もし信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 3

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801人間七七四年
読み込んできた
  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿
まず例によって年次がなく、その判断を下すには内容を吟味するしかない
基本的な人名から、狛修、賢、義堯、黒川修理進殿の四人
この四人で大まかな年代が分かるはずだが、何分詳しくないから任せる
残るは、「東北此通候間」という文言
>>750あたりのブログでは東が武田、北が上杉としてる
仮に東北の解釈が正しいとして、「武田と上杉がこのとおりになったので」だけで同盟だの和睦だのと断定は出来ない
これが同盟なり和睦だと確定させる根拠が知りたい

そして義昭御内書、真木島昭光×2の計三つの書状で「東北国」に言及してるとある
確かに言及はしてるんだが、うち一通は「東北国并畿内」としてる
同盟なり和睦なりで勢力を現すときは国名を使うのが常じゃないだろうか
天正三年五月十三日書状では「甲越両国同入魂」
永禄十二年の甲越和与も「越甲無事之儀、以前申含候、此度之儀可然候」
これだけ「東北国」とするのが引っかかる
さらに六角のそれは「東北」でしかない
802人間七七四年:2011/10/15(土) 21:04:31.70 ID:zqK/qq0A

ということから、この六角書状の「東北」は地域的なまとまりを示すものではないのかと
これを天正二年の書状と関連付けると、「(天正二年の書状で武田に使者を送ったと伝えましたが、
その結果、つかんだ情報によると)「東北の諸勢力の状況は使者の口上のとおりです」。がんばってね」と、いう意味になる

そして上で色々状況証拠を並べてるのでこちらも状況証拠を挙げると、
信玄が信長のとりなしに感謝した書状で、「甲越相の和睦は無い」
上杉から対北条の共闘打診が来た時は「三ヶ国同盟でなければ無理」
交渉の白紙撤回伝達の書状では「織田のとりなしではもうむりだ、朝倉でなければ応じない」

以上からいえるのは、三ヶ国同盟の根拠として挙げられた六角書状ではいつのことかはっきりしたことはいえないこと
また「東北此通候間」という文言は和睦のみをを示すというのは少し無理があるということ

そもそも最初はこの三ヶ国同盟の根拠だったはずだがいつの間にか二ヶ国のそれになってるが瑣末なことは気にしない