武田信玄は過大評価されすぎ!!part2

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467人間七七四年
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を六角氏の斡旋で浅井に嫁がせ協力を取り付けて
やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
468人間七七四年:2011/11/29(火) 02:15:18.65 ID:14cV4inG
信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。
さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。
滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。
大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり
北畠は信長から信雄を人質にとってるが北畠は信長に人質を1人も出さず。
しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているためその価値は非常に高い。
信忠が死ぬなどでうまくやれば織田家乗っ取りさえも可能。
すばらしいカードを手に入れたが長島一向一揆を鎮圧後に伊勢掌握のために
具教暗殺&暗愚具房のため逆に弱体化させられる。
明らかに不平等な交渉だがそのおかげで織田軍は退却の時に追撃を受けずにすんだ。
退却時にボコボコにされて織田軍の将が討死するケースはたくさんあるからね。
安全に退却させてもらうためには人質提出は止むをえない。
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意。
具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ隠棲したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。
北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ
西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。
隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。
船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に
船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。
信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず
逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。
具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。
井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。

1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。
469人間七七四年:2011/11/29(火) 02:17:40.92 ID:14cV4inG
家督を具房に譲ってはいたが実権を握って現役張ってた具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで
娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。
家督相続は長島一揆を織田が壊滅させ初めてパワーバランスの変化が生じて信雄が田丸城に入った時であって
それまでは具房が北畠当主だから。
吸収されたのは当主と同格の御所様が乱立していた北畠首脳陣をことごとく汚い暗殺で抹消したからで
それまではまったく織田が北畠を吸収できるような状況じゃなかった。
逆に言えば武力でも政治でも北畠を屈服させられず、汚い手段を執らない限り現状打開すら織田には無理だった。
どんな状況かを見分けられずすべてを混同し同一視するのは馬鹿のやること。人質を出すことの本質が理解出来てないね。
そもそも信雄小学5年生がいきなり娶るわけないだろ。 当初は雪姫の養子として入っただけだから。
具房の養嗣子にすらなってない。つーかのちに信雄が北畠を乗っ取った事実に引きずられて
信長が最初から北畠を乗っ取るつもり前提とか誤解してるだろ。
あの時点でそんなこと計画してないし長島一揆を鎮圧するまではそんなのそもそも無理だから。
北畠氏の本拠は多気御所と呼ばれた霧山城でそこは具房の妻の兄である北畠政成が城代として守り
具教らは最前線の大河内城で出張して指揮してた。
特に家城之清の武略は凄まじいもので織田軍をガンガン打ち破りまわり手におえなかった。
さらに南方には伊勢新宮を支配する田丸城ってのがあってだな。
ここも北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配がスタートしたと言うべきもの。
織田軍は大河内城さえ落とせずアホみたいに討ち死にしまくりだった。
一隊を霧山城方面に送ったが政成の妻は松永久秀で大和国人を引き連れて援軍にやってくるなどで織田軍はボロボロ。
しかも北畠・松永・信玄はつながっていた。
ちなみに信虎が以前、北畠軍を率いて志摩から九鬼を追い払ってるなど同じ源氏ゆえか元々親しい。
信雄がきた後も伊勢湊を支配する鳥屋尾満栄が信長が伊勢水軍を長島一揆に使おうとするのに
非協力的で雑賀水軍などを攻撃しなかったりさらに反織田の者達が集まってきた曽原城。
ここは具房がやってくると戦わず降伏するなど織田に対して自作自演をやってる。
しかもこいつらすぐ松阪城の前身にあたる砦を具教御所様の許しを得たと言って集まってくるが
ここは大河内城のすぐ南で田丸城の北方にある場所で反織田やってる。
そもそも具教らが暗殺された時に大規模な北畠一族の広範囲にわたる
騙し討ちがあった事からも織田の北畠支配がうまく言ってなかったのがわかる。
ちなみに伊勢国司記略や津市史や安濃郡誌や北畠氏の研究などが出典