武田厨と織田厨が争うスレ

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520人間七七四年:2012/03/22(木) 17:40:55.43 ID:HnlldQre
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww


521人間七七四年:2012/03/22(木) 17:57:32.72 ID:2MkI94oD
>>520
コピペはもう、よい。
522人間七七四年:2012/03/23(金) 08:19:48.09 ID:PM26fWgh
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった



河野島の戦い全文

一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、

ここからわかる斎藤方の嘘

・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)

・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)

・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)


斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。
523人間七七四年:2012/03/25(日) 12:45:14.66 ID:boSddDYB
>>522
でさ、君の反論を裏付ける一次史料はまだなの?
まさか織田厨の君が願望を込めて「思った」妄想感想文を書いてるだけじゃないだろうね?
524人間七七四年:2012/03/27(火) 23:48:35.69 ID:HK84Gk0t
肝心の一次史料ですら大勝とは書かれず撤退する敵を追撃しただけ
戦死者も誰もおらず矛盾した点が数か所

逆にこの戦いを斎藤の大勝としている研究者がいるのだろうかw
ま、いないだろうなw
525人間七七四年:2012/03/27(火) 23:50:58.80 ID:wm/vxslC
ゆとりすぎワロタw
526人間七七四年:2012/03/28(水) 01:31:52.35 ID:UrgzvLC7
え、だがっておっさんなの?w
おっさんなのにあんな荒唐無稽なこと書いてるのかよw
527人間七七四年:2012/03/28(水) 02:32:44.77 ID:yu/C1NF1
>>526
そうなんだよ。
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/15.html

>真田は上杉に 偽装降伏してその内情を探ったり、裏工作を担当してるところもある
>政治はここら辺を加味されてるようにも思うな

政治と知略が分離するようになるのは武将風雲録(1990年発売)より後。
そこから思考が進歩していないということは…
528人間七七四年:2012/03/28(水) 09:39:18.77 ID:eWlIFm3a
河野島の戦いや義昭が頼ってきた事実を
見事に隠蔽する信長公記
負けでなければ、信長に不都合がなければ
隠蔽する必要性すらない。
529人間七七四年:2012/03/28(水) 10:11:29.38 ID:ZXdOXSOS
今日から向こう一年一事も漏らさず銀板にガリ版でお前が日記をつけてから言えよw
530人間七七四年:2012/03/29(木) 22:41:26.60 ID:lrPfYtZW
織田厨涙目w
531人間七七四年:2012/03/30(金) 21:28:27.73 ID:6JbKw+o9
勝ちでも負けでもない、大した影響もない戦いをいちいち史書にくまなく記せというだが
一方自分は杜撰すぎるコピペをなおさないというザマ
532人間七七四年:2012/04/01(日) 19:43:38.27 ID:oSEv2uDc
>>531
じゃあ何で公記は永禄9年の斉藤との戦いと
永禄10年の稲葉山城落城の話を
同じ年の出来事のように偽装して記して
河野島の戦いが無かったことに捏造してんの?
533人間七七四年:2012/04/01(日) 20:05:33.65 ID:6Cqo+ZbE
お前ケシゴムとか修正液とか使ったこと無いのか?
現在でも本の巻末に落丁があったら送ってねってあるの知ってるか?
534人間七七四年:2012/04/03(火) 10:47:40.67 ID:7dPvbygm
大和一国支配者の興福寺

1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
多聞院の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw

秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。

織田の差出の検地なんてこんなズサンなもの

石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
535人間七七四年:2012/04/03(火) 11:02:42.86 ID:ee0oe8wP
どうやら織田の軍政知行体系に詳しいようだが、何に従って軍役その他をかけてたのか示せるのか?
536人間七七四年:2012/04/03(火) 21:31:01.81 ID:Aa27p+Ak
>>532
ただ出張って撤退しただけの戦争をわざわざ書け、というアホだが
そもそも信長公記は義昭を伴って上洛する頃からしか書かれず桶狭間という一大活躍ですら
後から付け足して書かれたというくらい岐阜以前の信長には触れていないことも知らない無知っぷり
537人間七七四年:2012/04/04(水) 08:26:45.90 ID:CmV8pE4L
織田厨涙目w
538人間七七四年:2012/04/05(木) 15:55:38.63 ID:A/6x4YDJ
桶狭間の戦いが捏造でそんなの存在しなかったと織田厨自らが公認した瞬間であった。
539人間七七四年:2012/04/06(金) 00:31:33.21 ID:fIVo8Nm4
???
540人間七七四年:2012/04/14(土) 11:45:02.11 ID:A11Cl47u
当主がいきなり討死なんて
味方内に裏切りが発生しない限り無理。
信長も隆信も味方の手引きで殺された。
そして竜造寺は鍋島に、織田は秀吉に乗っ取られた。

義元の場合は単なる急死だろ。
541人間七七四年:2012/04/18(水) 09:38:52.71 ID:XzDcynpJ
義元が急死とする一次史料は?
542人間七七四年:2012/04/19(木) 18:35:49.54 ID:McY9FLgr
打ち取られたとする一次史料が存在しない。
その時期前後だと感状が今川方にしか存在しない。
そもそも初出典が信長公記で、桶狭間の年代を思いっきり間違えている上に
信秀の死の時期など其の前後をいろいろ操作をしている。
第1次小豆坂の戦いをデッチあげるなど戦自体を捏造してる。
のちに作られたような原本の無い写しの偽書状などがある。
543人間七七四年:2012/04/20(金) 11:55:03.04 ID:F5Z0SbNg
史料がないのなら二次史料に頼るしかない。
桶狭間そのものがなかったとする説でも立てるしかない
「義元急死」の一次史料はあるの?
544人間七七四年:2012/04/21(土) 07:07:53.80 ID:KKK4GS7l
のぶやぼ厨涙目w
545人間七七四年:2012/04/21(土) 14:20:54.98 ID:PKko6Dz2
不慮の出来事って記述は突然死を表していて
義元が戦死ではないことを証明している。
546人間七七四年:2012/04/21(土) 23:47:06.18 ID:PKko6Dz2

信玄上洛戦で義昭が挙兵したことを信長は不慮の出来事と書いてるし
どう考えても不慮の出来事は戦死には結びつかない。
547人間七七四年:2012/04/22(日) 14:10:12.73 ID:NMUkDfhr
その流れだと不慮の出来事=挙兵じゃん
どこの誰が不慮の出来事を突然死だと考えているのか一次史料を持って証明しろよ。
おまえの言い分だと不慮の出来事とあるんだから足利義昭は突然死したという理屈になるぞw
548人間七七四年:2012/04/22(日) 16:53:51.14 ID:O4xO0oin
島津 天正2年4/14 足利義昭御内書就京都不慮の儀、至紀州滞留候
毛利 天正6年3/16 不慮に将軍中国御動座
毛利 天正3年10/14 今度親に候者不慮之病死、不及是非次第候 (南条宗勝の病死)
毛利 天正六年12/7 義景不慮以来 、如御存知為(謀反で死去)
毛利 天正11年2/20 於京都信長公不慮之刻 (謀反で死去)
毛利 天正11年8/13 不慮ニ死去仕候之条(元春四男夭折)

ふむ義元は味方の謀反で思いがけず死んだ
もしくは思いがけず病死
あるいは思いがけず突然死
だろうね。
想定外・意外にもって表現であり
戦場で討死なら武士たるもの決意していることで
戦場での死は名誉のことで隠すことでもなく当然ありえることで、
予想外のことなんて言葉は不自然。
あきらかに戦死なんて使い方はまったくなされていない。
549人間七七四年:2012/04/22(日) 16:55:42.40 ID:O4xO0oin
訂正
毛利 天正11年2/20 
これ島津家文書だったわ。
550人間七七四年:2012/04/22(日) 17:05:59.52 ID:NMUkDfhr
いやその義元が「不慮の出来事」という書状を持って来いって言ってんだが
もちろん全文だぞ
551人間七七四年:2012/04/22(日) 18:30:48.54 ID:O4xO0oin
その程度の簡単なことも自分で調べられないとか
議論の価値すらねーな。
ただのクレクレ厨じゃんよwww
やっぱ織田厨ってザコ過ぎて話にならんわwwwwww
552人間七七四年:2012/04/23(月) 10:24:34.24 ID:tQ8+aFGU
ちょっとググったらこんなもんあったわ。

http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/senju/page002.html
> 弘治三年(1557)七月十二日、秋月文種、古処山城に自刃する。「中国ノ毛利元就ニ種方公
> ハ一味シ玉ヒ大友ト合戦アリ」「同(七月)十八日、種方公不慮ノ大変出来テ秋月城没落ス」
> (「高鍋藩本藩実録」)

単なる戦死でも「不慮ノ大変出来」とあるね。
これが捏造でない限り、論破かな。
553人間七七四年:2012/04/23(月) 20:15:07.70 ID:yl1WRirA
>>551
結局ソースなしの願望妄想かw
妄想を垂れ流して自己陶酔につきあわされる信玄の身にもなれよw
554人間七七四年:2012/04/27(金) 16:42:00.62 ID:XxOE7ZV2
「不慮ノ大変出来」
どう考えても種方公への謀反が起きて秋月城が落城したって意味だろ・・・
その解説として古処山城に自刃すると補填説明があるだけじゃん。
しかもそれ江戸時代中期にできた秋月家譜であって
戦国時代の一次資料の書状じゃねーじゃん。

だいたい秋月城が落城しても
詰めの城である古処山城へ撤退して抗戦するのが秋月氏の戦略だぞ。
古処山城は峰嶺が連なり、あちこちへ逃走するルートがあるからね。
555人間七七四年:2012/05/06(日) 09:29:16.82 ID:RvpkYr1r
秋月城と古処山城を混同してブザマを晒す織田厨w
相変わらずミジメな無知ぶりだなw


織田厨の捏造歪曲の実例

武田は悪政とか織田厨が喚きまくってるが
実際に一次史料のソースを明確に出したためしが一度もなく
なにを根拠に連呼してるのか不明。
何度も原文と日付のソースを要求しているが毎回、別の話題を持ち出して逃亡。
つうか武田領国って、織田領国にくれべて
一揆も謀反もほとんど起きてない。
むしろ当主権すら制限している分国法すら存在しない織田領の方が悪政だろw

結局、武田領も治めるのに失敗してるのが織田だしね。
占領統治がもっとも下手くそなのが織田。
占領してもかならず蜂起が起きる。

武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。

>>謙信や信玄は奴隷売買しまくってた
信玄は天文16年8月に
関東管領上杉憲政の大軍を撃破した後も籠城を続けて、
あくまで武田に抵抗する志賀城の笠原清繁ら国人衆に対して
行った1回だけです。
金山採掘のための人手が必要だったために買い戻す価格は高く設定されました。

謙信は永禄9年に、佐竹義昭の死去に乗じて佐竹を攻めて
再度の謀反を企てた小田氏を攻めた時にやった1回だけです。
しかも激安価格でメシ代程度でした。
そして詫び言を言ってきた小田氏の小田復帰も許してあげてます。
556人間七七四年:2012/05/06(日) 09:29:49.96 ID:RvpkYr1r
>>信玄や勝頼の悪政で領国は疲弊してた
悪政どころが飢饉対策と洪水対策の成果が出たので
永禄6年に都留郡で洪水がおきて田畑が流される被害を最後に
毎年必ずおきていた災害記録はまったく記録されなくなります。
それどころか武田領は敵に侵攻され燃やされる心配もなく
安心して暮らせる領内となってます。

織田厨の大ウソ「信玄晩年には黒川金山が枯渇したので財政破綻」
枯渇したはずなのになぜか慶長19年になってさえ甲斐一国の金産出量は72000石相当もあった事実w
以前、織田厨が必死に「徳川の財政を支えた大久保長安の新しい技術のおかげ」と反論し
「おいおい長安って、武田配下だったんだがw灰吹法はとっくにあったしw」と嘲笑されていた恥かしい過去ありw

実際に破綻してたのは織田。
信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかった
ソースは年代記抄節。
金も鉄砲も金もなく京で略奪虐殺放火恐喝をして資金調達した犯罪者集団が織田。

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
557人間七七四年:2012/05/06(日) 09:31:18.78 ID:RvpkYr1r
>>信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ

織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」

1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
558人間七七四年:2012/05/06(日) 09:31:50.46 ID:RvpkYr1r
>>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)
のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。
この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。

信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。
そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は
江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく
武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
なんでそんなにアホなの?
恥ずかしくて自害する気にならないの?
559人間七七四年:2012/05/06(日) 09:32:42.14 ID:RvpkYr1r

>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して
上洛してきて協力しろよ交渉の時も
9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、武田側に非は見られない。
(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)

>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・
むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を
正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。

>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
560人間七七四年:2012/05/06(日) 09:33:06.73 ID:RvpkYr1r
>>同盟を破って家康を攻撃した同盟破り常習犯信玄
絶対許さんと書いてるのはたしかだけど
あれは完全に屈辱感から来る逆恨みだろw
つーかそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶
完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

>>天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。
>>が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。
>>後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに朝廷から信濃守の官位貰っているが、
>>和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で
平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし
越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。
その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。
そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応として天皇権威が必要だったんで
天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、
一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。
8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。
8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが、 和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。

織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw
561人間七七四年:2012/05/06(日) 10:09:55.48 ID:arD9ezxW
金も兵糧もなく1万という武田はおろか浅井朝倉軍の半分程度の軍しか率いられなかった織田信長
そんな連中を倒せなかった武田や浅井朝倉は女子が兵でも率いていたのだろうか、
あるいは織田軍がサイヤ人仕様だったのだろう。
562人間七七四年:2012/05/06(日) 11:08:03.75 ID:RvpkYr1r
まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。
563人間七七四年:2012/05/06(日) 19:18:27.22 ID:RvpkYr1r
>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。

むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です。
564人間七七四年:2012/05/06(日) 19:40:23.57 ID:RvpkYr1r
一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう

・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ

元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。

>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。

565人間七七四年:2012/05/07(月) 03:37:49.69 ID:r5TxAjPC
岩村城が遠山氏のもので武田のものですらないのにデマ妄想を繰り広げるだがw
566人間七七四年:2012/05/11(金) 15:14:19.21 ID:R9iBqtKz

永禄9年か10年と解釈される6/13の信玄→遠山景任書状で
謙信が信濃へ攻撃の情報が事実なら越後攻めするから
遠山には約束どおり鉄砲衆50人送ってねって書状がある。
信玄と美濃の関係は、義龍に対立していた東美濃の
金山城の長井隼人や久々利氏を
遠山氏経由で武田が兵糧などを支援して対立していた。
武田が義龍と対立しており、織田はこれでかなり助けられている。
しかし義龍死後に龍興が長井隼人と和解して厚遇したことで
逆に龍興と西美濃衆が対立状態になるなどしていた。
永禄12年2月の書状で信玄が東美濃の遠山へも人数を少々立て置いたと
三木良頼が謙信に報じてる。
元亀2年には飛騨の江馬と鍋山が武田方になったので
元亀3年に木曽氏を先鋒に三木攻めに出撃しており
その戦いで武田方として従軍した苗木城主の遠山直廉が戦傷を受けて死去してる。

東美濃方面を統御してた長井隼人は
郡上の遠藤盛数死去後に未亡人の母が13歳の慶隆の将来を危惧して
隼人の妻になったりしてんだよね。
未亡人は本願寺信者だし。
だから信玄は東美濃や北美濃とも親しくやってた。
しかも織田方で仕えた森可成、続いて坂井政尚が連続討ち死にし、
遠藤も朝倉軍に壊滅させられた。
天正2年には斉藤利治が郡上侵略にやってきたが大破してるなど
遠藤は武勇もかなりある。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、
西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と
伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。

苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
567人間七七四年:2012/05/11(金) 15:59:20.62 ID:R9iBqtKz

しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

信玄と美濃の関係は、義龍に対立していた東美濃の
金山城の長井隼人や久々利氏を
遠山氏経由で武田が兵糧などを支援して対立していた。
武田が義龍と対立しており、織田はこれでかなり助けられている。
568人間七七四年:2012/05/11(金) 17:33:40.71 ID:zSKz2b59
妄想小説とかこんなところで公開すんなよ鬱陶しい
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ