なんで戦国時代の史料が極端に少ないのか?

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54人間七七四年:2012/01/02(月) 22:55:47.05 ID:1LwUj+kX
age
55人間七七四年:2012/01/03(火) 07:19:53.94 ID:46lFGlCF
酷いクソスレだ…
>>1が猿より頭が悪いことを表してるな
56人間七七四年:2013/08/09(金) 09:53:34.93 ID:LoYF2r0G
美容整形板のタカ ◆PLAYBOYiBYが二重瞼手術に成功した!
57人間七七四年:2013/10/28(月) 20:24:00.42 ID:g9Wsku3Z
>>6-10
>>23
>>28
>>31
>>33-34
>>44
>>52-53

この辺だけ切り取ってみると、俺みたいなド素人にとっては
まったくの無駄スレというわけでもないよ。

あ、でも別に、1を擁護するつもりはさらさらないんで。

クソスレageんな!と叩かれそうだけどage
58人間七七四年:2013/11/06(水) 21:25:04.57 ID:tHdslFYo
○島津氏:存続 
●大友氏:豊臣政権にて滅亡
○鍋島氏(龍造寺氏):存続

●大内氏:戦国末期に滅亡
○毛利氏:存続
●尼子氏:戦国末期に滅亡
●山名氏:織田氏により滅亡
●宇喜多氏:関ヶ原にて滅亡
●浦上氏:戦国末期に滅亡
●赤松氏:関ヶ原にて滅亡

●三好氏(十河氏):豊臣政権にて滅亡
●香川氏:豊臣政権にて滅亡
●河野氏:豊臣政権にて滅亡
●長宗我部氏:関ヶ原にて滅亡

●筒井氏:大阪夏の陣にて滅亡
●六角氏:織田氏により滅亡
○朽木氏:存続

●織田氏(斎藤氏):関ヶ原にて滅亡
●今川氏:武田氏により滅亡
●武田氏:織田氏により滅亡
●朝倉氏:織田氏により滅亡
○上杉氏:存続

○北条氏:存続
○佐竹氏:存続
●里見氏:徳川政権初期に滅亡
●宇都宮氏:豊臣政権にて滅亡
●結城氏:徳川政権初期に滅亡

○相馬氏:存続
○伊達氏:存続
●蘆名氏:戦国末期に滅亡
●最上氏:徳川政権初期に滅亡
○南部氏:存続
○秋田氏:存続
59人間七七四年:2013/11/06(水) 21:28:51.58 ID:tHdslFYo
>>1
名家が滅びまくったから史料が消失した。
四国と東海地方の戦国時代の史料は、特に少ないと思う。
60人間七七四年:2013/11/06(水) 21:51:55.06 ID:qMXOJV6B
>>1
紙の質が悪かったと想像する。紙の質が悪いから、湿度などにより
すぐボロボロになる
61人間七七四年:2013/11/06(水) 22:15:20.99 ID:tHdslFYo
●畠山氏:豊臣政権にて滅亡
●北畠氏:織田氏により滅亡
62人間七七四年:2013/11/08(金) 20:53:38.73 ID:6Fvq11if
豊臣家が滅んでなかったら・・・
大坂城と共に焼失した織豊期史料は莫大なものだったろう
63人間七七四年:2013/11/08(金) 23:08:55.85 ID:yDnQl7gd
豊臣家が存続していたら、豊臣政権期の資料は膨大だったろうね。秀吉も農民の出だとバカにされなかっただろうね。
64人間七七四年:2013/11/09(土) 11:58:13.96 ID:E1PDjQfV
>>63
いや本人が講話みたいなかんじで言ってたのかもしれないし…
65人間七七四年:2013/11/18(月) 00:32:19.78 ID:hKW+iLPw
>>59
今川関係結構残ってるけど
66人間七七四年:2013/11/19(火) 07:09:13.36 ID:5PMoO4vn
徳川幕府が神君家康公に不名誉になる書状は収集処分してるから、
家康の他大名宛外交についての花押付原本書状は、
永禄12年に上杉殿や河田豊前守殿まで一切ない。
その後も上杉宛ばかり存在し、上杉文書が処分追求から免れて現代に至っているのがわかる。
例外的に天正2年閏11月9日と天正3年3月13日で岐阜殿宛が存在するだけ。
しかし家康勝利の関が原の戦いに関する原本書状は大量に遺されている。
67人間七七四年:2013/11/19(火) 08:39:34.37 ID:5PMoO4vn
ちなみに前者が降雪で国境が封鎖され武田が攻めてこない時期恒例の信長の三河監視を兼ねた鷹狩りの件で、家康が歓待を約束する書状。
後者が長篠を前に佐久間信盛が派遣されたことに無上の喜びを表現する書状である。

幕府の調査の目を逃れたレア花押書状である。
68人間七七四年:2013/11/20(水) 06:58:36.86 ID:6y4Tskb2
今後、戦国史料がまとまった形で発掘される可能性はありますか?
目ぼしい大名家・寺社は調査し尽くしてるだろうから難しいんかな
ノーマークの旧家の蔵にあった鎧櫃から大量の書状出てくるとかないかな
69人間七七四年:2013/11/20(水) 07:19:45.36 ID:6GLUdHcc
豊臣政権期の秀吉の史料なんて既に群をぬいて多いんだが。
発給文書数でも全大名中ダントツトップじゃなかったか?
それ以前のは若干良が減るが、それでも他の大名に比べれば遥かに多いよ。
三鬼氏が本物認定してる物だけでも全1000点〜2000点くらいあったはず。
70人間七七四年:2013/11/20(水) 07:21:53.45 ID:IK8xD1CT
ここでもアンチ徳川のアホ秀吉厨が家康が史料を大量に燃やしたとか捏造妄想を垂れ流してるな。
いい加減ROMってろよ。
71人間七七四年:2013/11/20(水) 07:26:37.77 ID:mKthOG7l
秀吉が豊臣政権期に自分に不利な文書類は大量に処分して隠蔽したからね。
小牧長久手期とか天正末期の文書でも、豊臣家関係の物は馬鹿みたいに一杯文書が溢れてるけど
徳川とか織田関係はちょろっとしかないし。
72人間七七四年:2013/11/20(水) 17:26:40.11 ID:WnyHmsPx
秀吉は国家創業の事業をやってるから、
国づくりと整備の関係行政文書がたんまり残っている。
刀狩りによる兵農分離→検地後の農民への土地分配による中間搾取層の廃止からくる新税収システム
転封による武家と土地の切り離しと、それによる国人の官僚化と、
取次・奏者・指南と言う手筋システムによって大名後見人という内政干渉と蔵入地設置による全国監視体制。
桃山時代とは旧態依然のボロボロの統治体制から
時代に合う新政策の試行錯誤により、新たに生み出された
全国統治政策であり、惣村一揆や堺などの商人コミニティによる都市国家など
新統治方式である地域の代表たちによる合議体制と全国の中央集権的統治体制の
共存を進めた結果が大老と奉行による政治体制だったが、秀吉の死が早過ぎて、戦乱の気風が風化する時が足らなかった。
家康にはそういう国家を創業する能力がないので、関係書類があまりなく、統治体制も豊臣政権の劣化コピーだった。
73人間七七四年:2013/11/20(水) 23:36:42.89 ID:iUhG5BXx
>>61
生き残ったのが信雄じゃ、北畠氏の史料も織田氏の史料も無くなるよな。
せめて秀信が生き残れば、尾張、美濃、伊勢の史料がここまで悲惨なことにはならなかっただろうに。
74人間七七四年:2013/11/20(水) 23:57:41.46 ID:wY6bLfJf
>>71
豊臣政権は歴史編纂事業をやるほどの太平時代を迎えてないから、
各大名家に史料提出なんて求めてねーから、
お前のいうようなことは物理的に出来ない。
75人間七七四年:2013/11/21(木) 00:12:02.86 ID:hMknC7WH
>>74
お前は他スレで豊臣政権は平和な時代にだったのに家康がぶち壊したとか散々ほざいていながら
他スレッドとは矛盾する事を平気で書くんだなw
76人間七七四年:2013/11/21(木) 00:16:46.33 ID:6KK61MgM
>>74
馬鹿かお前。
文書を捏造するのに太平の世だとかなんだとか関係ねーよアホ
つか秀吉がトップだったんならそれを捏造するなんて造作もない事だからな。
豊臣政権期の史料を見ても、秀吉関連文書は馬鹿みたいに一杯残されてるのに対して
信雄や徳川や他大名の史料はほんのちょろっとしかない。
これは、徳川時代になっても徳川が自分の不利な史料を捏造したというのがお前の馬鹿な妄想であり、
逆に秀吉が自分の好き好んだ史料ばかり残して他の文書類を処分しまくった何よりもいい証拠だ。
例えばフロイスの日本史とか看葉禄なんかも秀吉が捏造しまくったハッタリ誇大喧伝ばかり間に受けてあたかも事実化のように書いてるからな
77人間七七四年:2013/11/21(木) 00:17:34.06 ID:6KK61MgM
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
78人間七七四年:2013/11/21(木) 00:18:43.40 ID:6KK61MgM
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
79人間七七四年:2013/11/21(木) 00:20:21.03 ID:6KK61MgM
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
80人間七七四年:2013/11/21(木) 00:21:36.75 ID:mX/oDPzj
豊臣の歴史改竄行為はガチで悪質捏造行為だなw
81人間七七四年:2013/11/21(木) 00:24:49.48 ID:84xDiAgU
中国大返し。墨俣一夜城。金ヶ崎の退き陣。農民からの出世話。
備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。

ほとんど秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作で広まっただけのハッタリ・捏造・中身なしの事績が
馬鹿みたいに現代でクローズアップされてるからな。
82人間七七四年:2013/11/21(木) 01:39:56.23 ID:n2whD5BZ
まーたアンチ秀吉の基地外在日織田チョンが火病発狂してるのか。
マジでクズ底辺だな。
83人間七七四年:2013/11/21(木) 08:24:32.41 ID:UimDDhod
>>73
信長が発給した書状をなんで信雄が全て受け取っているんだよwww
お前バカ過ぎて笑えるwww
信長の外交先は信雄や秀信宛書状しか無いのかよwww秀信宛とか未来に出している池沼信長www
84人間七七四年:2013/11/21(木) 16:46:41.14 ID:s17UwsEC
幕府が歴史編纂事業として各藩から史料提出を求めた際に
藩も家譜を作り始めてるから、
時系列で考えても豊臣政権はそんなことやってないし、
織田家の書状を消したと無理やり主張するなら、
織田信雄の家系の者が織田家の家譜を作る際に、いろいろな藩を回って
信長発給文書を盗んで回り、書状を破棄していたとしか考えられないんだが。
85人間七七四年:2013/11/21(木) 16:56:15.27 ID:hMknC7WH
秀吉がトップだったんなら文書を捏造するなんて造作もない事だからな。
豊臣政権期の史料を見ても、秀吉関連文書は馬鹿みたいに一杯残されてるのに対して
織田関連や信雄や徳川や他大名の史料はほんのちょろっとしかない。
これは、徳川時代になっても徳川が自分の不利な史料を捏造したというのがお前の馬鹿な妄想であり、
逆に秀吉が自分の好き好んだ史料ばかり残して他の文書類を処分しまくった何よりもいい証拠だ。
例えばフロイスの日本史とか看葉禄なんかも秀吉が捏造しまくったハッタリ誇大喧伝ばかり間に受けてあたかも事実化のように書いてるからな
86人間七七四年:2013/11/21(木) 17:00:32.53 ID:IPRauWoH
太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も秀吉が勝手に捏造しまくった史料だからな。
明らかに他大名に家記や家譜を提出させた上で、秀吉が自分に都合のいいように編纂しまくった結果、
フロイスの日本史やイエズス会年報なんか秀吉のハッタリ誇大喧伝があたかも事実かのように書かれてるし
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。
秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作が事実かのように歪曲されて作り上げられてるからな。
87人間七七四年:2013/11/21(木) 17:04:19.43 ID:mX/oDPzj
中国戦線の史料なんかも秀吉が苦戦を覆い隠すために処分しまくった結果、史料の数でいってもかなり少なくなったからな。
後世になって毛利の家臣達がやっと申告できる時代になって、ようやく実態が明らかになってきたんだし。
天正8年頃の宇喜多関連の史料なんかも1990年代にやってようやく研究が進んできたけどそれまではろくな数がなく、軍記物に依存しまくってたほど数が少なく
明らかに秀吉の隠蔽工作で史料が大量に燃やされてたから、ろくな文献も研究もなされなかったんだろうね
88人間七七四年:2013/11/21(木) 17:51:04.40 ID:s17UwsEC
>>85>>86>>87
なんだ、アンチ豊臣のキチガイ織田半島人が単発ID自演してただけかよ。
豊臣政権は史料編纂作業なんてやってねーよ。
それにちょろっとしかないってお前が主張してるだけで根拠がないお前の願望だろw
奥野高広の織田信長文書の研究や中村孝也の徳川家康文書の研究とか見れば充分に書状が残っている方だし、
お前の言ってることはデタラメだろがw
フロイスの日本史とか看葉禄が捏造とか言ってるのもお前だけw
太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も一次史料だなんて主張しているやつを見たことない。
これもお前の主張してるだけのでっち上げ。
毛利は偽書状かどうかの審議すら一切やらずに家の家格と名誉に関わる家臣たちから書状を提出させて纏めた糞編集じゃんwww
89人間七七四年:2013/11/21(木) 19:37:49.54 ID:hMknC7WH
>>奥野高広の織田信長文書の研究や中村孝也の徳川家康文書の研究とか見れば充分に書状が残っている方だし、
秀吉の文書数に比べればハナクソみたいなもんだろ。三鬼の文書目録とか見ればわかる。
>>フロイスの日本史とか看葉禄が捏造とか言ってるのもお前だけw
>>77-78を読めばフロイスの日本史はほとんど捏造しか書いてないウンコ史料なのがわかる。
京以西の秀吉が垂れ流した歪曲捏造情報とか戦果を真に受けてあたかも真実かのように印象操作されてるし
それを全く批判する事なく史料に載せてるからな。
>>太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も一次史料だなんて主張しているやつを見たことない。
江戸期でも太閤記の初出ネタが影響で、家記や家譜にまでハッタリ捏造が載せられたりしてるからな。
秀吉の捏造した中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城とかがいい例。
いかに桃山時代の秀吉の資料捏造と歪曲がすさまじかったかがわかる事例だな。
>>毛利は偽書状かどうかの審議すら一切やらずに家の家格と名誉に関わる家臣たちから書状を提出させて纏めた糞編集じゃん
はいはい、根拠なし。
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
90人間七七四年:2013/11/21(木) 19:41:28.29 ID:mX/oDPzj
>>家わけ日記に出てる文書以外の毛利の史料は一次資料扱いされておらず偽文書

萩藩閥越録や毛利家日記を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
上月城下合戦のソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋で全て花押がついてる。

山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。

ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
91人間七七四年:2013/11/21(木) 19:42:35.67 ID:ATaX2kb3
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記

[参考]備前軍記[参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記[参考]柏崎物語

>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww


そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集

萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
92人間七七四年:2013/11/21(木) 19:51:20.75 ID:6KK61MgM
豊臣家が史料編纂作業をやってないわけがない。
現に太閤記や明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記など秀吉が編纂しまくった捏造史料を元に好き勝手に描かれてるからな。
フロイスの日本史とか看よう禄もイエズス回年報も秀吉のデッチ上げた捏造ばかり書かれてるし、
明らかに秀吉の歪曲情報とデッチ上げと誇大喧伝を元に史料が編纂されて書かれてる
93人間七七四年:2013/11/21(木) 22:27:42.08 ID:uAWZFBK1
今日はアンチ秀吉の基地外織田チョンの発狂コピペ爆撃荒らしがやけに多いが、
何か実生活での嫌な経験でもフラッシュバックしたんかい?
94人間七七四年:2013/11/25(月) 14:27:57.95 ID:dV6kuUCP
秀吉が能に傾倒し、
その演目を作らせる為に軍記を作らせて、
それに沿って能を見せてただけの行為が、
何で史料編纂事業に曲解されてんだよw
いつ全国大名から史料の提出を豊臣政権は求めて歴史編纂事業やってんだ?
全くそんな一次史料は無いし、
当然、それに沿って各大名も豊臣政権に都合が悪い事実を削除した家譜を作り始めてすらいない
95人間七七四年:2013/11/25(月) 14:33:47.48 ID:N78oF6oH
太閤記も明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記も秀吉が勝手に捏造しまくった史料だからな。
明らかに他大名に家記や家譜を提出させた上で、秀吉が自分に都合のいいように編纂しまくった結果、
フロイスの日本史やイエズス会年報なんか秀吉のハッタリ誇大喧伝があたかも事実かのように書かれてるし
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城。
秀吉のデッチ上げたマスコミ印象操作工作が事実かのように歪曲されて作り上げられてるからな。
96人間七七四年:2013/11/25(月) 14:36:43.78 ID:RhD4xV/8
秀吉のハッタリ誇大喧伝や当時のマスコミを使った捏造歪曲記事の影響力は絶大だったからね。
フロイスの日本史とか南蛮人の史料にまで大きく影響を与える程だったし
徳川時代の家譜や家記なども太閤記や川角太閤記や天正日記の秀吉の捏造記述を下敷きに常識として伝わった物が多々ある。
中国大返しや墨俣一夜城や金ヶ崎の退き陣、農民からの出世話、備中高松城水攻め。天神山城の一夜城築城、小牧長久手合戦での敗戦を覆い隠すデッチ上げの池田の献策。
97人間七七四年:2013/11/25(月) 14:39:39.74 ID:MSsMo/o/
小早川がキレ物だったとか黒田が天才軍師だったとか
そういうハッタリ逸話も秀吉の捏造した軍記を下敷きに徳川時代に伝わった物だし
逆に秀次が無能だとかもそうだよな。
明らかに秀吉が史料を捏造編纂しまくった結果、歪曲された歴史的事実が、後世に常識となって伝わってる。
何せフロイスの長久手合戦関連の記述なんて合ってる記述の方が少ないくらいの捏造っぷりだからな。
98人間七七四年:2013/11/25(月) 15:00:01.61 ID:dV6kuUCP
で、秀吉が歴史編纂事業やったとする一次史料はまだなの?
99人間七七四年:2013/11/25(月) 16:04:51.80 ID:N78oF6oH
豊臣家が史料編纂作業をやってないわけがない。
現に太閤記や明智軍記も惟とう退治記も川角太閤記も天正日記など秀吉が編纂しまくった捏造史料を元に好き勝手に描かれてるからな。
フロイスの日本史とか看よう禄もイエズス回年報も秀吉のデッチ上げた捏造ばかり書かれてるし、
明らかに秀吉の歪曲情報とデッチ上げと誇大喧伝を元に史料が編纂されて書かれてる
100人間七七四年:2013/11/26(火) 09:00:59.17 ID:SJTjs5Ls
軍記が歴史編纂事業とかバカ過ぎw
101人間七七四年:2013/11/26(火) 09:45:45.82 ID:cM6/mb1H
豊臣期の軍記は後世にも多大な影響を及ぼし
江戸期の家記や家譜もこれを下敷きに書いたと思われるネタが一杯載ってるから立派な歴史編纂作業だわな。
フロイスの日本史も秀吉の歴史捏造を真に受けて歪曲された情報ばかり載ってるし
いかに秀吉のハッタリと歴史改変が酷かったか分かる
102人間七七四年:2013/12/14(土) 14:12:14.50 ID:k+27TPTl
>>100
スレタイが読めないのか?
読めた上なら、一次資料を並べたら良いだけなんじゃね?
103人間七七四年
現代の資料であっても、我々庶民の暮らしを記した資料なんて残らない
ひい爺さんの日記とか出てきても、公に発表しないだろ
残るのは、政治と、大きく影響を与えた経済的なものと、一部の芸術作品、およびその人たちの暮らしぶり

インターネットが普及したとか、東日本大震災は残りそうだけど
ここ数年の1年変わりの総理大臣とか消されそう