戦国時代のキリスト教について語る

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111人間七七四年
当時はまだ石火矢を大友は所有してないはず。
それに最初に無償提供してもらった石火矢は船が沈没して大友には届かなかった。
義輝から謙信への件は
さらなる詳細部分は口伝で説明するとしているのでトップシークレット部分は口伝。
当時、謙信の元にはてっぽう師がいて巻物はその人に譲渡された。
その人らの集団は堺方面から関東にてっぽうを盛んに教えに来てたらしい。
また1557年頃に元就が塩硝を作るので馬屋の土を所望と
1555年の武田は焔硝の移入使命を持つ彦十郎に1ヶ月馬三匹分の関税免除している。
ただこの手の資料はほとんど無いので抽出技術が低すぎて大規模生産は不可能だったと思われる。
だが謙信が硝石作成技術を知ってた可能性は高く、南蛮技術導入で双方技術の融合が図られたと考えられる。
よって抽出技術の未熟から小規模生産してはいたが良質な硝石は南蛮商人からの輸入。
南蛮商人からも大量輸入はまだ距離的な問題もあり難しい状態で国産に頼らざる負えなかった。
そもそも大鉄砲隊がまだ組織されてないから問題なかった。
中国の安価だが非常に質の悪い硝石を内陸部の雲南から陸路において官憲の目を盗み運び出すのは利益率的に疑問だし和冦の物品として資料が全くない。