>>411>>412 そんなザコ相手に野田城・福島城の戦い〜志賀の陣で信長土下座してるんだけどな。
信玄が死んで東部第二戦線が崩壊したから兵力拘置の必要も無くなった為に確かに朝倉は不利になった。
でも大嶽砦の陥落による撤退失敗である刀根坂の戦いがあったから浅井・朝倉滅亡が確定したに過ぎない。
信玄が生存してれば戦況不利を悟ってそもそも「疲労で出陣できない」と出陣拒否する朝倉家臣も出てこない。
信玄の死が発覚というのは大きな士気の喪失であったのは間違いない。
それらの事態により山陽方面でも浦上宗景が織田に臣従することになり
一見すると西部戦線も一時的な安定を見たかのように見える。
しかしそもそもこの間、丹波から但馬への赤井直正の攻勢&山陰からの吉川元春の東進もあり
因幡山名豊国と但馬山名祐豊がさかんに信長への援軍要請をしていたが
各地で戦闘を繰り返していた織田にはもはや余剰戦力がなく見事に元春に奪い取られている。
さらに浦上を攻撃していた宇喜多は毛利(大友と和睦した)の支援を受けて
浦上を圧迫していたが信長は援軍すら出せないので敗亡してしまい毛利の播磨進出への道を開いてしまった。
長島一向衆は相変わらず猛威を振るっており、越前一向衆は守護代の前波吉継を討って一揆の国となり
同時に東美濃の明知城が勝頼により落城させられ岐阜へ撤退するなどと再び武田の脅威を感じてる。
信玄が生きて三河方面への戦線へ備えなどしていたら石山本願寺を滅亡させない限り
次々と織田は侵蝕されていくだけなのは間違いない。