戦国ちょっと悪い話26

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/05/03(火) 09:08:51.78 ID:tL9OGZel
>>1乙!
3人間七七四年:2011/05/03(火) 13:07:26.58 ID:yZiUMPKa
一杯の茶を所望
4人間七七四年:2011/05/03(火) 13:43:34.13 ID:TKGzHm+R
>>3
|  |
|_| ∧∧
|松|(´・ω・`) ドウゾー
|永|o   ヾ
| ̄|―u'   旦 <コトッ
""""""""""""""""
5人間七七四年:2011/05/03(火) 16:14:48.86 ID:ymsLxnOB
いちおつ

あ、お茶は要らないです。
6人間七七四年:2011/05/03(火) 18:59:46.20 ID:eRCVAFXx
にぎりめしじゃな、しばし待たれよ
7人間七七四年:2011/05/03(火) 20:38:08.17 ID:pj6PTojf
酒を瓶でくれ。あ、濁酒じゃなく焼酎で頼むわ
8人間七七四年:2011/05/03(火) 20:38:30.37 ID:2EFBm5Go
うわあああああああああ・・・。
9人間七七四年:2011/05/03(火) 20:43:30.26 ID:TKC1Lyvd
>>7
ニート乙
10人間七七四年:2011/05/04(水) 00:13:03.92 ID:nnu4rXcF
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の決戦が終わる。

東軍に属した九鬼守隆は家康に必死に嘆願を行い、西軍として動いたその父、九鬼嘉隆の助命を
ついに求めさせた。が、この報が届く前に、九鬼嘉隆は切腹をして果てた。
これには、このような事情があったとされる。

九鬼守隆は家康に従って上杉征伐へと向かう時、九鬼家の重臣である豊田五郎右衛門をその居城、鳥羽城の
留守居として置いた。
が、関ヶ原戦役が勃発すると九鬼嘉隆は石田三成らに与し、鳥羽城を奪わんとする。
この大殿の行動に、豊田も流石に敵し難く、戦わずに鳥羽城を明け渡した。
ところが、この豊田の行動は九鬼家の同僚たちから嘲笑された。

『おおよそ留守居として兵を持ち城を守るというのは、こういう事態の為ではないか。
いかに主君の御父君とは言え、なんと生ぬるい豊田の振る舞いであろうか!』

彼らは集まるとよってたかってこの話をし、豊田を爪弾きにした。豊田はこれを深く口惜しく思った。

さて関ヶ原が東軍の大勝に終わると、九鬼嘉隆はその身を隠した。
豊田は密かに嘉隆の行方を探り、嘉隆と行動を共にした熊野水軍の将、堀内氏善がその居場所を
知っていると聞くと、彼は早速新宮の堀内のところへ行き、こう語った

「この度のこと、長門守様(九鬼守隆)が内府公に必死の嘆願をされ、この度の軍功に変えて嘉隆様の罪を許す、
と言うことになりました。
わたくしは長門守様の命により、嘉隆様を急ぎ迎え、帰国のお供をするように命ぜられこちらに参ったのです。」

堀内からこれを聞いた九鬼嘉隆はその言葉を信じ、隠れていた答志島より出て豊田と共に帰国の途に付いた。
…と、

途中、志摩の和具と言う場所までくると、豊田は嘉隆に突然言い放った

「堀内殿に言ったこと、あれは全て嘘です。
実際には内府公の嘉隆様への怒りは殊の外深く、当家は既に滅びることに決定いたしました。
…どうか嘉隆様、ご子孫の後の栄を期せるよう御計らい給って下さい。」

嘉隆は豊田の言う事を正確に理解した。

「さらば我が首取りて、徳川殿に参らせよ!」

そして近くの洞仙庵と言う寺で切腹して果てた。

さて豊田は嘉隆の首をとって鳥羽へと帰路を進める。ところが伊勢の明星の茶屋にて、本当の嘉隆御赦免の
御教書を持った使いと行き会った。
まさか本当に許されるとは!豊田は大いに驚いたが、それは表に出さず何も知らぬ体でこの使者に応接した。
そして鳥羽に戻ると守隆の御前に参上し

「私は熊野まで行き、大隅守様(九鬼嘉隆)のお供仕ると申し出ました。
所が大隅守様は、『いかに親子の仲とは言え、一度敵となって再び対面に及ぶなどあり得る事ではない。』と
おっしゃいました。私はそれに、なにも問題の有ることではございませんと様々にお諌め申し上げ、『それならば』と
私と一緒に帰国の途につきました。ところが、ご心中では納得されていなかったのでしょう、私の気づかぬうちに
密かにお腹を召され、その上で私を呼ばれ、ご自身の首を私に与える、と仰せになりました。
そうなった以上もはや力なく、お言葉に従って此の様に…」

そう言って嘉隆の首を差し出した。

これには九鬼守隆も唖然としたが、致し方なく嘉隆の首と共にこの事を徳川家康に報告。家康も「不憫の次第である」と
首を返したという。

このしばらく後、豊田五郎右衛門の所業が発覚。九鬼守隆は激怒し豊田を鋸挽きにしたそうである。

九鬼嘉隆切腹の顛末である。
11人間七七四年:2011/05/04(水) 02:11:15.88 ID:cYrjQdhY
どうしてバレた・・・って人の口に戸は立てられぬもの。
しかし、大殿じゃなくて笑った同輩に復讐すべきだろ、普通は
12人間七七四年:2011/05/04(水) 10:25:16.61 ID:CX5ggUOf
ちょっと悪い話ところか、かなり悪い話だな……。
13人間七七四年:2011/05/04(水) 10:49:07.42 ID:hi4U/LRf
これでは鋸挽きにされてもしかたないわな。
14人間七七四年:2011/05/04(水) 12:09:38.99 ID:kPdA4y9I
こりゃひどい
15人間七七四年:2011/05/04(水) 12:50:21.49 ID:sgc4N9xr
これってつまり、主君をだまし討ちにしたんだよな
いったい何がしたかったのやら
16人間七七四年:2011/05/04(水) 13:01:00.57 ID:fTGb8jWK
家中で嘲笑される原因となった嘉隆への意趣返しじゃねーの
17人間七七四年:2011/05/04(水) 14:24:38.60 ID:Owk1gkJk
自分のちょっとした言動が、相手を予想以上に傷つけるんだよな
そして痛いしっぺ返しを喰らう
九鬼親子はとんだ災難だけどさ

豊田は忠臣ぽいのに、まわりは追い込むような真似をしちゃいかんわな
あとでまわりの連中はどう思ったんだろうな
18人間七七四年:2011/05/04(水) 14:38:31.09 ID:CX5ggUOf
忠臣……かぁ?

メンタル弱くて保身第一な様にしか思えない。
上手に嘘をついて事態を好転させられる技量があるならともかく、
その技量が無いのに嘘を重ねたせいで、自爆しただけっぽい。
19人間七七四年:2011/05/04(水) 15:26:34.40 ID:+M2qyL64
後の成り行きはアレだけど、発端の城明け渡しの件は実際問題として
考えたら判断難しくはあるな。
特に九鬼なんてほとんど嘉隆一代で成り上がったんだし、真田の小松さん
みたいな鬼嫁くらいじゃないとなかなか突っぱねるというわけにもなあ。
20人間七七四年:2011/05/04(水) 16:00:59.27 ID:9NeyyLrr
せめて一当て程度でも戦ってれば多少の名分も立つもんだけどね
21人間七七四年:2011/05/04(水) 16:27:38.76 ID:yV0/qDoC
城の明け渡し自体は仕方ないかもだけど、
結局、嘉隆の為に動いているわけでも守隆の為に動いてるわけでも、
自分に明確な目的(大関、宇喜多系でもいいから)があるわけでもなく、
向ける相手の違う恨みと保身のために動いてるから、人間らしいっちゃらしいんだが、
自業自得で同情できない気がする。
22人間七七四年:2011/05/04(水) 20:03:07.23 ID:J7lx2oFV
慶長6年(1601)5月、徳川家康が伏見城において、関が原の戦いで戦功のあった大名を招き、宴会を開いた。
宴席後に設けた茶会の席で家康は、かたわらに西軍諸将より没収した名物茶壷の数々を並べ、出席者のひとり
黒田如水に呼びかけた。

「他人の手を借りず、一人で持って行くことが出来れば、どれでも一つ差し上げよう!」
摂津有岡城での幽閉以来、歩行も不自由という如水に対する、天下人の戯れである。

「では、遠慮なく。」
ところが如水は、家康の言葉を聞くが早いか、すぐに立ち上がり、居並ぶ名物茶壷の中でもひときわ大きな
『南条の茶壷』を抱えると、スタスタと足が不自由とは思えぬ身ごなしで帰ってしまった。

これにはさすがの家康も、出席していた諸大名も、開いた口が塞がらなかったという。



家祖が体を張って(?)稼いだ『南条の茶壷』、桑田忠親氏によると
現在も旧黒田侯爵家が所蔵しているはずだというが、はてさて。
23人間七七四年:2011/05/04(水) 20:05:50.50 ID:jC61cxdx
(・3・)アルェー

そんな馬鹿な・・・
24人間七七四年:2011/05/04(水) 20:09:40.10 ID:sgc4N9xr
如水の足なえはフェイクだったのか・・・?w
彼なら治っているのに治ってないふりぐらいはやってのけそうだし
25人間七七四年:2011/05/04(水) 20:10:52.78 ID:hJ3Syvxr
クロカンwww
伊良子清玄みたいに態と足が悪いのを強調して見せてたのか?
26人間七七四年:2011/05/04(水) 20:31:00.99 ID:+M2qyL64
元が南条氏の物なら家康よりもむしろ黒田家が持ってる方が自然だし
まあ、ぶっちゃけ創作だろうけど、そうだとしても作者のセンスは褒められるべきw
27人間七七四年:2011/05/04(水) 20:31:05.15 ID:Hgc59vRQ
家康さんなんで意地悪なことをいったんだろ、足が世評どおり悪かったら恥をかかすようなことだし
28人間七七四年:2011/05/04(水) 21:23:24.48 ID:LuTzLbkh
家康らしくないね
29人間七七四年:2011/05/04(水) 22:42:20.16 ID:1hplMvPE
勝手に秀吉だと思って読んでた。
30人間七七四年:2011/05/04(水) 22:46:30.16 ID:fTGb8jWK
名物は大きさが価値を決めるわけじゃないのも、不自然さの一因
31人間七七四年:2011/05/04(水) 23:47:53.09 ID:LESfSna5
教訓
ウソの上塗りは身を滅ぼす







明日からマジメに生きるわ
32人間七七四年:2011/05/05(木) 00:53:30.87 ID:jJ2qLqoo
いい悪い話だなあ
33人間七七四年:2011/05/05(木) 05:48:18.36 ID:cBVjHNir
上の九鬼さん所のほんとに悪い話とは違う、素直に楽しめる悪い話だな

理屈を付けると馬に乗ったり長時間歩けるほどではないけど、
杖なしでも短時間歩けるレベルではあったということかな
普段は念の為に杖持ってたけど
34人間七七四年:2011/05/05(木) 06:40:40.18 ID:8agLdJAa
普段官兵衛って屋内でどうやって歩いてたの?
室内で杖突いてた?肩借りてた?
35人間七七四年:2011/05/05(木) 08:31:24.50 ID:T31gvbY2
足が不自由ながら屋敷までの長距離を歩ききった官兵衛
このときの名物を取って屋敷(巣)へ帰った一連の動きを
後世「黒田の巣帰り 官兵衛は名物取ったり」を略して黒巣官取といい
欧州に伝わった際に当初は街中の中長距離移動を指したが
その後整地されていないコースでの中長距離走を
黒田官兵衛の苦難とゴールした際の栄誉にあやかってクロスカントリーと呼ばれるようになった

出典 民明書房 黒田官兵衛の世界への影響
36人間七七四年:2011/05/05(木) 08:57:53.54 ID:LK8hDoZo
知っているのか雷電!?
37人間七七四年:2011/05/05(木) 09:05:44.67 ID:aOI3GwQr
新しい逸話が来たのかと思って読んでみたガッカリ感が強くて全然面白く無い件
38人間七七四年:2011/05/05(木) 10:38:43.54 ID:Vl4TEJIF
ふと思ったんだが、足がこんな状態で、中国大返しの時どうしたんだろ?
39人間七七四年:2011/05/05(木) 11:01:18.86 ID:kDme/K4B
>>38
40人間七七四年:2011/05/05(木) 12:09:21.14 ID:q0kHpOoB
御輿もあるよ
41人間七七四年:2011/05/05(木) 18:43:02.36 ID:fNUyKjXU
御輿だと担ぎ手が馬で併走し、潰れた順にわざわざ馬から降りて御輿を担ぐことに

馬よりも格段に移動が遅くなるうえ、人馬の消耗も激しく何よりシュールな絵面だな
42人間七七四年:2011/05/05(木) 19:10:44.61 ID:C0IDlwJ0
やっぱり足は不自由になってなかったん?
43人間七七四年:2011/05/05(木) 19:44:59.95 ID:OLOJ3cL7
三十三間堂を1秒で走り抜けられぬ足など不自由というよりほかなし
44人間七七四年:2011/05/05(木) 19:48:27.41 ID:EzAbw11j
どこの島村ジョーやねん
45人間七七四年:2011/05/05(木) 19:59:09.63 ID:/F/FE9mi
パチパチパンチ?
46人間七七四年:2011/05/05(木) 21:11:55.99 ID:q5ixQ0jA
途中船を使ったよ説もあった気がする。
47人間七七四年:2011/05/05(木) 21:22:44.63 ID:+z6N9X2s
船か一番現実的なんじゃないか
48人間七七四年:2011/05/05(木) 22:51:36.78 ID:J05Ms8sH
ドキッ!足萎えだらけの行軍大会! 〜ポロリもあるよ〜

うーん、我ながらアホな事を考えたな、明日や、明日が悪いんや…
49人間七七四年:2011/05/05(木) 23:19:44.64 ID:LCLVbrNJ
くびがポロリするんですねわかります
50人間七七四年:2011/05/05(木) 23:28:23.41 ID:foGrEwUy
蒲生さんとこの行軍大会がそんな感じだよな
51人間七七四年:2011/05/06(金) 00:04:07.10 ID:PUegEPCq
天正5年(1577)12月、日向の伊東三位入道義祐は島津の猛攻に耐えかね、ついに日向から逃げ出し
豊後の大友宗麟を頼る。
伊東義祐は国東郡に屋敷を与えられ、丁重に扱われた。

が、翌天正6年の耳川の合戦で大友軍が島津に大敗するとその空気も変わる。
『大友家を島津との戦いに巻き込んだ元凶』と、伊東の存在をあからさまに厄介視するようになったのだ。

そんなある日、国東の伊東の屋敷の前に、何者かがこのような落首の書かれた札を立てた。

『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』

これに激しくプライドを傷つけられた伊東義祐は、わずか20名ばかりの家臣と共に、密かに豊後を
落去、伊予へと渡る。そして各地を放浪して暮らし、天正13年(1585)、堺にて死去。
豊後からの退去後、彼が日向の地を踏むことはなかった。

伊東義祐の晩年を流浪のものとするきっかけとなったと言われる、落首についての話である。
52人間七七四年:2011/05/06(金) 07:44:36.52 ID:U2rMuws3
旧領取り返すなら人に頼るなってことだな
それか逃げないで潔く討ち死にする
53人間七七四年:2011/05/06(金) 08:16:22.86 ID:D7TOC9gV
>>52
斉藤龍興はその点、いさぎよい
54人間七七四年:2011/05/06(金) 08:57:19.00 ID:XxBuZ4bn
>>52
でも、息子が秀吉の家臣になってね…
55人間七七四年:2011/05/06(金) 11:16:03.71 ID:pKBBJOT7
落書きした奴は大友家中の誰かなんだろうけど、情けないな
負けたのは自分の責任だし、伊東をダシに領土を切り取る気マンマンだったくせに被害者気取りか
戦闘力は無理でもせめて軍神の潔さを見習えと・・・
56人間七七四年:2011/05/06(金) 13:10:33.32 ID:0uqEM3ht
切り取った土地はキリスト教化されちゃうからキリシタン家臣でもない限り骨折り損になる可能性が。
57人間七七四年:2011/05/06(金) 18:35:06.06 ID:pQxASYiO
>>56
一向宗じゃないんだから、年貢が入らなくなるわけでもないだろ。

というかこのころ日本全国に100万人のキリスト教徒がいたそうだが
全人口は1200万人程度だから単純に考えて12人に一人がキリスト教徒
さらに布教は西国が中心で、大友家当主の宗麟は熱心な信者だという事を考えれば
大友家中には結構な数のキリスト教徒がいたんじゃないかな。
58人間七七四年:2011/05/06(金) 20:06:06.66 ID:EM30mxLS
猛烈な反キリシタンな人達もいたんだよ。
義統とその母親は旗頭だったはず。(母親は神社の娘)
宇佐やら臼杵、国東辺りは仏教が盛んだったので、その周辺はほとんど反キリシタン。
で、伊東の屋敷が国東で、反キリシタンの立場から見れば火種を持ち込んだと見られても仕方がない。
伊東さんにとっちゃ、濡れ衣だがw

義統がキリシタンになるのは母親が死んだあと、黒官の勧めで改宗した。
59人間七七四年:2011/05/06(金) 22:42:33.45 ID:t8h+GftV
キリスト教怖いなぁ
幕末期の攘夷は外国の文化的侵略を恐れていた(日本人が日本人出なくなることを恐れてた)から起きたけど、
こんなに信者増やすなら過激な反発派が出ても当たり前だよなぁ
60人間七七四年:2011/05/06(金) 22:47:59.94 ID:KVz1zW5u
>>57
戦国期も約百万人だけど、現代日本でも約百万人と言われている…。
増えないねw
やっぱ、基本的に合わないんじゃないかとも思うが。
61人間七七四年:2011/05/06(金) 23:25:52.86 ID:gU8dAUgD
江戸期に排除されたせいで「おらが村の教会」が出来なかったからかなぁ

戦国時代の農村部は惣村単位で動くだろうから、
興味無いとかよく分かってない連中も大勢含まれた100万な気がw
62人間七七四年:2011/05/06(金) 23:45:49.99 ID:PUegEPCq
と言うかキリシタン大名の多くは領民を強制改修させたからね。
そういう「嫌々入信させられたキリシタン」は相当多かったと思われる。

島原の乱の時はそういう記憶があった分、非キリシタンの村はキリシタンを
非常に警戒し、それもあって乱の拡大が妨げられた面がある。
63人間七七四年:2011/05/06(金) 23:52:38.51 ID:WwlO0dG3
現在日本の宗教の信者数は神道仏教キリストその他を合計すると約二億一千万人だそうだ
昔も似たような計算だったのは火を見るより明らかw
64人間七七四年:2011/05/07(土) 00:14:10.47 ID:XTGBTF8p
>>62
強制改宗って寺社勢力の力を弱めたいとかの思惑もあったのかな。
既存の宗教とは相容れなくて、しかも自分の保護を必要としている新勢力を伸ばして対抗させたいというか。
65人間七七四年:2011/05/07(土) 00:33:59.50 ID:Hv78qrdd
>>64
室町時代ならともかく戦国末期の、しかも地方の寺社に「寺社勢力」と言えるほどの力なんて無いよ。
もうどうしたって武士に頼らないと存続し得ない存在になってる。

キリシタン大名の強制改宗は、結局信仰心(ある種の狂信性)の影響が大きいと思うよ。
宣教師からして他宗教との併存なんてはなから認めず、信者に

「寺社を見つけたら燃やそう。異教徒を見つけたら殺そう。」

なんて事説教してるくらいでw
66人間七七四年:2011/05/07(土) 00:41:21.30 ID:MvNXsYxd
日本人に一神教は合わん気がする
67人間七七四年:2011/05/07(土) 01:37:41.27 ID:umUs+Mal
国家神道には一神教のエッセンスがあったような気がする。
破綻したけど。
68人間七七四年:2011/05/07(土) 02:00:02.98 ID:kaBnos84
>>63
実態はともかく神道と仏教は重複がありうるから
69人間七七四年:2011/05/07(土) 02:04:23.66 ID:Tlugt7kr
といっても、教義的に破綻したのでなく単に背景となる国家が壊れたから、だしね
70人間七七四年:2011/05/07(土) 12:25:43.06 ID:Hr9AKjtY
だが、神様仏様の上に「天」があるという思想もあるのだなこれが
71人間七七四年:2011/05/07(土) 20:04:39.47 ID:Hv78qrdd
見る角度でいい話にも見え悪い話にも見えるようなお話。

小出三尹(みつまさ、もしくは、みつただ)と言えば和泉陶器1万石の小さな大名だが、その母は秀吉の母、
大政所の妹であり、豊臣秀吉の従兄弟であって豊臣家に最も近しい血縁の者であった。

そんな小出三尹も大阪の陣では徳川方として働き、慶長20年(1615)5月7日、ついに大阪落城の日を迎えた。
大阪城は炎上し、諸大名は続々と家康の陣を訪ね、祝いの言葉を述べた。


さて、そんな賞賛攻めの中、家康は諸侯の中に小出三尹の姿を見つけた。そしてこの小大名に、
家康の方から声をかけた

「あれをどう思うか?」

今なお炎上している大阪城の方を指して言う。
小出三尹はその方を一瞥しただけで、こう答えた

「こんな情けない事はありません。」
(かかるうたてき御事こそ候はね)

この言葉にその場は凍りついた。諸大名は「なんと不可解なことを言い出すのか!?」
「どのような疑いを持たれても仕方のない言葉ではないか!」と驚き思った。

が、家康はこれを聞くと

「…汝は故太閤の所縁であったな。
豊臣家とは非常に近しい者だ。そんな汝がそのように思うのは、道理というものだ。」

と、感動した面持ちで言った。

当然のことながら、その場にはたくさんの、豊臣恩顧の大名たちが居た。
彼らも我先にと、豊臣家が滅びたことへの祝いを述べていたのだ。
そんな中の小出の発言に、彼らは非常に恥ずかしい思いをしたのだという。

そして家康は、そんな旧主家の滅亡を祝う人々に囲まれている中、小出の言葉に救われた思いだったようだ。
彼は後にも重臣たちに

「大隅守(小出三尹)が言ったことは、神妙の至というものだ。」

そう、あの時のことを思い出して語ったと言う
(藩翰譜)
72人間七七四年:2011/05/07(土) 20:32:11.19 ID:1DZnSr9I
でも加増はしない安心の家康クオリティ
73人間七七四年:2011/05/07(土) 21:19:40.48 ID:pydC9nfn
そして翌日からは執拗な豊臣家の残党狩り、豊臣家の痕跡を地上から徹底的に消す作業を始めるのが家康クオリティ
74人間七七四年:2011/05/07(土) 21:26:22.98 ID:KqRTV0VH
それもまた仕方ないね千姫との間に嫡男がいれば家名は残ったかもしれないが
75人間七七四年:2011/05/07(土) 23:27:40.31 ID:HMCI4E2m
政治は政治として人情の自然な発露は大切にする家康 あああやっぱりめんどくせぇ
76人間七七四年:2011/05/07(土) 23:50:38.52 ID:uynqD8mu
それめんどくさいか?
77人間七七四年:2011/05/07(土) 23:56:08.28 ID:4w+ddfVk
全然たぬき親爺してないねw
78人間七七四年:2011/05/08(日) 00:16:35.81 ID:mZNtN90s
「豊臣家滅亡の日と信孝の命日が同じなのは、秀吉が旧主である織田家をないがしろにしたせい」
と旧主である豊臣家を滅ぼした直後に近習に語っちゃうお茶目な家康(『坂役叢話』より)
言ってることとやってることが違いすぎるんだよね
79人間七七四年:2011/05/08(日) 00:26:21.74 ID:sCJYkWtV
>>22
茶壷とか一番でかいだろ、その割には価値あまりないし・・・・
俺なら茶碗とか茶入をあるだけ持っていく

九十九茄子、曜変天目、初花肩衝、楢柴肩衝・・・
80人間七七四年:2011/05/08(日) 00:33:17.25 ID:63gkkJk4
どうせ後世の創作だろ
残党狩りくらい戦国武将なら誰でもやってる
81人間七七四年:2011/05/08(日) 01:21:52.11 ID:Qp/mPuqf
>>78
豊臣家が徳川家の主家って訳じゃないのに
82人間七七四年:2011/05/08(日) 01:23:33.45 ID:pzgbJH76
後藤又兵衛の息子や家臣を細川家が
匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
83人間七七四年:2011/05/08(日) 01:27:08.57 ID:mZNtN90s
>>81
えっ?
84人間七七四年:2011/05/08(日) 01:27:51.92 ID:iz42pG+B
>>81
家康が折れて上洛した時点で主かにするのを認めたんでねーの
85人間七七四年:2011/05/08(日) 01:30:00.26 ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。
86人間七七四年:2011/05/08(日) 02:11:29.19 ID:e6DfUqIT
>>79
国語の成積悪いだろ?
87人間七七四年:2011/05/08(日) 02:20:25.32 ID:63gkkJk4
まあ信長-秀吉みたいに一から引き立ててもらった立場と
秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
88人間七七四年:2011/05/08(日) 02:37:11.47 ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな
89人間七七四年:2011/05/08(日) 08:43:51.60 ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも
90人間七七四年:2011/05/08(日) 08:58:54.30 ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか
91人間七七四年:2011/05/08(日) 11:29:19.17 ID:oUUM7OrL
明確に部下じゃなくなったのって将軍職に就いたあたりでいいのかな?
それとも大阪の陣?
92人間七七四年:2011/05/08(日) 11:31:36.44 ID:CWGiIk4L
>>91
慶長十六年(1611)3月28日の二条城会見。あれははっきりした秀頼による
家康への臣従儀式。
93人間七七四年:2011/05/08(日) 13:47:30.50 ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね
94人間七七四年:2011/05/08(日) 20:05:58.27 ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており〜」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…
95人間七七四年:2011/05/08(日) 20:14:24.62 ID:oUUM7OrL
>>92サンクス
だから福島達があんなに警戒したのか
96人間七七四年:2011/05/08(日) 21:22:24.10 ID:sSdH1ro8
多聞院日記と顕如上人貝塚御座所日記の記載より
天正14年3月3日
是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、之を捕へ自殺せしむ

どうも大名衆の息子4,5人が千人斬り目指して、大阪で人を殺しまわっていて、すでに5,60人も死者が出てから捕まったみたい。
多聞院日記の同年2月21日に大谷紀之介が、悪瘡を治すために千人斬りをして、殺した人の血を啜っているらしい、と書いてあるけど、この記述のあとに大谷紀之介のことはただの噂だったね、とあるんで疑いは晴れたようです。
宇喜多次郎九郎がどういう人物なのか不明だけど、そうある姓じゃないんで秀家の親戚だろうね。

97人間七七四年:2011/05/08(日) 21:27:22.89 ID:iz42pG+B
尋常じゃないな、この話。宇喜田の血族にはなんか呪いでもかかってるのかね
98人間七七四年:2011/05/08(日) 21:36:01.84 ID:h0W2Azpy
娘たちの恨み
99人間七七四年:2011/05/08(日) 21:37:08.96 ID:VboUssdr
前後三代分の良心が忠家と秀家に集中配分されたんじゃね?
100人間七七四年:2011/05/08(日) 21:55:07.07 ID:FR4+IJt/
はじめまして。ここのスレのアイドル小田さんの本をみつけたので、その中からまだ未出であろう逸話を紹介させていただきます。
出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく信憑性は薄いと思われます。
まあ、民間の伝説の一つだと思って、かるーい気持ちで読んで下さい。
それでは本編をどうぞ。タイトルは『田土部合戦〜小田さんの勝ち戦〜』。

天正元年四月十一日。手這坂でボコボコにされ、砦台でもボコボコにされ、藤沢の城に落ちのびていた小田氏治。
それを今度こそ攻め滅ぼさんと、梶原美濃守景国、北条出雲守治高、真壁入道道夢といったいつもの対小田メンバーがおよそ一千騎を従え藤沢へと出発しました。
これに対し小田勢は菅谷、由良、行方刑部少輔などが一千騎を率いて迎え撃つ構えを見せました。もちろん、この存亡を賭けた戦に、当主の小田氏治さんも自ら兵を率いて出陣します。

梶原勢と小田勢は田土部川で遭遇。川を挟んで対峙することになりました。しかし、総大将は我らが小田さんです。
「対峙などしていられない、すぐに出撃だ!」
敵の目の前で渡河を始めました。現在の茨城県に田土部川という川は無いので、後世に残らないぐらい小さな川だったのかもしれませんが、それでも渡河は渡河です。梶原勢もチャンスとばかりに矢を射かけます。
しかし、あろうことか小田勢は対岸へ辿り着き梶原勢へ突入。鬼神の如き強さで敵を押しまくり、北条出雲守治高の息子、犬五郎を討ち取り梶原勢を小田城まで押し返すという大勝利を収めました。
(続く)
101人間七七四年:2011/05/08(日) 21:59:01.27 ID:eAI+U6WX
宇喜多って血族少ないイメージあるけどそんな親戚いたんだろうか
そうとう前の分家かなあ
102人間七七四年:2011/05/08(日) 21:59:39.63 ID:FR4+IJt/
これでめでたしめでたし、と終わらないのが小田氏クオリティ。
この敗戦において、梶原勢の石島駿河という人がただ一騎になって撤退していました。それを小田勢の伊渡賀正兵衛の子、伊渡賀甚助と、大塚道雲の子、大塚虎之助の二人が見つけます。
「いくぞ、虎之助! マグネットパワー・プラス!」
「任せろ甚助! マグネットパワー・マイナス!」
「「クロスボンバー!」」
甚助と虎之助は石島駿河を挟み撃ちにして槍で突きました。ところが運が良かったのか、穂先は草摺の合わせ目に当たり、石島駿河はほとんど無傷でそのまま逃げていきました。

さてその後、手柄を逃した甚助と虎之助は呑気なもので、自陣でこのことを色んな人に話していました。
「いやぁ、鍋の中の鳥を打ちもらしちゃったよ」
「ほんとほんと。運が悪かったぜ」
これを聞いたのが彼らの親です。自分の子供が手柄を立てられず、中途半端に傷を負わせて敵を逃がしたのが恥ずかしかったのでしょうか。すぐに手紙を書くと使いを出して石島駿河に送りました。
届いた手紙には次のようなことが書かれていたといいます。
「今回はウチのバカ息子たちの若気の至りであなたを討ちもらしてしまいました。お怪我は大丈夫ですか?」
(原文:こなたの倅共、若気故に貴殿を討ちもらし候。手疵は如何に候や)

これを読んだ石島駿河も、律義に手紙を返しました。
「わざわざお手紙ありがとうございます。お宅の息子さんたちがへっぴり腰だったおかげで助かりました。まあ、大した怪我ではありません。次の戦場で機会があったら、また槍を合わせましょう」
(原文:御使かたじけなし。御子息たち腰がぬけ、この石島駿河助かり候。手疵なるほど軽く候。お気遣いあるまじく候。重ねて一戦の節、返礼申さん)

息子の尻拭いを親がするのと、勝ち戦でもどこか抜けてる小田勢のしまりの悪い話。
103人間七七四年:2011/05/08(日) 22:10:07.83 ID:5GjxMXKN
長文だけど、まあまあ面白かった
104人間七七四年:2011/05/08(日) 22:53:19.40 ID:JUCNKalk
987 名前:通行人さん@無名タレント[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 22:27:57.59 ID:FWiLxJmu0
楽しんごが大切にコレクションしていた、大量のホモDVDを売却し、
その金を義援金として日赤に送っていたそうです。
本人は「僕お金無いのでこの程度のことしか・・・」とコメント。
芸人仲間の間では話題になってます。 
105人間七七四年:2011/05/08(日) 23:06:31.09 ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…
106人間七七四年:2011/05/09(月) 01:06:05.01 ID:KESICShn
小田勢て、ガチ殴りあいになると強いよね。
大将の戦略戦術があれだから局地戦で挽回するしかなかったのか。
107人間七七四年:2011/05/09(月) 01:16:38.63 ID:4DirppR1
関東の中小の領主さまのところは、なんだかんだいっても
小競り合いには強いと思う。那須さんのところとか
108人間七七四年:2011/05/09(月) 01:40:03.60 ID:USX/iMwo
確かに那須は追い込まれてからが強いよねw
109人間七七四年:2011/05/09(月) 01:55:26.78 ID:1m0vamNm
那須が意味不明なのは家中不一致の極みなのに合戦になると団結するとこ
義重からしたらなんで調略できないのかわからんかったろうな
110人間七七四年:2011/05/09(月) 12:26:57.00 ID:nINtvDaI
家中の連中も嫌いだけど
他家の連中はもっと嫌いとかなのかね
111人間七七四年:2011/05/09(月) 13:53:29.77 ID:veRne1dA
>家中不一致なのに合戦になると団結するとこ

初期の徳川(松平)でも同じことやってるので、
1国以下の大名系は大体そう。
112人間七七四年:2011/05/09(月) 19:00:46.64 ID:XB4kshqF
那須は守ると強いが頭数が慢性的に不足してるので城攻めは割と失敗する
113人間七七四年:2011/05/09(月) 21:35:29.50 ID:QF8TEyaG
内輪で仲良く(?)ケンカしてるのに邪魔すんなって感じなのかなw
114人間七七四年:2011/05/10(火) 09:48:25.57 ID:h7GnXY96
大阪冬の陣で和議の機運が起こると、徳川方に対し先ず最初に人質を出したのは、
事もあろうに大阪方総大将たる織田有楽斎であった。

大阪城の人々はこの有楽の行動に大いに疑念を持った。が、ともかくも和議は成り
戦争は終わった。
すると有楽は駿府の本多正純に使者を出し

『今回、入道(有楽)は思いもかけず大阪の城に籠ることになりました。
そこで私は大阪を脱出してそちらの御陣に馳せ参じようとしたところで、東西御和睦の事が
成りました。
この上はどうか(家康の)お許しをいただいて、京堺の間で隠居をし、余命を送りたいと思います。』

と言う表明をした。

さて、和睦は続かず大阪方は再び挙兵。夏の陣、起こる。
ところがこの時、未だ大阪城内にあった有楽の4男、織田長政が、「今度は自分が総大将になる!」
と言い出した。

大阪城内の人々は父の有楽の行動、特に和睦前後のことに強い不信感をもっており、長政の言葉を
誰も認めようとしなかった。
これに長政は激怒し

「私は織田信長の甥であり、淀殿の従兄弟である!大将を承れない理由がどこにあるのか!?
この上はこの城に籠っても意味が無い!!」
(我れ信長の甥にして淀殿の従弟なり、大将軍を承らんに何條かあるべき、この上は城に籠って栓なし)

と言い捨て大阪城を退去、京に向かった。

大坂の陣における織田有楽・長政親子についての逸話である。
(藩翰譜)
115人間七七四年:2011/05/10(火) 09:54:25.26 ID:je+WCWhH
大阪はすでに淀に乗っ取られ織田の城になっていたということか
徳川も織田へのリベンジに燃えていたんだろうね 織田を滅ぼし戦国が終わった
116人間七七四年:2011/05/10(火) 10:25:44.94 ID:AFo/KJlI
アカデミー賞モノ…なんじゃないのかな?
117人間七七四年:2011/05/10(火) 10:55:40.55 ID:1iSoXTnu
大名の妻が当主代行を務めてその一族が後押しするのは、戦国時代じゃよくある事

ただ本来は正室の役目なんだが高台院様も木下一族も…な
すごい勢いで身を引いていってるから、結果淀殿に乗っ取られたというか押し付けたというか
118人間七七四年:2011/05/10(火) 11:30:20.88 ID:P/dCe96P
木下一族からしたら秀吉の無茶な立身は逆に迷惑だったぽいからな
大政所や朝日姫なんか悲劇もいいとこだぜ
119人間七七四年:2011/05/10(火) 12:22:35.08 ID:PL68Hs9m
関ヶ原のときといい、なんでこんなに統率がとれないかね
こういうエピソードが多いから秀頼名君説ってのがウソくさいんだよな
120人間七七四年:2011/05/10(火) 14:32:13.49 ID:yPFubTf1
>>114
織田頼長 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
のエピソードのような気が。
121人間七七四年:2011/05/10(火) 19:51:35.28 ID:sN7ju7Ad
>>117
上州だか信州で大名の妻が当主代行を務めて
その一族を押し出しかました事もあったな
122人間七七四年:2011/05/10(火) 20:13:17.47 ID:jYNI/f62
123人間七七四年:2011/05/10(火) 20:16:01.20 ID:h7GnXY96
>>120
藩翰譜では織田長政の話だったので出典の通りにしました。
124人間七七四年:2011/05/11(水) 06:09:07.35 ID:1QWZDUmh
もう”長政”多すぎ
125人間七七四年:2011/05/12(木) 01:10:17.42 ID:po1iGnjT
信長の諞諱は>>114と浅野だっけ?
126人間七七四年:2011/05/12(木) 07:40:08.30 ID:DdGZk4hB
佐久間信信殿が…
127人間七七四年:2011/05/12(木) 10:05:58.85 ID:7UYrz5qL
慶長5年(1600)7月28日の事、上杉景勝の白石城を攻略し、さらに梁川城を攻める準備を
活発化させていた伊達政宗のもとに、下野国小山より、徳川家康よりの使者、中澤主税が
訪れた。

中澤は白石に陣していた政宗に対面、家康よりの口状を申し上げる

『石田治部が佐和山を出て大阪へ上り、諸大名を相語らい、謀反を企てたとの情報が入った。
貴殿(政宗)は人質を大阪に置いている。我々に味方する方針はどうされるか?
仮に我らから離れ石田以下の者たちに同心しても、それを怨みには思わない。
これを貴殿に伝えておきたいため、この使者を差し下す。』

政宗これを聞くと

「さても内府の仰せとは思えぬことだ!人質があっても、私が石田・増田の謀反の味方をして
内府の敵になる謂れは無い!
出羽・奥州の連中が皆二の足を踏んだとしても、この政宗一人は内府のお味方である!
この旨を良くお伝えあるように!」

と、中澤に言う。すると中澤、不思議なことを言い出した

「私が小山を出る時、内府公はわたくしを側に近づけ、『伊達殿が我らに一筋に心を寄せると
言ったなら、お前は3日間逗留してそれでも意見が変わらなければ、伊達家の家老、その他諸士の
考えも聞き定めた上で、もう一つ、隠密の口状を伝えるように。』と、密かに申し聞かせられました。」

これを聞いたとたん政宗は

「今このクソ忙しい時期に、お主が3日も逗留する必要など無い!
私が既に覚悟を決めている以上、家中の者たちに二心などありえない。
さっさとその、隠密の仰せとやらを伝えるがいい!」

すると中澤、政宗の耳の側まで行き

「…内府公は状況次第で、上杉景勝を捨ておいて上方を退治しようとする内存を持っておられます。
そうなった時、仮に景勝が内府公の跡を追撃しようとするならもちろん別ですが、そうでなければ
伊達殿はお働きを止められ、ご領地を固められる事こそ肝要となります。
景勝と決戦をして、もし何らかの失態があれば上方の戦の妨げとなるからです。

この旨ご承知あれば、後日に景勝の領地を伊達殿に参らせるつもりだが、現時点でこの事を公言
するのは世の評判もいかがかと思われるので、家臣にも伝えず伊達殿に直に、密かに伝えよ。と、
内府公は私に申し聞かせました。
もしご加増の御朱印をお望みなら御使者をお出しください。私が宜しく取り計らいましょう。」

これを聞くと政宗、大きなため息をついて

「白石の城を攻め落とし、これから梁川の城を攻め取ろうとしている時に、すごすごと領地に
引き帰るというのは返す返すも口惜しい!しかし内府の仰せであれば背き難し…!
仕方がない。残念であり不本意でもあるが苦渋の決断で仰せを受け入れよう。

ま、それはともかく御朱印の件は御辺の取持を頼み入る。」

と、テキパキと家臣の山岡志摩に今井宗薫を添えて小山の家康の陣所へと送った。
これを家康は大いに喜び、早速御加恩の御朱印を与えたという。
後世に言う百万石のお墨付き、である。

まあご存知の通り、政宗も家康の自重命令を守らなかったし家康もこの御朱印を反故に
するんですけどねw

それにしても最初から腹の探り合い感がありありと見える、百万石のお墨付きが出るまでのお話。
(関原軍記大成)
128人間七七四年:2011/05/12(木) 13:45:49.47 ID:86wSa66r
>>127
そして、上杉は西進する家康軍を放置して最上領に侵攻…
東軍・西軍の両陣営がてんでバラバラな動きだものなぁ
129人間七七四年:2011/05/12(木) 14:08:48.37 ID:WjtmXJbM
人物叢書の立花宗茂を読んでいたら
立花宗茂の隠居した後の号が立斎(りっさい)なのは
立花左近将監、略して立左(りっさ)からそのまま取ったものだと書いてあった
呼ばれる時響きが同じ方が便利だからとかなんとか

それを見た時はえーw不精しすぎwwwこれは悪い話じゃねwと思ったんだけど
考えてみたらおらが国の殿さまである蜂須賀家政も
蜂須賀阿波守→蜂阿(ほうあ)→蓬庵(ほうあん)
かもしれない
蜂庵って署名してる制札見た事あるし

もしかして、案外あること?
130人間七七四年:2011/05/13(金) 00:54:33.26 ID:d9zbWVzo
号の付け方に関しては「凝らない方がむしろ粋」つうような価値観は確かにあると思う
伊藤博文の号である春畝だって通称である俊輔の音読みだし
131人間七七四年:2011/05/13(金) 02:17:33.51 ID:T3B8ingD
号なら有名どころだけど「幽斎玄旨」が好きだなあ
自分が当代一の歌人だっていう自負が垣間見える気がする
132人間七七四年:2011/05/13(金) 03:45:05.44 ID:V6VEQzNH
天庵の元ネタは何ぞ?
133人間七七四年:2011/05/13(金) 08:19:43.08 ID:WepPc5uT
>>71
この人は市松とも従兄弟かな?
いくら従兄弟にしても歳が離れてるね。
134人間七七四年:2011/05/13(金) 08:31:55.86 ID:rLeQFmNb
>>132
オレは天才だ、案じるな
135人間七七四年:2011/05/13(金) 10:04:49.22 ID:P1kJUoGw
周囲には、天災なんだろうけどな
136人間七七四年:2011/05/13(金) 10:52:59.77 ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw
137人間七七四年:2011/05/13(金) 11:34:27.35 ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ
138人間七七四年:2011/05/13(金) 11:59:23.99 ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん
139人間七七四年:2011/05/13(金) 12:00:13.37 ID:NipbUbJ/
既出だよ。確か2回くらい出てる。
140人間七七四年:2011/05/13(金) 12:07:25.13 ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…
141人間七七四年:2011/05/13(金) 12:21:32.24 ID:kvBJkGGE
>>139
この和歌は初出だな
142人間七七四年:2011/05/13(金) 17:31:05.27 ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。
143人間七七四年:2011/05/13(金) 17:46:07.00 ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟正の最後(1)

フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟正、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟正と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟正が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
144人間七七四年:2011/05/13(金) 17:48:45.41 ID:1EOL3Cdz
困った和田惟正、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟正のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟正に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」

両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟正、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。

善戦するも、和田惟正、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟正の首を上げたのであった。

信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後

145人間七七四年:2011/05/13(金) 17:52:12.78 ID:1EOL3Cdz
すまん、和田惟政のまちがい。
146人間七七四年:2011/05/13(金) 18:00:34.65 ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?
147人間七七四年:2011/05/13(金) 18:07:27.06 ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・
148人間七七四年:2011/05/13(金) 20:55:16.21 ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
149人間七七四年:2011/05/13(金) 21:10:23.02 ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。

黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
150人間七七四年:2011/05/14(土) 00:09:25.49 ID:mBAtBIRG
関ヶ原の時のこと。

石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。

と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。

三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに

「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。

さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた

「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」

しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門、赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した

「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」

しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!

その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?

もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」

「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」

これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた

『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』

このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」

しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)
151人間七七四年:2011/05/14(土) 01:54:32.89 ID:bnQ6beE0
日本製の南蛮甲冑は後の時代だろうが
向こうで使われてた鎧なら鉄砲とかキリスト教が伝来
した前後には日本に輸入されてるだろ
まあ資料には残ってないだろうが
152人間七七四年:2011/05/14(土) 10:14:34.24 ID:UeH06OST
記録に無いものをあったと言い張るのはちょっと・・・^^;
153人間七七四年:2011/05/14(土) 11:15:31.99 ID:rQ9RKmzh
そう言えば創作物で南蛮具足を着させられがちな信長だが、今は研究者でも南蛮具足どころか
当世具足以前の「むしろ伝統的な甲冑の方を好んだだろう」みたいな意見のほうが多いな。
154人間七七四年:2011/05/14(土) 11:24:36.42 ID:7FmX8eo6
「だろう」でいいなら、なんとでも言えるw
155人間七七四年:2011/05/14(土) 11:25:59.31 ID:rQ9RKmzh
>>154
そもそも信長の南蛮具足には何の史料的根拠もないところから話が始まっているからな。
156人間七七四年:2011/05/14(土) 12:28:33.44 ID:4mFd0yhj
直江兼続「愛の兜」といえば、諸説あるわけですが
1.愛宕権現
2.愛染明王
3.愛民(司馬遼太郎提唱)
が定番ですね(大河「天地人」は3番目を採用)。

ここで日本では知られていない新説を一つ


直江兼続の兜の「Ai」は、彼の領地の「Aizu」からとったものなんだよ!!

Samurai Commanders (2)1577?1638
http://www.ospreypublishing.com/store/Samurai-Commanders-(2)_9781841767444

著者のステファン・タンブル(Stephen Turnbull)は東アジア専門家で、BBCの
日本歴史モノなんかでもよく監修やってんだけど、その他の記述からしてどうも
漢字読めないみたい・・・でもこの人が広く欧米で知られる専門家なんだよねえw

このオスプレイ社の絵入り歴史本は日本にもファンが多いけど、特に東アジアモノは
故アンガス・マクブライド(Angus McBride)以外の絵師は細部が適当になり勝ち 。
困ったもんです。
157人間七七四年:2011/05/14(土) 12:35:37.29 ID:XiKtDkIp
まさしくな、なんだってー!?だなあww
158人間七七四年:2011/05/14(土) 12:39:07.31 ID:wlrmg0NX
こんな時、どういう顔をすればいいかわからないの
159人間七七四年:2011/05/14(土) 13:05:33.21 ID:Oxlngexe
日本にも、ジェロニモ=地浪人者と言い張った人が居たけど・・・外国のウィキペディアなんかで、大友氏と大伴氏が同じ家系だと思われてたりするのは、この人のせい?
160人間七七四年:2011/05/14(土) 13:13:21.97 ID:i5LzNsHw
>>158
笑えばいいと思うよwww
161人間七七四年:2011/05/14(土) 14:23:58.55 ID:BqaWiTx3
そういやCSI科学捜査班の某エピソードで、
日本の古美術を扱った骨董品屋が殺人現場だったんだが
そこで「17世紀の鎧兜」という展示品を観た主人公達
「日本の軍隊ができたのはいつだっけ?」
資料を調べて「19世紀に明治天皇が作ったとあるわ」
「なんで19世紀のはずの鎧が17世紀のものとして展示されてる?この甲冑はニセモノだ」

おい
162人間七七四年:2011/05/14(土) 15:13:16.27 ID:uK4nXgwp
>>161
侍の存在を知らなかったのか、その脚本家は。
163人間七七四年:2011/05/14(土) 15:19:43.87 ID:/UXP2Lgy
「17世紀の日本は争いのない平和な国」とでも聞かされて育ったんじゃないかな
19世紀になって幕末維新のときに日本初の洋式軍隊が出来たから、それと誤解しているっぽいね
164人間七七四年:2011/05/14(土) 15:37:31.80 ID:oN0VpKTu
第三次川中島の戦いで上杉謙信は勝敗がつかないので
武田信玄に和解を申し出た。
両将は千曲川の両岸に腰掛けて対面する手はずだった。

馬に乗って岸までやってきた謙信は「のろまと思われたくない」
と思い、さっと馬から降りて床几に腰掛けた。
ところが信玄はというと鞍を直すような仕草をして馬から降りない。
「苦しからず。景虎殿、馬に乗られよ」
信玄の言葉に怒った謙信は馬に乗って帰ってしまった。

謙信の使者がやって来て言うには
「わが家は鎌倉権五郎景政から梶原景時まで五代、それから代々
続いて為景、景虎となる。頼朝公の富士の巻狩りのときは頼朝公の
次に梶原、武田はその次だった。それに今は上杉で、関東管領だ。
そちらの態度は無礼ではないか」とのことだった。

それに対して信玄は
「梶原は頼朝公とりたての家来、武田は将軍家のお相伴役だ。
機会があればどんな身分でも君主の側に近づけるのは今も昔も
変わらないことで、それが家の系譜にはならん。

上杉憲政は悪政が原因で天に見放され、北条氏康に敗れて
嫡子を捨てて越後に逃げた。そんな憲政から管領職を譲られたのが
景虎であろう。わしに無視されたなどといって腹を立てるのは無分別
である。堪忍の二字を分別することだ」と言い返した。
いよいよ謙信は怒り、また合戦とあいなった。
165人間七七四年:2011/05/14(土) 15:38:07.00 ID:HraE8ODr
離れている他国の歴史に興味持つ人間なんてまずいないもんだ。
166人間七七四年:2011/05/14(土) 16:01:13.80 ID:29EnhITp
大和朝廷の時代から九州に君臨していた?tomo氏といい
どうもあちらで知られている日本の文献は相当いい加減なんじゃないかと思わざる負えない
167人間七七四年:2011/05/14(土) 16:08:21.05 ID:35RSkqk+
>>164
このエピソードだけだと謙信のほうが小物っぽいけど
信玄のほうが礼は逸してるのかな

>>165
普通ならそれでいいんだけど、
仮にも脚本家なら自分の書く部分について少しは勉強しろと言いたい。

168人間七七四年:2011/05/14(土) 16:34:25.52 ID:tXOkPD2H
>>167
いや、そのドラマ見た事ないけど
>>162みたいなのは脚本家はわかった上での小ネタじゃないの
もちろん視聴者にもわかることが前提の
「日本にはニンジャがいるんだろ?」「今度の旅行で会うのが楽しみね!」みたいなあれ
もし>>162のエピソードで鎧が17世紀のものだから偽物であることをキーにして話が進むなら
脚本家の無知なんだろうからすまんが
169人間七七四年:2011/05/14(土) 17:16:49.94 ID:LJ4sQyC0
>>100

>出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、
今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく
信憑性は薄いと思われます。


出典は『東国戦記実録』とか『小田天庵記』あたりだね。これらの軍記だと小田氏治は
腹を十文字にかっさばいて潔く自害するし、『東国戦記実録』では片野三楽・梶原美濃守親子が


「太田重郎弓押取、暫ク覗ヒテ兵ト射ル。其矢誤タス梶原美濃守ガ首筋ヲ射切タリ。
三楽ハ古沢弾正ニ討レケレバ、残ル者ドモ地ニ臥テ降参セリ」


って感じで佐竹や多賀谷に攻められて殺されたりするから史実の勉強に最適だと思うよ。
170人間七七四年:2011/05/14(土) 17:27:58.95 ID:uK4nXgwp
>>164
第三次の段階じゃまだ上杉になっとらんやん…
171人間七七四年:2011/05/14(土) 18:03:44.26 ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶。
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より
172人間七七四年:2011/05/14(土) 18:06:16.40 ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人
173人間七七四年:2011/05/14(土) 21:36:34.99 ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw
174人間七七四年:2011/05/14(土) 22:12:35.38 ID:oN0VpKTu
>>170
その辺はあの軍鑑なので…
175人間七七四年:2011/05/14(土) 23:06:42.48 ID:gPGCNB1c
既出だが三歳公バージョンで

三斎公の述懐

昔々のことじゃが、伏見城内で豪胆なワシも冷や汗をかくが如きことを見聞したのじゃ。
秀吉のやつが、家康公を始め諸侯の居並ぶ前で、自分は弓矢の道で
未だかって不覚をとったことはない、と自画自賛し始めた。
みな、また始まったかと聞いておったが、権力者の前だからひれ伏しておった。
ところが家康公、いきなり「それは殿下の前とはいえまことに異なり、小牧長久手のことを忘れましたか?」
と立ち上がって言い始めるではないか。
やっちまったか、と皆手に汗を握ってしまった。

秀吉のやつ、プイと中に引っ込んでしまったから、皆心配して、
「殿下の戯言でござるから、相手になされるな。」皆、家康公を宥めたのであった。
しかし、家康公も「武道のことは絶対に譲れない、殿下から勘気を被ってもかまいはしない。」
とこちらもむきになっての有様。

秀吉が気を取り直して又出てきて、何食わぬ顔で雑談を再開したので、ほっとしたのであった。
わしもその頃は若かったから、田舎くさい大人げない連中だな、と思ったもんだったが
これは秀吉が家康公を試したんだな、きっと。

機嫌を取り結ぶために武の道まで譲る輩なら、信用できんとな。
中国にもよく似た話、曹操劉備の似た話があるだろう。
ったく、世渡り、人付き合いは気を使うもんだよ。

東照宮御実紀付録より
176人間七七四年:2011/05/14(土) 23:23:39.20 ID:gsmF1pzl
三斎って豊臣家滅亡後は旧主秀吉のことを「秀吉のやつ」呼ばわりしたの?
そしてそれを「みな、また始まったかと」呆れて聞いてたの?
随分口が悪い話だね
177人間七七四年:2011/05/14(土) 23:27:52.02 ID:YVCOhpfp
旧主って言っても三斎さんは豊臣政権では結構冷遇されてるからねえ
178人間七七四年:2011/05/14(土) 23:28:53.82 ID:7tH3s6aC
三斎さんが秀吉に対していい感情を持てるわけないだろうと…
179人間七七四年:2011/05/14(土) 23:31:01.89 ID:gsmF1pzl
まあ『東照宮御実紀付録』ではちゃんと「豊臣殿下」、そして秀吉の自慢話をみな
「仰せのとおりであると大いに感じ入った」と書いてるんだけどね
意味分からんところで勝手に改変すんなよ
180人間七七四年:2011/05/14(土) 23:31:13.55 ID:GPodgK7E
なら山崎の合戦で嫁の親父の味方してやれよw
181人間七七四年:2011/05/14(土) 23:34:28.37 ID:TE93+LG6
嫁のことは抜きにしても、秀次派だったんだよね。
お金のことでお世話になっていたから。

ところで秀吉の資金源ってなに?
直轄地は300万石に満たないくらいだったんでしょ
使い方の派手さに釣りあわない。

落城させた北条資金がたんまりあったとも思えない
182人間七七四年:2011/05/14(土) 23:36:07.66 ID:GPodgK7E
全国の金山、銀山の直轄
183人間七七四年:2011/05/14(土) 23:45:42.03 ID:gsmF1pzl
200万石の蔵入地から直接挙がる租税だけでなく、
日本各地で米の独占販売を行い、そこから巨利を得ていたらしい
その他には金山銀山の収入、金融業・物流業・製造業からの運上金、
堺のような都市からの献上金などなど
千利休や本阿弥光悦のような怪しい文化人とつるんで
タダ同然の値段で取引されていた茶道具や刀剣、古筆を高く売ったりもしてた
余りに金儲けが上手すぎたので、伝記作家である小瀬甫庵からも苦言を呈されていた
184人間七七四年:2011/05/15(日) 00:00:22.94 ID:yD3wszSU
>>182>>183
d 石見銀山の上がりを毛利を折半した話を聞いたことはあったけど
>>183で納得
185人間七七四年:2011/05/15(日) 00:21:47.69 ID:O5CBFxMR
江戸幕府みたいに支配が強固で、しかも諸大名の封土がモザイク化している状態なら
天領が全国各所にあっても無問題だけど、太閤蔵入地の多くは諸大名の所領のうち
「ここは太閤様の蔵入地に指定したから、あんたはここからの年貢は太閤様に代わって
取り立て、その年貢を太閤様に収めてね」って感じで、諸大名にとってはピンはね
されていくようなものだったから、問題ありすぎた。

結局、豊臣政権の求心力低下と、関ヶ原後に家康が蔵入地は諸大名に
戻しますよ〜ってしたことによる支持の上昇の道具にしかならなかった。
186人間七七四年:2011/05/15(日) 00:34:24.00 ID:7+Ntti+A
>>179
出典明記しても改変してちゃ何にもならんな。
何でこういうことするヤツがいるんだろうね。
187人間七七四年:2011/05/15(日) 00:44:00.94 ID:PyWULXvg
医師の施薬院全宗は羽柴秀吉に従い、中国戦線の陣にあった。

さて天正10年(1582)6月、秀吉も本能寺の変を知る。
この時秀吉は施薬院に、急ぎ上京するよう命じた。しかし施薬院はこれを拒んだ

「私はここまで来た以上、京にも筑前様(秀吉)のお供をして上りたいのです」

秀吉はこれに
「いやいや、我が家のためでもあるのだ。必ず上京してほしい。道中の用心のため
これを与えよう」

と、槍一本を下され

「お手前は運のいい人である。今後天下を取るのは、わしか明智のどちらかとなるだろう。
丁度お主は我らとも明智とも関係が良い。これは家のためには好都合である。

さて、上京した上で明智に対面し、このように伝言してほしい。

私は長年合戦をしてきたが、大将と直の太刀打ちという物はしたことがない。
この度は三日の内にも畿内に上るつもりである。あなたは主人の敵であるから直の太刀打ちにて
勝負を決しよう。」

そのころ光秀は下鳥羽に陣していた。
施薬院はそこまで行き、光秀と対面して秀吉の伝言を伝えた。
光秀はこれを聞くと施薬院にこう、声をかけた

「そなたは運のいい人である。天下は秀吉かそれがしか、このどちらかが取るであろう。
お手前はその両人と関係が良いな」

と、先に秀吉が施薬院に言ったことと、全く同じことを光秀も言った。
そして施薬院が御前を下がろうとすると

「いや待たれよ、盃をさそう」

と盃を取り交わした上で

「洛中は未だ騒がしい。用心のためにこれを持たれよ。」

と、槍一本を贈った。これも秀吉のしたことと全く一緒であった。
ただ光秀の方は、施薬院と話をしている間に『もはや御出あれ!』と3度まで使いが来たそうである。


施薬院全宗が見た、山崎の合戦前の秀吉と光秀についての話である
(武功雑記)
188人間七七四年:2011/05/15(日) 02:38:33.82 ID:Po1MddV9
>>175
秀吉の自慢話って嘘くさいのが多いからなぁ
っていうか、要は上司の長々とした自慢話に周りがうんざりしてるってことは間違いないなw
189人間七七四年:2011/05/15(日) 07:13:46.33 ID:g4xGwSxN
>>188
長かったの?
190人間七七四年:2011/05/15(日) 09:03:21.65 ID:I04aZ2GM
天下の名医は優遇されるなw
191人間七七四年:2011/05/15(日) 10:25:10.87 ID:HAnVW8dL
>>190
ああ、鬼武蔵が「結婚するなら医者にしろ」って言ったのってそういう…
192人間七七四年:2011/05/15(日) 11:04:26.43 ID:6YxTR5M/
伝言は?
193人間七七四年:2011/05/15(日) 19:28:55.02 ID:JYNbANp0
>>188
何が間違いないの?
194人間七七四年:2011/05/15(日) 20:40:44.14 ID:n+Oei1q7
使徒が15年ぶりに来たこと
195人間七七四年:2011/05/15(日) 23:02:19.67 ID:B9BSK99t
江戸に大火があったとき(おそらはく明暦3年の明暦の大火)、大災害の時にありがちだが
色々と怪異な事の噂が流れ、人々はこれを大変怪しんだという。

そんな時、知恵伊豆こと松平信綱はこんな事を語った

「世の中にはそんな怪異よりもっと不思議なことがいくらでもあるのに、
人々はそれを怪しもうとはしないものだ。
例えば故太閤が草刈りの身分から21年で天下をお取りになったことなど、
これより不思議なことがあるだろうか?」
(武功雑記)
196人間七七四年:2011/05/16(月) 00:20:58.52 ID:OM5dLkfG
平清盛の出世には天皇落胤説で説明するむきもあるが
秀吉落胤説は鼻で笑われただけであった。
197人間七七四年:2011/05/16(月) 01:08:41.17 ID:fDAvZDkj
そもそも関白に任官されるための方便で考え出したものだし>秀吉落胤説
鼻で笑われるどころか目論見通り関白に就任し、
豊臣氏まで賜わってるんだから大成功と言って良い
天下人になった後は更にスケールがでかくなって日輪の子を自称してる
198人間七七四年:2011/05/16(月) 01:28:43.87 ID:Q+sQ76WD
「知恵伊豆が家光の死に殉死しなかったことを江戸市民は非難した」
とWikipediaにあるが、初期江戸民は三河のめんどくささにすっかり毒されていたのだなぁ
199人間七七四年:2011/05/16(月) 01:36:31.02 ID:iOijdq8N
殉死って当時どういう風に思われてたんだ?
するべきものだったのか、でも禁止してた人もいるよな
200人間七七四年:2011/05/16(月) 04:58:36.01 ID:3DTVaTzo
戦がなくなって討ち死にする事もなくなり
その代償行為みたいなものだからな
201人間七七四年:2011/05/16(月) 06:10:53.49 ID:gP9bdqDA
スケール(笑)
土人じゃあるまいし、大名がそんなもの真剣に拝んじゃいないだろw

まあそれはそうと、>>175で細川忠興がなぜこういう秀吉の『失態』について語ったかのほうが興味あるね
諸侯の秀吉の死後の行動を見てもそうだが、もともと面従腹背の集まりだったということか
202人間七七四年:2011/05/16(月) 06:33:03.62 ID:NVyjWxx+
細川さんは秀吉によらずdisりまくりが基本だしなあ。
203人間七七四年:2011/05/16(月) 07:04:08.49 ID:bXJ2L/pv
>>201
別に失態じゃ無くて三歳は秀吉が家康を試した話と結論づけてるようだが・・・?
前半部がけなしてるようになってるのは>>179により>>175の意図的改変なのが分かってるし。
204人間七七四年:2011/05/16(月) 07:14:26.97 ID:OM5dLkfG
伊達殿について

「稲荷殿の知音かと申す事に候」(意訳:頭どーかしてんじゃね)

と残したのはgb
205人間七七四年:2011/05/16(月) 07:42:30.72 ID:3DTVaTzo
>>204
当時狐憑きは無罪
 
206人間七七四年:2011/05/16(月) 07:42:33.48 ID:0RmVhPhF
>>201
毛利元就が毎朝日の出を拝んで、念仏唱えてたのは有名。
神道なのか仏教なのかはっきりしろと言いたい。
207人間七七四年:2011/05/16(月) 08:10:28.64 ID:3DTVaTzo
>>206
神仏分離令より前の時代だぜ
208人間七七四年:2011/05/16(月) 08:17:45.21 ID:wE047Atd
月を拝んで「我に七難八苦を与えたまえ」と言った武将もいたな、なんで月なんだろ
209人間七七四年:2011/05/16(月) 08:20:13.42 ID:CES5O28m
武士ってロマンチックな奴多いよな。生き方そのものが詩的というか
210人間七七四年:2011/05/16(月) 11:10:31.06 ID:OM5dLkfG
>>208
出雲は月信仰が盛んだったらしい。都久豆美命(つくづみのみこと→月読命と同じか?)というらしい。

昔の山陰は海上交易で盛えてた。夜の星は方位を知るのに重宝。星々の代表として月なんじゃないかな
211人間七七四年:2011/05/16(月) 17:54:50.21 ID:tK+5Qme5
上月城で敗れて、その後殺されたから
後から話が作られた、ってわけではないのか
212人間七七四年:2011/05/16(月) 18:26:22.83 ID:DWOx75mk
尼子の本城のある山が月山つーくらいだし
213人間七七四年:2011/05/16(月) 18:51:37.71 ID:bzKIgrCF
つ…つきやまとみたじょう?
214人間七七四年:2011/05/16(月) 19:14:58.21 ID:XO/iSYnJ
月山の麓には最後の富田城主だった堀尾さんの墓があるんだよな。
心血注いで完成も間近の松江じゃなくそっちに葬るようわざわざ遺言してまで。
215人間七七四年:2011/05/16(月) 21:53:11.79 ID:57I/M++b
>>208
やっぱ昼やるとはずかしいじゃん
216人間七七四年:2011/05/17(火) 00:01:30.81 ID:VuWajU97
では堀尾さんところの、いい話なんだろうけど、なんというかw

慶長19年(1614)、大阪冬の陣。
11月29日、大阪の水口方面にて佐竹義宣の軍は後藤又兵衛・木村重成率いる大阪勢と激戦となる。
両軍に多くの死傷者を出し、大阪方は「後藤・木村を討たせてはならない!」とさらに千四・五百の
軍勢を繰り出す。
これを察した義宣は待ち受け向かい討たんと自ら長刀を手にし堤の影に軍勢を隠し敵の到来を待つ。
その時の佐竹義宣の姿は虎が風に毛を振るい、獅子が獲物を喰らわんと歯噛みするようであった、と伝えられる。
敵が、来た。今や掛からん!と、その時である

並びの陣に控えていた、当時若干15歳の堀尾山城守(忠晴)勢が突然、横から大阪勢に斬り込んできたのだ!
堀尾勢は大阪の新勢を散々に切り乱す。
さらに上杉景勝勢が堀越に押し寄せ鉄砲を激しく打ちかけたため大阪勢はたまらず、城内へと引き返した。
この時大阪勢は、三千人余りが討ち死にしたという。

さて、この結果に佐竹義宣は激怒した。
自分が待ち構えていた敵を横から奪われたのだ、それも当然であろう。義宣は堀尾忠晴に使者を立て抗議した

『城の内から敵をあぶり出し討とうという作戦であったのに、あなたが横合いから勝手に槍を入れられたため
敵を再び城内に追い込んでしまった!あなたは軍法に背くおつもりか!?
あなたは未だ15歳であり、若気の至りということもあるでしょう。であれば1度だけは許してあげましょう。
が、重ねて此の様な振る舞いは、一切御無用でござる!』

堀尾忠晴はこれを聞くと直ぐに、その使者に佐竹義宣への返事を託した。それに曰く

『あなたの仰せは尤もです。ご存知のように私は此の様な若輩であり、軍法のことも詳しくは存じておりません。
ただし目の前に敵を見れば、いつ何時であってもそれへの攻撃を我慢するということが出来ません。
なので今後も私は、粗忽なことをしてしまうでしょう。どうかその度に、お許しいただけるようお頼みします。』

この言葉に義宣は絶句し
「頼みきっていた家の子郎党たちを数多く敵に討たせながら、その敵を人の手柄にさせてしまい、
損の上に損をしてしまった!」
と嘆いたという。

さて翌日。堀尾忠晴は将軍秀忠の御前へと伺候し、前日の手柄を賞された。
と、この時軍奉行である安藤次右衛門(正次)が進みでて、荒々しく言い放った

「山城守殿(忠晴)の昨日の働きですが、手柄はたしかにその通りですが、佐竹軍がわざと誘いだした敵を
横から入り討ったのは軍法を破っており、狼藉であると考えます。佐竹殿も大変不本意に思っておられることでしょう。

山城守殿、あなたは未だ御若年なので今回は見逃しましょう。
ですが、重ねて此の様な粗忽なことをされれば過失として軍法に照らし罰を与えねばなりませんぞ!」

この安藤の強い言葉に、忠晴はニッコリと笑って

「仰せのように私は若輩ですから、軍法も詳しく理解しておりません。…ですが昔から、源平の合戦や
元弘建武の乱に置いても、目の前に進む敵を『これは誰々の受け持ちだから』などと言って
討たないで見過ごすという法があったでしょうか?珍しいことを承るものです。

私は手近に敵が居れば、いつでも粗忽な合戦をするでしょう。そしてその度に、その事についてのご容赦を求めるでしょう。」

と、爽やかに言い放った。これにその場に居た人々

「天晴、山城守はなんと器量骨柄が優れているのだろう。若年の今ですらこうなのだから、
将来は一体どのような人物に育つのか」
と、感嘆したという。

若輩の堀尾忠晴、大阪冬の陣で多くの諸先輩を唸らせる、と言うお話(大阪物語)
217人間七七四年:2011/05/17(火) 00:09:35.43 ID:DfQ0Ba89
息子があれだった中村さんや生駒騒動の生駒さんのところと違って
堀尾忠晴は不肖の子孫じゃなくて有能だったのに、家が絶えたのは残念
218人間七七四年:2011/05/17(火) 00:44:21.70 ID:cXlo0ZrX
これだけ大勢の大名が参加した戦だったから、
先陣だとか、後だとか、むきになるだろうなあ・・
219人間七七四年:2011/05/17(火) 01:05:58.20 ID:VuWajU97
もう一つ。大阪冬の陣の折のことである。

その頃、古田織部といえば天下の数奇者の宗匠と呼ばれていた。
大阪城攻めの合戦騒ぎの中でも、織部は「数寄の友だから」とわざわざ佐竹義宣の陣に
訪ねて行った。

が、その時佐竹義宣はちょうど城攻めのための仕寄に付いていたが、しばらくして矢弾避けの
竹束の内に入り、そこで織部と対面、義宣は兜を脱いで織部とつもる話をし、またそこで風呂を炊かせ
もてなし、その後茶を飲むなどしていたところ、織部は突然、竹束の方をキッと見て

「この竹束の中に、茶杓になるべき竹がある!!」

と、竹束の側まで寄って顔を打ち傾けながら熱心に見始めた

時にこの頃古田織部は僧形であり、頭は当然だが、見事にそり上げていた。
あまりに熱心に竹を見ていたため、ついうっかり頭を竹束の影から出してしまった。
その頭に日光が当たる。ピカーッ!彼の禿頭は日光を反射しキラキラと輝いた!

これを見た大阪方
「佐竹陣の竹束のところから、なにやら光り輝くものが現れました!」
「何だと怪しい、怪しすぎる!撃て、撃てー!!!」

大阪方の放った銃弾は、あやまたず織部のハゲ頭に命中した!
…が、運が良かったのか、頭から血は流れていたもののかすった程度で済んだらしい。
しかし織部はすっかり肝を潰し頭を抱え

「我、手負いたり!」

と叫び、その場に居た茶坊主が茶巾袱紗などでその血をぬぐった。
これをその場に居た人々「数奇者に似合いのぬぐい物である」と囁いたとか。

そして織部は
「ああ、この初めての手傷を自分の担当する仕寄で負ったなら、少しは御感に入ることも出来ただろうに、
よりにもよって他所の仕寄で負うとは、これでは丸損ではないか。」
と嘆いたという。

この後、自分の陣屋に帰ると家臣たちに
「武士が付けておくべきは兜である!今後わしは数寄屋においても兜をつけるぞ!」
と宣言したそうだ。

以上、古田織部が微妙に間違った教訓を得た話である(大阪物語)
220人間七七四年:2011/05/17(火) 04:49:03.56 ID:sYhf+P8e
・・・いやいやいや
微妙にってか、豪快に間違ってないかな、その教訓・・・
221人間七七四年:2011/05/17(火) 06:19:54.52 ID:0QcYz3Ew
手遅れにならんように鎧も着けとけ
結局切腹するわけで兜は役に立たないわけだが
222人間七七四年:2011/05/17(火) 09:04:41.44 ID:/P7+tcMI
光った頭を見て発砲

なんだこのコント
223人間七七四年:2011/05/17(火) 14:49:25.68 ID:ZBHgIIeB
茶杓→竹→光ると読み上げて、光る竹が出てきて竹取物語かよ、と思ったら、
禿げ頭が光ってうおまぶしっ!ってなんてコントだよ。
最初の茶杓がどうとかもう放り投げっぱなしだよ。

所でそのあと、ゲヒさんはお目当ての竹を見つけ出せたの?
それとも見つけられないままハラキリ直行?
224人間七七四年:2011/05/17(火) 19:34:14.02 ID:pUod8rVZ
全部、漫画の絵で想像できる。リアルが漫画と変わらねえよ、古田織部
225人間七七四年:2011/05/17(火) 21:09:44.12 ID:iHKEneIC
つくづくへうげものって凄い漫画だな。
226人間七七四年:2011/05/17(火) 21:22:45.37 ID:rZMLgl78
完全にフィクションだけどな
227人間七七四年:2011/05/17(火) 21:39:53.37 ID:SjxQU2JR
フィクションを楽しむのは全然アリだけどごっちゃにするのはダメ、絶対
と、バサラ見てるとつくづく思う
228人間七七四年:2011/05/17(火) 23:50:59.28 ID:qrzLDt3P
>>210
風土記に都久豆美命の名が出てくることだけが月信仰の根拠?
229人間七七四年:2011/05/18(水) 00:07:21.83 ID:frFeDv+Y
「大阪物語」シリーズ

さてさて大阪冬の陣。伊達政宗は大阪城の外格を打ち破ろうと思い、物に慣れた侍六・七騎を率いて
攻め口を探しているうち、城の直ぐ近くにまで出てしまった。

しかしその付近の大阪方は、どうも政宗なんかに関わりたくないと思っていたのか、伊達一行を見ても
見て見ぬふりをしていた。

と、ここで政宗、(よせばいいのに)馬の鞍の上に立ち上がって大声で城方に叫んだことには

「どうして城内の奴らは鉄砲を撃ってこないんだ!?玉薬が尽きたのか?それならわしが
(そこに弾丸を打ち込むという意味で)取らしてやろうぞ!」

この露骨極まる挑発に、城内から鉄砲が二発撃たれた。
が、その弾は政宗の頭上遥かを飛んでいく。これに政宗カラカラと笑い

「飛んでいる鳥などには、ああやって空に向かって討つものだ!
よいか?目の下にいる敵には手股を上げ、筒先を下げて撃つのだ…」

この言葉が終わる前に、今度は城方より鉄砲十挺程がつるべ撃ちをした!
しかしこれも政宗には当たらない。だが、後陣に控えていた伊達家の老武者の、右頬から左の耳の付け根に
弾丸が貫いた!彼は馬からどうと倒れ落ちる。
これに政宗

「…!
はっはっは、お前たちは器用だな。今教えたら直ぐに腕が上達しおった!稽古に神変あり(稽古によって
腕が格段に上達する)とはこの事だな!」

と威勢のいいことを言い、その場に留まるようなふりをしながら(たぶん馬の鞍に立ったまま)ズリズリと下がり、
ついにそこから退いたと言う。

これを見た人々

「あら不思議の政宗や、只今の鉄砲が一つだけの目に当たったならば、この重要な戦の前に
もうお目にかかることはなくなったのに」

と、笑ったそうである。

大阪冬の陣の始め、カッコつけようとした政宗のカッコ悪い逸話である。
230人間七七四年:2011/05/18(水) 00:22:47.48 ID:UMPYXRvJ
老武者憐れwww
231人間七七四年:2011/05/18(水) 04:58:58.30 ID:jPeIdf/4
死にたがりでもあるまいに
挑発したあとむしろその場に残ってるほうが馬鹿で
引き際としてはいいタイミングだったんじゃねえかと。
232人間七七四年:2011/05/18(水) 06:59:41.41 ID:AXPMCx5L
謙信、秀吉、家康とそのバカをやって伝説になってるからなー。
引き際の演出がまずいと思う。
233人間七七四年:2011/05/18(水) 07:09:32.56 ID:tk4HQ0bI
戦国時代ってつくづく鉄砲の精度が悪くてよかったなーというか
そのおかげでいろんな逸話が生まれてよかった
234人間七七四年:2011/05/18(水) 08:49:46.84 ID:z9GiJ5z2
>>233
西洋ではその後もナポ戦争辺りまで逸話を生み続けるんだが
日本では次に実戦をやる頃にはライフリングが本格的に実用化されちゃってたからな
235人間七七四年:2011/05/18(水) 15:38:15.00 ID:VMAGaKia
このとき政宗、ヤンチャ盛りの47歳。
236人間七七四年:2011/05/18(水) 17:15:33.97 ID:bLLEs2re
戦国時代の鉄砲の命中精度は高かったと聞いたような・・・

一揆衆の子供でも鉄砲は良く当たったとか。
237人間七七四年:2011/05/18(水) 19:18:36.20 ID:gpSRNCA7
戦国時代の鉄砲は精度がよかった、いやよくなかった、いやいや使い手がパネェだけだった、
みたいにどうも定見がなくて困る。どれがホントやねん、と思うわ
238人間七七四年:2011/05/18(水) 19:25:19.90 ID:kjW0hAG5
弾幕張るだけなら農民でも出来るだろ
スナイパー的使用方法は熟練しか出来ん
239人間七七四年:2011/05/18(水) 19:46:37.94 ID:tyUpIlmj
>>236
弓と違って反動そらす技術さえ教えれば非力な子供でも何とかなったからとか?
240人間七七四年:2011/05/18(水) 19:53:55.48 ID:3/YEM8g8
ライフリングされていないんだから、安定性は低いでしょ
241人間七七四年:2011/05/18(水) 20:04:24.49 ID:LCieWrB8
稲富一夢「これだから素人は・・・」
242人間七七四年:2011/05/18(水) 20:14:25.48 ID:K/0acZou
今の銃と比べちゃいけないのは確かだけど、有効射程内ならそれなりに当たったみたいだよ。
つーか、現在の射撃競技で使われてる火縄銃をみるにそれなりに当たる。
逸話を残してる人たちは、狙える距離を見きってやってるんだと思う。
ライフリング刻んてない銃弾は長距離での精度も問題だけど、それ以上に長距離だと威力が落ちるし。
243人間七七四年:2011/05/18(水) 20:38:35.47 ID:72WTh4WK
あの時代の日本に弾幕張るような戦術はなかった
西洋でももっと後世のこと
244人間七七四年:2011/05/18(水) 21:04:16.78 ID:729HwKa+
弓よりは練習いらないんじゃない?
245人間七七四年:2011/05/18(水) 21:11:42.35 ID:bjlNHpHY
西洋のマスケットだと「相手の瞳あたりが見える距離まで引き付けろ」だそうな
筋力ないと安定して撃つことすらできないから、狙って撃つ>>(壁)>>単純に発砲する らしい

まあ、神父がよく当たるように弾丸を聖別してたくらいだから、狙撃は技術じゃなくて天運扱いだったんでしょう
246人間七七四年:2011/05/18(水) 21:14:55.82 ID:T4UAbWGa
>>244
鉄砲も槍も戦国期に広まったのは、刀や弓に比べて比較的練習が必要なく、極端な話
女子供でも扱えるから、らしいね。
247人間七七四年:2011/05/18(水) 21:51:23.45 ID:UMPYXRvJ
この板では「熟練がいらないから女子供の武器だった」などと語られることがある火縄銃だが
朝鮮の役の時、朝鮮兵に鳥銃の調練を行ったところ、普通の訓練ではいつまでたっても物にならず、
昼夜を問わず半年間みっちりしごいてようやく日本兵と同レベルの水準に達したそうな。

子供の頃から10年も修行してようやくものになる弓術に比べりゃ簡単とも言えるが
ド素人が扱える武器では全くないね。
248人間七七四年:2011/05/18(水) 21:52:34.52 ID:3/YEM8g8
http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/1_2_3_4_5.html
この漫画のソースは中に書いてあるとおり、常山紀談というものらしい。

当時の合戦の組織的な火縄銃の運用術っていうのを>>241の人あたりが
遺してくれても良かったのにね。折角命拾いしたんだから
249人間七七四年:2011/05/18(水) 22:18:13.37 ID:qKTBz7Kp
>>247
あの国だからじゃね?
250人間七七四年:2011/05/18(水) 22:27:55.73 ID:TIHM0SMk
鉄砲つっても、博物館にあるようなちゃんとした火縄銃ばかりとは限らんのや。
それこそ石ころを火薬で飛ばすようなのまでバリエーションがやたら豊富だった
石ころ飛ばす程度のは鍛冶やらんでも作れるしな
251人間七七四年:2011/05/18(水) 22:35:34.35 ID:bjlNHpHY
ぶっぱなすだけなことと、組織的な運用は、習得において別次元な困難さでしょう
雑賀とか根来が有名だったのは後者としての習熟度が高かったから

マウリッツ・フォン・ナッサウみたいに兵士を規格化して効率的に運用した大名はほとんどいない
兵農分離って大切だ
252人間七七四年:2011/05/18(水) 22:42:04.96 ID:qPfWQwGb
>>245
>狙撃は技術じゃなくて天運扱いだったんでしょう

鬼武蔵「え?」
253人間七七四年:2011/05/19(木) 02:37:41.99 ID:g7ZGOgGW
そーいや2chで「鉄砲は反動も少なくて簡単だから女子供の武器」って見て
腑に落ちた逸話があるんだけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2622.html
↑この逸話の詳細が違うバージョン

とりあえず逸話の本筋から書いて行く

立齋舊聞記より
碧蹄館の戦いの後の事、総大将秀家の主催で慰労会が開かれることになり
諸将が秀家の陣営に集まった。
食事が終わって物語りしていると、黒田長政が言い出した。
「鉄砲ってマジ最高だよね。昔は百歩も離れた敵は討てなかったらしいけど
鉄砲使ったら何百歩離れててもあてられるじゃん
まして的が近かったら絶対外さないし」
他の将も同意する。
加藤光泰「本当に、希代の重宝と言うべきだな。今度の戦で勝てたのもまた、
       鉄砲のよさが発揮されたからだ」
大谷吉隆「ていうか鉄砲最強じゃね?俺もう他の武器買わないわ」

余談だが、思うにここで大谷が極端な事を言うのが話をややこしくしていると思う。
良くも悪くも「思った事は絶対言う」人なのだ。
それで失敗しても、反省も後悔もしてなさそうなのが変に爽やかだが。

とにかく、これを聞き咎めた小早川隆景が口をはさんだ。
「防ぐには鉄砲がいいと思うけど、例えば破るには弓だな。鉄砲だけとか言いなさんな」
立花宗茂もこれを聞いていて
「武器は臨機応変に使い分けないとな。
鉄砲しか持ってなかったら雨の日と闇夜は戦できねえ」と続いた。

焦ったのは長政で、「俺は別に鉄砲だけで戦するとか言ってないし」と訂正したあと、
こう続けた。
「たださー弓を貴んで鉄砲が否定されるのは違うと思うわけ」
↑↑↑
 ここ

これずっと「今誰もそんな話してないんじゃ?
長政のいつもの被害妄想にしても唐突すぎる」と違和感あったんだけど、
鉄砲に「誰でも扱える、あまり男らしくもかっこよくもない武器」というイメージがあったとすると
本人も鉄砲の名手で鉄砲大好きだった黒田長政からしたら
普段から「鉄砲を擁護したい」とか「こいつも鉄砲の悪口言うつもりか」って気持ちがあっての
この発言なのかもしれないなー、と、なんとなく疑問がとけた気がした。
254人間七七四年:2011/05/19(木) 02:38:59.14 ID:g7ZGOgGW
で、せっかくここまで書いたんでその後の顛末も書くと

長政がナイーブになっているところに、宗茂が
「でもさー近接で鋒とかで切りあってる時でも切り損じる時ってあるだろ?
鉄砲はあたるあたるって言うけど、火薬で玉飛ばすような武器
そこまであてにできない気がするんだよね俺は
別に鉄砲がダメって言うんじゃないけど、そればっかり好きでもしょうがないと思う」
などと言ってしまい、微妙な雰囲気になっていると、
秀家が「話は聞かせてもらった!」と現れた。
「これはあれだ、甲州(黒田)が鉄砲、立花が弓使って勝負すればいいんじゃないかな!
的を用意して皆で見物しようぜ!」
この御曹司ノリノリである。

長政と宗茂からしたら、別にそこまでの騒ぎにしたいわけでもなかったのだろう。
辞退しようとしたが、隆景が仲裁に入った。
「まあまあ、勝ち負けとかじゃなくてさ、
立花は弓の名人って評判だし、甲州は飛ぶ鳥も落とす鉄砲の上手だろ。
実際撃ってるところを、是非見てみたいなあ」
そうまで言われては、強いて拒む方がおとなげない。
二人は十五間離れた場所に立てた笄を撃ちあうことになった。
大谷と加藤が「勝った方が負けた方の道具もらっちゃえよ」と囃す。
こいつらも悪ノリしている。

長政の秘蔵の鉄砲から、笄に見事に命中、これを打ち折った。
次に、宗茂は普通よりも大きな塗籠の弓を使っていたが、
これで放った雁股の矢が笄の真ん中を射切った。
周りはやんやの喝采を送る。
両方があててしまったので、もう一度。
ところが二度目の射撃で長政の狙いが反れ、笄の端を削っただけに終わった。
宗茂はといえば、最初に射た矢と同じ場所を、少しも過たず射切って見せた。
立花宗茂聞きしに勝る射手であると人々は大いに誉めた。
約束は約束なので、長政の大事な鉄砲は宗茂の手に渡った。

秀家「あっ、じゃあ立花の弓は俺にちょうだい」

なにがじゃあなのかわからないが、宗茂の強弓は秀家の手に渡った。



…まあなんていうか、戦勝祝いで行き違いがあった悪い話ではあるんだけど、
出席者は盛り上がって帰ったみたいだから、終わりよければすべてよし?
戯言から発展して変な喧嘩にならなくてすんで幸いだった。

隆景からは場をなごませしこりを残すまいという気遣いが感じられる。
秀家はちょっとよくわからない。天然かもしれない。
255人間七七四年:2011/05/19(木) 03:12:39.55 ID:vLE0dyFo
天然だろうな
主催者権限のつもりか知らんがちゃっかり立花の弓貰っても
事が穏便に済んでるのを見ると結構大物かもしれない
256人間七七四年:2011/05/19(木) 03:40:38.59 ID:0fx7IhwC
秀家はそういう徳と格があったのかね
バージョン違いの逸話も面白い
257人間七七四年:2011/05/19(木) 06:07:30.90 ID:wyYkYslW
秀家さんは真っ黒い父上と従兄弟に恵まれて、家が栄えたけど
本人は天真爛漫だよね。秀秋と比べて屈折したところがないし
秀吉にかわいがられたんだろうね
258人間七七四年:2011/05/19(木) 06:32:17.76 ID:ViFf/6zq
秀家さんかわいいです
259人間七七四年:2011/05/19(木) 07:33:36.73 ID:8Sis/NMS
ところで、銃弾を当てるのと、でっかい雁股の矢を当てるのでは難易度が全然違うと思うのだが、どうだろう?
260人間七七四年:2011/05/19(木) 07:46:29.50 ID:onIdjmnX
秀家は天然に見えるが、GJでは?
長政の鉄砲だけ取られると遺恨が残りそうだから、自分が宗茂の弓をいただいて「おあいこ」と
261人間七七四年:2011/05/19(木) 07:53:29.36 ID:piIGlA4J
>>259
槍投げならもっと楽だと思うか?
弓と鉄砲の性能の差、
ないしは当人たちの実力の差の方がはるかに影響が大きいんだから
その辺は問題じゃないんじゃね
262人間七七四年:2011/05/19(木) 09:35:19.02 ID:qwJ6DckA
>>259
ぜんぜん違うねw
まあ長政が不利な勝負をあえて受けたのだから、結果は仕方ないのかも
263人間七七四年:2011/05/19(木) 10:00:24.40 ID:SF3UlNgW
15間って27メートルくらいだぞ
ほぼ今の弓道場と同じだ。
鉄砲で外した長政がミスしただけだろ
264人間七七四年:2011/05/19(木) 10:14:21.99 ID:umDt/y00
あやうく死ぬような目にあった後の
猛者の話、各人の個性が出て面白いね。

この場にもし小西、清正がいたら何て言ったかな・・
265人間七七四年:2011/05/19(木) 10:24:31.42 ID:7JbMHhIy
確か、秀秋は自分名義で貰った宗茂の弓を、改めて長政に贈ったんですよね。
266人間七七四年:2011/05/19(木) 11:06:15.96 ID:CFl8Rx3G
「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」
267人間七七四年:2011/05/19(木) 11:57:02.59 ID:23zzbH/N
思いっきり遅レス>>229
そういや、こういう銃で狙われている前でのパフォーマンスという話になれば
たいてい南北戦争のセジウィック将軍の逸話ネタがあった気がするが
まああれは戦国とは関係ないか
268人間七七四年:2011/05/19(木) 12:25:51.16 ID:4eXx1OQ9
>>265
おい、秀家と秀秋と間違ってるぞ
天真爛漫な貴公子はともかく、屈折した貴公子って友達いたのかなあ?
関が原の後、江戸城では諸大名や旗本からバカにされ、無視された様子が
大河ドラマの葵三代にあったよなあ。そこいらも本当のところはどうだったんだろうね
269人間七七四年:2011/05/19(木) 12:37:21.25 ID:U/T/JL0N
あのシーンは大坂城だろ?そのご井伊直政が出てきてこれで大坂城も見納めだと言ってたから
270人間七七四年:2011/05/19(木) 12:55:53.76 ID:4eXx1OQ9
>>269
訂正トン
271人間七七四年:2011/05/19(木) 13:35:48.05 ID:ObwOxLwF
秀秋「小十郎たんとお友達になりたいお!」
272人間七七四年:2011/05/19(木) 15:28:58.01 ID:8m9kDxAo
>>254
最後、宗茂の弓を貰ったのは秀秋だと思ったけど。
この逸話、いくつかバージョンあるのかな?
273人間七七四年:2011/05/19(木) 23:29:53.76 ID:Jcwz0sod
>>253, 265, 272
立花家資料館では弓は長政に渡ったと書いてあるね。
ttp://www.muneshige.com/column/03.html
残っていれば黒田家ゆかりのものが多い福岡市博物館にでもあるかも。

ところで今日のタイムスクープハンター、ハゲて髷が結えずに公務に出られなくなった
実例として立花鑑虎(柳川藩第三代。宗茂の養子とDQNの孫娘の子)が挙がって吹いたw
男性ホルモン濃そうだもんなぁ
274人間七七四年:2011/05/20(金) 00:21:54.48 ID:t9E3gFGk
天文10年(1541)のこと。
甲斐の武田晴信はその父武田信虎を駿河に追放。クーデターにより武田家の実権を
奪い取る、という事件があった。

さて、その事を聞いた近江の浅井亮政(久政の父、長政の祖父)は大いに憤り
こう批判した

「人々は皆こう言う、武田晴信は良将である、と。
しかしそれがどうして、此の様な乱暴なやり方で父親を追放するのか!?
実に憎むべきこと甚だしい所業である!

その武田家というのは、自身の武に奢るというものであろうか。
これは人望に背き天道に捨てられる行いである。

私はこう断言しよう、武田晴信を良将と呼ぶべきではない、と!」
(浅井日記)


まあ後年、そんな事を言ってた亮政の息子の久政が孫の長政から、武田とほぼ同じような
クーデターされて強制引退食らうんですけどねw
275人間七七四年:2011/05/20(金) 00:23:23.72 ID:obBdsFpE
戦国時代はハゲて髭面なのがカッコイイとされていた

だからフッサな奴はわざわざ毛を抜き、髭が薄い奴は付け髭をしてた
276人間七七四年:2011/05/20(金) 00:48:38.58 ID:T+5uMFvV
あと戦国末期はモミアゲを長ーく伸ばすのが最新の流行だったらしい。
なので豊臣秀次、蒲生氏郷、福島正則なんかは肖像でも頭を大きく剃り上げ
モミアゲが頬まで長く書かれているなw
277人間七七四年:2011/05/20(金) 00:51:12.97 ID:lNQK4ZDS
正則のあれって流行だったのか
278人間七七四年:2011/05/20(金) 00:57:22.85 ID:M5/nOUUW
やっぱ鑑虎のころだと太平の世になって荒々しさや実力より官僚的なものが求められたんだろうな
ハゲてマゲ結えないと、今なら「プッ、あいつスーツ着てねぇww職場で失礼すぎワロタwww」とか
279人間七七四年:2011/05/20(金) 05:21:11.83 ID:vOh19/0L
>>273
件の立花さんは、何か他に表沙汰に出来ない理由(家中のゴタゴタとか)があって、
タテマエに禿げ問題を挙げたんじゃないかと思ったが……勘繰りすぎか?
政治の為に、変なタテマエかかげるのって定番だからさ。
280人間七七四年:2011/05/20(金) 09:58:03.36 ID:hXqwW/rG
仮に建前だとしてもその建前が受け入れられる素地があったということで。
281人間七七四年:2011/05/20(金) 10:32:31.22 ID:sgNQqCzk
>>262
弓道かじった者としては、この勝負、長政は不利どころか有利だと思えます。
照星のおかげで的に狙いを付けやすく、指一本動かせばある距離までなら火薬の威力でほぼ直線に撃ち出される鉄砲
(火薬炸裂時の衝撃やら重い銃身を支えるなどの大変さももちろんありますが)
一方、弓には照星のようなここで狙えばいいという装置がないので、
弓手に隠れて透けて見える視界の中で的に当たりをつけるしかない。
弓自体も竹や木、麻などの植物で出来てるので僅かな湿気や気温の変化で弓のコンディションが変わる。
しかも自らの弦引きの強さ次第で威力が変動するという不安定さ。

笄なんていう小さく細いものを的にして2度も笄のど真ん中にあてるのはすごい。
昭和の弓聖・阿波研造は目をつぶって射ても同じ場所に当てる
(一本目の矢尻に2本目が突き刺さる)ことが出来たそうですが、
宗茂は恐らくそれ以上の技量の持ち主だったのではないでしょうか。

しかし腕前勝負とは別に、上記のように弓は習熟・取り扱いが非常に難しいので
大量動員可能な遠距離兵器という軍隊における鉄砲の利点にはやはりかなわないという、
当初の論点wに関しては長政の言うとおりですが、なんでこんなオチになってしまったのやらw
282人間七七四年:2011/05/20(金) 11:10:20.99 ID:QlKynUP4
>>274
なんか浅井亮政がギレンで再生された

あえて言おうカスであると! 

まあそういうギレンさんも妹にやられちゃったわけですけど
283人間七七四年:2011/05/20(金) 11:15:17.69 ID:xeGvBhXz
>>282
ギレンさんはオヤジ殺してるんだが、コイツは何を言ってるんだ?
284人間七七四年:2011/05/20(金) 11:33:44.28 ID:xi7NsWIk
>>281
うん、最初に大谷吉継が「鉄砲以外いらない」とか極端な事言っちゃったせいで
鉄砲の有用さを主張したい黒田長政と
鉄砲のみに頼る事に反論したい立花宗茂との間で議論が噛み合ってないよねw
そこに、とりあえずイベントにしようという秀家が乱入してうやむやになってるけど
285人間七七四年:2011/05/20(金) 17:11:16.80 ID:IKhYfTe+
>>275
戦国時代の流行りってどうやって生まれるんだろうな?

たまたま大坂城内で待女にモテモテな奴がモミアゲロングで口髭だったのを、太閤殿下が
「わしもやる!モミアゲ伸ばして付け髭つける!」
で、各大名が
「おい、アレ俺らも真似しなきゃヤバくね?」
「マジかよモミアゲだせぇって・・・」


って感じだろか。
286人間七七四年:2011/05/20(金) 17:17:48.09 ID:nC18uwri
土井利勝「どこかで聞いたような話だな」
287人間七七四年:2011/05/20(金) 18:55:34.25 ID:c7CCic90
>>285
そんなナンパな理由じゃないと信じたいw
288人間七七四年:2011/05/20(金) 19:27:08.05 ID:rklj0PMC
公家なら江戸初期にナンパな奴もいたみたいだが武家はどうなんだろうね
289人間七七四年:2011/05/20(金) 20:02:55.76 ID:LEMCF2+n
>>281
弓の方が技術的には難しいという所には同意しつつ
残念ながら、極めても生じてしまう仕方ない誤差がありまして
そっちは多分鉄砲の方が大きい
290人間七七四年:2011/05/20(金) 20:12:17.47 ID:Zd2Wrnlo
そもそも立花さんちは鉄砲隊の運用では一目置かれてた存在だもんなあ。
291人間七七四年:2011/05/20(金) 20:45:27.51 ID:M5/nOUUW
>>290
そうなんだよね、立花鉄砲隊は「早合」(弾薬カートリッジ)を使ってて他隊の三倍の速さで
連射できたらしいし。良く聞くのは、蛍大名の大津籠城戦で立花隊に面した銃眼だけ
閉め切られてた(=銃眼から撃とうとすると三倍返しされる)とか。
292人間七七四年:2011/05/20(金) 21:09:00.77 ID:M5/nOUUW
しかし長政の鉄砲に付けられた「墨縄」(=直線を引くもの、定規)という名前、
これって「百姓でもまっすぐ飛ばせるこの道具で外した長政(笑)」っていう皮肉だったら
宗茂の悪い話にできるんだがw 碧蹄館の英雄、そのぐらい傲ってほしいものである。
293人間七七四年:2011/05/20(金) 21:26:31.54 ID:c7CCic90
どっかの鷹匠じゃあるまいし、宗茂さんはそこまで根性悪じゃないぜ
294人間七七四年:2011/05/20(金) 23:02:31.88 ID:t9E3gFGk
豊臣秀吉が、その晩年に出来たわが子秀頼を溺愛したことは有名だが、
彼はこんな事も言ったそうだ

「秀頼が成長し、男子でも女子でも、子供を設けるほどになるまでこの世に長らえれば、
初めて秀頼の子を産んだものには、どんなに身分の低い者の娘でも構わない、
先ず黄金千枚を、当座の引き出物として取らせようぞ!」


さて慶長20年(1615)5月8日豊臣秀頼切腹。大阪夏の陣が終わる。

当時未だ7歳であった豊臣秀頼の子国松は、大阪城より脱出し伏見の町家に
潜伏していたが、幕府の探索により程なく捕縛され、二条城に連行された。そして

「未だ幼児であり、今回の戦争に対して何を知るというわけもないが、
大敵の子であり、また男子である以上、助けおけば将来の患ともなるだろう。」

と、処刑されることに決まり、その身柄は京都所司代・板倉勝重の屋敷に移された。
勝重は国松を風呂に入れ衣服を与えるなど丁重に扱う。そしてこの少年に話しかけた

「お名前はなんと言われるのですか?」

国松はこの問に不思議そうに

「名前…?私に名前はありません。」

「お名前が無い?それは…」

「はい。皆は私のことを、殿様とばかり呼びます。」

これを聞いた人々は皆、思わず涙したという。
そして5月23日、国松は市中引き回しの上、京都六条河原で斬首された。

豊臣秀頼の子、国松についての逸話である
(大阪物語)
295人間七七四年:2011/05/21(土) 08:13:31.68 ID:Q0nwCkLS
えぐいなぁ、こんな超ボンボンが将来の災いになるはずもないのに・・・
296人間七七四年:2011/05/21(土) 08:23:55.93 ID:xQwuvk/k
本人はその気がなくても周りの奴が担ぐから
297人間七七四年:2011/05/21(土) 11:53:50.66 ID:sxuPEsPJ
国松公が処刑されるとき徳川家が豊臣家に対する数々の背信行為を弾劾
したとか言う話もあったなどこで見たか忘れたけど
298人間七七四年:2011/05/21(土) 11:54:53.21 ID:mWINSonv
曾呂利新左衛門さん話

肥前名護屋の陣営でのこと。
ある日、曾呂利新左衛門が外から秀吉の本陣に入ってくると、突然語ることには

「殿下!世にも不思議なるものがあるものですね!
臣はただいま陣の手前でとても奇妙なものを見ました!」

秀吉、これに興味を持ったか
「新左衛門は慌ただしいのう。奇妙なものとは一体、何を見たのだ?」

「さればでございます。『キウリ』が胡瓜を食っておりました!」

「なにっ?胡瓜が胡瓜を食っておったと?新左衛門、たわけたことを申すな。
口のない胡瓜がどうして胡瓜の共食いをするものか。たわけにも程があるわ!
まあ、これもお前のいつもの戯れだろうが。」

しかし曾呂利引き下がらない
「いや、確かに食っておりました!これは相違ございません!」

秀吉と曾呂利は食わない食ったと言い争ったが、これでは埒が明かぬと秀吉、
傍らに居た家臣に「誰ぞある!?まこと、果たして胡瓜が胡瓜を食っておるか、急いで行って
見て参れ!」

家臣の一人、「ははっ」と答え陣の外まで出て、あたりを見回す。当然のことだが
胡瓜が胡瓜を食っている様子は、ない。それでも、何事も見落としてはならぬと
キョロキョロと見回す。
「しかし胡瓜が胡瓜を喰うなどとあるわけが…、 はっ!?」


この家臣が戻ってくると、秀吉は急かすように尋ねた

「どうじゃ!?胡瓜が胡瓜を食っておったか!?」

「それがでございます。胡瓜が胡瓜を食っている様子は見えませんでした。」

秀吉、そら見たものかという顔を曾呂利に向ける。が、家臣続けて

「それは無かったのですが…」

「ですが?」

「ははっ、陣営の外では、背中に薪を背負っている薪売り(きうり)が胡瓜を食って
おりました。」

秀吉あきれ返って
「なんじゃと!?薪売り(きうり)が胡瓜を食っておったと!?
さては新左衛門めにたぶらかされたか!なるほど、胡瓜が胡瓜ではなく
薪売りが胡瓜か!」

曾呂利、澄ました顔で
「仰せの通りにございます」

これに秀吉
「おのれ、また誑かしおったな!」
と笑って叱りつけたという。

『太閤之腰巾着曾呂利新左衛門』より、曽呂利頓知話の一席
299人間七七四年:2011/05/21(土) 12:13:56.94 ID:+dczATAl
>>298
いやこれ誰も損しないし、とんちのきいたいい話だろw
300人間七七四年:2011/05/21(土) 12:25:44.51 ID:sh/tXUV1
腰巾着ってまんまだなw
301人間七七四年:2011/05/21(土) 12:58:28.09 ID:evIZoeIn
>>299
見に行かされた家臣が疲れるじゃないか!
302人間七七四年:2011/05/21(土) 13:11:56.46 ID:nId1lM+d
しかしひとこと言いたい

コレ、頓知じゃなくて駄洒落じゃね?
303人間七七四年:2011/05/21(土) 13:29:55.09 ID:6g+Bu522
宮廷道化師その物だな
304人間七七四年:2011/05/21(土) 13:43:00.60 ID:hfmandWt
ただの小話になっちゃってるな
曾呂利の演出家として伊達政宗を呼んだらどうか
305人間七七四年:2011/05/22(日) 10:04:00.67 ID:fTQO4bU+
>>295
「親の因果が子に報い」ってこと
306人間七七四年:2011/05/22(日) 10:58:43.42 ID:pREYxGOs
秀頼の因果って何だよ
307人間七七四年:2011/05/22(日) 11:36:37.05 ID:uaq2z6sG
それくらい自分で考えろ
308人間七七四年:2011/05/22(日) 12:39:12.84 ID:iND0nGHn
秀頼の因果なんてないよ、秀頼・国松ともにお爺ちゃん秀吉の因果を受け継がされてしまっただけ
309人間七七四年:2011/05/22(日) 13:41:37.42 ID:dD1qMWd/
*「赤子とて容赦せぬ殺せ!
  源氏の血筋を皆殺しに!」

これが出来なかった平家は見事に滅んだからな
源平が基礎教養である以上殺すしかない。
殺さなければ天下の持ち主として資質不足とみなされる。
310人間七七四年:2011/05/22(日) 15:12:10.98 ID:G/DuGe87
徳川幕府の将軍が異常者ばっかりなのも初代将軍家康の因果ですか?
311人間七七四年:2011/05/22(日) 15:15:33.22 ID:OslqlfV4
足利将軍家に比べたら、全然まともですよ
312人間七七四年:2011/05/22(日) 15:17:37.23 ID:1J67Q7wl
>>310
君の徳川将軍認識が著しく歪んでいることだけは解った。
313人間七七四年:2011/05/22(日) 15:56:36.84 ID:+NxwGV0h
広忠が若死にしたのも、清康の因果だから仕方ない。
314人間七七四年:2011/05/22(日) 16:20:55.72 ID:OslqlfV4
筋を通せば、因果は解消できるんだよ。秀家さんみたいに
315人間七七四年:2011/05/22(日) 18:38:27.08 ID:uaq2z6sG
お家取り潰しなのに因果解消とな
316人間七七四年:2011/05/22(日) 18:41:10.36 ID:WyJXsj8a
資清「息子たちが名家を継ぎ所領を増やしたのも、僭越ながら私の所業の因果なのでしょう^^」
317人間七七四年:2011/05/22(日) 19:19:14.33 ID:azWmqE0V
永正九年(1512年)北條早雲は、古くから三浦半島一帯を支配下に置く
三浦一族を滅ぼさんと、一族が立て篭もる新井城を攻めた
名将と言われた三浦同寸と、豪傑で知られたその息子義同は
鉄壁の守りの構えを崩すことなく奮戦したが、
足掛け七年の篭城の末、早雲に退路も兵糧も断たれ
永正十五年七月、ついに華々しい血戦に討って出で、親子共に自害した

ところがこの時自害し、落とされた義同の首は、落とされた途端空に舞い上がり
小田原にまで飛んで行き、とある街道沿いの松の木の枝に引っ掛かった
既に首だけとなったにも関わらず、義同は両眼を爛々と見開き、怒髪天をつく恐ろしい形相で
松の木の近くを通った者は、その首を見ただけで死んでしまう

その話を聞いた総世寺という寺の住職であった忠室存孝という人が
小田原を訪ねると、首に向かって静かに歌を詠んだ

「うつつとも夢とも知らぬひとねむり憂世のひまをあけぼのの空」

すると、生きているようだった義同の首は音を立てて落ち
忽ち目を閉じたかと思うと白骨化してシャレコウベとなった
落ちる時、天から誰の声とも知れぬ声で

「今より永く当所の守護神となるべし」

と聞こえた
その話を聞いた当地の人々は、松の下に祠を建て、義同を祭ったという
今も小田原に残る「居神神社」の由来話である

武家の歴史は潰し潰され
一人の武士生きるに一人の武士の血を吸う…
なーんてね
318人間七七四年:2011/05/22(日) 19:22:55.29 ID:eZVnhGlS
将門といい関東の武者はすぐ首で飛ぶから困る
生きてるうちに飛んどけっての。
319人間七七四年:2011/05/22(日) 19:27:48.48 ID:pYDzCk1F
ちなみに油壺の由来は新井城で玉砕した城方の血が湾内に油のよう
に漂ったから

子供の頃油壺マリンパーク行った時は知らんかったが
320人間七七四年:2011/05/22(日) 19:41:30.89 ID:AqlVluHQ
>>317
んまぁ、早雲時代の伊勢氏の居城は伊豆韮山だけどね
321人間七七四年:2011/05/22(日) 20:28:23.15 ID:hOvIpklR
元オカ板住人として、>>317>>319の油壺から小桜物語を真っ先に思い出たよ

ちなみにこれhttp://www.paperbirch.com/sakura/
322人間七七四年:2011/05/23(月) 07:02:13.60 ID:g+pA5ibc
>>321
リンクは踏んでないが、カッパッパー♪って奴だっけ?
323人間七七四年:2011/05/23(月) 21:16:29.36 ID:mwdms74Z
うわああああああああ
324人間七七四年:2011/05/23(月) 23:22:58.99 ID:qLiEMwnL
>>321
同寸の息子は、リンク先の霊界通信によると 荒次郎義光とあるし
wikiでは荒次郎義意となっているね
325人間七七四年:2011/05/24(火) 00:10:47.01 ID:WEJ8qK8w
>>318
あ、謝っとけ!将門公に!
例えこの程度でもちっさい不幸が訪れるぞマジで!
近いうちに足の小指を強打するぞマジで!
326人間七七四年:2011/05/24(火) 10:15:18.83 ID:CsLy+1Vo
阿波、三好実休の後を継いだ三好長治は非常に厳格で強権的な統治をしたという。

元亀3年(1572)春、かれは讃岐において鷹狩をした。
木太郷の深江と言う場所で長治自ら、鴨の群れにあわせて鷹を放つ。
鷹は鴨を掴み、そのまま真部の見勇利権之助という者の家の前に落ちた。

この時、権之助の家に使えていた若松というまだ幼い少年がこれを見つけ、恐ろしい物が
落ちてきたと思ったのであろうか、火焚き棒で鷹、鴨ともども打ち殺してしまった。

長治はこれを知ると激怒し、その少年を捕らえさせ「牛裂きにせよ!」と命ずる。
少年は両足を牛二匹に縄で結び付けられ、牛を左右に追分け両足を二方に引き裂いた。

人々はこれを見て恐れ震え

「あの子供は是非をわきまえてあんな事をしたわけではないのに、その刑罰は
あまりに暴虐にして無道である。」と口々に語り、多くの人心が三好氏から離反した、と言われる。

三好長治讃州鷹狩での逸話である。
(南海治乱記)
327人間七七四年:2011/05/24(火) 20:05:43.43 ID:r5NEHAt8
ちょっと悪いどころじゃねーな!
328人間七七四年:2011/05/24(火) 23:04:52.39 ID:pCDoygft
>>326
ん、被ってるけど一応内容が少し違うな
しかし流石やな長治さんは
まだまだ長治で出てない逸話あるし、暫くしたら悪い逸話で埋め尽くしてやるから覚悟しろよ
329人間七七四年:2011/05/24(火) 23:07:35.92 ID:QL0FZWax
長治「牛裂きは怖いですねえ、恐ろしいですねえ」
330人間七七四年:2011/05/24(火) 23:08:58.01 ID:LhxhfTtG
山内容堂も子供だった竜馬の友達を斬り殺すよう命じてたな

おーい竜馬の話だが
331人間七七四年:2011/05/24(火) 23:13:33.20 ID:grK3Fn9f
DQN四天王序列

森 長可
伊達政宗
細川忠興
島津忠恒
坂崎直盛 New!
三好長治 New!
332人間七七四年:2011/05/24(火) 23:26:27.14 ID:2kgyWBz/
おいおい越前の狂犬はどーした?
333人間七七四年:2011/05/24(火) 23:29:27.33 ID:GP3W6zr3
富田長繁さんは序列とは別枠なの?
334人間七七四年:2011/05/24(火) 23:30:58.09 ID:sqJuy1mP
DQNに納まりきらないから狂犬枠でいいと思う
いまいち仲間が思いつかないが
335人間七七四年:2011/05/24(火) 23:32:51.06 ID:S9u8Kl4+
DQNにはある種の親しみやすさが有るけど富田さんはただ狂ってるだけなんだよな。
336人間七七四年:2011/05/24(火) 23:33:51.73 ID:r6/TZ2Th
このころの鷹って高級品で、贈答、献上、下賜の定番アイテムなので、
価値を知らない人に打ち殺されたらブチギレるのも当然かという気もするが。
今の感覚だと高級車や時計をボコボコに壊されるようなもんでしょ。
337人間七七四年:2011/05/24(火) 23:40:17.75 ID:/rEAToCL
時代が違うのを同列に語るのはどうかと思うけど、
どこぞの知事の高級車を子どもがふざけて傷つけてしまった時に、
その知事が子供をボコボコにしたら問題になると思わんか?

領主の器じゃないってことじゃないの?
338人間七七四年:2011/05/24(火) 23:54:47.06 ID:vUG+5j5i
おれたちにできない事を平然とやってのける、
そこにしびれるあこがれる部分が無いと四天王には入れない
339人間七七四年:2011/05/24(火) 23:56:25.51 ID:FmgHjZnm
木沢長政さんは?
340人間七七四年:2011/05/24(火) 23:57:43.66 ID:qoO2jXLS
四天王入りするには○○だから仕方ないと思わせる数々の実績が無いとな
341人間七七四年:2011/05/25(水) 00:03:21.41 ID:zp87iu3X
>>339
どっちかといえば松永弾正と同じ部類かな
342人間七七四年:2011/05/25(水) 00:06:56.31 ID:sJIc8+44
>>340がとてもいいことを言ったと思います。いや、まじでそうだよ

>>341
大関さんもそっちに分別かな
343人間七七四年:2011/05/25(水) 00:13:10.01 ID:bFLd78p/
四天王になってる人たちは武将や領主としては優秀なんだよな
優秀なはずなのになんで…っていうのが他の人には足りない
344人間七七四年:2011/05/25(水) 00:59:25.87 ID:ze8QBCKh
「五人目のDQN四天王」こと福島正則を忘れないでいて
345人間七七四年:2011/05/25(水) 01:04:15.24 ID:BdT7rFeQ
市松は酒入らないと意外といい奴だし
DQNというより酒乱枠だと思う
346人間七七四年:2011/05/25(水) 01:08:33.57 ID:ZJ1xku1n
あと、基本的にヘタレだしなぁ
347人間七七四年:2011/05/25(水) 01:36:14.24 ID:T4zBUTx8
天正12年(1584)冬、大阪の羽柴秀吉は小牧長久手講和の証しとして、徳川家康に
人質を要求する。この時家康の次男、於義丸(後の結城秀康)が送られたことは有名であるが、
実は秀吉方が最初人質として要求していたのは、この於義丸ではなかった。
秀吉が望んだ人質は、家康の異父弟、松平定勝であった。

この秀吉からの要求を家康も基本的に受け入れた。
が、大阪に定勝を出すことに強硬に反対する人物が現れた。家康の実母、於大の方である。

彼女は家康に向かって深く嘆き、

「三郎四郎(定勝)の兄である源三郎(久松俊勝)は最初今川家の人質となり、
その後武田信玄の駿河侵攻で甲斐に連れて行かれ、そこからどうにか脱走してきたものの
雪山の中を逃げたため手足の指が東証により皆落ち、世に交われるような体では
なくなってしまいました。
今またこの子まで、人質として都に送らずともよいではありませんか!」

と、泣き口説いた。
家康が人質として苦労したことは皆知るところであるが、於大の再婚相手の子も
このように人質で不幸な目にあっていた、どうもこの人の子は、人質運が悪いというべきであろうか。

ともかくも実母にこのように泣かれ、さすがの家康もこれを無視することもできず、
仕方なく定勝に変わり、我が子於義丸を秀吉の人質にすることになったのだという。

この後しばらく家康は、「これは三郎四郎(定勝)が人質に行きたくなくて母上に訴えたからに
違いない!」と、定勝に対して大いに怒っていたが、そのうちにそれが誤解だと解り、家康の怒りも
溶けたのだそうだ。

家康が秀吉の元に於義丸を人質に出すまでの過程である。
(藩翰譜)
348人間七七四年:2011/05/25(水) 02:09:11.55 ID:l/Xv3Cph
家康「お前でも我が子がかわいいか?」
349人間七七四年:2011/05/25(水) 02:13:32.60 ID:bFLd78p/
>>348
お前も我が子だろうがww
350人間七七四年:2011/05/25(水) 02:14:36.03 ID:YeMg+mJ8
何故か松平を名乗る事になった久松家
351人間七七四年:2011/05/25(水) 02:16:48.58 ID:G9X/zWnQ
>>350
歴史が動いたのか
352人間七七四年:2011/05/25(水) 02:28:05.89 ID:9/SVmQhP
当時は側室がいっぱいいたから、異母兄弟は全然珍しくないが
異父兄弟だとなんか嫌な感じがするな・・・
母ちゃんビッチかよって思われるし
353人間七七四年:2011/05/25(水) 02:42:09.36 ID:e/Bk1vnC
>>352
女の再婚も多いから平気だろ。
むしろ経産婦は石女じゃないと判っているだけ歓迎されたような話も聞くが。
354人間七七四年:2011/05/25(水) 02:56:01.19 ID:ZJ1xku1n
>>352
そもそも家康が後家さん大好きなわけで。晩年はロリ好きになったけどさ。
355人間七七四年:2011/05/25(水) 03:00:39.73 ID:9/SVmQhP
そういえば昔は太閤殿下と大和大納言は異父兄弟って言われてたけど
最近だと、普通の弟だった説が有力らしいな
356人間七七四年:2011/05/25(水) 06:30:35.77 ID:JdWKgAgQ
秀忠も忠輝も、異父兄が居るんだよね、確か。久松兄弟のように厚遇はされなかったようだけど
357人間七七四年:2011/05/25(水) 10:27:54.71 ID:MYE9pJba
ここで家康が冷徹に突っぱねてたら二代将軍秀忠は無かったんだろな。
358人間七七四年:2011/05/25(水) 12:02:19.32 ID:F8U7Whul
>>354
そもそも家康の祖父からして
水野忠政の奥さんの於富の方をもらって継室にしてるしな
359人間七七四年:2011/05/25(水) 15:13:09.77 ID:ZhYEM9Lo
微妙にツボを押す人名のみを書いて立ち去るスレ↓

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/stadium/1284945746/l50

オマイが知ってる悪人を教えろや!
360人間七七四年:2011/05/25(水) 21:12:51.05 ID:LFcpA/Wn
>>336
信虎「略奪の定番アイテムでもあるんだよなこれが」
正昌「しかも返品交換の対象でもあるんだよな、御屋形」
361人間七七四年:2011/05/25(水) 23:00:39.43 ID:UCq6xldZ
>>356
忠輝は姉だったような
兄がいるのは母親の茶阿局
しかもこの伯父さんは石田三成の家臣
362人間七七四年:2011/05/25(水) 23:04:06.53 ID:TL32/uQ6
>>361
家老の花井三九郎が兄だったと思う
363人間七七四年:2011/05/25(水) 23:08:39.46 ID:Ht3V1DuP
>>360
氏綱「あのときはメニューをすぐに決められない男みたいなゴネ方だったよね」
364人間七七四年:2011/05/26(木) 01:10:14.55 ID:bQC6Y/jz
>>362
花井三九郎って連れ子の姉の夫でしょ?

余談だけどググってみたら「捨て童子」ってタカラヅカになってんのなw
365人間七七四年:2011/05/26(木) 05:26:36.60 ID:T/1x5PXR
DQN四天王の条件に世渡りは割と上手ってのはあると思う
市松や坂崎さんにはそこが後一歩足りない
的確に時代の勝利者を見抜く感覚はあるのに
366人間七七四年:2011/05/26(木) 05:47:09.27 ID:oMjZ3AjG
ただ勝手に呼ばってるだけだろ
367人間七七四年:2011/05/26(木) 08:42:15.81 ID:Eh/D9loi
尾張の竹腰さんも義直のお兄さんだね。
368人間七七四年:2011/05/26(木) 18:53:35.03 ID:KTOeap1G
THEナンバー2 〜歴史を動かした影の主役たち〜 過去の放送一覧
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/backnumber.html

第5回からの4人が全員徳川家康の「ナンバー2」な件
というか家康は何人ナンバー2がいるんだ?そもそもナンバー2は何人も居るものなのか?w
369人間七七四年:2011/05/26(木) 19:22:38.19 ID:aGYQVjI6
>>368
あれだ、野球で言う左のエースみたいなもんだ
若手ナンバー2が直政、古参のナンバー2が正信、外様のナンバー2が高虎みたいな感じで
370人間七七四年:2011/05/26(木) 19:24:53.85 ID:peKcQjNC
>>368
ワラタw
もはや全員野球みたいなノリだw
371人間七七四年:2011/05/26(木) 19:25:19.23 ID:QycOB8dK
No,2不要論者のあの人が喜んじゃうよ^^
372人間七七四年:2011/05/26(木) 19:46:15.88 ID:/IrAXtXm
正信≒オーベルシュタイン
景勝≒アンスナバッハ
フェザーン≒一向宗

多分、当てはめていけば、きりがないだろうな
373人間七七四年:2011/05/26(木) 19:48:34.62 ID:/vfN1YbQ
千利休も秀吉のナンバー2w
374人間七七四年:2011/05/26(木) 19:52:52.26 ID:LZSdL2Zo
>>369
秀吉にも、奉行系のナンバー2と大老系のナンバー2がいるんですね・・・秀吉にとってのナンバー2って、秀長でその死後は家康なんじゃないかなあ?
375人間七七四年:2011/05/26(木) 19:58:15.65 ID:4EgGwTpb
>>360
まさまさェ・・・・・・。
376人間七七四年:2011/05/26(木) 21:46:03.98 ID:jmqhAb78
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで今川義元、討死。
この時遠州井伊家当主、井伊直盛も共に討死をする。
井伊家の家督は直盛の養子、井伊直親が継いた。

さて、同5年(1562)春、井伊直親の家臣である小野但馬という者、主人を恨むこと有り
今川氏真の元に参って密かに告げる。

「肥後守(井伊直親)は織田徳川と通じ、御屋形様に叛こうとしております!」

氏真はこれを信じ、大いに怒った。「井伊が叛いた!急ぎ井伊を退治すべし!」
しかし今川氏の一族であり、直親の友人でもある新野左馬之助は興奮する氏真を強く諌めた

「私は直親と長年親しくしており、彼の心の中も良く存じております。
直親は当家に二心を持つような人間ではありません!これはおそらく、讒人の申したことに
違い有りません。どうか、事の真偽を究明あるまで、御追討はお止めください!」

そして左馬之助は井伊の元に使いを出し、かくかくと状況を知らせる。
直親もこれに大いに驚き

「直親は先祖以来、今川殿の被官となってよりこのかた、累代において後ろめたき事は有りませんでした。
中でも養父である直盛は、故義元公のお供をして、桶狭間の合戦で討ち死にしました。
であれば、あの信長はご主君の仇というだけでなく、この直親にとっても父の仇であるのに、どうして御屋形様に
叛いて、君父重讐の相手に組するのでしょうか!?

この旨を持って、私に誤りの無いことをどうか、申開きしてください。」

そう、左馬之助の使いに託した。

ところが、これを聞いた氏真は

「いやいや、領地に居ながらにして陳じるというのでは疑いを解くことは出来ない!
駿府に参って申開きをせよ!」

と言う。直親もこれを受け入れる。このとき直親は「現在不信を被っている身が
郎党を多く引き連れていくのは宜しくない」と、主従わずか20人にて駿府へと向かった。

途中、掛川に差し掛かった所での事である。
完全武装した掛川城主・朝比奈備中守の軍勢2,300騎が突然、この井伊家の一行を襲った。
彼らは一行を大勢で取り巻き、一人も残さず討ち果たした。
この時井伊家は事実上、壊滅した。

直親にはこの時僅か2歳の男子・虎松があり、これも氏真により誅殺されるところを、井伊討伐に反対していた
新野左馬之助がその身だけはなんとか守り、命を助けた。

この時助けられた虎松こそ、言うまでもなく井伊家を再興する、後の井伊直政である。

今川氏真による、井伊家粛清についての話である。
(藩翰譜)
377人間七七四年:2011/05/26(木) 21:50:14.74 ID:MYzACahM
新野左馬之助のその後が気になるなぁ〜
というか、直政さんってオレの中では急に登場する感じなんだよな〜
378人間七七四年:2011/05/26(木) 21:53:25.83 ID:xFONMq26
大関「わしも那須家のNO.2みたいなもんだな」
松永「三好家で重鎮の立場にいたわしもNO.2みたいなもの」
直家「浦上家随一の実力者のわしもNO.2と呼ばれてもいいですな」
379人間七七四年:2011/05/26(木) 23:01:13.55 ID:WURHk3pI
>>377
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E9%80%A3%E7%AB%9C

ここに新野親矩という名前でちょこっとだけ出てるよ
380人間七七四年:2011/05/26(木) 23:50:57.45 ID:4EgGwTpb
>>NO.2
マザー2のモグラみたいなことになってきたなwww
381人間七七四年:2011/05/27(金) 01:17:17.61 ID:2Zd6Kyeu
新野家は幕末に井伊直弼の兄が再興してるみたいだね
382人間七七四年:2011/05/27(金) 01:58:33.30 ID:/kq3CsKx
文禄4年(1595)、秀次事件の時のことである。

関白豊臣秀次謀反の噂高まった頃、当時京の徳川家の屋敷には、当時16歳の徳川秀忠があった。
秀次はこれに目をつけ、たばかって秀忠の身の上を確保し、その上で人質を盾に
徳川家康を頼って太閤秀吉に申開きをすべし、と考える。

4月3日の早朝、徳川家の屋敷に秀次よりの使者が来た
これに対応したのは徳川家重臣、多くも忠隣である。

「今朝は朝食をご馳走したい。どうぞ聚楽へと参るように。本来なら昨夜のうちに
伝えておくべきだったが、いささか事にまぎれてしまい、今になった。」

使者はそう忠隣に語り、直ぐに秀忠をつれてくるよう要求する。が、忠隣これに

「仰せ、承りました。ですがその…、秀忠様はまだ幼く、いつも日が高く上がってから
漸く起きだすのです。
関白殿下へのご返事が遅れるのは大変憚るべきことですので、お使いの方々は
一旦お帰りになって、この事を関白殿下にお伝え下さい。
忠隣は秀忠様が目覚められましたら仰せのことを伝え、必ず聚楽に参らせます。」

と、使者を返す。勿論秀忠が未だ寝ているなど、嘘である。忠隣はすぐさま土井利勝をお供に、
秀忠を密かに伏見の屋敷へと移し、その上で自身は京屋敷に留まった。
そのうちに秀次の使者が再び、催促のためであろう、徳川屋敷に訪れた。
忠隣これに対面して、曰く

「いやはやそれが、秀忠様ですが、かねてから茶会の約束があったそうで、今日の早朝、
伏見に行かれたそうなのです!私はその事をまるで知りませんでしたから、又いつものように
日が高くなってから起きる事よとばかり思っていたところ、たった今この事を知らされ、
返す返すも恐れ入ることでございます。」

と、心底恐縮している体で謝罪する。時間は既に午の刻あたり(正午ごろ)、追いかけて戻すことも
もはや無理であり、使者は如何とも出来ずそのまま戻っていった。
秀次は大変口惜しく思ったが、程なく切腹し果てられた、とのことである。

大久保忠隣の、秀忠脱出作戦についての逸話である。
(藩翰譜)
383人間七七四年:2011/05/27(金) 10:49:37.79 ID:AiiZNlop
>>379
Wikipediaの井伊直虎の項にも出てますな。
384人間七七四年:2011/05/28(土) 09:23:09.06 ID:wLFW8SKW
385人間七七四年:2011/05/28(土) 09:30:05.03 ID:2ZosS/5K
無双にゃあ4で元就出てるのに、えらく古いな
386人間七七四年:2011/05/28(土) 10:16:54.44 ID:nEAHzUyL
信玄と謙信は全部似たような感じだな
387人間七七四年:2011/05/28(土) 13:06:46.45 ID:TXNHSauW
今川の扱いもw
388人間七七四年:2011/05/28(土) 13:46:40.62 ID:iummxbJf
秀吉のデザインが割とブレてるな
389人間七七四年:2011/05/28(土) 13:51:52.97 ID:huhU27Lb
秀吉がブレる理由はなんか分かる
390人間七七四年:2011/05/28(土) 13:53:55.94 ID:VYXN62xT
信玄公はだいたい畠山さん?の肖像画のイメージかな
391人間七七四年:2011/05/28(土) 14:48:16.13 ID:l9T1HUGP
あと大抵マッチョだよね 史実通りもっとスマートなイケメンにするべき
392人間七七四年:2011/05/28(土) 18:30:44.14 ID:9rX1v0Of
>>387
グラフィックがあるのに、無視される明智に比べたら
393人間七七四年:2011/05/28(土) 18:53:01.21 ID:lqmyVF/8
信玄は結核にかかったとかいう話もあるから痩せてたのかも
394人間七七四年:2011/05/28(土) 20:36:58.04 ID:mJ177SaO
天正17年(1589)、新たに肥後半国領主となった小西行長に、天草五人衆と呼ばれる
志岐鎮経・天草種元・大矢野種基・上津浦種直・栖本親高といった国人たちが反発、蜂起する。
いわゆる天草国人一揆の勃発である。

さて小西行長はこの一揆の中心人物である志岐鎮経を滅ぼさんと、伊地知文太夫を大将として
その居城、志岐城を攻めさせた。
が、この軍は志岐鎮経の夜襲に会い、一人残らず討ち取られる。文字通りの全滅となった。

この敗戦に驚いた小西行長は自ら六千の軍を率い、さらに加藤清正より千五百の援軍を得、
都合八千で、船により海上から、志岐城近くの袋の裏に上陸した。

すると志岐城から早速人数が出て、干潟を駈けて小西の陣の直ぐ側まで来ると
こう歌って挑発する

『京衆京衆、なぜ鑓せぬぞ、臭橙の皮のすもりか!?』
(京衆よ京衆よ、どうして我々と戦わないのか?お前たちはダイダイの皮の番人か!?)

これに小西・加藤の軍は怒り、力攻めで志岐城の城際まで押し寄せる。
が、志岐城は南は深山、西北は士町に続いている道はあるがその他は全て海、
東は深い谷、堀際は厚い岩盤という天然の要害であり、小西・加藤軍は谷間まで仕寄りを仕掛け
敵を城内に押し込めたものの、攻め落とすまでには至らず、小西は志岐鎮経の縁者である
有馬晴信を通して和平の道を探った。

と、小西・加藤の軍勢は先に自分たちを侮辱した歌を大変憎く思っており、この頃志岐城に向かって
こんな囃し歌を歌いかけ、その溜飲を下げていたという

『城衆城衆、なぜ切って出ぬぞ 志岐じゃしきじゃ、へのこしきじゃ!』

説明しよう。「しき」には「城」という意味があります。そして『へのこ』、これは睾丸や陰茎、
すなわちオチンチンの事です。すなわち

「城衆よ城衆よ!どうして城から討って出ないのか!?志岐城はチンコ城じゃ!」

と歌って笑ったのです。…レベル低いですねw
そんな小学生レベルのチンコチンコの悪口で溜飲を下げるのもいかがなものかと思わなくもない、
天草国人一揆、志岐城攻めの逸話。
(續撰清正記)
395人間七七四年:2011/05/28(土) 22:24:56.94 ID:SEnTZOd/
チンコって…。
396人間七七四年:2011/05/29(日) 05:38:32.23 ID:k5FAetCg
江口道連「ツンデレ?」

最上義光「ほう、その方なかなか面白い歌を詠むな」
江口道連「べ、別に殿の為に詠んだんじゃないんだからね!(え?殿に褒められた?嬉しい!)」

義光「五兵衛(道連の通称)、京都に一緒に行く?」
道連「か、勝手にすればいいじゃないの!(え?殿と旅行?それも京都??)」

義光「五兵衛、満延が斃れた・・・」
道連「と、殿が不甲斐ないからそうなるんだからね!(え?延沢殿が倒れた・・・殿の心配を払拭しないと!)」

義光「五兵衛、尽くしてくれたから畑谷城あげる」
道連「こ、これで拙者を追い出したとは思わないでね!(え?一城の城主とは言え、殿と離れないといけないなんて・・・)」

義光「五兵衛、山形城の普請奉行やってくれる?」
道連「べ、別にお城が好きだからやってあげるんだからね!(え?本城の普請も任せてくれるの?)」
397人間七七四年:2011/05/29(日) 05:42:18.12 ID:G9QJFKzh
俺最上好きだけど相変わらず腹立つわ
改変しない方が面白いのに
398人間七七四年:2011/05/29(日) 05:42:24.32 ID:k5FAetCg
続き

慶長出羽合戦

義光「五兵衛、畑谷は小城だから山形で篭城しよう」
道連「殿、直江風情に舐められてはなりませぬ
(え?殿が拙者を安じてくれてる?」

義光「五兵衛、一緒に山形城で篭城しよう」
道連「拙者が畑谷守備を命ぜられたのはこの日のため
(え?一度ならず、二度までも気にしてくれてる??)」

義光「五兵衛、もう時間が無いから戻ってきて・・・義光、一生のお願い」
道連「最上武士の生き様、天下に知らしめん
(・・・・・・)」

直江兼続「江口殿、開城降伏すれば命は助けよう」
道連「だが、断る
(殿、お世話になりました)」

江口道連討ち死に

最上武士はマンドクセ
399人間七七四年:2011/05/29(日) 06:13:25.72 ID:ORxRwcTp
これは前に、願望入りすぎて
自分で考えた創作パートメインの逸話?を投稿してた人か。
なんか最上を題材にしてのこの書き方は。

カッコ内とかなんだかなあ。
400人間七七四年:2011/05/29(日) 07:07:10.50 ID:Snk7CkIU
大名が部下に好かれる人格者だとドンドン家臣がメンドクサイ性格になっていく説
401人間七七四年:2011/05/29(日) 08:37:26.91 ID:34vaQxsB
こないだ、見ればすぐわかるニュース記事のURLを貼りつけてから
記事内容を捏造したレスを見て以来
>>398みたいなのも粘着アンチの自演だったのかと納得した
402人間七七四年:2011/05/29(日) 08:38:49.80 ID:EFV00kPa
捏造ってより改変っぽかったけど
403人間七七四年:2011/05/29(日) 09:50:37.80 ID:A41QTDyt
お前マンドクセと言いたいだけじゃないのかと
404人間七七四年:2011/05/29(日) 10:07:31.93 ID:rRgDQXTC
こういうの見ると最上が好きになる メディア戦略というか近頃のバサラとか
戦国ゲームとかで戦国時代がこうやって人気を得ているんだろうなぁ
405人間七七四年:2011/05/29(日) 10:41:01.82 ID:8egXdsHi
最上まで嫌いになる可能性のほうが高いだろ
406人間七七四年:2011/05/29(日) 11:00:52.41 ID:zcrz6hvQ
台詞形式って、書くときあんまり頭使わないでいいから楽なんだよね〜
407人間七七四年:2011/05/29(日) 11:06:32.44 ID:k4MVpi4Q
投稿しようとしたら行数制限以内なのに本文が長すぎとか言われた。
なんだこりゃ?w;
408人間七七四年:2011/05/29(日) 11:11:05.80 ID:bVRiF51C
>>407
大人しく2つに分けて投稿しよう
4091/2:2011/05/29(日) 11:14:00.23 ID:k4MVpi4Q
文禄元年(1592)、朝鮮の役が始まり、日本軍は続々と釜山港へ上陸すると、早速進軍を始める。
加藤清正の軍も攻略地点への移動を開始しようとするが、この時、日本から馬を輸送する船が
未だ到着しておらず、50人余りが馬に乗れない状況に居た。

彼らは船を待つべきか、それとも現地で、駑馬でもいいからそれを求めて乗るべきかと相談していると
船頭たちが、「日本では風波悪しく、5日も10日も港から船を出せない状況のようです」と言うので、
これはもう現地で馬を徴収するしか無いと、馬を探したものの、あるいは敵が乗り、もしくは
荷を付けて逃げ出したものと見え、馬は一頭も見つからなかった。
かといって騎馬の士が、徒歩で軍勢に付いて行くわけにも行かない…

と、この時現地に牛は残されていることを発見。彼らはこれを奪い、牛に乗って進軍に付く事とした。
410人間七七四年:2011/05/29(日) 11:16:03.83 ID:p804O9dF
sienn
4112/2:2011/05/29(日) 11:16:06.66 ID:k4MVpi4Q
これを見て清正軍の中の、若く不良じみた連中は面白がり

「方々は騎馬とは言いがたい、騎牛衆と申すべきだ!いつも馬乗りより遅いですぞ!」

と戯言をいう。牛に乗った者たち、最初はそれに付き合い一緒に笑っていたが、その戯言があまりに度々なので終に腹を立て

「さてはお主達は冗談ではなく本気で笑っているようだ!
それならば牛の乗った者が遅いか、馬に乗った者がどれほど早いか、勝負いたすべし!」

と、決闘に及ぼうとしたところ、これを聞きつけた清正の家老たちが慌てて間に入って色々と扱いを入れ、悪口を言った若者たちから謝罪をさせ、どうにかその場を無事に済ませたという。

朝鮮の役、「騎牛衆」のお話(續撰清正記)
412人間七七四年:2011/05/29(日) 11:53:09.87 ID:QXEiNf0o
慶次さんなら牛でも問題なし
413人間七七四年:2011/05/29(日) 12:56:10.83 ID:NdAkaJKX
最終形態 火牛衆
414人間七七四年:2011/05/29(日) 14:35:48.44 ID:l/zJrVXJ
>>407
忍法帳システムが不具合発見のためにリセットされたらしい。
どうもその影響ではないかと。
415 忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/05/29(日) 14:51:38.74 ID:Q2oMtbX2
まじか・・・
416人間七七四年:2011/05/29(日) 17:34:47.37 ID:oI2S4ys7
本当に最上オタの創作はへたくそだから勘弁して欲しい。
まとめ管理人さんにも毎回スルーされているのにしょうこりもないなw
417人間七七四年:2011/05/29(日) 17:43:21.70 ID:tR/usN5G
劉秀「牛も悪くないよ」
418人間七七四年:2011/05/29(日) 17:49:52.60 ID:/wDKrcIH
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5299.html
「陣中に於いて、いかに竹中半兵衛とは言え、いつも心静かに牛に騎す事など出来はしない。
あれはたまたま一度、竹中殿が牛に騎した事があったのを、後の人が話を大きく、面白おかしく
したのだ。」

牛のほうが乗りにくいってことなのかな
419人間七七四年:2011/05/29(日) 17:56:20.32 ID:3wXxC4Mg
たしか中国の昔話でお互いの都から馬車と牛車でで出発して出会った所を
国境と定めたなんてのもあったな。
ウサギと亀じゃないけど、速いが長時間移動が苦手な馬と遅いけど歩き続ける牛
で丁度真ん中くらいのいいところに落ち着いたとかそんな感じの
420人間七七四年:2011/05/29(日) 18:58:04.90 ID:3WKECmfO
ここまで重治の出番なし
421人間七七四年:2011/05/29(日) 19:00:26.46 ID:3WKECmfO
>>418をうっかりスルーしてしまった(汗
422人間七七四年:2011/05/29(日) 23:37:39.37 ID:p804O9dF
つ  ==ニニフ
423人間七七四年:2011/05/29(日) 23:57:48.53 ID:tR/usN5G
≡ ==ニニフ   ( * )
424人間七七四年:2011/05/30(月) 05:53:00.79 ID:xcGAJzTh
==ニニ* ) アッー
425人間七七四年:2011/05/30(月) 07:08:32.96 ID:8Ckvy4m4
こんな大雨のたびに当時の治水できてないところは水浸しになって
大変だったんだろな。コンクリートとかアスファルトとかマジ感謝
でも戦国時代でも砂利を敷きつめたりくらいはあったのかな?
426人間七七四年:2011/05/30(月) 12:23:55.94 ID:ijGoTgYk
砂利なんか敷いたら裸足が痛いしワラジの寿命もマッハだろ
427人間七七四年:2011/05/30(月) 20:57:00.09 ID:7hJyY6vR
堤防に防水林とかでしょ
428人間七七四年:2011/05/30(月) 21:15:19.13 ID:wrjG+g3k
面白かったので転載

> 285 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/22(日) 20:58:54.70 ID:laKpGgoA
> 葉隠物語読んでるんだが、直茂って依怙贔屓ばっかしてんのな
>
> 成富兵庫が加藤清正から駆け落ちした姫を奪還した話は痺れたわ

> 286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 22:31:58.55 ID:2sD0nmYg
> >>285
> 面白そうな話なので
> もう少し詳しくお願いします

> 287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/24(火) 18:58:58.98 ID:Ac7hpaHl
> >>286
> 鍋島茂治の娘が夜中に若侍と駆け落ち
> その数年後、加藤家の家老の側室になっていることが判明
> 茂治の家来が連れ戻しに行ったが、本人も加藤家も拒否する
>
> で、成富兵庫の出番となる
> 大勢の共を連れて熊本入りした兵庫だが清正は仮病を使って会わない
> 兵庫は慌てず、そのまま居座り物見遊山よろしくあちこちを見て回る
> その内、噂が広まり仮病で会わないのは卑怯だという世論に負けた清正は兵庫に会う
> そこでも女の引き渡しを渋る清正だが兵庫が朝鮮での借りを持ち出すと一も二もなく陥落
> かくして姫は佐賀へ連れ戻されたとさ
> そいでばっきゃあ

龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1271704721/
429人間七七四年:2011/05/30(月) 21:26:43.33 ID:Vb5Y2uzl
政宗の母保春院が仙台に引き取られ、亡くなってしばらくした後に
嫁いだ頃よりの母付きの侍女が国元にあった政宗に挨拶に来て
「御曹司におかれては相も変らずご健勝で何より」と述べた
今や幕府にも一目置かれる大藩の藩主であり子や孫も大勢いる政宗も
かつてを知る老女にとっては未だにおぼっちゃん扱いである
そこで昔を懐かしんでつい気が緩んだのか
「いやあ、俺は父ちゃんには良い思い出ばかりだが
母ちゃんのことはぶっちゃけ恨んでるんだよね」などとついこぼしてしまった
政宗に関する逸話や書簡は数多く残されているが、こんな些細な愚痴まで
後世に残ってしまっているちょっとバツの悪い話
430人間七七四年:2011/05/30(月) 21:47:08.10 ID:EQZ6c5QC
>>428
どの辺りが依怙贔屓なのかようわからん・・・
431人間七七四年:2011/05/30(月) 22:08:44.79 ID:WCnIekCm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-585.html
でも

政宗:陸奥のマザコン大名。ママンあての手紙が多数残る。
ツンデレのため「母上には恨みがあるからね!」と記録に残すが、
その実大量のママンへのレターやお土産記録がある。ママンの位牌はお手製。
(中略)

・母子再会の歌。
政宗:年月久しう へたたりける母にあいて
あいあいて 心のほとや たらちねの ゆくすゑひさし 千とせふるとも
保春院:母ノ返し
二はより うへしこまつの 木たかくも えたをかさねて いく千世のやと

・政宗が母の死を悼んだ和歌。
鳴く虫の 声をあらそふ 悲しみも 涙の露ぞ 袖にひまなき
七周忌に詠んだ歌。
七夕の 逢瀬(おうせ)ながらも 暁の 別れはいかに 初秋の空

毒殺未遂はアヤシイにしても、愛憎半ばというかなんというか
432人間七七四年:2011/05/30(月) 22:13:11.93 ID:9gOYw3IQ
>>429
とーちゃんは自らの指揮で撃ち殺しておいて、良い思いでばかりと
いうのも、なんかあれだな
433人間七七四年:2011/05/30(月) 22:21:04.75 ID:DnMhRMXV
>>428
この話は続きがひどい。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3175.html
434人間七七四年:2011/05/30(月) 22:23:18.43 ID:wrjG+g3k
>>430
「葉隠の直重の話は依怙贔屓ばかりだ」って事で、成富さんの話はそれとまた別だぞ?
435人間七七四年:2011/05/30(月) 22:54:28.53 ID:EQZ6c5QC
いや文脈的に別じゃないでしょ
葉隠物語は依怙贔屓ばっかり→それに引き替え成富△はいいんだけど、
葉隠のどこがどう依怙贔屓なのか触れてないから比較されても・・・って感じ
436人間七七四年:2011/05/30(月) 23:04:53.51 ID:lFPDkSZ2
>>429
こんなにママンが大好きなオレをおいて、実家に戻るなんてひどいよー! 
ってことかもしれんなw
無断出奔だったそうだし、そのせいで政宗がプレゼントした小袖が届かなかったらしいしw
437人間七七四年:2011/05/31(火) 01:08:52.81 ID:Axa6xMSk
父ちゃんの良い思い出…母ちゃんの回りを飛んでる蝿を撃ち殺せた
怨み…ヤらせてくれなかった


的なキモい想像
438人間七七四年:2011/05/31(火) 01:39:21.67 ID:6ou96sCR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5450.html の直前のお話。

天正6年(1578)黒田官兵衛が摂津有岡城にて荒木村重に捕らえられ幽閉される。

さて、この事が姫路の黒田家に伝わると、黒田家の家臣たちは皆すぐにこう思った。
「これは御着にある主君、小寺政職が荒木に頼んでそうさせたのだ!」と。
織田に付くか毛利に付くかで官兵衛と対立していた小寺政職は、黒田家の者からは
そのくらいのことはする、と確信されていた程、関係が悪化していたのである。
黒田家の重臣たちは官兵衛幽閉の一報を聞くやいなや官兵衛の父宗円のもとに集まり、

「官兵衛様の今回の事、最初からこうなるのではと予想はしておりました。
なので差し出たことを申すようですが、今更驚くことはありません。
そしてこの上は弔い合戦として、今回のことを主導したに違いない小寺の殿のある御着へ攻め寄せ、
彼を討ち果たすことがかなわねば討ち死にする、我らはそう決めました!」

と、口々にこう申し上げた。これを聞いた黒田宗円

「皆の者達がこのように忠義の心を持ってくれているのは、今に始まったことではないが
実に感じ入っている。だが、聞いてほしい

官兵衛が腹を切らされるか、あるいは牢の中で病死するような事態になれば、私はそれを
許さない。その時はこの法師頭に兜を被り、主君である小寺の殿に対し弔い合戦を仕掛け
そこで討死をし、本望を遂げる覚悟である。
その時は勿論、お主達にも協力を頼むつもりだ。

しかし官兵衛のことだが、小寺の殿が荒木に頼んでこれを生け捕りにしたこと、それは間違い
無いだろう。
だが荒木が少しでも弓箭の道を知っているなら、拙速にこれを殺すような真似はするまい。
分別があるのならむしろ、良き弓箭の種を求めたと喜び、身体に危害を加えること無く
丁重に礼遇して置くであろう。そんな所に、お前たちが言うように合戦をしたらどうなるか?

御着の城を取るのは簡単な事だ。だがそれをすれば、荒木は残念だと思いながらも、官兵衛を
殺すだろう。これを良く考え、とにかく冷静になるのだ。その時が来れば、私が指図をする。

見よ、先日まで能をさせていた能舞台も、この上はいらぬ物であり、舞台も桟敷も打ち壊した。
この城は今や、戦備を整えることだけに集中している。
もともと1年2年籠城しても、兵量・弾薬・その他の武具であって事欠かないこと、皆知っている
通りだ。御着にも常々我等と心通じている者たちがある。御着からここに参りたいという者たちは
皆連れて来るといい。どれほど入城させても兵量は豊富に備蓄してある。

これから御着より使いが来るだろう。それまでは一切表立った行動をしてはならない。
使いが帰れば、御着の官兵衛の屋敷に火をかけ、留守居の者たちを急ぎ引き取らせよ。
こんなこともあるだろうと思って、官兵衛の妻はあらかじめこちらに越させておいた。
気遣いすることは何も無いぞ!

御着の官兵衛屋敷を自焼させ、留守居の者たちを引き取れば、御着と姫路との境を封鎖し
通行する者たちは切り捨てよ。

…さてこれからは、若者共が面白がる展開になるぞ。」

そう、法師頭を打ち振りながらそれらの方策を指示したという
(故郷物語)
439人間七七四年:2011/05/31(火) 01:55:19.91 ID:6ou96sCR
うわ、最後書名間違えてる。(古郷物語)ねw;
440人間七七四年:2011/05/31(火) 16:28:27.40 ID:hpBciY+L
最後のセリフに一番古強者の匂いを感じるw
441人間七七四年:2011/05/31(火) 19:03:19.29 ID:TL2rjv/D
渋いね。この親にしてあの子あり、か。
442人間七七四年:2011/06/01(水) 10:33:05.80 ID:nQ8YvOqN
それに比べて若殿は
443人間七七四年:2011/06/01(水) 10:37:50.31 ID:0i9s4Xag
50万石の大大名
444人間七七四年:2011/06/01(水) 20:00:18.40 ID:8r1ZGZju
その時左手はなにをしていた!
445人間七七四年:2011/06/01(水) 20:41:47.33 ID:lIUgISRI
ティッシュを広げて発射に備えてました
446人間七七四年:2011/06/01(水) 21:46:56.00 ID:vpEgk3ra
>>444
それって創作なんだよな
447人間七七四年:2011/06/01(水) 21:50:55.94 ID:qB9+a0r1
でも如水が関ケ原のとき大暴れしてたのは本当なんだろ?
448人間七七四年:2011/06/01(水) 22:18:28.69 ID:BGXzuNAQ
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。
これを知った備中高松城攻め最中の羽柴秀吉はこの情報を秘し、急遽毛利との和睦を図る。
毛利家を預かる毛利両川こと吉川元春、小早川隆景からは、長門・周防・安芸・出雲・石見・伯耆・備後・備中半国、
この八カ国を安堵の条件ならば和議に応じる、との見解を、安国寺恵瓊を通して秀吉方に伝えた。
これを聞いた秀吉は

「その坊主、ここに連れてこい」

と安国寺を御前に呼ぶ。安国寺は秀吉にお目見えし、両川の所存を朗々と説明する。
安国寺はその語りも上手く頭の回転も非常に早いため、秀吉を始めその場に居た者たち、すっかり聞き入る
風情であったという。

説明を聞き終わると秀吉は

「ここは『信長公』のご好意もあり、いかにも両川の望みのようにいたそう。」

と、毛利側の条件を飲むと表明した。すると安国寺

「これはこれは、時の面目も保ち、国家の安泰も図れます。満足この上ない思いです。
…ですが、このありがたき上意の趣きを伝えるのに愚僧の口上だけでは、両川も心許なく思うことでしょう。
願わくば先の国々安堵の『信長公』のお墨付きを、頂戴いたしたいのですが…。」

秀吉苦笑いしながら
「坊主!お前は残る所も無い曲者だ!さりとて能き使いである。
さて、わしも今ここで墨付を遣わしたいとは思うが、お前も分別してみよ、この和睦条件は未だ仮初のものであり、
わしの方としても所領の事だけを取り上げて証文を出すわけにはいかない。
その方は一旦帰り、我々の申す所を両川に申し聞かせ、その上で重ねてここに来い。
それでもこの和平への考えが変わらないのなら、墨付などは、その上のことである。」

安国寺、これを心得たという表情で
「上意の旨、畏まりました。
されば両川が筑前守(秀吉)様の仰せの趣きをお請けした場合、その事を誓紙にして『信長公』に
差し上げるべきでしょうか?」

秀吉は『この坊主、わしの心を見定めようとする質問を、ズバズバとしてくる奴だ』と思ったが
「いやいや、誓紙など無用である!和睦の後にさらに保証を求めるなら、それは心次第である。
誓紙は、両川がその時心に懸けられること。今は無用である!」

この言葉に安国寺も納得した風情で、御前を下がろうとし立ち上がったがたがその時、こんな『独り言』を漏らした

「私の質問に心広く答えるようなことをせず、石に手を詰めたるように(動きがとれないように)されてしまっては、
もうどうにも出来ませんな。
さても良き『天下取り』の御下地かな。」

「坊主待て!」

秀吉は咄嗟にそう声をかけ、安国寺に大金を与える。さらに「坊主は良き武士の下地である」と
馬、具足、腰の物などを揃えて与え

「又来るときはその長衣ではなく、武士の格好をして来い!それが似合っていればこれからいよいよお前の事を
目を懸けることにするぞ。」

と、いかにも親しみを込めて語り聞かせる。

安国寺が毛利陣へと帰ると、秀吉は疲れはてたような表情で言った

「古狸の寄り合いは、恐ろしき事なり。」


秀吉と毛利の和睦交渉における逸話である。(古郷物語)
449人間七七四年:2011/06/02(木) 01:45:25.92 ID:G3FheDs9
豊臣政権下で毛利は秀吉の内部工作で引っ掻き回されて弱体化してるんだから、
安国寺は狸といっても批評家みたいなもんなんだろうな
まあ社会に出ると、実戦力にならない批評家ってのが一番厄介者なんだがw
450人間七七四年:2011/06/02(木) 06:23:58.59 ID:sTsCY0xj
田嶋先生の事を言ってるのか?
451人間七七四年:2011/06/02(木) 10:16:41.58 ID:dzhM6Unw
おまいの頭の中には批評家は一人しかいないのか
452人間七七四年:2011/06/02(木) 17:48:53.57 ID:6qiRdeTB
恵瓊は本能寺の情報をつかんでるの?

もういない信長との約定なら好きな時機に破棄できるから、それを狙ってるように読めるが。
453人間七七四年:2011/06/02(木) 17:57:16.61 ID:fpbrc/am
慶長14年(1609)の盂蘭盆会のこと。
肥後熊本では加藤清正の家臣たちが踊り興行を催し、清正のお目にかけようと言うことになり、
それぞれの組に分かれて異類異形の事を巧み、美々しい踊りを企画した。

と、ここに児小姓組の者たち、こんな事を考えた。

まず狩人に扮装した者が出てきて狸を狩ろうとする。すると狸に扮した者狩人に手を合わせ、
『私には子孫が多くあります。ここで私が殺されてしまえば、子や孫たちも大変不憫な目に合うでしょう。
どうかご慈悲を持って私を助けていただければ、子や孫ともども、あなたを有難く存ずるでしょう。」
狩人も木石ならぬ人なれば『誠に畜類も我が子を思うことは、人間に変わりなきと見えたり。
我も子供持ちたることなれば、一命を助けるなり』とこれを狩ることを諦めた。
そのうえで

『しからばここにこや孫たちを残らず呼び出し、ここで腹鼓を打ってほしい。』

と頼む。これに狸『さてさて有難いお情けです。一体どんなお礼をすればいいかと考えていた折、
子供たちの腹鼓で良いとは何より安きこと。』

と、ここで予め作っておいた山の張りぼての中から、狸の扮装をした30人ほどが出てきて
歌を謡い拍子を踏み、鼓太鼓三味線に乗せて腹鼓を打つ、

そんなショーの内容であった。


さてさて7月10日、その踊り興行の当日がやって来た。
児小姓組の者たちは卯の刻(午前5時)から準備をし、狸の扮装をした者たちを
早々に山の張りぼての中に入れ、これを城の追手の門際に置いて、先の組の者たちの歌が
終わるのを待った。

だがしかし、先の組の踊りも中々終わらない。一番組、二番、三番、大小姓組の踊りが終わり、
児小姓組の順番が回ってきたのは、なんと未の刻(午後1時)であった。

ここで先の山のハリボテを広間の庭に木遣りのようにして引き入れ、清正の御前で早速、
先の狩人と親狸の茶番を始める。そしていよいよ仔狸を呼び出した、この時である!

仔狸の扮装をした者たちは、変にリアル感を出そうとしたのであろう、タヌキやウサギなどの毛皮で
身を包みそこに狸の面をかぶっていた、そう、着ぐるみのようなものである。
この姿で早朝から午後1時まで、狭く密封された山の張りぼての中に、30人もギュウギュウ詰めに
されていた。しかも時期はまさに夏!炎天の日に照らされ続けていた!するとどうなるか?

山がひらくと、異様な熱気と共にタヌキの扮装をした半死半生の者共、這いずるように外に出てくる。
腹鼓を打つなど勿論思いもよらず、それどころかそこら辺中で気分を悪くしてゲーゲー吐瀉を
するなど大変な状況。

これを見た見物の老若、「児小姓組の踊りは他とは違い、上品で風流な事をやって諸人の
耳目を驚かせる見世物をすると思っていたのに!これwwwはwwwwwひどいwwwwwwwwwww」

と大爆笑。さすがの清正すら
「踊り子たちは腹鼓を打たないのに、見物人が腹を抱えてるwwwwwwwwwww」

と、変なところがツボに入ったらしく笑い転げる。ここでお側に居た御伽衆の一人が一句

『腹鼓 うたん狸はさもなくて 見る人いたき腹の皮かな』

と狂歌を詠む。これにも清正「ちょwwwwwおまwwwwww当意即妙wwwwwwww」
と、ますます爆笑したとのことである。
(續撰清正記)
454人間七七四年:2011/06/02(木) 18:10:18.08 ID:1buKfsAh
あんまり草生やすな
455人間七七四年:2011/06/02(木) 18:17:53.89 ID:Ykl0gVN5
いいじゃないか。
なんか自称御意見番が増えたな。
456人間七七四年:2011/06/02(木) 19:39:15.81 ID:GhLQixHB
草生やしてると馬鹿っぽい
457人間七七四年:2011/06/02(木) 19:44:56.40 ID:hNNm9r2j
そりゃー馬鹿みたいに笑い転げてるからな
458人間七七四年:2011/06/02(木) 23:05:22.26 ID:cDb8lqUO
山だけに草がいっぱい生えるってかwwwwww
459人間七七四年:2011/06/02(木) 23:09:27.65 ID:H3WXngpv
信玄「山にも厠にもくさきは絶えぬのお」
460人間七七四年:2011/06/02(木) 23:26:10.73 ID:XN6HTCTX
草の是非で争う事を、いくさという
461人間七七四年:2011/06/03(金) 01:06:25.74 ID:JpLH1vmD
くさくさした気分
4621/2:2011/06/03(金) 10:36:39.13 ID:LpO8x5Od
天正17年(1589)、黒田官兵衛は息子長政に家督を譲り隠居、入道し如水軒を名乗る。

ところが豊臣秀吉はそれにもかかわらず如水を側近くで召し使い続ける。如水はそれが
本当に嫌であった。しかも秀吉に召し使われる様子を見て、諸人からのもてなしはひっきりなし
である。これでは隠居したかいもない。

そして考えるほど恐ろしいのは、如水隠居の原因となった、秀吉の「官兵衛ならわしが生きている間でも
天下を取るよ」との発言である。『狡兎死して走狗煮らる』の言葉もある。
このままでは甲斐守(長政)のためにもよくない。
如水、決意する

「何としても御前を仕損じ、逼塞させられなければならない!」

そこで目をつけたのは、石田治部少輔三成である。
如水は三成が側小姓として利発で、秀吉の上意にもかなっているのを見立てて、
種種様々に心を付け引き回し、彼が秀吉側近として出頭するように仕掛けたのだ!

三成はこれを大いに喜び、如水を親のように丁重に扱った。
秀吉も三成を重用するようになり、三成はどんどんその立場を強くしていく。
そして元々石田三成という人は大変謙虚な人だったのだが、このように出世すると、
これも世俗の習いというものであろう、日増しに驕慢の心が強くなる。

「良き時分なり」

如水は次の行動を起こす。
4632/2:2011/06/03(金) 10:37:27.78 ID:LpO8x5Od
ある時秀吉に緊急の用が出来「この事は跛(如水)めに聞け、あいつの存分を聞いてこい」
と、三成を派遣した。三成が如水の館を訪れると、「お待ち候え、行水の最中です」と伝え
退屈するほど待たせ、そうなってから漸く湯殿に入って行水し、上に着物をつけながら
帯も締めずに三成の前に現れ、立ちながら尻を拭き拭き「なんと、御使であるとか。
どう言った御用であるか?」と、いかにも怠慢な体で問う。

三成は『これはとんでもないことだ』と思いながらも上意の趣きを伝えると、如水は両足を投げ出して
座り、下人に物を申し付けるかのように、三成に返答を伝えた。

又ある時は如水が碁を打っているところに、三成が上使としてしてやってくる。
如水はその場に呼び入れ、、碁を止めることもなく「御使は何の御用か?」と尋ねれば
「隠密に是々の事を内談するように、と申し付けられています。如何仕りましょうか?」
これに如水

「何だ、そんな事か。それならこの碁は今相手の首を刎ねかけている(勝負がつきかけている)
ところなので、こちらを続けよう。なあに、直ぐに終わるさ。」

と、碁ばかりやって、終に御用のことにはまるで構わない。このような事が何度もあったので
三成もとうとう腹を立て、秀吉に「如水は殊の外奢っております!彼は上様のことを何とも
思っていないようであります!この時にはこのような、あの時にはこんな無礼な態度でありました!」
と言上つかまつった。その上念のいったことに如水は、三成以外の近習衆にも同じ態度を
とっていたので、皆三成の発言を裏付けし、さすがに秀吉も「そんな事は穿鑿するな」と言うわけにも
いかず、終に如水に罰を与え、当面御前にまかり出ることを禁止した。

如水は表面上、非常に驚き迷惑なる体であったが、内心

『計画通り』

と大いに喜び、その後も「唐瘡頭が痛む、跛臑が疼く」などと言って、終に秀吉の御前に出ることは
なかったそうである。
(古郷物語)
464人間七七四年:2011/06/03(金) 14:47:21.59 ID:AcHOWPT6
これはいい悪い話だ
465人間七七四年:2011/06/03(金) 15:00:56.49 ID:elEhUxqq
長じて関ヶ原の一方の大将に成り上がる遠因を作ったのも如水だったのか
466人間七七四年:2011/06/03(金) 16:56:12.85 ID:ewD6at41
治部少輔がいいように使われる悪い話だ
467人間七七四年:2011/06/03(金) 17:20:12.26 ID:C7/k+SVr
如水と三成で天下取りを狙った遠大な計画の序章にすぎない
468人間七七四年:2011/06/03(金) 17:25:34.22 ID:NccIhjcK
如水マジ悪党だなw
469人間七七四年:2011/06/03(金) 18:51:43.65 ID:D/rfI6Tq
ほんとは本多正信的ホジションで豊臣家を支える立場にいなきゃおかしいひとだよねえ
470人間七七四年:2011/06/03(金) 20:24:45.61 ID:ZiwAnPEO
睨まれちゃったらどうしようもないだろ
下手したら頸が飛ぶ
471人間七七四年:2011/06/03(金) 20:37:06.21 ID:6FbDZvjt
如水が根っからの譜代の立場なら、
献身的に差さえもしようが、所詮一代限りの縁だからねぇ。
秀吉の家柄が家柄だから仕方ないけど。
472人間七七四年:2011/06/03(金) 20:41:26.75 ID:WSUYH85p
ヶヶ中さんみたいなキャラだったら、ここまで警戒されることも
なかったんだろうけどね。
ヶヶ中さんの子供も親父さんの功績の割りにむくわれていない気がするけど
473人間七七四年:2011/06/03(金) 21:23:43.20 ID:ocHXKSgX
>>471
そもそも秀吉のほうから若い頃からの家来を追放してる気がするが
まあ如水に関してはキャラなんだろうな、秀吉って三成とか秀家とか直情系のほうが好きそうだし
474人間七七四年:2011/06/03(金) 21:39:55.80 ID:A7UyG5Ox
>>473
追放だけじゃ済まずに切腹されられたりもするしなぁ。
そう考えると、仙石はあんだけ大失敗を、しかも2回もしておきながら、
本当に上手いことやった。
475人間七七四年:2011/06/04(土) 01:28:10.57 ID:HIo0/7VE
>>472
親父さんの功績っていうのも怪しいみたいじゃん
他の没落や処断されている人の功績が竹中さんに加味されている形跡もあるとかないとかで
476人間七七四年:2011/06/04(土) 09:53:22.19 ID:DPVS9A7s
有名な逸話ではありますが

上方における石田三成の反乱が、黒田如水のある豊前中津に聞こえたのは、慶長5年(1600)
7月初めのことだったという。

如水はこれを聞くと重臣たちを集め、緊急に兵を募集し、城の破損箇所の修理などの戦争の準備を
申し付けた。

と、そんな事をしている最中に、石田三成から如水の元に密かに使者が訪れた。
使者が如水に伝えるに

『徳川家康は何事も我意に任せ、秀頼様を蔑ろにされ、万事太閤様の御遺言に背きました。
そのため家康に腹を斬らせ秀頼様を取り立て申し上げようと、太閤様お取立て御重恩の者共の間で
意見の一致を見ました。

如水殿のこと、もとより太閤様からの御恩の厚さは世に隠れない事ですので、まさか我らの行為を
悪く思われる事はないでしょう。ですので是非、我々と一味同心していただきたいのです。

ご同心いただけるなら急ぎ上洛してください。あなたは古くからの武功の士なので、今後の方針など、
諸事あなたのご指図次第にしたいと考えています。

秀頼様の天下となれば、所領としてどこの国を欲されてもお望み次第です。
甲州殿(長政)は家康に付いて関東へ下られましたが、彼も急ぎ呼び戻されるべきでしょう。』

如水、これを聞いて使者に

「治部殿(三成)の今回の企ては尤もな事だと考えている。
この愚老、太閤様より受けた重恩は他人を超えた、古今稀なるものであること、治部殿も既に
ご存知のことであれば申すまでもあるまい。
秀頼様の御為とあらば、何事においても粗略にはいたぬ。

…ところで、先に国は望み次第と言われたが、こう言う事は今のうちに話を決めておかないと、
後で違却だの何だのと問題になってしまうものだ。そこで、我々としては九州のうち7ヶ国を
給わることが出来るのなら、そちらにお味方仕り、家康退治のご計略に粉骨いたそう。
であれば、これを確実とするため誓紙を頂きたい。
その誓紙が治部殿直筆であることを確認させるため、その方に我が方からの使者を添えて
上方に送る。そこで治部殿の内意を直接、我が使者に申し聞かせていただきたい。」

と、宇治勘七というものを上方に派遣させた。

これを聞いて困惑したのは、黒田家の重臣たちである

「治部少輔に内通するなどすべきではありません!既に甲州様は家康公にご同心して、関東に
お下りになっているのです!そこで大殿が治部少輔一味となれば、甲州様のご身体、一大事と
なることでしょう!」

彼らはそろって如水に諫言する。が、如水いかにも意外そうな顔をして

「お前たちも不合点な事を言うものだな。周りの状況をよく見てみろ、隣国は皆敵(西軍方)と
なっておる。ここで三成の言葉に従っておく姿勢を見せないと、すぐに周りから攻められるぞ?
こっちは未だ戦備が整っていないのだ。

向こうも、わしを騙しに来たのだ。ならばわしも向こうを騙し、せいぜい戦備のための時間稼ぎを
させてもらうのさ。わしとて未だ、耄碌はしておらんぞ?」

と、笑ったという。(古郷物語)
477人間七七四年:2011/06/04(土) 10:28:50.30 ID:XAxAqlhX
やっぱり如水はこうでなければ
478人間七七四年:2011/06/04(土) 10:52:06.80 ID:uzERrkUZ
大義名分を全面に押し出す三成とあくまでマキャべリストの如水
この二人らしいっていえば二人らしいやりとりだ
でも如水って黒田家の書物でもこういう食えない男なんだなw
479人間七七四年:2011/06/04(土) 12:18:38.58 ID:AKaLFed7
戦国三大マキャベリスト
如水、直家、元就

部下になるなら直家さんがいいな
480人間七七四年:2011/06/04(土) 13:18:40.84 ID:BM1ZDDrD
>>478
古郷物語は黒田家の元家臣の視点から見た本だが
堂々と「如水は変人で、わけのわからないことを言うことが多かったけどいい人だった」
とか書いてある
481人間七七四年:2011/06/04(土) 14:04:14.55 ID:nc/m17dV
黒田家家臣はなー…徳川とはまた違う視点での面倒くささ
482人間七七四年:2011/06/04(土) 17:15:12.49 ID:ixNkp9Qr
敵を欺くにはまず味方から、か
如水の場合、敵も味方も欺きすぎて何が本当の目的だったのか分かりづらくなってるのがアレ
483人間七七四年:2011/06/04(土) 17:31:31.62 ID:lA1RO6UX
>>482
安部龍太郎の「風の如く 水の如く」がそんな小説だったなあ。
関ヶ原で如水が例によって東軍西軍双方に複雑怪奇な謀略を仕掛けて、三成はそれで
訳が分からなくなって茫然自失のまま敗亡するんだけど、
家康の方は直感で「ピコーン!なんだかよく解らないけどこれは黒田如水の謀略!」って悟って、
それで如水の天下取りの野望は潰えましたとさ、って内容w
484人間七七四年:2011/06/04(土) 17:54:31.81 ID:R2y5KoFG
腹黒田w
485人間七七四年:2011/06/04(土) 17:58:46.24 ID:AKaLFed7
如水さんのおばかな孫はどうしてああなったんだろうな?
486人間七七四年:2011/06/04(土) 19:12:40.29 ID:sRxxewz5
>>484

誰が上手いことを言えとwww
487人間七七四年:2011/06/04(土) 21:43:21.96 ID:ZnGfWuE5
うむ。
488人間七七四年:2011/06/05(日) 03:10:05.29 ID:VUAJlTdL
永禄3年、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長にまさかの敗北を喫し討死してしまう。
弱小とみなしていた信長に敗死したのがよほど悔しかったのであろう、その死後、
古戦場にはさまざまな怪異が起きるようになった。

曰く、
義元の墓の横に義元が馬を繋いだ枯れ木が立っているが触れると熱病に罹る
曰く、
義元の霊が巨大な蛍となって現れ、京都を目指して飛んでいく(妖怪「氏蛍」)
曰く、
毎年5月19日の合戦の日になると、白馬に乗った武将が辺り一帯を駆け巡り、その姿を見、
そのことを人に口外すると狂い死にする

などなど

江戸の終わりには、亡霊鎮魂のため、通称「お化け地蔵」なる地蔵が建てられている。
それでも義元の霊は鎮まらなかった。

明治の半ば頃、地元の大工某が義元の墓近くを通り掛かると、松食い虫により食い倒された
松の木の根元から白蛇があらわれるのを見つけた。大工は白馬に乗った武将の伝説のことと
考え合わせ、自分ひとりの心にしまっておけず、そのことをを人に語ってしまった。
するとその日から三日三晩高熱にうなされたあげく死んでしまったという。
怖ろしくなった地元の人々は、高徳院という寺の住職に依頼して加持祈祷をしてもらい、
義元の霊を「三角池」という池に封じ込めてもらった。そして、毎年義元の命日5月19日に
なると木刀や酒、飯、肴を石に縛り付けて池に沈め、お経を唱えて供養するようになった。

昭和30年代に入って、学校建設のため、池は埋め立てられることとなり、義元の霊魂は高徳院
境内にある池に祀り直され、池のほとりにお堂が建てられた。
しばらく後、知多半島から来た霊能力者の女性がお堂でお参りしていると、体が宙に浮き神憑り
状態となってこう告げた。
「我は400年間蛇身となり苦しんできたが、神としてここに祀られて身も安泰となった−−−
ここに鳥居を奉ぜよ−−−さすれば我白龍となりて諸人の願いを叶えようぞ−−−」

こうして義元の霊は「一願成就徳親竜神」となって今では近在の人々の信仰を集めています。
毎月19日と正月15日がご縁日、ご祈祷料は一回3000円です。


文明開化の世になっても呪い殺す義元さんデラオソロシス という訳で悪い話へ投下
もっと早く祀ってあげなよ('A`)
489人間七七四年:2011/06/05(日) 07:10:54.43 ID:8jxlvI5q
なにげに今川義元も人気あるよなw
アピールし続けるってのは大事なことだ
490人間七七四年:2011/06/05(日) 10:23:11.96 ID:5Srg4wEO
>>488
ホームページまで有るのか。


http://www.koutokuin.jp/kitou.htm
 縁   起
 今川義元公の亡霊
491人間七七四年:2011/06/05(日) 10:34:13.49 ID:lBxSoyRv
今川といえば杉並区今川にある観泉寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA
492人間七七四年:2011/06/05(日) 16:54:10.53 ID:5Pz5SZ1r
>>488
そういえば今日古戦場祭りだったね
493人間七七四年:2011/06/05(日) 17:00:14.57 ID:17l4UgIM
無念度でいったら、天下獲りまであと数年ってところで謀反にあった信長の方が無念だろ
信長の怨霊とかおらんがな
494人間七七四年:2011/06/05(日) 17:04:15.84 ID:PFRc0W67
そういや信長の祟り話ってあるのかな?
495人間七七四年:2011/06/05(日) 17:10:12.68 ID:VDqYr/MW
秀吉の夢に出てきて苦しめてた的な逸話はあったような。
496人間七七四年:2011/06/05(日) 18:01:38.43 ID:7MYKeY4Y
>>493
是非もなし、な人だからねぇ
497人間七七四年:2011/06/05(日) 18:14:09.12 ID:jtbD9mRt
「是非も無し」を大阪弁で言うと「しゃあない」w
498人間七七四年:2011/06/05(日) 18:37:54.34 ID:0sCrZdHW
>>494
まとめサイト(有名な話だけど)にあると思うが
乱丸殺して信長を挿した安田作兵衛が腫れ物で発狂して信長命日に自刃してるな
まあ、本能寺から死ぬまでの20年間にヒャッハーしまくってるから怨念にしては悠長だが
499人間七七四年:2011/06/05(日) 19:56:04.63 ID:de8hD7bG
祟り話ってのは、後世の人間の「あいつは怨んで死んだんだ」「さぞ無念だったろう」
という想像から産まれるものだからなあ
500人間七七四年:2011/06/05(日) 21:26:17.17 ID:Y8IyIBEP
後世じゃなくても生まれるよ
鎮護のために寺社がつくられたり、怨霊を御霊にしたりするじゃないか
近世までの日本史は怨霊と祟り神に怯える記録ばっかり
501人間七七四年:2011/06/05(日) 21:39:54.57 ID:56XVPTXv
そもそも首実検を行う重要な理由のひとつが
殺した敵のたたりを防ぐため
502人間七七四年:2011/06/05(日) 22:28:38.11 ID:aQP6vvyd
>>501
kwsk
503人間七七四年:2011/06/05(日) 23:03:56.03 ID:cpX2Ps8Y
もう一つの大水牛脇立兜
黒田長政は大水牛脇立兜を持っていたことは有名である。
後に福島正則の一ノ谷兜と交換した逸品である。
だが、もう一つ大水牛脇立兜があった。長政の予備品ではない。
持ち主は、黒田一成。加藤重徳の次男にして黒田如水の養子、
黒田長政の義弟と言うところである。
だが、この兜には大問題が一つあった。この肖像を見て欲しい。

黒田長政の大水牛脇立兜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kurourusinurimomonaridaisuigyuwakidatekabuto.jpg

黒田一成肖像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kuroda_Kazushige.jpg
でかい・・・半端ねぇ。

ここで私は思うのだが、この人「まで」目立つことにかけては黒田長政の「面子」を潰していたとは・・・・・
戦争マニアの如水、母里・栗山の黒田家ゴールデンコンビ、めんどくさい井口等々
一癖も二癖も、いや、くせ者だらけの黒田家ではこうでもしないと目立たないのか?
義兄の面子などどうでも良いのか一成?といいたい。そう、せめて甲冑くらい・・・・
しかしこんな連中でもなんだかんだとうまく切り回していた長政って一体・・・・
(後藤又兵衛は除く。)
504人間七七四年:2011/06/05(日) 23:26:16.35 ID:z9iSULpw
大水牛脇立兜って黒田家の武士他にもやたらかぶってなかったっけ
後藤又兵衛もかぶってた気がするが、ありゃ講談かな?
505人間七七四年:2011/06/05(日) 23:31:11.66 ID:u1TarYbO
>>503
家臣を目立たせることによって、戦場において長政を狙われにくくする狙いがあったと思われ
どこの家のものかさえわかれば、活躍がわかるからな
506人間七七四年:2011/06/05(日) 23:34:11.09 ID:Xc2z/5Xm
でも兜とかは手柄立てた際の目印って意味合いもあるから
同じ兜が大量にあると評価される部下はには困るだろうなぁ。
507人間七七四年:2011/06/06(月) 00:08:12.40 ID:mY246nII
ちなみにある黒田二十四騎図において一成だけは横向きに描かれています。
ええ、もちろん兜が大きすぎて縦には入らなかった模様
あまりにでかすぎたために大砲の標的になったという逸話もありますね
508人間七七四年:2011/06/06(月) 00:10:39.44 ID:uG2iF8F5
>>498
兄貴のせいで蘭丸の怨霊が真価を発揮できず
20年かかったんじゃないか
509人間七七四年:2011/06/06(月) 02:19:08.18 ID:Ts3VbiKQ
蘭丸って世間一般では美少年の小姓みたいなイメージだけど、
Q太郎以上に機転が利いてさらに、森家の血筋という末恐ろしいスペック
なんだよな
510人間七七四年:2011/06/06(月) 03:08:30.36 ID:gWjcIVy9
信長ー秀吉ー家康のリレーが
信長ー信忠ー欄丸のリレーになる可能性もあったか
511人間七七四年:2011/06/06(月) 04:55:50.32 ID:Ac8yVA2F
ないと思う
乱丸のイメージは作られたモノで能力は未知数でしかないもの
512人間七七四年:2011/06/06(月) 12:27:12.27 ID:vCUAX9Vf
森可成の息子であり森可成の弟であるのだから蘭丸も当然に
マッチョ系な若者であったろう、とは良く言われているね
513人間七七四年:2011/06/06(月) 12:28:26.33 ID:vCUAX9Vf
× 森可成の息子であり森可成の弟
○ 森可成の息子であり森長可の弟

失礼した
514人間七七四年:2011/06/06(月) 13:00:32.77 ID:P/j6qSkb
長可が鬼武蔵と呼ばれる前は、鬼百合と呼ばれていたっていう話をこのスレでみたけど、あれはマジ?
515人間七七四年:2011/06/06(月) 17:41:44.78 ID:jajyHKQw
長可の200年忌に詠まれた、鬼百合や あたら盛りを 塚の陰
の句に由来してるだけで実際には呼ばれて無いと思う
まあ、長可は小柄な体格だったらしいから無きにしもあらずだが
516人間七七四年:2011/06/06(月) 19:22:30.31 ID:/WujR3c5
チビマッチョだと思うw
517人間七七四年:2011/06/06(月) 19:33:15.40 ID:U5zPu1Mh
小柄な体格なのに初陣でたった一人で十数人惨殺とか……
鬼にも程があるだろ
518人間七七四年:2011/06/06(月) 19:36:02.53 ID:jURECGad
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1307339036
これは悪い話かな。実物に近づけたのか貶めようとしたのか不明だが
朱元璋の二種類の肖像画のようにどちらが正しいのか今後も論議されそう
519人間七七四年:2011/06/06(月) 19:43:17.37 ID:2ZqKvL5w
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5000.html
この>>196の肖像画がもし実物に近いのなら、
服はともかく顔は良くしたんじゃないか
520人間七七四年:2011/06/06(月) 21:41:20.10 ID:XSGXRaZt
テルの肖像画はまるで天下人のように威厳に満ちているが
かなり金を積んで修正してもらったに違いない

http://www.busyo.org/media/mouri_terumoto.jpg
521人間七七四年:2011/06/06(月) 21:44:56.74 ID:qCGgWr/T
まあ似顔絵ってのは実物より凛々しく画く物ですわな
522人間七七四年:2011/06/06(月) 21:45:48.44 ID:ikPMXndP
>>520
修正というか、この時代肖像ってのは本人の死後描かれるもの。
基本理想的に美化して描かれる。
523人間七七四年:2011/06/06(月) 21:51:55.37 ID:zADLa7fp
>>522
その点権現様のしかみ像は二重に特殊ということか
524人間七七四年:2011/06/06(月) 21:55:35.17 ID:f1XN+m3M
輝元は容貌「だけ」は大将の風格があったとか
525人間七七四年:2011/06/06(月) 22:01:56.55 ID:ikPMXndP
>>523
そう、この時代大名の生前の肖像と言うのはほとんど例がない。
当時肖像を描かせると「魂が吸われる」という迷信があったが、家康はそれを気にしてなかった模様。
これが家風だったのか家康の影響なのか知らないが、本多忠勝や榊原康政も生前に
肖像描かせてるな。
526人間七七四年:2011/06/06(月) 22:04:38.60 ID:FX7k6O2+
忠勝は何度もダメ出しをしたらしいね
絵師は生きた心地がしなかっただろう
527人間七七四年:2011/06/06(月) 22:27:16.36 ID:oppv0O5r
秀吉も生前の肖像画があったよね?
528人間七七四年:2011/06/06(月) 22:30:39.69 ID:+HEpo2nJ
肖像画見てがっかりする武将第1位


伊達政宗
529人間七七四年:2011/06/06(月) 22:32:44.59 ID:iuL9gL4B
正宗は片目つぶってる肖像画もあるよ
530人間七七四年:2011/06/06(月) 22:33:25.27 ID:iuL9gL4B
あ…やってはいけない誤字しちまった
531人間七七四年:2011/06/06(月) 22:37:25.65 ID:oppv0O5r
信虎さんは凛々しく描いてあれか…
532人間七七四年:2011/06/06(月) 23:47:22.60 ID:7JI2HRmX
信虎さんはぬらりとして掴み所がなく
それでいてひょんなところにお邪魔する
戦国時代のフーテンの虎さん
533人間七七四年:2011/06/06(月) 23:53:36.42 ID:+HEpo2nJ
534人間七七四年:2011/06/06(月) 23:59:35.57 ID:4DVT0ReI
>>519の信長と>>533の犬千代が若い頃
臥所でちちくりあって・・・・・・オエエ

535人間七七四年:2011/06/07(火) 00:03:50.72 ID:r7awRK4o
毛利元就も寿像が残っている。
謙信も現存はしてないけど晩年に自身を描かせてたはず
536人間七七四年:2011/06/07(火) 00:26:36.13 ID:sq0YmuY/
>>532
確かにどう見ても妖怪ぬらりひょんだよなw
537人間七七四年:2011/06/07(火) 00:39:38.97 ID:EE+9r9yY
今宵、貴方の枕元に信虎様が立っているよ・・・
538人間七七四年:2011/06/07(火) 00:41:59.00 ID:Tyh0DgxN
>534
相手は犬ではなくて三方原で死んだ弟だと言ってる人もいる
539人間七七四年:2011/06/07(火) 03:58:38.35 ID:RQKXf4ry
>>533
山田芳裕は後者の肖像からアレ作ったのかw 前者も理想ってほどじゃないようなw
540人間七七四年:2011/06/07(火) 13:24:22.93 ID:pstm/cO1
大阪冬の陣でのこと
天王寺口では城の中から、彼らを包囲する攻め手に向かってこんな言葉を投げかけた

「大御所(徳川家康)が御馬を我々に向けられたので、華々しい軍勢を見物いたすぞ!」

挑発である。さて、この言葉に反応したのは藤堂高虎の陣であった。
藤堂陣からはこんな言葉を返す

「見物くらいがお前たちにはお似合いだ!お前たちのような牢人共は金銀に目がくらんで
籠城したが、金を受け取ったからにはさぞかし命は惜しいだろう。
そんな軍は比丘尼にも劣る!
命が惜しければ逃げ道をこしらえてさっさと落ちろ牢人共よ!
今回は特別にその広言を許してやろう!」

これに城方答えるに

「天下分け目の戦に、そんな雑言は無用である!
お前たちは、忠臣二君に仕えずという侍の本分を知っているか!?
我々牢人は今まで、違う主君に仕える事を潔しとしなかったために牢人をして
時節を待っていたのだ。

お前たちの主人和泉守(高虎)のような内股膏薬の間に合いの如き者に、
我らが如き本来の武士が成ることは無いのだ!

命が惜しければそこから逃げこの城に入れ!その生命、助けて取らせるぞ!」


主人高虎を馬鹿にされたこの言葉に藤堂陣の者たちは激怒、一斉に鉄砲を打ちかけたが、
これに城の中からはどっと笑い声が上がった、という。

大阪冬の陣における、挑発合戦のヒトコマである。
(大阪物語)
541人間七七四年:2011/06/07(火) 14:23:57.63 ID:ZxgYNRdz
藤堂って確かボコられてたよな 正論言われて痛い目に合されて泣きっ面に蜂だね
542人間七七四年:2011/06/07(火) 15:03:29.63 ID:InfeVLob
挑発したのは長曽我部隊なのかな?w
543人間七七四年:2011/06/07(火) 15:06:32.78 ID:L5zSn+q6
ありえそうな話だ。長曽我部は田舎もあって割りと古風な家風だしな
544人間七七四年:2011/06/07(火) 16:08:59.69 ID:EE+9r9yY
有名な話だがまとめに載っていないようなので。
もし既出だったらすまぬ。


奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。

元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは信昌の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。

元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。

処刑の前、おふうはこう述べたという。

「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
 畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
 人は畜生以上に浅ましいものでございます。」

そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。

おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。


おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。
545人間七七四年:2011/06/07(火) 19:36:51.52 ID:BloaH9dB
武田勝頼の小説で同じの読んだな
546人間七七四年:2011/06/07(火) 19:38:15.63 ID:N4zy4Swr
山岡徳川家康でも読んだ気がする
…あれ?畜生がどうののくだりあったっけかな…
547人間七七四年:2011/06/07(火) 20:09:47.14 ID:TToERA0w
悲しす…。
548人間七七四年:2011/06/07(火) 22:06:45.98 ID:dXyWWEq/
宇喜多直家 <なんと酷いことを・・・
549人間七七四年:2011/06/08(水) 00:11:15.21 ID:upmz04nA
宇喜多さん、暗殺した相手の子供や暗殺の実行者に気を使ってるからなぁ
550人間七七四年:2011/06/08(水) 00:21:32.07 ID:PoAllp5c
って、世間に思わせるのが宇喜田の実に巧みなところ
551人間七七四年:2011/06/08(水) 00:47:02.74 ID:wdbSehIQ
印象操作も万全とは直家恐るべし
大悪人と呼ばれて開き直ったあげく、爆死した弾正とは一味違った腹黒さ
552人間七七四年:2011/06/08(水) 01:03:45.42 ID:wZQevNR4
心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ

こんな清々しい心境だったのかもな
553人間七七四年:2011/06/08(水) 03:36:14.40 ID:oEEbxcpv
>>540
立花宗茂はこれをどんな気持ちで聞いてたんだろうな
554人間七七四年:2011/06/08(水) 04:09:46.12 ID:i6mo1kAZ
>>553
宗茂に関しては、関が原の後、豊臣家は立花家を見殺しにしようとしたからなあ。
555544:2011/06/08(水) 07:51:29.39 ID:lZHbW13g
訂正

おふうは信昌の千丸

おふうは貞昌の弟の千丸


ごめんなさいm(__)m
556人間七七四年:2011/06/08(水) 08:03:14.75 ID:vCKzNtt+
関ヶ原当時の豊臣家って誰がトップなん?淀殿?
557人間七七四年:2011/06/08(水) 08:08:13.26 ID:FyUU9oWf
マジレスすると家康
558人間七七四年:2011/06/08(水) 08:54:17.47 ID:mJgqwUK5
他の五大老はみんな自領へ戻ってたんだっけ
各家それぞれ事情があって長く領地から離れてるのは難しかった
家康だけ全てを任せられる息子がいた
559人間七七四年:2011/06/08(水) 09:01:56.84 ID:vCKzNtt+
豊臣家が家康に乗っ取られてたから、家康のやりたい放題だったわけか
耄碌してたんだろうけど秀吉も馬鹿だねぇ
560人間七七四年:2011/06/08(水) 09:24:47.12 ID:8Na+Ks+J
豊臣家、というのなら淀かね
豊臣政権、というのなら利家死去・七将襲撃・三成引退以降は家康
561人間七七四年:2011/06/08(水) 09:30:55.93 ID:RJpf3ei7
どうも日本史は権力構造を把握するのが面倒だよな
朝廷内の一貴族である足利将軍の管領の細川氏の宿老三好家の家来の松永久秀が真の支配者とか
傍から見たら訳が分からんぞ
562人間七七四年:2011/06/08(水) 09:33:48.93 ID:eYDIUQvS
現代に至るまで
日本じゃ一番有能な奴がトップに立つことが少ないし。
563人間七七四年:2011/06/08(水) 11:08:31.01 ID:SyJAfvx0
どの国もそうなのかもしれないけど、トップが御輿になっちゃうんだよな
皇室ー藤原家
鎌倉幕府ー北条家ー長崎家
尊氏にしたって、高兄弟が足利家を飲み込みそうな場面があったもんな
564人間七七四年:2011/06/08(水) 11:24:03.72 ID:WmDUoNU+
>>553
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4873.html
の逸話とか見てると「義を捧げ賭ける場所で全てを出し切らずに今更何やってんだ」みたいに思ってるかもね。
565人間七七四年:2011/06/08(水) 11:29:12.50 ID:PoAllp5c
偉い人は神棚に、みたいなとこがあるからなぁ日本は
位の高い人が有能とは限らないから権威だけもたせるっていう知恵なんだろう
今では偉くて有能な人って待ち望まれてる気配があるけどw
566人間七七四年:2011/06/08(水) 11:40:00.09 ID:WRD7uC62
実は徳川幕府はかなり将軍に権力が集中する仕組みだった。
鎌倉幕府における得宗家、室町幕府における京兆家のような、将軍家を越える
門閥家系はついに現れなかったし、機構上の責任者である老中よりも、将軍の近習である
側用人等のほうが権力を持ち得たのも、将軍の君主権が仕組みとしても強大だったため。
567人間七七四年:2011/06/08(水) 15:53:44.74 ID:YXjjWnkM
推古天皇の時代に建立され、饅頭の社として有名な漢国神社にあった由緒略記より。

慶長19年11月15日、大坂の陣の際、徳川家康は木津の戦い(木津川口の戦い?)に敗れ、
漢国神社まで落ちのび、境内の桶屋に隠れて、九死に一生を得た。
翌日、報祭祈願のため、神社に参拝、御召鎧一領を奉納し、
その後、鎧蔵を建立して、累世の将軍家は年々使者を立てた、という。

天下人なのに桶屋に隠れることになった家康の悪い話。
調べたら、別の話では真田幸村の軍勢の追われて隠れた話になっているみたい。

ちなみに、奉納した鎧は国立奈良博物館に出陳中らしいだが、展示替えのため見学できなかった。
HPのデータベースで検索してもでなかったです。残念。
568人間七七四年:2011/06/08(水) 17:43:22.61 ID:lSwk/msh
何人いるんだ家康の命の恩人
569人間七七四年:2011/06/08(水) 18:36:58.26 ID:F5hUGZMY
>564
十万石ちょっとで豊家にも徳川家にもきっちり義理立てする
コストパフォーマンスのいい話
570人間七七四年:2011/06/08(水) 18:40:58.38 ID:c963Ect+
>>568
家康が最も恐れた男と同じ数だけいるんじゃないかな?w
571人間七七四年:2011/06/08(水) 19:05:24.75 ID:RJpf3ei7
別に恩人は何人いてもいいだろw
572人間七七四年:2011/06/08(水) 19:28:13.26 ID:CsgnjNOi
問題は影武者が何人いたかだろ
573人間七七四年:2011/06/08(水) 19:31:54.01 ID:IOfl7ek5
>>567
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-567.html

細川高国さんも藍染屋じゃなくて桶屋にすればよかったのにね
574人間七七四年:2011/06/08(水) 19:45:10.85 ID:IEpmbcwQ
黒田如水といえば徳川家康や前田利家などとともに、当時吝嗇と呼ばれた代表的な
大名である。そんな如水が秀吉によって備前中津川を与えられた頃のこと

この頃黒田家の家臣たちは、城に詰める者たちを除いた小身者は皆知行地に行き
そこに小屋掛け同然の家を作り、百姓同様の暮らしをしたという。
そして米の初穂、あるいは手作りの野菜が出来たといえば、如水へのお目見えの際
少しづつでもこれを如水に献上すると、殊の外喜び、

「茄子などは最近になって取り寄せ植えたのだろうが、実ってからも『早く太く育て、
如水に見せるのだ』と、朝も晩も心を尽くして育ててくれたのだろう、まことに執着である。」

などと心から感じ入った様子で言葉をかけた。

そんな中、雉、鳩、小鳥、あるいは鮎といったものを購入して、如水に献上する者があった。
これを如水は喜ばないどころか、その者を叱りつけた

「お前は恐ろしい曲者だ!
こんな物をわしに献上するのなら、その資金で何故田畑を広げ、新田を開発しないのか!?

我らは主従の関係ではあるが、このように浪費させるのはお主に家に申し訳ない。
こんな物を貰ってもわしは喜ばぬぞ!
平素は慎ましく暮らしていても、必要な時には人馬を違い無く軍役通りに取り揃え
傍輩に遅れず乗り出してくるものを、わしは良き士、良き藝者だと考えている。
絶対に無駄な浪費はするな。

わしが若い頃浪費が続いたため家計が逼迫し、仕りたいような奉公も出来ず、非常に難儀をしたものだ。
身分の上下にかかわらず、自分の能力の限り勤めてさえ、主人に気に入られるのは難しく、
また傍輩に褒められることも難しいこんな世の中で、自分がこうするべきだと思ったことさえ
経済的理由で断念し黙っていては、どうして周りから評価されるだろうか?

そのころ『貧の盗みに恋の歌』(貧しければ人の物を盗むようになり、恋をすれば歌を詠むようになる。
必要に迫られればどんなことでもすることのたとえ・デジタル大辞泉)という戯言を傍輩が言っているのを
聞いたときは、よほどこいつと喧嘩してやろう、と思ったよ。

だがその時は、いやいやコレは俺のことを言っているのではない、世にありふれた昔から使われている
慣用句に過ぎない。少しも腹をたてるべき物ではないぞ、と自分を説得しどうにかスルーしたのだ。
『貧の盗』などという言葉は今でもうかつに使ってはならぬぞ。時と場合によってはその言葉が、
士を傷つけることに成る。

とにかく浪費にはこんなに害が多い。どうか油断無く稼ぎ、常に倹約し、身体が長く続くようにせよ!」

と、子供に教え諭すように聞かせたという。

黒田如水が吝嗇だったのはどうやら若い頃、金に困った経験からのトラウマのためらしい、と言うお話
(古郷物語)
575人間七七四年:2011/06/08(水) 20:11:10.37 ID:PoAllp5c
理屈が多い人だなw
こんなことしてる暇あったら槍具足に金かけろ!でいいじゃん
576人間七七四年:2011/06/08(水) 20:53:49.29 ID:akUcInkL
一言で済ませると叱責された気分になるけど
理屈をこねてると何か身になる事を言ってくれてる気がするだろw
多分
577人間七七四年:2011/06/08(水) 21:05:11.72 ID:Avgh7XwL
如水軒も徳栄軒と一緒で例え話とか駄目出しのような話が好きですね
一々尤もなところが聞く側にも素直に得心させるのでしょうが。
578人間七七四年:2011/06/08(水) 21:21:33.90 ID:LK/bGA6e
秀吉亡きあとに家康に対抗できるのは、如水だけだな
秀吉が大封を与えず、いびりまくった理由が分るわ
秀吉より小早川隆景の方が数年長生きしたら、隆景の如水が
そそのかして、もっと違った歴史になっていたかもと空想してしまった
579人間七七四年:2011/06/08(水) 21:38:08.09 ID:IEpmbcwQ
>>574
> 備前中津川

間違えました!当然ですが「豊前中津川」ですw;
580人間七七四年:2011/06/09(木) 00:05:23.24 ID:XxlFmr1w
>>574
前田利家公がお呼びです。
581人間七七四年:2011/06/09(木) 02:06:46.06 ID:PY1SJLin
なんか古郷物語って理屈っぽい話ばっかで読むの疲れそうだね・・
582人間七七四年:2011/06/09(木) 13:32:10.08 ID:VGcgRZ4e
>>578
隆景は保守的だから、家康の対抗馬にならないよ。
583人間七七四年:2011/06/09(木) 17:21:55.00 ID:Y/Ahi+vA
>>582
戦術戦略は好戦的
政略は保守的
そんなイメージがある
584人間七七四年:2011/06/09(木) 17:38:13.47 ID:jc2HofmX
動くまでが凄く慎重でいざ戦が始まったらイケイケなのが隆景、逆が元春って話が前にあったね
隆景生きてたら関ヶ原が起こるかどうかすら怪しくなりそう
585人間七七四年:2011/06/09(木) 17:54:38.54 ID:7tyevdz2
>>581

大久保忠教「どれ、ワシが理屈抜きに楽しめる疲れない書を貸してやろう」




つ「三河物語」
586人間七七四年:2011/06/09(木) 18:42:38.43 ID:/fNr06yG
慶長の終わりの江戸城天下普請において、福島正則は巨大な石垣の角石の積み上げを任され、
福島家では1500人体制でこれに臨んだ。が、

「おら、どいたどいた!」
「・・・・・・」
小石・砂利石の積み上げを任された藤堂家中の4〜500人が、ひっきりなしに車で福島家が大角石を
引く先々を行き交い、まったく作業がはかどらなかった。

「もうガマンならん。おい、綱をよこせ!」
ついに限界に達した奉行の真鍋五郎右衛門が、石を乗せたソリを引く綱を取り寄せると、地面に打ち広げた。

五郎右衛門は藤堂家の車を待ち受け、車が綱をまたいだ瞬間、
「そぉい!!」
一気にたぐり寄せた。ものの見事に藤堂家の者たちはひっくり返り、将棋倒しとなって倒れ散った。

「な、何をなさる・・・って、ぬわ―――っ!?」
「ヒャッハー!大漁だあああ!!」

ハイになったのか、福島家中はなぜか梃子に使う棒を振り回して藤堂家中に襲い掛かって乱闘を始め、
これまたなぜか江戸城下へ飛び出した上、本多佐渡守屋敷にまでなだれ込む大喧嘩になったそうな。
(福島太夫殿御事より)

※その頃の市松さん

「ちっとも石が上がって来ぬではないか。どうしたのだ?」
「実は・・・・・・」
「そうか!!」
ニッコリ笑うと(太夫殿機嫌能御笑)、番小屋に引っ込んだきり終日出てきませんでしたとさ。
587人間七七四年:2011/06/09(木) 18:54:38.90 ID:TPD/U8Aw
藤堂家っていつでもこういう扱いだな
588人間七七四年:2011/06/09(木) 18:58:14.07 ID:HS0YBv4U
>>587
じゃあある意味関連した、藤堂家にとっていい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2613.html
589人間七七四年:2011/06/09(木) 19:22:14.55 ID:UG7HMgxU
高虎本人は置いといて、藤堂家となるとやられ役とか、
裏切り者って扱いだよなぁ。幕末にいたるまで。
590人間七七四年:2011/06/09(木) 22:00:41.10 ID:S1QQ+ozn
まぁそれは仕方ない。ある意味自業自得
山内家だって関ケ原武功ゼロっすかwwwって300年ディスられてたし
591人間七七四年:2011/06/09(木) 22:32:02.52 ID:4dZgJChl
>>584
TERUさんの軽はずみな行動を腕づくでも抑えそうだから
関ヶ原の様相はかなり変わっただろうねえ
592人間七七四年:2011/06/10(金) 02:10:18.32 ID:QDTSp5Ew
如水には、キチガイのような可笑しい振る舞いが多かったが、
(如水は、気違の様なる可笑しき事共多き中に)
ある時、龍若という草履取りが悪戯を度々したので終に如水は罰を与え、
彼を大黒柱に縛り付けた。

翌朝、如水の側に仕える御伽衆の者たちが、龍若を許してもらうために詫び言を申し上げようと
話し合いをしていたところ、書状を書いた如水が、こう言ってきた

「城から一里半ばかり離れたところに相原村という、瓜をよく作る所がある。
そこには代官も置いてある。
この代官に瓜を差し出すようにと申し付けるので、それを龍若が城に持ち帰れ。」

この命により縄を解かれた龍若は程なく相原村より瓜を持ち帰る。
すると如水は龍若を御前に呼び出し、手ずから瓜2つを与え、「これを喰らえ」と言った。

御伽衆の者たちこれを見て
「詫び言を申し上げようと思っていたところに、そうするまでもなく許された!
如水様も何のかんの言って、龍若がいないと不便だったのだろう。
そのお陰でこんなに早く埒が開けた。」

良かった良かった、と喜んだ。が、そこで話は終わらない。
龍若が瓜を食べ終わると如水、彼を再び大黒柱に縛り付けたのだ。

そして「家中の者に使いがある」と言っては再び龍若の縄を解き使いにやって、戻ってくればまた縛り、
特に用もないのに「居間の掃除をしろ」と縄を解き、掃除が終わればまた縛り、
1日に1,2度づつは許してはまた縛ると言うことを繰り返し、終に3日間こんなことをした挙句、
ようやく完全に許した。

この事を見聞きした者たちはいずれも可笑しい事だと思い、伽坊主の一人が
「それにしても珍しい御折檻でございました、世間にまれな囚人でありましたことよ。」
そう笑って申し上げると如水

「まあ龍若は徒者だからな。教育のためとは言え、縛ったまま使わないのはわしの損だ。
だからと言って悪戯者のままであっても困るので、折檻はしないといけない。
そうではあるが、縛ったままにしておいたら体に縄が食い込んで、そりゃあ苦しいだろう、
時々休ませて用などもさせて、そんなふうに緩々と折檻したら、普通の折檻より
懲り方も強くなるんだよ。」

と言って如水もまた大笑いしたという。
(古郷物語)
593NGMS:2011/06/10(金) 07:53:46.85 ID:/ZOO0KMz
こんな親の息子なんだけど、何をしても家臣にDISられます
どう振る舞ったら尊敬されますか?
594人間七七四年:2011/06/10(金) 08:21:52.64 ID:PI6LRClA
監禁された経験者の言葉と思うと重いな
595人間七七四年:2011/06/10(金) 08:23:37.58 ID:SoZFEHhN
いい話でも悪い話でもホント理屈っぽいなこの人
596人間七七四年:2011/06/10(金) 08:43:20.27 ID:cjUyIcj0
>草履取りが悪戯を度々したので
ご隠居でなく長政さんだったら癇癪おこしてたいへんなことになりそうだ
597人間七七四年:2011/06/10(金) 12:39:05.85 ID:GsXJ4Gtv
>>593
そんなこと聞かなきゃ分からない時点で若殿はだめなのじゃ
598人間七七四年:2011/06/10(金) 16:36:48.62 ID:pUqi00nD
>>592
これっていい話なのでは?
少なくとも悪い話ではないと思う
599人間七七四年:2011/06/10(金) 18:42:39.04 ID:8lbvU9V9
>>598
悪い(事をして処罰された)話
600人間七七四年:2011/06/10(金) 19:02:51.94 ID:oUiFraPE
>如水は、気違の様なる可笑しき事共多き中に



サラっとひどいこと書いてる筆者の悪い話だろw
601人間七七四年:2011/06/10(金) 19:13:31.55 ID:/kSGUCYz
でもこう言うことを書かせてくれる家風は素晴らしいですね。
ささ、今日も腹立てずの異見会を開きましょうかNGMS様
602人間七七四年:2011/06/10(金) 19:26:54.66 ID:sCy7q2dy
現代でもやればいいのに、腹たてずの会
課長って有限不実行ですよねwとか、手柄横取りの巧みさ見習いたいです!とかね
うーん、刃傷沙汰になりそうだ
603丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 :2011/06/10(金) 20:21:40.82 ID:bbfsZ2FV
>>35はもっと評価されてもいいはず。

604人間七七四年:2011/06/10(金) 20:31:50.09 ID:mXO2PzTc
>>603
三田城の陥落により荒木村重は孤立、
黒田官兵衛は巣帰りが可能となった
のちにキリスト教に改宗した官兵衛はこれを三田黒巣と呼び降誕祭に尊んだ

なんでもできる
605人間七七四年:2011/06/10(金) 20:55:30.20 ID:jidrUyMN
逸話を語るスレで民明書房ネタは紛らわしいからな。
「何だネタかよ・・・」とテンション下がったところが基準点になるからよほどじゃないと無理。
606人間七七四年:2011/06/11(土) 19:20:09.96 ID:FZoJDsvR
佐野天徳寺は、江戸城内で上杉定勝に向かい、
祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。

「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」

その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。
607人間七七四年:2011/06/11(土) 20:55:26.53 ID:ubCwah1w
災害か何かなのか謙信公は。
608人間七七四年:2011/06/11(土) 21:41:50.22 ID:ZbsVbo7N
さすが毘沙門天の化身やでぇ・・・
609人間七七四年:2011/06/11(土) 22:17:57.08 ID:lZN+4f4Q
曲淵庄左衛門、恩賞を突き返す。そして子孫は・・・・
曲淵庄左衛門吉景、この名を聞けばこのスレの皆の衆はすぐにわかるだろう、
「戦国最強の訴訟クレーマーにして甲州一のへそ曲がり」である。
ある時武田信玄が西上野侵攻を開始した。もちろん庄左衛門も参戦である。
ある戦いにて庄左衛門は手柄を立て、敵将も降伏し論功行賞となったときのことである。
信玄「この度の降伏は殊勝である。この太刀を授けよう。庄左衛門、そなたは良き手柄を立てた、
   この脇差しを授けよう。」
庄左衛門「(怒!)」

庄左衛門「降伏した敵将が太刀で、手柄立てたそれがしが脇差!納得出来るかぁ!ゴルァ!!」

こうして彼は、せっかくの恩賞の脇差しを「投げ返した」が、信玄は笑って許したという。
さて、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-598.htmlにて凄まじい舌禍を残している
庄左衛門であるが、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2344.htmlにあるように
武田滅亡後に旗本として徳川家に仕えた。なんと、行政手腕を高く評価された結果だそうである。
草葉の陰の武田信玄、板垣信形、山県昌景もビックリである。

さて、その子孫は曲淵景漸(かげつぐ)という。松平定信の頃には経済通の名奉行として
最終的に勘定奉行となった人だが、天明の大飢饉の時、米不足なので何とかして欲しい
との江戸町民の嘆願があったとき、陳情中に何らかの感情の行き違いがあったようで、

景漸「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え!」

と言ってしまった。この舌禍が導火線となり大規模打ち壊しに発展したという。
この先祖にしてこの子孫ありと言うところであろうか。
610人間七七四年:2011/06/11(土) 22:23:53.90 ID:P16kkRwt
米が無ければ犬を食べればいいじゃない
611人間七七四年:2011/06/11(土) 23:02:25.19 ID:aQs2TSgX
綱吉「絶対に許さない」
612人間七七四年:2011/06/12(日) 01:55:39.28 ID:l46b879X
>>609
韓信「あれ?蕭何より先に食われましたけど」
613人間七七四年:2011/06/12(日) 05:04:14.10 ID:8parbAvw
米(五郎左)がダメなら犬(千代)を食べれば(性的なr)いいじゃ無い
614人間七七四年:2011/06/12(日) 10:16:51.87 ID:6UftsQfM
ある時、黒田如水の中間のうちに窃盗をしたものが出た。
物頭は如水に報告し

「そ奴はこれこれの盗みを致しましたので、現在拘束しております。
ご成敗なされて然るべきと考えます。」
と申し上げた。如水これを聞いて

「首を斬るなど必要のないことだ。早々に我が領地から追放せよ。」

しかし物頭この如水の言葉に
「いえいえ、あやつの窃盗は度々のことなのです。なので今回はぜひとも、頚を刎ねられるべきです!」
あくまで斬首の許可を求めた。
如水、これに

「それこそ好都合!度々盗みをするのなら、よくよく盗人に生まれついた者なのだろう。
急いで追放せよ。追放先でもきっと盗みをするだろう。その時、追放先でそいつが仕えた主人に
頚を斬らせればよいではないか。

だいたいこうなったのはお前の責任でもあるぞ?度々盗みをすると言うことを知っていたのなら
どうして今まで放置していた?一度だけでも処分の判断があってしかるねきだ。」

と、したたかに叱りつけたという。
そんな、黒田如水さん窃盗犯の斬首を嫌う、というおはなし。

まあいい話なんですが、『俺は手を汚さず他所で斬らせる』という考えを巡らすあたり
如水黒いよ如水。
(古郷物語)
615人間七七四年:2011/06/12(日) 10:24:21.00 ID:u1M+qNbJ
>>609
江戸時代のマリー様、「景漸」で「かげつぐ」って読むのか
めずらしい・・のかな?
616人間七七四年:2011/06/12(日) 11:12:00.82 ID:4luwmglz
NGMS「私だったら奉公構にして、更に念には念を入れて刺客を送るね(ドヤ顔)」
617人間七七四年:2011/06/12(日) 11:14:21.90 ID:axYSqfbc
自分の手で殺すべきだろ、そりゃ
618人間七七四年:2011/06/12(日) 12:28:54.04 ID:8O7Zkq4A
初めて投稿させていただきます。

私の地元にある岡太神社の伝承

天正10年(1582年)
本能寺の変の後、備中の戦陣から大返ししてきた秀吉を、明智光秀の配下・四方天但馬守が摂津・三軒屋で迎え撃った。

かなり酷い乱戦となり、但馬守と秀吉が一騎討ちする事態になり、但馬守が秀吉を組み伏せた。
これぞ好機と、但馬守は咥えていた刀で首を討とうとしたが、不覚にも歯が欠けてしまい刀を落としてしまう。
但馬守はその一瞬の隙を突かれて、秀吉を助けに来た加藤清正に討ちとられてしまった。

この時但馬守は「無念だから、これから歯の悪い奴を治してやろう。」と言い残したと言われる。

こうして岡太神社に祀られていた禳災の猪神・白山大神は、白山さん→はくさんさん→はくさ(歯瘡)さんとして転訛。
現在、岡太神社では歯神さんとして祭られている。

但馬守の歯の悪い話

ちなみにこの神社、小松内大臣こと平重盛の居館跡とも言われており、供養塔と碑と説明板があり、別名・小松神社と言われています。
619人間七七四年:2011/06/12(日) 20:13:49.54 ID:5BMuyxCm
便乗して神様ネタ(?)

本多出雲守忠朝は平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、「行く末、父親に劣るまい」と絶賛された。

しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、あるいは深酒による不覚によって大御所家康に「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において「討ち死にして汚名を返上せん」と覚悟を決めた。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1151.html

天王寺口で毛利勝永隊が、松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、忠朝は
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。

良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、さらに五、六騎を打ち殺して
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二〜六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。

弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると
太刀を抜き、狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。

ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。

その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大阪一心寺にある彼の墓には、今も禁酒を誓うノンベエが訪れる。
ttp://www.isshinji.or.jp/event_honda.html
(増補難波戦記及び一心寺寺伝より)

命と引き換えに名誉を回復して神にまで上った話・・・
ではあるが、そんな親父とか古の坂東武者みたいなマネ出来るなら最初からやれ、と思わんでもないのでこちらに。
620人間七七四年:2011/06/12(日) 21:01:38.96 ID:axYSqfbc
親父に批判されながらあれほど槍術の鍛錬積んでたのに
いざ戦闘では鉄棒がメインウェポンなんですか。
621人間七七四年:2011/06/12(日) 21:05:37.96 ID:acm/4r1x
>>615
江戸時代の人はこだわり過ぎてるのか先祖とかぶるのがイヤなのか、
変わった漢字で諱を付けてる事が多いよ
内藤義概(よしむね・延岡藩主)
真田幸専(ゆきたか・松代藩主)
松平忠馮(ただより・島原藩主)

とか
622人間七七四年:2011/06/12(日) 21:11:01.55 ID:6UftsQfM
>>620
槍だと上手すぎて討ち死にすること無くうっかり生き残ってしまうと考えたのかも。
623人間七七四年:2011/06/12(日) 21:11:59.53 ID:qYPQ1mJ+
江戸後期の藩主の珍名ラッシュは凄いとおもう

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E9%95%B7%E3%83%88%E3%82%B7


これとかもうどんな字か意味が分からない
624人間七七四年:2011/06/12(日) 21:17:28.97 ID:PdqTeQ/J
>>623
というか、通字はもうどうしようもないけど、下手に広く使われている文字が諱に入ってると
君主になったとき文字のかぶる諱を持った家臣が一斉に改名しないといけなくて大変だったらしい。

なのでややこしい字を使うのは、その混乱をなるべく最小限にしませようという配慮の面も
あったっぽい。
625人間七七四年:2011/06/12(日) 21:22:24.62 ID:7sD7+wUm
>>623
一応このサイトで漢字が紹介されている
http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/okadahansi.htm
>>624
李世民なんて、よりによってよく使う漢字ばかりだから
天下こぞって避諱するのは無理、てことで厳格にやらなくてもいいという勅令を出したとか
避諱の制度がきちんと確立してなかっただけかもしれないが
626人間七七四年:2011/06/13(月) 00:57:43.75 ID:r8y9cB/g
ある年、将軍徳川家光が、諸大名を伴って上野僧上寺を訪れた時のこと、
家光は連れてきた大名たちの中から、伊達忠宗と黒田忠之に声をかけました。

「おい、政宗、筑前!」

「え!?」


あの爺さんはとっくに亡くなっていたころと思われますが、
家光はあいかわらず彼が大好きだったようですね。
627人間七七四年:2011/06/13(月) 01:15:40.84 ID:1OHMqe4j
並みいる諸大名の中から選ばれるとは黒田忠之の数少ないいい話ではないだろうか。
あ、でもこれって儀式の一部の話なのか?
628人間七七四年:2011/06/13(月) 01:21:46.31 ID:x9h1Tv12
>626
これ悪い話?
声をかける事が異例ってことかな?
629人間七七四年:2011/06/13(月) 01:27:50.56 ID:WaTq/yGS
政宗って呼ぶのはいくら将軍でも失礼すぎるだろ
原文では何と呼んだの?
630人間七七四年:2011/06/13(月) 01:34:50.27 ID:r8y9cB/g
>>629
それが確かに「政宗」と書いてあるのです。
誤字かと思ったら、
「忠宗ハ政宗の子なり。然共政宗と父の名を仰られける。」
とありますね。
出典は「黒田続家譜巻之六」
631人間七七四年:2011/06/13(月) 01:35:47.86 ID:WaTq/yGS
>>630
へええー
632人間七七四年:2011/06/13(月) 01:36:39.99 ID:zmsWybXy
>>629
家光は政宗の主君だから、「政宗」と呼んでOK

これはどうか知らないが、この当時や近い時代の資料でも政宗のことは「政宗」と書かれているものが
やたら多いのね。「伊達侍従」とか「越前守」とか「陸奥守」とか書かれているものは非常に少ない。
どうも政宗は自分の諱を世間に積極的にアピールしていたのではないか、という気がちょっとするw
633人間七七四年:2011/06/13(月) 01:48:24.43 ID:AI3K9aJq
忠之が「筑前」と呼ばれてるけど、彼が筑前守に任官したのは黒田騒動の十数年も後のことで、要するにこれもNGMSと間違えてる。
忠宗共々国主ほどの立場にある者を、父親とはいえ死者と間違えてるんだから実は割と失礼or家光がかなりボーッとしてる話。

しかし忠之がNGMSに良く似たブサ○ク(失礼)だったのは肖像画で知ってるが、忠宗も政宗と似た顔だったんだろか。
それって、本人的にどうだったんだろ。
634人間七七四年:2011/06/13(月) 01:53:59.38 ID:WaTq/yGS
>>632
実名で呼ぶのは普通はヤバい行為だよ。
時代は遡るが、源頼家が家臣を実名で呼んだことで、家臣の恨みを買い、
政子に、家臣といえども非礼な真似をするなとお灸を据えられている。

政宗が特殊な人なのか、家光と政宗の間だから許されたことなのか・・・
635人間七七四年:2011/06/13(月) 01:59:14.96 ID:ZCUxnsrt
君臣の間柄の好悪もさることながら
頼家と家光の権力の強弱も考慮に入れるべきじゃないかな
636人間七七四年:2011/06/13(月) 02:36:50.03 ID:x9h1Tv12
そういえば江戸初期の地図で、諸大名屋敷は姓+官名で書かれてるのに
なぜか政宗屋敷だけ、デカデカと「政宗」って名前だけで書かれてたの思い出した
江戸じゃ政宗は名前呼び捨てがデフォなのか?
637人間七七四年:2011/06/13(月) 02:47:13.31 ID:GrL5vnGh
>>636
想像してなんかワロタ
638人間七七四年:2011/06/13(月) 09:52:24.01 ID:Js72Iwys
>>618
まさか大返しの話が歯の神様のいわれになると思わなくてワロタ
子供「ねえどうしてこの神社は歯の神様なの?」
大人「時は本能寺の変後、中国毛利氏と和議を結んだ秀吉が…」
子供「ぽかーん」
とか想像してワロタ
639人間七七四年:2011/06/13(月) 10:51:23.68 ID:VUFOISIE
>>618
歯が欠けた無念で歯を治してくれたり
切腹したら痛かったからって「妊婦大変だな、助けてやるよ」ってなったりする
人のよさそうな逸話って面白いな
640人間七七四年:2011/06/13(月) 12:17:15.42 ID:lvYh6W5a
俺「我が墓に詣でる者には必ず職を見つけてやろう」
641人間七七四年:2011/06/13(月) 12:45:20.84 ID:uEKezqLl
ファーストネームで呼んでくれって事かな「政宗」
さすがDQNヤンキーだな。
642人間七七四年:2011/06/13(月) 13:34:45.47 ID:LVG1aZr1
>>640
墓どこどこ?早く死んで!
643人間七七四年:2011/06/13(月) 13:57:39.70 ID:Uos6U95N
俺「今後我が墓に詣でる者は、必ず不純となるべし」
644人間七七四年:2011/06/13(月) 15:40:26.15 ID:VUzWWRHm
>>633
これ時期がわからないけど、NGMSは家光が将軍になる直前に亡くなっていて、
家光とNGMSよりも家光と忠之の方が付き合い長いというか親しいはずだから、
筑前=忠之で合ってると思われ
645人間七七四年:2011/06/13(月) 19:57:44.42 ID:qZS7vHjR
忠之の名前も官位も忘れちゃって、「こいつ誰だっけ?ああ、たしか筑前の領主だったから、筑前で通じるだろ」とかだったら、ひどい
646人間七七四年:2011/06/13(月) 20:01:10.15 ID:lAB23/ht
300位藩があったらしいし覚えるのは大変だろう
647人間七七四年:2011/06/14(火) 00:43:08.25 ID:utlehkYR
>>645>>646
多分そんなところだろう。
年賀の将軍拝謁の時なんか、将軍に個別に挨拶出来るのは
大藩で10万石以下なんか十把一絡げで挨拶することになっていたから。
ましてやいつも顔会わすのは幕閣ぐらいだろうし。
6481/2:2011/06/14(火) 01:38:41.11 ID:QKi/1Sof
黒田如水の家臣に伊藤次郎兵衛という者が居た。
彼は若い頃新参の無足人であったが、それでも今気強く奉公を心がけ、日夜怠りなく勤めているのを認められ、
黒田家に使えて3年目、知行二百石を与えられた。
元より人に超えた根性を持つ若者であり、また、この知行を与えられた事をかたじけないと心から思い、
それ以降は前にもまして少しも弛むこと無く奉公を勤めた。

そんな次郎兵衛が如水にお目見えしたときのこと、如水は彼の顔を見るなり
「次郎兵衛、お前は具合が悪いのではないか?」
と声をかけた。次郎兵衛「いえ、そのようなことはありません」と答え、側の者たちも
「彼は殊の外無病で有名です。彼が我が家に仕えるようになって早25年になりますが、一度も体調を崩したと
言うようなことは御座いません。」

これは如水が常々、家中の者が「気分が悪い」「喉が痛い」「食事が取れない」などと病がましいことを言い出すことを
嫌っていたため、側の者たちはそこに気を使いことさら無病を強調して申し上げたのである。しかし如水

「いや、次郎兵衛の奴は疲れているのか見苦しい。さては食米が不足していて、ひもじくて疲れているのか。
ならば食米を取らせよう」と自筆で手形を書き結んで「これで飯を炊かせ、喰いたいだけ喰え!」
とそれを投げつけた。次郎兵衛がまかり出てこれを戴き、次の間に下がって中を見ると、驚くべきことにそれは、
50石の加増の手形であった。次郎兵衛は感激し

「食米と言われたからにはせいぜい米5俵から10俵ほどの物だと思っていたが、それだけでも私が年来、
心を込めて奉公していたことを大殿様がお認めになっていただいたのだととても嬉しく思っていたのに50石とは!
見たとたん肝を潰しました」と言っていた。

ここまではいい話。が、これから少し後のこと
6492/2:2011/06/14(火) 01:39:19.71 ID:QKi/1Sof
その日の早朝、家臣たちがその日の仕事を始める時間、たまたまそこには如水と、ある性格のおとなしい者だけがいた。
如水はその者に向かい

「たわけめが、お前は昼盗の仕方というのをまるで解っておらん!これからはきちんと心がけて昼盗をしろ!」と
吐き捨てた。昼盗とは白昼堂々と働く盗み、のことであろうか?この者聞いて当然ながら大変驚き

「お言葉ではありますがご主君は家臣に、律儀に奉公せよと申し付けられるべきなのに、盗みをしろとは
一体どういう事でしょうか!?」

「お前はそんな事も解らぬのか?昼盗をした話はたくさんある。まず一人の事例を見てみよう。
あの伊藤次郎兵衛の奴めは、83石(黒田家の武士の最低石高)で35年召し使っても一言の文句も言わないだろう。
知行の望みがあるわけではなく、どのようにも使って欲しいと言って我が家に出仕するようになった奉公人だが、
何事でも奉公したいと日夜朝暮心がけていることは紛れもなく、何があっても少しもわだかまらず、
良く扱っても悪く扱っても態度を変えること無く生まれついたままのように奉公を専一としていた。

この事を解っていながら取り立てないというのは、召し使ったものの志を奪い、主人として誤り、いや、盗人に
近い行為であると思ったので、奉公してから3年にも足りなかったのに、あいつにとって過剰と言っていい
200石の知行を取らせた。
あいつはその後も猶も初心を忘れず、律儀に、不調法なりに奉公をした。
これならさらに加増させたいと思ったんだ。…だがな、

問題はあいつには、これといって取り上げるほどの忠節がないのだ。

だからわしが、あいつに一花咲かせるような褒美を与えたいと思っても、それに価するような手柄が何も無い。
なので疲れている事にかこつけて、食米だと言って50石取らせたのだ。
いくらあいつが奉公をよくやっていると言っても、例えばあいつを、何かこの如水のために成る公儀への使いを
申し付けるなんて考えられないだろ?だからといって内々の会議に呼んで相談相手にする、なんてのも無理だし、
新参者だから仕置方に使うわけにも行かず、そこで心身ともに辛い目に会うということもない。
とにかく、あいつには功績というべきものが何も無いのだ!

なのに日夜朝暮心を込めて、どうにかして奉公仕りたいと思い入れている一念の志を感じ、わしは今までも取られる
べきではない知行を取られ、この間はさらに米50石を取られた。
勘違いするな?わしはあいつにさらに知行を使わしてやってもいいとすら思っている。少しも惜しいとは思っていない。

しかし考えて見れば、この如水は随分「ぬからぬ者」と自慢をしていながら、こうも簡単に昼盗に合うとは
我が事ながら実に可笑しな事だ。これはな、こういう類の昼盗をしたことのない人間が陥りがちな誤りなのだよ。
伊藤次郎兵衛に限らず我が家には昼盗は何人もいるぞ。お前ひとりづつ数えてみろ。」

と言って笑ったそうである。

自嘲なんだか自慢なんだか教訓なんだかよくわからない、黒田如水の『昼盗』のお話。(古郷物語)
650人間七七四年:2011/06/14(火) 02:34:57.73 ID:ZMdu6VO5
要するに如水社長が
「給料泥棒は許さんぞ」
と社内を引き締めたお話?
651人間七七四年:2011/06/14(火) 03:38:08.70 ID:90BUd8A5
如水「あー俺有能すぎて給料泥棒なんてしたことないから引っかかっちゃったわー俺有能だからなー」
652人間七七四年:2011/06/14(火) 03:49:12.39 ID:u1dt2uw3
いつの間にNGMSなんて略されるようになったんだ。もう公式ですか?
653人間七七四年:2011/06/14(火) 05:39:51.10 ID:ZinSvD2D
>>651
どさくさにまぎれて盛大な火事場泥棒をやらかそうとした奴がどの口でw
654人間七七四年:2011/06/14(火) 07:50:38.46 ID:ej7QwARj
えーっと、つまり・・・
 
ツンデレのお話?
655人間七七四年:2011/06/14(火) 08:30:25.64 ID:1w1hjYjb
656人間七七四年:2011/06/14(火) 10:14:36.63 ID:Ota251rx
>>648-649
なんというツンデレ
657人間七七四年:2011/06/14(火) 11:18:46.83 ID:RCPPzibu
>>650
簡単に言うと「俺は何の実績のない人間でも真面目でありさえすればこんなに厚遇するんだ。
お前たちも実績を見せられなくても、せめて真面目に働けよ。ちゃんと見てやって居るからな。」
って事だな
658人間七七四年:2011/06/14(火) 13:01:15.95 ID:uix3LF2c
それに比べて若殿は
659人間七七四年:2011/06/14(火) 17:54:52.63 ID:+qtIpZN2
>>658

NGMS「一万六千石も与えてやったのに伊藤次郎兵衛の爪の垢を煎じて飲ませたい奴がおるなぁビキビキ」
660人間七七四年:2011/06/14(火) 18:25:23.36 ID:jW5Xs5uC
>>636
どっかで見た大阪の陣の布陣図でも「政宗」になってた気がする
他の武将みんな名字+役職なのに、やっぱり伊達だけデカデカと「政宗」二文字
661人間七七四年:2011/06/14(火) 21:36:37.22 ID:ZinSvD2D
政宗はやっぱり単に政宗って呼び方がしっくりくるな
まーくん呼びは親しみ込めてるんだろうけど、アイドルみたいでなんか違和感を感じる
662人間七七四年:2011/06/14(火) 21:41:44.98 ID:EAxIQXK+
親しみと揶揄をごっちゃにしたような感じに受け取ってる:まーくん
663人間七七四年:2011/06/15(水) 00:09:06.87 ID:WbZVeeLH
>>659
黒田一成「殿!落ち着いてください!ね。」
664人間七七四年:2011/06/15(水) 07:38:28.07 ID:fzYdBF9k
政宗ブランドなのか
それとも描いた奴が「あんな奴、諱でええわい」ってことなのか
665人間七七四年:2011/06/15(水) 09:32:33.52 ID:4FV/tR3C
本人の承認がなければ失礼極まりない表現だけに、
「家名や肩書きなんて関係ねぇ。俺は『政宗』なんだからそう書いとけや。」
的な発言を随所でしており、当時の一般認識として『政宗』があったのではないか。
やはり彼にはヤンキー魂を感じずにはいられない。
666人間七七四年:2011/06/15(水) 10:16:23.37 ID:JANwvnft
むしろ他の伊達一族の人達が
「あんなにはっちゃけてるのは政宗だけなんです。
 他の伊達姓の者は常識持ってます」
と伊達家の標準タイプが政宗だと思われたくなかったからかも
 
 
 
さすがにないか
667人間七七四年:2011/06/15(水) 10:26:57.65 ID:hKufVc6C
基本的にはいい話なんだと思うけどw

大阪冬の陣のこと。井伊家で物見に出ていた2名がにわかの大雨に合い、ずぶ濡れになって
帰ってきた。それを聞いた井伊直孝は自分が着ていた小袖2枚を脱いで、彼らに与えた。

さてそのすぐ後、安藤帯刀のところに井伊直孝から使いが来た。その口上によると

『わたしはこういう理由で自分の用意していた着物を2枚共に家臣に与えてしまい、しかし着替える服を
持っていません。
そんなわけで帯刀殿、着物を分けていただけないでしょうか?』

その後、家康の御前に安藤帯刀から贈られた小袖を着て出仕する直孝の姿が
度々見かけられたという。

安藤帯刀から服を分けてもらえなかったら裸で居るつもりだったんだろうか?w
そんな、井伊直孝自らの小袖を与える、と言うお話(近古武談)
668人間七七四年:2011/06/15(水) 10:28:47.83 ID:+t8ppWbR
>>665
当時の瓦版でも政宗だけは諱www何でだwww
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/20101.html
669人間七七四年:2011/06/15(水) 10:44:22.11 ID:+GEbXZ5V
>>667
まあ服は別に貰うなりなんなりすればいいけど、しっかり奉公してくれる家臣はそうそう簡単には貰えないからなあ。

>>668
多分、学名は政宗・政宗なんだろう
670人間七七四年:2011/06/15(水) 13:20:47.14 ID:b/noIM8z
服なんか心斎橋に買いに行けばええねん
671人間七七四年:2011/06/15(水) 15:09:41.73 ID:jw7sBZ5a
江戸ゆとりvs戦国ジジィ

京二条城にて、久世三四郎・坂部三十郎の二人が知行の加増にあずかった。
この話を聞いた大久保彦左衛門はすぐに登城して、二人を出待ちし二人を見つけ尋ねた。
「其の方両人登城とは、何事か?」
勘の鋭い久世は、彦左衛門がいまにも斬りかかってきそうな勢いなので、坂部をつねって目配せし、
「思いがけず加増していただきました。特筆すべき武功を立てたわけではございません。強いて言えば耳たぶの事を評価してもらったのだと思います」と答え、耳たぶをつまんで見せた。

(つまり久世・坂部両人は様々な情報を『耳たぶ』で集めた事を評価されたと主張し、戦場での活躍だけが武功だと思ってる彦左衛門を遠回しにバカにしてる)

これを見た彦左衛門は笑いだし、
「さようか耳たぶの評価か、武功以外で貰う知行などはクソだ。そんなクソ知行ほしくはないわw」(さてはたぶにて罷成候成哉。能合点にて候。さ様のくされ知行は不入候)
と皮肉をいって帰っていった。
(鳩巣小説)

既出の逸話ですが解釈が違うと思ったので書きました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5240.html
672人間七七四年:2011/06/15(水) 18:12:31.95 ID:8Vatt0t1
曲淵庄左衛門「彦左衛門殿とは旨い酒が飲める気がする」
673人間七七四年:2011/06/15(水) 18:15:20.74 ID:LL4RQ3MR
永禄7年(1564)の小田占領後、城将となったのは佐竹義斯であった。
小田の領民が小田の殿様を信奉していたことは佐竹でもよく知られていたらしい。
小田のことを知るある者が「一年以内に取り返されないよう注意することだ」と言うので
義斯は「首を鴉につつき砕かれることはあっても城は取り返されない」と答えた。

しかし翌年、義斯は城を奪われてしまった。これを見た人は
「小田の鴉はなんと大きいのだ。人をつつき出してしまうとは」と笑った。

この時、城を急襲して取り戻したのが小田の家臣である信太氏であった。
彼は佐竹に降伏してからは無二の忠臣をよそおい、反撃の機会をうかがっていたのだ。
しかし、これは極秘のうちに行われたらしく、彼の妻子ですら知らぬことであった。

息子の喜八などはまさか父の謀叛などと思いもよらず、義斯のもとに駆けつけたために
捕らえられてしまった。そして義斯は虫の居所が悪かったのか喜八を虐殺したのである。

こうした経緯もあって喜八は怨霊となり「城を守ろうと駆けつけたのになぶり殺しにされた」
と佐竹北家にたたりをなした。また、その母もたたりをなしたのだという。
674人間七七四年:2011/06/15(水) 20:28:30.65 ID:lTHquxx4
小田民は洒落がわかるなw
675人間七七四年:2011/06/15(水) 22:13:54.74 ID:M+Y8Y9Vp
喜八が悪いわけじゃないがそりゃ殺されても仕方がないような
676人間七七四年:2011/06/15(水) 22:59:04.63 ID:/YBYFMLQ
>>675
謀略の一貫と疑われても仕方ない一方で
親兄弟で奉公先が違うというのも珍しい話でも無いしなあ。
677人間七七四年:2011/06/16(木) 02:23:10.87 ID:xWUDlpQm
南部からの独立を決意した津軽為信は、南部家当主の信直の実父で、津軽地方を治めていた南部高信の討伐を計画。

「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」

と高直をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高直の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。

そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。

以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。
678人間七七四年:2011/06/16(木) 04:21:32.73 ID:arXvdHTf
石川を落とす時は、罪人を使って城下でえげつないことをさせたものな
679人間七七四年:2011/06/16(木) 21:45:26.71 ID:ZO/0Xzc0
もう死にたい・・・。
680人間七七四年:2011/06/16(木) 22:08:03.89 ID:qBl/gPFI
>>678
あれは本当に後味の悪い話だった
681人間七七四年:2011/06/17(金) 11:21:27.20 ID:kfM/wvlb
佐々成政の家臣に、阿波鳴門之助という者が居た。
この者たびたに戦功をなし、剛勇の士として有名であった。

ところでこの「阿波鳴門之助」という名前、どうも当時「越すに越されぬ阿波鳴門」という慣用句の
ようなものがあったらしく、世間では彼の名はここから、「武功で自分を越そうと思っても越すことは出来ない」
という意味を込めたものだ、とのもっぱらの噂であった。

さて、佐々成政が肥後を豊臣秀吉から拝領した頃、その秀吉の元を出奔した水野勝成が佐々成政の
ところに潜り込んでいた。ちなみに出奔の際勝成は、激怒した秀吉から刺客まで出されたらしい。
何をやったんだ勝成w

それはともかく、勝成は阿波鳴門之助の名のことを聞き小憎たらしく思い、ある合戦の折
わざわざ鳴門之助に対面してこう言い放った

「貴殿の名は越すに越されぬという意味で付けられたのだと聞く!
明日の合戦で越せるものか越せないものか、私と貴殿とで先陣争いをしたいと思うが
いかがか!?」

これを聞いて鳴門之助

「それはそういう事を申す者の誤りです。
私の名は祖父より引き継いだものであって、そんな意味はありません。
その上貴殿の武勇は比類のないもので、私ごときがあなたと先陣争いをするなど
思いも寄らないことです。只々そのことは御免候へ。」

とへりくだる。それでも勝成は先陣競争を再三要求したが、鳴門之助は固く拒否したため
「この上は致し方なし」と諦めた。
しかしこれを聞いた人々は、鳴門之助が勝成との勝負を逃げたと思い、皆彼を嘲った。

そうしてその夜子の刻(夜11時から1時ごろ)、鳴門之助は密かに人をやり勝成の陣屋を伺わせ、
彼の陣に動きがないことを確認すると、なんと、自分の手のものだけで敵陣に突撃!
槍を合わせる。

元より無謀である。最初こそ敵を混乱させたものの、やがて鳴門之助は多勢に取り囲まれ
数ヵ所傷を負い終に地面に突っ伏した。今まさに頚を取られようとする、その時、

敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!

これに動揺した敵軍は撤退。おかげで鳴門之助は頚を取られすにすみ、重症を負ったが
従者の肩を借りて自陣まで戻った。

さて、鳴門之助はその日のうちに水野勝成のもとに使いを出した。
使いは勝成に鳴門之助の伝言を伝える。曰く

『今日の合戦の先登は、さだめて貴殿であったのでしょうね。』
(今日の先登は定めて貴殿にて候はん)

これに水野勝成は、全く面目を失ったという。

暴れん坊水野勝成、阿波鳴門之助にしてやられる、と言うお話。(近古武談)
682人間七七四年:2011/06/17(金) 11:32:36.18 ID:yHbt+zN7
阿波鳴門之助って、尼子十勇士じゃなかったっけ
683人間七七四年:2011/06/17(金) 11:46:27.22 ID:yexxep6n
このての塙団右衛門みたいなタイプって全体の統率からするとえらい迷惑だよなあ
684人間七七四年:2011/06/17(金) 12:09:30.00 ID:5519396i
>敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!


こういうフットワークの軽さが場数を踏んでるってことなんだろうな。
685人間七七四年:2011/06/17(金) 15:13:07.79 ID:OgEDkgFm
成政が後から来てくれるっていう信頼関係にあったんだろうかしら
686人間七七四年:2011/06/17(金) 17:01:56.33 ID:YDL358eu
単騎突出してる奴を助けないと「勇者を見殺しにした」とか言われるし士気に関わるんじゃね?
687人間七七四年:2011/06/17(金) 18:03:45.24 ID:op+AT8lC
鳴門之介の機略よりこれだけ恥かかされた勝成が腹切ってないのが不思議だ
688人間七七四年:2011/06/17(金) 18:08:45.75 ID:MZ4vVsMu
おれはその後の鳴門さんの身が心配だw
天寿を全うできたのだろうか。
夜道で鬼日向が待ち伏せしてたりしてw
689人間七七四年:2011/06/17(金) 18:39:10.87 ID:9PSGSm+4
>>687
恥じ入ったとしても敵陣か味方の陣に斬り込むタイプで
間違っても大人しく腹切るタマじゃあるまい
690人間七七四年:2011/06/17(金) 19:11:31.50 ID:kMDFpmbb
>>689
ngmsさんなら、頭をまた丸めてるんだろうか
691人間七七四年:2011/06/17(金) 19:44:27.74 ID:8JqDsTia
>>682
慣用句由来だとしたら全国に無数の阿波鳴門之助がいたのかもしれん。
692人間七七四年:2011/06/17(金) 21:08:32.52 ID:I56A6vog
あれが最後の阿波鳴門之助とは思えない。人々が争い続ける限り第二第三の……
693人間七七四年:2011/06/17(金) 22:46:01.05 ID:zSWi7VIG
佐々成政改易後、水野勝成と阿波鳴門之介は小西行長に仕え、ここでも功を競い合った。

天正17年(1589)、天草国人一揆(天草五人衆の反乱)が起き、志岐鎮経の本拠である志岐城の攻略に当たった勝成は、
城の二の丸で顔見知りがウロウロしているのを見つけた。
「鳴門之介の小姓の、清吉ではないか。どうしたんだ、こんな所で?」

「はっ。実は、先行する鳴門之介様とはぐれてしまいまして。迷っていたところに、水野様の指物をお見かけいたし、
まかり越しました。水野様ほどの方に相伴し、手柄の一つも立てれば、私も鳴門之介様に面目が立ちます。
どうか、ご一緒させて下さい。」

「さてさて、良き心がけ。よし!早く来い。連れて行ってやろう!」
「おおっ、有難し!!」喜んだ清吉が一歩踏み出した瞬間、

パ  ァ  ン

城方から一発の銃声が響き、清吉は死んだ。(水野日向守覚書より)


ちなみにこの『日向守覚書』、勝成の回想録という体裁を取って書かれているが、やたら詳しい小西家臣時代に対し
佐々家臣時代は「あーハイハイそんな時期もあったネ」程度に流されており、当然>>681には全く触れていない。

しかしこの頃の鬼日向さん「安田作兵衛や天野源右衛門と仲よかった」とか「山岡道阿弥や南部無右衛門と同僚だった」
とか嬉々として書いており、実にノリノリである。
694人間七七四年:2011/06/17(金) 23:30:50.09 ID:mvKr6Wq6
>安田作兵衛や天野源右衛門

同じ人じゃないのそれ…
695人間七七四年:2011/06/17(金) 23:32:20.27 ID:wpG6V92s
つか、この時代はまだ腹を切るって感覚はないんじゃね?
むしろ無茶な突撃で華々しく討死するって感じだろうね〜
696人間七七四年:2011/06/17(金) 23:40:12.55 ID:gtnk8HD3
そんなことないよ
697人間七七四年:2011/06/17(金) 23:54:00.88 ID:/xrSZio1
>>694
そういやそうだなw
698人間七七四年:2011/06/19(日) 02:51:20.81 ID:Ch0JmLUW
黒田如水があるとき、こんな事を語った

「誰とは言わないよ?だけど今の世の若い大名なんてのはさ、心を許して用心をしないのは、
腰や肩を揉ませて調子のいいことを言う小姓が一人二人あるくらいで、その他は児小姓から
家老に到るまで、常に傍によればそれに警戒の目をつけまわし、脇差の柄に手をかけんばかりで、
相手が何かしてきても自分がぬかることはないぞ、と言いかねぬ風情なんだよ。

どうして召し使っている者たちを、そんな恨みでもあるかのように接するのかねえ?
大名としては下々末々の者、百姓以下まで、長久あれかしと願うように接したいものだよ。

今の世の若い連中の立ち振る舞いを見るとまるで、兵法修行して世を渡っている連中と見間違えそうだ。
俺はそういうのを見るたびに可笑しくって、馬鹿な事やっているなあと思うわけさ。」

黒田如水による、近世初期の若者論?である。
(古郷物語)
699人間七七四年:2011/06/19(日) 08:58:24.42 ID:FuiFyrzI
訳文の勝海舟のような語り口がw
700人間七七四年:2011/06/19(日) 09:17:15.82 ID:XMQVB6Q6
>>698
若殿(ry
701人間七七四年:2011/06/19(日) 09:31:21.86 ID:ZMKaWEMk
佐竹義重&義宣
「余計なお世話だ!」
702人間七七四年:2011/06/19(日) 11:04:48.91 ID:gfqS8Qc+
偏屈じじい
703人間七七四年:2011/06/19(日) 14:51:01.74 ID:MUPlNzuc
立花道雪の小姓三人が、武芸の稽古の合い間に、弓について雑談をした。

「わしなら、あの庭先の鳩なども、二十六〜七間先にいようが、ヒューッと射殺せるわ!」
「なんの。俺とて昨日、十八間先の屋根に止まったスズメを、膨ら弓を以ってヒューッと射殺したわ。」
「拙者も、馬場にて十八間先の的に、七筋射れば六つはシュッと当たる。そのうち五つは、真ん中を射る。」

座敷でおかしく思いながら聞いていた道雪は、たまらず出てきて三人に告げた。

「お主らの弓の腕前、まことに結構。さらに稽古に励め。が、矢音のこと、間違いばかりだ。
人前でそんな事を言っては恥になるぞ。一度しか教えぬゆえ、良く聞け。お主らならば一度で覚えるだろう。

征矢・剣先矢で射て、当たった時は“ヒュバッ”と射た、と言う。射抜いた、とも言う。
外れた時は、“ヒュウスカッ”と表現する。
雁俣矢で射て、当たった時は“ヒューッ”と表現する。射切った、とも言う。外れは“ヒュウスカッ”と表現する。
鏑矢で射て、当たった時も“ヒューッ”と言う。外れた時は“ヒュッ”とも言わない、と表現する。
(中略)
こういう事も、まずは侍として良く覚えておけ。」

(原文:
そやけんさきにて、物を射て中たる時は“ひやうつば”と射てと言ふ。射ぬきて、とも言ふ。
はづれたる時は“ひやうすか”とはづしてと言ふなり。

雁俣にて物を射てあたるをば“ひやうふつ”といふ。いきりて、共いふ。はづれをば“ひやうすか”と言ふ。
かぶら矢にて物を射て当りたる時は“ひやうふつ”と言ふ。はづれたる時は、“ひす”といはづしてと言ふ。
(略)
かようの事も、専ら侍の知るべき事なり。よくよく覚えよ。)



問1、「大友興廃記」(大分県史料 戦記編収録)を呼んで雷神様がミスター脳だと知った>>703の驚きを、
五十字以内で擬音を交えて表せ(5点)
704人間七七四年:2011/06/19(日) 15:00:25.26 ID:UH2hQ3fv
表現の仕方の問題で、ミスター関係ないだろ
705人間七七四年:2011/06/19(日) 15:51:01.35 ID:5xTnPYFn
平家物語の那須与一が扇射た時なんかもそんな感じの表現だったよな
軍記物なんかでの表現様式の解説ってとこかね。
706人間七七四年:2011/06/19(日) 16:16:00.33 ID:YaR/5ZjH
確かにミスターっぽいなw
ちゃんと本も読んで勉強しろってことなのかね
707人間七七四年:2011/06/19(日) 16:56:41.46 ID:AVTWE66B
こんな事も当時の教養の範囲なのかよ・・・
708人間七七四年:2011/06/19(日) 17:04:58.31 ID:xwjfiywu
氏素性のはっきりしてる古い家だからこういう教養があっただけじゃないの
709人間七七四年:2011/06/19(日) 18:01:32.91 ID:AVTWE66B
いや、矢音の表現の仕方なんてどうでも良いだろっていう・・・
710人間七七四年:2011/06/19(日) 18:14:12.44 ID:5xTnPYFn
まあ様式美って奴だ、突き詰めればそりゃ意味は無いがw
711人間七七四年:2011/06/19(日) 19:21:52.43 ID:MM2gi0ua
教養のない奴使ってんな、pgrされたくなかったんじゃね
名家の陪臣だし下らないことであげつらわれるとかの心配あったのかもしらん
712人間七七四年:2011/06/19(日) 20:09:31.79 ID:D7MmESaL
何気ない雑談でも知的な表現を心がけると上司の評価が変わってくるって事か
713人間七七四年:2011/06/19(日) 20:57:53.42 ID:5xTnPYFn
ギャップ萌えの一種かもしれんな
714人間七七四年:2011/06/19(日) 23:53:45.31 ID:XNf8RfYJ
モノマネとかうまそうだな 道雪さん
715人間七七四年:2011/06/20(月) 02:24:10.90 ID:8h05fy97
平家物語にも「ひょうふ」という表現があったな。那須与一のところだったかな。
716人間七七四年:2011/06/20(月) 02:31:15.38 ID:oisJgxDX
こう言うのってやっぱり小笠原流とか伊勢流などの武家故実に纏められているのかな?

でもミスターみたいにフリ○ンで雷切の素振りしている鬼道雪はいやだなw
717人間七七四年:2011/06/20(月) 16:02:57.82 ID:ErNDm2BD
「太腿に摩羅がバチーンと当たるのが刀の良い振り方」
とか言い出すのか…
718人間七七四年:2011/06/20(月) 21:54:57.53 ID:8VVy8ye5
先日こんなニュースがあった

仙台伝統のすずめ踊り、市民らの要望で「復活」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110619-OYT1T00334.htm

伊達政宗の時代より続く「すずめ踊り」が、震災からの復興を目指す仙台の方々を
勇気づけている。

ところでこの「すずめ踊り」だが、これが生まれた経緯は此の様なものである。

関が原の翌慶長6年(1601)、伊達政宗は新たな本拠地を仙台に定め、ここに青葉城を建設する。
この時政宗はこの青葉城の石垣建設のため、泉州堺より石工を呼び寄せた。
後にhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1225.htmlで見られるとおり、土地改良のため
毛利家牢人川村重吉を重用したことからも解るように、伊達家はの木技術は、能力が
低かったようである。

ともかくもその石工などの活躍もあり建造は進み、慶長8年、政宗はじめ伊達家の面々が
青葉城に移る「仙台城移徒式」が行われた。
祝福の雰囲気の中、石工たちのうち4名が、政宗の前で浮かれて跳ね踊った。
即興であったと言われるが、もしかするとその故郷、堺の踊りであったかも知れない。
これがすずめ踊りの原型となったという。

と、その踊りが仙台に定着したのは何故か。

青葉城の石垣工事が済むと、伊達政宗は石工たちにこう伝えた。

「大変ご苦労であった!ところでお前たちには石垣を造ったことで、我が城の構造という
最重要軍事機密をすっかり知られてしまった!そのため帰国することは禁じ、生涯、
この仙台に住んでもらう!」

とまあ、そんなわけで堺の石工たちは仙台に抑留。このため彼らが政宗の前で踊った踊りも、
仙台にて継承された。
しかしその踊りは色々な経緯を経て、今も仙台の象徴の一つとして、仙台市民の心を
励まし、楽しませているのである。

仙台、すずめ踊りの由来である。
719人間七七四年:2011/06/20(月) 22:18:36.82 ID:lh0IdpsM
悪い話スレだしもしかしたら石工は口封じで消されるのかと思った
抑留されたとはいえ技術の高い職人なら大切にしてくれただろうし
よかったともいえるね
720人間七七四年:2011/06/20(月) 23:56:10.92 ID:7vNDwuFZ
津和野でも似たような話があって、あっちは殺されてたよな
721人間七七四年:2011/06/21(火) 01:49:41.63 ID:syROGGE2
穴沢新右衛門俊光といえば、蘆名家の対伊達最前線たる岩山城を居城とし、輝宗、政宗と
長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。

さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、そこに馬場を作って毎日
馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、鷲羽の尖り矢を手に取るとその領地である大塩を
ただ一人で立ち出て、山伝いに桧原へと侵入、そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の
影に隠れ、政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば一矢で仕留めんと待ち構えた。

その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。

が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、彼は三度馬を走らせたが、その度に
馬場の中頃で馬を返し、ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。

やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、穴沢俊光は筆を取り出して矢に

『さても政宗は御運の強き弓取りである!今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を
進上つかまつったというのに!穴沢善右衛門尉』

と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。

翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、

「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」

と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、自身は米沢へと帰っていった。

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を引き下がらせる、と言うお話。
(会津資料叢書)
722人間七七四年:2011/06/21(火) 14:36:13.52 ID:FJKKZAuV
本当に暗殺したいなら何日も粘れよw
723人間七七四年:2011/06/21(火) 15:19:30.25 ID:cVOyK4nm
一番の目的は名を挙げる事で、暗殺はそのついでだろw
724人間七七四年:2011/06/21(火) 20:57:47.20 ID:cJ9TVuSS
なんか既出な気がする
725人間七七四年:2011/06/21(火) 23:57:48.82 ID:RNmPWndL
その後政宗に一族皆殺しにされてるよねwww
726人間七七四年:2011/06/22(水) 00:16:38.32 ID:w0d/BnPG
文明11年、山名政豊の分国・因幡で騒乱が起こった。
私部(きさいべ)郷の地頭・毛利次郎(森二郎)が叛乱し、たちまち因幡一国を
ほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したのである。

とても捨て置けるような状況ではない。
この時在京していた政豊は一刻も早く但馬に帰国し、乱の鎮圧に向かおうとした。

だが・・・
政豊のもとに、次から次へと引止めの使者がやってくるのである。
細川政元の母(政豊の伯母)、政所執事・伊勢貞宗、
ついには日野富子までが政豊の屋敷を訪れ、知行地を与えるとまで言って
その帰国を慰留しようとした。

すべて、仇敵・赤松政則の策謀であった。
毛利次郎を調略し、強力に援助したのも、帰国引き止めの工作も、すべて。

山名政豊はどうにか慰留を振り切って但馬に帰国すると、伊勢貞宗に使者を送って
将軍家の態度を非難するとともに、兵を整えて因幡へ出兵。
苦戦をしながらも、やっとのことで毛利次郎を放逐することに成功したのである。
727人間七七四年:2011/06/22(水) 00:19:58.97 ID:w0d/BnPG
毛利次郎の乱を平定した山名政豊は、赤松政則が伯耆守護として押し立てた
山名元之を美作へ追い払い、そして文明15年、政豊の逆襲が開始された。

8月、政豊は本拠・但馬此隅山城を出陣、播磨・備前・美作へ侵攻したのである。
(聞、赤松分国三ヶ国山名打入云々)

しかし・・・。

ガラガラ!ゴォォーン!

出陣の翌日のことであった。此隅山城下は突如大音声に包まれたのは。
城に隣接する但馬一宮・出石神社の鳥居の横木が突然落下したのだ。
(但馬一宮鳥居、去月横木落云々、件日、山名播州出陣門出之翌日也云々)
何という不吉であろう・・・。

三条西実隆の耳にまで達し、その日記に書き残された縁起の悪い話。

播磨に攻め込んだ政豊は一時は政則を大いに破るも、長い戦いの末に惨敗を喫し、
結局何も得るところなく帰国することになるんですよね。
728人間七七四年:2011/06/22(水) 03:32:08.67 ID:YJ1UTNgV
赤松と山名って無茶苦茶仲が悪いよね
729人間七七四年:2011/06/22(水) 07:25:48.90 ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。
730人間七七四年:2011/06/22(水) 10:41:02.24 ID:Qcq6L18b
>>724
本当にそうなのか調べてから言えよ、ぼけ
731人間七七四年:2011/06/22(水) 14:00:50.45 ID:H9x5QhIU
732人間七七四年:2011/06/22(水) 16:14:34.36 ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。
733人間七七四年:2011/06/22(水) 17:33:05.53 ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた
734人間七七四年:2011/06/22(水) 20:08:12.79 ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし
735人間七七四年:2011/06/22(水) 23:28:02.05 ID:NYISfxRj
落ち武者狩りはここぞとばかりに襲ってくるからなぁ
戦国の習いとはいえ、弱いものにたかる姿はなんとも・・・
736人間七七四年:2011/06/22(水) 23:38:26.85 ID:bSqxA0UK
戦場近くの土民だって合戦で家田畑荒らされたり
妻子襲われたりした復讐の念がこもってたりするからなあ
(無論一方的に稼ぎの場にしてる要領のいい奴もいるだろうけど)
737736:2011/06/22(水) 23:40:11.70 ID:bSqxA0UK
お、IDが同じだ
一応>>734とは別人ね(同じイモバかな)
738人間七七四年:2011/06/23(木) 00:01:42.90 ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。
739人間七七四年:2011/06/23(木) 00:05:43.01 ID:J1pTZL3G
穴山信君殺したのは100%家康
740人間七七四年:2011/06/23(木) 11:21:46.74 ID:PkeYVGlP
穴山信君を討ちとったのは
オチム・シャガリ(??〜??)
6月2日に梅雪を討ちとり、6月13日には明智光秀を討ちとっている。
741人間七七四年:2011/06/23(木) 14:19:16.37 ID:VKHN7HFX
弱い者には滅法強いあのオチム・シャガリさんか。
742人間七七四年:2011/06/23(木) 14:53:23.62 ID:/YBxdkxC
そういうと最低の人間みたいじゃないかw
ただの掃討戦の別称なのにw
743人間七七四年:2011/06/23(木) 15:12:41.16 ID:ShSLxAW7
大将首を取りながら褒美だけいただいて、仕官もせず竹藪に消える。
そんなオチム・シャガリさんパネェェ
744人間七七四年:2011/06/23(木) 15:33:00.71 ID:gu5VAv7J
オチム・・・越智氏の出でござるか?
745人間七七四年:2011/06/23(木) 16:15:23.34 ID:tvgINggI
越智・十市・箸尾・筒井の大和四家のひとつ、伊予の越智氏の裔?
オチム・シャガリ殿も侮れぬな
746人間七七四年:2011/06/23(木) 16:59:25.36 ID:2gkP1+6d
オチム一族は源平合戦のころから暗躍してるからな
747人間七七四年:2011/06/23(木) 17:53:38.17 ID:OqWWxrgG
気が付くと常に勝者側に居るオチム家か
748人間七七四年:2011/06/23(木) 19:32:41.44 ID:9dr0YFDU
        r:::::::::::::::::::-、_
      ,r::::::::::::::::::::::::::::::::::`-、
   ,.r:'::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヾ
  ,ミ:::::::::::::::r''´  ̄ ̄` ‐-、:::::::::i
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  `i:::::::::::::i' ;:'',rr:j=、:. rt:j、.j::::;イ
  ヽ:、:::::;:!.  `ニ´.::::. i::´  l'"
    ヾミ'l     .::. 、__,.  .l
     ,7、    .: __  !
_,. - ' ´ .i ヽ   ` ニ ./
      l 、  ヽ __ ,.r' -、
      i ヽ    ,イ
  オチム・シャガリ [Osim Shagari]
    (15??〜15?? 日本)

戦国時代に活躍したと伝わる謎の人物。
穴山信君や明智光秀を討ち取るなどの活躍をした農民。
彼は忍者という説もある。
749人間七七四年:2011/06/23(木) 20:08:12.02 ID:hGK2Gaf9
名前からして東欧系か・・・?
どういう経緯で日本に渡来したのか気になるな。
750人間七七四年:2011/06/23(木) 20:35:21.88 ID:hEPi+VbP
Shagariはアフリカ系っぽいぞ
751人間七七四年:2011/06/23(木) 20:38:52.15 ID:/QWUTzUO
バガボンドで武蔵と小次郎に粉砕されたような
752人間七七四年:2011/06/23(木) 20:42:11.77 ID:AVVeKCzY
越智武者所雅利
753人間七七四年:2011/06/23(木) 20:45:33.85 ID:sdzH1zIx
西〜東南アジア系かも知れんぞ
754人間七七四年:2011/06/23(木) 21:43:58.56 ID:n0FzhcoV
いやいや、風魔小太郎みたいに頭首が名を世襲するんでしょ
755人間七七四年:2011/06/23(木) 23:26:04.44 ID:colwvU2r
なんだこの流れはw
756人間七七四年:2011/06/24(金) 09:45:02.11 ID:jYo7QNq1
普通にモンゴル系だろ
つまり、義経の末裔が日本に戻ってきていたのだ
757人間七七四年:2011/06/24(金) 13:13:09.82 ID:ZpnMCqRT
オーチン・シャガールというフランス系の可能性もあるだろ
758人間七七四年:2011/06/24(金) 13:22:28.17 ID:TBf6pdOb
いつまで続けんだよ、カスどもが
759人間七七四年:2011/06/24(金) 13:24:50.65 ID:NWlAAgWA
Shagari で画像検索をかけると農作業で日によく焼けたシャガリ一族がひっかかるな。
760人間七七四年:2011/06/25(土) 08:19:21.30 ID:9OaUQx/F
鍬鋤で戦場を駆け抜けた一族か
でも当時の農機具は木製だよな?人を殺すにはちとしんどいな
761人間七七四年:2011/06/25(土) 09:15:51.28 ID:+wPy8F18
天正12年(1584)11月、伊達政宗の桧原侵攻により、それまで伊達勢を防ぎ続けた岩山城も
ついに陥落。城主・穴沢新右衛門俊光は一族もろとも自害して果てた、と云う。

しかし俊光の長男・善右衛門俊次(広次)はその時たまたま小田原にあったため無事で、
その後蒲生氏郷に仕え会津に帰還した。

さて、そんな穴沢善右衛門が磐梯山にある温泉に、妻子を連れて湯治に来たときのことである。

善右衛門は湯治場の下男を連れて山の麓にある池に釣りに出かけた。
その日はいつになく魚がかかり、その面白さに二人は宿に戻るのを忘れ、日が暮れたため
近くにあった仮小屋に泊まった。
小屋の中で釣った魚を焼いて食べ、よもやまの話などをしていると、ふと、小屋の戸の方から
こちらを見ている人間が居ることに気がつく。なんと、それは善右衛門の乳母であった。

善右衛門は大いに驚き彼女を中に招き入れ、魚を再び焼いて与えると、乳母は嬉しそうにむさぼり食べた。
そうしているうちに夜も更け、3人も川の字になって眠る。…ふと、善右衛門は猫の声が聞こえる事に
気がつく。目を覚まし傍を見ると、そこにいたのは乳母はなく、真っ黒で巨大な猫であった。

「こんなところに我が乳母が来るわけもないと怪しく思っていたが、さてはこいつが磐梯山に棲むという
化猫の魔物か!」

善右衛門は刀を取って振り下ろすと、魔物は一声上げて、絶命した。

翌朝、善右衛門と下男が湯治場に戻るため山道を登っていると、駆け下りてきた湯治場の主人に
でくわした。主人は混乱した体で善右衛門に告げる

「あなたの奥様の姿が、突然見えなくなりました!」

すぐに近隣の村人にも頼み、辺り一帯の捜索をした。そして2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に
妻が死体となって引っかかっているのが発見された。

その木の近くには、年老いた木こりがいた。善右衛門は木を伐って妻を降ろしてほしい、と頼む。しかし木こりは
「ならばあなたが今挿している刀を貸してください」と言い出す。善右衛門は不思議に思いそれを断ると
きこりはたちまち、先日のものよりさらに大きな黒猫へと姿を変えた

「二日前お前が殺したのは我が妻であった!その怨みによりお前の妻を噛み殺し木にかけ、ここで待って
いたのだ!」

と叫ぶと木を駆け上がり善右衛門の妻の死骸を咥え、雄国山中へと飛んで行った。

善右衛門は驚き、桧原より一族を呼び寄せ猫が飛んでいった方向を探す。
そして磐梯山の西、雄国沼南東の岩場にある穴に、善右衛門の妻の死骸を咥えたまま、目を見開き
睨みつける黒猫の姿が発見された。
善右衛門とその一族は穴を取囲み、善右衛門が一刀のもとに黒猫を斬り殺す。こうして彼は妻の
亡骸を取り返した。

彼が黒猫を切った刀は、穴沢家初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀であったが
この後から『猫切丸』と名づけられた。そして黒猫が斬られた岩は『猫石』、その山は『猫魔ヶ岳』と
呼ばれるようになったという。

磐梯山に伝わる、猫魔の黒猫の伝説である。
762人間七七四年:2011/06/25(土) 10:54:12.94 ID:j+KHzWlE
>>760
源氏の兜ェ…
763人間七七四年:2011/06/25(土) 15:52:38.95 ID:MsCShzcp
>>761
化かした事以外特に悪事もしとらんし旦那猫が報復に来るのしょうがない気もするなぁ
764人間七七四年:2011/06/25(土) 16:46:21.87 ID:hIIeBjYi
戦国武器○○切りシリーズに新たな1ページが刻まれた
効果は猫科属性の敵に大ダメージだな、鍋島さんが喜びそうな武器だ
765人間七七四年:2011/06/25(土) 17:13:51.88 ID:LMM+bejz
化猫さんも凝った真似せずに普通に近寄っておねだりすれば魚くらいもらえただろうにな。

あと「猫切丸」っていまいち強そうじゃないよね・・・
766人間七七四年:2011/06/25(土) 17:26:52.59 ID:iIXHFcvK
もしかしたら猫魔スキー場の事かな。
イメージキャラの黒猫は可愛いのに。
767人間七七四年:2011/06/25(土) 17:59:50.15 ID:i4u/sEmt
猫と雖も400年も経てば立派なゆるキャラですね
768人間七七四年:2011/06/25(土) 22:13:06.84 ID:XdLaq3iV
磐梯山というか、猫魔ヶ岳というまんま化け猫伝説の山が磐梯山西側にある。
そこにあるのが猫魔スキー場。伝説にあやかったねこまんまが食堂メニューにある。
769人間七七四年:2011/06/25(土) 23:15:48.50 ID:LMM+bejz
現代人の商魂がたくましい話ですね
770人間七七四年:2011/06/26(日) 01:19:47.23 ID:Jyw2RwsQ
大学の講義で聞いた話


京都を追放された足利義昭は河内の三好氏の下に落ち延びることになった。
その際、信長は羽柴秀吉を護衛として義昭に付けた。戦に負けてろくな戦力のない義昭一行の道中は危険極まりないからである。

秀吉の護衛のおかげで、義昭は大過なく目的地の若江城まで向かっていた。
「秀吉dクス。このまま城まで頼む。」
「悪いけど信長さまにこの辺で帰っていいって言われてんだwwwあと自力で頑張ってwww」
「えっwwwちょwwwおまっwwww」
なんと秀吉の軍勢は三好に義昭を引き渡す前にさっさと帰ってしまった。

あたりには山賊まがいの荒くれ者がうようよしていた時代である。
義昭一行がようやく三好の下にたどり着いた時には身ぐるみはがれてぼろぼろだったとさ。

教授の言うところによれば、秀吉はこの件を気にしていたので天下を取ってから義昭を悪いように扱わなかったとかなんとか。
771人間七七四年:2011/06/26(日) 06:42:40.74 ID:PCFq7I1k
最後まで面倒みておけば 養子の件もOKだったかも
772人間七七四年:2011/06/26(日) 10:16:19.29 ID:I1ieeZ7O
この時だったか信長は義昭を殊更に着飾らせて立派な輿に乗せ
担ぐ者や従者はわざと貧相な者を選んで暗君・暴君ぶりを演出し
見物人の怒りを煽り信長の正当性を認めさせようとしたとか
何かで読んだ覚えがある
773人間七七四年:2011/06/26(日) 17:23:54.46 ID:tdjm7QRm
昌山公ついでに

永禄12年(1569)4月、新将軍・足利義昭が新御所である二条城に入った。

1月の三好三人衆の本圀寺襲撃を受け、70日あまりで建築された急造品だが、金の瓦が軒を連ね、銘木・巨石が
庭園を飾り、桜並木が馬場に並ぶ豪壮な御所に義昭は満足し、手づから信長に杯と太刀を下賜した。

それから間もなくしての事、御所の門前の石畳の上に、割れたハマグリの貝殻が九つ置かれていた。
「どういう意味だろう」とみな首をひねったが、ただ一人信長のみは、この話を聞いて苦笑いを漏らした。

つまり、
九つの貝が欠ける→くかいかける→公界欠ける(世間の常識に欠ける)

の意味であり、
『 世間知らずのボンボンが新宅もろうたからて、成り上がりの尾張者に良うも騙されるわww 』

という京童一流の皮肉で、落書の様に直接的な批判でないだけに責任者の追及もできず、信長は苦笑したのだ。
(戴恩記より)
774人間七七四年:2011/06/26(日) 18:25:42.26 ID:qa114GoS
おかざりでも反乱起こさず征夷大将軍でいればよかったのにな
もしそのまま世襲して存続してれば江戸幕府もなかったかも
徳川も関白になったかもしれん
775人間七七四年:2011/06/26(日) 18:54:46.19 ID:V6rKFqJA
信長も当初は足利将軍家を担ぐつもりだったんだよな
義昭があまりにも面倒な動きをするから足利幕府を潰す形になったけど
ありゃ信長としても不本意な結果らしいから不思議
776人間七七四年:2011/06/26(日) 19:06:43.34 ID:oRN2n1N1
畿内を完全に安定させる前に、せっかく担いできた御輿を捨てざるを得なくなった信長さん、
「御輿は軽くてパーがいい」
と思ったかどうか。
777人間七七四年:2011/06/26(日) 19:11:10.17 ID:k9duF8mx
>>774−776
そのへんの事情は最近出た「戦国時代の足利将軍」を読むと解りやすいと思う。
778人間七七四年:2011/06/26(日) 19:28:54.56 ID:RJtwKEpJ
あまり知られてないかもしれんが、信長は義昭追放後に息子の足利義尋を推戴している
779人間七七四年:2011/06/26(日) 20:35:16.98 ID:BohoYIwT
ただ、結局将軍は無視して、直接天皇の権威を利用する方向に移ってるよね。
780人間七七四年:2011/06/27(月) 16:54:32.22 ID:BCizEo5P
加藤清正「およそ下の者は上の者を学ぶ」キリッ!

しかし上の者(清正)が全て手入れして自分で何でもやってしまっては下の者は、
全く学べない・失敗しない で人材が全く育たない悪い話し
781人間七七四年:2011/06/27(月) 20:17:49.35 ID:q8ygSXuU
ちょっちゅね
782人間七七四年:2011/06/28(火) 01:20:19.43 ID:R3Ex85MO
>>780
世界史板某スレで「楽をするなら」理想の上司 、と言われてたな
ただし息子に代替わりする前にお暇しないとw
783人間七七四年:2011/06/28(火) 08:41:02.08 ID:i7Sb0jlp
ある物寂しい日のことである。
黒田如水は心安い御伽衆の者たちだけとで、こんな話をした。

「我が家中の子供たちは皆、利発そうに見えるな。甲斐守(長政)は本当に幸せだ。」

そんな事を言って喜び、御伽衆の者たちもそれぞれに能いと思うところを誉めて、座敷の空気に
合った話をした。
と、そんな所に如水

「ところで誰々の子の何某は見かけがとても鈍重そうだ。あれは内心、うつけじゃないかと思っている。」

と言い出した。これには御伽衆の者たち、何某を気の毒に思い

「御意のとおり、見かけはいささか鈍重で、うつけた様に見えるかも知れません。ですが内心はとても
活発な方で、少しも物事をぬかるような事はなく、底堅い性格でございます。」

如水これを聞くと

「さてさて、惜しいことかな。
既に主人の心を知り、主人にも心底を能く見られた者ならば、見かけが鈍重で実は底堅いと言うのも、
主人に愛され、その身のためにも良いだろう。

だがそういう主人との信頼関係が出来ないうちから、見かけがたわけているのは損の多いことだ。
内面に利発さを持っているのなら、その表面と内面をひっくり返せと言ってやれ!
内心の利発さなんてものは、後から入ってくるよ。
まずは表面に見える人品が確かであることが重要なんだ。

だいたい惜しむべき利発を心の底に隠していちゃあ、一体何の用に立つんだい?」

そういって笑ったそうだ。

黒田如水の語る、見かけと内面についての話である。
(古郷物語)
784人間七七四年:2011/06/28(火) 21:41:11.93 ID:M5sOdbQv
うーむ。
785人間七七四年:2011/06/28(火) 21:58:04.68 ID:1OzaalEx
ふーむ
786人間七七四年:2011/06/28(火) 22:00:19.52 ID:MDHvXnls
直家「うーむ」
787人間七七四年:2011/06/28(火) 22:02:36.05 ID:f/TKZhK2
ずいぶん手のこんだ物言いだことw
如水って絶対友達少ないタイプだな。嫌味ったらしくてたまらん
788人間七七四年:2011/06/28(火) 22:22:11.90 ID:hUoiLMkO
臆病者こそ、わが家に仕官せよ。最強の戦士にして見せよう。
馬鹿者こそ、われに仕えよ。神算鬼謀の人に育てよう。
愚鈍なる者こそ、わが元で励め、三国一の賢者にして見せよう。

by 立花道雪











クロカンは捻り過ぎて、失敗するタイプ






789人間七七四年:2011/06/28(火) 22:31:17.08 ID:8uopLK89
何か別の人で、同じ概要の話無かったっけ。
「内面が優れてても、外面がダラしないんじゃ意味無いよ」って。
790人間七七四年:2011/06/28(火) 23:55:10.84 ID:qpiPS7kb
ぶっちゃけ、人間見た目だしなぁ
と紛う事無きブサメンが呟いてみる。

つかやっぱ第一印象ですよ、色々と。
791人間七七四年:2011/06/29(水) 00:06:12.34 ID:DXSMICdf
>>788
いや、考えがポンポン出てきて話がややこしくなるタイプではないかな
猛烈な論理と発想力があるんだけど、思考が高速で飛躍しすぎちゃうんだよね

小早川に「お前さんは賢いけど即断癖があるね」みたいなこと言われてたし
792人間七七四年:2011/06/29(水) 00:32:19.43 ID:uxckojW9
劉邦の陳平への評価に何となく近いかな

知恵は有り余ってるけどこいつ一人に全部任せるのは危うい、みたいな。
793人間七七四年:2011/06/29(水) 01:15:43.66 ID:yk+nYHkh
>>789
これかな?

土井利勝、人の印象
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4143.html
794人間七七四年:2011/06/29(水) 01:51:23.45 ID:9BXiDO33
本当に如水は自分で「ぬからぬ者」というだけの事はあるんだが
「能ある鷹は爪を隠す」のように爪を隠しているつもりなのに
爪がでか過ぎて隠しきれていないという感じのどこかひょうきんな所があるw
795人間七七四年:2011/06/29(水) 15:41:45.27 ID:0tuxD236
>>790
今の就職活動でも面接で一番大事なのは
外見含めた第一印象だっていうからな

如水さんがどこかひょうきんなのは同意w
796人間七七四年:2011/06/29(水) 17:21:05.98 ID:hoKJeHpr
黒官の外見って有岡城での幽閉生活でかなり酷いことになってたんだっけ?

宣教師の何かで「日本人は傷痕が残るのを誇る」みたいなのを読んだ覚えがあるけど
歴戦の武士の外見は現代からすると
かなりおどろおどろしかったんだろうか。
797人間七七四年:2011/06/29(水) 18:12:57.25 ID:hoI4lCBT
井伊直孝の金の使い方

井伊直孝というと、自身や家臣達に質素倹約を徹底した事が度々いい話・悪い話スレに上がっている。
そんな彼の価値観を偲ぶ逸話がある。

ある日、とある幕臣が金に困り、手持ちの高麗茶碗を七十両で手放したいと直孝の元にやってきた。
この幕臣は直孝に憚ったのか、茶碗と共に小堀遠州の書翰を数冊渡した。

直孝は承知してこれらを買った。だが幕臣が帰った後、高麗茶碗を手に取って語った。

「わしはこの茶碗が欲しくて七十両を払ったわけではない。あの男の貧窮を助けねばならぬと思ったから買い取ったのだ。
 そもそも、こんなものがなければ、かの者はこんな目に合わずに済んだのだ。」

そう言うと直孝は茶碗を庭石目がけて投げつけ、小堀遠州の書翰も火にくべて燃やしてしまった。

(家光・。十一名臣/徳永真一郎より 出典元不明)

>>796
現在進行形で引きこもってるが、たまに社会復帰セミナーで出会う奴は大概肌が荒れてたりする。
日光が当たらなかったり、運動不足なんかで新陳代謝が悪くなるきらいはあるな。
798人間七七四年:2011/06/29(水) 18:16:26.67 ID:tIRRXuOS
まーた文化財クラッシャーか!
799人間七七四年:2011/06/29(水) 19:31:08.90 ID:58mWrJu6
ああ・・・好事家の悲鳴が聞こえてくる
800人間七七四年:2011/06/29(水) 19:54:19.62 ID:9BXiDO33
織部正「俺の作った大井戸茶碗(須弥)や流れ圜悟とて良いものでござるよゲヒヒヒヒ。
    >>797殿、見事な破調の美にて候」
801人間七七四年:2011/06/29(水) 21:27:56.14 ID:g4WGZn07
832 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[] 投稿日:2009/12/06(日) 04:49:07 ID:t3aOTCC3
(´●ω・`) 小十郎よ…、わしの隻眼はものを見ることは出来ぬ…。

(`●ω・´) だが!

833 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:10:46 ID:4X2XJOM/
(`●ω●´) 何も見えぬ!

835 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:47:15 ID:jhpLGOp1
┌●―●┐
(`3ω3´)
802人間七七四年:2011/06/30(木) 00:49:54.08 ID:kfCKUXv9
さくざさんのマンガ、終わっちゃったの?
元の場所にないし、ググったら来月発売の2巻に(完)って……
まだ出てきてない逸話いっぱいあるのに
803人間七七四年:2011/06/30(木) 02:06:10.63 ID:4vvT1gjs
西条の?
媒体自体なくなるらしいね。

キガタも終わっちまったのに。
804人間七七四年:2011/06/30(木) 13:47:42.40 ID:v9LWLSip
>>797
確かに彦根藩って大藩の割に伝来の茶器に名物は少ないんだよな。
(幕末には有名な茶人大名が出てるけど)
直考がらみの茶器ってこれくらいかな。
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/items/index.html
805人間七七四年:2011/06/30(木) 13:49:12.04 ID:v9LWLSip
>>804追記
「宮王肩衝茶入れ」
806人間七七四年:2011/06/30(木) 17:08:07.51 ID:hFy0+Ryr
慶長16年(1611)3月、加藤清正は徳川家康と豊臣秀頼の二条城会談を成功させた。
だが同年5月、熊本に帰る船中で体調を崩し、それから病状は日々悪化。熊本に着城して2,3日過ぎた頃には
舌が不自由になり物を言うことさえ出来なくなった。

医師たちは加藤家の重臣たちに「脈も宜しくなく、回復されるのは難しいと思います」と伝える。
これにより加藤家一門、並びに城代を勤める重臣たちが緊急に集まり話し合いをした。そして

『清正が本復されるということはもはや、十に一つと言うのも難しいほどの状況である。
未だ生きておられるうちに、駿河まで使者を遣わして、清正の言葉として

「私の病状は次第に重くなり、今回ばかりは助からないものと考えています。私が相果てた場合、
我が嫡男である虎藤(加藤忠広)は未だ若年(当時10歳)でありますれば、どうか宜しき様にお頼み申し上げます。」

これを本多上野介(正純)殿まで申し遣わすべきだ』

一同そうするのが良いと皆賛成し、これは決まった。
ところがである。一体誰を使者として遣わすべきか、という所でこの話はいきなり行き詰まった。
皆このように思い、自分が行くと言い出すものが居なかったのだ。

『もし殿が回復なされた場合、「自分に勝手に、誰の指図でこの者を遣わしたのだ!?」と尋ねられたら
一体どうすればいいのか?』

これには理由がある。清正は常々、家の運営を任せる家老というものを置かなかった。
自分に近い一門衆にももっぱら支城を任せており、全ての仕置は清正が自身で言いつけていたのだ。
加藤家では、清正の命令によらずに何かをするという事が、ありえなかったのである。

一門・重臣の者たち困り果て、ついに入札(投票)によって使者を決めよう、と言うことになった。
そして入札の結果、飯田覚兵衛、和田備中の両名に、その場の全ての票が集まった。
そこで飯田覚兵衛には駿府への使いを、和田備中には、当時清正と同じく重病に陥っていた紀州の
浅野幸長の元への見舞いに遣わせる、と決まった(この程度のことすら清正の命令なしには決められなかったのである)

しかし和田備中はこれに
「皆様の仰せに背くわけではありませんが、私は長いあいだ江戸詰めをしていて、それから紀州に使いに行き、
ようやく熊本に帰ったばかりの所です。その上今度は大事の御使でありますから、皆様方どうかこの事は
御免あるように。」

達てその役を辞そうとした。だが一門の者たちは
「皆が入札によって、そなたと角兵衛を遣わせると決めたのだ。この上はもし殿が御本復されたとしても、
その是非を仰せになるような事はない!一刻も早く支度をして、出発するのだ!其方の帰ってくるのを
首を長くして待っている」

こうして飯田・和田の両名は支度をして5月18日卯の刻(午前5〜7時)、清正の病床に伺候して枕元近くに寄り、
今回の使者の件を申し上げる。これに清正は一言も発すること無く、目を少しだけ開き、ただ頷きながら
涙ぐんでいた。

これを見て両名も、今回の使いが清正との、長き別れの暇乞いとなると察し涙をぬぐい、
その場から使いに出発した。

加藤家、使者を入札で決める。というお話。
(續撰清正記)
807人間七七四年:2011/06/30(木) 17:16:56.85 ID:Jy5VB5Be
ワンマンも善し悪しだよな
808人間七七四年:2011/06/30(木) 17:17:19.11 ID:lXeY4ZXM
小学校の学級会みたいだなww
809人間七七四年:2011/06/30(木) 17:56:55.68 ID:hLvWxR/9
毒殺死じゃなくてやっぱり過労による病死だと思う
810人間七七四年:2011/06/30(木) 18:01:24.67 ID:4F7OT/lL
>>809
つーか二条城会見が3月、清正の発病が5月、死んだのが6月24日だから、
そんな異常な遅効性の毒薬はこの時代存在しないわなw
811人間七七四年:2011/06/30(木) 18:03:55.36 ID:oEytGaTb
加藤家没落の原因はこれか
812人間七七四年:2011/06/30(木) 19:57:40.61 ID:S+aTFjav
清正の一門て誰だ?親戚とか?
813人間七七四年:2011/06/30(木) 20:07:24.22 ID:4F7OT/lL
>>812
この当時の清正の一門(血縁)は加藤正方、片岡吉方、加藤正直、加藤正次、
中川寿林斎、中村将監あたりか。
814人間七七四年:2011/07/01(金) 00:16:12.21 ID:KX1RcR6S
天正19年(1591)といえば豊臣秀吉が、その前年には小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げ、
彼の権威はまさに絶頂にあった。
が、その一方で2月には千利休を切腹させ、8月には愛息鶴松が夭折するなど、その陰りも見せ始めた
頃である。

さて、その年の11月、「長せ河忠実」という人物が、京で詠まれた落首を書き写したとされるものが
今に残っている。それは、以下のようなものである。


・石普請城こしらえも要らぬもの 安土小田原見るにつけても

・寺々の夕べの鐘の声聞けば 寺領取られて何としようや

・村々に乞食の種も尽きずまじ 搾り取らるる公状の米

・まつせ(末世)とはべち(別)にはあらじ木の下の さる関白を見るにつけても

・おしつけてゆえばゆわるる十らく(聚楽)の 都の内は一らくもなし

・十ぶんになればこぼるゝ世の中を 御存知なきはうんのすへ哉


秀吉の絶頂期において、彼の政権への批判の声の記録である。
815人間七七四年:2011/07/01(金) 01:06:37.23 ID:xt0rHY0p
二条河原の落書もそうだけど、ある程度教養がないと書けないよね
816人間七七四年:2011/07/01(金) 02:22:58.67 ID:RxK47LUQ
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817人間七七四年:2011/07/01(金) 02:52:00.00 ID:JTgzC9mD
>>816
何だこりゃ、落書かw
818人間七七四年:2011/07/01(金) 04:03:06.72 ID:bFBErjJD
>>810
破傷風なら確実では無いが狙って発病させる事は可能だとは思う
それなりに条件が必要だけど発病方法とかは当時でも分かってんだよな
819人間七七四年:2011/07/01(金) 13:50:36.74 ID:K5lLW/SQ
めちゃくちゃ細い針みたいな刃物で内臓を刺して、腹膜炎起こさせた説は誰の小説だっけ
820人間七七四年:2011/07/01(金) 14:14:56.29 ID:Jevijf8l
隆慶一郎
821人間七七四年:2011/07/01(金) 19:04:12.12 ID:ky7G3nda
しかし清正毒殺説に関しては、何故か揃いも揃って幕府がやったことにされるけど、
実際にはあの時清正に死なれて困ったのは豊臣よりも幕府の方だわな。

清正は二条城会談という、豊臣が徳川に屈服する儀式の実現に奔走し、成功させたわけで、
つまり豊臣を徳川の下位に位置付け、抑えこむことが出来たのが清正だった。
清正の死で幕府は豊臣家をコントロールする最大のツールを失った。
822人間七七四年:2011/07/01(金) 19:14:24.18 ID:B1EpI9XY
江戸期の豊臣恩顧大名の処分を見るに、
豊臣65万石という巨大な不安要素をそのまま保存してコントロールする気だったとは到底・・・
清正が死ぬ死なぬに関わらず大阪が潰されるのは既定路線だっただろ
823人間七七四年:2011/07/01(金) 19:26:14.54 ID:Y0uM5vyE
大抵は、豊臣に無理難題吹っかけて暴走させるのが目的だからコントロールされちゃ困るって理屈だな。

かと言って毒殺っは飛躍しすぎだけどな、清正クラスの大物暗殺なんて万が一にでも露見したら
それこそただじゃ済まんだろう。紀州徳川頼宣の義父でもあるわけだし身内にも容赦ねえ、って思われたら
その後の豊臣との戦で豊臣に傾く奴も出るかもしれんだろう。
824人間七七四年:2011/07/01(金) 19:46:25.58 ID:7/KU4e+h
あの頃はまだ秀頼を大坂城から他所に移らせて
豊臣を一公家として生かしておく道もあったから
何が何でも潰す方針じゃあなかったと思うよ
清正生きてたら渋々でもその方向に尽力した可能性高いし
825人間七七四年:2011/07/01(金) 21:13:36.55 ID:qQMNH/zQ
大した石高じゃなかったせいかもしれんが、木下一族なんてのは江戸時代でも生き残ってるし
826人間七七四年:2011/07/01(金) 21:15:38.65 ID:JTgzC9mD
家康の意図と幕閣の意図は違うかもしれん
827人間七七四年:2011/07/01(金) 21:22:25.88 ID:+/xzZJ/T
大阪の陣の前、二条城の柿の木に結わえられていた落首
御所柿は 独り熟して 落ちにけり 木の下に居て 拾ふ秀頼

御所柿=家康 木の下、拾ふ=秀頼 を指していて、
秀頼は家康が死んで天下が自分のところに来るのを待っているんだよ、という歌

家康が死んだら秀頼がなんかやるぞ、みたいな空気(期待?)があったんだろうね
828人間七七四年:2011/07/01(金) 21:45:45.71 ID:GazOVS3G
秀頼にそんな野心本当にあったのかね
残ってる逸話から考えても挙兵して天下を取ろうなんて考えてなさそうだけど
829人間七七四年:2011/07/01(金) 21:48:51.52 ID:KhCDjEWI
少なくとも大坂城から出て行く気はなかった
830人間七七四年:2011/07/01(金) 21:59:12.42 ID:KX1RcR6S
>>828
ただ大坂の陣の時の、豊臣家内の対幕府主戦派、過激派はみんな秀吉の側近、近習の
連中なんだよね。逆に淀殿周辺はみんな徳川との和平を第一に考えている現実派。

秀頼がそういう過激派連中の頭目だったということは、秀頼自身もそういう考えだったんだろう。
831人間七七四年:2011/07/01(金) 22:04:45.48 ID:dq3Z6mUL
>>828
仮に野心はなくとも存在するだけで厄介だと思う。
反徳川の核になり得る(と考えられる)勢力が大阪にいたんじゃやりにくくてしかたがない。
832人間七七四年:2011/07/01(金) 22:06:30.99 ID:KX1RcR6S
>>830
間違えてた。1行目
×みんな秀吉の側近、近習
◯みんな秀頼の側近、近習

833人間七七四年:2011/07/01(金) 22:47:00.84 ID:qQMNH/zQ
でもまあ、嘘くさくても逸話は逸話なんでしょうね
834人間七七四年:2011/07/02(土) 00:59:02.70 ID:KRwNhop2
淀君は現実派というより単に非戦派っだけだろう
現実家はあんな無茶な寺道楽やまわりを内通した近親者で固めるなんて馬鹿はやらない
835人間七七四年:2011/07/02(土) 02:31:01.83 ID:icFUGA7K
静岡県史を読んでたら、静岡県外の家康伝説についてのページがあったんでそこから伝説を一つ。

徳川家康の敗走伝説というものがある。
三方ヶ原で負けて逃げる、本能寺の変から逃げ帰る、真田幸村に追われる、など様々な種類がある。
この手の伝説は家康に所縁のある現静岡県や現愛知県に限らず、各地に広がっている。
これとか→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5284.html
これとか→http://iiwarui.blog90.fc2.com/category54-2.html
しかし、そんな中でもひときわインパクトがある話が愛媛県温泉郡重信町(現東温市)にある。


家康はとある人物に追われていた。そう、その人物とは!

佐 々 木 高 綱 である。

…うん、色々ツッコミたいことがあるのは分かる。とりあえず、焼き味噌でも食って落ち着いてくれ。
佐々木高綱に追われる家康。しかし、仕事中の桶屋が桶の中に家康を隠すことによって、家康は助かる。
そこで家康は桶屋に褒美を出す。それは何と!

『仕 事 の 後 片 付 け 免  除 の 特 権』

…うん、もっといい権利与えろよって思うよね。ドストレートな名字もらう方がまだいいよね。
何にせよ、鎌倉武士にまで追いかけられてしまう家康の悪い話。
この話の出典は、森正史著の『えひめ昔ばなし』という本らしいので、持ってる人いたら、補足お頼み申す。
836人間七七四年:2011/07/02(土) 02:40:35.43 ID:icFUGA7K
ついでに、家康伝説について補足。
家康伝説の類似話としては、源頼朝が桶屋に助けられると言った、江戸時代より前の人物が主人公の話もあるそうです。
つまり、江戸時代に家康の権威が高まるにつれて、元々の物語の主人公と家康が入れ替わった話もあるのではと県史で指摘されています。
そうなると、この話の家康も佐々木高綱も元々別の人物だった可能性はありますね。
何故、この組み合わせになったかは今となっては分からないだろうけど。
837人間七七四年:2011/07/02(土) 02:53:19.60 ID:JoPeoq3l
超時空太閤ならぬ超時空大権現誕生か
佐々木高綱と伊予の関係もよくわからないな
もとより家康は四国に行ったことなんてない筈だし
元ネタが気になる・・・
838人間七七四年:2011/07/02(土) 03:36:30.10 ID:GqJNvJDE
そもさもなんでいきなり追われてるんだw
839人間七七四年:2011/07/02(土) 04:38:53.10 ID:veQIGHKc
女関係のもつれ
840人間七七四年:2011/07/02(土) 04:52:57.16 ID:V7jNPY/c
>>839
井伊直政「それがしにも関係のあることにござりますか?」
841人間七七四年:2011/07/02(土) 05:33:35.80 ID:MLQu8W0t
敵じゃなくて茶店のババア相手にも追われるからな
842人間七七四年:2011/07/02(土) 06:21:47.04 ID:VXe1zNWM
家康が最も恐れたババアだもんな
843人間七七四年:2011/07/02(土) 10:22:07.15 ID:sl6kd5ih
後の年増好みの原点である
844人間七七四年:2011/07/02(土) 10:26:40.18 ID:m3f4JD32
ヤングジャンプで「オキザリスの旗 長宗我部元親伝」という漫画が連載してるけど、戦国物とは思えない下手くそな内容。
戦国ファンが読んだら「打ち切りにしてほしい」と書いたアンケートハガキを出したくなるくらい酷い。
と言うか、ヤングジャンプ読んでたらアンケート出してほしいです。

これこそ戦国の悪い話。スレ違い?失礼しました。
845人間七七四年:2011/07/02(土) 10:30:55.18 ID:veQIGHKc
武将の名前借りてるだけのヤンキー漫画か
ヤンマガのセンゴクと比べると余計に酷いな
素材人気は逆なのに・・・
846人間七七四年:2011/07/02(土) 11:15:56.93 ID:974zx9pP
長宗我部で漫画化ってテンション上がったらあの絵柄であの内容だもんな
847人間七七四年:2011/07/02(土) 12:15:45.41 ID:7lv0ngZv
鳥なき島の蝙蝠をあそこまでカッコ良く描けるって凄いと思うけどな
848人間七七四年:2011/07/02(土) 12:17:13.77 ID:12QBTWzY
長宗我部スレでやって
849人間七七四年:2011/07/02(土) 12:42:43.74 ID:lchUnVK3
センゴクは仙石言っても
秀吉追っかけてればいいから
ネタに困らないし
850人間七七四年:2011/07/02(土) 14:42:27.37 ID:sCJrW8yk
寛永二十年の事である。

秋田藩の角館で魔術を使う老婆がいるという噂が流れた。
取り調べの結果この老婆は家中の矢野八兵衛の母であり
キリシタンだということが判明した。
召し捕られた老婆は拷問にかけられて棄教を申し出たため、この一件は収束した。

が、少しのしこりが残った。
件の矢野家は秋田藩のキリシタン取り締まりの中心人物である梅津憲忠の妻の実家だったのである。

この後矢野家と梅津家は明和の頃まで交際を絶ったという。
851人間七七四年:2011/07/02(土) 15:41:48.92 ID:rIzHbpi0
これが日本版「奥さまは魔女」である
852人間七七四年:2011/07/02(土) 20:17:17.64 ID:IlHjBDrJ
あるとき太閤秀吉の御前に、炒り豆に青海苔をまぶし付けた菓子が出た。
秀吉、それを見ると側に居た細川幽斎に向かって

「さあ何と?何と!?」

と、その菓子への感想を催促。これに幽斎

「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまめ」

当意即妙だが今ひとつ食欲のわかない答えであるw
(醒睡笑)
853人間七七四年:2011/07/02(土) 20:29:50.61 ID:FoZBZsPF
>>835
愛知と愛媛はちょっと漢字が似てるね^^
854人間七七四年:2011/07/02(土) 21:34:53.99 ID:+iesvHwb
ある時、飼い鳥を売る店の前に、駕籠が止まった。駕籠の中からは人品卑しからぬ老人が顔を出し、
「この店の鶉は、良い声で鳴くのう。値はいか程じゃな?」と、店主に尋ねてきた。

しめたカモだ、と思った店主、「へい、百五十両にございます!」と答えると、老人は憮然として
懐紙を取り出し、何やら書きつけて「これを鶉の鳥カゴに結んでおけ。」と言って去ってしまった。

呆然と駕籠を見送った店主が懐紙を開くと、そこには

“立ちよりて 聞けば鶉の ねも高し さてもよくには ふけるものかな

(鶉の結構な『音』色に誘われて来てみれば、『値』段も結構なものだったとはね。
鶉も笛の如く良く吹くが、店主もまぁ調子良く吹っかけたものだ。)

幽斎玄旨”と書かれていた。

「・・・さては細川幽斎公であられたか!!」
驚いた店主は言われた通り、和歌の書かれた紙を鳥カゴに結びつけると、








『幽斎公お声掛かり』と称して、二百五十両で鶉を売り出した。(幽斎公歌集より)
855人間七七四年:2011/07/02(土) 21:41:42.88 ID:12QBTWzY
この時代、ウズラもニワトリも卵は食わないんだよな
鳴き声を愛玩するためにウズラ飼うとは驚き
856人間七七四年:2011/07/02(土) 22:06:07.49 ID:DskiZQ4l
なんか鳥の声愛好家の間ではウズラは通ウケするらしいよ
見た目の地味さにそぐわないかわいい声で、だけど美声すぎないのがいいんだとかなんとか
857人間七七四年:2011/07/02(土) 22:10:41.99 ID:f8g9uGXX
丁度こんなのがあったw

鶉の鳴き声

鳴き声が「ご吉兆」と聞こえることから古くから鳴き声を楽しむ愛玩鳥として大名や商人達の間で
買われていた鶉。
確かにゴキッチョーと聞こえます。
ご吉兆とは吉の兆しすなわち、良いことが起こる前触れを意味する。
http://www.youtube.com/watch?v=Nt95H0AFeYs
858人間七七四年:2011/07/02(土) 22:27:01.43 ID:veQIGHKc
>>854
これで売れたなら店主のほうが一枚上手に見えるな
859人間七七四年:2011/07/02(土) 23:03:11.65 ID:u6S7N2gT
>>854
転んでもただでは起きない店主がいいな
860人間七七四年:2011/07/03(日) 02:21:20.74 ID:UrMNa2FD
何という商魂
こいつは間違いなく大阪商人
861人間七七四年:2011/07/03(日) 02:25:07.18 ID:Es06wH7x
京都でしょ
862人間七七四年:2011/07/03(日) 19:08:24.56 ID:ndhRQjs7
話として見た場合でも2段オチが秀逸、このメゲない商人いいなw
863人間七七四年:2011/07/03(日) 20:31:27.78 ID:mheKI5DY
古田織部の作る品は、茶道の趣味がある無いにかかわらず世間がもてはやし、
食事の時酒を呑むため出す杯にも、織部盃と言うものが現れ、これが大流行した。

ところで京に三八という男があった。これが織部の流行があまりに著しいため、
盃の事を織部と言うのだと思い込んでしまった。ある時のこと、三八が赤い顔をして
良い機嫌でいるのをみて、知り合いのものが

「そちはひどく酔っているようだな?」

というと、三八

「当たり前だ!今朝の振舞に汁の椀の織部で続けざまに三杯飲んだからな!」

と答えたそうだ。

織部風の流行を垣間見せてくれるお話である。
(醒睡笑)
864人間七七四年:2011/07/03(日) 23:23:33.10 ID:yVkKAlpu
醒酔笑はすっげえくだらない話ばかりなんだけど
読むと止まらなくなくなるくだらなさが好きだ
865人間七七四年:2011/07/04(月) 10:33:33.11 ID:MukAFihl
鉢形城で蜂起した長尾景春は上杉方諸将の拠る五十子陣に突入した。
上杉方諸将はもはや支えきれずと判断し、各地へ落ちていった。
諸将の一人、新田の岩松家純は上杉顕定と上杉定正に使いを送り、
自分は老齢なので息子の明純を同道させると伝えた。上杉顕定は家純の口上に恐縮し、
明純の出陣に期待した。ところがである。

「!? 何故お前がここにおる!」
なんと金山に向う家純に明純がついて来たのである。
「お前は何をしておるか! 両上杉家になんと申し上げればよいのだ!」
「夜陰が心配でついて来てしまいました。ここからでも顕定様には追いつきましょう」
「心配なことなど何もないではないか!? ああ、申し訳がたたん、なんたることだ!」

家純の激怒は尋常ではなかった。仕方がないので側近の松陰の意見により
家純はとりあえず明純を武士城に待機させた。
そして使いを上杉三家に送り、事の次第を説明して明純は遅れると伝えた。
これに上杉顕定は「経緯はわかった。待っているので早く来てほしい」と答えた。
しかし、やはり明純は出馬せず、金山に戻ってしまった。

家純は松陰を呼んで言った。
「お前は長年使いを務めてきたから言うが、上杉家に対してこたびの失態は一世一代の
恥辱だ。長生きをして無念千万だよ。明純に期待してすべてを失った。
こうなれば私が出陣する。なんという不運だ。今、頼りになるのはお前だけだ」
しかし、高齢の家純には無理だと判断したのか、横瀬国繁がこれを止めたのであった。

これ以降、親子の溝は深まるばかりでついに明純は勘当されてしまった。
しかも家純は遺言で「明純の意見に任せれば滅亡だ」とさえ言い残したという。
866人間七七四年:2011/07/04(月) 17:49:38.24 ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。
867人間七七四年:2011/07/04(月) 18:02:16.01 ID:jddVtIYZ
黒田如水が、一見何でもない様な事に聞こえるが実は心残る教訓を話していたなかで(ややこしい)、こんな事を申された。
(珍しからざる事の様にて、耳に留まる事共、申されける中に)

「たわけであっても主人の役に立つたわけと言うのがあるもんだ。こういうのは、たわけだと知っていても
つい可愛がっちゃうんだなあ。

一方で優れて利口なのに、主人の役には立たない利口なんてのもあってな、これは利口者と解っていても、
取り扱いが本当にやりにくいんだよ。」

つかえるたわけ、つかえぬ利口、と言うお話
(古郷物語)
868人間七七四年:2011/07/04(月) 18:13:21.12 ID:/msZiUJ/
単に賢愚に依らず好き嫌いなだけの気がする
869人間七七四年:2011/07/04(月) 18:19:29.58 ID:/msZiUJ/
×賢愚→○有益無益
870人間七七四年:2011/07/04(月) 18:23:00.39 ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・
871人間七七四年:2011/07/04(月) 22:49:45.26 ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね
872人間七七四年:2011/07/05(火) 17:28:38.26 ID:aaZO0zT1
慶長14年(1604)中秋の頃のこと、海路で肥後へ帰国の途にあった加藤清正は、摂津国兵庫の浦(今の神戸あたり)に
船がかかったとき、美しい真円の月が海上に浮かび、また波風もとても静かであったので、鳳金丸という安宅船の
2階に登り、夜すがら月見をした。この時、近習の者たち2名ほどを側近くに召しての夜話のおり、このような事を言った

「去る春の頃のことだ。奥州の政宗が團介という遊女を自国に下し(どうでもいいが原文でも『奥州の正宗』でやっぱり
諱を呼び捨てである。しかも間違えてる)、歌舞伎を興行したことが、家康公のご機嫌を非常に良くした、と言うことを
ほのかに伝え聞いた。

その理由は石田治部少輔らの謀反を難なく退治されて、今は天下をその掌中にされている事であれば、
政宗のような国主が率先して、もはや太刀も刀もいらぬ太平の世だと思い歌舞遊興のみにて月日を過ごせば、
もはや心配することは何も無いと思われたからだ、ということだ。

今、西国に置いてこの清正などは秀吉公のお取立てと言われ、そのうえ秀頼公が大阪に在城されているので、
世間の者も疑わしく思い、家康公も自然と心許なく思われることもあるだろう。

さりながらわしは家康公の御厚恩を忘れることは出来ない。このように肥後一国の主としていただき、その上、
特に常陸介殿(家康の十男・徳川頼宣)を我が聟に仰せ付けられたこと、それらによって当家の御恩は深く、
いささかも二心無き事であれば、いよいよ家康公の御心安く思し召すように、政宗のように帯紐を解いて(警戒をしない、
気を許すの意)、老身を慰め遊び人となって、世間の評判にも、『清正は年寄りになり、また太平の世になったので
武の道を忘れて年月を送っている』と聞かれれば、もはや気遣いすべき人物では毛頭無いと考えられるであろう。

そのようにするのが最も良き分別であると思うが、どうか?」

これを聞いた者たちは皆、御尤と感じ入ったという。

そうして、その頃八幡の國(出雲阿国)という者を熊本まで下し、城下の塩谷町三丁目の武者溜まりにて勧進能を
行い、その能の後で歌舞伎を行わせた。

この時家臣の侍たちは銀子1枚を出して桟敷に置いて見物をし、地下町人たちは八木(米のこと)を見物料として出し、
鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴人の席との間の芝生に設置された庶民の見物席)にてこれを見た。

歌舞伎とはこの國が始めたものであり、その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、その珍しさに集まった
貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、みな押し合いながら見物したそうである。

加藤清正が、熊本で出雲阿国の歌舞伎興行を行うまでの顛末である。
(續撰清正記)
873人間七七四年:2011/07/05(火) 20:56:57.03 ID:d+ordKot
どこら辺が悪い話?
874人間七七四年:2011/07/05(火) 21:27:42.24 ID:XkOLQgVa
あえて言うなら自分で秀吉公のお取立てと自負しながら
今の豊臣の有様になんとも思わず家康公マンセーなところか?
875人間七七四年:2011/07/05(火) 22:50:55.73 ID:cpw3ZNKa
これだけやっても結局改易されたところとか?
876人間七七四年:2011/07/05(火) 23:18:42.48 ID:4+rPkVse
どちらにしろいい話の部類ではねーな
877人間七七四年:2011/07/05(火) 23:43:07.03 ID:/Wg21lRH
島津氏が薩摩・大隅・日向三州統一に向けて諸大名と対峙していたころ、新納武蔵守忠元は
菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。

菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」

「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」

そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」

“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)


島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」

的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。

“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”

「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。

教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。
878人間七七四年:2011/07/06(水) 11:27:11.94 ID:k/0jIAw5
>>872
清正が正宗を呼び捨てて何が悪いんだ?
正宗って清正より偉かったの?
879人間七七四年:2011/07/06(水) 11:40:58.31 ID:6FsKodvi
>>878
この時期だと政宗は陸奥守、清正は肥後守。両方延喜式では大国扱いなのでほぼ同格だが、
武家的には陸奥守のほうが重いな。

まあ基本的に相手が同格、あるいはやや下だとしても、この時代官位で呼ぶのが基本常識であり
礼儀だわな。ましてや大名同士の場合は特に。
880人間七七四年:2011/07/06(水) 12:41:36.27 ID:PigYNCek
政宗:農民出身の分際で何を・・・
881人間七七四年:2011/07/06(水) 13:02:16.17 ID:KMFDXBpH
秀吉:その農民出身のワシに土下座して詫びたのはどこの誰じゃったかなぁ?
882人間七七四年:2011/07/06(水) 13:03:26.19 ID:Bm0wOuqR
まあ本人公認の呼称だったんでしょうね。

どういった経緯で全国で『まさむね」』で通るようになったか興味深い。
883人間七七四年:2011/07/06(水) 17:17:34.55 ID:Tk4chnLk
秀吉公とか家康公っていう呼び方もまずいと思うんだが
884人間七七四年:2011/07/06(水) 17:38:42.78 ID:jdcv1O1m
本人が死んでからでしょ
885人間七七四年:2011/07/06(水) 17:40:17.52 ID:EU1fIGWp
こんな夏のさなか、夏の逸話を

黒田如水は常にこのように言っていた
「奉公人は身分の高下に関わらず水練を心得ておきたいものだ」と。

さてそんな如水、夏になると城下に流れる大川に行き、その両岸に大綱をひかせ、自身は
跛の足ながら尻からげにし、綱を伝ってそこを往復。深い淵の箇所では泳ぎ、彼と共に泳ぐものには
「良き心がけである」
と褒めたという。

これは若者たちに水練を習わせたい、という如水の思いからのものであったが、しかし如水は
決して家臣たちに「水練を習え」とは言わなかった。ではどうしたか?

如水はしばしば、深い淵を隔てた対岸に居る者に突然に「誰々をこちらに来させるように!」と呼ばせ、
泳がないものが迷惑するように申し付けた。
(誰々を呼べとて、急に呼ばせ、泳がざる者、迷惑仕る様に申付く)

如水は夏の間そんな川狩を、4・5日に1度はやっていたそうである。

しかし泳げない人には実に困った嫌がらせですなw
そんな意地悪爺さん然とした、黒田如水、夏の風物詩。
(古郷物語)
886人間七七四年:2011/07/06(水) 21:12:38.91 ID:+qf0MicG
又兵衛「各々方、あれを見よww大水牛兜が浮いたり沈んだり腹イテェwww」
887人間七七四年:2011/07/07(木) 00:18:53.14 ID:w8xL/K7E
自ら率先して渡河作戦すら日常的に鍛錬し、行住坐臥を修行の場とするとは
でも本当に跛だったんですね。
888人間七七四年:2011/07/07(木) 00:24:04.30 ID:4h60ef0C
「水練を習え」って直接言うとかえってやる気が出ないと思ったんだろうな

させたい事を直接言うとやる気がなくなる現象は心理学的に証明されてて「心理的リアクタンス」って言うらしい
子供が親から「勉強しろ」って言われると勉強したくなくなる法則もこれ
如水は意地悪というより、当時にしてこの事をよく知ってたのかも
889人間七七四年:2011/07/07(木) 01:06:09.71 ID:XbJkCyXQ
ふつうに「みんな水錬を練習しろ!水錬はいいぞ!」
→水錬大会でも開いて、頑張った家臣を大いに褒めてやるでは、駄目なのか…
890人間七七四年:2011/07/07(木) 01:17:52.45 ID:/83EFVR+
>>885

如水と水練と言えば、長政と栗山備後と一緒に川でやってる時、
長政遊泳中
如水 「よし、今だあいつを深みに引きこめ!」
栗山 「…………」
如水 「いや、冗談だ冗談」
栗山 「…… (眼がマジだった)」


ていう逸話があったな。
891人間七七四年:2011/07/07(木) 01:20:27.90 ID:iFiufm46
>>889
元から得意な家臣が張り切るだけで
下手な家臣は出場しないだろ
892人間七七四年:2011/07/07(木) 08:30:55.55 ID:tYmVAiAP
>>890
それは長政が忠之を殺そうと栗山大膳に命じた逸話だと思うんだが
出典は栗山大膳記で大膳が黒田騒動の評定の時に幕閣にぶっちゃけたという話だが
893人間七七四年:2011/07/07(木) 18:08:12.49 ID:BGXXPD//
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!
黒田さんちで「川に落ちる」と来たらバ…若殿の独壇場だと思われるでしょう、が

「ぐわー!」朝鮮の大同江で水中戦している長政の隣では、
菅六之助がふたりの敵兵ともつれ合って川に転がり落ちていました。
気づいた朋輩が駆け寄ってダンゴ状態のまま岸に引っぱり上げたのですが、
そのまま戦闘続行。敵ひとりは水中でほぼ片をつけており、残りの相手も
脇差で一突き。さすがの虎殺しですね。
この人は城井攻めでも、泥田にはまった長政の馬を小川で『心しづかに』
洗う片手間に首級ふたつ挙げてたりします。

「うおー!」そのまた隣で、吉田又助も馬上から川に引き込まれようとしていました。
大指物のついた具足のまま落ちては溺れると危ぶんだ又助は、手綱を片手で握り、
腕一本で敵兵を水中に沈めたり沈められたりしつつ、見事に仕留めました。
このとき助けに行った家人も刀握ったままで泳いでいて、何気にすごい。

そしてあの人も

「ぬわー!」耳川で脇差いっちょの長政が、薩摩兵三人と斬った張ったを
くり広げていた(官兵衛さんのコメント・「お前は匹夫か!葉武者か!」)のを横目に、
後藤又兵衛も大力の侍と揉み合って川に突入です。 
組み伏せられて危ういところへ、又兵衛の馬取が加勢に入ってようやく討ち取りました。
「あの馬取の働きで、命を救われたのみならず手柄も挙げられた。
戻ったら良い役に取り立ててやろう」 そう考えていた又兵衛でしたが

『下郎(馬取)は心つたなくて、陣中にて又兵衛の刀、脇差を盗んで逐電しける』m9(^Д^)

戦国の世に水練は必須科目なのです
894人間七七四年:2011/07/07(木) 18:51:22.38 ID:fj6QAun0
水辺の戦で負けると死亡率高いからなー、それでも泳げさえすれば助かるケースも多いだろうし
如水は若いころから毛利の海からの上陸軍を追い返したりとかしてたよな、
そういうところで見てきた経験からも水練の重要性は身に染みてたろう。
895人間七七四年:2011/07/07(木) 20:05:04.55 ID:M8Pq4D+j
水の如しってな
896人間七七四年:2011/07/07(木) 23:28:13.29 ID:4Yq/49Sh
戦で川渡ることも多いしねー
今より橋がかかってる比率も少ないだろうし
舟から落ちたり舟ひっくり返ったりした時、泳げりゃ助かる可能性もあるし
897人間七七四年:2011/07/08(金) 01:20:37.19 ID:kwHm9d3A
たしか大内晴持も敗走中の溺死だったな
898人間七七四年:2011/07/08(金) 07:58:10.94 ID:9d2pSoHL
着衣水泳は洋装でも難しいからなぁ〜
和装で戦支度してればなお更キツイとは思う
899人間七七四年:2011/07/08(金) 08:32:14.83 ID:ngnUm5YJ
戦に負け潰走して泳がなければならん時鎧兜はその場に廃棄するのか?
もしそうなら戦後に川岸に行って鎧兜集めまくれば一財産築けそうだな
900人間七七四年:2011/07/08(金) 08:42:51.67 ID:EiTKhsl1
俺なら奪われるぐらいなら川の中に捨てる
901人間七七四年:2011/07/08(金) 08:48:02.99 ID:cfIZJ4Pz
古式泳法で甲冑を着たまま泳ぐ方法ってのがあったような
902名無しさん@12周年:2011/07/08(金) 09:04:54.61 ID:JOqzgQvX
普通、鎧つけたまま泳げない兵は従軍しない
903人間七七四年:2011/07/08(金) 09:11:10.34 ID:05Kpxf63
現実には弓鉄砲すらろくに使えない素人が軍役の人数を揃えるために相当混じっていたのであって
甲冑着たまま泳げる兵だけで編成される超精鋭部隊なんてあったとは到底思えないw
904人間七七四年:2011/07/08(金) 09:16:10.08 ID:SEkE9epT
負け戦のとき川で溺死するのがおおいしやっぱ泳げないひとがおおいのかなあ
905人間七七四年:2011/07/08(金) 09:17:25.22 ID:9d2pSoHL
>>902
それが普通なら>>885みたいな話にはならないんじゃないのかな? っと思った
906名無しさん@12周年:2011/07/08(金) 09:47:39.24 ID:JOqzgQvX
>>905
上杉でも徳川でも訓練の記録の中に水練もあるよ
それをこなせなければ従軍を認めてもらえなかったそうだ
逸話は良くも悪くもなにかしらの教えを説いたものが多いから黒田家の教育は
こんな風だったのかと想像して読んでる
907人間七七四年:2011/07/08(金) 11:08:12.28 ID:SKXrAiI2
万単位の人間すべてが泳げたわけじゃないだろうが、泳げるような訓練はしてたんだろうな
908人間七七四年:2011/07/08(金) 11:08:14.80 ID:+I29EW+0
武術できなくてもいいから、乗馬と水泳だけはやっとけって家康が子供たちに言ってたってね
909人間七七四年:2011/07/08(金) 11:59:51.45 ID:c9szubKL
今で言えば車の免許は取っておけよってことか
910人間七七四年:2011/07/08(金) 12:16:02.92 ID:0Fo07en0
宇喜多秀家がアップをはじめました
911人間七七四年:2011/07/08(金) 14:31:58.74 ID:DZcWgAwi
平宗盛卿がアップをはじめました
912人間七七四年:2011/07/08(金) 14:50:57.58 ID:gxNaAD5D
明智左馬之助が乗馬だけで充分と言ってますが
913人間七七四年:2011/07/08(金) 14:59:38.64 ID:56INcPSf
沈めてしまえ
914人間七七四年:2011/07/08(金) 19:02:43.85 ID:K7A2lEAM
天正16年(1588)、長宗我部元親は京において四男の千熊丸を、増田長盛を烏帽子親として元服させ、
右衛門太郎盛親と名乗らせた。
人々はこれで、盛親に長宗我部の家督を譲ることが決まったと思った。
が、元親にはなにか考えがあったのか、盛親の家督相続披露を行わず、
それとは別に

「五郎次郎(元親次男・香川親和)はその領地に蟄居のような形になっており、
さぞ色々と不自由であろう。」

と言って彼の住居である小野の近くを新たに知行として与えた。
さて、これを聞いて、当の五郎次郎は絶望した

「これはどういう事だ!?弥三郎殿(信親)が逝去された上は、私こそが長宗我部の
惣領と成るべきなのに、今になって知行を給わるとは何事だ!?

兄上の一周忌も過ぎ、3年も経っても家督に付いて何の沙汰もなく、ただ訝しく思っていた所に、
『吉良親実、比江山親興などの粛清は、千熊丸を家督にすると父上がおっしゃったのを
諌めたため罰せられたのだ』などという噂も耳に入ったが、そんな馬鹿なことがあるはずがない、
そう言っている者たちの勘違いだと、私はずっと信じてきた。

それなのに今度の千熊丸の元服の有り様は、疑いもなく家督のものである。
私は今はじめて、噂が真実であったと知った!

しかれば、私は父に見放され、弟にその地位を追い越された。
一体何の面目あって、生きて再び人前に顔を晒すことが出来るだろうか。
だからといって自ら首を斬って死ぬのは、不幸であり不義でもある。
この上はただ、閉居して世との交わりを絶つしか無い。」

と、一室に、食事も取らず閉じ籠った。
乳母である吉良五郎兵衛が涙を流して様々に諌めたが一向に聞くこと無く。
やがて心身衰え、終に病床に伏した。

この事は岡豊の元親のもとにも伝えられたが、元親は驚くこともなく、ただ
「療養は緩々とするのが良い。構えて回復を急ぐため、無理な治療はしてはいけない」との
言葉を下しただけであった。

しかし吉良五郎兵衛が「もはや回復の見込み無く、お命も長くありません」としきりに申し上げたため、
元親は篭を飛ばして五郎次郎の元に駆けつけその姿を見れば、もはや意識不明の有様であった。

「これは一体どういう事だ!?」

元親は手を投げ上げて嘆いた。これに吉良五郎兵衛
「最近になってこのような状態になり、私は何度もこれを報告いたしましたが、岡豊から返って来るのは
御子様とも思えないお扱いばかり。情け無い限りです。」
そう、声を上げて泣いた。

元親は返す言葉もなく、親和の耳元に口を当て励ますように言った

「五郎次郎、心持ちはどうだ!?家督はお前に決めたぞ!」

しかし五郎次郎からは、もはや何の反応もなく、ただ眠るようにして終に空しくなったと云う。

「弥三郎に先立たれ、3年の月日も経つや経たずやというのに又、五郎次郎を失ってしまった!
私は一体どうすればいいのか!?」

元親はそう叫び、ただ嘆くばかりであった。

長宗我部元親次男、香川親和の死についての逸話である
(土佐物語)
915人間七七四年:2011/07/08(金) 19:43:17.98 ID:7szqo2P1
元親の本心がどこにあったのかよく分からんな
やっぱり信親失ってからおかしくなってたのか
916人間七七四年:2011/07/08(金) 20:57:38.68 ID:kXqLQR5J
長宗我部家の衰亡は全部、元親が原因なんだな
四国統一まであと一歩だった英雄がこうまでボケるなんて悲しすぎ
917人間七七四年:2011/07/08(金) 21:17:26.45 ID:EiTKhsl1
長宗我部家は元親が育て上げて自分でぶち壊したな
918人間七七四年:2011/07/08(金) 21:27:14.08 ID:iU10HgQ7
クマーと同じだね。
919人間七七四年:2011/07/08(金) 21:27:26.38 ID:/AeZ6XSC
一代でのし上がって、一代で墜ちる、か。
信長、光秀、秀吉もそうかな?
920人間七七四年:2011/07/08(金) 21:32:29.94 ID:CUF0qj+e
信長は違うでしょ
921人間七七四年:2011/07/08(金) 21:54:36.18 ID:K7A2lEAM
>>914
間違えてるー。8段落目の2行目

×乳母である吉良五郎兵衛
◯乳夫である吉良五郎兵衛

スマン
922人間七七四年:2011/07/08(金) 22:04:37.57 ID:ZqBbsuNL
信親が居た頃から家督を継がせる嫡子以外には興味がなく
自分で蟄居のような形とか言ってるあたり
適当にあしらってたら本当に死ぬとは思わなかったんだろうな
自慢の信親がまさかあんな死を迎えるとは思わなかっただろうし
多分元親的には盛親の家督相続をする前に小遣い(知行)与えて納得させようと
大奮発したつもりなんだろうけど火に油を注いだというか・・・。
そのうえ病気で寝込んでると言うのを自分の気を引こうとしていると思って無視していたんだろうな
923人間七七四年:2011/07/08(金) 22:36:07.51 ID:4htkR0pW
信親を失った後の元親は見るに耐えないな・・・
924人間七七四年:2011/07/08(金) 22:45:13.03 ID:lEDzmpwN
悲劇だな
925人間七七四年:2011/07/08(金) 23:39:19.42 ID:cHfL91ij
まあな。
926人間七七四年:2011/07/09(土) 00:54:50.22 ID:qjqzLUTK
>>923
垣見家純とのエピソードや、元親百箇条を制定したところをみると、決して
耄碌してしまったわけではないとは思うんだけど、やはり晩年の元親は精彩を欠くな・・・。
927人間七七四年:2011/07/09(土) 07:50:31.07 ID:Srq4vzSR
子供は一人だけを可愛がりすぎてはいけないという教訓ですな
928人間七七四年:2011/07/09(土) 08:20:26.48 ID:Utj1GRUb
>>926
ボケみたいなかんじでしっかりしてる時はしっかりしてるけど、
時々おかしくなるみたいな感じだったのかもな

そして、それを矯正できるほどの人材もいなかったとか
929人間七七四年:2011/07/09(土) 08:31:46.74 ID:p+WD1Ggk
子供など、我の操り人形に過ぎないのにな。
抗う意思を持つ子供など、無用無用無用無用無用

長男も次男も六男も無駄無駄無駄




by 家康
930人間七七四年:2011/07/09(土) 08:46:37.98 ID:7s4xq2k6
でも、俺の許可無く死ぬな
馬乗ってでも泳いででも逃げろ
931人間七七四年:2011/07/09(土) 15:44:19.15 ID:McSP37RG
>>914
これは・・・元親がボケてた話なの?
親知に冷たくしたのがボケ?親知の危篤を知って涙した部分?
それとも最初からボケてた話?
三回読んでもわからぬ><;
932人間七七四年:2011/07/09(土) 16:49:37.41 ID:wpAaw4U1
親和のポジションは徳川の結城さんに相当するんじゃないかな
他家の名跡を継いでるとこも共通してるし、最初から宗家を継がせる気はなかったのかも
元親は晩年ボケたの一言で片付けられちゃうけど、
元親なりに混乱を避けたいと思って打った手だったのやもしれない
933人間七七四年:2011/07/09(土) 17:17:25.07 ID:w8QeQVTG
ボケというよりは感性が麻痺していたように思えるな
自分の中身が自身の気持ちだけでイッパイになってしまっていて、
他人の事を思いやる余裕も他人の言を受け入れる余裕も無い
当の本人は冷たくしたなんて思ってなかったかもね
934人間七七四年:2011/07/09(土) 20:29:21.60 ID:2GXCmXXo
親知って既に他家の家督継いでんでしょ?なのに本家の家督を継げると思ってたってのが腑に落ちない。
935人間七七四年:2011/07/09(土) 20:43:08.59 ID:0K+QsWmr
他家の家督を継いでも、本家に相続する人がいなくて出戻りしちゃうケースはあるでしょ
936人間七七四年:2011/07/09(土) 20:46:59.07 ID:RcqnkF4u
いなけりゃでしょ?いるじゃん。
他の子がいても他家を継いだ年上の子が出戻ったケースってあるかな?
937人間七七四年:2011/07/09(土) 20:51:57.88 ID:/wW1oDve
つーか香川親和の継いだ香川家は、その名のとおり讃岐の守護代家であって、
つまり親和は西香川支配を期待された存在だったわけね。
だから秀吉の四国征伐のあとは、長宗我部に戻った存在だと言っていいわけ。

あまつさえ信親の討ち死にのあと、豊臣秀吉から次男である香川親和に家督を継がせるよう
働きかけがあったのよ。こういう動きがあったから、親和も自分が家督を継承するものと
考えた。

ところが元親は親和ではなく盛親に家督を継がせるため、時間をかけて反対派の粛清まで
やったわけだ。

以上のようなことから、親和には自分が長宗我部を継ぐことへの理由も正当性もあった。
938人間七七四年:2011/07/09(土) 21:01:41.43 ID:Utj1GRUb
937が言うような事情がなくともあるんじゃない?
本能寺後の織田家もそんな感じでないの
信雄は北畠、信孝は神戸に入ってたけどその二人が有力候補だったわけで
養子に入ってるとか大した問題じゃないんじゃないの?
939人間七七四年:2011/07/09(土) 21:16:38.10 ID:4on3RdKi
ふたりとも織田にすでに復しとる
940人間七七四年:2011/07/09(土) 21:30:29.92 ID:/wW1oDve
ついでにいうと織田信雄は賤ヶ岳の前に「織田家家督」を継いでいる。

これは三法師(秀信)が清洲会議の結果信孝の管理下に入り、その後秀吉・織田信雄ラインと
柴田勝家・織田信孝ラインの対立が激しくなり、危機感を感じた秀吉が丹羽長秀、池田勝入と
共同で三法師の家督を廃止し信雄を新たな家督としたため。
941人間七七四年:2011/07/09(土) 21:52:16.02 ID:/GVclcJg
まぁ何にせよ、やつさえいなければ・・・

ゴンベエさえいなければ・・・
942人間七七四年:2011/07/09(土) 22:49:31.56 ID:XARsmpfy
銘茶として知られる宇治の抹茶の中でも、最高峰のものを『初昔』『後昔』という。

『昔』字については、現在の直射日光を避けて育て、蒸してから乾燥させる製法に対し、昔ながらの製法で
作ったからという説と、いわゆる八十八夜、旧暦三月二十日のこと(二十日→廿日→一字にまとめて『昔』)
であり、『初』『後』は茶葉を摘んだのが二十日の前か後かを示す、という説がある。

閑話休題。

「うーむ・・・うまい!これはどこの茶だ?」
宇治代官で、茶師の元締めたる上林掃部丞が献じた抹茶に舌鼓を打った徳川家康は、上林に出所を聞いた。

「はっ!その茶、実は手前の祖母がなかなかの名人にて、自分で摘み、作った茶にございます。」
「この風味、『初昔』などの銘茶にも劣るまいぞ。よし、お主の祖母に褒美として宇治若森の茶畑を与える。

そしてこの茶には、『 祖母昔 』の銘を与えるぞ!」


・・・珍しくGONGENが茶の湯に関わる逸話かと思えば、相変わらずのネーミングセンスで申し訳ないが
永禄以来450年の伝統を誇る老舗・上林春松本店さんに由来書が現存する、ウソのようなホントの話。
ttp://www.shunsho.co.jp/2008/03/matucya02.php

まぁ、名前に騙されず飲んでみてよ!

つ旦  ←銘茶『ババアむかし』
943人間七七四年:2011/07/09(土) 22:57:13.67 ID:Ky9Wq8Ub
茶器にも「祖母懐焼」とかあるので、当時としてはそんな変な名前でもないと思う。
944人間七七四年:2011/07/09(土) 22:58:25.91 ID:wpAaw4U1
親和は自分こそ、な気持ちだったのかもしれんが元親は違う心境だわな
四国制覇の夢を叩き潰され、九州で愛息信親を奪われ、建築狂いに駆り出され、
その上後嗣問題にまでくちばしを入れられて正当性を主張されちゃたまったもんじゃないだろ
自分の人生どころか死後まで秀吉の意志のままなんて悲劇を通り越して喜劇だぜ
元親からしたら自分の心中を察しない親和や親和を担ぐ連中は裏切り者に見えたんじゃないだろうか
945人間七七四年:2011/07/09(土) 23:03:03.94 ID:UZBY9zFV
盛親が正室の子だったからだよ
946人間七七四年:2011/07/10(日) 01:03:56.49 ID:Jxnn7roW
降参峰


永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重は大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。

佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。

一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。

追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上にむしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。

場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。
947人間七七四年:2011/07/10(日) 01:05:12.41 ID:X6OLmRwL
>>940
ただし、これは秀吉や丹羽らに織田家の家督をどうこうする権利があったのか?という点があるけどね
948人間七七四年:2011/07/10(日) 01:05:32.67 ID:Jxnn7roW

義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すといよいよ統率がままならなくなってきた。

勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の執拗な追撃を食らった。

そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。


以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。
949人間七七四年:2011/07/10(日) 01:16:03.78 ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。
950人間七七四年:2011/07/10(日) 03:42:38.29 ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど
951人間七七四年:2011/07/10(日) 08:39:09.96 ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w
952人間七七四年:2011/07/10(日) 20:00:28.55 ID:8EqmhZ81
黒田家の重臣、栗山備後利安には、いつも悔いている事があった。

「私が死んだ後この黒田家は、負けるはずのない戦に負け、今までの家の名誉を失う事になるのは
必定である!その理由は、殿(黒田長政)だ!

殿の戦でのお振る舞いはあまりにも軽々しい。最前線の先手や鉄砲隊の備に打ち交わり、
まるで物頭のように駆けまわり、いざ開戦となれば一番に駆け入ろうとされる。

皆が知っているように、この戦でもあの戦でも、私はそんな殿を以ての外に叱り飛ばし
奥の本陣の方に追い返したこと、数えきれないほどやってきたものだ。

私が死んだ後には、あのいきり立つ人を叱る人間はいなくなる。
そうなったら殿は思ったとおりに戦働きをしようとするだろう。
そして一番に駆けこみ討ち死にするか、打ち込まれた鉄砲の弾に当たり犬死をされるだろう。

その事を思うと、なにより悲しくてしょうが無いのだ。」

栗山利安、晩年の後悔、というお話。
しかし長政、ここまで信用ないというのは、よほど栗山さんに手を焼かせたのでしょうなw
(古郷物語)
953人間七七四年:2011/07/10(日) 21:09:44.16 ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな
954人間七七四年:2011/07/10(日) 21:15:38.64 ID:acKouoSN
安心と信頼の黒田家クオリティ
955人間七七四年:2011/07/10(日) 22:23:54.15 ID:Sh0/Fgtg
この時代は大将が討ち死にしたらだいたい負け戦だからな
特に黒田家は跡継ぎがアレだし。
956人間七七四年:2011/07/11(月) 00:29:41.64 ID:exXdob9v
ハイハイ、安心と信頼の黒田家クオリティ次世代編だよ。

寛永十四年、大坂の陣から二十二年の後に起こったおそらく最後の戦が島原の乱である。
この大規模な一揆を鎮めるために九州の諸侯に出陣命令が出ました。
もちろん黒田一門も参加することとなりましたが、知っての通り件の突撃大名はすでに故人。
黒田長政には正室との間に三人の息子がいましたが(もう一人側室腹がいますが既に他界)、
長男忠之に本藩を継がせ、三男長興に5万石、四男高政に4万石を継がせていました。
彼らは皆関ヶ原の後に生まれた子であり、もちろん父の戦場での猪ぶりなど知る由もありません。

さて、長男にして本藩を継いだ黒田忠之36歳。
彼は一応大坂の陣に出陣しておりますが、病身のため特に戦功もなく、これが初陣のようなものです。
寛永十五年二月二十一日、黒田・鍋島・有馬などの陣営に一揆軍による夜襲がありました。
忠之のいた本陣は現場からは離れていましたが、彼は陣営を率いて一揆軍を追撃。
しかし、一揆軍は城際まで城内に引き上げるところでした。
忠之は城内に突撃する気満々で重臣郡正大夫に意見を仰ぎます。すると、正大夫
「それもよろしいかもしれませんが、せっかくなので戦歴豊富な黒田美作に相談するのがよろしいかと」
と提案します。さっそく忠之は美作に意見を求めたところ、
「城内にはどんな罠がしかけてあるのかわかりません。
それに、まだ夜も空けそうになくとても危険だと思われます。
城内まで追撃するのはおやめください。」
しかし、追撃する気満々の忠之である。
美作正大夫の二人が止めるのも聞かず馬に鞭を叩きます。
この時、高尾彌五左衛門という男が忠之の馬の口にすがりつきました。
「ええい!離せ離せ!」
いきり立つ忠之は彌五左衛門を怒鳴りつけながら鞭で叩きます。
「絶対に離すでないぞ!」
美作に強く言われた彌五左衛門は必死に馬を抑えつけ、忠之の突撃を阻止したのでした。
後日、冷静になった忠之からとても感謝されたそうです。
957人間七七四年:2011/07/11(月) 00:57:10.05 ID:exXdob9v
そんなわけで家臣に止められて突撃を控えた長男ですが、
実は父親そっくりの猪武者ぶりを発揮したのが末息子の黒田高政27歳。
彼は父の形見としてあの一ノ谷兜を貰いうけていました。

件の夜襲の時、高政の陣所も少し現場から離れていましたが、彼が駆け付けた時はまだ退却し始めたところで、
小川のほとりから駆け付けた高政隊に向かって鉄砲を放ちました。
これに高政、体に流れる黒田の血が目覚めたのか、士卒に先立って突撃。
自ら檄を飛ばして一揆衆と戦います。
すると、一揆衆が鍋島隊の攻め口に火をかけ、あたりは一気に明るくなります。
"市正(高政)着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間"、
その一ノ谷兜をめがけて一揆衆は鉄砲を放ちます。このため高政の兜には銃痕が三つあったそうです。
周りの家臣たちは高政を守ろらねばと彼の前に立って一揆衆を攻撃、
これには一揆衆も退却を余儀なくされます。
しかし、いったん火のついた黒田の血は止められるはずもなく、高政は川を渡って追撃しようとします。
さすがにこれはまずいと思った吉田右馬大夫は高政を強くいさめます。
しかし、すっかり興奮した高政はそれくらいでは止まらず、右馬大夫は高政にすがりつきます。
右馬大夫、先ほど一揆衆に石を投げつけられて歯を折られ大流血中。
"此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。"
そういうこともあって右馬大夫はなんとか高政を止める事が出来ました。
夜が明けて、この様子を見ていた幕府の上使は高政の勇戦を褒め称えたそうな。
958人間七七四年:2011/07/11(月) 09:52:06.74 ID:7TC8RFJG
如水も跛じゃなかったら突撃馬鹿になっていたんだろうな
959人間七七四年:2011/07/11(月) 10:50:50.98 ID:jCIikCdH
外交・調略の部分で突撃馬鹿と言われても仕方ない面はあるな
960人間七七四年:2011/07/11(月) 12:36:25.40 ID:6OrlSrdq
つまり性格が突撃馬鹿なんだな
961人間七七四年:2011/07/11(月) 12:45:04.60 ID:fx6EecAZ
それで兜飾りが牛の角ってのが面白いね
962人間七七四年:2011/07/11(月) 21:05:18.20 ID:Wasc1/SF
「兜飾り」って五月人形かよ。
963人間七七四年:2011/07/11(月) 21:10:50.50 ID:nF8/ePS9
文禄2年(1593)6月、文禄の役において、日本軍は要衝・晋州城を攻略した。宇喜多秀家、黒田長政、
加藤清正、鍋島直茂など、そうそうたる武将が9万の兵で城を囲んだが、城兵の士気は高かった。

秀家「この城は昨年、一度攻略に失敗している。短期で落とさねば、太閤殿下のお叱りを受けよう。」
長政「うむ。見たところ、石垣が我が国のものよりモロい。土台を崩して城壁を壊し、侵入せん。」
直茂「だが、どうやって工兵を城壁まで近づける?」
清正「ふっふっふ、わしに良い考えがある。」

翌日、晋州城下に異様な物体が現れた。大きな亀の甲羅に車輪がついた物が、城に近づいているのだ。

清正「どうですかな?名付けて『亀甲車』!数人が中で押して進む仕組みで、中の者にはツルハシを
持たせてあり申す。これで矢弾を防ぎつつ石垣まで近づき、崩すことが出来ましょう。」
秀家「なるほど・・・!」

亀甲車は清正の言葉通り、矢弾を弾きつつ石垣に取り付いた。
と、ここで城壁から火のついた草束が振って来て、甲羅が一気に燃え上がった。「ぎゃあああああ!!」

秀家「・・・・・・」直茂「・・・・・・」
長政「主計ェ・・・」
清正「ま、まぁ失敗は改めればええんじゃ。」

そこで次は、牛皮を何十枚も甲羅に貼って包んだ。これが上手くいって、今度は焼束をもはね返して
進み、ついに亀甲車は石垣に取り付き、ツルハシを石に突き立てた。
ものの見事に石垣は崩れ、日本軍は崩れて出来た穴に殺到し、6月29日、晋州城攻略に成功した。

・・・のだが。
亀甲車の中の工兵隊は石垣が崩れた際、下敷きになり、一人が生還したそうな。(伊達日記より)

軍記物に時々登場して大戦果を上げるキワモノ、もとい奇想兵器ですが、現実は甘くないようで。
964人間七七四年:2011/07/11(月) 21:58:09.63 ID:MPcYaAv8
言うのは簡単、やるのは大変。
965人間七七四年:2011/07/11(月) 22:48:18.25 ID:DJZHAIl+
>亀甲車の中の工兵隊は石垣が崩れた際、下敷きになり、一人が生還したそうな。

徳川家康「よし!生き残ったお主は今日から亀甲車と名乗るが良い」
966人間七七四年:2011/07/11(月) 22:49:13.32 ID:aSrhGWKN
まぁ普通に城攻めした場合でも死人は出ただろうしむしろ時間も損耗も抑えたんだろうけど、なんかこうアチャーって印象
967人間七七四年:2011/07/11(月) 22:56:36.78 ID:tlw+b3+w
作ったの飯田覚兵衛だっけ?
968人間七七四年:2011/07/11(月) 22:58:25.60 ID:DJZHAIl+
先の大戦に至るまで奇想兵器は日本のお家芸ですか
969人間七七四年:2011/07/11(月) 23:10:14.53 ID:XksPpmjP
世界史的には奇想ではない気がする。
日本には平地に城壁を巡らす習慣があまりなかったから出てこなかったけど。
970人間七七四年:2011/07/11(月) 23:43:54.29 ID:ifw8Ie8X
>>966
おいw
まあ実際にそんなセンスな気もするがw
971人間七七四年:2011/07/12(火) 00:09:04.22 ID:/Xp002RM
この男の副将やった直茂は大概苦労したんじゃないかって気がする
972人間七七四年:2011/07/12(火) 09:56:19.56 ID:VPOPRtpE
実際に鍋島隊は加藤隊の尻拭いばっかりやってるしな
973人間七七四年:2011/07/12(火) 10:05:39.39 ID:k7I2AZsF
クマーのフォローで慣れてるだろ
974人間七七四年:2011/07/12(火) 14:28:54.48 ID:e1iPu4f5
こういうのを記録しておくのは、やっばりま〜くんか三斎さんとこなんだな〜
975名無しさん@12周年:2011/07/12(火) 14:44:16.79 ID:EFQzswRe
江戸時代に編修された唐入り記録では亀甲車に並んで亀甲船がある
こっちは車以上のとんでも兵器
976人間七七四年:2011/07/12(火) 15:23:07.00 ID:1pLOhzIs
亀甲縛り
977人間七七四年:2011/07/12(火) 16:21:43.44 ID:IzfKyjSH
しかし日本の町って真ん中に城があるだけだべ。戦があるたびに町焼かれて非効率だのう
978人間七七四年:2011/07/12(火) 16:25:23.79 ID:iuU2F5JK
>>977
町も防御施設兼ねてたから
 
だから毎度焼かれるんだけど
979人間七七四年:2011/07/12(火) 17:05:50.90 ID:k7I2AZsF
敗北=皆殺しか全員奴隷の大陸だと、城塞都市にするしかないとは思う
980人間七七四年:2011/07/12(火) 17:55:16.48 ID:RBSalYw0
>>977
その都度建設と木材特需が生まれるから悪い事ばかりでもない
981人間七七四年:2011/07/12(火) 18:26:21.37 ID:VTV0byQ5
所で、当時の日本で西洋のお城って作れたのかね。宣教師とかがお城の絵とか持って来てだろうし。
982人間七七四年:2011/07/12(火) 19:49:01.70 ID:sItfxXlq
鬼ノ城が朝鮮様式みたいな感じなんだっけ?
9831/2:2011/07/12(火) 20:12:27.13 ID:QvufKzfG
天正2年(1574)1月、小田氏治らが籠る土浦城に、車丹波守忠次、梶原景国、北條治高ら佐竹勢にとる攻撃が始まる。
土浦城南ノ手を任されていた江戸崎監物の寝返りにより多くの兵が逃亡、さらに有力武将である海上主馬五郎武経が
討ち死にするなど、小田方は一気に劣勢となる。

2月27日、西ノ木戸を守る菅谷正光は、氏治の嫡男・彦太郎守治、そして沼尻又五郎とともにわずか200騎ほどで
佐竹勢1500の中に斬り込み大いに打ち崩したが、佐竹はこの頃まだ常総には広まっていなかった鉄砲で攻撃、
雨の降るように撃ち出し、小田軍の端武者の中には「これは人間のなす事では無い!天魔の仕業だ!」と驚き
逃げ落ちるものも多くあった。

帰城した菅谷正光、小田守治、沼尻又五郎は氏治の御前に出、こう申し上げた。

「今や味方の兵は多くが討ち死にし、あるいは負傷しました。もはやこの城を保つことは、大変困難です。
これは氏治様の運の尽きというものなのでしょう。その御名を辱めぬ為にも、ここで御自害あるべきです。」

と、ここに現れたのが、同じく敵を追い払い帰城した野中瀬鈍斉、沼尻播摩守である。
野中瀬は怒鳴る

「これは口惜しき次第である!小田殿がこんな所で、闇々と自害していいはずがない!
幸いにも私は氏治様と同年であり、佐竹勢に顔を知られていません。
ここは私が殿に入れ替わって自害し、敵を欺きましょう!」

沼尻播摩守はこれを聞いて感じ入り

「よくぞ申した野中瀬殿!それがしは御嫡男守治と名乗り討ち死にしましょう!さあ、殿と守治様は
早々にお逃げください!良将たる者は千騎が一騎となっても生き延びて、会稽の恥を雪ぐのを本意とするものです。
私には息子の又五郎がありますので、心やすく御先途を見届けることが出来ます!」

と、早くも守治の具足を脱がせようとし、また野中瀬も装束を氏治のものと取り替えようとした。
しかし小田親子は二人とも涙を流し

「お前たちの死なせてまで、自分の命が助かったところでどうするというのか!お前たちと死を共にする!」

そう言って承知しようとしない。これに野中瀬、沼尻は大いに腹を立て

「さても言い甲斐のない事でしょうか!我ら両人の忠死を意味のないことにする事こそ、恨みに思います!
我々の願いが叶わないのなら、我ら二人はここで刺し違えて死にましょう!
それを犬死とお考えに成るのなら、ここはどうか、聞き分けてください。
伝え聞くところによれば平知宗は対馬に落ちて平家の残党狩りの難を避け、源義経は奥州衣川の館において
自害したと見せかけ、蝦夷に退いたそうです。古今の名将にも例のあることで、決して恥ではありません!」
9842/2:2011/07/12(火) 20:12:51.28 ID:QvufKzfG
この説得に、氏治親子ももはや詮方なく、、彼ら両人の方策に任せた。
ところが今度は、沼尻播摩守の嫡男、又五郎がこう抗議した

「私には父上の最期を見捨てることなど出来ません!共に討ち死にいたします!」

沼尻播摩守は目を怒らせて叱りつける

「ああ、お前は日本一の不覚者だ!死ぬのも忠なら脱出するのも忠義だ!
私が死ぬのはな、お前が世間に通用する男に成長したと見込んだためだ。
後の守りも安心出来る故に、ここで討ち死にし敵を欺くことが出来るのだ。
もし私の言葉に背くのなら、お前は永遠に勘当する!」

又五郎は地に伏せ、むせび泣きながら父に詫び、氏治親子を守りと共に城を落ちることを約束した。

枯れ草を集め城に火をかける。
そして氏治、守治はそれぞれに分かれて城より落ちる。
沼尻播摩守はそれを助けるため自分を守治と名乗り、菅谷左ヱ門尉正光らと共に城より討って出る。
野中瀬鈍斉は櫓より大音声で

「ここにあるは清和天皇十二代六条判官為義が三男新宮十郎蔵人行家の子息八田武者所右衛門尉朝家には
八十五代小田讃岐守氏治入道天庵である!
武運尽きて今自害いたす!人手に掛かり犬死して、後世人の嘲りを受けてはならない!
我が首をとって高名をいたせ!」

と火に包まれた城内で十文字に腹を斬って果てた。沼尻播摩守もまた、散々に暴れまわり佐竹勢の多くを倒し、
やがて猛火の中に入り自害した。
佐竹陣に切り込んだ菅谷左ヱ門尉正光、由良信濃守成繁、岡見中務少輔宗治、沼尻又五郎家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、
雨宮、天野、吉原、木村、石堂等の十六騎は、その生死すら知れず、という。

首実検の際、双方共に姿年齢が近しく、また首も焼けていたため、佐竹はこれを氏治親子の首と信じた。
これにより氏治親子は無事、片岡治部左ヱ門の中館城に落ち行きた。

土浦落城についての逸話である。
985人間七七四年:2011/07/12(火) 20:20:05.98 ID:vG2Q8YKd
由良成繁……?
986人間七七四年:2011/07/12(火) 20:22:44.69 ID:NgizOAj5
>>983
>良将たる者は千騎が一騎となっても生き延びて、会稽の恥を雪ぐのを本意とするものです。

天庵様はまさに良将中の良将
987人間七七四年:2011/07/12(火) 20:56:08.04 ID:aJ0i/sNY
早く逃げてくれよw
988人間七七四年:2011/07/12(火) 21:32:39.40 ID:g3vN+9b/
由良成繁のお化けでも出たのか?
989人間七七四年:2011/07/12(火) 21:46:14.75 ID:80pQY3oH
同姓同名だよきっと
990人間七七四年:2011/07/12(火) 22:17:42.50 ID:tSU9HVMm
そろそろ新スレたててみる
991人間七七四年:2011/07/12(火) 22:18:42.45 ID:tSU9HVMm
出来た。ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっと悪い話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1310476690/
992人間七七四年:2011/07/12(火) 23:59:39.04 ID:RBSalYw0
>>983-984
これだけ地の利、人の和があって
天の時もそんなにないわけじゃないのに
負けを重ねた天庵様の才能が怖い
993人間七七四年:2011/07/13(水) 00:21:33.67 ID:wQxFR99D
菅谷正光「気付いたら城に残る方になってた件」
994人間七七四年:2011/07/13(水) 02:23:12.49 ID:LrlZpw0b
天庵様はもう天命としか
995人間七七四年:2011/07/13(水) 02:28:49.77 ID:UmlrcuFz
ここで俺も死ぬ!と言えるのが天庵様のいいところ
996人間七七四年:2011/07/13(水) 09:05:15.87 ID:YQAP3Kcg
この種の名分論を振り回して説得する逸話は思い切り漢学の影響だな。
997人間七七四年:2011/07/13(水) 12:30:17.68 ID:E5dMtRSY
三河武士の場合、言い争いで脱出できなそうだな
998人間七七四年:2011/07/13(水) 13:30:00.86 ID:0UsNduM9
まぁ、三河武士の場合、いざとなったら、まどろっこしい説得なんかせずに強引に殿サンのケツを蹴り上げて逃がすだろうから、少なくとも大将は生き残るよね。
あとは誰が代わりに死ぬかだけどw
999人間七七四年:2011/07/13(水) 13:37:30.06 ID:euMxNlHc
天庵様は家臣にも民にも慕われる名君なのに軍略を誰かに任せる分別があればなあ
なんで戦場ではひたすら匹夫の勇なんだ
1000人間七七四年:2011/07/13(水) 13:53:37.79 ID:z5oCc4ed
1000
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