戦国ちょっといい話26

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298648878/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/04/15(金) 18:53:22.27 ID:bRDUpEu+
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/


↑このスレ落ちてるぞw
3人間七七四年:2011/04/15(金) 23:52:43.29 ID:gppu6zFr
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
今はこっちだね。
4人間七七四年:2011/04/16(土) 00:14:05.92 ID:N3iiaTj6
移転してたのか古いURLでも見れたから気づかんかった
5人間七七四年:2011/04/16(土) 12:40:56.36 ID:W2diQyFL
徳川家康が関東に入国することが決まると、内々に家臣の知行割の作業が行われた。

ある近習衆が、家中において武勇名高く、後に徳川十六神将にも数えられる
内藤四郎左衛門(正成)にこの事を語った。
内藤、それを聞いて尋ねるに

「最初に誰の知行が決まったのか?」

「はい、最初は貴殿に五千石と決まったようです」

これを聞いて内藤、
「ふむ、過分なることよ」
と、まんざらでもない様子。

「他には誰の知行が決まったのかな?」
「は、同じく五千石で高木主水(清秀)殿、牧野半右衛門(康成)殿、阿部善右衛門(正勝)殿…」

みな徳川家中の錚々たる武功の士である。内藤これを聞いてさらに
「いかにもいかにも、御尤もである」
と喜んだ。

が、この近習の者さらに
「同じく五千石でその次に誰、その次に誰々…」

「ち、ちょっとまて!」
内藤、突然顔色を変え

「高木などと同様の知行を賜るのだから、五千石というのは武功の優れたるものばかりだと思ったのに、
何だその後の連中は!?
さてさて、殿は男数寄をなさることだ!(歪んだ形の茶道具を愛でるように欠陥のある者にも知行を与える、ということか)
ええい、面白くない!」

と、領地である武州羽山に引き籠り、剃髪して善想と名乗った、という。


こうして、家康の知行割に不満で引退した内藤であったが、家康は内藤の行動を許し、
その後も武蔵において鷹狩をするときは、必ず羽山の内藤の屋敷に立ち寄り、
鷹狩の獲物の鳥を手ずから与え、そこで食事をとり、彼の妻にも会い声をかけていたそうである。


領地より誇り、という内藤正成の矜持と、そんな内藤を仕方のない奴だと苦笑いしつつも、
その気質を愛していた家康の姿が見えてくるような、そんな逸話である。
6人間七七四年:2011/04/16(土) 13:11:32.01 ID:kiVx0z21
めんどくさい。
7人間七七四年:2011/04/16(土) 13:16:30.40 ID:5ltimX1A
家康も手慣れたもんだな、こんなのが複数人いるから大変なんだがw
8人間七七四年:2011/04/16(土) 13:24:09.54 ID:+wWC96TZ
部下に大封与えたために滅亡した信長や、政権基盤弱くした秀吉を見て部下の知行を抑えたのかな?
確か親族とか一門除けば家臣には最高でも二十万石程度しか与えなかったよな家康。
9人間七七四年:2011/04/16(土) 13:30:34.75 ID:WOeaIDdf
>>8
信長も、部下にそれほどの大封与えてないけどね
ただ、寄騎という形で指揮できる兵力は上げただけで
10人間七七四年:2011/04/16(土) 14:00:48.06 ID:AGQDP5pv
さぁ、皆さんご一緒に!
11人間七七四年:2011/04/16(土) 14:43:54.90 ID:1FPGDvNz
武士の矜持の話しだから、こんなの葉隠にも似たような話し有るよね。
この時代の武士の、共通普遍の認識なんだろな。

これを三河ものだからって面倒くさいって、バカらしい話しだ。
12人間七七四年:2011/04/16(土) 14:50:39.14 ID:fcy6I+5H
ドヤ顔で何か言って周りを白けさせる人っているよね
13人間七七四年:2011/04/16(土) 16:05:02.95 ID:fDoob1n7
ワシに不満があるとなといって殺さないだけいい君主だよな、まぁ。
14人間七七四年:2011/04/16(土) 18:53:27.92 ID:gVTyWjkF
スレ挟んで申し訳ないがセクシャルな話として
江戸中期(1700年代?)にパイズリの話がでてくるので
そういう嗜好は以前からあったのではないか? と
15人間七七四年:2011/04/16(土) 18:59:58.13 ID:HVNZgs6I
着物時代は鳩胸が良い?巨乳扱いだったらしい
今でいう巨乳は着物だと帯の上にのっかって垂れちゃうから乳飲み子抱えたおばさんっぽく見えるんだそう
16人間七七四年:2011/04/16(土) 19:18:34.06 ID:syrvUiGC
今と違って早婚だしな(江戸時代は晩婚化したが)
乳房が一般的なセックスアピールになるのは明治以降、キリスト教の価値観が普及してからって言われるな
それ以前は裸体を見られて女陰は隠しても乳房は隠さなかったとかなんとか
17人間七七四年:2011/04/16(土) 19:32:15.04 ID:CgV4d1Ie
将棋の駒師としても有名な公家の水無瀬家に、福島正則の娘が嫁ぐことになった。
その時、正則は娘に古瀬戸肩衝茶入を一つ授けた。
下の方が一か所ポックリ膨らんだ茶入であり、その異形からその茶入の名は「臨月肩衝」
子宝に恵まれるようにとの親心からであった。
18人間七七四年:2011/04/16(土) 20:36:33.28 ID:EQ/c1Vvw
で、続きは?もう一時間も待ってるんだが…
19人間七七四年:2011/04/16(土) 21:06:29.32 ID:RmpdkMpK
>>8
忠勝達ですら、城持ち大名になったのは
関東に行ってからだっけ?
20人間七七四年:2011/04/16(土) 23:41:47.07 ID:X9e4fnlv
>>8

そんな部下にはケチな家康だが、榊原康政は関東入部に際して五千石が十万石に化けた。コレについては



小牧・長久手の戦いのおり、康政は戦場のあちこちにこんな高札をバラまいた。そこにはこう書かれていたという。

「それ、筑前は野人の子。馬前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり」

秀吉は激怒し、康政の首に十万石の褒賞をかけた。

豊徳和解後、秀吉は康政を許し、家康の関東入部に当たって康政の扱いについては特に勧めて館林城主とさせた、とされる。むろん、石高は十万石である。

悪口のおかげで、しかも罵った当の本人のおかげで十万石ゲットした榊原さんのいい話
21人間七七四年:2011/04/17(日) 00:34:05.59 ID:HWUGbquR
尼子一族の一人である尼子勝久を擁立した山中鹿介は、当時毛利家に仕えていた尼子の元家臣で、真っ先に合流するはず
と考えていた神西元通から何の連絡もないことを不審に思い、叔父の立原久綱と相談して本心を探る為に使者として僧を派遣した。
僧が扇を差し出しながら

「山中殿と立原殿は、神西殿と盟友でしたが、今は敵味方に分かれ会う事も難しい。お二人は、ここは一筆頂いて本人と
 対面しているかの様な気持ちでそれを眺めようとおっしゃっていました。」

と述べると、元通は

「古柄小野の本柏」(ふるかわおののもとかしわ)と書いて与えた。

これを受け取った鹿介と久綱は、扇の文句は

「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘れなくに」

という古歌の一節で、元通は旧交を忘れていないのだと判断。再び僧を派遣したところ、元通は尼子再興軍に
参加する事を表明したのだった。 以上、和歌で旧友の心を知るお話。
22人間七七四年:2011/04/17(日) 03:49:20.24 ID:oo4T8J7U
高虎と姜

悪い方で姜の話を目にしたのでこちらにも。

慶長2年、南原城から船で敗走していた姜らを捕らえたのは藤堂軍だった。
捕らえた俘虜の中に高名な儒学者がいることを知ると、高虎は当時統治していた
南伊予の大津城に姜を幽閉した。

幽閉とはいうものの城内の行き来は比較的自由で、姜は『看羊録』に
「大津城は高山の絶頂にあり、山下には澄んだ川がまといつくように流れている。
私はいつも城に上り、西の(朝鮮)の方を望んで慟哭する。
慟哭してやや心がほぐれると、城を下りた。」
と記している。
また、近在の僧侶快慶と親交を結んだとも書かれている。

 10か月後に秀吉が死ぬと、高虎は姜を京都伏見に移した。
姜はさらに自由に外出できたようで、大名や僧侶と交流を持った。
藤原惺窩に求められて四書五経を講じているのもこの頃である。


慶長5年、姜は高虎に許されて帰国を果たす。その子孫は今も健在であるという。

秀吉の死とともに伏見に連れて来て、関が原の直前に帰国を許可することに
姜への高虎の何らかの配慮を感じないかい? という話である。
23人間七七四年:2011/04/17(日) 08:21:54.63 ID:tF1cXnKq
関東管領山内上杉家の家臣、藤田康邦は、北条家の勢力の前に、ついにその軍門に下った。
北条家に下るにあたって、二人の息子がいたが、氏康の子・氏邦が姉の夫として婿養子に入った。
康邦は居城から退去し、長男は氏邦に毒殺されたと言われる。二男・信吉は恨みを抱えて武田家に寝返った。

時は流れて天正18年。信吉は再び旧領に姿を現す。
小田原征伐に際して、上杉家の先鋒として藤田(北条)氏邦が守る鉢形城に攻め寄せていた。
氏邦もよく守ったが、最終的には豊臣軍に降伏することになる。

このとき、父を追い、兄を弑した氏邦に対して信吉は何を思っただろうか。
未だに憎しみを持ち続けていたか、あるいは時がその感情を和らげたか。

氏邦は剃髪することで助命され、前田家の預かりとなった。
前田利家の助命嘆願があったといわれるが、信吉もまた助命を願ったとも言われる。
24人間七七四年:2011/04/17(日) 08:41:20.82 ID:eGQNx2oN
あの藤田信吉さんかぁ・・・
25人間七七四年:2011/04/17(日) 09:25:03.59 ID:tF1cXnKq
>>20
しかも、康政さんすごい達筆だったんだっけ?

意外な才能?どこで習ったんだろう。
26人間七七四年:2011/04/17(日) 12:24:28.89 ID:tAbEBbmc
旗本の備え


天文22年(1553年)3月のこと。
備前の小領主浦上宗景は尼子氏に反感を持つ勢力を焚きつけて動員した15,000の兵を率いて、30,000人近い兵で美作へと押し入った尼子晴久の軍勢と対峙する。
同月中旬に激突した両軍は緒戦は一進一退の攻防が続きひとまず引き分けに終わり、互いに引き上げて再び睨み合った。

3月22日、尼子軍2,500が前進。これに浦上に味方した播磨の小寺美濃や黒田某率いる3,000の兵が対抗したが敗れ、これは見た美作の国人衆2,000が入れ替わるように尼子軍に突撃した。
これに対して尼子軍も更に1,500の兵を前進させると、浦上軍は一気に播州勢5,000を前進させる。すると尼子軍の新手10,000の大軍が更に押し寄せたものだから両軍入り乱れての大乱戦となった。
しかしながら数では尼子有利。4時間ほどの野戦の末に大勢は決し、浦上軍は敗れて備えも無く前後も一つになってただ敗走した。

ただ、戦にまだ加わっていなかった宗景率いる約5,000の兵はこの時健在であったものの、備えを崩さず情勢を見守るばかりで、前線の崩壊を見た浦上賢能斎という老人はしびれを切らして宗景に進言した。
賢能斎「今こそ御旗本の軍勢をもって先陣の救援に当たらせましょう。敵軍も乱戦状態ですから、今軍勢を繰り出せば勝利は疑いありませぬ。」

これに宗景はこう返す。
宗景「自分の旗本勢をもって乱戦の敵を追い打ちすればこれを打ち崩すことは必定であろう。しかし自分の旗本勢が備えを崩したのなら、尼子がその旗本勢をもって攻めかかって来ることも必定。
    その時は誰が我が旗本勢を助けるであろうか?そうなれば味方は総崩れとなり、生き残るものも稀であろう。旗本さえ堅固に備えておけば、たとえ先手が敗れても総崩れになるということはない。」

こうしてついに宗景の軍は動かず先陣は潰走したが、尼子晴久も浦上の旗本勢が備えを万全にして後ろに控えている様子である事から、
自らの旗本は繰り出さず、また深追いもせずそのまま一旦引き上げた。そしてこの撤退によって猶予の生まれた浦上軍は敗残兵を再編して再び尼子軍に備えることが出来たのである。

結果としてこの度の戦で浦上軍は敗退し、美作の多くの城を失うなど宗景は辛酸を舐めたが、今戦っても勝利はないと考え、ただひたすら尼子の勢力域の境目の守りを固めた。
尼子軍の攻勢はその後も続いたが備前の沼城は抜けず、やがて宗景の同盟者であった毛利元就に後背を脅かされた尼子軍は本領へと兵を返したが、
浦上軍はその機を見て兵をあげて、やがては失陥した城を全て取り戻したのであった。
27人間七七四年:2011/04/17(日) 12:51:37.30 ID:IUKeP+Rq

榊原家は酒井政尚(酒井の分家だな)に仕えるという陪臣で、大久保や本多といった譜代名門に比べ相当格落ちしたし、ましてや井伊とは比較にすらならん存在。
榊原の十万石はまさに康政ひとりの才覚で切り取ったものだよな。
28人間七七四年:2011/04/17(日) 13:11:32.37 ID:sKph8Mtb
酒井忠尚だな。分家では無く、甥(とされる)の酒井忠次が継承する以前の左衛門尉家惣領っぽい
のだが、三河一向一揆で一揆側に付いて敗れた後は消息不明になってしまったので不明瞭。

榊原康政が榊原氏躍進の立役者なのはその通りだと思う。
29人間七七四年:2011/04/17(日) 14:11:49.56 ID:cGBemD5W
>>22
さすがに無理がある
30人間七七四年:2011/04/17(日) 17:48:55.56 ID:+ZKmRz8J
>>26
直家「浦上っていつも自分は戦わないので他の人に危険な役目やらせるよね」
31人間七七四年:2011/04/17(日) 18:39:55.93 ID:IUKeP+Rq
>>28

忠尚だったか。指摘サンクス。

三河衆はわりと朋輩の上下関係に敏感だから、普通なら榊原康政は最終的にギリギリ大名になる二万石クラスで終わった可能性高いよね。

悪口書いたおかげで大儲けw

三河衆の中じゃ出世頭なんじゃないかな?
32人間七七四年:2011/04/17(日) 19:43:38.57 ID:FaY+C2qy
実際は秀吉の肝いりだけではないんだけどね
33人間七七四年:2011/04/17(日) 20:08:47.79 ID:DrzFzizQ
綱吉のころというから、寛永よりもっと後のことだろう。
主君・真田信之のお出ましというので、若侍達は慌てて弓場へ駆け、我先に弓を競った。
信之、その様子をにこやかに眺めていたが、ふと「そういえば、残念なことをしたのう」と呟いた。

近侍の某、何事ですかと問うと信之、
「儂がまだ童髪のころだったが、加賀美四郎という弓の名人がいてな、なんと騎上から逆手で右方にも弓を放つことが出来たのだ。
そのお父上の信濃殿のころには、まだ甲斐では時に騎射で勝負することがあったといって、信濃殿は相手と同じ方向に駆けながら
逆手に打って射落としたり、上(上手?右側?)に走っていくから安心と思わせて不意に射かけ斬り入ったりと自在だったそうだ。

儂は子の四郎殿のなされるのをただ一度見たことがあるが、あれは精妙で珍しいと思ったものだった。
無口で不細巧な方で、あまり人前で誇ったこともなさらなかったから、亡くなったあと絶えてしまっただろうか。
あの時はあんなに感心したというのに、今では?(ゆがけ)をどうしていたのか、入り(?)や出(?)をどうしていたのかも思い出せない」

ところが、綱重に付属され書院番であった田澤又兵衛昌長(まさたけ)が、寛文四年に逆手弓で的を射てものを賜い、のち先手弓頭になったという。
お兄ちゃんが絶滅を惜しんだ逆手弓の技術は、ちゃんと保存されていたといういい話。


ところで不細巧って不細工じゃないよね?口が下手とか、付き合いが悪いとかそんな感じ?
不細工だったから女にもてず子もおらず、亡くなった後血が絶えたってことじゃないよね?ww
34人間七七四年:2011/04/17(日) 20:10:14.14 ID:DrzFzizQ
あと入りとか出とかも分からないのでエロい方教えて下せえ。
35人間七七四年:2011/04/17(日) 21:04:55.63 ID:2ODNUDRa
>>30
今川、織田に最前線でコキ使われたからこそ三河武士は最強になったのだと思う。
平家に対しての源氏、幕末の薩長(会津、桑名も強かった)。
結局、時代が動くのはこのパターンな気がする。
やっぱ最前線で戦ってる集団は強くなるわね
36人間七七四年:2011/04/17(日) 21:05:55.99 ID:9XYSFgZq
逆手に持ち替えて右側を射たら
弓が出木になってしまって非常に射にくいはず。
よくやるわ
37人間七七四年:2011/04/17(日) 21:20:48.55 ID:keOis7QZ
>>35
それ以前の時点でも、畿内の戦争に傭兵として出稼ぎに行ってた歴戦の強者どもだったみたいですしね
家康のひい爺ちゃんは500の兵で、北条早雲率いる1万の軍勢を撃退してたり
38人間七七四年:2011/04/18(月) 00:30:07.53 ID:Y6HJ5iZY
>最前線でこき使われ

国が疲弊しきらない事が前提だな。信濃・甲斐・土佐…みーんな消耗しきって肝心な時にアボン
39人間七七四年:2011/04/18(月) 00:34:55.28 ID:GWywuu1v
第二次小豆坂の時とか岡部隊の奇襲を成功させるために最前線に突っ込まされて潰走してたりとかそんなんばっかりだよな、三河衆w
40人間七七四年:2011/04/18(月) 00:44:36.31 ID:R96WzBLI
>>33
弓道経験者です。超簡単に説明しますね。

弓の弦ってのは弓の中心線を通ってるんじゃなくて、右側を通るようにするものです。弓は左手、矢は右手で持ちます。
矢は弓の右側に通すから、弦も中心線より右側を通るように、弓自体に癖を付けておくわけです。これが入木です。
逆は出木といって、故障です。想像してみれば分かると思いますが、弓の左に来ている弦に右から矢をつがえれば、右へ飛びますよね。

そうでなくても、弓というものは打った直後に左手を外側に捻るというか返すというかして、弓を逃がしてやらないとまっすぐ飛ばないのです。
いくら弦が弓の右側にあっても、矢が弓の右側を擦ってしまうからです。これが余程うまくなければ、原始的な弦が中心線を通る弓は射れません。
それこそ、完全な出木では的を狙うどころではありません。ひねりの効果がなくなってしまうので。というか、普通そんな弓は使いません。

だから右手で弓を持ち、左手で矢をつがえて放つなどというのは、普通は絵空事です。水平に倒して構えていたとかですかねえ。
41人間七七四年:2011/04/18(月) 00:49:23.72 ID:v5h2GWq4
戦国最強雑賀衆
42人間七七四年:2011/04/18(月) 02:19:24.59 ID:T8gz1kvh
浦上がどうして沼城とか砥石城とか景気良く宇喜多にあげたのかって、要するに欝陶しくなってきた三村・毛利と手切れするから「攻めて来たら先鋒はお前らに任せた」って事だよな。

まさかこれで後々足元掬われるとは思ってなかっただろう。
43人間七七四年:2011/04/18(月) 02:46:50.69 ID:afYiGjBM
しかも二度も掬いに来るからな
44人間七七四年:2011/04/18(月) 03:25:23.85 ID:GWywuu1v
適当に風除けに使ってやろうと思ってたら難敵相手に勝ちまくって
所領が大きくなるというのは予想外だったろうな
45人間七七四年:2011/04/18(月) 11:10:30.13 ID:fv3gBUEm
やる夫では宗景に抱かれてるような書き方をされてたけど、直家にはそういう噂があるの?
46人間七七四年:2011/04/18(月) 15:55:47.50 ID:4N3o/IRr
家康たんの性感帯は乳輪
乳毛に吸い付いてやると、ウッーよいぞって言って俺の頭をおっぱいに押し付ける家康たんガチエロ
47人間七七四年:2011/04/18(月) 18:02:00.38 ID:vC75EXxa
 、        ヽ
 |ヽ ト、  ト、 ト、 、.`、
/|l. l. | |l l | | l |l.| |l. l
/' j/ ノ|ル'/レ〃j/l |
-‐7" ヾー---┐|_.j
 ̄   ./゙ニ,ニF、'' l _ヽ
::   ,.,. |ヽ 」9L.` K }.|
    l'  """  l ) /
  h、,.ヘ.      レ'/
          レ′
 r.二二.)     /
  ≡≡    ,イ
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::::::` ̄´   /  !ハ.
48人間七七四年:2011/04/18(月) 20:33:05.78 ID:R96WzBLI
   _____
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 ||;;;;;;;;;;;;;;;;;;ハ,ハ ゲエェェェ
 |: ̄\;;;;; (,,/⌒ヽ
 |:   |: ̄ ̄ 〉  〜
 |:::.._|__ U゙U_|
      ゲボァハーッ
49人間七七四年:2011/04/18(月) 22:25:55.84 ID:Gxx5awgS
>>46
井伊乙
50人間七七四年:2011/04/19(火) 00:34:30.43 ID:AeiZAjyz
スレチかもしれないし、ルール違反かもしれないが、あえて。

2011年、東日本大震災による甚大な被害を被った日本。そんな日本には各国から暖かな救援の手が差し伸べられた。

中でも同盟国アメリカの活躍は目覚ましく、震災発生直後から海兵隊・海軍を中心に多大なる貢献をなした。

その活動ぶりに感激した宮城在住の一市民が彼らの陣(海兵隊)を訪れて、感謝の意を述べた。

その中で宮城が政宗公由来の地であることを引用しつつ、彼らの事を「現代の伊達男だ」と絶賛した。

伊達男について詳しい説明を受けた米軍海兵隊の諸士は大喜びし、「アイムダテガイ?ワォ!」と大喜びだったという。

その意を伝えた一市民はわざわざ海兵隊指揮官直々に感謝されて、手土産に海兵隊記念コインまで手渡されたという。

地下に眠る政宗公もビックリな現代版「伊達男」ないい話。



東北のみなさま、元気だしていきましょう!


51人間七七四年:2011/04/19(火) 06:39:14.28 ID:fLzofhpR
お前、地震だと言えば何でも許されると思ってるだろ?
コピペバカはどこかに行ってしまえ
52人間七七四年:2011/04/19(火) 08:22:43.30 ID:qJU9iLpn
お隣の相馬では放射能がガンガン飛んでくる中、当主の息子二人がもと居城を拠点にして復興支援の指揮をとってるけどな

伊達の当主はどうした
53人間七七四年:2011/04/19(火) 11:37:19.53 ID:4b3N9qcY
相馬△
54 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/04/19(火) 12:19:01.08 ID:17Dh4Cv1
伊達さんなら満州で馬賊やってるよ
55人間七七四年:2011/04/19(火) 13:39:01.94 ID:LbefcEW3
まーくんは宮城南端の人間だろ。
飛ばされた先が仙台なだけでw
56人間七七四年:2011/04/19(火) 14:18:18.01 ID:EhJV53HL
>>55
えっ
山形じゃないの?
57人間七七四年:2011/04/19(火) 15:01:07.07 ID:DdkplKWh
そんなこと言い出したら茨城、栃木になる
58人間七七四年:2011/04/19(火) 15:01:24.63 ID:+QwS7k4P
原子爆弾による人工地震・津波、遺伝子組み換え食品、TPP、
子宮頸がんワクチン、エイズ菌、不妊症、などなど
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/
59人間七七四年:2011/04/19(火) 15:09:45.88 ID:F72MrM5Q
ドヤ顔でスレ違いの話とか死ねよ
60人間七七四年:2011/04/19(火) 16:10:22.06 ID:r8MmXCzX
まーくんの一番長く居た本拠ってどこ?

岩出山だと思ってたんだけど、、、
61人間七七四年:2011/04/19(火) 19:22:02.92 ID:hAJOvlCQ
>>48
ハゲェェって言われたのかと思った。訴訟も辞さない
62人間七七四年:2011/04/19(火) 21:13:34.48 ID:AeiZAjyz
>>61

光秀乙
63人間七七四年:2011/04/19(火) 23:13:38.82 ID:yhl+vYXf
>>52
全く関係ないが、こないだ歴史IFの番組で現伊達当主が出演してた
スペインの無敵艦隊が大阪城燃やして秀頼倒して伊達が天下取った歴史IFだった
現伊達当主はずいぶん心の広いお方だと思う
64人間七七四年:2011/04/19(火) 23:22:05.63 ID:b5qpWncO
>>63
日本を攻めるほどの規模でスペインで無敵艦隊が出ていったら、本国空っぽになって
逆にスペイン自身が他国の侵略受けるわなw
そもそも無敵艦隊には日本まで来るほどの遠洋能力が。

歴史IFをやる人間はそう言う基礎的な部分を無視するから好きになれん。
65人間七七四年:2011/04/19(火) 23:33:39.55 ID:6BoH2/7G
日本最初のSFは
1857年の、巌垣月洲『西征快心編』という日本とイギリスが戦う架空戦記だそうだが
さすがに戦国時代に架空戦記はないだろうなあ・・・と思ったが軍記物ってだいたいそうか
66人間七七四年:2011/04/19(火) 23:36:30.16 ID:UNklq4on
国姓爺合戦
67人間七七四年:2011/04/19(火) 23:38:17.37 ID:6BoH2/7G
そういや鄭成功が清倒すんだっけ
失念していた、あれ、それじゃ八犬伝もありか
68人間七七四年:2011/04/20(水) 01:07:11.03 ID:QNxtvHYn
太平記第三部。ついでにいうと三国志演義も架空戦記と言えば言えるな。
69人間七七四年:2011/04/20(水) 01:14:35.72 ID:qN4uwQhC
ちょうどスペインネタニュースで

「心はひとつ!」スペインから励ましの日章旗届く 気仙沼
ttp://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110418t13004.htm

遣欧使節の縁でスペインのサグラダ・ファミリアから
応援メッセージが届いたよってニュースなんだけど、

>ことしは、江戸時代にスペインの臨時大使セバスチャン・ビスカイノが
三陸沿岸を訪れて400年の節目の年にも当たる。1611(慶長16)年、
仙台で伊達政宗に会い、2年後の慶長遣欧使節船サン・ファン・バウティスタの
出帆に重大な役割を演じたビスカイノは気仙沼のことを「これまで見た中で最良の港」
と記録。その後訪れた大船渡市で津波に遭い、命拾いしているのも奇縁だ。

慶長の大津波ってちょうど今から400年前だったんですな。
ビスカイノが遭遇してたってのもたしかに奇遇だ。
沖にいたから助かったそうだけど怖かっただろうな。
70人間七七四年:2011/04/20(水) 08:37:31.32 ID:7QwvZFWr
 ttp://www.youtube.com/watch?v=8ZNJBOhY5Uw&feature=related
10メートル落っこちるって、考えたらとんでもないことだよね
遠洋の荒れた海もこんな感じかね?
71人間七七四年:2011/04/20(水) 15:00:04.66 ID:jrY4McOR
>>69
その慶長津波後に整備された街道は浸水しなかったんだってよ。


東日本大震災:先人は知っていた 「歴史街道」浸水せず

 東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、
浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、
東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。
仙台平野は400〜500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。

http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110419k0000e040095000c.html



ぴったり手前で止まってんぞ!
72人間七七四年:2011/04/20(水) 17:15:59.29 ID:1Hn1h+Ca
>>50
政宗に興味を追った米兵、詳しく調べる
     ↓
「び、微妙な人デース・・・」


というオチは数年後か。
73人間七七四年:2011/04/20(水) 17:21:22.85 ID:j2YtkzPw
ダースベイダーの鎧のモデルとか教えればさらに大喜びする奴も出そう
74人間七七四年:2011/04/20(水) 20:34:04.97 ID:HidUI1qW
小田宣長だぉ
佐竹に宣の字貰ったぉ
長尾景勝やお猿さんには負けない
75人間七七四年:2011/04/20(水) 22:32:17.15 ID:QNxtvHYn
>>73

教えたらしいぞ
76人間七七四年:2011/04/21(木) 19:23:30.46 ID:CA9261Hs
>>71
その旧街道って今の国道4号で、周辺より高くなってる
その高さが元々の地形なのか、舗装時に土を盛ったのかは知らない
何にせよ仙台東部道路がなければほぼ確実に津波は旧街道を越えてたと思う
つか旧街道ぞいに縄文時代から平安初期の遺跡があるんだけど
単に氾濫原の具合がいいあたりに集落ができた名残じゃないのかと

津波を意識してたのに貞山運河を整備、ってのもなんか妙だなあと
地元民としては思う
77人間七七四年:2011/04/21(木) 21:05:07.62 ID:McsYp8ep
長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話。

長宗我部盛親、板倉勝重の尋問に(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3353.html)の後の話
捕縛後の長宗我部盛親・いい話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-360.html)にも繋がるのかな?
手元の資料では板倉の尋問後のエピとなってる。

尋問が済んだ後、塀の支柱に盛親は繋がれていた。
そこに年老いた番人が黒米と赤鰯を山折敷に盛ったものを食べさせようとした。

だが、その扱いに盛親は、悲痛な声で番人に訴えた。

「戦に敗れて捕虜になることは、古今に例のないことではないから恥だとは思わない。
 だが下僕扱いをするというのはあまりにひどいではないか?
 このような扱いを受けてまで食おうとは思わん、早く命を絶ってくれ。」

たまたまその現場を通りかかった井伊直孝は、盛親に詫びた。

「一軍の将である貴殿に、このような無礼な扱いをして申し訳なかった。許して下され。」
そう言うと直孝は盛親を座敷へと招き、台所方に命じて食膳を調えさせ、盛親に振舞った。

「このような扱いを頂きかたじけなかった。どうぞ首をはねるが良い。」
盛親は感銘して直孝に礼を告げると、その場から連れられ刑場の梅雨と消えたのであった。

穀米や赤鰯というのは、御世辞にも大名や上級の武士が口にするものではなく、ましてや盛親にとっては最後の晩餐である。
直孝はそれを察し、せめて最期くらいは失礼がないように…と気を利かせたのかも知れない。
78人間七七四年:2011/04/21(木) 21:05:40.56 ID:y+Kxftgo
ちなみに茨城の那珂湊も津波で甚大な被害を受けたが
中世の町場には一切被害がなかった
79人間七七四年:2011/04/21(木) 21:06:49.68 ID:y+Kxftgo
>>77
直孝よりはるかにいいもの食ってるなぁw
80人間七七四年:2011/04/21(木) 21:53:34.81 ID:dw5y7kPz
小田原城開城に尽力した事への感謝のしるしとして、北条氏直から黒田官兵衛へ日光一文字、
東鑑、陣貝(北条の白法螺)などが贈られたのは有名な話だが、官兵衛は開城以前にも城から
あるものを受け取っていた・・・

小田原城が包囲され三ヶ月が経った頃、官兵衛は、降伏を勧めながらも敵である籠城軍を称え、
酒と魚を城に送った。
するとその心使いに感じ入った北条軍からお礼の品として、とんでもない物が送られてきた。

なんとそれは「鉛と火薬」

「これを使って、我が城を攻めろ」というのである。
官兵衛が実際にそれを使って城を攻めたかどうかは確かで無いが、戦国の最後に意地を見せた
坂東武者の「敵に塩を送る」ならぬ「敵に鉛と火薬を送る」という話。
81人間七七四年:2011/04/22(金) 00:32:27.54 ID:jzk1FL+4
>>80
直家「差し入れの美酒をどうぞ」
82人間七七四年:2011/04/22(金) 00:57:50.19 ID:SN4Zd5cx
>>81

市松「ハイ!喜んでぇ!」
83人間七七四年:2011/04/22(金) 01:17:11.58 ID:wVWktayj
敵に情けをかけられる位ならいっそ城と共に華々しく玉砕するぜ!さあこい!ってことか
84人間七七四年:2011/04/22(金) 01:57:52.67 ID:+3cSxaUz
城を枕に討ち死にって実例が結構あるんだよな。天正の陣の金子元宅とか
よく命を大事しないのは逃げだとか、虚しいだけとか言われるがそれだけじゃ割り切れないもんがある
命さえ保つことができれば正しいのか、ってのは市松の末路を見ると考えさせられる
85人間七七四年:2011/04/22(金) 02:27:11.92 ID:YKRKIGJ2
市松の場合はもう戦の出来なくなった時代だからもうどうしようもない。
まだあれが大坂の人の前だったら。
86人間七七四年:2011/04/22(金) 08:16:05.76 ID:mqMtKR8h
弾正さんは、本当に助かる目は有ったのだろうかね
87人間七七四年:2011/04/22(金) 08:28:27.39 ID:4J/b9NgQ
あれ?日光一文字って助真?
88人間七七四年:2011/04/22(金) 12:29:23.21 ID:V9oXlp3h
弾正さんはあそこで本当に助命されてもその後に佐久間みたいに難癖つけられて追放されそう
命を守って注ぐ機会のない市松は哀れといえば哀れだな
全てを捨てて大阪城入ってもどれだけ徳川方に味方をする奴がいるかはもはやわからん時代だけど
89人間七七四年:2011/04/22(金) 14:06:22.62 ID:L5ngPfx5
そういう自殺願望なら、現代にも多くあるじゃない。
妙齢で、しがみ付いてまでしてた仕事を失ったりしたら
生きる気力なんて無くなると思う。

被災者ならそれに、家族喪失・借金苦も付いて来たわけで、、、
メディアでは「生き残れて良かったね」とか無茶言うけど
あれは間違いなく死んでた方が良かったと思う。

俺なんて財産半減なのに楽に死にたいと思ってる(′・_・`)
90人間七七四年:2011/04/22(金) 14:15:52.23 ID:Vp0gP4FY
妙齢?
91人間七七四年:2011/04/22(金) 14:46:00.59 ID:V9oXlp3h
たぶん妙齢からの間違いだと思う
んまぁ震災被害者でも将来期待持てる小学生とかなら生き残ってよかったね、と素直に言えるが40〜50代で全てを失ったらどっちがよかったなんて言えんし

自殺願望ってのが大阪方か弾正どっちを指してるのかわからんが死に様を綺麗に見せる事に憧れてる奴らと生きているのが辛くなって死ぬのとはちょっと違うと思う
92人間七七四年:2011/04/22(金) 15:19:35.53 ID:+3cSxaUz
死ぬ理由がポジティブがネガティブか、って話だよな
前者は生活が豊かでも死ぬときめたら死ぬんじゃないかな
93人間七七四年:2011/04/22(金) 16:13:45.95 ID:aKdfUYlf
一家が食い詰め、みんな野垂れ死ぬくらいだったら
家長が大勝負してみようってなるだけでしょ。

大当たりさせた信繁みたいにさw
94人間七七四年:2011/04/22(金) 16:22:04.33 ID:J5Cp6uJ2
真田信繁が大坂の役に参加しないまま早死にしたら
残った家族はどうなってたんだろう?
95人間七七四年:2011/04/22(金) 16:34:41.76 ID:V9oXlp3h
伊達にいった姫と討ち死にした嫡男以外知らんのだが信繁の家中って戦後どうなったん?
96人間七七四年:2011/04/22(金) 16:37:50.50 ID:+3cSxaUz
>>93
そういう山っ気のある奴もいただろうけど信繁は違うと思うよ
囚人暮らしとはいえ宴会開く余裕もあったし、兄貴からの仕送りで食うだけなら困ってなかった
あのまま黙ってたら信幸の運動で小さい領地くらいはもらえる目算はあったし
さすがに投機精神だけじゃ信繁の大阪入場は語れないっしょ
97人間七七四年:2011/04/22(金) 23:31:57.00 ID:dURhsFuZ
>>92
自殺って基本的に精神が躁状態じゃないと出来ないみたいよ(躁鬱繰り返すひとがいちばん危険)
後ろ向きになると自殺すら出来ないとかなんとか
98人間七七四年:2011/04/23(土) 01:12:46.17 ID:tn58U02s
>>86
2度目の謀反に至るまでの徹底的にプライドから何から踏みにじるやり方からして
始めから生かす気が無かったんじゃないかなぁ。

>>96
食うだけ、ってレベルのたかり方じゃなかった気がするんだがw>仕送り
99人間七七四年:2011/04/23(土) 01:30:33.48 ID:KjvW7OM3
昌幸『全く甘えるのも大概にせいっ!!あ、信幸ワシの酒代が足りんぞ』
100人間七七四年:2011/04/23(土) 01:45:12.57 ID:Kc5eUpbs
>>87
日光一文字
http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/katana/html/katana02.html

日光助真は家康の愛刀。まあどちらも国宝指定のお宝
101人間七七四年:2011/04/23(土) 11:29:47.50 ID:htvw8zBF
てか時流読めずに玉砕しただけの武将って
家臣団的には凄く迷惑なはずなのに
悪く言われてるの居なくないか?

あ、滅亡。くらいにしか言われてない気がするw
102人間七七四年:2011/04/23(土) 11:49:34.59 ID:KjvW7OM3
大名自らだとはた迷惑だな、今川みたいな
だけど討ち死にする事で主家への忠誠示せるし周りからの聞こえもよくなるから一概に武将の討ち死には馬鹿だといいきれんよね
103人間七七四年:2011/04/23(土) 11:52:39.14 ID:pxjQzWf/
勝頼の時代なんて討ち死にが流行ったせいで「病人老人の従軍は、陣借りといえども相ならん」と触れがでるくらいだし。
104人間七七四年:2011/04/23(土) 12:59:39.83 ID:I6ubKXtt
鳥居・夏目「ちゃんと空気読んで討ち死にしないとだめだよね」
105人間七七四年:2011/04/23(土) 13:03:03.48 ID:nc74oy1+
武士がそんな死についての損得計算すること自体が駄目だ、と葉隠ではいってなかったっけ。
106人間七七四年:2011/04/23(土) 13:23:02.33 ID:sSDnp00V
結局葉隠って江戸中期の武士論だからな
一所懸命の理屈も忘れてるんだろ
107人間七七四年:2011/04/23(土) 13:30:43.70 ID:5yYF5XDB
葉隠は「昔はよかったそれに比べて今は……」の理想論だからなー
昔は昔で、その時代の武士はやっぱりその時代の価値観に応じて損得計算で動いていただけなんだけどね
ただ、未来からみたらその計算が価値観に合わなくて不合理に動いていたように見えるだけで
108人間七七四年:2011/04/23(土) 13:31:23.29 ID:KjvW7OM3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3505&cr=3ddf583844a1830b6a0e2947d418f4cb

普通にいい話だと思ったがこういうのはアウトなんだろうか…
109人間七七四年:2011/04/23(土) 13:43:02.01 ID:htvw8zBF
おいおまいら、14時半からNHKのBSプレで
伊達騒動の大河総集編?やるぞ!
http://tv.yahoo.co.jp/program/40542686/
110人間七七四年:2011/04/23(土) 14:07:12.12 ID:hc64dQdM
>>107
現代の価値観だと命>>>>それ以外ってかんじだけど、
当時は命≧名誉≧立身出世な感じでそれぞれの価値が拮抗してた時代だったからね
生きて出世するのもアリだけど死んで名誉を残すのもそれはそれでオッケーみたいな
111人間七七四年:2011/04/23(土) 14:28:56.67 ID:/gQbt9uM
家の名前が高まれば個人がいくら死のうが
結果オーライなんだよ。
112人間七七四年:2011/04/23(土) 15:18:37.40 ID:mo3tU76D
命はなによりも大事な人権思想は、つい最近出来た新しい思想なんだよな。
昔から命は大事だし、死の恐怖から逃げる人はいっぱいいた。
だからこそ潔く死んだ武士は称えられたわけで。

で、現代の何よりも命が大事な人権思想は、
見てみぬふりの大義名分になってしまう害がある、と。
あっちを立てれば、こちらが立たなくなるみたいな。
現代人の感覚こそが正しいとは一概には言えないとオモ
113人間七七四年:2011/04/23(土) 15:18:41.19 ID:3tvlS/7R
平家物語かなんかで
頼朝の命<<<<<<源氏の家宝っていう話があった気がするし、
個人としてより家の一員のしての一人として生きてるのかねえ
114人間七七四年:2011/04/23(土) 15:24:03.00 ID:QTs71zTs
当時の「家」は「家業」を運営する法人だからね。
例えば現在、たとえ社長であっても、企業の存続>>>>>>>>>>社長の地位・立場
なわけで。この地位や立場を命と変換すればいいかと。
115人間七七四年:2011/04/23(土) 15:25:41.41 ID:VvEiXdLe
何かの為に命を投げ出したって人物を、異様に低く見る風潮があるよね

前にWikipediaで豫譲が「テロリスト」と書かれてて、なんかなぁって思った
116人間七七四年:2011/04/23(土) 15:34:59.77 ID:mo3tU76D
>>115
なにかの為に命を投げ出すような人は会社でも学校でも扱いづらいからなw
全体の調和に重きを置く現代と、
個人の覚悟を許容していた侍の時代の違いだろう
117人間七七四年:2011/04/23(土) 15:43:58.02 ID:wzOv/Sfq
この流れなら言える。

飼い鯉イーター(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-373.html)こと鈴木久三郎さん。
三方ヶ原の戦いで徳川軍が敗走する中、家康から采配を奪い身代わりに敵中へ突撃した
ことが知られ一般的にはそこで死んだと見られているんだけど、奇跡的に生きて返ってきた
という話もあるそうで。
諱がわからないのでどこの家の鈴木さんかよくわからないんだよなこの人。
誰かご存じの方は居ないだろうか。
118人間七七四年:2011/04/23(土) 17:47:11.37 ID:htvw8zBF
極少数の原発作業者の命と
数千万の周辺居住国民の健康?では
割切ってもらえないモノなのだろうか?
119人間七七四年:2011/04/23(土) 18:01:23.30 ID:mo3tU76D
>>118
結局は現代でも事がおこれば、
前線の人間は命懸けてんだよ。
それをテレビでは政治家や東電フロントしか映さないから、
なんか現実離れした言葉上だけの人権感覚しかなくなっちゃうのだろう。
平和も犠牲の上に成り立ってんのにな
120人間七七四年:2011/04/23(土) 18:35:02.14 ID:KjvW7OM3
功利主義的な感じがするから個人としては好かんが割りきらなきゃならんと思うんだよ
ただ>>119が言うように全線をもっとピックアップさせるべきだと思う

戦国時代だと討ち死にしたら遺族が報いてもらえるから今より自分の死後の心配が少ないってのが少なからずあっただろうし

121人間七七四年:2011/04/23(土) 19:55:16.35 ID:snaKaRYM
石田三成のように、大志を持ってる人間は最後まで命を惜しむんだよ、というのは少数派かやっぱ。
122人間七七四年:2011/04/23(土) 19:57:22.53 ID:I6ubKXtt
仙石「命が大事に決まってるじゃない」
123人間七七四年:2011/04/23(土) 20:07:44.85 ID:a+lXY1yg
松永久秀「命を大事に(ニヤニヤ」
宇喜多直家「命を大事に(ニヤニヤ」
124人間七七四年:2011/04/23(土) 20:21:18.45 ID:KjvW7OM3
忠勝『死にとうない』
125人間七七四年:2011/04/23(土) 20:38:55.41 ID:MclKO//V
高虎「今日は、俺の死ぬ日だぜ!おらおら掛かってこんかい!」
126人間七七四年:2011/04/23(土) 21:26:21.78 ID:EZUvZcsO
>>103
時代はちょっと遡るけど、鎌倉時代の奉公と恩賞の契約関係が明確だった時代は
討ち死に対する恩賞が高かったので、元寇の際、死にかけのじじいが、
自らの口減らしと討ち死の恩賞狙いで、死兵となって、元軍に特攻をかけたらしい。

元軍はその行為が理解できなくて、とても恐れてしまったんだとか
127人間七七四年:2011/04/23(土) 21:42:35.60 ID:CD2zk5HC
信長さんが討ち死にした近臣の一族を追放したりしたのは、その辺に対するアンチテーゼかね?
使えると思って引き立てた奴がくだらないことで死ぬのは許さんということで。
128人間七七四年:2011/04/23(土) 21:44:34.75 ID:5YaObyfu
時代も動機も違うけど、第二次大戦の特攻も敵に衝撃与えてたな
特攻の被害はともかく、敵の士気は下がる
武士は世界に名だたる首狩り族だから、相乗効果で元軍はさぞ怖かったろう
129人間七七四年:2011/04/23(土) 22:17:01.70 ID:CD2zk5HC
えー? 大陸の処刑方法の方が半端ないと思うが。
大体、対馬の女子供の掌に穴あけて船縁に吊るすような奴らが、首狩りごときを残虐と思うわけがない。
130人間七七四年:2011/04/23(土) 22:26:13.92 ID:ZUWOPx9a
>>128
味方の士気もただ下がりだったけどな。
建前としては命を惜しんだら非国民扱いなんで、陰でこっそりないていたのが当時の日本兵。
131人間七七四年:2011/04/23(土) 22:26:43.34 ID:PVQ4uJIE
もうそろそろいい話に戻しませんか?
と言って私に題材がないのが申し訳ないのですが
ここは今まであまり出てない人とかのいい話を、皆々様の知識で是非教えて下さりませ
132人間七七四年:2011/04/23(土) 22:33:55.55 ID:X0H5tkue
古代中国で、敵の目前で罪人集団に自決させて相手をびびらせた話思い出した
133人間七七四年:2011/04/23(土) 23:53:11.24 ID:bzXYfXba
では忠興公の話など。
「細川三代」という本にあった記述です。

天正四年11月、細川家では嫡子熊千代の甲冑付け始めの儀が行われていた。
介添え役は千秋太郎介という侍が任ぜられていた。
名前が目出度いから、というのが理由だ。

儀式は作法どおり進み、最後に千秋が熊千代の兜の緒を引きつつ、
「勝って兜の緒を締めよ」と声をかけた。

ところがその時、重さに耐え切れなかったのか、具足櫃の底が抜けた。
熊千代はひっくり返り、兜も脱げ、何とも不体裁な事となった。

それを見て千秋がすかさず
「めでたしめでたし、丹波八郡は、割り取りになさるべし」と祝い言を述べたので、
その場も収まり、式は無事に終わった。

後年忠興公が当時を回顧して、
「あの時は驚いたが、その後武功を上げられたのだからそれで良い」と語ったとか。

門出に起こった椿事を吉兆に結びつけた千秋のいい話。
または忠興公の自信あふれる話。
134人間七七四年:2011/04/24(日) 01:45:58.71 ID:/htmZelz
「勝って兜の緒を締めよ」は、家康が関ヶ原の後にいったのが由来
という話を聞いたが、やっぱりそれ以前に遡るのか
135人間七七四年:2011/04/24(日) 01:59:54.47 ID:kCiJeyAv
余り持ちネタが無いから被っていたらすまん。

永禄12年正月。
武田信玄は今川氏真が治める駿河へと侵攻する。
それに対し氏真は北条氏康に救援を求め、
今川・北条軍と武田軍は興津川周辺で対陣する事になった。
その折の話である。

浜風が吹き荒ぶ真冬の戦陣。
武田の将兵は耐え切れぬ寒さに打ち震えて…あまり打ち震えていなかった。
むしろそこには大量の酔っ払いがいた。
空になった多量の酒樽。
大鍋からプンと漂う熱燗の臭い。
そう、武田信玄主催の酒宴が催されていたのである。
信玄「さぁどんどん呑め」
大将からそう言われて呑まぬ者など居ない。
将兵は熱燗を呑んで呑んでと浴びるように呑んだ。

武田兵「ウイー」

それがこの様である。
その様子を見届けて、信玄は兵たちに聞いた。
信玄「お前ら、まだ寒いか?」
武田兵A「おら寒くねえだ」武田兵B「んだんだ」
武田兵C「まだまだ寒いだ」武田兵D「寒くて死んでしまうだ」
信玄「そうか……。ならばよし! 酒の醒めぬ前に薩捶山に攻め上るのじゃ!」
武田兵「ウィー」
酔っ払いの武田軍は、無謀にも酔っ払ったまま敵陣のある薩捶山に攻め上がる。
が、攻め上った先に敵兵の姿は殆ど無かった。
僅かに残っていた幾人かの小者を蹴散らすと、
そのまま武器や兵糧を奪い、敵陣を破壊できたのである。

平地で酒を呑んでいてすら寒い。
ならば山上の敵は更に寒い思いをして碌に戦えないだろう。
それにそんな寒い陣屋には留まらず、
将兵の多数は山を下り、麓で夜を明かしているに違いない。
と敵兵の考え方を洞察した信玄の戦術眼のいい話。
136人間七七四年:2011/04/24(日) 02:24:16.95 ID:/htmZelz
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html

こっちでは震源じゃなくて昌幸の策になっているね
137人間七七四年:2011/04/24(日) 02:35:25.03 ID:kCiJeyAv
ぬおっ。
既出であったか…。
無念。
138人間七七四年:2011/04/24(日) 02:59:02.32 ID:AAKYzdqs
1589(天正17)年、伊達政宗は陸奥国会津を支配する蘆名家との戦いを繰り広げていた。「名将言行録」によると、
この時、激突する兵士たちを本陣から眺めていた政宗は、二人の敵将の戦いぶりに目を止め、

「一人は20歳ほどであろう。もう一人は30歳くらいか。」と、年齢を推測した。

戦いに勝利し、その二人を生け捕りにして年齢を確かめるとその通りだったので、家臣達は驚いて

「殿、何ゆえ年齢が判ったのですか?」と尋ねると、

「相手を選ばぬ勇猛な戦いぶりは若さゆえよ。一方、強い相手を避け、弱いものを選んで戦うという
 要領の良さは壮年にならねば身につかぬからだ。」

と答えたのだった。以上、敵将の年齢をズバリ当てた政宗の人間観察眼の逸話。
139人間七七四年:2011/04/24(日) 03:31:06.32 ID:jt8RcDqX
まとめに出てる奴って出典が書いてないからあまり信用できない
文章の終わりに出典を書かないと信憑性が落ちるので、これからは必ず書くようにすべきです
140人間七七四年:2011/04/24(日) 03:31:51.48 ID:qOkwP22S
>139
ちょっと落ち着こう、な
141人間七七四年:2011/04/24(日) 05:25:08.89 ID:BVickKOZ
>>134
北条氏綱の遺訓にも出てきてた気がする。
142人間七七四年:2011/04/24(日) 11:19:58.17 ID:RwcKf04r
>>139
戦国板がなぜ「学問・文系」ではなく、「趣味」にあるのか考えるべきです
143人間七七四年:2011/04/24(日) 11:23:35.05 ID:/fpPCBFA
本当だな
前線に立ってる人物ほどボカされて報われないとは寂しいものだ
不眠不休に近い死ぬ思いで下請けも中抜きされて薄給ではな
144人間七七四年:2011/04/24(日) 11:24:51.93 ID:/fpPCBFA
誤爆…すまぬ
145人間七七四年:2011/04/24(日) 14:29:53.52 ID:iSxkNBar
戦国では前線にたつ人間はめちゃ優遇されるんだよな
成果をあげた人間にはガンガン加増するし領地がなけりゃ金銀手渡しで即報奨だし
146人間七七四年:2011/04/24(日) 15:49:07.51 ID:vbyuKuV+
そのかわり平和になると武官は遠ざけられ、文官が厚遇されるのだけれどな。
147人間七七四年:2011/04/24(日) 16:11:47.03 ID:aiMjI1VR
鎌倉武士じゃないんだから
別に強い家来らに守られまくりながら
武功あげても問題無かったでしょ。
148人間七七四年:2011/04/24(日) 17:01:02.34 ID:0YQ00Ylt
1637年、九州にて大規模な一揆が勃発します。そう、世に言う島原の乱であります。
苛政に苦しむ領民や有馬・小西・佐々・加藤といった改易された大名の浪人などを中心に組織化された一揆軍を島原藩松倉家では押さえることができず、
幕府は板倉重昌を派遣しますが、1638年1月まさかの討ち死に。
幕府は知恵伊豆こと松平信綱が派遣されるという事態に追い込まれます。
そう言った事態を受けて、九州を領国とする諸将にも派兵命令が下ります。

北九州の雄藩として福岡を納める黒田家にもその命は下ります。
しかし、細川家や鍋島家、立花家などとは違い、戦歴豊富な先代が他界して久しい黒田家、現当主である忠之は1602年生まれの36歳。
戦歴のある老臣を中心に出陣用意に奔走する黒田家ですが、どうやら黒田軍1万8000の盾の板が足りない。
149人間七七四年:2011/04/24(日) 17:05:09.20 ID:0YQ00Ylt
さて、どうするかと頭を抱えているところに、先代長政の信頼厚い能吏・小河内蔵允之直があることを思い出します。
「そう言えば、亡き先代がいざという時のために用意があると仰っていました。竹森清左衛門が詳しいことを知っているはずだとも」
そう言うわけで、竹森を呼び詳しく尋ねたところ
「福岡より四里離れた山奥の寺に寺領三十石を与えて密かに蓄えさせております」
とのことなので、急いでその板を取りに人を遣わせました。
ちょうどその山の下に流れていた川が福岡上下に連なっていたので、盾板を川へ投げ込めば夜のうちに残らず福岡城下に流れ着き、
黒田軍は無事盾板を持って島原へ着陣することができました。
関ヶ原から38年、大坂の陣から23年、そして、黒田長政が京都で逝去して15年も後のことでした。

以上「名将言行録」より、黒田長政の用意のいい話、でした。
150人間七七四年:2011/04/24(日) 19:23:52.39 ID:OrbDoNVM
乙。

ただ、知恵伊豆派遣決定は板倉戦死の前なので誤解なきよう。
151人間七七四年:2011/04/24(日) 21:47:13.00 ID:0YQ00Ylt
>>150
ご指摘ありがとうございます
板倉戦死は1638年の正月で、その直後に着陣してますね、知恵伊豆
152人間七七四年:2011/04/24(日) 22:18:42.96 ID:dmuY4yXG
知恵伊豆派遣が決まって、焦った板倉が無理攻めして討ち死にみたいな話しがあったっけ?
153人間七七四年:2011/04/25(月) 00:12:06.62 ID:2Vf+45xO
>>147
有楽斎乙
154人間七七四年:2011/04/25(月) 00:24:39.81 ID:UGT+y8F2
だって有楽さん茶坊主だもの
155人間七七四年:2011/04/25(月) 04:51:06.20 ID:oTYnaTzd
>>147
鎌倉武士は為政者でもあった戦国時代の武士よりも、はるかに
ヤクザもんという印象。坂東武者の内部抗争での一族皆殺しの多発は
すさまじい限りだし、地頭の悪行もこれまたすさまじいし…
156人間七七四年:2011/04/25(月) 06:35:53.42 ID:iJRZ6mJx
>>152
板倉は最初から知恵伊豆到着までのつなぎだったけど、ちょうどいいタイミングで討ち死にしちゃったから、功を焦って死んだことになったという逸話になっちゃった
という話もある
157人間七七四年:2011/04/25(月) 10:22:06.75 ID:tP4kvfbz
お家騒動なんていつもしてたじゃん。
158人間七七四年:2011/04/25(月) 15:50:53.75 ID:IxEgNmOU
上杉謙信が越中に攻め入った折の事である。
このとき上杉軍は境川に浮き橋(舟橋)を架けて、前線と本陣との通路とした。

さて前線から田中太郎左衛門という者が使者として本陣を訪れたとき、謙信は
この田中を読んで「浮き橋についてどう思うか?」と聞いた。
田中これにただ一言

「長熊手の用意がなければ危ういでしょう」

と答えた。

謙信の側にいる者たち、誰一人として意味がわからず「何でそんな物を」などとざわめくが、
謙信一人は忽ちその意味を悟り、早速長熊手を100本作らせ、舟橋から
川上に4,5町(約4〜500メートル)程の場所両岸に番所を建て、ここに熊手と共に人をおいた。

さて、その内に大雨が続いた。敵は川が増水したこの時に、浮き橋を崩すため上流より
材木を流しかけた。

しかし川を監視していた両岸の番所がいち早くこれを発見。くだんの長熊手を用いて
材木を引き寄せたため、浮き橋の被害は少しもなかった、という。

上杉謙信、田中太郎左衛門の一言を瞬時に理解し対策を実行する、と言うお話。
159人間七七四年:2011/04/25(月) 16:01:24.84 ID:UI6JXi+n
まわりくどい破壊工作だなww
160人間七七四年:2011/04/25(月) 16:10:38.80 ID:GyuXnMJg
>>149
>盾板を川へ投げ込めば夜のうちに残らず福岡城下に流れ着き、

名将言行録はこういう都合のいい作り話を入れてくる創作だから嫌い
161人間七七四年:2011/04/25(月) 17:15:14.55 ID:cMHDlFbE
歴史上の有名人の名を借りた童話集みたいなもんです
162人間七七四年:2011/04/25(月) 18:57:00.23 ID:y6Nm6KsA
では、宮崎の歴史童話にでていた話

島津の名将、山田有信といえば、日向高城に500の兵力で篭城し
大友勢の猛攻を凌ぎきったことで、耳川の勝利を呼び込む結果となりました。

そして、今度は豊臣秀吉の九州征伐です。秀長軍8万とも10万とも
言われる大軍が包囲して、空から鉄砲の弾が雨あられと降りかかります。
篭城兵は1000から1500人といったところ。

そこで有信は配下の兵に指示を出します
「よし、おまえら、地面でなにかを拾うふりをせい」

篭城している兵がなにかをせっせを拾っているのを見て、包囲軍は
「おいおい、連中、俺達が撃ちこんだ鉄砲の弾を拾っているぞ。
それを今度はこちらに撃ち返すつもりだろう。ちょっと撃ちこみの量を
を減らすか・・・」

と射撃の勢いが少し弱まりました。
そんなこんなで、高城は島津本隊が敗れても持ちこたえ、義久が開城の
説得をして、やっと降伏したのでした。
163人間七七四年:2011/04/25(月) 20:51:19.88 ID:IPGQf9ar
「返し矢恐るべし」ですな
164人間七七四年:2011/04/25(月) 20:57:57.01 ID:AaCKUuQr
いつも思うが「ちえいず」って言いにくいな。ほんとに言ってたのか。
実のところはチェイズとかチェーヅとか言ってたんじゃないのか。
165人間七七四年:2011/04/25(月) 21:12:22.58 ID:w28xpJZI
youtubeに薬丸自現流の気合の入った動画あったけど消えてるw
166人間七七四年:2011/04/25(月) 21:15:40.27 ID:uiWf771V
ニコニコにある奴かな
父が薬丸自顕流習ったときにはその動画同様
猿叫とかいって「キエーーーーッッッ!」
と斬りかかってたようだけど
167人間七七四年:2011/04/25(月) 21:21:09.44 ID:xK5Z4wfJ
某ゲームだと半兵衛がキエーーーッって叫びながら斬りかかってきて怖いでござる
168人間七七四年:2011/04/25(月) 21:26:32.88 ID:Z3HDXJ04
叫び声が方言なんだろうなぁ
169人間七七四年:2011/04/25(月) 21:29:35.34 ID:CquvK0uZ
猿叫が某ゲームでわけわからん事になってるでござる
http://www.pathfindergate.com/kakushin/event_dokuji.html
170人間七七四年:2011/04/25(月) 21:42:58.86 ID:Cpe8wVtw
それより「三河魂」の方が気になる
171人間七七四年:2011/04/25(月) 21:47:15.53 ID:CquvK0uZ
特技というより欠点だよな・・・
172人間七七四年:2011/04/25(月) 21:58:20.19 ID:0HNV9XcW
貴久の時代にはねーだろとか言いたいがゲームだしな
173人間七七四年:2011/04/25(月) 22:13:02.65 ID:K+5l/rCP
与一の弓なのに那須さんのなの字もない…
174人間七七四年:2011/04/26(火) 01:04:12.95 ID:7fEo47V1
最上義光の「キレイな方の」遺言

山形市の最上義光歴史館には最上義光愛用の鉄の指揮棒が展示されています。
表面には金の文字で「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」。
http://image.blog.livedoor.jp/chihaya1969/imgs/2/4/24cc509d.JPG

遺言では「これを振るえるだけの器量を備えた人物が 生まれてきたら授ける」とされ、代々最上家に伝わっているそうです。

・・・もしかして悪い話?
175人間七七四年:2011/04/26(火) 03:13:11.15 ID:mLTAcTSC
>>162
ディフェンスに定評のある山田
この人の籠城戦術って旧日本軍も研究して籠城戦の見本にしてたって話だな
176人間七七四年:2011/04/26(火) 13:45:40.86 ID:EgBkIOGS
>旧日本軍も研究して参考に

うーん、微妙だなw日本軍は伝統的に守りは下手だからな〜。

栗林(硫黄島)とか中川(ペリリュー)が個人的に研究してた、というなら褒め逸話なんだが
177人間七七四年:2011/04/26(火) 16:56:57.69 ID:l+O07yiq
その時代はもう要塞にこもって〜って時代じゃ無くなってるからしょうがない
178人間七七四年:2011/04/26(火) 18:25:29.03 ID:a9MxDOYx
硫黄島(いおうとう)を忘れるな
179人間七七四年:2011/04/26(火) 18:27:35.52 ID:/BiyMYbF
負けが込むとすぐ突撃して玉砕、とかいって全滅を美化しちゃったからな日本軍。
やむなく退却した指揮官に自決強要とかも……。
180人間七七四年:2011/04/26(火) 18:33:50.26 ID:O/T/UMug
そりゃ末期も末期だろ
181人間七七四年:2011/04/26(火) 18:40:17.67 ID:/BiyMYbF
>>180
いや、玉砕といいたて始めたのはせいぜい太平洋戦争中期。
自決強要にいたってはアメリカとやりあう前のノモンハンにて。
182 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2011/04/26(火) 18:43:58.01 ID:+Bw2vDQ1
陸軍は政府主導の口減らし装置だし……
183人間七七四年:2011/04/26(火) 19:12:08.55 ID:EgBkIOGS
しかも吶喊攻撃だからな>玉砕

人数の劣る側が相手方防御陣地に横列で突撃。しかも奇襲目的なのにわざわざ突撃前に吶喊とかアホちゃうか、と。

戦国武将からしてみたらマヌケの極みだろうね>日本陸軍の指揮官
184人間七七四年:2011/04/26(火) 19:15:05.15 ID:hPKglfff
旧軍の批判がしたいだけなら別スレで
185人間七七四年:2011/04/26(火) 20:03:03.24 ID:rHDHkFcb
そろそろうざいですよ、皆さん
186人間七七四年:2011/04/26(火) 20:06:36.82 ID:/IVQEFh6
まあ戦国時代のワイルドな日本人が好きな我々としてはどうしてもね・・・
187人間七七四年:2011/04/26(火) 20:16:22.83 ID:H8tcCLFI
>>183
ポツダム宣言受諾以降の日本最後の指揮官
第五方面軍司令官・樋口季一郎さんみたいな知勇兼備・規律に厳しい名将もいる。
二次世界大戦で誇れる日本陸軍の一人だ、覚えておいて損はないぞ。
この人はアッツ島も本当は助けたかったんだよ・・・
188人間七七四年:2011/04/26(火) 20:33:23.83 ID:w1OHNyK4
樋口閣下の御遺徳ではるか中東のイスラエル軍まで救援に
馳せ参じてくださった。
189人間七七四年:2011/04/26(火) 20:52:53.97 ID:IsrgRTRE
誰か流れ変えろよ
190人間七七四年:2011/04/26(火) 21:22:36.18 ID:/FAmXWck
朝倉宗滴さんみたいなリアル武士のしたたかさに学ぶべきだったよな。
空想武士道にハマっちゃった軍人が多かった。
しかも軍が自分達好みに戦国時代の戦いを規定しちゃったりとか、結構悪い影響もある。
桶狭間の誤解もかなりが軍が流布した話のせい。
191人間七七四年:2011/04/26(火) 21:27:51.54 ID:O/T/UMug
武士道ってのはその時代ごとにおいて概念がちがうもんだ。どれが正道ってのはない
192人間七七四年:2011/04/26(火) 21:29:00.90 ID:kdQxxq2u
でも勝つことが全てというのは正しいな。
193人間七七四年:2011/04/26(火) 21:31:45.96 ID:H8tcCLFI
>>190
大戦時に好まれたのって
山中鹿介・楠正成・菊池一族とかの南朝系とか忠義の人物達
位しか知らないんだけど他に持ち上げられた武将ってどれ位いるんだろうか
主に上記3名が一般的に知られてるけど
194人間七七四年:2011/04/26(火) 21:38:48.69 ID:DTpDe3id
>>193
好まれた……というか軍学校で真面目に講義されたりしたのはいわゆる奇襲を成功させた武将。
信長とか元就とか。少数で多数を倒すことを考えてた日本軍にぴったりだったからだとか。
あとは、闘戦経という兵法書も研究されてたり。まぁ、中国・孫子アンチじみた偽書っぽい内容なのはご愛嬌。
195人間七七四年:2011/04/26(火) 21:48:29.55 ID:43WRRULe
寛永の始めの頃(1624年か)の事だそうだ。

江戸に伺候した長門長府藩主・毛利秀元の元に萩の輝元入道宗瑞(毛利輝元)より、
井原加賀、清水信濃の両名が使者として訪れた。彼らの持ってきた書状の内容に、
秀元は仰天した。

『我が家は昔領するところ、十ヶ国に及びました。ところが今入道(輝元)の身に及び
僅か二ヶ国よりの租税を以て、累代の家臣たちにあてがわねばならなくなり、上も下も
悉く貧しさに苦しみ、軍役の負担に耐えることすら出来ません。
既に公の賦役に奉仕することが出来ないのなら、国を賜ってもまるで意味のないことです。

この上はぜひとも、二ヶ国の地を将軍家にお返しし、どうにかして宰相殿(秀元)の計らいで、
我が毛利家が滅びないように頼みたいと考えている。』

あまりのことに秀元はすぐに幕府重臣、土井利勝にこれを相談。
利勝からこれを聞いた徳川秀忠はすぐに秀元を呼び、この件について相談をした。

秀忠は言う
「はてさて宗瑞殿にも困ったものじゃ。隠居した者が領地を返上すると言ったからとて、
そのようなことが出来ようか。宰相殿、そなたには何か考えはあるか?」

「はっ。この事は毛利家の意思ではなく、輝元入道一人の心配に過ぎません。
しかしこのまま放っておけば、毛利家中にいらぬ混乱を起こすことも考えられます。
…要は輝元入道を安心させれば良いのです。私に任せて頂けますか?」

秀元は秀忠の許可を得、毛利家の領地周防長門30万石余りを、その頃の最新の基準で
検地し直した。するとなんと、新しく出た数値はそれまでの倍以上、76万石であった。

この事を聞いた輝元は、それなら毛利家はやっていけると大いに安堵し、二度と
領地返上のことは言い出さなくなった。そして翌寛永2年、安らかな往生を迎えた、と言う。

毛利秀元、輝元を安心させる。と言うお話。
196人間七七四年:2011/04/26(火) 21:55:00.50 ID:O/T/UMug
>>192
もちろんそれも正しいと思う
ただ勝つ事=できる限り有利な条件で生き残ることなのか、自己をあくまで守り通すことなのかで結果は変わる
一見普遍的な概念でも受けて次第でいくらでも変化する
他人には敗北にしか見えなくても、本人は本気で勝ったと思ってるなんてことも結構あるもんさ
197人間七七四年:2011/04/26(火) 21:58:45.51 ID:+NO09G5q
>>195
これって表高?
だとすると、参勤交代や賦役とかがかえって大変になりそうな気がするんだけど、どうなんだろう?

内高2倍だと、農民に恨まれそうだな。
198人間七七四年:2011/04/26(火) 21:59:44.63 ID:5/RUJ/xm
>>195
秀元の良い話、ではあるけど、
TERUの救いの無い話でもある気が…。
ほんとダメな子だ。
199人間七七四年:2011/04/26(火) 22:02:49.10 ID:HsCmmE8P
伊達も上杉も領地返上を考えたことがあったらしいけど、
実際に財政が立ち行かないから領地を返上します・・・しました という大名家ってあるの?
200人間七七四年:2011/04/26(火) 22:06:39.52 ID:mADC8Bm7
本当に元就さんのしたたかさとバイタリティはどこへいったのか……。
余談だが闘戦経ってどう見ても毛利家とは無関係の偽書だよなあ……。
201人間七七四年:2011/04/26(火) 22:10:09.27 ID:43WRRULe
>>199
財政じゃないけど、加藤嘉明の息子の加藤明成がお家騒動(会津騒動)のあげく、例の
鎌倉東慶寺に兵を入れた事件で幕府を激怒させて、それに怯えたあまり
「病のため領地返上したい」と幕府に申し出て改易。
202人間七七四年:2011/04/26(火) 22:13:16.55 ID:HsCmmE8P
>>201
d
>>195の場合は、輝元が「大名家でなくてもいいから、ともかく家だけは
存続させたい(高家とか寄合、旗本狙い)」ということかな
203人間七七四年:2011/04/26(火) 22:13:19.63 ID:kdLiuELR
明治に入ってだけど龍岡藩が財政破綻しちゃって廃藩したような
204人間七七四年:2011/04/26(火) 23:01:59.58 ID:snjiZqD+
>>194
信長が行った戦争って、ほとんどが相手方よりも兵力揃えて圧倒するっていう
あたりまえのものが全然多いのに・・・
にもかかわらず、姉川では少数の浅井勢に突破されそうになるし
205人間七七四年:2011/04/26(火) 23:07:33.09 ID:HsCmmE8P
よく考えたら、借金するだけ借金して、200年ローンとか組めばいいから
そこそこに大きい大名家は開き直れば安泰だな
206人間七七四年:2011/04/26(火) 23:23:05.71 ID:nI990/ka
>>204
信長は元亀以降、常に周囲に複数の敵を抱えていた
そんな状況で相手を上回る戦力を戦線に投入することがどれほど困難なことか

姉川の十一段突破は実証的には否定されているしねえ
207人間七七四年:2011/04/26(火) 23:33:33.66 ID:Z+hZpe2D
>>205
薩摩が似たような事を幕末にやったが…
平和が保障される江戸時代だからこその手だよね。
明日もわからない戦国では無理
208人間七七四年:2011/04/27(水) 00:21:41.47 ID:foV+oeRW
相手より多い兵力で対峙して「当たり前に勝てる状況」を多く作って戦に臨めてるなら常に戦略で勝ってる強い軍だろう。
209人間七七四年:2011/04/27(水) 00:45:55.04 ID:IOZonQT1
常に相手よりも多い兵力でフルボッコ圧勝するのが織田

常に相手よりも多い兵力集めるけど、所詮烏合の衆なのが北条
210人間七七四年:2011/04/27(水) 00:52:13.41 ID:DzI9FlgD
つ桶狭間
つ河越夜戦
211人間七七四年:2011/04/27(水) 01:14:20.69 ID:C0lIilfs
>>210
「桶狭間は乱取り中の今川軍にこっそり織田の兵を忍び込ませて、一緒に引き上げさせたところで
混乱起こさせてその隙に義元を討った」って甲陽軍鑑の桶狭間描写が最近見直されているそうな。
212人間七七四年:2011/04/27(水) 01:16:21.20 ID:flLt03GC
>>211
多い兵力でフルボッコって見直されているのか?
213人間七七四年:2011/04/27(水) 01:17:10.81 ID:cqtnLRGo
まぁそんなこと言ったら三大奇襲は全部見直されてるんだが
214人間七七四年:2011/04/27(水) 01:18:23.69 ID:E14yZH1v
>>209
北条はどう考えても強いぞ。強かったから江戸期の軍記でヤラレ役になった。
例えば武田信玄や勝頼、上杉景勝なんかも、家康より北条のほうが強敵だという認識を
持っていたという状況証拠はたくさんある。城や武将の配置とか。
大体強くないとあんな大領土は形成も保持も出来んよ。
215人間七七四年:2011/04/27(水) 01:22:20.82 ID:E14yZH1v
>>212
そもそも北条は小田原の役までフルボッコにされたことは一度もない。
ほとんどの作戦で最終的に必ず勝ち、あるいは優勢で合戦を終わらせている。
家康の勝利と言われる天正壬午の乱すら、北条は実質的利益をちゃんと確保している。
216人間七七四年:2011/04/27(水) 01:27:45.35 ID:9awLyZin
またまたご冗談を 
217人間七七四年:2011/04/27(水) 01:29:38.53 ID:flLt03GC
200万石前後あったんだっけ
烏合の衆でジワジワ200万取ったんなら
それはそれで凄いし怖い
218人間七七四年:2011/04/27(水) 01:31:05.31 ID:9awLyZin
上杉やら武田やら徳川が防波堤になってたお陰で生き残ってた亀さんって所か
219人間七七四年:2011/04/27(水) 01:32:13.18 ID:flLt03GC
亀さんに防波堤にされたって笑えるね
220人間七七四年:2011/04/27(水) 01:37:36.52 ID:XEmmspvP
自分からは何も手も打てないで大局も見えず関東でドラゴンボールを必死に集めてたら
フリーザが攻めてきてベジータ家康が早く援軍を寄越せー!どうなっても知らんぞー!な感じ
221人間七七四年:2011/04/27(水) 01:39:30.88 ID:C0lIilfs
そもそも軍記で北条に対し勝った勝った勝ちまくりとしている真田が、実際には
上田城の3キロ先に北条に砦作られ、それを小田原の役まで全く手出できず
完全に動きを封じられた状態になっていたわけで。
軍記のイメージで戦国大名を見ないほうがいい。

こういうのは北条に限らず、例えば佐々成政なんて前田家の記録では、前田利家の
末森城後ろ巻きでコテンパンにやっつけたことになってるけど、実はその後前田軍は
鳥越城で逆に佐々成政軍にボコボコにやられ、利家は成政を滅ぼすどころか
北陸戦線全体を膠着化させてしまった。
しかしその事を前田家はお口にチャック。ために世間も北陸では利家が勝ったような印象を持つ。

まあ大体軍記ってのはそういうものだ。
222人間七七四年:2011/04/27(水) 01:44:23.93 ID:FIcoC3hv
北条は河越夜戦で関東の旧支配層である山内上杉、扇ガ谷上杉、古河公方を一網打尽に
して一夜にして関東の覇者に

まさに乾坤一擲
223人間七七四年:2011/04/27(水) 01:48:10.03 ID:XEmmspvP
どんなにホラを吹いても北条が強いなんてことは感覚的に無理
224人間七七四年:2011/04/27(水) 01:48:37.54 ID:E14yZH1v
>>222
そりゃ嘘だ。北条がいわゆる河越夜戦で滅ぼしたのは扇谷上杉だけ。
関東管領山内上杉は大きな損害を出さず撤退しているし、古河公方はそもそもあの時期
既に大した力は持っていない。

山内上杉が関東から駆逐されるのは河越夜戦からもう少し後。
そのきっかけはたしかに河越夜戦の勝利だが、それだけではなくもうちょっと複雑な過程がある。
225人間七七四年:2011/04/27(水) 01:50:22.81 ID:FIcoC3hv
上杉、武田が突出して強いだけで、北条が佐竹とか伊達より弱いとかありえないな
226人間七七四年:2011/04/27(水) 01:51:51.73 ID:C0lIilfs
>>223
お前の独りよがりの感覚なんぞ知らんがな。
きちんと史料や論文を読んで感覚とやらを磨いてから書き込め。
227人間七七四年:2011/04/27(水) 02:01:35.60 ID:FIcoC3hv
>>224
討ち取ったのは上杉朝定だけだが、敗戦により武蔵国守護代大石氏など山内上杉傘下の勢力が山内上杉を見限り北条に付いている。
大勢は決したから、従わない豪族を各個撃破していくだけの簡単な作業。
228人間七七四年:2011/04/27(水) 02:14:10.02 ID:nM89+2fq
>>221
>上田城の3キロ先に北条に砦作られ
これって沼田城じゃないの?詳しくは知らないけど
229人間七七四年:2011/04/27(水) 02:22:28.85 ID:j60LskOh
>>211
「最近見直されてる」って、
甲陽軍艦をもとに平山優が毎度おかしなこと言ってるだけだろw

ID:C0lIilfsに限ったことじゃないが
一人二人の学者が唱えてる奇説を「最近の説では」「今は○○の説が主流」と書くのは止めよう。

>>215
>そもそも北条は小田原の役までフルボッコにされたことは一度もない。

つ三船山合戦

永禄十二年正月二十日の氏康書状「妙本寺文書397号」で
隠居した氏康が里見に泣き入れて講和してもらってるよ。
230人間七七四年:2011/04/27(水) 02:35:38.75 ID:flLt03GC
>>229
その後ねじかえって里見がほぼ北条に押し切られて和睦されちゃったじゃないの
231人間七七四年:2011/04/27(水) 02:49:13.72 ID:j60LskOh
>>230
そうだね。
安房と上総の一部を抑えてるだけの里見と、北条とでは生産力も兵力も段違いだからね。
言うまでもないが、>>229は「北条は小田原の役までフルボッコにされたことは一度もない」へのレスなので。
232人間七七四年:2011/04/27(水) 07:01:00.71 ID:pjOEBnz8
つまり>>208でHA
233人間七七四年:2011/04/27(水) 07:04:51.89 ID:pjOEBnz8
誤字った
まあ戦略として悪くないでしょ、物量押しは
防御拠点を上手に使わないと対処できないんだから
234人間七七四年:2011/04/27(水) 09:00:07.82 ID:3XgffwBj
重要なのは、一度や二度の戦術的敗北で情勢が覆らないように、失敗を拡大拡散させないこと 北条や織田はそこが上手だった
さらには、戦術的にも負けの被害を最小限に止めるスキルがあった
235人間七七四年:2011/04/27(水) 09:49:02.94 ID:1vCP+8+W
>一度や二度の戦術的敗北で情勢が覆らない

ある意味何度負けてもコンティニューできる小田さんですな
菅谷さんの残機減ってるけど…
236人間七七四年:2011/04/27(水) 11:12:51.60 ID:RWI9jT71
残機があるだけ凄いよな
失敗しても失敗しても生き残ればちゃらになる可能性が0では無いし
237人間七七四年:2011/04/27(水) 11:14:43.02 ID:vTqN4sNA
>>231
215は最終的には必ず勝った、って言ってるじゃん
小田原の役でフルボッコってのは本当に打つ手のない状況に追い込まれるってことだろ?
そういうことは挽回しようのない戦局は一度もなかったと215は言いたいんだろ
知識を誇ってしょうもない挙げ足とりする前に国語力を磨きなよ
238人間七七四年:2011/04/27(水) 11:40:21.34 ID:XEmmspvP
挽回しようのない戦局があったから滅びたんだろう
詭弁も対外にせいや
239人間七七四年:2011/04/27(水) 11:46:25.61 ID:ckinYnWr
北条の屁理屈によると北条に滅ぼされなかった関東諸将達は皆挽回しようのない戦局は一度もなく
重要なのは、一度や二度の戦術的敗北で情勢が覆らないように、失敗を拡大拡散させないこと 北条や織田より上手だった
さらには、戦術的にも負けの被害を最小限に止めるスキルがあった  

となる バカらしいw
240人間七七四年:2011/04/27(水) 11:59:36.20 ID:fEFK73r2
どっちがただしくてもいいから北条スレでやってくれ
241人間七七四年:2011/04/27(水) 12:34:11.29 ID:gQ1MifiD
一瞬歴ゲー板の信長の野望で過大過小評価されてる武将スレと間違ったかと思ったぜ
北条に限らず特定の大名をまるで先祖でも討たれたかのようにディスる人いるよなー。
242人間七七四年:2011/04/27(水) 13:06:43.24 ID:Gb5srDKV
特定の大名をまるで先祖だったかのように屁理屈で強いだの褒めるから叩かれるんであって
北条が許されるのは執権北条か北条高広までだよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
243人間七七四年:2011/04/27(水) 13:29:27.48 ID:uFmnjsU3
関東の覇権を握ってたのに弱いってんじゃあ、
強い大名は天下人レベルしか存在しなくならないか?
244人間七七四年:2011/04/27(水) 14:19:30.78 ID:TmRIcCBY
>>242
きたじょうさんは関係ないよね
245人間七七四年:2011/04/27(水) 16:33:55.52 ID:3s5ALyq0
>まるで先祖でも討たれたかのようにディスる人いるよなー
サルが居なけりゃ我が家は億万長者だ。


By、三河の地主一家
246人間七七四年:2011/04/27(水) 19:07:03.63 ID:USOa3xUh
なにやら歴史街道に載っていた話らしい。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/51-53

あまりにも話が出来すぎているので、創作とは思うけど
景勝がかっこよすぎるw
247人間七七四年:2011/04/27(水) 21:01:47.10 ID:6JHOHr+j
>>245
景勝が、喋った…?
248人間七七四年:2011/04/27(水) 21:47:52.09 ID:3g3h1sMj
>>197
遅レスだけど、毛利は72万石を届け出たけど、敗戦国の毛利が勝者である市松のとこより多いってのも
あんまりだから、50数万石を表高にされた、って「毛利は残った」って小説には書いてあった。
本当かどうかは知らんが、少なくとも72万石の格式は認められてない。

それと、「測りなおしてみたら」なんて生やさしいものではなくて、とにかく使える土地は全部何かに使う、
隠し田の類は全部摘発、免税特権は取り消し、と手段を選ばずに頑張ってようやく達成した数字。
んで、そのプロジェクトのリーダーはあきらかにTERU。形式上隠居してるけど藩政の実質トップ。
249人間七七四年:2011/04/28(木) 00:09:30.61 ID:T6iKeYHp
徳川家康と並び、豊臣政権内で強い影響力を持っていた前田利家が病死すると
石田三成は、対立していた武断派の大名に襲撃を受けた。「名将言行録」によればこの時、
三成は家康の屋敷に助けを求めてきたとある。側近達の間から

「この機を逃さず三成を討つべし!」

との声もあったが、井伊直政は

「武断派の言い分を聞いて三成を殺せば、彼らは思い上がっていずれ徳川にとって不利な
 状況をもたらすでしょう。」と進言。

重臣の本多正信も三成保護を主張し、彼らの意見を聞き入れた家康は、三成に息子の結城秀康を護衛につけ、
居城の佐和山城送り届けたのだった。
250人間七七四年:2011/04/28(木) 00:10:13.65 ID:oSW6eTyZ
天正13年(1585)9月13日の事だという。

その頃越後の上杉景勝は、新発田重家の乱への対処の真っ最中であり、新発田重家の伯父である
新発田刑部左衛門尉の籠る新潟城を攻めるため蒲原郡へと向かっていたが、秀吉の軍勢が越中に
入ったということを聞き、

「羽柴とは対佐々成政のため起請文を交わし好を通じた仲だが、乱れたる世の人心、計り難し」

と、その行く先を変え秀吉の軍への警戒のため、8600の軍勢で越中越後の境である糸魚川の城に
陣を張った。

さて一方、越後落水城の須賀修理の元に、かねてより秀吉から上杉との連絡役をしていた
木村弥一右衛門尉清久よりの使者が訪れた

『上杉殿へ秀吉の使いとして、木村がここまで参りました。須賀殿にお会いして申し上げたいことがあります。』

これを見た須賀修理は早速、かねてより木村の旅館としていた落水城下の商人の家へと向かった。
ところがそこに居たのは

「わしは羽柴筑前守秀吉である!」

今や天下人への路を駆け上がっている、羽柴秀吉本人であった。
須賀は当然のことながら驚愕した。秀吉はそんなことは放っておいて言う

「わしは景勝に会い申すべき事があってここまで来たのだ。春日山に向かうので案内人を出せ。」

このころ須賀は漸く落ち着きを取り戻し、周りを観察する余裕を持った。
それにしても秀吉一行の数の少なさはどうであろう。実際にこの時秀吉が率いていたのは木村清久と
石田三成の二騎に、雑兵が38人だけだった、という。
須賀は秀吉に申し上げた

「この須賀修理、不肖の身ではありますが、私がここにいる以上、景勝に申し上げたいことがあるのでしたら
私が先ず承り、その上で景勝に申し伝えます。
いかに羽柴殿とは言え、ここをたやすく通すようなことは、かないませぬぞ!」

秀吉これに
「されば早馬を出して、景勝にこういう事になっていると申せ!この秀吉が言いたいことは、お前などが聞くべき
事ではないわ!」

そこで須賀は早速早馬を出し、その上で秀吉一行を落水城中へ入れ、そこで様々に饗応した。

さて、景勝の陣していた場所は落合城からごく近かったため、須賀の早馬はすぐに届いた。
景勝への書状の内容は、秀吉が突然現れたことを伝えた上で『もし秀吉を討つのであればそちらの加勢も
必要ありません。私の一手で討ち取ってみせます。』とあった。
景勝はそれを聞き

「天下の権を今や一手に握る秀吉が、今の戦国の中、多くの難所を越えてやって来たのは、
一つは去年の盟約を違えぬよう、景勝と好を結ぶため、今一つはこの景勝が正しい行いをすると信じての事だ。
それに彼を闇々と討ってしまうというのは、この景勝が居間まで正しく取ってきた弓矢の名を汚す事である。

もはやこの景勝が取りうる道は、参会して秀吉の望みどおりに親しくなるか、そうでなければ先ずこの度は
秀吉を帰し、改めて軍を起こして勝負を決するか、そのどちらかである!」

そして景勝は直江山城守(兼続)、藤田能登守(信吉)、泉澤河内守(年親)、安田河内守(堅親)ら、
侍分が12騎、徒歩武者60人余りという少人数で、その日午の刻(正午ごろ)落合城に現れ秀吉と対面。
その後秀吉と景勝は、それぞれ側に石田三成、直江兼続だけを置き、二時あまり(約4時間)密談をした。


秀吉の十八番、突然の訪問IN上杉景勝、のお話。
251249:2011/04/28(木) 00:12:19.59 ID:jlp6QZ+r
すいません。書き間違いがありましたで修正します。

誤:佐和山城送り届けたのだった。
正:佐和山城まで送り届けたのだった。

まとめに載せる際はこの様に修正しておいて下さい。
252人間七七四年:2011/04/28(木) 00:30:48.30 ID:zy7cVV7d
>>250
いくらなんでも本当にあったとは・・・w
253人間七七四年:2011/04/28(木) 00:33:45.92 ID:4N24MD7k
影武者の秀吉一行を殺すと越中を平定した秀吉の軍勢意が越後に侵略という作戦だったとしか思えん
254人間七七四年:2011/04/28(木) 00:35:30.08 ID:etR3Im5R
>>250
密談4時間のうち、景勝の発した言葉って数えるほどなんだろうな
まくしたられる秀吉に対して、あ〜とかうーととか言いながら、あいづちをうって、
あとは山城守が「殿はこう申しておられます」とフォローしたんだろう。
255人間七七四年:2011/04/28(木) 06:41:58.76 ID:yizGNjrg
二話ともかなり知れ渡ってる話じゃないか?
256人間七七四年:2011/04/28(木) 12:17:34.60 ID:XUVxdbj+
>>174
振るえるだけの器量を備えたカンガルー
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/201104%2F15%2F43%2Fb0145843_0104452.jpg


suiko108blog
ttp://suiko108.exblog.jp/15267826/
257人間七七四年:2011/04/28(木) 20:15:50.39 ID:tLpwT7nt
東日本震災の前に最上義光の文が山形で見つかり、本物だという事が確認された。

「つるか岡 下ノ山王大夫」に宛てた礼状で、縦34センチ横17センチの和紙に書かれた物。
「御まほり(お守り)」「あふき(扇子)」「銀子」「鮭」など、祝儀としてもらった品を連ね、礼を述べている。

(´・ω・`)「おいしかったよ。ありがとね。」
258人間七七四年:2011/04/28(木) 20:24:54.73 ID:sH+O1oP2
捏造乙

http://yamagata-np.jp/news/201102/01/kj_2011020100021.php
>「御まほり(お守り)」「あふき(扇子)」「銀子」など、祝儀としてもらった品を連ね、礼を述べている。
259人間七七四年:2011/04/28(木) 20:38:50.84 ID:OnYJGfua
顔文字捏造最上オタは、馬鹿なの?
260人間七七四年:2011/04/28(木) 20:42:37.90 ID:ocvqowhq
(´・ω・`)捏造?
261人間七七四年:2011/04/28(木) 21:01:04.27 ID:2ntHXAWz
逸話スレで捏造どうこうって突っ込むのは不粋
だけどショボーンな顔文字はどうなの?ってのは前からあったなぁ
正直なところショボーンで戦国武将を語られるのには正直、違和感を感じてた
ある程度話し手の主観が入るのは仕方ないから今まで突っ込まなかったけどさ
可愛いんだけど、武将を可愛らしく語られてもね
262人間七七四年:2011/04/28(木) 21:06:43.32 ID:EApxzgOq
いや、戦国時代とか明治時代とかの文献の信憑性議論なら不粋で済むが、
ネットニュースに、スレ住人が勝手に付け加えるのは完全にアウトだろ。
263人間七七四年:2011/04/28(木) 21:08:00.18 ID:yizGNjrg
逸話を偽ったらいかんよ
264人間七七四年:2011/04/28(木) 21:09:26.56 ID:Ok62NtKp
上杉景虎2号「かわいいは正義」
265人間七七四年:2011/04/28(木) 22:15:00.70 ID:/+dIxaho
>>249

>三成は家康の屋敷に助けを求めてきた

これ、実際には三成は自分の屋敷まで戻っただけらしいね
事件で三成が隠居した後、引き払った屋敷を家康が引き継いだので確かに
三成の戻った屋敷と家康が使った屋敷は「同じ屋敷」らしいが
266人間七七四年:2011/04/28(木) 22:16:07.60 ID:9Cl3iU6I
267人間七七四年:2011/04/28(木) 23:15:56.81 ID:bOFUtEb9
>>261
「昔から伝えられてきたお話」なら実際がどうでもいいんだけど、
最上厨がやってるのって年表的な史実にキャラクター付けてマンガ話にしてるだけだもん
「殿といっしょ」がいくら面白くても逸話とは言わないのと一緒
268人間七七四年:2011/04/28(木) 23:20:43.37 ID:Hqo/KLz4
高圧的なレスの方が鬱陶しいわ
269人間七七四年:2011/04/28(木) 23:32:33.34 ID:OnYJGfua
アンサイクロの最上でまで、顔文字ネタを書いていて正直どん引きしたわw
270人間七七四年:2011/04/28(木) 23:35:36.10 ID:ocvqowhq
ドン引きし切って消えてなくなればいいのにw
271人間七七四年:2011/04/29(金) 01:20:18.25 ID:6S7LDyF3
そういう君が消えれば話は早いネ☆
272人間七七四年:2011/04/29(金) 01:29:00.73 ID:hQfx5Uuz
GW到来な流れワロスw
273dokuganryu:2011/04/29(金) 07:02:25.28 ID:VwYr+wlJ
出典は不明。島津家の記録らしい。
大阪夏の陣が終ってから、伊達政宗が島津家に招かれた。
当時、島津家では、よく武功話を家臣に聞かせることをしていた。
また、政宗と家久(忠恒)は結構交流があって、よくバカ騒ぎをしていたことから
今回は、島津家臣の前で大阪の陣の講演をして欲しいということになった次第であった。
政宗は当然のことながら、自慢の『鬼小十郎』こと片倉重綱(重長)を伴って参上。
主役は『鬼小十郎』となり、話が終わり、家久が『さてはさては、伊達殿はよい家臣をもたれたものだ』
といって腰のものを鬼小十郎に与えようとした。
小十郎すかさず、『ありがたきしあわせなれど、伊達家臣なればいただくわけにはまい
りませぬ。わが君に下されますようお願いいたしまする』
家久は『みなのもの、伊達殿はこのようなよき家臣に支えられておる。島津家もこうなくてはならん』
といい、政宗はおおいに面目を保ったとのこと。
274人間七七四年:2011/04/29(金) 09:20:24.84 ID:dKG3VviG
夏の陣の後、伊達の悪事を暴いたの忠恒だよねw
275人間七七四年:2011/04/29(金) 14:01:45.64 ID:rYHzIC5X
片倉さん、本当にLoveマーくんだなw
276人間七七四年:2011/04/29(金) 19:03:04.08 ID:MF38ldLN
>>273

その頃、忠恒さんの実家では…

島津義弘は天文にも造詣が深く、時折自邸から夜空を見上げていたのだが、
ある時、ふとつぶやいた。
「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

大坂城の落城を星を観て知ったのである。
さらに小姓を顧みて深く嘆いたそうな。
「もし自分が城中にあったなら・・・」

義弘さん、大坂城に入る気満々だったのか、入ったらどうするつもりだったのか…


まあ、この大坂の陣の頃の島津家の行動を見てると創作の疑いが濃い逸話ですが、
(まず、こんなヤバイ発言は記録に残せないと思う)
秀頼と幸村の薩摩での存命説といい、この逸話といい「島津ならこのくらいはやりかねん」
と世間から思われていたのかもしれません。
277人間七七四年:2011/04/29(金) 20:39:39.24 ID:uykut7S6
秀頼の存命説もあるよね☆
278人間七七四年:2011/04/29(金) 20:42:56.56 ID:wFm5oINr
星を観て運命を読むとかw
三国志の読みすぎです
279人間七七四年:2011/04/29(金) 20:57:31.97 ID:6S7LDyF3
三国志をマンガみたいに言うんじゃねえw
280人間七七四年:2011/04/29(金) 21:11:37.41 ID:XZYgntNR
やー、三国志演義読んでる戦国武将はいても、三国志読んでる戦国武将はいないんじゃね?
そもそも日本に入ってたのか?
281人間七七四年:2011/04/29(金) 21:22:45.34 ID:tqOJ4im5
>>276
義弘「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

小姓「大殿、まことにございますか。(まーた呆けてアホな事言ってるわ・・・)」

義弘「もし自分が城中にあったなら・・・」

小姓「大殿がいれば徳川勢など蹴散らすのは容易でございましょう(1人で飯も満足に食えないのに大坂城にいても足手まといになるだけだろ・・・)」
282人間七七四年:2011/04/29(金) 21:34:08.44 ID:HsCO0D+4
>>280
一般に知られていたかはともかく、三国志自体は8世紀には伝来してきてる。
むしろ江戸初期にようやく記録が増えだした三国志演義の方が読んでるかすごく微妙
283人間七七四年:2011/04/29(金) 21:47:10.40 ID:dKG3VviG
>>280
信長が姉川合戦の時、本多平八の活躍を「張飛のようだ」と称えた伝説があるな。
江戸時代に作られた話のような気もするが・・
284人間七七四年:2011/04/29(金) 21:49:49.34 ID:DxZW69P/
武士は(世界中の戦士階級に見られる傾向だが)かなり縁起担ぎを気にした。
後世だと作戦参謀だと思われる軍師も、実際は占い師みたいなもんだったし。
多少は星読みとかの素養があってもおかしくはないと思うが。
285人間七七四年:2011/04/29(金) 22:06:35.78 ID:XicE1/d9
「今孔明」のあだ名がいつ頃出来た話なのか、その意味がどれだけつ
286人間七七四年:2011/04/29(金) 22:08:52.02 ID:XicE1/d9
PC不調で途中送信orz
スルーしてくだされ。
287人間七七四年:2011/04/29(金) 22:08:52.85 ID:tAmUvmZK
>>284
一方迷信を打破するため鳩を撃ち殺した晴信



鳩かわいそう・・・
288人間七七四年:2011/04/29(金) 22:11:30.97 ID:9cHOwgF8
竹中半兵衛の息子が「豊鑑」で、半兵衛の死について
「秀吉限りなくかなしび 劉備(or劉禅)孔明を失ひしにことならず」
って書いてなかったっけ
289人間七七四年:2011/04/29(金) 22:26:04.68 ID:MebSQYBp
最近の傾向から考えると『最低限の出典』は明記すべきと思うけどな…
小説とかがソースなんて論外も良い所だし
出典は不明ってのも論外、不明なら何処からその話を知ったか位は書いて貰いたいな。
最近の歴史関係の本でどうも良い悪い話からネタ引いた的なのもチラホラあったし。

290人間七七四年:2011/04/29(金) 23:02:31.55 ID:PCnNMvEP
>>288
重門かよw
291人間七七四年:2011/04/30(土) 00:19:07.17 ID:iQew9bV8
>>284
星ではないが、天正10年2月14日に近畿地方を中心に東の夜空が赤焼けするという気象現象がおこった。
それを見た奈良の僧侶は「その空の赤焼けは信濃浅間山が焼けたのが原因だ。浅間山が焼けたら信濃・
甲斐が滅びるという故事がある。」と記した(多聞院日記)。
一方で、信長も同様の感想を持ったようで「これは武田が滅びるという吉兆だ」と喜んだようだ(立入隆佐
日記)。

そして、4月22日今度は彗星が現れ安土山に落下した(フロイス日本史)。修道僧はこれは何か不吉な前兆
であると噂したという。
292人間七七四年:2011/04/30(土) 01:15:08.30 ID:ihc9jMRm
>>276
てか、義弘さんってそこまで豊臣政権に思い入れないだろうかと・・・
293人間七七四年:2011/04/30(土) 03:02:06.30 ID:xbzwM9Xw
四兄弟の中でトキ役の義弘に死兆星が見えても不思議では無い
294人間七七四年:2011/04/30(土) 08:25:09.79 ID:ucQQnyCT
島津家ではきれいなジャギ様
295人間七七四年:2011/04/30(土) 09:56:28.92 ID:onIA688L
拳王様は引きこもり・・・
296人間七七四年:2011/04/30(土) 12:39:19.71 ID:1Uup/6jv
末弟がキリングマシーンなのは同じだな
297人間七七四年:2011/04/30(土) 12:59:25.63 ID:Vb/lN7H7
>>294
死に方が「うわらばっ」な気も
298人間七七四年:2011/04/30(土) 13:00:24.95 ID:2At0Z2B4
この海のリハクの目をもってしてもすてがまりとは読めなんだ
299人間七七四年:2011/05/01(日) 00:15:27.88 ID:Z9qh0Iky
天正13年
沼田の問題から真田と徳川は手切れとなり、徳川の軍勢が上田に迫った。

この時真田昌幸は上杉を頼ることとし
「先年貴国の配下となるよう仰せられて参ったところその御趣旨に沿わなかった。
 これは思慮が浅かったと後悔している。何卒お許し願いたい。
 そして今沼田の件によって徳川家が大軍を率いてまさに上田に迫っているとき
 伏して乞い願うは所は貴国の勢を借りて家運を開きたいところである。
 この願いを入れて孤城をお救いくださるならば、愚息源次郎信繁今年一九歳をして
 軍卒百騎を以て春日山の外回りの防備に遣わせよう。」
と誓紙を書いて須田相模・島田淡路の両名に上杉景勝へと届けさせた。

これに対いて景勝は
「真田は先年自分に背いた。今徳川家に背いて討伐を受けようとしている。
 しかし救を頼む所がなく、孤城は危うくなり、あらゆる手だてが尽きてしまい我が力を借りようと願って来た。
 危機に臨んで他を頼ったり又は降ったりして先祖のおたまやや国土を保つのは
 士たる者として当たり前のことである。なぜ過去を咎めようぞ。
 その上(断ったならば)自分が今真田が無勢なのを侮り、徳川の大軍を恐れたと世の人は嘲るであろう。」
と兵を発して真田を救うことを誓約し、上田へ援軍を差し向けた。
300人間七七四年:2011/05/01(日) 00:24:53.16 ID:Zdf/dG/4
>>299
人質の信繁が勝手に抜け出して、秀吉の人質になったときの景勝の顔を見てみたいw
301人間七七四年:2011/05/01(日) 00:26:05.39 ID:7CQ9Irq9
直江「…と殿は申されております」
302人間七七四年:2011/05/01(日) 01:51:09.88 ID:S48UF4G2
真田の誓紙なんて、1年期限とかだろwww
303人間七七四年:2011/05/01(日) 02:46:07.62 ID:heuk8b7p
島津百裂剣はヤバい
304人間七七四年:2011/05/01(日) 04:28:52.55 ID:s5VKx7Ee
>>302
1年後に文字が消える墨を開発する昌幸の姿が浮かんだ
305人間七七四年:2011/05/01(日) 07:35:00.77 ID:+wzEBxkI
昌幸の元主君信玄公がああいう人だから家来の昌幸がそうなっても仕方が無い
306人間七七四年:2011/05/01(日) 10:40:40.20 ID:g7lm3NRT
さすが、小信玄
主君コロコロ変えても生き残る術を持ってる、いい話
307人間七七四年:2011/05/01(日) 11:07:54.78 ID:KuJr0QDO
こういう事ばっかやってると、誰からも信用されなくなって孤立→フルボッコになりそうな気もするんだがなぁ
308人間七七四年:2011/05/01(日) 12:16:57.86 ID:h6idBEbS
凡人が場渡り的にやるとそうなるんだろうけど
計算し尽くされてやるからやられた方もグーの音が出ないんだろうね
309人間七七四年:2011/05/01(日) 12:22:58.80 ID:S23UAFMY
そんなこと言うなら、季節ごとに立場を変える、北関東の領主の皆様はどうなるんだよ・・・
310人間七七四年:2011/05/01(日) 12:54:15.47 ID:zmah96Am
ちょうどこの前年に由良氏がそんな状況になってた。
由良成繁は下克上の後に謙信の小田原攻めにはやくからしたがって謙信から領土を与えられるが
謙信の勢力が衰えると真っ先に北条に帰参し関東諸侯が一斉に北条方へ雪崩を打つきっかけをつくり謙信から第一の侫人と呼ばれた。
越相同盟を仲介して形式上は上杉の傘下に入るが裏では同盟に不満があった氏政に通じ氏政から上野一国を進呈すると書状を送られた。
その後越相同盟が破綻すると周辺の上杉方勢力を攻め勢力を拡大した。
しかり成繁は謙信と同時期に世を去り後をついだ国繁には成繁ほどの手腕はなかったらしく
滝川一益退去後一人勝ち状態になった北条は由良氏を攻めた。
昌幸は由良に「上杉と佐竹が援軍に来るから頑張れ」と書状を送ったが
佐竹は援軍に来たものの景勝は上野の瀬下氏に関東に出兵することはないと言って援軍を出さなかった。
結局佐竹も途中で軍をひいてしまい、由良氏は居城を失って北条に屈服することになった。
311人間七七四年:2011/05/01(日) 13:04:33.97 ID:8RyvYDu7
謙信は5回攻めたけど最期まで由良の新田金山城攻略できなかったね。

成繁も腹芸は確かに上手かったが防戦も上手い。
312人間七七四年:2011/05/01(日) 13:55:20.55 ID:crvr1eFn
地理的・地形的なものってあるよね。
小勢力は、大勢力に一旦従属したとしても、あくまで自家を保つことが最優先で、
主との間は双務契約的なものだから、攻められたときに後詰めに来てくれない
(来られない)なら、忠義を貫いて滅びなきゃならない義理はない。

関東に何度も入った上杉しかり、三河に何度も入った武田しかりで、山越えして
来る軍勢は、どんなに強くても、季節が過ぎたらお家に帰らなきゃいけないし、
お留守番をたくさん残していくことも出来ないし、一旦帰ってしまったら、せっかく
落とした小城を取り返されそうになっても迅速に後詰めに行けないし、で、結
局、長くキープできないから延々と取ったり取られたりのループになる。
板挟みになった現地の小領主はまたくたまったもんじゃないな。
313人間七七四年:2011/05/01(日) 13:59:56.70 ID:s6SEHbzx
>>309
高増「確かに周りはそんな人ばかりですな」
資孝「義理も無い人々に囲まれて疲れる」
綱清「全く」
314人間七七四年:2011/05/01(日) 14:57:19.64 ID:nTaZve+o
おまえらの血は何色だあ
315人間七七四年:2011/05/01(日) 15:03:45.71 ID:cXfoASMt
山家三方衆は徳川と武田だけだが
上野は上杉、武田、北条が争奪してるから小領主は悲惨。
316人間七七四年:2011/05/01(日) 15:08:56.25 ID:Y/z4Zx80
関東地方唯一の一揆の国、上野は
戦国時代後期になれば隣国の強大な戦国大名権力に蹂躙されるのが宿命
317人間七七四年:2011/05/01(日) 15:38:00.35 ID:r+JAXZvE
異常に強い長野爺も居なくなったタイミングだしな
318人間七七四年:2011/05/01(日) 17:59:14.60 ID:KGeeRxkF
>>312
前線で落城した城主の一家は、
親類の城にでも家臣を引連れて居候しながら、
再起を計るだけで
どこでも似たようなものでしょう?
319人間七七四年:2011/05/01(日) 18:15:59.01 ID:crvr1eFn
>>318
そもそも、敵の大軍が迫ったときに、「落城」云々というところまで戦うのか?というのが問題で。
援軍が来てくれそうなら城門を堅く閉ざして粘ってみようか?という気になるだろうけど、こりゃど
うしようもないな、と思ったら、戦になる前に城ごと降って所領を守ろうとするんじゃないかな。
その場合、たいていは元の主のところに人質を差し出してあったりするので、その人質を見捨て
る覚悟が必要になるんだろうけど。


320人間七七四年:2011/05/01(日) 19:28:24.37 ID:ykCTw3hD
んだねぇ
321人間七七四年:2011/05/01(日) 20:22:15.33 ID:731tBxiO
>>299
当時の上州は他国の動きをけん制できる要衝だから
そこを治める真田に対する扱いもおのずとね…

利用価値があればどれだけ恨みや貸しがあっても優遇
逆に言えば利用価値がなくなった途端それまでどれだけ尽くしてもポイ捨て
上杉、北条など使う側の周辺勢力も、使われる側の真田も
最初からそういう関係と割り切ってつきあってたんだろうな。
今でいう北朝鮮とその周辺諸国みたいなもんか
322人間七七四年:2011/05/01(日) 21:47:00.06 ID:S23UAFMY
>>321
殿、「幸村様と正男を一緒にするとは」と怒った鬼女たちが押し寄せてござる!!
我らが支えているうちに、早くお逃げくだされ!さあ!さあ、とく落ちられたまえ!!!
323人間七七四年:2011/05/01(日) 22:07:14.91 ID:731tBxiO
まさおは嫡男だから信幸のほうじゃないのか?
324人間七七四年:2011/05/01(日) 22:24:36.88 ID:Y/z4Zx80
群馬県立歴史博物館(高崎市)の展示は、真田のことほとんどスルーしてたな。
高崎中心に見ると、真田の存在感ってほとんどないのかもね。

室町時代は上州一揆の上層に山内上杉氏がゆる〜く君臨する統治形態だったが、
北条氏が上杉憲政を追ったことで上州一揆は切り裂かれる。
その後の謙信・信玄・勝頼・滝川一益らの相次ぐ支配者の交代と戦争で一揆は完全に解体し、
「沼田領」「新田領」「厩橋領」といった18の「領」と呼ばれるブロックに再編されていく。
小田原征伐で北条が滅んだ後、「箕輪領」が井伊直政に、「新田領」「館林領」が榊原康政に与えられる。
すごく大雑把に言うとこれが群馬の戦国史
325人間七七四年:2011/05/01(日) 22:56:57.59 ID:tRqwkLIG
では真田にとってははた迷惑な友情の話

信長の横死後、北条と徳川は所々で戦ったが、徐々に北条は利を失っていった
そこで北条家当主氏直は北条氏規に命じて徳川と講和した

しかし、北条方が砦を築き番兵を置いたという噂が流れ、家康は不審に思った
「もともとこの和平は人質時代の氏規との好で結んだもの。破れても構わぬ。一戦に及んで運を天に任そう」
そう言って使いを氏規の陣に使いを出すと、北条方は大道寺新四郎を人質と渡すことを伝えた

氏規は徳川の使者・朝比奈泰勝と新四郎に同道し、家康に対面した
家康と氏規は駿府時代の昔話で盛り上がり、家康も上機嫌のうちに話し合いは終わった
結局家康の娘を氏直に嫁がせることで話はまとまり、大道寺新四郎も後に還された

昔の付き合いが大大名同士の和平を結んだ話


ちなみに、この逸話は『関東古戦録』出典なので信憑性は不明だが、
この時人質となった大道寺新四郎は後に前田家→尾張徳川と仕え、
代々家老職を輩出した尾張大道寺家の祖、大道寺直重と思われる

他にも大道寺家の面々は徳川に庇護され、旗本となるかどこかの大名の重臣となっている
326人間七七四年:2011/05/01(日) 23:36:50.16 ID:JWFuQtAx
ラスボス様反省する

太閤殿下の最晩年と言えば、秀頼可愛さが嵩じて、ラスボス化に歯止めが
効かなかった時期でもある訳ですが、ある日小姓に用事を申し付けた所、
小姓がそれをすっかり忘れてしまった事がありました。

まあ当然の事ながら、ラスボス様は激怒。側にあった杖を取るや、小姓に向かって
思いっきり打ち据えようとしました。
すると小姓は、ラスボス様の形相に本気で命の危険を感じたのか、全速力で逃走。
ここに、伏見城においてラスボス様と小姓の追いかけっこが始まりました。

勿論、体力的には小姓の方が上なのですが、かといって何時までも逃げ切れる訳なし。
後ろを振り返れば、怒り心頭のラスボス様がしつこく追いかけてくるのが見えます。
すると小姓は、ラスボス様に向かって

「マジ許してくださいよ。俺も殿も同じ人間でしょ。更に俺はまだ年が若いんだから失敗して当然でしょ。
 大体、今日のことは今日。明日はどうなるか分からない世の中なんだから。だから本当に許してくれよ」

理由にもなっていないというか、つ〜かお前焦って自分でも何を言っているかわかっていないだろと思うのだが、それを聞いたラスボス様が一句。

「世の中は 今日ばかりこそ かなしけれ 昨日は過ぎつ 明日は知られず」

(訳:世の中は今日のことしか頼りにならない。悲しいことだ。昨日の事はすぎてしまったことだし、明日のことはわからない)

そう言って、小姓を許して部屋に戻ったラスボス様。

ちょっとしたことで怒った行為に恥ずかしくなったのか、あるいは追いかけっこにいい加減疲れ果て、めだか師匠の様に
「今日はこの辺で勘弁しといたるわ」と思ったのか、ラスボス様反省するの話でした。
327人間七七四年:2011/05/02(月) 01:30:16.42 ID:PsbjYr0v
昌幸「なあ、ワシが好き好んであちらに付きこちらに付きしとるとおもっとるのか?」
源次郎「父上の苦悩わかりもうします!」
源三郎(親父…この状況楽しんでるだろ…)
328人間七七四年:2011/05/02(月) 11:29:38.75 ID:6sJg5jFN
真田の誓紙なんて書いた瞬間に無効だろ。
329人間七七四年:2011/05/02(月) 11:43:01.49 ID:SZUaMX/n
小姓に体力で負けた
精力じゃもっと負けるだろ
330人間七七四年:2011/05/02(月) 15:19:02.87 ID:mgOtIKSi
こいつヤバいから今のうちに斬っとこう
とかは無かったのだろうか? >真田
331人間七七四年:2011/05/02(月) 15:34:30.12 ID:5Pjg6zyB
真田とか宇喜多とかはこいつヤバいから斬っとこう、としかけると返り討ちしか想像できない…
332人間七七四年:2011/05/02(月) 17:25:24.05 ID:SRUfYkgk
「真田への対処」の徳川としての回答が、若くして既に目を見張る活躍を
見せ始めていた嫡男信幸を徳川へ取り込むことであったわけよな
333人間七七四年:2011/05/02(月) 17:42:30.17 ID:bApu2Ehr
一度は出せる戦力をつぎ込んで皆殺しを実行しようとしたのにな
334人間七七四年:2011/05/02(月) 19:42:34.53 ID:OMXEHtjG
運用は一心の妙にあり。まぁ日本人じゃなくて岳飛とかの中国人の言葉だがw
複雑な利害が絡む現実対応に大事なのは、臨機応変ってことだろう。
335人間七七四年:2011/05/02(月) 19:49:25.79 ID:bApu2Ehr
ふむ
336人間七七四年:2011/05/02(月) 21:30:24.14 ID:xhULcWjB
おまいら「討っとこう」じゃなくて「斬っとこう」だぞ!
つまり真田の当主が、従属した大名の城へ入った事は無いのかだ。
337人間七七四年:2011/05/02(月) 21:55:39.68 ID:O8RGrh/o
>>334
秀吉の裁定で真田は徳川の寄騎と決まった以上関係は深めておきたかったのだろう。
338人間七七四年:2011/05/02(月) 22:36:25.56 ID:yUMVqBRi
>>307
そこは戦国時代、「戦上手」は敵味方かかわらず賞賛される。
小身のくせに独立を守り大軍を蹴散らす。みんなやりたくてもできないこと。
そこにシビれる!あこがれるゥ!ちょっとくらいのおイタは許容範囲。
藤堂・細川・伊達とはまた違った形で真田はいいポジションを築いた。
あからさまに火花を飛ばし、技量を見せつけ、全力で装い、下手も打つ。
だから真田は愛される。
339人間七七四年:2011/05/02(月) 23:49:35.72 ID:gD/4vV2r
実力さえあれば盟約破棄しまくっても相手からわび入れてくる
340人間七七四年:2011/05/03(火) 05:37:27.57 ID:qAdhYICC
だが代替わりしたとたん負の遺産で苦しめられるわけだけどね
341人間七七四年:2011/05/03(火) 10:37:27.36 ID:VcEKC6UZ
>>336
熊がやりすぎて内部崩壊したけどな。
342人間七七四年:2011/05/03(火) 11:49:17.26 ID:i7hwIqFn
>>340
隆元さんが早世しなければ、負の遺産を背負い込むことはなかった
343人間七七四年:2011/05/03(火) 17:40:50.81 ID:NfHGNfAv
負の遺産を先代が認識し、後代によくよく言いつけていた
毛利が位牌を保てたのは、そこらが原因かね
344人間七七四年:2011/05/03(火) 19:19:29.11 ID:msLwD50x
隆元兄ちゃんが長生きだったらどうなってたろうね
秀吉の中国大返しはなかったろうな
345人間七七四年:2011/05/03(火) 19:33:24.44 ID:tsemw0xj
負の遺産って兄弟の仲が最悪だったことか?w
346人間七七四年:2011/05/03(火) 19:40:53.71 ID:eRCVAFXx
ホモ「俺の死を隠せ。勝頼はあくまで陣代。引きこもれ。これで充分だな」
347人間七七四年:2011/05/03(火) 19:41:06.01 ID:C0Tqut0r
元長にいちゃんがもう少し長生きしていれば、関が原はまた違った結果になってた
348人間七七四年:2011/05/03(火) 19:41:35.41 ID:U7VMDqdK
リーマンショックならぬにーちゃんショックか
349人間七七四年:2011/05/03(火) 19:43:04.19 ID:xuNceG4u
だれがうm、てほどもないか
350人間七七四年:2011/05/03(火) 20:42:10.68 ID:eOQgKK37
>>346
遺言もできず親子で焼け死んだクズはだまっとれ
351人間七七四年:2011/05/03(火) 21:48:19.50 ID:vCgjSrL5
つまり「リーマンブラザーズ」ならぬ「にーちゃんブラザーズ」
ってかぶってるやん!
352人間七七四年:2011/05/03(火) 21:57:43.20 ID:C0Tqut0r
やっぱりにーちゃんが長生きして忍耐強いと、真田さんところみたいに
弟が多少弾けても、家を残すことが出来るんだよ

優秀なおにいちゃんが2人も早死にしても、家を残すことが出来た
毛利一族は凄いけどな。元就の種は優秀すぎ。側室の子をいれても
外れなし
353人間七七四年:2011/05/03(火) 22:02:45.06 ID:HYKZxb++
おにいちゃんっていうよりも寧ろおじちゃんじゃね?
354人間七七四年:2011/05/03(火) 22:09:20.65 ID:1LxIGEwY
家臣たちのとこにいい妻はいねがー
355人間七七四年:2011/05/03(火) 22:36:17.70 ID:6ng6Ybi2
天正十年
織田の甲州征伐によって武田家は滅亡寸前に追い込まれていた。
窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸が申して曰く
「私の所持している上州我妻の岩櫃城へ一旦お移りください。まず安心でありましょう。
 そのわけは内藤修理亮は同国箕輪に居住し、武田左馬之介信豊は信州小諸に在城しています。 
 それ故是より路次の便りよく、我妻の城地は要害が勝れてよく、軍兵三千は籠ることができます。
 弾丸硝石をしっかりと用意し、兵糧を多く蓄えたなば、どれほどの大軍が攻めようとも
 昌幸が沼田に在城し、信州戸石には両人の小倅を以て守らせ、私の謀によって御籠城されれば、中々落ちる城ではございません。
 二三年のうちに敵方の変化を見計らった上で交付に御旗を入れられるのがよろしいでしょう。
 まず一度御城を明け渡し、私の謀に従って岩櫃に御籠城なされるように。」

この意見に修理と左馬之介も同意したため勝頼は岩櫃入りを決断し
昌幸と修理に各々の城へと戻って籠城の準備を始めるよう命じた。
すでに各地でる落人狩りが始まり、道中の糧秣の確保にも苦労する有様であったが
昌幸は妻や一族を引き連れて岩櫃を目指した。
途中信州小諸で昌幸を迎えるべく甲州を目指していた湯本・鎌原・横谷・西久保・和田・恩田・金子といった沼田の侍たち出会うことができ
昌幸は岩櫃城へと入って籠城の手配を始めた。

が、そこに勝頼父子が岩櫃ではなく岩殿城へと向かった末に裏切られ
天目山で死したという知らせが入り、昌幸は歯噛みして残念がった。
356人間七七四年:2011/05/03(火) 22:39:41.74 ID:PI46naop
これは綺麗な昌幸
357人間七七四年:2011/05/03(火) 22:43:13.95 ID:C0Tqut0r
もし勝頼が岩櫃城へ逃げ込んだなら、ヒャッハー武蔵vs真田勢の夢の対決が
実現したのかもしれないな。
358人間七七四年:2011/05/03(火) 22:45:34.05 ID:PI46naop
額に銃弾撃ちこまれて即死だな
359人間七七四年:2011/05/03(火) 22:47:32.83 ID:YbX/+Jn7
岩櫃に行くくらいだったら、箕輪か小諸に行った方がはるかにいいよなw
地理という意味でも、領や城の規模でも。
360人間七七四年:2011/05/03(火) 22:50:54.05 ID:fzqDC46e
昌幸も小山田と同じことを企んでた可能性もなきにしもあらず
361人間七七四年:2011/05/03(火) 23:04:12.21 ID:pj6PTojf
表裏比興と親族衆、信用するなら当然後者だが
源氏の最大の敵は身内ということを忘れてたよな勝頼
あの死にっぷりは源氏武士のテンプレ通りの死に方だったから、ここまでくると呪いに思えてくる
362人間七七四年:2011/05/03(火) 23:46:32.80 ID:T+13ZdEN
全国探したら、断崖絶壁の小城で豊臣・徳川政権に
屈服しなかった勢力くらいありそうな気がするけど、無いの?
363人間七七四年:2011/05/03(火) 23:55:18.27 ID:bWqguOjh
岩櫃って荒船山近いよね
艫岩より突き落とされる勝頼
364人間七七四年:2011/05/03(火) 23:57:22.70 ID:XlaHNpi+
>>362なぜ小田原城に籠ってた北条が敗北したと思う?
365人間七七四年:2011/05/03(火) 23:59:01.35 ID:a6iB4nIr
後詰がなかったから
366人間七七四年:2011/05/03(火) 23:59:26.71 ID:zq/DM1GV
>>361
陽成院の血筋かねえ
367人間七七四年:2011/05/04(水) 00:02:51.37 ID:G+tS406U
昌幸が表裏比興開始するのって武田滅亡後に小豪族が生き延びるためだから。
勝頼の判断は昌幸への不審というより小山田への信頼からじゃないか。
368人間七七四年:2011/05/04(水) 00:08:36.74 ID:cow8ZyYe
豊臣、徳川までいったら城が堅城だろうと基本的に物量作戦でどうにかなる
真田の時代はいつも徳川、上杉など攻める側に嫌な敵が同盟相手にいたから全力で潰しにかかれなかった

369人間七七四年:2011/05/04(水) 00:09:13.74 ID:T4BgE6mN
もともと上杉も北条も徳川も織田も皆敵だったから
復讐がてら手玉にとったんだろう
370人間七七四年:2011/05/04(水) 00:22:38.51 ID:iXJLWxRl
道中の不安のあったと思う。
治安は悪化しているし、織田軍は信濃から来ているわけだから。

>>359
籠城云々は建前で本音は越後への逃亡が前提だったとか。
その為に重要な沼田は昌幸自身が抑え、中継点になる岩櫃への諸道の口に近い戸石、小諸、箕輪に兵を置いて
北条と織田に備える。妄想だけど。
371人間七七四年:2011/05/04(水) 00:25:15.44 ID:cow8ZyYe
>>手玉に取っただけだろ
ん?真田が、って事か?それとも徳川達がか?
どちらにせよ利害を一時的にでも一致してたんだから同盟でいいんじゃないのか?
論点がわからんからズレてたらスマン
372人間七七四年:2011/05/04(水) 00:29:05.33 ID:cow8ZyYe
>>371訂正
手玉に取っただけだろ ×

手玉に取ったんだろう ○
373人間七七四年:2011/05/04(水) 09:39:12.84 ID:1hplMvPE
>>361
小山田は平家にござるよ
374人間七七四年:2011/05/04(水) 12:29:14.17 ID:6HU7FZu3
甲斐の国内、いちお戦線の後方地帯、そんなとこで落ち武者狩りなんかやらかすてどういう素性の連中だお?
375人間七七四年:2011/05/04(水) 13:05:09.05 ID:kK70XJAA
>>374
ところでお前百姓なのかお?
376人間七七四年:2011/05/04(水) 13:25:04.74 ID:VwcOsyJi
>>374
領民や野武士が高リスク副業感覚で落ち武者狩りやってもおかしくないとオモ。
へたにいくさが長引けば自分の村が戦場になって田畑や家族が被害をこうむる。
あるいは落ち武者が山賊、切り取り強盗化して大迷惑。それが乱世の常識

信長・家康が領内に放った密偵の扇動もあるかもしらんけど
長篠の敗戦からの兵力再建やら新府城建築やらの臨時増税で
ただでさえ剽悍な山国育ちの武田の領民の不満と危機感は溜まりまくりだったはず
377人間七七四年:2011/05/04(水) 17:12:30.41 ID:1hplMvPE
同感。落ち武者借り、副業とかそういう感覚もあるかもだけど、どっちかといえば迷惑を取り返す感覚だったんだろうなあ。
378人間七七四年:2011/05/04(水) 19:36:22.27 ID:icwxDCmc
胸に七つの傷のある落ち武者
379人間七七四年:2011/05/04(水) 21:12:00.30 ID:cYrjQdhY
落ち武者「おれの名を言ってみろ」
380人間七七四年:2011/05/04(水) 21:42:45.29 ID:NlTUrY0N
ハート様が治める落人村
381人間七七四年:2011/05/04(水) 22:26:49.45 ID:cow8ZyYe
愛を知って離散する部下達
382人間七七四年:2011/05/04(水) 22:43:00.72 ID:1hplMvPE
無抵抗を説くがで虐殺される村長
383人間七七四年:2011/05/04(水) 22:54:31.00 ID:iXJLWxRl
上田合戦の時のこと

徳川勢の上田城攻撃は失敗し、徳川方の諸将は散り散りになって退いて行った。
この時大久保忠教は敗兵を集めて備えを建てようとしている兄の大久保忠世の陣にいた。

追撃してくる真田勢が五六町に迫った時、忠教が大声で叫んだ。
「ただ今来る兵の中に萌黄糸の鎧に筋兜を着けた武者こそは敵である。」
いつの間にやら備えに入ってくる敗兵のなかに真田方の栗田弥七郎貞次という者が紛れ込んでいたのだ

すぐさま徳川方の大河内善一郎政信が栗田貞次を槍で突いたが、鞍の前輪に当ててしまった。
そこに真田方の竹村新蔵という者が馳せてきて大河内政信を狙ったので、大久保忠教は「忠教是にあり」と言って竹村新蔵の股の上部を突いた。
この後大久保忠教は竹村新蔵と新蔵のあとに来た依田助十郎という者の二人を相手に戦い、槍を絡め取られたという。

なお無事逃げ延びた栗田貞次曰く「川中島衆の加勢と思って敵中に入り、槍で突かれてしまった。」との事である。
384人間七七四年:2011/05/04(水) 22:58:20.13 ID:Q8rbGNzg
敵を見つけた所までは良いのに…
385人間七七四年:2011/05/04(水) 23:02:19.35 ID:t8FEreWr
でじゃびゅう?
なんか読んだことがあるようなぁ・・・
386人間七七四年:2011/05/04(水) 23:08:41.37 ID:ozhegkwC
>>385
デジャヴのもとはこれかも
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5033.html
これは深井某の話だけど同じく徳川勢にひとりだけぽつんと
>>「……なんでウチの連中はこうも調子に乗る奴ばかりなんだ」
その報告を聞いた真田昌幸は頭を抱えた。

真田家の家臣にはよくあることだったのだろうか
387383:2011/05/04(水) 23:23:25.71 ID:iXJLWxRl
>>385
これだと思われます。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3916.html
こちらの逸話の元ネタは「三河物語」だそうですが自分の元ネタは享保年間に書かれた「滋野世紀」です。

>>386
成沢長左衛門直盛という武士が敵中に深入りして捕まり、道案内をさせられるも
深田に誘い込んで敵三人を落とした上に騎馬武者の首を一つとって帰還した話もあったり。
相当な乱戦だったのか、真田家ではよくあることだったのか。
388人間七七四年:2011/05/05(木) 00:28:22.12 ID:foGrEwUy
ここまで逸話が揃うと、真田ではよくあることであったとしか言いようがない
389人間七七四年:2011/05/05(木) 01:37:08.79 ID:B5M4+AWZ
治水開墾で大成果上げたのに少ししか褒美の土地を貰えなくて
「これっぽっちかよ!もっと貰ってもいいだろ!」と文句を垂れる家臣に
「違うよ、殿がくれたのは未開拓の土地だよね、これから俺達が何万石にでも増やせばいいってことよ」
みたいな逸話があったと思うんだけど見つからない・・・誰か詳細わからないだろうか
390人間七七四年:2011/05/05(木) 01:40:24.66 ID:B5M4+AWZ
書き込んだ直後に事故解決してしまった…
川村重吉でした、申し訳ない
391人間七七四年:2011/05/05(木) 04:37:52.44 ID:JIghVXKt
「こどもの日」にちなんで。

 戦国こんなこいるかな
 
与吉はお父さんのお気に入り。お父さんが言うには、
「うちの与吉はただならぬ生まれ方だった。
腹の中にいる時から普通じゃない動きで苦労しておったようだが、
生まれてからの乳の飲みようといったら。
乳母ひとりでは足らず、新たに二人を召抱えたがそれでも足らぬ。
家臣の中の乳の出るおなごらからもらう乳もみな飲み干してしまった。

三つの歳からは、餅をひたすら食べ、
五つ六つの歳には大人と同じ量の飯を食べた。
誕生の時以来、泣き声はついぞ聞いたことがない。

この子の兄は13歳で体も大きい方であるが、与吉は7歳、その兄より一寸背が高く
筋骨たくましく、手、足、指みな長い。
十貫からげの銭を自由に持ち歩く。
まったく頼もしいかぎりじゃ。」とのこと。

与吉くんはお父さんの「虎高」と言う名をひっくり返して
「高虎」と命名され、15歳で初陣を飾りました。
392人間七七四年:2011/05/05(木) 10:55:13.86 ID:+SNibB0h
>>388

真田某「気が付いたら家康の陣に乗り込んでました」
393人間七七四年:2011/05/05(木) 11:29:54.75 ID:Y6mhZN06
とうとう藤堂の話かぁ…。
394人間七七四年:2011/05/05(木) 13:38:53.06 ID:8agLdJAa
>誕生の時以来、泣き声はついぞ聞いたことがない

本当だったら自閉症だなw
395人間七七四年:2011/05/05(木) 14:13:00.65 ID:5FdWdtpM
>>355
>天目山で死したという知らせが入り、昌幸は歯噛みして残念がった。

信長に勝頼の首を持って行って手柄とし帰参しようとしたのに、それが出来なくて残念がってる
ようにしか思えない
396人間七七四年:2011/05/05(木) 14:38:01.31 ID:mqXKFSO4
実際、武田滅亡前から織田、北条と連絡取り合ってたしな
397人間七七四年:2011/05/05(木) 14:52:56.26 ID:Ky5vTplD
>>395
その後、主君の首を手柄にした小山田が討たれたと聞いて、ホッとしたに違いない。
398人間七七四年:2011/05/05(木) 14:58:25.89 ID:5FdWdtpM
>>397
事前に連絡あり→真田

事前に連絡なし→小山田
399人間七七四年:2011/05/05(木) 15:02:55.51 ID:ZDAtlyQN
>>398
裏切り者として嫌われてる小山田さんのほうが、マシな人に思えるから不思議だ。
400人間七七四年:2011/05/05(木) 15:17:36.22 ID:VGrv6cRM
 正則、ひとはだ脱ぐ話。

 それは未だ、福島正則と坂崎直盛が、友人同士であった頃。

 早朝の坂崎邸に、福島家から使者が訪れた。

「主人より、朝食を共にしたいのでお越し下されとの託けにございます」

 使者の口上に、出羽守は上機嫌に応じ、こう付け加えた。

「暫時、待たれよ」

 直ぐに済む、とばかりに対面の間から退出する出羽守。……だが、なかなか戻って来ない。

 遅い。早朝が朝になり、遂に正午になった時点で使者は溜まりかねた。

「出羽守(直盛)さまは、何処に?」

「……それが」

 何と、出羽守は厩にいた。この人物、当時の武将としての嗜み以上に馬を愛し、厩も馬も禄高以上に豪華で、手入れも行き届いて潔癖。そして、朝から晩まで馬の相手をしている事も珍しくない。今でも、愛車を何時間も磨いている種類の人物はいないではないが……。

「出羽守さま。時刻は既に午の刻(正午)。これでは、使者としてのお役目を果たせません!」

 事情があって来れない(あるいは、行く気が無い)のであれば、そう言ってくれれば良いものを。これでは最悪、使者は役儀を果たせなかった責めで切腹である。

「何々、案ずる事はない、お使者どの。左衛門大夫(正則)どのには、わしからよく申し上げよう程に」

 上機嫌で馬の相手をしている出羽守。結局、使者が坂崎主従を伴って福島邸に戻った時には、時間は既に夕刻。

(続く)
401人間七七四年:2011/05/05(木) 15:20:05.68 ID:oRO+Iw+8
>>396
関ヶ原のようにただの時間稼ぎだろう 織田も北条も徳川の二の舞
402人間七七四年:2011/05/05(木) 15:22:53.73 ID:VGrv6cRM
(続き)

 当然、直盛が来るか来ないか分からないので朝食に手もつけず待っていた正則は、カンカンに怒っている。

「どういうつもりだ、言ってみろ!」

 烈火の如く怒る正則。対する直盛は、平然と言ってのけた。

「抜いて切れ」

 ……要するに、この男。散々に人を待たせておいて、最初から使者の為に弁明してやる気など無かったのだ。

 そっちが勝手に呼んだんだろ? 好意で呼んだのなら、待たされたからって文句いうなよ。それが不満なら、使者を手打ちにすりゃ良いだろ。

 そもそも、お役目を果たすべく俺の首に縄をつけてでも連れて来なかったソイツ(使者)が悪いんだから……と、その表情は言っていた。

 さっと蒼褪める使者。

 と、その時。正則が無言で、羽織の紐を解いた。さっと脱ぎ捨てられた羽織が、ふわっと使者の顔を覆った瞬間。

「早く着ろ。出羽守からの勧めじゃ!」

 正則は、敢えて「(羽織を)脱いで着せよ」と聞き間違えた不利をして、使者の窮地を救ったのだ。

 この日以降、正則は直盛と絶交したと言う。以上、初投稿なのでお目汚し、平にご容赦を。
403人間七七四年:2011/05/05(木) 15:44:35.54 ID:aOI3GwQr
市松はうまいことやったと思うけど坂崎が意味不明すぎるw
404人間七七四年:2011/05/05(木) 15:50:21.90 ID:kDme/K4B
そもそも坂崎直盛に意味不明でない時なんて無いw
405人間七七四年:2011/05/05(木) 15:58:03.01 ID:nEjtSDpx
この時点てば市松さんは酒呑んでないんだな。
酒呑んでない市松なら大丈夫。
406人間七七四年:2011/05/05(木) 16:11:49.96 ID:LCLVbrNJ
坂崎、何考えてんだコイツw社交下手ってレベルじゃねぇぞ
407人間七七四年:2011/05/05(木) 16:15:10.35 ID:bdKhy760
市松のいい話でもあり坂崎の悪い話でもあるのかw
408人間七七四年:2011/05/05(木) 16:18:56.25 ID:kDme/K4B
>>406
坂崎直盛の精一杯のおもてなしがこれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-317.html
409人間七七四年:2011/05/05(木) 16:29:36.99 ID:5OC5N9lc
こいつに仕えるくらいならさっさと死んだ方がマシだなw
410人間七七四年:2011/05/05(木) 16:59:33.99 ID:pnrCchUO
だって叔父さんが…ですし^^
411人間七七四年:2011/05/05(木) 17:01:16.51 ID:XPFL5rQv
坂崎直盛そういう人間だからああいった末路になったんだろうな
412人間七七四年:2011/05/05(木) 17:03:09.98 ID:CHIaBF2R
宇喜多家中では実直な正格で信頼されていた、と書いてあるサイトあるんだが>坂崎
家飛び出してから本性がでたのか。
413人間七七四年:2011/05/05(木) 17:25:08.64 ID:/dh0vh60
誘われた方も、朝って迷惑な話じゃないの?
414人間七七四年:2011/05/05(木) 17:28:08.17 ID:pCrpTNu6
親しい相手にはとことんルーズになるタイプだったんかね
仕事は本当真面目で誠実なのに友達付き合いしてみると…ってのが居たりするのだが
415人間七七四年:2011/05/05(木) 17:44:08.39 ID:7YZ4CRDE
宇喜多詮家から坂崎直盛にクラスチェンジする間に何かを無くしてしまったのだろう。
416人間七七四年:2011/05/05(木) 18:01:32.72 ID:/F/FE9mi
坂崎直盛はいい話を聞いたことがないんだよなぁ。大身の大名ではないから
DQN四天王には挙げられていないけど、やることなすこと本当にDQN
417人間七七四年:2011/05/05(木) 18:37:17.33 ID:aOI3GwQr
心の底から身分の低い相手を蚊トンボくらいにしか感られてなかったのかも?
だから同僚とか目上の者しかいない公的な場だと意外と常識的だったり。

若い時に汚いものを見過ぎたせいか・・・w
418人間七七四年:2011/05/05(木) 19:28:46.52 ID:/F/FE9mi
>>417
主の宇喜多秀家に対する態度とかアレやん。
しまいには千姫事件だし。
419人間七七四年:2011/05/05(木) 19:53:08.05 ID:5UOBVYND
この続きが気になる。
とりあえず飯は食ったのだろうか、それとも叩きだしたのか?
420人間七七四年:2011/05/05(木) 20:00:53.13 ID:ZDAtlyQN
しかし酔ってない市松さんは、ちゃんと家臣のことを思ってやれる人なんだな。
421 忍法帖【Lv=5,xxxP】 :2011/05/05(木) 20:02:37.24 ID:OLOJ3cL7
坂崎からは富田長繁みたいな匂いを感じる
422人間七七四年:2011/05/05(木) 21:25:42.84 ID:LCLVbrNJ
>>420
市松は酔って家臣を殺した時、泣いて後悔したって話もあるし
下には優しくて思いやりの深い人だったのは間違いないだろうな
そのせいかしらんが家臣にカルト的に慕われていたそうなw
423人間七七四年:2011/05/05(木) 21:32:41.09 ID:P/s8S+I0
黒田清隆と印象かぶるんだよなー
424人間七七四年:2011/05/05(木) 23:11:09.09 ID:pyT3risD
>>421
何か久しぶりにその名を見た気がするw
425人間七七四年:2011/05/05(木) 23:38:58.07 ID:hqU/9S0q
鬼武蔵ですら身内には優しいというのに……
426人間七七四年:2011/05/05(木) 23:49:29.99 ID:8Yn1xpC8
忠政救出の一幕読んで、はたして優しいと言えるのかは微妙な気がするが…
427人間七七四年:2011/05/06(金) 00:23:01.13 ID:gT+tNfmE
クッションは設置してたから良心的だろ。

あんだけしつこく「忠政には継がせるな」って書いてたってことは、
人材としては全く期待してなかったんだろうが。
それでも見捨てなかったんだから、家族愛は持ってたんだろう。
あとやっぱり、「自分の弟だからバンジーくらい余裕じゃね?」と信頼してたんだよ。
428人間七七四年:2011/05/06(金) 00:26:18.28 ID:mPoDkhoG
獅子はわが子を千尋の谷にうんたらかんたら的な意味か
429人間七七四年:2011/05/06(金) 01:03:18.70 ID:SC+wT5Mq
谷底から這い上がってきた子だけ育てるんだから、それはある意味で逆じゃね?
430人間七七四年:2011/05/06(金) 01:35:42.96 ID:ZfCz39BF
谷底に投げる前に保険かけておくといい。
431人間七七四年:2011/05/06(金) 03:26:33.45 ID:QVBwn8XY
>>412
実直な性格で信頼されてたっての、坂崎じゃなくて父親の忠家の間違いなんじゃね?
432人間七七四年:2011/05/06(金) 07:05:43.63 ID:XB6EA0wn
『抜いて切れ』


これ、鬼武蔵なら本当に使者を手打ちにして坂崎と酒の肴にしそうだ…と思うのは偏見だろうか?
433人間七七四年:2011/05/06(金) 07:20:40.80 ID:XxBuZ4bn
>>432
つか、坂崎を切る
434人間七七四年:2011/05/06(金) 10:51:42.63 ID:s+E7qIT+
>>432
坂崎の方が格上なら使者を切り、鬼武蔵の方が格上なら坂崎をぶった斬る
435人間七七四年:2011/05/06(金) 11:08:57.79 ID:pKBBJOT7
タランチュラ対キングコブラみたいなノリだなw
436人間七七四年:2011/05/06(金) 14:22:25.39 ID:XB6EA0wn
この逸話、『兵家茶話』に記載されていますね。
時代小説の作中で引用してました。坂崎の人間性を『血を好むサディスト』と酷評している津本陽先生、対する福島正則を『歴戦の猛将であるが、家来たちに慕われる思いやりのある人柄』と比較されています。
437人間七七四年:2011/05/06(金) 19:17:42.83 ID:NGQEoNGp
坂崎は市松が人を斬るところを見たくてわざとこんなことをやったのか
438人間七七四年:2011/05/06(金) 19:48:18.47 ID:qlVmHyKW
晩まで律儀に飯を待ってるってかわいいな
439人間七七四年:2011/05/06(金) 20:35:33.74 ID:Rd2fhETo
外道な直家と律儀な忠家、律儀な秀家と外道な詮家・・・お互いの親を間違えたのかしら?
440人間七七四年:2011/05/06(金) 20:57:20.13 ID:tSCvOggw
直家だって身内には優し……み、身内の男には、優しいだろ……。
441人間七七四年:2011/05/06(金) 21:20:54.14 ID:fnpB6jlC
つか鬼武蔵に自分の家臣斬った話ってあったっけ?
余所様の家臣は斬りまくってるけど
442人間七七四年:2011/05/06(金) 22:09:19.73 ID:oY/F8ueD
あんまし鬼武蔵の事を褒めるなよw
市松さんと坂崎の話だろw
443人間七七四年:2011/05/06(金) 23:38:01.30 ID:PUegEPCq
天正10年(1582)6月、本能寺の変の報を受け、中国で毛利と対峙していた羽柴秀吉は、
急遽毛利との講話をまとめる。さてこの時双方よりこれを保証する人質が出されたのだが、
秀吉から送られたのは家臣の森高政・重政兄弟であった。

さて、この秀吉からの人質と体面をした毛利輝元は、彼らにこう語りかけた。

「毛利と羽柴両家の好のはじめに、貴方達が我が元に来たのですが、
あなたが他の苗字が森ということは、苗字の地は我らと同じ、相模国毛利(森)庄ですね?
これは不思議な因縁です。

どうでしょ?よろしければ貴方たちも我らと同じ毛利の姓を名乗り、末永く兄弟の契りを
結ぼうではありませんか?」

これにより森高政・重政兄弟は、この時から森を改め毛利を名乗り、毛利輝元と親しい関係を
築いたという。

秀吉からの人質の心を取った、毛利輝元のいい話。


まあ、そんな毛利高政は関ヶ原の時、丹後田辺城の最中に西軍から東軍に寝返るんですけどねw
444人間七七四年:2011/05/06(金) 23:48:45.31 ID:uzrOxlpc
オチさえなければいい話で終わってたのにw
445人間七七四年:2011/05/07(土) 00:01:13.81 ID:Hv78qrdd
>>443
ああ、ちょっと掻き落としが

下から6行目 ×どうでしょ? ◯どうでしょう?
一番下 ×丹後田辺城の ◯丹後田辺城攻めの
446人間七七四年:2011/05/07(土) 01:02:14.64 ID:XTGBTF8p
さっと変えられるという事は毛利氏は「もりし」と読む物だったのか?
447人間七七四年:2011/05/07(土) 01:18:45.07 ID:P6nvllnN
10年くらい前に宇宙に言った毛利衛さんは、
『本当は もうり じゃなくて、もり なんです』って、TVで言ってたような記憶がある。
448人間七七四年:2011/05/07(土) 01:28:10.62 ID:jXsXohqo
毛利の苗字の起こりからするともりの方が正しいんだろうな
449人間七七四年:2011/05/07(土) 01:33:03.17 ID:+PSHSDJF
毛利高政って元々佐々木系の鯰江氏なんだな
なんとなく毛利勝信の親戚かと思ってて、勝信は若い頃の木下藤吉郎の若党かなんかだったと言う話を見てて、
氏素性のない人物を親戚にされた毛利氏の悪い話かと思ってた
450人間七七四年:2011/05/07(土) 04:00:42.92 ID:UERcBcAA
毛利勝永の家も元は森姓だったというよね
451人間七七四年:2011/05/07(土) 08:09:37.31 ID:32NWQ9yC
そういや黒田節の人も。
452人間七七四年:2011/05/07(土) 10:18:17.39 ID:3NWP63AF
武田家に仕える南部下野守が、家臣を成敗しようとして失敗し、逃亡され追い回していたときの事である。
その家臣が刀を手に逃げ込んだ屋敷に偶然居合わせた山本勘介は、刀を抜かずに近くにあった木の棒で応戦、
3ヶ所ほど軽い手傷を負ったものの、相手を捕らえた。ところが、本来であれば礼を言う立場の下野守は、

「兵法家を名乗っていながら手傷を負うとは口ほどにもない。」

と悪口を言いふらした。これを知った信玄は、

「傷を負ってでも敵を倒すのが本当の兵法である。刃を持った相手に木の棒で立ち向かった勘介を
 嫉むとは許し難い!」

と激怒した。
本来なら処刑する所だったが、それでは勘介も迷惑だろうからと下野守を甲斐から追放したのだった。
453人間七七四年:2011/05/07(土) 15:45:43.32 ID:MvNXsYxd
兵法家の山本勘介は実在してないんでしょ?
454人間七七四年:2011/05/07(土) 15:55:08.99 ID:+GeF6mwg
三国志的な軍師、兵法家としての山勘は怪しいけど、
戦国時代の兵法家は剣術等の武芸者のことだから、信憑性に問題はない。

このスレ的には実在してなくても問題ないんだけど。
455人間七七四年:2011/05/07(土) 15:56:08.01 ID:h0fH9uAZ
軍鑑そのままの山本勘介ならね
456人間七七四年:2011/05/07(土) 16:16:32.97 ID:iQ/Gjd2a
冗談抜きでこのスレの逸話の90%は後世の作り話
457人間七七四年:2011/05/07(土) 19:02:30.35 ID:EYdKoaqb
しかも出典がないのが大半だから近現代の小説が混じっててもおかしくないしな。
458人間七七四年:2011/05/07(土) 19:03:10.99 ID:4w+ddfVk
>>456
割合もっと高いと思うよw

永年甲陽軍艦の有効性を研究してきた平山優は、山本管介を、
信玄の外交官として西上野や信濃で活躍したそれなりの身分の武将としている。
逆に、懐疑的な笹本正治は、山管は武田の使いっぱしり説を堅持してる。
459人間七七四年:2011/05/07(土) 20:01:08.38 ID:qnp9Mh1B
それなりの身分じゃないと使いっ走りもできないんじゃないの?w
460人間七七四年:2011/05/07(土) 20:05:50.20 ID:0AFeg59n
子孫の五十六もだけど軍師ならもっとマシな死に方してくれんかと。
461人間七七四年:2011/05/07(土) 20:26:41.07 ID:1DZnSr9I
五十六は子孫だったのか??
462人間七七四年:2011/05/07(土) 20:30:18.72 ID:sBPae0tq
使番って重要機密預かるから、身分の大小よりむしろ君主との個人的信頼じゃないかね。
463人間七七四年:2011/05/07(土) 20:30:57.88 ID:eMeQapDI
>>461
高野家から山本家の養子だけどね(高野五十六ときくと、某仮想戦記を思い出す)、
長岡藩の山本家は三河山本氏からで、
三河山本氏は山本勘助の弟・山本帯刀の子孫ってことになっているらしい
464人間七七四年:2011/05/07(土) 20:59:29.89 ID:0dQDWWEr
だからなのかな、前から山本勘介の墓が岡崎市にひっそりとあるのが不思議だった

http://hattoris2.sakura.ne.jp/sookazakikannsuke070415.htm
465人間七七四年:2011/05/07(土) 21:22:10.44 ID:cFhbcS9g
今日は大坂夏の陣二日目ということで・・・

四年後に書くことにする
466人間七七四年:2011/05/07(土) 22:10:34.78 ID:2t9a0UkF
抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、天正三年(1575)、那須資晴と宇都宮広綱は薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増はこれを見つけると
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。



補足…出典『関東古戦録』の通りの年数・人物にしましたが、内容的に天正十三年(1585)の薄葉原の戦いのことだと思います
(しかも、元の逸話では千本資俊誅殺と同年とされているので)。なので宇都宮家当主も広綱ではなく国綱だと思われます。

特に落ちの無い話ですが、格好いい高増兄弟がなんか新鮮だったので…
467人間七七四年:2011/05/07(土) 22:14:27.53 ID:95KYMaqM
なんとなく那須家強い理由が分かる気がするな
策が目立つあの兄弟でもきっちり戦の何たるかをわきまえてると…。

あれ?大関さんたち文武両道じゃね?
468人間七七四年:2011/05/07(土) 22:20:46.97 ID:cPSN1PUw
>不忠なことをするな。


あんたがそれを言うのかw
469人間七七四年:2011/05/07(土) 22:27:09.34 ID:PRMhrxEs
対外戦で余分な負けをつけるのは大関たちにとっても何の利もないどころか身の危険にもつながるわけで。

要らんところで軍法違反して敗因つくるのは奸臣から見ようと忠臣からの視点だろうと不忠だろさw
470人間七七四年:2011/05/07(土) 22:36:45.22 ID:hRh8kYHF
まあ残念ながら下野国の覇権争いって、佐竹と北条の動き次第で領国を蹂躙されてオシマイっていう危うさでもある…。
471人間七七四年:2011/05/07(土) 22:41:10.38 ID:TKVBR2+K
那須は辺鄙だからあんま攻められないけどな。

攻めてくる物好きは宇都宮と佐竹ぐらいのもんだが毎度火傷するし。
472人間七七四年:2011/05/07(土) 22:58:58.37 ID:voUUrQ8Z
>壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
>岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。

ここがいかにも坂東武者らしくて好きだな
古い鎌倉武者のような異様な負けん気の強さと利害計算から離れた勇猛さが伝わってくる
473人間七七四年:2011/05/07(土) 23:01:38.31 ID:Pk0uFdOn
やっぱり有能な人物だったんだよな

いい方にも悪い方にも
474人間七七四年:2011/05/07(土) 23:02:47.97 ID:4w+ddfVk
那須が強かったのは火山灰の貧しい土壌と洪水の多い土地で貧乏だったから
475人間七七四年:2011/05/07(土) 23:31:40.12 ID:8i1yk1jZ
薩摩隼人がこっちを見ている
476人間七七四年:2011/05/08(日) 00:18:23.40 ID:Qp/mPuqf
>>464
へー岡崎にもあるんだ。
豊川にも勘助の墓があるよ。

http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou051.htm
477人間七七四年:2011/05/08(日) 00:57:27.90 ID:EfaJSHlI
出身地が超メジャー大名領だと、
マイナー大名同士の合戦がイマイチ想像出来ない。

神保と姉小路とか戦ってたんだろうなw
478人間七七四年:2011/05/08(日) 02:59:31.41 ID:cWgzOmZO
石田三成が馬の乗り初め式を行った際、帯の結びに羽織の裾が引っ掛かり、それを見た下僕が直そうとして
思わず結び目をはたいてしまった。しかし、三成はその場では何事もなかったかの様に振る舞い、翌日に下僕を呼び出すと、
無礼を働いた自覚があったため処刑も覚悟して参上していた相手に対して15両もの大金を与え、情けを含んだ調子で解雇する旨を伝えた。
これを知った秀吉は、三成の分別ある態度にますます重用するようになったという。
479人間七七四年:2011/05/08(日) 06:38:57.34 ID:lZoxyp/0
>>477
若狭武田「マイナーな方の武田ですが、長年一色と戦ってました」
480人間七七四年:2011/05/08(日) 08:59:33.90 ID:Q5ccttW7
三木直頼がまとめていた時期以外は、信玄と謙信に引っ掻き回されたり、主導権争いばかりでまとまりがなさそう

直頼の美濃遠征以外に対外的な行動って何があるんだろう
481人間七七四年:2011/05/08(日) 14:39:54.60 ID:Jrb29DDz
小さな城跡とか行くと
ココを命懸けで守り、死んで行った武将や雑兵が居たんだよなぁ
ってロマンを感じるよな。



>>478
主人が無様を晒さない様に直しただけじゃないの?
482人間七七四年:2011/05/08(日) 14:42:56.33 ID:ZlqsWwl0
小さな城跡はたいてい戦闘履歴がない
483人間七七四年:2011/05/08(日) 15:05:07.25 ID:YoZ25sDv
江戸期に作られた比較的保存されてる城もそうだな
484人間七七四年:2011/05/08(日) 15:16:43.14 ID:3E4ovFrZ
>>482
いやいや

>>483
そうそう
485人間七七四年:2011/05/08(日) 15:54:09.70 ID:eWVv7pAi
出番が明治にもあった熊本城はガチ
486人間七七四年:2011/05/08(日) 16:05:10.30 ID:WP2dANCD
どんな小城でも後世に戦闘記録が残ってる方がマシなのかな
実家の裏山にあったらしい出城みたいに、落城時の話だけ残ってるとか多そうなんだがw
487人間七七四年:2011/05/08(日) 20:23:06.38 ID:Jrb29DDz
歴史に残ってなけりゃ小競合いすら無いのかよ!

だったら館だけで充分だろwww
488人間七七四年:2011/05/08(日) 20:26:16.49 ID:5/jyxQPl
逆に考えるんだ。城があったから「あんな僻地の城落とすのめんどくせ」となって戦禍に見舞われなかったと!
489人間七七四年:2011/05/08(日) 20:26:29.46 ID:CWGiIk4L
>>487
城というのは民衆の戦時における避難シェルターとしての機能があってな。
490人間七七四年:2011/05/08(日) 20:32:26.47 ID:1ibZvwbj
僻地の城で攻められるのを回避しても宴の最中に大地震でもろともに…
491人間七七四年:2011/05/08(日) 20:35:51.03 ID:x6wRQq6n
一部の山城なんて辿り着く前に遭難しそうなくらい深かったりするよなw
492人間七七四年:2011/05/08(日) 21:10:07.31 ID:mMufAXB/
金子美濃守「立派なお城があったけど宴会してたら全滅したよ!したよ!」
493人間七七四年:2011/05/08(日) 21:26:50.03 ID:BS4NEgkH
僻地はともかく、記録に残るほどの合戦の度に
「あそこに敵勢が集まってる様だから、攻撃するぞ」みたいに
山ほどある支城や砦の勢力図が塗り変わったりしてるんじゃないのか?
494人間七七四年:2011/05/08(日) 21:47:34.84 ID:8yD/frIe
武田信虎の祖父、信昌の菩提寺永昌院の話なんだけど
いざと言うときにはそこに立て篭もる為に山深い所に在ると言う
言い伝えみたいな事をその近所に住んでる人が言ってた
実際行ってみると車だから簡単に登れるけれど当事だったら相当キツイところにあるよ。
495人間七七四年:2011/05/08(日) 22:27:59.21 ID:iz42pG+B
山城と言えば、GWにハイキング気分で筑波山に登ったけどガチできつかった
シャツにカーディガン羽織ってスニーカーの軽装で行ったけど、道がぬかるんで滑るからもう辛いのなんの
しかも道の傾斜が三四十十度くらいで大岩がゴロゴロしてるわ、木のねっこに引っ掛かるわでまともに歩けない
あの山道を何キロもある鎧兜つけて、槍持って行軍とか絶対無理だ
しかも上からお湯ぶっかけられたり矢が飛んできたり岩が転がってきたりするんだろ?
鉄砲が出てきたくらいで山城が無力化されたとかどう考えても嘘としか思えん
496人間七七四年:2011/05/08(日) 22:32:10.74 ID:+g7RPA+K
現代人の感覚で考えたら戦自体ファンタジーなんじゃないの?
あれもできないこれもできない だから存在してたはずないってw
497人間七七四年:2011/05/08(日) 22:41:00.71 ID:CWGiIk4L
>>495
山城は鉄砲で無力化されたわけではなく、その証拠に関ヶ原以後ですら建築されている。
そもそも信長の安土城も山城だしね。

山城が滅んだのは防衛能力の問題ではなく、一国一城令。
498人間七七四年:2011/05/08(日) 22:41:58.99 ID:D9Gc+h6/
山奥の城で酒呑んで寝てたら、敵が来たけど妻が追い払ってくれました
499人間七七四年:2011/05/08(日) 23:02:04.08 ID:BS4NEgkH
なんで時代遅れな山城前提になるんだよ!


>山城が滅んだのは防衛能力の問題ではなく、一国一城令。
そんな事言ったって、乱世なら滅びないだろw
500人間七七四年:2011/05/08(日) 23:08:01.87 ID:EU92LFgI
日本語で
501人間七七四年:2011/05/09(月) 00:05:09.95 ID:4DirppR1
>>497
一国一城令で以って、城が要塞から政庁に変わったんだよね。
そういう意味で一国一城令以降に使用された不便な城ってどこだろ。
南九州にはそんなのないなあ
502人間七七四年:2011/05/09(月) 00:11:00.97 ID:Ca13vKuG
>>501
政宗の青葉城は登城するまでが一苦労だったらしいですなw
503人間七七四年:2011/05/09(月) 00:12:02.01 ID:Jvx52BXW
戦国はもう終わってるけど、栗山大膳さんの項目がまとめにもあるので
黒田家の御家騒動の話を投下。三大御家騒動の一つに数えられるこの黒田騒動、
栗山大膳事件と呼ばれるくらい大膳さんが中心人物である。


先代藩主である長政はその臨終の際に息子忠之と、大膳を読んで遺命を伝えると
「我が遺言の証拠は大膳である」告げていた。

そんな訳だから大膳も何かと諫言を呈することとなる。ただし、大膳にとっては
忠言のつもりであったが、忠之の方ではそうは思わなかった。自分が何かするたびに
文句を言ってくる大膳をだんだんと鬱陶しく思ってきたのである。

御家騒動と言えば先代からの老臣と、新たに取り立てられた側近との対立と言うのが
典型的な例であるが、この黒田騒動も例に漏れなかった。忠之の児小姓から出世して、
八〇〇〇石まで禄することになった倉八十太夫という男である。

こうして倉八を得た忠之はだんだんと側近政治を始め暴走していくこととなる。
幕府の思惑を配慮して初版が軍縮をしていく中、幕府禁制の大型船を建造、
倉八に命じて足軽二〇〇人を新たに召し抱えたりした。

更に大膳の父利安が寛永九年(1631)に没すると、領地を召し上げ、大膳処断のために
幕府の有力者に了解を取り付けようと奔走、おまけに大膳の娘は坊主か町人の嫁にするとか
言い出す始末である。

流石にここまでやられれば誰でもキレる。大膳もキレた。それどころか先代様に頼まれた
黒田藩すら危うい。こうして大膳も逆襲に転ずるのである。

寛永九年一月に徳川二代将軍秀忠が没すると、忠之は葬儀後に帰国。かねてより大膳を処断する
つもりであった忠之は、倉八一派を排斥しようとしていた大膳に切腹を命じる。
これには剃髪し、人質を差し出したことでなんとか逃れた。

同年六月十五日、忠之の手の者が博多の町で一人の男を捕えた。その男、とんでもない書状を
持っていた。何と黒田忠之に幕府に対して謀反の企てがあるという訴えをしたためた書状である。
実はこの男、大膳の手の者。先日の件でもはや一刻の猶予もないと思った大膳は幕府への訴え
という強硬策に出たのである。

この男は捕まったが、密書は二通あり、もう一通は豊後幕府惣目付け竹中采女正(竹中半兵衛の甥)の
もとへ届いてしまった。驚いたのは竹中である。黒田家と言えば関ヶ原の折に家康自ら手を取ってもらい
親父に怒られた大功の家であるし、関ヶ原ではともに轡を並べた仲でもある。

とはいえことは公のことである。早急に福岡へ向かうと、大膳の身柄を確保。訴状は江戸に差し出した。
かくして忠之に出頭命令が下る。先日も加藤家が改易されたばかり。流石の忠之も震え上がった。

ことの次第に幕府も土井利勝、井伊直孝、酒井忠勝らフルメンバーの体制で取り調べを開始した。
評定は長引き、とうとう将軍家光自ら忠之を城中に呼び寄せ謀反の有無を問いただした。その結果、
謀反の疑いをはらすことができた。

謀反の企てが虚言であるならば、何故大膳は虚言を訴え出たのか?改めて大膳を呼び出し問いただせば、
大膳は主君に逆心ありと訴えたのは虚言であるが、黒田家を滅亡の淵から救うには御公儀の力を借りるしかなかったと
陳述し幕閣らの涙を誘った。

寛永十年三月十五日、将軍家光の裁定が下った。黒田の領地は没収。しかし、父長政の功績に対し改めて
旧領を与える。大膳は盛岡藩へお預け。しかし四里四方お構いなしというどちらにも寛大な処置であった。
また件の倉八十太夫は黒田家追放となったのだった。
504人間七七四年:2011/05/09(月) 00:14:12.51 ID:Qzo56tuF
城=要塞・軍事施設って考え方は非常に古い。
戦国時代の城は政治と社交・儀礼の場でもあり、人間たちが生活する集合住宅でもあり、
商売・流通の拠点であり、祭祀・鎮魂の場でもあり・・・

とにかく、無数の側面があったということ。
「城」を一言で定義することは不可能。
505人間七七四年:2011/05/09(月) 00:25:50.29 ID:1m0vamNm
>>497
一城令って外様大名の防衛力の弱体化が狙いの一つだけど、徳川に近しい大名は山城生き残ってるよね?
あとこれは城じゃなくて寺だってごり押しして逃れたのは結構ありそう

>>504
あのさ、今は政庁に役目が移行した城についての話じゃなくまさに要塞としての城について話してるんだが
そもそも定義付けなんてだーれも議論してないよ
506人間七七四年:2011/05/09(月) 00:27:28.96 ID:eGs4cYBc
城には食料やら軍資金やらも貯めこまれてるんでしょ?
城を落とせば物資の補給にもなる
507人間七七四年:2011/05/09(月) 00:29:54.29 ID:qaRtnODz
>>501
行ったことないけど鳥取城、備中松山城、津和野城辺りはきつそう
508人間七七四年:2011/05/09(月) 00:37:52.80 ID:ItBkxkc/
苗木城みたいなとこ行ったら、
誰だって合戦ロマンを感じるだろう?
509人間七七四年:2011/05/09(月) 00:48:34.46 ID:KESICShn
>>503
黒田は播磨に移った重隆以来、知恵者の家系のイメージがあるが(『黒田三十六計』の影響)、
あっというまに錆びついてしまうんだな
510人間七七四年:2011/05/09(月) 00:50:41.48 ID:4DirppR1
三大お家騒動って黒田と伊達と最上でいいの?
511人間七七四年:2011/05/09(月) 00:54:25.79 ID:Qzo56tuF
>>505
今はも何も・・・
君にレスするために書いたわけじゃないのは、皆分かってると思うけど。

>>481-489あたりの問題提起、
「城跡に戦闘履歴・記録が残ってないかどうか、だとしたらなぜか」ってことから
この一連の会話が始まってるので、有効な回答のひとつだと思います。
512人間七七四年:2011/05/09(月) 00:56:16.95 ID:Ca13vKuG
>>510
鍋島「あぁ?化猫ディスってんのかゴラァ」
513人間七七四年:2011/05/09(月) 01:04:57.23 ID:O/aU8XRM
お家騒動っていえば二回崩れとか あれ犯人は誰?宗麟?w
514人間七七四年:2011/05/09(月) 01:23:09.45 ID:Gf7qNv8e
>>510
黒田、伊達、加賀(前田)
515人間七七四年:2011/05/09(月) 01:26:02.51 ID:4DirppR1
>>514
それだ! トン
516人間七七四年:2011/05/09(月) 03:28:06.20 ID:A/HdV7ly
仙谷さんも騒動起こしてるよな
517人間七七四年:2011/05/09(月) 06:16:58.57 ID:9eQ2ydlR
三大○○と言えば2TOPプラスおまけという構成だろ
518人間七七四年:2011/05/09(月) 06:34:48.23 ID:CjRdsrjg
>>509
官兵衛のより前の代の黒田家の人達も有能だったっぽいし(そうでないと新参が家老にならないだろう)
長政まではタイプは少し違えども、出来る人が続くのに

なんで忠之はこんな馬鹿殿なんだろ
519人間七七四年:2011/05/09(月) 07:41:36.99 ID:4xjAs39q
>>518
胤が違ったりしてなw昔の女は股が緩かったそうだし十分あり得る
520人間七七四年:2011/05/09(月) 08:23:27.63 ID:CLs02VTB
お前さんの嫁御は大丈夫か?
521人間七七四年:2011/05/09(月) 09:07:22.09 ID:JASQ5F8b
ボンクラがTOPでもなんとかなるのが平穏な世じゃないんかなぁ…
まぁ、ボンクラすぎると御上に潰されちゃうけどね^^
522人間七七四年:2011/05/09(月) 10:11:26.27 ID:Uakr1sLz
バカ殿と馬鹿にされてるうちが華であるか。
523人間七七四年:2011/05/09(月) 10:24:23.13 ID:9De9SWD2
>>521
いやいやボンクラ過ぎた故にお家存続できちゃった信雄さんてのもいるw
524人間七七四年:2011/05/09(月) 11:07:36.02 ID:65vJupKh
何だかんだ言って、したたかさと世渡り上手な所はあるような気がする>ノブオ
525人間七七四年:2011/05/09(月) 11:33:22.04 ID:LMJBc8cA
関ヶ原や大坂の陣での動きを見てると、世渡り上手って気はしないけどなw
526人間七七四年:2011/05/09(月) 11:44:11.34 ID:i+KmlX03
自分が偉才であると信じているぼんくらさんよりは余程いい
527人間七七四年:2011/05/09(月) 12:44:20.74 ID:TNYTXYwF
それまんまのぶかっちゃんじゃねーの?w
528人間七七四年:2011/05/09(月) 12:56:51.98 ID:KuIyAprL
>>525
関ヶ原では西軍について領地を没収されてるけど、それは表面上のことらしいね
晩年は以前の三倍近くの所領を貰って天寿を全うしてるし

三成側についたのは西軍の内情を家康に知らせるのが目的だったようだし
関ヶ原以降も豊臣家に仕えてたのは案外それが目的かも。
信雄は秀吉の国替え命令を拒否して殺されそうになったときに
家康に助命のとりなしをしてもらった恩があるから、ありえそうな話だと思う
529人間七七四年:2011/05/09(月) 14:17:38.93 ID:DmxTEp0I
親父の家来の下につくよりは親父の同盟相手の下につく方が割り切れるだろうしね。
530人間七七四年:2011/05/09(月) 19:41:59.43 ID:VW/rqMZX
亀ですが >>502
斜度12%あるんですよ、あの激坂w
ママチャリで登ろうとしたら後転しそうで怖くなるレベル
ご老体には相当きつかっただろうと思いますw
531人間七七四年:2011/05/09(月) 20:08:35.27 ID:FI8daPcE
慶長五年七月二五日、丁度小山会議が行われた日付の書状がある

大意として
「八万でそちらに行くので、その分の兵糧を用意するように」

この書状、徳川家康が長束正家に出した書状である。
これについて識者はそのまま家康が上方の情勢を知らなかったと見ている
が、……自分としてはどう見ても脅しにしか見れない

この書状は正家には届かなかったが、違う形で彼の元に届いた様である
八月五日に伊勢を攻めようとした正家と安国寺恵瓊は海に船を見ると
それを家康と誤認して逃げ出しているからである

噂として家康が西上している噂は流れていたが、ひょっとしたらこの書状も
含めて家康の仕込みだったのかもしれない
そんな関ヶ原の心理戦を伺わせる話
532人間七七四年:2011/05/09(月) 20:08:48.77 ID:4DirppR1
>>530
その坂を登れなくなったら隠居の決心がつくから、かえっていいのかも。
533人間七七四年:2011/05/09(月) 20:44:41.46 ID:EcwG2zrF
>>532
実際晩年には平地に隠居用の城作ってるしね
534人間七七四年:2011/05/09(月) 21:23:57.19 ID:FrJuvSRr
治にいて乱を忘れず、だろ?

戦国が終わって江戸に入ってからだが、名君と呼ばれた池田家の殿様が行列作って移動している途中、不意に蜂の巣つついた。
当然家臣達大パニックで逃げ出すのを、そんなことで戦になった時どうすると叱り飛ばしたとか。
535人間七七四年:2011/05/09(月) 22:26:14.23 ID:02cWnWaw
チャンバラ見てると、重臣以上はかなり終盤まで抜刀しなかったり
「ビビってると思われたくないから、護衛は増やさん」
みたいなシーンばかりだよな。
536人間七七四年:2011/05/09(月) 22:31:48.53 ID:FI8daPcE
夜出歩くなら、庄屋の旦那でも最低でも十人以上は引き連れているだろう
537人間七七四年:2011/05/09(月) 22:44:44.16 ID:65vJupKh
蜂の巣に遭遇した武士が冷静に振る舞って、
刺されまくってアナフィラキシーショック起こすんですね、わかりません。
538人間七七四年:2011/05/10(火) 01:37:41.50 ID:flwrlcSm
>>503で黒田騒動が出たので、せっかくなので
実際に騒動を丸く収めた最大の功労者である黒田美作の話を。

諱は一成、荒木村重の家臣加藤重徳の二男として生まれました。
そう、彼こそ、有岡城の戦いにおいて幽閉されてしまった孝高が、
密かに彼の身の回りの世話をしてくれた重徳に感謝して引き取り、
長政の弟のように育てた子・玉松だったのです。
成長した玉松は三左衛門と名乗り、長政の側近として武功を上げ、
また筑前入封後は幕閣との外交に奔走し、長政の信頼のおける家老の一人となりました。

ところで、この黒田一成、栗山利安の長女を娶っていたわけで、
つまり黒田騒動の主役である栗山大膳の姉婿に当たります。
そんな彼ですから、最初は大膳と同調して忠之と対立していたのですが、
次第に大膳が暴走をし始め、ついには主君を訴えるという斜め上の事態を引き起こします。
さすがに主家が取り潰されてはならんと、重臣の多くは忠之につくのが黒田騒動のクライマックスなのですが、
この騒動の評定で忠之側として最も活躍したのがこの一成なのです。
539人間七七四年:2011/05/10(火) 01:40:08.86 ID:flwrlcSm
自尊心の高い口のうまい20歳も年下の義弟と対決することになった一成。
生意気な義弟は言います。
「美作は私の姉婿でありますが、律義さが取り柄の文盲ですから、
 こんなところに出てきても意味などありますまい」
この辛辣な物言いに一成は落ち着いて返します。
「確かに私は仮名も満足に読み書きもできない文盲で、大膳は学文多才で色々なことを知っているようだ。
 しかし、あなたは先ほどより古語を引いて小難しいことばかり並べ立てているようだが、
 孟子だか論語だかに『君君たらずとも臣臣足たるとやらん(※主君がバカ殿でも家臣はしっかりしてなきゃダメ!)』
 とあるそうだが、あなたのやっていることはなんだ? 主君を無実の罪で訴えるなど言語道断、論語読みの論語知らずとは、
 あなたのような人間のことをいうのではないか」
これには大膳も一旦言葉を失いますが、黙ってしまうような男ではありません。
540人間七七四年:2011/05/10(火) 01:42:16.01 ID:flwrlcSm
「美作は私とは違って江戸に詰めることが多かったので、筑前で何が起こっていたかよく知らないのでしょう。
 私は殿が幼少の頃より貢献してあれこれ世話を焼き、先代が廃嫡を考えた時もたびたび反対し、
 更に忠之さまを亡き者にしようと私に命じた時もお助けいたしました。それなのに、
 殿ときたら倉八とかいう若輩者をとりたて、私を疎み、切腹を命じるならまだしも、
 私に毒を盛ろうとする始末。こんな仕打ちがありましょうか。それで私はこのたび訴え出たのです」
口の減らない大膳に一成は思わず一言、
「しかし、あなたが毒を盛られたくらいで死ぬような人間とはまったく思えません。
 それをこのたびの反逆の理由と言われても、どう納得できましょうか」
これにはさすがの大膳もぐうの音も出ない。
そもそも、まったく根も葉もない謀反の訴えなど誰も信じるはずなどなく、
この後同じようなやり取りを他の老親たちと交わして評定は終わり。
無事黒田の御家は守られたのでした。

講談や歌舞伎などでは栗山大膳は主家を守るために訴えたなどと言われますが、
その真意がどこにあったのか、知る由もありません。
541人間七七四年:2011/05/10(火) 01:44:50.86 ID:flwrlcSm
>>509やら>>518-あたりでは、黒田家は長政までと言われがちですが、そんなことはありません。
三代藩主黒田光之公は、地元でも名君として尊敬されているようです。

さて、この黒田光之、正真正銘黒田忠之の子なのですが、なぜか生まれたのが早良郡橋本村の別邸。
筑前52万石の若君がどうしてこんなところで?とお思いでしょう。
そうです、この光之、元々は忠之の隠し子だったのです。
光之の母親については諸説あり実際どういう身分の女性だったのかはわかりませんが、
何かの拍子に忠之の手がついて囲っていた女性のようです。
そして、忠之の子を孕んだこの女性はどういうわけか、
橋本村の別邸に移されそこで男子を産みます。
彼女が光之を出産した直後に忠之の正室が亡くなっているようなので、
ややこしいトラブルがあったことは想像に難くないですね。
槌万と名付けられた赤子は三歳になるまで橋本村で密かに育てられることになります。
542人間七七四年:2011/05/10(火) 01:46:50.68 ID:flwrlcSm
このうっかりすればご落胤として百姓や坊主にでもされかねなかった槌万が無事黒田家を継ぐことができたのも、
また、黒田一成の功績によるものでした。

忠之は自分の子を孕んだこの妾をまず一成に押しつけました。
一成は預かった母子を保護しながら、いつかこの若君が黒田の御家を継げるよう
密かに幕閣や忠之の母である大涼院に根回しをしていたのです。
正室を亡くし独身となった忠之ですが、一度まとまりかけた藤堂家との縁談も破談になり、
30になろうかというのに世継ぎがいない。
いつの間にやら鎚万の存在も周知の事実となり、彼は渋々この息子を江戸に呼び寄せ、
嫡男とし名を「吉兵衛」と改めさせます。
その後、忠之は一成や大涼院の説得により吉兵衛の母と再婚し、次男・之勝を産ませます。

つまり、黒田一成がいなければ、
福岡藩三代藩主・黒田光之は誕生することもなく、黒田家譜も編纂されず、
貝原益軒が養生訓を執筆することもなかったのかもしれません。

ちなみに、あの有名な黒田長政騎馬像(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0c/Kuroda_Nagamasa.jpg)は、
一成が長政の一周忌に私的に作らせて所有したいたものを、
「幼い光之公に祖父の雄姿をお伝えするために」黒田家に献上されたものだそうな。
543人間七七四年:2011/05/10(火) 08:42:42.92 ID:GwMS3hB+
>>541
>>518は黒田家は長政まで、と言ってるんじゃなく
「長政までは有能な人達ばかりなのになんで忠之はこんなアレな殿様なの?」って
言ってるんであって、忠之後に名君が出てることを否定していない

ID:flwrlcSmの逸話読んでも忠之がアレなことには違いないようだし
544人間七七四年:2011/05/10(火) 09:04:16.59 ID:Nb4VLKsa
>しかし、あなたが毒を盛られたくらいで死ぬような人間とはまったく思えません。
無茶言うなw
545人間七七四年:2011/05/10(火) 09:06:10.89 ID:9vj9IjvF
>君君たらずとも臣臣足たるとやらん
この言葉が出るとポスト戦国だと実感して安心する
546人間七七四年:2011/05/10(火) 09:07:45.08 ID:7087AEev
まぁ忠之さんは周りからも身内からも馬鹿の烙印押されてるからより際立ってしまう
そのせいで後が名君でもそっちに目がいっちゃうな、島津に暗君なしで有名な人とかみたいに
547人間七七四年:2011/05/10(火) 14:17:14.97 ID:63zeffjQ
この時代は大般若とか上杉コレクションなど、備前刀が幅を効かせていたみたいだが
いつの頃からか正宗が日本刀の代名詞になったのはなぜだろう
548人間七七四年:2011/05/10(火) 14:28:20.72 ID:yPFubTf1
>>545
綱吉時代以前にそこまで儒学っぽいこと言う武将がいたのかなぁとか考えると、
後世に創作された逸話っぽく感じるけどね。

もちろん、林羅山なんかがいるように、家康の存命中からある程度儒学が
尊重されるようになってきてはいたけどさ。
549人間七七四年:2011/05/10(火) 15:34:52.90 ID:HuUfMPBy
--------------------ウリ様用しおり------------------------

                 ∧_∧
  今日はココまで    < `д´#>   読んだ

--------------------ウリ様用しおり------------------------
550人間七七四年:2011/05/10(火) 17:32:34.03 ID:rp+mNGVA
たしか新田次郎原作で横山先生がマンガにした「武田勝頼」では
織田への裏切り者や脱走兵続出の中で
甲州者でない真田昌幸にも疑いがかかった挙句撤退中にハブられ、
小山田信茂はひとまず勝頼が逃げ落ちて籠城する場所になってた自分の領地で
彼の家来が勝手に裏切りを決めて城に軟禁されてという話だったね。

小山田さんはその後不忠者のレッテル貼られて親子共々処刑されてしまい
真田のほうはとにもかくにも見事に乱世を生き抜いたという結末を考えると、
真実の方はともかく同情度は小山田さんのほうが高いとオモ
551人間七七四年:2011/05/10(火) 17:35:43.29 ID:rp+mNGVA
おっと、超遅コメでスマン。
話題は>>395-399のほうな
552人間七七四年:2011/05/10(火) 18:36:46.50 ID:lBOA3fbR
>新田次郎原作で横山先生がマンガにした「武田勝頼」では

553人間七七四年:2011/05/10(火) 19:30:42.59 ID:5sralFXC
漫画の話ッスかwww
板違いだよバーローwwwww
554人間七七四年:2011/05/10(火) 20:20:46.31 ID:5nJ16Dzy
黒田一成は「かずなり」じゃなくて「かずしげ」なのか
ずっと「かずなり」だと思ってた
555人間七七四年:2011/05/10(火) 20:28:13.98 ID:dxHrXwO4
そういや石田三成も「かつしげ」という話が
どうせなら縁起をかついでみんな「かつなり」と読めばいいのに
556人間七七四年:2011/05/10(火) 20:29:46.85 ID:Fx3tMoJo
水野のかつなりはひとりで十分by被害者の会一同
557人間七七四年:2011/05/10(火) 20:58:12.36 ID:VD2A0S5C
>>511
ウザすぎワロタ
558人間七七四年:2011/05/10(火) 23:03:55.23 ID:LBiWdJWl
>>548
実は大膳はその林羅山に師事していたらしく、
そもそも長政が儒教にかぶれていたために家臣やその子弟に推奨していた節があるのです
件の息子にも「論語読ませろ」と守役に支持している手紙が残っています

ちなみにこの話の出典は栗山大膳記なのですが、
これの成立は延宝八年ごろと言われているようです
559人間七七四年:2011/05/10(火) 23:08:12.18 ID:BWCwV/lX
平手政秀のようにすっぱり切腹したのに対して、どうも理屈が先にいってるなぁ。
頼宣の守役も、切腹するから介錯してほしい心入れ替えてね、とか申し出てなかったっけ。
560人間七七四年:2011/05/11(水) 00:08:45.77 ID:byzaeu7o
いい話でも悪い話でもないのだが、個人的に何となく好きな話。

慶長4年(1599)閏3月3日、前田利家の死去によって後ろ盾を失った石田三成を反三成派諸侯が
襲撃、いわゆる七将襲撃事件が起る。

さて、この報を聞いた本多正信は直ぐさま家康の御前へと向かう。
時刻はまだ亥の刻半(午後10時頃)であったが、家康は既に寝所に篭っていた。

「大殿、今夜は早くお休みになられるのですな。」

正信はそんな事をぶつぶつと呟きながら参上した

「…佐渡(正信)か。何事かあったのか?」

「余の儀ではございません。石田三成のこと、どのようにいたすおつもりでしょうか?」

家康、これに

「その事か。わしも今それを考えていたところさ。」

この言葉に正信、パッと顔を明るくし

「さてさて正信、すっかり心易くなりました。
その事を大殿が思い謀られている以上、私が申し上げることは何もありません。
では、これで失礼させていただきます。」

と、自分の考えは何一つ語らず御前を下がった。
家康の方も、あえて正信にそれを聞こうとはしなかった。

これは、この時家康の側近くに控えていた土井利勝が実際に見聞きした事だそうである。


七将襲撃事件の時の、非常に不思議な「謀議」のお話。
561人間七七四年:2011/05/11(水) 06:20:18.40 ID:PyrSvMjj
まさに佐渡さんって感じの話だな
562人間七七四年:2011/05/11(水) 06:42:02.25 ID:XSdc+v6L
俺も今日会社でやってみようかな
563人間七七四年:2011/05/11(水) 08:23:27.58 ID:5jw0lKsV
>>560
司馬の「関ヶ原」で読んだエピだな
土井利勝がいたのか
564人間七七四年:2011/05/11(水) 08:24:04.78 ID:jil+dQz8
リアルだとこんな感じ
J( 'ー`)し「たけし宿題やったの!?ちゃんとしなさいよ」
(`Д)「うっせーな今やってるところだよ!あーもーやる気なくなったわ」
565人間七七四年:2011/05/11(水) 09:10:51.09 ID:TK9ya8sM
>>550
何言ってんすかwww
566人間七七四年:2011/05/11(水) 12:32:12.97 ID:brVDimk9
『木沢長政、13代将軍 足利義晴を警護』 
人物叢書の三好長慶が出典

大物崩れで活躍し細川京兆家を継いだ細川晴元の片腕となり
河内畠山総州家の家臣で河内・大和半国を牛耳る木沢長政さん。

彼の心の優しさは天にまで登る勢いなのは纏めにもある様に皆さんもご存じ
阿波守護代の三好元長と主君畠山義堯を一向宗・法華宗を使って成仏させ
その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

その時期、三好政長という数寄者が無法の限りを尽くしており木沢さんは頭の痛い日々が続いていた。
そして木沢さんの縁者である塩川氏(大物崩れで死んだ細川高国方に属していた為)
に三好政長・池田信正・三好千熊丸が攻撃をかけたので木沢長政さんは、伊丹氏・三宅氏と共に足利将軍義晴公に
『流石にそれはやりすぎとちゃいまんやろか・・・』と訴えたが義晴公は華麗にスルーした。
摂津勢力図
晴元側:三好・池田・原田・茨木・波多野(木沢)
高国側:三宅・伊丹・塩川・瓦林・能勢(木沢)   FREE:木沢長政

つまり木沢さんは細川家臣でありながら敵方を庇ってしまったのである…

そして木沢さんが三宅・伊丹と組んで塩川氏の一庫城を後詰して政長・千熊丸軍を敗走させる事に成功する
これは千熊丸、後の三好長慶が野戦で唯一の敗退記録として記録され
長慶に唯一土を付けた木沢さんにとって誇らしい事この上ない。

その1541年の十一月十一日である、そんな木沢さんが足利将軍義晴公を警護するために上洛を果たしたのだが
そんな心やさしい木沢さんに対し足利義晴公の動きは残酷な物だった・・・
管領・細川晴元は29日に京都の岩倉に逃走
足利義晴公は30日、銀閣寺に逃走後、比叡山を越え近江の坂本に、木沢さんに全力でお断りの姿勢を示したのである…。
その後伊丹・三宅・能勢は晴元側に河内では遊佐が反旗を翻し木沢包囲網が敷かれ、戦国の謀君、木沢さんは最後を迎える。

不利な状況ながらも諦めない木沢さんの優しさがちょっとだけ滲み出ているホロリとくる話
567人間七七四年:2011/05/11(水) 15:27:39.75 ID:brwS1LwW
べた褒めワロタ
568人間七七四年:2011/05/11(水) 19:41:16.68 ID:i/cJFJUp
>>566
> その元長の嫡男、三好千熊丸の命を助けるように懇願した木沢さんの懐は河内国の広さを感じさせる。

爆笑したwあんたそれ三好政長と対立してたから敵の敵である千熊丸を助けただけじゃないかw
569人間七七四年:2011/05/11(水) 20:20:07.92 ID:GXP4827M
読みづらい
570人間七七四年:2011/05/11(水) 20:21:01.45 ID:XSdc+v6L
>>568
わざと書いてるんだろ。なんたって河内の広さを対象にしてるんだから
しかし凝ろうとしたのはいいが文章として読み辛すぎるよ
571人間七七四年:2011/05/11(水) 20:28:00.18 ID:UT5FDcNb
前提知識無いと分かんないよね、キツイい方すると凝り過ぎて滑ってる。
572人間七七四年:2011/05/11(水) 22:33:34.96 ID:gmj0RpyU
お前らあんまりハードル上げないでん
573人間七七四年:2011/05/11(水) 22:40:19.81 ID:UT5FDcNb
いや、普通に書いてくれればいいんだってばw
574人間七七四年:2011/05/11(水) 22:56:15.57 ID:XSdc+v6L
あとは無理やりいい話にしたてあげなくても良いのでは、と思います
575人間七七四年:2011/05/12(木) 01:05:46.07 ID:R4jsuRax
別にいいんでないのん。俺は凝ってれば凝ってるだけ楽しいぞ
576人間七七四年:2011/05/12(木) 05:44:25.33 ID:XoHyENa9
家康が将軍職を秀忠に譲った頃のことである
城に仕える女中達が
「本当に浄度殿は意地の悪い嫌な御方ですね」と、賄い方の浄度房という者の陰口を言っているのを家康は耳にした
そこで、どうしたことかとその訳を一人の若い女中に聞いてみると
「はい。浄度房殿は浅漬けの香の物をそれは、それは塩辛く漬けるのです
あまりに辛いので、塩を少し控えめにして欲しいと度々お願いしたのですが、一向に聞き入れて下さらないのです」
女中が不服そうに言うのを聞いた家康は
「そんなことか。よしよし、儂からよく言ってやろう」と宥めてから浄度房を呼び寄せ、女中達の不満の声を聞かせた
すると、浄度房は御免とばかりに家康の側へにじり寄り、声を潜めて、こう答えた
「私はわざと塩辛く漬けておるのです。と申しますのは、今のように辛くしていても漬物に要する大根の数量はかなりのものです。
ですから、お女中達の口に合うような塩加減にいたしますれば、どれ程の大根の入り用が増すことか知れたものではありませぬ」
吝嗇と節約の区別をわきまえている家康は浄度房の言うことを聞くなり
「ふむ。なるほどのう。それならば、儂は女中達の不満を聞き忘れたことにしておく故、今後とも、そのようによろしくな」
と、にやりと笑って見せた
577人間七七四年:2011/05/12(木) 06:08:47.29 ID:wrxNpj+W
わざわざ上げて既出話を書き込んでんじゃねーよカス
578人間七七四年:2011/05/12(木) 06:34:01.30 ID:geoxrE33
ところでさ、大根と塩とどっちが高いんだろ。
漬物を自分家で作る人なら、普通に付けても塩が大量にいるのはわかると思う。
尚且つ、近代まで塩は天日塩しかなくてそれなりに高価。
そして大根はシーズンに一気に大量にできて、出荷しきれなくて畑で処分するぐらい。
田舎暮らしの実感としては大根より塩のほうがコストかかりそうなもんなのだが。
579人間七七四年:2011/05/12(木) 11:03:45.18 ID:esHe2DuO
流れてくる野菜屑をひろって漬物にして売って種ゼニつくったのはだれだっけ?
まぁ、なんかの小説だった気もするが…
580人間七七四年:2011/05/12(木) 11:08:24.86 ID:owo3IBLa
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-244.html
如水さんは単に余った野菜くずを漬物にしただけだから違うか
(倹約家のうちではどこでもやってそうだ)
581人間七七四年:2011/05/12(木) 19:57:58.58 ID:Nmc8KnPs
>>579
河村瑞賢にそんな話があったな。
582人間七七四年:2011/05/12(木) 20:33:43.62 ID:OPgONTOQ
紀伊国屋文左衛門と川村瑞賢の逸話だね
二人のうちどっちが元なのかは分からないし、そもそも話自体の信憑性も薄いらしいけど
583人間七七四年:2011/05/12(木) 20:38:42.81 ID:J542E44U
島田洋七のがばいばあちゃんも、流れてくるくず野菜おかずにしてたよ。
584人間七七四年:2011/05/12(木) 20:38:54.30 ID:FVDjRel5
川から流れてきた野菜……
がばいry
585人間七七四年:2011/05/12(木) 21:31:20.64 ID:Ebcw33N+
鶴ヶ城でやっている『歴代君主展』を見て来ました。
このスレ的には、
葦名→伊達→蒲生→加藤くらいまでが対象ですかね。
何とか、このスレに書けるような逸話が無いかなとか思って探して見たんですが、
無かったのが残念です。
それでも、加藤嘉明が使っていた長刀などが展示されてたり、
複製品とはいえ火縄銃を実際に持つことが出来たり面白かったです。

個人的には政宗の会津統治が1年くらいで終了しているのが残念だなと。
きっとアグレッシブな逸話を多く残していたんじゃないかなと思いますw

・・・会津取るまでに散々うわなにをするや(ry)
586人間七七四年:2011/05/12(木) 21:44:01.38 ID:GUiT12rZ
>>570
>>571
すいません、文体もっと勉強します(´・ω・)
確かに畿内好きにしか解らない記号と皮肉を入れすぎてマニアックで解りにくかったかも。
587人間七七四年:2011/05/12(木) 22:07:49.48 ID:7UYrz5qL
天正14年(1586)、島津の驚異にさらされた大友宗麟は、豊臣秀吉に援助を求めるため上洛する。

さて、大阪城にて宗麟は秀吉に閲する。ちょうどその時秀吉は、千利休に茶を立てさせていた。
秀吉は宗麟に声をかける

「宗麟も茶を好かれるのか?」

宗麟畏みつつ
「若き頃より良く嗜み、珍器と呼ばれる茶器もいささか所持しております。」

「ならば宗麟にも一服進ぜよう!」
と、秀吉は自ら茶を立て宗麟に与え、さらに宗麟の家臣4,5名も呼び入れ同じく茶を与えた。
この日、秀吉は大変なご機嫌で、

「宗麟、我が城の天守も見ていくが良い!」と宗麟以下を引き連れ天守の方に向かった。

ところでこの頃、大阪城の天守はまだ普請中であった。
普請小屋でこれを監督していたのは秀吉の弟、豊臣秀長であった。秀長は宗麟に

「このように天守は未だ建設中ですが、大友殿故に思わぬ見物をお許しになられたのでしょう。」

と言葉をかけた。

秀吉の大阪城は九層にして高くそびえ天に近く、最上階からは千里四方を眼下に収めることが出来、目を驚かす
壮観であった。
下から三層目は杉の箱が十四・五ばかり置かれ、それぞれに「小袖」「綾」「紅」といった書付がしてあった。
一階の下は倉庫になっており、様々な調度品が置かれていた。
五層目、六層目には大量の太刀が置いてあり、秀吉はこれを一々大友一行に見せた。

秀吉は天守の上で自ら指さし、「あそこはどこそこの国、あれは何々という在所である」と教えたのだそうだ。

さて、それから天守を降り広間にて茶となった。この時秀吉は「茶器はいくらでもあるから」と、宗麟の供の者たちも
皆召しだし目通りした。その上で「我らはもはや隔たりのない関係であるのだから、わしの寝所も見せよう!
供の者たちも苦しからず」と皆を連れて奥に入った。

秀吉の寝所には台(ベット)があり長さ七尺(約230センチ)ばかり、横四尺((約130センチ)ばかり、高さ一尺四五寸
(約50センチ)であった。猩々の皮を敷き枕には黄金で色々な彫り物があった。
御座は九間(約16メートル)の広さ。置いてある黒漆の具足箱の、金属部分は皆黄金であった。
その上に置かれた太刀も梨地を黄金で装飾されていた。

その次の間も6間(約10メート)の寝所であった。これも台は前のと同じであったが、唐織錦の夜着、蒲団といった物が
山のように積み上げられていた。

二間に秀吉の持つ名物の茶壷が置かれてあり、いずれも金襴の袋に入れられていた。ここで秀吉
「わしの秘蔵の壺を見せよ」と命じ、これに宗易(千利休)、今井宗薫、津田宗及、紹安(千道安)たち
仰せを承り、「四十石」「松花」「佐保姫」「撫子」「百島」という五つの壺を開いた。
この時今井宗久たちは「このように御機嫌の良い殿下は前代未聞ですぞ!」と驚いていた。
この他「京ニ双月」「近江ニ捨子」「淀ニ白雲」と言う茶壷も置かせた。何れも秀吉秘蔵の品であったが
「この中で第一は四十石であるが、特に宗麟に」と、これを下された。

さて、宗麟は御前を下がると豊臣秀長の元に挨拶をしに行った。秀長は変わらず普請場の假屋に居たが
宗麟を大いにもてなし、宗麟が帰ろうと座を立つとその手を取り

「どのような事ももはや安心してください。内々の事は宗易(利休)に、公儀の事はこの秀長にお任せなさい。
悪いようにはしませんよ。」

と、多くの人々がいる中を、手を取って送り出したという。

以上、大友宗麟が初めて登城した大阪城で体験したことである。
588人間七七四年:2011/05/12(木) 22:46:06.82 ID:jaEpEg3D
なんでわざわざ…
589人間七七四年:2011/05/12(木) 22:49:57.15 ID:Fwh2NcOF
だれか5行でまとめて欲しい。
590人間七七四年:2011/05/12(木) 22:50:56.59 ID:9HBsh92z
秀吉はベッド派か
591人間七七四年:2011/05/12(木) 22:54:31.54 ID:uTczXore
オチがないじゃないか!
592人間七七四年:2011/05/12(木) 23:10:18.06 ID:XnlbmfBO
ラスボスの機嫌がいい話としてここはひとつ
593人間七七四年:2011/05/12(木) 23:19:20.05 ID:ZA1MLgvz
>>590
やってる最中にギシギシ鳴るのが好きだったとかwww
594人間七七四年:2011/05/12(木) 23:39:38.21 ID:l2SUiZPY
ラスボスの機嫌が良かったのは何でなんだろう
595人間七七四年:2011/05/12(木) 23:48:31.30 ID:MDg7s6T8
>>589
成金(秀吉)が
新築の豪邸(大阪城)を
田舎から来た人(宗麟)に
案内して自慢しまくり
御機嫌至極
596人間七七四年:2011/05/12(木) 23:56:57.64 ID:YvTYODt7
まとめに長篠での鳥居強右衛門の話がないのはどうしてだろう?
甲府での本多百助とかの話もない

あまり有名すぎる話は敬遠されるのかなあ?
まあ自分で書けばいいのかも知れないけど、文才ないし…
597人間七七四年:2011/05/13(金) 00:02:01.50 ID:MPbxxeZC
本多山県「……。」
598人間七七四年:2011/05/13(金) 00:03:01.30 ID:n5yOdpWX
まぁ遠隔地の当主に対してその威勢の強さを示し、
いざ遠征となった時に急場での内応を防ぐ、
情報工作の意味が有ったんだろうけど、
それでも些かやりすぎな感がしなくも無い。
599人間七七四年:2011/05/13(金) 00:17:44.92 ID:pgk165ou
徳川家康、勝頼に怒る・悪い話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-657.html
徳川家康、鳥居強右衛門の磔に
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5014.html
家康が磔に怒った話はなぜか二つもあるのに、
鳥居の話はないのか
みんなもうあるだろうと思っているのか、やはり有名すぎるから敬遠しているからなのか
600人間七七四年:2011/05/13(金) 00:22:34.84 ID:i6knMWx9
587は大友宗麟が自慢話にうんざりした悪い話では?
601人間七七四年:2011/05/13(金) 00:23:57.88 ID:yRmaATV9
まとめブログで紹介されてこのスレが伸び出した頃は、有名所は避けようって雰囲気があった気がする
他のスレで散々語りつくされてたりするしね
602人間七七四年:2011/05/13(金) 00:35:44.59 ID:CbBJ8N9O
有名所もどんとこいだけど、
有名所を紹介するなら、大まかな流れではなくて
細かいところまでフォローして欲しいかなとも思う
603人間七七四年:2011/05/13(金) 06:39:50.62 ID:9WgdFDF9
でもさ、有名な話を厨な奴が「俺、こんな事を知ってるんだぜ、へへん」
な感じで長々と書き込んでる姿は滑稽だよね
604人間七七四年:2011/05/13(金) 07:22:05.67 ID:fUDMgfz3
メジャーどころをやるんなら出典明記で初出がいつ頃だったかとか分かるようにしてもらえると有難いな。
メジャーどころは大抵江戸時代の逸話集とかが初出だし。

マイナーどころは地方の伝承とかが出典なことが多いから、どこから出てきた話しかよくわからないことが多いよね。
605人間七七四年:2011/05/13(金) 07:23:56.87 ID:V6VEQzNH
どんな逸話にしろ出典を書いてもらえるとすごく助かる
606人間七七四年:2011/05/13(金) 08:02:27.82 ID:P8uFKn5x
エピソードとしては知ってたけどこれに載ってたんだって驚くこともあるしね
それに出典は司馬遼太郎ですが何か?みたいなのも減るだろうし
607人間七七四年:2011/05/13(金) 08:25:19.15 ID:yCXPF2F7
出典がわかったからってその文献を直接読む人がどれだけいるんだか
学者ぶりたいのもほどほどに
608人間七七四年:2011/05/13(金) 08:31:30.59 ID:qHEvGHxL
ここの話で知ったかぶりして突っ込まれたときのためにネタ元知っておきたいだけだろ
609人間七七四年:2011/05/13(金) 08:31:45.00 ID:tHKwFeat
人に要求するぐらいなら自分で調べろとは思う
対価を支払ってるわけじゃないんだから有る程度は投稿者の勝手
610人間七七四年:2011/05/13(金) 08:56:11.18 ID:CbBJ8N9O
出典載せない奴は書くな
とか言ってんなら、嫌なら見るなと思うけど、
できれば出典載せてほしいなって言うぐらいはいいんでないの

後、出典調べる手間って相当なものになるけど、
投稿者が出典書くのは簡単なんだから(元ネタまでたどる必要はないわけで)、
自分で調べろはナンセンスじゃない?
611人間七七四年:2011/05/13(金) 09:19:39.61 ID:tHKwFeat
対価を払ってるわけでもない匿名の人間に何か求める事自体ナンセンスで恥知らずだわ
出典書きたい奴は書くし書かない奴は書かない
どちらにしてもネットの情報なんて全て話半分程度の信憑性なんだから
まともに知りたければ多大な労力を書けて自分で調べるしかない
612人間七七四年:2011/05/13(金) 10:14:09.60 ID:8prkJpA8
ここは逸話を書いたり読んだりして楽しむスレということでよいのでは。
考証を持ち出してくると堅苦しいじゃないか。

ただ俺も不必要なキャラ付けや明らかな捏造は嫌いだ。
出典も小説からこんな話があったと書き込んだ人が
プッ、とか笑われるのを見て気の毒になったし。

という風に意見も人それぞれなんだし。
613人間七七四年:2011/05/13(金) 10:55:24.88 ID:N2qESnAZ
>>611
出典が無いと仮に人から聞かれたときに
『インターネットで知りました』になる、これは恥ずかしいぞ
『インターネットの2chで戦国武将の逸話を纏めたサイトで知りました』もっと恥ずかしい

そんな事言う奴も聞く奴もいねーよ、と思うかどうかはあんた次第だが
歴史好きが知識自慢をする事は珍しくない事ぐらい解るだろw
寧ろそういった集りの場では多いんじゃないか?
間違った知識を爺が誇らしげに喋ってるのは聞いた事がある奴はいるだろう?
俺はそうはなりたくないから解る範囲であれば出典を明記して欲しいけどね。
614人間七七四年:2011/05/13(金) 11:23:49.54 ID:cmlayXRW
>>613
気になった逸話に失礼にならない程度に質問するくらいならいいんじゃないかな
と、思ってる
原典を読みたいという知的欲求がわくのは当然だし
総当たりはいかにも大変だからね

けど613個人に関しては
「わかんねーなら黙って図書館通えよ、お前の虚栄心のためにもの書いてんじゃねーぞ」
って思った
615人間七七四年:2011/05/13(金) 11:35:06.34 ID:cmlayXRW
>>613
ああいや、言いすぎたわ
なんていうか、知識が豊富な人間としてふるまいたいんだったら
自分なりに考えて、これを読んで興味が出たから次はこれって感じに本を読んで
その過程でいろいろ知って行った方がいいよ
一般向けの書籍なら大抵後ろの方に参考にした本の名前書いてあると思うし
その上で出典がわからない逸話があるなら「今はまだ語る時じゃない」と思ってるくらいの方がいいよ
単なる話のタネにするくらいならともかく、原典まで把握して知識として身につけたいならさ
616人間七七四年:2011/05/13(金) 13:30:30.96 ID:JO1lxJ8t
前にもこんな話あったけど長くなるしここらへんで終わらないか?

出典つけるのは別に必要でも何でもない、書く人の自由
でも出来れば付けてほしいなと思う人はいる(理由は様々)
出典つけない話は実在を信用されなくても文句は言えない

こんな所じゃないか
617人間七七四年:2011/05/13(金) 19:46:02.10 ID:0zxI9YH3
>>596
夏目吉信のいい話だが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2145.html

の話が投下された時に、
「あの有名な三方ヶ原での身代わりの話が出てないから、読みたい!」
ってクレクレしたら、親切な人が投下してくれたよ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2151.html


だいたいの逸話は、ざっくりとした流れしか分からないし、
出典もほとんど知らないから逸話は書けないけど、
読みたいと言えば、誰かが書いてくれるかもね……っていう他力本願w

ま、このスレではある程度メジャーなのは出つくした感があるし、
あまりに有名だと既出だと思ってわざわざ書かないのかもね。
618人間七七四年:2011/05/13(金) 21:35:29.12 ID:xQWM9XL3
伊達政宗と片倉重長の話はいろいろと出ているが、肝心なヤツが出てないんだよな…
これも有名な話だからかなあ
619人間七七四年:2011/05/14(土) 00:08:14.11 ID:zYtXfvbi
これは、という逸話を見つけたら、投下するぞと意気込み、
読みやすく伝わりやすく、共感してもらえるように、うけるように、
拍手たくさんもらえるように考えて文章を作るのが、このスレの醍醐味。
で、リアクションに一喜一憂、と。
でも出典明記したことなかったなあ(面倒なので)。
これからは書いといた方がいいのかな。
620人間七七四年:2011/05/14(土) 01:28:20.26 ID:uVlb+ghc
まぁちょっと書いておいてくれたりすると探してみようかという意欲も出るのでお願いしたいなぁ、という願望はある
もちろん書かなくてもなんら問題はない
どうしても出展にこだわる人には検証スレもあるんだし、結局面白い逸話が読めればどうでもいい
621人間七七四年:2011/05/14(土) 01:39:13.20 ID:LUcnQtGM
出典があると何がいいかって、逸話検証が必要なくなることが一番いい。
622人間七七四年:2011/05/14(土) 07:50:00.95 ID:dkS59Pwi
じゃあ適当に出典を付け足しておくとするか
623人間七七四年:2011/05/14(土) 08:32:25.24 ID:bnQ6beE0
出典不明な逸話の出典は全て民明書房でいいよ
624人間七七四年:2011/05/14(土) 08:43:22.62 ID:Oxlngexe
民間伝承とか、地方に伝わる逸話なんかは、そういう風に明記すると良いのかしら
625人間七七四年:2011/05/14(土) 10:11:49.57 ID:+C5f9U9D
こうして誰もいなくなった
626人間七七四年:2011/05/14(土) 12:26:55.35 ID:hRydXmnV
大崎玄蕃が分別について語った話って投下されたことあったっけ?
627人間七七四年:2011/05/14(土) 12:52:04.41 ID:Xw8aoi88
どっちに書き込んでいいかわからなかったんでコチラに。

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5179.html
の企画展に行ってきました
ロビーに天庵さんの肖像画のパズルが置いてあったので、完成させて受付に持って行ったら
肖像画のポストカードをもらったのですが、その時に学芸員さんと話をしたところ
土浦では小田氏治さんは「てんなんさん」と呼ばれているらしいのです
(自分が「てんあんさま」と言ったら学芸員さんに「てんなんさん」なんですよー、と言われた)

ちょっと新事実かなーと思ったのでカキコさせていただきました
628人間七七四年:2011/05/14(土) 17:35:30.82 ID:v2+QIi+5


文亀三年、近江国音羽城が管領細川政元の家臣沢倉某に包囲された。沢倉は城の水の手を切り、乾き攻めを行った。
そして籠城が長引くにつれ、音羽城に水がなくなり始めた。そこで音羽城主蒲生貞秀は一計を案じた。
このパターンに覚えがある人もいるだろうが、そう敵から見える位置に馬を並べ、桶に白米を入れ、それで馬を洗う振りをさせたのである。
この作戦は軒並み失敗する事でこのスレでは有名だが、なんとこの時には見事成功した。
城に水が豊富にあると勘違いした沢倉は囲みを解いて兵を退かせた。そこを貞秀が打って出て、勝利を収めたのである。

一応出展は常山紀談だから信憑性はアレだけどやたら逸話に出てくるこの作戦が成功してる珍しい話
629人間七七四年:2011/05/14(土) 18:40:45.60 ID:29EnhITp
元ネタはどれなのかちょっと気になるよな
630人間七七四年:2011/05/14(土) 19:40:30.48 ID:uK4nXgwp
>>629
おそらく中国の演技ものとか軍記からだと思うけど…
631人間七七四年:2011/05/15(日) 08:59:40.89 ID:kSgp9Mlq
>>627
て・・・てんねんさん?
632人間七七四年:2011/05/15(日) 10:11:12.41 ID:mI4URhjt
うーむ、オレの中ではすっかり小田天然さんになってしまった
633人間七七四年:2011/05/15(日) 14:30:47.97 ID:wLQO66vA
天難さん……。
634人間七七四年:2011/05/15(日) 14:53:48.81 ID:vAGggpRG
てんにゃんにゃん
635人間七七四年:2011/05/15(日) 17:56:35.26 ID:O6fD5bGZ
難点さん。。。
636人間七七四年:2011/05/15(日) 17:58:17.46 ID:lFMq/7WQ
誰一人ポジティブな方向に改変しないあたりさすが天庵様といったところか
637人間七七四年:2011/05/15(日) 18:19:58.54 ID:Hk12Y9QX
大崎玄蕃の分別

福島正則の重臣で備後鞆城の城代を務める大崎玄蕃という人がいた。
「鬼玄蕃」と呼ばれる世に聞こえた勇士である。

正則が罪を蒙ったときに、大崎玄蕃組下の松田下総守は自分ひとりで鞆城を守り討死して名を揚げようと思い、
「幕府の上使は十万の人数で、三原・東条の城主もみな広島に退いたと承っている。我々も広島に引き取りましょう」
と玄蕃に進言すると、
「この城は主君よりお預けの城であるから、主君の御意がなければ引き上げることはできない」
と答えて広島に引き上げなかった。

いざ幕府の上使がくるとなると松田は駆け回り篭城の用意をする。
玄蕃は日頃に違い、甲冑を取り出すばかりで打ち眠り静かに座っているだけであった。
みなこれを見て興を醒まし、
「玄蕃は年来の大剛の心も忘れ果て臆病になったことよ」
と嘲り笑った。

すると、玄蕃は、
「松田は気力が強いので篭城の用意をしている。我等には分別があるゆえ構わないのだ」
と答え、皆がその分別とはと問うと、
「幕府を敵にして天下の軍勢を引き受ければ如何に篭城しても、利を得ることは出来ない。
 無用の篭城をして罪無き人々を殺すよりも、敵の上使がきたときに城より罷りでて大崎玄蕃と申すものにて候。
 我等一人切腹致すので士卒男女は残らず御助命賜りたまえと申して、腹かっさばく分別である。
 腹ひとつ切るために篭城の用意は不要である」
松田をはじめ、これを聞いた者は皆感じ入った。
638人間七七四年:2011/05/15(日) 20:46:39.91 ID:N6eM/+nA
>>636
天楠さん、つまり大楠公を上回る英雄のことであるよ…
639人間七七四年:2011/05/15(日) 21:21:27.11 ID:m7f+I3eh
あぁん?小田城ひとつ守り切れいのに籠城のプロ以上の器だって?
640人間七七四年:2011/05/15(日) 21:34:31.55 ID:hn1psn31
人望とか
641人間七七四年:2011/05/15(日) 21:34:52.81 ID:I8bHC0Ro
命を守るのはプロ
642人間七七四年:2011/05/15(日) 21:36:25.12 ID:t9HNTIkM
七生報国と言って自殺した人はプロじゃないって?
643人間七七四年:2011/05/15(日) 23:20:19.45 ID:8y13wA7k
そんなにおだてんなんよう
644人間七七四年:2011/05/16(月) 00:08:45.16 ID:CES5O28m
山田くん、座布団持っていって!
645人間七七四年:2011/05/16(月) 20:11:37.66 ID:+kbhffK8
鹿「我に天難辛苦を与えたまえ」
646人間七七四年:2011/05/16(月) 20:15:56.58 ID:tK+5Qme5
いや、あんた含めて尼子十勇士じたいダジャレばっかしだし
(山中鹿之助、秋宅庵之助、横道兵庫之助、寺元生死之助、皐月早苗之助、
早川鮎之助、大谷古猪之助、高橋渡之助、藪中茨之助、荒波碇之助
尤道理助、植田稲葉助、川岸柳之介、井筒女之介、阿波鳴戸之介、破骨障子之介)
647人間七七四年:2011/05/16(月) 20:21:03.75 ID:+kbhffK8
>秋宅庵之助
>横道兵庫之助
>尤道理助
このへん、何となく笑いどころが分からぬ……。
648人間七七四年:2011/05/16(月) 21:04:42.52 ID:wup5feEy
秋宅と横道は実在の人だから、ネタになってなくても仕方ない。
尤さんは「もっとも どうりのすけ」で「もっとも」と「どうり」で同じような意味の言葉でかけてる。
649人間七七四年:2011/05/16(月) 21:12:22.46 ID:jetH0+uf
鹿之助のライバルに狼之介
650人間七七四年:2011/05/16(月) 21:48:49.76 ID:57I/M++b
奈佐日本之助と那波無理之助も仲間に入れてやって
651人間七七四年:2011/05/17(火) 01:21:54.11 ID:rhx5STTj
上の三人の逸話を狼之介も出てくる「雲陽軍実記」で読んでみたら

横道兵庫介:深手を負って休んでいたら、毛利に降伏した姪の婿が中井善左衛門がやってきた
「中井殿、深手を負ってしまった」というまもなく首を取られた
秋山伊織介:毛利に攻められている多久和城を救援に行ったが、こっちは500人
毛利は2万人ってことで、自軍の砦を焼いて逃げ帰った
案の定、多久和城は落とされて
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
と狂歌を詠まれる
他の「雲陽軍実記」ではこれに尤道理介も参加していて
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」と詠まれたとか

十勇士っていったい
652人間七七四年:2011/05/17(火) 01:27:48.92 ID:rhx5STTj
寝ぼけて書いたら、われながらずいぶん文章がひどいな
「姪の婿の中井善左衛門」
「というまもなく」→「と言っているうちに」
653人間七七四年:2011/05/17(火) 09:25:07.66 ID:WkSSv4C/
>>651
勇士は勇敢ではあるけど有能とは限らないんだから仕方ない
654人間七七四年:2011/05/17(火) 13:33:55.51 ID:Fmeo+HYw
どうでもいいが雲陽軍実記って変な名前だな
出雲なのに陽が入っちゃってる
655人間七七四年:2011/05/17(火) 17:24:45.01 ID:q98u+UVO
そういや、雲陽軍実記読んでたら
「韓信が鬼謀を施し、是は孔明が妙算を尽し、王陵、趙雲が槍術、関羽張飛が戟の争い・・・」
とかいう箇所が
一応尼子滅亡ころに書かれたってことになっているが、
すでに日本でも孔明、関羽、張飛、趙雲は三国志演義のイメージが定着していたのだろうか
656人間七七四年:2011/05/17(火) 17:28:58.30 ID:XTcO81Du
一地方政権建てただけで終わった連中にあてはめるって褒めているのか「多少は見所あるが器の限界は知れている」という意図なのかわかんねw
657人間七七四年:2011/05/17(火) 18:16:07.24 ID:CqvGjSix
>>654
どうやら旧国名の雅称に陽をつける通例があったみたいだね(例:常陽、芸陽、肥陽、豊陽、薩陽など)
「明るい国」みたいなニュアンスだろうか?

偶然だろうけど毛利の「陰」徳太平記と対になってるようにも見えて面白い
658人間七七四年:2011/05/17(火) 18:24:05.95 ID:5Jiq2Gcf
演義の刊行が1522年だから元になったのは正史のほうじゃないかな。
659人間七七四年:2011/05/17(火) 18:29:13.79 ID:ofM7pPw0
>657
陽は日当たりがいいという意味で南部を指し、
陰はその逆で北部を指してるだけ。雅称じゃなくて
大昔からの用法。
660人間七七四年:2011/05/17(火) 18:47:04.85 ID:CqvGjSix
>>659
じゃあ雲陽ってのは出雲南部のことかい?
661人間七七四年:2011/05/17(火) 18:55:00.88 ID:CqvGjSix
ちなみに南国でもない出羽や信濃でも羽陽、信陽などが(南部に限らない)地誌名に見られるし、
やっぱり雅称的な使われ方だったんじゃないのかなあ、と思ったのよ
662人間七七四年:2011/05/17(火) 18:59:45.35 ID:SjxQU2JR
それは出羽信濃が南にあるって意じゃなく、出羽信濃の南部ってことでは
663人間七七四年:2011/05/17(火) 19:07:20.42 ID:CqvGjSix
>>662
信陽雑誌の記事は信濃南部に限らないし
羽陽仙北伝記にあっては出羽でも北の方の仙北地方を取り上げてる
664人間七七四年:2011/05/17(火) 19:07:24.07 ID:XTcO81Du
もしかして北斗神拳が陰なら南斗聖拳は陽っていうのの元ネタそこかw
665人間七七四年:2011/05/17(火) 19:10:07.71 ID:rSDDOnBp
>>664
もちっと中国の古典について学んで来い
名前に阿つけて呼ぶぞ?
666人間七七四年:2011/05/17(火) 19:39:13.18 ID:Zhh0j8nQ
うろだけど川との位置関係とか関係するんじゃなかったっけ?
洛水と洛陽みたく
667人間七七四年:2011/05/17(火) 19:43:33.27 ID:EveSCzns
風水とか?
668人間七七四年:2011/05/17(火) 19:54:19.84 ID:CqvGjSix
>>666
659が書いてる様に明るい南側を陽、影になる北側を陰とするのは山を基点にした場合。
河を基点にすると逆に北岸が陽、南岸が陰になるのが古代中国の命名法。
669人間七七四年:2011/05/17(火) 19:57:44.92 ID:q98u+UVO
つまり韓信の出生地の淮陰は淮河の南ということか
670人間七七四年:2011/05/17(火) 20:04:37.54 ID:cBN2RWhC
wikiで山陽道って調べてみたら

古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。
そして山稜の南斜面を影面(かげとも)、北斜面を背面(そとも)と呼び、
ともに日縦である山陽道を影面の道と、山陰道を背面の道とも呼ぶようになったとされる。

ってあるから山が基点っぽいね。
671人間七七四年:2011/05/17(火) 20:36:35.69 ID:C8xJ9qEo
>>665
2ちゃんのスレ読むのにわざわざ学んでなんかこないって
学術的な話がしたいなら他に行ったほうがいいよ
672人間七七四年:2011/05/17(火) 21:20:26.47 ID:SjxQU2JR
俺はこういうちょっとした学術話は聞いてて楽しいんだが
673人間七七四年:2011/05/17(火) 21:26:34.28 ID:C8xJ9qEo
>>672
学術的な話を書き込むのと、学術的じゃないとバカにするのは違うのです。
674人間七七四年:2011/05/17(火) 21:37:16.91 ID:SjxQU2JR
ちょっと落ち着けよw
あんな軽い煽りでいちいち腹立てる位なら、それこそ2ちゃん向きじゃないと思うぞ
675人間七七四年:2011/05/17(火) 22:06:46.97 ID:mET1tS0N
まとめだと信長の高野聖切りの理由が「敵対者をかくまったことへの報復」じゃなくて「横暴を働いた家臣が殺された逆切れ」になってるんだな。
こういうのは面白けりゃあ(ry)的に選択されるのかね?
676人間七七四年:2011/05/17(火) 23:18:28.62 ID:drHsQt0E
あのまとめは何でも収録する
完全な架空部将まで載ってる
677人間七七四年:2011/05/18(水) 01:48:18.61 ID:diKreGF9
宇喜多直家公は実はそんなに悪い人じゃなくて、腐れ外道だったのは浦上の殿様だったらしいよ
678人間七七四年:2011/05/18(水) 01:58:32.56 ID:4H1/87kT
浦上宗景と細川晴元って似てるよね
679人間七七四年:2011/05/18(水) 03:00:13.94 ID:42HLPbGw
元々は既に上の方が書かれたように山や川を起点に日の当る方という意味だけど
洛陽(洛水の北岸)にちなんで、本来の用法とは別に『○陽』(信陽、甲陽…)と呼ぶ用法があった。
680人間七七四年:2011/05/19(木) 10:08:48.64 ID:YS/0yVlv
>>677
まぁ宗景は実際やってることかなりえげつないしそれを上手くまとめかかったあたりかなりの策謀家だとは思うけどね
681人間七七四年:2011/05/19(木) 11:32:25.09 ID:WpXvErRg
永禄7年(1564)7月の末、尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興が戦い、
龍興が敗北した。
また同年8月10日にも両者は戦い、この時は斉藤勢が大敗北をした。
しかし龍興は決して、信長に降伏しようとはしなかった。

さて、この事を知った近江の浅井長政は、赤尾という家臣にこんな言葉を漏らした。

「斎藤龍興という人は誠に、今の世の義士である。

将来、我々の武威が盛んになれば必ずこの人を幕下に加えよう。
もしまた我々の武威が衰えて他の勢力に付かねばならぬ時が来たら、
必ずこの人を頼ろう。

ああ、今後の世の中に義士が現れるとは私には思えない。
ただ裕福な商人の友を作ってこれを縁とし、それにへつらうような士や将ばかり多い
世の中ではないか。」

浅井長政による、斎藤龍興評である。
(浅井日記)
682人間七七四年:2011/05/19(木) 12:54:24.20 ID:FPEAlSY0
負けっぱなしの人の下に付いたり、家臣にしようとしたりする
意味が解らんが…
気概だけは立派なり!ってことなん?
683人間七七四年:2011/05/19(木) 13:31:56.12 ID:EktnG6Iv
六角に屈した事とかもあると思う
684人間七七四年:2011/05/19(木) 14:38:53.63 ID:5OyY7kHY
浅井長政が天庵さまと出会ったとしたら、もはや何が興るか想像できない
685人間七七四年:2011/05/19(木) 18:45:04.49 ID:FCmIQRs1
天庵さまって別に義士じゃないよな。奇怪な徳はあるけど
686人間七七四年:2011/05/19(木) 19:20:01.94 ID:vLE0dyFo
龍興もどの辺が義士なんだ…
信長=(当時の長政にとって)悪 に一貫して反抗してるから?
それ以外では暗君エピソードくらいしか知らなかったのでwikipe見たら
長政の甥か従兄弟に当たるんだな
キリスト教に接近したからかもしれんが、宣教師からの評価も高い
687人間七七四年:2011/05/19(木) 19:22:11.67 ID:Hbqph87K
宣教師の武将評価ほど信用ならないものはない
688人間七七四年:2011/05/19(木) 20:02:44.33 ID:yGWwilAu
宣教師の記録を信じるなら、あの一条兼定はスーパー聖人君主なのである。
689人間七七四年:2011/05/19(木) 20:13:08.36 ID:stFhYcRd
聖人が悪人の策謀に勝てるわけもなく
690人間七七四年:2011/05/19(木) 20:27:07.36 ID:M28elnrz
>>685
義士は菅谷さんと小田領民の皆さんだな。
691人間七七四年:2011/05/19(木) 20:43:27.19 ID:q0LMY/Jh
宣教師が入れ込んだ大名が悉く衰退したのは策謀に劣る聖人だったからかw
692人間七七四年:2011/05/19(木) 22:19:55.89 ID:APCW+l9I
織田秀信とか前田玄以の息子(パウロ、長男のほう?)も宣教師からは高く評価されていた
693人間七七四年:2011/05/19(木) 22:25:39.57 ID:RJMZT/VL
竜造寺「カエサルとか言われて調子こいてたら釣られたクマー」
694人間七七四年:2011/05/20(金) 00:11:05.15 ID:Qf1zijUm
葉隠から

山本常朝は語る。
江戸の鉄牛和尚に山本五郎左衛門が面会して、
仏道について教えていただきたいと言うと、鉄牛は、
「仏法は、ただ分別心を取り除くだけのことで、ほかになに事もない。
侍の身の上にたとえていうと、憶という字は立心扁に意と書く。
この意がすなわち分別心である。
本心に分別心がつくと臆病者となる。
武士道に分別心などが生じて、武勇の働きができようか。
これでだいたいお分かりになるだろう」
と言ったそうである
695人間七七四年:2011/05/20(金) 08:44:48.08 ID:iZgTgH4p
よくわかりません
696人間七七四年:2011/05/20(金) 08:59:48.35 ID:9DGuX/Wf
多少無茶苦茶の人の方がいいってことですかね
鬼武蔵とか
697人間七七四年:2011/05/20(金) 09:26:37.54 ID:vWWGfIvE
まあ仏教ありきで武士がいたわけじゃなくて
当時の武士社会において仏教が存在してたわけだから、
その時代に迎合してたってことだよな。

宗教なんていつの時代もそんなもんだ。
698人間七七四年:2011/05/20(金) 09:32:07.03 ID:3NRTOual
分別ってのは俗世間の常識に合わせて妥協するって事でもある
それを切り離して確固たる自分の信念、悟りを開いて邁進するって事かね
槍働きで語っちゃうのがアレだが
699人間七七四年:2011/05/20(金) 09:53:29.63 ID:Qf1zijUm
無分別の分別が葉隠の言いたいことの一つだからな。
八幡大菩薩信仰、剣禅一如と、
武士の道は仏の道に近いところが多いにあるね。

無差別、無分別になったところからの分別が、
各人それぞれの本来面目ってことなんだと思う
700人間七七四年:2011/05/20(金) 09:59:24.48 ID:Qf1zijUm
人間50年〜で有名な熊谷直実の出家が代表的な無分別の分別かと。
過去とか職業とかそっちのけで自分の心に従ってるし
701人間七七四年:2011/05/20(金) 11:57:01.81 ID:vWWGfIvE
我思う、故に我在り
702人間七七四年:2011/05/20(金) 13:56:26.81 ID:6I0lJnei
増田長盛が、「マスダ」じゃなくて「マシタ」って読むことって誰かの「真下」っていう書き間違えで分かったらしいけど、そのことについて詳しく知ってる人いる?
703人間七七四年:2011/05/20(金) 14:01:21.65 ID:8U/i0QA3
704人間七七四年:2011/05/20(金) 14:32:31.77 ID:Zs1+17IY
よくそんなマイナーな質問見つけ出したな
質問があるたびに毎回検索してるか?あおりじゃなく素朴にびっくりしたから
705人間七七四年:2011/05/20(金) 14:32:35.42 ID:Qf1zijUm
天上天下唯我独尊(釈迦)
我思うゆえに我あり(デカルト)
無知の知(ソクラテス)
莫妄想(無業和尚&鎌倉武士)
主はあなたと共にある(キリスト)
仁者無敵(孟子)
心即理(王陽明)
無分別の分別(葉隠)

指してるとこは一緒なのかもな
オレは悟り開いてないからわからないけどw
706人間七七四年:2011/05/20(金) 14:49:34.06 ID:xi7NsWIk
>>704
ageっぷりとスレからの浮きっぷりで
まず検索するかどうかは判断できる、と思う
僕なら普通にスルーしますけど
707人間七七四年:2011/05/20(金) 15:14:45.77 ID:c7CCic90
>>700
直実は何もかも嫌になって遁世しただけで、そういうのは無分別の分別とはいわないんじゃないかな
708人間七七四年:2011/05/20(金) 15:36:22.15 ID:Qf1zijUm
>>707
平敦盛を討ったことに何かを感じて、
それを追い求めたんだから無分別の分別だとオレは思う。
普通なら、武士としての行いだから〜、生きるためには仕方がない〜、頼朝公がぁ〜
って本音と建前の分別心で理屈つけちゃうよ
709人間七七四年:2011/05/20(金) 15:52:17.10 ID:T+5uMFvV
>>708
> 平敦盛を討ったことに何かを感じて

吾妻鏡だと熊谷直実の出家に敦盛は関係なくて、久下直光との所領争いの裁判で頼朝の御前での
口頭弁論で上手く話すことが出来ず、さらに逆ギレして梶原景時が紛争相手の久下に
加担していると叫んで出奔→出家
710人間七七四年:2011/05/20(金) 17:10:21.68 ID:QXCjw2B9
お師匠さまのご親筆のご名号欲しさに
兄弟子から強奪して、お師匠さまから
「新しいの書いてあげるから、奪ったの返してあげなさい」って
お手紙もらった熊谷直実がなんだって?
711人間七七四年:2011/05/20(金) 18:53:59.62 ID:c7CCic90
子供かよwww
712人間七七四年:2011/05/20(金) 18:59:38.09 ID:Qf1zijUm
鎌倉のジャイアンだねw
しかし情けない先輩坊主だな。
なんのための仏道修行だ
713人間七七四年:2011/05/20(金) 19:11:20.14 ID:QXCjw2B9
>>情けない先輩坊主
源智上人・・・総本山知恩院初代住持
714人間七七四年:2011/05/20(金) 19:32:53.62 ID:Qf1zijUm
>>713
仏道の教え、地位があっても、いとも簡単に腕力に屈するのか?
それともこういう経験を含め修行の後に開山となったのか?
が重要だと思う。

地位と名前だけ出してもアレじゃね?
715人間七七四年:2011/05/20(金) 19:45:18.71 ID:QXCjw2B9
いや、そういう先輩にたいして
横暴な振舞いを仕出かした蓮生房こと直実に
なにか言ってやって欲しいw
716人間七七四年:2011/05/20(金) 20:12:53.43 ID:Qf1zijUm
>>715
直実のやったことが正しいとはオレは言ってないよw
でも、そういう行いを注意するのが先輩の役目だろ?
直実相手に注意出来る人間が少ないのもわかるが、
そこは生死を説く仏門だから期待しちゃうよ
717人間七七四年:2011/05/20(金) 20:18:02.82 ID:xi7NsWIk
あれ、強奪って
木下延俊「ほほう、これがあの……すいません義兄の命令なんです!」ダッ
津田秀政「ちょwどwろwぼwうwwww」
みたいなあれじゃないの?
↑が頭にあったせいで、胆力とかでどうにかできる強奪方法だと思わなかった
718人間七七四年:2011/05/20(金) 20:42:17.12 ID:QXCjw2B9
>>716
大原問答で「師の法然上人が論議にもし敗れたならば法敵を討たん。」って
お師匠を困らせたお人ですよ。

お師匠の法然さんの言うことしか聞きませんよw
カリスマの存在(ここでは法然)って、困ると思うよ。
719人間七七四年:2011/05/20(金) 20:52:48.23 ID:T+5uMFvV
>>716
つーか「熊谷横取りの名号」は、正面から強奪したのではなく寺に置いてあったものを
密かに奪いとったらしいので、盗難といったほうがいい話だぞ?

で、それ自体は当時は、法然が存命だったこともあって大事件でも何でもなく、
子供のいたずらのような話で、蓮生もそういう意識で報告しているし、法然も
そういう児戯のような行動を嗜めるという形で注意しているわけだ。
ちょっと君はこの件の認識を間違えてると思うよ?
720人間七七四年:2011/05/20(金) 21:19:40.64 ID:c7CCic90
頼朝の朝廷に出仕した御家人に対する怒り方といい、宗盛の仲綱の話といい
鎌倉時代の武士ってなんか可愛いんだよなw子供のまま大人になった感じだ
721人間七七四年:2011/05/20(金) 23:37:51.26 ID:jdzAYfXR
その分東国武士ってえげつないエピソードにも事欠かないんだけどね。
越中前司盛俊の最期とかな。しかも猪俣の振る舞いは卑怯とされないあたり、
当時の価値観の一片が現れてると思う
722人間七七四年:2011/05/21(土) 00:11:58.91 ID:PfI0zj/A
散々戦場で血を流した者が出家したくなりゃ即出家するし、
生まれ変わってでも憎い敵を討ちたいし、
ある意味純粋だ。
現代的な公共の道徳観念はあまり感じられないな。
この時代に儒学、仏教に大きな価値があったのもうなずける。
羨ましいような、恐ろしいようなw
現代も十分に恐ろしいとは思うけど
723人間七七四年:2011/05/21(土) 00:14:15.60 ID:2BLOpuf/
機内から来た連中以外は農民に毛が生えたのとか、土豪ばっかじゃあねえ
724人間七七四年:2011/05/21(土) 00:24:32.70 ID:nrr7E295
この頃の関東ってリアル北斗の拳状態に近かったのか・・・・?
725人間七七四年:2011/05/21(土) 00:34:05.41 ID:PfI0zj/A
そういう集団に一定の秩序を持たせるんだからやっぱ偉大だよな。
頼朝さん、尊氏さん、家康さん。
あと法然さんも。
隆盛さんは明治新政府の人間たちに嫌気がさしちゃったみたいだけど
726人間七七四年:2011/05/21(土) 00:47:45.14 ID:sh/tXUV1
そういえば、南北朝期にも親王の館に火をつけたり牛車に矢を射たバカがいたっけか
南北朝はDQNの宝庫だぜ・・・
727人間七七四年:2011/05/21(土) 00:52:05.30 ID:2ry+vqhJ
>>726
しかもそいつら幕府の中枢なんだぜ・・・
728人間七七四年:2011/05/21(土) 00:54:30.62 ID:YYnuN2jT
BASARAの話はするなとあれほど
ところで、佐々木導誉と土岐頼遠とどっちのこと?
729人間七七四年:2011/05/21(土) 00:56:47.98 ID:V2SMIybd
どっちってどういう意味?火つけ=道誉、矢を射た=土岐だよね?
730人間七七四年:2011/05/21(土) 01:04:50.09 ID:2ry+vqhJ
「天皇とか木像でいいんじゃね?」の高師直もお忘れなく
731人間七七四年:2011/05/21(土) 01:06:18.09 ID:YYnuN2jT
バカ=単数形と思ったんだ、それだけ
佐々木道誉については、処罰の短さからしてもそれほど馬鹿な行為じゃないって説を軍事板で見たし
http://mltr.ganriki.net/faq11m02.html#12726
732人間七七四年:2011/05/21(土) 01:10:07.49 ID:YYnuN2jT
やっぱりソースが2ちゃんって笑われそうだから↑はなかったことに
733人間七七四年:2011/05/21(土) 07:42:37.00 ID:EsRO5A9U
ソースは神社の境内で居眠りしたときに見た夢
734人間七七四年:2011/05/21(土) 07:56:21.35 ID:l/tBddA+
司馬遼の街道をゆく(近江散歩)より抜粋。

「…家綱が将軍になったとき、将軍の代がわりごとに聘せられる恒例の朝鮮通信使がこのときもやってきて、江戸城で家綱と会見した。
家綱のまわりには、四人の重臣(井伊直孝、保科正之、酒井忠清、酒井忠勝)がいた。
この光景について、通信使の随員のひとりである南竜翼が『壷谷扶桑録』という紀行文を書いている。
いま身辺をさがしてもこの本を見つけようとおもったが、見あたらないので、以下『彦根市史』上冊から孫引きする。


 直孝、状貌豊偉、臂(二の腕)に遍く毛を生ず、深く多知を見る。
執政中、最も驚なるものなり。年七十二、而して兵権最も重し。」

戦国ちょっと毛深井伊話でした。
735人間七七四年:2011/05/21(土) 10:11:11.65 ID:7DxwGCb1
今の東京は三河者があらくれの関東武者を調教することから始まったんだな。
関東人は栃木と愛知に向かって、毎日一礼するべき
736人間七七四年:2011/05/21(土) 11:28:37.71 ID:xlCUAAbU
面白くない
737人間七七四年:2011/05/21(土) 11:38:53.24 ID:j6J6PlTr
そういえば、真柄さんとこが下駄、刀に続き鎧を製作中らしい。
完成後2.3mのマネキンに着せると地元の新聞に書いてあった。

次はなに作るんだろう。
738人間七七四年:2011/05/21(土) 11:44:44.86 ID:nId1lM+d
何かあさっての方向に突っ走ってる感がハンパ無いなw
739人間七七四年:2011/05/21(土) 12:16:40.66 ID:sh/tXUV1
いいじゃあないか、地元の英雄にスポットライトがあたるのは
740人間七七四年:2011/05/21(土) 12:29:16.56 ID:CDrsFq5d

      __       __
     / 、〉〉〉〉      〈〈〈〈ィ ヽ
     |_,イ_⊆》 __   《⊃_ヒ_|
    [・_・_・_] /, --||-、  [_・_・_・]
    /   // r'∠二二> |   |
    〈__ノ\/ 0、 ゚ (>゚l/ ̄ヽ_| ガオーッ!
    \   i | ヽ_ニニニフ、   /
    i'^|ヽ__ノノ      | |/              ____
    | ト---"ヽ___ノ|"                 |┌──┐
    |ニ|==()     ()|          ___円rrrrr|│   │
    | |ニニニニニニニ| 且┐     _| |田:|ロロロ|└──┘
    ∧_∧   wWピピピピピ ^i┐ ┌|iiiii| |:::::::|ロロロ|二二二二
   | *’ω’|¶ ¶  <行くぞ マガラム!
┳┳(  つロ二二l┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳
741人間七七四年:2011/05/21(土) 12:48:53.30 ID:1g0qiMtN
ここって平安・鎌倉・室町時代と江戸時代の板だっけ…?
742人間七七四年:2011/05/21(土) 13:09:07.22 ID:Bvq/ysY1
一休宗純の話がまとめサイトに9
知恵伊豆の話が14入っているくらいですし
と思ったが、生没年考えると両者とも
1467〜1615のどこかの期間には生きているか
743人間七七四年:2011/05/21(土) 13:22:49.41 ID:OkUOiA2B
>>737
3俵の米俵を右肩に担いだお秀さまの銅像
744人間七七四年:2011/05/21(土) 20:39:32.38 ID:Z97bz9ac
>>737
北海太郎とバトルでもさせるといいかもしらん

2.3mの真柄さんと3mの羆を向かい合わせて
745人間七七四年:2011/05/21(土) 20:53:16.67 ID:wc60+o9U
真柄さんがデビルリバース化してる・・・
746人間七七四年:2011/05/21(土) 21:25:35.40 ID:iX9965hF
討った青木一重もモンスターにしないと釣り合いが取れない
747人間七七四年:2011/05/21(土) 21:37:04.78 ID:nId1lM+d
いやいや、モンスターを討ち取るヒーローは少なくとも見た目普通じゃないとダメだろ

・・・ん?えーと、青木?誰だっけ?w
748人間七七四年:2011/05/21(土) 22:25:49.31 ID:1g0qiMtN
向坂三兄弟のジェットストリームアタックじゃなかったっけ?
749人間七七四年:2011/05/22(日) 01:39:32.00 ID:oAHOITPq
三河物語より、めんどくさい三河武士の中でも一段とめんどくさい主君の話


ある時、松平清康の食事が終わる頃に家臣らが出仕してきたことがあった。

すると清康は椀の中の汁を捨てさせて前に進み、「皆、これで酒を飲め」といった。
しかし、家臣らは恐縮して頭を下げてかしこまっていた。まあ当然である。

「何故飲まないのだ。さあさあ飲め」

それでも飲ませようとする清康。なんというめんどくささ。しかし、家臣たちにとって、
主君の椀で酒を飲むというのはとてももったいなくて、更に頭を下げるしかなかった。

これを見た清康は、
「皆、何故飲まないのだ。前世の行いが良ければ主人となり、前世の行いが悪ければ家臣となるだけで、
侍には上下の隔てはない。許すから飲め」とまで言って薦めた。

あまり辞退しては失礼になると思ったので、家臣らはかしこまって御前に進んだ。
その時、清康は微笑みながら、「老いたものも若いものも残らず、三杯ずつ飲め」といった。
あまりの嬉しさに下戸も上戸も皆、三杯ずつ飲んで退出した。

帰り道で一人の家臣が話した。
「今の椀も情ある言葉も、どれだけの金銀米銭を積み、宝物を山ほど与えられるよりも有難いことだ。
今の椀の酒は、主君と我々どもの首の血だ。この情けには妻子を顧みず、馬前で討ち死にして、恩に報いよう。
それがこの世の名誉であり、あの世へのいい思い出になろう」

一同は「その通りだ」と喜び合った。


というわけで、めんどくさい主君とそれに感動した家臣のちょっといいお話
750人間七七四年:2011/05/22(日) 01:46:09.52 ID:otX9QR77
>>749
清康の来世は家臣だなw
751人間七七四年:2011/05/22(日) 02:09:19.38 ID:eMGA/T+z
なんで?
752人間七七四年:2011/05/22(日) 03:03:23.88 ID:O9y3CtQ4
前世で善行を積んだとは思えない大名が何人か
753人間七七四年:2011/05/22(日) 03:58:08.22 ID:0hJfQFVt
鬼武蔵は何に転生したんだろう
754人間七七四年:2011/05/22(日) 07:51:23.40 ID:DXNnveyX
>>751
よかれと思ってやった事が、他人にとって必ずしもいい事とは限らないと言いたいんじゃね
家臣が喜んでるからいい事だと思うけど

>>753
時間軸をLOOPして羅生門の鬼に…
755人間七七四年:2011/05/22(日) 08:07:47.43 ID:OslqlfV4
直家さんは薬師に、久秀さんは花火師、忠興さんは宣統帝溥儀に・・・
756人間七七四年:2011/05/22(日) 09:22:05.00 ID:plUt9M8d
やたらと金のかかる花火師だな
757人間七七四年:2011/05/22(日) 10:16:08.75 ID:aQ6eXG1l
小田さんは鳩に
政宗さんは・・・小泉さん?
758人間七七四年:2011/05/22(日) 11:34:53.16 ID:uaq2z6sG
天庵さまを鳩なんかといっしょにすんなよ
759人間七七四年:2011/05/22(日) 12:44:06.87 ID:fs/uw1ZV
そうだそうだ
天庵さまは天下どころか
自分のうちにも帰れないんだぞ
760人間七七四年:2011/05/22(日) 18:01:36.53 ID:WyJXsj8a
俺が未だに童貞なのは、謙信公の生まれ変わりだからなのだろうか
761人間七七四年:2011/05/22(日) 18:29:48.80 ID:QLWEygVY
太田道真・資長(道灌)の父子が川越城を築城するときの事
城の堀へ張る水をどこから引いてこようかと毎日踏査していたのだが、これという水源は見つからず困っていた。

ある朝、道灌が何げなく初雁の杉のあたりを通ると井水に足を浸して洗っている一人の老人に出会った。
見ればそこにはこんこんと湧き出る泉が・・・

これに道灌は大いに喜び、これはまさしく日ごろ信仰している天神の御加護であったかと改めて感謝したのだった。
しばらくしてその老人の所に向かい、この地に城を築く決意を告げ、水源となっている場所を尋ねた。
すると老人は快く承諾し、さっそく道灌を水源へ案内してくれた。
行く行く着いていくとそこは満々と水を湛えた底知れぬ深さの水源地が現れた。

道灌は手を打って喜び、老人の好意に対して心からお礼の言葉を述べ再会を約束して別れたのであった。
こうして謀らずも問題を解決できた道灌はこの地に難攻不落の川越城を完成させたのである。

さて、かの老人とは再会の折もなく時が過ぎ去っていった。
だが、かつて井水で足を洗っていたときの姿が気品にあふれていたので、
あれぞ紛れもない三芳野天神の化身であると納得したのであった。
以来この井水を天神御洗(てんじんみたらし)の井水と名づけて大事にし、神慮に応えたと言う。
そして道灌はますます敬神の念を深くし、有名な川越城内で連歌の会を催して千句を天神に奉詠したのであった。

なお、この水源地は川越城内清水御門のあたりとも、または八幡曲輪とも三芳野天神社付近とも言い伝えられている。
762人間七七四年:2011/05/22(日) 19:49:25.37 ID:8Oy76fio
文禄元年(1592年)、津軽為信は海路で上京しようとしたところ暴風雨にあい、
蝦夷の松前に漂着した。松前の領主・慶広は為信が漂着したというこで自ら出向いてきた。

「殿、慶広殿がいらっしゃったようですが」
「放っておけ」
「は?しかし・・・」
「わしは安東の領土の土を踏むつもりはないわ」

為信は安東氏の領地であることを理由に上陸を拒んだ。
もともと両家は敵対していたこともあって、為信の態度は慶広に疑念を抱かせた。
その後、名護屋、大坂においても両者に不快なことがあり、両家の関係は冷え切った。

が、慶長十五年(1610年)に転機が訪れた。慶広は駿府でたまたま老中の安藤直次と会った。
「松前と津軽の不和というのはよろしくないことです」
直次は慶広と為信の子・信牧を戒め、両者を仲裁した。為信はすでに没している。

このために元和三年(1617年)、慶広は参勤の途上、弘前の信牧を訪ねた。
信牧は慶広を厚くもてなし、慶広は則重の刀を贈り、信牧は宝剣と駿馬を贈った。
これより二藩の関係は良好となり、松前は参勤で津軽を通らければならないので、
津軽はその際には諸々の便宜をはかり、慶広の娘は信牧に嫁いだ。
また蝦夷地に何か有事のあるときは、幕府はまず津軽藩に命じて松前藩を
助けさせるのが慣わしとなった。
763人間七七四年:2011/05/22(日) 20:15:46.48 ID:1Es3p1pE
なんでわざわざ仲裁したんだろう?
不和で有り続けた大名同士なんて大藩でもいっぱいあるのに
764人間七七四年:2011/05/22(日) 20:24:55.25 ID:8chlkP+c
幕府がわざと仲悪い大名家を隣に配置して相互監視させたって
どれくらい信憑性あるんだろうか
765人間七七四年:2011/05/22(日) 20:35:16.86 ID:wp6nrZ9o
何もしなくても隣国とは勝手に仲悪くなることも多いしな。
ただ松前だとアイヌの問題も含め国境線ってこともあるからいざという時に
真っ先に援護する必要のある津軽と露骨に嫌い合ってるのはまずいと
いう判断はあったのかも?
766人間七七四年:2011/05/22(日) 20:40:10.48 ID:hOvIpklR
>>760
細川政元公の生まれ変わりなのかもしれんぞ
767人間七七四年:2011/05/22(日) 20:54:23.87 ID:1J67Q7wl
>>764
そういう意図は殆ど無かったと思われる。
というか、そりゃあ仲良くなられすぎても困るが、仲が悪くっちゃお互い警戒して交流がなくなり
むしろ情報が入ってこなくなるもの。
あと、ライバル大名同士を隣合わせに配置する、というやり方は室町幕府がやって大失敗した。

監視という意味では、室町幕府と違ってそれぞれに地域に譜代大名も入っているわけで、
大名同士が勝手に仲が悪くなったのを後から江戸幕府に責任転嫁した、といった例がほとんどだろうね。
768762:2011/05/22(日) 21:01:21.87 ID:8Oy76fio
>>762
投下しておいてなんですが、1617年だったら慶広死んでますね・・・
元和元年か二年と間違ったかも
新北海道史にあった話なのでつくり話ではないと思うんですが手元にないので確認できません
申し訳ないです・・・
769人間七七四年:2011/05/22(日) 21:14:24.15 ID:WyJXsj8a
>>768
県史でも軍記物から引用してたりするからね

作り話とまではいかなくても、年代や人物のズレはあるよ
770人間七七四年:2011/05/23(月) 09:57:08.38 ID:5m1R4vZ9
>>760
空を飛ぶがいい、お前なら出来る筈だ
771人間七七四年:2011/05/23(月) 10:21:24.08 ID:3I7LvGEx
最後は入浴中に逝くのか
772人間七七四年:2011/05/23(月) 11:30:39.39 ID:mqf8o2ov
永禄年間(1558〜70)、伊予の河野通直は、安芸・毛利氏の拡大に対抗するため
豊後の大友義鑑(宗麟)と同盟した。

さてその頃、鉄砲の技術の先進地といえば永正よりこのかた、豊後大友家だとされていた。
そのため河野通直は友好関係を利用し大友家に頼み豊後府中より鉄砲技術者を派遣してもらい、
家中の者たちに煙硝の採取の仕方、弾薬の製造方法などを学ばせ、火器を大量に生産した。
この鉄砲の大量装備により河野家の防衛力は格段に強化され、その鉄砲術は
「河野流」として東国まで響き渡ったという。

しかして、瀬戸内海で中国、九州と面する長い海岸線を持つ伊予において、
その海邊を守るには鉄砲の砲弾を大きくすること、すなわち大筒の製造こそ
最も効果があると、当時の河野家は考えた。

ではあるが、ノウハウが無い以上すぐに大筒を作ることは無理である。
そのため河野家は大筒製造のため様々な研究を始めた。

ところで河野家が考えたのは、木の砲身の大筒であった。おそらく金属の砲身を作るような
鋳造技術がなかったためであろう。

まず、松の生木を繰り抜いて砲とし、これに金輪をはめてしっかりと固め、
この砲径に合わせた弾丸を作り弾薬を調合して発射実験を行った。
が、これは弾丸を撃ち出すと必ず砲身も破裂し、とても実用に堪えるものではなかった。

次に、同じく松の砲身を今度は縄で巻いた物で試したが、やはり砲身は壊れた。
このように様々な実験を繰り返したものの、どれも上手く行かなかった。

そんな時、ある者が工夫をなして、竹の輪を作って砲身を桶のようにせめ懸けて固め、
これで弾丸を発射。何と、これだと木筒は破損せず弾丸は無事発射された。

この事を喜んだ河野家は、さらに木筒の技術研究を薦め、その運用術も様々に実験した。
そして海邊にこれを多く設置し、敵船が攻め上がってくれば間近まで引きつけた上で
高楼より下に向かってこの大筒を発射。これに当たればいかなる大艦もたちどころに
破壊され、河野の大筒の威力に敵はあえて伊予の海邊に近づこうとしなかったという。

豫州河野家、木鉄砲のおはなし。
(南海治乱記)
773人間七七四年:2011/05/23(月) 11:36:11.07 ID:Df+DbdQY
伊予の大名さんは研究好きだね

幕末の伊達も色々やってるけど
774人間七七四年:2011/05/23(月) 16:42:10.62 ID:wmKs6MBJ
大坂の陣でも登場するし
木砲って意外と頻繁に使われていたのかな。
775人間七七四年:2011/05/23(月) 16:52:49.84 ID:s4/UxCrB
木砲良さそうだけど火薬が大量に必要そう
貧乏大名じゃ気軽に発射出来ないな
776人間七七四年:2011/05/23(月) 19:34:28.92 ID:Iiy+65HJ
鉄製の大砲は輸送面で問題がでるそうだ。
道は悪いし、山道が多くて、重い鉄製の大砲は避けられたらしい。
777人間七七四年:2011/05/23(月) 20:05:26.96 ID:/vQHDJKn
モンゴル軍ばりのカタパルトはダメだったのか。
778人間七七四年:2011/05/24(火) 19:17:03.18 ID:WCJF75qX
発石車とかねw
779人間七七四年:2011/05/24(火) 22:20:03.54 ID:a97M207m
『人生において風流は大切なことだ。
しかし、それを快楽を貪ることと勘違いしている人は多い。
史記に、
「酒を飲み過ぎれば心が乱れる。
快楽をつくすと哀しみと虚しさがやってくる。」
とあって、左伝には、
「酒色に溺れ快楽を貪るのは毒を好んで食べるようなもので、
我が身の人生を損なう原因になるのだから、気をつけるべきだ。」
とあり、論語にも、
「善を好むことが酒色を好むほどならば、誠の人物だと言える。」
と書かれている。』

武田信繁さんの言葉です。
皆さん、酒と快楽はホドホドにw
780人間七七四年:2011/05/24(火) 22:26:20.69 ID:pCDoygft
>>776
携帯に秀でた大砲といやあグスタフ2世アドルフだな
その名も皮製大砲<故障が多かったみたいだがな
だがスピードと破壊力は現代を凌ぐほど凄まじいものがあったらしい、確か検証してた
781人間七七四年:2011/05/24(火) 22:52:43.57 ID:yVbgsIcw
>>779
皆さん、酒と快楽はドボドボにw に見えた。
782人間七七四年:2011/05/24(火) 22:53:53.54 ID:lWbIsX1z
>>779
いいこと言うね
783人間七七四年:2011/05/25(水) 03:53:25.18 ID:Akb3OK/B
酒と女はほどほどにしとる
でも札束のベッドで寝たいお
784人間七七四年:2011/05/25(水) 04:14:52.56 ID:ZJ1xku1n
氏康の「酒は朝飲め」を実践するのは難しい…
785人間七七四年:2011/05/25(水) 04:36:06.83 ID:ILXWweoq
>>784
夜8時に寝て、5時起きで酒飲むんだよ
786人間七七四年:2011/05/25(水) 10:22:53.03 ID:z0vnVX80
信繁公は儒書でも仏書でも出典を明かして教訓するんだよな。
自分の言葉として言っても誰も責めないだけの人物なのに。
こういうとこからも生真面目さが伝わってくる
787人間七七四年:2011/05/25(水) 10:43:18.88 ID:5tjllLM0
本当にできる弟君だな 武田家は武張った一族なはずだけどこの三兄弟はみんな文人気質がある
大井夫人の影響なのか知らないけど
788人間七七四年:2011/05/25(水) 15:29:38.70 ID:sJIc8+44
出来る弟が早死にして、家の行く末に影響を与えた・・・だろうという点では
三好実休に通じるものがある
789人間七七四年:2011/05/25(水) 15:38:59.02 ID:gMyBJFCF
豊太閤のとこも弟が死んで誰も暴走を止められなくなった
790人間七七四年:2011/05/25(水) 17:40:06.20 ID:IJfIFFY5
>>785
そうなんだよな。
連中は空が白み始めたらもう起きてて、暗くなったら速攻で寝てるんだよな。

人間が集中力が高まる7時くらいにはもう起きて2〜3時間経ってて、しっかり仕事に取りかかってるし、
10時くらいに集中力が最高潮になるころには仕事は佳境を迎えてるわけだ。

理にかなってる。現代の出勤に1〜2時間かかるから始業が9時とかは本来ナンセンスなんだよな。
791人間七七四年:2011/05/25(水) 20:45:05.34 ID:LFcpA/Wn
>>787
一条信龍「……。」
その他弟「……。」
792人間七七四年:2011/05/25(水) 21:23:52.16 ID:TS+tDwYL
>>788
信之「ええ、うちも弟が早死にして実に大きな影響がありました…本当に大変でした」
793人間七七四年:2011/05/25(水) 21:33:47.03 ID:e9USBClu
お金をせびるニートが居なくなったいい話って訳ですね
794人間七七四年:2011/05/25(水) 23:20:21.33 ID:sKuw/ubV
>>788
信長「できる弟でも有害なら殺しておかんと。但し甥はかわいがってやった」
直家「できる弟だからかわいがってやったのに、勝手にビクビクしよる」
795人間七七四年:2011/05/26(木) 00:22:30.75 ID:wD+HKWbM
>>788
義光「よかった、死んだ弟は存在しなかったんだ…」
796人間七七四年:2011/05/26(木) 11:23:16.21 ID:KTOeap1G
井伊直政の次男、井伊直孝は慶長10年(1605)、15歳から将軍家に仕え、18歳で書院番頭、
慶長16年(1611)、21歳の時には大番頭と順調に出世する。が、大番頭といえども
家康、秀忠の御前においては、はるか末座の存在でしか無かった。

慶長19年(1614)、大阪冬の陣起こる。この時井伊家の家督を継いでいた直孝の兄・直勝は
病に臥せっており、大御所家康の命によって、直孝が兄の代官として井伊家の軍勢を率いた。
やがて冬の陣の和睦がなると、家康は直孝を召し

「兄に変わり、井伊家を継ぐべし」

と命じた。

これを聞いた直孝は驚き涙を流して訴える

「たしかに兄である直勝は近年病に犯され、軍国の任に耐えられる体ではありません。
ですが!大御所様が昔、父直政につけていただいた古き者共もなお多く残っておりますから、
家のことは問題なく沙汰出来ています。
又直孝もこのようにありますので、天下の事がありますれば、今回のように再び兄の代官として
軍勢を率います。
いかなる仰せでありましょうとも、兄を退けて父の家を継ぐというのは、私の望むところでは
ありません!」

しかし家康は、彼の辞退を許さなかった。その後も直孝は安藤帯刀を通じてなんとかこの命令を
撤回できるよう務めたが、終にそのお許しはなく、直孝は結局、井伊家の家督を継いだ。

さて、直孝が家督を継いだ直後の、御前への出仕の時のことである。

その頃家臣の中で最も上座にあったのは、家康の謀臣、本多正信であった。
が、この時直孝やおら進みでて、なんと正信の上座に座った。しかもその姿、些かも臆する気配なく
堂々として、実に立派であったという。

やがて諸事が終わり御前を下がると、直孝は正信に向かって頭を下げ

「今日の私の振る舞い、さぞ無礼なことだと思われたでしょう。
さりながら私が、故侍従(井伊直政)の家を継ぐよう申し付けられた上は、今後も此の様に
振る舞います。どうかこの事、御免あれ。」

これに正信、嬉しそうな顔をして

「何をおっしゃるのですか!今日の振る舞い、この正信こそ喜んだのですよ!
将軍家があなたを、かくあらん人と知って抜擢された事、実に有難いものだと
私は思っています。」

と、答えた。

これを見た人々、互いに打ち寄っては

「昨日までは大番頭としてはるか末座に伺候していた人が、今日は一番に上座に立ったが、
その立ち振る舞いは実に立派であった。これは将軍家の良き人事である。」

と、これを喜んだという。

井伊直孝の、井伊家継承にまつわる逸話である
(藩翰譜)
797人間七七四年:2011/05/26(木) 11:29:22.43 ID:c/PiZgrK
それで喜んで噂をした方々のお名前は?
798人間七七四年:2011/05/26(木) 11:55:23.83 ID:ouBvqRyG
新参の井伊家なのに、酒井、本多勝、大久保家を飛び越えて
譜代筆頭になってしまう不思議
799人間七七四年:2011/05/26(木) 12:36:26.80 ID:S87uq2Vf
兄貴の直継は本当は病弱じゃなかったという噂もあるがのう。
800人間七七四年:2011/05/26(木) 13:08:19.06 ID:9bnGnS4l
>>798
げに恐ろしきは尻穴の魔力よw
801人間七七四年:2011/05/26(木) 13:29:24.91 ID:M7AYjhLr
>>799
実際、弟より長生きしてたんじゃなかったっけかな
802人間七七四年:2011/05/26(木) 13:30:21.92 ID:peKcQjNC
>>800
前田利家「……」
803人間七七四年:2011/05/26(木) 13:39:48.61 ID:Ekir6xPw
>>800
早く姉か妹を連れてまいれ!
804人間七七四年:2011/05/27(金) 00:11:15.99 ID:+KgoKQlW
>>796
陪臣から直臣だから当然といえば当然だが、
ちょっと急過ぎ、上過ぎ?
805人間七七四年:2011/05/27(金) 10:59:36.47 ID:wzTCBUkn
家康の目に叶うモノを持っていたんじゃないの?
806人間七七四年:2011/05/27(金) 11:46:21.84 ID:6Y7oxVlR
見た目や性格が父と似てたとかじゃね
807人間七七四年:2011/05/28(土) 01:36:35.93 ID:p5tBSJxQ
作左も直孝を快く思ってなかったような話があったような気も
あれ、忠勝の話だっけ?
8081/2:2011/05/28(土) 02:03:52.73 ID:/pbA5iPc
天正6年(1578)、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため有岡城に乗り込んだ黒田官兵衛孝高は
その場で捕らえられ有岡城に幽閉される。

さて、この報を聞いて喜んだのは、かねてから織田を離れ毛利に付きたいと考えれいたものの、
織田派の官兵衛の存在のためそれを果たせなかったその主君、小寺政職である。
政職はこの期に黒田家も取り込み毛利に寝返らんと、にわかに使者を姫路にある勘兵衛の父、
宗円に派遣した。ちなみにこの時の使者は、宗円と古くからの友人だったそうだ。

さて、使者は宗円に政職の言葉を伝える

『荒木が理不尽に官兵衛を捕らえた事は、議論の余地のない非道である!
その行為への恨みは言葉にすらし難い。
しかしこの事から推し量るに、官兵衛はかねてからこの小寺家が、信長に付くべしと唱えていた。
この事を有岡城の荒木が知り、官兵衛を人質に取れば小寺家も毛利方に付くに違いないと考え、
そのため彼を捕らえたのであろう。

そこで、この上は信長への一味を取りやめ、毛利方に付いて官兵衛の身柄を救いたいと、今は一途に
決心している。

勿論その場合、信長のもとに人質に出している松千代(後の長政)は見捨てることになってしまう、これが何より
難しいことなのは、私も良く解っている。が、松千代は未だあくまで少年に過ぎず、ここはしっかりと判断すべき
事だが、官兵衛は黒田家の家長であり、我が小寺家の重臣であり、才知才覚は人に超えており、まさに
将来にわたって小寺の守りとなるべき人物である。その官兵衛を助けることこそ、我々としては先ず第一に
考えなければならない。

その方(黒田家)とっては柱石と頼み、私に取っては兄弟にも代えがたいと考えている官兵衛を失っては、
我々の滅亡は疑いない!』

このように真に迫った内容に、黒田家のものも尤もだ、その通りだと思わぬ者はいなかったと言う。
が、宗円がこの使者に言うには

「上意の旨、謹んで承りました。官兵衛のことは是非を申し上げるまでもありません。
この上は尚以て前以上に、信長方にひしとお付きなされるべきです!
その事を殿が同意していただいたなら、私は老体であり不似合いでしょうが、力のかぎり御奉公を勤め、
小寺のお家が成り立つよう、あらゆる手立てを成すつもりです。
しかし中国方に付こうと思い召されるのなら、この愚老はお暇を頂くより他ございません!」

これを聞いて使者、宗円を説得する
「あなたのような功者に意見など似合わないことだろうが、言わないのもどうかと思うので、あえて言わせてもらう。
宗円老の御存念は間違っている。
信長方に付くというのは、官兵衛殿を殺すという事と同じだ。
官兵衛ほどの家臣を犬死させては、たとえそれが誤りのない判断であっても、たのもしからざる主君であると、
殿に悪名が付くだろう。
貴老も、人に超えた能力を持ち公私において活躍されている長男を捨てて、一体いつまでの齢を保つ
つもりでいるのかと、諸人に笑われることだろう。
今まで世間に対し何の傷も付いていないあなたのご身体を、この事で捨てるのか!?

たとえ官兵衛殿を捨てられ小寺の家が末永く栄えたとしても、それは不義の富貴である。
いや!官兵衛を捨てれば小寺の家の滅亡は疑いない!これらは全て、貴老の判断次第である!

…しかし一大事の事柄であるから、早合点すべきことでもあるまい。繰り返し繰り返しご思案された上で、
ご返答を頂きたい。今日でなくてもかまわないのだ。」

この、使者の情理を尽くした言葉に宗円、重ねて
8092/2:2011/05/28(土) 02:04:24.16 ID:/pbA5iPc
「あなたのご助言には感謝する。心からの言葉、感じ入り申した。
確かに仰るとおり、殿様の御為には一体どうなるかわからぬ。今の小寺家が官兵衛を失うということは、
盲目の者が杖を無くし、闇夜で灯火の消えることよりも、なお心許なき事態であろう。

殿は官兵衛の成人してからの忠孝を高く評価していただき、小寺の御苗字も下され、それがしは姫路に在宅仕り
一方の押さえをいたし、官兵衛は、若年ではあるが万事功の入りたる者なればとて、五着へ召し置かれお家の押さえを
申し付けられた。そして、君臣共に神仏の冥加が強かったのであろう、小寺のお家は次第に強く、逞しく
なった。そのお陰を以てこの老体も、一身の安楽この上あるまじと思うほどであった。それも偏に、官兵衛の
忠孝のおかげである。

私はそれを捨てろと言っているのだ!それにはこう云う仔細がある。

先ず、松千代を信長に人質に出したことは、殿様、私、官兵衛の3人で相談し、小寺家の証人として出したのだ。
そして今度官兵衛が有岡の城に幽閉されたのは、荒木の突然の狼藉に過ぎない。
どうして熟慮の末出した証人たる松千代を捨てて、突然の狼藉で捕らえられた者を救けねばならないのか!?
熟慮の人質を捨てないことは、順であり道であり義である。これを捨てるのは、逆であり無道であり不義である。
この道を弁えることが人倫、それを知らないことは、木石とも畜類とも言って、取るに足りないことだ。

弓箭をあえて逆に取ることは無い。松千代を殺すことは、逆だ。逆の行いが仮に成功したとしても、
それは長続きしないし。その上不義、非礼、表裏者の悪名を得るだろう。
順にして物事が成り立たないということも、世の中にはある。しかしそれは侍の本意には背かないし、もし成り立てば、
それは長久のものとなる。もし順義正しく守っても、成り行きが悪くなれば、それは夏に雪が降ったようなものだと
覚悟を定めれば後悔することは無い。大体において、大身小身、下郎に到るまで物事、大小にかかわらず
仮初のことにも、順逆・義不義の判断は事に応じて有るべきなのだ!

返す返すも残念なのは、私は若年の頃当家に仕えてより、これほどまでに取り立てられた大殿様の御恩を、
私のこの判断で捨ててしまうこと。そして私も御奉公し、殿と共に辛苦をしのぎ、小寺の領地を倍あまりにまで広げたものの
今回の信長方と毛利方との争いの渦中に入り、その光忠を虚しくし、頼み切った一子を失うこと。これが長生の
業というものなのだろう。

この上はこの法師首を引き抜かれ骨を磨り潰されるような事になろうと、殿が毛利に一味するという御覚悟ならば、
お暇を申し受ける所存である!」
そう、涙を流して訴えた。

使者はこれをおかしな事だと思い、再び意見をしようとした。が、それはしなかった。
一つには、理屈では宗円には勝てないと思ったこと。そしてもう一つは、この使者と宗円は、先にも言ったように
若い頃からの友人であり、宗円が普段は柔和で人の意見に流されるように見えるが、大事において決断すれば、
どんな意見であっても聞き入れない覚悟を持った人物であることを、よく知っていたからである。
そして立ち上がり

「あら恐しの行く末や 足元の明るきうちに帰りたるがまし(帰り道が怖いので、未だ日の明るいうちに帰りたいねえ)」

と、カラカラと笑った。これに宗円
「もはや何彼と気遣いすることはない。五着の殿にはこう語れ。宗円は『一寸の虫にも五分の魂がある』と言ったと。
隠し事は却ってよく知られるものだ、若い者たちよ、以後よく心得よ、そう伝言したまえ。」

すると使者
「いやいや、せっかくの麝香に糞をませたような、そんな伝言はしたくもないよ。」と立ち上がり

「大たわけめ!さらば!さらば!これも命令である!」
と叫んで帰っていった、という。

以上、黒田官兵衛幽閉事件直後の、官兵衛の父宗円と小寺家の使いとの話の内容である。
(古郷物語)
810人間七七四年:2011/05/28(土) 02:13:34.08 ID:/pbA5iPc
ちょっと間違えました
下から5行目

×せっかくの麝香に糞をませたような
◯せっかくの麝香に糞をまぜるような

申し訳ないm(_ _)m
811人間七七四年:2011/05/28(土) 12:50:08.64 ID:uny0fgt+
飛ばし読んだけど、戸田康光事件にも同じ事が言えるよな。
812人間七七四年:2011/05/28(土) 17:27:27.90 ID:TPRgIyGT
>>810
他にもいろいろ間違えてるから気にしなくていいって
813人間七七四年:2011/05/28(土) 17:36:16.78 ID:3crantRa
嫌味ったらしい言い方すんなや
814人間七七四年:2011/05/28(土) 18:10:16.55 ID:huhU27Lb
ここで語る時のデフォルト(?)な古語交じり現代文(ネタ込み)という謎の文体を使いこなすには
かなりの修行が必要だよな。推敲したときに逆に修正ミスが出たりするしw
815人間七七四年:2011/05/28(土) 18:18:53.14 ID:lLZgUkZo
>>812
最低だな、書いてくれてるのに失礼だろ。
816人間七七四年:2011/05/28(土) 18:25:17.27 ID:T4gp9QSc
だいたいわかればいいよ、2ちゃんだし
817読眼流:2011/05/28(土) 18:34:01.48 ID:/3a1M1Sm
仁に過ぎれば弱くなり、義に過ぎれば固くなる。
過ぎたるは及ばざるが如くなり。
多少の悪気ないミスは突っ込まず、
レスするときは読みやすい文を心掛けようではないか

偉そうですまぬ
818人間七七四年:2011/05/28(土) 18:38:00.67 ID:94hU+zsX
>>807
作左さん、直孝が小姓に上がってる頃はもう蟄居してんじゃね?
819人間七七四年:2011/05/28(土) 22:50:35.82 ID:GpchCV7p
>>817
失言1つで首が飛ぶ弱小権力大臣に要求が多過ぎる
どっかの国民に言ってやりたい言葉だなw
820人間七七四年:2011/05/28(土) 23:06:51.86 ID:P2pLO2iN
>819
昔話じゃん
いまは何を言おうがお構い無しになってる
821人間七七四年:2011/05/28(土) 23:37:06.16 ID:3crantRa
>>819
ちょっとの失言、じゃなくてたくさんのありえない失言、だろ
822人間七七四年:2011/05/28(土) 23:55:36.38 ID:tT4RQNLP
戦国時代でいえば「ありえない噂をバラまくわ、嘘こくわ、奥さん狂ってるわ」だからな。
猜疑心の強い上役がいれば確実に一族郎党消されるレベル。
823人間七七四年:2011/05/29(日) 00:44:34.93 ID:WL8CR/s4
失言のあげつらいが政局動かすようになったのは、
マスコミやネット住民が政治家に対して口だけ作左化したのも大きいような
責任不在で覚悟のない作左だからタチが悪いw
824人間七七四年:2011/05/29(日) 00:57:10.21 ID:0fzA6psm
まぁ言いたい事は分るがここで言っても仕方がないんだし
自重しとこうや
825人間七七四年:2011/05/29(日) 06:22:30.55 ID:e5iiSfpX
>>807
作左がけちをつけたのは親父の直政の方じゃなかったかね。
826人間七七四年:2011/05/29(日) 09:52:13.47 ID:LuVnhftd
>>825
最後に直政に嫌味で返された話か。

827人間七七四年:2011/05/29(日) 16:52:58.77 ID:lYhFbNon
>>821
何年後に実害出るかどうかな程度で
即時公開してたらパニック起こして数倍深刻。
当然余計に叩かれる。

同じ環境なら、放射線あんまり気にして無いヤツのが健康長寿というオチw
828人間七七四年:2011/05/29(日) 17:16:23.77 ID:fa6T59iN
凄く叩かれるから言わない、叩かれる規模が小さいから言う、なんて程度の問題じゃねーよw
829人間七七四年:2011/05/29(日) 17:49:17.89 ID:3wXxC4Mg
以上、スレタイが読めないという、スレ住民の悪い話
830人間七七四年:2011/05/29(日) 20:51:18.75 ID:0HosEl2F
ある年の事である。春から長雨が続いて凶作になった上に、病が流行して多数の
死者がでた為、津軽為信は米や援助金に加え、薬や守り札まで与えて領民の救済に努めていた。
しかし、そこに南部信直から、年貢米を信直の居城である三戸城に送るようにとの命令が伝えられたのである。
他の南部配下の者はこれに従ったが、為信は

「むしろ援助があるのが当然ではないか。」と逆に陳情。

一方、自身は節約を心がけて妻子にも粗末な服を着せるようにしており、
これを知った領民からますます尊敬されたという。

「南部史要」より、民の為に命令違反を犯した津軽為信の良いお話。

831人間七七四年:2011/05/29(日) 22:17:37.78 ID:tR/usN5G
>>830
なんというか・・・色々黒いものを感じてしまう
832人間七七四年:2011/05/29(日) 22:25:14.89 ID:3WKECmfO
結局、南部と津軽って明治維新までに和解出来たの?
833人間七七四年:2011/05/29(日) 22:38:30.65 ID:bVRiF51C
出来てないんじゃないの
834人間七七四年:2011/05/29(日) 22:41:05.76 ID:QvrovA4l
>>830
宇喜多とか津軽とかこういう話があるからこそ
騙し討ち生活でも生き残れるんだろうなあ
835人間七七四年:2011/05/29(日) 22:55:05.28 ID:3wXxC4Mg
個人的には津軽さんの場合にはむしろ、南部さんの被害者面がちょっと気に食わない感もある。
836人間七七四年:2011/05/29(日) 23:39:52.86 ID:7aDeNCS8
>>830
独立前のエピソードかな
髭殿が大名として独立してからは南部に食糧援助したって話聞いた事ある

南部裏切って独立したとかよく書かれるけど
戦国時代的には別に珍しいことじゃないような・・・
837人間七七四年:2011/05/29(日) 23:44:22.98 ID:pRL+UOkx
池田・・・じゃなくて相馬大作事件というのがあってだな
838人間七七四年:2011/05/29(日) 23:53:50.55 ID:p804O9dF
公明党のものですが……?
839人間七七四年:2011/05/30(月) 00:06:20.92 ID:7hJyY6vR
津軽は独立時にエグい話があるからなあ

未亡人をものにしようとして断られると攻め殺してもいるし、打算を感じられる
840人間七七四年:2011/05/30(月) 00:17:51.37 ID:sL8Nvbum
相馬大作事件って逆恨みで発生したようなもんなのにやたら美化されてるよな
841人間七七四年:2011/05/30(月) 02:41:29.14 ID:Vs8ItAoL
最上ネタねぇ…
良い話ネタだから良い話の方に。

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2761.html
この谷地城攻防戦に関する別の話。
まとめでは戦闘前に下った事になってるが、
激烈な戦闘があったという異聞もある。その話。

谷地城は最上勢に猛烈に攻められていた。
特にある場所が最も激しい攻撃に晒されていた。
守る直江軍も必死に守ろうと弓を射掛けるが……、
運の悪い事に、最上勢には練達の狙撃兵がいた。
矢狭間から弓を射掛けようとすると、
その狙撃兵がもみ臼を盾に城兵を狙撃してくるのである。
しかもその腕前は正確で、城兵は次々と撃たれていき、
落城も時間の問題かと思われるほどになった。

それを知って駆けつけて来た直江側の武将に、大井右近という者が居た。
右近は最上方の狙撃兵の様子をしばし観察し、
それから鉄砲を用意して隙を見て矢狭間にセットした。
そして、対決の時が来るのを待った。

弾込めを終えた最上の狙撃兵は、安全なもみ臼の後ろで狙撃体勢に入る。
絶対に安全なもみ臼という塹壕の後ろで、
城兵を撃ち倒す簡単な仕事であるはずであった。
が、狙撃兵がもみ臼の後ろに隠れた時、
もみ臼に開いている柄を差し込む穴がその人影で暗くなる……。
右近がその機を逃さず予め狙いを定めていた鉄砲の引き金を引くと、
銃弾は真っ直ぐにもみ臼の穴を通過し、
狙撃兵の眉間を一発で撃ち抜いたのである。

この一発がもたらした結果は絶大であった。
最上方はもみ臼の背後に身を隠して攻撃する事を断念するだけに留まらず、
その攻め口からの攻撃自体を断念する事になったのだ。

たった一丁の銃で城兵を圧迫し、一発の弾丸で城の一つの攻め口を守る。
そんな戦国武士達の腕の良い話。
842人間七七四年:2011/05/30(月) 02:43:05.43 ID:9OmxN4u4
戦場の「いろはにほへと」

牧野成重は滝川一益→豊臣秀次→石田三成→徳川家康と主を転々と変えた武士である。

島原の乱で一手の将として出陣し、「いろはにほへと」と書いた銀板を旗印にした。

その次に続く「ちりぬるを」「わかよたれぞつねならん」に掛け、「散りぬるを」の決意を持って戦場に赴いた当時の武士の心意気をカタチにした良い馬印の話。
843人間七七四年:2011/05/30(月) 02:45:05.36 ID:FtHh/XoU
>>841
「ここにいたのかゴ・・・いや。ミスターデューク・東郷!!」
844人間七七四年:2011/05/30(月) 09:12:55.16 ID:nO8wSedL
腕がいいってレベルじゃねーぞ!
845人間七七四年:2011/05/30(月) 10:31:20.85 ID:opguE85J
>>841
さいとうたかおの劇画で脳内再生されたw
846人間七七四年:2011/05/30(月) 11:42:03.41 ID:jEqvvZJ1
>>841
そ、その鉄砲はワンオブサウザンド!!
847人間七七四年:2011/05/30(月) 12:05:51.61 ID:ytCianW7
>>842
長岡藩祖?
848人間七七四年:2011/05/30(月) 20:58:00.42 ID:I1ON3z2N
>>842
「成里」「成重」と良く混字されるが、どっちが正しい名前なんだろう?
849人間七七四年:2011/05/31(火) 00:28:04.37 ID:M7ON5V59
>848
滝川一益→豊臣秀次→石田三成→徳川家康と仕えたのは牧野「成里」。
しかし成里は慶長19年に亡くなっているから、島原の乱に出たのは別人と思われ。
850人間七七四年:2011/06/01(水) 01:26:21.63 ID:PEX8+RtA
荒木村重の有岡城が陥落し、黒田官兵衛が救出された暫く後、天正8年(1580)のことである。

播磨一国をほぼ平定した羽柴秀吉は、黒田宗円(職隆)・官兵衛親子を呼び、
「播磨統治の居城はどこにすべきだろうか?そなたたちはこの播磨の案内者であり、
又老巧の者であるから、見解もあるだろう。どうかそれを話してもらいたい。」
と尋ねた。

これに黒田宗円申し上げる
「どこと言っても、私が今居る姫路ほどの城はありません。これを差し上げましょう。」

これに驚いたのが秀吉である。彼は宗円に
「せっかくの申し出であるが、重ね重ねの忠を成した者の居城を召し上げるなどというのは、
これは不義であり、且つ世間の、わしの弓箭に対する疑いともなるであろう。
黒田は今のままの領地に召し置き、わしは他所で自分の居城をさがすつもりだ。」

こう、断固として言った。とろろが宗円、重ねて申し上げるに

「恐れながらそれは、御分別違いのように思います。
これが無理矢理に領地を召し上げられるのなら当然、それを非難する声も上がるでしょう。
しかし我ら親子が差し上げると言っている以上、羽柴様を頼もしからざる人物だと思う人間は
少しも存在しないはずです。

当国統治の首府とすべき場所として、姫路ほど条件の整っている所はこの播磨は言うまでもなく、
全国を見渡しても稀なほどです。

現在、この播磨は平和に治まっているように見えます。しかしこれは、隣国の大敵を抱え、何よりも
反織田勢力の残党たちが未だ国内に多く存在している中、羽柴様の諸軍勢が日夜警備に
心を砕かれ、野原に陣を張り諸卒に労をおかけしている故であります。
実に勿体無いことだと感じ入っております。

現在の姫路城は普請堅固ではございませんが、野陣よりは増しでしょう。
見苦しい城であることは、今さらどうにも出来ませんが、どうか直ぐに御移り下さい。
私は近くの民家へと引っ越します。」

と宗円言い捨て秀吉の返事も聞かず姫路へと帰ってしまった。
そしてすぐさま近所の民家に引越し、姫路城内は本丸以下畳の表替えをし大掃除、
家臣の家まで綺麗にするよう申し付けその上で

「本日は吉日です。今日中に姫路へ御移り下さい」

と秀吉に申し上げる。
これには秀吉、「下知は好し、御意は重し。それほどまでに言うのなら」と、不承不承ながらも
姫路へ移った、という。

この時秀吉は再び黒田親子を召し出し、官兵衛に完粟(シソウ)郡にて2万石を与えた。そして
「昔は完粟、今は我ら秘蔵の郡ぞ」と、冗談を言ったそうだ。
(どうも”シソウ”と”ヒゾウ”を掛けているらしい。実に下手くそなダジャレであるw)

姫路城が、秀吉の居城となった経緯である
(古郷物語)
851人間七七四年:2011/06/01(水) 01:52:39.10 ID:C6sW4fyy
大きくなる前の姫路城の縄張り見てみたいんだけど
何てキーワードで見れるかなぁ?
852人間七七四年:2011/06/01(水) 02:09:08.67 ID:P44p60nw
元々は御着城の支城だよな、姫路城

あった場所も今とはちょっと違う
853人間七七四年:2011/06/01(水) 02:34:30.10 ID:KAUf+0LK
面白い逸話だ
「とろろが宗円」と言うのも可愛い
854人間七七四年:2011/06/01(水) 09:24:45.42 ID:8zfSbsHV
となりの宗円
855人間七七四年:2011/06/01(水) 10:23:14.73 ID:K0Y/he/+
城を献上したのにたいした領地もらえなかったな。
山内さんは一国ももらえたのに。
856人間七七四年:2011/06/01(水) 10:32:25.75 ID:0i9s4Xag
>>855
同じ人から息子は50万石もらったじゃん
857人間七七四年:2011/06/01(水) 10:37:10.46 ID:gBvj1K3V
後世の創作だろうけど、官兵衛パパ半端なく理屈っぽいなw
858人間七七四年:2011/06/01(水) 14:41:55.45 ID:niU1yVvZ
これが後世の創作かどうかは知らないけど、
平和な時代に成立した話は理屈っぽくなる傾向があるな。
戦国真っ只中はもっとこう森武蔵チックだったのだろう。
だからこそ宗茂さんや信繁さんが光る
859人間七七四年:2011/06/01(水) 17:14:05.80 ID:ET2u94bf
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < まだ黒田三代主役の大河ドラマまだ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |   揖保の糸  |/
860人間七七四年:2011/06/01(水) 20:18:40.46 ID:2ZNncOXt
黒田重隆−職隆−孝高の三代ですね^^
861人間七七四年:2011/06/01(水) 21:19:00.76 ID:Rblrydfk
>>860
やべえ、それ見なけりゃ普通にそう思ってたぜ、ってかそう言われて重隆から数えるのはこのスレじゃ多数派かもしれんが
うん、4代にしてやってくれw奥州藤原なんて世間じゃ3代なのに5代やったんだから余裕だろ。
862人間七七四年:2011/06/01(水) 21:21:53.17 ID:yjXr33MU
黒田騒動は需要ないかな
863人間七七四年:2011/06/01(水) 21:25:24.08 ID:L41ouwqG
黒田家ならホームドラマ仕立てに出来そうだな
864人間七七四年:2011/06/01(水) 21:58:47.73 ID:qB9+a0r1
親子四代でねちねち息子をいびるホームドラマか
865人間七七四年:2011/06/01(水) 22:04:09.76 ID:EhSvnTHH
大涼院を主役にして、田淵が書きそう
大涼院から見たスイーツ黒田三代
誰かが書いていたけど、陰謀バカの舅と戦バカの旦那と本物のバカの息子に
翻弄されつつも、けなげな大涼院が強く行きぬくというやつ
主人公はAKBの誰かでいいよ
866人間七七四年:2011/06/01(水) 22:06:28.83 ID:mPjYnBUo
>>861
奥州藤原氏なんてそんなのあったんだ・・・見たかったわw
867人間七七四年:2011/06/01(水) 22:10:19.30 ID:EhSvnTHH
炎立つ・・か
868人間七七四年:2011/06/02(木) 04:04:05.35 ID:qHSZu44L
藤原経清を鋸挽きで処刑して嫁の安倍頼時の娘は戦利品として頂戴したぜ
二人の間の子はまだガキだし連れ子として一族に加えてやろう

そのガキはしっかり復讐の念を胸に秘め続けていましたとさ


そんな感じの殺伐とした大河だったな、炎立つ
ちょっと悪い話の方でも話題になった遺児の扱いに注意ってやつ
869人間七七四年:2011/06/02(木) 10:46:05.42 ID:8KBeI7sm
娘はともかく、遺児なんてどう育てたって危ないもんを
なぜ斬らなかったのか意味不明。

還俗するから出家でも怖い。
870人間七七四年:2011/06/02(木) 10:49:03.08 ID:G+RnmKMm
宮刑にすればいいのに
871人間七七四年:2011/06/02(木) 12:41:12.66 ID:S3XG2Pvh
>>869
その理論だと信澄を斬らなかった信長もってことかね?
872人間七七四年:2011/06/02(木) 12:44:04.57 ID:6e3TgVgX
信長さんは、オレ内ルールが有り過ぎてなんでそう判断したのかわからないこと多すぎ
873人間七七四年:2011/06/02(木) 13:03:05.10 ID:P2YVbVMZ
浅井長政嫡男とか豊臣秀頼の遺児とか幼くてもだいたい処刑されてるな
874人間七七四年:2011/06/02(木) 14:04:13.95 ID:XHiw0gWD
源平以来の基本ルールみたいなもんだからな
875人間七七四年:2011/06/02(木) 16:30:31.88 ID:8KBeI7sm
大大名の1割くらいを占める、例外多すぎなルールだなw
876人間七七四年:2011/06/02(木) 18:30:51.41 ID:iu9TNc1O
草原の掟だと男は子供でもみな殺し
女は奴隷
877人間七七四年:2011/06/02(木) 18:52:20.28 ID:L5sl551I
>>858
理屈っぽいというか儒学臭い。朱子学臭い。
実利と大義名分を重んじる大陸文化の中では、
寸分の隙のない精緻な論理展開は爽快感があるが、
人情とプライドの美学の日本では違和感がある。
まして戦国時代の人間が言うことか?と思ってしまう。
878丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 :2011/06/02(木) 19:04:06.34 ID:An5i4iLN
榊原康政が傷ついた味方一人を抱えて退却した。
家康がその勇気を褒めた。
康政は決まり悪そうに
(本当は怖かったから、何度も打ち捨てて逃げようと思った。
しかし臆病者の謗りを受けるのが嫌だったから仕方なく助けた。)
という意味の事を述べた。
家康はまたその正直さを褒めた。



現代社会でもありますね。
879人間七七四年:2011/06/02(木) 19:53:36.31 ID:+5Bp6nkS
それでも生きて帰って来る康正すげーw
880人間七七四年:2011/06/02(木) 20:48:35.84 ID:iW4gbqit
>>878
登場人物が違うがこれと同じ類の話だな

渡辺半蔵、三方原の撤退にて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4991.html

今気が付いたがまとめサイトって5000も逸話数あったのかw
881人間七七四年:2011/06/02(木) 20:57:12.21 ID:H3WXngpv
>>880
既視感があったんでまとめブログで探したが見つからなかった
自分の勘違いかと思ったら槍半蔵の逸話だったか
882人間七七四年:2011/06/02(木) 21:34:35.98 ID:pzMT6bPK
>>865
あの人はセレブ(笑)な将軍御台所にしか興味を持たないよ
883人間七七四年:2011/06/03(金) 00:14:42.51 ID:G69dANCr
とくにゃんはこういう正直者を褒めるケースが多いね
884人間七七四年:2011/06/03(金) 00:23:09.75 ID:LpO8x5Od
意図的にそういう家風を創ったんだろうね。
いい事でも悪いことでも正直に言ってもらわないと、君主として正しい判断が出来ないしね。
885人間七七四年:2011/06/03(金) 06:05:57.05 ID:zI84Lyif
>>883
武功なんて何にもないと言った義久とかにもか
886人間七七四年:2011/06/03(金) 06:40:50.74 ID:4RBpIBoq
例えば創価学会は、元々教育を非常に重要に考えていて、歴史を簡単なゲームで広める
役割をもつ光栄のゲームは創価に利用されていく可能性も考えられる。純粋な日本人の
会社では無いということだけは誰が見てもあきらかだ。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/mmo/1119004881/


当社ファウンダー取締役襟川陽一が理事長を務める
財団法人 科学技術融合振興財団は、
第2回 FOST賞 授賞式を開催いたしました。

(左から)FOST理事・創価大学名誉教授 大西昭氏、

〜 省略 〜

FOST理事長・コーエー取締役最高顧問 襟川陽一
http://www.gamecity.ne.jp/koeiinfo/20090312.htm
887人間七七四年:2011/06/03(金) 08:31:17.75 ID:Tex3vIp6
するふなどいうものを、われもしてみむとして するなり
888人間七七四年:2011/06/03(金) 12:57:17.40 ID:d1KNbqzO
>>885
他家とは腹の探り合い。
三河武士とは腹の見せ合い。
889 忍法帖【Lv=5,xxxP】 !nanjya!:2011/06/03(金) 14:36:39.02 ID:skkq6FQm
>>888
「腹の中身」の見せ合いとなっ!
890人間七七四年:2011/06/03(金) 14:43:09.37 ID:3zERUm9D
あながち間違っちゃいない
891人間七七四年:2011/06/04(土) 00:05:19.39 ID:AmtRK22e
津波で流された政宗の直筆手紙、奇跡的に発見
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110602-OYT1T01193.htm

>宮城県石巻市の旧家に代々伝わり東日本大震災の津波で流された仙台藩初代藩主・伊達政宗
直筆の手紙2通が5月31日、隣家の敷地で奇跡的に見つかった。
手紙は掛け軸になっており、海水をかぶり、多少変色したものの、ほぼ無傷。
伊達家資料を研究している仙台市博物館によると、ともに嫁いだ娘に宛てた私信で、
発見した所有者の男性は「もう見つからないと思っていた」と感激している。

手紙は、宮城県角田市一帯を治めていた石川家に嫁いだ次女・牟宇(むう)姫に宛てたもの。
約400年続く石巻市湊町の旧家の20代目で、歯科医師内海伸宏さん(59)が所有している。
入手経緯などは不明だが、代々、「政宗の手紙」と受け継がれ、内海さんが掛け軸に仕立てた。
内海さん宅は土蔵とともに津波で全壊。掛け軸は木箱に入れて土蔵で保管していたが、
建物ごと流され、内海さんが5月31日、がれきの中で先祖の位牌(いはい)を捜していた際、
偶然、隣家の敷地で見つけた。

まーくんマジツヨス
892人間七七四年:2011/06/04(土) 00:09:41.73 ID:uzWubHgA
政宗の悪運が乗り移ったかのようだ・・・
893人間七七四年:2011/06/04(土) 00:22:30.43 ID:A/QtvY1/
まーくんを信仰すればまじで救われるんじゃね?
894人間七七四年:2011/06/04(土) 00:40:45.57 ID:qe5gum2f
そういや政宗ってもっと海の近くに居城作りたかったんだっけ?
もしそうしていたら仙台に相当する都市が津波に飲み込まれて数十万死んだかもしれんな。
仙台があの場所でよかったね。くわばらくわばら
895人間七七四年:2011/06/04(土) 00:55:58.48 ID:DPVS9A7s
つーか仙台はまさに政宗の時代に、慶長三陸地震(慶長16年(1611年)10月28日)の大津波で
仙台湾も壊滅してるからな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
896人間七七四年:2011/06/04(土) 06:38:35.12 ID:3iTkiGLO
>>894
やっぱ、貿易の利便性を考えて?>海の近く
897人間七七四年:2011/06/04(土) 06:41:48.62 ID:fa3HwjvG
幕府に憚ってか当時じゃ時代遅れの山城を居城としたんだよね
さすがに年取って登城がしんどくなってか平地の若林城に隠居したけど
また幕府との不測の事態に備えて瑞巌寺一帯を要塞化
初代小十郎が秀吉から貰った軍船「小鷹丸」を旗艦とし
二代目を水軍大将に任命(なので石巻に飛び地の領地があった)
898人間七七四年:2011/06/04(土) 06:42:45.90 ID:sdd3Domu
だけど奥州街道の宿場町とか道筋は津波の被害にあわない
ギリギリのところに配置しとるぞ・・。
899人間七七四年:2011/06/04(土) 18:10:02.52 ID:lA1RO6UX
>>897
> 幕府に憚ってか当時じゃ時代遅れの山城を居城としたんだよね

いや、むしろ幕府に憚らなかったので山城w
当時でも戦うという面だけ考えれば、山城のほうが防衛力、戦闘力はあるのよ。
つまり政宗は青葉城建築時は、まだまだ合戦する気満々だったわけだw
900人間七七四年:2011/06/04(土) 20:06:36.46 ID:rRpRfJZ2
広瀬川にかかる大橋を渡るとすぐ左手に片倉家の陣所があるんだよな
どれだけ小十郎をコキ使…頼りにしてんだか
901人間七七四年:2011/06/04(土) 20:57:37.89 ID:uzWubHgA
瑞巌寺についても家康がブチ切れたって聞くけどホントかね
902人間七七四年:2011/06/04(土) 21:08:01.93 ID:aeC4T7J8
大化元年(645年)、朝鮮半島より新羅の賊軍が我が国へ攻め寄せてきた時のこと。
時の帝孝徳天皇の皇子表米(うわよね)親王(表米宿禰命)は、天照大神の託宣により、
迎撃軍の総大将となり、丹後国から数千隻の軍船を率いて出撃した。しかし、新羅軍の
逆襲にあって苦戦、一時、親王の身も危うくなった。

その時、親王の守護神である正一位十二侯粟鹿大明神が姿を現し、それに力を得た海神
が無数の鮑に姿を変えて敵軍に襲い掛かった。親王率いる軍船はこれに助けられ、遂に
新羅軍を打ち破ることに成功した。そして、親王の御座船に残った鮑を御神体として
祭り、以後、親王の子孫である日下部一族は、決して鮑を食さないことを誓ったという。


それから900年余り後。
日下部氏の傍流、朝倉氏は初代孝景よりおよそ100年にわたり一方の雄として越前に覇を
唱えたが、五代義景に至り織田信長との争いに敗れ滅亡、栄華を誇ったその本拠地一乗谷
も戦火に遭い廃墟と化した。廃墟にはやがて土が積もり、朝倉滅亡よりおよそ400年の間、
夢の跡を保存することになる。


昭和に入り発掘が行われ、良好な保存状態の遺跡であることが判明し、一帯は国の特別
史跡の指定を受けることとなる。現在に到るまで発掘・研究が続けられており、様々な
遺跡・遺物が出土している。変わったところでは汲み取り式便所の遺構も発掘されている。
食生活の関連では、海豚・鹿・狸・鶏・鴨・サメ・鯉・タイ・タラ・河豚などの遺体が
出土している。貝類も出土しているが、そこに鮑は見当たらない。朝倉一族は900年余りに
亘って、鮑を食べることを頑として拒否し続けたのである。

なんとも律儀な朝倉一族の食生活のお話。



※本当は2点ほど鮑も出土してるようですが、それは朝倉一族が食したのではなく、家臣、
 あるいは谷に暮らす住民が食したのではないかということです。

903人間七七四年:2011/06/04(土) 21:37:09.49 ID:EclLDklq
海豚?

シーシェパードが…
904人間七七四年:2011/06/04(土) 21:47:06.05 ID:Vj2OdUJJ
鮑ってアワビ?
無数のアワビが飛んできたら痛いだろうなあ
905人間七七四年:2011/06/04(土) 21:48:18.70 ID:I3tz44pl
アワビがどうやって船を落としたんだろう…
906下げ忘れた:2011/06/04(土) 21:56:08.80 ID:EclLDklq
海中から無数の鮑が飛び出てきて敵の舟を沈めたのかな?
907 忍法帖【Lv=4,xxxP】 :2011/06/04(土) 22:04:59.59 ID:R2y5KoFG
こう考えるんだ、鮑=女w
908人間七七四年:2011/06/04(土) 22:11:31.55 ID:I3tz44pl
隠語過ぎるw
909人間七七四年:2011/06/04(土) 22:50:12.40 ID:La4WNvUv
>>905
敵の船の底一面にビッシリと張り付いて重さで沈めるんだよきっと
910人間七七四年:2011/06/04(土) 23:03:33.18 ID:EclLDklq
出陣式の時はどうしたのかな?

勝ち栗・打ち鮑・あと何だっけ?
で鮑使うでしょ?

食べないからいいのかな?
911人間七七四年:2011/06/04(土) 23:29:51.88 ID:8BA7PNAX
>>910
昆布
912人間七七四年:2011/06/04(土) 23:37:17.51 ID:9+w/vjv0
>>897
> 幕府に憚ってか当時じゃ時代遅れの山城を居城としたんだよね

いや、むしろ幕府に憚らなかったので山城w
当時でも戦うという面だけ考えれば、山城のほうが防衛力、戦闘力はあるのよ。
つまり輝元は萩城建築時は、まだまだ合戦する気満々だったわけだw
913人間七七四年:2011/06/04(土) 23:42:37.29 ID:JYR8HIgD
>>910

熨斗を使ったとか?
914人間七七四年:2011/06/05(日) 05:11:17.72 ID:dLLWv6ss
>>871
毛利元就
相合元綱(弟 誅殺)>敷名元範(息子 家臣)
渡辺勝(家臣 誅殺)>渡辺通(息子 家臣 身代わり死)
結構あるね。
915人間七七四年:2011/06/05(日) 05:20:05.89 ID:dLLWv6ss
>>912
輝元はあそこに建てるよう幕府に指示された。
山といっても小さくて後ろは海だから、
守りは出来ない。
幕末の長州征伐の時も、岩国や下関の境目で戦っている。
916人間七七四年:2011/06/05(日) 06:01:23.98 ID:o54OV5vZ
井戸ないしな・・・堀は海水引いてるし
917人間七七四年:2011/06/05(日) 07:29:33.82 ID:DySXSwUD
中国の倭寇の記録で日本兵は一息で3メートルくらい踏み込んで
斬りまくる瞬歩を当たり前のように身につけてたって記述があったけど
そういうのを裏付ける資料とかあるんだろうか
918人間七七四年:2011/06/05(日) 07:55:46.14 ID:Shp5U9+C
>>914
その何百倍も普通に斬られてるでしょ。
919人間七七四年:2011/06/05(日) 09:32:57.33 ID:TWqEfrdQ
>>912
あんな低湿地に建てられた萩城のどこが山城なんだよ…
山(それも丘と言っていいほどの低さ)の上にあるのはあくまで最終避難所だぞ?
萩城は三角州で形成された惣構が一箇所でも突破されたらそこで終わり。
920人間七七四年:2011/06/05(日) 10:08:14.38 ID:qGMAeoo/
>>917
薬丸自顕流みたいな爪立ちでシャカシャカ踏み込む歩法のことじゃね?
あれ元々野太刀の技術らしいし、地理的にも倭寇と近いしな。
921人間七七四年:2011/06/05(日) 16:32:04.23 ID:st2WKHFz
教えてくだされ。
まとめサイト(携帯電話版)の武将一覧を最新にするにはどうすればよろしいのでございまするか?
922人間七七四年:2011/06/05(日) 18:22:39.91 ID:7MYKeY4Y
まず服をぬぎます
923人間七七四年:2011/06/05(日) 19:58:44.59 ID:5Vd2j4kV
次に機種変します
924人間七七四年:2011/06/05(日) 20:40:27.75 ID:RYEnW/ra
そしてPCで閲覧します
925人間七七四年:2011/06/06(月) 00:33:46.00 ID:WLpP+f1l
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)


永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時

当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという

義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという
926人間七七四年:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)

で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く

これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」

「ふむ」

「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」

信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」

ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという



なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります
927人間七七四年:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?
928人間七七四年:2011/06/06(月) 00:55:18.86 ID:ikPMXndP
寛永13年(1636)5月、病躯を押して江戸に参勤した伊達政宗であったが、江戸に置いても
病状は深くなり、将軍家光から多くの医者を派遣などされるものの、その身は日に日に痩せ
体力も衰え、18日には薬や湯水すら竹のす(ストローのような物)を使わないと飲めない、
というような有様となっていた。

この日、政宗はつくづくと

「わしはどんな死病にかかろうとも、これほどまでに疲労し弱り果てるわけはないと思っていたが、
体中からだんだんと体力が奪われ衰えていく、実に口惜しいことだ。
湯水を飲むのに竹のすを頼りにするなんて、こんな情けないことはない。
こうして体力が無くなっていってその後、心も失せるのだろうな。」

と言ってカラカラと笑った。これを聞いたお側の小姓たちは、思わず声を上げて涙をこぼした。
と、これを見た政宗はキッと目を怒らせ、死にかけの病人とは思えぬ大声を出して
小姓たちを叱りつける

「わしの身近くで働く者に似合わない、未練至極の振る舞いである!
死ぬその瞬間まで、武士とは名を惜しみ恥を思うものだ。弱気を見せぬことこそ
男の役割である!この武士の道を反する者は、誰であっても許さん!

本当のことだか知らないが、釈迦が入滅するときは川に住む小魚まで集まって別れを惜しんだそうだ。
その時天から釈迦を救うための薬の入ったが下されたというが、それは途中樹の枝に引っかかり
釈迦に届くことはなかった。これはどんな人間でも死ぬ時が必ず来る、と言う事を表した説話であろう。」

政宗は心底腹を立てている様子であった。が、ここで声を和らげ

「まあ、そんなふうに言ったがお前たちがそのように泣いたのも、考えて見ればしょうが無い。
お前たちは幼い頃からわしの身の回りを片時も離れす召し使われてきた。
そのため世間を知らず、死ぬほどの病人を見たこともないだろう。
そういう経験がないから、わしももう死ぬのではないかと思ってしまったんだな?

なあに、死ぬ病人なんてものは、今のわしの病状程度ではすまぬぞ!」

と、優しく言葉をかけた。
この政宗の言葉に小姓たちは、却って更に泣き出してしまったそうである。

政宗の士はこの日から6日後の、5月24日であった。
死を目前にした伊達政宗が、その厳しさと優しさを垣間見せた逸話である。
(木村右衛門覚書)
929人間七七四年:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった
930人間七七四年:2011/06/06(月) 01:39:11.56 ID:/h5ccuUA
>>928
最後の誤字が惜しいな。
>政宗の士
931人間七七四年:2011/06/06(月) 09:24:10.46 ID:x4fw+MOf
戦場で鍛えた喉で発する叱責ってどんなもんだったんだろ
932人間七七四年:2011/06/06(月) 09:41:34.89 ID:6lxswCEb
兼続「聞いた風な口を利くなー!」

これだろ
933人間七七四年:2011/06/06(月) 13:08:54.06 ID:2fgXsUQS
散々弱音吐いておいて、無茶言うなよまーくん(′・_・`)
934人間七七四年:2011/06/06(月) 16:00:21.43 ID:sh9xVMbv
>>928
政宗の気迫もいいがその釈迦の話は他力本願の極地だな。
武士と仏教のいい話GJ
935人間七七四年:2011/06/06(月) 17:51:16.02 ID:Q8uuzdUW
毅然としてたらしてたで、小さいころから面倒見てたのに涙の一つもこぼさない! とかなんとか言いそう
936人間七七四年:2011/06/06(月) 19:37:19.04 ID:PPqo9bcz
目が半分だしw
937人間七七四年:2011/06/06(月) 20:05:47.17 ID:hzaJsiKd
洛中洛外図屏風にVサインの町娘が描かれている件 (画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/
938人間七七四年:2011/06/08(水) 00:12:22.87 ID:LK/bGA6e
女性がたくましくていい話(既出だったらスルーしてください)

http://newsworlds.blog129.fc2.com/blog-entry-1292.html
>>36

36 :七つの海の名無しさん:2011/06/07(火) 10:01:41.67 ID:iFNzQrW5
●宣教師ルイス・フロイスの書いた『日本史』

「実家より銀や食料をもち、城や領地を担保にとっている
実質上の女城主が多い」

●徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の書き残した『史籍雑纂』

「自分たちの若いころは、人手が足りないせいもあって、
女もみな戦場へ狩り出されたものだ。
なにしろ兵をくり出すには、飯たき釜や薪をもったり、馬の飼葉を
持っていく補給部隊が、兵の三倍は必要になる。
男の中には血の匂いを嗅いだだけで、目まいのしてくる情けないのもいるが、
女は毎月そうしたのになれているのか、いざとなると度胸がすわっている。
攻めこまれたときは陣場を守るだけでなく、剃った眉毛を炭で太くかき、
口はびんろうじゅやざくろをかんで赤黒く染め、ワアーッと真っ先に突撃していく。
天正、慶長の当今の武者どもより、よほど勇ましかったものだ」

●豊後・大友家『大友文書』

「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。
されど娘ありて勇壮。
城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」
(この娘は立花宗茂の妻となる)

●「美濃国諸旧記」

花隈城主・池田せん女は池田恒興の長女で、
200人の女鉄砲隊を率いていてた。

「岐阜城を取り囲みし軍勢の内にて、真っ先に城門近くの松並木を楯にとりて、
池田方の先手、ものすごく鉄砲を射ちかけるに、城主・織田信孝殿も、
女めらの弾玉の餌食になるは無念なりと、野間へ落ちたまう」
(せん女は森長可の妻となる)
939人間七七四年:2011/06/08(水) 00:14:31.38 ID:LK/bGA6e
>>938
自己レスだけど、道雪はこれによると、矢傷が化膿して、歩けなくなったとあるね

小松姫も首化粧とかしていたのかな。
940人間七七四年:2011/06/08(水) 16:24:02.83 ID:i+//a8iR
>>938
女性も乱世に適応してたくましく生きていたのな。
旦那がとってきた敵将の首にハクつけるため
妻がその首を洗ってお歯黒つけてやってたという話も聞くし。
妻の身を案じて出陣ためらってた毛利勝永の背中を押して大阪城入りさせ
その後夫と最期を共にした彼の妻も大した度胸だ。
941人間七七四年:2011/06/08(水) 17:54:55.48 ID:m73wzA0W
>持っていく補給部隊が、兵の三倍は必要になる。
保育園ですら数分の1で済むだろwww


でも1割くらい未亡人部隊入れてても良いよな(;¬_¬)
でも1割くらい未亡人部隊入れてても良いよな(;¬_¬)
942人間七七四年:2011/06/08(水) 21:45:41.12 ID:H8IaHNz1
鬼武蔵は奥さんもヒャッハーだったのか。
943人間七七四年:2011/06/08(水) 22:53:39.54 ID:LeHhpmmm
いい話だ

佐竹義宣は律義者として有名であるが、彼の治世も律儀であった。
まず有名な逸話として豊臣家の統一後、
それまで北条に佐竹家と共に苦楽を共にし戦ってきた国人衆を呼び出して皆殺しにしているが、
佐竹の民衆のために律儀に皆殺しにしたのである。
石田三成との親交で知られるが関ヶ原合戦では三成を完全に捨て徳川家康についた。
その後取り成すわけでも助命嘆願をするわけでもなく処刑を完全に見過ごしているが
これはもちろん、徳川家を敵に回しては佐竹家は成り立たないとの判断であり、
けして石田三成に佐竹義宣は不義理をしたわけではない。
もちろん、徳川家康に出羽半国に飛ばされた後に
そ出羽の佐竹領の寺に三成がやってきてある日切腹してしまったという確認のしようがない後ろめたいためかあからさまに捏造した
いい話が残っている。
また秋田に美人を全員連れていってしまったため秋田は美人ばかりであり、茨城はブスばかりとの逸話も残っており
秋田人にいい思いをさせたいという律儀な行動だったのだろう。
944人間七七四年:2011/06/08(水) 22:57:36.75 ID:5Y3Sctbe
せめて日本語使える様になってから書き込もうぜ。
945人間七七四年:2011/06/08(水) 22:57:52.35 ID:eYDIUQvS
こんな逸話とも言えないもの、まとめには収録されないだろう
946人間七七四年:2011/06/08(水) 22:57:54.32 ID://9dN6qu
>>943
三成を完全に捨て家康についたってくだりにちょっと違和感が、そこは親父さんの主張でね?
947人間七七四年:2011/06/08(水) 22:58:25.05 ID:mO4zFC+i
既出じゃないか?
948人間七七四年:2011/06/08(水) 23:04:20.60 ID:dK/hyKkR
皮肉にしちゃエスプリが効いとらんな
949人間七七四年:2011/06/08(水) 23:06:08.73 ID:BvLoyULL
>>938
ちょうど今日のヒストリアで
忠勝の話と恒興の娘の話が出てきた
権現様が家臣に語ったことになっていたから、忠勝に
「昔の女はいまどきの男より勇ましかった」と語ったということか
わざわざ昔の女の例をあげなくても、忠勝のすぐそばに勇ましい女が居る気がするが
950人間七七四年:2011/06/08(水) 23:10:32.42 ID:c963Ect+
そういや、忠勝の娘の一人がごつくて親父=忠勝の影武者まで務めたみたいな
話しもあったと思ったけど、実在の娘の話だったのかな?
951人間七七四年:2011/06/08(水) 23:20:47.57 ID:LK/bGA6e
鬼武蔵率いる屋根瓦衆と、池田せん指揮下の女鉄砲隊と合コンしたら
さぞかし盛り上がったと思う。酔った勢いで景気づけに火縄銃を
ぶっぱなす男女が出てきそうだから、俺は参加したくない
952人間七七四年:2011/06/08(水) 23:22:41.24 ID:LeHhpmmm
いい話だ

織田信長の残虐な性格は有名であるが、自らの親族にもそれは向けられた。
1572年武田信玄が上洛を決意し、武田信玄から派遣された秋山信友に率いられた武田軍が
女性城主であったおつやが治める東美濃の岩村城を攻め岩村城を落城させるに至りその時、
軍事力を背景にした秋山とおつやとの強制的な婚姻が行われ望まぬ婚姻をおつやは余儀なくされたのであった。

1575年、信玄が死に勝頼が長篠戦いで大敗し、武田の圧力が減ったためか織田信忠の軍勢が岩村城を包囲した。
秋山信友は武田家への捨石として必死で戦い、織田信忠軍は兵糧攻めに切り替え
その後秋山軍は6ヶ月もの間信忠軍を拘束し続け武田家は援軍を出せるまでに回復した。
しかし城内の物資が底を付き、武田軍は援軍を大雪に阻まれて出すことが出来なかったのである。

これをみた信長は秋山が降服するなら城主である秋山夫妻を助け城兵の命も安堵すると寛大な条件を出し
秋山への降伏を迫り、秋山は抗戦は不可能だと判断し信長に降伏したのである。
おつやは戦国期なら誰でもそうであるが特別な軍事力を背景とした「屈辱的な望まぬ婚姻」から開放されるべきときがきたのである

しかし信長は岩村城を開城した秋山信友をだましうちにし殺害。そのまま岩村城を接収した。
しかも親族であった自らが武田信玄上洛時に援軍を出さず見捨てたおつやまで逆磔にし
岩村城外で衆目が見守る中おつやを晒し者にしたのである。
おつやは当然のことながら信長の騙し討ちや親族すら見捨て殺害する暴挙に激怒。
逆磔で死ぬ間際に「そのような非道な振る舞いは天が許すまじ」と磔にかけられながら絶叫し死亡した。
その言葉が現実になるのは7年後のことである。
953人間七七四年:2011/06/08(水) 23:32:09.35 ID:eYDIUQvS
ID:LeHhpmmmは中高生くらい?
954人間七七四年:2011/06/08(水) 23:44:04.34 ID:hfMMSXcV
どうすんだよこれ
955人間七七四年:2011/06/08(水) 23:45:10.78 ID://9dN6qu
なんだろうねぇ、これは
956人間七七四年:2011/06/08(水) 23:50:57.54 ID:OeNe9jSY
>>949>>950
ここに書き込む前に、まず真田家に問い合わせた方が早いような気がするが?
957人間七七四年:2011/06/09(木) 00:04:32.94 ID:UG2WS3VS
>>956
なぜ真田家に?
それはそうと>>938はソースが『史籍雑纂』てことになってたけど、
『史籍雑纂』じゃいろんな史籍を集めました、てことで不正確のような
調べたら「遠州中泉本多忠勝聞書」にこの文章が残っているそうだから
家康の言葉かどうか調べてみる
958人間七七四年:2011/06/09(木) 00:11:14.05 ID:Nhp7GXsD
いい話

戦国時代の勝利者、徳川家康は戦国のを太平の世にに変えるべく日本に儒教道徳と朱子学を導入した。
儒教とは孔子を祖とする学問であり仁義礼智信を治め、人道を大事にする優しい教えであるため
徳川家康は儒教を導入したのであろう。けして徳川家の天下のみを安泰させるためではない。
この儒教は「親を大切にする」「企業に忠義を尽くす」など現代の社会規範のベースとなっており徳川家の天下泰平の影響が現代でも見受けられるのである。

徳川家康が導入した朱子学は武家の間に瞬く間に日本中に広がり、あのドラマで有名な水戸黄門も朱子学に傾倒し
日本の歴史を残すために朱子学的な書である大日本史を8割の税をとりながらもどうにか完成させる偉業を成し遂げた。
また彼の朱子学的な勤王思想は水戸学となる。

江戸時代の摂政である新井白石は、近代経済学の常識である「国家が信用を創出し通貨を管理する」思想を先進的に有していた
荻原重秀を儒教思想のもとに失脚させデマを垂れ流し貶める「荻原の死体を八つ裂きにするべき」などと主張したりし
現在の新自由主義経済のような「商人が跋扈する社会」を厳しく対処している。

幕末には朱子学的に傾倒した志士が尊皇攘夷を主張し外国人を無差別に殺害し
特に幕府が近代化に四苦八苦してる時に水戸学がスタンダートとなっていた水戸藩が親藩なのに
テロを起こしまくり幕府の足を引っ張った。皮肉なことに徳川慶喜が将軍になった後に苦労することとなる。
志士たちは攘夷に失敗した後近代化を指向していたが強力に推し進めた。

大日本帝国時代は修身教育と教育勅語で愛国心を養った。

戦後も日本人は会社に忠義を尽くし長時間労働で滅私奉公をし高技術に貢献しているのである。
新卒が常に採用され年上上司を師とする牧歌的なシーンも儒教であり、年功序列は年とともに責任を負わせる
日本社会の微笑ましい体制である。
また役人を高給高待遇で雇いまた言うことを民衆は聞き犯罪者の家族まで責任を追求するため「秩序」は優れている。
これらはすべて無秩序の戦国時代に心を痛め儒教を導入した徳川家康の功績である。
959人間七七四年:2011/06/09(木) 00:13:42.94 ID:juHznd9v
>>957
もっと分りやすくいうと、信之さんに
『なんか平八郎んとこの娘がえらい男前って聞いたことあるんですけど、
こころあたりありませんかね?』
って聞いてみたらどうじゃろおかい? ってことだと思う。
960人間七七四年:2011/06/09(木) 00:26:23.27 ID:juHznd9v
>>949の人は
>わざわざ昔の女の例をあげなくても、忠勝のすぐそばに勇ましい女が居る気がするが

とあるように、真田家に問い合わせする必要はない
961人間七七四年:2011/06/09(木) 00:32:51.40 ID:roOpX2r/
>池田せん
戦国大戦辺りで萌えヒロイン化されてると思ったら意外にノーマークだったな
史実で女鉄砲隊長ってかなり美味しいと思うんだが
962人間七七四年:2011/06/09(木) 02:21:12.43 ID:S1QQ+ozn
萌えはもう勘弁してくれ
963人間七七四年:2011/06/09(木) 02:38:17.90 ID:UG7HMgxU
昔、文頭に「いい話だ」とつけてワケのわからんこと書きなぐる荒らしが
いたけど、たぶんそいつがまた湧いて出たんだと思う。
964人間七七四年:2011/06/09(木) 03:42:15.34 ID:9GHr+y22
本気なのか荒らしなのか見分けつかんなw
朱子学好きそうな固い文章ではあるw
朱子学はルール秩序重視になり過ぎて自由な創造性がなくなる傾向がある。
戦国気質のイザとなったら下剋上の気概の残る江戸初期には調度よかったのかもしれないが。
案の定幕末は自由な学風の陽明学徒が活躍したもん
965人間七七四年:2011/06/09(木) 06:06:44.58 ID:f7PvwAb+
陽明学派は「グダグダ言ってる暇があったらやれ」っていう知行合一の
極端な連中が多かったから時代にも合ってたしなー

ほんとにあの時代の連中は無茶すぎるw
着の身着のまま飢えながら出てきて後半だと上京すれば食えるって連中もいたくらいだしな
966人間七七四年:2011/06/09(木) 10:34:33.68 ID:DlNqjy6h
瓜の時分、黒田如水の下には家中や領民たちから、たくさんの瓜が献上された。
如水は伽坊主、小姓、また城に詰めているものなど皆を呼び出しこれを食わせた。
その時皮を剥く物に、「皮は必ず厚く剥け」と申し付ける。
これを聞いた伽坊主の一人が

「瓜の中には大変小さいものもあります。その皮を厚く剥けば、食う所は殆ど無くなってしまいます」

と、如水に申し上げた。これに如水

「いやいや、一つで足りなければいくつでも食え。そしてその皮を長持の中に入れておくのだ。」

そして台所の賄人を呼び出し

「あの長持に入っている瓜の皮を塩漬けにせよ。
台所で飯を食っている家臣たちの中には、おかずの無い者が多い。
そういう者たちに、それをおかずとさせよ。
それから茄子の皮、その他野菜の切れ端、魚の骨、そういったものは少しも捨てず
それぞれ食えるように拵えて、おかずの無い者に食わせるようにせよ。」

そう申し付けた。それから城中の台所ではどんなものでも無駄にせず如水の命じたようにしたので、
それまで塩汁のみで飯を食っていた者たちに、おかずも付くようになった、とのことである。
(古郷物語)
967人間七七四年:2011/06/09(木) 11:05:19.65 ID:7XICEUlv
如水さんこまごましてておかんみたいだ、ためしてガッテンとかああいうのり
968人間七七四年:2011/06/09(木) 11:09:07.08 ID:KNaWX7Tg
魚の骨ってどうやって食えるようにするんだろう?
969人間七七四年:2011/06/09(木) 11:12:01.65 ID:mYTuLq8A
乾燥させて、砕いて、ふりかけにする
970人間七七四年:2011/06/09(木) 11:15:48.19 ID:qDmIHn1U
骨煎餅とか
971人間七七四年:2011/06/09(木) 11:24:23.79 ID:f7PvwAb+
>>967
如水と秀吉ってほんと似てるよなーってのがよく分かるな
秀吉も一介の侍大将〜城主だった頃はこんな感じじゃんw

ただ秀吉は元々金持ってたわけじゃないからあまり貧乏くさいところを
人に見られるのを嫌ってたのが違うだけで
972人間七七四年:2011/06/09(木) 11:26:28.79 ID:pIaUJuSZ
私的なサル話なんて聞いた事ないw
973人間七七四年:2011/06/09(木) 12:15:35.23 ID:ZYNXVlwA
当時の飯だとカルシウムやたんぱく質は非常に不足するだろうからね
魚の骨を食うのは合理的だ
974人間七七四年:2011/06/09(木) 12:30:43.52 ID:d0Gk/jiE
こうやってコツコツ貯めてたのを関が原のときに大放出したんだろうな
975人間七七四年:2011/06/09(木) 12:50:25.10 ID:WtTiPAKb
上杉の家臣でも、お金大好き^^/な人いなかったっけ?
嫌われてたけど関ヶ原前後の騒乱時に全部献上して漢を上げたって話あったような〜

あと、黄金小判を控えの間で見てる時の話はヲチが結構好きだな〜



まぁ、一家を構えると武者働きだけじゃなく算盤も弾けないとだめなのよね〜って話がオレは好きです
976人間七七四年:2011/06/09(木) 13:09:40.99 ID:WhE/+Du+
>>975
岡野左内のことかな?
977人間七七四年:2011/06/09(木) 13:19:04.52 ID:AHHhabpv
黄金のふとんか・・・


秀吉って信長に使えた頃には商いから足を洗っていたのかなあ
兼業武士なんてけっこういるけどさ
978人間七七四年:2011/06/09(木) 13:27:41.61 ID:VGcgRZ4e
>>943
日本語が不自由だから英吾で書け
979人間七七四年:2011/06/09(木) 13:49:20.86 ID:9GHr+y22
>>977
その時期になると蜂須賀始めとした水運業者たちが下にいたし、
自分が直接動かなくても金用意出来たのかもしれないな
980人間七七四年:2011/06/09(木) 16:16:14.40 ID:8B82UAHd
そろそろ次スレ立ててみる
981人間七七四年:2011/06/09(木) 16:18:48.23 ID:8B82UAHd
だめだった。どなたか頼みます。


↓スレタイ

戦国ちょっといい話27

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
982人間七七四年:2011/06/09(木) 16:21:56.12 ID:WhE/+Du+
>>981
俺もレベル足りなかったわ・・・
983人間七七四年:2011/06/09(木) 18:17:10.47 ID:WtTiPAKb
>>976
まとめサイトみてきたら岡(野)左内だね〜
まーくんと愛の人の話とか、上田宗箇の逸話とか、武将とお金の話題はなかなか面白い


で、新スレは無理だったorz
984人間七七四年:2011/06/09(木) 19:25:47.77 ID:H721/ntq
>>966
瓜の皮にはシトルリンという物質が豊富に含まれてる
俺も西瓜の皮は捨てずに漬物にするよ
985人間七七四年:2011/06/09(木) 21:08:31.55 ID:4dZgJChl
(1/2)

ちょっと出遅れてしまいましたが、勇ましい奥さん(の旦那)の話

島津家の家臣に桂忠詮、通称を神祓という者がいた。

九州征伐時の折に平佐城を預かっていた彼は、義弘や歳久と同じように
秀吉への降伏には猛反対。泰平時での和睦の後も頑なに平佐城に篭り続けていた。

さてこの平佐城、シラス台地を削って作った崖を城壁代わりに持つという
薩摩独特の城であった。

未だに反抗的な態度をとる忠詮の元に小西、脇坂、加藤らの7000の大軍が押し寄せた。
対する忠詮の軍はわずか300、だが忠詮はこの大軍に臆することもなく
近所の坊さんや宮司を呼んで酒宴を開き、自若たる者であった。
これを憎らしいと思ったか、小西らの大軍、どっと城に攻めかかったが
先述のシラス台地の崖が、文字通り立ちはだかった。

そもそもシラス台地とは火山灰が降り積もって出来た台地である。
非常に歩きにくく、慣れていなければ平地でも足を簡単にとられてしまう。
まして平地ではなく崖である、登るのは容易ではない。

対して相手は薩摩隼人。シラス台地の歩き方をかって知ったる者たちである。
登ろうとすれば矢を射られ、足をとられた所を打ちのめされ、
小西ら豊臣勢は散々に追い返される始末であった。

それでもさすがに大軍である。多大な犠牲を払いながら粘り強く攻め立ててくる。

ここでいよいよ注進が飛ぶ。「城の命は刻々迫りつつあります」

酒宴中の忠詮は盃もおかず「副将の谷山紀伊と宇都宮和泉はどうした」ときけば
兵卒は「両名、なおも勇を奮って奮戦中であります」と答える。
忠詮は「ならば問題なし」と盃をあおり卒にも「まあ一杯やっていけ」とねぎらう余裕振りであった。
986人間七七四年:2011/06/09(木) 21:08:50.78 ID:4dZgJChl
(2/2)

そして敵軍がもうすぐ崖を登りきろうか、というときにようやく忠詮は動いた。
奥方を呼ぶと「かねての手はずどおりに頼む」と言うや、手勢数十名を引き連れ姿をくらましてしまったのである。

さて、ようやく崖を登りきった豊臣勢、城門を打ち壊して島津方を一挙に屠らん…
というところで城門が開いた。何もしてないのに。
だが変化はそれだけでは終わらなかった。
開いた城門の先には奥方率いる侍女の鉄砲隊が身構えていたのである。

これまでの飛び道具は弓矢にとどめ、ここまで温存しておいた弾に火薬、
一気に使いきろうという勢いでゼロ距離射撃である。
豊臣勢はたちまち壊乱、先の副将二人に散々追い散らされ崖から突き落とされる始末である。
崖の麓に命からがら逃げてきた兵も安堵は出来なかった。

「さて、仕上げにかかるか」悠然と一隊を率いて現れたのは、先ほど姿をくらました桂忠詮その人であった。
まだ6000人以上の豊臣勢、本来なら恐れる必要もない数十人の手勢に追いまくられる。
その大勢は近くの沼沢に追い落とされた。
そこに崖の上から谷山に宇都宮、そして奥方まで合流したのだから、後はもう一方的である。
みな思いのままに首級を上げた。その戦果は自軍と同じ300。

彼方へ敗走する豊臣勢に忠詮は大声で告げる。
「ここでお前たちを討つは容易いが、それでは伝言役がいなくなってしまう。
 帰って猿面冠者に伝えよ『主君義久公が受けた屈辱はこの忠詮が雪ぐ。首を洗って待っておれ』と」

まあ、この後どうなったかというと義久の頼みで渋々降伏したり、
秀吉から宝寿の短刀はありがたく拝領するけど、直臣のお誘いは一蹴したり、
とデ新納さん同様の結末をたどっております。

さらにその後、桂忠詮は義弘の供をして朝鮮へ渡海したり、
関ヶ原では山田有栄と殿の役を競い合ったり、
といろいろ武勇伝を残しているのですがそれはまた別の話。

…で、私も新スレ無理でしたorz
987人間七七四年:2011/06/09(木) 21:35:17.91 ID:CcULw6oU
どうぞ

戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
988人間七七四年:2011/06/09(木) 21:40:33.58 ID:8B82UAHd
>>987
大感謝
989人間七七四年:2011/06/09(木) 23:01:09.86 ID:Nhp7GXsD
いい話
毛利勝永の妻の話がこのスレで出てきたから言及することとしよう。
毛利勝永は豊臣秀吉の黄母衣衆の一人で譜代である毛利勝信の子であり、父と共に豊臣家に仕えた。父が主君秀吉から小倉6万石に封じられ、勝永にも1万石が与えられ
秀吉の計らいによりそれまでの森性から中国地方の太守である毛利姓に改め朝鮮出兵にも出陣し、戦功を立てている。
1600年、毛利勝永は関ヶ原の合戦で父と共に西軍として出陣し伏見城の戦いでは抜群の戦果を残すが関ヶ原本戦では石田軍が敗北したため父と共に改易となり父子は加藤清正、山内一豊に身柄を預けられた。
毛利親子が関ヶ原の合戦後に死罪にならなかったのは奉行であった父、勝信が以前伏見城普請で困っていた家康に密かに木材を渡したからである。
親交があり同郷であった山内一豊には父子共に手厚く扱われ弟が山内家の家老にまでなり二千石を有し、
勝永には(勝信?)千石の領地が与えられ勝永は山内家で不自由ない生活を送った。
時代は流れ豊臣家と徳川家が険悪な関係になり父は既に死んでいた。毛利勝永は豊臣家の恩に報いるため大坂に参陣するべきかどうか悩みに悩んだ。
勝永は現代の主家である山内家にも大きな恩があるが昔に豊臣家から受けた大恩が忘れられなかったのである。それどころか四国に流されてからも毛利家は豊臣家に援助されていたからだ。
毛利勝永は悩んだ挙句「豊臣家から受けた恩のために秀頼公のために一命を捧げたい」と妻に相談した。
これは勝永が大坂城に入ると妻や息子が犠牲になるということで、勝永は恩のために死んでくれないかという
ある意味では自分勝手な残酷な決断を妻に託したのである。妻はその夫の悩みに見事な女傑とも言うべき「お家のために働くのは名誉です。私たちのことが心配なら私たちは死にます」
と夫に答え、自らの犠牲のもと恩に報いるべきとあっぱれな答えを残した。
さてその見事な女傑である妻のあっぱれな返答を受けた毛利勝永は大坂城に参陣することとし、索を使い山内忠義との衆道関係を利用し
人質を国許に一計のために残し息子である毛利勝家と共に大坂に入場した。徳川家康はこの話を聞き毛利勝永の立派な忠義と奥さんのあっぱれな答えに感じ入ったのか
山内家に「毛利勝永の妻子を殺してはならないと」命じ人質の妻子は城内にて保護されている。
豊臣家から受けた恩のために大坂に入場した毛利勝永は大坂冬の陣では真田信繁と共に出撃策を唱えるが却下され大坂城の守備にまわり無難に守備をしたのである。
大坂夏の陣では見事な獅子奮迅の活躍で家康を切腹寸前まで追い詰めるが哀しいかな、時勢は家康にあり数に押し切られ敗北をしてしまう。
大坂城に退却をし一説には恩に報いるべく秀頼の介錯をし親子とも秀頼に殉じた。
その後毛利勝永の次男は10歳で恩とやらのせいで山内忠義の手によって京都で処刑された。
990人間七七四年:2011/06/10(金) 01:56:23.35 ID:qsqf2bMW
>10歳で恩とやらのせいで
ここの意味を教えてくだされ
991人間七七四年:2011/06/10(金) 07:17:07.97 ID:2Z4JJh5a
10歳になるまで山内家が面倒見てやったも同然だ。処罰は山内家にやらせろ。
って事かな。んなわけないか。
992人間七七四年:2011/06/10(金) 08:08:22.73 ID:hT0xQ+iw
相撲大会で皆殺しといい幕末のヘタレといいどーも山内家は千代以外
カスなイメージしかないわ
993人間七七四年:2011/06/10(金) 08:23:58.16 ID:VtXEyWdf
容堂さんでヘタレなら、他の三百藩の藩主のほとんどは・・・
994人間七七四年:2011/06/10(金) 08:29:34.93 ID:r/jUQi7t
単純に親父が豊家への義理を果たしたがための犠牲でしょ

995人間七七四年:2011/06/10(金) 08:31:17.25 ID:hT0xQ+iw
>>993
他の家はそれ相応の見せ場あるじゃん

松下の馬鹿殿に馬鹿にされてたのもある意味しょーがない成り立ちだし
996人間七七四年:2011/06/10(金) 12:30:11.22 ID:wDrl0ma3
文がくどいと思う。
3行でよろ
997人間七七四年:2011/06/10(金) 12:41:55.41 ID:nKSs+emK
>>996
かまっちゃだめ
998人間七七四年:2011/06/10(金) 14:37:51.72 ID:20lxUEJl
>>992
湿地だった高知城下を整備しなのは一豊なので
それなり貢献してる
999人間七七四年:2011/06/10(金) 15:57:06.16 ID:QC5lVJJh
>>985-986
おもしろかった、寡兵で大兵を打ち破る話は気持ちがいいな
1000人間七七四年:2011/06/10(金) 16:25:12.24 ID:2wnnq5PW
せん
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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