武田厨と織田厨が争うスレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
34人間七七四年
将軍義晴から白傘袋や毛氈鞍覆を必死に貰い守護代の地位で立場を必死につなぎとめていたが
享禄・天文の乱で義晴が京から追放されるや上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し父が隠匿に追い込まれ翌年死去。
幼年の謙信は謀反を恐れて甲冑姿で警戒中の葬儀をでた後は出家させられる。
操り人形として兄が守護に擁立される始末。兄より20歳以上離れた謙信への守護代変更も守護がより操り易いと考えての事。
さらに三国同盟で背後を固めた北条や武田の猛攻。
謙信は家督を継ぐまでにも、何度も追い詰められ、その命を危険に晒してきた。
叛乱が相次ぎ兄の命により周囲が敵だらけの栃尾の小城を本拠にして、
景虎を若輩と侮って襲いくる近隣の豪族達これを撃退する存在でしかなかった。
家督を継いだ後も、為景の残した借財を背負わされ上条の乱で敗北した府中長尾という家柄にも苦しまされた、という話がまず有る。
(為景は年間300貫の赤字を出していたつまり府中長尾家が没落する一要因を生み出している)
支配者から引き摺り下ろされた父親が亡くなった際、その葬儀を行うにも、
どの勢力が、いつ襲撃してくるかも分からない状況。七つの子供さえ甲冑を身に付けて参列するほど異常な有様だった
つまり族滅の可能性が有ったくらい、出身の家柄は没落しきっていた本拠地でクーデターが起こり、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図
そのクーデターを起こした黒田秀忠は父親の元寵臣 。
一説によると謙信の兄二人が城内で惨殺され、若い謙信も命を狙われ、殺される所だった。
これだけの事件を起こした黒田の処分は、春日山への出仕停止、府内追放〜といった軽過ぎる処分で、
府中長尾は追討出来る実力を持ち合わせていなかった。若き日の信玄、氏康、義元、義景そして政宗の本拠地はこんな有様だったろうか。
謙信が春日山城主になった頃は、上条の乱で勝利した上杉派の力が強く幽閉の身から開放された
上杉定実、為景に叛いた上田長尾親子、大熊政秀&朝秀親子など彼ら大部分の戦国領主達は、独自に文書を発給出来ている。
謙信初期の政務は、長尾景虎が発給する認可だけではなく、別に上杉家の認可をも必要とされており、その貧弱な政治体制を受け継ぐしかなかった。
こういった二重支配を強いられた立場が、そのまま長尾景虎が最初に背負わされたスタートライン
それは信長、氏康、義元、義景とは比較にならないほど後方に位置している。
上杉定実の死〜栃尾本庄&直江&大熊ら三重臣からなる体制など、ここで謙信が隠棲した原因は上杉派vs長尾派が対立した
新体制の歪みでありきっかけは上野下平の領地争いで、謙信が裁定を下し一応は決着
しかし上野と関係が深い栃尾本庄が暗躍し、府中から派遣された僧を説得するなどして謙信の下した裁定を反故にしてしまった(これに大熊が激怒)
裁定権を否定された領主は存在価値が薄い。よって謙信は、以後は皆で相談して決めるように〜と当然の対応をして隠棲。
家臣の説得で戻った後は、重臣、奉行衆を次々に組み換え、新しい人材を組み込んでさらに新しい体制を構築している
守護代の府内長尾や栖吉長尾、三条長尾、上田長尾は実力がほとんど一緒。
そんな中、争う事無く越後をまとめあげるために二度目の上洛。相伴衆に任命され、裏書御免・塗輿御免の御内書を与えられる。
これは長尾権力では越後を治められなかった父同様に幕府権力にすがり上位権力者になろうとすることであり国人達を取り込む苦肉の策。
府内長尾の権力は脆弱で将軍義輝によりそれによって守護上杉氏の領地であった越後府中も支配下にする
こうやってあまり疲弊させることなく越後を統一していくって様はなかなか見事。
35人間七七四年:2011/07/25(月) 14:43:26.43 ID:FPHlZmT0

謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃 北条氏康は上野北部の沼田城に北条孫次郎を配置
関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手 残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い この強大化した北条と武田が協力し合って北上中
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた
大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、海運業の発展や青苧・越後布の奨励、
さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った