武田信玄は過大評価されすぎ!!part2

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847人間七七四年
>>846
上田原は野戦後も武田は戦地に踏みとどまってるからね。
川中島の時も武田が戦地に踏みとどまって勝どきをあげてる。
ふむ。、君は浅井氏と一揆ついてもまったく理解してないと見える。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
しかも近江の人口はこのエリアにかなりいたことが判明しており
余呉川やニ高時川の河川の周囲に多くの村落があった。
それは近江がかなり大雑把な郡分けされてるのに
この狭い地域が細かく郡分けされてるのでもわかる。
そして渇水時期になると、切水の立て様で相論になり
水を堰止めることは一大紛争になり、幕府の調停などまったく意味をなさなかった。
これらを武力に寄らずに双方の話をよく聞き不満のない調停を浅井久政が行っており、
浅井氏の権力とは惣村の紛争解決の円満な合意から生まれたものなのがわかる。
それゆえに浅井氏は織田氏に抵抗が続けられたのであり、
六角と同調して街道を塞いだり一向一揆とは
別の惣村一揆を構成していたことがわからなければ理解はできない。
また近江は南に懐が広く深く、織田軍はそれらの支配はできておらず
琵琶湖湾岸部の街道部を押さえる城しか抑えてない(蒲生郡の日野城を除く)
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
荒木は信長に従わずに摂津で私戦を引き起こし和田惟政を殺したり、
池田重成を擁立して池田勝正を追放したりとやりたい放題やってる前科持ちで
信用ゼロなんだから無二の忠節を励むなどとアピるのは当たり前だろう。
池田恒興?どっかのサイトから丸々パクッてるみたいだな。どのサイトだ?教えてくれ。
ちなみに恒興は信長の乳兄弟だぞ。これは初歩中の初歩だ。それがわからんとかかなり終わってるぞ。
池田ってのはそれ池田重成のことだぞ。そして重成は細川の説得を蹴って義昭方になり
織田に攻撃されて7月に没落してるわけで、そんな書状の忠誠なんて言葉はまったく信用性ゼロだぞ。
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得してるし
細川は池田が反織田で挙兵しないように説得して足並みを揃えている。
まぁ信長が助かったのは赤井直正や上杉謙信が相次いで死去したって言うラッキーさもあるけどな。
>>837に付け加え忘れしたが、天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。
そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄は大和衆を率いる塙を部下としているように見え
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
果たしてこの時の北畠衆は何をしてたのかわからんが、
天正4年11月に北畠一族を大殺戮をすることでやっと北畠支配が支配できた。