織田信長は日本最高の過大評価6

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89人間七七四年
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)分国法『今川仮名目録』を制定したが早世した。
遠江で検地をした兄氏輝の早世(〜1536年)後の家督争いに勝った
義元は補佐役の太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して
歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前英主 朝倉孝景(〜1548年)加賀一向一揆との和睦を成して一乗谷の文化的繁栄をもたらす。
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟の謀反で死ぬ。

南近江英主 六角定頼(〜1552年) 浅井久政を従属下に置き、家臣団を本拠である観音寺城に集住させる。
経済発展のために楽市令を出して城下は空前の繁栄を迎えていた。
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃英主 斎藤義龍(〜1561年) 旧土岐家臣2万を自らの旗本に結集させ信長を死ぬまで撃退し続ける。
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
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