当主死去と政権弱体化

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1人間七七四年
兄弟や有力者や国人の台頭による権力構造の変化。
カリスマ権威の消失による周囲の国々の離反。
継承タイミングが家の勃興期における伸びしろアリか財政難による衰退期への移行か。
先代の±の遺産
2人間七七四年:2010/12/05(日) 12:46:49 ID:iSQFyDkW
>>1
君は偏見が激しいから君が自重しない限りスレは荒れる
3人間七七四年:2010/12/05(日) 17:03:08 ID:hDtCUOBa
だな
4人間七七四年:2010/12/05(日) 17:32:56 ID:EuanWUDo
跡継ぎ問題で揉めた例
1織田信秀死後。 2武田信虎追放。 3長尾・上杉家の継承。
4豊臣家の跡継ぎ問題。

1,2,3は、結果的に政権強化に至った。4は×
5人間七七四年:2010/12/05(日) 19:18:02 ID:D6O11Vbh
親と跡継ぎがいきなり死んで幼君が跡継ぎで信雄が後見人の織田家が無敵
6人間七七四年:2010/12/06(月) 02:44:19 ID:HZyZHJuB
独裁的な信虎追放したことで
担がれた晴信は重臣との合議で決定する方向になってしまい守護としては国人の発言力強化は権力後退じゃないかな?
衰退した上杉からすれば他姓への上杉譲渡の代償により強化かも知れないが
長尾からすれば上杉と共に引き継いだ関東管領職はのちの戦略の足枷になり重荷になったのでは無いかな。
長尾に関しては為景が越後守護上杉陣営の国人達に敗北し隠居。
おまけに府内長尾は財政崩壊していたし
晴景や謙信ら兄弟が対立していた中を越後守護上杉によって介入調停されていたくらいひどかったな。

織田はやはり熱田の経済力を元手にこれから拡大していくエリア濃尾平野&近江&京や堺の国力と
その地ですでに先進性ある改革的政策が施行されていた為にパクれた。
そういう意味で織田はのびしろがかなりデカいね。
7人間七七四年:2010/12/06(月) 16:50:25 ID:WQCh9VoI
龍造寺は当主の隆信が戦死してぐらついた感じはする

芦名はどうなんだろう
盛興が急逝して再度父親の盛氏が政務を執ったけど
8人間七七四年:2010/12/07(火) 06:31:46 ID:Pr0BqS6o
晩年の盛氏は上杉に負け、
白河からの手紙に喜び近頃は家臣らが挨拶にも来ないと愚痴り
その家臣らは輝宗の馬揃えに参加してる始末。
領内は荒れ果て徳政令を頻繁に出さないと一揆が起こりそうな統治力しか無く
最後は上杉に葦名を頼みますって頼んで亡くなったくらい衰退してる。
9人間七七四年:2010/12/09(木) 16:46:23 ID:dH21dwXm
信長はスタート地点がむちゃくちゃ良いよな〜
10人間七七四年:2010/12/10(金) 07:38:10 ID:QhbdL8yu
>>9
信秀によって環境が整えられ織田弾正忠家にとってはいよいよ財政豊かになり勃興期に入っていたからね。
誰がやってもうまくいくのに信長は内乱を勃発させたりと割と無能
11人間七七四年:2010/12/10(金) 08:33:24 ID:kl6VPIlq
三好長慶とか好例だよな
跡継ぎの義興が死んで当主が鬱に
それを支えるべきの十河一存、三好義賢もすでに亡く
安宅信康は松永久秀の謀略で長慶自らが殺してしまった
長慶は重度の鬱になり、40代前半で病死

後を継いだ三好義継は久秀と三人衆に操られ
阿波担当の三好長治は篠原自遁の讒言に騙され、有能な忠臣である篠原長房を殺す


目に見えるような転落
12人間七七四年:2010/12/13(月) 10:04:40 ID:wa3wFaH9
大友義統の無能さはガチで異常

宣教師からは惰弱だと悪く書かれるわ
豊臣秀長にもこいつはダメだわって嫌われるし
キリシタン禁止してる秀吉に志賀がキリシタンだからとチクったら志賀の才覚を誉めている秀吉から逆に不快がられるし
豊後諸将には宗麟が当主に復帰してって言われるし
関ヶ原で家康もビックリの裏切りやるし
アホ過ぎてむしろ笑える。
間違った選択しかしない天才みたいだw
13人間七七四年:2010/12/13(月) 12:44:43 ID:ralMcaAw
無能かどうかじゃなく、弱体化したスレでしょ?
まあ、お家潰したけどね。

>>10
信秀が死んだ時はそうでもないんじゃね?
大敗したあとにあっけなく死んで後事の事は何もしてないに等しく、問題
山積みだし。
経済的には豊かだったろうけど、信秀は結局奉行から抜け出せなかった訳
だし、信長がいなかったら、織田家は戦国大名になれなかったのではいだ
ろうか。
でも、金があるだけましか。
14人間七七四年:2010/12/14(火) 03:32:56 ID:E/5ppm+p
なんつーかな。
お家騒動ってのは蝶がサナギの中でドロドロになってる、みたいな状態。
組織の再構築に成功すれば羽化して飛躍できるが、失敗すると飛べずにいつか死んじゃう。
でも避けては通れない過程。必ずいつかは通る道。

つまり何が言いたいのかっつーと、
信長を始め、相続時にお家騒動のあった武将はむしろラッキー。
早い段階で旧体制を刷新するチャンスが巡ってきてるんだから。
抵抗勢力が大きければ大きいほど、ぶっ潰したあと思い切った新体制が築ける。
これがお家騒動自体が起きなかったり、比較的スムーズな解決をした場合、
旧体制はほぼそのまま維持され、戦国大名としての脱皮は先送りになる。
領国を拡大した後だとかなりキツイだろうな。

平和裏にクーデター成功して担がれた信玄はその点ちょっと不幸。
でも板垣と甘利が同時に死んだのはラッキーかも。
ひょっとして暗s(ry
15人間七七四年:2010/12/14(火) 10:26:22 ID:HVS9ZQrC
やっぱり財政力でしょ。
守護権力の崩壊ってのは守護に直轄地が無く財政崩壊してたから。
だから公家領や寺社領を横領しなければやっていけなかった。
破綻財政を引き継いだ毛利輝元なんて加増約束すら守れず、欠地をお前らが捜してきて申告しろって話だから悲惨なもんだよ。
逆に破綻財政から見事なまでに超優良財政にした謙信は見事と言う他ない。
16人間七七四年:2010/12/14(火) 11:25:30 ID:HIWv9quC
景虎が送り返されていたりで上杉の家督相続がごく無難に行われていたら
当時絶頂期の織田相手にどれくらい対抗できたものだろうか
17人間七七四年:2010/12/14(火) 12:19:18 ID:4Uqsny6B
晴景は病弱だったらしいし
どっちにしろ景虎に家督がわたるんじゃなかろうか
18仙台藩百姓:2010/12/14(火) 12:22:39 ID:qI4o4eeZ
>>4
何どさくさに紛れて嘘言っているのだお( ^ω^)
3も×じゃんお┐ (´ω`) ┌
上杉の継承は完全に失敗だお( ^ω^)
19人間七七四年:2010/12/14(火) 12:31:48 ID:4LTca98n
百姓はいろんな所のスレ見てるよな〜、感心するよ。

>>14
信玄もそうだけど、勝頼はそれ以上に可哀想な気がするね。
板、甘が死んでくれたのはラッキーだったろうね。
そいや、甘はともかく、板の方の後継はどうなったのだろう。
なんとなくぱっとしない様な。
20人間七七四年:2010/12/14(火) 14:46:57 ID:c8GLk6GV
織田信長死後は、織田政権が秀吉に乗っ取られたから、
織田家としては×。

豊臣家が日本を統一した点から見ると○
21人間七七四年:2010/12/14(火) 15:13:37 ID:4Uqsny6B
>>20
何が言いたいのか全く分からん
22人間七七四年:2010/12/15(水) 11:33:50 ID:FtIbsd7Z
>>13
死去じゃないが偉大だった宗麟が完全隠居して
義統政権になってから大友は一気に弱体化したな。
義統の補佐をしてた母の兄の田原親賢がバカ過ぎた。
まあ島津、龍造寺、毛利と信義の欠片もないキチガイ野獣大名達に囲まれてる中で才覚も度量もない義統じゃキツ過ぎるわな。
武田、北条、北陸一向宗に囲まれた輝虎並みにキツい。
23人間七七四年:2010/12/15(水) 12:35:14 ID:RNXrG/ZK
>>22
個人的には、大友は宗麟の晩年から弱体化していった気がする。
いっそ、亡くなった方が良かったのかも。
まあ、義統に当主としての才能がなかったのが最大の要因だろうけど。
輝虎は、プラスで国人衆も一筋縄ではいかない連中ばかりだし、きつかった
だろうね。
24仙台藩百姓:2010/12/15(水) 12:42:00 ID:K50zDglt
国人衆が従順だった国なんてないお( ^ω^)
越後がまとまらなかったのは単に長尾の統治能力が低かっただけだお( ^ω^)
謙信は周りが雑魚大名ばかりで超絶ラッキーだったおね( ^ω^)
それでも全く勝てなかったけど( ^ω^)
25人間七七四年:2010/12/15(水) 13:28:07 ID:FtIbsd7Z
>>23
宗麟が家督を義統に譲ったのは天正4年正月から2月18日以前と確定していて
天正6年11月の耳川の戦いは義統の失敗。
天正7年11月22日の書簡では
義統も重臣達も領国衰退挽回の為に宗麟の再統治を懇請し無理に承諾させてる。
その後、豊後の大反乱は沈静化していくと義統にまた任せて隠居してる。
宗麟は義統に最盛期の大友を譲っているだけだよ。
26人間七七四年:2010/12/16(木) 12:31:21 ID:jWYyFECO
>>25
いや、耳川の戦いは本当に義統の判断によるものだったかもわからないよね。
家督を譲ったからどうのではなく、実際に全て任せて何もしなかったのなら
単純に義統だろうけど、本当にそうなのかが疑問。
家督を譲った以上、義統の責任であるのは当たり前。
ただ、個人的には、晩年の宗教への傾き加減や行動からすると、最盛期を過ぎ
た辺りで譲った気がする。
前述したが、別に義統をかばうわけではなく、必ずしも最盛期で譲ったのでは
ないと考えている。
27人間七七四年:2010/12/16(木) 13:33:05 ID:hymCl0X/
>>26
日向北部の島津に寝返った土持氏征伐も義統命令だし
当時の宗麟は隠居し府内から出て行ってるから大友の合議による政策決定に意見できない。
そもそも隠居の目的自体が世俗を捨ててキリシタン修行するためだし。
28人間七七四年:2010/12/18(土) 01:22:02 ID:6lC0oF3W
本では「二頭政治」で大友家は滅びたとか書かれてるけど、そうでもないのな。
29人間七七四年:2010/12/18(土) 02:08:27 ID:yQDzX8T6
大友の政治の意志決定機関は加判衆だから宗麟の自分勝手はできないよ。
義統が当主になり叔父の田原親賢の独裁がバランスを崩し
親賢が耳川で島津を討つことよりキリシタン撲滅の密謀に熱中して敗戦を呼びこんだ。
耳川の敗戦で討ち死にした加判衆の補充がなされずに義統の恣意的判断により機能不全になったのが大友瓦解の危機。
そこで宗麟の復帰が望まれたし、筑前方分の道雪の大友家中への鼓舞の激文。
30人間七七四年:2010/12/18(土) 04:06:58 ID:zQ6enkCD
南部(不和)・伊達(大乱)・安東(内乱)・芦品(不和自壊)・上杉(大乱)
今川(混乱)・武田(不和)・織田(大乱崩壊)・大友(不和)・龍造寺鍋島(不和)
31人間七七四年:2010/12/18(土) 06:26:21 ID:kAcqvuCu
「当主死亡で政権弱体化」を回避する最も有効な手段は、
やっぱ「隠居して二元政治」だろうか。

なるべく早い段階で後継者に家督を譲り、
自身の指導力で家臣をまとめつつ後継者を政権運営に慣らせ地位の安定化を図る。

まあ後継者ともども殺されたり(織田信長・信忠)、二元体制の期間が短すぎたり(今川義元・氏真)、
せっかくの後継者を殺したり(豊臣秀吉・秀次)したら無意味だが。
32人間七七四年:2010/12/18(土) 10:44:01 ID:yQDzX8T6
家臣団に対して明確に後継者が決められており
頼りがいがある主家への忠誠心ある兄弟がそれを支えている体制であること。
兄弟間が仲が悪くても主家を裏切らないならまぁ問題なし。
33人間七七四年:2010/12/18(土) 14:29:10 ID:cJ4IRTZg
うまくやってたのは北条だなやっぱり。
うまくやりすぎたのが逆にうまくなかったな。

まあ継承失敗も次代当主の力量次第ってとこはあるな。
織田も長尾も家が潰れる可能性のがでかかったし
信玄もチャンスをうまくものにできなきゃ衰運だったろう。
しかしその位の立ち回りができなきゃ天下に名はのこせんだろうな。
34人間七七四年:2010/12/18(土) 14:41:43 ID:yQDzX8T6
島津も毛利も兄弟仲がむちゃくちゃ悪かったが
北条は強大過ぎる敵たる謙信の前に一致団結して防衛しなきゃならなかったゆえ兄弟が協力していた。
しかし謙信が死ぬや組織は弛緩し小田原征伐をもって国人一揆連合体質ゆえの利害対立が克服できなくなっており小田原評定で瓦解。
まあ伊達や龍造寺や長宗我部も子供を有力国人に与えて家臣化していって拡大してるから子供が多いのは強み。
ただ国人を肥大化するかたちで家臣化していっても支配力が緩くて
国人の独立性が維持されたまま官僚化できない封権的大名のままだと内乱や内紛を誘発したり離反して外部勢力を呼び込み、
改革失敗や危機に無策で結論出ずで結局破綻する。
まあ中央から離れた辺境は放置されるが。
35人間七七四年:2010/12/18(土) 15:28:52 ID:eKFDLJXW
>>12
大友義統の場合ねキリシタンなのに宣教師にボロクソに言われるというのが
一線を画していると思うんだが。
宣教師は普通はキリスト教に理解ある人物をべたほめするからな。
36人間七七四年:2010/12/19(日) 16:43:15 ID:vTXG1r1b
江戸期になって高家の大友家からの借金の質として柳川藩が預かった文書集のものらしいが、
西の大友と呼ばれた立花氏には大友義鑑の治政で宗麟誕生年である亨禄3年12月6日の日付で「新大友義長条々」と言うのが保管してあって
そこには「隠居したら公務に関与してはならない」って言う条文が書かれている。
だからこそ宗麟は皆からの当主復帰要望にも抵抗したのだろう。
あくまで義統を当主として立てて
自分は補佐と言う条件を皆に呑ませて
やっと表に出てきてくれたほどだし。

北条氏康は悪政の責任を取らされて隠居に追い詰められたが
謙信の小田原侵攻のドサクサに国家の言を吐く名目で氏政を排除し当主に復帰した強引な手法とは実に対象的だ。
なにか氏政に落ち度があったのだろうか?
37人間七七四年:2010/12/20(月) 11:23:21 ID:724NQEvm
飯に対する汁のかけ具合がまずかったのではないかと…
38人間七七四年:2010/12/20(月) 11:58:28 ID:n2y5dJB0
北条兄弟とそれぞれの取り巻き達による後継者争いが激しくなった為だと思われる。
後継者を退位させるのは異常なことで組織分裂のリスクある行為。
氏政は廃嫡の危機にあったと言える。
39人間七七四年:2010/12/21(火) 20:44:08 ID:PEdhLYSD
兄弟仲良しなんてありえんよな
40人間七七四年:2010/12/26(日) 15:16:53 ID:NNnl+Koa
まあ北条は高利貸し組合が合議で政権運営していたから
他国の余所者当主なんて実権の無い単なるお飾り。
だから悪政で治安維持ができなくなったら
擁立していた当主の首をすげ替えて責任を取らさせてるだけだからね。
小田原陣後も傀儡を切腹させて終了させ、さっさと徳川に鞍替えしただけ。
北条氏にキッチリと実権があれば自己責任を問われ無いように動くわけで、
秀吉相手にダラダラ評定を続けてるなんて
あんなバカバカしい真似はしないよ。
41人間七七四年:2010/12/27(月) 04:35:27 ID:wbO8/joQ
尼子家、三代続けて当主死去で大ピンチ。

強引な手法で下克上した清貞が死去→幕府と国人の抵抗により経久追放
無理な拡大路線を取った経久が死去→内政ぼろぼろで晴久が家中統一に一苦労
内政と外交をほぼ一人で仕切ってた晴久が死去→義久の代で尼子崩壊

まあ、晴久はそういうことにならないように官僚システムに移行中だったのだが、
その過程は個人の才覚任せってのが経久と同じミスを犯してるな。
42人間七七四年:2010/12/27(月) 05:05:24 ID:0hPv1Y8/
>>41
晴久において、それ以上にどんな良い方法があったと思う?
43人間七七四年:2010/12/27(月) 05:34:08 ID:wbO8/joQ
>>42
方向性は悪くないんだろうが、自分で仕切りすぎたんじゃないかな。
義久が晴久後に大きく舵取りに失敗したのって、結局国が今どういう状況か
きちんと把握してたのが晴久だけだったせいだと思う。
晴久の代は軍事も内政もかなりやってるのに、中心となった家臣というのが
いまいちよくわからない辺り、ワンマンなイメージがある。
過労死しったっていうぐらいだから、何でも自分でやらないと気がすまないというか。
44人間七七四年:2010/12/27(月) 12:48:46 ID:WwnFpB58
傘下の国人一揆連合による上位統治権力への抵抗が基本にある寄親寄子制は
トップダウン方式による命令と迅速な執行を妨げ、
不利とみるや大量の造反国人が敵に寝返るために強い統治支配が出来ず
国人達の顔色を伺いながら、意見調整をせねばならない。
そこから脱却し守護や旗頭から戦国大名へと脱皮するためには傘下の国人達の権力を剥奪し
併合し官僚化し統治の深化を進めなければこれ以上の遠隔地拡大が出来ない脆弱な統治機構のままになる。
そこで宗家の権力確立を目指し国人を圧迫していたのが、
戦に強い陶晴賢や大友宗麟や尼子晴久が代表だろう。
逆にこういう中央集権への国人達の反発から
口うるさくない傘下に入れば、領内に介入しない、国人一揆連合の盟主くらいな軽いユルユルで
国人として独立性を保てる我が儘が利く関係で支配がより後退した関係で媚びて実力に伴わない単に肥大化しただけなのが
戦に弱く下手に出て支持を受けた島津義久や毛利元就や北条氏康や伊達政宗でより上位権力がやってくるや傘下国人の瓦解や国人間分裂対立も早かった。
45人間七七四年:2010/12/27(月) 15:50:38 ID:o5G7GGSg
>>44
戦況が不利になったら裏切るのは中央集権体制でも同じ。
従属同盟的な緩い支配体制の最大の欠点は、
重臣や一門の所領割合が大きいため力で押さえつける事が困難で、
平時だろうが優勢時だろうが、ちょっとした意見・方針の相違で
裏切る可能性が高いことだ。
だから常に顔色を伺って、結果、意思決定が弱くなるんだよ。
46人間七七四年:2010/12/27(月) 16:15:21 ID:WwnFpB58
>>45
中央集権はドミノ倒しのような一揆体質による国人大量謀反が基本的に起きない。
47人間七七四年:2010/12/27(月) 16:45:32 ID:o5G7GGSg
>>46
例を挙げてみてよ。

大勢力に攻め込まれたらいかに中央集権体制でも持たないよ。
決戦で勝利したり、局地戦で勝ち続けない限りはね。
48人間七七四年:2010/12/28(火) 02:16:31 ID:N6fQfW6s
>>47
例をあげるも何も
むしろ中央集権国家として安定した国家で
国人大量謀反なんて起きた例こそないだろw
49人間七七四年:2010/12/28(火) 13:16:46 ID:V32SrUy9
実力者のリーダーシップの元に中央集権への移行の過渡期ってのは一時的に内紛と混乱があるからなあ。
この改革を乗り越えると中世封権制から初めて国家と言える昇華がある。
しかし元就のやったことは封権から後退して国人連合の古代に歴史を戻してしまった。
だから畿内政権の前にまったく力が無い肥大した豚毛利の中国地方と言う恥ずかしいブザマな戦国後期から江戸時代を迎えた。
名誉と喝采の大内尼子時代の素晴らしき中国地方ら
まさに元就以降の中国地方は転落し暗黒時代と言える。
50人間七七四年:2010/12/29(水) 11:56:20 ID:90jVp0OA
信玄・謙信>>>信長
チート濃尾平野>>>甲斐・越後
51人間七七四年:2011/01/09(日) 12:12:34 ID:LdFYZ1CU
>うまくやってたのは北条だなやっぱり。
>うまくやりすぎたのが逆にうまくなかったな。

言ってる事は分かるが・・じゃぁ一体どないせいっちゅーんや
52人間七七四年:2011/10/05(水) 12:10:40.28 ID:YQq4vi9I
結局どうにもならないということではないか
53人間七七四年:2011/11/19(土) 08:06:09.12 ID:z8w9lVVh
ho
54人間七七四年:2011/11/21(月) 14:48:36.07 ID:8mBz5g8W
これは避け難い
うまくできたのは北条だけ。
兄弟が北条を支えてたからなあ。
55人間七七四年:2011/11/23(水) 13:43:47.09 ID:9vNRn5sQ
織田バカ長
56人間七七四年:2011/11/23(水) 22:31:44.33 ID:sM9BYSlP
北条も最後は一族が党首の足引っ張って滅びた
57人間七七四年:2012/05/30(水) 21:33:22.20 ID:wbYfhrkY
党首てwww 政治家みたいでワラタwwwww
58人間七七四年:2012/05/31(木) 00:31:57.39 ID:C8Qso3Wk
前園や小沢、仙石がワーワー言ってる現況と変わりませぬ
59人間七七四年:2012/05/31(木) 00:39:40.60 ID:/Vel8SHz
直茂さんみたいな人がいない国は大変だな
60人間七七四年:2012/06/02(土) 00:48:27.04 ID:bakyGv74
>>51
後継者の育成に失敗したら、どんな制度だろうと崩壊する。
理論上、一番競争力があるのは完全無欠の天才の独裁体制。
要は英雄の親が一番偉いということ。(でも英雄って片親多いんんだけどね。)
61人間七七四年:2013/06/21(金) 10:26:26.74 ID:UbI1pXNB
信長なんてあんだけ恵まれた家督継承だったのに
信長がアホ過ぎて後見役にまで愛想をつかされ
領国は斉藤義龍によって半分取られる始末。
どんだけ無能なんだ信長。
62人間七七四年:2014/02/21(金) 08:33:16.36 ID:Ggw6zyfY
むしろ弱体化してない大名なんて武田や北条くらいだろ。
63人間七七四年:2014/02/21(金) 09:04:27.24 ID:r5R2/Tqr
武田は信虎が酷い政治敷いて恨みつらみを引き受けてくれたのと
本来権力握るはずの板垣甘利が自爆したからな
信玄を頼らないと何も始まらない状況を作ってしまった
64人間七七四年:2014/02/21(金) 09:11:57.02 ID:+g+ubgOj
むしろ暴政により人心を失ったので、
武田の権威が地に落ちて晴信を御輿にした傀儡政権にされただけ。
しかし晴信の統治能力が凄過ぎて、
絶大なカリスマ性もあり、
同格だった穴山や小山田すらも躑躅ケ館に出仕させることに成功し、
武田政権に参加させるに至るほど合議を主導するリーダーシップを発揮。
65人間七七四年:2014/02/21(金) 09:12:46.75 ID:r5R2/Tqr
カリスマ性の優れた人間が
実の息子に謀叛されるんだなw
66人間七七四年:2014/02/21(金) 09:41:53.76 ID:+g+ubgOj
誰も支持する者がいなくて、
チクられ未遂で露顕してんじゃん。
67人間七七四年:2014/02/21(金) 13:03:58.90 ID:r5R2/Tqr
皆信玄が怖くてビビッてたんだろうな
人質の命はないぞって
事実それを示すかのように
義信廃嫡後には起請文を出させているし
カリスマ性どころか
故、金正日に匹敵する悪逆独裁者w
68人間七七四年:2014/02/21(金) 15:15:18.78 ID:8XD4deum
>>44
じゃぁなぜその進んだ国が遅れた国に敗北したかというと、集権体制にも欠点があるからな訳で
当主が有能でバリバリこなしてる内はいいが、後継者の能力が不足してた時に一気に弱体化するリスクがそれかな
晴久死後の尼子や宗麟隠居後の大友の衰退はそれだろう
それを補うために家臣の内から奉行衆や加判衆を組織する訳だが、権力は基本的に当主に集中するから、
当主がアレでもどうにも止め難いみたいですね
しかしだからと言って主要な家臣や大名に権力を分け与えると、大内や織田や豊臣みたいなことにもなると
そう考えてくと、江戸幕府内の統治機構を作り上げた家康辺りはさすがだと思う
豊臣政権の大老・奉行制の崩壊を存分に堪能した経験も生きたのかね
69人間七七四年:2014/02/21(金) 22:02:47.42 ID:pEsSeSn3
今川義元死んだ後の今川家はマジひどい。雪齋和尚が死んだ時に崩壊始まってたんかな
70人間七七四年:2014/02/22(土) 08:21:00.14 ID:JHaY743p
合議制を無視して氏真が側近政治をやって、
遠江国人を政治参加させなかった為に、
遠江国人の大反乱である遠州争乱が起きて三河との連絡線が切断されから、
家康に三河を火事場泥棒されちまったからね。
遠江争乱が起きるまでの家康は、
一向一揆と自作自演のプロレスやってたけど、
速攻で自作自演プロレスを止めて三河を奪い取った。
71人間七七四年:2014/02/22(土) 12:01:23.50 ID:el/xgKXv
数字じゃなくて、
一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。

家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。

で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?

本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww


家康がガチでやばかったのは信玄との三方ヶ原の戦いと秀吉との天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。

遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉軍の川中島南下と武田旧臣の依田が信濃佐久郡〜上野沼田エリアを支配していた
真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が挟撃され上野国へも帰れなくなり孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
婚姻先の北条が滅亡し関東移封で国人家臣団の官僚化が進み棚ぼた。
秀長が死去し、秀次が自滅し、利家が死去して、いつのまにか大老筆頭で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を大垣に包囲して追い詰め、
関ヶ原でも秀忠が来援しないうちに、主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
清正や浅野長政親子などが相次いで死去して勝手に豊臣側の戦力が大幅弱体化で棚ぼた。
72人間七七四年:2014/02/22(土) 12:04:25.20 ID:el/xgKXv
家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。
だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。
勝って切り取った領地が無い無い無い。
とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。
それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。
12万石の井伊直政
10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝
4万石の鳥居元忠、大久保忠世
3万3000石の平岩親吉
3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政

たったこれっぽっち。
あとは戦力にすらないザコ。
当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。
棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。
だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。
しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、
家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、
意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw
結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。
松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。
もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。
ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。
徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。
当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。

確かに家康って感状をほとんど出してないんだよな。
3万石の松平康貞=依田信蕃の次男説が事実だとしたら、
武田旧臣で真田調略して北条氏直の背後を閉じた父の功績だけで、
速攻で徳川家臣8位だしね。
奥平信昌に至っては長篠の戦いの後に、
調略の条件になった家康の長女との婚姻関係だけが理由だからね。

むしろ榊原康政と本多忠勝って、
家康より5歳歳下の子飼いなだけで、
武功らしい武功がまるでないよね。
鳥居元忠は家康の4歳上、
平岩親吉は家康より1歳歳上で、
家康を弟として守り支えた側近中の側近小姓として苦労を共にしていたから完全に今までありがとう功労賞だろうし。
大須賀忠政の場合は実父が榊原康政だからだし。
大久保一族なんて三河物語で誇張されてるだけで実体はよくわからん典型。
ただ徳川家の場合、家康との関係が近くて、ほぼ三河以来の小姓側近からの子飼いじゃないと万石大名になれない。
ホモ関係だけで家中第一にのし上がった井伊直政は例外中の例外。
73人間七七四年:2014/02/26(水) 16:47:07.99 ID:DwNl1TRI
タナボタで天下は盗れんだろ、常考。
74人間七七四年:2014/02/27(木) 19:14:40.00 ID:0+db3k7N
>>73
タナボタとは言わないだろうが
まぐれ当たりには違いないだろ。
どこぞの流れ者が三河の豪族→支配者なんてルートを僅か三代(四代か?)で成し遂げるなんて有り得ないだろ
常識的にry
遡れば、足利が今川を目の敵にして衰退させてくれて
無能なシバが尾張三河を荒れさせてくれた奇跡のおかげだろ
75人間七七四年:2014/03/01(土) 22:51:13.76 ID:JDOl8iQI
>>74
松平氏としてなら九代で安祥松平家六代だろ?
76人間七七四年
>>74
だからそういうのはタナボタとは言わんだろう、常考