もし信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 3

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749人間七七四年
>>744
もともと源流としては永禄9年の義昭が甲越相の同盟を斡旋したが
謙信が北条との和睦は良いが武田との和睦に難色を示した。
さらに永禄11年3月に甲越相の同盟を義昭が斡旋してる。
これを恐れた今川が甲駿相同盟から離脱したので信玄の今川攻めが始まる。
北条が越相同盟を結ぶも謙信に武田攻めを再三要求しても謙信は応ぜず、三増峠で信玄に大敗。
元亀元年12/13謙信は看経所で越中一国の平定を祈るなど、
謙信も関東よりも上洛指向になっていてもはや武田と争う気はない。
元亀2年末に北条氏康の死ととも甲相同盟を復活し信玄は背後を気にしなくてよくなる。
元亀3年正月に信長が信玄と謙信の和睦を勧めたのを信玄が拒否ってるが、これは越中一向宗と本願寺への配慮。
6/15鯵坂・河田・山本寺ら上杉軍が神通川で一向宗に敗北し神保が一向宗と無断で和議。
謙信は看経所で加賀・越中一向宗平定を祈り8月に越中出陣。
7/7に義昭自ら信玄と謙信の講和を斡旋してるし、信長にも勧めてる。
8月には信玄に本願寺と織田の講和を義昭は命じていて、信玄が本願寺に義昭の言うようにするようにと返書してる。
(実は正月に信玄は義弟顕如から信長の背後を付いて欲しいと頼まれている為、うわべだけの外交)
さらに松永久秀の元から信長に対抗すべく美濃守護土岐頼芸が美濃へ帰国。
誓願寺文書7号9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。
9月謙信が山崎秀仙を京へ派遣し、26日に信長の使者と上杉・武田の和与の将軍の使者が越後へ到着。
10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
11/20信長が越中から引き返し信濃か上野の武田領を襲うように謙信に申し入れるがシカトされる。
信玄は11/19岐阜に程近い鉈尾城の修築を手配した。
12/12岩村へ兵を移したので明春は美濃を攻める。
12/28信長滅亡の時がやってきた。などと言ってるように信玄には勝算があった。
ちなみに信玄の父の信虎は六角領近江甲賀にいて義昭と連絡を取っているが信虎は伊勢や伊賀に顔が利く。
(志摩で北畠・信虎・志摩豪族連合に九鬼が敗れて信長と滝川の保護化へ逃げた)
天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成籑堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしない事実ゆえ甲越和与の存在が指摘されてる。