天正10年の武田攻めを語るスレ 3

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724人間七七四年
>>721
武田信豊は父の信繁を継いでるから信濃に領地なんて無いだろ。
兄弟は信濃国佐久郡の望月氏を継いでるが、
そこは浅間山に激近いし上野国に隣接してる。
それと今福筑前守は駿河国久能城主だし。
信濃衆とする根拠はなんだ?
だいたい武田信豊が木曽討伐に向かったのと
今福筑前守が織田を迎撃した話は完全に別物なのに見事に混同してるし。
まず信豊が鳥居峠で木曽に敗北って甲陽軍鑑の話だろ・・・
しかもその時はまだ織田軍は来てないし
後詰の勝頼2万は諏訪で軍議をするが
信廉は派遣先の伊那から無断で甲府に帰るし
諏訪に帰ってきた信豊も病気と言って軍議欠席がちで勝頼は諏訪で立ち往生。
そのうち織田軍がやってきたが、やはり諏訪で動けずにいたら
穴山が謀反した報が入り、勝頼を見捨てる者続出し軍は崩壊。
この武田軍の混乱ぶりは、すでに余震や小規模噴火が多発していたので
諏訪から動けない状況になっていたのではなかろうか。

公記の記事に従うと2/2に木曽討伐に15000で勝頼が出陣したとされる。
2/6に木曽が信長に援軍を求めてるのが史料でわかる。
それを受けて信忠が2/11に岐阜を出陣してるのも史料でわかる。
2/14火山噴火
公記に従うと14日に信忠は岩村に到着して滝川や川尻を差し遣わせる。
公記によれば14日に松尾城の小笠原が織田に味方すると言うので
団や森らが先陣として木曽峠を越えて松尾城落城させ(飯田地域平定)
さらに進んで2/16に今福筑前守が織田と交戦して鳥居峠で敗北とされる。

公記によれば伊奈口節所に滝が沢要害を構えて下条伊豆守が守備してたが
2/6に下条伊豆を裏切り家老の下条九兵衛が逆心
し川尻与兵衛を岩村口に引き入れたとする。
2/7に高倉永相が村井貞勝から信濃半分をすでに制圧したと聞いている。

これについては2/6に武田軍が木曽氏討伐に出撃を受けて
木曽氏が織田に援軍要請している段階なので非常に怪しい記述。
事実としても岩村口に位置してると思われるので最前線の一砦が
侵攻前の調略段階ですでに内通してたのだろうし
こんなところが落ちたレベルは大した問題じゃないのはわかる。
信濃半国制圧は2/14の松尾城を落としてもまだまだ達成できない話で
2/7現在でそれはありえないし、それに付随したウソが滝が沢要害話ではなかろうか。
やはり14日がターニングポイントになってるのは認めざるを得ない。