>>勝手に殺すなw
死んだなんて一度も言ってないんだが・・・
つか伊丹氏は元亀元年7/12に本興寺に禁制を出したのを最後に統治実績が消える。
元亀2年8月28日の白井河原の戦いなどで伊丹氏が衰亡してるのは明白なんだが。
逆にそれ以降も伊丹氏が健在だとする一次史料を出してください。
>>信長−義昭のもとを行ったり来たりしている
いや、基本的に信長への面従腹背してるだけの話。義昭は松永が兄殺しだから許さなかっただけの話。
松永は摂津方面にも自由に動き回ってるから(荒木などともつながってる)から
京から遠く離れてる事は無いし、松永が信長配下としての軍役で近江へ行くと筒井の暴れる。
松永が信長の軍役を無視して帰ってくると筒井が劣勢になり、
すると筒井が織田への帰順を申し出て松永を攻めるという事を繰り返してるシーソーゲーム状態であり
実質的に摂津と同様に大和も織田に面従腹背を繰り返してる。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残り謙信の西進に呼応する)
伊勢での織田の支配がスタートしたのはこの大和支配の浸透後の天正3年からの
信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになってから。
ここでも人徳がない信長は天皇権威を利用して大和を平定www
>>高みの見物というなら
そりゃああれだけ義景に危機感が無いのは高みの見物してるから。
三河物語にも信長が義景に「朝倉殿が天下を持ち給え。もう私は天下を2度と望まない」
と土下座してるのでもわかる。
>>753 >>撤退せずに織田軍が進軍
そりゃあ織田軍は敵が災害にあってる最中なんだから
これ幸いと一気に攻め込むだろうよ。浅間山噴火ともなれば
西上野は当事者だし、それをとりまく隣接地帯の佐久郡や北信濃や甲斐も大混乱してるだろうよ。
ただでさえ京では噴火を甲斐信濃破滅の予告とまで思われてたんだから士気に関わりまくるわ。
信長公記は3日ごろより織田軍が信濃へ進撃したように書いてるが史料を拾うと
木曽氏は6日に織田へ援軍を要請している。
それに答えた信忠と滝川の出撃は一次史料だと12日に岐阜出撃。
15日に出陣準備中の信長が滝川らが国境を越えたとの注進を得て
(14日の夜空は東方に厚い雲が垂れ込め空が赤く染まる様子が京で観測される)
ほぼ織田軍の信濃侵攻が噴火の時期と一緒。武田の瓦解と噴火はリンクしてる。
>>部下の失敗まで信長のせいにすんじゃねーよw
戦略面で指示してるのは信長だろ。都合いい主張すんなよ・・・
織田厨は信玄の敗北として毎回、板垣らが独断しまくりのせいで負けた上田原の戦いを
すぐ持ち出すくせにw(調和を乱す権臣の甘粕や板垣らが死んでくれて、むしろ信玄は助かったが)