徳川秀忠 その2

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390人間七七四年
>>389
その訓戒状は家康が書いたものじゃない、という説が有力になってきていると聞く
理由は

・この訓戒状は浅草のとある古本屋で見つかった可能性あり

・冒頭部分が、家康が生きていた頃の時代の書き方にそぐわない

・あの当時、堪忍って言葉あったっけ?

・慶長十七年、秀頼がまだ生きているのに、信じられないこと書いてる
「太閤様は古今に珍しいほどの大気の持ち主であったが
あまりにも大気だったため、身の程を知るということが出来なかった(あまり大気故、分限の堪忍破れ候)」

・関ヶ原の戦いの時、お江に宛てた家康の手紙と同じような文面がある(井伊直政のこと)
関ヶ原の頃なら直政生きているけど、慶長十七年頃はもう死んでいるのに、直政を頼れと書いてる
なので、この手紙は井伊家の人が書いたかもしれないとの疑い

等々

自分も本で読んだけど、正直何が言いたいのかよく分からないなあの訓戒状
まだ毛利訓戒状の方が理解できたかな