29 :
人間七七四年:
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
30 :
人間七七四年:2011/07/25(月) 13:43:45.05 ID:FPHlZmT0
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…