戦国ちょっと悪い話25

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2011/02/25(金) 22:29:15.61 ID:0M6nkptL
>>1
3人間七七四年:2011/02/26(土) 16:09:49.64 ID:6iC3lGD7
                        ._                   _
 ドドドドドドドドドドドド!!     |風|               _     |風|
                      |林|   _           .|風|   |林|
                      |火|  |風|        .|林|   |火|
                           |山|   |鈴|           |火|   |山|
               _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|火|          |山|(oノヘ| ̄
               (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
     _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
    (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚ )|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
       |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
      (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ  .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
        ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
      '~ ~(´⌒(´⌒;;  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒;;
                   (´⌒(´⌒;;
4人間七七四年:2011/02/26(土) 17:11:16.96 ID:y+WGegrb
武将親子シリーズ、前田利家と利長


前田利家・利長親子が豊臣秀吉により、伏見城下、宇治川の堤防の普請を命ぜられたときの
ことである。前田利家は『この宇治川の堤防普請は末代までの聞こえとなる!』と大いに満足し
張り切っていたそうだ。

さて、前田家は堤防作りのため土俵を積むのだが、この時利家の方の家中では
あらかじめ集めておいた土俵が少なく、必要最低限しかなかったらしい。
利家のところだけにその辺もケチッたか?w

と、その日の暮方、急に川の水位が上がり始めた。
このままでは土俵を越えて水が溢れ、それまで二日間の工事を台無しにしてしまう!
利家は土俵を次々と積ませた。が、用意していた土俵が少なかったためたちまち底を付き
しかたなく利長のところの土俵まで取って行こうとした。

だがここに利長の家臣たちが立ちふさがる。
「この土俵は我らの方で使う物!勝手に取っていかれては困る!」

考えて見れば利家のところで水位が上がっているということは、利長の担当箇所でも
当然水位は上がっており、土俵が緊急に必要となっているのだ。たとえ利家のところより
余裕があったにしても、簡単に渡せるものではないのである。

が、これに前田利家は激怒。
「お前たちが邪魔をするか!コラー!」と
持っていた杖を振り回しながら土俵の引渡しを拒否した利長の家臣たちを追い回したという。

この事件により利家と利長は何かにつけ対立し合うように成り、両者の家臣たちも
甚だ困り果て、最終的にこのことを聞いた秀吉が出向いて両者を和解させる、という
事にまでなった。


利家利長親子、土俵で喧嘩する、と言うお話。
5人間七七四年:2011/02/26(土) 17:17:47.63 ID:PZ0gVOte
末代までの聞こえになるってんなら、状況に対応できるように多めに用意しとけばいいのに、ホントケチだなあ。
6人間七七四年:2011/02/26(土) 19:03:11.76 ID:6nNecO4J
ここぞで金使う人だったらと思うと…
もったいない
7 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 :2011/02/26(土) 19:08:05.94 ID:1ebSlbHp
太っ腹な戦国武将って派手にばらまいた秀吉くらいじゃないか?
8人間七七四年:2011/02/26(土) 20:05:56.86 ID:KAK0TCIo
いたとしても、秀吉以外は滅びちゃったんだろうな・・・
9人間七七四年:2011/02/26(土) 20:16:28.85 ID:9WtKwsl3
秀吉が太っ腹になったのは天下とってからだな。
織田の武将やってたころは、下の連中から知行が少ないとストライキ未遂まで
起こされてる
10人間七七四年:2011/02/26(土) 20:17:27.08 ID:qd3bTeLU
土俵が足りなかったのもケチったからだなw
11人間七七四年:2011/02/26(土) 20:25:21.31 ID:6nNecO4J
いや、使うべき時に必要な分だけ(不測の事態も考慮した分)使えれば的な意味で言っただけで大盤振る舞いとは言ってないよ。もちろん金があればの話ね
実際金はあった訳だし
12人間七七四年:2011/02/26(土) 21:18:57.53 ID:3388sTKJ
>>4
ttp://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449/104

↑が元ネタだと思うけど、「史籍集覧」所蔵版には「土俵は少なく寄せ候内に」の一文はなく、
「…御満足にて御家中に當土俵集候へば其日暮方に水出来明日は此体に候はば二日の普請を流候…」
となってる。
(もちろん、「利家のところだけにその辺もケチッたか?」なんて↑にも書いてない。)

だいたい、そのすぐ後に書かれてる利家が自分でもっこ担いで土俵運んだ話や、秀吉の仲裁の内容とか
同じ「利家夜話」にある伏見川の普請で大釜をいくつも置いて粥を炊いて人足がいつでも腹の足しに
できるようにした話を紹介しないとか

利家ファンからすると、安易にケチネタで貶めたり揶揄したりしてるように感じる。
13人間七七四年:2011/02/26(土) 21:27:16.76 ID:Xj1CSWd5
半端じゃないケチだからこそ、悪名とは言え後世に名を残せたんだと思うべきかもしれない
14人間七七四年:2011/02/26(土) 21:36:26.60 ID:BIA/7Nor
利家ファンなんて存在する事が驚きだw
15人間七七四年:2011/02/26(土) 21:41:33.40 ID:JTNnzGZ3
>>3

なぜ一本だけ旗指物が違うんですか?
16人間七七四年:2011/02/26(土) 22:33:25.27 ID:KAK0TCIo
>>12
確かに、逸話スレ書いてる人には
古文の読解能力があきらかに低くて誤った解釈をしている人や
それとなくネタを混ぜる始末の悪い人がいる。
それは確かに困ったことだ。

それはともかく、利家のどこが好きなの?
17人間七七四年:2011/02/26(土) 23:32:00.94 ID:2oqZXG3A
いい話のほうに書いてくれるとすごく嬉しい
18人間七七四年:2011/02/26(土) 23:34:10.78 ID:9WtKwsl3
だね。いい話の方に利家の話を書きこんでくれるとバランスも取れるだろうし。
19人間七七四年:2011/02/27(日) 00:15:59.91 ID:roMcOz1f
>>3
それは旗指物ではなく、馬標だからさっ。
20人間七七四年:2011/02/27(日) 00:27:52.14 ID:ZFtXCcQe
異教徒嫌いのフロイスさんから、和製カエサルとまで言われたわれらが五州太守龍造寺隆信、
龍造寺隆信には三人の息子がいて、長男を政家、二男を家種、三男を家信といった。
長男の政家は家督を継いで、龍造寺政家となり、二男の家種は江上氏を継いで江上家種を名乗った。
そして三男の家信は武雄の肥前後藤氏を継ぎ、後藤家信を名乗ることになった。

家信が継いだ後藤氏の領地武雄は、肥前の中央に位置して大村や有馬なんかのキリシタン大名の領地に近いところにあって、
家信の先代の後藤貴明も大村氏からの養子だったり、西肥前の影響も強い土地だったと思う。
そのためか、この家信一度キリスト教に入信しようとしてキリスト教嫌いの隆信にこっ酷く叱られてたりする。

さてこの家信、ほかの兄弟と一緒に肥後に出征したりして活躍してるんだけども、
ご多分に漏れず沖田畷の戦いにも出陣して戦ってるんだな。
結果はまぁ、言わずもがなで、家信もまた命からがら逃げだして所領の武雄に戻り、
武雄城から要害住吉城に、その居城を移した。
たぶん有馬や島津の侵攻に備えたんだろうなと思う。
そこまではいいんだけど、この家信。親父が死んでから弱気になったのかまたキリスト教に入信しようとして、
今度は家臣に猛反発されて閉じ込められてしまったらしい。
和製カエサルの末の息子の、ちょっと情けない話


ちなみに、この肥前後藤氏、家信の息子の代から鍋島を名乗って、後藤家はそこで途絶えてしまってたりする。
武雄鍋島は幕末の蘭学研究とかで頑張ってるし、そこは別に悪い話でもないかななんて思ったりしますが。
21人間七七四年:2011/02/27(日) 18:08:46.74 ID:xSMMZ71R
なんで龍さん家は漏れなく従筋の鍋さんに何事もなかったかの様に臣従したん?
22人間七七四年:2011/02/27(日) 18:26:47.17 ID:3Bm3Jvq3
>>21
臣従したというより、事実上の肥前のオーナー一族である龍造寺一門が
鍋島勝茂をお雇い社長として雇い、めんどくさい事を直茂に全部押し付けたと考えたほうがいい。

直茂は龍造寺一門があまりに勝手に動くので「大名なんて辞めたい」と泣き言を言ってる
書状が残ってる。

鍋島が君主権を確立したのはなんのかんので勝茂の時代。
勝茂が地道に家中改革を行った成果。
23人間七七四年:2011/02/27(日) 18:37:24.53 ID:M0dz7/pX
熊さん家臣の無茶っぷりは、ちょっとスレでも結構見かけるしね〜
もっと勝茂さんは評価されていいのかもね〜
24人間七七四年:2011/02/27(日) 18:59:16.39 ID:c77Pe9IX
龍造寺自体が統治の正当性を主張できるほどの名門でもないしな
25人間七七四年:2011/02/27(日) 19:47:46.63 ID:QrPs821e
天正十年三月、織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟・仁科五郎盛信が篭る高遠城に押し寄せた。
織田軍は、画期的な戦法で高遠城三の丸を難なく落としたが、二の丸で保科正直と小山田兄弟に阻まれた。

「いやぁ流石に名高き槍弾正と小山田備中の子ですなあ。」
「くそ、ここまで来て・・・」
「殿、それがしに考えがありまする。」

なおも激しく渡り合う織田軍と城方の間に、突如織田軍の軍使が分け入った。
「待った!もはや両軍とも兵が疲れ切っておる。ここはいったん戦を止め、とりあえずの和議を結びたい。
保科殿、出ませい!話がしたい。」
これに応じた正直が数人を連れて二の丸を出た瞬間、織田軍が閉めかかる二の丸城門目がけて殺到した。

「なッ!こ、これはどういう事だ!森殿っ!!」
森長可は、平然と答えた。
「どういう事も何も、そういう事にゴザルよ。あっ、そこの保科家のみなさーん!殿様の命が惜しければ、
抵抗しないで城を出て降伏してくださいねー!?」

どうする事もできない保科隊は戦闘を放棄し、もはや戦線を支えきれなくなった小山田兄弟は二の丸を捨て、
本丸へ逃げた。正直は、なおも勢い止まらぬ織田軍と、火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。

「あ、あのー森殿、ウチのカミさんなんかが、本丸に人質として上がってるんですが・・・・・・」
「だからなに?」

“御前は跡部越中娘なり。此節御篭城、春日仁左衛門、伊沢清左衛門付奉る。本城へ火懸りける故
櫓の下へ退け奉る。然れども遁げ奉るべき様なく、其にて指殺し奉りけり。両士も其にて切腹す。”
(赤羽記より)


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-667.htmlとか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4467.htmlとか
鬼武蔵の策はストレートでわかりやすいが、普通の人間には考えつかない斬新?なものばかりである。
26人間七七四年:2011/02/27(日) 20:01:19.69 ID:lYWp09jk
長野県の有名な県歌「信濃の国」の歌詞では何故か仁科の五郎信盛と
名前を間違えられてる盛信さん
27人間七七四年:2011/02/27(日) 20:04:50.26 ID:/unBM87l
三の丸だけじゃなくて二の丸でもやらかしてたのかこの男・・・
28人間七七四年:2011/02/27(日) 20:22:08.60 ID:3Bm3Jvq3
> 「あ、あのー森殿、ウチのカミさんなんかが、本丸に人質として上がってるんですが・・・・・・」
> 「だからなに?」

笑った後恐ろしくなった
29人間七七四年:2011/02/27(日) 20:26:49.63 ID:T3hIjH2I
長可は武辺とかじゃなく、本当に人間のクズだな
30人間七七四年:2011/02/27(日) 20:30:47.31 ID:zdv3KEUf
万が一徳川幕府の時代まで生き残ってたら
まず改易されるタイプですね。
森家は射殺してくれた人に感謝しないと
31人間七七四年:2011/02/27(日) 20:32:51.34 ID:dPVdBXnl
「あ、あのー森殿、ウチのカミさんなんかが、本丸に人質として上がってるんですが・・・・・・」

「それは知らなんだ(嘘)それならそちを先陣に命じるゆえその手で救出して参れ」

とか言われるよりはストレートでいいような気もする・・・
まあ絶対に関わりたくないが
32人間七七四年:2011/02/27(日) 20:49:51.75 ID:PdJoiQKp
保科正直は槍弾正じゃないんじゃないのか?槍弾正は保科正俊だろ
あと保科正直は戦闘放棄して城をおちたとは知ってたけど降伏してたのか?
33人間七七四年:2011/02/27(日) 21:09:13.34 ID:Z0G8ufqP
名高き「槍弾正と小山田備中」の子
という意味ではなかろうか。
34人間七七四年:2011/02/27(日) 21:10:00.18 ID:lNPWpYxh
>>32
「子」は「槍弾正」と「小山田備中」の両方に掛かってる
35人間七七四年:2011/02/27(日) 21:45:51.38 ID:JaOQgoIo
大正発行の逸話集にこんな話があった

秀吉の部下には石田三成、小西行長など天主教徒が多かった。
関ヶ原で敗戦し捕えられた三成は「死ぬのが怖くて捕まったのだろう、武士ならば自殺すべきだったのに」と言われると、冷然として「自分の命は天主に与えられたものであり、天主によって奪われるまでは何としてでもこれを維持させなければいけない」と反論した。
行長は自殺しようとしていたが、天主教の戒に従い、むしろ刑を受けることにより教徒としての苦悩と恥辱を甘受しようとし、黒田長政に頼んで天主教の僧侶との面会を請うが、許可されなかった。
行長は斬られる前に基督の名を唱え、懐より基督の画像を出し、天に向かってこれを捧げた。
政治上重要な位置にいた三成と行長が死んだことは天主教会の大損害であり、またこの二人の死亡により、その領国や部下にいた多くの教徒も失ってしまった。

珍しい石田三成キリシタン説。あと三成は「かつしげ」と読む、とあるんだけど、三は「かつ」とは読まないよね?
36人間七七四年:2011/02/27(日) 21:52:09.52 ID:PdJoiQKp
了解読解力なさすぎワロタ・・・
ちょっと腹切ってくる
37人間七七四年:2011/02/27(日) 22:31:52.51 ID:9fjpSBt7
>>28
逸話を見る限りだと、やっぱり長可って、こういう、自分より立場の弱い相手に
とことん傲慢に振舞うという話ばかりでどうにも好きになれんな。

しかも、ここ一番で何ひとついいところを見せられないまま討ち取られる情けなさといい、
こいつを猛将といっていいのかどうか
38人間七七四年:2011/02/27(日) 22:53:43.83 ID:4D5OwtqH
アンチが付くとは有名になったもんだな
39人間七七四年:2011/02/27(日) 23:03:00.56 ID:XT+Z8cch
喜ばしいことだw
鬼武蔵もさぞや満足だろう
40人間七七四年:2011/02/27(日) 23:04:48.81 ID:AKTMuzPa
>>38
いい悪いスレでブレイクするまで、この戦国板ですら「森長可?ああ蘭丸の兄貴にそんなのいたね」
くらいの扱いだったしなw
41人間七七四年:2011/02/27(日) 23:09:53.46 ID:/unBM87l
江戸期の当主が下衆だけど政局には敏感な忠政で良かったねというのは思います。
42人間七七四年:2011/02/28(月) 01:10:48.46 ID:bbx+moJl
>>35
手元の漢和辞典を引いてみたら「かず」と読む場合はあるらしい>三は「かつ」とは
43人間七七四年:2011/02/28(月) 01:15:30.98 ID:tXFCIk/o
>>42
三成で「かつしけ」とルビがあったのを後世「かつしげ」と読んだ可能性もありあそう
しかし「かずしげ」は可能性あるんだなあ…。ミスターの息子と同名かw
44人間七七四年:2011/02/28(月) 01:15:50.95 ID:QhZGUgjM
>>40
それは無い。小牧長久手というメジャーな合戦で義父共々討ち取られる
という最期は有名だから
45人間七七四年:2011/02/28(月) 01:22:36.15 ID:eRtgfGs4
「森長可」は知られていたけど、鬼武蔵の異名まで知ってた人は相当な戦国マニア
46人間七七四年:2011/02/28(月) 04:33:02.39 ID:1E525M16
鬼武蔵の名は知ってたけど、具体的にどのへんが鬼なのかは、全く知らなかった
47人間七七四年:2011/02/28(月) 04:59:50.54 ID:QdHOViLY
鬼畜って感じ
48人間七七四年:2011/02/28(月) 07:02:49.57 ID:6ROLpAVZ
おに、ってあれか?おに〜ちゃ〜ん、ってやつか?
くりいむレモン、懐かしいな
49人間七七四年:2011/02/28(月) 10:50:05.36 ID:ZGBAUNGQ
もりちょうかと読んでたクソガキ時分の俺
50人間七七四年:2011/02/28(月) 12:12:36.33 ID:zthd5uyJ
もりかなり、もりちょうか、もりただまさ……あれ、一人そのまんまだ…
51人間七七四年:2011/02/28(月) 12:59:37.80 ID:ZH9Vjl1m
>>25
いくらなんでもウソくさい。誰かの不手際を鬼武蔵のせいにしたんじゃないか?
こんなことしたら、信忠に叱られるだろう。
52人間七七四年:2011/02/28(月) 14:46:16.24 ID:8uSE83Tg
織田信長自体がDQNだからな。
たぶん信長とその配下達は今で言う暴走族だったんだろう。
利家も若い頃はDQNだったみたいだし。

で、秀吉は最初パシリとして織田家に入った。
53人間七七四年:2011/02/28(月) 14:53:21.21 ID:ZlDE5p+J
>>44
というか小牧長久手でも、池田勝入のオマケ扱いだったことがほとんどだったと思う。>鬼武蔵
54人間七七四年:2011/02/28(月) 16:49:01.80 ID:Po//oxZc
>>51
「いくらなんでも」って、天皇臨席の馬揃えで殺人事件を起こして無罪放免
だった鬼武蔵だぞ?
これくらいは何でもないだろ。

っつーか、それを言ったら鬼武蔵の逸話は一から十まで「いくらなんでもウ
ソくさい」って言わざるを得んぞ。
55人間七七四年:2011/02/28(月) 17:24:00.35 ID:DfawCu4B
思わず嘘くさいと思ってしまうのが鬼武蔵クオリティ
倫理的には最低最悪だけどそんなダーティなとこが人気なヒール武将
56人間七七四年:2011/02/28(月) 18:15:07.03 ID:vxFgkmup
鬼武蔵って、あまりにも人が良すぎて、いろいろ押し付けられただけだったりしてな。
だとしたら、例の遺書がしっくりくる。
57人間七七四年:2011/02/28(月) 18:40:50.36 ID:hXzNUHdF
そんな馬鹿な・・・
58人間七七四年:2011/02/28(月) 19:37:26.41 ID:gjBUvmQD
蘭丸、力丸、坊丸がイケメン枠で大河?に出たが、
鬼武蔵は存在を言及されただけか
59人間七七四年:2011/02/28(月) 19:49:31.16 ID:uWNGLMXS
言われただけマシだよ
たいていは乱だけだもの
60人間七七四年:2011/02/28(月) 20:35:56.33 ID:x7el8Lin
出場回数で言うなら、四天王内では悪久よりも出番はあるぞ、鬼武蔵さん
61人間七七四年:2011/02/28(月) 22:56:47.25 ID:Dc0G5Ddt
森長可認知度

初級 本能寺でノブと添い遂げた蘭丸の兄弟だって。へー

中級 戦国武将も本当は乱世が嫌だったんだよ。そんな哀しい遺書を残した悲劇の人
62人間七七四年:2011/02/28(月) 23:03:06.06 ID:R0EC0wD9
>>61
上級 猛将で知られ荒れていた人
ココの住人 D Q N
63人間七七四年:2011/02/28(月) 23:19:40.82 ID:x7el8Lin
初級 沖田畷でノブと添い遂げた直茂の息子だって。へー
64人間七七四年:2011/03/01(火) 01:18:05.18 ID:R3akNM3Z
史実をそのまま書いてもアンサイクロペディアネタになるのが鬼武蔵
65人間七七四年:2011/03/01(火) 02:17:58.64 ID:NY+7EYAU
「江」では弟達が森三兄弟として出てて、兄もいますって程度だったけど
「天地人」では名前しか出なかったけど、上杉家のみなさんに恐れられてたよw
66人間七七四年:2011/03/01(火) 11:04:46.18 ID:G6hMI46O
そりゃ戦の勝敗を左右するような局面で死んでるのに
味方の総大将に喜ばれる猛将なんて他にいないもんな。
67人間七七四年:2011/03/01(火) 12:03:00.53 ID:ATZdDqzz
68人間七七四年:2011/03/01(火) 12:57:39.43 ID:/rS6v6et
>>67
左右はいいけど真ん中w
戦場でこんな奴が暴れてたらビビりまくるわw
69人間七七四年:2011/03/01(火) 15:44:00.61 ID:zEDs+gKX
>>66
あれは池田恒興のついでって感じだけどな>喜ばれる猛将
まあ戦後の領土配分についてかなり無茶な要求してたのもあるんだろうけど。
70人間七七四年:2011/03/01(火) 20:32:37.60 ID:pL9MM+1T
今も尾張には森繁和という鬼がいるんだよな
71人間七七四年:2011/03/01(火) 22:01:24.31 ID:ebhvwvvF
鬼だらけだなw
ほんに戦国時代は地獄やで
72人間七七四年:2011/03/01(火) 22:01:55.97 ID:hqvV1BKj
>>無茶な領土分配
kwsk
73人間七七四年:2011/03/01(火) 22:15:07.27 ID:5JYp6s5J
>>72
秀吉「勝ったら遠江と駿河あげるから味方になってよ!」
鬼武蔵「甲斐もつけろ」
秀吉「そこまでは…」

ちなみに当然のことながらこれらは「現在の美濃の領地も安堵した上で」だと考えられる。
74人間七七四年:2011/03/01(火) 22:22:29.74 ID:u7MEPnwY
>>73
結局、家康から美濃尾張を受け取る末路になったのか
75人間七七四年:2011/03/01(火) 22:25:50.97 ID:TH9k78ZG
 
流れ読まずに投下。

毛利輝元には気に入りの僧侶がいた。
その僧侶は、大寧寺の変で大内義隆が山口から脱出する時に一時立てこもった法泉寺
という寺の住職で、法泉寺は大内氏が滅びてからは毛利の支配下にあった。
輝元はこの僧侶とよく気が合い、しょっちゅう城に出入りさせていた。
だが、どうしても手近に置きたくなったTERUは、一計を案じる。
いつものようにかの僧侶を呼び寄せ、料理を振舞った。
「ほら、食べて食べて!」
「では頂きます」
「おいしい?」
「はい、とても」
「声が小さいよ!もっと大きな声で!」
「とてもおいしいです。しかし…」
「ぜんっぜん気持ち伝わってこない!もう一回!」
「 お い し い で す !! それでですね、今食べたコレ、ひょっとして……」
「はい!食べた!魚肉食べたー!いま君の僧侶の資格は無くなったよ!! 還 俗 だ !!!」
「ちょwやっぱりww」
僧侶に隠して、なまぐさである魚肉を食べさせ、無理矢理還俗させてしまったのだった。
かくして僧侶は還俗してその姓の土井氏に戻り、代々毛利氏に仕えることになった。
住職のいなくなった法泉寺は放って置かれたため、そのまま寺は断絶。
今ではもう、地名にしかその名は残っていない。
76人間七七四年:2011/03/01(火) 22:55:22.07 ID:BZzQS7Hi
テルにしては気のきくいい話じゃないのこれ
77人間七七四年:2011/03/01(火) 23:11:44.67 ID:oArg7q/P
なんで修造なんだw
78人間七七四年:2011/03/01(火) 23:16:37.91 ID:gRa5ccaO
騙しで強引で褒められた行為じゃないけど
坊さんの方も満更じゃなかったみたいだし、なんだか微笑ましいな
79人間七七四年:2011/03/01(火) 23:41:20.15 ID:WBG2xNjK
なんだ、今回は1000まで鬼武蔵でいくのかと思った。
80人間七七四年:2011/03/01(火) 23:43:33.98 ID:GMFhZYaz
寺放置しなくてもいいだろw
81人間七七四年:2011/03/02(水) 00:28:56.10 ID:mtgtRlj6
後ほど叔父貴たちにたっぷりしぼられたのか。
82人間七七四年:2011/03/02(水) 01:01:13.52 ID:7kv92AjI
俺はこういう話好きだなー
83人間七七四年:2011/03/02(水) 02:58:27.23 ID:s6uzdoXy
徳川家康の家臣に菅沼藤蔵という人がいた。

美濃明智氏の出身であり、のちには土岐家を継いで土岐定政と名乗ったりする、名前だけでも
いろいろ面倒くさい人なのだが、1歳の頃美濃守護土岐頼芸と斎藤道三の戦いで父明智定明が
討ち死にしたため、外祖父である三河の菅沼定広の元に落ちのびた。

彼は周辺の影響を全身に受け成長し、やがて武勇の誉れ高い武士となった。
彼の名を聞いた豊臣秀吉が「目通りを許す」と言ってくると

「私は主君を二人も持った覚えはない!」

とバッサリ断るような、こちらの方でもいかにも面倒くさい、立派な三河者となっていた。

さて、そんな徳川家でも名の知られた武辺者、菅沼藤蔵がとある徳川家中の寄合に出たときのこと。
藤蔵の元に、初めて見る一人の若者が挨拶に来た。彼は名を津田長門守と名乗る

「津田?…ええと、もしかしてそなたは、津田犬斎殿と何か関係があるのかな?」

「はい!津田犬斎は我が父でございます!」

「おおそうであったか。それでは長門守殿…」

ここで菅沼藤蔵、誠意が満面にあふれた顔でこう言った

「ならば、親父殿に似てはならぬぞ!」

「は?」

「そなたの親父殿は長久手の時の有様はこのように悪かった!どこどこの合戦の時には
このように良くなかった!またなになにの戦いでは…」

菅沼藤蔵、津田犬斎の失態を滔々と語り出したのだ。よりにもよってその息子の目の前で、
しかも家中の者たちが集まっている中で。

しかし藤蔵は嫌味や嫌がらせでそう言っているのではない。表情を見れば、どうやら本気で
津田長門守を心配して言っているようなのである。しかし寄合の席の真ん中で、家中を代表する
歴戦の勇者から自分の父親を散々にdisられている長門守はたまったものではない。
衝撃のあまり気が遠くなりそうだわ恥ずかしいやら泣きたいやら悔しいやらで、もう真っ青である。
しかし残念ながら藤蔵はそんな感情の機微が解る人間ではない。
なおも菅沼藤蔵の「津田犬斎糾弾オンステージ」は止まらない。
寄合の座は凍り付いている。

…と、さすがの三河武士たちもその空気に耐え切れなくなったとき、近くにいた者が突然、いかにも
わざとらしい大声で

「やあやあ久しぶりだな菅沼殿!ああっ、こちらにいるのは津田長門守殿じゃないか〜!
君のお父さんにはいつも戦場で大変お世話になって〜」

などと大げさな挨拶で割り込み無理矢理藤蔵の口を止めさせた。

と、ここで菅沼藤蔵、はじめて周りがどん引きしていることに気がついた。
そしてどうも自分の言ったことを、ここでようやく恥ずかしく思ってしまったらしく

「ど、どうも私は酒を飲み過ぎて酔っ払い、色々とあらぬ事を申してしまったようだ。
どうか許していただきたい」

と、津田長門守に頭を下げたそうである。

菅沼藤蔵、ちょっと言い過ぎる。と言うお話。
84人間七七四年:2011/03/02(水) 05:16:22.92 ID:F5TVR5dh
>>74
身の終わり?
85人間七七四年:2011/03/02(水) 05:20:24.10 ID:F5TVR5dh
>>83
仲介に入った武士の大人パワーに注目すれば、ちょっと良い話だな
86人間七七四年:2011/03/02(水) 05:37:31.38 ID:mveDh0CT
>>40

それは「新たな可能性・森武蔵守長可」三連発かなんかの逸話投稿から始まった……

ちょっとした歴史ドラマでありますな(
87人間七七四年:2011/03/02(水) 05:47:49.14 ID:mveDh0CT
>85
純「で、そのとき気を利かせた方は一体どなただったのです?」

サド「……」
88人間七七四年:2011/03/02(水) 11:16:40.64 ID:chR+JK1L
三河武士って本当に頑固で偏屈だけど、こういう純朴なところがあるから好きだわ
89人間七七四年:2011/03/02(水) 12:55:51.28 ID:866MsxVz
悪気の無い分たちが悪いw
90人間七七四年:2011/03/02(水) 18:27:29.90 ID:63FreNwB
>>83
三河にそんなスマートな仲裁のできる男がいた・・だと・・・?
91人間七七四年:2011/03/02(水) 18:39:35.60 ID:KAYEnTmt
武田系かもよ
92人間七七四年:2011/03/02(水) 23:12:05.19 ID:Fg4tFgAf
>>87
それは普通に気になるだろ
93人間七七四年:2011/03/04(金) 01:06:12.88 ID:DaM4afsh
徳川家康の家臣で、横須賀衆の一人として活躍した久世三四郎広宣はある時、こんな事を言った。

「侍というものはな、緊急の場合は具足をつけずにいち早く戦場へと駆けつけるべきだ。

何故そうした方が良いかといえば、
もしそこで討ち死にした場合、その者は後々にまで

『さてさてなんと甲斐甲斐しい者であろうか!すはだ(これは具足をつけないという意味。裸ではない。
念のため)にて戦闘に参加し討ち死にするとは!』

と讃えられるであろう。
それに、逆にそれで武功を上げれば、なお一層のご褒美にあずかれるではないか。」

死んでも良し。生きても良し。命はあくまで賭けもの。
戦国時代の武士の価値観をよく表す逸話であろう。
94人間七七四年:2011/03/04(金) 01:18:22.32 ID:ZuT4Zpjt
上杉謙信はある夜、琵琶法師の石坂検校の語る平家物語を聞いていた。謙信は平安時代末期の武将である
源頼政による鵺退治の話になるとしきりに・・・・

(´;ω;`)「うっ、うう・・・」涙を流した。

( ゚д゚)  「殿、何故その様に涙を流されるのですか?」

(´;ω;`)「だって源義家は、弓の弦を鳴らして自身の名を名乗るだけで物の怪を退散させたのに、
      頼政は物の怪を射落とさねばならず、しかも家臣である猪隼太にトドメを止して貰わねばならなかったんだよ?
      義家から40余年余りでこれだけ武徳が衰えてしまったのだから、450年がたった今はもっと衰えているだろう?
      それを思うと悲しくて、思わず涙が出たのだ・・・・」

( ゚д゚)  「・・・・・・」

謙信の中では、止めを家臣に刺して貰ったとはいえ、仮にも鵺を退治した頼政よりも追い払っただけの義家の方が上だということらしい。
この評価をあの世の頼政はどう思うのだろうか。謙信公、平家物語に思いをはせたお話。
いい話の方に書こうかとも思いましたが、頼政さんには気の毒かなと思ったのでこっちに。


95人間七七四年:2011/03/04(金) 01:27:35.55 ID:VFvhSHj8
ノブヤボの付録にあったような気がする
96人間七七四年:2011/03/04(金) 01:29:50.42 ID:XeU2gBBv
さすがは将門公を退治したデビルバスター謙信さん。言うことが違うでぇ
97人間七七四年:2011/03/04(金) 02:40:23.38 ID:9WfUWc3r
>>93 相変わらずマンドクセー家康家臣団
98人間七七四年:2011/03/04(金) 02:44:05.59 ID:9WfUWc3r
惟当さんがデビル退治と聞いて進軍し始めました
99人間七七四年:2011/03/04(金) 02:59:33.56 ID:2WbwTsR7
討ち死には自分のためじゃなくて家のためだもんな
100人間七七四年:2011/03/04(金) 09:22:18.07 ID:bhf90CIK
頼朝「俺だって神号もらってるんだからペルソナに出演したって…」
101人間七七四年:2011/03/04(金) 20:01:46.62 ID:7dC1Ysmi
まあ関東管領名乗っても結果を出せず
軍を率いて武名を顕しても何も残らなかった人だし…
102人間七七四年:2011/03/04(金) 20:19:13.19 ID:xWYmarfr
>>94
天徳寺宝衍の逸話と似てるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-301.html

謙信はやっぱり鵺とか実在することを信じてたのだろうか
103人間七七四年:2011/03/04(金) 20:30:17.39 ID:nEYEzGYP
>>93
徳川と聞いただけでめんどくさいと考えてしまう自分がいる・・・。
俗に言う鬼武蔵=わるいはなしの方程式である。
104人間七七四年:2011/03/04(金) 20:35:54.79 ID:uPg+p9gC
ブラック大名家
武田家は他のどの勢力と比べても、中級武士の討ち死にが多かったという。
それは父の戦死による家督相続が名誉と褒賞の対象とされたことも一因だったらしく、
信玄末期にはこれが流行となり当主が三代続けて討ち死にする家まで出たので、
勝頼期に大問題となり、老人や病人、隠居の侍が陣に入ることを禁じたのだという。

三代続けて、となると三井家くらいしか知らないんだが、いっぱいいたのだろうか。
105人間七七四年:2011/03/04(金) 20:43:49.02 ID:SKRBElN7
戦場で一番死にやすいのは軍曹
106人間七七四年:2011/03/04(金) 21:05:27.23 ID:7dC1Ysmi
織田もかなりブラックだと思うけどな使い捨てで燃費が悪くなるとクビだし
徳川は給料安くて有名だし大友は寝取られ厨でもなきゃやってられないし
働きたくないでござる!!!
107人間七七四年:2011/03/04(金) 21:38:27.06 ID:v6quJK4Y
年取ったり病気になったら死ぬために合戦に行くのかよ・・・
修羅の土地過ぎるぞ甲斐
108人間七七四年:2011/03/04(金) 21:39:57.68 ID:uPg+p9gC
>>105
俺は少尉・中尉あたりが死にやすいと聞いたな。傭兵中心だったり戦国時代だともっとそうな気がする。

三田村曰く、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」
というし、もう少し上の階層だと思う。騎乗の士だろうし。

例えば三井家の軍役ってどれくらいだったんだろう。
109人間七七四年:2011/03/04(金) 21:43:00.21 ID:76aBuW0o
三代討死はともかく、山梨の旧家の家系図には、戦国時代にはやたらと、
当主や嫡男の討死が書かれているらしいですなw;
110人間七七四年:2011/03/04(金) 21:47:28.50 ID:xWYmarfr
山梨県に現存する家系図は99%以上江戸期以降の捏造だ。
信玄に過去の栄光を託して、ってこと。
あの県はちとやり過ぎだね
111人間七七四年:2011/03/04(金) 21:50:52.32 ID:Gw7Z1YX3
三河武士は麻薬やってたんじゃないかってくらいにキチガイ
112人間七七四年:2011/03/04(金) 21:58:06.02 ID:61EnC0OC
>>109
武名が高い割りに長篠、第四次川中島、戸石崩れ、上田原
高天神玉砕と結構大敗を経験してるので、さもありなんかと
113人間七七四年:2011/03/04(金) 22:38:06.58 ID:AwI51e7r
>>112
立花道雪は、生涯不敗とか言うけど、結構負けてるし、龍造寺に降参もしてる。
114人間七七四年:2011/03/04(金) 23:39:52.72 ID:TqILmpkI
>>100
源平討魔伝のラスボス枠で我慢しなさい
115人間七七四年:2011/03/05(土) 00:14:33.58 ID:JxvJNYUD
関ヶ原の折のこと。
加藤嘉明、黒田長政、細川忠興の三人は何故だか家康の本陣でのんびり戦況を観察していた。

するとこの時、先鋒の福島正則隊が敵に追い立てられ、次第次第に不利になるのが見えた。
これを見て加藤嘉明、イライラとした表情で

「福島隊の連中、みっともねえなあ」

と吐き捨てる。それを聞いた黒田長政もイライラ(と言ってもあの仏頂面なので表情の変化は
よくわからないが)しながら

「全く見苦しい限りだ。
俺は加藤肥後守(清正)とは仲が悪いけど、それでも肥後守ならあんなみっともなく
追い立てられることはないだろうよ。」

と、言い放ったという
細川忠興は特に発言しなかったという。
(武功雑記)

まあ加藤黒田細川の三人が決戦の真っ最中に家康の本陣に居る段階で、後世の創作
なのでしょうが、しかし長政と清正が仲が悪いというのは、どこから出た話なんですかね?
そんな事を色々考えさせる、加藤嘉明黒田長政、関ヶ原の真っ最中に正則を盛大にdisる、
と言うお話。
116人間七七四年:2011/03/05(土) 00:53:25.11 ID:Kalm266D
>>115
清正は如水とは仲良いんだけどな。
親父が強烈すぎて清正長政と絡む資料の記憶がない。
まぁ長政は清正の性格は嫌いだが武人としては尊敬するって感じなのかな?
それか親父窓際にした親秀吉派の小飼を良く思ってないかか
117人間七七四年:2011/03/05(土) 01:34:56.54 ID:uKU2ELl4
関ヶ原の時点なら加藤肥後守じゃなくて主計頭だよな
118人間七七四年:2011/03/05(土) 02:00:58.29 ID:FeWzAFWg

>>115
> 黒田長政

こいつは鉄砲隊に島左近を狙い撃ちさせてたような。
本陣でのんびり茶をすする暇はない
119人間七七四年:2011/03/05(土) 02:33:55.06 ID:952KNXTC
>>104
三井家は四代続けて(最後の一代は小牧)だった気がする。

>>112
旗本として存続した武田マサマサさんちも、三代連続ではないがなかなか。

信正
岩崎信正とも。跡部氏との戦いの中、小川原合戦・馬場合戦で武田氏は二連敗。親戚一同と共に討ち死に。

正信
油川の乱、福島氏の乱入で活躍。信虎の追放に小畠虎盛や原虎胤と共に猛抗議、籠城して(?)最後は切腹。

正昌(まさまさ?)
上総・真里谷の外交、鷹の強奪などで活躍。晴信期は冷遇。出家ブームで宗沢軒と号し隠居→後ほど再登場

七右衛門
初陣で六つの兜首を取る。第四次川中島で先鋒を進み、奮戦するも傷を負って翌日死亡。享年22歳。

正馬(まさま?)
兄の死により家督を継ぐ?長篠で戦死。

正昌
まさかの再登場。武田崩れ中、田野か上野城で各務家の侍と弓合わせをし、討ち死に。晒し首に。享年85、別史料で80。

正忠
七右衛門の子。武田滅亡後、家康の鷹番となり、口げんか相手に。武功などもあって1000石取りの箪笥奉行に。
120人間七七四年:2011/03/05(土) 02:42:37.01 ID:952KNXTC
あ、よく読んだら七右衛門の諱は正俊らしい。追加というか訂正というかします。
121人間七七四年:2011/03/05(土) 09:30:12.64 ID:xlrhQVcJ
箪笥奉行て何してん?
衣装の管理だろうか。
武功の士のお役目とはとても思えない。
122人間七七四年:2011/03/05(土) 13:15:01.82 ID:SZrYhHi5
鉄砲箪笥奉行のことかな
文字通り鉄砲の管理の役目
123人間七七四年:2011/03/05(土) 16:53:10.00 ID:x8Ndvuks

征夷大将軍として幕府を開いた徳川家康は、江戸を秀忠に任せ、伏見に滞在する
事も多かったという。

ある時、家康が江戸から上京した時の話である。
家康に先立って都入りしていた西日本の諸大名は、将軍を出迎える為に京の入り
口に集合していた。

そこに、三十人ばかりの侍を率いた輿がやってくる。
「家康公に先立って伏見に入る先遣隊だな」
そう思った諸侯はそのまま輿を見送ったのだが、通り過ぎる際、輿の中の人物は
大名たる彼らに対して挨拶の一つもない。

「なんだありゃ。随分と愛想のないものだな」
「本多正純辺りではないのか?」
「うむ、奴ならやりそうな事だ」


輿が通り過ぎてしばらく、ようやく本隊と思われる行列がやってきたので、諸侯
は彼らと挨拶を交わし、
「あの先遣隊はどなただったのです?」
「それに家康公はいずこに?挨拶をしたいのですが」

「……先遣隊?何の事です?と、いうか、家康公をお迎えに来たと仰るが、何故、
皆様方はここにおられるのです?家康公は先程ここを通られたと思うのですが……?」

「えっ!?」
「じゃぁ、先刻の……」
「あれが家康公の行列!?」

慌てて後を追った諸侯達が、家康に追いついたのは伏見城のすぐ側であったとい
う。


ちなみに京に入る前の道中でも、二〜三十騎程の小勢で進み、時には家康自身も
馬に乗り、片手で手綱を捌きながら酒をあおり、小唄を歌っていた事もあったと
か。


随分とフットワークが軽いと言うか、緊張感のない家康さんの上京行列のお話。
この頃はまだ、大坂に豊臣が居た時代だった筈なのにね。
いい話だか悪い話だか判らないけど、お迎えの諸侯の面目丸潰れという事で悪い
方に投下しとく。
124人間七七四年:2011/03/05(土) 16:57:45.85 ID:952KNXTC
>>121
手元の史料にありませんが、子孫が四谷の鉄砲屋敷で失火して謹慎とあるので鉄砲かと。

あと分家は、お約束の鷹の管理だった模様w
125人間七七四年:2011/03/05(土) 18:06:38.78 ID:crWmIRUI
>>123

本多正純の諸候からの印象が悪い話
126人間七七四年:2011/03/05(土) 20:14:37.17 ID:/w5bRdoR
>>123
こんな感じかw

西国諸侯「ば、ばっかも〜ん!さっきのが御所様だ!」
家康「へへっ、アバヨ西国諸侯!」
127人間七七四年:2011/03/05(土) 21:08:51.36 ID:afOlX3Fr
4代戦死といえば、関ケ原で桶屋に腹切らされた伊奈昭綱は、
忠基:姉川で戦死
忠政:東条攻めで戦死
昭忠:美濃で戦死
昭応:小牧役の蟹江城攻めで戦死

と4代続けて戦死した家の5代目なので、家康も相当苦渋の決断だったようだ
128人間七七四年:2011/03/06(日) 00:02:01.79 ID:5WXiAMp/
鬼武蔵の兄弟も全員討ち死にw
129人間七七四年:2011/03/06(日) 00:05:56.95 ID:ZGjrEx4e
少弐さんほどではないが戦死する一族だなぁ
130人間七七四年:2011/03/06(日) 01:54:00.12 ID:7XA1TTOr
有名な話ですが多分未だ出てないので

慶長19年(1614)、大阪冬の陣が起こる。
土佐山内家当主・山内対馬守忠義も、当然これに参陣するため大阪へと向かった。

さてこの頃、毛利豊前守勝永は関ヶ原による改易の後、同じく土佐の、前藩主一豊の弟、山内修理亮康豊の元に
お預けとなっていた。ちなみに土佐でのお預けの最中、一子勝家まで生まれている。

まあそんな中大阪冬の陣の勃発と忠義の出陣を知った勝永は大いに焦った。
そして留守居をしている康豊の元に赴き、一つの書類を見せた

「これをご覧になってください」

「ん?一体…  なっ!? …こ、これは!!」

なんとそれは藩主山内忠義が毛利勝永に渡した、衆道の契を交わした誓紙であった!ちゃんと忠義の判まで
押してある!

「僕達、そう言う関係だったのです!」

「い、いつの間に!?」

康豊は驚愕した。言ってみれば『あなたの甥っ子の忠義くんと僕、実は結婚してるんです!これ結婚証明書!』
と、突然告白されたようなものである。いや、時代的にもっと重い意味があるかもしれない。

ともかくそんな衝撃の告白をした上で、勝永は未だ混乱している康豊に言う

「僕とそう言う関係である対馬守(忠義)くんが大阪に出陣したそうです!ならば僕は戦場において愛する対馬守くんを
助けなければならない!
そういうわけで大阪に行きますがとにかくそう言う関係なので見逃して下さいうちのクソ息子人質に
置いていきますから!!」

突然の衝撃に頭がぼーっとしている間にこうまくし立てられ、老練の武将である康豊も思わず、

「わ、わかった。他の場合ならともかく二人がそう言う関係ならしょうがない。大阪に行って対馬守を助けてくれ」

と、なんだか両親は絶対反対してるけどもう妊娠してるんだから結婚認めてくれるよう親を説得してくださいと
言い出された親戚みたいな気分で許可を出してしまった。
何というか、いつの時代も愛は理屈を吹っ飛ばすのですね。

そこで勝永は大喜びで船に乗り、出港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで
親子一緒に出港、そして先の「愛する対馬守を〜」の言葉はどこへやら、豊臣秀頼の招きに応じ堂々と
大阪城に入城したそうである。

しかしこの脱出劇でその愛をまんまと利用された山内忠義の心はいかばかりだったのか?
もしかしたら夏の陣の時暴風雨を理由に土佐に引きこもったのは、この時の心の傷が原因だったんじゃないか?
ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永!
なんてことをふと思ってしまう、大坂の陣毛利勝永、土佐脱出の一席。
131人間七七四年:2011/03/06(日) 02:11:28.07 ID:7XA1TTOr
>>130
ああ間違えた14行目

×あなたの甥っ子の忠義くん
○あなたの息子の忠義くん

申し訳ない
132人間七七四年:2011/03/06(日) 02:37:44.10 ID:7fqbhVQQ
>>130

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1860.html

ここで軽く出てるのの詳細版ですな
きっちりお詫びに来る毛利さんは律儀というか何というか
133人間七七四年:2011/03/06(日) 07:02:09.28 ID:ew8yZ6Zo
山内家としては勝永を派遣することで豊臣に義理を立てておいて、
表向きは斯様な脱走劇があったと徳川に言い訳を……

……いや、もうちょっとマシな理由を考えるか。
134人間七七四年:2011/03/06(日) 09:05:32.01 ID:Wd6fecG5
港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで

なんか嬉しいなw親子一緒 
135人間七七四年:2011/03/06(日) 14:47:56.16 ID:FUYxwLv7
毛利勝永が正当に評価される時代は来るんだろうか・・・
彼の話題が出るといつもそんな気持ちになってモヤモヤしてしまう。
136人間七七四年:2011/03/06(日) 15:16:33.47 ID:wHsYteyK
2chでは過大評価だがな
137人間七七四年:2011/03/06(日) 15:26:18.22 ID:esYYv5G6
織田、豊臣、明智、斎藤、竹中って名前の奴はロープウエー無料らしいぞ ※徳川は有料
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1299375775/
138人間七七四年:2011/03/06(日) 18:40:52.86 ID:bM/Nqld4
池田さんの事も忘れないでください。
139人間七七四年:2011/03/06(日) 18:46:13.02 ID:wHsYteyK
忘れてないだろ。記事を読め
140人間七七四年:2011/03/06(日) 22:20:30.79 ID:ASvWCwtb
豊臣家五奉行の一人として有名な前田玄以。その後を継いだ三男、前田茂勝は馬鹿であった。
近江国水口で宿の主人と乱闘していた侍を通報された捕り方が捕らえ、幕府の代官所にひっ立てていくと
これがなんと丹波八上5万石の当主前田茂勝であり幕府代官も大いに驚いた、と言う話も残っている。

が、そのうちこの茂勝、馬鹿なだけではなく頭がおかしくなった。先の話からも解るよう、もともと喧嘩っ早い
粗暴な人格だったようだが、そのうちに人を殺すのが大好きになったのだ。しかも家臣を。

ある時、茂勝はお気に入りの側近たちと共に自分に諫言した家臣、畑平太を成敗。一同返り血を浴びた
凄惨な姿で居城へと凱旋した。
そして「オメーら一働きして腹減ったろ?飯食ってけ!」と粥などをふるまう。

と、その飯を食ってる最中に勝茂がふと思いついた

「なあオメーら、人、殺し足りなくね?」

「えっ?未だなんかあるんですかい!?」

「渡部小大膳の奴居るだろ?あいつも何かとオレにうるせーんだよ。こいつも成敗しにいかねえか?」

と、その言葉が終わるのもまたず、近習の林治部衛門ともう一人が粥を投げ捨て渡部邸へと駆け出した!

「ヒャッハー!また殺れるぜ!一番乗りだお先に!!」

こんなクズみたいな君主に唯々諾々と従っている連中も、勿論例外なくクズである。他のものも
「クソッ!あいつらだけにおいしい思いをさせてたまるか!」と、まさに血に飢えた狼のごとく一斉に後を追った。

さて、渡部は必ず茂勝が自分の命を狙いに来ること予期しており(もうそう言う覚悟しないと諫言も出来なかった
わけですな)屋敷の防備を厳重に固めていた。そこに先の林治部衛門ともう一人が到着、早速塀を登ろうとする。
ここを守っていたのが渡部小大膳の息子小作、彼は矢をつがい塀を登ろうとしていた林の同僚の方を
射落とした!しかしその隙に林は塀を越えて乗り入る。小作は火薬に火をつけて投げつけるなど大いに抵抗したが
遂に討ち取られた。

そしてこの間に後から来た連中も渡部邸に乱入。渡部は座敷に居、その手前に家臣がいて彼を守っていたが、
これに藍川喜左衛門ともう一人が踏み込み,
みな打ち殺したという。

こんな前田茂勝だが、当然ただで済むわけがなく、これらの事を知った幕府は多くの家臣を殺した罪で茂勝の
所領没収、改易。堀尾忠晴の元で生涯身柄預かりとなった。
ちなみこの茂勝、熱心なキリシタンでもあったという。


前田茂勝の家臣成敗についてのお話。
141人間七七四年:2011/03/06(日) 22:54:46.17 ID:dQ0bLJLh
殺し足りないんじゃないかと普通に聞いてそれに食いつくとか…
こういう会話があるのが戦国なんだなぁ
142人間七七四年:2011/03/06(日) 23:00:17.01 ID:iDorGr4e
三歳「家臣を斬って何が悪い!」
143人間七七四年:2011/03/06(日) 23:16:56.10 ID:HLL1r5MZ
家臣は大根のごときもの
スパスパ切られるのが本分にござる
144人間七七四年:2011/03/06(日) 23:36:20.58 ID:BGEMq9jh
信虎「俺も若いころは良く家臣を手打ちにしたものよ。まあ今でも衰えてないけど」
145人間七七四年:2011/03/06(日) 23:36:28.31 ID:BXaMRo++
玄以も長男追放した後に次男正勝じゃなくてなんでこいつをチョイスしたのか理解に苦しむ。

追放した長男と同じくキリシタンだし面倒臭いだろう。
146人間七七四年:2011/03/07(月) 00:15:10.79 ID:H6+dDlj/
>>144さんは甲斐入国管理局から入国を拒否されました。
147人間七七四年:2011/03/07(月) 00:19:09.12 ID:WTXioAj3
前田玄以「勝茂なら仕方がない」
148人間七七四年:2011/03/07(月) 00:22:35.59 ID:WTXioAj3
前田玄以「ごめん勝茂殿、息子の名前間違えた」
149人間七七四年:2011/03/07(月) 16:38:15.75 ID:6u7A28X8
やめろよ!また勝茂が直茂に怒られるんだから!
150人間七七四年:2011/03/07(月) 17:23:42.44 ID:S0PMf4f/
黄八幡・北条綱成の家臣に、中田與三という人がいた。
この中田さん、綱成麾下でも武功の士として知られた男だったのだが、北条家の没落後牢人した。
しかし新しく関東に入ってきた徳川家康の旗本、石谷十蔵と知り合いであったらしく、石谷が新たに与えられた
200石の所領に、その管理人として住むこととなった。

さて、時に石谷の所領というのは、元々600石の土地だったものを三つに分け、その一つを与えられたものであった。
石谷はそこを中田に任せっぱなしにしていたのだが、ある時初めてその土地の見廻りに行った。

…と、そこで石谷は大いに驚いた。三つに分割されたその土地のうち、隣などはよく整備され松山なども出来ているのに、
自分のところは恐ろしく荒れ果てているのだ。
さすがにあきれ果てた石谷は

「與三さん、これじゃああんたに預けた意味が無いじゃないか!せめて植林や接木くらいはして置いてくれれば…」

と愚痴ると中田

「いやいや、そう言うことではないぞ!
貴殿は今の今まで、自分がもらった所領がこんな腐りきったところだとは思いもよらなかったであろう?
それなのにわしがこの土地を立派に改良してしまえば、最初からこうだったと思われわしの手柄に
ならんではないか!よってそんな事に力をいれるわけにはイカンと、このままにしておいたのだよ。ガハハハハ!」

この中田與三、綱成麾下だったということはこの頃にはもう、相当のお年寄りだったと思われる。
しかし歳はとっても身に染み付いた武功思考にゆらぎ無し!まことに元気な老勇士であった。

そんな、武功を讃えられた武士の思考パターンがなんとなく見えてくるおはなし。
151人間七七四年:2011/03/07(月) 17:50:21.39 ID:LbO6fmEM
やなやつに預けたな。w
152人間七七四年:2011/03/07(月) 18:04:52.62 ID:B4LfAIDe
>貴殿は今の今まで、自分がもらった所領がこんな腐りきったところだとは思いもよらなかったであろう?

これ完全に仮定で話進めてるけど大丈夫か?w
153人間七七四年:2011/03/07(月) 19:52:59.82 ID:i6D57Jhl
武士は注目されてなんぼの商売だからなw
154人間七七四年:2011/03/08(火) 00:04:22.56 ID:2RinM+Cu
アホな女子が「スイーツ」なら、アホな武士はなんなんだろ?w
155人間七七四年:2011/03/08(火) 00:15:54.89 ID:gLv1GiuO
>>154
猪武者だろ
156人間七七四年:2011/03/08(火) 09:58:10.73 ID:6Eb0etiH
>>154
DQNじゃねーの?
157人間七七四年:2011/03/08(火) 12:55:48.04 ID:gipI0hJD
DQN四天王『呼んだ?』
158人間七七四年:2011/03/08(火) 16:49:35.62 ID:4L7qqD5d
>>157
一番タチの悪い「高スペックDQN」はお帰りください
159人間七七四年:2011/03/08(火) 21:05:12.73 ID:9XpW8fP4
>>154
アホな武士などおらん。いるとすればその主君の責任である
160人間七七四年:2011/03/08(火) 21:25:13.95 ID:GwM324l9
>>159
お前、三河出身だろ
161人間七七四年:2011/03/08(火) 21:45:47.92 ID:f/OsFQRc
いやいや>>160どの、
>>159は雷神様でござる
162人間七七四年:2011/03/08(火) 22:01:47.15 ID:47UbTSGx
いやいやいや、>>159は黒田家中の者に相違ござらん
163人間七七四年:2011/03/08(火) 22:42:25.40 ID:WdB7HXkh
やれやれ最近の若い者は物を知らなくて困る
>>159こそまさに信玄公のお言葉すなわち>>159こそ甲陽軍鑑の著者であろう
そこはかとない胡散臭さがまさに兵法学者のものではないか
164人間七七四年:2011/03/08(火) 22:55:54.77 ID:2RinM+Cu
と長閑斎が申しております
165人間七七四年:2011/03/08(火) 23:01:26.49 ID:7h6OO8cf
※ここまで天庵様の自演※
166人間七七四年:2011/03/08(火) 23:28:04.77 ID:2RinM+Cu
と見えるだろうと宇佐美じいさんが笑っております。
167人間七七四年:2011/03/08(火) 23:58:25.11 ID:nC9PHG+U
宗滴爺さん「うふふふふふ」
168人間七七四年:2011/03/09(水) 00:11:04.76 ID:7CyUdqL6
色々なところを転々と渡り歩いた水野勝成だが、彼は九州にいたとき、一千石で
黒田長政に仕えたこともあった。

ある時長政が船にて大阪に出ることとなり、その船には勝成も同乗した。
船が海を快走している時、帆柱を見上げた長政はふと勝成を呼び

「帆柱に綱が絡んでいる。あれを直しておけ」

と命じた。これに勝成は憤った

『そりゃあオレは(必要以上に)勇猛だよ!だけどこういう船の事に慣れてもいない者を、
しかもこんなに走っている船の帆柱に登れだなんて無茶なことを!
なんという碌でも無い命令をする奴だ!』

だがしかし、そうはいっても水野勝成、高名なる(殆どは悪名だが)勇者である。

『断る、というのも口惜しい』

と、我慢して帆柱をよじ登り、絡んだ帆縄を直して降りた。そして

『あんな道理に合わないことをいう主人に仕えるなど、何の益もないわ!』

と、普段からの「俺様が仕えてやっているのだ」意識のままに、その夜船が港に着くと飛び降り、
そのまま立ち去った。
しかし前にいた畿内にも九州にも、色々な理由(主に殺人事件的な)があって戻れないので、
中国は備中に隠れ住んだという。

水野勝成、絡んだ帆縄で黒田長政を見限る、と言うお話。
169人間七七四年:2011/03/09(水) 00:30:45.29 ID:pImcs/JU
>道理に合わない
五霊鬼「えっ?」
170人間七七四年:2011/03/09(水) 05:11:02.46 ID:QlS2zua5
>>168後藤『あんたが黙っているだけでどれだけ黒田家の人材が豊富になった事か…』
171人間七七四年:2011/03/09(水) 07:40:57.82 ID:KjZ/LSz8
家臣として有能な人材とも思えんな
後々の火種をサッサと追い払ったともいえなんこともない
172人間七七四年:2011/03/09(水) 09:34:45.69 ID:THiNFllg
大殿なら使いこなしたに違いありませんぞ
173人間七七四年:2011/03/09(水) 10:26:01.02 ID:E0IXD4/t
鬼日向さんは漫画や小説の主人公にはなれるが
大河の主人公には絶対になれなそうだなw

でもまあ相撲大会の虐殺の人も主役になったからなあ。
174人間七七四年:2011/03/09(水) 10:39:18.42 ID:WfVljwqv
血鑓三代原作にとかしたら18禁ドラマになってしまうしなぁw
175人間七七四年:2011/03/09(水) 21:26:00.83 ID:4cpjujw5
秋月文種と小野九右郎衛門

筑前は秋月氏の居城・古処山城は天然の要塞であった。豊臣秀吉の九州遠征において当初徹底抗戦の
構えを見せたのもこの古処山城の要害があったからで、それほど自信ある秋月氏最後の砦だった。初代の鎌倉時代から
十七代当主種長の時代に日向へ転封されるまで古処山城とともに秋月の地に代々住み続けた秋月氏であったが
一時期滅亡寸前にまでなり、秋月の地からも離れていた時期があった。弘治3年(1557年)の秋月の戦いである。

概要としては、「大友二階崩れの変」による大友氏の動揺、陶晴賢謀反などによる大内氏衰退と毛利氏の台頭などで
筑前の豪族たちの周辺も慌しくなってきていた折、毛利元就お得意の謀略が筑前に伸びてきた。
当時筑前の二大巨頭であった筑紫惟門と秋月文種に「一緒に大友討とうぜ!」というお話である。
ホイホイ乗ってしまった二人は密議を交わしていたが、この悪巧みが新当主になったばかりの大友義鎮にバレてしまい
義鎮は大激怒、戸次鑑錬・高橋鑑種・臼杵鑑速らに命じて討伐に向かわせた。その数2万。秋月の軍勢は千数百で
あったため篭城するも5日ほどで落城。後に筑紫惟門も敗れ毛利氏の元に逃走した。しかしいくらこれだけの
戦力差があったとはいえ秋月自慢の古処山城がたった5日で、惟門のように逃げ切れもせず討ち取られたのか。
そこには秋月方から裏切り者が出たからだと言われている。

秋月文種の近習に小野九右郎衛門という侍がいた。彼の従弟は後に立花双璧として並び賞される小野和泉。
まだ若い頃の小野和泉は大友家臣として仕えていた。彼は要害・古処山城をただ攻めるだけでは自軍への被害も
甚大になると考え、ある策を思いついた。開戦前、ひそかに九右郎衛門に会い、主君義鎮自筆の書を取り出して見せた。
「今度の合戦に内通して大友の兵を城内に手引きしてもらえるならば、恩賞として豊後上田二千貫(約二万石)を与え
その上、義鎮公ご寵愛の美女を賜る」というような内容だった。この美女とは元々は豊前田川郡の農家の娘で、
その頃に九右郎衛門と深い約束を交わした仲だったが、義鎮の側女として連れて行かれたのだった。
そのことを知っていた小野和泉はこの策を考えたのだった。親戚の言うことでもあり、九右郎衛門はまんまと乗った。

こうして九右郎衛門は前もって大友の忍者をに城中の地理、人数の配置、水の手などの詳細を渡し、
さらに大友の兵を手引きして城内に引き入れたため、要害を誇った古処山城はあっけなく攻め落とされた。
城主文種は側近に守られて山伝いに落ちのびようとしていたが、途中で後をつけていた九右郎衛門に不意に襲われ
首を取られてしまった。大友の陣営に首を差し出した九右郎衛門は、約束どおり内通しただけでなく、
文種の首まで獲ってきたのだから、大層な褒美を貰えるだろうと喜んだ。しかし小野和泉は怒っていた。
「手引きのことは頼んだが、主人の首までとは言わなかったはず。いかに欲心からとはいえ、恩ある主人を殺し
その首を敵に売るとは、あさましき所業である。」和泉は数名の兵に命じ、夜盗のように装わせて
九右郎衛門を待ち伏せし襲わせた。やがてなぶり殺しにされた彼の惨死体が発見されたが、
これを見た秋月の人々はみな「天罰が下ったのだ」と言ってあざけって通ったという。
小野和泉もいくら従弟とはいえ「こんな奴が味方になったらいつ裏切るか分からん」と思ったのか、
それとも最初から殺すつもりだったのか。ある意味戦国時代らしい「悪い話」だと思う。

こうして一度滅亡し(かけ)た秋月氏だったが、毛利氏の元に逃げ落ちていた文種の子種実が
旧臣・深江氏の働きと毛利氏の援助により、永禄二年(1559年)正月に秋月の地に復帰した。
種実は九右郎衛門の所業を恨み、秋月に戻ってすぐ彼の一家眷属を探し出して皆殺しにしてしまった。
そのため一時秋月では小野氏受難の時代が続き、同姓の者はみな名を変えて、身を潜めていたという。
176人間七七四年:2011/03/09(水) 22:13:34.22 ID:dpNlltL2
なんか「悪い話」のお手本のような話だなw後日談含めて
三国志にも同じような裏切り話たくさんあるし
177人間七七四年:2011/03/09(水) 22:28:33.93 ID:F74B19ax
まあ、戦国の世ですからね
何でもアリですよw
178人間七七四年:2011/03/09(水) 22:29:06.87 ID:LUD80ioS
種実「待ちに待った時が来たのだ!
   多くの英霊が無駄死にで無かったことの証の為に・・・
   再び秋月の理想を掲げる為に! 星の屑成就のために!
   古処山よ!私は帰ってきた!! 」

179人間七七四年:2011/03/09(水) 22:35:38.44 ID:cAU9SFVs
そして居城に核撃つんかいw
180人間七七四年:2011/03/09(水) 22:37:58.81 ID:EQNsbaZG
ついでに地元住民も皆殺しにして星の屑成就か
181175:2011/03/10(木) 00:14:37.14 ID:Ve//tlMw
ごめん、訂正する

×小野九右郎衛門
○小野九郎右衛門

全部こうなってるし…なんで今まで気付かなかったんだろうorz
182人間七七四年:2011/03/10(木) 00:20:39.08 ID:NjN3kGqd
天正14年(1586)、豊臣秀吉は徳川家康を上洛させるため、実母大政所を、家康に嫁いだ秀吉の妹朝日姫への
見舞いという名目で三河岡崎へと送ったこと、これは有名である。

さて、大政所の滞在する屋敷の側に、薪が山のように積まれさらに次々と運ばれていることに、大政所の
女房たちが気がついた。「あれはなんでしょう?」「一体何事でしょうかね?」
この段階では彼女たちにもあまり危機感はなかったようだが、気になるので端女に命じ、薪を積んでいる
下人の一人に接触させ酒など飲ませて心安くなり薪のことを聞き出させた。するとこの下人言うには

「いやいや、確かなことは私は何にも知りませんよ?ですが話に聞いたところでは、関白様が都で
我が国の殿様の命を奪われるか、もしくは抑留するような事になれば、今度京都より下られた、こちらのお屋敷に
いらっしゃるお方を、尽く焼き殺すための薪だとか言われて、本多様の下知であるからと、毎日山や林から
切り出しているのです。

この本多様というのがまた、極めて気の短い方で、『殿のお帰りが遅い!遅すぎる!』と待ちかね、
今朝には火をつけよう、晩には焼きたてようと仰っているのを、同じく留守居の井伊様や大久保様が
『いやいやいや!しばししばし、もうちょっと待ちましょう!』と今迄はどうにかお止めになっているのだそうです。
それにしても痛わしいこと。美しき京都の上臈衆が灰や土になってしまうなんて、なんと無残なことだろう。」

端女からこれを聞いて女房たちは、一瞬で恐慌を起こした!あまりにも思いもよらぬことだったからである。

「ああ、何ということでしょう!そういえばその本多という男、毎日ここに参って、恐ろしい声で
『家康の命によりここに付けられました。御用の事があればなんでも仰ってください。』
などと言っていたが…、そうだ思い出した!於義丸殿(のちの結城秀康)が人質として初めて参られたときに、
そのお共に仙千代丸という子どもがあったのを、関白殿下(秀吉)がご覧になって『あれは家康の家臣の、
三奉行とか言ううちの一人、鬼作左衛門という者の子じゃ』と仰せになっていた!

あの時は『鬼も子を生むのですね』『鬼の子とはどの様な者でしょう?』などと騒いで、物ごしに覗いたりした
ものでしたが…、あれがその親の鬼!本多作左衛門!!なるほど鬼なら、このような事するでしょう!

そういえばあの男、ここに来る度に『家康が帰国の途についたという御沙汰は聞いておりませんでしょうか?』と、
一昨日も言った、今朝も、昨日も言った!彼の待ち遠しさが限界を超えてしまったら!!」

女房たちは直ぐに大政所の所へ行き、「本多という男がこう言うことを企んでいます!どうか関白殿下に頼んで
家康殿を一刻も早く帰国させてください!」と泣いて訴え出た。大政所も大いに驚き「このような有様になっています」と
緊急に秀吉に伝えさせ、その甲斐あったか、程なく家康は帰国となり、大政所も帰京した。


さてさて、黙っていられないのが大政所の女房たちである。
彼女らは帰京するとすぐさま秀吉の前に出て涙を流しながら訴えた!

「あんなところにお母上様を下されるとは、なんと情けない事をされたのでしょう!
鬼本多という者が、かくかくしかじか、こんな事をしたのですよ!
いくらかつて争ったとは言え、今は御妹君たる朝日の姫様を参らせたまったのですから、家康殿にとっても
大政所様はお母上であると言うのに、いかに鬼だからと言って自分の主君も知らぬ間に、あんな事をして
良いものではありません!それに大政所様や私たちをあんな辛い目に合わせたのですから、
どうか、どうか徳川殿に仰って、あの本多と言う者にいかなりとも罪を与え、大政所様のお恨みを
お晴らし遊ばせてくださいませ!」

と、これを聞いた秀吉はいかにも愉快そうに笑い出し

「家康という男は、良い家臣をたくさん持っているものだ。わしも、そう言う家臣が欲しいものだな。」

とだけ言って、座を立って行ってしまったという。

有名な本多作左衛門重次の逸話、被害者(?)大政所女房の側の視点からのおはなし。
183人間七七四年:2011/03/10(木) 00:23:19.82 ID:Z6B+vZPZ
女の言葉ってくどくて面白いなww
戦国時代の話にしては、事実の羅列でなく感情を伝えてくれる珍しい文章だw
184人間七七四年:2011/03/10(木) 00:34:20.99 ID:CQa5WnPi
一筆啓上 火の用心 殿殺したら 母燃やせ
185人間七七四年:2011/03/10(木) 00:35:41.06 ID:hlcASQoP
さくざはやっぱりいいなあ
186人間七七四年:2011/03/10(木) 01:12:01.83 ID:50sZjgfi
作左の乱行はいつものことだけど秀吉はさすがに大人っつーか、鷹揚としたもんだな
187人間七七四年:2011/03/10(木) 01:26:25.59 ID:nSdZJihR
最後に悲哀を感じるな。
作左の行動原理は、累代の家臣はこうあるべしという伝統と経験だろう。
秀吉には持ちようどころか、顔色を伺う連中ばかりだ。
188人間七七四年:2011/03/10(木) 03:29:21.94 ID:vrFzomZj
>>187
石田さんが必死にメモってるよ
189人間七七四年:2011/03/10(木) 05:21:22.33 ID:atpdVHqr
でもこの後蟄居処分なんだよね
190人間七七四年:2011/03/10(木) 05:44:11.43 ID:09N9qrQX
「家康という男は、良い家臣をたくさん持っているものだ。わしも、そう言う家臣が欲しいものだな。」

笑いながら内心ブチ切れてるから
やっぱ将になるには、感情を表に出すようじゃ駄目なんだよな・・
191人間七七四年:2011/03/10(木) 06:13:40.06 ID:dMxCO+7l
この件は秀吉はもちろん家康もぶちきれたという説もあるしなぁ。
めんどくさい云々じゃなく、ただの馬鹿だもの、この作左の行動って。
192人間七七四年:2011/03/10(木) 06:30:05.39 ID:5UwazSvW
でも作左が蟄居したのって大政所が秀吉の元へ帰ってずっと後、
徳川の関東移封後だから処分にしてはだいぶルーズなんだよね。
小田原の役で戦功挙げたりしてるし。蟄居の体で隠居したって感じ。
193人間七七四年:2011/03/10(木) 10:56:49.50 ID:mauyQIj2
>>191
だって、一歩間違えたら徳川家そのものが地上から消滅していただろうからね。
この頃の秀吉なら実際に可能だったろうし、
道義的にも徳川に味方する大名はいないだろうし。
194人間七七四年:2011/03/10(木) 12:45:00.81 ID:yMicKBbw
天下人が出した人質、しかも実の親を焼き殺した

殲滅戦されても文句言えんわな。
195人間七七四年:2011/03/10(木) 12:50:39.29 ID:50sZjgfi
家康とのあそこまで屈辱的な和睦は絶対に避けられなかったのかな
確かに徳川・北条・長宗我部と四面が敵、毛利もどう転ぶかわからない危うい状況だったけど
政治的には織田家の実質的継承を果たし、京を押さえてるんだから朝廷を動かせばもう少し有利に戦えたと思うんだが
196人間七七四年:2011/03/10(木) 13:11:50.02 ID:iS7fQI7P
家康に土つけられるまで秀吉は本能寺以来、負け無し状態だったからね。
197人間七七四年:2011/03/10(木) 13:30:32.69 ID:hYow5ZL2
神子田「あんな馬鹿げた策採用するからw」
198人間七七四年:2011/03/10(木) 13:35:58.59 ID:Z6B+vZPZ
勝って実を得るためであれば屈辱でも何でも耐えてみせるのは秀吉のすごいところだろ。
同じことは家康にも言えるけど
199人間七七四年:2011/03/10(木) 13:41:00.92 ID:mauyQIj2
>>195
徳川が一番御しやすくてメリットがあると考えたんでしょ。
おそらく三河者の面倒くさい性格を把握した上で
自分ならその気になれば徳川家を敵対出来ないようにさせる自信があったんだと思う。

ただ最初は武力で簡単に蹂躙できると踏んでたんだろう。
戦までの流れ、戦の後の流れ全て秀吉の思惑通りに進みすぎてるもの。
200人間七七四年:2011/03/10(木) 15:23:00.84 ID:5RMlYVLU
中入りが成功していたらどうなっていただろう。
201人間七七四年:2011/03/10(木) 15:24:34.52 ID:eXMhb0ul
公の天下を取るは、大坂に在らずして関原に在り。関原に在らずして小牧に在り

202人間七七四年:2011/03/10(木) 16:18:13.58 ID:Qug6q3mv
清正の土産

加藤清正が朝鮮へ出兵して帰るとき、豊臣秀吉への土産にと、虎を生け獲りにして連れて帰りました。
しかし、大阪城内で危険な虎を飼うわけにはいきません。そこで、広い 境内を持っていた
伊和志津神社が選ばれ、境内の隅の藪のなかで飼うことに。
ところが、虎はけものの肉は食べますが、その頃牛の肉など簡単に
手に入りません。しかたなく里の人たちは、 毎日犬を捕まえては虎に与えていました。
そのうち、伊孑志(いそし)の里には一匹の犬もいなくなってしまいました。
腹をすかした 虎が暴れ出しては大変です。そこで虎の世話をしていた
猟師は、しかたなく自分の 飼っていた猟犬を餌にすることにした。
 「すまんな。しかたないのだ。虎の餌になってくれ。」と
言い聞かせ、愛犬を虎のいる藪のなかに入れました。

 ところが、その犬は一気に虎の喉笛にかぶりつき、離そうとはしません。
 驚いたのは里の人達です。大切な預かり物の虎に、もしものことがあっては
大変です。なんとか犬を 虎から離そうとしましたが、どうすることもできませんでした。
 あわてた村の役人が大阪の奉行所へ駆け込んで、事の次第を おそるおそる説明します
と、「なに、虎が犬にかぶりつかれておとなしくしているとォ。そんなものは虎ではない。
猫にでもなったのであろう。すておけ!」と言われて跳んで帰ってみると、
虎はすでに犬に咬み殺されていました。

 なんのおとがめも受けずに済んだ里人達は、もう虎の餌の
心配をすることも無くなり、喜びました。
 
203人間七七四年:2011/03/10(木) 16:22:23.20 ID:Ri5cpeDf
またはた迷惑な土産物を持ってきたもんだな
204人間七七四年:2011/03/10(木) 16:26:42.16 ID:Lfe5mH6Q
猟師なら鹿でも獲ってこいよ。
と、思ったがめんどくさくて猟犬けしかけたんだな
205人間七七四年:2011/03/10(木) 16:49:32.51 ID:mRY7p0wl
一休なみのレスをした大阪町奉行所の役人が誰だか知りたいし
206人間七七四年:2011/03/10(木) 18:11:10.27 ID:HxyPpE8r
>>205
人間七七四年って人がレスしたんじゃね?
207人間七七四年:2011/03/10(木) 19:26:29.14 ID:NtDD0gAS
鶏とか与える考えはなかったのかな
208人間七七四年:2011/03/10(木) 20:23:55.22 ID:ueGBn5NX
>>193-194
徳川家からしたって万万が一、上方で家康謀殺されたらアウトだもん
さくざの仕業はそりゃあ極端だし女子衆相手に大人気の欠片もないけど、
「万一(上方で殿様に)変事あらば大政所を必ず殺す」覚悟の入り方は妥当なもんじゃないか?


しかも既に信康いないし秀康は和睦と一緒に上方へ差し出してて、
もし家康を消されたら、後継者が初陣もすませてない秀忠くらいになっちゃう段階だろ〜
どんな人柄だろうとばあちゃん一人と、大大名の戦上手を極めた当主なんて引き換えにできんよ


ってこれは徳川贔屓で秀吉を全く信用してない意見になっちまうんだがね……
209人間七七四年:2011/03/10(木) 20:35:05.76 ID:NjN3kGqd
まあ調略で基本的には講和していた徳川家中に手を突っ込んで石川数正を一本釣りした
秀吉を信頼しろというのは非常に難しい。
210人間七七四年:2011/03/10(木) 20:43:13.46 ID:4PS1vCqY
大久保忠世に小田原城与えたのも家康との離間を狙ったらしいし
211人間七七四年:2011/03/10(木) 20:53:02.74 ID:eR0aRn9P
>>208
それは家康が秀吉の方に居る時に情報が伝えられて無いと意味がなくないか?
人質送った時点で既に「万一(上方で殿様に)変事あらば大政所を必ず殺す」状態なんだし。
212人間七七四年:2011/03/10(木) 21:12:00.67 ID:4+bCU/pf
>>209
石川数正のそれは一本釣りというか、数正が勝手に秀吉の所へ転がり込んできたというか・・・
今だに数正が転んだ理由ははっきりしてないからなぁ、色々妄想できて楽しいけど
213人間七七四年:2011/03/10(木) 21:33:55.43 ID:bhxQwN9w
むしろ逆で、作左のやってることが知れたら、
秀吉が家康を殺す「正当な理由」が生まれるんだがな

作左がやったことは、家康を守るどころが危機に陥れている
214人間七七四年:2011/03/10(木) 21:41:29.18 ID:UbnDjnkW
家中で親秀吉派ということで他の三河武士から虐められてたもんな>数正
面倒臭いとかネタにしてるけど陰湿さは洒落にならない
215人間七七四年:2011/03/10(木) 21:52:50.15 ID:KylRJdBs
>>213
あの時点でそういう事態になったら秀吉的にも洒落にならんから殺せなかったんだろうが
216人間七七四年:2011/03/10(木) 22:19:12.78 ID:+r9xUJ6/
>>202
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 甲斐犬じゃ、甲斐犬の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
217人間七七四年:2011/03/10(木) 22:44:26.61 ID:5RMlYVLU
真田信之と信繁の兄弟が碁を打っていた時、突然雷鳴が轟いた。
信之は咄嗟に脇にあった刀を握り庭をの方を睨んだ。
と、その間に信繁は負け石を一つ転がしてしまい、勝負は信繁の勝ちとなった。
218人間七七四年:2011/03/11(金) 00:52:53.84 ID:qkTn/AOU
別に殺すだけならそこまで派手な準備は要らないし、
明らかに嫌がらせな気がするんだけど作左
219人間七七四年:2011/03/11(金) 01:06:18.38 ID:XUZymlBs
単なる嫌がらせであって、そのことによって誰か得したわけでもないのが問題
脅された大政所や女房連中は戦々恐々、
彼女らの接待を任された井伊や大久保も重次の暴走にビビりまくり
そして重次本人は秀吉の恨みを買って後に蟄居
家康だって「余計なことしやがって」と思ったんじゃないの?

作左が女性連中に嫌がらせを繰り返した反面、
イケメンの井伊直政はお菓子を持って大政所や女房連中を訪れ慰労、
彼女たちに「井伊殿井伊殿」と慕われたという(『改正三河後風土記』より)
作左が零落する反面万千代は秀吉にも気に入られ
出世街道を驀進するが、このときの対応で明暗が分かれたような気がしてならない
220人間七七四年:2011/03/11(金) 02:09:58.42 ID:4h5CEtA1
と、彦左が申しております
221人間七七四年:2011/03/11(金) 02:23:54.27 ID:LZD51hgk
東のMr.Perfectも真田家じゃ最弱w
222人間七七四年:2011/03/11(金) 03:42:04.16 ID:BEHlgopP
>>218-219
薪の逸話、もし本気じゃなくてパフォーマンスだったとしても効果は十分あったわけでそ。
大政所や女房衆が「鬼作左こわい、徳川へ証人に出されるのはもう嫌!」とビビってくれたら、
以後秀吉から人質をダシに使って家康への無茶振りはしづらくなる

つい先年に天正伊賀越えの難事もあったし、作左は……家康が小勢で上洛して家臣団と引き離される事態を減らしたかったんじゃないかな?
223人間七七四年:2011/03/11(金) 04:50:33.62 ID:uY3kx4Lk
>>202
いい話スレかと思った
村を救った猟犬のいい話
224人間七七四年:2011/03/11(金) 08:52:06.28 ID:AhWE0hoC
>>202
やったのは甲斐犬w
225人間七七四年:2011/03/11(金) 10:33:00.92 ID:NVnjruIN
イヌとトラの話は別Ver.の方は知ってたなあ。
基本的なストーリーは同じで単語が幾つか異なる。
226人間七七四年:2011/03/11(金) 17:42:14.64 ID:WpnwnGbi
甲斐犬はクマを倒すこともあるというが、虎とは……。
甲斐は電気ガス水道が一部で止まっていますが、ポットン地域おおいんで大丈夫です。
227人間七七四年:2011/03/11(金) 18:35:19.62 ID:v0E8fqOS
甲斐犬に噛み付かれても無事だったのは鬼小島さんぐらいなのかw
228人間七七四年:2011/03/11(金) 22:21:33.53 ID:i1OTICfW
その名のとおりの鬼だったんじゃないかな?w 山県が弁護しそうだけど
229人間七七四年:2011/03/12(土) 01:27:17.01 ID:wyzRcaZD
>>202
訓練された犬は、トラでも噛み殺すのか・・・
230人間七七四年:2011/03/12(土) 01:31:29.79 ID:3+0lwGbc
絶天狼抜刀牙でも使ってるんだろう。
231人間七七四年:2011/03/12(土) 03:50:14.39 ID:TvpclFCQ
井伊直政の正室は徳川家康の養女であった。この女性、大変気の強い性格だった様で、直政も頭が上がらなかったという。
そしてこの奥さんの侍女であこという娘がいたのだが、直政はこの娘に手を出して妊娠させてしまった。奥さんにバレたら大変とばかりに
必死で隠蔽工作に励むも露見してしまった。結局直政はあこを追い出し、生まれた子供にも決して会おうとはしなかった。

その数年後、箕輪城の主となった直政のもとに、突然あこが現れ、子供を引き取ってほしいと懇願した。
すると直政は「引き取るには、そなたの命を引き換えにしなければ正室に申し訳が立たない。」と答えた。
あこは「命は惜しくはない」と言うと、家臣に命じて自身を処刑させたと言う。そして直政もあことの約束を守り、子供引き取って育てた。
この子供が後の井伊の赤牛こと、井伊直孝である。
232人間七七四年:2011/03/12(土) 09:39:22.54 ID:A5JFZ+kr
>>217
冷静に考えると雷が落ちたから刀を構える信之の思考回路が面白い
そして雷に動揺せずに実の兄にえげつない事する信繁の思考回路は松永弾正に通じる
233人間七七四年:2011/03/12(土) 10:29:54.81 ID:gziXAu3K
>>232
見方を変えれば
異常事態にすばやく対応する兄と
周辺の状況など考えず目先の事しか考えない弟とも見えるな
 
 
 
…ちょっと無理があるかw
234人間七七四年:2011/03/12(土) 12:36:56.40 ID:Eg8Nd6NQ
ビビり兄と冷戦沈着な弟とも(ry
235人間七七四年:2011/03/12(土) 12:57:57.54 ID:tcqg0K3J
>>232
雷を刀で切ったりする戸次さんもいますし
236人間七七四年:2011/03/12(土) 13:28:16.69 ID:pydVAal0
>>232
兄がそうやって備えてくれるからこそ、弟が好き勝手に動けるとも
いやぁ、兄弟の信頼感に溢れるいいはな・・・し?
237人間七七四年:2011/03/12(土) 13:40:42.47 ID:sO32RpoW
弟の代わりに身代わりになろうとした兄さんのいい話w
238人間七七四年:2011/03/12(土) 14:55:26.84 ID:5XwQVuvy
兄「敵かと思った」
弟「兄が錯乱したので」
239人間七七四年:2011/03/12(土) 17:24:34.73 ID:FXDM+hC9
兄が錯乱したらその隙に兄の領土を掠めとる気かww
240人間七七四年:2011/03/12(土) 21:37:08.25 ID:WDZhQ4P5
近くに雷が落ちてもまるで微動だにしないって凄いことだと思う
実際に俺は家から30メートルくらい離れたとこに雷落ちた時、思わず近くにあった座布団で頭を隠した
恐いから逃げよう、とか論理的に判断したってよりまず体が反射的に動いた感じだった
それを考えると信繁は雷が落ちてもまったく冷静に思考して行動してることになる。胆力マジ半端ねえ
241人間七七四年:2011/03/12(土) 21:58:25.69 ID:+fhHTV3m
そう言えば滝川一益が、伊勢で政務取ってたとき近くに雷が落ちて城中大騒ぎになったのに、
一益だけは平然と仕事続けてた、って話があったな。
242人間七七四年:2011/03/12(土) 22:02:03.14 ID:ymvGvxeM
一方池田輝政は仕事がうまくいくと城中で奇声あげていた
243人間七七四年:2011/03/12(土) 22:05:35.65 ID:8+BYMAb6
鬼武蔵は戦場でヒャッハァーと家臣一同叫んでいた
244人間七七四年:2011/03/12(土) 22:53:28.27 ID:noetaHuE
ウチの会社の奴で昨日のあの地震の中、仕事を続けてるのがいた@関東
しかし胆力がある、じゃなくて大事な線が切れてる、と噂された。
245人間七七四年:2011/03/12(土) 23:46:54.03 ID:Z6c4alKP
有能か無能かにもよるよね。
246人間七七四年:2011/03/13(日) 00:49:53.13 ID:tPc+hOkU
むしろ兄ちゃんのとった行動こそ真田家当主に求められる細心さの現れ。
そういう意味で幸は昌幸の資質を良く受け継いでいると感じる。
247人間七七四年:2011/03/13(日) 01:26:12.34 ID:ZNDXKsc0
大名としては正しいけど軍事指揮官としてはちょっと疑問な反応だけどな
248人間七七四年:2011/03/13(日) 01:45:01.04 ID:m4LUG14+
そうか?
249人間七七四年:2011/03/13(日) 03:41:50.80 ID:IqM4EtPO
北条さんちの「おくびょうもの」の逸話を鑑みるに、お兄ちゃん優秀だなぁとしか……
250人間七七四年:2011/03/13(日) 16:14:47.71 ID:yHjuoFR0
多賀城が燃える・・・
251 [―{}@{}@{}-] 人間七七四年:2011/03/13(日) 16:33:18.02 ID:9uzbESAU
我らの忠興様だったら、
「よくもお珠を怖がらせやがって」
で雷に刀突き出しそうだから困る。
252人間七七四年:2011/03/13(日) 17:29:23.86 ID:HHbnds3q
信之は歩兵として最善の行動
幸村は大将として最善の行動

両方とも褒めてやれ
253人間七七四年:2011/03/13(日) 18:35:41.58 ID:SjhqW754
ヒャッハー森さんは?
254人間七七四年:2011/03/13(日) 20:00:53.28 ID:tWRbsXfb
>>252
そういや昌幸は戦中でも碁を打ってたよな
信之はやっぱサラリーマンしかできねーわw
255人間七七四年:2011/03/13(日) 20:35:16.65 ID:IWnc3oJM
しかし天下を取った某タヌキは味噌を(ry
256人間七七四年:2011/03/13(日) 20:43:28.61 ID:OX1snTtC
そういえば、同時代の史料に家康をタヌキ呼ばわりしたものは一切存在しない。
同時代の家康の呼び方で、彼を動物に例えたのは「関東の猛牛」のみ。

家康をタヌキと言い出したのは幕末、反幕府運動の活動家によるプロパガンダから。
なので歴史小説や大河ドラマなどで家康をタヌキと呼ぶのは、史実的には間違い。

ついでにいうとあの有名な「織田が突き 羽柴が捏ねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」
の狂歌も幕末の反幕府プロパガンダから出てきたもの。

タヌキ豆知識。
257人間七七四年:2011/03/13(日) 21:59:32.01 ID:Loy4tU9J
ふむ。
258人間七七四年:2011/03/13(日) 22:00:24.42 ID:zT5oS8NW
近くに落ちる落雷の音って爆音や砲撃音に似てるから
お兄ちゃんのリアクションはその辺への警戒もあったんじゃないだろうか
259人間七七四年:2011/03/13(日) 22:10:24.59 ID:cPEcR7O3
単にタイプが違うってだけでそれが大将に向いてない理由にはならんわな
260人間七七四年:2011/03/13(日) 23:25:00.22 ID:a/hvyA9X
某マンガで、周りが騒然とする中、平然とイカサマし、
勝利を手にしたギャンブラーみたいだ。

軍団の長と、一国の指導者の違いかな。そりゃ、家名も存続するわ。
261人間七七四年:2011/03/13(日) 23:29:29.21 ID:Z57dgjB1
丹波哲郎の昌幸が負けそうになってるとこを
何かの知らせが入って、どさくさに
碁盤を片付けてるシーンが思い浮かぶ。
262人間七七四年:2011/03/13(日) 23:30:36.54 ID:KvGYW6CO
雷はリアル炎上の可能性もあるから、
警戒は普通に必要だからな、弘前城とか。
まぁその場合は刀使う必要ないけど。
263人間七七四年:2011/03/13(日) 23:32:24.21 ID:iBYE2plo
どう考えても

信繁>>>>>>>>>>>>>>>>>信之の逸話だな
264人間七七四年:2011/03/13(日) 23:33:46.79 ID:8j2hlrZ6
>>256
牛ってのもなかなか聞かないな、俺が浅学なだけだけども
しかし狸にしろ牛にしろ肥ってるイメージがおもしろいw
265人間七七四年:2011/03/13(日) 23:52:38.95 ID:ZNDXKsc0
権現様の本性は腹黒い狸でござる、なんて日記が表ざたになったら改易くらうくらいはありうる
徳川家が天下とった時にそういう都合の悪い資料は処分されてるに決まってるじゃん
家康狸評は幕末で広まったにせよ、現代まで定着してるってことは本質からそこまでずれてないんだろうさ
実際、晩年の家康は狸としかいいようがない
266人間七七四年:2011/03/13(日) 23:56:38.11 ID:tZt5mL9u
あの信長公でさえも義昭の命を助けたのに、クソ狸は秀吉公から直々に後見を頼まれてた秀頼を殺した
267人間七七四年:2011/03/13(日) 23:59:58.99 ID:OX1snTtC
>>265
近代でさえそんな史料の処分なんて不可能なのに、近世初期にそんな事
出来るわけ無いだろ。

腹黒い云々にはいくらでも反論はあるが、とにかく家康に狸というイメージを植えつけたのは
幕末のプロパガンダとそれに続く明治新政府の前時代否定教育の成果。

現代まで家康を狸と言うのが定着したのは、その多くは明治政府を正当化させる
教育やプロパガンダのせいだといえる。
268人間七七四年:2011/03/14(月) 00:09:13.73 ID:A2PmS7rt
碁の事を知らんので「負け石を1つ転がし」と聞いて
びびって碁石を落としたら偶然都合良く余計な石を外して勝ちを拾ったラッキーマン信繁を想像してしまった俺。

お前ら頭良いな。
269人間七七四年:2011/03/14(月) 00:18:36.63 ID:GLQdi9uh
ガチ統制国家のナチスドイツでも無理なんだから推して知るべしだな>日記資料の検閲
270人間七七四年:2011/03/14(月) 04:45:39.51 ID:Nu0HMz2P
お隣の中国では高位高官の日記があまり無かったりする
中華帝国は二大政党型になりやすく派閥が交代するたびに左遷・粛清祭りが始まるから
罪をでっち上げる理由にされそうな日記はあまり書かなかったようだ
271人間七七四年:2011/03/14(月) 11:34:07.41 ID:L87vjS0s
中国は皇帝の行動を記録する官職なかったっけ?
272人間七七四年:2011/03/14(月) 12:29:04.95 ID:9bU2SDwm
史官ね>記録する官職
あれは国の公式記録みたいなものだから、個人の日記とはまた異なる。
273人間七七四年:2011/03/14(月) 12:59:19.33 ID:o0pGso6/
真田兄弟の話面白いなあ。
受け止め方によってどのようにも受け取れるし
兄弟の事をよく表してる。
274人間七七四年:2011/03/14(月) 18:17:02.35 ID:1At/0eOq
>>264
牛が肥りだしたのは、食用として重宝されるようになってからなんじゃない?
昔は牛は不味い肉という扱いで、牛肉の旨味の大半は脂肪分に依存するらしいし。つまり昔の牛はそれほど太ってなかったんじゃないかと
275人間七七四年:2011/03/14(月) 21:43:05.96 ID:iz93lqoQ
中国や日本だと牛は農耕や荷獣だからな、太らせるなんてことはしない
ヨーロッパだとほかに乳牛という品種もあってこちらは食べることもあったようだが
基本的にはマズイ肉というイメージだったようで、中世ではイギリス人に対して
「牛食い」という悪口があった
276人間七七四年:2011/03/14(月) 21:44:41.49 ID:Nu0HMz2P
>>274
草だけ食べてる牛はあまりおいしくないそうだからね
穀物を食べさせておいしくなるらしい
277人間七七四年:2011/03/14(月) 21:47:10.65 ID:QH03IoPd
>>275
しかし、ロンドン塔の番人は、庶民の口にできない牛肉を食べることができた、
ということから「ビーフィーター」と呼ばれるようになった、という話も
278人間七七四年:2011/03/14(月) 21:57:14.32 ID:PBXDwFfb
>>276
美味しんぼの原作者は草だけ食って育ったオーストラリア牛の方が、国産霜降りより旨い、と主張しているが。

ちなみに俺も脂っこいの苦手だから、霜降りすき焼き肉より赤身の方がすきー
279人間七七四年:2011/03/14(月) 21:59:20.87 ID:Ic/dtfmh
まあ、なんというか、人それぞれという事も差っ引いても雁屋さんは色々おかしい方なので…
280人間七七四年:2011/03/14(月) 22:06:00.19 ID:GLQdi9uh
>>275
一応中国では最上級の生け贄の一つとして使ってたから、食ってるけどね>牛
太牢ちゅうて牛・羊・豚をささげるのよ。
これがワンランク下がると羊と豚だけになる。
その後食べるんで全く食べないってこたぁない。
まぁ、故に中国でも一番高い価値を以て認識されていたのは事実だけど。
281人間七七四年:2011/03/14(月) 22:50:41.87 ID:9QwjwsGO
中国の場合歴史が長いんで一概には言えなんだけど、史記〜三国志、歴史書ではないけども水滸伝とか読んでいると、
一応最上級の肉が羊なんだよね。
解説によると、食用として飼われている動物が羊と豚そして犬。w
羊頭狗肉は此処から来た諺で、馬や牛は農耕や騎乗。
肉が硬い上に、歳を取った個体が多かったので、余り高級ではない。
豚は食用だけど、トイレでうんこ食わせて育てるものだから、結構臭みがあるみたい。
282人間七七四年:2011/03/14(月) 23:29:30.87 ID:peIX32YG
ウンコ食わされるのは豚のみでなく、時には女(ry
283人間七七四年:2011/03/14(月) 23:31:59.65 ID:9QwjwsGO
あれは、人豚さんだよ
284人間七七四年:2011/03/14(月) 23:56:21.37 ID:iz93lqoQ
>>280
中国での牛の価値は労働としてのもので、食用としてのものではない
食べられてはいたけど、必ずしも美味いから食されていたわけではない
洪武帝の若い頃のエピソードでも、牛は飢饉時に最後に食べるものだった
最初から食用で飼育される豚や羊とそこが違う
285人間七七四年:2011/03/15(火) 00:10:55.59 ID:oe4f5eDL
ある時、徳川家康の厩が破損した。

家康は加賀爪忠澄にその修繕を命じた。
ちなみのこの加賀爪忠澄、後年伊達政宗とマブダチになり、政宗のスキンシップのつもりの頭部への張り手に激怒し
旗本の重鎮と外様大名筆頭と言う立場で本当に大人げないタイマンバトルを繰り広げた男である。

それはともかく

ときに家康の修繕に関する注文は、家康らしいとしか表現しようのないものであった。曰く

「雨漏りがしていればそこだけ葺き替えよ。壁が崩れているならそこだけ土をつけよ。
その他は何もしなくて良い。」

そんな家康成分100%の素っ気ないリクエストに、それでは自分の技術が見せられないとでも思ったのだろうか、
加賀爪はつい異見をした。してしまった。

「殿!今上方の諸大名は自分の厩には、夏は蚊帳を吊り冬は馬に布団を着せて、馬を愛されること
一廉ならぬものがあります。ところが殿の御厩はどうでしょうか?戸口には藁むしろを掛け、馬の餌は
常に粗食を与えて飼っておられます。これは殿ほどの方がなされるには、あまりに粗相と
いうものではないでしょうか!?」

どうです?もう家康のツッコミ待ちの誘いとしか思えない異見でしょ?そりゃあ家康も待ち構えたかのごとく
猛然と反論するってものですよ

「加賀爪よ!武士が馬を養う目的は、その用に立たせるためだけであって、外見を飾るためではないぞ!
わしが藁むしろを掛け粗食を与えている馬と、他家の蚊帳を吊り布団を着せている馬と、いざ合戦というとき
どちらがよく険しい山を登り激流を渡り、極寒酷暑を耐えると思うか!?

よいか、お前は厩を作り馬を養うのに、決して上方風を学んではならぬぞ!」

と、固く命じたという。

そんな、ある種の様式美の完成すら感じさせる、徳川家康、加賀爪忠澄を叱る。と言うお話。
286人間七七四年:2011/03/15(火) 00:16:46.93 ID:FjQfzPvF
松下禅尼が障子の穴のところだけ張り替えて、
息子の北条時頼に倹約の大切さを説いた故事にならったのかな
287人間七七四年:2011/03/15(火) 00:25:29.97 ID:M7Jx6fBE
>>280
古代中国では羊が最上級
あと牛耳るは春秋時代の覇者が生贄の牛の耳を切って
儀式を執り行ったから
288人間七七四年:2011/03/15(火) 00:52:25.80 ID:DsIcrDHz
どっかのアホの成金が豪華な便器作ったら速攻で破壊する正しい見識と良心が好きだ
289人間七七四年:2011/03/15(火) 00:53:58.49 ID:a3A44DnO
徳川が飼うと馬まで面倒くさくなりそうw
290人間七七四年:2011/03/15(火) 13:58:23.30 ID:LJ/j6iHS
>>275
そうなんだ。
ビーフの語源がフランス語のビフからだと聞いたことがあったんで、
フランスの方が食べられている印象があったよ。
291人間七七四年:2011/03/15(火) 14:56:42.80 ID:NLYwYHOJ
英語にフランス語由来のものが多いのは、支配階級にフランス語を母語とする連中が多かったからだよん。
「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の、グレートブリテンというのは、
フランスのブルターニュ地方(小ブリテン)に対してでっかい方のブルターニュ(大ブリテン)だからだしね。
元から大陸と繋がり深いのよ。
だから、どっちがより食ってたとかあんまり関係無い。
292人間七七四年:2011/03/15(火) 16:08:44.15 ID:CavAUwDn
その手のものなんてヨーロッパには腐るほどあるが、ブルターニュとブリテンが同じというのは初耳だった!!
まさか戦国スレでヨーロッパについて一つ賢くなれるとは!
293人間七七四年:2011/03/15(火) 19:55:03.70 ID:aNeElFP4
100年戦争時にラ・ピューセル(ジャンヌ・ダルク)がいなければイングランドはフランスの領土になっていたかもね
当時のイングランド王宮はフランス語が公用語で、フランス王位を実力で獲得した場合はパリに移るんじゃないかと推測されているもの
いまでも北仏では、ジャンヌがいたからラテン野郎が大きな顔をしやがると毒づく人がいるんだとか
294人間七七四年:2011/03/15(火) 20:51:56.43 ID:1wMFkxE7
ジャンヌ・ダルクなんぞよりデュ・ゲクランの方が(ry
295人間七七四年:2011/03/15(火) 21:01:13.27 ID:Zy6KU3OB
ジャンヌは良くも悪くも象徴なのさ。
296人間七七四年:2011/03/16(水) 09:01:52.51 ID:mgZGwY0Y
>>285
なんというか、スマートな面倒くささっちゅうか
鎌倉武士的な質素倹約を感じる
297人間七七四年:2011/03/16(水) 23:16:39.11 ID:9tahiEeG
東北関東大震災は地震兵器によるもの
地震はすでに60年前、日本に原爆投下を討議したとき、人工地震による津波にするかどうか検討されたと言います。
人工地震は地下核実験と同じことで何の問題もなく引き起こせます。
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/433.html


この地震はテストに過ぎない。米国勢が本当に狙っているのはイランにおける大地震だ
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2010/02/post_150.html



アメリカ合衆国は明らかに、ハイチで破滅的な地震を引き起こした、20万人の罪のない人々を殺した
地震兵器を所有している。
http://ameblo.jp/hope-after-despair/entry-10827893007.html



クライストチャーチ大地震も米軍HAARPの仕業か!?:いくつかの証拠が出て来た!
http://quasimoto.exblog.jp/14326480/
298人間七七四年:2011/03/16(水) 23:34:53.46 ID:lG4vdcEB
>>297
板間違えてますよ

SF・FT・ホラー
http://kamome.2ch.net/sf/
299人間七七四年:2011/03/16(水) 23:35:50.39 ID:Xotxmuof
オカルトじゃなくてそっちなのか?
300人間七七四年:2011/03/17(木) 09:18:33.23 ID:PPQ3fPL+
オカルトよりファンタジー寄りだからな
301人間七七四年:2011/03/17(木) 21:05:50.99 ID:FZIR1W3Z
頭の中がファンタジーなのか
302人間七七四年:2011/03/17(木) 21:08:47.54 ID:se2BEBPZ
俺はファンタよりバヤリースの方が好きだな
プラッシーも好きだよ
303人間七七四年:2011/03/18(金) 13:52:20.57 ID:Wsjg5ei1

江戸時代初期、鍋島勝茂の時代に佐賀藩に吉島五郎左衛門という男がいた。
この男は「庭造りの名人」として世間に名を知られており、その名声は江戸にまで
届いているほどであった。

ある時、五郎左衛門が勝茂の供として江戸に登ると、以前から彼の評判を聞いてい
た幕府の老中が、
「それほどの名人であるなら、一度会ってみたい」
と言い出し、江戸城に招かれる事となった。

しかし、登城の際に馬や駕籠などの乗り物に乗る事は厳しく規制されている。
伊達政宗辺りであれば無茶をやらかしても許されるのだが、陪臣である五郎左衛門
では到底許されない。

……で。

「……吉島殿、困りますな。そのような事をされては」
「何故です?馬や駕籠に乗っての登城は禁じられていると窺ったので、決まりは守
らねば、と思ったのですが」

苦りきった表情の門番と、飄然とした顔の五郎左衛門。

「いや、だからと言って……」
「風呂桶での登城は禁じられていない筈です。違いますかな?」

そう、五郎左衛門、風呂桶を人夫に担がせ、それに乗って登城したのである。

「規則以前に常識で考えていただきたいものですな!」

五郎左衛門が罰を受けたという記録はない。


確か彦左にも同じ逸話があったような気がするが……見つけた。

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-974.html

門番の人達可哀想過ぎるだろ、こんな奴ばっかで。
304人間七七四年:2011/03/18(金) 14:14:48.04 ID:1EQR2Csj
門番受難の時代。橋守よりはましかもしれないが。
305人間七七四年:2011/03/18(金) 14:41:16.90 ID:cuC6Rv02
なんで素直に歩いて行こうって発想に成らないかねw
306人間七七四年:2011/03/18(金) 15:51:14.13 ID:U+6Ubfso
そうだ、屋敷毎運ぼう、とかならなかっただけいいじゃないか。
307 [―{}@{}@{}-] 人間七七四年:2011/03/18(金) 16:17:15.60 ID:HRUGbdhs
老中「……忠興殿のご内儀が存命であれば、
   細川家の庭を整備させてやるものを……」
308人間七七四年:2011/03/19(土) 19:33:19.02 ID:UQaLixJq
>>47
/: :/   ヽ:>-:─:───-.、__,,/: : ::/i:|
人人  メ": : : : : : : : : : : : : : : :゛ヽ:/ ,':/
   `ー‐イ :/:: : : ::Π: : :、: : : : : : : :\,':/
 マ    (:/:: : : : ::|_|: : : :\: : : : : :、: :ヾ、
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 ジ   /:|::: :/\    \: :∧: : : ::|: : : :∧
    .{: :|:::/   \    Χ:::ト、: : :lニニl: : |
 で  |:::|:/ ,ィニ≧、     ,ィ=、\:|:: : : : :|
     》:|'/ ,ィ⌒ハヾ 、   ,ィ⌒ハ、 |:: : : : :|
  っ  {::∧` {::::::し}  l/ヽl {::::し}` |: : : : :|
     ゝ:::\弋:::ソ ,ノ  | 弋::ソノ |; : ::|:::|  ___
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    (\::| ̄⊂⊃ ,vー'ー. ⊂⊃'": : :|   | >
     ノ::::.`\    〈   ノ  /: : : : : :|   / \
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:: : : : : ::::::::::/      {、: : : : : : : : /  /.>
309人間七七四年:2011/03/20(日) 01:08:48.59 ID:FiDCeB1I
慶長19年(1614)、徳川幕府と関係悪化をしていた豊臣家、駿河より片桐且元の持ち帰った
和平案を豊臣秀頼は拒絶する。

そして織田常真入道(信雄)を呼び、

「この上は且元を斬り、挙兵せんと思う。その際は入道に総大将を任せたい」

と言った。これに常心入道

「ははっ。今天下の大名を数えるに、一体誰が故太閤の御恩を受けていない者でしょうか?
一旦挙兵すれば、これに参加するため豊臣家の元にに参らぬものなどおりはしません!

さらにお手元の軍勢も、1,2万もございます。
この入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。
老後の思い出に一方の大将を承り、素晴らしい活躍をお目にかけましょうぞ!」

これに淀殿、秀頼をはじめ豊臣家の人々大いに喜び、
「萬事、入道の計らいに任せる」
と、挙兵することに決まった。

ところがである。常心入道、片桐且元の元に密かに使者を立て、この日あったことを全て
詳細に伝えた。そして自身は夜に入って吹き荒れた風雨にまぎれ、大阪を落ち京に隠れ、
徳川家康が京に上ったことを知ると、二条城へと入った、という。

大坂の陣が始まる瞬間の、織田信雄の行動である。
310人間七七四年:2011/03/20(日) 01:30:34.41 ID:5KcQmPYs
むしろ、なぜ信雄さんは総大将を任されるほど、評価が高かったのか?
失態に失態を重ねているのに。現代を生きる我々には信じられない。
311人間七七四年:2011/03/20(日) 02:08:32.79 ID:jpEEnOlF
>>310
格とか位の問題があるんじゃね?
一応数万の兵を指揮したことがあるし秀頼の親戚だし
312人間七七四年:2011/03/20(日) 09:09:46.77 ID:Gz9sJK3s
信雄よりかは信頼できそうな信包と長益は数万の兵を率いたことは無さのそうだしな
313人間七七四年:2011/03/20(日) 10:09:28.13 ID:cyZSIvEB
信雄が率いるぐらいなら、ぶっつけ本番で秀頼が率いたほうがましなレベル
314人間七七四年:2011/03/20(日) 10:48:43.10 ID:e1ctvNHX
戦場の空気を知らない秀頼よりかはそれを知る信雄の方がマシってことか
315人間七七四年:2011/03/20(日) 12:27:39.76 ID:PI3YbuSF
初陣の若者にいきなり大軍を与えて高度な作戦させようとした結果が
あの小牧・長久手の戦いだからな
316人間七七四年:2011/03/20(日) 13:12:28.36 ID:NBck8DH9
>入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。


若い頃勝手に一万くらいで伊賀に攻め込んで大失敗したやんかと
317人間七七四年:2011/03/20(日) 15:30:09.23 ID:M4yWXi8O
日本がなぜアメリカの言いなりになってしまうのか、という背景の一端をかいま見ることができる内容です。
戦後60年以上も経っているというのに、日本の各地には今なお米軍の基地が置かれ、
日本政府が“勝手なこと(真に日本の国益になるようなこと)”をしないように見張られているのです。

  “勝手なこと”をしようとすると、田中角栄元首相のようにスキャンダルを仕掛けられて失脚させられたり、
竹下元首相のように米軍に拉致されてヘリコプターに逆さ吊りされて脅迫されたり、
小渕元首相に至っては突然死させられるなど、まさに身の危険にさらされるのです。

  小泉元首相が郵政民営化によって300兆円の日本国民の財産をアメリカに献上せざるを得なかったのも、
ある意味では自らの命を失いたくないという恐怖心からの行動と見るべきでしょう。
そのような立場に置かれたら、普通の人間はそういう行動をとることになるのです。

  そういう個人に対する脅迫だけでなく、かつて原因不明のまま御巣鷹山に墜落した日航機のように、
民間の旅客機を駐留米軍のミサイルで撃ち落とすなど好き放題のことをやられてしまうのです。
自衛隊はそのことがわかっていながら、証拠隠滅のために出動させられています。
  だからといって、売国的行為を行なった小泉純一郎氏や竹中平蔵氏を免罪するわけではありませんが、
竹中平蔵氏が人工地震まで使って脅かされたと言っているのは、おそらく本当のことだろうと思っています。

「地震兵器」で検索してください。

電磁波を地盤の弱いところに当て地下水を熱くし膨張させれば理論的には可能だ。
実際に地震の前に新潟で不思議なプラズマの映像が撮られている。


「地震兵器」  「日航機墜落事故  真相   米軍」  で検索してください。
318人間七七四年:2011/03/20(日) 17:13:21.44 ID:x1eyZms2
いつも思うが伊賀戦や小牧、長久手のころからの信雄を思うと成長っぷりが半端ないな
319人間七七四年:2011/03/20(日) 17:49:51.67 ID:YJ4WxN8G
決断力はあるから欲出さなければ割と出来る子なのよね信雄
関ヶ原で、自分の判断力のあれさに流石に気づいたのか
320人間七七四年:2011/03/20(日) 22:17:52.00 ID:5KcQmPYs
>>319
kwsk
321人間七七四年:2011/03/21(月) 01:26:58.93 ID:o9Epjr9y
個人的には老犬斎が生きてて壮健だったらどうなってたか興味がある。
322人間七七四年:2011/03/21(月) 01:45:45.98 ID:1Ly9naeR
本多正重といえば、本多正信の弟でありながら兄とは違い、剛直で傍若な武人として
知られた人である。

ある寒い日のこと。正重は大御所、徳川家康の元に参った。
この時御前にはすでに兄、正信がいた。そして家康の元に夜の御膳が運ばれており、
正信にもまた膳が与えられていた。

しかし家康は食事を置いて人々に指令を出しており、それが終わって漸く膳から
鶴の羹の汁を取り、それを食して正信の方に向かい

「世の常の羹であれば、出てきてから今ほどに時間が経てば冷たくなっているものだが、
この羹はこのように温かであるのは不思議なことだ。大鳥は老人に益ありというが、
さもありなん。」

と語りかけた。これに同じく膳を食していた正信、箸を取り改めて答えようとする

と、その間も与えず、本多正重突然進みでて、それまで放って置かれたのが気に入らなかったらしく、
家康に向かって言い放った!

「ならばこの正重の如き小鳥をば羹にしたのなら、今頃は凍っているでしょうな!」

こう言い捨てるとそのまま御前を下がって出て行く。これにはさすがの家康もあきれ果て

「なあ正信よ、お前の弟はもういい歳だというのに、心が改まらぬなあ。
あのようではいくらなんでも大名には成れぬぞ?」

と、ため息混じりに語ったという。

本多三弥左衛門正重、おそらくこの頃60歳を過ぎている。
そんな、歳をとってもツッパりをやめぬ「海道一の勇士」であった。
323人間七七四年:2011/03/21(月) 01:52:41.80 ID:AlkEbcT4
324人間七七四年:2011/03/21(月) 01:54:29.62 ID:1Ly9naeR
大変申し訳ない…(;´Д`)アーウヤッチマッタ
325人間七七四年:2011/03/21(月) 03:02:12.91 ID:1Ly9naeR
お詫びにもう一つ本多正重話、こっちは出てないはず。

大坂の陣も終わった後のこと、旗本の坂部三十郎と久世三四郎に大阪での働きが賞され、
加増されることになった。

と、これを聞いて怒り狂ったのが本多三弥左衛門正重である。

「あの三四三十、いかにこの正重に超えたる武功があって賞を与えられるというのだ!?
許さんぞ!」

側にあった刀をひっつかみすぐさま登城した。無論場合によっては二人をたたき殺す気満々である。
ちなみにこの頃本多正重は70歳を超えている。呆れるほど枯れない爺さんである。

さて、そのころ坂部・久世の両名、ちょうど城から帰る所で、大手の門を出たところであった。
正重この姿を見つけ

「わしの方に向かって、加増をもらって足取り軽く向かってくるわ!なんとけしからん奴らだ!」

と(一方的な思い込みで)憤り怒り心頭。彼らが橋の半ばに至ったとき、大音声を上げて怒鳴りつけた!

「お前たちはいかなる高名をして所領を賜ったのか!?語れ聞かせろ!!」

これを聞いた久世三四郎、すぐさま全てを察した!そして左手で自分の耳たぶを取って見せた。

「こ、これのおかげかな…?」

久世も坂部も耳たぶがとても大きかったのだ。それを見ると正重、大いに納得し

「うははははそうかそうか、生まれながらの幸運のおかげであるか!お前たちは耳たぶが
大きく生まれ幸運が付いているのだろうが、武功においては何条正重には及ぶべきか!」

などとつぶやきすっかり機嫌を直し、坂部久世と連れ立って(二人にはいい迷惑だったであろう)
仲良く帰っていったという。

武功で加増なら許さないが運で加増ならオッケー、という、本多正重の解るような解らないような
価値基準のお話である。
326人間七七四年:2011/03/21(月) 09:17:34.72 ID:vylA11jo
すげー僻み屋だなw
327人間七七四年:2011/03/21(月) 12:29:06.90 ID:RYsF2p9H
>>325
ワロタw
328人間七七四年:2011/03/21(月) 12:58:06.77 ID:RXxwj/fk
家康「耳たぶの大きな奴は何か他人と思えんのじゃ。」
329人間七七四年:2011/03/21(月) 13:18:53.54 ID:bEUnfmy+
>>325
めんどくせえジジイだw
330人間七七四年:2011/03/21(月) 15:13:34.65 ID:mE42iHWI
ノリ突っ込みの流れで双方ボケ倒したまま…だと…
331人間七七四年:2011/03/21(月) 16:36:10.85 ID:Tz0Sa+Eg
久世と坂部もなかなか機転が聞くけど、なんか三河者っぽくないな
普通の三河者なら文句あんのかジジイ!→口論→抜刀→切腹がセオリーなのに
332人間七七四年:2011/03/21(月) 18:45:20.02 ID:6mZ7TAzX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1296.htmlで目出度く「織田」を名乗った越前織田城主の朝倉景綱さん。
この人、なかなかの人である。個々の逸話については既に語られているが、まとめてみようと思う。

朝倉義景の従兄弟という系図もあるが、実際は一族とはいうもののかなり前に分かれた家の出であるらしい。
国内の要所である織田をまかされていた以上、冷遇されたわけではないが、朝倉義景全盛の頃はあまり記録に出てこない。

この人が記録に登場するのは、対織田信長戦の頃から。
元亀元年の越前侵攻の際は、500の兵を率いて河野口(現南越前町)を守ったとされる。
その後、義景に従い志賀の陣や小谷城救援に出陣するが、次第に劣勢となる義景に対し不安・不満を募らせていったらしい。
天正元年8月、浅井長政の救援要請を受けて朝倉義景は近江に出陣する。朝倉景鏡や魚住景固が疲労を理由に出陣を拒否する中、
とにかくも従軍した景綱の手勢は義景にとって貴重な戦力であったに違いない。

8月12日に前衛の砦が陥落すると、義景は小谷城救援を諦め撤退を開始。しかし、撤退を予想していた信長の追撃により、
朝倉軍は近江・越前国境の刀根坂で大敗、朝倉一族や重臣が多く戦死した。朝倉軍は織田軍かく乱のため、二手に分かれて
撤退したのだが、これが裏目に出て織田軍は雑兵ばかりの陽動部隊は目もくれず、義景本隊を攻撃したという。戦う前から
兵力を損じたうえ、敵の総大将信長が先頭切って向かってきたのだから敗戦もやむを得ない。

それでも義景も戦国武将である。越前を南北に分ける木ノ芽峠で敗軍をまとめ織田軍を迎え撃とうとした。

ところが、

「我らは殿の分別についてゆけぬ。これにて御免!」

景綱はこう言い放つと手勢をまとめてすたこらさっさ、織田城目指して去ってしまった。
この景綱の行動を見て、それまでとにかくも義景に付き従ってきた他の侍たちも「一族である景綱様までも・・・」と考えて
蜘蛛の子散らすようにわっと逃げ去ってしまった。残された義景直属のわずかな軍勢では、とても勝ち目はない。
自害しようとする義景を近習が何とか説得して一乗谷まで撤退した。義景のその後はご存知の通り。


この後、信長に降伏して晴れて(?)織田姓を名乗った景綱であったが、一年も経たぬうちに越前一向一揆が起きる。
一向一揆には組みせず織田城に籠城した景綱であったが、雲霞の如く押し寄せる一揆軍に恐れをなしたか、城兵を残したまま、
妻子だけを連れて夜陰に紛れて海路で敦賀へ脱出、二度目の「これにて御免!」である。呆れ果てた城兵は一揆軍に降伏した。


これだけのことをしでかしため、さすがにその後は景綱もその子も世に出ることはなかった。以後消息不明であるが、官途の兵庫助
を名乗る人物が京都で茶の湯の会に出た記録が残っているらしい(出典忘れた)。もしかしたら、わび住まいでも建ててある意味
幸せに暮らしたのかもしれない。
333人間七七四年:2011/03/22(火) 12:36:23.85 ID:eHrW4eU/
壮年期の信長さまはアグレッシブだなぁ
断空剣とか使えそうだ
334人間七七四年:2011/03/23(水) 00:23:26.44 ID:jRtC6JAw
真田昌幸のアドバイス

保科正直といえば、織田信長の甲州征伐に置いてあの高遠城から命からがら脱出、
その後も滝川一益に殺されかかるなど生命の危機に何度も出会ったが
そこに本能寺の変!織田家勢力の消滅した旧武田領内で息を吹き返し、
上野に進行してきた北条氏直に臣従した。

さて、ここで正直が再開したのが、同じ武田の旧臣であり同じく北条に臣従し、
また自分の妻の父、つまり義父である真田昌幸であった。

昌幸は直正と対面すると早速、こんな助言をした

「あなた方保科一族は、今は北条に従うように見せ、密かに徳川に付き家康より
本領安堵の朱印状を手に入れるべきです。
そして北条のためと偽り、あなたの弟の内藤昌月殿から兵を借りて、
本領の高遠城を奪い取るべきです。」

流石表裏比興。もういきなり高度で複雑怪奇な政治遊泳の勧めである。
しかし保科正直もこれに従い、弟の内藤昌月に兵の貸与を求めた。

ちなみにこの内藤昌月は甲州征伐の際いち早く織田に降服し、上野箕輪城代の地位を保ったため、
兵も所領も兄直正に比べ格段に有利な状況にあった。

さて、内藤昌月は兄の願いを聞くと鼻で笑い

「伊那の高遠は北条氏直様より私が朱印状を拝領し、自分が貰う事になっております。
今は北条の軍事行動に従っている最中なので人数を割けませんが、あなたは兄なので
悪いようにはしませんよ。まあ近い内に私が兵を派遣するので、どうしても高遠に行きたければ、
それにくっついて行ってはいかがですか?」

と、実に横柄な返事を寄越した。

保科正直はさすがにこれに怒ったが、これにも真田昌幸はこう助言した。

「何を怒っているのですか?内藤に兵を出させて高遠を手に入れたら、それを乗っ取って
自分の領地にしてしまえば良いのではありませんか。短気はよくないですぞ!」

実際にこの後、内藤昌月による高遠城奪取が行われた後、内藤が北条の対徳川軍事作戦のため
甲斐に呼び出された隙に、保科正直は高遠を乗っ取ったらしい。

そんな、真田昌幸からかわいい娘婿へのアドバイスである。
335人間七七四年:2011/03/23(水) 01:07:08.92 ID:ufBobeK+
内藤昌月が絵にかいたような小物の件
336人間七七四年:2011/03/23(水) 17:32:46.64 ID:LNoKmqBf
元和5年(1619)、広島城主、福島正則の改易が決まる。

当時江戸屋敷にあった正則にこの事を伝える御使となったのは、鳥井左京亮忠政であった。
忠政はこの命令を承ると、先ず家に帰り供の者をすこしばかり付け、その上で正則の屋敷へと向かった。

この時忠政は供の侍たちに「私には考えるところがあるので、たとえこの使いで私が命を落とすような事態になっても
お前たちはそれに反撃し彼らと戦うような事をしてはならない。」と、固く誓わせた。

さて、忠政は福島邸に到着し正則と対面、改易の旨を伝えた。
正則はこれを聞くと、しばらく無言の後

「それについて答え申すべきことがある。しばらく待ってくれ。」

と、対面所から内に入っていった。

すると屋敷の中が大変騒がしくなる。それでも忠政は冷静に、対面所で正則が出てくるのを待っていたという。

そして二時(4時間)ばかり過ぎたころ、正則が長袴の姿で刀も帯びず、幼い娘の手を引いて再び入ってきた。
そして忠政にうち向かい

「この正則は御当家に対して多大な忠義のある者である以上、いかなる事があっても七代までの間は
罪があったとしても許されるべきであるのに、正則の一生の間すら無事過ごし得ることが出来ないとは。
このような仰せを承る事こそ恨めしい。

さればわしは自分の妻子を一人づつ刺し殺し、その上でお主と刺し違えて死のうと決めた。
そして刀を抜き、最初にこの子を殺そうとした。」

と、手を引いてきた娘の方を見

「…何度も殺そうとした。百回も千回も殺そうとした。しかしどうやってもわしには、この子に
刀を立てることが出来ぬのだ!

この上はもはや仕方がない。ともかくも仰せに従おう。ただ、年来の情けにこの子たちの身の上はどうか、
よきように頼み参らす。」

と語ったという。


我が子を殺すことが出来ず改易を受け入れた、と云う、福島正則についての逸話である。
337人間七七四年:2011/03/23(水) 18:44:03.92 ID:f+cOSq6X
これは・・・いい話だ
338人間七七四年:2011/03/23(水) 18:47:45.08 ID:1TjDz3iF
家康の養女と結婚させた養子は餓死させてなかったっけ
改易の理由がそのせいとは言わないけど
339人間七七四年:2011/03/23(水) 21:07:30.14 ID:a5+0H1FT
あれ、ここ悪い話スレ?
340人間七七四年:2011/03/23(水) 21:32:00.18 ID:jmHr3jB1
>>332
島津家久が天正三年に上洛した時の「家久君上京日記」でしょ
家久が里村紹巴や明智光秀等と会ってる時に、「朝倉の兵庫助といへる人くハ々り候」って書いてある
341人間七七四年:2011/03/24(木) 00:46:26.80 ID:hHnT9onv
これ正則が酒を飲んだ勢いで娘を殺しかけて嫁にどやされたとかいう裏話ないの



すまん、素直にいい話なんだが正則だとつい妄想してしまう
342人間七七四年:2011/03/24(木) 01:45:12.92 ID:bmRiC4wc
慶長5年11月、福島正則は関ヶ原の恩賞として、安芸備後を賜った。

この時、ある人が井伊直政に聞いた

「福島正則という人はおのが功に誇り、内府様(家康)の大切なご家臣である伊奈昭綱殿に
腹を切らせたというのに、彼に与えられた御恩は他の人に増して殊の外厚いものです。
この事、全く心得かねます。」

これに直政

「福島殿は天下のために大忠をいたした人なので、御恩の深いのは当然です。
また、伊那も徳川家の家臣である以上、いざという時腹を切るのは勿論の事です。

…ですが、人は誰であっても、一生のうちあやまちを犯さないというのは変難しいことです。
そうであれば、このように御恩が深い時期にこそ、正則殿はより慎み深くあるべきだ、
とは思うのですが…」

と、答えたという。

正則の後年を予感していたかのような、井伊直政の福島正則評である。
343人間七七四年:2011/03/24(木) 11:24:08.92 ID:/gYCDmbn
永遠のティーンエイジャー市松であった
344人間七七四年:2011/03/24(木) 21:35:18.10 ID:ox8dy030
うむ。
345人間七七四年:2011/03/24(木) 22:54:21.20 ID:EBIyQvFP
ちょっと小ネタを。

渥美助左衛門という武将がいた。
父の代には高天神城主小笠原家の臣だったようだが、主家滅亡で浪人。
しかし「九戸の乱」にて井伊直正の軍勢に加わって武功をあげ、家康の賞賛を受けた。
なんでもその活躍は家康をして「無手なる活躍」と言わしめるものだったようだ。
「ろくに軍勢もない状況で活躍した」という意味だろうか?

家康「よし、褒美をやろう!」
助左衛門「はっ!(ワクワク ワクワク)」
家康「今後、無手右衛門と名乗るがよい!」
助左衛門「あ、有難き幸せ・・・・・・」

渥美無手右衛門。その後は井伊家に仕え、やがて結城秀康に引き抜かれて、
忠昌の代にもその名が越前松平家臣団の記録に残っている。

最初は「いい話」に投下するつもりだったんだが名前のインパクトが・・・・・・
346人間七七四年:2011/03/24(木) 23:09:09.06 ID:lKMjDtF2
安心の家康クオリティ
347人間七七四年:2011/03/24(木) 23:15:39.07 ID:Cbkzwr4w
無手右衛門って武田家にもいたよね
348人間七七四年:2011/03/25(金) 09:58:05.42 ID:/SZsq+Lc
変わった名前だと、理由を聞かれやすくなるだろ?
そんときに「この名は恐れ多くも神君家康様から……」と自慢できる。
だからわざと変な名前を与えてるんだだよ。たぶん。
349人間七七四年:2011/03/25(金) 10:08:06.83 ID:SC+MAhB5
能にはまる水野さん

大阪の陣後、福山藩を手に入れた水野勝成は
福山城を造築した際、廃城した伏見城からも資材やら、分解した建築物を運んで
福山城の建築に利用したらしいが、

その時一緒に、ある貴重な物も福山城に持ち込んだ。
それは能舞台である。

能舞台と言っても、ただの能舞台ではなく
かつては秀吉も使ったとされる、貴重な組み立て式の能舞台であった。

そんな能舞台を、秀忠から
伏見城にあったものだからと言うので、勝成は拝領したのである。

当然、勝成も大喜び
そう勝成もまともな武士であるから、幼いうちから教養としては身につけており
能にはひとかたならぬ思いがあったのである。


こうして、能舞台を拝領してしばらく後のこと
勝成は当時の能楽の名人の喜多七太夫の息子「寿見」を自分のところに呼んだ。

呼び寄せるからには当然理由があって
勝成は能舞台で、この寿見に能を演じて貰いたいからであった。
演目は「道成寺」であった。

これに対し、寿見は
「道成寺」をこの場で演じるには難しいと言った。

演じる為には、周りの者との熟練の呼吸が必要で、
周りの者つまりは「勝成の家臣」の鼓で
舞うのは嫌だと暗に諭したのだった。

これに対して勝成は相当キレたらしく
寿見はすぐに夜逃げして福山から離れた。

頼んだ事を断り、なおかつ夜逃げという失態
こうなると後が怖いので、

それを知った寿見の父親の当代一の名人、喜多七太夫は
息子の後始末のために、異例とも言える
遠路はるばる福山まで足を運び「道成寺」を演じると言う
謝罪の講演を行い、勝成はご機嫌を直したとされる。


半生はDQNで藩政はまともでも
その一方で芸事にはうるさかった、水野さんのお話。
350人間七七四年:2011/03/25(金) 10:55:44.72 ID:QJHwK6a9
NO−−!!
351人間七七四年:2011/03/25(金) 23:05:02.94 ID:rpEdG3ZT
「道成寺」って佳境で鐘が落ちてくるやつでしょ?
視界の悪い能面かぶって鐘の真下に入らないといけない。一歩間違えば大惨事。
これで能役者が頭打って死ぬ話がなんかの漫画にあったな。
352人間七七四年:2011/03/26(土) 00:33:01.10 ID:JYTAEehH
そいつはおっ鐘ー
353人間七七四年:2011/03/26(土) 02:07:48.77 ID:59IeSGJ6
舞い手だけでなく、周囲の人間の段取りも完璧じゃないとダメなんだと
前にかじった本に
「道成寺みたいな命の危険が伴う舞台でも、百回やって百回とも当然に成功するのがプロ」
って書いてあったなー
つまりプロでないと死んでもしょうがないような演目なのか
354人間七七四年:2011/03/26(土) 03:43:43.82 ID:15ULkTtb
TPP、アメリカ、地震、郵政民営化について
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/
355人間七七四年:2011/03/27(日) 14:09:52.17 ID:prWxd9E0
たしかこの寿見、勝成の屋島を品が無いとかって駄目出しもしたんだっけな。

それでいて道成寺は舞えません、じゃ、勝成じゃなくとも怒るわな。
356人間七七四年:2011/03/27(日) 16:56:55.54 ID:4Z/NBlCE
戦国時代の海老蔵みたいなもんか
357人間七七四年:2011/03/27(日) 17:19:26.42 ID:Q7Wbz91P
藤吉郎と小六の出会い


立身出世を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た藤吉郎は近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、

「自分は尾張の浪人である」

とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が

「何か食べ物を寄こせ!」

と庵に立ち入ってくると、藤吉郎は

「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。

その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目である蜂須賀小六が

「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」

と願い出ると、藤吉郎は

「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」

とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
藤吉郎は庵を立ち去ったという。

そう、将来を夢見て大志を抱き、太閤にまで上り詰めた、若き日の木下藤吉郎秀吉である。
358人間七七四年:2011/03/27(日) 18:51:27.29 ID:gNV+8NUq
審議中(AA略
359人間七七四年:2011/03/27(日) 19:04:42.94 ID:EMkvuFGN
コピペ改変ならそう書いてくれ紛らわしい
360人間七七四年:2011/03/27(日) 22:03:41.86 ID:1VpqS5H/
江戸近郊の目黒に置いて、将軍徳川家光による鷹狩が行われた時のことである。

この目黒には、成就院という寺院があったのだが、そこに4,5人の武士が尋ねてきた。
住職が何事か聞けば
「我々は将軍家御鷹狩のお供の者なのだが、大変くたびれてしまってな。すまんが、少しここで
休ませてもらえないだろうか?」

住職は「ああお安いこと、どうぞどうぞ」と寺の内に入れた。
「将軍家様の御鷹狩で、このあたりは大変な騒ぎですよ」「そうであろうな」
などと言いながら寺の客殿に通した。と、そこの壁には菊が見事に、まるで絵画のように美しく飾ってあった。

一番身分の高いらしい、若い侍がこれに感心し
「失礼ながら、このような田舎でこんなに素晴しい生花を見るとは思わなかった。この寺は良い檀家を持っておられるようだな。」

そう尋ねると住職
「いえいえ、ここは江戸より遠く、然るべき檀家というものも無いのですが、ただ保科幸松殿と申せし方の御母上が、
時々祈祷のことなどお頼みされるのですが、そちらもお台所苦しく、布施のものも、豊かではありません。」
「ふむ…、その他には?」
「ははは、その他はもう皆、物の数に入らぬような…。ああそうだ、こちらにいらっしゃる皆さんは
将軍家の御家人であられるそうなので、恐れ多いことなのですが…」

住職、内緒話と声を低くし、その武士に少し近づいて語り出す

「その保科幸松殿と申す方は実は、今の将軍家の正しき御弟君だと承っております。
であるのに僅かの領地しか無く、貧しくされているのはなんといたわしい事でしょうか!?
たとえ賤しき身分の者であっても、兄弟が親しみ深くするのは世の習いだというのに、
一体どうして、あのように身分の高い方が情けなく出来るものなのでしょうね?」

と、これを聞いてその侍、少し顔色を変えたが、他の者達の方に向き直り

「さて、もう出かけよう。そろそろ上様がお帰りの時間である。」そして住職に
「御僧のお情けで足を休めることが出来た。また参ることもあるだろう。」と声をかけ、寺を出て行った。

しばらくして

成就院に大勢の、将軍家に付き従う武士達が押し寄せた!
住職が挨拶もする間もなく、その者達叫ぶ

「上様は!?上様はいずこにおられる!?」

「う、上様?わ、我らは上様のことなど一向に知りません。ただ先ほど、鷹狩の
お供の方がこちらでお休みに…」

これを聞いて押しかけた者たち唖然
「ば、バカモーーーン!その御方が上様だ!!」

住職驚愕
「な、なんですってー!?」

「未だ遠くには行かれていないはずだ、追いかけるぞ!」「ははっ」
武士達は一斉に家光たちが向かったという方を追いかけた。
哀れなのは住職である。これを聞いてから「ああ何ということだ、私は上様になんて失礼なことを。
いかなる罪を仰せつかるのであろうか?」と恐怖し、それから一月程、門の外に足音高く
人が通り過ぎるのを聞くだけでも、魂が消えるような思いをしたという。

さて、一方保科幸松、改め保科正之、この事から程なく家光より多くの領地を与えられ、家光の信頼厚く
やがて山形を領する。正之はこれを成就院の恩として、かの寺に土地など多く寄進したという。

徳川家光、鷹狩の最中のお忍びで弟正之の存在を知る、という一席。
ビビりまくった住職さんがちょっと可愛そうだったのでこっちにw
361人間七七四年:2011/03/27(日) 22:17:43.39 ID:KdZYUSkC
そりゃあ、焦るわな
362人間七七四年:2011/03/27(日) 23:10:23.89 ID:Rty+LYv9
やっぱり坊主は目黒に限る
363人間七七四年:2011/03/27(日) 23:23:19.49 ID:OFPp8sjC
しかし保科正之自身は神道に傾倒していて会津では廃仏毀釈してたんだよね
364人間七七四年:2011/03/28(月) 00:12:59.73 ID:iJZYvXIS
保科正之は晩年神道にはまったけど、廃仏毀釈なんてあったか?
365人間七七四年:2011/03/28(月) 00:18:19.44 ID:0pc7QKM6
しかし、その坊さんは若い侍の着物に葵の紋に気付かなかったのかな?時代劇とかだと着物に付いてるけど。
366人間七七四年:2011/03/28(月) 00:23:40.04 ID:lGzUW2XQ
延享4年3月30日
信州上田城の西側小泉曲輪の堀から妙なものが掘り出された。
しゃちほこである。それも朱漆や金箔の跡があるかなり立派なものであった。
なぜそんなものが堀からでてきたのか?それについて上田にある話が伝わっている。

元和7年上田藩主真田信之は領内より材木や瓦を集め始めた。
目的は一つ、上田城再建である。

上田城は信之の父真田昌幸によって建てられた城である。
しかしその城は関ヶ原後に廃城となり、その後は陣屋があるのみだった。
それから20余年を経て、ついに上田に城に蘇ろうとしていた。

総廓の拡張、河川の整備、五重天守の普請を含むこの壮大な計画には一つ問題があった。
幕府の許可を取っていなかったのである。
おまけに小諸の仙石忠政がこれを聞きつけて幕府に上訴してしまった。

元和8年真田家は松代に転封、後には仙石家が入る。
城はすべて元通りにするように命ぜられ、大量の建材が堀に捨てられた。
それから140年あまりを経て再び世に現れたのが件のしゃちほこであるという。
367人間七七四年:2011/03/28(月) 01:21:34.28 ID:b3UyXqZJ
お兄さん何やってんすか
そんな弟みたいな無鉄砲なことやんないでくださいよ
368人間七七四年:2011/03/28(月) 02:11:17.67 ID:km3FuMU8
どう考えたってバレるだろw
369人間七七四年:2011/03/28(月) 03:47:06.99 ID:cILalDQr
三代将軍家光はある時こんな夢を見た。
その夢の中では今は亡き祖父家康が馬に乗っていたのだが、
どうも馬が暴れ出しそうだったので、それに気付いた家光は即座に馬を止め家康を助けた。
家康は家光のその功績を褒め称えお辞儀をすると、
家光はその家康からの労いに感謝し跪き、この恩に命を捧げると言った所、
家康は「おお」とほほ笑んだと言う。

家光はこの夢にえらく感動したようで、
家康への感謝とこの出来事を忘れないために自分のお守りまで作っている。

これだけだと良い話なのだけど、
家光は生前に似たような理由でお守りを八つほど作ったのだが、
その中に入っている直筆の書付で彼は自らのことを
「二世将くん(二世将軍)」もしくは「二せこんけん(二世権現)」などと書いており、
家康の二代目を自負している。

彼にとって秀忠とはなんだったのだろうか…
370人間七七四年:2011/03/28(月) 04:21:54.30 ID:RlUJwphK
仙石は相変わらずみみっちい根性してんだな
371人間七七四年:2011/03/28(月) 07:50:40.26 ID:T8fRwybB
やはりというか、悪い話に絡んでくる仙石w
372人間七七四年:2011/03/28(月) 08:13:09.68 ID:EJrOCVgE
>>369
この場合の「二世」は「二代目」ではなく、『家康の生まれ変わり』って意味だな。
徳川家康セカンド、第二次徳川家康、って事だ。

家光は武断政治を標榜していたから、武のイメージの殆ど無い秀忠より(といっても大坂の陣なんて
実際には秀忠主導っぽいが)、家康を自己に投影するのは、政策イメージを浸透させる手段として見れば
多少はしょうがないだろうね。幼名も同じ竹千代だしw

あと家康自身が、父松平広忠より、祖父清康の生まれ変わりと見なされることが多かったので、
そこも意識したのかもしれん。
373人間七七四年:2011/03/28(月) 10:53:24.68 ID:UOMnrPhJ
>>と、そこの壁には菊が見事に、まるで絵画のように美しく飾ってあった。

家光…ゴクリッ
374 [―{}@{}@{}-] 人間七七四年:2011/03/28(月) 11:17:52.29 ID:AQw9B0xq
家光「父上は私の知る限り衆道はなさらなかった。
   権現様は若い頃より、寵童に親しんだ信長公らと親交厚かった。
   後は分かるな」
375人間七七四年:2011/03/28(月) 11:29:09.98 ID:vvdJILlW
秀吉「つまりワシの子だったのだよ」
376人間七七四年:2011/03/28(月) 11:34:48.43 ID:trqNTSiY
武功雑記のこの記事がどうも良く理解できないので、解る人解説してもらえるとありがたい。


○同所冬御陣に、侍は朱をたしなみ持ものなり、分て取れと御意にて朱を被下候。
 何れも何の役に立んとて拝領せず。

(訳:家康公は大阪冬の陣の時、「侍は朱の嗜みを持つものである、分けて取れ」との御意にて
   朱を下されたのだが、「何の役に立つのか」と誰も拝領しなかった。)


家康の世代には武士が朱を使う風習があったが、大坂の陣の世代ではその風習が廃れ、
朱を使う意味も意義も解らなくなっていた、と言う理解で良いのだろうか?
377人間七七四年:2011/03/28(月) 15:17:30.88 ID:EttIvdFV
>>357
藤吉郎だけに
さる老僧が猿老僧に見えたのは俺だけじゃないはずだ
378人間七七四年:2011/03/28(月) 18:22:51.82 ID:7rVpIDbb
>>376

朱は漢方の朱砂かな?漢方薬に詳しい家康ならば
鎮静に効能のあるといわれる朱砂を持っていても不思議ではないような。
家康が水銀(水銀朱か?)を服用していたと言う話もあるし
379人間七七四年:2011/03/28(月) 18:46:33.31 ID:E34pGAzs
化粧のことかと思った
380人間七七四年:2011/03/28(月) 18:47:24.25 ID:FoLtJcJH
主君がくれたらありがたく拝領して老人にでも用途を聞きそうなものだが
「使わねーし」と拝領さえしない辺りが
やたら風通しがよさそうな雰囲気な
381人間七七四年:2011/03/28(月) 18:55:00.50 ID:trqNTSiY
朱は首実検の時の首化粧のためのものじゃないのかな?
382人間七七四年:2011/03/28(月) 19:34:40.96 ID:GVYZEZlA
>>351
ギャラリーフェイク
383386:2011/03/28(月) 19:42:25.84 ID:7rVpIDbb
なんと首化粧の紅差し用でござったか!
たしか、おあむ物語にも書いてありましたな首化粧の話
鹿毛馬の糞混じりの尿を飲んできますorz
384人間七七四年:2011/03/28(月) 20:11:02.05 ID:5BbXzVbV
>>376
いやそこは誰か空気読んで貰っとけよww家康かわいそうだろww
385人間七七四年:2011/03/29(火) 01:14:34.69 ID:4YtqyzhV
一応いい話として記録されているのだが…

堀尾信濃守忠氏の近習に、揖斐伊兵衛、堀尾作左衛門という者があった、何れも400石ずつの
知行であったという。

さて関ヶ原の決戦の後、堀尾家の家臣たちが、既に降伏していた長束正家の所領、
水口城下において略奪を働くという事件があった。
この事件に対し人々は、水口は落城した以上既に味方の地となっており、そんな所で
略奪をするような連中には、関ヶ原での武功もなかった事にされるだろうと、もっぱら噂し合った。

そんな噂を聞き及んだ揖斐伊兵衛は、同僚の堀尾作左衛門にこう語った

「今度我軍が略奪を行ったこと、後悔先に立たずと言いますが、このままでは我が堀尾家の、
江渡(河田木曽川渡河の戦い)での功も無効となるかもしれません。

ところで我らは信濃守(忠氏)様の旗本でありながら、さしたる功もありませんでした。
そこで今回の略奪の張本人であると名乗り、その責任をとって切腹すれば、堀尾家としての
責任は回避できるのではないかと考えます。いかがでしょうか?」

これを聞いて堀尾作左衛門

「それは尤もな事です。そういたしましょう!
しかし二人とも死ぬというのは詮のない事です。ここはクジで切腹するものを決めましょう。」
と伊兵衛に同意したうえで、さっそくクジを作り始めた。ところが揖斐伊兵衛、これに

「作左衛門殿しばし待たれよ。もし私がクジに当たって切腹いたせば、それがしは
死に得でござるが、貴殿は信濃守様の御一門であるのに伊兵衛に切腹させた、などと言われては
武士の面目が立たず生き損となります。

そうである以上、貴殿が切腹なされて私が生き残ることこそ、あなたの御為にも良いことでは
ないでしょうか?」

堀尾作左衛門はこの言葉を聞くと感激の涙を流し

「あなたのおっしゃることは一段尤もである!ええ、私が切腹いたしましょう!!」

と、盛り上がっているうちに堀尾家の方に徳川家康から、略奪の事赦免の御内意がもたらされ、
切腹のことも無くなった。

後に堀尾作左衛門は主君堀尾忠氏に
「我が事を話すようですが、お為になることと存じます。揖斐伊兵衛がいかに知恵深きものか、
という話です。」
と、この時の顛末を語り、これに感動した忠氏は、堀尾作左衛門、揖斐伊兵衛の両名を
三千石に加増したという。

と、いい話なんですが…、
揖斐伊兵衛さんのレトリックと、それに感動する堀尾作左衛門や堀尾忠氏がどうしても納得できない
わけで。基本口八丁で「作左衛門さん一人で責任とって死んでくれや」って事を言っている
だけではないか、と。

そんなモヤモヤとした気分の残る、しかしこの時代的にはこれでいいのですかねえ?
堀尾家の水口略奪事件におけるエピソード。
386人間七七四年:2011/03/29(火) 01:53:42.25 ID:TP3R1ulM
うーん、確かに現代人から見ると揖斐が汚い立ち回りをしてるように見える
だけど主筋の一門を死なせるわけだから揖斐にもそれなりの覚悟がいると思うんだよな
387人間七七四年:2011/03/29(火) 02:30:30.02 ID:8rXibiK8
うーん
うーん
うーん
なんとも言いがたいな
388人間七七四年:2011/03/29(火) 03:15:40.33 ID:Tv/4GtKA
>>386
関ヶ原では、主君の九鬼嘉隆を切腹させたら、義弟の九鬼守隆に
鋸挽きで斬首の上さらし首にされた豊田五郎右衛門の例があるわけだしね。
389人間七七四年:2011/03/29(火) 03:16:16.12 ID:WIE5PMuG
家のために死ぬことの方が、生き残ることより価値がある
390人間七七四年:2011/03/29(火) 04:03:07.68 ID:1HIW+/X9
ひとの命の価値がめっちゃ安かったからなあ
391人間七七四年:2011/03/29(火) 06:07:51.88 ID:tdksv+0t
死ぬより生きるほうが難しい時代だったんだな
392人間七七四年:2011/03/29(火) 12:21:49.47 ID:54mYD9XN
>>384
なんとなく家康そういう馴れ合い嫌いな気がする
393人間七七四年:2011/03/29(火) 12:27:22.77 ID:54mYD9XN
>>390
考え方だよなぁ、命を的にご奉公。
うまくいくと、広大な領民付きの領地・・・結構いい値段だよな命
394人間七七四年:2011/03/29(火) 14:10:40.62 ID:jl621Qg5
まあ家康が戦後処理に忙しい間に事が上手く進んで良かったジャマイカ
395人間七七四年:2011/03/29(火) 14:18:36.29 ID:oXIQmWpw
寄り道

(´・ω・`)「遊ぼう」っていうと
(●Д゚)「バカめ」っていう。

(#`・ω・´)「馬鹿?」っていうと
(●Д゚)「バカめ」っていう。

(´・ω・`)「もう遊ばない」っていうと
(●Д゚)「バカめ」っていう。

そうして、あとでさみしくなって、

(´・ω・`)「ごめんね」って聞くと
(●Д゚)「バカめ」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、伯父(最上義光)と甥っ子(伊達政宗)です。

ここの住人なら色々と作れるだろうに。
396人間七七四年:2011/03/29(火) 14:22:13.61 ID:pZ6FoALU
>>395
全然こだまになってないし
397人間七七四年:2011/03/29(火) 14:26:41.43 ID:1HIW+/X9
>>393
保険金みたいなもんですからね>死後の恩賞
医療技術も発達してないから日本人全体が余命半年みたいな感覚でいたのかもしれませんな
398人間七七四年:2011/03/29(火) 14:43:28.98 ID:oXIQmWpw
光安「遊ぼう」っていうと
(´・ω・`)「遊ぼう」っていう。

光安「馬鹿?」っていうと
(´・ω・`)「馬鹿…」っていう。

光安「もう遊ばない」っていうと
( つω;`)「もう遊ばない…(泣」っていう。

そうして、あとでさみしくなって、

光安「ごめんね」っていうと
(`・ω・´)「許しが出た」って単騎突撃する。

こだまでしょうか、
いいえ、困った愛すべきバカ殿です。

天庵様と菅谷さんのパターンに似てる気がする
399人間七七四年:2011/03/29(火) 15:07:15.45 ID:pZ6FoALU
【京都】光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1301376660/
400人間七七四年:2011/03/29(火) 16:02:28.10 ID:Z+z3+MW3
もう大河で女を取り上げるのはやめろよ
ホームドラマじゃないんだからさあ・・・・・・
401人間七七四年:2011/03/29(火) 16:04:21.39 ID:wxC3aMxI
>>398
反応悪いんだから自重しろよ
反応良くたって二番煎じは慎むべきなのに
402人間七七四年:2011/03/29(火) 16:31:12.23 ID:v+7DTtOh
二番煎じどころか本人が書き込んでるからな。
いつもの鮭の顔文字キモヲタだろ。
誰も望んでないし、つまらない上アンチが来るからやめてくれ。
403人間七七四年:2011/03/29(火) 16:53:21.64 ID:hls/vBwJ
というかエピソードでもなんでもないこの場で作った創作だしな。
404人間七七四年:2011/03/29(火) 17:54:31.15 ID:4YtqyzhV
武功雑記の記事の疑問をもうひとつ出してみる。

○ くはりん本名は稲生次右衛門(細野藤光の事か?)と云。実子左京は分部家へ養はれて
分部左京(分部光嘉)と云。左京兄は用に立也。
○ 分家くはりん(分部光嘉)、関原陣の時、伊勢の津に籠城、御家へ忠節あり。
其子助左衛門は大阪にあり。其子左京は上野の城守なり(伊勢ノ長野城カ)。

「くはりん」が伊勢長野氏の一族、細野氏を指しているらしいことは何となく解ったのだが、
その「くはりん」って、何?w;
405人間七七四年:2011/03/29(火) 17:57:55.84 ID:TP3R1ulM
>>400
女がいるのもいいんだけど、視聴者を意識しすぎて出番じゃないとこまでしゃしゃり出てくるからうざい
406人間七七四年:2011/03/29(火) 18:22:10.88 ID:jl621Qg5
田渕久美子の脚本は糞
407人間七七四年:2011/03/29(火) 21:19:15.27 ID:5kvM4qnW
葵徳川は女性も適度に活躍してて不快感は無かったな
408人間七七四年:2011/03/29(火) 21:28:36.96 ID:vituTarA
もしかしたらその評判の悪い大河ドラマでもやってたかも知れないけど、見てないので既出だったらスマン。

小谷城の南にある実西庵。その庵主・昌安見久尼は浅井長政の姉である。
天正元年に浅井家が滅亡した際、お市と浅井三姉妹は一時、この実西庵に身を寄せていたという伝承がある。
信長の手勢がこの庵にお市と三姉妹を探しに訪れた際には、昌安見久尼が法衣の中に三姉妹を隠して守ったという。

しかし、いくら子供とはいえ三人も法衣の中に隠せるものか?

実は、昌安見久尼は身長175センチ、体重105キロという巨躯の持ち主。幼少時からあまりに大柄だった為に、
早々に結婚を諦めて尼になったとさえ言われる女性であった。

織田兵にしてみれば「お前のような尼がいるか!」といいたくなったかもしれない。

そんなデカい姉がいたのなら、と浅井長政デブ説の傍証になりそうなので、イケメン説を信じる人にはちょっと残念?な話。
409人間七七四年:2011/03/29(火) 21:44:59.31 ID:ne50t0eo
淀殿もデカかったという話あったよね。
身長170a超とか。
410人間七七四年:2011/03/29(火) 21:57:09.36 ID:C7A/BqTr
以前いい悪いスレで淀殿の身長が168cmという記述を見て、出典を探してみたら
肖像画の着物の寸法から推定・計算したものらしいね
411人間七七四年:2011/03/29(火) 21:57:29.48 ID:nvLGpUYl
織田も浅井も当時としては高身長な家系なんだな
412人間七七四年:2011/03/29(火) 22:17:39.25 ID:vh5Qr9dM
高虎「北近江の米を食べると大きくなれるのでござる」
清正「左様。今浜あっての某でござる」
正則「然り然り」

浅井長政「横に大きくもなるとは」
遠藤直経「殿……」
413人間七七四年:2011/03/29(火) 22:50:18.84 ID:/aa9rkyr
石田佐吉「・・・」
414人間七七四年:2011/03/29(火) 23:41:53.07 ID:yknrq99r
大河ドラマでもネタにされていた蘭奢待について。
東大寺の蘭奢待、この切り取りを許される武家とは天下人に限られるという。

さて、ここに実際に蘭奢待を手に入れた男達、すなわち「蘭奢待四天王」を紹介する。

俺は、リーダー・足利義満。通称・日本国王。
北山文化と勘合貿易の達人。
俺のような天才策略家でなければ百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん。

俺は足利義教。通称・悪御所。
自慢のくじ運に、女はみんなイチコロさ。
ハッタリかまして、永享の乱から嘉吉の乱まで、何でもそろえてみせるぜ。

私は、足利義政、通称・東山殿。
足利幕府一の文化人。
応仁の乱は、細川勝元と山名宗全が、お手のもの!

よおお待ちどう。俺様こそ織田信長。通称・第六天魔王。
比叡山焼き討ちの腕は天下一品!
奇人?変人?だから何。

土岐頼武。通称・土岐次郎。
美濃守護だ。土岐頼芸でもブン殴ってみせらぁ。
でも斉藤道三だけはかんべんな。



義満・義教・義政・信長「なんか居るーっ!?」

土岐頼武の存在はノーカン扱いされていたり、莫大な寄進を行って「金で買った」
扱いもされていたりするのだけど、そもそも天下人の証が金で買えたりするものなのか。
蘭奢待の価値観をぶち殺す、土岐頼武さんの収まりの悪い話。
415人間七七四年:2011/03/30(水) 00:07:55.99 ID:XqZX/7wS
無理にAチームコピペにされても痛々しいだけ
416人間七七四年:2011/03/30(水) 00:27:18.14 ID:ul0yzAJN
後世で色々と意味づけされただけで
わざわざ手続き踏んでまで蘭奢待を嗅いでみたいって権力者が
少なかっただけな気もする。
417人間七七四年:2011/03/30(水) 16:54:42.80 ID:OfXJFyb0
鮭の絵文字と同一人物だか知らんが、つまらんやつが沸いているな。
418人間七七四年:2011/03/30(水) 17:17:21.40 ID:LYFmdCIN
文禄3年(1594)8月、京洛を荒らしまわっていた一大盗賊団が、京都所司代により捕縛・処刑された。

『北条五代記』を書いた三浦浄心の随筆によると、彼らはあろうことか太閤秀吉のお膝元である伏見近くに
広大な屋敷を構え、昼には頭領が大名公家のごとく駕籠に乗りこみ、配下は弓槍で武装して京の街を練り歩き、
行く先々で乱暴狼藉を働いて、夜は夜で押込み強盗等を繰り返し、都人を悩ませたという。

よほど世を騒がせた集団だったようで、公家の山科言継もその日記で、
「三条河原で、主だった者10人が釜で煮られ、同類19人が磔にされた」という主旨の記述を残している。

この“釜茹で”が珍しかったのか、貿易商アビラ・ヒロンも『日本王国記』で盗賊団の処刑に触れており、
さらにイエズス会宣教師がこれに注釈を加え、

「煮られたのは Ixicava Goyemon 一味9〜10人。兵士のような装束をしており、他に10〜20人が磔になった。」

と述べている。
419人間七七四年:2011/03/30(水) 20:23:49.15 ID:tkILItjw
どこがちょっと悪い?
420人間七七四年:2011/03/30(水) 21:43:41.19 ID:vCK7NKat
つか、慨出(何故か変換できた)だな
421人間七七四年:2011/03/30(水) 21:57:11.41 ID:/Dcj5095
既出じゃないみたいだけど。
422人間七七四年:2011/03/30(水) 22:28:48.67 ID:Lt1PkM9W
慶長5年(1600)7発12日、石田三成、挙兵する。
この時大和の松倉重政は、自分の父が筒井家において、三成の家老・島左近の傍輩であった縁から
これに従った。

7月20日、
大阪城の石田三成は一部の兵に、丹後田辺城に籠る細川幽斎を攻撃するため
出陣を命じた。松倉重政にもこの命令は発せられた。

が、その日、松倉重政は亡き父の忌日だということで僧侶たちを家に招き仏事を行い、
その後酒を飲み過ぎて酔っ払い、丸一日前後不覚で寝るという有様であった。
そして目が覚め三成からの命令を知り大いに驚く。

しかし田辺城攻めを命ぜられた者達は既に集結し出発しており、松倉は悩んだ挙句
大阪に行き、三成に「このま丹後に行き田辺攻めの軍勢に合流すべきか、それとも
他の命令を待つべきか。」と問うた。

ところが三成からも島左近からも一向に返事が来ない。
実はこの頃挙兵したばかりであり、三成も左近も色々な事への対応で目が回るように忙しく、
そのため松倉の事が取り紛れ、まあぶっちゃけた話存在を忘れられてしまったのである。

数日間完全無視された松倉重政はさすがに激怒、

「ならば関東にお味方いたそう!」

と、家臣・田中藤兵衛尉を関東に下し、家康と通じた、と言う。


これが実際にあったかどうかは疑問ですが、まあ、あの西軍ならこんな事があっても
おかしく無いな、とも思う、松倉重政、東軍に通じるまでの顛末
423人間七七四年:2011/03/30(水) 22:35:59.64 ID:wuwIqHy/
今NHKで東大寺の大仏について取り上げてるんだが、
久秀の焼き討ちの紹介

「久秀は敵の陣取る東大寺を」「大仏殿こそ敵が陣取っていたのです」
三好三人衆という単語は一切出ず、すべて「敵の」「敵は」「敵が」
名前ぐらいだしてあげなよ・・
「敵」ってかわいそうだろ

424人間七七四年:2011/03/30(水) 22:43:55.91 ID:sIN9LgZF
>>423
「殿といっしょ」の三人衆の顔を思い浮かべてしまったw
425人間七七四年:2011/03/30(水) 23:11:47.78 ID:1KKz+0FN
>>422
松倉は親子してスーパーDQNだからなぁ…
426人間七七四年:2011/03/30(水) 23:22:48.92 ID:ul0yzAJN
>>423
戦国時代ではそれなりの大物なのに可哀想な扱いだなぁ
名もなき雑兵じゃないんだから
427人間七七四年:2011/03/30(水) 23:28:31.35 ID:diY9u7pt
敵か味方か以外の分類がないなんて、いかにも女視点だとおもう
428人間七七四年:2011/03/31(木) 00:23:23.86 ID:kyDcashG
そして427のようなものが男視点です
とか言われたら気分悪いからやめてよw
429人間七七四年:2011/03/31(木) 00:25:45.95 ID:dNrvC5ke
ちょっと聞きたいんだが、三好三人衆とか西美濃三人衆とか毛利両川とかのグループ名って当時からそう呼ばれてたのか?
430人間七七四年:2011/03/31(木) 06:40:07.38 ID:WPBYDiMM
>>429
うん。うちのじっちゃもそう呼んでた
431人間七七四年:2011/03/31(木) 20:35:50.67 ID:jTZI4PP7
おめーの爺さんは何時から生きてんだww
432人間七七四年:2011/03/31(木) 20:53:15.54 ID:KZe6GkVV
西美濃の連中は不破さんを入れて四人衆の場合もあるよねえ
433人間七七四年:2011/03/31(木) 21:16:57.81 ID:zg78jkqL
>>429
基本的には後世に付けられた物と思っていい
434人間七七四年:2011/03/31(木) 21:52:17.53 ID:dNrvC5ke
ふーむ、やっぱそうなんか。サンクスな
435人間七七四年:2011/03/31(木) 22:04:45.36 ID:/VL0NEKR
クラスの3大ブスは当時からそう呼ばれてたけどな。
436人間七七四年:2011/03/31(木) 22:06:01.27 ID:/wQ98w3M
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

この話のように、天正13年(1585)、佐野宗綱は足利の長尾顕長を攻め、単騎突出した挙句討ち死にした。

さて、そこで問題になったのは佐野家の後継ぎである。佐野宗綱には女児しか無かったのだ。
そこで佐野家の家中では、「小田原の北条氏はこの下野国でも日々勢力を増している。ここは北条氏より
その一族の一人を養子として迎え、佐野家を継いでいただくのが良いだろう。」
と言う意見が主流を占めた。

だが佐野宗綱の弟で僧侶の佐野天徳寺は、これに猛然と反対した。
彼は言う、「北条ではなく常陸の佐竹より養子を迎え、佐野家を継がせるべきである!」

しかし佐野家の重臣、大貫越中、竹澤源三郎、山上美濃、飯塚兵部を始めとした佐野家中の殆どは
天徳寺の意見には従わず、家中一同が連署した起請文を小田原の北条氏政の元に差し出し、
「佐野一門、家中上げて北条家の子弟に佐野の家を継がせることを望んでおります!」と申し込んだ。
氏政は当然ながら大いに喜び、弟である北条氏忠を派遣。佐野天徳寺はこれに大いに怒り
佐野の地を去った。


時は流れ天正18年(1590)。豊臣秀吉による小田原の役、起こる。
佐野に攻め寄せる豊臣の大軍の中に、佐野天徳寺の姿もあった。

天徳寺は唐沢山城に籠る佐野家の者達に、すみやかに自分の麾下に加わるよう伝えた。
この時、当主佐野(北条)氏忠は小田原にあり、城中の兵たちはみな、見込みのない戦をするよりも、
天徳寺の命令に従うべきだと言った。

が、大貫越後一人、それに同意しなかった

「私は最初、和尚(天徳寺)の言う事に従わず、左衛門佐(北条氏忠)殿を主君とした!
既に一度主君となし家臣となった者として、今事態が急変したからと言って忽ちに心変わりするのは
勇者の本意ではない!
それがしに於いては、氏忠様の御為に討死つかまつる!」

と、唐沢山城から詰城へと移りそこに籠城した。
残った佐野家の者達は天徳寺に帰服。彼を大将としその詰城に押し寄せる。

ここで大貫越後、櫓の上に登り攻め手の軍勢に向かって大音を上げた!

「私の元にあるこの少勢で、どうして戦うことができようか!
命は義によって軽し!私はそう承っておる!

これを見給え人々!!」

と、自らの首を掻き落として、死んだ。



佐野家重臣大貫越後の、筋の通し方である。
437人間七七四年:2011/03/31(木) 22:30:54.76 ID:WGhpKK5U
悪い話なの?
438人間七七四年:2011/03/31(木) 22:51:58.29 ID:PY4FS6nc
東根景佐の予言

元和6年(1620)8月7日、体調のすぐれなかった東根景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ。
また、源五郎様へのご奉公を大事にせよ。寄らしむべし、知るしむべし。
山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。
何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく候」と教え、
その末尾には驚くべき予言を書き残した。

もかミの御国三年と此分ニあるましく候〜ハークションゲフンゲフン
「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」

数年後、遺書の予言通り最上家は改易された。
439人間七七四年:2011/03/31(木) 23:26:12.01 ID:WPBYDiMM
きっとユーモア溢れる人が書き込んでいるんだろうなぁ
(棒読み)
440人間七七四年:2011/03/31(木) 23:30:07.35 ID:XaM+mHWG
最上が改易されたのは東根景佐の死の2年後だな。
441人間七七四年:2011/03/31(木) 23:31:58.55 ID:iBrOgTxu
>>429
三好三人衆は『多聞院日記』の永禄八年十一月十六日条に「三好日向・同下野・石成三人衆」と
出てくるのが初出らしい。
三人衆といっても、長逸・宗渭・石成はバックボーンも長慶生前のポジションもかなり異なるからなあ。
長逸は長慶政権の中枢にあった(松永久秀と共に長慶の裁許の取次ぎをしている)けど、宗渭は
もとは晴元にしたがって長慶と敵対していた経歴があるし、石成は奉行衆から次第に武将として
台頭している。
442人間七七四年:2011/04/01(金) 17:23:56.00 ID:htBb5gn1
>>429
一概に呼ばれてた、呼ばれてなかったというのは判定しにくいが
文書において連名する事が多かった場合は、当時からグループとして認識されてた可能性が高いと思う。
443人間七七四年:2011/04/01(金) 17:30:59.23 ID:dEAbke6b
文書にあるかどうか、問題はそれだけ。
444人間七七四年:2011/04/01(金) 17:32:09.10 ID:A3Sy17ND
>>423
そもそも三好三人衆というのも失礼だろ
445人間七七四年:2011/04/01(金) 20:25:47.29 ID:LCdWbbt5
>>441
「岩成」じゃなくて「石成」なんだ。
石が岩になったのか、岩が石になったのか、どっちなんだろう?w
446人間七七四年:2011/04/01(金) 21:01:22.39 ID:eZR7HI03
その辺は結構いい加減なんじゃないのかと思ったり
447人間七七四年:2011/04/01(金) 21:06:58.48 ID:VL4Hnq91
感状みたいな公式文書以外はゆるゆるだからね。
448人間七七四年:2011/04/01(金) 22:43:13.86 ID:z9UgwfLL
小早川秀秋は総大将として出陣した慶長の役で、自ら敵陣に突撃し、明兵の首を13も取るほどの戦果を挙げた。
その後秀秋は意気揚々と帰国したが、秀吉に褒められるどころか、逆にその軽率さを叱責されてしまった。

「これは三成が殿下に讒言したに違いない。」

そう考えた秀秋は
「どうか三成をこの場に呼んでください。御前で対決します。」

と訴えた。さらに秀吉が立ち去った後も
「三成はどこだ!」

と喚き続け、三成が現れると刀に手を掛け、駆け寄ったほどだった。
その場にいた徳川家康になだめられ、ようやく矛を収めた。
その後、筑前、筑後の52万石から越前北の庄15万石への領地削減を言い渡された時には

「こうなったらいっそ殺せ!」
と再び怒り狂ったが、やはり家康のとりなしで処分を免れた。この一件で秀秋は家康に恩を感じる様に
なったと言う。

以上、秀秋の関が原での裏切りにつながるお話。
449人間七七四年:2011/04/02(土) 00:18:21.72 ID:9BBai6tf
>>448
この前から三成は上杉の会津入りの助っ人に行ってるんだよな
冤罪もいいところだと思うが三成のせいだと
考えてしまう何かがあったんだろうか
450人間七七四年:2011/04/02(土) 00:31:48.84 ID:GAN6Gvu/
>>448
金吾「こうなったらいっそ殺せ!」

直家
「呼んだ?」
451人間七七四年:2011/04/02(土) 00:33:49.70 ID:GAN6Gvu/
弾正
「金吾中納言殿、お茶でもいかがかな。落ち着きますぞ。
次郎三郎殿もいかがかな?」
452人間七七四年:2011/04/02(土) 00:35:19.49 ID:RAq38X+4
>>450
秀家「むしろ秀秋はわたしに殺させてください」
453人間七七四年:2011/04/02(土) 00:41:17.55 ID:QLbJX2TA
直家や弾正がこんな扱いやすそうな奴を安々殺すとも思えん
454人間七七四年:2011/04/02(土) 00:44:32.54 ID:iHp/3OM1
この前が爺ちゃんの立ち日だったから地元の逸話書くよー!

あるとき、徳川家康は武田軍との戦いに敗北し撤退していた。
なんとか駿遠の国境まで逃げてきたが、武田軍は間近に迫っており
このままでは捕まるのは確実である。もはや絶体絶命!
だがそのとき、ちょうど屋根を葺いていた宗高村(旧大井川町)の住民清右衛門が家康を見つけ、
屋根用の萱の中に家康を隠れさせることで難を逃れた。

さて、この機転によって命を助けられた家康は、恩賞として清右衛門を宗高村の代官に任じ、こう言った。

「此度はお主の萱によって生き永らえた。よって『生け萱』にちなみ『池谷(いけがや)』の姓を名乗るがよい」

さてはてセンスがいつもより冴えていたからなのか、
家康は後の大御所時代には鷹狩をしようと宗高村まで出向き
清右衛門の代官屋敷で休息をとっている。

家康の死後には清右衛門は家康を偲び、幕府に願い出て家康の休息地跡に霊廟を築いた。
宗高権現と称されるこの霊廟は池谷清右衛門家の代官拝命が三代で終わった後も残り、
現在では市指定文化財となっている。

……とここまでならいい話なのだが、やはりこの手の逸話は多数あるものである。
「逃げる家康を助けて名字を賜った」という話は他にもあり、概略すると次のようになる。

・升水:逃げてきた家康に水を升に入れて献じた
・白尾:家康が洞窟に隠れたとき、うっかりはみ出した白馬の尻尾を隠した
・一瀬:逃げてきた家康を背負って川(瀬)を渡った
・小粥:三方が原から逃げてきた家康に粥を献じた
・帯金:逃げてきた家康に金を貸してくれと頼まれ、着物の帯の間から金を出して献じた

家康、武田に負けすぎでしょう……。武田はこの手の逸話が皆無なのに。
というわけで負けた逸話ばかり残ってしまった家康にとって悪い話
455人間七七四年:2011/04/02(土) 00:47:40.91 ID:1oo6Dm0e
「谷」の読み方は三河から東は「ヤツ」で、尾張から西は「タニ」だっけ
456人間七七四年:2011/04/02(土) 00:48:03.12 ID:GAN6Gvu/
>>453
『殺される価値すら無い男☆秀秋』

もしかしたら、信長の野望の秀秋小姓逆襲惨殺イベントは
K○EIさんなりの思いやりだったのかな
457人間七七四年:2011/04/02(土) 00:50:57.02 ID:RAq38X+4
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3524.htmlでは
三方ヶ原の家康に由来するとされる地名として
「よろい田」
「小豆餅」
「銭取」
「そうめん谷」
「布橋」
負けすぎ、というより無理やり権現様にあやかった地名がほとんどだと思う
458人間七七四年:2011/04/02(土) 00:55:12.67 ID:iHp/3OM1
>>457
だからこそ、負けた逸話をたくさん残されて、というか作られてしまった家康にとっての悪い話ってことで
459人間七七四年:2011/04/02(土) 01:01:43.66 ID:RAq38X+4
>>458
そういうことか、誤解してた
>>455東京にも
鶯谷(うぐいすだに)
茗荷谷(みょうがだに)
清水谷(しみずだに)
があるが、鶯谷は京都のウグイスを放したのが由来らしいし、
清水谷は紀尾井町(紀州、尾州、井伊)にあるから西の人が名付けたとして
茗荷谷(いまは小日向)は切支丹坂とかあるけど、これも西の人の命名なのだろうか
460人間七七四年:2011/04/02(土) 02:05:57.64 ID:L0uDWuA7
鬼武蔵「地名の由来ならまかせろー」
461人間七七四年:2011/04/02(土) 21:22:20.89 ID:IbQzwop5
武蔵「血の池にちなみ、茅野池と名乗るがよい」
462人間七七四年:2011/04/02(土) 22:18:03.25 ID:ogYJUF3/
「谷」を「ヤツ」「ヤ」と読むのはアイヌ語の名残らしいので、
東日本に「タニ」があっても別に不思議ではない。
463人間七七四年:2011/04/02(土) 22:26:21.69 ID:ZcG8zz5e
徳川家康を臣従させるための工作に熱を入れていた豊臣秀吉は、ついに自分の母を家康への
人質に出す決心をする。これに蜂須賀正勝、黒田官兵衛といった幕僚たちは大いに驚き猛反対をした。

蜂須賀正勝は言う
「これは一体どういう事でしょうか!昔から今に到るまで、天下人よりその下に人質を出したという例を
私は知りません!以の外の事です!」

秀吉、これを聞いて
「彦右衛門(正勝)の言う事、なるほど尤もである。さりながらこの秀吉は昔から今に到るまで、日本どころか
外国の書物にも先例のないような事をやってきた男だ。後の日本の歴史に、必ず大きく記録されるだろう。」

そして皆を安心させるように

「今秀吉に従う国ははや30ヶ国に及ぶ。家康に従うのは5ヶ国。その上この秀吉の威光は、日を追って大きくなっておる。
そうであればこの人質を家康が受け取ったとしても、

『秀吉は我に従わぬ者!この人質は磔にかけ火炙りにしてやろう!』

などとは決して言い出すことはないだろう。」

と、彼らを説得したという(川角太閤記)


ええ、関白殿下の仰るとおり家康は言い出さなかったんですが、その下に、その…w
464人間七七四年:2011/04/02(土) 22:37:03.33 ID:iHp/3OM1
>>462
戦国・江戸期に駿河までアイヌ語が伝わってたってこと?

>>463
流石の関白殿下も三河武士のめんどくささは見抜けなかったと
465人間七七四年:2011/04/02(土) 22:49:07.81 ID:+4Caojld
天下人が人質に出すというのもすごいな
家康も関ヶ原後落ち目の豊臣家に千姫を人質に出してるけど
466人間七七四年:2011/04/02(土) 22:49:50.77 ID:OYYakwjJ
>この人質は磔にかけ

そういや、織田の三男坊のおっ母さんは・・・
467人間七七四年:2011/04/02(土) 23:48:41.55 ID:mqd6CBFF
ラスボスは家康のみには弱腰だよな
まあ後々、徳川によって歴史書き換えられてるだろうけど
石高だと前田、上杉と大して変わんないし
468人間七七四年:2011/04/02(土) 23:57:10.91 ID:ogYJUF3/
>>464
そのはるか大昔、関東にまでアイヌがいた頃の名残。
469人間七七四年:2011/04/02(土) 23:59:24.42 ID:4ad6l7GN
>>467
いや実際に秀吉は、例えば家康と関白秀次にのみ書状には厚礼の書式を使っていたり、
想像以上に家康に気を使ってる。
470人間七七四年:2011/04/03(日) 01:00:52.70 ID:+Z/aln+n
鬼作佐『計画通り…』
471人間七七四年:2011/04/03(日) 08:56:56.74 ID:us+ZgtUB
高力「なんであいつとひとくくりの扱いなんだろうな」
天野「短気なやつと一緒にされたくないでござる」
高力「・・・」
472人間七七四年:2011/04/03(日) 11:11:41.64 ID:b9z5kyGB
俺が小牧長久手を指揮していたなら山の麓に城を築いて家康を飢え殺しにするわ
秀吉はビビりすぎだ
473人間七七四年:2011/04/03(日) 11:20:30.00 ID:JE/8rt2b
>>472
実は逆で、小牧長久手で秀吉軍は大軍故に、兵糧不足で飢え死にしかかってた。
筒井順慶がその事に苦慮している書状が残ってる。
474人間七七四年:2011/04/03(日) 11:29:59.15 ID:LinmCTPt
氏政・氏照の最期

豊臣秀吉による小田原攻めは、北条家の領国を相模・伊豆のみとする条件で講和が成った。
秀吉は証として氏政をはじめとする北条一族に城から出るように申し付け、最初は渋っていた氏政らも、
榊原康政の説得により城下の田村安柄の館に移った。

当然、そこに待っていたのは講和の会談などではなく、北条家の取り潰しと氏政・氏照の死罪という通告であった。
秀吉は家康に
「我らが遥々ここまで来たのは、北条家を根切りする為である。ここで奴らを許してしまえば、前の言葉は無かったに等しい。
氏直は家康殿の聟であるので死罪は許そう。氏房・氏邦・氏規も同様で良い」
と告げ、家康も同意した。

北条家側への検使として中村一氏・石川正久らが向かったが、余りも痛ましい裁定に言葉を発せずにいたところ、
その様子をみた氏照は全てを悟った。
「これだけの方々が参られたのは、我らへの切腹の催促であろう。それでは沐浴の暇を戴きたい」


その後、氏照は家臣の、氏政は弟氏規の介錯で切腹して果てた。

左京大夫氏政
雨雲の覆える月も胸の霧も はらいにけりな秋の夕風
吾が身今消とやいかに思ふへき 空より来たり空に帰れば

陸奥守氏照
吹くと吹く風な恨みそ花の春 もみじの残る秋あればこそ
天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり

その首は石田三成に下知して京都に運ばせ、一条戻り橋に架けられた。
475人間七七四年:2011/04/03(日) 11:55:05.35 ID:hw90E7wS
>>472
中入り軍が三方ヶ原のように家康をおびき出すというような
戦闘芸術を使えれば勝てたのにな ボンクラ揃いだから死んだけど
476人間七七四年:2011/04/03(日) 12:14:05.35 ID:27VEjGwZ
氏政さんは氏規さんの介錯なのか・・・;;
お互いどんな気持ちだったんだろ
477人間七七四年:2011/04/03(日) 12:45:07.04 ID:hO08aX5+
今度横浜に出張するとき小田原で降りて城を見るとするか
墓もあるんだよな確か
478人間七七四年:2011/04/03(日) 12:48:25.91 ID:RfRE4p6G
>>474
この2人の辞世の句好きだ
479人間七七四年:2011/04/03(日) 13:41:31.85 ID:CYe+9vZf
>>477
これがそうなの?ってくらい地味だった
480人間七七四年:2011/04/03(日) 13:59:54.15 ID:e4Uxizmp
>>474
大道寺を切腹させた件といい、尾藤を処刑した件といい、小田原合戦あたりの秀吉の逸話は
えげつないものが多いな。
それでも氏直は後に織田信雄の大坂の旧宅を宛がわれているし、督姫も大坂入りしているので
あるいはそこそこの大名として復帰する目もあったんだけどね・・・

>>479
鈴を結ぶと・・ってやつだよね?
481人間七七四年:2011/04/03(日) 14:51:50.71 ID:cEzvIEtO
>>476
正直なところ、介錯人が氏規で大丈夫なのだろうか…
斬首のプロか剣の達人でも無い限りは一撃で首は落とせないものだし
何度も木こりみたいにエッサエッサと首を斬ったんかな
戦国時代の介錯って時代劇で見るのとは大分違ってたとも言うし
氏規も別な意味でやりたく無かっただろうな
482人間七七四年:2011/04/03(日) 14:55:43.41 ID:Yhuix1Nc
http://r.tabelog.com/aichi/A2305/A230502/23030840/
これを見た時に「いやその店名でそのメニューは・・・」と思った俺の気持ち、
周囲の誰にも理解してもらえんのだが、このスレの住人なら解ってくれるはず・・・・・・
483人間七七四年:2011/04/03(日) 15:41:48.26 ID:8M49VY4z
http://r.tabelog.com/aichi/A2303/A230301/23001589/dtlrvwlst/1925046/4797170/

別の店ではこういう名前のメニューもある。
地元だがうまいよ!
484人間七七四年:2011/04/03(日) 16:28:21.25 ID:ZBX6NSoL
>>482
さぞかしコクがありそうw
485人間七七四年:2011/04/03(日) 16:33:39.41 ID:27VEjGwZ
>>481
氏規さんの腕も心配だけど、もし介錯がラスボスの指示だったら底意地の悪さを感じるね〜
486人間七七四年:2011/04/03(日) 16:55:53.13 ID:h+XAIvRK
タイトルで噴いた人は俺だけではないはず
http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201101090154.html
487人間七七四年:2011/04/03(日) 17:00:37.93 ID:3SeYfD68
>>472
小牧長久手は両軍ともに城にこもって、付随する防御陣地作っての状態に最初からなってるんだが、
これ以上どこに城を作るつもりだ?
488人間七七四年:2011/04/03(日) 17:04:39.25 ID:v7E53w5o
>>472
根来衆が大坂城に進軍の情報があって持久戦とか無理
このときは徳川、信雄、根来、長宗我部、佐々のプチ秀吉包囲網
になってた
489人間七七四年:2011/04/03(日) 17:24:48.66 ID:AeHbd3Bh
>>486
画像がやばい
490人間七七四年:2011/04/03(日) 17:27:40.48 ID:9rVNbez+
>>486
ただの味噌だって分かってるけど食べる勇気は無い
491人間七七四年:2011/04/03(日) 17:35:35.41 ID:2szB8rpD
他所でやれ
492人間七七四年:2011/04/03(日) 18:24:49.01 ID:oF8dVOFV
言ったはずだ
食糞の話題が出るのはクソスレだと
493人間七七四年:2011/04/03(日) 19:34:34.29 ID:RfRE4p6G
家康の焼き味噌wwwww
494人間七七四年:2011/04/03(日) 19:42:28.91 ID:DpVduhov
焼き味噌って当時どの程度携帯食品として浸透していたんだろう?
一軍の将がわざわざ持ち歩く程の物なのか?
495人間七七四年:2011/04/03(日) 19:46:24.23 ID:JE/8rt2b
>>494
味噌は戦場の必須携帯食。米と共に常時持ち歩いていたと言っていい。
496人間七七四年:2011/04/03(日) 20:01:20.22 ID:XIj5eMKO
乾燥させて、お湯を入れてもどす即席みそ汁みたいなのが当時からあったよね
497人間七七四年:2011/04/03(日) 20:09:02.79 ID:JE/8rt2b
玄米と少しの塩と味噌があれば、人間の生存に必要な栄養分はほぼ摂取できるからね。
逆に言えば生存のために絶対には、必要な食品だった。
498人間七七四年:2011/04/03(日) 20:48:21.49 ID:cjFlKqoL
このあいだ、相馬の市長も言っとったね
米と味噌はあるから籠城(の心構え)だと
499人間七七四年:2011/04/03(日) 21:22:22.64 ID:+NV2u0qm
市長の心意気には感動したけど現代って白米なのに大丈夫なの?と思った
500人間七七四年:2011/04/03(日) 21:24:28.48 ID:RfRE4p6G
たんぱく質も摂れるしね

便利な食材だ
501人間七七四年:2011/04/03(日) 21:33:13.84 ID:Rso1hOBZ
白米ばかり食べてなる脚気(ビタミンB1欠乏症)については
味噌で何とかなりそうな気がするが、できれば玄米のほうが
502人間七七四年:2011/04/03(日) 21:38:25.86 ID:HQbVs7Nt
>>486
とりあえずこれを知った世間一般の人が「家康の焼き味噌」でググったりしない事を祈る
503人間七七四年:2011/04/03(日) 22:05:41.84 ID:JE/8rt2b
一応良い話ではあるのだがw


肥前有馬氏の家臣に、林田作之右衛門という、いかにも手際のよい者がいた。

ある時、この林田が鷹狩に出ているところに、人を殺して有馬家より退転する途中の者に出会した。
彼は林田を追っ手だと思い刀を抜き

「幸い良き相手である!さあ、勝負つかまつろう!」
と叫んだ。

ところが林田、驚くこともなく手元に鷹を据えたままこの男に

「人を殺し退く者というのは、何としてでも無事に立ち退くことが目的のはずだ。
そんな勘違いしたことを言わずに、さあ、早く逃げなされ。
何の関係もない私が、どうしてあなたの相手をせねばならないのか?」

これにこの男もそうかと思い、そこから去ろうと振り向いた、その時

林田作之右衛門、後ろから一刀のもとに討ち捨てた。


又ある時、家中の走衆(徒士組:下士官に当たる)の中に罪を得て追っ手がかかり、それから逃げる
者があった。と、その彼が逃げるところに林田作之右衛門が行き当たった(よくこういう目に合う人である)。

彼は当然林田を追っ手と見て斬りかかる。だが林田、彼ではなくその後ろの方に向かって叫んだ

「やあ追っ手の衆よ!侍を鉄砲で撃つなど、して良いことではないぞ!」

自分が鉄砲で狙われている!?この走衆の男、驚いて後ろを振り返った、そこで

林田作之右衛門、抜討にこの男を斬り倒した。


後に林田は、これらの事件のことを聞かれこう答えたという

「だいたいの場合人と言うものは、ああやって討つものよ。」


この人がというよりこの時代、騙し後ろから斬りつけてもオッケーだったらしい事がよく解るお話
504人間七七四年:2011/04/03(日) 22:26:37.49 ID:hjR4cekh
なるほど問答無用で討ち取った方がいいわけだな
やられる前にやれといった感じか
505人間七七四年:2011/04/03(日) 22:29:49.39 ID:fQBHq4jZ
>>479
気付かないであの辺の商店街ぐるぐる廻ってたw
506人間七七四年:2011/04/03(日) 22:30:50.30 ID:29TdxRMs
騙される奴が悪い話
507人間七七四年:2011/04/03(日) 22:47:41.17 ID:aS+DtlZE
主君の命令を果たした良い話では?
方法には問題あるが当時では普通では?
508人間七七四年:2011/04/03(日) 22:56:11.88 ID:us+ZgtUB
>>501
玄米は消化悪いんだよねえ
509人間七七四年:2011/04/03(日) 23:02:34.82 ID:3mzDX/T0
>>502
とりあえずぐぐってみた
予想はしていたが、大変なことになっていたw
510人間七七四年:2011/04/03(日) 23:10:20.40 ID:dAXYNmrW
罪人に紀霊も汚いもあるかってな
511人間七七四年:2011/04/04(月) 00:28:02.34 ID:2s9SKT6k
とに賈栩討たなければ意味が無いからな
512人間七七四年:2011/04/04(月) 00:39:40.85 ID:Hfnb3Knu
曹操、そういうもんだよな
513人間七七四年:2011/04/04(月) 01:01:47.15 ID:CSh1avzR
これは己の実力を何進せず、策を用いたいい話なのでは?
514人間七七四年:2011/04/04(月) 01:28:23.04 ID:cLLtEdpP
曹洪しているうちにダジャレでスレを使い切ってしまいかねんので、ここら辺でお開きということで。
515人間七七四年:2011/04/04(月) 01:37:10.90 ID:PpSqd5rQ
俺が悪かった…
516人間七七四年:2011/04/04(月) 01:48:04.63 ID:9giuwpVi
>>510->>514
お前ら大好き
517人間七七四年:2011/04/04(月) 02:21:44.40 ID:gMawgvRM
>>496
縄状に編んだ芋がらを味噌で煮〆るヤツとかやね。
518人間七七四年:2011/04/04(月) 12:09:45.05 ID:uqe3e0iS
>>503
これは家中の犯罪者を処分する公務(上意討ちの助太刀)と見なされるので
どんな手段をとってでも勝てばおk

しかし個人的な果し合いで同じ事をやると臆病者とバカにされかねない諸刃の刃
未熟者にはお勧めできない。
519人間七七四年:2011/04/04(月) 16:17:25.20 ID:QtAAC+qc
>>482
そのサイトのコメント欄にある
>〇〇さんの硬めの
って文を見て思わず吹いてしまったw
520人間七七四年:2011/04/04(月) 22:57:56.44 ID:jhc9aJ4H
直家「油断させて騙し討ちとか武士の名折れですな」
521人間七七四年:2011/04/05(火) 00:03:14.81 ID:iPyu7KiM
天正3年(1575)、長篠の戦勝の余勢をかった徳川家康は武田に侵食された遠江の回復に着手。
8月24日に東遠江の拠点の一つ、諏訪原城を攻め落とすと、さらにその南方にある小山上へと軍勢を向けた。

だがこれを知った武田勝頼は、町人すら徴兵するという強引なやり方で二万の大軍を揃え救援に出動、
勝頼が大井川を超え接近しているとの報に家康は驚き、小山城攻略を諦め撤退を開始した。

しかしこれを追う勝頼の軍の足は早い。徳川軍は井籠砦を過ぎたあたりで、後ろに武田軍の姿を
確認した。このまま追いつかれては危ない!ここで家康に、嫡男信康が申し上げる

「父上!ここは私が殿を務めます!」

自分が防ぐ間に父を逃がそうというのである!ところが家康これに

「何を言うお前のような若造に任せられるか!ここはわし自身が殿をする!そなたこそ先に行くのだ!」

どこかで見たことのあるパターンですね。ええ、家臣団のおかげで目立ちませんが、この人達もまた、三河者なのです

家康「わしが殿をする!」
信康「いいえ私が殿をします!!」

この緊急事態に親子喧嘩、勃発。よりにもよって主君と嫡子の喧嘩である、家臣たちも止めるに止められない。
この混乱で撤退の足も遅れ、徳川軍、絶体絶命の危機である!


と、そのころ武田軍

勝頼「はっはっは!ここで徳川を殲滅させてやろうぞ!」
長篠でのカタキを討つ気満々の武田勝頼、軍の速度を早め徳川軍を補足しようとした。
が、ここで武田家重臣、春日虎綱(高坂昌信)が勝頼を諌める

「お待ちください勝頼様、連勝の勢いがあった敵に城の包囲を解かせただけでも、武田の武威は充分に
見せつけました。今はそれを保持するべきで、うかつに決戦などすべきではない、と考えます。」

「むむ…!」

長篠後求心力の弱まった勝頼に、この信玄以来の重臣の言葉は無視できない。
たしかに、急ごしらえで集めた軍勢が、決戦で機能するか心もとない。
そう言えばさっきから徳川軍の撤退速度が遅くなったのもなんだか不気味だ。
罠でも仕掛けているのではないだろうか。

「…わかった。弾正(虎綱)の言うこと、尤もである。」


再び徳川軍

まだ盛大な親子喧嘩をやっているところに、物見の兵が大慌てで報告に来た

「も、申し上げます!武田軍兵を返し、小山城に戻り始めました!」

家康・信康「えっ!?何で!?」


神君井籠の退き口、の一席。
522人間七七四年:2011/04/05(火) 00:05:20.29 ID:pC3nH1vd
酒井忠重の奇妙な人生。

酒井忠次の孫にあたる酒井忠重の人生は、悪いスレの常連さんにも劣らぬ暴れっぷりであった。

まずは白岩8000石を領しながら多くの餓死者を出す悪政で改易。
実家に預けられたかと思えば、藩政に介入し始めたうえ、実家乗っ取りを企み散々かき回したうえ、相続争いの上大金を与えられて義絶される。

最後は暗殺されたらしいが、実家の差し金とも言われる。

その後も苛政が続いたので白岩領民が訴え出たところ、代表者は保科正之の裁定により磔にされ、今でも白岩義民として敬われているそうな。


逸話とは違うかもしれないが、こんな悪党もいたという悪い話。
523人間七七四年:2011/04/05(火) 01:17:48.05 ID:BRp7yDbs
>>520
OK、三村家親暗殺成功
          ∧_∧
    ∧_∧  (´<_`  ) 流石だよな兄者。
   ( ´_ゝ`) /   ⌒i
   /   \     | |
  /    / ̄ ̄ ̄ ̄/ |
__(__ニつ/  FMV  / .| .|____
    \/____/ (u ⊃
      ガガガガ・・・・
  遠藤秀清  遠藤俊通
524人間七七四年:2011/04/05(火) 01:39:21.21 ID:4pImvaEl
そのAA懐かしいw
525人間七七四年:2011/04/05(火) 20:21:38.99 ID:vFxl3U5T
>>521
また高坂か!w
526人間七七四年:2011/04/05(火) 21:44:09.34 ID:tvRIu/vO
>>521
クソ、このときに家康が殺されていれば良かったのに。
527人間七七四年:2011/04/05(火) 23:48:29.41 ID:HdSj0QPA
竹中半兵衛は陣中にて常に牛に乗っていた、と言われている。
ある人がこの事について語るには

「陣中に於いて、いかに竹中半兵衛とは言え、いつも心静かに牛に騎す事など出来はしない。
あれはたまたま一度、竹中殿が牛に騎した事があったのを、後の人が話を大きく、面白おかしく
したのだ。」

と評したと云う(武功雑記)


後世の人が話を広げすぎた悪い話
528人間七七四年:2011/04/06(水) 00:25:47.49 ID:hgWvtWfN
本当は貧馬を好んだそうな

良い馬だと馬をかばって手柄を逃してしまうかららしい

一豊さんが姉川で妻のヘソクリで買った馬を逃がしてしまった事を証明してる話
529人間七七四年:2011/04/06(水) 06:49:04.26 ID:+lEJIIAb
>>277
それがビーフィータージンの由来なんだよね、確か。
530人間七七四年:2011/04/06(水) 07:01:21.36 ID:ytPQmI32
あまりにも遅すぎる
531人間七七四年:2011/04/06(水) 21:57:12.89 ID:Z/yVKo29
山内一豊の馬は、長久手で逃げた後帰ってきたんじゃなかったっけ?
532人間七七四年:2011/04/07(木) 23:09:22.94 ID:uz9MhTJD
有名な話ではありますが

天正11年(1583)の賤ヶ岳の後、秀吉に協力した丹羽五郎左衛門尉長秀は、越前、加賀に123万石と言う大領を得た。
が、その頃から長秀は病と称し領地にひきこもり、大阪の羽柴秀吉のもとに現れることが無くなった。

秀吉はこれを大変に気にした。「本当に病なのだろうか?もしや領地が少ないと不満なのではないだろうか!?」
そこで密かに、重臣の蜂須賀彦右衛門正勝を長秀のもとに派遣した。

正勝は長秀に対面すると、秀吉の言葉を伝えた

『お具合はいかがでしょうか?あなたから受けた御厚恩は今も大変重く受け止めています。
そうではありますが、未だ紀州あたりの情勢も不穏であり、これらについて、相談のご相手になって頂けないでしょうか?
今後もあなたから、ご指南ご指図を承りたいのです。

聞くところによすとご病状も、少々良くなられたとのこと。早々に御上洛なされることを、お待ちしております。』

しかし秀長これに
「病状が未だ心もとなくてな。このまま国元で療養いたす。」
とだけ返事をした。

この報告に秀吉は大いに困惑した。秀吉のもとには中国や筑紫、あるいは佐々成政などの不穏な知らせが
次々と入ってきている。ここで丹羽長秀の支持を失えば、それに対応できないどころか、ようやく打ち立てた
彼の天下もたちまち崩壊するだろう。秀吉は起請文を書くと、それを蜂須賀正勝に持たせ再び長秀のもとに遣わした。

今度正勝の伝える秀吉の言葉は、こうであった

『今、私が天下を得たのは、ひとえに五郎左衛門尉(長秀)殿のおかげです。である以上、この上は天下を、
五郎左衛門尉殿と代る代るに持つ形にしたい、と考えています。

あなたが上洛されれば、その後のあなたの領地に秀吉が入りましょう。秀吉は大阪の城と天下を、あなたに
お渡しいたします。

互いにあれほど苦労して得ることが出来た天下です。それを他のものに渡すようなことに成れば、
惜しんで余りありません。
五郎左衛門尉殿に私が仕え奉れば、もはや日本国中に天下に望みを持つものは居なくなるでしょう。』

この書状に秀吉の起請を添えて、正勝は秀長に差し出した。

丹羽長秀はこれに涙を流して感激し、

「病気は嘘ではない。だが、早速上洛しよう。」

と、ついに病躯を押しての上洛を決意した。


秀吉、丹羽長秀に天下変わり持ちを提案する、というお話。
533人間七七四年:2011/04/07(木) 23:14:51.37 ID:mOu2UEhf
>>532
秀長が何人か登場してるけど長秀の間違いだよね?

それにしても、こういう天下持ち回り的な話あちこちで聞く気がするけど他になんかなかったっけ
534人間七七四年:2011/04/07(木) 23:29:38.52 ID:uz9MhTJD
>>533
おおお、素で間違えてしまった…orz
申し訳ない全部長秀です。秀長は出てきませんw;
535人間七七四年:2011/04/08(金) 09:29:07.81 ID:130sayDZ
ラスボスは、長重さんにひどいことしたよね^^
536人間七七四年:2011/04/08(金) 11:06:58.77 ID:UquHEpbj
>>535
でもそんな経験があったからこそ維新まで大名家として存続できたんじゃないかな
537人間七七四年:2011/04/08(金) 11:31:09.13 ID:PsaD93lm
前にも氏治さまで話題になった某ゲームの登場人物なんだが…

池田盛周
>弱き者の味方で実直な武将。
>急な増税で苦しむ民の為に一揆を起こした過去がある。
>弱き者を守る事をいつも心がけており、その為に戦っている。
>民にとても慕われており、皆からは親しみをこめて「悪次郎」と呼ばれている。

明らかにまとめブログ参照してるであろうゲーム会社の悪い?話
538人間七七四年:2011/04/08(金) 11:45:21.73 ID:ncElJvKB
>>533
> それにしても、こういう天下持ち回り的な話

ちょっと違うかもしれんが、明智光秀が本能寺の後、細川幽斎に「信長を殺したのは
貴殿の嫡子の忠興に天下を譲るため」云々と言ったりしてたな。
539人間七七四年:2011/04/08(金) 12:14:03.46 ID:pYeLNEMs
自分が苦労して天下取ったのに
他人に差し上げる気前のいい人が
世界にどれだけいると言うんだろう
540人間七七四年:2011/04/08(金) 13:55:45.47 ID:fZOsZYf6
>>539
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュゼッペ・ガリバルディ

漫画みたいな人生だw
541人間七七四年:2011/04/08(金) 17:12:30.20 ID:3c2S7Cau
明智さんの場合はほとんど衝動的な感があったからどうもね
未来に向けた投機的な謀反っつーより身を守るためにやむなく、な雰囲気がぷんぷんする
542人間七七四年:2011/04/08(金) 17:42:50.51 ID:VvgPg4X9
>>540
戦国武将全員が束になってもかなわないような、世界的の最もかっこいい人の
ひとりに挙げられるような人を持ち出すのは反則すぐる…
543人間七七四年:2011/04/08(金) 18:00:37.91 ID:4oPFt5zP
ガリバルディも進軍途中でマフィアの歓待を何日も受け続けたせいで
敵の反撃準備が整ってしまい停戦せざる負えなくなったとかお茶目な逸話持ちの人間だけどな
544人間七七四年:2011/04/08(金) 20:47:20.16 ID:iVINYNpW
人間味溢れてるけど、武将として、指揮官としてはちょっと…って人
天 庵 様 じゃん
545人間七七四年:2011/04/08(金) 20:52:26.68 ID:3c2S7Cau
>>543
地元勢力との政治的折衝だったんじゃないのか?西洋史はとんと暗いからよくわからんが
546人間七七四年:2011/04/08(金) 21:55:10.81 ID:tGCj7Pay
>>544
ちゃうわい。ヘタリア兵を率いて、イタリア統一のために無敵の快進撃を続けた男だぞ?
国のために死ぬ気なんてかけらもないヘタリア兵がガリバルディの為ならば、と戦い続けたという。
獅子に率いられた羊の群れは、狼の群れを殲滅しうる。
547人間七七四年:2011/04/08(金) 22:05:47.20 ID:/bDl+/Iz
>>544
イタリア統一の立役者と
戦えば必敗のマイナー武将天庵をなぜ比較しようと思った
548人間七七四年:2011/04/08(金) 22:15:04.81 ID:j3W3+VK2
仙石が率いた四国の狼の群れ…orz
549人間七七四年:2011/04/08(金) 22:19:19.01 ID:AesPBHMR
天庵様&仙石「いくさ働きならまかせろー」

菅谷&長宗我部「やめてっ!!!」
550人間七七四年:2011/04/08(金) 22:24:03.34 ID:u/5fdK6S
東海一のファンタジスタも忘れないで!
551人間七七四年:2011/04/08(金) 22:44:33.65 ID:qUwChzvx
統治者としてはアレかもしれないが(正確には未知)、統率者としては有能。

宇喜多さん家の秀家クンかな?ガリバルディ
552人間七七四年:2011/04/08(金) 23:05:59.42 ID:O+wR8Jqr
普通に考えて、日本の戦国大名が束になってもガリバルディの戦績の足元にも及ばない
553人間七七四年:2011/04/08(金) 23:06:50.51 ID:iVINYNpW
>>546
え、無敵じゃないよ
南米での戦闘ではよく兵に逃げられたり、北イタリアでゲリラ戦を展開しようと
したときには三千人が百人にまで減ったりと、さほど有能ではない。人気もあるし功績も大きいのは認める
比較はすまんかった
スレチだからもうやめるけど
554人間七七四年:2011/04/08(金) 23:07:24.86 ID:4oPFt5zP
ID替えながらレスしてる変な人がいるんでしょ
555人間七七四年:2011/04/08(金) 23:08:20.77 ID:UQn7Is00
つまり大関三兄弟の仕業か
556人間七七四年:2011/04/08(金) 23:46:06.34 ID:3c2S7Cau
なるほど、大関の仕業かw
557人間七七四年:2011/04/08(金) 23:55:41.42 ID:qUwChzvx
イタリア独立闘争と言えばナブッコの「行け想いよ金色の翼に乗って」だけど、戦国武将と音楽の逸話ってなんかあるかな?

歌いながら〜とかさ。

詠いながらは三歳パパなのはいいとして
558人間七七四年:2011/04/09(土) 00:20:18.75 ID:nGNd5yZF
人間50年
559人間七七四年:2011/04/09(土) 00:26:46.74 ID:EfOv9Rnh
戦国の場合は文化のパトロンとして武将が傾倒したのが音楽じゃなくて茶の湯や庭園だからなぁ
秀忠の鼓とか既に出ているもの以外はそれほど多くなさそう
560人間七七四年:2011/04/09(土) 00:31:40.68 ID:ud3SzZp3
笛吹いてたら、なんか喉がピューピュー鳴るんだけど
561人間七七四年:2011/04/09(土) 03:53:41.92 ID:sR5X/vuM
>>557

笛の音に誘い出されて鉄砲で暗殺されたとも言われている甲斐のお館様とか?
562人間七七四年:2011/04/09(土) 05:06:29.93 ID:bZa0qSFJ
>>548率いてるのが猪だもの…
563人間七七四年:2011/04/09(土) 05:13:18.55 ID:rlLb/SCE
>>557

太田道灌が小机城を攻略するときに簡単に落とせるということを示唆した面白い歌を作って士気を上げた話とかもあるね。

これは既出だけど。
564人間七七四年:2011/04/09(土) 06:00:58.48 ID:MyPCL0Zk
>>548
四国勢自体が上方勢に比べて弱いってのもあると思うが。
三好勢は上洛初期の信長に挑んでは跳ね返されての繰り返し。
長宗我部は秀吉が出るまでもなく秀長が粉砕。
565人間七七四年:2011/04/09(土) 14:18:10.42 ID:roc95oOj
三好勢は機内に覇を唱えた頃の屋台骨がボキボキ折れてた状態だったし、
長宗我部は能力以前の問題。あの時期の羽柴軍にまともに対抗できる勢力なんて存在しねーよ
それに四国勢の能力と仙石の戦術の稚拙さは関係ないわけで
566人間七七四年:2011/04/09(土) 20:07:27.14 ID:8+1wWy2b
>>564
秀長さんは、四国勢と戦ったとき、発情した雌馬を放たれて、
戦線が大混乱したという逸話があったろ。一方的に粉砕とまでとはいかなかったかも
567人間七七四年:2011/04/09(土) 21:43:44.68 ID:HLEolBKd
>>557
単純に歌というわけではないが、高天神城が玉砕する直前、
籠城の兵たちが囲んでいる徳川軍に、徳川軍の中に居る幸若舞の名手の舞を
見物することを所望して、家康もそれに応えた、って話があったな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-853.html
568人間七七四年:2011/04/09(土) 21:47:21.72 ID:fIYiFsNB
>>557
音楽ってあまり思いつかないな
「海老すくい」という名のハッスルダンスを踊って士気をMAXまで回復させた人ならいるけど
569人間七七四年:2011/04/09(土) 23:53:21.80 ID:+LQAt3lX
>>564
その四国勢に仙石はボコボコにされて淡路に引きこもっていたわけだが
570人間七七四年:2011/04/10(日) 00:16:12.00 ID:aATYM/kH
>>566
その逸話は四国じゃなく播磨の方の話じゃなかったっけ?
571人間七七四年:2011/04/10(日) 00:50:59.93 ID:aX2N2eIv
大勢は確かに秀吉側だったろうけど案外てこずってなかったっけ?
思いの外長引いたから秀吉が出張ってこようとして、それを思い止まるよう秀長が手紙を送ってたような
572人間七七四年:2011/04/10(日) 07:10:08.16 ID:iFqFPl33
あれは秀吉さん焦りすぎでしょ。
秀長が普通に城攻めしてるのに、まだかまだか、俺がいこうか、遅い、とか言って来るんだもの。
いくら戦力差があってもそれなりの城に篭城されたら時間はかかる。
瀬戸内方面から毛利が順調に侵攻してるのとの対比で気になったのかも知れないけど。

この辺、話にまとめたら逸話になりそうだな。
573人間七七四年:2011/04/10(日) 08:00:44.26 ID:gPc/grd5
たった1ヶ月で長宗我部を降伏させたのに「まだか」と責められる秀長さんカワイソス
574人間七七四年:2011/04/10(日) 09:00:52.91 ID:mnODFdlr
自分は気長に城攻めするのに他人がやってると気が急いてしまう。
まあこういう人現代にもいるね。
575人間七七四年:2011/04/10(日) 09:34:20.82 ID:HzMJnxNR
城攻めも目的を持って気長にやるのと手こずってgdgd長引くのがあるからね
秀吉のは水攻めにしても単に城を落とす以外にも
援軍を送れないor送らない毛利内部を崩す大きな目的があったし
北条を囲んだときは島原の知恵伊豆と同じ考えですでに天下の軍勢が一地方の反乱鎮めるもの
でも秀吉が焦れるのも判るが常人に自分と同じ能力と成果を求めるのは酷ですな

576人間七七四年:2011/04/10(日) 10:02:51.43 ID:dl7dbx7K
大坂の陣が終わって間もなくのある時、戸田左門(一西(かずあき))と松平越中守定綱が
明寿院(藤原惺窩)と座談し、この大坂の陣のことなどを物語った。

二人の話を聞いた藤原惺窩は

「大野修理治長にせめて石川五右衛門ほどの器量があれば、もう少し功も立てられたでしょうに。
それに冬の陣では大阪城から遠所を焼討ぜず、夏の陣で堺、奈良を焼討したのは、戦略として
前後が入れ違っています。」

と感想を述べたという。
(武功雑記)
577人間七七四年:2011/04/10(日) 15:25:51.38 ID:tLkCR/1M
後半はともかく前半の比較対象はなぜ石川五右衛門なんだろう。
盗賊としては大勢力を率いていた人だが。
578人間七七四年:2011/04/10(日) 18:09:34.84 ID:rn9Zj9Q1
大野には盗賊の頭ほどの器量も無かったってディスってるんだよ
579人間七七四年:2011/04/10(日) 18:25:21.26 ID:aX2N2eIv
青果さんは口が悪すぎるうえに明人に日本は征服してくれ、なんて頼む売国奴だから好かん
580人間七七四年:2011/04/10(日) 18:35:55.09 ID:tLkCR/1M
>>579
それは朝鮮人の姜に言ったこと。>日本は
「今の日本は酷い状況」といったあと「それを正す為に来たと言って朝鮮や明が攻めて来れば白河の関まで行ける。もし日本のように殺戮を行えば対馬も取れない」と言っているので
売国云々ではなく秀吉批判の言葉と見るべきだろう。
581人間七七四年:2011/04/10(日) 18:50:19.15 ID:YcC13Ovi
善光寺の阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)といえば、日本最初の仏像とも言わる。
が、この仏像は戦国時代、実に数奇な運命を巡る。

先ずは弘治3年(1557)2月、善光寺を占拠した甲斐の武田信玄は、その仏具などと共に
この阿弥陀仏も略奪、甲府へと持ち帰り、新たに建設した『甲府善光寺』の本尊とした。

やがて天正10年(1582)3月、織田信長による甲州征伐。信長の嫡男、は阿弥陀如来像を奪い
岐阜へと持ち帰りここに『岐阜善光寺』を建立した。

同年六月、本能寺の変

その後の織田勢力の主導権争いの中、阿弥陀如来は織田信雄の手にわたり今度は清洲の
甚目寺へと移された。

そして秀吉が台頭する中、信雄は徳川家康との同盟を固めるためであろうか、阿弥陀如来は
家康へと贈られ、浜松の鴨江寺に遷座した。

が、ここで家康の枕元に阿弥陀如来が立ち「甲府に帰りたい」と仰られた。

家康はこの夢のお告げに従い、阿弥陀如来を甲斐善光寺へと帰座する。


慶長元年(1596)伏見大地震により京は方広寺の大仏が崩壊した。
豊臣秀吉はこれに激怒する

「我が身をさえ保てぬ仏が、衆生済度など出来るものか!?」

しばらくして秀吉は夢に仏の姿を見た。善光寺阿弥陀如来である

「これだ!」

大仏崩壊の翌年7月18日、秀吉はこの阿弥陀如来を甲斐より遷し、方広寺の本尊とした。

ところが、である。

その翌年から秀吉は体調を崩し始めた。これを人々は「阿弥陀如来様の祟だ」と囁く。
そんな中今度は秀吉の枕元に、阿弥陀如来が立った
『私は信濃に帰りたいのだ』

その頃、徳川家康の援助により信濃善光寺は漸く再建されていた。

体力が衰え気が弱くなり、噂を恐れたのもあったであろう。秀吉はこの事があると直ぐ様如来を
家康に返す。
慶長3年(1598)、徳川家康はこれを、その頃再建なった信濃善光寺へと戻した。
ここに漸く、41年間に渡る、阿弥陀如来の放浪は終わったのだ。

以後、善光寺式阿弥陀三尊は信濃の地をを動くこと無く、今も、善光寺に参拝する多くの
善男善女の信仰を集めている。

善光寺阿弥陀如来の、数奇な変転についてのお話である。
582人間七七四年:2011/04/10(日) 19:27:27.50 ID:oVkqdWPw
>>580
惺窩センセイは実家の再興を秀吉にスルーされて以来、アンチ豊臣なんだよね。
秀次の学問好きに対しても「学問が汚れる」とかヒデーこと言ってるし。
583人間七七四年:2011/04/10(日) 20:35:54.58 ID:dl7dbx7K
これは悪いw

> 14 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/05(火) 19:22:48.48 ID:GxVcEXUk
> なんか勝成関連で調べてたら偶然こんなのみつけた
>
> 幽鬼 ゴレイキ
> ttp://www15.atpages.jp/~msdds/wiki/index.php?%E3%82%B4%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AD
>
> タイトルはネタだけど
> 五霊鬼ってこれなのねって初めて実態知った
> そりゃこんな酷い話じゃ恨まれるわw

水野勝成
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300543875/
584人間七七四年:2011/04/10(日) 20:38:43.97 ID:mqFPgh0J
>>582
でも石田さん家の正澄くんとは仲良いよね
585人間七七四年:2011/04/10(日) 20:41:32.35 ID:aATYM/kH
>>582
儒者はそんなもん。
586人間七七四年:2011/04/10(日) 21:03:21.36 ID:yvHvm2FL
儒学なんてクソの役にも立たないのに藤原惺窩とかいつも偉そうだよな
武将とか小バカにしてるし

そういえば信長公は地球儀を献上されたとき、地球が丸い事を説明
されて即座に理解したのに対し、儒者の林羅山は地球は平たいと主張
して絶対に譲らなかった

儒学は先例やしきたりにこだわってばかりで、新しい発想や合理的に物事を考えるという事しないからやればやるほどバカになるのにw
587人間七七四年:2011/04/10(日) 21:17:22.02 ID:bmSwCh0j
林羅山は「右僕射」の意味を曲解したり、
『豊臣秀吉譜』で劉備が諸葛亮に自分の死後を託した話を、
まんま秀吉と家康にそれに丸パクリしたりと曲学阿世の典型的存在
時の政権と癒着しすぎたばかりに道春点の発明や
吾妻鑑の研究といった学問的業績が霞むほどの汚名を残したね
588人間七七四年:2011/04/10(日) 21:19:57.90 ID:dl7dbx7K
>>586
> そういえば信長公は地球儀を献上されたとき、地球が丸い事を説明
> されて即座に理解したのに対し、

それは作り話の中のこと。
つーか儒教よく知らないだろ君w、儒者ってめちゃめちゃ頭いいぞ。
あの人達の書いた本を、同時代の儒者以外の著作と比較しながら少しでいいから読んでみろ。
589人間七七四年:2011/04/10(日) 21:33:55.51 ID:gPc/grd5
今更、死んだ学問なんて誰も読みたくない
590人間七七四年:2011/04/10(日) 21:38:53.35 ID:aX2N2eIv
儒学はいまだに中国で盛んじゃね?孔子はいまだに神同然だし
591人間七七四年:2011/04/10(日) 21:45:32.32 ID:dl7dbx7K
儒教は死んだどころか東アジアや東南アジアで未だ強固に生きているし、
この中国の台頭で世界思想として大復活する可能性すらあるぞw

つーか戦国時代に興味が有るのなら、儒教勉強しないとあの時代は全然理解出来ないんだが。
戦国時代の日本の思想の基本は、儒教ベースの「天道思想」だ。
592人間七七四年:2011/04/10(日) 22:02:31.79 ID:oamIdSI3
外人が日本のTV見ると、
「○○さん(28)」と年齢を表示するテロップが出てくる理由がさっぱりわからんと不思議に思うそうな。
年長者を敬うとか色々な慣習が儒教由来だ。
現代の我々だって大なり小なり儒教の徒だよ。
593人間七七四年:2011/04/10(日) 22:04:00.38 ID:u6I+plpN
>>590-591
毛沢や共産党の中枢層が儒学嫌いだったから中国では最近まで地位が低かったよ。
2000年代以降になって富裕層に見直しの流れが生まれてるけど。

系譜が続いてるって事じゃ、元号制採用してたり、平成の元号の制定の際、
「干戈が字に入っていて良くない」
とか
「そもそも出典が史記や偽古文尚書なのが良くない。四書五経の正しいテキストから選ぶべきだ」
とかやってた日本の方が余程儒教国家だったりする。
594人間七七四年:2011/04/10(日) 22:06:06.59 ID:wR9HJts4
>>581
阿弥陀「俗に、家は三軒建ててみなければ満足いくものにならぬといいますからね。」
595人間七七四年:2011/04/10(日) 22:32:08.66 ID:aX2N2eIv
>>592
儒の根本思想の一つは父老を敬することだけどそれとはまた別に
日本古来にも年を経た人間をうやまう慣習はあったよ。何でも儒にするのはよくない
そりゃたぶん今の俺らにも儒の影響はあると思うけど、それは比較すらならない微小なものだと思う
なんたって日本は親父の入った風呂を汚い!といって入らない娘がいる家庭が珍しくない国
596人間七七四年:2011/04/10(日) 22:48:15.22 ID:tLkCR/1M
>>592
親からもらった体…みたいな考え方とかね。
あと葬式の祭壇や位牌も儒教由来か。
597人間七七四年:2011/04/10(日) 22:53:41.15 ID:oamIdSI3
>>595
戦国時代に「1、2歳年上だからあの人に敬意を払おう」という発想・意識があったか、
そして、江戸時代になると「長幼の序」とかやかましく言うようになったのはなぜなのか?
どちらが現代人の意識と繋がっているか考えれば儒教の甚大な影響は自明だよね。
598人間七七四年:2011/04/10(日) 23:10:37.72 ID:i0mIETDl
儒教の影響って言っても断章主義みたいな取り入れ方だけどな
599人間七七四年:2011/04/10(日) 23:13:46.22 ID:bmSwCh0j
現代日本人が儒教の影響を受けている、っつうのはその通りだろうけど、
それと同程度に仏教や神道、民主主義に実存主義、プラグマティズムも
日本人の思想体系に影響与えてるだろうかんね
600人間七七四年:2011/04/10(日) 23:20:25.66 ID:aX2N2eIv
>>597
今の時代に長幼の序とか一二才上だから敬意を、なんて風潮がどれほど残ってるのかな?
それらは慣習としては生き残ってるが意識にまで影響を与えてるなんてのは言いすぎだ
若い奴らと付き合ってればわかるけど、歳の差なんて今の時代社交の装飾にしかならないよ
過去にはそれらが甚大な影響を及ぼしていた時期はあっただろうが、今は残っていても残骸程度のもの
文化として今だに息づいてるか否かは若い世代にどれほど浸透してるかだと思うよ
601人間七七四年:2011/04/10(日) 23:26:27.63 ID:u6I+plpN
>>595
敬うったって特別な敬いの言葉や作法があるのは儒教圏特有ではあるよ。
敬うだけなら一神教圏やその他の地域もそうだし。

>なんたって日本は親父の入った風呂を汚い!といって入らない娘がいる家庭が珍しくない国
そら現代だというのと、湯を無駄遣い出来る先進国だからだよ。
戦前なら「家長になんてことを言うんだ」ってことで張り倒されてる。
あらゆる礼制、宗教について世界的規模で急速に世俗化が進んだのは大きいよ。
602人間七七四年:2011/04/10(日) 23:27:38.78 ID:eT8m8pXW
西洋にだって敬老意識はある。そんなのどこにだってある。
そういう意味では、日本古来云々は嘘じゃない。
ただ歴史的にみて、日本に儒学の影響がないと言ったら嘘になる。

人は客観的な事実より、自分が信じたいことを真実だと思い込む生き物なんだよ。
中国とか韓国といったら、すべて否定したい人ってのがいる。
もはやイデオロギーの問題だから、話し合っても結論なんか出ないよ。
603人間七七四年:2011/04/10(日) 23:30:24.28 ID:dl7dbx7K
>>597
戦国時代にも長幼の序は強固にあったよ。ただ身分、家格など「それ以外の価値観」も
「併立」してあっただけのことで。

社会は一つのドグマだけで完結するものじゃないよ。その上で室町から戦国期にも、
儒教の強い影響があった。
江戸期秩序は江戸期に突然作られたものではなく、室町〜戦国期の蓄積の結果だよ。
604人間七七四年:2011/04/10(日) 23:36:23.60 ID:oamIdSI3
>>603
おれに返信される理由がよく分からないけど・・・
「江戸時代以前の日本には儒教がなかった」とか
「儒教は江戸時代の唯一絶対の価値観だった」とか
一言も言ってないのでそこはよろしく
605人間七七四年:2011/04/10(日) 23:36:46.96 ID:ZlgHcC8F
戦国ちょっと儒教な話
606人間七七四年:2011/04/10(日) 23:41:55.50 ID:aATYM/kH
まぁ儒教が三河者以上にメンドクサイ事は良く分かった。
607人間七七四年:2011/04/10(日) 23:43:36.83 ID:xmuYIpYb
坑儒されるわけだよ
608人間七七四年:2011/04/10(日) 23:46:49.75 ID:bmSwCh0j
まあ林羅山と宣教師不干の宗論は今になって見たら結構笑える
別に羅山をアホ呼ばわりするわけじゃないけど、
不干が説こうとするキリスト教の教えと、羅山が依拠する名分論が噛み合ってなくて
なまじ不干が日本人で名分論に理解があったから、
そこを羅山に攻められ地動説まで「論破」されてしまったが、
相手がモノホンのイエスズ会修道士だったら負けなかったろうね
609人間七七四年:2011/04/11(月) 00:02:24.50 ID:pzaY4RQQ
噛み合ってないと言えば上の儒教議論もみんな微妙に噛み合ってないなw
610人間七七四年:2011/04/11(月) 00:07:04.19 ID:EIL712g9
>>607
そういえば始皇帝の時、「焚書」はあったけど「坑儒」は存在しなかったらしい。
儒者が後世創作した受難話なんだと。
611人間七七四年:2011/04/11(月) 00:09:49.05 ID:LNgFXJt+
>>609
いつものことだよ・・
議論してる間は誰もが、「俺の方がこいつより知ってる!」と勘違いしてるものだしな。
612人間七七四年:2011/04/11(月) 00:42:02.66 ID:NiQXTJ70
>>610
違う違う。
なかったわけじゃない。
ただ、別に儒者主体ではなかった。

仙薬作りを命じられた方士が、出来ないと言って逃げたことから、
キレて方士や学者の中から荒唐無稽なことを言ってる者や歯向かう者を選んで皆殺しにしたのが通称「坑儒」事件。

中に儒者が含まれていたことから、儒者は「坑儒」といったが、
実態は別に儒者ピンポイントの弾圧ではなく、反体制の気のある学者全体の弾圧が目的。

実際墨者は急に文献から消えてたりする。
613人間七七四年:2011/04/11(月) 00:52:44.58 ID:LNgFXJt+
特定の誰かのことを言ってるわけではないが
「通説は間違いで、本当は○○だった!」というようなことを書く時には、
「研究者の△△や、××によれば、本当は〜〜」と、実名・出典を挙げて欲しい。

どんな通説・新説にも必ず逆のことを言ってる人がいるし、
本当のことかどうか、確かめようがないから。
614人間七七四年:2011/04/11(月) 00:54:56.63 ID:pzaY4RQQ
>>611
いや、そうな単なる自意識過剰じゃなくて、
相手の言ってることにちゃんと耳を傾けてるかどうかでしかないと思う
615人間七七四年:2011/04/11(月) 08:14:18.23 ID:5zeLIMKh
>>612
なるへそ、学者全体への弾圧事件だったわけか。
616人間七七四年:2011/04/11(月) 09:26:16.46 ID:EeeWgWOp
古今東西、独裁者ってなんで学のある人間殺したがるんだろう
手元に置いて利用すりゃいいのに
617人間七七四年:2011/04/11(月) 09:30:13.48 ID:SnNn5hjo
>>616
いちいちうるさいから
しかも理詰めでくるからなおさら
618人間七七四年:2011/04/11(月) 09:52:17.42 ID:QYOtXN0u
曹操も孔子の子孫の孔融を斬ってる
たいして役に立たない上、ウザかったのだろう
619人間七七四年:2011/04/11(月) 09:56:53.45 ID:NZuBrXrq
現実無視して理想を要求して、それに応えないと叩いてくるから
620人間七七四年:2011/04/11(月) 10:14:28.67 ID:Wz/evNGT
…ねらーも切られそうだな
621人間七七四年:2011/04/11(月) 10:19:57.44 ID:56y63uF1
>>619
正に2chそのものだなw
622人間七七四年:2011/04/11(月) 10:24:34.57 ID:iIZ05fob
武将がねらーみたいな人種を斬る話は豪傑譚として扱われるから
623人間七七四年:2011/04/11(月) 10:47:32.97 ID:hbVSSwYU
>>619
なんだ、彦左のことか
624人間七七四年:2011/04/11(月) 11:01:46.30 ID:s0UGcxoi
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  
    |ヽ   ~~⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
   │ ヽー―'^ー-'  ( ⌒γ ⌒~~ / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 作れないぞ!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |

これを貼れと言われたような気がした
625人間七七四年:2011/04/11(月) 19:23:39.86 ID:Ta+nFGfe
戦国板的にはこの2人は誰に当たるんだろうな?
ブラックホールの方は一言多い黒官辺りが似合うが
626人間七七四年:2011/04/11(月) 22:16:38.01 ID:NiQXTJ70
>>618
孔融の場合は有為な人材だったと思うがな。

彼は当時としては珍しい、儒者の枠には収まらないタイプの学者で、むしろ自分は孝行で名を馳せつつも、
「窮地に陥り、親と他人のどちらかしか救えない時、親が尊敬に値しない場合は親を捨てて他人を救え」
と言うなど、中国史全体で見ても極めて特殊な合理主義者だった。

どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。
627人間七七四年:2011/04/11(月) 22:18:32.33 ID:FDIw+IJJ
やはり韓国は儒の鬼子。あのメンタリティー
628626:2011/04/11(月) 22:28:28.53 ID:NiQXTJ70
>>626
>どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。

分かるとは思うが、曹操「の」傘下ね。
629人間七七四年:2011/04/11(月) 22:43:36.19 ID:eEM88QKI
つか孔子自身は観念論に堕ちるなとかバランスを持った思考をしなさいとか言ってるんだけどね>儒教
630人間七七四年:2011/04/12(火) 02:33:36.65 ID:lP8Pbvdq
王莽とかの事もあるし、儒者って儒教が絶対って言ってるのが多くてにいいイメージないんだよな。一つの論としてはアリだと思うけど
学問じゃなくて宗教だって聞いたことあるんだけどそこはどうなんでしょう?
631人間七七四年:2011/04/12(火) 09:25:32.39 ID:0TUZvBLY
>>629
まあ孔子自身もバランス悪くて、政治の道ではさんざん失・・げふんげふん
632人間七七四年:2011/04/12(火) 11:02:36.39 ID:7hiF2UKZ
王莽は自分の政治的要求を通すために儒者や周代復古を装ってただけであって、本当は儒家ともまた違うんだけどね。
目指してることは武帝の焼き直しな、法家のトップダウン式ガチガチ管理社会だから。
名を馳せたのも親族でも容赦なく裁いて自殺させたことだし。
633人間七七四年:2011/04/12(火) 11:48:54.50 ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。
634人間七七四年:2011/04/12(火) 19:10:33.88 ID:lP8Pbvdq
>>632
ありがと。古代中国のこと大まかにしか知らない上に最近読んだ本のせいで
変な知識になってた。可笑しなこと言ってごめんよ
635人間七七四年:2011/04/12(火) 20:23:22.24 ID:bEkI18Fw
正直、戦国話でDQNという単語を使うヤツがDQNだとしか思えない
636人間七七四年:2011/04/13(水) 00:30:46.57 ID:mZN9x4Nk
婆娑羅とか傾奇者とか言うのもなんだしねい
637人間七七四年:2011/04/13(水) 00:36:13.31 ID:vejKEILy
婆娑羅四天王
638人間七七四年:2011/04/13(水) 00:37:21.82 ID:h2g9Z2dp
DQNとバサラは全然違うからw

DQNはDQN
639人間七七四年:2011/04/13(水) 00:37:41.60 ID:e7o7s/2l
程良く反りの入っている刀は、当たる力もまた大きいという。
その訳はこうである。

朝鮮の役の時、加藤清正の軍勢が敵を切りあぐねる、と言うことがあった。
この時清正は軍勢を集めて、それどれが何人斬ったかを調べさせた。
そこで解ったことは、直刀の者は敵にそれを打ちつけても、当たりが弱く
敵が倒れることがなかった。
だが反りの入った刀を持っていたものは、斬れないということがあっても
当たれば敵が倒れない、ということはなかった。

これにより刀は反りの入ったものを使うべきだ、ということになったのだという。

まあ朝鮮の役まで解からんような事なのか、とも思うのでこっちに書くがw
加藤清正、統計的に反りの入った刀の有効性を証明する、というおはなし。
640人間七七四年:2011/04/13(水) 00:41:42.68 ID:zyrap50H
脳筋学者近藤好和によれば
刀に反りが入っているのは通説のように馬上使用のためではなくて
打撃力を増すためだとか
641人間七七四年:2011/04/13(水) 01:09:09.42 ID:RtGVAkEz
それ別に相反するものじゃなくね?
サーベルやシャムシールやカットラスが騎兵の武器として使われているのを考えると
やっぱり湾曲した刀は馬上での戦闘も考慮されてるんじゃない
642人間七七四年:2011/04/13(水) 01:16:03.47 ID:mZN9x4Nk
太刀は馬上武器だとか言うね

戦国時代には使われなくなったけど
643人間七七四年:2011/04/13(水) 01:21:04.44 ID:aemdW7um
>>639
朝鮮や明の鎧は日本とはまた違ったという事かね?>解からんような事なのか
644人間七七四年:2011/04/13(水) 01:34:31.31 ID:dhpEzJl1
あの時期の大陸の鎧ってよくわからんな。基本皮製だと思うんだが
プレートアーマーもどきもぽつぽつ登場してるし、日本の鎧の変遷みたくわかりやすくないから困る
645人間七七四年:2011/04/13(水) 01:45:15.60 ID:aemdW7um
>>644
北方だと基本布製で金属や革の礼を鋲で止めたものが多かったらしい。
寒さの厳しい土地だから防寒着も兼ねていたとか。
646人間七七四年:2011/04/13(水) 02:05:21.15 ID:iCcEkjjo
曲がってる方が刃の垂直、水平な方向に力を分配しやすいからちゃう?
647人間七七四年:2011/04/13(水) 02:59:31.72 ID:Nv0ut5Y4
戦国時代の刀って、みんな反りが入ってるものかと思ってた
648人間七七四年:2011/04/13(水) 03:02:39.89 ID:h2g9Z2dp
直刀なんて古代とか平安時代までだろ
儀式用なら別だが
649人間七七四年:2011/04/13(水) 06:02:35.57 ID:8Almk05D
さあ、反り返って 僕のエクスカリバー
650人間七七四年:2011/04/13(水) 06:43:07.71 ID:8U9yXD3f
ポークビッツに反りはない
651人間七七四年:2011/04/13(水) 07:40:03.57 ID:cLEZrSax
バールのような物は、実は凶器としての効率はいまいち?
652人間七七四年:2011/04/13(水) 08:18:07.18 ID:HVwykuM5
直刀とかの類は武器自体の重さで相手をぶん殴る、もしくはぶった斬るもの
振るう人の体重や体の勢いをのっける場合は曲刀の方が有利だけど、それなりに技量も要る
653人間七七四年:2011/04/13(水) 12:34:08.86 ID:rikslJvR
この場合の直刀って反りの浅いかほぼ反ってないタイプの日本刀だろ
そういや幕末の切り合い上等な連中は↑のタイプを使ってる場合が多いよね
突きが有利?
654人間七七四年:2011/04/13(水) 13:27:57.91 ID:qTjb7GqK
反りが浅い方が歩戦では扱いやすいから
655人間七七四年:2011/04/13(水) 18:15:14.13 ID:F8tCpiPa
どっちかっていうと「太刀」というよりは「打刀」って呼ばれていたやつなのかな。
文禄慶長の役後の明や清も倭刀は歩兵用に限らず、騎兵用としても使用していたみたいだし。
656人間七七四年:2011/04/13(水) 21:49:18.74 ID:Qtt3Sl/r
>>653
そのころには竹刀稽古が普及してたから
反りが浅い刀の方が竹刀に近い感覚で扱いやすかった。
657人間七七四年:2011/04/13(水) 21:49:53.11 ID:wuWfdNjD
うむ。
658人間七七四年:2011/04/13(水) 22:47:03.01 ID:VfO58+Qq
>>642
 馬上使用前提ならよく切れることより折れたり曲がったりしない方向に進化するんじゃないかなあ
659人間七七四年:2011/04/13(水) 23:19:16.55 ID:M0nlUYft
つまり太郎太刀こそが至高、と
660人間七七四年:2011/04/13(水) 23:30:03.79 ID:sW4VnynR
>>658
馬上使用の場合、馬ごとぶつかって切り抜ける感じになるから、敵に刃を滑らせててこの原理で切りやすい曲刀が好まれるそうな。
661人間七七四年:2011/04/13(水) 23:43:35.81 ID:aemdW7um
サーベルとかも曲がってるよね。
662人間七七四年:2011/04/14(木) 00:13:37.91 ID:u6QJw36Q
>>632
あと、当時要職についていた叔父が病で倒れたときに付きっ切りで看病したからだっけか。
663人間七七四年:2011/04/14(木) 09:48:00.83 ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)
664人間七七四年:2011/04/14(木) 21:33:12.17 ID:I0Q0kNCW
柴田勝家が織田信長より越前を与えられた頃のこと。
勝家はある夜、その配下の武将を集めて振る舞いをした。この時勝家、酒も入って大変に機嫌よく、
前田利家にこう話しかける

「又左殿(利家)聞き候え、最近はあの表裏者である菅屋(長頼)や明智(光秀)が信長公のお側で出頭しておる。
又左殿!指を折って考えてみよ!今まで26回、この柴田の手柄故に勝利を得た!
そして信長公直々のお礼も承った。わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!
さあ又左殿も指を折って数えるのだ!」

これに利家

「おやじ(勝家)は人持ちでもあるから、先陣をされて度々手柄もし、また槍を入れることも半鐘を鳴らすように
度々であって、その武勇は今の世には並びなき人です!
では私も言わせていただきましょう!」

と、指を折りつつ利家がこれまで、所々でなした18度の手柄について語った。
これに柴田勝家は一層機嫌良くなり、

「細々としたことを期限の間に合わせ、どうということもない内容を格式張って話す、そんなことをいくら
嗜んだとしても、合戦での働きがなければまるで意味のないことだ!
今の時代は武勇を仕ろうとするなら、いくらでも機会がある世の中である!
又左やこの柴田は、信長公へも傍輩衆へも、その前に出て恥ずかしくないぞ!」

と言い、大いに笑ったそうである。
(利家夜話)

ただ逆に見ればここまで意識している以上、この時期菅谷や明智といった人々が、信長の傍で
一種の文官的権能により権力を拡大させている事に、内心何らかの驚異や圧迫を感じていたと
見るべきで、そんな状況を勝家も酒の席でこのように、憂さを晴らしていたのだろう。

そんなことを想像させる、柴田勝家の越前での酒宴のお話。
665人間七七四年:2011/04/14(木) 21:55:26.12 ID:ULTcU9KJ
特に菅屋の存在は面白くなかっただろうな。北陸方面軍にとっちゃ目の上のたんこぶ。
666人間七七四年:2011/04/14(木) 23:40:57.36 ID:AjXCYMNe
悪い話と言うか、色々切ない話だな・・・
667人間七七四年:2011/04/15(金) 01:21:26.48 ID:D7KaAIKS
しかし光秀だって結構戦場で手柄立ててる気がするけどな
668人間七七四年:2011/04/15(金) 02:25:33.81 ID:vWJu+lLU
奉行衆のエリートで片手で数えれるくらいしか実戦に出てない菅屋と一括りにされるのはちょっとなw
669人間七七四年:2011/04/15(金) 02:53:53.64 ID:aE+5u85H
>>667
つか光秀といえば戦上手で有名やん。
670人間七七四年:2011/04/15(金) 02:55:09.46 ID:gppu6zFr
>>668
菅屋の武功ってそこまで少なかったっけ?
671人間七七四年:2011/04/15(金) 06:38:16.51 ID:iqyJ7Ytf
ノブヤボに出てこない武将はわからない
672人間七七四年:2011/04/15(金) 06:45:24.11 ID:LrOYMMgE
戦働きしかできない古いタイプの武将が抱える鬱憤みたいなもんか
673人間七七四年:2011/04/15(金) 07:32:55.32 ID:vY6f+QCc
越前の織田神社が、利家や成政、光冶に信長の朱印状を握りつぶされて荒れ放題だった時、
実情を知った信長の意を汲んで、
「ちゃんと仕事しろよ。下手な弁解したらどうなるかわかんねえからな」
と書状を送ったのが菅屋なんだよね

でもさ、菅屋くらいの世代になると堀秀政みたいな例外を除いて近習ってほとんど前線に立たなくなるよね
やっぱり信長自身が前線に出ることが少なくなったからなんだろうね
674人間七七四年:2011/04/15(金) 09:07:06.68 ID:OieZABso
例えば万見重元なんかは有岡城攻めに軍監として参加したのだけど、
血気にはやったのか総攻撃に参加して戦死している

記録はないけれど、もしかしたら信長から「参加するな」という厳命が出たのかもね
675人間七七四年:2011/04/15(金) 09:31:15.64 ID:c1ulH4TY
軍監が我先にってのは役目が違うだろうからなぁ・・・
676人間七七四年:2011/04/15(金) 09:31:19.06 ID:vY6f+QCc
万見が戦死した時の有岡攻めは信長自身が出向いてるよね
桶狭間や朝倉追撃戦みたいに、こういうときは馬廻りや小姓連中が手勢を率いて相手に向かったりしたそうだよ
ちなみにこのときは菅屋・堀・万見の3人が鉄砲隊を指揮していたそうな
で、城内の内応者の合図で突撃したら最愛の万見があっけなく討ち死にしちゃったと
677人間七七四年:2011/04/15(金) 09:35:20.60 ID:/fOP8BgW
最愛はお蘭でねーの
678人間七七四年:2011/04/15(金) 10:18:11.91 ID:SGA9LXth
万見と長谷川には及ばない
679人間七七四年:2011/04/15(金) 12:06:05.43 ID:h2rv/tG2
万見が死んだから蘭丸に移行したんじゃね?
680人間七七四年:2011/04/15(金) 18:37:21.72 ID:vWJu+lLU
>>670
ほぼない。

行政関係では抜群だが。
681人間七七四年:2011/04/15(金) 21:30:37.62 ID:Z1dZtoP9
菅屋は野望に出たら政治90とかそんな感じかしら
682人間七七四年:2011/04/15(金) 21:34:42.59 ID:cheFDZ1M
蘭丸は大して活躍してないのに、なんで兄が信濃に移った後の兼山5万石をもらえたんだろうか?
堀秀政の長浜2万5千石より多いじゃないか。
683人間七七四年:2011/04/15(金) 21:51:06.57 ID:67xD98a9
わかってるくせにw
684人間七七四年:2011/04/15(金) 22:29:10.75 ID:5uJs87VM
でも森家は死亡フラグ立ってるしな
685人間七七四年:2011/04/15(金) 22:59:46.63 ID:8WscTJVQ
前田利家が未だ若い頃。
彼は信長によって繰り返されていた美濃への侵入にいつも付き従っていたが、その身代は
わずか四百五十貫であった。

そんな利家がある時戯れに、家来の村井長八郎に「所持している金の額を比べよう!」
と言い出した。

利家が巾着をひらくと、その中には四両三分入っていた。
長八郎の巾着の中には、二両一分入っていた。

これを見て利家、「俺のと合わせれば、長八郎は金持ちになるな!」
と笑ったそうである。

ちなみにこの村井長八郎、後に村井豊後守長頼。
前田家の家老として利家、利長を支え、加賀藩の基礎を作り、前田家の年寄八家村井氏の
祖となった人物である。

利家は自身も、そして村井も大身となった後も、村井に

「あの時の二両一分、今も持っているか?俺もあの時の四両三分が運を引き寄せたと思い、
今も大切に取ってあるよ」と笑って言ったという。

そんな前田利家が若い者たちに常に言っていたことがある。その内容はこうである。

「とにかく金を持て。金さえあれば世の中も人も、恐ろしいとは思わない。
しかし金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」

織田家からの牢人中、金の切れ目が縁の切れ目を実体験した利家らしい言葉であろう。


まあ悪い話じゃないんだけど、だからといって特段いい話でもない気がするのでこっちにw
686人間七七四年:2011/04/15(金) 23:27:21.44 ID:J8zIrcwP
菅屋さんの先代は森可成みたいな立場だったんかねえ>信長直属軍部隊長みたいなの
687人間七七四年:2011/04/16(土) 02:31:38.73 ID:QfRJhFm4
慶長の役で捕えられた朝鮮の儒者姜
彼には竜という幼い息子がいた。
その名は妻が妊娠した頃に姜が見た児竜が水中に浮かぶ夢に由来し
姜にとっては30歳にしてようやく得た跡取り息子であった。

慶長の役で姜は一族と共に日本軍から逃れるべく船で北に向かっていた。
が、その途中日本軍の軍船が姜達の船に襲いかかってきた。
姜たちは一斉に船から飛び降りて陸を目指したが結局ほとんどが捕まってしまい
日本軍の軍船に引き上げられて帆柱に縛り付けられた。

この時赤子の竜は軍船に回収されることなくみぎわに打ち捨てられ
やがて潮が満ちると共に浮き上がり、しばらく聞こえていた泣き声もやがて途絶えた。

水中に浮かぶ竜の名を持つ子が水中で死んだ話
688人間七七四年:2011/04/16(土) 03:05:50.43 ID:gahcSTK3
ほんと、朝鮮の役は悪い話に事欠かないな…
689人間七七四年:2011/04/16(土) 06:30:17.96 ID:9DZhlpqw
690人間七七四年:2011/04/16(土) 07:28:20.36 ID:LElC96TQ
>>686
親父さんなら、小豆坂で活躍したひとかどの武将だっはず

小姓・馬廻りという意味でなら、利家や成政たちのあとの連中かな
古株の信長近習にいびられて、耐えかね切り捨てて出奔
徳川からの誘いをけって織田家への帰参を願っていたけど、三方原のときに佐久間隊に属し討ち死にしてる

詳細がわかればひとつの逸話にできるんだけどなあ
691人間七七四年:2011/04/16(土) 09:18:12.17 ID:n4LHN4lD
>>689
おお…申し訳ない。し、下の方は未出のようなのでそこでなんとか許してほしいw;
692人間七七四年:2011/04/16(土) 09:51:24.16 ID:W2diQyFL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1400.htmlのちょっと詳しい内容

文禄5年(1596)7月13月、伏見大地震が起る。
この混乱がやや落ち着くと、前田利長は父利家を自身の地震小屋(仮設の邸宅)に迎え
振る舞いをした。

…と、利家、その振る舞いから戻ってくると激しく機嫌が悪い。
利長の地震小屋の作事が殊の外見事だったのが全く気に入らなかったのだ。
利家は家臣たちにわめき散らし、さらに岡田長右衛門、斉藤刑部を利長に使いとして出した。
その内容はこうである

『地震小屋などというものは、いかにも軽々として、住むのに問題がなければそれでいいのだ!
そんな物に銀箔など、まるで必要のないものである!

金銀をそういいった意味のない事に浪費していれば、むやみに無理なことを言うようになり、
人のものさえ欲しがるようになる。

だいたい侍というものは、山が崩れようが海が埋まろうが驚かないものである。
ましてや孫四郎(利長)は一国の主である!であればどんな事であっても漏らさず
心にかけておくべきなのに、武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく、
毎日鷹狩、もしくは三味線ばかりで遊び呆けておる。沙汰の限りである!

いいか、日本で孫四郎は一国の主なのだから、選ばれた66人のうちの一人であるのだぞ!
そうであるのに全ての行いが沙汰の限りだ!』

と、その後にもこのような叱責が延々続いたそうである。

前田利家が息子利長への不満をついにぶちまけた、というおはなし。
693人間七七四年:2011/04/16(土) 10:29:50.78 ID:JavazDM2
バカな息子を持つ親の嘆き、おおいに共感するところあり。
694人間七七四年:2011/04/16(土) 11:03:35.62 ID:K2oPa+8Z
利家はドケチで始終金金言ってるのに、何となく爽やかというかカラッとしたイメージ
695人間七七四年:2011/04/16(土) 11:07:44.80 ID:m82IQcHd
まつ「あなた様も武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく銭を溜め込み、沙汰の限りです!」
696人間七七四年:2011/04/16(土) 11:35:23.13 ID:qeU4idAi
どっかのすっから缶総理やらルーピーにも聞かせてやりたいぜ
697人間七七四年:2011/04/16(土) 12:41:47.40 ID:rqKyf6uD
>>692
まあ弟も死んでるしね
698人間七七四年:2011/04/16(土) 16:25:50.07 ID:Bn0JPJwe
>>692
選ばれた66人のうちの一人ってのが意味わからん。六十余州の主の一人って意味かな?それだと文面おかしくなるか。
後65人は誰よってツッコミたい。
699人間七七四年:2011/04/16(土) 16:28:18.36 ID:n1/0oyMG
>>698
(数多の人間の中から国主として)選ばれた66人のうちの一人
文面的にもおかしくないと思うが
700人間七七四年:2011/04/16(土) 17:50:40.07 ID:h71lnLn3
日本のベスト64に選出
後6回戦勝てば天下人だ
701人間七七四年:2011/04/16(土) 19:14:47.99 ID:dfo/Vp/w
66人もいれば、今日ではダメ殿とか言われてる人も含まれるんだろうなぁ
702人間七七四年:2011/04/16(土) 20:00:22.83 ID:ZsEg1pkr
徳川や毛利みたく一人で複数の国を持ってるのもいるのは、どうすれば
703人間七七四年:2011/04/16(土) 20:22:18.02 ID:kCaHpqny
八百万の神みたいなものだ
象徴的表現
704人間七七四年:2011/04/16(土) 22:12:48.81 ID:Bw2jC31F
正式な○○守なら66人なんじゃないか。
705人間七七四年:2011/04/16(土) 22:35:31.36 ID:oAAYGlqM
慣例として○○守を置かない国もあった気がする。
706人間七七四年:2011/04/16(土) 22:36:43.90 ID:Ejk+rjHk
親王任国というのがあってだな・・・
707人間七七四年:2011/04/16(土) 22:47:09.68 ID:gahcSTK3
上総守を名乗って大笑いされた田舎者が尾張におってな…
708人間七七四年:2011/04/16(土) 22:48:02.02 ID:nDifYmxj
琉球守を名乗った大名がいてだな・・・
709人間七七四年:2011/04/16(土) 23:00:36.79 ID:h71lnLn3
宇宙大将軍…
710人間七七四年:2011/04/17(日) 01:10:18.49 ID:DrzFzizQ
>>708
その人、秀吉からもらった「琉求守」の扇を奪われ、さらに台州守を名乗ったあと普通に武蔵守になったんだぜ……。
711人間七七四年:2011/04/17(日) 01:15:21.81 ID:F2tjR59w
幕府成立以降に武蔵守名乗ってよかったんだっけ
712人間七七四年:2011/04/17(日) 01:37:30.10 ID:cOLETlDf
幕府に喧嘩売りたいならok、治部少輔もおすすめ

ただ任官は朝廷から直接されるのではなく幕府を通してされるので
自称しか出来ないけど
713人間七七四年:2011/04/17(日) 01:49:27.08 ID:jPXs1/xz
たまたま今よんでた井沢元彦「忠臣蔵元禄十五年の反逆」だと
古事類苑官位部の三 類例略要集 関東諸大名方今被憚分
武蔵:松平武蔵守利隆以後相止 だそうです
みんな自重したんだねえ
714人間七七四年:2011/04/17(日) 03:05:18.14 ID:0Q/3XfOC
武蔵介はいるんかね?
715人間七七四年:2011/04/17(日) 11:34:59.00 ID:4TahnbNO
三河守も結城秀康親子くらいしか名乗らなかったと思っていたが、
ヤフー知恵袋にいろいろ詳しく書いてあった。
716人間七七四年:2011/04/17(日) 12:22:46.41 ID:v3PUarFD
仕方ないことだけど、戦国ではやんちゃしてた連中が統一が進むにつれ自重しまくるんだよな
暴走族がだんだんサラリーマン化してくるというか
717人間七七四年:2011/04/17(日) 15:32:21.08 ID:tF1cXnKq
幸せについて

会津藩主・保科正之は家臣に尋ねた。
「お前たちにとって幸せとは何か?」

近臣の小櫃与五右衛門答えて曰く、「二つあります。一つは貧しいため、贅沢を知らないことです。貧乏生活を楽しませていただいております。」

正之「もう一つは?」

与五右衛門は躊躇する。
「えー、そのですね、何というか・・・」

「一体何なんだ?」

「それは、大名に生まれてこなかったことを心から幸せに思っているのです。」

すなわち、大名は家臣が馬鹿にしてしまう。軽輩なら恩人や友人がいろいろ注意してくれるが、大名にそんなことを言う人はいない。
主君に逆らえば出世に響くし、褒めるときはとにかく褒めたおす。結果、大名はわがままになってしまうのだ、と。

小櫃与左衛門の忠言といえばいい話なのだが、当時の大名たちのレベルが垣間見られる悪い話ということで。
718人間七七四年:2011/04/17(日) 15:44:45.45 ID:SGH09vmX
>>717
これって昔だけの事じゃないんだよな。
今だって組織の中で偉くなると気がついたら周りがをイエスマンばかりにしちゃって悪い情報が入らなくなる、
なんてことはよくある話で。
719人間七七四年:2011/04/17(日) 15:53:06.12 ID:tF1cXnKq
>>718
この前まで病院で休んでた人もそうだったのかもね。
720人間七七四年:2011/04/17(日) 15:56:42.24 ID:dVGclR8O
松本 「何故か俺の回りには「イエスマン」がいない。
お世辞ばっか言う奴とか、腰巾着みたいなんが全っ然おらん。」
高須 「そうやなぁ」
松本 「他のベテランの芸人とか、あえて名前出さんけど
もう周りをイエスマンで固めて裸の王様みたいな。」
高須 「ほんまやでぇ」
721717:2011/04/17(日) 16:11:38.43 ID:tF1cXnKq
最後名前書き間違えたけど、近臣の名前は与五右衛門です。
722人間七七四年:2011/04/17(日) 17:02:04.03 ID:3kLtW3Wa
>>720
よく知らんがそれだけ見てると高須がイエスマンな件
723人間七七四年:2011/04/17(日) 18:18:55.09 ID:DrzFzizQ
>>722よ……。
724人間七七四年:2011/04/17(日) 19:21:16.76 ID:eHktAmZo
725人間七七四年:2011/04/17(日) 19:42:59.46 ID:s+/z338z
>>717
> 当時の大名たちのレベルが垣間見られる悪い話ということで。

保科正之がそれだけ酷評されたら、ほかの大名はどうなってしまうんだ?
726人間七七四年:2011/04/17(日) 20:25:43.74 ID:keOis7QZ
>>725
つ黒田忠之

島原の乱では家臣が誰もいう事を聞いてくれず、出奔した家臣が「うちの殿が幕府に対して謀反を目論んでます」と言ったら、「ワロス。あのバカにそんな人望も才覚もねえよ」で
返された逸材
727人間七七四年:2011/04/17(日) 21:03:45.97 ID:LWBQC1qi
スレ違いだけどすいません、質問です。
さっき大河みてたらオカンが「一成と三成がいるのに、二成とか四成はいないのかしら?」
とか言い出したんだけど、いないよね?
二成の読みは察してください


728人間七七四年:2011/04/17(日) 21:34:07.10 ID:s+/z338z
最後の1行が言いたかっただけなんじゃないのか?
729人間七七四年:2011/04/17(日) 22:46:09.15 ID:RsZFQ+OY
ふたなりですか わかりません
730人間七七四年:2011/04/17(日) 22:55:25.51 ID:SGH09vmX
小田原の陣における伊達政宗の参陣といえば、ギリギリセーフで秀吉に許された事で有名であるが、
この時のことを、「武功雑記」の中にある、政宗自身の証言から見てみよう。


『小田原の時だ。それがし(政宗)は、とにかく小田原に登り太閤(秀吉)に帰服しないといけないと主張していた!
ところが家老達と来たら、「そんなお気遣いは必要ありません、どこそこへ人数を出して守り防げば太閤など
たやすく攻め寄せることは出来ませんよ。」などと言う!!
だからそれがしは言ってやったのだ。

「太閤は只者ではない。降参の志を見せなければならない!」と。

そうしてようやく小田原へと立った。家臣共は「多勢で行くべき」などと申してきたがわしは僅か20騎ばかりで
早速に上り、酒匂川で三泊し、そこに供の者をほとんど残して金襴の具足羽織を着て太閤の御前近くに出た。
取次は富田左近(富田左近将監知信)であった。この時左近はそれがしに「腰のものをこちらに渡してください」
と言った。これにそれがしは

「何ぞ侍に刀脇差を抜けとは!?」

と言い放ち彼の言うことを聞き入れず、そのまま進んだ。

太閤は床几に腰掛けていたが、それがしを遥かに見つけると

「伊達殿登られたか、これへこれへ!」

とおっしゃった。これにそれがしは、刀脇差を側に投げ捨ててお近くへと進んだ。
そんなそれがしに太閤は

「いやいや、苦しゅうない。」

と仰りそれがしの手を取り「さてもさても、奇特にもよく参られた」と差し当たっての話などされ、

「奥州の事も心もとない、早々に帰られるがよかろう」

とお暇を賜った。そこでそれがしは早速酒匂まで戻り、そこから帰国の途に付いたのである。』


この「刀脇差を投げ捨てる」というのは政宗が覚悟を決めたときの得意技だったようで、
後に再び絶体絶命に陥ったとき、又やらかすのであるが、それは又別の機会に書こう。

以上、小田原参陣、政宗の証言(?)である。
731人間七七四年:2011/04/17(日) 22:55:29.05 ID:KO14TcC+
割り切れる数は縁起が悪いんじゃないか。
732人間七七四年:2011/04/17(日) 23:01:10.18 ID:v3PUarFD
>>726
加藤の若殿といい悪久といい、なんでこの人の息子がこんなのに?っての結構多いよな
733人間七七四年:2011/04/17(日) 23:41:21.12 ID:JkTFXmce
>>732
毛利輝元は同時代的にも決して評価は高くない大名だったが、その息子の秀就はさらにダメで
支藩を纏められず独立運動起こされたり幕府へも上手く取り入ることが出来ず
細川忠興さんあたりからも「毛利家って本当に駄目だなプゲラ」なんて嗤われる始末。

その息子の綱広にいたってはもっとダメで、母親が徳川秀忠養女(結城秀康娘)で、
正妻も越前松平忠昌の娘で、しかも11歳の時父の急死で後を継いだため本来なら
当主幼少ということで領地の削減などもあるはずだったのに、幕府の特別のはからいで
領土保全してもらい、あまつさえ成人するまで幕府から派遣した親戚衆による委任統治を
してもらっていたにもかかわらず、「毛利元就の玄孫であるボクが徳川家に従うのは納得行かない!」
とか言い出して登校拒否ならぬ登城拒否なんかをして、家臣団もさすがに
「こいつ何とかしないと毛利家滅びるな」と押込をやって強制引退させた。

これで毛利が滅びなかったのは偏に家臣団が頑張ったからで、ここから
当主が君臨すれども統治せず、という毛利の家風が出来て行ったそうな。
734人間七七四年:2011/04/17(日) 23:51:19.25 ID:3mIRdKWH
官兵衛や直茂みたいに息子は厳しく躾けないとね
735人間七七四年:2011/04/18(月) 00:02:05.90 ID:919GXkDs
>>732
うけた教育が戦国時代基準だけど求められる能力が違うからストレスたまるんじゃね?
旗本奴とかそんな感じだったみたいだし
736人間七七四年:2011/04/18(月) 06:44:30.60 ID:Yd9WPi5k
>>732
悪久は、嫁への仕打ちとやり方は直裁的でえげつないけど、
関ヶ原戦後処理とか戦国大名家から近世大名家への変換はちゃんとこなしているじゃん
737人間七七四年:2011/04/18(月) 19:25:17.20 ID:ajqaNjWO
私生活ではクズ野郎でも統治者としてまともなら
その逆のパターンよりはずっといいわな
738人間七七四年:2011/04/18(月) 21:22:16.37 ID:zGastDzI
輝元の行政手腕は悪くなかったんじゃないか?
739人間七七四年:2011/04/18(月) 21:39:05.89 ID:Gh0rIOh7
>>733
>当主が君臨すれども統治せず、という毛利の家風が出来て行ったそうな。
毛利家藩主の経歴を見ると自ら進んで改革をやってる藩主の方が多いぞ
740人間七七四年:2011/04/18(月) 22:28:25.06 ID:e81juQpK
厳密に言うとできる家臣を抜擢して丸投げ、家臣の指示に逆らわない、かね?
741人間七七四年:2011/04/18(月) 23:16:19.46 ID:wFKVcqIZ
毛利さんちのTERU君は親と爺ちゃんが凄すぎて霞んじゃってるんだよなぁ
内政合戦なんでもござれな陰謀魔王爺や
歩くブラックカードな内政ネ申なパパに
合戦モンスターな叔父達
こんなんに比べられたらそれなりに優秀くらいじゃだめな子扱いもされるだろw
742人間七七四年:2011/04/18(月) 23:43:31.83 ID:msFmRn+d
関が原の時、総大将なのにあっさり大坂城を退去しちゃって
改易されそうになるとか凡将以下だろ
頭悪すぎるとしか思えん
元就の智謀の1%も受け継いでない
743人間七七四年:2011/04/18(月) 23:50:26.66 ID:e81juQpK
あのまま大坂城に立てこもっても、西軍への秀頼の支持がない以上、
いうなれば国会議事堂を占拠して総理大臣を人質にしたテロリストに過ぎない。
関ヶ原で西軍が瓦解した時点で詰んでるんだよ。
秀元だの立花宗茂だのは大局が見えてない
744人間七七四年:2011/04/19(火) 00:02:13.94 ID:e8xCf3mk
秀頼は手の内にあるし、大坂城もあるし、東軍も親豊臣の大名多いし
負ける要素が見当たらないがw
745人間七七四年:2011/04/19(火) 00:02:46.51 ID:IvUUzrV3
文禄4年(1595)7月15日、関白豊臣秀次切腹。すなわち秀次事件である。
この時伊達政宗に秀次と通じていた嫌疑がかけられたこと、有名であるが、この時の顛末を
「武功雑記」収録の、政宗自身の証言から見てみよう

『秀次公御生害の時である。それがし(政宗)の事を太閤殿下は疑われていたが、それがしは
十騎ばかりで上京した。

牧方で石田(三成か?)、岡田(不明)、施薬院(全宗)の三人が御使としてやって来た。
彼らは言う

「その方が秀次公と別して親しいというのは、世に隠れ無き事である。それにより
殿下より、その委細を尋ねよとのご命令である!」

これにそれがしは申した
「ええいかにも、私は秀次公と親しかった!しかしそれは太閤殿下のご賢明でさえお目がねが違った故、
このような事になったのだ!

太閤殿下は秀次公に天下をお譲りになり、関白にまで任じられたほど信任されておられた。
ならば、私のような片目が見損じるのは道理というものではないか!

その上太閤殿下は政務万事を秀次公に仰せ付け、ご隠居なさるとおっしゃった。
そう存じたからこそ私は早速、秀次公に取り入ったのだ!

これを罪だと太閤殿下が思われるのならば致し方ない。我が頚を打て!本望である!」

施薬院はこれを聞くと流石に慌てた。
「そのようなにべもない事、殿下に申し上げること出来ません!」

それがしは施薬院をはたと睨み
「その方は病人のことについては功者であろうが、武士の道は知らん!ありのままに申し上げよ!」

この言葉で三人は、這々の体で帰っていった。

翌日、富田左近(富田左近将監知信)より使いが来て、明日、太閤殿下が山里(大阪城山里曲輪)にて
お茶を下されるとの御意を伝えた。

それがしはただ二騎だけを召し連れ大阪に向かった。
大阪にて、富田左近より遣わされた案内だという侍一人が来たのでそれを連れて大阪城に入った。

そのうちに案内者はどこかに姿が見えなくなり、それがしはただ一人森の中に残された。

「さてはここで私を殺す気か!ええい、なるようになれ!」

と思っていると、そこに茶頭らしきものが来てそれがしの刀脇差を所望した。
しかし「侍の刀脇差をよこせとは何事だ!」と聞き入れぬ体でいた。

と、そこに太閤殿下がいらっしゃり、「和尚、もう(政宗は)来たのか?」おっしゃった。
殊の外機嫌の良いご様子であった。
そこでそれがしは刀脇差を投げ捨てお側に寄り、奥へお供した。
そしてお茶を賜り、その後「奥州の情勢は心もとない。帰国を許す。」と、お暇を賜ったのだ。』


秀吉の前で二度目の、刀脇差を放り投げた話である。
746人間七七四年:2011/04/19(火) 00:07:37.66 ID:np7GJo4D
和尚に渡せばいいだけだろうに何故投げ捨てるw
747人間七七四年:2011/04/19(火) 00:11:27.55 ID:vKOd4uyV
関ケ原で静観してたから当然安堵してくれる!ってバカ正直に信じてた毛利家首脳にはさすがに呆れる
吉川が領土差し出さなかったら長宗我部と同様に取り潰しの憂き目にあってた
形式上とはいえ、敵対してた大藩をそのままにしておくはずがないのにね
748人間七七四年:2011/04/19(火) 00:12:22.72 ID:Pc+zvZwd
>>746
「侍の刀脇差をよこせとは何事だ!」と言ってしまった相手に渡すわけにはいかないんだよ!!
749人間七七四年:2011/04/19(火) 01:25:32.33 ID:yhl+vYXf
毛利は家康の署名が無い書状を信じてホイホイ付いて行ったらアーッされたが
義久は安堵状に家康の署名が無いのにツッコミ入れて上洛拒否してたな
上洛拒否する義久に署名拒否する家康の意地の張り合いの果てに
なんか悪久が上洛してジャアモウイイヤーって感じで丸く収まった感じの島津
750人間七七四年:2011/04/19(火) 01:36:17.54 ID:b5qpWncO
毛利の改易は家康の署名の無い書状、というよりも、
大阪城撤退の時毛利の側が「自分は今回のことに関係ない。西軍の行動には関わっていない!」
と主張したため一旦は安堵と決まったのだが、家康が実際に大阪城に入って調べてみると
輝元自身の署名した西軍の作戦命令書が出るわ出るわで、あまりに言っていることと違うというので
改易という流れ。

家康が騙したというより毛利の側で証拠隠滅すらきちんと出来なかった脇の甘さが大きい。
751人間七七四年:2011/04/19(火) 01:48:03.50 ID:dzRqEaW/
天下分け目の決戦で総大将なのに大坂城で留守番
あっさり大坂城を明け渡す
吉川広家のお陰で改易を免れたのに、吉川の内通のせいで減封されたと逆恨み
正月に変な儀式を始める・・・
752人間七七四年:2011/04/19(火) 02:28:30.35 ID:vKOd4uyV
いや、逆恨みとは違うだろ。毛利方も一枚岩じゃなかった
恵瓊を始めとした毛利西軍派としては広家の行動は完全に裏切り行為
そもそも関ケ原で自分が出陣しないだけならまだしも
秀元や恵瓊たち南宮山諸将が出陣しようとするのを妨害し続けた挙げ句、あの顛末じゃ恨まれても仕方ない
なにより、広家のやったことの始末の悪さはその影響が毛利家内部に留まらなかったことだと思う
753人間七七四年:2011/04/19(火) 02:36:35.02 ID:kgvkWJ/Q
実際関ヶ原で毛利軍が動いていたら、
徳川方としても軽々に軍を動かせなかったろうから、
もう少し長期戦の様相になった可能性あるからなぁ。
754人間七七四年:2011/04/19(火) 02:48:10.47 ID:kYxYNqvW
>>752
広家は身近で輝を観察して、こいつじゃ絶対に家康に勝てないって分かってたんだろうからしかたないだろ
結果として毛利家はなんとか残ったし、ベストとは言えないがベターな選択をした
755人間七七四年:2011/04/19(火) 03:50:46.04 ID:akYskJm5
輝ちゃんは内政は良いのに外交がウボォわ過ぎる
756 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2011/04/19(火) 07:21:22.54 ID:2CVuYbgT
>>744
東軍に親豊臣が多いから、秀頼を人質にして大丈夫、という理屈がわからんが?
むしろ「秀頼を解放しろ」って市松とかの怒りを買うだけじゃね?
それとも、まさか、「秀頼の命が惜しければ、味方につけ」って脅迫するとか?
757人間七七四年:2011/04/19(火) 07:53:13.15 ID:5CDnbyDm
秀頼がいて、豊臣家の旗が立っている大坂城を攻める気力があるかが問題だろ。
758人間七七四年:2011/04/19(火) 08:00:29.63 ID:rr6Joz5b
広家と輝元のどちらがより「毛利家衰退のA級戦犯」かは評価の分かれるところだが、
個人的には広家の関ヶ原での判断は直情径行すぎて策謀でもなんでも無いと思う

「私の領地と毛利家改易とを相殺してくれ」と家康に頼んだのも、
主家が滅んで自分の吉川家だけ栄えたら後世ずーっと裏切り者扱いされるもんなぁ
759人間七七四年:2011/04/19(火) 08:17:31.82 ID:Jtfx0xp/
広家が関ヶ原で主家毛利家にしたことを、大阪の陣では逆に主家のほうが似たようなことをしちゃってるものな
760人間七七四年:2011/04/19(火) 10:43:46.00 ID:IvUUzrV3
端的に言うと東軍は大阪城を攻めるまでもない。

なぜなら上方に多くの軍勢を率いてきた毛利領国の防備は非常に弱体であり、
東軍は東中国、北九州の東西から毛利領国への乱入をてぐずね引いて待っていた。
つまり輝元は一刻も早く領国に帰らないと、その本拠地自体が消滅する可能性が高かったわけだ。

本拠地が消滅すれば、輝元が所領を与えることで成立している家臣の忠誠は根拠がなくなり、
君主権も喪失する。つまり輝元は「見限られる」わけだ。

この可能性が高かった以上、毛利は大急ぎで自身に取って枝葉に過ぎない大阪を出て
帰国する必要があった。

関ヶ原で西軍が組織的に崩壊した段階ですでに、毛利は詰んでいたってことだ。
761人間七七四年:2011/04/19(火) 11:32:06.66 ID:4b3N9qcY
>>745-746
世人其れを、いたて殿二度眼の厨弐びやうと言ふ
762人間七七四年:2011/04/19(火) 12:18:20.58 ID:17Dh4Cv1
輝元が大阪籠城してたら
毛利領が黒田領に!
763人間七七四年:2011/04/19(火) 14:18:19.21 ID:igQRKS4M
そして如水新西軍と徳川東軍との第二次関ヶ原が!(ドコの架空戦記だよ
764人間七七四年:2011/04/19(火) 14:20:52.04 ID:akYskJm5
跡継ぎの嫁が家康の縁つながりで養女なわけだが
765人間七七四年:2011/04/19(火) 19:32:51.25 ID:un4Vga6J
広家よりも、毛利輝元を西軍に引っ張った安国寺恵瓊のほうがA級戦犯なのでは?
もともと、広家だけでなく家老衆や秀元まで西軍につくの反対してたはず
766人間七七四年:2011/04/19(火) 19:37:39.66 ID:WQaY1sZW
テルは西軍の総大将までやってるのに、安国寺に全ての罪をかぶせるのはどうかと・・・
乗り気じゃないなら総大将は流石に断るだろwww
767人間七七四年:2011/04/19(火) 19:37:58.27 ID:WVQwoHDG
ttp://blog.livedoor.jp/mizuirotonbo/archives/17440963.html

輝元は関が原で勝ったらどうしたかったんだろうか?
毛利本家は120万石だけど、一族をあわせれば、ほとんど
毛利の影響下じゃん。

吉川は元長が生きていたら、また違った結果になったんだろうが
768人間七七四年:2011/04/19(火) 19:42:35.00 ID:un4Vga6J
>>766
まあ、結局家中の連携がうまく取れなかったTERUがアレといればアレなんだけどね
個人的にはTERUは広家の内通は知っていたはずだと思う。
だから>>750みたいな流れで一旦うまく生き延びれるはずが・・・・
769人間七七四年:2011/04/19(火) 19:52:18.82 ID:vKOd4uyV
総領の事実上の裁断をガン無視した自分勝手な行動が忠義なんだろうか
770人間七七四年:2011/04/19(火) 20:03:25.78 ID:07iPLI6l
毛利って全然一枚岩じゃないよな
秀吉の中国大返しの時も追撃を主張する吉川と
和議を尊重する小早川でちょっと揉めたし。
その事が関係したのか、豊臣政権下で五大老に列せられた
小早川に対し無視され気味の吉川。

まあ秀吉得意の家中分断策だったんだろうけど、まさかのしっぺ返しが
起こるとは、さすがの秀吉も計算出来なかったw
771人間七七四年:2011/04/19(火) 20:16:37.36 ID:UNklq4on
当時一枚岩の家の方が遥かに珍しいよ
772人間七七四年:2011/04/19(火) 20:25:29.52 ID:KvulWNiC
北条家の一枚岩ぶりは異常
島津四兄弟も途中までは、仲良かったのに後半ドロドロ過ぎだろ・・・
773人間七七四年:2011/04/19(火) 20:33:58.24 ID:d4Oq6nz2
島津は本人同士よりも部下が派閥作っちゃって本人達もなし崩し的にってイメージだなぁ
直接的に嫌ってるエピソードってあったっけ?
774人間七七四年:2011/04/19(火) 20:46:14.21 ID:v1XFNqqL
結局一枚岩な家が滅んで・・・
775人間七七四年:2011/04/19(火) 20:52:17.80 ID:hAJOvlCQ
一枚岩になると下手すりゃ後がないも同然だしな
776人間七七四年:2011/04/19(火) 21:26:17.54 ID:xpi5bB4Z
>>773
悪久と嫁の関係は、悪久個人の資質というより
義久と義弘の代理戦争のような気もするけど
でないとあの陰湿ないじめは説明出来ないよ・・・
777人間七七四年:2011/04/19(火) 21:30:21.22 ID:JliWjaHK
>>776
義久と義弘の争いの中で、義弘の助っ人になるはずだったのに、いつのまにか独立勢力として、三勢力鼎立してしまった感じかも>悪久
778人間七七四年:2011/04/19(火) 22:40:04.26 ID:vKOd4uyV
>>774
でも日本で一番一枚岩だった三河が天下取ったじゃん
779人間七七四年:2011/04/19(火) 22:50:25.39 ID:uImhPS/0
日本で一番めんどくさい、ならともかく日本で一番一枚岩かと言われると疑問符が
780人間七七四年:2011/04/19(火) 22:54:07.89 ID:P0g+Xygd
むしろ日本一堅い焼き味噌
781人間七七四年:2011/04/19(火) 22:55:32.02 ID:yhl+vYXf
>>777
多分逆だと思う、当初の悪久は明らかに義久側
義久と義弘の対立は役割分担の延長線で疎遠になっただけな気がする
少なくとも関ヶ原以後の義弘に義久と対立できる力は無いはず
3勢力の見識事態が後生出来たものだと思う
782人間七七四年:2011/04/19(火) 23:01:28.62 ID:UNklq4on
>>772
氏照領国が本家から独立性を強めた結果、
北条本家の意思決定から次第に排除されていったと言ってる人もいるが、
内乱には発展しなかったね。
783人間七七四年:2011/04/19(火) 23:04:34.23 ID:b5qpWncO
慶長19年(1614)、幕府は大阪夏の陣の陣触れを出した。

このとき仙台にあった伊達政宗はさっそく出陣したが、合戦の嘉例であるとして、仙台から7里ほど離れた場所にて
宿営をすることになっていた。

さてその場所に政宗が到着した時分である、火の不始末か、宿営地に火事が起こった。

で、このとき政宗、何故だかわからないがが山伏のコスプレをしていたらしい。政宗当時37歳。
いい歳して何をやっているのだろう。それはともかくその姿で法螺貝を吹き、

「さあ皆の者、鬨の声を上げよ!」

と一斉に鬨を作らせた。
そして

「ふふふ、なんと目出度いことだ。俺のゆく所火の手が上がるわ!」(目出度事なり。我ゆくさき火の手があがりたる)

と、機嫌よくカッコイイことをつぶやき、その場所より一つ先の宿場で宿営したそうである。

まあ基本的には出陣初日に起こった不吉な火事に、自軍を動揺させず収めた伊達政宗のいい話、なわけですが
いつの間にやら勢いだけで嘉例とか色んなことがうやむやになっている気もするのでこっちにw
784人間七七四年:2011/04/19(火) 23:19:07.06 ID:+QwS7k4P
>>772
そうか?氏那とその配下が勝手に暴走して秀吉に滅ぼされたけど
785人間七七四年:2011/04/19(火) 23:33:16.25 ID:IvUUzrV3
>>784
いや、史料などの検討から秀吉の政権は名胡桃城事件以前から、北条を攻め軍事的に屈服させる、
というのが基本姿勢。これは本能寺の後、北条が滝川一益を攻めたことが大きな理由。

天正壬午の乱では当時「織田政権」は秀吉派、柴田勝家派に分裂していたにもかかわらず
北条に懲罰を与える、という意思では両派の意向は変わらず、そのため双方ともに
北条と対峙した徳川家康を援助している。

この方針は秀吉が政権を打ち立てても変わらず、北条は秀吉の政権から強い圧力を受け続けていた。
北条がなかなか臣従に応じられなかったのは、北条家が時勢を読めなかったということ以前に、
この秀吉政権の、かねてからの北条への敵対的態度の方が大きい。
下手に臣従すればどんな目に合うかわからなかったため。
まあ秀吉の態度を緩和させる政治力が当時の北条になかったのも確かだが。

とにかく小田原の陣の勃興に関しては、秀吉政権がそれ以前から北条に対して非常に
敵対的だった、ということは頭に入れておいたほうがいいと思う。
786人間七七四年:2011/04/19(火) 23:37:51.11 ID:yhl+vYXf
>>783
火をつけた犯人は成実だろうな…
787人間七七四年:2011/04/19(火) 23:50:00.41 ID:uIlt5nWU
北条の主戦派は氏政と氏照で恭順派は上方と直接交渉してた氏規
上洛して北条と豊臣の戦力差を目の当たりにした氏規は、北条
に勝ち目がないとわかりながらも、豊臣との戦が不可避となると
少数の兵で韮山城の守備に・・・

あんまり兄弟で仲良くしてても駄目な例
788人間七七四年:2011/04/20(水) 04:24:59.58 ID:dlaNjvAc
お家存続のためのリスク分散で、氏規だけでもさっさと降伏しとけばよかったか。
789人間七七四年:2011/04/20(水) 06:08:09.66 ID:NTI4bDYT
それでも伊豆一国の大名だろうなあ(七万石ぐらいだっけ?
790人間七七四年:2011/04/20(水) 08:53:47.82 ID:tp214xDS
>>788
真田みたいなとこと違って簡単じゃないんだよ
毛利といい、大身は動き辛い。だからこそ先見性と主導力で勝ち組になるしかない
791人間七七四年:2011/04/20(水) 09:36:39.43 ID:fA3EkB+e
>>787
主戦派は氏政じゃなくて氏直って話もあるがな。
792人間七七四年:2011/04/20(水) 10:15:51.59 ID:YNr/j0nV
>>783
37歳でこの台詞w
793人間七七四年:2011/04/20(水) 11:40:09.34 ID:UqAcM68w
北条で思い出した小ネタ、逸話じゃなくて申し訳ないが。
この前名古屋のメルパルクの予約しようとしたら出てきたプランが
最上軍プラン
長宗我部軍プラン
朝倉軍プラン
蘆名軍プラン
etc
ここまでなら戦国ブーム便乗か…でそのまま流すところだったんだが
内容つらつら見てるとそれぞれ大将と部下が設定されてた。
順当なのも多いが…北条軍プランの説明文見ると

>「北条氏政 公」を大将に「松田憲秀」「佐久間安政」を従え【北条軍プラン】いざっ!出陣!

何で部下にこのセレクトをした。
誰だこんなマニアックな選び方したのはw
浅井とかも普通この面子選ばんだろうって感じだったし。
794人間七七四年:2011/04/20(水) 11:41:05.12 ID:jrY4McOR
>>783
完全に厨二病だこのオッサン
795人間七七四年:2011/04/20(水) 16:13:02.65 ID:AfOGEXsZ
>>793
なんで滅んじゃった大名ばかり選んだんだろう・・・
796人間七七四年:2011/04/20(水) 16:21:31.77 ID:SEObaIkZ
豊臣とか毛利とか伊達とかもプランあるみたいだが面白みのない人選だな。

武田軍プランの武田信玄を大将に真田幸村、山本勘助は厨二的でいいとして全身マッサージ付とかアッー!
797人間七七四年:2011/04/20(水) 16:36:06.22 ID:oKRzXa7H
■「蘆名義広 公」を大将に「金上盛備」「佐瀬種常」を従え【蘆名軍プラン】いざっ!出陣!

どうみても死亡フラグです本当にありがとうございました
798人間七七四年:2011/04/20(水) 16:52:02.73 ID:QYqVyaGP
「朝倉義景 公」を大将に「前波吉継」「溝江長氏」を従え【朝倉軍プラン】いざっ!出陣!

部下が織田に内通済で無事に翌朝を迎えられないことは確定的に明らか
名古屋だから三傑が優遇されているのか!
799人間七七四年:2011/04/20(水) 17:38:06.18 ID:NyeRvRe1
毛利家プラン見たら元春、隆景が部下なのはいいとして、大名がTERUだった。
やはり早死には損だな。
800人間七七四年:2011/04/20(水) 19:54:46.58 ID:O/00b+QZ
>>798
富田さんがいない分まだマシかな
801人間七七四年:2011/04/20(水) 20:22:11.34 ID:73OsTcz+
慶長十六年(1611)3月28日、豊臣秀頼が徳川家康のある二条城へと出向いた、いわゆる
二条城会見が行われる。

この日、福島正則は秀頼の供をするはずが、その場に姿を表さなかった。
その理由は、このようなことであったそうだ。

その当日、伏見の屋敷において正則は酔っており、何を腹立たしく思ったのか
妻の鏡を奪い取って打ち砕こうとした。
この場に正則の息女が出てきて、正則を強く諌めた。ところが相手は酔っ払った福島正則である。
道理など通用するはずもない。

彼はその鏡を息女の頭に打ち付けた。

そこでその場は大騒ぎになり、家中の者たちが正則を取り押さえるなどしているうちに、
正則は部屋の外に出て高いびきをかいて寝入ってしまった。
こんな事があったので正則は、秀頼の供から外れたということである。

ちなみに正則はこの事を全く覚えておらず、目が覚めた後その次第を聞いて
大いに驚いたという。
(武功雑記)

本当にお酒さえ飲まなければこの人は。
802人間七七四年:2011/04/20(水) 20:40:27.63 ID:HuHR740i
豊臣子飼いの大名としてこれはどうなんだろうか
完全に豊臣が徳川の臣下として扱われる事に対するヤケ酒か
803人間七七四年:2011/04/20(水) 20:43:33.90 ID:gCh2Sy2z
この頃には完全にアル中発症してたんだろうなぁ・・・
804人間七七四年:2011/04/20(水) 20:49:12.99 ID:FgqonUaG
記憶が飛ぶほど飲むよね、市松は毎度毎度
805人間七七四年:2011/04/20(水) 20:55:48.37 ID:h4xbQbrC
>>786
成実は当時息子亡くした直後だったからさすがになかろう
806人間七七四年:2011/04/20(水) 22:32:30.96 ID:g9qC2NMD
正則は豊臣家の臣従が確定してさすがにやりきれなくなったんだろうな・・・
本意でないとはいえ、それこそハナタレのガキの頃から世話になった主家を見捨てる事になったんだから
807人間七七四年:2011/04/20(水) 22:37:22.03 ID:ynm2i32w
自業自得とはいえ、多少哀れさを感じるな。
808人間七七四年:2011/04/21(木) 00:46:15.80 ID:J4vpITsk
妙寿院(藤原惺窩)は法体姿で、頭は勿論丸めていたのだが、何故かうなじのところだけ
毛を残していた。
非常におかしな事だが、その理由を何故だか誰も惺窩に聞かなかったらしい。
なんとなくわかる気もする。

で、どうにも気になった旗本の城和泉守昌茂が、ついに意を決して惺窩に聞いた。
流石武田勝頼の侍大将まで務めた男である。

「…うなじの毛のこと、ですか」

惺窩は城の問に応えた

「頭には頭巾、体には衣服がありますが、うなじには何もありません。

冬になればここばかり、冷える。
夏も風に当たれば、冷える。

だからこのようにしているのです。」


この惺窩の答に城は思った。『じゃあうなじまで深く包む服を着ればいいじゃないか』と。
でも思っただけで言わなかった、らしい。

ヘンテコなこともあるものである。
(武功雑記)

藤原惺窩は現代にもいそうな変人インテリだなw
809人間七七四年:2011/04/21(木) 00:46:38.15 ID:+Yo52hZm
>>793
色々見たけど、
何で北条は氏康じゃなかったり、毛利はTERUだったり、
蘆名は止々斎じゃなかったりするんだろ。
大名のチョイスも謎なところがあるw
810人間七七四年:2011/04/21(木) 02:23:29.57 ID:lLIikgrF
>>801
清正と浅野は、秀頼の警護で、福島は留守番役のはず。
811人間七七四年:2011/04/21(木) 10:15:00.57 ID:wCWkkm1y
藤原惺窩って 窩 の字からつい眼窩という言葉が連想されて
両目にぽかっと穴の空いているされこうべみたいな顔を想像しちゃうからちょっと怖い
812人間七七四年:2011/04/21(木) 12:40:28.12 ID:f/DWBLPJ
藤原眼科
813人間七七四年:2011/04/21(木) 12:51:40.10 ID:ZOwdarQl
眼球が無くうなじにだけ毛が生えそろってる唐服唐冠の男…
中々強烈なキャラクターデザインかな
814人間七七四年:2011/04/21(木) 19:20:42.18 ID:uwucfkhK
うーん、実にクトゥルフテイスト…
815人間七七四年:2011/04/21(木) 19:22:54.34 ID:k8VwMj0+
ああ窩に!窩に!
816人間七七四年:2011/04/21(木) 19:44:27.15 ID:GOLMj26e
↓の逸話で上杉景勝に、上方にもう一人妻を持つよう進めた豊臣秀吉

秀吉「景勝、嫁を持て!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4195.html

さて、これを聞いて最も動揺したのは、当然だが越後に居た景勝の正妻、菊姫である。
彼女は乳母に向かって言った

「私が世の中の、行い正しく誠のある人についての話をお聞きした限りでは、
それらの人は一人妻があればこれに加えて別の妻を持とうとはせず、しかし家を継ぐ子が
出来ないときには別の女にまみえる事があるが、それは『妾』と名づけて妻とは呼びません。

そうであるのに秀吉公は、邪な仰せをなさって、もし景勝様がこれをご承知なさって
二人の妻を迎え、上方と国元の双方に置くような事になれば、世の人はどのように言うでしょうか?
恥ずかしさに居たたまれません。

ですが、だからといって故郷に帰ろうとしても、私の実家である武田家は既に滅び、
我が身の寄る辺はありません。
この上は髪を切り出家して世を遁れるか、さもなくば死する他ありません。」

こうした菊姫の憤りは上方まで聞こえ、これもあって景勝の上方妻の件は沙汰止みとなったそうである。


秀吉が上杉景勝に上方妻を進めた件の顛末である。
817人間七七四年:2011/04/21(木) 19:47:52.83 ID:JcIlRjUX
>>816
菊姫の言っていることは、近代的な考え方だよなあ
818人間七七四年:2011/04/21(木) 20:17:06.03 ID:s1P8Yjys
出家するか死ぬしかねぇ!ってのが近代的かね
819人間七七四年:2011/04/21(木) 20:17:38.59 ID:aLUxsrt1
大名の妻としてはちょっとね・・・逆手にとって夫と秀吉を脅迫してるみたいだし
女のプライドって今も当時も怖いよね
820人間七七四年:2011/04/21(木) 20:25:52.73 ID:yaiwVUTO
>>816
菊姫は、自分の父をどう見ていたんだろう?

そして、側室であった母は妾であったというのだろうか。
821人間七七四年:2011/04/21(木) 20:30:35.97 ID:JcIlRjUX
>>818
妻と妾に対するくだりとか、
まともな人は一夫一婦であるものっていう決めつけがだよ
822人間七七四年:2011/04/21(木) 20:35:07.28 ID:zV4vr3el
上杉と武田とかもマンドクセエなw
823人間七七四年:2011/04/21(木) 22:01:52.47 ID:IAQS/fXO
この時代でも正室は一人しか置かないというのは常識だと思うけど…

平安時代の二后併立も 正室とそれ以外で違いがあるという認識が皆にあったからもめたのだし。
824人間七七四年:2011/04/21(木) 22:30:43.92 ID:s1P8Yjys
>>821
一夫一婦制を武士の習俗に初めて大きく取り入れたのは確か北条政子だったと思う
あとこれは武家のしきたりについてのことだろうからまともかどうか、って倫理の話じゃない
どっちにしろ、妾さんは認めちゃってるんだから近代的云々ってのは全然違うと思うよ
825人間七七四年:2011/04/22(金) 01:10:27.74 ID:wVWktayj
「妾は何人いても構わぬものじゃ!」なら当時の当たり前だったんだろうけど
どうして秀吉は妾→妻に変換しちゃったんだろう?
826人間七七四年:2011/04/22(金) 06:48:48.65 ID:GbtpRjXI
相手が身分が高い女が多かったからだろ
827 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/04/22(金) 07:23:23.28 ID:QvensRKs
>>825
妻が複数いても特に問題はないはずだけど。
家康の築山殿以外の嫁たくさんは、だれが正室とか妾とかなくて全部嫁だろ?
828人間七七四年:2011/04/22(金) 08:03:49.45 ID:mqMtKR8h
家康が庶民的な嫁を好んだのはその所為ですか
829人間七七四年:2011/04/22(金) 10:49:02.88 ID:A9a76oNA
>>824
平安時代は通い婚だが正妻だけは同居できた
蜻蛉日記作者は夫の見舞いに行きたいが正妻のいる所だから悩んでいる
でも結局見舞いに行くんだけど
830人間七七四年:2011/04/22(金) 12:55:23.82 ID:4XA++rq6
慶長4年(1599)閏3月、この十一日に、いわゆる七将襲撃事件により石田三成が佐和山に引退している。
それから間もなくのこと。

黒田長政はその邸宅に豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、徳川家康を伏見城へと入城させる
工作を相談。これにより堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として家康の伏見入場を宇喜多秀家ら大老に提案。秀家らも「中老・奉行らの総意であれば
その通りにするのがいいだろう」と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。

さて、伏見城に入った徳川家康は堀尾を召して言った

「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に
処理でき、今又伏見の城に入ることができた。全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」

しかし堀尾
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、ここで内府(家康)の御一礼を頂き御誓紙を申し受ける
というのは私の本意ではありません。」とこれを辞退した。

が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、徳川・堀尾家双方の親睦を記した
血判神文を受け取る。ここに堀尾吉晴は親徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。

そして堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。


さてそんな頃、宇喜多秀家はその家老、明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った

「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、太閤が薨去された後は
他の同僚たちの前もはばから憚らず、一心に内府の前に馬を繋いでおる!(家康に奉公しているという意味)

先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。

私はそれに全く同意できず、『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも御忠功だといわれるのか!?』
と言ってやった。その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、『誠に言われる通りである』
などと申していたよ。

今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大阪・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った!彼の将来は暗いであろう!」

この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。

当時の公家や寺社の日記に
『内府、天下殿になられ候。目出候。』『諸人大慶』などと書かれた家康の伏見入城。
この時の堀尾吉晴の行動と、それに対する宇喜多秀家の反応である。
831人間七七四年:2011/04/22(金) 19:51:14.40 ID:V9oXlp3h
この時点で徳川が豊臣にいずれ取って代わるって思ってた人ってどのくらいいるんだろ?
832人間七七四年:2011/04/22(金) 21:05:49.00 ID:aNSoQ4St
関白秀次が死んだ時点でもうみんなそう思ってたでしょ、後継者がいないんだもの
833人間七七四年:2011/04/22(金) 22:53:27.01 ID:qcyYrpiR
拾丸「やっぱり捨てられる運命にあったということね」
834人間七七四年:2011/04/23(土) 01:26:23.72 ID:Kc5eUpbs
これは酷いw

【映画】「水攻め」ふさわしくない…『のぼうの城』2012年秋に公開延期
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1303457557/
835人間七七四年:2011/04/23(土) 01:35:44.27 ID:eemyMtws
まーた無意味な自粛か
836人間七七四年:2011/04/23(土) 01:38:41.24 ID:xBK43fPU
スレをざっと見返しましたが、年会費500円は払わなくてよいと言うことでしょうか?
837人間七七四年:2011/04/23(土) 01:44:00.23 ID:xBK43fPU
すみまん、間違えました
838人間七七四年:2011/04/23(土) 01:59:44.93 ID:11hDcUnx
>>834
「水攻め」を仕掛ける石田三成を上地雄輔

完全にお蔵入りでいいよ
839人間七七四年:2011/04/23(土) 11:00:50.62 ID:/gQbt9uM
三成はもっと頭よさそうな奴使えよ・・・
840人間七七四年:2011/04/23(土) 11:26:48.52 ID:VvEiXdLe
城方が好きな俳優ばっかりなだけに、三成役知った時の落胆は酷かった

なんで律儀者の堅物をブンシャカにやらせるんだよ
841人間七七四年:2011/04/23(土) 11:33:10.99 ID:RZJ/CLY4
>>840
せっかくのぼう様を野村さんがするのに、最悪だよね
842人間七七四年:2011/04/23(土) 11:51:39.59 ID:KjvW7OM3
忍城攻めの失敗をあぁ三成(上地)じゃ仕方ないなぁ…って思わせる作成だろ
ワロエナイ…
843人間七七四年:2011/04/23(土) 13:21:57.87 ID:hc64dQdM
どーせ成田記の創作通り甲斐姫の無双(笑)も嬉々としてやるんだろうな
それでまた間違った三成像が広がるわけだ
844人間七七四年:2011/04/23(土) 14:03:13.97 ID:1xLNKN5+
しかし夜はラスボスに寝床無双される甲斐姫
845人間七七四年:2011/04/23(土) 14:15:39.29 ID:COMwgO6u
その結果、オヤジを大名にできたんだから転がされたのはどちらやら
846人間七七四年:2011/04/23(土) 15:27:27.44 ID:VvEiXdLe
>>843
あの作品は甲斐姫戦わないぞ
847人間七七四年:2011/04/23(土) 17:11:28.33 ID:DsufeG6B
吉野の花見
文禄3年(1594年)、秀吉は関白秀次、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら武将たち、公家、茶人、連歌師、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れた。しかし、運悪く秀吉が吉野山に入ってから3日間ずっと雨が降り続く。
これに腹を立てた秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と言い出したので、道澄があわてて吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じたところ、次の日は快晴となり、盛大な花見が行われた。

ついでに吉野の花見で詠んだ歌

豊臣秀吉 年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを今日見つるかな
  秀次 いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を今日こそは見れ
徳川家康 君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの限りあらじな
前田利家 千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の花を見るかな
伊達政宗 君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も色やそはまし

宇喜多秀家も歌を作ったらしいけど見つからなかった
848人間七七四年:2011/04/23(土) 18:50:56.49 ID:QTs71zTs
宇喜多騒動で主君宇喜多秀家と袂を分った宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安。
彼らは関ヶ原戦役が勃発すると、東軍に属し美濃にまで駆け上った。
と、ここで、旧主秀家が大垣まで出てきている、ということを知り、二人はすぐに
秀家のもとに使者を派遣した。
使者は二人の言葉を伝える

「御家の大事は今この時です。どうか内府公のお味方をしてください!
そう決意してくだされば我々はすぐに江戸までそのことを伝えるでしょう。」

これに秀家は激怒し、使者に言い放つ

「あの両名にこう伝えよ!私に降参しろと言うのは、お前たちに似合いの分別である!
たとえお前たち二人が我が陣に来て首を並べて諫言したとしても、
私は決して思い通りにはならない!
また、重ねて使者をよこすことも無用である!もしまたよこせば、不憫ではあるは
その使者の首を斬って捨てる!」

使者は急ぎ陣へと帰り、宇喜多詮家、戸川達安にこの事を報告した。
秀家の伝言を聞いた二人はしばし考え、そして使者の男に向かって

「すまないがその方、今回の合戦で天晴な討死をすると思って、再び秀家様の陣に
行ってほしい。そしてこう伝えるのだ

『秀家様の仰せには一理あるかと思います。ですが佞人である石田に従われて
御家を滅ぼされるのは、近来になく不本意なことです。
どうか、只々我ら両人に、その御身上をお任せください。』

これをお聴きいただけるまで、再三申し上げるのだ。」

使者は覚悟を決め、再び秀家の陣を訪れ、秀家のこの事を伝えた。

ところが秀家、今度は少しも怒ること無く、この使者を近くまで寄せ語りかける

「両人が昔のよしみから、二度も異見を言って来てくれることは嬉しい。
だが、八幡大菩薩もご照覧あれ、私が内府に属することはない。
この事をよくよく申し聞かせ、二人に承知させよ。
…これは汝に与える。」

と、この使者に刀を与え帰させた。

帰ってきた使者からこれを聞いた宇喜多詮家、戸川達安は、「この上は力及ばず」と、
秀家を説得することを諦めた、と言う。

この話は宇喜多秀家の領地であった備前の国人、吉村氏が語った事だそうだ。
(関ヶ原軍記大成)
849人間七七四年:2011/04/23(土) 19:14:51.73 ID:Zki/sycl
内府もこの時点で秀家に寝返られても迷惑だろうな
東軍の諸将に分け与える領地が減ってしまうから
ヘタすると合戦終了後毛利のように因縁つけられて改易食らうかもしれん
850人間七七四年:2011/04/23(土) 19:22:45.51 ID:hc64dQdM
>>846
そうなんか。ホッとしたわ
851人間七七四年:2011/04/23(土) 20:14:29.23 ID:d+RVSjSu
848>>
それ、ちょっといい話じゃね?
852人間七七四年:2011/04/23(土) 20:30:33.80 ID:X0H5tkue
秀家の聞き分けが悪い話?
853人間七七四年:2011/04/23(土) 20:36:21.24 ID:7OqboPtY
どんなグロイ処刑されるかと思ってたのに普通にいい話だった・・・
854人間七七四年:2011/04/23(土) 20:41:52.13 ID:cSwhQj+y
このあと、宇喜多詮家、戸川達安は二人とも宇喜多家を見限って出奔するんだっけか
主君も主君なら家臣も家臣で剛情だのう
855人間七七四年:2011/04/23(土) 21:10:50.92 ID:KjvW7OM3
関ヶ原前だから既に出ていってるんじゃないの?
856人間七七四年:2011/04/23(土) 21:13:04.33 ID:JFEwaJzc
まあ、泳ごうぜ!
857 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 :2011/04/23(土) 21:39:18.31 ID:CD2zk5HC
>>854
見限ってというか、喧嘩別れして出奔したけど、お家の大事を思えば放っておけなかった二人のいい話と、
武門の意地にかけて寝返りなどできなかったが、二人の赤心はちゃんと受け止めた秀家のいい話だな。

宇喜多氏って、坂崎とか滅んでるけど、旗本で残った家とかあるの?
858人間七七四年:2011/04/24(日) 00:07:47.15 ID:R33w7FLf
坂崎さんが、後に千姫強奪事件を起こすとはこの時誰も知らないのであった・・・
859人間七七四年:2011/04/24(日) 09:02:25.58 ID:Wfvtl/9r
>>857
戸川家、花房家、角南家等は存続してる
まあ肝心の御大将が流罪で生存してるから
元家臣団も他家に仕官なりして存続してる方が
多いんじゃないかな
860人間七七四年:2011/04/24(日) 10:51:05.93 ID:EP2Dgz5h
時代が戦国から外れてるかもしれないけど…黒田長政の息子の話
オカ板「日本史における不思議な出来事、奇談。」から転載


668 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:23:13 ID:LBTA/qBP0
福岡城の話

黒田長政の子の忠之のころ、家臣に明石四郎左衛門というものがいて
忠之に気に入られていた。妻はお綱という名だったが
嫉妬心が強く主人の帰りが遅いとやきもちを妬き、荒れ狂うことが多かった。

そんな折、忠之が参勤交代のときに大坂で見初めた芸妓を
福岡につれて帰ったものの家老に諌められ、結局明石に下げ渡した。
明石も殿様の命とあっては断るには行かなかったので第二夫人とした。
そして明石は芸妓の美しさにのめり込んでいった。
そして、第二夫人が本宅にあがり、本妻のお綱が子供二人と下人とともに
下屋敷に移された。そして、本宅は毎日酒宴を挙げているにもかかわらず
仕送りも滞っていki
屋敷も荒れて下人もいなくなっていった。

ある年の端午の節句の日にせめて雛祭りはと残っていた下人を使わしたが
明石は「すでに絶縁」と取り合わず、下人は奥方を合わせる顔が無く、
また哀れに思い、そして主人に絶望し、首を吊った。



670 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:24:12 ID:LBTA/qBP0
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を殺して、
腰に子供の首を入れた風呂敷を巻き、夜の街を本宅に向かった。

しかし、明石は留守で城にいて第二夫人しかいなかったので
第二夫人に斬りかかったが、果たせず留守を預かっていた浪人の浅野というものに
斬られ、眉間と腕を斬られた。
それでも明石のいる城に向かって進んだが城の東御門のところで
門が閉まっていたため土塀に飛びついたところで絶命した。

明石はその一年後熱病で死に、浅野はある時、盗人の疑いをかけられて処刑された
その絶命した東御門はお綱門と呼ばれ、現在は無いが触ると熱病にうなされるうわさが絶えなかった
そしてお綱と子供を供養する祠が建てられた。

福岡城は廃藩置県後多くが取り壊されたが、お綱門は祟るのを恐れ供養した場所に移した。
しかし空襲によって焼失してしまった。

現在その地点には家庭裁判所が建つが昭和のある時
その裁判所で離婚の調停をしていた夫婦がいたが
急に夫が妻を殺害する事件がおきた。因縁めいた事件としかいいようがない
861人間七七四年:2011/04/24(日) 11:20:02.22 ID:bmJQVJP7
浅野さんとんだとばっちり
862人間七七四年:2011/04/24(日) 14:02:27.95 ID:vsR9dYsw
浅野、浪人、因縁話で思いついた

「足利が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
という名門の、今川義元が信長配下の服部小平太と毛利新助に討たれた50年余り後
義元公を弔うため、義元の孫、門庵宗関によって泉岳寺が建立された。
元禄に入って今川の本家筋の吉良義央を殺した義士たちが泉岳寺に葬られることになるが、
この赤穂浪士、もう少しで四十八士になるはずであった。
最後の脱盟者の名前は「毛利小平太元義」という、服部小平太、毛利新助を
一緒にして義元をひっくりかえしたような名前である。
毛利小平太の脱盟の理由は不明であり、様々に憶測がなされているが
まさか、こんな名前のやつを泉岳寺に葬りたくないという義元公の怨念が
863人間七七四年:2011/04/24(日) 14:16:07.51 ID:2eSJY0CX
アメリカ軍兵器による阪神大震災、東北太平洋沖地震、原子爆弾を使った人工地震・津波

アメリカ産牛肉拒否で、宮崎県に鳥インフルエンザ、福島原発爆破、

遺伝子組み換え食品、TPP加入で農業・医療・漁業が崩壊、米国債購入

郵便貯金がアメリカに流出、小渕総理暗殺、小泉総理レイプ 

子宮頸がんワクチンで人口削減、アフリカでエイズ菌、インフルエンザ・ワクチンに水銀 

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/

864人間七七四年:2011/04/24(日) 15:48:20.48 ID:vsR9dYsw
って調べてみたら吉良義央って今川氏真の玄孫だったんだな
ますます泉岳寺に葬ってよかったんだろうか
865人間七七四年:2011/04/24(日) 15:59:36.58 ID:PzyMXXmf
慶長4年(1599)、大阪での市街戦にまで発展しかけた宇喜多騒動。
これにより宇喜多家から宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安、岡越前守、花房正成といった
多くの有力家臣が出奔。宇喜多の威勢は大きく減退したという。

さてその頃、京大阪ではこのような狂歌が広まったそうだ。曰く

『 われて後 つがれぬ物は備前鉢 つかふものにも用心をせよ 』

つまり、「一旦関係が悪くなればもはや修復できないのが備前を領有している宇喜多家である。
宇喜多の武士は自分たちを使っている宇喜多秀家に用心をせよ。」と言う意味を込めている。

そんな、宇喜多騒動への庶民の反応である。
866人間七七四年:2011/04/24(日) 16:57:35.51 ID:xvelVM71
直家時代を考えると本当に悲しくなるな
867人間七七四年:2011/04/24(日) 18:13:36.90 ID:4ai3Vkfb
直家の時の恐怖政治の反動が出たんじゃね
あんな恐ろしい主君に仕えた後じゃ、穏和な秀家をなめきってもおかしくない
868人間七七四年:2011/04/24(日) 18:18:37.52 ID:l6fjEoYG
領主としての秀家は割と残念
869人間七七四年:2011/04/24(日) 18:55:03.01 ID:xDvUGg8V
>>867
直家は主家や同僚に対してはえげつないが
家臣に対しては普通にいい殿様だぞ

離反した家臣は直家が苦しい時代を支えたいわゆる譜代格が多いから
家臣は国元を顧みない秀家がはがゆく、秀家はうるさく諫言してくる国元家臣がうとましい
それが積もり積もって爆発したのが宇喜多騒動
870 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 :2011/04/24(日) 19:18:37.95 ID:OrbDoNVM
中央集権化を進めようとした藩は多かれ少かれ家臣団と対立してるからね。
宇喜多の場合はそのための官僚団を前田家から来た連中中心に上方で組織しようとしたり、
キリスト教問題が絡んだりしたので、対立の落としどころが無くなって爆発したんでしょう。

仙台伊達藩なんて江戸時代になっても中央集権化できなくて、やろうとしたら伊達騒動で
挫折。結局、幕末まで寄り合い所帯で、意思決定が不十分なまま戊辰でグダグダになる。
871人間七七四年:2011/04/24(日) 21:09:01.56 ID:Q3nTHzMJ
>>869
策謀に使った家臣を外聞気にして使い捨てたりしないで功績に応じて厚く報いるあたり家臣にはいい殿だよな

弟者のあれは娘婿たちの扱い見てればある意味当然の警戒だしw
872人間七七四年:2011/04/24(日) 23:25:04.68 ID:iSxkNBar
つーか「いい殿様」じゃないと生き残れないのが戦国
873人間七七四年:2011/04/24(日) 23:27:03.85 ID:MCS/5IRz
>>872
鬼武蔵「喧嘩売ってるのか?」
874人間七七四年:2011/04/24(日) 23:32:52.87 ID:CbktiT65
武蔵さんも家臣と仲良くやっていた印象がある
上司とも上手くやっていたし
875人間七七四年:2011/04/24(日) 23:37:33.98 ID:mAAFPpRv
家臣が付いて行けなくて生き残れなかった殿の典型が越前の狂犬こと富田長繁さん。

876人間七七四年:2011/04/25(月) 01:29:20.91 ID:SgQwcPxl
直家さんの暗殺劇を最後まで読むと直家さんSUGEEE!これ直家さんのいい話じゃねえの?
という錯覚に陥ってしまう
でも部下が離反したって話聞かないし人望はあるんだよね
877人間七七四年:2011/04/25(月) 01:32:32.55 ID:tYpyMkn6
伊賀家久は離反してるけども。
878人間七七四年:2011/04/25(月) 04:56:40.74 ID:oTYnaTzd
>>870
一方、宇和島では当初仙台から派遣された家老を粛清したりとかなり
あららだったものの、それ以降は比較的安定した治世。さらには幕末の
宗城によって仙台藩を上回る格を得たわけだしなぁ。
879人間七七四年:2011/04/25(月) 05:13:09.42 ID:/soD1RoG
拾い物

「甲冑は大切」

小田切所左衛門と言えば武田家などに仕え、小牧長久手の合戦において上半身裸で
槍合わせをしたことなど、当時有名な勇者であり、後には斉藤伊豆入道道仁などと名乗った。

さてこの小田切、大坂の役の頃は前田家に仕え、冬の陣では真田丸攻めに加わっていた。

ある時、真田丸より前田軍に向かって、一斉射撃が行われた。すると…

小田切「ん…?」
同僚「おや小田切殿、どうかいたしたか?」
小田切「さっきの射撃の弾が、頬に当たった」
同僚「!?」

小田切、表情も変えずに頬から銃弾をほじくり出した

「ほらこれだ、全く危ないところだった」

いやいやいや、危ないとかじゃなくて当たっているだろ!?
唖然とした同僚たちにその弾丸を見せていたとき…

ドドドドド

再び真田丸より射撃!その瞬間小田切の眉間から、血が流れた!
またも銃撃が当たったのだ!しかも眉間に!!

青ざめる同僚たち!…が、小田切はまたもや、何でも無いような顔をして手を頭にやると、
額から弾丸をほじくり出し

「あーあ、また当たっちゃったよ。こういう事があるから甲冑って大切なんだよね。
そうそう、俺が今つけてる鎧って武田信玄から頂いたものでさ…」

いやいやいやいやいや、甲冑関係ないところにあたっているだろ!
しかも何あさっての方向の自慢話をしているんだ!?
前田家の同僚たち、すっかり呆れ返っていたとか。

そんな小田切所左衛門さんからの教訓
「甲冑は大切」

裸で合戦に出たり頭で銃弾受け止めている人が言っているんだから間違いはないのだ。

多分。
880人間七七四年:2011/04/25(月) 05:29:59.61 ID:yGzzWVh1
丸ごとコピペとかw
881人間七七四年:2011/04/25(月) 07:14:04.72 ID:hR1yY4oa
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3550.html
もともと戦国ちょっといい悪いスレに載ってた逸話じゃね
882人間七七四年:2011/04/25(月) 07:15:21.74 ID:Z3HDXJ04
鬼武蔵を超えたなw
883人間七七四年:2011/04/25(月) 07:17:31.64 ID:UprIfcwy
2chに掲載

まとめに載る

まとめからコピペ

それを2chにコピペ
884人間七七四年:2011/04/25(月) 08:06:19.77 ID:jyyYc5Qs
子供や孫に聞かせるもんだぜ
885人間七七四年:2011/04/25(月) 10:44:36.87 ID:UGT+y8F2
いとすさまじきコピペなり
886人間七七四年:2011/04/25(月) 10:57:14.76 ID:qfjuw+jh
この連環断ち切るためにはコピペを見つけたらさくざに薪を積んでもらって焼き払うしか
887人間七七四年:2011/04/25(月) 11:43:14.89 ID:AvtNkD9B
伊達政宗が捨てた側室の逸話読んだ事あるんだけど誰か知らない?
史跡?があったはずだけど見つからない
888人間七七四年:2011/04/25(月) 12:51:05.70 ID:zua8Iqqv
さすが素肌攻めの武田軍だ 鉄砲なんか糞の役にも立ちません
889人間七七四年:2011/04/25(月) 13:25:50.76 ID:cMHDlFbE
鬼武蔵さんにも見習って欲しかった。
890人間七七四年:2011/04/25(月) 14:11:14.73 ID:EfSAamuc
891人間七七四年:2011/04/25(月) 15:27:44.55 ID:VPpr3lq7
素股攻めに見えた
892人間七七四年:2011/04/25(月) 18:43:34.09 ID:8rCsm7Fy
>>891
男色大名信玄スレの読みすぎだ
893人間七七四年:2011/04/25(月) 20:33:49.11 ID:vx54mBRV
お前は蘭丸タンの尻穴スレの見過ぎだ
894人間七七四年:2011/04/25(月) 21:13:47.72 ID:EpID9H7O
素股一夜城
895人間七七四年:2011/04/25(月) 21:59:49.24 ID:TVD1apmj
政宗の奇行って、「幕府を油断させる為に演じてたらしい」っていうフォローが入るけど。

いくら演じてたとしても、一連のネタを思い付いて自ら実行する時点でド変人だよな……。
他の藩も幕府対策で色々気遣ってただろうけど、マー君レベルの話は聞かないし。
896人間七七四年:2011/04/25(月) 22:33:47.32 ID:vCIje9W4
他の人は玉金見せたり鼻毛伸ばしたり程度だもんね
897人間七七四年:2011/04/26(火) 01:15:11.19 ID:lWG+cK3W
政宗は素だと思う
898人間七七四年:2011/04/26(火) 02:18:34.08 ID:lHirbPW4
デフォルトで芝居っ気の強いひとっぽいんだよなあ>まーくん
899人間七七四年:2011/04/26(火) 02:50:37.33 ID:vmzQ2tKC
黄門さまの墓は無事 茨城の水戸徳川家墓所
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/504110/
900人間七七四年:2011/04/26(火) 18:09:24.73 ID:k9YNINIQ
やってる俺カッコいいだけでやってる馬鹿と他を比べたら可哀想
901人間七七四年:2011/04/26(火) 18:21:03.62 ID:43WRRULe
さて慶長5年(1600)、徳川家康は会津上杉景勝征伐を宣言した。関ヶ原戦役の始まりである。

これを聞いていち早く、家康のある大阪城西の丸にやってきたのは、誰あろう伊達政宗である。
政宗は家康に申し上げる

「私の領地は会津と国境を接しています。でありますから、景勝が我らの隙を伺い、
我が領地に攻め入って来る可能性も排除できません。
そのためお暇を給わって、一足先に国元に下り、防戦の下知をしたいのです。」

家康はこれを聞いて頷き
「貴殿の申されるところ尤もである。我々より先に領地へ下向されるが良かろう。
が、そうは言っても景勝は非常に大敵である。貴殿の方から手出しすること、絶対に
無用であるぞ。」

と注意をする。ところが政宗これに

「仰せに背くようでいかがかと思いますが。せっかく此の様な機会が到来したのです。
いま敵の領地を切り取らなくては、どうして大名に成れましょうか!?」

これを聞いて家康、笑って

「そんな簡単に自分の心中を明かしてどうする。領地を守ると言って我々より先に馳下り、
景勝の領内に軍勢を出したいのだな。
しかし貴殿に限らず、今回功ある者には思い恩賞を与えると約束しておる。
下知を待ってその上で、軍功を立てるべきだ。」

だが政宗納得しない
「今回の会津征伐の御恩賞は、景勝が滅びた後に行われるものでしょう。ですがもし我らが
攻め入る前に前に景勝が降参を申し込んできたらどうなるでしょうか?
宝の山に入って、空しく帰るとはこの事です。

わたしは一日も早く領地に帰り、敵の虚実を調べ上げ、景勝の領地を削り取って茶代の
足しにでもしたいと思っているのです!」

この政宗の露骨な発言には、さすがの家康も大笑いし、

「ただし、返す返すも越度があってはならんぞ?」

と政宗に暇を与え、帰国を許した。
政宗はこれに大喜びで6月14日には早速大阪を発ち、領地大崎へと馳せ下ったという。


伊達政宗、家康から帰国の許しを得る、と言うお話。
902人間七七四年:2011/04/26(火) 20:08:52.11 ID:vChgOmtK
まぁ君と工場長や三斎さんの仲は有名だけど、景勝さんとまぁ君の間になんか逸話あったっけ?
903人間七七四年:2011/04/26(火) 20:32:04.66 ID:k9YNINIQ
景勝『…』

904人間七七四年:2011/04/26(火) 20:59:04.50 ID:IsrgRTRE
直江津(通訳)
長谷堂城に兵を進めよ
905人間七七四年:2011/04/26(火) 21:11:23.91 ID:ET8Aevmk
御館の乱の時に景虎を裏で支援してたり
「もうダメかもしれんね」な手紙出す程度に親密な佐竹と険悪になったり
あと成金趣味的に不浄な小判を触らせようとしてたり

政宗「そんな事はどうでもよい。米沢返せ白石返せ仙道会津も元々俺のモノ」
906人間七七四年:2011/04/26(火) 22:00:12.63 ID:O/T/UMug
御館の乱、政宗も一枚噛んでたのか。初耳だ
907人間七七四年:2011/04/26(火) 22:12:09.76 ID:ET8Aevmk
いや輝宗の代だけど家同士の因縁て意味でね
少なくとも上杉は伊達に対して好感抱いてる様子は無いねぇ
908人間七七四年:2011/04/26(火) 22:24:07.77 ID:HsCmmE8P
909人間七七四年:2011/04/26(火) 22:43:52.16 ID:sDtuedUm
対芦名で友好関係持ってたりしたし関が原以降は秀忠指揮下で纏まって行動してたり
基本は悪くはないと思う。この時期のごたごたは武門のならいって感じで後をひいてはなさそう
直江の性格悪い話は創作くさいのが大半だし・・まあ作り話にしても性格悪い話ばっか残ってるから
実際性格悪いと認識されてたんだろうが
910人間七七四年:2011/04/26(火) 23:20:02.60 ID:Z+hZpe2D
上杉を滅亡寸前に追い込んだ大奸臣、扱いなんじゃなかたっけ。鷹山までは>直江
911人間七七四年:2011/04/26(火) 23:30:16.27 ID:PHdeeas0
関ヶ原前も、旧領回復を狙った伊達は上杉領で放火したりちょっかいをいろいろ出している。
いい関係だったとは考えにくい。
912人間七七四年:2011/04/27(水) 11:27:10.05 ID:LuWFFwc+
家としての関係はあまり良くなかったらしいけど
景勝と政宗個人はそれほど相性が悪くなかったと聞く
茶会で談笑する逸話を聞いたような気がするんだが
913人間七七四年:2011/04/27(水) 11:29:35.82 ID:j60LskOh
そもそも隣り合った家同士が仲いいことは少ない
914人間七七四年:2011/04/27(水) 14:20:33.74 ID:/6n4eE/z
血縁ですら仲悪いことが多いのに
915人間七七四年:2011/04/27(水) 15:31:21.70 ID:vTsVBAVO
そういえば俺も隣人とはあまり仲良くない
さすがに火はつけないが
916人間七七四年:2011/04/27(水) 15:50:43.92 ID:qR/XemQ0
景勝が談笑とか悪いものでも食ったのかよ
917人間七七四年:2011/04/27(水) 17:14:38.69 ID:OvhAETPe
景勝は通訳無しに喋れるのかよ
918人間七七四年:2011/04/27(水) 17:19:45.33 ID:VNKZMQ1P
政宗と景勝でほのぼのとした茶会の話というと
これくらいしか見つからなかった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
919人間七七四年:2011/04/27(水) 18:20:42.40 ID:rXIWWV+O
ほのぼの…?
920人間七七四年:2011/04/27(水) 22:46:52.47 ID:VEjn/6VZ
そういえば景勝の仲いい大名って思い浮かばない。
ある程度親しそうなのって武田勝頼くらいなイメージ。
江戸期に入ってからとか何か逸話ないの?
921人間七七四年:2011/04/27(水) 22:53:38.11 ID:E14yZH1v
結城秀康が景勝を尊敬していたらしい、ってくらいかね?
922人間七七四年:2011/04/28(木) 07:37:39.23 ID:McVCEMav
景勝さんは周囲と壁をつくるタイプ、知らないけど絶対そう!
人間的にも尊敬できるし仕事もできるけど、
自分のこと自ら話さないしこっちからも聞ける雰囲気にならない!!!!
923人間七七四年:2011/04/28(木) 07:52:49.73 ID:qVFaz9Z5
コミュニケーション障害という
924人間七七四年:2011/04/28(木) 09:49:40.51 ID:qdPnAHiC
>>923
  …  …
925人間七七四年:2011/04/28(木) 14:37:03.49 ID:I9yOF2kc
全部直江がやってくれるからな
926人間七七四年:2011/04/28(木) 14:59:56.65 ID:8o7QlesL
景勝に話しかけたと思ったら直江が喋りだす
そんなイメージ
927人間七七四年:2011/04/28(木) 17:02:51.46 ID:I06mgyTV
>>920
佐竹義宣
928人間七七四年:2011/04/28(木) 21:43:34.72 ID:zy7cVV7d
>>927
決して「仲良く」はないな
929人間七七四年:2011/04/28(木) 22:22:45.65 ID:og69T39t
仲良いとは違えど、真田家とは比較的良い雰囲気出してたはず。特に昌幸・信繁と>景勝
930人間七七四年:2011/04/29(金) 00:03:12.04 ID:WiHL9vWD
真田と上杉で思い出した話

天正11年(1583年)真田昌幸は新たなる本拠として上田城の建設に着手した。
この城は真田家だけでなく、この頃真田家の主家であった徳川家にとっても重要な城だった。
上田城が建設された小県郡は徳川配下の真田領であったものの、その北西の埴科郡は上家杉に支配されており
徳川領北部の拠点となる城が必要だったのである。
よって上田城の築城には徳川家からも積極的な支援が行われ、総構えを備えた最新鋭の城郭が作られていった。

状況が変わったのは天正13年(1585年)のことである。
徳川家と北条家の講和の条件であった沼田領と佐久郡の交換を昌幸が拒否し上杉家に寝返ったのである。
このために上田合戦が起き、昌幸は未完成であった上田城に籠って戦うこととなったが、なんとか撃退する。

さてこの後も上田城の築城は上杉家の支援を得て続いていくが 
徳川家の北方拠点から上杉家の南方拠点となった上田城は大規模な変更が加えられた。
大手門の位置が埴科郡がある城の西から徳川領となった佐久郡の方向である東へ180度逆になったのである。

上田城には表裏比興の者の遍歴が表れているのだ。
931人間七七四年:2011/04/29(金) 01:52:33.60 ID:MooKV/mQ
あるとき、関白秀吉の大坂城に一人の若者が2〜30人の武士を従えて訪れた。
彼は伊勢国からやってきた、関白の実の兄弟であると自称し、彼を知る人はみなその通りだと確言していたという。
関白秀吉は下賤の出で、親族も農業・漁業などを生業としていた。
秀吉が位を極め関白に就くと、姉の子や北政所の親族など、次々に取り立てられていったので、おそらくはそれに肖ろうとしたものだろう。
さて秀吉は、若者が自分を訪ねてきたことを知ると、大層気分を害した様子で大政所に問い質した。
「あの男を、息子として知っているのか。息子として認めるのか」
その問いに大政所は、若者を息子として認知することを恥じて、そんな男は知らない、生んだ覚えはないと言った。
秀吉は母が言い終わらぬうちに、件の若者を従者共々捕縛し、自らの面前で斬首した。
彼らの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。

その3〜4ヶ月後、秀吉は尾張に他にも姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。
そこで秀吉はその女に、姉妹として相応の待遇をするので都に来るようにと言った。
女は思いがけぬ幸運に喜び、できる限りの用意をし、身内の女性何人かを連れて都に登った。
しかし、入京すると女はただちに捕縛され、同行の女性たちともども斬首された。
これは秀吉が己の血統が賤しいことを打ち消そうとしたからだ、という。

フロイス日本史より、真偽不明らしいけど秀吉の兄弟姉妹の話。
932人間七七四年:2011/04/29(金) 06:43:33.47 ID:+91C7Tge
>>931
本当に秀吉の血族なら惜しい事したな
斬首も人間性見た上にすればよかったのにもしかしたら秀頼の後見してくれて
大坂の陣は無かったかもしれん
933人間七七四年:2011/04/29(金) 08:17:38.14 ID:zADY7oui
ホントに身内ならもっと早い時期に登場してしかるべきじゃないか?
934人間七七四年:2011/04/29(金) 08:24:36.28 ID:Fd+75hm5
ちょっとうさんくせぇ
秀吉は結局、貧しい農家の出じゃなくって
織田家に代々と足軽出してた名家って説が強いんじゃなかった?
935人間七七四年:2011/04/29(金) 08:32:04.51 ID:PCnNMvEP
百姓は百姓でもある程度は安定した身分なんじゃないかって言われてるな。
936人間七七四年:2011/04/29(金) 08:39:07.95 ID:ShZ75Z1+
足軽の名家って矛盾してないか?w
937 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 :2011/04/29(金) 08:39:29.88 ID:hVnQtjYj
つか、完璧に百姓の嫁だった姉ちゃんの朝日姫もちゃんと引き立ててるからね。
遠縁の親族とかならまだしもその時点で今更兄弟が新しく出てくるってのはどう考えてもおかしい。
938人間七七四年:2011/04/29(金) 09:19:56.37 ID:WiHL9vWD
>>933
兄弟は兄弟でも実は異母弟だったとか。

大政所の親戚は遠縁でも清正や正則のように取り立てられたのに
父親の親戚が取り立てられた話は聞かない。
939人間七七四年:2011/04/29(金) 09:26:26.80 ID:dKG3VviG
大政所の身持ちが悪い話ですね
940人間七七四年:2011/04/29(金) 12:25:12.78 ID:Of0rP+7R
普通に騙りを取り締まった話に思える
941人間七七四年:2011/04/29(金) 12:45:41.50 ID:MKvQY5RL
>>934
名家ならもっと一族郎党いるだろうに
942人間七七四年:2011/04/29(金) 13:00:11.13 ID:iwPE9pse
>>940の言うとおりだな
本当に血縁を隠すつもりなら、さらし者にして公開したりしない
第三者に殺害させて転がせば隠蔽終了なんだから
フロイスの日本史は本人の体験談以外は流言飛語集だと思うし
943人間七七四年:2011/04/29(金) 13:29:55.53 ID:AJYDvRWF
とある人間が一躍有名になり、知らない親戚や友達が増えたって言ってるのと同じなんだろ。
944人間七七四年:2011/04/29(金) 15:42:09.22 ID:htKfTGSP
百姓の名家つっても別に普通に存在するだろ。
武士だってそこから生えてきた連中も多量に含んでるし。
945人間七七四年:2011/04/29(金) 16:09:34.27 ID:Fn0O6ZbT
武士なんて最初は自分の土地を他人に取られない
ように武装した農民だし
だから土地には愛着がある
946人間七七四年:2011/04/29(金) 16:27:38.21 ID:p7KVeb0e
>>945
> 武士なんて最初は自分の土地を他人に取られない
> ように武装した農民だし

それは間違い。武士は元々、朝廷の武官、軍事機構の職員だったのが在地化した物。
武士の「在地化」というのは案外遅く、鎌倉時代中〜末期だったとされる。

現代社会で市民が武器をとったところで、それが軍隊にはならないのと同じように、
農民が武器を持ったところで、「武士」にはならんのだ。
947人間七七四年:2011/04/29(金) 17:08:41.32 ID:6S7LDyF3
支配階級としての武士じゃなくて単に武装戦闘者である侍のことだろう
朗党とか家の子、いわゆる地侍と形容される階層は武装した農民が元なんじゃないの
948人間七七四年:2011/04/29(金) 17:10:08.04 ID:UbeuMuZj
ちなみにフロイス『日本史』のどこに載ってるの?秀吉が賤しいだの
不品行だのは散々見たけど、それは見逃してたかな?
949人間七七四年:2011/04/29(金) 17:29:43.21 ID:wFm5oINr
>>946

>それは間違い。武士は元々、朝廷の武官、軍事機構の職員だったのが在地化した物。

そういう例があったかもしれんが、普通は逆だろ
荘園とかを中央の大貴族に寄進して後ろ盾になってもらい
税金免除してもらって、そのつながりで護衛として序々に中央進出

一般論だと平安時代が武士の起源
950人間七七四年:2011/04/29(金) 17:38:34.40 ID:xbITXqQX
>>949
普通は逆じゃね?
中央から派遣された武装荘園管理人が武士の起源だろ
951人間七七四年:2011/04/29(金) 17:40:30.61 ID:UbeuMuZj
>>949
>>950
それぞれの具体例を挙げれば済むのでは?
952人間七七四年:2011/04/29(金) 17:40:46.31 ID:ShZ75Z1+
946はそう言う見方もあるという程度で流しておくと吉
953人間七七四年:2011/04/29(金) 18:18:15.30 ID:dKG3VviG
>>952の言う通り。
>>946は典型的な『武士=軍事貴族説』。
この派閥に属さない学者からは、揶揄して『武士=職能殺人者説』と呼ばれる。
典型的には野口実、高橋昌明。

職能武士論者に言わせれば、昔ながらの『武士=武装農場主説』や、大御所五味文彦の『二つの武士論』は、
「高橋昌明らによって30年以上前に完全に論破された!!」ということだが、
はっきり言って一部のお仲間以外にはあまり受け入れられてないw
954人間七七四年:2011/04/29(金) 19:28:04.26 ID:p4PkqQie
しいていうなら「双方向からの武士化への動きがあった」というところじゃね
955人間七七四年:2011/04/29(金) 20:09:13.48 ID:htKfTGSP
>>950
京都から何万人下向して来たんだよw
956人間七七四年:2011/04/29(金) 23:18:25.44 ID:3FCnEGQj
>>954
そういう事だね
957人間七七四年:2011/04/30(土) 01:27:18.02 ID:1Uup/6jv
中央から来て土着した武家貴族の代表格っていうと、佐々木や赤松か?
958人間七七四年:2011/04/30(土) 01:43:40.67 ID:/9c9Auu7
天皇家の次男、三男が、皇族から家臣に格下げして、それが源氏・平家としての武士が誕生する。
頼朝も天皇家の子孫。
959人間七七四年:2011/04/30(土) 10:14:24.78 ID:CJR4Owel
「天皇家」なんて中卒っぽい言葉使わんで、ちゃんと「皇室」って言え。
960人間七七四年:2011/04/30(土) 10:27:30.03 ID:w1GQl62w
958は間違っちゃいないw
軍事貴族説論者には、全時代のマルクス歴史学者の遺物が多いからな。
両者は相性がいい
961人間七七四年:2011/04/30(土) 10:32:30.60 ID:Vb/lN7H7
>>957
島津も実際に薩摩に定住したのは3代目からで、初代は京や鎌倉にいた方が多かったみたいね
962人間七七四年:2011/04/30(土) 10:38:48.73 ID:7bQaAxsV
九州の守護は大概そうじゃねーか?
963人間七七四年:2011/04/30(土) 13:27:26.80 ID:lhgZEG+T
武士の起源は2通り、と解釈すれば良いのかな
比較的上級な、守護や地頭クラスの武士に軍事貴族層出身が多く、
比較的下級の武士に荘園警備員/武装農民層出身が多かったと。

時代が進むにつれて両者が混合して行って、
今起源についての話が混乱していると。
964人間七七四年:2011/04/30(土) 17:54:57.67 ID:lTPPRWRl
天正18年(1590)の小田原の役によって、常陸の佐竹氏は外敵からの驚異からは解放された。
が、そうなると今度は内部の問題が出てくる。佐竹氏の内部には、南方三十三館と呼ばれる
半独立の強力な国人集団があったためだ。佐竹氏はこのときは未だ、国人集団の盟主に
過ぎなかった。

君主権の確立を目指す佐竹義宣は、この状況を脱するため今まで以上に豊臣政権に近づく。
小田原の役の後、いち早く伏見に屋敷を作りここに妻子を置いて秀吉を大いに喜ばせ、
また秀吉側近、石田三成に接近し懇意となった。

さて、そんなある時佐竹義宣が秀吉の御前に出ることがあった。そこには石田三成の姿もあった。
参上した人々に秀吉が声をかけ、物語などが始まると、三成は秀吉に向かって申し上げる

「殿下(秀吉)は未だお知りにならないのでしょうか?殿下は常陸の国のこと、
そこに居る佐竹義宣の下知に任せると、既に御教書まで下し置かれました。

ところがどうでしょう、常陸の国人達は一向に佐竹の下知に従わないと聞き及んでいます。
これはつまり、殿下の仰せを侮っているということです。

このような状況であるのに、なおご寛大に彼らを許していては、殿下の命に違反する輩、
日々各国に出てくることでしょう。ここはどうしても、何らかの処分が必要です。」

これに秀吉はみるみる期限が悪くなり、

「三成、お前の言うところ道理がある。佐竹義宣!お前の下知に従わない連中には、
わしの許可を得るまでもない、自らの手で処分せよ!」

と、佐竹義宣に申し付けた。

義宣は当然ながらこれに大いに喜び、早速帰国すると天正19年(1591年)2月9日、
南方三十三館を花見と偽り常陸太田城に呼び寄せ、そこで皆殺しにした。
(藩翰譜)

佐竹氏による南方三十三館仕置までの過程である。
965人間七七四年:2011/04/30(土) 20:53:42.59 ID:bQ7Nfhd3
驚異、期限
966人間七七四年:2011/05/01(日) 02:28:06.68 ID:/R0GgsjY
>>963
大和以前からの地方豪族はどっちに入るのかのう
967人間七七四年:2011/05/01(日) 02:36:45.00 ID:Zdf/dG/4
こいつの地元はいわき市で東電からの献金もかなりありそう
968人間七七四年:2011/05/01(日) 02:45:49.82 ID:ncA/g3Hx
>>963
まとめ乙。偶に議論が発展していくこのスレ好きだわ。
969人間七七四年:2011/05/01(日) 02:52:16.25 ID:heuk8b7p
上級武士→国会議員下級武士→市議会議員
みたいな感じで把握しといていいの?
970人間七七四年:2011/05/01(日) 08:31:48.85 ID:ykCTw3hD
ダメ!
971人間七七四年:2011/05/01(日) 15:06:39.82 ID:S23UAFMY
武田スレで話題が出たので思い出したが、調べてみたら既出じゃなかったので。

一条信龍シリーズ番外編

概要
一条信龍は甲州南部・市川荘のあたりをとりまとめ、甲斐上野に居城を構えた信玄の弟である。
甲信に比類無い、大変な傾きものである一方、山県が褒めるほどの武将であり(長篠でも親類衆一の奮戦)、
また連歌にも通じた文化人であり、鷹狩りや弓合わせも好んだ数寄者でもあった(アッーの方は不詳)。

さて本題。
その一条信龍の侍に、堀越十郎家宣という能の名人がいた。
信龍はこの十郎を特に可愛がり、あらゆる場に同席させて一差し舞わせることが度々であった。
信玄も大変十郎の能を気に入り、名馬や城と交換にまでして直臣に取り立てようとしたが、信龍はことごとく断ってしまった。

武田没落の折り、信龍とその一族は全滅したが、堀越は北条に身を寄せ、さらにその没落後は町人となったという。
その子海老蔵は十四歳で旧領の市川から「市川段十郎」と名乗り、江戸一番の役者となった。
これが現在まで続く歌舞伎一家・市川家である。ちなみに、現在の市川團十郎の本名は堀越夏雄という。

余談
このよしみで、市川上野(甲斐上野)城は屋内を歌舞伎博物館として復元され、立派な天守が甲斐の丘陵に美しく聳えている。
周辺には団十郎に関わる石碑や銅像が立てられており、歴史的な文物の紹介や保存、里帰りが急ピッチで進んでいるという。


・・・・・というのは、「さて本題」から「余談」まで真っ赤な嘘である。私の嘘ではなくて、市川家と三珠町のついている嘘である。
歌舞伎博物館も、あれは本当に酷い。武田の城に天守なぞあるわけもないが、かなりの山梨の人間が信じてしまっているらしい。

そもそも市川上野城は、発掘調査によれば、現在「復元」されているような曲輪のある丘城ではなく、もっと奥まった山城だったという。
もともと館と神社などが防御施設も兼ねていたという天然の砦だったが、信虎期になると一族の武田正信を入れて整備させた。
小山田と今川の脅威に対抗するため、堀を作り、その土を斜面に盛って櫓を構え、垣を巡らして、福島正成の侵攻などに抵抗した。
信龍の時代になると、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5236.htmlの逸話にあるように、増築して多少立派にしたのは確かだが、
やはり実態は砦と砦を連ねた防衛線の中に、大きな館が一つ二つあるというもので、山城の域を出るものではない。

歌舞伎の町、美しき椿城の町として宣伝したい三珠町と、発祥を歴史の盲点の人物に求める市川家が協力してやっているのだろうか。
(なお上野椿城は市川上野城とは全く別の城であるお粗末さ。)まとまってないが、歴史を改変して利益を計る人や団体の嫌な話。
972人間七七四年:2011/05/01(日) 19:53:52.66 ID:s6SEHbzx
釣られた・・・クヤシイ
973人間七七四年:2011/05/01(日) 21:00:16.01 ID:MjweZdAa
ビクンビクン
974人間七七四年:2011/05/01(日) 21:17:44.55 ID:ANTFpcoj
>>971
> 武田の城に天守なぞあるわけもないが
穴山梅雪の駿河での居城、江尻城に、信長の安土城以前に
「観国楼」という天守があったという記録が一応ある。

まあ名称からして、天守というより高櫓の一種のような感じがするがw
975人間七七四年:2011/05/01(日) 22:07:48.49 ID:nTaZve+o
高櫓が高増に見える
976人間七七四年:2011/05/01(日) 23:18:30.15 ID:8RyvYDu7
高増暗躍

那須家分裂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5047.html
↑に関する話。


主君那須資胤に処断されそうになった高増は佐竹義重に助けを求めた・・・というのが大筋の流れであるが、
それ以降の高増は驚くほどの迅速さで資胤陣営の調略による切り崩しにかかった。


まずは那須七騎の内、大関・大田原に工作の必要はない。
福原家はかつて資胤の弟である資郷が入っていたが、資胤の那須家督相続時に資郷が森田氏に入嗣したので、高増の弟資孝を滑り込ませる事に成功しており、
まだ日が浅く資郷派も残っていたので掌握は完全ではなかったが、福原家はこの戦いで資郷派と資孝派に分裂した。
そして、伊王野家であるが当主資宗の母は大田原資清の娘であり、また前当主伊王野資直は大田原資清と懇意だった事もあってこちらの調略にも成功している。

続いて蘆野家であるが、こちらは那須資胤の妹婿であったものの地理的に那須家に味方しにくく、去就を決めかねていたが
高増はそれを知るやすぐに駆けつけ、資泰の嫡男に娘を嫁がせることを約束して味方に引き込んだ。
これによって那須七騎で完全に資胤陣営に残ったのは那須を除けば千本家のみで、あとは割れた福原や、大関家を乗っ取った高増を憎む大関家の古参ぐらいであった。

そして、七騎以外では稲沢家という小さな家があったがこちらは伊王野家とよく行動を共にしていたので芋づる式に引き込みに成功し、
金丸家も当主義直が資胤に味方する事を決めたが、一門の金丸資満は大関高増の娘を娶っており、
高増が資満に働きかけて金丸家中を混乱させ、結局金丸家も高増に与すものが出始め分裂状態となった。


こうして佐竹家の進行前に那須家は徳俵に足がかかったような状態になってしまっていたのであったというお話。
977人間七七四年:2011/05/01(日) 23:39:52.22 ID:sLafjqqG
ぱっと見の感想:高増汚いな高増汚い。

じっくり読んだ感想:伏線何重も張ってる資清汚な過ぎる。
978人間七七四年:2011/05/02(月) 05:48:18.45 ID:I7m/e0oK
資清も高増もあれだけ好き放題やって、長寿を全うしてるのが恐ろしい
979人間七七四年:2011/05/02(月) 05:53:10.55 ID:xVeB86Yo
そりゃ保身に成功したんだから当たり前っちゃ当たり前だ
980人間七七四年:2011/05/02(月) 07:32:59.94 ID:A4LePwAi
「俺がちょっと怒るとこれぐらい出来るんだぞ^^」って事か。

後々、何事もなかったかのように重臣に戻れたのはこれも理由にあるのかも。
981人間七七四年:2011/05/02(月) 14:42:03.39 ID:P/RwscX3
この状態でも防衛戦には勝てる那須家
982人間七七四年:2011/05/02(月) 18:32:36.45 ID:Refvpm/f
慶長7年(1602)5月8日、伏見城に召された佐竹義宣は、幕府によりその領地常陸の公収と、
出羽秋田への国替えを命ぜられた。

同日、幕府は常陸へも御使を送り、義宣の父である佐竹義重を始め、佐竹家中一同に
その旨を伝えた。

これを受け入れた佐竹義宣に家臣団は大いに反発、重臣、群馬(車)丹波守は面と向かって
彼を諌めた

「我が国の軍兵、4,5万はございます!その上兵糧は、10年は耐えられるほど備蓄があります!
なのにどうして、抗戦すること無く幕府の命に従い、出羽に下ろうとされるのですか!?」

これに義宣

「現在、日本六十余州の中に徳川殿に従わぬものは一人も居ない。我が国の勢をもって
天下の敵となるというのはどう考えても現実的ではない。

それ以前の問題として、我々のために滅ぼされた南方三十三館の残党がまだ国内に多く有る。
彼らがこの時とばかり、主君の仇を報じようと国中で蜂起すればどうなる?
天下の軍への対応どころではない。
そのような混乱の中雑兵の手に懸る様な事態になれば、無念この上ない。

今はただ、兎にも角にも我が家が絶えないようにすることこそ重要なのだ。」

と、同年6月14日、先祖伝来の地を去り秋田へと入ったのだという。
(藩翰譜)


南方三十三館仕置の問題が、佐竹の秋田転封にも影響を与えていた。と言うお話。
983人間七七四年:2011/05/02(月) 20:23:26.13 ID:nq/zLnX9
まだ幕府は出来てないよ
984人間七七四年:2011/05/02(月) 20:32:06.10 ID:Refvpm/f
すまん。便宜上幕府としたが「徳川公儀」とでも脳内変換してくれ。
985人間七七四年:2011/05/03(火) 03:40:21.32 ID:UfUYSQxM
そろそろ新スレたててみる
986人間七七四年:2011/05/03(火) 03:45:29.32 ID:UfUYSQxM
だめだった。どなたか頼みます。

↓スレタイ

戦国ちょっと悪い話26

↓テンプレ

戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
987人間七七四年:2011/05/03(火) 03:47:23.42 ID:bO+mpFnO
988人間七七四年:2011/05/03(火) 04:30:38.90 ID:UfUYSQxM
>>987
ありがとう。埋めがわりに

丹羽長秀が腹の中にできた腫瘍に怒り、自身で腹を斬りその腫瘍を取り出して死んだ、
という話は有名である。この死の前、羽柴秀吉は長秀に対し自筆の書状にて、「子息に
本領を安堵すること相違あるべからず」と固く誓っていた、という。

さて、長秀の跡を継いだのは若干15歳の丹羽長重であった。
秀吉は小牧長久手の際、徳川家康・織田信雄方に味方した越中の佐々成政に対処するため
丹羽家の軍勢を早速動員した。が、その所領安堵のことについては何の言葉もなかった。

この頃丹羽家でも最も力のある重臣は、成田弥八郎であった。

成田は家中の者たちを集め、語った

「それにしても我々の故主(長秀)は、織田殿の御恩が非常に深い方であられた。
それが秀吉という無道人にたぶらかされて、織田家の天下が奪われてしまったのは、
一生の不覚と言うべき事である。

その上大恩ある織田家の公達をすら殺そうという人間(秀吉)がどうして、かつて織田家の
同僚であったというよしみを気にかけ、まだ幼い我らが主君に大国を数多く任せよう、などと
考えるだろうか?

得難きは時、失い易きは勢という。

今にも滅びようとしている我が丹羽家だが、未だ勢が散り失せていない今のうちに、秀吉が
越中に入る頃を見計らって、織田殿の御為義兵を挙げ、佐々と挟み撃ちにしてこれを滅ぼし、
故主の恥を雪ぐ事こそ、いかなる仏事、供養にも勝ることであると考える。
方々はどう思われるか!?」

これに丹羽家中の人々は驚き、「以の外の大きな議題である」と様々な意見が出て、
なかなか意見がまとまらず時間ばかり過ぎた。
そうしているうちにこの事が秀吉の耳に達する。これは丹羽家家臣である長束正家、戸田重政が
秀吉に密かに知らせたのだ、とも言われる。

秀吉の行動は早く、たちまち成田弥八郎を捕らえ死刑に処した。そして佐々成政が降伏すると、
今度は丹羽家の主な家臣、長束大蔵大輔(正家)、村上周防守(義明)、溝口伯耆守(秀勝)、
青木修理亮(宗勝)、青木民部少輔(一重)、寺西下野守(清行)、上田佐太郎(重安)、
奥山雅楽助(正之)、といった人々を全て自分の直臣として召し上げ、その上で丹羽長秀の所領であった
越前、加賀を没収。

「本領であることには相違無い」

と、『織田時代』の所領であった近江国内の三郡を、長重に与えた。


秀吉による丹羽家解体の顛末である。
989人間七七四年:2011/05/03(火) 06:06:06.26 ID:HYKZxb++
秀忠さんお気に入りなんだよなぁ〜
でも、パーフェクト超人に比べると地味すぎるけどな〜
990人間七七四年:2011/05/03(火) 07:34:09.46 ID:ZVDFfcse
>>988
秀吉は約束を反故にしたか
もしかしたら秀吉より家康の方が先に亡くなってたら関八州も取り上げられたかもしれんな
991人間七七四年:2011/05/03(火) 08:56:02.74 ID:fzqDC46e
>>988
成田もあながち間違っちゃないんかもしれんが
もっと信頼できる人と話しあってからにすればいいのに
992人間七七四年:2011/05/03(火) 09:12:43.24 ID:JhgpqIZ5
厳しいこというと、家臣の一部が反乱を企てたとしてそれを主人として抑えることができなかった以上
「大封に要地を任せておくことはできない」という判断も非難できないんだよなあ
丹羽家が主導でこの企てを潰していたらまた秀吉の対応も変わったかもしれないけど
993人間七七四年:2011/05/03(火) 10:26:05.97 ID:B3b/p1db
まあ、長重も鬼吉川みたいに、秀吉の命を受けたクロカンに毒鮭
食わされなかっただけ、ましだと思うがね。
命あってのものだねだよ。
994人間七七四年:2011/05/03(火) 10:53:43.30 ID:qWh7RT0N
まぁ、秀吉からすれば長秀に恩はあっても、息子の方には何にもないしね。
995人間七七四年:2011/05/03(火) 11:05:36.34 ID:yZiUMPKa
長秀が北条降伏後まで生きていたら関東入りしてたかなあ
996人間七七四年:2011/05/03(火) 11:54:42.02 ID:fFHCHO72
長束・戸田「計画通り」
997人間七七四年:2011/05/03(火) 12:16:07.61 ID:v+ulFDbP
ラスボスは親や親、子は子って割り切るよね
丹羽さんの件も蒲生工場長の時も
998人間七七四年:2011/05/03(火) 12:25:00.01 ID:YbX/+Jn7
>>988
浅井が朝倉攻め途中の織田を後方から攻撃した話とかぶるね
999人間七七四年:2011/05/03(火) 14:13:16.29 ID:Kjk12ZtH
↓1000を取る権利をやろう
1000人間七七四年:2011/05/03(火) 14:14:11.21 ID:v+ulFDbP
以上大関高増さんの提供でお送りしました
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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