこちらの様子は解っていない。しかし声を出されては再び敵の射撃の的になると
考えたのだろう。高虎、とっさの危機回避であった。
そしてこのエルボーにより服部竹助は奥歯を二本折ったそうだ。恐ろしい威力である。

そうしてなんとか陣に帰り、高虎が具足を脱ぐと、鎧と具足下着の間から銃弾が落ちた。
そして高虎の胸は、四、五寸(15センチ前後)四方ほど、丸く、赤黒く腫れ上がっていたそうである。

後に服部竹助はこの時の強烈なエルボーについて
「強かった。あの強さを言葉で表すのは非常に難しい。」と、それによって折られた奥歯を見せつつ
語ったそうである。

(高山公実録)
331人間七七四年:2011/10/16(日) 01:46:28.03 ID:TW69Ww9G
プロレスラーで言うと誰クラスなんだろう?>エルボーの威力
332人間七七四年:2011/10/16(日) 01:51:58.45 ID:Ey409ysX
>>325
生まれるのが後20年早ければ、ってのはまさに元親のためにある言葉だな
位置的にも京にめっさ近いし生まれが早ければ天下人はこいつしかいない
東北のDQN?全盛期の芦名さんにフルボッコですとも
333人間七七四年:2011/10/16(日) 01:55:31.21 ID:X6FmOKSt
同じ理屈で全盛期の三好に勝てないだろ
334人間七七四年:2011/10/16(日) 02:14:19.06 ID:DIZtuvJ5
20年早いと土佐で言うとその前に本山茂宗辺りとかち合うけどどーだろーね
335人間七七四年:2011/10/16(日) 02:32:49.92 ID:8f7/k1F7
>>331
「虎」でエルボーだぜ? あの人しかいないじゃないか。 
336人間七七四年:2011/10/16(日) 03:13:16.71 ID:cv30W8CC
>>324
ども。
賤ヶ岳のときに引田の戦いがあって
伊予方面に領土広げたのが小牧長久手の時みたいね。

>>333
秀吉の家臣や同盟者相手に圧勝してるから実力的には伊達より上だったとは思う。
ただ、何か世渡り上手くないね。
337人間七七四年:2011/10/16(日) 03:29:01.00 ID:X6FmOKSt
>>336
柴田と対峙してた頃と、西国平らげて北条攻めしてた頃とじゃ
秀吉政権の磐石性が違いすぎて、対処法で伊達と比較するのはフェアじゃないかと
戦下手の仙石や小規模の十河相手も大敵じゃない勝つべくして勝てた戦だし

政宗も大概持ち上げられがちだが、元親も『四国代表』的に過大評価のケがあると思ってる
338人間七七四年:2011/10/16(日) 03:57:44.52 ID:cv30W8CC
>>337
奥州の名家生まれの政宗と比べて元親は一国人からの立身だから、
同じ国人あがりの毛利元就あたりよりは劣るとしても、
その点でもう少し評価されても良いと思うけど。
339人間七七四年:2011/10/16(日) 05:20:15.93 ID:3JBxrKXU
四国は四国だけど、土佐から讃岐・阿波へ出るのは一苦労だからなぁ〜
340人間七七四年:2011/10/16(日) 05:26:50.15 ID:7/xYbHCO
出自の話を出すと今度は勢力拡大のスピードの話になり、
年齢の話になり、今度は地域を持ちだして
奥州は遅れたところだからレベルが低いとか言い出して荒れる。

人は生まれや立場を選べないんだし、
そういうどうにもならないことを持ちだして
大名個人の能力に優劣をつけようとすると、ただの水掛け論になる。
341人間七七四年:2011/10/16(日) 07:07:30.72 ID:NVetAzH/
>>340
そこらへんは、ほぼ当時から「座ったまま餅食った男」と呼ばれ
今に至ってなお「恐れた男」を年々増やされ、仮想戦記で格好の的として
有象無象に狙われボコられ続ける権現様はやはり格が違うといわざるを得ない。

342人間七七四年:2011/10/16(日) 07:52:35.11 ID:hQsFHYp/
それいうなら毎年泣かされる全米さんも格が違うな
343人間七七四年:2011/10/16(日) 08:23:23.70 ID:8Ti43Oy6
逆に「産まれるのがあと10年遅かったらなあ…」と言われるような人って
誰かいるんだろうかね
344人間七七四年:2011/10/16(日) 09:00:37.66 ID:fZJPKvWS
十年、というか……尼子経久はもっと有名になって欲しいかなあ
三傑に絡まず毛利元就とも接触がないから、一般的な知名度はほぼ皆無
もう少し遅くうまれてそのあたりと絡んでいたら、とは思わなくもない
345人間七七四年:2011/10/16(日) 09:13:53.63 ID:jW/jN59F
>>341
そういう酷い扱いを見て
判官贔屓(逆判官贔屓?)で権現様ファンになった俺がいるぜ
346人間七七四年:2011/10/16(日) 09:38:10.34 ID:P9dBaifg
あと10年死ぬのが遅ければ…って人なら山ほどいるだろうな
ラスボスもその一人だよね、いい意味でも悪い意味でも
347人間七七四年:2011/10/16(日) 10:09:41.07 ID:IetU+Kkn
>>344
それでも大河毛利で知名度かなりあがったよ。
348人間七七四年:2011/10/16(日) 10:36:55.69 ID:3JBxrKXU
ラスボスは10年早く死んでれば、晩節を汚さないですんだんじゃないかなぁ〜と思ったりする
349人間七七四年:2011/10/16(日) 11:11:13.90 ID:DIZtuvJ5
いや10年だとアレだから5年でいい気がする
350人間七七四年:2011/10/16(日) 11:23:50.85 ID:hOD2WUZC
>>330
>奥歯を二本折ったそうだ
まぁ大した威力じゃないよね、ぶっちゃけね
351人間七七四年:2011/10/16(日) 12:29:49.01 ID:JQHHDdAj
秀長があと10年遅く産まれてれば…。
或いは秀頼が10年早く産まれてれば…。
352人間七七四年:2011/10/16(日) 13:16:58.43 ID:KdwB/lmr
家兼ひいじいちゃんが、信之兄ちゃんがあと10年・・・
353人間七七四年:2011/10/16(日) 13:29:14.51 ID:9Pcre2Yg
>>346
鬼武蔵「呼ばれた気がした」
354人間七七四年:2011/10/16(日) 13:47:12.70 ID:Rg04ukfX
松平清康が若死しなければ天下取れた器、ってのは流石に権現フィルターだよな
一代で三河ほぼ統一してるから優秀な人には違いなかろうけど
355人間七七四年:2011/10/16(日) 14:00:46.76 ID:V3Tkw5bE
天下は知らんが、信長のおやじの織田信秀は松平清康が大の苦手だったので、尾張東部が
清康に侵食されていた可能性は高かったと思う。
356人間七七四年:2011/10/16(日) 14:10:15.72 ID:b5p36J96
苦手っていえるほどの長い期間の付き合いないだろあの二人
357人間七七四年:2011/10/16(日) 14:28:50.73 ID:e7NM594v
清康が天寿を全うしたとしても、最大限上手く立ち回って東海数ヵ国の太守が限界じゃないかな。
それを広忠が引き継いで、家康の代でやっと天下取りが現実的になるって感じじゃない?
358人間七七四年:2011/10/16(日) 14:49:55.62 ID:3JBxrKXU
一代で天下取るってのはなかなかね〜
ラスボスだって要は信長さんの遺産だしな〜
359人間七七四年:2011/10/16(日) 16:48:40.44 ID:orcp+YUn
あぼーんして三河があひゃー!になってるから今川が三河をゲトできたんだっけ?だとすると今川はんは駿河から出られないし桶狭間がなければ武田は海に出てこられないし・・・固まっちゃったよw
360人間七七四年:2011/10/16(日) 17:19:00.67 ID:b5p36J96
なんでだよw
今川は氏親と伊勢宗瑞の時代に遠江征服してさらに三河東部まで侵略完了
だから西三河の松平と接触することになったんだろうが
361人間七七四年:2011/10/16(日) 17:33:46.01 ID:mXUrRguv
逆に御家騒動の隙に今川領を切り取るパターンかな。
362人間七七四年:2011/10/16(日) 18:48:57.40 ID:qR2uro73
家康がやったように・・ね。
363人間七七四年:2011/10/16(日) 19:00:52.10 ID:ABVVY/Sz
工場長が関が原のとき生きていれば・・・
364人間七七四年:2011/10/16(日) 19:16:52.28 ID:ET1hHMHD
上杉景勝の代わりに伊達や最上と小競り合いして、減封だろうな。
365人間七七四年:2011/10/16(日) 21:28:34.54 ID:QdWL5x9F
帰雲城の祝賀会が1ヶ月いや1週間ずれていれば…
366人間七七四年:2011/10/16(日) 22:25:07.78 ID:rvORHJZs
氏郷が工場長って言われてるのは、蒲生姓大量生産したからってことかい?
367人間七七四年:2011/10/16(日) 22:27:12.93 ID:fAjPDX7z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-671.html
こんな感じでダメ社員を優良社員に改善していったからじゃなかったか
368人間七七四年:2011/10/16(日) 22:32:30.19 ID:qR2uro73
369人間七七四年:2011/10/16(日) 22:34:42.69 ID:rvORHJZs
サンクス、いい話由来だったのか
370人間七七四年:2011/10/16(日) 23:21:17.84 ID:9Pcre2Yg
>>357
逆に警戒されすぎて今川と織田に挟撃されて
松平家が消滅してた危険性もあるけどな。
371人間七七四年:2011/10/16(日) 23:23:44.44 ID:3JBxrKXU
ヤクルトの野村”再生”工場が語源だっけかなぁ〜
372人間七七四年:2011/10/16(日) 23:48:09.85 ID:/nyUmFVb
氏真があと500年遅く産まれていれば
373人間七七四年:2011/10/17(月) 00:24:07.48 ID:nJMt1Kwp
再び天正13年秀吉の四国征伐、藤堂高虎による阿波一宮城攻めでのこと。

高虎が自ら物見に出た時、長宗我部の部将、横山隼人の部隊と遭遇、これと衝突し高虎は横山と
槍を合わせる!と、その時

「ズキューン」

高虎に敵の銃弾が命中!またかよ!彼は馬から雪崩落ちた!
ただでさえ2メートルを超える巨漢であった藤堂高虎、それが馬にまたがっていれば、まさに
絶好の銃撃の的だったこと、想像するに余りある。
ともかくもこれに横山隼人、「今がチャンス!」と倒れた高虎に留めを挿しに駆け寄る。ところが!

むくっ

「!?」

銃撃を受け落馬した高虎は動き出した。どころか、起き上がると槍を握って横山に反撃を始めたではないか!
横山は恐怖した
「た、確かに銃弾が命中したはずなのに!?こいつバケモノか!?」

その恐ろしさのあまり、横山の部隊は城へと逃げ帰ってしまった。高虎は勝利したのだ!

後で羽柴秀長は、銃弾を受けても敵を追い返した高虎の武功に感激し、感動のあまり
着ていた甲冑をその場で脱いで、高虎に与えたとの事である。
まあ、銃撃されて落馬したけどむっくり起き上がって敵を追い返しました、なんて言われたら、
感激するかドン引きして化け物扱いするかの二択しか無いとは思うが。

そんな、やや銃弾が当たり過ぎの、しかもどうもそれに慣れている観のある高虎さんのお話。

(高山公実録)
374人間七七四年:2011/10/17(月) 00:25:32.62 ID:rxeDN+QD
実録!藤堂高虎24時!
そんな印象を受けるこの逸話
375人間七七四年:2011/10/17(月) 01:01:57.65 ID:LAOI+sVd
>>372
日本初のバロンドーラーとか胸暑


ttp://up3.viploader.net/sports/src/vlsports004120.jpg
376人間七七四年:2011/10/17(月) 03:34:57.84 ID:mTk63U5q
秀長の甲冑を高虎に…か
流石に小さすぎて着れなさそうだけど
こういうのは名誉だからいいのかなw?
377人間七七四年:2011/10/17(月) 07:44:35.13 ID:xaebooS5
>>363
そもそも、工場長が生きていたら
上杉も軍拡なんぞ始めようが無いから関ヶ原自体発生しなくなるのでは
378人間七七四年:2011/10/17(月) 07:51:17.72 ID:s+Jv0U+0
>>375
残り10人どうすんだよw
379人間七七四年:2011/10/17(月) 07:52:13.13 ID:Y7LERP74
>>376
秀長はそれなりに体格がいいんじゃなかたっけ。
でも高虎はそれ以上にいいのか。
380人間七七四年:2011/10/17(月) 11:57:03.23 ID:Dw9739au
>>378
島津さんとこから2人ぐらいスカウトできね?
381人間七七四年:2011/10/17(月) 17:59:08.05 ID:6DYcfQ5c
プロレスラーみたいな体型といえばわかるんじゃないか?
382人間七七四年:2011/10/18(火) 00:09:45.30 ID:Sfy3t9PD
加藤光泰の後継・貞泰は父の死を石田三成による毒殺だと考え、深い恨みを抱いていた。
慶長五年、貞泰は上杉征伐へ出陣する予定だったが美濃に留まっていために西軍に巻き込まれた。
父の仇を討ちたい。だが、西軍優勢の美濃で一人反旗を翻したところでどうにもなるまい。
やむをえず西軍につくことにした貞泰だが、積年の恨みから、裏で東軍に内応することにした。
貞泰は家康のもとには病床に臥している実の弟を送り、三成には従妹を自分の娘と偽り人質に差し出した。


さて、この従妹に従ってきていた家臣・林孫大夫山利は考えた。
東軍が美濃に接近したあかつきには、主君がこの従妹を見捨てて寝返るのは火を見るより明らかである。
いよいよ石田方の旗色が悪くなったとみると、孫大夫はなんとか彼女を盗み出して連れ帰りたいと思い、
同じように人質を出していた姻戚・竹中重門の家臣と話し合った。

「二人とも七つか八つの子供だし、葛篭に入れて塀越しに投げ出してそのまま連れ去っちゃえば大丈夫!」

という訳で、投げてみたら石垣に激突した。あんまり大丈夫じゃなかった。


脚を損なったもののなんとか従妹は生きており、加藤家家臣の渡辺治大夫に嫁いで天寿を全うしたが、
このときの傷によって生涯不自由であったという。
383人間七七四年:2011/10/18(火) 00:13:10.71 ID:XAg+IQE+
おいw
384人間七七四年:2011/10/18(火) 00:15:16.95 ID:AJXmq3Vq
駄目駄目過ぎるだろwww
385人間七七四年:2011/10/18(火) 00:18:04.32 ID:YZuFf1lX
こんなひどい話久しぶりに見た…
386人間七七四年:2011/10/18(火) 00:18:17.62 ID:AzNtikw+
ひっでぇwwwwww
387人間七七四年:2011/10/18(火) 00:19:07.11 ID:zLrTNZk7
脱出には成功したんだよね?
森忠政も一歩間違えればこうだったんだな…
388人間七七四年:2011/10/18(火) 00:19:21.74 ID:YZuFf1lX
七つか八つの子を嫁に欲しいと思ったの?
389人間七七四年:2011/10/18(火) 00:40:00.52 ID:gY3SN9HV
この後、すぐ嫁にいったとも書いてないんだが…
それに十になるかならないで婚約なんて珍しくない時代じゃね?
390人間七七四年:2011/10/18(火) 00:59:27.47 ID:fQxnrAaQ
忠政公は森家の男だけあって丈夫だな。
391人間七七四年:2011/10/18(火) 01:24:43.78 ID:YE1mV/g5
You can fly!
392人間七七四年:2011/10/18(火) 01:38:32.68 ID:SUdMXtLt
鬼かこいつらwww
393人間七七四年:2011/10/18(火) 03:42:28.19 ID:/L37wRt9
これに比べたら森家は荒事に馴れてるなw
394人間七七四年:2011/10/18(火) 08:52:37.26 ID:YMCvw1YG
やはり布団は大事だな!
395人間七七四年:2011/10/18(火) 09:01:07.75 ID:wUbuDy3p
どんくらいの高さから飛んだんだろ・・・
396人間七七四年:2011/10/18(火) 16:59:00.33 ID:GByzT84u
>>378
飛鳥井雅綱、飛鳥井雅春、飛鳥井雅敦、飛鳥井雅庸、飛鳥井雅敦、飛鳥井雅宣、飛鳥井雅賢、飛鳥井曽衣、
山科言継、今川氏真、津野定勝、細川昭元、細川幽斎、細川忠興、大友宗麟、島津歳久、島津悪久、島津義虎、
伊集院忠棟、上井覚兼、樺山善久、八木正信
397人間七七四年:2011/10/18(火) 18:27:34.18 ID:/GQuhK4S
さらっと悪久とか書くなw
398人間七七四年:2011/10/18(火) 18:31:09.23 ID:mWA9QZmc
姫視点でわらわの脚ぐらい三成殿にくれてさしあげますわ、おほほ
とか脚色すると大河にでられそうなぐらいかっこいいのに
399人間七七四年:2011/10/18(火) 20:23:28.78 ID:2UUwmxhd
そんな金色のファルコみたいな姫って
400人間七七四年:2011/10/18(火) 21:43:27.76 ID:SUdMXtLt
>>396
蹴鞠最強となると公家ゲーになるから困る
しょくほう(笑)とくせん(笑)
401人間七七四年:2011/10/18(火) 23:33:51.32 ID:Spcj5zQP
>>400
一応定かではないが、飛鳥井曽衣は戸次川で信親と共に戦死したと伝わるから、
結構な武人だったのかも。
402人間七七四年:2011/10/19(水) 07:12:56.65 ID:YwX2bGwl
>>401
戦乱を避けて土佐に下向、一条の賓客だからそれはないと思う
てか戸次川では爺さんになってたろうによく信親に付いていったなあ
403人間七七四年:2011/10/19(水) 12:18:20.64 ID:kRoMtUgJ
>>402
通訳…いや、何でもない
404人間七七四年:2011/10/19(水) 13:23:45.82 ID:4EPaDQyY
球蹴りは今も昔も軟弱なイメージが抜けないなあ
405人間七七四年:2011/10/19(水) 15:10:18.56 ID:A3zMbfON
でもリフティングを軟弱という奴はおるまいに
406人間七七四年:2011/10/19(水) 16:32:43.61 ID:w0qg+f8m
紀伊国の牟婁郡一ノ瀬には山本某という人物があった。この山本家は、後の石高で言えば三千石ほどの領主であった。

山本某は、豊臣秀吉の紀伊征伐に反抗した日高の湯川氏に対しては聟、また玉置氏の従兄弟という関係であり、
この縁からも彼らと一味し秀吉に激しく反抗した。

やがて紀伊征伐の後自分の領地に引き篭っていたが、藤堂高虎がこれを騙して呼び寄せ、那賀郡粉河において
腹を斬らせたという。

しかしこの山本氏の子が一人残り、後に越前少将(結城秀康)に召しだされ、山本作兵衛と名乗り、知行千石ばかりを
取ったという。

この山本家は今も越前松平家で伊予守様(松平忠昌)に従っているそうである。いつ頃越前松平家に召抱えられたのかは
解っていない。

(紀伊国旧家地士覚書)
407人間七七四年:2011/10/20(木) 10:36:39.24 ID:2Qk9YAQk
鍋島勝茂は若いころ、夜に狩猟をすることを好んだそうだ。

佐賀の城下を離れたところに、とある山寺があり、山上にある寺とそのあとに続く墓園まで、
九折りほども重なっていた山であったそうだ。
その墓園に猪、山犬、狼のたぐいが多く出ることを聞き、暗夜に狩猟へと出かけ、鉄砲にて
猪、狼を多く撃った。

時に、この山には普通の物よりはるかに大きな猪があった。
これは深夜になると巣より出てくるのだという。

勝茂はこの事を知ると早速、「今夜、夜更けにそれを撃ちに行くぞ!」
しかし
「人が多くいては足音も多く、猪もそれを恐れて出てこないだろう。」
と、供を一人も許さず、鉄砲と銃弾二発だけで、勝茂ただ一人で山の中に入った。

さて、山上の寺から二町ほど行った所で星の光を頼りに向こうを見ると、牛のように巨大な猪が
畑を掘り返しているのを見つけた。
「得たり!」
勝茂、鉄砲を取り出し火蓋を切って狙いをつける!と、どうしたことであろうか、火縄が消えてしまった。
これではどうしようもないと勝茂、もと来た道を戻っていった、半町ばかり戻ったところで、
体の大きな男が墓園を通ってこちらに上がってくるのが見えた。

「さては、かねがねこのあたりに山賊が出るということも聞いた。あいつもそれであろうか?」

そこで密かにその人物に忍び寄り、すぐ側まで近寄ったところで鉄砲を下に置き、何か怪しい動きがあれば
太刀で一打!との覚悟で声をかけた「何者か!?」

「若殿ですか!?私です!!」「!」

それは何と、勝茂の刀番、東嶋市之丞であった。

「市之丞!?どうしてここに来たのだ?」
「はい、お伴することを固く禁ずる、との事でしたが、夜中にこのような場所にお一人で狩猟されるというのは、
あまりに勿体なき儀であると思い、なにか非常の事でもあってはと心配になったため、ご命令に背き、このように
こちらに参ったのです。」
「そうか…。ともかく調度良かった!お前火打石を持っているな?早く出せ!」
「は?」

ここでも勝茂、大猪のことしか考えていない。彼は市之丞から火打石を借り火縄に火をつけると、再び猪の
いた場所に戻っていったのだ。

大猪は、先の場所に未だいた。勝茂はこれに狙いをつける…、が、勝茂に気がついた猪、彼に向かって
突進してきた!
勝茂はとっさに刀を抜いて斬り放つ!この一撃が幸いにも猪の胴を打ち抜き、これを倒した。
しかしこれはあくまで偶然っであって、そうでなければ自身が危ない所であった事、勝茂には
よく解った。

この日より、勝茂は夜の狩猟をしなくなったということである。


後、彼の息子である元茂がまだ幼い頃、勝茂はこの時のことを語り

「お前は成長してもこのような、匹夫の勇を成すようなことはしてはならないぞ」

と教訓したという。


(校合雑記)
408人間七七四年:2011/10/20(木) 12:04:59.96 ID:vTXLJcSN
おのれ、おっことぬし様をー
409人間七七四年:2011/10/20(木) 13:16:39.58 ID:wLqoC7B4
で、この猪は実は隆造寺の御曹司の隠語だったりしたら…
410人間七七四年:2011/10/20(木) 17:23:43.75 ID:l2ARee1s
結構、っていうかかなり個人武勇にパラメータ振ってたんだなあ勝茂さん
411人間七七四年:2011/10/20(木) 17:37:22.09 ID:2FVskJoW
HIPのyouを成しちゃいなよ!
412人間七七四年:2011/10/20(木) 17:53:30.48 ID:DsZEjTSV
>>406
豊臣に楯突いてもお家が存続した、いい話じゃね?
413人間七七四年:2011/10/20(木) 17:57:49.60 ID:72Gec9Ki
>>406
騙されて腹切っただけなら悪い話だけど、その後は普通にいい話だね
秀康兄さんはいろんなの召抱えるのは好きだね 秀康兄さんに限ったことじゃないけど
414人間七七四年:2011/10/20(木) 21:05:23.38 ID:H0s4vMml
悪い話の部分までで止めときゃいいのに付け足すからいい話がメインになってしまってる
415人間七七四年:2011/10/20(木) 21:08:44.57 ID:3GhbbP3C
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5543.html
真田に嫁いだ鬼姫のほうが余裕に見える
416人間七七四年:2011/10/21(金) 00:42:21.49 ID:0T7PLFJj
龍造寺家晴は龍造寺家一門の武将である
龍造寺隆信の死後に鍋島直茂が佐嘉城に移ったため、彼は柳川城の城主となった
立花道雪らの柳川侵攻には、柳川城の堅城ぶりもありそれらを撃退した

さて、時代は下り豊臣秀吉の九州征伐である
龍造寺家は、豊臣軍に加勢した功績から肥前の所領は安堵されることとなった
しかし、筑後柳川は立花宗茂の領地になったため、彼は所領を失うこととなってしまった
家晴はあきらめずに大阪に帰る秀吉を追いかけ、直談判した

談判の結果、当時伊佐早を収めていた西郷氏が九州征伐に加わっていなかったため
その所領を没収し家晴に与えられることが決まった
家晴は西郷氏を攻めて伊佐早を占領、これを諫早と改めて統治することになった
これがこの後幕末まで続く龍造寺四家、肥前諫早藩の始まりである


龍造寺家晴のちょっとあきらめの悪い話
417人間七七四年:2011/10/21(金) 02:29:14.07 ID:aRWFeUc3
龍造寺四家といえば多久家。
多久家といえば代ゼミの名物漢文講師・多久師。
受験の節は大変お世話になりました。
418人間七七四年:2011/10/21(金) 11:58:51.95 ID:tt6x6FqA
>>416
所領没収し与えられたとか書いてあるけど自分で攻め取るんだなw
419人間七七四年:2011/10/21(金) 12:12:48.20 ID:nNPXazme
>>418
押収する権利もらったって意味じゃね?
420人間七七四年:2011/10/21(金) 18:20:39.02 ID:1azyaKN7
オプーナを買う権利をやろう的な
421人間七七四年:2011/10/21(金) 18:38:18.20 ID:p6rHkPCJ
最低でもこれくらい諦めが悪くないと大名なんて勤まらんって
天庵さんがゆってた。
422人間七七四年:2011/10/21(金) 20:04:01.07 ID:ducza9Hw
天庵さまは名門の当主で、しかも足利政知の孫だもんな
あきらめ悪そう
423人間七七四年:2011/10/21(金) 21:13:43.45 ID:afRHNNHZ
424人間七七四年:2011/10/21(金) 22:02:09.69 ID:nVKMcVLq
天正十年(1582)六月、丹羽長秀は織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が京の本能寺、および妙覚寺において、織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったのでこれを大阪の守備に残し、長秀・信孝は馬を走らせ
森口まで進んだ。

しかし、織田信澄はやはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大阪に呼び寄せ、長秀勢が明智との合戦に及べば
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大阪に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家がこの情報を察知した。

長束はすぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと

「信澄は大賊の婿であります!更に長年それと親しんできました。先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大阪に返し、信澄の居る大阪城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣、上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

なにげに10年ほど後には有名になる人たちが活躍している、丹羽家においてはこう事になっていた、という、
織田信澄を討ち取った顛末である。
(丹羽家譜)
425人間七七四年:2011/10/21(金) 22:36:17.23 ID:Mukm8SQ5
胸糞悪い話だ
426人間七七四年:2011/10/21(金) 22:37:18.73 ID:lGjBBHpz
今週のアニメのへうげものを見て思い出したので

天正17年(1589)3月9日、是より先、聚楽の番所の壁に落書きがあった。
内容は関白(秀吉)の政治を批判するものであったという。

秀吉はこれを知ると激怒し、落書きに気が付かなかった番衆17人を殺し、その他のものも追放した。

そしてこの落書きの容疑者が大阪の本願寺に匿われている、との噂を聞くと、石田三成、増田長盛を派遣して
これを召し捕らえ、容疑者とされる男女60余人を、六条河原において磔とした。

落書き一つで起こった、秀吉による虐殺事件についての記録である。
(言経卿記、鹿苑日録、多聞院日記、など)
427人間七七四年:2011/10/22(土) 00:03:49.23 ID:87cEYEP4
ある時遠江中泉で徳川家康が言った。
「昔から代官と徳利の首には終に縄のつくものと言う事があり
 代官をする者は大名狂言の役者のようなものである。
 烏帽子直垂を来て太郎冠者次郎冠者を連れた姿は大名のようであるが
 狂言が終わればもとの何右衛門何兵衛に戻る。代官もまた同じだ。
 
 預かった所領は自分の知行のように思って支配するゆえに、百姓共は殿様々々と言い女房を奥様御前様と言う。
 そうなれば自然に奢りが出て、万事大名風になって預かっている年貢を使い込み
 三年目の勘定では四年目を繰り越して間に合わせる。
 すぐにはその負債は知れないので油断していると、代官から離職する際の勘定合わせでその額に驚き
 親類縁者に助力を頼み、自分の財産を売り払っても不足する時、首に縄がつくとのだ。」

『松のさかへ』
428人間七七四年:2011/10/22(土) 12:41:33.72 ID:CUTbNDTb
>>426
さすがラスボス。つか久々に悪いスレらしい悪い逸話を見た。
429人間七七四年:2011/10/22(土) 13:21:25.47 ID:5woHxS/C
現代だと2ちゃんの書き込みでプロパイダの管理人が殺される話か・・・ゴクリ
430人間七七四年:2011/10/22(土) 13:45:56.32 ID:5V7UGHxO
>>426
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2762.html

たぶんこれと同じ話かな、鶴松の誕生年と同じ年だし。
431人間七七四年:2011/10/22(土) 13:51:32.62 ID:q/k60LEb
ここで見た気がするけど「秀吉」「落書」で調べても出て来なかったから自分の覚え違いかと思ってた
その侍女の話もちょっと前になかったっけ
432人間七七四年:2011/10/22(土) 17:15:18.21 ID:tuaAamt8
名こそ惜しけれつーし武士をおちょくると怖いよね
433人間七七四年:2011/10/22(土) 17:39:55.62 ID:q/k60LEb
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5760.html
病気の側室の話はこれだった、自己解決した
434人間七七四年:2011/10/22(土) 20:54:54.02 ID:HpTX/j8B
たすけて
435人間七七四年:2011/10/22(土) 21:00:23.91 ID:4FQ5FoZU
小説で読んだんだが、小田原参陣した大名は、故郷に帰ると
「俺は天下様にお目見えしたぞ。逆らう奴は朝敵じゃ征伐OKといっとったぞ。死ねー」
といって各地で勝手に戦争をはじめたというんだが、確かかな?

奥羽永慶軍記あたりがネタ本らしいんだが
436人間七七四年:2011/10/22(土) 21:43:24.22 ID:bb6xDf1n
妙円寺参りの歌
今日は伊集院で妙円寺参りがあったから見に行ったよ!妙円寺参りの歌って悪い話かな?
場違い、スレチ、かぶっていでしたらすみません。後、歌が22番目まであります。
にわかですので、説明は短く間違っております!多分


時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。
  当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から多くの人が訪れます。(鹿児島三大行事のひとつ)


明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し

銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原

石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり

名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす

東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や

戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき

前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど 精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう

蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色

家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる

かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ

払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん

運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます

譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう

篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや

薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり

骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し

賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て

欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し

牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う

献策遂に容れられず 六十余年の生涯に 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に

興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり

無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや

島津的にも悪ければ小早川的にも悪い話って言うか歌でしょうか?
でも、武士をしのんで歌ったのでいい話(歌)かもしれませんね
長文失礼しました(_ _)
437人間七七四年:2011/10/23(日) 00:10:57.70 ID:sgrQgA4S
すんません、おバカ用に三行でお願いします
438人間七七四年:2011/10/23(日) 00:29:03.79 ID:fqpql2FA
歌が
いっ
ぱい
439人間七七四年:2011/10/23(日) 01:08:39.19 ID:v/0/cc88
>>437
ざっくり要約すると、

・暗雲雷雨の中、大勢力と名だたる将を繰り出し攻めてくる悪の帝国(東軍)。
・恩義ある西軍についた大正義島津軍は、待ち伏せなどを駆使して勇戦したが、醜い小早川の裏切りと兵の少なさのせいで劣勢に。
・負けたのは卑劣な裏切りと、兵数と、上が献策入れなかったせいであって、本当は薩摩島津は最高だぜ。

という負けず嫌いな歌。
440人間七七四年:2011/10/23(日) 01:16:24.48 ID:xJ8MUZx2
妙円寺参りは歴史があるけど、家康と呼び捨てにしている歌なんて
本当に幕府時代に歌ってたんだろうか
441人間七七四年:2011/10/23(日) 04:59:46.57 ID:EdqBg3KP
諱を呼び捨てって敵でもなければしなさそう
討幕軍時代のなのかな
442人間七七四年:2011/10/23(日) 06:22:22.94 ID:p9ppFA2P
妙円寺参りに関して悪い話をしよう
地元民の学徒は半強制で休日に20Km歩かされる為、敵中突破に関して冷めた史観を持つ
鎧武者役で20Km歩かされる地元青年団等に関しては敵中突破を憎んですらいる
参加者はスタート地点の市内まで電車が無料の為、逃亡兵が続出する
名前は妙円寺参りだが実は20m手前の徳重神社にお参りする行事です
マジで行事期間中に妙円寺まで来る人が皆無な為に坊さんが嘆いてます
平時の妙円寺近辺の道は人気の無い通学路でもあり、学生カップルの間では愛のメモリアルロードと呼ばれている
443人間七七四年:2011/10/23(日) 06:38:40.59 ID:y5v3wUby
>>441
まあ正直この漢文調は明治っぽいなw
444人間七七四年:2011/10/23(日) 07:11:58.87 ID:DDGd8F14
20kmぐらいたいしたことないだろ。
うちの高校は深夜40km遠足とかしてたぞ。
445人間七七四年:2011/10/23(日) 08:22:11.82 ID:3/kCtAhC
レプリカとはいえ鎧兜の二本差しに慣れないわらじ履きと、体操服に運動靴を一緒にしたらアカンやろ
446人間七七四年:2011/10/23(日) 08:31:15.68 ID:EdqBg3KP
時代錯誤の脳筋イベントってどこでも強制なんだな
447人間七七四年:2011/10/23(日) 08:39:31.61 ID:FIWQzZP1
え、あれ先祖が藩士でないとハブられるつーて鹿児島出身の上司から聞いたぞ。
448人間七七四年:2011/10/23(日) 11:45:20.12 ID:GScqVlj0
かといって他のイベントは・・・唐入りは論外だし熊撃ちとか戸次川はカドが立つしな。ところで倍の戦力あれば勝てたと思うのは俺だけか?
449人間七七四年:2011/10/23(日) 11:49:49.20 ID:O9fMlMRX
当時の足軽の装備は全部で重さ30kgぐらいあったって聞いた事があるが
鍛えているわけでもない今の学生にその装備で20km歩かせたら途中で死者が出そうだ
450人間七七四年:2011/10/23(日) 12:22:26.62 ID:fMMLMDR5
>>446
当然だろ、強制じゃなかったら誰がやるんだ
何が悲しくて御影から宝塚まで山道歩かにゃならんねん
451人間七七四年:2011/10/23(日) 12:35:09.53 ID:lz/kR7iX
>>448
無理だな。島津が倍になったところで石田や大谷隊が抜かれたら状況は変わらないし
西軍全体が倍になった場合東軍に内応する数も倍になるw
452人間七七四年:2011/10/23(日) 12:49:21.04 ID:cgbjz+VP
さすがに西軍全体が倍になったら内応をやめる奴が出そうな気がするw
てか宇喜多が倍なら福島を跳ね返しちゃうんじゃね。
453人間七七四年:2011/10/23(日) 12:51:26.13 ID:5PkRQgiW
>>451
さすがに西軍全体…とかなった場合、
あまりの大勢力ぶりに内応出来ないという状況になりかねないけどな
まぁそんな事態を起こさないのが秀吉の遺訓とかガン無視して婚姻外交とか連発した、
家康の多数派工作の成果なんだけど
454人間七七四年:2011/10/23(日) 13:00:14.39 ID:b5ZbQWav
if…モノは結論が出ないことをgdgd語るから面白いんだけどな〜
455人間七七四年:2011/10/23(日) 13:39:44.67 ID:AmQ/9jLT
>>444
うちの会社は中津城ゴールの100kmウォークに40歳以下の社員は強制参加させられるけどな
456人間七七四年:2011/10/23(日) 14:09:59.46 ID:p2kOJVnA
島津が大兵を抱えて参陣出来た場合、東西どっちにつくんだろ
つか維新入道は明らかに捨て城の伏見入城して何するつもりだったんだ
457人間七七四年:2011/10/23(日) 14:28:32.66 ID:vwjYPMKh
島津が大兵連れてきたら黒田と加藤に抑えられてTHE ENDぢゃね
458人間七七四年:2011/10/23(日) 16:13:18.25 ID:rmL9jZXQ
赤松家落日の時


応仁の乱後に復活した赤松家の当主、赤松政則が死亡した後にその名籍を就いだのは七条家からの養子である赤松義村という人物であった。
しかしながら相続時に幼少であったために浦上則宗など譜代の老臣が亡くなった後も実権を握ったのは政則の正室である洞松院であり、義村は長らく「神輿」のような状態に置かれた。

しかしながら義村も成長するに伴って洞松院や家中を牛耳る老臣の存在を疎ましく思うようになり、やがて家中の改革に乗り出した。
その手始めが永正14年(1517年)に敷いた浦上村宗・小寺則職の2宿老と自身の側近から選抜した3奉行による合議制であった。
ここで最大の狙いが洞松院との癒着の強い浦上村宗の排斥である。
やがて狙い通りに合議の中で主権争いが始まり、小寺や3奉行の讒言によって村宗を追い込み、やがて義村は村宗の出仕を差し止めた。

もちろん納得できない村宗は永正16年(1519年)に兵を集めて居城の三石城に篭り対決姿勢を見せたが、村宗の弟の宗久(備前守護代)はこれには従わずに赤松側に付いた。
村宗の失脚に加えて浦上の分裂…あとは三石の反乱軍を討伐すれば義村の野望は果たされるはずであった。
だが要害に築かれた三石城はなかなか落ちず、やがて村宗は根回しによって西備前に勢力を誇る松田元陸と同盟し、松田が三石を攻める赤松の背後を突くという噂が立つと兵を退かざるを得なかった。

「まさか長年浦上と対立していた松田が味方するとは…」義村としては大誤算である。
しかも悪い流れは続くもので永正17年(1520年)、今度は村宗派に美作守護代の中村則久などが転じて赤松家に対して反旗を翻した。
今度は小寺則職を総大将にして美作に向かわせたが、宇喜多能家の撹乱などで200日以上経っても中村の篭る岩屋城を攻略できず、
やがては浦上と松田の連合軍に則職が逆に討たれるという無惨な結果に終わった。

備前・美作戦線で優勢に立った浦上軍はついに播磨へと侵攻し、赤松軍を蹴散らし、ついには義村は正室(洞松院の娘)と離縁させられ、嫡子である才松丸の身柄を引き渡した上で隠居に追い込まれた。
そして村宗は若干8歳の才松丸(後の赤松晴政)を元服させて傀儡とし、自らがその後見人となって赤松家を掌握したのであった。
459人間七七四年:2011/10/23(日) 16:34:18.30 ID:p9ppFA2P
>>456
西軍に付く→本国では黒田加藤と戦う為に兵力がいる→増援無理→関ヶ原は寡兵で頑張れ
東軍に付く→伏見城防衛しなきゃ死ぬ→増援は間に合わない→伏見城防衛は寡兵で頑張れ
正解は伏見城にいかずに大阪の人質救出して薩摩に帰り中立を保つ
460人間七七四年:2011/10/23(日) 16:50:47.43 ID:o+XPHyCH
島津は義弘の手勢で会津に行くつもりだったけど、出遅れて気づいたら周りはみんな敵になってた。で、とりあえず伏見城に避難しようと思ったら鳥居元忠に追い帰された。

五千、一万の大軍だったら西軍も簡単には手出し出来ないから、そのまま会津に行ったんじゃない?
461人間七七四年:2011/10/23(日) 18:09:18.62 ID:9KR1iNgR
最上義光の人物評

・徳川家康
律義者

・直江兼続
腹に一物を持つもの
外道

・楯岡満茂
殿というより親分?アニキ?

・延沢満延
イタズラ好きなんですが、空気を読んでください

・寒河江肥前
文芸の興味の無い者にまで源氏物語や連歌の講義を長々とするのはちょっと・・・

・東根景左
良い人なんですよ。話は長いんですけど。

・氏家守棟
ヤンチャ坊主。いつも手を焼かされます

・志村光安
もう少し落ち着きが欲しいです・・・

・江口道連
頭は良いんだけど聞き訳がないね。

・里見民部
まぁ色々含むけど
ワルで同類で優柔不断で俺らに甘くて、話が長い?

・大風右衛門
オヤビン

・鳥海勘兵衛
大殿には頭が上がりません。命を掛けてお仕え致します

・古田織部
あぁ、そんな方もいましたね

・乗阿
必要以上に米とか布とか贈ってくる
いや、もういいんですけどね
配送人「乗阿さーん、最上のお殿様からお届け物でーす」

・領民
源五郎(鮭様)は役をば掛けぬ
(他領より年貢が少ない)

結論
ここの住人が考えているイメージにそれなりに当てはまる
462人間七七四年:2011/10/23(日) 18:12:22.53 ID:Z1IDUhJY
一部の最上マニアじゃないのか
463人間七七四年:2011/10/23(日) 19:28:56.89 ID:ptuk5PsC
織部さん、なんでそんなそっけないん?
464人間七七四年:2011/10/23(日) 19:48:13.39 ID:Vf6Z+BE9
>>458
名君名将の子で有能と見られていた二世が、
「意外と、甘いようで」と足元救われるのも
戦国でよくある興亡史の一典型なんだろうな。
465人間七七四年:2011/10/23(日) 20:06:08.19 ID:7hbCiVGx
守護代の弟はどうなったんだろう…殺したのかなぁ
466人間七七四年:2011/10/23(日) 21:43:47.72 ID:laCCQQ96
>>458
宗久裏切ったのが宇喜多能家ってのがオチか…
467人間七七四年:2011/10/23(日) 22:58:11.96 ID:y5v3wUby
天正14年(1586)の早春の事だという

京にあった丹羽長重は、帰国するため豊臣秀吉に対し暇を賜ることを願った。このとき秀吉は
長重の膝下まで近づくと、彼に言葉を投げつけた

「お前は知っているのか!?お前が歳若きことをお前の家老たちが侮り、長秀の遺した掟、
そしてわしが直々に申し渡した掟にすら背き、私意を持って国を乱そうと企んでいることを!

既に去年秋の北成(佐々成政成敗)の時、お前を欺き悪事を働く家臣があって、越中表において
軍令に背いた!

この糾明のため、しばらくお前の分国を散り上げる!
ただし、特別に若狭だけは残してやる。
お前は帰国の上早々に、若狭国小濱の城に移るのだ!!」

しかし、この没収命令以前に、丹羽家において秀吉の命令に従わなかった重臣たちは、すでに
追放されるか又は逃亡し、処分は既に済んでいたのだ。
そして長重の若狭移封により、秀吉の命令に従ったものまで丹羽家を離れることになり、彼らは
あるいは秀吉の直参となり、あるいは新たに越前に入った堀秀政に与えられた。
丹羽家中の解体が、行われたのである。

ともかくも、ここに百万石を超えた丹羽家の領地はそのほとんどを没収され、丹羽長重は
わずかに若狭小濱12万3千石の領主に転落した。
(丹羽歴代年譜)
468人間七七四年:2011/10/24(月) 00:24:06.35 ID:ufRLcXaI
>>461
性格が水木一郎のクッキングパパか
田舎のおじいちゃん
469人間七七四年:2011/10/24(月) 00:50:51.10 ID:8zBZ3eaJ
しかし最上って官位もあるすげー名家だろ?
その当主をげんごろうは、なんて呼び捨てにするのってすげー不敬じゃないのか
戦国になってなめられてたねかねぇ
470人間七七四年:2011/10/24(月) 01:55:43.31 ID:TWz1MrHS
秀頼は秀吉の実子ではない、大野修理の子では?といわれているが、
実は、当時卜占の為に側に置かれて寵の深かった法師こそが実父である。
淀殿が彼と密通して生まれたのが拾君と秀頼だ。

大野は秀吉死後に、淀殿と男女関係になった。

淀殿は容貌は美しいが、その質は邪智淫乱であった。
美男であった名古屋山三にも、思いをかけて、不義があった。

そもそも、豊臣家が滅亡した原因のひとつは淀殿にある。
家中に法のない者は、必ず名を辱め、身を滅ぼすのみならず
家を滅ぼし、後世にまで禍を残す。

秀吉は、匹夫より出て、天下を思いのままに支配された。
だが、無学で道理を知らず、結果、家には法がなく、夫人の本性を
悟ることが出来なかったのも、尤もなことであった。
二世を保ち得ず、跡形もなく滅んでしまわれた。


(『塩尻』)
471人間七七四年:2011/10/24(月) 02:26:39.58 ID:TWz1MrHS
すまん一つ訂正

誤)淀殿が彼と密通して生まれたのが拾君と秀頼だ。
正)淀殿が彼と密通して生まれたのが棄君と秀頼だ。
472人間七七四年:2011/10/24(月) 07:59:27.99 ID:MiSXaAdH
>>469
最上家が改易になってからずっと後になってできた俗謡だから問題ない
諱で呼ぶわけにもいかないしな
ちなみにその唄は「今の殿様 雑魚・かじかこまで役かける」と続く
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%BA%90%E4%BA%94%E9%83%8E
473人間七七四年:2011/10/24(月) 12:55:54.10 ID:3BXpTFmZ
>>470
そんな法師がいたとは初めて知った
とりあえず、塩尻の作者にはソース出せと言いたい

それにしても、江戸時代に書かれた随筆にはこんなのが多いね
淀の方も、今で言う元アイドルのスキャンダルみたいな感じで
格好のネタにされてたんだろうね
474人間七七四年:2011/10/24(月) 18:58:11.06 ID:nokQBqSK
塩尻ってのは今で言うところの週刊ポストみたいなもんか?
475人間七七四年:2011/10/24(月) 18:59:39.86 ID:0yvZgw4a
最後の最後まで徳川に逆らった女だからな
想像しかできないが、江戸時代には諸悪の根源のような扱いをされてたかも
476人間七七四年:2011/10/24(月) 19:19:25.75 ID:QEnkVD6m
>>472
今でも最上懐古と最上uzeeeは続いてるな

んじゃ最上の窮乏の悪い話。

最上家親の急死(享年36)によって嫡男義俊(13)が家督を継ぐも、
一部の最上家臣団は義光の四男山野辺義忠を山形領主として認める様幕府に嘆願を続けた。

徳川家康に器量人と呼ばれた義忠と、能力の量れない子供とを比較するなと言うのも無理な話。

幕府の仲介を無視した最上家臣団のいざこざを抑えられない義俊は「太守の器なし」として
山形57万石は改易された。

近江と三河の分地で1万石を与えられた義俊だったが

表高57万石に海産物やら副産業で実高80〜90万石はあった最上家
義俊が成人の暁には追って山形で20万石に復帰させるーといった幕府の口約束もあった。
給料60万円に副業20万円のサラリーマンが
「明日から当分1万円で暮らせ」と言われる様なもの

一時の窮乏を凌ぐために「後で買い直せばいい」と、家宝の武具やら軸やらが大量に質に出された
・足利将軍家拝領の食器
・軸
・経文
・伝藤原家絵巻物
・信長公拝領家宝
・最上義光桶皮胴
・秀吉拝領着物
・家康拝領茶器
etcetc

更に後代義智以降の代には1万石から5000石へ減封され、
最上家伝の「名刀鬼切」までが質に出された。
477連投:2011/10/24(月) 19:26:44.35 ID:QEnkVD6m
そう考えると、最上義光歴史観の義光の兜と鉄棒、良く現代まで残ったな・・・

最上歴代や家臣団の甲冑なんてほとんど見かけた事ないけど。
478人間七七四年:2011/10/24(月) 19:30:34.72 ID:uAZicEAC
>>476
家臣もお家の為と思って、優秀な跡取りが当主になってほしいと思ったんだろうけど
その思いが暴発して結果的にお家無くなったという皮肉が辛いなあ
最上家問わずそういうの多いし
479連投:2011/10/24(月) 19:34:44.75 ID:QEnkVD6m
すまん
×歴史観
○歴史館
480人間七七四年:2011/10/24(月) 19:42:58.52 ID:hry5YN9/
>>461
キモいです。
481人間七七四年:2011/10/24(月) 21:05:28.88 ID:QEnkVD6m
>>480
こやつめ、ハハハ
482人間七七四年:2011/10/24(月) 22:18:41.87 ID:ySFSSKkD
盛大に銃痕が残ってるから売れなかったんじゃね
483人間七七四年:2011/10/24(月) 22:34:25.42 ID:rYEbY7FF
>>467
丹羽家は秀吉に散々な目に合わされたのに、
なぜ関ヶ原では西軍についたの?
長重と徳川家の関係は悪く無かったろうに。
484人間七七四年:2011/10/24(月) 22:40:17.02 ID:uAZicEAC
>>483
東軍派だったけど、大谷吉継に警戒して見せかけは西軍としておいたとか?
前田家とは割りとだらだらとしていたり、和睦したりしているし
完全に西軍派には見えないかな
485 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 :2011/10/25(火) 00:39:10.61 ID:IhhQzdeq
>>483
確か前田利長に騙されたんじゃなかったっけ?
486人間七七四年:2011/10/25(火) 03:24:09.48 ID:ZE2qT58l
保科正之と白岩一揆

珍しく保科正之に悪いイメージがつく話。

寛永10年(1633年)、500戸ほどの出羽国村山郷白岩で領主酒井氏の圧制により1000人余りの餓死者が出た。
白岩領の農民が一揆を起こしている間に国表を離れた10人ほどの百姓代が23条の訴えを持って江戸の奉行所に苛政を訴えた。

結果
百姓代2名打ち首、国元でも百姓総代36名は死罪となり、百姓130人が捕らえられ磔になった。

ある木箱が山形県最上地方に江戸時代から伝わっていた。
いよいよ立ち行かなくなったら開けよ。
それ以外は、開けてはならねえという木箱。

平成になって、歴史学者がそれを開けてみたら、一枚の紙がでてきた。
それは江戸時代の寛永年間に起きた、
月山のふもと白岩一揆の訴状の写しだった。
いよいよ立ち行かなくなったら、この訴状をみて
一揆を起こしなさいという、祖先の遺言状だったわけである。

幕府の白岩裁定を決めた人物こそ徳川の寵児、保科正之

先に亡くなった山形藩主鳥居忠政に続き、白岩領主酒井忠重もこの後数奇な運命を辿り、ついには辻切りに遭って落命したという。

山形の民は最上の善政を懐かしみ、「祟りじゃ祟りじゃ」と囁きあったという。
487人間七七四年:2011/10/25(火) 05:02:01.30 ID:jNkdrLhp
>>383
関ヶ原の戦いの構図は徳川vs豊臣ではないから。


地理的な事も大きかったんだろうけど、西軍についたのは丹羽家は前田家の事を嫌いだったからじゃないかな。

信長の家臣時代、長秀存命中は丹羽家の方が上だったのに現政権では立場が逆転。
利家と家康が一触即発の事態になった時は家康邸に参集
結果かわされたけど利長謀反も訴えでて、
大名に復帰した後、子孫は前田の分家とトラブル起こしてる。

徳川家の抑えとして東海道沿いに配置された子飼いがことごとく東軍についちゃったのとは逆で
前田家の抑えとして機能したって事かな。
488人間七七四年:2011/10/25(火) 09:17:50.42 ID:0QcW39aV
>>467>>487
秀吉と利家の死んだ順番が逆なら
前田家も石高を10万石程度にされてたんだろうか?
489人間七七四年:2011/10/25(火) 10:38:15.41 ID:C/dOVjvj
前田家百万石は秀吉と利家の個人的な仁義関係が基盤になってると思う
だから秀吉の存命中に利家が死んだら利家に秀頼を守らせるって構想が崩れるし、やっぱ改易すんじゃないかな
利家だからこそ豊臣家に尽くすって見積りがあってこその百万石だろうし
ラスボスは大和大納言家すら潰したわけだし
490人間七七四年:2011/10/25(火) 11:54:02.86 ID:QEb6e5VB
秀吉は、大名を家でなくて個人で見すぎたんだと思う
だから個人が能力を発揮したら大領土を任せるけど
死んで子供になって同程度の統治能力を期待できなくなったら
容赦なく減封しまくった
蒲生家とかいい例だわ
491人間七七四年:2011/10/25(火) 12:35:41.72 ID:0QcW39aV
親が死んだら8割以上の減封で功績次第で大増封
みたいな能力主義も間違いって訳じゃないだろうけど

ただ秀吉自身にやられるならまだしも
三成みたいな官僚たちに査定されるようになるとまた変わってくるのかな
492人間七七四年:2011/10/25(火) 12:50:48.00 ID:qF3xeU4r
問題なのは、大名を育成するのは難しいけど官僚育成は比較的容易な点
つまり奉行連中だけは自分の仕事を子供に継がせられる訳だ
493人間七七四年:2011/10/25(火) 13:27:45.60 ID:8nasM1kQ
官僚が常に有能で、情報を多く保有し、
情勢を判断出来るのだ!
って思い込みは日本特有だよな。

結局は、責任とる気概がないから、
失政すると責任回避でいつもグタグタになる。

三成しかり、戦中しかり、現在しかり。
494人間七七四年:2011/10/25(火) 13:46:54.25 ID:C/dOVjvj
三成は最終的には斬首という形で責任とったじゃん
有能無能はともかく、官僚としては体制の維持っつー最低限の義務は果たそうとしてたと思うよ
責任から回避しようとしたのは諸大名を監督する奉行の地位にありながら、遺法破りまくりの家康に媚び売ってた増田・長束らだろ
官僚として責を果たすどころか自分の保身しか頭にないっていうね
495人間七七四年:2011/10/25(火) 17:02:18.43 ID:BouorWkK
>>487
>前田家の事を嫌いだったからじゃないかな
本気で嫌ってたらあんなgdgdの八百長合戦してないと思うがなぁ
496人間七七四年:2011/10/25(火) 17:13:17.84 ID:pQ79CznJ
三成は常に自分が表に出ていたし、矢面に立つ事を避けなかったよ
今の官僚は政治家の後ろに隠れて顔も名前も出さずに安全圏で貪っているだけだわ
497人間七七四年:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。
498人間七七四年:2011/10/25(火) 19:55:12.72 ID:6wMVFXyA
http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/o/t/a/otakarajoho/20110924025828cc3.jpg
ここでもちょっと話題になった、一ヶ月くらい前鑑定団にでてきた肖像画
誰だかわかるだろうか
499人間七七四年:2011/10/25(火) 20:01:26.86 ID:uIv37/Hc
>>498
黒田長政だっけ?
500人間七七四年:2011/10/25(火) 20:07:58.53 ID:6wMVFXyA
よく見たらスレ変わってなかった、答えは>>68
501人間七七四年:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww
502人間七七四年:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう
503人間七七四年:2011/10/25(火) 21:10:37.45 ID:+1YFg/BG
>>486
山形県の鶴岡や真室川には多くの「鮭の供養塔」があってだな
504人間七七四年:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん
505人間七七四年:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね〜
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな〜
506人間七七四年:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変
507人間七七四年:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね
508人間七七四年:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?
509人間七七四年:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー
510人間七七四年:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー
511人間七七四年:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる
512人間七七四年:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か
513人間七七四年:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに
514人間七七四年:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ
515人間七七四年:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。
516人間七七四年:2011/10/26(水) 00:53:06.33 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由1

最上家が改易され、鳥居忠政が山形へと入封した。

帰農した最上旧臣らや柏倉らの豪農、寺社権力らは多領からの殿様をはじめは興味本位に遠巻きに見つめていた。

そして七日町と十日町に高札が上がった途端に山形の民の怒りが爆発した

「五公五民?」
「店税を取るだぁ?」

民らが坊僧に訴え、山寺や市寺の高僧が忠政に政事の非を訴えた

「あなたらザイゴノモン(在郷之者・山形以外の土地で育って、後から山形に来た人)に何の権利があるんだ?人として最低じゃね?最上の殿様ならこんな仕打ちはなされなかった」

忠政がキレた

最後の一言は特に余計だった。

市井の名勝、坂月(盃)山を切り崩し
馬見ヶ崎の川の流れを変え
山形城の土塁の形を方形にし
本丸掘を埋め
川の流れを変えた後に二の丸以内の寺社で
特に忠政の非を訴えた自社を城からは川向こうに追いやった。

僧1「ちょ!」
僧2「おま!」
僧3「ひでえ!」

山形の民にこの増改築の負担はすべて役として掛けられ、
最上時代の様に人足に賃金が払われる事はなかった。
517人間七七四年:2011/10/26(水) 01:03:10.93 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由2

これくらいやれば少しは山形の民も静かになるだろうと忠政は考えた。

甘かった。

印役、寺町、銅町の総代や鳥居忠政に仕官した最上旧臣らが忠政の非を狂歌やら歌で皮肉った。

最上の殿さまならいけすかね事はすねえ
鳥居だけにしゃちこばってさえずる事だけはいっちょまえだ

店に山に川船にまで役が掛けられる
すずめやとんびにも役がかけられるだろな

結果

最上氏時代の資料の償却と
最上賛歌の禁止が鳥居氏上士らによって行われ、
山形城の本丸御殿は「こんな建物があるから最上を思い出させるのだ」と取り壊された。

市井のお寺さんが廃材利用と称して、
宝光院ほか数箇所に、茶室や寺門に形を変えた最上時代の本丸御殿の移築建造物が残る。
518色々すいません:2011/10/26(水) 01:10:58.06 ID:DZVHSsne
>>516
×多領からの殿様
○他領からの殿様
×自社を城からは
○寺社を城からは
>>517
×償却と
○焼却と
×賛歌
○賛美
519人間七七四年:2011/10/26(水) 02:53:31.98 ID:DZVHSsne
鳥居忠政の急死を嘆く民は少なく、喜ぶ人が多かったとも言われます。
忠政の死因は「過度のストレス」だったのかも知れませんね。
最上懐古は、台湾の人の親日嫌中と似たカンジ?
520人間七七四年:2011/10/26(水) 07:53:15.51 ID:NAv+rdxG
こりゃまた清々しいほどの暗君だな
521人間七七四年:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw
522人間七七四年:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる
523人間七七四年:2011/10/26(水) 10:02:15.07 ID:eVSb4slO
京都に紅葉見に行くついでに血天井見てこうようかと思う。
524人間七七四年:2011/10/26(水) 10:17:52.37 ID:AzPXDJpy
>>523

それはそうと真田昌幸の孫の真田信重(音が叔父とかぶるな)って鳥居元忠の孫娘を正室にしてたんだな
上田攻めの敵同士か
525人間七七四年:2011/10/26(水) 10:27:01.58 ID:g3wdCa0/
最上時代の山形の年貢ってどれぐらなんだ?
526人間七七四年:2011/10/26(水) 10:47:59.04 ID:0rIQB5pP
>>525
年貢率だけ見ても実態は解らない。
本年貢(年貢の基礎となる公定生産量)というのは実際の生産量に比べて低いのが普通だが、
その本年貢と実態の差もそれぞれの大名家によって様々だったりするわけで。
ややこしいわなw
527人間七七四年:2011/10/26(水) 12:35:26.27 ID:AZtUluXL
立谷川の治水工事で財源が足りなくて 四公六民になった時
「負担を掛けてゴメン(´・ω・`)」と庄屋に回文と、街道や村に高札が設けられたとか。
でも人足に賃金は払われてる。
528人間七七四年:2011/10/26(水) 12:48:07.09 ID:AZtUluXL
鮭様と民は扇のようなもの
おじいちゃんがいて孫がいて、家族で支えあって一緒に暮らせるのが幸せなんだな
あいだみつを
529人間七七四年:2011/10/26(水) 13:29:27.85 ID:AZtUluXL
最上時代の山形城
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/70/0000276470/70/img9321c514zik9zj.jpeg
鳥居氏以降の山形城(本丸の東西橋が落とされ、二の丸北西門の廃止、本丸西の薬間堀・やっけんぼりの埋め立て、南西土塁の整形)
http://www7.plala.or.jp/yamagata-ryokou/mogami/yamagata/yamagata_siro1.jpg
現在の山形城(右上弓道場付近が最上時代の北西門跡)
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/43/0b/kagetora_nagao2007/folder/990103/img_990103_19426819_2?1267878266
530人間七七四年:2011/10/26(水) 13:37:49.84 ID:AZtUluXL
二の丸南東も丸型から角型に改められたのだろうか?
531人間七七四年:2011/10/26(水) 15:02:59.42 ID:xgOO1dht
中世城郭は自然を利用するから曲線が多いけど、
近世城郭は人工だったり整形しまくったりで直線が多いよな
532人間七七四年:2011/10/26(水) 16:01:53.67 ID:AZtUluXL
>>529
現在復元してるのが「最上氏の山形城」でなく、「鳥居氏以降の山形城」だという皮肉
(二の丸の南門、東大手門も本丸の橋の市すら違う)
>>531
秋田久保田城「・・・」
533人間七七四年:2011/10/26(水) 16:24:19.88 ID:MFVkJyOr
遠野阿曽沼氏の滅亡

陸奥国遠野保の独立領主阿曽沼氏は、鎌倉以来この地を領する大名だった。
だが秀吉の小田原征伐に参陣せず、家こそ潰されはしなかったものの領主としての地位を失い、南部氏の付庸とされてしまった。

その南部氏との関係はあまり良くなかったらしい。
南部氏は阿曽沼氏の大身鱒沢氏を支援して、阿曽沼氏と対決してきた経緯があった。阿曽沼氏も旧敵の配下にされ面白いはずがない。
また、当主阿曽沼広長の正妻が、伊達家臣となった気仙の世田米氏の出身であったことも、南部が阿曽沼氏を警戒する理由であった。

ある時、阿曽沼広長と鱒沢左馬之介広勝の間に隠し田を巡る紛争が起こった際、
裁定を依頼された南部氏は、かねてよりよしみを通じていた鱒沢の肩を持ち、裁定は鱒沢に有利なものとなった。
それに怒った広長は、仲裁役の桜庭安房を闇討ちしようと兵を送る。
桜庭安房は従者を多数討たれながら這々の体でなんとか逃げ延び、闇討ちは失敗してしまう。

いかに裁定が不服とはいえこれはまずい。時の南部当主である南部信直は激怒したが
当時信直は病床に伏せっており、これから間もなくの慶長四年十月に逝去。遠野の処置はそのまま沙汰やみの形になった。
信直の葬儀は大々的に執り行われ、領内の豪族達が続々参列し向後の忠誠を誓った。
だが、阿曽沼氏は報復を恐れたのか、なんの音沙汰もなく葬儀に参列しなかった。
これによって両者の亀裂は決定的なものとなってしまう。

「遠野孫三郎め、ついにこの方を袖にするつもりか! このまま捨て置いたら示しが付かぬ。速やかに何らかの仕置の手立てを…」
といきり立つ家臣に、南部利直は、
「まてまて急くな、急いては事をし損じる、手立ては任せておけ」
と宥めたという。

そしてその時はすぐ訪れる。
慶長五年、関ヶ原の前哨となる上杉征伐がはじまり、阿曽沼広長は南部軍の一員として最上口に出兵することとなった。
しかし家臣の鱒沢は病気を理由に参陣を拒否する。だが鱒沢は領内で釣りやキノコ狩りで遊んでおり、仮病であるのは明らかだった。
広長は当然怒ったが老臣達に諫められて、仕方なく上野丹後と平清水駿河を留守居として、三〇〇の兵で参陣した。
534人間七七四年:2011/10/26(水) 16:25:07.58 ID:MFVkJyOr
しかし、南部軍が最上口に滞在していた時に、伊達政宗の支援を受けた和賀忠親が挙兵。南部軍は急ぎ帰国することとなる。
南部利直は
「この騒動は手前の領土で起こったこと、お手前はゆるりと戻られよ」
と広長に言い急ぎ撤退。南部軍はそのまま和賀岩崎城を囲むが、冬の到来により一時囲みを解き、戦いは翌年に持ち越された。

そしてその頃遠野では、鱒沢広勝が兵を挙げ、主のいない遠野を占領してしまっていた。無論、利直と鱒沢が示し合わせてのことである。
鱒沢は居留守の上野丹後と平清水駿河など主立った者を招き、謀反の計画を明かした。
「手向かいせずに城を明け渡せば厚禄加増の上子々孫々まで安堵するが、
手向かえば当人は元より妻子眷属にいたるまで討ち果たすべしと、南部殿からも言われている」
と脅迫。上野丹後と平清水駿河は降参するよりほかなく、他の者も謀反に同意した。
唯一火渡玄浄のみがこれに同意せず、上野と平清水の不忠を罵り退席、その後彼は自らの館に籠城し、壮烈な戦死を遂げた。

関ヶ原の戦いが終わり、広長は伊達領を通り、岩谷堂から人首まで到着したが、
鱒沢は南部の兵と共に遠野境で待ち伏せをしており、それを知らされた広長は当然驚き、遠野へ攻め入ろうとした。
が、士卒達は遠野に妻子を残しており、戦えば人質とされるのは明白で、士気は上がらず脱走者が続出。
広長は仕方なく、「他日必ず兵を起こして遠野に帰参する故、その時は出迎えて合力するように」
と誓わせて、腹心五・六人を連れて、妻の実家世田米へ落ち延びていった。

その後広長は伊達政宗に援助を頼んだ。政宗は「さては南部に先を越されたか」と口惜しがり、阿曽沼氏に兵を授けた。
広長は奪還戦を挑み、首謀者である鱒沢広勝を討ち取ったりもしたのだが、とうの遠野からは期待していた内応がまったくなく、
それどころか仙台勢の乱暴を恐れ、必死になってかかってくる。そのうち、郎党の松崎監物や海上喜八が戦死し、
浪人ばかりで戦意の薄い仙台勢は総崩れとなる。
「恩知らずの人でなし、犬にも劣る人非人!」
撤退する兵の中で、広長は助けに来なかった遠野侍達を罵り、男泣きに泣きながら落ちていった。
広長はさらに二度の奪還戦を試みるが、結局遠野奪還はならず、失意のうちに仙台で亡くなったという。
535人間七七四年:2011/10/26(水) 16:44:31.15 ID:AZtUluXL
>>532
市じゃなく位置だったわ・・・
536人間七七四年:2011/10/26(水) 17:41:48.55 ID:AZtUluXL
鳥居さんを苛めすぎた感があるので
チェス盤をひっくり返して
東北は地縁の者以外をあまり良く思わない悪い話

最上改易で山形に入封した鳥居忠政、
妹婿の戸沢政盛が北の新庄に、同様に娘婿の酒井忠勝が日本海側の鶴岡に前後して封された。
徳川氏の譜代大名として伊達政宗や上杉景勝、佐竹義宣などの東北諸大名の監視が名目であった。

徳川幕府の権威をはっきりとさせる為、山形入封後に忠政が早速行ったのが「左京縄」とも言われる元和検地。
田畑どころか手付かずに近かったムラの寄り合い山林、果ては家屋敷や店子の広さまでもが検地の対象となった。

秀吉の天正検地後、新田開発と増作の繰り返しでまともに検地が行われていなかった山形に活が入れられた。

この検地で問題になったのは「義光が寺社に寄進した田畑や山林の寺領まで」もが徹底的に検地の対象となった。
申告の漏れた寺領は遠慮なしに忠政に召し上げされた。

田沼意次と松平定直との比較がわかりやすい例えになるだろうか

なぁなぁで人付き合いが大切だった最上氏時代の空気が
上から派遣された官僚によって見事にぶち壊された。

民政を考えて馬見ヶ崎川改修や、市井五堰の掘削も行った忠政だが
民衆が山寺にお祈りして、術祖によって鳥居忠政が死んだとも伝えられている(「山形市史」)
537色々すいません:2011/10/26(水) 17:57:50.08 ID:AZtUluXL
誤)徹底的に検地の対象となった。
正)徹底的に検地の対象となった事。
誤)忠政に召し上げされた。
正)忠政に召し上げられた。
538人間七七四年:2011/10/26(水) 18:11:15.46 ID:6YtF11GT
>>234
>>236
「景虎、従弟を斬った晴信をdisる」
って、原文あるの?
539人間七七四年:2011/10/26(水) 19:58:51.28 ID:ePhuDTMr
松平定直じゃなくて、定信じゃないの?
540人間七七四年:2011/10/26(水) 20:08:21.86 ID:AZtUluXL
>>539
かさねがさねスイマセン
少しROMります。
541人間七七四年:2011/10/26(水) 20:34:56.31 ID:pUiPh19L
山形は現代でも妖怪マットが現れる未開地
542sage:2011/10/27(木) 00:21:27.70 ID:HUF49aDJ
時代が変わるって大変なことなんだよねえ
鳥居が悪政ばっか行ったってのも違うわな
543人間七七四年:2011/10/27(木) 07:02:17.43 ID:7jJBDJox
最上の窮乏でちょいとツッコミ

最上さんは明治維新までは鬼切丸をなんとか所有してたんだわ
八代将軍吉宗にも近江大森から貸し出ししてる

鬼切丸の質流れ小咄

明治維新、元高家の最上家当主が武士の商法に失敗し、借金返済のため遂に鬼切は最上家を離れ、京都の質屋に入れられてしまいました。
明治13年、当時滋賀県令であった篭手田安定はこれを憂い、有志の寄付を募り鬼切を請戻し最上家に返しました。

が、重代の宝刀を手放してしまったことを恥じたのか、あるいは二度とこのようなことが起こらないようにと考えてか、
最上家ではこの太刀を北野天満宮に奉納しました。

これが現代に伝わる北野の鬼切丸。

ただ、明治期には大森の最上家にはほとんど家宝が残っていなかったらしい。

最後の最後まで一応家宝を守ろうとしたものの
力及ばなかった最上家の後味の悪い小咄。
544人間七七四年:2011/10/27(木) 07:15:13.60 ID:gk02kkNp
こじんまりとはしているけど一応企業グループを形成できた
島津家との違いはどこから・・。
545人間七七四年:2011/10/27(木) 07:32:01.83 ID:m5AJGohk
領地がある程度あれば、高い爵位と高い貴族年金が貰えるし、「藩」でなく「個人」持ちの土地が
あれば、それを持ち続けることもできた。
旧藩主で広い山林を持っててずっと林業やってる人を知ってるよ。

あと、ぶっちゃけ領民に嫌われてた人は旧領内で商売できなくて苦しい目に合ってる。
546人間七七四年:2011/10/27(木) 08:23:23.12 ID:0PYhX36j
関ヶ原より残酷な明治維新
547人間七七四年:2011/10/27(木) 19:12:14.19 ID:lbyHNyB+
白鳥側からの話が無いので



最上義光から白鳥長久さんにお手紙ついた。

「もうダメぽ、系図と後を託したいから、あなたの義息に当たる義康の事をお願い」

長久は最上総領の座を得る好機とばかり重臣を従え籠に乗り行列を作って山形城へと出発した。
田井の最上川の渡し場に来て舟に乗ろうと休んでいると、大きな烏が鳴きながら飛んできて籠の上に糞を垂れ、湯野沢の方へ飛び去りました。
それを見た白鳥重臣の熊野三郎は
「烏は不吉だ、今日は山形行きは取りやめた方がよい。」と言って長久をとめました。
しかし長久は
「馬鹿なことを言うな、天が出羽の太守を証明した系図を私に預け、後の事を頼むといっている様なものだ。なにを馬鹿な事を」と叱りつけそのまま川を渡りました。

義光の病床に着いて以降は有名な「血染めの桜」エピソードへと続く話。

隣室で鮭を振舞われ控えていた家臣たちは、主人の白鳥長久が切られた事を知って戦ったが、熊野三郎友重をはじめ全員が壮烈な最期を遂げたと言われている。

白鳥長久の身の危険を知らせるために籠の上に糞をした鳥は、熊野神社の八咫烏だったとも言われています。
548547:2011/10/27(木) 19:15:33.76 ID:lbyHNyB+
タイトルを忘れました

「白鳥主従の山形行き」
549人間七七四年:2011/10/27(木) 20:02:08.37 ID:zXGPdauk
>>547
何も二回も「馬鹿な事を」といわなくてもw
550人間七七四年:2011/10/27(木) 21:27:00.10 ID:2HrhNJXQ
>>549
大事な事だからwww
551人間七七四年:2011/10/27(木) 21:28:12.84 ID:D5bA/0La
しかし一番大事な事はその馬鹿な事でしたと
552人間七七四年:2011/10/27(木) 22:28:45.99 ID:MrDgoM/G
>>547
長久「たとえ騙されてると思っても、男には行かなきゃいけない場合もある。ど、動揺してるんぢゃないんだからね!」
553人間七七四年:2011/10/27(木) 23:17:46.79 ID:pnSFtG0F
何時の世も、欲に目がくらんで安全を軽視すると、ろくな結果を生まないな。
554人間七七四年:2011/10/28(金) 00:28:14.93 ID:gT1yJC0K
リスクとリターンの関係なんだよなあ
つか戦い続けた最終目的なんだからそう簡単にやめることはできないだろうしねえ
これが最後のチャンスかもしれないと考えたら…
555人間七七四年:2011/10/28(金) 00:31:40.63 ID:UPW5k/3f
疑わしいが、チャンスを自ら棒に振るのも愚かだし
もう少し偵察していたらとは思うけど
しかし山形で家臣が鮭を振る舞われると、主人が討ち取られるフラグが立ちそうだな
556人間七七四年:2011/10/28(金) 15:16:29.71 ID:Odg1wt48
無粋な事を聞くが、
鮭は本当に振舞われていたの?
書いた人の洒落っ気ではなく?
557人間七七四年:2011/10/28(金) 16:04:55.19 ID:i54P26Bw
本当はマットで絞め殺されましたが、家臣一同のみならず
領民までもがもみ消しに力を貸しました。
558人間七七四年:2011/10/28(金) 16:56:58.56 ID:WjqtvuJT
>>556
酒の変換ミス
「義光記」とかにも「宴席」「酒宴」とある。

馬見ヶ崎川と鳥居忠政のちょっと悪い話

鮭様時代の馬見ヶ崎川は「白川」とも呼ばれ、砂金や下流では鮭がとれたらしい。
鳥居時代の改修で「底焼川」とも言われ、扇状地の川だけに、一気に鮭の溯上も適わない水量にまで減ったとか。
559人間七七四年:2011/10/28(金) 18:49:40.71 ID:OaC3uMuf
>>558
この時代はあまりそういう配慮がないから仕方ないっちゃ仕方ない。
で、まぁ同じような事が起きた場所では、
こういう話もある訳だな。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1155.html
560人間七七四年:2011/10/28(金) 20:56:55.37 ID:WjqtvuJT
>>559
リンクトンクス
近年のブラックバスやら鮎の問題も含め
とどのつまり歴史は繰り返すのか
561人間七七四年:2011/10/29(土) 03:01:51.19 ID:qvYSHBKG
白鳥十郎小咄

出羽谷地(やち)領主・白鳥十郎長久は
「しらとり・じゅうろう・ながひさ」と世間では呼ばれている

しかし江戸後期や明治期の講談では「城取十郎(しろとり・じゅうろう)」と書かれているものも散見される。

白鳥→しらとり・しろとり→城取の当て字かも知れないが
白井(しろい・しらい)といった名字の読み同様、誤解を招くちょっと悪い小咄
562人間七七四年:2011/10/29(土) 08:32:04.30 ID:qvYSHBKG
堀喜吽、聞き分けのないお殿様を諌めようとする

長谷堂合戦で西軍敗戦の報を聞いた最上義光(55才)は、
家臣・堀喜吽が「せめて幕下の兵が駆けつけるまで追撃を自重してください」と制止するのを
「大将が先頭を征かずして、そんな臆病な事で味方の士気がどうして上がるのか!俺がいかなきゃ話にならんだろ」と反論し、
先頭に立って上杉勢に追いすがった。

喜吽は「いかに近習の人々、大将を止め奉れ。剛臆の程をば只今御覧候へ
(殿自重しろ、誰か殿を止めろ!とりあえず俺が最上の兵を代表して臆病者じゃないのを証明してやる)」と義光の前に馬を進めようとした。

しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は弾丸に胸を貫かれ、そのまま帰らぬ身となった。

・・・諫死だよね?
563人間七七四年:2011/10/29(土) 09:25:28.96 ID:yLF8tm9K
>>562
堀喜吽…まとめスレにちょっとだけ出てきた人か
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-461.html
564人間七七四年:2011/10/29(土) 09:51:49.22 ID:RpOfPYFu
>>563
この堀喜吽は結構学もある人物で、
同僚で同じく慶長出羽合戦で討死した江口さん
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3457.html
と一緒に、義光の連歌の会に何度も出席して詠んでたなんて話もどこかで見たな。
565人間七七四年:2011/10/29(土) 11:24:51.51 ID:qvYSHBKG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2969.html

喜吽「前に出るなど鉄砲の的になる様なものです」
義光「わかった!もうちょっとだけなら平気だよ」
喜吽「と、との!」
義光「わかった、わかった!」
喜吽「最上の兵が勇猛なところは私が証明しま(ダーン!」
義光「!(兜に被弾」
566人間七七四年:2011/10/29(土) 11:46:20.83 ID:qvYSHBKG
長谷堂の追激戦は
朝の卯の刻(午前六時)から申の刻(午後四時)まで十時間、
一里半(六キロ)の間で、計二十八回の戦闘が行われたと云う。
567人間七七四年:2011/10/29(土) 12:56:48.06 ID:Lhy8LVSB
>>562
まあ、忠臣だの義臣だのの死に相応しい字をあてたげれば良いんじゃね?
日常的に命のやり取りやってて、ちゃんと寿命を全う出来る殿様には良い家臣がいるってことだ
568人間七七四年:2011/10/29(土) 12:59:35.16 ID:b9rL1d7r
六キロ間で28回ってすげえ頻度だな。よくこれで追われる側は全滅しなかったもんだ
569人間七七四年:2011/10/29(土) 13:05:06.13 ID:7db7xnsm
センゴク読めセンゴク
基本は遅滞戦闘だし、長谷堂の場合は撤退側のほうが人数多い
570人間七七四年:2011/10/29(土) 14:23:34.42 ID:2qq5hnTE
センゴク(w
571人間七七四年:2011/10/29(土) 15:13:20.18 ID:8gkfzpGY
逃げる側
直江軍25000

追う側
最上軍4500(山形城本隊3000+長谷堂隊1500)+留守政景軍3000
572人間七七四年:2011/10/29(土) 15:38:32.02 ID:b9rL1d7r
最上側少ねえな。ってか敵は三倍以上じゃん
これじゃ逆に返り討ち食らう危険すらあるな
追撃戦と言っても最上は慎重にちょこちょこ攻撃せざるを得なかったんだろうか
しかし最上側は出羽四十数万石の太守にしてはちょっと少なすぎる・・・
573人間七七四年:2011/10/29(土) 16:37:19.77 ID:8gkfzpGY
>>572
庄内を十五里原合戦で上杉に取られてて豊臣裁定でそのままだったから

この時は最上24万石だよ

上杉は120万石で、直江と与板衆で30万石。
574人間七七四年:2011/10/29(土) 16:41:06.99 ID:8gkfzpGY
最上の最大動員6000〜7000人くらい

長谷堂城に志村光安と精兵1500
対仙北の小野寺向けに湯沢城で楯岡満茂が3000
老兵・農民の比率が多い山形城本隊が3000
575人間七七四年:2011/10/29(土) 16:48:23.98 ID:8gkfzpGY
あ、小白川(現・山形大学敷地)で
日和見の留守政景軍3000は追激戦まで戦ってないから最上はホント涙目

谷地城江口350
谷地城江口救出の飯田・谷柏100
上山城里見800とかの兵力を考えても、赤ん坊と子供以外はこぞって動員くらいのレベル。
576人間七七四年:2011/10/29(土) 17:04:43.54 ID:9Qm7ZXcp
太閤(豊臣秀吉)の別種同腹の弟を大和大納言殿(豊臣秀長)と云う。
大和、紀伊、和泉三ヶ国に封す。

彼は賤ヶ岳の合戦の時、中川清秀の敗死の時、それを見ながら救おうとせず、戦の首尾が非常に悪かった。
そのため秀吉は怒り、諸大名の居並ぶ座中で秀長を

「お前は俺とは種が違うわ!(身とは違種たり)」

と怒鳴りつけた。

この大和大納言には子がなく、秀次の弟を養子とした、これを大和中納言と云う。
(老人雑話)

賤ヶ岳の折の、豊臣秀長の戦ぶりについてのお話。
577人間七七四年:2011/10/29(土) 17:11:08.59 ID:8gkfzpGY
>>576
豊臣絡みの養子はどこかクセがある

秀勝・・・若死
秀次・・・ラスボスのジェノサイド
秀秋・・・空気ブレイカー
秀家・・・世間知らず
578人間七七四年:2011/10/29(土) 17:12:24.93 ID:uD6DEZs5
人には向き不向きがあるだろうに…
時代が悪かったのか、兄貴が悪かったのか
579人間七七四年:2011/10/29(土) 17:13:11.33 ID:eGAHmx0f
秀長って娘いなかったっけ?
580人間七七四年:2011/10/29(土) 17:19:09.79 ID:8gkfzpGY
>>578
織田信長「アニキが悪い?」
伊達政宗「さてさて」
長宗我部信親「人によるでしょう」
武田信玄「そうなのか」
長尾晴景「アニキの苦労がわからないから言えるんだよ」
毛利隆元「ですよね」
581人間七七四年:2011/10/29(土) 19:53:08.30 ID:b9rL1d7r
>>573
おお、丁寧に解説してくれてあんがとさん
582人間七七四年:2011/10/29(土) 19:59:16.47 ID:CkTUFiVV
>>579
跡継ぎの子が居なかったって意味じゃね?
583573:2011/10/29(土) 20:27:40.54 ID:8gkfzpGY
>>575
江口は畑谷城だった・・・orz
584人間七七四年:2011/10/29(土) 20:32:57.08 ID:VS/j/0Kl
秀長は諸々を信じればかなりの年齢になるまで農民やってた計算になるが、その割に色々多芸だよな
武芸は知らんが書も和歌も領地経営もまぁこなしてるし
少なくとも負けるにしろ他の武将と比較されるレベルには達してるように思う
まぁ兄が色々酷かった(特に書とか)と言うのもあるが
585人間七七四年:2011/10/29(土) 20:48:31.78 ID:8gkfzpGY
「将の器」

天童八楯の延沢満延は天童頼貞の地盤を脅かすほどの勢力を誇っていた。
天童城合戦では八楯の中枢としてこれを守り、侵攻してきた最上勢を散々に打ち負かし、最上方の弓取り安間某を一騎打ちで軽く一捻りしている。

敵将最上義光も延沢満延を懐柔すべく大きな譲歩案を出してくる

・知行地・延沢銀山・権益は従来通り安堵し、これを認める
・八楯への干渉は満延に相談するか差配を任せる
・満延の息子に義光の娘を嫁がせる

八楯に比べれば力は弱いといっても、羽州探題の血を一族に入れられるという事は、八楯盟主天童氏かそれ以上の権威を手に入れられるという事を意味した。

満延は天童の家名を守る事を条件に義光に与す事を了承する
586人間七七四年:2011/10/29(土) 21:04:40.35 ID:8gkfzpGY
山形に満延の屋敷が新築され、義光には花見に誘われた。

満延が座敷に上がると義光が酒を勧めてきた。
満延「この間までの敵同士がまさか酒を酌み交わすとは」
義光「まぁ、面白い余興もあるんじゃ」
満延「余興ですか」
義光が「ほれ!」と掛け声を発すると、途端に襖が開き七人のいかつい武者らが満延目掛けて飛びついた

満延「!!はかったか!義光!!!」
義光「余興じゃ余興w」
満延はすぐに右手で3人ばかりを跳ね飛ばすと、残りの4人も襖や柱に投げ飛ばした
義光「ひぃ!」

義光は「酒の席の戯れじゃ!」と裸足で庭先に飛び出すと桜の木に登りだした

「戯れでは済まされませんぞ!」そういうと満延は義光ごと桜の木を引き倒した。

唖然として成り行きを見守っていた有地と笹原が正気を取り戻して満延を止めた
有地「山形(義光)殿が殿(満延)を殺す気ならばこんなしち面倒くさい事はしません」
笹原「酒の席です。無礼講ですよ、無礼講」

一歩間違えていれば義光・満延のどちらかが切り殺されていても不思議ではなかった山形の花見の宴

有地・笹原がいなければ再度の延沢離反もあったかも知れない
酒の不埒だけではすまなかったかも知れないちょっとバツの悪い話。
587人間七七四年:2011/10/29(土) 21:15:55.95 ID:CkTUFiVV
>>584
三好吉房が結構教養あった人物なんじゃね
その縁で身についたとかとか>書
588人間七七四年:2011/10/29(土) 21:18:42.87 ID:8gkfzpGY
「延沢軍記」側から視点を変えるとニュアンスも変わって面白い。
登場人物
延沢能登
有地(有路)但馬
笹原岩見(石見)
589人間七七四年:2011/10/29(土) 21:20:48.75 ID:SxKKWz/3
>>586
この伯父にしてあの甥っ子かw
590人間七七四年:2011/10/29(土) 21:43:09.24 ID:8gkfzpGY
満延、最上方についた事を悩む?

「延沢軍記」「最上記」「義光記」他からの切り貼りで
最上義光が延沢満延の力を恐れ、当初から花見の宴や相撲に託(かこつ)けて
暗殺を考えていたとする記述は少なくない。

でも、見方を変えれば新しい真実が出てくる可能性もある
真面目で融通の利かない満延の気を、いかに義光が引こうとちょっかいを掛けていたかといった可能性もある。

・やたらに濃いお茶を満延に「呑んで」と勧めてくる
(イタズラをしてカタブツの満延の反応が見たい)
・連歌の手ほどきを勧めてくる
(一緒に趣味を楽しみたい)
・やたらに長い手紙と心付けを贈ってくる
(かまって!かまって!)
・鷹狩りに頻繁に誘ってくる
以下略

好きになった相手に、周囲が見えない女の子の様でもある。

満延「・・・狙っているのか?天然なのか?」
591人間七七四年:2011/10/30(日) 00:11:31.51 ID:p68KyqNm
いいなぁ、満延さん
592人間七七四年:2011/10/30(日) 00:42:20.70 ID:XzdbxuSM
白鳥十郎「この間までの敵同士がまさか酒を酌み交わすとは」
義光「まぁ、面白い余興もあるんじゃ」
白鳥十郎「余興ですか」
義光が「ほれ!」と掛け声を発すると(以下略)

「血染めの桜」と前半までは大差ないのにw
593人間七七四年:2011/10/30(日) 00:56:46.88 ID:7hXNx9WP
>>576
この逸話、戦死したのがあの中川清秀だから、
見殺されて可哀想とも思えないなw
594人間七七四年:2011/10/30(日) 01:01:32.09 ID:17zPE6cd
そういやへうげで、清秀さん討ち死にシーンなかったから残念だった…
595人間七七四年:2011/10/30(日) 01:10:42.97 ID:DL5CQUI9
こんだけ実力のある家臣がいたんじゃそりゃ統制できなくなるわなあとオモタ

ていうかここはなにw>満延は義光ごと桜の木を引き倒した。
596人間七七四年:2011/10/30(日) 01:53:50.64 ID:XzdbxuSM
>>595
義光「やらないか?」
満延「ウホッ、いい殿!」
597人間七七四年:2011/10/30(日) 02:06:18.50 ID:XzdbxuSM
    |      ヽ    |    /  |
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  l { ( l;;;!::::::::::::.... ..::::::::::::: ::::.    |' |
  ヽ`'‐V:::::::::::::::::....::::::;、-:::.. :ヽ::.   |./
   ヽ、,,`:::::::::::::::::;;;;;;;;;`ニ - ニ,,,,,_.  !   < >>595には満延と裸で抱き合う権利をやろう
      '、:::::::`''''''"ニニ----ニ``''' l
      l;:::::::::::::::::::::.....:----::::.  /
     ,rァ|ヽ;::::::::::::::::::..      ,.'iヽ
   , ' 〃!、 `''ー、;;;;;:::::::::::::::::;、rソ .ハヽ\
  _/ .,','::ヽヽ   `ヾリル从リiン′,' l::゙,ヽ ヽ、
''"/  i i:::::::ヽ \    `マハソ′.,:' /:::::', ',. ヽ`'
. /  .l l:::::::::::::\ \   `′/ /:::::::::::', ', ヽ

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-143.html
598人間七七四年:2011/10/30(日) 04:59:02.89 ID:VBp4eHzl
(´・ω・`)「守棟も光安も満延もシャレが通じないんだから」
599人間七七四年:2011/10/30(日) 05:13:43.52 ID:VBp4eHzl
(´・ω・`)「この流れだから言える。一族や家来じゃなく、多少腹黒くてもいいから同世代の友達が欲しかったんだ」「義光記」
600人間七七四年:2011/10/30(日) 05:19:27.60 ID:VBp4eHzl
「志村某曰 白寿 此欠竹馬友(義光には 竹馬の友といえる者がいない・少ない?)」「義光記」
601人間七七四年:2011/10/30(日) 09:25:29.17 ID:yz8U1l2O
うわぁ・・・
602人間七七四年:2011/10/30(日) 10:41:46.18 ID:xLdQe6wM
>>586
これ暗殺に失敗しただけだろwww
603人間七七四年:2011/10/30(日) 11:09:18.88 ID:7hXNx9WP
604人間七七四年:2011/10/30(日) 11:27:23.32 ID:6tXE3G+t
>>603
ニュアンスが微妙に違う
605人間七七四年:2011/10/30(日) 11:37:38.00 ID:6tXE3G+t
>>586
有地・笹原の言葉でみんなが空気を読んだんだから、ある意味良い話でもある。

白鳥長久さんのときはうまくやってる。
606人間七七四年:2011/10/30(日) 11:48:07.58 ID:JRbKNXSe
ひょっとして白鳥の時も、質の異常に悪い、おふざけだったとか?
洒落で刀見せたら、相手がマジギレしたから、
怖くなってやっちゃったとか?
607人間七七四年:2011/10/30(日) 11:56:19.40 ID:7hXNx9WP
>>604
さすがに微妙に違う程度で、
既出ですが…と一言も触れないのは如何かと。
608人間七七四年:2011/10/30(日) 12:05:56.16 ID:6tXE3G+t
しかし
(`・ω・´)「『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』だと、ふざかるな!」
(´・ω・`)「帝王学だったから『僕は友達が少ない』」

次は何が来るんだ?
609608:2011/10/30(日) 12:07:53.82 ID:6tXE3G+t
あ、誤字・・・「ふざけるな」だったおorz
610人間七七四年:2011/10/30(日) 12:10:10.29 ID:6tXE3G+t
>>603
延沢だったら→余興
白鳥だったら→暗殺
611人間七七四年:2011/10/30(日) 12:32:05.36 ID:CHQHG1uc
いいかげん最上厨の連投がうざくなってまいりました
自分に興味のある分野だと話が止まらなくなる典型的なキモオタ
612人間七七四年:2011/10/30(日) 12:49:36.24 ID:bwtMc6Dt
褒めるなよ
613人間七七四年:2011/10/30(日) 12:49:45.83 ID:1pFGQ43R
>>611が最上「以外」の話投下すれば?
614人間七七四年:2011/10/30(日) 12:50:19.09 ID:K+UtxkWq
最上をNGワードに入れとけ
615人間七七四年:2011/10/30(日) 13:27:24.99 ID:HGbriStF
天正12年(1584)5月1日、羽柴秀吉は徳川家康との決着がつかぬまま、ついに小牧長久手より撤退を始め、
本体六万は青塚方面へと移動した。

この時秀吉軍最前線の拠点である二十堀砦には、木村常陸守、神子田半左衛門正治、黒田官兵衛、明石右近などが
入り置かれていた。
彼らも撤退を始めたが、これを徳川軍が把握し追尾する。いよいよ徳川軍が襲いかからんとした所を、
細川忠興の部隊が取って返し徳川軍を牽制したため、かろうじて撤退を成し遂げた。
この状況を秀吉は、青塚からじっと見下ろしていた。

やがて秀吉軍が犬山に入ったところで日が暮れた。
その時御前にいた神子田正治に対し秀吉は言う

「今朝、二十堀に敵が襲来したのを、お前なら返り討ちにすると思っていたのに、そのかいもなく
不覚をとってしまったな!」

神子田は、これに反論した
「我々はあれだけの敵に対処できるほどの人数を持たされていませんでした。人数がなければ、ああいう時
どうにもできるものではありません。」

秀吉のそもそもの撤退戦略のミスを指摘したとも取れるこの口答えに、秀吉はサッと表情を変え、
神子田を睨みつた

「人数だと!?そもそもお前が初めてワシの下に付けられた時、お前の家来など10人も居なかったではないか!
それを今の程までの身代にしてやったというのに、それがどうしてそのような口を利けるのか!」

激怒し、そう怒鳴った。

この事があってから、神子田正治は追放され、終には命を失うこととなった。
(豊鑑)
616人間七七四年:2011/10/30(日) 13:27:32.26 ID:7hXNx9WP
では流れを変えるためにも武田信玄の良い話でも。

当時浪人中であったが名の知れた武士であった山本勘助は、
駿河太守の今川氏真に仕官しに行った。
しかし…
氏真「お前カッコ悪いから不採用」
まぁ外見だけ見たら無理も無い。
勘助は色黒、隻眼、戦傷が体中にあり片足が不自由、背も低く痩せている…
と、とにかく見た目が悪い男であった。
実にテンプレ的な山本勘助である。

その後、山本勘助は当時若干20歳の武田信玄に会いに行き、
勘助の高名を聞いた信玄に即百貫で取り立てられた。
その後、実際に勘助に対面した信玄は、
異相であるにも関らず有名な勘助を只者ではないと感じて更に加増し、
戦話を聞いてはその博識を敬うといった具合に、
山本勘助を厚遇したという事だ。
名君と暗君の差はかくも甚だしき物があるということよ。
めでたしめでたし。

…これだけなら良い話なんだけど、酷い所が一箇所。
お前ら歳の差を考えろとw
氏真と信玄じゃ、どう考えても信玄の方が年上です。
この逸話、江戸初期成立の物なので、
その当時から既に氏真暗君論が唱えられてて、
逸話に混入しちゃったんだろうなと感じさせる、氏真にとっての悪い話。
617人間七七四年:2011/10/30(日) 13:29:24.98 ID:HGbriStF
読み返したはずなのにちょっとミス。下から6行目。すいません

×神子田を睨みつた
◯神子田を睨みつけた
618人間七七四年:2011/10/30(日) 14:12:46.80 ID:H6nI7fe+
途中まで読んでツッコミを入れそうになったぜぇwww
品川さん、武将というか主君としてはダメかもしれいけど人間的にダメってエピソードあるんかな?
619人間七七四年:2011/10/30(日) 16:02:56.01 ID:USXGCf+w
>>616
氏真→義元のエピソードはよく聞くよね
620人間七七四年:2011/10/30(日) 16:20:58.78 ID:VXP80smS
勘助はようわからんな。一時期は存在疑問説が流れたりしたし
最近じゃいたらしい、なんて意見が強まってるし。まったく、嘘ほんとが入り乱れて困る
621人間七七四年:2011/10/30(日) 16:58:40.61 ID:17zPE6cd
>>615
神子田さんにとっちゃ踏んだりけったりな話だと思うが
そういう時こそ主君の為に役立たなければならないから難しいな
622人間七七四年:2011/10/30(日) 17:02:01.80 ID:17zPE6cd
>>620
勘助存在説は、市川文書でちゃんと名前書いてあるから確定だと思っているんだけど
(ただし、勘助じゃなくて管助だが、この頃は当て字当たり前だからあまり問題なさそう)
これじゃまだ弱いかなあ
623人間七七四年:2011/10/30(日) 17:39:48.68 ID:5rUOcYJU
>>622
山本勘助という人物が居たことは確定だけど、
その人が我々が知るような山本勘助であるかどうかは別問題
624人間七七四年:2011/10/30(日) 17:49:31.14 ID:Xa9ox33z
水戸黄門みたいなもんだろ。徳川光國は実在したけど、諸国漫遊はしてない的な。
625人間七七四年:2011/10/30(日) 17:55:19.56 ID:6+e9uvtm
よくわからんけど今でもそんなに勘助神格化されてる?
毎回この話題になると勘助を否定するor別人とかコメあるけど
逸話でなにかあるならせっかくだから
こりゃねーよって感じのでもいいから山本勘助の話がみたいです
626人間七七四年:2011/10/30(日) 17:55:31.33 ID:17zPE6cd
>>623
なるほど 軍師と伝わっている確実な史料はあるのかな
でもあの当時の軍師って、陰陽師みたいなもんなんだっけ

勘助は諏訪の高島城の鍬立てをやったと、駒井高白斎の『高白斎記』という史料に書いてるらしい
鍬立てってのは地鎮祭のようなものだけど、あの頃の地鎮祭は今よりももっと重要視されているんだよね
祟りや呪いを真剣に受け止めていたりするし

だから勘助は軍師は軍師でも、呪術型の軍師なんだろうなと思ってる
627人間七七四年:2011/10/30(日) 17:58:38.98 ID:y3ze+cCA
当時の軍師って、呪術は知ってて当たり前じゃないのか
628人間七七四年:2011/10/30(日) 18:08:03.32 ID:tv2LC+Yt
山本勘助(菅助)は軍事作戦についての事で信玄の使番として行動している記録が残っているので、
軍使かどうかはともかく、信玄の近習の一人だったのは間違いなかったと考えられる。
629人間七七四年:2011/10/30(日) 18:28:06.45 ID:5rUOcYJU
>>628
×軍師
○軍使
か、なるほど!
630人間七七四年:2011/10/30(日) 18:39:19.22 ID:N3Ivz//v
当時の従軍陰陽師は「軍配師(軍配者)」だね
三国志に出てくるような軍事参謀的な職としての「軍師」は厳密には存在しなかった筈
参謀的な役割の人はいただろうけどね
631人間七七四年:2011/10/30(日) 18:43:19.37 ID:17zPE6cd
>>627
そうなのか そこまで詳しく調べてないんだ ごめん
632人間七七四年:2011/10/30(日) 18:52:26.86 ID:2aqRBeZV
呪術師というか出陣式とか首実験なんかの段取りつくる役目な気がする
誰が掛け声かけるかで斬り合いになるんだし(家中序列の問題にもなるから)
633人間七七四年:2011/10/30(日) 19:41:27.37 ID:H6nI7fe+
軍師やら軍配者やらを、今売りの雑誌でそんなん特集してるよね?
634人間七七四年:2011/10/30(日) 22:09:51.99 ID:yLmCiIpU
「一個人」とかいう雑誌だな。今日コンビニで見かけたんで、丁度買ってたわ。
「保存版特集 戦国軍師の知略」とかいうの。
その軍配者とかまとめてた。策士(参謀)・軍配者・外交官・腹心・内務官僚とか区分して。

そして相変わらず東西のお兄ちゃんの扱いが悪くてワロタw
                                 ワロタ……
635人間七七四年:2011/10/30(日) 22:12:19.41 ID:yLmCiIpU
上げちゃった、ゴメン。

中々面白かったよ。
カラー90Pくらいで、入門的にはかなり良いかと。
636人間七七四年:2011/10/30(日) 22:37:22.65 ID:W1mcBvXY
パラパラと立ち読みして、石田三成の持ち上げ方が気持ち悪くて買うのをやめた
637人間七七四年:2011/10/31(月) 08:01:33.05 ID:iv4OAaW2
山本勘助じゃないが名軍師つながりで(?)黒田官兵衛の「こりゃねーよ」って話。

黒田官兵衛といえば毛利家中でも「黒官殿」の略称で親しまれ、
毛利の家臣たちをキリシタンに引きずり込むほどの影響力を誇った。
それは官兵衛が毛利家と秀吉との間でこまめに働いて信用を勝ち得たからこそで、
特に吉川広家とは文通したり、広家が秀吉の養女(宇喜多秀家の実姉)を娶る際には
嫁入り行列に付き添って新庄にしばらく滞在するなど、それは親しく付き合っていたようだ。
なぜ官兵衛がここまでしたかというと、こんなわけがあったらしい。

「黒田は先年より秀吉公へ吉川家の事取り次ぎ給ふのみならず、
 経言(広家)世に優れて容貌美麗に御座しければ、断袖分桃(男色のこと)の好み深かりける故、
 世に親切に思い給ひ、万事の後見を作し給ひけり」

出典は「陰徳太平記」なので、吉川のことについては詳しい。
ひょっとしたら吉川家中では「黒官殿はウチの殿様に懸想してる」という認識だったのかも。
638人間七七四年:2011/10/31(月) 09:53:40.45 ID:BsP+PjGo
>>637
普通は「自分の接待の前後に死んだ元春と吉川家に負い目がある」とか
考えてやるべきなんじゃないのかw
639人間七七四年:2011/10/31(月) 13:35:30.72 ID:PpWKy/eX
あたし男だけど分桃って、とてもポエミィで素晴らしい表現だと思いますわ。
640人間七七四年:2011/10/31(月) 15:02:57.36 ID:Vl8I6ITL
>>639
とある皇帝が愛人(男)が食べてる桃を物欲しそうに見てたら「あげる」って渡された微笑ましい話だね
 
 
後に寵愛が無くなったら「食いかけの物を出した!」って死刑にされたけど
641人間七七四年:2011/10/31(月) 15:06:42.28 ID:oUsVU9ux
断袖はあれだっけ
床を共にして帰る時間になったんだけど、腕枕して寝ている相手を起こすのがしのびないので
袖を斬って帰ったって話からだっけか
642人間七七四年:2011/10/31(月) 15:21:04.82 ID:3WmoIW/K
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2432.html
同じ陰徳太平記でも、こっちでは断袖の交わりではなく断金の交わりと、普通の友情に

それはそうと、TERUの桃を三成が拒絶したのは誤解したからではないよな
643人間七七四年:2011/10/31(月) 15:23:29.44 ID:oUsVU9ux
どうでもいいけど、陰徳ってタイトルがまた何か色々凄いね
644人間七七四年:2011/10/31(月) 15:33:29.20 ID:3WmoIW/K
雲陽軍実記や甲陽軍鑑は、
南=陽(山の場合、河の場合は逆)という概念があって、それから雅称として
地名に陽をつけるようになった、とか前に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5419.html
「陰徳」は尼子の「雲陽軍実記」の「陽」に対比させてつけられたのかも、とも
645人間七七四年:2011/10/31(月) 15:35:24.08 ID:oUsVU9ux
>>644
なるほど 陽って文字よく見かけるなと思ったらそういう意味があったのか
タイトルにも拘りがあるんだね
646人間七七四年:2011/10/31(月) 15:36:04.12 ID:3WmoIW/K
と、コメント欄に「陽」は雅称じゃなくて都市の意味もある、と書かれていたのか
647人間七七四年:2011/10/31(月) 16:04:45.63 ID:RmNCFHua
山陰の尼子が陽で、山陽の毛利が陰なのか
648人間七七四年:2011/10/31(月) 17:55:27.72 ID:Jg8NT6SS
陰徳は、意識せずに積む徳(陰に隠れた徳)という意味だが。
陰徳太平記は、もともと陰徳記を元にした本だったよね。
649人間七七四年:2011/10/31(月) 19:05:48.77 ID:u6PMUDQt
>>611
良い話スレでも酷かったな。
650人間七七四年:2011/10/31(月) 21:06:22.35 ID:1usud8Vo
富士山は駿河側が表ってことか
651人間七七四年:2011/10/31(月) 23:03:33.51 ID:npjyO3qz
天正12年(1584)、秀吉と織田信雄の対立は激化。信雄は徳川家康を頼り、小牧長久手が
起きようとしていた。

多数派工作を進める秀吉は池田勝入に対し富田左近、津田隼人を派遣し、自分に付いた場合に
美濃、尾張、三河の三ヶ国を与えると約束する。
これに池田勝入は、重臣を集め評議を行った。

この時、池田家家臣、片桐半左衛門進み出て言うには

「そもそも勝入様は信長公の乳人子であり、その上お取り立て下さった主家である織田家を捨てて、
傍輩に過ぎない羽柴に与するのは、天の恐れも後の世の誹謗もいかがか。そう存じます。」

これに対し、同じく家臣の伊藤清兵衛は

「私は秀吉の近年の行いを見もし、聞きもしてきました。その上で、今の天下の諸大名と秀吉の
軽重を比べてみれば、明らかに秀吉のほうが重い。そう確信しています。
そうであれば天下の執権は秀吉となります。ここは理を非に曲げてでも秀吉に与し、それによって身も立て
労の報いも得るのが良いと、私はそう考えます。」

池田家家中はこの二論に割れ、勝入自身も大いに迷い
「自分の体が二つになって、双方に与したい」と発言する。

片桐半左衛門はこれを聞くと
「羽柴に一味するというのは天に違える行為で、後の瑕瑾となり行く末もはかばかしくはならないでしょう。」
と、眉をひそめてつぶやいた。

ここにおいて勝入は近習の土倉貞利を密かに、娘婿たる森長可の元に派遣し、長可の判断を聞いて
自らの去就を決めることとした。


さて森家である。森家においても重臣による評議が成されたが、彼らの意見は最初から完全に一致していた。
家臣は長可に、全員の総意を申し上げる

「確かに織田家は旧恩のお家柄です!だがしかーし!それはそれとして現在英雄というべき人物は
秀吉公でございます。であれば、後々のためにも秀吉公へ御一味して然るべきです!
世の中こう言うではありませんか、『天の与えるものを受け取らなければ、却って災いを受ける』と。
お仙君(忠政)もこちらに帰られたことですし、これはまさに、森家の長久繁栄の瑞祥です!!」

流石は織田家有数のドチンピラ軍団森家、ギャハハという下卑た笑い声が聞こえてきそうな、間違いなく
悪役の、それも三下クラスの提案である。
無論長可はこれを何の迷いもなく受け入れ、池田勝入もこれを知ると秀吉への一味を決心するのである。
(森家先代実録)

そう、そして何より恐ろしいのは、この誰が見ても悪のヒャッハー集団の会議としか思えない森家の評議内容が、
森家自身の記録であると言うところである。
652人間七七四年:2011/10/31(月) 23:15:36.47 ID:Se/G4Kye
ギャハハという下卑た笑いとか悪のヒャッハー集団の会議とか
センスねぇな
653人間七七四年:2011/10/31(月) 23:18:50.06 ID:6rXstGHl
必要以上にむりやり悪い話に持って行こうとしてないだろうか
654人間七七四年:2011/10/31(月) 23:27:02.10 ID:8Xn4zK5n
この手の「どこにつく方が得か」なんて話はよくあるし、別に恥じる事でもないよな
655人間七七四年:2011/10/31(月) 23:34:58.74 ID:Dhd0EQk6
まあ誇れることでもないがな
656人間七七四年:2011/10/31(月) 23:35:06.67 ID:M1aXmbIa
どうも想像しがたいけど、
長可と秀吉の個人的関係は良好だったんだろうね。
657人間七七四年:2011/10/31(月) 23:42:01.76 ID:df5FDz6g
悪い前田慶次のイメージ
658人間七七四年:2011/10/31(月) 23:44:24.18 ID:JOuuo6MI
まあ「信長の乳人子」という事に色々助けられただろう勝入は当然悩むよね。
659人間七七四年:2011/11/01(火) 00:39:11.63 ID:zkFUI658
>>656
一緒に茶器を買いに行く仲だからね(棒)
660人間七七四年:2011/11/01(火) 00:39:51.93 ID:rvEaIs0f
池田のオッサンは、鬼武蔵のことを信頼してたんだな。
661人間七七四年:2011/11/01(火) 00:46:31.76 ID:68HQDpiq
会長?
662人間七七四年:2011/11/01(火) 01:14:58.25 ID:R8ebT6iE
鬼武蔵ネタを

これは、有名な森長可遺言状の全文である


『覚

一・澤姫の壺、秀吉様へ進上、ただし今は宇治にあり。
一・台天目、秀吉様へ進上。仏陀(寺)にあり。
一・もし討ち死に候はば、此分に候。母に候人は、堪忍分秀吉様へ御もらい、京に御入り候へく候。
  せん(忠政)は今の如く御側に奉公の事。
一・我々の跡目くれぐれ嫌にて候。この城(兼山城)は要にて候間、確かなる者を秀吉様より置かせられ候へと
  御申之事。
一・女共は急ぎ大垣へ御越候へく候。
一・悪しき茶の湯の道具、刀、脇差、せんに御取らせ候べく候。何れも何れも仏陀の如く御届け候へく候。
  仏陀の他は皆せんに取らせ申し候。但成次第此由御申候へく候。

天正十二 三月廿六日あさ     むさし

尾藤甚右衛門(知宣)さま 申給へ


又申候、京の本阿弥所に、秘蔵の脇差二つ御入り候。せんにとらせ申候。尾甚(尾藤甚右衛門知宣)に御申候へく候。
おこう事京の町人に御取らせ候へく候。薬師のやうなる人に御し付け候へく候。母に候人は、
かまいてかまいてかまいて京に御入り候へく候。せんもここもと跡継ぎ候事嫌にて候。
十万に一つ百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て御死に候へく候。
おひさにも申候。以上。』


かつては「自分の弟であっても才能がなければ跡を継がすのを潔しとしない実力主義」とか、妹とされる
”おこう”の処遇に「武士として生きる虚しさを表現している」とか言われてきたが、最近「それは解釈を
間違えている」という説が提示された。
では最新の解釈で、この遺言状の、肉親の処遇に関する部分を訳してみよう


・「もし討ち死にしたら、秀吉は母上に所領を与え『京都』に居住させよ。」
・「忠政は今のまま、(京で)秀吉の近習として使え。間違っても(京から遠く離れた美濃の)兼山城主などという
 自分の役目を継がせてはならない。」
・「おこうは『京の』(政権と繋がりのある有力)町人に嫁がせよ。(大名の診察をする)医師などがいい。」
・「母上は絶対に絶対に『京』に置くように。忠政にも兼山で跡を継がせるのは断固拒否する。」



このように、遺言に見える京への強いこだわりから、森家が政権中央である『京』で活動することを強く望んだ、
非常に生々しい遺言内容であると、最近では解釈されているのである。


ちなみに長可の討死後、この遺言状を読んだ秀吉は涙を流して、忠政が「兼山城主」を継ぐように命じた。
そんな鬼武蔵の遺言についてのお話w
663人間七七四年:2011/11/01(火) 01:28:09.70 ID:rqJSTOW4
イイハナシダー(;д;)
664人間七七四年:2011/11/01(火) 02:15:40.13 ID:sd/y8fud
>>637
広家に容姿端麗説があったとは
665人間七七四年:2011/11/01(火) 02:27:16.56 ID:fEYsfdk5
>>662
本能寺で弟3人死なせて
残った末弟を思いやり娘に医療従事を薦める
愛に目覚めたヒャッハーの遺言なんじゃないのかなぁw
666人間七七四年:2011/11/01(火) 03:44:48.69 ID:KXJXsalY
そういえば、鬼武蔵が身内や家臣をヒャッハーする話はまだ見た事無い気がする。
667人間七七四年:2011/11/01(火) 05:57:50.05 ID:/nfSriOv
ラスボス「こいつら(鬼武蔵と愉快な仲魔たち)野に放ったらなにするかわからんしなあ…」
668人間七七四年:2011/11/01(火) 06:56:59.29 ID:9NXxT+rP
謙虚と見せ掛けて思いっきり野心のたぎる遺言だったと。
669人間七七四年:2011/11/01(火) 12:05:19.06 ID:n+zyvdcn
涙をながすほど嫌だったのかよ・・
670人間七七四年:2011/11/01(火) 12:13:31.69 ID:inc8dMqX
原文の写真のった本みたけど
どストレートに「いやにて候」って書いてるんだよね
なんかそれが、長可らしいなと思っちゃった
671人間七七四年:2011/11/01(火) 12:23:53.64 ID:d9V6vwVw
>>664
母親はブスだと書いておきながら>陰徳太平記
672人間七七四年:2011/11/01(火) 12:26:55.47 ID:mQ3z6UBT
肖像画の広家は東国原元知事に似た面長だよな
673人間七七四年:2011/11/01(火) 12:35:55.18 ID:inc8dMqX
肖像画といえば、道雪さんの眼力は初見びびったな
夜中に見るもんじゃなかった
674人間七七四年:2011/11/01(火) 14:01:12.93 ID:/nfSriOv
>>671
叔母が絶世の美女って話なのに…
疱瘡でアバタだらけになったんかね?
675人間七七四年:2011/11/01(火) 14:11:56.57 ID:FGC7oL1c
女性の美醜の記述に関しては、あんまり信じられないなあ
政治的思惑とか、個人的恨みとか、いろいろと絡んでるだろうし
676人間七七四年:2011/11/01(火) 14:19:59.15 ID:inc8dMqX
お市の方は、北ノ庄城落城の時
30代半ばなのに、まるで20代のような若々しさだったって記述あるようで
それもまた戦国一の美女と言われる要因の一つだったのかな
677人間七七四年:2011/11/01(火) 16:52:59.12 ID:j/og6hno
きっとお市の方はいいものをたんまり食ってて、ストレスの無い生活をしてたんだろう
あんなに辛酸をなめた人生なのだから普通は人並み以上に老けこむはず
678人間七七四年:2011/11/01(火) 18:46:29.33 ID:2+DvsUn8
肖像画からするとお市もだけど信長もあんまり年齢が顔に出ないイメージがある。
能面ヅラといったらアレだけどそんな感じ、遺伝かね?
679人間七七四年:2011/11/01(火) 18:57:49.72 ID:bQhVXQuR
>>678
肖像って基本理想化して描かれるものだからなあ。

信長だと、かなりリアルに書いたと言われる報恩寺織田信長像は一般のイメージとかなり違う(記事の下の方)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5000.html
680人間七七四年:2011/11/01(火) 19:07:21.07 ID:2+DvsUn8
宣教師が描いたっていうアレは結局どうなんだろうな
681人間七七四年:2011/11/01(火) 19:10:52.72 ID:bQhVXQuR
>>680
http://www10.ocn.ne.jp/~kwazin/aduti_jou93.JPG
これのことなら、ぶっちゃければ明治後に誰かが捏造したものと考えてほぼ間違い無い。
682人間七七四年:2011/11/01(火) 19:17:36.54 ID:xNLAyjIw
>>681
どこの熊楠って顔しているものなあw
683人間七七四年:2011/11/01(火) 19:29:52.71 ID:bQhVXQuR
肖像画といえば、あの有名な宇喜多秀家のイケメン肖像画は、岡山の地元の画家、市原寿一氏が
昭和になって描いた『想像図』。
http://www.city.okayama.jp/museum/rekidai/ukita/image/hideie.jpg

というのは知らない人には悪い話かな?w
684人間七七四年:2011/11/01(火) 19:34:34.70 ID:mQ3z6UBT
>>683
へ〜、そんなに新しかったのか
ってことは当時に近い時代の肖像画や木像の類は残ってないのかな?
685人間七七四年:2011/11/01(火) 19:35:50.55 ID:vwNCjO9U
性格がイケメンだからいいんだよ
686人間七七四年:2011/11/01(火) 20:00:39.95 ID:BfGp2Rl9
>>677
落城のとき子供4〜5人いたんだっけ
普通はそんだけ産んだら根こそぎカルシウムもってかれて歯とか抜けそうなものだが
687人間七七四年:2011/11/01(火) 20:20:35.13 ID:eKvY7HSm
>>686
男子については市の子かどうかわかってないよ
688人間七七四年:2011/11/01(火) 20:30:12.65 ID:inc8dMqX
男子は側室の子だろう
それよりも酷い言われようだ なんかお市の方に恨みでもあるのか
689人間七七四年:2011/11/01(火) 20:57:07.73 ID:bQhVXQuR
お市の方の子供と言えば、大河の主人公の江はもともとの名前は「五」で、文字通り五番目の子供で
あったらしい。それが市の産んだ子供の数か、長政の子供全体かは解らないが。
690人間七七四年:2011/11/01(火) 20:57:57.65 ID:hLBI/s3c
次女なのに初なのは?
691人間七七四年:2011/11/01(火) 21:00:16.79 ID:inc8dMqX
五ってお江が手紙で自分の名前省略しただけなのに、どっからそんな設定になってるんだ
>>690
なべっていう幼名もあったってきいたな
692人間七七四年:2011/11/01(火) 21:53:43.84 ID:Rrfpku27
>>690
前にテレビでやってたやつだが、淀は信長と市の子で初は長政と市の子だから次女でも「初」って言ってた
でも当時って名前に使われてる数字とかって産まれた順とか関係ないから、二番目の子供にも普通に「一」やら「初」やらは使われてたらしいが
693人間七七四年:2011/11/01(火) 22:04:05.89 ID:inc8dMqX
信幸兄さんの幼名は源三郎だったけ 長男なのに
694人間七七四年:2011/11/01(火) 22:16:29.89 ID:dHkk8hIJ
源太郎にしようかと話もあったけど
幼名が「源太」だった真田信綱が討ち死にしたので縁起が悪いとされたなんて話が。
695人間七七四年:2011/11/01(火) 22:29:54.18 ID:Rrfpku27
弟は源二郎なのにねw
696人間七七四年:2011/11/01(火) 22:35:45.12 ID:inc8dMqX
それで、本当は信繁の方が兄なんじゃ?
という説、一時期よく見かけたな
697人間七七四年:2011/11/01(火) 22:36:54.74 ID:2+DvsUn8
親父は三男なのに源五郎だし
698人間七七四年:2011/11/01(火) 22:39:37.38 ID:R8ebT6iE
と言うか、信之の「源三郎」は”幼名”
信繁の「源次郎』は”通称”(成人名)
699人間七七四年:2011/11/01(火) 22:51:34.93 ID:cwy6OGH4
だからなんだ
700人間七七四年:2011/11/01(火) 22:52:34.78 ID:UwSeoEo9
>>698
上杉の人質になったときもまだ弁丸だったしな
701人間七七四年:2011/11/01(火) 23:08:12.20 ID:R8ebT6iE
>>699
だから真田家嫡男の幼名の通字である「源」を名乗ったのは信之だけ、ということ。
つまり生まれながらに信繁以下は「その他」「スペア」だったということ。
702人間七七四年:2011/11/01(火) 23:09:46.68 ID:inc8dMqX
嫡男以下はそういう扱いって、他も似たようなもんじゃないの?
703人間七七四年:2011/11/01(火) 23:12:25.03 ID:R8ebT6iE
>>702
もちろんそう。なので信之が嫡男だった、って事ですわ。
704人間七七四年:2011/11/01(火) 23:19:37.14 ID:inc8dMqX
信幸嫡男で思い出したけど、こういう異説があったな

信幸の嫁小松は、最初は家康の養女ではなく、そのまま本多忠勝の娘として嫁になる予定だったが
昌幸が「うち嫡男まで出してるのに、その嫁がたかが家臣の娘とか、何それ有り得ないわー」
と抗議したので、家康が秀吉にどうしようかと相談したところ
「じゃあ、家康殿の養女にすればいいじゃない!」と言ったのでそうしたら
昌幸もそれで納得したそうな

705人間七七四年:2011/11/02(水) 00:15:09.30 ID:Z3Sfbb2n
でもなぜ三なのか、って疑問に回答できてないよな
706人間七七四年:2011/11/02(水) 00:17:12.41 ID:WzQBxX/K
ちょw
鬼嫁フラグ立てすぎだろwww
707人間七七四年:2011/11/02(水) 00:25:30.62 ID:b7bXDjDB
>>705
そこは父親の真田昌幸が三男だからなんだろうな。
708人間七七四年:2011/11/02(水) 01:13:30.00 ID:cEKmXuDH
弥太郎とかは太郎の息子って意味になるしそんな感じで
三男の長男ってことなんじゃ?
709人間七七四年:2011/11/02(水) 08:43:38.70 ID:744E6zj9
忠勝さんと昌幸さんの当時の領地だと、昌幸>忠勝かね?
710人間七七四年:2011/11/02(水) 09:59:23.97 ID:VXMcBxhk
陪臣の娘を大名の跡継ぎの嫁にできるかよ
認めれば、与力でなく傘下に収まることになっちまう
それでなくても敵対していたんだ
711人間七七四年:2011/11/02(水) 10:04:31.87 ID:E5jCb4nP
そんなこんなで迎えた嫁はry
712人間七七四年:2011/11/02(水) 10:38:17.28 ID:gk8nqlfs
信之と信繁の幼名については、信繁を上の子に見せかけることで
長男に降りかかる災いを払いのけようとした…って話も聞いたことあるな

現代でも長男次男関係なく「士郎」や「吾郎」(流石に漢数字じゃないが)
とつけることはあるし、当時からあまり数字の順番は関係なかったのかも。
713人間七七四年:2011/11/02(水) 11:03:45.36 ID:nbdt+PeF
>>704
家格とか、やっぱり気にしたのかね。真田の親父殿。
異説に突っ込むのも野暮だが、家康が秀吉にいちいち相談とかするかよ。自分に手駒がなければ親族・家臣の子女を養子・養女として送り込むの、当たり前の手段でしょ。
送り込む人間がふさわしいかどうかはともかく。
714人間七七四年:2011/11/02(水) 11:09:52.21 ID:a83mYE12
いちいち相談ってか、分かりきってても一応お伺い立てて顔を立てるというか機嫌を取ることってありそうだけど
715人間七七四年:2011/11/02(水) 11:43:44.91 ID:XOdZQAXO
「真田の要求を呑んだ」ではなく「秀吉の提案を受け入れた」にした方がいいんだろうな。
716人間七七四年:2011/11/02(水) 12:15:14.22 ID:kDIsOKv9
世間体ってのも関わってくるしなぁ
大名ともなると結婚相手を選ぶというのも大変だ
717人間七七四年:2011/11/02(水) 16:13:47.83 ID:iVFmf9ts
家康も秀吉が生きてる間は気を使っていたけど、
秀吉が死んでからは禁止されてた婚姻関係を勝手に進めて、
他の五大老から問い詰められてしらばっくれてたり。
だから単に秀吉が生きていたので一応ご機嫌を取ってみた、
程度の所だろうな。
718人間七七四年:2011/11/02(水) 16:35:40.49 ID:iqOMclv6
>>717
あの婚姻問題については、そもそも大名間婚姻の許認可は誰がするのか、という問題があって、
家康はそれが自分にある、三成や前田利家などはそうではない、という対立だった。

で、結果的にどうなったかというと、利家は大名間の婚姻に対する家康の許認可権の存在を認めちゃってるわけ。
例の和解の後も家康と伊達や福島との婚姻は、そのまま何の問題もなく進行している。中断すらしていない。
その意味では利家は家康に屈服したといっていい。
719人間七七四年:2011/11/02(水) 18:59:34.68 ID:dD7n84RL
ありなんありなん
720人間七七四年:2011/11/02(水) 19:43:35.40 ID:s+dcQMi9
あの人は若いころはすぐキレて人を斬り殺してたのにじじいになってからはずいぶん
丸くなっちゃったからなあ〜
721人間七七四年:2011/11/02(水) 19:46:02.52 ID:pWv6enYO
鬼武蔵ももっと長生きしてじいさんになったら
丸くなったのかな……
722人間七七四年:2011/11/02(水) 19:57:50.14 ID:ioywFkzs
TV朝日の珍百景で、山形の農家の女性は覆面して野良作業するってやってた

言い伝えでは江戸時代の藩主が美人の娘を連れ去ってゆくからと言われてるらしいんだけど

該当するような藩主いる?最上っぽくはないよね
723人間七七四年:2011/11/02(水) 20:13:39.76 ID:CByWOhZ5
>>722
江戸中期頃かな
義俊が引っ掛かるかも知れんが若過ぎる

鮭さま・・・夫人はある程度はっきりしている
義康・・・白鳥夫人他
家親・・・若死。生前も悪評はほぼ皆無。講談で敵対していた家の旧臣の侍女に刺殺されたとも。
義俊・・・13歳で藩主、後年江戸で舟遊びや酒癖の悪さの話で家を潰した愚君として書かれる
724人間七七四年:2011/11/02(水) 20:14:34.18 ID:cLlOR914
>>722
山形のどこ?
時代もだがそれも重要。
725人間七七四年:2011/11/02(水) 20:23:01.20 ID:CByWOhZ5
因果は巡り

里見越前守義近は出羽上山口の城代だった。
天童八楯に属するもののたびたび長井の伊達氏から攻撃を受け、互いの利益のために八楯と敵対する山形にも次男の民部をして繋がりをもっていた。

山形で最上義光が父義守を隠居させると
ある日谷柏直家と氏家尾張といった最上の重臣が義光の書状を義近に差し出した。

・上山(里見)満兼を消さば、上山里見本家の総領の地位と上山城を安堵する

義近の長男里見内蔵は上山満兼に重用されていたが、これを手討ちにすると義近は上山城を一族衆を動員して乗っ取った。

つづく
726人間七七四年:2011/11/02(水) 20:31:57.98 ID:iVFmf9ts
>>724
一応グーグル先生で調べてみたけど、
文化庁の見解では、青森から新潟までの日本海沿岸では、
同様の作業時に顔を覆う習慣があったんだということらしい。
まぁ伝承だろうが、特定は難しそうね。
ttp://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199476
727人間七七四年:2011/11/02(水) 20:34:50.61 ID:ApS2Ick8
つまり佐竹につれて来られた水戸の美人が始めた可能性も、なんて
728人間七七四年:2011/11/02(水) 20:36:40.75 ID:CByWOhZ5
つづき

義近の息子の民部は義光に重用され、
慶長出羽合戦でも直江方の別働隊大将本村造酒親盛を討ち取るなど、更に加増があった。

しかし最上家内での発言力を強化しようと
里見民部と民部の息子権兵衛正光が義光の長男義康を櫛引で暗殺してしまう。

最上義光はこれに怒り、正光を切腹させようとするが、里見一族は加賀前田家を頼り出奔する。

1614年
義光の死後、最上家親が「遺恨は水に流し里見一族を赦す」と前田家から里見一族を引き取った。

しかしこれは義光の「なにがあっても里見一族を絶て」といった遺言を実行するための策。

家親の兄義康が殺害された櫛引で
里見義近・民部・正光は切腹
加賀から山形に一緒に戻ってきた一族の者も全て斬られた

諸説が伝わり
正光だけが山形から逃げた、民部親子は片目・片足・片腕を斬られ野垂れ死にした、切腹は許されず皆斬り殺されたといった話も伝わる。
729人間七七四年:2011/11/02(水) 20:49:59.27 ID:ioywFkzs
テレビでは酒田市でしたが、学生時代に旅行で山形を訪れたときに温海でも見かけたので、たぶん沿岸部周辺はだいたいしてるみたいです。
730人間七七四年:2011/11/02(水) 20:51:50.32 ID:CByWOhZ5
>>729
本多忠重の行いならわかる気がしてきた。
731人間七七四年:2011/11/02(水) 20:53:59.93 ID:V4lhb21y
もう最上はウンザリ
732人間七七四年:2011/11/02(水) 20:55:42.01 ID:CByWOhZ5
白岩一揆後の「酒井」忠重か・・・
733人間七七四年:2011/11/02(水) 21:48:02.76 ID:ZGG3C9Oh
>>731
文句書かずに逸話書け
734人間七七四年:2011/11/02(水) 22:48:16.05 ID:QlcrUh6H
廃嫡されたとはいえ落ち度もない主君の息子を家臣の一存で殺せるもんなの?
735人間七七四年:2011/11/02(水) 22:48:24.91 ID:g87GQMu0
だらだら列伝を書くのを逸話とは言わないのよ
736人間七七四年:2011/11/02(水) 23:29:13.95 ID:b7bXDjDB
天正12年(1584)、小牧長久手合戦の直前、美濃兼山の森長可の元に、羽柴秀吉から尾藤甚右衛門(知宣)、
細野主計が遣わされた。秀吉より

『自分に味方すれば駿河・遠江を与える』

との条件を知らせに来たのだ。これを聞いた森長可は言う

「甲斐もよこせ。」

細野主計はこれに
「こちらに出発する前、上様(秀吉)は我らに

『武蔵守(長可)は大気者なので、この条件に甲斐も加えてほしいと望んでいるだろう。
だが、そのことをあいつに言わせないようにしろ。
口に出してしまっては、こちらとしてもあいつに与えないことが、そして向こうも与えられないことが心に
引っかかってしまうだろう。甲斐については既に、与える約束をしている者が居るのだ。』

…そう、おっしゃいました。」

森長可はこれを聞きその意味を悟ると、ハラハラと涙を流し、暫く物も言わなかった。
そしてようやく

「それならば、我らの本領である兼山と駿遠を下さるように。」

と言ったが、これに尾藤甚右衛門

「その御訴えは後にして下さい。今はとにかくこちらの出した条件である、駿河遠江の両国だけを
御拝領する事を承諾して下さい
737人間七七四年:2011/11/02(水) 23:36:47.92 ID:b7bXDjDB
すまん途中で送信した


天正12年(1584)、小牧長久手合戦の直前、美濃兼山の森長可の元に、羽柴秀吉から尾藤甚右衛門(知宣)、
細野主計が遣わされた。秀吉より

『自分に味方すれば駿河・遠江を与える』

との条件を知らせに来たのだ。これを聞いた森長可は言う

「甲斐もよこせ。」

細野主計はこれに
「こちらに出発する前、上様(秀吉)は我らに

『武蔵守(長可)は大気者なので、この条件に甲斐も加えてほしいと望んでいるだろう。
だが、そのことをあいつに言わせないようにしろ。
口に出してしまっては、こちらとしてもあいつに与えないことが、そして向こうも与えられないことが心に
引っかかってしまうだろう。甲斐については既に、与える約束をしている者が居るのだ。』

…そう、おっしゃいました。」

森長可はこれを聞きその意味を悟ると、ハラハラと涙を流し、暫く物も言わなかった。
そしてようやく

「それならば、我らの本領である兼山と駿遠を下さるように。」

と言ったが、これに尾藤甚右衛門

「その御訴えは後にして下さい。今はとにかくこちらの出した条件である、駿河遠江の両国だけを
御拝領する事を承諾して下さい!」

結局長可はこれを受け入れた。

両使が帰った後長可は側にいた小姓に、こんな事を言った

「さっきの条件でもわしに不自由はないのだ。だが駿遠甲の三ヶ国を手に入れれば、次節が来れば
其の方達にも小城の一つでも持たせることが出来たのに、お前たちにとっても運がなかった。」

そう悔しそうに言ったのだという。
これを聞いた家臣たちは、長可が自分の将来に大いなる志を持っているのだと、察したそうである
(森家先代実録)
738人間七七四年:2011/11/02(水) 23:43:29.23 ID:mQbn0JlD
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2750.html
この詳しいバージョンだね
739人間七七四年:2011/11/02(水) 23:51:33.01 ID:K5YR8Bxe
大封を要求したのは家来のためか・・・なるほど
740人間七七四年:2011/11/03(木) 00:00:15.59 ID:Sj9rc+av
つーか>>662の遺言もそうだけどガイシュツ過ぎ
まとめの検索機能使って登場人物名なりでチェックしたのか?

チェックした上で投下してるなら「詳しく書くと」とか注意書きぐらい入れるべき
テンプレにも入ってることだしほぼ毎日更新してくれてるまとめの管理人氏にも失礼だろ
741人間七七四年:2011/11/03(木) 00:02:53.56 ID:PbW0qHJF
旧武田、今川領領有で天下取りだろ
742人間七七四年:2011/11/03(木) 00:03:07.41 ID:SDi3GqaK
>>662は遺言が既出なのは知っているが、異説があるから紹介したんじゃないのか
>>736-737にしたって、まとめブログよりも内容がずいぶん詳しいし(チェックしたかはしらないけど)
743人間七七四年:2011/11/03(木) 00:08:28.73 ID:SDi3GqaK
>>740の下の段落を読み飛ばしてしまった
>>742の下のはとりあえずなかったことに
744人間七七四年:2011/11/03(木) 00:11:41.78 ID:8lix6E8S
最近ガラ悪いコメ多いな もっと穏やかに楽しもうよ
745人間七七四年:2011/11/03(木) 00:22:00.70 ID:eT+N0UX4
平和が一番
746人間七七四年:2011/11/03(木) 00:52:52.15 ID:D5W8yp8e
>>731
文句言うなら、ついでに話投下しようぜ
747人間七七四年:2011/11/03(木) 00:57:04.02 ID:Ofav99fo
まぁそろそろネタも尽きてきてるし
ただ同じネタが被りすぎると検索性が低下したりもするんで、そこは一応悩んでは欲しい
748人間七七四年:2011/11/03(木) 05:35:10.85 ID:hbtXZmd+
>>734
だから里見民部の息子が最初に生贄に選ばれたんだよ。
主命なら特に憚る必要はない。

里見民部「廃嫡の上追放って事は殺っちまいな、って理解していいんか」といった雰囲気でもあったんだろうね。
749人間七七四年:2011/11/03(木) 05:53:39.08 ID:Rdzs4wKN
城を建てる時に美少女を人柱として埋める、という伝説だけど、
なんかうそっぽいと思えてきた 江戸城で見つかったやつも人柱じゃなくてタダの墓地だったらしい
大昔はあったらしいけど、戦国時代にはすでに人形かなにかを埋めてたらしい
でも工事とかが何度も失敗すると現場の労働者がイライラしてきて誰か埋めろ!ってことにも
なってたらしい
750人間七七四年:2011/11/03(木) 05:58:13.75 ID:hbtXZmd+
稲姫と信之の馴れ初め

逸話なので軽く聞き流して欲しい。

稲姫は本多忠勝の娘である。

ある年の浜松城でのお話。
稲姫の夫となる人物を選ぶべく、席に多くの大名の子弟が呼ばれていた。
稲姫は平伏している若侍たちの髷を掴んだり、扇でアゴを上げるなど、顔を覗いて品定めをしていた。

稲「ふん、つまらん」
若侍1「・・・」
稲「鮒侍め」
若侍2「く・・・」
稲「軟弱者」
若侍3「・・・」

若侍たちは屈辱を感じながらも忠勝の娘のやることだと逆らえずにいたが、

稲「どれ」
パシーン!
信之は持っていた鉄扇で小松殿の手を払った。

稲「無礼者!オレの名前を言ってみろ!」
信之「稲姫であろう。それ以上でも以下でもない!」

小松殿は信之の気概が気に入り、信之に嫁ぐことを決心したと言われている。
751人間七七四年:2011/11/03(木) 07:57:23.41 ID:DR40th4C
既出
752人間七七四年:2011/11/03(木) 08:26:28.02 ID:mvzowQ0R
>>750
鉄扇でパシーン?
鉄扇で?パシーン?

あんなもんで叩かれた時の音がパシーンって、
忠勝の娘って篭手つけてたってことか?
753人間七七四年:2011/11/03(木) 08:51:48.00 ID:jxG96Fl5
754人間七七四年:2011/11/03(木) 11:03:18.49 ID:mvzowQ0R
>>750は、どっかのヨシモト的ギャグに冒されたオバチャンによる改変ネタかな。

スレ違いだが
鉄扇でガキッ
『ほう、いたぶりがいのある童よのw』
『気に入った』
で真田の殿の髷を掴んで引き摺って行く、姫君って逸話なら面白かったのにw

まあ、エロ的に
グシャから男Sの鬼畜プレイもありかもだが
755人間七七四年:2011/11/03(木) 11:33:03.97 ID:oeVyUWAN
>>752
オーガなら鉄扇でぶん殴っても平気だろうし
いい音するんじゃねーの
756人間七七四年:2011/11/03(木) 11:34:28.57 ID:ZcQR9hOw
保科正之って家光から鳥居家の旧臣を抱えるよう頼まれても断ってんだな。
領民にとっては名君でも、親戚のために法を曲げたり、朱子学以外を弾圧したり、
他領の与力まで徴発したりと、けっこうあくどいわー
757人間七七四年:2011/11/03(木) 12:15:22.65 ID:Rdzs4wKN
>>756
まぢか 名宰相と思ってた とんだ過大評価野郎だったわ
758人間七七四年:2011/11/03(木) 12:46:27.91 ID:5iAmToD0
名君には違いないと思うけどな
何かの政策をすれば、必ず誰かが不利益をこうむるし、
時には黒い手法を取ることもあり得るよ
759人間七七四年:2011/11/03(木) 12:59:13.49 ID:ls2Wwhfp
そもそも他家の旧臣を召し抱えるのはかなりのリスクの要ることだしな。

親戚のために法をねじ曲げるのも、君主の家系を守ると言う点では良いこと。
民主主義ならともかく、独裁君主の場合は自分の家がそのまま国家の柱石だから。
760人間七七四年:2011/11/03(木) 13:51:34.96 ID:8lix6E8S
名君であることには変りないけど
やることなすこと、名君だから全部正しいって言われると首かしげちゃう
正之に限ったことじゃないけど
761人間七七四年:2011/11/03(木) 14:21:12.53 ID:Lm9WPIpG
しかし白河公あんただけは許せねえ。あんたはどっからみても名君なんかじゃねえ。
762人間七七四年:2011/11/03(木) 14:58:20.31 ID:DRtEBrie
毛利元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。
名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。

これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。
木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目があるので用心しているはずだ。
日頃から勇名を馳せている者に申し付ければ、かえって仕損じるかもしれない。

そこで元就は、まだ十六歳になったばかりの粟屋源二郎という者にこれを命じた。
華奢で容姿端麗な源二郎に想いを寄せる者は多く、木原もその一人だ。
この少年になら用心を解くだろうと考えてのことだった。

さて、源二郎が元就の命を承って退出すると、木原は碁を打っているところだった。
源二郎が戯れに刀を抜き、木原の肩に押し当てて「上意ぞ」と言って笑う。
木原は「また源二郎が馬鹿を言っておるぞ」と、気にもかけずに碁を打ち続けるので、
源二郎は、今度は刀を振り上げて、「上意ぞ」と言って袈裟懸けに振り下ろした。
さすがの木原も、刀の柄に手をかける間もなく、その場に倒れ伏して事切れたということだ。

家臣の色恋を把握してて、確実に弱点を突いてくる元就のコワイ話。
源二郎も源二郎で末恐ろしく、かわいいフリしてあの子わりとやるもんだねと
噂が立ったとか立たなかったとか。
763人間七七四年:2011/11/03(木) 15:13:50.53 ID:M3diBDh6
戦国時代の美少年は怖いな
764人間七七四年:2011/11/03(木) 15:24:29.09 ID:Rdzs4wKN
宇喜多直家よりよっぽどの鬼畜だな元就
765人間七七四年:2011/11/03(木) 16:06:04.86 ID:wcI3f7TU
元就はよく人を見てるんだな毛利家を大きくしただけある
俺も気をつけるかな
766人間七七四年:2011/11/03(木) 16:25:50.03 ID:vny4uUjv
まぁ主君の妾に手を出すようなことしてちゃ、
こんなのされても仕方ないな。
767人間七七四年:2011/11/03(木) 16:52:48.95 ID:5uFdzxyn
小牧長久手において、豊臣秀次を大将とした三河中入り軍の敗北は畿内においても
大きな衝撃をもって受け取られた。
以下、代表的な史料から畿内での反応を見てみよう

『4月13日
尾州表からの注進によると、去る9日、熱田付近で一戦があり筑州(秀吉)方が敗退。
池田親子、森勝蔵(長可)が討ち死にしたそうだ。その下々もいくらか討ち死に。

追々の注進によると、筑州(秀吉)の在所は、その軍勢ともども無事だったようだ。
しかし京都では、もっての外の騒動となっている。

4月15日
夜に入ってから尾州表から来る雑説がもっての外に流布し、洛中は正体がないほど取り乱している。
ここは気を緩めてはならない。
(どうも、秀吉討ち死になどの風説が広がったらしい)

4月16日
昨夜の騒動の元になった雑説は全くの虚説であった、安堵する。』
(兼見卿記)


『4月14日
去る12日、尾州にて一戦に及び、森勝蔵、三好孫七郎(秀次)、池田、堀久太郎以下が討ち死にしたという。
それでも筑州の陣は無事だったようだ。
しかしこのままでは、この戦は家康の勝利と成るのだろうか。』
(多聞院日記)


『去る4月9日、尾州での合戦において、森武蔵守、池田紀伊守親子を始めとして歴々のもの、その他軍兵
1万あまりが討ち死にし、敗軍したという。(後の情報では討ち死には三千人と云う)
しかし筑州のこの一戦に賭ける覚悟は堅固であるので、やがて陣を持ちこたえたそうだ。
それからは軍兵討ち死にの風聞は聞かれない。

いずれにせよこの一戦で家康は大利を得た。』
(顕如上人貝塚御座所日記)


小牧長久手戦役における、長久手合戦直後の畿内の反応である。
768人間七七四年:2011/11/03(木) 17:18:10.30 ID:g2pfg24P
>>762
いくらなんでも木原くん油断し過ぎじゃなかろうか
769人間七七四年:2011/11/03(木) 17:40:16.30 ID:XeUp7QjC
770人間七七四年:2011/11/03(木) 18:04:30.38 ID:cvayeGC3
兼見ちゃんはこの手の話にはよくでてくるよね〜
細川さん家の親戚でもあるんだっけか?
771人間七七四年:2011/11/03(木) 18:22:18.78 ID:G6aWXdoH
何か京都の公家って全体的に秀吉びいきなんだな
772人間七七四年:2011/11/03(木) 18:25:39.79 ID:8lix6E8S
秀吉は朝廷寄りだったから、潤してくれた秀吉に好意的なのかな
信長も潤してくれたけど
関白の問題に関して、五摂家からは恨まれてそうだが
773人間七七四年:2011/11/03(木) 18:32:52.63 ID:zp3ENAO/
秀吉びいきと言うより、せっかくある程度安定してくれた秩序が再び壊される恐怖だろうね。

古い記録だと永正の錯乱で将軍足利義澄が没落する前後の公家の日記とか面白いよ。
それまでは公方様御所様とものすごく丁重に書いていたのに。足利義稙が大内義興の援助で将軍に復帰すると、
没落した義澄に対しては「あの逆賊め!」みたいな表現にw
774人間七七四年:2011/11/03(木) 18:38:27.80 ID:8lix6E8S
そういう公家さんの日記色々読みたいけど、手軽に買えそうなものってあまりないよね
図書館に行くしかないのかな…
775人間七七四年:2011/11/03(木) 19:52:01.08 ID:5nWn6v4L
需要がない→値段が高い→需要がない
のスパイラル……まぁ学術書ってそういうもんだけどさ
776人間七七四年:2011/11/03(木) 19:56:48.46 ID:8lix6E8S
そういうのを上手く小説に取り込んだ、岳 宏一郎の「天正十年夏ノ記」が凄く面白くて
実際のも読んでみたいなあと思ったけど、そうか、需要がないのか…

公家さんのは、日記というのが第二史料になるんだろうけど
当時の情勢や空気を知れる、よい史料だと思うのにな
もちろん書き手の主観入り混じりで、鵜呑みには出来ないんだけど
777人間七七四年:2011/11/03(木) 20:59:13.09 ID:PBv1/522
>>774
中公文庫の『フロイス日本史』やちくまの『正史 三国志』くらいの値段だったら
まだ手の出しようもあるんだけど、需要もないだろうし難しいよなあ。
戦国遺文なんかも手元にあったらいいだろうなあ、なんて思ったりするけど、
おいそれとはそろえられる値段じゃない
778人間七七四年:2011/11/03(木) 21:17:37.36 ID:CRkH0oIA
>>772
秀吉の関白就任に関しては、摂関家でだれがなるかもめて、いっそ関係ない秀吉を就任させて問題を
棚上げしよう、って経緯だったと聞いたが。
総理大臣で大派閥2つが拮抗して話がつかない時に、小派閥からとりあえず立てるみたいな。

それはそれとして、秀次に継承されて、秀頼も継ぐ気、ってのは困ったらしいけど。
779人間七七四年:2011/11/03(木) 22:27:00.02 ID:8lix6E8S
>>778
関白論争は、秀吉の強引な昇任要求によって、物凄く混乱してしまって
記録も混乱しているみたいね
秀吉が官位に目覚めてから、太政大臣になるまでの官位の経過は
秀吉一人のための朝廷人事と言われているし

信長が右大臣で死んだので、右大臣縁起悪いから、左大臣にしてくれよと秀吉要求
現左大臣、近衛信尹がじゃあ関白にさせろと現関白二条昭実に要求
関白になって数ヶ月しか経ってないのに、そんな早々に渡せるかと二条さん突っぱねる
ゴタゴタしていた所に、じゃあいっそのこと、関白位くれよと要求する秀吉
そしてめでたく武家関白、豊臣家が出来上がるとか すげぇ展開だ
780人間七七四年:2011/11/03(木) 22:42:38.70 ID:5iAmToD0
まだ続きがあるな
秀吉の次は近衛信尹を関白にする、と約束したのに、
天皇の弟を猶子に迎えて次期関白にしようとする

…と思ったら、鶴松が生まれたので、その話は白紙
…と思ったら、その鶴松が死んじゃったので、養子の秀次を関白にした
…ところが、次は秀頼が生まれたので、その関白秀次を切腹させ、関白は空位となる
次の関白は秀頼!それまで関白など空位で結構!

となったところで秀吉が死ぬ
家康が少々強引な手段で朝廷を正常化させて、公家の関白も復活
781人間七七四年:2011/11/03(木) 22:48:40.21 ID:8lix6E8S
あっさり帰っちゃった関白だけど、秀吉が関白になったからこそ
天下統一できたんだろうなあと思うと、結果オーライだったのかな

それにしても、天皇の弟で秀吉の猶子になった智仁親王は踏んだり蹴ったりで気の毒だよね…
782人間七七四年:2011/11/04(金) 00:21:24.49 ID:qGVHfQ/S
最上義俊と徳川実紀

「徳川実紀」によれば元和初頭九月
最上義俊が大酒を呑み芸者を囲い舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と舵の取り合いで争論した、という不名誉なことが記録されている。
ただし、同時期七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う義俊の書状が存在することによって、この時には義俊が山形に在国中だったことが明らかなので事件が事実であったかはともかく、時期については誤りとしなければならない。

義俊は暗愚な主君とされがちであるが、福島正則改易の江戸屋敷接取の立ち会いに若年ながら見事な統率を発揮したとして、徳川秀忠が刀を与えたという。
前後義俊は16程の齢。
当時の彼の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、のちの経緯から推測することは可能である。

最上改易後は子義智を遺し御家再興を憂いつつ27歳で死去している。
783人間七七四年:2011/11/04(金) 00:23:41.44 ID:HRdlxKhc
>>799-780
ここまで出来るほど、秀吉さんの権威って凄かったんだろうな
こりゃラスボスって言われるわ
784人間七七四年:2011/11/04(金) 00:24:06.25 ID:HRdlxKhc
アンカミスったごめん
785人間七七四年:2011/11/04(金) 00:35:11.77 ID:HHZb7Vj/
>>781
親王の踏んだり蹴ったり殺されたりは珍しくない
786人間七七四年:2011/11/04(金) 00:37:58.03 ID:HRdlxKhc
>>785
親王…
ところで、智仁親王の妻って京極高知の娘なんだよね
凄い縁組だなぁ 一時期落ちぶれたとはいえやはり名門だから?
787人間七七四年:2011/11/04(金) 00:51:33.13 ID:wf91sViO
>>779
信長って死んだときは無官だろ?
単に右大臣より上の左大臣狙いでいちゃもんつけたような
788人間七七四年:2011/11/04(金) 09:44:44.63 ID:MOTbtxuV
>>779
結局、二条さんだけが損してるな・・・
789人間七七四年:2011/11/04(金) 12:23:47.97 ID:9OM6OLpK
二条昭実は幕府と天皇の板挟みでぽっくり逝ってるな
7901/2:2011/11/04(金) 12:50:45.82 ID:CF6HGvx9
詳しい系行きますよ〜


天正10年6月、越後の国は上杉景勝の領分、関山あたりまで、鬼武蔵こと森長可は侵入し、周囲の村落を次々と
放火して三本杉という所に陣をしていた所、6月6日未の下刻(午後2時頃)、美濃兼山より早飛脚が到来し、
6月2日、惟任日向守光秀謀反により、信長信忠両御公、京都において弑殺され、並びに近習の13人、
かつ蘭丸君、坊丸君、力丸君とも本能寺において討ち死にした旨を知らせた。

これを聞いた長可は、思いも寄らない信長の生害、弟たちの討ち死にに驚愕し、流石にショックを隠し切れない
ようであった。早々に信濃の海津城へと帰陣し、家老・番頭を呼んで今後の方針を評議した所、『この上は一刻も早く
上方に上り、信長公の弔い合戦をして明智光秀を討ち滅ぼす、それ以外にはない!』と決まり
森勢がその準備をしていたところ、信濃の武田旧臣であった春日周防らがそれを聞きつけ徒党を組み、
その上で使者を立て

『前にこの地に御入郡名された際に取られた人質が未だ長可様の所にあります。
御上洛されるというのなら、人質は尽く返していただきたい!
然らずばこの地の国人達は兵を以ってあなた方を追撃し、または街道の切所にて遮ることも在るべし!』

そう要求してきた。これを聞いた長可は激怒する

「信長公に不慮があったために、お前たちは我を侮ってこのような要求をするのだな!
人質は返さない!お前たちが我を討つというのなら、我もまたお前たちを討ち、信長公の弔いとしてくれよう!
我が首がここを出立するのは明後日の8日だ。汝ら、我と戦うべし!人質返すべからず!」

こう言い放って使者を追い返した。

ところで武田旧臣の国人たちには、森長可に立場の近いものも少なくなく、彼が怒るのも仕方が無いと
考える者もあった。

この頃春日周防は国中の一揆と共に山々の切り取りをしていたが、ここに有力国人の一人である
大塚次右衛門は鬼武蔵と春日双方の関係が無事に済むようにと、春日の元に赴きこう説得した

「春日殿、その方の嫡男である庄助に、長可様は烏帽子親となり、彼は苗字を頂き
森庄助とも名乗っているではないか。それほど厚遇されたのに今そなたが一揆に与しているというのは、
前代未聞の不義ではないのか?」

このように古今の事例や理を以て説いたので、さすがの春日周防も考えを改め一揆より離脱し、
「とにかく次右衛門殿に頼み入る」と、互いに誓紙を書いて、それを長可に提出した。
これによって海津城周辺の安全を得た長可の軍勢3500は川中島から出立することが出来た。
この時、人質もまた引き連れた。

千曲川のあたりで一揆勢三千に追跡を受たが、最初に一撃を加えた後、逃げると見せかけ猿ヶ馬場峠に
一揆勢が追撃してきた所を、伏兵によって上から散々に切り崩し、これを追い払った。
7912/2:2011/11/04(金) 12:51:17.48 ID:CF6HGvx9
さて、森勢が川中島表を脱出すると、長可は松本において引き連れてきた人質を、迎えに来たものに
返すと宣言する。
春日周防の家来は大塚次右衛門に向かって「どうか庄助をお返し下さるよう」と取り次いでくれるように
要請した。

翌朝

松本を出立の時、町から4,5町(約4〜500メートル)ほど離れた場所で、長可は大塚次右衛門を前に
「周防の嫡子、庄助を連れて参れ!」と命ず。
中間二人に両手を引っ張られて引き出されて来た庄助に長可は

「うぬが親の周防めが、我を討たんと計ったが、こんな事もあると思って、かねてからお前に森の苗字を
与えて油断させていたのだ!
大塚次右衛門の計略によって我ら兼山の者は無事川中島から引き上げることが出来た。
さて庄助、汝にはこの世の暇を取らせるぞ!」

そう言うと人間無骨という十文字の槍を持ち、心臓の下を一突きに突き通した。
そして大塚次右衛門に「この死骸を持って帰り、この事を周防に申し聞かせろ!」と言い放つ。
この時、殺された庄助の乳母が

「私もここで殺せ!生きて在所に帰るなど出来るものか!」

と、泣き叫び大塚次右衛門に取りすがった。この姿を見て涙を流さぬものはいなかったそうだ。

ちなみに『老人雑話』では、人質50人を並べ、ことごとく手討ちにしたと記録されている。
(森家先代実録)
792人間七七四年:2011/11/04(金) 13:31:42.07 ID:AZTu+ov+
>>791の1行目で終わればいいはなしなんだけどなあw
793人間七七四年:2011/11/04(金) 13:48:42.85 ID:yN8PkuU6
まあ、思い直したとはいえ非常事態の弱みに付け込む真似だし、やられた方は
森さんじゃなくても、ハイそうですかと許せるようなもんじゃないだろうさ。

家康とかだと、この場は何食わぬ顔で許して後々地味〜に仕返ししそうだがw
794人間七七四年:2011/11/04(金) 14:15:37.93 ID:iSG3QWqw
家康だけじゃなくて、信長や秀吉でも
とりあえずこの場は丸く収めて、仕返しは後日だと思うぞ。
795人間七七四年:2011/11/04(金) 16:24:07.05 ID:Xbt1Bn2Z
他の人がどういうやり方で復讐しようと最も相手にダメージを与えるのは鬼武蔵のやり方なのは間違いない
796人間七七四年:2011/11/04(金) 17:23:17.89 ID:sphrS5S3
後々でとかじゃなくその場で殺っちゃうと、
その後同じような場面があった時、
”信頼”されてしまうから損だからね。
上に立つ人のやりようじゃ無いな。
とても森家のやり方だけどさ。
797人間七七四年:2011/11/04(金) 17:29:47.21 ID:FY+sH6gN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1168.html
こっちでは「庄助」が「勝助」か
798人間七七四年:2011/11/04(金) 17:47:45.45 ID:cK9ZV8Cu
滝川さんと対照的過ぎるわ
799人間七七四年:2011/11/04(金) 18:34:03.94 ID:+pDYzai5
滝川さんは出自不明の一浪人からスタートした苦労人だからな
800人間七七四年:2011/11/04(金) 18:45:22.99 ID:X98WFxF9
大塚さんは森家の貴重な頭脳労働要員
801人間七七四年:2011/11/04(金) 19:03:45.31 ID:UhJgM7t7
ヤクザの事務所の交渉役の大卒インテリヤクザみたいなイメージしか浮かばん。
802人間七七四年:2011/11/04(金) 21:08:01.20 ID:SQH5Jenb
義康廃嫡

出羽の最上家は戦国を生き抜いた家である。
豊臣の世にもなんとか家を存続させていた。

領主の義光には齢30を越えてから得られた義康といった男子があった。
義光は目に入れても痛くないほどに義康を可愛がり、連歌や農政、教育を施し、義康もその期待に応える様に英遇と武勇を身に付け、領民からも「やさしい次代様」と愛されていた。

義康は義光に従い各地で転戦し、出羽合戦終盤の直江追討では狙撃された義光を兵一千を率いて扶助している。

合戦も終わり義光は60を前に庄内に隠居城の用意を考える。

義康と父の義光と仲は良好であったが、義光の近臣・里見民部・正光親子と義康の近臣・元上杉家臣原八右衛門が父子離反をはかり双方に讒言したことから徐々に仲が険悪となった。
折悪しく義康が寺に赴いた際、あやまって石段を踏み外し股を傷つけたのを里見が「若殿は大殿を恨み、わざと自傷し周囲の気を引こうとした」と義光に言上した事からさらに仲が悪化した。
このことは単純な父子の感情悪化だけではなく、徳川家康が義光の次男・最上家親を近侍として召し使い、大層気に入っていたため、彼に最上氏を継がせたいと考えたことがあったと言われている。

1602年(慶長7年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、家康は本件を聞き不快を顕にし「家親が良かろう、あれは秀忠に良く仕えておる」と述べたという。

ここに義康の廃嫡が決定的なものとなった。
803人間七七四年:2011/11/04(金) 21:36:49.60 ID:SQH5Jenb
義康暗殺

廃嫡後義康は家臣浦山源左衛門ら20名ほどを連れ高野山(一説には羽黒山とも)へ向かう途中、原八右衛門・土肥半左衛門らと兵に鉄砲を射かけられた。
源左衛門は即死、義康は下腹部を2発撃たれ自刃した。

義康の頚は落とされ山形へ送られた。
義光は義康の首を見て涙した。
彼は義康の遺品を調査し、父への武運と長寿を祈願した義康の日記を目にする。
義光は我が子の死を深く悲しみ、家臣・斎藤光則に本件の調査を命じた。
危険を察した里見民部は一族30余名を連れ山形を去り、加賀前田家に逃れた。
義光は自らの死の前、後継者である最上家親に向かって「自分の死後、なにがあっても里見一族を粛正せよ」と命じた。

義光は義光山常念寺を義康の菩提寺とし、また追善のため仏像をつくり手厚く葬った。
息子の死後、義光は病がちになったとも伝わっている。

義康暗殺には不明な点が多く、この話も「流れをある程度掴むための一説」として考えてほしい。
804人間七七四年:2011/11/04(金) 21:40:34.40 ID:SQH5Jenb
最上義康享年29

1611年頃、高野山から山形へと向かう途中に櫛引で殺されたといった話も伝わる。
805人間七七四年:2011/11/04(金) 21:43:05.22 ID:mK6WG3F0
>>801
戦国インテリヤクザと聞くと毛利元就を思い浮かべるなぁ
内面は案外ナイーブだったりするから意外だった
806人間七七四年:2011/11/05(土) 06:02:54.72 ID:50OUwyLN
里見民部小咄

父・里見義近(里見越後)が最上義光と結んだ事により、
次男・里見民部は主君・上山(里見)満兼と兄・里見内蔵を殺害し上山城を乗っ取ったと史書には記されている。

天童八楯としては残り七家が山形の北に位置していたが、里見だけは山形の南方に位置していた。
(東根景佐の旧姓も里見だが、古い時代に分流したものと思われる)

伊達との国境にある門でたびたび伊達家臣鮎貝・石母田などの侵攻も受けている。

慶長出羽合戦では800という寡兵で上杉の別働隊3000を引き止めたが
父越後は山形城に人質として取られていた。

1600年、論功で加増されるも、父祖伝来の上山から長崎へと移封されている。

家臣には下吉忠らと共に最上に降った上杉衆原八右衛門らが与力として多く付けられた。

加増されても旧領は召し上げされ、山形には直臣らがいる為に強い政治力もない
鬱憤が溜まっていたのでしょうな

義康暗殺は清水家に養子に入った三男義親(豊臣家の元小姓)の誅殺ともセットで語られる事が少なくない
807人間七七四年:2011/11/05(土) 08:46:38.41 ID:JpUqI86K
前田正虎、父親に手を焼く

前田正虎には自分勝手で自由奔放な父親がいた。
叔父を困らせ40歳を超えて家族を捨て出奔し、京都で気の向くままに自由を満喫していた

正虎「父がここにいると聞いたのですが・・・」
里村紹巴「父?ああ、似生さんか・・・最上殿なら知ってるかな?」

正虎「父をご存知ありませんか?」
最上義光「んー、三斎殿の処で見掛けた様な気がします」

正虎「父がこちらに来ていませんか?」
細川三歳「あー、聚楽第で見た気がします」

正虎「父を見ませんでしたか?」
古田織部「龍砕軒不便斎さんなら里村さんのトコに行きましたよ」

正虎は方々を探し歩き回り父に金沢へ戻るように説得したが受け入れられず、
前田慶次は「小姑みたいにうるさい事は御免だ」と前田正虎と縁を切ったとも言われている。
808人間七七四年:2011/11/05(土) 13:06:54.35 ID:rQCpT3Za
>>807
これはwww
前田正虎のイメージが一気に固まった
809人間七七四年:2011/11/05(土) 14:22:39.83 ID:i2ZdRcOw
親父がアレでも、息子はデキが良かったんだなぁ。
母の遺伝子は偉大だわ。
810人間七七四年:2011/11/05(土) 15:12:35.90 ID:z5kXDrfl
>父に金沢へ戻るように説得した

どうせ戻ってもろくなことしないんだから放し飼いにしとけよw
811人間七七四年:2011/11/05(土) 16:02:09.33 ID:4GknRTaU
あれ、どの小説読んでもそんな息子でてこない???
娘なら多いけどなんでや?
812人間七七四年:2011/11/05(土) 16:08:52.87 ID:feWHJ09D
>>809
母親も利家の姪なんだよね。
813人間七七四年:2011/11/05(土) 17:40:49.27 ID:BvZTKQe+
>>811
地味過ぎて目立たないか親父がDQN過ぎるから
ほら、伊達政宗の息子だって逸話が少ないじゃない?
814人間七七四年:2011/11/05(土) 17:43:30.67 ID:2sMHxGfv
キレる遺伝子しかないやないか
815人間七七四年:2011/11/05(土) 17:56:13.96 ID:BvZTKQe+
しかし
前田慶次の京での交友幅は
秀吉(ラスボス)
山科(公家)
里村(連歌の王様)
三斎(才人)
鮭様(文人)
古田(ゲヒ殿)
変わった人が多い
816人間七七四年:2011/11/05(土) 18:19:27.07 ID:2DzgniI7
>>813
親父が付けた家臣を切って
親父がブチ切れて公儀に改易してもらうなんて喚いたなんて話がなかった?

>>815
ツーか全員文人じゃね?
817人間七七四年:2011/11/05(土) 18:33:32.13 ID:2DzgniI7
>>816
自己レス
秀宗のこと
818人間七七四年:2011/11/05(土) 18:45:41.86 ID:BvZTKQe+
>>816
公頼事件ね。
でも、先代が目立ち過ぎると次代ってパッとしない事が多いよね
松永久秀とか長野業正とか

秀吉も文人なのか・・・
819人間七七四年:2011/11/05(土) 18:48:17.35 ID:BvZTKQe+
「アクの強い」文人で「クセのある人物」
820人間七七四年:2011/11/05(土) 18:50:13.51 ID:knSho4jz
それでも親父は人気あるんだから
息子は納得いかないだろうなあ
自分は正虎のような人が好きだが
821人間七七四年:2011/11/05(土) 19:00:52.83 ID:BvZTKQe+
>>820
真田昌幸と信之みたいなものなのかな

昌幸「ヒャッハー」
信之「親父勘弁してよ・・・」
822人間七七四年:2011/11/05(土) 19:08:21.44 ID:knSho4jz
>>821
まさにそれだ 信之兄さんを全力で応援したくなる
823人間七七四年:2011/11/05(土) 19:10:45.14 ID:BvZTKQe+
鬼武蔵の息子は親父の行動をどう思っていたのだろう?
824人間七七四年:2011/11/05(土) 19:57:15.97 ID:NN3uGhtP
息子いるんだっけ?
825人間七七四年:2011/11/05(土) 20:03:37.83 ID:G8pSCZYy
遺言状に娘?か妹はでてくるが、息子いたっけ
烏帽子子は上で人間無骨の餌食にさせられてたけど
826人間七七四年:2011/11/05(土) 20:39:23.37 ID:BvZTKQe+
森勝介「義父ならしょうがない」
乱・坊・力「ですよね〜」
827人間七七四年:2011/11/05(土) 20:46:13.07 ID:Yc2gbHWc
娘しか居ないんじゃなかったっけ
ところであの遺言状はなんで尾藤知宣に出されてんの?
普通一族か家臣に宛てない?
828人間七七四年:2011/11/05(土) 20:55:00.97 ID:ZKZeIQ26
>>824
息子と伝わる伝説のある森玄蕃って人の墓は岐阜県の根本って所にあるけど森家公式の記録ではいないよ
829人間七七四年:2011/11/05(土) 20:57:07.36 ID:fX1+ak6T
>>827
あの遺言状は秀吉に見せることを想定しているものだから、
長可と秀吉の取次ぎである尾藤に渡した。

肉親用には別の物が存在したと考えるべきだろう
830人間七七四年:2011/11/06(日) 11:39:07.77 ID:W9JZUAfs
小牧の戦いで秀吉側が勝った場合の五大老
北条も滅びたとすると

宇喜多秀家
前田利長
毛利輝元
上杉景勝
池田元助(輝政の兄) 
森長可
831人間七七四年:2011/11/06(日) 11:40:37.81 ID:lpRXsxHF
>>830
6人いるぞw
832人間七七四年:2011/11/06(日) 11:42:04.01 ID:uFhLu2H5
実際の五大老も小早川隆景が死んで景勝が入ったし
常に五人以上いる四天王ネタなんだろうけど
833人間七七四年:2011/11/06(日) 11:48:07.54 ID:4QPUDk/9
その場合、利家さんは五大老より上席なのかね?
というか、小牧・長久手のときって参陣してたんだっけ?
話題少ないってか聞かなくないレベル
834人間七七四年:2011/11/06(日) 11:51:41.81 ID:W9JZUAfs
森さん40歳 男盛りのときに秀吉死亡

所領は小牧の味方の際に駿河 遠江が約束されていたので
その後 甲斐+αで100万石 3万人の動員力と仮定すると
工場長とはべクトルが全然別の方向だが
なにをやらかしたんだろうと思ってしまう
835人間七七四年:2011/11/06(日) 11:59:53.27 ID:W9JZUAfs
ちょっとどころではすまない悪い話を、政情不安の際に量産するのが森さんクオリテイ
836人間七七四年:2011/11/06(日) 12:05:08.29 ID:cGhBWdZo
眉間を撃ち抜かれて死ぬとか本当に天はよく見ている
837人間七七四年:2011/11/06(日) 13:48:36.17 ID:kdFoY/gx
平将門も眉間に一発だったよねえ
838人間七七四年:2011/11/06(日) 14:06:00.05 ID:ylQPty7Y
鬼武蔵の首が天を翔るのか…
839人間七七四年:2011/11/06(日) 14:08:32.84 ID:lsjlFHGP
>>833
小牧長久手のとき前田さんは北陸で佐々成政と紛争中
840人間七七四年:2011/11/06(日) 14:15:39.31 ID:4QPUDk/9
>>839
そうか、まぁ、そうなるんだろうな〜
841人間七七四年:2011/11/06(日) 14:28:53.49 ID:QPtGQCye
将門公はこめかみじゃなかったかな?
842人間七七四年:2011/11/06(日) 14:40:45.75 ID:ZVlifGDV
眉間は木曾義仲だった記憶が
843人間七七四年:2011/11/06(日) 14:48:00.84 ID:lsjlFHGP
ググったら額ってなってた

ちなみに将門の最後を首をとられたが相手の首筋に噛みついて首が飛んで逃げたと勘違いしてたのはここだけの話
844人間七七四年:2011/11/06(日) 15:38:15.54 ID:ah75AXsA
地元に伝わる話では、将門公の七人の影武者に悩まされた敵方が
公の愛妾・桔梗を騙して(orそそのかして)
「本物の将門公はこめかみが動くが偽者は動かない」
と聞き出し、そこを狙って矢を射った・・・となっている。
845人間七七四年:2011/11/06(日) 15:39:37.62 ID:rg2tiJHc
自分の知ってる伝説だと、影武者には影がないからわかった、ということに
846人間七七四年:2011/11/06(日) 15:55:47.26 ID:voafyzgZ
>>834
森さんが動けば、池田さんも動くよな。
弟の忠政くんも立派になってるだろうし。
847人間七七四年:2011/11/06(日) 16:32:06.24 ID:SKV6HIZm
恐ろしい五大老だなw
その人員だと秀吉死後は普通に鬼武蔵が挙兵するだろ?
小牧長久手の恩賞考えると森と池田で400万石くらいかな
848人間七七四年:2011/11/06(日) 16:40:43.11 ID:1hqfT4iT
新皇 平将門
旭将軍 木曽義仲
鬼武蔵 森長可

行動力はあるが頭が悪そうな所が共通してるな
849人間七七四年:2011/11/06(日) 16:44:08.80 ID:+6sXmymn
あの恩賞の約束って秀吉が織田家臣を引きこむ為に大風呂敷を広げただけじゃないかな。
徳川が滅んだら色々理由を付けて反故にするか
あるいは数正のように重臣を引き抜くとか勢力を弱める為の処置をしただろう。

逆らったらそれこそ総力を挙げて潰しにかかるだろうし。
850人間七七四年:2011/11/06(日) 17:10:04.00 ID:44hcOs+z
誰も新田義貞を挙げない・・・

(木曽義仲のトレースという説もあるが)
851人間七七四年:2011/11/06(日) 17:19:56.56 ID:Sq/epQ9s
(´・ω・`)「頭に当たると痛いよね」
852人間七七四年:2011/11/06(日) 17:40:50.07 ID:eySSZ30A
マジレスすると頭に矢が刺さったくらいじゃ人は死なない
脳には痛覚も無いから下手したら頭に矢が刺さった事にも気づかない
853人間七七四年:2011/11/06(日) 17:53:23.75 ID:hkdje45i
ホウ徳が関羽の額を射たとかってのもあるし、ある程度テンプレ化してはいるんかね
854人間七七四年:2011/11/06(日) 18:06:55.11 ID:75MIDmdY
たしかに頭蓋骨は意外と硬そうだ 腹が一番殺傷力あるかな
あずみで傷が内蔵まで達したらもう助からないって書いてた
そういえばオウムの科学班の幹部もヒットマンに腹刺されて死んだ 
輸血がない戦国ならもう腹刺されて内蔵までいけば確実に出血多量で死ぬのだろうな
855人間七七四年:2011/11/06(日) 18:17:26.30 ID:HxnrxAxv
テンプレというか、支配階級で長身だと出っ張るから狙いやすいだけかと

なお、劉邦は心臓近くを射られても生き残った模様
856人間七七四年:2011/11/06(日) 18:25:33.51 ID:b3lnS2gw
>>853
演義準拠でいいなら、関羽がホウ徳に射られたのは腕じゃなかったか
徐晃は孟達に額射られて
甘寧は沙摩柯に頭射られてるけど
857人間七七四年:2011/11/06(日) 19:20:00.19 ID:Cfi5gqGa
>>852
頭蓋骨貫通した痛みは無視ですか?
858人間七七四年:2011/11/06(日) 19:28:14.93 ID:eySSZ30A
859人間七七四年:2011/11/06(日) 20:33:40.69 ID:XqV7wrED
眉間は「烏兎」と言って古来より知られる急所だぞ

射貫かれなくても眉間に打撃を受けた経験のある人はその時
目から星が飛び出すような感覚になったんじゃないか?
860人間七七四年:2011/11/06(日) 20:58:27.56 ID:4QPUDk/9
眉間の上を指差しするだけちょっとなんかモヤモヤするもんな〜
861人間七七四年:2011/11/06(日) 21:18:43.22 ID:Tzf1uZtn
ためしにやってみたが、確かにモヤモヤした
なんでだ
862人間七七四年:2011/11/06(日) 21:46:02.01 ID:CmBgDe5Y
 細川管領体制の領国経営が戦国期に入っても生き残っていた畿内、及び東四国では、
領内の諸豪族が代々受け継ぐ所領が当然の権利として継承される傾向にあった。
 例えば讃岐国の場合、東讃は安富氏が守護代を司り、香西氏や寒川氏、植田氏らを傘下とする。
 一方の西讃は守護代香川氏のもと、奈良氏らを傘下に置く。

 この体制は時に大内や毛利の干渉を受けつつも不変であり、
諸家は互いに争いつつも概ねの所領は父祖代々の範囲を維持しつつ戦国後期を迎えつつあった。

 さて、先に上げた讃岐諸氏の内、東讃守護代たる安富氏は些か不本意な立場にある。
 というのも守護代の地位にありながら安富氏の本領は雨滝城を中心とした三木郡一郡のみであり、
西讃守護代香川氏の三郡支配に及ばないどころか、東讃内で四郡を支配する香西氏にも大きく水を空けられていた。
 この為、安富盛方は細川家の混乱が募るとはじめ大内義隆に属して寒川氏と争うが、
これは阿波守護細川持隆の命を受けた三好義賢・十河一存兄弟の援兵もあって失敗、再び細川家に帰参する。
 しかしその持隆が義賢に殺害されると盛方は三好家に接近、特にその重臣篠原長房の娘を嫡子盛定の妻に迎え、
元亀元年に三好長治の後ろ盾を得て寒川元隣を恫喝、大内郡を接収することに成功した。
 これは三好氏に忠実であった安富氏を中心に讃岐支配を立て直すことと、特に篠原長房の所領と安富氏の領地を
直接連結するために大内郡が必要であったからだともされている。

          === ここまで前史 ===

 さて、こうした三好氏の慣例を無視した動きを、当然讃岐の諸氏は快くは思わなかった。
 特に激しく反発したのが、もともと細川京兆家の与党であり三好一門とは度々干戈を交えた香川元景である。
 さらに十河一存、存保に忠実であった香西佳清も呼応した。
 ちょうどこの頃、三好長治の治世は混乱を極めている。
 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5441.htmlのような事件を讃岐国内で発生させたばかりか
元亀四年(天正元年)には良くも悪くも三好氏の柱石であった篠原長房が長治の不興を買って故なく誅殺された。
 この前後には反信長包囲網の一翼として摂津や備後の織田方への攻撃と敗北が重なるなど、軍事的失敗も重なった。
 方向性定まらず、暴虐の度を深める長治の治世に讃岐の人心はますます三好氏から離れて行き、
 ついに元景、佳清両名は同二年に長治の実弟十河存保に最後通告を叩き付けるのである。
863人間七七四年:2011/11/06(日) 21:46:49.62 ID:CmBgDe5Y
「存保くんへ。
 阿波と讃岐は細川公の支配からずっとなんだかんだいってみんな仲良く共存してきたよね?
 でも去年、こないだくたばった篠原の野郎が安富のボケと吊るんで寒川くんから伝来の領土奪ったじゃん。馬鹿なの?死ぬの?
 あのね、そんなことやってると阿讃の諸将は三好さんから離れてくよ? 篠原ぬっ殺したなら大内郡は寒川くんに返してあげてよ。
 別に僕らは三好さんに異心はないけど、今後を思って忠告だけはしておくから。忠告だけは、ね」

 この書状を受け取った存保は事態の深刻化を大いに憂え、すぐさま使者を立てて長治の非道な振る舞いを諌めようとした。
 それを受けての長治の反応。

長治「そうか、よし、殺す」

 ごらんの有様だよ!
 長治は早速六千の兵を仕立て、三好越後守に香西氏を、矢野駿河守に香川氏をそれぞれ攻めさせた。
 存保や彼の配下の讃岐諸将の名前がこの攻撃に一切出てこないあたり、どうやら長治の単独行動だったようである。
 そして派手に負けた。割とどうしょうもない。
 かくしてこの時より讃岐の西半分が三好方より離反し(東讃の香西佳清はのち十河氏に帰参)、三好家の軍事力は激減した。
 十河存保は讃岐での巻き返しに躍起となりつつ、長治の暴政に諫言を続けていくのだが、
その甲斐もなく分国領民へ法華宗への改宗を強要するなど迷走の末に異母兄細川真之に長治が討たれるのはこの四年後のことである。

うっかりageちまったすまん
864人間七七四年:2011/11/07(月) 00:03:51.72 ID:peYfAzZ2
もうなんつーか…。
これは酷いとしか言い様が無いな。
865人間七七四年:2011/11/07(月) 01:56:02.54 ID:S/fWULQi
>>860,861
ある種の魚は、額に光を感じるセンサを持っている
つまり(ry
866:2011/11/07(月) 03:18:34.36 ID:UMSTyjYP
長久手で挟みうち食らって死ぬヘマやるようでは
大老にはなれんよ
英雄の器ではない
867人間七七四年:2011/11/07(月) 03:58:12.80 ID:VOnXgJFE
>>852
何年か前の陸上大会で槍投げの槍が頭に刺さったのに
他の人から指摘されるまで気づかなかった測定員がいたこと思い出した
夜中になんちゅーもんを思い出せてくれるんだよ…
868人間七七四年:2011/11/07(月) 04:04:07.58 ID:74NG/dsv
>>866
ウンコ漏らしながら逃げるのが本物の英雄だよな
869人間七七四年:2011/11/07(月) 06:56:04.67 ID:RlMvCMpK
>>868
実際それを隠さず残してるってすごいと思うよ。
870人間七七四年:2011/11/07(月) 07:27:35.83 ID:BRZ+OLkN
>>852
死なないこともある、って話だろう・・・
871人間七七四年:2011/11/07(月) 07:32:28.65 ID:ULUScyJJ
WWII時代の米兵のうち、激戦に参加した者の四分の一がウンコを漏らしたと認めたそうだ

戦場ではよくあることなんだろうし、そんなに恥ずかしくもない……はず
872人間七七四年:2011/11/07(月) 07:57:00.77 ID:AydNiR3X
銃弾飛び交う中でおなか痛くなったからってトイレ休憩とかできないからね
873人間七七四年:2011/11/07(月) 08:16:15.04 ID:XPCp/7Ms
緊張も度を越すと括約筋がゆるくなるんじゃないのか
874人間七七四年:2011/11/07(月) 08:42:13.49 ID:e7VlHC+U
中世の合戦と現代戦は戦闘にかかる時間がケタ違いだから
875人間七七四年:2011/11/07(月) 13:21:45.88 ID:zXbTrpwV
極度の緊張で逆に便秘になる奴とかいそうなもんだが余り聞かないな
876人間七七四年:2011/11/07(月) 18:44:02.46 ID:yED+ivSA
戦国時代は銃弾飛び交う中で爆睡できるような奴が
カッコイイ!って扱いだったんだろ
緊張するような奴は二流なんだよたぶん
877人間七七四年:2011/11/07(月) 19:14:49.58 ID:/E1ac4S6
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3157.html
まえだけいじろう、も戦場で小便して賞賛されていたな
878人間七七四年:2011/11/07(月) 19:23:08.69 ID:9E9zicgo
人礫(ひとつぶて):人間をぶん投げて、あたった敵が血を吐いて死ぬ
これは失禁してもしかたない
879人間七七四年:2011/11/07(月) 19:24:44.32 ID:rAMKjOUK
>>877
前だけ弄ろう
って、ふざけすぎだろ
880人間七七四年:2011/11/07(月) 20:03:26.83 ID:HG0hfFve
誰だっけ、戦場を全裸で通り過ぎたのはw
881人間七七四年:2011/11/07(月) 20:28:55.29 ID:iKz3DOEv
なんたるいちもつ!
882人間七七四年:2011/11/07(月) 21:38:51.15 ID:W70I4znO
渡る戦国はヴァカだらけ
883人間七七四年:2011/11/07(月) 23:00:24.25 ID:XSmCVyKG
馬鹿話が出たところで一つ。記憶ですまん。

山梨県南部町に伝わる昔話。

昔々、武田の侍に照沼なにがしという者がいた。
この照沼、皆が武功を見せようと派手に装うのを見て、一計を案じた。
兜に灯台を据えたのである。

ある夜、不意に戦いが始まってな、照沼はここぞとばかり火をつけた。
ところが明かりめがけて一斉に矢が降り注ぎ、照沼は逃げ出した。
すると油がこぼれ、身体のあちこちに火が付いた。

照沼は叩いたり転がったりしながら、火傷だらけになってなんとか逃げ切った。
しかし敵そっちのけで無様にもがきながら逃げる、火の付いた侍を見逃す者はおらず、
敵からも味方からも笑われ、軽蔑され、いつの間にかどこかに消えてしまったということだ。

お前達も目立とうとして変な格好をしたり馬鹿な振る舞いをすると、照沼のようになるぞ。
884人間七七四年:2011/11/07(月) 23:04:12.84 ID:XSmCVyKG
>>ある夜、不意に戦いが始まってな、

ごめん、最後の「な」を取ってくれ。
最初語り口で書こうと思ったんだが、山梨の方言が分からないから書き直した。
山梨の方言で語ってる感じで書いてある、子供向けの和装風の本で読んだんだが。
885人間七七四年:2011/11/07(月) 23:44:55.07 ID:qjLWvfiz
なんかお馬鹿な話だけどそこまでしないと這い上がれない下級武士の悲哀を感じて泣けてきた
886人間七七四年:2011/11/07(月) 23:50:25.47 ID:vn+2Zmb2
目立とうと位牌背負って突撃→馬がばてて出遅れ笑い者に、って逸話もあったね。
目立たなきゃ、注目されなきゃって世界なんだな。
887人間七七四年:2011/11/07(月) 23:52:13.33 ID:DQOLSbuz
仙石さんがアップを始めました
888人間七七四年:2011/11/07(月) 23:53:24.41 ID:oVzt7iSS
北条の提灯軍団はよく燃えなかったもんだな
889人間七七四年:2011/11/07(月) 23:54:42.38 ID:W70I4znO
団衛門もアップをはじめました
890人間七七四年:2011/11/08(火) 00:08:50.79 ID:5Agj6vgv
フンドシ一丁で敵陣に一番槍きめて暴れたやついなかったっけ?
敵からみたら怖えだろうな
891人間七七四年:2011/11/08(火) 00:31:30.05 ID:mvpmy4mz
大将以下鎧も着ずに城へ突撃した軍団もいたよな
892人間七七四年:2011/11/08(火) 00:43:21.28 ID:aflgkBLp
戦場では目立って活躍している姿を戦目付に見てもらう必要があるのだが
あまり目立ち過ぎると手柄首として敵から狙われるというジレンマが・・・
やっぱり井筒女之介のように女装するか
893人間七七四年:2011/11/08(火) 01:18:03.70 ID:X/WIhL/I
ngmsも豊前一揆で赤い陣羽織が目立って的にされたって話があったような
如水さんお気に入りの若武者がngmsの羽織引っぺがして身代わりになってた気がする

陣羽織くらいなら別にものすごく派手ってわけでもないんだろうけど
前線に出る人は目立つと危険だよね
後方で指揮に当たるなら、味方のためにも目立つ方がいいのかもしれん
894人間七七四年:2011/11/08(火) 05:37:04.48 ID:WznbBFf2
のぶのぶさんだっけ首実検やるために前線にいたひとって
前線でやれば後方までくる手間もないし終わったらすぐ前線に復帰できるよとかとか
895人間七七四年:2011/11/08(火) 09:32:41.90 ID:aflgkBLp
896人間七七四年:2011/11/08(火) 10:41:43.16 ID:+/3lNHh6
欧州の騎士だと武具、特に派手な紋章書いてあるから分かりやすいんだよね
で、主君のそばには紋章を全部暗記してる官僚が侍って、
会戦をずーっと監視して騎士の勲功をいちいち主君に報告したりする
897人間七七四年:2011/11/08(火) 12:20:56.42 ID:lO2E+Qn/
日本の方が背中に馬鹿でかい指物を差してるから分かりやすいぞ
8981/2:2011/11/08(火) 21:02:31.24 ID:d0ZyDstj
天正12年(1584)4月9日、水野藤十郎勝成は長久手の合戦のため小幡を出発した。
が、この頃勝成は眼病を患っていたため兜を着けていなかったのを、父の惣兵衛(水野忠重)が見つけ

「藤十郎!お前の兜は何のためにあるのだ!?今のような時こそ着けるべき兜をどういうつもりで
着けないのだ!?」
と、以ての外に叱りつけた。これに勝成、頭にきた!

「親父殿!あんたにそんなに恥をかかされ以上、もう兜は着けねえぞ!
俺の頭を取られるか、俺が一番首を取るか、今日の俺はそのどちらかだ!!」

そう叫ぶとすぐさま敵の方に向かって馬を駆けた!この馬鹿息子に忠重は水野家家臣、大田十助と言う者に
追いかけさせる。「若様それは軍令違反です!ここに留まってください!」しかし勝成、五月蝿いので追い返した。
すると今度は水野家の武者大将・水野喜右衛門が追いかけてきて、「若様どうか、達てお留まりください!」と
懇願したが、「もうすぐ鑓合わせが始まるというのに、どうして引き返せるものか!」とちっとも構わず
敵陣に向かって突撃した!

と、この道で勝成は、同じ徳川軍の米津梅干之助(康勝)に出会った。うめぼしのすけである。これもすごい名前だ。
それはともかく梅干之助が声をかけてきた
「おいおい藤十郎、早くに出てきたもんだなー」「お前もな」「どうだ?鑓場まで一緒に行かねえ?」「OK」
このように同道したが、梅干之助は鑓場の直前で鉄砲に足を打たれた

「畜生、このまま同道したかったんだけどさ、足の甲撃たれて立つことも出来ねえや。こいつは是非に及ばねえなあ」
これに勝成

「まあお前がこんなに早くここまで来た心掛けだけでも比類の無いもんだよ。こうなったらしょうがないから
さっさと退却しろ。」
そんな優しい言葉をかけ梅干之助からとっとと別れた。その直後!三好孫七郎(豊臣秀次)の家来、白井備後の部隊と
遭遇!「こちらは白井備後である!お主は何者か!?」「敵だぁ!」勝成は大喜びでこの部隊に一人で襲いかかり
備を突き崩し、白井の首を取り、一番鑓の高名をなした!

「こいつは家康公にお見せしなきゃ!」

勝成がランラン気分で戻り、本陣の山の下で家康の旗本に「御旗本の動き遅いぞ、何やってるの!急げ急げ!」と
煽っている所に、使番の内藤四郎左衛門正成と高木主水清秀に出会う。内藤と高木
「さてさて藤十郎、もう手柄をなしたのか!一番首の高名だ、早速殿にお目にかけられよ!」と家康の上覧に入れる。
家康もこれに「早々に手柄をいたし、高名をしたなあ」と御感に入った様子。
8992/2:2011/11/08(火) 21:03:00.39 ID:d0ZyDstj
その後から、太田新左衛門、久野三郎左衛門家老本間重左衛門、同忠三郎、勝成の伯父筑紫忠兵衛、
山田平市郎、といった者たちが続々と首を持って家康の上覧に入れに来た。
家康はそれらの実検が終わると、ふと勝成の方を見て

「ところでお前…家来は?」「は?」「は?じゃない。お前の家来はどうした?」
「ああ、え〜っと私はアイツら置いて先に戦場に出ちゃったもので、家来のことは解らんです。惣兵衛(父親)の所に
居るんじゃないでしょうかね?」

「お前という奴は…」家康も呆れながら「しょうがないやつだ。まあいい、わしの馬廻りに付いて参れ」と命ぜられ
「そういう事なら御馬について行きます!」と家康の後ろをひょこひょこしていると、井伊兵部(直政)に
ばったり合う。直政は勝成に「俺らこれから足軽部隊をあっちに出撃させるんだけど、藤十郎殿も付き合わないか?」
勝成もちろん「行くにきまってんだろ!」と、すぐさま井伊部隊に参加する。

井伊直政が指揮を取った部隊は見事であった。攻勢をかけてきた敵を追い返しただけでなく、さらにそれを
追い崩した。これは既に高名である。ここで勝成「いかん!このままではここの手柄を全部兵部に取られてしまう!」
そうはさせるかと猛ダッシュ!直政よりも15.6町(1.6〜1.7キロ)も先に行き、敵に向かって乗り込んだ!
と、そこに黒母衣の武士発見!間違いなく名のある敵!そう判断した瞬間にはもう討ち殺していた。
首をとって兜の付いたままのそれを、その者が付けていた母衣で包み、首実検の場に持っていった。

それからまた戦場に戻って組み打ちをし首を取ったが、高木筑後守の弟の喜左衛門と、久永源兵衛はどこで見たのか
「藤十郎、さっきの組み打ち、かっこ良かったぞ!」と声をかけたそうだ。
この日勝成は、一番首を含めて首3つを取った。


それからずっと後年、勝成が江戸に下った時、梅干之助が「自分が長久手の一番首をした!」と話していると聞き、
勝成は梅干之助を呼んで

「お前は鑓場の前で怪我して引き退いたじゃないか!一番首を取ったのは俺だぞ!」
と言ってやると、梅干之助はしどろもどろになったそうだ。
(水野勝成覚書)

長久手合戦における、水野勝成大暴れの模様である。
900人間七七四年:2011/11/08(火) 21:06:01.19 ID:YP66jFa2
阿波鳴門之介(小西行長時代の同僚)
梅干之助
もしかして、勝成って適当に考えた名前を語っているんじゃないよな
901人間七七四年:2011/11/08(火) 21:22:14.75 ID:IxwMmU0l
902人間七七四年:2011/11/08(火) 21:23:52.23 ID:YP66jFa2
本当に梅干之助だったのか
じゃあ勝成は変わった名前の同僚とつるむタイプだったとか
903人間七七四年:2011/11/08(火) 22:52:53.76 ID:DPfxa7Nh
自分と同じように戦場で前に突っ込む奴とつるむんだろうし、そういう奴らは目立つために変な名前つけがちなのかも
904人間七七四年:2011/11/08(火) 23:54:09.35 ID:yzavzB7/
>>892
間違いない、あの派手な武者が一条信龍だ!
者共おおおお、討ち取れば褒美は欲しいままぞおおおおおおおおおお!!!
905人間七七四年:2011/11/09(水) 02:21:30.72 ID:rXospZQ3
政宗親子と「塵芥集」の悪い話

塵芥集・第119条
「借りたものは返せ。金を例に挙げれば、親の借りた金は、たとえ親が死んだ後でもその子供が返すのは当然である」

(●Д゜)「当たり前だよな」
906人間七七四年:2011/11/09(水) 05:00:51.29 ID:fLJYgtDW
>>905
政宗「大事な事なので2回言いましたの走りか」
秀宗「え?」
忠宗「え?」
京・江戸の商人「え?」
907人間七七四年:2011/11/09(水) 07:35:59.14 ID:otsK97fN
>>906
幕府(チラッチラッ
908人間七七四年:2011/11/09(水) 15:00:05.80 ID:vBNZSp03
津軽信枚「借りた金はちゃんと返せよ。そうすれば何度でも借りられるぞ」
909人間七七四年:2011/11/09(水) 16:18:30.51 ID:0hp1HkgE
調所笑左衛門「借りた金は返すよ(爽やかな笑顔」
910人間七七四年:2011/11/09(水) 17:34:11.27 ID:cP+H0rtF
町人考見録には大名貸しだけはやめとけってしつこく書かれてるらしい
911人間七七四年:2011/11/09(水) 20:01:24.13 ID:XbPrnQaI
真田の兄さんあたりならちゃんと返して呉れそうだけどな。逆に金貸しが似合いそうなのは誰かな?
912人間七七四年:2011/11/09(水) 20:07:34.11 ID:Tfa4yBY0
そりゃケチなやつで思い浮かぶやつだから
・前田利家
・松永久秀
・権現様
・黒田官兵衛
・岡左内
ついでに秀次
913人間七七四年:2011/11/09(水) 20:25:02.93 ID:7oDi95vT
官兵衛は支払い期限を過ぎて窮した吉川のところに
鮭持参でにこやかに催促に訪れそうだな。

悪どいことも厭わないが、基本は信用が築けるという意味では
「返せぬなら返させてみせよう」の太閤様はこの道でも成功しそうだ。
「返すまで(門前で)待とう」の権現様も堅実に店を広げそう。
914人間七七四年:2011/11/09(水) 21:21:10.37 ID:rRwoG5Sa
CERO-Bくらい?

細川三斎の行列が、国許から江戸へ上るため箱根の関でいつも通りの手続きを済ませ、通過しようとした
その時、関守から『待った』が掛かった。「法度の改正により、お女中衆を改めさせていただく!」

三斎は、これにやんわりと抵抗した。
「まあまあ、関守どの!この三斎が召し連れた女を、改める必要もござるまい。」
「いや。役儀ゆえ、そういう訳には参りませぬ。」
「そう言われても、この女子衆は我が忠臣どもより預かりし家族も同然の者。みだりに他人の眼に晒せぬわ。」
「それは分かりますが、天下の大法を曲げることは出来ませぬ。」

「ならば、改められよ。おい!全員、髪を解け。帯もほどけ!!」
「い、いや!そこまでしなくても・・・」

関守が止める間もなく三斎の号令のもと、大大名家に仕える見目麗しき美女たちが、一斉に結い髪を解き
帯を外し、着物を脱ぎ始めた。

こぼれ落ちる長い黒髪。対象に、雪のように白い肌。紅を差したが如き艶やかな唇。豊かな双丘。
すらりと伸びた脚。その間に隠された淡い翳り。恥じらいに染まる美貌。関守たちの目は釘付けになった。

「・・・・・・・・・」
「どうだ?怪しいところは有るか?」
「・・・はい!?あっ、い、いや!妖しいけど怪しくないです!どうぞお通り下さい!」
「だから言ったのだ。こうされても仕方あるまい?」

  ズ  バ  ッ

「・・・という訳で、常に天下の御為たらんとする私が、処断しておきました。
この三斎がどういう人間か、知りも察しもせぬ能無しなんぞを関守に置いても、役に立ちませぬぞ。」

三斎から報告を受けた土井利勝も、“御尤に候”と答えるばかりだったという。(綿考輯録より)
915人間七七四年:2011/11/09(水) 21:23:22.68 ID:uLvwb+xP
命令に逆らっても殺されるんだろ多分
916人間七七四年:2011/11/09(水) 21:25:59.56 ID:Tfa4yBY0
917人間七七四年:2011/11/09(水) 21:36:41.13 ID:fKwCkXsR
ひーはぁー、門番も関守も楽じゃないぜぇ〜
918人間七七四年:2011/11/09(水) 22:41:08.59 ID:tu81H5fP
冥土の土産に綺麗なねーちゃんのストリップを拝めただけでもましか
919人間七七四年:2011/11/09(水) 23:10:36.96 ID:pz0GWdn1
>>897ー903
梅干之助
×うめぼしのすけ
○ほやのすけ
920人間七七四年:2011/11/09(水) 23:17:12.09 ID:pz0GWdn1
あっゴメン、アンカー失敗しました
お詫びにソース↓、勝成の本にも「ほや」とふってありましたよ
http://www2.ocn.ne.jp/~nukunuku/MyPage/K0209C.HTM
921人間七七四年:2011/11/10(木) 00:45:37.20 ID:se+bujcI
何故梅干之助なんて付けられたんだろう
意識しなくても顎に梅干が出来ていたからだろうか
だとすれば家康がつけたのでは…
922人間七七四年:2011/11/10(木) 01:32:27.47 ID:rSR8q7ee
真っ先に家康が浮かんだ
名付ける時いつも直球だし
923人間七七四年:2011/11/10(木) 02:43:38.09 ID:0Tats9ld
どいつもこいつも門番の態度にムカっとくると容赦なく報復に走って…
杓子定規な対応にむしろ感心して褒めるような大名はいないのか!
924人間七七四年:2011/11/10(木) 02:50:32.85 ID:pGcJmry3
いやいや、本当に最後まで杓子定規に真面目にやってたら多分斬られてないって
・・・多分
925人間七七四年:2011/11/10(木) 08:48:24.16 ID:bkZm0h5n
お忍びで城外に遊びにいってた殿様が門限に間に合わず、
殿様と分かっていても決して開門しなかった門番の話はどこにでもありそうじゃね?

そこでの賞罰によってこっちにくるかあっちにいくかがわかれるわけですけどね
926人間七七四年:2011/11/10(木) 09:15:45.60 ID:PTHlc3Yz
>>914
土井さんも気苦労が絶えないなw
927人間七七四年:2011/11/10(木) 18:46:49.09 ID:+gXVL0sG
名君→職務を全うする
暗君→言われるがまま通す
DQN→諦める
928人間七七四年:2011/11/10(木) 19:35:51.26 ID:7oWHMmq6
>>914
これだから精神年齢三歳さまは…
929人間七七四年:2011/11/10(木) 19:53:50.71 ID:ZrQK+BDf
自分の妻は顔を見ただけの者でも殺すというのに
家臣の女にはあられもない姿をさせるなんて
家族も同然、と言いながら差があるな
930人間七七四年:2011/11/10(木) 20:04:29.86 ID:JgiVhVYz
本人も女達のそのあられもない姿を見て目の保養をしたかった、とかか
931人間七七四年:2011/11/10(木) 20:20:10.56 ID:Tm8oLOLK
無理ゲーだが真面目に規定通り仕事して
それでも斬られそうになったら返り討ちにするしかない
932人間七七四年:2011/11/10(木) 23:17:23.97 ID:pQCU8AQ6
自分が役人ならその場ではとりあえず要求は飲んで、
上に報告して政治問題化させて自分の手からは離れさせる
切腹しろって言われたらその時すればいいだけだし
933人間七七四年:2011/11/10(木) 23:23:26.27 ID:MTuD2flb
こんなことが政治問題化するんなら、
殺した時点でもっと大きな政治問題になるだろうに
上司に話しても軽くながされて終わりだろ・・・
934人間七七四年:2011/11/10(木) 23:25:08.85 ID:DKNukHPz
塙直之は加藤嘉明から解雇された後、京の妙心寺で僧になるための修行をしていたが
武士への未練が棄てきれず、常陸の肥田志摩という者の下で居候をしていた。
ある時、肥田家中の若侍達と近所の愛宕神社へ参拝に行った。
参拝後、塙直之は若侍達に何を祈願したのか尋ねた。
若侍達は「世の中が平穏無事であるようにと祈りました」と答えた。
これを聞いて塙直之は笑いだし、
「それがしは災難や戦乱が起き世の中がもっと乱れるよう御願い致した」
と大声で憚りもなく答えた。
若侍達がなぜそんな物騒な事を祈願するのか尋ねると、
「それがしの様な者は、畳の上での奉公に向いていないが、
戦乱の世になれば縦横無尽の働きをして出世の機会を得る自信があるからだ」
と、嬉々として語ったという。
935人間七七四年:2011/11/11(金) 02:05:06.51 ID:OK7Ny7y1
ふむ、悪い話だな
936人間七七四年:2011/11/11(金) 08:15:50.45 ID:peVqHqwY
武士的には元気のいい話じゃね
937人間七七四年:2011/11/11(金) 08:38:19.26 ID:u+UHAFpI
こういう戦争でしか役に立たない人材が、行き場を失って集まったのが大坂の陣なんだろうな
938人間七七四年:2011/11/11(金) 08:58:15.25 ID:NVwzIXQn
裏を返せば、こういう戦争でしか役に立たない人材を一掃したのが大坂の陣か
939人間七七四年:2011/11/11(金) 09:18:33.48 ID:6rev1rcG
福島正則のように弓だったんだな 平和になると蔵にしまわれる
940人間七七四年:2011/11/11(金) 09:24:47.43 ID:cAfualN1
走狗煮らる
941人間七七四年:2011/11/11(金) 14:02:37.04 ID:l1hJbACe
戦でしか役にたたない人間は大阪の陣以降も生産されてたんだよなあ
鄭成功にのっかろうとしたぐらいに…
942人間七七四年:2011/11/11(金) 14:06:34.80 ID:ccvf/tog
まあ実際の所、最近では元和偃武で戦時体制が終了したわけではなく、徳川綱吉の時代くらいまで
臨戦態勢は継続していたと考えられている。
943人間七七四年:2011/11/11(金) 16:13:15.42 ID:r/ygYmPP
>>942
忠臣蔵がその悪い影響を如実に表しているな
944人間七七四年:2011/11/11(金) 16:15:16.58 ID:l1hJbACe
>>943
綱吉が吉良を擁護した理由もわかるな…
945人間七七四年:2011/11/11(金) 17:42:31.90 ID:peVqHqwY
まあ世間では忠臣蔵は永遠に忠臣で変わらないが
946人間七七四年:2011/11/11(金) 18:00:45.30 ID:L9ojeTHH
忠臣蔵って再就職活動してたのが切腹したんで美談になったと考えたり
947人間七七四年:2011/11/11(金) 18:31:26.31 ID:r/ygYmPP
そろそろ吉良さんの名誉回復してもいいのにな
年末の忠臣蔵は吉良さん視点で
それこそ地元の人が頑張ってくれないかな
948人間七七四年:2011/11/11(金) 19:08:30.47 ID:2g0UR9ui
再評価はあるだろ
949人間七七四年:2011/11/11(金) 19:13:48.87 ID:JkSTvl9B
小説とかではあるし学問的にはかなり復権もされているのだけど、一般的にはやっぱりねえ
950人間七七四年:2011/11/11(金) 19:15:38.82 ID:r/ygYmPP
浅野長政が好きなので、子孫にこういう残念なことされると悲しくなるな
951人間七七四年:2011/11/11(金) 19:25:53.22 ID:rPGn1brF
忠臣蔵の教訓

1,基地外に関わるな。
2,マスコミの捏造報道に気をつけろ。
952人間七七四年:2011/11/11(金) 19:40:26.56 ID:l1hJbACe
忠臣蔵要約
ブチ切れた基地外が監督役のじいさんに切りかかって公式行事を台無しにする
その後基地外の部下が逆恨みでじいさんを集団暴行
953人間七七四年:2011/11/11(金) 19:52:34.76 ID:2g0UR9ui
裁判にもっと時間を掛けるべきだったと思うよ
954人間七七四年:2011/11/11(金) 20:00:13.23 ID:WQLk0S5b
吉良を再評価しようと調べてる地元の会があって
それなりに実績も発掘してたけど
調べれば調べる程爺さんが実際にアスペ君その他をイジメてた証言も出ちゃってて
なんか擁護が歯切れ悪かった
955人間七七四年:2011/11/11(金) 20:15:54.13 ID:fi/ABYMd
名こそ惜しけれ
956人間七七四年:2011/11/11(金) 20:20:17.16 ID:yY2joALc
>>946
批判的な意見の学者は当時からいたけど受けは悪い。

>>954
火のないところに煙は…だからね。
息子の養子先の上杉家にも色々負担をかけたり。
957人間七七四年:2011/11/11(金) 20:21:07.53 ID:el9janva
イジメが本当に有って吉良が意地悪じいさんだとしても
浅野がバカ殿だった事には変わりないな。
958人間七七四年:2011/11/11(金) 20:28:09.47 ID:GcG96WRT
>>957
アサノタクミノカミが、どんなにバカで基地外でも意地悪爺さんが人気者になるのは難しい。
ゲームメーカーあたりが女の子のキャラクター化してくれたら人気でるかも だが
959人間七七四年:2011/11/11(金) 20:33:21.02 ID:l1hJbACe
吉良の浅野に賄賂よこせって言ったとかいう話あるけど実際は饗応相手に出すカネお前も負担しろって意味だったとか
960人間七七四年:2011/11/11(金) 20:35:24.01 ID:aIsF6Rop
>>958
先にTSG47が萌キャラになる
とりあえず47人の無職共に生活援助してくれる心優しい親戚でもいれば馬鹿なマネはしなかったと思うんだ
961人間七七四年:2011/11/11(金) 20:39:28.05 ID:G/g6HOdX
昨日のへうげもので吉良氏の世田谷城を浅野長政らがとりかこんでいて
忠臣蔵の祖先同士かと思ったら、世田谷城の吉良氏は奥州吉良氏で、
上野介は三河吉良氏と、たいして関係なかった
962人間七七四年:2011/11/11(金) 22:33:30.19 ID:JkSTvl9B
>>954
人間社会の事件ですからね、講談のように善と悪の物語にはならないってことでしょう
963人間七七四年:2011/11/11(金) 22:45:54.26 ID:1zEJxA3N
吉良氏って三河守護だと思ってたけど守護じゃないんだね。
Wikipediaには一色義春以降の守護の記事がないんだけど誰も任命されなかったの?
964人間七七四年:2011/11/11(金) 23:43:37.10 ID:l1hJbACe
>>963
丹後のページには1582年まであるお
965人間七七四年:2011/11/12(土) 00:50:23.64 ID:YbVn2eg+
上野介って西条のほうの出だっけか?

パラドのゲームに東条が出てて驚いたわ
MODだっけかもしれんがの
966人間七七四年:2011/11/12(土) 12:07:02.86 ID:6m4o+4yY
水野勝成の女歌舞伎公演

慶長13年(1608)5月、三河刈谷城主・水野日向守勝成は、前年10月に京で身請けし国元に連れ帰った歌舞伎女の
出来島隼人を引き連れ、先月上洛した。
隼人の衣装や装いは殊の外煌びやかでかぶいていた。

勝成は内々、伏見の聚楽町で隼人による歌舞伎の公演を考えていたのだが、それはあまりよくないと
知人などからしきりに諫言をうけたためこれを止め、洛中において勧進法楽(公演)することにした。

この歌舞伎公演に見物の貴賎は門前市を成した。
出来島隼人が去年身請けされた時、勝成が亭主に支払ったのは銀子30貫目だったそうだが、今回の公演で
衣装その他に銀子70貫目かかったという。

京の町人たちは皆この歌舞伎公演を褒め称え、京の若者でこれを見物に行かなかったものは居なかったほどだそうだ。
(当代記)

と、派手な公演を成功させ天下に面目をなした良い話だが、実はこの時期、勝成は放浪時代に作った妻子
(後の正妻お登久と嫡男勝俊)を、慶長3年(1598)に出奔して以来、未だ備中成羽に残したままにしているのである。
実に10年間の放置。カラッと忘れていた可能性すらあるw(引き取るのは翌年)

妻子をほっといて愛人と派手に遊んでいた水野勝成の悪い話。
967人間七七四年:2011/11/12(土) 14:37:30.73 ID:qGMDS3Eb
女房と畳は新しい方が良いからな
968人間七七四年:2011/11/12(土) 15:20:45.68 ID:FaZvTUE8
忠臣蔵版吉良「いや、畳は古くて構わん」
969人間七七四年:2011/11/12(土) 23:52:01.40 ID:/k4QCC66
>>968
史実の吉良の女房「あんたは腹切らないの?」
970人間七七四年:2011/11/13(日) 01:54:08.30 ID:V3HpSjpK
耳鼻科医的前立て

朝鮮征伐のころ、伊達家では真鍮の円前立て(額の上にある円い金属板の飾り)が流行していた。
皆が目立とうと、前立てをピカピカに磨いた。

結果、お互い会話をするのにまぶしくて敵わん、ということで、今度は前立てに彫り物をしたという。
971人間七七四年:2011/11/13(日) 07:24:53.09 ID:S/Aig44k
勝成といえば良いか悪いかわからないけど
この17の恥が気になる
ttp://homepage2.nifty.com/yagumo/fukuyamasiro.html
ttp://youm-youh.jugem.jp/?eid=582

子孫に「水野勝成遺書」をのこし自分の武士道を説いた。
勝成は「武士には17の恥がある」という。
1、主君の命でも受けるべきでない命令は断って去るべき、それをせず、主家に留まる事。
1、人の手柄をねたむ事。
1、自分の武力の程を知らず、ちょっとした強さを大分強いと勘違いして自慢すること。
1、味方が多い所では強気になり味方がいない所では弱気になる事。
1、心立ては如何なる大将軍にも恥ずべかざるように。

武士の勤務にだけはまじめ。
「勤め向きは半時(=1時間)早く出て一時遅く退去と心得て交代すべき事」
(『視聴草』)と戒めている。

本人的には自分でやっちゃった事を悔いてるのかもしれんが
あと残りの恥も気になるな
972人間七七四年:2011/11/13(日) 11:27:33.00 ID:HwRkHS06
>>961
世田谷吉良氏(東条)は、江戸時代には蒔田氏を名乗るが、
討ち入りの一件で西条がお家断絶なったため、吉良に復姓しているよ。

地元の鷺草伝説に出てくる吉良の殿様は、バカ殿そのもの。
DQNだし。
973人間七七四年:2011/11/13(日) 11:34:52.07 ID:IuN9XsfB
>>954
ワロタw 
974人間七七四年:2011/11/13(日) 11:57:57.43 ID:kpPxr+Do
>>970
真鍮って当時結構高価なのに金かけてんなあ
975人間七七四年:2011/11/13(日) 12:04:36.85 ID:1S2s1492
そういえば朝鮮役では、立花宗茂は部隊の軍装を揃いにするにはお金が無いので、とりあえず兜だけ
統一したらしいねw
976人間七七四年:2011/11/13(日) 13:47:15.59 ID:FpQ1Xalb
還暦すぎの爺さんを、背中から不意打ちで襲撃しても一撃で殺せなかった三十路の図、
てのは武士の大将として体面悪すぎだよな

しかもよりによって、これから朝廷の使者に「ごらんのとおりウチが軍事政権
ガッチリ預かってますんで、朝廷はご安心を^^」て示さなきゃいかん当日とかw
武家の棟梁としては「死ね、今すぐ死ね」ってキレても仕方ないw
977人間七七四年:2011/11/13(日) 13:58:01.08 ID:T1Pigli8
あんな変な装束きせられてたら仕留め損ないもするっての
おまけにドス一本しか持ってないのに
978人間七七四年:2011/11/13(日) 14:28:09.31 ID:qNSUz2+E
>仕留め損ないもするっての
井上正就「・・・」
堀田正俊「・・・」
田沼意知「・・・」
細川宗孝「・・・」
979人間七七四年:2011/11/13(日) 14:30:41.02 ID:gxSVTt95
>>977
ドスどころか文化包丁一本で後の世の人間は人一人始末してる。
武家の人間じゃなければ、言い訳もあるかもしれんが、
斬りつけただの浅手だっただのと、
浅野家の名誉を守る為にも速やかな切腹が正しかったのかもしれん。
980人間七七四年:2011/11/13(日) 14:39:07.72 ID:9mbPg/bM
最近「鮒侍、鮒侍じゃ!」と言って忠臣蔵ネタだとわかるひとが少なくて寂しい
981人間七七四年:2011/11/13(日) 14:52:11.50 ID:QYDARDmB
脇差だったっけ? あれは斬るんじゃなくて刺すものだというし
そこら辺も怒りの余り冷静じゃなくなったんだろうな
982人間七七四年:2011/11/13(日) 15:05:09.44 ID:9mbPg/bM
>>981
脇差しで斬ったということから殿には殺意はなかったんですよってAKO48弁解してなかった?
983人間七七四年:2011/11/13(日) 15:14:12.18 ID:FpQ1Xalb
「初手は突き 二度目はなぜかきらざらん 石見がえぐる穴を見ながら」っていつの作だろね
稲葉石見守正休はきっちり堀田正俊を刺殺したのにね、と
こっちは40代vs50代か
984人間七七四年:2011/11/13(日) 15:31:40.87 ID:o6/ndPyX
加賀井に不意を突かれたであろうところを返り討ちにした堀尾の茂助さんはさすがということか、
まあ水野さんが先にやられて少し余裕があったのかもしれんが
985人間七七四年:2011/11/13(日) 16:10:08.11 ID:zKWDAWIC
>>981
別に脇差だから刺さなきゃいけないってこともないんだけど、
斬りつけるんだと太い動脈を切断するか、頭蓋を打ち割るとかしないといけないので、
脇差だと腕が悪いと致命傷を与えにくい。
狙うべき場所自体が限られるし。
一方、刺す場合はとにかく腹に突き立てて内蔵を傷つければ当時の外科レベルだと
治療できないから、殺せる可能性が高い。
背中だと背骨と肋骨が邪魔だから内蔵に刺さらない可能性が出てくるけど。

つーことで、1対1の状況で不意打ちして殺そうとしてるのに、「斬りつける」なんて
間抜けなことをした浅野内匠頭は剣術もろくに知らないと馬鹿にされるんだな。

ちなみに普通に向い合って立ち会う場合は突き技を使うと体勢が伸びきって、隙だらけ
になるのでリスクが高い。
986人間七七四年:2011/11/13(日) 16:13:02.07 ID:1S2s1492
そろそろ新スレ立ててみる
987人間七七四年:2011/11/13(日) 16:15:10.04 ID:1S2s1492
ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。

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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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988人間七七四年:2011/11/13(日) 16:52:45.41 ID:FpQ1Xalb
行ってみるノ
989人間七七四年:2011/11/13(日) 16:56:22.75 ID:FpQ1Xalb
行けた(`・ω・´)
戦国ちょっと悪い話29
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
990人間七七四年:2011/11/13(日) 16:57:37.07 ID:BJWyEDxf
>>989
991人間七七四年:2011/11/13(日) 16:57:52.67 ID:1S2s1492
>>989
乙。ありがとう
992人間七七四年:2011/11/13(日) 17:15:33.26 ID:FpQ1Xalb
で戦国時代に話を戻すと
>>984
この場合は酒入ったケンカの果てのバトルだから警戒してたとしても、相手が槍じゃ厳しいよな
茂吉っちゃん流石すぎる
良い上司にも恵まれてたよね、この話好きだ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5287.html
993人間七七四年:2011/11/13(日) 18:21:26.47 ID:QYDARDmB
>>989
乙ー
994人間七七四年:2011/11/13(日) 18:38:24.81 ID:eXZB0H+q
茂助じゃなかったけか、茂吉は斉藤じゃね?
995人間七七四年:2011/11/13(日) 18:47:01.24 ID:qNSUz2+E
>>992リンク見たら

>701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 16:29:51.42 ID:kcqPaJwv
>>>684
>暗殺が成功しました…
>水野忠重→暗殺
>水野信元→暗殺
>水野信近→暗殺
>暗殺の多い一家だな、戦じゃかなり有能なのにな

ラスボスからの刺客や五霊鬼に狙われたのに天寿を全うした勝成さんって
996人間七七四年:2011/11/13(日) 19:17:52.44 ID:FpQ1Xalb
>>994
うわあ、ほんとだ茂吉じゃないない
ごめんorz
997人間七七四年:2011/11/13(日) 19:28:30.23 ID:zZYxtqlP
仏の茂助と首切り茂吉を間違えるなんてよくある話
998人間七七四年:2011/11/13(日) 19:30:13.02 ID:QYDARDmB
坂の上の一挙放送してくれるのか やったーありがとうBS
999人間七七四年:2011/11/13(日) 19:31:01.69 ID:QYDARDmB
ごめん スレ間違い
1000人間七七四年:2011/11/13(日) 19:39:35.93 ID:Plue63e4
千姫
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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