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人間七七四年:
厩橋北条高広は佐竹義昭から輝虎の越山への努力を賞して、
輝虎と討った旧小田領の常陸国沼崎郷や前野郷を佐竹から宛行われた。
また高広は永禄12年の時点で、
後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
このように自領の拡大だけが目的の北関東諸将。
離反についても別に謙信のと間を破綻させるような行動はとっておらず
むしろ上杉北条両者の連絡係である。
前年に足利義輝が暗殺され謙信を支える関東管領を裏付ける権威の消失のダメージが大きく
永禄9年から厩橋北条や由良らが越相同盟の交渉をしていたが
由良が謙信に問責されて不満に感じていたという。
臼井城の敗北は存在しておらず、和睦交渉の失敗への謙信への抗議の意味合いが強い。
北関東諸将は守護不入の特権を守りつつ講和と安定を望んでいた。
そして反関東管領上杉である旧古河公方側勢力圏の利根川以東に位置する
佐竹・太田らを信玄は操り越相同盟阻止活動をしていたらしい。
だから厳密には北関東諸将は北条の配下になったとは言えない。
永禄9年8/15忍城で親上杉の長泰に対する氏長のクーデター
12月佐竹が参陣に応じず永禄10年3月には信玄に通じているのが発覚
10/25厩橋・新田・足利などを襲撃し氏政の陣に肉薄後に舟橋を切り落とし佐野をフルボッコ。
佐野は藤岡、氏政は岩槻へ敗走。佐野は人質30人出す
永禄11年12/13信玄が駿府襲撃し家康も同調。信玄に通じている佐竹が謙信に越山要請
5/18北条は総勢30余人の使節団 氏康からの酒樽 由良から具足の進物をもって越後へ
これをもって関宿攻撃中の氏照も撤退。
謙信は抗議の意味もあって出兵取りやめ、由良の離散を恐れた氏政が8/26由良に上野国全部宛てがう。
9/9信玄が御獄城・鉢形城を攻め、氏邦が「手負い死人際限無く」と謙信に泣きの救援要請。
信玄は小田原→10/6三増峠で北条粉砕
越中から由良の報告を聞き10/27春日山に戻ってきた謙信は早速に越山準備に入る。
11/13氏康が信玄の後方の信濃への出兵要請
11/19武田勢は武蔵児玉方面を荒らしていた。
すでに越後府中を出撃していた謙信は14日塩沢20日には沼田着
由良や氏邦が大喜びで小田原へ謙信沼田着の連絡 11/26氏康「御大儀 筆舌に顕わし難し」と最上級の興奮w
駿府へ再侵攻した信玄に怯えた氏政が11/28にまた謙信へ応援要請をみだりに繰り返し他力本願ぶりを晒すw
30日謙信の使者を歓待した氏邦が一緒に小田原へ。謙信が太田や佐竹に参陣を求める。
12/6蒲原城で幻庵の次男北条綱重を武田が討ち大攻勢。
12/19謙信が「24日の西上野攻撃で氏照や氏邦も同陣して欲しい」
22日北条側は拒絶し代わりに由良が同陣させる背反行為。
北条に不誠実な対応と援軍要請濫発に怒りを覚えていた謙信。
岩槻・松山・養子問題で暗礁に乗り上げていたので謙信は西上野へ行かず正月早々に佐野攻めへ
北条は氏政の子を養子に出すので
岩槻譲渡では太田の息子の梶原を小田原へ出して欲しいと無理難題を突きつける。
さらに越後に来たのは氏政の子ではなかった・・・そのため謙信はすっかり北条の面従腹背の姿勢に冷めていた。