>>528 なんで織田厨はデタラメばかり吐くんだ?
無知なくせに、どうせわからないだろうとタカをくくってデタラメ書いてるのバレバレ
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた。
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ。
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが、
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている。
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる。
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に応酬され、
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる。
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は、
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており、北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる。
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
>>540>>583 ほんとだね。織田厨が人間の屑なのが、つくづく思い知らされる。
>>596 松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
>>675 信長は荒木を摂津の旗頭にしていて高山はその配下。
(それ以前は和田惟政・伊丹親興・池田勝正を摂津三守護にしていたが三人ともすでに脱落)
そもそも高山の旧主の和田惟政が荒木村重と中川清秀に殺されており
惟長の襲撃に荒木が絡んでないとする方が不自然。
(奥野氏も荒木が高山を味方につけて高槻を攻めたと指摘している)
後年に荒木が織田に謀反した時は、中川と高山も一緒に蜂起していて
荒木と中川と高山は常に行動を共にしている。
この時の信長は最大の危機に追い詰められ朝廷に本願寺と毛利との和睦斡旋の土下座をしてる。
その間を利用して信長は高山に降伏しなければ織田領内にいる
司祭、宣教師、キリシタンすべて皆殺しにして教会もすべて燃やすと宣告したりしたが
高山は荒木との義もあって降伏せずに抵抗し、最後は教会と荒木の板ばさみに苦悩して
城主を辞め、家族も捨て俗世を棄てると言う解決策で、誰も裏切らない手段に打って出た。
茨木城は息子の荒木村次が支配してるから違うし。
松永久秀の信長への降伏は偽り。3/6には義昭が久秀と三好義継が味方になるのを許して
足利家のためにがんばってくれと言ってる(今までは兄の義輝暗殺してたから許さなかった)
指揮系統が支離滅裂もなにも、最初から別系統でムリヤリ統合作業をしたわけでもない。
まったく関係ないし、元亀3年10/2には六角義堯が三好甚五郎に四国衆の渡海準備を命じたと承禎に言ってる。
そのため三好の本国の四国から大規模兵力の上陸が予定されているのがわかり
三好康長・篠原自遁・岩成友通らの動きが止まってるのも、これらの上陸軍待ちなのがわかる。