戦国ちょっと悪い話27

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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2人間七七四年:2011/07/13(水) 01:44:26.14 ID:LV0lCEPE
>>1
3人間七七四年:2011/07/13(水) 07:55:34.75 ID:cUHqLdLC
>>1乙!
おにぎりの毒味はすべてそれがしが済ませておきました!ゲフ
4人間七七四年:2011/07/13(水) 18:14:26.34 ID:zXZRlqOA
『徹斎、諸国における試合の覚え』

 タイ捨流の開祖、丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)。晩年には徹斎と号し、齢九十の長寿を全うした剣士の生涯を記録した文書が、「徹斎於諸国仕合之覚」として今も熊本県球磨郡の丸目家に現存する。

 この文書。表題の通りに摂州の「仮名田熊左衛門」との仕合から、真剣勝負を望む「豊後の鎌仕の名人」を刀の棟で打ち倒すまでの戦歴が記載されている。
 
 中には、薩摩国菱刈郡大口の「快鏡」という大勢の弟子を抱える兵法仕(へいほうつかい)が、様々詫び言して仕合を免れた不戦勝の記録まで網羅されている。

 そんな中、十条目にさりげなく、このような文章が。

「摂津の国において、上泉伊勢守の弟子になる時。

上泉門下に諸侯から参じていた弟子、およそ六十数名。徹老(若き日の蔵人助)は一度に七〜八人ずつまとめて打ち伏せ、小休憩してからまた複数を同時に打ち伏せ、対には兄弟子が全て新参の徹老に指南される事となった」

 実際。足利義輝の御前で伊勢守の打太刀役を(新参にも関わらず)つとめているので、蔵人助が強かったのは事実でしょう。

 が、さりげなく「上泉伊勢守の弟子に成り居られ候時」と記述していますが、どうして弟子入りしたかはスルーしている事に疑問を抱くのは、勘繰りすぎでしょうか?
5人間七七四年:2011/07/13(水) 20:34:04.56 ID:zXZRlqOA
『成功報酬?』

 島津家久(忠恒)の治世は、未だ乱世の余習、除かれず。

 これの故に、凶暴謀反の叛徒。頻る多し。とは、『東郷氏支族系図』にも掲載されている当時の薩摩。

 ……乱世の習いが消えていないのは誰かとか、凶暴なのは何方の事でしょうかとか、色々と突っ込みたい事は少なくないですが…。

 それはともかく。

 十九回とも十数回とも、義久ないし家久の命令で上意討ちを行い、一度も仕損じた事がない東郷重位。

 この日、新たな命令を賜る。

「橋口小藤太、これは我が家中でも凶暴の最たる者じゃ。頼むぞ、重位!」

「ははっ!」

 介添え役の鎌田左京政徳と共に、平伏する重位。

「此度は、特別にこれを授ける」

 家久が差し出したのは、則光の銘刀。

 普段、重位が何か事の後に拝領する副え刀(脇差)ではなく、大刀である。

「頼むぞ、重位。(……死ぬなよ!)」

 言葉には出さず、則光の刀で気持ちを表現する、珍しく「綺麗な」家久。

(続き)
6人間七七四年:2011/07/13(水) 20:42:22.78 ID:zXZRlqOA
(続き)

 さて、当日。則光の銘刀を佩いた重位は……いつもと変わる事のない鮮やかさで、たちどころに小藤太を斃す。

「重畳至極。流石は重位じゃ!」

「いえいえ。これも、殿より賜りたる則光のお陰でごわす」

「おお、良く切れたであろう、則光は!」

「はい。この刀の鋭さは、比較できるものはごわさん(其刀の利、ならべ比する者無し)」

「……そんなに、凄かったのか」


『事を以て公に聞ゆ。因りて又、命じて之を還さしむ』

 一旦、上げた物を後になって(しかも、成功した報酬を)還せという、島津家久(忠恒)の悪い話。

 ……そんな事しなくても、重位も後代の東郷家の人々は拝領刀ばかりか自腹購入の銘刀をも、島津家の祝い事などで何度も献上しているのに。
7人間七七四年:2011/07/14(木) 00:45:36.47 ID:qp517aZb
>>十九回とも十数回とも
そんなにやっているのか.
上意討ち始めましたって看板がかかっていて
「今年ももうそんな時期なんだね〜」みたいな光景が思い浮かぶ。
8人間七七四年:2011/07/14(木) 08:02:12.16 ID:Et3T7gq7
それだけ殺ってるのに返りうちにあわず復讐もされず口封じされてないから凄い
東郷と目があっただけで勘違いして殺しに来る輩だっていそうなもんだし
9人間七七四年:2011/07/15(金) 06:26:04.77 ID:pgxrf9e9
最上義光公霊屋の悪い話

山寺立石寺には最上義光の霊屋がある。
霊屋とは、死者の霊を祭る建物のことで葬儀の前にしばらく死体を安置しておく場所である。
お墓と同様に扱われる場合もある。

場所は中性院の手前辺りにある。気づかないで通り過ぎる方が多い。
説明板とかは何も無し。

数年前まではトタン屋根が増設され、ビール瓶やら雑貨が詰まれ、外は物置代わりにされていたらしい。
今は有志による市と寺への陳情で、トタン屋根や雑貨は撤去され、平穏な建物に戻っている。
仙台の瑞鳳殿と比べると扱い・知名度共に雲泥の差である。

山形市もこういう所を観光に活かせばいいのに。
10人間七七四年:2011/07/15(金) 09:16:10.63 ID:oa8mKdz1
現代では「そもそも霊屋って何?」という人が大半だろうから観光資源になるかどうか…?
11人間七七四年:2011/07/15(金) 18:38:58.07 ID:AYsxw/lD
>>10
ちがうちがう「そもそも霊屋ってなんて読むの?」だろ
12人間七七四年:2011/07/15(金) 20:20:11.26 ID:movMjuWE
『東郷の本音』

 東郷重位。13歳にして短刀で狼藉者を刺殺し、六十歳を過ぎて「家中、凶暴の最たる者」橋口小藤太を屠る。

 背丈は鴨居に余る巨漢で、眼は小さいが光り鋭く、角顔。立腹すれが総身の毛が逆立つ常人ばなれした人物と記録される。

 但し、平素は温厚で沈着。誰に対しても礼儀正しく、稽古に訪れた幼少の門人と雖も、必ず玄関まで見送った。

 武芸以外にも、和歌は阿蘇玄与に師事。

 善吉和尚に出会わなければ、後藤一門に入門する予定だけあって金工・蒔絵にも通じ、自作の刀の鍔や蒔絵の椀も残している。

 戦場では初陣で敵の首級を挙げ、琉球出兵においては坊津の地頭として後方兵站の任に当たり、島津家や重臣達にも信頼され、内密の相談事も多かった。

 そんな人物が、生涯十数回の上意討ちについて語り残している。

「上意討ちの一事は、書き残さない。何故なら、自ら好んで為した事にはあらず」

 と、自分から暗殺役を買って出たのではないらしい。

「且つ、仰せを蒙るとも誉れならず。有り難くも無し」

 島津義久の命で上意討ちをした時、大騒ぎになると思い城内の櫓で見物していたのに、一瞬で終わり拍子抜けしたと言われる。

 その時、見せ場がなくて申し訳ござらんと、聴き様によっては反抗的な答えを返している。

「自分は是非なく為したる事にして、親類兄弟などにはどんな存念あるやも知り難し」

 義久や家久の主命なので、自分としては断る訳にも行かず、でも周囲や身内の事を考えると……。

 戦場での手柄話と違って、自慢する気にはなれなかったらしい。そんな、東郷の本音。
13人間七七四年:2011/07/16(土) 06:33:20.41 ID:NxRUfE0U
悪い話かなぁ?
14人間七七四年:2011/07/16(土) 09:35:26.46 ID:BzhqUx0y
まあそうやって「好きでやったワケじゃねえ」とか言えるのも東郷さんだからであって

鍋島勝茂の家臣、石井縫殿助の組下に石井与左衛門という侍がいた。この与左衛門が、裏で悪事を働いていた
という事実が発覚し、上司の縫殿助に勝茂から、上意討ちの命が下った。

縫殿助は、この件が与左衛門に漏れぬよう家族にも内緒にして、郎党の伊東彦右衛門ただ一人に打ち明け、
深夜になって二人だけで与左衛門邸へ向かった。
玄関先で家の主を呼び出すと、与左衛門は一人で松明を持ってやって来た。

「与左衛門よ、先日より問題となっているお主の行状の件、有罪になると聞き及んだ。申し開きする事など
あれば、今のうちに申せ。相談に乗ろう。」
「わざわざのお越し、かたじけない。酒など用意いたしましょう。どうぞ中へ。」

そう言って与左衛門が邸内に案内しようと振り返った瞬間、縫殿助が切りかかった。与左衛門もさる者で、
松明を取り落としつつも縫殿助の一撃を受け止め、切り合いになった。
伊東彦右衛門も抜刀して主人に加勢せんとしたが、落ちた松明からは火が消え失せており、暗闇の中で
彦右衛門は、あろう事か縫殿助の腰に切りつけてしまった。

「ぐわっ!お、オレだ、縫殿助だ!!」
自分の仕出かした事に気づいた彦右衛門は、すっかり動転して外に飛び出し、腹を切ってしまった。
傷つきながらも縫殿助は奮戦し、ついに与左衛門を倒して首をかき切ったが、そこで力尽き命を落とした。

葉隠より、達人ならぬ身による上意討ちの話。
さすがに哀れに思ったか、勝茂の命で縫殿助の跡目を養子が継ぐ事になったようですが…
15人間七七四年:2011/07/16(土) 09:51:24.57 ID:YiRCj5pu
動転して腹切るってのもすげぇ話だな
というかせめて終わってから切れよw
16人間七七四年:2011/07/16(土) 11:11:41.44 ID:aE4MNz35
やっぱ討ち取るにゃだまし討ちが確実よね
17人間七七四年:2011/07/16(土) 16:10:24.68 ID:WwRZUzBC
>>5,6
体言止めが多すぎるし、句読点がめちゃくちゃだし、
どれが誰のセリフかわからんし、すげー読みにくい。

小学生からやり直せ。
18人間七七四年:2011/07/16(土) 18:32:44.75 ID:GVprF+th
登場人物二人しかいないのに誰の台詞か分からないお前の方がどう見ても問題。
19人間七七四年:2011/07/16(土) 19:27:49.42 ID:N/5tXDqe
こう蒸し暑い夜をスカッと爽やかに過ごせる悪い話は無いかね
20人間七七四年:2011/07/16(土) 19:36:43.41 ID:f/wwxMmH
>>19
そういう時はやっぱり直家さんだな

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1764.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-640.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-430.html

直家さんの暗殺謀殺話は酷いというよりもはや感心する域に達しているのがすごいw
21人間七七四年:2011/07/16(土) 20:50:00.92 ID:UuZl0C3E
ああ解る解る、なんかもう暗殺芸術的な何かになってるよな
どこかの探偵物のライバルみたいな人だわ
22人間七七四年:2011/07/16(土) 20:50:43.08 ID:TzUyqRWo
でもなんか直家さんの場合はスカっとするのとはまた違うような……
23人間七七四年:2011/07/16(土) 21:34:24.37 ID:d2nX3xIn
流石直家さんだ、そこに痺れるry 的な感覚を覚えるのは否定しないw
24人間七七四年:2011/07/16(土) 21:52:41.32 ID:Q4gjw6EX
>>22
なーに、スカッと首を獲ってるじゃないか
25人間七七四年:2011/07/17(日) 11:06:25.63 ID:WbTfnz/u
直家さんそのまま放浪して尾張で仕官していたら…

才能年齢的に秀吉抜いて中国軍団長とかになってたろうか?
配下に 秀吉 如水を抱える

26人間七七四年:2011/07/17(日) 11:52:16.37 ID:Lwujg6ar
秀吉が誑し込んで直家が毒殺する……
恐ろしいコンボだ、回避できる気がしない
27人間七七四年:2011/07/17(日) 11:56:57.33 ID:J2P+idiO
でも、信長さんに突如さよなら〜されそうな気もする・・・
28人間七七四年:2011/07/17(日) 12:48:47.51 ID:12+4XvrS
久秀「うむ、やつは信用できん」
村重「ですね」
29人間七七四年:2011/07/17(日) 13:11:24.92 ID:1J2aF1RY
松永も直家も未来では新たな資料が見つかって評価が変わってるかもしれん
30人間七七四年:2011/07/17(日) 14:06:33.37 ID:12+4XvrS
直家は特にソースのほとんどが軍記物だからね
31人間七七四年:2011/07/17(日) 15:28:47.21 ID:dL1UR5g1
では暑い夏を涼しくする爽やかなお話を。名将言行録ソースながら、細川忠興公の名言

『家来どもには二度まで教え申候。三度目には切り申候』

三斎様による堂々の3アウトチェンジ(家来の人生が)宣言である。
32人間七七四年:2011/07/17(日) 15:30:08.78 ID:ds58LzQG
(家臣の肝が)冷える話
33人間七七四年:2011/07/17(日) 15:31:55.15 ID:olYbGGqf
そういえば可哀相がられているガラシャさんも
「気の利かない下人は斬られても当然」くらいなこと
言ったか書いてたかしていたような
34人間七七四年:2011/07/17(日) 15:59:26.15 ID:tksZpkAb
切るって殺すってこと?
解雇するとか、見限るとかいう意味でなく?
35人間七七四年:2011/07/17(日) 16:49:16.82 ID:KgUt+02A
killだろ
36人間七七四年:2011/07/17(日) 19:51:31.44 ID:TfY3F8AJ
怖いのう
37人間七七四年:2011/07/17(日) 21:35:33.13 ID:Hft/qoTe
備前金川城主・松田左近元堅は、領内に日蓮宗を強制して領民に疎まれていたが、家臣に恵まれており、
敵にも薬を配る仁将・横井土佐守や、知謀をもって知られる宇垣市郎兵衛・与右衛門兄弟などが家中を固め
その勢力、磐石であった。

永禄11年(1568)のある日、元堅が長男の舅、宇喜多直家とともに鹿狩りに出た時、事件は起こった。
何者かが鹿と誤って(?)宇垣与右衛門を狙撃してしまい、与右衛門が即日死亡してしまったのだ。
松田家は、大いに揺れた。

「与右衛門の死は、宇喜多の手の者の仕業に相違ない!」
「何を言うか、若殿のお舅どのを疑うのか!」

家中は揺れ続け、納得の行かない与右衛門の兄・市郎兵衛は松田家を出奔してしまい、事態収拾を図って
元堅が領内を説得のため渡り歩く日々が続いた。

そして、7月5日の夜。「…?!城内に火の手が上がっておるではないか!何事だ、出あえーぃ!!」
横井土佐が驚くのも無理は無い。近隣の領主・伊賀久隆の兵が城内からの手引きにより、
堂々と大手門より侵入していたのだ。横井が気づいた時には、すでに先鋒が本丸に迫っていた。

その日も城外にいた元堅は知らせを受けて、あわてて搦手門から城内に入り、伊賀久隆その人の姿を
認めると、櫓の上から身を乗り出して罵った。

「久隆よ、そなたも直家殿の婿。縁戚たるわしに何をする?!卑怯者め、何を考えての狼藉だ!!」
「答える必要は無い。やれ。」

櫓から身を乗り出していた元堅は絶好の的となり、伊賀勢の鉄砲隊によって射殺された。
残された横井土佐以下の家臣は全員討ち死に、何とか城外に逃れた元堅の長男・元賢も伊賀勢の追っ手に
阻まれて斬り死にし、その一報を聞いた妻である直家の娘は、自害したという。(備前軍記より)


まぁスカッとするかはわからんけど、何回も話題になってる話のハズなのに、逸話そのものは
まとめに上がってなかったようなので。

ちなみに直家さんに「キミと同じ、オレのムコ殿を滅ぼしたいんだけど、どう思う?」と聞かれて
「あー、イイんじゃないスか。オレ手伝いましょうか?」と即答して先鋒までやってしまった
伊賀久隆がその後どうなったか、言うまでもない。 >>20
38人間七七四年:2011/07/17(日) 23:23:42.06 ID:q41uQ2uQ
悪名がまさに悪い方へ響いた話、かなぁ
穿った見方をすれば直家さん大勝利!だけど
39人間七七四年:2011/07/18(月) 01:23:33.27 ID:a9bWFGIg
ガラシヤ夫人にも、膳に髪の毛を混入させた料理人を庇った逸話が。

で、奥方が他の男の髪の毛を袖に隠すのを目撃した旦那は、料理人の「おかしら」を食膳に…。
40人間七七四年:2011/07/18(月) 02:35:56.46 ID:0JQCOz0C
来年大河の平家から


清盛に歌や才覚を愛された仏教を信心した仏御前という見目美しい白拍子の少女がいました
清盛に寵愛されましたが
都の栄華に嫌気が差し郷里い戻りました。

20才であまりに美しく。里の男達からいつもチヤホヤされてた仏御前。
嫉妬に狂った里の妻や女達は、寝静まった真夜中に仏御前を集団で虐殺しました
41人間七七四年:2011/07/18(月) 02:40:51.02 ID:xLwokWz1
書く場所間違ってるよ
42人間七七四年:2011/07/18(月) 05:04:05.51 ID:2/+Us52I
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

こっちかね?少なくとも戦国時代じゃないから、ここじゃないのは間違いないが。
43人間七七四年:2011/07/18(月) 16:08:23.97 ID:TMknKUek
室町時代でもないしね
44人間七七四年:2011/07/18(月) 17:27:41.38 ID:dCrgbTfm
永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆が二条御所の足利義輝を強襲した。所領の勝竜寺城にいた
将軍奉公衆の細川藤孝は、異変を聞くが早いか京洛に駆けつけたが、御所は既に焼け落ちていた。

そこで藤孝は一色義直らと相談の上、奈良へ向かい義輝の弟である興福寺一乗院門跡の覚慶をかつぎ出し、
伊賀・近江・越前と転々としつつ、諸大名を頼った。


京の別邸に、長男の熊千代を置き去りにして。


同族の細川輝経へ養子に出る話が持ち上がっていた熊千代は、家臣団からも置き去りにされた。
唯一、乳母のみが、夫が藤孝のもとへ去った後も残ってくれており、いよいよ危なくなると、身の証に
藤孝が熊千代に授けたお守りと脇差のみを持ち、熊千代と末娘を連れて逃げ出した。

乳母には三人の娘がいたが、長女と次女は置き捨てた。

田町という所の裏長屋に落ち着いた熊千代は、宗八と名を変えて潜伏生活を送った。
ようやく3年後の永禄11年、織田信長という後援者を得て覚慶改め足利義昭を奉じて上洛した父は
流浪中に母を呼び寄せており、頓五郎なる見知らぬ弟を連れていた。(細川家記より)


父母に見捨てられ、昨日まで一緒に遊んだ娘たちの犠牲のもとに逃げ延び、三好・松永の追っ手に
おびえて暮らした少年が何を思って過ごしたか、熊千代改め細川忠興は語っていない。

勝竜寺城主に復帰した藤孝は、乳母に一代限り百石、乳母の夫の中村新助にも百五十石を給したが、
所領が数十倍になった熊本藩の侍分限帳において、中村家は二百石。五十石の加増があったのみである。

ちなみに、同じ熊本藩侍分限帳に記載された侍のうち、藤孝の若い頃から仕えている事を示す
『勝竜寺以来』の家は、わずか10人にすぎない。
45人間七七四年:2011/07/18(月) 18:45:23.83 ID:+IeTplzg
やり切れないな、この親子は……
46人間七七四年:2011/07/18(月) 19:42:00.43 ID:yu/UT1Di
忠興「『勝竜寺以来』の家臣は皆、刀の錆びにしてしまったんですわw」
47人間七七四年:2011/07/18(月) 22:11:58.44 ID:TS22X7zA
これはヤンデレにもなるわ・・・・・・。
48人間七七四年:2011/07/18(月) 22:18:02.26 ID:AYRFFBTe
忠興は関ヶ原の時の田辺城の戦いで幽斎が講和して開城したことを知ったとき
「なんでウチの嫁まで死んだのに父親が戦い抜かずに開城するんだよ!?」
って本気で激怒したらしいね。
まあこれは田辺城の開城の時「最後まで戦い抜かないなんて、幽斎は所詮武士ではなく
歌詠みだね」って悪口が流れて、それが悔しかったせいらしいけど。
49人間七七四年:2011/07/18(月) 22:23:27.91 ID:c/ZsXPGc
末娘はどうなったんだろ。
50人間七七四年:2011/07/18(月) 22:56:51.83 ID:0Mv3Pzkw
子供の頃にこんな経験したら、それこそ性格曲がらない方がおかしいくらいだな……
51人間七七四年:2011/07/18(月) 23:19:10.98 ID:5P4oRYzC
割と名家の苦労知らず(知ってても親元で恵まれて)なイメージあったけど
三斎も辛い幼少期過ごしたんだな・・・
52人間七七四年:2011/07/19(火) 06:49:04.36 ID:tQUCXYFt
残り三名は…
北は母親に嫌われていたなだっけ?
53人間七七四年:2011/07/19(火) 13:01:21.81 ID:EFQZY4E4
戦国のオオカミ少年?

天文三年(1534)、毛利勢は現在の福山市にあった国人、宮氏の城を攻めていた。
しかしながら、宮氏の城内に丹下与兵衛という剛の者が居り、出撃の都度毛利勢を苦しめていた。
というのも、この男には得意技があった。
この男は戦場に出ると負傷したフリをして倒れてみたり、刀を杖代わりにして片膝をついてみたりして、
「手負いを見つけるとは儲けモノ。」と敵兵が油断して近づいてきたところで、立ち上がり逆に討ち取る
という手を多用していた。
しかし、ある時本当に重傷を負ってしまった与兵衛。
味方に助けを求めるが、味方はもちろん与兵衛の得意技を知っていたので「与兵衛が例のアレをやっておるぞ。」と
誰も助けに来てくれなかったのだ。
そして、程無く毛利勢に本当に負傷していると悟られて万事休す、与兵衛は大勢の毛利兵に襲撃され討ち取られてしまった。
54人間七七四年:2011/07/19(火) 13:02:29.52 ID:OilLTH+c
後日の頓五郎改め細川興元との確執も、こんな不幸な兄弟初対面が
ずっとわだかまりになっていたのか
55人間七七四年:2011/07/19(火) 13:56:52.38 ID:aMo2WNoA
>>53
まさに因果応報

洋の東西を問わず、武士が戦いに道徳みたいなのを持ち込むのは
自分達の身を守る意味もあるかもしれんね
56人間七七四年:2011/07/19(火) 15:05:22.07 ID:k359n/en
訃報

大河ドラマ「独眼竜政宗」の最上義光役をはじめ、
アウトローから古風な父親まで様々な役柄で圧倒的な存在感を発揮してきた
俳優の原田芳雄(はらだ・よしお)さんが19日午前、亡くなった。
71歳だった。

東京都出身。
俳優座養成所を経て1960年代後半から、映画、テレビに出演。
演技力に加えて、独特の野性的な風貌、渋い色気を漂わせたたたずまいで存在感を発揮。
藤田敏八監督「赤い鳥逃げた?」、寺山修司監督「田園に死す」、鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」など
個性派監督たちの作品の常連俳優として活躍した。
中でも黒木和雄監督作への出演は10本を数え、「竜馬暗殺」「祭りの準備」「父と暮せば」など、
さまざまな役柄で印象的な名演を見せた。

また、音楽の世界でも活躍し、渋い歌声で独特のブルースを聴かせた。

2008年に初期の大腸がんと診断され入院したが、1か月静養した後に仕事復帰。
公開中の阪本順治監督の映画「大鹿村騒動記」でも主演していた。

2003年に紫綬褒章受章。

御冥福をお祈り致します。
57人間七七四年:2011/07/19(火) 17:31:03.08 ID:v9diUgSG
スレチの気もするけど、惜しい人を亡くした
最上厨が死ねば良かったのに
58人間七七四年:2011/07/19(火) 17:33:18.67 ID:AjV3yXwo
ありゃ〜亡くなったのか
こないだ舞台挨拶出た時も別人みたいになってて声も出なかったもんなあ


しかし今の役者が年とっても、こういう武将を演じられるような渋い人あんまいないよな
59人間七七四年:2011/07/19(火) 18:10:08.67 ID:hYEJNuyg
独眼竜の最上の扱いには思う所のある人も少なからずいるだろうけど
嫌いじゃなかったな
60人間七七四年:2011/07/19(火) 18:34:27.21 ID:rNdRtB8q
>>59
魅力的な描かれ方した悪役だったよ
61人間七七四年:2011/07/19(火) 22:04:07.30 ID:6WDuEghR
>>50
悪久「所詮は奴も政宗も生粋の悪では無いと言うことか」
鬼武蔵「その点が奴らと我らの大きな違いとも言えよう」
62人間七七四年:2011/07/19(火) 22:07:04.05 ID:1JuFBTrT
>>57
おまえが替わりに死ねばよかったのにな。
63人間七七四年:2011/07/19(火) 22:12:11.82 ID:cny4vqCI
まあ>>44こんな話だけじゃ重すぎるので、軽い親子の和み(?)話を。


細川幽斎が上等な初茄子を手に入れることがあった。幽斎は息子の忠興にもお裾分け
してやることにして、いくつか良いものを選び、歌を添えて忠興に送った。

“このたびは なすの与一を やる程に 目かけて使へ 年は十八”

(今回、源平合戦の時は十八歳前後だったという那須与一のように初々しく上物のナスをくれてやる。
良き家臣に目をかけて使うように、ありがたく大事に食えよ。)


翌日、忠興から返歌が届いた。「・・・あいつめ。」

“下さるる なすの与一は 十五にて あまり若うて 使ひ足らんに”

(『十八』って十五個しか送ってないじゃん。『十五』歳のガキなんて、使うに使えねぇんだけど。
って事は、追加のナスくれるんだよネー?それとも、『良き家臣』をもらえるの?)


得意分野で息子に一本とられるという、幽斎さんのバツが悪い話。
(幽斎君抜抄より)
64人間七七四年:2011/07/19(火) 22:23:13.87 ID:tQUCXYFt
息子
「15歳は18歳ではござらぬ」
後の三歳誕生の瞬間である
65人間七七四年:2011/07/19(火) 23:35:25.32 ID:pI8Gd5U5
誰うまw
66人間七七四年:2011/07/20(水) 12:53:41.93 ID:HMIh3tJw
耳川決戦の前哨戦の1つである高城籠城戦が行われていた時の事
3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話
67人間七七四年:2011/07/20(水) 17:55:54.35 ID:9vQ0IYfm
大友ェ……
68人間七七四年:2011/07/20(水) 18:29:10.35 ID:jFysH7l7
宗麟さんこのじきもう新興宗教にはまっておかしなことになってたのかな
69人間七七四年:2011/07/20(水) 18:39:23.19 ID:uS6B31QR
宗麟「わーたーしーはー悪くないー」
70人間七七四年:2011/07/20(水) 20:59:30.24 ID:js0VFuuf
>>66
スズキを送るって、高城城って海の傍なんだっけ?
71人間七七四年:2011/07/20(水) 23:10:01.20 ID:HMIh3tJw
高城川で地元の人間が釣った魚を家久に献上したみたい
一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね
72人間七七四年:2011/07/21(木) 01:56:42.42 ID:b9Uno/8+
どうも戦国期の、九州の籠城攻城戦は全体的にユルイ感じがするんだよなー。
長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。
73人間七七四年:2011/07/21(木) 07:58:27.82 ID:xIsJGKG9
九州は寡勢の籠城側が大軍退けた例も多いし
そういう傾向はあるのかもね。
74人間七七四年:2011/07/21(木) 07:59:35.45 ID:qA+5q80Y
国人の寝返り体質のせいでしょ
防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう

統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い
75人間七七四年:2011/07/21(木) 12:01:18.62 ID:6Duz14cx
>>74
真田某「ぬかしおる」
76人間七七四年:2011/07/21(木) 14:17:44.49 ID:vHCnjWK7
天王寺・岡山合戦で追い込まれた家康、切腹を決意するがその場にいた僧に止められている

その大功を成した僧、一人は有名な金地院崇伝
もう一人は文殊院勢誉であるが、この人物は慶長17年に既に亡くなっている

ああ、家康公の徳は死者すらその死を思い止どませる為に戻るのであった
ちなみに他の家康が切腹を口走ったという史料は当時、家康に弾圧されていた宣教師の記録だそうです
77人間七七四年:2011/07/21(木) 15:52:15.09 ID:fcLL2PT8
>>76
その話の出典は何なんでしょうか。
78人間七七四年:2011/07/21(木) 17:12:49.81 ID:vHCnjWK7
>>77
老将談話
79人間七七四年:2011/07/21(木) 18:31:51.65 ID:fcLL2PT8
>>77
ありがとうございます。
80人間七七四年:2011/07/21(木) 19:03:22.98 ID:vHCnjWK7
>>79
訂正、「老将座談」でした
http://kindai.da.ndl.go.jp/JPEG/11H7RH.jpg
81人間七七四年:2011/07/21(木) 19:51:28.16 ID:xIsJGKG9
ときに、そういう古書の画像ってアップしてOKなん?
権利関係とかはかなり曖昧そうだけど
82人間七七四年:2011/07/21(木) 19:53:46.29 ID:UzSZ0ZkC
国会図書館の近代デジタルライブラリーの書物だから普通にOKじゃね
83人間七七四年:2011/07/21(木) 20:03:51.35 ID:eiNKjSwT
だな
84人間七七四年:2011/07/21(木) 20:04:50.57 ID:vHCnjWK7
大日本史料もネットで無料で見れるし、国立情報学研究所で論文の検索も容易で
その情報を元に国会図書館で複写を頼めば、郵送してくれる

かつて大学は情報を参照し易いという点のみでも絶対的な優位を保っていただけに
凄い時代になったものです
85人間七七四年:2011/07/21(木) 20:13:37.16 ID:xIsJGKG9
あ、ほんとだ。よくURL見て無かったよ。
ホントに便利な世の中になったもんすね
86人間七七四年:2011/07/21(木) 21:43:42.86 ID:bRJNByxb
直家は謀殺がはずんだのかな
87人間七七四年:2011/07/22(金) 00:13:43.80 ID:fdJPcbNp
文殊院勢誉さんは高野山の僧だそうで
88人間七七四年:2011/07/22(金) 01:25:29.13 ID:YKzARSQP
某戦国カードゲームで
鬼武蔵様がすばらしくヒャッハーしてて噴いた
ttp://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k138136676#enlargeimg
89人間七七四年:2011/07/22(金) 01:28:18.14 ID:B7P1lZLj
(((( ;゚д゚))))アワワワワ
90人間七七四年:2011/07/22(金) 01:47:39.85 ID:g7FIpEV/
ここの影響かw?
91人間七七四年:2011/07/22(金) 02:10:13.94 ID:rFPoq8vv
>>88
そのゲーム、超有名武将以外はどこら辺が○○なの?ってのが多いな
光秀と家康と昌幸と長政と半兵衛のイラストをシャッフルして家紋変えれば問題無いレベル…
募集イラストなんて和風萌絵しかないし
絶チルの浅井三姉妹とかはマジで勘弁して欲しかった
イラストレーターに史料やら見せて勉強させて描かせろよ…
このゲームはそのうちギン千代のラムちゃんとかマジでやりかねん勢いだ
92人間七七四年:2011/07/22(金) 02:16:58.71 ID:EB3ZWx9W
三国からそういうゲームだしねぇ。

マイナーどころとか「山吉豊守のイラスト書いてください」って言われて調べてもイメージ沸かないでしょ。
93人間七七四年:2011/07/22(金) 02:26:51.33 ID:QDWUTPQT
>>91
しかしこの鬼武蔵のカードに関しては、ヒャッハーだというのと人間無骨の形状は
把握はしているようだなw
94人間七七四年:2011/07/22(金) 03:36:07.31 ID:dUTiY5WH
初投稿になります。地元出身者から聞いた話です。暇つぶしにでも

時代は徳川のものになっていたころ、伊予の松山城の建築が進んでいた。
しかしながらこの松山城、乱世が終わったにもかかわらずどこかと戦争でもする気なのかガッチガチに作られていた。
それを不審に思った幕府の者が調べてみると、なんと将軍を暗殺するからくりがあったのである。
これによって、藩主は改易。からくりは撤去され、その後、徳川の縁者が伊予を治めることになった。

書いててなんですが、地味加藤さんと、その加藤さんが接収した広島城の市松さんと、
その市松さんを嵌めた正純さんと、隠し味にお家断絶くらった蒲生さんが絶妙に混ざってる気がします。

住民の彼らに対する扱いがてきとーで悪い話でした
95人間七七四年:2011/07/22(金) 07:59:04.42 ID:GVFiWex8
>>88
こんなん止めようとした門番は
勇気あり過ぎと言わざるをえない
96人間七七四年:2011/07/22(金) 08:16:11.34 ID:9nd5Zv+8
門番もデビルリバースみたい風体だったんだよ
97人間七七四年:2011/07/22(金) 19:57:36.69 ID:JUvvFhSL
>>94
将軍が伊予に行く用事を考え付けるやつは天才だと思う
98人間七七四年:2011/07/22(金) 21:38:46.02 ID:1VXKm2mK
将軍が大阪から西に行った事ってあるのかな?
99人間七七四年:2011/07/22(金) 21:44:50.90 ID:EB3ZWx9W
義稙と義昭は経験があるよな
100人間七七四年:2011/07/22(金) 22:17:49.10 ID:7b/ylI3U
慶長19年(1614)10月1日、大阪城主戦派による自らへの討伐を察した片桐且元らは大阪城から
居城である茨木に退去。ここより大坂の陣が実質的に始まる。

さて、石川貞政は豊臣秀吉の馬廻りまで勤めた豊臣家生え抜きの武勇の士であったが、且元討伐を
命ぜられたもののこれを行わず逆に且元の元にいち早く知らせ、彼が無事退去する一翼を担った。
そのため主戦派から睨まれ、大阪城内では「貞政も誅するべきだ!」との風聞が盛んに流れた。

これを聞いた石川貞政は、「武人として逃げも隠れもせぬ、逆に主戦派である大野治長や渡辺糺を
討ち果たしてやらん!」と殿中に上り、多くの人々取り巻く中を、仁王立ちで睨みつけ、大音声でこう言い放った!

「この貞政に逆意があるによって、誅せらるるのだと承ったため、ここに参上いたした!
誰であってもその命令を受けたものは、この貞政の首を刎ねて上覧に備えるべし!」

が、誰からも何の言葉もない。貞政の迫力に気圧された、というのもあるであろう。しかし実際に
彼を誅せよという命令は出ておらず、誰一人として立ち向かい、勝負しようというものはなかった。
殿中の者たちもただただ戸惑うしかなかったのである。

それでも貞政は暫くそこで待っていたが、大野も渡辺も姿を表さず(こんなのに関わり合いたくなかったのだろう)
仕方なく殿中を下がり宿所に帰り、若党一人に薙刀を持たせて玉造口から大阪を出、堺へと向かった。
貞政が大阪を退去したことを知った彼の家臣たちは驚き、取るものも取り敢えず武器馬具のみを整え跡を追った。
家臣たちが追いつくと、貞政は河内路を経て片桐且元が籠る茨木城に向かい、そこで且元に対面して言うには

「間もなくここに、大野渡辺の軍勢が押し寄せるでしょう。それがしもあなたと共に、ここに籠城し
彼らの攻撃を防ぎたい。」

しかし且元は、貞政のこの提案に肯かなかった。
「朋輩を相語らって籠城いたせば、それは反逆です。
私は今はただ、大阪城の軍勢が攻め来たらば恨みの矢一つを射て切腹し、武士の名を汚すまじきと思っています。
そうであればこの城にあなたが有ることは、義において辱ずる所であり、幸いにも常眞殿(織田信雄)が既に京に
退去されているところですし、ここより直に京に上り、常眞殿と同じように、幕府の保護を受けるのが良いでしょう。」

貞政はこの説得を受入れ京に入り、幕府の京都所司代・板倉勝重の元へ行き大阪城の状況を伝える。
勝重はこれを聞き

「大阪が既に反逆の準備をしている中、あなたはそれを知ってこのように、その身を京に退かれました。
この事は将軍家においても定めてご満足なされるでしょう。」
と、彼に家屋敷を与え日々の賄いまで申し付けた。

大坂の陣の序盤、石川貞政の大阪退去についての話である。
(慶元記)
101人間七七四年:2011/07/22(金) 22:41:29.58 ID:RDxqX22T
片桐且元は幕府から知行もらってるし幕府からの付け家老みたいなもんだから追放も仕方ないにしても
譜代格の石川貞政も退去したのは痛かったな。兵を率いる大将クラスが少なかったし
102人間七七四年:2011/07/23(土) 00:28:18.87 ID:YXHqHcZS
とは言ってもこの人も5000石だからな
103人間七七四年:2011/07/23(土) 02:13:14.35 ID:0sfTCFEB
>>88
ゲッターに乗れそうだな
104人間七七四年:2011/07/23(土) 10:08:31.73 ID:JGaRbagB
>>88
このゲーム、矢沢頼綱が名前のせいで某ロックンローラーにされてたり、鉄砲で討ち取られた三好義賢が松田優作そっくりに描かれたりしてるんだよなw
105人間七七四年:2011/07/23(土) 13:17:29.28 ID:NORClys8
初投稿です、松山城が話題になっていたので。
松山城の工事は難工をきわめ、男子もとより女子や子供、さらには、当時松前城主であった加藤嘉明の夫人も炊き出しに従事してまさに国を挙げての工事だった。
主命を受けて城の下見に来た足立重信は長者平(ちょうじゃがなる)にある祠を見つけ、山と祠の名前を近くの里人に聞いたそうである。
その翁は、「山の名は かつえ山。祠は八幡神社三嶋宮の末社である」
と教えてくれた。

それを嘉明に伝えたところ、「かつえ山でなくて、勝山の間違いだろう。城を築くのにこの上ないめでたい名だ」
と勝山という名前になったそうな。

このかつえ山の由来となる話もどっかで見たんだけうろ覚え、見つけたらまた投稿します。

ついでに、松山城の普請奉行は、ジミー加藤さんの家老、足立重信ですが、彼はあるとき大量の瓦を山の上に運ぶにあたって、近郊の農家より人をたのみ、人垣を作らせ、バケツリレーよろしく手ぐり渡しで一夜の内に全部を運ばせて嘉明を驚かせた。
なんて小話も一緒に上げときます。
106人間七七四年:2011/07/23(土) 13:37:01.28 ID:mNWTxXdA
で、どこら辺が悪い話?
107人間七七四年:2011/07/23(土) 14:20:19.27 ID:gzB42OXu
松山城のロープウェイとリフトの山頂停留所広場の辺りを長者ケ平(ちょうじゃがなる) と呼んだ。

ここに昔邸を構えていた長者、元はこの山の麓に住み、貧乏に苦しんで、毘沙門天に願をかけた。
毎日境内に茂る雌竹を一本づつ持ち帰り、庭に植えて貧乏脱出を祈りつづけた。
すると満願の夜、ついに夢中に毘沙門天が登場した。

 「お前の熱意に感動した!よって福をあたえる。あ、竹は全部返しとけよ」

彼は喜んでその通りにした。その後とんとん拍子に成功し、日ならずして長者となった。
そうなると、貧乏時代にはペッされた遠縁の者までむらがり来てクレクレする浅ましさにあきれ果てた。
苦労ばかりだけど昔の生活の方がよかったなあと思うと、その財を湯水のように使い果たして一文無しになり、
長者平の邸でとうとう餓死してしまった。
人々はこの山を『かつえ(飢え)山』と呼び慣わしたという。

加藤嘉明は築城地の下見にいった足立重信からその話を聞くと
「かつえ山、というか…(縁起悪ぃな…そうだ!)
 それは勝山の聞違いであろう、以後は勝山とよべ」と言ったという。
108人間七七四年:2011/07/23(土) 14:49:08.25 ID:NORClys8
>>106さん>>105です。
すんません良いともわるいともいえない話かと思いつつ>>94からの流れでこっちに投稿しました。

>>107さん
おおっ、その話です、フォローありがとうございます。

ちなみに勝山は築城候補の地の一つで幕府に候補地を三つ聞かれた時に二番目に出した候補地だったなんてどっかで聞いたような話もあります。

109人間七七四年:2011/07/23(土) 15:04:34.96 ID:dFl0ESv/
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2235.html
幕府は一番目の候補地を採用しないだろうと思って
二番目に都合のいい候補地をのっけたら、
一番目を採用された話が伊達と毛利に
ジミ加藤さんの場合、もともと勝山にする気で二番目に出したんだろうか
110人間七七四年:2011/07/23(土) 15:57:07.31 ID:TVSwGZaj
>>107
由来がガチで縁起悪くてワロタwww
111人間七七四年:2011/07/23(土) 16:44:33.86 ID:mNWTxXdA
>>107
なるほど。
これなら悪い話だw
112人間七七四年:2011/07/23(土) 20:48:39.36 ID:F2vopxvQ
人格矯正計画

細川忠興は天下一気の短い人であった。逆に蒲生氏郷は天下一気の長い人であった。
「それならこの二人を一緒にしとけばお互い中和しあってちょっとはマシになるんじゃね?」と
両家の者達は考え、そのように取り計らった。
さて、計画通り二人はずいぶん親しくなった。そこまではよかったのだが・・・

氏郷「アイツは気が短いなあ。俺はああならないように気をつけようっと」
忠興「あのヤローの呑気さにはイライラするぜーッ!」

・・・というわけで、氏郷はますます気が長く、忠興はますます気が短くなってしまったという。
以上『三斎口伝書』より、なんかイソップ物語みたいな話。
113人間七七四年:2011/07/23(土) 20:54:07.23 ID:zcrujbN4
落語の「長短」(気の長い男と気の短い男の話)を思い出した
114人間七七四年:2011/07/23(土) 21:18:56.09 ID:Xn15rZ7B
このスレ見てると蒲生氏郷もそれほど気が長いとはおもえないのたが
115人間七七四年:2011/07/23(土) 21:55:32.76 ID:gLCtFXDL
『三斎口伝書』より・・・
って、題名からすると三斎さんなんで工場長と一緒になるのかわかってるならもう少し気を長くしてよwww
116112:2011/07/23(土) 23:10:36.69 ID:F2vopxvQ
>>115
すいません、言われて気づきましたがタイプミスです。正しくは「三斎"公"伝書」でした。
書いたのは松屋久重です。


スレ汚しのお詫びにもうひとつ三斎公がヤンチャした話を。

まだ忠興が熊千代といった時分、細川家の邸宅を京都の今出川に新造することになった。
工事は家臣の上野氏が取り仕切ったのだが、何かの拍子にこの上野家の者と
同じく家臣である荒川家の者との間で喧嘩が始まってしまった。
さて、我らが熊千代君、年は若いが気性は荒く(弱齢なれども稍豪強を好む)、
「喧嘩と聞いては黙っちゃいられねー!俺も混ぜろヒャッハー!」
とばかりに荒川氏側に加勢した。上野氏側はボコボコにされ、ほうほうのていで逃げ帰った。
これに怒ったのが父藤孝(幽斎)。熊千代は大目玉を食らい、以降父子は不仲になったそうな。
・・・いや、反省しろよ熊千代。
またこの時、藤孝は三淵(兄の三淵藤英?)たちと相談して事件を内密にしたらしい。
お父さんご苦労様です。

以上、永源庵記よりとして、後世に編まれた『綿考輯録』に載ったお話。
ちなみに『綿考輯録』によると、邸宅造営の時期を考えると当時熊千代は7歳のはずで
「いくらなんでもウソだろ常考・・・」と考察されています。
117人間七七四年:2011/07/24(日) 09:40:56.28 ID:dNZZMTow
前々からなぜか伊達政宗が大体「政宗」と諱呼び捨てにされがちだっていう話が出てたけども
毛利輝元も呼び捨てにされやすいのかな?

福岡県史の近世史料をぱらぱらめくっていたら、目についた

慶長九年(?)正月十九日 黒田如水から真鍋次太夫宛書状

能申聞候、去年鯨をハ心懸取申候哉、(略)
次従 輝 元 参候船屋形取集、舟二可仕候間、損候ハん様二仕可置候、
筑前方へも此通可申候、恐々謹言


年不明五月廿六日 黒田長政から大嶋又衛門・毛屋主水・庄半大夫宛印判状

一書申遣候、中村藤兵衛所(略)
又 輝 元 へ大角弐其地有之由二候、彼地奉行へははや福越より被申遣候間請取、(略)

と黒田親子にまったく関係ない別の書状で呼び捨てにされてるんですが……
ちなみに上の如水書状ではちゃんと長政を「筑前」と書いていますし、
下の長政の書状では「中村藤兵衛」や「福越(福原広俊)」と諱呼びはしていません
他に諱が出てくるのは身内を除けば、長政書状に「秀頼様」とあるのが散見できるくらいです
しかし、輝元は呼び捨てです
ちなみに長政は再三再四息子やその守役に
「手紙の書き方がなってない」「字が汚い」「くだんねー用事に祐筆使うな、自分で書け」
と口うるさく注意しており、死ぬ直前にまで書状の中での人物の敬称について細かく注意しています
それなのに呼び捨てにされる毛利輝元って一体……
118人間七七四年:2011/07/24(日) 10:49:13.09 ID:WAkfEI4+
>>117前に、伊達政宗は一回も改名してないんで諱が定着しやすかったのかな、と考えて
他の改名してない人を調べたらあっというまに30人超え、関係なさそうだな〜と思って調べるのやめたんだけど、秀頼と輝元も改名してないね。
黒田長政もずっと同じ名前だけど、長政はいっぱいいてわかりにくいんで使わなそう。
119人間七七四年:2011/07/24(日) 11:59:07.83 ID:VoXGSr6O
「オニギリ」異聞

小田原征伐も終わり秀吉の天下が民衆の間にも広まると、
大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。

大名間では正宗や吉光が持て囃された。

(`・ω・´)「・・・(ウチにもなんかあったな・・・)」
さる大名「斯波家に繋がる最上様なら、童子切や鬼丸にも劣らぬ、なにか名物をお持ちでしょう」
(`・ω・´)「確か、オニギリ・・・丸?といった物があったと思います」

(´・ω・`)「・・・(鬼切・オニキリだっけ?)」

足利将軍家からなんの因果か斯波兼頼を経て最上家に伝わる名刀に、この前後に悲劇が起こる。

(´・ω・`)「・・・銘は安綱?聞いた事がある様な、無い様な・・・」
(´・ω・`)「国綱なら先日聞いたけど、有名なんだろうな・・・」

(´・ω・`)ノシシ < キン、カッ、ガキン、ガキッ
(´・ω・`)「・・・(「国」の字に読めるよね?)」
光安「いかがなさいましたか?」
(´・ω・`)「・・・なんでもない・・・」

北野天満宮に現在伝わる国宝「鬼切丸」
呼び名が幾度も変わり、持ち主も変わり、銘まで変えられた名刀の運の悪い話
120119:2011/07/24(日) 12:15:04.23 ID:VoXGSr6O
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%AD%E5%88%87
すいません、国宝でなく、重要文化財でしたorz
121人間七七四年:2011/07/24(日) 13:28:53.08 ID:mexSlrjb
髭切のヒゲキだな
122人間七七四年:2011/07/24(日) 13:34:06.26 ID:Vo539qTr
誰がうまいこと(ry
123人間七七四年:2011/07/24(日) 14:23:18.61 ID:3tg1QPFC
安綱は天下五名剣のひとつにもなってるのに、鮭様知らんかったんかw
124人間七七四年:2011/07/24(日) 15:21:33.17 ID:cHORGFgi
楠桂は今どんなマンガ書いてるの
125人間七七四年:2011/07/24(日) 15:33:01.54 ID:+pF4d+X5
聞かぬなら 燃やしてしまえ 部下の家


天正6年(1578年)1月29日。事の発端は織田信長の弓衆である福田与一の家が火事になった事から始まる。
この火事によって与一が安土の城下に妻子を住まわせるという決まりを守っていない事が判明したのであった。

親衛隊たる弓衆がこうした内規を守っていないという事に当然信長も怒ったが
織田家としても今まで気付かずにそのまま放置されていたというのもまた問題である。
信長は直ちに菅屋長頼に命じて台帳の制作を命じ、そのついでに他にも安土へ妻子を住まわせていない者が居ないかを改めさせた。

そして菅屋の調査の結果、馬廻衆・弓衆合わせて120人もの家臣が妻子を安土に住まわせず、国元に残し置いたままである事が明らかとなった。
よりによって弓衆の家が失火して安土の街に火事が起きたという醜態を晒しただけでも信長にとって許しがた事だが、内規の違反者の多さも実に罪深い。
信長はこれら120人に一斉に罰を与えた。

信長は織田信忠に命じて違反のあった者たちの尾張の家を残らず放火させ、庭の木などもことごとく切り倒させたのである。
住む家を無くした馬廻衆・弓衆の妻子はもはや安土へと移り住むしか無かった。
そして信長は更に違反者120人に安土城南の入江の新道の普請を行わせてようやく赦免を与えた。
126人間七七四年:2011/07/24(日) 15:56:48.57 ID:VoXGSr6O
>>123
「安」綱の字が「国」綱の字に改竄された鬼切の銘
写真:茎(なかご)の部分
http://samidare.jp/yoshiaki/box/01.JPG

当時は国綱の方が知名度があり、人気だったとも言われる・・・らしい
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=38707
127人間七七四年:2011/07/24(日) 15:57:08.34 ID:oARlNuUU
菅屋はこういう仕事やらされるから同僚受けしないんかな
128人間七七四年:2011/07/24(日) 15:57:13.81 ID:zXP/0Y1G
>>119
それ逸話じゃなくて創作だろ?
本当に最上がおにぎりみたいなこと言ったわけ?
マジで最上オタの創作うぜえわ。
129人間七七四年:2011/07/24(日) 16:02:18.55 ID:VoXGSr6O
>>128
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=38707

「鬼切」「鬼切丸」「オニキリ」「オニギリ」「オニキリマル」「オニギリマル」で最上家でも色々記述されてます。
130人間七七四年:2011/07/24(日) 16:04:54.00 ID:m/7cGdeh
ID変え粘着、もしくは便乗荒らしも生息していると・・・
131人間七七四年:2011/07/24(日) 16:29:49.09 ID:zXP/0Y1G
前、最上がらみの手紙かなにか発見されたニュースに勝手に「鮭」とかつけてただろ?
用語する馬鹿はそういうのもおもしろーいwとか思ってんのw
それともマジで腐女子で図星さされて火病ってんのかよ。

戦国武将なんだからヒャッハー系はまだゆるせるけど、キモイぶりっこみたいな改変と顔文字は、
正直侮辱されているように思えるわ。
どうして刀の二倍ある鉄棒振り回すオッサンが可愛い顔文字なんだよ。
現実を見ろw
132人間七七四年:2011/07/24(日) 16:36:01.51 ID:m/7cGdeh
わかりやすいやつだな
133人間七七四年:2011/07/24(日) 16:45:37.01 ID:VoXGSr6O
>>131
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんとやら
134人間七七四年:2011/07/24(日) 16:50:45.05 ID:m/7cGdeh
今回の件はこれからの逸話スレの教訓にした方がいいな。
この程度じゃネガキャン止めないだろうし、もっと性質の悪い荒らしが今後来ないともかぎらん。
135人間七七四年:2011/07/24(日) 16:52:08.57 ID:VoXGSr6O
>>131
連投ながら、絵文字は否定するのに「w」は許容する人物。
アンサイクロペディアや戦国ストレイズ、戦国大戦、殿といっしょ、ひこにゃんとか「かわいいもの」や「自分のイメージに沿わない改変」は見ない方がいいらしい。
136人間七七四年:2011/07/24(日) 17:01:25.23 ID:VoXGSr6O
「お義へ 早く会っていっぱいお話しようね よしあき」
暗殺のイメージが多かった武将だけに、シスコンは十分傍目から見て面白いと思うのだが。
手紙が書かれた当時既に40過ぎの兄と妹なら、そのギャップは尚更。
137人間七七四年:2011/07/24(日) 17:09:57.14 ID:m/7cGdeh
では次の逸話どうぞ
138人間七七四年:2011/07/24(日) 17:16:37.00 ID:GFM3Ad8u
それはそれとして、鬼切と髭切って別物みたいなんだけど。

http://meitou.gob.jp/index.php/%E9%AB%AD%E5%88%87
139人間七七四年:2011/07/24(日) 17:43:46.87 ID:VoXGSr6O
>>138
Wikiリンクの中にある髭切の「兄弟刀」扱い

流れを変えるために別な話を


壬生家の御家存続の為に

天正十八年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻撃の軍を率いて京都から出発した。
常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らは秀吉に応じて、反北条の意を決した。
それに対して、壬生義雄と皆川広照は後北条氏の元に参陣して小田原城に籠城。
しかし、七月小田原城は開城、壬生義雄はその直後に病死した。享年四十六歳。
義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって壬生家は所領を没収され滅亡してしまった。

しかし話はここで終わらない

壬生氏の旧領は結城領に吸収され、壬生の旧臣は他家への仕官より、帰農の道を選んだ。

江戸幕府が開かれ、京の藤原北家中御門流の「壬生」氏が権現詣で日光東照宮への道中、下野鹿沼の壬生旧臣が粗末ながらも身形を揃え、京・壬生氏の道中警護を申し出た。
京・壬生氏はこれを断ったものの、道中の共や用事を下野壬生旧臣に許した。

京・壬生氏と下野壬生氏は「縁も所縁もない」、単に苗字が「壬生」であっただけである。

2年3年と下野壬生旧臣からの申し出にから、道中の御供も当たり前のようになり、京・壬生氏からは下野壬生旧臣に金子や酒が用立てされた。

壬生義雄の娘、伊勢亀の婚礼も決まり、所領は無いながらも伊勢亀の嫡男誕生を待ちつつ御家再興を願った壬生旧臣たちだったが

そこは歴史のやるせなさ

伊勢亀には女子しか生まれず、壬生家の再興の願いは絶たれた
140人間七七四年:2011/07/24(日) 17:47:40.45 ID:VoXGSr6O
×2年3年と下野壬生旧臣からの申し出にから
○2年3年と下野壬生旧臣からの申し出から

見直しが不十分でした
141人間七七四年:2011/07/24(日) 17:56:53.66 ID:i5/SpOWB
○切って名前の刀って多いね。
142人間七七四年:2011/07/24(日) 18:01:03.15 ID:VpA8cfaV
>>141
これほど判りやすい箔も無いからな>ナントカ切
143人間七七四年:2011/07/24(日) 18:39:17.42 ID:LI5q77F0
???「◯◯を切ったから◯切というのは、
あまりに単純すぎるのではないだろうか
もっとこう、美しい日本の古典と掛けた銘を入れるなど」
144人間七七四年:2011/07/24(日) 19:41:22.74 ID:U87Ms834
鬼の額を撃ち抜いた銃はさしずめ鬼撃か?
145人間七七四年:2011/07/24(日) 21:21:07.66 ID:EPitOerN
にっかり青江「名前の由来がどうかんがえても妖刀の類の逸話です、本当にありがとうございました」
146人間七七四年:2011/07/24(日) 21:35:31.58 ID:wXMyGxcr
刃を当てて押すだけで人間が真っ二つになったので、
もえ、と名付けました
147人間七七四年:2011/07/24(日) 23:07:12.45 ID:VxQdvJ2m
それでは、甲州武士の鑑、横田甚五郎こと逃げの甚五郎の話
武田勝頼滅亡の端緒となった高天神城後詰の一件
主君に「高天神上の後詰は無用、捨て殺しにされよ」という書状を送ってひと月、城内の糧食も
尽きかけた今、甚五郎は、総攻めで城内に乱入した敵兵を如何に殺すかを考えながら城の図面
に目を通す甚五郎の元に同僚の相木市兵衛がやってくると耳元で囁いた。
「主将の岡部殿が、城を打って出るとのことでござる」
「馬鹿なことを、城を枕に討ち死にすると評定で決めたはず」
「それは、後詰がある時の話、後詰が見込めない今、飢え死に覚悟で籠城するより、城外に打って
出て華々しく死に花を咲かすもよし、あわよくば、敵中を突破して命を拾うもよしとの仰せじゃ」
「浅慮なことを、落城必死の今、一人でも敵を殺すのが我らの意地の見せどころのはず」 
気色ばむ甚五郎に相木市兵衛が、さればでござると話を切り出した。
 数日後、高天神城主将岡部元信が城兵と共に城を打って出て、さんざんに奮戦したが、ほとんど
の兵が殲滅された。しかし、その中に横田甚五郎と相木市兵衛の名前はなかった。
 両名は、最後の突撃直前に間道から城外に脱出していたのだ。
「ではお館様に、良しなにお伝えくだされ」
 そう言って躑躅ヶ崎館に向かう甚五郎に別れを告げ、相木市兵衛は本貫地の上州に向かった。
武田勝頼の前に帰還の報告を行った甚五郎は、高天神城からの脱出を賞賛され、感状と太刀を授けられ
ようとしたが、おめおめと生き残った自分が受ける謂れはないと断った。
しかし、高天神城から一人だけ抜け出し、おめおめと生き残ったという汚名は、生涯、甚五郎に付き纏い、
やがては逃げの甚五郎と大久保彦左衛門に嘲笑される羽目になるという横田甚五郎のちょっと悪い話。


余談

相木市兵衛のその後、武田滅亡後、北条に属すも徳川方の同族に攻められ、本拠の相木城を奪われ、
挙句の果てに木次原の戦いで討ち死にしたとさ
148人間七七四年:2011/07/24(日) 23:41:09.94 ID:VpA8cfaV
>>147
相変わらず彦左は自分が面目潰されるとぶちきれるくせに
他人の面目潰す事に余念が無いな
149人間七七四年:2011/07/24(日) 23:48:15.00 ID:A09FbhUj
これだな

年寄りの武辺争い
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5077.html

正直現代にまで残ってる「武辺話」は彦左より横田の方が多いんだがな
150人間七七四年:2011/07/25(月) 00:04:46.19 ID:KcqYkZ3H
彦左って自分が大したことないのに、妬みや嫌みばっか言ってるよな



まるでねらー
151人間七七四年:2011/07/25(月) 01:04:03.52 ID:HBZTW1yt
彦左は性格最悪な作家そのものだと思うわ
152人間七七四年:2011/07/25(月) 06:19:31.86 ID:gPW3f3Qf
兄弟の違いは

下野・小山秀綱と常陸・結城晴朝は実の兄弟である。
秀綱が兄、結城家に養子に入った晴朝が弟。
北関東も奥羽さながらに縁戚が入り乱れ、大小の戦が敵・味方を変え断続的に行われていた。

ときに天正年間。
越後上杉に与したとして下野の小山秀綱は北条勢に攻められ、父祖伝来の居城・小山城を追われた。
秀綱は北条氏照に小山城とは目と鼻の先の榎本城に入る事を許されたが、
氏照の家老・近藤出羽守綱秀の監視下に置かれることになった。

そのまま秀吉の小田原征伐が始まる。

兄・秀綱は北条方
弟・晴朝は豊臣方

将兵は顔見知り・親族同士も多いながら、北条・豊臣の軍監が見ているせいでワザと力を抜く事も出来ない。

榎本城には八王子方面に軍を向けた近藤綱秀の嫡男と城代、小山秀綱、藤岡山城、石島主水がいたが、結城勢をはじめとする豊臣の大軍を前に城は落ち、
秀綱はわずかな供に守られ埼玉柳生に落ち延びた。

小田原の陣後秀綱は秀吉に面会を許されたが、御家は取り潰しとなった。

弟の晴朝は太閤秀吉の養子於義丸(秀康)を継嗣にする事で豊臣期の大名としての存続は安泰かと思われたが
常陸結城から越前への移封で住み慣れた土地を離れねばならず、結城の家名も後代失った。

兄弟の違いは
出来?運?
153人間七七四年:2011/07/25(月) 09:07:17.98 ID:GlJEMa6p
154人間七七四年:2011/07/25(月) 09:45:11.60 ID:5JTDhs9u
小山の方が小田原に近いから
155人間七七四年:2011/07/25(月) 10:44:51.87 ID:YnoUaIsD
小山……>>152
結城……同じく
長沼……宗家は戦国初期に滅亡?分家の皆川家は江戸初期に無嗣断絶
千葉……当主が相次いで家臣に暗殺される等ボロボロ 小田原陣後、正式に改易
宇都宮…http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1466.html
佐竹……唯一の勝ち組?
那須……O関「主君?なにそれおいしいの?」
小田……もういい…!もう休めっ…!


関東八屋形だけ見てもこんなんだから関東の名族に生まれること自体がハードモードと思われ
156人間七七四年:2011/07/25(月) 11:11:01.19 ID:EIbqhBoW
結城が常陸?????????????????
157人間七七四年:2011/07/25(月) 13:16:15.11 ID:ad6ob3CR
ほんとうにちょっとだけ(胃に)悪い話


戦国時代中盤、香宗我部家は長宗我部家や安芸家によって圧迫を受けていた
隠居していた香宗我部親秀は家名を守る為に長宗我部家から継養子を迎えて連合体制を築こうと図ったが話は順調に進まなかった
弟 秀通が頑なに拒んだのである
秀通には後を継ぐべき男子もあり長宗我部家を畏れて迎合するを‘武門の恥’として反発した
家名を守る為に執心した親秀は弘治2年(1556年)に秀通を部下を使って暗殺
こうして長宗我部国親の三男が香宗我部親泰として家督を継ぐ事になったのである

親泰は秀通の遺児で歳の近い香宗我部泰吉を重用した
親泰の妻は泰吉の妹であるから尚更かも知れない
ちなみに泰吉が2歳年長
泰吉は親泰に仕える時点で姓を中山田に変えた
香宗我部家当主はあくまでも親泰であるという意思表示である
香宗我部改め中山田泰吉は本当に優秀な人物であったらしい
長宗我部家の外交官として飛び回る親泰の留守をそれはもう完璧なほどに守り、執務も代行していた
ところが泰吉には悩みの種があった

親泰「俺に何かあったら次は泰吉」

と親泰が公言してはばからなかった事である
長兄長宗我部元親を前にしても公言する
息子にも叔父さんに習えと言い聞かせる
と、親泰の義兄愛がとんでもなかったのである
確かに優秀な人材であり元々の香宗我部家の人間だが、長宗我部本家の血の結束からは外れた存在
人物、能力に惚れ込むあまりに血縁の重要さが親泰から吹っ飛んでしまったのである

このあたり、長兄とどこか似通っている

結果として親泰死後に次男貞親が後を継ぎ泰吉は重臣として香宗我部家に仕え続けた
関ヶ原後は香宗我部家の家名を守る為に奔走
香宗我部の家名は守れたが残念ながら貞親は土佐を退去した
泰吉一族は土佐に残り山内家に仕えた

今も中山田家は続いています
清和源氏の流れをくむ香宗我部と名乗る事もなく
158人間七七四年:2011/07/25(月) 13:26:55.86 ID:wRzmTnnJ
>>156
まあ茨城だからね
やっちゃったのかなとも思うし
天庵殿を抑えて常陸南西部を支配下に治めていたのも間違いではないけど
159人間七七四年:2011/07/25(月) 17:34:32.79 ID:ucWVWMfB
太閤検地の悪い話

小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされると、奥羽の地にも中央から役人は来て測量検地を始めた。
最上義光の所領の出羽山形の測量の割り当てになったのは忍城攻めでは良いところのなかった石田佐吉三成。
部下を叱りつけながらあれもこれもと細かく注文をつけつつ、測量の指示をしていった・・・ハズであった。

三成「これでおおよそこの辺の計測も終了か。
上山、蔵王、山形、天童、余目、こっちの完了分は小国と大石田か・・・」
部下「こちらの報告書はどこに置いておきます?」
三成「村山か・・・。表紙を付け、そっちに纏めておいてくれ」
部下「は、わかりました。・・・ん?今測ってきたのって最上だけど、殿は村山って言ってたよな。こっちの気のせいか・・・」

部下は最上地域の測量表に「村山」の表紙を付けた

従来、上山・山形・天童は「最上」地域
その北の新庄・村山方面は「村山」地域とされていた

現在、上山・山形・天童は「村山」地区
その北の新庄・村山方面は「最上」地区とされている

誰が悪いかはっきりはしないが、太閤検地で地名が入れ替えられたまま、誰も修正できなかったバツの悪い話。
160人間七七四年:2011/07/25(月) 17:38:05.22 ID:Pn7FhItc
ケンミンショーで北のほうが最上地方と紹介されて、何でだろ?と思ってたらそんな事が
161人間七七四年:2011/07/25(月) 17:47:59.54 ID:ucWVWMfB
162人間七七四年:2011/07/25(月) 18:00:40.27 ID:ucWVWMfB
平安時代に最上郡の北半分を割いて村山郡が作られたハズだったが・・・

(´・ω・`)「キツネにつままれた気分だ・・・」
163人間七七四年:2011/07/25(月) 19:19:35.76 ID:w2TkiRhI
>>158
今の分類で言えば茨城県だけど、結城の地は戦国時代だと常陸じゃなくて下総だよ
164人間七七四年:2011/07/25(月) 19:40:47.81 ID:5JTDhs9u
結城の領土は常陸・下野・下総の三国に跨っている。
結城城は下総にあるが、位置は見てのとおり、三国が接する場所にある。
常陸結城と言っても間違いではない。
165人間七七四年:2011/07/25(月) 19:53:53.40 ID:ucWVWMfB
領土の境界がわかり辛い悪い話ということで
166人間七七四年:2011/07/25(月) 20:42:04.91 ID:fIxGWm4f
三国を城がとり結び支配しているから結城なんですねわかります
167人間七七四年:2011/07/25(月) 20:46:22.77 ID:FLRTbt9v
誰が馬
168人間七七四年:2011/07/25(月) 21:55:43.22 ID:glk2HMOV
うまいかなぁ
169人間七七四年:2011/07/25(月) 22:20:12.00 ID:bKV3qKUB
ちょっとうまいと思う
170人間七七四年:2011/07/26(火) 11:38:55.34 ID:GQOne77X
そうでもないと思う
171人間七七四年:2011/07/26(火) 12:27:54.27 ID:uuLi1ZqZ
なかなかいいと思う
172人間七七四年:2011/07/26(火) 17:28:29.81 ID:QPdtteeK
えーい、どっちなんじゃい!
173人間七七四年:2011/07/26(火) 18:15:12.99 ID:EeG8E2xt
古田織部「五金時殿くらいで」
174人間七七四年:2011/07/26(火) 20:48:38.55 ID:gXcbMCUP
「留守政景と泉田重光の確執」
いい話スレで大崎合戦の話が出ていたので…。

宮城郡八幡(やわた・現宮城県多賀城市)の領主、八幡景廉は幼少で家督を継いだ為、
叔父の下間景継の後見を受けていた。その景継は嗣子が居なかった為、景廉の異母弟である
業継を養子に迎え入れた。
景継の死から数年後、八幡家中では凡庸な当主の景廉ではなく、下間業継を擁立しよう
とする声が高まった。家中を押さえ切れなくなった景廉は、主家である留守家に助けを
求めて逃げ込んだ。これに応じた留守政景は景廉と共に下間城を攻め、たまらず業継は
逃亡し、姉の嫁ぎ先である伊達家臣・泉田家へ身を寄せた。泉田重光は業継の甥にあたる。

業継の亡命後、留守政景と泉田重光は対立する様になった。この両名が大崎氏の内訌を突く
べく大将として派遣されたが、伊達軍が集結した松山城での軍議の場でも意見が衝突する。
松山城主・遠藤出羽守は敵方の新沼城主が出羽守の姉婿である事から、これを素通りして
敵城・師山城に抑えを残し、一気に敵中深く中新田城まで攻め入る事を主張、これを重光
は支持する。対して政景は十分に敵情を調べた後に侵攻すべし、と慎重論を唱えた。
重光は政景の岳父である黒川晴氏が大崎方へついた事を挙げ、政景は消極的であると罵った。

結局、重光に押し切られ伊達軍は留守隊を抑えとして中新田城を攻撃するも、降雪により足元
を取られ、反撃に出た大崎方によって多くの死傷者を出した。分断され雪中に孤立した政景は
舅・晴氏に使者を立て、松山城までの撤退を許された。一方の重光は敵方の新沼城に
収容され、自らが人質になる事で将兵の解放が許された。
175人間七七四年:2011/07/26(火) 21:44:40.24 ID:/pLjZPZs
>>173
ある時、浅野幸長が古田織部から、狭い茶室での道具の置き方・所作の仕方等の稽古を受けた。

「よいですかな浅野殿、客も炉も自分の右側にある時はこうする。客が右、炉が左の時はこう。」
「ふむふむ。」
「客も炉も左の時はこう、客が左、炉が右の時は…って、この辺は前の稽古の時どう教えましたかな?」
「………済まぬ、忘れたようです。」


そこで二人は、前回の稽古で同席した上田宗箇を呼んで、この件について問いただした。

「………申し訳ござらぬ、それがし、師の教えを失念いたし申した!!」
「(え〜)………」
「………?」
「……………」

「…と、とにかく、こういうものはその場その場でやってみなけりゃワカランものにござるよ。」
(織部候云、兎角その座敷にて置合てみねば、たしかならず)

「なるほど、そういうものですか。」
「うむ、そういうものです。」


織部のおかげで一つ勉強になった
…わけもなく、こーゆーお人に「白黒つけろ」とか_にゴザルよ。
176人間七七四年:2011/07/26(火) 21:47:28.97 ID:p6SA2Qaz
アンネシュ・ブレイビク=鬼武蔵
177人間七七四年:2011/07/26(火) 22:59:04.41 ID:yWvWCmKA
千利休は宋の僧侶・密庵の墨蹟を愛した。
ある時、近江で密庵の墨蹟を見つけた利休は120貫文の大金で
これを手に入れた。

早速、利休は茶会で墨蹟を掲げたのであるが、
招かれた北向道陳と松江隆仙は墨蹟を褒めてはくれなかった。
(おかしいな・・・どうしたことだろう)と思い、利休は2人に尋ねてみた。

松江「だって・・・」
北向「これ偽物だよ」
利休「ナ、ナンダッテー!だったら、こんなもの!」

偽物と知るやいなや利休は墨蹟を焼き捨ててしまった。
178人間七七四年:2011/07/26(火) 23:17:05.41 ID:BFPwgWtt
そういえば当時の中国側の記録で、
「日本人は馬鹿アル。中国産のものなら偽物でも高い金出して買うねw」
というのがあったと聞いたようなw
179人間七七四年:2011/07/26(火) 23:42:02.03 ID:TKLWVOaz
中国はヨーロッパ相手に紅茶でもそれやっていたような。
そのあと毟りまくりられたけど。
180人間七七四年:2011/07/26(火) 23:53:28.05 ID:hA1AN+MX
おおじっきゅうよ、ぼられるとはなさけない・・・
181人間七七四年:2011/07/27(水) 02:57:18.47 ID:7K5appAh
主君替え、一人目

姉川の合戦での手柄を、主君浅井長政から誉められていい気になってるだの、
図体のでかさと怪力を妖怪よばわりされるだの、とかく中傷は半端なかった。

よほど腹に据えかねたのか17才の藤堂与右衛門は、噂を吹聴する山本嘉助と対峙し、
これを切り捨ててしまった。
「・・・もはやここにはいられまい。やがて追っ手がまいるだろう。」
与右衛門は、着ていた紺地に大紋の羽織を脱ぐと裏返し、茶色に無紋の羽織にして再び羽織った。
(リバーシブルだったわけだ)
そしてその場を立ち去った。

まもなく、嘉助の死を知った追っ手が与右衛門を躍起になって探し始めた。
与右衛門の着ていたはずの紺地大紋羽織を手がかりに、聞き込みを行う。
「紺地に大紋?見かけねえなあ。茶に無紋羽織ならいっぱいいるけどよ。」
流行色だったのである。

藤堂与右衛門高虎は慌てた素振りも見せず、悠々と逃げおおせ、
二番目の主君阿閉氏の門を叩くとになるのである。

182人間七七四年:2011/07/27(水) 09:56:45.63 ID:K5IF7UPx
>>175
みんな忘れたのかよwwww
183人間七七四年:2011/07/27(水) 19:02:15.87 ID:IUg9pvcb
>>175
織部も忘れてる?www
184人間七七四年:2011/07/27(水) 19:10:52.93 ID:O5JhFgs2
消防のころ先生が答え忘れてみんなに聞いてもわからなかったこと思い出した
185人間七七四年:2011/07/27(水) 19:30:13.96 ID:WBUAFs8e
小学校の問題の解答くらいは、その場で考えられるだろ・・・と思うけど、焦るとそれすらも分からなくなるんだよね
186人間七七四年:2011/07/27(水) 19:38:13.40 ID:Gb/IrSc2
これ、小学校の問題と解答とかそういう話じゃなかろ。
マニュアルも正答もない、どうやったら非礼にならずに人をもてなせるかという話なんだから。
当然正解なんてないよ
187人間七七四年:2011/07/27(水) 19:46:37.99 ID:O5JhFgs2
前の稽古の時教えたことあるんだから正解はあるだろ
188人間七七四年:2011/07/27(水) 19:57:05.26 ID:Gb/IrSc2
「教えたことある」なんて文中に書いてないけどねw
189人間七七四年:2011/07/27(水) 20:03:41.54 ID:O5JhFgs2
読解力が乏しいのか、単に引っ込みがつかなくなっちゃったという
ちょっと悪い話
190人間七七四年:2011/07/27(水) 20:43:32.16 ID:YemAPnjX
ひどいオチだw
191人間七七四年:2011/07/27(水) 21:32:09.63 ID:r2+J8sfP
ひどいお茶でもある
192人間七七四年:2011/07/28(木) 17:20:42.43 ID:lRiOOi0Q
いい話でも悪い話でもないけど、おそらくは間違った説なのでこっちに

『羽柴の名は信長が彼(秀吉)に与えたものにて、そは彼が山口王(毛利)に対してエムベロム(信長)の
有力なる軍隊を率いて発進せし時の事なり。

其時彼は新しき名を与えんことを信長に請いしかば、信長はこれを聴し、従来藤吉郎と
称せしを改め羽柴と呼ばしめたり。森の上に飛べよという意味にして、是によりて彼の成功を
祈りたるなり。

彼が対抗せんとする山口王は名を毛利殿といい、その始めの綴りは森の意味にして、
終わりの綴りは君の意味なり(”殿”のことか)。
すなわち信長は、新将軍が敵に勝ちて森の上を鳥の如く飛ばんことを欲せしなり。』

そんな、今現在まで謎の多い「羽柴」という苗字についての一説である
(モンタヌス日本史)
193人間七七四年:2011/07/28(木) 17:34:30.64 ID:mTpLAwEC
由来は丹羽と柴田ではなく「森」だったのか
194人間七七四年:2011/07/28(木) 18:31:57.35 ID:EjtLFIPm
意外と面白い説だね。
195人間七七四年:2011/07/28(木) 18:45:52.79 ID:P7JCUFJY
秀吉の名前の話題が出たので便乗してみる。

秀吉は最初『元吉』と名乗っていたが、放浪中に六角義秀に召抱えられた時、
その偏諱を賜って『秀吉』となったという。天正三年のことである。(『江源武鑑』より)


いつ六角氏に仕えてたんだよとか、天正三年にはとっくに織田家にいただろとか、
六角義秀って同じ書物で永禄十二年に死んでるんですけど、とかツッコミ所はいろいろあるけど、
『江源武鑑』自体、六角氏嫡流(定頼・義賢・義治とは違う血筋)をでっちあげてるかなり怪しい代物なので仕方ない。

とにかく、秀吉が死人に偏諱を賜ったという信憑性の無いお話。
196人間七七四年:2011/07/28(木) 19:45:44.69 ID:VlQo2AGx
>>193
あるいは森可成を超えられるような忠臣に、という意味かもしれん。
197人間七七四年:2011/07/28(木) 20:28:51.92 ID:txmAfNQi
信長がシャレを利かせたのかとも思ったけど、著者がmouriとmoriを間違えてるだけな気がする
「殿」までが名前だと思ってそうな書き方してあるし
198人間七七四年:2011/07/28(木) 20:38:22.02 ID:so2/+sZG
藤吉郎改め羽柴はちょっと笑った、木下羽柴かよっw

毛利と森は毛利勝信とかの話もあるからまあ
199人間七七四年:2011/07/28(木) 20:57:24.94 ID:UpmeoxaS
徳川家康「三ツ口の子の名前は皆「山県」とする、良いな」
200人間七七四年:2011/07/28(木) 22:01:59.04 ID:VlQo2AGx
>>198
本来は毛利は「もり」と読むものだったのかもしれないよね。
森可成の家も毛利庄由来というし。
201人間七七四年:2011/07/28(木) 22:12:15.41 ID:QQkhXWBq
織田も当時は「おた」だったんじゃないかって説もあるよね
伊達も「いだて」だったとか
202人間七七四年:2011/07/28(木) 22:25:05.34 ID:Tpn0qyBS
いだてはローマ字の署名があったよね
203人間七七四年:2011/07/28(木) 22:28:00.46 ID:5e6o5z94
つうか地域によって呼び方が違ってただけじゃないのか?
当時は今みたいに統一された形での言語なんてなかったと思うんだが
204人間七七四年:2011/07/28(木) 22:31:49.32 ID:so2/+sZG
表記と発音が違ったり、同音なら異字でもオッケーみたいなおおらかさとか
単純な間違いとかまあいろいろ有るわな。
205人間七七四年:2011/07/29(金) 00:01:07.70 ID:uTik07+G
もう一つモンタナス日本史より

『日本人改名の習慣

日本人の習慣として貴族は種々の出来事に遇いて名を改む。

大御所は家康(Jyavasu)およびギシアス(Giciasu)と称せられしが、
のちこれらの三者を捨てて内府様(Daifusama)と改めたり。』

ギシアスって、何?w; 徳川ギシアス…。
206人間七七四年:2011/07/29(金) 00:11:02.30 ID:GYAogJBZ
>>205
ほら、権現様は子沢山だから
207人間七七四年:2011/07/29(金) 00:16:20.68 ID:RWEKH+bz
モンタヌスの日本史って挿し絵がとんでもな奴だよね
208人間七七四年:2011/07/29(金) 00:23:40.43 ID:uTik07+G
209人間七七四年:2011/07/29(金) 00:30:16.04 ID:29MKGV4V
日本人の俺も、昔の人の呼び方はようわからんから、奇想天外な話になるのもよくわかるがw
210前だけ弄ろうとします ◆OVNYPzgZN2 :2011/07/29(金) 00:31:45.74 ID:58XjjXxb
>>206
寧ろギシアス=ギシギシass assで,権現様の衆道趣味をフィーチャーして
いるんだよっ!!1!
211人間七七四年:2011/07/29(金) 00:35:31.13 ID:wN2p/29C
http://www.yushodo.co.jp/pinus/60/montanus/index.html
このサイトでも紹介されているね
ところでgiciasuの発音って、イタリア語っぽくジチヤスとか
どっちにしても意味不明か
212人間七七四年:2011/07/29(金) 00:35:53.02 ID:6aTo8SgS
>>205
「内府様」って「だいふさま」なんだ。「ないふさま」だと思っていた。
内裏と同じなのか。

>ギシアス
なんだろ。次郎三郎?家康(Jyavasu)と内府様(Daifusama)がけっこう正確なだけに気になる。
213人間七七四年:2011/07/29(金) 00:35:54.45 ID:uTik07+G
あ、よく見たら誌名間違えてる。正確には『モンタヌス日本誌』ですな。スマン。
214人間七七四年:2011/07/29(金) 02:32:20.85 ID:c/cQRjG2
昔のヨーロッパ人は知らんが、現代の西洋人は
イエヤスは発音しにくいんだと思う
北米の大学で歴史学勉強してた時の教授、
イエヤスのことをアイヤスって発音してたわ
215人間七七四年:2011/07/29(金) 02:46:51.62 ID:i4v/yBBG
今でも字が一緒でも読みが違う苗字ってあるから、ひとつの家がそうだから、他の家もそうだ、
ってのは言えないんじゃない?
「藤原」を「ふじはら」って読む方が山陰だとメジャーだったりするんだ。
216人間七七四年:2011/07/29(金) 02:53:39.25 ID:bUxUpYpV
>>214
しかしトロヤ戦争の英雄アイアスAiasの英語の綴りは、発音がしにくいのか
Ajaxな件
217人間七七四年:2011/07/29(金) 05:41:55.05 ID:A95/jvdE
オランダもスペインもGの発音は特殊で、単純にガ行にはならなかったはず
218人間七七四年:2011/07/29(金) 06:45:13.47 ID:dMezI5EA
>>211
うーん、何となく知っているつもりだった日本とは微妙に違うけど・・・。
なんせ相手はその時代に実際に居て記録した訳だから、そっちの方が正しいんだろうね。
219人間七七四年:2011/07/29(金) 11:00:43.45 ID:ksYWSRUg
ジチヤスと聞いてチチヤス思い出してしもうた…

220人間七七四年:2011/07/29(金) 11:37:06.66 ID:ksYWSRUg
地名にまつわる小話を一つ(ソースは葛飾区が出してる郷土資料の本)

矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。

@里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
A里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
Bもう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。

あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。

巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。
221人間七七四年:2011/07/29(金) 12:01:43.83 ID:swGyjQ3y
>>220
からめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね

だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。
222人間七七四年:2011/07/29(金) 12:11:22.99 ID:ksYWSRUg
>>221

今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…
223人間七七四年:2011/07/29(金) 12:31:05.15 ID:sXhaq0AA
大納言の唐称の御史大夫がギシアスに聞こえたとかでね?
224人間七七四年:2011/07/29(金) 16:43:24.16 ID:PPd0yxby
>>217
現代語だと ヒシアス になるのかな?
225 忍法帖【Lv=30,xxxPT】 :2011/07/29(金) 20:15:06.14 ID:cmQTyTCR
もういいんじゃね
226人間七七四年:2011/07/29(金) 22:02:25.91 ID:iaTFq7c6
ギシアスとはなんだったのか
227人間七七四年:2011/07/29(金) 22:29:05.78 ID:MPw+mlX7
私です。
228人間七七四年:2011/07/29(金) 22:46:06.50 ID:JXXNu7+t
作者<ううむ、家康の旧名、なんとか康だったはずだが思い出せないな・・・確かその字には2つの横線があったような
朝鮮人<もしかしてそれは「示」のことでは?
作者<おお、まぎれもなくこの字に違いない!ちなみになんて読むのですか?
朝鮮人<ああ、それはgi、siって読むんですよ
作者<なるほど、では示康と書いてギシアスと読むのか
229 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2011/07/29(金) 22:54:55.39 ID:9AoH32KR
>>219
同感w
230人間七七四年:2011/07/30(土) 03:49:32.32 ID:HkL5D/QP
関ヶ原の後の事

『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。

彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。

治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。

この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。

彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。

しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。

刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。

様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。

彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。

摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)

日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。
231人間七七四年:2011/07/30(土) 07:04:56.92 ID:Ph5z2QvA
AcasicamonだのAncocugisだのCainecanisだの、古代ローマがギリシャ人みたいな字面だな
232人間七七四年:2011/07/30(土) 07:27:26.92 ID:Q8q2ORIl
たぶんモンタヌスが織田信長と松永久秀に会ったら二人とも弾正で同じ名前だと思うんだろうな
233人間七七四年:2011/07/30(土) 07:54:44.45 ID:UWCYjXCF
>>230
おお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。
234人間七七四年:2011/07/30(土) 07:58:52.80 ID:a15vGj++
>>232
その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。
235人間七七四年:2011/07/30(土) 07:58:58.04 ID:V8fb9BAd
キリシタン補正ってすごいんだなw
236人間七七四年:2011/07/30(土) 08:15:25.06 ID:FvcDezSX
ラッパって法螺貝かな?
237人間七七四年:2011/07/30(土) 08:15:50.15 ID:Ph5z2QvA
>>235
たぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう
238人間七七四年:2011/07/30(土) 10:13:46.48 ID:buoFAfWc
>処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。


一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)
239人間七七四年:2011/07/30(土) 10:25:23.53 ID:SdbJLH6S
山田浅右衛問も時には失敗したというから…
240人間七七四年:2011/07/30(土) 10:27:33.61 ID:RMxcrKRc
まあ、そのせいでヨーロッパで苦痛を与えないギロチンとかが生まれたわけだしなぁ
241人間七七四年:2011/07/30(土) 11:44:11.04 ID:mc/ELILf
>>232
実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw
242人間七七四年:2011/07/30(土) 15:29:06.54 ID:EZqkUVWf
>>230
甲斐守がCainecanis
Canine Canisなら犬の犬か
ところで安国寺がAncocugisってことは
上で出てきたGiciasuはジシヤスなのか
243人間七七四年:2011/07/30(土) 18:08:16.03 ID:0Y9hlBW/
祇園守紋という家紋がある。いくつか種類があるが、いずれも巻物等が交差した図案となっている。
ttp://i.imgur.com/dU8Gq.gif
祇園社、つまり八坂神社の護符を図案化したというが、肝心の八坂神社は特にこの紋を使っていない。
ttp://i.imgur.com/6NM6N.jpg

この紋について疑問に思った松浦静山は、実際に家紋としている池田定常(松平冠山)に由来を聞いてみた。

「某も詳しく知りませんが、当家の言い伝えでは、この紋は天王(牛頭天王、八坂神社の祭神)より
授かったものと聞きます。
…が、それは表向きの話で、本当は『王』ではなく『主』から授かったのでしょうな、ふふ…」

(軽いネタ話のつもりが、とんでもない事を聞いてしまった……)

『天王』ではなく『天主』、すなわちキリシタンのデウスとやらに関係するものだと言うのだ。
すると因州池田家は、摂津池田家とのつながりか、それとも戦国のころ、信長傘下にいたキリシタン大名の
影響か何かでキリシタンと縁があるのか?キリシタンが『邪宗門』と呼ばれる、この時代にも?

(と、すると)
やはり祇園守紋を使っている柳川藩立花家は、旧主・大友家への義理でキリシタンをかばっているのか。
同じく岡藩中川家に至っては、家祖の中川清秀自身がキリシタンだったではないか。

ならば意外にもキリシタンご禁制のこの時代、信者をかくまっている大名は多いのか?こうなると島津家の
丸に十字紋も怪しく思えてくる。いや、あれは昔からの紋だ、関係ない。いや、分からんぞ……

(いかん、頭がおかしくなりそうだ。やめよう。)
「ハハ、ご冗談を。」何とか定常に笑みを向けた静山は、早々に話を打ち切った。(甲子夜話より)


宗茂とか瀬兵衛の子あたりがキリシタンをかくまったいい話…かもしれないが、真相は霧の中だし
松浦静山の胃に悪い話、ということで。
244人間七七四年:2011/07/31(日) 00:45:58.56 ID:tsHHT7NT
>>243
さすが甲子夜話、江戸中期のネタの宝庫である。
たしか、13人の侍の元ネタの事件も甲子夜話にあったな。
245人間七七四年:2011/07/31(日) 01:12:23.06 ID:OFnW17nu
黒田忠之と言えば、黒田如水の孫であり、黒田長政の嫡男である。
長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。

忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。

といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。
246人間七七四年:2011/07/31(日) 03:40:59.38 ID:S2j9Mxkv
>>243
宗茂は、育ったのが博多近辺で祇園信仰が盛んだったから祇園守を家紋にしたみたいだけどな。
宗茂が考案した初期のは、扇に祇園守っていう十字とは全く別の形の物だったりするし。
247人間七七四年:2011/07/31(日) 11:54:12.12 ID:6/pO09H2
>>245
NGMSと忠之の肖像画比べればすぐ親子だってわかるのになw
248人間七七四年:2011/07/31(日) 12:03:34.86 ID:27QM8Dgn
>>247
あの肖像のそっくりさ加減は、逆に親子じゃないって言われた方が驚愕するわなw
249人間七七四年:2011/07/31(日) 12:12:43.90 ID:caHuuPC+
>>247-248
あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ
250人間七七四年:2011/07/31(日) 13:20:14.49 ID:yBQ/CJuL
黒田忠之は生まれが平和な時代でよかったよな
織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん
251人間七七四年:2011/07/31(日) 15:27:34.95 ID:3yD4qKaz
>>250
無意味な仮定
252人間七七四年:2011/07/31(日) 16:22:02.46 ID:oalwK8VI
>>243
中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
あれも祇園守紋の一種なのか
そういえば、宣教師が来日した当初、島津の家紋を見て
キリスト教徒に違いない、と喜んでいたらキリスト教に改宗した大友氏と
戦いまくってがっくりしたとか
253人間七七四年:2011/07/31(日) 16:55:26.63 ID:SFAnWIgp
丹羽さんの筋違い紋(×)を見た宣教師はどう思ったのかねぇ
やっぱキリシタンと間違えられたりしたんだろうか?
254人間七七四年:2011/07/31(日) 20:14:06.67 ID:vWgKz8ng
>>252
>「中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが

中川久留子を「なかがわくるこ」と読んで一瞬なんのこっちゃと思ってしまった。
255人間七七四年:2011/07/31(日) 20:51:31.06 ID:DdpvUGy5
正直線を交えただけのデザインなんて世界中にありふれてる
別にキリスト教だけの特権ではない
同様にスワチカもナチスの特権ではない
256人間七七四年:2011/07/31(日) 23:01:13.14 ID:oP920H3b
鬼武蔵さんとこの家紋は、鶴丸と十字が有名だが、島津家もそうなんだな。
これって、ただの偶然?
257人間七七四年:2011/08/02(火) 00:55:59.90 ID:3fDiVw/m
猪苗代の亀姫

加藤嘉明・明成親子が会津を治めていたころ、猪苗代城の城代は堀部主繕という者が任されていた。

寛永17年(1640)12月の夜、主繕が一人で座敷にいると、どこからともなく禿(かむろ)がやって来て告げた。
「お前がこの城に来て久しいが、未だご城主に挨拶をしておらぬ。本日、ご城主が目通りを許された。
急ぎ身を清め、衣服を改めて参れ。先導するゆえ、お目見え仕れい。」

主繕は禿をにらみつけ、反論した。
「この城の主人は、加藤候。その代理として、わしが預かっておる。それ以外に主などおらぬわ!!」
主繕の反論を、禿は笑った。

「姫路の刑部姫・猪苗代の亀姫を知らんのか。一つの天運尽き果て、一つの天運改まるを心得ず、
みだりに過ぎ去りし事を話す者よ、汝の命運も尽き果てたぞ。」
そう言い残すと、禿は来た時と同じように、どこへともなく消え失せた。


明けて寛永18年元日の朝、主繕は猪苗代勤番の諸士より年頭の挨拶を受けようと、城の大広間へ向かった。

広間の、己の座すべき上座には、棺桶と葬礼道具が置かれていた。またその日の夕方、人の気配もないのに
大勢で餅をつく音が聞こえてきた。同月18日、主繕は厠で倒れ2日後に死んだ。(老媼茶話より)


2年後の寛永20年、『一つの天運尽き果て』会津藩加藤家は改易された。

泉鏡花の戯曲『天守物語』では亀姫は刑部姫の妹という事になっており、猪苗代城主の生首を手土産に
姉のところへ遊びに行く、という描写が存在する。
2581/2:2011/08/02(火) 05:03:49.02 ID:lr5r6NgA
黒田長政の家臣に、下野九兵衛と言う者があった。彼は大阪の蔵元に召し置かれ、江戸や国元で必要なものを
上方にて調える役目をしていた。そんな久兵衛が国元に帰った時のこと。家中のものたちの集まる御前において、
長政からこんな事を尋ねられた

「上方にては私のことを、どのように取り沙汰しているか?」

久兵衛これに「いえ、何という取り沙汰も承っておりません」と答えたが、長政「人である以上、善悪など言わないと
いうことは無いものである。その方を上方に置いたのは、そう言った町人たちの評判も聞いていきたいため
だったからだ。それを聞いていないというのは、緩がせ者ではないか!」と叱りつけた。
ところが久兵衛、これにカッとしたのか言い返した!

「殿様は軽薄である!…京童共はそう言っていると聞き及んでおります。ですがこんなたぐいの事は意味のない
ことだと思い、申し上げませんでした!その他にはどう言った評判も聞いておりません!」

が、長政はこれを聞いて激怒した
「口幅ったいようだがこの筑前(長政)に、軽薄の気持ちで世を渡る覚悟は一切無い!それを、なんという悪しき
評判であろうか。なんと腹の立つことだろう!」

その評判が久兵衛のせいであるかのように、より一層叱りつけた。久兵衛は「無益のことを言ってしまった…」
と顔を赤くして汗を流している。…と、

ここに口を挟んだのが家老・井上周防守之房である。
「久兵衛、よくぞ申し上げた!京童の言うように、殿は間違いなく御軽薄である!」

長政は当然これにも腹を立てた
「何だと周防!わしを軽薄ものだと!?全く信じられない!不遜ながら私は軽薄ではない!」と怒鳴ると
大脇差に手をかけ今にも斬りかかりそうな目付きで睨んだが、井上は少しも怯まず、長政の挙動を用心する風でもなく、
普段と変わらない風情で語りかけた

「殿がどれだけ御腹立になっても、御軽薄であることには間違いありません。」「理由を述べよ!」「…は。
先ず、御心を静められ、その上でお聞き下さい。

我が黒田家の、江戸の御出頭衆や御老中が御前において良い働きをしている間は、殿は彼らをまるで神仏のように
崇め敬せられます。そして彼らの働きにどんな報酬を与えても惜しくないかのように、不断に残るところ無く
お心遣いをされます。今の世はそのように良い働きをする家臣がいなければどうにも上手く動かぬのですから、
殿がそうなさるもの御尤もだと、私もそう思います。

…ですが、さて、そういう者でも殿の意に沿わず一旦御前を下げられれば、殿はそのまま打ち捨て遠ざけられ、
その者が死んでも、彼の息子たちに何の心遣いもなく、全くお構いされることはありません。
殿、解っているでしょうが、これは誰々の事ですぞ!」

と名指しして言えば、長政はその理に屈しながらも主人に対して何たる物言いかとさらに腹を立てて叱りつける。
が、井上は事ともせず「いかように腹を立てられても、殿の今ような御作法では、軽薄の悪名は止みませぬぞ!
殿は武儀を始めとして他の事が能くお出来になるからこそ、その身の御傷にはなっていませんが、仮にそれらが
普通程度なら…、まあ、とても一人前にはなりませんな!」

井上周防、言いたい放題である。本人を前に。
この主従の口論に居合わせた老若の家臣たち、すっかり興ざめをし、大事が起こるのではないかと冷や汗を流しながら
押し黙って聞いていると、ここに衣笠因幡と申す老臣、彼も譜代であり、功の入りたる者として三千石を知行し、
中老並みに召し使われ、年寄たちの座にも心やすく列するほどの者であったが、これがしたたかに大声を発して
立ち上がった!
2592/2:2011/08/02(火) 05:06:54.98 ID:lr5r6NgA
座の人々これに肝を潰し、この老体は気でも違ったのかと不気味に思い、長政もまた不審に思ったが、誰も彼の発言を
止めようとしないので、衣笠は涙を拭い、2つ3つ大きく息を吐いてから、叫んだ!

「さてもさても目出たき御事かな!!この場に居る老若も皆、同じように思うだろうが、殿様がこれほどご機嫌悪く
立腹なされているのは、近年見たことがなかった。とこどが、それに全く臆する景色もない、周防殿の只今の
申し上げよう、臣たる者、いつもその真似であってもさせたいものである!

その身の不利益であることは解っていても、主君の御為ならば一命を捧げかねない周防殿のこと。
たとえ御手討にもされるならされろ、命は軽いと存じ定めたる御覚悟、誠に神妙である。
申し上げていることは、はっきり言ってけしからぬ内容だが、命を投げ出した覚悟、天晴良き臣下かな!

殿!今の世にこのような臣下を持たれた大名衆はおりませんぞ!偏に御家長久の基であります。
そしてあの周防殿、他家にはあるまじき良き臣下を、殿の意に逆らうからと言って、彼をお側から遠ざけ
御為良き事を申し上げられない様にしてしまえばそれは、あのような家臣が無いことよりも劣ります!

さて、私が愚案を廻らせて見たところ、周防殿の言葉は彼の心から出たものではなく、皆殿様の御心の内から
発せられた物だと思い至りました。これも又、御家長久の第一です。目出度い事ではありませんか!
老いも若きもこの事を頼もしく思って、能くご方向仕れ!」

長政、これにすっかり毒気を抜かれたか、衣笠の言う事を素直に尤もだと思い
「因幡が申すように、主を諫め意見をする人間を持たない家は、悪いことが多いと度々思う。
わしが若い頃、心任せに仕置きを申し付け、まあ、自分では良い仕置を申し付けたと思っていたのに、
栗山備後や井上周防などがそれを押さえて意見をし、わしの思うようにはさせてくれなかった。
当時は殊の外無念に思ったものだが、後に思案してみれば、わしの分別が間違っていたことに気付いたものだ。

若い頃は気も強く、第一無分別で我儘を申し付けたいと思うものだが、老巧の意見が入れば入るほど、
自分の思う事は採用されないものだ。

能き人を持ちたることこそ幸いである!
最近は、たまさかの在国の間、楽をするのが得だと思って、近年は公私のことも年寄どもや(小河)内蔵允に
任せて、ずいぶん楽をしているよ。」

と、そのあとは終日、機嫌よく語ったそうである。
(古郷物語)

いい話といえばそうなのですが、長政があまりに言われたい放題なのとあまりにうまく丸め込まれすぎてる
気もするのと、そもそもこういうのを平然と記録しているという長政へのあまりな気の使わなさに少し涙したので
こっちにw
260人間七七四年:2011/08/02(火) 06:23:08.28 ID:kODSooY0
黒田家のテンプレw
261人間七七四年:2011/08/02(火) 09:20:12.42 ID:qPptHUK/
井上周防は孝高どころか職隆(つまり長政祖父)から黒田家に仕えてる最古参の家臣の一人で、
奥方が長政の母方の従姉妹だったり、周防の次男に長政長女が嫁いでいたりと、
ほとんど準一門と言えるくらいの重臣だからなあ
262人間七七四年:2011/08/02(火) 09:24:39.03 ID:dXURIbth
最初の九兵衛とのやり取りをみると、長政がダメだしされんのも当然って気がしてくる
263人間七七四年:2011/08/02(火) 09:45:14.17 ID:WplGRG5e
264人間七七四年:2011/08/02(火) 19:27:10.48 ID:9m0tms9z
>>263のよりも内容が濃く描写されていて面白かったw
265人間七七四年:2011/08/02(火) 22:33:13.66 ID:dhsypo1c
いまNHK教育でやってる番組で千利休の茶会記「百会記」が
映ってたけど、そこに書かれてた毛利輝元の名前が「輝元」って
呼び捨てになってた。w
家康は「家康公」って書いてたのに。

やっぱり呼び捨てには何かあるのかな?
266人間七七四年:2011/08/02(火) 22:41:17.41 ID:KwxfFYhg
実は出家していて「輝元(きげん)」と名乗っていたとか
267人間七七四年:2011/08/02(火) 22:44:33.27 ID:3Es4cdLL
それとも盆暗だからか。
268人間七七四年:2011/08/02(火) 22:57:29.24 ID:NJBD9gUS
>>266
マジレスすると輝元の法名は「宗瑞」。何故かあの北条早雲と同じ。
269人間七七四年:2011/08/02(火) 23:22:05.12 ID:yDsQ3rRc
正確には幻庵宗瑞
北条幻庵宗哲と伊勢早雲庵宗瑞の2人からとったような号だし
明らかに狙ってるとしか思えないわw
270人間七七四年:2011/08/02(火) 23:25:34.10 ID:lI1dzL8V
>>262
又兵衛乙
271人間七七四年:2011/08/02(火) 23:27:44.94 ID:Szq1d5UD
>>269
何狙ったんだろう
一応毛利家は小田原征伐のあと、北条家の娘を引き取ってはいるけど
272人間七七四年:2011/08/02(火) 23:38:31.61 ID:2lHLzScx
>>266
出家してるからって呼び捨てにしてもいいもんなの?
273人間七七四年:2011/08/03(水) 10:04:37.20 ID:qElR3MOD
資料とかみてないから適当だけど、輝さんは弟子なんじゃね?
274人間七七四年:2011/08/03(水) 18:26:01.77 ID:Z4lK3hT+
彼(織田信長)は有名なる学校ハクサンギン(Facusangin 比叡山のことか?)に注目していた。
これは仏僧の司る場所で、600年の間平和に所有していたものである。
この学校には多くの修道院が付属し、住院者は千人に及んだ。
信長は何かの口実を構えてこれを破壊したいと考えていたが、ついにそれを見出した。

有る時賊があって尾張を劫掠し、その捕獲物をハクサンギン僧に持ち込んだ、という事件があった。
信長はこの機会を捉えた。
そのころ信長には差し当って従事すべきことはなく、エムベロム(足利義昭の事であろう)との間も平和な時期で
あったため、自分の思いを果たすには適当な時であると考え、ここにおいて突然ハクサンギンを襲い、仏僧を殺し、
日を華って建物の大半を焼いた、時は1573年にて、彼がエムべロムとなったのと同年である。
(※注:ちなみに比叡山焼き討ちは1571年(元亀2年)、1573(天正元)には足利義昭追放がある)

このような信長の行為は、彼がエムベロムとなった時僧侶の激しい反発を買ったが、そのなかでも
甲斐国(Cai no chuno)の王信玄は最も激昂した。

信玄は父を逐い、兄を幽閉し自ら王位に登った人物であり、正当なる権利に欠けていたが故に、彼の地位を
強固にすべき方法を採択した。すなわち彼は法衣を以て王衣とし、彼の笏を神聖化し、頭髪および髭を剃って
僧籍に入り、全ての儀式および宗教上の勤を行い、常に600人の僧を従えていた。

この評判は日本の諸地方に広まり、日本人はこの甲斐王が僧となって勤行し、しかも1日3回に及んでいるのを見るや、
彼こそは動揺せる教会を再建し、衰微した教法を古代の隆盛に復す事のできる人物だと信じ、各地より
彼の宮殿に集まり来るものが多くなった。
彼は宣言して比叡山の殿堂、寺院を復興し、有名なる観音の殿堂をも再建せん、と言った。

このような約束、および美しい口実は俗耳に入りやすいものである。信玄は祖先が日本に植民して以来、この地に
平和に存在した純粋なる古き宗教を力説・確立して、かの釈迦その人にも超越したと誇っていた。

彼の事業は準備され、その基礎は固められた。彼の賞嘆者は各地において自分自身とその城塞を提供し、
彼の指揮に従って生命財産をもなげうとうと言った。
彼は俄に有力となり、ほとんどエムベロムの如き観を見せた。
信長は彼の勢力が日に日に増大するのを見、また信玄自身からの書簡によって少なからず動揺した。

信玄はその書に自署して、タインデノ・タスサモン・信玄(Taindino Taxuxamon Xinguen 大僧正の事か?)と書いた。
諸王の王、全ての宗教の管長信玄、と言う意味である。

信長はこの書に答え、署名して、ダイノキン・テンノマウォン・信長(Dainoquin Tennomavou Nobunanga これは
第六天魔王であろう)と書いた。魔の大指揮者、漂浪せる霊の総大将信長、と言う意味である。

以上『モンタヌス日本誌』にある、信長の比叡山焼き討ち(?)と信玄との対立の描写である。
275人間七七四年:2011/08/03(水) 18:34:57.81 ID:uPvqreYo
名前的には
ハクサンギン→白山寺(giはジノ発音)
タインデノ・タスサモン→天台座主沙門(xuはシュの発音)っぽいが
276人間七七四年:2011/08/03(水) 18:56:51.47 ID:XfaWntL1
明らかな事実誤認、と思ってたら実はこっちがホントでしたみたいなのがあっても面白いなー、と思った
277人間七七四年:2011/08/03(水) 19:33:19.91 ID:S6K4QzpT
エムベロム=エンペラー?
278人間七七四年:2011/08/03(水) 20:23:22.65 ID:mYcU0O1W
信玄に兄貴なんていたっけ?
279人間七七四年:2011/08/03(水) 20:29:02.88 ID:fGbdDR3B
義信の件が混じったのかな。
280人間七七四年:2011/08/03(水) 20:46:07.24 ID:LAr+UizF
単純に信繁を兄と勘違いしたんじゃない?
281人間七七四年:2011/08/03(水) 20:49:50.74 ID:XfaWntL1
この筆者はポルトガル人?スペイン人?
英語のブラザーと一緒で兄と弟が同じ単語だったりするんじゃないかな。
282人間七七四年:2011/08/03(水) 20:49:53.12 ID:uPvqreYo
原文でも兄と明記していない可能性も
弟と解釈できるのかもしれない
283人間七七四年:2011/08/03(水) 20:59:14.22 ID:BROvF78Z
でも幽閉して自ら王位に上ったとか、
正当な王権がないとか、
弟じゃ話が通じなくね?
284人間七七四年:2011/08/03(水) 21:21:08.82 ID:edU6X0dr
実は本当の信玄は病気で倒れていて政務が執り行えず(幽閉と事実誤認)
モンタヌス日本史に書かれている信玄というのは信廉のことだったんだよ!
285人間七七四年:2011/08/03(水) 21:24:44.88 ID:2o1ZAHGW
モンタヌスって誰よと思ってググったら大坂の陣の10年後に産まれた人じゃないかw
しかも日本に来た事無いとか、もう何が間違ってても納得できる
286人間七七四年:2011/08/03(水) 21:42:23.22 ID:fGbdDR3B
>>285
まあまともな国交すらない国なんだから
概ね合っているだけで凄いよね。
287人間七七四年:2011/08/03(水) 21:44:56.03 ID:bJF+sPRp
>>281
何かの連作小説で、翻訳家が何巻目かで突然、今まで12年間妹だと思ってそう訳してきたけど、
実は姉だったのねってあとがきでカミングアウトしていたなぁ。
288人間七七四年:2011/08/03(水) 21:59:36.53 ID:B7Se9ZR2
>>258-259
普通に江戸封建的にいい話だとは思うが、
古郷物語はやはりディテールが理屈っぽいw
289人間七七四年:2011/08/03(水) 23:35:46.35 ID:XfaWntL1
>>283
そのあたりの解釈自体がモンタヌスが元資料を兄と弟で勘違いしてた可能性があるんじゃ?
男の兄弟を幽閉して自らが家を継いだ、と書かれてるものを読めば弟が兄を、と解釈してしまうのは
不思議じゃない。
290人間七七四年:2011/08/04(木) 00:01:03.72 ID:baArw8rk
「信玄は、父を追放し、さらに彼の長男(義信)を幽閉した」と書かれてるのをみて、信玄は信虎の次男と解釈した可能性もある
291人間七七四年:2011/08/04(木) 00:29:24.14 ID:tGbejhwJ
>>290
なんかすげえ納得できる
292人間七七四年:2011/08/04(木) 00:30:15.63 ID:FhBJRpFP
訳文によくありそうな勘違いだよな
293人間七七四年:2011/08/04(木) 00:31:11.01 ID:IeOLcOSJ
>>290
おまえすげぇな
294人間七七四年:2011/08/04(木) 00:40:58.90 ID:FpUx9/SX
>>290はモンタヌス
295人間七七四年:2011/08/04(木) 01:49:10.66 ID:Th0tRQeJ
>>290
おっぱいおっぱい
296人間七七四年:2011/08/04(木) 10:22:09.01 ID:Cc3O2g0g
白山寺って加賀国一宮の白山姫神社の事か?
信長に壊されてたのか?
モンタヌスが比叡山と間違えたって事か?
297人間七七四年:2011/08/04(木) 13:18:20.63 ID:u2f/Q5rF
白山寺って福井じゃなかったけ?
それなら朝倉滅亡後に起きた一向一揆の際連中に焼き討ちかけられたはず。
なんか地元民にかなりうらまれてたらしい。
298人間七七四年:2011/08/04(木) 13:38:33.36 ID:PWI6RAj/
白山寺は延暦寺の末寺としてかなり勢力を誇っていたとか。
299人間七七四年:2011/08/04(木) 18:57:02.74 ID:3qrqWmnB
>信玄は祖先が日本に植民して以来、

これは、東征した神武天皇から分派した清和源氏の末裔という意味なのか、新羅三郎義光が渡来人と勘違いした結果なんだろうか?
300人間七七四年:2011/08/04(木) 23:12:44.22 ID:86vVobln
>>297-298
白山平泉寺のことでしょ

福井県勝山市による平泉寺紹介・発掘調査報告
http://www.city.katsuyama.fukui.jp/bunka/heisenji/indexhaiden.html

平泉寺六千坊といって、福井の人に言わせれば、比叡山や高野山を凌駕する、日本一の中世宗教都市があったらしいよ。

それから、平泉寺が民百姓に恨まれてたから焼き滅ぼされたという説には、根拠がない。
一昔前のマルクス主義史学の中に、虐げられた大衆による古い圧制者の打倒と自治の好例として、
一向一揆を無闇に高評価する人がいたのは事実だけどね。
浄土真宗大好きの司馬遼太郎なんかが、小説やエッセイで繰り返しその説を広めた。

史実では、当時の越前一向一揆は、他宗派のありとあらゆる寺院を攻めて焼き滅ぼした。
・天台宗真盛派の一乗谷盛源寺は焼き尽くされ、石仏も破壊された。
・曹洞宗本山永平寺は、一向一揆の退去命令に素直に従って本山を明け渡したために、辛うじて焼亡を免れた。
・本願寺派の最大の仇敵だった真宗高田派は、信長勢に味方して抗戦した。

それら全ての宗派が腐敗してたり、民を収奪してたから民衆に攻められたかどうか、考えれば分かることだ。
301人間七七四年:2011/08/04(木) 23:41:46.46 ID:4ilOAZBl
「赤松広英の怨霊」

西軍として田辺城攻めに加わった後、本拠・但馬竹田城で謹慎していた赤松広英(広秀・広通)。
日ごろ入魂の亀井茲矩の「家康に取り成すから、鳥取城攻めに加勢してくれ」という援軍要請に勇躍して出陣した彼を待っていたものは、
城下焼き討ちの罪を広英に被せる亀井の讒言と、家康からの切腹命令であった。
そして、広英は鳥取真教寺で自刃する。

広英は赤松政秀の子で、秀吉公播州下向の始めより篤く仕えたので、秀吉公の恩顧世の常ならず、さらに軍功も華々しかったので、
始めは僅かな身上だったが、恩録次第に加わり、龍野より竹田に移り、3万8千石を領した。

その人となりは文武の道に志篤く、常に四書五経を講じ、文名高き者を多く抱えいた。
その頃の書物は古めかしい註によってばかりであったのを、藤原惺窩と共に新たな訓点を加える作業を進め、宋学を世間に広めたのである。
また、朝鮮捕虜の姜とも交遊し、帰国の便宜を図ってやった。
このように諸道に通じ、その才、世に超えたる人であったが、思わざる兵乱に遭い、不遇にして身を空しくしてしまったのだ。

広英と正室・宇喜多秀家の姉との間には娘しかいなかったが、側室が懐妊しており、広英没後に男子を出産。
しかしこの子も14歳で果て、家は絶えてしまった。
302人間七七四年:2011/08/04(木) 23:43:36.49 ID:4ilOAZBl
赤松広英が死してその怨霊が残り、鳥取城下の人に取り憑いて「我こそ赤松が悪霊なり!」と名乗り祟るので
人々の恐れることは甚だしかった。

池田備中守の頃には、町の地下人・作右衛門というものが暗夜に一人歩いていたところ、
晴天だった空がたちまちかき曇るや、露のようなものを吹きかけられたので、眼も口も開けられないように思われた。
その背後から、白装束に鉢巻をした身長一丈(約3m)ばかりなる大男が馬に乗って現れ、作右衛門を抱え上げると
1町ばかり進んで彼を投げ捨てた。

投げ捨てられた作右衛門は気絶していたが、明け方になってようやく正気づき、ほうほうの体で逃げ帰ったものの
そのまま病気付き、3ヶ月ほどして死んでしまった。
この頃には同様のことが頻繁に起こっていた。

池田光政の頃には徳安という法体の者が、深夜、一人で城の道辺を歩いていると、凄まじい大男が
「我こそは赤松左兵衛尉よ!」と名乗って切りかかってきた。
徳安は脇差を抜き合わせ、受け止めたのだが、高股を切り落とされたと感じて、道端に倒れ伏してしまった。

たまたま通りかかった友人に介抱された徳安は、事の次第を話したのであるが、友人が股を見ても
傷すら見当たらないではないか。
こうして友人の肩に担がれて家に帰り着いた彼もまた、7〜8日後には死んでしまったのである。

このような不思議な事が相次いだので、夜などは湯所の山の広英の墓の前を通る人もいなくなった。
人々は恐れおののき、神に祀り、祠を経て、歳時には神饌などを厳かに供えたので、憤恨は次第に薄まっていったのか
近年はこのような事は無くなった。
祠も次第に造り更へ、今はいかめしくなっているので、神霊もお喜びになっていると思われる。
(因幡民談記)
303人間七七四年:2011/08/05(金) 00:17:58.00 ID:n6/6xD6y
戦国武将の通知表って雑誌を立ち読みしてた。その中の勝家の紹介文。
「瓶割り柴田と評されるゃうに、勇猛さは比類なき〜」
なんで瓶を割ると勇猛の証しになるんだよ…
304人間七七四年:2011/08/05(金) 00:34:03.43 ID:y85jJSw+
>>303
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-310.html
勝家の知略と統率力の高さが伺える逸話
305人間七七四年:2011/08/05(金) 00:38:00.22 ID:4OtuQa6A
中国の古典に似たような話がいくつかあるが、勝家はそれにならったのかもしれんな
武骨なだけでなく漢籍の素養があったのかもしれん
306人間七七四年:2011/08/05(金) 01:51:15.98 ID:pUm9VU3d
鉅鹿の戦いの項羽の逸話あたりから着想を得てアレンジした可能性はあるかもな。
有名どころだし、煽るには一番だ。
307人間七七四年:2011/08/05(金) 03:41:07.58 ID:lKtUtqnT
柴田って元々どんな一族なんだろうな。
織田秀信の代で取り立てられるまでは無名なのに筆頭家老に上り詰めるとか。
308人間七七四年:2011/08/05(金) 05:14:43.44 ID:RzrEyQsB
「会津加藤家の改易」
コメントには出てくるのに記事がなかったので書いてみます。
一般書からの、孫引きかひ孫引きかわからない内容なのでより確かな記述ができる方いれば上書き更新してほしい所存。


堀主水は地味加藤家の重臣だったが、2代目明成とそりがあわず、退転することになった。
退去の際、主水は鉄砲隊を引き連れ、明成の居城に向かってぶっ放して憂さをはらした。
それだけでなく、幕府に明成の罪科11条を提出して、俗界の権力不介入を約束されている高野山に入った。

明成はどうにかして主水を捕らえて仕返ししたかったが、高野山に手は出せない。
幕府を通じて、懇願した。そしてそれはかなえられた。
主水とその一族は高野山を追放された上で捕らえられ、会津にひきわたされて、むごい運命を迎える。


皆殺しにしてすっきりした明成だが、ほどなくツケを払わされる。
幕府からの通告、領地召し上げ。理由は家中不取締り、ではない。

幕閣「先年ずいぶん無理なお願いをされましたが、そのおり、四十万石と引き換えてもいいから、とおっしゃいましたな。お言葉どおり封土を受け取るのですが、何か?」

こんな理由で改易された例はそうないんじゃなかろうか。幕府だけがニヤニヤ笑いのとまらない、そんな話。
309人間七七四年:2011/08/05(金) 08:03:33.18 ID:f56n1GWu
【雑談】

アンサイクロペディアで小田氏治(天庵様)の関連項目が「ぬこ」のおまけだけってどうなんだ?
ここの住人なら伊達政宗を超える膨大な記述が出来るだろうに。
310人間七七四年:2011/08/05(金) 08:21:02.24 ID:r7jQsH/C
赤松広英、竹田城が好きで調べたらなかなか面白そうな人だけど資料がなかなか見つからないわ
311人間七七四年:2011/08/05(金) 08:25:23.09 ID:5pMjYtta
斎村政広さんか
312人間七七四年:2011/08/05(金) 09:24:39.51 ID:MuCF22wf
何故ここで聞く
313人間七七四年:2011/08/05(金) 10:22:17.66 ID:BZQVVG5K
慶長5年(1600)10月1日、島津義弘は関が原から日本戦史に残る撤退に成功し、
亡き弟家久の旧領である日向佐土原にたどり着いた。

早くも噂を聞いた農民が牛馬に家財を乗せ逃げて行く等、物々しい空気の中、家久次男・忠仍らの
出迎えを受けた義弘は、佐土原城内で家久夫人と一礼を交わした。

「このたびは、大変ご苦労なことでした。それで、私の息子は遅れて来るのでしょうか?」
「……………」

彼女の息子とは家久の長男、島津中務大輔豊久のことである。


その後、伊東氏の不穏な動きもあり、義弘は鹿児島から迎えに来た重臣の樺山紹剣の勧めに従い
早々に佐土原を発つことにした義弘の袖に、すがりつく女性がいた。家久夫人だった。

「あなたは……あなたは豊久を見捨てて、上方よりお下りになったというのに!
(中書を打捨候而御下候、)今また、この佐土原の地をお見捨てになるというのですかっ!!」

夫人の実兄である紹剣が、「あなたは先に『息子に後れは取らじ』と申されたではないですか。
ならば、ここで果てることこそ名誉では?」
などとさんざん夫人をなだめた末、やっと出発することが出来たという。(樺山紹剣自記)


ァ千代、慶ァ尼、妙林尼と女傑の多い戦国九州女性だが、皆が皆そうなれる訳ではない、そんな話。
314人間七七四年:2011/08/05(金) 21:37:44.58 ID:obmmQ6gn
>>311
この頃、斎村政広という呼称が一般的になっている感があるけど、
この「政広」という諱の出所ってどこなんだろう?
系図とか、赤松関係の書籍とか、それらに掲載の資料とかでも見たことがありません。
以前から気になってて。
315人間七七四年:2011/08/05(金) 22:51:29.13 ID:CWDD+0Be
しかし江戸でも津和野でもなく鳥取城下で暴れるとは迷惑な怨霊だな
316人間七七四年:2011/08/06(土) 00:16:05.75 ID:yYPzfiDJ
文禄の役での話。


平壌城を落とした李如松も碧蹄館で大敗し、日本と明の間で和平交渉が始まった頃。
朝鮮軍に「日本軍が晋州城を攻撃する」という情報が入ってきた。
しかし、籠城を主張する者あり、これを拒む者ありで、方針が決まらない。
ともかくも、朝鮮の都元帥・金元明は明に援軍を請うことにした。


金「というわけで晋州救援のために兵を出して頂きたい」
李如松「やだ」
金「えっ」
李「そもそも、それは朝鮮軍が日本兵を殺し、和平交渉を妨害しているのが原因ではないのか?」
金「(゚Д゚)」
沈維敬「そうだ、いっそのこと空城にしてしまえばよろしいのでは」
李「そうだ、それがいい!」
金「(゚Д゚)」


…こうして朝鮮軍は籠城し、単独で日本軍と戦うことになった。
攻める日本軍は宇喜多秀家、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、島津義弘、小西行長、宗義智など、約9万。
守る朝鮮軍は1万にも満たない。

結局、晋州城は1週間ほどで陥落。
金元明は川に身を投げて自殺した。


以上、アテにならない宗主国の話。
317人間七七四年:2011/08/06(土) 01:30:08.25 ID:ibc4OVOQ
朝鮮軍は一万にも満たないのに避難民は何万もいたんだよね。
で、秀吉の命で牛馬まで皆殺し。
318人間七七四年:2011/08/06(土) 10:39:59.97 ID:rpEGowMi
実際交渉中に日本軍に攻撃加えた朝鮮軍がいたんじゃねーの?
それなら「やってらんねぇ」ってなるのもわかる
319人間七七四年:2011/08/06(土) 13:48:05.86 ID:+0R9K6Sa
>>316
コソコソ隠れて害をなすところは鼠と一緒だわな。
宗主国が出てきて和平交渉をしていると強気になって、コソコソ襲いだす。
その結果、戦になろうとすれば、宗主国さま〜と逃げて泣きつく。
李如松将軍の行動をみるに、大国同士を争わせて、その影でコソコソ動き
回る存在に嫌気さしたんだろうなと
320人間七七四年:2011/08/06(土) 15:01:23.45 ID:7A6dB43M
今も昔も単独じゃ何も出来ない国だからねw
321人間七七四年:2011/08/06(土) 18:21:55.61 ID:DTmgtdkH
>>318
李如松は日本軍の漢城撤退も朝鮮の反対を押し切って交渉で決着をつけてしまったりと
日本軍に正面からやり合う気はすでになかった。

まあ明の本土が侵されたわけでもないし、日本軍はけっこう強いし
明の南方もきな臭くなってきたし、そもそも万暦帝の浪費で国家財政がヤバいしで
講和できるならそれで良いって感じだろうね。

まあ朝鮮も晋州城に立てこもったのは
「晋州城が落ちると俺たちの故郷がヤバい」という全羅道出身の義兵将と
日本軍の攻撃の2日前に赴任した新任の牧使と
晋州城以外に行き場のない数万の避難民というお粗末さだったんだけど。
322人間七七四年:2011/08/06(土) 19:13:49.63 ID:sff8DCWU
>>318
北宋もそれで亡んだしね!
323人間七七四年:2011/08/06(土) 21:10:08.31 ID:vHAMXvP6
堺の妙国寺には、樹齢1000年を超える大ソテツの木があった。当時から有名だったこのソテツを
織田信長は所望し、寺から安土城の庭に植え替えた。その後、夜半に目を覚ました信長は庭から

「妙国寺に帰ろう。」

という怪しい声が聞こえる事に気付いた。これを受け、蝋燭を手に森蘭丸は庭を調べた。その結果、
声の主が庭に植えた大ソテツである事を知った。蘭丸から報告を受けた信長は

「その様な薄気味悪い木など切り倒してしまえ!」

と人夫に切り倒すよう指示を出したが、今度はその人夫達が血を吐いて死んでしまった。
これを見た信長もやむを得ずソテツを寺に返したという。

尚、後年蘭丸が庭を調べている様が錦絵「新形三十六怪異・蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図」として描かれ、
寺に返されたソテツも現在では国の天然記念物に指定されている。以上、ソテツのちょっと怖い話。
324人間七七四年:2011/08/06(土) 22:18:46.62 ID:7A6dB43M
俺は小さい頃ソテツをヤシの木だと思っていたw
325人間七七四年:2011/08/07(日) 00:44:46.56 ID:Zo48b/AT
俺も思ってたわw
ソテツ横に広がるのと縦に凄く伸びるのがあるよね
大名屋敷などであれだけ伸びてしまうと壁の向こうからでも目立つと思うけど
気にせず植えたのかな?
それとも広い敷地の中庭に植えたら見えなかったのか
326人間七七四年:2011/08/07(日) 00:57:45.17 ID:3YsdiXFb
ソテツの話だけにソコツばっかりだな



俺もだが
327人間七七四年:2011/08/07(日) 09:32:59.68 ID:Q70JF2DW
ソテツとシュロの区別がつかない
328人間七七四年:2011/08/07(日) 09:59:09.50 ID:rqE5heeK
ソテツとソトウバの区別が
329人間七七四年:2011/08/07(日) 10:15:24.51 ID:kofHXNT1
おすぎとピーコの区別が
330人間七七四年:2011/08/07(日) 11:08:20.02 ID:4b3pgVCP
西洋人の文献で大名を王と表現しているのを見るとなんか違和感がある。
331人間七七四年:2011/08/07(日) 11:29:32.05 ID:HJaCW3gy
それは近代日本人独自の感覚だろうな
332人間七七四年:2011/08/07(日) 11:34:01.71 ID:vjWmdxxg
王を名乗れるのは皇族か中国に柵封されるかくらいなもんだからね
333人間七七四年:2011/08/07(日) 12:54:10.34 ID:Ddmq7wVA
だからってトノス(多分殿の複数形)とか呼ばれるのも微妙・・
334人間七七四年:2011/08/07(日) 15:05:18.81 ID:/OD7HNgu
ト、ノ・・・ス???
335人間七七四年:2011/08/07(日) 17:04:31.68 ID:V1t3nE+2
毎年のように新人王とか本塁打王とか
王が山ほど出てるから問題ない
336人間七七四年:2011/08/07(日) 17:38:13.94 ID:lQCYf46U
領土が狭くとも独立性と動員数考えると王でいい気もする
まぁ一都市位しか残ってなくとも皇帝名乗ってた国もあったし称号は実態ではなく飾りだ
337人間七七四年:2011/08/07(日) 18:07:07.90 ID:0pY1fj2c
王というよりは総督だろ?
338人間七七四年:2011/08/07(日) 18:12:50.11 ID:7j+9aGnU
同時期のドイツと比較すると似たような規模だお
339人間七七四年:2011/08/07(日) 18:17:23.97 ID:Yaf95qM8
イタリアやちょい前のフランスもそうだな。珍しいもんでもない。
340人間七七四年:2011/08/07(日) 18:27:48.31 ID:S5UycJg/
領主みたいな感覚か
341人間七七四年:2011/08/07(日) 18:37:38.32 ID:8hjGYwD0
この時代にアジア研究する西洋人は皇帝の下に王がいっぱいいる中国(時代によるが)
を基準にして考えるんじゃないかな?
当時の西洋人の目からは大陸と日本のそういう面での文化的断絶までは分からんだろうし。
どちらかというと日本の支配構造はヨーロッパに近かったというのもちょっと面白い。
342人間七七四年:2011/08/07(日) 19:36:49.44 ID:MLR7INB2
斎藤家内訌


天文24年(1555年)当時、美濃の大名である斎藤家の家督は「蝮」の異名をとった道三から嫡男である義龍に既に譲渡されていた。
しかし、道三は前妻の子である義龍より後妻の子である孫四郎、喜平次兄弟を愛しており、
特に喜平次には官を進めて「一色右兵衛太輔」と名乗らせるなど優遇していた。
道三がこんな調子であったので孫四郎、喜平次兄弟はすっかり奢り高ぶり、義龍を侮るようになってしまったのである。
そうした情勢の中で同年10月13日、義龍は病を患ったと称して引き篭もってしまい、床に伏せる毎日を送った。

しかし11月22日、道三が稲葉山城から山下の別邸に移ったという知らせを聞くとここで義龍は動く。
義龍は叔父の長井道利と語らって、道利に孫四郎、喜平次兄弟へ使者を出させた。
「義龍は重病を患っており、後は時を待つのみ。ついては今後のことについて相談があるので入来されたし。」
使者がこう伝えると孫四郎、喜平次兄弟は義龍に対面するべく稲葉山城へと参上した。

長井道利は孫四郎、喜平次兄弟が同じ部屋に来ると次室に入ったが、ここで道利は刀を外し、また奥の間へと入った。
それを見た孫四郎、喜平次兄弟も同じように次室で刀を外し、奥の間で道利と対面するように座る。
その後、道利は孫四郎、喜平次兄弟に酒を振る舞い、二人がすっかりと酔ったところで一人の男が部屋に飛び込んできた。

部屋に上がりこんで来た男は義龍に側近として重用されていた日根野弘就であった。
弘就は上がりこむや否や刀を抜き放つと上座にいる孫四郎を斬り伏せ、返す刀で喜平次も斬殺した。
孫四郎、喜平次兄弟は叔父の長井道利を巻き込んだ義龍の謀略にまんまと嵌められたのである。
そして義龍はこの事件の一報をあえて父道三へと届けさせたが、この知らせにはさしもの道三も仰天し、また深く落胆したという。



超有名なエピソードだけどまだ投下されてなかったみたいなので。
343人間七七四年:2011/08/07(日) 19:58:43.97 ID:5bOHQTY1
一応、名目上は見舞いに来てるのに酒宴してるってのも失礼な話だなw
344人間七七四年:2011/08/07(日) 21:32:36.81 ID:kANQCpal
イギリスが家康と通商を結んだ際の使節団長ジョン・セーリスがポルノ絵の収集家であることは
知られているが、成功して帰国した彼にとんでもないスキャンダルが持ち上がった
それは彼が日本でも大量のポルノ絵を買い込んでいたのである

相当後までお固いイギリス(だから訳の解らん方向に暴走する奴が多いいのだろうが)、大問題になり
結局これらは焚書の憂き目にあってしまった
この事をを知った後の海外の春画研究家(日本にはあまりいない)、江戸初期の貴重な史料が消えた事
に大いに悔しがったという

まぁ、平安時代後期の「鳥獣戯画」の作者とされる(実際はあやしいが)鳥羽僧正が「陽物くらべ」なんて
描いているのだから不思議はないけど

http://educators.mfa.org/objects/detail/277593
345人間七七四年:2011/08/07(日) 22:06:21.71 ID:ZVv93d8k
いくら一族とは言えもう少し警戒しないとな宇喜多直家に対する忠家のように
346人間七七四年:2011/08/07(日) 22:38:45.68 ID:/OD7HNgu
春画って医学書に近いもんだと聞いたが
347人間七七四年:2011/08/07(日) 22:41:44.65 ID:NWkRUUV/
>>346
医学書にしては性器がでかすぎるし、体位はアクロバティックだw
まあ嫁入り道具の側面はあったろうが
348人間七七四年:2011/08/07(日) 22:48:56.60 ID:iZxl7h/9
そういえば、古今著聞集に先輩絵師に
写実的でない、と絵を酷評された絵師が
「春画のちん○なんて、おもいっきり誇張してるじゃん」
とやり込めた話があったような
349人間七七四年:2011/08/08(月) 02:34:01.72 ID:X7LsoWEo
朝鮮の防備は女真族の戦いを想定した北方偏重の態勢であり
朝鮮軍の主力は常に北辺にあった。

朝鮮の武官李舜臣も北方に赴任し、豆満江の河口にある鹿屯島の屯田を守る任務に就いていた。
ある霧がかった日、軍人たちは皆収穫の為に出かけ、砦には李舜臣以下十余人だけが残っていた。
そこに突如女真族の騎兵が四方から集まってきたのである。
李舜臣は直ちに砦の門を閉めさせると、自ら柳葉箭を射て数十騎を馬から射落とし
さらに女真族が逃げ始めると単騎で飛び出して大声で呼ばわりながらこれを逐ったので
女真族は総崩れとなり、李舜臣は略奪されたものを取り戻して砦に戻った。

この出来事に対して朝廷は「女真族の侵入を招いた李舜臣は今後一兵卒として白衣従軍すべし」とした。
後に官職への復帰は叶ったものの以後李舜臣の昇進は遅れ
柳成竜によって抜擢されるまで不遇な状況が続くこととなる。
350人間七七四年:2011/08/08(月) 02:56:50.00 ID:6iq36ZIz
これ、はっちゃけすぎて「むやみに女真族刺激すんじゃねぇボケ」って怒られたのか?
後の英雄化で詳細がぼかされて状況がわけわからん事になってるなw
351人間七七四年:2011/08/08(月) 11:41:31.97 ID:TviMI2W4
もしくは違うエピソードが二つくっついて、
登場人物が有名人に置き換えられたとか。

これだけだと目立つ活躍をしたから閑職に追い遣られた、
という解釈の方が良いんじゃないかと。
当時のかの国の上層部が腐ってた悪い話というか。
352人間七七四年:2011/08/08(月) 13:32:08.54 ID:1ihk+plq
>>350
攻めてきた女真族の撃退には成功したけれど
被害はせっかくうまくいっていた屯田を廃止せざるをえないほど大きかったので
直属の上司と一緒に責任を取らされた。

李舜臣自身は「前から兵が少ないと訴えていたのに、増やしてくれなかったじゃないですか。」
というような事を言っているので、元から防衛体制に問題があって
そこに付け込まれた責任を現場が取らされたということかも。
353人間七七四年:2011/08/08(月) 20:12:43.60 ID:5jUkmk9P
文禄元年(1592)10月、文禄の役のこと。
川辺で明軍と対峙していた黒田長政隊に、突如として鎖鎌をもった明の騎馬兵が突撃してきた。

鎖鎌を振り回して黒田隊を切り裂いた明兵に、野村市右衛門が挑んだが、たちまち膝口を鎌で割られた。
「がっ・・・!!」
ひるんだ市右衛門に、さらに明兵は左肩へ棍棒で強烈な一撃を加え、市右衛門は地に倒れ伏した。

市右衛門の命運極まったかに見えたが、同僚の篠倉喜兵衛が駆けつけると、明兵はそれ以上深追い
しようとはせず、馬を返した。
喜兵衛は郎党に市右衛門を預け、本陣で治療させるよう命じると、明兵を追うべく馬に鞭打った。

川辺に続く土手の上に馬を走らせる明兵に対し、喜兵衛は土手の下を馬で駆け抜け、これを追い抜くと、
土手を駆け上がり、明兵の前に立ちはだかった。さっそく明兵は鎖鎌を投げつけ、喜兵衛はこれをかわした

・・・かに見えたが、戻ってきた鎖鎌は喜兵衛の兜に当たってこれを剥ぎ取り、さらに二撃目の鎖鎌が
喜兵衛の額を切り裂き、血しぶきが上がった。
しかし喜兵衛は、手ぬぐいで鉢巻をしてとりあえず血を止めると、ひるむ事なく明兵に突撃した。

接近してきた日本の武者に対し、明兵は鎖鎌での攻撃をあきらめ、棒で喜兵衛の左肩を打った。
したたかに肩を打たれた喜兵衛が落馬しかけると、明兵はとどめとばかり、さらに棒を振りかぶった。

が、これはワナであり、素早く体勢を戻した喜兵衛は太刀を抜いて棒を受け流し、返す刀で切り折った。
武器を失った明兵は組み付こうとしたが、喜兵衛は冷静に太刀で突き返し、それを掴んだ明兵は指を失った。
好機と見た喜兵衛、今度はこちらから組み付いて馬から引き落とし、ようやくこの明兵の首を取った。
(菅氏世譜より)


この明兵の名は伝わっていない。つーかこういう水滸伝的なトンデモ、もとい豪傑が無名だったりするから
日本軍に勝てなかったんじゃね?と思う今日このごろ。
354人間七七四年:2011/08/08(月) 20:44:00.82 ID:4IebNKBc
馬上で鎖鎌、しかも鎌の方を飛ばしてくるとか、ほとんど男塾レベルだな。
355人間七七四年:2011/08/08(月) 20:51:38.14 ID:IKR848Hz
ここまで行くとむしろいい話なんじゃないかと思える
356人間七七四年:2011/08/08(月) 20:53:35.16 ID:kXLIvt+k
中国に無名なのに常識ハズレな豪傑が時々いるのは紀元前からの伝統
357人間七七四年:2011/08/08(月) 20:56:15.23 ID:pX/DysDg
丸太で戦ったり尻筋で馬絞める化物を連れていければ・・・
358人間七七四年:2011/08/08(月) 21:20:06.99 ID:It/Eli7s
てか鎖鎌が合戦で使われていた記録ってかなり貴重なんじゃ
359人間七七四年:2011/08/08(月) 21:49:10.20 ID:6nC3OKPw
創作でないか、と疑いたくなる位すごい豪傑だな
たぶん、本当の話なんだろうが
360人間七七四年:2011/08/08(月) 22:17:18.06 ID:1dc5U6fe
水滸伝では日常茶飯事だぜ。
361人間七七四年:2011/08/08(月) 23:32:42.17 ID:jn532gDU
雷電「あの鎖鎌は!!彼奴等が明冥処坊か!!」
長政「知っているのか雷電!!」
362人間七七四年:2011/08/09(火) 10:18:09.73 ID:1ehASb6t
これが「一を以て十に當る」と言われた明軍の家丁か。
363人間七七四年:2011/08/09(火) 10:29:12.51 ID:Xp+/+51v
 天正十四年、九州征伐の最中に戸次川の合戦で当主存保が討ち死にを遂げてしまった讃岐の国主十河家。
 事実上、阿波三好家の後継者であったこの家系には存保の死に際して少なくとも二男が存在した。
 千松丸と存英の二人がそれで、嫡男である千松丸は時に十三歳、元服を未だ迎えず、二万石の所領は収公され、
翌年讃岐一国十七万石は生駒親正に与えられることとなった。
 ただし、この内十河家の所領二万石は一時預かり的な意味合いのものだったとも言う。

 さて、生駒氏が讃岐を統治するに当たって旧国主で四国東部に隠然たる影響力を持つ十河氏は厄介者であり、
親正はこの厄介な被養育者を三千石の捨扶持を与えて飼い殺す道を選ぶ事にした。
 むろん、親正には千松丸が長じた後に所領を返還する意思など一切ない。
 三千石にはわざわざ「鼻紙代」と言う侮蔑的な呼称まで付けた。鼻も拭けない小僧、という蔑視の表れである。
 家臣化すればそれでよし、出て行くようならそれもよし、程度の認識だっただろう。
 おそらくは時が経れば秀吉も彼の存在を忘れるだろう、という期待もあったのだろうが……それは聊か甘い未来予想だった。

 天正十七年、千松丸十五歳。
 元服にも程よい頃合に、千松丸は秀吉に呼ばれ、その謁見を得ることを許された。
 その席には生駒親正、そしてその甥(孫とも)の大塚三正が同席している。
 この二人の前で秀吉は千松丸が順調に成長していることを喜び、その所領を三千石と聞いて不満の念を親正に漏らす。
 親正は大いに畏まってその場を引き下がり――すぐに大塚に命じて、善後策を処すことにした。

 かくして十河家の大名復帰は約束されたかに見え、千松丸は意気揚々と帰国する。
 そして帰国するや否や、即座に『病』を得て帰らぬ人となった。
 余りにも不自然な死の成り行きから、人々は生駒親正の仕業と信じて疑わなかったと言う。

「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」

 千松丸の死後、旧領の遺臣や領民はこの様に謳い、生駒家に殺された千松丸の冥福を祈った。
364人間七七四年:2011/08/09(火) 16:32:48.47 ID:qL7nTJKk
悪い話だ
365人間七七四年:2011/08/09(火) 20:14:16.12 ID:HqPsJ+PW
久々に悪い話を聞いたでえ。
366人間七七四年:2011/08/09(火) 20:16:39.23 ID:ZmvR9KmD
生駒って三中老でも目立たないけど
しっかりやることやってんのな
367人間七七四年:2011/08/09(火) 21:16:32.19 ID:1hoR7LGM
関ヶ原もうまく切り抜けてるしな
368人間七七四年:2011/08/09(火) 21:18:13.35 ID:LdFo4j0Y
>363はきっかけも戸次川だしホントに酷い話や
369人間七七四年:2011/08/09(火) 21:24:13.13 ID:Togfk+uu
そして生駒はひ孫の代に生駒おどりか…
370人間七七四年:2011/08/09(火) 22:24:48.23 ID:8syVZPYW
生駒おどりの若殿もかなりのサラブレッドなのにな
やっぱ父祖の因果が子孫に報いるのかねぇ
371人間七七四年:2011/08/10(水) 09:43:48.05 ID:ulU4yqOu
ロンドンで暴れてる連中は政治的な主義主張もない、ただのDQNなんだそうな
移民や貧困層が街を護るという戦国さながらの様相を呈しとる
372人間七七四年:2011/08/10(水) 10:54:33.10 ID:vwQLggWE
元和から寛永年間にかけて、徳川幕府は諸大名に、いわゆる天下普請を命じた。
譜代筆頭格の井伊家も多くの普請に駆り出されたが、殿様からして無骨一辺倒、御殿や社寺普請の
知識を持つ家臣や伝手の少ない井伊家の作事は遅れがちであり、他家の侮りを受けていた。

江戸城本丸の改修においても、いつもの様に他家の普請が完了する中、井伊家の普請は未だ
天井の梁が丸見えであった。不安になった井伊家の侍たちは、普請奉行の岡本半介に伺いを立てた。

「お奉行、このままでは数日後の幕府検視に間に合いませぬ。よろしいので?」
「うむ、これで良いのだ。」
「?それと、釘がだいぶ余っておりますが、これも、数えなくて良いのですか?」

天下普請において釘は幕府を通じて買い、余った分は数えて幕府に返し、差額を返金してもらう
仕組みになっていた。が、半介は言う。
「かまわん。余ったら、まとめて埋めてしまえ。」
「そ、それでは当家の損となりますが?」「まあ見ておけ。わしに考えがある…」


検視当日、井伊家の担当部署を訪れた幕府目付は当然、吹き抜けのままの天井を疑問に思った。
「岡本殿、この天井はいったい?」
「いや、近ごろ色々な風聞があり申す。よって天井は特に、裏までじっくり検分をいただかねば。」
(なるほど。先ごろの、宇都宮の仕掛け天井とやらの噂を気にしての処置か。忠節の家は違うわい。
ところで…)

「話は変わるが、井伊家には釘の返納が無いとか。本当によろしいのかな?」
「いかにも。当家の普請に、余る釘など一本もござらん。」
「むぅ。さすが武をもって知られる井伊家、城普請も無駄無くソツが無い。それがし、感服仕った。
それに比べて他家は…手を抜いているのではあるまいな?!」

こうして他家でも、天井板を剥がして目付に見せねばならなくなり、釘の返納が多かった家は
手抜き工事を疑われ、普請をやり直すハメにすらなったという、他家のサイフに悪い話。
373人間七七四年:2011/08/10(水) 18:07:32.64 ID:QR3Qcwe6
井伊だけにいい話し?
374人間七七四年:2011/08/10(水) 18:16:10.73 ID:Y+wHjsN9
ちゃんとやってた所はいい迷惑だな
375人間七七四年:2011/08/10(水) 18:26:15.84 ID:2YrAjXjs
これも正しく悪い話だな・・・
376人間七七四年:2011/08/10(水) 20:38:20.81 ID:C4awa8Ka
ちゃんと悪い話が続くなんて、いい話すぎ
このスレ大丈夫?
377人間七七四年:2011/08/11(木) 02:42:27.70 ID:JlCMAZFO
>>363
生駒は、城造りで名人に依頼したけど、内部に詳しいから殺したよね
378人間七七四年:2011/08/11(木) 17:18:55.26 ID:tljWx+UF
井伊のほうはトンチ話じゃねえか。
379人間七七四年:2011/08/11(木) 19:24:43.82 ID:WsobpzMg
天文8年(1539)、豊後の大友義鑑は激怒していた。何故か?

それは同じ九州の大名、肥前有馬氏と日向伊東氏が京の将軍足利義晴に対し、
大友氏と同ランクの官職を与えてもらえるよう密かに運動していたことが発覚したからだ。

大友義鑑は京の将軍に対し猛烈な抗議文を贈った。

『有馬や伊藤は、大友から見れば被官並の家柄でしかありません。
そんな者たちに我々と同ランクの官職など、決して与えてはいけません!』

しかし足利義晴は大友の抗議をあっさりの却下。有馬・伊東は官職において
大友氏と同格になってしまった。大友氏にとってこの上ない屈辱的事件であった。

この事件があってから大友氏はそれまで以上に将軍家に接近し、のち、ついに
九州における室町幕府の最高職である『九州探題』を得ることと成る。

戦国時代には直接の争いだけでなく、官職などにより家格を上げる競争・暗闘もあった。
その、九州での一例である。
(大友家文書録)
380人間七七四年:2011/08/11(木) 19:53:38.52 ID:BdJKr394
3つの家は実際に何の官位を得たの?
381人間七七四年:2011/08/11(木) 20:04:54.13 ID:WsobpzMg
大友義鑑がもともと修理大夫で、有馬・伊東のどちらも同じ修理大夫もらたw
382人間七七四年:2011/08/11(木) 20:12:55.13 ID:TXrF6nz+
三者の関係は修理されなかった
383人間七七四年:2011/08/11(木) 20:17:22.20 ID:CDZkIjsi
 石田三成は

「主君から頂いた禄は主君の為に使うもので、蓄財が貯まるような奴は禄盗人」

みたいな事、言っていて実際に佐和山城とか質素だったのに。

 後釜の井伊家は、徳川家から支給された釘を着服して返さない。

 こういう事をする奴がいるから、公共事業でも予算は使い切れとか悪習が起こったんだな。

 うん、本当に悪い話だw
384人間七七四年:2011/08/11(木) 20:57:51.13 ID:lEXI+wXj
>>383
釘は購入済みでしょ?
もうちょっとしっかり読みなよ。
385人間七七四年:2011/08/12(金) 00:54:54.62 ID:p/d1Cp+K
会津若松は融通寺町に、城安寺という寺があった。
長らく住職もいない寺だったが、いつからか覚夢という修行僧が住み着き、勤行や行事など勤めていた。

覚夢は縁あって領主・蒲生氏郷の嫡男、鶴千代(のちの秀行)の乳母と親しくなったが、ある時から乳母は
まだ若いのに「私に何かあれば、後のことはよろしくお願いします。」と言うようになった。

その言葉通り、乳母は何者かに讒言によって鶴千代の母・冬姫の怒りを買い、自害を強いられた。

覚夢は故人の希望に従い、城安寺で葬儀を執り行ったが、覚夢が引導を渡そうと読経を始めたとたん、
棺のフタがガタガタと動き出した。
やむを得ず、覚夢は近所の力自慢たちを集めてムリヤリ棺を押さえさせ、やっと葬儀を終える事が出来た。

翌日から、城安寺には乳母の幽霊が出るようになった。

幽霊は決まって寺の御堂に現れて御堂の真ん中で座り込んだままで、数時間も過ぎると何処かへ去った。

噂を伝え聞いて、ある絵師が寺にやって来て、幽霊の姿を描くことに挑戦した。
何日か経ち、絵は瞳を入れることで完成、というところまで来たが、絵師が瞳の上に筆を持ってきた瞬間、
幽霊はスッと消え失せ、二度と寺に現れることは無かった。

絵は一幅の掛け軸にされて城安寺に伝わり、檀家の求めに応じて観覧させていたが、いつからか
「子が絵を見れば父母が、妻が見れば夫が死ぬ」
と『目上の者に祟る』と言われるようになってからは、みだりに観覧を許さなかった。


旧会津藩士・小川渉の「志ぐれ草紙」によると、絵は戊辰戦争の戦火を逃れ、新発田の好事家の手に渡った
と伝わるが、定かではないという。

ほら。貴方の近所の骨董品店、いわくありげな掛け軸、置いてないですか・・・?
386人間七七四年:2011/08/12(金) 01:55:42.43 ID:d1QFz5Up
ちょっと怖い話だこれー
387人間七七四年:2011/08/12(金) 10:22:07.93 ID:Fk+4L6Jh
乳母が仕えた蒲生家自体が以後に呪われたような末路をたどる訳だが、怨み足りなかったのかね
どうでも良いが棺桶を押さえつけて読経したり幽霊を放置する覚夢さんマジありえんッス
388人間七七四年:2011/08/12(金) 10:26:27.78 ID:TuqoDfaD
冬姫って信長の娘?
389人間七七四年:2011/08/12(金) 14:02:01.72 ID:HEBsJj8j
>>388
Exactly.(その通りでございます)

コレって家族がいない侍が見たらどうなるんだろうな
蒲生秀行やその子供ってみんな30前後で死んでるんだけど…
390人間七七四年:2011/08/12(金) 20:27:52.51 ID:jyTJ+mAO
恨みが冬姫に向かうわけではないんだな。
長生きしたよね冬姫って。
391人間七七四年:2011/08/12(金) 20:51:22.88 ID:pYI34HCL
>覚夢が引導を渡そうと読経を始めたとたん、
>棺のフタがガタガタと動き出した。




ぶっちゃけコレ息吹き返してるよね?
392人間七七四年:2011/08/12(金) 20:57:02.22 ID:6X2HmRnO
蘇生してますね
393人間七七四年:2011/08/12(金) 21:09:45.24 ID:0Xi78XVX
たぶん冬姫に疎まれていた乳母に冬姫から頼まれて覚夢が乳母に接近
親しくなった覚夢のお寺におびき出して生き埋め
覚夢自体は野伏集団の頭目、力自慢の村人はその一党
394人間七七四年:2011/08/13(土) 00:08:27.84 ID:vO3WVSH9
双方向クイズ 天下統一「戦国時代」★1
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1313157533/
395人間七七四年:2011/08/13(土) 00:09:05.24 ID:ntAIDFU2
主君替え、二人目

血だまりの中で、息も絶え絶えになっている阿閉那多助と広部徳平を眺めながら、
与右衛門はつぶやいた。
「もはやここにはいられまい。やがて追っ手がまいるだろう。」

浅井家では同輩を切り殺して出奔したが、ここ阿閉家では先輩格の中間を、しかも二人も
殺してしまった。
ちっとも学習しないこの男が、どこをどう逃げたかなど、
もはや誰も書き残そうとはしなかったらしい。
唯一の救いは、殺された中間二人は素行の良くない荒くれ者だったということだ。

それでも後世の諸書のいくつかには、
「主人阿閉氏に頼まれて二人を殺した」とだけは書かれている。
しかし藤堂与右衛門高虎自筆の履歴書によって、
図らずもそれが家中の者の涙ぐましい捏造であることが暴露されてしまった。

「阿閉淡路守の中間を二人斬り殺して、またこの場所を立ち退くにつき浪人いたした」(きっぱり)


肌身離さず持っていた感状が功を奏してか、三人目の主君磯野丹波守員昌への仕官は
比較的スムーズではあったようだ。


396人間七七四年:2011/08/13(土) 01:14:10.66 ID:Lrnv1mbI
>>393
痴情の縺れ的な、御手付きさんと正室の複雑な争いが有ったんだろうか
397人間七七四年:2011/08/13(土) 12:36:52.55 ID:WDz0f1mq
『戦国BASARA』と備前長船刀剣博物館の企画展リポート
ttp://www.famitsu.com/news/201108/12048373.html


すげえ面白そうな展示会だけどこれは行きづれえええええええ
398人間七七四年:2011/08/13(土) 12:50:56.15 ID:azhAlpyH
今度行く予定だけどこんなに看板とか立ってるのかよw
399人間七七四年:2011/08/13(土) 13:55:45.23 ID:W+epfSrI
これはw
400人間七七四年:2011/08/13(土) 14:44:28.62 ID:qKkNaOLA
しかし撮影okというのは中々無いチャンス
401人間七七四年:2011/08/13(土) 16:13:52.86 ID:NlIHsOTA
天文9年(1540)のこと。筑前の秋月文種は将軍足利義晴の『御供衆』に任じられることを欲していた。
しかしこの頃、秋月氏が属していた大内義隆は、なかなかその事を幕府に推挙してくれない。
そこで、である。
秋月文種はついに、大内氏に黙って内々に、幕府への運動を始めたのだ。
しかも将軍家に求めたのは、後で大内氏との関係がこじれ無いよう

『あくまで将軍が秋月文種の忠義に喜び、自発的に御供衆の地位を授与した形にしてください』

というものであった。

「こんな都合のいい話が認められるか」
と将軍が思ったかどうか。結局、運動空しく秋月文種は御供衆の座を手にすることは出来なかった。

そして翌天文10年、秋月文種は驚愕する

自分と同じ筑前の国人で、同じく大内氏に属する麻生氏が、大内義隆の推挙により御供衆の座を授与されたのだ。

秋月文種は慌てて大内義隆に「自分も御供衆に推挙していただきたい!」と懇願した。
ところが義隆

「麻生氏はもともと、将軍直臣の家柄なので御供衆に推挙したんだが、秋月はそういう家ではないから
御供衆に推挙することはできないね。しかし五番衆なら推挙して差し上げられるのだが…」

五番衆は御供衆より格下なのである。同じ筑前の国人として、麻生氏より下だとされてはたまったものではない
ではないか!
どうも大内義隆、秋月文種が自分を通さず独自に幕府に接触したことを知り、そこでこのような目に合わせた節がある。

この後も秋月文種は大内義隆に、御供衆への推挙を懸命に働きかけたが、それを得ることはついに出来なかったという。

まさに藪をつついて蛇を出す結果となった、秋月文種の御供衆任官運動の顛末である
(常興日記)
402人間七七四年:2011/08/13(土) 17:27:00.02 ID:uAix8GJx
御供衆になると何かメリットがあるの?
403人間七七四年:2011/08/13(土) 17:46:29.38 ID:NlIHsOTA
>>402
一番簡単なメリットを言えば公的な「信用」が違ってくる。
例えば今の社会でいえば、同じ事業をするにしても、公的な肩書きが何も無い人と、
元国会議員とか元高級官僚とか、そう言った肩書きを持っている人とではやはり後者の方が
広く信用され有利に成るでしょ。多くの人はその肩書きの後ろにある経験や人脈を見るから。

あと戦国時代で言えば、実力で圧倒していれば肩書きの影響は少ないが、実力で拮抗していれば
一般的にやはり肩書きのランクの高い人間の方に人は集まるんだよ。
これも現代も一緒だと思う。

もっといろんな意味や理由があるけど、とりあえず一番直接的なメリットはそういったところだな。
404人間七七四年:2011/08/13(土) 18:52:14.95 ID:VHD2YWD7
高い官位や役職は、そのための付け届けに必要な財力の証明であったり、
仲立ちをしてくれる人との親密さのアピールであったりするんだよ。
405人間七七四年:2011/08/13(土) 19:09:57.92 ID:Gl8YjL7n
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86#.E7.BE.A9.E6.99.B4.E6.9C.9F

ここに秋月種方って文種の別名が載ってるけど、どういうことなん?
406人間七七四年:2011/08/14(日) 14:36:15.94 ID:2ddWbF0U
さーっと見てみると、番衆あるいは供衆になったと書いてる所があるから、なんらかの役職に就いたんじゃないの
ただ中央の記録に残ってないからよくわからないとかだったりしてw
407人間七七四年:2011/08/14(日) 19:53:06.93 ID:tkOldn/O
村正伝説(関ヶ原編)

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの時の事。
東軍に属して戦った織田有楽斎の長男、織田長孝は西軍の将である戸田勝成の頭部を兜ごと槍で突き刺し、討ち取るという功を挙げた。

戦後にそれを聞いた家康は長孝が戸田を討ち取った槍を検分しようと槍を見せるように言ったが、長孝の家臣が槍鞘を抜き放った時に誤って手を滑らせてしまう。
取り落とされた槍は家康の指を掠め、わずかに傷をつけるとそのまま地面に転がり落ちた。

家康は思う所あって槍の作を尋ねた。それに長孝は「村正」の作であると答える。
すると家康はひどく不快そうな表情を浮かべ、怒りながら長孝の前から立ち去った。
その後で徳川家にまつわる村正の因縁を知った長孝は功をもたらした村正の槍を躊躇う事なくへし折ってしまったという。



村正伝説の中でも知名度の低いやつを一つ
408人間七七四年:2011/08/14(日) 20:53:09.24 ID:V+YrYcPM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4133.html

こっちの話だと不快になるどころか上機嫌だなw
409人間七七四年:2011/08/14(日) 23:07:54.84 ID:LJCDN4Pi
徳川家ってマイナスイメージが強い逸話には必ずフォローされてる逸話があるよね
410人間七七四年:2011/08/15(月) 06:31:17.89 ID:nMl9k5oI
勝ち組には擁護がつくのが普通
411人間七七四年:2011/08/15(月) 07:36:38.85 ID:mhfOGlal
そして負け組は更に棒で叩かれる。
412人間七七四年:2011/08/15(月) 08:46:48.41 ID:JugrlpjY
森長可「弟が勝ち組についたし家もそれなりに残ったのに叩かれてる訳だが…」
413人間七七四年:2011/08/15(月) 11:06:36.89 ID:aSSnHznN
229 :名無しさん@涙目です。(京都府):2011/08/14(日) 04:25:25.17 ID:cuznVtxu0
長男が二十歳を迎えたら、氏神の奥の洞窟(?)の中にある首塚に連れて行かれて家長と酒を呑む
伊賀のスゲー山奥。俺んちにだけある風習。

230 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/08/14(日) 04:26:41.21 ID:UU77wt8M0
>>229 超少女明日香っぽいな

234 :名無しさん@涙目です。(京都府):2011/08/14(日) 04:30:14.55 ID:cuznVtxu0
>>230
ちなみに誰の首塚かは絶対に他言しないことになってる
教科書にも載ってるような歴史上の偉人。俺のご先祖様が暗殺したんだと。

238 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/08/14(日) 04:33:20.97 ID:UU77wt8M0
>>234
大谷吉継? もっと大物?

239 :名無しさん@涙目です。(九州):2011/08/14(日) 04:33:46.47 ID:VQkluI0SO
>>229
洞窟はいわゆる奥の院で理解できるが祀られてるのが首塚?
調べると面白そうだな

242 :名無しさん@涙目です。(九州):2011/08/14(日) 04:38:05.19 ID:VQkluI0SO
>>234
あーなるほど、鎮めてるタイプの方か
知らないで入ったら当てられそうだな


243 :名無しさん@涙目です。(京都府):2011/08/14(日) 04:38:23.73 ID:cuznVtxu0
>>238
誰だそれw
日本人なら必ず知ってるくらい有名な人だよ
伊賀の歴史にもかなり関係ある
まぁ、ネットの落書きだしあんまり鵜呑みにしないように


244 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/08/14(日) 04:40:08.10 ID:UU77wt8M0
教科書に載ってるのなんて天下人レベルだしなぁ
伊賀にある首塚… わからん
414人間七七四年:2011/08/15(月) 11:08:08.73 ID:aSSnHznN
246 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/14(日) 04:40:15.32 ID:cnctIRVhP
洞窟の中にあるのは珍しいけど隠れて鎮めるのって別に珍しくなさそうだけどな
父方の実家の裏の山の中とか道とか無い部分に石碑らしきものとかあったし

248 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/08/14(日) 04:41:35.71 ID:a2wQgI9S0
>>243
伊賀の歴史にもかなり関係して日本人なら必ず知ってるって信長か服部半蔵ぐらいだろ


249 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/08/14(日) 04:42:15.22 ID:UU77wt8M0
>>243
そこまで言うともう信長しかいねーじゃん


250 :名無しさん@涙目です。(愛知県):2011/08/14(日) 04:44:05.34 ID:7NepqSpI0
まあ、普通に考えたら明智光秀か。

あの近辺で殺されて、遺体の発見されてない偉人っていうと。
伊賀が国として認められた経緯とかかしても、戦国時代以前ってことないだろうし。

252 :名無しさん@涙目です。(九州):2011/08/14(日) 04:44:25.34 ID:VQkluI0SO
>>246
奥の院は別に珍しくないよ
神社の裏によくあるね


253 :名無しさん@涙目です。(京都府):2011/08/14(日) 04:45:16.71 ID:cuznVtxu0
まぁ話半分になw
所詮ネットの話だし…


256 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/14(日) 04:47:04.30 ID:cnctIRVhP
>>252
まあ、まさに元々は神社の神主の家系だったりするんだけど
それ自体は奥の院っていう位置ではないな
415人間七七四年:2011/08/15(月) 11:11:18.40 ID:aSSnHznN
260 :名無しさん@涙目です。(三重県):2011/08/14(日) 04:52:54.93 ID:71O/aEkg0
伊賀だから半蔵ゆかりの地だろ。
半蔵が加担してそうな暗殺ってぇと加藤清正か?
でも熊本で亡くなってるしな。
首が出てこなかった有名人の事例だと、豊臣秀頼かな。

信長ってことはないだろう。

406 :名無しさん@涙目です。(京都府):2011/08/14(日) 14:11:07.03 ID:cuznVtxu0
信長は本能寺で死んでない
御供何人か連れて裏口か抜け道から逃げ出した
俺のご先祖様は何故かそれを察知してて、党郎何人かと襲って首を伊賀に持ち帰った
遺体はどっかの寺の僧侶が密葬して、今日までそれを隠し通している
もちろん、信長の遺体に首が無かったという事も
光秀軍以外の何者かに襲われて首を取られたなんて露見したら、また要らぬ戦争が起こると分かっていたからだろう
それと同じ様に、俺の集落の家々も秘密を守り通して、今や真実を知るのは俺んちの家長のみ
>>229は家長から長男が教科書には載らない歴史の真実を伝えられる儀式みたいなもんだな
まぁ首塚の中に本当に信長の首が入ってるかどうかってのも眉唾ものだけどな

田舎の怖い風習とかってあるの? 
http://hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1313255585/
眉唾物だろうけど、ヌー速のスレから転載してみました。まぁお盆だしなw
416人間七七四年:2011/08/15(月) 11:24:32.09 ID:TpO4hKBC
ネタにマジレスだが
首を持ち帰って隠しても何ひとつ得がないのにな
417人間七七四年:2011/08/15(月) 12:01:00.55 ID:uvaqBTCs
>>415
絶対に他言しないはずなのに、偉くあっさり話してるよなw

ネタ乙
418人間七七四年:2011/08/15(月) 12:07:05.47 ID:1fGHnDqK
浅見光彦
419人間七七四年:2011/08/15(月) 12:32:33.35 ID:MsxwqlMW
天文六年( 1537)、石山本願寺の法主・証如は困っていた。
京の将軍足利義晴より、『献金せよ!』との上意を受けたからだ。

無理な話であった。本願寺がそれまでの本拠地であった山科本願寺を攻め滅ぼされたのは
6年前の天文元年の事である。本願寺は未だそこからの再建途上にあり、はっきり言えば
財政がかつかつで、献金する余裕など無いのである。
証如はそれを理由に、献金の免除を懇願した。

しばらくして、証如のもとにこんな情報がもたらされた

『公方様(義晴)が、本願寺の態度に激怒している』
しかもそれだけではない

「彼の要脚のこと、進上せざれば御敵たるべし」
(献金の要請に応じないのなら、本願寺を将軍の『御敵』と認定するぞ!)
との意向を表明しているというのだ。

証如と本願寺指導部はこれに慌てた。先にも言ったように山科本願寺落城の記憶も
未だ生々しい時期である。将軍の御敵とされれば、今度こそ本願寺の存続が危ういかもしれない。

結局本願寺は無い袖を振りどうにかして金を集め、将軍への献金を行ったということである。

軽視されがちな室町将軍の、実際の権威というものが見えてくる逸話である
(天文日記)
420人間七七四年:2011/08/15(月) 13:47:33.53 ID:2ON0MfmL
この頃の足利将軍の兵力ってどのくらいかな?
義輝の頃はろくに兵がいなくて将軍自ら孤軍奮闘してるんだよな
421人間七七四年:2011/08/15(月) 13:56:31.21 ID:sC2nee+u
>>420
奉公衆(騎馬の旗本)が約2000なので、直属軍全体では1万前後。

ちなみに永禄の変で義輝は孤軍奮闘では無い。
不意打ちだったので数は多くないものの、その場にいた奉公衆の多くも義輝と共に抵抗し、
松永・三好三人衆の大軍相手に2時間以上戦い続けた。
422人間七七四年:2011/08/15(月) 14:26:14.91 ID:8bNDRU9e
一万?落ち目の足利家にそんな大大名クラスの動員力があったのか?
従いそうなのは摂津・山城の一部の地侍くらいしか思いつかんが
423人間七七四年:2011/08/15(月) 14:31:08.14 ID:2ON0MfmL
そうなのか義輝公が所有の名刀を畳に十数本突き刺して切れが悪くなると
交換して戦ったとか言う逸話を真に受けたから勘違いしてた
424人間七七四年:2011/08/15(月) 14:52:25.51 ID:sC2nee+u
>>422
それに加えて足利将軍は京都市民を動員することも出来た。
実際に足利義昭が信長に対抗して二条城に立てこもった際には、京都市民は将軍の命により
信長派の人間を襲撃している。信長はそれに対抗するため京都郊外の村々に、年貢免除の条件で
洛中への一揆を要請してる。

何のかんので足利将軍には、最後まで大大名クラスの動員力があったと考えていい。
だからこそ京兆家や三好や織田にとって厄介だった。
425人間七七四年:2011/08/15(月) 15:18:44.76 ID:1fGHnDqK
>>423
それはもうギリギリのとこだろ
本能寺みたいに連れてきた兵が少数だったらともかく自分家で・・・
426人間七七四年:2011/08/15(月) 19:59:45.89 ID:1+nKOAXy
>>419
んー、確かこの山科本願寺の話は山科言継さんがかなり奮闘していたような

>>421
長慶が死んだ事は伏せられてたけど直ぐに義輝は二条城の改修を始めているから
ぶっちゃけ不意打ちって程じゃない、義輝自信も解っててやってる。

>>424
京都市民を動員ってそりゃ無茶
当時の足利義輝に三好長慶を凌ぐだけカリスマと人格が備わっていたら別だけど
それだけ権威は残ってたら何度も朽木に逃げないし一・二回目の長慶暗殺未遂は成功してるだろう。
正親町天皇が長慶の改元を優先した時点で京にいようが朽木にいようが長慶>足利だから
だから長慶が死んでから三好義継+久秀・長逸は義輝の殺害に踏み切った(他にも理由があるし)。

守護・守護代・豪族を自由に動かす事が出来た足利
本当の意味での動員力を持ってた将軍は足利義植(義材)で終わり。

厄介だったのは勿論足利の権威が残ってたからだけど何より脅威だったのは
義輝が死兵だったから、長慶唯一の判断ミス、と言いたい所だけど本当にどうしようもなかったなぁ。
427人間七七四年:2011/08/16(火) 03:24:07.03 ID:z4JSUo4C
少し、古い話になるが北国勢と三好勢が争った文明年間中の出来事である。
北国勢は街道で三好勢を待ち受け、一人ひとつ車菱(まきびしの一種)を持たせた先行隊が
会敵後、逃げたふりをして後退して車菱を道に撒き、そうとは知らず追撃し車菱を踏んで慌てている
三好勢を一気に討ち取ってやろうという策を立てた。

かくして、先行隊は街道を行く三好勢を発見したのだが、これが思いのほか小勢だった。

(`・ω・´)「これなら俺達だけでやれるんじゃね?」

といった雰囲気になって先行隊の者は「こんなもん、もういらねぇ!」と車菱をその場に捨てて
三好勢に襲い掛かった。・・・の、だが

(´#)ω;`)「つ、強い・・・」

小勢の三好勢だったが、これがまた手強く北国勢は逃げ帰るしかなくなった。
しかし、先行隊に降りかかる悲劇はまだ終わっていなかった。

 「  い  っ  て  え  ぇ  ぇ  ぇ  ぇ  っ  !  」

間抜けにも自分達が捨てた車菱を踏み抜いてしまい、大混乱に陥ってしまったとさ。
428人間七七四年:2011/08/16(火) 08:44:31.32 ID:Zz162r4Y
コントかよw
429人間七七四年:2011/08/16(火) 10:29:13.38 ID:mKE8zd3Y
アホだろこいつらwww
430人間七七四年:2011/08/16(火) 10:35:59.04 ID:4PPdSO+D
>>427
ワロタw
431人間七七四年:2011/08/16(火) 10:44:20.14 ID:xKTzAyQU
なんか車菱を捨てて向かっていく感じが某ベネット(ry
432人間七七四年:2011/08/16(火) 13:15:44.08 ID:eTAZCxQ/
どこの4コマ漫画だよwww
433人間七七四年:2011/08/16(火) 14:21:24.52 ID:bdDBXFme
>>431
ついでに自分たちの持っている弓の射程外まで逃げてしまい、後続の味方の後退援護が出来なくなれば、完璧だな
434人間七七四年:2011/08/16(火) 14:40:04.16 ID:xV4RYj0U
そんなつまらない付け足しはいらない
435人間七七四年:2011/08/16(火) 15:41:03.27 ID:kks16pNX
車菱って捨てないと邪魔なほどでかいのか
436人間七七四年:2011/08/16(火) 18:08:58.53 ID:YUZMDWoI
軍勢相手に使うなら戦うなら捨てないと邪魔になるくらいけっこうな量があったのでは。
437人間七七四年:2011/08/16(火) 18:51:27.85 ID:ZC0qQaWj
クソワロタww
438人間七七四年:2011/08/16(火) 20:58:44.34 ID:SpdxUREk
車菱の大きさを調べてみようと
ぐぐる画像検索したら三菱自動車が大量に出てきた
439人間七七四年:2011/08/16(火) 21:10:12.94 ID:z7F0s6iG
ふつうの菱でつくったまきびしならタイムスクープハンターでみたが
3,4cmくらいだった
440人間七七四年:2011/08/16(火) 21:21:58.10 ID:SX122kkf
『車ビシ』は馬に踏ませるための大型の撒菱なので、普通のよりは一回りかふた周り大きいだろうな
441人間七七四年:2011/08/16(火) 21:58:56.28 ID:+6bZ7TYV
馬用の撒菱か……
踏んだら足の甲まで貫通しそうだな……
442人間七七四年:2011/08/16(火) 22:27:55.31 ID:kks16pNX
そんなでかいのを踏んだのか注意力散漫だな
そんなんじゃ敗走しても仕方が無いね
443人間七七四年:2011/08/16(火) 22:45:28.97 ID:KqC3Anry
はいそう思います。
444人間七七四年:2011/08/16(火) 22:56:49.62 ID:QQ7lQYg7
背水の陣のつもりだったのかただのおバカさんだったのか。
445人間七七四年:2011/08/17(水) 08:06:01.31 ID:2is70TG2
もう一人の「酒井忠勝」

酒井忠勝と言えば、江戸時代初期に幕府の大老を務めた若狭小浜藩主が有名だが、
同時代にもう一人「酒井忠勝」がいた。
酒井家次の長男、つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり、酒井家の直系であるその人物は、
秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗った。
とりあえず、有名な方の「忠勝」はこの話には出てこないので、ここでは忠勝で通す

元和八(1622)年、最上義俊が改易されると、酒井忠勝は庄内への転封を命ぜられた。
幕府は山形城に鳥居忠政を配置し、その周縁を忠政の縁戚で固める方針をとった。忠勝は忠政の娘婿であった。

幕閣に説得されて庄内に移った忠勝は、鶴ヶ岡城(現鶴岡市)を本拠地として、最上氏の事業も引き継いで様々な政策を実施した。
しかし、大きな失策も犯してしまう。
寛永三(1626)年、領内で凶作が起き、さらに寛永七(1630)年にも不作が起きたのだが、年貢を減免しなかったのである。
庄内藩では定免法を実施していたため、租率が変わらなかったのだ。

寛永九(1632)年、生活に苦しんだ遊佐郷・荒瀬郷の農民が秋田領の由利・仙北に逃散。
藩はこれをそれぞれの大肝入の責任として、高橋太郎左衛門と池田刑部左衛門を牢に入れた。
幕府の巡検使が来る前年だったこともあり、藩としては大肝入の二人を殺して「問題なんてなかった」にするつもりだったという。
結局、釈放された二人だったが、殺されそうになったことを知った太郎左衛門は大いに憤った。
寛永十一(1634)年十一月、太郎左衛門は弟とともに江戸に行き、幕府に直訴。
十三条からなるその訴状は、知恵伊豆こと松平伊豆守によって受理された。

その結果、何と太郎左衛門と刑部左衛門は肝入に復職。
さらに太郎左衛門は後に二百石の家中に召しだされるという、異例の待遇であった。
庄内藩もおとがめなしということで、知恵伊豆の配慮により、ひとまず事件は穏便(?)に済んだのであった。
446人間七七四年:2011/08/17(水) 08:08:42.92 ID:2is70TG2
…が、忠勝のトラブルはまだ続く。
忠勝の弟、長門守忠重が御家乗っ取りを画策したのである。

この忠重、白岩領(現寒河江市など)の領主だったのだが、これまた苛政を布いていた。
で、案の定百姓一揆が起きて、領地没収。没収後は、庄内藩の客分として暮らしていた。
客分とは言え藩主の弟である。忠重は権力を握り、遂には家老をもしのぐほどとなった。
そして忠重は「忠勝の子を廃し、自分の子を忠勝の長女に娶らせて二代目藩主の地位に就ける」という野望を抱くのである。

忠勝・忠重の弟である了次(玄蕃)は、忠重の讒言により後に幽閉され死亡。
忠重と対立した家老の高力喜兵衛一方は、讒言を受けた忠勝の命により追放。一族縁者も多くが追放・切腹などの処分。
この忠勝に讒言した人物は喜兵衛の同志であったが、忠重に脅迫されたらしい。
同じく家老の水野内蔵助重次は追手を差し向けられたが、寺院に潜伏して命は助かった。

かくして、ライバルたちを消した忠重は野望成就へとあと一歩まで近づいた。
しかし、喜兵衛一族を追い落とした翌年の正保四(1647)年。忠勝が病死したのである。
遺言により、忠勝の子である忠当が継いだため、ここに忠重の野望は頓挫。
忠重は忠当から義絶され、後に息女縁組の不始末により改易。改易の翌年、隠棲先で何者かに殺害されるのであった。


農民に訴えられたり(忠勝にも原因あるけど)、弟に家督狙われたりと、
そんな波乱の人生を送った、もう一人の「酒井忠勝」の話。

ちなみに、参考にした本によると、忠勝は短期だったらしく、手打ちにした人数三百人余り。
その内、自ら手にかけたのは 一 二 〇 人 から 一 四 〇 人 と伝えられてるそうな。
447人間七七四年:2011/08/17(水) 09:00:16.68 ID:p1JMQgO9
忠勝3人目がいるなw
448人間七七四年:2011/08/17(水) 09:14:28.17 ID:XmSH+2r3
>>446
>その内、自ら手にかけたのは 
>一 二 〇 人 から 一 四 〇 人>と伝えられてるそうな。
今すぐ長可に改名しろwww
449人間七七四年:2011/08/17(水) 14:50:20.99 ID:8opW1zNp
これまた胸糞悪い話だな。
450人間七七四年:2011/08/17(水) 17:44:47.81 ID:H9u3GUfF
元亀四年2月、将軍足利義昭は武田信玄の西上に呼応し織田信長に対して挙兵。
京都二条城に籠城する。

これに対し信長はすぐに塙直政、柴田勝家、明智光秀などを派遣。
そして3月末、自身で兵を率い京の知恩院に陣した。

さてこの時。
信長は吉田神道流宗家・吉田兼見を呼び寄せて、聞いた

「そなたの父、兼右がかつて、『南都(興福寺)・北嶺(比叡山)が滅亡するなら王城にも祟りがある』
と述べていたというのは本当であろうか?」

「はい。その通りです。」

この答えに信長、我が意を得たとの表情で言った

「そうか、結構なことである!今度の焼き討ちはこれで決まったわ!」

そして4月4日、信長の悪名高い上京焼き討ちが起こる。

信長は上京の焼き討ちをかつての比叡山焼き討ちと関連付け、それは予言されていたことであり
神意であったと強弁したわけである。

信長の上京焼き討ち直前にあった、ひとつの逸話である。
(兼見卿記)
451人間七七四年:2011/08/18(木) 10:25:18.38 ID:CJQJx9dz
マッチポンプ野郎信長
452人間七七四年:2011/08/18(木) 11:40:59.31 ID:JZ+QGsBL
永禄10年(1567年)11月、足利義昭は越前朝倉氏の本拠地一乗谷へ下向した。

朝倉家の当主義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、妻を通じて
親戚にもあたる(義輝の室と義景の継室が姉妹)義昭を粗略には扱わず、国を
あげて歓待した。翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。そして元服の一月後、代々の
足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、義昭の自邸への御成りを
実現した。この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、義昭に従う
御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、義景の館
に入った。

三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。

「おおっ!」

さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。義昭は立ち上がって
馬をよく見ようとする。座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の
声をあげる。彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。

この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、縁の下に置いてある
石の上に立っていたという。


見事な駿馬  立ち上がって眺める将軍(候補)  讃嘆の声をあげる庭の御伴衆
そして  将軍(候補)と御伴衆の中間で満足げに佇む管領(代理)  時は五月

なんとも絵になる構図ではないか!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

義景「いやあ、うちの庭じめじめしててさあ、足汚れるの嫌だったの
    だからどーしよーかなーと思ったけど庭に下りるのやめちゃったあ」


「朝倉義景亭御成記」にはここまで書いてござりまする…
なんか執筆者の悪意感じられるのですけれども…
453人間七七四年:2011/08/18(木) 17:22:34.41 ID:U8ysjJKW
北陸道と中仙道を結ぶ北国街道の途中に上田宿がある。
真田六万石の城下町であるこの地を加賀の前田家の大名行列が江戸への上るために通った時のこと。

大名行列を見た真田の奥方小松姫は家来に命じて将軍家への献上品を奪い取らせた。

当然将軍家からお叱りがあったが小松姫は「親の物は子の物だから」と格別気にも止めていなかった。
そこでこういった乱暴を止めるために真田家は四万石を加えた十万石として
北国街道から外れた埴科郡松代へと移らせることになった。
―――
信憑性は低いというかありえないレベルだけどこういう事をやりかねないというイメージを持たれていたんでしょうか。
454人間七七四年:2011/08/18(木) 17:32:19.04 ID:bGEQedZY
この件でまた信之の寿命が縮んだというイメージを
このスレの人たちは持ってると思います
455人間七七四年:2011/08/18(木) 18:17:16.14 ID:OWmd0UbH
それが無ければあと20年は生きていたな…。
456人間七七四年:2011/08/18(木) 18:32:09.03 ID:4GYXA+99
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-816.html
こっちと同じ話じゃ、と思ったが、こっちはお咎めなしか
457人間七七四年:2011/08/18(木) 18:41:47.84 ID:bRnA5TpI
>>452
なんでこの人はいつもやることが中途半端なんだ
458人間七七四年:2011/08/18(木) 18:44:05.83 ID:B764rqvz
前から疑問だったが、小松姫は将軍家の娘とは言っても養女ですよね?血の繋がりがあるわけでもないのに
そこまでの横暴が許されたんですか?それとも養子でも実の子供と同等の扱いになるんですか?
459人間七七四年:2011/08/18(木) 19:13:12.61 ID:ycknKA/j
忠政にも桑名を通った御用金をだまし取った前歴があるし、
平八郎の子供の城下を通るときには注意が必要だな。
460人間七七四年:2011/08/18(木) 20:27:33.91 ID:bGEQedZY
結果的に献上品ぶん取った上に所領6万石も増えたんだから
真田家が得したいい話では?
461人間七七四年:2011/08/18(木) 20:28:38.81 ID:bGEQedZY
間違えた。4万石だった。
462人間七七四年:2011/08/18(木) 20:44:08.12 ID:BAxFDuf8
小県は実高が倍以上あったとか聞いたことあるな
463人間七七四年:2011/08/18(木) 21:05:57.03 ID:e+R91V+2
>>458
>養子でも実の子供と同等の扱いになるんですか?
うん、そのとおり
464人間七七四年:2011/08/18(木) 22:50:00.26 ID:HHKbd2C+
残暑が厳しいので、涼しくなるように切腹の話でも。

天正十九年、千利休切腹。その時の様子を詳しすぎるほど詳しく述べた史料が幾つかある。

『綿考輯録』によれば・・・
最期の時を迎えた利休、床をふと見るとちょうど真ん中に脇差の乗った三方が置いてある。
「うーん、今日はこの置き合わせの方がいいでしょう(今日の置合ハ是かよからん)」と
三方をズラして置き直し、自分も床の上へあがって、脇差を腹に突き立てた。

さて、ここからが壮絶である。
利休は腹に脇差を突き立てたまま言い残したことを述べると(刺す前に言えなかったのだろうか)、
腹をかっさばき、皺の寄った腹の裂け目に指をズブリと突っ込んで
そのまま引き裂いて破ってしまった。そこで介錯が入ったという。


『三斎公伝書』によれば・・・
最期の時を迎えた利休、湯が沸いたのを機に四尺の床に腰掛ける。
しかし壁に近すぎて、肘がつっかえてしまった。
「この置き合わせはよくないですな(此置合にてハ無之)。」
自分を茶道具に例えたか、利休はそう言って床の真ん中に移り、介錯の人に
「やって、って言うまで待っててね、言えなかったら手を挙げるから」と言った。

さて、やっぱりここからが壮絶である。
脇差を腹に突き立てた・・・が、うまいこと刺さらない。
利休は一度脇差を引き抜き、もう一度同じところへ突き立てた。今度はちゃんと入った。
そこから腹に刺した脇差を引き回してハラワタを引っこ抜き
さらにそれを引きずり出して、天井から下がっている自在鈎にぶら下げた。
そこで介錯が入ったという。前代未聞のスゴい切腹であった。


ちなみに二つの史料があるように書きましたが、『綿考輯録』は細川家の公式記録であり
『三斎公伝書』は三斎が茶の湯の席で言ったことなどをまとめたものなので、
情報の大モトは同一人物だと思われます。
なんかあの人が「宗匠の切腹マジパねぇ!」と吹聴しまくっているさまが
思い浮かんでしまうのは私だけでしょうか。
465人間七七四年:2011/08/18(木) 22:52:34.29 ID:4GYXA+99
日根野弘就さんの切腹に比べたらまだまだ
466人間七七四年:2011/08/18(木) 22:54:11.26 ID:4sfoy1I7
この頃までの切腹は、臓物ひきずりだすのがカッコイイとされてたんだっけか
467人間七七四年:2011/08/18(木) 22:58:37.50 ID:xtTTXtt7
TVでやってたが切腹ってかなり苦しいらしいななかなか死ねないらしい
だから介錯するんだろうけど
468人間七七四年:2011/08/19(金) 00:32:08.71 ID:QBUvILZD
三歳・・・
469人間七七四年:2011/08/19(金) 00:52:35.59 ID:WeEy62cB
>>460
松代に移った後、家臣が集団で上田に帰って帰農する事件があったりするから
万々歳でもなかったようだ。
実質峠一つ越えれば上田領に帰れるというのもあるのだろうけど。
470人間七七四年:2011/08/19(金) 00:56:34.84 ID:9L0EVvs6
>>469
江戸時代の半ば過ぎ頃に家臣が集団で帰農してくれればありがたいんだろうな
471人間七七四年:2011/08/19(金) 09:35:27.88 ID:nNdhUbN7
家臣は田畑があれば食うに困らないし、真田家はいい口減らしが出来るし
確かに誰も傷つかないな
4721/2:2011/08/19(金) 16:43:36.67 ID:1wq76Zlx
関ヶ原の後、筑前に入った黒田長政は豊前との国境、高取山に築城しそこに重臣・母里但馬守友信置くと決定。
すぐに普請を開始した。
この高取山、山の半分は既に豊前というまさに境界線の山で、黒田家では、『越中守(細川忠興)はこの築城に
必ず妨害してくるであろう。そうなったら、合戦だ!』と家中のものを残らず動員。侍分のものには完全武装させ、
合戦との違いは指物を差していないだけ、という状況だった。

さて、山の腰に小屋を懸け、黒田長政自身が縄張りをした。だが城主に予定の母里但馬と尽く意見が合わない。
長政が「石垣の高さは2間にしよう」と言えば但馬「いいえ、3間にすべきです」、長政が「では3間にしよう」といえば
但馬「いや、やはり4間にしましょう!」、長政が「切岸は5間にしよう」と言えば但馬「いいえ、10間必要です!」
尽く長政の言う事の倍の、大規模な普請を要求するのだ。

このため縄張りは全くまとまらず、栗山、井上といった重臣たちが但馬に意見したがそれも聞き入れない。
話の進まないことに長政も手持ちぶたさであったが、いつもの事なので腹をたてることもなく(例の事なれば腹も立てず)
色々と説得したものの、但馬は石垣が高くなくてはならない理由を断固として主張した。
これに長政

「但馬、おまえはよく解っていないようだ。この城は長く籠城するためのものではないぞ?当面の手当のための
要害なのだ。いかにも安々とした防備であったほうが良いのだ。」

母里但馬、これに激怒した
「この城をそれがしにお預けになると仰せになってから、私はこの地に自分の墓をつくりました!
一城を預けていただくのは武士たるものの本望であり、忝いことこれに過ぎるはありません!
そのため、偏にここを自分の墓所と存じ定めたのです!

ところが、先ほどおっしゃった事は何ですか!籠城をしない城である.から、もし敵が寄せてくればすぐに城を捨てて
引き退けと!?敵を見たら逃げるための城に、この但馬が居る必要はありません!

黒田の御家もずいぶん大きくなりました。敵を見たら逃げたいと思っている者も、捜せばきっと居るでしょう。
そういった者を、そういう城には置かれるべきでありましょう。私は嫌です!(某はいやにて候)」

そう言い捨てて自分の小屋に引き込んでしまった。

さてさて、これが普通の主君なら、こんな家臣はそのまま押し詰め成敗してしまっただろう。
しかしそこは黒田長政、腹を立てながらも

「あれを見たか!?備後(栗山利安)やわしが言ったことは、理由のあることなのだ。
皆も知っているように、今我々が植木(福岡県直方市大字植木)に大軍を駐屯させても大丈夫なよう
しているのは、いざ合戦となれば細川忠興は大敵であるからだ!

しかし黒崎と、この高取の城をそのままにしては、小倉から筑前に手出しはできない。
そのため細川は必ず、この城を攻めてくる。
いざ開戦となればわしは軍勢を集め植木に集結させ、細川が軍勢を出し高取の城を攻める準備をした所を、
ここから三里足らずの植木より駆けつけ、一撃で蹴散らすつもりなのだ。
一当てして敵がひるむのを見ればこの城の留守居を但馬から、旗本の確かなものに交代させて、
但馬は先手の右備えに据え置くので、この城に置くようなことにはならない。

こういう事を聞き分けず訳もなく腹を立て、全く沙汰の限りだ。嫌ならあいつ次第だ!」
と引き取ろうとすると栗山利安が止めて言った
4732/2:2011/08/19(金) 16:44:40.30 ID:1wq76Zlx
「御腹立はご尤もですが、いつもの事です。(御腹立御尤に奉存候。いつもの事にて御座候。)
私が但馬殿を呼び出してきますので、その間にどうかご機嫌よく、御縄張りを完成させておいてください。
そもそもキチガイ同然になっている人間のいう事をまともに取り上げたのが良くなかったのですよ!
(気狂ひ同前の者の申上候儀を。御取上げなされ候事、然るべからざる)」

と長政に釘を差しておいて母里但馬の小屋に行き、長政の意図を説明し
「今に始まったことではないがその我儘、いい歳して不相応にも程があるだろ!まったく沙汰の限りだ!」
としたたかに叱りつけると、但馬

「そういう事ならワシも腹をたてることはなかったんだよ!あんなナゾナゾみたいに言わず、最初から考えていること
全部打ち明けてくれればいいじゃないか!全く根性曲がりが!(いな曲の男なり)」

と別方向に腹を立てつつも栗山と共に長政の御前に戻り、
「先程は敵を見かけたら逃げろとおっしゃったのだと思い、殊の外腹を立てました。しかし只今備前に御内意の趣を
承り、そういうことであれば私も聞き分けることが出来ます。

それがしが石垣を高くし、堀を深くすることを望んだのは、3日を5日、5日を7日なりとも攻め崩されること無く、
敵を百人殺す必要があるのなら、二百も討ち取り、大敵をこの城に受け止めて日数を送らせることこそ、忠節であると
考えたからです。

私は、死にさえすればご奉公に成るなどとは、考えたこともありません。
生きて与えられた使命を実行させるため、大規模な普請を望んだのです。これは全く臆病から言ったことでは
ありません!その事をよく理解していただきたい!」

これに長政、
「引く敵の相手などに、但馬ほどの人間は必要ない。申す所神妙である!」

そう声をかけ、その後君臣機嫌よく、城の縄張りを共に完成させたという。
この時長政は但馬のことを大変頼もしく思い、その目には涙がにじんでいたそうだ。

筑前高取城築城の際の逸話である
(古郷物語)

和解したのでいい話ではあるのですが、何より黒田家の連中の口の悪さがスゴイのでこっちにw






474人間七七四年:2011/08/19(金) 16:59:22.49 ID:gZwOFPTR
毎度の事ながら勝手にやってろよと言いたくなる家中にござる。
475人間七七四年:2011/08/19(金) 17:37:22.41 ID:BtRlLjQX
そもそも後詰めとか理解しないで切れてる時点で成敗しろよ
476人間七七四年:2011/08/19(金) 18:53:08.67 ID:7lDfepe4
この逸話既出だね
477人間七七四年:2011/08/19(金) 18:53:26.31 ID:JcaNIPb7
古郷物語の筆者には感謝しても仕切れんな、面白すぎるだろこの家w
478人間七七四年:2011/08/19(金) 18:58:54.38 ID:WaBORbi2
本音しか言えない、それが黒田のルールだ。
479人間七七四年:2011/08/19(金) 23:14:50.30 ID:PjQY/xX+
作左がレイプ

【社会】 女子高生を小屋に連れ込みレイプ、作左部純容疑者(24)逮捕…秋田
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1313735450/
480人間七七四年:2011/08/19(金) 23:55:28.80 ID:EijxtsYD
>>479
作左部って桓武平氏良文流千葉氏族だぞ
秋田だしビンゴだな
481人間七七四年:2011/08/20(土) 00:01:42.85 ID:62zkjdDv
さ、さくざぁああああああ
482人間七七四年:2011/08/20(土) 00:04:37.45 ID:922skP4V
小屋の周りに薪を積んだりはしなかったのだろうか
483人間七七四年:2011/08/20(土) 05:20:33.83 ID:c/o+oEED
サクとは違うのだよ、サクとは!
484人間七七四年:2011/08/20(土) 07:51:57.35 ID:aV3tdLDy
サクサク イクぜ
485人間七七四年:2011/08/20(土) 12:42:59.85 ID:SFZEGbOX
大坂の陣において真田信繁が越前勢に討ち取られた後
榊原康勝の臣、沼上八兵衛は確認のために越前勢の陣へと向かっていた。

途中八兵衛は口取りがただ一人で葦毛の馬を引いていくのに行き会った。
見ると馬の鞍は六文銭の金具で摺った黒鞍である。
呼びかけて馬の主は誰か、どこへ行くのかと尋ねると
口取りは「これは真田左衛門殿の馬であるが、ただ今討死なされた故城中へ牽いて帰るのである。」と答えた。

するとよい馬である、乗ってみようと八兵衛は馬を引き寄せ
乗ってみてから「かんのよい乗り具合静かな大将馬である」と誉めた。
その後口取りが「左衛門殿がこの馬はいかにしても信州へ形見として牽き行け、と申し付けられたから返してくれ」と嘆願してきたので
八兵衛は馬から降りて返した。

が、それから一丁ほど行き過ぎた時、口取りを斬ってその首を取った者があった。
それは榊原家の士であった。その者はその首で五十石の加増を得たということである。


信繁の形見の馬は信州へと届くことはなかったと思われる。
486人間七七四年:2011/08/20(土) 13:18:43.37 ID:ESku/hhC
>口取りを斬ってその首を取った者があった。
>それは榊原家の士であった。その者はその首で五十石の加増を得たということである

八兵衛ェ…
487人間七七四年:2011/08/20(土) 13:29:28.93 ID:s+nwuQ5f
これは八兵衛というより榊原家の悪い話
藤堂玄蕃が大谷吉継の首を見逃してやったように、
武士の情けってものがあるのに強奪した奴にあっさり加増、
しかも信州へ形見ってことは味方の真田家との関係も悪くなる
488人間七七四年:2011/08/20(土) 13:32:26.12 ID:qE58xJjl
馬の口取りの首で50石とかボロすぎ
489人間七七四年:2011/08/20(土) 13:38:59.09 ID:Kp4PWgxR
馬の口取りですら戦果として喧伝せざるを得ないほど
榊原家に部隊としての手柄が無かったのかも知れん
490人間七七四年:2011/08/20(土) 13:57:14.23 ID:UEijmiU1
これは悪いなぁ
491人間七七四年:2011/08/20(土) 15:27:22.74 ID:ESku/hhC
こういうことを家康が耳にしたら最近の若い連中は・・・
ってしかめっ面になるだろうな
492 忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/08/20(土) 16:20:55.78 ID:tBupVv1n
関白高速茶道が特許申請を検討、独自技術によるものと主張(日本)


茶道具の一種に台子(だいす)というものがある。
ある茶会で、千利休がこれを使って秀吉に茶を立てた。

秀吉「あれ?前にやった時と作法が違うぞ」
利休「ええ、あれは師の紹鴎の作法なんですが、我流で少し変えたんですよ。
   かなり省略してみたのですが、いかがでしょう」
秀吉「そうか。ふーむ、なかなかいいな」
利休「ありがとうございます」




秀吉「んじゃ、これ許可制にするわw
   誰かに教える場合は俺に許可とってからにしろよ」
利休「」



この作法は豊臣秀次・蒲生氏郷・細川忠興・高山右近など、ごく一部の者にしか伝えられることはなかった。
晩年の利休は、台子の作法を誰かに聞かれると「台子のことは失念いたした」と言っていたという。
『利休は台子を遠ざけていたように見受けられ、利休が台子を使ったという記録はわずかに3回しか残っていない。』(ウィキペより)
493人間七七四年:2011/08/20(土) 19:12:43.72 ID:8R+IDEYN
画像検索して初めて知った、あれ台子って名前だったんだ
宗教とかも始祖からかけ離れているように、たぶん茶道も当時と現在では違うんだろうね

ところでこれって作法を独占して伝授する権限をもって自身を権威付けしようってことだよね
信長も茶道を利用してたけど、そういうのって信長が発案したのかな、それともそれ以前からあることなのかね
494人間七七四年:2011/08/20(土) 20:28:41.26 ID:3uflP1B0
単純に茶道の、和歌や作法と同じ古典権威化だろうね。
こういうのは秀吉の時代からでしょう。
495人間七七四年:2011/08/21(日) 01:32:56.24 ID:AW0+JGuj
>>486
斬ったのは八兵衛とは別人じゃね?
好意で見逃したのに無駄になった八兵衛にとっても悪い話。
496人間七七四年:2011/08/21(日) 01:46:19.00 ID:blvDlLUM
首取った榊原家の士ってのが八兵衛じゃなかったらスレタイどおりのちょっと悪い話だな
一度見逃したのに後で野心が鎌首擡げて口取りの首取ったなら本当に悪い話しw
497sage:2011/08/21(日) 10:30:49.97 ID:O54MV1ow
tesu いけるなら長文なんで何度かに分けて投稿します
498sage:2011/08/21(日) 10:54:02.85 ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い〜1

1559年人吉城詰衆の若侍、児玉・早田・深水の三人が、それぞれ人吉奉行である丸目頼美の屋敷に仕える侍女たちに惚れた。
互いに相思相愛となり密かに逢瀬を重ねていたが、見つかったら処罰を受ける。
女は欲しい、だが処分は嫌だ、何とか惚れた女を連れ出したいと考えた児玉たち。
丸目屋敷を取り仕切るのは丸目の母親で相良家中から「徳深き人物とあり、侍女を多く抱えていた」とある。
徳が多いから侍女が多かったのか、侍女が多いから徳深いのか、そのへんは解らないが、とにかく丸目の母がキッチリしてるので侍女を連れ出すなど到底無理。
困った三人は宗慶寺の僧組・智勝に相談した。

智勝「侍女らが仕える丸目と同役でライバルの東長兄を争わせ、その隙に侍女を連れ出せば良い」
三人は後先を考えず、その話に乗り手分けして実行に移した。

児玉が東長兄の元へ、早田と深水が丸目の元へ訪れ「○○が貴方様を陥れようとしています」とウソを吹き込んだ。
東と丸目の二人は同じ人吉奉行とはいえ元々不仲だったので、最初は半信半疑だったが相手の言動がイチイチ気になり、本当にケンカになったしまう。
そして二人の不仲が主君である相良頼房(後の義陽)と、その生母・内城の耳に届くころには、どちらも抜き差しならぬほど拗れてしまっていた。

499sage:2011/08/21(日) 11:04:39.55 ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い〜2

主君の頼房は若干16歳、重臣同士のケンカを収める政治力は未だ無いため、
生母である内城が、丸目の縁戚である東直政(湯前城主)に仲裁を依頼した。

東直政は、どういうわけか「仲裁がダメなら丸目を討つということだな」と思い込んでいたらしく、
内城に「二人が元の鞘に収まれば、それで良いのです」と言われると、張り切っていた分、ガッカリ。

丸目の元へ出向くと「拙者は丸目殿へ味方致します!」と勝手な振る舞いをした。
仲裁役(のはず)東直政の言動は、丸目のケンカ相手である東長兄の耳に入った。
「このままではワシが不利」と危機感を覚えた東長兄は、相良頼房と内城に拝謁すると

東長兄「仲裁役が丸目の縁戚では、拙者を不忠者とするでしょう。このままでは某に残された道は謀反しかありませぬ!」
と、泣き脅しをかけた。
500sage:2011/08/21(日) 11:11:40.73 ID:O54MV1ow
その3

謀反をチラつかれては、目の前の東長兄の言葉に従うほかない。
相良頼房と生母・内城は言われるままに仮病を使う羽目になる。
東長兄が頼房と内城に仮病を使わせたのは、二人に他者が目通りするのを防ぐ為で、
内城は「気分が優れない」、頼房は「腹の調子が悪い」として、屋敷の奥に引っ込み続け、
そして夜中に東長兄の手配で人吉城を出た。
主君と生母が赤池城へつくと、赤池城から人吉城へ向け篝火を焚いて「二人の無事確保」の合図を送った。
篝火を確認すると東長兄家臣60余人が、丸目屋敷に火をかけて攻撃開始!

人吉城下・丸目屋敷で火の手が上がったのにビビったのが、侍女を連れ出そうとした三人の若侍だ。
「ちょっとした騒ぎが起きてくれれば・・・」のつもりが「リアル市街戦勃発」。
三人は自分たちのウソがバレルのを恐れて職場放棄(人吉城・詰衆)し遁走する。
501sage:2011/08/21(日) 11:29:00.69 ID:O54MV1ow
その4
突然の攻撃に、何の準備もない丸目屋敷では抵抗できず、丸目頼美は一族・郎党を連れて、
縁戚で仲裁役で「味方します」宣言してた東直政の湯前城に逃げ込んだ。
(ちなみに騒動の元になった侍女たちも同行)
東直政は驚いた、迷ったが自身の後見役にも諭され「主君に弓引く籠城戦」を決意する。

なりゆきで籠城になったで兵糧が足りない。
そこで兵糧を運ぶために人夫と護衛兵を出した。
その情報を入手した相良頼房は、帰り新参の犬童頼安に攻撃を命じる。

犬童は謀反に加担して敗れて逃亡、日向など転々としていたが1556年に帰参を許された。
彼にとって罪を許した主君への恩義に報いる絶好の機会。
犬童は「奥野一度橋」で兵糧を運ぶ湯前城兵を迎え撃った。

話が籠城前に戻るが、目が屋敷を逃亡した時に、丸目のもう一人の同役・深水頼金の末っ子左近が従っていた。
深水左近は湯前城に行く前に、友人の佐牟田の屋敷に出向き、最期の暇と手拭いを形見の意味で交換した。
で、湯前城でこれを同僚らにシミジミ〜と話すと、
同僚「敵として相まみえる可能性の者と形見の取り替えは聞いたことがない。むしろ差し違えるべきだったろう」と笑われ、
確かにそうだったと深水は納得し、心中深く決意した。

湯前城から出兵した兵糧の護衛兵の中には、同僚に笑われた深水左近がいた。
奥野一度橋で戦闘が始まると、深水は友人佐牟田の前で手拭い放って「自分がいる」ことを知らせた。
二人は互いに槍を合わせ、双方ともに討死したそうだ。



犬童は「奥野一度橋」でこれを迎え撃った。
で、兵糧が足りない。
502sage:2011/08/21(日) 11:45:25.59 ID:O54MV1ow
>その4の下二行は間違い〜申し訳ない。

その5「獺野原の戦い」の前哨戦である「奥野一度橋の戦い」は籠城側の勝利となった。
犬童頼安は敗れ手傷を負ってしまう。
犬童が怪我したのは、殿の中にいた宮原(謀反⇒逃亡⇒流浪⇒帰参を共に行動していた仲間)が負傷し動けなくなったのを助けようとしたためだ。

兵糧は入手できたが、このままでは心許ない。
湯前城主・東直政は日向から那須氏を援軍に呼ぶ。
さらに東直政の元へ「人吉城から多良木城へ兵が入り、湯前城を総攻撃する」という情報(実は誤報)が入った。
東直政は攻撃される前に先手を打とうと、恒松蔵人を多良木城攻撃に向かわせた。

多良木城主は岩崎と言うのだが、実は甥が籠城する湯前城に入っていた。
岩崎の甥は「このまま不意打ちを受けたら叔父が討死するかもしれない」と心配し、
自身の侍女を城外へ出して「出兵情報」を多良木城へ漏洩してしまう。

内乱だから敵も味方も親戚・知人が入り乱れているので、何ともはや流れが悪い話。
多良木城側は、さっそく伏兵を配置したが、恒松蔵人は難なく撃破。
この勢いで多良木城を攻撃するが、落城までには至らず、已む無く獺野原に陣を布いた。
503sage:2011/08/21(日) 11:58:14.08 ID:O54MV1ow
その6〜1559年8月16日、獺野原で東直政・丸目頼美・恒松蔵人・日向の那須氏の連合軍と犬童率いる人吉勢・深水(人吉奉行の深水とは別人)率いる多良木勢が激突する。

決戦前、犬童頼安は多良木城兵を率いた深水に「人吉衆が大軍に当たるので、多良木衆は横から攻めて欲しい」と言った。
すると深水は「これまで籠城して我慢してきた。自分らに先陣を任せてくれなければ、これから恥ずかしくて戦など出来ない」と反論する。
犬童は深水を説得しようとすると深水が逆切れした。
「なら勝手に攻め込んで討ち死にする!」犬童と険悪な状況になった。
だが犬童は帰り新参の上、奥野一度橋で敗退しているので、それ以上強く出ることが出来ず、深水に先陣を譲ることとした。


ヤル気満々の深水は戻った自陣で「討ち死にする覚悟のある人間」を呼び出した。
その者らに酒を一杯ずつ振る舞って出陣、途中にある川を「三途の川」に準える張り切りぶり。

深水率いる多良木衆は、その「三途の?川」を渡って獺野原の敵陣に向かう坂を登る途中で交戦!
緒戦で壊滅した。
気分を盛り上げすぎて注意力散漫になったのか、初めから死ぬ気だったのか、将の深水も討死したでござる。

「なにやってんだアイツらは・・」と犬童が思ったかは知らないが、彼は彼で行動していた。
504sage:2011/08/21(日) 12:09:54.38 ID:O54MV1ow
その7
犬童頼安、自軍を率いて密かに敵の背後にある坂を登らせ、背後から敵を攻撃。
タイミングはバッチリだったのだが、交戦し始めたら互いに見知った顔ばかり。
ついこの間まで、杯を交わしていた友人・親戚らの腹へ槍を突きだす気になれない。
本気が出ないので決着がつかず、だらだらと交戦状態が続いたが、
そうこうしているうちに、連戦の恒松兵に疲れが出て腰が引いて来た。
そこへ人吉勢が押し出し、一気に乱戦となる。

東直政の軍が壊滅し、東直政と恒松蔵人を含めた180余人が討死する。
丸目頼美は戦場を脱出し日向へ落ち延びると、伊東家へ仕えたが「木崎原の戦い」で戦死したそうだ。
留守を預かる湯前城代は、敗戦の知らせに城に火をかけ自害。
丸目の母、件の侍女も自害した。
505sage:2011/08/21(日) 12:22:24.19 ID:O54MV1ow
その8
翌年の1560年、そもそもの発端である、児玉・早田・深水の三人と、
彼らに入れ知恵した宗慶寺の僧侶・智勝が捕えられた。

若侍たちは、惚れた女が自分達の浅はかな行動の巻き添えで自害したので、完全に自暴自棄だったそうだ。
4人は人吉城下を引き回しの上、斬首。首は罪人として晒された。
これで一件落着・・・・のはずが困った事が起きた。

宗慶寺へ向かう道に、斬首された智勝が、生首だけの姿で夜な夜な化けて出るようになったそうだ。
智勝は僧侶だが、よほどの強い未練が残っていたのか、調伏することができず、
宗慶寺では止む無く寺を移転する羽目になったそうだ。

ソースは八代日記ですが、ネットから拾ったので細かいとこは相違があるかもしれません。
長文にお付き合い感謝です。
506人間七七四年:2011/08/21(日) 12:39:36.98 ID:gM7ZYZWJ
ファミリー台子
507人間七七四年:2011/08/21(日) 13:30:27.48 ID:PDvgSchI
一時間半もかかるとは思わなかった
508人間七七四年:2011/08/21(日) 13:49:20.49 ID:UZKhShry
長いよッ!!w

しかしまあ、あんな四方敵みたいな立地でこんなアホこの上ない理由で
同士討ちまでしでかしたってのに大名として生き残ったのは大したもんだな
509人間七七四年:2011/08/21(日) 14:07:45.36 ID:y78mz2mD
わかりやすくて面白い文章だったけど長いな
いくつかのエピソードに分割して続き物にした方が読みやすいかもしれない

しかし助言の件といい化けて出る事といい、どんだけよこの腐れ坊主w
510人間七七四年:2011/08/21(日) 17:51:42.11 ID:yBhJ4BtY
情報を全部説明しようとするから長くなるんだよな
肝心なのは嘘がこじれて合戦になったくだりだけ
あいだあいだの小エピソードは省いてよし
511sage:2011/08/21(日) 18:22:15.29 ID:vxpql5QG
>>510殿、参考になり申した。

発端のウソが拗れたのが1559年の5月の話で、
合戦になったのが8月のことなんで、
どこで区切るか迷って、つい欲張って小ネタも全部入れてしまいました。
構成力が及ばなかったorz
512人間七七四年:2011/08/21(日) 18:28:09.25 ID:d77drEeQ
なげーよボケ
3行で説明しろよ
513人間七七四年:2011/08/21(日) 19:11:55.41 ID:/tJ71kRE
由良氏誕生


横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。

家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。

成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。

成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。


こうして源姓由良氏は「作られた」。
514人間七七四年:2011/08/21(日) 19:22:04.77 ID:A8v9Gtzt
明治時代に新田嫡流争いで岩松さんの方が嫡流と認められるんだよな、これ。
515人間七七四年:2011/08/21(日) 19:27:45.51 ID:yBhJ4BtY
岩松守純って後に旗本になるんだけど、なんと
「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ
516人間七七四年:2011/08/21(日) 19:32:33.37 ID:3mC0MeTQ
そりゃ得川さんからすればねぇw
517人間七七四年:2011/08/21(日) 19:36:52.51 ID:1HVdExTT
今も昔も
男女関係で
戦いがおきる

良い例ですね

質問なんですが
侍女って
侍身分出身ばかりなんですかね?
本読んでると当たり前の如く侍女が描かれてるため侍女になるための採用試験みたいな古文書は残ってないんでしょうか?
518人間七七四年:2011/08/21(日) 20:26:20.01 ID:ztD4EdN3
侍というか武家さんは基本世襲だよ?
採用試験とかワロスwww
519人間七七四年:2011/08/21(日) 20:31:36.53 ID:AW0+JGuj
家臣の娘が行儀見習いのために侍女になったりするんだっけ。
520人間七七四年:2011/08/21(日) 20:31:45.34 ID:5koniCUC
>>517
普通は家中の娘から選ばれる
521人間七七四年:2011/08/21(日) 21:06:03.76 ID:uNLq3PQq
>>519
江戸時代だと武士じゃなくても病気などで両親亡くした子なんかも可也侍女になってるみたいね
戦国時代は知らん
522人間七七四年:2011/08/21(日) 21:36:03.91 ID:k8c4/49+
侍身分じゃなくても侍女にはなれるよ「養女」という手段を使えばね。
でもそれなりに能力無いと無理でしょ。
523人間七七四年:2011/08/21(日) 21:40:52.99 ID:HSLXF9Np
侍女は身元がはっきりしてないとやばそうだからな
民間から好みで選ぶと実は他家のスパイで当主が暗殺されるとかもあるかもしれんし
524人間七七四年:2011/08/21(日) 21:53:09.08 ID:PO+to1Fl
>>515
戦国時代の有名な武将の子孫が大量に徳川の旗本になってるんだよね
あ、この家も旗本なのかって感じで見てて面白いw
525人間七七四年:2011/08/22(月) 00:01:26.84 ID:RAp7ZhpK
>>515
家系図を徳川家に譲渡するのを渋ってそんな扱いになったんだけ?
wikipedia見ると、明治時代に男爵になってるじゃない。よかったな。
526人間七七四年:2011/08/22(月) 00:10:19.70 ID:TRMP4aiu
由良に強奪されたから渋ったんじゃないのかこれ?
527人間七七四年:2011/08/22(月) 00:33:52.70 ID:dCKjZKLD
ところで、「旅愁」
ふーけゆくー、あーきのよー、たーびのそーらーのー♪
をつくった犬童球渓はwiki見ると熊本県人吉出身だそうだが
>>501の犬童頼安の末裔かなんか何だろうか
528人間七七四年:2011/08/22(月) 00:50:33.03 ID:HlRV/lUy
軽くググッた感じだと農家出身みたいだけど、帰農した一族なのか単なるあやかりなのか
実際のとこは知らないけど犬童が地名姓だったりするともうなんともかんとも
529人間七七四年:2011/08/22(月) 03:16:21.17 ID:14mtRMja
黒田長政の嫡男・万徳丸(黒田忠之)4歳の年の暮れ、長政の伯父黒田図書の屋敷にて、袴着(幼年期から
少年期への移りめの儀式)が行われた。この時黒田家中の主だったものは皆罷出て、万々歳を唱えた。

ところで黒田家重臣・母里但馬守友信は万徳丸の蟇目(懐妊5ケ月目の15日に胎児の健康なる成長を祈って
弓を射る儀式)親であり、万徳丸は常に「祖父祖父(じい、じい)」と呼んで良く懐いていたそうだ。
この時も母里は万徳丸の頭をクシャクシャに撫でながら

「万徳丸殿、早く成人して武辺をなされよ?侍は他に何もいらない、武辺が専一です。とと様よりは武辺を能くしてくださいよ。」
これを聞いて当然ながら激怒したのが長政である。

「但馬何をいうか!このワシより能くせよとは!?わたしの武勇を悪しく思っているのかあっ!?
ワシが若い頃には備後(栗山利安)、次には其方を指図し、朝鮮でも度々、その後も神戸、関ヶ原の合戦と、
私は武辺を示してきた。その後は天下静謐となり合戦の場数を稼ぐことはできていないが、とにかく私は
其方共に見限られるような武将ではない!それを何だ!?とと様より能くせよとは!全く理解出来ない(一圓分別に能わず候)」

そう叫ぶと大脇差を抜いて母里を睨みつけた。その場の人々『これは何事だ、大事が起こるぞ!?』と
ハラハラしながら見ていると、母里は長政の脇を向き天井の方を眺めながら(つまり激怒している長政を
ガン無視である。失礼にも程がある)

「変なことに腹を立てる人がいるものだ。自分の子供が武辺を能くせよと言われるのが悪いことか?変な人が居るものだなあ。」
と、そのまま長政の方には見向きもせずに言った。この態度に(当然ながら)長政は治まらない

「万徳に武辺をせよというのが悪いのではない!しかし親より能くせよとな何事だ!?」
これに母里は冷笑し(ホントにそう書いてある)

「他人事ではありますが、御心を静めて聞いてください。武辺というのは図ることも出来ず、底も知れないものです。
何度合戦に挑んでも、やりきったと思うことはありません。合戦のたびに『やり足りなかった』と後悔しないことは稀です。
残念な働きだったと思っているのに、周りが『比類なき働きだった!』と言われれば、不承不承そういうものだとしておきます。
そうであるのに、殿は大名であって能き人を多く引き連れ、能き作戦の元に得たお手柄自慢、笑止ですな。
(大名にて能き人を引き連れ、能く計る所の御手柄御自慢、笑止に存候)
勝ち戦ばかりにお会いなされ、いつもこんな物だと思っていたら必ず不覚を取りますぞ!
まあその辺りの事はそれがしより備後に聞いたほうが詳しいでしょう。それはともかく万徳殿、どうか武辺を成し給え」

相変わらず長政をガン無視したままそう言いつつ万徳丸の頭を撫でた。

さてこの時、その栗山備後守利安は次の間で若い衆たちに酒を勧めて回っていたのだが、長政と母里が声高に
言い合っているのを聞きつけ土器と銚子を持って走ってやってきた。そして長政に

「さてさて勿体無い事ですがこれは私にくだされた盃です。憚りながらこれを拝上いたしたいと思います。」
これを長政の方に差し上げ、
「私が若年で小姓だった頃、如水様の御前でやった小笠原流のお酌を(ここは笑う所)、今ここで思い出しつつ、
昔を懐かしみながらお酌致します。」と盃に酒を注げば長政、

「栗山から盃をもらうのはいつものことだが、酌は珍しい」
と笑いながらこれを飲むと、栗山

「その返杯は但馬(母里)に下さいませ」と言って母里の方を向き
「おいキチガイ!こっちに出てきて杯を頂戴いたせ!(気違ひ罷出て、御土器頂戴仕候へ)」

これに母里も「畏れ入り候」と罷出て、頂戴仕った。これで長政も母里も何事もなかったかのようになり酒宴大いに盛り上がる。
ここで栗山一同に申し上げたことには

「若き者共、よーく聞け!お心掛けの深いのも殿様であり、無分別なのも殿様である!
そして大たわけで、かつ頼もしいのも母里但馬。どうだ当家の武勇、末頼もしいとは思わないか!?
平穏なときはこのように目出度い場で、高下の区別なく酒を飲み楽をし、一旦ことあれば槍を突きまくって
すべき事をしておけば、やがて主君になる人(万徳丸)も、何事も許してくれるぞ!さあ歌え舞え!」

これに長政すっかり機嫌も直り「備後の申すようにすべきことをした者には、許しもしてやらないとなあ」と言い、
そのまま夜明けまで酒宴をしたそうだ。(古郷物語)
530人間七七四年:2011/08/22(月) 03:30:09.33 ID:i/FOXGZQ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1508.html
こっちは常山紀談の同じ話
古郷物語を元にしたのだろうか
531人間七七四年:2011/08/22(月) 03:33:28.48 ID:i/FOXGZQ
まとめスレのリンク貼ったがよく見たら
いい話の>>165にもリンクが張ってあった
532人間七七四年:2011/08/22(月) 03:36:30.81 ID:7Ea1Vr1Y
>>530を見ると常山紀談は表現がずいぶんマイルドになっているのが解るなw
533人間七七四年:2011/08/22(月) 05:57:55.03 ID:m9SMr/es
 相良氏ネタをまとめブログで読んで飛んできました。

◆相良氏の内乱1:上相良氏と下相良氏

相良氏は遠江国相良荘(静岡県)の出身である。相良頼景は当初源頼朝の
挙兵に従わず、その後も不遜な振る舞いがあったために肥後国球磨郡(熊本県)
の多良木荘に追放された。頼景は後に、許されて多良木荘の地頭に任命される。
そして、頼景の長男の長頼も二俣川の戦い(畠山重忠の乱)で手柄を立て、
球磨郡人吉荘の地頭に任命された。

こうして、肥後球磨地方には多良木を支配する上相良氏と、人吉を支配する
下相良氏の二つの相良氏が並列することになった。南北朝時代では南朝・北朝に
分かれて争ったり南朝に付いたり北朝に付いたりとめまぐるしく陣営を変えた。

1443年に下相良9代目当主相良前続が亡くなると、子の相良堯頼は13歳で後を継いだ。
これに付け込んだのが上相良の相良(多良木)頼観・頼仙兄弟。1448年、頼観・
頼仙兄弟は人吉城を夜襲、堯頼は菱刈(鹿児島県)に落ち延びた。ここで立ちあがった
のが相良氏庶家の永留長続。長続は人吉城を攻め、多良木兄弟を人吉城から追い出した。

長続は「敵を追い払ったのでどうぞ帰ってきてください」と堯頼に帰城を求めた。
ところが、堯頼は「私には当主の資格がない。長続が後を継いでほしい」と言いだす。
そして、堯頼はまもなく菱刈で亡くなってしまった。
可愛がっていた子牛に股を角で突かれた傷が原因だと言うが……

堯頼の死によって家督を継ぎ11代目当主になった長続は多良木兄弟を討ち、
上相良氏を滅ぼした。これにより相良氏は統一されたのである。



まあ、堯頼が家督を譲ると言ってまもなく急死してしまうというのはできすぎな
気もします。庶家の長続による上相良氏・下相良氏への下剋上だったのかも?
534人間七七四年:2011/08/22(月) 05:59:37.91 ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱2:相良長定の謀反

相良家の一族・相良長定は不満を抱いていた。

長定の父・頼金は11代当主長続の長男でありながら病弱なために家督を継げず、
頼金の弟の為続が12代当主となった。その後、為続の子長毎が13代、長毎の子
長祗が14代当主となった。

……というような事情から「俺が相良家の正統な後継者だ!」と長定は考えるように
なり、奉行の犬童長広らと謀反を画策し始めた。

ところが、謀反の噂が長祗の耳に届いてしまう。

1524年8月24日。長祗はこの件について家臣たちと相談する。
すると家臣の薗田又四郎が、
「たとえ今回無実でも、長定は危険です。後々のために奴を刺し殺してきます」
となかなか過激な意見を言う。
「まだ本当かどうかもわからんのに、何と無礼で強引な事を言うのだ!」
と長祗は激怒。他の家臣のとりなしで命は助けられたものの、薗田又四郎は追放されてしまった。

そして、長定に使者を送って詰問したところ、「逆心などありません」と誓文を出した
ので、長祗はすっかり安心してしまう。ところがその深夜、長定と犬童長広は兵60人ほどで
人吉城を奇襲。驚いた長祗は薩摩国の出水に落ち延びた。

その後、長定は「逆臣にそそのかされました。城を退去し逆臣を討ちますので
お許しください。それがだめなら水俣に隠居料を差し上げます」と出水に使者を送った。

どう見ても罠であるが、翌年1月6日に長祗は肥後国水俣城にやって来てしまった。
もちろん長定は津奈木の地頭・犬童匡政に長祗暗殺を命じていた。
そこに薗田又四郎が駆けつけて長祗に注進するも、とき既に遅し。
犬童匡政の追撃に遭い、長祗は又四郎の介錯で自害して果てた。
535人間七七四年:2011/08/22(月) 06:00:56.42 ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱3:兄弟相克

長祗を討ち、家督を我が物にした長定であったが、長祗の二人の庶兄である長唯と瑞堅
が黙っていなかった。1526年5月11日、瑞堅が僧兵300を率いて人吉城に攻め入ると、
長定は妻子や犬童長広と共に落ち延びていった。

ところが、人吉城に入った瑞堅は権力欲にかられたのか、あるいは兄に家督を譲る気
などさらさらなかったのか、還俗して長隆を名乗り、家督相続を宣言。
今度は、長唯と長隆による家督争いが勃発してしまう。

しかし長隆は僧でありながら自分の寺を焼いてしまったことで一族や家臣の支持を
得られず、永里城に落ち延びた。長唯は長隆を討つため、従兄弟で一族の重鎮である
上村頼興に支援を求めた。

しかし上村頼興は支援を渋ったので「頼興の嫡男を私の養嗣子にする」という破格の条件で
ようやく支援を取り付け、長隆を討った。長唯は義滋と名乗り16代目当主になる。

一方、長定は長唯・瑞堅兄弟の追撃をかわし、筑後国(福岡県)に逃れる。

ところが1531年、長定は義滋の「帰っておいで〜」という誘いに乗って帰ってきてしまう。
長定は人吉の法寿寺の門外で暗殺。夫人と第二子も誘い出されて暗殺。筑後に残っていた
第一子も刺客に暗殺されてしまう。一方、犬童一族もほぼ皆殺しにされてしまったが、
幼かったために助命されたのが、後に相良義陽の重臣となる犬童頼安である。


自分が使った手にひっかかるなよ……長定。ちなみに一応15代目当主としてカウントされてます。
536人間七七四年:2011/08/22(月) 06:03:05.10 ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱4:上村三兄弟

上村頼興は相良義滋を補佐し、辣腕をふるった。実の弟である上村長種を「有能で人望があるから
危険」と暗殺させ、義滋が亡くなり実子の晴広が17代目当主になると義兄の岡本頼春を暗殺、
遺領はちゃっかり自身の四男稲留長蔵に相続させた。

晴広が1555年に43歳で亡くなると、嫡男の義陽(当時の名は頼房)が18代目当主になる。
頼興は引き続き孫を後見したが、まもなく1557年に亡くなってしまい、若い当主が残された。

こうなると野心家が出てくる。具体的には晴広の弟である上村頼孝、頼堅と稲留長蔵。
つまり義陽の叔父たちである。頼孝が家督を奪い、三兄弟で相良領を分割支配しようともくろんだ。

しかし謀反は義陽側の家臣に察知され失敗。頼堅が討たれ、頼孝・長蔵は日向国飯野(宮崎県)
に逃れた。頼孝・長蔵は後に帰参を許されたものの、やはり危険と思われたか、1567年に義陽に
討手を差し向けられ頼孝は自害、長蔵も殺された。

この後も先日紹介された獺野原(うそのばる)の戦い
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5712.html
とか義陽が響ヶ原で甲斐宗運に敗死した後に異母弟の頼貞が家督を継ごうとしたり、
朝鮮出兵で20代目当主頼房が留守中に頼孝の遺児長陸が謀反を画策したり、と
やたらと内輪もめが絶えない相良家なのでした。
江戸時代にもお下の乱とか竹鉄砲事件とかあるしね……
537人間七七四年:2011/08/22(月) 06:47:48.80 ID:xz0ll56K
侍女質問したものです

色々解答出して頂きありがとうございます

しかし不思議なのですが、侍女はそれなりに身分の高い家中の武士の娘(養女含む)から構成されているのがわかりましたが

皆様の鮭さまのいい話にもあるように若い侍と侍女が関係をもち、一度は切腹を言われかける話があるのですが、下手に侍女を殺っちゃうと、殺られた侍女の身内が謀叛または家を去っていくのでしょうか?
538人間七七四年:2011/08/22(月) 07:38:27.36 ID:nRfXKEUV
>>537
ここは質問スレじゃないかな。
539人間七七四年:2011/08/22(月) 08:02:08.95 ID:SbHaeYPR
>>536
先日紹介されたって、自分で書いたんじゃないの?
無駄に長いところがそっくりなんだけど
540人間七七四年:2011/08/22(月) 08:15:45.05 ID:h4k20F8z
マイナー歴史紹介スレじゃなくて逸話スレだってことを
いまいち理解出来てない臭いがする
541人間七七四年:2011/08/22(月) 08:51:25.98 ID:xP91P8Yp
>>533
文体も497-505そっくり。自作自演乙
まとめスレもこんなスレ違いの載せるなよ
542人間七七四年:2011/08/22(月) 09:01:48.45 ID:HlRV/lUy
まとめのウソの話のコメで元ネタブログほとんど引用だみたいなのあったから
今回のは元ネタの主だったりしてなw
543人間七七四年:2011/08/22(月) 20:17:34.94 ID:GozTgEYl
興味深い話ではあるんだけど、たしかに逸話ではないな
これにAA載せたら最上厨
544人間七七四年:2011/08/23(火) 00:16:10.89 ID:NLEuPCXP
天正6年(1578)4月、要衝・上月城を山中鹿介をはじめとする尼子残党に奪われた毛利氏は、これを奪還せんと
大軍をもってこれを囲んだ。篭城側にも織田家から羽柴秀吉らが救援に駆けつけ、戦線は膠着した。

6月に入ると、毛利氏の重臣・杉原盛重が、配下を集めて檄を飛ばした。
「お前ら、高倉山の羽柴陣に『忍び討ち』をして来い。こういう時のために、お前らが時々他人の蔵を破り、
垣根を飛び越えて盗人のマネをしているのを見逃しているのだ。今こそ、羽柴の警戒を確かめて参れ。」

杉原播磨守盛重、彼こそが毛利忍び衆の頭目だった。
その檄に応じた徳岡久兵衛、別所雅楽允、佐田三兄弟など二十余人は、その夜半に羽柴陣へ忍び込んだ。


まず初めに羽柴陣へ忍び込んだ徳岡久兵衛が篝火の燃えさしを取り、寝ている羽柴兵の背中に突っ込んだ。
当然羽柴兵は転がって叫び声を上げ、騒ぎを聞きつけて他の兵も陣屋から顔を出した。
闇から姿を現した忍びたちは、顔を出した兵を手当たり次第に押し倒し、その首を次々に落としていった。

「おい雅楽允、何をまごついておる。遊んでいるヒマは無いぞ!」
ひとりいつまでも首の落とせぬ別所雅楽允に、佐田兄弟の長兄・彦四郎が声をかけた。
「待ってくれ、打っても打っても首が切れんのだ!」
「落ち着け。お主のデカい鍔の刀では、地に伏した者の首など、鍔がつかえて圧し切れんわ。掲げて切れ。」
「おおっ、なるほど!!」

納得した雅楽允、いったんは押し倒した羽柴兵を引き起こすと、頭をつかんで掲げ、切り落とした。
その後はスパスパと首を落として満足した雅楽允は、引き上げの際、大音声で言い放った。

「我こそは杉原播磨が郎党、別所雅楽允!当陣の真ん中に、忍び討ちして帰るなり。
畿内並びに美濃・近江の弱兵どもよ、普通の戦と思っていると、こうして不覚を取るぞ!」
あわてて羽柴兵は雅楽允を追ったが、忍びたちは高倉山の宵闇の中に消え去った。(陰徳太平記より)

その後も忍び討ちを受けた羽柴軍は救援どころでは無くなり、そのうち別所氏の離反への対応で撤退。
孤立無援となった上月城は7月に陥落するという、本当は怖い忍者の話。
545人間七七四年:2011/08/23(火) 00:26:22.34 ID:FLdFN5GU
雑兵の首なんて放っておいて陣とか兵糧庫に火を燃やせよ・・・
546人間七七四年:2011/08/23(火) 00:52:38.11 ID:VTkPb0vT
その辺は守りが固いからじゃね?
あと兵を怯えさせるのが目的だからなるべく直接的でないと。
547人間七七四年:2011/08/23(火) 01:02:13.86 ID:jUl+cQiq
単に火をつけるだけじゃ普通は消されてボヤで終わるんじゃね
548人間七七四年:2011/08/23(火) 01:06:28.00 ID:FLdFN5GU
つ 焙烙火矢
549人間七七四年:2011/08/23(火) 06:20:33.83 ID:fvsyMy2u
小手調べでいきなり必殺技は使わない。
そういうことかもしれない
550人間七七四年:2011/08/23(火) 18:31:08.98 ID:4Fcp0HYy
軍の攻撃は防げても、人ひとりの侵入は防げない
ってことかな
551人間七七四年:2011/08/23(火) 20:44:53.30 ID:+5gSCeqg
軍記物で忍者の活躍をまともに書いてる珍しいシーンだったりするよな。
佐野兄弟は架空戦記とかで毛利忍者の頭目でよく出てくる。
552人間七七四年:2011/08/23(火) 21:13:50.89 ID:tGAZY2F4
独立系伊賀
六角甲賀
北条風魔
553人間七七四年:2011/08/23(火) 22:28:15.17 ID:XAckVRxH
職種上基本目立たない部分での活躍が多いだろうしな
たまに記述があったかと思えば失敗談だったり
554人間七七四年:2011/08/24(水) 00:18:24.49 ID:lNY7Pigs
細川幽斎が京の東に馬を進めていた時、道の真ん中にゴロンと大石が転がっているのを見つけた。

「なんじゃこれは?これ、あの石には何か云われがあるのかね?」
突然の異様な光景が気になった幽斎は、近隣の住人に大石の事を聞いてみた。

「ああ、ありゃ蒲生飛騨守様のせいでさあ。」
「…ああ……アレ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2405.html)ね………」

そう、アレから怒りの収まらぬ我らが蒲生塾長、京洛に石を置きっ放しにしていったのだ。
「こんな事になっていたとは。」
さすがにあきれた幽斎は、歌を一首置いてその場を去った。

“大石を 道にかまふ(構う・蒲生)に 引き捨てて 飛騨の匠も 及ばざりけり”
(委細構わぬ蒲生飛騨が、巨石を置いていってしまった。飛騨の名工とて、どうする事も出来まい)


しばらくして後、石の横に落書が立てられた。

“大石を 道にかまふと 見るこそは 身にも掛からぬ しらをいふさい(幽斎)”
(面倒が自分の身に降りかからん思うて幽斎はん、しらばっくれた事言うてはるわ。
同じ大名として、他に言う事・する事あるんちゃいますの?)


「越後在府日記」から、蒲生巨石祭りの何だか冴えない後日談でした。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5561.html
も畿内の商人だろうし、幽斎さんなぜか都雀とは相性が悪いようで。
555人間七七四年:2011/08/24(水) 00:47:07.33 ID:03e9R+xW
なんつーか、蒲生氏郷は本当に性格悪いというか器が小さいというか・・・
556人間七七四年:2011/08/24(水) 00:59:33.32 ID:3LEPh/kC
性格悪いというよりも何だろう…アレな方向に忠義心が向いちゃった感じ?
あと幽斎さんも都人は扱い辛そうだな
557人間七七四年:2011/08/24(水) 02:12:08.69 ID:J63ovrss
都雀くらいの嫌味レベルになってくると巨石位放置してもいいんじゃねwww
と思ってしまう俺は東ゑびす

でももともと使うから運んでたんだろうから、その後石が足りなくて困らなかったのかねえ
558人間七七四年:2011/08/24(水) 03:11:26.07 ID:2Add00GI
>>554
上手い返しだなw

>>556
別に蒲生氏郷に太閤への忠義心なんてないだろ。信長には心酔してたみたいだが
559人間七七四年:2011/08/24(水) 08:49:54.00 ID:gUkW2k5G
他の所なら、和歌を使ってちょっと気の利いたコメントを残せば「さすがインテリの細川殿」と
素直に感心してくれて終了なんだろうけどねえ
560人間七七四年:2011/08/24(水) 09:58:34.63 ID:gLjyYOVb
京の人「格好つけてそんな下手なうた読んでる暇あったらさっさと石をどけてくだはりまへんか?」
561人間七七四年:2011/08/24(水) 10:12:59.30 ID:FOUlokJo
>>485
信繁には葦毛の愛馬もいたんですね!
私の地元大分県にも、信繁の愛馬の墓と伝わっている真田栗毛の墓があります。
松平忠直が真田栗毛を貰って(奪って?)、豊後まで連れてきたとか。
地元民にも殆ど知られていませんので、真相は定かではないですけど。
562人間七七四年:2011/08/24(水) 16:04:21.25 ID:qaLjzaUs
徳川実記によれば紀伊に潜んでいた信繁正室竹林院(大谷吉継の娘)が
浅野長晟に捕えられ二条城に引き渡された際に
彼女が家康に献じた信繁が秀頼から賜った来国俊の脇差と金五十七枚は
すべて長晟に与えられたそうなので
そういった持ち物を与えられるのはよくある話だったのかも。
563人間七七四年:2011/08/26(金) 00:28:22.77 ID:XbV2Xl/5
>>561
真田隊の武将が乗っていた馬を戦利品ゲット。
それが名馬だったので寵愛、配流先まで連れていった、という話なら十分ありえる。
564人間七七四年:2011/08/26(金) 12:34:15.16 ID:QDazOluS
保守
565人間七七四年:2011/08/27(土) 17:48:30.58 ID:1ki89kUV
三河一向一揆の最中のこと。

永禄7年(1564)正月13日の早朝、上和田にあった家康方の大久保党は、その前日、
11,12日と一揆勢に押し寄せられたことに怒り、今度はこっちから押し寄せようと井内村まで下り
一揆の根拠地の一つ、針先の寺の近い浦地まで押し寄せると、一揆勢も同じようにそこまで
進出、双方鉄砲の打ち合いとなった。

この時大久保勢の大久保七郎右衛門忠世と一揆勢の本田彌三郎は正面で対峙し、互いに互いを鉄砲で狙う。
同時に発射!
と、彌三郎の弾は外れ、忠世の撃った弾は彌三郎の股をかすり、本田彌三郎、その場にうち倒れた。
が、浅手であったため味方に助け起こされ針崎の城内に引き入った。

こういった所に、針崎に籠っていた浄妙寺という一向宗の僧、これを見て進み出て、
重藤弓(全長170〜180cmの世界最大級の長弓)を持ち、三河での説法で鍛えた声で

「しゃらくさく堀を越えて戦に来たお前たちに、我らが大軍の武者をこれ以上手負わせてなるものか!
私が相手をしてやる!」

と、片肌も脱がずに弓を引こうとした。

この姿がどうにも似合わず可笑しいもので、寄せ手の者たちこれを見て

「弓を射る作法も知らないとは、いらざる法師の腕立てかな!」

と声をかけるとこの浄妙寺

「法師だからといって、弓を射る作法を知らないということがあるか!」

と片肌脱ぎにした。『右肩』を。

はい。弓を射る時脱ぐのは左肩であるのが常識です。浄妙寺さん、やっちまったわけです。
これには敵だけでなく味方も、戦の手を止め声を上げてどっと笑ったそうである。

三河一向一揆の中の、ちょっと可笑しなエピソード
(三州一向宗乱記)
566人間七七四年:2011/08/27(土) 19:38:16.34 ID:xtbQWOIP
はずかしいw
後で思い出して悶絶しそう
567人間七七四年:2011/08/27(土) 19:58:51.64 ID:GrrDZcSN
やっちまったな坊主!w
568人間七七四年:2011/08/27(土) 20:36:33.21 ID:QfdOZ6Cm
>重藤弓(全長170〜180cmの世界最大級の長弓)

いやもっと長いよ、普通でも2メートル以上はあるはず。

この重藤弓というのは本来武将が持つような格式の高い弓のはずなんだが、
それを射方も知らない坊主が持ち出してきたところにおかしみがある。
569人間七七四年:2011/08/27(土) 20:38:47.56 ID:/uyGzAn+
ここまだ笑われていざ射てみればものすごい威力と精度とかだったら伝説だったなw
570人間七七四年:2011/08/27(土) 20:46:28.09 ID:eXZh1iW2
あれ相応の技術を要求されるから、それやったら天才どころの騒ぎじゃねぇよw
571人間七七四年:2011/08/27(土) 21:16:05.87 ID:6pTFi6De
天地を喰らうの張飛並みだったら面白かったんだけどね
572人間七七四年:2011/08/28(日) 03:19:31.67 ID:LqePyUMB
なんかもう太陽でも射れそうな弓だな
573人間七七四年:2011/08/28(日) 20:03:55.27 ID:ls5hNM/b
文禄の役において、加藤清正は漢城(ソウル)攻略の後、さらに北部へ進軍し、諸将と連絡が取れなくなった。
糧秣が乏しくなった諸将は、漢城を離れ別の土地へ移動しようとしたが、ひとり加藤光泰が反対した。

「清正は、我らと離れて敵に向かっている。ここで我らが漢城を去れば、清正は捨て殺しになろう。
今ここを去る者は、男では無い!清正を捨てるは、日の本の恥ぞ!!」
「だが、食い物が無いのだ。どうしようもあるまい。」

すでにキレていたのか、光泰はムキになって答えた。
「砂を食えば良かろう!」
「いや、砂は食えんだろう・・・」
「へー!お前、砂の食い方も知らんのか?!じゃあ、オレが教えてやんよ!」

もはや絶好調の光泰、今度は福島正則を睨み、
「やい、市松!!いつの間にそんなにデカくなったんだ?!」
返す刀で宇喜多秀家を指差し、
「今までは『中納言殿』と敬ってやったが、お前なんか今日から『中納言め』だかんな!
どいつもこいつも、清正を捨て殺しにして、恥を異国にまでさらすヤツらだ!!」

そう言い捨てて光泰が座を立ったところに、清正が行く所まで行って戻って来たとの知らせが入った。
(常山紀談)

有名な話だけど、全部はまとめにもあがってないようなので。
残念ながら、光泰がその後どんな顔して諸将と付き合ったか、という記録はない。
574人間七七四年:2011/08/28(日) 20:24:29.28 ID:huA4REKS
そのあとすぐ病死したからな
575人間七七四年:2011/08/28(日) 20:39:30.76 ID:cqcruWx6
そういう逸話があったとすると本当に病死か気になるな
576人間七七四年:2011/08/28(日) 20:44:20.75 ID:RIonVYmM
>>573
なかなか気持ちのいいやつじゃないかw
577人間七七四年:2011/08/28(日) 20:51:15.39 ID:3T6T1f/I
光泰は当時から毒殺説が囁かれてたよね
578人間七七四年:2011/08/28(日) 21:30:43.23 ID:dacXyYTQ
まあ享年57だから死んでもおかしくはない
でも息子がいきなり4万石に減封されてるしなあ
579人間七七四年:2011/08/29(月) 12:34:11.95 ID:D61nGDrr
光泰殺害の主犯が、三成で、共犯者は宮部の息子は、明白。
580人間七七四年:2011/08/29(月) 12:38:55.15 ID:CvhAk2z0
清正のために本当に砂を食ってみせたらいい話に…ならんか
581人間七七四年:2011/08/29(月) 13:40:40.31 ID:ysX4tuUO
このひと自分の槍に倒韓槍とか名前付けちゃう、
ちょっとイタイじいさんだからな。
582人間七七四年:2011/08/29(月) 19:56:56.85 ID:J74Cp+SV
ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て、船頭に本土の事を聞いた。

「ほほう、江戸へ荷を運ぶ舟か!して、どこからの荷を運ぶのだね?」
「はい、阿波からの荷を運んでおります。」
「阿波か……今、阿波のご領主は、どなたかな?」
「松平阿波守様でございますね。」

秀家は、小首をかしげた。
「……?聞いた事のない家だ。徳川殿のご親戚か?」
「おや、ご存じない。なァに、蜂須賀様のことですよ。公方様から、松平姓を下賜されておいでです。」

ますます秀家は、首をひねった。
「わしが離島に流されておる世に、蜂須賀の家はなぜ今も存続している……?」(想古録より)


一方その頃、蜂須賀家政は伊達政宗に『阿波の古狸』と呼ばれていた。
583人間七七四年:2011/08/29(月) 20:13:16.48 ID:N3FqdAgo
>ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て

また酒をせびりに行ったのかと思ったよw
584人間七七四年:2011/08/29(月) 20:29:52.40 ID:G7S70noy
>>582
蜂須賀家と宇喜多家って何か確執あったっけ?
585人間七七四年:2011/08/29(月) 20:30:31.28 ID:q5Apfb6S
漂着した船に最初に近づくのは宇喜多秀家と決まっていたと想像させるなw
586人間七七四年:2011/08/29(月) 20:35:26.87 ID:UeTBVAd1
>>580
 砂を食ったために死んだと正直に記録しない程度の情けは豊臣家中にも存在した。
587人間七七四年:2011/08/29(月) 20:36:02.04 ID:EzRAhmuq
何も無くて暇なんだろうな…
588人間七七四年:2011/08/29(月) 20:36:37.99 ID:HzqxeYRg
>>584
「えっ、あのおっさん西軍やったやん?」くらいじゃねーかな?
589人間七七四年:2011/08/29(月) 20:55:35.78 ID:eG7S93P8
関ヶ原時は家政は高野山にひきこもり、息子の至鎮は東軍についたから
西軍じゃなくないか
590人間七七四年:2011/08/29(月) 20:56:32.12 ID:YhD5zXjH
>>582
そういや秀家が知ってるのは「湯漬け三杯食ったと思ったらいきなり領地返上して高野山に引きこもった」ところまでだったな。
591人間七七四年:2011/08/29(月) 20:58:32.01 ID:EzRAhmuq
>>589
西軍に攻められてあっさり城明け渡したから
事情詳しくない人には加担したと見られてもおかしくないかも
592人間七七四年:2011/08/29(月) 22:07:47.30 ID:CSlBG1Vt
しかも至鎮が率いていたのは、十数人程度の小勢じゃなかったっけ?
593人間七七四年:2011/08/29(月) 22:22:08.48 ID:e96XCm4/
阿波国内は毛利氏の家臣団が占拠された上、家政自身は逼塞を余儀なくされたみたいだし、
蜂須賀家政が西軍という認識は秀家にはなかったと思うけど、おそらくは蜂須賀といえば正勝以来の
豊臣家にゆかりの深い家だっただけに、「あれ、取り潰されてないんだ」という違和感を持ったって話かな
594人間七七四年:2011/08/29(月) 22:35:12.20 ID:YhD5zXjH
蜂須賀黒田浅野といえば、ちょっとでも胡散臭い大名には無理やり羽柴姓を名乗らせた秀吉から羽柴姓を押し付けられなかった譜代中の譜代だからな。
一方で揃って松平姓押し付けられてるけどw
595人間七七四年:2011/08/29(月) 22:46:34.91 ID:N6m879jK
秀家が流刑になったの1606年だから知ってるでしょうよ
596人間七七四年:2011/08/29(月) 22:48:24.16 ID:eG7S93P8
福島正則の改易前なら、同じく家康の養女をもらっている
蜂須賀が取り潰されと思うのは変な気も
改易後なら・・・酒をせびる相手がいなくなったから、新しい標的にしようと思ったんだろうか
597人間七七四年:2011/08/29(月) 22:50:28.97 ID:q5Apfb6S
秀家「あれ?酒は?」  って話じゃないの?
598人間七七四年:2011/08/30(火) 01:49:45.84 ID:oJQXviBU
羽柴姓受領と豊臣を名乗ることは
この時期どの位の価値があったのかよくわからん
豊臣朝臣清正って名乗ってなんで怒られたの?
599人間七七四年:2011/08/30(火) 02:20:33.82 ID:tHRXCUMQ
>>598
朝鮮役の頃は豊臣姓授与が武功への一種の褒美として与えられていたようで(だから陪臣でも
豊臣姓がやたら居る)勝手に豊臣姓を名乗るというのはその褒賞秩序も破壊する行為に成る。
600人間七七四年:2011/08/30(火) 18:16:28.85 ID:NhNyIOAq
江戸城中で、松平大和守直基が大坂の陣について雄弁を振るった事があった。

・・・が、大坂の陣の時に、直基はまだ元服も済ませておらず、活躍したのは兄の忠直や直政である。
同席した諸侯に、かの戦で自身も傷つきつつ戦った者や、親族を失った者も存在する中での直基の語りは、
人もなげな振る舞いに見えた。

そんな時、ツカツカと直基に近づいたのは我らが権中納言前田利常であった。

「大和殿・・・じゃーん!」
「きゃ――――――――――っ!!!」
(原文:大和守殿の側へお寄りなされ、足を捲り、慮外がましき体・・・)

利常お得意の露出狂攻撃を食らった直基は、目の色を変えて立ち上がり、諸侯も「これは事じゃ。」と
身構えたが、二人は何事もなく立ち別れた。


十日ほど過ぎたある日、富山藩主・前田淡路守利次(利常次男)は、直基に呼び止められた。

「おお、淡路殿!わしは利常殿の所へ参り、申し上げたき儀があるが、公儀にはばかりあり、それもならぬ。
貴殿も然るべき旨、お心得あれ。」
「し、承知。(ヤベェ!中納言の親父殿には直接仕返しできないから、オレに意趣返ししようってか?)」
困り果てた利次は、義弟(利常婿)の浅野光晟に相談した。

「ああ、それは私が大和殿に、義父上の
『ウチもようやく犬千代という孫(のちの綱紀)が出来ましたが、初めて犬千代が殿中へ上がる際には、
大和殿に介添えを願い申す』という言葉を伝えたからでしょう。大和殿、スゴい喜んでましたよ?」

“斯様の儀、御方便と存ぜられ候”と、「微妙公夜話」は結んでいる。
もう鼻毛殿は下に何もはかなくていいと思う。
601人間七七四年:2011/08/30(火) 18:25:25.37 ID:ZstUeY06
利常は下の話しか逸話がないのか
602人間七七四年:2011/08/30(火) 20:56:44.22 ID:gKE0G6lL
上の話は鼻毛しかないので、上下話題に事欠かない、ってことで。
603人間七七四年:2011/08/30(火) 22:23:53.19 ID:yOxGOvdE
世はまさに戦国…
フランスはじめ世界の国々が創価を危険なテロカルト認定。

【創価・集団ストーカー犯罪】とは、

加害者達が集団で、被害者を鬱病や統合失調症に仕立て上げ、
社会から抹殺しようとする凶悪な犯罪です。

この犯罪は海外でも存在し、アメリカではテレビでも報道され、
【生命倫理に関する大統領諮問委員会】も開かれています。

日本では20年以上も隠蔽され続け、年間自殺率3万人以上と増加の一途。
一刻も早く集団ストーカー犯罪を規制する法律が必要です。

604人間七七四年:2011/08/31(水) 00:37:04.15 ID:mangm6AO
主君替え、四人目

父親が謀反人という、ちょっとワケありの織田信澄のもとで
与右衛門は武功を重ねていた。
丹波小山城攻めでの功により黄金一枚を受けて良馬を買い、
続く籾井城攻めでは騎馬隊として戦い、兜首二つを獲得した。

やがて、欠員補充の穴埋め人事とはいえ、母衣隊に抜擢されることになった。
しかし禄高は依然、八十石のままだった。

母衣隊ともなれば、馬は必須のこと、厩を整え、馬具を揃え、世話人を雇わねばならない。
良い飼料も絶やしてはなるまい。
八十石では、足が出た。
馬を肥やせば自分が飢える。

思い余って与右衛門は訴えた。
「恐れながら、このままでは存分な戦働きができません!」

「で、あるか。」

信澄はまともに取り合わなかったのである。
ここは思案のしどころだった。
他家に仕官を求めるか、このまま八十石で飼い殺されるか。
さすがに、餅代も事欠くほどの浪人暮らしはもうごめんだった。

だが、
「(セコいそ、甥っ子!!)」
右衛門はついに、信澄のもとを辞したのだった。

三たびの浪人暮らしである。
大望を抱くも、郷里近江周辺をぶらつき(安近短で手を打ったわけだ)、
先輩・知り合いを訪ねては軍議と称して手柄話しを披露した。

羽柴小一郎秀長との出会いは、もうまもなくである。
605人間七七四年:2011/08/31(水) 01:39:35.38 ID:S4m81Z/k
藤堂さんの主君替えシリーズきたー
こんな兵糧攻めみたいな人事されたら仕える相手を替えざるを得ないって
606人間七七四年:2011/08/31(水) 01:49:55.11 ID:v+j4tj8Q
当時の俸禄が貫高じゃなくて石高・・・
607人間七七四年:2011/08/31(水) 02:04:16.95 ID:mangm6AO
またやった、すみません。
×右衛門 ○与右衛門
608人間七七四年:2011/08/31(水) 05:53:10.22 ID:tE8DPw4L
母衣に抜擢されたからって禄も増やしてもらえるわけじゃないし
609人間七七四年:2011/08/31(水) 06:46:22.01 ID:3LjQ10Tn
けんもほろろ
610人間七七四年:2011/08/31(水) 10:14:20.20 ID:zs4fZMPY
維持費は増えたのに収入はそのままだからな
611人間七七四年:2011/08/31(水) 15:42:53.17 ID:cVYVs/k6
いい話にしたものか悪い話にしたものか迷った。僕らの微妙院様・前田利常公のお話

慶長20年(1615)大阪の陣の時の事だという。
この時、16歳の出雲松江藩3代・堀尾忠晴は堂々たる初陣を遂げた。
忠晴は絶世の美少年として知られていたが、彼の美々しい初陣姿はまさに天下無双だと大いに評判になった。
と、この忠晴の姿を一目見て心を射抜かれたものがあった。そう、我らが加賀百万石太守・前田利常(当時19歳)
である。

利常は堀尾忠晴とお近づきになりたかった。深くお付き合いしたかった。
大阪の陣が終わると利常は早速、共通の知人である幕府旗本の竹中左京に仲立ちを依頼、月見の宴を開き
そこに忠晴をお誘いすることに成功した!

当夜。
前田邸に堀尾忠晴が訪れた瞬間からもう心臓がバックんバックンの利常公。
周りは気をきかせ二人っきりに。
が、利常、あこがれの美少年が側にいることに緊張しまくり、彼にどんな言葉をかけていいのか、
何を話題にすれば良いのかわからない。
そんな状況に堀尾忠晴も退屈そう。そこで利常がようやく搾り出した言葉が

「つ、つつ、月が綺麗ですね。」

もっとロマンチックな言葉がかけられると思っていた所、この恋愛したての中学生あたりが
告白の時動転して言いそうなセリフに堀尾忠晴もガッカリ

「そんなに月が綺麗なのなら、どうぞお一人でご覧になって下さい」

こんな言葉を投げ捨て座を立ち、そのまま帰ってしまった。利常、手痛く振られてしまったのだ。
これに利常の落ち込みようは半端ではなく、周りもすっかり困り果てた。

と、それからしばらくして、今度は堀尾忠晴の方から利常に「またあなたの所にお訪ねしたい」と言ってきた。
落ち込んでいた利常、今度は有頂天である。その日は屋敷の中を大いに飾り立て彼を迎える準備に大わらわ!
今度こそ自分の思いの丈を忠晴に伝えるんだ!そこに堀尾家から書状が!

『やっぱ行けないやゴメン by忠晴』

このドタキャンに利常は本気で落ち込み完全に塞ぎ切った。正にジェットコースター。憔悴甚だしく、家中の
者たちの言葉も虚しいだけである。そして日が暮れた頃、暗い前田邸に、「堀尾山城守(忠晴)からの使者」という者が
訪れ、前田利常へ直接会って主人の言葉を伝えたい、と言ってきた。
ところがこの使者、侍ですら無い、ごく身分の低い下男であるという。

「いけません!そんな下賎の者に前田家の当主たる殿が直接会うなど!」

家臣たちは揃って反対した。それも当然であろう。前田家といえば御三家にも並ぶ最高の格式を持つ家なのだ。
だが利常の忠晴への想いは本物であった!その前には家臣たちの反対など何ほどのものであろうか!

「堀尾殿が内々に私に伝えたい事があるに違いないのだ!どんな身分の低いものでも直接会わねばならぬ!!」

人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやら。利常、家臣たちを押し切りその使者に直接会った。ところが
その使者は!

「私です」「あっ!?」

なんと、それは下人に変装した堀尾忠晴本人であった。彼は利常の自分への想いが本物であるかどうか、
こうやって試していたのである。魔性の美少年にもほどがあるぞ堀尾忠晴。

とまあこうして相手の気持ちが本物であることを知った忠晴と前田利常は、それ以後想い想われる仲になったと
言うことである。めでたしめでたし。
(寧固斉談叢)
612人間七七四年:2011/08/31(水) 16:00:31.58 ID:s2fv4nWQ
魔性すなぁ
613人間七七四年:2011/08/31(水) 18:17:51.15 ID:tLab+ljF
微妙すなぁ
614人間七七四年:2011/08/31(水) 19:32:17.99 ID:prUpXMoj
戦国ちょっとホモ話
615人間七七四年:2011/08/31(水) 19:56:34.12 ID:v+j4tj8Q
堀尾の思考パターンが
完全に女に見えるんだがw
616人間七七四年:2011/08/31(水) 20:02:51.09 ID:glJgJGDD
女・忠晴 はじまったな^^
617人間七七四年:2011/08/31(水) 20:04:30.65 ID:hGB7AKfa
いよっ、御両人アッー!アッー!だね
618人間七七四年:2011/08/31(水) 20:07:38.38 ID:FQDgtgnw
漱石が「I love you」の訳語を「月が綺麗ですね」
にしたのを踏まえたネタだと思ったんだけど、原文にそう書いてるのだろうか
619人間七七四年:2011/08/31(水) 20:08:36.92 ID:6eJZV5Sn
忠晴は利常のどこに魅かれたんだ…
普通に考えれば引く手数多だっただろうに
620人間七七四年:2011/08/31(水) 20:13:27.69 ID:zCy8ZROv
忠晴もなんでこの露出狂に惹かれたんだろう…
621人間七七四年:2011/08/31(水) 20:49:02.78 ID:kyQAoyB/
忠晴もこうしてみるとほんとに惜しい人をなくしましたって感じだな


いろんな意味でw
622人間七七四年:2011/08/31(水) 21:19:20.87 ID:X+qoPoyA
うむ、おかげで松江藩はいろんな家にたらい回しにされた挙句、
松平不昧公のおかげで財政危機に
623人間七七四年:2011/08/31(水) 21:23:39.84 ID:hGB7AKfa
>>620

信長公を虜にした父親の股の槍左譲りの名槍持だったとか
それなら自慢したくて露出したくなるのも判る気がする
6241/2:2011/09/01(木) 18:18:36.05 ID:+mTkqkUA
朝倉義景の侍大将・黒坂備中守景久は、山狩りに出た際に熊に出くわし、手槍を折られながらも
鉄拳でもって熊を殴り殺し、以来その熊革を馬印にしたという強力大剛の男だった。

ある日、景久が折からの大雨に伴い、水のあふれた足羽川を巡検していると、向こう岸に目が不自由らしき
杖をついた男がウロウロしているのが見えた。どうやら座頭が、川を渡ろうとしているようである。

「お〜い、出水じゃ、あぶないぞ!!」
景久の呼びかけにも関わらず、座頭は服を脱いで褌一丁になると、氾濫する川に杖をさして歩き出した。
座頭は危なげなく川の中を歩き続け、やがて七分目まで来たところで、大岩に当たって止まった。

思わぬ障害物に小首を傾げた座頭であったが、杖を流されぬよう褌に突っ込み、両手で大岩を抱えると、
「えいやっ!!」
と気合一発、大岩を転がし、行く手から除けてしまった。大岩は、そのままゴロゴロと下流へ流れて行った。

無事に川を渡り切った座頭を、景久は招き寄せた。
「いやぁ天晴れ!お主、あれほどの大岩をも動かすとは、いったいどれ程の力があるのじゃ?」
「まあ、大抵のヤツにゃあ負けんと思いますが力試しは、した事がありません。」

「そうか。我こそは熊の馬印、黒坂備中!わしも自分の力を試してみたい。いざ勝負!」
「よっしゃ!恐れながら、お相手せん!」
6252/2:2011/09/01(木) 18:20:35.81 ID:+mTkqkUA
「しかし相撲等で争っても、どこまで土俵やら分からんお主が不利。ここはシッペの張り比べと行くか。
お主が勝ったら、銀二枚をやろう。わしが勝ったら、せいぜい念入りに按摩をしてもらうぞ。」
「面白いですな。その勝負、乗った!」

「では、備中様からどうぞ。」
「よーし、行くぞぉ!」指に力をみなぎらせた景久は、遠慮なく座頭の手首を張った。
「……っ!わ、ワラビが触りましたかの?」手首に青アザを作りながらも、座頭は耐え切った。
「さぁ次は俺の番じゃ!どぉれ、備中守様のお腕は……おう、ここか?!」

手探りで景久の腕を掴んだ座頭は、さらに確かめるように景久の腕をしごいた。その痛いの何の、
皮膚は下ろし金をかけられたように痺れ、骨がきしんだ。
(やばい。これはヤヴァイ。)
座頭が指を振り上げた瞬間、景久はとっさに馬の鐙を取り、腕にかぶせた。

バ ッ チ ィ ィ ィ ィ ィ ン ! !

「痛ううう!!さ、さすがは熊退治の備中様。俺の負けじゃ。」「ふ、ふん。口ほどにも無いの。」
強がりを言った景久だったが、鐙が指の形にくぼんでいるのを見てさすがにビビり、座頭を士分に取り立て
家臣に加えてやったそうな。(鏡花随筆)

真柄兄弟とかこういうのがいる朝倉氏や、金棒や丸太が獲物の坂東武者を率いる北条氏が
織田・豊臣に滅ぼされるのも歴史の不思議……でもなかったりする。
626人間七七四年:2011/09/01(木) 18:37:14.87 ID:ZHueUlKb
ちょっとは知恵があって汚い事もできないと天下はね、
って、あれ?
627人間七七四年:2011/09/01(木) 19:03:03.24 ID:LYt/qTxW
……こんなんに按摩されたら骨砕けるんじゃね?
628人間七七四年:2011/09/01(木) 19:21:01.99 ID:3+7HXbDB
いや、怪力でも盲者を士分にとりたててどうするんだ?
子供とかが勇者になるだろうと期待?
629人間七七四年:2011/09/01(木) 19:44:44.33 ID:dm3WrxJx
1600年の関が原の戦いの直前の事である。徳川家康に従う黒田長政らの東軍と、対立する石田三成の
西軍が合渡(ごうど)川を挟んでにらみ合っていた。そこでこちらから攻めるべきか、あるいは相手が動いた所を
迎い撃つべきか東軍の大名達の間で議論となった。この時、藤堂高虎は

「又兵衛、貴殿の意見が聞きたい。」

と後藤又兵衛に尋ねたのだが、主君の黒田長政は

「ふん、又兵衛の意見など聞いてどうなる!」と横やりを入れた。

陪臣の身でありながら大名に意見を求められたのが面白くなかったのかもしれない。しかし又兵衛も
長政のそんな態度に慣れっことばかりに

「勝つにしろ負けるにしろ、打って出ない事には家康公に顔向け出来ますまい。」

自説を主張。この意見を聞いて出撃した東軍の先頭に立ち、渡河の一番乗の名乗りを挙げる際も

「我は後藤又兵衛なり!」と「黒田家家臣」である事を言わなかった為、またも長政の気分を害したという。

以上、長政と又兵衛の溝が益々深まってしまったお話。
630人間七七四年:2011/09/01(木) 19:49:52.41 ID:S0jTlGiO
>>625
「武家事記」によると、浪人時代の明智光秀が最初に仕官したのが黒坂さん
だそうな。仕官する際に黒坂さんにすごい技を披露したのかな。
631人間七七四年:2011/09/01(木) 19:57:38.37 ID:iYm2bJ12
>>628
目が見えないことなんか戦うハンデにはならない








ソースは男塾の月光な
632人間七七四年:2011/09/01(木) 20:13:12.17 ID:3+7HXbDB
気配で周囲を察していたのに、透明なブーメランは分からない人は帰ってください
633人間七七四年:2011/09/01(木) 20:48:20.16 ID:p/xhdv6C
>>629
相手の発言や行動のことごとくがいちいち気に障るんだろうなあこの2人の関係
それが上手く働くと微笑ましい笑い話になるんだけど…
634人間七七四年:2011/09/01(木) 20:53:52.15 ID:6aZ2QESu
やっぱり又兵衛は長政の事舐めてるのか
長政がいちいち絡んでうぜーと思っているのか
635人間七七四年:2011/09/01(木) 21:12:35.24 ID:dto5IQHT
又兵衛が出てくるたびに長政の小物感が一層引き立つなぁ・・・w
636人間七七四年:2011/09/01(木) 21:18:27.65 ID:YM7LBfgY
そら後世成立の又兵衛ageの逸話なんだから当たり前っしょ
637人間七七四年:2011/09/01(木) 21:20:09.06 ID:6aZ2QESu
長政は犠牲になったのだ…
638人間七七四年:2011/09/01(木) 21:36:31.90 ID:Qgxyh5dJ
又兵衛相手じゃなくても、長政は小物臭しかしない
639人間七七四年:2011/09/01(木) 21:41:40.11 ID:iYm2bJ12
武辺に関しては自分の息子にすら対抗心燃やしてたよな
640人間七七四年:2011/09/01(木) 22:54:44.76 ID:YM7LBfgY
違うだろ
小物臭くしてる逸話の長政が小物臭いだけだろ
641人間七七四年:2011/09/01(木) 23:14:06.74 ID:4xp8mB1D
江戸時代は槍働きが無いから死を賭けた諫言が最上級の忠義
武士に生まれたからは一度はやってみたい諫言。って時代だったそうで
ある程度功をなした家臣はみんな機会を狙っていたとか
こういう逸話を好んで量産した黒田家は後々まで忠義者が多かったのかもね
642人間七七四年:2011/09/01(木) 23:23:22.02 ID:tr+CvJPh
そういう諫言を許している長政は大物だと思うんだけどな
643人間七七四年:2011/09/01(木) 23:30:26.58 ID:D1bZpdM/
「諫言を好む」というのも名君の条件だしね
644人間七七四年:2011/09/01(木) 23:41:39.92 ID:6aZ2QESu
家康も、諫言してくれる家臣は大事にせよと言ってるしな
645人間七七四年:2011/09/02(金) 07:03:10.68 ID:IaNqQLCp
けど一つ間違うと勘違いしたことをねじ込んでくるバカ家臣だからなー。
江戸期には抜擢した下級家臣と藩政改革しようしてる時に、阻止しようと「諌言」した重臣が多い。
そのくせ、通らなくても浪人する度胸もなくてぐちぐち言い続けるという。
646人間七七四年:2011/09/02(金) 08:31:06.14 ID:pjrKKvXb
そのくせ、いざ自分が殺されそうになったら、主君を無実の罪で訴えたりな
647人間七七四年:2011/09/02(金) 20:21:48.04 ID:YR3KCkeD
又兵衛の再仕官先をことごとく潰すべき書状配りまくった時の長政は小物臭しかしないな
嫌いな武将では無いけど、親父が生きてた頃は良い意味で小物臭を放っていたのに
例えるなら親父生存時の長政=クリリン
親父死亡後の長政=ヤムチャみたいな感じ
648人間七七四年:2011/09/02(金) 20:28:46.26 ID:BFHfy2D5
父に「不肖の息子」と見下されていたせいで性格がねじ曲がった長政、
同情すべき所はあるが近寄りたくはない奴だ
649人間七七四年:2011/09/02(金) 20:35:46.70 ID:VnF+4ujX
長政はけっこう又兵衛を信用していたみたいなのにな
黒田家中では孤立していたような
大坂でもハブっぽいし、コミ障の気でもあったのか
同僚に嫌われる人となりだったのか
650人間七七四年:2011/09/02(金) 20:45:58.37 ID:HK5hZHU2
>>648
どっちかってーと又兵衛の方が近寄りたくないな、悪い意味でめんどくさい。
651人間七七四年:2011/09/02(金) 20:50:55.38 ID:IaNqQLCp
結局、又兵衛って如水が使わないとダメな人だったとしか思えんな。
大阪の陣でも自分の功名しか考えてないし。
652人間七七四年:2011/09/02(金) 20:51:50.28 ID:a5gvGlmq
又兵衛は大阪城では兵卒に人望高かったみたいだけど、違う逸話でもあるの?
つうか、あの大坂城でカリスマ性を発揮できる奴なんているのかね
653人間七七四年:2011/09/02(金) 20:56:43.26 ID:p64izSXP
兵卒に信頼してもらう
上司に信頼してもらう
同僚に信頼してもらう

これはそれぞれ違う能力だからね
又兵衛には一番上しかなかったんだと思う
654人間七七四年:2011/09/02(金) 20:56:52.10 ID:IaNqQLCp
軍議で真田信繁と並んで自分がおいしいところを持って行こうと自己主張しまくって、
まともな作戦を作らせず
655人間七七四年:2011/09/02(金) 20:58:54.93 ID:a5gvGlmq
ずいぶん又兵衛に辛い人たちがいるけど、黒田家の人?w
656人間七七四年:2011/09/02(金) 21:10:33.18 ID:VnF+4ujX
その如水にしても、長政にあんまり又兵衛を信用するなと言ったという逸話があるくらいだからね
657人間七七四年:2011/09/02(金) 21:14:50.24 ID:lM0e+K4h
>>653
スカウトした大野修理には信頼されてたような
658人間七七四年:2011/09/02(金) 21:35:29.12 ID:kI6EdSaZ
>>653
俺の中で又兵衛のイメージがハートマン軍曹で固定された
659人間七七四年:2011/09/02(金) 21:48:47.78 ID:YR3KCkeD
乱世においてはリスクを補うだけのメリットがあったけど
平時においてはリスクしか無い武将の典型だったんだろ又兵衛
でも諸大名に門前払いする様に仕組んだ長政も上司としては大概だと思う
>>654
あの面子で真田に重要箇所を任す大阪方の采配はハンパ無いけどな
ホモにニートにアスペにカルトとか長宗我部さんかわいそう
660人間七七四年:2011/09/02(金) 21:50:05.96 ID:9cpoU8IS
又兵衛は判官贔屓の典型のような。
それで好意を持った人たちが調べてみてもあまり感動するような逸話が無い。
仕方ないのでとりあえず長政を悪く言っておこうかみたいな。

でもまあ名将には違いないだろうし
次の戦国大河は真田か黒田かと言われてるくらいなんだし
印象悪くともネタは歓迎。
661人間七七四年:2011/09/02(金) 22:07:54.90 ID:IaNqQLCp
>>659
いや、毛利さん嫁も子供いるんだからホモじゃねえだろ
662人間七七四年:2011/09/02(金) 22:11:26.02 ID:EZoNJ7tn
バイだな。
男色を嗜む武将は多いけど男色専門はそういない。
663人間七七四年:2011/09/02(金) 22:12:24.09 ID:/tsr3TT+
判官びいきで人気な奴には碌なもんがない
664人間七七四年:2011/09/02(金) 23:14:23.13 ID:a5gvGlmq
逸話スレなんだし、脱線はここらへんにしとこうぜ
665人間七七四年:2011/09/03(土) 00:29:16.90 ID:r1U96zuY
母里さん→滅茶苦茶だけど長政の事大切に思っている。
後藤→長政ディスリまくり。
逸話だけだとこんな印象受けるわ。
666人間七七四年:2011/09/03(土) 01:05:27.38 ID:XW0Eps16
いい話も悪い話も、言ったもん勝ちなんだなあ結局
667人間七七四年:2011/09/03(土) 01:22:16.03 ID:XotMuuQv
又兵衛はなんか、愛が足りないよな
668人間七七四年:2011/09/03(土) 02:42:40.61 ID:xA/3ksQW
愛されてはいたが、そのせいかな
669人間七七四年:2011/09/03(土) 12:20:32.05 ID:APsTrRyG
あげ
670人間七七四年:2011/09/03(土) 13:40:36.56 ID:zAQjJHSq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5420.html
このお話で佐竹陣でハゲ頭のおかげで負傷した古田織部さん。その後日談


慶長19年(1614)11月27日、古田織部は将軍徳川秀忠の元を訪れ

「いやはや!先日佐竹義宣の陣に訪れた時、堤の陰より放たれた銃弾が左の眼の辺りに当たりました!」

と語ったが、秀忠はそれに感心のない様子で、すぐに別の話題を始めた。
後で秀忠の近習たちがこの事について語ったことには

「自分の陣所で傷を負うなら忠節というものだろうが、軍令に背いて他人の陣所に行って流れ弾にあたって
負傷するなど、不覚なだけではないか。」
と笑いあったという。

しかし先の逸話で
> 「ああ、この初めての手傷を自分の担当する仕寄で負ったなら、少しは御感に入ることも出来ただろうに、
> よりにもよって他所の仕寄で負うとは、これでは丸損ではないか。」

って自分で言ってるのに、それでも一応、ものは試しに言いに行ってみたんですね、織部さんw
(難波戦記)
671人間七七四年:2011/09/03(土) 14:57:44.79 ID:2qeS4u7Z
何となくなんだけど、権現様と織部の関係って太閤さんと利休の関係と被るんだよね。
茶の湯ってそこまで凄いものだったのかねぇ。
672人間七七四年:2011/09/03(土) 15:07:20.62 ID:6RFc39b6
その織部も大坂の陣後秀忠に切腹させられてるからな
茶人の末路はせつない
673人間七七四年:2011/09/03(土) 15:08:17.25 ID:IugRXrva
今の日本文化は茶の湯が作ったという人もいるからな

茶しばくだけじゃなくて、礼儀作法全般から、
書、絵、陶器などの美術品から、建築や作庭、装束まで網羅するとも言える
今みたいなただの趣味とは意味合いが異なる
674人間七七四年:2011/09/03(土) 16:02:05.00 ID:akHi88yC
そういえば秀忠の茶の湯のブレーンは、山本道句といい金森可重といい、古田織部の弟子なんだなあ。
何故かその中に、あの佐久間信盛の嫡男で、信長から例の折檻状で「茶の湯やりすぎ!」って叱られた
佐久間信栄が、茶人として混じってたりするがw
675人間七七四年:2011/09/03(土) 18:19:52.62 ID:vfoDCM4N
なんか古田織部は反抗のための反抗って感じで、利休と違ってあんまり同情できないんだよな
茶道のために筋を通したんならともかく他人の嫌がる様をみて喜んで、挙句の果てに大阪方に内通
いつか誰かに殺されてもしょうがない生き方だったと思うよ

まあ>>670の織部は、書き方もあってユーモラスに見えるけどw
676人間七七四年:2011/09/03(土) 18:37:43.88 ID:ghZpOZWt
実際の古田織部がどうして内通したかは分からんが
へうげものの古田織部だと茶器を大阪城から盗む為に息子と共謀してたんじゃね?と思えてくる
不思議!
677人間七七四年:2011/09/03(土) 21:26:08.44 ID:2qeS4u7Z
動機って点じゃめちゃくちゃ不自然な事件だとは思う。
既に勝負が見えてからの、真田信繁、後藤基次、塙直之。
当時の武将が何考えていたのか、損得だけで動機考えるのって無理があるかな。
ただね、織部が切腹した後の家康の反応がこれまた不自然。
それこそ長安事件と同じ匂いがするんだよね。
678人間七七四年:2011/09/03(土) 21:33:07.51 ID:XW0Eps16
師匠の利休とはまた違う意味で、謎の多い死を遂げたのか織部
679人間七七四年:2011/09/03(土) 21:42:38.20 ID:akHi88yC
しかし織部は大坂の陣の段階でも大物ってほどでもなく、利休のように政権に深く食い込んでいたわけでもなく、
コネクションがあると言ってもそれが即幕府の脅威になるようなものではなく、
やっぱり単純に、息子が何らかの形で豊臣と通じていたのが発覚して、責任とって連座で切腹、
ってことだと思うよ?
680人間七七四年:2011/09/03(土) 22:15:00.38 ID:uz/LElpf
茶道筆頭でしょ? 当時の茶の湯の政治的重要性から考えると十分に重要人物だと思うが。
681人間七七四年:2011/09/03(土) 22:17:36.25 ID:81XZEsGI
まぁそう思うだけなら故人の自由ですから
682人間七七四年:2011/09/03(土) 22:28:20.51 ID:1e7JzRzD
まあ、マジで内通してたなら切腹じゃなくて斬首ものだよな。
683人間七七四年:2011/09/04(日) 00:16:22.80 ID:SGh8Mp4H
へうげものや、上のリンクの逸話を知る前の古田織部のイメージ
・千利休の追放の際、細川忠興と二人で堂々と見送った剛の者
・歪な道具を好んだ粋な茶人
・武士としても活躍

あれ
684人間七七四年:2011/09/04(日) 06:22:18.12 ID:a7ThJi9u
茶の湯の文化だけじゃなく、安土桃山の政治史への重要な関わりを知れば知るほど
韓国茶道ってばかみたいと思うの
685人間七七四年:2011/09/04(日) 07:55:39.83 ID:J40O4g6A
織部切腹は、徳川家以外に権威があっては好ましくないから始末されたのだと推測
686人間七七四年:2011/09/04(日) 10:30:02.51 ID:BZvGkTZF
織部の権勢なんて徳川からみたら屁みたいなもんだろ
687人間七七四年:2011/09/04(日) 10:43:33.72 ID:pMlIvP4l
邪魔だから排除した、じゃなくていらないから捨てたってイメージ
688人間七七四年:2011/09/04(日) 12:50:33.00 ID:lgImhBFC
切腹まで含めて織部の芸術なんだという気もする
689人間七七四年:2011/09/04(日) 12:53:54.74 ID:UuF0Kzeq
へうげなら、最後はさぞ凄い顔芸して終わってくれるだろう
690人間七七四年:2011/09/04(日) 17:06:28.13 ID:FiCafuW0
悪い話か微妙だが

浅野幸長が数奇屋を建て直した際、家臣の浅野内膳が使わなくなった建材をもらい受け、自邸に書院を建てた。
新書院お披露目にあたって、内膳は幸長の父・浅野長政と堀親良(秀治弟・長政婿)を茶会に招待した。

当日、内膳みずからの出迎えによって新書院に案内された長政は、その四方を見渡して眉をひそめた。
内膳自慢の新書院、内装は数寄を凝らし華麗を極め、茶器も高価な名物道具ばかりであった。

「内膳よ。千五百石の分限には、過ぎたる振る舞いよな。この長政、かかる贅沢は大嫌いじゃ。
こんな場所で、今日の接待に預かるわけには行かぬな。
真に馳走の志あらば、以前からの部屋でも、亭主が心をこめて接待すれば良いのではないか?」

「も、申し訳ござらぬ!まこと、大殿の仰せの通り。」
「ならば、この書院は要らぬな?」
「え?」
「おーい、みんなー!」

自分はおろか親良の従者まで集めた長政は、命じた。

「この書院を取り壊せ!!」

命に応じた屈強な従者たちは、さっそく袴を脱ぎ、着物の尻を端折って、竣工したばかりの書院を破壊した。
更地になった新書院を見届けた後、長政は以前からの書院で、心行くまで茶を楽しんだ。
(名将言行録より)
691人間七七四年:2011/09/04(日) 17:56:46.22 ID:i0k4tUol



こ  れ  は  ひ  ど  い


692人間七七四年:2011/09/04(日) 18:08:45.19 ID:UuF0Kzeq
これは

ひどい
693人間七七四年:2011/09/04(日) 18:11:43.72 ID:2mN6vEsB
また長政sageかよ
694人間七七四年:2011/09/04(日) 18:12:11.35 ID:j+dlDxLg
こんなのってないよ
長政さん的には説教のつもりだったんだろうが
695人間七七四年:2011/09/04(日) 18:14:48.13 ID:UuF0Kzeq
浅野長政って、そんなに贅沢嫌いな人だったの?
696人間七七四年:2011/09/04(日) 18:16:49.99 ID:eR7hWYuJ
秀吉の縁者の割りに大坂城とかも嫌いだったのかな
697人間七七四年:2011/09/04(日) 19:14:06.33 ID:XCrDs8dV
縁者っていっても嫁の方だったよね?
698人間七七四年:2011/09/04(日) 19:20:21.12 ID:DfgTYlFG
これは謀反起こしてもいいレベル
699人間七七四年:2011/09/04(日) 19:28:12.05 ID:UuF0Kzeq
その後の内膳さんの様子が気になる
700人間七七四年:2011/09/04(日) 19:40:45.28 ID:VBtu9ui5
>使わなくなった建材をもらい受け

本来なら捨てるところを再利用してるんだから褒めるべきだろwww
701人間七七四年:2011/09/04(日) 19:49:39.62 ID:DfgTYlFG
取り壊される書院が量産型エヴァに食い散らかされた弐号機みたい

内膳「殺してやるっ!」
702人間七七四年:2011/09/05(月) 00:24:20.49 ID:in8MiQF5
村重、出家する


信長に謀反して敗れ、天下に汚名を轟かせた荒木村重。
彼は反省するどころか、いち早く降伏して助かった高山右近を恨み、そのためにキリシタン嫌いになっていた。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
荒木はキリシタンである小西行長を讒訴した。
が、これは失敗し、小西は何ともなかった。

しかし懲りない村重。
ある茶会で秀吉と同席した時、秀吉が右近の話をし始めると、右近を讒訴しようとした。
「殿の讃えられる右近の勇気は実は見せかけのもので、本物ではございません」
「出て行け!右近が裏表の全くない人物であることは俺が良く知っておるわ!」
秀吉の怒りを買った村重は、長く引見を許されなかった。

まだ懲りない村重。
秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣すると、京にいた村重は、今度は秀吉の悪口を言い始めた。
これが運悪く北政所の耳に入ってしまい、彼女に叱責された村重は、死刑にされることを恐れ、ついに出家したという。
703人間七七四年:2011/09/05(月) 00:30:08.67 ID:91CMIHtn
小物すぎだろ。出家するだけで命が助かってよかったな。
704人間七七四年:2011/09/05(月) 00:31:19.43 ID:kXaVKb61
さすが道糞の名にふさわしい男
705人間七七四年:2011/09/05(月) 00:38:20.69 ID:8CcnIR3T
>>702
なんか、荒木道糞と名のる人間とは思えない小物振りだな。
706人間七七四年:2011/09/05(月) 01:00:09.18 ID:S34bd7Vb
謙遜して道糞名乗ったんじゃなくて
本当に心根クソな奴が開き直っただけに見えてくる
707人間七七四年:2011/09/05(月) 01:52:16.05 ID:HzJyI8Kr
秀吉が大物に見える
708人間七七四年:2011/09/05(月) 02:05:30.49 ID:67lIseDQ
言った後で周りの反応見て後悔するタイプなんかねw
709人間七七四年:2011/09/05(月) 08:32:52.36 ID:qICeGW/6
結局はウコンも追放されキリシタンも絶滅だから荒木さんの言ったことは効いていたわけだ
さすがだ
710人間七七四年:2011/09/05(月) 11:41:39.21 ID:UwBRUzbm
元ネタ宣教師くさいなw
711人間七七四年:2011/09/05(月) 12:59:20.67 ID:BO/3Tn1L
糞だけに肥やしになったわけだw
712人間七七四年:2011/09/05(月) 13:31:53.49 ID:m84arMM+
と言うか荒木は秀吉とトラブッテ織田家から離反したのに何やってんだww
713人間七七四年:2011/09/05(月) 19:39:46.78 ID:eGX4MZds
>>693では、俊英・浅野殿age?な話

徳川家康が将軍宣下を受けたばかりのころ。伊達政宗と黒田長政が碁を囲み、それを浅野長政が
見物しているところに、家康が十二、三歳の年頃の少年を伴ってやって来た。

浅野「やっ、これは」
家康「あぁ結構、結構!今日は野暮用で来たまで。これ、わしの甥っ子・亀松。」
亀松「よ、よろしくおたのみもうす!」

政宗「・・・・・・」 パチン
黒田「・・・・・・」 パチン
↑熱中

家康「実は御三方に用というのは、この子に嫁のクチはないか、という話だ。身びいきながらこの亀松、
なかなか見どころあり、とわしは見るのだが。」
亀松(ドキドキ)

政宗「・・・・・・」 パチン
黒田「・・・・・・」 パチン
↑超熱中

家康「あ、あのー」
亀松「・・・・・・(泣)」

浅野「よ、よし!その話、それがしが承る!幸い、わが娘に似合いの年頃の子がおり申す!」
家康「あ、ありがとう!ありがとう!!」

こうして亀松と浅野長政娘との縁談がまとまったそうな。(鎮国神公御遺事)

まぁ亀松、のちの松平定綱的にはすごい当たりクジを引いたのでいい話かも知れないが。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4158.html
714人間七七四年:2011/09/05(月) 19:59:13.18 ID:L/hY4Mt4
ワラタw
囲碁に熱中してて聞こえなかったのかな?
715人間七七四年:2011/09/05(月) 20:24:40.54 ID:XaMtUpvR
家康よく怒らなかったな
そして浅野さんの空気読みっぷりが泣ける…
716人間七七四年:2011/09/05(月) 20:32:17.50 ID:SwzMsc9C
政宗「やっべ、嫌なの来ちゃったよ」
ngms「お前相手しとけよ?」
717人間七七四年:2011/09/05(月) 22:50:35.39 ID:4bdQg+E1
この二人が聴いてない訳がない。
聴こえないふりしているに違いないw
718人間七七四年:2011/09/05(月) 22:52:51.63 ID:3EaiIco+
間違いなく聞こえないふりだなぁ
いくら集中してても、静かな囲碁で人の声が聞こえなくなることはまずない
719人間七七四年:2011/09/05(月) 22:52:53.02 ID:EFUfNwxZ
というかこの時期政宗と浅野は絶賛絶縁中だから、仮にこの3人が本当に集まったとしたら
無言でいるか血の惨劇に成るかしかなかろうなw
720人間七七四年:2011/09/05(月) 22:57:19.18 ID:XaMtUpvR
政宗はやりそうだけど、ngmsはここまで出来る立ち位置だろうか
721人間七七四年:2011/09/05(月) 23:04:38.33 ID:uAF6fvh2
>>690
そういや
まとめブログで長政多いなってコメあったが
忠政も多いような気がしてきて調べたらこんなにいたw

森忠政
水野忠政
本多忠政
奥平忠政
仙石忠政
鳥居忠政
黒田忠政
安中忠政
榊原忠政
小栗忠政
田中忠政
阿部忠政
松平忠政
戸田忠政
浅井忠政
伊奈忠政
大須賀忠政
神忠政 
722人間七七四年:2011/09/05(月) 23:31:47.63 ID:EfQKtJ4u
忠は分かるけど、政って字はどこからそんなに沸いてくるんだろうな
ただ単純によく使われてただけなのか
723人間七七四年:2011/09/05(月) 23:36:37.14 ID:EFUfNwxZ
「忠」はほとんど秀忠からの偏諱だね。
「政」はその文字の通り「政治をしっかりやります」との決意なんだそうな。
724人間七七四年:2011/09/06(火) 13:43:20.92 ID:RvoOrxfW
大久保忠政もいるね

新しい世代の連中はともかく
三河武士にとって忠政は特別な意味でもあるのかしら
725人間七七四年:2011/09/06(火) 15:12:27.61 ID:wPDywm+I
水野忠政かな
726人間七七四年:2011/09/06(火) 18:21:55.35 ID:3s40ZfNQ
そもそも「忠」自体
酒井忠次、酒井忠尚
酒井忠親、酒井重忠ら雅楽助一族
本多忠勝、本多忠政、本多忠朝ら本多一族、
大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠隣、大久保忠教ら大久保一族
鳥居元忠、鳥居忠広、鳥居忠政
徳川秀忠、徳川忠長、松平康忠、松平康重、松平忠吉ら徳川一族、
他に伊奈忠次、榊原忠政、阿部忠秋
などなど・・三河衆でよく使われてるから・・。
「政」は当時人気だったし。
727人間七七四年:2011/09/06(火) 18:41:56.67 ID:E6IJRtTE
島津一族忘れんなよ
伊集院、川上、新納、北郷、樺山、町田、佐多など支流も含めたら結構な数になるぞ
728人間七七四年:2011/09/06(火) 19:53:06.17 ID:RvoOrxfW
他にも
内藤忠政
大岡忠政
稲垣忠政
丹羽忠政

と見つかるね

>>726
当時の武士からすると「忠」も大事に考えて多用したのかなあ?
それにしても三河衆の忠政率半端ないな
729人間七七四年:2011/09/06(火) 20:01:26.97 ID:3s40ZfNQ
>>728
忠次「なんで殿は忠の字が入っておらぬのじゃ!」
忠勝「我等三河衆の旗頭ともあろうかたが、ありえん!」
元忠「そうじゃ!長松公に忠の字をお付けしよう!」
忠世「乗った!」
秀吉「ちょっとまて。秀の字は必ずつけよ。」
忠佐「じゃあ下に忠をつけるんじゃ!」
家康「・・・・・・。」

こうして独自性は無いが有能な秀忠をそのまま表すかのような名前、「秀忠」が誕生した。
なんちゃって。
730人間七七四年:2011/09/06(火) 20:06:38.24 ID:1GMLn5sr
特に家は関係なく忠なんてのは武士にとって重要な概念の一つだし
その中でも三河武士の性質に合ってたとか、今でもあるように流行の
文字ってのもあったかもしれない。

秀忠の偏諱にしてもそもそも秀忠の忠の字はどっから来たんだっけ?
とか思ってたら>>729

そういや家康からの偏諱ってあんま無い気が
731人間七七四年:2011/09/06(火) 20:09:55.24 ID:IIXMTDq4
島津忠恒が家康の偏諱を受けてたような
おかげでかぶってしまい、悪の方の、と後世言われることに
732人間七七四年:2011/09/06(火) 20:17:03.56 ID:ONKexbTL
吉川元春は陶隆房(晴賢)と義兄弟の契りを交わしている。
それにはこんないきさつがあった。

毛利父子が山口に来ていたとき、大内家家臣の相良武任が義隆に提案した。

「義隆様、元就が尼子になびかないように、
 がっちりハートキャッチしとかなきゃいけませんよ。
 隆元に関しては、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いし
 あれを養子ってことにして隆元と婚姻契約結びましょう。
 あと、次男の元春、いい男っぷりですよね!
 元就と並び立つ良将の器って評判ですよ!
 で、ウチの陶隆房と元春を義兄弟にしちゃいましょう。
 隆房も勇猛さでは西国一です。
 あの二人に先陣を任せれば、かの蒙古の堅陣だって簡単に破れますよ!」

「グッドアイデア!」と思った義隆が、さっそく元就を呼んでこれを伝えると、
元就もこの提案を大いに喜んだ。

そんなわけで、大内の毛利つなぎとめ政策の一環として、
元春と隆房は義兄弟になったという。
夢もロマンもありゃしねぇので悪い話。

ちなみに三男の隆景については、義隆様が直々においしくいただきました。
「又四郎隆景は容姿はなはだ美なりしかば、義隆卿男色の寵愛浅からずして」って
陰徳記に堂々と書いてある。
733人間七七四年:2011/09/06(火) 20:18:46.46 ID:FMAob7Di
>>730
秀忠の忠は、松平家に代々伝わる由緒正しい文字なんだと聞いた
あと家康からの偏諱は

榊原康政
島津家久(悪久)
最上家親
牧野康成
有馬康純
本多康俊
内藤家長
二条康道

まだまだいると思う
734人間七七四年:2011/09/06(火) 20:20:51.50 ID:jT3E161s
伝統の処刑法


太閤秀吉の側室の1人が病気になった。
秀吉は彼女にいくらかの金銀を持たせ、療養のために実家に帰してやった。
しかしここで不幸な誤解が起こる。
彼女は「もはや側室ではなくなった」と誤解してしまったのだ。
そして別の男と再婚し、一子を儲けた上、秀吉に挨拶しに来てしまったからさあ大変。

「久しぶりじゃな。一体どこにいたのか」
「夫の家です」
「……は?」



「 ノ コ ギ リ 挽 き じ ゃ !」


夫婦は1本の柱に縛り付けられた状態で、腰まで地面に埋められ、竹製のノコギリと共に放置された。
しかし、通行人が少なかったのであろうか、3日経っても夫婦は死なず、結局普通に斬首された。
なお、女の母親、女の子供とその乳母は火あぶりにされた。
735人間七七四年:2011/09/06(火) 20:24:06.39 ID:FMAob7Di
>>732
政略結婚もとい、政略兄弟の契り
大内義隆って、隆元も美味しくいただいてなかったっけ?
736人間七七四年:2011/09/06(火) 20:37:34.59 ID:yeZlZEIy
男子は手当たり次第…
さすが中国の男色王の名は伊達じゃないな
737人間七七四年:2011/09/06(火) 20:37:57.81 ID:ONKexbTL
>>735
十五、六の少年が三年も山口にいて、あの義隆に手を出されなかったとしたら、
そっちのほうが不名誉ではなかろーか。
隆元は人質初日から贈り物攻めで大変大事にされたようだし、
当時の日記に義隆と隆元同宿の記述もあるようだし……
毛利家としては権力者に愛されて大変けっこうなことじゃないのかなw
738人間七七四年:2011/09/06(火) 20:38:51.97 ID:1GMLn5sr
>>733
言われて見るとそこそこいますな、蜂須賀家政とかもたぶんそうだよね、姻戚でもあるし。
ただ、家康のビッグネームを思うとそれでも思ったより少ないイメージではあるんだけど
よく考えたら家臣以外におおっぴらに名前1字くれてやる、なんてことが出来たのは
秀吉死後〜秀忠2代将軍誕生までの数年間だっただろうし、それ考えるとなんか納得
739人間七七四年:2011/09/06(火) 20:41:24.87 ID:IIXMTDq4
>>734
通行人が少なかった、より
通行人が、鋸引きの理由を知って憐れんだor恨みをかうのを恐れた
のような気がする
740人間七七四年:2011/09/06(火) 20:47:57.28 ID:FMAob7Di
>>736
あの時代、男色は珍しくないと言われても
俺はノーマルでもほいほい食っちまうんだぜ というセリフが凄く似合うよね義隆さん
741人間七七四年:2011/09/06(火) 20:57:46.88 ID:rLAdTtyh
うむ。
742人間七七四年:2011/09/06(火) 21:05:16.02 ID:ONKexbTL
>>740のせいで青い狩衣を着た阿部さんが夢に出てきそうだ
743人間七七四年:2011/09/06(火) 21:13:28.58 ID:3s40ZfNQ
「息子があの好色野郎に!」
なんてきれて離反する君主いそうだなw
744人間七七四年:2011/09/06(火) 21:42:53.33 ID:FMAob7Di
出世の為に娘を差し出す奴もいただろうが
出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか
745人間七七四年:2011/09/06(火) 21:48:16.37 ID:q77qVkIq
>>734
こんなことばっかやっているから家も胤も跡形なくなるんだな
746人間七七四年:2011/09/06(火) 22:12:01.21 ID:pit7FXLf
>>745
秀吉のイメージを貶めるために後世に作られた話も多いけどね
主家を滅ぼした徳川家にすれば秀吉が悪党であった方が都合がいい
747人間七七四年:2011/09/06(火) 22:18:42.04 ID:FLHqO/Q0
>>744
基本中の基本だろ
お手つき小姓上がりで出世した武将なんてゴマンといるぞ
748人間七七四年:2011/09/06(火) 22:29:44.80 ID:wJtlgc53
松永弾正はまず美少年の弟が召し抱えられ、その縁で自分が取り立てられたとか
749人間七七四年:2011/09/06(火) 23:06:04.33 ID:DlOiYxB3
松永弟は丹波の赤鬼に殺されたんだっけか
750人間七七四年:2011/09/06(火) 23:32:21.91 ID:YWEGgz/Z
家康からの偏諱なんてめっちゃいるでしょうよ
榊原康勝
大須賀康高
石川康通(家成の子
751人間七七四年:2011/09/06(火) 23:43:58.81 ID:YWEGgz/Z
ごめん途中で書き込んじゃった

あと
家康の弟の康元、康俊兄弟、
依田康国(信蕃の子)
柴田康忠
本多康重
松平家清
戸田康長
松平家忠

などなど…
あとはなんといっても松平康安
「やすやす」って…
752人間七七四年:2011/09/06(火) 23:46:57.44 ID:FMAob7Di
>>747
ああ基本なんだな
それでトラウマになっちゃった子とかいるのかなあ
753人間七七四年:2011/09/06(火) 23:50:18.80 ID:ONKexbTL
元就が義隆さんち行くのに当時花の盛りの隆景を連れて行く時点でゲフンゲフン。
「差し出す」と言うとネガティブなイメージだけど、
隆景を義隆の強力な庇護下に入れるのは、隆景本人にとってもいいことだよ。

同じ「陰徳記」からになるけど、隆景が継いだ小早川は、
家格からすると姉婿の宍戸などより低く、座配も下座だった。
ところが義隆の推挙で「屋形号(尊称)」をもらえたので、
宍戸より上座に座ることが許されたそうだ。当時は格式に厳しかったんだな。
たぶん家中での発言権も周囲の国人への影響力も増したはず。
754人間七七四年:2011/09/06(火) 23:53:42.55 ID:FMAob7Di
これも閨閥って言うんだろうか…
755人間七七四年:2011/09/07(水) 00:18:35.80 ID:aba4rV/4
> 秀忠の偏諱にしてもそもそも秀忠の忠の字はどっから来たんだっけ?

家康の松平家は「康」と「忠」が交互に使われてるんじゃなかったっけ。
じゃあ信康はっていうと、「信忠」は使えねえということか?


> 出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか

家光の御代には「尻の誉れ」という悪口があったという話があるが、ホントかね
756人間七七四年:2011/09/07(水) 00:49:51.37 ID:oRDOMkAJ
でも家康以前の当主を見ると、「忠」は隔代で使われてるけど「康」はそうでもないんだよね
清康のじいちゃんの長親は長忠と名乗っていた可能性もあるらしいし
757人間七七四年:2011/09/07(水) 00:55:49.40 ID:DNcsBP+/
>>752
恥ずかしい話じゃないし、普通に楽しんだんじゃない
好き嫌いはあるだろうけど
758人間七七四年:2011/09/07(水) 01:11:42.21 ID:DyIf0scV
>>755>>756
松平初期は初代親氏由来の「親」が多いね
「康」は清康が勢
力広げたのにあやかる意味でそれ以後に使われだした感じ
759人間七七四年:2011/09/07(水) 01:56:02.44 ID:S3Wladoi
秀吉は秀の方はかなりばら撒いたが、
吉の字はそうでもないような、大友吉統くらい?
なにか理由でもあるのかな
760人間七七四年:2011/09/07(水) 02:14:52.47 ID:o7T9r3mJ
>>746
逆もあるだろ
秀吉がやったあくどいことを信長のせいにしてたり
761人間七七四年:2011/09/07(水) 02:31:40.80 ID:J8aLuBdL
>>746
秀吉は家康の「主君」だったので実はあまり貶められていない。
貶められたとしても中心は「唐入り意味がなさすぎる酷すぎる」って事で、その残虐性というのは
江戸期にはあまり取り上げられてないね。秀次事件なんかもむしろ「秀次が悪い」って太閤史観が
そのまま受け継がれてたし。
762人間七七四年:2011/09/07(水) 02:40:23.88 ID:aba4rV/4
>>759

>吉の字はそうでもないような、大友吉統くらい?

大谷吉継は、秀吉からの一字拝領という説とそうじゃないという説があるみたいだね
763人間七七四年:2011/09/07(水) 02:43:45.25 ID:rtmyKiZn
>>761
そのかわり三成と茶々がモロに割食ってるよな
764人間七七四年:2011/09/07(水) 03:04:01.57 ID:TUkkEK5t
そういえば秀吉は山崎の合戦の後くらいから明らかに「残酷で直情的な信長」ってイメージを増幅させる
宣伝工作やってるなあ。秀吉が編纂させた天正記なんかの信長像もそんなだし。
その上で、信長の忠臣でありながら彼の残虐性をよしとしない秀吉、ってイメージを広めてた感じ。
765人間七七四年:2011/09/07(水) 06:59:35.98 ID:nRx8OIWG
>>763
加賀藩士「名越小十郎」先生の雑記曰く「史書の人物像はあまり信じるな」

「阿国歌舞伎」から丁度百年記
「主人公は名古屋山三郎でなるべく史実に沿って書いて!」

と任されたのは代々加賀国の史料編纂に代々携わった一族名越小十郎(名古屋山三郎の玄孫)


「名越高家流は家祖「北条高家」にハジマリ・・・(略 名越高範の代で今川国氏の次女を娶り代々今川の・・・(略
今川義忠に仕えた中興の祖「那古屋蔵人高信」が一代で那古屋城を起こし・・・(略
駿河の国より養子氏豊を迎え・・・(略 尾張の虎に那古屋城盗られ・・・(略 
蔵人は信秀に娘を差し出し・・・(略 一門織田に組みする事・・・(略 

継いだ蔵人実孫の名越因幡守は・・・(略  松下嘉兵衛の間者(スパイ)と疑われていた
十五歳の「木下藤吉郎」を助け・・・ これが後々山三郎の代で・・・(略

信長公の命を受けた因幡守高久は伊勢上野に移りしは・・・
山三郎母信包女共々、小谷の方子女を預かりて幾年・・・(略

当主因幡守が伊勢上野で臥せば・・・嫡男於千も続け様に病で倒れ・・・
山三郎、一門男子「今川氏秋(今川氏豊の孫)」の世話に成り、槍術の指南を受けるも・・・
氏秋、本能寺で明智勢に敗れ・・・ 十の頃の山三郎いよいよ男子の身寄りなくなりて・・・

かつての藤吉郎こと秀吉公の手厚い庇護もあり・・・(略
一族子女は・・・かねてよりの姉分、茶々姫のご助力ありて・・・」



幕臣「ちょっと誤字脱字が数箇所見受けられたんで修正しておきました!」


「名越因幡守は・・・人質として織田に送られた「松平竹千代」を匿いし・・・(略
身寄りがなくなり・・・(略
かつての竹千代改め「神君家康公」の手厚い援助に命を救われし・・・(略
名越一門、豊臣の縁者なれど石田治部の謀事に気付き・・・家康公に組みす事、森右近殿に・・・

淀殿、淫乱かつ艶美なれば・・・名古屋山三郎に思いを懸け・・・不義なる事・・・
大坂が亡びしは、他でもない淀殿の不正より起りし・・・」

名越小十郎 「おーい最初の趣旨はどこいったー!」と幕臣を叩いて失業しかけた。
766人間七七四年:2011/09/07(水) 07:32:25.10 ID:YNmUUbZu
つまりパニクってて門番斬っちゃったりするドジな一面はあるけど
意外と穏和な性格の鬼武蔵も有り得るかも知れないと。
767人間七七四年:2011/09/07(水) 07:44:53.18 ID:D3AGk44L
スレ違いですまんのだが、
足利将軍さんたちの「義」はどっからくるんだっけ?
768人間七七四年:2011/09/07(水) 09:45:10.76 ID:6ao8lC8k
>>759
>>762
田中吉政とか堀尾吉晴あたりはどうなのかな?

例外はあるとしても「吉」の字は子飼いが多い感じか
769人間七七四年:2011/09/07(水) 11:31:03.67 ID:MqAQQoUL
>>759
>>768で出てる田中吉政、堀尾吉晴もそうだけど、他にも毛利吉政(勝永)、小出吉政、
木村吉清、別所吉治、三好吉房などたくさんいる
770人間七七四年:2011/09/07(水) 12:19:10.75 ID:JyCPRZSB
>>755
松平信忠は家康の曾祖父にいるし、あやかる程の人でもない。(むしろ家臣達に強制的に隠居させられた人)からね
771人間七七四年:2011/09/07(水) 14:58:26.56 ID:oRDOMkAJ
でも織田信忠より松平信康の方が元服は少し早いんだよね
元服前でもあらかじめ信忠の諱は決めてあったりしたのかな
772人間七七四年:2011/09/07(水) 15:07:50.83 ID:sQzJK4Od
名前ネタいい加減うざいんですけどぉ
773人間七七四年:2011/09/07(水) 15:18:31.59 ID:aByzjdGm
>>767
源頼義/義家の系統だから
774人間七七四年:2011/09/07(水) 16:14:20.89 ID:rtmyKiZn
>>772
嫌なら話題を振って流れを変えろよ
「俺が気に食わない」だけじゃ共感は得られないぞ
775人間七七四年:2011/09/07(水) 17:59:50.60 ID:31zt8piV
机上の砲論家、稲富さんのWikipediaの記事から転載

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Hiyawajyu01.jpg
776人間七七四年:2011/09/07(水) 18:05:20.62 ID:J8aLuBdL
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。

ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。

「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」

彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て

「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。

これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。

まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)
777人間七七四年:2011/09/07(水) 18:22:09.75 ID:UHvnztdo
>>775
まずは服を脱ぎます
778人間七七四年:2011/09/07(水) 18:40:10.51 ID:IhPiptoC
>>765
文面を見た時の小十郎の表情が想像できますな。

あの名古屋山三郎って、周囲を驚かすド派手な鎧兜に身を包んで泥田の畷道に突っ込み、
最後は赤松円心配下の弓の達人に眉間を射抜かれたという人の子孫だったのか。
派手なのは先祖譲りなのかも。
779人間七七四年:2011/09/07(水) 20:07:12.05 ID:5n/Xdbo3
>>750
あとは石川数正が家康の偏諱をいけて「康輝」と改名しているね。
780人間七七四年:2011/09/07(水) 23:10:19.17 ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな
781人間七七四年:2011/09/08(木) 00:15:57.17 ID:Qtfkw5vQ
>>775
腕毛と腿毛がセクシー☆
782人間七七四年:2011/09/08(木) 00:17:15.97 ID:+5j/TItu
小田原攻めのころ、関東では大軍の長陣によるものか、米価が高騰し、諸大名はその対応に頭を悩ませた。
徳川家でも困り果てた家臣たちが主君にこの件について相談したが、家康は言う。

「どれだけ高くとも良い。周辺で米を買え。」
「それでは大損になりますが?」
「かまわん、どんどん買い取るのだ。」

家康の言う通りにしたところ、「小田原では米が高く売れる」という評判があちこちに流れ、
諸国から商人が米を売りに来るようになった。すると、急に米価は下がり安定した。

それから少しして、家康が荷駄奉行の伊奈忠次を呼んで指示を与えた時、忠次がこんな事を言い出した。

「昨年から有事に備えて兵糧を買い集め、沼津に運んでおきました。ところが今、関東に来てみれば、
こちらの米価も、江尻や沼津の米価も、そう変わりがありません。これでは運送費の分、
こちらで買った方が得でした。なぜこんな事になったのでしょう?合点が行かぬことでございます。」

家康は、苦い顔をして答えた。

「それは、長束大蔵大輔(正家)の仕掛けた事だ。あの男は、さしたる武功も無いが、こういう計略に
抜群の才を持つので、関白から要地に一城をも与えられているのだ。
それよりわしは、お前の職分で今ごろそんな事に気づいている方が、合点が行かぬわい。」

忠次は冷や汗を流しながら、主君の前を退出した。(天元実記)


こういうのも秀吉の『戦争』だったんだろうなあ
783人間七七四年:2011/09/08(木) 00:35:32.51 ID:9E2t5uxO
家康も認める長束正家の手腕はやっぱすげー
784人間七七四年:2011/09/08(木) 00:43:46.80 ID:GCb/dbCD
家中随一の内政屋、忠次よりはるかに経済に詳しい家康凄過ぎw
785人間七七四年:2011/09/08(木) 00:51:29.06 ID:9E2t5uxO
家康は土井利勝にも、お前もうちょっと人見ろよって言ってる逸話なかったっけ
786人間七七四年:2011/09/08(木) 01:53:19.80 ID:gCxiSUv2
787人間七七四年:2011/09/08(木) 15:30:43.37 ID:o3NfJ4+8
家康「わっちは賢狸イエヤスそれくらい見抜けて当然でありんす」
788人間七七四年:2011/09/08(木) 21:10:13.98 ID:lK534Zs3
毛利秀元は元就庶子・穂井田元清の子として生まれ、輝元の養子となっていたが、
輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。

輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……

輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
   秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
   朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」

まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。

すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。
789人間七七四年:2011/09/08(木) 21:35:22.93 ID:rlYfoPek
有名な落首のお話。既出でしたら御容赦を。


永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。

上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc

だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。


二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。


『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』

こよこよと  →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
         (「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋

奈良刀    →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
        すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋

みのながいとて→刀身が長いからといって  美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって

頼まれもせず →誰が買うもんか  頼みにならんわ(嘲笑)


辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?
790人間七七四年:2011/09/08(木) 21:39:11.13 ID:3zF9S54S
私です。
791人間七七四年:2011/09/08(木) 21:41:39.33 ID:rlYfoPek
>>790
名乗られよ
792人間七七四年:2011/09/08(木) 21:50:39.63 ID:lK534Zs3
>>789
思い違いだったら悪いんだけんども、義昭でねえべか
793人間七七四年:2011/09/08(木) 21:54:23.90 ID:tJHSZLtm
>>792
義昭は
覚慶→義秋→義昭
と改名してる。「義昭」の改名は永禄11年(1568)4月15日
794人間七七四年:2011/09/08(木) 22:01:31.70 ID:lK534Zs3
なる。ありがとうです
795人間七七四年:2011/09/08(木) 22:11:31.68 ID:L8cIkRY+
>>788
隆景さんが死んだ後の毛利家は哀れすぎる・・。
796人間七七四年:2011/09/08(木) 22:48:50.45 ID:/oWiGQY2
>>788
そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…
797人間七七四年:2011/09/08(木) 23:34:50.44 ID:A4ZoQvuK
仮に島津、相良が動こうとしても九州だし動けないよな。
798人間七七四年:2011/09/09(金) 01:13:25.26 ID:I8ULHjBE
足利氏は嫌われていたってことか
799人間七七四年:2011/09/09(金) 01:17:13.74 ID:GQDIxff8
動けなかったんじゃないのかな?
三好や義栄のこともあるし
800人間七七四年:2011/09/09(金) 01:23:34.55 ID:bG0sHAHA
大友なんかは何かある事に「ホントは都に上って公方様にご奉公したいのに大内(毛利)が邪魔して
できないんですよー(棒)」って言ってきてるなw
801人間七七四年:2011/09/09(金) 09:29:54.32 ID:L3K9Pxy9
はるばる京都まで行って、その隙に領地を他国に落とされたりしたらそれこそ笑いものだしなあ
802人間七七四年:2011/09/09(金) 09:56:12.94 ID:OvixDAxa
景虎さんは上洛する事を周知してから、少人数で上洛
したことあるよね
803人間七七四年:2011/09/09(金) 10:06:20.95 ID:sOte0jDb
>>801
大内義興は上洛したけど畿内に拠点を築けないまま
尼子の活発化で帰国したんだっけ
804人間七七四年:2011/09/09(金) 12:56:47.64 ID:PCPFy3SN
「すりあけ」は、刀の磨上げの意味もかけてんのかね
805人間七七四年:2011/09/09(金) 18:18:32.91 ID:h6RlMJbq
徳川家康が病死した後、江戸幕府二代将軍に就任した徳川秀忠は諸大名に自分への忠誠を示す
誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し

「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」

と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや

「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
 次の機会に使えば宜しかろう。」

と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も

「くっ・・・・・・」

黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。
806人間七七四年:2011/09/09(金) 18:24:49.39 ID:GQDIxff8
義宣さんは颯爽としてて格好いいな
これはさすがのまーくんも言い返せなかったか
807人間七七四年:2011/09/09(金) 18:32:46.91 ID:rxC0jH8I
(でも感じちゃう…)
808人間七七四年:2011/09/09(金) 20:00:10.54 ID:n7Z16FiT
爽やかなまでにド直球な皮肉だなあw
809人間七七四年:2011/09/09(金) 20:13:01.03 ID:Q4gMti3q
名家の余裕
810人間七七四年:2011/09/09(金) 20:18:06.35 ID:JUUlwqn3
さすが律義者www
811人間七七四年:2011/09/09(金) 20:34:41.79 ID:bS3KZeml
伊達さんも佐竹さんも名家だからなぁ〜
つか、従兄弟になるんだっけ?
812人間七七四年:2011/09/09(金) 20:42:37.72 ID:nVAR94ip
秀吉がとった誓紙がなんの役にも立たなかったことを知っているのに、
秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな
813人間七七四年:2011/09/09(金) 20:50:29.35 ID:GQDIxff8
秀忠のどこが小心者…?
歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ
814人間七七四年:2011/09/09(金) 20:52:48.37 ID:No37d+WJ
>>782
さすが下々が「上様にはよく商いを遊ばさる」と評判しただけあるな。
米が上がると城の米蔵を開いて売って、下がると米を買って蔵に入れてたしな。
815人間七七四年:2011/09/09(金) 20:59:15.32 ID:PaRCRtRi
それって米価を調整して生産者と消費者の双方を守ってるだけじゃないの?
816人間七七四年:2011/09/09(金) 21:05:02.79 ID:No37d+WJ
駿府に隠居してからもしてたらしいから、儲かるからしただけと思うけどなw
817人間七七四年:2011/09/09(金) 21:33:05.05 ID:fSdvAoWz
そういう財テクは秀吉から学んだんだろうね>家康
太閤になってからも蔵米算用状という、蔵入地から納められる米の量と
その相場価格を記した文書を見て、自ら買い時売り時を決めてたというから只事ではない
当時は畿内と東北地方では米価に8倍もの差がついてたというから、
公儀として米の流通販売権を掌握してたらボロい商売だったろうな
818人間七七四年:2011/09/09(金) 21:45:10.69 ID:bxd+qlrb
家康や秀吉が商売をするのはいい話になるのに前田利家だと悪い話になってしまう不思議





・・・あれ、ここ悪い話スレか。
819人間七七四年:2011/09/09(金) 21:52:22.64 ID:bG0sHAHA
つーか米などを売買するのは、例の秀吉の鳥取城攻めの前、鳥取城の連中が兵糧を高値で売った例を
出すまでもなく、秀吉や家康に限らず戦国大名なら普通の事。

タイミングや状況を間違えると「鳥取城渇え殺し」になるわけだがw
820人間七七四年:2011/09/09(金) 22:13:00.17 ID:fSdvAoWz
「安く手に入れたものを高く売る」という点で見たら誰でもやる普通の商行為だろうけど、
秀吉や家康のように日本全国に直轄地を持ち、地方の米を都市部で独占的に販売し差益を得るとか、
米相場に介入して米価をコントロールするってのはやはり天下人じゃないとできないこと
貨幣価値があるため稲作に向かない土地でも無理やり米を作らせたという米作偏重が
江戸時代に頻発した飢饉の原因の一つとなったという見方もあるから、悪い話と云えなくもない
821人間七七四年:2011/09/09(金) 22:20:04.36 ID:SKGSreut
武将風雲録では基本です
822人間七七四年:2011/09/09(金) 22:54:19.68 ID:ytKbqLMM
>>788
秀元、最終的には泣き寝入りどころか…
823人間七七四年:2011/09/09(金) 23:35:40.40 ID:6wSFu4cE
秀吉が三木城を攻めたとき、前後三年に及んで落城しなかったのは城が堅固である上に、
間道からの兵糧が多く運び込まれていたからだとか。
ある時、秀吉軍が塀際まで攻め寄ると、城内城外の兵が互いに悪口雑言を吐きあう口合戦となった。
城内の兵はその時、生魚を差し出して広言したのだが、それを見た秀吉軍は
「おいっ!なんで城内に生魚があるんだ!?さては・・・」
と、抜け道の存在を悟り、周辺を厳しく探索して抜け穴を発見した。
この道を止められ、遂に三木城は落城したという。
(播州太平記)
824人間七七四年:2011/09/09(金) 23:51:14.83 ID:/yAKlicF
お池やお堀で魚は取れないの?
825人間七七四年:2011/09/10(土) 00:19:00.87 ID:nB0XvDKG
>>824
「生魚」といってもさすがにコイやフナじゃなさそうな。
これの読み下し文が載っていた本によると、三木城には、城壁から生きた鯛を寄せ手に見せ、
食糧に困っていないことを示したという伝承があるそうです。
826人間七七四年:2011/09/10(土) 00:21:25.19 ID:Nvs96m2B
この失敗に学んでがっちり包囲した結果が飢え殺しか、ままならんな
827人間七七四年:2011/09/10(土) 01:30:39.35 ID:nB0XvDKG
三木城の大手門は四足門であり、ことごとく鉄を打った柱、扉は厚さ5寸余りのクスノキの一枚板で、隙間無く鉄の金具を打ち並べ、高さは2尺5寸。
さらに棟木は銅の延べ棒、瓦も残らず銅でできており、まさに「函谷関もものならず」であった。
兵糧攻めによって城中には飢人ばかりだったが、秀吉軍はこの門をどうしても突破することができず、手をこまねいていたのである。

軍見分の役として遣わされていた明智光秀はこの難儀を聞くと、刃渡り8寸余り、柄の長さ5尺余りの大マサカリを担ぎ、
マッチョな兵(逞兵)300人余りには掛矢と大槌、鉄梃などを持たせて鉄門に向かい、それらを一斉に打ち下ろさせた。
これにはさすがの鉄門もメキメキと音を立てて歪んでいく。
そこに光秀が大マサカリを振り上げて、扉を続け打ちに薙ぎ払ったものだから、さすがの楠板も金具もろともバラバラに砕け散ってしまった。

驚いた守備隊が打って出てきたが、光秀はマサカリを真っ向に指しかざし、当るを幸いと敵兵を打ち砕き、たちまち城兵二十余騎を打ち落とし、
その他数知れぬほどの飢人に怪我を負わせたのだ。

これを見た秀吉は大いに喜び、「この虚に乗じて攻めよ!」と采配を打ち振ると、明智勢は下知に従って「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るい、
飢人達を追い立てたのである。
その様子に城兵は「地獄もかくばかりであるか」と恐れおののくばかりであった。
(播州太平記)
828人間七七四年:2011/09/10(土) 01:31:46.87 ID:H7j31K3R
光秀無双w
829人間七七四年:2011/09/10(土) 01:39:54.50 ID:nB0XvDKG
何ともぶっ飛んだ作者不明の軍記物は、信長の悪い話へと続いていきます。

秀吉の報告でこの光秀の抜群の働きを知った信長は大いに喜び、
「今に始まらぬ勇猛の働き、また、三木城の鉄門を破りしこと、稀代の手柄である!
よって、恩賞として越前永平寺領の内、130町を取り上げ、これを遣わす。
もし、寺僧が異議に及んだら誅罰せよ!」との書状を光秀に下した。

信長の一生のうちはかくの如く社領を没収して武士の知行となし、または沙門を殺すこと限りなし。
その罪、天に背きて人々にも見放され、狂いたまいける。
830人間七七四年:2011/09/10(土) 01:40:34.90 ID:sc9LLtbF
ガリガリにやせ細った城兵にゴリマッチョな300もの兵が
「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るう姿はシュールすぎる・・・。
831人間七七四年:2011/09/10(土) 01:43:55.60 ID:QrskhIo+
>>812
政権としての一種の儀式でしょ
まさかそんなので謀反が防げるとは誰も思ってないよ
832人間七七四年:2011/09/10(土) 06:33:26.79 ID:Oaugt5Ep
まさか光秀が巨大マサカリ持って陣頭に立ち城兵を無双するとは…
事実なら信長は体育会系マッチョ(スキンヘッド)な光秀をしばいたりしてたのか…
こりゃ死に際に是非も無し…って言っちまうわな
833人間七七四年:2011/09/10(土) 07:48:37.08 ID:oEYIne3m
殺し間(物理)にて候
834人間七七四年:2011/09/10(土) 08:30:21.60 ID:C9BqRf5U
幽斎といい光秀といい戦国の教養人は大力がデフォなのかw
835人間七七四年:2011/09/10(土) 10:14:44.58 ID:eRLa3vpP
>>832
近江を手に入れたころには相撲に嵌まってたからなあ
けっこうそういった連中を好んで傍に置いてたんじゃないかな
836人間七七四年:2011/09/10(土) 10:40:48.86 ID:UyI0ka2x
>高さは2尺5寸。





匍匐前進しないと通れねえwww
837人間七七四年:2011/09/10(土) 10:54:46.80 ID:FgxTN5EO
光秀って三木城攻めに参加してたんだ。
838人間七七四年:2011/09/10(土) 11:11:18.25 ID:nB0XvDKG
こんなのが大手門って、いったいどんな城やねん!

でも、掲載されている原文ではそのまま弐尺五寸となってます。
二十尺五寸と書きたかったのだと思うけど・・・
大げさが売りの軍記物だし、まあ雰囲気で読み替えてみてくださいな。
839人間七七四年:2011/09/10(土) 12:07:38.97 ID:VwN8Ej82
>>805
で、出典は?
840人間七七四年:2011/09/10(土) 13:51:41.32 ID:5UYp8Tkr
>>839
ヒント:近デジ
841人間七七四年:2011/09/10(土) 19:37:01.06 ID:+aqI29u/
明応のころ、堺に菜屋という豪商があった。主人が朝鮮へ渡海して商売するほどの家だったが、その留守の間に
女房は間男と密通を重ねていた。

ある雪の夜、菜屋の女房を訪ねて来た男があった。間男が来たと思った女房は、使用人に言って自分の部屋まで
案内させると、みずから部屋の戸を開け、男の手を取った。部屋から漏れる明かりに照らし出されたその顔は、
間男のものでは無かった。

「わしは、そなたの亭主と懇意の者だ。ご亭主が帰って来たら、全て話してやろうか?」
「そ、そんな・・・金なら出します、どうか主人には!!」
しかし行商人姿の見知らぬ男は、女房の願いに承知せず、女房の部屋に上がり込んだ。


その後、主人が朝鮮から帰って来るとの報が入り、女房は家中の大掃除をさせた。自分でも主人の部屋の掃除など
していたが、そのうち菜屋の家宝である名笛が無くなっているのに気づいた。使用人たちにその事を聞くと、
「ああ、いつかの雪の夜に来た旦那様の知人とか言う男が、持って帰りました。」

女房は男を捜して会い、笛を返してくれるように頼んだ。
「何を言う。この笛を証拠に、そなたの密通のこと、詳細にご亭主に伝えてくれるわ。」

困った末に女房は、実父で同じく堺の豪商である臙脂屋(べにや)に相談した。娘の不始末が菜屋に知れたら、
最悪、娘の命に関わるばかりか、自分の堺衆への聞こえも悪い。やむを得ず、臙脂屋は男に会った。
「金でも物でも好きなだけ差し上げます。どうか、娘をお許しくだされ。」

「そうか。実はわしは今でこそ、このような行商人の姿をしているが、畠山政長公にお仕えしていた者だ。
政長公の遺児を奉じ、再起を図っておるが、金穀が不足しておる。臙脂屋どのの、お力を借りたい。」

大義名分を得た臙脂屋は、喜んで莫大な金穀を男に与えた。畠山尚順が紀伊で挙兵したのは、間もなくの事だった。
(応仁後記より)

菜屋の関係者によると男は「木沢」と名乗ったという。
畠山でKIZAWAというと、「あのお方」のパパとか親戚であらうか・・・
842人間七七四年:2011/09/10(土) 21:05:02.14 ID:GZBZ0WZW
ああ、戦国5大長政の内の1人か
843人間七七四年:2011/09/10(土) 21:13:41.64 ID:FrvOW5Bq
天皇「公家一統……?」



1573年、足利義昭を追放した織田信長は、幕府の権威を借りられなくなったため、今度は朝廷に急接近し、
「公家一統」なるものを唱え出した。

権大納言・三条西実枝などは喜び
「信長は公家一統の政治を500年前のように行うようであります。
 鳥羽上皇以来の代々のご無念もこれで天運が改まるというものです。
 悦びとおそれで薄氷を踏むような気持ちです」
と書いている。

安国寺恵瓊が信長について「明年辺(あたり)は公家などに成らるべく候かと見及び申し候」と書き送ったのも、ちょうどこの頃である。

翌1574年3月、天皇から信長に蘭奢待が下賜され、信長と朝廷の関係はいよいよ深まった。
この時のやりとりについて関係者は次のように明かしている。

「『奈良の東大寺に収蔵されている香木の蘭奢待をいただきたい』
 と宮廷に申し出られたところ、3月26日、勅旨の日野輝資殿・飛鳥井雅教殿が、かたじけないことに、ご院宣を伝えられた。
 奈良の僧徒らはかしこまってお受けした」
(織田家家臣 O田G一氏)

「相談もしてこないことを断るわけにも参らぬので、何なりともやりたいようにしたらよかろう。
 公家一統にと、きれいごとを申した舌の根も乾かぬうちにこんな体たらくでは、先行き一体どうなることやら。
 この一事にて万事が見えたというものだ。
 こんなずさんな手続きで勅封の蔵を空けるとは、いにしえの聖武天皇の御憤りもいかばかりであろうか」
(日本国天皇 O親町氏)

そもそも、信長が部下の塙直政を派遣して蘭奢待の存在を確かめさせたのが3月22日。
切り取ったのは3月28日。
わずか6日という短期間で、正式の勅使も派遣されないまま、信長は蘭奢待を切り取ってしまったのである。

信長が朝廷の事をどう思っていたのか、なんとなく分かる話。
844人間七七四年:2011/09/10(土) 21:17:52.25 ID:futfDRv/
そーはいっても、院宣のほうが勅命より重いでしょ
845人間七七四年:2011/09/10(土) 21:30:43.39 ID:f+VavbC2
ただの飾りが何勘違いしちゃってんのw
846人間七七四年:2011/09/10(土) 22:31:19.42 ID:zWnHOmf/
これだから信長厨狩りはやめられねぇ
847人間七七四年:2011/09/10(土) 22:45:38.83 ID:RIPsFW01
これは悪い話だw

三斎細川忠興の遺産 其ノ弐
http://www.shimada-museum.net/event.html
http://www.shimada-museum.net/img/event/005/back.jpg

> 【古典古物を楽しむ講座】
> □9月29日(木)
>
> 『ガラシャ夫人を見捨てた男、稲富一夢』

稲富さん(ノ∀`)
848人間七七四年:2011/09/10(土) 22:53:31.29 ID:L/I1HESf
ひでぇ題名だw
849人間七七四年:2011/09/10(土) 23:17:39.46 ID:kMx9XFc2
さすがにこれはwww
850人間七七四年:2011/09/10(土) 23:19:24.10 ID:1WnkfC7u
見捨てた男というのはひどいなw
851人間七七四年:2011/09/10(土) 23:20:13.13 ID:H7j31K3R
さすが戦国のヘタレ王www
852人間七七四年:2011/09/11(日) 02:09:40.69 ID:NUMYI2pc
これは同情を禁じえ、、、それほどでもないや
853人間七七四年:2011/09/11(日) 04:21:21.09 ID:ofsoMQ+N
こういうのって「近世砲術の祖」とか持ち上げるのが常なのに
ここまであからさまにdisったタイトルつけるのは珍しいなw
854人間七七四年:2011/09/11(日) 07:44:00.90 ID:YWJa+l78
山形城吉字構

元和8年、最上義俊の代に御家騒動から最上家は改易となる。
同年、鳥居元忠の子忠政が22万石をもって新たな山形領主となった。

忠政が山形に入ると鍵路や通りの要所要所に砦の様な寺社の軒が連なっていた。

「平穏な世にこの街構えはいけない。これではいつ一揆勢が城の内に集まるかわかったものではない」

三の丸内にあった三割の寺社が破却され、残った多くの寺社も山形城から離れた場所へと移築された。

寺社を大切にした義光の思いが鳥居家の移封にとっては邪魔となった悪い話。
855人間七七四年:2011/09/11(日) 13:49:16.08 ID:e56Rhpnz
拠点となる寺社の破却は為政者としては当然の行為だな。
特によそ者の鳥居さんからしたらね。

逆に最上は戦国威風の残る鮭さまの時代から何一つ変われなかったから取潰されたとも言える。
馬鹿な家臣と馬鹿殿ファミリーのお家騒動だもんなあ…
856人間七七四年:2011/09/11(日) 14:13:14.07 ID:2NYFZg17
まぁ最上側とすれば、いざ戦時となれば、
その寺社等も防衛拠点にするつもりだったんだろうな。
でも、新規に入る側の鳥居側からは邪魔でしか無いよなぁ。
857人間七七四年:2011/09/11(日) 20:03:09.14 ID:+iXHpmGe
マット県山形は自身で滅びればよかったのに
858人間七七四年:2011/09/12(月) 09:59:57.07 ID:mvjzbvpi
家康の個人的好き嫌いから潰された感もあるけどな<最上家
徳川四天王と言われた榊原でさえあの仕打ちだ

>>857
意味が解らない
859人間七七四年:2011/09/12(月) 10:05:58.22 ID:vGGWbGV7
>>858
最上家取り潰されたとき家康はもう死んでおるがな
860人間七七四年:2011/09/12(月) 11:07:56.03 ID:lbhPOM6K
江戸幕府が起こしたあらゆる改易も鎖国も
何もかも家康のせいにしないと気がすまない人って多いよね
861人間七七四年:2011/09/12(月) 14:16:59.39 ID:mROD1oIY
司馬先生のことか?
862人間七七四年:2011/09/12(月) 14:25:49.87 ID:a1/Lx+88
>>858
榊原康政に関しては嘘か本当かは知らないが、
関ヶ原後に加増の打診が家康からあったけど、武功が無いから受け取れないって断ったとか、
老臣権を争うは亡国の兆しつって自ら中央政界から身を引いたとか、
そういう話もあるからなあ。

本当なら、武人として潔くてかっこいいと思う。
863人間七七四年:2011/09/12(月) 15:52:06.20 ID:m2YsDk9P
>>861
司馬さんは福島家・加藤家の取り潰しは家康の遺言によるものと断定したうえで
取り潰しは家康の「歯茎の臭さ」を表してるとか、訳のわからないことを言ってたな

家康の遺言なら秀忠の側近は反対しないだろうし、そもそも目障りな大名を取り潰して
なんの問題も発生させなかった秀忠の政治的手腕を褒めるべきだと思うんだがねぇ
864人間七七四年:2011/09/12(月) 16:29:47.56 ID:rFnfqXj7
司馬さんの価値観はともかく、取り潰しが何の問題も発生させなかったなんて大嘘だろ
島原・天草の乱は加藤・小西浪人の一大蜂起だし、由比正雪の乱だって食い詰め浪人のクーデター
幕府の無茶な取りつぶしで浪人たちが押し込みに走り治安が猛烈に悪化した
浪人問題に関して秀忠のどこを褒めるべきなのかさっぱりだわ
865人間七七四年:2011/09/12(月) 19:35:39.65 ID:vGGWbGV7
むしろ「その程度ですんだ」って見方もできると思うよ?

牢人問題ってのは戦国時代から繰り返し起こっているもので、滅びたり改易された家の牢人が
大規模一揆を起こしたり敵対勢力に味方したりして治安を混乱させることはいくらでもあった。

そこから考えれば島原や由井正雪の乱程度の、ごく局地的事件で押さえ込んだというのは凄いことだよ。
866人間七七四年:2011/09/12(月) 19:54:54.21 ID:5mIcbVS+
そもそも浪人生まないために大名を存続させるというのも馬鹿げた話だね
戦が無いんだから能のない浪人は皆殺しがベスト
それが駄目だと言うなら逆にどうすりゃ良かったのか聞きたいくらい
867人間七七四年:2011/09/12(月) 20:08:37.37 ID:ORTb75nW
福島正則はやっぱり秀忠をなめてたんだろうか
どっちかといえば、秀忠の方が家康よりも非情な判断するよね
それと比例して温情な判断もするけど
868人間七七四年:2011/09/12(月) 20:19:03.50 ID:n+xFkh1y
舐めてたんだろうな。
一度は跡継ぎにすえて、徳川からの嫁が縁付いた甥っ子を
自分の子が生まれたからって、閉じ込めて餓死させたりしたんだから。
そんな秀吉の悪いところは真似なくてもよかったのに。
869人間七七四年:2011/09/12(月) 20:22:49.08 ID:ORTb75nW
>>868
そういやそんなことやってたな正則 あの話はかなり引いた
実子が生まれたら、養子が冷遇されるのはよくある話だけど
なにも餓死させなくてもよかろうに
870人間七七四年:2011/09/12(月) 20:23:03.87 ID:dyA0kRwO
由井正雪の乱はともかく、島原の乱は日本史上でもデカい乱の一つだろう
871人間七七四年:2011/09/12(月) 20:45:33.26 ID:fkp1UZIo
島原の乱はでかいな一揆軍38000人が籠城したわけだし
大将の天草四郎は秀頼の遺児という説もある馬印が千成瓢箪だったと言うのが基らしいけど
872人間七七四年:2011/09/12(月) 20:47:10.88 ID:1drb3muR
>>870
規模としては大きいが基本的には島原地域の外に広がったわけではなく、
その勃発の理由も含めて局地的事件である事自体は間違ってないと思う。
873人間七七四年:2011/09/12(月) 20:48:57.01 ID:a+jcZLow
>>866
後の幕府はその「馬鹿げた」政策にシフトチェンジしていくんだがね
874人間七七四年:2011/09/12(月) 20:54:20.16 ID:5mIcbVS+
なる程、最初からその政策やってでも大成功していたわけだね(笑)
875人間七七四年:2011/09/12(月) 20:56:43.27 ID:5mIcbVS+
そもそも加藤小西を取り潰さなきゃ島原の乱が起きずに平和だったのかっつう話
876人間七七四年:2011/09/12(月) 21:11:53.90 ID:5mIcbVS+
更に言うなら加藤小西を潰さないとまでして起こしちゃならない反乱だったのかという話
877人間七七四年:2011/09/12(月) 21:13:34.79 ID:YFYOX2Pf
>>855
家臣団が義俊を支えよという幕府の裁定すら蹴ってしまったからな。
家親が毒殺されただの、山野辺を擁立しようだのとごたごたが続いた挙句この有様。

>>856
上杉の米沢城なんてさらにその傾向が顕著だしな。
878人間七七四年:2011/09/12(月) 21:25:47.67 ID:1drb3muR
正則は改易の使者が屋敷を訪れた時に「自分は特別扱いされて当然なのに!」みたいなことを言ったと
藩翰譜にあったなあ。
事実がどうかはともかく関ヶ原以降の正則の徳川に対する態度を見れば、そういう意識はやはり
持っていたのでしょうね。
879人間七七四年:2011/09/12(月) 21:26:42.56 ID:qUuiY04c
なんかアホが涌いてるなあ
大名は潰す
浪人の失業対策もする
両方やらなきゃならんのが天下人だ
880人間七七四年:2011/09/12(月) 22:15:15.04 ID:5mIcbVS+
それは現代人の理屈だろ
まだまだ生産力が低く不安定な世の中なんだから必要ない人間は間引かざるをえない時もある
段々と生産力が高まって安定化して初めて弱者は救済される訳で
881人間七七四年:2011/09/12(月) 22:16:41.24 ID:YD4bMr0Z
失業対策=一箇所に集めてまとめて処分
882人間七七四年:2011/09/12(月) 22:33:03.62 ID:bM3EUKHk
渡航制限がなければ海外移民になったかもしれんが無理だったのかな
883人間七七四年:2011/09/13(火) 01:18:38.83 ID:v0ZnwD/G
そもそも浪人なぞ大問題になって無いし。
大部分はおとなしく帰農してる訳で。
884人間七七四年:2011/09/13(火) 02:03:31.13 ID:rBXdSK6G
>>882
初期はそうしていたっぽい。
で、ある程度浪人が海外へ行った後に鎖国。・・・えげつねぇ。
885人間七七四年:2011/09/13(火) 02:48:48.17 ID:K5awWihN
>>884
上手いことやってんな
886人間七七四年:2011/09/13(火) 07:45:34.66 ID:3hfp0ZHs
口減らしえげつねぇな、さすが徳川家、やることがry
887人間七七四年:2011/09/13(火) 08:35:16.97 ID:2UvSWXKI
棄民政策かよ
888人間七七四年:2011/09/13(火) 09:51:32.78 ID:iacclD5E
禁教が主目的ってことになってるけど、裏にはそういった目論見もあったのかな
東南アジアの日本人町はかなり荒っぽくて、各国とも苦労していたみたいだし

>>858
>>857は現代の話だと思うよ
妖怪マットがとある中学校に現れてね
都会からの転校生を窒息死させたんだよ
889人間七七四年:2011/09/13(火) 10:01:36.11 ID:Jgy8zOoc
山田長政みたいなのは例外で基本的に海外に行ったところで倭冠にでもなるしかない連中だしな
890人間七七四年:2011/09/13(火) 10:21:37.92 ID:a7OpkvL7
東南アジアに日本人街がいっぱいある時代だよ
891人間七七四年:2011/09/13(火) 10:53:52.40 ID:OdRIQCwH
スペインにも兵隊として雇われ・買われてたそうだしね
鎖国されて兵隊補充するのに苦労したそうな
892人間七七四年:2011/09/13(火) 11:13:55.14 ID:/gp4nOGx
秀忠時代は、浪人の追い出す先があったから躊躇なく取り潰しもできたってことかね
で、鎖国の完成で言い方悪いが捨てる場所が無くなったから、政策も変えたと
8931/2:2011/09/13(火) 13:30:47.55 ID:ipR7QIQ0
大阪陣後、徳川大阪城の普請の折のことである。

黒田家は西宮で石垣に使う石を割らせ、これを浜から海上に搬出する作業をしていたのだが、
この時、吉田七左衛門という者の組が担当する石場と、黒田二十四騎にも数えられた村田出羽守吉次の組が
担当する石場から引き出された石が、丁度同じ道に入る入口で出会う形となった。
双方とも、その道まで5,6町(約5〜600メートル)ほどになった所で、吉田七左衛門の組の石のほうが
少し先に進んでいるように見えた。と、この時村田出羽、使いを吉田方に遣わして言うには

『我々が石を先に通すので、貴殿の組の石はそれまで待っているように。』

こんな事を言われて吉田七左衛門、納得などできようものか
「これは近頃聞いたこともない使いだ!互いに引かせ、先に進んでいる方を先に通すのが当然である!
それを、待っているように、とは、全く理解出来ない使いである!」

だがしかし、この村田出羽、問題児の多い黒田家中でも札付きの問題児であった。彼は吉田の返答を聞くやいなや
ただ一人走り出て、七左衛門組の石の綱先一町(約100メートル)ほどの道の真ん中で、なんと寝転がってしまった!

この時吉田七左衛門とその組頭たちは後ろの方にいてこの事態に気がつかなかったが、先にいた
小頭たちは驚きすぐに走り寄って

「ここは石を引く道です!どうかお退き下さいませ!」と申し上げるも、それに返事もせずギロリとその方に
眼を向けるだけで動きもしない。しかし小頭たちも再三にわたって懇願する。それにも
「石を引いているなんて誰でも知っていることだ!オレを盲のように言うな!」
と聞き入れない。そうこうしているうちにも吉田七左衛門組の石はどんどん近づいてくる。

「石がもう、あんなに近くまで来ました!お怪我の心配もあります。どうか急いでここからお引き下がり下さい!」
それでも村田出羽
「ここは芝生が綺麗でな、それで寝たくなったから寝たんだよ。それを起こすとは推参な奴だ!」
と言って猶も起き上がらない。

この頃には吉田七左衛門も前方の状況に気がついていた。彼はそもそも性格もおとなしく冷静な人物なのだが、
村田出羽が寝っ転がっているのを見てさすがに頭に血が上った
「憎き所業かな!起き上がらないというのなら、私が起こしてやろう!」

と、走りだそうとする所を吉田組の組頭の者たち
「これは一体何という事ですか!あのキチガイとゴタゴタを起こすなんて、御主君のためにも良くないことです!
(是はいかなる事にて候ぞ、例の気違に御取合ひ候事、主君の御為め、旁以て然るべからず候)
きっと村田様も何か誤解をされているのでしょう。私たちが意見して来ます!」
8942/2:2011/09/13(火) 13:31:32.31 ID:ipR7QIQ0
そうして6人の組頭のうち2人が吉田七左衛門を抑えつけ、4人が村田出羽のところに駆けつけた!
「村田様、これは沙汰の限りです!御身に似合わぬ所業ではありませんか!
それに石も近づいてきています。どうか急ぎ起き上がって下さい!」と叱りつけたが狸寝入りして返事もしない。
それでも押し返し押し返し申し上げれば村田出羽

「うるさいなあ。それならこの出羽の上を引いていき。オレを殺せ」

説得している組頭たちもこの時代の武士である。これを聞いて皆『うわ、こいつの頭轢き潰してえ』とは思ったが
(物頭共も心底きつき者共なれば、頭を切割りたくは思へども)
『変に大騒ぎにしちゃいけないよなあ』と考えなおす。吉田七左衛門の所に戻って彼をなだめ、
「とにかくここは、あんな気違い相手には変に手出ししないのが最善です」と笑いながら言うが、吉田七左衛門は
納得しない。彼は本当に怒っている

「ええい!急いで石を進ませろ!進ませれば起き上がるに決まってる!
だいたいあんな奴に礼儀正しく接しようとするから、付け上がってこんな慮外を働くんだ!
急いで引け!!」
この下知を受けた組頭たち、「心得候」と返事したもののわざと急がず、しばらくモタモタしているうちに
村田出羽組の石の方が先に進み、吉田組の石の先に行く勢となった。
これを見極めた村田出羽、やわら起き上がると「ふぁ〜あ」と大あくび、そして

「ここの芝生はとても綺麗だから昼寝をしていたのに、わめきちらす連中が無理に起こそうとするから
寝ることも出来やしない。しょうがないからもう起きるか。」
そう言って何事もなかったかのように自分の組の石の方に戻っていった。

この事は当然問題になり、村田出羽は黒田家の年寄衆に呼びつけられ叱られたが、村田は
「私は少しも悪意があってあんなことをしたのではありません。毎日の仕事に草臥れたので、
あそこで寝ていただけなのです。七郎左衛門が腹を立てているのなら、いかようにも謝りますので
どうか良きようにしてください。」と、抜け抜けというので、年寄衆も絶句して、かえって笑い出した。

その後吉田七左衛門を呼んで意見を聞けば
「あの村田出羽の慮外の働きは今に始まったことではありません。彼の被害にあったものは
私一人ではないのです。ですが、殿様がそれを許すとおっしゃるのであれば、家臣として
この事にこれ以上こだわりません。」と神妙に申し上げた、実に分別家である。
ただ、吉田七左衛門はこのような分別家に見えて心の中は猛々しく、なにかおかしなことが
起こらないようにと、組頭の者たちが暫くは日夜、彼の行動に気をつけていた。
しかしこれでは埒があかないと組頭が年寄衆に泣きつき、吉田に重々意見をしてもらったので、
この件では何事も、起こることはなかったそうだ。
組頭の皆さんも、最後までご苦労様なお話である。
(古郷物語)
895人間七七四年:2011/09/13(火) 14:13:12.60 ID:e+HuxKfg
黒田の面々はやっぱおかしい
吉田さんは災難だったね…
896人間七七四年:2011/09/13(火) 14:26:40.46 ID:jpb6mjx7
石垣普請の逸話ってこんなのばっかりだなw
どこもしょっちゅう喧嘩してる
897人間七七四年:2011/09/13(火) 16:05:34.37 ID:RZ5pO4aI
真田地蔵の祟り?


以前いい話スレで出てきた真田地蔵(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-682.html)のちょっと悪い(?)蛇足。

真田信繁を討ち取った越前松平藩士・西尾仁左衛門宗次。
彼が自分の菩提寺に造立した地蔵菩薩像は「真田菩薩」と呼ばれ、信繁の鎧袖を埋めて供養したものと伝えられた。
(なお、信繁の首の方は真田一族に奪い返されることを恐れて福井城下の某所に埋葬し、その場所は西尾家一子相伝の秘密としたという。)

やがて年月を経て地蔵菩薩は摩耗し、いつのころからか首が破損し落ちるようになった。
これを元通り載せようとするとその者は必ず熱病に悩まされたという。


蛇足の蛇足。
ちなみにこの西尾宗次は信繁所用の兜・薙刀・采配等も戦利品として持ち帰ったとされ、現在でも一部が越葵文庫に収蔵されている。
(平成23年9月6日〜10月30日福井市郷土歴史博物館で展示中)
采配は紙の房に血液と思しき染みが残っており、「幸村血付きの采配」と柄に記されている。
仙台真田家に残る「真田幸村公死持の采配」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4843.html)とは別物の模様。
898人間七七四年:2011/09/13(火) 16:51:25.09 ID:aAZmI2Lu
弟くんは崇徳院並みの祟りパワーの持ち主だな
899人間七七四年:2011/09/13(火) 18:31:21.73 ID:eljRNU1c
>>866
大阪の陣の後の落ち武者狩りはすごかったそうな
900人間七七四年:2011/09/13(火) 18:35:55.10 ID:eljRNU1c
>>884
ある程度行った後にって、計画的みたいだけど、人間の往来に幕府が危機感を感じて鎖国なんだけど
901人間七七四年:2011/09/13(火) 19:18:58.05 ID:e+HuxKfg
信繁でこれなんだから、他の討死した人のはどうだったんだろう
902人間七七四年:2011/09/13(火) 19:59:08.28 ID:/9LP5Rq5
村田出羽が黒田家の朱槍朱具足か
キチガイって言われるほどじゃなければ認められないものだったのかな
903人間七七四年:2011/09/14(水) 00:17:20.42 ID:kDc81oUu
>>898
でも親切心で首を元通りに直そうとする人を呪っちゃうあたりやはり空気が読めてない
904人間七七四年:2011/09/14(水) 09:33:07.03 ID:er70wXAS
吉田七左衛門は、吉田壱岐長利の息子の又助こと吉田重成ですな
最初の妻が後藤又兵衛の妹だったり、後妻が毛利秀包の娘だったり、
長政四男の付家老だったり、島原の乱の傷が元で亡くなったりした吉田重成ですね
905人間七七四年:2011/09/14(水) 19:31:35.38 ID:k/3N0HH4
なら敷き殺しても問題なかったんじゃね
その前に逆切れされて殺し合いになりそうだけど

つーか俺の中で村田出羽のイメージが
ヒャッハーとかギャハハとか跳刀地背拳とかになりつつある
906人間七七四年:2011/09/14(水) 19:46:36.98 ID:qvRybJjs
村田出羽って若き日の井口兵助でしょ
出奔騒ぎ起こしたこともあるし、このくらいは想定の範囲内かも
907人間七七四年:2011/09/14(水) 20:08:36.13 ID:6od0IFry
908人間七七四年:2011/09/14(水) 20:30:37.45 ID:jv5yxqhl
>大坂城天守台の石垣普請の命を受け難なく普請の奉行を勤めた。
・・・難なく?
日本語って難しいなw
909人間七七四年:2011/09/15(木) 05:20:20.59 ID:/kWSUb2b
>>908
小学生以下かよおまいはw
910人間七七四年:2011/09/15(木) 11:17:23.49 ID:SJMbkTnk
911人間七七四年:2011/09/15(木) 14:37:29.65 ID:poTPjlnf
>>903
空気読める人ならあの時点の大坂城には入らないとw
912人間七七四年:2011/09/15(木) 18:05:42.56 ID:Pj+cpiWl
でも入らなかったら後世でこんなにヒーロー化されることなく終わっただろうし
名を上げるという意味では最高に空気読めてたと思う
913人間七七四年:2011/09/15(木) 18:06:44.86 ID:X9cJJGcw
毛利勝永だって入ったのに……
9141/2:2011/09/15(木) 18:22:27.53 ID:9TW0y1e0
黒田家の村田出羽守吉次といえば、大人として立派な所は少しもなく(人がましき儀は少しもなく)が、
覚悟というものをよく知っていて心任せの働きをする人物であり、友人の中で似た人間といえば、母里但馬(太兵衛)
くらいのものだったという。
こんな村田出羽だが、重臣筆頭とも言うべき栗山備前利安の事だけは恐れていた。

ある時のこと。普請場で栗山が見回っていると、村田出羽が例によって高言をしているのが聞こえてきた。曰く

「わしが当家において恐ろしいのは殿様だけだ!年寄衆なんて、ヘチマの皮とも思わねえよ!」

これが耳に入った栗山、静かに村田へ歩み寄り、静かに言う

「おい出羽よ、わしが居る所でそんな事は言わさせねえぞ?
殿が許しているからって誰にも彼にも慮外を働きやがって。お前は御家の邪魔者だ!(御家の邪魔になる奴なり)
以後、よくその事を心得ろ!」
そうみっちりと叱りつけた。

これには村田も苦々しく思い反論した
「これは備州殿の御言葉とも思えぬことを。わたしは誰にも慮外なことをしたことなんでありません。
第一、御家の邪魔になった事なんて絶対にありえない!
宿老筆頭に似合わぬ申しようです!」

が、栗山
「おのれがどう見られているか知らないから、そんな風に思うのだ。
いいか、お前ほど邪魔になっている者は、当家の事は言うに及ばず、他家にもありえないほどだ!
若い頃追いつき首の1つ2つ拾った事を鼻にかけ、でかいツラしやがって!
殿様はお許しになっているかも知れないが、この備後は許さぬぞ!
さあ、家中に恐ろしい者があるのか無いのか、ほざいてみろ!(家中に恐ろしき者があるかなきか、一言吐いてみよ)」

そう言うと短刀を抜いて、変な動きでもするか、屁理屈でも言おうものなら一打に殺してやる!という覚悟。
これに村田出羽、頭をうなだれその場に座り込んでしまった。しかし栗山ここで手を緩めるような男ではない。
村田の頭の上から「推参至極な奴めが!いつもの人もなげな息を吐いてみろ!」と踏みつけんばかりの勢い。

この時居合わせた者たちは素早く集まってきたが『村田のやつあんなみっともない姿をしているが、油断のならない
悪戯者だ。ああやって栗山殿の前で恐れいった体で散々に叱られているが、そう油断させて栗山殿を斬りつける
つもりに違いない!その時は我らが出羽に取り付いて簡単に目的を果たさせないぞ!』と一同心に誓った。
流石村田出羽。信頼感はゼロである。

と、栗山が叱るだけ叱りつけ、そろそろいいかな?という頃合いに村田はようやく声を上げた
「さてさて、道理至極にて御座候。当家に恐ろしき者など居ないといったのは、近頃不届至極、沙汰の限りの
発言でした。この事に関して、この出羽も謝罪します。どうかお許し下さい。」
そこで栗山「なら、さっさと引っ込め!」と言ったので、これを塩に村田、すごすごと立ち退いた。
9152/2:2011/09/15(木) 18:23:04.68 ID:9TW0y1e0
それから暫く後、

村田はこころやすい友人たちと語り合っていたとき、相変わらず高言をし、懲りもせず
「恐れながら殿より他には誰も恐ろしい者は居ない!」
とぶち上げていた。これにはさすがに友人たちも呆れて口々に

「おい出羽、あんまり大口を叩くなよ?この間備後殿に斬られかけた時が、流石にみっともなかったぞ?
お前が殿様にあそこまで叱られた話は聞いたことがない。浅ましくて見苦しい姿だったぞ!」

と言ったがこれに村田出羽、笑って
「あれはお前らが言うように、見苦しかったなあ。俺もな、これは堪忍できないと思っていたのだが、
少しでも反論した斬ると言いかねぬ勢いだった。
ジジイめ、あのジジイのことは俺が子供の頃から能く知ってるが、とにかく動きがキビキビしていて、
太刀さばきも妙に早い奴なんだ。
で、うっかり俺が斬られたとしよう。殿様はこれを両成敗になんかしてくれないよ?逆に

『村田のやつは悪戯者だから首を切りたいと思っていたのだが、子供の頃から召使いあれほど
人がましく取り立ててやった以上、不憫に思って今まで助け置いていたのだ。それを斬るとは、さすが備後!』

なんて誉めるぜ!?

その上あのジジイは『しかし村田の子供を助け置いては将来心もとない』なんて言って追放にして、
子供まで野垂れ死に。俺の一類共に死に果てる、というわけだ。
あの男に斬り殺されるなんてのは、犬に食い殺されるような不名誉なことだ!
そう思って堪忍成りがたきを耐えていたのさ。

能く聞いておけ、いつ何時でも、あのジジイには叶わねえ。もし俺が又あのジジイの腹をたてるようなことを
してしまったら、この出羽はどうにかしてその機嫌をとり、それでも機嫌が治らなければ、もう逃げるより他に
道は無い。
これは俺一人に限った話じゃないぞ!?今後一体誰があのジジイの機嫌を損ねるか知らんが、
とにかくあいつは喧嘩好きの恐ろしい奴だ(兎角喧嘩好きの恐ろしき奴めなり)。
お前たちも用心するんだぞ!」

こんな事もあり、村田出羽は栗山備後だけは恐れたが、その他に者には相変わらず無茶なことを
ふっかけていたそうである。

栗山備前怖い。というお話。
(古郷物語)
916人間七七四年:2011/09/15(木) 18:37:17.02 ID:REmqb7Y9
栗山さんが生徒指導の先生みたいだ
917人間七七四年:2011/09/15(木) 18:39:36.05 ID:X9cJJGcw
>流石村田出羽。信頼感はゼロである。
なんで黒田武士って奴は…

黒田家の話がでる度に
自分の中の、栗山備後さんの株がどんどん上がっていく
918人間七七四年:2011/09/15(木) 19:03:29.90 ID:B4f6fVaP
>その時は我らが出羽に取り付いて簡単に目的を果たさせないぞ!』と一同心に誓った。
って、黒田家の人は栗山さん好きだねぇ
アイコンタクトで頷き合う皆さんを想像したw

ところで殿様ってngms?ngmsって恐れられてたの??
919人間七七四年:2011/09/15(木) 19:12:36.65 ID:X9cJJGcw
如水さんでは?
920人間七七四年:2011/09/15(木) 19:30:54.50 ID:TvNm0z4o
あんま関係ないけど遠賀川と洞海湾を結ぶ堀川作った栗山大膳って備後さんの孫とか曾孫?
921人間七七四年:2011/09/15(木) 19:40:25.42 ID:gdJb56VG
大膳は備後の長男
922人間七七四年:2011/09/15(木) 19:53:33.96 ID:TvNm0z4o
>>921
ありがとう、小学校の社会の授業の時に黒田藩の堀川の話が出て、
大膳さんだけ名前が出てくるんで妙に印象に残ってんのよ。
923人間七七四年:2011/09/15(木) 19:57:47.81 ID:Z/uKzV5p
栗山大膳ったら栗山大膳事件だろ
あれもちょっと悪い話
924人間七七四年:2011/09/15(木) 20:52:23.24 ID:HDc85GKv
もう黒田家がDQN高校にしか見えない
925人間七七四年:2011/09/15(木) 21:34:00.22 ID:X2uopfih
魁 黒マティ高校
926人間七七四年:2011/09/15(木) 22:52:00.29 ID:FCsq89Gf
   、ミ川川川彡                 ,ィr彡'";;;;;;;;;;;;;;;
  ミ       彡              ,.ィi彡',.=从i、;;;;;;;;;;;;
 三  ギ  そ  三            ,ィ/イ,r'" .i!li,il i、ミ',:;;;;
 三.  ャ  れ  三    ,. -‐==- 、, /!li/'/ 村田l'' l', ',ヾ,ヽ;
 三  グ  は  三  ,,__-=ニ三三ニヾヽl!/,_ ,_i 、,,.ィ'=-、_ヾヾ
 三  で       三,. ‐ニ三=,==‐ ''' `‐゛j,ェツ''''ー=5r‐ォ、, ヽ
 三.   言  ひ  三  .,,__/ 栗山   . ,' ン′    ̄
 三   っ  ょ  三   /           i l,
 三.  て   っ  三  ノ ..::.:... ,_  i    !  `´'      J
 三   る  と  三  iェァメ`'7rェ、,ー'    i }エ=、
  三   の   し  三 ノ "'    ̄     ! '';;;;;;;
  三   か  て  三. iヽ,_ン     J   l
  三  !?    三  !し=、 ヽ         i         ,.
   彡      ミ   ! "'' `'′      ヽ、,,__,,..,_ィ,..r,',",
    彡川川川ミ.   l        _, ,   | ` ー、≡=,ン _,,,
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927人間七七四年:2011/09/15(木) 23:03:29.75 ID:O3B3TDip
大坂の陣の後の大坂城普請だとすると
村田出羽の言う殿はngmsの事か?

村田出羽は若い頃からの近習だというけど
恐れられるようなところがあったのか?
928人間七七四年:2011/09/15(木) 23:30:00.03 ID:Evhmt26N
>>918
子供の頃から〜とか言ってるから長政ですね
村田は如水が息子の遊び相手にほとんど誘拐同然に連れてきた家臣だから、長政もこいつには甘い

つか、長政時代の黒田家ってああいう逸話はあるけど、基本長政専制的なんだけどね
929人間七七四年:2011/09/15(木) 23:54:09.90 ID:B4f6fVaP
>>928ありがd
読み直したら栗山さん「ジジイ」呼ばわりされてるので、
ああ、もうngmsが家督した後なんだろうなーとぼんやり思ってました

如水さんは、村田といい又兵衛といい、
エキセントリックなのを息子にあてがう癖があったのか・・・
930人間七七四年:2011/09/16(金) 00:07:48.53 ID:CDRE0Chl
とりあえずngmsが先頭で突っ込まない程度の配慮だったりして

ところでngmsや菅正利の賤ヶ岳での活躍は無いですか?
931人間七七四年:2011/09/16(金) 00:21:33.59 ID:UTiraLRZ
>>929
獅子は我が子を千尋の谷に落とす的な試練だよ。多分。
932人間七七四年:2011/09/16(金) 00:38:38.70 ID:IjqqNn1F
長政の賤ヶ岳の顛末ならまとめにあるよ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3536.html

ここでも栗山さんががんばっているのであった
933人間七七四年:2011/09/16(金) 01:00:21.66 ID:CDRE0Chl
ありがとうございます
村田出羽との話しのあとだからか味わい深いですね
934人間七七四年:2011/09/16(金) 06:41:04.64 ID:jJD+o/dC
>「わしが当家において恐ろしいのは殿様だけだ!」
色々問題ある人のようだけど主君に対する忠義はあるみたいだから問題ないな
935人間七七四年:2011/09/16(金) 07:51:19.24 ID:91s7Ex/Q
又兵衛「 (#゚д゚) 、ペッ 」
936人間七七四年:2011/09/16(金) 10:55:09.23 ID:qC83DAIe
>>931
獅子は我が子に保険金をかけて千尋の谷に落とす?
937人間七七四年:2011/09/17(土) 01:24:05.70 ID:+5LVXMQx
いい話に小姓の話があったので
江戸時代になっちゃうけど、後味悪かったお話

加賀藩主、前田綱紀の娘、節姫は
広島藩主、浅野吉長に輿入れした

姫は、浅野家の侍帳(職員録のようなもの)を見たいと言うので
家老がさっそく姫にそれを見せた所、児小姓の名前が帳面になかった
「如何(どうして)?」と尋ねると

「いたことはいたのですが、奥方様を迎えるので、全員元服させるか他所に出したのです」
(子小姓御座候へども、御入輿前、何れも元服仰付けられ、外様へ御出し遊さるゝ)

男色の対象となる側小姓が新郎の側に常に控えていては、新婦の心証を害し
新婦の実家前田家との関係にも悪影響を及ぼしかねない と考えたらしい
しかし、当の節姫は
「そんな気遣いは無用 私は児小姓が夫の側に侍っていても気にしません」
と、姫らしく毅然とした態度で受け入れる しかも

「やはり大名の身辺には、児小姓が必要でしょう」
(大名の御近所には、子小姓差置かれ、御心安く召仕はるゝ儀、宜しく候)
と言って、更に家中から美少年を選んで新たに児小姓に置き
彼らに支給する御仕着は、全て節姫の方で用意したという
(松雲公御夜話)

名君と言われる父、前田綱紀の影響もあってか、節姫も教養豊かな女性であり
嫉妬の感情を厳しく自戒し、夫の性癖もおおらかに受け入れていた様である
ここまではいい話
938人間七七四年:2011/09/17(土) 01:24:20.12 ID:+5LVXMQx
そんな二人は、普通に良い夫婦関係であったというが
吉長は妻のおおらかさに甘えたのか、性欲奔放が地だったのか
ちょっと調子に乗り過ぎたのがいけなかった

ある日、吉長は新吉原の遊女を請け出したばかりか
芝神明前の蔭間を二人請け出した
しかも、国許に帰る際に遊女と蔭間を同伴しようとしたので
これにはさすがの節姫も激怒した

「大名が請出しする事自体は、ままあることなのでそれは問題ではありません
でもね、国許まで同伴するなど、あまりにも非常識でしょう!
第一、上様に聞こえたらどうするんですか」
(尤、大名の遊興の余り、遊び者を請出し玉ふ事は有りまじき事なれねど、
国元まで御供とは余り成事、第一上様へ聞え参らせて宜からず御事也)

しかしそんな妻の諫言は聞き入れられず、その遊女と蔭間は
華々しい装いを誇示しながら、藩主帰国の一行に加わった

そんな状況を無念に思った節姫は、一間に籠って書置を認めたのち
壮絶な割腹自殺を遂げてしまったという
(をしむべし五十一歳を一期として腹一文字にかき切伏し給ふ)
(続漸得雑記)
939人間七七四年:2011/09/17(土) 07:47:32.08 ID:gayi3DnU
な、なんという…本当に後味の悪い話
理解を示したり懐の広いところを見せたりしても相手が
それに甘えるだけだと悲劇になりがちだよね
命をはって主君に諫言する重臣がいれば…
940人間七七四年:2011/09/17(土) 09:07:13.60 ID:Ny1fE4fh
前田さんと浅野さんは絶縁になったりしないの?
941人間七七四年:2011/09/17(土) 09:07:25.60 ID:PDlLczt6
こんなのが名君扱いされてたとか、欺瞞もいいとこだな
942人間七七四年:2011/09/17(土) 10:10:09.92 ID:TVOCH3N5
>>941
素行が悪かろうがなんだろうが民に害をなさない君主は名君です
943人間七七四年:2011/09/17(土) 10:15:25.37 ID:F/CRG+F/
うーん、児小姓まで全部自分であてがったってのはある意味全て管理下においてたってことだし、
Wikiみた限りでは側室は持たせてもらえなかったともある。
これ、けっこう吉長にとっては息苦しい環境だったんじゃなかろうか?

奥さん51ってことは長年我慢はしてたんだろうし、初めてハメはずしてみたらまさかの過激行動だったのかも。
それに、「上様に聞こえたら・・・」とは言うが、正室が腹切ったなんて聞こえた方が比較にならんほどヤバイし、
本当に理性的だったならこんな行動にまで出るかね?
筋の通った諫言で取り繕ってるけど、一方で『同性への』嫉妬も見え隠れしてるような・・・

あと、これもWikiからだけど前田家と相談の上急病扱いで処理したというから、実家から見ても吉長だけに
一方的な非があるとまでは見なかったんじゃないかな、大藩同士の大人の事情はあるとしても。
944人間七七四年:2011/09/17(土) 11:51:38.27 ID:pVhxKH9L
今の時代の腐れ女子からすりゃ立派な女だろうが
子供がいればいるほど家の繁栄に繋がる時代に
同性愛の推奨ってだけでも忠信なら病死していただく準備が必要な位の亡国の女。
遅きに失したけど、お家断絶には繋がらなかったなら
メデタシメデタシですむんじゃね?
ていうか、その小姓を確認した時点で、腐臭がするんだが?
江戸時代の大名家にもBL好きの腐ていたのか?
945人間七七四年:2011/09/17(土) 11:55:47.25 ID:I8KT5XBY
>>944
つ【衆道】
946人間七七四年:2011/09/17(土) 12:09:58.27 ID:pVhxKH9L
>>945
衆道ってやってる当事者が楽しんでるもんだろ?
BLって女が見て喜ぶ為のもんだろ?
ちょっと違うんじゃね?
947人間七七四年:2011/09/17(土) 12:19:08.72 ID:Jba91Cuy
端的に言うとこの時代、衆道と男女の愛情は全く別物と考えられていて、
夫の衆道相手に妻が嫉妬するというのは、非常に恥ずかしいこととされていた。
ちょっと極端だが現代的に例えると、旦那がかわいがってるペットに妻が嫉妬するとか、そんな感じ。
948人間七七四年:2011/09/17(土) 12:19:59.96 ID:SFHlIBee
衆道は君臣関係にも大きな影響を与えるものだから
ぶっちゃけ個人の性癖だけの問題でなく
政治的な意味合いもあるものなのよ
949人間七七四年:2011/09/17(土) 12:29:37.43 ID:qoCIrDCT
衆道も浮世絵も精力発散だろう
趣味が極まって芸術とか言われるようなもんかと
950人間七七四年:2011/09/17(土) 12:45:08.46 ID:yk14zRps
300年後とかにヲタ文化や腐女子文化も芸術と呼ばれるようになるのか胸熱だな
951人間七七四年:2011/09/17(土) 12:47:22.45 ID:Jba91Cuy
実は浮世絵は春画も含めて、相当な割合で女性向けだった節がある。
952人間七七四年:2011/09/17(土) 12:55:52.80 ID:PDlLczt6
>>942
浅野吉長は農民一揆を起こされているんだが
それでも名君だと?
953人間七七四年:2011/09/17(土) 13:42:45.60 ID:nhliwxMN
小姓は家の管理下にあるけど、遊女やら陰間は管理下にはない
だから怒ったんだろうよ
954人間七七四年:2011/09/17(土) 14:19:58.94 ID:YkJH6cyO
猿面の男「つまり女をつくるならもっと上手くやれって事だ」
955人間七七四年:2011/09/17(土) 14:22:14.19 ID:pVhxKH9L
想像でしかないが
側室の記録が無いところからして
前田家による浅野家乗っ取りが目的だったかも?
前田の血を持たない子供の存在を恐れて女が来るのを激怒したんじゃね?
956人間七七四年:2011/09/17(土) 15:12:07.14 ID:+5LVXMQx
>>943
確かに奥方切腹だと、ますますメンツが潰れそうじゃね? とは思ったけど
これを許してしまっては、また繰り返すことにもなるから
まさしく命をかけた諫言だったんじゃないかね

>>944
あの時代の男色などは、性欲や愛欲とは別次元の関係であり、いるのが普通だから
奥さんも何でいないの? 普通いるでしょ? と思ったんじゃないかな
957人間七七四年:2011/09/17(土) 20:07:27.83 ID:UsaXYbY1
戦国時代板の、よりによっていい悪スレに
>>944のような意見が出てきたことが素直に驚きなんだが。
「当時、衆道は常識」は基本中の基本の知識だと思っていた。
958人間七七四年:2011/09/17(土) 21:53:57.67 ID:9LdKxVFj
他のスレでも「衆道が当たり前なんておかしい。じつは男装女子がいっぱいたんじゃね?」
なんて真面目に主張してるやつがいたぞw
959人間七七四年:2011/09/17(土) 22:00:06.59 ID:rpGF+HQi
>>958
ふいたwwwwwww
これも田豚の影響か・・・
960人間七七四年:2011/09/17(土) 22:01:17.22 ID:W5smCsPX
そういえば、中世の西洋では
古代ギリシャで男色が当たり前なんておかしい。よっぽど特殊だったから
記録に残っているんだ!と主張している人が結構いたとか
961人間七七四年:2011/09/17(土) 23:13:15.15 ID:+5LVXMQx
そもそもなんで男色がおかしいと思うんだろうか
あれは主従の絆を強めることに置いても、武家社会なら発生してもおかしくない現象だし
まあそれが原因で色々揉め事も多くなってるんだけどね
962人間七七四年:2011/09/17(土) 23:21:10.26 ID:VjNHemWA
男色がおかしいってのは近代以後入ってきた西欧のキリスト教的モラルにすぎないからなあ。
それ以前はそもそも、男色が特別な色眼鏡で見られることはなかった。
まあ「同性愛者」という、異性を愛せない存在、なんてのも居なかったんだがw
963人間七七四年:2011/09/17(土) 23:28:56.82 ID:z3eqTmVy
基本的にバイセクシャルだからねぇ
性同一障害でも、特殊性癖でもない
964人間七七四年:2011/09/17(土) 23:32:39.09 ID:yk14zRps
そこもとに妹か姉はいるか?
965人間七七四年:2011/09/17(土) 23:34:56.80 ID:9LdKxVFj
衆道にはまりすぎで子どもができない、って揶揄される人はいたけどな。
徳川家光とか
966人間七七四年:2011/09/17(土) 23:36:30.21 ID:+5LVXMQx
>>962
1700年代、朝鮮の通信使一行に、日本の異なる風紀もさるながら男色関係も
「少年には主が有り、気安く話しかけたり笑いかけたりすることもできない
それよりも人の妻妾を奪い取る方が容易だ」
とも書かれたりしてる
そんでこんな風俗を非難して「おたくの国の俗は奇怪極まる」と言ったら
応接していた雨森芳洲は貴殿は男色の楽しさをご存じないからと笑いながら言ったとか

この当時あちらでは男色はあまり流行ってないみたいだね
967人間七七四年:2011/09/18(日) 00:57:02.61 ID:5qH1byRr
儒教国だと同性愛は子孫を残せずイコール先祖への孝の否定になるのでご法度
まあ禁止されているということは、影ではそれなりにあったといことでもあるのだが
968人間七七四年:2011/09/18(日) 02:29:01.81 ID:rcE+trFF
ちょっと思ったのだけど、いわゆる「女同士」って無かったの?
969人間七七四年:2011/09/18(日) 02:37:50.01 ID:HIjefIxw
女同士もあったらしいのは知ってるけど
詳しい話を知らんなあ
970人間七七四年:2011/09/18(日) 02:59:14.64 ID:CZX9IW+P
春画にも女同士の物は結構あるし、江戸期の双頭型やヒモで装着するタイプの張り型の存在も確認されているので
女同士の行為があったのは確実。ただ研究者の間では、衆道と同様に、それを同性愛と呼んでいいものかという、
深い悩みがあるw
971人間七七四年:2011/09/18(日) 07:43:36.55 ID:zC+z/FFj
衆道が当たり前ってのは
夜這いや浮気が当たり前ってものの裏返しだよな

現代も300年後には上司と共にソープに行ったフリーセックスの時代と言われると
972人間七七四年:2011/09/18(日) 07:50:32.46 ID:YXQkCAdg
ホモは何時の何処の時代だって自分の性癖を肯定するために
昔はホモは当たり前で殆どの人間が掘り合っていたと言う

んなわけあるかっての
エイズで死んどけ
973人間七七四年:2011/09/18(日) 08:08:34.84 ID:MSXIS6CN
>>972
大方、BL大好きの腐が衆道=同性愛って決めつけてるんじゃね?
当世の子供のツレションとか、寒い時にくっついてる程度の、厳ついオッサン連中には似付かわしくない無邪気な話だったんだろうと思う。
974人間七七四年:2011/09/18(日) 09:27:35.11 ID:INaWXc/U
昔はホモは当たり前で殆どの人間が掘り合っていたと言う
↑これは文献読んだ学者もホモだって言いたいのかw
随分と独善的だな
975人間七七四年:2011/09/18(日) 09:37:21.72 ID:YXQkCAdg
ロストバージンは15歳が普通って程度のネタだな

現代でもホモの雑誌や画像や動画は簡単に手に入るし
ノーマルの人間を求めなければ相手は幾らでもいる

そもそも腕力や権力に物を言わせるのはパワハラで
結果的に不起訴だったとしても現代の感覚と同じで泣き寝入り又は枕営業だろ

忠義とか一々かしこまった言い方をしてホモを肯定しようとするのが
個々ん問わずホモ連中の常套文句だわな
976人間七七四年:2011/09/18(日) 09:42:10.21 ID:INaWXc/U
お前は一体誰と戦ってるんだw
977人間七七四年:2011/09/18(日) 10:09:58.07 ID:nKB50LaR
>>970
そんなもんが残ってるのか、素材はやっぱり木とか革?
旦那が戦場に出てる間とか、他の嫁のところにいる間の対処法なのかね
978人間七七四年:2011/09/18(日) 10:14:24.90 ID:C3ay+Jj9
主君の為に命を捨てることも厭わない精神自体が衆道だよな
979人間七七四年:2011/09/18(日) 10:22:40.52 ID:YXQkCAdg
尊敬できる人間のためなら命がけの仕事だってやるがホモはお断りだ
980人間七七四年:2011/09/18(日) 10:27:46.88 ID:qbsZm85w
衆道ネタをまだ引っ張ってるのか
「同性愛マジありえねえ!!信じねえ!!」という人は
もっと史料&資料を読もうな。
もちろん原文で。
981人間七七四年:2011/09/18(日) 10:30:43.85 ID:YXQkCAdg
ゴシップ誌を読んで真実だと思い込む頭がどうかしている
982人間七七四年:2011/09/18(日) 10:33:16.22 ID:YXQkCAdg
違うか
ホモ、衆道をみんながやっていたというのを
真実だと言うことにしたいだけか

エイズでさっさと氏ね
983人間七七四年:2011/09/18(日) 10:40:46.98 ID:Zticm/Na
>>982
歴史を勉強してから出直しておいで
984人間七七四年:2011/09/18(日) 10:42:58.95 ID:WOd23+E4
>>983
寧ろ史料より自分の矮小な主張を優先するID:YXQkCAdgみたいなのは
金輪際歴史に関って欲しくないな
985人間七七四年:2011/09/18(日) 10:51:50.91 ID:TRikOPIi
ああいう奴が遺跡とか史料の捏造をするんだろうな
986人間七七四年:2011/09/18(日) 11:07:34.66 ID:qbsZm85w
ID:YXQkCAdgは別スレを立てて、そこで自説をぶってくれないかな
ここは衆道の是非を問うスレじゃないんだからさー
987人間七七四年:2011/09/18(日) 11:12:04.71 ID:yLI8rgU/
そろそろ新スレ立ててみる
988人間七七四年:2011/09/18(日) 11:14:01.83 ID:yLI8rgU/
出来なかった。どなたか頼みますorz

↓スレタイ

戦国ちょっと悪い話28

↓テンプレ

戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1312460445/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
989人間七七四年:2011/09/18(日) 11:32:33.61 ID:qbsZm85w
>>988
やってみる
990人間七七四年:2011/09/18(日) 11:34:55.72 ID:qbsZm85w
新スレ立てました

戦国ちょっと悪い話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316313208/
991人間七七四年:2011/09/18(日) 11:45:08.78 ID:UlaEmBG+
>>990
そういえば大祓詞の国津罪に同性愛ってなかったかな、と思ったが
「己が母犯せる罪」「己が子犯せる罪」「母と子と犯せる罪」「子と母と犯せる罪」「畜犯せる罪」
だけだった
これは少なくとも近親相姦、親子丼、獣姦程度には同性愛は禁忌だと考えられてなかった、てことか
992人間七七四年:2011/09/18(日) 12:41:00.61 ID:bUXdnF+S
>>990


>>991
それも全部虐待を禁止するニュアンスが強い気がするな。
同列の兄弟姉妹への禁忌が含まれないあたり。
993人間七七四年:2011/09/18(日) 12:46:55.60 ID:INaWXc/U
獣姦と近親は日本神話でも禁忌なんだろうか
あんまり聞いたことはないが
衆道は武家より坊さんのが肉体的だったと聞いたことがあるが、どうなんだろうか
994人間七七四年:2011/09/18(日) 13:02:29.54 ID:lHWmtZsV
>>991
そういや豊臣秀次の側室に母娘がいなかたっけ?
995人間七七四年:2011/09/18(日) 13:06:52.27 ID:Vw6DTJhn
>>993
衣通姫と軽太子
996人間七七四年:2011/09/18(日) 14:36:37.33 ID:INaWXc/U
古事記にあるのか dクス
997人間七七四年:2011/09/18(日) 15:07:26.21 ID:YXQkCAdg
>>984
ホモ好きほど捏造大好きなのはいない
998人間七七四年:2011/09/18(日) 15:40:14.06 ID:YXQkCAdg
ホモは何時の時代も「殆どみんなバイセクシャル」というが
>>3を見ても分かるようにそれはホモ仲間を増やすために
ホモだけがイメージ操作のために言うこと書くことであり
そんなのをホモに語らしまともに扱うとこのスレやまとめブログが死んでしまう
999人間七七四年:2011/09/18(日) 15:46:19.62 ID:HIjefIxw
おにぎり…?
1000人間七七四年:2011/09/18(日) 15:49:19.89 ID:INaWXc/U
マジキチ退散!
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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