戦国ちょっといい話26

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902人間七七四年
大化元年(645年)、朝鮮半島より新羅の賊軍が我が国へ攻め寄せてきた時のこと。
時の帝孝徳天皇の皇子表米(うわよね)親王(表米宿禰命)は、天照大神の託宣により、
迎撃軍の総大将となり、丹後国から数千隻の軍船を率いて出撃した。しかし、新羅軍の
逆襲にあって苦戦、一時、親王の身も危うくなった。

その時、親王の守護神である正一位十二侯粟鹿大明神が姿を現し、それに力を得た海神
が無数の鮑に姿を変えて敵軍に襲い掛かった。親王率いる軍船はこれに助けられ、遂に
新羅軍を打ち破ることに成功した。そして、親王の御座船に残った鮑を御神体として
祭り、以後、親王の子孫である日下部一族は、決して鮑を食さないことを誓ったという。


それから900年余り後。
日下部氏の傍流、朝倉氏は初代孝景よりおよそ100年にわたり一方の雄として越前に覇を
唱えたが、五代義景に至り織田信長との争いに敗れ滅亡、栄華を誇ったその本拠地一乗谷
も戦火に遭い廃墟と化した。廃墟にはやがて土が積もり、朝倉滅亡よりおよそ400年の間、
夢の跡を保存することになる。


昭和に入り発掘が行われ、良好な保存状態の遺跡であることが判明し、一帯は国の特別
史跡の指定を受けることとなる。現在に到るまで発掘・研究が続けられており、様々な
遺跡・遺物が出土している。変わったところでは汲み取り式便所の遺構も発掘されている。
食生活の関連では、海豚・鹿・狸・鶏・鴨・サメ・鯉・タイ・タラ・河豚などの遺体が
出土している。貝類も出土しているが、そこに鮑は見当たらない。朝倉一族は900年余りに
亘って、鮑を食べることを頑として拒否し続けたのである。

なんとも律儀な朝倉一族の食生活のお話。



※本当は2点ほど鮑も出土してるようですが、それは朝倉一族が食したのではなく、家臣、
 あるいは谷に暮らす住民が食したのではないかということです。