天正10年の武田攻めを語るスレ 2

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413人間七七四年
>>411>>412
そんなザコ相手に野田城・福島城の戦い〜志賀の陣で信長土下座してるんだけどな。
信玄が死んで東部第二戦線が崩壊したから兵力拘置の必要も無くなった為に確かに朝倉は不利になった。
でも大嶽砦の陥落による撤退失敗である刀根坂の戦いがあったから浅井・朝倉滅亡が確定したに過ぎない。
信玄が生存してれば戦況不利を悟ってそもそも「疲労で出陣できない」と出陣拒否する朝倉家臣も出てこない。
信玄の死が発覚というのは大きな士気の喪失であったのは間違いない。
それらの事態により山陽方面でも浦上宗景が織田に臣従することになり
一見すると西部戦線も一時的な安定を見たかのように見える。
しかしそもそもこの間、丹波から但馬への赤井直正の攻勢&山陰からの吉川元春の東進もあり
因幡山名豊国と但馬山名祐豊がさかんに信長への援軍要請をしていたが
各地で戦闘を繰り返していた織田にはもはや余剰戦力がなく見事に元春に奪い取られている。
さらに浦上を攻撃していた宇喜多は毛利(大友と和睦した)の支援を受けて
浦上を圧迫していたが信長は援軍すら出せないので敗亡してしまい毛利の播磨進出への道を開いてしまった。
長島一向衆は相変わらず猛威を振るっており、越前一向衆は守護代の前波吉継を討って一揆の国となり
同時に東美濃の明知城が勝頼により落城させられ岐阜へ撤退するなどと再び武田の脅威を感じてる。

信玄が生きて三河方面への戦線へ備えなどしていたら石山本願寺を滅亡させない限り
次々と織田は侵蝕されていくだけなのは間違いない。
414人間七七四年:2011/03/08(火) 07:10:58.39 ID:vKyYqJPp
三河を攻略してる信玄が死んでなければ
春にまた朝倉もやってきて対陣開始だし、
信長は朝廷を動かして志賀の陣の時と同じように
朝倉が撤退したい降雪時期に合わせて本願寺との和睦に持ち込むしか打開策は無かっただろね。
もちろん武田相手には三河譲渡くらいはするだろう。
ちょうど河内国の三好義継も織田方の畠山や細川を破って河内支配を確定させ大和方面で暴れてたし
1573年に信玄が死んだことで山城国から義昭が追放され、
それを受け入れた義継が若江三人衆に裏切られて敗北する流れも無くなる。
大和国人の蜂起は相変わらずだだったが義継滅亡による河内平定に伴い1574年に入り信長が興福寺に入り
東大寺で蘭邪侍を切り取るデモンストレーションをやることで
大和国人達への支配を強めていく流れも無くなってしまう。
信長は信玄の死・勝頼が長篠決戦してしまった・謙信の死の3つにむちゃくちゃ助けられてる。