もし北条氏政が関白秀吉に臣従していたら

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1人間七七四年
信長には媚売っていた北条だから、そのまま秀吉に従うのは自然の成り行き。
小牧長久手の戦で家康からの誘いにも応じなかったので、秀吉も北条に悪感情はない。
一刻も早く大陸侵攻したい秀吉は、関東平定に時間をとられるのを良しとせず、領土は安堵。
よって家康の関東転封はなく、北条が豊臣政権下の最大版図の大名。

太閤秀吉没後、朝鮮の役が大失敗し豊臣恩顧の大名間で内紛の政局下、家康の独壇場とはならず。
関ヶ原は起きないな。
2人間七七四年:2011/03/23(水) 16:52:38.72 ID:csHl+qGn
まー秀吉、家康両方からの思惑に翻弄された観はあるな
秀吉も北条が脅威だっただろうし
家康は徳川北条伊達の三国同盟で豊臣と対決を模索し失敗して
乗せられた北条だけ脂肪と
3人間七七四年:2011/03/23(水) 22:24:34.85 ID:C8sB/wjy
どこが粛清される。多分信雄と家康だろう。
どっちにしろ豊臣政権の崩壊は免れず秀吉は滅亡するかな?
4人間七七四年:2011/03/26(土) 20:10:52.02 ID:p31EVjB8
北條氏政には肥後一国を安堵。
しかし肥後でまた一揆がおこり、氏政は尼崎で死刑となろう
5人間七七四年:2011/03/26(土) 20:57:01.06 ID:VJCEl9lF
関東以外に行く後北条氏とか想像できないな
転封打診されても断って改易くらいそう
6人間七七四年:2011/03/26(土) 22:10:40.72 ID:SuGDxuwj
氏政は左大臣か右大臣に列せられて家康を抜き豊臣政権No2になるな。

んなわけねーだろ。
なんだかんだで北条は解体されるよ。
7人間七七四年:2011/03/28(月) 05:53:22.63 ID:yW0Hwf6Z
豊臣政権下では大大名が普通に残ってる。
別に解体されることなく存在していると思うよ。
もしかしたら上杉討伐に行った家康を景勝と挟撃したかも。
8人間七七四年:2011/03/28(月) 10:23:48.90 ID:JQQsjYWT
どの段階かによるだろ
毛利、上杉はまだ秀吉の覇権が決まってない内から味方したからだし
前田なんかは秀吉身内だし
静が岳以降だと家康以外は織田、島津、長宗我部、伊達、そして北条と軒並みやられてるし
9人間七七四年:2011/03/28(月) 12:43:44.59 ID:yW0Hwf6Z
戦う前に臣従を誓えば残るかな?
軒並みやられたのは戦って負けたって部分もあると思う

10人間七七四年:2011/03/28(月) 12:54:25.95 ID:0BXN1eMw
そもそも>>1の設定だと秀吉は関東、東北をほったらかし。
豊臣政権の前では主家(信雄)や大大名(家康)であっても転封・改易は免れない事を
世に示してもおらず、天下人としての権威が確立しているとは言い難い。
このような状態で大陸侵攻を行う可能性は極めて低いし、行ったとしても
史実より早く敗退して家康が策を巡らすまでもなく瓦解するだろう。
11人間七七四年:2011/03/28(月) 13:26:54.89 ID:LQA0D8mK
そこでダークホース政宗が華麗に登場。
奥州を平定した政宗は関東に乱入し北条領を荒らし回る。
北条は秀吉に救援をもとめるが豊臣政権は半島で敗走中、それどころじゃない。
北条は政宗に城下の盟を誓わされる屈辱を味わうのであった。
12 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/03/28(月) 15:37:48.17 ID:zr4M5Tth
ダークホース(笑)

島津は領土減らされはしたけどそもそもの本拠三州は残ってるし、
関八州とまではいかなくてもそこそこ領土残されるだろ
13人間七七四年:2011/03/28(月) 22:01:37.73 ID:0BXN1eMw
>>11
まあ、秀吉が関東、東北をほったらかすなら政宗の奥州平定も容易・・・ではない。
北条が秀吉に臣従するなら史実のように伊達・北条が組んで佐竹を追い込む事は不可能。
北条はむしろ佐竹を支援しなければならない立場になり、政宗は会津を盗るのも難しくなる。
14人間七七四年:2011/03/29(火) 03:15:54.39 ID:xGGQlAfU
真田・秀吉・信長・家康と舐められ続けた北条
15人間七七四年:2011/03/30(水) 00:05:01.77 ID:UytKPkdE
徳川・北条が豊臣政権最大の大名として中枢を担う

利家涙目だな
16人間七七四年:2011/03/30(水) 09:26:03.09 ID:JwN9Ss33
無いな。
周囲の野心に満ちた配下がチャンスとばかりに北条討伐を訴えるだろう。
家康もその一人だ。
17人間七七四年:2011/04/01(金) 08:18:19.91 ID:fXW2VtgH
信長には臣従の構えを見せていたのに何故秀吉にはあそこまで抵抗したのか
庶民の出と軽く見ていたのかな
18人間七七四年:2011/04/01(金) 09:16:04.01 ID:LFeo4+KE
北条こそ出自が怪しい連中じゃん
19人間七七四年:2011/04/01(金) 11:28:08.39 ID:rPqLkekt
>>18
はぁ?
20人間七七四年:2011/04/02(土) 07:59:02.12 ID:rRumD0ZT
伊勢新九郎の出自は名門伊勢氏
21人間七七四年:2011/04/02(土) 14:52:36.17 ID:mgeO16oG
そもそも氏直が早死にしなければ、伯耆一国を与える予定だったんだろ。
西国に転封だろうな。
22人間七七四年:2011/04/03(日) 20:53:56.85 ID:tQ6RTVXZ
>>20
(らしい)
23人間七七四年:2011/04/07(木) 11:58:16.77 ID:RNZ33Rlg
>>10
関白秀吉の基本方針は、素直に恭順の意を示せば本領は安堵。
秀吉は西国だけでなく関東東北地方にも自分に臣従するよう促している。
秀吉がほったらかしにした大名など、日本のどこにも存在しない。

全国統一の経緯がどうであれ、日本全土が関白秀吉の支配下に入ったことには変わりなく、
大陸に侵攻するのに、何の不都合もない。

唐入りが大失敗に終わったのは、秀吉の戦略が杜撰で稚拙だったからに他ならず、
家康が策を巡らしたわけでもない。
それに外征失敗の顛末は北条の臣従の有無とは全く関係ない。

精神科通ったほうがいいな。
もう手遅れか。
24人間七七四年:2011/04/07(木) 12:56:03.04 ID:WjpR6n13
ネタスレにマジレスするとマジキチが釣れる?
25人間七七四年:2011/04/07(木) 15:10:24.05 ID:Pa2zDAHm
ID:RNZ33Rlgは>>1本人だろ
どうやらネタのつもりじゃなかったらしい

・・・春だな
26人間七七四年:2011/04/07(木) 17:00:08.03 ID:RNZ33Rlg
断崖絶壁に追い詰められると幼稚な便所の落書きで毎度のお茶濁し
27人間七七四年:2011/04/07(木) 17:00:14.54 ID:gI4PVw1n
北条厨の御都合論理は常人にはネタにしか見えませんが
彼らは至って真面目です
28人間七七四年:2011/04/07(木) 18:17:55.68 ID:ZHjaxWae
北条の出自が怪しいって今川の嫁も怪しいって事か??
イカレとる
29人間七七四年:2011/04/07(木) 20:32:45.85 ID:6XYy/QYG
今川に嫁いだ嫁さん(早雲の姉?妹?)は最近では正室と見られてるらしいね
出自の低い女が今川の正室にはなれんよな
30人間七七四年:2011/04/09(土) 18:09:03.12 ID:zmxrtJI2
伊勢氏ぐらいじゃ、関東だと名門扱いされないんじゃないかな
31人間七七四年:2011/04/09(土) 18:27:47.54 ID:7InG2/fR
伊勢氏って足利将軍家側近の家柄なんだが
32人間七七四年:2011/04/09(土) 21:01:07.87 ID:oqKFRiaH
どんな名門でも関東土着からみたら余所者
今川は西側の者だから
33人間七七四年:2011/04/10(日) 01:29:32.84 ID:oe/dR3nB
名門は名門だけどよそ者扱いだろうね。だからこそ北条に変えたわけだし。
34人間七七四年:2011/04/12(火) 03:20:10.83 ID:wfvboB1x
中途半端に名門だから関東の田舎者には有り難みが分からない
35人間七七四年:2011/04/17(日) 12:38:54.12 ID:2ASjX6hV
1番涙目になるのは池田輝政
36人間七七四年:2011/05/02(月) 22:21:48.81 ID:OwdSYxOc
長曽我部は四国統一直前で
「四国全土安堵を要請(長曽我部)」→「讃岐・阿波の返上、伊予・土佐の安堵(羽柴・長曽我部)」
→交渉決裂→「四国征伐の結果、土佐のみ」

ということを考えると北条の場合

相模・伊豆はまず安堵

上野は真田含め各大名に分割
常陸=佐竹
安房=里見

上総下総下野は没収

武蔵がどうなるかは不明に見える。

あとは交渉役がどうでるか・・・か。
37人間七七四年:2011/07/14(木) 01:34:48.08 ID:aZHhqALC
でも所詮はここで滅亡回避していても、家光までのどの時点で改易食らうか判ったもんじゃないし
38人間七七四年:2011/08/24(水) 20:53:57.82 ID:e+RySwbR
北条は豊臣政権にパイプが無い。
逆に天徳寺は豊臣政権に食い込んでるから、
こいつを暗殺して三成あたりを篭絡できればなんとか臣従全うできるかも。
39人間七七四年:2011/08/24(水) 21:21:22.70 ID:jhSQF6zU
北条家が豊臣家に臣従したら徳川家がそうだったように北条家も未来は明るい

所領は相模・伊豆・武蔵・上野・下野・下総・上総は安堵
※上野・下野・下総・上総については真田領・宇都宮領・結城領・里見領は除く

地位は最終的に五大老の地位に上り詰めるだろう
※徳川家・前田家・織田家・毛利家・北条家が五大老(織田信雄は生き残ると思われ)

利休切腹事件や秀次切腹事件についても大大名は連座していないのでこれもクリア

秀吉としては唐入りを控えているので大大名を潰すようなことは考えていない
ただし蒲生家がそうだったように当主が死亡した後に難癖をつける可能性はあるので注意
晩年の秀吉は大大名には優しいが身内には厳しい態度を示しているので問題は無いだろう

関ヶ原の戦いも縁戚関係がある徳川家につくだろう
逆に石田三成に与する理由は無いはず
40人間七七四年:2011/08/24(水) 21:30:42.74 ID:X6eAJJ84
関東の各家から見たら、伊勢氏の傍流ぐらい大した家柄ではないだろ
41人間七七四年:2011/08/24(水) 21:53:41.75 ID:Ox1Fi84b
わざわざ北条名乗る必要も無いな
42人間七七四年:2011/08/24(水) 22:00:04.10 ID:e+RySwbR
史実でも臣従して、名胡桃城の事も必死に詫びてるのに、
侘び上洛の時期で難癖つけられて宣戦布告されてるんだと思うんだけど。

所領は相模・伊豆・武蔵・上野・下野・下総・上総は安堵なんて絶対あり得ない。
開戦前に当主が出家して詫びて、相模・伊豆のみの安堵で必死に許しを請う位の
覚悟が居ると思う。

しかし唐入りに何の役にも立たない東国の大大名なぞ不要だし、
佐々成政同様、小牧・長久手での心象最悪だから、伊豆・相模のみでもかなり厳しい。
43人間七七四年:2011/08/24(水) 22:09:31.60 ID:jhSQF6zU
>>42
名胡桃事件の前の話だろ?

>しかし唐入りに何の役にも立たない東国の大大名なぞ不要だし、
徳川家のことはわかってるのか?
44人間七七四年:2011/08/24(水) 22:48:53.80 ID:e+RySwbR
>>43
簡単に言うと名胡桃事件以前から、北条はロックオン状態だったと思うよ。
宿敵・徳川の後ろ盾として存在感がありすぎ。
名胡桃事件を起こさなくても、他ではめられる。
豊臣家臣の天徳寺宝衍、佐竹義重、宇都宮国綱、真田、上杉は昔からみんな裏で繋がってる。

そして徳川は潰せないから北条が潰された。
で、徳川を北条の跡地に置いた。
一見加増のように見えるけれど、先祖代々の三河、
青年時代を過ごした駿府、遠江、憧れの地、甲斐。
没収は無念だったろうね。何年もかけて整備してきたわけだし。

逆に北条の旧領は税率低く、戦乱で荒れ、失業者あふれてる。
45人間七七四年:2011/08/24(水) 23:40:42.67 ID:jhSQF6zU
>>44
>簡単に言うと名胡桃事件以前から、北条はロックオン状態だったと思うよ。
北条と豊臣のやり取りからはそれを感じない
むしろ北条は徳川と縁戚関係にあるから豊臣の方もそれなりに配慮している
さらに氏規が上洛したことで豊臣の方も心証がかなり良い
真田に不利益になってもいいから北条を取り込むように計らっている
三成はこれに焦って反北条諸家に早く上洛しろと催促している書状も残っている

>豊臣家臣の天徳寺宝衍、佐竹義重、宇都宮国綱、真田、上杉は昔からみんな裏で繋がってる。
繋がっていても佐竹や宇都宮は上洛していないので北条より心証が悪い
この時期に氏政上洛の話は出ているけど反北条諸家の上洛の話は全くない
心証が悪い理由は上記の通り
46人間七七四年:2011/08/25(木) 00:33:15.00 ID:JdOUxvTc
心証云々じゃなく北条は生贄に選ばれた気がする。
47人間七七四年:2011/08/25(木) 02:54:00.67 ID:Qbjibd0q
氏規でなく最初から氏直が行っていれば
上杉や佐竹といった親豊臣の連中が挑発して開戦かも知れないが
48人間七七四年:2011/08/25(木) 04:09:09.20 ID:mVtv6zmt
結果論だが削られても転封でも何とか秀吉死ぬまで生き残っていればなあ
49人間七七四年:2011/08/25(木) 20:21:10.74 ID:qophY3f7
天正16年8月の氏規上洛による北条家赦免。
秀吉はその後、氏政が上洛したら、領地を安堵するのだろうか。
それとも難癖をつけたのだろうか。

宇都宮国綱に対する三成の書状からは、
宇都宮を早々に上洛させ優遇したいという意図を感じる。
50人間七七四年:2011/12/05(月) 00:56:43.74 ID:BnV52iRJ
重複に付き誘導

北条家が即効で豊臣の軍門に下ったなら
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/l50
51人間七七四年:2012/05/12(土) 17:28:43.64 ID:RCUO9sKM
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
52人間七七四年:2012/05/14(月) 16:58:15.85 ID:RLlht0cO
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
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53人間七七四年:2012/10/15(月) 05:31:00.93 ID:V8BpGmLO
長野美郷のオマンコに電マ攻撃して快楽イキ地獄
54人間七七四年:2012/10/15(月) 08:11:52.16 ID:z8CbB3Rv
秀吉は上杉や佐竹と繋がってるし、上杉に「上杉さんが北条を嫌うなら当家も北条と絶交する」と書状を送っている。
でも、徳川の縁戚・同盟者だから最後通牒までの手続きは丁寧におこなっている。
コ川は関東取り次ぎとしてずいぶん北条に上洛するよう頼み込んでいる。
最期には「どうしても上洛しないなら人質を返してください」と頭下げてまで。
55人間七七四年:2012/10/15(月) 10:44:37.10 ID:z8CbB3Rv
コ川を臣従させるにあたって秀吉は人質を送ったり婚姻外交やったりしている。
北条は徳川より立場は上なので、徳川並(以上)の対応を求めてた。
プライドが高かったのが仇となった
56人間七七四年:2012/10/16(火) 07:23:54.45 ID:BYnfmSzE
戦国・北条一族  相川 司

一連の流れはここで詳細にしょうかいされている
57人間七七四年:2013/09/14(土) 22:16:01.91 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
58人間七七四年:2013/11/05(火) 22:22:42.52 ID:OGBDCgDQ
秀吉の小田原征伐は東側の大名の力を削ぎ落すことが狙い。織田家―徳川家―北条家は親交があ
った。後々、3氏が結束して豊臣政権に反旗を翻すこともあり。
秀吉は北条家の対応を硬化。臣従するとしても所領の大幅削減など厳しい処分。結果的に秀吉は
実力で北条氏を降伏させ、所領没収。また小田原に参戦した信雄においても、こじつけで所領没収。
信雄と家康が再び組むことを恐れた秀吉は、家康に加増という褒美を与えて味方にしておく一方、
信雄から遠い関東へ移封。
59人間七七四年:2013/11/05(火) 22:48:28.21 ID:FIvJJ+uL
秀吉は東国なんて全く興味無かったから、北条氏政なり氏直がさっさと上洛してれば、
北条が生き残ることは容易だっだろうね。
少し領地削られて、周りに堀やら蒲生やら配置される感じか。
もしくは伊達家が潰されて東北に移転。
60人間七七四年:2013/11/07(木) 23:03:31.13 ID:+V1auAd7
北条の官僚機構が駄目だったんだな・・・。時代の流れに乗り遅れたん
だね。北条は100年経っても関東を統一できないでいたのに、秀吉は
10年かけず天下を統一できたからね。
61人間七七四年:2013/11/07(木) 23:17:38.42 ID:oimvtT7j
>>60
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る  
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す

史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある

信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
62人間七七四年:2013/11/07(木) 23:18:32.43 ID:/FLjTAXh
豊臣家は徳川家に滅ぼされた。 徳川家は北条家に諏訪高島で潰走させられた。
秀吉は滝川に伊勢で蹴散らされまくった。 北条は滝川瞬殺した。
普通に史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍100000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城、柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はあるだろうな
事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で
一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし

秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし

神流川の戦いはガチンコ決戦だね。合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし 上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。 あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。 森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも 美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例

北条>>>>>織田


信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。

家康は瞬殺した。

その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
63人間七七四年:2013/11/07(木) 23:19:22.87 ID:vQHqJnn6
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。

秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。
北条は滝川を瞬殺した。

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。
にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍

秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)
北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家が江戸期も存続

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
64人間七七四年:2013/11/07(木) 23:27:34.87 ID:/FLjTAXh
秀吉が天下取れたのは100%棚ボタでしょ。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
65人間七七四年:2013/11/08(金) 00:09:15.28 ID:uKMjgYMg
読まずにスルー
66人間七七四年:2013/11/08(金) 20:17:16.83 ID:zOXoMAnh
後北条が仮に豊臣に早い段階で降伏しようとしてたら、
傘下の関東武士団wの離叛でもっと早く滅亡してたような気がする。
大阪の陣での秀頼と同じだったんじゃね?
67人間七七四年:2013/11/08(金) 22:31:19.78 ID:yDnQl7gd
秀吉は後北条へ揺さぶりを掛けてくるだろうな。北条傘下の家臣を、大名に取りたてて、北条から独立させるだろうな。
秀吉は天下を実力で取れる段階で、北条に対して寛大な処置をする訳ないよな。
68人間七七四年:2013/11/08(金) 22:46:35.27 ID:6OQTnH3/
名胡桃城だっけ、の紛争の評価で別れるな
平身低頭してればそのまま安堵だと思うけど
北条の他国臭はもちろん解体されるだろうけどなな
69人間七七四年:2013/11/09(土) 04:32:45.05 ID:c8721cwR
北条本家は伊豆相模安堵、氏照氏邦あたりは分家させて他国に転封
空いた武蔵に堀か蒲生を入れて関東諸侯を与力大名に
70人間七七四年:2013/11/09(土) 10:28:34.06 ID:ImfGzBOC
秀吉が攻めてきたときは、氏政・氏直父子の管轄は伊豆・相模で、氏照の管轄が武蔵・上野・下野・下総・上総と
広かった。北条家での地位は名目上は氏政・氏直だが、実質は氏照だった。北条家での地位を失いたくない氏照は
所領の削減には神経を尖らせることで、安易な秀吉への臣従には反対だった。
71人間七七四年:2013/11/10(日) 03:44:58.03 ID:mO7kMnm4
>>67
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
72人間七七四年:2013/11/10(日) 10:32:46.63 ID:f4O3QnS6
氏直さん(想像)
我々は山中城・韮山城・足柄城で、豊臣軍を阻止する予定だった。しかし、山中城があっという間に落ちたことで、
戦略を急遽変更し、小田原城で豊臣軍を迎え撃つ作戦に切り替えた。ところが豊臣軍の圧倒的な兵力は城へ攻撃し
てこないんだな。
だからといって我々は小田原を横ぎって東進する一部の豊臣軍の軍事行動は阻止できないんだな。我々小田原方は
結局様子見しかできない。様子見のうちに、関東の支城がどんどん落とされていく。様子見とはいいつつも、
我々は秀吉がいつ城に乱入するかわからない臨戦態勢をとっていた。今まで経験したことのない長期間だからほんと
キツカッタ。
八王子城陥落の際には秀吉はとんでもないことをしてくれた。八王子城を守っていた城兵の首と妻子が小田原城の前で
晒しものになった。晒しになった中には俺の知り合いもいたし、氏照叔父なんかほんと怒り狂っていたよ。
奥州の伊達政宗に多少の期待をしていたが、あっさり秀吉に降伏。城内にも秀吉と内通する者が現れ始めて、もう駄目ぽ
と思ったね。小田原城の隣に見おろすように石垣山一夜城が出現するし、何のために秀吉が建てたのか意味不明だったよ。
小田原城の中には秀吉を称賛するような空気も生まれてきてだよ、まるで俺が悪いような雰囲気だった。
黒田官兵偉さんも相模一国は安堵しれくれるよう取り計らうと言ってくれているし、まっ、駄目で元々だよねーっつう
ことで降伏しました。
73人間七七四年:2013/11/10(日) 10:43:35.37 ID:f4O3QnS6
氏直さん(想像)
>>71の言うとおり、確かに秀吉さんは強くなかったんだけど、我々
には歯が立たなかったのだよ。
でもあと10年時間が欲しかったなー。10年あれば、秀吉さんも
亡くなっていたので、天下は俺のものだったかもしれないね。
74人間七七四年:2013/11/10(日) 10:51:13.87 ID:yDlwIlJn
織田政権末期の毛利家や武田勝頼にしても、第二次世界大戦時の日本にしても
なまじ国力が大きいと、戦えば敗ける相手でも屈服するって決断は難しいよな。

近代民主国家と違って戦国大名や独裁政権が相手だと敵トップが頓死や重病に
なれば対立しても生き残れる可能性もあるし、早々に臣従を言い出せば内部崩壊。
75人間七七四年:2013/11/10(日) 11:18:06.39 ID:mO7kMnm4
山中城なんてわずか3000そこそこが篭もった雑魚城に70000の大軍が一挙に攻め寄せたんだから持ち応えられるわけねーだろ
むしろそんな所ですら重臣一柳直末が戦死してるし駿河伊豆国境地帯の戦闘でも北条軍が勝利してる(北条から何枚も感状が出てる)

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
76人間七七四年:2013/11/10(日) 11:18:54.31 ID:h7Ykh8HW
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
77人間七七四年:2013/11/10(日) 11:19:27.05 ID:mZn500x3
北条征伐で北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
78人間七七四年:2013/11/10(日) 11:20:43.30 ID:whGbFV9K
豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
79人間七七四年:2013/11/10(日) 11:27:57.63 ID:whGbFV9K
同意。佐竹の史料によると米20万石も用意していながら豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り
80人間七七四年:2013/11/11(月) 23:15:50.83 ID:IY/1OFo0
100%勝てる戦よりも死を覚悟の土下座を選んだのなら
まるで政宗がヘタレで無能みたいじゃないか
81人間七七四年:2013/11/13(水) 10:40:05.34 ID:z3ZcsQTC
>>79
おいコラ自演してんなw
はやく佐竹の史料とやらを出せって要求し続けてるのに
なんで出せないのwwwww
82人間七七四年:2013/11/13(水) 21:30:14.52 ID:EvleLBaO
>>80
政宗はそれほど政略的に長けていたとは思えない。北条が秀吉に臣下の礼を取ろうとしてたら、政宗も同様の対応を
していた。つまり政宗は北条がどう動くかによって判断していたんだ。そんな政宗を頼りにしていた北条が情けない。
83人間七七四年:2013/11/13(水) 21:33:53.07 ID:69Kg/UCu
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84人間七七四年:2013/11/15(金) 23:01:47.75 ID:xSqENMIz
山中城陥落した時点で、臣従すればな〜。北条家存続できたと思う。山中城陥落したら、小田原で迎え撃つと2段構え
していたんだね。
もし北条の本拠が小田原城ではなく、江戸城であったら。山中城、小田原城、江戸城という3段構えであったら。山中城を
陥落されて、小田原城は包囲されて、更に江戸城まで押し寄せられた時点で降伏していたね。
北条は鉄壁の小田原に本拠地を置いたために、慢心してしまったのだね。家康は関東移封になったとき、江戸に
本拠地を置いたのも自身を慢心させないように考えてのことだったのかもね。
85人間七七四年:2013/11/16(土) 07:45:08.96 ID:d4pIDfGT
氏政はバカで無能だから、過去謙信や信玄を篭城で撃退した成功体験を妄信。
豊臣軍は上杉や武田とは兵力も軍制も別次元という情報収集を怠る愚か者故の自爆。

個人的には、家康が小牧長久手後、北条と連合して秀吉に強硬に抵抗し、そこに伊達まで巻き込んでたら、かなり面白かったのでないかと思う。
佐竹は北条と伊達で挟撃して潰せば、日本の東半分は反豊臣の連合王国として存続できてた。

で、豊臣勢力圏と徳川領の境で「関ヶ原」開戦。
そうなると、秀吉の下に一枚岩の豊臣軍に対し、家康は小牧長久手の秀吉の様な立場となり、
大軍を己の強権の下に一元的に統制できず、敗北した可能性は高い。
86人間七七四年:2013/11/16(土) 09:35:43.11 ID:s++6Cuo/
山中城なんてわずか3000そこそこが篭もった雑魚城に70000の大軍が一挙に攻め寄せたんだから持ち応えられるわけねーだろ
むしろそんな所ですら重臣一柳直末が戦死してるし駿河伊豆国境地帯の戦闘でも北条軍が勝利してる(北条から何枚も感状が出てる)

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
87人間七七四年:2013/11/16(土) 09:41:20.88 ID:QzOncVgf
>>85
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
88人間七七四年:2013/11/16(土) 09:42:27.25 ID:5jITwmIl
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
89人間七七四年:2013/11/16(土) 09:43:21.71 ID:rd0rzcKg
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
90人間七七四年:2013/11/16(土) 09:44:18.94 ID:5jITwmIl
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
91人間七七四年:2013/11/16(土) 09:49:37.93 ID:5jITwmIl
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
92人間七七四年:2013/11/16(土) 09:54:10.36 ID:4UatF+ev
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
93人間七七四年:2013/11/16(土) 09:55:53.84 ID:rd0rzcKg
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
94人間七七四年:2013/11/16(土) 09:56:14.71 ID:5jITwmIl
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
95人間七七四年:2013/11/16(土) 09:56:59.33 ID:QzOncVgf
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
96人間七七四年:2013/11/16(土) 09:57:41.15 ID:ieM0PBzF
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
97人間七七四年:2013/11/16(土) 10:20:22.90 ID:s++6Cuo/
戦争において大軍である事は圧倒的なアドバンテージであって、それさえあれば
無条件に戦争での勝利が約束される物なのに「大軍ゆえに統率がとれなかった」「寡兵だから結束していた」
などと、会戦当初からの両軍の寝返り状況も無視して都合よく捏造をデッチあげる秀吉厨はガチで馬鹿だな。
98人間七七四年:2013/11/16(土) 10:21:59.24 ID:d4pIDfGT
>>87
中身ゼロ。
99人間七七四年:2013/11/16(土) 10:24:52.10 ID:3EidBCv+
>>85のレスの方が中身0なんだが。
100人間七七四年:2013/11/16(土) 10:26:03.03 ID:zZFT4hJn
豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
101人間七七四年:2013/11/16(土) 10:26:56.44 ID:QzOncVgf
同意。佐竹の史料によると米20万石も用意していながら豊臣方は兵站維持できるギリギリまで追い込まれてたみたいだし
伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り
102人間七七四年:2013/11/16(土) 10:28:41.68 ID:d4pIDfGT
>>99
どこがどう中身ゼロなのか説明できるのかね。
できんな。
ここでも中身ゼロの虚勢。
103人間七七四年:2013/11/16(土) 10:29:06.78 ID:s++6Cuo/
関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ。
104人間七七四年:2013/11/16(土) 10:31:32.33 ID:3EidBCv+
>>102
一行目と2行目に関しては全く根拠なし。
6行目と7行目に関しては、>>87以下で全て反論が書いてある。
105人間七七四年:2013/11/16(土) 10:32:23.38 ID:d4pIDfGT
>>103
豊臣の大軍のプレッシャーに耐え切れず、精神的に追い込まれ、内部分裂の揚げ句の開城なのだから落城も同然。
106人間七七四年:2013/11/16(土) 10:36:45.30 ID:d4pIDfGT
>>104
なら、1〜2行目は根拠無しとする根拠出せ。
これであっさり撃沈。

>>87以下の反論とやらは、駄文が長すぎて、意味不明。
端的に要約せい。
ま、そうすると中身ゼロがモロバレになるから出来んか。

中身が無いから、字数で誤魔化すしかない幼稚な詐術だな。
107人間七七四年:2013/11/16(土) 10:57:27.66 ID:s++6Cuo/
>1〜2行目は根拠無しとする根拠出せ。
悪魔の証明乙。
主張している側がその主張の根拠を出せば住む話であって
その主張が嘘だという根拠など出す必要がない。
議論において根拠を出さなくてはいけないのは何かを主張する側であって、否定する側ではない。
例えば俺が信長が馬鹿で無能と主張したら、俺の方が根拠を示さなくてはいけないのであって、
お前が、信長が馬鹿で無能というのは根拠なしとする根拠を示す事ができなければ、俺の側の主張が通るなんて馬鹿な話はない。

>>87以下の反論とやらは、駄文が長すぎて、意味不明。端的に要約せい

お前の>>85の6〜7行目の主張が丸きり嘘と言うのが要約。
108人間七七四年:2013/11/16(土) 12:53:22.23 ID:KPszZGt0
>>101


おい逃亡癖はまだ治らないのか?

つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw

8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ



>>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。

171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。

172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ


859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage]
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)

上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
109人間七七四年:2013/11/16(土) 13:07:40.49 ID:5jITwmIl
110人間七七四年:2013/11/16(土) NY:AN:NY.AN ID:KPszZGt0
>>109
で、>>108への回答はまだなの?
2013/02/18(月)
2013/06/14(金)
2013/07/22(月)
とかなり時間が経ってるんだけど?
111人間七七四年:2013/11/17(日) 02:06:30.70 ID:pkEifhfV
歴オタは文章を簡潔にまとめることができないの?
112人間七七四年:2013/11/18(月) 17:50:57.74 ID:LQxs6XoY
>>107
誰かの主張に異を唱え、真っ向から否定するなら、その当事者が反論の根拠を明示すべきなのは常識。
反論できない時点で、既に負け。

例えば、学校の授業で、2の0乗は1だと教えられ、それに生徒の一人が異を唱え、真っ向から否定するのなら、
その生徒は、その根拠を教師に対し説明する義務を有する。

根拠も出せない分際で、他人の言説に異を唱え否定する輩を、ペテン師という。
113人間七七四年:2013/11/18(月) 18:11:53.46 ID:ztHh6P0h
お前が信じたいならそれでいいんじゃね
まあ支持するやつはネラーだけって胸はって言えるならの話だけどさ
114人間七七四年:2013/11/18(月) 18:24:24.87 ID:tj5DFdSi
>誰かの主張に異を唱え、真っ向から否定するなら、その当事者が反論の根拠を明示すべきなのは常識。
だからお前の主張の論拠も糞もないんだって。
主張として成立しないお前の妄想なんぞ初めから反論の根拠なんぞ示す必要がない。
>反論できない時点で、既に負け
はじめの段階で主張の裏づけなし、論拠なしの妄想書いてるお前の負け。
>学校の授業で、2の0乗は1だと教えられ、それに生徒の一人が異を唱え、真っ向から否定するのなら、
>その生徒は、その根拠を教師に対し説明する義務を有する。
その2の0乗どうこうは数学という学問の中で決まりきっている「事実」なので初めから根拠を要しないが
お前の主張は論拠も史料も不明のただの妄想なので、それを主張する側は当然立証責任を要する。
論拠の明確でない主張に対して最初から反論するも糞もない。
115人間七七四年:2013/11/18(月) 18:29:50.97 ID:lwidQtq8
>>112
論拠やソースを示して証明責任があるのは「最初に何かを主張する」側であるお前であって
それに反論する側ではない。
何にせお前がお前の主張の論拠をちゃんと示せば済む話。
116人間七七四年:2013/11/18(月) 19:01:48.18 ID:LQxs6XoY
>>114
つまり、そっちの否定の根拠は皆無だっつーこった。
で、そっちの説明責任をこっちに丸投げ。

「2の0乗=1」には、ちゃんとした根拠はあるんだが。
無学だから分からんか。
ググッとけ。



>>115
無知なら他人の言説を鵜呑みにするしかないが、否定するなら否定できるだけの根拠があるのは道理。
が、反論は全くできず。
つまり、単なる難癖と虚勢だと立証できる。

毎度の説明責任の放棄とその他人への押し付けという醜態。
否定に根拠ゼロなのは、小一でも見透かせる、
117人間七七四年:2013/11/18(月) 19:24:51.17 ID:tj5DFdSi
>つまり、そっちの否定の根拠は皆無だっつーこった。
否定の根拠→お前の主張の根拠が皆無だという事
>で、そっちの説明責任をこっちに丸投げ。
先に主張してる側がお前なのだから、論拠を示す必要があるのはお前であって俺ではない。
>「2の0乗=1」には、ちゃんとした根拠はあるんだが。
お前の主張には根拠なんぞないから、関係なし。

>無知なら他人の言説を鵜呑みにするしかない
他人の言説ってなんだ?意味が分からん。日本語で頼む。
>否定するなら否定できるだけの根拠があるのは道理
否定する根拠→お前の主張には論拠も史料も一切示されていない事。
>反論は全くできず
お前の主張に丸きり論拠が書かれていないというのが反論。
>単なる難癖と虚勢だと立証できる。
お前の妄想を妄想だと指摘した所で、当たり前の事を言っただけなので難癖も虚勢も糞もない。
>毎度の説明責任の放棄とその他人への押し付けという醜態
だから主張してる側であるお前が主張の論拠や史料を明示すれば済む話なんだって。
>否定に根拠ゼロなのは、小一でも見透かせる、
否定する根拠→お前の主張には一切の史料も論拠もしめされていない事
118人間七七四年:2013/11/19(火) 15:39:08.54 ID:IU7zCCvU
>>110
このアンチ秀吉キチガイは
いつも逃亡してるよなw
ウソ書状や偽書状を本物のように語る狂人在日。
119人間七七四年:2013/11/19(火) 16:51:58.30 ID:LPxFEM1O
>>188お前の嘘を一つ一つ張ってやるよ

>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
120人間七七四年:2013/11/19(火) 16:52:48.41 ID:LPxFEM1O
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
121人間七七四年:2013/11/19(火) 16:53:34.99 ID:LUMwVtck
お前の嘘続き

朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw

>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記
[参考]柏崎物語
122人間七七四年:2013/11/19(火) 16:54:07.40 ID:LPxFEM1O
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww

そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集

萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
123人間七七四年:2013/11/19(火) 16:54:34.41 ID:LUMwVtck
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
124人間七七四年:2013/11/19(火) 17:39:49.81 ID:IU7zCCvU
>>110
の内容から逃亡するためにまたコピペ連投荒らしかよwwww
125人間七七四年:2013/11/19(火) 23:13:40.86 ID:JdXn7HhK
はぁっ?逃げまくってんのお前じゃん
126人間七七四年:2013/11/20(水) NY:AN:NY.AN ID:WnyHmsPx
で、>>108への回答はまだなの?
2013/02/18(月)
2013/06/14(金)
2013/07/22(月)
とかなり時間が経ってるんだけど?
127人間七七四年:2013/11/21(木) 18:09:07.36 ID:s17UwsEC
キチガイアンチ秀吉の織田半島人逃亡w
128人間七七四年:2013/11/23(土) 00:41:52.74 ID:IyXqIYI5
本能寺の変後、家康と姻戚関係を結んだのが災いしたな。姻戚関係は結ばずに、秀吉と協力して家康が小牧長久手に出張っ
たときに、背後から一突きすればよかったんだよ。家康と姻戚になったことで、小牧長久手では秀吉に味方できず自然に
反秀吉陣営になるもんな。
家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっているが、実際には家康には抗う術はなかったんだよ。北条としては、
微妙な立場で、小牧長久手では反秀吉陣営、家康臣従後は家康を通じて秀吉陣営。家康通じて交渉していた中で、秀吉の
小田原征伐が下されたわけだから、家康のしたたかさがわかるな。
家康との姻戚関係を反故にして、小牧長久手で背後から一突きすべきだった。
129人間七七四年:2013/11/23(土) 07:21:50.54 ID:DiBeaoar
婚姻を結んだといってもそれは表面的なもので小牧長久手合戦期
北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
130人間七七四年:2013/11/23(土) 07:24:06.51 ID:DiBeaoar
>>家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっている
家康は小牧長久手合戦で臣従なんてしてねーよ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
131人間七七四年:2013/11/23(土) 07:25:47.03 ID:N8uKLdSz
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
132人間七七四年:2013/11/23(土) 07:27:16.43 ID:N8uKLdSz
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
133人間七七四年:2013/11/23(土) 07:28:03.35 ID:N8uKLdSz
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
134人間七七四年:2013/11/23(土) 07:29:05.06 ID:deg8vHDj
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
135人間七七四年:2013/11/23(土) 07:30:06.91 ID:He+CeMa4
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
136人間七七四年:2013/11/23(土) 07:32:23.44 ID:N8uKLdSz
秀吉はhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
137人間七七四年:2013/11/23(土) 07:34:46.80 ID:deg8vHDj
小牧長久手の戦いでは徳川方の甲斐・信濃衆は大方領国に残されて北条の変心と
上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから北条との同盟自体ほとんど関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
138人間七七四年:2013/11/23(土) 07:37:24.25 ID:N8uKLdSz
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる

信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
139人間七七四年:2013/11/23(土) 07:40:31.74 ID:He+CeMa4
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
140人間七七四年:2013/11/23(土) 07:41:53.97 ID:deg8vHDj
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
141人間七七四年:2013/11/23(土) 07:43:22.18 ID:ZRoUk6ZW
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
142人間七七四年:2013/11/23(土) 07:45:41.65 ID:+krJ00+R
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
143人間七七四年:2013/11/23(土) 07:47:01.98 ID:+krJ00+R
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
144人間七七四年:2013/11/23(土) 09:39:12.47 ID:IyXqIYI5
秀吉の戦の手法は大兵力を前面に押し出して、圧倒的優位の下に相手の戦意を消失させて、戦を優位に進めていっているん
だよ。つまり秀吉には本気で闘う気はないの。家康相手では心理戦が通用しなかっただけのことであって、家康にとっては
圧倒的不利な状況は変わっていない。
北条が家康を見限り秀吉と手を結べば、家康は前面と背後に敵をかかえることとなって崩壊は目に見えている。天下統一
を目指す秀吉にとっては北条との対等な同盟関係は受け入れ難く、家康に救いの手を差し伸べる形で、家康を臣従させたん
だよ。
145人間七七四年:2013/11/23(土) 09:41:48.55 ID:deg8vHDj
>>144
お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
146人間七七四年:2013/11/23(土) 09:43:05.98 ID:N8uKLdSz
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
147人間七七四年:2013/11/23(土) 09:44:46.49 ID:6TsXZpDH
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
148人間七七四年:2013/11/23(土) 09:45:26.84 ID:6TsXZpDH
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
149人間七七四年:2013/11/23(土) 09:46:09.42 ID:deg8vHDj
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
150人間七七四年:2013/11/23(土) 09:51:33.64 ID:q2CJ7xDN
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
151人間七七四年:2013/11/23(土) 09:53:30.46 ID:ZRoUk6ZW
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。

これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。

だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
152人間七七四年:2013/11/23(土) 09:57:02.26 ID:ZRoUk6ZW
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められている
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
153人間七七四年:2013/11/23(土) 10:04:53.42 ID:R/1BiOvh
織田厨が決して批判非難しないスーパー荒らし在日。
154人間七七四年:2013/11/23(土) 10:10:00.42 ID:ZRoUk6ZW
北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
155人間七七四年:2013/11/23(土) 10:16:01.49 ID:QqvIlzPb
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
156人間七七四年:2013/11/23(土) 10:16:55.09 ID:He+CeMa4
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
157人間七七四年:2013/11/23(土) 10:17:46.67 ID:QqvIlzPb
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
158人間七七四年:2013/11/23(土) 10:30:50.17 ID:IyXqIYI5
秀吉は家康に潰すぞ潰すぞと圧力を掛けたんだよ。家康は潰されると思うわな。秀吉から臣従すれば、助けてやるよって
言われたから、潰されるよりマシかってことで臣従したんだよ。秀吉を潰せると家康が考えていたら、秀吉に臣従するわ
けないだろ。

小牧長久手での中入りは秀吉が認めた策であることはわかるが、秀吉の策だと断定できる根拠はないね。
159人間七七四年:2013/11/23(土) 10:51:55.92 ID:IyXqIYI5
小牧長久手で勝利した家康は北条に対して、秀吉なんざ弱いもんで蹴散らせたよって調子こいたことぬかしていた。
臣従する時には臣従する時で、秀吉なんざ実力ないもんだから俺に実妹と実母を送ってきたもんだから、大坂に
出向かないわけいにはいかないよななんて余裕をかましていた。臣従してからは、秀吉は弱いんだけど今後のため
にも秀吉と関係をもったほうがいいよなんて随分弱気の発言。
160人間七七四年:2013/11/23(土) 11:36:52.70 ID:qhTtPg1g
家康が負けず嫌いで強がりで
虚勢を張ってばかりで
どうしようもない親父。
161人間七七四年:2013/11/23(土) 11:42:47.72 ID:DiBeaoar
>>秀吉は家康に潰すぞ潰すぞと圧力を掛けたんだよ。家康は潰されると思うわな
いつそんな事をしたのか史料で教えてくれ。
>>秀吉から臣従すれば、助けてやるよって言われたから
そんな事全く言ってない。
天正13年秋頃から冬にかけて秀吉は諸大名宛に翌春の出兵計画を書きまくって実際に重臣一柳にも具体的な経過を語っていたが
直前期になると秀吉はビビリまくって信雄を家康の元に送って必死に取り成しをお願いしたり母や妹を人質に出しだしてワシに従ってくれ〜とばかりに土下座したら
家康がやれやれとおもって仕方なく応じてやっただけ。

当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>潰されるよりマシかってことで臣従した
ガチンコの戦闘で勝ちまくってるのに潰されるわけねーだろクズw
だからこそ手詰まりになった秀吉が顕如や信雄に必死に土下座して仲介を依頼したり
母や妹を必死に土下座して差し出したんだし。
>>秀吉を潰せると家康が考えていたら、秀吉に臣従するわけないだろ。
秀吉を潰せるといつでも家康は考えていたが、家康は非常に慈悲深く寛容な性格だったからこそ秀吉は助かっただけ。
その証拠に一万人も直接対決でぶち殺された後、その後の攻防でも>>155-157のように苦戦しまくってるからな。
だからこそ秀吉は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄すら自力じゃ尾張半分も切り取れなかったんだし。
>>小牧長久手での中入りは秀吉が認めた策であることはわかるが、秀吉の策だと断定できる根拠はないね。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
162人間七七四年:2013/11/23(土) 11:43:25.92 ID:QqvIlzPb
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
163人間七七四年:2013/11/23(土) 11:49:59.29 ID:He+CeMa4
>>158
ハイハイ、そんな文書ねーよ妄想乙
164人間七七四年:2013/11/23(土) 11:52:33.36 ID:deg8vHDj
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
165人間七七四年:2013/11/23(土) 11:53:20.22 ID:N8uKLdSz
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
166人間七七四年:2013/11/23(土) 11:53:55.64 ID:/H8DW1kL
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
167人間七七四年:2013/11/23(土) 11:54:19.09 ID:He+CeMa4
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
168人間七七四年:2013/11/23(土) 11:54:42.27 ID:N8uKLdSz
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
169人間七七四年:2013/11/23(土) 11:55:05.24 ID:deg8vHDj
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
170人間七七四年:2013/11/23(土) 11:55:55.13 ID:/H8DW1kL
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
171人間七七四年:2013/11/23(土) 11:56:48.84 ID:ZRoUk6ZW
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
172人間七七四年:2013/11/23(土) 11:57:48.37 ID:QqvIlzPb
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
173人間七七四年:2013/11/23(土) 12:50:11.47 ID:IyXqIYI5
まとめると
家康さんは仕方なく秀吉に臣従したってことね。秀吉はまったく家康に歯が立たなかった。力の差から普通は家康から
頭を下げてもいいのに、家康は下げなかった。家康は臣従よりも対等な同盟関係をを望んでいたからだ。対等な同盟は
秀吉がゆるしてくれないものだから、仕方なく家康は秀吉に臣従したんだね。
174人間七七四年:2013/11/23(土) 13:04:56.06 ID:DiBeaoar
家康は慈悲深い性格だし秀吉より遥かに寛容だからね。
175人間七七四年:2013/11/23(土) 13:05:12.90 ID:N8uKLdSz
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
176人間七七四年:2013/11/23(土) 13:05:54.36 ID:He+CeMa4
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
177人間七七四年:2013/11/23(土) 13:07:55.83 ID:eeOkIVfE
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
178人間七七四年:2013/11/23(土) 13:08:39.55 ID:N8uKLdSz
そりゃ直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
179人間七七四年:2013/11/23(土) 13:10:27.73 ID:QqvIlzPb
敵対勢力でも使うというより、そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
180人間七七四年:2013/11/23(土) 13:11:17.07 ID:deg8vHDj
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
181人間七七四年:2013/11/23(土) 13:11:50.16 ID:eeOkIVfE
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
182人間七七四年:2013/11/23(土) 13:13:17.47 ID:eeOkIVfE
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
183人間七七四年:2013/11/23(土) 13:35:33.56 ID:IyXqIYI5
秀吉は家康に相当ビビりまくっていたんだね。
自国の15分の1の国力の相手に妹も母親も送り出したわけだし、普通ありえないよね。
慈悲深い家康なんだから国力の差を知り、秀吉がそこまでさせずとも大坂に登っただろうにね。
184人間七七四年:2013/11/23(土) 14:14:12.60 ID:ZRoUk6ZW
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
185人間七七四年:2013/11/23(土) 14:15:43.62 ID:He+CeMa4
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
186人間七七四年:2013/11/23(土) 14:17:52.68 ID:He+CeMa4
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、 小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込めそう
地図見ればわかるけど岩清水は小牧山より南に大きく向いた東。 外山、宇多津、田楽も南東部に位置していて秀吉方の二重堀よりも南部に位置していて秀吉方の拠点から小牧山を守る形には位置していない。
小幡城は竜泉寺の南西部にあたり比良はもっとずっと西で外山と宇多津の間
から南にしばらくいった位置にある。どちらも秀吉方拠点から小牧を攻める上では障害にならない。むしろ家康の方が竜泉寺〜楽田までの
秀吉方拠点の網をかぶっている形。 家康軍はおの辺で最も大きな庄内川を渡って小幡方面に移動してるついでに言うと楽田〜柏井、龍泉寺〜長久手ルートでも
五回は川越えしなきゃいけない。岩崎まで来るとまた川があるし秀吉方陣地も少なくなるからハイリスク。
小牧は東はともかく北側は川に守られてない。東も田中、二重堀から一つ川を挟むだけ。 南側は家康方拠点が並んでるが東側が秀吉が固めてるのは変わりない。
そもそも兵力差圧倒的なんだから西を迂回するやら南の拠点を落とすやら色々戦略の幅がある。龍泉寺までの間も秀吉の拠点が
築かれてるわけだし小幡、宇多津あたりを攻撃して連絡を断ち切る方がよほど
リスクが低そう。川については長久手方面への進軍した場合でも同じくある
小牧山や岩崎山は手薄にして(周辺が沼地なら家康も攻めずらい) 主力で竜泉寺やら小幡方向に進軍して小幡城を攻め同時に家康が来たら
迎撃に出られる態勢を整えればいい
187人間七七四年:2013/11/23(土) 14:37:03.77 ID:IyXqIYI5
つまり本能寺の変後、北条は慈悲深い家康と姻戚関係を結んだのが災いしたな。家康が余りにも慈悲深いから
北条ははめられてしまったわけね。家康なんか相手にせず、秀吉と協力して家康が小牧長久手に出張っ たときに、
背後から一突きすればよかったわけだ。

家康と姻戚になってしまったことで、小牧長久手ではなにもせずとも反秀吉陣営になるもんな。

家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっているが、秀吉をどうせ倒すことができないんだから小牧長久手を
せずとも秀吉に臣従しときゃあよかったんだよ。おかげで北条としては 微妙な立場になったもんな。

家康通じて交渉していた中で、秀吉の 小田原征伐が下されたわけだから、家康の慈悲深い振る舞いに偽りがあるか
わかるな。 家康との姻戚関係を反故にして、小牧長久手で背後から一突きすべきだった。
188人間七七四年:2013/11/23(土) 15:26:17.98 ID:N8uKLdSz
婚姻を結んだといっても浜松会談以前の北条徳川間は書状でのやり取りもさほど頻繁でない表面的な関係だったし
それどころか家康は北条の敵対者の佐野とか佐竹(東)とか皆川とかと頻繁に書状のやり取りしてたし
北条は北条で一切家康に援軍送らないどころか、駿河に乱入する風聞まで垂れ流されてた事や、上杉景勝の川中島侵攻で
家康は領国に遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
189人間七七四年:2013/11/23(土) 15:35:15.05 ID:He+CeMa4
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
190人間七七四年:2013/11/23(土) 15:51:35.76 ID:Ur6qRCK2
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
191人間七七四年:2013/11/23(土) 15:54:17.96 ID:deg8vHDj
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
192人間七七四年:2013/11/23(土) 15:56:28.04 ID:N8uKLdSz
中国大返し。墨俣一夜城。金ヶ崎の退き陣。農民からの出世話。
備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。

ほとんど秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作で広まっただけのハッタリ・捏造・中身なしの事績が
馬鹿みたいに現代でクローズアップされてるからな。
193人間七七四年:2013/11/23(土) 20:47:27.46 ID:IyXqIYI5
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
北条と秀吉の同盟成立しなくとも、単に徳川を挟み撃ちにするだけで確実に家康は戦死してただろうな。
やっぱ家康は弱いな。やはり北条は家康との姻戚関係を反故にして、小牧長久手で背後から一突きすべきだった。
194人間七七四年:2013/11/23(土) 21:51:46.64 ID:eFKtLS/m
北条は北条で、佐竹結城宇都宮那須壬生皆川由良長尾を始め反北条連合と南奥州連合を同時に敵に回してて
瀧川が去った後も離反続きで上野戦線が落ち着かなかったから必死だったんだろうね
195人間七七四年:2013/11/24(日) 12:38:17.79 ID:DLjWeWss
このキチガイアンチ秀吉の糞織田チョンの無差別コピペ爆撃ガチでどうにかならんかな。
196人間七七四年:2013/11/24(日) 21:09:57.32 ID:qQs6YuAm
北条氏と佐竹氏・宇都宮氏の間で行われた沼尻の合戦があり、小牧、長久手合戦と連動した。

佐竹・宇都宮両氏は秀吉と頻繁に連絡を取り合い北条氏を牽制していたため、北条氏が家康を背後から突いたら
徳川氏瓦解後、北条氏も瓦解していた。
197人間七七四年:2013/11/25(月) 04:23:52.52 ID:ZkgDn13e
>>117
否定する根拠→お前の主張には一切の史料も論拠も示されていないと抗弁している当人が、
何一つ「史料」も「論拠」も示していないのは何を意味するのか。

己が何一つ「史料」も「論拠」も示せない分際で、他人には一方的にそれを要求する逃げ口上。
だから詐話師と見下される。

そもそも、具体的反証もできずに他人の言説を否定している時点で、単なる難癖野郎。
何かと言うと「史料」「史料」とうるせぇが、その当人が一度たりともその「史料」を根拠に何かを語った事例はゼロ。
つまり、詐話師の定番文句たる「史料」とは、単に他者の言説を貶す道具にすぎんというこった。
198人間七七四年:2013/11/25(月) 08:40:19.76 ID:5XPqK08F
おれはこう思う!
根拠は?
お前が否定する根拠出せ!
はあ・・・
出せないから俺が正しい!!
199人間七七四年:2013/11/25(月) 09:40:12.40 ID:N78oF6oH
>否定する根拠→お前の主張には一切の史料も論拠も示されていないと抗弁している当人が、
>何一つ「史料」も「論拠」も示していないのは何を意味するのか。

何か主張する側が論拠や史料を提示するなりするべきで、否定する側に証明責任なんぞない。
ガリレオが地動説を唱えた時、立証責任があるのはガリレオであって、それを否定する側の人間じゃなかったのと一緒。

>何一つ「史料」も「論拠」も示せない分際で、他人には一方的にそれを要求する逃げ口上。

史料を出せない→お前の主張
お前の主張が嘘だという論拠→お前の主張に論拠も史料も何も提示されていない事。

>具体的反証もできずに他人の言説を否定している時点で、単なる難癖野郎。

論拠や史料元も何もないお前の妄想にわざわざ具体的反証なんぞ必要ない。
お前の主張が論拠や史料もなしの妄想である事が、それだけですでに具体的反証であり、妄想だといえる立派な根拠

>何かと言うと「史料」「史料」とうるせぇが、その当人が一度たりともその「史料」を根拠に何かを語った事例はゼロ。

どの話をしてるか知らんが、そりゃ主張する側に立証責任があるのは当たり前だろ。7
論文とか評論を読んでみろよ。作者が何かを主張する→その論拠や根拠を具体例や他の事例と絡ませながら説明
歴史的事実を主張するなら史料や、あるいはそこから導き出せる論拠や、他の歴史的事実からの推論(妄想ではない)
等をまじえて、説明責任、証明責任を「何かを説明し、主張する側が」負うのは当たり前。
「否定する根拠」などと悪魔の証明を求める馬鹿なお前には議論する資格も価値もない。
200人間七七四年:2013/11/25(月) 15:26:34.26 ID:itSJdYAg
戦国時代の出来事を「御当家紀年録」に書いてあるから正しいなどというのは滑稽だな。「御当家紀年録」は江戸前期の記録
だから、史料・論拠などと提示するほうが間違っているよ。
201人間七七四年:2013/11/25(月) 15:37:39.70 ID:MSsMo/o/
御当家記念録に頼らなくても、他の家記とか合戦記とかでも似たような内容が書かれてるし
一次資料や記録類でも、合戦での活躍は四天王と石川と大須賀くらいで他の連中は悉く領国にいるためか
全く記載がなされておらず、逆に家康と同じ場所にいないためかわざわざ書状でやり取りしてるんだが
202人間七七四年:2013/11/25(月) 15:44:59.21 ID:RhD4xV/8
下伊那郡史とか、桑田忠親氏の文献とかちゃんとそれを引用して書いてるし
当代記にも小牧山布陣の際の織田徳川総勢16000としっかり書いてる。
合戦参加者の書いた軍記とか合戦記もほぼ同じような内容で共通してる。
203人間七七四年:2013/11/25(月) 15:48:53.18 ID:empw2kvT
成立年代からして信長公記程度の信憑性はあるだろ。
幕府開業時の重要史料として今も扱われてるしな
204人間七七四年:2013/11/25(月) 15:57:09.03 ID:WzELA4MO
そもそも江戸期成立という根拠がないし
205人間七七四年:2013/11/25(月) 16:48:46.30 ID:wRw1AX0K
ピデヨシが家康くんを蹂躙しなかったのは大地震のせいじゃないの?
206人間七七四年:2013/11/25(月) 17:18:04.47 ID:ZkgDn13e
>>199
「史料」「史料」とキャンキャン吠えてる詐話師は、そもそも反論たる持論さえ提起できてない。
お粗末の極み。
ただ根拠なく否定しているだけ。

相手に「史料」と「論拠」を求める資格があるのは、
己が「史料」に基づく「反証」を示した者だけだ。

が、この詐話師は、口先で相手の言説は否定はするも、
己はその否定の根拠たる「史料」を示せないどころか、反論たる持論さえ明示できない無能ぶり。

つまりは、詐話師は無能故、己は「反論」もその根拠たる「史料」も何一つ示さない分際で、
一切を相手に丸投げするのが十八番の詐術。

この詐話師は頭が悪い故、
他人の言説を否定するからには、己には確たる持論を有している前提自体、理解できないらしい。


で、相手から否定する根拠を尋ねられると、
相手に主張の正しさを求めてくる本末転倒。

無知故、相手の主張が正しいのか正しくないのか、判断できない分際で、
相手が己の言説の正しさをいくら唱えたって、意味なし。
ひたすら愚劣な難癖をつけまくるだけ。

で、己は何一つ「自説」もその根拠たる「史料」も示さず、逃げ回る。
これが、この詐話師の十八番の詐術。
207人間七七四年:2013/11/25(月) 17:22:48.75 ID:8+JMx2XJ
うちの家の家系図のテッペンに北条氏輝って書いてあるんだけど誰?
208人間七七四年:2013/11/25(月) 17:52:58.23 ID:WzELA4MO
天正地震の時に滅亡の前兆怪異なんて噂は全く無かったしなあ。
怪異や神仏に恐れを抱いてテレビも無い中世人の得体のしれない噂は衝撃的だったろうな。
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
また天正13年夏にも大地震が起こり三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だタコw
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っている
壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
>>徳川も島津も北条も伊達も敵という状態だったにも拘らず地震から見事に立ち直って
そもそも天正大地震の被害どころか天正大地震直後から佐々討伐に大軍で出兵してる事からも豊臣領国は策源地の被害が皆無といっていい
領国の民家が被害にあった記述はあっても軍隊が壊滅状態になったなんて到底妄想なんだから
209人間七七四年:2013/11/25(月) 17:54:07.51 ID:WzELA4MO
民間人が死亡しただけだろw
一方秀吉側は全く被害の様子を気にしている様子はなく上杉・佐竹・真田にあてて徳川討伐の予定を事細かに書き綴っており
壊滅的打撃など最初から受けてないどころか秀吉は11/20日までに存在した家康攻撃計画をより一層現実のものにしようとするため軍備進めまくってる
(1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
このように秀吉は大地震の被害がなかった上に大地震を利用して家康領国に総攻撃かける準備進めまくってるだけ。
長島がぶっ壊れて木曽川流路の変遷があった信雄領国や堤防が決壊した秀吉と違って秀吉側は策源地被害が皆無だからな
そもそも本国含め領土の大部分がもろかぶりになるのと西は四国中国北は越中能登西は尾張伊勢美濃信濃と
広範にわたる領国のごく一部がかぶるのとじゃ全く被害が違うし家康領国もめちゃめちゃになってるし
天正大地震で壊滅的被害受けたのは秀吉策源地の播磨や摂津から程遠い信雄領国の尾張や三河や尾張だ

>>それでも織田豊臣は底力を見せて2年後にはあっさり島津を下してるなw
島津が単に宗麟が復権した大友の立花高橋らに蹴散らされてたし毛利軍らの上陸で島津は抗戦体制もろくにととのわずに
コテンパンになっただけじゃん
底力も糞もたいした被害もないどころか家康の領国がめちゃめちゃになっただけで秀吉側に有利な結果しかもたらさなかったのが天正大地震
210人間七七四年:2013/11/25(月) 18:07:42.60 ID:empw2kvT
>>「史料」「史料」とキャンキャン吠えてる詐話師は、そもそも反論たる持論さえ提起できてない。
反論たる持論=お前の主張が根拠なしの妄想であるという事
>>根拠なく否定しているだけ。
お前の根拠なしの妄想に一々根拠なんぞ必要なし。
お前の妄想に全く論拠も史料も提示されていないのが、俺の主張(=お前の主張が妄想)の根拠
>>相手に「史料」と「論拠」を求める資格があるのは己が「史料」に基づく「反証」を示した者だけ
まず先に何かを主張する側が自分の主張の論拠なり史料を提示すればいいだけで
それを否定するのに論拠も史料も必要なし。「主張者の主張」に全く論拠がない事が何よりのお前の主張が妄想だという論拠になる。
>>口先で相手の言説は否定はするも、
口先も糞もお前が史料も論文も論拠も具体的に提示せず妄想垂れ流してるだけだから突っ込んでるだけじゃん。
>>己はその否定の根拠たる「史料」を示せない
否定の根拠=お前の主張に全く論拠史料論文何も示されていない事。
>>反論たる持論さえ明示できない無能ぶり。
持論=お前の主張=論拠なし史料なし論文なしの妄想であると言う事
>>詐話師は無能
自己紹介乙
>>己は「反論」もその根拠たる「史料」も何一つ示さない分際で、
反論の根拠=お前の主張が論拠なし史料なし論文なしの妄想であると言う事
>>一切を相手に丸投げするのが十八番の詐術。
先に主張する側がその論拠なり史料なり示せばいいだけ。それができてないんだからお前の主張=妄想という俺の主張が通るというだけ。
>>他人の言説を否定するからには、己には確たる持論を有している
お前の根拠なし史料なしの妄想を否定するのに持論も糞もない。
>>相手から否定する根拠を尋ねられると相手に主張の正しさを求めてくる
否定の根拠=お前の主張が論拠なし史料なし論文なしの妄想であると言う事
>>無知故、相手の主張が正しいのか正しくないのか、判断できない
お前のソースなしの便所の落書きに正しいも正しくないの判断も糞もねーよ。
>>相手が己の言説の正しさをいくら唱えたって
何がいいたいのかわからん。お前が己の言説の正しさを論拠や史料を元に論理的に証明すればいいだけ。
それができないからお前の主張=妄想
>>ひたすら愚劣な難癖をつけまくる
難癖付けてんのお前の方じゃん。俺はお前の主張の論拠や史料がないからお前の主張は妄想だという至極当たり前の事を言ってるだけだよ。
>>で、己は何一つ「自説」もその根拠たる「史料」も示さず、逃げ回る。
自説=お前の主張が論拠なし史料なし論文なしの妄想であると言う事
その根拠=お前の主張が論拠も史料も全くなしの妄想である事
211人間七七四年:2013/11/25(月) 18:12:16.11 ID:RhD4xV/8
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
212人間七七四年:2013/11/25(月) 18:28:23.96 ID:RhD4xV/8
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
213人間七七四年:2013/11/25(月) 18:28:50.08 ID:wRw1AX0K
長文うざい
全く読む気しない
214人間七七四年:2013/11/25(月) 19:01:56.10 ID:ZkgDn13e
>>210
中身ゼロのひたすら長いだけの駄文で憂さ晴らしの小物。
文句があるなら、先の書き込みの、どこがどう間違っているのか、正しく添削して修正してみろ。
ま、難癖だけが一丁前の詐話師には、亀の腹筋だな。

終わったな。
あっさり撃沈。
215人間七七四年:2013/11/25(月) 20:43:06.47 ID:DxGboxJp
何で信長に臣従したのに秀吉にはしなかったんだろ。
216人間七七四年:2013/11/25(月) 20:47:48.15 ID:itSJdYAg
天正地震の震源地は尾張のあたりみたいだね。三河に入るには尾張を通ることが必要で、その尾張が壊滅的な被害では
秀吉とて戦どころではないわな。
217人間七七四年:2013/11/25(月) 21:02:08.80 ID:N78oF6oH
尾張ルートが難しいなら信濃ルートで上杉と合流して南下すればいいだけじゃん。
木曽・小笠原・水野・真田・石川も既に秀吉に恭順し軍事機密も露見。
現に天正地震から一月以上経った1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
218人間七七四年:2013/11/25(月) 21:08:00.28 ID:empw2kvT
別に地震だからって通れないような状態になってる所しかないわけではないだろ。
織田信雄だって長島はぶっ壊れたけど、尾張の清洲に移ってずっと避難する事なく在国してるし
通れない状態の所避けて通るなりすれば大丈夫。刈谷の水野氏も石川も既に味方だし、
秀吉は地震があった後徳川への侵攻計画を中止したわけでもなく、むしろちゃくちゃくと準備進めてたし
地震のことなんか全く言及に上がってない。
219人間七七四年:2013/11/25(月) 21:24:33.92 ID:RhD4xV/8
信濃の徳川の分国支配は領土安堵状を出して国人の自立的統治を後押しするだけの間接統治で
支配力が弱いからせめるには絶好の地域だわな。
ただでさえ離反が続いて徳川の支配圏は諏訪佐久伊那のわずか3郡しかなかったし、
諏訪とか柴田康忠とか保科正直とか知久とか松尾小笠原とか今にも裏切りそうな連中でひしめいてたし。
220人間七七四年:2013/11/25(月) 21:43:12.85 ID:WzELA4MO
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
221人間七七四年:2013/11/25(月) 21:45:28.33 ID:N78oF6oH
ビビリとヘタレ土下座が秀吉の真骨頂だからね。本能寺の時も、毛利にこれもやるあれもやると口述詐欺で土下座しまくったら
毛利がまんまと騙されて結果的に救われた形になったし
222人間七七四年:2013/11/25(月) 22:17:29.00 ID:empw2kvT
小田原征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら緒戦の駿河伊豆国境地帯の戦闘に敗戦、
韮山城500に大苦戦し、小田原1000や忍城1000などの雑魚城に全く自力では手も足も出ず
一柳直末堀尾嫡男前田重臣平岩弟依田戦死に 氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
223人間七七四年:2013/11/25(月) 22:27:39.52 ID:5XPqK08F
長いから読んでないけど簡潔に言うとなんなの?
224人間七七四年:2013/11/26(火) 00:57:48.56 ID:8ZzfSlQs
要約すると、僕のチラシを読む前に捨てないでちょー
225人間七七四年:2013/11/26(火) 10:26:58.11 ID:KBJHBHYw
短くするとビビりとヘタレしかかけないおバカポン
消えてくれればいいのに
226人間七七四年:2013/11/26(火) 21:21:32.79 ID:pY82/KRY
小牧長久手以降、秀吉が家康を許したのは、家康よりも島津氏の伸長を恐れたからだ。家康と戦ったら、島津氏と戦えない。
ということで、家康を臣従させて九州平定に取りかかったのだ。
227人間七七四年:2013/11/26(火) 21:28:21.64 ID:CDuImz44
島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
228人間七七四年:2013/11/26(火) 21:35:44.20 ID:P4to4TND
その頃の島津は御船城の甲斐親直に負けまくり その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
229人間七七四年:2013/11/26(火) 21:39:22.94 ID:fKb0+Vz7
大友は秀吉来る前に島津追撃ついでに筑前の宝満や岩屋を取り返して追っ払ったし
豊後からも完全に叩き出したどころか敗走する島津を佐伯地方で待ち構えてフルボッコしてやったわけだが。
あとな、秋月が高橋が和睦する予定だったが、それを知った筑紫が秋月を棄てて高橋と婚姻して大友傘下になり、
島津敗走時に筑紫は脱出して自力で筑後の領地を回復してから秀吉に会っているし、
朝鮮渡海用根拠地設営の肥前と共に筑前は博多を朝鮮出兵用に使うために、
代わりに柳川を与えられた宗茂の寄騎に筑紫はして貰ってる。
さらに日向は土持領や伊東領であって大友直轄地なんてねーよ。
筑前筑後は秋月が毛利や島津を利用して暴れてたから元々、完全支配なんてしてなかったのも知らんのか。
肥後にしたって龍造寺勢力圏になってたのを島津が奪ったようなもんだよ
ぶっちゃけ島津は南郡衆の内応が無かったら豊後どころか肥後侵攻の時点で頓挫してただろ
国力を疲弊させる島津の他人のフンドシ作戦は脅威やわ
230人間七七四年:2013/11/26(火) 21:40:30.67 ID:fKb0+Vz7
筑前での立花宗茂の話の時も毛利の援軍は豊前で大虐殺して回って脅してたが、
秋月から養子に入った高橋元種の香春岳城を攻略した時点で
戦力ボロボロでそれ以上の進軍を断念し越冬準備を開始してるのも知らずに語ってるバカぶりだったが・・・
6カ国守護なんて名を持てば実質的にも支配が確立できていたと思ってるなんて超絶バカwww
大友側のまったく微動だにしなかった数々の城を何度も攻めては敗走。
そしてそれら数々の拠点城を策源地とした後方遮断と調略によって、
島津は誰が見ても圧倒的不利で、事態打開の方策もない大消耗戦で
大幅ば戦力低下状態に追い込まれ、豊後で島津に内応した国人たちまでが
大友の調略に応じて見放されてしまい、ついには完璧な孤立に追い詰められ
府内から逃げるほかなくなってしまい
義弘が攻略できなかった岡城を中心にした肥後口は完全に封鎖されてしまう。
島津が相良を殿にさせて日向口から逃避行する際では、
家久がまったく攻略できずに放置した無傷の栂牟礼城を中心とした支城ネットワークの中を
通過しなきゃならず、佐伯領主の佐伯惟定を中心に満を持してこの時を待ち構えていた
捕捉殲滅軍の前に、最後は日向豊後国境の梓峠でほぼ壊滅的被害を受け、
義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品まで手に入れ、のちに秀吉に見せている。
この大友による自力での島津敗走への報告を得て、やっと門司に集結を開始し始めていた秀吉軍が
タイムスケジュールを大幅に前倒しして、大急ぎで追撃準備を開始して、島津がとっくに逃げ去った後の豊後に入国し
義統に道案内をしてもらい、日向へ入国したわけだ。
これらの自力島津撃破の大功を評価した秀吉は、立花や佐伯を激賞してるんだよアホ島津厨クンwww
島津最強じゃなきゃ嫌だとか泣いて必死でマンセーして超無知をさらけ出したなwww
そもそも秀吉は豊前での毛利のボロクソぶりに、毛利じゃ秋月攻略すら無理とみて
専守防衛を命じていたから充分な準備と集結を待ってからの南下を考えており
即、豊後救援なんて考えていなかった。
すると島津が敗走を重ね、ついに豊後から逃走した。
蒲生らも準備が追いつかずに大追撃をしてたので後続が追いつかなかったほど。
肥前で略奪しまくっていた島津は補給も受けられず豊後でも強盗のような集団に成り下がっていた。
家久の1万の軍勢は進入から2ヶ月を経た時点で後方遮断されて必死に城奪回の強攻めなどの愚を繰り返し
すでに半数以上が討ち死になどで戦力外になっていたので軍隊として崩壊していた。
231人間七七四年:2013/11/27(水) 08:48:54.75 ID:pKKCeUbE
簡潔に主張をまとめられないのもアスペの特徴
232人間七七四年:2013/11/27(水) 08:56:56.99 ID:nEXGmxJ+
今日の読売新聞に、三方原の織田援軍2万とかあったね。
浜松以降の拠点の城に分散配置となっていたけど、家康はこの後詰めを
見越して乾坤一擲の徴発をしたと推測してた。
ずるがしこい略術展開さすが神君家康、、負けない戦争するんだもん。
ゆるキャラ戦争は2位だったけど・・・
233人間七七四年:2013/11/27(水) 09:46:00.29 ID:Z63wA0N4
ゆるキャラは利権にまでなりつつある
家康君に血税注ぎまくる馬鹿市あり
234人間七七四年:2013/11/27(水) 12:18:04.03 ID:KPKeSkWy
そりゃあフロイス曰く
織田軍の総司令官佐久間信盛が来援してるんだから
当然、そのくらいの兵力はいるだろうね。
235人間七七四年:2013/11/27(水) 12:23:00.56 ID:KPKeSkWy
>>228>>229>>230
これってスッゲー昔にSABが書き込んだレスだよね。
このアンチ秀吉のキチガイ織田チョンって、
自分が作ったレスに自信がないから、
大昔のSABレスをコピペ盗用しまくって
説得力を増そうとしてるよね。
以前、SABレスの三河物語の志賀陣の織田敗北内容の盗用コピペと
自分で作った三河物語の織田勝利内容の志賀陣解釈レスが、
正反対の内容で見事に馬脚をあらわして失笑されまくってたよなw
236人間七七四年:2013/11/27(水) 20:22:45.89 ID:qvrsEjtb
浜松以降の拠点に2万分散配置だったら、武田軍の動きがなくなるのも分かるような気がする。たしか野田城とかいう
城で年を越したと思うのだが。武田軍が動かなくなったのは信玄の病だけでなく、他の背景もあったのね。
237人間七七四年:2013/11/27(水) 21:23:42.33 ID:GC/9iG0h
>>236
佐久間は武田軍にビビり逃亡だからw
238人間七七四年:2013/12/11(水) 22:15:00.57 ID:ORVa5iWL
関白秀吉さまに早く頭を下げておけばよかったのにな。機転が利かないぐらいだから、秀吉の配下になっても家康のように天下は獲れなかただろうな。氏直は坊ちゃん育ちだから仕方が無い。
239人間七七四年:2013/12/11(水) 22:28:48.51 ID:bAzVjjxf
秀吉なんて伊達さえ味方すりゃ100%瞬殺できただろ。
史実では秀吉なんて29万も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
240人間七七四年:2013/12/11(水) 22:31:09.56 ID:MMJ/14Vo
豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
241人間七七四年:2013/12/21(土) 20:03:24.27 ID:zXN1LcE0
北条が生き残ってたら
東軍と西軍どっちに付くの?
242人間七七四年:2013/12/23(月) 14:46:58.87 ID:tIyWlVLb
【伊豆長浜城(静岡県沼津市)】
戦国時代の後北条氏の水軍根拠点、沼津市内浦湾に面する長浜城。
http://century660.sakura.ne.jp/castle/nagahamajyoh_model.html
243人間七七四年:2013/12/24(火) 18:28:45.36 ID:r2cPomqp
>>241
そりゃあ東だから東軍だろ。
244人間七七四年:2013/12/26(木) 14:45:05.58 ID:xC5808Cw
あほ、佐竹や蜂須賀、黒田はなんなんだよw
245人間七七四年:2013/12/26(木) 16:59:00.42 ID:H053t0LT
徳川と固い同盟結んでいるから東軍
246人間七七四年:2013/12/26(木) 22:27:15.01 ID:L3/tItIE
家康が関東に移封されなければ、関ヶ原は起こらなかったかもな。家康は5大老の他の大名と甲乙付け難くなる。
247人間七七四年:2013/12/31(火) 09:46:03.08 ID:wdb0YS0S
秀吉が北条征伐をしたことは秀吉政権の判断ミスだったのかもな。
248人間七七四年:2013/12/31(火) 14:37:59.52 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
249人間七七四年:2013/12/31(火) 15:19:23.12 ID:1FKeqkY0
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
250人間七七四年:2013/12/31(火) 15:31:07.64 ID:wdb0YS0S
人を送ったら人質に決まってんだろ。養子という名目上の人質だろ。日本語を理解しろよ。
251人間七七四年:2013/12/31(火) 16:39:34.28 ID:Gv7qchwB
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回

ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
252人間七七四年:2013/12/31(火) 16:40:13.02 ID:1FKeqkY0
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
253人間七七四年:2013/12/31(火) 16:41:14.17 ID:TpgRE3xH
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
254人間七七四年:2013/12/31(火) 16:42:21.74 ID:TpgRE3xH
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
255人間七七四年:2013/12/31(火) 16:43:27.72 ID:6fx9gONF
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
256人間七七四年:2013/12/31(火) 16:46:07.02 ID:PCWD06r+
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
257人間七七四年:2013/12/31(火) 16:46:35.66 ID:TpgRE3xH
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
258人間七七四年:2013/12/31(火) 16:48:52.11 ID:TpgRE3xH
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
259人間七七四年:2013/12/31(火) 17:02:56.37 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
260人間七七四年:2013/12/31(火) 17:30:08.56 ID:1FKeqkY0
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
261人間七七四年:2013/12/31(火) 17:31:09.08 ID:1FKeqkY0
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
262人間七七四年:2013/12/31(火) 17:35:41.23 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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263人間七七四年:2013/12/31(火) 17:48:13.53 ID:tLvoSXpS
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
264人間七七四年:2013/12/31(火) 18:13:35.12 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
265人間七七四年:2013/12/31(火) 18:55:51.33 ID:qhhSFJRo
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
266人間七七四年:2013/12/31(火) 21:00:25.37 ID:FNMj23DJ
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
267人間七七四年:2013/12/31(火) 21:01:01.32 ID:tLvoSXpS
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
268人間七七四年:2013/12/31(火) 21:02:18.87 ID:tLvoSXpS
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる

北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
269人間七七四年:2013/12/31(火) 21:03:56.69 ID:Gv7qchwB
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
270人間七七四年:2013/12/31(火) 21:34:18.34 ID:tLvoSXpS
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
271人間七七四年:2013/12/31(火) 21:35:00.83 ID:1FKeqkY0
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
272人間七七四年:2014/01/01(水) 10:09:55.37 ID:U7hNo7uX
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

蟹江城を取り尾張への
中入り戦略なんて、
太閤記には、
「滝川思ふやう、蟹江之城を調略し尾州に至て中入をし、家康卿などおびやかし見むと謀て」
などと滝川が勝手に妄想して行動し自爆した話に出てくるだけで、
太閤記でさえ、秀吉の了解していた話じゃないし、
三河物語でも滝川が秀吉と連携していたなんて全く書いてないのになwww
一次史料どころか、三河物語や太閤記にすら秀吉が事前に知っていた戦略なんて書いてない。
だから秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替えしてる。
秀吉了解での蟹江中入り策など完全なまでに妄想。

6/10秀吉→石川
これ偽書状で有名じゃん。
秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、
多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
もしくは、
顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレ
などを読んで、6/10に落城した竹鼻城を秀吉自ら請取ったと誤読して偽書状を作製しただけ。
実際の秀吉は美濃にいて、
6/9に美濃墨俣で戦勝の茶会を宗無、宗二、宗及を呼んで楽しんでから、
6/11もしくは6/12に美濃大垣へ入馬したのが秀吉と同道していた秀包書状でわかる。

三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は、
大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
大久保がリアルタイムで石川の心読出来る異能者なんて主張すんなよw
273人間七七四年:2014/01/01(水) 11:22:31.19 ID:AoWLDdn1
>>6/10秀吉→石川 これ偽書状で有名じゃん。秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した

誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。

>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。

>>尾張への 中入り戦略

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
274人間七七四年:2014/01/01(水) 11:24:35.04 ID:AoWLDdn1
 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高
275人間七七四年:2014/01/01(水) 12:14:02.16 ID:U7hNo7uX
在日基地外理論

家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。

へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?

婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、
ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。

朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
276人間七七四年:2014/01/01(水) 12:37:27.37 ID:9ZJMkYEW
6/10秀吉→石川
って三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。

家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな
277人間七七四年:2014/01/01(水) 12:39:38.46 ID:9ZJMkYEW
>>秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替え

長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

>>秀吉は6/8に墨俣で茶会を開き勝利の美酒に酔っている

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
278人間七七四年:2014/01/07(火) 22:17:21.98 ID:NJrNNRIv
長く書いているのをまとめると、家康が秀吉に人質を送ったっていうこと。
279人間七七四年:2014/01/07(火) 23:37:35.47 ID:t8W8ohjK
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
280人間七七四年:2014/01/07(火) 23:39:45.04 ID:t8W8ohjK
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
281人間七七四年:2014/01/07(火) 23:41:00.28 ID:Wu5eD9kG
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
282人間七七四年:2014/01/07(火) 23:42:23.01 ID:Nn8zUXkJ
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
283人間七七四年:2014/01/07(火) 23:44:11.92 ID:r4nXUhb+
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
284人間七七四年:2014/01/08(水) 22:16:46.35 ID:IEtZIDCU
結局人質を送ったとして、利用されているじゃねえか。
285人間七七四年:2014/01/11(土) 16:35:32.94 ID:GUycmnOI
菅沼遼太を人質として、秀吉に送ってやろうか・・・遼太じゃまだ!どけ!・・・人質よりは島送りがいいだろう・・・磔はかわいそうだから見逃してやるよ。でも今度荒らしたら覚悟しとけよ。
286人間七七四年:2014/01/12(日) 19:13:38.80 ID:iW5LUr4U
菅沼を人質にあげる
287人間七七四年:2014/01/13(月) 23:54:17.72 ID:H+1vFGpe
菅沼は焼いて食うに限る。人質に食わす飯はねぇ。
288人間七七四年:2014/01/14(火) 22:31:38.68 ID:0jBlc8vz
菅沼君に秀吉の前で話させたら、秀吉から切腹を仰せつかるだろう。
289人間七七四年:2014/01/15(水) 21:50:06.64 ID:Uieh1vUA
結局、小牧長久手戦後に家康が秀吉に人質を渡すあたり、家康の負けだね。
290人間七七四年:2014/01/16(木) 12:01:02.89 ID:TH0Pq/DE
家康は人質なんて全く出してません。
291人間七七四年:2014/01/16(木) 14:19:54.23 ID:TH0Pq/DE
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない
292人間七七四年:2014/01/16(木) 15:15:21.06 ID:ELxAkU43
>>人質秀康    家康と徳川家臣から人質を取った
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
293人間七七四年:2014/01/16(木) 15:16:42.46 ID:ELxAkU43
>>引きこもり続けた家康

家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。

>>一方的に秀吉に押されまくって

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
294人間七七四年:2014/01/16(木) 16:21:52.81 ID:IuLudSzi
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
295人間七七四年:2014/01/16(木) 16:23:46.22 ID:IuLudSzi
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
296人間七七四年:2014/01/16(木) 16:24:24.83 ID:22F+Il/J
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
297人間七七四年:2014/01/16(木) 23:08:55.11 ID:vxfgF0fr
じゃあ、人質として菅沼を秀吉の養子として送ってやろうか・・・
298人間七七四年:2014/01/17(金) 22:08:29.41 ID:BMe4xyCW
菅沼を養子として秀吉に送ったら、自分が秀吉の人質になったと思わないあたり、世間知らずだね。
299人間七七四年:2014/01/17(金) 22:20:33.81 ID:B92H82Yu
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
300人間七七四年:2014/01/17(金) 22:21:07.32 ID:pAiHHGYQ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
301人間七七四年:2014/01/18(土) 09:56:34.88 ID:xaAF83W8
菅沼談話はどうでもいいとして、臣従容認後の関東国分が気になる。

・毛利には5ヶ国召し上げ後、一部の家臣を伊予筑前で大名に取り立てる。
 九州征伐後、転封を拒否されてもお咎めなし
・上杉には越後安堵、佐渡は切取勝手。庄内も安堵
・徳川には全領安堵
・長宗我部には2ヶ国召し上げ交渉挫折で征伐後、土佐のみ安堵。
 九州征伐後、大隅加増は固辞。
・島津には征伐後、2ヶ国と1郡を安堵。
302人間七七四年:2014/01/18(土) 10:05:50.52 ID:xaAF83W8
北条の直轄領と直臣の領土は安堵するかもしれんが
小田、古河公方、結城、千葉、壬生、皆川、真里谷あたりは召し上げかな
303人間七七四年:2014/01/18(土) 11:43:04.22 ID:fGguePd/
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
304人間七七四年:2014/01/18(土) 13:02:15.12 ID:PBdOOM3q
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
305人間七七四年:2014/01/18(土) 23:05:49.92 ID:7V9vpLsk
菅沼を秀吉の養子として送り込んで、秀吉を怒らせてみようか?菅沼ビビって漏らすなよ〜
306人間七七四年:2014/01/20(月) 23:49:38.86 ID:i1x2cFo6
菅沼くんなら、喜んで秀吉の養子になると思うよ。
307人間七七四年:2014/01/21(火) 11:38:14.13 ID:JCVYXpcE
養子と人質の区別ができないような白痴ならきっと喜ぶだろうね。
308人間七七四年:2014/01/30(木) 22:08:16.97 ID:6htZE1OA
結局秀康は秀吉の人質だったということで了解。
309人間七七四年:2014/01/30(木) 22:56:57.92 ID:hqlyt6AU
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
310人間七七四年:2014/01/30(木) 22:59:02.65 ID:8L89gJnb
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
311人間七七四年:2014/01/30(木) 22:59:51.99 ID:8L89gJnb
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
312人間七七四年:2014/01/30(木) 23:00:27.41 ID:hqlyt6AU
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
313人間七七四年:2014/01/30(木) 23:00:58.16 ID:8L89gJnb
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
314人間七七四年:2014/01/30(木) 23:01:35.62 ID:46MT1Eqs
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
315人間七七四年:2014/01/30(木) 23:04:33.55 ID:sUIqLJ25
つまり秀康と石川嫡男と酒井嫡男と本多嫡男を秀吉へ人質に出して家康は従属した。
316人間七七四年:2014/01/30(木) 23:29:14.21 ID:hqlyt6AU
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
317人間七七四年:2014/01/30(木) 23:29:46.99 ID:46MT1Eqs
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
318人間七七四年:2014/01/30(木) 23:30:30.01 ID:46MT1Eqs
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
319人間七七四年:2014/01/30(木) 23:31:12.34 ID:Ed/MDsEB
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
320人間七七四年:2014/01/30(木) 23:31:47.71 ID:p+pu7SwP
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
321人間七七四年:2014/01/30(木) 23:50:41.63 ID:sUIqLJ25
>>319
看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
それ以降の話は信憑性高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
322人間七七四年:2014/01/31(金) 01:17:02.43 ID:aBF5hDcx
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
323人間七七四年:2014/01/31(金) 01:17:36.03 ID:T3VOETqT
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
324人間七七四年:2014/01/31(金) 01:29:21.67 ID:la6NDWTD
>>321
都合のいい話は信憑性高くて信用して
都合悪い話は信憑性低いとか
同じ史料の中なのに自分に話だけ引用して都合悪い話は捏造扱いとか妄想してんじゃねぇよボォケwwwww
325人間七七四年:2014/01/31(金) 01:43:49.74 ID:aBF5hDcx
>>看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前

そんな事どこにも書いてない。

>>それ以降の話は信憑性高いが、逆にそれ以前の話の信憑性は低い。

その看羊録の賊中見聞録の5秀吉死後の状況の項には
治部(三成)は首謀者だった。清正は家康に治部を攻めるように勧めそれによって乱を起こそうとした
家康と治部が憾みを解くや結局その禍心を逞しくする事ができず恐ろしい言辞をあれこれはきちらして
遂に家康に背き前田・宇喜多・伊達・細川・黒田・浅野らと血判同盟を結び共に力を合わせて家康を打ち滅ぼし
その土地を分けようと約束した

などと一次資料にない捏造ばかりデッチあげてるんだがw

>>宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を

フロイスの記述なんてほとんど京以西の歪曲された秀吉の捏造戦果ばかり事実として書かれてるかfら信憑性0.
これは>>322あたりをよめばわかるが一次資料と照らすと馬鹿みたいに嘘ばかりで塗り固められてて
合ってる記述の方が遥かに少ない。
326人間七七四年:2014/01/31(金) 01:47:29.42 ID:T3VOETqT
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
327人間七七四年:2014/01/31(金) 01:48:09.08 ID:juJnakEd
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
328人間七七四年:2014/01/31(金) 01:49:11.74 ID:juJnakEd
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
329人間七七四年:2014/01/31(金) 02:03:14.02 ID:aBF5hDcx
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
330人間七七四年:2014/01/31(金) 02:04:28.60 ID:juJnakEd
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
331人間七七四年:2014/01/31(金) 02:05:41.88 ID:juJnakEd
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀頼は実子じゃなかったと最近言われてるしね
332人間七七四年:2014/01/31(金) 22:23:46.82 ID:Tq9O1B8B
秀吉が九州征伐後にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年以降、
かなり秀吉についてねじ曲がったことを書き連ねてる。
333人間七七四年:2014/01/31(金) 22:43:22.04 ID:DeiE1jpf
都合のいい話は信憑性高くて信用して
都合悪い話は捏造とか
同じ史料の中なのに自分に話だけ引用して都合悪い話は捏造扱いとか妄想してんじゃねぇよボォケwww
334人間七七四年:2014/01/31(金) 23:00:19.13 ID:juJnakEd
フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって
秀吉をマンセーしまくってるよ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
を見ればわかるが、そのまま秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど
秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
335人間七七四年:2014/01/31(金) 23:01:29.70 ID:sn2H1RFI
つまり菅沼君は歴史をねつ造しているのですね。困ったものですね。そんなカスはゴミ箱に捨てましょう。ということで、
秀吉の人質は秀康で決まり。
336人間七七四年:2014/01/31(金) 23:04:36.30 ID:T3VOETqT
>>334
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
337人間七七四年:2014/01/31(金) 23:09:23.96 ID:juJnakEd
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。
338人間七七四年:2014/01/31(金) 23:10:11.74 ID:aBF5hDcx
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
339人間七七四年:2014/01/31(金) 23:10:16.23 ID:sn2H1RFI
>>336
全くわからん。
340人間七七四年:2014/01/31(金) 23:11:02.27 ID:aBF5hDcx
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
341人間七七四年:2014/01/31(金) 23:11:17.19 ID:sn2H1RFI
つまり菅沼は秀吉の養子になりたいのか、人質になりたいのかどちらかね?
342人間七七四年:2014/01/31(金) 23:11:58.57 ID:DeiE1jpf
>>335
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
343人間七七四年:2014/01/31(金) 23:12:39.18 ID:sn2H1RFI
菅沼君は秀吉の養子にしてあげる。よかったね。ぼけ
344人間七七四年:2014/01/31(金) 23:14:15.52 ID:YpLpXnTK
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
345人間七七四年:2014/01/31(金) 23:14:57.41 ID:aBF5hDcx
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
346人間七七四年:2014/01/31(金) 23:15:55.10 ID:LB0/ry6C
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
347人間七七四年:2014/01/31(金) 23:17:08.79 ID:juJnakEd
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
348人間七七四年:2014/01/31(金) 23:18:20.35 ID:YpLpXnTK
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
349人間七七四年:2014/01/31(金) 23:34:50.98 ID:3NJeJgVi
菅沼遼太 菅沼 遼太 だが アスペルガーだが 武田信玄 武田 菅沼
350人間七七四年:2014/02/02(日) 00:21:32.29 ID:O548K0ri
菅沼を裸にして、秀吉の元に送ったら秀吉もビビるだろうな。
351人間七七四年:2014/02/02(日) 00:23:23.92 ID:O548K0ri
それとも菅沼をあっちこっち骨折させて、青あざだらけで秀吉の元に送ったら、秀吉もビビるだろうな。
352人間七七四年:2014/02/02(日) 00:25:16.50 ID:O548K0ri
首だけ送っても、しゃべれないからつまらないな。
353人間七七四年:2014/02/02(日) 22:46:15.60 ID:O548K0ri
菅沼君は秀康は養子だと言い張って、他の人たちは人質だと言っている。結局、養子の体の人質だろ。
菅沼君に合わせると、養子として送ったけれど、人質扱いにされたんだろ。
354人間七七四年:2014/02/02(日) 23:12:49.61 ID:jn6urtqw
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
355人間七七四年:2014/02/02(日) 23:13:40.95 ID:PycWlL3S
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
356人間七七四年:2014/02/02(日) 23:14:24.64 ID:yvzkCjed
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
357人間七七四年:2014/02/02(日) 23:15:05.67 ID:fwG+DOW8
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
358人間七七四年:2014/02/02(日) 23:18:05.58 ID:hIMxu8u3
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
359人間七七四年:2014/02/02(日) 23:19:09.12 ID:jUcK0m91
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力相手に母と妹さしだす雑魚ってそうそういないよな
360人間七七四年:2014/02/02(日) 23:20:22.09 ID:Y0GLXpK9
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
361人間七七四年:2014/02/02(日) 23:21:05.89 ID:y/jp4POt
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
362人間七七四年:2014/02/02(日) 23:21:46.99 ID:homjvlqj
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
363人間七七四年:2014/02/02(日) 23:22:07.63 ID:jUcK0m91
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
364人間七七四年:2014/02/02(日) 23:30:00.90 ID:VeXjDCL3
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
秀康がもし人質だったなら、家康が秀吉の命に背いた場合即効で殺される危険があるから、天正13年時点でも家康が秀吉の上洛要求も飲まずろくに従わず、
上洛どころか軍備整えたり浜松で抗戦か和平かで割れるとかありえないし、はじめから一次停戦の条件で秀康を秀吉の養子に出しただけでしょ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
365人間七七四年:2014/02/02(日) 23:30:59.73 ID:jUcK0m91
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
366人間七七四年:2014/02/03(月) 00:57:39.93 ID:4lqLEUQE
長い文章御苦労さま。
まとめると秀康は養子として秀吉のもとに送られたが、秀吉のせいで人質呼ばわりされたということでいいよね。
367人間七七四年:2014/02/03(月) 01:12:25.70 ID:QtkBLeAa
秀吉は種なしだから側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
368人間七七四年:2014/02/03(月) 01:13:12.27 ID:bF7e0oMN
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
369人間七七四年:2014/02/03(月) 01:54:29.82 ID:4lqLEUQE
秀吉は残虐だから、養子の秀康を人質にしたということで、いいんでねぇか?
370人間七七四年:2014/02/03(月) 11:02:01.81 ID:bF7e0oMN
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
秀康がもし人質だったなら、家康が秀吉の命に背いた場合即効で殺される危険があるから、天正13年時点でも家康が秀吉の上洛要求も飲まずろくに従わず、
上洛どころか軍備整えたり浜松で抗戦か和平かで割れるとかありえないし、はじめから一次停戦の条件で秀康を秀吉の養子に出しただけでしょ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
371人間七七四年:2014/02/03(月) 11:02:32.25 ID:QtkBLeAa
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
372人間七七四年:2014/02/03(月) 11:03:20.71 ID:sh5xOWye
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
373人間七七四年:2014/02/03(月) 11:03:44.85 ID:VwuahoPu
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
374人間七七四年:2014/02/03(月) 11:04:13.06 ID:bF7e0oMN
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
375人間七七四年:2014/02/03(月) 12:06:54.37 ID:bF7e0oMN
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
376人間七七四年:2014/02/03(月) 12:08:12.21 ID:tjOu421N
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
377人間七七四年:2014/02/03(月) 20:30:47.65 ID:4lqLEUQE
菅沼くんよ〜
秀吉は腐ってるから、秀康を人質にしたということでいいやんか。
378人間七七四年:2014/02/03(月) 20:36:17.17 ID:bF7e0oMN
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
秀康がもし人質だったなら、家康が秀吉の命に背いた場合即効で殺される危険があるから、天正13年時点でも家康が秀吉の上洛要求も飲まずろくに従わず、
上洛どころか軍備整えたり浜松で抗戦か和平かで割れるとかありえないし、はじめから一次停戦の条件で秀康を秀吉の養子に出しただけでしょ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
379人間七七四年:2014/02/03(月) 20:37:06.36 ID:VwuahoPu
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
380人間七七四年:2014/02/03(月) 20:37:31.34 ID:R2AW0054
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
381人間七七四年:2014/02/03(月) 20:38:24.41 ID:bF7e0oMN
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
382人間七七四年:2014/02/04(火) 21:29:29.13 ID:/eycyrZb
おい菅沼!
秀康を養子に出さなければ、一時的な講和も成立しなかったぞ。講和が成立したのも秀康様が人柱となったからだぞ!
頭がたか〜い。菅沼!お前のような糞ガキの分際で無礼だぞ!!
383人間七七四年:2014/02/04(火) 21:50:40.62 ID:kVtdX2A9
秀吉が顕如に土下座して必死に信雄との仲介取り成しを依頼して、信雄がマンマとこれにのって和睦したから、停戦になって、停戦の条件として秀康が秀吉の養子になっただけ。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
384人間七七四年:2014/02/04(火) 22:38:09.01 ID:MWqnb4jb
>>382
織田朝鮮人自作自演乙w
385人間七七四年:2014/02/07(金) 23:23:05.00 ID:vWZ/NofO
冷静に考えてみると名目も実質も秀康は養子だったんだな。でも人質という人もいる。なぜ人質という人がいるのだろう。菅沼はなぜだと思う?
386人間七七四年:2014/02/07(金) 23:45:40.87 ID:m/7ApBrm
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
387人間七七四年:2014/02/07(金) 23:47:04.63 ID:ZI1EIVQ0
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
388人間七七四年:2014/02/08(土) 01:47:40.64 ID:RJodcfze
>>385
織田ちょん自作自演乙www
389人間七七四年:2014/02/09(日) 21:12:13.20 ID:uc2eKePH
講和するだけだったら、秀康を養子にだすこともなかろうに・・・
390人間七七四年:2014/02/09(日) 22:02:57.27 ID:IAFcG9TO
講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)
391人間七七四年:2014/02/09(日) 22:04:36.80 ID:5U+NEVw0
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
392人間七七四年:2014/02/10(月) 21:49:03.55 ID:/XFMMCkD
家康は喜んで秀康を養子に差し出したと思うのか?
393人間七七四年:2014/02/10(月) 22:44:52.58 ID:2ml6aJ+0
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
394人間七七四年:2014/02/11(火) 23:06:34.78 ID:EtD4lqBg
一時的な停戦条件で、秀康が養子になるってどういうことや。一時的な停戦条件なら、人質でいいやんけ。養子になったら、そらあおいそれとかえれねーだべよ。
395人間七七四年:2014/02/11(火) 23:33:44.12 ID:uyvp4UFR
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
秀康がもし人質だったなら、家康が秀吉の命に背いた場合即効で殺される危険があるから、天正13年時点でも家康が秀吉の上洛要求も飲まずろくに従わず、
上洛どころか軍備整えたり浜松で抗戦か和平かで割れるとかありえないし、はじめから一次停戦の条件で秀康を秀吉の養子に出しただけでしょ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
396人間七七四年:2014/02/11(火) 23:34:21.98 ID:Zj5cTBZs
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
397人間七七四年:2014/02/11(火) 23:34:59.85 ID:NAl4A76B
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
398人間七七四年:2014/02/11(火) 23:35:24.91 ID:uyvp4UFR
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
399人間七七四年:2014/02/11(火) 23:40:06.97 ID:yqYTgMRS
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
400人間七七四年:2014/02/11(火) 23:40:51.23 ID:NAl4A76B
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
401人間七七四年:2014/02/11(火) 23:41:38.87 ID:Zj5cTBZs
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
402人間七七四年:2014/02/11(火) 23:43:24.24 ID:Zj5cTBZs
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回

ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
403人間七七四年:2014/02/11(火) 23:44:31.48 ID:NAl4A76B
そもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
404人間七七四年:2014/02/11(火) 23:45:28.92 ID:Zj5cTBZs
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
405人間七七四年:2014/02/12(水) 00:47:00.92 ID:u0KfhhIe
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
406人間七七四年:2014/02/12(水) 00:48:11.85 ID:u0KfhhIe
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
407人間七七四年:2014/02/12(水) 22:15:05.90 ID:G3UxmIKB
恭順関係なくても人質出していいだろう。そうだ!そうだ!
408人間七七四年:2014/02/12(水) 22:46:58.09 ID:l2PewYSA
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
409人間七七四年:2014/02/12(水) 22:48:54.31 ID:INcv+0hR
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
410人間七七四年:2014/02/12(水) 22:49:27.67 ID:l2PewYSA
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
秀康がもし人質だったなら、家康が秀吉の命に背いた場合即効で殺される危険があるから、天正13年時点でも家康が秀吉の上洛要求も飲まずろくに従わず、
上洛どころか軍備整えたり浜松で抗戦か和平かで割れるとかありえないし、はじめから一次停戦の条件で秀康を秀吉の養子に出しただけでしょ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
411人間七七四年:2014/02/13(木) 20:27:19.08 ID:/YWxlWuc
秀吉なんザあ、縁のない家康の息子なんて養子にしたかねーよ。
412人間七七四年:2014/02/13(木) 21:06:42.86 ID:8AvEz/Ma
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
413人間七七四年:2014/02/13(木) 21:07:25.89 ID:WRazWfNb
講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
414人間七七四年:2014/02/14(金) 21:18:27.42 ID:pJ9cpZ2b
上杉景虎は家督相続候補にはなったが、結局最後は殺されたよね。
415人間七七四年:2014/02/14(金) 22:16:03.92 ID:ADfOnhAc
景虎に負ける可能性なんて普通に考えればなかったはず
機先を制して御館を占拠し国内国人衆を次々味方につけ
伊達蘆名武田北条に援軍要請し実際皆景虎方で越後に出兵(蘆名なんか春・秋と二回も出兵してる)
普通に敵方が迫り来る中本城と枝城の連絡を復旧しつつ
周辺諸大名をこぞって撃退した景勝が名将だったというだけの話だろ

乱発生当初は景虎が春日山を包囲する形で城を押さえる
武田軍が迫る中景勝は春日山包囲を崩して諸城との連絡を復旧
景虎逆に包囲される
この頃すでに葦名は越後に攻め入ってきており景勝方の揚北衆と戦闘中
勝頼は越後に入るも北条の行動に不信感を持って景勝と和睦して撤退
景勝は武田対策に回していた分の兵を北条対策に増派して持ちこたえ
結局北条は雪が降りだしたため撤退
同時に芦名が秋に再度越後に侵攻し山浦衆を味方につけるなどしていたが景勝これを撃退
伊達も黒川と提携し侵攻してくるがこれも撃退
その間景虎は景勝方に兵糧攻め食らっていてあちこちに救援依頼
雪のおかげで外国勢の相手から解放された景勝方が集まってきて
景勝からの総攻撃食らって景虎逃げる途中にアボン。
北条武田葦名伊達の介入のせいで国内がガタガタで天正8年半ばまで内戦が続き、後半になると新発田が挙兵するなど
一層弱体化する要因となるが
416人間七七四年:2014/02/15(土) 21:50:46.32 ID:Dvf5qnxf
秀吉の養子の秀次も殺されたしね。
417人間七七四年:2014/02/15(土) 22:17:59.80 ID:QorhEa7h
秀吉が馬鹿だったからね
養子として景勝や信孝や信雄や信包や氏照や氏邦や氏忠や元春や隆景や元清や結城秀康や葦名義広らはちゃんと家を継いだぞ。
418人間七七四年:2014/02/15(土) 22:23:00.55 ID:+p1CWV8B
秀秋も継いだしね
419人間七七四年:2014/02/16(日) 12:46:21.90 ID:LLSdQtGR
やっぱ秀吉の養子とはいっても生命の保証はないんだね。
420人間七七四年:2014/02/16(日) 12:49:12.66 ID:p7jyumUO
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
421人間七七四年:2014/02/16(日) 21:00:33.83 ID:LLSdQtGR
秀吉の養子になった秀次には生殺与奪権があって、同じ養子の秀康には生殺与奪権が無いのはあり得ないよねw
422人間七七四年:2014/02/16(日) 21:27:32.34 ID:v8hhDXtS
秀吉が鬼畜だっただけでしょ。
大体養子ではない自分の息子や兄弟ですら手にかける例だって一応はあるのに。
423人間七七四年:2014/02/16(日) 22:26:18.61 ID:p2THHmWy
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
424人間七七四年:2014/02/17(月) 20:56:47.55 ID:nleNvN3r
羽柴が徳川を従属させる過程での養子であれば、人質に近い扱いだね。
425人間七七四年:2014/02/17(月) 21:16:52.52 ID:wi0RZriU
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
426人間七七四年:2014/02/18(火) 21:57:57.63 ID:1qooCrtW
秀吉の情報操作によって、本来養子であるはずの秀康が人質に貶められたという風にも言えるのではないかな。
427人間七七四年:2014/02/18(火) 22:31:21.13 ID:WnlK5qqm
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
428人間七七四年:2014/02/19(水) 14:18:57.75 ID:B3pw3xbE
>>1
面白いな
とりあえず小山評定が起きにくいわな
仮に家康vs三成の構図は発生したとしても、上杉征伐の途中、東軍が自領の東端辺りのままでは、三成が挙兵したかどうか分からんもんな
429人間七七四年:2014/02/19(水) 21:54:34.30 ID:Yg9JvvJd
家康は人質なんて出してないつもりでいても、まわりが人質と受け止める秀吉のプロパガンダはすごいな。
430人間七七四年:2014/02/19(水) 22:04:02.66 ID:Z/sVn3g0
秀吉の活躍なんてほとんどプロパガンダで捏造されてるだけだしな。中国大返し、墨俣一夜城、美濃三人衆調略、農民からの出世話、金ヶ崎の退却戦。
全部秀吉によって捏造された太閤記や天正記などの講談軍記ネタが元ネタとなって現代まで語り継がれてドラマで再現されてる。
しかし秀吉陣営にいる信雄ですら秀康の事は人質として扱っていないと書いてるくらいだし
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
431人間七七四年:2014/02/20(木) 20:31:50.98 ID:+F3g0TnU
秀吉が家康にいつ土下座したの?
432人間七七四年:2014/02/20(木) 22:23:20.98 ID:oQJB3zMh
秀吉が天正12年の11/4に顕如に土下座して必死に信雄との仲介取り成しを依頼して、信雄がマンマとこれにのって和睦したから、停戦になって、停戦の条件として秀康が秀吉の養子になっただけ。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如書状で信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
433人間七七四年:2014/02/21(金) 08:27:06.56 ID:brc3fTzp
普通に国替えか小田原城の明け渡しでしょ。
434人間七七四年:2014/02/21(金) 21:40:20.15 ID:/8IxYzfL
秀吉に養子をあげたくなかったら、停戦しなくていいんだよ。養子をあげたってことは、プスッ笑
435人間七七四年:2014/02/21(金) 23:16:16.61 ID:pjYNyuDg
秀吉が必死に顕如に11/4に信雄への仲介取り成しを頼んで
信雄との講和が成ったせいで、単体では対抗する名分も国力も失われた家康はしぶしぶ
秀吉に養子を出して停戦しただけじゃん
436人間七七四年:2014/02/22(土) 11:47:28.41 ID:ZVg2ic8n
結局、家康は秀康を養子として出さざる得なかったわけか・・・
437人間七七四年:2014/02/22(土) 20:25:31.77 ID:ZVg2ic8n
家康しょぼい
438人間七七四年:2014/02/22(土) 21:51:45.18 ID:xEpEDcmk
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。

講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
439人間七七四年:2014/02/23(日) 10:47:13.64 ID:w3aAiql7
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
440人間七七四年:2014/02/23(日) 10:48:48.32 ID:W/EfFkMH
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
441人間七七四年:2014/02/23(日) 10:49:14.67 ID:ECNwx1Rw
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
442人間七七四年:2014/02/23(日) 13:36:33.80 ID:w96jjscO
柴田に息子いたんか?
443人間七七四年:2014/02/24(月) 18:18:51.24 ID:XSl1OiYL
秀吉ってすごいよな。織田家の内紛に付け込んで戦を仕掛けてきた家康から養子をとったんだからな。
444人間七七四年:2014/02/24(月) 19:43:21.40 ID:HW/tglc3
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
445人間七七四年:2014/02/24(月) 19:43:57.78 ID:K712ZlFt
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
446人間七七四年:2014/02/24(月) 19:44:34.76 ID:cT2g6dIz
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
447人間七七四年:2014/02/24(月) 19:45:07.37 ID:XC6R+NTV
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
448人間七七四年:2014/02/24(月) 19:46:01.09 ID:cT2g6dIz
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
449人間七七四年:2014/02/24(月) 19:48:06.03 ID:bubjGtuf
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
450人間七七四年:2014/02/24(月) 19:50:33.23 ID:RtOufkms
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
451人間七七四年:2014/02/24(月) 19:52:14.87 ID:RtOufkms
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
452人間七七四年:2014/02/24(月) 19:52:52.55 ID:bubjGtuf
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
453人間七七四年:2014/02/24(月) 19:53:45.22 ID:RtOufkms
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
454人間七七四年:2014/02/24(月) 19:53:47.15 ID:mffbT7qU
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

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455人間七七四年:2014/02/24(月) 19:55:45.25 ID:bubjGtuf
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、上杉景勝の川中島侵攻やそれに次ぐ譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
456人間七七四年:2014/02/24(月) 19:55:54.02 ID:oBwHR06f
あぼーん
あぼーん
あぼーん
457人間七七四年:2014/02/24(月) 19:58:48.24 ID:H5Xh5Z+w
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
458人間七七四年:2014/02/24(月) 19:59:28.08 ID:H5Xh5Z+w
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。

講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
459人間七七四年:2014/02/24(月) 20:00:06.17 ID:H5Xh5Z+w
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
460人間七七四年:2014/02/24(月) 20:10:21.63 ID:cT2g6dIz
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
461人間七七四年:2014/02/24(月) 20:11:29.42 ID:cT2g6dIz
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
462人間七七四年:2014/02/24(月) 20:12:19.94 ID:cT2g6dIz
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
463人間七七四年:2014/02/24(月) 21:09:27.67 ID:cT2g6dIz
>>人質秀康    家康と徳川家臣から人質を取った
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
464人間七七四年:2014/02/24(月) 21:16:31.79 ID:3MQcXmKc
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
465人間七七四年:2014/02/25(火) 23:08:52.26 ID:izPg1hoh
秀吉は圧勝できなかったけれど、戦を優位に進めて、最後は家康から養子をとったんだね。
466人間七七四年:2014/02/25(火) 23:10:47.19 ID:izPg1hoh
秀吉軍は弱小だったようだけど、物量でなんとか家康から養子をとって和睦にもちこめたんだね。
467人間七七四年:2014/02/25(火) 23:51:12.29 ID:ZbwvbdwC
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
468人間七七四年:2014/02/25(火) 23:52:26.01 ID:o0ImeTVL
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
469人間七七四年:2014/02/25(火) 23:52:58.58 ID:MLMxr6/L
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
470人間七七四年:2014/02/25(火) 23:53:39.59 ID:cebs/qrb
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
471人間七七四年:2014/02/25(火) 23:54:49.51 ID:MLMxr6/L
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
472人間七七四年:2014/02/25(火) 23:56:06.72 ID:0Y8jyUNV
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
473人間七七四年:2014/02/25(火) 23:56:33.68 ID:MLMxr6/L
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
474人間七七四年
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ