戦国ちょっといい話25

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/02/26(土) 00:56:04.36 ID:VFaIDwm8
>>1大儀であった どれでも好きな茶を選ぶが良いぞ

  ∧ ∧                               (ハハ)
 ( ´・ω・)                            (ヮl` ) 
 ( つ旦O                            O旦⊂ヽ
 と__)__) 旦   旦   旦   旦   旦   旦    (_(_つ
      濃茶  薄茶 玉露  煎茶  番茶  出涸し 日当山一のちゃのみ(天庵)

                            ;; コポ
       旦   旦   旦    旦    旦 コポ 旦       旦    旦    旦
       生茶  雑巾汁 烏龍茶 ほうじ茶 ウラン  お〜いお茶  髭茶 八女茶 狭山茶


       旦   旦   旦     旦    旦   旦    旦   旦
       緑青 静岡茶 宇治茶 鹿児島茶 紅茶 福寿草 白湯  ミユキのお手製太陽バクバク茶

3人間七七四年:2011/02/26(土) 16:11:20.09 ID:6iC3lGD7
                        ._                   _
 ドドドドドドドドドドドド!!     |風|               _     |風|
                      |林|   _           .|風|   |林|
                      |火|  |風|        .|林|   |火|
                           |山|   |鈴|           |火|   |山|
               _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|火|          |山|(oノヘ| ̄
               (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
     _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
    (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚ )|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
       |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
      (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ  .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
        ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
      '~ ~(´⌒(´⌒;;  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒;;
                   (´⌒(´⌒;;
4人間七七四年:2011/02/26(土) 17:14:14.94 ID:ubJhAwLr
                        ._                   _
 ドドドドドドドドドドドド!!     |重|               _     |お|
                      |文|   _           .|家|   |珠|
                      |破|  |屋|        .|臣|   |命|
                           |壊|   |上|           |粛|   |!|
               _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|乱|          |清|(oノヘ| ̄
               (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |射| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
     _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
    (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚ )|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
       |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
      (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ  .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
        ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
      '~ ~(´⌒(´⌒;;  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒;;
                   (´⌒(´⌒;;
5人間七七四年:2011/02/26(土) 17:18:18.58 ID:y+WGegrb
>>4
DQN四天王ズw
6人間七七四年:2011/02/26(土) 19:27:38.20 ID:wR/2ZIYz
>>3
一人だけ旗が違うんだな。

きっと初鹿野さんなんだろう。
7人間七七四年:2011/02/27(日) 00:38:25.99 ID:ZFtXCcQe
ちょっと悪い話に後藤家信の話を書いちゃったのでこっちにも家信のお話を

後藤家信は、文禄の役のとき鍋島直茂に従って渡航して、加藤清正とともに戦った。
慶長の役のときもまた渡航して、兄の家種を失いながらもまた戦った。
このとき蔚山籠城中の加藤清正を救出する際に武功を立てて、
清正が手を取って、「吾死を千百に免れ首頸を全うすることを得たるは一に吾子の賜なり」と謝辞を述べ、
太刀一振り大砲三十丁を贈ったそうな。

後藤家信はその後病気を患って、早めに朝鮮から引き上げるんだけど、
加藤清正とはそれ以来交友を持って、何度か清正が武雄を訪ねて来てるらしい。
清正が没した時は、家信はその死を悼んで清正寺を建立して、
その清正寺は、今でも武雄市若木町に残っている。
そんな武将同士の交友関係の、ちょっといい話
8人間七七四年:2011/02/27(日) 03:38:28.33 ID:LSVMH6ay
あなたなら、自分の首を落とされても動いた武士の話を披露できるはずだ。
佐賀の武士にとって、首がなくても大した問題じゃないことを示してくれ。
9人間七七四年:2011/02/27(日) 04:33:09.05 ID:ZTSkg9I6
アンサイクロの義姫のとこ見てたけど大体合っててワロタ
10人間七七四年:2011/02/27(日) 10:02:30.56 ID:lwMxOQAG
>>4
先頭はやはり日吉か!
11人間七七四年:2011/02/27(日) 15:52:39.65 ID:YsHme4J8
>>9
大合体に見えてハマちゃんとみちこさんを思い出した俺は結構複雑だろ?
12人間七七四年:2011/02/27(日) 18:41:14.34 ID:i+V/PkI7
>>10
先頭は女房から逃げてる市松
13人間七七四年:2011/02/28(月) 01:47:03.09 ID:bbx+moJl
本能寺の変の後織田家の領内では動揺が続いていた。

森長可の所領であった信州川中島四郡でも状況は変わらず、長可は旧領金山への撤退を試みる。
それを知った川中島の郷民たちは長可を討つべく一揆を起こし
長可配下の国人たちもほぼすべてが長可を裏切り、逆に一揆を煽り立てる始末であった。

状況は長可自身が力戦して一揆を防がねばならないほど悪かったが、それでも節操を守って長可に従い続けた者もいた。
出浦盛清がそうであり、彼は金山を目指すは長可一行の案内役を買ってでたのだ。
一行は猿ヶ馬場峠で一揆を振り切り、長可は盛清に形見として脇差を送った。

盛清は後に真田氏に従い、件の脇差も代々伝えられたという。
14人間七七四年:2011/02/28(月) 17:24:07.13 ID:/kCfSaV/
鬼武蔵の話で死人が出ないばかりか、いい話だと?!
15人間七七四年:2011/02/28(月) 17:58:30.79 ID:dA/DcY9o
いや、さんざん殺して逃げ切った後の話だしw
16人間七七四年:2011/02/28(月) 19:10:36.50 ID:1mfU5+a3
ここの住人なら興味があるのでは、と思ってw

天庵さまの企画展が開かれるそうです
土浦市立博物館第32回特別展
「戦国武将小田氏と法雲寺」2011年3月19日〜5月8日
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1297304491_doc_44.pdf
↑のPDFと博物館のHPには詳細がなかったけど、手元のチラシを見る限り
猫と一緒の肖像画や法雲寺の寺宝が公開される模様
小田氏関係の記念講演会や史跡見学会もやるらしい
17人間七七四年:2011/02/28(月) 22:59:42.32 ID:R0EC0wD9
土浦かww
テラ小田氏のお膝元ww
関係ないが、北条は勿論、佐竹もそうだが関東の連中って
結構領主に馴染んでるんだな。
まあ佐竹小田あたりは代々の名族だし、北条は善政敷いてるしな。
家康乙・・かな。
18人間七七四年:2011/02/28(月) 23:06:32.30 ID:DgFpWwK1
やる夫スレでも聞いた話だ。たしか撤退する時に豪族の家族を貼り付けにして動きを封じて
安全圏まで到着したら皆殺しにしたんだったか。そういや盛清さんの家族は無事に返してもらえたのかな?
19人間七七四年:2011/03/01(火) 00:40:52.31 ID:02fz7yr4
親父は立派だったのに・・・
http://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001&rel=y&g=soc
20人間七七四年:2011/03/01(火) 01:16:51.86 ID:R3akNM3Z
>>15
逃げ切った後は殺さない、いい話じゃないか
21人間七七四年:2011/03/01(火) 09:47:23.78 ID:ohnobuHc
>>13これ森さんじゃなくて出浦さんのいい話じゃないか?
22人間七七四年:2011/03/01(火) 12:46:16.00 ID:0pgIqbSo
関ヶ原の決戦の少し前の出来事である

西軍方である尾張犬山城主・石川備前守貞清は、その元に木曽の国人衆からの人質をとっていた。

が、木曽方面は徳川秀忠からの工作により、人質を出していながら皆東軍に寝返った。
こういう時人質は、みな処断されるのが通常であろう。が、石川は

「このように人質を取っていながら、それにも構わず木曽衆は江戸中納言殿(秀忠)の軍勢に
道を開き寝返った。この上は人質を持っていても詮ない事である。」

と、誰一人害すること無く、すべての人質を解放した。

といってこの時石川も東軍に通じた、というわけではない。彼はこの後関ヶ原の決戦において
宇喜多秀家隊の右翼に陣取り奮戦するからである。

戦後、石川は所領没収されたが、先の木曽衆の人質解放が評価され、東軍と激しく
戦ったにもかかわらずその一命を許された。

石川貞清、人質の命を取らなかったことが、自らの命を助ける。と言うお話。
23人間七七四年:2011/03/01(火) 13:33:45.46 ID:0RSHq+2F
情けは人のためならず
24人間七七四年:2011/03/01(火) 14:31:36.24 ID:XcwNNJ3E
死地に飛び込み生を得る
25人間七七四年:2011/03/01(火) 15:26:37.27 ID:Tr4M3rW9
木曽谷の猿は信用できねえ
武蔵さん殺っちゃってください
26人間七七四年:2011/03/01(火) 18:29:02.37 ID:MPNrX/b3
武蔵さん生きてたならならヒャハァーしちゃうなw
27人間七七四年:2011/03/01(火) 20:31:08.93 ID:psHK5HMN
そうか、石川貞清が許されて三成が処刑されたのはガラシャが死んでしまったから……!
28人間七七四年:2011/03/02(水) 08:46:50.15 ID:0gb4s27c
戦国時代の人質って鬼武蔵さん以外は全く有効利用出来てないよな
石川さんも解放するんじゃ無くて直接交渉しろよ
覚悟を持って寝返っていようとも実際に処刑寸前で泣き叫ぶ人質を目前にして
平常心を保っていられるとは限らないんだからサ
29人間七七四年:2011/03/02(水) 09:25:54.42 ID:XfO8/vgP
>>28
人質の有効活用と聞いて薪を大量に持った三河武士がアップを始めました
30人間七七四年:2011/03/02(水) 12:54:32.65 ID:NA/DcVa/
貞清さんはこの決断で命を拾い、さらにはこの件で信用を獲得したのか
商人へ転職して成功するのだから人生どうなるかわからんもんだね。
31人間七七四年:2011/03/02(水) 18:49:50.56 ID:mtgtRlj6
>>29
後が怖すぎるだろw
さくざなら関係ないが。
今川氏は別の意味で人質を(ry
32人間七七四年:2011/03/03(木) 00:47:24.66 ID:4SO40kY3
ある時、京都所司代である板倉周防守勝重が、儒者であり、あの林羅山の弟である林永喜を同行して
京の街を通った。

所司代の通行である、それなりに格式ある行列で進むのだが、この時、その行列が通っていると
いうのに、ある店舗の端の方で町人の男が、足をだらんと投げ出し鼓を打っているのが見えた。
しかもこれが、余りみっともいい姿ではなく、どうやら足の間から褌なども丸見えというような
ものだったらしい。

これを見つけた林永喜は甚だ怒り

「所司代が通るというのに形も改めず、あのような尾籠な姿で鼓を打っているとは何たる
不埒者でしょうか!あいつは所司代を侮っているに違いない!直ぐにここへ連れてきて
お叱りなさるべきでしょう!」
と、いかにも儒者らしい意見を申し上げた。
ところがこれに板倉重勝、

「いえいえ、私は全く別に考えました。あれでいいのですよ。

仮に私が公事(裁判)を裁くのに依怙を用いていれば、町人たちは私を恐れ、私という存在に
へりくだり非常に気を使うことでしょう。

私は誰であっても公事、訴訟の事があって司代の前に出るときは、その理非のみを見て
判断するようにしています。そのためでしょう、『あの所司代は普段は恐ろしくない』と、
町人たちに思われるようになりました。

そういう事だから、今のように我々の行列を見ても、彼らは姿を改めないのです。
逆に町人たちが私を恐れひれ伏すような事であれば、その時は私が恣意的に、
その権力を使っているということなのです。
だから町人たちが私の姿を気にしていない間は、自分が公平にこの職務を行っていると、
それを確認できるのです。」

林永喜はこれを聞いて、甚だ感服したという。

板倉勝重は町人の姿を見て己の職責の有り様を見る。と言うお話。
33人間七七四年:2011/03/03(木) 02:48:07.23 ID:D5OfQ3fb
良い話だな。
良い話だが、当時の感覚として褌が丸見えって今の感覚にしたらどんなもんなんだ?

ズボンのチャック全開みたいな感じか?
34人間七七四年:2011/03/03(木) 03:31:11.94 ID:OcJQHdM1
>>32
今の政権与党の連中に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
35人間七七四年:2011/03/03(木) 06:32:49.56 ID:6gyWTf+a
>>32
大学に「民に親しむ」とあるし、この場合、儒学的にも板倉さんが正解じゃね?
36人間七七四年:2011/03/03(木) 08:28:42.78 ID:gcMn2922
>>34
野党だってひでぇ〜もんだ
37人間七七四年:2011/03/03(木) 09:06:26.46 ID:ebSDc3Zh
>>35
まぁ、所詮、羅山さんの弟からさぁ〜
しかし、板倉さんちはやはりただの三河武士じゃないwww
38人間七七四年:2011/03/03(木) 10:43:44.96 ID:9V9Qzw9Z
なんだか納得できるようなできないような
39人間七七四年:2011/03/03(木) 12:40:39.58 ID://jj0+3P
恣意的は誤用だな。
ある意味正反対な意味を持つ言葉なのに。
40人間七七四年:2011/03/03(木) 14:10:15.68 ID:MWHn21MM
>>39
ここで語句の誤用や解釈のあやまりを指摘しても
管理人は大抵スルーするからな。
41人間七七四年:2011/03/03(木) 16:34:45.54 ID:pN4+6dFB
>>40
過去に修正されてる事があるけど?
そういうネガティブな愚痴は周囲を不快にさせるだけだよ
42人間七七四年:2011/03/03(木) 17:47:55.21 ID:w7Z+lnwv
俺は別に不快でもなんでもなかったけどなw
むしろ過剰に反応してるの見る方が不快だわ
43人間七七四年:2011/03/03(木) 18:46:15.35 ID:6gyWTf+a
商売でやってるわけじゃないから、
言うほうも言われるほうも好きにやればいい。
44人間七七四年:2011/03/03(木) 22:23:51.44 ID:1N1x87lJ
元和六年、徳川大阪城の築城が開始される。
藤堂高虎は秀忠の命により、その総監督に任ぜられた。

高虎は、はりきっていた。
ことに石垣普請には自信を持っている。
これまでにない高石垣を築き上げたかった。

さて、加賀金沢城主前田利常らの北国衆が担当する石垣普請の持ち場である。
当時、大名間の技術格差は相当だった。

「・・・これは使えんな」
彼らの技術では無理と判断した高虎は、
自ら穴太衆と相談して北国衆の持ち場を担当すると、関係大名に言い渡した。

さらに高虎は決めつける。
北国衆の工事への関与は「御ふしんの邪魔」と。(あーあ、言っちゃった)

高虎は、はりきっていたのだ。
45人間七七四年:2011/03/04(金) 03:05:45.97 ID:ilzZdIh2
いい話…?
46人間七七四年:2011/03/04(金) 20:02:49.15 ID:ouWEUsqu
前田家は雪かきが上手いっういい話
47人間七七四年:2011/03/04(金) 20:15:28.15 ID:nEYEzGYP
前田家は鼻毛を伸ばすのが上手いっつういい話
48人間七七四年:2011/03/04(金) 22:34:26.09 ID:jEFEHsAd
そっちかあ。俺はまた、高虎が熱血親方だったっつういい話かと思ったよ。
しかもオヤジさん、この当時けっこういい年だよね。
49人間七七四年:2011/03/05(土) 01:19:30.79 ID:AGICzsco
60は越えていたはず>高虎
加賀百万石に邪魔と言えちゃうってのもすごい話だ。
50人間七七四年:2011/03/05(土) 01:24:31.05 ID:/w5bRdoR
たしかこのころの藤堂高虎は、本領に幕府から管理や後見を任されている土地を含めると、
実質的な支配地が250万石くらいあったはず。
その意味では加賀百万石程度、らくらく見下せる立場だなw
51人間七七四年:2011/03/05(土) 01:46:40.95 ID:952KNXTC
主君には好かれるが同輩には嫌われる、藤堂さんであった。
52人間七七四年:2011/03/05(土) 02:13:55.06 ID:s7b15JkE
そして、子孫は真っ先に幕府を裏切り、大砲を撃ちかける
53人間七七四年:2011/03/05(土) 02:38:24.28 ID:1NliEF5S
>>52
藤堂さんちのお家芸っていわれていたね。
54人間七七四年:2011/03/05(土) 02:48:25.03 ID:/w5bRdoR
正確に言うと幕末の当同伴の行動は現場指揮をしていた家老の独断で、
藤堂家としてはあくまで幕府に従うという方針だった。
55人間七七四年:2011/03/05(土) 07:09:31.70 ID:cIo7hZ0k
トカゲのしっぽ切りだなそう言うことにしてるんだろ?
56人間七七四年:2011/03/05(土) 09:11:51.55 ID:qscUo9V3
まあ、いいんじゃないか。
藤堂家の大砲が近代化への風穴を開けた、とか言われてる。一部では。

>>48
昭和な言い回しがいいね。ちびまる子ちゃんのお父さんかと思った。
57人間七七四年:2011/03/05(土) 09:18:32.08 ID:f8GDn/rJ
幕末でまともに幕府一途に戦ったのは会津・桑名の親藩と新選組を始めとした民間徴募隊ぐらいだからなぁ
譜代中の譜代である彦根藩が堂々と裏切ってる時点でもう・・・
地下で作左や彦左はどんな顔をしてたことやら
58人間七七四年:2011/03/05(土) 09:44:41.05 ID:KrftV3br
彦根の場合は水戸系に忠義尽くせってのがちょっと酷な状況では
59人間七七四年:2011/03/05(土) 09:46:42.00 ID:kk7rpwjE
>>57
そもそも、御三家からして…
60人間七七四年:2011/03/05(土) 10:18:14.60 ID:lnKj0+q3
彦根藩は桜田門外の変で10万石減封されて一気にふてくされた
61人間七七四年:2011/03/05(土) 12:41:59.48 ID:ifpH+gqH
>>57
応仁の乱→関ヶ原→明治維新→敗戦→次はなにが来るのだろう?
62人間七七四年:2011/03/05(土) 12:48:03.60 ID:/w5bRdoR
>>55
家老の独断というのは最近の研究によって解ったこと。
当時の藤堂藩はその後の政治的展開もあってそのことに口をつぐんでいた。
63人間七七四年:2011/03/05(土) 13:13:20.90 ID:kk7rpwjE
>>62
結果、旧幕軍は当然ながら、官軍からすら「裏切り者の犬」よばわりだからなぁ
64人間七七四年:2011/03/05(土) 13:56:53.31 ID:f8GDn/rJ
>>61
自衛隊のクーデターとかかなw
65人間七七四年:2011/03/05(土) 14:17:24.71 ID:Ep8XhtQY
>>61
信雄の血を引いた人が天下布武
66人間七七四年:2011/03/05(土) 14:25:18.54 ID:fg8Hi8Dg
だが譜代大名が家康時代のめんどくさい連中なら「内乱が長引く」ことになるからなあ。
結局は良かったのかもしれん。
>>61
小田氏治が土浦城を奪回。
だがもうかつての宿敵はいない・・・。
悲嘆にくれる天庵の前に立ちはだかる男、彼こそ・・
67人間七七四年:2011/03/05(土) 14:51:48.16 ID:hpis/iTb
現代の土浦の主、つちまるであった!
http://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/img/1291881990_1.JPG
土浦のイメージキャラクターの座をめぐり天庵の孤独な戦いが始まる…
68人間七七四年:2011/03/05(土) 15:06:52.17 ID:1NliEF5S
れんこんが情けなさに拍車をかけているな。
69人間七七四年:2011/03/05(土) 18:29:35.70 ID:4ZMJgjIY
いい話というかすごい人がいたという話

高橋紹運配下で、岩屋城の前線砦である龍ヶ城に柴田小左右衛門という強弓で有名な武将がいた。
どれくらいの強弓だったかというと、天正14年9月に筑紫広門勢が攻めてきた時の言い伝えが残る。
敵情視察の命を受けた小左右衛門と他兵士6名が筑紫広門勢の方面に進んでいたら
ぱったり筑紫隊にでくわした。相手が小勢と見て筑紫隊が一斉に攻めかかったところ小左右衛門は
畦の上に登り狙いを定めて矢を放ち、その矢は一町余り(約109m)先を突進してきていた
筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。
どこの『花の慶次』の登場人物だろうかと言わんばかり。

どんだけ〜と思われるかもしれないが、ただの伝説では終わらない話がまた別に残っている。
小左右衛門は日々弓の鍛錬を行っていたのだが、それがなんと、2km以上先にある
たたみ二畳分の大きな石に向けて弓を引きまくっていたのだそうだ。この石は「的石」と呼ばれ
現在も筑紫野市阿志岐の田んぼの中に残っている。そりゃ一町程度の距離なら簡単に当てられる精度も
4〜5人は貫通させる強さもあったのかもしれないと思わせてしまう。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3&lr=&ie=UTF8&hq=&hnear=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%
9C%8C%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E7%9F%B3&gl=jp&ll=33.509697,130.563154&spn=0.031632,0.054331&z=14&brcurrent=3,0x35419c91312ca24d:0x60946b760ad31433,0
龍ヶ城近くの大行事原というところ(リンク先地図のA地点あたり)から矢を射ていたそうだから
阿志岐(地図左下に阿志岐小が見える)まで2km・・・どころか3km近くあるかもしれない。
ちなみに龍ヶ城はA地点の右、笹尾山の左側、農業試験場の後方の山にあった。
70人間七七四年:2011/03/05(土) 18:30:36.35 ID:4ZMJgjIY
リンクは途中で途切れているので繋げてね
71人間七七四年:2011/03/05(土) 19:33:26.26 ID:4EidYzoE
>>60
いや、第2次長州征伐までは頑張ってた。
小瀬川戦線で長州(岩国)に瞬殺された挙句、「井伊www」って対応を幕軍にされてやる気がなくなったっぽい。
伝統ってだけで、戦国以来の赤備えで完全洋式化済みの長州に突っ込まされたら負けて当然。
しかも、井伊が負けた後で出てきた紀州と幕府の洋式歩兵隊は長州と完全に互角。
「最初からお前ら戦えよ!」って普通は怒ると思う。
72人間七七四年:2011/03/05(土) 19:35:01.97 ID:WKcvJfcW
右半身だけが極度に肥大していたに違いないw
73人間七七四年:2011/03/05(土) 19:37:40.87 ID:Iv1P/rMr
>>71
石高を大幅に削られたんじゃ、軍の近代化も無理だろうしな
74人間七七四年:2011/03/05(土) 19:54:09.24 ID:hpis/iTb
後のレッドベレーである
75人間七七四年:2011/03/05(土) 20:06:30.14 ID:oR8VoFwo
いや赤肩隊で
下級藩士の切子久兵衛が一員であったことで有名


76人間七七四年:2011/03/05(土) 21:53:37.48 ID:msSw3f6f
むせるでござる
77人間七七四年:2011/03/05(土) 22:03:59.23 ID:qnrj6DBr
戦いはあきたのさ
78人間七七四年:2011/03/05(土) 23:27:19.77 ID:rNPMdVCo
>>71
でも先陣を任されなかったらそれはそれで恨み買いそうな気が・・・w
79人間七七四年:2011/03/05(土) 23:36:18.66 ID:gLs+/l1W
有名なネタでひとつ。

西美濃三人衆のひとり稲葉良通(一鉄)。武勇と教養、そして頑固で知られていた。

とある合戦の後、信長は徳川家康および家臣一同を集めて論功行賞を行った。
このとき武功第一とされたのが一鉄である。だが一鉄は、はっきりきっぱり言った。

「わが殿はめくら大将におわすか!
(武功)第一は徳川様であること、誰の目にも明らかでござろう!」

信長の面子を潰しかねない発言だったが、一鉄は譲らず、信長も一鉄の主張を認めた。

この逸話から、自分の考えや態度を曲げようとしない人間を「一鉄者」と呼ぶようになり、
「頑固一徹」の語源になった言われている。
80人間七七四年:2011/03/06(日) 00:03:37.82 ID:5WXiAMp/
なんやかんや言っても、ちゃっかり幕末まで生き残る稲葉家w
81人間七七四年:2011/03/06(日) 00:04:58.57 ID:Aq/WVItG
>>69
>筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4〜5人を一斉に射抜いたという。


完全に原哲夫の絵で脳内再生されたわw
82人間七七四年:2011/03/06(日) 00:14:31.19 ID:/l1QcAlo
>>69
鎮西八郎為朝クラスの強弓だな。伝承の為朝の弓は対艦ミサイル級だがw
83人間七七四年:2011/03/06(日) 00:28:07.07 ID:ZpTxQgb3
小左右衛門「ぬぅ〜ん!!」
一人目「ぱっ!」
二人目「びっ!」
三人目「ぶっ!」
四人目「ぺっ!」
五人目「ぽおっ!」

で再現されたw
84人間七七四年:2011/03/06(日) 00:46:28.65 ID:vn8tJvFS
また子孫(血はつながってない)が土壇場で幕府を裏切るシリーズかよ


鳥羽伏見の戦いでの淀藩稲葉家の裏切りは、
慶喜に衝撃を与え、慶喜の大坂城脱出で天下の趨勢
は決した。
85人間七七四年:2011/03/06(日) 01:16:08.16 ID:kGqU0sHZ
裏切りが家訓なのかねwww
86人間七七四年:2011/03/06(日) 01:33:50.78 ID:axifumSq
>>79
有名な話だけど、これってソースはどこだっけ?
やっぱり徳川方の資料なのかなあ?
87人間七七四年:2011/03/06(日) 01:53:30.44 ID:OgS730Jz
>>81
これはあくまでも伝説。
88人間七七四年:2011/03/06(日) 02:32:55.47 ID:56KrG4MG
4、5人まとめてってのは伝説だろうけど鎧貫いたのはありうるかも
弓は使い手によっちゃ鎧をぶちぬくなんて朝飯前らしいからなぁ
89人間七七四年:2011/03/06(日) 02:36:59.21 ID:j/yZddOq
大鎧を矢でぶち抜くのは無理です。皮製だけど矢にはえらく強い
90人間七七四年:2011/03/06(日) 11:42:07.76 ID:QkIRp1o3
>>277
柔らかいからかな?
もしそうなら、裏打ちすればどうにかなるかも
一部の人間しか出来ない技だろうが
91人間七七四年:2011/03/06(日) 11:56:52.82 ID:Qi7bKFFp
>16
講演会等の情報のある手元のチラシとはこれのことか?
土浦市立博物館第32回特別展「戦国武将小田氏と法雲寺」
ttp://www.city.tsuchiura.lg.jp/cms/data/doc/1298977176_doc_147.pdf
92人間七七四年:2011/03/06(日) 13:17:08.82 ID:esYYv5G6
織田、豊臣、明智、斎藤、竹中って名前の奴はロープウエー無料らしいぞ ※徳川は有料
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1299375775/
93人間七七四年:2011/03/06(日) 13:22:43.78 ID:525D/YI4
中世の源為朝なわけか
94人間七七四年:2011/03/06(日) 13:36:34.01 ID:K+M0yfZi
>>69
高橋紹運さんとこは配下も強キャラだな
95人間七七四年:2011/03/06(日) 13:42:15.93 ID:BXaMRo++
>>92
羽柴さん「解せぬ・・・」
木下さん「許さない」
96人間七七四年:2011/03/06(日) 13:49:03.17 ID:QkIRp1o3
豊臣さんなんて居るのかな?

97人間七七四年:2011/03/06(日) 13:56:18.77 ID:7XA1TTOr
>>96
居るらしい。血がつながってるわけではないみたいだけど
98人間七七四年:2011/03/06(日) 13:59:01.86 ID:khTr4ulz
津田や神戸や北畠や土岐も、除外か。というか、ありふれている方の名字って、斎藤と竹中くらいじゃないか?
99人間七七四年:2011/03/06(日) 13:59:05.24 ID:OgS730Jz
>>89
ムガール帝国のコンポジットボウは、鉄板でも貫くよ
テレビで見た
100人間七七四年:2011/03/06(日) 14:00:27.75 ID:khTr4ulz
リンク先を見たら、神戸と土岐は入るのか
101人間七七四年:2011/03/06(日) 14:04:11.50 ID:6HRmR9Ff
まんこ
102人間七七四年:2011/03/06(日) 14:23:56.71 ID:urmGjCVY
羽柴という苗字は2家出会ったことがある。
豊臣?は家電メーカーにあったと思う。
TOYOTOMI社製のストーブが実家にあったので
103人間七七四年:2011/03/06(日) 14:35:51.33 ID:urmGjCVY
豊臣氏はここまでのところ、日本史上で最後の氏だからロマンがあると思う。
手元の本によると、秀吉公は、平→藤原→豊臣と改姓していったとのこと。
104人間七七四年:2011/03/06(日) 23:20:25.51 ID:HLL1r5MZ
源平籐橘、詐称でコンプした奴いないかなww
105人間七七四年:2011/03/07(月) 00:42:49.32 ID:KrVyAfZO
>>90
的を射た意見だな。

なんちて
106人間七七四年:2011/03/07(月) 00:45:12.31 ID:MP1RDi++
>>105
君にその的になる権利を与えよう。もしくはガラシャさんの前に立つ権利でも、森長可が通ろうとする門の番をする権利でもいいぞ
107人間七七四年:2011/03/07(月) 00:51:50.89 ID:q0rHRka/
>>106
>>105「橋じゃないから大丈夫だもん!」
108人間七七四年:2011/03/07(月) 13:35:09.63 ID:GbbaB/1Y
>>104
豊臣氏成立以降は石田豊臣朝臣三成だったのだけど、
これは三成が豊臣氏を詐称してることになるの?
でも、秀吉公認なわけだし詐称ってのも違う気がする。
現代人からすると、いまいち氏がどういうものだったのかわからない
109人間七七四年:2011/03/07(月) 20:49:23.40 ID:4+xW7Db2
賜姓ならぬ賜氏というところなんでしょうか?
110人間七七四年:2011/03/07(月) 23:24:20.58 ID:XFtsVtcZ
豊臣はとにかくとして、平→藤原のところは詐称だろ。まあ徳川以下みんなやってるけどね!
111人間七七四年:2011/03/07(月) 23:33:50.78 ID:f9WvKasE
ある日、細川幽斎がこんなことを言った。

「人は誰でも、趣味や得意なものがある。弓・鉄砲、馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、和歌、碁・将棋、鷹狩。
数寄道だろうが武士道だろうが、自分の好きな事は他人に話したくなり、他人が自分の好きな事を話していれば、
その話を聞きたくなるだろう。

つまり人がふだん何を話し、何を面白がるかを知るのは、その人を知る上で大切なことだ。例えば侍ならば、
武道について話し、他人が武辺話などを面白がって聞く者は、それだけで良き心がけの者を言えよう。

昔、松永という名人も“人間の心中は大抵、その人の趣味の話を聞き、一緒にいる友人を見れば分かる”
と言っていた。間違いなかろう。」


剣豪将軍の仇を評価しちゃうんだ・・・
112人間七七四年:2011/03/07(月) 23:35:03.95 ID:GbbaB/1Y
>>110
当時に詐称してる感覚はあったのだろうか?
たとえば織田信長が平氏を名乗ったのは現代感覚で言う詐称だったのだろうか?
氏というのは石田三成が豊臣朝臣であったように、
血の繋がりがなくても問題なさそうだし。
誰か氏、姓に詳しい人いないかね
113人間七七四年:2011/03/07(月) 23:56:22.90 ID:XFtsVtcZ
信長が平氏はまだゆかりあってのことだからわからんが、秀吉や徳川にはあったと思う。
乱世とはいえ、現代に比べれば遙かに権威主義の時代だし、詐称を誰も気にしないような状況なら、詐称する意味はないわけで。

そもそも、源平籐橘と豊臣を同じ氏として考えたら駄目だろ。豊臣は前にも後にも一度きりの例外だし。
豊臣は氏としても姓としても賜りまくってわけがわからない。
114人間七七四年:2011/03/08(火) 00:07:01.62 ID:JD7UJbke
秀吉はともかく家康は自分で源氏だと信じてたと思う
115人間七七四年:2011/03/08(火) 00:08:55.32 ID:2RinM+Cu
>>113
大体賛成だが、補足。
信長については、最近は、縁もゆかりもなかったんじゃないかという説が強い。
元々は藤原氏を名乗っていたわけだが、それすら根拠無しだと。

ただし、尾張や三河では、怪しい家系は大体藤原名乗っとけみたいな感じがある。
だから藤原氏を名乗ることについては、別に詐称という抵抗はなかったかも知れない。


まあとにかくスレ違い。>>112は詳しい人云々の前に少しは本でも借りて調べろよ
116人間七七四年:2011/03/08(火) 00:14:26.56 ID:kaNjRwzU
現代から見ると家系図が不自然だとわかることもあるけど、
当時は、よほどの名家以外は、
口伝でウチの先祖は○○だと伝わっていたくらいだろうから、
詐称の意識はなかった武将が多い説もありえると思う
117人間七七四年:2011/03/08(火) 00:15:52.84 ID:2t7Jpcgf
>>111
久秀の縁者とされる松永貞徳は歌の弟子にあたるし、連歌についても三好長慶の立ち振る舞いを
理想としたなんて話もあるし、それほど三好氏に悪い印象は持ってなさそうだよね

>>113
一応家康も松平清康が源姓を名乗っていたらしいけど、家康は「藤原氏」を称したりもしているし、
その時々で都合よく使い分けてたみたい。
118人間七七四年:2011/03/08(火) 00:28:37.75 ID:DY233kST
>>117
> 一応家康も松平清康が源姓を名乗っていたらしいけど、家康は「藤原氏」を称したりもしているし、
それは三河守を叙任するときに朝廷から「得川氏のものが三河守になった例はない」って言われて、
困った家康に取次していた近衛前久が、家康を自分のところの家の子扱いにして、藤原氏ということで
三河守を叙任させたため。

なので後でそう言うの気にしなくてもいいようになると、源氏に「戻った」わけだ。
119人間七七四年:2011/03/08(火) 01:28:09.24 ID:f/OsFQRc
中田與三さんシリーズ

北条家の家臣であった富永主膳は、北条没落後徳川家に召しだされ、槍奉行の大役を
仰せつかった。

そんな富永が、石谷十蔵の所に中田與三が居るということを知り、石谷にこう申し込んだ

「中田殿と言えば懐かしき旧友でござる!ぜひお会いしたいと申し上げてください!」

石谷はお安い御用とこれをすぐさま中田に伝えた。徳川家中で出世した昔の友の誘いである。
さぞ喜ぶと思ったのに、あにはからんや

「いやいや、会うのはやめておこう」

とつれない返事。どうしてだと石谷聴けば

「あー、主膳の奴な、ぶっちゃけ北条家で大した働きはしてないんだわ。
それを誰が言い出したか、凄い武功の者みたいに呼ばれて、徳川家に召しだされ
結構なお役をいただいているわけだ。

ついでにな、あいつ小田原にいたときすげー貧乏だったの。
もうあんまり貧乏で兵量もまともに用意できなくて、俺なんかカンパしたこともあるよ。

でさー、今あいつと会った時にさ、あいつどうせ家中の方々に自分の戦功のこと
話してたりするんでしょ?その主膳の戦功ってのを、わしは全然知らないわけさ。
だから話を合わせるのが目茶目茶難しいだろ?

だからといってご家中で責任ある立場になってる主膳を、わしが適当にあしらうってのも
良くないだろうからなあ。

なので、会わない。」

中田も懐かしくない、といえば嘘だろう。
だがむかし貧乏で苦労した同僚の富永主膳が、色々あって運良く徳川家で重いお役についた。
そんな富永の北条家時代について、自分が会えば周りに変に疑惑を持たれるのではないか、
富永に取って、それはせっかくの幸運を失うことに繋がるのではないか、
だから合わない。ということだろう。


そんな、中田與三さんのちょっと人情小話。
120人間七七四年:2011/03/08(火) 07:15:31.85 ID:pv7bOLQI
>>113
三河松平氏が得川氏(源氏と藤原氏双方の末流)の末裔で「ない」という証明ができない以上、
詐称と断言するのもどうかと思うよ。
得川氏が消滅している以上、その傍流が落ちぶれて流れ流れて三河松平の祖になった、という
のは十分ありそうな話だし。
121人間七七四年:2011/03/08(火) 07:46:30.70 ID:47UbTSGx
だけど「ある」証明もない以上、詐称の可能性も十分にあるわけだ
122人間七七四年:2011/03/08(火) 07:59:16.34 ID:kaNjRwzU
悪魔の証明乙
123人間七七四年:2011/03/08(火) 09:27:41.09 ID:RTgdZHtw
>>111
やった事を持って人の優れた部分まで否定するのは狭量だと思うのですよ。

老醜さらしたから全盛期も否定するとかもありがちだけどさ
124人間七七四年:2011/03/08(火) 10:07:11.90 ID:IIjYXYXN
>>119
確かにいい話ではあるのかもしれないが…
ちょっと悪い話の方のでもそうだけど、説明の仕方がぶっちゃけすぎなタイプだなこの人w

経歴詐称状態で出世した富永さんを内心小馬鹿にしてたりして
125人間七七四年:2011/03/08(火) 13:25:47.31 ID:2RinM+Cu
>>119
出世できなかった僻みみたいなものも若干感じる……。
126人間七七四年:2011/03/08(火) 14:50:55.21 ID:Hu96k1l0
富永って信之をべた褒めしてたやつだっけ
127人間七七四年:2011/03/08(火) 17:18:40.35 ID:mkGhZZgb
>>120
それって島津氏が源頼朝の末裔というのと同じレベル
128人間七七四年:2011/03/08(火) 22:07:26.01 ID:zJ2rXISp
家康には面倒臭いプロトコルを踏襲する手腕と実力があったってことだろう。

秀吉死亡時、官位最高位が内大臣である家康当人になってしまった異常事態から
せっせと朝廷の立て直して公卿の取り込みもしており、朝廷としても然るべき報償を
との機運も高まっていた。
129人間七七四年:2011/03/09(水) 11:36:25.35 ID:1pq2hTjZ
母系で一応源氏の血は入ってるが、一色なんだよなあ>松平
130人間七七四年:2011/03/09(水) 12:56:15.08 ID:wfue5VTg
今、話題の知恵袋に掲載されていた鍋島直茂の逸話からそのまんま転載。

肥前の雄、鍋島直茂の晩年の話。
彼の隠居先の近くに小さな寺があった。
欠かさず日の出には鉦を叩き、お経をあげる声が聞こえてくる。
「奇特である。人間はあの坊主のようにわが職分に励みたいもの」
すっかり感心した直茂は「何か褒美をとらせねばなるまい」と使いを出した。
が、寺をうかがいに行った家臣は顔色をかえて帰ってきた。
坊主は寝そべったまま、バチを足にはさみカネを叩いていたという。
直茂はうれしそうに笑い「苦しからず。手が足に替わろうが、カネの音にかわりがあるものか。
よきことは真似でもせよというではないか。寺禄を与えてやれ」と言ったという。

いかにも結果オーライな鍋島直茂のいい話。
寺の坊主にとってはバツの悪い話。
131人間七七四年:2011/03/09(水) 13:18:27.15 ID:7CyUdqL6
いやいや、その僧は禅で言うところの心身一如の状態である
「三昧」の境地に至っていたのかもしれんぞ
132人間七七四年:2011/03/09(水) 16:50:54.62 ID:sC62vkHg
>>131
三斎にしか見えなかったぜ・・w
133人間七七四年:2011/03/09(水) 18:52:04.35 ID:XL8Z3P1/
出浦盛清をちょいと調べてたんだが、
部下より先に敵情を視察し、見てきたと言う素破のサボりを見抜いたという逸話が残る。

って一文があるんだけど、この逸話の詳細ってどこかにあるかな?
134人間七七四年:2011/03/09(水) 21:59:52.07 ID:zHseRVgY
>>133
たぶん「上野国吾妻記」か「真田家御事蹟稿」かな?
今両方とも手元にないんで確認できないスマソ

「吾妻記」だと出浦さんの息子の出浦対馬が上忍として腕利き忍者の割田下総を粛清した話とか
小松さんの握撃メイドかがり花ちゃんの話とかトンデモ話が載ってる

「真田家御事蹟稿」だと鈴木右近さんとかアイキャンフライ赤沢嘉兵衛とか
お兄ちゃんの家臣の逸話がけっこう載ってる
135人間七七四年:2011/03/09(水) 22:30:10.48 ID:F74B19ax
足で鐘を叩く方が高度な技だろw
136人間七七四年:2011/03/09(水) 23:13:43.59 ID:sC62vkHg
>>134
おまえ・・・もう戦国オタクってレベルじゃねえぞw
137人間七七四年:2011/03/09(水) 23:39:22.47 ID:XL8Z3P1/
おお、どうもありがとう!

って調べてみたら両方とも入手困難すぎだったwww
138人間七七四年:2011/03/10(木) 00:50:10.32 ID:fjdMjkIc
時々このスレの住人がどういう人種なのか時々気になる…w
前にムガル帝国記に又兵衛の逸話に似てるのが載ってるって人もいたし
守備範囲どうなってんだ…
139人間七七四年:2011/03/10(木) 00:57:51.98 ID:Z6B+vZPZ
>このスレの住人

ごくふつうのリーマンとニートと学生だと思うよ。
会社では歴史の話は一切しないけどw
140人間七七四年:2011/03/10(木) 01:00:29.31 ID:50sZjgfi
>>134
成田記について一言
141人間七七四年:2011/03/10(木) 01:46:24.58 ID:UExCtHss
政宗、イスパニヤのスパイを救う!?

江戸時代初期、家康は他国との貿易に興味深々でした。南蛮貿易を奨励し、朱印状を与えて大名たちにも行わせました。
そんなある日、家康はイスパニヤ(スペイン)との交易を望みました。そこで、使者を太平洋航路で送りました。その使者たちの
返還および答礼の使者として日本に訪れたのが、セバスチャン・ビスカイノです。でも、彼は実は、イスパニヤ国王の命令
で、当時「金銀島」と呼ばれていた日本列島の探索にきたのでした。いわゆるスパイです。

ビスカイノは、日本に来ると、将軍に会いました。そして、「通商できる大きな港を探すために、東海岸の測量をお許しくださ
い」と言いました。通商が叶うと思った家康は喜んで、これを許しました。

家康は、本格的なイスパニヤとの通商が始まると思って、巨大な船をつくらせ始めました。ところが、測量を一通り終えたビスカ
イノは、家康に無断でさっさと撤収。いかにもしらじらしい逃げ方で日本を離れました。
家康は、「たばかられた!ヤツはイスパニヤの間者(スパイ)だったかもしれん!」と焦りましたが、意外にも、ビスカイノは船が
難破してすぐ帰ってきました。船が壊れて、故郷(くに)に帰れなくなったビスカイノは、家康に泣きつきましたが、家康は
もう相手にしてくれません。

途方にくれるビスカイノに一人の隻眼の男が手を差し伸べた。。。

サンファン バウチスタ号。ガレオン級帆船、イスパニヤを目指す、帰途中マニラでスペイン艦隊に買収され海戦に・・・その後不明。
太平洋を往復した日本で建造された最初の西洋帆船。艦尾には細川家から拝領した九曜紋が彫られてる。
明治に渡欧した岩倉使節団により偉業と書類が発見される。
142人間七七四年:2011/03/10(木) 03:03:59.68 ID:EUrCXwPG
差し伸べたのが四天王でも良識派で良かったなって言おうと思ったが武蔵以外なら誰でもいけると思い直した
143人間七七四年:2011/03/10(木) 07:52:18.49 ID:DRaMbnj4
信長のいい話

行軍中、道端でお婆さんがうずくまって泣いてるので、信長が『どうしたんだ?』と尋ねると
『村長と対立し、嫌がらせで家を壊されてしまった。どこに住めばいいのか』というので信長は激怒。そのまま村に行き『老婆をいじめて家を壊すとは何事か!』と。
村長に家を建てなおさせた。
信長が将軍義昭と対立したとき、近衛前久に
『自ら立てた将軍を自ら滅ぼさねばならないとは・・・運命は数奇なものだ。後の世の人は俺を「将軍を追放した悪者」と謗るだらうか。』
と落ち込んだという。
織田信長の意外な一面。

婆さんが一向一揆の信者だったらどうなっていたことやら・・・
144人間七七四年:2011/03/10(木) 08:02:07.76 ID:NtDD0gAS
お婆さんは信長の足止めに成功した
145人間七七四年:2011/03/10(木) 08:13:05.31 ID:23/T0wvM
信長って部下以外には意外と優しい逸話が結構残ってるね
部下の家族とかのが多いけど結構思いやってる逸話も多い
146人間七七四年:2011/03/10(木) 09:45:37.51 ID:iS7fQI7P
寄せ集め(戦国大名は大抵そうだが)を使ってそこまで勢力をのばしたのだから
面倒見がよくなきゃあ成り立たないでしょ
147人間七七四年:2011/03/10(木) 10:22:47.48 ID:vZROiVyl
普通は世間の正義が判断基準になるけれど、信長の場合は自分の正義が基準だから仕える方は大変なのだよな。
148人間七七四年:2011/03/10(木) 10:44:46.92 ID:bhxQwN9w
信長って、かなり世評というか世論ってものを気にしてるけどね
残った記録が多いだけなのかもしれないが、宣伝工作も大規模にやってるし
ただし、世論を気にして行動を変えるということはしないのだが
149人間七七四年:2011/03/10(木) 10:46:09.75 ID:mauyQIj2
本物の任侠は情に厚く堅気には優しいもんだ
150人間七七四年:2011/03/10(木) 11:12:40.68 ID:S956SWOB
>>149
そんな任侠、映画にしかいない
151人間七七四年:2011/03/10(木) 11:28:40.34 ID:6h7z2PWj
>>149
老婆「と武蔵様と被官の方々がおっしゃりながらこの橋を行ったのでございます」
152人間七七四年:2011/03/10(木) 12:41:15.37 ID:yMicKBbw
ああ、もしばあ様や、後ろに槍が…
153人間七七四年:2011/03/10(木) 12:51:02.10 ID:FUdD551Z
>>151
鬼武蔵なら仕(以下略)
154人間七七四年:2011/03/10(木) 13:01:25.06 ID:jh9Javie
>>148
ただ信長が京の市民からはめちゃめちゃに評判悪かったのも確か。
まあ上京焼き討ちとかしたんだから当然なんだが。あと信長統治下の京は
かなりの重税で、なおかつ臨時の矢銭(戦争税)なんかが頻繁で、とにかく負担が重かったらしい。
(有力な公家なんかは別。彼らは信長から既得権益を完全に保護されてた)

なので本能寺でヌッ殺されたとき京市民は大喜びしたフシがある。
155人間七七四年:2011/03/10(木) 13:18:05.78 ID:bhxQwN9w
>>154
戦争税その他の負担は以前からあったものだし、その見返りとしてアメも多かったから、
単純に嫌われていたと断言することもないかと。
もちろん、織田政権を嫌っていた人たちの存在も、割合はともかくいただろうけどね。

あと、京公家の権益ってのは京の町民や商人の権益とも繋がっている。
例えば山科家は京の生魚市場の半分を占める商人を抱えているので、
山科家の権益を保護するということは、山科家が保護していた傘下の商人たちの
権益を保護するということでもある。これは他の商人や寺社、町民も同じ。
156人間七七四年:2011/03/10(木) 13:33:29.67 ID:Z6B+vZPZ
上京と下京は全く別だし
京の市民全員に嫌われてたみたいな言い方は実態にそぐわないと思う
157人間七七四年:2011/03/10(木) 13:47:51.70 ID:S956SWOB
信長は才能の有る者、使える者には割と寛容で融通がきく。
お気に入りの重臣のムチャを許した例も多い。
あと当人に落ち度のない弱者にはわりと優しい逸話も残ってる。
ただ、才能のない者、信長からみて意味のない者が規則違反すると、
超厳罰主義になるんだよな。
首はねなくても良さそうな場面でもはねちゃう。
見せしめにして規則を守らせるという側面もあるのだろうけど
158人間七七四年:2011/03/10(木) 14:37:57.23 ID:09KX0lgs
>>155
それを御用商人達が持つ既得権益である市や座の保護と言う。
美濃や近江でも商人の既得権の追認をしていただけで、
信長が楽市楽座なんてやってなかった論拠になってる。
そして御用達が主催する団体から税を巻き上げてた。
159人間七七四年:2011/03/10(木) 15:58:26.05 ID:KylRJdBs
>>156
じゃ下京と権益外の人からは
焼き討ちと重税のせいで嫌われていた
本能寺ばんじゃーい∩(`・ω・´)∩
160人間七七四年:2011/03/10(木) 16:32:55.71 ID:bhxQwN9w
>>158
それは楽市楽座の誤解というか勘違い
信長も含めた戦国時代に発せられた楽市楽座というのは座を否定したのではなく
既存の座に統制された旧来の独占市場とは別の新らしい市場を提供したということ
これは新規商人にも既存の商人にも、新たな商業と販路の開拓という利益をもたらした

>信長が楽市楽座なんてやってなかった論拠
信長の楽市楽座ははっきりと資料的に確かめられる根拠ある政策なんで
そんなこと言っている人は単に勉強不足なだけですね
161人間七七四年:2011/03/10(木) 16:44:15.11 ID:jh9Javie
>>160
ただ、そもそも「座」というものが一体どんなものだったのか、未だによく解っておらず、
その為に「楽市楽座」も一体何を指していたのか、研究者によって解釈がまちまちだったりする。

どうも信長当時の楽市などの「楽」は、「自由」ではなく「安全」を指していたのではないか、
という説もある。
162人間七七四年:2011/03/10(木) 17:02:06.83 ID:Qug6q3mv
オシドリで改心した武将

武田の家臣に、桜井重久という武将がいました。
 重久は大そう強い武将だったのですが、武田家が滅びると富県村の貝沼に住みつき、名前も
貝沼重久と改めて暮らしていました。
 ある日、重久は犬をつれて狩りに出かけました。
 ちょうど、まこもが池のそばを通りかかると、池の中ほどにオシドリが二羽、仲良く浮かんでいたのです。
「これは、良い獲物だ」
 重久はさっそく弓矢を放ち、一羽のオシドリの首を射貫きました。
 ところがどうしたわけか、犬がくわえてきたそのオシドリには首がなかったのです。
 さて、それから数日後の夕方、重久が座敷でくつろいでいると、どこからか女の悲しい歌が聞こえてきました。
♪桜井の、名もうらめしき、貝沼の
♪まこもが池に、のこるおもかげ
 それは、
「桜井も貝沼という名前もうらめしい、まこもが池には、今は亡きあの方の面影がいつまでも残っております」
と、こんな意味の歌です
 重久は急いで表に出てみましたが、そこには誰もおらず、ただ、田んぼの上を風が吹いているだけです。
 それから一年がすぎた、ある日の事。
 重久は狩りの途中で、また、まこもが池を通りかかりました。
 すると今度は、めすのオシドリが一羽、池を泳いでいたのです。
 重久はさっそく、弓矢を放ちました。
 犬はすぐさま池にとびこむと、オシドリをくわえてもどってきました。
 そして犬がくわえてきたオシドリを手にして、びっくりです。
 そのめすのオシドリの羽の下には、ミイラになったおすのオシドリの首がしっかりとはさまっているではありませんか。
 そのとたん重久の耳に、いつかの悲しげな女の歌がよみがえってきたのです。
「そうか、そういうことか」
 重久は自分の犯した罪を深く反省して、その日から弓矢を捨てました。
 そして頭を丸めて、まこもが池の近くに寺を建てると、自分が殺した二羽のオシドリの供養をしたそうです。
 今も残る鴛鴦山東光寺(えんおうざんとうこうじ)が、この寺だといわれています。

163人間七七四年:2011/03/10(木) 17:20:55.48 ID:S956SWOB
発菩提心てやつだね
164人間七七四年:2011/03/10(木) 17:28:25.76 ID:Z1ZCdtlU
>>160
六角定頼が始めた観音寺城への家臣集住と
その城下へ店を持つ商人への優遇策が
楽市であり、その政策を斉藤や今川が学んで施行していった。
織田は逆に熱田の門前町にいた排他的御用商人達の組合である座を優遇し
自由な商売を保障する六角・斉藤・今川と対立していた。
信長が斉藤や六角を討ったあとに、それら楽市で行っていた商人の既得権益を追認しただけ。
そしてその既得権益の追認が特定個人たちにだけ行われたので
特権階級である御用商人組合の座となり税金を集めて織田へ上納する楽座に堕ちただけ。
165人間七七四年:2011/03/10(木) 17:38:08.77 ID:50sZjgfi
ふーむ、面白い。今まで織田は旧弊の破壊者だと思ってたがそう言うわけでもないんだな
166人間七七四年:2011/03/10(木) 17:43:45.22 ID:Z1ZCdtlU
>>159
信玄の西上の時に義昭が挙兵したが
その際に山城・近江・大和で義昭に呼応して
挙兵する者が多かった。
それ以前から丹波の国人衆達も織田に対して挙兵してたし
基本的に京洛周辺は重税かけてる信長を嫌っていた。
167人間七七四年:2011/03/10(木) 18:08:31.92 ID:8hU9JffN
誰だよ信長を戦国時代の革命児とか言ってたやつは
168人間七七四年:2011/03/10(木) 18:12:15.39 ID:XNh/KCzZ
どっかの小説家とかゲーム会社とか
169人間七七四年:2011/03/10(木) 20:37:21.45 ID:4+bCU/pf
教科書がそもそもの原因じゃね
170人間七七四年:2011/03/10(木) 20:48:50.67 ID:IO5tgaC4
>>169
高校の頃の教科書見直してみた

「信長は、組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、すぐれた軍事指揮官として、
次々と戦国大名を倒すだけでなく伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し
関所の撤廃など新しい支配体制を作ることをめざしていた。
信長は〜機内の高い経済力を自分のもとに集中させた。
また安土の城下町に楽市・楽座令を出しこの町にきて住む商工業者に自由な営業活動を認めるなど
新しい都市政策を打ち出した」

まぁ5、6年も前の教科書だが
171人間七七四年:2011/03/10(木) 20:53:16.20 ID:4PS1vCqY
>>170
山川じゃないだろそれ
172人間七七四年:2011/03/10(木) 20:58:18.94 ID:iAQCkqw1
信長とか幸村とかさ 妄想が先走りすぎだよな
173人間七七四年:2011/03/10(木) 21:02:18.20 ID:IO5tgaC4
>>171
ん?確認したところ山川出版社ってところの教科書みたいよ
174人間七七四年:2011/03/10(木) 21:04:26.32 ID:jh9Javie
>>170
なかなか挑戦的な信長描写だなw

> 「信長は、組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、すぐれた軍事指揮官として、
組織的には信長のところは室町守護大名と殆ど変わらず新しさはない。強力な軍事力は同意

> 次々と戦国大名を倒すだけでなく伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し
むしろ伝統的な秩序・権威に密着して勢力を伸ばしたのが信長

> 関所の撤廃など新しい支配体制を作ることをめざしていた。
撤廃していない。信長が排除したのは「敵のつくった」軍事上の関所で、経済関所はすべて温存された。

> 信長は〜機内の高い経済力を自分のもとに集中させた。
ちょっと意味が分からないなw当時の畿内の経済中心である京・奈良・堺を掌握していたということなら
その通りだけど

> また安土の城下町に楽市・楽座令を出しこの町にきて住む商工業者に自由な営業活動を認めるなど
> 新しい都市政策を打ち出した」
上の議論にあるように信長の楽市楽座は必ずしも自由な商業活動を指していたとは、現在は
考えられていない。
175人間七七四年:2011/03/10(木) 21:16:21.90 ID:Z6B+vZPZ
>>173
その部分書いた人は誰?最後の方に書いてあるでしょ?
176人間七七四年:2011/03/10(木) 21:23:16.34 ID:dg9EzNxN
>>174 それに六角定頼も作ったらしいからな、楽市楽座。(六角定頼は楽座を作ったのみとされるだが、)
別に信長がオリジナルに制度を作った、と言う訳じゃない。(山川の教科書を見ると、「都市政策として、楽座と言うシステムをオリジナルで作った」にも取れる。)
まぁ、オリジナルを作ることも確かにそうだが、オリジナルをどう活用するか、どう改良するかも重要だと思う。
そう言う意味では戦国の三傑と言われた人物は確かに傑物だと思うところもある。


177人間七七四年:2011/03/10(木) 21:26:38.15 ID:IO5tgaC4
>>175
この部分を誰が書いたかとか書いてねーよw
著作者なら

石井進、伊藤隆、笠原一男、勝俣鎮夫、児玉幸多、五味文彦
笹山晴生、白石太一郎、高埜利彦、高村直助、坂野潤治、吉田伸之

とある
178人間七七四年:2011/03/10(木) 21:28:48.22 ID:09KX0lgs
いまだに80年代冷戦脳のまま腐ってるイデオロギー対立の守護者先進的知識人と自称する日教組左翼史観で足利幕府は暗黒時代で
堺は欧州のヴェネツィアのような自由都市や都市国家。
信長主導の安土桃山文化はルネッサンス
室町時代〜信玄や謙信ら守護大名崩れは略奪奴隷売買の悪魔で
朝廷権威否定・政教分離し宗教全否定の信長は左翼が大好きな共産革命家と位置づけてるからね…(ソ連や中共も宗教否定し弾圧)
足利幕府は右翼からも左翼からも暗黒時代とされてるから非難放火の危険がありすぎて満足に大河ドラマにもならない。
179人間七七四年:2011/03/10(木) 21:29:17.68 ID:bhxQwN9w
>>166
安土に関しては自由な商業活動認めていたからその記述は正解
信長は領国全土をフリーにしたのではなく、部分的に自由商売が可能な都市を開放した

というか、完全フリーな商売なんて江戸時代にだって認めていない

信長の評価に関しては、90年代に「革命家信長」というイメージが広められた結果、
今世紀に入ってからは「かつて言われていたほど革命的だったわけではない」と
再びの再評価が行われているが、それがまた行き過ぎて「信長なんて全然革命的ではない」
「むしろ保守的」という前提で資料を解釈して評価を下すような人が出ている始末
ほんと、毀誉褒貶が激しい人だ

普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
異なる革新的なこともしている、というくらいに落ち着くんだがなあ

で、ここから個人の評価なんだが、信長がまったく革新性がなく保守一辺倒な人物だったとしたら、
まるで代わり映えのない従来の政治軍事で尾張半国から二十数カ国を領する天下人に伸し上がった
彼の政治軍事の能力ってどれほどずば抜けているのよ?そんな人物に勝てなかった他の大名たちは?
180人間七七四年:2011/03/10(木) 21:32:57.53 ID:KPo9AJgC
>>179
>普通に評価すれば、保守的な部分もあれば意図してかどうかはともかく、それまでとは
>異なる革新的なこともしている

ということは普通だな!
普通武将信長!
・・・・・・・ごめん、なんかがっかりくるから、やっぱり今まで通りのイメージでいいや

多分こんなカンジで創作作品での信長のイメージは未だに革命的イメージなんだろうと思います
181人間七七四年:2011/03/10(木) 21:41:51.29 ID:Z6B+vZPZ
>>177
石井進が大昔に書いた部分か・・・
あるいは五味氏が直したか
二人のどちらかだろうな
182人間七七四年:2011/03/10(木) 21:47:18.84 ID:S956SWOB
織田信長と坂本龍馬は戦後の価値観で解釈しやすい面があったのでは?
2人の実質がどうであったかはまた別の話だが。
戦前までに人気のあった人物は思想や政治色が強いから、
戦後は持ち上げにくかったかもね。
楠木正成は右翼色があるから避けられそうだし、
太閤様は晩年のあれがあるし、
権現様は前体制の創始者だから
183人間七七四年:2011/03/10(木) 21:50:05.67 ID:yMicKBbw
つまり価値観が変わると鬼武蔵や小田天庵が英雄になる日がくるわけですね
184人間七七四年:2011/03/10(木) 21:50:16.71 ID:IO5tgaC4
教科書なんだから評価の不安定な最新の研究結果が反映されないのはしょうがないんじゃないの?
元寇の部分見てみたら蒙古襲来絵巻は竹崎季長に例の三人が立ちふさがってる奴だったし
教科書が検定されたのも1997年だった
185人間七七四年:2011/03/10(木) 21:59:09.55 ID:bhxQwN9w
>>164
詭弁もいいところな文章だなあ

六角も信長も、やったことは同じ、坐を保護しつつ、楽市で部分的に開放した
六角にも坐を保護する文書が残っている

>164は、六角が坐を保護した点は隠して楽市を行ったことは取り上げ、
信長が坐を保護した点は取り上げて楽市を行ったことは無視することで
イメージ操作をしている

>>166
挙兵に呼応した勢力がいたのは事実だが、それが信長の重税故とする根拠は?
特に山城や大和はまだ信長の領国圏外で、信長は将軍の権として京や寺社、
および自分が支配を許された堺への矢銭は課したが、それ以外の畿内の土地に
信長が課税する根拠も権限もなく、そのような命令文書も残っていない
仮にそれらの地で重税が課せられたのならそれは信長でなく他者の政策だ

それから、義昭挙兵の時に山城や近江で呼応した者もいたが、
信長に従うことを選んだ豪族達も多くいる。彼らを無視するするのはどうよ?
186人間七七四年:2011/03/10(木) 22:00:14.61 ID:jh9Javie
>>179
信長はやはり天才としか言いようのない人で、そこは外しちゃいけないのだけど、
その天才性というのは組織や社会を変える方向というよりも、権力を確立、拡大する
方向においての天才と言うべきだろうね。

その真骨頂はやはり1にも2にも政治力で。「革新的ではない。既得権益の丸呑み。旧権威との密着」
というのは、当然好みもあっただろうけど、おそらく意図的な「政策」としてやってた。
そうじゃないと地域地域で状況の異なる恐ろしく複雑なあの時代の日本を平定していく、
なんて事業は無理だったと思う。

現実の信長の歴史的な意義ってのは、彼の創り上げた一定の安定が、後の秀吉や家康に、
社会に合わせた改革を構想し実行する余裕を与えた、という部分が大きいんじゃないかな?
187人間七七四年:2011/03/10(木) 22:09:26.82 ID:1a47N5fM
>>155
商人なんかから役銭をとるのを禁止するようになったのは秀吉なんだよね。
諸国の牛に役銭をかけた山科言継の息子・薄諸光はそのために殺され、薄家は廃絶しちゃったわけで。

>>160
美濃加納や安土でやった楽市楽座(非課税とか新規参入可能とか)というのは特定の都市での市場振興策といった感がつよいんだよね。
越前では旧来の座の特権を安堵しているし、尾張でも加藤氏に大きな権限を与えていたりするので、座の
全廃策を掲げていたわけではないんだよね。一般的にイメージされる「中世の破壊者」みたいなのは当てはまらないだろうな。
188人間七七四年:2011/03/10(木) 22:10:18.72 ID:FFospOxv
その話し合いはこの辺にして、ちょっといい話に戻ろうか
189人間七七四年:2011/03/10(木) 22:15:38.35 ID:GTFzOSTA
天才っていうからにはなにか発明したんだろうな?
190人間七七四年:2011/03/10(木) 22:22:48.11 ID:PADhEA5n
鬼武蔵「良い話ならまかせろー」
191人間七七四年:2011/03/10(木) 22:29:22.45 ID:85rHcFD1
>>190
悪い話スレに帰ってえええええええええええええええ!!!!
192人間七七四年:2011/03/10(木) 23:00:03.75 ID:jh9Javie
いいはなし

寛永15年2月(1638)島原の乱、幕府軍の総攻撃により、原城に籠ったキリシタンたちも
遂にその終焉を迎えようとしていた。
と、その時

知恵伊豆こと、幕府軍の総指揮を取る松平信綱の嫡男、当時19歳の甲斐守輝綱は、
戦闘に参加するためただ一騎馬を走らせ城へと向かった。
これを知り信綱は激怒し、家臣の岩上角左衛門を呼んで「輝綱をすぐに止めてくるように!」
と命ずる。
岩上は直ぐ様馬に飛び乗り輝綱の後を追い、遂に追いつくと彼の馬の前に立ちふさがり
輝綱に向かって叫んだ

「伊豆守様よりのお言葉を伝え申す!

『伊豆守は将軍家の御代官としてこの地に来たのであって、諸軍と功を争ってはならないと、
家中の者たちにも固く命じていたところである!ましてその長男がその様に抜け駆けし、
先陣を争うなどあり得べきことではない!
その行為をすぐに辞めるように!!』

以上でござる!」

と、輝綱の馬の頭を取って本陣に帰らせようとした。
しかし輝綱19歳、血気盛んでありまた、幼少より武芸に秀で、後に武士の手本とまで
呼ばれた人物である。岩上の言うことも聞かず再び戦場に向けて馬を走らせようとした。

ここで岩上角左衛門、兜を脱ぎ捨て輝綱の前に自分の首を差し出した!そして

「それがしの首を取らねば、戦に出ることかないませぬぞ!
さあ、速やかにこの首を刎ね、その後で思い通りになされませい!!」

睨み合う輝綱と岩上角左衛門。が、輝綱遂に馬の首を返し、一鞭当てて本陣へと戻っていった。


後々、松平輝綱は事あるごとに

「私に戦の高名がないのは、全部岩上のせいだ!」

と恨み言を言ったという。そしてその上で必ずこう付け加えた。

「でもな、主人を諌めるって言うのは、あのくらいじゃないと駄目なんだ。」


島原の乱での、伊豆守家主従のヒトコマである。
193人間七七四年:2011/03/10(木) 23:04:49.43 ID:tZDLgP3w
政宗の髭美談

 彼の家臣に「顎なし孫右衛門」とあだ名されていた勇士がいた。
その「加藤孫右衛門」は、高玉城の1番乗りをなして、城壁へつかまった
とたんに、鉄砲弾で顎半分をとばされてしまったが、そのまま敵陣に踊りこんで
獅子奮迅の活躍という勲功の者・・その後、彼の旗指物の印が、野猪で生憎と
彼の面相と類似してたので、戦友たちがからかっては笑っていた
(猪の顎は小さく、かれの欠損した顎の顔に似てた)。それはやがて政宗の耳にも入った。
政宗は彼を呼び、「この猪は、殊勲者であるのに、笑われ者になっておるのは、この髭が
余りにも貧しくまばらだからだ。余が威厳をそなえてつかわすであろう」と
筆を取って、小旗の猪へ立派な髭を描き足してやった。勇者多しといえども
主君直筆のお墨付きの指物をもっているの者は、孫右衛門ただ一人、その名誉を敬われ
以来誰一人彼を笑う者はいなくなったと言う
194人間七七四年:2011/03/10(木) 23:06:54.52 ID:IO5tgaC4
命をかけて主君を戒める家臣とそんな戒めを聞きいれる度量を持つ主君
美しいよな
195人間七七四年:2011/03/10(木) 23:14:49.75 ID:EUrCXwPG
森家某家臣『殿、深入りはなりませぬ、どうしてもというならそれがしの首を討ってからいきなされ』
196人間七七四年:2011/03/10(木) 23:17:39.11 ID:NjN3kGqd
>>195
森家の家臣にそんなの居ないw
甲州入りの時も、信長からも信忠からも「深入りするな」って命じられてたのに
「命令?知るか!」
とどんどん戦線を拡大しちゃったわけでw
197人間七七四年:2011/03/10(木) 23:28:53.35 ID:bhxQwN9w
池田家家臣 「若、ここはお家のために退いて下され!」

輝政 「親父の仇は厚遇するけど、仇討ち邪魔したアイツは冷遇する」
198人間七七四年:2011/03/10(木) 23:29:36.12 ID:EUrCXwPG
ならば
森家某家臣『殿、抜け駆けをしなければなりませぬ、どうしてもしないというならそれがしの首を討ってくだされ』
199人間七七四年:2011/03/10(木) 23:51:26.51 ID:yMicKBbw
そんなこと言う間に走ってるよ、主従ともなw
200人間七七四年:2011/03/10(木) 23:56:34.46 ID:/qGWaj0J
止める係の存在がまず無い
201人間七七四年:2011/03/10(木) 23:58:19.03 ID:EUrCXwPG
くそwならば


森家某家臣『殿、これは抜け駆けではござらん、奇襲でござるよ、某が良い働きをできなければ首を討ってくだされ』


もはや原文台無しwww
202人間七七四年:2011/03/11(金) 00:26:43.95 ID:/YietsRZ
森家某家臣『とっ…………』
203人間七七四年:2011/03/11(金) 00:48:40.40 ID:7ObqDUCr
森家家臣「ヒャッハー!」
森家主君「ヒャッハー?」
森家家臣「ヒャッハー!!」
森家主君「ヒャッハー!!!」
204人間七七四年:2011/03/11(金) 00:59:23.64 ID:KCTIUxg3
>>185
六角は観音寺城で座の保護してない。
>>187
美濃加納での楽市は斎藤がやってたのを信長が調略した際に追認しただけ。
安土は新しく造ったから商人を誘致する必要があったからで同時に半ば強引に御用商人への引っ越しも要求してる。
205人間七七四年:2011/03/11(金) 01:11:20.37 ID:amS6Ud5k
鬼武蔵 「森家戦場心得ッ!」

家臣団 「エンジョイ&エキサイティングッ!!」

ここまで幻視した
206人間七七四年:2011/03/11(金) 01:15:27.33 ID:LYFJsyiH
徳川家康「信玄を討つのだぁああああああ!!」
夏目吉信「うるせえこれからは俺が領主になってやる。」
とか
徳川家康「秀忠ゆるさーーーんっ!」
榊原康政「そうですか、では私は腹を切りますね^^」
本多正純「父の首を取ってきまーす」
な三河武士は格が違った。
207人間七七四年:2011/03/11(金) 01:43:53.56 ID:amS6Ud5k
>>204
上段については、観音寺ではしてなくても領国における近江の座を保護している

下段については、だからなに?まだ詭弁を繰り返すの?
208人間七七四年:2011/03/11(金) 01:46:48.60 ID:F+fv4rdu
まあそろそろその話題はこっちの方で

戦国大名の経済力 3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267685156/
209人間七七四年:2011/03/11(金) 01:56:08.71 ID:811sMbra
>>205無理矢理縛られてるんじゃなくて全員があの猿団長と同じ考えだから困る
ふと忠政がお兄ちゃん達を生け贄に捧げたんじゃないかと思った
210人間七七四年:2011/03/11(金) 02:07:25.15 ID:kZYZIcpU
何でも鬼武蔵に関わりづけて話してしまうのはこのスレの悪癖だと思う
211人間七七四年:2011/03/11(金) 02:11:11.28 ID:CvnClEb7
>>210
逸話を書き込んだあと反応にわくわくしながらリロードして
そういうのが来るとがっくりくるよね。
○○「〜〜〜〜」とかも。
212人間七七四年:2011/03/11(金) 02:20:19.91 ID:LZD51hgk
DQN政宗の御墨付きなんてw
でも家臣は喜ぶんだろうな

名誉な話だな
213人間七七四年:2011/03/11(金) 02:55:01.90 ID:3DX1CNXb
たしかに、お約束になって形式化すると飽きてくるな
214人間七七四年:2011/03/11(金) 04:37:05.26 ID:abPVXvD9
まあ、下らない感想を書き込んで人を不快にさせているという意味では211,213も同罪だけどね…あとそんな下らないレスにいちいち絡む俺もねw。
スルーしなよ。
215人間七七四年:2011/03/11(金) 07:22:24.93 ID:NCQAxlLM
>>207
そこまで言い切るなら
なんで六角氏が座を保護した場所を書かないの?
ソース出せば早いじゃん。
216人間七七四年:2011/03/11(金) 09:51:53.77 ID:3DX1CNXb
>>214
オマエがスルー出来ないことを他人に求めるな。
この口だけ番長が
217人間七七四年:2011/03/11(金) 09:55:48.72 ID:WGRTX8QD
その言い方だと不快なレスをスルーできないやつが悪いという風に聞こえるんだが
218人間七七四年:2011/03/11(金) 10:42:46.67 ID:4h5CEtA1
まあ、言いたいことあるなら言えばいいんじゃない
スルーできないとかマナー云々なんて肩肘はったこと言わないでさ
所詮は便所の落書き、気楽に肩の力抜いていこうや
219人間七七四年:2011/03/11(金) 11:21:27.45 ID:lTgcsmGi
>>193
寝ぼけながら読んでたら、ヒゲ描き足されたのは
旗じゃなく孫右衛門さんの顔かと勘違いしてしまった
花粉症の薬ききすぎて歩きながら眠れそうだ
昔は花粉症なんてなかったのかな
220人間七七四年:2011/03/11(金) 11:30:01.36 ID:F+fv4rdu
花粉症は花粉単体が起こすんじゃなくて花粉に付着した排気ガスなどからの化学物質の仕業
だからな。現代病だ。
221人間七七四年:2011/03/11(金) 11:34:03.41 ID:hwhmYygi
大気汚染による影響とかいう話もあるから少なかったのでは。

寄生虫が居ると発症しにくいとかもあるが当時は中の虫飼ってる人も結構居ただろうし
222人間七七四年:2011/03/11(金) 12:29:30.38 ID:TKglVotz
>>221
最近は有機野菜やら中国産野菜やらのおかげで虫に罹患する人が増えてるらしいよ。
223人間七七四年:2011/03/11(金) 12:30:20.64 ID:UegvWUID
実際、自分の場合だが
杉の無い東京から杉が裏山に普通に生えてる田舎に移り住んだら
花粉症がかなり楽になった。寄生虫は流石に居ないと思うが
224人間七七四年:2011/03/11(金) 12:34:22.20 ID:o1EZ6h6V
杉が近くにある田舎の方が楽だと言う話あるもんな。
スレ違いになりつつあるが。

しかし当時命に関わるようなアレルギーとかの場合原因不明でたたり扱いだったりしたんだろうなぁ。
蕎麦アレルギーみたいなのだと普通に死ぬし。

そういう観点で見ると何かを食べた後苦しみ出し、とかの逸話で色々想像出来る部分がある
225人間七七四年:2011/03/11(金) 12:40:34.68 ID:amS6Ud5k
食品アレルギーは、いたとしたらまず長生きできなかったと思う
226人間七七四年:2011/03/11(金) 12:44:55.88 ID:AofI0U4E
このスレは戦国以外でも博識な方が多くて読んでて面白いな
居心地いいです
227人間七七四年:2011/03/11(金) 12:46:27.25 ID:noKM2N+m
明日九州新幹線が開通するので筑後・肥後・薩摩の逸話を所望いたす
228人間七七四年:2011/03/11(金) 13:07:03.28 ID:3DX1CNXb
>>224
アレルギー反応という言葉がなかっただけで、
食品にアタる体質があるという知識は当時すでにあった。
西洋医学はまだ理解されていなかったけど、漢方の歴史は充分にあったし。
戦国時代はなんでも祟りですませられるほど古代ではないよ
229人間七七四年:2011/03/12(土) 03:07:33.51 ID:+fhHTV3m
いい話なのか悪いのか判断は難しいんだが、こんな時期だからちょっと可笑しいお話を。

大谷吉継と石田三成といえば、幼い頃より秀吉のもとで育ち、最後吉継は三成の挙兵に
殉じたこと、これはみな知っていることであろう。

…が、この二人の若い頃、吉継はなにかと三成を叱りつけ、怒りのあまり
頭を張り叩くこと度々であったそうだ。
この逸話だと三成の先輩格のようなので、吉継は三成より1歳年上の、永禄2年(1559)生まれ説を
取るべきであろうか。

で、三成の方はそんな厳しい吉継に、何故だか恋をしちゃったらしいのだ。
そして吉継に猛アタックをかけ、ついに吉継の恋人に収まってしまった。
(石田大谷に恋慕して、知音になり候。)

そう言う関係になってからも吉継は、相変わらず遠慮なく三成の頭をはたいていたらしいのだが、
三成の方ははたかれても、「忝し(うれしい♪)」なんて言ってイチャイチャしていたそうだ。
(それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候由。)
(武功雑記)


そんな衝撃的な、吉継三成恋人説。しかも吉継は少々DV気味、というお話。
230人間七七四年:2011/03/12(土) 03:17:38.35 ID:MjmbKmT0
>>229
でーぶぃより、治部さんがマ(
231人間七七四年:2011/03/12(土) 04:11:50.01 ID:TvpclFCQ
関が原の合戦にて、島津軍の銃弾を受けて落馬した井伊直政は戦場近くの小屋に運び込まれ気付け薬を飲まされた。
しかし目を覚ます気配が無かった為、家臣が

「もっと気付け薬の量を増やそう」と相談。朦朧とする意識の中で、その言葉を聞いた直政は

「余計な事はするな!」と激怒した。当時、気絶は武士にとって最も恥ずべき事の一つだった為、直政は

「俺は気絶などしていない!」と強がって、薬を吐き出してしまった。

それを見ていた家臣の一人が、
「殿、これは気付け薬ではなく、ただの血止めです。」と取り繕うと、

「そうか、それならば問題ない。」
と安心した直政は以後、堂々と薬を飲みながら戦い抜いたと言う。
以上、直政もやっぱり三河武士なんだな、と思わせる話。
232人間七七四年:2011/03/12(土) 05:11:20.95 ID:nTYE+4iN
井伊家は遠江出身のということは>>231には内緒な
233人間七七四年:2011/03/12(土) 06:11:15.30 ID:rmVY81dT
徳川家臣団の場合、武田旧臣とかもメンタリティが三河武士化してくるよな
234人間七七四年:2011/03/12(土) 06:57:13.82 ID:iM0t562y
朱に交われば赤くなるというからな
徳川家中はどこの出身でも三河武士化してるだろう
235人間七七四年:2011/03/12(土) 09:28:37.17 ID:A5JFZ+kr
>>227
九州新幹線の開通式典は中止になりました
式典に伴いブルーインパルスが九州入りしてたらしいが
ブルーインパルスのある松島近辺の状況を考えると不幸中の幸いなんだろうな
236人間七七四年:2011/03/12(土) 10:01:33.36 ID:noetaHuE
>>234
赤備えが更に赤くなるとな?
237人間七七四年:2011/03/12(土) 13:37:32.51 ID:sO32RpoW
>>234
司馬の言うには、その三河武士が政権を取ったため、日本中が三河武士化したということだ
確かに、三河武士のめんどくささをどことなくほほえましいと思ってしまうあたり、
オレも三河武士化してしまったのかも知れん
238人間七七四年:2011/03/12(土) 13:38:26.45 ID:KeiG20qe
武田武士の気質は、もともと結構三河者に近いところがある。
239人間七七四年:2011/03/12(土) 13:52:39.79 ID:gIzLl8bI
>>215
結局ソースなんて無かったんじゃね。
240人間七七四年:2011/03/12(土) 13:54:51.04 ID:9XzKdg57
>>237
てことは現代のオレらはアメリカ人気質かなw
241人間七七四年:2011/03/12(土) 13:59:57.57 ID:8+BYMAb6
三河武士になるために苦労してるな直政w
242人間七七四年:2011/03/12(土) 14:50:05.80 ID:OkuNnQxn
戦国の地震といえば
地震加藤と埋もれた城くらい?
243人間七七四年:2011/03/12(土) 15:03:05.86 ID:xtSD1pLu
地震直撃で亡くなった大名が居たような。
244人間七七四年:2011/03/12(土) 15:09:02.86 ID:4lb5KkY5
>>243
帰雲城を発掘しに行こうか
245人間七七四年:2011/03/12(土) 15:12:27.74 ID:pydVAal0
あと地震で地味に沈んだ島(瓜生島)もある
調べてみたら東海や東北に津波地震も来てるんやな
246人間七七四年:2011/03/12(土) 15:12:46.05 ID:+fhHTV3m
>>242
伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆討ち入りのきっかけにもなったと言われる明応大地震


明応大地震

 明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2〜8.4の大地震。

 地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は
紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、
無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。
これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。

  日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、
「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。
志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。
大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、
大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、
四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。

 遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた
大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では
津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、
二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が
津波によって水没したとされる。

 また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、
壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。
http://proto.harisen.jp/other/meiou-daijisin.htm
247人間七七四年:2011/03/12(土) 18:20:59.67 ID:tcqg0K3J
>>246
この津波で浜名湖が汽水湖になったんだよな
ウナギが住めるようになったのもこの時からだろうか
248人間七七四年:2011/03/12(土) 18:35:26.35 ID:LWJXT4YU
伏見城の地震もあるけど、逸話は出尽くしてる?
249人間七七四年:2011/03/12(土) 20:34:01.05 ID:b0fcC+ql
>>247
ウナギは一生のほとんどを川で過ごす淡水魚やん
海に出るのは産卵の時
250人間七七四年:2011/03/12(土) 20:39:30.60 ID:+fhHTV3m
>>248
太閤記系か清正系の軍記や史料あたれば未だなにか出てきそうだが。
そういえば家康も被災してたな。
251人間七七四年:2011/03/12(土) 20:53:29.86 ID:vMZuxmwz
伏見大地震は秀次事件で娘を殺された最上義光が、秀吉をスルーしてまっさきに家康のもとに
駆けつけるという、当時としては政治的に危険極まりない行為をやってしまった話が
やっぱり好きだな。

緊急時にはその人間の本音がさらけ出るものだ。
252人間七七四年:2011/03/12(土) 21:27:10.67 ID:WDZhQ4P5
今まで近づいていた秀次が斬罪って聞いた瞬間から家康接近に方針転換したんだと思うが
ほぼ唯一の近親有力者である秀次が失われた豊臣にいつまでもくっついているメリットはない
むしろ政治的にはかなり妥当な判断だし、若干スタートが遅れている感すらある
義光ほどの頭のいい大名の行動が政治抜きの感情だけってのは考えられん
253人間七七四年:2011/03/12(土) 21:41:35.40 ID:vMZuxmwz
>>252
いやあ、そう言う見方はわかるんだが、未だ秀吉の強力な独裁化なんだよ?
あんな非常時に秀吉よりも家康を優先したなんて秀吉やその周辺に知られたら、
義光自身どんな目に会うかわからんのはもちろん、家康にも迷惑かかるでしょ?
それこそこの一件だけで危険視されて潰されてもおかしくない。

なので政治的に計算された行動というのは、あまりにも脇の甘い行為だと思うんだ。
254人間七七四年:2011/03/12(土) 22:34:49.35 ID:uFPccG+7
文禄5年閏7月9日〜閏7月13日(1596年9月1日〜9月5日)

閏7月9日 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の
       内陸地震のさきがけとなる。
閏7月12日 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の
       2つの島が沈んだとされている。
閏7月13日 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) - M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。
       伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。


この連鎖地震を受けて文禄5年10月27日(1596年12月16日)、慶長へ改元された。

慶長元年中に豊臣秀吉の子、数え4歳のお拾が禁裏で元服して豊臣秀頼を名乗っており
死期が忍び寄る秀吉の焦燥感が伺えるが、連続大地震から半年も経たずに再度外征を始めると
いうのは異常な状況だ。
255人間七七四年:2011/03/12(土) 22:44:25.94 ID:vMZuxmwz
大阪夏の陣のこと。

徳川家の軍監、横田甚右衛門尉尹松(ただとし)はある日眠りが深くつい寝坊し、
軍監の職務である陣営巡検の時刻を過ごしてしまった。
大急ぎでその場に行くが、当然、もう巡検は終わっている。
同僚のものは「横田殿、どうして今日はあんなに遅参されたのか?」と問うたが、横田

「い、いやいや、拙者今朝は浜辺のほうが気になって、そちらの方を
巡検したのです。そのためこちらに来るのがこのように遅れてしまいました。」

と、つい嘘をついて誤魔化してしまった。
しかし同僚たちもその説明に納得し、疑うものも居なかった。

さて、大坂の陣が終わる。

徳川家康のもと旗本たちの武功の論考をする会議が開かれ、その場には軍監である
横田甚右衛門も当然呼ばれた。

ところが、この席で思いつめたような顔をしていた横田は、突然その場の皆に向かって
叫んだ

「せ、拙者は!大坂の役の過日、寝坊し巡検の時刻に遅れました!
しかしその場で本当のことを言うことが出来ず、浜辺の方に巡検に行ったため
遅刻したと、誤魔化してしまいました。
そんな卑怯な私が今この、重要な会議である論功の場にいること大いに恥じております。」

そして家康の方に向かって土下座し

「どうか、どうか拙者を、軍監のお役目から解任してください!!」

その席、会議を前に静まりかえる。

これを聞いた家康、声をかけた。

「甚右衛門よ、わしはな、お前がそんなふうに正直であることを知っているから、
この席に呼んだのだ。

さあ、堂々と会議に加わるが良い。」


この言語に甚右衛門は咽び泣いた。
そして会議の席に加わった、と言う。


横田甚右衛門尉尹松の嘘と正直、と言うお話。
256人間七七四年:2011/03/12(土) 23:10:12.64 ID:WDZhQ4P5
>>253
いや、そもそも秀次の罪状は謀反の疑い
この事に連座して娘が斬られてる時点で豊臣サイドからはもう半ば敵性勢力扱い
それに家康は秀吉が死ねば兵を挙げることはほぼ確実視されてた。実際内々に家康と接触してる連中は既に多数いたしね
であれば身を守るために旗色を明らかにしておくのは絶対に必要
中途半端な動きでは豊臣からは睨まれ、徳川の信用も得られず、あの場合は危険が大きすぎる
実際、どっちつかずだった長宗我部は関ケ原でほとんど働かなかったにも関わらず、戦後領土を召し挙げられてる
もちろん秀吉の雷のリスクはあったろうけど、家康の弁護を期待できるだろうし危険としてはまだ小さい
義光は悲しんだろうけどあの行動の基盤はやはり冷徹な情勢分析に基づいたものだと思う
そもそも義光は弟を殺し、親父を攻めて家督を分どり、妹を伊達に嫁に出す一方裏で色々仕掛けるような男だぞ
市松じゃあるまいし、感情を交えて政治的な動きをするほど可愛げのある奴じゃないだろ
257人間七七四年:2011/03/12(土) 23:29:33.20 ID:3I5rkx6x
弟殺しは今では疑問視されているし、父親との抗争は家督継承後
妹の婚姻はやったのは親父だしなあ
258人間七七四年:2011/03/12(土) 23:44:28.02 ID:3+0lwGbc
まぁ情だけに流される男だったら、
それまでに死んでるだろうしな。
259人間七七四年:2011/03/13(日) 00:00:15.94 ID:8j2hlrZ6
>>255
普通にいい話で心が安らいだ
260人間七七四年:2011/03/13(日) 01:19:55.09 ID:3dgDCodf
>>246
こわ〜!超地元なんですけど・・・。
261人間七七四年:2011/03/13(日) 01:27:45.30 ID:ZNDXKsc0
ならばなまず様に願掛けしたまえ
262人間七七四年:2011/03/13(日) 01:58:11.87 ID:6Umt1AUR
>>255
愚直者が男泣きする話って好きだ
263人間七七四年:2011/03/13(日) 07:01:04.31 ID:PnSCZBDU
>>255
横田尹松って高天神城のときからずっと現役なんだから息が長いね。

家康にとっても若き日の好敵手だったんだろうから大事にしたのかも。
264人間七七四年:2011/03/13(日) 09:37:56.33 ID:f4ALFCPq
家康と甲州武士って良エピソードの宝庫だな
265人間七七四年:2011/03/13(日) 09:45:21.72 ID:u3hUxyr2
その代わり嫉妬に狂った三河武士からは突き刺さるような視線が・・・。
266人間七七四年:2011/03/13(日) 12:42:35.13 ID:SjhqW754
家康が天下を治めた後だから余裕だな
267人間七七四年:2011/03/13(日) 13:19:47.58 ID:BJwR9Ocy
>>263
玉砕覚悟で外様たる信濃衆駿河衆が戦ってんのに
甲斐本国人が逃げ帰ってんだぜw
268人間七七四年:2011/03/13(日) 13:35:48.06 ID:ca1MVb9R
このスレの住人ならわかるな
火がつけない場合生米を食べると腹を壊す
水に浸して柔らかくして食べるんだぞ
269人間七七四年:2011/03/13(日) 14:11:05.13 ID:u3hUxyr2
>>267
信濃衆は勝頼から見れば譜代だとおもう。
それに長篠で名立たる甲斐出身の老臣はやられちゃったからね
将も兵も小粒になってしまったんだろう。
270人間七七四年:2011/03/13(日) 14:15:33.46 ID:uzSltVqn
山本常朝
「今日は直茂公の時代の話をしようか。
当時、直茂公に仕えるなかに徳久という者がいた。
彼は生まれつき変わり者で、どこか抜けたふうに見られがちな人であったという。
あるとき、家に客を招きドジョウのナマスを出したので、
『徳久殿のドジョウナマス』
と、そのころの人々の間で笑い話のタネになっていた。
ある日、徳久殿がお城に出仕したときに事件はおこった。
城中である者が例の『ドジョウナマス』を持ち出して徳久殿をからかったところ、
徳久殿がその場で抜き討ちに斬り捨ててしまったのだ。
殿中での抜刀であるから勿論お取り調べとなった。
結果、徳久殿には切腹を申しつけることになったのだが、
調べの一部始終を聞き終えて直茂公は、
『人に馬鹿にされて黙っている者は腰抜けである。
殿中だからといって、見過ごすわけにもいくまい。
そもそも、人を馬鹿にするような者こそがたわけ者である。
馬鹿にした者は斬られ損だ。』
と仰せになられたという」
271人間七七四年:2011/03/13(日) 14:43:05.17 ID:2Gd6YxUn
>>268
余計なこと書かないで
加熱しないと米の澱粉は吸収できない。
栄養にならないうえ、腹を壊す。
家康は「とりあえず空腹感を満たす」ためにその指示を出しただけ。

生で食うのは最後の手段だ。
272人間七七四年:2011/03/13(日) 14:49:56.31 ID:ca1MVb9R
>>271
そんなことで糞を漏らすとは最近の者は見かけばかり飾って軟弱に過ぎる
昔の武士はそうではなかった
273人間七七四年:2011/03/13(日) 14:53:15.35 ID:II/OSLaz
現代人は昔の武士じゃないからやるなって事だ
被災地で下痢が蔓延したらそれこそ悲惨だぞ
274人間七七四年:2011/03/13(日) 14:55:13.40 ID:ZNDXKsc0
>>269
そもそも甲斐衆自体、信虎が強引にまとめたのを信玄個人のカリスマで繋ぎ止めてただけで
もともと地侍の連合体にしかすぎなかったからな
個々の戦闘力はともかく、集団としての本質はどうしようもない鳥合の衆
団結力は三河衆や土佐の一領具足に遠く及ばない
275人間七七四年:2011/03/13(日) 15:09:11.73 ID:2Gd6YxUn
ID:ca1MVb9R
反省するどこるか、何だこいつは
真性のクズか?
276人間七七四年:2011/03/13(日) 15:20:54.17 ID:a/hvyA9X
>>275
焼き味噌の話で落とすつもりが、誰ものらなかっただけでは?
277人間七七四年:2011/03/13(日) 15:41:05.34 ID:HzWebi3s
>>272
不謹慎だとか、馬鹿かお前はとか、色々と言いたい事もあるが……
とりあえず人間の消化器では生の米を消化する事は出来ない。
昔も今もないんだよ。
無論、水に浸しただけの米は生のままだ、という事は理解出来るな?

いや、まぁ人間が猿だった時代まで昔に遡れば話は違うけどさ。
278人間七七四年:2011/03/13(日) 16:08:05.58 ID:uzSltVqn
話は変わるけど、
戦国時代は精米せずそのまま玄米だよね?
戦場でどうやって食べてたんだろ。
塩だけのシンプルなオニギリか、
はたまた焼き味噌溶かしてぶっかけ飯か
279人間七七四年:2011/03/13(日) 16:13:53.19 ID:Lvc4yRF2
そうそう、米じゃなく麦を刈り取って直ぐに食えばいいんだよ
280人間七七四年:2011/03/13(日) 16:22:39.42 ID:5fmkUmX+
>>275-277
まぁ間違った知識による発言をした事への照れ隠しか何かだろうよ。
そこら辺は武士の情けで勘弁してやりな。

一億総本多正純時代じゃあるまいし、柔らかい対応も必要だぜよ。
281人間七七四年:2011/03/13(日) 16:34:23.02 ID:II/OSLaz
災害時に誤った知識、未熟な知識を流布させるのは洒落じゃ済まんぞ
282人間七七四年:2011/03/13(日) 16:36:33.35 ID:5fmkUmX+
>>281
訂正までならともかく個人の人格への追い打ちはやりすぎじゃねえかなぁと思ってな。
283人間七七四年:2011/03/13(日) 16:49:22.22 ID:2Gd6YxUn
>>282
おれは茨城の被災者だが、少しも言い過ぎとは思わん。
こいつの言う通りにして、生米食って体壊す人が出たら
ID:ca1MVb9Rは『昔の武士』らしく腹を切って詫びてほしい。
284人間七七四年:2011/03/13(日) 16:53:52.81 ID:sH3ZYnMX
まま、ここはいい話スレでありますから
言い出し者が実際に食べてみて試す辺りで手を打ちませぬか
285人間七七四年:2011/03/13(日) 16:57:02.34 ID:2Gd6YxUn
>>284
はい。
286人間七七四年:2011/03/13(日) 17:42:29.08 ID:ca1MVb9R
みんな気がたってるなあと思ったらやっぱり被災者か
同情はするが八つ当たりされてもなあ
食べてもいいんだけど家康の言う水に浸してってのはどれくらいの間なんだろ
それと当時の兵糧米って白米ってことはないよね?
あと俺は下痢の持病もちで人より消化能力弱いからあんまり実験の意味がないな
287人間七七四年:2011/03/13(日) 17:49:29.57 ID:NJIale5i
いかん、真性の人だったか
288人間七七四年:2011/03/13(日) 17:51:08.07 ID:2Gd6YxUn
>>286
>あと俺は下痢の持病もちで人より消化能力弱いから

おお、むしろ最適な被験者じゃん。
1時間浸したあとに一合ばかり食って報告してくれ。
289人間七七四年:2011/03/13(日) 18:02:18.64 ID:ca1MVb9R
八つ当たりされてもって言ってるだろ?
やれやれ
290人間七七四年:2011/03/13(日) 18:02:54.57 ID:5fmkUmX+
俺もダメな子擁護しちゃったみたいなんで試しにやってみるか。
ただ俺、今中国留学中なんで、別の理由で腹を下す可能性が(ry

プラスチック米は流石にちょっと……
291人間七七四年:2011/03/13(日) 18:07:11.18 ID:vP95rKxY
本物さんだから以後お触り厳禁。
違反者はさくざがしかる。
292人間七七四年:2011/03/13(日) 18:08:38.84 ID:2Gd6YxUn
>>289
八つ当たりじゃないよ。
食って報告してくれるんだろ?
293人間七七四年:2011/03/13(日) 18:12:50.20 ID:KvGYW6CO
>>292
気持ちは分かるがどう見ても釣り野伏せ。
クマーとかゴンベの真似して釣られずスルーしろ。
294人間七七四年:2011/03/13(日) 18:12:55.97 ID:II/OSLaz
>>292
お前も構い過ぎだ
そういうことする場じゃないだろう?
残念ながらネットには狂人も平然と闊歩してるもんなんだよ
狂人へのネット規制なんてないし
お前はリアルでも狂人相手にそんな風に構うのか?
295人間七七四年:2011/03/13(日) 18:13:18.62 ID:ca1MVb9R
お前のためにじゃないよそれで手を打つって言ってくれてる人がいたから
ちょっとした笑いを提供しようと思っただけだ
腹でも減ってるのか?
296人間七七四年:2011/03/13(日) 18:13:31.61 ID:uzSltVqn
なんで責められてるか理解出来ない奴には、
反省なんて出来るはずもないわな。

自分に落ち度があるのをわかってて意地になってるのならなおさら最低だが。
結局、弱いから自分の間違いを認められないんだよ。
口先で誤魔化そうとしても傍から見てる人間には一目瞭然。

震災者の人が怒るのももっとも。
けどもうほっとくしかないよ
297人間七七四年:2011/03/13(日) 18:16:38.79 ID:2Gd6YxUn
>>291 >>293 >>294 >>290 >>287 >>296
OK!
これは真性のキ印だ。以後は放置するよ
298人間七七四年:2011/03/13(日) 18:16:47.63 ID:n0QK2Qyc
相変わらず厨房っぷりを晒してるな
どうせ織田厨と伊達厨だろうが。
299人間七七四年:2011/03/13(日) 18:31:53.69 ID:IqM4EtPO
へうげもの読んでて思ったが伏見の大地震の時に火事場泥棒みたいなのって出たのかね?
300人間七七四年:2011/03/13(日) 19:05:41.43 ID:GH3nl1/3
>>299
当然出てるだろ
301人間七七四年:2011/03/13(日) 19:31:50.69 ID:ZNDXKsc0
生米食ったら腹壊すなんて常識以前の問題なんだけどなー
間違えたらどうする!なんて切れてるのは電子レンジに猫放り込んだアメリカ人と同じ臭いがするわ
302人間七七四年:2011/03/13(日) 20:07:46.50 ID:hkMcCzeS
災害時にはまともは判断力を失ってる人間もいる
「電気の備蓄が底をついてる」なんてチェーンメールが出回ってるしな

※電気は貯蓄出来ません
303人間七七四年:2011/03/13(日) 20:10:12.05 ID:qxDXQbNO
生米じゃなくて、乾飯だよ。
腹をこわさないようによく水に浸して食えという話。
304人間七七四年:2011/03/13(日) 20:28:54.95 ID:LVEKcZG2
思いっきり話は変わりますが、逸話を投下。

豊臣政権の五大老の一人であった家康は、秀吉の死後、後継者である幼い秀頼が成人するまで後見人を
勤める事になったが、次第に政権奪取への動きを活発化させ、五奉行の一人である石田三成との確執を深めていた。
この頃、伏見屋敷の留守を任されていた井伊直政は、三成が家康暗殺を企ているとの情報を得ると、急いで大阪の家康に報告。
船で伏見屋敷へ帰る途中、家康一行は船着場に武装した兵が待ち受けてるのを見て、三成の手の者ではないかと警戒したが、
ある者が、「この緊急事態に直政殿が黙って見ているはずが無い。」と言い出し、
近づいて見ると兵を率いた直政だった。この一件で、直政は改めて家康から深い信頼を得たと言う。
305人間七七四年:2011/03/13(日) 20:32:04.84 ID:IWnc3oJM
それまで道徳的でも何でもなかった人間が、こういう災害があると急にヒステリックなニワカ聖人君子になる。
まったくキチガイはどっちだよ。

このスレで言うことでないのは分かっているが、嘘を嘘と分からない人には難しい掲示板でもこの有様かと嫌になった。
306人間七七四年:2011/03/13(日) 20:52:25.38 ID:Loy4tU9J
>>299
漫画では主人公がしてたな。
307人間七七四年:2011/03/13(日) 21:08:30.38 ID:dGIUN+TB
>>305
スルーするかスレ閉じろってことだよ言わせんなよ恥ずかしいAA略
308人間七七四年:2011/03/14(月) 00:19:40.39 ID:HnsHAUrr
天正18年(1590)、小田原の陣でのこと。


徳川家康は小田原城惣構えのうち、東にある篠曲輪(別名捨曲輪)という曲輪について、
井伊直政に報告をさせた。
これに直政

「篠曲輪は城中より橋一筋を渡して、昼間は曲輪の兵に加え城からも兵を出して守備しております。」

家康これを聞くと

「橋か。…うん、橋か。」

とだけつぶやき、その他に何も言わなかった。
直政はその事の意味がわからず、大いに悩み考え

「はっ!?もしや殿は橋の下の浅深を知りたかったのではないか!?」

と、すぐに橋の周囲に杭を立てて水の深さを測り、杭ではよく解らないところは自ら水の中に入って詳しく調べた。
そしてその調査結果を持って家康の御前に出、この事詳しく報告した。が、家康、これを聞いても

「橋か。…うん、橋か。」

と前と同じことを言うだけである。

直政はいよいよ思い悩み、この事を考えた。考え抜いた。考えぬいたあげく最初に報告した日から48日目となった。
いくらなんでも考えすぎだ。が、このときひらめいた!

「もしかして!」

直政はその夜自ら忍んでその橋に行き、橋の上に上がってその強度を見た。桁が弱く渡るのに危なっかしい
橋であった。これを見ると急いで家康のもとに行き、かくかくと報告する。
これに家康ニヤリと笑い

「わしが聞きたかったのはその事だ。だがな、これしきのことは自分で気づいてもらわないと困る。
なのではっきりとは言わなかったのだ。
この程度のことを自分で下知するのは、この家康の役目ではないからな。」

と語った。気づいてもらうために家康も48日間待ったのだ。なんとも気の長い話である。
と、直政これを聞いて悟った

『さては!殿はあの篠曲輪をこの直政の軍勢で攻めろ、と仰っているのだ!
しかもあれだけ橋のことを問われたのだ。篠曲輪を破ってもその橋を渡って次の曲輪まで攻め入れなければ
お味方の人々にも甲斐なく、嘲りさえ受けるだろう!』

そう覚悟を決めて、6月26日夜、井伊直政の軍勢は篠曲輪を攻めた。そこをたちまち攻め破ると
次の曲輪へと攻め寄せる!この時直政はまっさきに駆け、あの橋のほとりに立って自ら鉄砲を取り
これを曲輪に向かって撃ち放った。
この時玉薬が強すぎたか、鉄砲の筒が裂け直政は左手を負傷した。
が、直政これを物ともせず、その手で鉄の盾を掲げ持ち、えい声を出して攻め入る。
大将のこの勢いに井伊軍の士卒も我もと続き、ついに次の曲輪まで入り散々に戦ったという。


小田原の陣において、諸軍の中で唯一小田原城の惣構の中に攻め行ったという、
井伊直政、篠曲輪での戦いぶりである。
309人間七七四年:2011/03/14(月) 00:37:04.43 ID:U24G159V
山名豊国は武将としての能力は二流以下だったが
教養人としての能力は一流だった
自分の過去の栄光とそこから転落した現実とを対比させる歌が残っている

名ばかりは沈みもはてぬうたかたの あはれながとの春のうらなみ


出典は江戸時代の「続英雄百人一首」ですがこの本伊達政宗や高橋紹運といった英雄として名を残した人や
織田信雄や松永某など現代では英雄と呼べるかどうか怪しい人が大勢載ってますw
310人間七七四年:2011/03/14(月) 02:26:58.95 ID:pJrDrzFa
似たような歌で今川氏真の、

なかなかに世をも人をも恨むまじ
時にあはぬを身の科にして

があるけど、オレは氏真さんのこの歌は、
性根の良さが伝わってきて好き
311人間七七四年:2011/03/14(月) 02:54:44.43 ID:prmlTyrC
>>308
徳川家臣マジで半端ねえwww
312人間七七四年:2011/03/14(月) 06:04:54.61 ID:q2e+Syee
家康「橋が脆いのを他のアイデアで補強して攻めるのかなと思ったら…普通に攻めやがった」
313人間七七四年:2011/03/14(月) 10:26:14.48 ID:rk5dOMGi
直政ならしかたがない.....。
314人間七七四年:2011/03/14(月) 11:04:47.23 ID:4m+m4+ls
存外、家康は「早く開城しねえかな〜」くらいにしか思ってなかったんじゃないの?
直政は考えたけど

面倒くさい三河回路だと思うよ
315人間七七四年:2011/03/14(月) 11:07:27.69 ID:IXpqvqvN
さすがは鳴くまで待とうホトトギス。
316人間七七四年:2011/03/14(月) 11:12:51.23 ID:L87vjS0s
「鶏肋」の逸話をなんか思い出したw
317人間七七四年:2011/03/14(月) 18:32:56.61 ID:9bU2SDwm
天正18年の小田原陣の折、京の米価は沸騰した。
従来1両7石ほどであったのが1両2石まで上がったという。

この頃細川忠興が詠んだ。
「米の値は富士より高くなりにけり何か駿河の陣の賄ひ」
これを聞いた父幽斎は狂歌であるなら「ば陣の賄ひ何と駿河ぞ」と直すよういったという。
318人間七七四年:2011/03/14(月) 19:58:42.93 ID:HnsHAUrr
>>317
> これを聞いた父幽斎は狂歌であるなら「ば陣の賄ひ何と駿河ぞ」と直すよういったという。

ここに吹いたwさすがは細川親子だわ。
319人間七七四年:2011/03/14(月) 20:26:57.74 ID:R9Bm559f
海原親子で脳内変換されてしまう
320北条家家臣:2011/03/14(月) 21:19:29.43 ID:nCs2heHX
「朝の酒」

永禄12年に至って、上杉謙信は小田原に使者を送り、北条氏康と盟約を結んだ。
その際の贈り物は、昆布、鱈、干鮭、それに三荷の酒樽であった。
氏康はいずれも相州にない珍品であることを喜び、とくに越後の酒を有難がった。
酒を嗜む人である。酒との付き合いも彼なにの心得があって、

「酒は朝に飲むべき」
と家臣たちに語っている。これから一日の仕事の始まる朝方の酒は、慎しみが持てるし、程よい気映えも生じてよいし、また酒とはそのような心掛けで飲めば益になると説いたのであろう。

321人間七七四年:2011/03/14(月) 21:29:32.56 ID:bGRGhOGR
小牧・長久手の戦の後、家康は大阪に訪れ秀吉に臣従することになり、井伊直政はその間の人質として
岡崎城に送られてきた大政所・なかの警護を任された。毎日のようになかの元に通ってはお菓子を振舞うなどして
機嫌を伺った直政は大いに慕われ、事あるごとに

「井伊殿、井伊殿。」と声を掛けられたという。

「あまりにへりくだった態度である。」同僚から指摘されると、

「秀吉の元にいる家康様に万一の事あらば、速やかに大政所を殺さねばならないから、
 顔を覚えておく必要がある。」

と答えたと言うが、無事岡崎城に帰った家康と入れ替わりに大政所が京に戻る際も警護を任される程信頼は絶大だった。
その後、直政は警護の慰労として大阪城で秀吉に接待を受けたのだが、元徳川家家臣で秀吉の家臣となった石川数正を見ると、

「主君に背き殿下(秀吉)に従う臆病者とは同席できない!」

と大声を張り上げ退出してしまった。また、秀吉が

「貴殿に豊臣の姓を与えよう」と申し出ると、

「井伊家は由緒ある名家である。」と言う理由で辞退した。

理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

以上、井伊直政のどこまでも家康一筋なお話。個人的には、直政は三成と友達になれたような気がする。
322人間七七四年:2011/03/14(月) 21:29:37.47 ID:pJrDrzFa
車通勤の身には無理な話にて候
323人間七七四年:2011/03/14(月) 21:55:40.74 ID:Ic/dtfmh
まあ当時に飲酒乗馬は罪じゃなかろーて
324人間七七四年:2011/03/14(月) 22:13:42.16 ID:TQIvZI1s
福島正則「そーか、朝に呑めば良かったのか」
325人間七七四年:2011/03/14(月) 23:10:48.44 ID:L87vjS0s
寧ろ、福島正則「そーか、朝から呑めば良かったのか」
326人間七七四年:2011/03/14(月) 23:50:10.18 ID:sQQ2seNU
福島正則いがいに突出して酒乱とか飲むと性格変わる人っている?
あ、不識庵さんあなたはいいです。
327人間七七四年:2011/03/15(火) 06:53:59.50 ID:QafLPdxn
正宗『呼んだ?』
328人間七七四年:2011/03/15(火) 07:56:36.53 ID:bKxSQ6SI
つか朝から酒飲むやつは一日中飲んで(ry
329人間七七四年:2011/03/15(火) 08:27:55.47 ID:h+4B8Nf1
>>321
理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

そんな直政は家康の竿による快感で手なづけられてるのであった。

でも味噌で手なずけられるよりはいいか。
一応家康は主君だし。
330人間七七四年:2011/03/15(火) 09:25:27.89 ID:+yDHCx+e
井伊家ってちょっと調べてみたらもともとは今川家の被官で、重代の譜代ってわけじゃないのな
道理で少し毛色が違うと思ったわ
331人間七七四年:2011/03/15(火) 09:27:35.25 ID:KQmMeH9O
武田信繁
「たとえ親しい者同士でも、淫乱にわたるような雑談をしてはならぬ。
もしも、他の者からそんな話をしかけられたなら、
こっそりとその場から立ち去るがよい。
古語に、『思ったことを全て口に出しては笑いの種となる』、というのもある。」
332人間七七四年:2011/03/15(火) 10:16:55.62 ID:PYhkBdz1
それいいな 確かにそんな話題ふってくる奴はろくでもない
333人間七七四年:2011/03/15(火) 10:21:27.43 ID:9J8J0rU/
こっそりと立ち去るってあたりが信繁らしいね
334人間七七四年:2011/03/15(火) 11:02:35.04 ID:M1BeSJH2
猥談好きですけど控えまする・・・
335_:2011/03/15(火) 12:28:33.63 ID:LBBGsEdQ
>>330
たしかにそうなんだけど、かといって井伊家は今川の家臣、というわけでもなかったようで。
井伊家も元は独立した国人領主で、本拠の引佐、井伊谷って、長篠あたりから遠州側に
峠越えたすぐ向こう側だし。家を保つために今川の傘下に入ったという意味では、三河
の国人領主達と立場は一緒。
直政の祖父直満、父直親は、内応を疑われてそれぞれ義元、氏真に誅殺されてるし。
桶狭間後の混乱を経て、岡崎が膨張していく過程で、多少の早い遅いはあっても、家康軍団
に取り込まれて面倒くさくなっていったwという意味では、やっぱり直政も同類だと思われ。
336人間七七四年:2011/03/15(火) 14:02:52.17 ID:sIRLWHrA
豊臣秀吉が相馬義胤にたずねた、というから、小田原北条攻めか、それ以降であろう。
「相馬の家紋は九曜紋であるな。どのようないわれがあるのか」

相馬義胤、答えて
「九曜紋とは九つの星、すなわち北極星、北斗七星、輔星であります。
相馬の祖先は平将門であります。
将門が戦いに敗れて葦の中に身を潜めていたとき、北斗の化身である妙見菩薩が現れて
将門を助力し、脱出させたばかりか勢力を盛り返して関東を席巻させました。
その後将門はおごって朝敵となったので神の加護を失いましたが、
子孫であるわれらは妙見菩薩を変わらず崇拝しているのであります」

相馬義胤、九曜紋由来を語るの巻。

でも、考えたら秀吉はなぜそんなことを聞いたんだろう。家臣に調べさせればすぐわかりそうなのに。
きっとあれか、話題のない相手に話しをふって、気分よくお家自慢をさせたのかもしれない。
というわけで、しゃべらせ上手な秀吉の話。

ちなみにこの話、源頼朝と千葉常胤が同じ会話をしているらしいので、信憑性は察してほしい。


337人間七七四年:2011/03/15(火) 17:15:37.98 ID:e/7eWDSA
相馬市がはやく復興しますように
338人間七七四年:2011/03/15(火) 17:41:16.63 ID:sGJEXDjK
相馬といえば東北電力が小高原子力発電所を計画中なんだよな・・・・・・・・・・・・
十中八九凍結だろうとは思うが。
339人間七七四年:2011/03/15(火) 17:50:30.75 ID:iiO+655d
新規原発建設は無理だろ・・・
電力どうするんだろ
340人間七七四年:2011/03/15(火) 18:01:15.31 ID:LcLonGfK
南部利直、盛岡築城の普請現場で

盛岡築城の総指揮をまかされた南部利直は、自ら現場監督と共に普請の現場を見回っていた所、
ひとりの人夫が気にかかり声を掛けた。
「お前の面体は並の百姓には見えない。さだめし名のある者だろう、名を名乗れ」
百姓は一度は否定したが、利直の眼識に服して潔く伊達の家臣であることを認めた。人夫に紛れ
て城の様子を探ろうとしたのだ。

間者は処罰を覚悟していたが、利直は平然と間者に聞いた。
「この城地を見てお前はどう思う?」
「は?」
「城を探っていたなら心得はあるだろう。どんな感想を持った?」
「……されば、全て結構な惣構えですが、東北の方に山を負っているのが惜しいことです。
ここを占拠すれば遠目が利くものなら城内を一望できてしまいます」

この山とは現在の愛宕山の事らしく、実際、現在この山には展望台があり、盛岡の街が一望でき
るようになっている。
利直はこれに頷き、その間者を処罰することなく、人数をそえて仙台に送り返させた。伊達さん
への皮肉も感じさせる対応である。

南部利直、間者に城の感想を聞く話。
341人間七七四年:2011/03/15(火) 18:04:43.43 ID:tV/8iuSg
>>336
頼朝スキーの秀吉がその逸話を知っててなぞったのかもしれないな
342人間七七四年:2011/03/15(火) 18:58:08.38 ID:+yDHCx+e
秀吉って頼朝のこと、同じ天下人だけど血筋も門地もなしで切り取った自分のが優秀ですんでwww
ってディスりまくってなかったっけ
343人間七七四年:2011/03/15(火) 19:07:52.69 ID:KQmMeH9O
>>342
いや、
頼朝公とオレが日本史上の武功ツートップだろうな!!
で、まぁ、でもオレの場合スタートの条件が違ったからな!!
どうよ?

くらいな感じ
344人間七七四年:2011/03/15(火) 20:56:10.92 ID:wNH9G+F7
>>339
江戸時代のような生活もいいじゃないか
345人間七七四年:2011/03/15(火) 21:00:58.37 ID:YmQxW9sl
>>344
じゃあまずお前から節電してくれ
346人間七七四年:2011/03/15(火) 21:14:43.25 ID:aNeElFP4
>>339
素人考えだけど海水を使った発電というのは無理なんかね
まあできたとしても災害にかなり弱そうだけど
347人間七七四年:2011/03/15(火) 21:18:43.64 ID:g3Z4ifXC
波力、潮力、海洋温度差、海流とあるみたいだけど、どうだろうねえ。
348_:2011/03/15(火) 22:09:11.83 ID:LBBGsEdQ
さらに、地熱、風力、太陽光など、そういう「グリーン」な発電方法もこれから積極的
に研究していかなきゃいけないし、今後関心も高まるだろうけど、現段階では、発電量
の面でも、効率、安定供給(天候によって発電できたりできなかったりじゃ困る)の面
でも、まだまだ頼りになるレベルのものはない。
河川の高低差を利用した水力発電は、日本の河川がダムだらけなことからわかるように、
もう開発し尽くされてる。
今回の件で明らかなように、電力は「品切れ」が絶対に許されないだけに、年々増え続
ける電力需要をカバーするためには、現実的には、何かを炉で燃やして熱で発生させた
水蒸気の圧力でタービン回す式の発電(タービン&冷却に大量の水を必要とするので海
岸であることが必要)に頼らざるを得ない。
日本は残念ながら燃やすモノの資源に乏しいので、輸入の石炭・液化天然ガスの火力発
電を軸にしつつも、半ば国策として原子力発電に望みを託してきたわけだが…さて。
349人間七七四年:2011/03/15(火) 22:10:13.28 ID:Qm2dE4nw
さすがに長文はちょっと
350_:2011/03/15(火) 22:43:15.30 ID:LBBGsEdQ
スレチ長文申し訳ない。電灯消して画面の明かりだけで打ってたら、つい考えてしまって。
実は俺三河者なんだけど、三河に牧野家の「参州牛久保之壁書」っていうのがある。
後に長岡藩に伝わった『常在戦場』ってやつ。皆さんご存知でしょうけど。
常在戦場、いまちょっと噛みしめてる。
と打ってるそばから揺れてるし。
351人間七七四年:2011/03/15(火) 22:48:42.20 ID:mGJQ1/O0
風力発電は全然クリーンじゃないよ!
風の通り道に建てなきゃならないから渡り鳥が風車のプロペラであばばばbbbb
352人間七七四年:2011/03/15(火) 22:49:27.84 ID:rvcmuil8
徳川家康麾下の鳥居元忠といえば、三河衆の中でも特に無骨な侍である。

家康が関東に移る少し前のこと、その鳥居元忠が豊臣秀吉に呼ばれた。
元忠に官位を与える、というのだ。

元忠、これを聞いて
「私は無骨な田舎者にて、この身もまた、このように片端であります」

と、諏訪原城攻めで銃弾に貫かれたため、まともに動かなくなった左足をさすった。
そして

「こんな体たらくですので、叙爵などしていただいても殿下のお役には立ちません。
どうぞその件は、御免下されませ。」

と、断った。
だが秀吉は、そんな鳥居元忠を強く気に入ったらしい。少し後で再び元忠を呼び寄せ
こう提案した

「彦右衛門尉(元忠)よ、おぬしの嫡子新太郎を羽柴下総守(滝川雄利)の娘(養女・生駒家長娘)と
縁組させその養子とするのだ。その上でわしが召し使おう」

滝川雄利は羽柴性を頂いた秀吉の直臣大名である。その娘を、陪臣に過ぎぬ元忠の息子に娶せ、
天下人たる秀吉の直参としようと言うのだ。大変な栄誉であり出世であろう。が、これにも元忠

「我が愚息をもって下総守殿の息女と縁組せるということ、これは仰せに従いましょう。
…ですが、その息子を殿下に召し仕えさせるということ、これはお断り申す!

この元忠の家は、先祖以来徳川譜代相伝の家従の者であり、それは子孫へと伝えていくものです。
他家に奉公仕る事の出来るものではありませぬ!」

結婚は認めるが秀吉に仕えさせるのは御免被る、というのだ。
半ば秀吉の顔を潰すも同様である。しかし秀吉

「鳥居が申すところ、道理である」

とあっさりその条件を認め、滝川雄利の娘を鳥居新太郎(忠政)に娶らせた。

やはり秀吉は、元忠のような無骨で主家への忠誠の塊のような男が、心底好きだったのであろう。
そんな事を感じさせる、鳥居元忠と豊臣秀吉のお話。
353人間七七四年:2011/03/15(火) 23:04:45.69 ID:CavAUwDn
信玄、もとい震源は駿東郡だそうです!
354人間七七四年:2011/03/15(火) 23:34:50.63 ID:pELZY6x7
ここでラスボスさんが切れちゃうと自分の器が小さくみえるからそういうことはしないんだろうね〜
まぁ、これが直臣だったら後で・・・
355人間七七四年:2011/03/15(火) 23:34:58.93 ID:rvBRvm8A
また市松の石垣を積み直す作業が始まるお・・・(ヽ´ω`)
356人間七七四年:2011/03/16(水) 00:21:10.95 ID:GCgpdInT
>>350
スレチだが長岡藩と言えば河井継之助のオーラ凄すぎ。
幕末の写真の中でも異質なオーラ発してると思う。
あと土方歳三のイケメンぶりも凄いw
新撰組に京女から山のように恋文が届いたのも納得。
あと坂本龍馬もカッコいい。
高杉晋作はそのまま不良少年の雰囲気。

戦国武将も写真観たかった・・・
357人間七七四年:2011/03/16(水) 00:32:04.27 ID:cvxVzX8M
歴女?
358人間七七四年:2011/03/16(水) 00:35:49.68 ID:7ilZbabx
ログインの維新の嵐の別冊付録が凄かったなぁ〜
裏表紙が志士の集合写真で一人一人名前も宛てて・・・

まぁ、数年後フレにあれは全部嘘って聞かされてショックも凄かったんですけどね^^;
359人間七七四年:2011/03/16(水) 00:39:08.89 ID:GCgpdInT
>>357
ゴメン、男だよw
てか女の人には河井継之助の格好良さは分かりづらいとオモう
360人間七七四年:2011/03/16(水) 00:41:13.40 ID:fvoHUbX4
トシさんの写真は修正はいってるバージョンもあるからねぇ。
イケメンと言えば木戸孝允もじゃね?
361人間七七四年:2011/03/16(水) 00:42:46.89 ID:Wlp5JdFm
木戸孝允の奥さんも現代でも十分通用する美人だったよな
362人間七七四年:2011/03/16(水) 00:45:10.66 ID:lG4vdcEB
どうでもいいが司馬遼の「世に棲む日日」に出てた、『高杉晋作は柴田勝家ファン』ってのは
一体何が出典なのだろう?未だに解からん。司馬の創作かなあ?
363人間七七四年:2011/03/16(水) 01:58:32.08 ID:RmWOFRX7
>>361
以前TVで「明治に行われた日本初の美人コンテスト」(花魁の写真に投票)というのを見たが、
人気上位はやや面長に偏るとはいえ、みんな普通に超美人だったぞ。
浮世絵とかは当時のデフォルメされた萌え絵にすぎないんだよ。

余談が過ぎた
364人間七七四年:2011/03/16(水) 08:45:27.90 ID:GbGdOquM
>>362
司馬さんは、徹底的に調べて裏を取った上で嘘付くからなぁw
365人間七七四年:2011/03/16(水) 08:54:29.13 ID:rjy/QNdL
司馬も生前、エッセイに
「僕の小説を読んで『あれは本当(史実)なんですか?』と問い合わせてくる人が多い」
と書いてた

それくらい小説と史実の違いが分からない人が多いって事だね、教養のない人が増えている嘆きかな
366_:2011/03/16(水) 10:58:15.13 ID:urB1neu4
>>363
戦国時代の美人もそうだったのかなぁ
もしそうなら、あれだけ三歳様が執着したお玉さんとか、やっぱりガチで美人だったんだろうか
生で見てみたかったのぉ

おや、宅配便が届いたようだ
367人間七七四年:2011/03/16(水) 11:00:01.98 ID:5oO/3yVA
戦国時代の女性の肖像画って意外と幅広の二重だよな
鼻筋も通ってそうだし
368人間七七四年:2011/03/16(水) 16:05:04.20 ID:dbxYid4M
  ミY ̄Yミ
  (爻><爻)
 | ̄川 i 川 ̄|
 丶__⊥__ノ
  /|= =|ヘ
  || / ||
  || 二 || 面長二重に鼻筋すっきりでありんす
   ̄>ー< ̄  でも化粧が現代人とかけ離れすぎでやンス
  /|\ /|\
 /| | У冂| |丶
369人間七七四年:2011/03/16(水) 16:50:52.99 ID:wgU/bgb3
政宗公拝領の地で津浪襲うって文献に記載あったけど
津浪の文言でてきたのはこれが初かな?
慶長の年だったような
370人間七七四年:2011/03/16(水) 18:45:01.40 ID:pq5CqzRh
>>365
伝奇小説を脱して歴史小説になってからの司馬小説は
史談だか取材の雑感だかわからんような随想文を混ぜてくるから
史実と創作の境界が曖昧で紛らわしいんだよ
歴史に詳しくない人が勘違いしても仕方ない部分はある
371人間七七四年:2011/03/16(水) 19:04:20.76 ID:QsdVcv/Z
だがそれがいい
372人間七七四年:2011/03/16(水) 19:12:00.74 ID:GCgpdInT
司馬遼太郎の作品は娯楽として最高に面白い。
彼独自の世界観があるから。
それ故に、自分の好きな歴史人物を司馬遼太郎にディスられると本気で腹が立つw
373人間七七四年:2011/03/16(水) 19:29:16.21 ID:rhWmmS8N
「興国元年および翌二年、大津波おこりて、十三湊を壊滅す。
前を白髭、後を黒髭の大津波と称す。」

古文書・東日流六郡誌考察図解添書より

偽書だけど
374人間七七四年:2011/03/16(水) 19:51:07.62 ID:JFQqYgLe
近藤勇が加藤清正を尊敬してて、握り拳を口の中に入れることが出来たという
逸話を真似してたというのはマジ?
375人間七七四年:2011/03/16(水) 21:15:26.66 ID:lG4vdcEB
高松城の守将、清水宗治が明日、切腹をするという日のことである。

宗治は左右のものに命じて髭を剃らせた。これにその場にいた者達は聞いた

「我らの命、もはや旦夕に迫っております。長左衛門(宗治)様はそんな時期に何故、
髭を剃って容貌を整えるのでしょうか?」

宗治、彼らを返り見ると笑って

「それはな、秀吉が私の首を信長に献じたとき、もしその首が垢付き鬚髯蓬々としていては、
宗治の奴め久しく包囲されていたため、顔は憔悴して少しの生色も無し、などと嘲られるではないか。
私はそれを大いなる恥辱だと思う。だからこうして整えるのだ。」

と語ったという。

のち、明智光秀を滅ぼし小早川隆景と再開した秀吉は、隆景にこう言ったという

「清水宗治は、武士の鑑であった。」


清水宗治、切腹前日のエピソードである。
376人間七七四年:2011/03/17(木) 11:57:31.40 ID:nLDsgA/O
死に際だからこそ身奇麗さを気にするというあたり
まさに武士のダンディズムだな
377人間七七四年:2011/03/17(木) 12:00:44.17 ID:yMqHK86B
よく目やにがついてると恥だとか言うが
フケは恥にならなかったのかな
3781/2:2011/03/17(木) 16:18:54.01 ID:ssXHTjZy
この話は後年、伊達政宗の叔父である留守政景が、親しい者に語ったことだという。

文禄4年(1595)7月、世に言う秀次処分が起こった。この時『伊達政宗も秀次の与党である』との
風聞が流れ、国元にいた政宗は大いに驚き急いで大阪に向かい、まず政宗の秀吉への申次たる医師、施薬院全宗の
屋敷に入り、そこから秀吉に対し自分の無罪を訴えた。

施薬院の屋敷には秀吉からの糾問の使いが2度まで送られ、その後政宗に命じられたのは

『わが子秀頼が誕生したとき、汝の息子兵五郎(後の伊達秀宗)を参らせた。これは秀頼の被官となった者の
初めである!されば、かの兵五郎を以て伊達の家を継がせよ。そして汝は伊予に国替えさせる!
伊達家の主な家臣たちも皆上洛させ、政宗自身は京のおのが屋敷で謹慎しておれ!』

つまり政宗は強制的に隠居させられ、伊予への国替えを申し付ける、と言うのだ。
政宗はこれに驚愕した。そしてどうにか秀吉からの赦免を得るべく、留守政景ともう一人側近をつけ
徳川家康のもとに派遣した。この時家康は、伏見にいた。

京から夜を徹して駆け早朝、徳川家の伏見屋敷についた二人に、家康はすぐに対面した。
その朝はやや寒く、家康は火鉢に寄って体を温めていた。

二人が申す旨を聞くと、家康は表情を和らげ「こんな朝早くに来たのだ、朝食も未だであろう?
丁度朝食が出来たところだ、お前たちもこれを食すが良い」と言うと、そこに食事が運ばれてきた。
二人は遠慮をし、その場を下がろうとすると家康、「よいよい、お前たちもこの場で食せよ。」と留めた。

ところで家康はご飯を黄銅の鉢に入れ、それを火鉢の上に置いて、なんと保温していたらしい。
そして給仕のものに「あの二人の飯はもう冷えているだろうから、これをあたえよ」と、保温されたご飯を
分け与えた。

さて食事が済みお茶が出され、一息ついたところで二人は再び家康に訴えた。
「政宗はどうすればよろしいのでしょうか!?ご返事受け賜わるべし!」

すると家康、上座から降りてきて突然、大音を響かせた!

「やあ!おのれらの主人は、さしも日頃は世の人をば這う虫程度にも思わず、無遠慮な言葉を吐き散らかし、
馬鹿げた振る舞いばかりしているが、このような窮地に至るとそれまでの威勢が夢ばかりもないではないか!
そう言う人間を、臆病者というのだ!

お前たちは伊予に渡って、魚の餌になろうと思うか!?それとも都のうちで犬の餌になろうと思うか!?
この二つのうちどちらかに思い極め、その上で愁訴せよ!

わしからの返事がある。…お前たち、近くに来いッ!」

「は、ははっ」

二人、恐る恐る家康の側に行くと、なにやら耳打ちされた。
3792/2:2011/03/17(木) 16:21:16.42 ID:ssXHTjZy
さて次の日、京の伊達屋敷の者たち、「我々は討ち手と戦って死ぬ!」と大騒ぎを始めた。これには京の市民も
驚き怯え、大阪にも聞こえたため秀吉は「すぐに様子を見てこい!そして政宗の家臣たちの上洛を急がせよ!」
と命ずる。秀吉の使者が伊達屋敷の門前に至ると、屋敷の者達、侍だけでなく雑人に到るまで弓矢を背負い鉄砲に
火縄を挟み、槍や長剣で杖ついて大庭に満ち満ちているのが見えた。そこに御使到着と聞いた政宗が、
頭は髻を切った大童、刀も差さぬ姿で兵たちを押し分け現れ、門を開かせ内に招き入れた。そして御使の
仰せを聞いてから

「この政宗が、先の隠居、国替えという仰せを承ると、家の子郎党たちが集まって私に対し建議しました。
その内容は

『どうして先祖累代の地を離れて知らぬ国にさまよい、天下に恥をさらすことが出来ましょうか!?
政宗様は尋常にお腹を切りなされ!我々は討ち手を待って斬り死にいたします!』

私はこれを制し、そんな事をしてはならぬ、考え直せと説得しました。ところがこれに家臣たちは
『こんな大臆病の主人だとは知らなかった!』と反発し、もはや私の下知は受け入れません。
今まで私の下知を、一体どんなことであっても必ず背くことのなかった彼らが!

いま政宗が太閤殿下のお咎めを受けたため、家臣たちは己の主人が有るとも考えもせず、このような
酷い振る舞いに至りました。この事、きっと殿下のお耳にも達するでしょうが、これは全く政宗の所存では
ありません。もしお尋ねがあったら、どうかその事をくれぐれもお伝え下さい!

また在国の家臣たちですが、上洛するように何度催促しても、一通の返事すらよこしません。
彼らもまた何か、良からぬことを企てているのではないかと大変心配しております。」

と伝えて、御使を返した。

さて、この事で大阪城も騒ぐ中、伏見の家康が「洛中の騒動を聞いた」と登城し秀吉に対面した。

そして秀吉に言うには
「殿下、都において政宗の家人たちを打ち滅ぼすこと、これは何程の事もない。ごく簡単に済ませられるでしょう。」

「むう。京は問題ない。だが…」

「はい、在国の者達が累代の主人が失われたと聞けば、彼らは理非をわきまえぬ荒えびす共ですから、
殿下からどんな仰せがあっても、その御下知に従わず反乱を起こすでしょう。

現在、朝鮮のこと未だ決着が見えておりません。外征のさなか、国内で兵乱を起こすべきではありません。

卑しきものの言葉ですが、大事の前の小事、と言います。また、罪が疑わしければこれを軽んずる、という
言葉もあります。そして何よりも、あの伊達の所領を奪ったところで、遠く離れた所領でありその管理に
大変な労力が必要となります。

以上の理由により、先ずこの度は寛宥の御沙汰があって然るべき…、かと存じます。」

そんな家康の言葉もあり、また、何故かこのころ、京伏見にいかにもわざとらしい
『伊達政宗が太閤殿下を討ち給わらん謀り事の様』なる立て札が現れ。これを見た秀吉は
「どうも政宗を憎み陥れたい人間が
、このような噂を流しているようだ」と判断、

結局、政宗の処分は撤回されたという。

以上、伊達政宗が秀次処分での危機を逃れた顛末である。
380人間七七四年:2011/03/17(木) 18:09:57.76 ID:t2HbQv5p
トカゲ、うぜえ……。
381人間七七四年:2011/03/17(木) 18:29:19.76 ID:c7GyQffm
「トカゲ」が某やる夫スレからのネタだとしたら、
あまり他のスレでは使わないように
382人間七七四年:2011/03/17(木) 19:45:29.61 ID:lhz2+s+0
こないだの、前田利家の家臣と揉めた話は笑えたけど、これはちょっと。。。
力作書いてもらっといて、こんなこと言うのもアレなんだけど。
383人間七七四年:2011/03/17(木) 21:14:04.16 ID:9OlioCmO
ほとんど同じ話で確か原因が九戸の乱になってるバージョンは
すでにまとめにあった気がするが。

こっちは秀次の時という設定だと山岡荘八の小説にあるやつだな。
こっちがまとめにあったかは忘れた。
この話は読む本によってだーいぶ印象が変わるな。
384人間七七四年:2011/03/17(木) 22:37:36.54 ID:cPQP231o
>>378
福島から宮城に引っ越していいけど、四国は嫌なのか。
暑がりなんだね。
385人間七七四年:2011/03/17(木) 22:40:18.93 ID:7X2GAQ9L
気候の問題じゃないだろうよ・・・とマジレスしてみる
386人間七七四年:2011/03/17(木) 22:52:06.12 ID:J7a4GCWI
板倉重宗は裁判の判決を下す際、必ずすることがあった。

彼は先ず西に向いた廊下ではるかに拝礼をした。そして判決を下す部屋に至るのだが、
ここには茶臼一つを置き明障子を立て、その内に座して手づから茶を挽きながら訴えを聞いていた。
これを人々は非常に不思議に思ったが、重宗がその理由を語ることはなかった。

しかしはるか後年、重宗が相当に老いた頃、昔話の合間にふと、その理由を語ったそうだ

「私が決断所に出る前に、西面の廊下で礼拝していたのは、愛宕権現に祈っていたのです。
多くの神の中で愛宕権現は特に霊験あらたかだと聞いています。それ故、それを拝んでいました。

私の所願はこういうものでした。『今日、重宗は訴えについての判決を下します。
もし、私の判断に少しでも私心がまじっていれば、直ちに私の命を奪い給え』と。

判決の判断が曇るのは、その判断に私心が入り込む故だと思っているからです。

それから、茶臼ですが、ほんとうに出来た人というのは、自分の心を自ら動揺さないよう
出来るものだそうです。が、この重宗はそこまで出来た人間ではありません。
そのため、我心が動いているか静かであるかを、茶を挽くことで知るのです。

心が定まって静かなときは、手もそれに応じて、臼の回転も一定で、挽かれて落ちる茶も、
いかにも細やかです。
この細やかな茶が落ちた時に至って初めて、自分の心も定まったと知り、そこで判決を
下すのです。

それから、明障子を隔てて訴えを聞くのは、おおよそ人の面貌を見れば、憎々しい顔、哀れ気な顔、
信用できない顔と、沢山の種類があります。

正直そうな顔の人の言うことは誠にように聞こえ、信用できそうにない者の言うことは、何を聞いても
嘘のように感じるものです。哀れがましい人の訴えは、何か不正なことをされた被害者であると
思わせ、憎々しい人の紛争の訴えは、当人のほうが悪いように思ってしまいがちです。

こう言った事は我が目が見たものが心に移され、彼らが言葉を出さないうちから、彼は邪である、
正しくない、正直ではないなどと、先入観が生まれてしまい、訴えを聞いても、その先入観を元に
言葉を判断してしまう。そんな事は多いのです。

裁判において、哀れがましい者に憎むべきことがあり、憎々しい者に哀れなる事があり、
まことしやかな者に嘘偽りが多い、そんな事例は実にたくさん有りました。

人の心は知り難く、その容貌を以て定められるものではありません。

古には訴えを聞くには、その表情をもって聴くのだと言ったそうです。
ですがそれは、心がとらわれる事の無い人にだけ出来ることです。
この重宗がごときは見たものに心がとらわれ、先入観を作ってしまうことが多いのです。

また本来人々は、裁判の場に出ること自体が恐ろしいと思っているのに、さらに目の前に
自分の生殺を握る人間を見れば、心が萎縮して言うべきことも言えず、罪科を受けるという人も
いるかもしれません。ですから、互いに顔を見も見せられもしないほうが良いと、
あのようにしたのです。」


板倉重宗の、訴訟を判断するに当たっての姿勢である。
387人間七七四年:2011/03/17(木) 23:14:24.30 ID:UX4B1y5T
板倉親子はソフィスティケートという言葉がしっくりくる
388人間七七四年:2011/03/17(木) 23:31:37.79 ID:m8i/8Xcb
>>386
性格は人相に出ると思うんだけどなあ
389人間七七四年:2011/03/18(金) 08:07:03.21 ID:1PrpjEl0
>>387
詭弁を弄する人って事?
390人間七七四年:2011/03/18(金) 09:09:23.48 ID:S/gaJNjq
醜いヤシは成敗したほうが、、
391人間七七四年:2011/03/18(金) 09:15:10.29 ID:eG0nUjmf
>>389
たしかにsophistication
はソフィストから派生した言葉だが、
詭弁のほかに洗練されたものという意味がある
承知の上での発言だとしたらスマン
392人間七七四年:2011/03/18(金) 09:46:36.14 ID:qu/NMN3D
>>388
性格が悪い人でも、その訴えに関しては正しかったりするしねえ
393人間七七四年:2011/03/18(金) 10:02:04.87 ID:9tM73zyb
戦国時代の復元帆船ちょっといい話ということで。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110318t13004.htm

施設全損で木造帆船だけ無事だったとか
さすが太平洋を往復した慶長使節船
なんだかうれしい話
394人間七七四年:2011/03/18(金) 13:52:44.48 ID:UFlwAyXL
>>393
サン・ファン・バウティスタ無事だったんだ!
津波の被害が大きかった地域だろうに。
よく耐えたな。
395人間七七四年:2011/03/18(金) 16:05:50.99 ID:U+6Ubfso
いい話だ。
しかしどれほどの歴史的な建造物亡失したんだろうなぁ…
396人間七七四年:2011/03/18(金) 18:04:24.26 ID:EKekKIrZ
>>393
嬉しいなぁ、この春に見に行こうと思って計画立ててたらこんな事になっちまって
二度と見られないかと思ったよ。
今は無理かも知れないけど、絶対見に行くって決めたわ。
397人間七七四年:2011/03/18(金) 18:27:16.73 ID:Hh32T/zy
堀秀政には、多賀出雲守秀種という弟がいた。

堀家が越前を所領したとき北ノ庄城の改修が行われたが、この時秀政は
多賀秀種のやり方がひどく悪いと人々の前で叱り、その面目を傷つけた。
これを多賀は大変口惜しく思い、明朝、北ノ庄を出奔した。

秀政はこれを聞くと
「困った奴だ。きっと準備もせず出奔したのだろう、道端で飢えてしまうぞ。」
と黄金10枚を取り出し、人を走らせてこれを多賀に届け、そのはなむけとした。

さて、秀政は黄金を送り届けると、その黄金を包んでいた紙を自ら一枚ずつ
丁寧にシワを伸ばした上で、大切に箱に納めた。

と、小姓たちがこれを興味深そうに見ていることに気が付き、彼らに向かって

「およそ財というもの、用いるべき時には黄金10枚であっても惜しむに足らぬ。
しかし必要がないのなら、この10枚の紙もみだりに費やすべきではない。
おまえたち、私を卑しい奴だと思うなよ?」

と語ったという。

名人久太郎の、財の使い方である。
398人間七七四年:2011/03/18(金) 18:33:46.51 ID:QvcgEsPm
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5117.html
堀秀政、出奔した弟の多賀秀種に

既出かと
399人間七七四年:2011/03/18(金) 18:34:38.01 ID:Hh32T/zy
スマンカッタ、本当にスマンカッタorz
400人間七七四年:2011/03/18(金) 18:45:14.82 ID:Lqes3lcs
>>397
尾張人気質だなw
まあ彼は美濃出身だけど幼少より信長側近だったしな
401人間七七四年:2011/03/18(金) 20:24:36.93 ID:Uqp7Km4j
信長さんの傍で薫陶を受けた名人に再生工場長・・・
つか、武蔵さんも小姓になってればまた違ったんかね〜
402人間七七四年:2011/03/18(金) 20:34:01.92 ID:Kv1sjHu4
信長側近をクビになったのって後の森忠政こと仙千代きゅん以外に誰か居るのかね
403人間七七四年:2011/03/18(金) 20:51:09.49 ID:6S/PCmkn
真田昌幸が信玄に人物の観察眼を評価され、家臣の動向や仕官に来た浪人の面接を任されていた頃の事である。
落合彦助と言う家臣が、信玄のお気に入りだった同僚をけんかの末に殺害して逃亡した。その後、二人の浪人が彦助の首を討ち取ったと
首を差し出してくると、夏の暑さで腐り顔の判断がつかなかったにも拘らず、喜んだ信玄は領地を与えようとした。しかし昌幸が、

「あの二人は、出世の糸口をつかむ為なら手段は選ばない者です。領地を与えるのは良く調べてからにした方がよろしいでしょう。」

と言っていると知った信玄は思い留まった。その後、第4次川中島の戦いで、彦助が存命していて、敵対する上杉方として出陣している事が発覚し、
昌幸の観察力が証明されたのだった。

以上、真田昌幸、浪人の嘘を暴いたお話。
404人間七七四年:2011/03/18(金) 20:56:45.08 ID:XtvJAUmr
>>403
さすが昌幸、自分に似た人間は見事に見抜くなw
405人間七七四年:2011/03/18(金) 21:08:06.92 ID:y2B7w3Se
落合彦助さん刃傷沙汰事件関連
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1769.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4457.html

なお殺された人は横目役の金丸昌直(金丸虎義の長男。弟に土屋昌次、土屋昌恒など)という
譜代家臣のホープであったため家中では結構な事件だったと思われる。
406人間七七四年:2011/03/18(金) 22:09:35.72 ID:JDh5iAAJ
こんな時だし、被災地の武将なり大名のいい話ないの?
俺も探してくるからさぁ
407人間七七四年:2011/03/18(金) 22:18:29.52 ID:jjXTo+ti
>>393
瑞巌寺も破損はあるけど無事で避難所になってる
政宗公、あなたの残したものは400年経っても民の役に立ってますよ
408人間七七四年:2011/03/19(土) 01:18:10.13 ID:SqEtq045
五大堂も無事だった。・゚・(´Д`)・゚・。
海の中に位置してるから諦めてたのに!
絶対復興するよ!! by仙台藩民
409人間七七四年:2011/03/19(土) 09:56:39.02 ID:l+07+TRB
>>408
頑張ってくれ
4101/2:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1〜3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。
4112/2:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)
412人間七七四年:2011/03/19(土) 11:45:02.48 ID:WbdxuAwv
論破されたからっていちいち泣くなぶっとばすぞ
413人間七七四年:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw
414人間七七四年:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw
415人間七七四年:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw
416人間七七四年:2011/03/19(土) 21:06:22.92 ID:Y8uPdnvQ
いつも武田一族&甲斐マイナー名家のことばっか書いている者です。今日は割とメジャー行きます。

一条信龍シリーズ前編
信龍さんの鬼瓦


武田家というのは言うまでも無く武功でナンボの家であるが、知名度もまんま武功の多寡による感がある。
一族重臣であっても、外交情勢と配置役柄によっては、空気のような人もいるのである。今回は、その一人のお話。

晴信の異母弟に信龍という者がいた。
折しも中央集権化のための武田姓召し上げ&信虎が切りまくった名跡の回復のため、一条家の家跡を継がせた。
親族衆として騎馬200騎、市川上野城を領し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当した。

甲陽軍艦では山県、内藤ら七人の重鎮の一人として描かれ、山県昌景が「一条殿は、伊達男にして花麗を好む性質であるが、
馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている」と賞している逸話も残る。

さて、この信龍が拝領した頃の市川上野城(上野椿城とは別)というのは、城というよりは砦であった。
かつて福島正成の乱入時には、勝山城ともに武田一族が籠もり、激戦の舞台となった甲斐南部の要衝であった。
当時今川との関係は落ち着いていたが、晴信はこの期にと思ったのであろうか、信龍を城主に命じ、大規模な増改築をさせたのである。

ところがこの信龍さん、先ほども言ったように、近隣領主はお下がりの武具で装備が揃ってしまうという、無茶苦茶な傾き者である。
普通に立派な城を作っただけでは満足しなかった。しかし戦闘用の山城である。他に飾りようもない……と思いきや、あったのである。

「鬼瓦作ろうぜ!!! 黄金張りの馬鹿でっかい奴!!!!!」

左右の者が止めるが、聞かない。さらには、自分で名産地に向い、鬼瓦を作らせ始めてしまった。
費用の半分を申しつけられた近隣領主は、あまりの巨額さに晴信に泣きついた。
晴信は信龍を呼び出し、こっぴどく叱った上で、「中くらいで黄金を貼らないなら良い」として、つまり普通の鬼瓦を作らせた。

信龍は非常に残念がり、自腹を切る予定だった総費用の半分を、迷惑料としてか周りに配ったという。
「金の大鬼瓦が守ってくれない城だから、この金で各自怠りなく戦に備えよ」ということだろうか。

安土城の金のしゃちほこは有名だが、戦闘用の山城に金の大鬼瓦を取り付けようとした男のお話。
傾き者で猛将で信玄の弟とか、こんなキャラ立ってるのになんで今ひとつマイナーなのか……。
417人間七七四年:2011/03/19(土) 22:31:42.53 ID:j95q+rA2
上沼恵美子より前に、金の鬼瓦を作ろうとした人がいたとは知らなかった
418人間七七四年:2011/03/19(土) 23:23:26.00 ID:iIPOmc8A
>「中くらいで黄金を貼らないなら良い」



お兄ちゃん意外と優しくてワロタwww
419人間七七四年:2011/03/19(土) 23:54:44.84 ID:2Q+vUFkp
確かにw
420人間七七四年:2011/03/20(日) 00:12:08.93 ID:e1ctvNHX
質問なんだが、「中央集権化のための武田姓召し上げ」ってこの頃そこかしこに
武田氏がいっぱい居たって事?
421人間七七四年:2011/03/20(日) 00:21:23.67 ID:FiDCeB1I
>>420
同じ一族でも武田の苗字を宗家のみに限定するってこと。今川が始めた「天下一苗字」って政策。
422人間七七四年:2011/03/20(日) 00:28:09.57 ID:M43pGW8I
>>421
氏真の次男が品川さんを名乗ったあれか。
423人間七七四年:2011/03/20(日) 00:38:11.42 ID:5KcQmPYs
>>416
俺だっていっぱい書いてるぞ!
武田マイナー武将を書く人も無しとの言動、許せぬ!

>>420
いっぱいいた。やたらいた。ちょっと補足。

武田一族は400年以上甲斐に君臨(逸見のみ例外、ただし逸見も広く見れば武田一族)し、
それこそ武田をルーツにする家は掃いて捨てるほどあった。
彼らはたいていは別の苗字を名乗っていたが、
(俺らが「新宿のおばさん」「甲府のおじさん」とか言うような感じで自然発生)、
時と場合によっては「武田」を使うこともあった。「源」ほど本式ではないけど。

事実、神格化されるほどの晴信であっても、勝沼信元(信虎の弟)や嫡子義信などに
乗っ取られそうになったこともある。武田家ではこれがデフォ。

信玄後期の武田一族衆が両手で余るほど少ないのは、甲陽軍艦を読んでもらえば分かると思う。
これは武田姓を名乗るのに免許制にしたからだけど、徹底して信玄の卑属ばかりで、尊属はゼロ。

武田姓が免許されると、例えば穴山信君が外交文書で武田左衛門(字が若干違うかも)と名乗ったように、
公式の場で武田姓を名乗ることが出来る。逆に、それまでバリバリの武田姓だった家も名乗れなくなった。

中央集権化を徹底できなかったのが武田家滅亡の主な原因だという人も多いし、それは反対しないが、
全く逆に、曹操の魏みたいに一族衆を冷遇したことも、要因の一つと言えないこともない。今川も同じ。
424人間七七四年:2011/03/20(日) 00:43:38.31 ID:VuEqA+Io
信玄の弟だけで8人いるし、
穴山、板垣、栗原、金丸、秋山とか支族も多いからな
みんな武田を名乗られたら蒲生一家もびっくりな状況になっちゃう
425人間七七四年:2011/03/20(日) 00:50:18.56 ID:Z1lUETZU
>>423
養子政策で甲信の名家を武田一門に取り込みまくったもんな…
勝頼が正式に家督を継ぐことができなかったのもその辺の事情があるのか。
426人間七七四年:2011/03/20(日) 01:24:47.45 ID:5KcQmPYs
武田菱こと四割菱も、菱の間の距離で血の近さを表していたクラスが花菱に変えられ、
花菱クラスがもっと変形した菱に変えられたりと、デフレというかデノミが行われた感じだよね。

>>423
あとごめん、やや誤解を招く書き方になってしまったので、自己レスだがさらに補足。

武田姓が免許されたのは、血縁よりも政治状況によると考えた方がいいっぽい。
婚姻や養子で見かけ上の血縁を濃くしただけの木曽や穴山が免許されている一方、
上の一条信龍は、信玄の弟でありながら後半生で一切武田を名乗った形跡がないし、
縁も遠く免許されていない駒井高白斎が外交文書や上書でも武田を名乗っていたり、
室住虎光(諸角虎定)みたいに近親で、活躍して願い出たのに免許されなかったり。

むしろ実際の血縁が近い方が、名乗っちゃ駄目というケースが多い希ガス。
実際の血筋が総領に近く、さらに名目上も武田を堂々と名乗られたら怖いということか。
427人間七七四年:2011/03/20(日) 01:24:51.23 ID:guei7VHx
継いでるっちゅーの
428人間七七四年:2011/03/20(日) 02:33:58.60 ID:M4yWXi8O
>>424
それを言えば、大友が断トツだね。
主要家臣は、ほとんど一族の庶流
429人間七七四年:2011/03/20(日) 07:32:36.48 ID:jpEEnOlF
東北に比べたらまだマシな気がする
430人間七七四年:2011/03/20(日) 09:13:49.36 ID:Gz9sJK3s
>>423
宗家が先祖(自称)の名に変えた家康は、発想の逆転だったのかしら。まあ、今川義元が足利を名乗ったり、武田晴信が源を名乗るのは
いろいろと問題すぎたんだろうけど
431人間七七四年:2011/03/20(日) 10:32:22.05 ID:RDeMMYHQ
近親者に武田を許さなかったのは旗頭として担ぎ出される危険を避けたからかね?
432人間七七四年:2011/03/20(日) 14:13:49.96 ID:5KcQmPYs
>>430
武田晴信は普通に源を名乗ってるよ。だって源は姓じゃなくて氏だもの。同じく今川も源を名乗ってる。


>>431
たぶん。異姓の者は武田に戻って頭領になれない、っていう慣習を作りたかったんだと思う。
事実、俺が宗家に取って代わってやるという発言で家中にいられなくなった一族もいたし(名前失念)。

>>421が言ってて初めて知ったんだが、どうも今川からの輸入みたいだね。勉強になりました。
信虎時代はほとんど行われて無くて、晴信時代から始まった感じ。ただはっきり明文化された制度でもなさそう。
これが(これだけのせいじゃ無論ないが)勝頼につながっちゃうんだからジェットストリームスパイラルアチャーとしか言いようがない。

これは俺の勝手な武田史観なんだが、結局は信虎が進めつつあった中央集権化を、晴信が止めてしまった感はある。
中央集権化で噴出した豪族・領主達の不満を背景にクーデターを起こした以上、急速な中央集権化はできなくなった。
そして、彼らの意向に沿わなければ、一族を旗頭にクーデターを起こされても文句が言えない立場になってしまった。

結果として血の濃い一族は冷遇、危険な嫡子は廃嫡、勝頼は諏訪家へ、寄親寄子という折衷制度、武功派と側近の争い、
全てが中途半端になってしまった。それでも晴信が生きている頃は、そのカリスマと天才的なバランス感覚で持っていた。

しかし勝利を重ねて不満を和らげるという信虎と変わらない綱渡りと、不誠実な外交姿勢が常態化してしまったせいで、
勝頼の時代になると打った手がことごとく裏目に出ることになり、家中の統率は崩れるように失われていった。つまり、

    ,ィィr--  ..__、j
   ル! {       `ヽ,       ∧
  N { l `    ,、   i _|\/ ∨ ∨
  ゝヽ   _,,ィjjハ、   | \
  `ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ   > 武田家を滅ぼした張本人は
     {___,リ ヽ二´ノ  }ソ ∠   信玄公その人だったんだよ!!
    '、 `,-_-ュ  u /|   ∠
      ヽ`┴ ' //l\  |/\∧  /
--─‐ァ'| `ニ--‐'´ /  |`ー ..__   `´
    く__レ1;';';';>、  / __ |  ,=、 ___
   「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
   |  |::.V;';';';'| /.:.|トl`´.! l _,,,l | _,,|  , -,
    ! |:.:.:l;;';';';'|/.:.:.:||=|=; | |   | | .l / 〃 ))
    l |:.:.:.:l;';';'/.:.:.:.:| ! ヽ \!‐=:l/ `:lj  7
    | |:.:.:.:.l;'/.:.:.:.:.:.! ヽ:::\::  ::::|  ::l /
433人間七七四年:2011/03/20(日) 14:26:52.35 ID:kgi5BjKU
つまり
信虎「ヒャッハー!権力を集めて近代化だー!!」
信玄「ヒャッハー!中途半端な状態だけど何とかしちまうぜー!!」
勝頼「……継いだ家がブラックでダメかもしれん」
ということか?
434人間七七四年:2011/03/20(日) 15:11:29.72 ID:Gz9sJK3s
>>432
じゃあ、新羅信玄で
435人間七七四年:2011/03/20(日) 15:36:30.27 ID:5KcQmPYs
>>433
信虎「ヒャッハー!仕方ないから戦争だー!!」
信玄「ヒャッハー!仕方ないから戦争だー!!」
勝頼「ヒャッハー!仕方ないから戦争だ―あああ!!」

>>434
新羅太郎晴信ってこと?
無茶がある。
けど、そもそも新羅三郎や八幡太郎や加茂次郎って、寺社の名前から取っているし、姓なのかな?
子に継承されたとも聞かないし。苗字・・・ではあるのか?エロくないので分からない。
436人間七七四年:2011/03/20(日) 17:09:29.66 ID:x1eyZms2
勝頼の場合は老臣達が本心から従ってくれない上に事あるごとに父親と比べられちゃうから実戦で結果残すしかない
輝みたいに頼りになる叔父が生き残ってたら良かったんだけどね
437人間七七四年:2011/03/20(日) 17:40:49.41 ID:Z1lUETZU
>>432
あと信玄時代は武田宗家の独自財源として金山開発が進んだのだけれど
勝頼時代には枯渇していたというのもあったな。
438人間七七四年:2011/03/20(日) 18:56:25.87 ID:iAN9WHGY
>>436
たしかに
信繁(戦死)、信是(早世)、信実(戦死)ときて、
生き残ってるの文化系とカブキ者しかいないもんな
439人間七七四年:2011/03/20(日) 19:03:02.38 ID:eqlxF85P
信繁生きてたら違ってたかもね
言っても詮ないことだけど
440人間七七四年:2011/03/20(日) 19:32:53.43 ID:k4fYL9YC
信豊は・・・駄目か
家臣に裏切られるんだものな
441人間七七四年:2011/03/20(日) 19:44:25.32 ID:C2fcDgf5
穴山信君が伊賀越えで生き延びてたら、歴史は・・・あんまり変わらないか。
442人間七七四年:2011/03/20(日) 19:57:14.17 ID:JbIu/tq1
信繁が生きていたら、勝頼よりも穴山信君よりもふさわしいと危険な存在になったかもしれんな
443人間七七四年:2011/03/20(日) 20:20:05.98 ID:MA2qlh5P
信繁さんが生きてたら武田家存続もあったかも
そんな気がしてしまう
444人間七七四年:2011/03/20(日) 20:28:17.85 ID:FiDCeB1I
室鳩巣「だから私が信玄は信繁に家督を継がせろと(150年後くらいに)言ったのだ!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4898.html
445人間七七四年:2011/03/20(日) 20:32:42.36 ID:RDeMMYHQ
442
天球さんの性格的にそれはないんじゃね?
446人間七七四年:2011/03/20(日) 20:37:17.01 ID:piyfrYi4
>>438
信実「存在感なくてすみませんね」
447人間七七四年:2011/03/20(日) 20:39:45.82 ID:k4fYL9YC
五郎君じゃ四郎君の助けにはならんかったのかな?
448人間七七四年:2011/03/20(日) 20:42:47.15 ID:Gz9sJK3s
>>441
武田信吉と保科正之の人生が変わってたかもな。正之は、信玄の娘に保護されて、武田の継承者にも目論まれてたという話もあるし
449人間七七四年:2011/03/20(日) 20:45:15.16 ID:JbIu/tq1
>>447
年齢的に無理でしょう
450人間七七四年:2011/03/20(日) 23:52:24.20 ID:5KcQmPYs
後典厩のふがいなさはガチ
451人間七七四年:2011/03/21(月) 00:21:30.74 ID:QiwQxwrY
北条と徳川に挟撃されたとき
5万(信長公記)の北条軍を10分の1の兵で押さえた後典厩をふがいないとな?
452人間七七四年:2011/03/21(月) 00:24:18.33 ID:vylA11jo
北条が弱すぎるだけ
453人間七七四年:2011/03/21(月) 00:35:57.21 ID:KFKqow82
信豊って全然人物像みたいなもの伝わってないよな
454人間七七四年:2011/03/21(月) 00:39:00.51 ID:1Ly9naeR
天正10年本能寺の変、堺にいた徳川家康は急ぎ帰国の途に就く。
いわゆる神君伊賀越えである。

さてこの一行にあった本多正信は、家康に従う宇治の茶商人、上林政重と語らい、
彼に地元の者達百人ほどを集めさせ木津川のあたりに控えさせた。

そして家康が近江信楽は多羅尾氏の屋敷に入ったのを確認すると、
この宇治の上林の人々に「徳川殿はここに入られるぞ!」と言わせ、
さらに先の百人に川の上下に篝火をたかせ、いかにも家康の来訪を待っている、
という姿をとらせた。

これに明智の軍兵も家康は宇治に入るものと思い込み、その隙をもって
家康は無事、伊賀を廻って三河へと帰りついたのだという。

この話は後年、上林政重の子、上林正次峰順が語った話だそうだ。

神君伊賀越での、本多正信の計略についての逸話である。
455人間七七四年:2011/03/21(月) 09:56:47.66 ID:A9P++xDh
>>453
どこか(滝山城?)で勝頼と一緒に怒られたって話なかったっけ?
456人間七七四年:2011/03/21(月) 11:29:39.27 ID:aSi5BcVg
>>454
上林、家康を助けてるのか
でもこのころの上林はまだ茶師のトップにはなってないんだよな
あとで利休と組んで森を追い落とすことになる
457人間七七四年:2011/03/21(月) 18:39:54.31 ID:Zmq0WPZA
>>455
駿河攻めの蒲原城かなんかで勝頼&信豊が大将にもかかわらず矢玉が降り注ぐ中
真っ先に城に飛びついていって困ったよ…^^;って真田幸隆宛の書状があったような
素肌攻めといい二人とも力攻め大好きっ子で気が合ったのじゃなかろうか
458人間七七四年:2011/03/21(月) 19:32:21.70 ID:7iKaAAWh
>>457
山県(内藤だったかも?)は慌てて援軍を差し向けることになり、信玄は怒り呆れ心配したというアレか。
459人間七七四年:2011/03/21(月) 22:05:40.07 ID:o9Epjr9y
長久手の合戦の後、討ち死にした池田恒興の母親の養徳院に宛てたラスボスさんのお手紙。

息子さんの討ち死の報を聞きさぞ悲しんでいると思いますが、孫の三左衛門殿と藤三郎殿が
無事であった事が不幸中の幸いかと思います、私がこの両者を引き立ててあげようと思ってますので
お袋様のお嘆きは御尤もですが亡くなった勝入親子の供養のためにも孫二人の面倒を
お願いします。またお袋様がよろしければ私を勝入斎の代わりと思って下さい、どんなことでも
お世話します。またお袋様には物詣もなされるように取り計らいますので人の言う事も
良くお聞きになって身をご寛容になさって下さい。

で、その後もちょくちょく手紙を出してたようで。

「貴女様も私の母と同じようにお世話しますので私の母と一緒に京や堺に遊山にお出かけ下さい、
必要なものがあればご用立てしますので」みたいな手紙の内容が伝わってたりも。

ラスボスさんは池田恒興のお母さんに凄く気を遣ってるんだけど、若い頃に世話になってんのかいな?
460人間七七四年:2011/03/21(月) 22:13:48.52 ID:aa+YH4EW
>>459
この当時の恒興がまだどちらかというと「協力してもらっている」感が強かったことに加え、
信長の乳母だったってのもあるんじゃないかと
461人間七七四年:2011/03/21(月) 23:40:42.08 ID:RN3Gn2ky
養徳院さんは池田恒興の母であり、織田信長の乳母であったと同時に
池田恒利と離縁して織田信秀の側室にもなっていたからな。
462人間七七四年:2011/03/21(月) 23:56:59.97 ID:6nevVd9t
養徳院見てきたけど94歳ってすげー
463人間七七四年:2011/03/22(火) 09:00:20.60 ID:S2MJJPg7
かつての憧れの人だったりして
憧れだから強引に物にとかそんな気にならなかったとか?
464人間七七四年:2011/03/22(火) 10:17:07.96 ID:FVw2YyFe
江戸初期における代表的文化人、石川丈山は元々、徳川家康に近侍として仕える武士であった。
だが大阪夏の陣で一番乗りの功を上げるも、軍規で禁止された先陣争いをしたため謹慎処分となり、
その為武士を辞めた、という、文武に優れた人物であった。

さて、そんな石川丈山が後年、家康の謀臣として知られた本多正信について語ったことがある。
それに曰く

「本多正信という人は大御所様(家康)が何か仰せになったとき、自分の考えと違う場合は
その場で居眠りしていて何も発現されなかった。
またその仰せが良いと思った場合には、それを大変に褒め上げた。

私は長く大御所様の近くで仕えていたが、世の中で考えられているのと違い、
大御所様と正信殿が何か事を謀っていると見えたことは、わずかに2度しか無かった。
それも世の人が事を謀る姿とは全く違う、大変珍しいものであった。

1度目は大御所様が正信殿の座されている前を通った折、ふと足を止められ
正信殿に3,4言、密かにつぶやかれた。これを聞くと正信殿は大いに褒められ
『良く候!良く候!』と繰り返し申し上げておられた。

もう1度は大阪冬の陣の講和が成った直後のことである。

大御所様は京に入られ、ある家臣に『お前は大阪に行き、将軍(秀忠)に、家康はこれこれの日に
駿河に帰ろうと思っている、と申し伝えよ。』と仰られ、ふと正信殿の方を見られると
例のごとく居眠りしておられ、これについて何も言われない。

大御所様は大声で『やあ佐渡守!!』と仰られると、本多殿目を開き、だが物を言わず
右手を上げ、指を折って物を数える仕草をしてから

『大殿よ大殿よ!数年前に伏見の御館にて正信が申せしことをば忘れ給うな!』

と言われた。これに大御所様はしばらく御思案する様子であったが、先に将軍家への
使者を命じた者に『今日のところは使いを参らせない事にする』と仰り、そして座を立ち内に
入られた。

今の人は本多正信といえば、大御所様に対し古を引き今の状況を明らかにし、道理と正義を
分析し微細なところまで献策した、などと言われるのだが、そういうのは全て後世の、
弁を好む者たちの虚言である。」


家康に近侍した武士の見た、本多正信像である。
465人間七七四年:2011/03/22(火) 11:04:11.04 ID:wUninStd
で、後世の弁を好む者たちとは具体的にはどなた方をさしておられるのでしょうか?
466人間七七四年:2011/03/22(火) 11:12:33.77 ID:23FVCgio
正信聞きて気色損し、其申せし事も其人をも汝が聞て何の益かあるべきと、答へしとなり。
467人間七七四年:2011/03/22(火) 12:26:08.52 ID:+zQ8+Ds8
>>458
呆れたとみせてうちの息子すげー勇猛だぜと自慢する親バカ丸出しなry
468人間七七四年:2011/03/22(火) 15:07:16.53 ID:4WQLqEPX
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2264.html
これ読んだら、権現様以外にも狸寝入りで助言?をしていたようだ
469人間七七四年:2011/03/22(火) 15:19:12.66 ID:WhYowHfk
三成「これはいいことを聞いた。ちょっと試してみよう」

三成「おっといかんいかん。うっかり眠ってしまいました。で、なんですか?」
○○「怒」

三成「なんで佐渡と同じことをしたのに違う反応が来るのだろう?」


年寄りキャラじゃないと狸寝入りは無理だな。
470人間七七四年:2011/03/22(火) 15:45:48.14 ID:u1drskft
何故かここでの本多佐渡守の逸話を想像する時に俺の脳内で本田博太郎で再生されるw
気になって調べたら正純役はやってるけど正信やってなかった。

シエつまんないけど、本多佐渡守役が草刈正雄らしいのでそこは気になってる。
471人間七七四年:2011/03/22(火) 16:03:37.68 ID:l6t6t9hf
三河では主君の意見であっても自分の意に沿わないものを
聞き流す事は許されないんだな。

反論するか、聞いていなかった事にするしかないとは。
472人間七七四年:2011/03/22(火) 17:40:41.71 ID:R+N+GBJQ
ああめんどくせぇ。なんてめんどくせぇ奴らなんだ。
473人間七七四年:2011/03/22(火) 18:27:30.54 ID:SyIpts1c
三河の話でもないし、特に面倒くさいところもないけど
474人間七七四年:2011/03/22(火) 18:54:24.70 ID:aYx/kPMp
>>464
これがほんとだとして、本多正信と家康はどういう関係なんだ?
475人間七七四年:2011/03/22(火) 19:15:40.67 ID:nnLc7D96
君臣以上恋人未満
476人間七七四年:2011/03/22(火) 21:19:03.98 ID:GGjmmPq6
ちょっと年上の口やかましいが、自分よりも頭が切れる、って感じか?
477人間七七四年:2011/03/22(火) 21:56:43.72 ID:JWaa8i/i
>>470
晩年のイメージのせいか神山繁とかそっち系だな。
478人間七七四年:2011/03/23(水) 11:52:18.76 ID:DWoFxvyn
>474
479人間七七四年:2011/03/23(水) 13:10:31.85 ID:G9zwuReR
>>478
強敵と書いて「とも」と読む
480人間七七四年:2011/03/23(水) 19:01:29.02 ID:pw3UXs7D
>>768
オレの夢は・・・・小学5年生くらいのときに、
20〜30代の大人のおねえさんの、穴という穴を味わい尽くしたかった
大人になってからではダメなんだわ(´・ω・`)ショボーン

  大 人 の 女 の 味 を 知 る 小 学 生

これだな
481人間七七四年:2011/03/23(水) 19:33:05.30 ID:gxreX0pS
>>480
お前、誤爆にも程があるわw慮外者めw
482人間七七四年:2011/03/23(水) 20:00:32.48 ID:6m1MC2Xj
>>480
小学5年生の時に30代のおねえさんって
へたすりゃ母親より年上じゃねえかww
483人間七七四年:2011/03/23(水) 20:46:41.81 ID:3RgGq3rV
>>479
三河弁ですか?
484人間七七四年:2011/03/23(水) 21:04:02.18 ID:a5+0H1FT
>>480
お前wwwwww

485人間七七四年:2011/03/23(水) 21:09:55.95 ID:3RgGq3rV
486人間七七四年:2011/03/23(水) 21:17:46.07 ID:GMtrMXTg
487人間七七四年:2011/03/23(水) 21:41:01.43 ID:+0cMQVdf
488人間七七四年:2011/03/23(水) 21:45:29.56 ID:BMqMUfri
489人間七七四年:2011/03/23(水) 21:49:10.79 ID:iyC/c330
490人間七七四年:2011/03/23(水) 21:53:16.40 ID:K6iQXZCj
491人間七七四年:2011/03/23(水) 21:58:47.17 ID:jRtC6JAw
もう完全に定着したなこれも
492人間七七四年:2011/03/23(水) 22:14:07.43 ID:76SM7NFO
>>480
そんなあなたに暴れん坊将軍
彼は12で女を胎ました真の暴れん坊(笑)
493人間七七四年:2011/03/23(水) 23:12:31.52 ID:qMIsz3JK
以上、権現様が本多作左衛門に叱られる様子をお伝えしました
494人間七七四年:2011/03/24(木) 00:15:07.81 ID:WNFKerRq
>>464
これ松本清張の徳川家康で読んだ事あったけど
江戸初期の頃から既にあった話なのか
495人間七七四年:2011/03/24(木) 02:31:24.12 ID:10g3/AbD
>>493
なるほど、>>480は若い頃後家が大好きだった神君の心の声だったのかww
496人間七七四年:2011/03/24(木) 12:30:34.63 ID:fKau0LAV
寛永2年(1625)9月、相馬利胤が父・義胤に先立ち、世を去った。

後を継ぐべき嫡男の虎之助は未だ六歳、領内泉田村に隠居していた義胤は孫を後見するため現役復帰。
まもなく八十に届こうという老体に鞭打って、再び働き続けた。


寛永6年5月、ようやく虎之助は元服。手塩にかけて育てた孫に対し、義胤は己の名乗り『義胤』を譲り渡した。

元服後の初御目見えのため、老人と孫が江戸城に登城すると、ちょうど伊達政宗が退出してくる所に出くわした。
駕籠に乗りかけていた政宗は、下馬して城内へと向かう相馬家一行を、立ったまま何をする訳でもなく、見送った。


「あれで良いのだ。」
尊敬する祖父に対する政宗の態度に、不満気な顔を浮かべたままの孫に向かって、義胤は声をかけた。

「我らは若い頃、仇敵同士であった。武士たる者、仇敵に対して構えるのは当然のことだ。
今の若者も、日ごろ親しい人であっても、気を抜かずに用心して付き合うべきなのだ。」
497人間七七四年:2011/03/24(木) 13:23:18.18 ID:ZA1o8lKB
相馬さんも揺ぎ無くめんどくさい武士じゃのう。
498人間七七四年:2011/03/24(木) 13:25:44.68 ID:ogWsox2P
下手に政宗に絡まれる方がめんどくさいって知ってるからだろ
499人間七七四年:2011/03/24(木) 13:35:20.00 ID:Hr7NaFEn
ふむ・・・・

絡まない:自分がめんどくさいと評価される
絡む:自分がめんどくさい目にあう

よし、酒に酔った市松の前横切ってくる!むろん挨拶とかガン無視で!!
500人間七七四年:2011/03/24(木) 13:45:19.18 ID:KesQ7rse
政宗がおべっか使ったら使ったで「あれは奸計だ騙されるな!」とか言うのか
確かにこれで良いのかもしれん
501人間七七四年:2011/03/24(木) 16:16:36.66 ID:9+oewzJl
そういや相馬さんとこの地元、今大変だよね
502人間七七四年:2011/03/24(木) 21:31:31.92 ID:xgB9DlKu
相馬さんは死ぬ時も伊達領の方を向いて立ったまま葬られたんだっけ?
5031/2:2011/03/24(木) 22:52:31.85 ID:bmRiC4wc
さあみんな、めんどくさい三河者劇場が始まるよー!

天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次、大久保忠世、岡部正綱、
石川康道、大須賀康高、本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。

と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る

「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」

驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない

「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」

誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!

「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」

諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も

「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」

売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし

他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」

ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次

「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」

そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない
5042/2:2011/03/24(木) 22:54:39.44 ID:bmRiC4wc
大久保「なんだとジジイ!まさかそれで今回の責任チャラにする気か!?そんな事絶対にさせんぞ!
     先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」

バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち

偵察「あの〜、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」

岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」

さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない

「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」

と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える

北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」

北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!

酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。


…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!

三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。
505人間七七四年:2011/03/24(木) 23:03:59.76 ID:w5Q318qD
梅雪が死んだあとの穴山衆って徳川直参扱いだったの?

しかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。
506人間七七四年:2011/03/24(木) 23:07:15.83 ID:10g3/AbD
平山優の「天正壬午の乱」から引用したのか。
あの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。

史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。
507人間七七四年:2011/03/24(木) 23:14:20.86 ID:f5x4eJ3r
なんか読んだことがあるようなないような・・・
508人間七七四年:2011/03/25(金) 16:26:03.65 ID:4FGFxj+k
東日本大震災:麻生元首相、相馬市で地元産野菜を味わう /福島

麻生太郎元首相は24日、相馬市で風評被害が広がっている地元産野菜を味わった。
原発事故で一部野菜から放射性物質が検出され、汚染が確認されていない野菜も売
れなくなっている。元首相はこれらシイタケやトマトを食べて「1年間摂取しても健康に
影響はない。過剰反応は慎んで」と訴えた。

 元首相は相馬家33代当主の相馬和胤さん(長野県在住)の義兄に当たる。市立中村
第一小の避難所を視察し、被災者から「原発事故を解決して」「JR常磐線の復旧を急い
で」などと要望を受けた。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20110325ddlk07040161000c.html


麻生さんって相馬家と親戚だったのか
509人間七七四年:2011/03/25(金) 16:34:58.58 ID:aOaHxOp7
相馬家って長野県だっけ?
510人間七七四年:2011/03/25(金) 16:41:51.17 ID:+s3ej5+d
天皇家って東京都だっけ?
511人間七七四年:2011/03/25(金) 16:44:13.41 ID:j1VLWXpy
現相馬市長が相馬家の足軽の家柄なんだって
その縁で麻生さんに来てもらったと、ニコニコとのインタビューで話してた
512人間七七四年:2011/03/25(金) 17:04:50.83 ID:pLKSyTHX
旧華族系はどこで繋がってるかわからんからなぁ。
513人間七七四年:2011/03/25(金) 19:09:36.34 ID:FM79KxrF
>>508
相馬家の現当主の奥さんが麻生の妹らしい
あと長男が結構イケメン
514人間七七四年:2011/03/25(金) 19:23:00.84 ID:NzyuqrX1
佐竹といい相馬といい、21世紀になって活躍を見られると誰が予想した?
515人間七七四年:2011/03/25(金) 19:27:21.84 ID:0sNaSOpo
>>513
09年の相馬野馬追で総大将役を勤められた34代相馬行胤氏

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c3/3167fb57cc66c3ae65324004db7c7245.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/21/c1cacfcae2c673fe636b5fd1db50e939.jpg
http://blog.goo.ne.jp/kage-yh7/e/b8d671b3a9f814fc8efae816cf7488a5

北海道に移住してるけど、今なんとか相馬に入って救援活動をされているそうな。
516人間七七四年:2011/03/25(金) 19:34:06.81 ID:tISM8MX0
>>508
麻生さんは宗茂の弟さんの子孫筋らしいとwikiでみたが
517人間七七四年:2011/03/25(金) 19:43:28.18 ID:He85ORgG
血筋と言えば女系で見ると意外なところで親戚だったりして面白いよな
518人間七七四年:2011/03/25(金) 20:12:38.17 ID:RyY1JiK5
先祖は争えんのう
519人間七七四年:2011/03/25(金) 20:15:33.97 ID:Y1xE/E24
現代ちょっといい話
520人間七七四年:2011/03/25(金) 20:47:44.05 ID:+xcTm2Qj
相馬、佐竹、甘利、亀井、細川と今の政治に関わっている人が結構いるんだな。
521人間七七四年:2011/03/25(金) 20:49:46.38 ID:PMRqooip
歴史は繋がってるという事を実感するな
522人間七七四年:2011/03/25(金) 20:52:49.72 ID:enK1KbG/
>>516
お婆様が三池藩の血筋
ちなみに女系から伊達政宗公の血も受け継いでおられます
麻生!麻生!(_゚∀゚)o彡°
523人間七七四年:2011/03/25(金) 21:27:46.63 ID:4FGFxj+k
伊達家、立花家と仕えてきたうちの家系と麻生さんがこうもゆかりある人だったとはw
524人間七七四年:2011/03/25(金) 21:51:28.22 ID:IaI+Qpz6
あ そうだったのか
525人間七七四年:2011/03/25(金) 21:57:46.26 ID:KQoOXQHb
ぶっちゃけ麻生の先祖がどうこうとかスレ違いもいいところ
526人間七七四年:2011/03/25(金) 22:00:24.48 ID:3m6H3uEn
少しでもよいと思えることに目を向けていたいんだよ
527人間七七四年:2011/03/25(金) 23:01:48.20 ID:hQj4Op3V
有名人の先祖が戦国時代の名のある人物なら余談の範疇で有りでしょ。
菅さんは菅公が先祖らしいからスレ違いかもしれないが。
528人間七七四年:2011/03/25(金) 23:06:28.03 ID:D3qnQPAP
堀尾吉晴はその幼名を仁王丸といい、彼の家は尾張国内で信長に長く抵抗した、岩倉織田氏の
家臣であった。

さて永禄2年(1559)の事、岩倉と織田信長勢との戦いで、岩倉勢は夜討ちを敢行した。

この時未だ元服も済んでいない堀尾仁王丸はまっさきに駆け込んで、名のあるものの首を
取って帰る、という功名をなした。

だが人々、元服も未だの若い仁王丸がそんな手柄を立てられるとは思えず、
「拾い首でもしたのだろう」と、彼の手柄をまるで信じなかった。

そして翌日、今度は岩倉勢が敵に散々に打ち負け総退却となった。
ところがこの中で仁王丸は一人馬から降りて敵のほうに立ち向かった。
仁王丸の叔父の修理亮がこれを見つけ大いに驚き、彼に向かって叫んだ

「どうして味方に遅れるのか!?とにかく直ぐに撤退するんだ!!」

ところがこれに、仁王丸

「若党の一人である山田が未だにこちらに帰ってきません!彼を探します!」

と答え、遂に敵中に残されていた山田を見つけ、連れて帰った。

この仁王丸の勇敢な行為に、「さては昨晩の功名も本当であったか!」と、岩倉の人々
自分たちの不明を恥じたという。

堀尾仁王丸、明年の夏元服し”茂助”を名乗る。


後に豊臣政権三中老の一人となる堀尾吉晴の、少年の頃のエピソードである。
529人間七七四年:2011/03/25(金) 23:54:04.57 ID:U1J7lSOe
我らが工場長、蒲生氏郷のエピソード。氏郷は軍法を厳守する事を家臣に徹底していた。その軍法の中に
「行軍中は如何なる理由があっても立ち止まってはならない」と言うものがあった。

ある家臣が、馬に履かせていた草鞋を直すと言う理由でこの軍法を破った時にはすぐさま処刑した程だった。
その徹底ぶりは、九戸の乱の鎮圧に氏郷と共に参加した石田三成が

「氏郷殿は只者ではありません。これ程軍法に厳格な部隊は見た事がありません。」

と秀吉に書状で報告したほどで、ついでに敵に回せば手強い相手になると警戒されたという。
530人間七七四年:2011/03/26(土) 00:18:47.55 ID:bNxUSQ+I
>>508 >>513-515 泣ける。ほんま被災地の一日も早い復興を祈ります
 相馬救援隊!
http://ja-jp.facebook.com/sohma.aid
531人間七七四年:2011/03/26(土) 03:48:43.96 ID:15ULkTtb
TPP、アメリカ、地震、郵政民営化について
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/
532人間七七四年:2011/03/26(土) 07:36:16.11 ID:jbWKCq2Z
>>528
栴檀は双葉より芳し、ですな
533人間七七四年:2011/03/26(土) 07:42:26.07 ID:KeF/dCJf
仁王丸って凄い名前だ。
んで成人してから茂助とか吉晴とか
なんだろうこのギャップは
534人間七七四年:2011/03/26(土) 07:52:15.63 ID:QGQHEGxH
地元に伝わる伝承を一つ。

豊臣秀吉の臣に河内国出身の市角頼母(いちかくたのも)という武将がいたそうだ。
若い市角は関ヶ原の戦いでは西軍、大坂冬の陣と夏の陣では豊臣側で出陣したはいいが、
結果は知っての通りであり、彼は命からがら下総国の大久保という地まで逃げ延びた。
全てを失った市角だったが、当時は何もなかった大久保では上方の文化や知識を知ることから歓迎され、
多くの新田や寺社を作るなど開拓に協力し、最終的には大久保の豪農として名主にまでなった。

そんな人々から尊敬される市角であったが、それを妬む者は彼のその生い立ちから、
「一度も戦に勝ったことのない勝ち知らず」などと馬鹿にしたそうだが市角は決まって、
「私は風の噂ではあるが、乱世では武功に優れ天下に名を轟かせていたというのに、
治世となってからは役目を終えたかのように消えて行った家をよく聞く。
彼らは乱世で活躍したために治世ではその力が恐れられ身を滅ぼしたのだ。
だが、私は若い時に負け続けたことで自分の身の程と処世術を知り、余生を楽しんでいる。
戦の勝ち負けよりもそれによって何を得て何を失ったのかを見なければ人生はわからんよ。」
とそうした者たちを戒めたという。
伝承では市角は九十歳ちょっとまで生き天寿を全うしたとされている。

余談だが市角が河内国から勧請した誉田八幡宮は、
明治時代になると周辺に習志野騎兵旅団の演習場や司令部がおかれたため、
騎兵第一旅団は戦地に赴く前にそこで勝利を八幡神に祈願していった。
生まれて一度も勝利を経験したことがない男によって開拓された土地が、
後に軍都となったというどこか皮肉でちょっといい話。
535人間七七四年:2011/03/26(土) 10:32:06.76 ID:wdq+fGFR
騎兵第一旅団て戦に勝ったことあるんかいな?
536人間七七四年:2011/03/26(土) 10:34:27.43 ID:jqwJKrcX
>>528
山田もいい主君を持ったな
537人間七七四年:2011/03/26(土) 10:59:07.23 ID:eKdB/pOO
>>535
日露戦争のときロシア最強の騎兵隊を破った
太平洋戦争中に第3戦車師団に編入されて消滅するけど
編入後も45年の老河口作戦で日本軍最後の騎兵突撃やって成功させたりしてる
要は騎兵最強の部隊

今も陸自最強って言われてる第一空挺団が駐屯してる
538人間七七四年:2011/03/26(土) 12:47:01.56 ID:d3ZPLmxf
河内って大阪周辺だよな?またも負けたか八連隊のイメージが強くて武張った感じではないと思ったが
539人間七七四年:2011/03/26(土) 12:52:44.71 ID:L9tlkcyw
八幡太郎義家などを代表とする、武士の祖と言うべき河内源氏は、
北斗の拳のヒャッハーどもも泣いて逃げ出すリアル残虐非道戦闘マシーン。
540人間七七四年:2011/03/26(土) 13:36:35.60 ID:yu6fKR5p
河内で有名な武将というと楠木正成とかか
541人間七七四年:2011/03/26(土) 14:05:10.47 ID:wZIM5Vwo
>>540
>>539にあるように、源氏の嫡流が河内源氏で、八幡太郎義家だって河内生まれ
なわけで。
542人間七七四年:2011/03/26(土) 14:25:05.52 ID:1VfN3Fhx
所領が河内で本人たちは京にいたんじゃないの?
543人間七七四年:2011/03/26(土) 15:03:00.59 ID:wZIM5Vwo
>>542
いや、少なくとも義家は河内生まれだし、幼少期は河内で育ったはず。
544人間七七四年:2011/03/26(土) 15:18:26.22 ID:d3ZPLmxf
河内=大阪=商人って強い印象があるから、あの辺の人は利に聡そうだけどそうでもないのな
朝廷に最後まで殉じた楠木正成、身を削って恩賞を与えた源義家、
私費で大工事を行い大阪入城した安井道噸、あと民衆のために幕府に楯突いた大塩平八郎もそうかな?
狭気に富んだ有名人がみんな河内出身ってのは意外っちゃ意外だわ
時勢が読めて計算高く、立ち回りがうまいのはむしろ近江人か
545人間七七四年:2011/03/26(土) 15:19:12.81 ID:J2up+iE8
ところで河内に都って置かれたことあったの?
五畿だからやっぱあんの?
546人間七七四年:2011/03/26(土) 20:13:54.56 ID:E6LmyBQ3
無いよ
文字通り大和川と淀川の氾濫原だから
都とか置けない
上町台地に難波宮はあったが
547人間七七四年:2011/03/26(土) 21:35:25.29 ID:L9tlkcyw
古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、
信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、卯月(4月)のころ、いまだ郭公(ホトトギス)を聞かずと
物語いでけるに、信長、

 鳴かずんば 殺してしまえ時鳥

とありしに秀吉、

 なかずとも なかせて聞こう時鳥

とありしに、

 なかぬなら なく時聞こう時鳥

とあそばれしは神君の由。自然とその御徳化の温順なる、又残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、
紹巴(里村紹巴)もその席にありて

 なかぬなら 鳴かぬのもよし郭公

と吟じけるとや。

『耳袋』巻ノ八より
548人間七七四年:2011/03/26(土) 23:30:39.55 ID:cR84NLxg
>>537
>>老河口作戦で日本軍最後の騎兵突撃

日本軍最後どころか騎兵部隊が軍事行動下で世界最後の騎兵突撃
549人間七七四年:2011/03/27(日) 00:00:48.45 ID:mbuKpDg2
>>547
そういやホトトギスっていろんな漢字表記があるんだけど、違いはなんだろうね
550人間七七四年:2011/03/27(日) 01:15:34.67 ID:DP+eJ+QT
>>548
WW1でガシガシやっとるわい。
ソンムの戦いでのイギリス騎兵の突撃がヨーロッパでは最後。
ポーランド騎兵がドイツの機甲師団に突撃かましたというのはあくまで伝説だけど。
551人間七七四年:2011/03/27(日) 02:35:49.51 ID:Jt1yn6el
毛利家に没落させられた尼子家の再興を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た山中鹿介は近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、

「自分は出雲の浪人である」

とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が

「何か食べ物を寄こせ!」

と庵に立ち入ってくると、鹿介は

「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。

その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目が

「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」

と願い出ると、鹿介は

「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」

とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
鹿介は庵を立ち去ったという。

552人間七七四年:2011/03/27(日) 05:02:20.13 ID:Y6NvMFpW
553人間七七四年:2011/03/27(日) 07:53:24.87 ID:8GgCUIMs
>>550
WWIIの東方戦線でイタリア騎兵がソ連歩兵を殲滅してるよ
554人間七七四年:2011/03/27(日) 08:35:23.02 ID:szlVCpsV
>>550
やっちゃった
555人間七七四年:2011/03/27(日) 11:52:20.73 ID:LgQ7s0pL
>>551
そうやって仲間を増やそうとしないから何度も負けるんだよ!
556人間七七四年:2011/03/27(日) 11:55:52.08 ID:xLHeGSGW
>>555
漫画の見すぎw
557人間七七四年:2011/03/27(日) 12:09:04.82 ID:e64FFxsb
盗賊集団に名と尼子家再興の志を打ち明けても、
盗賊集団「山中さまと立つより、毛利に売ったほうが得だな」
となる可能性もあったからじゃないか?
558人間七七四年:2011/03/27(日) 12:10:39.83 ID:xLHeGSGW
>>557
八つ墓村思い出すのでやめてくれ・・・
559人間七七四年:2011/03/27(日) 12:12:15.26 ID:ajbCM5qm
一人で十数人の賊を生け捕るとかすごすぎるだろ ハリウッド映画化決定
560人間七七四年:2011/03/27(日) 12:14:10.14 ID:rlaXEJ3Y
会社の社報に載ってた逸話なんだが、既出だったらスマソ

ある時、家康を始めとする諸大名に、ラスボス秀吉がこんな質問をぶつけたそうな。

ラスボス「お前らの持っている大事な宝ってなによ?」

諸大名「え〜と・・・。」

ラスボスは、「ワシは何何の名茶器とか云々・・・。」という。(仕事中の合間に読んだので会話の中身は結構曖昧です。スマソ)
諸大名たちの中には、「私の持っている、何何の名器や何何由来の名刀云々・・・。」とか答える者もいたのだが、そういうものを持っていない連中は買い漁って集めて「これこれの〜です」と答えるしかなかったそうな。

そういった中で家康はこう答えたという。

家康「私は家臣たちが一番の宝でございます」

ラスボス「ほ〜う」

ラスボスはこのあと、鼻で笑いながら「さすが家康殿だ。羨ましい」とかなんとかのくだりがあったんだが、あまりに忙しい仕事の合間に読んだ逸話なので結構飛んでますスマソ・・・。
社報の解説だと、「部下は大切にして庇ってやろうぐらいの気持ちで云々」の教訓じみたお話・・・。云々ばっかでスマソorz
561人間七七四年:2011/03/27(日) 12:14:18.17 ID:kEHtfynE
>>550
独ソ戦でコサック騎兵がドイツ機甲師団に突撃かましたってなかったっけ?
562人間七七四年:2011/03/27(日) 12:16:22.95 ID:mbuKpDg2
>>550
お前「日露戦争」だけ見てレスしてるだろwww
老河口作戦ってWW2の終戦間際なんだが
563人間七七四年:2011/03/27(日) 12:16:23.58 ID:ajbCM5qm
>>560
子宝です って返しても有効だったと思うw
564人間七七四年:2011/03/27(日) 12:43:45.27 ID:ATbcOIp1
老河口作戦:1945年(昭和20年)3月23日 - 6月末
騎兵突撃のあった日付:3月26日
だな。
565人間七七四年:2011/03/27(日) 12:58:49.22 ID:ryVc3pND
>>560
『主君です(エッヘン)。』は神子田コースなんだろうかw
566人間七七四年:2011/03/27(日) 13:21:02.95 ID:QU9JgXXO
>>560
何となくだが、諸大名つっても居合わせた面子は秀吉子飼いと家康じゃないかって気がする。
567人間七七四年:2011/03/27(日) 14:28:12.48 ID:jGGWVMQY

基本的にはいい話だと思うんですが、少々グロい表現があります。
ですので、この話を投下する事が空気を読めているのかどうか、ちょっと自信あり
ません。
不快に感じた方がおられたら申し訳ない。


岩城国を治める相馬家の家中に、一人の男が仕えていた。
気が利かず、何の特技もない男であったが、高い忠義が主君に認められ、側用人と
して雑用を言いつけられていた。

ある時、相馬家の屋敷が火事で全焼してしまう。
火の勢いは強かったが、誰もが身一つで逃げ出して来た為、意外と犠牲者は少なく
て済んだという。

しかし、
「屋敷や家財道具は別に惜しくもないが、先祖伝来の家系図だけは何とか助けたか
ったものだ」
相馬家と言えば平将門の末裔として名高い、東北の名門である。
その出自を記した家系図は、家宝として代々受け継がれていたのだった。

主君が残念そうに漏らした言葉を聞いた雑用係の男は、
「それでは、私が今から取って参ります」
と言って走り出してしまう。

屋敷は今も絶賛延焼中。
「お、おい! 何考えてんだ!」
「無理だよ、戻れ!」
引き止める同僚や主君を振り切って、男は燃え盛る炎の中に飛び込み、二度と戻っ
てはこなかった。

鎮火後、せめて男の遺体だけでも拾ってやろうと捜索を始めた相馬家の主従であっ
たが、彼らが見つけた男の遺体は、少々様子がおかしかった。

焼死の筈なのに、腹から大量の出血がある。そう、男は焼け落ちる屋敷の中で切腹
していたのである。

「焼死が避けられぬとみて、切腹して果てたのであろうか……」
「だから無理だと言ったのに……」
最後まで愚直ではあったが、気が回らず、役に立てなかった男を悼んだ一同が、遺
体を運び出そうとした時、体を動かしたのが悪かったのか、焼け焦げた男の腹の『中
身』が外に溢れ出してしまう。

現代の我々は勿論、戦国が終わって暫く経つ当時の侍であっても、眼を背けたくな
るようなグロテスクな光景だっただろう。
しかし、彼らは男の腸に混じって、『ある物』が男の腹の中から転げ落ちた事に気
がついた。

「……これは」
「先祖伝来の家系図ではないか!!」

間一髪、家系図を助け出した男は死の間際、自分の腹の中に家系図を押し込む事で、
炎から守り抜いたのである。


以来相馬家では、この血染めの家系図を『血系図』と呼び、将門以来の血筋を誇る
よりも、命を捨ててこの家系図を守ってくれた忠臣がいた事を誇るようになったと
言う。
568人間七七四年:2011/03/27(日) 14:49:54.31 ID:KdZYUSkC
これほどの忠臣を火事では失いたくなかっただろうな。
まあ江戸時代の話とすればその後はでかい戦争もないだろうし、
絶好の死に場所だったのかもしれんけど。
569人間七七四年:2011/03/27(日) 15:03:04.68 ID:WhWig7fJ
相馬って平将門の末裔末裔と称しているけど、家系図上ですら将門の従兄弟の 平忠頼の末裔なんだよなぁ
570人間七七四年:2011/03/27(日) 15:13:12.95 ID:xbdBDTo8
>>560
市松『日本号!』
571人間七七四年:2011/03/27(日) 17:19:51.68 ID:WTYtA827
>>567の話を読んで細川の血だるまの話を思い出したのは俺だけじゃないはずだ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-736.html
この時代、火事の中大切なものを守る最後の手段は自分の腹の中ってのが流行りだったのかな
572人間七七四年:2011/03/27(日) 17:33:13.86 ID:bpgdehDE
>>571
体内なら焼け残るからでしょ
惨いけれども、重用してくれた主君のために何が何でも残さなければって思ったんだろうな

相馬って、実質的に千葉一門だっけか?
573人間七七四年:2011/03/27(日) 19:38:44.97 ID:c632fA3K
藤原秀郷の子孫:佐野、小山、結城etc

平貞盛の子孫:平家主流、北条etc

平将門の子孫:相馬

逆賊の子孫を名乗るのはなかなか勇気があるな
574人間七七四年:2011/03/27(日) 19:44:59.80 ID:nl7jDLQN
中国でも死ぬ間際に大切なものを呑み込んで隠すような話はあるし、
腹の中は一番安全な場所ってイメージがけっこうあったんじゃないの?
575人間七七四年:2011/03/27(日) 19:54:45.67 ID:4WFbV9Ee
>>560
これだな

徳川家康の、何にもかえがたい宝・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2100.html
576人間七七四年:2011/03/27(日) 20:42:56.87 ID:uwaCxJlF
>>573
将門は一部地域をのぞいて板東じゃ神だろ
577人間七七四年:2011/03/27(日) 20:46:53.21 ID:C9GR5vE8
創作界隈でも人気だしね、将門さん。
578人間七七四年:2011/03/27(日) 21:51:03.39 ID:VtvMTl9p
さすが独眼竜M9の地震でもなんともないぜ
仙台藩祖大地に立つ!(`;ω;´)
ttp://getnews.jp/archives/105866
579人間七七四年:2011/03/27(日) 21:59:43.81 ID:0l0RTzzN
>>578
五大堂・瑞巌寺・バウティスタ号(復元)と、政宗関連はほとんど無傷だよね。
有備館は残念なことになってしまったけど…
580人間七七四年:2011/03/27(日) 23:04:37.38 ID:Vh9GiZ+E
政宗関連つええなw
581人間七七四年:2011/03/27(日) 23:25:26.04 ID:nl7jDLQN
流石にこの規模は想定してなかっただろうけど
一応、仙台って地震とかの災害に強い場所を選んで作った都市なの?
582 【東電 83.9 %】 :2011/03/27(日) 23:55:51.61 ID:X8ILDJ66
風水的には良い都市だと聞いたことがあるけど、そっち方面は素人なので真偽不明。
583人間七七四年:2011/03/28(月) 00:26:55.12 ID:zxJkOLDw
>>573
でも、相馬って系図上は平将門の従兄弟が祖先でそ

>>581
仙台城は山の上だけあって地盤しっかりしているし、地震でもそう問題ないでそ。
平野部が問題だらけだけど、まあこれは日本中どこでもそうだし。
584人間七七四年:2011/03/28(月) 00:33:16.52 ID:lGzUW2XQ
>>583
平将門の従兄弟の子孫が将門の子孫の養嗣子…という話じゃなかたっけ?>相馬
585人間七七四年:2011/03/28(月) 02:39:18.61 ID:MwZdKRyO
天海僧正は黒幕・妖僧のイメージが強い。
それは前半生が謎に包まれているからだろうか。
一説によると会津高田の出身で蘆名一族出身の人間とも言われている。

そんな天海僧正に伊達政宗が宛てた手紙が残っている。
一見するとあまり接点がないような二人だが、奇妙な接点がある。

天海の前半生一つとして会津に戻っていた説がある。


天海は天正元年(1573)より十数年のもの間、
蘆名盛氏の招きにより会津に定住する。

しかし、天正17年(1589)に蘆名義広と伊達政宗との間に
摺上原の戦いが勃発し、蘆名氏は破れ、蘆名氏側についていた
天海は会津を離れることを余儀なくさる。
この時、蘆名氏を滅ぼした政宗に対して天海は相当な恨みを持つ。


天海は蘆名氏を護って常陸へ行くことになり、江戸崎不動院の住職を務め、
その後、歴史の表舞台へと立った天海は家康・秀忠・家光と三代に仕える。


江戸幕府が成立し、政宗と天海は顔を合わせる機会が増える。
蘆名氏を滅亡させた仇敵政宗に対して、恨みを持っていた天海であったが
次第に政宗と恩讐を越えた関係が築かれて行く。

そんな天海に政宗はいくつかの手紙を出しており、そのうちの一通が
龍興寺(福島県会津美里町)に残っている。


伊達政宗

「天海殿にぜひともご面談したかったのですが、先客があるとのことで
そちらもお疲れのようですから、今回はこれで帰ります。」



文面からはごく親しい人を訪ねる政宗の気持ちが表れているようで
気心通じた親密さがうかがえる。


天海と言うと、大坂の陣の発端となる方広寺鐘銘事件に崇伝、本多正純と
関わったとされ、ダーティな部分を連想させる。

しかし、紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出たり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出てたり
堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したり、また民政にも
力を入れている。


後世でDQN扱いされる政宗。
黒幕・妖僧・明智光秀同一人物説などという扱いを受ける天海僧正。
彼らの本当の姿とは?
586人間七七四年:2011/03/28(月) 02:45:51.99 ID:dNlhN9Yp
天海にダーティーなイメージなど最初からない
金地院とごっちゃにしすぎ
587 【東電 63.8 %】 :2011/03/28(月) 05:02:01.81 ID:fi9io1lY
天海は小説やマンガ、ゲーム等で悪役・黒幕としてやたらと登場してるけど、
崇伝はそういうの無いもんね。
588人間七七四年:2011/03/28(月) 07:24:42.50 ID:03fq79X8
林羅山「ワタシには悪いイメージないな」
鳥居燿蔵「御先祖様・・・」
589人間七七四年:2011/03/28(月) 08:54:21.93 ID:fqr94LUg
>>587
金地院さんは「あずみ」でムチャクチャ悪役だよ。
あと「あずみ」の宮本武蔵はカッコよすぎ。
「バガボンド」の武蔵はバスケ部員が剣豪始めましたみたいで苦手
590人間七七四年:2011/03/28(月) 10:20:55.72 ID:CfmRa1cB

衆道に関する佳話は無いのかナッ?




591人間七七四年:2011/03/28(月) 14:15:10.66 ID:lGzUW2XQ
真田信之はある時伊木三郎右衛門という者の三男小膳を召出し、刀を与えた。
この時信之が小膳に歳を尋ねると十三であるという。

それを聞いた信之がこう言った。
「静謐の世と言いながらお前たちは侍の冥加に叶っている。
 我らは十三まで刀など持たなかった。十四で初めて指したのである。
 それも父安房守からではなく母から二貫文で調えたのだ。
 甲州では一四で初陣を飾るのが法であったからそれ以前は指さなかったのだろう。
 
 刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
 永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。
 金銀の乏しい頃であったから今の五、六十金にも勝るのである。
 また刀の寿命も今の十分の一にも及ばなかった。
 戦となれば打ち折り打ちかき捨てるのだから名作であろうと安直なものだった。」

伊木三郎右衛門が信之に仕えたのは大坂の陣の後
もはや戦の気配はない時代に信之が語った話
592人間七七四年:2011/03/28(月) 15:37:19.30 ID:EttIvdFV
>>587
漫画的には天海の方が字面にインパクトあるし強敵っぽいからね

実際には崇伝の方が悪役・黒幕的な要素が濃い気がするが
593人間七七四年:2011/03/28(月) 15:43:18.83 ID:88Ew93xR
天海が黒幕という驚愕の展開が

……ごめんなさい
594人間七七四年:2011/03/28(月) 15:50:56.88 ID:iNTW8Jnl
天界へ行きたまえ
595人間七七四年:2011/03/28(月) 15:58:27.40 ID:/8c0sQ2B
刀を待たなかったって、稽古はするんだよな?
自分用のがないってことか?
596人間七七四年:2011/03/28(月) 16:14:04.50 ID:zxJkOLDw
>>584
wikpediaに「伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子で、
将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする」とあるのか。なるほどというか、
こじつけというか…

>>595
稽古で真剣使わせる流派には入門したくないなぁ
597人間七七四年:2011/03/28(月) 16:26:37.75 ID:tVz2gvoe
小野忠明「稽古で命落としたり怪我したら大変だからね」
598人間七七四年:2011/03/28(月) 17:21:30.98 ID:YDfdUZYX
上泉信綱「うちは袋竹刀を使用しますから安心安全。キミも新陰流に入らないか?!」
599人間七七四年:2011/03/28(月) 20:48:35.48 ID:lOGfiZDe
天海は某ゲームで悪役ボスだったからそういうイメージがw
600人間七七四年:2011/03/28(月) 21:30:16.91 ID:TtVUO1AI
水金地火木土…
601人間七七四年:2011/03/28(月) 23:08:08.78 ID:vLNXXQTC
>>591

>  刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
>  永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。


ゴメン、まったく想像つかない。
602人間七七四年:2011/03/29(火) 01:07:16.00 ID:Mx/sONYQ
天海が悪役ボスってどんなゲームだw
603人間七七四年:2011/03/29(火) 02:10:30.67 ID:hls/vBwJ
正体は明智光秀で云々って感じでボスだったゲームは確かあった。
604人間七七四年:2011/03/29(火) 03:32:45.13 ID:1HIW+/X9
天海春香…いや、なんでもない
605人間七七四年:2011/03/29(火) 06:04:41.75 ID:tdksv+0t
>>601
戦乱の時代が終わって平和がやってくると
生産・商業が活発になり物価や地価が上がった
 
つまり高度成長期
606人間七七四年:2011/03/29(火) 06:27:41.36 ID:cjMrC144
たぶん>>601はあの部分を書き込みした人のコメントだと思ったのだよ
607人間七七四年:2011/03/29(火) 10:26:04.45 ID:ksf/PHhw
>>591
そういえば蜂須賀家政の話にも
当時の大名の逸話らしく、質素倹約を尊ぶ話が多いんだが、
中に毛色の変わったものがあった
浅田亀之亟という家臣が御用があって料理を頂いていた時
そこに家政が入ってきて雑談していったそうだ
「お前は今知行をいかほど取っているのか」と聞かれたので
百五十石ですと申し上げたところ
「私が織田信長に仕えていた頃も百五十石取っていたが
あれは不自由なものだった
とはいえ、私は元々親が大身であったので、その分家で使っている人間も多く、
それほどでもないところがあったが、その方はさぞ難儀だろうな」
こう言ったあと、ふと付け加えて笑ったそうだ
「その頃私は革袴を持っていて、それを周りの者から随分羨ましがられた
ものだったが、今時ではそんなこともないだろうな」

経済が成長して、ちょっとしたぜいたく品だったものが一般に普及したり
戦がなくなったせいで需要が減ったりしたのかなーと考えさせられた
平和な時代だと、武士もいざという時のためにひたすら貯め込んでおく必要性薄れるだろうしね
608人間七七四年:2011/03/29(火) 10:52:14.91 ID:IrkOfTjv
戦時だと軍役が定期的にあるから。
刀も消耗品と、一本あればいい平時では同じ収入でも余裕が違う。
609人間七七四年:2011/03/29(火) 12:19:49.29 ID:903fpAuW
そもそも戦場で刀使わないのになんで消耗するんだよ
610人間七七四年:2011/03/29(火) 12:25:06.85 ID:ITeY+K8m
>>609
いまどき合戦での刀否定なんて鈴木信者かよ?
普通に使ってたっつーの。
611人間七七四年:2011/03/29(火) 12:52:33.36 ID:eRDgox0+
手入れを怠って劣化したり、金に困って売ったりするからじゃないかw>平時の消耗
612人間七七四年:2011/03/29(火) 12:55:26.78 ID:4YtqyzhV
馬も高い金出して名馬一頭買うくらいなら、その金で普通の馬3頭買え、
なんて話もあったな。
613人間七七四年:2011/03/29(火) 13:16:46.97 ID:Ftar+IRJ
ジミーさんと高虎の運用思想の違いの類型の話やね。
614人間七七四年:2011/03/29(火) 14:04:28.75 ID:jl621Qg5
竹中さんが牛に乗り換えました
615人間七七四年:2011/03/29(火) 14:37:31.31 ID:cojrAYav
http://mikosuma.com/
あの事件、実は在日の仕業
616人間七七四年:2011/03/29(火) 18:10:20.77 ID:mboLT6Dz
>>602
サクラ大戦とか?
あれ1の中盤のボスが天海
ちなみに4のボスは大久保長安
617人間七七四年:2011/03/29(火) 18:53:48.80 ID:cinmdMEN
>>602
蒸気で動く甲冑が登場するゲームとか
618人間七七四年:2011/03/29(火) 21:13:44.47 ID:+Y7rM1H9
>>551にも山中鹿介の話が出てるけど、名将言行録が出典の話では、冒頭部に出てくる
毛利の騎馬武者の一団を相手に、鹿介がただ一人で立ちむかう話が好き。

永禄五年(1562年)七月、毛利勢、出雲に来襲。
しかし、決戦を挑む尼子義久に対して毛利勢はまともに取り合わず、稲や麦を刈り取る破壊
工作を行うばかり。

毛利勢の死体の山を築いてくれる、と意気込む鹿介は民家に一人ひそんで好機を待つ。
そこに現れた毛利の騎馬武者3,40騎。

当時、山中鹿介17歳。
若いが、8歳の時には既に人を殺した経験があるというこの男は動じない。

鹿介が騎馬武者の一人目を切り捨てた後、馬から降りて向かってきた二人目に一撃をくれると、
相手は木っ端微塵になって谷底に落ちていったという。
(真っ二つとかじゃなくて「微塵になる」と記されていて、この表現が素敵)

その後、縦横に切り結んで16,17騎ほど倒すと、さすがに生き残りは退散。

それを見届けた鹿介は、近くの民家でご飯を奢って貰って悠々と月山富田城に戻っていったという。

こういうエピソードがあるんだから、無双やBASARAみたいなゲームでもっと注目されても
おかしくないと思うんだけどね。
619人間七七四年:2011/03/29(火) 21:26:24.04 ID:8rXibiK8
>>610
鈴木自身、すり減った刀を持ってたもんな。
あくまで主武器じゃないって話で。
620人間七七四年:2011/03/29(火) 21:54:00.85 ID:C7A/BqTr
鈴木本人の主張と、アンチが言う「鈴木説」は全く別。
鈴木本人は一度も「刀は使われなかった」なんて主張してないから。
本人が長年居合をやってたしな
621人間七七四年:2011/03/29(火) 22:08:41.83 ID:hls/vBwJ
ドラマとか講談みたいな行き過ぎた 武士=刀
みたいなイメージは流石に違うって話じゃなかったかあの人のは?
その話が行き過ぎて全く刀を使わなかったみたいに言う人も出てきちゃったけど
622人間七七四年:2011/03/29(火) 22:14:45.39 ID:ne50t0eo
チャンバラ時代劇はフィクションだよ。史実じゃないよ。←言われんでも皆知っとるがな。
623人間七七四年:2011/03/29(火) 22:36:27.90 ID:8rXibiK8
刀は、近代戦における拳銃みたいなもんだと理解してた
槍が小銃みたいなもんだと
624人間七七四年:2011/03/29(火) 22:48:45.73 ID:ne50t0eo
小銃と拳銃ほど射程の差はないでしょ。
槍の長さが十丈もあるってぇなら話は変わるがw
625人間七七四年:2011/03/29(火) 22:50:54.11 ID:5kvM4qnW
>>624
そういう事言ってるんじゃないだろ
626人間七七四年:2011/03/29(火) 22:52:19.25 ID:JlVvJW70
>>624
そういうのを屁理屈って言うんだよ
627人間七七四年:2011/03/29(火) 22:55:13.43 ID:hKeiY2E5
アサルトライフルとサブマシンガンくらいが妥当
628人間七七四年:2011/03/29(火) 22:58:59.99 ID:C7A/BqTr
少々日本史を知ってる外人から見ると、武士が刀を二本以上差して戦場に持っていくのが不思議でならないらしい。
「一本で十分だろ?重いだけじゃね?」と。
629人間七七四年:2011/03/29(火) 23:09:11.62 ID:ne50t0eo
長槍と手槍の区別くらいは出来るようになってほしいものだ。
630人間七七四年:2011/03/29(火) 23:22:13.36 ID:ITeY+K8m
脇差と太刀って全く別の武器なんだよな。脇差はコンバットナイフだな。
631人間七七四年:2011/03/30(水) 01:43:32.07 ID:lrBMgrSc
でも幕末では京都で日本刀が大活躍したじゃないか
戦国でも剣豪将軍の無双を始め刀の活躍を伝える逸話は多いし、
やっぱり刀は槍や弓と変わらず十分実用的で重要な武器だったと思うぞ
632人間七七四年:2011/03/30(水) 01:57:07.27 ID:1KKz+0FN
幕末の場合は暗殺用だから話がだいぶ違うやん…
633人間七七四年:2011/03/30(水) 02:11:36.82 ID:+TLXR2Wf
幕末は素肌だしな
634人間七七四年:2011/03/30(水) 02:16:22.78 ID:ul0yzAJN
織田信長が牛頭天王を強く崇敬していたという伝説がいくつか存在する。
有名なのは為那都比古神社の逸話であり、
内容は記録によってゆらぎがあるものの大体の流れは、
ある日のことキリスト教信者の信長が高山右近に命令して寺社を壊した後に
祭神を自分が信仰する牛頭天王の祇園社やキリスト教の教会にした
という信長の伝説らしい豪快な話である。

この話は伝説だけで終わらず、
後の幕末や明治初期になると国学者を中心に強く主張され出した上に、
「日本中のほとんどの祇園社は信長を恐れて祭神を変えてしまった神社であり、
戦国時代に誕生したものだと言ってもいい!」というレベルにまで内容が発展し、
神仏分離や廃仏毀釈の流れの中で、
最終的には日本から祇園社がほぼ消えることになる。

死後数百年経った幕末でも、
日本中の多くの寺社を祇園社に変えてしまったと言われてる辺りが、
信長のスケールの大きさを感じさせる。
635人間七七四年:2011/03/30(水) 02:26:40.05 ID:+TLXR2Wf
>>634
怪作「信長あるいは戴冠せるアンドロギュノス」を思い出したw
あの話の筋にはこんな裏付もあったのか
636人間七七四年:2011/03/30(水) 04:56:39.64 ID:ruvK7dE6
>>635
ああ、あれは凄まじい本だった
面白かったけど
637人間七七四年:2011/03/30(水) 08:36:25.08 ID:1AJcPF7q
ウスイケドナ
638人間七七四年:2011/03/30(水) 09:02:16.80 ID:zNg129x7
葉隠から刀の話

山本常朝
「昔の人たちは刀を落とし差しに差していた。
今の人は刀の差し方をあまり考えていないようだ。
柳生流では、刀を鞘がよく見えるくらいに抜き出して差させるとのこと。
近頃は抜き出して差す者が多いが、
彼らは柳生流を習ったわけでもないのに、
ファッション感覚で柳生流の形だけを真似ているようにも見える。

直茂公、勝茂公ともに落とし差しにされておられた。
そのころの腕に覚えのある者は落とし差しであったというのだから、
いざというときには有利な点があるのだろう。
それに、抜き出して差していると、不意に抜き取られる心配もある。
光茂公は勝茂公のお指図で落とし差しにされた」
639人間七七四年:2011/03/30(水) 11:40:17.24 ID:ue8ihzwi
もう少し時代が下ると逆に閂差しの方が大身の武士や武芸者の嗜みに変わるから面白いもんだ
640人間七七四年:2011/03/30(水) 11:42:41.51 ID:n96kxtNj
最近、「葵徳川三代」の大坂の陣付近の話を見ていて
思い出したことがあったので、記載する。
(まだ、まとめサイトにもなかったと思う。)

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)初頭
伊達政宗は堺の豪商、今井宗薫(今井宗久の息子)に預言書のような
手紙を出している。


( ●_ ̄)<今井宗薫 様へ

「秀頼様が幼少の間は江戸か伏見か、とにかく家康公の側に置き、
成人し天下の政道を行う、一国の主たるべき人物にならなかった場合は
2〜3カ国程の大名にした方がよいでしょう。今のように母子を切り離さず
大坂に置いておけば、秀頼様を担いで謀反でも興し、
何もご存じない秀頼様が腹を切る事になります。それでは
亡き太閤殿下の亡魂に対して相済みませぬ。自分から申し上げると角が立つ
恐れがありますので、貴殿から家康公の側近の本多正信殿などに
ご相談して頂けないでしょうか」


今井宗薫は当時、徳川家康に接近し、政宗の娘”五郎八姫”と家康の息子”松平忠輝”婚約成立
に尽力し、晩年は徳川幕府に仕え、大坂の陣で被害を受けた堺の復興に務めている。


政宗の予言通り、13年後の慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発する。
大坂冬の陣の直前、豊臣秀頼側は軍備を整える一方で政宗に和平交渉を申し入れている。

徳川寄りの政宗に和平交渉を頼んでいる事に違和感を感じるが、実は関ヶ原の戦いの直後
政宗は上洛し秀頼親子に謁見した節があり、それを豊臣方は後々まで頼ったようである。

しかし、和平交渉を申し入れたが時既に遅く開戦となる。


「葵徳川三代」で秀頼の台詞として

「島津も伊達もやって来なかったではないか・・・」

という台詞がある。

また、今から15、6年前に放映された「愛と野望の独眼竜伊達政宗」という作品では
政宗と秀頼の仲は良好に描かれており、秀頼の命を何としてでも助けようとする政宗の苦悩が
滲み出ていた。

少なくとも、政宗は豊臣家に対して気にかけていた節があり、豊臣家も政宗に期待していた節がある。
641人間七七四年:2011/03/30(水) 11:46:21.52 ID:vj6BSitE
政宗さんいい人じゃん
642人間七七四年:2011/03/30(水) 12:26:56.41 ID:KQ8tNJJd
関ヶ原直後でコレは何というドライ思考
こういった人は計算には入れども、宛てにして頼っちゃダメだね
643人間七七四年:2011/03/30(水) 12:33:41.88 ID:Lt1PkM9W
まあ、これに関しては

> 「秀頼様が幼少の間は江戸か伏見か、とにかく家康公の側に置き、
> 成人し天下の政道を行う、一国の主たるべき人物にならなかった場合は
> 2〜3カ国程の大名にした方がよいでしょう。今のように母子を切り離さず
> 大坂に置いておけば、秀頼様を担いで謀反でも興し、
> 何もご存じない秀頼様が腹を切る事になります。それでは
> 亡き太閤殿下の亡魂に対して相済みませぬ。自分から申し上げると角が立つ
> 恐れがありますので、貴殿から家康公の側近の本多正信殿などに
> ご相談して頂けないでしょうか」

豊臣への心配というより、どちらかと言えば政宗からの
『徳川家が豊臣家をどう処分してもオッケーっすよ!俺は支持するっすよ!』
って、徳川上層部への政治的表明だねえ。
644人間七七四年:2011/03/30(水) 12:47:04.08 ID:BqSuGec5

以前、鍋島勝茂の逸話が投稿された際、「登場人物を鍋島光茂と水戸光圀に変えて、
水戸黄門でやっていたエピソードだ」と言うコメントがついていた。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4607.html
ドラマの中だけではなく、光茂(勝茂の嫡孫)と光圀は仲が良く、互いの屋敷を訪
問し、一緒に遊ぶ事が多かったらしい。

そんなある日、光圀は光茂に船についての知識を披露し始める。
「いやぁ、前々から船については●●で▲▲だと聞いていたのですが、本当なのか
どうか、確かめる方法がない。でも、考えてみたら丹後殿(光茂)は長崎警固の担
当者ではないですか。丹後殿ならこの話、本当なのかどうかご存知ではありません
か?」

光圀のこの言葉、どこまで本気で聞いているのだろう。
しかし光茂は平然とした顔で答えを返した。

「なんとまぁ、よくそんな事までご存知ですな」

自分の知識が正しいと確認出来た光圀は、御機嫌な様子であった。


自分の屋敷に帰った後、光茂に付き従っていた従者達、
「殿、いつの間に船の知識など学んだのです?長崎警固と言っても、殿は江戸で生
まれ育ち、ご自身の手で船を動かした事などないでしょう?」

「そりゃそうだ。専門知識など持たなくても、詳しい家臣に任せればいいだけの話。
黄門様に聞かれた話も本当の事は知らんよ。適当に答えただけだ。黄門様とて船を
動かす事などありゃしないんだから、問題はなかろ?」


また、江戸城の櫓に鳥が止まっているのを見た旗本が光茂に
「あの鳥が止まっている櫓の高さはどの位でしょうなぁ。丹後殿は長崎警固の担当
者ですから、当然測量法くらいはご存知なのでしょう?」

それを聞いた光茂は
「まあ、測量くらいは出来ぬものでもありませんが、江戸城の櫓の高さを、大名で
ある私が測ってしまって良いものなのでしょうか? 問題になりませんか?」

と応え、旗本を黙らせてしまったという。


何でみんな、大名に現場の知識を求めるんだ(笑)
光茂もシレッと上手にかわすよな。そのスキル、爺様に少し分けてやれ。
645人間七七四年:2011/03/30(水) 12:55:23.94 ID:ojVgVBsx
>640
母子ともに大坂で一緒にしておけば処分できるのか。これはいいことを聞いた。

>644
日本人気質だよね。
総理や大臣が官僚に助けを求めてはいけないみたいな。
646人間七七四年:2011/03/30(水) 13:18:23.65 ID:IWq7kr56
>>640
大坂の陣の時、政宗は倅の乳母に秀頼・淀ザマーな書状を送っていたかと
647人間七七四年:2011/03/30(水) 13:31:04.99 ID:38R2Mlcw
そういえば思い出したが、一時期『日本のゲルニカ」などと持ち上げられた黒田版大坂の陣屏風は、
実際には「君主が間違った政治判断をしたらこういう目に会うんだぞ。」っていう、
自戒を求める意味合いが大きいとか。
648人間七七四年:2011/03/30(水) 14:48:04.46 ID:XurIMvdi
>>644
よくいるよな、○○なら××できるだろうとか言って無茶振りする人w
649人間七七四年:2011/03/30(水) 15:15:35.62 ID:ul0yzAJN
もし戦国時代なら「なんでお前がそんなこと知っているのだ!」とか言って、
引っぱたいてくる嫌な上司がいたかもしれないなw
650人間七七四年:2011/03/30(水) 15:19:13.95 ID:1lEl8LbE
>>631
江戸時代260年間は槍を使わないから刀が活躍するのは当然
651人間七七四年:2011/03/30(水) 15:36:25.66 ID:KZ4QvMEU
銃剣全盛になって刀剣廃れても日本軍は使い続けたんだから、もう呪い的段階なのかもなぁ。
652人間七七四年:2011/03/30(水) 16:01:09.06 ID:zNg129x7
机上の空論のインテリの言論はパーフェクトだね
653人間七七四年:2011/03/30(水) 17:07:50.28 ID:KbVUF5B0
刀は護身用ウェポンだからねい
654人間七七四年:2011/03/30(水) 17:52:51.46 ID:41iY8Zst
>>631
江戸時代を通じての整備と建築ラッシュと魔改造の果てに小路だらけになった京都、
さらには「街そのものには手をつけない」という制約と兎角相性が良かったんだろうな>刀
これが戦国までなら初期段階でまず市街が焼き払われる。そして飛び道具戦からスタート
655人間七七四年:2011/03/30(水) 19:36:04.79 ID:djVXKqMr
>>638
あれ?勝茂が駄目だし食らってないぞ?
656人間七七四年:2011/03/30(水) 20:36:36.56 ID:/Dcj5095
つーか、勝茂が駄目出ししてるしw

>>644
光茂はスマートな感じでかっこいいなw
657人間七七四年:2011/03/30(水) 21:02:08.21 ID:djVXKqMr
>>640
来てくれなかった伊達は政宗じゃなくって、秀宗のことだよ、たぶん
658人間七七四年:2011/03/30(水) 21:19:33.71 ID:1KKz+0FN
>>654
京都での本格的な戦いなら、蛤御門やら鳥羽伏見やら、鉄砲つかいまくり。
鳥羽伏見では大砲も使いまくり。
刀が活躍したのはあくまで暗殺と護身。
659人間七七四年:2011/03/30(水) 21:26:35.15 ID:WuP8rycT
戦国時代の刀ってアレだろ
マンガに出てくるような糞長いヤツ
660人間七七四年:2011/03/30(水) 21:44:35.83 ID:DpvXH5VV
>>631
西南戦争のときも会津抜刀隊が活躍した
661人間七七四年:2011/03/30(水) 22:30:14.01 ID:vCK7NKat
>>660
言っとくが、あれ愉快なレベルの損失も受けてるから。
662人間七七四年:2011/03/30(水) 23:12:06.61 ID:qeiEGy/v
まあ長州の連中は京都焼くつもりだったらしいし?
663人間七七四年:2011/03/30(水) 23:25:27.37 ID:lrBMgrSc
>>661
装備が違う。アームストロング砲やら元込め銃装備の銃陣に突っ込めばそりゃそうだ
664人間七七四年:2011/03/30(水) 23:34:00.22 ID:mTuoV0li
劉永福「刀剣で銃火器に挑むなんて駄目だろw」
665人間七七四年:2011/03/31(木) 00:39:06.29 ID:vA/YaAUY
>>663
調子に乗って深入りするからだよ
666人間七七四年:2011/03/31(木) 00:46:50.44 ID:3P4CdmS/
>>656
まぁ、江戸生まれの江戸育ちだし…死ぬことと〜でも葉隠武士たちと意識の隔絶があるみたいに書かれてたかなー
667人間七七四年:2011/03/31(木) 22:54:25.74 ID:iBrOgTxu
>>640 
「如何に太閤様御子に候えども、日本の御置目など取り行わるべき御人に御座なく候由、内府様御覧
届け候はば、御国の二、三カ国も、またその内も進せられ候て、ながながの御進退申され候ひて能く
候はん」と政宗は述べてて、少なくともこの当時の政宗にとって、家康のもとで秀頼がひとかどの人物になったのならば、秀頼が
世を治めることになろうという認識があったことを示すとともに、たとえ秀頼が天下人たる資格がない(=家康が
名実ともに豊臣家に取って代わる)にしても、秀頼の身の上がたつようにすべきと考えていたことが伺えるよね。


>>643
たしかにここで政宗は秀頼から家康に名実共に政権が移る可能性について認めてはいるんだけど、家康に近い立場にある
はずの今井に対しても、終始慎重な言い回しをしているし、「豊臣家をどうしても構わないよ」という内容とは言いがたいとおもう
668人間七七四年:2011/04/01(金) 02:08:54.31 ID:rPqLkekt
>>667
いや、その認識は当たり前。家康はまだ征夷大将軍にすらなっていない時期ってことを
忘れちゃいけない。家康の天下というのを人々が知ったのは家康が征夷大将軍になったとき。
でも、どうせ秀頼に天下を持っていかれるのにという認識。

徳川の天下というのを人々が知るようになったのは、家康が征夷大将軍を
秀忠に譲ったとき。
669人間七七四年:2011/04/01(金) 02:20:01.39 ID:62UdVtGC
>>668
関ヶ原前、家康が伏見城に入ったとき既に「内府天下様になられ候」なんだが。
670人間七七四年:2011/04/01(金) 02:45:25.87 ID:bjsTE8s8
そりゃあくまで一部の認識だと思うが
671人間七七四年:2011/04/01(金) 02:52:25.22 ID:62UdVtGC
秀吉の天下支配の政庁だった伏見城を支配下に措いたというのは、ごく一般的な認識として
家康=天下様となったと考えていいと思うよ。
今で言えば首相府や大統領府の主人となった、ってことだもの。

ついでにあの当時政治的首都はあくまで伏見で、大阪は豊臣家の私的な城に過ぎなかった。
672人間七七四年:2011/04/01(金) 06:30:26.62 ID:RE644NyY
でも誰も菅が政権を掌握してるなんて思ってないだろ?
673人間七七四年:2011/04/01(金) 07:46:05.72 ID:x4WFKWMQ
最上義光=鮭様
伊達政宗=はらこ飯好物=鮭の炊き込みご飯
鮭好きは血筋だった件
674人間七七四年:2011/04/01(金) 08:41:46.23 ID:6lyciId7
黒田如水「うむ、鮭はいいよね」
吉川元春「えっ?」
675人間七七四年:2011/04/01(金) 09:59:36.07 ID:qSb56gu+
市松「うむ、酒はいいよね」
676人間七七四年:2011/04/01(金) 12:10:47.06 ID:po7ObpLN
いつどの瞬間に天下人になったかなんて明確な時期って決め難いだろ
677人間七七四年:2011/04/01(金) 12:28:16.33 ID:SOkyOdPi
小牧・長久手で秀吉に勝ったときに天下人決定
678人間七七四年:2011/04/01(金) 13:56:15.78 ID:qo96En4v
1人は伊達政宗らしいけどもう1人の武将っぽいのは誰だよw
http://www.google.co.jp/intl/ja/doodle4google/2009/images/vote/1-1-5-h.jpg

あと、城は松山城との事w

http://www.google.co.jp/intl/ja/doodle4google/2009finalists.html
679人間七七四年:2011/04/01(金) 14:52:32.73 ID:6lyciId7
>>678
本田忠勝じゃね?
兜との形とか考えて
680人間七七四年:2011/04/01(金) 15:33:59.02 ID:dEAbke6b
>>678
具足というよりもサイヤ人の着てるアレみたいだなw
681人間七七四年:2011/04/01(金) 17:21:33.77 ID:NF0BTbZ6
腕がcのみてターミネーター2のラスト思い出した
682人間七七四年:2011/04/01(金) 18:04:46.49 ID:9REQjoWx
>>678
三成じゃね?大河の葵や天地人でこんな鎧兜だったし
「乱髪兜」というらしい
ttp://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/image/090914tenchi.jpg
683人間七七四年:2011/04/01(金) 21:03:08.65 ID:evzsJxaw
戦国魂の放送作家はこのスレを見てると思う。
684人間七七四年:2011/04/01(金) 21:14:28.74 ID:62UdVtGC
関ヶ原直前の慶長5年(1600)7月19日、三河国池鯉鮒(現・愛知県知立市)において
水野忠重が加賀井重望に殺害されるという事件が起こる。
これにより「あの」水野勝成が急遽水野家の家督を継ぐことになったりと、色々な事が起るのだが、
この事件がひこ起こした最も大きな混乱は、水野忠重が加賀井重望に殺された酒席に
堀尾吉晴も同席しており、当初「堀尾吉晴が水野を殺した!」と見られたことである。

水野家から関東の家康に最初に届いた通報も、「堀尾吉晴による殺害」というものであった。
時に堀尾吉晴の嫡男・忠氏は、徳川秀忠に従い宇都宮にあった。

家康はこの情報に驚き、宇都宮の秀忠のもとに急報した。仮に堀尾吉晴が徳川家に対し
二心を持っていた場合、息子の忠氏も怪しい、と考えられるからである。

が、この知らせを聞いた秀忠は冷静であった。
彼は使者に

「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに
堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」

と答えた。

やがて関東にも水野殺害の詳しい状況が伝わり、堀尾吉晴の疑いは晴れた。
この時人々「中納言殿(秀忠)は人の心をよく知り召される」と感じ入り、また堀尾忠氏も
後でこれを聞いて忝く思い、後の関ヶ原での前哨戦に於いて大いに働くことと成る。

ちょっと珍しい、徳川秀忠の関ヶ原前、関東でのいい話。
685人間七七四年:2011/04/02(土) 02:45:02.47 ID:pLWIvhoG
686人間七七四年:2011/04/02(土) 05:28:57.11 ID:w/RhevLc
>>683
ネットでマイナーな逸話を検索するとちょっとスレまとめが上位にくるんだ…
687人間七七四年:2011/04/02(土) 05:31:35.09 ID:n8K4t/gZ
殿様が簡単に斬られちゃうって、、、
従者は何してんだよ!!
688人間七七四年:2011/04/02(土) 11:14:42.32 ID:LFR3emiD
戦国乱世であるからには、政略結婚と一口に言っても、遠隔地に輿入れするのは容易なことではない。
間を美濃国の斉藤に遮られた尾張国の織田と近江国の浅井の場合は、次のような策を講じて信長の妹・お市を
浅井長政のもとに送り届けたという。

永禄3年正月、剛勇で鳴る浅井家家臣・磯野員昌は大病にかかるも九死に一生を得た。
ついては伊豆・箱根・三島明神・浅間神社に祈願した霊験のおかげなのでお礼参りをしたいと東海・東山道筋の
各城主に員昌の使者が送られた。

員昌は音に聞こえた勇士。戦乱の世とはいえ、お礼参りとあれば今川も北条も通行を許可しない訳には行かない。

しかし員昌のお礼参りは口実だった。
道中、尾張に立ち寄った員昌は織田家の佐久間信盛と密会し、お市と浅井長政との婚姻の話を取り決める。

翌永禄4年6月、員昌は再びお礼参りの旅に出る。今回は夫婦共に参拝したいと今川・北条に申し送り、女輿や
侍女を多く連れて東国を巡る旅となった。

そして、帰路に立ち寄った清洲にて、員昌の妻として輿に乗っていた替え玉の女性とお市とを入れ替えた。
その後、お市を加えた員昌一行は何食わぬ顔で小谷まで戻り、無事長政の祝言を執り行ったのである。

以上、後に姉川の合戦における十一段崩しで有名となる磯野員昌は意外と策謀にも長けていたという、
「川角太閤記」に記されたウソみたいな本当の作り話。
689人間七七四年:2011/04/02(土) 14:16:54.07 ID:cuHJRVlm
嘘みたいだろ、でもやっぱり作り話なんだぜ
690人間七七四年:2011/04/02(土) 14:41:05.80 ID:4ad6l7GN
川角太閤記にこんな話はないだろ
691人間七七四年:2011/04/02(土) 15:31:48.08 ID:n8K4t/gZ
普通に使者とかが往来してたんと違うの?
692人間七七四年:2011/04/02(土) 16:43:16.50 ID:679CCU9z
著作権の問題で最終巻が発売されなかった『信長』だと
市自身のアイデアで対斎藤には囮の輿をしたて、市は少数の侍女を従えた旅人を装って小谷に入っていたっけ
693人間七七四年:2011/04/02(土) 21:37:42.86 ID:ThEttSCr
>>692
メディアファクトリーから最終巻出てるよ
なぜか改訂版だと松永久秀の髪が黒くなってるがw
694人間七七四年:2011/04/03(日) 00:58:44.28 ID:UOCUQZ4x
桶狭間の頃から蘭丸が近侍しているね。
信忠もかなり早い頃から登場しているね。
695人間七七四年:2011/04/03(日) 01:52:02.97 ID:KrUk5c+1
伊達家臣の中に湯目景康(ゆのめ かげやす)という人物が居た。
伊達政宗の元服と同時にその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍し
活躍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡の佐沼城主となる。

文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、
中島宗求と共に伏見の”津田が原”にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功。
主君の疑惑を晴らそうと、熱誠をこめて切々と愁訴する武人景康の姿に秀吉は
「小十郎(片倉景綱)といい、伊達政宗は良き家来を持ちおるわ・・・」と呟いたとされる。

この功で景康は1,000石を加増されるとともに、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ
津田景康と改名。何とも変わった改名エピソードである。


その後、伊達家中で奉行職に名を列ね、政宗没後は2代藩主・忠宗より評定役に任命される。


伊達家の中でも忠臣としてその名を現代に残すが、実は江戸時代前期にもう一人の”津田景康”が存在する。


3代目・津田”玄蕃”景康である。(初代は津田”豊前”景康と区別される)
この3代目景康は初代景康のように忠臣としてではなくある騒動に巻き込まれた為に現代に名を残す。


景康は伊達家のお家騒動である”伊達騒動”の伊達宗勝派の中心人物と目されていた。
※義兄が原田(甲斐)宗輔であったというのも伊達宗勝派として景康が見られた。


そのため、寛文11年(1671年)大老・酒井忠清邸にて刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、
義兄・原田宗輔に連座して仙台城下の屋敷にて逼塞を命じら、延宝2年(1674年)
ようやく佐沼への帰還が許されるも、逼塞処分は解除されず、知行半分を没収された上で隠居。
弟・春康が代わって佐沼の領主となった。


初代・津田景康は草葉の陰で何を思うか・・・
祖父と孫の評価が変わってしまったおかしな話。
696人間七七四年:2011/04/03(日) 05:56:44.83 ID:us+ZgtUB
>>694
森成利(永禄八年〜天正十年)

ははは御冗談を
697人間七七四年:2011/04/03(日) 07:33:27.13 ID:HTW7epGZ
698人間七七四年:2011/04/03(日) 07:37:05.19 ID:us+ZgtUB
>>697
なるそういう流れね
699人間七七四年:2011/04/03(日) 13:25:21.13 ID:mCGz0VrS
>>660
会津抜刀隊は、ないから。会津藩出身で西南戦争に参加した人いるけどすくないよ。しかも抜刀隊では、ないから。
抜刀隊といえば、警視庁の抜刀隊だよ。
彼らは、薩摩藩の郷士や下級藩士が主力です。
西南戦争は、前線で旧薩摩藩士同士が切り会ってたから。
700人間七七四年:2011/04/03(日) 13:40:49.49 ID:3L14CH/7
それのどこがいい話なの?
701人間七七四年:2011/04/03(日) 16:29:51.42 ID:kcqPaJwv
>>684
暗殺が成功しました…
水野忠重→暗殺
水野信元→暗殺
水野信近→暗殺
暗殺の多い一家だな、戦じゃかなり有能なのにな

>>687確か責任とらされて2名ほど腹を切ってるはず、記録じゃ殉死扱いだけど
702人間七七四年:2011/04/03(日) 17:16:14.63 ID:LinmCTPt
さっきちょっと悪い話スレに書き込んだ話の続き

小田原開城後、兄の介錯を務めた氏規。
氏政の介錯を終えると、彼も自害しようと太刀を取り直した。

慌てたのは検使役の面々である。
「殿下が死罪を命じたのは両名だけでござる。失態があれば我らの落ち度となります。」
と必死に押し止めた。

この時氏照の侍童であった山角平太郎は、検使が氏規に気を取られている隙に乗じて、
氏照の首を奪い取って走り出した。

結局首は取り返され、京で晒されることになるのだが、平太郎は検使の井伊直政に召し出され、
家康に紹介された。
家康は平太郎の心意気に感じ入り、家臣の列に加えた。
彼は後に、武州多摩郡関戸に領地を与えられることになるのであった。

北条家の最期に現れた忠臣の話。
703人間七七四年:2011/04/03(日) 18:47:38.86 ID:I3FMqcu5
忠臣か?
704人間七七四年:2011/04/03(日) 19:36:23.79 ID:DpVduhov
まあ、子供だからな
多感な時期の発想だろう
705人間七七四年:2011/04/03(日) 19:40:56.00 ID:RfRE4p6G
なんか最近ひねくれたレスする人増えたよね

斜に構えた俺カコイイ的な
706人間七七四年:2011/04/03(日) 19:44:02.18 ID:U/eAYXID
まさにお前がそうだな
707人間七七四年:2011/04/03(日) 19:44:27.87 ID:oF8dVOFV
命を賭けて主君の首を敵に渡さないように努力したんだから、忠臣だろ。

微妙に話は変わるが、このスレだと、やたらに三河の人間だけ「面倒臭い」、理屈っぽいが義理堅いとか、
そういう硬派な感じのイメージが強調されるけど、実は結構全国的にそうだよね。近畿は垢抜けてるかもしれんけど。
708人間七七四年:2011/04/03(日) 19:55:23.46 ID:4/NwGBdw
たしかに忠義で名を残す武士は全国的にその傾向があるのは当然だよね。
三河武士団は最終勝者になる実質があったのと、
勝者になったからこそ逸話が多く残ってるみたいなとこはある。

あとはこのスレのノリもあるw
709人間七七四年:2011/04/03(日) 22:37:24.71 ID:aS+DtlZE
まあ勝者の為の歴史だからな
710人間七七四年:2011/04/03(日) 22:55:06.77 ID:us+ZgtUB
先代広忠先々代清康の最期を考えるとそこまで忠誠心にあふれてるようには見えんのだがね>三河武士
今川が三河を併合したから逆に松平元康は三河のトップに立てたのかなあ
711人間七七四年:2011/04/03(日) 23:13:45.29 ID:JE/8rt2b
まあぶっちゃけた話「三河者の忠義」ってのは、家康が初期に創り上げたシステムが
大きく関わってて、家康は宗家の力を強化するため、少録の武士を、「旗本先手組」って
主君直属の親衛隊に編成したのね。

基本この組織の武士には所領が与えられず、かわりに徳川宗家から給米が支給された。
本多忠勝や榊原康政はこの組織の物頭(隊長)で、彼らには家康から大名クラスの
兵力を与えられていたが、それでも所領を持たなかった。

このように旗本先手組に編成された者は、自分の領地を持たない以上、主君への能力と忠誠の
提供が自己の身分を確保するために必要であり、ここから、他家とは少々色合いの違う
三河者の「忠義」なるものが生まれたと考えられる。

ちなみに家康はこのシステムに思い入れがあり、関東に移るときも配下の殆どに領地を与えず
給米で済ませようとしていたらしいのだが、秀吉に言われしぶしぶ忠勝や康政たちに
十万石与えたそうなw
712人間七七四年:2011/04/03(日) 23:41:06.52 ID:oTSz2p06
それはつまり、徳川家では世間的な意味でいうところの「兵農分離」を、信長に先立って
達成していたということになるのかな?

領地を持たないんだから農民を徴兵することができない。
すなわち、貰ったお米で兵を雇うしかない。
713人間七七四年:2011/04/03(日) 23:55:27.34 ID:JE/8rt2b
>>712
信長が兵農分離をやった事実はない。と言うか戦国期、「兵農分離はなかった」と言うのが
最近の主流だね。兵農分離は江戸期に進行した事象。
家康のところも(もちろん信長秀吉なども)惣村に軍役をかけ兵や軍夫を出させているので、
兵農分離でもなんでもない。

で、家康のやったのは兵農分離ではなく「土地と武士の分離」ですな。
その面では家康はたしかに先進的(と言うかちょっと特異)だったと思う。
714人間七七四年:2011/04/04(月) 00:21:23.05 ID:SNt26B6f
小田原陣を控えて秀吉と家康が関東の絵図を見ていた時のことである。
秀吉は末座にいた真田昌幸に向かって「安房、来て図を見よ。汝に中仙道の先手を申し付ける。」と言った。

この事について昌幸は「この時家康と同じ仲間扱いに絵図を見せてくださったことは国郡をどんなに拝領したより忝い」といっていたという。

さらにこの後秀吉は昌幸を呼び寄せて
「お前と家康は仲が悪い。自分が仲を取り持っていいようにしてやった。
 長いものには巻かれろという言葉もある。旅先のこととてよういもなかろう。礼の挨拶に行くがよい。」
と、袷二十枚を進物品にするように富田左近を添えて真田に遣わした。
事は丸く収まって徳川と真田は和解し、本田忠勝の娘と昌幸の嫡男の縁組もこの時決まった。
715人間七七四年:2011/04/04(月) 00:22:26.25 ID:DneMvEUK
実際のところそういうシステム的な問題が大きいんだろうけど、
人間性的なものもあるんじゃないかな

そういう視点で三河者のエピソードを見ていると、忠義よりも頑固というのが正しいと思う。
その頑固が忠義の方向でなく不信の方向に行けば部下に殺されることもあるんじゃないかな
716人間七七四年:2011/04/04(月) 01:59:09.08 ID:PhUORsgX
>>714
これが人たらしってやつか
717人間七七四年:2011/04/04(月) 02:30:23.30 ID:jwcvLIQT
>>713
>「兵農分離はなかった」と言うのが最近の主流だね。兵農分離は江戸期に進行した事象。

主流・・・?
黒田基樹氏は確かにそういう趣旨の発言をしているが
ほかに誰か同じようなこと書いてる研究者いるの?
「兵農分離はなかった」に反対する研究者なら山ほどいるだろうけど。
718人間七七四年:2011/04/04(月) 06:46:20.85 ID:SuRGmvPB
>>717
とりあえず山ほどあげてくれないか?
719人間七七四年:2011/04/04(月) 06:48:18.11 ID:c92ro1n+
三河物語では、ダメな主君は松平信忠のみってことになってるらしいけど、なにぶん彦左衛門の書いてることだしな
720人間七七四年:2011/04/04(月) 08:43:45.26 ID:NRkOMCcJ
>>704
この坊やが氏照に抱かれたと考えれば、理解できんこともない。
721人間七七四年:2011/04/04(月) 09:24:01.00 ID:3jf3yp1P
>>714
おかしな判断増えだす時期だがまともな時の秀吉の人使いはやはり凄いんだよなぁ
722人間七七四年:2011/04/04(月) 15:25:23.10 ID:PDeJ+KQf
>>717
山ほど挙げなくたって歴史の教科書の開幕前に
兵農分離って言葉があるだろ。

江戸期でも、少録なら音頭取るだけじゃあるまいし。
723人間七七四年:2011/04/04(月) 15:31:16.44 ID:x1O4mL7W
>>715
家康も三河一向一揆でひどい目に会ってるしな
724人間七七四年:2011/04/04(月) 16:49:28.69 ID:GMwmtz6m
一向一揆被害者の会「ひどい目どころではございません」
725人間七七四年:2011/04/04(月) 16:53:52.89 ID:5i/yW+dB
三河一向一揆トリビア


三河一向一揆で最後まで家康に反抗した者達は信州に逃れ…

後年、鬼武蔵に皆殺しにされた
726人間七七四年:2011/04/04(月) 17:43:57.01 ID:ZZCNY7dp
>これが人たらしってやつか

利家と家康の二人に呼びかける時も、かならず「大納言、内府」と
利家の方を先にしたという話もあるね

利家は、それより領地を増やしてくれる方が嬉しい、と言ったとかどうとか
727人間七七四年:2011/04/04(月) 18:40:05.80 ID:C6Bep3eX
>>725
そして長久手で家康に皆殺しにされるなんとかムサシさん
728人間七七四年:2011/04/04(月) 18:58:09.72 ID:4Tke5Eiu
森は不滅です
729人間七七四年:2011/04/04(月) 18:58:59.07 ID:7sXXwUQt
同じ宗徒なのに平然と殺しあう戦国のむなしさよ。
730人間七七四年:2011/04/04(月) 19:21:28.19 ID:/mM/XGFy
宗教戦争なんてよくある事
731人間七七四年:2011/04/04(月) 20:31:24.75 ID:jhc9aJ4H
後北条家滅亡絡みで地元ゆかりのネタ。

後北条家が関東土豪の連合体の上に乗っかっていた存在というのは知られた話。そんな土豪の一つに武蔵国は府中の辺りに在する井田氏というのもあった。
この井田氏、先祖を辿れば源頼朝の陸奥討伐にも従軍した(戦死したらしい)、というからなかなか古い家柄。井田氏は代々摂津守を自称していたというのもまあご愛嬌かと。
そんな井田氏も戦国期は後北条家に従ったのだが、氏照切腹により後北条家が滅びると、当主井田是政は武士を廃業して帰農することを選ぶ。
帰農した先は井田氏代々の領地だった武蔵国横山村。当時、横山村はかなり未開拓というか荒れていたらしく、是政さんは頑張って開墾しまくったらしい。
そんな是政さんの功績を記念して後世「是政」村と言われるようになったとさ。

井田是政のお墓は今も東京競馬場内に残っており、近くに生える「第三コーナーの大欅」ともども井田氏由来の事物は今もなお府中に息づいております。


どこがいい話かわからんが、まあとりあえず
732人間七七四年:2011/04/04(月) 20:50:53.08 ID:hnkGq41F
>>731
横山って八王子だぞ?
733人間七七四年:2011/04/04(月) 20:55:10.70 ID:jhc9aJ4H
>>732

うん、そっちも横山だね。でもこっちも横山と呼ばれていたらしいんだわ。察するに武蔵八党の横山党に由来するんじゃないかな?
734人間七七四年:2011/04/04(月) 20:59:01.21 ID:5i/yW+dB
>>732
こうだそうで

井田 是政(いだこれまさ)は、日本の武士であり、地名に残る開拓を行った領主。
北条氏照の家臣であり、主君の自害後に現在の東京都府中市是政の地(古くは「横山村」)を
開拓し村を開いた。 この功績により、この地に名が付いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%94%B0%E6%98%AF%E6%94%BF
735人間七七四年:2011/04/04(月) 21:03:13.61 ID:960KCg5U
関東には北条が滅亡して帰農した家って多そうだな
俺の先祖もそういう家だし
736人間七七四年:2011/04/04(月) 21:09:14.32 ID:5i/yW+dB
NHKで新選組血風録始まったけど、土方歳三の土方氏もそうだな>北条滅亡で帰農
737人間七七四年:2011/04/04(月) 21:21:36.66 ID:jhc9aJ4H
ちなみに初投稿なんで、読みにくかったらゴメンナサイ。

府中は歴史古い街でけっこう逸話は残っているんだけど、いかんながら戦国期の逸話は少ないのよ。

せいぜい浅野長政が蟄居(家康暗殺騒動絡み)した屋敷は府中だよね、とかその程度で…
738人間七七四年:2011/04/04(月) 21:23:02.52 ID:86Zl65l+
家康の府中御殿があったんだよね。
この前見てきたけど
739人間七七四年:2011/04/04(月) 21:32:20.88 ID:5i/yW+dB
府中といえば昔から交通の要衝で、室町初期は、鎌倉公方が府中高安寺に本拠をおいてたんだよね。
あと府中の分倍河原は鎌倉末期には北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府軍が、
戦国初期には鎌倉公方・足利成氏と上杉顕房、上杉房顕などの関東管領勢が、
それぞれ「分倍河原の戦い」が行われているな。
740人間七七四年:2011/04/04(月) 21:40:24.95 ID:jhc9aJ4H
>>739

>戦国初期

あ〜、それ戦国初期に入るんだ?個人的には戦国は応仁の乱からかな?と思っていたから。成氏の分倍河原合戦までおk、となるとややネタ拾えるかも。

府中はわりと歴史物保存に市が熱心だからありがたいよ。
741人間七七四年:2011/04/04(月) 21:40:27.17 ID:2s9SKT6k
「小手指」「分倍河原」は難読だよな
742人間七七四年:2011/04/04(月) 21:50:10.58 ID:5i/yW+dB
>>740
関東は全国に先駆け享徳の乱から戦国時代に入ったとされてるから、その開幕である
分倍河原の戦いは充分入ると思うよ。
743人間七七四年:2011/04/04(月) 23:50:36.08 ID:hnkGq41F
>>733
その横山党の本拠地が八王子市元横山町あたり。
んで、 八幡八雲神社 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE
を作ったりした。
なので、武蔵国横山と言うと、まず八王子を思い浮かべちゃう

>>734
ふむふむ。

>>737
多摩地区で戦国期の逸話ときたら、滝山城、八王子城のある八王子が
圧倒的に多いからなぁ。
744人間七七四年:2011/04/05(火) 01:07:55.97 ID:tI+403Lr
>>731
府中競馬場の大けやきのあたりは以前寺があって墓場だった。
競馬場の開設にあたり、寺と他の墓は移転したが井田さんだけが
「移転出来るかボケ、あと欅の木も先祖が植えた大切な木欅だから切るな」
とゴネたため今でもコースの第3コーナーに残ったままに。














でも、あの木は欅じゃなくて榎なんだぜwww
745人間七七四年:2011/04/05(火) 01:25:51.15 ID:nlZv24bM
あの3角の大欅にはいろいろイワクがあるからなぁ・・・
746人間七七四年:2011/04/05(火) 03:21:39.05 ID:SjZRUxn1
ふとサイレンススズカを思い出した
747人間七七四年:2011/04/05(火) 05:42:50.28 ID:t/TzRhlp
魔の第3コーナー・・・



欅じゃなかったのか、あれ
748人間七七四年:2011/04/05(火) 06:57:45.75 ID:9K7rEpcW
欅ではなく榎。

ただ府中は「市の木」が欅であることから判るように欅で有名。源義家が寄進したとされる欅並木が今も残っている。まあ今の欅並木は家康が寄進したものがほとんどだけど
749人間七七四年:2011/04/05(火) 10:56:05.85 ID:dRSsTBMi
府中には頼朝が植えた李もあるという
750人間七七四年:2011/04/05(火) 13:55:52.99 ID:9K7rEpcW
じゃあ府中絡みでもういっちょ

後北条家滅亡に伴って徳川家康が関東に国替えなった時のこと。

現代でも引っ越した先の総鎮守などに参拝するのは比較的よく行われているが、戦国時代となればそれは半ば常識であった。

ましてや歴オタで源氏の末裔を自称する家康が源義家ゆかりの武蔵国総鎮守大国魂神社を見逃すわけもなく、
関東入部とともに早速大国魂神社に寄進をしたとされる。

この時寄進した朱印状が現存、公開されているが、それによると石高五百石を寄進している。ケチで名高い家康にしてはかなり奮発したと思うがどうだろうか。

また府中宿に対しても馬市の開催を許すなど、中世期戦乱で荒れた府中の復興を助けた。

同時に寄進した欅並木は今も府中の名物として市民に親しまれている。

珍しく気前のいい狸親父という話
751人間七七四年:2011/04/05(火) 20:37:17.30 ID:M1ohFQCL
帰農といえば。
武田家滅亡の際に生き残った武士たちのうち、帰農したものは非常に多かったという。
ご存知の通り家康は武田武士を非常に買っており、徳川家に仕官する者も非常に多かったが、
手厚く迎え入れられるはずの有力な氏族さえ、丸ごと帰農したり、一家を割って帰農するという例があった。

有無の決戦で完膚無き大敗北をしたわけではない。信長の残党狩りは過酷を極めたとはいえ、武田の遺臣達の多くも生き残っている。
信長が倒れ、北条と徳川が争い、その徳川も秀吉に押されていた。

武田武士は農民に身をやつしても、まだ諦められなかったのである。
752人間七七四年:2011/04/05(火) 21:22:59.05 ID:8CWzo5N8
>>751
最後の行は想像でしょ?
753人間七七四年:2011/04/05(火) 21:44:13.49 ID:BbRNXor2
山梨の百姓家には大概、信玄時代に祖先が武功を立てた伝説があるからな。
保管されてる感状の中に、本物は数百点に一点しかない。
まあ、江戸時代の百姓が作った伝説だ。
754人間七七四年:2011/04/05(火) 21:53:01.85 ID:JYKtvw80
あえて信虎時代の武功と感状だったら本物と認定したい
755人間七七四年:2011/04/05(火) 22:13:16.44 ID:M1ohFQCL
>>752
想像と言えば想像だが、武田信治が天正壬午のときに、今こそお家のために駆けつけよと
言っているから、根拠のないことでもない。

>>753
>>大概、武功を立てた伝説がある
>>本物は数百点に一点
いくらなんでも大げさだろwww

>>754
結構残ってるよ。
756人間七七四年:2011/04/05(火) 22:32:15.34 ID:5BduoJx7
山ほど残っている第4次川中島の感状、しかし本物は0だもんなぁ。
他の川中島のは本物幾つか残ってるけど
757人間七七四年:2011/04/05(火) 22:38:00.11 ID:BbRNXor2
>>755
大げさじゃない。
山梨県立博物館の平山優の講演で聞いた。
そもそも中世文書の本物は、百点中一点あればいい方なんだ
758人間七七四年:2011/04/05(火) 22:48:21.11 ID:5BduoJx7
江戸時代に信玄の感状は非常に人気が高く
お土産屋さんで売られてたレベルとかなんとか
759人間七七四年:2011/04/05(火) 23:08:41.09 ID:v2eKjpdu
そもそも主君からの感状はめったに貰えないからステータスなのであって、そこら辺中に氾濫するほど発行されてるわけがないんだよ。

山口の百姓に関が原後帰農した毛利家家臣だ、って伝説があるようなもんだな。
760人間七七四年:2011/04/05(火) 23:11:14.90 ID:M1ohFQCL
>>757
えっ、マジ!?これは失礼。
軍忠状はどうなの?
当然我が家にそんなものはないのでご心配なく。
761人間七七四年:2011/04/05(火) 23:13:37.47 ID:9K7rEpcW
別に武田の旧臣が帰農したことを否定するつもりはないけど、出来れば具体的な武将の名前あげて逸話を語ってくれないかな?
ここはそういうスレだし。

じゃなきゃ武田スレなり関東スレなりに行って欲しい
762人間七七四年:2011/04/05(火) 23:43:26.80 ID:M1ohFQCL
>>761
じゃあまず、あなた繋がりで武蔵の例を。

塩原勘解由
武蔵本庄に小笠原流を名乗る塩原という一族が住んでいた。
あるとき当主・塩原勘解由は武田方についたことを賞され、晴信より金作りの聖天像を贈られた。
勘解由は驚喜した。晴信が没すると出家すると出家し、堂を建てそこで隠棲した。
四つの門があったため、そのあたりは「四門堂」と呼ばれるようになったという。

勝頼期となり武蔵における武田家の影響力が減退すると、勘解由は館に戻り籠城して北条方と戦った。
武田家が滅亡すると、勘解由は降参し帰農するが、あくまで堀を埋めず、櫓を倒さなかったという。

wikiによると、その後塩原家は代々名主として苗字帯刀を許されたとか。三条婦人云々はwikiにはあるが知らない。
763人間七七四年:2011/04/06(水) 00:06:35.24 ID:rxKul2tV
その2
初鹿野伝右衛門の甥、小山田信有(たぶん弥三郎の方)の娘婿に奥脇久兵衛という者がいた。
久兵衛は武田滅亡時、まだ年若かったため、山中に隠れさせようとした人がいたが、
「私の父も戦場で敵に背を向けたことはなく、顔面に矢を受けて死んだと言います。私もそれに習います」
といって聞かず、堂々と初狩の居館に居続け、天正壬午の乱にも参加したという。
その後結局どうなったのか帰農したが、屋敷は代々本陣として使われ、立派な塀や武具類が現存する。
なお、山本周五郎の生家はまさにここである。
もう一つ不思議なお話があるけど、明日早いからこれは又今度。
764人間七七四年:2011/04/06(水) 00:39:58.01 ID:/4PMFdsB
>山梨の百姓家には大概、信玄時代に祖先が武功を立てた伝説があるからな。

山梨の百姓だけどご同業の連中からはそんな話聞いたことネーっす
そういう話があるのは網野善彦さんの実家とかの名主クラスじゃね?
うちの近隣の呑百姓共(うち含むw)は無尽で村の人と寄り合ったときも
年寄りたちは信玄さんって呼んで信玄公と呼ぶ人は皆無だったし
盲目的に崇めてる人か所詮滅ぼされた奴ってディスってる人のどちらかだったな。
山本勘(菅)助の子孫なんてつい最近までほら吹き呼ばわりされてた位だよw

>757
うちの母の実家から山梨県史編纂のときに網野先生に貸した
母の実家に伝わる武田家の軍議に参加したときの内容を書き記した書状は
先生が中々返してくれないので問い合わせたら
その書状は写しで本物はちゃんとしたところにあると言われ
な〜んだ写しか、じゃあ返してくださいよっていったけど、忙しいんだよって怒られ
それから更に色々あって貸し出してから2年くらい経ってようやく返ってきたw
どんだけ偽物出回ってるんだよって言うww
765人間七七四年:2011/04/06(水) 00:43:02.79 ID:grtDNcWg
当事者の面白い証言だなw
766人間七七四年:2011/04/06(水) 07:06:26.51 ID:ytPQmI32
学者先生の悪い話だな
767人間七七四年:2011/04/06(水) 07:23:50.36 ID:7In0Mkzd
借り逃げする先生もいるらしいじゃん
768人間七七四年:2011/04/06(水) 09:07:39.98 ID:itqgmgVU
学者と史料の話はホント悪い話がてんこもりだからなあ

田舎の旧家には「学者と名乗るヤツは絶対に家にあげるな」なんていい残されている処もある
769人間七七四年:2011/04/06(水) 09:24:37.64 ID:INKNfd2q
研究以外全てを捨ててるタイプの学者は何するかわからんからな
770人間七七四年:2011/04/06(水) 09:46:53.49 ID:u1V53yQZ
>>767
真新しい紙になって戻ってくる場合も
771人間七七四年:2011/04/06(水) 09:57:27.11 ID:lhu55Lh/
>>761
小畑氏の誰かが仙台に来て、新田を開いたという話はあるようだよ
そのへんはご町内まるごと小畑さん一族w
ソースは「安永風土記御用達書出」だそうだけど原文は確認してない
地震で仙台の図書館まだ閉鎖中なんだよねえ(´・ω・`)
772人間七七四年:2011/04/06(水) 10:15:42.10 ID:7dS3pwAM
うちの親戚にその筋では有名な学者で、貴重な資料をいっぱい持ってるじいさんがいたが
亡くなってしばらくすると同業者がゾロゾロやって来て、傷心のばあさんに
「これは俺が貸してた物」、「これは俺がもらう約束をしていた」とか言いながら
洗いざらい持って行ってしまったそうだ。
773人間七七四年:2011/04/06(水) 13:17:19.83 ID:sgeGZdaG
事情を知らない老人に弱味を漬け込んだ典型的な詐欺じゃないか、悲しいねぇ
774人間七七四年:2011/04/06(水) 13:29:54.22 ID:vTQ4SoX3
本当にお爺さんが約束ていた可能性もあるんじゃないか?
自分の死後蔵で埋もれたりせずに然るべき所にいくように。
研究者は遺族対して配慮すべきではあるが。
775人間七七四年:2011/04/06(水) 14:22:32.21 ID:grtDNcWg
>>772みたいな話は歴史研究者に限らず、蒐集家の世界にはよくあるんだよ。


コレクターが死んだとき、そのときこそ他のコレクターにとっては、掘り出し物をゲットするめったにないチャンスといえるのである。

以前、高名なコレクターが死んだとき、こういうことが起こった。
彼の死は瞬く間に同好の士に伝えられ、それこそ全国から、数十人の「自称親友」がお通夜に訪れたのである。
「親友」たちは焼香もそこそこに、血走った目を部屋の隅々に走らせた。
そして貴重なコレクションを確認するや、「形見分け」と称して持ってきた段ボールに次々と詰め込み始めたのである。
中には堂々と軽トラックで乗り付けた奴もいたというから驚く。

価値のわからぬ家族にとっては、目の前で起こっている現象をどう解釈すればいいのか、混乱するばかりだろう。
「故人には生前たいへんお世話になりました。
つきましては、あそこにあるアレとアレ、私が以前貸したままになっていたグッズですので、
こういう場所で大変恐縮ですがご返却いただけないでしょうか」
と家族に向かって言ったコレクターが、返事を聞くのもそこそこに、
アレとアレだけではなく、コレもソレも持って行ってしまうのである。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1398.html
776人間七七四年:2011/04/06(水) 14:32:10.07 ID:FExIk0lU
最低だな 馬場さんがいたなら全部燃やしてくれたろうに
777人間七七四年:2011/04/06(水) 14:44:16.21 ID:aAzV/RoN
秋田さんの元に木像を引き取りに…はこないんだよな
778人間七七四年:2011/04/06(水) 14:46:24.31 ID:itqgmgVU
価値の判らない遺族にとってはわけわからんシロモノで、
もしかしたら粗末に扱われたり処分されたりする可能性もある
だから価値の判る人に引き取ってもらえるのならそれはそれで悪いことではないのだが

問題は、それを正規の取引でなく虚偽で詐取していくことなんだよなあ
779人間七七四年:2011/04/06(水) 17:06:53.33 ID:i6+KW8o5
歴史的遺物は金のように相場があるわけでなくて、
自分がどれだけ価値を感じるかが値段だからな。
まあ、古物収集家たちの相場ってのはあるんだろうけど、
興味ない人間にはまったく見えない世界だよね
780人間七七四年:2011/04/06(水) 17:50:25.86 ID:eZDyEYRh
家康が吝いのは当時から割と有名だったようであるが、吝いとはちょい違うけど「始末に細かい」タイプは結構いて、奥州は最上の義光公もその一人。

俺の母方の実家は山形で代々鋳物業を営んでいたのだが、
伝来の事物の中に「義光公御手蹟注文書」による寺の鐘の発注書が残ってんだけど、コレが細かい、細かいw

寸法から飾り付けから材質にいたるまでキッチリ書き込みされていて、納入日時も切られている。「オマエはト○タか」とツッコミたくなるくらい。

781人間七七四年:2011/04/06(水) 20:35:27.31 ID:V8v5WRd6
んでトヨタは三河企業なわけだ
782人間七七四年:2011/04/06(水) 22:03:25.99 ID:wXtqOgnp
>>781
遠州人が創ったけどな
7831/2:2011/04/06(水) 23:02:01.45 ID:Gxi8CuwB
徳川幕府大番組(将軍直属部隊)に、中根伝四郎という人がいた。
時に慶長20年(1615)、大阪夏の陣が始まろうという頃、この中根伝四郎、栗原又三郎と言う旗本に頼み込まれた

「どうか、どうかお主の具足を譲っていただきたい!」

中根は大いに困った。彼もこれ一着しか持ってはいないのだ。
「着替えを持たぬ。無理だ」

が、栗原「侍一人を助けることだ!どうか!!」と達て望む。
これに根負けし、中根はついに自分の具足を栗原に譲ってしまった。

さて、それにて中根は自分の具足が無くなった。「まさかハダカ(具足無し)で戦場に出るわけにもいかんなあ…」
と方々を訪ねて具足を探すが、戦乱が目前に迫ったこの時期である。市場に出ている武具は軒並み出払い、
余り物など有り用もないのだ。

「困った困った」

と、半ば絶望していたところ、なんとその時、清十郎と言う侍が罪を得て処刑され、その具足が遺物として寺に
残されている、という話を聞いた。
「これだ!」
中根は大急ぎでその寺に行きその具足を所望。無事それを手に入れることが出来た。


さて大阪夏の陣も五月七日、この戦役最後の戦い、天王寺・岡山合戦である。

幕府方越前勢が真田勢を追い崩すと、ここに幕府大番組の大久保玄蕃頭が騎馬で真っ先に突進した。
ちなみにこの大久保玄蕃、かつて小田原の役で家康に注意され、鉄砲の音が鳴る度にピョコピョコ飛び跳ねた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1974.html
この子の成長した姿である。

そして我らが中根伝四郎も騎馬で、二番手に居た。彼は同僚で未だ歳若い今村伝四郎(後の下田奉行。下田港に
防波堤(武ガ浜波除け)の大工事を行った郷土の偉人)が徒歩で居るのを見て

「やあ、馬から離れてはいかん!そのために討ち死にすることもあるのだ!何とぞ馬に乗りなされ!」

と挨拶し加速、大久保より先に駆け抜けた!…が
7842/2:2011/04/06(水) 23:04:10.18 ID:Gxi8CuwB
中根伝四郎、突進した先で敵兵20人ほどに取り巻かれ、フルボッコにされた。
体中に傷を負い、兜の鉢も3枚に割られるほど打ち付けられ、しまいには冬の陣の時に、井伊勢が仕寄の為に作った
堀に突き落とされた。言ってる側からこれである。騎馬は関係なかった。

そこに同僚の高木忠右衛門がやってきた。彼は堀を覗き込んで
「おーい、生きてるかー?」
「…な、なんとか」

中根がボロ雑巾のようになりながらも生きているのを確認した高木は、彼を堀から引き上げた。が、傷が深く
とても歩けそうもない。そこで馬具の青漆の障泥(あおり:馬の胴体側面に付ける。
http://isomura.info/blog.php?ID=14&cID=6←コレ)に乗せ、
それを槍の柄に通してこれを肩にかけ、えっちらおっちら退き始めた。
まあ、障泥に載せたとは言えズリズリ引きずったわけですな。これでは当然

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!」

引きずられるたびに、地面との振動が中根の体中の傷に大ダメージを与え続けるのだ。
このままではこっちに殺されてしまう!

そこで高木、中根をしばらく置いて、そのあたりに捨て置かれていた槍の柄などを拾い集め、これらを紐で結び
どうも上手く担架のようなものを作って、それにのせて引き上げさせた。
この時の味方を救った高木の働きは高く評価され、後の出世の基になったという。

さて、戦後中根伝四郎は傷を治せと越前に湯治に行かされた。が、中根は
「夏場に熱い湯に入るのはよくない」と、最後まで温泉には入らなかったらしい。なんなんだそれはw

そしてその後、大阪の陣での論功が行われた。大久保玄蕃頭がその首尾を尋ねられた時、彼はありのまま、
自分が中根に先を取られたことを申し上げた。そのため中根は確認されることもなく、そのおりの一番乗りを
認定されたという。


ものすごく人が良くてものすごく不器用で、周りに愛されている、そんな人格が見えてくる。
中根伝四郎さんの大坂の陣のお話
785人間七七四年:2011/04/06(水) 23:49:14.17 ID:/gbCO5Ar
そういえば、島津義弘の関ケ原参陣の時にも具足を無理矢理借りる話があったな
786人間七七四年:2011/04/07(木) 00:56:00.46 ID:jhkgJ5qU
小説では中馬大蔵ってことになってたけど、実際もそのとおりかな
787人間七七四年:2011/04/07(木) 07:42:36.33 ID:WRyGhAQG
具足も満足
788人間七七四年:2011/04/07(木) 08:50:23.22 ID:wkx8rPJQ
現代の話ですが、
「相馬救援隊」立ち上げ 旧藩主子孫の兄弟
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110406t63054.htm

ご子孫も「〜胤(たね)」というお名前なんですね。
どうか頑張ってください。
789人間七七四年:2011/04/07(木) 18:37:57.74 ID:n7XLXqRB
相馬ぐらい伝統のある家だと現代でも通字を守ってるんだなぁ
790人間七七四年:2011/04/07(木) 19:17:00.95 ID:fMweHUUg
「うちだって通字があるぞ」と親父が言うので、真面目に一瞬考え込んだら、親父が席を立ってどこかへ行った。
まもなく、トイレの方角から盛大な排泄音が響いてきた。明るい声で「聞こえたか」と叫ばれた。俺は泣いた。

実話です
791人間七七四年:2011/04/07(木) 20:05:33.19 ID:y0u/E6p+
>>778
あいおいニッセイ同和の事ですね?判りますよ。普通に詐欺る連中がデカイ顔する今様もどうかと思われでは在るんだが(慨嘆
792人間七七四年:2011/04/07(木) 20:35:18.39 ID:XiQX8yck
スレ違いになるかもしれんが、このスレとか、まとめサイトの逸話とか見てると
光栄時代に出版していた信長の野望の武将ファイルとか辞典とかに、逸話が面白おかしく
書かれていたな。

当時の編集・ライターがよく調べていたなぁと思ったよ。

井伊直政の芋煮汁の逸話とか、豊臣秀吉の割粥の逸話とか、石田三成が
佐竹家の石高まけた逸話とか。

793人間七七四年:2011/04/07(木) 20:35:56.33 ID:Ok358rWU
>>790
まあなんだ、いいお父さんじゃないか
794人間七七四年:2011/04/07(木) 22:07:52.16 ID:o40+VmIK
>>790
クッソわらたwwwユーモアあるな
795人間七七四年:2011/04/07(木) 22:14:17.54 ID:gAN0P7fl
うちの近所の庄屋さんところは代々変わりばんこで
「○太郎」→「○衛門」と続いていた。

この間、何代目かの「○太郎」に長男が生まれたんだが
「将来いじめにあう」ということで伝統は途切れたな。
796人間七七四年:2011/04/07(木) 22:55:03.19 ID:oipyDleS
>>790
なかなか出来るお父さんではないですか
797人間七七四年:2011/04/07(木) 23:19:57.98 ID:QbL1BYIw
>>795
もやしもんの沢木惣右衛門直保みたいなミドルネームでおk
798人間七七四年:2011/04/08(金) 01:42:06.51 ID:Wv0dJWa+
今も庄屋って名称が使われているところがあるんだ
うち近所だと庄屋って名称は使わずに先生って呼んでたな
子どもの頃は何で教師でも無い人間が先生って呼ばれてるのか不思議だったが
調べてみたら明治維新にゆかりのある郷士の子孫だった
799人間七七四年:2011/04/08(金) 01:48:56.86 ID:CVaiX11z
山川の教科書だと
東北→肝煎
関東→名主
関西→庄屋

という説明だったが、受験の時はこんな単純な分類の訳ないと思いながら暗記した。
800人間七七四年:2011/04/08(金) 02:12:17.58 ID:3c2S7Cau
先生って帯刀先生の先生とは関係あんのかな
801人間七七四年:2011/04/08(金) 10:32:16.37 ID:rnjZOqY6
うちの田舎だと跡を継ぐ時に名前を改めるとかそんな感じだっけな〜
譲った先代は当主になる前の名を名乗る感じ〜
802人間七七四年:2011/04/08(金) 13:36:55.91 ID:5fTUQk1/
東北だが普通に今でも庄屋って呼んでるなあ
ちょうどそのへん習う時期に関西にいて、肝煎や名主は使わないつーたら
教師にすごい形相で睨まれたけど
803人間七七四年:2011/04/08(金) 14:54:59.19 ID:ZJoD4tkI
自分の教えに待ったをかけられて、それを聞き流せる教師はなかなかいない
804 忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/04/08(金) 19:01:47.59 ID:QWpTI78Z
>>802
うちも東北だけど庄屋の方を使ってた。>爺さんの実家が庄屋
つーか、肝煎は聞いたことがない。
805人間七七四年:2011/04/08(金) 19:55:41.73 ID:KqqtF62b
信州上田は真田時代は肝煎だったが仙石氏が庄屋に変えたそうだ。
806人間七七四年:2011/04/08(金) 20:12:54.21 ID:qUwChzvx
関東だが肝煎は使うが、祭りの呼びかけ人で使うよ。村のまとめ役は名主、だなぁ。戦国期の文書見ると名主じゃなくて「長人(おとな)」とかだけどな。
名主は江戸以降。
807人間七七四年:2011/04/08(金) 20:19:29.34 ID:3qhVpZ2k
庄屋はもともとは荘園の現地代表みたいな意味だろ。
東北には荘園がなかった?から庄屋とは呼ばれなかった。しかし時代が下ると、庄屋は上方風のハイカラな呼称として東北でも使われるようになった、とか?
808人間七七四年:2011/04/08(金) 22:32:43.91 ID:WTLYu8Ac
蘆名盛高といえば戦国初期、蘆名氏を戦国大名として飛躍させた名君である。

その蘆名盛高の家臣、猪苗代某は当時14・5歳の美少年であったが、新國藤兵衛という者の愛人であった。
この両名が談合して、蘆名盛高が向羽黒が出かけた留守に、若松の城を乗っ取る、という事件があった。
しかし高盛はそれを知ると直ぐに取って返し城に突入、猪苗代、新國両名を城中にて討ち取り
さらにその協力者たちも皆撫で斬り(皆殺し)にした。
この時の事、『盛高の武勇、世の常にあらず』と、人々から大いに感嘆されたという。

さて、この時蘆名盛高麾下の河原田如礫と言うもの、若松の城への突入前、盛高に

「今宵は首三つほど取りましょう」

と言い、その言葉の通りの働きをした。
この河原田如礫というのは、会津三千騎の内でも無双の勇者と呼ばれる男であった。
彼は常に

「総じて戦場にあって、軍勢が集中している所に同じように寄って行っても居、手柄を立てることは
出来ない。私はそういう時はあえて、軍勢が集まって居ないところから攻めかかるようにしている。」

と、言っていたと云う。

さてある時、城下である者が足軽を殺して立てこもる、という事があった。
この者強く人々手を出しかねているところに、河原田如礫が来て、自分の太刀を縄でくくりつけ
立てこもっている者に投げ渡し、語りかける。

「このように武器は渡した!安心して私を近付けよ!その方の言い分を私に聞かせなさい!」

立てこもりの男、これに納得し如礫が近づくことを許した。
と、

如礫、間合いに入った瞬間踏み込み、たちまちこの男を召し捕った。


蘆名盛高の勇将、河原田如礫について伝わる話である。
809人間七七四年:2011/04/08(金) 22:41:12.71 ID:/bDl+/Iz
>>808
若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な

ちなみに会津若松と松坂は蒲生さんつながりで交流がある
810人間七七四年:2011/04/08(金) 23:40:12.48 ID:WTLYu8Ac
>>809
> 若松は地名に松をつけるのが好きな蒲生さんがつけた名前で以前は黒川な

なので「若松の城」と、「の」を付けておいた。まあ察してくださいw
811人間七七四年:2011/04/09(土) 03:43:58.42 ID:sR5X/vuM
>>808

上泉信綱が剃髪して僧体を装い人質の子供に飯を与えたいと言って小屋に入り
相手の油断を誘った逸話にも似ているね
812人間七七四年:2011/04/09(土) 11:08:12.20 ID:QDhaV804
七人の侍でも引用されてたな、そのエピソード。
813人間七七四年:2011/04/09(土) 12:14:41.89 ID:msNTlpon
なんて的確で冷静な判断力なんだ!!の元ネタなんか
814人間七七四年:2011/04/09(土) 12:17:14.48 ID:bvxPlWF0
徳川家康がこんな事を言ったことがある

「昔から戦場において指物や、その他何であっても落とす事を『比興』だといって
批判することがあるが、それは不詮議の至りというものだ。
戦場で何を落としたとしても、武功を示せばそれは許されてしかるべきである。

例えば敵の頚を取るという時、落とすのが嫌だと槍を脇に抱える、などというのは
かえって分別の無い話ではないか。」(武功雑記)

モノに気が入って本来の仕事を果たせないのでは本末転倒である、と言う事だろう。

一方で家康の言うように戦国期の記録などには、指物や武具などを落とし敵に奪われることを
必要以上に恥辱視する考えなども見え、主君としては、こういうことを言って本来の目的が
歪むことを防ぐ必要があったのだろう、なんて事を考えさせるお話。
815人間七七四年:2011/04/09(土) 13:29:01.98 ID:Q843b7+Y
指物は敵味方を区別する標であり、身分証明書みたいなものでもあったから、落とす失うのは実利でも問題になったという面もある
816人間七七四年:2011/04/09(土) 13:32:33.32 ID:o8uUu5ry
野木希典は旗が奪われたことを死ぬまでウジウジ悔やんでいたそうな
817人間七七四年:2011/04/09(土) 13:41:57.80 ID:E6v2s/tP
旗奪われたらその旗を悪用されるだろうが
警察が警察手帳紛失するようなもんだぞ

最悪その旗を使って敵に成りすまし大将を暗殺・・
あれっ?昔ジャンプで読んだ事があるような・・・
818人間七七四年:2011/04/09(土) 14:16:34.66 ID:KngJwupr
旗指物は何よりも戦功の目印になるから重視されたのであって、
勝つことを目的とする大将と、
手柄を上げて恩賞に預かることを目的とする戦闘員とでは
利害が真っ向からぶつかるところですな
819人間七七四年:2011/04/09(土) 14:42:38.31 ID:tXZ/2maR
>>814
『比興』という言葉を聞くと、昌幸さんを思い出す。
820人間七七四年:2011/04/09(土) 15:10:10.86 ID:y7R1QEJS
>>814
形式主義だと創造性が失われるし、形式がないと集団の統率がとれないからな。
権現様くらいの武士になると偏ることがないね
821人間七七四年:2011/04/09(土) 15:24:51.90 ID:6A+FBkFa
三方ヶ原でいろいろ落っことしてそうだし、その経験が言わせてるのかな
822人間七七四年:2011/04/09(土) 15:58:37.08 ID:sK41aDV8
う〜ん?
823人間七七四年:2011/04/09(土) 16:33:02.91 ID:+MtgMfEw
>>16
>>91

>天庵さまの企画展が開かれるそうです
>土浦市立博物館第32回特別展
>「戦国武将小田氏と法雲寺」2011年3月19日〜5月8日

地震の影響で会期が変更になったり、休館の建物があったりと
いろいろと変更があったみたい。
残念・・・

http://www.city.tsuchiura.lg.jp/news.php?code=1475
824人間七七四年:2011/04/09(土) 17:44:52.90 ID:roc95oOj
何百年もたった今でも味噌をネタにされる家康カワイソスw
825人間七七四年:2011/04/09(土) 17:46:52.87 ID:E6v2s/tP
住んでる人には悪いが茨城とか本当に危険だから・・・
826人間七七四年:2011/04/09(土) 19:08:44.67 ID:QDhaV804
>>817
あの途中で終わっちゃった、世紀末だぜヒャッハー!って感じの漫画?
827人間七七四年:2011/04/09(土) 19:23:05.81 ID:9AnfV0qX
>>817
それなんて江里口さん
828人間七七四年:2011/04/09(土) 19:28:22.60 ID:3fEFgo3i
>>826
続編が始まったと思ったら、主役が変わって、家康(次郎三郎)のグラが変わってた
829人間七七四年:2011/04/09(土) 20:34:06.00 ID:H6TH5tDB
>>825
風評垂れ流し乙
830人間七七四年:2011/04/09(土) 20:57:33.83 ID:czJ9VfOx
>>826
やっぱり打ち切りだったのか、あれ
831人間七七四年:2011/04/09(土) 21:39:35.09 ID:QDhaV804
>>830
打ち切り。ただし>>828が言うように続編がある。

だが

だが

しかし・・・
832人間七七四年:2011/04/09(土) 21:46:42.57 ID:roc95oOj
だが、なんなんだよw当人同士しかわからん会話はよせっちゅーに
833人間七七四年:2011/04/09(土) 21:49:42.48 ID:Tdd5DE4P
834人間七七四年:2011/04/09(土) 21:52:04.58 ID:y7R1QEJS
>>824
偉大な人物の失策をいつまでもいい続ける性根もどうかと思う。
別に理由なく民を殺した類の失策でもあるまいに
835人間七七四年:2011/04/09(土) 22:19:09.76 ID:14IbLkFn
>>834
単純に失策っていうんじゃなくて、
それを教訓に後日に生かしたってエピソードまであるもんだから、
今まで長々とつたわってるんじゃないかな
836人間七七四年:2011/04/09(土) 22:29:46.48 ID:Tdd5DE4P
>>834
ビビッてウンコ漏らしちゃって部下にそれを知られちゃったけど
いろいろあって最終的に天下人になったんだから、
オマエも諦めずにがんばればいい事あるって
837人間七七四年:2011/04/09(土) 22:43:05.60 ID:2PQiCWej
家康も漏らし事件って、意気消沈する味方を励ますために大久保某が言った冗談って話もあるけどな。
でも本当に漏らしたほうが人間「臭い」ということで面白いんだろうなぁw
838人間七七四年:2011/04/09(土) 22:43:28.71 ID:sK41aDV8
武田の挑発に引っ掛かって大敗した上に漏らしちゃっただけなら悪い話だけど、
それを絵に残し教訓にしたところに天下人の器を感じないかい?
839人間七七四年:2011/04/09(土) 23:04:12.28 ID:Tdd5DE4P
江戸時代は神として奉られていたのにウンコ漏らしたなんて逸話がどういった経緯で伝わったのかは気になる
そもそも出典は何なんだ

まあ広く一般に流布したのは明治以降で間違いないだろうけど
840人間七七四年:2011/04/09(土) 23:20:50.51 ID:nAV08Rap
出典不明の話って結構あるよな。有名な作家が創作した話がそのまま史実として流布、というのも珍しくなさげ。
841人間七七四年:2011/04/09(土) 23:22:09.51 ID:HLEolBKd
そういえば逸話じゃないけど、斎藤道三のあだ名の「美濃の蝮」は
山岡荘八の創作だそうでw
842人間七七四年:2011/04/09(土) 23:27:52.80 ID:Ol0YDV1f
伊達政宗の「独眼竜」は江戸時代後期から言われ始めたんだっけ?
843人間七七四年:2011/04/09(土) 23:29:07.24 ID:RSc80+p6
中国あたりの過去の英雄のエピソードや逸話を当てはめたものも多いな。
844人間七七四年:2011/04/09(土) 23:46:20.59 ID:KngJwupr
糞漏らしたのは史実じゃなくてお話だろ
845人間七七四年:2011/04/09(土) 23:48:56.06 ID:fIYiFsNB
焼き味噌の話には同時代のソースがなかったのか…
徳川家康三方ケ原戦役画像から、うんこと焼き味噌を想像してできた話なのかな?
846人間七七四年:2011/04/10(日) 00:23:08.98 ID:tLkCR/1M
地元の言い伝えとかそんなもんなんじゃないか。
847人間七七四年:2011/04/10(日) 00:30:05.85 ID:/grdY33d
まあ大正天皇が国会でやらかした逸話とかも当時なら確実に不敬だった
はずだが、広く一般に流布してるし人の噂を封じるというのは難しいもんだな
848人間七七四年:2011/04/10(日) 00:54:44.55 ID:yU4PEo+/
その話も一次ソースがない後世になってから広まったものだけどな
話半分にしとけ
849人間七七四年:2011/04/10(日) 10:58:07.52 ID:FUeFao9e
だがそれがよい
850人間七七四年:2011/04/10(日) 21:01:09.96 ID:ltuJoQyO
上杉謙信は実は女で、近衛前久の妹・絶姫(妙姫)は実は男
2人の間にできた子供が直江兼続
851人間七七四年:2011/04/10(日) 21:14:09.57 ID:oamIdSI3
へー初めて知った
852人間七七四年:2011/04/10(日) 21:15:36.68 ID:PW0djrLR
>>795
「門」だけ除くっていう手もあったかもね
853人間七七四年:2011/04/10(日) 22:04:11.37 ID:gqNsgD11
新城直衛さんですね、わかります。
854人間七七四年:2011/04/10(日) 23:00:19.10 ID:ElT9OsE4
葉隠から部下のプライドへの配慮の話

山本常朝
「中野杢之助が出仕したばかりの頃に、
彼の不正を報告した御目付の者がいた。
それを聞いた勝茂公は杢之助を呼びだされ、
人払いをした上で、
『こんなことを致していると風の噂に聞いたが、
それぞれ事情もあろうが、十分気をつけて仕事をしような。』
と他人をはばかるようにアドバイスしたとのことだ。
杢之助はこのとき勝茂公に追腹する覚悟を決めたということである」
855人間七七四年:2011/04/10(日) 23:07:02.46 ID:oamIdSI3
斎藤杢之助じゃなくて中野か・・・
856人間七七四年:2011/04/11(月) 00:56:06.00 ID:0fCLcM1U
>>838
漏らしたのは茶屋の婆さんに追われたせいじゃないのか?w
857人間七七四年:2011/04/11(月) 00:57:38.45 ID:EIL712g9
藤堂高虎の家来に、平佐牛之介という武士が居た。

大坂の陣の時のこと、この牛之介、伊賀の百姓を足軽にして連れてきていた。
牛之介は自分の連れてきた足軽たちが備に置いて戦闘の緊急事態に対処できるか試そうと、突然

「それっ!敵が出てきたぞ!」

と叫んだ。この時彼の連れてきた足軽たちはみなしっかりと戦闘準備をした。
それを見て牛之介

「今のはお前たちに油断がないか見極めるために、偽りに申したのだ。
いや悪かった。今後はもう二度と。このようにお前たちを試すような真似はしない。」

と皆の前で誓った。するとこの時、足軽の中に一人老人あったのだが、これが進み出て

「はっはっは。ワシも牛之介殿の謀り事だと思っておったが、それでも油断しちゃいかんとほれ、
このように鉄砲の火縄に火まで付けましたよ。他の者はそこまではしなかったようですがね!」

と高笑い。嫌味な爺さんである。


戦争が始まる。牛之介の部隊も城の近くまで攻め寄せた。
と、この時この方面に籠る城方に、元藤堂家家臣、能勢九郎右衛門という者がいた。
能勢は牛之介の知り合いであり、彼が近くにいることを知ると牛之介、なんと仕寄(攻手の境界)の
外まで出て

「能勢ー!能勢九郎右衛門はそっちに居るかー!?」

と城方の人間に尋ねて回った。これには藤堂家の同僚たちも流石に
「牛之介はなんと馬鹿な事をしているのだ」と、戻ってきた牛之介を叱りつけ批判したが、この時
先の老足軽だけは

「いやいや牛之介殿、あなたは少しも問題のあることはしちゃいませんよ。
だいたいあなたくらい若い時には、あのくらい伊達なことをされるのが良いのです。」

と言ったという。
爺さんいい奴である。

そんな、平佐牛之介と老足軽のお話。
858人間七七四年:2011/04/11(月) 01:00:47.30 ID:8nuG0BRh
モデルか、あっちの杢之助は追い腹禁止されてふだらく渡りしたんだったけ
859人間七七四年:2011/04/11(月) 03:23:31.98 ID:wre6UBza
伊賀は百姓もかっこいいね。
昔から独自の自治能力があって、統治者泣かせだったというから
そうとうデキる百姓たちだったんだろう。
860人間七七四年:2011/04/11(月) 09:20:08.09 ID:pqLZfEf6
関ヶ原前夜、諸大名が勝ち馬に乗るべく様々な保険をかけたのはみなさんご存知の通り。
肥前は鍋島家の保険のかけ方はちょっと変わっていた。


6月のある日、鍋島家の重臣葉次郎左衛門が直茂に呼ばれた。

次郎左衛門「殿、なにか」

直茂「ここに銀五百貫がある。お前に預けるゆえ、東海道の村々に行って、ありったけの米を買い付けてこい」

次郎左衛門「はっ。して、その米はいかがいたしましょうぞ。大坂に送りますので?」

直茂「いや、そのまま村々の庄屋に預けておけ。おって沙汰する」

次郎左衛門「かしこまって候」


当時の米一石は銀十匁ほど。つまり銀五百貫で少なく見積もっても三万石は軽く買えた。
こうして東海道各地に買い付けた米は後に東海道を引き返してくる家康に献上され、
東軍諸部隊の兵糧として消費されたという。

鍋島の軍勢は西軍に属して、結構手柄立てたというのに、戦後鍋島家に一切の咎めが無かったのはこの米献上が効いたとされる。

鍋島直茂のちょっとどころではない大変あたまのいい話でした
861人間七七四年:2011/04/11(月) 13:29:42.17 ID:iIZ05fob
買い付けた兵糧をすべて大阪に運び込めば
兵糧不足で東軍の動きが鈍って西軍大勝利、鍋島大幅加増だったじゃね?というのは浅はかか。
862人間七七四年:2011/04/11(月) 16:35:59.11 ID:q+qWzZ/k
在れば助かるけど、しかし有利不利がひっくり返るほどの量でもない気もするがね
863人間七七四年:2011/04/11(月) 17:47:53.16 ID:o+TjW5kS
たった3万石で、数十万石の減俸がチャラなワケ無いと思うのだが、、、
864人間七七四年:2011/04/11(月) 17:58:53.95 ID:pqLZfEf6
>>463

そうした声は当時からあったと言われる。なんといっても、鍋島勝茂は伏見城攻撃に参加してるしね。
常陸の佐竹なんかは表立っての攻撃はしとらんのに常陸ボッシュートだったのに比べりゃ不公平だろ〜、と。

そう言われた家康はこう言ったという。

「お前たちは誰の米食って戦ったと思ってんだ」
865人間七七四年:2011/04/11(月) 18:14:23.02 ID:ipRC2aUC
まあ兵糧以前に、鍋島の場合、直茂がかなり早い段階から家康に接近してて、
言い訳の効く状況だった、という事はある。

あと九州は何のかんので遠隔地だからなあ。江戸に近い常陸とは条件が違いすぎる。
866人間七七四年:2011/04/11(月) 18:31:19.54 ID:pqLZfEf6
>>465

>早くから家康に

確かに直茂は個人的に家康を買っていたのは確からしい。
けども、例えば同じ国持ち大名で遠国なところも一緒な長曽我部さんちの盛親クンは問題無用の領地ボッシュートだったわけだし。
長曽我部さんのとこは小牧・長久手の時から家康の先物買いだぜ?

っていうか島津・鍋島の処遇に比べて長曽我部の処遇厳しすぎだろjk
867人間七七四年:2011/04/11(月) 18:50:47.93 ID:X4WXbWJu
>>866
殿、先ほどからバックパスが長すぎまする
868人間七七四年:2011/04/11(月) 18:51:02.94 ID:ipRC2aUC
>>866
多分おいら宛だと思うので答えるがw

長宗我部は関ヶ原の直後にお家騒動起こしてる。しかも友人である藤堂高虎とのつてを使って
長宗我部存続の交渉をしていた、実兄の津野親忠を疑い殺害する、という形で。
まああの状況の中で権力闘争をやってたのね。

ともかくこれで、それまでの交渉経路を一方的に断絶された家康の側が激怒、
盛親は斬首されるところを井伊直政の説得で罪一等を減じて改易、というのが
土佐没収までの流れだな。

とにかく当時の盛親の、君主としての指導力の無さや立場の弱さが招いた改易だったと言える。
869人間七七四年:2011/04/11(月) 19:12:06.28 ID:tWXZLPcP
佐竹は仕方がない
大事な時に日和見決め込んだ結構な石高の外様が本拠地のすぐそばにいるとか不気味で嫌だろ
870人間七七四年:2011/04/11(月) 19:16:57.95 ID:N53taArO
義宣は殺る気満々だったけどな、佐竹
871人間七七四年:2011/04/11(月) 19:35:34.47 ID:kywsxU/T
佐竹が東軍に付いた場合

外様の大大名が徳川領に隣接しているのを家康は嫌うだろうからどのみち転封

しかし味方した以上加増しないといけないから100万石くらいにはなるだろう
代わりに津軽か九州等におもいっきり遠国に飛ばす

でも清和源氏で100万石とか危険過ぎるよね
いずれ理由を付けて潰されるよ
なら西軍が勝つ方に本領安堵を賭けたほうがベターじゃね?


という高度な政治判断があったとしたのが漫画、雪の峠
872人間七七四年:2011/04/11(月) 19:43:57.95 ID:ipRC2aUC
ぶっちゃけ、佐竹は関ヶ原の頃も未だ洞中体制を脱しきれておらず、当主の義宣、あるいは義重が
決断したとしても、それで即他所を攻められるような体制ではない。

どうしたって徳川が攻めてくるか、よほどの勝ち馬状態にならない限り、武装中立が
精一杯だっただろうね。
873人間七七四年:2011/04/11(月) 20:02:49.58 ID:pqLZfEf6
佐竹のところは義宣が三成と仲良かったのもあるけど、それよか「伊達と協力?ごめんこうむる」だったんじゃないかな?と。
874人間七七四年:2011/04/11(月) 20:08:52.51 ID:hNsF5SVz
それだ!
875人間七七四年:2011/04/11(月) 21:05:24.28 ID:pqHlFajX
佐野さんの改易にまつわる難癖を考えると、佐竹なんて味方になっても
絶対に潰されてた
876人間七七四年:2011/04/11(月) 21:58:19.29 ID:pqLZfEf6
ちなみに佐竹は間違いなく清和源氏だけど、徳川氏が清和源氏という関連でこういう話が伝わっている。

時は1566年。やっと三河をまとめあげた松平家康が突如
「今日からウチは徳川家だからね。そこんとこよろしく」と宣言した。
突然のことに目を白黒させる家臣の前に家康が取り出したのは一枚の家系図。

それによると徳川の御先祖様は八幡太郎の弟、新羅三郎義光の甥の子のそのまた子供の末子らしい。(ややこしいw)
で、その御先祖、義季が上野国徳川郷に領地したことから「徳川氏」と名乗れるらしい。
なるほど、ウチは源氏直系でござったか!武田、今川にも負けない名門でござるな!

感心する家臣一同。

家臣達は知らなかった。その家系図、家康が前関白近衛前久に頼んで、「銀三百貫、駿馬一匹/毎年」の約束で手に入れた、という事を…


家康のちゃっかりした調子いい話
877人間七七四年:2011/04/11(月) 22:17:11.97 ID:OL3Jno1o
地名は得川じゃね? つか、清康の代から源氏を名乗ってるはずだが。逸話だから仕方ないけど。

この辺の逸話が適当に広まって、家康が源氏を突然名乗った、源平交代思想で
織田の次の天下を狙ってたからだ、とかいう話になるのかな。
878人間七七四年:2011/04/11(月) 22:29:31.64 ID:pqLZfEf6
織田の次の天下っていうよか、16松平の中での差別化と仮想敵の今川・武田に対抗するためじゃないかな?
清康の時は国内の吉良さん対策だったけど、確か吉良さんに全力で否定されて引っ込めてなかったっけ?
879人間七七四年:2011/04/11(月) 22:41:35.23 ID:EIL712g9
>>876
> 家臣達は知らなかった。その家系図、家康が前関白近衛前久に頼んで、「銀三百貫、駿馬一匹/毎年」の約束で手に入れた、という事を…

それは徳川の系図云々ではなく三河守叙任のため。
あと家康は徳川姓改正以前から源氏を名乗っているが、永祿9年(1566)の「徳川」への改姓の後は
『藤原氏』を名乗ってる。(藤原家康)
これは家康が望んでいた三河守就任が、朝廷側の「得川氏」の三河守就任の先例が無いと
言う事で頓挫しかけ、そこで近衛前久が「藤原姓徳川氏」なら先例があることを見つけ出し、
藤原氏として叙任させたため。

しかし家康は、そもそも「元信」から松平清康にあやかって「元康」に改名するなど
祖父清康を非常に尊敬しており、清康から始まった源姓松平宗家、というものにも
拘りがあったらしく、天正14年(1586)ごろには源姓に『戻して』いる。
880人間七七四年:2011/04/11(月) 22:53:23.51 ID:pqLZfEf6
>>879

あーそうなんだ。詳しい解説を誠に忝なくござ候。

しかし家康も本姓を源氏→藤原→源氏→豊臣→源氏と動かして、まったく忙しい人だぜw
881人間七七四年:2011/04/11(月) 23:52:43.84 ID:pzaY4RQQ
家康も波瀾万丈の生涯だからなぁ
俺は家康嫌いだけど、人質時代とか信康の腹を切らせたとか凄い苦労してたんだなぁ、と感心しちまう
882人間七七四年:2011/04/12(火) 00:20:52.97 ID:/iBRPO5H
まあ血筋が良くても悪くても官位叙任にあたって本当に必要なのは
金なり武力なりコネなり、そういう実力だからね。

ここで大事なのは家康ないし松平氏に京とのコネクションが着実に
あったということだと思うんだ。
早くから近衛前久と関係を深めていたのもそうだし、室町幕府に対しても
伊勢氏の被官となって以来の世紀を跨いだ古くからのパイプを持っていた。
883人間七七四年:2011/04/12(火) 00:29:39.45 ID:Et+tUtHV
それってつまり血筋…じゃないか?
884 忍法帖【Lv=4,xxxP】 :2011/04/12(火) 07:35:34.99 ID:kf7HHw6Q
>>878
いや、俺がそう思ってるわけじゃなくて、源平交代思想とか征夷大将軍は源氏しか成れないとか
根拠不明の理由で徳川=源氏を名乗る理由をつけてる本が未だに多いよね、って話。
885人間七七四年:2011/04/12(火) 09:08:56.66 ID:On3CxfrW
朝廷も結構故実に疎くて、学者公家が適当ぶっこいたらそれで通るところがあるからな。
886人間七七四年:2011/04/12(火) 10:46:37.88 ID:LaKUvIAJ
謎の老人シリーズ

島原の乱の時のことである。
肥後細川氏の家臣、志水伯耆守元五は総攻め直前、攻め口の前線にいたが、
突然、あることに気がついた

「あ!指物忘れてきた!」

うっかりさんである。
そこで取り急ぎ本陣の小屋に使いをやって、指物を取りに行かせた。

さて、使いが本陣に戻ると、志水の小屋は年老いた料理人が一人留守をしていた。
「おや?どうかしたのかね?」
「いや殿様が指物をお忘れになってな、それを取りに来たのだ。」

と言いつつ指物を見つけると、それを取って帰ろうとした。が、そのとき


「いかーーーーーーーん!!!」


老料理人、この使いの者追いすがると老人にも似合わぬ剛力で、無理矢理にその指物を奪い取る!
そして

「今この時城攻めが始まり城へ乗り入れた場合、その後から指物を持っていくような事態になれば
どうなる!?伯耆守は乗り遅れたかと人々に思われるではないか!!
その危険性を考えろ!」

と叱りつけた。

後でこの話が伝わると、人々はこの老人を『功者の料理人』と呼んだという。

この老人も若い頃は戦場で鳴らした者なのだろう。そんなことを想像させる、志水家の
老料理人のおはなし。
887人間七七四年:2011/04/12(火) 10:50:37.01 ID:plUJtz6h
まあ松平氏は3代当主信光の頃から源姓を称してたって話もあるんだけどな。
888人間七七四年:2011/04/12(火) 18:07:08.98 ID:G5+c9nV+
指物忘れてる時点でどうなんだろうな・・・
889人間七七四年:2011/04/12(火) 18:51:28.45 ID:AlAlghJT
鎧と刀を忘れて褌一丁で戦場に現れる人よりはいいだろう
890人間七七四年:2011/04/12(火) 19:04:58.07 ID:hcb0G+Yb
大名家は分国法に「指差し確認の徹底」を盛り込むべきだ
891人間七七四年:2011/04/12(火) 19:48:13.74 ID:/1hwdDuo
ヒヤリハットとかもな
892人間七七四年:2011/04/12(火) 20:01:42.75 ID:Hv3aLHe5
それは軍法というか歩兵操典みたいなものの域じゃないか?
そういうもの戦国時代にあったかは知らないけど。
893人間七七四年:2011/04/12(火) 20:14:00.50 ID:1CdpWqep
>>891
一歩間違えれば殿中でござるされるのにヒヤリハットもねーよw
894人間七七四年:2011/04/12(火) 21:30:13.85 ID:34KzDPm3
兄「婚姻よし!名分よし!頃合いよし!」
弟「遺言よし!毒味よし!鎖帷子よし!」
895人間七七四年:2011/04/12(火) 23:26:37.40 ID:TQ8ot2yV
>>893
そのかわり、ヒャッハーで勘弁
896人間七七四年:2011/04/12(火) 23:38:59.11 ID:yJ7WHO+M
>>894
わろたw
897人間七七四年:2011/04/13(水) 03:16:06.99 ID:/MNHOddX

「戦国よくある主従の話」
藤堂高虎の生涯最大の苦戦は、大阪夏の陣であった。
徳川家康から先陣をまかされ、奮闘の末討ち取った首級は700を越えた。
しかし、自軍の痛手も大きく、主だった武将70人余が討ち死にとなった。
翌日の先鋒の辞退を申し入れると、家康もそれを受け入れざるをえなかったほどである。


藤堂新七郎良勝は、高虎の従兄弟であり、高虎がもっとも頼みとする勇将であった。
新七郎は両親亡き後、高虎の父に引き取られ二人は共に育った。


大阪夏の陣での戦死者の四十九日の法要が営まれたその日。
高虎は、新七郎の遺族らと法要の膳を囲み、その武勇伝を語っていた。

「新七郎は、戦場を経ること13回、強く勇ましいこと他に並ぶ者はなかった。
毎度大きな手柄をあげ、何度も加増を申し渡したが、一度として頑として受け取らなかった。
夏の陣は14回目の大いくさだった。
いくさの前に二万石の加増を申し渡したが、例によって固辞する。
わしがついに怒ると、
この戦いが勝利しその凱旋ののちにこそ褒美を頂きましょう、と笑っておった。
今となっては、それが何としても悔やまれる!」

そう言うと、高虎は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。
身の丈6尺の大男が、(携帯電話のごとく)その身を二つに折って泣き伏した。
もはや食事どころではなく、ついに膳は取り下げられたという。

亡くすに惜しい家臣はどこの家にもいた。
戦国にいたるところで繰り広げられたであろう、主従の話のひとつである。

898人間七七四年:2011/04/13(水) 03:33:51.66 ID:zyrap50H
(携帯電話のごとく)www
899人間七七四年:2011/04/13(水) 06:39:24.77 ID:8U9yXD3f
加増を断る美談っていたるところに転がってる気がする
こんなに断る奴らがホントにいたなら、美談扱いにされないと思うんだが
900人間七七四年:2011/04/13(水) 07:48:34.18 ID:dwkmYvlX
むしろ加増を断る奴なんてほとんどいないから
美談として残されてんじゃないのか?

そういう話って何万という加増されるケースのうち十数個ぐらいでしょ
901人間七七四年:2011/04/13(水) 09:05:33.36 ID:nhGe1sxn
携帯電話のごとくがつぼに入ったw
902人間七七四年:2011/04/13(水) 09:49:15.81 ID:vebyTZW+
フラグを建ててちゃいかんってことですね^^
903人間七七四年:2011/04/13(水) 09:52:34.25 ID:lAREr/Yb
>897
「俺、戦争に勝って帰ってきたら加増してもらうんだ」
あれ? どう見ても死亡フラグです。本当にありがとうございました。
904人間七七四年:2011/04/13(水) 12:10:26.54 ID:t+JqO3vM
家康さんは主力武将にあんまり加増しなくて、フラグを立てなかったから天下が取れたんだな
905人間七七四年:2011/04/13(水) 12:17:15.25 ID:ZdO2Bo8E
この場合は100%勝ちと思ってたろうから死亡フラグとは違う気も
906人間七七四年:2011/04/13(水) 13:38:42.38 ID:ePXIP9Yz
『先陣?なぁに、楽勝さ。すぐ帰ってくるから、加増の準備して待ってろよ。』

やっぱり死亡フラグだな
907人間七七四年:2011/04/13(水) 13:50:09.07 ID:dhpEzJl1
戦国武者的には日常が常に死亡フラグじゃね
908人間七七四年:2011/04/13(水) 13:55:04.43 ID:aoZPw7Er
何言っても死亡フラグになりそうな時代だったからな
909人間七七四年:2011/04/13(水) 13:55:23.52 ID:qTjb7GqK
>>897
膳下げられちゃったのか。
泣きやんだ後、お腹すいたぁとか言いながら寝入っちゃいそうだな
910人間七七四年:2011/04/13(水) 17:54:38.03 ID:lHKmDvcp
「二度と帰ってこれない大凶の日だから出陣取りやめなさい」
「俺、戦で手柄立てて大国加増してもらうから帰ってこないよ」
フラグを踏み潰す市松、最強
911人間七七四年:2011/04/13(水) 21:42:27.11 ID:XreOXDXI
>>910
さすがでございます!ささ、一献
912人間七七四年:2011/04/13(水) 21:53:26.56 ID:vejKEILy
結構かっこいい屁理屈だと思う
913人間七七四年:2011/04/13(水) 23:02:02.61 ID:mZN9x4Nk
身内だから加増を我慢して貰ったのを自分から断っていたことにしただったら途端に悪い話に!







まあそんなことしたら一門衆でも出ていくんすけどね
914人間七七四年:2011/04/13(水) 23:28:10.35 ID:sW4VnynR
信虎期までの武田一門だったら、他国勢力と一緒に宗家に攻め込むところだ。
915人間七七四年:2011/04/13(水) 23:48:19.19 ID:KdC8KYCR
高虎は関ヶ原でも大谷隊相手に苦戦してたからなぁ。なんつうか、そこそこ強いんだけど、真田とか立花とか上杉のような突き抜けた強さじゃない気がする。

優等生が常に85点〜90点取り続ける。そんなイメージだな
916人間七七四年:2011/04/13(水) 23:59:14.00 ID:/Oy1QzdY
関が原の大谷隊は、後半は死兵モードに突入してたからなあ
できることなら勝負を避けたいところ
よく突っ込んでいったと思うよ
917人間七七四年:2011/04/14(木) 00:49:16.39 ID:EI+VBDhP
松尾芭蕉は藤堂新七郎家の2代目か3代目に仕えてるね。
918人間七七四年:2011/04/14(木) 03:47:47.55 ID:KcSTpi7p
そうだね
919人間七七四年:2011/04/14(木) 10:52:04.35 ID:ZtiEQ3VJ
藤堂さんはそんなに強い兵が揃ってるわけじゃないからな。
戦国時代で強兵と評判がよかったのは甲州に越後、三河、美濃、土佐、九州あたりか。
関東も強いはずだけど、いつもやられ役の北条さんのおかげで弱いイメージがあるな。
920人間七七四年:2011/04/14(木) 11:21:01.09 ID:IyIzAZGi
そういえば、徴兵する国によって士気の高さが違うゲームもあったなぁ・・・
921人間七七四年:2011/04/14(木) 13:51:54.96 ID:bPn4rmA7
>>919
源平の頃から兵は関東、だったはずなのに戦国だと今イチパッとしないよな
近藤勇も近畿の人間は使い物にならねぇ、やっぱ兵は関東!って手紙を兄貴に送ってるし
やっぱ気質としては兵士向きだったんだろうけど
922人間七七四年:2011/04/14(木) 18:09:50.19 ID:xmGitMN+
軍神様が定期的に襲いかかってきて引っかき回されてましたしなぁ…
923人間七七四年:2011/04/14(木) 18:46:32.79 ID:ZzkTuyMN
尾張は武将が揃っているけど、兵士は弱い。
関東は、指揮官がイマイチだけど、兵は強いのか。
924人間七七四年:2011/04/14(木) 18:55:49.97 ID:tgULMNer
関東とひとくくりにされてもな・・・
戦国時代の相模武蔵の兵は確かに他地域にくらべて弱い。
この時代にしては都会っ子になっちゃったんだろうな
925人間七七四年:2011/04/14(木) 20:04:04.35 ID:CNfhhpy3
だが陸戦型モンスターは雑魚雑魚いるんだよな…よくわからん地域になってるな
926人間七七四年:2011/04/14(木) 20:10:48.31 ID:G/rIfqQm
兵士としての質は高いけど郷の独立思考が強いから纏まりにかけてバラバラになっちゃうとか…
927人間七七四年:2011/04/14(木) 20:41:02.53 ID:NexIq582
新戦法に慣れていなくて平安鎌倉ころの戦い方をしているとか
928人間七七四年:2011/04/14(木) 21:42:48.88 ID:KSzbGU2l
そういえば足軽戦法を初めて運用したのは大田道灌って話がある

関東は上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、長尾景春の乱、享徳の乱
と大戦が続発してて戦国時代になる前に疲弊しきっている感じがする
929人間七七四年:2011/04/14(木) 22:29:14.04 ID:xoOjcRDP
>>926
だね。常に関東の中で内紛していて関東の外で戦うことが非常に少ない。
せいぜい、北条vs今川で河東あたりでごちゃごちゃやっていた程度。

>>927
んなわけがない

>>928
だからこそ北条が伸してこれたわけで
930人間七七四年:2011/04/14(木) 22:30:38.44 ID:1QlWxmfk
周りに人気実力ともにちょっと異常な大名家が2つ合ったから
引き立て役になってただけで、弱くは無いでしょ
931人間七七四年:2011/04/14(木) 22:38:28.16 ID:I0Q0kNCW
北条に関して言えば、例えば対真田家では、軍記では真田の連戦連勝のように書かれるが、
実際には第一次上田合戦の後、北条は沼田城を攻め城下まで侵入した挙句、
沼田城からわずか3キロの場所に砦を築いた。

これにより真田の動きをほぼ完全に封じ、北条は当時の主目的である北関東制圧を進めた。
真田はこの北条の砦に、秀吉の北条征伐まで一切手が出せなかった。
ここから見ても北条は非常に強力な軍隊だったことは理解できると思う。
932人間七七四年:2011/04/14(木) 23:00:09.48 ID:ExD2nHRY
関東は日本剣術発祥という伝説があったり、有名な剣豪が何人も出ていたりと個人武勇は優れていた印象があるが……。
933人間七七四年:2011/04/14(木) 23:13:07.92 ID:CNfhhpy3
戦術も無敵であるとU,Oさんからの投稿です
934人間七七四年:2011/04/14(木) 23:13:57.74 ID:rE8evXx+
つまりあれか
自分に自信があるから「やぁやぁ我こそは……」とかやっちゃって
その隙に畿内流仁義なき鉄砲で蜂の巣にされたり
甲斐越後ヒャッハー!流情け容赦ない突撃を食らって負けてる訳か
935人間七七四年:2011/04/14(木) 23:23:13.72 ID:I0Q0kNCW
そもそも「やあやあ我こそは」というような事が合戦の慣習として行われたことは
日本の歴史上存在しない。
というか一騎打ちはごく稀な状況でのみ、偶発的に行われたことに過ぎない。

源平鎌倉の頃でも基本的な戦術は、趨勢な数で敵を取り囲み遠矢でハリネズミにするという物。
元寇でもモンゴル軍はこの日本軍の戦術に散々にやられ上陸できず神風。
936人間七七四年:2011/04/14(木) 23:40:25.83 ID:EdM+K3tE
>>935
日本語でおk
937人間七七四年:2011/04/14(木) 23:41:43.52 ID:tgULMNer
>>935
ソースよろしく
938人間七七四年:2011/04/14(木) 23:59:34.84 ID:O7XYBGht
名乗りをあげての一騎打ちは合戦の最初の儀式みたいなもんだろ
つーか外国人相手にそれをやる鎌倉武士の神経も良く分からんw
三国志でも読んで、外国も一騎打ちが基本だと思ってたんだろうかwww
939人間七七四年:2011/04/15(金) 00:04:56.69 ID:8WscTJVQ
>>937
どれについてのソース?武士の戦術に関しては講談社の日本の歴史シリーズの、
山本幸司先生の「頼朝の天下創世」が詳しかったな。
940人間七七四年:2011/04/15(金) 00:09:02.31 ID:ITjQaNA/
>>938
演義成立は室町幕府成立よりおそらく後ですぜ兄貴。
941人間七七四年:2011/04/15(金) 00:10:10.96 ID:J8zIrcwP
名乗りって味方に見せる意味もあったんじゃね?
942人間七七四年:2011/04/15(金) 00:13:08.64 ID:pN9Qo1Sh
まあ元寇の時日本軍が元軍に名乗りを上げてどうのこうの、なんてのは後世の作り話ですけどね。

実際は土塁や盾で身を守り上陸してきたところに矢の雨を降らして敵がひるむと騎馬突撃、
というようなものだったらしいよ?
元軍はとにかく日本の武士の矢に非常に手こずり恐怖したそうで、そういう報告の記録が残ってる。
943人間七七四年:2011/04/15(金) 00:14:48.80 ID:tzuzFXLS
元寇の時でも名乗りは上げてるでしょ
敵じゃなくて味方にだけど
話が戦国から外れてきとる
944人間七七四年:2011/04/15(金) 00:14:58.04 ID:gppu6zFr
名乗った相手は味方だったんじゃないか話もあったな。
御家人が各地から集結したわけだから。
945人間七七四年:2011/04/15(金) 00:15:18.87 ID:J8zIrcwP
元軍つうても高麗兵と南宋兵なんだよな
946人間七七四年:2011/04/15(金) 00:16:45.32 ID:jdKY4+p3
「偉くなくとも、正しく生きる」

福島には素晴しい偉人が居たんだ(´・ω・`)
947人間七七四年:2011/04/15(金) 00:19:43.80 ID:26VHgID7
モンゴルの定石は
占領した土地の人間を正面前線に置いて後ろから追いたて騎兵で左右に廻り込むという戦法だから
モンゴル人の割合が少ないのは当たり前
あと資料には蒙漢軍でモンゴルと漢人がまとめられてるはずだが
948人間七七四年:2011/04/15(金) 00:35:58.90 ID:Wbau4K+z
>>940
大友もクマも権兵衛もちゃんと三国志演技を読んでいればあんな事にはならなかったのに・・・
949人間七七四年:2011/04/15(金) 00:35:59.62 ID:Wi1nP/pa
戦国時代の巨乳逸話誰かよろしく
950人間七七四年:2011/04/15(金) 03:36:28.38 ID:fzfo+BVj
ブラジャーが無い時代だからなぁ・・・
951人間七七四年:2011/04/15(金) 05:36:52.84 ID:RunRzYYg
演義は読んでなくとも、史書としての三国志は読んでるんじゃないかね
952人間七七四年:2011/04/15(金) 06:35:41.02 ID:izjs4ceD
巨乳ねえ
太い木の上に逃げた男を掴まえようと、両の乳房で木を叩き折ろうとしたら乳房がもげてしまった山姥とかか?
953人間七七四年:2011/04/15(金) 06:45:00.89 ID:iqyJ7Ytf
そういえば数日前に乳で何かを叩き壊してる紅毛人の映像をみたよ
痛くないのかね
954人間七七四年:2011/04/15(金) 07:07:00.96 ID:CO70cBcn
外国人相手に名乗ってもわかってもらえないのでは、なんて思ったり。
955人間七七四年:2011/04/15(金) 10:13:27.92 ID:tAjnIkQR
>>950
美女とか言われてた女御も、タレてたんだろうなぁ
956人間七七四年:2011/04/15(金) 10:17:30.39 ID:rC5SC4SZ
>>955
今ほどおっぱいのセクシャリティは重視されてなかったろうに
巨乳好きの男はいただろうが、江戸時代の女性向けオシャレガイドに
胸を小さく見せるための方法が書かれていたくらいだし
957人間七七四年:2011/04/15(金) 10:19:41.72 ID:O9EUvYXo
北条は内に対しても外に対しても十分な実力とそれに基づく自信があったもんで
平和ボケみたいな感覚だったんだろうなあ。

為す術のない圧倒的な存在について想像力を働かせることも出来なかったんだろうて。
958人間七七四年:2011/04/15(金) 10:20:27.35 ID:tAjnIkQR
口とかあそことか臭ぇだろうからおっぱい一択かと思った
小さい→タレない→美乳? ってことか
959人間七七四年:2011/04/15(金) 10:21:52.56 ID:Mfxgxd6Z
んじゃ戦国時代にあった大名同士の一騎打ちについて

関ヶ原の前哨戦で西国勢が伊勢討伐戦を行っている際のこと。
伊勢討伐戦は安濃津城攻防戦に舞台を移していた。八月二十四日、ついに大手門に取り付いた寄せ手の士気は高く、
備中は鬼身で八万石を領する宍戸元続も最前線に出て陣頭指揮をふるっていた。

と、その時である。サッと大手門が開き、中から城兵が押し出してきた。先頭に立つのは槍を小脇に抱えた一人の壮漢。
この壮漢こそ誰であろう上野城主分部光嘉であった。
分部が名乗りをあげると宍戸が名乗り返し、両者はそのまま一騎打ちに突入した。
二人は槍を合わせ、馬をぶつけ、刀をふるったが、元続は小腹を斬られ、光嘉は股を刺されて、お互い落馬したところで引き分けたと言われている。

信玄・謙信の一騎打ちは作り話だけど、こちらはホントにあった大名同士の一騎打ちな話
960人間七七四年:2011/04/15(金) 11:07:09.16 ID:dlKboS+l
>>927
やーやー我こそはうんたなかんたら
961人間七七四年:2011/04/15(金) 11:27:19.92 ID:c1ulH4TY
射よ! 
びゅ〜〜〜ん
962人間七七四年:2011/04/15(金) 11:47:29.74 ID:5ItBH8Zx
那須与一のアレ思い出した
子供の頃教科書で読んで
子供心にあのオチはひどいと思った
963人間七七四年:2011/04/15(金) 11:59:03.23 ID:c1ulH4TY
義経さん、半端ないからなぁ〜
964人間七七四年:2011/04/15(金) 12:09:10.00 ID:ITjQaNA/
>>951
正史を隅から隅まで探しても、一騎討ちは呂布と郭シの間で起こった偶発的な一回くらいしかないぞ。
965人間七七四年:2011/04/15(金) 12:13:56.38 ID:1muyV1Yy
孫策VS太史慈も正史にあった気がする
とはいえ、一騎打ちなんていつの時代もあまりなかったんじゃないかな

逆に希少な例が今の時代に残ってるんだと思う
966人間七七四年:2011/04/15(金) 13:06:44.80 ID:dlKboS+l
劉備と関羽と張飛が卑怯にも3人がかりで呂布とガチコンやったのって演義だったっけ?
967人間七七四年:2011/04/15(金) 13:53:01.68 ID:RunRzYYg
>>651
知ってるよう
っつか三國志読んだぐらいで釣り野伏せ回避できてたら世話無いよっていうか
隆信を脳みそ筋肉みたいに言われるのが鼻持ちならなくてくて
968人間七七四年:2011/04/15(金) 13:59:43.89 ID:0n0Qf1MS
じゃ、脳みそ熊並 でどうか宜しく^^
969人間七七四年:2011/04/15(金) 14:16:53.06 ID:mkTw3YqV
いまTVで三国志が3シリーズくらい同時進行してない?
前からのTV東京アニメと、BSと、TBSあたりで全部深夜w
中国人は名前が読めないから興味無かったけど
ほぼ同じ内容で良い感じに復習になってる。


あと「へうげもの」ってのも地味に面白いw
970人間七七四年:2011/04/15(金) 14:58:42.22 ID:Mfxgxd6Z
じゃ埋めがてら、そんな肥前の熊さん絡みで。

大軍率いて会戦に臨みながら、哀れ首になってしまった熊さんとその家中。

しかし文字通り全滅してしまったというのに肥前は名将鍋島直茂の統率下、一丸にまとまりその戦意は衰えることがなかった。

「あのオトコがいるかぎりダメでごわっそ」

流石の薩摩隼人たちも諦めて、熊さんの首級を送ることで和解しようとしたという。

その使者を迎えた直茂が

「合戦で死ぬような不運な首は要らん。出陣の門出に縁起でもないし。持ってかえってそっちで始末してくれ」

なんと主君の首を「要らん。」と邪魔もの扱い。しかも薩摩隼人を挑発。オソロシスギル。

薩摩隼人たちも勝手が違ったか、ついには手ぶらで引き上げてしまったそうな。


直茂公ならDQN四天王程度なら片手であしらったくれたに違いない!そんな格好いい話
971人間七七四年:2011/04/15(金) 15:10:31.94 ID:dlKboS+l
>>970
熊さんじゃなくて熊タンなら引き取ってくれたんじゃないかな。
972人間七七四年:2011/04/15(金) 15:27:10.75 ID:26VHgID7
>>970
既出
973人間七七四年:2011/04/15(金) 15:28:50.53 ID:pN9Qo1Sh
埋まる前に新スレたててくるw
974人間七七四年:2011/04/15(金) 15:33:07.78 ID:pN9Qo1Sh
駄目だった。どなたか頼みます

↓スレタイ

戦国ちょっといい話26


↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
975人間七七四年:2011/04/15(金) 16:50:23.09 ID:BcK12vfM
立ててみよう
976人間七七四年:2011/04/15(金) 16:52:42.62 ID:BcK12vfM


戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
977人間七七四年:2011/04/15(金) 17:13:59.00 ID:/fOP8BgW
978人間七七四年:2011/04/15(金) 17:27:27.21 ID:wl9qxT5k
名乗りも派手な装いも目立つためだからね。武士は手柄立てて認めてもらうのが本能みたいなもんだからね。
もっとも蒲生氏郷が一騎打ちして勝ったら信長に軽率だと叱られたり、
派手な旗指物ばかりの若武者達に大阪の陣で徳川家康があきれたり、
例外は探せばいくらでもありそうだが。
979人間七七四年:2011/04/15(金) 17:56:35.63 ID:dccP34Is
結局、熊さんの首はどこ行ったの?
980人間七七四年:2011/04/15(金) 18:02:07.47 ID:aE+5u85H
>>979
諸説ある。
wikipediaによると
「島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった赤星親家の未亡人に引き渡されて
なぶり物にされたとも、島津家久によって願行寺(玉名市)に葬られたとも、
島原の川に流されたとも言われる。」
ってな具合。

赤松になぶりものにされたって話はまとめwikiにもあったかな。
981人間七七四年:2011/04/15(金) 18:16:22.36 ID:JofiGt0B
足蹴にしたから島津が怒ったって逸話ならあったね
982人間七七四年:2011/04/15(金) 18:19:32.34 ID:wl9qxT5k
>>935
文永では元軍は上陸して戦って博多箱崎まで達しているじゃないか。
これに懲りて水際を土塁で固めまくった弘安でさえ一部が上陸して日本軍と戦っているぞ。
983人間七七四年:2011/04/15(金) 18:21:52.46 ID:wl9qxT5k
土塁→石塁
984人間七七四年:2011/04/15(金) 19:00:52.51 ID:pN9Qo1Sh
>>976
ありがとう。埋めがわりに


徳川家康の馬印といえば有名な金の開扇であるが、家康の馬印が扇となったのには
こんな理由があったそうだ。

永禄8年(1565)というから、家康22歳の時のことである。
三河統一を進める徳川家康は東三河の拠点、吉田城(当時今橋城)攻めの軍勢を出撃させた。

さて、その軍旅の途中休憩を入れ、家康は橋の側にあったお堂に腰をかけた。
そこでふと、「これは何のお堂であろうか?」と周りの者に尋ねた。
すると一人が「これは太子堂です」と申し上げる。家康これを聞くと

「さては守屋退治の聖徳太子であるか。なればこれは今日の吉端であるな」

そう言って皆と笑った。と、その時不思議なことが起る。空から開いたままの一本の扇が、
家康のもとにヒラヒラと落ちてきたのだ。
この扇、黒骨に白地であったとも、金地であったとも伝わる。

周りに怪しい者もおらず、皆大変不思議なことだと思ったが、家康は太子の霊験かとも思い
「ふむ…、これを今日の馬印として使おう」
と言い出した。

そして扇を馬印にしたこの日、徳川軍は見事に吉田城を攻略した。
これ以後、家康の馬印は開扇と決まったのだという。

ちなみにこの吉田城攻略の日は、その月の二十日であったという。
この吉田城陥落で家康は三河統一をほぼ確実にしたが、家康はこれを記念し、
徳川家において具足祝は二十日にするようになった、とのことである。

家康の馬印にまつわる逸話である。
985人間七七四年:2011/04/15(金) 22:26:49.33 ID:5uJs87VM
大徳川展で出品番号1だったな
986人間七七四年:2011/04/15(金) 22:41:14.81 ID:CnKEhfPf
大徳川展といえば具足が結構たくさん出品されてて、関が原で家康が着用したとされる
南蛮具足がかなり格好良かった

あと家康が関が原で着用した具足で有名なのは大黒頭形兜伊予札黒糸威胴丸具足
(歯朶具足)だけどこっちは戦の前に大黒天の夢を見たから作ったんだよな

家康吉夢見すぎ
987人間七七四年:2011/04/15(金) 22:58:47.48 ID:NjAxzWvz
大黒天の頭巾の話も有名だよね。
なんか社会の授業では下を向いて暮らせみたいな解釈になってるけど、
本来はイザという時に上を見るために下を向けという教え
988人間七七四年:2011/04/15(金) 23:02:07.42 ID:V0Dm1RmH
しかし昭和後期の日本ですらCカップで巨乳扱いだったのを考えると
戦国時代なんて俎板だらけでBカップもあればかなりでかい方だったんだろうなぁ……

だれか詳しい人はおらんのかね?
989人間七七四年:2011/04/15(金) 23:21:04.42 ID:78081Bck
食生活とかの関係じゃないの?今より平均身長が 10cm以上低かったのと似たようなもので。

あと、その辺の一般ピーポーはどうだったか分からんけど、
武家の女性はきちんと和服を着付けていただろうから。発育しづらかっただろうな。
つか、和服は胸が小さい方が綺麗に見える民族衣装だし。
990人間七七四年:2011/04/15(金) 23:35:10.42 ID:NJFTq5gS
>>940
三国志自体は日本書紀の文体にも影響を与えているようだし、
内容自体は知られていたんじゃね
991人間七七四年:2011/04/15(金) 23:38:41.15 ID:iqyJ7Ytf
寧子は巨乳だったよ。でもお市の方さまは微乳に見えた。
あれいらいオレの貧乳萌えが始まったんだよな…
やはり高貴なひとは貧乳じゃなくちゃね
992人間七七四年:2011/04/15(金) 23:42:02.31 ID:Fj9qM7m/
某かるた漫画で着物は巨乳が楽な服装だと云々
でもあれはきちんと帯締めるの前提だから一般人は違うと思うけど
993人間七七四年:2011/04/15(金) 23:43:06.51 ID:gppu6zFr
ブラとかないからでかいと垂れるんだよな。

>>990
説三分って芸人が宋代にはいたそうだから、日本にも伝わっていたかも?
994人間七七四年:2011/04/16(土) 00:19:01.38 ID:elsCaFKt
戦国〜安土桃山江戸初期あたりの女性の着物(小袖)の着方は
帯を今みたいに胸のすぐ下で締めるのではないと思うので(肖像画なんかであるけど腰で締めてる)、
身体や胸を締め付けてるというより、崩れない程度にゆったり着てるんじゃないかな
江戸時代も現代とは着方が違って、もっと楽に着てるイメージ
(現代の着方もうまく着ればそうきつくないし、結構動きやすいけど)
995人間七七四年:2011/04/16(土) 01:48:21.29 ID:K2oPa+8Z
戦国時代は今でいうと男物の着流し+半幅帯or兵児帯くらいに見える
それでノーブラだからまあ…重力に従って自然に発育したのではないかと推測

大祝鶴姫の甲冑は胸があるそうだけどサムネサイズの小さい画像しか見たことない
どなたかご存じないですか?
996人間七七四年:2011/04/16(土) 01:56:39.25 ID:Jhp2TmsG
100mを3秒でwwwwww
997人間七七四年:2011/04/16(土) 02:41:04.55 ID:Et5OxR+X

みたいに
998人間七七四年:2011/04/16(土) 09:37:54.46 ID:YyQTvtIo
おっぱいでスレ進行加速しててワロタ
999人間七七四年:2011/04/16(土) 10:03:41.87 ID:XYPjieOT
愛知県は戦国武将の史跡だらけ
1000人間七七四年:2011/04/16(土) 10:46:23.92 ID:kEZLn7cC
千召し捕ったり!
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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